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聖典引用 板

1トキ:2011/11/23(水) 13:32:46 ID:YRze2u3c
 このスレッドは、生長の家の「今の教え」と「本流復活」の問題に関連して、雅春先生や
御高弟、他の真理の言葉のみを掲載していくという板です。


 上記に関連するテーマなら、広く受け付けます。また、教団、本流復活派、中立派など
どの立場の人の投稿も歓迎しますが、たとえ違う立場の意見でも、お互いに尊重する寛大さ
をお願いします。

 この掲示板は、基本的に生長の家の教義と谷口雅春先生の説かれた教え
を支持、共鳴する人のためにサイトです。生長の家と谷口雅春先生へのご批判をされる内容
の投稿はご遠慮下さい。

 投稿の削除はしない方針ですが、アダルトサイトや出合い系サイトの勧誘を含む内容など
明らかに目的外の投稿は、削除の対象となります。
 目的外の投稿の判断は、最終的には、管理人である「トキ」の判断になります。
ご理解下さい。

 スレッドのルールと方針は、生長の家の「今の教え」と「本流復活」を考えると、と同じに
考えております。

2トキ:2011/11/23(水) 13:36:52 ID:YRze2u3c
 この掲示版は、著作権との兼ね合いがあるので、いくつか制限があります。ご理解下さい。

*出典は詳細に明記する事。(書名、ページなど)
*著者の文意を損ねるような一部引用はさけること。
*著作権者への感謝を表現する事。
*現在、出版されている著作物は、購入をすすめることが望ましいです。

 その他、御不明の点は管理人までお尋ね下さい。

3「訊け」管理人:2011/11/23(水) 14:56:51 ID:D0Kb5yw.

吉田國太郎『常楽への道』110項より。

一見ムズカシですが、深遠な話だと思います。大好きな文章のひとつですので、記念すべき第一号投稿文としてご紹介させてください。


 實相の完全と現象の不完全と、両者の間の溝に落ちて良心の痛みに追われ、
幾ら辛くとも此処は晦まさず、正直にうけて其処に自分らしい道を発見しな
ければならない。其の時こそ信仰がよりはっきりと確立し、両者を隔てる溝
も消えることになるのだ。今日から其途を踏み出そう、これは悲しむべき事
ではなく道を求むる者にとっての光栄ある苦悩であるなどと決心した或る日、
恩師の御講義が余りにも烈しい痛さで私の心を叩いたのである。それは恰も
八つ裂きにあったような感じであり、踏んで踏んで踏み抜かれ、叩いて叩い
て叩き抜かれ、粉々にされて吹いて飛ばされてしまった様な感じであった。
 自分でよしと許していたものを一つ残らず全部奪ってかなぐり捨てられ、
そしてすーっと向こうへ行かれてしまったような感じであった。呆然とした
中で淋しい心が湧いて来た。こんな心の三日目、私は『生長の家』誌の八月
号を披いて目をうつしていた。八月六日娑婆即寂光土と悟る日の一節『けれ
ども生長の家は世界に何ら非道なことは存在しないと云うのである。それは
存在するものは「道」ばかりであるから、それが少なくとも存在する限りは
それは「善」であり、それが「善」でない限りに於いて、それは如何に存在
するように見えようとも、それは「非道」即ち「道の欠乏」「道の無」をあ
らわしているに過ぎないとするのである』

 此処を読んだ時、私は何かしらハッとした。今自分が捉えているところの
もの、今自分の立っている世界、今自分の辿ろうとしている道、それ等全て
をひっくるめて『無』と一喝激しく叩かれたような感じであった。完全のみ
がある。そして不完全はない。何かしらハッと心でうけとめ得た感じであっ
た。それはこちらで握って居なくとも決して落ちることのないような感じで
ある。うけたと云うよりは内から開いた様な感じであった。

『常楽への道』110項

4「訊け」管理人:2011/11/23(水) 17:10:29 ID:D0Kb5yw.
――――――――――――――――――――――――――――
『光明法語』32項より。

「誰と和解するのか?」がたびたび問題になります。その答えは?
・・・念のため申しますがこれ、信仰歴五年の(下半身に問題
のある)某ブログ管理人が申しているわけではありません。申
されておられるのは誰なのか?その点留意されながらご拝読く
ださい・・・
――――――――――――――――――――――――――――


<神と和解せよ>

まず神と和解することが必要なのである。

神の救けを得ようと思ったら天地一切のものと和解した関係に入らねばならぬ。

神より悪なるものが来ると考えることは神と和解しているのではない。

神よりは善のみしか来たらないと信ずることが神に対する和解の第一歩である。

その神を対立的に観ることも神に対する和解ではない。

神と和解するには神と一体にならねばならぬ。

即ち神はわが内にやどりたまい、吾が目をもって見給い、わが耳をもって聴きたまい、わが呼吸器をもって呼吸したまい、わが声をもって語りたまうと信ぜよ。

吾らは決して神の護りからのがれることは出来ない。
神の無限の智慧からのがれることは出来ない。
また神の無限の愛からのがれることは出来ないのである。

神は吾々神の子に対して与えとうて与えとうて仕方がないのである。

吾々は神の無限の供給からのがれることは出来ないのである。

神はわが親であり、わが供給であり給う。

神は決して人間の貧しきことを欲したまわないのである。

5「訊け」管理人:2011/11/24(木) 06:38:42 ID:D0Kb5yw.
――――――――――――――――――――――――――――
『健全の真理』250項

 短くも感化力の高い、そんな言葉です。雅春先生は文章
を通じ、我々を礼拝くださっておられるのでしょう。
――――――――――――――――――――――――――――


 神がこの世界を生命の振動(念)によって展開せしめたのなら、神の生命を宿している人間が、神と同じように「念」によって物事を展開せしめ得ないと言うことはあり得ない。



 神は自らを「吾あり」と自覚して、吾自身をながめるのである。視る自分と視られる自分と、主観と客観と、眺める者と眺められる者と、働く者と働かれる者との対立がそこに分化する。



 正しき信仰とは、すべての存在は皆善であるとの信念である。吾々はこの信念を弱める所の如何なる想念をも許してはならないのである。



 吾が語るは全能の神が語りたまうのであるから、如何なる反対もあり得ないと信ずるのが正しき信仰である。


 (思念で病気を癒す行為は)相手を癒すのではないのである。こちらが相手を完全と見る修行である。病気であるのを癒すのではない。自分が彼を病気だと見る心を癒すために思念するのである。

6「訊け」管理人:2011/11/24(木) 10:30:16 ID:W9ebvJaY
―――――――――――――――――――――――
『あなたは必ず救われる』238項 藤原敏之著
業務中のわたしですが、今「はあ」と救われた文章を掲載します。
引用元はイケメンブログです。同書は「買い」です、買い。
 しかし藤原敏之先生ですが、いったい何者なのでしょうか。
榎本惠吾先生といい、吉田國太郎先生や服部仁郎先生・・・
生長の家はすごい人材ばかりですね。
―――――――――――――――――――――――


病気も事故も失敗も親子の不調和も、あると信じている心の影として形の世
界(現象)に現れるのであります。このありもしない悪や不幸をあると信じ、
心に把むから自由を失い、動きのとれないことになり、ますます不幸になる
のであります。このようなのを地獄というのであります。現象が影だと判り、
すべて自分の心にあると知ったならば、何が起っても一切心配することはな
いのであります。極楽とは完全な自由な世界であり、何があっても何が起っ
ても困らない人間ほど自由なものはないでしょう。そんな人には極楽の必要
がなくなり、極楽の必要がなくなった者には地獄もなくなります。極楽と地
獄の二つある人、善と悪と二つある相対世界に生きている人には本当の幸福
はありません。
 私達の住む世界は常に一つであります。現実は一つしかなく、二つ同時に
あるということはありません。二つあるのは現実を離れ空想している時であ
ります。それを迷いというのであります。幽霊には足がないというのは、現
実を生きないで考えてばかりいる人のことを指しているのであります。
 現実は常に一つであるということは、右と左と同時に進むことは出来ない、
右でなければ左であり、左でなければ右であります。その一つだけの現実を
絶対というのであります。その一つを最も善であると観る生活が極楽なので
あります。このすべてを最善と観る秘訣は〝都合〟のない人間となることで
あります。都合のない人間とは一切が神のものであると判り、一切を神に返
し切る生活であります。私もなければ、私のものもないと知らされる時、感
謝以外なくなるのであります。丸貰いの丸儲けの人生となります。よくよく
考えてみると、自分の力でしたことも出来たことも一つもないことが判り、
全部貰いもの、全部預かりものとなり、預かりものであったと判る時、執着
がなくなり、一切の執着から離れたのを仏というのであります。仏とは解
(ほど)けたものという意味であります。仏教でも「解脱をもって仏となす」
とあります。
 現象がすべて影だと判れば現象は問題でなくなりますが、影だと判らず本
ものだと思い違いするから現象に振り廻されて動きがとれなくなります。そ
れを迷いといいます。
 今現れているのは影であり、これまでの間違った思いが現れて消えたので
あると判れば、何も心配することもない、反対に喜べるのであります。借金
が無くなって苦にする人はないでしょう。悪いことが現れたのを見て、悪く
なったと見ないで善くなるためだと判ったら安心するのであります。
 雨が降るのは、お天気になるために水蒸気が雲になっているのが雨になっ
て、雲がなくなり晴天になるためでありましょう。日が暮れて夜がふけるの
は、朝が来るためであります。電車がトンネルに入るのは、トンネルを通っ
て出てくるためであります。このように悪くなったように見えるのは、すべ
て善くなるためだと観るのが生長の家であります。悪いことを悪いとだけ見
たのでは普通の考え方であって、暗黒思想でありましょう。生長の家は徹底
した光明思想であって、善くなることだけを想い、善くなることに感謝して
生活しようとお教え頂くのであります。


『あなたは必ず救われる』238項
藤原敏之著

7「訊け」管理人:2011/11/24(木) 17:56:32 ID:UodBcqiE


 オグ・マンディーノという方を紹介致します。以前ブログに
もアップしましたが、再度こちらにも掲載致します。

――――――――――――――――――――――――――――
●オグ・マンディーノ
 1923年アメリカボストン生まれ。高校卒業後アメリカ空軍中尉とし
て活躍後、保険の営業を経て出版社を経営。 1976年から著作活
動と講演活動に従事し、『地上最強の商人』の大ヒットによって一躍、
人気作家に。アメリカで最も精神的影響力を与える作家の一人とし
て挙げられると同時に、その講演内容にも定評があり、全米各地で
人気を博す。著書15冊、世界で2500万部を越える。1996年9月
急逝。
――――――――――――――――――――――――――――



 誰であれ人に会ったら「夜中12時にはこの世を去る」そんなつもりになって、いままでとは違った態度で接する。それは極めて簡単である上に、それと引き換えに人生が永久に変わるのです。ぜひ試してください。


 明日という日があるのは愚か者の暦だけ。昨日の敗北は忘れ、明日の問題は無視します。今日こそ、最後の審判の日。あなたの持っているすべて。それを一年で最高の日にするのです。もう一度人生をやり直せたらという言葉ほどわびしいものはありません。今日はあなたの日です。


 一日一日が神からの特別な贈り物です。人生は常に公平というわけにはいかないかもしれません。しかし、醜い自己憐憫のマントをまとっていては絶対に勝てないし、泣きごとの不快な響きは成功のチャンスを必ず追い払います。そんなことはもうやめましょう。もっと良い生き方があるのです。


 欠点が邪魔をして前進できないのではないかと取り越し苦労をするのはやめること。人間は神の創造物であり、志を高く持てばどんな夢でもかなうのだと折にふれて思い出すようにしよう。自分は飛べると思ったら本当に飛べるのです。失敗するのではないかなどと2度と考えないこと。


 1974年、ハンク・アーロンがベーブ・ルースのホームラン記録に近づいたある朝、私はアトランタブレーブスの広報課に電話しました。「ハンクのホームランが710本で、あと5本でベーブルースの記録を破ることは知っています。ところで、ハンクの三振はいままで何回ですか?」電話に出た青年は言った「1262回です」不世出のホームラン王でさえホームランを一本飛ばすために、倍近く三振を出さねばならないのです。


 失敗は人生が人に教訓を与える手立てなのです。ときどきへまをやらかす能力は、目標に到達する能力と切っても切り離せない関係になります。連勝連敗の勇士などどこにもいないのです。失敗してもそれは成長の一部でしかありません。たとえばへまといっさい縁を切ったとします。ときたま失敗することなしにどうして自分の限界がわかるでしょう。失敗しても投げ出さないこと。そうすればいまにあなたの番がきます。


 ひとたび明日から給料以上の働きをすると心に決めたら、人生に奇跡が起こり始めます。現在何で生計を立てているか、仕事のいかんにかかわらず、毎日給料以上の働きをすれば、生活はすぐさま向上しはじめます。費用は全くかからないのに効果は抜群で、このルールに従えば人生は永久に変わります。


 何ごとも期待される以上の仕事をするという秘訣を習得すれば、成功の勝利は半ば手に入れたも同然です。職場に欠かせない人材になるように、役に立つ人間になるのです。もう1マイル行く権利を行使して、それによってもたらされるさまざまな報酬を手に入れるのです。あなたはそうした報いを受ける価値があります。

8トキ:2011/11/24(木) 20:34:15 ID:vLaTawrU
「訊け」管理人様

 素晴らしい聖典のご引用、ありがとうございます。オグ・マンディーノさんの話も興味深い
ものでした。ご多忙の中、投稿をして下さり、深く感謝申し上げます。

合掌 ありがとうございます

9「訊け」管理人:2011/11/25(金) 03:44:42 ID:UodBcqiE
昭和25年3月 『生長の家』誌巻頭言



ただ真理のみを語れ。
多言なるべからず。
多言なれば
調子にのりて虚偽を語ることあるべし。

ただ優しき言葉のみを語れ。
烈しき語調の言葉は深切より出づる場合にも、
憎悪をもって語らるる言葉なりと
誤解せらることあり。
心の中にても、言葉に現しても、行いにあらわしても、
人を傷つけてはならない。

誠実であれ。
虚偽であってはならない。
素直に、直截に、かまえることなく、
そのままの心で生活し、行い、言わねばならぬ。
        
値いなしに受けようとしてはならぬ。
肉体の汗か、心の汗か、金銭か、物質的な贈物か、
いづれにせよ
何らかの値いを払って受けよ。
値いなしに受けたものは、
何時かは奪い返されることがある。

自己の生活が
気尚(けだか)き基礎に立つかどうか顧みよ。
汝の生活を、愛と赦しと忍耐との上に築きて、
怒りと憎みとを常に支配せよ。
怒りと憎みとは
神と汝を隔てる
最も大なる敵である。
常に朗らかであれ。
不快なこと、争いのこと、憎むべきこと、人の悪しきことを
忘れ去れ。
忘れ上手が光明生活の第一歩である。
恩を忘れてはならない。
恩を忘れる者は
根を培わない樹木の枝の如く、
一時は生花の如く美しくとも
やがて枯れてしまうであろう。
人に深切をつくすのが
最善の宗教である。
ただ教えの説教師になっては
ならないのである。

一日一回以上、
出来るだけ自分の利益にもならない事で、
純粋に人のために尽せ。
純粋で無我でつくすことは、
其の事自体が
神に通ずる祈りである。
無我の愛でささげたる奉仕は
神に献げたことになるのである。

10「訊け」管理人:2011/11/25(金) 08:15:04 ID:D0Kb5yw.

People Are Often Unreasonabe
- Mother Teresa

People are often unreasonable, illogical, and self-centered;
Forgive them anyway.
If you are kind, people may accuse you of selfish, ulterior motives;
Be kind anyway.
If you are successful, you will win some false friends and some true enemies;
Succeed anyway.
If you are honest and frank, people may cheat you;
Be honest and frank anyway.
What you spend years building, someone could destroy overnight;
Build anyway.
If you find serenity and happiness, they may be jealous;
Be happy anyway.
The good you do today, people will often forget tomorrow;
Do good anyway.
Give the world the best you have and it may just never be enough;
Give the world the best you have anyway.
You see, in the final analysis,
it's all between you and God;
It was never between you and them anyway.

<訳>

時に人は、非合理で、非論理で、利己的なものです。それでもとにかく、彼らを赦しなさい。

貴方が深切をしても、「利己的な、あるいは隠された動機からそれをした」と非難されるでしょう。
それでもとにかく、深切をなさい。

あなたが大成果を収めると、偽者の友人や本物の敵が貴方のもとに寄ってくることでしょう。
それでもとにかく、大成果を収めなさい。

あなたが正直で率直な人だとすると、あなたを騙す人も現れるでしょう。それでもとにかく、正直で率直な人でありなさい。

あなたが何年もかけて築いたものを、人は一夜で壊してみせるでしょう。それでもとにかく、築きなさい。

あなたが朗らかさや幸福感を見出すと、幾人かは嫉妬を催すかもしれません。それでもとにかく、幸せ一杯でありなさい。

あなたが行なった善きことも、人は明日には忘れます。それでもとにかく、善きことをなさい。

全力を尽くして世に献身しようとも、世の中はなかなか変化しないでしょう。それでもとにかく、全力を尽くして世の中に貢献しなさい。

いいですか、結局これらは、あなたと神の問題なのですよ。あなたと彼らの問題では、ないのですからね。

11「訊け」管理人:2011/11/25(金) 17:32:08 ID:l8v59LII
●弊ブログ「藤原敏之名言集」より
http://blog.livedoor.jp/con5151/archives/65581693.html#more


〝徹底する〟とは
〝自分の力はいらないのだ〟ということに
〝徹底する〟ということである。



 神一元というのは、神もあるがわしもあるではだめなんです。神もおるか
も知れんがわしもおるでは、神とわしと二元になる。私があるかぎり二元な
んです。そうすると實相一元じゃない、現象になってしまう。


 實相もあるかも知らんが現象もある、これは二元です。この二元論から人
間は迷うて苦しんだんです。人間のあらゆる病気も不幸も失敗も、あらゆる
苦しみが二元論から出てくるのです。


 生長の家では、唯神實相哲学と言って、唯神というというのは實相一元、
神一元、神だけということ、これが生長の家の教えの基本です。唯というの
は他にないということ、ただ神しかいない、ただ實相だけなんだ、これしか
ないのです。何十ぺん聞いても、何千べん聞いてもこれしかない、ないもの
はない。


とにかく夢などというものはつまらんのです。皆さん、
少なくとも、神様のおつくりにならないものを、
私達がつくっているということは、これはまさしく
夢なのです。
そういうことが判ったとき、私は阿呆らしくて、阿呆らしくて
病気をすぐやめました。
それっきりやめました。
馬鹿らしい。


神によってはじまり、
神によって生かされているんだから、
心配する権利はない。

12「訊け」管理人:2011/11/26(土) 07:51:48 ID:snP.vX5s
『愛は刑よりも強し』39項より
 「ヤバイこと」が起こっているときほど喜べ!これが生長の家の教えなの
ですが、最初聞いたときはビックリ仰天しましたね。いつ読んでもよい文章
です。


「善のみのほか何も恒久性のものはない。何物も善の反対のもののほか滅尽するものはない。善のみ実在である。悪は唯反影である。『善徳』より悪の影を取り去ればただ善のみが残る、悪は影を消すのである。又『悪徳』より善の支柱を取り去ればそこに尚善が残る、かくして悪徳は影を消すのである。」


この最後の一句は実に深い真理を蔵している。「悪徳」それ自身で存在し、自立しているのではないのである。いやしくも存在する限り、その存在の力は善によって支えられているのである。病気の如きもいやしくも存在する限り、病気それ自身が存在を保ち得ているのではなく、生命があるから病気の姿が存続し得るのである。
 生命が肉体から脱け出してしまったら、病気の症状も存在し得ない。即ち症状は生命のはたらきである。症状は善なる生命があらわれんがための経路としての状態であるというのに一致している。だから善のみ存在するのであって、悪と見えるものでさえも、善によって存在の姿があらわれ得るのである。

(中略)

「反対の力が強いほど、自己に内在されている力を呼び出す量も強いのである。」

13「訊け」管理人:2011/11/26(土) 14:30:10 ID:UodBcqiE
谷口雅春先生御講話の“落穂拾い”

「憎いのは相手であるけれども、そう思うのは自分の心である。その自分の心が自分の体を支配しているのである」
「ボヤキは口の中の事でも祈りである」
「裁くから腹が立つのである」
「我(が)のある御魂(みたま)が我(が)がなくなって初めて、神様のお役に立つのである。初めから我(が)のない御魂(みたま)は弱くて役に立たない」
「死んだら自分が死んでいない事が分かる」
「胎児が母親の中にいて母の顔を見る事ができないように、人間は神を見る事ができない」
「学者でも作る事が出来ぬ血を赤ん坊ですら作る」
「寝ている間の心臓は誰が動かすのか」
「悟るとは相対世界の<差>を<とる>こと」
「五官の眼では地球が丸いという事は分からないのである。太陽の周りを地球が廻っていることは五官の眼では分からない。それと同じく人間は如何なるものであるかということも、五官で見るだけでは分からないのである。」
「自分は教組ではない。實相世界に生長の家本部がある」
「自動車のエンジンが飛行機のエンジンと似ているからといって、自動車が進化して飛行機になったのではありません。元の設計図が違うからです。自動車は」自動車の設計図、飛行機は飛行機の設計図があるからです。猿が人間に似ているからといって、猿が進化して人間になったものではありません。神の理念、神の造られた設計図が人間を作り給うたのです」
「クシャミが出たら風邪を引いたと思うのではなく、風邪が出たと思いなさい」
「失くし物を探すとき、『無い、無い』と言って探すのではなく、『あった、あった』と言って探しなさい」
「平等というのは嫉妬心(しっとしん)の合理化です」
「人間はみな霊位が違う」
「人間はみな因縁が異(ちが)うから悟りの程度も違う」
「汝、我を選びしにあらず。我、汝を選びしになり」
「挨拶はするもので、されるものではない」
「金持ちをつぶしても貧乏人は金持ちになれません」
「過去と他人を変えることは出来ぬが、変えることが出来るのは未来と自分だけ」
「老いてますます盛んなりと申さず、老いずしてますます盛んなりと訂正なさい」
「生まれ変わりとは、人間が霊であると知ったとき」
「喜べば、喜び事が、喜んで、喜び集めて、喜びに来る」
「天に口なし。人をして言わしむ」
「貪(ドン・むさぼり)、瞋(ジン・いかり)、癡(チ・おろか)は三大煩悩」

14「訊け」管理人:2011/11/26(土) 14:30:47 ID:UodBcqiE
谷口雅春先生御講話の“落穂拾い”その2


「下痢は恐怖心の強い人」
「ママよという気持ちは、赤子の如くその<まま>の心、病気の治りたい気持ちは駄目」
「気近(きみじか)、怒り、イライラは肺癌のもと」
「顔面神経痛は先祖供養」
「子供をよくするのは主人に感謝すること」
「神経痛は言葉の下に、“何々してやったのに”の“のに”がつく感情」
「不眠症は便所の掃除をして感謝すること」
「痔病は、イライラしない。<自我>が<ない>のはハイの心、素直な心、人を言葉で切らぬこと、<自我>ない、<痔が>ない」
「脚気。不平と悲しみ」
「肝臓。憎み、うらみ、怒りの集積」
「肛門。出し渋り、薄情、欲張り」
「尿。祖先、夫婦仲良く」
「黄疸。目上の人への反感、親との金の争い」
「胃。生活に喜びがない」
「胃と痔はイジが悪いから親戚同士」
「十二指腸。親との和解、親への感謝で治る」
「喘息。財産問題」

「自分の名前に○○さん○○君と付けて呼べば神様から呼ばれているように感じ、強く響きますよ」
「山田君、三界唯心所現と云う法則は絶対だよ」
「自分のことを山田如来(にゅらい)、太郎菩薩(ぼさつ)と呼びなさい」

「霊とは純粋にして混ざり気のないところの心のエッセンス」
「心とは霊が動き出して知性的、感情的、意志的波動と成って現れたもの」
「魂とは人間の全体性のバランスを維持する働きの精神的エネルギー」
「過去の事で怒り悩む持越し苦労、分からぬ明日の事で取り越し苦労せず、今の今に感謝し喜べば、今が過去に成り、喜びの過去に成る」
「心に過去を摑(つか)めば摑んでいる間、過去が現在に成って居る」
「念とは今の心」
「業とは念の集積」

15「訊け」管理人:2011/11/27(日) 22:13:41 ID:snP.vX5s
『白鳩』21年2月号より。
 初心者さまとの対話からも感じたことですが、雅春先生の愛国への思い・・・
「かなり曲解されていないか?」と。そんな疑問をもとに弊ブログから転記
致します。


 最後に吾々は何故此の敗戦によって悪い窮地に追い込まれたのであるかと云うことを反省して見たいと思うのであります。それを神の試練と呼ぶ人もありますが、『生長の家』ではそうは言わない。神は絶対の愛でありますから、試練と云うものを遣わし給う筈はない。自分が増上慢の道を歩くようになり、俺が偉いんだ、だから俺がやることは皆正しいと云う気持になって突進して行って、自分と自分で壁にぶつかったのであります。神が壁をもって来て吾々に打ち当てたのではないから、神が試練を与えたのではない。間違った道を歩いたら自然に壁にぶつかって進めなくなる。その時こそ吾々は方向転換しなければならないのです。それと同じ事が今、日本民族全体に来ていると思うのであります。



 日本は日清戦争に勝ち、日露戦争に勝ち、朝鮮を併合し、欧州戦争に参加して南洋の島々を委任統治としてわが傘下に収め、満州国を緩衝国家として創立した。そして自分の思うことは必ず成就する、 『俺が』偉い、『俺が』『俺が』と思っていて反省がなかった。


 軍の力なら何でも出来ると思って、一羽の雀も神の許しなくしては地には落ちない、すべて神のめぐみだと云うことを忘れて反省がなかった。真に神の御心を実現するのだったら、日本民族はもっと愛を行じなければならなかったのです。

16「訊け」管理人:2011/11/27(日) 22:14:24 ID:snP.vX5s
(つづき)

 神は愛であり慈悲であり給う。それを行じないで、却って軍の飽くなき侵略慾のために殺戮を恣まにして進んで行ったのであります。近衛公の自殺後二日目に発表された『日本産業新聞』所載の近衛公の聞き書きには、軍が天皇の御意志も、総理大臣の心も無視して勝手に支那奥地へ戦争を拡大して行ったことが明瞭にかかれております。その間違った軍の利己的な欲望を満足させる為に『愛』の心を殺し、従って神の心を殺して我慾で突進して往った。斯くの如くして敗戦となったのであります。
 之は即ち自分の我で突き進んで行き詰りを生じたのであります。
 今日本は方向転換をしなければならない。如何に方向転換すべきか、それには神の御心を現すようにすることが必要なのは、国家に対しても個人に対しても当箝る道理であります。『何よりも先ず神の御心を、今、此処に実現せしめ給え』と、吾々は祈らなければならないのでありますが、利己的な人には、そんなに云って祈るのは、何だか危いような気がするでありましょう。利己主義の人にとっては、神様の御心にまかせて置いたら、『死ね』と云われたり、『貧乏になれ』と云われたら大変だと思い、『どうぞ健康にならしめ給え、無限の供給を与えたまえ』などと祈る方が確かだと思う ― これはまだ利己主義が無くなっていない証拠であります。


 
 吾々は神意ならば絞首台上へでも素直に上らなければならない。イエスキリストはそう云う心境になって居られたのです。キリストはゲツセマネの園に於いて『神よ希くば御心ならばこの苦き杯を吾より取去り給え』と祈ったのであります。
 併し『わが意を為さんとするには非ず、神の御心を成就せん為なり』と言ったのであります。此所に肉体の要求と魂の要求との微妙な戦いがある。『御心ならばこの苦き杯を吾より取去り給え』と言った時にはまだ旧き我が残って居り、自分の我を主張して居ります。併し乍ら『御心ならば』と前提して居るのであって、決して強く我を主張している訳ではないのであります。兎に角神様の『御心のみ』を此所に成就することが必要なんです。



 斯くの如く皆さんが祈って居りますとだんだん我慾と云うものがなくなって、神様が自分の恋人であり、自分の内にあって微笑していられるような気がして来るのであります。恋人と言えば形容が奇矯だけれども、神は常に私を護り、導いて下さるのだと云う本当にぴったりした気持になって参ります。
 皆さんも皆こうならなければならないのであって、その為にはどうしても『自分の内に神が流れ入りたまいて、神の智慧によって常に導かれているのである。我が意をなさんとするに非ず、神意が我に於いて実現するのである』と云う感じを常に失わないようにしなければならないのであります。
 一番好い方法は『神様』と呼びかけて、神の子が親様に呼びかけるような気持になるのであります。そして『神よあなたの生命を私に流れ入らしめ給え』と念ずる。それは招神歌の第一首目の歌に当るのであります。あの歌を一生懸命に黙然して『神よあなたの大きな生命を幸へ給え、我に神の生命を流れ入らしめ給え』と云う気持になり、本当に神の生命が吾に流れ居ると云う気持になった時に『我が生くるは我が力ならず天地を貫きて生くる祖神の生命』の二番目の歌を念ずるのであります。


 自分がやっているのだ。自分の力で何事も出来るのだ。この心がスッカリ無くなってしまって、神の『生命』が今ここに生きていると云う自覚を得るのであります。これが何よりも大切であります。無我が神であり、我のある間は神との絶縁体が介在しているから、祈りは成就しないのであります。つかんでいたものを放したときに与えられる実例は度々あります。






『白鳩』21年2月号

17うのはな:2011/11/28(月) 00:20:12 ID:iM0b0bt6

今迄宗教家が人間と神様との間の仲介になって、まるで紹介業みたいに「私が貴方の救いの仲立ちを
しましょう」と云うわけで、「私はあなたに無限に死なない永遠の生命を紹介して差上げましょう」と云うわけで、
「私が仲介になって、不滅の命をさずけて下さる佛様や神様に紹介して差上げますから、紹介料は幾ら出しますか」
と云うような宗教が多かったのでありますが、人間が救われるのは自分自身の「實相」が本来「佛」であると云う真理に
よるのであって、そういう「救われの仲介をしてやるから、お賽銭を出せ」と云うような宗教は多分に邪教の匂が濃いですね。
だから今迄にそう云うことを説く宗教業者が多かったから、私はそういう宗教業者にはなりたくないと思って、唯、本を読むだけで
救われる、しかもその本も普通の書籍と同じような市価で求められるようなものでなければならないと言うので、現在の出版会社組織の
日本教文社(当時は光明思想普及会と称した)が出来たのであります。

 もっとも大量に人を救うと云う為には一寸講演会場を借りるにしても費用が要るのであり、
講演の通知や宣伝をするにも費用が要るのですから、そうした公の費用を集めるのはいいけれども
布教師自身が生活の資を得る為にその金を集めるということになると、それは宗教業者と云う事になって
純粋宗教人ではなくなります。此の点は余程注意して純粋宗教人としての生活を送りたいものであります。


 『精神科学』昭和33年7月  谷口雅春 先生著

18うのはな:2011/11/28(月) 03:20:33 ID:iM0b0bt6
 瘤の精神分析

 肉体の内部に出来る塊は、肉腫でも癌種でも、瘤でも、肉身は肉親に通ずるので、
みな肉親の者同士の間の精神葛藤の「心の塊」の具現化であることを、私は或る年の『生長の家』誌の
法語の中に書いたことがある。
 ところが、当時夫婦別居して東京に住んでいた野中夫人はそれを読んで夫君の野中賢一郎氏の臀部にある
林檎大の瘤のことを思い出したのである。あれも「肉身の中の塊」であるからきっと「肉親の中の心の塊」の
具現化であろうと思い、自分たちは肉親の者の中で誰と不和であろうか、誰か私達を恨んでいる人はないであろうか
と考えた。すると思い出したのは、自分が賢一郎氏の後妻であり、先妻の霊に対して一度も挨拶していないことを思い出した
のである。或いはその先妻の霊が、まだ浮かんでいないので、良人に執着し、その執念の念が良人の臀部に象徴化してあの瘤として
形をあらわしているのかもしれないと考えたのである。それで良人に手紙を出して先妻の名と、その亡年月日を知り、生長の家で教えられた
方法により、その先妻の亡霊が悟りをひらくように毎日その亡霊に対して聖経『甘露の法雨』を読誦することにしたのである。
すると、今まで野球の硬球のように固くなっていたその瘤が次第次第に柔かくなって、いくらかその瘤の表面に皺がより、一部分、熟した無花果のように
赤味を帯びて来ていたのである。
 夫君の兵庫県宝塚のさくら館の三階広間にて催された、生長の家講師会に集った諸講師方の入浴のために欣然として風呂を清掃し、その風呂に清浄な湯を
わかして諸講師を入浴せしめ、最後にこれら世の先導者となる善知識の浴されたその同じ風呂に入り得る光栄を感謝して、合掌落涙する思いで、その最後の風呂に入り、
湯からあがって、今し自分の身体をふいて湯殿から出ようするとき、いつも手拭にふれる臀部の林檎大の瘤が消滅していたことを発見したのである。
それから大騒ぎとなり、おりから続行中の三階の講師会席に出て、その体験報告が行われたのであった。
 たしかに先妻の亡霊が『甘露の法雨』の功徳によって悟りをひらいて、良人に送っていた執着の念(心の塊)を放棄したとき瘤は柔かくなり凋みつつあった。
更に野中君自身が「徹底感謝」の心境に達したときその大いなる瘤が奇蹟的に消滅したのである。

 『美と健康の創造』P152〜 谷口雅春 先生著

19うのはな:2011/11/28(月) 05:26:50 ID:iM0b0bt6
 神は到る処に充ち満ちていられます 

神は常に、あなたを護っていられるのです。
日光はふりそそぎ、空気はありあまるほどあります。自分でしようと思わないでも心臓は鼓動し、
肺臓は呼吸します。みんなこれは神さまのお力です。もしあなたが心の眼をひらいて御覧になるならば、
到る処、神の恵みならざるはありません。神の恵みは一分間も止むことはないのです。
その事は肺臓の呼吸や、心臓の鼓動が一分間でも止んだことがないので判ります。
眼をひらいて御覧なさい。貴方の食物、飲料水、衣料、みんな、もとは神から来たのです。
もとは神で、調理をしたり、紡績したり、裁縫したりしたのは、そのもとに少しく「人間の力」を加えたにすぎません。
しかし、その加えた「人間の力」はどこから来たのですか。自分で生れようと思って出て来た生命の力ではありません。
神が生命を与えてこの世に生み出したのです。「人間の力」そのものが神の力です。
もとは神です。そのもとに「人間の力」を加えても、神の恵みを加えたに過ぎません。
 すべては神の恵みです。神の恵みに眼をさましましょう。自分の力で何でも出来ると思っていた間は、「有りがたい」という心は
起らないのです。「有りがたい」という心、感謝の心が起ったとき、人間は、はじめて幸福になれるのです。
「有りがたくない」とブツブツ不平をいっている間は人間は幸福ではないのです。
幸福な感じというものは、「有りがたい」という感じです。「あの人が私に深切にしてくれて有りがたい」と思ったときにその人は幸福です。
 ところがもっと大きな幸福が、もっと大きな「有りがたさ」があるのを見のがしてはなりません。
神の愛の深切さ、その行き届いた深切さは、どんな人の深切さよりも、もっともっと深切です。
あなたの腹わたの中のどんなきたない中にも入って、あなたに必要な養分と、きたない糞便になる部分とをより分けて、あなたを生々とした美しい肉体に
つくっていて下さっているのが神様の愛であります。
太陽の輝きは、星々の煌きは、花の美しさは、神様のあなたに対するやさしい微笑です。
 あなたは神様がいつも休まず働いていて下さるその深切に、その微笑に、お礼をいったことがありますか。
夜やすむときと、朝おきたときと、そして美しいものを見たとき、御飯をたべるとき、うれしい事がある毎に
神様に感謝いたしましょう。そこから本当の幸福は生れるのです。


 『美と健康の創造』P171−173 谷口雅春 先生著

20「訊け」管理人:2011/11/29(火) 11:00:37 ID:W9ebvJaY


『世界でいちばん古くて大切なスピリチュアルの教え』
エックハルト・トール著より。
 雅春先生の光明思想と、類似していると思います。実はこの本、『生命の實相』に出遭う二週間前にたまたま入手したものでした。この本による覚醒が、『生命の實相』の呼び水になった気がしています。
――――――――――――――――――――――――――――――――


<声に出して宣言してみてください>

わたしは、わたしの思考ではありません。
感情でも、感覚でも、経験でもありません。
わたしは、人生で起こる出来事でもありません。
わたしは生命です。
わたしはすべてを生むスペースです。
わたしは常識です。
わたしは『いま』です。



「真の自由」が欲しいですか?
「苦しみ」にピリオドを打ちたいですか?
 それなら、あらゆる瞬間に、自分が感じているもの、あるいは経験しているものすべてを、あたかも事前に選択したかのように生きることです。心の中で、「いまと一つになること」によって、「苦しみの終息」が訪れるのです。




「真の自由」が欲しいですか?
「苦しみ」にピリオドを打ちたいですか?
 それなら、あらゆる瞬間に、自分が感じているもの、あるいは経験しているものすべてを、あたかも事前に選択したかのように生きることです。
 心の中で、「いまと一つになること」によって、「苦しみの終息」が訪れるのです。
「『いま、この瞬間』を、そのまま放っておく」
ただそれだけで十分なのです。
「手放し」とは「いま、この瞬間」に対して行なうものです。
「いま、この瞬間」を自分なりに解釈して、でっちあげる話に対して降伏することではありません。
たとえば、身体に障害をかかえていて、歩行ができないと仮定しましょう。
この身体的状況は「ありのまま」です。この状況に対して、思考はこんなふうな「物語」を、つくりあげてはいないでしょうか?
「これがわたしの人生か?車いすの世話になるなんて。人生はなんと不公平で残酷なんだ。このわたしがいったい何をしたというのだ?」
「現状」をありのままに受け入れて、「現状」と、「思考がそれについてつくり上げる物語」とを混同しないこと。これを実践できますか?
「どうしてわたしがこんな目にあうの?」もはやこの問い掛けをしなくなったとき、
「手放し」が起こります。



 ゴールを定めたかったら、定めてもいいのです。ただ、それを達成するかどうかは、さほど重要ではないということに気づいてください。純粋な意識をもとづいて行動していないかぎり、「いま、この瞬間」を、「目的のための手段」にしてしまっているのです。
純粋な意識にもとづいて行動しているかぎり、行動すること自体が、すべての瞬間に充実したものになります。
 あなたはもう「いま、この瞬間」を「目的のための手段」にしていません。
「いま、この瞬間」を「目的のための手段」にするのは、典型的なエゴ意識です。
「自己がなければ、問題もなし」
仏教の奥義を問われたマスターは、こう答えたそうです。



どんな状況にも、
どんな人々にも、
「悪」あるいは「悲惨だ」以外に
言葉が見つからないときでさえ、
その奥には「まったき善」が、隠れているのです。
これを奇跡と呼ばずして、
なんと呼ぶでしょう?

21「訊け」管理人:2011/11/29(火) 14:20:28 ID:D0Kb5yw.
●祈りのための言葉
http://blog.livedoor.jp/con5151/archives/65609931.html

 今、我が陥れる状態は、
 真に我が求むる本当に善きものの来る前提として、
 神から与えられている過程である。

 遠からず、自分はこの状態を通過して、我が真に求むる
 善き状態に入るのである。
 神は全能の力をもってかくなさしめ給うたのであるから、
 疑うことも心配することも要らないのである。

『生命の實相』第八巻 172項


 自もなく他もなく天地ただ一つの祖神(みおや)のなかにある。
 われが求めているのは小さな我の力で求めているのではない。
 天地全体の力で求めているのである。
 
 だからわれが求めると同時に
 天地間のどこかに必ずその求めを満たすものが顕現しつつあり、
 われそれを求むれば、
 その求められるものもわれを求めて
 互いに相近づきつつある。
 その相近づくのは神の力、広大無辺なる力であるから、
 その広大無辺なる力に導かれて、わが求むるものはかなうのである。

 『生命の實相』第八巻 169項

22うのはな:2011/11/30(水) 01:22:07 ID:iM0b0bt6

 鍵のことば

 悲しみよ わが家に入ることなかれ
 憂ひよ わが庭に入ることなかれ

 この家は 喜びの家 わが庭は 悦びの園
 くるしみの来るときにも われは喜び
 悩みの来るときにも  われは喜び
 悩みの来るときにも  われは神を讃ふ

 われは現象にはとらはれず
 ただ神のつくりたまへる 實相の世界のみを見る
 現象を見るときは 現象の虜となる

 虜は縛られて自由を得ず

 現象を見ず 常に實相を観ずるとき 一切の禍は消ゆ 

『 幸福をひらく鍵 』 谷口雅春 先生著

23トキ:2011/11/30(水) 20:43:28 ID:xeAUliPY
>>22

うのはな様

 すばらしい引用ですね。センスがとても素晴らしいです。
こういう文章を拝読すると、心が洗われます。
 心から、感謝申し上げます。

合掌 ありがとうございます

24うのはな:2011/12/01(木) 01:52:44 ID:iM0b0bt6

  十二月一日  同志愛に徹底する日
   自分の全力を出し切れば其処に無限の力が生ずる。(『生命の實相』第四巻)
 
 自分の親しい人が人類光明化の陣営から去ったとて、その去った人に義理立てして吾らの同志から
脱落しないでほしい。吾々は世界を覆っている暗黒思想と戦っている光明思想の戦士達である。
吾等は幾多の戦友、百万人の戦友の屍を踏み超え、踏み超えして進まねばならないのである。
斃れた戦友に義理立てする道は、戦友と同じく落伍することではない。
尚一層の元気を奮い起して人類暗黒化の敵陣に跳り込み人類の敵を撲殺することに在る。

吾々は全世界を蔽う暗黒と戦わねばならぬのである。「暗黒」が吾々の共同の敵である。
イエスは自分の人類光明化の軍勢から脱落して往った同志を“迷える一匹の羊”に譬えて、
その一匹の羊が再び同志の陣営に還って来るように、どんなに探求するかを、迷わざる九十九匹の羊を放置しておいて、
その一匹の迷える羊を探しに出かけるではないかとも言い、まだ脱落した同志を家出していた放蕩息子に譬えて、その放蕩息子が
父の御許に還って来た時には、父は家出しないで父の御許に忠実に仕えていた他の兄弟たちのことは放っておいて、還って来た息子のために
祝宴を催し、その指に宝石の指輪をはめてやって歓迎するではないかといっている。
我らが脱落した同志の復帰を歓迎するのも斯くの如しであるのである。

『光明道中記』 谷口雅春 先生著

25うのはな:2011/12/01(木) 05:34:28 ID:iM0b0bt6

 「毎日絶えずの力」 伸びよ生命の子  谷口雅春 先生

 皆さんは、生きているから日に日に新しくならねばなりません。
新しくならなければ人は古くなるのです。古くなることは死ぬことです。
じっとしているものは乾物かミイラです。「生長の家」が今栄えているのも、
いっぺんに大きく広告したから栄えたのではありません。私が日に日に新しくなった
からです。私はこれまで一日でも、「今日は昨日よりこれだけ進歩した、今日は昨日の上に
これだけの勉強をした」と、その一日を振返って見てハッキリと心の中で言えなければ、安心して
寝られなかったものです。一日無駄に費やした日があったら、その日一日死んだような気がして悲しくて
悲しくてしかたがなかったものです。

 この心掛けがなかったら、今日の「生長の家」はないのです。
もののできるのは一日でできるのではありません。今日、土から這い上がって来た蝉でも、土の中で何年間も苦労してきたのです。
蝉が今日這い上がって来たからとて、その時に蝉ができたのだと思ったら間違いです。
例えば、この生長の家でもです。それは私の心の中に日に日に新しく生長したのです。
私は電車の中でも、汽車の中でも、道を歩いている時にも、休憩時間にも本を読みました。
本を読まぬ時には何か良いことを考えました。何か今より良くなる道を考えました。
そしてそれを実行しました。物を見てもポカンと見ていたことはありません。
その美しさを見るのでも、どこがどんなに美しいかをシミジミと見つめました。
機械を見ても、どこがどうなっているかをシミジミと見つめました。
なんでもシミジミ見つめて味わうようにすれば、面白味のないものはありません。
何からでも、無限の味わいが汲み出されてくるものなのです。

 むかしから「点滴ついに石を穿つ」と言いまして、どんなに大雨でも、一晩に石に孔をあけること
はできませんが、ポトリポトリと苔の先から滴る、ほんとに小さい豆粒のような水の滴でも、
毎日毎時間それが落ちていたら、ついに固い固い大岩でも孔をあけることができるのです。
 小さい豆粒のような水の滴でも、常に絶えず少しずつ進撃したら、固い固い岩に孔をあけることができるのです。
「常に絶えず少しずつ」の力は、「一気にやって、後はのらくら」よりも大きな進歩をするものです。
常に少しずつ進歩するということほど、尊いことはないのです。
赤ん坊はいっぺんに大人にはなりません。毎日少しずつ生長し、毎日少しずつ新しきものを付け加えて大人になるのです。
皆さんは兎と亀とが競争した喩話を知っているでしょう。一気に走って、あとは眠っている者よりも、
少しずつでもこやみなく進んで行く者が、ついに勝利を得るのです。

26うのはな:2011/12/01(木) 05:42:29 ID:iM0b0bt6

 人を幸せにする贈りものとして真理の書ほど素敵なものはありません。
 日本中の家庭に“伸びる母と子シリーズ”をおくります
 家族そろって楽しい勉強会をしてください。

 全国の子供会・家庭勉強会・母親教室の“輪読のためのテキスト”として最適です
 近隣の人や知人へ贈っても喜ばれるでしょう
 伝道や愛行用のパンフレットにも活用できます

 このシリーズは、谷口雅春著『人生読本』から編集したものです
 次号は『みんな一つの生命』です <編者>

 『伸びよ生命の子 伸びる母と子シリーズ2』

27商人:2011/12/01(木) 06:33:30 ID:TCt66b8E
うのさん おはようございます!

「毎日絶えずの力」 伸びよ生命の子と言うご本すばらしいですね。

この本も初めて読みました。
ありがとうございました。

次回を楽しみにしています!

でも、これだけの文章を打ち込むのも大変ですよね、感謝しています。

商人

28うのはな:2011/12/01(木) 06:42:02 ID:iM0b0bt6

 商人さん、ありがとうございます!

 早朝から、一日から商人さんに声をかけてもらうと金運が上昇しそうです!

 食用金粉を料理にふりかければ、ゲンがあると聞きましたが、
 今日のごはんついでに、商人さんにもプレゼント・フォー・ユーです。
 またよろしくお願いします。 拝。

29商人:2011/12/01(木) 06:52:02 ID:TCt66b8E
うのさん!

光栄です。

今日は1日ですね、すばらしい月の始まりになりますよ!

これからも教えてくださいね!!

商人

30「訊け」管理人:2011/12/02(金) 12:15:15 ID:W9ebvJaY
――――――――――――――――
『小さな人生論』藤尾秀昭著より
ブログ機能・・・なぜか本日不調です。更新ができません。
ですのでこちらに投稿などを。
――――――――――――――――

< 「大悪起これば大善来る」>

 「苦難は幸福の門」―― というのは、倫理研究所を創始した丸山敏雄氏の言葉である。苦難は生活の不自然さ、心のゆがみの映った危険信号であり、ここに幸福に入る門がある。従って、苦難を忌み嫌うのではなく、喜んで取り組み、苦難の原因になっている生活のあやまり、心の不自然さを取り去ると、かつ然として幸福の天地が開けてくる、と述べられている。

 「大悪起これば大善来る」―― と仏法では言われている。小さなよいことは、日常の中でもしょっちゅう起こる。しかし、大善 ―― 本当に大きなことは、こんな苦しみはもういやだと言いたくなるような、大悪が起こった後にやって来るというのである。
 耐え切れないような大きな苦しみや困難や障害がおそってきた時に、もう駄目だと投げ出すのではなく、
ここを越えれば、必ず大善 ―― 本当に大きなよきことがやってくる、これはその前兆だと信じて、その波を越えて行けと、仏法は説いてにるのだ。

 いま国も企業も大きな困難の渦中にある。個人的に煩悩を抱えている方もおられよう。しかし、苦難は私たち自身をさらに成長させ、新しい世界を開いてくれようとする天の意であることを、先知先賢の言葉は教えてくれている。

『小さな人生論』

31「訊け」管理人:2011/12/02(金) 12:19:05 ID:W9ebvJaY

 「大悪起これば大善来る」関連する雅春先生のお言葉を掲載致します。


<苦痛にも感謝せよ>

 苦痛は肉体の何処かに故障があるのを警告するために霊が送って来るところの信号である。苦痛はまたその痛むところへ全生命力を集中して早く治癒に導くための信号である。
 苦痛のあるところに生命力は集中し、その復旧に必要なる細胞と養分とが送られるのである。だから肉体の何処かに苦痛が現れた場合には、その苦痛を憎んではならないのである。むしろ其の苦痛の起こる毎に「これで私の病気は癒されつつあるのだ」と念ずるがよいのである。むしろその苦痛に感謝せよ。苦痛にも調和するとき、その苦痛は消滅してしまうのである。「天地一切のものに和解せよ」と云う教えは「苦痛にも感謝せよ」と云うことを含んでいるのである。
『眞理』實相篇96項

<何でも受ける>

 何でも起って来るものに敵意をもって立ち騒ぐことは、発熱や、発汗や、下痢や、喀血や・・・・その他のどんなものでも増悪せしむるばかりであって、不幸はその「起って来るもの」に対する不調和の念によって増悪されるばかりでございます。
 「何でも受ける」と云う覚悟が出来た時に病気の治った人は沢山ございます。若しあなたが病気であって治り難いのでございましたならば、此の「何でも受ける」と云う心境が無いのではございますまいか。「あれも嫌や、これも可かぬ」と言って素直に受ける心境におなり遊ばされねば、心の調子(リズム)が騒がしいので神の療能(なおすちから)が働きかねるのでございましょう。「何でも受ける」という心境におなりなさいましたならば、第一恐怖がなくなります。恐怖と云うものは、遁れる道がまだあると思い、何とかして逃れたいと思うからでございます。もう宣告を受けた囚人には恐怖がございませぬ。逃走中の犯人の心は恐怖で充満しておりまする。「逃れるような卑怯はすまい、すべてを受けよう」斯う決心した時に恐怖心は消えるものでございます。
 恐怖は神経の過労を惹起こし、血液の循環を不平等にし、血液その他内分泌中に毒素を造り、自然療能を妨げるのであります。今日から私達は恐れないと決心致そうではありませんか。
『靜思集』76項

32志恩:2011/12/03(土) 00:56:05 ID:psrFh/ZU
                    「ブッダの言葉」より
  【知識から自由になる】

内面をみつめる力や、集中力や、おちつき、といった能力を高めるトレーニングをするかわりに知識を増やそうとするのは、
愚か者の証。

哲学・政治学・経済学・心理学・文学・さまざまな言語なんかの知識をむやみに増やすことによって、記憶のメインメモリーは、不必要な
情報のノイズで埋め尽くされ、頭が混乱するだけ。

「せっかく学んだのだから他人にひけらかしたい」「せっかく学んだのだからこの知識を使ってみたい」などと、それらの知識への執着が
生じるがゆえに、知らず知らずのうちに、知識に支配される。

その知識のフィルターを通してしか、物事を感じることができなくなり、いつのまにか、不幸になってしまう。

頭を混濁させる、それらの知識のフィルターを離れて、ものごとを、ありのままに感じるように。(法句経72)

33志恩:2011/12/03(土) 01:17:25 ID:psrFh/ZU
                     「ブッダの言葉」より
   【相手に合わせて柔軟に話す】

マニアックな 単語なんかに、こだわらないで話す。


「実存の絶え間ない揺らぎ性が、超越論的に構成された同一性により回収される必当然性が、、、、、、、、、、、、、、」

こんな哲学方言を言われても、哲学オタク以外は、「はぁっ?」となる。



「このビジネスモデルにおけるソリューションは、あなたのモチベーションを、システマティックかつエレガントに、キャッチアップします」

こんなビジネス方言で、まくしたてられたら、ビジネスオタク以外は、「はぁっ?」となる。



「カーヤーにエッカー ガタを向け、サンマ サンカッパで、サティしなさい」

こんな仏教方言を、言われても、仏教オタク以外は、「はぁっ?」となる。



ローカル方言なんかに、こだわらず、人に合わせて、柔軟に話すのが、麗しい。(中部教典)

34志恩:2011/12/03(土) 01:33:30 ID:psrFh/ZU
                        「ブッダの言葉」より

   【眠っているとき以外は、つねに慈悲の念を】

 立ち止まっているときも、
 歩いているときも、
 坐っているときも、
 横になっていても、眠っていないかぎりは、
 慈悲の念を保っていられるように。

 これは、ブラフマー神と同じ境地。

         ( ※ ブラフマー神とは、ヒンズー教の三大神のひとつ。四面の顔と四面の腕をもつ、創造の神。)

35志恩:2011/12/03(土) 01:46:01 ID:psrFh/ZU
             「ブッダの言葉」より
 【自分に与えられているものに幸せを見る】

 君の手に与えられたものが、たとえどんなにわずかでも、君がそこに幸せを見つけるなら「足るを知る」充足感で、
 君の心は、きれいに澄んでいく。

 そのきれいな心の波は、目にみえない高次の世界のものたちを、喜ばせて、惹きつけるだろう。
                                             (法句経366)

36うのはな(笑う):2011/12/03(土) 04:41:06 ID:iM0b0bt6

   鍵のことば

 幸福なるかな 心の貧しき者 天國はその人のものなり
 幸福なるかな  悲しむ者   その人は慰められん
 幸福なるかな 柔和なるもの その人は地を嗣がん

 幸福なるかな 義に飢ゑ渇く者 その人は飽くことを得ん
 幸福なるかな 憐憫ある者   その人は憐憫を得ん
 幸福なるかな 心の清き者   その人は神を見ん

 幸福なるかな 平和ならしむる者 その人は神の子と稱へられん
 幸福なるかな 義のために責められたる者 天國はその人のものなり


 『幸福をひらく鍵』 谷口雅春 先生著

37ももんが:2011/12/04(日) 00:12:57 ID:XXCuaQns
>>34
志恩様へ

志恩様の『ブッダの言葉』読ませてもらいました。合掌、拝。


志恩様の使われた、本の訳者は、どの方が訳された、『ブッダの言葉』『経本』で、ございましょうか?


よろしけば、教えください。
合掌、拝。

38志恩:2011/12/04(日) 04:15:02 ID:asbOtsEA
ももんがさま

著書「ブッダの言葉」は、小池 龍之介訳で,株式会社ディスカヴァー・トゥエンティワン出版、1785円。超訳。厚い本です。

発行日は、2011,2,20 第一刷
2011,9,5 第10刷


                                   以上です。

39ももんが:2011/12/04(日) 06:57:52 ID:XXCuaQns
>>38志恩様へ

志恩様、おはようございます。合掌、拝。

『ブッダの言葉』の本こと、教えて、いただきまして、ありがとうございます。合掌。

私や、一般に、知られてる、『法句経』などと、言葉が大分違うので、お聞きしました。

私が、良く読むのは、中村元先生訳・岩波文庫版『ブッダのことば』や『法句経』です。名訳です。


あと、良く、ホテルに置いてある、『仏教聖典』は、ひじょうに、良い内容で、わかりやすです。


こんど、私の良く読む本もご紹介しますね。


教えて、くださり、ありがとうございます。合掌、拝。

40志恩:2011/12/04(日) 07:34:37 ID:psrFh/ZU
ももんがさま

私は、別の名訳の方は,読んでおりませんので、こんど教えて下さいね.
この超訳のほうの「ブッダの言葉」は、
きっと一般人にも、ブッダの言葉をわかり易くと考えられて書かれた訳書なのでしょう。

”君よ、君自身から自由になるために。今も新しいブッダの2500年前の教え。
それは認知科学であり心理学であり、きわめて実践的な心のトレーニングメソッドである。”と
帯に書かれてあります。

巻末に、ブッダの生涯「超」ダイジェストも、載っております。

41ももんが:2011/12/04(日) 22:38:12 ID:XXCuaQns
仏教聖典・第1章史上の仏

第1節 偉大な生涯

1、ヒマラヤ山の南のふもとを流れるローヒ二ー河のほとりに、釈迦族の都カピラウ゛ァスツがあった。その王シュドーダナ(浄飯王)は、そこに城を築き、善政をしき民衆は喜び従っていた。王の姓はゴータマであった。


妃、マーヤー(摩耶)夫人は同じ釈迦族の一族でコーリヤ族とよばれるデーウ゛ァダハ城の姫で、王の従妹にあたっていた。
結婚後、ながく子に恵まれず、二十幾年の歳月の後、ある夜、白象が右わきから胎内に入る夢を見て懐妊した。王の一族をはじめ国民ひとしく指折り数えて王子の出生を待ちわびたが、臨月近く、妃は国の習慣に従って生家に帰ろとし、その途中ルンビニー園に休息した。
折りから春の陽はうららかにアショーカの花はうるわしく咲きにおっていた。妃は右手をあげてその枝を手折ろうとし、そのせつなに王子を生んだ。天地は喜びの声をあげて母と子を祝福した。ときに四月八日であった。
シュドーダナ王の喜びはたとえようがなく、一切の願いが成就したという意味のシッダールタ(悉達多)という名を王子に与えた。

『仏教聖典』2ページ〜3ページ5行〜


☆四月八日は、花祭りの日であります。日本でも、お寺では、甘茶をかけて、お釈迦様の誕生日と、春のお祝いを両方します。昔は、普通にみれた、風景でした。


☆『仏教聖典』は、京都や奈良などのホテルや旅館にはけっこう、置いてある、宗派問わないで読める、仏教の聖典です。外国語の物もあるので、仏教を知るのには、良い本です。

42うのはな:2011/12/04(日) 23:22:12 ID:iM0b0bt6
 愛を表現しているか?

 同じ相愛会の集まりで、こんどは次のことを聞いた。
「今日、奥さんに“愛しているよ”と言って愛を表現した人は手をあげて下さい」
するとたくさんの人が手をあげた。日本ではこんなに手があがらない。ブラジルの人は
日本人とくらべて愛の表現が積極的である。奥さんに愛語・讃嘆をよく表現する。
そういう意味ではブラジルの女性は幸せである。

 日本人は“男は黙ってサッポロビール”ではないが、愛の表現には消極的である。
ブラジルで講話をした日本の生長の家の講師の先生方が皆言うが、ブラジルでは話をしやすいそうである。
それは聴衆がたいへん真剣に聴いてくれるからだ。そして感動すると大拍手である。拍手の最中には話してもきこえない。
拍手の鳴り止むのを待って話す。
 つまり聴衆の参加の意識が高い、というのか、よろこびを全身で表現してくれる。
これはブラジル人の大変な長所だと思う。生長の家の教えを伝道するとき、この長所はぞんぶんに発揮される。

 イビウーナの練成会で、女子一般錬成会が行なわれたとき、決意発表の時間になった。
一人の美しい中年の女性がこんなことを言っていた。
「私は生長の家によって真理を教えられ、救われました。だからこの女子練成会に多くの人を
連れてくることを決意したのです。その結果、今回は四十名の新人をお連れしました。
私のところは、ここまでバスで五日かかります。お金もかかります。でもみ教えのすばらしさはお金以上です。
だから私は、ぜひ練成会にいらっしゃい、仕事が忙しくても、休んでいらっしゃい、と言います。
だってごらんなさい。仕事が忙しい時でも病院に入っている人もいるでしょう。
これはその人の業なのです。

 人間神の子を自覚し、よいことを行なえば、悪い業は消えて行きます。
どうかあなたの幸せのために、あなたの御先祖の幸せのためにも練成会に参加しましょう。
こういって私は話しました。そうしたら丁度四十名の方々が参加してくれました。
私はほんとうにうれしいのです。なぜなら参加して下さった皆様が幸せになって下さったからです」

 その積極的な愛の表現と実行力に私は心を打たれた。
“ここに本当の信仰がある”と感じた。ブラジルと、日本と、いろいろ違うところがある。
しかし同じところ、変わらないところがひとつある。
 それは、この生長の家のみ教えは、必ず人々を幸せにする、ということである。

『光の国から』 渋谷晴雄 先生著 日本教文社 刊

43うのはな:2011/12/05(月) 00:11:15 ID:iM0b0bt6
  孝といふ字は老と子との合成である

 子が老を負んぶしてゐる象(かたち)である。これは親をいたはる象でもあるが、
子は親の生命を背負って出現したといふ象でもある。子の生命の淵源が親であり、
親子一体、祖孫一体の愛を表現する文字である。子が親につかへ、親が子をいつくしむ親子の
愛情は、その生命の淵源する一体の實相から来るのである。

 親の愛は、子供が“何をするから愛する”のではない。子供との一体感において、純粋無条件に
愛するのである。母親の無条件の愛が徹底したとき、子供も無条件に母親を愛するのである。
愛は互ひに反映するのである。

 親が子を愛する場合には、自分の産んだすべての子を愛するのである。一人だけを愛して他を顧みないと
いふことはないのである。無論、その子供の性質や精神状態の如何によつては、その愛情が稀薄になることは
あるにしても、根本に於てすべての子供を愛するといふことには変りはないのである。

 ただ親から愛されてゐる受動的の愛では、進歩がなく創造がないのである。
愛は受動的段階から創造的段階にまで進まなければならない。
ただ愛を受けるだけではなく、愛を興へるやうにしなければならない。
受ける愛より興へる愛に進むのである。消極的愛より積極的愛へと向上するのである。

『幸福をひらく鍵』 谷口雅春 先生著

44うのはな:2011/12/05(月) 02:12:09 ID:iM0b0bt6
  此の人を見よ!

 一人の男があった。彼は隻脚を失って身体が不自由であり、胃が悪くて、始終胃痛にくるしめられ、
職業は無いし、肉体的にも経済的にも行き詰まって、町角に坐って、道行く人に「物乞い」しなければならないよう
になったのである。
 ところが或る日、彼の前に一人の光明思想の先生があらわれて、次のようなことを教えてくれた。
「此の世界には“法則”がある。そして神とは“法則”であり、“法則”によって与えたものが与え返されるのである。
君の坐っているこの町角は、君の持ち物ではなく、この町の一部分である。而もこの町に住んでいる人々の多くは貧しいのである。
その貧しい町の一角に君は無料で住まわせて頂いているのであるから、ただその恩恵を受けるだけではいけない。
受けた恩恵は返さなければならない。

 受けた恩恵を受けただけで返さないと云うことは、それだけ“借り越し”になっているのである。
君が貧しいのは、“借り越し”があるからである。“借り越し”になっているものは、法則によって償わされるから
常に貧しくなるのである。人間は宜しく“貸し越し”の生活をしなければならない。
“貸し越し”の生活になっている者は、法則によって、常に豊かに彼に支払われるから、その人は常に豊かに恵まれることに
なるのである。先ず君は、この町に対して、町の人々に対して何かを与えることにして、自分の生活を“貸し越し”にしなければならない」
とその人は言うのであった。

「私はこの町の人に対して与える何物をも持っていません」と彼は答えた。
「私は人に“物乞い”して辛うじて生きているのであり、脚はこんな不自由であり、胃は悪くて身体は衰弱しているので、労働奉仕をすることも
 できません」

 光明思想の先生はこう言った。「あなたの肉体は弱くて労働が出来ないでも、またあなたが経済的に貧しくて何物も人に恵むことが出来ないでも、
あなたは、心でこの町の通りを歩む人たちに祝福の祈りをしてあげることはできます。
貧しそうな町の人があなたの前を通ったら、“神の豊かなる供給が今あなたに注がれています”と
その人の實相の裕かさを心で念じてあげなさい。若し病人があなたの前を通ったら、“神の完全なる健康が今既にあなたに実現している”と
實相の完全さを念じてあげなさい。すべてあなたの触れる機会のある人の幸福と健康と豊かさとを“既にある”として祈ってあげるのです。
すると、既に實相に於いてその人にある幸福と健康と豊かさとが呼び出されて来るのです。
そして、あなたのお陰でそれらの人たちは幸福・健康・豊かさ等を得られたと云うことになります。すなわちあなたは良き種を蒔いたのです。
良き種を蒔いたら、またあなたに良き収穫があるのです」

 こう教えられた彼は、その教えられた通りを實践することにして、町角を行く人々にいちいち“祝福の祈り”をささげることにしたのである。
それを一週間つづけて、八日目の朝になった。彼は眼を覚まして見ると、常に慢性の胃痛にくるしめられていた自分の胃から一切の不快感が消えさっていて、
神気爽快な気持ちがするし、頭は明朗な晴々した気持になっているので彼は驚いた。
彼は隻脚であったけれども、深切な人が出て来て、彼に適する仕事を与えてくれた。
また或る深切な人からは義足を贈られるし、両脚揃っている人のように快活にゆたかに働けるようになったと云うのである。

『無限供給の扉を開く』 谷口雅春 先生著   一部現代漢字変更投稿者記

45ももんが:2011/12/05(月) 22:06:08 ID:XXCuaQns
仏教聖典・第一章 史上の仏
第一節 偉大な生涯(2)


☆しかし、喜びの裏に悲しみもあった。マーヤー夫人は間もなくこの世を去り、太子は以後、夫人の妹マハープラジャーパティーによって養育された。
そのころ、アシタという仙人が山で修行していたが、していたが、城のあたりに漂う吉相を見て、城に来たり、太子を見て『このお子が長じて家にいられたら世界を統一する偉大な王となり、もしまた、出家して道を修めれば世を救う仏になられるであろう。』と予言した。
はじめ王はこの予言を聞いて喜んだが、次第に、もしや出家されてはという憂いを持つようになった。
太子は七歳の時から文武の道を学んだ。春祭に、父王に従って田園に出、農夫の耕すさまを見ているうち、すきの先に堀りだされた小虫を小鳥がついばみ去るのを見て『あわれ、生きものは互いに殺しあう。』とつぶやき、ひとり木陰に坐って静思した。
生まれて間もなく母に別れ、今また生きもののかみあう有り様を見て、太子の心には早くも人生の苦悩が刻まれた。それはちょうど、若木につけられた傷のように、日とともに成長し、太子をますます暗い思いに沈ませた。
父王はこの有様を見て大いに憂い、かねての仙人の予言を思いあわせ、太子の心を引き立てようといろいろ企てた。ついに太子十九歳の時、太子の母の兄ディウ゛ァダハ城主スプラブッダの娘ヤショーダラーを迎えて妃と定めた。


〜仏教聖典・3〜4ページ8行目〜

46ももんが:2011/12/05(月) 22:45:10 ID:XXCuaQns
仏教聖典・第一章 史上の仏
第一節 偉大な生涯(3)


☆この後十年の間、太子は、春季、秋季・雨季それぞれの宮殿にあって歌舞管弦の生活を楽しんだが、その間もしきりに沈思冥想して人生をみきわめようと苦心した。
『宮廷の栄華も、すこやかなこの肉体も、人から喜ばれる若さも、結局このわたさにとって何であるのか。人は病む。いつか老いる。死を免れることはできない。若さも、健康も、生きていることも、どんな意味があるというのか。人間が生きていることは、結局何かを求めていることにほかならない。しかし、この求めることについては、誤ったものを求めることと、正しいものを求めることの二つがある。誤ったものを求めると言うのは、自分が老いと病と死とを免れることを得ない者でいりながら、老いず病まず死なないことを求めることである。
正しいものを求めることというのは、この誤りをさとって、老いと病と死とを超えた、人間の苦悩のすべてを離れた境地を求めることである。今のわたしは、この誤ったものを求めている者にすぎない。』


〜仏教聖典・4〜5ページ9行目〜


※この文章では、仏教の根本の教えを表した文章がこれです。『人間が生きていることは、結局何かを求めていることにほかならない。しかし、この求めることについては、誤ったものを求めることと、正しいものを求めることの二つがある。誤ったものを求めると言うのは、自分が老いと病と死とを免れることを得ない者でいりながら、老いず病まず死なないことを求めることである。
正しいものを求めることというのは、この誤りをさとって、老いと病と死とを超えた、人間の苦悩のすべてを離れた境地を求めることである。今のわたしは、この誤ったものを求めている者にすぎない。』
この文章は、人間が、誰しも無意識で持つ心の状態です。普段、私達は誰しも、この意識から逃れること容易ではありません。
仏教では、この意識を捨て去る知慧を身につける教えを求めます。

47a hope:2011/12/06(火) 10:11:05 ID:kcv2QXTk
 
新版 女性の幸福365章 谷口雅春

p45〜

「愛は最高の贈物」

 真理を与えるのも尊い愛行であるが、愛そのものを与えるのは、それに劣らぬ愛行である。
多くの金持の父親や良人が、その子供や妻にただ欲しいものを買って与えてやるだけで、
愛を与えたと思い上がって、子供にも妻にも無関心にしている場合が応々ある。
そんな場合に、家庭の悲劇が起こるのである。母親が子供に対する場合も同じである。

 クリスマス・プレゼントに立派な腕時計を父親から貰ったお嬢さんが言った。
「こんな立派な腕時計を頂いたことは嬉しいけれども、もっと嬉しかったのは、
お父さんがやさしい顔をして、“Kちゃん”と言って抱いて下さったことだったわ。」
 愛はどんな立派な贈物より価値ある贈り物である。
 最大の贈物は「愛念」であって物質の大小ではない。
しかし、僅かな物質さえも愛情のしるしに出しおしみをしているようなことで
「愛念」をもっているということはできない。
どんな小さな贈物も愛念の象徴として立つとき、それは華麗な光彩を放つのである。

48「訊け」管理人:2011/12/06(火) 12:35:48 ID:W9ebvJaY
 「神を疑っているときこそもっとも、神が輝いているときです」
えー!てなもんですが榎本先生のご文章は、ホントおもしろいですね。

(引用)

 練成を受けている人が練成部に来られて「個人指導を……」といわれるので、先ずお話をうかがいましたが、「私は疑い深いもんですから……」と言われるのであります。こちらは「あなたが疑おうが疑うまいが、それとあなたが救われるか否かということ、また、神に生かされているかいないかということは関係のないことであります。あなたの“疑い”という心が邪魔になって神さまはあなたを救おうと思っても力がとどかないというのであれば、それはもともと神ではないのです。解らなければ、悟らなければ神はあなたをよう救わない、生長の家を熱心にやってくれなければ、神はあなたを救えないというのでは、神は全能ではないということになるのですよ。」と申し上げたのであります。

 「でも、先生、疑っていたら、せっかくある神のいのちが生きて来ないんじゃありませんか」といわれるのであります。
「そんなことはありません。知らない方がよく働くということがありますよ。たとえば、いつも申し上げますように、心臓などは、あるのが解らない、あるのが実感されないときがいちばんよく働いているんですよ。“ここにたしかに胃があるな”と実感出来るときは、胃の調子がおかしい時ですよ。あるかないか解らず、疑っているときの方が却ってよく働いているときなのです。その意味では、人間は神の子かどうかを疑っていられるときが、一番よく神の子の生命が輝いているときなんですから、安心して下さい」と申し上げたのです。

(終了)

※ なお全文は、榎本恵吾記念館・文書館(3)二十を。
http://homepage2.nifty.com/hanabira/

49ももんが:2011/12/07(水) 00:13:04 ID:XXCuaQns
仏教聖典・第一章史上の仏
第一節偉大な生涯(4)


☆、このように心を悩ます日々が続いて、月日は流れ、太子二十九歳の年、一子ラーフラ(羅喉羅)が生まれたときに、太子はついに出家の決心をした。太子は御者のチャンダカを伴い、白馬カンタカにまたがって、住みなれた宮殿を出て行った。そして、この俗世界とのつながるを断ちきって出家の身となった。
このとき、悪魔は早くも太子につきまとた。『宮殿に帰るがいい。時を待つがいい。この世界はすべておまえのものになるのだ。』 太子は叱咤した。『悪魔よ、去れ。すべて地上のものは、私たちの求めるところではないのだ。』太子は悪魔を追い払い、髪をそり、食を乞いつつ南方に下った。
太子ははじめバガウ゛ァ仙人を訪れてその苦行の実際を見た、次にアーラーダ・カーラーマとウドラ・ラーマプトラを訪ねてその修行を見、また自らそれを実行した。しかし、それらは結局さとりの道でないと知った太子は、マガタ国に行き、ガヤーの町のかたわらを流れるナランジャナー河(尼連禅河)のほとり、ウルウ゛ィルウ゛ァーの林の中において、激しい苦行をしたのである。


『仏教聖典』5〜6ページ9行目〜


※、今日のお話は、お釈迦が、お城を抜け出し、苦行に入るまでの話しです。一子ラーフラは、後に、密行第1の羅喉羅尊者の事で、釈迦十大弟子の独りとなります。

50ももんが:2011/12/08(木) 11:13:24 ID:XXCuaQns
仏教聖典・第一章史上の仏
第一節 偉大な生涯(5)


☆それは、まことに激しい苦行であった。釈尊自ら『過去のどのような修行者も、現在のどのような苦行者も、また未来のどのような出家者も、これ以上の苦行をした者はなく、また、これからもないであろう。』と後に言われほど、世にもまれな苦行であった。
しかし、この苦行も太子の求めるものを与えなかった。そこで太子は、六年の長き渡ったこの苦行を未練なく投げすてた。
ナイランジャー河に沐浴して身の汚れを洗い流し、スジャーターと言う娘の手から乳粥を受けて健康を回復した。
このとき、それまで太子と一緒に同じ林の中で苦行していた五人の出家者たちは、太子が堕落したと考え、太子を見捨てて他の地へ去って行った。
いまや天地の間に太子はただひとりとなった。太子は静かに木の下に坐って命をかけて最後の冥想に入った。『血も涸れよ、肉も爛れよ、骨も腐れよ。さとりを得るまでは、わたしはこの座を立たないであろう。』これがそのときの太子の決心であった。
その日の太子の心はまことにたとえるものがないほどの悪戦苦闘であった。乱れ散る心、騒ぎ立つ思い、黒い心の影、醜い想いの姿、すべてそれは悪魔の襲来といべきものであった。太子は心のすみずみまでそれらを追及して散々に裂き破った。
まことに、血は流れ、肉は飛び、骨は砕けるほどの苦闘であった。
しかし、その戦いも終わり、夜明けを迎えて明けの明星を仰いだとき、太子の心は光輝き、悟りは、開け、仏と成った。
それは、太子三十五歳の年の12月8日の朝の事であった。

〜仏教聖典・6〜7ページ〜



※12月8日は、『成道会』と行って。昔から、仏教国どこでもでも、御釈迦様のお悟りを、御祝いする、仏教行事の1つです。

日本でも、聖徳太子以来、皇族方始め、各、仏教宗派で、国民が、御祝いしてきました。
禅宗の寺院では、この時期『臘八接心』12/1〜8朝まで、御釈迦様のこのお話あわせて、坐禅三昧となります。

こういた、風習が、消えいったのは、明治維新により『仏教弾圧』が背景にあります。

現在、12月8日はハワイ海戦ばかり、持て囃しますが。
宗教をやるからには、聖徳太子以来の失われつつある、日本の心を、根本から、復興できるよう、こい願うしだいです。


願わくば、この功徳を持って、我等と衆生と、皆ともに、仏道を成ぜんことを。
(今日は、仏教式で、言いました)

皆さま、ありがとうございます。合掌、拝。

51「訊け」管理人:2011/12/09(金) 12:27:58 ID:W9ebvJaY

何かやりたくない事があったら、
毎日必ずそれをやることだ。
これが苦痛無しに義務を果たす習慣を
身につけるための黄金律なのだ。
―マーク・トウェイン

毎日、自己の嫌いなことを二つずつ行うのは、
魂のためによいことだ。
― サマセット・モーム

他人と比較して、他人が自分より優れていたとしても、
それは恥ではない。
しかし、去年の自分より今年の自分が優れていないのは
立派な恥だ。
―ラポック

52うのはな:2011/12/12(月) 17:16:48 ID:El6gIMAw

 『十三日の出発』 より   谷口輝子 先生著

・・・・十三日という日はどういう因縁なのか、何かしら私たち夫婦が行動を開始する日である。
行動といっても、さほど種類が多いのではなく、一口に言ったら「出発する日」なのである。・・
・昭和五十年一月十三日もまた新らしき生活への出発の日となった。

 同じ十三日でも、大正十二年と昭和五十年とは雲泥の差である。あの時の私たちは、浴衣姿で汗とほこりに
汚れた罹災民で二人きりで汽車に押しこまれての出発であったが、今度の私は夫につれられて絹の着物を着て、
多くの信徒たちから聖旗を振られ、「万歳、万歳」と歓呼されつつ、送られたのであった。
思えば無感量なるものがある。・・・今、五十一年後の十三日の出発は、意気揚々として旗を振って見送られ、
旗を振って出迎えられた。

 総裁は総裁室に迎えられた。誰の居候でもない。姉の家の縁側から望んだ雨晴(地名)の海、
総裁室から見下した大村の海、二つの海は、同じ地球の上にあるが、過去と現在と、見るものの心々によって
感じが異る。

 八十代の青年もこれからの人生である。大いなる理想を抱いて、いよいよ前進しよう。
あとには二十代三十代の青年がつづいて来る。

『光を見つめて』 谷口輝子先生九十年の足跡

53a hope:2011/12/15(木) 13:05:44 ID:kcv2QXTk

わたしは、本流宣言掲示板の、伝統さまの記事が大好きで毎日楽しみにしています。
そして、今までどれだけお勉強させていただいたか分かりません。
伝統さまとは、本流宣言掲示板で数回、お話させていただいたことがありますが、
とても温かくて、素敵な方です。

復興Gさま同様、わたしの中では、「真の生長の家の教え」を体得されている、大・大先輩なのではないかと思い、
心より尊敬させていただいております。そしていつも感謝の気持でいっぱいです。




>本流宣言掲示板の伝統さまの記事、「實相のひびきを直観すること」(3674)より


実相のひびきを直観すること。

周囲の色々の意見に惑わされてはならないのである。

わたしたちは謙虚に人々の意見を聴かなければならない。
しかし盲従したり、色々の意見に振り廻されたてはならないのである。

色々の意見はそれぞれの立場からみて相応の美点がある。
それらは全面的に排除してはならないが、また全面的に盲従してはならないのである。
採るべきものは採り、不適当なものは捨離し、神想観によって實相のひびきを直観し、
そのひびきに従って、みづからの判断を最も正鵠なるものにたらしめなければならないのである。

神想観なるかな、神想観なるかな。


「人生の秘訣365章〜天国を地上に実現するには(p214)」より。

54ももんが:2011/12/15(木) 19:14:33 ID:XXCuaQns
〜至上者の自覚ね神示・21〜22ページより〜

☆『生命の実相』を読むだけで色々な病気が消えたり、自動車事故などに逢いながらも不思議に微傷だも負はなかったというような実例が度々あります。そのような奇跡的ともいうべき体験を得ながら“生長の家”の誌友でなくなったり、聖使命会員から脱落していく人が随分あります。『往々あります』と言いたいところですが『随分あります』と言はなければならないことを私は遺憾に思うのであります。この神示は昭和七年四月号の『生長の家』誌の扉裏に発表されている神示でありますから、既に生長の家発祥の三年目にその傾向があらわれていたのを、神さまが気遣つていられとこのような警告的なお示しをしておられるのですだと考えられます。『生長の家』誌友を辞める人に二種類あると思います。『私は真理をさとつたから、このような奇跡的な治癒的を得た』というような増上慢の気持ちで、『もう私は人間・神の子の真理を悟り終わったから、神誌も聖典も読む必要はない。誌友を止めた方が誌代も会費も納入せずにすむから、それだけでも利益である』と思つて誌友を止める人が第一種類の人であり、第二種類の人は、最初から『病気治して貰いたい』(お金儲けや、自分の希望を叶えたい人も同じ)と思って来て、自分の心の持ち方の誤りを指摘されて、その指摘された方面だけの心を持ち帰ることによって病気が治ると、最初『病気を治す』という目的を達成したものだから、病院を退院するのと同じよに、『生長の家』の誌友であることを止めて去って行く人たちであります。このような第二種類の人は随分多いのでありまして、これは指導する講師が単に『心の法則』を説くことだけで病気を消滅せしめるために起こる弊害でありまして、人を病苦から救うことも大切でありますけれども、もつと必要なのは生命の永遠性を知らしめ、人間・神の子の真理を自覚病苦のみならず、人生一切の苦悩を脱却して地上に天国浄土をつくる運動に挺身する菩薩の境涯に至り得るまで充分の真理を知らしめる事でありまして、この程度まで充分真理を覚らしめないで、ただ病気治しだけで突き放してしまうのでは、宗教の講師としては慈悲のないことだと言はなければならないのであります。別に講師が『病気を治しただけで突きはす』のではなく、先方が『病気が治って去って行く』のでありますけれども、このような指導をしているのでは、結果に於て『病気を治して突き放した』と同じことになるで、講師たる者は、病気が消えるように心の持ち方を指導すると同時に末永く『真理の文章』に親しみ、常に一層『真理』を深く悟る機会を失わないよに、年極めの『生長の家』誌友になるように導いてあげることが、『法施』即ち『真理を布施する』重大な布施行となるのであります。
〜以下、省略〜


雅春先生の言葉から、神示の講話を読むに、どんな、講話の素晴らしい講師や信徒でも、教団を離れてしまうのは、慈悲の無い行為とも読みとることができます(^_^)


生長の家教団は、住吉大神自然に、今のように、されたのだから、消滅するなら、自然に消滅するのです。栄えるなら、なお一層栄えるのです。従って、教団を辞めたと言うこと、住吉大神様から、自然に拒絶された、人々であるともいえる(^_^)


総裁が、雅春先生だろと、雅宣先生だろと、他のだれだろと、それは、あまり関係ない、只今、現時点において、雅宣先生であるのだから、仕方ない事である。
全ては、住吉大神様の御心を受け入れられるか?られない自分の心が有るかだけである。

55a hope:2011/12/16(金) 08:57:26 ID:kcv2QXTk

わたしは、教団を退会してしまったので、直接、神想観の指導を受けることができません。
ですから、雅春先生のCDを聴いたり、「詳説 神想観」を読んだりしながら一人で実習しています。

「本流宣言の掲示板」に掲載されている「神想観」についての記事は、とても勉強になるので、大変ありがたいです。
プリントアウトして、書き写しながら、毎日、勉強させていただいています。
以下は、童子さまが 2010年11月21日におそらく、「本流復活掲示板」に書き込まれたものを、伝統さまが、あらためて投稿されたものです。
とてもお勉強になったので、ここにまた、書き写させていただきます。

合掌。


本流宣言掲示板の記事「『神想観』してますか?」(210)より


生長の家の勤行の一つ『神想観』でありますが、
『生命の實相』にはどう書かれ説明されているのか・・・
(宇治の吉田武利先生が抜き出されていました)

◎神想観は生長の家の神から私が直接授かったものであります。
◎神想観は「無想観」にあらず、「疑念」にあらず。
◎神想観は神の力、仏の力なり。
◎神想観はその使命を以ってあらわれた守護の神に護られて行う何よりも完全な行法である。
◎心と視力を集めて実相を静観するのが神想観である。
◎神想観は「ハイハイ有難うございます」の修行で少しも難しい事はないのです。
◎神想観の祈りは絶対他力への帰命信頼の表白である。
◎与えられた勘定書きを正確に承認するのが神想観である。
◎神想観は『実相観』なり。
◎実相上に坐して修するのが神想観である。
◎神想観は全身が真理と成る為なり。
◎神想観こそ最高の祈りである。
◎神想観は「祈り」と「観法」の調和し合体したものである。
◎神想観は神と二人切りの対座なり。
◎神想観は永く別れていた親子の対面なり。
◎神想観の中にのみ永遠なる依り処を吾々は見出す。
◎神想観にまさる喜び、幸福は他にない。
◎神想観は諸佛現前三昧なり。
◎神想観は祇管結観実相なり。
◎神想観は他力、自力を絶した「絶対力」である。
◎神想観は実相が実相を念ずるコトバの大行なり。
◎神想観は往相精進の行なり。
◎神想観は求める場でなく与える場である。
◎神想観は「證上の修」なり。
◎忙しくて「睡眠時間の足りないような時ほど却って神想観」をなすべし。
◎人類光明化運動の基礎となるもの―それは神想観である。
◎・・・(以下略)


(そのあと、童子さま?が、以下のコメントがされてます。)

生命の實相の拝読、聖経甘露の法雨読誦、神想観

この三つは師谷口雅春先生と私たちとの約束事だと思うのですが、
ここ数日間の書き込みをみて、とても痛感しました。

もっと本を読んでください。 答えは書いてあります。
もっと神想観をしてください。神が導いてくれます。

頓首再拝



わたし a hope は、これを読んだ時、本当にそうだと思いました。

「生命の實相」の拝読、「聖経甘露の法雨」読誦、「神想観」 この、3つがなくなったら、「生長の家」ではないですよね。
反対に、この3つさえあれば、どこにいても「生長の家」なのではないかと信じて毎日ひとりでがんばっています(笑)。

56うのはな:2011/12/16(金) 18:33:08 ID:El6gIMAw
まだ、「真理の光」は『生命の實相』が千二百万部、真理の諸雑誌が合計毎月百二十万部ぐらゐで世界の人口三十三億に
対しては、九牛の一毛にも達しないのである。
ところで最近『豪華携帯版・生命の實相』四十巻が出揃うたので、今度は、
書架愛蔵版『生命の実相』紺布装金箔押し渦巻模様の荘厳な表装で第一巻から配本せられることになつた。
携帯版や頭注版は、携行に便利なために、最初の原本一冊を二巻に分冊して軽量にしてあつたので
全四十巻であつたが、この書架愛蔵版は、最初の原本に戻して一冊を部厚くして書架に飾つて、書斎又は客室を、
此の實相の真理の光で満たして頂くとありがたいと思ふ。


『明窓浄机』生長の家 昭和四十五年 十二月号 谷口雅春 先生著

※ 現代かな漢字に投稿者変換 記

57うのはな:2011/12/17(土) 04:34:57 ID:El6gIMAw

 西田天香先生の示された伝道の範例
 
 わたしは伝道のきびしさを憶うとき、いつでも一燈園の創始者西田天香先生の聖なるきびしさを思い出すのである。
天香先生の嫡子保太郎氏が重症で、いつ臨終となるやも測り知ることが出来ないで近親者がその机辺に集っているとき、
天香先生は「人類が私の救いを求めて私を呼んでいるのだ。私はその方に赴かねばならぬ。
それがまた保太郎の菩提のためでもあるのだ。さようなら」といって危篤の子供を残して人類救済のために旅立って行かれるのであった。

 それは最近親者たる母に向かって「われ汝と何の関係あらんや」と淡々と言い切って、
「わが時はいまだ来らず、また時が来たら会おうよ」と十字架上で母と再会する約束をせられたイエスの心境とよく似ているのである。

 義は重く、真理伝道の使命は重く、肉親の愛情はそれに比べれば軽いのである。


 『生長の家』誌 昭和四十八年三月号 九〜十一頁 谷口雅春 先生

58うのはな:2011/12/17(土) 04:50:01 ID:El6gIMAw

  組織づくりの名人となるには

『あなたが大なる事業を為そうと思うならば組織づくりの才能を身につけなければならないのである。
人体が四百兆以上もある細胞が一つの完全な生理作用をいとなむ組織体として活動出来るようになっているのは
“神”という上手な「組織づくりの名人」がそれを設計してつくったからなのである。

“神”はまことに上手な「組織づくりの名人」なのである。
事業や社会上の組織は、人間の才能の適当な配分によってつくられるのであるから、人間の才能や性格を見る眼が
開かれなければならない。そしてこの“才能”をどこに配置し、この“性格”をどこに配置するかを決定しなければならない。

 しかしそれらの組織づくりの知恵というものはどうしたら得られるのであろうか。
それは生まれつきの天分というものもあるけれども、人間は「組織作りの名人」であるところの
“神”さまの子であるから、常に神想観して神と融合し、神と一体感を得ることによって、
組織づくりの名人的知恵もおのずから授かることになるのである。』


『理想世界』誌 昭和四十七年十一月号から抜粋 谷口雅春 先生 著

59ももんが:2011/12/17(土) 05:49:27 ID:XXCuaQns
皆様、おはようございます。本日も、うれしく、楽しい、朝が、やってまりました!(^_^)さあ、元気、楽しい、御愛行、感謝行に、励みましょう!ありがとうございます。合掌、拝。(^_^)


どんなに、『生命の実相』たくさん読まれても、毎日一日も欠かさず『神想観』してもいつしか、靈は、やがて、汚れてしまうものである(^_^)

『禊祓い』し靈を綺麗して、神様とのより良い、関係を作ることで、いっそう、良くなると言う事がわかりました(^_^)


〜『神 真理を告げ給う』より(神様の言葉です)〜

『わたし』は実相である。『わたし』はあなたの実相である。『わたし』は永遠に存在する実在である。『あなた』の実相は『わたし』であるから永遠に存在するものであって金剛不壊の存在なのである。本当のあなたは不滅の存在なのである。


〜以上、神様からの、御言葉です。(^_^)

文中の『わたし』は雅春先生でなく、神様です(^_^)


では、神様の存在を無視せずに、常に、ご先祖と父母に感謝をとうして、私の存在のありがたさに

『ありがとう、ございます』と、祈りましょう(^_^)

では、皆様の、身元に、神様の御加護が、ありますように、ありがとうございます。合掌、拝。

60うのはな:2011/12/17(土) 06:14:22 ID:El6gIMAw


 『理想世界』(昭和五十六年二月号)に祖母・谷口輝子先生は次のような文章を載せている。

 毎朝五時十五分前に起き出ると、私は夫の身のまわりのことと、自分のこととを調え終ると、縁側のガラスの戸を
サッと開ける。大空が小屋根にさえぎられて見えにくいので、私はそこに座りこんで、首を低くして大空を仰いで見る。
(略)大小さまざまの星たちが無数にまばたいている。星の並び方が日ごとに変化していく。

 まるで生きもののように、星たちの位置が毎朝移り変っている。星たちは、毎朝我が庭を訪れて、大空高く遊歩しているようである。
地球と同じ銀河系宇宙に住む星たちだもの、私たちの仲間なのである。
 私たちが、はるばると出かけて行かなくとも、彼ら星たちは、何億という大多数で、毎日私たちの庭へやって来てくれる。
楽しいことではないか。

 私は月の世界に足をかけようとは欲しない。生きている間に、「月の世界にお連れしましょう」と誘われる時代が来るかも知れないが、
私は行きたいとは思わない。索漠たる砂漠のような月世界を踏むよりも、地球世界から、神々しく輝く月を仰いでいる方が楽しいと思う。
富士山だってそうである。紙屑と空缶のゴロゴロしているという山上を歩くよりも、白雪をかむった崇高な姿を、はるかに遠く下界から仰ぐ方が、
心が清まるような心地がする。

 昭和五十一年七十九歳のとき長崎の総本山の公邸にお住まいを移されるまで、祖母は東京のご自宅で、早朝神想観を終えられると割烹着をつけ、
髪を手拭で整え、毎朝決められた場所のお掃除をされていた。風の日も、雪の日も、こんな湿っぽい・・・と思われる雨の日も、ご文章にあるようにサッと
戸を開け放ち、調子のよい音をたててハタキをかけ、掃きだし、廊下や柱を力をこめて拭いていられた姿を思い出す。
定期的に畳の拭き掃除もあって、私もお手伝いに上がって拭いていると、「そんなんじゃなく、もっと力を入れて!」と、
拭き方やネル地の雑巾の使い方を教えられた。

 
 『谷口雅春師に捧げる誓いと信仰』P152 宮澤 潔・宮澤壽美 共著 ジュピター出版

61うのはな:2011/12/17(土) 16:58:14 ID:El6gIMAw

  大東亜戦争に際して

 大東亜戦争のときに於いて、連合軍が欧州戦線を速かに収拾せんがために出動したけれども、
適当な上陸地点がない。イタリーの南端シチリー島を上陸地点として選んだが、其処には堅固無類の
トーチカ陣があり、白人の軍隊も黒人の軍隊も皆全滅した後に、最後に選ばれたのが、ハワイの日本民族第二世の
軍隊で、時の生長の家ハワイ白鳩会長たる宮川和子さんが祈りをこめた生長の家の聖経『甘露の法雨』をポケットに入れ、
「我れ『甘露の法雨』と共にあるから敵弾では傷つかない」との信念をもって上陸に成功し、
『甘露の方雨』に機関銃弾が当りながら傷つかなかった兵隊が沢山あったと云うのである。

 その為に連合軍が速やかにヒットラー軍を爽撃して欧州戦線を収拾することができたのでありました。
このためアメリカでは「こんな速かにヨーロッパ戦線が片付いたのは日本民族のお陰だ」とて
日本民族に対する尊敬と好意の念がさかんに起ったので、戦後、内地の日本人が食糧に困窮し産業資金に窮乏している時に、
ガリオア資金の名の下にて食糧を供給してくれたり、エロア資金の名の下に日本の産業復興資金を供給してくれたりして、
現在のように天之岩戸景気から更に行き過ぎてレジャーブームを湧き立たせる程になったのも、日本の重大時期に際して
聖経『甘露の法雨』を吾々に授けられた住吉大神が如何に日本民族に恵福を与えるために活動せられたかが分るのであります。


『白鳩』誌 昭和37年4月号74頁  谷口雅春 先生

62うのはな:2011/12/17(土) 17:01:04 ID:El6gIMAw
 >61 訂正箇所

 方雨 × 法雨 ○

63ハマナス:2011/12/18(日) 07:33:15 ID:u5mC.eb2
素晴らしい神の子の皆さま、おはようございます。

今日も朝から素晴らしいお天気です。今日も張り切って、人類光明化の為に、
精進してまいりたいと思います

「心を尽くして自己の霊なる本体を求めよ。
 神の子人間の上には、神の法則のみ支配す。
 迷いを去り汝の生命が神の生命なる実相を諦観せよ。」

愛念の持続が人格の匂いを放つ==人格の匂いとは、その人の人格から不断に立ちのぼって
いる雰囲気によるのです。人に深切をしてあげる愛念、よき行ないをつむ精進(しょうじん)よき想念を重ねる正思惟(しょうしゆい)、すべて心に描かれた姿は永遠に潜在意識に蓄積されていて、それが一団となって特有の雰囲気となり光を放つのです
(谷口雅春著『新版 真理』第6巻より)

Cherish loving thoughts within your heart. Then your personality will radiate
an exquisite aroma.

64雌雄会:2011/12/18(日) 15:58:06 ID:nBoNxzMc
ここの板は素晴らしい。
ありがとうございます。

65うのはな:2011/12/18(日) 18:13:51 ID:El6gIMAw

 神武天皇の建国に際して

● 神武天皇様が日向の高千穂の国にいまして、これより何処に都を作れば
八紘一宇の世界を建設するに都合がよいかと考えていらせられた時に、白髪の塩土翁
と云うところの老翁の神が現れて、『東の方に美し(うまし)国あり、かしこへ行きて
都を造りたまうたならば必ず世界を統一することが出来まする』
こう申上げ奉って道案内申上げた。此の東道の神様が塩椎神であります。

『生長の家三十年史』20頁

● 神武天皇様が日本民族を統一国家となさるにあたって導びかれたのが塩椎翁即ち塩椎大神
 (住吉大神)である。

 『實相研鑽Ⅱ』 193頁

66うのはな:2011/12/18(日) 19:27:58 ID:El6gIMAw

  組織における愛の問題

 たしかに現象人間には、色々の欠点もあるものだ。弱点をもっている人も多いし、失敗もあるであろう。
それをお互いに助け合い、補い合って行くのが組織活動の本質である。
間違った因果関係を念頭において、成功したためしはないのである。ことに人事問題に関してはそうである。
先入見をすてよう。小さな個人的利害にひっかかって、全体的「聖使命」を忘却してはならないのである。

 吾々は個我をのさばらせて、自我の見解に執していてはならない。
自分と他人とが意見の対立を生じたとき、自分が「正しい」と思うのは誰しもである。
その反対であれば、最初から議論にならないからである。しかし、いくら自分が「正しい」と思っていても亦
「正しい」と思っていることを考えるならば、お互いに相手を「わからずや」だと考えるだけでは、不十分である。

「相手がわからずやである」という一つの「因」から「対立意見」が出る場合もあるのであろう。
しかし「対立意見」は「相手がわからずやである」というたった一つの「因」からのみ生ずるのではないのである。
もう一つの「因」は「自分がわからずやである」という場合である。

 さらにもう一つの因は「両方ともわからずやであった」という場合である。
さらにもう一つの「因」として、双方とも言っていることは正しくても、対立見解を生ずる場合もありうる場合を
知らなければならないのである。

『聖使命』新聞四十四年六月十一日号より一部抜粋

67うのはな:2011/12/18(日) 20:26:48 ID:El6gIMAw

 真理を伝えられた恩を忘れてはならない

 生長の家の神様は罰を与えないけれども、自分自身で自己処罰して罰を当てるのです。
人間は「肉体」ではないのですから、霊であったら、普遍的の存在であり、自他一体でありますから、
他を生かすようにしていれば自分が生きて来るようになるのです。他を生かすことを止めて利己的になり、
互いの恩愛を遮断するようになると、大生命の流れがそのままに現象化しないで病気があらわれます。

「人間、神の子、自他一体」の真理を自覚していない証拠です。
「報恩行に就いての神示」にありますように、吾々は、神様の真理を知らしてもらう機縁を与えて下さった
橋架けになった人 真理と縁を結んでもらった人に対して、その恩というものを忘れてはならないのです。

 生長の家の誌友は生長の家という縁を通して、神様を知らしていただいたのでありますから、
「もう真理を知ったから、私は神様と直通だ。もう生長の家など通さないでよい」などと恩を遮断すると、
其の生命を断ち切る心の反映として、現象的に病気その他の不幸があらわれて来るのです。

『神 人に語り給う』 谷口雅春 先生著

68うのはな:2011/12/20(火) 15:03:28 ID:El6gIMAw
[ 指導者となるための指標 ]『生長の家』昭和二十五年六月号・巻頭言

一、 汝のもてるすべてのものを以って強力に前進すべし。今の瞬間に汝の凡ゆる未来がかかってあるかの如く今
  手近にある所の仕事に集中せよ

ニ、 進歩発達は責任の加はる毎に増加するのである。自から求めて責任を負うべし。これを避けるべからず、人生を
   一大冒険と考えよ。

三、 明日希望する所の仕事のために、今日を用意せよ。そのために常に受けるよりも一層多くを与うべし。
   これが成功に到る大道である。

四、 常に静かなる自信をもちて行動し、常に次のことをモットーとせよ。
  「常識を逸脱せず周囲と調和し而も勇敢に行動せよ」大いなる成功は常に「敢えてなす勇気」を要するのである。

五、「行き届く」という良習慣を発達せしめよ。すべての細部にわたりて行きとどく習慣こそ成功の生きた要素である。

六、 凡ゆる材料をあつめて沈思熟考したる後、断乎と決意せよ。

七、 誰が世間の名声を獲得するかについては思ひ煩うこと勿れ。

八、 何事もどんな忠言にもよき聴き手たるべし

九、 命令を与えたり対決を表明する前に他の人の意見を悉くきけ。それ迄は自からを表す勿れ。

十、 これはほめる値打ちがあると気がついたならば速かに賞賛せよ。非難すべきことが必要ならば
   ひそかにその人のみに語れ。

十一、 人の犠牲に於いて自からも利せざる様注意せよ。一時の個人的な利益よりも友人同僚の協力こそ
    永遠に尊き価値があるのである。汝の好まざる人をよく深切に導け。
    而して彼らの美点をほめることを試みよ。

十二、 決して不平の心をおこすべからず。心の曇りを毎日きれいに拭い去るべし。
    寛容雄大の精神を教養せよ。

十三、 自分を悲しみの心を以て汚すな。必勝の態度を常に保て。クロムウェルのモットー
    「思いを深くして感謝せよ」に従うべし。

十四、 今日一日の生命と思いて生きるべし。取越苦労はいらぬのである。

十五、仕事の合間、ほっとした時にニ、三回深呼吸を行いて精気を新たならしむべし。

 (米国の光明思想実践運動D・I・Aの標語より)

69うのはな:2011/12/20(火) 15:21:38 ID:El6gIMAw

  神さまの教えをひろめるには
 
 神さまの教えをひろめるには“純粋な献身”が要求されるのでありまして、ただの
「売れたら好い雑誌」の出版とは異るのであります。それがただ「栄える企業」としてはじめるのだったら、
 無論、その企業収入の中から自分の生活費も、休養費も娯楽費も出してよいのでありますけれども
“純粋な献身”が要求されるところの宗教の伝道に於いては、少しでも利欲的又は利己的動機が含まれておりますと、
 宗教というものは、その伝道者が神様からの放送を受信するアンテナになり、それを発声するラジオ・セットのスピーカーに
 ならねばならぬのでありますから、伝道者の精神態度が一寸でも不純になると、完全に神さまからの教えの放送を受信できない
 おそれがあります。そして神様からの純粋の放送が受信できないで、他の低い霊魂などからの放送を混信することになるならば、
 その宗教は生命なきものとなり崩れ去るのであります。

『到彼岸の神示』149頁  谷口雅春 先生 著作

70うのはな:2011/12/20(火) 16:27:31 ID:El6gIMAw

 生きて歩む宗教

 仏教も、旧約も新約も、人の内にやどる聖書又は如来が存することに於て一致するのであるが、
それが単に学説として、一種の宗教哲学として、単に人間の知的理解の対象となっているだけでは人間を
具体的に救済することは出来ないのである。

 生長の家が一宗一派を唱えず、あらゆる宗教に共通する真理を説きながら、
「一切衆生悉く仏性有り」の“仏性”を実生活に活用するように教えるところに独特の発展があるのである。
 つまり生長の家の特色を通俗語をもって表現するならば、それは、実生活に生きて歩む宗教であり、実用的仏教であり、
 生活応用キリスト教であるということである。

 『人生を支配する先祖供養』6頁  谷口雅春 先生著

71うのはな:2011/12/20(火) 17:40:45 ID:El6gIMAw

  天使の霊の宿っている人々

 そこへ集って来る霊の多くは、肉体の脳髄にも真理を悟らせて人を救いたいという
熱願ある「高級霊」の方が多いのであります。こういう人を救いたい熱願をもっていられる
「高級霊」の宿っている人を「天使の霊の宿っている人」と申されているのであります。
既に真理を悟っている高級霊(菩薩に当たる)でも、その宿っている肉体の頭脳が真理を知らないと
大変都合が悪い。人生に於ける行為は霊と肉体との協同動作によって行なわれるのですから、その人の
霊魂だけが高級霊で、肉体の脳髄は「真理」を知らないのでは可けないので、霊魂は、其処に生長の家の
道場が出来たとか、講習講演会が催されるとかいうことが肉体の眼にとまると、内部から「何となくその
講習会講演会に行きたい」という念を起こさせる。

 この場合、肉体の脳髄が「講習に参加しよう」と思ったようだけれども、実は内部霊魂の導きによる催しである場合が
多いのであります。斯ういう人たちが道場に集って講話をきいていると、神の力を至現するための模範的奇蹟的治癒のような
ことが起こるのであります。治癒と言っても、単に病気だけのことではありません。
悟りによって悪い運命が好転に一転するのも治癒であります。

 不調和な家庭生活が調和に一転するのも治癒であります。そのような奇蹟が「手本」となって他の人々が神の存在をみとめて悟りに
入る媒介となるのであります。このようにして無数の奇蹟的治癒の行われる道場へ来ても、何ら神徳を受けることのできない人もないことは
ありません。「愛の心で来るものは神徳を受けて帰るが、審判く心や素見し(ひやかし)心で来るものは、神の心と波長が合わぬから其の心が
直らぬうちは神徳は受けられぬ」とあるのであります。

 即ち心の波長が神の波長に同調すれば、神の御徳が現象界にカゲを映して来るのであります。
それで「神徳」と書いてオカゲと振仮名することもあります。

 実相に於いては人間は万徳円満でありますが、現象界に於いてオカゲが得られるか得られないかは、
その人の心次第ということになるのであります。

 『到彼岸の神示』174〜182頁より部分的に抜粋 谷口雅春 先生著

72うのはな:2011/12/20(火) 19:32:07 ID:El6gIMAw

  戦後日本を支えて来られたのは谷口雅春先生  菊池藤吉(元生長の家本部理事・青年局長)
 
 まさに世界の中心である日本、その日本の中心のお伊勢さまを救われる大偉業、これが谷口雅春先生の
お声がかりによってできたのだということであります。
 一体、どれほどの日本人が谷口雅春先生のお力で救われたことでしょう。
そして、戦後の日本国家は滅びても仕方のないほどの痛手を受けながらも生き延びてきました。
日本が曲がりなりにも天皇陛下をいただいてここまで復興してきたことに、一体、谷口雅春先生のお力と生長の家の
皆さんのご努力がどれほどの救いとなったでしょうか。そうでなければ、あの日本共産党が発行している赤旗新聞の発行部数の
巨大さを考えてみますと、日本をあのままにしていたら、そして、もし谷口雅春先生おわさなければ、日本はどうなっていたか、
考えただけでも鳥肌が立つ思いが致します。

 共産党は皇居まで乗り込んでいって「米よこせ運動」までやりました。
「天皇は白飯を食っている。我々は麦飯を食っている」と騒いだのです。しかし本当は
昭和天皇様は我々と同じような粗末なご飯を食べておられていたことが、今では周知のこととなっております。
余談になりますが、この運動を指導したのが徳田球一さんでした。徳田球一さんという人は日本共産党党員の中でも
純情な人でした。宮本顕ニは非常に陰険な人で、それこそあの北朝鮮のように平気で同志を殺しております。
けれども、宮本顕ニと違って、あの徳田球一さんは顔を真っ赤にしてすぐ腹を立てる人でした。
しかし、正義感というか私情で人を脅したりしない人でした。とにかく、あれだけ腹を立てるものですから、前に紹介しましたように
マイナス感情で水でさえも腐ってしまうのですから、本人の体の水はどんなに腐っていたか、晩年は中国へ行って中国で死にました。
徳田さんは全身ガンで亡くなりました。なるほど、水は変わるのだということはこのことからでも分かります。

 徳田球一さんは日本共産党の中でも愛すべき人で、沖縄の出身でした。だから徳田球一さんの奥さんが、沖縄の日本復帰後に二度ほど沖縄にある
お墓にお参りになりまして、私が沖縄にいることを知って連絡をいただき、一緒にお墓参りをしたことがございました。

 それはともかく、私がはじめて生長の家に導かれた頃は、前にも少し申し上げたことですけれども、大調和の神示の中に「皇恩に感謝せよ」という
言葉があるが、折角のこの素晴らしい生長の家の教えも、この「皇恩に感謝せよ」があることによって、若い人たちが受け付けないのではないかと思いまして、
若気の至りと言いましょうか、谷口雅春先生におこがましくも「ここだけは削除した方が・・」と申し上げたことがありました。
谷口雅春先生は「いやそれが大事なんです」と言われまして、それから私は真剣に谷口雅春先生の愛国書を拝読するようになりました。
今は谷口雅春先生のご著書の中でも、『限りなく日本を愛す』というご本は本当に紙がヨレヨレになるくらいに拝読致しております。

 日本の実相というものは、いかに素晴らしいものであるか。「久遠天上理想国実現の神示」には、
「今の世界で実相世界の常住性を形に顕し出しているのはただ日本の国ばかりである。生滅常なき現実世界が変じて久遠実相世界の
 常住性を顕現するには、常住性ある国がひろがりて常住性なき国を包みて、十六方位の世界を一つの常住性ある永遠滅びぬ世界としなければ
 ならぬのである」とあります。そして、「声字即実相の神示」には、
「『生命の實相』を展開(ひら)けば形の理想世界が成就するのである。今は過渡時代であるから、仮相の自壊作用として色々の出来事が突発する」
とあります。今のこの時代は、神示が示された時代同様、過渡期でございます。
そういう時代だからこそ、やはり私たち、直接谷口雅春先生の御教えを受けた者が中心となって、今こそ声を上げなければならないのではないかと
つくづく感じている次第でございます。

『谷口雅春先生を学ぶ』平成15年12月号 P20−22

73うのはな:2011/12/21(水) 06:46:49 ID:El6gIMAw

 谷口雅春先生

 みなさんのお話をきいておりまして、非常に打たれたのであります。こうして、ここに千人余の人が
集っておられて、その一人一人がみんな神様のみ心をその個性に従ってうけて、そして、個性を発揮することに
よって、神様の目的を聖使命として生きたいという、信仰深い念願をもってここに集っておられる。
その生命の拍動とでもいうものを感じまして非常に打たれたのであります。

 一つには、皆さんの話をきいていると、イエス・キリストが言った“我みずからにては、何事も為しえず”、天の父が
我にいまして御業をなさしめ給うのである”こういったですね、みなさんは、このイエスの言葉そのままを生活に体験して
おられるように感ずるのであります。“我みずからにては何事をも為しえず”、その根本はどこにあるかというと、
「物質はない、肉体はない」、というところの生長の家の教えの根本から出てくるのであります。

“我みずから”という場合の“我”というのは、肉体の“我”であります。
肉体の“我”はですね、これは五尺何寸、十何貫の、その小さい物質の塊の、その一部分である脳髄の力で、何をやろうと
思っても、本当は何もやる事はできないですね。

 そこで観の転換、自分を如何にみるかという、この観の転換が、そこに出てこなければならないのですね。
それで、この現在の物質的、肉体の自分というものを、否定する。
“我みずからにては何事をも為しえず”と。その裏には、物質はない、肉体はないというね、この世界観、人生観、
存在観とでもいうものがですね本当にわからなければ、ならないわけなんであります。
それをわからすよう出てこられたのがこれがスミノエノオオカミ、スミヨシノオオカミであります。

つづく

74うのはな:2011/12/21(水) 07:14:32 ID:El6gIMAw

 ヨハネ伝の第三章には、ユダヤの長老のニコデモというのがイエス・キリストがいろいろの
奇蹟を行うのをきいて、どうぞ教えをたれ給えと申しあげたら“人、新たに生まれずは、神の国を
得ることをあたわず”とこう言っているんですね。生まれ変わるといっても、もうこの年齢になったら再び、
お母さんのお腹に入って生まれかわることはできませんと言ったら、新たに生まれるというのは、
そんな事じゃないんだと。人は水と霊とによらなかったならば、生まれかわる事はできないのである、
水っていうのはね、洗礼のことで、当時はヨルダン河に全身を突っ込んで、肉体はないという象徴行事をして
再び浮かび上がってきた時に、その時に、生まれかわる。もう肉体はなくなって、肉体の有様を見せているけれども、
そう見えているだけであって、本質は霊的存在であると、イエスは教えたのであります。

 また、創世記の第一章には、「はじめに神、天地を創り給えり、地は形なくして、闇わだのおもてにあり、神の霊、
水の面をおおいたりき」と、こうかいてありますね。ここに神の霊と水との対決がある。
この水というのは、まだ天地創造の前でありますから、地球に沸いているような水じゃないんです。
水という言葉によって象徴されているところの、姿形なく、どんな色もなく匂いもなく、どんな形にでも変貌して、方円の器に
従ってどんな形にでもなるところの、“無”ですね。“無”この“無”にならんとね、この神の霊がそのアイディアを、思うままに実現すると
いう事はできないわけなんです。

 我々が神様からアイディアをうけ、それを実現するのには自分が“無”になる事です。
自分にはまだ何かがある、我がある、あるいは自分はこういう肉体という物質であるという、物質的観念というような
邪魔者があったりすると、ほんとに“無”にならんのですね。“無”にならんと、神様からの放送を完全にうけとることができない、
という事になるわけでありますね。


 昭和53年2月28日 全国代表者会議 谷口雅春先生結語

75うのはな:2011/12/21(水) 13:26:14 ID:El6gIMAw

『生命の實相』を必ず読む日

 生長の家では外界をただ「自心の展開」として自由自在に駆使し得るようになるのであります。
(『生命の実相』第七巻)

 四祖の道信は好んで「大般若経」を読誦した。今でも禅宗では「大般若経」の繙読は非常な功徳があるとせられている。
「大般若経」の理趣分には『生命の實相』に説く真理と同じことが書いてあると云うことを私は『生命の實相』で指摘して置いた。
四祖は或るとき馬賊のような群盗に自分の寺を囲まれたが、「大般若経」を一心不乱に誦していると、その寺を無数の軍隊が取巻いているような
幻像が群盗の眼に映じたので、群盗は一物も掠め得ないで逃げ出したと云うことが伝記にある。

 こんなことは『生命の實相』を私自身が書いて私自身がその色々の奇瑞を見るまでは、作り話だと思っていたが、今なら、
それが作り話ではない、本当の話だと云う気がする。
 道信は或る日黄梅山で一人の異相ある少年に出逢った。道信から声を掛けて姓名を訊いた。
「姓名なんか訊いて何にするのです。姓名は本来空です。本性は変るものではありません」
「本性は、何と申すか」「本性は仏性です」
少年の此の答に道信は感心して、其の場で彼を弟子にした。少年は後の五祖弘忍である。

 『光明道中記』P216 谷口雅春 先生著

76うのはな:2011/12/21(水) 18:32:30 ID:El6gIMAw

“輝子”という名前は、父又一氏が尊敬していた閨秀歌人の片山輝子からとられた。
それは片山輝子の文学的詩才にあやかり、輝かしい生涯を送ってほしいという父の娘に対する
切なる願いからであった。その願いを受けてか、輝子先生は作文が得意となり、女学校時代を通して
文学に非常に親しまれた。

 そしてこんな文学好きの輝子先生であったから、女子大の国文科へ行くことを希望されたが、家庭の事情で
断念された。

・・・ 私の父がもっと長生きしてくれたり、私の親がもっと金をもっていたりして私が女子大の国文科を出ていましたら
今頃は小説家になっているか、女学校の国語の先生になっているかしておりまいたかも知れません。
そしたならば、私は谷口先生に出会うことはなかったのだと思います。

『女性の理想』より  谷口輝子先生九十年の足跡『光を見つめて』P10

77雌雄会:2011/12/21(水) 20:25:16 ID:tWP7OEjY
霊供養入門 運命は改善できる 谷口雅春
303頁より
霊前で聖経を読む前に、次のように呼びかける人がいる。
「祖先の霊魂よ、お前は迷っていて、迷いの霊波を送ってくるので困っている。この聖経を読んであげるから、それをよく聴いて悟りを開いて、もう二度と迷いの霊波をわれわれに送って悩ませないようにしてくれ」しかし、以上のことを言ったり、思ったりして聖経を読誦しても、真理を吟誦しても、効果がないことがあるのである。なぜかというと、現実界の人間に対してでも「お前は迷っているから、そんな拙い生活を送るんだ。この「生命の実相」の本を読んで、もっと立派な人間になれ」などと、相手の悪をみとめて、軽蔑的語調で言ったり・・・ 続く。

78ハマナス:2011/12/22(木) 00:01:59 ID:u5mC.eb2
みなさま、こんばんは。

先輩の皆様の活発な意見を拝見しております。ありがとうございます。
真剣に生長の家の事を考えられ、人類光明化と言う大きな目標に向かって
いらっしゃるからこそ、色々な意見が出るのだと思います。
本当は、お互いに尊敬されているのですね。


「ともかく、この自分一人の力で生きているのではない。五尺の身体の化学作用で
生きているのではないということがわかってみますと、人間は今までこせこせした
貧民窟の裏小路から、大生命の大通りへ出た感じがするのであります。
人を恨んだり憎んだり腹が立ったり悲しんだりするのも、元を探れば恐怖心から
でありまして、自分だけの力で生きている有限な力で生きているのだから、あんな
ことをされてはこちらの力が減ると思うから起こるのであります。

どんなに人が自分に損をかけても、自分は無限大の大実在につながっているという
大自覚がありますれば、人間は損を損と感じない、無限大からいくら差し引いても
やはり無限大が残るからであります。また一時は損を感じても、やがてそれだけ
低くなったところには無限大の生命の泉の貯水池からまだ流れ込んできて、前と
同じようにぷかぷかと生命でも富でもできてくるのだということがわれわれの「覚めて
心」だけではない、隠れている「傾向の心」全体にも確認できるようになってきますと、
それこそ無限の落ちつきー心の底たましいの底からの平和と安住とが湧いてくる
のであります。」


『生命の実相』第8巻P.8から

79志恩:2011/12/22(木) 10:03:01 ID:.QY5jUA6
ハマナスさま

いつもながらの、すばらしい前向きのコメント、ありがとうございます。
今は、いろいろな意見がでるから、いいのですよね。
目標は,生長の家の人類光明化ですものね。佳くなるしか、しかたありませんものね。

80ハマナス:2011/12/22(木) 11:56:59 ID:u5mC.eb2
志恩様

素晴らしいコメントをありがとうございます。
必ず良くなると信じて、今日も白鳩会活動を頑張ります!!

感謝合掌

81ももんが:2011/12/22(木) 14:33:45 ID:XXCuaQns
>>78ハマナス様へ


ハマナス様、いつも、素晴らしい、投稿、ありがとうございます。合掌(^_^)

『傾向の心』

こないだ、練成会の輪読でも、教わりました(^_^)


ハマナス様の言われる、とうりですね(^_^)

ハマナス様の、言われるとうりに、この、トキ様の掲示板の素晴らしい特長は、たくさんの、色々な、カラフルな意見が、生き生きと、ぶつかり、見た目は、喧嘩、してるみたいだけど、生命の息吹きを、感じる点ですね(^_^)


素晴らしいでしょ(^_^)


これが、生きた、生命の実相ですね(^_^)


生命が生命を磨きあってる(^_^)


方や本流を見てください(^_^)

雅春先生の本の教え説いていますが、型を破る事が出来ない。まるで、氷の教えです(^_^)


批判したわけでは無く、生命とは、文章ではなく、生き物であり、生長する存在と、言う事ですよね(^_^)

ハマナス様に対し、生意気言って、すいません。(^_^)


また、色々、しますが、温かい心で、見ていて下さい(^_^)
ありがとうございます。合掌。

82雌雄会:2011/12/22(木) 15:40:41 ID:tWP7OEjY
霊供養入門 運命は改善できる 谷口雅春
304頁より
相手の悪をみとめて、軽蔑的語調で言ったり、「よく勉強せよ」とか「よく修養せよ」などといって『生命の実相』を与えても、それでは反抗心が起こって、『生命の実相』の本を突き返して来るかも知れないのである。これと同じことが祖先の霊たちにも起こるのであって、「お前は迷っているから、この真理のお経をききなさい」では、いくら聖経を読んであげても霊魂たちは聴きに来ないかも知れないのである。

それだから祖霊に対して聖経を読むときには、ただ尊敬と感謝の念をもって「今までもいろいろと子孫が受けて来た密れたる御恩、陽なる御恩に対して、ただ感謝のためにこの真理のお経を霊界に対して放送しますから、どうぞお受け取り下さいませ」と誦えて、゛ただ感謝 の念をもって読誦するのがよいのである。

83ハマナス:2011/12/22(木) 23:18:57 ID:u5mC.eb2
ももんが様

ご丁寧なレスをありがとうございます。

ももんが様も練成会の輪読で『傾向の心』を読まれたのですか。(^_^)

<ハマナス様の、言われるとうりに、この、トキ様の掲示板の素晴らしい特長は、たくさんの、
 色々な、カラフルな意見が、生き生きと、ぶつかり、見た目は、喧嘩、してるみたいだけど、
 生命の息吹きを、感じる点ですね(^_^)

 素晴らしいでしょ(^_^)これが、生きた、生命の実相ですね(^_^)
 生命が生命を磨きあってる(^_^)

ええ、素晴らしいですね。さすがに、大先輩のももんが様、素敵なことばをありがとうございます。

明日は天皇誕生日です。
一般参賀は、天皇誕生日と新年1月2日の年に2回だけです。
皆様の中にも毎年皇居に行かれている方もいらっしゃると思いますが、
是非、一度は一般参賀に行かれることをお奨めいたします。両陛下を初め、ご皇族様に
お目に書かれる絶好のチャンスです。
ただ、感動で、身が引き締まり、日本に生まれて良かったと思います。



宮内庁のホームページからの情報です。


午前の一般参賀

午後の一般参賀(記帳)

期日: 平成23年12月23日
参入門: 皇居正門(二重橋)
(午前9時30分〜午前11時20分)

退出門 :坂下門,桔梗門(ききょうもん),大手門,平川門,北桔橋門(きたはねばしもん)

お出まし(予定)

○天皇皇后両陛下,皇太子同妃両殿下,秋篠宮同妃両殿下,眞子内親王殿下

 第1回 午前10時20分頃 
  第2回 午前11時頃
 第3回 午前11時40分頃

【午後の一般参賀(記帳)】
場所 :皇居内 宮内庁庁舎前特設記帳所

参入門
坂下門(午後0時30分〜午後3時30分)
退出門
桔梗門(ききょうもん),大手門,平川門,北桔橋門(きたはねばしもん)(閉門:午後4時)

天皇誕生日と新年の一般参賀でしか、
両陛下、ご皇族様方にお目にかかれません。

84ハマナス:2011/12/22(木) 23:22:09 ID:u5mC.eb2

すみません。誤字がありました。

×お目に書かれる絶好のチャンスです。
○お目にかかれる絶好のチャンスです。

感謝合掌

85ハマナス:2011/12/23(金) 08:06:36 ID:u5mC.eb2

皆さま、おはようございます。ありがとうございます。
今日は天皇誕生日にふさわしい素晴らしいお天気です。
皆さまにとって、心穏やかな日でありますように。


十二月二十三日    明朗歓喜の日   (『光明道中記』p.393より)

  朗らかに笑って生きよ。陽気の充ちた家は必ず生長する。(『生命の實相』第四巻)

「人間の貧しき原因は、彼の心の不調和より来るのである。彼の心の弱さより来るのである。心不調和なれば、事業に於いても仕事に於いても精確なる判断をすることが出来ない。

また適用に物事を推し進めることが出来ない。すること為すこと不適用となるのである。心弱ければ最後の踏ん張りがきかないで肝心のところで崩折れて了うのである。

また心弱ければ思い切るべき時、思い切ることが出来ず、果断である時に果断である

ことが出来ない。失敗すべきことに何時までも恋々としていて新生面を開くことが出来ない。成功の要素として欠くべからざるものは、調和の心と、強さの心とである。

  では調和の心は如何にして養い得るか。すべての隣人と調和することである。

先ず自分の家族、親類等と仲よくなることである。これらの人々と調和することによってのみ、吾々は神と調和することが出来るのである。神と調和することによって、

神からの叡智が流れ入る。神からの叡智が流れいることによって、押し進むべき時には

勇敢に押し進み得、退くべきときには調和して退き、思い切るべきときには果断に断念し得るのである。」

86ももんが:2011/12/23(金) 10:20:18 ID:XXCuaQns
〜花園法皇御宸翰〜


☆往年先師大燈国師の所に在りて、この一段の事に於て休歇を得たり。特に衣鉢を伝持する後、報恩謝徳の思い、興隆仏法の志、寤寐にわするることなさ。しかれども心事依違し、今に未だ其の願を遂げず。頃年病痾纏牽、旦夕期し難し。空しく溝壑にうずもば永劫の恨み、何事かこれに如かん。よって一流再興并に妙心寺造営以下の事、仙洞に申し置くの子細これ在り。縦い一瞬を過ごすとも、必ず平生の志を満たしむべし。門徒の中其の任、佗に在らず。遠慮を廻らし、興隆の願を果さるべし。故に鳥跡を遺して蓄壊を述ぶる者なり。

貞和三年七月二十二日

関山上人禅室


※上記は、臨済宗妙心寺派の聖典の妙心寺・開基 花園法皇様の御言葉です。

1、妙心寺は、花園法皇(花園天皇)様の、御所を、寄進により、仏法興隆の天皇様の志から建て御寺です。

2、関山上人室とは、妙心寺開山である、無相大師の室内、禅室の事で、老師の部屋です。

3、大燈国師とは、関山無相大師の師であり、花園法皇の師でもある。臨済宗大徳寺派の御開山です。大徳寺は、一休さんや、千利休で、有名です。

※、本日は、天皇誕生です。天皇誕生を各地の、御寺や、神社でも、お祝いしてます。御皇室は、昔から、仏法興隆を言われ来ております。皇室と仏法の興隆が薄くなってたのは、やはり、近年です。

87「訊け」管理人:2011/12/23(金) 13:56:16 ID:W9ebvJaY
弊ブログより
http://blog.livedoor.jp/con5151/archives/65616219.html#more
本日のBGM:サラ・ブライトマン

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「総裁を追い出す方策」あります。下記は聖典に掲載されている「追放策」
となりましょうか。さて、総裁追放に向けてやるべきこととは何なのか?
「悪あり」「それを除去すべし」の考え方は果たして、機能するのか?
(註:やや方便的に表現されておりますため、愚生意見とやや趣きが異
なります)
――――――――――――――――――――――――――――――――

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                                             .  :  . . .
<「迷い」はどうしたら消えるのか>

 心の「迷い」を無くするには、「迷い」を捉えて破壊しようと力む事は要
らないのである。それは却って自分の心が「迷い」を掴むことになって益々
大いに「迷う」ばかりである。「迷い」を無くする唯一の道は、心を「迷い」
から一転せしめて、「人間」の本来完全なる相を見詰めるようにすれば好い
のである。自分の病気を癒すには、自分の病気を見詰めないで、自分の実相
の完全さを見詰めれば好いのであるし、他の病気を治すには、彼の病気を治
そうとか、病気をどうしようとか思わないで、ただ彼の完全さを見詰めれば
好いのである。全世界の人々が、ただ、他の善のみを見詰めるようにすれば
忽ち平和は来るのである。

 〝自分が〟祈る力や、自分の思念力によって不幸や病気を退散せしめよう
などと思ってはならないのである。われわれが善き言葉で祈り、善き想いを
想念したならば、あとは神が成就したまうのであると知らなければならない
のである。それは種を蒔くのと同じことである。善き言葉又は善き想念を述
べることは、大宇宙の創化力の沃地に、善き種子を蒔くことになるのである。
その種子を育て生長せしめたまい実を結ばしめ給う力は神にあるのである。
吾々は自分の力で、蒔いた種子から茎や葉を引張り出そうなどと考えてはな
らないのである。「吾れはただ善き想念の種子を蒔く、これを育てたまうの
は神の力である」と念じて、静かに神に全托せよ。

『幸福を招く365章』186項

88ももんが:2011/12/23(金) 14:54:11 ID:XXCuaQns
もうすぐ、クリスマス。カトリックの祈りの言葉をたくさんの紹介します

『聖母マリアへの祈り』

恵みあふれる聖マリア、

主はあなたとともにおれます。

主はあなたを選び、祝福し、あなたの子イエスも祝福されました。

神の母聖マリア、

罪深いわたしたちのために、
今も、死を迎える時も祈ってください。

アーメン。


『元后あわれみの母 』

元后、あわれみの母、

われらの命、喜び、希望。

旅路からあなたにさけぶエバの子

嘆きながら、泣きながらも、
涙の谷にあなたを慕う。

われらのために執り成す方、
あわれみの目をわれらに注ぎ
、尊いあなたの子イエスを、
旅路の果てに示してください。

おお、いつくしみ、恵みあふれる、喜びのおとめマリア。

89ももんが:2011/12/23(金) 15:04:15 ID:XXCuaQns
『キリストの魂』(アニマ・クリスティ)

☆キリストの魂、わたしを聖化し、

キリストの御体、わたしを救い、

キリストの御血、わたしを酔わせ、

キリストの脇腹から出た流れ出た水、わたしを清め、

キリストの受難、わたしを強めてください。

いつくしみ深いイエスよ、

わたしの祈りを聴き入れてください。

あなたの傷のうちにわたしをつつみ、あなたから離れることのないようにしてください。

悪魔のわなからわたしを守り、

臨終の時にわたしを招き、

みもとに引き寄せてくだい。
すべての聖人とともに、いつまであなたをほめたたえることができますように。

(ロヲラの聖イグナチオ)

90ももんが:2011/12/23(金) 15:12:52 ID:XXCuaQns
『家族の祈り』

☆わたしたちの父である神よ、
わたしたちの家族にくださった、

すべての恵みに感謝します。
わたしたちが互いに耳を傾け、
支え合うことができますよに。

怒り、争い、不安におちることなく、愛と、喜びと、平安のうちに、

ゆるし合えますように。

悩んでいるほかの家族のさまざまな思いに

心を留めることができるように、

わたしたちの心に愛を注いでください。

何よりも、わたしたちの家族が、

あなたの愛と一致のしるしとなりますように。

私たちの主イエス・キリストによって。

アーメン。

91ももんが:2011/12/23(金) 15:29:02 ID:XXCuaQns
『平和を願う祈り』

☆神よ、わたしをあなたの平和の道具にしてください。

憎しみのあるところに、愛を
いさかいのあるところに、ゆるしを

分裂のあるところに、一致を
迷いのあるところに信仰を

誤りのあるところに真理を

絶望のあるところに、希望を
悲しみのあるところに、喜びを

闇のあるところに、光をもたらすことができますように。
神よ、わたしに、慰めらるよも慰めることを

理解されるよりも、理解することを

愛されるよよりも、愛することを望ませてください。

自分を捨てて初めて自分を見いだし、

ゆるしてこそゆるされ、

死ぬことによってのみ、

永遠の命によみがえることを
深く悟らせてください。


※カトリックの祈りの中でも、私、ももんが、最も、心から、大切にしてる、祈りの言葉です。

本当に、宗教の真髄を表してた言葉で、この言葉を実践できるなら、聖者といえると思いす。

本来、宗教とは、こう言うものです。

93ももんが:2011/12/23(金) 15:56:52 ID:XXCuaQns
トキさん(;_;)

92>のレス消して下され(ToT)
まちがい投稿です(;_;)


早めに尾根ゲーします(;_;)

94ももんが:2011/12/23(金) 17:38:44 ID:XXCuaQns
『最も重要な掟』

一人の律法学者が進み出、イエスに尋ねた。

『あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。』

イエスはお答えになった。

『第一の掟はこれである。

『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心尽くし、あなたを尽くし、思いをつくし、力をつくして、あなたの神である主を愛しなさい。』

第二の掟は、これである。

『隣人を自分のように愛しなさい。』
この二つにまさる掟は他にない。』
(マルコ 12 28 38 )


※、この掟は、生長の家の全て信徒も、聴くべき、神様のメッセージであります。

イスラエルとは、決して、イスラエル民族の事ではなく、人類全体と捉えて、よい、言葉です。

95雌雄会:2011/12/24(土) 13:01:06 ID:nBoNxzMc
秘められたる神示 P57 最後の審判 に就いての神示 谷口雅春

 キリスト再び臨りて審判くとは今のことである。
キリストとは肉体にあらず『真理』である。キリストとは
肉体にあらず、『光』である。
肉体のわれの臨るを待ち望むな。吾れは既に此処に臨れるに
非ずや、吾れは道である、真理である、光である。
『真理』来ってまよいを審判き、『光』来って暗黒を審判き、
すべてのまよいと暗黒とを地獄の火に投げ入れてこれを焼き滅ぼす。
今こそ最後の審判であると知れ。されど恐るる勿れ、吾が宗教は
恐怖の宗教にあらず。
まよいを焼かるる者は却って生き
まよいを焼かるる者は却って光をあらわさん。
病ひは癒やされ、悩みは消えん。焼かるる者は『汝』にあらずして
、『にせものの汝』であるからである。
『にせものの汝』は神より出づるにあらず、神より出でざる汝は
実在にあらず、実在に非る汝はその真相を暴露して消滅せん。
わが臨れるは『真』と『偽』と、『実在』と『虚妄』とを選り
別けて、『偽』と『虚妄』とを永久に非実在=ぢごくの中に葬り
て封印を施さんがためである。(昭和六年九月二十八日朝神示)

96「訊け」管理人:2011/12/24(土) 16:08:52 ID:UodBcqiE
自己の内に神を観た者は恐怖を超える。(『生命の實相』11巻)

 世の中には悪人さえ極楽往生を遂げるのに、いわんや善人が極楽行きは当然だと云う人があるが、これは如何にも表面そのように思えるけれども、実際は反対である。何故かというと普通善人と云うのは自力作善の人ーすなわち自分の力で今日は斯う云う善行を励みましたと云うように、「“わたし”が善をしましたから救われる資格がある」と云うような人である。ところが、その「“わたし”」なるものは本来無いのであって、一切の善はただ大本体たる弥陀の御徳のあらわれである。
 「“わたし”がした」などと云うものは世の中に一つもない。それだのに「“わたし”がした」と云うのは大の偽善者であるから、かえって救われないのである。「悪人成仏」の悪人は、「わたしはこんな悪をしたから救われる」と云うような「罪悪誇り」の人間ではないのである。だから「他力をたのみたてまつる悪人」と親鸞聖人は注釈し給うたのである。「他力をたのみ奉る」とは、「自分には何の力もないのだ。すべての『善』は神力、仏力によるのである」と自己を謙る人を言うのである。自分に何らかの善が行じられるならば、仏力が廻向(えこう)して自分にやらせて頂くのであると知るが故に「自力修善」を誇ることがないのである。



『光明道中記』256項

                         -─- 、
                          /      i
                         /   ,.ッ;:"  ト、
                      `ト  ラ'"   -、} ヽ
                      l= / =-  レ /   }、
                       { /      ノ  /  }、
                           トt _-、   /!   /  / }\
                      ノi ヽ     /      / /i  ヽ
                   ,. '´  ! `r'"´ノ     i  / |   i
                    /  |    }  ヽ/     / / /|    l
                     /   l.   i   /    / / ./ .l |/   l
                  /     l   ヽ /   / .//  !ノ    l
                  / i    !___ /ミ)'´  //    | __,ノ  l
                  /   `>'´ (/,ノ ′ //   , '´       l
                     //     | r   r─ 、 __/<´ ̄`ヽ.    l
                  / ./    | |  {    }}  ヽ ヽ、   \   |
                    / ./     l l   `ー ´「 |   l    !       |
             //     / /      l. |     !   ヽ      |
親鸞上人

97「訊け」管理人:2011/12/24(土) 16:10:39 ID:UodBcqiE
 宇宙の本体の中に在する救わずにおかない大慈悲そのものが「弥陀の誓願」
であって、それは人間の思慮を超えたるものである。すなわち「誓願不思議」
である。

 その「誓願」が吾々の“いのち”の内部に廻向(えこう)し来って「念仏
申さん」という思い立ちが起るのである。

 だから吾等が「念仏申そう」という心が起ったとき、その心の中に「救わ
ずにおかない弥陀の誓願」が既に宿っているのであるから、既に「摂取不捨」
(すくわずにおかぬ)なのである。

『光明道中記』249項



                         -─- 、
                          /      i
                         /   ,.ッ;:"  ト、
                      `ト  ラ'"   -、} ヽ
                      l= / =-  レ /   }、
                       { /      ノ  /  }、
                           トt _-、   /!   /  / }\
                      ノi ヽ     /      / /i  ヽ
                   ,. '´  ! `r'"´ノ     i  / |   i
                    /  |    }  ヽ/     / / /|    l
                     /   l.   i   /    / / ./ .l |/   l
                  /     l   ヽ /   / .//  !ノ    l
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                  /   `>'´ (/,ノ ′ //   , '´       l
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                    / ./     l l   `ー ´「 |   l    !       |
             //     / /      l. |     !   ヽ      |

 もう上人ってば、ホント天才。

98「訊け」管理人:2011/12/24(土) 16:14:48 ID:UodBcqiE

 念仏は人間自身のはからいによって称えるのではなく、絶対他力ー時空を
超越せる絶対神大実在の、救わずにおかない大慈悲力が廻向(えこう)し来
って、念仏となえる行となってあらわれるのであるから、念仏の進むところ
天の霊、地の霊もこれを敬いたまいて平伏し、魔界外道、仏界以外のものも、
何ら念仏の前には障りとなる訳のものではない。

『光明道中記』262項



 ・・・クリスマスイヴに親鸞を読んでいる、「訊け」管理人です。キリスト
も親鸞も天才でしょうけども、あらためて思うのが雅春先生の天才性です。
ホントに雅春先生って、何者なのでありましょうか。

 すごい人だよなあ、ホント。

99ひか:2011/12/31(土) 20:25:36 ID:0szYu2bo
  ひかりの言葉

  WORDS OF LIGHT

上段より1987年〜1998年
  までの31日付け日訓


 要らぬものを掴むな
要るものが入って来ない

Do not grasp the unnecessary.
The essentials
will not come to you.


 八方塞がりの時も
神様の方向が開いている

Even when every path is blocked
the way to God is open.


仕事を通して神の愛を伝えよ

Convey God's Love through
your work.


その人の光明面のみを
観るのが「愛」である

To see only the bright side
of a person is love.


正しく信じる者は癒される

Those who believe with proper
faith will be healed.


他(た)の人の幸福を見て喜ぶ心が
       本心である

Our real mind sees and rejoices
in the happiness of others.


最後まで堪えしのぶ者は勝つ

Those who endure
to the end will succeed.


人は「赦し」の大きさによって
    計られる

A person is judged by the
greatness of his forgiveness.


「今」の時間を生きるのが
 人生最大の悦びである

To live the present moment is the
greatest joy of human life.


素直に信じ、行ずる者が、
最後の勝利者となる

Those who are honest and
obedient in their faith and
practice will succeed in the end.


我れは神の子、神の無限の
  富の後継者なり

I am a child of God―the heir
to God's infinite wealth.


 愛の前には敵がない、
すべてのものが味方となる

In the face of love there is
no adversary.
Everyone becomes a friend.

100みそ:2011/12/31(土) 20:34:42 ID:0szYu2bo
      禊祓祝詞講義

どの宗教でも本来その教の来る本源たるものに達したならば、同じであって、一神一切神、一佛一切佛となるのであります。さて、序文はこれくらいにいたしまして「禊祓之祝詞」の本文に入ります。短いものですから全文一寸読んでみます。

「高天原に神留坐す。神魯伎神魯美の詔を以ちて、皇御祖神伊邪那岐命筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に身禊祓ひ給ふ時に生坐る祓戸の大神等、諸々の枉事罪穢を祓給へ清給へと申す事の由を、天津神国津神八百萬の神等共に天斑駒の耳振立てて聞召と畏み畏みを白す。」
「たかあまはらにかみつまります。かむろぎかむろみのみことをもちて、すめみおやかむいざなぎのみことつくしのひむかのたちはなのをどのあはきはらにみそぎはらひたまふときになりませるはらひどのおほかみたち、もろもろのまがことつみけがれをはらひたまへきよめたまへとまをすことのよしを、あまつかみくにつかみやほよろづのかみたちともにあめのふちこまのみみふりたててきこしめせとかしこみかしこみをもうす。」
  〜    〜   〜
それで「天津神国津神八百萬の神等共に天斑駒の耳振立てて聞召せ」と、私たちは、時間の経過をとおして、どうぞ徐々に、あまり激しい自壊作用なしに、此の世界を光明化して、浄化して下さいませ、と斯う云う風に祈り申し上げる言葉が禊祓の祝詞なのであります。これで禊祓の祝詞は終わっているのであります。
     禊祓祝詞講義 主に祝詞本文と最終文 『實相と現象』                              


     世界平和の根本となるもの

世界の平和は権勢欲や、自分の属する団体の勢力拡大欲によっては、得られるものではないのである。世界のどこかで争いが起こり、戦争が起こっているところを注意して見よ。そこには権勢欲と勢力拡大欲によってその目的を達するためには相手を傷つけることを何とも思わぬ残忍刻薄の人間によって指導されていることを見るのである。そのような自己拡大欲によっては決して平和は来たらないのである。平和は、真理によって魂が輝かされ、そのような争いの愚かさを知り、すべての人間を、唯一の神より出でたる兄弟姉妹であると知り、一人の人でも傷つくことを、自己みずからが傷つくごとく悲しく思う人々の殖(ふ)えることによってのみ起こるのである。どの山からも、どの国からも、どの寺院からも、どの協会からも、どの人種からも、どの民族からも、"唯一つの神"のみを拝し"唯一つの神"のほかに、別々の神なきことを知ることによってのみ得られるのである。

釈尊は「山川草木国土悉皆成仏・有情非常同時成道」と悟られたが、山も川も草も木も国土も、情(こころ)在るものも情(こころ)なきものも、その奥に同時に(今此処に)宇宙本源の神やどると悟られたのが釈尊である。山や川や草木にすら、同時に神やどるのであるのに、すべての宗教の講堂に、教会に、寺院に、唯一の普遍的親様なる神が宿らないでいる筈はないではないか。
     人生の秘訣365章 <完>


     新年を迎える心の準備

あなたの心のうちに新年を迎える準備が出来ていますか。今年もよく三百六十五日を無事に過ごすことが出来ましたのは神様、あなたのお陰でございます。神に感謝致しましょう。御先祖様に感謝致しましょう。父母(ふぼ)に感謝致しましょう、夫又は妻に感謝致しましょう。家庭の、又は勤め先の、協力者すべてに感謝致しましょう。みんなを心の中に思い浮かべて、しみじみと心の中で御礼を申しましょう。今年一年の間に過って何か不快な思いをさせたことがあったかも知れませんが、どうぞそれをお赦し下さいと念じましょう。この感謝と懺悔とによって、今年一年じゅうにあったすべての思いと行いとが清められるのです。そして来年になすべき善き事のプログラムを定めましょう。では皆さん、ご機嫌よう。
     幸福を招く365章 <完>

101ももんが:2011/12/31(土) 21:39:05 ID:XXCuaQns
>>100以前、私が、投稿しました。以上。

602:ももんが
11/12/03(土) 23:57:59 ID:XXCuaQns
皆様、今晩。今日も、1日、お疲れ様でした。明日もまた、良い日がくるように、頑張って、生きましょ!合掌、拝。


〜『禊祓之祝詞』〜

『高天原に神留坐す。神魯伎神魯美の詔を以ちて、皇御祖神伊邪那岐命 筑紫の日向の橘 の小戸の阿波岐原に身禊祓ひ給ふ時に生坐る祓戸の大神等、諸々の枉事罪穢を祓給へ清給へと申す事の由を、天津神国津神八百万の神等共に天の渊馬の耳振り立て聞き召と畏み畏みを白す。』


神道で、身を浄める場合に、唱える、『天津祝詞』です。『実相と現象』の196ページに、出てます。

昔は、神想観の前に、この、天津祝詞を唱えて、身を浄めてから、神想観に、入ったようです。

私は、最近、これを唱えて、心と身を浄めてから、聖経や神想観してます。

凄く、心が楽になる感じです。

では、皆様、おやすみなさい。また、明日も、嬉しいく、楽しく、頑張って、生きましょ!ありがとうございます。合掌、

102だい:2012/01/01(日) 20:46:49 ID:wVWWfOv2

第一篇 実相界に超入し
      霊の洗礼による"新生"を得よ

   新たに生まれるための祈り

われ今、合掌、天地四方を礼拝して、天地一切のものに感謝し奉る。古き天と地と四方一切のものは過ぎ去り、役目を果たして終わりぬ。ここにわれ住吉大神(すみよしのおおかみ)に導かれて竜宮海に入り、竜宮城の"神癒の社"に入り、大神の御前に坐して大神を礼拝し奉る。大神、右の手をあげてその掌(てのひら)もてわが全身を撫下(ぶか)し給いて霊をもって我を浄め給う。古き現象界の人類意識の妄想ことごとく浄められて、わが実相完全のすがたここに顕れたり。今より後、一切の悩みあることなく、苦しみあることなく、病いあることなく、老衰あることなく、貧しさあることなく、悲しみあることなく、憂いあることなし。久遠不滅の生命(いのち)われに宿れり、常住健康、歓喜無限の生命(いのち)なり。われ住吉大神の御禊(みそぎ)を受けて霊によって潔(きよ)められ、霊によって復活(よみがえり)のい!の!ち!を受けしことを、大神に感謝し奉る。今後、われ現象界に帰還したる後も、永遠にこの自覚をもちて生活せんことを大神に誓い奉る。ありがとうございます。
   『如意自在の生活365章』


"春" 積極的生活法
1.万物は一新す

   あなたは幸福の磁石である

あなたは今、幸福の年を迎へたのである。過去に如何なることがあったにせよ、それは除夜の鐘の音(ね)と共に消え去ったのである。新しき天と地とが黎明の帳(とばり)をあげて、新しき日光があなたの家に射し込んだのである。闇は消え、光の世界が始まったのである。万物が悉く新たになったのである。あなたの心が新たになったのである。見る心が一変して天地一新したのである。過去は、過去のあなたの心が描いたものや、潜在意識に蓄積していた想念が形にあらはれていたのである。これからは、あなたが今後あなたの心に想念するところのものがあらはれて来るのである。

あなたは今後、幸福のみを想ふのである。世界人類の幸福を、日本国民全体の幸福を、あなたの属する団体の幸福を、あなたの家庭の幸福を、そしてあなた自身の幸福を想念するのである。想念するものが集まって来るのである。類を以って集まるのである。あなたが今後幸福ばかりを想念すれば、あなたは幸福ばかりを引き寄せる磁石の如くなるのである。
   『人生の秘訣365章』


第一篇 "神"を生活の中に生きるには

   天地の恩

吾々の生活に、どんなに多く、大自然の恵みを受けているか、衆生の御恩を受けているかを顧みよ。あまりにも私たちは受けている恩恵に対して鈍感であり過ぎたのである。それらを当然のこと、当り前の事として感謝することを忘れていたのである。あまりにも自分が受けていた恩恵に対して気がつかな過ぎたのである。

何でも気がつかない時は、それが存在しても「無い」のと同じことである。自分のポケットに百万円の小切手があっても気がつかなかったら、その小切手は無いのと同じことである。では大自然の恵みも、衆生の恩も、国家の恩も気がつかなかったら、それは無いのと同じことである。「ある」ものに気がつかないのは盲人と同じことである。私たちは盲人になってはならないのである。すべての恩恵をみとめたとき、私たちはその恩恵の所有者になるのである。
   『生活の智慧365章』

103われ:2012/01/01(日) 20:49:39 ID:wVWWfOv2

吾れを伸ばすものは、
絶えず與へてゐると云う感じ、
絶えず人から喜ばれてゐると云う感じ、
與へる歓びは自己擴大の感じ、
自己の愛が次第に擴がる感じ、
この感じのうちに生命は伸びて行く。
  
  『生長の家』誌創刊号



  毎日の朝を"新生の日"とせよ

"今"が生まれ変わりの時なのである。毎日毎日があなたの人生の元旦でなければならないのである。朝目が覚めたら、その時を一年の元旦のように思うがよろしい。そしてすべての人々に「お目出とう。好い年が明けましてありがとうございます」と挨拶し得るほどに"新生の気分"になっていなければならないのである。「自覚の生まれ変わり」である。

  日訓(1991年1日)
  本文 新たに霊的に生まれるための祈り『聖経 続真理の吟唱』 



朝に 東方に面して
合掌礼拝して
霊々
妙々
円満の大生命を観ずれば
心身清浄
微妙の大生命は
雰囲気となって
我が身 我が心をひたす。
吾れとその雰囲気と
一体にして界なし
ああ 讃うべきかな生命
われが生命である歓びよ。
生かされている!
生かされている!
生かされている!
生かされている此の歓びを
心にみたして眼をひらけば
眼前に
朝の太陽は微妙の光をはなち
庭の木の若葉に生命が照り輝く。
若葉の生命の中を
別にまた一つの生命が躍っている。
雀が金色(こんじき)に輝いて枝から枝へ飛びうつる。
空気が躍っている。
内も外も
燦然たる生命の大光明世界だった。

 朝讃歌(ちょうさんか)『ひかりの語録』

104「訊け」管理人:2012/01/03(火) 22:34:09 ID:UodBcqiE
http://blog.livedoor.jp/con5151/archives/65619533.html#more

光への道


もっともっと気高く生きよう。
最も気高いことのほか何事も考えまい。
最も気高いことのほか何事も為すまい。

他(ひと)を助けよう、
他のためになろう。
他に愛を注ごう。
愛を注げば
愛が自分に還(かえ)って来る。

悪い人と云うのは本来一人もいない。
地獄というものも決してない。
悪いことが其処に語られるとき
そこが地獄であり、
それを語る人が悪い人である。
汝の世界に天国浄土を実現せんと欲するならば
決して人の悪を語るな、
決して人の悪を思うな、
天国を目指しつつ人の悪を語るものは
必ずや穽(おとしあな)に陥って地獄へと墜落せん。

105「訊け」管理人:2012/01/03(火) 22:35:55 ID:UodBcqiE

 今日から誌友の家々を
 「生長の家々」と呼ぼう。


 わたしは信ずるのだー
 「生長の家々」はさかえるぞと。

 一ぺんに大木ならないからとて
 あなたの家(うち)はもう生長する家(いえ)に定められているのだ。

 この仕事は、
 人間の家々を皆な「生長の家々」にする為に
 神がはじめた仕事なのだ。


 わたしは「生長の家」の教祖ではない。
 「生長の家々」の一軒だ。

 わたしの内にいます神が、
 書けと云うとおりに
 私は書いているだけだ。

 私は神が書かせた通りに
 行なうと努力しているだけなんだ。

 私は神を信じて
 ただ結果を待っているだけなんだ。

 「生長の家々」のことを思うと
 わたしは嬉しさで一ぱいだ。

106「訊け」管理人:2012/01/05(木) 08:49:53 ID:D0Kb5yw.
 『私は神々しい、私は神々しい』と云うことを常に心に唱える、常に心に
思い浮かべる、そうすると悪いことは出来なくなるのです。大抵悪いことを
やると云うのは吾々が神々しいと云う自覚を失ってしまっているときであり
ます。

 この神々しさの自覚こそ、ほんとうの日本精神であります。軍国精神を、日
本精神だなどと間違えて宣伝したものですから大変な間違いを犯したのであり
ますが、日本精神の中核は、自分自身に神々しいと云う自覚を持っていること
であります。だから昔の日本人は総て自分自身のことを『命』(みこと)と呼
んでいるのであります。


『愛と光との生活』108項

107a hope:2012/01/08(日) 14:32:34 ID:kcv2QXTk

 デーリーは彼ら囚人達に直接話しかけてよくしてやろうという考えを放棄した。
彼ら囚人はデーリー自身の自己改善のために――「あの見苦しく見える極悪者の中にも善にして尊い神性がある」
ということを静かに拝みだす自己の力を養成するための自己改善のために――彼らが自分の敵として自分の目の前に
あらわれているのだと考えるようになったのである。
かくて、デーリーの囚人達を善導したいというような高慢な心は彼の生活を導く主導力としては消えてしまった。
かくて自分自身の魂をみがくために与えられた手段として、其処にあらわれて下さっているのだと受けとることが、
デーリーの生活活動を導くことになったのである。

 かくして彼はすべての敵の姿を自分の心の画廊に陳列して、それに心のイメージで修正の補筆を加えることにしたのである。
即ち彼らと自分との関係を愛の関係において、真実なる、高貴な友情の関係に於いて、現にあると心に描き、
その状態に於ける姿が彼の真の姿であると、観ようとしたのである。これは『生長の家』でいうところの『実相を観よ』というのと同じである。
デーリーはそれを「この実践は人生に於ける『高き悦楽のゲーム』(highly fascinating game)となった」と書いている。
それ以来、驚異すべき事実が続々として起こった。今までデーリーを避けていた囚人が突然予期もしないのに親しみ出して来た。
そんな奇蹟がデーリーの展けかかっていた人格に鉄の信念を加えるようになったのである。

 愛は欠点を見てそれを矯正することではなく、そのいたい傷に触れることではなかったのである。
愛はその人の傷をやさしく包んでその人の欠点の奥にある円満完全なる実相を、じっと愛の心で眺めやり、
これが彼の実相であるとそれを心でいたわり育ててやることであったのである。
デーリーはかかる愛の実践が、ハッキリと敵の陣営にあった人々にこのような奇蹟を演ずる事実を見た。
そして彼らを隔てていた障壁が霞のように消えてしまい、新しい、より高貴なる基礎の上に昔あった友情が再建せられる事実を見た。
それは彼にとって最も神聖な、幽玄な、彼が今まで発見し得ずにいた愛の神秘力についての最も美しい事実であったのである。
それは一々の場合において、一々の問題に周到に意識的に応用して実践し得る愛の奇蹟であった。
彼は実験と経験とによって愛の焔が、どんな復活しがたい魂にも到達し、その石のような堅い殻をも溶融し、
到底見込みがないと捨てられていた極悪非道のものをも転回せしめる不思議な力があることを知ったのである。
ここにこそどんな強靭なキリストの敵、人類の敵にさえも神の与えたまう恩寵があるのである。
かかる神の愛の力が彼にも与えられて、彼を通して人々に頒ち得るとは何という悦楽であろうとデーリーは知ったのである。

谷口雅春先生著『愛は刑よりも強し』より

108うのはな:2012/01/10(火) 19:23:05 ID:El6gIMAw
天皇制の理念に就いて 『白鳩』誌昭和二十一年三月号掲載の予定なるも検閲にて全文削除さる

 凡そ形あるものは、内在の『形なき形』−理念的存在の具象化せるものである。
日本が皇統連綿二千六百余年の光栄ある歴史を存続せしめ得たのは、唯偶然の所産ではないのであって、
日本民族に内在する民族理念が終始一貫『中心』をもとめ、その『中心』に帰趨し還帰し復元しそこより
再び出発して其処に復るところの生命の中心本体を礼拝帰一せずにはおれないところの其の本然性の然らしむ
るところであるのである。

 斯く、中心者をもとめ、それに礼拝帰一せんとの本然性を、単なる封建性であると考えることは間違いである。
事物にはすべて中心がある。中心者の前には容易にひれ伏す素直な心情こそ、日本人に与えられる純粋なる幼な児の如き、
『神への帰一の心』−宗教心の発露であって、日本人の忠誠心は此の心の現われの一つであるのである。
そしてその生命の必然的礼拝の対象者として吾々の心の中に内在する理念的実在が『天皇なるもの』であらせられるのである。

 歴代の天皇はその理念の表現として具体的天皇であらせられた。そしてその具体的天皇は常に必ずしも理想的天皇の状態を
あらわし給うとは限らないのであって、その時代の国民の精神状態が反映して理念の完全なる天皇にも色々の影が反映したのである。
かくて古事記にも必ずしも完璧なる天皇の御状態のみが書いてあるのではない。
武烈天皇の如き天皇も歴代のうちには描かれているのである。
具体的現象の天皇が如何にあろうとも本当の天皇は理念の世界に理念的完全の天皇として日本民族の心の中にあるのである。

 永遠に完全でまします天皇 吾々の心の中には斯くの如き理念が存在して、それにすべての細胞的存在なる臣民の理念が奉仕しているのである
斯くの如き、有機的生命的世界観 日本民族に於ける中心への還帰帰一の心、忠誠心があるのが欠点なのではない。
この心を利用して自己の幕府的存在の野心を満足せしめようとした重臣的、又は軍閥的、将軍的存在が理念の完璧なる天皇の真象の顕現を隠覆して、その
聖明を蒙まし奉ったのである。それは月蝕に於ける表面の暗黒的存在が、太陽そのものにあるのではなくして、
地球みずからの影であるが如くである。

かくて、月蝕について太陽それ自体を犯罪者として非難する如きは愚かなることであって。地球みずからが
懺悔し反省しなければならないと同じように、国家の重臣、軍閥、将軍家的存在が、天皇の『久遠神聖の理念』の
顕現を曇らし奉ったことについて真に深き懺悔を必要とするのである。

『大和の国 日本』 谷口雅春 先生著 P89−90

109a hope:2012/01/10(火) 21:44:48 ID:kcv2QXTk

○どんな苦労があっても、因縁によって世話させて頂いていると思えばありがたいばかりの一筋である。
人間は他のために苦労させられているのではなく、自分の魂を高め上げ、
清め上げるための修行として苦労を恵まれているのである。
学校は先生のために勉強するのではなく、生徒自身の向上のために勉強するのである。
人生は魂の勉強する学校である。
苦労は教科書であり、苦労させてくださる人は皆自分の先生である。
われわれは苦労させてくださる人に感謝して拝まなければならない。
これが解ったら世の中にありがたくないものは一つもないのである。
これが解ったら人生は幸福なばかりである。
豚なら幸福とは快楽のことだと思っているかも知れぬが、本当の人間は苦労の中に喜べるものである。

○病気を口実にしているようでは病気は治らぬ。

○感覚の歓びを追うても飽くることを知らないのは、感覚の歓びは本来ない喜びであるからである。
本来ない歓びをいくら積み上げていっても、けっきょくわれわれは空虚の歓びを感ずるのであるから、
渇欲飽くることを知らずに追い求めることになるのである。

○因縁の理がわかっても、まだ因縁にとらわれている者は縁覚であって正覚(ほとけ)ではない。
正覚(ほとけ)は因縁の理を説きながら「本来因縁なし」の実相を悟れるものである。
縁覚は因縁の理を悟り、因縁を追うてなお因縁に墜落する。
(「智慧の言葉」より)

「生命の實相」第8巻 観行篇 p15〜 より

110ももんが:2012/01/11(水) 13:53:46 ID:XXCuaQns
〜『白隠禅師和讃』〜


☆衆生本来仏なり

水と氷の如くにて

水を離れて氷なく

衆生の外に仏なし

衆生近きを知らずして

遠く求むるはかなさよ

譬えば水の中に居て

渇を叫ぶが如くなり

長者の家の子となりて

貧里に迷うに異ならず

六趣輪廻の因縁は

己が愚痴の闇路なり

闇路に闇路を踏そえて

いつか生死を離るべき

夫れ摩訶衍の禅定は

称歎するに余りあり

布施や持戒の諸波原密

念仏懺悔修行等

其品多き諸善行

皆この中に帰するなり

一座の功をなす人も

積みし無量の罪ほろぶ

悪趣いずくに有りぬべき

浄土即ち遠からず

辱なくも此の法を

一たび耳にふるる時

賛嘆随喜する人は

福を得ること限りなし

いわんや自ら回向して

直に自性を證すれば

自性即ち無性にて

すでに戯論を離れたり

因果一如の門ひらけ

無二無三の道直し

無相の相を相として

行くも帰るも余所ならず

無念の念として

うたうも舞うも法の声

三昧無礙の空ひろく

四智円明の月さえん

此の時何をか求むべき

寂滅現前する故に

当処即ち蓮華国

此の身即ち仏なり


※臨済宗では、これは、良く唱和する、聖典です。

『神 真理を告げ給う』で、神様も、この聖典を、紹介してます。

この、聖典の心を体得出来れば、見性であり、神の子を体得人でしょ。

111うのはな:2012/01/11(水) 20:01:44 ID:El6gIMAw

  強力な組織をつくろう

 しかし吾々は智慧なくして真理を高くかかげることは出来ない。
吾々の行動は決して無秩序であったり、ひとりよがりであったりしてはならないのである。
こころみに共産党大会に行って、いくら神の福音をといても彼らは耳を貸さないであろう。
それは何故か、それは智慧ある行為ではなく、勝手気儘な説法であるから、その説法が生きて来ないのである。
それと同じように、吾々の光明化運動がテンデバラバラであったならば折角の光も暗黒に吸収されてしまって何の役にも
立たなくなる。それは何故かといえば、「数の威力」ということを知らないからである。

一人よりも二人、二人よりも三人、三人よりも十人が、より強力である。
したがって今あるわれわれの会合を数多く強力にすることに、どうして冷淡でいられるだろうか。個人の信仰は、冷たい灰の中に
抛り出された炭火のように、やがて立ち消えてしまう。しかし組織立って組み立てられた炭火は、ますます強くもえさかるのである。

 そのように、われわれは先ずわれわれの誌友会の数をふやし、強力にし、組織化し、魅力的にし、圧倒的にして行こう。
そうすれば、そこへ人々をひきつけることが出来るのである。私はこの最も根本的な問題をとくにみなさんに考えてもらいたいと思うのである。
立教の当初からとられているこの方法に、強力な愛の筋金をいれることこそ重大である。
愛と団結の力が今ほど要請されているときはないのである。五千万の人間が団結すれば、この国をどのような楽園にでもつくりあげることが出来る。
しかし十万やニ十万では、残念ながらそれが出来ないのである、、、。


 光明化運動要項 三十三年度版四三〜四九頁

112うのはな:2012/01/11(水) 20:51:14 ID:El6gIMAw

二月二十一日 躓かざる日  光明道中記 谷口雅春 先生著

 他(ひと)が怒ったら、ことの善悪にかかわらず相手の心をかき乱して済まなかったと思え。
 生命の實相第十一巻

 真理は時処と人とによって相が変る。一つの水でも蒸気にも氷にもなるから役に立つ。
『生命の實相』は両方面から書いてある。腹を立てるなと書いてあるところと、自然に立つ腹なら腹を立てても好いと
書いてあるところとある。薬を廃めよと書いてあるところもあれば、薬も使ったって好いじゃないかと書いてあり、
薬の服み方まで書いてあるところがある。だからそれを修養の糧にしようとする人には修行の糧になるが、
自己弁解の資料にしようとする人には自己弁解の絶好資料ともなる。

また相手を非難攻撃する資料にしようと思えば、どちらからでも攻め得るようにもなっている。
それに躓かない者は幸いである。
自分が長上から叱られながら「腹を立てるなと書いてあるよ」と長上に反抗することも出来るであろうが、
扠また自分の方が善であると思える場合にでも、相手が腹を立てて来たら、「相手の心を掻き乱してすみませんでしたと思え」とも
書かれているのである。
人事処三相応である。凡そ吾がために躓かぬものは幸いである。

114うのはな:2012/01/12(木) 14:25:27 ID:El6gIMAw

 トキ管理人さん、
 申し訳ないですけど、改行考えないで書いたからよみにくくなりました。
 削除おねがいします。 113 上記

115うのはな:2012/01/12(木) 15:09:40 ID:El6gIMAw
 立教と光の進軍  生長の家の発祥

 悟りを開かれた先生は、その喜びを人々に伝える事こそ、自分の使命であると感じられた。
しかし当時の谷口先生には、教化のための雑誌を発行し、それを持続する資力も、雑誌を執筆
する時間的余裕もなかった。理想と現実の狭間で苦悩するなかで先生御一家は大震災以来二回目
の盗難にあわれ、衣類一切を失われたのだった。神啓が天下り、雑誌『生長の家』創刊を決意された
のはまさにその時だったのである。

  旅すれば遭ふ人毎を拝むなり 遍路の心尊くもかな

  人生は浄土に向ふ旅なれば  一歩一歩に愛を重ねん

         昭和六十年御題詠進 「旅」 谷口雅春


 『生長の家の火をかざして 永遠の谷口雅春先生』 P42

116トキ:2012/01/12(木) 17:34:42 ID:GIotOOCs
>>114

 了解しました。管理人

117ハマナス:2012/01/12(木) 23:47:40 ID:u5mC.eb2
神の子の皆さま、

ありがとうございます。ご無沙汰をしております。
この1か月の間に、色々の事が明るみに出てきました。一信徒として祈る事以外に何も出来ませんが、
教団のトップの方々と生命の實相派(?)の方々が歩み寄られて、是非雅春先生の意思を継いで頂きたいと、
切に願っております。

新春練成会に参加して、日本国と生長の家の実相顕現を祈ってきました。


一 月 十 三 日          (生命の實相第三七巻より)

 高邁な超越的立場を持する者も、時として戦うことがある。凝り固まった相対的立場

にいる者は一切包容の立場をも、一つの別の相対的立場と思いちがえて反撃してくること

があるからである。生長の家がどの宗教をもそれぞれの立場において宜しとして未だかつ

て一度も排斥したことがないのに、生長の家を新しく興った一派の宗教として反撃するも

のがあったのも同じような理由からである。しかし、今となっては生長の家のあらゆる宗

派に対する寛容な全包容的立場を理会しない者がほとんどない。どの宗派も生長の家に好

意をもっているし、生長の家がとり来たった宗教に実生活に生かすやり方をおのおのの宗

旨に取り入れない宗派はない。

 すべて宗教は生活を離れた時に概念の遊戯となる。宗教が生活を離れるのは時代を離れ

るからである。時代を離れるとき禅行も天魔の行となり、念仏も無間地獄の門となる。

禅行そのもの念仏そのものが、天魔地獄の行門ではない。時代を離れたところに禅行も念

仏も死の行となる。生かさぬものは宗教ではない。隻手の拍手よく三千大千世界に響くと

いえども、実生活を救いえない座禅もあり、死骸に念仏することのみを知って、生きた

人間には念仏どころか同業を嫉妬し、瞋恚(しんい)の炎を燃やす僧侶もあったが、今は

それがだんだんなくなったのは喜ばしい。

われわれは生きた人間にお念仏申す心にならねばならぬ。念仏とは、相手に合掌して

仏をその相手から拝み顕(あらわ)すことである。常不軽菩薩の行である。

118うのはな:2012/01/13(金) 11:33:50 ID:El6gIMAw

神そのままに完全なる人間  『真理』 第10巻 実相篇

 噴水は、水源があって其の圧力によって色々の美しい形に噴出しますが、
人間は、神と云う霊的本源があって、その“霊”なる流れの噴出でありますから、人間は
決して物質ではないのでのであって、霊的実在であります。霊的実在が人間であり、人間は
霊的実在である。その実相に於いて、人間は神の自己顕現として神そのままに完全につくられているのであります。

“つくられている”と云う語は最早当て嵌まらないのです。人間は神そのままに完全なのであります。
噴水の先端に於いては、水は水そのものの流動性を失って、霧の如く微粒子(ごく小さなブツブツ)
となって流動しないもののようにあらわれる。それと同じく、神の霊性は、その表現の先端に於いては、
多少その自由自在性を失って、固定化(かたまった形にあらわす)したように見え、“人間は物質だ”と云うように
見えますけれども、人間の本質は自由自在の“霊”なのです。

 谷口雅春 先生著

119商人:2012/01/13(金) 12:44:51 ID:TCt66b8E
戦後『昭和文学全集』を発行してたちまち出版界を席巻し、一年あまりのうちに一億円も儲けたと噂されている角川書店というのがある。その主人の角川源義氏は国学院大学出身のまだ青年と言って好い若い人である。


 終戦後の出版物飢饉状態の昭和二十三年の夏、名刺三枚を懐ろに仙台の阿部次郎氏邸を訪れたのである。
 氏は理想家であり、人格主義者であり、若い時に読んだ阿部次郎氏の論文『人格主義』にいたく感動したことがあったので、是非、終戦後の出版事業の旗あげに、この真面目な精神的な人格主義の論文を終戦後の混乱している人心を善導することに貢献したいと思って、その出版の許諾を阿部次郎氏に求めて行ったのである。

 一面識もない阿部先生であるけれども、この青年の熱と誠心とに打たれて阿部さんは出版の許諾を興えたのであった。それが角川氏の出版社としての成功の第一歩であって、自分の理想に向って敢然として進む断行の決断と勇気が、氏の後年大いに出版事業に成功する要素となっているのである。

 しかも感心なことには、氏は、その後、東北地方を襲った風水害の情報を手にすると取るものも取り敢ず、リュックサックに手に入るだけの食糧をつめて、阿部次郎氏を見舞っている。
 角川書店の後年の繁栄は實にこの角川氏の恩を忘れぬ心から来ていると言わなければならないのである。


 恩は原因を知る心である。
 本源を培うとき、その人は栄えるのである。

 しかし昭和二十四年五月頃角川書店の経営は最悪状態に陥った。
 角川文庫がサッパリ売れないで、三、四千万円の借金の支払の道に窮して二進も三進も行かなくなった。
 この時、角川氏自ら夫人と共に有楽町駅に立ってチラシを配った ー ここにも不屈不撓の強靭な商魂が見られるのであるが、氏の出版業の危機を救ったのは阿部次郎氏の『三太郎の日記』の出版であった。

 
 これは岩波書店で前から出していたが、あの東北地方の風水害のときにリュックで食糧を運んだその恩を知る青年の心に動かされて、阿部氏は岩波書店に手紙を書いて、それを角川書店で出版することの許諾を得てくれたのである。この『三太郎の日記』が、旺んに売れた。刷っても刷っても間に合わぬ位売れた。これが角川書店を立直らせた基となった。


 もし阿部次郎氏が『三太郎の日記』の出版許可を興えなかったならば、角川書店の今日はない。しかもそれが東北水害の際の食糧見舞にかけつけた恩を知る心がかくならしめたのである。

 
 角川氏は後に仙台に阿部日本文化研究所を建てて再び恩に報いるためにこれを阿部次郎氏に贈ったのである。
 あの成功した『昭和文学全集』は改造社の山本實彦氏が嘗て発行した『現代日本文学全集』の形や組方を模倣して一冊の中に大量を収録することにして出来たというので、その恩義に報いるため、『昭和文学全集』が出来上ると故山本實彦氏の霊前にその第一冊を捧げて感謝の意を表したというのも有名な話である。

 
 角川氏の今日の成功あるは全く氏の知恩の心からである。角川氏は又親孝行で宅には何百万円もする立派な仏壇があり、その奥には父の遺品天秤棒が祀ってある。


 孝は百行の基であるのは今も昔も変りはない。

 『若人のための78章』 谷口雅春先生著 より

私もがんばろう!!

120うのはな:2012/01/13(金) 14:32:52 ID:El6gIMAw
 生長の家社会事業団の設立 『生長の家』誌昭和二十年十一月号

 爰に(ここに)吾等は時局に鑑み、生長の家社会事業団を設立し(財団法人の手続準備中)
日本未曾有の難局を乗切り全国十万の誌友が真理への開眼の神恵に応えんが為、大死一番、一身を捧げ、
一切の利害を擲って成就すべき具体的転法輪たらしめんとす。

神恵感謝の同志は諸費を節して是非此の事業団に参加協力せられんことを望む。
本部に於ては戦時は国策協賛会を設け、総裁直授の光明思想講習会にて収受する
講習料を全部国債購入に当てたるも、戦後はその会計を引きつぎて社会事業団の基金経費に転換す。

121うのはな:2012/01/16(月) 10:37:44 ID:El6gIMAw
あたたかき御手のうちに  谷口恵美子

「お父様、ありがとうございました・羽化登仙なさったのですね。」
私と上野さんは、父のベットの両側にひざまずいたまま、あたたかく柔らかい父の手を、
両方からそれぞれの合掌の手の中に囲むように、そっと持ってうつむいて泣きました。
「先生が....」「え?」と上野さんの視線を追うと、閉じた父の左の目から、ひとしずくの
涙がスーッと耳の方につたわりました。
「きっと皆様とのお別れの涙なのね」こんなときにも、私は自分の父でありながらも、多くの方達の
大いなる父であることが忘れられずに心の中でつぶやきました。
「きれいなお顔になさって・・・」と私は父のやわらかい髪を撫でながら、その清らかな美しさにみとれました。
九十一歳なんて、とても信じられません。
「上野さん、ありがとう、ほんとに有難う・・・」
夜の間、一緒にいてくれた雅宣が、父の安らかな呼吸と血圧の安定をみて、公邸に戻るといって出てから十五分くらいの間の出来事でした。

 電話を掛ける暇もないほどでした。すぐ来るという母には、間もなく帰りますから、そちらの準備を、と頼みました。
夫は、盛岡から昨夜帰り、長崎へ向おうとしているところでした。
 公邸に向った雅宣は途中から戻り、貴康たちも駆けつけて、お祖父様とお別れをしました。
「おしゃれなお祖父様でしたから.....」と、おひげやお爪を、それぞれの想いを込めて、きれいに整えてあげました。
「あんなに沢山の原稿を書かれたのに、ペンだこもできていないんだなあ....」と、どこにも万年筆を持ったあともない、やわらかい指を
雅宣は感心して撫でていました。
 父と共に公邸に帰り着きますと、母は、二日前に偶然に贈られた白羽二重を、昨日一日で縫ってもらったという話をして、父に着せるのに
間に合ったことを不思議がっていました。

 今回、長崎を訪れた私は、最後の十一日間を父と共に過しました。
食事をほとんど召上がらないと聞いて、東京を発って長崎に着いたとき、特に変った様子もなく、父はベットにいました。
食事の時間になると、いつものように椅子に腰かけ、食前の祈りをする父でした。
 けれども箸を取らないで、ただ腰かけたまま、私たちがおしゃべりしながら頂くのを優しい眼で見ていました。
父はふと私を見て尋ねました。「恵美子さんは、どうして此処に来る気になったのですか」
「お父様が、あまり召上らないと聞いて、ちょっと来てみました」
「あなたが来たら、食べると思いましたか」私は当惑しながらも、以前に一度そのようなことがあったので、
「ハイ」と答えました。
父はそれに対しては何も言わないで、召上るものをおすすめしても、わずかに微笑みをたたえた顔を横に静かにうごかし、
端然と腰かけたままでした。

122うのはな:2012/01/16(月) 10:49:55 ID:El6gIMAw
121 つづき

 次の日、貴康が、何かおいしそうなものなら召上るかもしれないと、海に出て、
きすを釣って、心をこめて糸作りにして持ってきました。
「貴康がいま作った新しいおいしいきすですよ」
父は、青じその上に、つやのよい糸作りが美しく盛りつけられているのに目をやりましたが、
何事も起りませんでした。縁側の方から様子を見ていた貴康は、目をおとして姿を消しました。
お粥を炊いて出しますと、「僕は病人ではありませんから御飯でよろしい」
御飯に替えても、やはり手をつけられず、まるで神様にお供えして下げているような感じがつづきました。
そして又ベットにもどります。もういつものように大好きなお風呂に入るともいわず、テレビもつけないで眠っている
時間が長くなりました。

123うのはな:2012/01/16(月) 12:20:47 ID:El6gIMAw
122 つづき

 ベットのそばにゆき顔を近づけますと、両手を伸ばし、あたたかい手で私の顔を挟んで、
「あんたも、やせたね」といわれる。そっと胃のあたりに手を当てますと、父は私の手を
胸の方に移動させて、私の手の上に自分の手をかさねたまま眠ってしまいました。
しばらくして母が入ってきて、父が細く目を開けると、大きな声で私のことを父に聞きました。
「お父様、この人誰だか知っていますか」
すると父は、ふざけたような笑いをふくんだ声で答えるのです。
「天の使いです。天の使、来たりて歌い給う」
又ある時は、そばの椅子に腰かけている私を、ふと目をさました父がチラリと見て、
「恵美子さんが元気そうでうれしい」と寝言のように言って又眠ってしまわれたこともありました。
食事をしなくてもお腹もすかず、父は淡々とした表情の中で、自分にいま何が起りつつあるかをみつめて
いられるようでした。上野さんが一人でお傍にいるとき、父は四月の末頃に書いておいた『生長の家』誌の
「碧巖録」の終講の辞という永い文章を読み返し、「日本教文社か、その関係の人に渡して下さい」
と渡されたと聞いて、その時読ませていただいた。それには皆様へのお別れの御挨拶と、次の境涯で再会できる
ということなどが書いてありました。

 主治医のすすめで点滴を受けられることになったが、食事は一口もとられず、朝の牛乳だけは半分ほど召上っていた
六日目、飲むものもいらない風になりました。
背中を撫でてあげると、寝返りを打ちながら、「もう、お別れかもしれないね」と、やさしい声で、まるで人事のように言われるのです。
 私はその夜、眠れないまま思いました。昆虫はさなぎになる前に、青葉を食べるだけ食べると、ある時期に何も食べなくなってしまう。
そして、さなぎになり、さなぎが蝶になって飛び立とうと、静かに、静かに、自然に自然に羽化するそのとき、決して邪魔をしてはならない。
 私は揚羽蝶が、静かに時間をかけて羽化するのを見たことがある。本当は誰にも見てほしくない。
それはとても神秘な時間に思えました。この世界が神秘な世界であることを忘れてはならない。

 無理に羽化させまいとしたとき、蝶はどうなるであろうか。
やがて、蝶は見事な美しい羽根をのばして、自由な青空に飛び立ってゆきました。
 少しでもよくなられたら、食べられるようになられたら、という人々の願いのままに入院という
ことになったけれども、父は羽化の過程を進めつづけられた。
『甘露の法雨』には次のごとく書かれている。

 汝ら明かに知れ、繭は蚕に非ず、
 然らば肉体は人間に非ずして、人間の繭に過ぎざるなり。
 時来たらば蚕が繭を食い破って羽化登仙するが如く、
 人間もまた肉体の繭を食い破って霊界に昇天せん。
 汝ら決して肉体の死滅をもって人間の死となす勿れ。
 人間は生命なるが故に 常に死を知らず。

 「ほんとうに、ありがとうございました......」
あたたかき御手のうちに、どれだけ多くの人たちが救われたか知れない。
その方たちの想いも込めて、私は合掌し感謝を捧げたのでした。


『生長の火をかざして 永遠の谷口雅春先生』 谷口恵美子 先生

124志恩:2012/01/16(月) 18:01:56 ID:.QY5jUA6
うのはなさま

おだやかなおだやかな神聖な雰囲気のなかで、恵美子先生のお言葉をお借りすれば
雅春先生が「羽化登仙される」間際のご様子を、目にみえるように書かれた
「あたたかき御手のうちに」という題の恵美子先生のご文章を書き込んでくださって、
誠にありがとうございました。胸がいっぱいになり,涙がこぼれました。

最後の最後に雅春先生が「碧巌録」をしたためられたことも、ここに書かれてますね。
その「碧巌録」の終講の辞には、皆様へのお別れのご挨拶と、次の境涯で
再会できるということなども書かれてあったというご紹介もあり、とても
有り難い気持ちになりました。
私も、次の境涯で、また、雅春先生のおそばに、馳せ参じるつもりでおります。

125123:2012/01/16(月) 23:19:22 ID:El6gIMAw

123 訂正  
     永い文章 誤  長い文章 正

126「訊け」管理人:2012/01/17(火) 11:18:01 ID:.rhQDbF6

>うのはなさん

 うん、素晴らしい文章で感動しました。うん・・雅春先生はそのようにして
羽化登仙あそばされたのか。雅宣総裁は手にペンだこもなかったと気づかれた
か。そして、貴康先生はキスを釣ってこられたか、ああ・・いい話です。

>教頭先生

『碧巖録解釈』ですが、ますます読みたくなりました。わたしは未読の同書
です。復刊してくれませんかね?日本教文社さま、ぜひお願いします。

127うのはな:2012/01/17(火) 16:58:33 ID:El6gIMAw

 「百万人の児童を救ふ運動を起せ」「日本再建の道を拓くもの」

 昭和二十七年、日本は講和条約と日米安保条約の発効によって独立は回復したが、
政治状況は対立と混乱に覆われていた。こうした中、先生は『生長の家』八月号に
「日本再建の道を拓くもの」と題する論文を発表、日本のあるべき姿を示された。

また避妊と堕胎の公認は性道徳を頽廃せしめると指摘され、『白鳩』七月号の巻頭言
に「百万人の児童を救ふ運動を起せ」を発表。
これは優生保護法の改正運動を提唱された最初である。

『生長の家の火をかざして』P52 編集・宗教法人 生長の家

128うのはな:2012/01/18(水) 13:39:14 ID:El6gIMAw
  戦時下の人類光明化運動

 昭和十六年に入ると国際情勢は緊迫の度を増し、ついに十二月八日、日本は米、英との
戦争状態に入り大東亜戦争に突入した。
 谷口先生は最初大東亜戦争を“価値実現のための戦争”と捉えられたが、しかし実際はそれとは
大きく懸け離れた“迷いと迷いの打合って自壊する”戦争へと展開して行ったのである。

 戦局の悪化により出版・言論統制も厳しさを増し、印刷用紙の配給が壮絶するに及んで光明図書、
月刊誌の出版も困難になった。更に講演活動にも種々の制約が課せられた。講習会の際にも絶えず警官が
傍聴し、先生は「思想警察から揚げ足をとられないように注意を払いながら」講演されたのである。
しかしこのような状況の下でもご巡錫は続けられた。日本国内はもとより、昭和十七年には朝鮮・満州各地を
ご巡錫。十九年には江蘇省の兵団長小林信男中将の招聘により渡支。中支、北支の諸地方で講演された後、南京に
着かれた。そこで先生は熱心な『生命の實相』の愛読者であった大陸派遣軍総司令官岡村寧次大将と面談され、現実の軍隊が
上官の命令が下に通らないような、とても皇軍とは言えない実情であることを知らされた。
その頃から、先生は敗戦を予感しておられたようである。

 そして遂に日本軍の無条件降伏ー敗戦。
《この教えの宣伝をば、もっと政府が理解してくれて日本軍全体に広めていたならば、無論戦争は
起らなかったでありましょう・・・》『生長の家』昭和二十一年二月号より

 しかし、先生は「国体は決して滅びたのではない」と言われ、終戦と同時に祖国再建に向って起ち上がられたのであった。


『生長の家の火をかざして』 永遠の谷口雅春先生 P48

129ハマナス:2012/01/19(木) 16:19:19 ID:u5mC.eb2

『碧巌録解釈』後篇――『碧巌録』終講の辞より

宇宙の真理と云うものは、それを長廣舌を揮って詳密鄭寧に書けば一生涯続けても、
書き終わるを得へく簡単なものではないが、それを百歳の長寿を保って最後の時が来るまで書き続けても書き終わり得るべきものでもない。もう九十三歳の歳を迎えているので
何時、私の霊魂も現世から他界へ移住するよう神から命ぜられるかもわからない。
『碧巌録』の最後の章まで毎月一章づつ書いているのでは、それをとても書き了える
日時まで現世の寿命を保ちえるという保証も自信も私にはないのである。好き機会に終講のチャンスを捉えて諸君とのお別れの挨拶を書いて置くのも老人の智慧であると
思いついてので、読者諸賢に、今まで御愛読下されたそのご愛念に感謝の辞を述べて
置くのが老人の智慧であり、礼儀でもあると思いついたのである。

それで、そのような意味のご挨拶を述べさせて置いて貰った方が、一言の挨拶を
述べないで頓死してしまったような無ざまな死に方をするよりも、行き届いて
生前の御礼を言って置いて、何時他界しても皆さまに挨拶もしないで別れて
行くよりも、此の世に思い残すことがなくなり、もう何も此の世でして置くことは
残っていないと心の肩の荷を卸して、他界へ移転して行く方が思い残すことが
何もない、気楽な気持ちで他界へ移住することが出来ると考えついて、私は今、
この様なあいさつ文を書いているのである。

130ハマナス:2012/01/19(木) 16:20:37 ID:u5mC.eb2
つづき 

それでは、「左様なら!!とニッコリ笑って、皆様とお別れ致しましょう。
しかし今別れても次の境涯で皆様と再会する時期が屹度来ると信じます。
私は今年(編註:昭和六〇年)四月の何日でしたか、好天に恵まれまして
「西海橋」と、その別れにふさわしい再会を約したような名称の。長崎に
住んでいる人なら誰にでも再会のできる西海橋公園に参りました。
その日は見渡す限り桜花爛漫と咲き揃っている公園で、昨年此処で出会った
人々とまた今年も斯うして再会できる喜びを祝ったことでありました。
まことに西海橋公園は、彼岸(彼方の岸)に渡す橋の下に見渡す限り桜花が
爛漫と咲き揃っているのでした。橋を通って彼岸に渡ってしまわないで、
その下へ墜落しても、此処が再会極楽浄土になっているという実相常楽世界を
象徴的に再現したような世界(公園)なのです。この世界そのものが公園
なのです。私は此処へその日、好天気に恵まれまして観光に参りました。
私がいつでも出かけようと思う日は、いつも好天に恵まれるのです。
いえ、それは、その日が好天だから出掛けようと思ったと云うような順序で
起こる現象ではないのです。私が自由意思で、”今日は出掛けよう”と思うと、
今まで雨が降り様に一天掻き曇っているような時にも、急に雲が動き出して
間もなくj晴れ渡って蒼空になってしますのです。まるで、天の司(つかさ)“が
私の外出を霊感によって察知し、空の雲を蹴散らしてしまうようにです。

131ハマナス:2012/01/19(木) 16:21:55 ID:u5mC.eb2

つづき

もう十数年前の事になりますが、私たち夫婦がドイツに参りました時には,恰も
多分十月頃だったと記憶しますが、その頃にはドイツは朝雨が屡々降る季節なのです。
その頃私をドイツ旅行で案内して下さったのは、日独交換教授で其の頃ドイツに
滞在中の山田先生と云われる方でした。ある日私たちは一行が出かけようとすると、
山田先生は、今にも一雨降りそうな暗黒なお空の様子を見て、「今日は外出を
止めときましょう。雨降りですから」と言われました。「いいえ、私たちが出かける
時には雨は降らないことになっているのです」と私は言って、観光に出掛けましたが
お空はいつの間にか晴れ渡って一滴の雨もその日は降りませんでした。
何でも私たちが外出して行動をおこそうとすると、天候までも私たちの行動を祝福
するが如く、振りかけている雨もやんでしまうのです。こう云う現象を私は
「潤滑現象」と名づけました。その後、日本の若い学者の心霊現象研究のグループ
の機関誌を拝見していますと、それには、そのように何事もスラスラと潤滑に滞り
なく日常生活が行われる現象を、やはり「潤滑現象」と名づけておられるのを
拝見しました。

三界は唯心の所現でありますから、皆さん自身の心境の如何によりまして何事も、
そんなに力まないでも、何事でも、自分の日常生活が潤滑に滞りなく行われる
――潤滑現象が起こるようになり得るのです。現世浄土と云う語がありますが、
自分の心境が何事にも滞らずに潤滑になりますから、唯心所現の世界ですから
現世がそのまま、極楽浄土の顕現になるのです。
 釈迦牟尼如来は大無量寿経をお説きになりました直後、「如来の當(まさ)に為すべき
ことはなし了(おわ)れり」と仰せられたと伝えられております。私は今まで本誌に
『碧巌録』の講義を書き続けて来ましたが、本講を以て、釈尊と同じく「谷口雅春
如来の當に為すべきことは成し了れり」と申すことにしたいと思うのです。

132ハマナス:2012/01/19(木) 22:05:33 ID:u5mC.eb2

 碧巌録解釈』後篇――『碧巌録』終講の辞より
 131番のつづきです。

『碧巌録』の第九十二則の「世尊陞座(しんぞ)」の項の垂示には、
「絃(げん)を動かして曲を別つ、千歳にも逢い難し」と云う句で始まっているが、
これは支那の古典『列子』にある伯牙(はくが)と云う人と鐘子期(しょうしき)と
云う人との間に交わされた故事のことを指しているのだと伝えられているのである。

 それはある日、伯牙が琴を掻(か)き鳴らして、
「志、高山に在れば…」と上の句を歌い始めると、鐘子期は、忽ちそれは何の
曲であるかを瞬時にして察知して、
「峩々(がが)として泰山の如し」とその下の句を一緒に朗々と歌い出したと
云うのである。
つづいて伯牙が、
「志(こころざし)、流水に在れば、」と上の句を歌い始めると、鐘子期は
「洋々として江河の如し」とその下(しも)の句を合唱したとう云う。
現代の事実を以て例示すれば、生長の家から出版している「日めくり日訓」の
或る日の項の上の句に、「愛は最後の勝利者である」とあれば、
「恒久的に敵する者は無い」とその下の句を並べて書いてあるのにも似ている。
これは対句になっていて時数も互いに同数である。

『碧巌録』にたくさんの此の種の対句がある。例せば、その第九十三則の
「大光作舞(まいをなす)」の項には、挙(こ)す、僧、大光に問う。
「長慶道(ちょうけいいわ)く、
“齋(さい)に因って慶讃す”その意旨(いし)如何」
大光、舞を作(な)す。
「舞を作す」とは「全く有り難いことでございます」と 慶讃の意を動作に
表現したのである。
光云(こういわ)く、
“儞、箇のなにを見て礼拝したる哉”
僧舞を作す(まいをなす)。
 光云く “這の野狐精(このやこせい)(野狐の霊が人間に化けて出現して
人間の真似をして礼拝しているので、礼拝の意義も何も分からずに動作を
真似ているだけだぞ。そのボロが禿げたぞと喝破した語である。)

133ハマナス:2012/01/19(木) 22:06:25 ID:u5mC.eb2

つづき

これで『碧巌録』第九十三則の”本則”が終わっているのである。
 大光禅師とは、もと京兆の人で、法を石霜禅師に嗣(つ)ぎ、その後
潭州大光山の禅院に住持しておられた居誨(こかい)和尚の事だと云う。
 ある日、一人の僧來って問う。
「祗(た)だ達磨の如きは是れ”祖”たりや否や」と。
仏法は達磨が教祖となって創始した宗教ではないから、大光禅師は、
「是れ祖ならず」と答えた。すると、問僧は、
「既に祖に非ずんば、又來って何を為す」と問う。
「ただ儞等の薦(すす)まざるが為すなり」(お前達が本当に祖を薦挙しないからだ)
と応えている。すると僧は、「我等が誰かほかの人を推挙した後は、如何?」
と反問している。
すると、大光は、
「方(まさ)に彼を祖とするに足らず」とハッキリ答えている。
 ほかの人を推挙しようが、推挙しまいが方(まさ)に宇宙の法則
として、彼は教えの祖として推挙するに足りないのである。
  私が『碧巌録』の講義をここに連載しようが、連載しまいが方に(まさに)
私は『碧巌録』講義の祖ではないのである。私の今まで書き綴ってきた講義は、
単に先師の講義せられたところに啓発されたところの祖述に過ぎないのである。

『碧巌録解釈』後篇 [完]

134志恩:2012/01/19(木) 23:31:54 ID:.QY5jUA6
ハマナスさま

先日、うのはなさんが書き込んでくださった 雅春先生が、羽化登仙されるときの恵美子先生のご文章がキッカケでしょうか、
拝読したかった(私だけでなく多くのお方が,と存じます)絶版になっている
【雅春先生著書「碧巌録解釈」終講の辞 その他】を、

ハマナスさま、
掲載してくださって、誠にありがとうございました。
難しい漢字が、いっぱいあり、書き込まれるのが、たいへんでいらしたでしょう。感謝しています。

135ハマナス:2012/01/20(金) 12:11:35 ID:u5mC.eb2

志恩様

レスをありがとうございます。

そうなのです。うのはな様が引用して下さり、世界一のブログを
書かれる訊け様も『碧巌録』をお持ちでないと拝見しましたので、掲載
させて頂きました。

パソコンがあまり得意でないので、時間がかってしまいましたが喜んで下さり
嬉しいです。

どなたか、簡単な本からの引用の方法がおわかりでしたら、教えて下さいます?。
よろしくお願いいたします。
(著作権の問題もあるかもしれませんが・・・)

136ハマナス:2012/01/20(金) 12:13:57 ID:u5mC.eb2

あわててしまいました。訂正いたします。

教えて下さいます?。ーー>教えて下さいますか?

137うのはな:2012/01/20(金) 22:29:45 ID:El6gIMAw

 ハマナス様。ありがとうございました。あらためて感謝いたします。

 昔の神誌などで連載されているのをいくつか読んだことはありますが、
全巻揃っているわけではなく、『生長の家の火をかざして』の中の終講の辞を
読ませてもらい、遺稿なら、数年前買っておくんだったと思っています。
ハマナス様もどこかで入手できたらいいですね。
これからの御健筆を楽しみにさせていただきます。

  感謝合掌

138うのはな:2012/01/21(土) 15:10:05 ID:El6gIMAw

黒髪を願ったのに

 生長の家で、「この世は、思ったとおりになる」こういいますと、
「それはウソだ。私は思ったとおりになったことはない」と反対する人がありますが、
その人は、ほんとうは、「自分が思ったとおりにならない」と信じ思ったとおりに、
“思ったとおりになっていない”のですから、結局は、思ったとおりになっている、というわけなのです。

 頭髪が半分ほど白くなった婦人が、「神さま、私の頭髪を黒くしてください」と
熱心に祈りましたら、急に真っ白になったという話があります。こんな人は、
きっと、神さまは私の祈りをきいてくださらなかった、と神さまに文句をいうことでしょうが、
これは祈り方が悪いので、神さまが悪いのではありません。どうして、こんなことになったかと
いいますと、「黒くしてください」と祈ることは、「私の頭髪は白くなったから...]
ということを、強く心に描く結果となってしまったのです。
ですから、私たちは、言葉の力を使う時には、もうその状態になっていると信じて、いわなければだめです。

今、現実に全然現れていないことを、もうちゃんと現われているかのようにいうのは、おかしいではないか、
という人もありますが、種というものは、何もはえていない畑へまくもので、まだ何も現れていないものを、
現わすためにまくものなのです。

『心とカラダと運命』 P60−62 徳久克己 先生著

139ハマナス:2012/01/23(月) 00:18:32 ID:u5mC.eb2
皆さま、ありがとうございます。

19日の129番から「『碧巌録』終講の辞」を投稿いたしましたが、
最初の部分が未投稿でした。すみません、あらためて全部載せさせて
頂きます。

『碧巌録解釈』後篇――『碧巌録』終講の辞より P.854〜

私が毎日『碧巌録』を本誌(編註。「生長の家」誌)に於いて第九十一則まで講義を
続けて来たが、本稿に於いてその講義を締めくくることにする。それは何故かと
云うと、『碧巌録』第九十二則「世尊陞座(しんぞ)」の項に、「文殊白槌(びゃくつい)
して云く、諦観法王法(たいかんほうおうほう)、法王法如是(ほうおうほうにょぜ)。
世尊便ち(すなわち)下座」とあるからである。
即ち私も『碧巌録』第九十二則の世尊に倣(なら)って口座から下座すべき時が来たと
悟ったからである。
 印度以来の仏法の口座の法式で、禅家に於いては、法座のレギュラーの講師に
較べてもをさをさ劣らぬ最高の学者的人物が 白槌師(びゃくついし)と云う役割を
演ずる。現代で謂わば司会者となるのである。そしてその司会者が、三度槌を打ち
鳴らし、「法筵龍象衆、常観第一義」と言い、新たにカチンと一つ槌を打ち鳴らし、
それが合図に説法が始まる。そしてその説法が済んだという時に、その司会者の
白槌師が再び進み出て、「諦観法王法、法王法如是」即ち「これで法王の説法は
終わりました。如是――是の(この)通り終わりました」という意味を告げることに
なっている。「法筵龍象衆」と云うのは、仏法の講座(法筵)に参聴するために集まった
ところの、動物で謂えば神通自在の「龍」や、哺乳類のうちでは最も巨大な象にも
比すべき大人格者たちを尊敬して呼びかける語(ことば)である。
即ち「此の講座に参聴せられた龍象にの比すべき大人格者たちよ」と呼びかける
挨拶語である。茲(ここ)では、「今迄、私の書いて来た『碧巌録』の講座を毎号
御愛読下さった偉大なる読者諸賢様よ」と呼びかける言葉である。弁舌を揮う講座
ではないところの、文章に於いては、司会者たる白槌師が無いから、筆者の私自信が
白槌師の役をつとめる譯(わけ)である。

140ハマナス:2012/01/23(月) 00:20:17 ID:u5mC.eb2

つづき

宇宙の真理と云うものは、それを長廣舌を揮って詳密鄭寧に書けば一生涯続けても、
書き終わるを得へく簡単なものではないが、それを百歳の長寿を保って最後の時が来るまで書き続けても書き終わり得るべきものでもない。もう九十三歳の歳を迎えているので
何時、私の霊魂も現世から他界へ移住するよう神から命ぜられるかもわからない。
『碧巌録』の最後の章まで毎月一章づつ書いているのでは、それをとても書き了える
日時まで現世の寿命を保ちえるという保証も自信も私にはないのである。好き機会に終講のチャンスを捉えて諸君とのお別れの挨拶を書いて置くのも老人の智慧であると
思いついてので、読者諸賢に、今まで御愛読下されたそのご愛念に感謝の辞を述べて
置くのが老人の智慧であり、礼儀でもあると思いついたのである。

それで、そのような意味のご挨拶を述べさせて置いて貰った方が、一言の挨拶を
述べないで頓死してしまったような無ざまな死に方をするよりも、行き届いて
生前の御礼を言って置いて、何時他界しても皆さまに挨拶もしないで別れて
行くよりも、此の世に思い残すことがなくなり、もう何も此の世でして置くことは
残っていないと心の肩の荷を卸して、他界へ移転して行く方が思い残すことが
何もない、気楽な気持ちで他界へ移住することが出来ると考えついて、私は今、
この様なあいさつ文を書いているのである。

それでは、「左様なら!!とニッコリ笑って、皆様とお別れ致しましょう。
しかし今別れても次の境涯で皆様と再会する時期が屹度来ると信じます。
私は今年(編註:昭和六〇年)四月の何日でしたか、好天に恵まれまして
「西海橋」と、その別れにふさわしい再会を約したような名称の。長崎に
住んでいる人なら誰にでも再会のできる西海橋公園に参りました。
その日は見渡す限り桜花爛漫と咲き揃っている公園で、昨年此処で出会った
人々とまた今年も斯うして再会できる喜びを祝ったことでありました。
まことに西海橋公園は、彼岸(彼方の岸)に渡す橋の下に見渡す限り桜花が
爛漫と咲き揃っているのでした。橋を通って彼岸に渡ってしまわないで、
その下へ墜落しても、此処が再会極楽浄土になっているという実相常楽世界を
象徴的に再現したような世界(公園)なのです。この世界そのものが公園
なのです。私は此処へその日、好天気に恵まれまして観光に参りました。
私がいつでも出かけようと思う日は、いつも好天に恵まれるのです。
いえ、それは、その日が好天だから出掛けようと思ったと云うような順序で
起こる現象ではないのです。私が自由意思で、”今日は出掛けよう”と思うと、
今まで雨が降り様に一天掻き曇っているような時にも、急に雲が動き出して
間もなくj晴れ渡って蒼空になってしますのです。まるで、天の司(つかさ)“が
私の外出を霊感によって察知し、空の雲を蹴散らしてしまうようにです。

もう十数年前の事になりますが、私たち夫婦がドイツに参りました時には,恰も
多分十月頃だったと記憶しますが、その頃にはドイツは朝雨が屡々降る季節なのです。
その頃私をドイツ旅行で案内して下さったのは、日独交換教授で其の頃ドイツに
滞在中の山田先生と云われる方でした。ある日私たちは一行が出かけようとすると、
山田先生は、今にも一雨降りそうな暗黒なお空の様子を見て、「今日は外出を
止めときましょう。雨降りですから」と言われました。「いいえ、私たちが出かける
時には雨は降らないことになっているのです」と私は言って、観光に出掛けましたが
お空はいつの間にか晴れ渡って一滴の雨もその日は降りませんでした。
何でも私たちが外出して行動をおこそうとすると、天候までも私たちの行動を祝福
するが如く、振りかけている雨もやんでしまうのです。こう云う現象を私は
「潤滑現象」と名づけました。その後、日本の若い学者の心霊現象研究のグループ
の機関誌を拝見していますと、それには、そのように何事もスラスラと潤滑に滞り
なく日常生活が行われる現象を、やはり「潤滑現象」と名づけておられるのを
拝見しました。

141ハマナス:2012/01/23(月) 00:22:11 ID:u5mC.eb2

つづき

三界は唯心の所現でありますから、皆さん自身の心境の如何によりまして何事も、
そんなに力まないでも、何事でも、自分の日常生活が潤滑に滞りなく行われる
――潤滑現象が起こるようになり得るのです。現世浄土と云う語がありますが、
自分の心境が何事にも滞らずに潤滑になりますから、唯心所現の世界ですから
現世がそのまま、極楽浄土の顕現になるのです。
 釈迦牟尼如来は大無量寿経をお説きになりました直後、「如来の當(まさ)に為すべき
ことはなし了(おわ)れり」と仰せられたと伝えられております。私は今まで本誌に
『碧巌録』の講義を書き続けて来ましたが、本講を以て、釈尊と同じく「谷口雅春
如来の當に為すべきことは成し了れり」と申すことにしたいと思うのです。


『碧巌録』の第九十二則の「世尊陞座(しんぞ)」の項の垂示には、
「絃(げん)を動かして曲を別つ、千歳にも逢い難し」と云う句で始まっているが、
これは支那の古典『列子』にある伯牙(はくが)と云う人と鐘子期(しょうしき)と
云う人との間に交わされた故事のことを指しているのだと伝えられているのである。

 それはある日、伯牙が琴を掻(か)き鳴らして、
「志、高山に在れば…」と上の句を歌い始めると、鐘子期は、忽ちそれは何の
曲であるかを瞬時にして察知して、
「峩々(がが)として泰山の如し」とその下の句を一緒に朗々と歌い出したと
云うのである。
つづいて伯牙が、
「志(こころざし)、流水に在れば、」と上の句を歌い始めると、鐘子期は
「洋々として江河の如し」とその下(しも)の句を合唱したとう云う。
現代の事実を以て例示すれば、生長の家から出版している「日めくり日訓」の
或る日の項の上の句に、「愛は最後の勝利者である」とあれば、
「恒久的に敵する者は無い」とその下の句を並べて書いてあるのにも似ている。
これは対句になっていて時数も互いに同数である。

『碧巌録』にたくさんの此の種の対句がある。例せば、その第九十三則の
「大光作舞(まいをなす)」の項には、挙(こ)す、僧、大光に問う。
「長慶道(ちょうけいいわ)く、
“齋(さい)に因って慶讃す”その意旨(いし)如何」
大光、舞を作(な)す。
「舞を作す」とは「全く有り難いことでございます」と 慶讃の意を動作に
表現したのである。
光云(こういわ)く、
“儞、箇のなにを見て礼拝したる哉”
僧舞を作す(まいをなす)。
 光云く “這の野狐精(このやこせい)(野狐の霊が人間に化けて出現して
人間の真似をして礼拝しているので、礼拝の意義も何も分からずに動作を
真似ているだけだぞ。そのボロが禿げたぞと喝破した語である。)

142ハマナス:2012/01/23(月) 00:24:12 ID:u5mC.eb2

つづき

これで『碧巌録』第九十三則の”本則”が終わっているのである。
 大光禅師とは、もと京兆の人で、法を石霜禅師に嗣(つ)ぎ、その後
潭州大光山の禅院に住持しておられた居誨(こかい)和尚の事だと云う。
 ある日、一人の僧來って問う。
「祗(た)だ達磨の如きは是れ”祖”たりや否や」と。
仏法は達磨が教祖となって創始した宗教ではないから、大光禅師は、
「是れ祖ならず」と答えた。すると、問僧は、
「既に祖に非ずんば、又來って何を為す」と問う。
「ただ儞等の薦(すす)まざるが為すなり」(お前達が本当に祖を薦挙しないからだ)
と応えている。すると僧は、「我等が誰かほかの人を推挙した後は、如何?」
と反問している。
すると、大光は、
「方(まさ)に彼を祖とするに足らず」とハッキリ答えている。
 ほかの人を推挙しようが、推挙しまいが方(まさ)に宇宙の法則
として、彼は教えの祖として推挙するに足りないのである。
  私が『碧巌録』の講義をここに連載しようが、連載しまいが方に(まさに)
私は『碧巌録』講義の祖ではないのである。私の今まで書き綴ってきた講義は、
単に先師の講義せられたところに啓発されたところの祖述に過ぎないのである。

『碧巌録解釈』後篇 [完]

143志恩:2012/01/23(月) 17:14:41 ID:.QY5jUA6
ハマナスさま

「碧巌録解釈」後編、かなりの長文でしたのに、よくぞ、書き込んでくださいました。
 難しい漢字が、つぎつぎあり、内容も高度で難しいご文章なのですね。

 この雅春先生の絶筆であるご著書は、絶版になっていて、われわれは、拝読することが、できませんでしたけれど、
 このようにハマナスさまが、書き込んでくださって、私も、有り難かったけれど、ここをご覧の多くの方々も、さぞお喜びのことと思います。
 ご愛念、感謝申し上げます。難漢字を、1字1字、漢字変換されて書き込まれたのですものね。ほんとにおつかれさまでした。

144志恩:2012/01/23(月) 18:17:02 ID:.QY5jUA6

 F.Lホルムス・著「こころの発見」より。。日本教文社 出版

 ”われ信ぜん
 善きことのみが 悪しきことの終極にあることを
 ただ一つの生命も滅ぼされず
 屑として虚無に投げ入られるることなきを
 神来たりて全きものとなし給うその日まで”

145志恩:2012/01/23(月) 18:35:07 ID:.QY5jUA6
  F.Lホルムス 〜つづき〜



  "どうも凡々たる生活さ、と言って ため息をつく
 
 しかし、われわれは、そう ため息ばかりしていて、よいものだろうか
 凡々たる空に 凡々たる太陽
 それで凡々たる一日ができあがる
 月も星も みな凡々たるしろものだ
 咲く花も 歌う鳥も

 しかし、花の色があせ、太陽がのぼらないとしたら
 世の中は まっ暗で 
 われわれの運命も悲しいものとなろう
 そして、個々の魂をみそなわす神は
 この凡々たる生活をあつめて 美しい全体をつくって いるのではないか”

146志恩:2012/01/23(月) 18:55:16 ID:.QY5jUA6
 F.Lホルムス 「静寂の歌』

 ”敗北だと?否,さえぎられ、一時とじこめられているかもしれないが
 しかし、河の流れのように
 私の人生の滔々たる水流は、ひとところに集まり
 渦を巻いて、行くてをはばむ材木をも 押しやろうとしている

 ダムのかなたは、水はさらに深く
 渦巻きは、さらにゆたかな生命の證左だ
 宿命とぶつかって、力をためす者の筋肉は、ますます強さを加え
 戦いのたびに ますます立派な男になるのだ

 さからう力と堂々と戦え、あるいは それを無視せよ
 汝の天才を制約しようとしても、どんな力も役立たぬ
 神は雨を降らして、汝の河水をゆたかにし、水位を増した河は
 その魂の突進をさえぎる あらゆるものを一掃する”

147志恩:2012/01/23(月) 19:47:33 ID:.QY5jUA6

 谷口雅春先生のおことば  (生長の家誌 S43 年 5月号)

 {今日を 恋人の如く迎えよ}

 ”今日”を迎えるのに 悦びの念(こころ)をもって迎えよ。
 「自分は”神の子”だから 必ず善き事が訪れる」
 と、明るい期待をもって”今日”を迎えよ。

 あなたが、恋人に逢いに行くかのような うれしい明るい心をもって”今日”を迎えるならば、
 ”今日”もまた あなたを、恋人のような明るい嬉しい顔をして迎えるであろう。

 そうして、あなたの人生が天国となり、あなたの周囲に極楽世界が展開するのでる。
 何故なら、あなたの迎える世界は、あなたの”心の展開”であるからである。

148ももんが:2012/01/23(月) 22:01:43 ID:XXCuaQns
〜『碧眼録・第七即評』
(曹源の一滴水)

☆一日、法眼陰座す。僧あり問う『如何なるか、是れ曹源の一滴水?』法眼云く、『是れ曹源の一滴水。』その僧惘然として退く。韻国師衆中にあって之れを聞き、忽然として大悟す。のち出世して法眼に承嗣す。頌あり呈して云く、『通玄峯頂、是れ人間(じんかん)にあらず。心外無法、満目青山』と。法眼印して云く、『只だこの一頌、吾が宗を継ぐべし。子のちに王候の啓重することあらん。吾れ汝に如かじ』と〜


法眼禅師には『曹源の一滴水』という。公案があります。
ある日、法眼が講座に上がると、ある僧が、『如何なるか、是れ曹源の一滴水?』とたずねた。


法眼は声を励して言った、『是れ曹源の一滴水!』

その僧は惘然として退いた。

のちの天台徳韻国師がこのとき大衆の中にいて忽然として大悟した。


天台徳韻は久しく疎山に参じ、自から詣を得たりとなし、疎山平生の文字・頂相を集め、衆を領いて行脚した。法眼のところにきても、かれ自身は入室せず、ただ参徒だけを入室させていたが、前記の『是れ曹源の一滴水』という法眼の言下に忽然大悟して、覚えず感涙滂沱として衣を潤した。のち出世するに方って、法眼に嗣法(法を継承)して頌(詩)を呈した。

『通玄峯頂、是れ人間にあらず。心外無法、満目青山』と。

この意味は、

『天台山の通玄峰の頂きは、俗塵をはるかに絶して人間世界を超越している。心の外に存在はない、法界一心に収まり、その一心法界は法如々 たるこの満目の青山に現前している、と。諸法実相(法華経)、法界体性(華厳経)の理を見事に詠みあげている。法眼はこれを印可して言った。『たたこの一頌だけで、わが宗を継ぐに足る。貴公はのち王公の信者を得よう。わしは貴公に及ばない。』


法眼は、『曹源の一滴水?』と問われて、『曹源の一滴水』と、鸚鵡返しした、こう言う、法眼のやり方を、『箭鋒相さそう』といって、『法眼宗』の宗風を示すものとされている。両方から飛んで来た矢の根がぴったと合うような戦略だと言うのだ。


また、『巡人犯夜』(夜回りが盗みをする。
『鎗頭捩点』(敵の鎗で敵をつく)などとも言う。


上の、文面で、天台山の通玄峯は、『観音さま』の住まわれてる、ところで、大変な、霊場だそうです。


この、公案の、一番、肝心要の句は、以外な、言葉だが、

体験の無い方には、言葉の羅列となり、伝統の碧眼録の真理を見つけられずに、違う物を正しいと、認識するは、哀れと言う他に、言葉は、無い。

149ハマナス:2012/01/24(火) 01:24:28 ID:u5mC.eb2
志恩さま

喜んで頂いて嬉しいです! やさしいお言葉をありがとうございます。
ホルムス氏の文章も素晴らしいですね。

ももんがさま
『碧巌録解釈』第七則の引用をありがとうございました。


『碧巌録解釈』は、谷口雅春先生の最後に執筆されただけあり、語彙も難しく
内容も深く、素晴らしく、難解な本ですね。

雅春先生は『碧巌録解釈』の他に、『法華経解釈』、『維摩経解釈』、『無門関解釈』と
難しいご本を真理を元にお書き下さっておられます。

その業績の偉大さに触れ、恐れ多い気持ちになり、同時この様な貴重なご本をお書き
下さったことに、深い感謝の気持ちでいっぱいになりました。
「生命の実相」「甘露の法雨」は、もちろんの事です。

いつか、この掲示板の皆さまとご一緒に、これらのご本をお勉強できる日が
来ることを願っています。

150ハマナス:2012/01/24(火) 12:40:24 ID:u5mC.eb2
神の子の皆さま、ありがとうございます。

光明法語  (谷口雅春先生著作集 第1巻) P.29より
一月二十四日の法語   天地に遍満する神の恩恵を知れ

 人間は神の子であり神より出ずる総てのよきものにとりまかれて
いるのである。神の恵みはあらゆるものに、空気に、日光に、水に、
見渡す景色に、さえずる鳥に、あらゆるものに現れて吾々を恵み、
はぐくみ養い給う。神の恵みは吾々をとりまいていて一分一厘の
逃れる隙間もないのである。昨日が如何にあろうとも、今日何事が
起ころうとも、神は善と共にいますのである。
人間の力にて打ち勝ち難い困難が出て来たならば、心の中に次の言葉を
繰り返して念ぜよ。

「之は私が解決するのではない、神が解決するのである」

151うのはな:2012/01/24(火) 21:04:51 ID:El6gIMAw

 入信数年間の調和生活 

 それにしても不思議なことに“生長の家”の説く真理に触れて、物質的世界観から霊的世界観に
一転した当座の数年間は、すること為す事、万事が都合よく往って、家庭は調和し、家族は皆健康となり、
事業は発展し、自然に富が生成せられるのである。富を求めずして自然に富が成就するのである。

 それは何故かというと、物質的法則に縛られていた過去の唯物論的人生観から来る相互拒絶や相互衝突や、
利害の相反から来る反感や対立感情によって、人間の行動がゆがめられていて調和が得られなかった状態が、
神一元の霊的人生観によって、あらゆる点に摩擦や、相反や、矛盾が無くなり、大調和が得られる結果、すべての
行動が順調に掉さす帆船が、追風に吹かれて進むように、何の障りもなく善き成果が得られるからである。

『愛はかくして完成す』 谷口雅春 先生著 P54

152トキ:2012/01/24(火) 21:31:50 ID:A3Pq4Dgo
ももんが様

 すばらしい御文章です。勉強になりました。こういう時期だからこそ、大切な
話だと思います。ありがとうございました。

合掌 ありがとうございます

153うのはな:2012/01/29(日) 16:36:20 ID:El6gIMAw
   国家論の欠如した政党に国は任せられない

 民主党政権で最も危惧することは、彼らには、日本とは何か、国家とは何かという
国家観が欠如していることである。日本の歴史、文化、伝統という国家を支える精神的基盤
に対する意識がまったく欠如している。普天間基地の移設問題の迷走ぶりは、実はここに大きな
問題があるからだと私は考えている。国家存立の大きな基盤は防衛・外交問題であるが、国家観の
欠如しているところに、この問題をいくら議論しても、実はこれを考える基軸がないのであるから、
国を誤らせるのみである。

 もちろん、このことは民主党だけではなく、自民党においても、五十歩、百歩である。
昨平成二十一年の自民党は政権担当政党から下野し、総裁選が争われたが、候補者の誰一人、
日本とは本来こういう国であり、だからこそ自民党の結党精神は自主憲法制定にあるといった
議論は何一つなされなかった。私は自民党の再生に絶望を覚えたのであった。

『平沼赳夫の本懐』 平沼赳夫  先生著  光明思想社 刊

154ぼるぼ:2012/01/29(日) 18:54:49 ID:nI/H1ehM
理趣経百字の偈

菩薩は勝れし知慧を持ち、なべて生死の尽きるまで

恒(つね)に 衆生の利をはかり、たえて涅槃に趣(おもむ)かず。

世にあるもの[=方便]も、その性[=般若]も、智慧の及ばぬものはなし。

もののすがた[=有]も、そのもの[=法]も、一切のものは皆清浄し。

欲が世間をととのえて、よく浄らかになすゆえに、

有頂天(すぐれしもの)もまた悪も、みなことごとくうちなびく。

蓮は 泥に咲きいでて、花は垢(よごれ)に 染(けが)されず。

すべての欲もまたおなじ。そのままにして人を利す。

大なる欲は清浄(きよき)なり、大なる楽に富み饒(さか)う。

三界(このよ)の 自由身につきて、固くゆるがぬ利を得たり

(翻訳文:金岡秀友先生 東京美術「理趣経」)

経文と読み

菩薩勝慧者 乃至尽生死 恒作衆生利 而不趣涅槃

般若及方便 智度悉加持 諸法及諸有 一切皆清浄

欲等調世間 令得浄除故 有頂及悪趣 調伏尽諸有

如蓮體本染 不為垢所染 諸欲性亦然 不染利群生

大欲得清浄 大安楽富饒 三界得自在 能作堅固利

ほ さっ しょう けい しゃ だい し しん せい し こう さく しゅう せい り じ ふ しゅ でっ ぱん

はん じゃ きゅう ほう べん ち と しっ か ち しょ ほう きゅう しょ ゆう いっ せい かい せい せい

よく とう  ちょう せ かん れい とく せい ちょ こ ゆう てい きゅう あく しゅ ちょう ふく しん しょ ゆう

じょ れん てい ほん ぜん ふ い こ そ ぜん しょ よく せい えき ぜん ふ ぜん り きん せい

たい よく とく せい せい たい あん らく ふう じょう さん かい とく し さい のう さ けん こ り

155役行者:2012/01/29(日) 22:05:57 ID:w8hNmueg
 >>154

  ぼるぼ様

 合掌 ありがとうございます。

 般若理趣経には、一時、ハマりまして、読経をしてた時期があります。理趣経のクライマックスに理趣経 百字の偈が綴られてますね。
  般若理趣経を凝縮して纏めますと、百字の偈で言い表すことができるほど、内容の深いものと思ってます。
 

 これを機会に、せめて般若理趣経 百字の偈は毎日、読経させていただこうと思いました。

           敬具

156トキ:2012/01/30(月) 20:52:25 ID:eJZeXtyk
ぼるぼ様

 すばらしいご文章をありがとうございました。

 実は、真言宗の僧侶の方が、内緒に生長の家の行事に勉強に来られた時に
お話をした経験があります。
 やはり、正しい信仰は、宗派を超越して、人類を救済すると思いました。

合掌 ありがとうございます

157うのはな:2012/02/01(水) 21:29:37 ID:El6gIMAw
本当のお陰は“魂の宝”を獲ることである。 (昭和36・12・17)

    谷口先生の真実のお心は 伊藤用蔵

 本日の実相研鑽会は、地方講師としてみ教えをお取次ぎさしていただくわれわれ弟子としまして
“こういうことが必要ではないか”と信ずることを申上げて、互いに魂を研くことにしたいと思います。
 私は谷口先生の現象面の弟子だけでなく、永遠の弟子にならなきゃいけない、と考えております。
かつて私は日本山妙法寺の僧侶と一晩語り明かしたことがあります。
 その動機は、その坊さんが黒革表紙の『生命の實相』の表紙がボロボロになったのを、机の上に正しく置いておられたので、
訊ねたのであります。

「あなたは『生命の實相』をお読みですか」するとお坊さんの言われるのに「私は谷口先生を非常に尊敬しているんです。それで
『生命の實相』を全部持っております。....始終もって歩くものですから、こんなボロボロになりました」というわけでした。
いろいろ話してみますと、そのお坊さんは終戦前、満州から蒙古、パキスタン、インド、タイ...をずっと廻られたが、いつも『生命の實相』を
背負って歩かれた。そして聖典を通して谷口先生を非常に尊敬しているというお話に、“わが意を得たり”と語り明したわけであります。

 そのお坊さんが戦時中、南京、上海で、軍部の横暴に対して大胆に自分の意見(み教えに基ずく)を発表したために、少壮軍人から非常な怒りをうけ、
「貴様は非国民だ、座れ。斬ってしまう」と座らされたことが、二度や三度ではなかったそうです。
そのとき、谷口先生に教えられた神想観の型通りに端然と座ると、夜叉のように怒った少壮軍人でも、振り上げた刀を掉り下されなかった、と申されました。
そして竜の口の日蓮上人の法難が事前に防がれた話も本当だとしみじみ悟らせていただいたという話に、私も、“なかなか気骨のあるお坊さんだ”と思って
「谷口先生は、谷口先生は....」と話しておりました。

 話のなかば頃にお坊さんが言われました。
「伊藤さん、あんたは谷口先生、谷口先生と言われるけれども、谷口先生の真実のお心はまだわかっていませんよ」
しかし私は、他宗の坊さんはそう言われるかもしらんが、「わしは直弟子だ、谷口先生のお心はよく分かっている」と
思っていたのです。が、つづいて坊さんが「谷口先生のお心を本当にわかる人は、世界に三人とないですよ」と
言われるに及んでビックリして、“これでは私が解ってるなんてとんでもないことだ”と今度は少し折れまして、
「それでは、谷口先生のお心を解るようになるには、どうしたらよいですか」と訊いたところ、「おそば近く仕えなさい。
.....先生の雰囲気にふれることも非常に良いことです。しかし皆がみな、谷口先生に仕えるわけにいかないでしょう」といって、
ボロボロになったの『生命の實相』をうやうやしく取り上げて、「伊藤さん、これが谷口先生ですよ」と言われました。

 私も、なるほど、いのちがけで修行した人はやはり違うなとつくづく感じいって、宗教、信仰の話に夜を明したしだいでした。

『實相研鑽・3』  谷口雅春 先生監輯

158トキ:2012/02/01(水) 21:32:12 ID:gsg6uw32
>>157

うのはな様

 素晴らしいお話ですね。感動しました。これからも、宜しくお願いします。

159ハマナス:2012/02/02(木) 10:37:54 ID:u5mC.eb2
 
「日々読誦三十章経」より  二日の経言(のりごと)  
     心の独立を得る言葉

 自分は神の子であるから、今事自己の生活を、意識的に自分自身で支配するのである。
自分は今より自分の考えようと思う事物をのみ考える。自分は自分の生活に何事が
湧いて来ようとも自己の心を支配することによってそれを支配することが出来るのである。
吾等は事故の思想を日に日に一層よきもの足らしめ、創造を司る宇宙霊が、吾等に一層
幸福なる状態に此の世界を創造して呉れることを信ずる。吾等は至上の智慧に導かれんが
ために、真理についてのみ考えるのである。吾等は、あらゆる知能に優った神的平和を
得るために信仰の事についてのみ考えるのである。

 吾れは今愛の霊に充たされている。吾れは今聖なる宇宙の心と調和している。
吾れは今心を開いて至上なるものの感情を胸に受けているのである。吾れは今意識的に
愛とそして智慧なる宇宙の心に接触している。吾れは今神の御側(みそば)にはべって、
神が吾が力を新たならしめたまうのを待っている。
吾が心は今神の上にのみ注がれている。それ故に、吾れはすべての人々に対して、又
自分自身に対しても平和なのである。如何なる禍も自分のうえには降り濺(そそ)がない。
愛の天使が自分の周囲をとり巻いている。吾れはいま吾がいのちが神の子であることを
知るが故に、無限なる者の力をうけて歩むのである。吾らが神の子として生きて決して
奴隷の如くには屈従しない。われは法則を守り、法則は吾れを護るのである。
われは法則に従い、法則はに吾れに従うのである。

吾れは無我の聖悦に充たされながら、神に吾が胸を打ちまかすのである。
今此の時、吾れは神の援助の慈手(やさしきみて)が吾が上に来ている事を感ずる。
吾れは歓喜(よろこび)に充たされている。吾れは強し。吾れは今生命を愛とを
吾が裡に感ずる。

160ハマナス:2012/02/03(金) 09:19:22 ID:u5mC.eb2

二 月 三 日     『生命の實相』第37巻P.34より    

争っていた者が仲よしのなることほど嬉しいことはない。失われた一匹の
羊が帰って来ることは、亡(うしな)われない九十九匹がそこにいるうよりも
嬉しいとイエスは言った。仲直りぐらいありがたいことはない、喜ばしいものはない。

 争っていた者が仲直りをしたために、ただそれだけの簡単な出来事のために、
医者で治らない病気が治った実例がたくさんある。『生命の實相』の巻頭に
「汝ら天地一切のものと和解せよ」とある一句を忘れていて病気が治らないと
かこっている人はないか。
 あらゆる心の持ち方が整っていても、和解ができていない人は、神の前に
足りない人である。神はまことである。まことは円相である。○(まる)は
和解のしるしである。・・・・・・・
 
もしわたしたちが神の前にいと小さき者であるならば、わたしたちは人を
責める資格はない、人を怒る資格はない、人を恨む資格はない。わたしたちは
人を赦すほかに仕方がないのである。
 ただわたしたちが、人を赦したときのみ神に赦されるのである。ただ人と
仲よしになったときのみわたしたちは神と仲よしになることができるのである。
 仲よしになった時の愉快な心持を本当に知るものは、人と仲が悪くなれる
ものではない。・・・・・・・

 傲慢ということはかかる心持を云うのである。謙虚、へりくだりの心持は
正直に事物をまともに見る心である。まちがっていたと気づいたら素直に
あやまれる心である。放たねばならぬ物は素直に放つ心である。本来ありもせぬ
栄えとか虚名とかを、あるかのごとく装おうとする心が苦しむのである。
隠しない心、正直の心は謙虚な心の一面である。
 
無邪気に気につき合える人というのはこういう謙虚な心持の人である。
相手が警戒心をもって近づいてきて、どうも親しくなれないのは、こちらに
隔て心があるからである。
 隔てのない心。角のないこころ。仲のよい心。○い心。○はいっさいを包んで
いる。隔てもなければ、角もない、実に実に仲のよい心が日の丸の心である。

161うのはな:2012/02/04(土) 21:25:52 ID:El6gIMAw

公邸のすぐ前のところに、旅館と結婚式場を兼ねたお店がありますが、そのあたりから、
最近、大きな工事が始まりまして、聞くところによりますと、そこを「オランダ村」というのにして、
風車を置いて観光地にするということで、大きな建物が建ち始めていました。
父が卒寿の時になさった「人間は生き通しである」というお話の中に出てきます、柿の木の見える二階の
窓から見ますと、風車らしいものがズンズン高くなって行くのが見えるわけですね。

 それで私は“まあ、折角自然の美しいところに、こんなのが建って、いやだわ”と
思いましてね“まあ、どうしてこんなのができてしまったのかしら”などと思っていました。
ところが父は二階へ行きまして、「あれは、何ができるんだ」と言いますので、
「あれはオランダ村だそうです。風車ができるそうです」と言いましたら、
「ああ、オランダ村がねえ。日本からオランダが見えるのかねえ」
と言っておりまして、その窓から見える正面の山には七つの燈台のうち、三つの燈台がちょうど見えるわけです。
その燈台ができる時にも楽しみに見ていらしたわけですが、「ああ、オランダ村。オランダが日本から見えるとは...」
と言って、「ああ、オランダ村にも七つの燈台が照るんだなあ」という風に申しました。(拍手)私はそのとき、
“ああ、素晴らしいなあ”と思いました。

 私は“あんなものが建って、父の家まで見下ろされてしまって、まあ、何ていうことかしら”と
排斥したいような気持ちでおりましたら、父はそのように言って、その工事ができてゆくのを眺めていらっしゃるわけなんですね。
やっぱり万教帰一の生長の家ですから日本にもオランダにも光をあて、それぞれの人たちが栄えてゆくように、あたたかい気持ちで
見てあげなければならないということを、私は教えられたような気がしました。(拍手)


『神さまからのいただきもの』 谷口恵美子先生講話集

162ももんが:2012/02/05(日) 20:56:45 ID:XXCuaQns
安谷老師の『無門関』第5即より

〜さて、谷口雅春氏の『無門関解釈』六四ページには、次のとおりに、書いてある。

《『口に樹枝を噛み、手に枝をよぢず、脚、樹を踏まず、樹下にあつて西来意を問はん……』と云うのが、何故に進退両難であるか。手が枝に触れなかつたら、みづから能動的に手を動かして枝にを握れば好いではないか。枝を握つて口を離して、さてそれから祖師西来意に就て応答すれば好い。何処にも事実上進退両難はないのである。進退両難の原因は『手に枝をよぢず』と自分自身の本有の自由自在の力を限ってしまつたところにある。云云』》


実に面白い解釈である。ちょうど数学の問題で、題意を勝手に変更してしまって、その変更した題意に適合した答えをだしたようなものだから、面白いというのだ。
『手に枝をよぢず、脚、樹を踏まず』という漢文は、『手に枝をよじては相成らん。足にも樹を踏んでも相成らん。』ということを約束しているのであって、自己暗示や、空想上の弄戯ではない。この約束のもとで、立派に西来意に答えることのできる事実を発見させるのが、この公案の要点である。
この要点を逃してしまて、『香厳真の杜撰、悪毒尽限なし』という、無門の評語そのまま正直に受け取っておられるところなどは、谷口氏のお人柄の好いところではあるまいか。〜

163志恩:2012/02/05(日) 22:03:49 ID:.QY5jUA6
ももんがさま

書いてあるところを、教えて下さって、ありがとうございます。

安谷白雲老師著「禅の心髄・無門関」第5 香厳上樹(きょうげん じょうじゅ)

という題の、5頁あるうちの4頁目の、下段のところに書いてあるのでしたね。
私、そこの第5の,
5頁を全部を読んでいるところです.

しかし、すごいことです。。雅春先生が、「無門関解釈」を出版されたと同時くらいに、すぐ読んでくださってたなんて、雅春先生のこと
どういうお方か、すでに、ご存知だったということでもありますものね。

でも、この老師のおかたは、雅春先生のことだけではなく、あちこち叱った文章を,た〜〜くさん書いておられますね、なんか、
安心しましたよ。雅春先生だけ批判されたのかと思っていましたから。
禅仏教という性格は、そういうものなんでしょう。

この、紹介されてる香厳禅師は、人が一を問えば十を答えたという人だそうですが、兎に角、口が悪くて、
「さあ、なんとか言ってみろなどと、鬼のような目をギョロギョロさせれ、修行者をにらんでござるわい」
みたいな人でね。

修行者に、難問題を出しては、修行者たちの目を白黒させた。、、(なんか、ももんがさんみたいな人)

言葉の表面は、ひどく罵倒するが、指導は適切だった、と書いてありますね.

ご親切に、ありがとうございました。感謝、拝。

164ももんが:2012/02/06(月) 01:57:58 ID:XXCuaQns
>>163

志恩様


志恩様、勝手に、解釈してはいけませんよ。


安谷老師は、雅春先生が、『問題の題意を勝手に変更して、それに、答えを着けた 』と言われて、雅春先生を叱っているんす。

こんな事を、言うと、また、怒る人もいると、思いますが、安谷老師は、雅春先生対して、自分の室内に、独参に来て、本当の目を養えと、言われいるように、私には、読みとれます。

安谷老師の親切心でしょ。

私も、良く、同じ様な事を言われて来ましたら。

165志恩:2012/02/06(月) 04:23:36 ID:.QY5jUA6
ももんがさま

勝手に解釈してとは?

私は、雅春先生は、安谷老師に、叱られていない等と、言っていませんよ。
よくお読みになってください。
批判されている、叱られている、という意味のことを、ちゃんと書いています。

だけれど、この老師のお方の、他の文章を拝見しますと、雅春先生だけでなく、
他の方達の事も叱っておられる。

ですから、叱られたのは、雅春先生だけなのかと、思っていましたよ。と書いたのです。

以前、ももんが様が、書かれた雅春先生批判の文章を読みますと、まるで、雅春先生だけにスポットライトを
あてて、安谷老師が、叱っている様に、受け取れたからです。

①「白雲会の安谷白雲老師は、著書の「無門関」の中で、谷口雅春先生の「無門関解釈」の誤りを、手厳しく、
 指摘されてます。雅春先生といえども、過ちは、あるのです。」

②トキ様宛に
 「安谷老師の「無門関」見つかりましたから、雅春先生を批判されている箇所、今度、掲載いたしますので、
  楽しみに、お待ち下さい」

この①②の、あなたの文章を読み、私は、あなたの善意というものが、全く感じられませんでした。
雅春先生が、叱られてる.前にも言いましたよね、。禅関係の人が、雅春先生の本を、糞の役にも立たない本だ、
と言ってたよ、って。
言い方が、いやみっぽくて、雅春先生に対する侮辱としか、とれませんでした。。

でも、この安谷白雲老師の著書を読ませていただいて、わかったことですが、仏教の人は、だいたいが、ものすごく口は悪いけれど、
根は、親切心で、叱っている事が、多いということが理解できたのは、よかったと思っているところです。

貴方の、その口の悪さは、ここの影響では、ないかしら。

話を戻しますが、
安谷老師は、禅仏教の宗教団体「三宝教団」の教祖でおられます。
仏教界の大御所からみたら、仏教本来の解き方があり、それは、ちがうぜ、と思うことも多々あって当然です。

しかし、雅春先生は、著書「無門関解釈」の凡例に、

1、本書は禅宗第一の書「無門関」に、日本的新解釈を与え、、、、、

1、本書は、萬教帰一の日本学的立場から、仏教の各公案を解釈し、更に処々に聖書のイエスの語を引用して、
 東西の真理は、畢竟一に帰する所以(ゆえん)を明らかにして、神仏耶の三教が、派を立てて争うことなく、

 一億一心一真理に帰一して、そのとき、その場、その人、各々持ち場に就いて、国家に尽くしうる原理を
 提供せんとするものである。


というように、私は、日本的新解釈で、書きますからね、と前置きしてから書かれておられるのです。

ですから、安谷白雲老師が、批判してると言われても、それは、そうでしょね。
解釈の仕方が、違うのですからというしか、私には、このことは難しすぎてわかりません。

166志恩:2012/02/06(月) 04:54:52 ID:.QY5jUA6
難しすぎても、そうですが、
著者、雅春先生ご本人でしたら、別の真意のご説明があるでしょうけれど、
私は、ご本人でないから、答えようが無い、という事です。

167志恩:2012/02/06(月) 05:07:42 ID:.QY5jUA6
そして、どうしてこんなにまで
ももんがさんは、雅春先生について、過ちがあるだの、糞の役にも立たない本だと言ってた等、書き込んで
雅春先生の、品格を下げようとしているのか、その真意も、はかりかねます。

168トキ:2012/02/06(月) 10:11:09 ID:xQ8phuq.
 最近、立川談志がなくなられましたが、亡くなる直前、石原慎太郎知事が彼に電話をかけて

「おい、談志、もうすぐ死ぬんだろう。ざまあみろ」

と言ったと電話で話をしたと本人が言っていました。知らない人が聞いたら、何という暴言だと
怒るところですが、二人が永年の親友である事を知っている周囲は問題にしませんでした。

 私は、安谷老師という方には面識が全くないので憶測になりますが、禅の僧侶の中には、そういう
言い方をする人はいるみたいです。赤尾敏氏なども谷口雅春先生の悪口を書いていて、あきれた事が
ありますが、考えてみれば、みんながみんな、谷口雅春先生の真意を理解できる訳ではないと思います。
また、世間には口の悪い人がいて、そういう人の発言が伝聞で伝わると、内容や雰囲気が変わる場合も
あると思います。

 かって、某新聞社が谷口雅春先生の悪口をかき立てた事がありましたが、その後、社主が谷口雅春先生
の真意を知って、わざわざ謝罪に行かれた、という話もあったそうです。

 ただ、安谷老師という方が禅の世界では偉い人だとしても、谷口雅春先生をはじめ、外界の人の批評
ばかりしているようでは、多様性や寛容を要求するこれからの時代には即応できないような印象を
持っています。

 しかし、案外、安谷老師ご本人は好人物で、悪口は言っているけど、それなりに谷口先生を認めているような感想も
あります。

合掌 ありがとうございます

169うのはな:2012/02/06(月) 18:46:18 ID:El6gIMAw

訊け管理人さんの擁護代表 志恩様

 本流復活宣言掲示板 葵 新吾 様の「志恩さんへ」という文章をお読みください。

170うのはな:2012/02/06(月) 19:09:55 ID:El6gIMAw

 教育は国家百年の大計

 私の父親は、今はコスモ石油となっているが当時の大協石油に勤めていた。
市にある製油所長を六年間務めていた。その当時、私は東京で一人住まいをしていたが、
正月には四日市の両親の元に行った。私の母親は、生長の家の谷口雅春師が四日市に講演に
来られた時にお話を聞きに行っており、その折りに母親が『生命の實相』の一巻を購入して
持っていた。
当時、私はその本を読んで感ずるところがあった。それで東京に帰った時、原宿の生長の家本部を
訪れ、『生命の實相』全四十巻を買い、大変感動したのである。この本との出会いによって、私は
これまでの唯物的価値から心を大切にする唯心的価値観に変っていったのである。
そして自己への信頼が深まっていった。中でも次の言葉が私を大きく成長させてくれた。
「日本人は昔より、天照大御神を皇室の始祖と仰いだだけではなく、一人ひとりを天照大御神の息子、
娘として、日子命、日女命と称してきたのである」
 だから、日本人が本来持っていたところの「神の子」観に目覚め、私たち一人ひとりが、その神性を
発揮できるようになれば、大変良い世の中になるのである。政治は、その神性を見詰め努力していける
環境を整えることである。そしてなにより健全な人間観を涵養する教育が大切である。

 教育は国家百年の大計と言われるとおり、極めて大切なことである。
戦後の日本がこのように自国の歴史・文化・伝統を省みない、魂のない国になってしまったのも、
先人、先祖を貶め、愛国心を教えてこなかった日教組リードの戦後教育が大きな原因である。

後略

『平沼赳夫の本懐』 平沼赳夫 先生著  光明思想社

171役行者:2012/02/07(火) 08:26:14 ID:ZtqzBGSY

 >ももんが様、トキ様、志恩さま

 私は、ももんが様の下記投稿文に関しまして、賛同しております。
 安谷老師はするどい指摘をされるなと、ももんが様が投稿する前々から思っていたのです。


 >安谷老師は、雅春先生が、『問題の題意を勝手に変 更して、それに、答えを着けた 』と言われて、雅 春先生を叱っているんす。
  こんな事を、言うと、また、怒る人もいると、思い ますが、安谷老師は、雅春先生対して、自分の室内 に、独参に来て、本当の目を養えと、言われいるよ うに、私には、読みとれます。
 安谷老師の親切心でしょ。<


 ここまで雅春先生に対して酷評はできませんが、
「悟られ、多くの大衆の方々を良き方向に導き、救済運動を展開している日本では一番マトモな新興宗教を、この戦後日本によくここまで定着して下さった」と、既成宗教のなかで深く真理究明に命をかけてきた安谷老師だからこその、謝意も言葉のニュアンスから私は感じ取れました。
 この箇所は前々から、疑問に思っていたところで、見事、ももんが様が指摘くださいましたので、ついつい拙い感想を述べてしまいました。
 


 雅春先生の解釈に対して、安谷老師が評する。以下文章。

 【『口に樹枝を噛み、手に枝をよぢず、脚、樹を踏 まず、樹下にあつて西来意を問はん……』と云うの が、何故に進退両難であるか。
 手が枝に触れなかつ たら、みづから能動的に手を動かして枝を握れば 好いではないか。
 枝を握つて口を離して、さてそれから祖師西来意に就て応答すれば好い。何処にも事 実上進退両難はないのである。
 『進退両難の原因は 手に枝をよぢず』と自分自身の本有の自由自在の 力を限ってしまつたところにある。云云。】


 上記が雅春先生のご文章!
 それに対して、下記ご文章が安谷老師。


 【 実に面白い解釈である。ちょうど数学の問題で、題 意を勝手に変更してしまって、その変更した題意に 適合した答えをだしたようなものだから、面白いと いうのだ。

  『手に枝をよぢず、脚、樹を踏まず』という漢文 は、『手に枝をよじては相成らん。足にも樹を踏ん でも相成らん。』ということを約束しているので あって、自己暗示や、空想上の弄戯ではない。
 この 約束のもとで、立派に西来意に答えることのできる 事実を発見させるのが、この公案の要点である。
  この要点を逃してしまて、『香厳真の杜撰、悪毒尽 限なし』という、無門の評語そのまま正直に受け 取っておられるところなどは、谷口氏のお人柄の好 いところではあるまいか。〜】

 追伸にて;

 今回の解釈に関しては確かに安谷老師の仰るとおりかと私は思っておりますが、イエス然り、釈尊然り、既成宗教にメスを入れ、新しい生命をそそぎ込む役目を担って、文章を更新する場合もあります。

 最終的には、神のみぞ知ることで、如何に人類を救済するか!ということが大切なことと存じています。

           合掌

172志恩:2012/02/07(火) 09:23:57 ID:.QY5jUA6
役行者さま

安谷白雲老師の「無門関」の中で、雅春先生が、雅春先生の著書「無門関解釈」に(171:役行者さまが、貼付)
解釈された公案の回答の,間違いを指摘されてることにたいして、

役所者さまは、今回のことは、安谷老師が、おっしゃる通りと、自分は捉えたと、
教えて下さって、誠にありがとうございました。
私には、この公案は、難しすぎて、わからないと申し上げたのでしたが、
著者「雅春先生」ご本人ではないから、雅春先生でしたら、真意はご説明されたでしょうから、とも
おこたえしたのですが、

数学に例えたら、題を変えてそれについて、回答したような、ことだ、という安谷老師のご批判は、その通りだ
ということですね。

もしかしたら、雅春先生に,安谷老師が、間違いを直接,指摘されたら、雅春先生ご本人でしたら
「そうでしたか。間違いでしたか。」と、素直に認められて,簡単に終わる話なのかもしれませんね

でも、禅関係の方が、雅春先生の「無門関..」他を、「糞の役にも立たない本だ」と言ってたということにたいしては、
どう、思われますでしょう?やはり、その通りなんだろうと、役行者様は,思われますか?
私には、これも、難しすぎて、どう捉えてよいか、判断が、わからないのです。

私は、ももんがさまが、たびたび
禅関係の方々の口を借りて、雅春先生の「過ちがある」ことや、「糞の役にも立たないと言ってた」というように、
雅春先生の悪いところだけの、1点、1点に脚光を当てて、ここへ書き込まれる真意が、分からないのです。

やはり、ももんがさまは、教団派だからだと思うのです.。
1点、1点の雅春先生の過ちだと他の人が言った点だけを指摘し、闇を際立たせ、
そうすることによって、「今の教え」は、正しいのだと主張されたいのだと思うのです。

173志恩:2012/02/07(火) 10:25:14 ID:.QY5jUA6
私は、仏教の教え自体については、以前から、難しい教えですが、
とても好意的に思っているのです。

私の,妹の一人、アメリカで仕事している人間の職場は、
仏教関係の職場ですから、それにより、親近感をいだいているということもあります。

妹は、雅春先生の仏教解釈は、日常生活に活かし易く説かれているし、仏教を分かり易く
書いてくださっているから、その他,生命の實相などからも,学び、多くの生徒さんに教える時も、
すごく、助かっているのよ、と常々私に、電話やメールで、伝えて来ている、事実があるのです。

でも、ももがさまのように、仏教の先達達は,こうも,雅春先生を批判してるとか、繰り返して言いますが、
糞の役にも立たない本だと、酷評している、そのような悪い点のことばかり、書き込まれますと、
不自然さが感じられて、なんだかな〜〜と、いやなきもちに 陥るのです。

174うのはな:2012/02/07(火) 11:25:14 ID:El6gIMAw

大調和の神示や、雅春先生が人を批判するのを許すのかと、光明思想を掲げながら
人を排除する勢力だとでっちあげては、
自分の大義名分で女信者を撃ちまくってくる。そんな男のクズでも、言論の自由、
信徒としての権利のもとにあれこれ言いたい放題に登場している以上、
ももんがさんの自由も認めなくてはならないのではないでしょうか。

175うのはな:2012/02/07(火) 11:26:57 ID:El6gIMAw

 すみません。聖典版に関係ない話を書きました。
 あとで削除をおねがいします。174と175

176志恩:2012/02/07(火) 11:36:06 ID:.QY5jUA6
 172:一行目、一部訂正

×安谷白雲老師の「無門関」の中で、雅春先生が、、
○安谷白雲老師の「無門関」の中で、安谷老師は、雅春先生が、、、

177志恩:2012/02/07(火) 11:47:21 ID:.QY5jUA6
うのはなさん

ももんがさんが、発言される自由は、あるに決まってるでしょう。
でも、雅春先生にかかわる事ですので、悪い点ばかり書き込まれるという疑問点を、発言する自由もあると思います。

疑問点は、疑問点で、言っていますが、
私は、仏教の先達の、ももんがさんに、仏教のことで教えていただこうと思いまして
「正法眼蔵随聞記」も、購入して、読みはじめてもいるのです。

178うのはな:2012/02/07(火) 12:09:44 ID:El6gIMAw
だから、疑問点を書いてよくないとはいってませんよ。

 雅春先生に背教するエージェントがシモネタ漫才をやり続けても、
それはうのはさんに関係しているようだと擁護してやる、生長の家人らしい
思いやりのある人なら、雅春先生についておかしな発言があったからといって
そんなに心配することはないだろうと思ったのです。
雅春先生の真理や正論証拠になる文献はあるわけですから。

179志恩:2012/02/07(火) 12:15:40 ID:.QY5jUA6
うのはなさん

私は、うのはなさんのいうように訊け君に,甘いです。
でもね、うのはなさんに対しても、結構甘いな、ってことが、
他の人が、見た場合、 バレてると思う。

わかってないのは、うのはなさん だけ。

182神の子さん:2012/02/07(火) 14:21:14 ID:PvqmH7IM
この女の人、本当に救いようがないですね。
ここは聖典板、ここでもやるの?そんな話を!
彼は一度謝ってます。

本当に止めてくださいね

183うのはな:2012/02/07(火) 14:38:49 ID:El6gIMAw

ほらほら、また出てきて攪乱してくると思ってましたよ、神の子さん。
神の子さんにいわれるまでもなく、上で、志恩さんに、ここは聖典版だから
他でしましょうとかいていますし、管理人さんに削除するように要請していますよ。

 大人の塗り絵でも買って、脳老化を予防してください。
 お願いします。

 それにわたしの以前からの質問に答えなさいね。

184神の子さん:2012/02/07(火) 14:50:45 ID:8.XS6TuQ
撹乱してんのどっち?バカ?

185トキ:2012/02/07(火) 18:06:57 ID:narRGotc
 お二人とも、ご静粛にお願いします。

by コウモリ

186「訊け」管理人:2012/02/07(火) 19:07:19 ID:JERRDVVQ

神の創造を疑うものは天地一切のものを疑うものである。
疑うとは信ぜぬことである。
信ぜぬとは否定することである。
否定するとは、その存在の根本について争うことである。
争うことは調和せぬことである。
調和せぬとは和解せぬことである。
神を否定し、神と争い、神と調和せず、天地一切のものと和解せぬ者が
幸福でありえないのは当然のことである。

『生命の實相』38巻40項より謹写

 人を心で憎むことと、人の悪口を言うこととは、短刀をもってその人を刺し貫くに等しい。
 善人だという人の中に、そういう人が多いというのは驚くべきことである。善人よ、みずから省みよ。われわれは人の善悪を測る標準を変えねばならぬ。

『生命の實相』37巻86項より謹写

187うのはな:2012/02/08(水) 16:41:02 ID:El6gIMAw

  生長の家とは

 われわれが子どもに対して、あるいは親に対して、舅姑に対して、あるいは
夫婦互いの間において、常に和やかな言葉を使って、和やかな表情をしておりましたら、
そこに必ず善き家庭というものが出来上がります。それを称してわれわれは
「生長の家」と、こう言っているのであります。

「生長の家」というと、われわれの教団の名前だと思っていらっしゃるか知らんけれども、
それは、本来、宗教を創るつもりで僕が『生命の實相』の本を書いたわけでも、
『生長の家』という雑誌を書いたわけでもなかったわけなんです。

 ただそれを書いた....その文章の力がですねぇ、いろいろ人生を左右し、中には
医者では治らないと言っておった病気が精神転換と同時に治ってしまう、というようなことを起した。
そして「本を読めば病気が治る」っていうような噂がひろがって、「これは奇蹟である」
ということになって、それで「生長の家は宗教だ」と世間の人が認めるようになったのであります。
 別に「生長の家」という一宗一派があるのではないのでありまして、諸宗の、諸々の宗教の神髄を
実践生活に応用することを説いているのが、これが生長の家なのであります。

 白鳩さんのための放送講話 昭和五十五年『白鳩』誌より 谷口雅春 先生

188神の子さん:2012/02/10(金) 19:46:17 ID:kcv2QXTk

人間

吾は『真理』なり、
『真理』より遣わせたる天の使いなり。
『真理』より照りかがやく『光』なり、
迷いを照破する『光』なり。
吾は『道』なり、
わが言葉を行うものは道にそむかず。
吾は生命なり、
吾に汲む者は病まず死せず。
吾は救いなり、
吾に頼む者はことごとくこれを摂取して実相の国土に住せしむ。

まず最初に「吾は真理なり」と書いてありなすが、
この「吾」というのは天使(てんのつかい)のことであります。
「吾は真理なり、真理より遣わされたる天使なり」とある。
天の使は、真理より遣わされたものですから、つまり真理そのものであります。
しかし、真理そのものは目には見えないし、耳にも聞こえない。
それで真理が人格化して天使となり、われわれの目に見え、
耳にも聞こえる姿となって現れるということになるのであります。
どうして真理の姿が人格化して出てくるようになるかといいますと、
仏典に『衆生、仏を憶念すれば、佛(ほとけ)衆生を憶念す』とあるように、
衆生が仏を憶(おも)うと仏が衆生を憶ってくださる。
迷いの人間が、迷いに苦しめられて、ああ苦しい救って欲しいと思った時に、
その救ってほしいという念が真理に感じて、そこに救ってやろうという働きを起こる。
空中電気にマイナスが起こればプラスが起こって中和しようという働きを起こす。
電気そのものは目に見えないがマイナスとプラスとが中和する時にはパチッといって火花が散る、
その火花なら目に見える。
それと同じく、神さまがわれわれの悩みを中和してやろうと顕われる時、
その働きが目に見える姿と化して現わされるということになるのであります。
けれども、それが必ず誰にも見え、誰にも聞こえる姿となるのでもない。
救ってやろうという働きは真理の発した救いの言葉、仏教で言えば弥陀の本願力である。
その本願力が霊眼、霊耳の開けた人に分かって姿が見えるのです。
また姿が見えなくとも、その人が救いの本願力を振り向けられ、真理の言葉を口で語り、
筆に現わしてゆくことにすれば、それによって多くの人が救われるということになってくるというのは、
真理を取り次ぐ人の言葉はもう、肉身(にくしん)の自分が言う言葉ではなく、
真理みずから神みずからが語る言葉であるからであります。
それを霊眼で見れば天使の姿にも見えるのであります。

(つづく)

189a hope:2012/02/10(金) 19:47:56 ID:kcv2QXTk

↑ a hope です。

(つづき)


(中略)

その浅野さんのお嬢さんがなんでも三年ほど前、
まだ生長の家のことを全然御存じないころ大変熱心なクリスチャンであられたのです。
そのころのある晩キリストの夢を見た。
夢で見たキリストは真っ白な裾まで垂れた衣服を着て立っていられ、実に神々しい姿でありました。
あまり印象が深いので浅野さんのお嬢さんはそれをはっきり覚えていられました。
その浅野さんのお嬢さんがこの前わたしの講演会に村井さんに連れられて、
初めてわたしの話を聞きに来られたのです。
その時に、浅野さんのお嬢さんがふとわたしの顔を見られると、
わたしの顔が三年前に夢にみたキリストと同じ顔をしていたというのです。
もちろん着物は異(ちが)います。
わたしはこんな、普通の着物を着ていましたけれども三年前に夢見たキリストは長い白衣の神の姿だった。
けれども、その顔がわたしとそっくり同じだったという話なのであります。
これはわたしの肉体がキリストと同じ容貌をしていたというわけではない。
真理を語りつつあるわたしの内に宿る真理がキリストの姿に現われて見えたのであります。
キリストも天の使であるかと言うと、多少前に言った天の使という意味と違いますが、
キリスト自身「吾は神の子である、天の父より遣わされたものである」と言っていますから、
父から遣わされた神御自身の分身分霊であって、それが取りも直さず、
すなわち神の子であり、天の使であるわけであります。
それでキリストは二千年前においてユダヤ地方の人間に神から遣わされた天の使であったが、
現代においては、天の使がキリストとはまた別な姿をもって現われるともいえるのであります。
神の救いは、衆生が救ってほしいというその時代の相応の姿であらわれるのです。
神は要するに時代に相応して教祖というものを遣わしたまいて、それを通じてわれわれに現われられる。
だから、すべての宗教の教祖は天の使であるとも言えるのです。
肉体はどんな服装をし、容貌をしていましょうとも、真理を語る人には真理がやどっておる。
だから、その「内なる人」は天の使であり、霊眼の見える人が見たら後光が見えたり、
キリストの姿が見えたりするのであります。
いくら神の働き―――神の救いの念波を送られても霊智、心眼の開けていない人にはそれが見えないし、
聞こえもしないのですから、それを聞くことのできる、見ることのできる人を通して、
教祖を通して、時代に相応して救いが現わされるということになるのであります。


頭注版「生命の實相」第21巻 經典篇 P154〜

19065:2012/02/11(土) 18:02:14 ID:jpmvgJz2
最近話題になってる「無門関解釈」の香厳上樹の所を気になって読んでみた。



太平洋戦争中の事である。ある日、私はいつになくAKのラジオのスイッチをひねって見たら、そこに語られている話は航空兵田中曹長の美談であった。
話の前半は聞き洩らしたので何処の戦闘の時であるかは知らない。上官下方准尉の操縦せる飛行機は不幸にしてそのエンジンの一つに敵弾を受けた。
味方の陣地に帰還するには距離が遠いし、予備のエンジン一個のみの力では力が足りずにズンズン機体が下降して行く。下方には敵軍が待ち設けていて、
飛行機が落下したら、それをろ獲し、乗組員を捕虜にしようと待ちかまえている――まことにこれこそ進退両難である。下方准尉は捕虜になり機体を
ろ獲せられるのは残念であるというので、潔く機体と共に自爆せんものと、既に自爆の準備を行っているのが田中機からは見えたのである。
田中曹長はそれを見ると大声で「自爆してはいけない。死するばかりが忠義ではない。生きられる限り生き延びて最後の一分までも自分の任務のために
尽くすのだ。低空飛行をして続く限り味方の陣の方へ引返せ」と呼ぶけれども、それは無論聞こえはしないのである。田中曹長は仕方がないから空中
に大きく字を書いてその旨を合図する。下方准尉はその合図に気が付いたものか自爆を中止して、エンジンが傷ついて浮揚力の少ない飛行機で低空飛行
を続けて味方の陣地へ引返そうとするのだけれども、機体はいよいよ浮揚力を失って、敵陣の中へ滑走状態で墜落した。田中曹長は上空から見ていると、
下方機は道なき道へ滑走状態で墜落したと見る間に、地面のでこぼこに衝突して転覆して破壊した。と、下方准尉は機から這い出て来て機密書類を焼却
していると、敵兵が周囲から集まって来て下方准尉を包囲攻撃する。付近部落の村民まで出て来て敵軍に加勢する。下方准尉は拳銃を以ってそれに防戦
するのであったが、敵は大勢であり、味方は1人であり、拳銃の弾が尽きたら万事休すである。田中曹長はそれを上空から見ていたが、加勢に自分が降
りて行って下方准尉を自分の飛行機に乗せて帰って、その急場を救いたいと思うのだけれども、適当な着陸地点がないから、もし着陸せば下方機と同様
に転覆して、もう再び空中へ舞い上がる事が出来ない。そして味方の重要な飛行機が無駄になるのだ。又たとい無事着陸しても下方准尉を救い帰るには
田中機は一人乗りだ。もし自分が救援に赴かなかったならば、下方准尉はあのまま敵の重囲に陥って戦死してしまう。それでは上官を見殺しにした
のであって、自分の日本魂が満足しない。右するも死、左するも死である。「香厳上樹」の架空的な机上の閑葛藤とはわけが違う。真にこれ如実に進退
両難である。

19165:2012/02/11(土) 18:03:01 ID:jpmvgJz2
それでは上官を見殺しにしたのであって、自分の日本魂が満足しない。右するも死、左するも死である。「香厳上樹」の架空的な机上の
閑葛藤とはわけが違う。真にこれ如実に進退両難である。その時、田中曹長は、この進退両難の世界から飛び出した。そして矛盾のないただ一筋の道
にまくねんとして突き進んだ。(私がこの講話を生長の家本部の道場でしたときに、企画部の星君が私のあとに道場で立上って、田中曹長が生長の家
誌友であって現在内地に無事帰還していて、その体験談を誌友会で述べたということを発表せられた。)かくの如き危急の世界に於いてさえも生長の家
の悟りから見るときには、「進退両難」などというものはないのである。肉体は本来無く矛盾も本来無い。着陸地が無いということもない。
「着陸地が無い」ということは、ただ心の世界に空想に描いた閑葛藤に過ぎないのである。着陸の必要がある限り、着陸地は到るところにあるのである。
田中曹長は空想に描いた「着陸地なし」の閑葛藤を見事に切断して、敵兵の群る頭上へ滑走状態で着陸した。敵兵は逃げまどう。滑走する田中機の
下敷になって戦死する敵兵は無数である。閑葛藤を見事に切断した田中機は、見事敵兵が虚をつかれて退くところを、下方准尉に応援し、既に疲労して
ふらふらになっている下方准尉を「上官殿、私の飛行機に乗って下さい」と負うようにして、その一人乗りの田中機に乗込んでエンジンにスタートをか
けた。もう進退両難などは田中曹長の前にはないのである。「一人乗りの飛行機に二人乗らせては飛行出来ない。飛行出来なかったら戦死か捕虜かどち
らかより仕方がない。この場合どうするか。」――香厳和尚ならば、こんなことを進退両難の葛藤の公案としてひねくりまわすかも知れないけれども、
実は進退両難などは空想上の弄戯に過ぎないのである。二人を乗せた一人乗りの田中機は無事離陸して味方の陣地へ帰還したのである。だから無門が、
こんな進退両難を公案に持出すなど「香厳真の杜撰、 悪毒尽限無し」と酷評したのも無理はないのである。



この「無門関解釈」s39(1964).11.22に掲載されている内容は「太平洋戦争中の事である。」と書かれてあるので最初の版である「無門関の日本的解釈』
1940(s15年)10.20には載っていないのだろうか。また「太平洋戦争中の事である。」という一文は満州版『大道無門』康徳10(s18年).4.25には載って
なく、s39(1964)の版で加筆されたのだろうか。

192うのはな:2012/02/11(土) 19:41:33 ID:El6gIMAw
現代かな変更筆写 投稿者記

  昭和十五年四月九日午後二時より 名古屋公会堂に於ける講演の速記

 昨年議会を通過しました宗教団体法がこの四月一日から実施されることになりまして、
生長の家はこの宗教団体法によって、宗教であると認められて文部省の管轄に入ることになったのであります。
 実は、生長の家は『教化団体生長の家』と云う名前によりまして、もう一年半ばかり前から届書を拵えて当局の
方へ出してあったのであります。東京府を通過いたしまして、文部省へ参りましてから、文部省の見解では、
生長の家は教化団体と云うよりも宗教の団体である、左様に見る、と云うような見解がございまして、そこで暫く
その届書が文部省で滞っておったのであります。

 生長の家本部の副理事長の秋田子爵、それから係の中神学と云う人達が文部省へ参りまして、稲田宗務局長その他の
係の人たちと色々交渉したのであります。
 宗教団体法によりますと、宗教と云うものには一定の『教義』がなければならない、それから
『儀礼』を行うものでなければならない、それから『本尊』がなければならない、本尊として奉斎する神様、又は安置するところの
佛がなければならない、そう云うものがなければ宗教でないと云うようになっておりまして、宗教団体法によるところの届書には、
教義と、儀礼と、奉斎神又は安置佛と云うものを書くべき各欄が設けてあるのであります。

つづく

193うのはな:2012/02/11(土) 19:56:37 ID:El6gIMAw
192続き

 ところが生長の家は、教義と云っても生長の家独特の教義がないのであります。
ないと云うとおかしいけれども、生長の家は佛教の話もする、お釈迦様は斯う云うように被仰ったと
云って、佛教は斯う云うものであると云って話もする。またキリスト教は斯う云うものである、耶蘇はこう被仰ったと
云って話もする。また金光教の教祖は斯う云われた、天理教祖は斯う云われた、日本の『古事記』には
斯う書いてある、老子には斯う云う事が書いてある、孔子は斯う被仰ったと云う風に、色々の教を一つにして説いて、
相手に随って自由無礙に方便自在の説教をしているのでありますから、一定の生長の家の教と云う教義と云うたらどんなものだと
云われると困るのでありまして、生長の家独特の教義と云うようなものがないのであります。

 後略

『超宗教を建つるまで』 谷口雅春 先生著 光明思想普及会 発行

194うのはな:2012/02/13(月) 15:35:30 ID:El6gIMAw

 招神歌の第一首の歌には、『生きとし生けるものを生かし給へる御祖神元津霊ゆ幸へ給へ』
とあります。あの『生きとし生けるものを生かし給へる御祖神』と申上げるのは、これは宇宙大生命で
あります。『古事記』に書かれているところでは天之御中主神であり、光華明彩、六合の内に照り徹らせる大神として
顕現ましましたのが、天照大御神であらせられ、人体を備へ給いて現人神としてお現れ遊ばした神様は、天皇様であらせられます。

 この天之御中主神 天照大御神、天皇様のお三方は一体であって、吾々の、否、生きとし生ける者の御祖神様であらせられる。
吾々はその赤子であって御祖神の子であります。吾々が天皇の赤子であると、申すのは斯う云う意味であります。
吾々、生きとし生けるものが幸福である、サイハヒであるとは、御祖神の大御命の割き生えによってのみサキハエとなるのでありますから、
幸福のことを『サキハエ』と云い、転じて『サイハヒ』と申すのであります。

 吾々の幸福は一に 天皇陛下の御仁徳に懸ってあるのであります。
天皇陛下なしには吾々のサイハヒはないのであります。

195うのはな:2012/02/13(月) 15:51:01 ID:El6gIMAw
194続き

 さて宇宙大生命とは天皇様であらせられることがわかりましたが、『招神歌』の
第四首に『天地の御祖神の道を伝えんと顕れましし生長の家の大神守りませ』と云う歌があるのでありますが、
天地の御祖神の道、宇宙大生命の道を伝え導いて東道の役目を果す神が生長の家の大神であると云うことが、この
第四首の歌に現れているのであります。

 そういう風に生長の家の神様は御祖神様のお道を明かにし、道案内をし、日本国体を明徴ならしめ、日本の国威を輝かすために
出現せられた神様であらせられ、その神様が支那事変、世界の大動乱に先立って現れいでたと云うことは、日本国が丁度、神武天皇様の
御東征時代とか、神功皇后様の三韓征伐時代とか云うのに匹敵する大事変に際會しているからだと思われるのであります。


『超宗教を建つるまで』 谷口雅春 先生著P401〜  (現代仮名に投稿者変更)

196うのはな:2012/02/13(月) 17:19:22 ID:El6gIMAw

英国の大詩人ブラウニングは、真理に達した人だけあって次のように歌っています。


 叡智と云うものは常に内にある、どんなに外のものを信じようとも
 外のものからは叡智は湧いて来ない。
 吾々にはその内奥の深い処に中心がある。
 その中心に無限の真理が宿る、
 その真理を発掘すること、
 それを吾々は叡智を汲み出すと云うのである。

 神は自己の内に宿る、真理は自己のうちに宿る。自己のうちに、神が、
 叡智が、真理が宿っていないで、神とか、叡智とか、真理とか云うものが
 自己の外にのみあるものならば、人間は永遠に自由になることは出来ないでありましょう。

 神とか真理とかに従うと云うことは、吾々自身が『外』から縛られることになりますので、
 吾々は決して自由になれないのであります。神とか、真理とか云うものが自己の『内』に埋蔵
 されている真性であるからこそ、神に従うと云うこと、真理に従うと云うことが、自己に埋められている
 真性を伸び伸びと外に出すことになるのであります。

『百事如意』 谷口雅春 先生著    (原文は旧仮名)

197うのはな:2012/02/13(月) 19:22:43 ID:El6gIMAw

 感謝行は同時に深切行である。ひとの為に尽したら自分の生命力が減ると思うのは
迷信に過ぎない。誌友某氏は眼病の中でも最も難症だと云われている網膜剥離症に罹って
いられて、聖典『生命の實相』の細かい活字を読むのに、自分の為に読むのだったら、一頁半も
読めば眼底と後頭部とに苦痛を感じて読むに堪えないのである。

 それだのに驚く勿れ、他の病気を癒してあげたいと思って『生命の實相』を他に読んで聞かせる段に
なると、一時的にその眼疾が癒って了って、連続四五十頁を読んでも眼に痛みを感ぜず、
読後また眼の疲労を少しも覚えないのである。『生命の實相』は自分の悟りのために読むのも結構であるが、
他の悟りのために読んで聞かせてあげるのは一層結構である。

 自分のためでない自他一体の無限生命力が発現し、自分のためでない所に自他一体の無限の悟に到達する。
まだ病気が顕れているのは働きに利己主義の心持が混るからである。自分の病気が治ったら他を救ってあげようと思っていては
機会がなく他を救っている間は病気は治っているのである。
永久に他を救っていれば永久に病気はない。

 月刊『生長の家』の巻頭言より 谷口雅春 先生

198うのはな:2012/02/13(月) 20:19:37 ID:El6gIMAw
  「生長の家」誌をよむ

 もう一つの癌の例をあげると、福岡県三潴町玉満に住んでおられる光延普治さん(五十七歳)は
縫製業を営んでいて、昭和五十九年に入信した。それ以前腸閉塞でひどく苦しんだからであった。
昭和五十八年十一月九日に一回目の手術を町内の病院で受け、二回目の手術は同年十二月十九日に
久留米大学病院でうけたのである。
 しかしここではもう直腸癌と診断されていた。本人は二回も腹の手術をするのはいやだったので、
何とか切らずに治してほしいと訴えたが、「奇蹟が起らない限り無理です」と言われて手術した。

 翌年七月になった時、光延さんは病名も腸閉塞から直腸癌に格上げされていたことを知った。
それは大学病院が保険会社に出すための診断書を本人が見たからである。
奥さんが抽斗の奥深くにかくしてあった書類を見て、「癌」と知った時、彼は目の前が真暗になり、早速
「酒を持ってこい、俺はどうせ死ぬとやけん!」とわめきちらした。
以来すっかり絶望的になったので、一時食事がのどを通らなくなり便にも血が混るようになった。
あまりにも家族に当り散らすので、光延さんの枕元には誰も寄りつかず、家全体が真暗闇になった。
あとで分ったことだが、手術した医師は、すでに手遅れであるが、本人には気付かれないようにと注意していた
末期症状で、その後自宅療養をしていたのである。

 しかし光延さんにはまだ良識があった。そこでこんな状態ではいけない、何とかしようと思い立ち、ある日妻子を
枕元に呼びよせてこう言った。
「俺がバカだった。もうクヨクヨせんけん、気を取り直して、元気になって見せる。心配すんな」
しかし内心は果していつまで生きられるか、と大変不安であった。一体元気になるには、どうすればよいのか・・・と
考えた時、フト大川市に住んでいる従兄弟の岡敏巳さんが信仰によって元気になった実例を思い出した。
そこで早速岡さんの話を聞くことにしたのである。すると岡さんはこう言うのである。

 つづく

199うのはな:2012/02/13(月) 20:58:01 ID:El6gIMAw
198つづき

 「何年か前、俺の病気がよくなった時、お前は、神さんで病気が治るはずはないじゃないか。
それは治る時機が来ていたから治ったのだ、といって笑っていたそうじゃないか。俺が話したって、
あんまりよく分らんだろうから、とにかくこの本を読め」
 と言って。くれた本が、「生長の家」誌の五月号であった。それまで光延さんは、生長の家の名前も
噂も全く知らなかった。しかし最後のドタンバに追い込まれていたので、その雑誌を何十回となく繰り返し読んだのである。
すると何とも言えない悦びと力が湧いて来る。人間は神の子で、死なないいのちである。
無限の力が隠されている....そんな言葉が彼の中の潜在力をぐいぐいと引き出してくれるような気がするのであった。

 こうして日が経つうち、不思議なことに、今までの病気に対する恐怖心がなくなってきた。
と同時に、病気は神の作品ではないから、治るのは当り前だ、という気がして来たのである。
そこでその雑誌の九十六頁に書いてあった所番地の中で、一番近くの大牟田の生長の家の道場に電話してみた。
話を聞きに行くから道順を教えてくれとたのんだ。すると、「明日来るくらいなら、今すぐ来なさい」という
適切な返事が返って来た。これは何事にも大切なことで、思い立ったらすぐやることである。
明日、あさって...と延ばさぬことだ。チャンスは常に、今、ここにあるということを知らねばならない。

 そこで光延さんは、早速教えられた道順を通って大牟田の道場に行き、金沢講師に面会して話をきいた。
すると明後日から練成会が始まるからいらっしゃいとすすめられ、手引書をもらった。
そこで念のため、「練成会を受けたら、助かりますか?」ときいてみたのである。
すると金沢先生はニッコリと笑い、「もうあなたは助かっとるじゃなかね。あんたがここに来られたということは、
神の導きによるのです。だからもう既に救われているのです」と答えられた。
光延さんは家に帰り、この旨を岡さんに伝え、「練成会とは、どういうことをするのか?」と聞いた。
「それはよかった。練成会は、行ったら分る。俺もすぐあとから行くよ」と答えてくれた。

 それまで病気で九ヶ月間風呂にも入れず、毎日おかゆばかり食べていたが、練成会へ行って出される食事は
普通食である。それを食べて、風呂にも入った。すると練成会に行くまでは、一日に五回から十回血の混った軟便を
していたのに、練成会の五日間は、全然便が出なくなった。個人指導をうけた結果、それまで全く妻に感謝しておらず、
怒鳴りつけてばかりいたことを深く反省して、ポロポロと涙を流した。
そして度々便所に行っては心から泣いたのである。すると次々に涙があふれて止まらない、
せい一杯泣きつくしたのである。

 そのうち急に便意をもよおし、何年ぶりかで気持ちのよい固形便が一杯出た。
血も何も混ってはいないのである。こうして八ヶ月というもの、どうしても塞がらなかった手術の傷も
塞がり、以来めきめきと健康度を増した。すると毎日がたのしく嬉しく有難い。
生き甲斐が出て来て、無限の力が湧き上がるのである。こうして今では、光延さん一家は家族中で仲よく
大調和し、明るい日々を送りつつ愛行にもはげんでおられるのである。


 『限りなく生きる』 谷口清超 先生著

200うのはな:2012/02/14(火) 15:17:53 ID:El6gIMAw

 想念によって人々を援助することができる

 あなたが現実に金銭や物質を援助することによって人を救けることができないでも、
想念の世界に於いて、その人に神の祝福が雨降るように注ぐことを心に描いて祝福してあげることによって、
あなたは心の世界で、その人を祝福し援助することができるのである。

 それは遠隔治療の一種であって、実際それが現実世界に効果をあらわすことも出来るのである。
私は神想観の時に常に誌友のために祈っているのである。その“救い”又は“祝福”の念波を受信して、
感度の強い人のうちには、肉体ではまだ私の姿を、写真でも実物でも見たことがないのに、
夢の中に私があらわれてその人を祝福する光景を見たりするのである。

 『女は愛の太陽だ』 谷口雅春 先生著 昭和48年初版発行 日本教文社

201うのはな:2012/02/15(水) 16:45:18 ID:El6gIMAw
 この体験は何を教えるか

「私はブラジルに来て、大いに成功するつもりでやって来たけれども失敗しちゃって
無一物になった。死ぬよりほかにしかたがないと思って、リオデジャネイロの海岸であるコッパカバナ浜と
いうところにきた。ここは海水浴で有名ないい景色のところです。そのコッパカバナ浜の一番深そうなところへ
飛び込んで自殺をはかった。それで意識を失ってしまったのでありますが、州の慈善病院のベッドの上で目を覚ました。
そこで看護されて健康を回復したのですが、無一物であるので、病院を出るとき、当座の生活費を恵まれ、街をふらふら歩いて
いると古本屋があった。そこに引きつけられるようにして中に入っていったら、その正面に『生命の實相』という本が目についた」

 これは日本版の僕の本でありますが、「それを見つけて急に買いたくなってそれを買った。そして読んだ。読んで、『人間神の子』という
自覚を得たらたちまち私は大金持ちになっちゃった。今では三つの植民地をもっているんです」

つづく

202うのはな:2012/02/15(水) 17:06:59 ID:El6gIMAw
201続き

 この人は、こういう体験談をして演壇を降りた。『生命の實相』を読んで“神の子”という
自覚を得て一ぺんに大金持ちになって三つの植民地をもっているという。植民地というのは、僕はある
国家がアルジェリアとか、東南アジア方面に植民地をもっているというので僕は驚いたけれども、その話は
まるで手品みたいな話で、一体『生命の實相』を読んで、どうしてそうなったのか、その途中がわからない。
これでは体験談にも何もならんと思っておりました。さて、翌朝、次の講習会場へ行くために、わたしは朝の八時頃
飛行場へでかけました。するとその男がわたしを見送りに来ておりましてわたしと顔を合わせたので、
「君、きのうの話だがね、あのままでは体験談にならんよ。『生命の實相』を読んだら一ぺんに大金持ちになって、
植民地を三つも有ったというのでは良く分らない。だからその本を読んでから植民地をもつまでの詳しいいきさつを
話してくれたまえ」といいましたら、

「『生命の實相』の本は、神がお書きになった本であるから、あれを読むとインスピレーションに従って、私はこのマットグロッソ州の
知事に対して、広大な地面の払い下げの願い書を出したのです。しかし、自殺するほど貧乏なのですから代金も何もないんですね。しかし、
“その時代は三ヵ月後に必ず払います”という誓約書を出したら知事から許可になった」というのです。

 ブラジルは一つの州が日本全国ほどの広さがあって、大体日本の二十四倍ほどの面積なのです。そして各州では、広い原始林みたいなところを
開拓してくれる人間が入ってくることを歓迎しているわけであります。それでそういう計画にサインして、そこに
日本からくる植民をそこに入れて、開拓してくれるなら、安い値段で払い下げようというわけなんでありますね。
こうしてこの人は広大な地面を手に入れたのです。それを日本人にその三分の一ほどを分譲すると、払い下げてもらった値段の十倍ほどの値段になるのです。
そうしたら地代を払ってもあまりがあるのです。

つづく

203うのはな:2012/02/15(水) 17:26:31 ID:El6gIMAw
202続き

「そこで私の持分は、」とその人はいうのです。「三分の一だけ売ったんだから残りの三分のニの地面は私のものである。
まあそういうことで植民地を一つ所有した。次に同じような方法で、また他に二ヶ所の植民地を手に入れ、それが全部私の所有に
なっているのです。ところが、そういう土地は農地にしかならない上に、その三つの植民地は互いに離れているので、それを連絡する道路を
つけたいと思ったけれども、個人の力では道路がつけられない。それで、そのマットグロッソ州の知事に対して、こんどは国道をつけてもらいたいという
請願をしておきましたところ、先生がおいでになったその日に、知事からその請願の許可がきたのであります。
そしたら、今までは、農地にしか使えなかった安い地面が、国道がつくということになると商工業地帯になるものですから、時価が暴騰するということになって、
私は“無限の富者”になるんです」

まあこういうように自覚が変ると人生に失敗して身投げした人が“無限の富者”になるのであります。
だいたい、“富”というものは、吾々が神から智慧を受けて、それを実践に移すとそれが富に変るというわけなのであります。
もっとも、それは神様の智慧であるから、ずるいことをして儲けるとか、例えば、ある大商社が米を買い占めて、米の値段をつり上げて儲けるというような
ものではないのでありまして、国家目的に従って、不毛の地を開拓して、国家のためにもなれば、そこへ植民として入ってくる人のためにもなるし、
自分のためにもなり、みんなを生かす。
これが神様の智慧であるわけなのであります。


『生命の根元を培う新しき教育』 谷口雅春 先生著 新教育者連盟編

204うのはな:2012/02/15(水) 20:30:12 ID:El6gIMAw
 天の岩戸を開く祈り  谷口雅春  日々読誦毎月真理経

 われ今、聖なる神の宝座の御前に坐し、われに尊き使命を授け給えと祈り奉る。
 ここに神われに使命を授け給えり。神は今その神名を明らかにしたまいて
 “われは天照大御神の御出現のみ先祓いとして地上浄めのため、宇宙創生の根元神にまします
 天御中主大神より遣わされたる住吉大神なり”と宣り給う。
 住吉大神は宇宙創生の根元なる創生の底にましますゆえに、われら是を称えて竜宮に在す大神と
 崇め奉る。この大神、宇宙浄めのために一神にて上中底の三神に分れて創造の秩序を明かならしめんが
 ために上筒之男神・中筒之男神・底筒之男神と顕われ給う。
 この大神の御働きにより悪平等の混沌の世界は破れて生命創造の上・中・底の秩序整いて此の世浄まり、
 天照大御神生れましぬ。
 宇宙浄めとは上・中・底の秩序が確立せられることにして“汚れる”とは上中底の秩序がみだれて、底にあるべき
 ヘドロが上に昇り、上にあるべき浄水が底に沈み、上下の秩序失われ、唯、平等に味噌も糞も同じ位置にあることを
 要求し、瀬戸内の海に魚の棲みにくくなるが如く、世界の秩序みだれて生命の中心原理が姿を没し去ることをいうのである。
 かくてひとたびは浄まりたる此の世の秩序みだれ、生命の大海濁りて泥海のごとくなりて、生命の中心原理没し去る時来りぬ。
 これを称して天照大御神の天之岩戸隠れというのである。
 ここに於いて、世界混沌とし、中心は失われ、上下の秩序なく、百鬼夜行のみだれたる姿を顕じ、再び宇宙浄化のため、
 住吉大神出御し給う時が来たのである。されば、住吉大神われに宇宙浄化の使命を授けたまいて、われを全人類に住吉大神所伝の
 真理を放送するための聖なる放送アンテナとならしめ給うたのである。
 われ今、住吉大神に導かれて竜宮無量寿のいのちを授かり、神は善にして、神は渾てにましますが故に悪なる存在はひとつとして
 存在せざる真理を授かり、すべての人間は“神の子”にして互いにみな親子兄弟姉妹なるが故に争いも憎しみも本来なく互いに扶け
 慈しみ合い、愛し合う真理を授かり、それをわが身に於いていま増幅せしめられ、強化せしめられて、人間本来無量寿のいのちの真理と、
 天地の一切皆善の“知”の真理と、人間をはじめ一切の生物ことごとく親子兄弟姉妹なる“愛”の真理とを全人類に対して放送するのである。
 この放送を受くる者、我に頼る者、生長の家に頼る者、神縁ある者、仏縁ある者、人縁あるもの悉くこの放送を受けて心身浄化せられ、今より後、
 病ある者なく、貧しきものなく、悲しみは喜びに変り、欲する善きものは悉く備わりて不足なく、争いと戦いとは止み、人類にことごとく相和し、
 手をたずさえて大神の御許に来詣し大神をたたえ奉る。天之岩戸ひらかれ、再び天照大御神出御ましまして天地ただ歓びの光にみたされ、
 地上に天国生れましぬ。ありがたきかな。ありがたきかな。

205うのはな:2012/02/15(水) 22:32:54 ID:El6gIMAw

あなたが人に与え得る贈り物で最も尊いものは何ですか。
それは物を与えることでも金を与えることでもありません。
愛念を送ることです。祝福の祈りを送ることです。
あなたの愛する人々を心に思い浮かべて、「神の愛があなたを護っておられます。
神の与えたまうた幸福があなたを取巻いています。如何なる禍もあなたには近づいて
来ることはできません。あならは神に護られて平和と歓喜に満たされております」と
祈ってあげなさい。その祈りが深まれば実際その通りになるのであります。
あなたを愛する人たちだけにではなく、あなたの愛していない人々、憎んでいる人にさえも
愛念を送ることは結局愛念をあなた自身が受けることになるのです。

『真理』第七巻332頁 より  谷口雅春 先生著

206うのはな:2012/02/20(月) 14:40:58 ID:El6gIMAw

   『間』に生命が顕れる

 本当の美は、個々にあるのではない。メーテルリンクの戯曲の科白は、言葉と言葉との間(ポーズ)で
魂を語らせたが、何によらず本当の美は『個』(ひとつ)それ自体にあるよりも一層多く個と個とを結び合わす
『間』にあるのである。一個の音韻はそれほど美しいとは云えないが、それが他の音韻と結び合うとき、
一個の音韻それ自身が有たない美が音韻と音韻との『間』に出来上るのである。

色彩でもその通りである。二つ以上の『間』にあり、美術も『間』にあり、人間の生活も『間』にある。
『人間』とは誰が云い始めたのか知らないが、人間の生活は一個人にあるのではない。
個と個とが結び合った『間』に人間の生活があるのである。

 眼が見え、感覚に映ずる肉体の人は皆離ればなれの存在であるが、これは朽ち行く虚假不實の存在であり、
本当の人間ではない。實在である人間は此の感覚に見える現象存在の『間』にのみ顕れるのである。
感覚的存在を通じて實相が見えるのではなく、感覚的存在との『合間』に實相人間があらわれるのである。
此の『合間』を描くのが芸術であり、此の合間を生きるのが『愛』である。

『百事如意』 谷口雅春 先生著 P33

207うのはな:2012/02/20(月) 23:30:29 ID:El6gIMAw
谷口先生は世界の聖者 ビクトリア真理センター牧師 エンマ・スマイリー

 本日(4月20日)は、カナダのこの地域(ビクトリア)がここに最も喜ばしい体験を
持とうとしています。それは二つの国が愛と友情とによって結ばれ様としているからです。
谷口先生は、いついかなる時にも、平和の御使いとしておいでになられる。
現に、今、ここに、こうしてわたくし達の前においで下さっておられます。

 私が幼い頃、母は、日本が世界で最も霊的な国となるであろうと常に予言的に申しておりました。
当時、私は、母の言うことがよく理解できませんでしたが、今は、それがよくわかります。
谷口先生は日本において42年の布教を通じて何百万という人々を教化され少なくとも1200万の人々が
先生のみ教えにふれ、そして世界の人々にも福音を与えておられます。
まことに谷口先生の出現により私の母の予言が実現しつつあると私は信じて疑いません。

 谷口先生は何物も求めず、ただ真理を与えるべくおい出になれれた。
この様な方がおられるでしょうか.....私は神に感謝せずにはおられません。

『真理は民族を超えて』 昭和47年9月1日発行 発行者 中林政吉

208:2012/02/25(土) 20:05:37 ID:UidMI2Xk
>>190-191の話

「昭和十四年一月下旬の某夜八時半頃、」→「太平洋戦争中の事である。ある日、」
「天皇陛下のために尽くすのだ。」→「自分の任務のために尽くすのだ。」
「そして此の陛下の飛行機が無駄になるのだ。」→「そして味方の重要な飛行機が無駄になるのだ。」
「現在内地に昇進帰還してゐて」→「現在内地に無事帰還していて、」



古本屋で入手して見比べたところ書き変えられていることが判明。
「無門関の日本的解釈』(1940昭和十五年)10.20が左側で矢印右側が「無門関解釈」(1964昭和三十九年).11.22。
この話は日中戦争(1937昭和十二年〜)中に中国で起こった出来事のようだ。

209:2012/02/25(土) 20:19:08 ID:UidMI2Xk
>>190-191の話で上記以外は仮名使いなどが違うだけで文章は同一。

210a hope:2012/03/05(月) 15:15:20 ID:kcv2QXTk

本流宣言掲示板の伝統さまの記事「神想観なるかな」より抜粋させていただきます。


―――――――――――――――――――――――――――

聖光録「毎週の反省」〜日曜の反省「光明と暗黒」を掲示し、
今日(日曜日)の反省に生かしたいと思います。


「光明と暗黒」

君は絶えず暗黒を撒いて歩く
不快な人間を見たことはないか、

君は眉をひそめた
悲しい表情の人々に接したことはないか、

君は表情が、
どんなに伝染力の強いものかを
経験したことはないか。


悲しい表情をした人間は
悲しみを撒いて歩く、

不快な表情をした人間は
不快を撒いて歩く、

それは黴菌を撒いて歩くよりも
尚大きな罪悪である。


また君は絶えず光明を撒いて歩く
愉快な人間を見たことはないか。

君は絶えずその唇に
幸福な微笑をだだよわし
逢う人毎に
幸福をうつして歩く人間を見たことはないか。

君は表情が
どんなに伝染力の強いものかを
経験したことはないか。


君は与えるものがないことを
嘆いてはならない。

君は与えるものがなくとも
幸福な表情を与えることが出来るのだ。

子供の顔を見るとき
良人の顔を見るとき
妻の顔を見るとき

兄弟の顔を見るとき
姉妹の顔を見るとき

八百屋に挨拶するとき
風呂場で知った人に遇うとき

君が幸福な表情さえすれば
君は幸福を与えて歩く。


幸福な表情をした人間は
幸福を撒いて歩く、

愉快な表情をした人間は
愉快を撒いて歩く

それは物を与えるよりも
一層好い贈り物であるのだ!

―――――――――――――――――――――――――――

わたしは、これを拝読したとき、この「愛行」だったら、お金がなくても、時間がなくてもできる!
と心からうれしくなりました。

そこで、他の曜日の反省も見たくなり、聖光録(平成17年発行)を確認したのですが、
わたしの聖光録には、この「毎週の反省」が見当たらないのです。
日曜の反省があるのなら、月曜の反省〜土曜の反省もあるのだと思うのですが...
どなたか、御存じでしたら教えてください。

211SAKURA:2012/03/05(月) 17:05:29 ID:EUALcDkQ
a hope 様へ

素敵な「日曜日の言葉…」ありがとうございます…。
当に「言葉…神なり」です〜〜ネ!

■【聖光録・・・】 
昭和28年 1月1日 初版発行 
雅春先生時代のものでしたら…月曜日から土曜日までの
【毎週の反省…】に記載されています〜〜〜ヨ!
かなり古い信徒の方々でしたら、おもちの事と思いますが…

月曜日  朝の時間を生かせ…  
火曜日  背水の陣を布け…   
水曜日  生命の兩輪…     
木曜日  生きた生命       
金曜日  「今」を生かせ…   
土曜日  吾既に世に勝てり…  

上記のような項目にて… 先生が指導してあられますが…
(私にて…参考になりましたでしょうか???)

PS:私の手元の聖光録は…昭和42年度版…です。この時代までは…??
  月曜日〜土曜日まである様ですが…??そうそう!!日曜日も…!
  (とりあえず…月曜日…後程…投稿しますネ。)

212SAKURA:2012/03/05(月) 19:13:17 ID:EUALcDkQ
トキ様 へ
皆様〜 へ
a hope様 へ

聖光録
■月曜日の反省
 ――朝の時間を生かせ――

諸君よ、諸君自身が生長の家の人となり諸君の家を「生長の家」としようと
思ふならば朝の時間を巧みに生かせ、凡そ時間を巧みに生かす者は自己の
生命を生かすものである。何故なら吾々の生命は時間的継続そのものであるからである。私のやうに朝の時間を巧みに利用することによって二重に生きることが出来る者は
仮りに五十年の生涯でも百歳を生きたと同様となるであろう。
かりに七十歳を生きれば、百四十歳を生きたと同様の価値を生きることが出来るであろう。
米国の豪商ジェ・ピー・モルガン氏は嘗て友人に語って「自分は自分の生活の一刻を
数千万円の価値あるものだと思っている」と言ったそうである。此れを知る彼にして
始めて世界一の富豪と成り得たのである。諸君はこの貴き刻々を無駄に浪費しつ々
ゐないあろうか。時間の浪費だと言へば、自身に何らかかはりのない「時間」と
云うものが勝手に流れているように感じる人があるかもしれぬが、浪費した時間は自分の貴重な「生命」を無駄に切って棄てた血みどろな死骸なのである。
諸君よ、死にたくない者は時間を巧みに生かさなければならぬ。
特に朝の時間を生かさなければならぬ。
吾が生命なる時間を「死骸」に化して了ひたくない者は特に最も効果多き朝の時間を
巧みに生かさなければならぬ。
モルガン氏は自分の「時間」の刻々をば数千万円の高価に見積もったが、慎の「時間」
の価値は数千万円と云うような安価なものでないのである。
「時は金なり」と云う事があるけれども、時は決して金でないのである。
時は決して金銭のような安っぽいものとは段ちがいで全然比較にならないのである。
若し諸君が金銭を捨てたく思うならば、これを捨てよ。
しかし決して朝の時間を捨てるな。
若し諸君が己が所有する土地、建物、衣装、など捨てたく思うならば、
何ん時でもこれを捨てよ。
併し、如何なる力をもってするも失われたる朝の時間を回復する道はないのである。
諸君が仮りに往来をあるいてゐるとき、手に一杯の金銭を握って、その金貨だけの
値ひのあるものを何一つ得ないでゐながら、その金銭を溝の中へ矢鱈(やたら)に
捨てて歩いてゐる人を見るならば、諸君はその人を屹度気が狂ってゐるに相違ないと
思うであろう。しかし、大抵の人は金銭以上に貴き価値ある時間を両手に一杯
もって捨てて歩いてゐるに人々を見ても気狂いとも思はないのだ。
そして自分自身も、その大気狂いの仲間入りして何とも思はずこの金貨よりも
何十倍貴き寳(宝)を刻々瞬々捨ててあるいてゐるのである。
彼等の生活が「生長の家」の生活を遠ざかること甚だ遠く彼等自身が間断なく
生長し得る人とならず、能力が中途で止まって了ひ、いつまでも碌碌として
常人の水準以上に登ることが出来ないのは当然 のことわりなのである。
                  (『光明の生活法』より) 
      
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆
*旧字体と新字体…使っておりますので…(PCソフト…不十分)

■『月曜日の言葉…』何度も拝読いたしましても、心におのずから“変化”が…
そして、今振り返りますと…“宝”私自身、“溝”に捨てていました事を、
再!再!〜〜認識致しました…。

>a hope 様 
本日の「気づき」…深く〜深く〜感謝申し上げます…。
と言いますのは…益々『雅春先生の残されましたし真意」…
読み取ることが、出来ました…。
現総裁先生の考えは、正しいものと判断いたします…。
…が!【信者…】に対しましての“愛念”少し不足しています部分も、
ありますかしら〜〜ン??

『信じて…待つ…!!』 現教団側に…

213a hope:2012/03/06(火) 13:50:22 ID:kcv2QXTk

人生読本 谷口雅春先生著

他から見てどう見える

仕事でも、顔でも、店構えでも、事務所の玄関でも、外から見てどう見えるかを調べてから、
他に見せるようにすることが大切です。
仕事をする上からいえば、自分はその仕事をやりとげることに熱心すぎて、
ちょっとぐらいよごれていても、気がつかないことがありがちです。
いかに立派な製品でも、ほんのちょっと手垢がついているために、
つまらないものだと見向きもされないこともあります。

まず自分がお客になって玄関へ入って行くと、どんな感じがするか、
什器(じゅうき)や椅子の並べ方は不快ではないか、応接室で待っているとどんな感じがするか、
何分間待たされるか、待っている間に放っておかれるか、何か出されるか、
その出し方はどんなふうにするか、読物はあるか、最初の面談はどんなふうに始められるか。・・・・・
こんなことでも、自分が客となって見なければわからないのです。

他の事務所や商店と比較してみて、悪いところはできるだけ廃(や)めるようにし、
良いところはできるだけ取入れるようにし、さらによそに見られぬ好い感じを出すようにしなければなりません。

自分の店や自分の事務所ばかりを見ていれば、欠点があっても、
その欠点は慣れてしまってそれが当たり前のような気がして気づかないものです。

臭い空気に慣れてしまっては、その空気が臭い空気だということに気がつきません。
しかし外から入って来たら、「なんてここは臭い空気だろう」と気がつくのです。
客が外から入って来るのですから、一番誰よりもその室(へや)の空気の良し悪しには気がつくのです。
室の空気の好し悪しというのは、鼻から吸う空気だけのことではありません。
心で吸うなんとなきのその室の味です。その室の匂いです。その室の感じです。

その中には人間のようすもあり、微笑もあり、心の思いもあり、椅子や家具の並べ方もあり、
「ああここは気持が好い」と思われるようにしなければなりません。

214SAKURA:2012/03/06(火) 21:26:12 ID:FEa/NNlc
トキ様 へ
皆様 へ
こんばんは…

【聖光緑…】
■火曜日の反省
―――――背水の陣を布け――――

「背水の陣」を布けとは本書の『智慧の言葉』の中に見出される金言である。
諸君よ一旦「吾れ此れを為さう」と決して起ち上がったならば、
「吾が行くところ必ず勝利あるのみ」の覚悟が是非とも必要である。
逃げ路を豫め(あらかじめ)準備しておいて事にのぞむやうなことでは
何人も全力を発揮することは出来ないのだ。
歴史にこれを見るもジュリアス・シ−ザ−の英国侵入軍が目的地に上陸したとき
彼は將卒に命じて海峡を越えて味方を運んでくれた愛すべき船――
若し味方の戰ひが不利に終ったならば、海峡を越えて逃げ帰る時の
助けとなるであらうところの愛すべき船――
これらの船に悉く火をつけて焼き捨てさせたのであつた。
「進むほかに道なし」の覚悟は吾々に平常の肉体?以上の力を発現させるものである。
それは小さなる我を減して、「無限の生命」から力を汲む一つの方法であるのである。
「吾が行くところ必ず勝利あるのみ」の覚悟が大切だと云っても実際心を誘惑する
逃げ路があつては本当の覚悟が出来て来ないものである。
そこで心がまだ本当に定まらない者には是非とも背水の陣が必要となるのである。
「背水の陣を布け」と云う言葉は、英語では
“ Burn your behind you ”  と言ふ。
かえせば、「汝の背後の橋を焼き落とせ」と云ふことである。
一旦渡って来た橋を焼き落として了つたとき吾らはもう退却するにも退却の道が無い。
ただ吾らに残されたる自由は進むことのみとなるのである。
進むほかに道がない!!!!!!
これほど吾らにとつて強いことがあらうか。
一歩でも動けば、それは退歩ではなく進歩であるのだ。
げに「背水の陣」のちには万物が備はつてゐるのである。

                          「光明の生活法」より…
     *一部…旧字体・新字体になっております…。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆
当に…「社会事業団・現原宿教団…」此の争論…
譲り合うことなく〜〜批判し合う〜〜これは「共倒れ…論争へ??」

■ 当に…今!時!…が来たのです…。
【背水の陣…】一旦!もつれ合ったお互いの“争点議論内容…??”
もう一度…「信者・光明化運動…」原点に戻りまして…【和解…調和の世界】
「前に進むしか…ナ〜〜〜〜〜〜イ!」のです…。

それは、以前以上に「一人一人の心に…使命感の灯」
と云うことは…【自我を無くし…お互い和解への道…】歩むと…信じ

■ ■ ■ 信 力 ■ ■ ■
                                 合掌

215名無しさん:2012/03/06(火) 21:31:52 ID:tar1vhs2
谷口雅春の人類剪定思想、

お次は、東京直下、東海、東南海ですか、


神は、つぎに剪定する人間を選んでいます。

216a hope:2012/03/08(木) 19:22:05 ID:kcv2QXTk

人生読本 谷口雅春先生著

新しくならない物はまずい


汲み立ての水は、味わいも佳く新鮮な感じがしますが、汲み置きの水はちょっと見るとやはり透明で、
別に質が変わっていないようにみえますけれども、飲んでみると味わいがなく新鮮な感じがしません。
店先や事務所の空気もやはりそうです。

その仕事を始めた当時は、感激に満ちて働いていた店員でも事務員でも、
だんだん感激がうすれて面白味がなくなり、ただ機械的に仕事をするようになり、
次第に不平を言い出すのは、勤めている人そのものが日に日に新しくなろうと考えないからです。

ちょっと見ると開店当時と同じでも、それは汲み置きの水と同じように新鮮味を失っているのです。
日に日に新しくならない者は、ちょっと見ると、前と同じような形をしていても、
新鮮味がなくなり味わいがなくなり、そこの空気が悪くなっているのです。

内部の人に判らなくても、外から入ってくればよくわかるのです。
繁盛する店と繁盛しない店は、その店にいる人たちの心が、
日に日に新しくなっているかどうかということできまるのです。

皆さん、日に日に新しく日に日によい考えを生んでゆきましょう。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

第5章 終わり、 次回より第6章「疲労を感じない力の生かし方」へ

217神の子さん:2012/03/09(金) 00:41:17 ID:rmOiHONA
>215

次は「オマエ」という神様の声が聞こえぬか!!!

富士山の噴石に当たるのは215だとよ。

218神の子さん:2012/03/09(金) 12:00:44 ID:eWw166D.

しかし・・・和解、和解・・・という虚しい言葉が宙に舞っていますなぁ。

本来この言葉を向けねばならぬお人は、他者への慮りが零とのこと。

下々に何ぼ叫んでも、虚しくこだまするばかり。

このような狂態が続けば、世界の笑いもの。

219a hope:2012/03/09(金) 12:38:15 ID:kcv2QXTk

人生読本 谷口雅春先生著

第六章 疲労を感じない力の生かし方

なぜ疲れる人と疲れぬ人とができるのか


心の力、肉体の力、そのほかどんな力でも之(これ)を強め、増し、大きくする秘訣があります。
それは難しいことではありません。それは今ある力を十分使うことです。
人間は、心の力でも、肉体の力でも、仕事をする力でも、勉強する力でも、
使えば使うほど強くなり、増してくるのです。
出せば出すほど出る力、使えば使うほど殖えてくるのが生命の力なのです。

しかし、出せば出すほど力が減り、使えば使うほど神経衰弱になる人もないこともありません。
或る人々は、働きすぎたので疲労して病気になったと言いますし、或る人々は、
心を使いすぎたので神経衰弱になったと言います。

では、なぜ、一方の人は出せば出すほど力が湧いて来、働けば働くほど元気になるのに、
なぜ、もう一方の人は出せば出すほど力が減り、働けば働くほど元気がなくなり、病気になったりするのでしょうか。

ここに人間成功の秘密の鍵があります。皆さんはこの秘密の鍵が何であるか、考え当てることができますか。

懸賞問題です。百円や千円や一万円の端金(はしたがね)が賞金に出るのではありません。
この問題が解けた方には「一生涯の成功」という懸賞がつくのです。

(つづく)

220a hope:2012/03/10(土) 11:09:26 ID:kcv2QXTk

人生読本 谷口雅春先生著

二人の答えはどちらが正しい?


Aさん、あなたにはもうこの問題は解けたでしょうね。
解けるのは当たり前です。あなたは、毎号『生長の家』という雑誌を読んでいらっしゃるのですもの。
Bさん、もうあなたにはこの「秘密の鍵」は見つかったでしょうね。
あなたは、先日『生命の實相』を一所懸命読んでいらっしゃいましたから。

この「秘密の鍵」を見出す道は、『生命の實相』や「生長の家」の本のどのページにも書いてあるのです。

では、Aさん答えて下さい。
Aさんは答えます。
「後の人が、出せば出すほど力が減ったり、神経衰弱になったのは、人間を物質であると思っていたからなのです。
前の人が出せば出すほど力が増して強くなったのは、人間を神の子だと思い、硯の上で磨る墨のように、
磨れば磨るほど減ると思っていなかったからなのです。」

「Aさんの答は満点です。ではBさん答えてください。」
Bさんは答えます。
「人間は働けば働くほど力が出るのは、人間は、目に見えないが『無限の力の源』につながっているからなのです。
この『無限の力の源』を神さまというのです。人間は神様から力の泉をいただいているのです。
このことを前の人は知っていたのです。ところが後の人が働けば働くほど疲れて病気になったのは、
恐れながら働いたか、不平に思いながら働いたからです。
その働きに感謝しながら『無限の力の泉』が宿っていることを信じながら働くものには、
疲れるということも、病気になるということもありません。」

Bさん、あなたの答えも満点です。
常に暇あるごとに、私達は次のように吾がたましいに呼び掛けようではありませんか。

「たましいの底の底なる神よ、

無限の力よ、

湧きいでよ。」

常に、かく心に口ずさんで、自己に宿る無限の力に呼びかけるものには、力が無限に湧きでるのです。
疲れたときなど、二、三分間こう心で唱えて無限の力を呼出せば元気がでます。

(つづく)

221SAKURA:2012/03/10(土) 16:32:45 ID:FEa/NNlc
トキ様 へ
皆様 へ

こんにちは…!今日は朝から気持ちがい〜〜〜〜〜い“一日”に…なりそうな予感?
さて!事務所に昨日からいます〜〜〜〜。
気持ちのいい“春日和”です。もう直ぐ…春ですネ〜〜!
これから皆様も良い事が、起きそうなそんな予感が……「神想観」をしまして…
今日も先生の“テキスト”参考に勉強開始…start

【光明道中記】            谷口雅春著
::::: 四月二十一日  種を蒔くに肝腎の日:::::

兎も角十人の隣人に喜ばれるひとは十人の顧客を有つ者です。神に喜ばれる
人は神を顧客に有つ者です。(『百事如意』)

勤労も好い、奉仕(service)も好い。併しながらそればかりが
成功の全貌ではないのである。
世の中には石川啄木の歌の通り、働けど働けど生活が楽にならない人たちも沢山ある。
勤労は耕作であり、掘鑿であるけれども、いくら耕しても不毛の地では
好い作物は出来ないし、いくら掘鑿しても、鉱物の埋蔵されていない
ところから鉱石が採取される筈がない。
だから成功とは、見えない世界に埋蔵されている「或る物」だと言わなければ
ならないのである。見えない世界に埋蔵されている「或る物」こそ耕作して
花開き実を結ぶ種子であり、埋蔵されている鉱石である。
これは宗教上の語(ことば)で言えば「福田」であり、心理学上の語で言えば
識域下に印象されている観念である。
それは一言で云えば、吾々の先祖と、吾々自信が潜在意識の世界に蓄積
して来た業である。それは意業、口業、身業と云うように三つに
分つことも出来るが、すべての業は念の動かない所に動かないのであるから、
全は「蓄積された念」だと云う事が出来る。
「念」が不幸になるように蓄積されている人は、どんなに耕作しても、
どんなに掘鑿しても、そこは不毛の地だと云うことになる。   
                      

【石川啄木】の書籍を読みましたが…
全ての流れは…啄木の場合「悲しい生活スタイル」なのです。
啄木は、かなり頭脳明瞭…抜群の才能が…なのに?
当時「お寺の息子」として、東京に上京しまして、
更に!「奥さんの節子さん」を、東京に呼び…そこまではいいのですが?
更に!母親が頼ってきまして、あの年で一気に家族を背負います〜〜ョネ!
私の判断から“無理??”な話〜〜〜〜に思えましたが…??

「雅春先生」でも駆け落ちしまして、親の反対を受け、
母親の執拗な邪魔・迫害を受ける状況下にて…、
その時!先生自身も知識はあっても、どうにもならない >< 
更に本人の隠れた才能は…あっても、その隠れた“埋蔵”は???

19歳の時に、確か『ロ−マ字日記…石川啄木』の本を読みました。
その本が〜〜〜〜〜なくなっているんです〜〜〜ョネ!
思い出す限り、どうも『金大一京助は啄木の親友…』と言いますより…
中学の先輩・後輩の関係だったので??
啄木が亡くなる時に、節子夫人「にロ−マ字日記」を破って焼いてくれとう遺言!
啄木の死後、節子夫人は思い出があり…親友の金大一京助に渡す…。
その後!京助は裏切られたと……
どうも京助は、啄木の家計を家財道具を売り払ってまで“お金”に換えて…
啄木を支援…それがその“お金”は全て女郎買いに使われていた事が分り、
その後、啄木の家計は全て亡くなります。
                <つづく>         No.1

222SAKURA:2012/03/10(土) 16:34:18 ID:FEa/NNlc
<つづく>        No.2 

更に!節子夫人は確か慈善団体療養所白人系で
最後の子供を出産、その子供も結核がうつされていたとか書いてありましたが?
啄木の【働けど働けど〜♫〜】 今!思いますと甘えに成ります〜〜ョネ!
でも15〜16歳で一家を背負われるのは…今から“スタ−ト地点”では
どんな人間でも精神力は???先生でも中野時代ですから… この様に
正しい埋蔵を耕作…蒔いた種を増やす努力は精神心からくのではと、思います。

反対に【金大一京助さん】は、アイヌ研究で有名です〜〜ョネ!
此方は“善”そして“明るい”…この二人の対象を比較して「種まき」は大事…!
見えない世界は【心=無現力…花開くまで時間空間をえて実相世界】として、
あらわれる事!【実相=現象】であり更に!種蒔きは…><
『福田……磁石』として引き寄せる“モノ”
【ボディティブな感情=心】ではと、気がつきますと…日頃の行動もあり
更に【神想観】は大事です〜〜ネ!
◆【成功の近道】と言いましても過言では無い様に思えるのです。

更に!今回【a hope 様】の“今日言葉”より…
【真理は、唯!一つ】…方便の多様性…A 或いはBの人の解説は違うが…
どちらの方の方便も〜〜〜〜〜【答は正解!!!】
人それぞれ環境・置かれました立場の相違なりに…etc
「解説・解釈論」が異なりますし、そうしますと【原理主義…】は〜〜〜〜
【本人の尺度で、物事を決めつける事!!!!!】
今日では、通用しないのではと、私自身は思います…。

「楠本神野先生は…素晴らしい方と思いますが〜〜〜〜〜〜〜 ?
変な所で「決めつけ」も、多いように見えますが……?
あなたはこうなのです…。この考えは、間違っています…。……etc
時代背景も考慮しますと… 以前ならばよかったのでしょうが……?
現在社会は複雑!益々進行していくものと思いますと…
◆ 【多種多様なる方便】が出来る…新しいやり方が、時代のニ−ズになるものと!

■「現総裁先生」十分に出来られるものと…私は確信しておりますが?
今!!今!!私も“種”を蒔いていますので…
この先どの様な“芽”が出てくるのかと?今から楽しみで〜〜す。

                            再合掌

223ハマナス:2012/03/11(日) 00:52:08 ID:u5mC.eb2

神の子のみなさま
こんばんは。

SAKURA様が次のように投稿されていましたが・・
>「楠本神野先生は…素晴らしい方と思いますが〜〜〜〜〜〜〜 ?
変な所で「決めつけ」も、多いように見えますが……?
あなたはこうなのです…。この考えは、間違っています…。etc <

私も宇治が好きで、年に数回練成を受けに行っていますが、楠本加美野総務が
そのように仰っているのを聞いたことはありません。
むしろ、我のないお方でして、あまりノーと仰いませんし、質問をしましても、
「そうだね。そういうこともあるね。・・・・神の子だから、大丈夫だよ!」と
いつも的確な素晴らしいご指導をして下さいます。
毎回、心が浄まり生まれ変わった気持ちになって帰ってきます。

先生は、御年90歳になられましたが、とてもお元気で、毎朝3時半に起床され
それぞれのお宮(宇治の境内には、精霊招魂神社、末一稲荷神社、流産児供養塔
、幽斎殿写経奉安礼拝殿があります。)をお参りして、聖経読誦され、4時半からの
幽斎殿の早朝行事、次いで5時10分からの大拝殿での早朝行事をかかさないそうです。
ご自分のお年やお身体のことを考えず、人類光明化と人を救うことを常に考えて行じて
いらっしゃるように見えます。
(私も練成に参加した時は、せっかくに宇治に来たのだからと、3時半に起床してお宮参りをしています。)
まだ、宇治の練成会に参加された事のない方は、是非おすすめです。本当に素晴らしい
練成会です。  (別に、宇治の回し者では、ありませんが・・・)

感謝合掌

224a hope:2012/03/11(日) 12:14:20 ID:kcv2QXTk

人生読本 谷口雅春先生著

こんな簡単な方法で


電車で学校へ通うとき、会社へ通うとき、工場へ通うとき、その電車の中で静かに眼をつぶって、

「わがたましいの底の底なる神よ、

無限の力よ、湧きいでよ!」

と呼び掛けて、

「私は無限の力に護られているんだ!疲れない!疲れない!人間は無限力だ」

と、数回心の中で一心に繰返す方法は、我らが疲れなくなる、
そして無限の働く力や無限の勉強する力が湧いて来る、最も簡単な神想観です。

皆さん、やってごらんなさい。
毎日これを続けてごらんなさい。おびただしい自身がついて参ります。
素晴らしい能力が内から湧き出てまいります。
身体が健康になり、記憶力がよくなり、勉強がよくでき、仕事の能率が上がり、
したがって人からは喜ばれ、そこに立身出世の礎(いしずえ)が築かれるのです。

一度や二度やって見て止めるようではなんにもなりません。
毎日、電車の中で往復の時でも好い、毎日机に向かったときの一分間ずつだけでも好い、
常にたゆまず、自分自身の中(うち)に呼びかけるのです。
この習慣をつけておけば、試験場へ出たとき、あるいは工場で難しい仕事にぶっ突かったとき、
ほんの瞬間のあいだ「わがたましいの底の底なる神よ」と呼び掛けることによって精神統一し、
おちつきができ、みごと難関を突破し得るようになるのです。

他人に物を頼むよりも、自分自身の中にある「無限の力」に呼びかける方が、なんぼやさしいことでしょう。
自分の中には無限の力が宿っているものを!
こんな簡単な実行から無限の力が湧いて来るのです。

225a hope:2012/03/11(日) 12:18:39 ID:kcv2QXTk
訂正
>>224
上から20行目
自身→自信

226SAKURA:2012/03/11(日) 23:20:06 ID:qjU6h9ik
トキ様 へ
皆様 へ
こんばんは…

【幸福を招く365章】
―― ❖ 汝の肉体を讃美せよ ❖ ――

あなたの肉体を愛し、その健康を求めるならば、
肉体に小言を云ってはならないのである。
肉体に感謝し、肉体にお礼を云い、肉体の美を讃え、
肉体の健康を祝福しなければならないのである。
こんな不健康な肉体をどうして讃美し祝福することが出来ようと思う人が
あるかも知れないけれども、あなたの肉体の何処かは健康であるであろう。
肺のわるい人も眼は見えるであろう。耳は聞こえるであろう。
手足は健全であるであろう。
然らば何故、その眼を、耳を、手足を讃美し、祝福し、
それに感謝しないのであろうか。
真に神の恵みに感謝したとき、その肺もなおるであろうに。
                          (谷口雅春著)
―― ―― ―― ―― ―― ―― ―― ―― ―― ―― ―― ――
■【肉体は仮モノ】…と
聖経『甘露の法雨』に……今回「亡き母の御霊」を見ましてからは、
見方が、“変化”してしまいましたかしら〜〜〜ン?
そう!本当の人間は『霊的人間』…「現象世界で肉体は借り“モノ”の姿…」
肉体は“仮モノ”と切実に思います…。
そうしますと、時間〜〜〜♫「時の流れ」は、ストップしないのです…。
■ 永遠なる…時…! 時の流れ … ♫
とまれョ〜〜〜時間 ♫〜と云っても……一瞬にして時間は、過ぎ去る“モノ”…
【肉体人間=霊的人間】 なのですから、今現世で“心”の修行が……大事!
ちょっとしたはずみで「疲れやすいの〜〜ョ」とついつい口癖に云います〜ョネ!
気休めに言ていた“言葉”が…だんだん年を、重ねて行く内に…
“言葉”は、もっと進行して?いつの間にか“日本語…?”深刻な状況??
そうなのです〜〜ョネ!「言葉に変化」を感じられませんか〜〜〜??
              <つづく>         No.1

227SAKURA:2012/03/11(日) 23:21:50 ID:qjU6h9ik
              <つづく>       No.2

若い時は「体が弱いのョ〜〜〜 ><」といい、現在は?「もう年ョ〜〜〜」と
変に納得した“言葉”を使う事?ありませんか……??
“言葉”遊びでしょうが…ちょっとした“言葉”でも健康は遠のいていくのでは?
「今日の言葉」に表されています…。
【肉体は仮モノ…】ですので、この現世で活かす“モノ”ですョ〜〜〜〜ネ!
それは【感謝…】なのでしょう??
今の時代“生まれたままの姿(顔)”で生きている人は…確率は??
いますのでしょうか…?いても〜〜〜ごく少数ではないでしょうか〜〜〜。
化粧の感覚で“整形”…どうにでもなれる“変身術”なのでしょうが……
この頃見ていて複雑になります…。

「亡き法貴先生」が生存中の頃…いつも御講話を聴きにまいりますと…
先生は、必ず!私の“顔”を見まして…「整形は〜〜ダメ〜〜ョ」と口癖のように…
云われましたが……それも最後までなのですモノ…
“私の顔”が、先生にはその様に見えられていたのでしょうか?
たぶん今では“霊界世界”にて「ゴメンネ〜〜〜!」と笑いながらおっしゃって
いる事でしょう〜〜〜〜〜♫

【整形…】がこのように一般に浸透していなければ、私は貴重価値?
生まれつきの“顔”なのですが……自分で言いますのも“オカシイ”です〜〜ョネ!
鼻筋がきれいなので…どうかしますと、若い頃は…“ハ−フぽく”見られて…
中高の頃は、自分の顔は好きではありませんでした…。何故なら?
何をしても目立つんです 〜〜〜ョネ!(濠も深いので…)
このように「天平画…天平美人像」にあこがれておりましたが……
本当に“丸顔…こけしのような顔”憧れていました“私…”

現在!時代の流れにて…「整形=化粧感覚…」若い子がしていますが…
ふと!先日!「ある所で工藤静香さんの顔…」を見まして…
これが現在の“顔”???きっと又!修正されるのでしょうが…?
【肉体は仮のモノ…】と分かっているのかしら〜〜〜ンとつくづく考えてしまい…
ある新聞のカラムにて…
整形しすぎで“白血病?”この事は今では、海外では当たり前ですが…
更に“免疫力が低下”…更に“アルツハイマ−”になりやすいとか…?
確かに「40〜50歳代でも、アルツハイマ−型認知症」が増えてきています〜ネ!
これも“肉体”をおろそかにした結果と思います…。
自分の【肉体への感謝】果たしてあるのでしょうか??
■ 心の〜〜〜魂の向上〜〜〜果たしてあるのでしょうか………??

【生まれた時…そのままの自分の顔が…一番です。そして、
■ 【どれだけ多くの人に〜〜〜世の為・人の為〜〜〜貢献できるの〜〜〜か?】
更に!“肉体への感謝”です〜〜〜ネ!

■ ■ 全ての 事に 物に 感謝 … … 
       この事を教えて頂きました“我が神…”感謝申し上げます。

                             再合掌

PS:見かける度に「整形…」しています人の顔を見ますと…“魂の向上”…
“心の向上…”如何なものでしょうかと…
今の私は…【心を磨いて…こころ美人】に…… トライ!!
トキ様へ…<今日の言葉>どの様にお考えでしょうか…?

PS:第一教区に…まだY教化部長先生が在籍していました時…
素敵な言葉…おっしゃっていましたが……
「最近…年齢の超えた方が整形されている…が?
年齢に応じた“歳の美しさ”が見えなくなり…50代なのに30代に見せ様とする
方が増えて…そんな事よりも“40代・50代・60代・70代…のその時々の
年齢に応じた歳の美しさがあるはずだ…!!」と云っておられましたが…
今!!今日の言葉にて、ふと!思い出してしまいましたが……??
先生と一緒にとった「写真…3人トリオ???」のワンショット…飾って?
やはり信仰心の深い方は…年齢が?見えないように思いますが… ウフフ

228a hope:2012/03/12(月) 09:03:46 ID:kcv2QXTk

人生読本 谷口雅春先生著

まず実行です、今日から



まず実行です。この『人生読本』に書いてあることは、できないことはちょっとも書いてないのです。
やって効果のないことはちっとも書いてありません。
『生命の實相』に書いていて多くの人が実行して効果のあった真理を、もっとやさしく、
わかりやすく、短い時間に読めるように、短い時間に実行できるように書いてあるのです。

だから読んだらすぐ実行です。
毎日電車の中での黙然、仕事にかかる前の一分間の黙然
―――黙然というのは口では黙っていて心で念(おも)うのです。
先刻お教えしたように、一分間眼を瞑(つぶ)って、

「わがたましいの底の底なる神よ。

無限の力よ、湧き出でよ!」

と自分自身の魂に呼びかけるのが神想観であり、黙然です。
この呼び掛けが、どんなに力になることでしょう。

(つづく)

229復興G:2012/03/12(月) 16:13:21 ID:ojEbkDH2

>>228
a hope様。

いつもステキな『人生読本』のご文章を紹介してくださり、本当にありがとうございます。
今日の「まず実行です、今日から」も、“そうだ!”と思わせて頂きました。
私はもはや、自分のことというよりは、電車の中でも、乗り合わせた乗客みなさんのことを祈るのが楽しみになり、実行しています。
「わがたましいの底の底なる神よ。無限の力よ、湧き出でよ!」
というのも、「わが」というのは「乗客みなさんの」と祈らせて頂こうと思います。

ところで、「黙然」は「黙念」ではないでしょうか?

230a hope:2012/03/12(月) 16:46:04 ID:kcv2QXTk
>>228
訂正
「黙然」→「黙念」

復興Gさま、ご指摘ありがとうございました。
わたしも、
「わがたましいの底の底なる神よ。無限の力よ、湧き出でよ!」
を、わたしの周りの大切な方々の名前を入れて、さっそく祈ってみます。

復興Gさま、いつも素晴らしいご教示をありがとうございます。

231SAKURA:2012/03/12(月) 21:43:26 ID:FEa/NNlc
トキ様 へ
皆さま へ
こんばんは……
やはり「気温の較差…」実に沁みますかしら〜〜〜ン??

■【幸福を招く365章】
――❖❖❖  人の悪しき言葉に乗るな  ❖❖❖――
怒りは火事のようなものである。あなたの心を焼きつくし、
地獄の焔の中に投げ込み、
ついに身体までも病気にする力をもっているのである。
誰かが不親切な言葉を発したからとて、
それを自分の心の竃(かまど)の中にほうり込んでならないのである。
不親切な言葉は、
あなたの心の竃の中で燃える地獄の火の燃料となるのである。
不親切に対して親切をもってし、
憎しみに対して愛をもってするのは、
自分の心の中にほり込む燃料に 水を注ぐようなものである。
ひとの告げ口に乗るな。
それは怒りの焔を煽る風のようなものである。
愛語と調和の言葉をふらして、
心の火事をけすことである。常に「平和」を念じて祈れ。
                        ( 谷口雅春著 )
❖     ❖     ❖     ❖     ❖     ❖     ❖

意外と”思い込み”がありますよ〜ネ!〜〜〜今回!各々の「投稿者様」達…
此の方は??此の人は??…「上の方??」かしら〜〜〜ンとか…??
【想像】しますで〜〜〜ショ?
そして、その事が念頭に抱いての“投稿”となりますと…
ことのほか、そちらに”気持ちがに左右”されている様に思いますが…
と云う事は、本人自身が本来の”投稿内容”を、何処まで”投稿”出来ましたかどうか?
そして、相手が…現実的に分りますと〜〜〜><
更に!感情の上で”いい感じの応対”をされない…と思いますと…
【心の隙間〜風〜♫〜】が出て参り〜〜〜寂しい”思い”に…
その様な時は、やはり、先ず!【寄せ付けない位の心】強い”心”が必要でしょうか?
今回!私も【御霊…】を、公開しましたが…

ま〜〜ぁ!人それぞれでしょう〜〜〜〜ネ!ある方が…「キ●ガイ!!」
これを見て?私の事なの〜〜〜〜???と…
つい、私も気持ちの上で引っかかりを感じ、やはり”潜在意識”に、
私自身……今回!公開しましたの【母の御霊は綺麗な白〜〜〜い御霊】です。
どなたでも、あの世に行きますと【御霊】はあります〜〜〜が…
色は???或る宗教は…十界…とか? 七界…とか? 様々です〜ネ!

【母の御霊】は、綺麗なので、人に見せるまでは、随分考えましたが…?
やはり【甘露の法雨】に書かれています(今日で公開…ストップ)
■【人間は霊的人間…】です〜〜〜ョネ!
この世に”生”を受け…一生!あっ〜〜〜〜〜という間に過ぎるのでは?
そう思いますと…今!今!を生かす事が、大事ではと思いますが…
【母の御霊】で、少し時間の使い方とか…今を生かす生き方とか…?あるのでは??
今回!!【2チャンネルの方…】は……
「言葉遣い…」当に!”ネガティブ感情”が文章に現れて、見ていますと…
こちらまで【火の中に放り込まれそう…><】になりましたが……??

やはり【雅春先生の言葉】を、思い出し…
例え…私が【キ●ガイ】と思われていましても…
その人も、逆に〜〜〜そう見ていられ事は、
閲覧されています”第3者の皆様方”がいらっしゃいますと云う事…更に!!
【総裁先生…へ?ルンペン…】此の方この”言葉”を使用する限りは…
現在!!此の方は「ルンペン…?」を経験されたか〜〜?将来!されるのかも??
しれませんので……… 【危ない〜〜〜危な〜〜〜イ!】

この様に、一度!!【悪しき言葉…??】
■「生長の家」では【 言葉は神…言霊 】ですので〜〜〜〜〜 ><
実に!まきこまれないように〜〜”神”にゆだねながら〜〜♫〜〜
【イメ−ジ=神想観】をします…。
【人の悪しき言葉にのるな…!!】当に!そうなのです〜〜〜〜ョネ!!

                             再合掌
PS: トキ様へ
本日の言葉…先生の“言葉”に対する考え…私は納得しておりますが?
トキ様は、どの様に捉えられていらっしゃいますでしょうか・
宜しかったら”アドバイス”頂けますと幸いに存じますが…??

232a hope:2012/03/13(火) 09:05:29 ID:kcv2QXTk

人生読本 谷口雅春先生著

時々はまた別の新しい言葉で

必ずしもこのとおりの言葉でなくともよろしい。
時々はまた別の新しい言葉で、自分の内に宿る「神様の無限の力」に呼びかけてもよろしいのです。

ともかくも、自分の内に宿る神に呼びかけることが必要です。

「求めよ、さらば与えられん」です。
神は決して遠いお空のかなたにいるのではない、神は自分の内にいまして応えられます。
「魚を求むる者に蛇を与うるものあらんや。パンを求むる者に石を与うる者あらんや。
いわんや天にまします我等の父は我らになくてはならなぬ物を知り給う」という言葉を、
私は会社へ行っていた頃、出勤の電車の中で繰返していた時代がありました。
すると不思議に、自分の求むることは必ずできるのだという自信が湧いてまいりました。
そしていつの間にか、私の運は好転してきました。

神は吾々が求めなくとも与えてい給うのです。
神は吾々が想い出さなくとも、吾々の中に「すべて」を与えていられるのです。

しかし吾々の中にあるその「すべて」の中から、
要るだけのものを呼び出してくるのは「言葉の力」によるのです。
そして言葉で喚(よ)び起された自信の力によるのです。
ちょうどそれは、吾々の懐(ふところ)の中に、
知らぬ間に神様から入れられていた蟇口(がまぐち)のようなものです。
その蟇口の中には、なんでも欲しい物が買える無限のお金が入っているのですが、
そのことを思い出さないと、欲しいものを買おうにも買う力が出てこないでしょう。

「自分の中に無限の力がある!」こんな簡単な言葉でよろしい。
ともかく、常に自分の内にある無限の力を呼び覚ます意味の言葉を使って、
自分の魂に呼びかけ、自分のたましいの奥にやどっている無限の力
―――何でも買うことのできる「蟇口の中の財(たから)」を思い出すことにしようではありませんか。

(つづく)

233うのはな:2012/03/13(火) 18:03:59 ID:El6gIMAw
 戦争中の私の体験

 戦争中のことでありました。私の宅の庭が全部“かぼちゃ畠”になった事がありました。
あの杜鵑花(つつじ)の枝の上まで一面に“かぼちゃ”の蔓を這わせて食糧増産につとめたものでした。
私は朝五時には必ず薄暗いうちに畠へ出て、一所懸命耕したり、苗を植えたりして夕方、真暗になる頃、星を
頂いて帰ると云う位にやって居たものです。

 そうすると、ずいぶん沢山収穫が得られました。私の宅では戦争中も、終戦直後の配給のない時代も一度も闇米を
買った事がなかった。それは、私のつくった“かぼちゃ”ばっかりを私も家族も食べておったからです。
もう“かぼちゃ”はあんまり出来過ぎて、翌年の正月になっても、まだ南瓜を喰べておった。
三割位のお米に、南瓜が七割入っていると云うような御飯を食べておりましたが、その位たくさん南瓜が出来たものです。

無花果なんかも、何処からか枝を貰って来て挿木をしたら、無数に素晴らしい美味しい果実がみのって食べきれない程でした。
愛と智慧とをはたらかして大いに土を作り、施肥をしたからです。
 ところが、この頃は、食糧が豊富になりまして、買えばあると云うようになって来ました。
そうするともう私も庭を畠にする必要はなくなってしまいまして、庭は普通の植木の植わっている庭になりましたけれども。
果樹だけはそのままに置いてありました。

無花果などもそのまま植わったままに置いてありました。ところが私が雑誌の原稿などに忙しくなって来ましたので、無花果の樹を
毎日世話してやることができず、それに愛念を注がなくなってしまいました。
そうすると、その無花果が、殆んど枯れたようになって、その上、虫がついて、もう殆ど実がみのらなくなったのです。
たまたま実ったかと思っても、小さい貧弱な果実しかみのらない。
たべてみても殆ど味が無いのであります。

 これは私が無花果に愛と智慧と、そして生命とを注がなかったからです。
「与えない」でいて収穫と云うものは出て来ないものなのです。

『日常生活の中の真理』無門関・聖書篇  谷口雅春 先生著

234うのはな:2012/03/13(火) 19:47:03 ID:El6gIMAw
 懸崖から有無を言わせず跳ばせる宗教

 戦争前に「天華」と謂う宗教を創められた渡辺薫美という霊覚者がありました。
横浜あたりにその本部があって、天華洋行という名前で全国にゴム底の靴の販売網を
つくっておられたのであります。生長の家の誌友の方でこの天華洋行の靴の販売店をしていた人が
話していらっしゃいましたが、中々この教えは立派な教えであったそうです。
今は故人でありますが、生長の家へ来て講師となり、禅家の家風があって、よく一喝で人を救われた
野村義隆さんなどもこの天華の教祖の渡辺薫美師の教えを受けられたということで、こんな方面から、
この渡辺薫美の霊能について色々の話を承ったのでありますが、この人はいろいろな奇蹟的なことをやるので野村さん
もびっくりしたそうであります。

 私は見たことがないのですけれども、湯呑に茶を出して気合をかけると、その湯呑の茶が焔になって燃えあがったり、
随分いろいろの不可思議を演ずるのでした。しかし、こんな事は手品でもできますから、大したことはありませんが、
その教えの極意は、仏教もキリスト教も、生長の家も同じことで、一切を捨てるということであります。

つづく

235うのはな:2012/03/13(火) 20:01:49 ID:El6gIMAw
234 つづき

 或る日、信者のお嬢さんが山道を渡辺薫美先生と一緒に歩いていたのです。
真理の話をしながら歩いている。先生は、「一切を捨てる、一切を捨てなかったら、
この道は得られない。貴女は一切を捨てることができますか。」とたずねられる。
「ええ、一切を捨てます。」とそのお嬢さんは答える。

二人が今歩いている山道の一方には千仞の崖があったのでありますが、その時、薫美先生は、
「今この崖から下へ跳べ。」とおっしゃったのであります。
こう言われて跳べぬようなことでは一切を捨てていないのです。本当に一切を捨てて師に従うのだったら
「跳べ」と言われると、跳ばなければならない。躊躇しているようなことでは無我ではないのであります。
その二十歳くらいのお嬢さんは助かったのであります。何もこわいことはない、すべてを捨てたとき、安全に
支えてくれているものが発見される。つかまえているのなら力がいるが、放すのだから力はいらぬ、そして
神力、仏力に支えられるのだから、こんな楽なことはないのであります。


『人間そのものの発見とその自覚』 谷口雅春 先生著 P49−50

236a hope:2012/03/14(水) 10:01:23 ID:kcv2QXTk

人生読本 谷口雅春先生

何が「無限の力」を邪魔するか


自分の中に宿っている「無限の力」―――この無限の力を称して「神」というのです。
「無限の力」はこのように言葉の力で、また神想観の力で、
黙念(もくねん)の力で呼び出されてくるのですけれども、
その無限の力を呼び出す邪魔となる心の働きがあります。

それは他(ひと)に対する「憎みの心」です。
他に対する呪いの心です。他に対する不平の心です
―――こういう心は、人と人と摩(す)れ合う摩擦の心ですから、
せっかく、内から出て来る無限の力を摩り減らして無駄に消耗(しょうこう)してしまうのです。

皆さんは、機械になぜ油を注ぐか知っているでしょう。
それは機械の摩擦を少なくするためです。
なぜ摩擦を少なくしなければなりませんか。
摩擦は不必要に動力を食うからなのです。
摩擦があるだけ機械の効率が減るからなのです。

人間もやはり同じことです。
せっかく「人間・神の子」の自覚ができて、無限の力が内部から湧いて来ていましても、
摩擦が心の中にあれば、せっかくの無限力も摩擦のために食われてしまうのです。

憎み、呪い、恨み、不平、悲しみ、おしい、ほしい、取越苦労(とりこしくろう)、
持越苦労(もちこしくろう)、―――これらは大なる心の摩擦であります。

では、心の摩擦をなくするにはどうしたらよいでしょうか。
機械の摩擦を防ぐためには、機械に油を塗るでしょう。
それと同じく、心の摩擦を防ぐためには、心に油を塗ればよいのです。

心に塗るべき油とはどんな油か、その油を考えて発明して特許をとったらずいぶんよく売れて、
その人はきっと大金持ちになるでしょう。

(つづく)

237a hope:2012/03/15(木) 10:02:25 ID:kcv2QXTk

人生読本 谷口雅春先生著

新発売、心に塗る油


心に塗る油の一種は「感謝油」と申します。
また、「朗(ほがら)か油」という名前の油も売り出されております。
また「愛の油」というのもあります。

どこに、そんな心に塗る油を売っていますか。
よそを探ねるにはおよびません。あなたの心の中に売っているのですよ。
あなたの心の中を掘ればどれだけでも滾々(こんこん)と湧き出て来るのです。

感謝の油は、どういう動力で汲み出すかと言うと、「ありがとう」という言葉の力で汲み出すのです。
なんでも、「ありがとうございます」という言葉を心に思い、また口に出すのです。
ただ「ありがとう」とさえ思えば、その思いは「心」を潤(うるお)す油となって、
人と人との摩擦はなくなり、不平は無くなり、物事は順調にゆくようになります。

その次の油「朗(ほがら)か油」もあなたの心の店で売っています。
これは「どんなに悪く見えることでも、必ずよくなる。自分は運が好いのだから、
必ずよくなるほかはしかたない」と常に考えるようにするのです。
真夜半(まよなか)がきたら、朝になる始めだと考えるのです。
雨が降ったら、これは晴天になる始めだと考えるのです。
夜があるので朝が楽しいのです。雨があるのでお天気が楽しいのです。

「自分は、神の子だもの、神に護られているのだもの、よくなるほかはありえない。」
何か不快なことがあったり、気分が暗くなって来たときには、一分間でも眼を瞑(つぶ)って、
この言葉で自分のたましいに呼びかけるのです。
これが「朗(ほがら)か油」を自分の心に注す方法です。

(つづく)

238a hope:2012/03/16(金) 10:38:59 ID:kcv2QXTk

人生読本 谷口雅春先生著

愛はすべてを癒す


次に人間の心を柔(やわら)げる油に、「愛の油」という素晴らしくよく効く油があります。
「愛の油」を注すと、どんなものでも摩擦がなくなります。

仕事をして、うまくできなかったり、その仕事に故障が起こったり、その仕事で怪我をしたり、
仕事の結果健康を害したりするのは、仕事に対する愛が足りないか、仕事に対して恐怖心が伴っているのです。
愛しさえすれば、仕事はあなたに害を与えるものではありません。

犬でも愛する人には咬みつきはいたしません。恐れる者には犬も咬みつくのです。
この仕事をしたら健康を害するかもしれないとか、こんなに夜業を続けたら、
衰弱して肺病になりはしないかとか、取越苦労が病気の因(もと)です。

恐れずに、仕事と勉強に愛を感じ、働かせてもらうことに、勉強させていただくことに、
喜びと感謝とをもって勇敢に生きて行く時には、人間は働くほど健康になるのです、
元気になるのです、病気だってかえって治ってしまうのです。

愛はすべてを治す力です。傷口に膏薬(こうやく)を貼ればそこが治ってくるように、
愛は心の傷手(いたで)を治し、愛は仕事の苦しみを治し、愛は労務の重さを軽くしてくれるものなのです。
吾々がまだ何か苦しいことがあるならば、自分の愛が少ないことを恥じなければなりません。

子供を愛する母親は、子供を愛するがゆえにこそ、どんな寒中(かんちゅう)にも夜半(よなか)に起きてお乳を温めて、
おしめを取りかえ、そしてそれを苦しいとは思わないのです。

「苦しい」と言いそうになった時には、自分のその仕事に対する愛が、社会に対する愛が、
国家に対する愛が、足りないんだということを反省して、もっと愛深くなろうと決心しなければなりません。

(第六章 終わり 次回から、第七章 生命の生かし方 へ)

239うのはな:2012/03/16(金) 20:36:27 ID:El6gIMAw
.....メキシコのグワダルッペ寺院の創立に関する霊的体験の解釈を書いておきたい。
ファンレイゴ青年が、神様から『赭土の丘である不毛の土地からバラの花を病人の数だけ
摘んできて寺院に供えよ』と命ぜられて、一度は『神様、テペヤの丘にはバラの花など咲いていません』
というが、やがて素直に、赭土の丘に行ってみたら、バラの花が、本当に爤漫と咲いていたので、それを
病人の数だけ摘んで寺院の本尊に供花すると、神様のいわれた通りに村の子供の病気が治っていたという件がある。

ファンレイゴ青年は、その時、現象では赭土の丘に見える処に、実相世界の美しき花爤漫の世界を見たのであった。
即ち法華経の如来寿量品にある『衆生、劫尽きて大火に焼かるると見るときにも、わが此土は安穏にして天人常に充満せり...
天人曼陀羅華を雨ふらして仏及び衆生に撤ず』が其処に実現したのであった。
ファンレイゴ青年は、その花咲く丘のことを村の人に告げると、村の人たちは、まだ“実相花爛漫の世界”を見る心の眼が開いていないので、
ファンレイゴ青年を“嘘つき”だと罵る。それで青年は村人に花咲く丘を見せてやろうと村人をつれて行くが、そこには、バラの花は一つもなく
赭土の丘に過ぎなかった。

これは“常識の眼”が実相の“花咲く丘”を見得ない其の多数者の妄心に、再び青年の“実相を見る眼”がくらまされたことを示している。
青年は悩む。そして神にその悩みを訴える。すると神は、『衆生の眼で見れば、唯の赭土の丘であっても、実相を見よ、ここに花爛漫のテペヤの丘がある。
再び往いて花を摘んで来い』と命ぜられる。

 その時、青年の実相を見る眼が開くのだ。そしてテペヤの丘に往ってみると、群集の眼には唯赭土の丘に過ぎなかった不毛の地にバラの花が爛漫と咲いているのだ。
『わが浄土は壊せざるに、衆は憂怖諸々の苦悩充満せりと見る』である......


『生長の家』誌昭和47年8月号“明窓浄机”より

240SAKURA:2012/03/16(金) 20:56:24 ID:FEa/NNlc
トキ様 へ
皆さま へ
こんばんは…
先日投稿…と思いましたが?今日ここに“投稿”させて頂きます…。

■【幸福を招く365章】
――――❖ 心が原因として起こる病気 ❖――――

多くの病気は、家庭の紛争がおさまると治る。
自分のいたくない室(へや)から移転すると治る。
対人関係や事務処理が旨く行かない仕事を辞めると治る。
誰にも打ち開けられない不幸や悲歎や 憤りを完全に打開けてしまったら治る。
――これは単に生長の家の宗教的説教だとのみ思ってはならない。
サンフラシスコのドワイト・L・イルバ―博士のカンサス市の最 南臨床 協会に
於ける研究発表会のもあるのである。これらの種類の病気は、
自分の心のうちに幽閉して置いた、悲しみや、不平、憤りや…
その他色々の悩みが、ある「形」をもって排泄せられつつあるのである。
想念と云うものはそれが「形」に表現されたら、
その内部に蓄積せられているエネルギ−が消えるのである。
すべての「心の悩み」は強烈なる内部圧力によって
「形」の世界に噴出しようとしつつあるのである。
煙草を吸って煙草をふかす習慣の如きも、
噴出したいある感情が喫煙の煙となって具象して消えつつあるのである。
だから煙をフ−と吹かす毎に心が落ち着くのである…。
                        (谷口雅春著)


今日の文章を読みまして、フ〜〜〜!ピッタリなのでしょうか……?
今朝…朝早く目覚めまして、最近「睡眠時間が短縮」に……
「パソコン」が、無ければ“睡眠時間…”は“3時間”でもいいのです〜〜が??
この頃!TYOのホ−ムドクタ−先生が…
「パソコンは、少なくとも“2時間おき”に、休憩をす事!!更に…!
睡眠は?最低7時間と言われ…>< 」
ど〜〜うしても、忙しい時は“5時間”なのですが…それは、どうしても〜〜〜」と…
云う場合のみ!!と言われまして……それからが……><
私の「時間管理が狂って…」いるのです〜〜〜ョネ〜〜〜♫

「現在総裁先生」に対して…「他の候補者…別の人?」だったらいいとか??
そうしますといい方向に行くとか??その様な“投稿意見”を拝読しながら…

ある方が…私達のような一般(末端)信者は〜〜〜
■■【 下等階級の人間とか〜〜〜挙句は本部講師が一番とか〜〜〜 】
何か“オカシイ”のでは……??
その様に【責任の無い言葉】を…“ポン!ポン!”と述べられてますが??
【誰〜〜誰〜〜がいなければ好くなるとか??】云っていますのは…
その人自身に、現状からの【環境・立場】を脱却したいが為の…“裏…逃避”
その手段的存在が〜〜〜?多少はあるのでしょうか〜〜〜?
非常に???気分の悪い〜〜“言葉”です〜〜ネ!

先ず!!!!ごまかしているのでしょうか〜〜しらんン? 変!!

個々の考え…それぞれでしょうが??
辞めた人!理由はともかく【今の総裁】を追い出す言葉が出ていますし
更に、中には“イヤナ言葉”を投稿していますが……
【悲しみ〜〜憤り〜〜不平〜〜“ネガティブ感情”が渦巻く〜〜♫〜〜】
そのような【エネルギ−・パワ−】が、このような“形”で……
周りの人を、蒔きこんでいくのでしょう〜〜〜〜〜か??
全て!!シャットアウト!!!!!なのでしょうかしら〜〜〜ン

そのような人は、いつまでも〜いつまでも〜それの“繰り返し”で進歩は…?
進む事も……『進歩性!!』もない様に見えますが…。
「今日の言葉」は、更に続きがあり…やはりどうかしようと〜〜思案する間に…
時間だけが過ぎ去り??何も出来ずに、唯!終わるだけなの〜〜〜ですか?
                 <続く>         No.1

241SAKURA:2012/03/16(金) 20:57:34 ID:FEa/NNlc
<続く>         No.2

■先ず!【聞く!相手の人間性を認める心!から始まる】のではと…思います。

「煙草を禁煙に出来ない人」が…いつまでも“ダラダラ〜”
云ってる様なものでしょうか…?
私も今日からは…『時間管理が出来ていませんので、パソコン時間と本来の実務ワ−ク』
のこの両者の両立が課題なので〜〜〜す。フ〜〜〜〜〜ウ><
■上手に「時間管理」が……時間よとまれ〜♫〜です……!!

今日!久しぶりに「現総裁先生夫妻の写真」を拝見しますと……「雅春先生」に似ていらっしゃいます〜〜ネ!!
更に!同様【雅春先生と同じ時期かと思うのですが?今から苦労しながら…
(いろんな意味での苦労)…船出】
確か?戦後もう一度…再建と云う事で…年齢が同じ頃でしたかと思いますが?
「創立者…雅春先生」が、「人類救済と云う事」で行動を…なさったと思います。
必ず!!【素晴らしい真理〜♫〜】を信者に導いて〜書籍を書かれる事と…と思います。
その様に〜〜「今日は“フト!”…神想観」にて、浮かびましたが…

私事!!先ず『一日一日の時間管理…クリア作戦開始!!開始!!』しませんと?
これも【心のクリア病】でしょうか〜〜〜?【 Smileマーク 】

                           再合掌

トキ様>本日の“言葉”どの様に受け止められましたでしょうか〜〜?
(ゆっくりオフ・タイム…にて、時間管理作戦…開始です…)
又、いろいろ…“投稿”させて頂きます…。
「雅春先生の言葉」私に取りまして…やはり“心のスパイス”です…。
この「御教え」に出会いました事に感謝申し上げます…。ありがとうございます。

242a hope:2012/03/17(土) 09:05:12 ID:kcv2QXTk
人生読本 谷口雅春先生著

第七章 生命の生かし方

生きものと死物(しぶつ)との異い


皆さん、あなたがたは自分を大切にしていらっしゃいますか。
自分を大切にするというのは自分をなるべく働かせないように、
大事に箱の中へ閉じ込めておくことではありません。

木偶人形なら一年中箱の中へ閉じ込めておく方が、汚れないでいつまでも綺麗でいるでしょう。
しかし閉じ込めてジッとさせておく方が、汚れもせず毀(こわ)れもしないのは人形は死んでいるからです。
死んでいるものは、使えば使うほど摩り切れてしまうからです。
どんな丈夫な着物でも、帯でも、足袋でも、毎日使っておれば破れてきます。

しかし生きているものは毎日使っても、毎日物に擦(こす)れても、摩り破れるということはありません。
使えば使うほど、擦れば擦るほど生きているものは丈夫になるのです。

冷水摩擦をして、毎日タオルで皮膚を擦っても、
皮膚が摩り禿(ち)びて使えなくなったということは聞いたことがありますまい。
かえって皮膚をこすれば擦るほど丈夫になり風邪を引かなくなります。

足蹠(あしのうら)の皮膚は、毎日身体ぜんたいの重荷を背負って、
土や、床や、畳や、下駄と摩擦して働いていますので、
人体中の皮膚の中(うち)で足蹠の皮膚は、一等太っているのです。

死んでいるものと、生きているものとの相異は、死んでいるものは働かせば働かすほど細るし、
生きているものは働かせば働かすほど太るということです。

(つづく)

243トキ:2012/03/17(土) 10:06:23 ID:cjNjb78g
 SAKURA様、いつもご投稿、ありがとうございます。

 今朝、新聞を見たら、吉本隆明さんが亡くなった記事がありました。
彼は左翼の有名な思想家ですが、晩年は原子力発電を援護し、反原発運動を批判しておりました。
 内容は結構、説得力のあるもので、正直、感心しました。
最近の生長の家が、谷口雅宣総裁の好みで反原発運動を展開しているで、コントラストは面白
かったです。本流掲示板では、原発賛成の意見もあるので、この問題は簡単ではないですね。

 でも、原発に限らず、本当は生長の家の人間と言っても、たくさんいる訳ですから、いろいろな意見
があって良いと思うのです。それが、今までは封じ込まれていた、と思います。
 それが、ネットの誕生で、匿名でも発言ができるようになった。これは大きいと思います。

 ここは毎日、カウンターから計算をすると、1000人以上の人間が閲覧していますから、ある程度の
影響力はあるみたいで、ここで自分の意見を述べてみることが、同じ信徒の人達に影響をあたえると
信じております。
 現在の総裁はたくさんの失敗をしたのは事実ですし、また本流復活派にも批判されるべき点が多々
あるのの事実だと思います。ですが、自分も完全な人間ではなく、ミスをする(あくまでも現象の
話ですが)ことを前提として、議論をするのは、生長の家という組織や信仰をより良くするためにも
必要だと思います。
 特に最近の組織風土として、議論ができない体質があります。それは改善されるべきです。
本部講師も、末端の信徒も、同じ信徒として、発言は大事に扱われるべきだと思います。

 一人の一つの発言は、確かに軽いかもしれませんが、それが重なると重くなるし、影響は
大きいと思います。

 みなさまのご投稿をお待ちする次第であります。

244如月:2012/03/17(土) 11:43:31 ID:ki/haAjk
では、皆様が書き込みしやすいようにレベル1の私がまず書かせていただきます。

個人的には脱原発も、ノーミートも極端で無ければ悪い方向では
無いと考えています。
ただ、それについて団体で意見を統一するのは反対です。

そもそも、雅宣先生が宗教家として発言なさった事に疑問を持ちます。
本人の資質とかでは無く、生長の家が宗教であるとは
雅春先生はおっしゃっていなかったように聞いているからです。

団体で意見を統一する事に反対する理由は
「…でなければならない」という縛りは生長の家に
そぐわないと思うからです。

245如月:2012/03/17(土) 11:51:25 ID:ki/haAjk
ごめなさい。
ここ、聖典引用板でしたね。

246志恩:2012/03/17(土) 12:37:05 ID:.QY5jUA6
《神道と仏教との関係》のことで、別板で論議が、ございました。

これについては、信仰/体験の方に,書き込む方が,ふさわしいと思われますが、
ここ、聖典引用板の方が、出入りが少ないので、ここへ書かせて頂きます。

実は,私の親戚の者に、「神道と仏教」について、専門にでは、ありませんが、
4年間勉強して来た人間がおります。
その人にメールで問い合わせたところ、メールにて、詳細な返信が届きました。

本人に、聞きましたら「匿名」なら、掲示板に掲載しても可。の許可を頂きましたので、
私が、代筆で、書き写させていただきます。

仮名「朝露夜露」様の名で、志恩が、代筆で、書きます。

かなり、長文なので、途中、用事が出来ましたら,中座することもありますので、
すみませんが、”おわり”と書くまで、横スレ、ご遠慮頂ければ,幸いです。

247朝露夜露(代筆・志恩):2012/03/17(土) 13:09:21 ID:.QY5jUA6
《神道と仏教との関係》は、私は専門に勉強してきたわけではないのですが、
私が今まで4年間勉強をしてきた上での個人的な感触でいえば、

神社神道と、寺院仏教という組織と組織の関係と、日本人の心情、文化、信仰としての
神道と仏教は、分けて考えた方が良いと思います。

私は、神道と仏教を、あまり対立軸で考えない方がいいと思います。

確かに、神社と寺という組織としては、対立した時期もあるし、今でも対立軸で両者を考える人は
いるのですが、一般人の間では、どちらも対立するものとは考えられてこなかったというのが、
私の感触です。

日本人の歴史の中で、神道的思想と仏教的思想は、非常に長い期間をかけて習合してきたので、
もはや切っても切れない関係になっていると思います。

今でも,ウサギ小屋となった都会の住宅を除けば、日本人の家庭には、普通に仏壇と神棚があるのは、
日本人が,神も仏も同じように受け入れてきた証拠ではないかと思います。

また、日本の仏教は、「日本仏教」とも言われ、インドで生まれた仏教とも、その後、中国で発展した
仏教とも、朝鮮半島やタイなどの仏教とも違う仏教になっています。
つまり、日本化していると言えると思います。

日本では、長い歴史の中で、神道と仏教は、確かにいろいろな経験をしてきましたが、
対立したのは、
政治的な利害が絡んだ時の、支配階級の氏族同士や、時代によって、時の政権による取り扱いがかわった時の
寺院と神社だと言えるのではないかと思います。

それぞれの時代の政権の座についていた一族により、政治的な思惑や、利害などで仏教と神道が対立したことは、
何回もあったと思いますが、
ごくごく単純化すると以下のような経緯があって、今に至っていると言えるのではないかと思います。

   〜つづく〜

248朝露夜露(代筆・志恩):2012/03/17(土) 13:46:42 ID:.QY5jUA6
 まず仏教が伝来したのは、公式には538年(ごみや)か、552年(ごごに)と言われ、どちらかは
学者の間でもまだはっきり決着はついていません。

しかし、一般には、6世紀の半ば、第29代欽明天皇の時代に公式に伝来したという意見が多いようです。
公式伝来というのは、その当時、日本がお付き合いをしていた朝鮮半島の百済から外交ルートで経典などを
送ってきたということです。

その頃、百済は、高句麗・新羅に圧迫され、日本に援軍を求めてきていたのだそうです。

この時に、正式に仏教を受容すべきかどうかで、反対派の物部氏と、賛成派の蘇我氏が、対立しましたが、
最終的には、欽明天皇が、あだし神(蕃神)つまり、外来の神の受容を許しました。

仏教は、外来の神とみなされたのです。
つまり、八百万の神々の国ですから、外来の神もあってもよかったのでしょう。
おおらかなものです。

歴史では、物部氏と蘇我氏が戦って、蘇我氏が勝利したので、仏教が勝って、神道が負けたような印象も
与えるかもしれませんが、神道が、なくなったわけではないのは、いうまでもありません。

物部氏と蘇我氏の対立は、政治的なものです。
物部氏は、当時朝廷の祭祀を担当していた氏族ですから、自分の氏の存続が危ぶまれることになりますから、
反対して当然でしょう。

蘇我氏は、外来の氏族の系列だったと思います。
仏教は、公式伝来の前から、非公式には、外国人と共に、日本にすでに伝わってきていたのです。

つまり、日本は、すでに民族的には、とてもひらかれた多様な国で、外来の文化をどんどん受け入れていた国で
あったということです。

    〜つづく〜

249朝露夜露(代筆・志恩):2012/03/17(土) 14:30:32 ID:.QY5jUA6
当時、百済が滅びると,日本は、負けて亡命して来た百済のエリート氏族を、そのまま大量に受け入れ、
優遇するということもやったようです。

その人達と共に、外国の進んだ文化も輸入しました。その人達は、やがて日本人と融合していったのでしょう。
日本にはいま、先の大戦前後に日本に来て,今も帰化せずに、日本にいる朝鮮族の人達がいて、その人達のことは、
朝鮮族と言いますが、

そのずっと昔にも、朝鮮からわたってきた人がいたわけですが、その人達を朝鮮系とかいうことがないということは、
面白いとおもいませんか。
アメリカだったら、いつまでも、ドイツ系とかユダヤ系とか言うのにね。

朝廷では、大化の改新(646)のころには、日本の神々と共に、仏教の儀式も行うようになっていきます。

皇族のなかでは、聖徳太子が、最も早く熱心な仏教の信奉者となり、ご自分で三経義疏(さんぎょうぎしょ)と言って、
経典の注釈書をまとめたともいわれるほど、むずかしい仏教経典の研究に熱心でしたし、飛鳥寺も蘇我氏によって、建てられました。

時代が下がって、奈良時代には、8世紀に、奈良の大仏を第45代聖武天皇が、国力をつくして建立しました。

当時は、疫病なども多く、人々の暮らしは、たいへんだったとおもいますが、聖武天皇は、国の民の幸福をいのって、大仏を建立
させたとも言われています。

このような形で、神仏習合が、すすみますが、土着の宗教と外来の宗教の習合というのは、日本だけでなく、色々な国で起こっていることです。

  〜 つづく〜

250朝露夜露(代筆・志恩):2012/03/17(土) 14:50:15 ID:.QY5jUA6
一言では説明できませんが、いろいろな政治的思惑も絡んで、護法善神といって、仏教を擁護する神という
思想が生まれ、寺院を守護する鎮守神として、

法隆寺には龍田社が、東大寺には、宇佐八幡宮が勧請されたり、
逆に、本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)といわれる「神は仏の化現」という思想がうまれ、

天照大神は、大日如来が、衆生を救うためにその姿で現れたというようなことが、いわれたりします。
神社で神様のために読経がおこなわれるということが、今でもあります。

いつの時代にも、外来のものは、目新しく進んだ文化ととらえられる事は、少なくないでしょう。

仏教が、インドで生まれたのは、日本に到来する1000年も前のことですから、それまでには、様々な
ありがたいお経が、たくさんの僧侶によって書かれ、中国大陸と朝鮮半島を通って、日本に伝わってきた頃には、

非常に洗練された思想体系になっていたと思われますから,当時の日本人にしてみれば、馬で旅行をしている時代に
飛行機が、輸入されたような感覚もあったのではないかという人もいます。

とにかく、今でいえば、進んだ外国の文化とも受け取られたのではないでしょうか。

  〜つづく〜

251朝露夜露(代筆・志恩):2012/03/17(土) 15:35:01 ID:.QY5jUA6
一方、神道は、仏教が伝来するまでは、神祀りと言われ、「神道」という言葉もなかったのですが、
仏教の定着に伴って、神祀りを担っていた人々が、日本古来の神祀りについて改めて考えさせられ、
「神の道」であるから「神道」と呼ばれるようになったと言います。

日本人にとって、神祀りは、当たり前のことで、これと何らかの形で対立するもの、それが、仏教だったわけですが、
それが入って来て初めて、その存在を意識したということでしょう。

たとえば、寺と神社ですが、神道では、最初、神社はなく、神は、岩や木に依ると、考えられていました。
神は、同じ場所にとどまる存在ではなく、自然の中に存在し、自由に動き回っていたのでしょう。

何しろ高天原で、人間と同じように生活をしていると考えられていたのですから。
その神様が、地上に降りて来て生まれた子孫が、日本人ですからね。

高天原に住む天の神々(天神)の他に、天から追放されたスサノオ(出雲大社の祭神)や、天孫のニニギノミコトが、
地上に降りてきた時に、地で迎える猿田彦の神に、代表される地上の神々(地祗ちぎ)もたくさんいましたが、日本人は、

いずれの神様も、祭りの時にお呼びして来てもらい、これを迎えたのです。

神を迎えるお祭りは、今も日本各地で行われていますが、神を迎える為に、依り代(よりしろ)を設けて、祈っていました。
神社は、なかったのです。

仏教では、大寺院や伽藍が造られていましたから、ある意味、これに対抗して、神社が造られるようになったのです。

この時には、仏教寺院と差別化を図るために、伊勢神宮の神明造(しんめいつくり)に代表される簡素な、仏教寺院に比べると,
ごく小さな社が造られるようになったのです。

しらきづくりで、木の肌そのものを使った社です。
屋根には、当時の民家のような萱が吹かれました。それが風でとばないようにと屋根にのせたのが、俵のような形をした鰹木(かつおぎ)です。

仏教寺院は、壮麗な瓦を使い、仏像にも金箔を塗ったりしていましたが、神道で、神像が造られるようになったのは、ずっと後のことで、
仏像に影響されてのことです。

神道は、とにかくシンプルで、神は、人間が喜ぶもとと同じものを喜び給うと考えられ、その年とれたての一番美味しいお米や野菜、お酒や肴など、
その土地の特産物が、お供えされたのです。

    〜つづく〜

252朝露夜露(代筆・志恩):2012/03/17(土) 15:48:55 ID:.QY5jUA6
神社建築は、その後、色を塗ったり、屋根を伸ばしたり、社を二つに並べて屋根をつなげたりというように、
いろいろなスタイルが、出て来ますが、

神社が寺院より小さく、素朴なのは、一つには、差別化を図るためだったと思われますし、そもそも社は、
なかったんです。
今でも、社のない神社が、あちこちにあります。

奈良県の大神神社(おおみわじんじゃ)は、山がご神体です。

神社は、寺院とは別の建築様式で、日本人の美意識を象徴するものになって行ったのではないでしょうか。

いま、われわれが、神社に行ってお祈りするとき、大きい神社の場合は、拝殿の前でお祈りします。
本殿は、その奥に小さいお社があるのが普通で、われわれの目に見えるのは、拝殿ですから、お間違いなく。

 〜 つづく〜

253朝露夜露(代筆・志恩):2012/03/17(土) 16:20:43 ID:.QY5jUA6
とにかく、神仏習合は、長い間かけて進んでいきます。その間には、江戸時代に檀家制度というのができ、
村の住民をすべて、寺の檀家とすることで、一種の戸籍として、住民の把握にあたったため、寺には、そういう役割が
与えられたということもあります。

また、神道は、死を忌み嫌ったため、葬式は、僧侶が担うということになったため、葬式仏教などという仏教にとっては、
ありがたくないレッテルも貼られるようになったりと、色々なことがあって、現在に至っているわけです。

また、明治期の近代化を遂げようという時には、
日本をどう一つに、まとめて行くかという議論となり、キリスト教を国教化するということも、考えられたようですが、

やはり、日本人を、精神的に団結させる中心は、天皇家と神道だろうということになり、神仏分離と称して、廃仏毀釈などが
あった事も事実です。

一方戦後には、GHQの神道指令で、日本人の精神的バックボーンをなきものにしようと、占領軍により、
神道と皇室と日本国民が、精神的に分離されてしまったとも言われています。

それは、アメリカが、日本人の精神的バックボーンは、神道だと正しく見ていたという証拠でもありますから、
日本人は、仏教の教えも日本化して受け入れてきたのだと言ってもよいかもしれません。

神道と仏教徒の間には、それなりの対立がありました。
しかし、今でも、神社で僧侶が、お経をあげ、神宮寺が、お寺をお守りしているところもあるのです。

天皇陛下も、神道の最高の神職として日々、天照大神や歴代天皇の御霊をお祭りしておられますが、
仏教にも、造詣が深くていらっしゃると思います。

日本の信仰体系は、実に面白いですね。

    
        ー おわり ー

254志恩:2012/03/17(土) 16:24:08 ID:.QY5jUA6
天皇陛下が、比叡山に行幸されたニュースを、貼付します。

http://blog.goo.ne.jp/shimizu-jyoshin/e/62a903e89f12d0fcccdeab82057caa76

255_:2012/03/17(土) 17:59:39 ID:MmCIlbok
私は『大自然が催し、大自然がはかろうて自分をその境遇にまで追い寄せた現在の生活』を百パーセント完全
に生きることが、生長の家の生き方であるといった。この意味において『戦争』というものが吾々に課せられ
た場合には(現に課せられているのであるが)それを完全に戦い抜くことが生長の家の生き方でなければなら
ないのである。今与えられた環境から飛出すところの出家道は、否応の選択が働くのであるから、戦争という
ものは魂の修養にならないというような価値判断がはたらいて、戦争忌避や、敗戦主義に捉えられるおそれが
あるが、生長の家では出征する人にとっては戦場が直に魂の修養の道場となり、戦争が直に吾々の魂を練ると
ころの公案となるのである。多くの人たちは戦争の悲惨な方面ばかり見ていて、その道徳的、宗教的意義を理
解しない。そして動もすれば戦争を忌避するのであるが、戦争は実に真剣な、否応なしに左右をいわずに、
ただひたすらに至上命令に従うところの激しき宗教的行事なのである。しかも同時に、肉体の『無』を理屈で
なしに実証するところの行事である。かの天華の修行に天華の教祖渡辺薫美が修行者たる一婦人に課したとこ
ろの『千仭の谷へ、今跳べ!』の必至命令の如く、否やの選択を許さぬ絶対命令と同じことである。『爆弾を
抱いて、そのまま敵のトーチカに跳び込め!』これに対して、軍人はただ『ハイ』と答えて跳び込むのである。
宗教の修行においては、たとひ教祖の命令通り跳び込まなくとも、『修行が足りない、まだ心境がそこまで達
していない』位で許されるだけに、それは修行の『型』をやっているだけである。また、そのその命令者が教
祖という個人である。しかし戦争においては否応はない、言葉通り肉体の生命が放棄せられる。そして軍隊の
命令者は天皇であって、肉体の放棄と共に天皇の大御命令に帰一するのである。肉体の無と、大生命への帰一
とが、同時に完全融合して行われるところの最高の宗教的行事が戦争なのである。戦争が地上に時として出て
来るのは地上に生れた霊魂進化の一過程として、それが戦地に赴くべき勇士たちにとっては耐え得られるとこ
ろの最高の宗教的行事であるからだと観じられる。

「谷口雅春選集」谷口雅春著 潮文閣 1941年発行より

256SAKURA:2012/03/18(日) 01:21:22 ID:dqlvDD0o
トキ様 へ

遅くなりましたが…お返事ありがとうございます…。

別件ですが…ある“投稿文”の処にて
【昨年!青年会の人数…1000人を減少したのは??】…云々
この件は、「現総裁先生」のみへの“責任転換”と言えますでしょう…!

■ 既に15年前以前から…
つまり現在「社会事業団」「ときみつる会」「学ぶ会…」
其処にて現在、活動をなされております元幹部の皆様(元理事の人達・職員の皆様…)
…の【責任…】でもあります…。
皆様の現代時代にも【人数の増やし方】は異常な計算方法でしたが…?
ある方は「実家まで毎回お金を借りに…」「サラ金に借りに…」その様な現象が…
御主人に内緒で保険金解約…既にありましたが……?異常でしょう……?

既に当時!全国大会でも「青年会…」参加の時は、
白鳩会長自らの言葉にて、【人数増員対策の手段】としまして、
一般人(白鳩会員)も参加…可能な事から、
私自身も“参加”させて頂いておりました…。
当然!!当時の「教化部長…」も御存じのはずです…。
と言う事は、その上の幹部クラス「理事…」関係者皆様も、御存じのはずと、
申しても過言ではありません。
つまり現在「社会事業団」「ときみつる会」「学ぶ会」の方々も該当しますが…?

さて!私が感じました頃??すでに8年前位から、目じりに“人数減少…”は、
伺えておりました…。
それに、後半からは、【正確なる人数把握】と言う事で…かなり!チェツクが厳しい
流れになって来たのでは、その結果そのものです。

そして「高齢の信者の皆様」が愛念にて【講習券…購入】をされていました様ですし、
果たして、その方が、当日“講習会場に参加”されたかどうかは?
【購入権枚数…実質参加人数】この対比はどの様になっていますか・本当の数字は?
第三者から見まして、定かではありませんが…?
そして、この年代が…現状(失礼ながら)亡くなられて逝っております。

■ 今回の【現象世界…青年会1000人】これは、
既にかなりの前からの【原因…】が…要因となり、起るべき事が数字として
現れてきただけで…別に驚く“モノ”ではないと思いますが…?

ただ今後の“組織運営…”にこの現状をどの様に対処していくかが問題と思います…。
今後の改善策を「信じて…待つ」この様に思う次第です…。
                                 再合掌

257志恩:2012/03/18(日) 06:38:50 ID:.QY5jUA6
SAKURAさま

貴女は、「社会事業団」「ときみつる会」「学ぶ会」.元理事、元職員の
かたちの事に、この生長の家の信徒が激減したことの責任を、コメントを
書く毎に、罪をなすりつけようと、必死で,書いてますが、

非常に無理があります。宗教組織の実体を知らな過ぎます。
この方達は、組織を「指揮」していた方達では、ありません。
総裁にためを思い、進言して、辞めざるをえなくなったり、総裁の
ためを思って、忠告したら、逆鱗にふれて、信徒の浄財、5億円も
使って、裁判にかけて、追い込まれたり、

そのように、総裁の横暴の鋭い牙に、やられた
お気の毒な方達です。

宗教組織の指揮者は、総裁、ただお一人です。

現総裁は、副総裁のときから加えると、20年間にわたり、生長の家の全
組織のトップの座におり、全組織をお一人で、采配してこられたお方です。

この20年間、どのようにでも、立ち直らせることが。できたはずです
それが、衰退の一途、特に、青年会の参加者が非常に、少ないということは、
やはり、現トップの責任以外のなにものでも、ありません。

258志恩:2012/03/18(日) 07:07:33 ID:.QY5jUA6
SAKURAさま
ここは、聖典引用板です。ですので、上記のような、やりとりは、別の板で、しませんか。

259SAKURA:2012/03/18(日) 07:37:45 ID:thWaIlUo
トキ様 へ
皆様 へ
おはようございます…。

今日も…又!毎日が私自身【真理】の勉強です…。
益々と〜〜“心”が躍ってくるような心境に「生命哲学…」勉強させて頂きます。

■ 【幸福を招く365章】

―――❖非観的な気分になったときは❖―――
時として何の理由もないのに憂鬱な陰気な否定的な気分が
自分の心のうちに湧き起こって来て、
世界が暗澹として何の希望も生き甲斐も感じられなく思われる事があります。
これは、どこかから宇宙に漂う悲観的な精神波動が放送されているのを
貴女がヒョッコリ受信したのであって、
あなたの本物(実相のあなた)が悲観的になったのではありません。
この真理を知ることが、その暗い感じから脱却する第一の門であります。
貴女が此の真理を知り、「今自分にかかってきているのは自分以外の念波であって、
自分は神の子であるから悲観的になったり、憂鬱になったりするものでない。
自分の心は明るいのだ、幸福だ」と一心に念ずることにしますと、
暗い精神波動の波長を外らしてしまうことが出来ます。
                            (谷口雅春著)
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――― ☆

日常的な事でこの様な状態…気分は、誰にでも日常茶飯事に比較的に起き易いです。
例えば「ネットの世界」は、意外と“モノ”が見えない世界ですので、
文章でその人の“価値観”を…それがうまく表現出来ない…場合は、
意外と“ハッキリした行動”が、往々にして出ますでしょう!!
ひと昔前なら…通信関係の「電話」は、当時は顔が見えないので、言いにくい事を…
“ハッキリと言います時”は、「電話」は便利な手段でしたが……><

時代が変わり、今は「電話」でに代わって「パソコン…」が主流となり、
「パソコン・ユ−ザ−間同士」の不協和音は、それはすご〜〜い“念波”でしょうか?
“念波”は、すご〜〜いのではと思います…。
相手が見えないので、かえって“好き放題な文章”で打ち込む事も…しばしば?
その後の問題は?エスカレ−トな関係になり、闘争状態になって……

少し前までは、高校生が自殺に向かう様な【言葉の使用】…更に【言葉遊び】で…
【自殺者】が増えたこともありますよ〜〜〜ネ!!

【パソコンの怖さ】は、自分の考えが“同調”出来ない時に起きる“言葉”の使用で、
嫌な波動が簡単に起きます…。
この様な時、私は、先ず!今の私にとって必要な事なのでしょうかと?
「神…」に向かい聞きます…。それでも、嫌な念派・波動が起きましたら、
更に!その日の仕事に影響します時は、「今日の言葉」を思念しますと…いい方向に!

■【今自分にかかってきているのは自分以外の念波であって、
自分は神の子であるから、悲観的になったり、憂鬱になったりするものでない。
自分の心はあかるいのだ、幸福だ〜〜!】

……と、念じますと、その人の嫌な波動は、反らす事が、出来そうに思えます…。

今日から【想念】
更に!見えない世界も“スム−ズ”に行けるようになりそうですネ!
早々“実行”してみましょう〜〜〜!!!進行形… “ step・me・up!! ” 
さぁ〜〜今日も元気に“スタ−ト”です。
そして、皆様にとりまして“最高の一日”であります事を、お祈り申し上げます…。  
 再合掌

PS:トキ様へ>
    本日の言葉の解釈どの様に捉えられましたでしょうか?
    ”アドバイス“頂きますと、幸いに存じますが…??

260a hope:2012/03/18(日) 08:43:20 ID:kcv2QXTk

人生読本 谷口雅春先生著

かわいがる道と憎む道と


生きているものは働かせば働かせるほど太るし、かえって、
働かせずにジッとさせて置けば細るものだということがわかれば、
生きているものと死んでいるものとは、
その大切にする仕方が自(おのず)から変わってこなければなりますまい。

吾々生きている者は、「自分」を大切にしようと思えば、「自分」を働かせねばならないのです。
「自分」絶えず働かせている者は、「自分」大切にしている者ですし、
「自分」を絶えず怠けさせている者は、「自分」を粗末にしている者なのです。
「自分」を絶えず怠けさせていながら、「自分」をかわいがっているつもりになっている人があれば、
大変な見当ちがいです。

働くということは自分を愛する道、怠けるということは自分を憎む道です。

(つづく)

261SAKURA:2012/03/18(日) 22:53:33 ID:FEa/NNlc
トキ様 へ
皆様 へ

先日は…「仏教・神道…」解説論が説かれています…。拝読させて頂きました。
やはり、“アジアと云うイメ−からは、【仏教…】と云うイメージが、強いものと
改めまして思いました…。

さて!!!!
■■【仏教…】 ある書物からの抜粋…

■【仏の姿と仏の徳】
この世は火のいにしえの様に安らかでない。人々は愚かさの闇につつまれて、怒り、
そねみ、あらゆる煩悩に狂わされている。
赤子に母が必要であるように、人々はみなこの仏の慈悲に頼らなければならない。

仏は実に聖者の中の尊い聖者であり、この世の父である。
だから、あらゆる人々はみな仏の子である。彼らはひたすらにこの世の楽しみにのみ
かかわり、その災いを見通す智慧を持たない。
この世は苦しみに満ちた恐るべきところ、老いと病と死の炎は燃えてやまない。

ところが、仏は迷いの世界という火の宅(いえ)を離れ、静寂な林にあって、
「いまこの世界はわがものであり、その中の生けるものたちはみなわが子である。
限りない悩みを救うのはわれひとりである」と言う。
 
仏は実に、大いなる法の王であるから、思いのままに教えを説く。
仏はただ、人々を安らかにし、恵みをもたらすためにこの世に現われ。
人々を苦しみから救い出すために、仏は法を説いた。ところが、人々は欲に引かれて
聞く耳をもたず気にもしていない。
 
しかし、この教えを聞いて喜ぶ人は、もはや決して迷いの世界に退くことのない
境地におかれるであろう。

 But those who listen to His teachings are free from
The delusions and the miseries of life. “ People can not be saved by relying
on their own wisdom,
“ He said , “ and through faith they must enter into my teaching.”
Therefore , one should listen to the Buddha’s teaching and put it into practice.

「わが教えは、ただ信によってのみ入ることができる。すなわち、
仏の言葉を信ずることによって教えにかなうので、自分の智慧によるのではない」
したがって仏の教えに耳を傾け、それを実践すべきである。
                              (一部抜粋)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

■この様に「真理」は…万国共通かと、改めて思った次第です。
そして、雅春先生が【真理は一つ】この言葉が、重く心に響きました…。
「生長の家」此の御教えの素晴らしさを、痛感いたしますとともに、
【仏の慈悲…】
基本的な倫理横目で“慈”…とは、
相手に楽しみを与える事、“非”とは、相手から苦しみを抜き去る事である。
これを体得して、対象を差別せず慈悲をかけるものが“覚者”すなわち仏である。
要約致しますならば【相手と共に喜び、共に悲しんであげる…】そうなのですョ〜ネ!
当に!【自他一体…】

この真理とは……最終的には【神は愛なり…実相……】これにつきますのではと、
新たに認識を致しました…。
                             
「生長の家」この御教えは…「雅春先生」に神霊が天下り…
私共に“【心のともしび=真理】”を、導いて下しました…。
この文章からも、「生長の家」では既に「現象世界…実相世界」既に説かれています…。
人間は、“我欲”に執着しますと…本当の「天国の門」には、いけないでしょう〜〜ネ??

これと同じような事を「雅春先生」がおっしゃっていますし……先生の書物一つ一つに…
「真理…」が説かれていると、思いますと…【調和の精神…讃嘆の精神…】
神の御心に合う事のみが、この現象世界に投影されて来るものと、確信いたしました。

最後に…本日の【山梨講演の一部を抜粋して頂いた“言葉”…】
そうなのですよ〜ネ!気付いた時点から…本当の“進歩”が始まるモノと思います…。
■ ■ 失敗は…成功の母!!     (エジソン…)
                                        再合掌

PS:今日は、色々考えさせられました…。此の事は、必ず!何かの“進歩”の始まりと…
気付きを頂きました…。 感謝!!

262a hope:2012/03/19(月) 07:21:56 ID:kcv2QXTk

人生読本 谷口雅春先生著

仕事や勉強をするコツ


この事がわかりまして、さて、自分を振り返るってみますと、
吾々は今までどんなに自分自身を憎んで来たことでしょう。
吾々は今まで、本当にかわいがるとはどんなことだか知らなかったから、
かわいがっているつもりで、本当は憎んで来たのです。

吾々は自分自身にもっと深切でなければならなかったはずなのです。
もっともっと自分の心が太るように身体が強くなるように、
自分自身を絶えず働かせていなければならなかったのです。
自分自身を絶えず勉強させていなければならなかったのです。

自分を働かすにも、勉強さすにもコツがあります。
今まで皆さんはこのコツを知らないで、自分を働かせたり勉強したりしましたから、
働いたり勉強すれば、かえって疲れたり、弱ったり、病気になったりしたのです。

それでは、そのいくら働いても、いくら勉強しても疲れない、弱らない、
病気にならないコツというのはどこにあるのか教えて欲しいと思われるでしょう。
ではそのコツがどこにあるかを説明しましょう。
(つづく)

263神の子さん:2012/03/19(月) 22:06:05 ID:4dpd6CaA
>257


在日朝鮮人たちが現実を無視して被害妄想で日本に過去に酷い目に合わされたって捏造してるのと大差なくなってるよな。

自分らの境遇を全部他所へ責任を負わすのは無理があるだろ 信仰してても少しは総裁の異常性に気づけよ。

このままじゃカルトと差が無いぞ

264a hope:2012/03/20(火) 10:18:27 ID:kcv2QXTk

人生読本 谷口雅春先生著

働くときの心の持方(もちかた)


いくら働いても、いくら勉強しても、疲れない弱らないコツは「心」にあるのです。
「心」の持方ひとつで、我々はいくら働いても、いくら勉強しても、
疲れず弱らずますます丈夫になるのです。

どんな「心」の持方をするのがよいかといえば、働いたり勉強したら身体が疲れるとか、
弱るとか考えていたその考えを、スッカリ「心」の隅々から捨てさってしまうことです。

そして人間は生きものだから働けば働くほど、勉強すれば勉強するほど、
達者になる丈夫になると常に考えるようにすればよいのです。

怠け心が起こって来たら、「ああ又私は自分自身を憎む心を起していた。
私は生きているのだから、働いたり、勉強したりすることが、自分自身をかわいがることになるのだ」
と思い返して、また仕事や勉強を励むのです。

これがいくら働いても、勉強しても、疲れないコツのひとつです。

(つづく)

265うのはな:2012/03/20(火) 21:41:23 ID:El6gIMAw

  神に祈ることの大切さ 先生の御巡錫に学ぶ  谷口壽美 先生

 今回の海外御巡錫では、最初の頃にハワイ、ロスアンゼルスで4日間ずつの詳密講習会が
企画されていました。出発する前から、この1日6時間の詳密講習会とは、一体どんなものなのだろうかと
少なからず心配でした。
 案の定、先生は家に居られるのとは全く違った、人との応対、会話、とまどうことの多い1日の中に、6時間も立ちづめの講演を
なさり、ロスアンゼルスでは会場の往復に2時間も車で飛ばすのでした。
この詳密講習会が終ると少しは楽になられるかと思いのほか、それから後は各地でのリリジャス・サイエンスやユニティ教会での白人向けの講話で、
違った気苦労をなさるのでした。

 カンサス・シティは信徒の日本人の方が一人もおられず、ユニティ本部の皆様が出迎えから見送り、案内まで一切してくださいました。
1泊でしたが、押しの強い大きな白人が盛んに話しかける愛想の良さにつられて調子を合わせていると、夜にはもうぐったりしてしまい、日本人恋しさが
沸き起って来たりします。そんな異和感は、慣れない土地にいると案外体にこたえるのに加えて、風俗習慣の違いで、講演内容が白人にわからかったりさしさわりが
あったりするので、先生は考えながら話していかれるので尚更御苦労であったことと思います。

そういった通訳付ゲスト講演が1日に必ず1回はあり、その他に生長の家独自の講演会があったりの強行スケジュールをこなされていらして、サンフランシスコでのことでした。
サンノゼに新しく北加道場が建設され、総裁先生に初の講演をしていただこうと、日本人が会場を埋めました。
この時は日本語のみの御講演をされたのでしたが、今までになく内容が深く、私にとって得るところが多大で感謝感激しつつメモをとりましたが、
何よりまして、先生自身が楽しげに御自分のそのままのペースで話されるのが大変よかったと記憶しています。

 日本人はくどくど説明をしなくとも大きな宇宙的とでも言うような直感でパッとつかむということを無意識のうちにもしていて、生長の家の教義なども
殆どこれで私達は導かれてきているのではないでしょうか。そして生長の家人なら、その直感を、正しく歪みなく保持すべきで、総裁先生と同じように、毎日、
神に“祈る”ことによって神に堅く結びついていなければならないのだと強く思ったのでした。

『真理は民族を超えて』 谷口雅春先生御夫妻海外御巡錫記念写真帖

266SAKURA:2012/03/20(火) 22:37:54 ID:FEa/NNlc

トキ様 へ
皆様 へ
こんばんは…

昨日“投稿”しましょうかと…思いましたが?私事にて疲れていまして〜〜 ><
実は!“オバケ目”にて…いつの間にか“文章”が消えてしまいましたので〜〜す。
“落ち込み…” ><
もう〜〜また!書くのも疲れてしまい…その“内容”が「不思議な国のアリス」?
別の方が、同じ様な文章を…見まして、この世に“テレパシ−”が…
同じように“配信”されるのです〜ネ!
神様からの“アイデア”は、全ての人に発信され…それを受信する事が出来る人が…
何人いらっしゃいますかしら〜〜ン?
“直観”を受信いたしましたら、“即行動!”でしょうかと…
今日は、痛烈に思いました。そして、今日は、「お彼岸の中日」ですモノ?
明日「亡き母のお墓参り」に、お寺に伺います…!
最近!若者達も、「仏教」を勉強されているのでしょうか??
先日“コンビニで”お彼岸のいわれ…若者なりに調べて…“ポスタ−”を…店頭に!!
熱心に調べているのです〜〜ネ!
さて!“今日の言葉”の一ページを、更に!心のエッセンスを勉強して見ました?

■【幸福を招く365章】
――― 自然の叡智は最も完全に解決する ―――

大自然の解決法は最も簡単で有効に行われるのである。
これが絶対他力への乗托(まかせきり)と云うものである。
死んでから極楽行だけをまかせるのであって、
生きている間は我の力で万事をやりぬこうとしているようなことで、
いざ死ぬと云う時になって後生だけを
他力にまかせ得るかどうか云うことは誠に疑問だと云わなければならないのである。
現実界に於いて、他力にまかせ切ると云うことは、外界の力に自分を
屈従させ忍従させると云うことではないのであって、自己の内にやどる叡智に
それをまかせると云うことである。
真に自己の内に宿る神の力にまかせ切ることが出来れば、内からなる催しは
何事も最も完全に解決してくれるし、病気ならば自然の催しが最も完全に
治癒してくれるのである。                  (谷口雅春著)


                
<つづく>            No.1

267SAKURA:2012/03/20(火) 22:39:36 ID:FEa/NNlc
<つづく>            No.2

前回!【母の法要】の時、お寺の住職さんと“お話”を……

■【南無阿弥陀仏…】と〜〜♫〜〜唱えたら、そのまま“仏に成る…成仏…極楽へ”と
聞きますと、大住職さんは、一応はあの世には行きますが…?後は、
その人の“心のもち方”でしょうか?
「亡き母は、素直に、あちらの世界へといかれたのでしょうか?」お尋ねしますと?
住職さんは、「母の霊様は、いい所に云ってる様に思えます〜〜〜ョ!」 (笑)
今!!大住職さんは、忙しい〜〜♫と、悲鳴を上げていらっしゃいますとの事…
確かに、最近!「仏教…」が、返り咲きしまして、若者が講義に来るようになり…
更に!「壇家でも無い方」からの“葬儀”の依頼とかが〜〜〜増えて、
以前より、それ以上に増えて…見ていますと?どう〜〜〜も肩に、
何か乗っかっている様に〜〜〜見えました。
大住職さんが、現状は“魂が清く”ならない方は、どんなに“お経”を唱えても…?ネ!

その様に云っていましたが…“今日の言葉”より【他力心願】は、一応は行きますが…
それなりの世界に〜〜!やはり【今を生かす事…神の叡智におまかせスタイル】で
生活すること〜〜〜が
【内から来る神の叡智に…毎日の祈りにおまかせしますスタイル生活】が…
一番ベタ−でしょうか?
必ず!!“神様からの伝言”を、キャッチ出来る…今日!私は思いました。

更に!昨日も似たような事でしたが“神様に向ける心をスイッチ”致しますと…
「神様からの伝言」が来る様です…。
私も、今から「神様におまかせスタイル」しながら、
日々の仕事を消化して行けますように…必ずや!「神様の御心」のごとく…
おまかせしますと、内からなる答が、おのずと湧き出でまして、解決すると…

今から!今日は「ウオ−キング」ですが「神様に時間管理」をお任せしていきますし、
更に!「生長の家」の行く末は、必ずや“神の御心に会った形”になる事と…
■全て「神様におまかせ…」します。必ず!導いて下さいますでしょう。【全托】                     
                               再合掌
                                         
PS:トキ様 へ…「自然の叡智」これは人間智では、解決できない事でも…
いと簡単に解決しますもの…今の「生長の家」行く末…
この様に【任せきり】…本日の“解釈論”如何なものでしょうか?

268神の子さん:2012/03/20(火) 23:40:51 ID:cHtpiE56
あ=====

分からない!! 分からない!!


AAAA======〜〜〜〜〜〜


ワカンネーーーーーーーーー!!!  解らない!!!!!!!!!!

269ももんが:2012/03/20(火) 23:45:27 ID:XXCuaQns
>>267

SAKURA様


SAKURA様、こんばわ。合掌、拝。

いつも、賛同できる、御言葉が、たくさんあるのですが、賛同できずに、いました。


本日は、SAKURA様の、この御言葉に、賛同です。

<<【内から来る神の叡智に…毎日の祈りにおまかせしますスタイル生活】が…
一番ベタ−でしょうか?
必ず!!“神様からの伝言”を、キャッチ出来る…今日!私は思いました。>>


真に、そのとうりですね。

私も、いつも、その様に思うしだいです。


それでは、また、素晴らしい御言葉や、体験お話、よろしくお願いいたします。ありがとうございます。感謝、合掌、拝。

270a hope:2012/03/21(水) 11:47:31 ID:kcv2QXTk

人生読本 谷口雅春先生著

楽しく思って仕事をせよ


もうひとつのコツは、仕事をする時にはその仕事を、
勉強する時にはその勉強を、絶えず楽しく思ってすることです、
いやいや仕事をしたり勉強したりするのは、病気の因(もと)です。

例えば糸を紡ぐにしても、

「わたしが糸を紡いであげるので、多くの人が着物を着られて喜ぶのだ。
みんなの人が私の仕事にありがたがっている。みんなの人が私の仕事を感謝している。
私はみんなに喜ばれる仕事をしているのだ。ああ今日も私は人々の為になった。
ああ今も皆さんが私のことを喜んでくれている」

と思いつつ、喜びながら仕事をするのです。
そうすると人間は決して疲れません。本当に疲れません。

(つづく)

271うのはな:2012/03/21(水) 18:38:38 ID:El6gIMAw

『生命の實相』が刊行されたとき、聖書型の黒革の表紙には、私の名は無かった。
表紙や背文字には、「生長の家聖典」とのみ記して、著者名は出さなかった。
神が私をパイプとして書かしめた聖なる典籍との畏れ慎みであった。


 天を視るに
 幾万の天使たち身に羽衣の如きものを着け、
 手に巻物を持ちて打ち振り 何事かなすものの如し。

 天使たちの手にせる巻物には「生命の實相」と書かれたりと見る。
 その巻物より白き霊の糸の如きもの無数蜘蛛の糸の如く下りて光を放つ。
 霊の糸の先端に黒き書物あり、三方より光を放つ。

 大涛の如き天使の声聞えて
 「生命の實相を握るものは焔の中にあって焼けず、死を超えて永遠に生きん」

 谷口雅春 先生 著 『生命の實相』

272ハマナス:2012/03/21(水) 21:56:34 ID:u5mC.eb2

神の子のみなさま
 こんばんは。

  神の創造に協力しよう (『新版 生活の智慧365章』P.101より)

 人間に於ては、“創造の霊”(神)が“真空妙有”の世界から常に“新しき創造の原型”
を形の世界に押し出してきて、常に吾々は何か新しい設計や計画や創造的仕事をなしつつ
あり、人体では、それが新陳代謝としてあらわれてきているのである。
神はその霊の“創造の新しき拠点”として肉体を作り、その肉体の中に、自己の“霊”を
宿らせて、其処に自己の欲する事物をつくり出す“中心”を創造したのである。吾らは
神の“新しき創造の拠点”として、即ち神の常に新しき自己表現の“中心者”たるもの
である。

 人間は常に新しき創造をつくり出しつつあり、人体は新陳代謝で、陳(ふる)きものを
追い出して新しき創造をつくりつづけつつあるのである。自然界では春夏秋冬の遷(うつ)
りかわりに、花咲き実り、葉茂り、落葉し、更に新たな春の装いをつけつつ、植物は常に
新しき形にまで生長をつづけるのである。即ちこの世界は新創造新生長の実現する世界で
あり、それを内部から動かしているのは、“創造の霊”なのである。従って吾らは常に新しき
創造をこの世界に為すべきであり、それによってのみ、神の創造に協力することができるのである。
もし吾々が“新しき創造”を何もしないならば、それは神の“創造力”の出口たる使命を
果たさないのであるから生命は内部から引退し死に招くに至るのである。

感謝合掌

273SAKURA:2012/03/22(木) 04:50:15 ID:qjU6h9ik
トキ様 へ
皆様 へ
おはようございます…。

今日は【嵐の〜♫〜】前〜〜なのでしょうか…?
前触れ???なのでしょう〜〜か?
しかも…「ジ〜〜〜〜〜っと見ている”竿の先“…」でしょうか??
【統一教会】の様な感じ?…変な感じ?…「解説論…」に見えてしまいます〜ネ!
本当の「生長の家」の人〜〜〜♫〜〜〜何処にいるの〜〜〜〜〜??
まるで〜まるで〜【創価学会・統一教会の人…???】
その様中でも【SAKURA…】 神に誓って頑張りま〜〜す。
■「生長の家」の灯をもう一度!!今日も“真理”の勉強をさせて頂きます…。

■【幸福を招く365章】
―――巧みな忘却は人生を洗う石鹸なり―――

過去の事を思い煩うな、未来のことを心配するな。
思い煩いと心配とはあなたの神経を病的に刺激し、つい生理的不調和を
惹起し或いは抵抗力を弱めて病気に至らしめるのである。
過去は過ぎ去ったのである。思い煩うは愚かなことである。
未来はまだ来たらないのである。心配するのは愚かなことである。
結局、悩む者は、過去を今に持ち来し、未来を今に持ち来し、
今の幸福を想像の中で汚してしまうのであるから、
そんな愚かな事はしないが好い。「今」を喜べ。
過去を忘れよ。未来を忘れよ。
この忘却はあなたの人生を清める石鹸の働きをするのである。
                       (谷口雅春著)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
今日は“過去の事”を思い出しながら…澄み切った夜空に輝く星〜〜♫〜〜見上げ、
“お墓参り”へと…「亡き母」が眠っています“お寺”に行く…途中…
まだ!母の“面影”があちらにも〜こちらにも〜?残っています…街並み???
あの頃の“面影”がそのまま残っている“ビル”があったり、
もう〜?“空きビル”になってしまい、過去の繁栄した“姿”何処〜〜なの><
“時間”と云う概念は…
この世から“亡き最愛の母が別世界に飛び立ち”それでも、刻々まれていく〜♫

それを思いながら“心”の何処か片隅に、大きな空洞… >< 小学校の頃、
夏休みの補習がありまして、担任の先生と一緒に勉強を…
ある時昼休みに、先生が「木村屋のあんパン」をおごると云って下さいまして、
私にお金を渡し「パン屋…」へと!!此処は有名な「銀座の支店」だったのですが…
今は、もう〜〜〜〜〜“独立”にて、全く関係ない様ですが…
当時は「人気商品」…それを20個買ってきて、
先生は、私に“アンパン・メロンパンと牛乳…”今〜♫〜
幼いころの思い出が?ついつい〜♫〜「走馬灯」の様に思いだしますと、
胸が締め付けられる気持ちです〜〜。
確かに!!あの時代〜あの頃〜あの場所で〜父も母も…健在でいたのです〜〜ョネ!

■【肉体は借りもの?】
子供の頃、私が必ず!親孝行……此の“文字”を…いつも念頭に抱きながら…
思い出しますと…「親不孝者…」でした…その“後悔の念”…
母が亡くなって以来、そればかり考える様になりまして、
唯!今…「母も霊界」にいますが?どのような部屋にいるのかしら〜〜〜ンと?
いつも…母へのメッセ−ジ!
そして、あちらの世界…母にとりましては、まだ“期間”が短い様ですので…
唯!今!!!今!!!今を生かす事が…如何に大切なモノなのかを知る事ができ
そう思える様に〜〜なった私自身を少しだけ“よかった子ちゃん”でしょうか?

私は“過去の事”を、思い煩うより“前向きに未来”へと目を向け様と思います。
…今は、きっと〜♫〜きっと〜素敵な未来が…待ち受けている!!
前に〜〜前に〜〜ひたすら“前進” オンリ−!!
そして【生長の家も…必ず!必ず!信じて待つ……『信力』】
現在!本当〜〜〜〜〜「生長の家」??と思うぐらい新しい方の“投稿言葉”
あらゆる分野…キリスト教・仏教…に起きましても、
■人間は“真理=愛”…そこに行く過程まで…“光明=光”…更に“慧=叡智”…
そうなのですョ〜〜〜ネ!【真理…】が見えなければ〜〜〜
【霊界の世界…】いい世界へと、行く事が出来ない見たい〜〜〜ですョネ!
だからこそ「宗教・哲学…」学ぶ必要性が…
更に!私も少し【真理…】に目覚め出しまして〜〜♫〜〜
■ ■ 【真理…】これこそ永遠不変!!!!          再合掌                        

PS:トキ様へ…本日の解釈どの様にお考えでしょうか?“アドバイス”頂きますと
幸いに存じます…。

274a hope:2012/03/22(木) 11:20:36 ID:kcv2QXTk

人生読本 谷口雅春先生著

或る少年の話


神戸に肋膜炎という病気に罹って、やっと治りかけたくらいの痩せ衰えた六年生の生徒がありました。
中学へ入学するのに、試験の競争がはげしいので、病後のその少年にとっては、
誰がみても一年ぐらい休学して、来年もう一年、
六年生の勉強をしてから中学校へ入るほうが無理がなくてよかろうと思えるのでした。
母親もそう思っていました。

そして私のところへ、その少年をつれて相談に来られたのです。
その時私は、その少年と母親とに申しました。
「勉強は心を富(と)まし、身体を丈夫にする薬なのです。
勉強をすれば身体が弱くなると思っていたのは、ふるい時代の迷信です。
勉強する時には、これから身体の丈夫になる薬をのむと思って勉強しなさい。
『ああこの薬は楽しい。楽しいことはいくらやっても疲れない。
私が勉強したら、父さま母さまが喜んでくださる。
人を喜ばすことをすれば身体は丈夫になるばかりだ。決して疲れない。』
こう思ってから本を開いて勉強しなさい」
と私が申上げますと、その少年は、病後の疲れた身体で、
毎晩二時三時頃までも勉強したものです。

それに決して疲れるということなく、しだいに肥えて、
小学校を卒業する頃には、学科もよくできるし、
体格も立派になり、無事に中学へ入学して、次の日その母親に私が会ったときには、
大変喜んでお礼を申されたのであります。

(つづく)

275a hope:2012/03/22(木) 11:25:09 ID:kcv2QXTk

SAKURAさま

いつも、すばらしい聖典の筆写を、
こちらの聖典引用板にしていただきありがとうございます。

こちらの聖典引用板が、たしか多くの投稿者さま方が、他の板で聖典の筆写をされるようになり、
「それならば、聖典のみを筆写する板をつくろう!」ということがきっかけでできた板だとわたしは記憶しています。
そのほうが、閲覧する方も他の板でされている討論などを、目にすることなく、
聖典のみを閲覧できるということも考慮されて作られた板だったと思います。

管理人さまのトキさまも、
―――――――――――――――――――――――――――――――――――ー

1:トキ:2011/11/23(水) 13:32:46 ID:YRze2u3c
 このスレッドは、生長の家の「今の教え」と「本流復活」の問題に関連して、雅春先生や
御高弟、他の真理の言葉のみを掲載していくという板です。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

と一番最初に言われていますので、聖典の引用とは関係のない、個人的な内容や、
トキさまへの質問などは、他の板でされた方がよいのではないかと思いますが、いかがでしょうか?

276トキ:2012/03/22(木) 11:26:19 ID:iFhznFvc
>>275

 お尋ね、ありがとうございました。その場合は、「部室」板でお願いします。

合掌 ありがとうございます

277a hope:2012/03/22(木) 11:29:23 ID:kcv2QXTk

>>275 訂正
6行目
こちらの聖典引用板が、→ こちらの聖典引用板ですが、

278SAKURA:2012/03/22(木) 14:44:48 ID:gXyivFRg

>ももんが様 へ
こんにちは …。

>269拝読 させて頂きまして……
まだまだ未熟な私の“投稿文”…賛同して頂きました事に、深く感謝申し上げます。
ありがとうございます…。(遅くなりまして…申し訳ありません。)
“恐縮…”と云う“言葉”一言に尽きます…。
『モモンガ様』の仏教論…私なりに…日々“勉強中”です…。

話は変わりますが…この頃“若者”が、私の感じます限り【仏教…】に興味を
持っているようです〜〜〜〜〜ョ!
『モモンガ様』の影響…“パワ―”ではないでしょうか?? (微笑み)
今後とも、何卒よろしくお願い申し上げます…。
                              再合掌

PS:此処でお礼の“言葉”お伝えします事…此の掲示板趣旨に反しますかしら〜ン
思いながらも…【此処に書いて頂いておりましたので】御迷惑を「ももんが様」に
おかけしましたら?申し訳ありません…。

279SAKURA:2012/03/22(木) 15:58:08 ID:gXyivFRg
トキ様 へ
皆様 へ

現在、社会が複雑化しています昨今!!「心の灯」よりどころとなるモノが…
とても素敵な文章が目に留まりましたので…ここで紹介(続きモノとして…)
投稿させて頂きます…。

■ 【仏教典…】一部抜粋

広い暗黒の野原がある。何の光もささない。
そこには無数の生物がうようよしている。

しかも暗黒のために互いに知ることがなく、めいめいひとりぼっちで、
さびしさにおののきながらうごめいている。いかにも哀れな有様である。

そこへ急に光がさしてきた。すぐれた人が不意に現れ、手に大きなたいまつを
ふりかざしている。真暗闇の野原が一度明るい野原となった。

すると、今まで闇を探ってうごめいていた生物が立ち上がってあたりを見渡し、
まわりに自分と同じものがたくさんいる事に気づき、驚いて喜びの声をあげながら、
互いに走り寄って抱き合い、にぎやかに語りあい、喜びあった。

今この野原というのは人生、暗黒というのは正しい智慧の光のない事である。
心に智慧の光のないものは、たがいに会っても知り合い和合することをしらないため、
独り生まれ独り死ぬ。ひとりぼっちである。
ただ意味もなく動き回り、さびしさにおののく事は当然である。

「すぐれた人がたいまつをかかげて現れた」とは、仏が智慧の光をかざして、
人生に向かったことである。

この光に照らされて、人々は、はじめておのれを知ると同時に他人を見つけ、
驚き喜んでここにはじめて和合の国が生まれる。

幾千万の人が住んでいても、互いに知りあうことがなければ、社会ではない。

社会とは、そこにまことの智慧が輝いて、互に知りあい信じあって、
和合する団体のことである。
In fact、
harmony is the life and real purport of a true community or an organization/

まことに、和合が社会や団体の生命であり、また真の意味である。

             <つづく>

280「訊け」管理人:2012/03/22(木) 17:04:54 ID:???
『祈りの科学』24項より謹写――

真空妙有の世界

 天文学者は太陽系統の如き天体群の発生する前にその母体として星雲の如きものが存在し、その星雲の発生する以前には全然そこは「無」即ち真空の世界のみであったことを想定しているのである。「真空」を単に「無」と解すれば、「無」よりして星雲が何故発生し、太陽系が何故発生したかが問題になるのであるが、「真空」とは無尽蔵の根源だと分かれば問題は直ちに解明するのである。

 過去に於いては太陽は一個の高熱なる一大発光体だと考えられていたが現在ではそれは原子エネルギーの集団であると認められているのである。星雲と称するものは恐らく原子エネルギーの集団であろうと考えられるのであるが、原子エネルギーの本体である「運動する電子」その他の素粒子の如き微粒子は如何にして発生したのであろうか。それはウイルソンの霧函(きりばこ)に於いて電子の運動を観察している際に一個の電子が突如として二個となり、「無」の世界より、一個が新たに創造されたるが如き観を呈し、或いはいま観測中の電子が、突然「無」の状態に帰して行方不明になってしまう所に事実よりして、「運動する電子」その他の素粒子は「無」よりして出て「無」に帰るものであることが発見されたのである。そうすれば太陽や星雲を構成する所の「運動する電子」その他の素粒子(即ち原子力集団)も亦「無」より発生したものだといわなければならないのである。「無」即ち「真空」であって、「真空」が万物の本源であり、一切を構成する創造者であるということができるのである。

 かくの如く吾々をとりまく所のものはすべて「真空」であり、天体と天体、星と星との間の空間及び分子と分子との空間、電子と電子との間及び電子と原子核との間も結局真空であり、真空は即ち「無」であって、「無」が一切の存在の殆どすべてを占めているということができるのである。然もその「無」は何ものも存在しないのではないのであって、すべての天体を虚空に於いてあるべき位置にあるべきようにあらしめている所の力であり智慧であり、分子及び電子その他の物質構成分たる微粒子をしてあるべき所にあるべきようにあらしめている所の力であり、従ってそれは驚くべき正確なる智慧を含む所の力であるのである。即ち宇宙に満つる「智慧の力」は「無」よりして一切のものを発生せしむる所の本源であるのである。この「真空」は吾々の身体の一切の部分に行き亙っているのであって、従って又宇宙の一切の部分につながっているのであるということができるのである。それは驚くべき精巧なる智慧であるから単につながっているというだけではなく、吾々の〝智慧〟に、又〝願い〟に答えてくれる所の〝智慧〟である筈であるのである。ここに吾々の祈りが宇宙の智慧である所の神に到達し、一切の電子分子等々を生み出した所の「真空妙有」なる所の神に到達してその願いをかなえてくれる所の根拠に到達するのである。されば祈りはかなえられないということはないのである。ただそれがかなえられないのは祈りがかなえられる所の法則に対して吾々が無智であり、ラジオの放送は必ず聴取することができるのに、法則を知らないために聴取することができないようになっているのと同じことなのである。

281「訊け」管理人:2012/03/22(木) 17:11:37 ID:???

WEB「榎本恵吾記念館」文書館より謹写――

 悪あり、罪ありであったならば、1人の子でも堕ろした人が来たら、「自分が殺されてから来なさい」ということになります。人1人でも殺していたら、たとい全宇宙が赦してくれても、自分で自分を赦すことは絶対にできないということは、いつも講話などで申し上げていることです。罪を犯しているけれども気にしないで喜ぶという喜びではないのです。神は罪を犯し給わないから、神の子もまた罪を犯せていないのです。繰り返しになりますが、罪を犯せていないことが喜びなのだということなのです。

 人類は、この意味での喜びを味わうことを長い間忘れていたのではないでしょうか。そうした理由から、練成会では「笑いの練習」をするのです。「笑いの大会」ということまでやって、神の子としての喜びを遠慮しないことを練習しているのであります。以前「笑いの大会」で最優秀賞を受賞した人の中に、私が個人指導をさせていただいたときに子供を5人堕ろしたと話していた人がいらっしゃいました。そんな人が、最高の賞をもらっているのです。そして、1人も堕ろしていない人が何も賞をもらっていなかったりするのです。少なくとも子供は堕ろしていないとしても、すでに完全円満の實相を包み隠してこれを喜ぶことをその人が遠慮していたとすれば、それはそれで別の種類の罪を犯していることになるのではないだろうかと、つくづく想わされたことでした。

 こう考えてみますと、練成会の行事は、神想観から聖経の読誦、講話、感謝行など、すべて完全円満の實相を遠慮しない行事ばかりであることに気づかされるはずであります。

  先日も私がこのことを話して、結局、

  「そのまま円満を喜ぶことが懺悔なのですよ」

  と言いましたところ、

  「私は15人も堕ろしているのですよ。それでも喜ぶのですか?」

  と詰め寄るように私に言ってきた人がありました。その人の眼は複雑な眼でした。その眼は、「喜べたらどんなによいでしょう」と訴えている、もどかしさのこもった眼でした。そこで私は、

 「喜ぶのはあなたのためではないのですよ。もしも殺し合いの不完全な世界が本当にあるとしたら、神は不完全であり、神はないということになって、神を殺すことになるのですよ。喜ぶのはあなたのためじゃないのです。あなたはどうでもよいのです」

  と言ったのですが、そのときついつい語調が強くなりました。するとその人は、

  「ああ、私のためじゃないのですか」

 と言われて、見る見るうちに表情が明るくなられました。

 その場にいて、その光景を見ていた方が、40数年間の罪の重荷から解放されたことを後日お知らせくださいました。實相のそのまま円満なことを喜ばないのは、神を審くということであります。何よりも先に神を赦すことが第一であるという教えが、生長の家の教えなのであります。これが『神を審判く』という青年期の著書に著わされた思想を超えて行かれた谷口雅春先生のお姿であるのです。

 尊師谷口雅春先生が、初めての海外ご巡錫でブラジルにお寄りになったときのことですが、「人間は神の子で、罪の子ではない」と話されたところ、それは傲慢だという非難の声があったそうです。そのとき、谷口雅春先生は、

「人間が罪の子であると考えることが神に対して傲慢なのです。神が人間を罪だらけとしてしか造れなかった、ということを認めることは、神が不完全で罪だらけであると軽蔑することになるのであって、人間が神の子であるということは、神が罪だらけでなく、完全であることを弁護しているのです。私は神を弁護する弁護士であります」

と答えられたということです。

 すると、その場に本当の弁護士がおられて、谷口先生の話を聴いて「私も神を弁護する弁護士になりたいなあ」と想われたそうです。そしてその方が帰宅してみると、8年間も患っていた奥さんの病気が消えていました。歓迎夕食会のときには、その弁護士夫婦がお二人揃って出席されて体験を話され、谷口先生にお礼を言われたということです。

 私たちがそのまま円満の神の子であり、罪の子ではないということは、神のために、神を憎むのではなく、神を赦すために受け入れなければならないことなのです。

http://blog.livedoor.jp/con5151/archives/65570759.html

282トキ:2012/03/22(木) 19:33:05 ID:iFhznFvc
 徹頭徹尾自力の否定であり、感謝以外にはないのであります。祈りも感謝、愛行も感謝、神想観も
聖経読詭も悉く感謝であります。
                                          
 自己中心の祈りや行は、生長の家ではありません。目的や都合から出発した行は、どんなに完壁に
 出来ても、不安を取りのぞく力とはなりません。やりながら不安を伴うのであります。それは心の底
 では自分を頼み、結果を期待していることになり、肝腎の神様がぬきになっているからです。神様が
 抜きになっていて救われるはずがありません。神に全托したものには、あるのは唯感謝のみでありま
 す。感謝以外の努力は救いにつながる努力とはなりません。
 「七つの燈台の点燈者の神一空の中にも、一にも感謝、二にも感謝、感謝、感謝、ただ感謝だけとあ
 ります。あまり感謝ということばが多いので数えてみましたら、何とあの短い御文章の申に、十四回
 も感謝というおことばがあり、最後の方に、
 「その感謝の念の中にこそ、汝はわが姿を見、わが救いを受けるであろう」とお示し頂いています。
 これをみても、生長の家がどんな教えであり、どんな方法で救われるかが明らかであります。この
 「七つの燈台の点燈者の神一空は何十とある神示の中の、根本の神示であり、み教えを代表する神示
 であります。そのご神示で「感謝」がすべてであり、それのみが救いの根本であるとお示し頂いてお
 りますから、私たちはその教えに素直に従い、信じて行ずる以外に方法はありません。それ以外のこ
 とを考えたのでは、生長の家でなくなります。

 このように救いの根本は信であり、感謝であることがわかるのでありますが、私どもの所に相談に
 こられる人の中には、「何を信じたらよろしいのですか?」とか「感謝しなければいけないことはよ
 くわかるのですが、きて感謝しなければ…と思ってみると、感謝するようなことが見つからないの
 ですが・…‥」といわれる方があります。このような方は決まって、現象を対象にしておられる方々で
 あります。信ずる対象はあくまで神様であり、現象ではなく実相であります。また感謝でも、現象や
 条件を対象にするのではなく、実相に感謝するのであります。生長の家は現象なしに徹する教えであ
 りますから、ない現象を相手にしているようなことでは、本ものの信仰ではありません。実相直視、
 実相独在の教えであります。

「すべてを癒す道 藤原敏之著 P92」

283「訊け」管理人:2012/03/22(木) 21:17:23 ID:???

WEB「榎本恵吾記念館」文書館より謹写――

素直に素直に、この「招神歌」の中身を受け取るのを遠慮しないことが大切です。第一のものを第一とすることです。第一とは神であり、實相であり、そのまま円満ということであり、「生きとし生けるもの」が、神そのものとして、神に愛され生かされているということです。はっきり言えば、“そのままでよい”ということです。“そのままでよい”と言えるのが實相であり、“そのままでよい”と言えないものは實相ではありません。
 神に生かされていることを喜んでいるとき、我が要らなくなり、消えて、そこに感謝が輝いているのです。また、そのようなときにこそ「聖使命菩薩讃偈」の中に示されているような菩薩が、そこに世の光として立っているということになるのです。
 「感謝しないと現れてやらないぞ」「愛行をしないと現れてやらないぞ」というのでは、これほど冷たい「神示」や「お経」はないということになります。それを全部自分の力でやってからでないと神が顕れないというのでは、神が顕れるための、生かされるための準備ばかりをしているのであり、それでは今ここには神は在さないということになります。生かされるための準備は何がやっているかというと、我がやっていることになり、また一方では我がないのが感謝なのですから、もう何が何だか解らなくなり、結局は「できていない、できていない」ということになってしまうでしょう。それでは永遠に感謝はあり得ず、ついに「生長の家ほど神に遠い教えはない!」という結論になってしまわないとも限りません。
 しかし、断じてそうではないのです! 今第一のものを第一として、「生きとし生けるもの」として生かされていることを喜べば、それがそのまま感謝であり、世の聖なる光となっているのです。
 生長の家では、神の愛が姿形をとって現れ給うたのが父母であると教えられています。父母は神なのです。父母は、「御祖神」の「みおや」なのです。ですから、この神を遠慮してしまうと、父母のいのちの流れから外れてしまうことになってしまうのです。
 神のことを“親様”と言うのですから、神は父母そのものであり給います。親様である“神”に生かされている、愛されている、または生かされていてよい、愛されていてよいということを素直に“ハイ”と受けとめれば、父母に素直になっていることであり、感謝していることになっているのです。こちらの力のいらない教えです。“ハイ”と受け取るしかないという教えです。受け取る側は、遠慮しないことだけでよいという教えです。感謝する行為さえも神さまに全托できる教えであります。もちろん愛行もです。常に、常にこちら側にいて味方となってくださって居るのが神です。
 神はすべてのすべてであり給うのですから、神が味方であり給うということは、天地一切のものが味方であるということに他ならないのです。これだけはこちらでやらなければならない、ということが一つもなく、丸もらいの丸儲けができるのが生長の家であり、感謝の教えだという意味です。

284「訊け」管理人:2012/03/22(木) 21:47:18 ID:???

――服部仁郎曰く、

 實相は無形であるけれど、種子を土の中におろすと、水分を吸収し、日光を浴びて、立派に朝顔の花は開花する働きをもっているのであります。それで、ここで注意すべきことは、實相は現象に顕われようとする働きをもっているということであります。
 この實相が現象にあらわれたことをわたし達は、仏教の語を藉りて「諸法實相」と云い、この現れようとする働き、つまり實相が現象的象徴を求める働きを、天地を貫く心の法則と見ているのであります。諸法とは諸ゝのものと云うほどの意味であります。これはたゞ単に朝顔の花だけでなく、宇宙の生きとし生ける、あらゆる生命に通じている法則でありまして、まことに宇宙の万物はすべて實相の顕現でありまして、これを「諸法實相」と言っているのであります。

『神経症は治る』10項


――榎本恵吾曰く、

 「實相は現象に顕われようとする働きをもっているということであります。」 
 ここのところは「實相」は人間の心のレンズを磨くという人間業を通さずに、「實相」は自ら顕われる力がそなわっていることを語っているのである。ここに心のレンズを磨かなければ出て来ることの出来ない、動きのとれない實相ではなく、本当の意味での全托に値するところの「實相」というものが伝えられているのである。
 この〝實相は現象に顕われようとする働きをもっている〟ことが解らなければ、どうして尊師が「實相」「實相」と大書されるのかの意味が解らなくなるのである。繰り返すが、實相は人間の修行という心のレンズを研くことによって、わずかに心からすべてを放つということ、安心するということではないのである。實相はみずから顕れるという全托の中にこの大安心を得て、現象から心がはなれたときに病は消えると服部氏は多くの実例をあげているのである。ここに生長の家のみ教えを通しての世界観、人生観が書かれていると思われる。そしてそれがそのまま、服部氏の尊師谷口雅春先生の弟子として道を伝え、奇跡的な治癒を行っていた力の根本の自覚の説明となっているのである。

285a hope:2012/03/23(金) 10:40:36 ID:kcv2QXTk

人生読本 谷口雅春先生著

誰でも楽しくなれば生き生きする


仕事や勉強は自分を立派にすることであり、自分の値打ちを出すことであり、
自分を丈夫にすることであり、その上、他(ひと)を喜ばすこと、
他からありがたがられることだと知れば、吾々は仕事や勉強が自然に楽しくならずにはいられないのです。

楽しくなれば、吾々は生き生きしてくるのです。
生き生きしてくれば身体も元気になって来るのです。

生き生きしない植木は枯れて来ますが、生き生きしている植木は、
ズンズン伸びて行くのでも明らかになりましょう。

(つづく)

286ハマナス:2012/03/23(金) 13:57:28 ID:u5mC.eb2

神の子のみなさま
 ありがとうございます。

   善き想念・悪しき想念   (『新版 生活の智慧365章』P.103)

 あなたの人生はあなたの想念の具象化である。「あなたの想念」と仮にいうけれども、
人は自己独特の精神の上に周囲の人物から色々の想念を感受して「自己の想念」を
混成するのである。幼い時には、両親及びその家族から最も多く想念を感受して、それを
総合して「自己の想念」を混成する。十三歳以上になると、個性が独立して来て、必ずし
も周囲の想念ばかりに支配されなくなるけれども、依然として両親・家族・人類からその
想念の影響を感受して、全然「無影響」ということはあり得ないのである。

 併しながら年を重ねるにしたがって個性的は表現要求は強くなるが、同時に幼児以来
受けて来(きた)った家族及び人類から感受した想念もその人の潜在意識に固定化して
抜きがたき傾向を形づくることにもなる。その固定化した傾向が、よき想念・明るき想念
である場合は、その人の生涯に善き影響をもちつづけるが、それが悪しき想念である場合
には、その人の生涯に常に悪しき影響を与えつつ、その人の運命を暗い方法に導いて行く
ことになるのである。

感謝合掌

287SAKURA:2012/03/23(金) 23:06:33 ID:FEa/NNlc
トキ様 へ
皆様 へ
こんばんは…

279>前回の“つづき”として、投稿させて頂きます…。

■ 仏教典        (一部抜粋…)

しかし、世の中には三とおりの団体がある。
一つは、権力や財力のそなわった指導者がいるために集まった団体、二つは、
ただ都合のために集まって、自分たちに都合よく争わなくてもよい間だけ続いている団体、

三つは、教えを中心として和合を生命とする団体である。

もとよりこの三種の団体のうち、まことの団体は第三の団体であって、この団体は、
一つの心を心として生活し、その中から色々の功徳を生んでくるから、
そこには平和があり、喜びあり、満足があり、幸福がある。

そして、ちょうど山に降った雨が流れて、谷川となり、次第に大河となって、
ついに大海に入るように、

いろいろの境遇の人びとも、同じ教えの雨に潤されて、次第に小さな団体から社会へと
流れあい、ついには同じ味のさとりの海へと流れ込むのである。

すべての心が水と乳とのように和合して、そこに美しい団体が生まれる。
だから正しい教えは、実にこの地上に、美しいまことの団体を作りだす
根本の力であって、それは先に言ったように、互いに見いだす光であるとともに、
人々の心の凹凸を平らにして、和合させる力でもある。

Thus,
the organization that is formed on the perfect teaching of Buddha can be called
the Brotherhood.
このまことの団体は、このように教えを根本の力とするから教団といい得る。

そして、すべての人は、みなその心をこの教えによって養わなければならないから、
教団は道理としては、地上のあらゆる人間を含むが、事実としては、
同信の人達の団体である。

■この事実としての団体は、教えを説いて在家に施すものと、これに対して
衣食を施すものと,両者相まって、教団を維持し拡張し、教えの久しく伝わるように
努めなければならない。

それで、教団の人は和合を旨とし、その教団の使命を果たすように
心がけなければならない。僧侶は在家を教え、
在家は教えを受け教えを信じるのであり、したがって両者に和合があり得るのである。

互いに和らぎむつみあって争うことなく、同信の人ともに住む幸せを喜び、
慈しみ交わり、人々の心と一つになるように努めなければならない。

■ここに教団和合の6つの原則がある。
第一に、慈悲のことばを語り
第ニに、慈悲の行いをなし、
第三に、慈悲の意をまもり、
第四に、得たものは互いに分かちあい、
第五に、同じ清らかな戒を保ち、
第六に、互いに正しい見方を持つ。

このうち、正しい見方が中心となって、他の五つを包むのである。

また次に、教団を栄えさせる二種の七原則がある。

1)しばしば相集まって教えを語り合い、
2)上下相和して互いに敬い、
3)教えをあがめ尊んで、みだりにこれをあらためず、
4)長幼相交わるとき礼をもってし、
5)心を守って正直を敬いを旨とし、
6)閑かなところにあって行いを清め、人を先にし、自分を後にして道に従い
7)人びとを愛し、来るものを厚くもてなし、病めるものは大事に看護する。
この七つを守れば教団は衰えない。

次に、
1)清らかな心を守って雑事の多いのを願わず、
2)欲なきを守って貪らず
3)忍辱を守って争わず
4)沈黙を守って言わず
5)教えを守っておごらず
6)一つの教えを守って他の教えに従わず
7)倹約を守って衣食に質素であること。
この七つを守れば教団は衰えない。

<つづく>          再合掌

288下流の人:2012/03/24(土) 00:29:43 ID:rW.yYvdc

 谷口雅春先生は『維摩経講義』にて

 ・・・普通、仏教では、悟りは言語文字にあらわすことは出来ないと云いますけれども、実際は言語文字にあらわすことが出来るのです。

 悟りの境地を言語文字にあらわすことが出来ないのは、本当には、まだ悟っていないからであります。

 私は『生命の實相』二十巻の中に於いて、その解脱の境地をむつかしい哲学的熟語や、仏教用語などを使わないで表現しました。それゆえにこそ『生命の實相』を讀むだけで、読者の生命の迷いが消え、自縄自縛されていた生命の縛りが解放されて、病気が消えたり、人生百般の悩みが解消したりするのである。

 これは言語文字によって、解脱の境地を表現し得る証拠であります。



 また『ヨハネ傳講義』にては

 吾々は聖書や教典を講義して、一字一句どうであるとわかったとて、そんなことは生命の悟りの前には何でもない。

 吾々が語るのは本の字句の講義ではないのです。聖書に託して自内證の真理を話しているのであります。

289ハマナス:2012/03/24(土) 08:44:47 ID:u5mC.eb2

神の子のみなさま
 おはようございます。

   善人は団結して言動せよ。  (『新版 生活の智慧365章』P.108)

社会的、国家的、人類的な大黄な目的に関する願いは、個人がひとりひとりでやるよりも
大きな団体及び組織の力を利用してやる方が実現の速度も簡易が大きくなるのである。
今までの善人は、あまり温和(おとな)しすぎて黙って控え目にしていて、悪人の方が
団結して言いたい放題なことを主張したり、群衆行動の圧力でその要求を貫徹しようとしていた
嫌いがある。そんなことでは社会も国家もよくならないのである。善人はその目的を一つにして
大同団結して建設的に協力するとき速やかに社会も国家もよくなるのである。

 人類光明化運動の団体の中における者は、尚一層調和して、その主たる目的のために
常に建設的は言動をなすべきであって、苟(いやしく)も、破壊的な、内部紛争をかもす
ような言動をなしてはならないのである。内部に相争うものを包容している団体は、寄生中や
癌細胞を内に宿している人体のようなものであって、早晩、瀕死の状態に陥るか、大手術をして
内部の病原を切除しなければならなくなるのである。

感謝合掌

290SAKURA:2012/03/24(土) 12:57:06 ID:FEa/NNlc
トキ様 へ
皆様 へ

昨日は、雨が〜〜〜シトシト〜〜〜♫“金曜日”でしたが…?更に…時間の経過が〜
このような日こそ・・・精神統一が大事ですネ・・・
今から心の浄化出来る谷口雅春先生の浄化作用を・・・【心のエッセンス】

■【幸福を招く365章】
―――与えると受けるとの悦び―――

受ける者よりも、与える者の方が幸福である。与えると云うことには幸福感を伴う。
神の愛は「与えてやまぬ愛」であるから、与える心の中には神の愛が目覚めて
来るのである。しかし受ける者があるので与える悦びが完了するのである。
だから受ける者を軽蔑してはならぬ。受ける者を軽蔑したとき、
与える悦びは減ってしまうのである。受ける者を愛し祝福する気持になったとき、
与えた悦びは増大するのである。与える喜びも大切であるが、
何事にても受けるときに真にそれを神の恵みとして感謝するならば、
受けることも大なる悦びに変化して来るのである。
自分が与える悦びばかり固執していて、他に与えさす機会を与えないのは
他人の人の魂の進歩を妨げることがある。
                    (谷口雅春著)


■【生長の家政治連合と「今の教え」を考える】
866> 此処に私なりの…【解釈…】してみましたが…?

291SAKURA:2012/03/24(土) 21:54:11 ID:FEa/NNlc
トキ様 へ
皆様 へ
>279>287 の続き

■■ 仏教典 より          
■ 第3章   【仏国土の建設…】

第1節  ―― むつみあうなかま ――

前にも言ったように、教団は和合を生命とするものであり、和合のない教団は
教団ではないから、不和の生じないよう、生じた場合は、速やかにその不和を
除き去るように努めなければならない。

血は血によって清められるものでなく、恨みは恨みによって報いられるものではない。
ただ恨みを忘れることよってなくすことができる。

昔、長災王という王があった。隣国の兵を好むブラフマダッタ王に国を奪われ、
妃と王子とともに隠れているうちに、敵に捕らえられたが、王子だけは幸いにして
逃げることができた。

王が刑場の露と消える日、王子は父の命を救う機会をねらったが、ついにその折もなく、
無念に泣いて父の哀れな姿を見守った。

王は王子を見つけて、「長く見てはならない。短く急いではならない。
恨みは恨みなきによってのみ静まるものである」
と、独り言のようにつぶやいた。

この後王子は、ただいちずに復讐の道をたどった。機会を得て王家にやとわれ、
王に接近してその親任を得るに至った。

ある日、王は猟に出たが、王子は今日こそ目的を果たさなければならないと、
ひそかにはかって王の軍勢から引き離し、ただひとり王について山中を駆け回った。
王はまったく疲れはてて、親任しているこの青年のひざまくらに、
しばしまどろんだ。
いまこそ時が来たと、王子は刀を抜いて王の首に当てたが、その刹那父の臨終の
ことばを思い出されて、いくたびか刺そうとしたが刺せずにいるうちに、
突然王は目を覚し、いま長災王の王子に首を刺されようとしている
恐ろしい夢を見たと言う。

王子は王を押さえて刀を振りあげ、今こそ長年の恨みを晴らす時が来たと言って
名のりをあてたが、またすぐ刀を捨てて王の前にひざまずいた。

王は長災王の臨終のことばを聞いて大いに感動し、ここに互いに罪をわびて許しあい、
王子にはもとの国を返すことになり、その後両国は親睦を続けた。
ここに「長く見てはならない」というのは、恨みを長く続かせるなということである。
「短く急いではならない」というのは、友情を破るのに急ぐなということである。

恨みはもとより恨みによって静まるものでなく、恨みを忘れることによってのみ静まる。

和合の教団においては、終始この物語りの精神を味わうことが必要である。

ひとり教団ばかりではない。世間の生活においても、このことはまた同様である。

               <つづく>            No.1

292SAKURA:2012/03/24(土) 21:55:42 ID:FEa/NNlc
       <つづく>            No.2

第2節  ―― 仏の国 ―― 

1)前にも説いてきたように、教団が和合を主として、その教えの宣布という
使命を忘れないときには、
教団は次第にその円周を大きくして、教えが広まってゆく。

ここに教えが広まるというのは、心を養い修める人が多くなってゆくことであり、
今までこの世の中を支配した
無明と愛欲の魔王が率いる貪りと怒りと愚かさとの魔軍が退いてここに
智慧と光明と信仰と歓喜とが、その支配権を得ることになる。
悪魔の領土は欲であり、闇であり、争いであり、剣であり、血であり、
戦いである。
そねみ、妬み、憎しみ、欺き、へつらい、おもねり、隠し、そしることである。
いまそこに、智慧が輝き、慈悲が潤い、信仰の根が張り、歓喜の花が開き、
悪魔の領土は、一変して仏の国となる。

さわやかなそよ風や、
一輪の花が春の来たことを告げるように、ひとりがさとりを開けば、
草木国土、山河大地、ことごとく仏の国となる。

2)教えのしかれている世界では、人びとの心が素直になる。
これはまことに、あくことない大事日によって、常に人びとを照らし守るところの
仏の心に触れて、汚れた心も清められるからである。
この素直な心は、同時に深い心、道にかなう心、施す心、戒を守る心、
忍ぶ心、静かな心、智慧の心、慈悲の心となり、また方便をめぐらして、
人びとに道を得させる心ともなるから、ここに仏の国が、立派にうち建てられる。

妻子とともにある家庭も、立派に仏の宿る家庭となり、
社会的差別の免れない国家でも、仏の治める心の王国となる。

まことに、欲にまみれた人によって建てられた御殿が仏の住所ではない。
月の光が漏れこむような粗末な小屋も、素直な心の人を主(あるじ)とすれば、
仏の宿る場所となる。

ひとりの心の上にうち建てられた仏の国は、同信の人を呼んでその数を加えてゆく。
家庭に村に町に都市に国に、次第に広がってゆく。

まことに、教えを広めてゆくことは、この仏の国を広げてゆくことにほかならない。

                <つづく>
                              再合掌

293a hope:2012/03/26(月) 08:47:27 ID:kcv2QXTk

人生読本 谷口雅春先生著

最も楽しくなる法


生き生きするには楽しいと思わなければなりません。
悲しいと思っていて生き生きできる人はありません。
生き生きしないものは、枯れかかった植木と同じく、新しい芽が伸びないのです。
生き生きしない者は枯れるよりほかはないのです。

では生き生きするにはどうすればよいか、楽しく仕事をし、
楽しく勉強をするのがよいことは今申しました。

しかし、もう一つ大切なことがあります。
それは自分を神の子だと思うことです。

皆さんは、自分を世界一の金持ちの子だと思うだけで楽しいでしょう。
皆さんは、自分をどこかの国の王様の王子だと考えるだけでも楽しいでしょう。
では、その王様よりも、もうひとつ偉い神様の、
その子供だとお考えになったらどんなに楽しくなられるでしょう。
どんなに生き生きせられるでしょう。

王子でも学者でも、自分を「神の子」だと考えて、
生き生きした心持になった人はたくさんあります。

キリストでも釈迦でも、自分を神様の子だと思って生き生きした心持になったのです。

(つづく)

294「訊け」管理人:2012/03/26(月) 16:29:53 ID:PgLin6Xs

――榎本恵吾曰く、
 現象なしとは内から輝く実在の光りなのである。實相自らの自発の輝きの喜びの光りなのである。現象なしとは實相に到達するためのプロセスではない。實相から輝き出でたる輝きである。これが實相自ら顕われる顕斎ということである。これが人類光明化運動の自発であることの意味内容である。光りばかりの世界で光りが光りする生命の純粋持続としての光りの運動なのである。現象なしとは中心より出でたる生命の輝きの放射なのである。現象無しでは「虚無に陥る」とはインドの話であって、中心、天皇のいない国のことである。この輝きは教団や組織形成以前よりの存在である。現象なしも實相独在もはじめからある尊師のいのちの輝きの放射として出て来た言葉であり、この言葉を発してからそれになったのではないということである。自発的とは先づある光りのすがたの世界である。運動も運動をしてから光りがもたらされるのではなく、運動そのものが先づある光りの表現としてあるのである。内容は光りばかりなのである。・・・(中略)・・・われわれは組織の数量的発展拡大を通して『生命の實相』を見ようとするようになってはいないだろうか。つまり『生命の實相』の素晴らしさというものを現象的現われによって測るようになってはいないだろうか。


――尊師曰く、

 吾々が生命を礼拝し、かうした『生命』の法則にしたがつて生活することを日標においてゐますのは、吾々がこの世界に『生命』を享けて来た事実から出発するのでありまして、事実ほど力強いものはないのであります。吾々が『生命』をこの世界に享けて来たと申しますと、〝わたし〟というものが別に何処かにあつて『生命』というものを何処かほかのところから貰つて来たやうに聞えるかも知れませんがさう云ふ意味ではないのであります。吾々各々そのものが一個の『生命』であります。何ものを否定しましても、自分が生きてゐると云ふ事実は否定出来ないのであります。自分は生きてゐると云ふ事実は取りも直さず自分自身が『生命』であると云ふことであります。

『生命の實相』第一巷4頁より謹写


――榎本恵吾曰く、

 此処(上記尊師御文章)に全『生長の家』の全説法の要がある。今此処に生きる生命、この生命は何ものであるか。その生命の実相(ほんとうのすがた)が、この否定不可能の絶対事実が、実在なのであり、神なのであり、完全なのである。
扨て、問題の解決とは一体何であらうか。解決とは神が『今』『此処』に顔を出すと云ふことなのである。神は完全であるから完全が顕れる時最早や問題と云ふべきものは無いのである。そして「生命」が「実在」であり、「神」であり、それがそのまま自分なのであるから自分が解決そのものなのである。太陽が出る前に昼と云ふものがあるのではない。太陽の出て行つた処を称して昼と云ふのである。問題の解決と云ふものは自分を離れた処の何処かに形として存在するのではない。自分の行つた処を称して解決と言ふのである。
人間はすべてこの『生命』の実相(ほんとうのすがた)に還へらなければならない。此処にのみ、人生くると云ひ得る世界があるのである。『此処』とは『久遠の今』のことであり、『実相』であり、『神』である。・・・(中略)・・・この『今』と云ふ宇宙万物発生の枢機を握る一点を生きる神の子の消息を『生命の實相』第八巻で尊師は次の如く述べて居られる。

『波状光明化への道』12項より謹写

295「訊け」管理人:2012/03/26(月) 16:56:51 ID:PgLin6Xs

(つづき)


――尊師曰く、
 
 それは自然に神催しにです。『我』で憂へるのではないのです。『生命』はどう云ふ形で生きねばならぬと言ふことはない。大生命に押し流されて生きる時最も自由なのです。形の方は『執して執せず』です。形と云ふものは影であるから執する必要はないのです。『生命』が主です。『生命』さへ吾れ斯くの如くして生きると云ふ筋道が立つてゐるなら、形は千変萬化しても好いのです。その反対に形は一つを貫いてゐても、形を維持することに『生命』の方が支配されてゐてはその人の生活は生きたものでありません。さうかと云つて形の方を無闇にやり方を始終かへて行くのかと云ふとさうでもないのです。しつかりと自分の魂の底に死んでも死なない生き通しの生命が自覺されて来ますと、自然に時に應じた最も適当な生き方が出来て来るのです。『我』の力で焦る生活、力む生活、かうでなければならぬと形を極め過ぎた生活は、ある時期は大いに生長してもやがては行きつまるのです。幸ひにしてその人が死ぬ瞬間まではゆき詰らないにしても、その愈々の瞬間には行詰る。ナポレオンも行詰り、豊臣秀吉も行詰つたのです。死ぬ時には、世界統一の夢も朝鮮征伐の夢も捨てなければならぬ。況んや雑誌経営などの夢は捨てなければならないでせう。吾々は死の時になつてさへも行詰らない生活をしなければならないのです。形には執して執せず、たゞ吾々の『本当の生命』が影を映して進む生活なら、死んでさへも行詰らないのです。『生命』は円い鏡には円い影を、四角な鏡には四角な影を、 一滴の露の珠にはまたそれに相應はしい小さな影を映して進みます。それを一定の形の影しか映すまいと力むとき、その人は我に捉はれたのです。形を定めて置かないでも生命が環境を通り過ぎる時必ず其処に『生命』の影たるに相應はしい美しい像を宿すのです。どの影も善い、どの影も美しい!それは恰度、寒風が露の中を通りすぎるとき、どう工まないでも六稜形のさまざまな美しい雪の結晶を造るやうなものです。人生とは『生命』がそれぞれの環境の鏡に生命の影を映して進むことなんです。たゞ吾々は『生命』それみづからの本物の影さへ投げかけて進めば好いのです。すると美しい生活の結晶は自然に出来る。そのためには自己の生命そのものの完全な本性を自覺するのが第一です。形を生命だと見ちがへないことが肝腎です。形を生命だと見ちがへるとき、それは迷ひです。形は影であるから必ず消える。形を生命だと思つて執著し切つてゐるとき、形が消えたときその人は躓くのです。だが、雪の六稜形の結品は治えてもその結品を六角ならしめた生命は滅びないのです。これが肝腎です。『生長の家』の生き方には大乗も小乗も論いてありますが、今日は大分『生長の家』の大乗的方面を読きました。貴方になら解つて貰へると思つたからです。

『生命の實相』第八巻151頁より謹写

296a hope:2012/03/27(火) 08:50:35 ID:kcv2QXTk

人生読本 谷口雅春先生著

考える事は力です


私は、皆さんに、「神の子」でないものを、「神の子」だと無理にお考えなさいと言うのではありません。
人間ははじめから「神の子」だから、「神の子」だとお考えなさいと言うのです。
そう考えても、考えなくても「神の子」なのです。

しかし考えることは力なのです。
それがこの世を楽しく生きるコツなのです。
それが力を出すコツなのです。

何百万円の金持ちでも、自分の心が眠ってしまって、貧乏で乞食をしている夢を見ている限りは、
その夢の中では十円の品物だって買うことができないでしょう。
何百万円の金持ちがその金持ちだけの力を出すには、貧乏で乞食をしているその夢から覚めて、
「ああ今のは夢であった、わたしは金持ちであったのだ」と気がつかねばならないでしょう。

それと同じく皆さんは、はじめから「神の子」なのですけれども、「神の子」そのままの楽しさを現わし、
「神の子」そのままの生き生きしさを現すには、「自分は神の子だ」気がつかねばならないのです。

私は世の中の人に、「自分は神の子だ」と気づかせてあげるために、毎月雑誌におしえを書いているのです。
皆さんは、誰も彼も本当に「神の子」なのです。
皆さんは自分を「神に子」だと思うだけでも楽しいでしょう。
楽しいから仕事も勉強もよくできるのです。

今日から仕事の成績が上がりますよ。
勉強の成績が上がりますよ。
その証拠には皆さんの顔が生き生きして来ました。
生き生きするところに神様の生命は生きているのです。

ごらんなさい!春の若葉は生き生きしているではありませんか。
生き生きしている新芽はずんずん伸びるでしょう。
やがて生き生きしなくなれば伸びなくなります。

皆さんは楽しく生き生きして来られましたから、なんでおズンズン上手になります。
仕事は楽しく、勉強は楽しくなります。きっとですよ。

(つづく)

297SAKURA:2012/03/27(火) 09:11:21 ID:FEa/NNlc

トキ様 へ
観覧者の皆様へ

おはようございます…。

■【幸福を招く365章】
―――性格も運命も改善し得る―――

心があなたの行為、環境、運命等をつくり出す原動力なのであります。
併し「心」と云うものを現在意識ばかりだと考えていては間違います。
現在意識は吾々の表面にあらわれている心であって、
全体の心の略々(ほぼ)五パ−セント位しか占めていない。あとの九十五パ−セント
と云う莫大な心の領域は表面にあらわれていないのだけれども、それが内部から、
見えざる手もて、隠れたる力で、吾々の行動を左右しているのである。
この事は『人間性の解剖』(新選谷口雅春選集)を読めば実に容易くわかるのである。
この潜在意識にレコ−ドされた感情や観念が、人間を無意識の世界から
引摺って動かしているのである。それを仏教では業の力と云っている。
業を淨める方法が発見されるまでは、人間は業力に支配せられるところの
奴隷に過ぎないのである。どうにもならない性格だとおもわれていたもの、
運命だと思われていたものも、潜在意識を浄めることによって
変化することが解ってきたのである。         (谷口雅春書)


昨日は、お天気がよく気持ちよく過ごすことが出来ました…。感謝!
そして「雅春先生の書物」を読みながら…私は「幸せ者」と思えるのです…。
やはり「書物を読む」事で考えの視野の幅が!グ〜〜〜ッと広がりますネ???
“レッスン・・・1・・・・2・・・・3・・・・・”ゴ−!!

PS:
■生長の家政治連合会と「今の教え」を考える
871> 此処に私なりの【解釈…】をしてみましたが…?

宜しかったら…?そちらで拝読して頂きますと幸いです…。 合掌

298【霊界より】徳久訊己【医学博士】:2012/03/27(火) 10:12:47 ID:DmNhD9W.
『そのまま極楽の道』(藤原敏之著)25項より謹写――

 (親鸞上人に関して)その中で特に有名なのは、〝枕石寺の由来〟であります。
常陸の国(茨城地方)を二人のお弟子を伴って托鉢しながら縁のある人々を教化し、導いて歩いているうちに猛吹雪となり、五メートル先も見えない程の大雪で、あっという間に雪が積もってどこが道だか田圃だか全然判らなくなりました。そのうち日がくれてしまい、どうすることも出来なくて困っているとき、はるか彼方に明りが見えるのを頼りに辿りついてみると、立派な門構えの大邸宅がありました。これは有難い、一晩だけ吹雪を避けさせてもらいましょうと、一夜の宿を乞いました。すると家の主人が立ち現れ、「縁起でもない、クソ坊主など泊めるいわれはない、さっさと出て行け」と大声でどなりながら、木の棒で追い払い、門の外まで追い出して内側から厳重に閉めてしまったというのであります。この人物は日野左衛門といって近郷近在きっての大金持ちでありました。

 門の外まで追い出された主従三人は仕方なく歩き出すことに致しました。しかし何分にも北国の冬であり、今とちがって降る雪の量も多くてどうすることも出来ません。夜が更けるにつれて雪はうなりを立て容赦なく吹きつけて来ます。親鸞上人は門の敷石を枕に横になって休まれました。二人の弟子が衣の袖と菅の笠で上人さまにかかる吹雪を防ごうとしますが、見る見る雪が積もってまるで雪の布団にくるまっているような状態であります。素足に草鞋の上人の足からは、皸(あか)ぎれで血が吹き出しています。これを見て二人の若い弟子が、「なんという無慈悲な翁であろう、せめて門の内にでも入れてくれたらこんなにまで痛ましいお姿にならなくてもすんだものを・・・・・」「もしも出家せられずに家を継いでおられたら、今は公卿の御身分で、どんな栄耀栄華も思いのままであろうものを、衆生済度のためとはいいながらこのご難儀は、何と痛ましいことか・・・・・」と泣いているのをごらんになった上人は、「お前達は何を文句をいっているのか、そんな間違った考えを起しては親様に申訳ないぞ」といいながら詠まれた歌が有名な、

寒くとも袂(たもと)に入れよ西の風
      弥陀の国より吹くと思へば

 というお歌であります。この意味は申すまでもなく、どんな寒さも、困難と見えるものも、何一つとして神様の恵み、仏のお慈悲でないものはないのだぞ、どんな寒さも阿弥陀様のみ国から吹いてくる風だという気持で受け、有難いと感謝して大切に袂にでもしまうような心で受けてみよ、苦しいものなど何一つとしてないぞよと、天地一切のもの悉く仏の恵み御慈悲の現れであると諭しておられるのであります。

 諭され、教えられた二人の弟子たちは、大いに恥じて眠られぬままに大声で、感謝の称名、お念仏を称えておりました。と、先程の当家の主が松明を掲げて出て来て門の戸を開き、「どうぞ家にお入り下さい」と丁寧に招じ入れ、火を焚いて温めてくれた上に、温かい雑炊を作って食べさせてくれ、一晩中仏のお慈悲について親鸞上人から説き聴かされ、さすがの強欲非道な日野左衛門も真理に目覚め、本願他力によって救われたのであります。ついにご開山の弟子となり、広い邸宅を解放して教えの道場に捧げるに至ったのであります。そのいわれによって寺号を枕石寺、即ち石を枕の寺と号されたのであります。

299「訊け」管理人:2012/03/27(火) 16:48:15 ID:Lnhsn5Ng

WEB「榎本恵吾記念館」文書館より謹写――


ある画学生への手紙――

 先ず最初に、物質の眼で見れば一ミリの何千分の一の大きさ(の卵)でしかなかったあなたが、自分で美しさを感じ、考え、もっともっと何かを作り出そうとするようにまで生長していることに、とても感動しています。あなたの中に、すべての美しさがあるのです。
 景色をもっともっと美しく描(か)き写したいということは、あなたの中に「もっともっとここにあるものに感動したい」という魂の輝きが動いている。景色を写生しようとして立っているあなたそのものが、私には美しい魂の輝きに見えるのです。

 あるものに向かって、もっともっと感動したいと思うこと、その思いが出てくるということそのことが尊い。自分の内に動いているその輝きをもっともっと、いつも賞めてほめぬいてやらなければならない。
 これから、どれだけのものが描けるかはわかりませんが、内にある輝きが、自分の内に動いたということだけは、厳然とした事実なのです。その尊いものをジッと拝みつづけ、ほめつづけていると、やがてあなたは何かしら充実した喜ばしいものを内に感じはじめ、そしてその時から不思議にも、自分の前にあるものを何か美しいものというか、それがそこにあるということの不思議さというようなものを感じはじめる。それがそこにあるものの生命(いのち)の尊さ、美しさなのであります。対象を写すことによって、新たにそのものの美しさに気がついて行く、ということはたしかにあるが、しかし、まずはじめに何か美しさ不思議さを感ずるということが、内になければならない。それが自然に自分のうちにあるからこそ、外のものを写したいという願いが起こるのです。
 “まず”はじめという、“まず”とは、自分がそこに立って生きているということ。そして、感動したいという願い、描きたいという願いが起っていることへの、自己祝福、満足がなければなりません。あなたが対象を写すと同時に、あなたの前にある対象はあなたのその満足、よろこびを写すものであるからです。そして明るいもの、よろこびなるものこそが、一番いのちに近く深いものであります。美しさとは明るさであり、よろこびであるということを忘れないようにしなければなりません。

(つづく)

300「訊け」管理人:2012/03/27(火) 16:48:48 ID:Lnhsn5Ng

(つづき)


 しかし、明るさと美しさとは、単なる形や色彩のことではありません。それは“これこそがそれだ”と決められることではありません。ただ、それは“自分にすでに動いている輝きを賞めたとき、外に感じられてくるもののすべてである”ということが出来るのではないかと、人類は気づきはじめています。そのとき感じたものを、内からもよおすままに筆を動かせば、セザンヌの言ったように、「形ではない」美しさが、そこに写されるのです。
 アスファルトを持ち上げ、つき破って芽を出す草があります。よく見ると、アスファルトに一番さきに下から接するところは、芽のうちでも最もやわらかいところで、今生まれたばかり、あるいは生まれようとしているところ、というような全くやわらかいものです。それが一番はじめに、かたいアスファルトを破ってゆく。これは力と形からは、はかることの出来ない働きです。これはもはや、一切の形や芽と見えるもの以外の働き、不思議さです。

 このようにして、私達をとりまくすべての草や木や動物や一切のものが、この不思議さを現わして立っている。そこに何かの不思議さを感ずる心があなたの中に動いたら、そのとき、すでにあなたの絵は形式をこえて感動しているのです。
 如何につまらぬと見えるものの中にでも、このような美しさがあるということを、感じさせてくれるのが芸術家でありましょう。一切のもの、美しく見えるもの、みにくく見えるものの中にも、その不思議さに感動をくみとれば、あなたはすべてのものが喜びをもって立ち上がるのを感じ、すべてのものから感謝される、偉大な栄光に浴することでしょう。その不思議さ、美しさ、明るさ、喜びが感じられてくるには、先ず自分が落ち着かなければならない。落ちつくためには、すでに自分の中に動いている“感動したい心”をほめなければなりません。そして、このすでに自分に中にあるよろこび、輝き、感動を表現するために絵をかくのであって、絵の出来具合や成績からよろこびをもらうために描くのではない、ということを、絶えず筆をもつ前に自分に言いきかせなければなりません。
 それには自分がこのまま、神に許され、愛され、抱かれていることを知ることです。あなたは光になるためにこれからあらゆる努力をするのではなく、すでに自分はあらゆるものを内に持っている「神の子」であることを自覚することです。すべてがすでに内にあるからには、あなたが何かをすれば――たとえば描くとすれば、それはあなたの内にあった光を外に出して来たということしかありません。このようにして、あなたという光の前におかれたキャンバスは、どんなによろこんでいるか。あなたに握られる筆は、どんなに栄光に浴しているか――ということが、私には見えているのです。

 最後に、形を超えること。明るさ、美しさとは形ではない。真っ暗いものも輝いている。美しい。くらいという字は“暗い”と書くが、日を二つも書いていて、明るいという字よりも日が多くて明るい。これはなにか形を超えた美しさを暗示しているのではないかと思います。
 谷口先生は、心をもふくめて、見える形の現象を“一切なし”と消してしまわれたのです。その奥にあるものが、生命であり、美しさです。宗教は全宇宙という形をも捨て、すべての奥にあるものを拝むのです。
 それから大切なことは、あなたのしていること、やることは、一ミリの動きでもこの宇宙に初めて起こったことで、神様もびっくりして喜んでいるということです。神をもおどろかせていること、あなたにしか出来ない尊い価値のあるものだということです。そういうことですから、決して他人(ひと)の真似をしようとしてはいけません。何者かの前に立ったとき、自然と自分の中に動く想いを写生するのです。その想いだけをみつめていればよいのです。描(か)いた人の感動が感じられるようなものが、そこから生まれるのです。

 ものを見て、自分のうちに動き出すその感動を描くのですから、はじめのうちはその感動のうごくものをさがして、感じることの出来るものだけを描くようにした方がよいのです。本当は、どんなものにでも感動するようにならなければなりません。
 教材としてモデルを与えられたら、どんなものでも描かなければならないでしょうから、しばらくはよくその対象をみて、どこか一点だけ感ずるところをみつけるのです。そしてそこをほめるのです。すると、その感動が全体に拡がっていくのです。ほめられた対象が自分で“ここにもこんな美しさがありますよ”と自分で言い出すのです。とにかく感動だけを持ちつづけることです。技術がうまくいかないといって、感動の方をとめてしまうことは絶対にいけません。
 もしも「あまりの感動で一本の線しか引けなかった」という画家が出たら、それこそ私の一番尊敬する大画家です。

301a hope:2012/03/28(水) 10:41:03 ID:kcv2QXTk

人生読本 谷口雅春先生著

思うとおりに人間はなる


「思うとおりに人間は成る」という諺があります。
自分を「偉い」と思う者は、ついには本当に偉くなるのです。
自分は駄目だと思うものは、ついには本当に駄目になるのです。

自分を偉いと思えと言っても、いばれと言うのでは決してありません。
弱い者の前でいばり散らしているような者は、きっと強い者の前では猫のようになっている卑怯者です。
本当に自分を「偉い」と思っている者は、かえって誰の前にもいばらないで、
少しも気取ったりしないで、自分の仕事や勉強をただ当たり前に熱心に精出してやるものです。
気取ったり、いばったり、人前で飾ったりしている者は、本当に自分を偉いと思っていないのです。
だから他(ひと)から「偉くない」と思われてはかなわぬと思って、なるべく偉そうに見せかけるために、
人前を飾ったり、いばったりするのです。

本当に自分を偉いと思っている者は、庭掃きでも、便所掃除でも、廊下拭きでも、
どんなことでも、人のためになることが平気でできるのです。
掃除をしても、「誰かソッと見とってくれて、誉めてくれればよいのになア」と思いながら、
掃除をするようでは、まだまだ本当ではありません。

(つづく)

302ハマナス:2012/03/28(水) 15:15:12 ID:u5mC.eb2

神の子のみなさま
こんにちは。今日は素晴らしいお天気です。

最近当たり前のことに気が付きました。谷口雅春先生は『365章シリーズ』の様な
365もの短いご文章が連なっているご著書にしても、ちゃんと順番を考えて編纂され
ている事がわかりました。
順番には意味があり、その通りに読むと、より一層真理がわかるように思いましたので
連続して引用させて頂きます。



会議に臨むとき (『新版 生活の智慧365章』P.111より)

 「どんな団体にせよ、団体の会議に臨む場合には、欠点を論議して反対党をやっつける
為のような気持ちで臨んではならないのである。調和精神と善意とをもって建設的な
意見を平和裡に述べて、全体を生かし皆なを生かすような気持ちをもって会議を進行
させなかったら良い結果が得られる訳はないのである。荒々しい攻撃的な語調をもって
議論をすれば、結果は必ずよくないのである。無論、すべてのメンバーが悉(ことごと)く
同一意見をもっている訳のものではない。しかしその意見を述べる時の気持ちが、平和な、
全体愛に満ちた、調和した気持ちでなければならないのである。

 他の意見を打倒しようというような、また自分の意見と異なる者には「腹が立つ」と
いうような、悪意や憤怒の気持ちを棄てて、一層高い一層繁栄する観念を導き出そうと
いうような建設的は気持ちをもって会議を進めるとき、善きアイディアが会議の進行
するに従って思い浮かんで来るようになるのである。一切の善きものは「和解」の中から
生れて来るのである。
「汝ら天地一切のものと和解せよ」との神示の実践を忘れてはならないのである。」


雅春先生はこの大事な時に「調和精神と善意とをもって建設的な意見を平和裡に述べて、
全体を生かし皆なを生かすような気持ちをもって会議を進行すること、汝ら天地一切のものと和解せよ」との
神示の実践」の必要性をお説きに下さっているように思います。

感謝合掌

303「訊け」管理人:2012/03/28(水) 17:34:03 ID:???

藤原敏之著『そのまま極楽の道』218項より謹写――


 今迄生長の家のどこを勉強しておられたのですか。生長の家は、唯神實相の哲学を基本にしてお説き頂いているのですよ。神様以外のものや実在でもない現象を相手にして解決の方法を研究するところではありません。神一元、實相一元の教えでありますよ。今あなたは神様以外のものや、ありもしない現象の出来事に心を奪われて、慌てて行き詰っておられるではありませんか。そんな生長の家はありません。それでは生長の家を知らない世間一般の人と同じで、全然生長の家になっておりませんよ。どんなに焦っても努力しても元々見当違いであり、方向を間違えておられるから行き詰るのが当たり前ですよ。電気工事がどんなに完璧でも、電球が立派でもそれだけでは明るくなりません。スイッチを入れて、電源につながるからどんな暗闇でも明るくなり、夜でも野球が出来るほど明るくなるのです。貴方の今の考えの中に、生活の何処にも神さまは現れていないではありませんか。あなただけが頑張っているではないですか。
 あなたの見ておられるのは、不況と行き詰まりだけではありませんか。そんなありもしない現象や影を相手にしていて、どうして解決するものですか。今あなたは八方塞がりで手も足もでないと申されましたが、現象で八方が塞がっていても、上の方(實相)はあいておりますよ。神のお造りになった實相の世界には、不景気も行きづまりもありません。会社の経営もあなたがやっているから、貴方の考えた通り、思ったとおりに現れるのです。神業(かみわざ)で生まれ、神意によって生かされているのが人間であり、神の生命そのものであることに気付かず、自分で生きて自分で仕事しているなどと思い上がった心で生活しておられるから、神のお造りにならないトンデモナイことが起るのです。今日限り、あなたの身体も家族も従業員も会社も全部神さまにお返しなさい。

 と諄々とお話申し上げておりますうちに、蒼ざめて血色のなかった顔に段々と赤味がさして来ました。私は〝ああこれで八、九分通り片付いたな〟という確信を得たのであります。

304a hope:2012/03/29(木) 09:55:53 ID:kcv2QXTk

人生読本 谷口雅春先生著

自分の心に褒められる人間になれ


人間は自分が「神の子」であり、自分の心に神の心が宿っているのですから、
自分の心で自分自身を、少しも依怙贔屓(えこひいき)なしに誉められるようになることが第一です。

自分を本当に「偉い」と思うことは、自分の心で自分を振返って見て、誉められるようになることです。
他(ひと)に見て貰って誉められたいと思うかわりに、自分の心で見て、自分自身を誉められるようにおなりなさい。
「誰も見ていないのに、自分はよく仕事に精出して偉いなア」と思えるようにおなりなさい。
「誰も見ていないのに、自分はこんなに勉強できて偉いなア」と思えるようにおなりなさい。
自分の心に神の心が宿っているのですから、自分の心に誉められるのは神様に誉められるのも同じことです。
だから自分で自分が誉められるようになったら、世の中でこんなに楽しい事はありません。

今まで、世界で偉くなった人はみんな、自分の心が本当に褒めるような、
立派なことをするように心がけて来た人ばかりです。

(つづく)

305SAKURA:2012/03/29(木) 14:07:22 ID:FEa/NNlc

皆様 へ
>279>287>291>292 の続き

■■ 仏教典 より          
■ 第3章   【仏国土の建設…】

      第2節  ―― 仏 の 国 ――

3.まことにこの世界は、一方から見れば、悪魔の領土であり、欲の世界であり、
血の戦いの場ではあるが、この世界において、仏のさとりを信じる者は、
この世を汚す血を乳とし、欲を慈に例え、この世を悪魔の手から奪い取って、
仏の国とならそうとする。
一つの柄杓を取って、大海の水を汲み尽くそうとすることは、容易ではない。
しかし、生まれ変わり死に変わり、必ずこの仕事を成しとげようとするのが、
仏を信ずるものの心の願いである。
仏は彼岸に立って待っている。彼岸はさとりの世界であって、永久に、貪りと
いかりと愚かさと苦しみと悩みとのない国である。そこには智慧の光だけが輝き、
慈悲の雨だけが、しとしと潤している。
この世にあって、悩む者、苦しむ者、悲しむ者、または、教えの宣布に疲れた者が、
ことごとく入って憩い休らうところの国である。
この国は、光の尽きることのない、命の終わることのない、ふたたび迷いに帰る
ことのない仏のくにである。

まことにこの国は、さとりの楽しみが満ちみち、花の光は智慧をたたえ、鳥の
さえずりも教えを説く国である。まことにすべての人びとが
最後に帰ってゆくべきところである。

4.しかし、この国は休息のところではあるが、安逸のところではない。
その花の台は、いたずらに安楽に眠る場所ではない。真に働く力を得て、
それをたくわえておくところの場所である。

仏の仕事は、永遠に終ることを知らない。
人ある限り、生物の続く限り、また、それぞれの生物の心がそれぞれの世界を
作り出している限り、そのやむときはついにない。

今仏の力によって彼岸の浄土に入った仏の子らは、再びそれぞれの縁ある世界に
帰って、仏の仕事に参加する。

一つの燈(ともしび)がともると、次々に他の燈が火に移されて、尽きるところが
ないように、仏の心の燈も、人々の燈に次から次へと点じて、
永遠にその終わるところを知らないであろう。

仏の子らも、またこの仏の仕事を受け持って、人々の心を成就し
仏の国を美しく飾るため、永遠に働いてやまないのである。

           <つづく>                 No.1

306SAKURA:2012/03/29(木) 14:10:00 ID:FEa/NNlc
 
<つづく>                 No.2
          
           第 3 節  仏の国をささえるもの

1.ウダヤナ王の妃シャマヴァティ−は、あつく世尊に帰依していた。
妃は王宮の奥深くにいて外出しなかった。侍女のせむしのウッタラ−は、
記憶力がよくて、いつも世尊の法座につらなり、
教えを受けて世尊のことばのとおりを妃に伝え、これによって、妃の信仰は、
いよいよその深さを増したのであった。

第ニの妃、マ−ガンディヤは、シャマヴァティ−をねたんでこれを殺そうと企て、
ウダヤナ王に色々中傷した。
ついに心を動かした王は、シャマヴァティ−を殺そうとした。

その時シャマヴァティ−は、従容として王の前に立ったが、
王は妃の慈悲に満ちた姿に打たれて矢を放つこともできず、ついに心が解けて、
妃にその粗暴なふるまいをわびた。
マ−ガンディヤは、いっそうの怒りを増し、ついに王の留守の間に、
悪者と謀ってシャマヴァティ−の奥殿に火を放った。妃はあわてて騒ぐ侍女たちを
教え励まして、驚きも恐れもせずに、世尊の教えに生きながら従容として道に殉じた。
せむしのウッタラ−も火の中で死んだ。

シャマヴァティ−は、在家の信女のうち慈心第一、ウッタラ−は多聞第一と
たたえられた。

2.釈尊族の王、マハ−ナ−マは世尊のいとこであるが、世尊の教えを信ずる心が
至ってあつく、誠を尽くして帰依する信者であった。

コ−サラ国の凶悪な王、バイル−ダカ王が釈尊族を攻め滅ぼしたとき、
マハ−ナ−マは出ていって王に会い、城民を救いたいと願ったが、凶悪な王が
容易に許さないのを知って、せめて自分が池の中に沈んでいる間だけ、門を開いて
自由に城民を逃げさせてほしいと頼んだ。
王は人間の水中に沈んでいる間だけのことなら、わずかな時間であるからと考えて
これ許した。
マハ−ナ−マは池に沈み、城門は開かれ、人びとは喜んで逃げのびた。しかし、
いつまでたってもマハ−ナ−マは浮かび上がらなかった。彼は池に入って髪を解き、
柳の根に結びつけ、自らを殺して人びとを救ったのであった。

3.ウトパラバルナ−(蓮華色)は神通第一の比丘尼であって、マウドガルヤ―ヤナ
(目連)に比べられる人であり、多くの比丘尼を引き連れて常に教化し、比丘尼の中で
すぐれた指導者のひとりであった。
 デ−ヴァダッタ(提婆達多)がアジャ−タサルト(阿闍世)王をそそのかして、
世尊に対して反逆を企てたが、後、王が世尊に帰依してデ−ヴァダッタを顧みないようになり、城門に至ったがさえぎられて入ることができず、門前にたたずんでいたとき、
おりから門を出てくるウトパラバルナ−を見て、にわかに怒り出し、その大力にまかせて
こぶしをあげて頭を打った。
ウトパラバルナ−は痛みを忍んで僧坊に帰ったが、弟子たちの驚き悲しむのを慰めて
「姉妹よ、人の命ははかられない。ものみなすべて無常であり、無我である。
さとりの世界ばかりが、静かであって頼るべきところである。
努め励んで道を修めるように」と教え、静かに死についた。

               <つづく>

307「訊け」管理人:2012/03/29(木) 17:16:21 ID:???


WEB榎本恵吾記念館「葩(はなびら)さんさん」より謹写――

 “浄まる”というコトバには、「あるべきものがあるべき相にある」という意味があるそうです。『生命の實相』によって“浄められる”というときには、本来の自然な相に還ったとき、そこに調和がもどり、争いが水でしずまるという意味で「浄」という字を使いたくなるのではないでしょうか。


  聖経『甘露の法雨』のキリストの言葉のあたりに注目してみますと、先ほどの「吾が国は此の世の国にあらず」という言葉が出てくる前に、「キリストは『神の国は汝らの内にあり』と云い給えり」という言葉が出てきます。この「内」とは、すでに今ここにある實在の国、實相の国ということであります。「内なる国」とは、罪なき完全なる神そのもののすがたなのです。そこで想い起こされるのが、聖書に出てくるイエス・キリストの言葉であります。

  ヨハネ伝福音書第8章の冒頭、イエスがオリブ山において人々に向かって説教をしていたとき、パリサイ人らが姦淫の罪で捕えられた女性を連れてきました。そしてイエスに「師よ、この女は姦淫のをり、そのまま捕へられたるなり。モーセは律法に斯る者を石にて撃つべき事を我らに命じたるが、汝は如何に言ふか」と問いつめます。そのときイエスは黙っていましたが、しばらくして地面に何か文字のようなものを書いたと言われています。ここで何をお書きになったかは『聖書』には書かれていないと思うのですが、谷口雅春先生の御著『イエスは十字架に架かり給わず』の中では、このときイエスは地面に「大調和、大調和」とお書きになったと書かれています。そしてイエスは言ったのです。「汝らの内、罪なき者まづ石を擲て」と。すると群衆の中から1人去り、2人去りして、ついに1人残らず去ってしまいました。そこでイエスはその女性に「われも汝を罪せじ、往け、この後ふたたび罪を犯すな」と言ったのです。

  この場面はよく引用されるところですが、これは「他人のことは言えないぞ、自分だって罪を犯していないわけではないのだから」と言って、罪あるレベルで突き詰めた結果そうなったのだという解釈もあるでしょう。しかし生長の家式に解釈するのであれば、「汝らの内、罪なき者まづ…」の言葉は、本当に罪のない「内」なる實相を拝んで言われた言葉であるということになるのです。汝らの内なるもの、實相なるものは未だかつて罪を犯したことの無い者であるから、そこにいるすべての人々の「内なるもの」「罪なきもの」に向かって拝んで、発せられたお言葉であったのだと解釈できるのです。そして、その罪無きものが本当に罪を打ったのです。その結果打たれた罪は消えて、そこに罪なきものばかりの大調和の世界が顕われたということになるのです。そうでないと、イエスはその女性は救ったが、群衆は救わなかったということになってしまいます。

  このときイエスは、パリサイ人が連れてきた女性に向かって「吾も汝を罪せじ」と言ったのは、神は罪を造り給わないから「汝らを罪せじ」と言われたのです。その神と同じように「吾も罪せじ」と言ったのです。もしも「他人のことは言えない。自分だって罪はないとは言えないのだから」という解釈をすれば、やはり罪ありということは依然としてそのまま残ってしまい、「汝の罪赦されたり」という罪そのものの消滅にはなり得ません。これは現象に現れた人間の姿のありようでは証明できないのです。現象的な体験からでは言えない直観によってとらえる實相世界でのことなのです。

  その後、その女性が2度と罪を犯さなかったと言えるのは實相の把握から来るのであって、現象的には未来永劫に如何なる罪も犯さなかったかということに証拠はないのです。また罪なきことは群衆1人1人に言われている言葉ですから、群衆1人1人のその後の行いはどうであったかに至ってはますますその証拠になるものはないのです。ただ言えることは、神は完全であるから完全なる實相のみがあるのであり、不完全なる現象、不完全そのもの、罪そのものが無いという大真実だけなのであります。

308ももんが:2012/03/29(木) 19:24:18 ID:XXCuaQns
本日は、『ブッダのことば  スッタニパッター』より、『慈 経』を、載せます。この教えは、史上のお釈迦様の説かれた、”御言葉“として、南方の仏教徒は、”般若心経“のように、読まれるようです。

内容は、大変素晴らしく、既にに、2500年前に、生長の家と同じような事を説かれています。

皆様も、存分な、味わって下さい。感謝、合掌。

>  〜『慈経』〜

目的をよくわきまえた人が、静かな場所に行ってなすべきことは《以下のとおりである》

・何事にもすぐれ、しっかりして、まつすぐしなやかで、人の言葉をよく聞き、柔和で高慢でない人になるように。

・足ることを知り、手が掛からず、雑務少なく、簡素に暮らし、諸々の感覚器官が落ち着いていて、裏表がなく、在家に執着しないように。

・《智慧ある》識者たちが批判するような、どんな過ちも犯さないように。

・幸福で平安でありますよに。生きとし生けるものが幸せでありますように。

・いかなる生命であろともことごとく、動き回っているものでも、動き回らないでも、長いものでも、大きいものでも、中くらいのものでも、短いものでも、微細なものでも、巨大なものでも、見たことがあるものも、遠くに住むものでも、近くに、住むものでも、すでに生まれたものも、《卵など、これから》生まれようとしてるものも、生きとし生けるものが幸せでありますように。


・どんな場合でも、人を欺いたり、軽んじたりしてはいけません。


・怒鳴ったり、腹を立てたり、お互いに人の苦しみを望んではいけません。


・あたかも母が、たった一人の我が子を、命がけで守るように、そのようにすべての生命に対しても、無量の《慈しみの》心を育てることです。

慈しみの心を、一切世間《全ての生命》に対して限りなく育てることです。

上に、下に、横《まわり》に《棲む如何なる生命に対して》も、わだかまりのない、怨みのない、敵意のない心を育てることです。


立っている時も、歩いている時も、座している時も、あるいは横になっていても眠っていない限り、この《慈悲の》念をしっかり保つものである。これが梵天《崇高な者の例え》の生き方であると言われています。

《このように実践する人は》邪見を乗り越え、常に戒を保ち、正見を得て、諸々 の欲望に対する執着をなくし、もう母体に宿る《輪廻を繰り返す》ことはありません。<<



私は、特に、この部分が、大変、気に入ってます。

>・幸福で平安でありますよに。生きとし生けるものが幸せでありますように。<



>・怒鳴ったり、腹を立てたり、お互いに人の苦しみを望んではいけません。<

我が国の聖徳太子も、この様な、ブッダの精神を深く、尊敬され、学ばれて我が国の精神と融合し、日本精神の『和』が、出来上がっていったのかと、思います。


それでは、皆様、春も、花見も、近いです。

では、では、本日も、ありがとうございます。心の平安を、願いながら、ありがとうございます。感謝、合掌、拝。

309a hope:2012/03/30(金) 10:21:03 ID:kcv2QXTk

人生読本 谷口雅春先生著

「自分はまだまだこれからだ」


自分で自分を振り返ってみて、まだまだ本当に自分の行いや、
仕事や、勉強に、満点がつけられない人はたくさんありましょう。
そんなときにあなたはどうお考えになりますか。
「自分は駄目だ」とお考えになりますか。
それとも「自分はまだまだ駄目だ」とお考えになりますか。

自分を振り返って見て、満点がつけられない場合に、「自分は駄目だ!」
とお考えになれば、勇気がくじけて、これから先は進歩しないのです。
「自分はまだまだ駄目だ!」とお考えになる人も、
行く先まだまだ道遠しというような感じがして、そんなことでは本当に勇気が生まれて来ないのです。
では、そんな時にはどう考えればよいでしようか。

「自分はまだまだこれからだ」と考えるのです。
幼い人も、若い人も、年寄りも、みんな「自分はまだまだこれからだ」
と思うことによって、元気が出て来るのです。力が内から湧いてくるのです。
年寄りも若返ってくるのです。
では皆さん、これからどんな時にも「自分はまだまだこれからだ」と思うようにしましょうね。

(つづく)

310「訊け」管理人:2012/03/30(金) 16:53:49 ID:???

WEB榎本恵吾記念館「葩(はなびら)さんさん」より謹写――

釈尊の「まこと恨み心を以てしては、恨みを消すことはできない。ただ恨み無き心こそ恨みを消すことができるのである。これは永劫に変わらざる真理である」というお言葉には、誰しも“なるほど”と想わされることでしょう。しかし実際のところは、

「お釈迦さんは、その恨み無き心があるからいいよ。しかし、その恨み無き心になるのが大変で、困っているのではないか」

  と言われる人もいらっしゃるでしょう。この釈尊のお言葉は「罪は罪によっては消えない。罪なきもののみが罪を消すことができる」ということを表わしているのだと思います。

  さて、生長の家はどのようにしてこの恨み無き心を出してくる道を開いたのでしょうか。それは、恨み心や罪の心そのものは不完全であるが故に「無い!」という言葉によってこれを否定し、實相の實相自らの輝き出しによって恨み心を撥無したのです。そこには理由は無いのです。なぜ無いのかと問われても答えはありません。無いから無いのです。ただただその事実によるのみなのです。ですから、ただただ「そうか、そうか」と言っていればよいのです。恨み心によって恨み心はなぜ消えないかというと、最初から無いものは消えることも無いという意味において、無いから消えないのであると言うほかはないのです。罪は無いという事実によって無いと言えるのであります。

  では、罪とはいったい何であるかというと、聖経『甘露の法雨』に書かれてありますように、「完全円満の生命の實相を包みて顕現せしめざるが故に罪けがれと云う」ということでありまして、神の造り給うたそのままの完全円満なる實相を包み隠してしまっているその「包み」が「罪」ということなのです。“ああしてからでないと救われない”“こうしてからでないと救われない”などと、未来という時間の向こうにすでにそのまま完全である實相を追いやって、喜ぶことを遠慮してしまっている状態です。ですから、あらゆる罪というものは、現象の不完全を責め足りなかったところにあるのではなく、そのまま今、円満完全の實相を喜ぶことを遠慮したところにあるのであり、實相を喜ぶことを遠慮しないことが実は本当の意味での「懺悔」ということになるのです。生長の家で行う「神想観」という行は實相を喜び感謝するのですから、これは最大の懺悔であると言えるでしょう。聖経『甘露の法雨』も、神一元の完全円満が書かれているのですから、これを読誦することもまた懺悔なのであります。

  それでは、いったい此の罪の正体であるところの「包み」というものは、人間が努力して取り払わなければ神に生かされないものなのでしょうか。また、實相というものは包まれてしまって、縛られてしまって身動きのとれないものなのでしょうか。それでは實相が完全円満であると言うわけにはいきません。實相が完全円満であるのでしたら、自分で顕れ出てくる力も備えているはずではないでしょうか。とにかくこの罪、包みは本当にあって、これだけは自分で何とかしなければ救われないものなのでしょうか? そんな疑問と悩みを持つ人もいらっしゃるのではありませんか? その疑問と悩みを代表して、天の童子は天使に、「罪は実在なりや?」と訴えているのです。すると天使は「罪は不完全なるが故に実在にあらず」と答えたと、聖経『甘露の法雨』には記されています。

  生長の家の教えは、罪の正体を暴露して無に帰せしめた教えであります。つまり包みが罪なのですから、「罪は無い」ということはそのまま「包みは無い」ということなのです。皆さんの實相から言えば、

「私は1度も包み隠されたことはありません」

  と言っているのであります。それは解るとか、納得するとかしないとかの問題ではないのです。理解できないとか、納得できないとかいう罪も不完全なるがゆえに実在にあらず、すなわち無いということなのです。「罪は不完全なるが故に実在に非ず」と書かれてありますように、不完全という不完全は神が造り給うたものではないのですから「無い」のです。

  ですから、實相を観じられないという罪も無ければ、包み隠してしまうという罪はもちろん、感謝が足りないという罪もありません。徳積みの足りない罪も無ければ、供養の足りないという罪も、潜在意識の浄まっていないという罪も、教えを実行できていないという罪もなく、与え方が足りないという罪もまた無いのです。

311うのはな:2012/03/30(金) 17:56:58 ID:El6gIMAw
護國の神剣  

  共産主義は結核菌のようなものです。共産主義は迷いであり、本来在るものではありません。だから共産党を憎んだり呪ったりすることはいらない。それよりもまだ自分の愛行が足らんのだということを考えなければいかんのです。

  共産党がなぜ伸びたかというと、日頃の地域住民に対する奉仕活動であり、その昼夜を問わぬ激しい努力なのです。

  私たちがまだ徹底的に自我を死に切らずに、個人の生活の片手間に日本の國のことを考えてみたり、あるいは片手間に少しばかり生政連活動のお手伝いしているようでは、日本をよくするこが出来ないばかりではなく、そもそも自分を欺いているのではないかと惟うんです。

 自ら省みて、自分が全生命をかけて日本の國を救いたいという、そういう熱情に自分の全身全霊が燃えているかということなんです。


 自分がまだ本当に燃えていないで燻っているとすれば、その燻っているようなところが結核菌なんだ。自分の〃心〃の中に燻っているところのその結核菌が具体化して共産党となって現れてきているわけなんです。

 生長の家では「心の影」といい、仏教では「三界は唯心の所現」というのもこのことなのであって、一切は自分にあるという自覚に100%起たないといかんのです。

 だから我々は、どこどこまでも日本の実相を観じてその実相を顕現する運動に全身全霊、生命の100%をかけて生政連活動に熱中できたら自然に国家の実相が現われるし、天皇の実相が現われるし、自分の実相も現われるのです。実相が現われたら悪いものや迷いは無いんだから、共産党も自然に消え、日本はひとりでに立派な國になってゆくのです。


 皆さん、今、起ち上がってください。このたび生政連の歌を作りました。この歌にある通り生政連は〃八岐大蛇〃を平げた須佐之男命の「護國の神剣」であるという大いなる使命をもって進んでください。        合掌


                     谷口雅春師  48年2月1日

晴れときどき競馬とホークス ブログ

312「訊け」管理人:2012/03/31(土) 08:01:25 ID:???

WEB榎本恵吾記念館「葩さんさん」より謹写――

  生長の家の人が實相と現象のことで尋ねてこられる際、「實相は完全円満で、現象は無いのですから、現象にとらわれずに實相を観ればよいのに、どうしても現象にとらわれてしまうのです」という人が多いのですが、この悩みにすべての問題は帰着するのではないかとさえ思えます。

  実はこのような人は、實相は完全円満であるというときの、この「完全」の意味をよく解っていないだけのことなのです。實相は完全なのですから、こちらの心で観ようが観まいが、いちいち努力して實相を引っぱり出そうとしなくても、絶対的に自分で出てくる力を完備しているのです。それを知らないから観る、観ないに引っかかってしまうのです。

  そして、實相と現象の中間あたりに自分を置いて、「實相⇔現象」「實相⇔現象」と左を向いたり右を向いたり、その中間あたりでキョロキョロと首を振っている状態を「観ずる」とか「観じない」とか、「自覚する」とか「自覚しない」とかということだと思ってしまっているのです。なるほど「實相は観ずれば顕われ、観じざれば顕われることなし」と書かれていますし、また、『生命の實相』の第1巻の本論の第1行目には「生命の實相の自性円満を自覚すれば、大生命の癒力が働いてメタフィジカルヒーリング(神癒)となります」と書かれています。しかし、そこに書かれている「観ずる」「自覚する」ということと、自分の受け取っている「観ずる」「自覚する」ということの意味が違ってはいないでしょうか。

  (つづく)

313「訊け」管理人:2012/03/31(土) 08:02:37 ID:???
(つづき)


  谷口雅春先生が抱かれたお悩みというのは、すべては心の展開であり、いわゆる三界は唯心の所現であるということは解るけれども、その心が思うように支配できなくて困り果てられたのです。そして、「この心を改心して懺悔して改めてからでないと救われないのであれば、自分は決して救われることはない。改心しないまま、懺悔しないままで救ってくれる神が欲しい」と切実に願われたのでした。この悩みを拡げて解釈すれば、實相の円満完全を観ようとしてもなかなか思うように観ることができないから、實相を観られないままで、自覚もできないままで救ってくれる神(實相)が欲しいと言われたということになるでしょう。

  やがて、現象無し、不完全無し、観る観ない、自覚するしないという心も無い、實相はそのまま円満であり、この實相は完全なるがゆえに自ら出てくる力をも備えているということを神からの啓示によって知られたのでした。そして、そのとき初めて「心」というものから解放されて、「生かされている」という喜び、つまり感謝が湧き起こられたのでした。「實相は完全であるからこちらの力は何も要らない」というふうに、喜ぶのを遠慮しないことが「實相を観ずる」とか「自覚する」とかいうことであったのです。

  ですから、實相にはこちらの力というものが要らないのです。ただただ實相のみの世界なのです。實相を現象に顕すといっても、實相が自分で顕れて来るのであり、實相だけがすべてのすべてなのです。顕れる、顕れないは現象であって、顕れても顕れなくてもどちらも無いのであって、實相だけを喜んでいればよいというのが「今を生きよ」ということなのです。實相は「今」完全であり、實相だけでよい、というのが「今」ということなのです。顕すための心や時間というものは要らないということなのです。

  「観ずる」ということについては、生長の家で行う行(ぎょう)の一つである「神想観」がまず思い浮かぶのですが、「神想観」は「神を想い観る」ということと同時に、「神が想い観給う」ということでもあるようです。神想観を始めるときに唱える「招神歌」にありますように、すべては神が為し給うのでありますから、自分はどこにも要らないのです。観ることも、自覚することも、感謝することも、すべては神が為し給うているのです。

  「自覚する」ということも、「自覚」という言葉は自ら覚めると書くように、はじめの初めから、宗教をやるやらないとか祈る祈らないよりも以前から、そして今も生きとし生けるものとして生かされている實相なるものが「自ら目覚めて出てくる」ということなのです。内なる實相が自ら出てきて、生長の家の話を聴き、内なる實相が自ら出てきて、聖典を読んでいるのです。すべては外から来るのではないのです。内なる實相がそのままどんどん出てくるのに任せればよいのです。出てくることが、自覚が始まっているということなのですから、それを勝手に自分でああしてから、こうしてからと邪魔をしないことがすばらしいのです。ただただ喜んでいるだけでよいのです。言い替えれば、喜んでもよいということなのです。實相だけでよいと喜んでいることが感謝ということなのです。「感謝せよ」とは「喜べ」ということに他ならなかったのです。喜びとは自分は要らなかったということであり、すでに完成している實相を遠慮しないこと、そのままでよいことを遠慮しないことであったのです。遠慮しないのは神のためであって自分のためではないのです。そのまま今喜んでよいということでなければ、神は今完全な世界を生んでいないということになり、不完全なものしか生めなかったものは神とは言えませんから、神は無いということになってしまうのです。ですから、實相円満、そのままでよいということを認め喜ぶのは自分のためではないのです。神のために遠慮しないようにしなければならないのです。喜びましょう。喜びましょう。すべての不完全は不完全なるがゆえに無いのです。無いということは、今赦され切って、生かされているということなのです。

  (つづく)

314「訊け」管理人:2012/03/31(土) 08:03:10 ID:???
(つづき)


  ああしてから、こうしてからは止めて、今そのまま素っ裸のままで喜ばせてくださるのが生長の家の御教えなのです。

  どんな善いことでも、ああしてから、こうしてからは要らないのです。善いことをたくさん身にまとっていくと、だんだんと裸でなくなっていくのです。実はこの善いことが曲者なのです。「感謝してから」「我を消してから」「懺悔してから」「潜在意識を浄めてから」「教えを実行してから」「実感してから」「愛行をして徳をたくさん積んでから」「先祖供養してから」「祈ってから」「信仰に徹してから」「實相を観じてから」「實相を自覚してから」……。まだまだ立派な善いことを掴んではいないでしょうか。それをすべて吐き出して、脱ぎ捨ててしまいましょう。死んだつもりになってすべてを捨てるのが生長の家です。そしてゼロでよいのが無我ということなのです。ゼロということは何も要らないということです。自分も要らないということです。

315a hope:2012/03/31(土) 09:02:43 ID:kcv2QXTk

人生読本 谷口雅春先生著

燃え滓(かす)の人間になるな


「自分はまだまだこれからだ」と思う者には、行きづまりということがありません。
もうそうとう偉い人でも、慢心するということがありません。
今、どんなにできが悪くとも、まだまだこれから偉くなり、上手になると思えば勇気が出、励みが出てまいります。
「自分はまだまだこれからだ」と思う人には、今後どれだけでも引出し得る中味があるのです。
今後どれだけでも引出し得る値打が残っているのです。

「私はできるだけのことをしました。もうこれでわたしの力はおしまいです」
と言うようなことでは、もう進歩の行き止りです。
もう燃え滓になった石炭のようなものです。
人間は燃え滓になってはなりません。
どれだけ燃やしても火力の続く無限の石炭にならねばなりません。
それには、自分は「まだまだこれからだ」と思うようにすることが肝心です。

(つづく)

316a hope:2012/04/01(日) 06:43:58 ID:kcv2QXTk

人生読本 谷口雅春先生著

自分の中に神の力が


「自分はまだまだこれからだ。」こう思う人には失望はありません。
どんなにいま失敗していても勇気がくじけることはありません。
どんなに今成功していても、どんなに今偉くても、自分はまだまだこれからなのです。

「自分はまだまだこれからだ」という言葉には、どれだけ偉くなっても、
まだまだ善くなる力を含んでいます。
それには無限の力を含んでいるのです。

無限の力は神の力ですから、「自分はまだまだこれからだ」と言う人は、
自分の中には神様の力があると、自分自身を誉めているのと同じことです。

(つづく)

317「訊け」管理人 (1/3):2012/04/01(日) 14:37:40 ID:???

WEB榎本恵吾記念館「葩さんさん」より謹写――

 實相は完全円満でありますから自分で顕れ出てくるのであります。そのことを喜んだら我が消えているのです。

  先日も、練成会の後半になって、

  「先生、感謝が大切だということが解りましたが、感謝ができないのです。それは我があるからだと解りました。先生この我はどうしたら消えるのでしょうか?」

  と、ある方が訊いてこられました。私は、「それは實相のそのまま円満完全を喜べば、その後で我が消えるのです。生かされていてよいのだということを遠慮しないことですよ」

  と話してさしあげました。今考えてみますと、感謝すなわち實相というものは實在として宇宙に充満し、同時に我が内にも充満しているのですから、

  「あなたに感謝してもらわなくとも、私は厳然として在り続け、輝き続けているよ」

  と常に言っているのであります。それこそ、「感謝は今日も元気いっぱい」なのです。感謝は神でありますから、感謝のあるところ神があり給い、神のあるところ感謝があるのは自然なことなのであります。

  神は何に感謝し給うのでしょうか。神は絶対者であり、すべてのすべてでありますから、神以外には何もなく神には相手なるものは無いのですから、太陽が自ら光を発しているように、神は自ら感謝の輝きそのものであり給うのです。その神の延長、展開が神の子人間でありますから、神の子人間もまた感謝そのものであり、その感謝は永遠に久遠に不滅なのです。ですから「感謝は今日も元気です」ということになるのです。今日もまた、内なる感謝を讃えようではありませんか。

  感謝は内に在す神でありまして、内より自己展開し給うのです。「光は東方より」という言葉がありますが、それは「光は当方より」ということであります。

 (つづく)

318「訊け」管理人 (2/3):2012/04/01(日) 14:39:15 ID:???
(つづき)

  生長の家は「我をなくせ」という教えではないのです。我が要らなくなる道なのです。すでにはじめの初めより完成そのものである實相を説くということは、我が要らなくなることなのです。この實相の完全なる相を照らし出すことのできる教えであればこそ、感謝の神示と言われている「大調和の神示」が「完成の燈台の点燈者の神示」と言われている所以なのです。すでに、久遠に、平等に、今ここに生きとし生けるもののそのままの相の中に「完成」なるものを拝んでいるのが生長の家であり、このことが生長の家が感謝の教えである所以なのです。

  神は感謝したもののところには顕れるが、感謝しないもののところには顕れてくれないというふうに、「大調和の神示」の中の神を受け取っているとすると、これは大変な間違いであります。それでは「大調和の神示」は完成を照らし出し、拝むところの温かさの極みの神示ではなくして、冷たい限りの神示になってしまわざるを得ません。平等完全の神を観ていないところには、我は消えないのですから、結局、永遠に我が消えることはなく、神は永遠に顕れ給うことはなくて、生長の家ほど神に遠い教えはない、ということになってしまいます。それどころか、「神はなぜ平等に感謝ができるようにすべての者を生んでくれなかったのか」という不足と神への裁きの気持ちしか出てこないのであります。このような神を相手にしていますと、感謝の喜びは永遠に味わうことは出来ず、永遠に神に来ていただくための準備ばかりしていることになってしまいます。こういう場合、今は神は出てきていないということになりますから、その準備というのは我がやっているということになってしまいます。そして一方では我の消えているのが感謝であると言われてしまって、まったく何が何だかさっぱり解らないモヤモヤとした霧の中にいるような状態になってしまうのです。

  そうではないのです。たとえば聖経『甘露の法雨』を開きますと、「招神歌」が出てきます。ここでは、「生きとし生けるものを生かし給える御祖神」とうたわれています。この大神はあれこれと過去に努力してきたことの結果を観て、そしてその成績いかんによって生かす神ではないのです。神は完全にして平等に生かし給うている神なのです。そこに實相なる世界がうたわれているのです。その實相の相を知るとき、感謝そのものとなっているのです。ですから、感謝せよとは、生きとし生けるものとして、完全円満に生かされていることを喜びなさいということなのであります。ですから、無条件の神、現象のない神を知ることが感謝のすべてなのです。

  谷口雅春先生が、神から啓示をお受けになったときの神のお言葉は「天地一切のものに感謝せよ」というお言葉ではありませんでした。むしろ「感謝できていないという不完全なお前は無いのであり、完全円満、そのまま神であるお前だけがあるのだ」という意味の啓示の言葉だったのです。それをお聴きになったときに、谷口雅春先生が感謝そのものに甦っておられたのです。ですから聖経『甘露の法雨』には「大調和の神示」よりも先に「招神歌」が書かれているのであります。また、四部経では愛行のための聖経ともいうべき「聖使命菩薩讃偈」よりも先にこの「招神歌」が書かれているのです。素直にハイと生かされていることを受け取るところから、上の空にならない聖経の読誦が始まるのです。


(つづく)

319「訊け」管理人 (3/3):2012/04/01(日) 14:40:12 ID:???
(つづき)

  生長の家の教えの根本が感謝であるということは、たとえ生長の家の聖典に、感謝という言葉が出てこない場合でも、そこに書かれていることを素直に受け取っていけば必ず感謝が湧き出てくるということです。

  例えば、「大調和の神示」は昭和6年9月27日の神示となっています。一方、生長の家の教えの立教はご存知のように昭和5年3月1日です。生長の家が立教したときには「大調和の神示」は無くて、その1年半後に生まれたということになっているのです。立教のときにあったのは、おそらく自由詩として生まれた聖経『甘露の法雨』でありましょうが、この聖経『甘露の法雨』の「神」から「人間」に至るまでの文中には「感謝」という言葉は1度も出てこなくて、ただそこには神の天地創造の完全一元の世界、すなわち實相が説かれているのであります。そこには我の消える道、我の要らなくなる道が書かれていたのです。それで「感謝」という言葉の一語も出てこない文章を読んだ人の中に感謝が湧き起こり、大調和の姿が現れる体験が続出したのです。感謝のあるところに神があらわれ、健康となり、繁栄となり、調和となったのです。それは感謝は實相であり、神そのものであるからなのです。

  ですから、生長の家の集まりのあるところには、どこに行っても「實相」という掛軸か額が正面に掲げられているのです。特に「感謝」と書かれていなくとも、實相は感謝そのものであるからなのです。

  とにかくそのまま完全の實相を喜べという温かさの極みにおいて天降っているのが「大調和の神示」であります。「神に感謝しても父母に感謝し得ないものは神の心にかなわぬ」と書かれていますが、どこが、何が神の心にかなわないのでしょうか。それは、神様からすれば、「初めのはじめから無条件に、生きとし生けるものとして生かして1度も離れたことなく、神である私のいのちが現われてお前となっているのに、今さら感謝したり、拝んだりしなければ現われないと思っているのか、そんな離れた想いが私にはさびしいよ」というほどの意味なのであります。「私(神)のほうはいいから、父母をはじめあなたを取り巻くすべてのものに感謝してくれれば私はいちばん嬉しいのであり、すべてのものもまた私であるから私は嬉しいのだよ」ということなのです。

  「神示」そのものがすでに神が顕れて「神示」となっているのであるし、父母への感謝が第一と書かれているのに、「皇恩に感謝せよ」から始まっていたり、神はすべてのすべてで到らないところはどこにも無いのに、感謝のあるところにのみ顕れるとなっていたり、あの「大調和の神示」は矛盾だらけであるということも言えますが、とにかく矛盾をも省みず、「喜べ、喜べ」と神が言ってくださっている温かさの極みの姿であるのがこの神示なのです。

  また、「大調和の神示」には實相という言葉が出てこないから「感謝したら……」と書かれているのです。實相という場合は、人はそのまま神であり、感謝そのものであり、そのままを喜ぶだけでよいということになるのです。このことについては、また別の項で多少詳しく述べさせていただくことにいたしましょう。


 <終了>

320ハマナス:2012/04/02(月) 00:14:17 ID:u5mC.eb2

神の子のみなさま
 
こんばんは。
すみません、子供達が帰って来ていまして、しばらく投稿をお休みしていました。
今日から、4月ですね。新学期、新入社員、心も一新し、何となく嬉しくなります。

四月 若葉寄り繁る  『生命の實相』第37巻P.92より
四 月 一 日

「なんという歓びであろう。自分の棲んでいる宇宙には、自分の意志に反対する
意志は一つとして存在しないのである。
 なぜなら、自分は神の子であり、宇宙生命は神御自身であり、宇宙は神の支配下に
あるからである。われ祈れば天地応(こた)える。神は常に我が祈りに応えたまい、
我がために処を備え給い、宝を備え給い、時を得せしめたまい、すべての必需物(な
くてはならぬもの)を与えたまうからである。」


「実相を観ずる歌」      谷口雅春先生・作詞

二 神は生命(いのち)して、吾れは神の子なれば、
吾れはすべてを生かし、すべては吾れを生かす。

神は愛にして、吾れは神の子なれば、
吾れはすべてを愛し、すべては吾れを愛す。

神は智慧にして、吾れは神の子なれば、
吾れはすべてを知り、全てのもの吾れを知れり。

神はすべてにして、吾れは神の子なれば、
吾れ祈れば天地応え、吾れ動けば宇宙動く。

吾れ座す妙々実相世界 
吾身は金剛実相神の子
万ず円満大調和
光明遍照実相世界。

321SAKURA:2012/04/02(月) 02:42:21 ID:HrXENstc

皆様 へ

遅くなりました…今日で【仏国土の建設】シリ−ズは、終了です…。
>279>287>291>292>305>306続き… 

■■ 仏教典 より          
■ 第3章   【仏国土の建設…】
          
 第 3 節  仏の国をささえるもの

4.かって殺人鬼として、多くの人々の命をあやめ、世尊に救われて仏弟子と
なったアングリマールヤ(指鬘しまん)は、その出家以前の罪のために、托鉢の途上で、
人々の迫害を受けた。

ある日、町に入って托鉢し、恨みのある人びとに傷つけられて、全身血にまみれながら、
やっと僧坊に帰って、世尊の足を託して喜びのことばをのべた。

「世尊、わたくしはもと、無害という名でありながら、愚かさのために、多くの人の
命を損ない、洗えども清まらない血の指を集めたために、指鬘の名を得ましたが、

いまでは三宝に帰依してさとりの智慧を得ました。馬や牛を御するには、むちや網を
用いますが、世尊は、むちも網もかぎも用いずに、わたくしの心をととのえて
下さいました。

今日わたくしは、わたくしの受けるべき報いを受けました。生も願わず死も待たずに、
静かに時の至るのをまちます。」

5.マウドガルヤ−ヤナ(目連)はシャ―リプトラ(舎利佛)と並び称せられた
世尊の二大弟子のひとりであった。世尊の教えが水のように人々の心に浸みこむのを見て、
異教の人々がねたみを起こし、いろいろな妨げをした。

しかしどんな妨げも、まことの教えの広まってゆくのをとめることはできないで、
異教の人々は、世尊の手足をもぎ取ろうととして、目連をねらった。
一度ならず二度までも、その人々の襲撃を避け得た目連も、ついに三度めに大勢
の異教者に取りまかれて、その迫害を受けることとなった。

目連は、骨も砕け肉もただれ、暴逆の限りを静かに受け忍んで、さとりの
心に何のたじろぎもなく、平和な心で死についた。

                        此の章は「終了…」

322a hope:2012/04/02(月) 11:24:27 ID:kcv2QXTk

人生読本 谷口雅春先生著

自惚(うぬぼれ)と自尊は異(ちが)う


自分自身で、自分を誉めるような人になれとは、自惚で、
できもしないものをできたと思い、ちょっとぐらいできたので、
これで神の子のでき栄えだと思い上がっていばることではないのです。
自分を神の子だと思うことは、言い換えれば「自分はまだまだこれからだ」
と思うことなのです。

誉められていばる者は、自分がまだまだこれからいくらでも
たくさん能力の出る神の子だということがわからないのです。

「自分はまだまだこれからだ」ということと「自分はまだ駄目です」と
謙遜(へりくだ)ることとは表と裏です。

「自分はまだ駄目です」ということは、今のようではまだ駄目だから、
これからまだまだ力を出すという意味ではありましょうが、
「自分はまだ駄目です」といえば、「駄目」という悲観的な言葉の力で、
心が沈んでしまいやすいのです。

同じ意味でも「自分はまだまだこれからだ」と心の中で言うようにすれば、
力が湧然(ゆうぜん)と湧き出てまいります。

これを言葉の力と申します。
皆さん、常に「自分はまだまだこれからだ」と考えて、
今日は昨日よりも上手に、明日は今日よりも上手に、仕事でも、
勉強でも熱心に精出してやることにいたしましょう。

(つづく)

323SAKURA:2012/04/02(月) 19:51:50 ID:FEa/NNlc
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ

こんばんは
今日も春風に誘われて“心の探求”です・・・。
いつものように精神統一・・・my・heart・・・only!

■【幸福を招く365章】

―――すべての人の善を信ぜよ―――

神は常にあなたと偕にある。憂えること勿れ。何処におろうとも、
何をしていようとも神はあなたを護ってい給うのである。如何なる危急の場合にも、
真に神の無限力を信じて、呼べば必ず答え給うのである。
併し、真に神の無限力を信じなければならぬ。
信じない祈りには派長が合わぬのである。
常に神の御救いに応ずることが出来るように、
深き「神の子」の自覚を呼び起こすようにつとめよ。
常に、「われ神の子なり、常に護り給う」と心のうちに唱えよ。
而(しか)して同時に、その常の譲りに感謝報恩するために、神徳を人に
伝えなければならぬ。何か神様のお役にたつことをしなければならぬ。
                            
(谷口雅春著)


■「今の教え」と「本流復活」を考える・信仰/体験板/2 
15>投稿…
此処に私なりの【解釈…】をしてみましたが…?
宜しかったら…?そちらで拝読して頂きますと幸いです…。 
再合掌

324「訊け」管理人:2012/04/02(月) 20:54:26 ID:???

WEB榎本恵吾記念館「葩さんさん」より謹写――

生長の家では、恨み心や憎み心、赦せない心があると完全な實相が出てくることを邪魔をしてしまって出て来れなくしている、と仮にそういう表現をするときもありますが、その恨みや憎みや赦せない心も神様が取り去ってくださるのであるというのが本当の教えなのです。なぜなら「神の国は汝らの内にあり」であり、神の国、即ちはじめのはじめからそのままで善いという實相はいつも私達の内に厳然とあり続けているのであり、私たちは常に神に愛され、生かされ、赦され続けているからです。神はいつもこちら側にいてくださるのが大前提であればこそ、懺悔さえも神様に任せることができるのです。憎みや恨みや赦せないという心が現実にあって、その向こうに神を追いやってしまってはいけないのです。全托するということも全托できるのでなければまことの全托とは言えないのです。こちらの力は何も要らないのであり、神と一度も離れたことのない、晴れ渡って、澄み切って、神と一つである姿が先であって、それは永遠の昔から、今も、久遠の先の先まで変わることのない實在の實相であるというところに全托という雰囲気が生まれるのであります。

  生長の家には「浄心行」という行がありますが、これは「懺悔」の行であると言えるでしょう。この中身をよく見てみますと、はじめに「實相」と書かれた掛軸を礼拝して、まず神の子そのままの円満完全で未だかつて罪を犯したことのない自分を喜び、拝し、受け入れ、その次には「招神歌」を唱えて、無条件に今、神に生かされていることを感謝します。それが終わると、いよいよ焼却の行事に入りますが、そのときには聖経『甘露の法雨』を読み続けています。そして最後に「光明思念の歌」を唱えて、暗は無く、光のみの世界が本当であること、未だかつて、犯された罪もなく、報いられなければならない罪もない世界であったことを確認して終わるのです。どこにも罪を認めたすがたは無いのであります。あらゆる罪は、すでにそのままでよい姿である完全の實相を包み隠して喜ぶことを遠慮したところにあるのであって、過去である現象を責め足りなかったところにあるのでは断じてなかったのです。實相の完全を遠慮しないで喜ぶことが、生長の家のあらゆる行事の根本となっているのであります。

  普通なら懺悔をして心が浄まってはじめて、神に顔向けができるのであって、それから神をよぶ歌が唱えられるのが順序でありましょう。生長の家の浄心行というのはこれとはまったく趣を異にしていると言わなければならないのです。「浄心行」とは「心を浄める行」と読むこともできますが、実際にやっている中身から言えば、浄い心が行う「浄い心の行」ということになっているのです。

325ハマナス:2012/04/03(火) 00:36:48 ID:u5mC.eb2
神の子のみなさま
 こんばんは。

本 当 の 自 由 (『新版 生活の智慧365章』P.117)

「吾々は“無限”を求める存在であると同時に,”自由”を求める存在である。何故なら
人間は神の自己顕現であり、本来“無限の自由”を内に蔵するからである。「自由」を、
何か自分を縛るものを破壊することだ、と考える人があるが、本当の自由は、そのような
対立観念、相対的な物の考え方では得られるものではないのである。本当の自由は「絶対者」
となることによってのみ得られる。自分が神の自己顕現であり、「絶対者」の自己実現である
との悟りによってのみ得られるのである。

 それ故に本当の自由は、神想観によってのみ得られる。何故なら吾々は神想観によって自己
が神と一体であり、絶対者と一致であり、環境とか外物とか見えるものも「他物」ではなく
自己の心の顕現であると悟ることができるからである。それだから神想観は真に
最高の尊き神人合一の行事であると共に、何人も“本当の自由”を求むる限り修しなければ
ならない修行であって、生ま易しいものではないのである。」

感謝合掌
おやすみなさい。

326ももんが:2012/04/03(火) 02:07:22 ID:XXCuaQns
 白髪の翁・三蔵法師篇
  〜大唐西域記〜

十日目にナーランダー寺の人々が、四人の大徳を使わして、三蔵法師を迎えに来たので、いっしょに行くことになった。七ヨージャナばかり進むと、ナーランダー寺の荘園に着いた。ここは目連尊者が生まれた村である。法師はここで食事をした。暫くすると、さらに二百余人の僧侶が千余人の信者と旗や日傘や花や香をもって出迎えに来、みなで三蔵法師を誉めたたえ、まわりを取り囲みながら、ナーランダー寺に入った。ナーランダー寺の衆僧はすでに集まつていて、ともに三蔵法師と会見した。上座の上の方に別に牀机をおき、三蔵法師はそこに座らせられ、衆僧もおのおの座についた。座り終わると維那が板木を打って衆僧に、

『いまより、法師はこの寺はに住むことになった。寺の中のすべて僧が用いる法物・道具は、ことごとく共用である。』と唱えさせた。
それから経律をよく解し、威儀正しい老人でもなくあまり若くもない僧二十人を選び、三蔵法師をつれて正法蔵に会見させた。
正法蔵とは即ち戒賢法師(シーラバドラ尊者)のことで、人々は彼を尊重して名を呼ばず、正法蔵と呼んでいるのである。
こうして法師は人々とともに正法蔵に拝謁し師事することになった。そこでつとめてうやうやしく敬礼し、インドの作法に従って膝と肘で進み、足を鳴らし額を床につけ礼拝し、丁重に挨拶と尊敬の言葉を述べた。すると正法蔵は広く牀机をおかせ、法師や諸僧を座らせ、

正法蔵:『そなたは何処から来られたか』と尋ねた。
三蔵法師:『私はチーナ国から参りました。師のみもとで「瑜伽論」を学びたい一心でやって参りました。』
と答えると、正法蔵は聞き終わって涙を流し、弟子のブッダバドラ尊者を呼んだ。彼は、正法蔵の甥で、年は七十余歳、広く経論に通じ談話に巧みな人であった。正法蔵が、
『そなたが人々とのために、私の三年前までの病気の因縁について話してあげてください。』
と言うと、ブッダバトラは泣いて涙をぬぐいながら、つぎように、説明した。

正法蔵はもとリューマチスを患われ、発作のたびに手足が痛んで火に焼かれたり刀で刺されるようでありました。
急に発病したかと思うと治り、そんな状態が二十余年も続いたのです。もっともひどかったのが三年前のことで、苦痛ははなはだしく、御自身の体を厭われて断食して自殺しようとされました。ところがある夜、夢に三人の天人が現れました。その一人は黄金色、二人目は瑠璃色、三人目は白銀色で、風采うるわしく、その服は軽やかで輝いていました。三人は正法蔵に近づいてくると、
『そなたはみずから身を捨てようとしているのか。経典には身に苦があることを説いているが、身を捨てることは説いていない。そなたは過去にかつて国王となり、多くの国民を悩ませたので、いまその報いを受けているのである、いまこそよろしく過去の罪業を反省して、至誠をつくし懺悔すべきときである。苦しいときは安んじて忍び、つとめて経論をひろめ、みずから罪業を消すべきである。いまだだ身を厭うて死んでも、苦は永劫に尽きないであろう』
といった。正法蔵は聞き終わって心を込めて礼拝すると、その金色の人は碧色の人をさして、
『そなたは知っているか、この人こそ観自在菩薩である』といい、また銀色の人をさして、
『この方は慈氏菩薩である』と言われた。
正法蔵は慈氏菩薩に礼拝して、『私はいつも御身もとに生まれ変わることを願っております。この願いは達せられましょうか』というと、
『そなたが正法を広く伝えたならば、後世にはその願い達せられよう』と答えらた。そのとき、金色の人は、 『私は文殊菩薩である。私たちはそなたが空しく身を捨てようとしており、それが利益とならないのをみて、いまここに来てそなたに翻心をすすめているのである。そなたはいまこそ私の言葉に従い、正法『瑜伽論』などをあまねくまだ知られていない地方に及ぼしなさい。そうすればそなたの身はしだいに安らかになるであろう。使者を遣わしえぬことを憂うる必要はない。チーナ国に一人の僧がおり、大法を流通せんことを願いそなについて学びたいと心から欲している。そなたは待っていて、その者に教えなさい。』といった。
正法蔵は聞き終わって礼拝し『謹んで御教えに従います』
と申しあげると、三人の姿はもう見えなかった。しかしそれ以来、正法蔵の病苦は忘れたように消えてしまったのです。

〜つづく

327ももんが:2012/04/03(火) 02:10:30 ID:XXCuaQns
>>326

〜大唐西域記②・つづき


これを聞いて衆僧は、みな希有のことであると称嘆せぬ者はなかった。三蔵法師は親しくこの話しを聞いて、あまりの喜びに心高ぶりを抑えることができなかった。さらに礼拝して、
『もしお話のとおりであれば、私は全力を尽くして勉強させていただきたいと思います。どうか尊師よ、御慈悲をもってお教えください。』とお願いした。
正法蔵はまた、
『三蔵法師よ、そなたは何年かかってここまで辿りついたか?』と尋ねられた。『三年でございます。』と答えると、まさに夢の時期と合致している。正法蔵は種々教え諭して三蔵法師を歓喜させ、もって師弟の情を述べ、三蔵法師は話しが終わってから退出した。

328a hope:2012/04/03(火) 08:03:15 ID:kcv2QXTk

人生読本 谷口雅春先生著

思うとおりになる世界


私達は思う通りの人間になり、思う通りの運を招(よ)ぶことができるのであります。
運が悪いという人は、みな自分の思いが悪いのです。
だから私達は善い事ばかり思うようにしましょうね。
そして自分は立派な「神の子」だと常(いつ)も思うようにしましょうね。

私達みんなの心の中には、「みおや神様」のお力がいつも一杯に満ちていて、
自分の思うとおりのものを造ってくださるのです。
ですから、あなたがいつも「自分は神の子だ、神の子はなんでも都合よくできる」
「神の子は素直だ」「神の子には病気が無い」「神の子はいつもしあわせである」
などと善いことばかり思うようにしておれば、神様がそのとおりにしてくださるのです。
嬉しいことではありませんか。

「わたしは神の子だから、神の子らしくなるのだ」とただ思っているだけで、
本当に神の子らしくなって、あなたのお顔まで明るい立派なお顔に変わり、
成績もよくなり、身体(からだ)も達者になってくるのです。
それが、人間は「神の子」「仏の子」である証拠なのです。
善き思いをすれば、いくらでも善きことが出て来るのです。仲よくすれば、
神様、仏様の姿が私達の心の中(うち)に、健康の中に、運がよくなることの中に、顕れられるのです。

どうぞ皆さん、私達はこれから、みな善い事ばかり思うようにして、
皆仲よくして「神様」がお造りになったとおりの楽しい世界に私達のお家を造りましょうね。
あなたが、「私は神の子である」としっかり思い、また他の人も各自に「私は神の子である」としっかり思い、
互いに敬って相手の悪口を言わず、互いに仲よくするだけで、私達の住む家が、住む世界が美しく変わってくるのです。
あなたのお宅(うち)でも、お父様お母様がご機嫌よくしてあなたを可愛がってくださる時には極楽のようでしょう。
お父様がご機嫌が悪くて叱られた時には地獄のようでしょう。

私達は、みんな自分たちの心が変ってくるだけで、こんなふうにこの世は変わってくるのです。
自分が「神の子」であるということが、はっきりわかった人の言葉は、しっかりしてきます。
また、その人の考えは正しく間違はないのです。
そうしてその人の行いは美しくなり、その人の心はいつも勇(いさ)んでいるのです。
顔はいつもにこやかで、その言葉つきは晴れ晴れしてきます。
ですから、その人と話す人はみな喜ばされ、その人の言葉を聞く人はみな力強く思い、
その人は誰にでも頼られる人になるのです。

(第7章「生命の生かし方」終り、次回より第8章「自分の生かし方」へ)

329ハマナス:2012/04/03(火) 12:36:11 ID:u5mC.eb2

神の子のみなさま
 こんにちは。今日も皆さまにとって、素晴らしい一日でありますように。

人生誕生の輝かしい使命   (『新版 生活の智慧365章』P.118)

「生命の進化と云う事は、個生命の発現によってのみ可能なのである。宇宙大生命が
如何に荘厳に宇宙に充ち満ちていようとも、若し「個生命」が発現しなかったなら、
何処にも進化ということは得られないのである。この事はいみじくも、神には個生命
必要だということをあらわしているのである。まことに神には人間という自意識を
もった個生命が必要であり、それによってのみ「本当の自由」を体験し得給うのである。

 若し人間が宇宙に誕生しなかったならば、どんなに日月星辰(じつげつせいしん)が
宇宙を荘厳に運行しようとも、草木鳥獣が美しき姿をあらわそうとも、それは単に
機械的に運行しているか、本能によって、自由なしに、美しさをあらわしているに
過ぎないのである。宇宙に人間が誕生した事によってのみ、神は神御自身が人間と
現れて、意識的な自由を体験し得給うのである。人間の使命の偉大なることは
これによっても明らかである。神は人間なくして生長も進歩も自由も体験することが
できないのである。」

感謝合掌

330「訊け」管理人:2012/04/03(火) 18:25:01 ID:???

弊ブログより
http://blog.livedoor.jp/con5151/archives/65616219.html#more

――――――――――――――――――――――――――――――――
 「総裁を追い出す方策」あります。下記は聖典準拠の「追放策」とな
りましょうか。そして下記以外の聖典準拠の追放策ですが、少なくとも
愚生蔵書90冊内には、存在しないものと診ます。
 さて、総裁追放に向けてやるべきこととは何なのか?「悪あり」「そ
れを除去すべし」の考え方は果たして、機能するのか?

(註:なおこの「追放策」なる言葉、やや方便的に表現されております。
愚生意見とやや趣きが異なります)
――――――――――――――――――――――――――――――――

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                                             .  :  . . .
<「迷い」はどうしたら消えるのか>

 心の「迷い」を無くするには、「迷い」を捉えて破壊しようと力む事は要
らないのである。それは却って自分の心が「迷い」を掴むことになって益々
大いに「迷う」ばかりである。「迷い」を無くする唯一の道は、心を「迷い」
から一転せしめて、「人間」の本来完全なる相を見詰めるようにすれば好い
のである。自分の病気を癒すには、自分の病気を見詰めないで、自分の実相
の完全さを見詰めれば好いのであるし、他の病気を治すには、彼の病気を治
そうとか、病気をどうしようとか思わないで、ただ彼の完全さを見詰めれば
好いのである。全世界の人々が、ただ、他の善のみを見詰めるようにすれば
忽ち平和は来るのである。

 〝自分が〟祈る力や、自分の思念力によって不幸や病気を退散せしめよう
などと思ってはならないのである。われわれが善き言葉で祈り、善き想いを
想念したならば、あとは神が成就したまうのであると知らなければならない
のである。それは種を蒔くのと同じことである。善き言葉又は善き想念を述
べることは、大宇宙の創化力の沃地に、善き種子を蒔くことになるのである。
その種子を育て生長せしめたまい実を結ばしめ給う力は神にあるのである。
吾々は自分の力で、蒔いた種子から茎や葉を引張り出そうなどと考えてはな
らないのである。「吾れはただ善き想念の種子を蒔く、これを育てたまうの
は神の力である」と念じて、静かに神に全托せよ。


『幸福を招く365章』186項より謹写

331SAKURA:2012/04/04(水) 00:35:47 ID:FEa/NNlc
皆様 へ

■「生命の実相…」より

−−−−−【自己内在の光】−−−−−
生長の家の光明書籍類は諸君自身の内に宿る力を指示するために
執筆されるのである。
他に依頼する心を持つ者は躓くであろうが、自己の内に埋積されたる宝庫の方へ
幸いに振り向く人は救われるであろう。
救いの力は諸君自身の内にあるばかりであって、
わたしはその在り所を指示するだけである。われわれの光明思想に諸君の心が転向
した結果病気が治るというのも諸君自身がそういう思想になった結果であって
わたしはただ指さすのみである。
文章の力による指さし方が親切丁寧を極めているので、文章の力が
病気を治したともいいうるが、くわしく言えば文章の力は、よく諸君の心を
振り向けただけである。そこに自己内在の光を見、
そこに自己内在の無限の力を見出すのは諸君自身の力であって
わたしの力ではないのである。光栄は諸君自身の「内」にこそ
帰せられるべきものであって、わたしはただラッパであり、指南車である。
指を月とまちがえわたしの書いた符号を本物と取り違える者は
実相を見ることができないであろう。
わたしはただ諸君を振り向かすために、文章で叫ぶだけにすぎないのである。
わたしという人間を尊敬せずに真理こそ尊敬せられたいと思う。次に掲ぐるは、
光明思想の講習会に参加した講習生がその席で衆人環視の中で起ち上がって
話した体験談であって、速記者は超中根式速記の名手倉橋公宣君である。
                              (一部抜粋…)

 
                                再合掌

332a hope:2012/04/04(水) 10:19:24 ID:kcv2QXTk

人生読本 谷口雅春先生著

第八章 自分の生かし方

自分に深切にせよ


皆さんは「他に深切にせよ」という言葉を、聞きあきるほどきいたことでありましょう。
しかし吾々の教えではまず「自分に深切にせよ」と教えるのです。

もし「自分に深切にせよ」と教えて下さった先生が多かったならば、
自分を殺す戦争など起こさなかったでしょう。

他に深切にすることなら、どうすればよいのか判るが、
「自分に深切にする」のはどうしたら好いか判らないとおっしゃる方があるかもしれません。

それではここに「自分に深切にする」そのやり方を考えてみましょう。

(つづく)

333下流のしんと:2012/04/04(水) 10:57:20 ID:NS7./ufw
>330
訊けさんの内容、いいとこまで来ているんだけど、、、後一歩。

もう少し内容をツメラレルよ。現象なしのものすごいバーージョン!がありまっせ。つーか、自分が今、感動中の感動の本紹介になるけど。
どこで書くかな==?? どこかいいとこある??

334ハマナス:2012/04/04(水) 21:30:43 ID:u5mC.eb2

神の子のみなさま
こんばんは。
昨日は全国的に強風でたいへんでしたが、今日は穏やかな一日となりました。

    困難にいどむ  (『新版 生活の智慧365章』P.119)

 「人間の自由は、彼が環境や境遇の奴隷でなくなったときにのみ得られるのである。
環境がどうだから出来ないとか、こんな境遇では迚(とて)も思うようにならないとか
云うのでは、環境や境遇の奴隷であって、自由の主体である“神の子”の自覚を得た
ものということができないのである。もっと神想観をして絶対者との一体感を深めなさい。
全ての環境・境遇は、その人が或る能力を発現さすための運動用具のようなものである。
木馬や鉄棒(かなぼう)や平均台や吊環などはいずれも運動の選手がその網力を発現
さすために是非無くてはならない環境又は境遇であるのである。運動の選手はみずから
そのような環境・境遇の条件をもとめて、それを克服し、自由に肉体の運動美を発揮
するための用具とするのである。そのとき運動選手は主人公であり、自由の主体である。

 ところが学校の体操の時間に学生みずからはそんな運動をやりたくないのに課せられて、
嫌々ながら、木馬の練習や鉄棒の練習をやらせられたとしたならば、学生は強制された
のであり、自由を奪われた訳である。同じ木馬や鉄棒で運動しながら前者は主人公であり、
後者は自由を奪われた奴隷である。その相違はどうして生ずるか。人生の勝者となるものは
受動を飜(ひるがえ)して、能動をすることにあるのである。常に受動である者は奴隷で
あり敗者であるが、能動的にみずから進んで困難にいどむ者は常に勝者であり、主人公で
あるのである。」

感謝合掌

335a hope:2012/04/05(木) 10:17:55 ID:kcv2QXTk

人生読本 谷口雅春先生著

腹を立てるのは自分に不親切

「自分に深切にする」とは、もっと十分自分のことを考えてやることです。
たいていの人は、いい加減不深切に自分自身を扱っているのです。

たとえば、腹を立てれば自分自身が気持ちが悪くなります。
自分自身を気持ち悪くさせることは、自分に深切な扱いとは言えないでしょう。

誰に対してでも好い気持ちにしてあげるのが、その人に深切なのです。
そしたら、自分自身もよい気持にしてあげるのが、自分自身に深切なのです。

それだのに、腹を立てるのは自分自身を悪い気持ちにしているのだから、
自分自身を不深切に扱っているということになるのです。

(つづく)

336ハマナス:2012/04/05(木) 14:35:53 ID:u5mC.eb2
神の子のみなさま
 こんにちは。

    良心の自己処罰   (『新版 生活の智慧365章』P.120より)

「吾々が進んで他の対して善を為し、愛を行じ、人を救い、人を悟りに導くとき
その人は主人公であり、その行動は“自由”の発露であり、“自由”の発露であるから
喜びを感ずることができるのである。そしてあなたが施した善は必ず自分に還ってくる
のである。
 
MRAの信条の第一に「絶対正直」ということがあるが、吾々は他を欺(あざむ)けば、
それは必ず自分に返って来るのである。欺きが自分に返って来るならば、他を欺く
ことその事が自己を欺きつつあるのである。吾々の潜在意識は一種のテープレコーダーで
あって、他を欺いて、顔を拭って涼しい顔を装っていても自分は常に自己の内で鳴り
響いているので、他からその類似のものを引き寄せて自己がまた欺かれることになる
のである。
嘘発見機がその人の嘘をグラフに捉え得るように人間は他を欺いても自己を欺き得ず
良心が常に自己を審(さば)いていて自己処罰して自己を不幸に陥れるのである。」

感謝合掌

337ハマナス:2012/04/06(金) 06:24:57 ID:u5mC.eb2

神の子のみなさま

おはようございます。
週末出かけますので、その間、聖典引用はお休みいたします。
今日も皆さまにとって、素晴らしい一日でありますように。

念(おも)った通りになる   (『新版 生活の智慧365章』P.121より)

 「彼を悪人と審いたとき、自分が悪人となっているのである。少なくとも其の審く人の
心は地獄の鬼と化しているのである。雇主は雇人をよく働く人にも、懶(なま)ける人
にも、嘘告(うそつき)にも、正直な人にも、自分の想う形にすることができるのである。
催眠術家が相手に対(むか)って「汝は眠くなる」と念ずれば、相手が眠ってしまうように、
雇主は雇人にたいして「お前は蔭日向なしに克(よ)く働く」と念ずれば、その雇人
は本当に蔭日向なく忠実に主人のために働くのである。「どうせ自分が見張りをして居ないと、
こいつは懶(なま)けて仕方がない」と主人公が念ずると、その通り雇人は懶けるようになる。

 親が子供に対するのも同じことである。「うちの子は中々勉強しないから、勉強するように
見張っていなければならない」と母親が子供のことを思い詰めていると、見張っていても中々
その子供は勉強しないし、「うちの子供は神の子だからほっておいてもよく勉強する」と
母親が念じていると本当に子供は放っておいてもよく勉強するのである。
心は通ずるものである。「思う通りにならぬ」場合があるのは「表面の心」は兎も角、
潜在意識の中に「思う通りにならぬ」という念(こころ)が鳴り響いていてその通りに
なっているのである。」

感謝合掌

338a hope:2012/04/06(金) 10:33:09 ID:kcv2QXTk

人生読本 谷口雅春先生著

腹を立てれば血に毒素ができる


アメリカに、ハーバード大学という有名な大学があります。
その大学からは心理学といって、心のことを研究する学問の先生で、
立派な学者がたくさん出ました。

その中でも、ウイリアム・ジェイムズ教授とか、
エルマー・ゲーツ博士とかいう人は、世界的に有名な学者です。
そのゲーツ博士の調べたところによりますと、人間は腹を立てたら、
血の中に毒ができることが判りました。
腹を立てると気持ちが悪くなるのは、自分の血の中に毒ができるからです。
日本でも鼠を棒切れで追い廻して、六時間続けて腹をたたさしておく実験で、
その鼠が死んでしまったという話があります。

腹を立てると自分の血の中に毒ができるとしましたら、
腹を立てるのは自分に毒をのませるのと同じことです。
自分に毒を飲ませるのは、まことに自分に不深切なことです。
たいていの人は、この自分に不親切なことを平気でやっているのです。

だから、私は、「もっと自分に深切になれ」と申すのです。

(つづく)

339SAKURA:2012/04/06(金) 17:43:20 ID:.xavN.NY

トキ様 へ
観覧者の皆様 へ

■【幸福を招く365章】 
―――精神の進歩も他の進歩も同じこと―――

進歩と云うものは最初は極めて徐々に、やがて大きく伸びるようになるものです。
これは植物の苗の生長と同じことであります。
魂の進歩や、精神統一力の進歩も、最初は遅々として、中々伸びないように思われて、
兎もすれば倦怠の念を起してくるようですが、其処を乗り切らなければ物になりません。
其処を乗り切ったとき、其の後は実に大きく急速に伸びて来るようになるのであります。
すべての力はそれを正しく法則に随って使うことによって増大するのです。
法則を無視して無茶に使っては却って力は消耗します。の稽古にしても、
最初は中々上手に弾けませんが、その時期を超えると上達は早くなって来ます。
ピアノの稽古も、ピアノを出鱈目に掻きならしているだけでは何時まで経っても
上達しません。楽譜に随って規律正しく稽古することによって上達するのです。
楽譜に随って規律正しく稽古することによって上達するのです。
神想観の上達も同じことです。
人びとの中には、他にすぐれて鋭敏な感受性を具えた人たちがあります。
往々これらの人たちは神経質と云う名でよばれる人たちであります。
他から来る精神波動に非常に感じ易い性質を持っているのです。中には天候に
従って気分が変わるだけではなく、低気圧が近づくと気象台よりも
早く健康に影響を感ずる人もあります。こう云う神経質の人はその肉体的素質が
繊弱で非常に不利な生れ附きだと思っている人もあるが、神は決して一方的に
不利な性質を与えるものではありません。その鋭敏な感受性を正しき神の啓示の
方向にのみ向けることにするならば、その過敏な感受性は却って其の人の長所と
なるのです。常に次のように念じなさい。
「私は神の子である。私は神の子の権威をもって神の子ならざる低次の精神波動に
対して完全に自己を閉ざすのである。そしていと高き神の啓示に対してのみ鋭敏である。」
                            (谷口雅春著)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ

いつも拝読いただきまして、感謝申し上げます…。
私なりの「解釈論」を「他の掲示板ボード」にて投稿させて頂きたいのですが?
個人的に今!「時間がありませんので…」後程投稿(途中まで)させて頂きます…。

   再合掌

340ルンルン:2012/04/07(土) 03:10:28 ID:vsZYH/3w
こんばんは、ルンルンともうします。
 生活応用 健全の真理 p70 谷口雅春先生著

 神想観は、(欲する事物を心に描いてそれを呼び出す方法」だと思われてるかもしれないが
それ以上のものである。
そんな現象的な効果を予期するようなケチなサモシイ行法ではないのである。
それは、「既にある完全な実相」をただ観ずるだけである。祇感唯感実相(唯ひたすら実相のみを観ずる)
である。既に完全な実相があるのに、それ以上の効果を期待することが、既にあるとの自覚を裏切ることにすらなるのである。

 原文は旧仮名使いです。

341下流のしんと:2012/04/08(日) 23:54:14 ID:WmbFDQVc

>立ち上がれ 気高く舞え 天命(さだめ)を受けた戦士よ

千の覚悟 身にまとい 君よ 雄々しく 羽ばたけ



闇の時代を告げる 鐘が遠く鳴り響く

戦う友よ 今 君は 死も恐れず

瓦礫の街を染めて 沈む夕日は紅

愛する地球(ほし)の未来を守るため

おお 神の刃は 人類(ひと)の愛

祈りを 込めて つらめけ

立ち上がれ 気高く舞え 天命(さだめ)を受けた戦士よ

明日の平和への 礎となれ

熱くなれ 大きく咲れ 天に捧げし命よ

弱き者の盾となれ そして 世界を 導け



きらめく星の海に 浮かぶ おまえの面影

二度と逢えない愛ゆえに なお いとしい

背中合わせの世界 重ね合えない現実

涙とともに捨て去れ なにもかも

さぁ 振り返らずに 風になれ

痛みを越えて 駆け出せ!!

立ち上がれ 気高く舞え 天命(さだめ)を受けた戦士よ

たとえ傷ついて 力尽きても

赤く燃え 見事に散って 星になった命よ

時を越え その名前を 胸に刻もう Just Forever



立ち上がれ 気高く舞え 天命(さだめ)を受けた戦士よ

たとえ傷ついて 力尽きても

熱くなれ 大きく咲れ 天に捧げし命よ

明日の平和への 礎となれ

赤く燃え 見事に散って 星になった命よ

時を越え その名前を 胸に刻もう Just Forever

342a hope:2012/04/09(月) 08:34:58 ID:kcv2QXTk

人生読本 谷口雅春先生著

他が悪い時、善い人が毒を飲むな


「そんなことを言っても、あいつが悪いから腹が立ってしかたがない」と言う人があります。
あいつが悪いのなら、その悪いやつが自分で腹立てて、
自分の身体の血の中に毒をこしらえていればよいのです。
それだのに、悪くない者が腹を立てて、毒を自分の血の中にこしらえるのは間違っています。

ですから、これから自分が善いと思ったら、自分の血の中に毒をこしらえないことです。
腹を立てないようにすることです。そして自分が悪いと思ったときこそ、
うんと自分自身に腹を立てて、自分の血の中に毒をつくってやることです。

それを逆さまに、普通の人は「他人が悪い、自分が善い」と思っているときに腹をたてて、
自分の血の中に毒を飲ましているのですから、間違っています。
これからはそんなばかなことはいたしますまい。これからは決して腹を立てたりいたしますまい。

(つづく)

344a hope:2012/04/10(火) 08:11:25 ID:kcv2QXTk

人生読本 谷口雅春先生著

時間を大切にせよ


他(ひと)に深切にする心掛は、たいへん結構なことです。
しかし、自分に深切にすることは、また大変善いことだということを
多くの人は忘れています。
だから、腹を立てて自分の身体(からだ)に毒を飲ませたり、
なまけて、自分に与えられたせっかくの時間を、
何にも使わないで捨ててしまったり、自分に損をかけて平気でいたりするのです。

人間に何が一番大切だと言っても、自分に深切をつくすことほど大切なことはありません。
自分に深切をつくすというのは、自分の生命を無駄に捨てないことです。
お金を道ばたへ無駄に捨てる人はめったにありませんが、
自分の生命を無駄に捨てる人はたくさんあります。

自分の命を捨てる人はたくさんあると申し上げても、世の中には
そんなに自殺をしている人はないと思いになるかもしれません。
しかしあなたが百歳になるまで生きるとしましても、一時間無駄にすごしたら、
あなたの命はもう一時間だけ無駄に捨てたのです。

たいていの人は夜になったら何もせずに寝てしまいます。
一生の半分は人間は寝てしまうのです。
そうすると百歳になるまで生きましても、半分は何もしないのですから、
五十年しか生きないのと同じことです。

ところが、その五十年のうちで私達は朝昼夜の御飯時(どき)に、
早い人で三十分ずつ、遅い人で一時間ずつぐらいはかかります。
それで一日ニ時間や三時間は無駄になるのです。
用を達(た)したり、お風呂へ入ったりしていると、
一日のうちの五時間は、そのために無くなります。
そうしたら、私達は一日二十四時間のうち、七、八時間しか
勉強とか仕事とかはできないのです。
言いかえると、一日のうちの四分の一しか自分の生命を働かせ、
自分の値打ちを出すことができないのです。
すると一日のうちの四分の三の時間は、無駄に捨てたと同じなのです。

皆さん、無駄に捨てた時間は決して還って来ません。
一日のうちの四分の三の時間を無駄に捨てていたら、
百歳まで長生きしても七十五年間は無駄に捨てたので、
ただニ十五年間しか生きたことになりません。
それは百歳まで長生きしても、二十五歳で若死にしたのと同じことです。

私達の生命は「時間」でできているのですから、ぼんやりしている間に、
生命は減って行きつつあるのです。こんなつまらないことはありません。

一分間でもぼんやりしないで、何かこの世のためになることをいたしましょう。
会社のためになることをいたしましょう。
父さま母さまに喜ばれることをいたしましょう。

何か自分の力のつく勉強をしましょう。

(つづく)

345ハマナス:2012/04/10(火) 08:49:53 ID:u5mC.eb2

神の子もみなさま
 おはようございます。お久しぶりです。
日本中が桜の色、一色に染まっています。
今日も皆様にとって人生の最良の日でありますように。

   すべての人間は「王」である  (『新版 生活の智慧365章』P.124)

 自己に宿る絶対者、自己に宿る超越者、自己の宿る普遍者、自己に宿る無限者、
有限の内に宿る無限なる者、相対者の如くあらわれている絶対者、現象のあらわれて
いる奥にある超越者、今このままに久遠なる者、有限即無限、個性即普遍――それが
私であり、あなたであり、一切の人々である。それを自覚するとき相互礼拝が自然に
行われるようになるのである。

 自己を単に物質的存在たる肉体だと観る限りに於て、人間は「制約」から超越する
ことはできない。即ち自由を完全に享受することができないのである。その制約から
超越して自由を得るためには、「真理は汝を自由ならしめん」とイエスが言ったように、
真理を知らなければならないのである。「真理とは何ぞや」とピラトがイエスに訊いたとき、
イエスは黙然として答えなかったが、ピラトが再び「汝は王なるか」と訊いたときに、
イエスは、「汝が言えるが如し」と答えているのである。王とは「神聖にして犯すべか
ざる絶対者だ」と云う意味である。すべての人間は法制上では王ではないけれども、宗教的
意味に於ては王であり、絶対の自由者であるのである。これが真理なのである。この真理を
知るとき何人も本当の自由を得るのである。

感謝合掌

346ももんが:2012/04/10(火) 08:57:30 ID:XXCuaQns
>>345
ハマナス様

ハマナス様、おはようございます。感謝、合掌、拝。

ハマナス様の、いつも、素晴らしい、御言葉、尊敬の一句です。

今日も、心に残りました。いつも、素晴らしい、行いを、尊敬してます。真に、ありがとうございます。

感謝、合掌、拝。

347ハマナス:2012/04/10(火) 09:14:46 ID:u5mC.eb2

ももんが様
 
おはようございます。早速、あたたかいレスをありがとうございます。

今日も、お仕事頑張って下さい。お祈りしています。

感謝合掌

348ぼるぼ:2012/04/10(火) 19:18:48 ID:iV0JULqA
「わたし」はあなたを支配している。あなたの行動を支配し、あなたの生理作用を支配している。

しかしそれは「無我の愛」によって支配しているのである。あなたが自分の心を素直に開いて、自由意思によって「わたし」の支配を受け容れるならば、あなたの行動は宇宙に調和し、環境に調和し、あなたの生活は誠に順潮に棹さすように行われる。

またその生理作用も健全円滑に行われるであろう。しかし、「わたし」の愛は「無我の愛」であるから、「わたし」はあなた達に自分の知恵を強制しようとは欲しないのである。それ故に、あなた達は時々自分の考えによって、「わたし」の知恵と異なる行動をとることがある。食欲や性欲も自分勝手に気儘な行動に身をゆだねることがある。

けれども、「わたし」は「無我の愛」であるから、あなた達を罰しようとは思わない、また罰したこともない。

しかし「わたし」の知恵は偏りのない普遍に調和した知恵であるから、「わたし」の知恵に従っておれば、すべてに調和した生活が出来るであろうが、あなた達の知恵は個別的で、分断された知恵であるから、その知恵は全相に達しない。

それ故に、どこかに衝突が起こり、摩擦が生じ、行き詰まりが生ずる。それは自分の知恵が勝手な傍道を歩かした為に、自分自身で、行き詰まる道を歩いた結果であって、決して「わたし」があなた達を罰した訳ではない。道なき道を勝手に進めば自分で行き詰るのは当然である。

谷口雅春著「神 真理を告げ給う」26P

349ぼるぼ:2012/04/10(火) 20:43:04 ID:iV0JULqA
>>348

「本当の教祖」と言うべき「真理の掲示者」は「実相世界」にある「神」のみなのである。

谷口雅春も、「自分は教祖ではない。実相世界に生長の家の本部はある」と言っているのである。

同著、13P

350ぼるぼ:2012/04/10(火) 20:50:07 ID:iV0JULqA
>>349

「真理の掲示者」 誤

「真理の啓示者」 正

351金木犀:2012/04/11(水) 04:52:55 ID:oWXOwFKk
むかしの神誌の記事から抜き出しました。

矛盾の解決
     谷口清超先生、  『生長の家』誌、昭和58年

スリの集合
あるお花の稽古に行っていた家内が帰ってから、こんな話をしてくれた。ここに「稽古に行った」というのは、「教えに行った」のではなく、まさに「習いに行った」のである。すると仲間の生徒さん、といってもそんなに若くはないと思う、が言うのに、近所の奥さんが二人で三越のバーゲンセールに出かけたそうだ。その頃三越は、岡田前社長の背任問題や、竹久みちさんの“特別背任”事件などで新聞に大袈裟に書きたてられていた頃で、そのイメージアップのために「310周年記念大感謝祭」というのを行った。日本橋三越だけでも初日に三十万人がつめかけ、約十億円の売上があったというから、スキャンダルを逆手にとったこのやり方は、一応成功だったと言えるだろう。
ところで話はお花の生徒さんに戻って、二人で出かけた奥さん連中が、夢中になって買いあさっているうち、二人ともあり金をスリにすられてしまったというのである。聞いてみると「日本中の女スリがあの日集まった」という噂だったという。それを聞いて家内は、「それじゃ予め警察官が三越に張り込んでいたら、一遍につかまったのにね」と言って、皆で笑ったと話していた。しかしいくら日本の警察が優秀だといっても、そこまでは手が回りかねたらしいのである。
人は「商売」となると熱心なもので、スリでも泥棒でも、本職はかなりの努力をして辛抱強くチャンスをうかがうものらしい。もしその努力をまともな商売に振り向けたら、どんなにすばらしいことになるかと、いつも私は思うのである。偽金作りにしても、あれだけ技術を持ちながら、どうして本物の印刷業務に専念しないのか? 竹久さんでも「不法利益十六億円を越す」などと読売新聞に書かれたが、もし事実なら、どうしてそんなことまでしてお金をため込む必要があるのか不思議だ。何れにしても「悪銭身につかず」であることは、厳然たる事実である。

バッグの中味
ところでこの世の中には「心の法則」というのがある。心で強く思うことが実現するという原則だが、これは単に「こうありたい」と願うことや希望が実現するというのではない。だからいくら「金儲けがしたい」と思っても、中々そううまくは行かないし、「損をすまい」と思っても損することにはなる。がここに言う「思うこと」とは、「心に強く念ずること、思うこと、信ずること」などであって、要するに心に強く印象づけられた内容が実現するという通則である。
だからあることをひどく恐怖して、いつもそれを心に思い描いていても、却ってそれが実現するのである。悪事の露顕を恐れたり、病気や事故や怪我を恐れても、それだけでは不幸をを防止することにならぬのは、その恐怖が心の中の強い想念となり、却って実現力を持つからである。江国滋さんという随筆家の書いた『旅はプリズム』という本には外国のおもしろい話が色々出てくる。主にヨーロッパ旅行の話だが、あちらは中々泥棒さんが多いらしく、ことにイタリーは世界的に有名な所だ。
江国さんは先ず東独を旅行して、その記事を日本に送る約束をしたらしい。だから原稿を後生大事に持ってローマ入りをした。というのは東独では郵便が不確実で、日本に着くのに四週間はかかる。おまけに確実でないことが確実だというので、ローマに入って、バチカンの郵便局が一番確実で速いという話を聞いて、先ずそこに行った。がしかしまだ沢山残りの取材資料をかかえ、それらをカメラバッグにつめ込み、後生大事にかかえて車に乗り、
「盗られては一大事」
と、そればかり用心していた。というのはローマに来る前も又来てからも、散々イタリーの泥棒さんの凄まじさを聞かされていたからである。彼らは自動車どころか、アメリカの軍艦まで盗ったというのだ。車を盗られた人が仕方なく新車を買いかえると、その日又々その新車を盗られたなどと聞かされ、用心に用心を重ねたのであった。江国さんはローマでは知人のNさんにキャンピングカーで案内してもらい、その広い車内の運転席と助手席の間に大事なバッグを置いて、常に目に触れるようにしてローマの街を走ったのである。

352金木犀:2012/04/11(水) 05:01:52 ID:oWXOwFKk
矛盾の解決(2)
     谷口清超先生、  『生長の家』誌、昭和58年

心の法則

こんなに用心していたら、どんな大泥棒でもこの鞄は盗れない筈だ。そう思ってしばらく行くと、急に車がガタガタし出した。Nさんが「おかしいな、パンクしたらしい」と言いつつ、道路の片隅に駐車し、車から降りてみるとやはりパンクであった。
「ちょっとタイヤをとり換えます、しばらく待っていて下さい」
と言って修理を始めた。江国さんも助手席でじっとしている訳にも行かず、
「手伝いましょうか」
と車を降り、のぞき込んだ。「いや、大丈夫、慣れていますから……」そんな訳で間もなくタイヤの交換が終わり、二人とも車内に入った。すぐ出発したが、鞄が見当たらないのだ。どこを探してもない。結局二人が車外に降りたわずかの隙に、泥棒さんに見事してやられたということが分かったのである。

「そういえばずっと変な車が後をつけて来ていたが……」
明らかに江国さんの鞄は狙われていたのだ。何故か?あまりにも大事にしすぎて、

「盗られはしまいか」と、肌身離さず持っていたから、泥ちゃんは余程金目なものが入っていると勘違いし、何としてもそれを盗るべく後をつけた。辛抱強くチャンスをうかがい、パンクの小細工までして、ついに目的を達したという訳である。あとで調べてみると、タイヤは仕掛けられた刃物で切られたようになっていたという。

どうしてこんなことになるのかというと、やはり「心のなかに強く描いたことが実現した」という他ないであろう。それは希望しないことであっても、恐怖することは実現する。だから人はいくら失敗を恐怖しても失敗するし、病気を恐れても、又事故を恐れても、そんなことは駄目なのだ。勿論戦争を恐怖するだけでは駄目だし、原爆水爆に反対して、広場に寝転がっていくら「死んだ真似」をしても駄目だ。いや、むしろあんなことをすればするほど、「水爆で死ぬ」ことを強く心に描き、且つ実演までするのであるから、水爆戦を誘発する一つの力になるだけである。

これはごく簡単な「心の法則」を理解するかしないかの問題だ。人はいくら善意出会っても、智慧が足らず、法則を理解せず、それを逆用していると、その結果大失敗する。だから釈尊も「悟りに到る第一は知ることである」と教えられたのである。法則を知り、真実を知ることが何よりも肝腎で、失敗を恐怖したり憎んだりするより、積極的な「成功」を心に描き、「健康」や「幸福」を強く思うようにしなければならないのである。

353金木犀:2012/04/11(水) 05:03:01 ID:oWXOwFKk
矛盾の解決(3)
     谷口清超先生、  『生長の家』誌、昭和58年

悪はナイ
つまり不幸や悪や盗難を恐れるより、積極的な善いことや健康や幸福や繁栄を心に強く描かなければならないということである。この簡単な法則を正しく理解しないために、多くの人々は折角の人生を台無しにしている。闇を消すには光をもって来なければならない。光とは善であり、そして又健康である。人はとかく一旦不幸になると、光を描き見る事を忘れ、いたずらに悪や病気や失敗を恐怖する。がしかしそれでは何一つよいものは現れて来ないのである。

例えばもし今ひどい病気に罹った人がいるとしよう。すると彼は「健康」を心に描かなければならないのに、とかく「死」や「衰弱」を恐怖する。すると恐怖すればするほど、「死」や「衰弱」は近づいて来る。心に強く描くものがあらわれ来るという法則があるからだ。その逆をやらなければならないのに、それをする力が出て来ないのである。一体何故だろう?それは人々が「悪はナイ、善のみアル」ということを知らないからである。つまり「神」があることを知らず、「神」が善のみを創り給うたことを信じていないからである。

そもそも神を信ずるということは、この世の現象を見て、それに引っかかって祈ることではない。確かにこの世には病人もいるし、泥棒も詐欺師もいるだろう。戦争も起こるし、死人も出る。しかしこれらは全て“現象”であり、“影”であって、「実在」ではないのである。「実在」は完全なのだ。これが分かるか分からないかが、人生の別れ道だと言う事が出来る。真に繁栄し、幸福となり、生死を超越するか、それとも物欲や名誉欲に囚われ他一生を送るか否かの岐路が、ここにあることを知らなければならない。

長崎県の佐世保市南風崎町に宮田一郎さんという人が住んでおられ、永年生長の家の幹部として活躍しておられるが、昭和五十六年八月の出来事だった。その年は九月に私の講習会が佐世保で行われることになっていて、宮田さんは相愛会の連合会長として大変忙しく大会の準備などしておられた。さて宮田さんには息子さんが一人いて、三重県の電電公社鈴鹿学園に勤務して、その奥さんは雅子さんといい、お里が福岡で、当時二十八歳になっていた。

ところが雅子さんはどうも頭の調子が悪いというので、その年の八月福岡に帰って来て、九州大学の付属病院に行って検査を受けた。すると詳しい検査の結果頭の中に大人の拳大の脳腫瘍が出来ていて、このままでは今年一杯いのちがもたないと診断されたのである。宮田さんにとっては一大ショックだ。まだ若い息子の嫁が、難病にとりつかれた。おまけに一ヶ月後に講習会がある。平素「悪はない、善のみある」と教えられ、又人にもそう伝えているのに、現実には難問題が出てきて解決を迫っている。だがここで現象に引っかかって、その悪を「ある」と見たり、「絶体絶命」などと考えてはいけない。陰極は必ず陽転するのだ。自分自身にい言いきかせた。宮田さんは日夜講習会の準備に教区内を東奔西走する、その重大な時期に、多くの時間を嫁さんのためにさくわけにはいかない。がしかし病人の見舞いもしないといけない。本人も実家の人も、「死にはしないか」と思って非常に心配しているのは明らかだ。
「何とかしなければならない……」
と切実に思った。

354なせば成る我ハ神の子:2012/04/11(水) 07:11:35 ID:OfrX..6o
おはようございます。

金木犀さん、PCの調子は絶好調、技術も絶好調じゃぁないですか?
私だったらこの作業でしたら1時間はかかりますよ。ファイルから出すののでしたら、手間取りで10分かなぁ??

カッコイイ!! じゃぁないですか! WEB誌友会はモタモタ、ドタドタです。。えへへ・・・。
これからも、よろしくお願いします。

355ハマナス:2012/04/11(水) 09:34:18 ID:u5mC.eb2

神の子のみなさま
 おはようございます。

神の宝はあなたに譲渡済みである。 (『新版 生活の智慧365章』P.125より)

「吾々の幸福は決して、自己以外の外界の存在によって規制せられたり、支配せられ
たりするものではないのである。自己の許さない不幸も悪も吾らに入り来ることは
できないのである。神は常にあなたと偕にあり、神の持ち給えるあらゆる善きもの、
美しきもの裕(ゆた)かなるもの、好ましきものは、悉くあなたに譲られているのである。
神の登記所に於ては、既に神の有ち給えるあらゆる“善きもの”の、あなたへの譲渡
手続きが完了しているのである。譲渡手続きが完了していても、それを譲り受ける者が、
譲り渡されたことを自覚しなかったら、それは現実にならないのである。

 多くの人は、自分が神の子であり、神の有(も)ちたまえる凡(あら)ゆる
“善きもの”が譲り渡されて、既に“自己のもの”となっていることを知らないから、
それを利用することができないのである。その譲渡が既に完了していることを悟らせる
聖業をするのが生長の家の信徒の使命であり仕事である。併し譲渡が完了していることを
知らされても、実際に譲渡されたものを生活に応用しない限り、名儀だけのことであって、
何の役にも立たないのである。」


この大事な時に、私たち信徒一人一人が、「自分が神の子であり、神の有ちたまえる凡ゆる
“善きもの”が譲り渡され済み」であることを再認識し、実際に生かすことが問われていると
思います。

争い合うのではなく、お互いに神の子として、拝むことが生長の家の信徒の使命であり仕事
であると、雅春先生は仰っておられます。
“神の子”の教えを説くのが生長の家の意義ではないのでしょうか。

感謝合掌


356a hope:2012/04/11(水) 09:48:23 ID:kcv2QXTk

人生読本 谷口雅春先生著

強情は、自分に不深切


素直に「はい」と言えない心を強情と言い、
その強情がひどく突っ張っている人を、強情っぱりと言います。

強情っぱりはやさしくないから、誰からでも憎まれたり、
嫌がられたりするものです。

自分が人から憎まれたり嫌がられたりするようなことをするのは、
自分に対して親切だとは言えません。

神様、仏様だって、強情っぱりはかまってくださいません。
本当にそれは寂しいことです。損なことです。

自分をそんなに寂しい者にし、
損な者にするのは自分に対して深切だとは言えません。

(つづく)

357金木犀:2012/04/11(水) 10:54:25 ID:y/Po8pPE
矛盾の解決(4)
     谷口清超先生、  『生長の家』誌、昭和58年

連日連夜

そこで先ず宮田さんは頭の病気は先祖に関係があると思いついた。これは心の法則で、心に類似した肉体現象が現れて来るものであるから、先祖のお祀りがよく行われていないのであろうと想像した。よく調べてみると、実家では大事な人の先祖をお祀りしていなかったということも分かったのである。このことを伝えて、宮田さんの家でも雅子さんの実家でも真剣にやり始めた。一方病院側では「一刻も早く手術をしよう」とする。しかし宮田さんは講習会があるので、何とか手術がそのあとにならないものだろうかと思うのである。

雅子さんも救わなければならないし、講習会も疎かにできない。現象的には、正に切羽詰まった状態だが、実相世界では全てが可能であり、何一つ矛盾はない筈だ。そこで宮田さんは昼は終日推進運動に没頭し、夕方になるとその足で佐世保から特急列車に乗って福岡に行き、着くとすぐ病院に直行した。病院に入るとすぐに「招神歌」を唱え、雅子さんの本質が完全で健康そのもので、何一つ不完全はないということを心から祈ったのである。

さらに続いて枕元で『甘露の法雨』を読誦し、持参したテープレコーダーで真理の講話を聞かせ、1日一万遍「有難うございます」を唱えるように、数とり器を持って行って力づけてあげた。そうして彼女は、今までほとんど無関心だった「生長の家」を真剣に実行し、「人間神の子ですばらしいいのちだ」ということを信ずるようになって行った。日が経つにつれて舅の来訪を待ち受けていてくれる様子が在り在りと見える。実の父母にも、
「佐世保のお父さんが来て下さるのが一番うれしい」
と言ったりした。こうなると真理の言葉は吸い取り紙にインキが吸い込まれるように彼女の心に吸収され、偉大な言葉が実現して行くものである

358金木犀:2012/04/11(水) 11:00:00 ID:y/Po8pPE
なせば成る我ハ神の子様

一度で投稿したからといって、
そんな一時間そこらでやったなんてことはありません。
PCは調子の良い時も悪い時もありますが、キーボードがどうも変なのは確実で、
これは息子に試してもらっても、変だといってましたから。
まあそのキーボードの変な癖に、使っているうちに慣れたということもあるようです。

359金木犀:2012/04/11(水) 11:01:53 ID:y/Po8pPE
矛盾の解決(5)
     谷口清超先生、  『生長の家』誌、昭和58年

矛盾の克服
しかし乍ら現実はなかなか厳しい。先ず手術日はずっと前から九月十七日と決まっていた。ところが講習会はこれ又九月二十日と決まっている。手術の日とその後には彼女の身辺についていてやりたいが、講習会と重なるからこれでは大変困るのだ。ことに時間が足りない。夜病院に行って、祈ったり『甘露の法雨』を読誦したり、励ましたり、慰めたりしてから帰るとなると、福岡発は夜中の一時頃の夜行列車だ。すると佐世保に着くのが四時半頃である。その列車中で仮眠するだけが、宮田さんの唯一の睡眠時間だった。朝になると又佐世保教区内を講習会の準備に駆け回る。その他の組織との幹部会もある。講習会直前の手術は、誠に具合が悪いのであった。

だから宮田さんの熱烈な祈りの中には、この問題が矛盾なく行われることが折り込まれていた。本来実相世界は何一つ矛盾はない。しかるにそれが三次元空間に現れて来ると、各種の矛盾点が出てくるのである。もう一つの大きな矛盾点は、雅子さんの脳腫瘍が、予想以上に大きく、医学的診断によると視神経を妨げる場所にあるので、腫瘍を切開すると、必ず視神経も切断され、たとえ腫瘍が治っても一生盲目になるという予告であった。もしこんなことになると折角手術して一命をとり止めても、若い身空で一生目が見えなくなる。これはとても可哀そうである。何とかしてこの矛盾も克服したい。それにはただ実相を心から視る、祈る以外に道はないのだ。どういう手立てでこの問題が解決するか、そんなことは全く分からない。ただ「神の創り給うた世界には不可能はない」とう堅い信仰だけが唯一の拠り所であった。

宮田さんは列車の中でも祈り続け、又わずかの暇を見ては祈り続けた。そして最後に全てを神に全託したのである。すると手術日の二日前になって、突然「手術が二十二日に延期された」と通知された。別に病院側にかけ合ったわけでも何でもないが、二十日に講習会が終わった次の次の日であるから、もう何の心配もなくなった。宮田さんには「やはり祈りは叶えられる」という確信が湧いてきた。


最も重要なことは
このように心の中に強く描く思いは実現する。それがたとえ願望することでもしないことでも、強い思いは実現するのであるから、恐怖心によって心を占領せず、神の御心にあるところの明るい想念や信念によって占領しなければならない。それが可能となる根柢は、言うまでもなく「神のみ実在する」という純粋な信仰であり、それについての行である。

とにかくこのようにして講習会と手術日との矛盾は解決したので、宮田さんは力一杯講習会に打ち込み、各組織とも昨年以上の成績を上げることが出来た。さて会が終わるやすぐさま福岡に飛んで行き、雅子さんの手術の準備にとりかかった。がしかし腫瘍と視神経、が重なり合っているという重大な問題がまだ残っている。盲目になっても手術するかどうかと重ねて聞かれても、やはり「お願いします」と言わざるを得なかった。

脳腫瘍の大手術は九時間もかかった。その間宮田さんは奥さんと交代々々で『甘露の法雨』をずっと読誦し続けた。やがて手術が終わり、説明に出て来られた主治医はこう言われた。
「開いてみると、病状が非常に好転していて、大きかった腫瘍が縮小し、うまい具合に視神経からも外れていました。しかも非常によい形をしていて、視神経には何ら異常なく完全に摘出することが出来ました」

以来雅子さんの病状は急速によくなり、その後一ヶ月を経て退院し、さらに一ヶ年経ってからもすっかり健康で、いつ病院に検査に行っても完全治癒ということで、今は明るく楽しい毎日を送るようになられたのである。

この事実を見ても、現象界に起る様々な矛盾や撞着を解消するには、「実相を観る」以外真の解決法はあり得ないと言わざるを得ないのである。これをやらず如何に不幸を恐怖しても、それは不幸を回避する手立てにはならず、如何に戦争を恐怖しても、戦争は消えさるものではない。従ってその反対に多くの人々の心を光明化し、真実の世界が大調和であり、完全円満であることを確信する人々をふやし、愛と感謝と祈りと讃嘆の思いを拡大する「人類光明化運動」を強力に前進させることが、最重要課題であると確信する次第である。

360なせば成る我ハ神の子:2012/04/11(水) 12:48:14 ID:pu1fAvFo
金木犀さま。。

すいません、、どーも。 早とちりで。 志恩さんとの会話を読みました。
私はなんでも、言葉どーーーり受け取るので。。。(笑) もしかして、私、謙遜なども通用しないのかもしれません(恥・・)ご注意ください。。

361うのはな:2012/04/11(水) 22:40:08 ID:El6gIMAw
“ 真の自由”とは何か 感謝一元の世界へ

北条信夫 ありがとうございます。今日は“真の自由について”という題をいただきまして、
 本当に心の底から感謝しております。“真の自由を得たい”ということは、あらゆる人の希望すること
 でありますが、僕も小さい頃から色々と不自由な立場にいたものですから、自由になりたいと思って、色んな宗教、
 哲学の本も読んで努力してきました。その結果として、この生長の家に触れて,“生命の實相”ということを知らさせていただき、
 本当に感激しまして、それから、生長の家のために、この現象の自分は死んで、この真理をあらゆる人に知っていただきたいと思って
 一所懸命、自分なりに努力している次第であります。
 ここで、僕の体験を通して話させていただきます。僕のおじいさんが、小学四年の時に亡くなりまして、その時から僕は家族と別れて、
 おばあちゃんと一緒に生活するようになりました。僕はそれがきっかけとなって、宗教というものに目覚めていったわけです。

つづく

362うのはな:2012/04/11(水) 22:53:21 ID:El6gIMAw
361 つづき

 家のおばあちゃんは、毎朝、毎晩、いかなる日も欠かすことなく、仏様に向って
“南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏”と言って唱えられるわけです。それを
私は小学四年生の時、見ていて、おかしいんですね。まあ、宗教というものはへんなものだという
先入観念がその頃からあったものですから、おばあちゃんに訊いたんです。
「おばあちゃんは何が一番欲しいの?いつも毎日、何を欲しがってお祈りしているの?」と聞きましたら、
「信ちゃんよ、何かが欲しいから、こうして毎日お祈りしているんじゃないんだよ。こうして毎日生かされていることが
ありがたいから、ただ、感謝をしているだけなんだよ。何かを求めてお祈りしてはいけないんだよ」と言われました。

 僕はその時、心の底から「ああ、宗教って素晴らしいものだなあ!」と思ったんです。
それから僕の宗教の見方が変りまして、学校では宗教戦争だ、やれ宗教というものは....と聞いても、それは宗教を説く人がまちがっていたんだ。
宗教というものはそんな悪いものじゃない、宗教は本当にお一人、お一人が本当に幸せになるためにあるんだと、そういう自覚が強くありましたから、
よりいっそう宗教に目覚めて行ったんです。

つづく

363役行者:2012/04/11(水) 22:57:43 ID:K0LOZtMM
 金木犀様
 
 素晴らしい文章の筆写、ありがとうございます。
 
  >>352

>これはごく簡単な「心の法則」を理解するかしないかの問題だ。
人はいくら善意であっても、智慧が足らず、法則を理解せず、それを逆用してい
ると、その結果大失敗する。だから釈尊も「悟りに到る第一は知ることである」
と教えられたのである。法則を知り、真実を知ることが何よりも肝腎で、失敗を
恐怖したり憎んだりするより、積極的な「成功」を心に描き、「健康」や「幸福」
を強く思うようにしなければならないのである。<

 特に、この箇所に共感しました。

 >真実を知ることが何よりも肝腎で、失敗を
恐怖したり憎んだりするより、積極的な「成功」を心に描き、「健康」や「幸福」
を強く思うようにしなければならないのである。<

 
 「言葉」は確かにマイナス(暴走)の視点から観ると、人類を、地球を、また
日本を蝕む源かもしれませんが、プラスの方面から観ると、人類を光明化し、進化向上させる原石であると思い
ます。


>>359


矛盾の克服

> 最も重要なことは
> このように心の中に強く描く思いは実現する。それがたとえ願望すること
でもしないことでも、強い思いは実現するのであるから、恐怖心によって心を占
領せず、神の御心にあるところの明るい想念や信念によって占領しなければなら
ない。それが可能となる根柢は、言うまでもなく「神のみ実在する」という純粋
な信仰であり、それについての行である。<

この文章に口を挟む余地はなかったです。
 

 > この事実を見ても、現象界に起る様々な矛盾や撞着を解消するには、
「実相を観る」以外真の解決法はあり得ないと言わざるを得ないのである。これ
をやらず如何に不幸を恐怖しても、それは不幸を回避する手立てにはならず、如
何に戦争を恐怖しても、戦争は消えさるものではない。従ってその反対に多くの
人々の心を光明化し、真実の世界が大調和であり、完全円満であることを確信す
る人々をふやし、愛と感謝と祈りと讃嘆の思いを拡大する「人類光明化運動」を
強力に前進させることが、最重要課題であると確信する次第である。<


 言葉がいろいろな悲劇をもたらすのも事実ですが、言葉が歓びを運んでくるの
も事実です。いまの私の生活観で思いを述べれば、苦しみがあり、悲しみがあり、
だからこそ、歓びもヒトシオだと思えるのです。

 また、地球規模の大きな見地から眺めると、新しい文明がやってくる足音が聞こえてくるのです。
 つまり、現象的にも、歓びの言葉が闇の言葉を凌駕する日が近づいていると確信しております。きっと、輝かしい未来がやってくると信じてます。
  
      感謝合掌

364うのはな:2012/04/12(木) 00:07:44 ID:El6gIMAw
362 つづき

 そして中学二年頃でした。家の中ではお父さんお母さんが毎晩のように、火が飛ぶように
夫婦喧嘩をやっているんですね。もちろん、家族が病弱だし、貧乏で、あらゆる束縛を受けて生活して
いたわけです。そんな中で“自分は今何するべきか”と心に問うたんです。
世界一の金持ちになるか、名誉ある人になるべきか、と考えました時“人間の本当の幸せというのは、
心が、泥沼に咲く蓮みたいに、心が美しく咲ききることが、人生の本当の悦びではなかろうか”と結論したわけですね。

よし、僕はこれから学校に何しに行くか。今、学校はきたないから、掃除しに行く。
家では色んな面で貧乏しているから、お父さんお母さんを本当に幸せにするために、
学校の勉強も大事だけれどーー朝は五時から新聞配達、豆腐売りをやり、学校から帰ると、豆腐売りを続けて、色んなアルバイトを
したんです。そしてお父さん、お母さんに幸せになっていただきたい、そして自分も心の思う通りの自由自在な人間になりたい、そういう
考えで毎日生活していました。

そして本当に生長の家に触れましたのは、高校二年のときでした。ちょうど、アルバイト先が生長の家の誌友会場だったんです。
そこで仕事が終って、真理のお話を聞いたんです。
そしたら、僕は創価学会のお話も、キリスト教会の話も、浄土真宗のお寺のお話も、聞いて来たんです。
しかしすべてよかったけれども最後にみな、他の宗教の悪口を言うんですね。
それだけが僕には不思議で、しっくりしなくてたまらなかった。が、生長の家のお話を聞いたら“あらゆる宗教は兄弟姉妹であり、本当に
お一人、お一人の幸せのためにあるんだ”と、自分の気持ちと一致する教えを説いて下さったんです。
その時“これだ!!”と思って、本当に喜んで、それから毎日欠かさず誌友会を訪ねて勉強したわけです。
そして生長の家に真剣になりましたら、お父さんがお酒を飲みたくなくなるし、そして、お父さんお母さんが仲良く調和して、「お父さんが
観世音菩薩みたいになってしまった」とお母さんが言うし、本当に毎日が幸せで仕方ないようになりました。

しかし学校では、先生が、「北条君よ、お前みたいにアルバイトして親孝行しようという考えはまちがいだよ。お前は今一所懸命勉強することが本当だよ」
といつも注意されていました。しかし僕は生長の家の教えが腹にあったものですから、先生に向って、
「いや違います。先生、今お父さんお母さんがあったればこそ、こうして生きておれるんです。だから僕は、お父さん、お母さんに幸せになってもらうことが、僕の
今の最高の願いです」と言って、一所懸命になって、学校では生徒会の人を全員練成会に連れて行って、仲間が生長の家に沢山なってくれましたし、その時分は、校長先生、
教頭先生、生活指導の先生にも、『生命の實相』を持って行って、勧めました。

つづく

365うのはな:2012/04/12(木) 00:36:54 ID:El6gIMAw
364 つづき

 そうして本当に幸せな毎日を生活して高校を卒業して上京しました。そして横浜で
青年会に入って伝道を一所懸命やっていたんです。そしたら今度、あまりに真理の言葉が解ってきまして、
自分の不完全さがハッキリと解って、自分がつらくてつらくてたまらなくなってきました。
僕は生長の家の信仰に入って、どうしてこんなに苦しまねばならないのかと思って、「よし、僕は来年の九月十八日の
誕生日までに、“神の子”であると言える人間になろう」ときめまして、一年間努力したんです。
そして九月十八日が来て、その夜に“僕は神の子である”と言おうとしたんですけれども、言えないんです。
この一年間、一所懸命に『生命の實相』を読み、神想観をし、愛行していたのに「神の子」と言えない。
言えなかったら死ぬ約束だったものですから仕方がないから、僕は死の決意をしたんです。
そしたらそのとたんに、「お前は死ぬために生れてきたんじゃない!!実相の心を表現するために生れて来たんだ!!」
という言葉が浮かんで来たんです。
その時はもう本当に嬉しくて嬉しくてたまらなかったですね。
「よし、これから僕は愛を行じてゆこう」と決意しまして、今まで以上に熱心にやり始めました。
僕は「般若心経」が好きなものですから、食事の時も、入浴の時も、手洗に入っている時も、常に「般若心経」を唱えて、
「もう一切は無いんだ!!在るのは神の光のみなんだ!!」と唱えていたんです。
そうしましたらある日突然、自分というものがパッと無くなったようになって、宇宙と一つになるというか、ずうっと空間が、
自分の生命の中にあるというか、一切が自分の中にあるように感じて、もうありがたくて、「自分は肉体じゃないんだ。大生命と一つだ!!」と
いうことが解って、見るものあらゆるものが光明燦然と輝いているんです。
これは本当にこの真理を一人でも多くの人に知らせよう。本当にこの真理を知っていただけば、お一人一人が本当に幸せになるんだという自覚が出来ますと
同時に、今までの自分の考え方がまちがっていたことが反省されまして、この世界は、不完全な不自由な束縛に満ちた世界じゃなくて、本当に自分が神の心になった時こそ、
真の自由の世界に生活できるんだと解ったんです。今、自分が不自由に見えるのは、まだ自分の心が神様の自由な心になっていないから、不自由なのであって、これも、神様の
本当の自由を与えて下さるための問題なんだなあということがわかりまして、今は不自由ながらも安心して毎日毎日、ありがたい生活をさせていただいております。

これも皆、谷口雅春先生がお説き下さる、この素晴らしい生長の家のみ教えの賜であり、本当に心の底から感謝を捧げます。


『實相研鑽』第三集 谷口雅春 先生監修

366金木犀:2012/04/12(木) 06:47:45 ID:y/Po8pPE
役行者様
有難うございます。
新しい時代の足音、本当にその通りですね。

367ハマナス:2012/04/12(木) 09:41:06 ID:u5mC.eb2

神の子のみなさま
 おはようございます。

   無限宝庫の扉を開く鍵 (『新版 生活の智慧365章』P,126)

「真理は生活に応用するとき、力を発揮するのである。応用しない真理は、名儀だけ
自分に書き換えられたが、実際に耕しているのは別の人であるところの「不在地主」
みたいなものである。「不在地主」は、やがて、その所有権を行使する権利すらも
剥奪される時が来るのである。だから、“神の子“たるものは、”神の父“から譲り
受けた資産を無駄に遊ばせないで、今直ぐにその資産なる「無限力」を実践に移す
べきである。

 神から譲られた資産の「無限力」と称する宝庫の扉を開く鍵は「信」である。
イエスは「汝ら祈りて求むるとき、既にそれを受けたりと信ぜよ。即ち汝はそれを得ん」
と教えているのはそのためである。また弟子が病人を癒す事に失敗して帰って来たとき、
イエスは、「その病気が重かったのだから止むを得ない」とはいわずに、「汝等、信仰
うすき者よ」と歎(なげ)いているのである。要するに「信」の鍵によって「無限宝庫」
の扉をひらくか開かないかの相違である。」

感謝合掌

368a hope:2012/04/12(木) 09:43:38 ID:kcv2QXTk

人生読本 谷口雅春先生著

強情張るのは自分の損


「君、そんなに強情張るとみんなに、憎まれたり、嫌われたりして損だよ。」
或る深切な友人が、強情っぱりの友人に向かってそう言いますと、

「損だって仕方がない。これが持って生まれた性分なんだから!」
と、強情に突っぱねて、なかなか御自分の癖を直そうとはせぬ人があります。

強情っぱりは損です。かわいそうです。自分自身にも損です。
つまらないとは知っていながら、こんなひとは強情張らずにはいられないのですから、
本当に気の毒なわけです。

私はなぜ強情っぱりが強情を直せないのか、
強情っぱりというものはどんな心の持方から生まれて来るものだか、
しらべてみたいと思います。

「ハハァ、強情っぱりとは、そんなところから出てくる心か、ばからしい。俺はもう強情っぱりなんかやめた!」と、
こうした人がどんどんでて来てくれたらなら、大変に幸いであります。

或る人は素直に「ハイ」という気持になり、或る人はあくまでも強情を突っ張るというからには、
そこにはっきりした理由がなければなりません。

(つづく)

369さくら:2012/04/12(木) 11:53:50 ID:tPVxKQcE
こんにちは。聖典版デビュー、さくらです。
何度読んでも、魂にひびく、『ヨハネ伝』講義、はしがき、より。

『ヨハネ伝講義』                谷口雅春

  はしがき

『ヨハネ伝』はキリストの福音書のうちで最も霊感的な著書である。
だから真にキリスト教を理解し、キリスト・イエスの霊的人格に触れるためには、
『ヨハネ伝』を数十回、数百回読んでキリストの生命に直接触れなければならない。
教会キリスト教についてはむしろ門外漢である私が『ヨハネ伝』を講義するのは僭越のそ
しりを免れないかも知れぬが、既成の教会に属する人たちは、伝統的な解釈や教権にしばられていて、陳き無力な解釈になじんで、却って真にキリストの生命に触れ得ない憾みが
あるのである。レッテルやポスターは「キリスト教会」と称しながら中身は全然、反キリ
スト教を説いている教会すらあるのである。
私が敢て、キリスト福音書の中で最も霊感的解釈を必要とする『ヨハネ伝』の講義の速記
を爰に発表しようとするのは、読者諸賢に真にキリストの生命に触れて新生して頂き度いからである。
「では、汝はキリストの生命に触れたのであるか」と問う人があるならば、
私は躊躇なく「私はキリストの生命に触れ、キリストの魂を理解し得たと信ずる」と答えるであろう。
イエスは、「誠にまことに汝らに告ぐ、我を信ずるものは我がなす業をなさん、
かつ之よりも、大いなる業をなすべし」と『ヨハネ伝』第十四章に断言していられるのに、
何故、現在の概くのキリスト教会では、イエスが行ったほどの奇蹟を実演することができないのであろうか。
イエスの此の言葉をキリスト教会の人たちは、ただ空言として信じないのだろうか。
イエスの言葉を空言として彼らが信じないのならば、何故「キリスト教会」と称う
門票を掲げるのであろうか。またキリストを信じるならば、「我が信ずる者は我がなす業
をなさん、かつ之より大いなる業をなずべし」と云うキリスト自身の証言を何故生活に実
演することができないのであろうか。それは、「キリストを信ずる」と称しながらも、キ
リストの教えを歪めて信じているからにほかならないのではないだろうか。真にキリスト
の教えを歪めないで信ずるならばキリスト以上の奇蹟を実演し得なければならない。
 わたしは、どんな既成のキリスト教会にも属しないが、わたしは独自の霊感によって聖
書に接し、キリストの生命に触れたのである。そして、誰よりも深くキリストを信ずる者
である。それゆえに、私たちのグループは、キリスト自身が証言したとおり「キリストが
なせし如き奇蹟を為し、かつ之より大いなる業を為し」つつあるのである。私はイエスと
共に、「わが言うことを信ぜよ。我が父におり、父は我に居給うなり。もし信ぜずば我が
業によりて信ぜよ」と言うことができるのである。
 この講座は私たちの道場が東京赤坂にあった頃、生長の家の講師として地方に派遣され
る人たちに、『ヨハネ伝』を講義したときの速記を基本として。それを読みやすいように
文章に書き直して者である。生長の家の講師たちが、いろいろの奇蹟的み業を為すことが
できるのは、この講義によってキリストの生命に触れることになり、「我が信ずる者は我
がなす業をなさん」というイエスの言葉を実演しつつあるからだと言い得るのである。真
の「キリスト教会」とは名称や看板に「キリスト教会」と書かれていることでなく、キリ
ストの福音を間違いなく伝える教会のことでなければならない。私は、あらゆるキリスト
教会に属する人たちが、信者も宣教師をも、ひっくるめて、この『ヨハネ伝』講義により、
本当にキリストの生命に触れることができ、キリストよりも大いなる業をなすことができ
ることになり、まことの「キリスト教会」としてその人類救済の使命を完うせられんこと
を希望するものである。
 私は、本書を校正しながら、磔けに釘けられて後復活したキリストが、ペテロと食事を
共にしたのち、「汝この者どもに勝りて我を愛するか」と三度繰り返して訪ねられる処に
至って滂沱として涙せずにはいられなかった。「わが汝を愛する事はなんじ知り給う」と
ペテロが答えると、イエスは「わが羊をやしなえ。・・・・われに従え」と仰せられてい
るのである。名称がキリスト教徒であるばかりでなく真にイエスの魂に触れ、イエスに従
う者のみが真にクリスチャンであるのである。

昭和三十五年八月二十五日
        著者識す

370金木犀:2012/04/12(木) 15:41:44 ID:y/Po8pPE
『秘められたる神示』より「終戦後の神示」

われは7つの燈臺に火を点ずる者である。われは白髪の老翁である。白髪とは久遠永劫より続く無量寿の象徴である。われは彦火火出見尊が魚(な)釣らす鈎(つりばり)を失い給ひて憂ひ泣きたまふ海邊(うみべ)に来りて、尊を龍宮海に導きたる鹽椎神(しおつちのかみ)である。鹽椎神とは水火土之神の謂(いい)である。霊は水火土と顕れ、一切のものは水火土から生れたのである。われは霊の海、創造の神である。水即ち『おしめり』と火即ち『ぬくもり』と『土』の働きとがあって萬物は生ずるのである。黙示録には『われはアルファなり、オメガなり、生と死との鑰(かぎ)を持てり』と録(しる)されてゐるのがそれである。われを単に海の神だと思ふな。龍宮海の神の如くあらはれてゐるのはウミ(生み)の象徴であり、龍宮無限供給の神のシンボルである。われは一切の創造(うみ)の神であるから無にして無尽蔵である。

日本の国が貧しくなったとて歎くことはない。日本の国は不幸にして我れを容れなかったのである。キリストの教会を閉鎖せしめ、そのほか色々の圧迫を加へた。『生命の實相』も不当に用紙を配給せぬやうにして其の出版を閉鎖したのである。われは愛の神であるから神罰を当てたのではない。真理に目を閉ぢ、『我』を突き貫してつひに自壊するときが来たのである。

日本の国民よ、歎くな。迷ひの自壊の後には必ず住よしの世界が来るのである。われを戦ひの神と思ふな。われは平和進駐の神である。住吉とは平和の理想境と云ふことである。わが行くところに平和は来り、わが行くところに龍宮無限の供給は来るのである。キリストはわれの別名であるから、キリストを押し込めたのが可かぬのである。陸前の鹽釜神社でも香取鹿島の神を正面にして、鹽釜の神を傍(かたわら)に押し込めてある。軍国主義の神を正座に置いて、平和の神を別座に一段下におとしてあるのが今までの日本の姿であったのである。このような状態では日本が負けたのも仕方がない。折角今此処にある無限の供給を閉じ込めて置いて、増産を高唱してもそれは空念仏である。

まだ日本の真の姿はあらはれてゐない。今は伊邪那岐神の禊祓のときである。伊邪那岐神は日本の神、日本の象徴である。これから八十禍津日神、大禍津日神など色々の禍が出て来るが、それは、日本が『穢き』心になってゐたときの汚れが落ちる働きであるから憂ふることはない。この禊祓によって日本国の業が消え、真に浄まった日本国になるのである。心を明るく持ち、すべてを神直日、大直日に見直して、禍を転じて福となさねばならぬ。かくて斎女(いづのめ)の神はあらはれ、本当にこの世が斎き清められて、その後に住吉の神があらはれるのである。住吉の神はまだ本当にあらはれてゐぬ。併しもうあらはれるに間もないのである。住吉の神があらはれたら、伊邪那岐神の左の眼が真に清められて、日本の實相荘厳の姿があらはれるのである。古事記の預言を廃れりと思うふな。預言は成就しつつあるのである。ただその預言を間違って解釈する人が多いのである。
(昭和二十年十一月二十七日未明神示)



371ももんが《宗教篇・質問》:2012/04/12(木) 17:39:01 ID:XXCuaQns
>>370
金木犀様

金木犀様、始めまして。合掌、拝。

少し、わかない事が、あるので、御質問させてください。

実は、『終戦の神示』のこのこの箇所の事なのですが、おわかりになりますでしょか?


《陸前の鹽釜神社も香取鹿島の神を正面にして、鹽釜の神を傍(かたわら)に押し込めてある。》


確かに、陸前高田に『塩釜神社』は有ります。

そして、常陸一宮として、『鹿島神宮』、下総一宮とし『香取神宮』が、あり、確かに、“武道の神様“として、有名です。”神示 “に言われてる、戦いの神を前に出した”?チョト疑問に感じたのです。

まず、

①、関東三社と、呼ばれていて、
1、鹿島神宮=建御雷之男神《タケミナカズミチノオノカミ》

2、香取神宮=経津主神《フツヌシノカミ》

3、息栖神社=天鳥船命、別名、鳥之石楠船神

と、住吉三神《底筒之男命・中筒之男命・上筒之男命》いわゆる、住吉大神様のこと。


私も、最近知っただけですが、三社は地図で見ると、トライアングル情態になり、昔から共有関係にあるようです。どうなんでしょう?住吉三神が、確り、祀られいますが?どうして、神示には、出てこないでしょか?

②、『延喜式神名帳』《延喜5年・927年》には、『伊勢神宮』と『鹿島神宮』と『香取神宮』のみ『神宮』格の称号が与えらていたようです。
平安時代から江戸時代まではこのようだったと、調べたら出ていました。

『神宮』は、皇祖皇宗や平和に貢献した“神”に与えらるようです。

確かに、鹿島、香取神宮は、現在は、していませんが、“式年遷宮”をしていたので、“遷宮式”がある、神宮のようで、皇室、日本を守護した証でありますが、この神示の云わんとすることは、現象的に、辻つまが、合わないようで、何とも、解釈が、難しいなと、思いした。


もし、お解りに、成るようでしたら、教えくださいますか。

解らないようなら、『解らない』とだけで、よろしゅうございます。

大変、不躾な質問になりましたが、文章の粗雑な箇所と、言葉使いの悪い箇所は、御容赦ください。

では、失礼、致します。合掌、拝

372金木犀:2012/04/12(木) 18:34:05 ID:y/Po8pPE
ももんが様
はじめまして、合掌、有難うございます。

この神示の解説に、その説明が載っているのですが、先ず、生長の家の大神は
住吉大神であり、創造の本源の神であり、無にして無尽蔵の神であり、
また同時に黙示録に現れる白髪老翁のキリストです。

とりあえず、疑問に思われている箇所の説明の部分を以下に転載致します。

 鹽椎神は龍宮の大神として陸前の鹽釜にある鹽釜神社におまつりしてあるけれども、私は実際のことを調査していないから確言はできませぬが、この神示によると鹽釜神社の正座の社には香取鹿島の神がお祀りしてあって、鹽椎神を脇社に一段下にお祀りしてあるらしいのであります。

香取鹿島の神といふのは、天孫降臨の際、高皇産霊神(たかみむすびのかみ)の命を奉じて大国主命に国譲りをせしめた経津主神(ふつぬしのかみ)が香取神社の祭神で、武甕槌神(たけみかずちのかみ)は大国主命の帰順後も抵抗して譲らなかった大国主命の御子建御名方命(たけみなかたのみこと)を諏訪湖にまで押しつめてつひに降伏せしめた神で鹿島神社の祭神である。

いづれも軍神であるが陸前の鹽釜神社には、この両軍神を正社に祀って平和な住吉世界の神である鹽釜の神を脇社に押し込めてあり、龍宮無限の神を一段下におとしてあるから、生産増強が空念仏に終わってしまって、つひに生産力の豊富なアメリカに敗北を喫することになったといふのであります。

神を如何に祀るかといふやうなことはどうでもよいやうなことでありますが、それは時の日本国民全体の心境又はその指導階級の心境の表現でありますから、現象はその心境の具象化として、その心境同様のことがあらはれて来るのであります。

しかし、深く現象の奥にあるものを考経てみますならば、その当時の日本の指導者の心境がそのやうであったことも、また日本が敗戦したといふことも、あるべき事物があるべき順序であらはれて来たのであって、それは『古事記』に既に預言的に書かれてゐたのであります。

以上ですが、これによると、戦争当時の頃の鹽釜神社内における配置であり、香取、鹿島神宮と住吉三神の神社の位置関係を言われているのではないようです。

373金木犀:2012/04/12(木) 18:37:11 ID:y/Po8pPE
訂正します。
 
深く現象の奥にあるものを考経てみますならば
   ↓
深く現象の奥にあるものを考へてみますならば

374ももんが《質問・日本篇》:2012/04/12(木) 20:05:12 ID:XXCuaQns
>>372
金木犀様

金木犀様、丁寧な御回答、ありがとうございます。感謝、合掌、拝。

御回答していただき、ありがく感謝いたしますが、私は、その回答には、今一つ、納得いかないのです。

金木犀様は、以下の様に、雅春先生の御言葉のまま、のべておられます。

《私は実際のことを調査していないから確言はできませぬが、この神示によると鹽釜神社の正座の社には香取鹿島の神がお祀りしてあって、鹽椎神を脇社に一段下にお祀りしてあるらしいのであります。》


しかし、実際は塩釜神社に祀られてるのは、
①、塩椎神《主宮》《この神を住吉神と同じと観てますよね》
②、建御雷之男神《左宮》

③、経津主神《右宮》

を祀っているのです。

ただし、塩釜神社の説明では、次の如くありました。
『陸奥国が平安に成ったので、塩椎神だけを残して、鹿島神、香取神は、自分の宮に帰らた。塩椎神は、地元で塩の製法を伝承した。』ような、言葉は、私の言葉ですが、この様な、事が書いてありました。


押し込めたと?解釈は、何とも、おかしいな、思っています。

私は、こう捉えてます。

①、建御雷之神

②、経津主神

③、住吉神《塩椎神》

は、”三神で一体“として、国を護る役目を果たしていたのだと。

本来、鹿島神宮、香取神宮、息栖神社の、関東三社に、元々、本籍を置いていた神様でしたが?

陸奥国平定のおりに、住吉神《塩椎神》だけ、陸奥国一宮として、残られた。

関東三社は、綺麗な、三角形を描きます。

ある、意味、パワーバランスが、崩れたと、この神示は、言われてるのと、私は、感じられたのたのです。
ですから。金木犀様の言われ。


《、戦争当時の頃の鹽釜神社内における配置であり、香取、鹿島神宮と住吉三神の神社の位置関係を言われているのではないようです。》

ように、関東三社の位置関係が、関係ないとは、言えないと、思います。何故なら、このような、例えは違いますが、将門公の怨霊を鎮めたりするのでも、古代の人は、良く使われます。これが、正しいか、間違いかは、わかりません。

息栖神社は、応仁天皇様くらいの頃からの、湧水があり。《現在まで続いてる》

私は、この、神示は、内容は、神様の位置や、神様の働きを、知ると、今まで、言われていたこと以上に、深い意味を持ってるきがしたので、御質問させて、いただいのです。

真に、丁寧に、御回答いただき、心より、感謝いましたす。失礼な御言葉になりましたところは、御許し下した。また、自分でも、勉強して見ます。ありがとうございました。
感謝敬白、合掌、拝。

375ユタカ(なせば成る我ハ神の子):2012/04/12(木) 20:40:17 ID:ml49uOrg
金木犀さま、

第1巻の巻頭のヒントを有難うございました。ヒントというより、、、
疑問の回答をズバリ!と思います、有難うございます。

376金木犀:2012/04/12(木) 21:40:32 ID:y/Po8pPE
ももんが様

ももんが様の仰る意味もあるかも知れません。
鹽釜神社というのは本来住吉大神を祀る神社であり、その神社の祭神である住吉大神を脇に押しやって、
香取鹿島の神を首座に据えたのですから、あるいは仰るようなパワーバランスというものがあって、
それが崩れたのかも知れません。

雅春先生は、此処ではこの神示の解説を人間の心の影と言うことにポイントを
置いて説明されております。すなわち、

神は愛の神であるから、神罰を当てるということはないが、
この世界は、心の影であるから、国民あるいは指導者の心が軍神を前に出し、
平和の神である住吉の神をわきにやる祀り方をするのも、
その精神の反映であり、それはそのまま、軍の方針を表している。
即ち、軍閥が戦争中に、キリスト教を圧迫して諸方のキリスト教会を閉鎖せしめたこと、
生長の家の神様が、”言葉の力”を強調して、必勝の道を授けられたのに、
それを使わずに、「必死、決死、水漬く屍、草生す屍」など不詳な言葉を濫用して、
自然に自ら発する言葉の力に呪縛されて、戦死は増え、水漬く屍や草生す屍が殖えて、
敗戦に至った事を歎いてい給うのでありますと
云うように雅春先生はおっしゃっています。

軍指導者の精神が神の祀り方にも現れているという、
心の影から見た説明ですが、パワーバランスの観点でみると
ももんが様の説明になるのかも知れません。

有難うございます。

377金木犀:2012/04/12(木) 21:47:19 ID:y/Po8pPE
ユタカ様

ユタカ様の疑問の答えが、あるいはこのことかと思いましたが、
そのものズバリであったとは、嬉しいです。
お役に立ててよかったです。

378復興G:2012/04/12(木) 22:03:13 ID:ojEbkDH2
 『生命の實相』第1巻の冒頭に、『黙示録』第1章12節―20節が掲載されているのはなぜか、というご質問が「部室板」の方にありました。それについて参考になる谷口雅春先生のご文章を、『神ひとに語り給う』(神示講義「教」の巻)より、2回に分けて謹写投稿させていただきます。
   〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
     「新天新地の神示」講義(1)

   「七つの燈臺」の意味するもの

 さて、聖経の巻頭に「七つの燈臺の點燈者の神示」といふ言葉が出てゐるのでありますが、爰(ここ)に生長の家は一宗一派ではないといふことが、ちやんとこの神示に書かれてゐるのであります。「我は七つの燈臺に燈を點ずる者である」と生長の家の教へを創(はじ)められた神様がみづから言つてをられるのであります。この「七つの燈臺」といふ言葉は、キリスト教の新約聖書の一番終に『黙示録』といふのがありますが、その第一章を披(ひら)いて御覧になりますと次のやうに書かれてゐるのであります。

 「われ振反(ふりかえ)りて我に語る聲を見んとし、振反りて見れば七つの金の燈臺あり。また燈臺の間に人の子のごとき者ありて、足まで垂るる衣を着、胸に金の帯を束(つか)ね、その頭(かしら)と頭髪(かみのけ)とは白き毛のごとく雪のごとく白く、その目は焔の如く、その足は爐にて焼きたる輝ける真鍮(しんちゅう)のごとく、その聲は衆(おお)くの水の聲のごとし。その右の手に七つの星を持ち、その口より兩刀(もろは)の利(と)き剣(つるぎ)いで、その顔は烈しく照る日のごとし。……彼その右の手を我に按(お)きて言ひたまふ「懼(おそ)るな、我は最先(いやさき)なり、最後(いやはて)なり、活ける者なり、我れ曾(かつ)て死にたりしが、視よ、世々限りなく生く。また死と陰府(よみ)との鍵を有(も)てり……」

 此の「人の子」といふのは、じつは「神の子」であつて、イエス・キリスト自身が、常に自分を「人の子」と言つてをられた。そして「我れ曾て死にたりしが」とあるのは一度は十字架にかけられて死んだやうに見えたがといふことであります。それで「人の子のごとき者」といふのは、イエス・キリストのことであることがわかるのであります。肉体のイェス・キリストは三十三歳で磔けにかかりましたから、老人ではないのでありますが、それが復活して久遠の古(ふ)りたる無始の昔からの存在として白髪の老翁の姿を以つてこの七つの燈臺の間を歩んでをられるのであります。ヨハネから見たら、どうも人相が「人の子」即ちイエスに似てゐるけれども老人の姿でありますから、どうも、イエスでないかも知れない、それで「人の子そのもの」と書かないで「人の子のごとき者」と書かれてゐるのであります。ところが、その人の子のごとき者は、「我は最先なり、最後なり、世々限りなく生く。また生と死との鍵をもてり」と仰せられてゐるのであります。白髪といふのは老人の老いぼれといふ意味ではなくて、また今漸く三十歳になつたばかりのイエスであるといふ意味ではなしに、久遠の昔から永遠に続いてゐる生き通しの生命を象徴した「白髪の老翁」といふわけでありまして、決して老いぼれのお爺さんといふ意味ではないのであります。「久遠の生命」といふのは百五十歳位の数へられる長壽ではなくて、無限の長壽といふものを象徴した白髪の老翁の姿で示されたので、その「頭と頭髪とは白き毛の如く雪の如く」白衣(びゃくえ)を足先まで垂れた姿であらはれられたのであります。
<つづく>

379復興G:2012/04/12(木) 22:04:31 ID:ojEbkDH2
<つづき>
     「新天新地の神示」講義(2)

 これはヨハネといふキリストの弟子の中で、一番靈感の秀れた弟子が、キリストが磔(はりつ)けになりましてから、ローマ帝國の迫害を受けて、パトモス島といふ小アジアの小島へ流されて居つたときに神に祈つて居りましたら、靈感的に、眼は瞑(つぶ)つてをつても眼の前に七つの燈臺の有様が見えて、白髪の老翁の姿がその間に歩みたまふのが見えたといふのであります。その白髪の老翁は一我はα(アルファ)でありω(オメガ)であり――始めであり終りであり、生と死との鍵をもてり」と宣言したまうたことによつて「宇宙の根元の神」であるといふことが明かであります。その神様が出て來られたので、ヨハネはその威嚴にうたれて、そこに平伏(ひれふ)してしまった。そして「死したるものの如くなれり」と聖書には書かれてゐます。単に土下座したといふくらゐのものではないのであって、地面に平伏してしまつて、もう再び起き上る事は出來ないといふ様な状態になつた。そのとき“吾はアルファなりオメガなり、最先なり最後なり、生と死との鍵をもてり”とかう言はれた。この神様が、生長の家の神様であつて「七つの燈臺に燈を點ずる者」でありたまふのであります。キリスト教的に言へば「久遠のキリスト」であります。肉体のキリストは三十三歳で死んだけれども、「本當のキリスト」は、久遠不滅であらせられるのです。『生命の實相』の中には眞理と書いて、「キリスト」とフリ假名をつけてある箇處が所々にあるのであります。「キリスト」といふと、三十三歳でハリツケになつたユダヤ人の男の事だと、かう思つてゐる人もありますけれども、あれはキリストの應現身であつて、肉体的に或る時代に適するように應じて現れた姿であつて、「本當のキリスト」は「眞理」そのものであり、始めなく終りなく宇宙に充ちてゐる所の眞理そのものである訳なのです。その眞理そのものは久遠不滅であるから、初めであり終りであり、永遠に不滅である、といふので白髪の老翁の長壽の姿をもつて人格化して出て來られてゐる――かういふ事になつてゐる訳であります。
<つづく>

380復興G:2012/04/12(木) 22:07:37 ID:ojEbkDH2

<つづき>
     「新天新地の神示」講義(3)

   内にやどるキリスト

 さて、新たに生れる問題でありますが、キリストの弟子のパウロといふ人が言つてをりますが、「も早われ生くるにあらず、キリスト我れにあつて生くるなり」この自覚が「新たに生れる」生れ更りであります。肉体の自覚からキリストの自覚に新たに生れるのです。自分といふ肉体的な存在が生きてゐるのではなくて、「キリストわれにあつて生くるなり」といふ所の自覚を得ることが、新たに生れることであります。「谷口先生はキリストの再來である」なんておつしやる人もありますけれども、キリストは眞理であり、普遍的な存在でありますから、私だけがキリストの再來ぢやない、皆さんすべてにキリスト――即ち眞理が宿つてゐるから、パウロと同じやうに「キリストわれにあつて生くるなり」といふ自覚を得るならば皆さんは「われキリスト」の自覚を得られたのであつて、キリストの再來であるわけなんです。諸君、「汝自らを知れ」といふソクラテスの言葉を、深い意味に於て如實に知つてですね、「自分といふものは神の生命なんだ。最早われ生くるに非ず、キリスト我にあつて生くるなり」と自覚するんですね。これを忘れるから不可(いか)んのですよ。これが根本問題であつて、戰爭が起るのも、人類の一人一人がキリストだといふ事を忘れてゐるからですよ。自分が「愛」そのものであるところのキリストだといふ事を忘れてゐるところに、色々の争ひが起り、奪ひ合ひが起り、色々面白からざる事が起つてくるのであります。自分がキリストであるといふ事を忘れて、自分は「煩悩の猿(ましら)」であると、ダーウィンの進化論などから、人間は獣類の子孫だなどと思つて、人間が神の子であり、キリストであるといふ事を忘れてゐる――其処に一切の混乱の源があるんですよ。佛教では「キリスト」と言はないで「佛性」と言ふんです。つまり自分に宿つてゐる處の佛性――佛なる本性がキリスト敏では「内在のキリスト」であります。日本的に言へば「ミコト」なるものであります。何宗教にも偏らない用語を使へば「眞理」と言ふべきであります。神道でもキリスト教でも佛教でも同じ事です。生長の家は萬教帰一であります。だから此の講習會に集つて居られる方々には、いろいろの宗教の方々がゐられる。佛教各宗の人も居られるし、キリスト教の各派の人も居られる。或ひは教派神道の方々も居られる。かうして色々の宗教の人が生長の家に來て教へに触れられる。すると、“自分の信じてをつた宗教の神髄は本當はかういふ意味であつたのであるか”といふ事が判つて其の宗教が本當に有りがたくなるのが生長の家であります。それで、自分が燈臺だと言はないで「七つの燈臺に火を點ずる者」といふのであります。
<つづく>

381復興G:2012/04/12(木) 22:08:49 ID:ojEbkDH2

<つづき>
 七つは完成の数でありまして一切を包容する意味であります。燈臺といふのは世を照らす光であつて、世の光となる宗教の象徴であります。ところで、現在はまだあらゆる世を照らす光である筈の宗教が眠つてゐて其の法燈が消えてゐるのであります。もう大分眼が覚めたらしい宗教もあるのですけれども、生長の家が二十七年前に出現した時分は、大抵の宗教は眠つてをつて燈がついてゐなかつたのであります。だからどの宗教でもみな教祖の時代には、いろいろの奇蹟が現れたり、魂を本當に目覚めきせて如實に人間を救ふ事ができたのでありますけれども、それが段々弟子から弟子へ傳はり、それが「又弟子」に傳はりしてゆく中(うち)に、教へが段々水増しをするやうに迷ひで薄まつて、到頭、レッテルだけが「キリスト教」と書いてあつて中身は別物が入つてゐたり、或ひはレッテルは「佛教」と書いてあつて、中身は釈尊のお読きになった眞理がない水だけが入つてゐるといふやうな宗派ができて來ました。そして、さういふ様な中身の異るものを「キリスト教」とか「佛教」とか言つて売つてゐるといふ様な事でありますから教祖が出現せられた時代にあらはれてゐた奇蹟があらはれなくなつた。そしてその奇蹟があらはれないことを弁解する爲に、奇蹟のあらはれる宗教を治病宗教とか新興宗教とか言つて攻撃してをれば、自分の宗教が偉いやうに見えるだらうと思ふやうな間違を犯して、テンとして恥ぢないやうになつて來たのであります。イエスでも釈尊でもはじめて出現したときには、既成宗敏にあきたらないで出発した新興宗教であつて、奇蹟が続々あらはれてゐたのであります――ところがその法燈が途中で消えて居たのですから、人生といふ航路を行く舟が難破するといふのは無理がないといふ訳であります。其処で神様がそれに燈を點(つ)けなければいかん、といふ訳で、世を照らす光の燈臺である各宗の教へに、生きた火を點ずる役目として出現せしめられたのが、生長の家であります。燈をつけるのであつて、決して各宗の燈臺を壊すのではないんですから安心せられたいのであります。だから私たちは決して生長の家へ改宗してやつて來いとは言はないのであります。皆さんの信じてゐられる今迄の宗教のそのままでそれに本當に世を照す事のできる燈がついたらそれでいいんでありますから、生長の家にあらはれた神さまは『七つの燈臺の點燈者』と呼んでも好いといふ風に「新天新地の神示」に示されてゐるのであります。(後略)
<以上>

382ユタカ(なせば成る我ハ神の子):2012/04/13(金) 00:14:20 ID:awZ2qvz6
金木犀さま、

秘められたる神示を教えてくれたり「神人に語り給う」の長文の入力、、本当に有難うございます。(肩をもみ、もみ。。)
打ち込みがメチャ早いですね。私は終戦後の神示を今入力中です。 (内緒話、我が家もこの生長の家関係専用のPCもうすぐこわれそうです、一番古いので、、
カーソルさえもチラチラ点滅状態です。。)準備もありあれもこれも打ち込みたいのですが、、なかなかです。。、明日、時間のあるときに読ませてください、よろしくお願いいします。。。。

余談になりますが・・・秘められたる神示をさがしていると、よく見ていないのですが住吉大神顕祭の祝詞のコピーみたいのがでてきました。ですが、多分50年史にはかいてあるのでしょうね・・・

383ももんが《質問・宗教篇》:2012/04/13(金) 01:00:00 ID:XXCuaQns
>>376

金木犀様

金木犀様、お返事下さり、ありがとうございます。合掌、拝。
せっかく、お返事くだされたのに恐縮なのですが?
私の言ったことを、勘違いされております。
パワースポットに為ったのは?

息栖神社に、住吉神《塩椎神》の魂が抜けてしまって、三角形に形成されていても、神の御霊がない情態で、力が発揮されない。


一方、塩釜神社の方も?

①、主宮→塩椎神《御霊有り》

②、左宮→建御雷之神《鹿島に帰る御霊無し》

③、右宮→経津主神《香取に帰る御霊無し》

塩釜神社に、鹿島神の宮も、香取の神の宮もあり、主宮には、塩椎神が、祀られてる。しかし、実際は、塩椎神しか、住んで無い。鹿島神、香取神は、関東へ帰り、留守。


だから、

>>鹽釜神社というのは本来住吉大神を祀る神社であり、その神社の祭神である住吉大神を脇に押しやって、
香取鹿島の神を首座に据えたのですから<<

このようには、解釈してましません、間違いて、おられます。


元々、塩椎神を主座に、置いて、“三神一体”でいた神々だったのが、いつの時代から、わかりませんが、主座神=塩椎神を最前線に、残し、香取、鹿島神は、後方に退いたのです。
言わば、退却した形です。
本来、三神一体で、祀ることに、意味があったのではないでしょか?

それが、方位学《パワーバランス》的ことや、昔のことは、無視して、現世利益てき、二神を讃えたからでしょ。

二神を讃えたことは、同じなのですが、塩椎神を押し込めたと云うのは、間違いだと、思と云うことです。
あとの、金木犀様の、御説明文は、私も、素晴らしいと、同感できます。

お返事すると、悪が強くなりそうで、止めようと思ったのですが、私の解釈と違う表現をされてしまったので、あえて、書きました。どうか、悪く思わないでいで下さい。おやすみなさい、合掌、拝。

384ユタカ(なせば成る我ハ神の子):2012/04/13(金) 01:42:44 ID:awZ2qvz6
長文は金木犀さま出なく

復興Gさまでした。ありがとうございます。

Gさま、教団の方なのですか?

385ユタカ(なせば成る我ハ神の子):2012/04/13(金) 01:46:15 ID:awZ2qvz6
長文は金木犀さま出なく

復興Gさまでした。ありがとうございます。

Gさま、終戦後の神示を読まれてGさまが咀嚼した返信とお見受けしました。有難うございます・。

386志恩:2012/04/13(金) 04:25:32 ID:.QY5jUA6
ユタカ様

ここは、身バレすることは、はっきり言ってはいけない規則になっておりますから、私は本当は言いたくて喉まで出ていますけれどね、
言いませんけれど、
復興G様は、80才を越えられて高齢になられたので、現在は地方講師としてご活躍されてますが、元はといえば、数々の
重職をされてたお方で、燈臺卒じゃなくて東大卒でいらして、元神誌(普及誌)の編集長やその他を、こなしていらしっしゃいました。
聖典に特にお詳しいお方でいらっしゃいますので、「生命の實相」については、分らない事は、このお方にお聞きすれば、なんでも
教えて下さいます。

387金木犀:2012/04/13(金) 05:17:56 ID:y/Po8pPE
ももんが様

そうでしたか、私はその辺のことは、全くよくわからず、そのために
ももんが様の真意もよく理解できなかったようです。重ね重ね、
質問の真意を誤解してお返事申し上げ、失礼致しました。

ももんが様のご質問の真意に関しては、分からないとしか言えません。
はじめから、そうお答えすべきところ、
こちらこそお手間をとらせまして、申し訳ありませんでした。

388金木犀:2012/04/13(金) 06:58:27 ID:y/Po8pPE
復興G様
此処に書き込んだあとで、部室板にて復興G様のご投稿を読み、
もう少し待っておけば、よかったと思いました。
実にはっきりと、詳細なる説明をご投稿下さり、私も、G様のご投稿を
読みながら、何か生長の家の使命の深さを改めて感じて、胸がジーンと
来るような、心が振動するような感銘を受けました。

ほんとに神示は、教えの基本であり、この神示を読み学ぶ機会を奪われていますことは
教団の運営、方針、運動に、少なからぬ影響をあたえ、雅春先生の目指されたものから、
外れてしまう原因を作ることになりかねないと思います。
というより、外れることを前提に、神示を読めなくしたと思ってしまいますね。

ユタカ様

復興G様は、私の投稿を読む前に、既に部室板にて、ご投稿下さっており、
その続きとして、この聖典板に投稿されたのであり、たまたま私の投稿の
続きの位置になっただけであると思います。

それにしても、志恩様のお話で、復興G様が80歳の方であると聞き、非常な
驚きです。私など、神示を書き写しただけで疲れて、解釈の部分も書きたかったのですが、
もう書く気力がなくなりました。こういう正漢字、正仮名遣いの文章は、疲れます。
と言っても正確には再現してませんが。

復興G様、正に生長の家の無限力を証しするようなお方ですね。

389ハマナス:2012/04/13(金) 09:05:48 ID:u5mC.eb2
神の子のみなさま
 おはようございます。今日も皆さまにとって、最良の日でありますように。

  天の網は漏らさない  (『新版 生活の智慧365章』P.127)

 「あなたの魂の底ふかく欲するところのものをあなたは必ず得ることができるのである。
あなたはその深く欲する事物を「既に受けたり」と信じて感謝するがよいのである。

 しかしその深く欲する事物が、それが成就することによって他の人を陥れたり、他の人
の損失に於てそれが成就するような事情(ことがら)を祈っては、それは決して聞かれないか、
或いは自分の念力の強さで一時きかれたように見えても、それは神が与えたまうたものではなく、
自分の念力の強さで、“強奪”したものであるから、“奪うものは奪われる”の心の法則に
したがって、それは結局自分にとって不幸な結果を齎(もたら)し、“奪ったもの”
に利子をつけて返却せしめられるような結果となるのである。天の網は疎(まばら)
なように見えても、決して原因結果の法則から漏らし給うことはないのである。」

感謝合掌

390a hope:2012/04/13(金) 09:35:16 ID:kcv2QXTk

人生読本 谷口雅春先生著

強情張りとは我(が)の強い人


いったい、強情っぱりという言葉をもう一つの言葉でいえば、
「我(が)」が強い人ということになるのです。

この「我」、つまり「我(われ)」とか、「私」とか、「俺」とかいう、
この自分というものが、自分の思うままに、自分の力で生きていると思うと、
どうしても「俺が、俺が」という心が強く働いて、強情を張らなければならなくなるのです。

そうして、そのあげくのはてに夫婦喧嘩、親子喧嘩、その他、
いろいろないやらしいことが起こって来るのです。

(つづく)

391役行者:2012/04/13(金) 10:44:43 ID:srbdKJr6

 復興Gさま
 金木犀さま
 ユタカさま
 

 >G様のご投稿を 読みながら、何か生長の家の使命の深さを改めて感 じて、胸がジーンと 来るような、心が振動するような感銘を受けまし た 。ほんとに神示は、教えの基本であり、この神示を読 み学ぶ機会を奪われていますことは 教団の運営、方針、運動に、少なからぬ影響をあた え、雅春先生の目指されたものから 外れてしまう原因を作ることになりかねないと思います 。<


 いよいよ復興Gさまの再来ですね。ちゃんと肝心なときに来てくださいますね(*^_^*)信じています。

 そうですよね。生命の実相、一巻のチョイス、間違いなかったですね。ユタカさん!
 雅春先生が生長の家を立教されたその誓願が、この生命の実相、一巻に秘められております。
 生長の家は雅春先生が立教されたので、その原点に帰ることは大切なことと存じます。
 このことは明らかに、原理主義とは違います。

 初代、創始者が記された生命の実相、一巻!
 ここを語り合いながら、是非、生長の家の立教の使命をもっともっと掘り下げて、明らかにしてゆきましょう。
 そして尚、生長の家が未来に、はたすべき使命を明らかにしてゆきましょう。
 
 その軸足をぶらさないで、治まるものは収まり、分派としてはもちもん、双方認め合い、敬しあいながら、独立した団体として人類を光明化してゆけばいいと思うのです。

 まずは、生長の家が立教された、雅春先生の誓願をわかりやすく天下に公表すべきと存じます。

 その意味でも、多くの方の参加を私も望みます。

 元職員さま、お久しぶりです。
 もし、ご都合が付けばご参加願えると、私もうれしいです。
 
     感謝 合掌 再拝

392さくら(ひらがな、):2012/04/13(金) 13:05:29 ID:tPVxKQcE
 こんにちは!


『ヨハネ伝』講義 谷口雅春

 第一講

これから『ヨハネ伝福音書』の講義を致します。生長の家で『古事記』を講義したり聖書
を講義したり、或は仏典を講義したりするのは、どう云う訳であるかと申しますと、生長
の家の集りは、一宗一派ではなく万教帰一の真理を説くのですから、神道の人もやって来
られれば、キリスト教の人もやって来られるし、仏教の人もやって来られる、それらの色
々の人達が指導を求めにやってこられるからであります。集まってくる人の中には何か病
気癒しの秘伝秘術と云う風なものを習いに来たつもりで来る人もあるが、道場に坐ってい
ても秘伝も秘術も何も教えて呉れない。当たり前のことを当たり前に言っている、何だつ
まらないと言うような人があるかも知れませんが此の当り前の処に人生を幸福にする秘訣
も病気を治す秘伝もあるんですけれども、それに気がついて居られない人が多いのです。
太陽は照っておっても、目を閉じて居ったら、実際明るいかどうか分からないのです。そ
れで太陽よりも人工的な光線の方が明るいように思う人がある。電灯がともると昼の光よ
りは明るい様な感じがするけれども、本当は人工光線の照明よりも自然の太陽光線の方が
明るいのです。我々を生かす力も本当は太陽光線の方が多くあって人工光線の中には少な
いのです。人工的なものは或る程度まで効くには効きますけれども本当の生かす力と云う
ものは自然の光の中にあるのだと思ってもらわなければならないのです。そんな訳で生長
の家は、別に手のひら療法でも、気合術でも、霊気療法でもないのでありますから、余所
の宗教のように、そう云う術は教えません。どう云うお札を胸にさげていたらその霊的療
法がよく効くとか、そう云うことも申しません。ただ一切の宗教の真髄を知って戴く、す
ると、宗教というものは「個」の生命を宇宙の大生命に合一せしめるのですから病気も自
然と消えてしまうのです。病気を宗教家が治すのでない。病気は「個」と大生命との合一
が失われているから、その結果起こるのだから、宇宙大生命との合一が回復されたら病気
はないと云う事を説いているのが生長の家であります。

 太初に言り、言は神と偕にあり、言は神なりき。この言は太初に神とともに在り、万の
 物これに由りて成り、成りたる物に一つとして之によらで成りたるはなし。之に生命あ
 り、この生命は人の光なりき。光は暗黒に照る、而して暗黒は之を悟らざりき。
                                (第一章一〜五節)

 これが『ヨハネ伝福音書』の最初にある言葉であります。この『ヨハネ伝福音書』は四
福音書の中で、最も霊的な最も実相をよく描いた福音書でありまして、外の福音書はイエ
スの肉体の親が誰で、どう云う系統で生まれたと云うような、肉体、物質的なことなんか
が最初に書かれてありますけれども、これは初めから、言とは何であるか、神とは何であ
るか、生命とは何であるか光とは何であるかと云うことから書初めておりまして、それに
書いてあることは生長の家に説くところ同じことが書いてあるのであります。無論、読み
方によっては生長の家とは違うようにも読めるのでありますが、宗教は「和を以て貴し」
とするのですから、何宗の経典も其の神髄を掴み出せば、どの宗教でも斯くの如く同じ真
理になるものであると、万教帰一的な真理を教えて宗派の対立をなくすのが生長の家であ
ります。そのつもりで聴いて頂きます。
 それで「言は神である」と云うことをはっきりさせたいと云うので、言霊学の極概論を
やろうと思うのであります。

393ユタカ(なせば成る我ハ神の子):2012/04/13(金) 14:31:22 ID:c7OTN61A
うわぁ!さくらさん、またえらいもん見つけてきたなぁ。。。

すごいわ、、ここ。。。。 不動の信仰心養成講座かも・・・

ありがとうございます。

394役行者:2012/04/13(金) 15:51:03 ID:qBxVkqJs
 
 さくら様
 
 合掌
 私は個人的に、ヨハネ伝解釈は大切なことが記されていると思ってます。
 この聖書の解釈法を世に、特にキリスト圏に知らしめることは、大業であり、それこそ、表層的解釈でなく、日本的な深層的解釈を世に、特に西洋に知らし召す、絶好のチャンスと思っております。


 >太初に言り、言は神と偕にあり、言は神なりき この言は太初に神とともに在り、万の 物これに由りて成り、成りたる物に一つとして之 によらで成りたるはなし。之に生命あ り、この生命は人の光なりき。光は暗黒に照る 。而して暗黒は之を悟らざりき(第一章一〜五節)<

 
 このコトバは太初に神とともにあり!です。
 弁証法的には闇は光のために存在し、やがて光が世を隅々まで照らし、光明燦然と輝いたら、そのとき、闇の使命は終わるのでしょう。

 >光は暗黒に照る 。而して暗黒は之を悟らざりき<

 ということでしょう。闇は悟ることのできないサダメなのでしょう。
 現象世界で繰り広げられている闇の言葉は、あくまでも光の非在に過ぎず、光の言葉があまねく地球を覆ったら・・・
 現象的に地球に始めがあった以上、終わりが来ます。
 その現象的な ディ エンド は、きっと光あまねく世界の到来!千年王国の到来をしての、歓喜あふれる世界の到来をしての ディ エンドでありましょう、
 また、そのときからが、本当の始まりなのかもしれません。

          合 掌

395復興G:2012/04/13(金) 17:36:51 ID:ojEbkDH2

>>388
金木犀様。

たいへんな讃嘆のお言葉を頂戴していました。恐縮の極みであります。

私は、金木犀様の、>>351〜359までの「矛盾の解決」という谷口清超先生のご文章、感銘深く拝読し、思うところがありましたが、書き込みできないでいました。

何を思ったかと言いますと――
前記ご文章の最後のところに

>この事実を見ても、現象界に起る様々な矛盾や撞着を解消するには、「実相を観る」以外真の解決法はあり得ないと言わざるを得ないのである。これをやらず如何に不幸を恐怖しても、それは不幸を回避する手立てにはならず、如何に戦争を恐怖しても、戦争は消えさるものではない。従ってその反対に多くの人々の心を光明化し、真実の世界が大調和であり、完全円満であることを確信する人々をふやし、愛と感謝と祈りと讃嘆の思いを拡大する「人類光明化運動」を強力に前進させることが、最重要課題であると確信する次第である。<

とありますが、これを拝読して思ったことは――
谷口雅宣先生が、20年以上前だったでしょうか、副総裁時代に、生長の家にやがて別派、分派ができたときのことを予想し(恐怖し)その対策として「法務課」をつくり、規則で分裂混乱を回避する手立てを講じることを計られた、ということを思い出していました。そして、今日の生長の家教団の混乱は、総裁のそうした心の結果なのではないか――と思ったのです。

でも、今、思います。意味のないこと、無駄なことは何一つないのである。「総裁が悪い」と他者に責任を転嫁するのは、神の子のすがたではない。総裁のすがたは信徒われら自身を鏡に写したすがたである、と考えるのが本当ではないか。
部室板の<1797 >に書いたことですが、
<神は、信徒私たちに、もっと真剣さをもって真理を学び、神の子の自覚を持つように、雅宣先生を遣わされ、一見『生命の實相』と谷口雅春先生を否定しておられるかのようなことを言わしめられて、磨いてくださっているのかも知れませんね。私も、雅宣先生に感謝します。>

と、心を入れ替えましょう。そして、いっそう真剣に、命がけで真理研鑽に励みましょう。
ありがとうございます。

396復興G:2012/04/13(金) 17:54:48 ID:ojEbkDH2

>>325でハマナス様が打ち込んでくださった「本当の自由」というご文章が、重いです。
   〜〜〜〜〜〜〜〜〜
  本 当 の 自 由
  (『新版 生活の智慧365章』P.117)
『吾々は“無限”を求める存在であると同時に,”自由”を求める存在である。何故なら人間は神の自己顕現であり、本来“無限の自由”を内に蔵するからである。「自由」を、何か自分を縛るものを破壊することだ、と考える人があるが、本当の自由は、そのような対立観念、相対的な物の考え方では得られるものではないのである。本当の自由は「絶対者」となることによってのみ得られる。自分が神の自己顕現であり、「絶対者」の自己実現であるとの悟りによってのみ得られるのである。
 それ故に本当の自由は、神想観によってのみ得られる。何故なら吾々は神想観によって自己が神と一体であり、絶対者と一体であり、環境とか外物とか見えるものも「他物」ではなく自己の心の顕現であると悟ることができるからである。それだから神想観は真に最高の尊き神人合一の行事であると共に、何人も“本当の自由”を求むる限り修しなければならない修行であって、生ま易しいものではないのである。』

397ユタカ(なせば成る我ハ神の子):2012/04/13(金) 18:08:44 ID:pSGtlyDo
割り込んですみません。

役行者様、

>雅春先生が生長の家を立教されたその誓願が、この生命の実相、一巻に秘められております

そうなんですか!いろいろと教えてください、ご存知のこと、、、あすのWEB誌友会で沢山紹介して下さい。よろしくお願いします。

398SAKURA:2012/04/13(金) 19:04:14 ID:FEa/NNlc
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ

皆様今晩は…
お久しぶりで〜〜す。此処“一週間”ドタバタ!ドタバタ!でしたが…フ〜〜ゥ?
いろんな“精神面の勉強?”になりました。そして、わずかな時間を割いて
投稿者の皆様方の文章を拝読させて頂きながら、つくづく考えされた“一週間”です。
そして、今日!久しぶりに“投稿…”出来る時間的余裕の素晴らしさ!に、
“感謝”申し上げます。
本当に両親から「生長の家」を受け次いで、今!「感謝…」の念で、いっぱいです。
私も両親の“意志”を受け継いで、私なりの「時代に会った伝導」をして行きたいと
改めて思いました。
さぁ〜〜〜“スタ−ト”です。
今日から〜〜〜明日の〜〜〜♫“虹の架け橋”に〜〜〜勉強中です。

■【幸福を招く365章】
―――神の道を歩む人生は滑らかである―――

人間は神の子ですから、人の歩く道は神の歩く道であります。
だから神の道を真直ぐに歩かないでは、自動車に撥ねとばされたり、
崖から墜落したりいたします。人に対して悪意をもったり、
嫌悪の情を感じたり、素直でなく剛情であったり、
人を憎んで赦すことをしなかったりいたしますと、
それは神の道から離れて歩いていることになるのであります。
吾々の歩む人生の行路が滑らかでないのは、神の道を歩いていないからであります。
神の道は愛の道、サ−ビスの道、赦しの道、包容の道、円い道、角の立たない道、
人を助ける道、やさしい言葉の道、利己主義でない道、霊と法悦の道であります。
あなたの生活がこれらの道に乗っているか反省して見て下さい。
                           (谷口雅春著)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

私なりの【解釈論…】を、久しぶりに“投稿”させて頂きます…。
観覧者の皆様方、宜しかったら“拝読”していただけますと幸いです。

■「今の教え」と「本流復活」を考える・信仰/体験板/2 >231 です!!

399さくら、ひらがなですよ、笑。:2012/04/13(金) 19:07:51 ID:lrOEyIZg
>ユタカさま
>役行者さま

はじめて、この『ヨハネ伝』講義と出会った体験を、
自分の中では「内なるバベルの塔崩壊…」?と、呼んでいます、笑。

既成のキリスト教解釈で積み上げていた罪観が、ガラガラ音をたてて崩れていくというような、
そんな衝撃の感覚でしたので…。

役行者さまが、仰られたように、
我の力で掴んでは、つかんでは、としてきたものが、
本来実態の無い、闇であり、光の中に溶けていった…
わたしには、それが実感でした。

ユタカさま。

熱心に、そして率直に学ばれる姿勢、貴いですね…

またよろしくお願いします、

ありがとうございます。



400「訊け」管理人(1/3):2012/04/13(金) 19:23:48 ID:???
(榎本恵吾記念館・文書館(2)より謹写)

1.天地一切のものは、すでに和解し調和している

 神は天地宇宙を創造し給いながら、そのいずくにも記念碑のようなものはたてられていないのであります。神を否定しようとすればいくらでも否定出来るように、全く姿を消してい給うのであります。「神など無い」という人さえも生み給い、その声も神が出させているのでありながら神はご自分を現わしていたまわないのであります。「神は無い」と強く言えば言うほど「それほどまでに姿を消していられる神はまことにも偉大であるかな」と思わしめられるのであります。

 尊師谷口雅春先生の著わされた『生命の實相』も、これと同じ姿をしているのであります。萬物を生かし輝かせながら、「自分が救ってやった」というものは少しも無いのであります。「自性(じしょう・そのままで)円満」なる神の子の姿をただただ祝福し、礼拝する、その拝みの姿としてあるのであります。『生命の實相』の中には「物質無し」と書かれているのであります。「物質無し」とは、本自身が「私は無いのです」と無我になって澄み切っているのであります。無我になっているとは、天地一切のものを神仏として拝んでいることであります。ここに「汝ら天地一切のものと和解せよ」ということ、そして和解するとは感謝するということであるということの、その感謝の内容が示されているのであります。本自身が天地一切のものを拝んでおり、感謝と祝福の輝きそのものなのであります。

(つづく)

401「訊け」管理人(2/3):2012/04/13(金) 19:25:08 ID:???

 尊師谷口雅春先生がお悟りになられたとき、目覚めてみれば天地一切のものが神そのものであったのであります。その心境を尊師は「汝ら天地一切のものと和解せよ」と喜びうたわれたのであります。『生命の實相』や『甘露の法雨』の冒頭に「大調和の神示」がおかれているのは、人間は「仲よくせよ」といってもなかなか仲よくしないから、先ず最初によくわかるように警告を発しておくために、あの神示がおかれているのではないのであります。そうではなくて、「私が悟ってみたら、どんなに殺し合い、憎しみあっているかのように見えていても、そのまますべてが神と神、仏と仏とが抱き合って喜んでいる姿に観えて来たのであります。ありがとうございます」と、尊くも尊師が天地一切のものを拝んでい給うことを示されたものであります。ですから、谷口雅春先生の住んでいられる世界は、すべてが神仏に観えていられるのであります。「神一元」つまり「唯神實相」論からゆけば、「今ここ極楽、天国浄土」なのでありますから、谷口雅春先生だけが悟っており、その他のものはすべて「これからみ教えによって教えて悟りに導いて彼岸に度すべき材料」ばかりが住んでいる、というような天国はないのであります。それ故、谷口雅春先生がお悟りになったということは、同時に全宇宙が悟ったのでなければならないのであります。「同時成道(どうじじょうどう)」なのであります。「同時成道」は釈迦の表現せられた言葉であります。お釈迦さんが悟りの眼をもってごらんになられたとき、山川草木国土悉皆成佛(さんせんそうもくこくどしっかいじょうぶつ)、有情非情同時成道(うじょうひじょうどうじじょうどう)と観えたのであります。そのように釈迦がすべてを拝まれたのであります。これはお釈迦様の「汝ら天地一切のものと和解せよ」の現成であったのであります。

 「衆生劫尽きて、この世の焼くときも天人満つる、わが浄土安穏なり」というのが、法華経にありますが、これは衆生が苦しんでいるのに自分だけが一人安穏な状態で嬉しいというようなことではないのであります。それではお釈迦さんは何という冷たい人間かということになります。もしそうであるならば衆生が苦しんでいるのに自分だけが一人安穏としているというのは、『聖使命菩薩讃偈』と矛盾しているといわなければならないのであります。衆生を放ったらかしておいて、自分だけが浄土に住んで衆生の苦しみに対して高見の見物をきめているということになってしまうのであります。果してこんな状態で大慈大悲の釈迦牟尼世尊が安穏としておれるものだろうかという疑問が湧いて来るのであります。世界と自分というものを分けて考えると、お釈迦さんの心境もわからなくなるのであります。やはりお釈迦さんがお悟りになったとき、全宇宙が悟ったのであります。それはお釈迦さんだけがポツンと光となったのではなくして、すべてを解決されているのです。それですから衆生が劫つきて苦しんでいる姿そのままに苦しんでいない仏のすがたを、つまり、自分のいのちと同じいのちがそこにあるのを拝んでいられるのであります。自分が完全であるように、すべての人々の實相が完全に見える、ということを書かれたのが法華経の「自我偈(じがげ)」の真意なのであります。

 それと同じようにして、尊師谷口雅春先生の、すべてのもの、つまり天地一切のものへの祝福と礼拝とが録されているのが『生命の實相』なのであります。でありますから、『生命の實相』は神の愛と大生命の大光明の祝福礼拝のすべてを尽して光明のかたまりとなっているとでも申し上げるのがふさわしいのであります。それですから、研修生のみなさんが『生命の實相』や聖典をかかえて歩いていられる姿は、まことにも光り輝く神の子が、光明そのものなる『生命の實相』をかかえていらっしゃるお姿でありまして、まことに尊いお姿をそこに拝ませていただくのであります。

 このとき最早、聖典の中の一文字一文字が、神の吾れを讃え給う愛の光そのものなのであります。どのようなことが書かれているのかという前に、すでに聖典全体が光体そのものなのであります。それですから、たとえば研修生の諸君が聖典を手にしていられるとき、聖典の輝きがさんさんとして全身の毛穴から流れ入っているときなのであります。胸にかかえているときは眼を通さずとも直接聖典の光りが胸の中に直射して入って来ているのであります。手でさわれば指先から直接に光明がはいって来ているのであります。

(つづく)

402「訊け」管理人(3/3):2012/04/13(金) 19:25:54 ID:???
 かくの如くして、天地一切の山も川も緑も青も黄も花々も人々も、光明身である神の子なる自分を讃嘆する神の真理のコーラスであると拝ませていただくとき、すべての人々は、周囲のすべてのものという光りにつつまれていられる姿であるのであります。まさにこれは光りが光りの中で光りしているのであります。「讃嘆の中で讃嘆しているのが研修である」というのはこのことなのであります。何かしら力強きもの、円相なるもの、喜ばしきものの気配がふっくらと自分の眼にふれる限りのものを包んでいるのを感じるとき、そのものとこちらが調和の状態にあることを私たちの本性は知っているのであります。

 景色を見て私たちは「いいなあー」という思いが湧いてくるときは、私たちはその景色と調和し、和解し、感謝が通い合っているときなのであります。不調和であるならば「いいなあー」という思いにも、いつまでもふれていたいという気持にも、なれないはずであります。

 研修生の諸君が宇治別格本山の境内を景色を眺めながら歩いている姿を見るときがあります。そのとき、その人は景色全体と和解が成立しているのであります。本山を囲む山の木が何十万本あり、木の葉が何億枚あり、土の砂つぶがどれだけあるのか、はかり知れませんが、それらの一つ一つとすべて和解が成立しているのであります。和解が成立しているとき、もう既に神がそこに顕われてい給うのであります。そして自分をとりまくすべてのものが神であるのであります。本当は神がすでに現われ給いて自分を生かし感謝し和解せしめ給うていたのであります。

 そもそも私たちは神のいのちによって誕生し、生かされていたのであります。和解のあるところ神があり給い、神のあるところ和解があるのでありました。天地すべてのものに感謝したときに神が顕われるのであります。そして天地一切のものがすでに神であることを礼拝するのが感謝であります。そしてまた天地一切が神であることを拝めるのは、自分のいのちが神であるからであります。すべてにおいて神が神の世界で神しているのが私たちの生きている姿なのであり、實相の世界で實相が實相しているのがこの世界であり、唯神實相、光明一元の教えが生長の家の教えであります。

 尊師が啓示を受けられたとき、庭の木が黄金色の光りに輝き、その木の枝から枝に飛びうつる雀が金色に輝いていたのであります。このときすべての生きとし生けるものがこのように拝まれたのであります。尊師が「招神歌」において「生きとし生けるものを……」と言われるときは、このような光明生命として生きているすべてのものを拝み給うているのであります。

 研修生が『生命の實相』をひらいてあちらのページ、こちらのページと読み移られる姿は、聖典という光明の木の中でページという光明の枝々をとびかう金色(こんじき)の雀の姿として、尊師は私たちを拝み給うているのであります。また、あちらの部屋からこちらの部屋へと移り、あるいは棟から棟へと移られる練成員のお姿もまた、そのように拝まれているのであります。

 『生命の實相』は、ただただそのような生命のほんとの相(すがた)を、讃えに讃えて書かれたものなのであります。

<終了>

403SAKURA:2012/04/13(金) 20:49:47 ID:FEa/NNlc
トキ様 へ
観覧者様 へ

こんばんは…ロ−マ字の【SAKURA】です。御無沙汰していますが…
久しぶりに…【仏教典…】以前からの続きですが“投稿”させて頂きます。
【はじめの第1章…】からで〜〜〜〜〜す!
 
■第1章 史上の仏

−−−【 第1節  偉大な生涯 】−−−

1.ヒマラヤの南のふもとを流れるロ−ヒニ−河のほとりに、釈尊族の都カピラがあった。
その王シユッド−ダナ(浄飯)は、世々純正な血統を伝え、城を築き、善政をしき、
民衆は喜び従っていた。王の姓はゴ−タマであった。

妃、マ−ヤ−(麻耶)夫人は同じ釈尊族の一族でコ−リャ族と呼ばれる
デ−ヴァダハ城の姫で、王の従妹にあたっていた。

結婚の後、ながく子に恵まれず、二十幾年の歳月の後、ある夜、
白象が右わきから胎内に入る夢をみて懐妊した。王の一族をはじめ
国民ひとしく指折り数えて王子の出生を待ちわびたが、臨月近く、妃は国の習慣に従って生家に帰ろうとし、その途中ルンビニ―園に休息した。
折りから春の陽はうららかに、アショ−カの花はうるわしく咲きにおっていた。
妃は右手をあげてその枝を手折ろうとし、そのせつなに王子を生んだ。
天地は喜びの声をあげて母と子を寿いだ。ときに四月八日であった。
シュッド−ダナ王の喜びはたとえようがなく、一切の願いが成就したという意味の
シッダ―ルタ(悉達多)という名を王子に与えた。

2.しかし、喜びの裏に悲しみもあった。マ−ヤ−夫人は間もなくこの世を去り、太子は
以後、夫人の妹マハ−ブラジャーパティによって養育された。

そのころ、アシタという仙人が山で修行していたが、城のあたりに漂う吉相を見て、
城に来り、太子を見て「このお子が長じて家にいられたら世界を統一する偉大な王となり、もし出家して道を修めれば世を救う仏になられるであろう」
と予言した。

はじめ王はこの予言を聞いて喜んだが、次第に、もしや出家されてはという
憂いを持つようになった。

 太子は七つの年から文武の道を学んだ。春、耕耘(こううん)の祭に、父王に従って
田園に出、農夫の耕すさまを見ているうち、すきの先に掘り出された小虫を
小鳥がついばみ去るのを見て、
「あわれ、生きものは互いに殺しあう」とつぶやき、ひとり木陰に座って静思した。


生れて間もなく母に別れ、今また生きもののかみあう有り様をみて、太子の心は早くも
人生の苦悩が刻まれた。それはちょうど、若木につけられた傷のように、
日とともに成長し、太子をますます暗い思いに沈ませた。

父王はこの有様を見て大いに憂い、かねての仙人の予言を思いあわせ、太子の心を
引きたてようといろいろ企てた。ついに太子十九歳のとき太子の兄デ−ヴァダハ城王
スプラブッダの娘ショ−ダラ−を迎えて妃と定めた。
              
 <つづく>

404役行者:2012/04/14(土) 08:26:23 ID:CXZ0R/p6

 >>397

  ユタカ(なせば成る我ハ神の子) 様


 >雅春先生が生長の家を立教されたその誓願が、こ の生命の実相、一巻に秘められております、 そうなんですか!いろいろと教えてください、ご存 知のこと、、、あすのWEB誌友会で沢山紹介して 下さい。よろしくお願いします<

 輪読、Web談のなかから、ともに紡ぎ出してゆきましょう。

 たとえば、生命の実相の一巻の見開きに、黙示録が、次に七つの灯台の点灯者の神示が続く、その理由を解明すること自体が、生命の実相の一巻に秘められた真理ですよ。

 このような生命の実相、一巻に秘められた真理を、立教の誓願を、みなともに、湧き出ずる泉の如く引き出し、紡ぎ出してゆきましょう。
 
           合 掌

405役行者:2012/04/14(土) 11:48:26 ID:CXZ0R/p6

 >>399

さくら、ひらがなですよ、笑。さま


>はじめて、この『ヨハネ伝』講義と出会った体験を、
自分の中では「内なるバベルの塔崩壊…」?と、呼んでいます、笑。

既成のキリスト教解釈で積み上げていた罪観が、ガラガラ音をたてて崩れていくというような、
そんな衝撃の感覚でしたので…。

役行者さまが、仰られたように、
我の力で掴んでは、つかんでは、としてきたものが、
本来実態の無い、闇であり、光の中に溶けていった…
わたしには、それが実感でした。<

 
 素晴らしい体験ですよね。
 この『ヨハネ伝』講義は、聖書解釈のコペルニクス的転換であると思っており
ます。西欧に、キリスト教圏にドンドンと伝えるべきと思っております。
 それも、生長の家の使命の一つかと存じます。

406SAKURA:2012/04/14(土) 22:11:50 ID:FEa/NNlc
トキ様 へ
観覧者様 へ

こんばんは…ロ−マ字の【SAKURA】です。大変御無沙汰しておりますが…
昨日に続きまして…【仏教典…】からの続きですが…
皆様も御存じの「釈尊…生涯」を、投稿させて頂きます…。
【はじめの第1章…】からで〜〜〜〜〜す!詳しくは???
■昨日投稿致しました >403 からの続きです…。
 
■第1章 史上の仏
−−−【 第1節  偉大な生涯 】−−−

3.この後十年の間、太子は春季・秋季・雨季それぞれの宮殿にあって
歌舞管絃の生活を楽しんだが、その間もしきりに沈思瞑想して人生を見きわめようと
苦心した。

「宮廷の栄華も、すこやかなこの肉体も、人から喜ばれることの若さも、
結局このわたしにとって何であるのか。人は病む。いつかは老いる。
死を免れることはできない。若さも健康も、生きていることも、
どんな意味があるというのか。

 人間が生きていることは、結局何かを求めていることにほかならない。しかし、
この求めることについては、誤ったものを求めることと、正しいものを求めることとの
二つがある。誤ったものを求めることというのは、自分が老いと病と死とを
免れることを得ない者でありながら、同じようにそれらのものを
求めていることである。

正しいものを求めることというのは、この誤りをさとって、老いと病と死とを越えた、
人間の苦悩のすべてを離れた境地を求めることである。今のわたしは、
誤ったものの方を求めている者に過ぎない。」

4.このように心を悩ます日々が続いて、月日は流れ太子二十九歳の年、
一子ラ−フラが生まれたときに、太子はついに出家を決心した。
太子は御者のチャンダカを伴い、白馬カンタカにまたがって、住みなれた宮殿を
出て行った。そして、この俗世界とつながりを断ち切って出家の身となった。

このとき、悪魔は早くも太子につきまとった。
「宮殿に帰るがいい。時を待つがいい。この世界はすべておまえのものになるのだ。」
太子は叱咤した。
「悪魔よ、去れ。すべて地上のものは、わたしの求めるところではないのだ。」
太子は悪魔を追い払い、髪をそり、鉢を手にして食を乞いつつ南方に下った。


太子ははじめバガバ仙人を訪れてその苦行を実際見、次にア−ラ−ダ・カ−ラ−マと、
ウドラカ・ラ−マプトラを訪ねてその修禅を見、また自らそれを実行した。しかし、
それらは結局さとりの道ではないと知った太子は、マガダ国に行き、ガヤ−の町の
かたわらを流れるナイランジャ河のほとり、ウルビルバ−の林の中において、激しい
苦行をしたのである。

5.それはまことに激しい苦行であった。釈尊自ら「過去のどのような修行者も、現在の
どのような苦行者も、また未来のどのような出家者も、これ以上の苦行をした者はなく、
また、これからもないであろう」と言われたほど、世にもまれな苦行であった。
 しかし、この苦行も太子の求めるものを与えなかった。
そこで太子は、六年の長きにわたってこの苦行を未練なく投げ捨てた。
ナイランジャナ河に沐浴して身の汚れを洗い流し、スジャ−タ−という娘の手から乳粥を
受けて健康を回復した
 このとき、それまで太子と一緒に同じ林の中で苦行していた5人の出家者たちは、
太子が堕落したと考え、太子を見捨てて他の地へ去って行った。

いまや天地の間に太子はただひとりになった
太子は静かに木の下に端坐し、命をかけて最後の思惟に入った。
「血も涸れよ、肉も爛れよ、骨も腐れよ。さとりを得るまでは、わたしはこの座を
立たないであろう。」これがそのときの太子の決心であった。

その日太子の心はまことにたとえるものがないほど悪戦苦闘であった。
乱れ散る心、騒ぎ立つ思い、黒い心の影、醜い想いの姿、すべてそれは悪魔の襲来と
いうべきものであった。太子は心のすみずみまでそれらを追求して散々に
裂き破った。まことに、血は流れ、肉は飛び、骨は砕けるほどの苦闘であった。
 しかし、その戦いも終わり、夜明けを迎えて明けの明星を仰いだとき、
太子の心は光り輝き、さとりは開け、仏となった。
それは太子三十五歳の年の十二月八日の朝のことであった。
              
<つづく>

407「訊け」管理人:2012/04/15(日) 09:58:36 ID:???

(昨日のWEB誌友会に関連し)榎本恵吾先生ご文章を謹写――


 「いや、私は、釈迦やキリストとは同じではありませんから、これから徐々に修行を積んで、やがて神の子とならせていただくのでございます」という人があるかも知れませんが、これは一見、神に対して非常に謙遜のように見えるのですけれども、また、それだからこそその道を選ばれる人が多いのでありますが、これほど神に対して不遜なことはないのであります。それはつまり「神さま、あなたが完全でありますならば何故、私たちと釈迦やキリストや谷口雅春先生と差別をつけられたのですか。あなたは全能かも知れませんが、私のようにこんなつくりそこないもありますよ。」と言って、心の底では神を恨んでいるということになるのであります。即ち、神をもっとも尊び礼拝し、祝福申し上げて、神に対して素直なる神の子たり得るためには、どうしても「神さま、あなたのお創造(つく)りになられたものには不完全はありません。すべては完全で、つくりそこないは一つもありまん。したがって、私もこのまま完全であります。ありがとうございます。」と喜ぶ以外にはないのであります。そのほかに、“ある時間の後に完全となる”ということを認めたが最後、それが、どんなに、善意に満ち、努力精進のたまものであっても、神を軽蔑したことにしかならないのであります。

 「七つの燈台の点燈者の神示」の冒頭に、「今、すべての病人は起つことができる」と録(しる)されていますが、これは、「今、すべての人々は聖使命菩薩として起つことが出来る」ということが示されているのです。今、すべてのものは輝く聖そのものとして、すべてを輝かせるものとして、起つことが出来る。神さまと同じようにいちじるしく輝く、すべてを輝かせ、すべてを生かす側に立っていることが唱われているのであります。「すべての病人」というのは「生長の家に入っている人も、いない人も」ということであります。「生長の家」という形に入らなければ神は光りとして立たせることが出来ないというのでは、神一元の教えである生長の家の外であることになります。天地一切のものを神として、光りとして、聖なる輝きとして感謝し、拝ませていただくのが生長の家であります。「今、すべて」ということが神の創造の完全性を表現しているのであります。「今」というのは、「このまま」ということであります。如何に不完全があるように見えていても、それはすべて神の創造ではなく、現象の仮相にすぎないのです。ここに、すべてのものはそのままで「聖なる姿」を顕わすのです。


全文:http://blog.livedoor.jp/con5151/archives/65631409.html

408a hope:2012/04/15(日) 10:51:07 ID:kcv2QXTk

人生読本 谷口雅春先生著

人間は自分の勝手で生まれない


だが、この世の中に、自分が思いどおりに、自分の力で勝手に生きているのが、
この人間であると考えるのは大変な誤りであります。考えてみましょう。

いったい、この世の中に、勝手きままに生まれて出たくて
飛び出して来た方が、はして幾人おりましょうか?
男の方は、「俺は男になって生まれ出てやろう」と、
そんなことを思って生まれ出ましたでしょうか。
女の方はまた女の方で、「私は女になって生まれて出て、
白粉(おしろい)をつけて、赤い着物を着て、それから……」
なんて考えて生まれて出たでしょうか。
おそらくただの一人もそんな方はないはずであります。

それから、私達の親にしてもそうです。
男の子が欲しいと思っても女の子ができたり、
女の子が欲しいと思っても男の子ができたり、
もう子供なんかたくさんだと思ってもまたできたり、
なんとかして一人欲しいと思っても一人もできなかったり、
本当にままならないものです。

こうした事実を見ますと、人間が人間をつくるのではなく、
人間は人間以外の、何か目に見えない不思議な力で
造られるのだということは明らかです。
この目に見えない力、人間をつくる力を神様、あるいは仏様といいます。

(つづく)

409金木犀:2012/04/15(日) 15:30:26 ID:zilIu2tA
『神真理を告げ給う』から
第四章 地上に於ける人間生活の意義  を謹写致します。

あなた達にとって、何より大切なことは肉体の健康でもなければ、物質的な富の豊富ということでもないのである。あなた達、人間にとって最高必須のものは、あなた達自身の生命の本源にさかのぼって“本当の自分”を知り、その“本当の自分”が“神”そのものであり、“わたし”があなたに宿っているのであり、“わたし”はあなたの肉体という媒体を通して自己顕現しつつあるのだということを自覚することなのである。

天地一切のものは“わたし”のいろいろの段階に於ける自己顕現であるけれども、それらは無意識的の自己顕現であるから、彼らみずからは“わたし”の自己顕現であることを知らないのである。それは単なる顕現されたものであり、受け身的あらわれであるから、彼らは単なる被造物に過ぎないのである。けれども、あなた達は異(ちが)うのである。決して単なる被造物ではないのである。



あなた達・人間は単なる被造物ではないというのは、あなた達・人間は“わたし”自身の意識的な自己顕現として、あなた達の内に宿るところの“神”を意識して此の世に出現しているのだからである。人間の生命が他の生物よりも、一層尊いというのは、その生命が“わたし”自身の“意識的顕現”であり、人体は、わたし自身の“意識的顕現”の“座”であるからである。

肉体の生命も尊重しなければならないというのは、ひとりの肉体の生命がなくなれば“わたし”自身の意識的顕現の“座”がひとつ無くなるからである。



“わたし”の意識的顕現としての“生命”は、あなた達人間の肉体生命を、地上顕現の“座”として、そこの天降って来たのである。人間の肉体生命が尊ばれなければならないのは、それが単なる“人間の肉体”ではなく、神の生命の意識的自己顕現の“座”であるからである。

胎児の肉体生命といえども、それは出産後の人間の肉体生命と同じく“わたし”の意識的自己顕現の“座”として予定されたるものであるから、その尊さは同じことなのである。出産後の“人間生命”は殺してはならないが、胎児の“人間生命”は殺すことは“殺生”ではないなどと考えるのは間違いである。人間は物質的な損得の価値判断で考えたがるので、胎児を殺すのは経済的に安くつくから“殺してしまえ”。そして胎児を殺せば大人の生活が楽になるから、その方がよいなどと勝手気儘な評価をするけれども、神から見れば、“神の意識的自己顕現の座”が破壊されるのだから、その罪悪は大人の肉体を殺すのと同罪なのである。

410金木犀:2012/04/15(日) 16:12:22 ID:zilIu2tA
『神真理を告げ給う』から
第四章 地上に於ける人間生活の意義(2) 

人間の肉体は“わたし”の生命が地球上という“場”に於いて自己顕現するための必須の媒体として“わたし”がそれに生命力を与え、“わたし”の設計に従ってその機構が定められて完全に生理作用をいとなむように構造せられたものであるから、不完全な出来そこないというものは本来無いのである。

けれども肉体の自我には完全な自治を与えてあるから、その自我の自由意志に従って、その完全な機構の運転を進めることも遅らすことも、乱調子にすることも、調和ある状態にすることも自由なのである。病気というものも過去の業の自働的あらわれとして出て来るものもあるが、大抵は、人体自身の「病気になりたい意志」の表現として、本来病気でないものが、病気な心をスクリーンに映し出してそれを映画のようにテレビのように見ているのである。そして肉体の感覚は苦しんでいるのに、彼の「病気になりたい意志」はその希望を満足し得たことを痛快に思い、「わしの創作した病気は、どんな医術でも治し得ない最大の傑作だ」とほ’く’そ’笑んでいるのもある。しかし、その「病気になりたい意志」が作り出したどんな傑作の病気があらわれていても、あなたたちの実相である“神の子”の真身は、病まず、老いず、疲れず、永遠に健かに、若々しい金剛不壊不老不憊(ふはい)の霊身である――このことをあなた達は決して忘れてはならないのである。



金剛不壊不老不憊の霊的真身を“肉体の心”が知るためには、その霊的真身の波動を“肉体の心”の現在意識に感受し得るように徐々にその脳髄機構が発達しなければならないのである。機構の成熟発達も必要であるけれども機構の成熟発達だけでは尚足りないのである。その機構を実相の霊的真身の波動を感受し得るように操作の訓練が必要なのである。機構の成熟発達は電子計算機のハードウェアの整備のようなものであり、その操作の訓練は電子計算機のソフトウェアのようなものである。



脳髄機構が成熟発達し来るにつれて、人間はだんだん物質的なものに直接触れてその波動を感受する触覚から、稍々物質から離れて感受し得る臭覚、更に離れた距離に於いて感受する力をもつところの聴覚等が発達して来、ついに数十億マイル彼方にまで離れている天体から発する光の波動まで感受し得る視覚が発達して来るのである。しかし此等はいずれも物質の波動を感受するのであって、霊的波動を感受する程度にまで発達していないのである。これでは彼の魂は、まだ物質界という囹圄(れいご)の中で右往左往しているだけなのである。彼らはまだ物質の世界のみに住んでいて霊的世界に住む段階にまでは発達していないのである。

411うのはな:2012/04/15(日) 19:54:37 ID:El6gIMAw
悪なし、罪なし、人類無罪

私の『美しき日本の再建』という本の中にちょっと書いておきましたがね、それにはある奥さんが夕方に目を
覚ましてみたら、娘の部屋でギャーと娘の叫び声が聞える。お父さんがまた叫び声をあげた。
何事かと思ってそのお母さん目を覚まして行ってみたら、強盗がはいっておった。
そのお嬢さんは二十歳くらいのお嬢さんですが、このお嬢さんの腕の両方からはがいじめにして、脇の下に腕をつっこんで、
そして喉にナイフをつきつけて“金を出せ”というのです。“金を出さなかったら、ナイフで頚動脈を切るぞ”という格好をしている。

 その時、このお母さんは、熱心な生長の家白鳩会員でした、それで夫は叫び声をあげたまま出て行ってしまってどこへ行ったかわけが分らないが、
彼女は「この男も、“神の子”である神性が宿っているから悪いことはしない」と心に念じていると、彼女すなわちそのお母さんには
“神の智慧”が湧いてきた。これは、始終神想観をして、神様とつながっていなければそういう智慧は湧いてこないのです。
「あんた早く逃げなさい」と言った。強盗にですよ。
「今、夫がここへ来たけれども、どこかへいっちゃったでしょう。あれは警察へ行ったんだから、あんた、ながくここにいると警察がでてきてあんたをつかまえるから
早く逃げなさい」と言ったんです。ナイフで喉とつかれたらいかんというので、娘はナイフを手で掴んでいる。その掴んでいるところから血が流れている。
「そのナイフを捨てなさい」というとその少年はナイフを捨てた。
「血が流れているじゃないですか。包帯をしてあげます」
娘の手から血が流れていると思ったけれどもそうじゃなかった。強盗の少年から出ている血だった。
それで薬をつけてあげるからと言って、薬をつけて包帯をしてやった。そして、
「はやく逃げなさい。夫が警察へ行って警官を連れてくる時間だから早く逃げなさい」と言ったら、その男は、
「僕、逃げません。つかまります」といって、警察がくると自ら手をつき出して縛って下さいといった。

これは事実の話です。そんな強盗になっている少年でも、その実相を観れば善なるものなのですよ。
すべて善なるもので、そんなに自分をいたわってくれて、警察につかまらないで逃げて下さいというその愛情に打たれたのでしょう。
それで自ら縛られて行くというようになったと言うのであります。
観ればその完全な姿がそこにあらわれてくるということになるのであります。

『生命の根元を培う新しき教育』P59-60 谷口雅春先生著 新教育者連盟編

412ハマナス:2012/04/15(日) 20:00:42 ID:u5mC.eb2
神の子のみなさま
 
こんばんは。
昨日は仕事から帰ってバタンキュ―、パソコンをつけっ放しで寝てしまい聖典引用を
お休みしました。
今朝早く起きて、びっくり!! WEB誌友会の皆様の活発なご意見を拝見致しました。
素晴らしいですね。
トキ様を始め、司会、司会補佐役、ご参加の皆様お疲れ様でした。
色々と学ばせて頂きました。ありがとうございます。

今日は教区の用事で出掛けていました。

   信念は継続せねばならない  (『新版 生活の智慧365章』P.127)

 祈りの成就に対して必要なことは、「必ず成就する」「既に受けたり」と云う深い信念が
必要であると同時に、その信念が“一時的”のものではなく、「成就」が現象化するまで、
すこしも変わらずにその信念を永続しなければならないのである。祈りの時間の十数分間だけ、
「既に成就しました、有難うございます」と念じても、その祈った事物が現象化しつつある
途中の時間に於て、「まだあの事は出て来ないがな。駄目かな」などと考えては、「既に
成就しました」と前(さき)に念じた事をみずから打ち消しているようなものである。
従って前(さき)に折角祈ったことが実現しないのも無理がないのである。

 一旦、或る事柄の成就を祈ったならば、それが成就するまでは「すでに成就している
光景」を常に心に描きつづけて、その反対の「不安の念」を一切起こさぬようにするが
よいのである。無論、他の仕事をしている最中に、そんな「光景」を現在意識の念に
描きつづけることはできないが、「必ず成る」と云う深い「期待の念」を崩さずにさえ
いるならば、潜在意識は、前(さき)に祈った時の「必ず成る」と云う念を持続している
のだから差支えないのである。暇があるときに其の問題に就いて思い出したならば、
「ありがとうございます」と神に感謝の言葉を心に唱えて、「既にそれを受けたり」と云う
感銘を深めるようにするがよいのである。

感謝合掌

413SAKURA:2012/04/15(日) 20:13:29 ID:FEa/NNlc

トキ様 へ
観覧者の皆様へ

こんばんは…
ロ−マ字の【SAKURA】で〜〜す。今日の休日は、如何でしたかしら〜〜ン?

毎日の聖典引用板で“投稿”していきますと、
此方も改めて“教えられる事”が多々ありますから?【不思議な国のアリス】です。
今日も、何が出るのか分らず…“勉強スタ−ト”です…。
では、“本…”を、開きます〜〜〜!目を閉じまして…心を静めて…!【オ−プン!!】
今日の“タイトル…”は〜〜〜〜〜?????(微笑み)

■【幸福を招く365章】
――――創造の選択は人間に委されている――――

宇宙は大自然の創造してやまない力が満ち満ちている。人間は生まれるまでは、
大自然は自己みずからの想念の形に、大自然の姿を造講して来たのであるが、
人間が神の創造力の自覚的意識的発想の中心として出現して来て以来は、聖書は
「審判は子に委ねられたり」とイエスは云っているのであるが、宇宙の創造力を
どんな形にあらわすかは、人間(神の子)が出現して以来は、人間にその「想念」
(創造の模型)の選択力が与えられていると云う意味である。
自己自身の想念の相に自分の身辺の事が作られ、自己自身の想念が選んだ通りの
形に宇宙の創造力は働いてくれるのである。爰に於て人間は宇宙の創造力の主人公
となったのである。
宇宙にエネルギ−が充ち満ちているのであって、人間がエネルギ−を創造するので
はないのである。人間はそのエネルギ−を物質化して自己の想念する位置に配置
するのである。人間は自己の欲する位置に必ずしもそのエネルギ−を配置することは
出来ない。それを欲する位置に配置するのは、心の方面では心の法則に従わねば
ならないし、物質の方面では物質の法則に従わねばならない。
尤も物質の法則を探求し、それを利用するのも心の力によるのであるから、
人間は物質両面に於ても心によって運命の支配者となるのである。
善き想念を意志強く持続し、そこから自然に動く叡智を意志強く実践して
行く者が人生の勝利者となるのである。
                        (谷口雅春著)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

私なりの【解釈論…】を、久しぶりに“投稿”させて頂きます…。
観覧者の皆様方、宜しかったら“拝読”していただけますと幸いです。

■「今の教え」と「本流復活」を考える・信仰/体験板/2 >240 です!!

414金木犀:2012/04/15(日) 23:49:20 ID:zilIu2tA
『神真理を告げ給う』から
「第五章 泥中にあって既に咲く蓮華」より、一部抜粋

人間の肉体がどんなに健康であっても、やがて死ぬものであるというのは、“肉体”というものが“人間”そのものでないからなのである。人間は“神の子”であり、神の最高の自己実現であるから、神が不死不滅であるように人間も亦、不死不滅である。“人間”そ’の’も’の’は時に応じ、必要に応じ、修行のためや、訓練のために、さまざまの境涯に於いて、さまざまの姿をあらわすけれども、結局、その本体は不死であるのだ。



肉体は人間ではないと言うのは、肉体というものは、“人間”なる“神の子”が地球という天体の上で空気の気圧に抵抗して、使命づけられた仕事を果たすために必要な内圧をもつようにつくられた一種の“宇宙服”又は“作業服”が肉体なのであるからである。肉体の実質は物質でできているように見えているけれども、それは五官には、そう感じられるだけで、肉体の実質は物質ではない。それは嘗て「“心の絃(いと)”を組み合せて肉体の繭を造り」と譬えをもって示しておいた通り念絃の弾奏する“生命の韻(ひびき)”が、五官の感覚に触れるとき翻訳されて“物質”として感じられるのである。物質と見えるものは、悉くあるアイディアを載せた“生命の韻(ひびき)”が、“五官の感覚”という“認識の形式”を通過するときに“物質”として変貌して見えるのであって、その実質は「念絃の弾奏」する“生命の韻(ひびき)”にほかならないのである。

つづく

415金木犀:2012/04/16(月) 00:20:37 ID:zilIu2tA
『神真理を告げ給う』から
「第五章 泥中にあって既に咲く蓮華」より、一部抜粋(2)

生命は相形(すがたかたち)なくして宇宙に充ち満ちており、それが“わたし”である。あなた達に生命が宿っているのは“わたし”があなた達に宿っているのである。生命は生きているのであるから常に動いているのである。しかし生命は真に生きているのであるから、単に物理的振動を繰返すだけではなく、また単に惰力だけで運動方向が決定せられるというようなものではなく、知性を持ち、その個性ある知性に従って自主的に、その知性の動きによって個性あるアイディアを心に描く。生命はそのアイディアを載せてアイディアの指向する方向に向かってアイディアの内包する様相を実現するために動く。それゆえに、生命の波動に載せられたアイディアそのものも恰も生きていて、自働的にアイディアの内包する形相を具体化する力があるように見えるのである。



自然界は“わたし”の知性がその全知にして全能の力によって描き出したるアイディアが形相化してあらわれたものである。“わたし”は創造主であり、宇宙大生命であり、あなた達の生命の本源者であり、あなた達に生命を賦与した者である。それゆえに、あなた達は“神の子”であり、あなた達の生命は、実は“わたし”の生命である。それ故にあなた達の生命は、常に永遠に健康であって、病気にかかることも、老いることも、衰えることも、疲れるなどということも決してないのである。
(つづく)

416金木犀:2012/04/16(月) 00:47:10 ID:zilIu2tA
『神真理を告げ給う』から
「第五章 泥中にあって既に咲く蓮華」より、一部抜粋(3)

“わたし”は大自然のすべてのありとしあらゆるものと、生きとし生ける凡ゆるものとをつくって、それぞれに個性ある特色と美と働きとを備えるようにしたのである。“わたし”の内には“無限の個性”と“無限の形相”と“無限の美”とがあるのである。自然界のすべての存在を見よ。海の波の上に聳える奇巌怪石の美を見よ。海の中にも地上にも劣らぬ美しき樹草を“わたし”は造った。そこには森林のような珊瑚の幹や枝があり、色々の海藻が、潅木や篠草(ささぐさ)のように色とりどりに繁っている。その樹草の間を、鰭を色彩ゆたかにパラソルのようにひろげて散歩する魚たちの美しさを見よ。その美は単に色彩のさまざまな美しさだけではない。それぞれの魚の形にはみな個性を備えた美しさがあるのである。“わたし”は“無限の個性”であり、“無限の色彩”であり、“無限の形相”である。わたしは、それを具体化し実現するのに歓びを感ずるのである。この世界を“わたし”は“歓び”の表現として創造したのである。



“わたし”の創造したものはすべて“善”である。“悪しきもの”はひとつも、また何処にも存在しないのである。すべてのありとしあらゆるもの、すべての生きとし生きるもの、皆ことごとく善である。あなた達はこのことを信じなければならない。
 
そしてすべての被造物の最後に、すべての被造物が単に個性をもってバラバラに存在するだけでなく、それらを互いに連絡させ、結び合せて、全体として調和ある連繋(つながり)と美しさとを実現するための主働者とするために“わたし”は人間を――そうだ“あなた”たちを――地上に生み出したのである。そしてそれまでに創造ったすべてのものを美しき妙なる一大体系に組織する主働者として“わたし”は人間を地上に生み出したのである。

417金木犀:2012/04/16(月) 01:11:01 ID:zilIu2tA
『神真理を告げ給う』から
「第五章 泥中にあって既に咲く蓮華」より、一部抜粋(4)

“わたし”は人間を地上に生み出したのであって創造ったものではない。創造られたものは単に“被造物”であっていつまでたっても“創造主(つくりぬし)”になることはできない。“被造物”は永遠に被造物であって創造主になることはできない。創造主(つくりぬし)はいよいよ高く、被造物は永遠に低いのである。その隔たりは無限であって、雲泥の懸隔ぐらいの差ではない。

けれども人間たちよ、“わたし”は創造主(つくりぬし)として“あなた”達を被造物としてつくったのではない。“わたし”は“あなた”達を生み出したのだ、“神の子”として産んだのである。それゆえ、あなた達は“わたし”の後嗣者なのである。神はあなた達人間の父であり、母であり、神の“いのちの延長”として、“わたし”が“あなた”達を産んだのである。そして“わたし”は“あなた”達を“わたし”の嫡出子として“わたし”のもつ一切の善徳を“あなた”達のすべてに譲って、あなた達のひとりひとりが“神の子”として、他の一切の被造物を支配し、塩梅(あんばい)し、過不及を調節し、すべてのものに適当な位置と役割を与え、すべての創造られたるものが、互いに相食むものなく、傷つけ合う者なく、天地一切が、神の国、即ち“霊的実相の世界”の通りに渾然一体に調和あらしめる権利と能力(ちから)とを与えたのであった。



あなた達は“神の子”として、神の生命の延長として、神の生命の具体的な最高顕現として此世に出現したのであるから、決して被造物ではないのである。あなた達人間は“わたし”の天地創造の主体者の後継者として、大自然の生(な)まの儘のはたらきでは成就し得なかったところのものを編曲し、編成し、一層完全に、被造物の各々に秩序ある連繋(つながり)を与えて、大自然のままでは混沌として秩序なき状態であった万物を、一層秩序ある状態に再組織せしめ、大自然の一切のものが、バラバラの無秩序の繁茂ではなく、美的秩序を得ることによって、完全なる有機体即ち渾然一体の生命体ならしめる使命を与えたのである。



あなた達は“神の子”であり、一切の“美”と“完全”と“調和”と“繁栄”と“豊富”と“歓び”と“智慧”と“愛”と“勇気”と“断行”と……ありとあらゆる美しきもの、善きもの、愛すべきもの等……称讃さるべきことごとくの神徳が、“実相”として内に宿っているのである。

あなた達は、自己の内に宿るところの“神の子”たる実相を潜在状態に置くことに満足せず現実に引き出し顕現してこそ、まこと神の世嗣、“わたし”の跡継ぎとしての使命を完うしたことになるのである。しかし残念ながら、“神の子”たる実相を現実に顕現することを成就し得た人間は非常に少ないのは勿論、神の世嗣たる実相に気がついていない人間が大部分なのである。

418ハマナス:2012/04/16(月) 09:40:39 ID:u5mC.eb2

神の子のみなさま
 おはようございます。
皆さまにとって、一層幸福、一層健康、一層繁栄の日でありますように。

天国に入る心境  (『新版 生活の智慧365章』P.129)

 「神は愛深き吾等の父であり、吾等が幸福であるために必要なもの、また、吾等が
使命遂行に必要なものは必ず与え給うに吝(やぶさ)かではないと云う事を深く信じて
常に心を平和に、常に神に感謝することが、あなたの幸福生活には是非必要なのである。
幼児(おさなご)が「母は必ず私の生活に必要な“充分な母乳”を与え給うにちがいない」
と信じて安心し切っているのと同じような心境になることが、イエスの教えた「凡(およ)そ
天国に入(い)る者は幼児の如きものである」と云う“天国に入る心境”なのである。
この場合の「天国に入る」とはエデンの楽園のような欲する事物が悉く自由になる
環境に入ることである。」

感謝合掌

419a hope:2012/04/16(月) 10:07:16 ID:kcv2QXTk

人生読本 谷口雅春先生著

吾々の中には神様の生命(いのち)がある

前にも申しましたように、私達はこの世の中に勝手に生まれようと思って
飛び出して来たのではなく、跳び出させられて来たものです。
自分の力で生きているのではない、生かされているのです。
神様に生かされているのです。

言いかえると、私達には神様の生命が生きているのです。
今まで「自分が、自分が」と考えていた自分は、ちっとも生きているのではなくて、
神様の生命が生きているということになるのです。
こう思えば自分というものが自然とありがたくなってきます。
どうしなくともありがたくなってくるのです。
こうして、自分が本当にありがたいということが解って来ましたら、
他人も全部ありがたくなくなって来るのです。

今まで考えていたような、自分の力で生まれた「自分」が生きているのではない。
実は神様のお力が、此処に、この身体に生きているのだということが解れば、
人間というものはみな、神様の子で誰でもみんな同じ力で、
同じ立派さで生きていることがわかります。
みんな立派な「神の子」であるはずの人間同士が寄っていて、腹を立てたり、
憎み合ったりすることは、どう考えても間違っています。
ですから腹を立てたり、憎んだりすることは、どう考えても間違っています。
ですから腹を立てたり、憎んだりすることは、人間が神様に生かされている
「神の子」であるということを、知らなかったためだということが、はっきり解ってきたわけです。

仕事だってそうです。仕事をする力は、神様から生み出された力がやるのですから、
自分がやるのではなくみな神様がやるのだし、与えられた仕事も神様の仕事ですから、
自分がよけい仕事をしたから損だとか、なまけて得したという考えは、
いっさい間違っていたことがわかります。

こういうふうに、今まで考えていた自分というものが、どこにもなくなってしまいますと、
強情を張ってみたくも張れなくなってしまいます。
その上、今までは「俺が、俺が」という我の心で蓋していた神様のお光が急に輝き出しますから、
その人には善いことがどんどん出て来るようになります。

病気や貧乏で泣きごとを言っている人は、実はありがたい神様のお力で
自分を生かしていてくださるということを知らない人なのです。

(つづく)

420SAKURA:2012/04/16(月) 11:49:29 ID:GrjKQGvA

トキ様 へ
観覧者の皆様 へ

こんにちは…ロ−マ字の【SAKURA】です。
今月【 4月…御釈迦様が誕生されました月!! 】です〜〜〜ネ!
二千五百余年の間、国を越え〜民族を越えて保ち続けられました【仏の真髄…】
幸せな事に【仏教典…】以前からの続きですが“投稿”させて頂きます事に…
深く感謝申し上げます…。
【はじめの第1章…】からで〜〜〜〜〜す! (■仏教典からの抜粋)
 
■第1章 史上の仏

−−−【 第1節  偉大な生涯 】−−−

6.これより太子は仏陀、無上覚者、如来、釈迦牟尼、釈尊、世尊の種々の名で
知られるようになった。
 釈尊はまず、六年にわたる苦行間ともに修行してくれた恩義のある五人の出家者に道を
説こうとして、彼らの住むバ−ラ−ナシ−のムリガダ−バ(鹿野苑)に赴き、彼らを
教化した。彼らは最初釈尊を避けようとしたが、教えを聞いてから彼を信じ最初の弟子と
なった。また、ラ−ジャグリハ(王舎城)に入ってビンビザ−ラ王を教化し、ここを
教えを説く根拠地として、さかんに教えを広めた。

人びとは、ちょうど渇いた者が水を求めるように、飢えた者が食を求めるように、
釈尊のもとに寄り集まった。シャ−リプトラ、マウドガルヤ−ヤナ(目連)の二大弟子を
はじめとする、二千余人の弟子たちは、釈尊を仰ぎ、釈尊に帰依した。
 釈尊の出家を憂えてこれを止めようとし、また釈尊の出家によって
深い苦しみを味わった父のシュッド−ダナ王
養母のマハ−プラジャ−パティ−、妃のヤショ−ダラ−をはじめとする釈尊族の人たちも、
みな釈尊に帰依して弟子となった。
その他非常に多くの人びとが彼の信奉者になった。

7.このようにして伝道の旅を続けること四十五年、釈尊は八十歳を迎えた。
ラ−ジャグリハ(王舎城)からシュラ−ヴァスティ−(舎衛城)に赴く途中、
ヴァイシャ−リ−に於いて病を得、「三月の後に涅槃に入るであろう」と予言された。
さらに進んでパ−バ−に至り、鍛冶屋のチュンダの供養した食物にあたって病が悪化し、
痛みを押してクシナガラに入った。

釈尊は城外のシャ−ラ(沙羅)樹の林に行き、シャ−ラの大木が二本並び立っている間に
横たわった。釈尊は、懇ろに弟子たちを教戒し最後のせつなまで教えを説いて世間の大導師たる仏としての仕事をなし終わり、静かに涅槃に入った。

8.クシナガラの人びとは、釈尊が涅槃に入られたのを悲しみ嘆き、ア−ナンダ(阿難)の
指示に従って、定められたとおり釈尊の遺骸を火葬した。
 このとき、マガダ国の王アジャ−タシャトルをはじめとするハ大国の王は、みな釈尊の
遺骨の分配を乞うたが、クシナガラの人びとはこれを拒否し、争いが起った。
しかし、賢者ドロ−ナの計らいにより、遺骨はハ大国に分配された。
その他、遺骸の瓶と火葬の灰を受けた者があり、それぞれの国に奉安されて、
この世に仏の十の大塔が建立されるに至った。

                 <つづく>

421SAKURA:2012/04/16(月) 12:06:17 ID:GrjKQGvA
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ

光り輝く〜♫〜 “春…” サクラの花も…終わり
“葉ザクラ”とかし、“若葉の美しさ”ひときわ目にとまりますが…?
これも又!“いとおかし〜〜〜♫〜〜〜”でしょうかしら〜〜〜ン!
さて!昨日は…“奥殿”に直ぐ引きこもりましたでしょうか?
【再度投稿】させて頂きま〜〜〜す。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆
413 :SAKURA:2012/04/15(日) 20:13:29 ID:FEa/NNlc

トキ様 へ
観覧者の皆様へ

こんばんは…
ロ−マ字の【SAKURA】で〜〜す。今日の休日は、如何でしたかしら〜〜ン?

毎日の聖典引用板で“投稿”していきますと、
此方も改めて“教えられる事”が多々ありますから?【不思議な国のアリス】です。
今日も、何が出るのか分らず…“勉強スタ−ト”です…。
では、“本…”を、開きます〜〜〜!目を閉じまして…心を静めて…!【オ−プン!!】
今日の“タイトル…”は〜〜〜〜〜?????(微笑み)

■【幸福を招く365章】
――――創造の選択は人間に委されている――――

宇宙は大自然の創造してやまない力が満ち満ちている。人間は生まれるまでは、
大自然は自己みずからの想念の形に、大自然の姿を造講して来たのであるが、
人間が神の創造力の自覚的意識的発想の中心として出現して来て以来は、聖書は
「審判は子に委ねられたり」とイエスは云っているのであるが、宇宙の創造力を
どんな形にあらわすかは、人間(神の子)が出現して以来は、人間にその「想念」
(創造の模型)の選択力が与えられていると云う意味である。
自己自身の想念の相に自分の身辺の事が作られ、自己自身の想念が選んだ通りの
形に宇宙の創造力は働いてくれるのである。爰に於て人間は宇宙の創造力の主人公
となったのである。
宇宙にエネルギ−が充ち満ちているのであって、人間がエネルギ−を創造するので
はないのである。人間はそのエネルギ−を物質化して自己の想念する位置に配置
するのである。人間は自己の欲する位置に必ずしもそのエネルギ−を配置することは
出来ない。それを欲する位置に配置するのは、心の方面では心の法則に従わねば
ならないし、物質の方面では物質の法則に従わねばならない。
尤も物質の法則を探求し、それを利用するのも心の力によるのであるから、
人間は物質両面に於ても心によって運命の支配者となるのである。
善き想念を意志強く持続し、そこから自然に動く叡智を意志強く実践して
行く者が人生の勝利者となるのである。
                        (谷口雅春著)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

私なりの【解釈論…】を、久しぶりに“投稿”させて頂きます…。
観覧者の皆様方、宜しかったら“拝読”していただけますと幸いです。

■「今の教え」と「本流復活」を考える・信仰/体験板/2 >240 です!!

422志恩:2012/04/16(月) 12:51:03 ID:.QY5jUA6
訊け君

國太郎先生、藤原先生、榎本先生のご文章の謹写をいつも、ありがとうございます。

榎本恵吾先生ブログの「文書館」のご文章は、もしも、ブログが消えたらいけないと思いまして、
私は、しばらく前に ぜ〜〜んぶ、プリントアウトしたのですよ。

ところが、プリントアウトは、用紙の片面にしか出来ないでしょ、だからその枚数たるや、700枚くらいになりました。
厚い本みたいです。綴じました。

よくこれだけ、榎本先生は、遺稿として後輩のために執筆されて遺してくださいましたよね。
このブログを作成してくださった0先生、遺稿を惜しみなく提供してくださった恵吾先生の奥様の一子先生に、あらためて
感謝の気持ちでいっぱいです。

全部プリントアウトしてはあるのですが、一度は通読しましたが、なにせ、量が多いので、たいせつにしまってあります。
読んでも、すぐに忘れてしまいます。

やはり、掲示板に載せてくださると、フレッシュな気持ちで勉強できますので、ありがたく思っております。

423志恩:2012/04/16(月) 12:58:00 ID:.QY5jUA6
うんはなさま、ハマナスさま、ahope

424志恩:2012/04/16(月) 13:09:27 ID:.QY5jUA6
書き込み途中で423が、勝手にそちらへ風で飛んで行ってしまいました。
今日は,こちら、風が強いもんで、、ごめんなさい。

うのはな様、ももんが様、金木犀様、ハマナス様、ahope様、さくら様、SAKURA様、
皆様の書き込み、いつも楽しみに1つ1つ拝見しております。

家にいながら、いろいろと真理を教えていただける幸運をありがたく、皆様に心から
感謝申し上げております。

憧れのママの創作の芸術作品にも、いつも爆笑して癒されております。鈴夜ちゃんは、
WEB誌友会最中に、コードは踏むし、相変わらず、ユニークな役柄を、、、(笑)

425さくら(ひらがな):2012/04/16(月) 16:46:38 ID:tPVxKQcE
こんにちは〜!
関係ない話ですが、有能な物理学者は、
数式を見るだけで、ビックバンを「リアルに体験」できるそうです。
・・どういうことなのでしょう。?
数式では、宇宙の真理がずっと的確に解明されているようですが、
ことばであらわれる、しんりというのはどんなものなのか、奥が深いですね・・


『ヨハネ伝』講義 谷口雅春

 日本の国は、言霊の幸う国とふるくから云われておりまして、言葉の力を讃える国であ
りました。それで日本では言葉と云うものを大切に取扱いまして、仮初にもわるい言葉を
吐かないようにしていました。そして若し悪い言葉で宇宙を掻き乱したら善き言葉を祝詞
によって宣べることにより、天地を清めると云うことにしていたのであります。祝詞と云
うのは「祝福の詞」と云うことであって、悪しきものはあらわれていても、そんなものは
ない「ありがたいものばかりだ」と善き言葉で祝福の詞をのべることによって、天地の穢
れを祓清めることをやっていたのであります。「言は神である」と云う其の言葉と云うの
は、生命のバイブーション(振動)であります。「太初に言あり」と云うのは、一切のも
のは波動が再始原のものであると云うことであります。「苟も、波動のあるところに神が
ある」と云うのが、「言は神と偕にあり」と云う事であります。「偕にある」と云うのは
「別のもの」は併列してあるのかと思うと、そうではない。「言は神なりき」であって言
と神とは同じものだと云うことであります。この「言」と云うのは英語ではゴド(God)
と濁っておりますが、神様のことであります。言葉が神様である、一切のものは言葉によ
って造られているのであります。「言は神様である」と云うのは、吾々は古代から神様の
ことを「命」と言います。美は美称であります。神様とはミコトバ様だと云うことなので
あります。漢字に当て嵌めても「ミコト」と云う字は命令の「命」が書いてある、命令は
口でする、即ち漢字でも言は神様である。その「命」と云う字は「命」とも読む。言は又
命であって、『ヨハネ伝』の最初に「太初に言あり」云々と書いて「之に生命あり、この
生命は人の光なりき」とこう云うように書いてあるのに一致するのであります。それで、
言は神であり、生命である。旧い訳の聖書には「道」と云う字を書いて「ことば」と振仮
名を付けてあります。「道」と云うのは吾々の肉体の足が歩いて行く道のことでないので
ありまして、天地遍満の道、即ち天地にミチミチているから「ミチ」である。「道」は「言
う」とも読む字であって、言葉である。そして「道」と云う字は「首(ハジメ)」に「ス
スム」と云う字画であります。詰り、天地にミチていて、事物のハジメを成しているもの
が言即ち、波動であり、それは一切の本源である神であって、それから万物が発生したと
云うのであります。

426ももんが《宗教篇》:2012/04/16(月) 18:51:54 ID:XXCuaQns
〜生命の実相・34巻〜
《道場篇・弁道聴き書き》
☆実相は実相を招び出す
より。


その日の午前中、道場には十人ばかりの人が集まっていた。この中に安東駕馬太(あんどうかまた)といって五十八歳の老人があった。その老人が言うのに、
『私は『生命の実相』を手にするまでは、病気で痩せ細って仕事はできずに、家内の世話にばかりなっていました。ところが聖典『生命の実相』を手にしますと、肉体がこんなに若若しくなって、二十七、八歳に立ち返りました。手などもこんなに丸々と肥え太ってまいりました。これは聖典『生命の実相』の功徳でしょうか。誰も聖典『生命の実相』を所持すれば、こんな奇跡が起こるのでしょうか?』
『安東さん』と谷口先生はおっしゃた。『それは聖典『生命の実相』の功徳ではありません。本という物質がそんな功徳を与えと思うのはまちがいです。本は紙であり、物質でするから、生命を若返らす効果がありません。あなたを若返らせてたのは紙で綴った『生命の実相』ではありません。この本の中には『生命の実相の真理』はあります。
その生命の実相があなたの生命の実相を招びだしたのです。あなたを若返らせたのは、その招び出されたあなた自身の生命の実相です。他のものが人間を若返らすと思うのまちががいです。人は自分が主人公なんですから何者にも支配せられるものではないのです。』
(安東氏)『『生命の実相』の真理がなぜ私自身の『生命の実相』を招び出すのでしょうか?』

(雅春先生)『それは類は類を招ぶ親和の法則によるのです。同じ振動数の音叉に同じ振動数の音響を地か近づける、その音叉は振動して鳴りはじめるでしょう。』

(安東氏)『鳴りはじめます。』

(雅春先生)『その鳴りはじめるのは、互いに同じ振動数を持っているからです。あなたの生命の実相が鳴りはじめたのは、あなたな生命の実相が聖典『生命の実相』の中にある思想と共鳴したからです。聖典の中にある思想も『心的存在』であり、あなた自身も生命の実相も『心的存在』です。同じ振動数の心的存在は互いに共鳴を起こすのです。聖典『生命の実相』の中にある真理が読まれると、同じ振動数をもっていながら、まだ制止していたあなた自身の生命の実相が振動して表面的活動に移るのです。』〜以下省略
7㌻3行目〜8㌻12行目まで。

427さくら(ひらがな):2012/04/17(火) 07:57:05 ID:tPVxKQcE
おはようございます!
朝が来ると、どんなときにもどんな人にも、同じように朝が来るってすごいな〜、
と、時々しみじみ感激するさくらです、

日本の言葉の発生と、外国の言葉の発生はおなじように自然発生的とありますが、
西洋的ロゴスの世界観と、言霊の世界観はまったくちがいますね・・、
ことばを考えると、奥が深すぎる。



『ヨハネ伝』講義           
                      谷口雅春著

 それで、万物は一切この言葉によって展開したのであって、こ
の言葉が大切なのであります。それで吾々が病人に対して「お前
はもう病気でない、神の子である」ということを言葉で言えば、
それは本当に力ある言葉であれば病人が治るということにもなる
のであります。そうかと思うと。あべこべに、「お前は罪人であ
るぞ、いくら善くなろうと思うても善くなれない凡夫である」と
云うようなことを云ったら、やはりその言葉の力によって、いくら
善くなろうと思うても、善くなれないと云う風なことになるわけで
あります。このように言葉は命であり、神であり、命令であり、天
地に満つる道であると云うことになるのであります。
 この天地に満つる言葉が、「神光あれと言いたまいければ光あり
き。」(『創世記』第一章)とあるのも、最初にこの「阿」の声が出
て来たことをあらわしております。「阿」の声、これは光輝く声で
あります。「光」の声と云うのは大日如来の本体であります。

(註)大日経疏第七に「阿字は是れ一切法教の本なり。凡そ最初に口を開く阿の声あり若し阿の声を離るれば即ち一切の言説なし。故に衆声の母とす」とあり、此の「阿」の声はまた菩提心即ち「ほとけの心」であります。大日如来経疏第十四「阿字は菩提心なり」とあり、同第十には「阿は是れ空の義の本不生を以っての故に虚に同じ」とあります。

「本不生」と云うのは本来不生不滅の本体の意味でありますから、
「阿字を大日如来の法体である」と云うのであります。真言密教では
「阿字観」と云う修行をする。要するに本来不生の宇宙の本体であ
る大日如来と自分と一体であると云う『神想観』のような修行をす
るのであります。(谷口清超との共著『苦難と恐怖の克服法』参照)
 この「阿」と云う言は現れるという意味をもっていまして、現れ
る、明るい、赤い、暁・・・・等、光のアラワレル意味をもった語が
此の「ア」と云う発音で始っていることに注意して頂きたいのであり
ます。これは自然発生の言葉であります。そのほかの言葉にも、「ァ」
の付いた言葉には「頭」であるとか「足」であるとか色々あります。
_頭と云うのはどういう意味であるかと言うと、真丸く玉のように現
れている、あらわれてたまのようであるから「頭」なんです。そうす
ると「足」というのは、あらわれて「した」にある。それで「アシ」と
云うのであります。それから、暴れる、荒狂う、荒魂、これらは外に
現れるという意味から、自然とそう云う言葉が出て来たのであって、
これは仮名文字審議会を開いて決めた言葉ではないのであります。自
然と天地創造のコトバと、人間の中に宿るコトバ(命)とが一体であ
るから、人間が、事物を見ると、その事物の本質にあたるコトバを自
然に出す。それが通用語になったのであります。
 そう云う工合になっているのが我々の使っている言葉であります。
「ア」はどう云う意味の語、「イ」はどう云う意味の語と云うように、
五十音にわたって説明したいのですが、今は時間が足りませんから、
これは詳しくは『真理』の青年篇に書いてあるからご覧ねがいます。
外国の言葉でも最初はそう云う工合に自然発生の言葉から次第に転化
して来たのでありますけれども、私は余り深く外国語に精通しており
ませんから申し上げぬことに致しまして、『ヨハネ伝』の次のパラグラム
の処に参ります。

428a hope:2012/04/17(火) 08:26:50 ID:kcv2QXTk

人生読本 谷口雅春先生著

幸福になるには


よくあることです。「苦しい時の神だのみ」と申しまして、
自分が困りきると今までは見向きもしなかった神様に頼みたくなる心が、
どこからともなく湧いて来るものです。
しかし、自分は神様に生かされている神の子だということを知らないで、
いくら拝んでみても、あまり御利益がないものです。
それよりか、自分は神様に生かされている神の子だ、
神様が自分の中に生きていてくださるのだ、神様には病気も、
一切の悪いことも、苦しいことも、お与えになることはないはずだ、
私はそうした立派な神様に、今こうして生かされているのだと知って、
「神様ありがとうございます!」と喜ぶのです。

こうして、自分の中に生きてくださる神様を拝むのです。
拝んで、拝んで、拝みきるのです。「神様に生かされているのだ。
ありがたい!」と、自分の中に生きていてくださる神様に、
朝から晩まで御礼を言う気持ちになるのです。

こうした生き方を続けてゆきますと、自然に神様のような善い生活ができてくるのです。
言いかえればとてもうれしい、楽しい、その日その日が始まって来るのです。

自分の中の神様を拝む心になり、また人の中にも神様がいられるのだと拝む心になりますと、
自然に強情っぱりが除(と)れてゆきます。
そうなれば、神様はいつでも私達を助け通しで、いつも嬉しい、
善いことばかりができて来るのです。

(「第8章自分の生かし方」終わり、 次回より「第9章他人の生かし方」へ)

429ハマナス:2012/04/17(火) 09:42:13 ID:u5mC.eb2
神の子のみなさま
 おはようございます。皆さまにとって、今日も最良の日でありますように。

   不正は永続しない   (『新版 生活の智慧365章』P.129)

 人は自分で掘った穴に墜落して苦しみながら、恰もその穴を他の人が仕掛けてその穴に
陥(おとしい)れたかの如く思って人を恨んだり、憎んだりし勝ちである。他を呪い、他を
陥れ、それによって自分が強勢を拡張したり、自分が利益を得ようと思うならば、それは
不自然に、自分の指先で天秤の一方を押さえて目盛りを不正に誤魔化しておいても、その指先を
放してしまえば、元の正しい目盛りに帰るようなもので、自然は永遠には不正を許さず、不正に
獲得したものは、やがて自壊作用を起こして恢復(かいふく)されることになるのである。

 自分で自分を縛る縄をつくってはならない。自己限定をやめるがよい。そして自分が他の人を
陥れたり、悪評をたてたりして、他の人のものを奪わなければ、自分の領域が拡大しないなどと
考えないがよい。他を生かし、他を救うことによって、その平衡作用として自分も生きて来る
ような生活を営むべきである。

感謝合掌

430金木犀:2012/04/17(火) 10:51:31 ID:zilIu2tA
『神真理を告げ給う』から
「第一章 宇宙及び人間の創造について」の一部を謹写致します。

“わたし”は実相である。“わたし”はあなたの実相である。“わたし”は永遠に存在する実在である。“あなた”の実相は“わたし”であるから永遠に存在するものであって金剛不壊の存在なのである。本当のあなたは不滅の存在なのである。



“わたし”は久遠永劫の存在である。“わたし”は時間空間を超えている。時間の流れの中にいないから、“わたし”は不滅である。“わたし”は“生まれた”という時はないのである。従って、“死ぬ”という時もないのである。“わたし”はあなたの“実相”としてあなたの内に宿っている。そしてあなたの肉体を生かしている。肉体は自分で生きているように思っているけれども、“わたし”があなたの肉体から去ったら、肉体は死んでしまう。あなたの肉体に生気を与えているのは“わたし”である。そしてあなたの“本当の自分”は“わたし”即ち“神”なのである。



あなたが『生命の實相』を読むとき、あなたの内にあって眠っていた“わたし”の分身が、実相を語るコトバの力によって目覚めしめられる。その程度は人によって異なるのであるけれども、その目覚めの程度にしたがって、或いは病気が消えたり、その人の経営する事業が、実相円満の展開として、繁栄して来るなどの体験があらわれて来る。人々によって、そのお蔭の種類や程度が異なるのは、過去の善行の蓄積の相異や、精進努力の相違によるのであって止むを得ないことである。

431金木犀:2012/04/17(火) 10:52:43 ID:zilIu2tA
『神真理を告げ給う』から
「第一章 宇宙及び人間の創造について」の一部(2)

あなたの肉体を、生きている姿で動かしているのは、“わたし”である。“わたし”はあなたの心臓を鼓動させ、あなたの肺臓を呼吸させる。“わたし”があなたの肉体から去れば、どんなに肉体の機構が同じように健全な、故障のない相(すがた)であっても、あなたの心臓の鼓動はとまり、あなたの肺臓の呼吸は止まる。

あなただけではない、すべての生物を生かしているのは“わたし”である。どんな微生物でも、どんな巨大な動物でも、皆“わたし”の生命が生かしているのである。



どんな微生物でも“わたし”が生かしているのである。あなたが病菌であるといっておそれている微生物も、本来“病菌”ではない。それは“わたし”が生かしているのである。その病菌とみえている者が、実は、あなた達の間違った“心の思い”や“生き方”を警告して、それを是正させるために“わたし”が姿を病菌の如くあらわしていることがあるのである。

“わたし”は、どんな消毒薬よりも強いのである。“わたし”はその人間の魂に警告を与えて、正しい生き方に還らせようとして病菌としてあらわれている場合には、その目的を達しない限り、どんな薬剤を与えても、その病菌は消えるものではない。しかしその目的を達して人間たちの心が正しくなったとき、わたしはその微生物を現象界から“生命の素材の世界”へ引き戻す。その時、あなた達の病気は癒えるのである。

432金木犀:2012/04/17(火) 10:53:42 ID:zilIu2tA
『神真理を告げ給う』から
「第一章 宇宙及び人間の創造について」の一部(3)

けれども、それを神が人間に罰を与えているのだと考えてはならないのである。“わたし”は愛であるから“罰”を与えたりはしない。“わたし”は人間の魂が墜落しようとするのを、ある方法で引き留めようとしているに過ぎない。病菌と見える者は、“わたし”が墜落しかけている魂に、墜落してはならないという電報を配達させるためのメッセンジャーに過ぎないのだ。

それは神の罰でも神の鞭でもない。それはかみの救けの綱であり、墜落を防いでやるためのガードレールのようなものである。



“わたし”は“愛”であるが、同時に智慧であり、また生命である。それは物質の世界に於いては熱とあらわれ、、光とあらわれ、エネルギーとしてあらわれている。“愛”が先でもなければ、智慧が先でもなければ、生命が先でもない。光と熱とエネルギーとが相互に一体であり、どの相(すがた)にも交互にあらわれ得るように、“わたし”は愛ともあらわれ、智慧ともあらわれ、生命ともあらわれる。愛と智慧と生命との三つが同時に一体となって万物を生かしているのである。



“わたし”は一切の現象の中に“わたし”の智慧と愛と生命とを顕現している。“わたし”を見たければ森羅万象をみればよいのである。しかし肉眼でそれを見るならば、必ずしも“わたし”の創造した万象の“真実の姿”を見ることはできない。何故なら、肉眼で見る人は、自分の先入観念や迷いの念で“雲”をつくって“真実の姿”を覆い隠しているからだ。だから神想観の時には肉眼を閉じて、心の眼をひらいて実相を直視せよというのである。

433金木犀:2012/04/17(火) 12:25:19 ID:zilIu2tA
>>395-396

復興G様
レスを頂いていることに気づかず、今読みました。御返事がおくれ、
申し訳ございません。

さすがに復興G様のお言葉の深さに、正にそのとおりだと思います。
私も復興G様のこの投稿を読み、今までは、何とか雅宣総裁の実相を見ようと、
ちょっと無理をして、つい怒りのほうが先に来て、いくら危険管理人様の榎本先生の
引用を読んでも、実相を観る気になるのは一瞬で、つい現象のほうが見えてしまうので、
実相を観るのが苦労でしたが、なんとなく、たしかに総裁は観世音菩薩だという気が、
心からそんな気がしてきました。
それにしても、将来分派ができるのを恐れて、とは正に心の法則をそのまま例証されてますね。

雅春先生が、とにかく神想観をあれほど言われていたのですから、すべて神想観に尽きますね。
どんなに知識として知っても、神想観で五官を去って、自己の内奥に穿ちいることなくば
結局頓得の悟りを脱することは出来ませんね。
有難うございます。頑張って、神想観に励むことに致します。

434金木犀:2012/04/17(火) 12:26:53 ID:zilIu2tA
訂正します。

危険管理人様 → 訊け管理人様

435「訊け」管理人:2012/04/17(火) 12:27:28 ID:???
>>434

爆笑

436SAKURA:2012/04/17(火) 14:48:52 ID:tB36Kte6
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ

こんにちは……ロ−マ字の【SAKURA】で〜〜〜す。
今日も”春〜♫〜春〜♫〜” 満潔していま〜〜す。
このすがすがしい“朝…”
”洗濯”も昔と違いまして”情緒…”は幾分?違いいますが……
それでも”洗いたての衣服”は、香りが”プ〜〜〜ン?爽やか気分”いいです〜ネ!

”さわやかな春風〜♫〜”が、舞い誘い込んできま〜〜す!
そして、私の耳元に、囁きかけ、その瞬間”瞼”を閉じますと…
今はもう〜「亡き両親と暮らしました家」…裏に小高い山があり、
ここは”明治の記念碑…発祥地新日鉄の高炉の塔”がありましたが……?
今はもう…>< 全てが様変わり!「過去…」は、何処に去ってしまったの???
でも”裏山の公園”は、当時!毎日朝の日課の”散歩コ−ス”でしたが…

今の私は”公園”が近くにある事が今でも居住地の条件としての課題の一つです。
これは、子供の頃からの”感覚…?習慣…?”でしょうネ!皆様は如何かしら〜ン?
さて!今日のテキスト…”ひらけごま〜♫〜”では参ります!【1・2・3…スタ−ト】

■【幸福を招く365章】
−−−先ず第一のものを第一に−−−
第一のものを第一にし、第二のものを第二にすることが成功の秘訣である。
柳生流の極意にも相手が千人であろうとも、次々と受けてゆけば、
相手は一人同じであると云う意味のことがかかれているのである。
人生百般の仕事は随分沢山のものがあるのであるから、
その順序を間違えたら労して功なきことになるばかりか、
物事がアベコベになることがある。
最も重要なるものを先に行え。多くの人々は、問題にならないような
些事に引っかかって重要なことをなし得る時間を空費してしまっているのである。
第一のことを第一に、第二の事を第二に秩序整然と行うようにするならば
何事もすべて都合よくゆくのであって、譬えば囲碁の名人が石を打つように
一つも無駄なく成功するのである。
                          (谷口雅春著)

私なりの【解釈論…】を、久しぶりに“投稿”させて頂きます…。
観覧者の皆様方、宜しかったら“拝読”していただけますと幸いです。

■「今の教え」と「本流復活」を考える・信仰/体験板/2 >257 です!!

437うのはな:2012/04/17(火) 20:47:42 ID:El6gIMAw
   聖経読誦の問題について

 本当は聖経を幾回読んだら治り、幾回では治らぬというような回数の問題ではないのである。
「汝の信仰、汝を癒せり」であるのであって、それを読誦する人の信仰が、一回の読誦で充分高揚する人もあるが、
毎日数回読誦しなければ「病気無し」の心境に達し得ない人もある訳である。
大抵一回の心境が毎日つづいておれば、毎日現象的症状に心が捉われる程度が、悟りに到る心境よりも勝るというような事に
なるので功徳があらわれないことになるのである。

 一日五回、十回読誦するような心境では、症状は如何にともあれ、「この聖経には必ず功徳がある」という信念が強烈で
あるからこそ、そのような継続的に長時間、長日数の読誦ができるのであり、その読誦を重ねているうちに、聖経に書かれている真理が、
自分の潜在意識に深く印象され、「病気本来無」の真理を読誦者自身が深く自覚して、その自覚の反映として病気が消えることになるのである。
まことに「汝の信仰、汝を癒せり」ということになるのである。


『女は愛の太陽だ』 谷口雅春先生 著

438うのはな:2012/04/17(火) 21:01:16 ID:El6gIMAw
  “天地一切のものと和解する”ということ

 人間はすべて、一つの神の生命の分霊であるから、バラバラになって、つながらないでいることは不自然なので
ある。みんな一つに結ばれるということが本当の正しい生き方なのである。
「天地一切のものと和解せよ」との神示はそのことである。長いこと人間神の子の真理に接しながら、組織のつながりの中に
はいらないで、自分だけ別々の行動をしているようなものは、天地一切のものと和解したとはいえないのである。

 本当に互いに魂がつながり合って、互いに会うことがよろこびであり、一緒に人類を光明化する運動につながることができる心境に
なってこそ、天地一切のものと和解したといえるのである。
 “和解する”とは“感謝する”ことであると同時に、和解するとは“愛する”ことであり、その“愛”の実現として、多くの人々と互いに
手をつないで全人類救済運動に挺身することなのである。全人類に手をつなぐことができないで、孤高ひとり清しと思うが如きは、自他分離であり、
和解ではないのである。全人類ひとしく神の子の兄弟姉妹である自覚が乏しいのである。

『女は愛の太陽だ』 谷口雅春 先生著

439さくら,:2012/04/18(水) 05:47:42 ID:tPVxKQcE
おはようございます〜!
朝カツで、雅春先生の『ヨハネ伝』講義をいたします、、。


『ヨハネ伝』講義 
       谷口雅春 著

神より遣わされる人いでたり、その名をヨハネと云う。この人は証のためにきたれり、
光に就きて証をなし、又凡ての人の彼によりて信ぜん為なり。彼は光にあらず、光に
就きて証せん為に来れるなり。

 キリストの福音書は『マタイ伝』『マルコ伝』『ルカ伝』等があ
りますが、此の『ヨハネ伝福音書』は特にイエス・キリストの霊
的な実相について書かれた伝記でありますが、イエス・キリスト
の本当の説かれた真理が生長の家によって、はじめて本当に開顕
され、生活に実現し、成就するのでありますから、『ヨハネ伝福音
書』は結局生長の家で述べられている真理のことが書いてある。こ
う思うて読んで頂くと良い訳であります。
 その頃、神より遣わされたる人があった、それはヨハネと云う。
此のヨハネと云うのは此の福音書に書いてありませんけれども、水
行をしたり或は蜂蜜ばかりを嘗めて居ったり色々減食とか断食とか
苦行をやって、そして段々神に近づこうと云う風なことをやって居
られた自力修行の代表者としてここにあるのであります。此の自力
修行は到底本当の神を云うものを掴むことができないのでありまし
て、それがここに書いてあるのであります。

440a hope:2012/04/18(水) 07:14:50 ID:kcv2QXTk

人生読本 谷口雅春先生著

第九章 他人の生かし方


人に深切にする味わい



人と人とは肉体を見ておりますと、彼と我(われ)、
我と彼とは合い分かれているように見えますが、
本当はただ一つの神の生命(いのち)が、
そういう具合に分かれて出たように見えているだけであって、
決してこの別々の存在ではないのであります。

この真理を知るのを、自他一体とか事々無礙(じじむげ)とか申します。
まことに人に深切にしてあげ、人が幸福になるとこちらも嬉しい。
この私達が人に深切にした時の嬉しさ、というものを振返って味わってみますと、
長く別れておったところの親子が再び出会ったような、
兄弟または夫婦がひさしぶりに出会ったような何とも言えない喜ばしい感じなのであります。

これは人間は本来、ひとつの神様の生命の水が吾々に流れ入って人間となっているので、
同じ命の別れであり、兄弟であり、親子であり、本来他人というものは一人もない。
それが別れたように見えていたものが一つに合(がっ)する――その喜びを感ずるのであります。

分かれていた半分同士が一つになる――そこに深切をすれば嬉しいという根本原理があるのであります。

(つづく)

441金木犀:2012/04/18(水) 08:15:48 ID:zilIu2tA
大東亜戦争無縁戦没者英霊に捧ぐる辞 昭和35年8月15日
谷口雅春先生

大東亜戦争に忠勇無双の奮闘ををつづけ、ついにこの戦争に肉体の生命を献げつくして霊界に旅立ち給える諸霊に告げ奉る。ことに今なお遺族不明にして御霊を祀ることを成し得ざりし戦死の霊たちに斎主谷口雅春告げ奉る。本日大東亜戦争終了の記念日を選び卿等の忠誠と功績を偲び奉りみたまを慰め奉り、真理の悟りに導き奉らんとして、ここに生長の家の信徒たち集まりて聖経『甘露の法雨』を読誦し奉らんとす。庶幾(こいねがわ)くはこれを受け給え。


惟うに大東亜戦争は卿等の忠勇無比なる奮戦にも拘らず日本の敗戦となりたれども、決して卿等の奮戦は無駄に終りたるにも、犬死せられたるにも非ず。あの戦いの目的は当時すでに明瞭に「大東亜民族の解放戦」と名づけられたるに非ずや。

これは人類進化の一周期の完了期が近づきたるが故に、今まで白色人種に侵略され、その原住国土を白色人種の属国、保護領、植民地とされ、有色民族たる原住民は奴隷のごとく待遇されいたる大東亜およびアフリカの有色民族も、この人類進化の宇宙周期の完了に際して、白色人種と同等に「神の子なり」との自覚を得て独立すべき宇宙プログラムを現象界に実現する時機至りたれば、有色人種といえども、白色人種を圧倒する力を有するという実例を示して、有色民族たちの自立独立の精神を自覚せしめる契機を与うる必要ありてあの戦争には宇宙の人類進化の神界のプログラムを達成する役割を演ずる偉大なる犠牲者出現せざるべからざりしなり。

その偉大なる役割を演ずるために開かれたるがあの大東亜戦争なり。その偉大なる犠牲的役割を演じて自己の生命を献げて人類進化に道をひらきたるが、あの大東亜戦争において戦死されたる卿等日本軍の将兵たちなり。卿等の戦死はまことに無意義にも犬死にも非ざりしなり。

キリストが一身を献げて人類の身代りとなりしがごとく、卿等は一命を捧げて、大東亜諸民族およびアフリカ諸民族の魂の自覚の進歩のために貢献せるなり。卿等の功績決してキリストの人類救済の功績に優るとも劣るものにあらず。すでに大東亜の民族はすべてその原住国土において独立せり。すでにアフリカの民族もそのほとんどは原住国土において独立せり。かくて「大東亜民族の解放戦」と称したりしかの戦争目的はすでに達したり。戦争目的の達成は勝利というべきなり。日本は勝利せるなり。


卿等はみじめに敗戦して犬死せる者には非ず、人類進化の周期完了に近づきて偉大なる功績を果せるなり。今上天皇陛下が、平和愛好の御心にて、あの大東亜戦争開始に反対の意志をなされ「四方の海みなはらからと思ふ世になど波風のたちさわぐらむ」という明治陛下の御製を御前会議の席上にて朗詠せられたるにも拘らず戦争を抑止することを得ず、軍の真珠湾攻撃後、陛下はついに宣戦布告の詔勅において「豈朕が志ならんや」の一句を挿入せしめられたるごときは、まことに以て、あの戦争が人類進化の過程として道を拓くべき宇宙的プログラムにして何れの国民かが犠牲となって大東亜およびアフリカ民族の自覚促進に貢献する宇宙的必要必須の使命を果たす必要ありたるが故なり。

かくて卿等は一身を献げ一命を捧げて、すでにこの偉大なる目的を達せられたるなり。讃うべきかな卿等の犠牲的精神よ。宇宙の大神、今卿等の功績を称讃し、霊界において一層高き位に進められんとす。そのための悟りの彼岸に渡すべき如来の願船としてここに聖経『甘露の法雨』を読誦す。これ観世音菩薩の願船なり、塩椎大神の目無堅間の小船なり、この如来の願船たる聖経に乗りたまいて悟りの彼岸に渡り給えと生長の家信徒一同卿等を敬って合掌礼拝して感謝の意を述べ奉る。

442ハマナス:2012/04/18(水) 09:02:46 ID:u5mC.eb2
神の子のみなさま

おはようございます。今日4月18日は、「全てが成功に変わる日」(光明道中記)です。
皆さまが健康に過ごされますように。

あなたの不幸は出尽くした  (『新版 生活の智慧365章』P.130)

 悲しみを棄てよ。怒りを棄てよ。憎しみを棄てよ。そこから天国浄土が実現する
であろう。よくよく考えて見るならば、真に悲しむべき事は一度もこの世界に起こった
こともなければ、これからも起こらないであろう。あの戦争の犠牲者となって霊界に
悼(おもむ)いた人たちも、本当はその霊魂は生き通しであって、決して死んでは
いないものであるから、現象界は“想像の影”世界にすぎないのであって、実在――
即ち「本当に在るもの」は、未だ嘗て無くなりはしないし、無くなるものは、“本来
無いもの”ばかりであるからである。

 もし悲しみや、怒りや、憎しみを起こすならば、その人は事物の暗い面のみを想像し、
必要以上に、不幸や悪を拡大して見、みずから好んで自分の想像がつくり出した暗い
煙の中に窒息してしまうことになるであろう。不幸は想像することによって増大し、
悲しみは“類は友を招(よ)ぶ”ことによって続々その数を加えて来るのであろう。
不幸が起こったときには、これで不幸は出尽くしたと思うのがよい。悲しみが起ったら、
これで悲しみは出尽くしたと思うがよい。
そしてみずからを祝福し、みずからを歓喜せよ。

感謝合掌

443復興G:2012/04/18(水) 10:05:14 ID:ojEbkDH2

合掌 ありがとうございます。

WEB誌友会、「部室」板で論議されました「新天新地の神示」およびそのご講義を、谷口雅春先生著『神ひとに語り給う』より謹写させていただきます。ご講義はとても長いので(60ページにわたっています)、「七つの燈台の点燈者」および「イスラエルの十二の分派(わかれ)」に関するところを抽出して投稿させていただきます。原文は正漢字使用ですが、新漢字に換えさせていただきます。(仮名遣いは歴史的仮名遣いのまま)

  〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

   新天新地の神示

 見よ、われ既に天地を新たならしめたのである。人々よ、眼の蔽ひをとれ、われは新しき智慧である。新しき生命である。新しき宇宙である。新しき光明である。われ臨(きた)つて此の世界は既に変貌したのである。既に信ずる者の暗黒は消え、醜悪(しゅうお)は滅し、病ひは癒え、悲しみは慰められ、苦しみは柔らげられた。神秘を見て人々よ、目覚めよ、覚めてわが新しき光に照らして存在の真実を見よ。われは存在の実相を照らし出す完成(ななつ)の燈台に燈(ひ)を点ずるものである。悲しみに泣き濡れた人々よ。いま眼を上げて吾が光を受けよ。汝の悲しみは喜びに変るであらう。病める者よ、いま病の床より起ちて、わが生命を受けよ。われを拒むな。われを信ぜざる者は已むを得ぬ。われを信ずる者は黙坐してわれを念じ、われに依り頼れ。われ汝等に『神想観』と言ふ観行を教へたればそれを為せ。われに汲むものは常に新しき力に涸れないであらう。吾を呼ぶ者のもとに吾れは常にありて、汝らのために汝らの重きくびきを軽からしめる。なんぢ一人ならば吾れを念じて吾れとともに二人なりと思へ。なんぢら二人ならば、吾れを念じて吾れと倶に三人なりと思へ。悩める者よ、わが言葉を読めば苦しめる魂も軽くなり、悲しめる魂も慰めを得ん。そはわれは限りなき大愛であるからである。汝ら事にのぞんでわれを呼べば、自己の知らざる智慧の湧き出づるに驚くであらう。信ぜぬ者、呼ばぬ者は、不憫であるが助けやうがないのである。汝の心の疑ひがわが心の波長に合はないからである。遠くにゐて救はれてゐる者もあるが、近くにゐても救はれぬ人もある。仕方のないことであるが不憫である。もつと兄弟たちに、『生長の家』を伝へよ。神の愛は貰ひ切りではならぬ。頂いたお蔭を『私』しないで、神の人類光明化運動に協力せよ。『生長の家の神』と仮に呼ばしてあるが、『七つの燈台の点燈者』と呼んでも好い。七つの教へとイスラエルの十二の分派(わかれ)がわが教へで新しき生命を得るのだ。わが教へはどんな教へをも排斥するやうな狭い宗教ではない。教への太宗(もと)であるから宗教と言ふのである。
 (昭和六年五月六日神示)
<つづく>

444復興G:2012/04/18(水) 10:22:40 ID:ojEbkDH2
谷口雅春先生著『神ひとに語り給う』
  (神示講義 教の巻)より
「新天新地の神示」ご講義 謹写<1>

   〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

   新たに生れること

 誰でも新年といひますと、新たに生れ更つた気持がするのであります。新たに生れるといふ気持がするのでありますが、何時の間にかその新年が古年になつてしまひまして、この年頭の新たに生れるといふ感激を、忘れてしまふ傾きがあるのであります。
 それで私達は、この年頭に当りまして深く人間神の子の自覚を、潜在意識の底の底まで植ゑつけて、そして一年中神の子の自覚を失はない様に深く真理を刻みつけて置きたいと思ふのでありまして、それで毎年年頭に、恒例として講習会をやつてゐるのであります。

 さて、宗教とは一体何であるか、といふ話をしたいと思ふのであります。宗教といふものは病気を治すものだと思つてゐる人も中にはある。それですから、もう医者にかかつても薬の力でも治らないときに、“新興宗教へでも行かうか”と思つてやつて来る人もあるのですけれども、宗教といふものは、所謂る「病気」といふ「肉体の病ひ」を治すものではないのであります。

   宗教の本質は何であるか

 宗教といふものは一体何でありますかといふと、先づ、自分とは如何なるものか、それを明かにする所の教へが宗教であります。ソクラテスは、汝自らを知れと言つたのでありますが、汝自らを知るといふ事が宗教であります。或ひは、新たに生れるといふのも、それも汝自らを知る、といふ事にほかならないのであります。今迄は人間は肉体の子であると思つてゐた。そして物質の塊がここに生れてきてゐるのが人間であると、かう思つてゐたのでありますが、「人間といふものは、さういふ物質の塊ではないのだ」といふ事を自覚して、人聞自らは如何なるものであるかといふ人間の実相を知る事が宗教である訳です。

 人間自らは如何なるものであるか。キリストはお父さんがなかつたのですね。大工ヨセフといふのは名目上父としてありましたけれども、聖母マリアは、そのヨセフとの許婚の間に、まだ結婚しないのに妊娠して生れたといふのですから、キリストは幼い時から「自分のお父さんは誰であるか」といふ事に思ひ悩んだに違ひないのであります。それで遂にイエスは自分の父は、天に在します神である、といふ事を自覚して、自分は「神の子である」といふ事を言ったのであります。これがキリスト教といふ宗教の基であります。かういふやうに宗教といふものは汝自らを知る、といふ事なのであります。

 お釈迦さんも、生れると直ぐ七歩あるいて、といふのは七といふ数は完成の数ですから、自覚を完成してといふ意味でありますが、一方の手は天を指し、一方の手は地を指して、“天上天下唯我独尊”と言つたんです。これが佛教の肇(はじめ)である。
 天上天下唯我独尊といふことは――宇宙で自分が一番勝(すぐ)れた所のものである。言ひ換へると自分は“神の子”であるといふ事です。「人間神の子であつて、素晴しい存在だ、肉体から生れたものではない」といふ自覚を得られたといふ訳なんです。尤もこれは象徴物語りであつて、いくらお釈迦さんでも、オギャーと生れるなり歩き出して、そして天を指し地を指して「天上天下唯我独尊」といふ訳にはゆかないと思ひますけれども、これは七歩あるくといふことは、七は完成の数でありまして、自覚を完成したら、人間は天上天下唯我独尊だ、ただ我れ一人尊し、我は神の子であり、最もすぐれたる存在であり、自分は宇宙の中心だといふ事がわかつたといふのであります。
<つづく>

445復興G:2012/04/18(水) 10:23:55 ID:ojEbkDH2

<つづき>
谷口雅春先生著『神ひとに語り給う』
  (神示講義 教の巻)より
「新天新地の神示」ご講義 謹写<2>

   〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

   佛陀(ほとけ)とは何であるか

 さて宗教の定義は、自分自らを知ることの自覚を得させる教へだといふ事であります。その自覚を得たものが佛といふ訳です。佛といふと、「あの人は死んぢやつた。ああ佛さんになつた」なんて言ひますけれど、そんな佛さんぢやないんです。尤もあれも或る意昧から言ふと佛であります。人間は肉体を現してゐる間は、肉体といふものに縛られてゐるのであります。從つてまた物質の法則に縛られてゐるのです。飯を食はなかつたら腹は減るし、余り働き過ぎたらくたびれるし、眠らなかつたら辛い、……いろく肉体的な縛りといふものがある訳です。霊魂が肉体を抜け出したら、さういふ肉体の制約から、解放される訳です。さういふ意味に於て肉体の死んだ人は佛でありますけれども、しかし霊魂が肉体を脱けても、肉体を抜けたといふ事を知らずに、解放されないのがゐるのであります。さういふのを亡者(もうじゃ)といふんです。つまり未だ解放されてゐないのです。自分自身を「天上天下唯我独尊」の自由自在の存在であるといふ事を知らないで、そしてやつぱり肉体の中にゐて苦しんでゐる、といふ様な妄覚のままで霊界に行つてしまふ。この状態は永久に続くかどうか判らぬが、ともかく霊魂が霊界に往つても「何々といふ病気で苦しんでゐる自分だ」といふその想ひが続いてゐる間は、亡者である。「亡びたる者」である。「亡びたる者」といふのは、肉体があると思つて亡びないと思つてゐるのですけど、魂の方は亡びてゐる。つまり、人間みづからの生命そのものが、自由自在である神の子であるといふ事を自覚し得ないのでありますから、その自由自在性の霊なる存在を悟らんから、「霊なる存在」が亡びたる状態であるから、いはゆる「亡者」である、といふ訳であります。我々は亡者ぢやいかんですよ。
 今言ひました通り、肉体が生きてをつても肉体が自分であると思つてゐる者は、霊性の自覚がないから或る意味から言ふと亡者である。肉体といふものは、これは恒(つね)に亡びるものなのであるからです。肉体は亡びるものであつて、偉さうに言つて百五十歳長寿会に入会してをつたからとて、それでも、それ一杯ギリギリ生きてゐても百五十年だ。宇宙の長い生命と比べたら、実につまらんものであって、皆「亡びるもの」が肉体の人間なんだから、亡者即ち亡びるものと書いてある。だから、肉体が人間だと思つてゐるものは、みな亡者mortal(モータル)と言ひますね。それが不滅のものといふもの「亡びない者」immortal(インモータル)といふものになる事が必要なんです。それが即ち亡ぶる者から亡びないimmortalといふものに生れ更るのが、これが「新たに生れる」といふ事である訳です。宗教を定義して、「宗教といふものは個生命(個人個人の生命)が宇宙大生命と一体であるといふ事を悟らせる教へが宗教である」といふ風に定義する人もある。この定義は無論正しい訳であります。これは「汝自らを正しく知つたとき」自然に自分といふ「個」の生命が宇宙生命といふ「全」の生命との關係がわかつて来るのであります。自分の生命といふものが、単なる肉体に宿つてゐる五尺何寸、十何貫といふやうな――中には五十貫も目方のある、この前日本に来たプロレスのキング・コングみたいな人もゐますが――それでも、十何貫にせよ、五十貫にせよ、いづれも有限であつて、やはり「亡びる者」であります。如何にキング・コングでも、力道山にやられる。その力道山も終ひには誰かにやられる時が来るであらうし、またやられないでも死ぬ時も来るであらうし、人間を肉体だと見てゐる限りは、人間は所詮は亡びる者、亡者である。そこで此の「亡びる者」から「亡びない者」に移り変らせ、人間は肉体でない、久遠の生命であるといふ事を自覚せしめるのが、宗教である訳であります。だから、久遠無限の宇宙大生命と個生命たる自分とは一つであるといふ事を自覚する教へが宗教である、といふ訳であります。
<つづく>

446復興G:2012/04/18(水) 10:51:37 ID:ojEbkDH2

<つづき>
谷口雅春先生著『神ひとに語り給う』
  (神示講義 教の巻)より
「新天新地の神示」ご講義 謹写<3>

 前記 謹写<2>につづくご講義は、すでに
>>378〜381に投稿しておりましたから、そちらをご覧ください。
 中略させていただきまして、「イスラエルの十二の分派(わかれ)」に関するところを謹写投稿させていただきます。

   〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 さて「新天新地の神示」のつづきであります。

「『生長の家の神』と仮りに呼ばしてあるが、『七つの燈台の点燈者』と呼んでも好い。七つの教へとイスラエルの十二の分派(わかれ)がわが教へで新しき生命を得るのだ。わが教へはどんな宗派をも排斥するやうな狭い宗教ではない。教への太宗(もと)であるから宗教と云ふのである。」

 七つの教へといふのは、すでに説明致しました通り、七つは「完成」の数で、すべてを表すのであります。「燈台」といふのは「世を照らす光」即ち宗教であります。「七つの燈台」で「すべての世を照らす光となる宗教」といふ意味であり、智慧の光によつて迷ひの暗を消してしまふところの教へであるといふことであります。

 イスラエルの十二の分派(わかれ)とありますが、イスラエルつていふのは、五十鈴(いすず)の川の流れといふ意味であります。「いすす」といふのは五十(いす)の鈴の音即ちアイウエオ・アカサタナ・ハマヤラワ………の五十音によつて全ての言葉のヒビキが代表されますが、神はコトバであり、五十音の展開が万物であり、その万物が「統(す)」によつて統一せられる、それを五十鈴(いすず)といふのであります。

 伊勢大神宮の境内に流れてゐる川があります。それを五十鈴川と申しますのは、宇宙の万物を統一する大神をお祀りしてあるのが伊勢大廟であるからです。

  *「イスズ」の「ズ」は濁音ではなく、「スス」といふ重音です。

 日本の神社神社にお祀りしてある神々は、伊勢の大神宮ほか二、三を除いては、ほとんどすべてが人間の霊魂でありますが、伊勢の大神宮には宇宙の万物を統一する天照大神をお祀りしてあります。天(あま)といふのは「天球(あま)」であつて宇宙全体であります。「天球」即ち「宇宙全体」を照らしてゐる大神といふ意味で天照大神(あまてらすおおみかみ)と申し上げます。宇宙本源の神様が仮りに応化して、伊邪那岐大神よりお生れになつた方が、天照大神であられるわけであります。

 神仏混淆時代に伊勢大神宮の奥院に、阿弥陀仏が祀つてあつたといふ考証を誰かがしてゐられたのを読んだことがありますが、本当にそんな事があつたとしても別に不思議ではありません。阿弥陀とは十方世界光明遍照、尽十方に満つる無礙光といふ意味でありますから天照大神といふ意味と同じ意味であります。それを仏教では尽十方無礙光如来と申し上げ、別の名称を大日如来と呼び奉るのでありまして、十方世界に充ち満ちてをられるところの神様であり、仏様であり、「天球(あま)」に充ち満ちてそれを照らしたまふところの大神であります。

 そこから五十鈴(いすず)の流れ、五十音の言葉の流れが展開して万物が成る(鳴る)のであります。これを象徴して伊勢大廟には五十の鈴が宝蔵されてゐるといふことを承つたことがありますが、私はまだ拝観したことはありません。そこには鈴の言霊が五十音ある。その五十を統(ス)べるスの音が鈴(スス)であります。

 ここから五十鈴(イスス)の川の流れが出て十二に分れ、そしてこれがすべての諸国の民族の本源となつたといふのであります。だから、イスラエルの十二の支流(わかれ)といふのは、五十鈴の流れから発して世界各民族となつたすべての人類といふ意味です。
<つづく>

447復興G:2012/04/18(水) 10:53:10 ID:ojEbkDH2

<つづき>
谷口雅春先生著『神ひとに語り給う』
  (神示講義 教の巻)より
「新天新地の神示」ご講義 謹写<4>

 『万葉集の謎』といふ本が出てゐる。そしてベスト・セラーになつてゐるのでありますが、言語の類似から研究して、日本人は、今ヒマラヤの奥地に残つてゐるレプチャ民族といふ未開民族の子孫であると言つてゐるのでありますけれども、ああいふ言葉の類似といふものは、到る処にあるのでありまして、必らずしも万葉集の言葉とレプチャ民族の言葉だけではないのであります。
 大体言葉といふものは宇宙に充ち満ちてゐて、それが事物の相に応じて自然発生するものであります。聖書にある「太初(はじめ)にコトバあり。コトバは神なりき」のあの言葉のヒビキが事物となつて現れてゐる。それを表現するのに人間は自然に発生する言語をもつてするのであります。
 言(こと)は事(こと)であつてすべてのものは事であり言である。言事不二(ごんじふじ)であります。英語でも神様のことをゴドと言ふ。『万葉集の謎』にはもつと似てゐない言語を類似してゐると指摘して、レプチャ語は万葉集時代の日本語だと結論を下してゐるのでありますが、この程度の類似を持つて来て、同語源だといふ証明をしようと思へば、レプチャ語をもつて来なくても、イギリス語でも日本語と語源は同じだと言ふこともできるのであります。
 英語の単語と日本語の単語の類似は『生長の家』誌二月號(昭和31年)の明窓浄机に書いて置きましたけれども、これはレプチャ語や英語だけの問題ではなく、「世界の言語は悉く一つであつた」といふことが旧約聖書に書かれてをります。言語は事物の内的意義や状態を表現するために自然に発したものでありますから、共通の発音に共通の意義をもつてゐたのであります。
 ところがバベルの塔といふのを人類がこしらへて、それを高く築いて、つひには天までとどかせるのだといつて、高く高く塔を築いて行つたのであります。さうしたら神様は怒りたまうて、人間の我の能力(ちから)によつてはどうしても神に到達することは出来ないといふことの象徴として、そのバベルの塔を壊して、民族を諸方へ散らしたまうた。そして其の時までは言葉も一つであつたと旧約聖書には書かれてゐるのであります。

 世界は最初一民族・一言語であつたのが、神によつて四散せしめられて、それが十二の民族となつて岐(わか)れたのであります。十二と言つても、十、十一、十二、十三といふ実数ではないのであります。七つと言ひ、十二と言ひ、すべて一周期の完成を指すのであります。七つは既に申しましたが、十二は十二ケ月とか一ダースとか十二インチが一フィートとかいふ風に一つの数が完成して上位にうつる節であります。だから「十二の支流(わかれ)」といふのはすべての分派した人種といふ意味であります。

 大体事物の発展といふものは、三と五と七との倍数が節になつて発展することになつてゐます。それで七・五・三を人間生育の節としてお祝ひするのであります。何でも人間が厄年としてお祝ひをするといふときは一つの節になつてゐるときであります。周期の代り目を厄年として祝ふのであります。十二といふのは五と七の和でありまして、一年を十二ケ月といふやうにしたり、一フィートが十二インチであるとかいふ風にして一段落を示すのであります。
 わたしたちの厄年も、七・五・三の倍数になつてゐるのであります。女の人は三十九歳が大厄年であると言ひ、男の人は四十二歳が大厄年だと言ひ、或ひは還暦の祝ひは満六十歳でやる。やつぱり三の倍数であります。つまりこれらの年は三・五・七の倍数によつて展開して行くところの節の年になつてゐるのであります。

 それは兎も角、同じ言語や同じ地名がレプチャ族にもあるから、日本人の祖先はレプチャ人だといふ結論は成立たないのであります。
<つづく>

448復興G:2012/04/18(水) 10:54:13 ID:ojEbkDH2

<つづき>
谷口雅春先生著『神ひとに語り給う』
  (神示講義 教の巻)より
「新天新地の神示」ご講義 謹写<5>

 嘗て木村鷹太郎といふ人が、天孫降臨の記録にある日本地名とおんなじ地名がギリシャにあるといふのでズーッとその地名を列(なら)べまして、日本民族はギリシャ民族である、「タカアマハラはギリシャにある」といふ説を立てて、『大日本太古史』といふ部厚い上下二冊の書物をあらはされたこともあります。人類の本源はすべて一つの神から発生したのですから、レプチャ民族も日本民族も本源はおんなじだと言つてもかまはぬけれども、『万葉集の謎』といふ本がよくないのは、日本民族の祖先はレプチャ民族だといつて、未開のレプチャ民族の子孫だと幾分日本民族軽蔑の意味を含めていふところに、近頃流行の日本蔑視自己侮辱の弊害にひつかかつてゐるといふのであります。日本語とレプチャ語とが似てゐるなら日本民族はレプチャ民族の祖先だ、と言つた方がいいと思ふのであります。

 小谷部といふ人の研究を読んだことがありますが、これはまた別の説を立ててゐます。この人はユダヤ人は日本民族であるといふ説なのであります。ユダヤ人の風俗、言語、習慣などの日本人に似てゐることを列記して、イスラエル民族は日本民族である。それが十二に分れて諸方へ散つたと言ふのであります。
 これはバベルの塔が壊されて諸方へ民族が散つたといふ旧約聖書の記録にも当て嵌まるわけでありますが、その十二の民族のうちの一番すぐれた民族が東方へやつて来たガド族といふ民族であつたと言ふのです。そのガド族が日本の九州に上陸して、日本の国を建てた。それがミガド民族であると言ふのであります。ミは「御」で美称であつてガド族を尊称して、ミガド族になつたのだといふので、旧約聖書にあるイスラエルの再建といふことは日本民族の再建を意味するといふ風に、日本民族の優秀性を説くためにさういふ説を立てた人もあるのであります。

 兎も角イスラエルといふのは、コトバが神であり、万物これによつて成り、人類もこれによつて成つたが、コトバは「五十鈴」即ち五十音に展開し、それがイスラエル即ち五十鈴の川の流れであり、それが十二の分派となり、すべての民族と分れたが、凡ての民族が此の教へによつて救はれるのである、とさういふ意味が此の神示に示されてゐるのであります。別に何の民族が祖先であり、優秀であるといふ必要もないのであつて、すべての民族がこの教へによつて救はれるのであります。

   「新天新地の神示」ご講義 謹写<終わり>

449トキ:2012/04/18(水) 20:52:13 ID:/sKPaFps
 復興G様、すばらしいご投稿、ありがとうございました。『神ひとに語り給う』は特に最近、
入手が困難と聞いていますから、ご投稿は広く信徒にも有益だと思います。深く感謝申し上げます。

合掌 ありがとうございます

450ユタカ(なせば成る我ハ神の子):2012/04/18(水) 21:12:53 ID:nNFoldc2
トキ様、

誌友会板が独立したら、貼付してください。

451復興G:2012/04/18(水) 21:23:01 ID:ojEbkDH2

谷口雅春先生著『神ひとに語り給う』
  (神示講義 教の巻)より
「万教帰一の神示」ご講義 謹写<1>

   〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

   万教帰一の神示

 われに姿かたちあるやうに言ふものもあれどわれは姿なきものである。われは道である。われは霊性である。智慧である、愛である、生命である、われは如来である、われは一つにして多である。信仰深き諸方の霊覚者にわが神姿を示したることあれども、そはわが真の姿に非ず、見えたる神姿は霊覚者の心識の所現にも非ず。そは、われ神通力によつて、疑ふ者の蒙を啓かんがために、異る場所と異る人とに同じき一定の神姿を示して、神の客観的存在を実証したに過ぎない。されど、本来われに一定の神姿はない。如何なる姿も欲(おも)ひのままに現ずることが自由である。されば、嘗(かつ)てわれ汝に告げたのである『われに神殿は不要である』と。われは神殿がないとて身の入れ場所に困るやうな神ではない。供へ物も要らぬ。わが姿を見んと欲ふものは『生長の家』を読め。われは言葉である。吾が言葉を盛る雑誌こそ吾が神殿である。この雑誌がひろがるのこそわが神殿の大きくなることである。われにすがた形はない。われは霊の海である。大海原である。すべての宗教(おしへ)流れ来りて吾れに入らん。

 吾れは完成する者である。われは『七つの燈台』に燈を点ずる者である。古道も、仏教も、キリスト教も、天理教も、金光教も、黒住教も、大本教も、すべての教我に流れ入りて生命を得ん。われは大(おほい)なるものなるかな。すべての教を呑吐(どんと)して、これに生命を与へ、すべての相争ふ教をその真髄に於て握手せしめる。吾れはすべてを包容し、すべてに光を与へ、すべてに栄養を与へ、すべてを生かす地下水である。他の如何なる宗教をも誹(そし)らず批(う)たず、常に讃頌(さんしょう)と、善き言葉とを雨ふらして、それを浄めその真髄に燈を点ずる。あらゆる宗教がその真髄を礼拝して手をつなぐやうにならねば此の現実世界の改造は完成せぬ。精神界が先きで現実界はその影である。元乱れて影完(まった)からず、宗教家よ、宗派争ひをしてゐる時ではない。   (昭和六年四月五日神示)
<つづく>

452復興G:2012/04/18(水) 21:24:29 ID:ojEbkDH2

<つづき>
谷口雅春先生著『神ひとに語り給う』
  (神示講義 教の巻)より
「万教帰一の神示」ご講義 謹写<2>

   〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

〔講義〕

   本源の称は如何なるものか

 「われに姿かたちあるやうに言ふものあれどわれは姿なきものである」と、神示にありますが、これは神様とは如何なるものであるかといふことを示してゐるのであります。「われ」といふのは神様御自身を指されたのであります。時々神の姿を見たと言ふ方がありますが、本源の神様には姿がないのであります。それを無相と謂(い)ひます。無相だからどんな相(すがた)もないのかと思ふと、無相であるからどんな相でも現ずることが自由であるのであります。だから、神は無相にして無限相であるといふのであります。現象界の相のあるものはさういふやうに自由に姿を変ずるわけにはゆかんのであります。姿がないからこそ何にもさはりになるものはない、姿が限定されません。姿が限定されませんからどんな姿にも現れられるのであります。ところが現象界のものは時間空間に限定されて形が各々異つて独特の姿をしてゐる。ところが、神様は姿かたちがないから無限の姿を持つてをられるのである。また姿がないから一定の形の宮や神殿の中にをらねばならぬことはないのです。それで「吾れに神殿は不要である」と書かれてゐて、神様のお宮や神殿みたいなものは宇宙の本体神たる生長の家の神様には要らぬことを示されたのであります。

 既に古くからの誌友の人は御存じの方が多いと思ひますが、生長の家の「生」といふのは縦に生(の)びるといふ意味の文字であります。「長」といふのは横に「長く」延びる、即ち延長するといふことで横広がりの世界――「空間」を象徴してゐるのであります。縦につづいてゐるのが「時間」である。時間は縦に心の世界で象徴されるのであります。吾々のいのちを、お父さん、お祖父(じい)さん、曾祖父(ひいじい)さんと縦に遡つて行く。この遡つて行くのは時間的にさかのぼつてゆくのですね。吾々の現象的にあらはれてゐる生命の本質は「時間」の持続で出来てゐます。その時間を象徴するのに、何の某(なにがし)家の系図とか何とかいふ場合には、上から下へと縦に線を引いて、「時間」又は「いのち」の持続または継続をあらはすのであります。子孫から先祖に遡るといふ場合には下から上へと縦の線を引いて示します。かういふやうに、「時間」といふ観念は、吾々の心の世界で縦の連想を有(も)つてゐるので、それで縦の線を以つて仮りに時間を象徴的に表すのであります。

 さて十字を描きますと、此の縦に生(の)びる線が「時間」にあたるので、これが生長の家の「生」であります。「生」といふ字は、樹木が無限に生びるといふ意味が表されてゐるのであります。楠でも杉の木でも老衰することなく無限にのびます。それで時間の無限持続を象徴して十字の縦の線があります。これは時間の無限持続――即ちつづきであります。それから「長」の方は空間的ひろがりであります。かうして十字は持続と広袤(こうぼう)――「つづき」と「ひろがり」――「時間」の続きと「空間」的広がりをあらはします。この「時間」と「空間」とが十字にまとまつて、天球(あま)となり「家」を成します。その「家」即ち宇宙を形成してゐるのが生長の家であります。ですから、大宇宙全体のことを生長の家と言ふのであります。そして「生長の家の神」といふのは大宇宙の神といふ意味であります。別に「生長の家」といふ一宗一派の本尊の神といふやうな他宗と対立するやうな神ではないのであります。
<つづく>

453復興G:2012/04/18(水) 21:25:39 ID:ojEbkDH2

<つづき>
谷口雅春先生著『神ひとに語り給う』
  (神示講義 教の巻)より
「万教帰一の神示」ご講義 謹写<3>

   〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 宇宙の中に神様が生れたのではなく、神様の生命そのものの広がりが宇宙であります。
 「吾れは智慧である、生命である、宇宙である」と「新天新地の神示」 中に書かれてありますが、宇宙そのものが神様であるわけです。天理教では神様のことを「月日」と書いてをりますが、月は陰であり、日は陽であります。「時間」の方は「生命」をあらはし、生命の本質は発動的でありますから、陽であります。「空間」の方は生命が展開するための「場」となるものでありまして、受ける方でありますから受動的で「陰」であります。「生命」が天降つて来て「場」に展開する、そこに秩序が生じます。これを智慧と言ひます。「生命」と、それを受ける「場」と言ひましたが、「場」そのものも、生命の展開でありますから、本来陰陽一体であり、月日本来一つであります。それで「月日」と書いて神をあらはすといふ訳であります。

 さて其の神は「遍在」する、到る処に神が充満してゐるわけであります。日本神道では、「高天原に神つまります」といふ語で、天津祝詞(あまつのりと)も大祓祝詞(おほはらひのりと)も、始まつてゐるのであります。神道に於て高天原といふのは、↑縦線をもつて高く昇ることを象徴する「高」は時間であり、「原」は横線をもつて広がりを示す空間であります。時間と空間、「高」と「原」とが互に交叉して○(まる)く現れて「天」即ち天球を成してゐるのが「高天原」であります。だから大宇宙のことを神道では「高天原」と言ふ。天津祝詞で「高天原に神詰ります」といふのは、即ち宇宙全体に神様が充満してゐたまふといふ意味でありまして、これが即ち、キリスト教で「神は遍在である」といふところの教へに一致するのであります。神は遍在で、あまねく在(ましま)す、オムニプレゼント(omnipresent)であらせられる。神は何処にでもをられるといふので、「高天原――宇宙全体――に神つまります」と神道でいふのです。

 キリスト教の真理も、神道の真理も同じことであります。クリスチャンが日本神道を評して偶像崇拝だなどと言ふのは間違であります。佛教で尽十方に佛様が充満してゐると説かれてゐるのもやつぱりおんなじ神は遍在だといふ真理であります。それで神示に「本統の神は霊媒には憑(かか)らぬ」とあるのも、霊媒にかかるのは個別霊でありますから普遍的ではない、普遍的根本神は霊媒にはかからぬのであります。だから神示には「われは此処に見よ、彼処(かしこ)に見よといふが如くにはゐないのである」と示されてゐるのであります。何処にでも到るところに、我の内に、すべての人のうちに、宿つてましますのが宇宙の大神であります。
<つづく>

454復興G:2012/04/18(水) 21:27:08 ID:ojEbkDH2

<つづき>
谷口雅春先生著『神ひとに語り給う』
  (神示講義 教の巻)より
「万教帰一の神示」ご講義 謹写<4>

   〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

   カミの語源について

 神といふのは「幽(かす)かなる身」或ひは「隠れてゐる身」、さういふ意味から来てゐる語であります。或ひは、輝く光明の身といふ意味に於て「輝く身」といふ意味も含まれてをります。また尽十方に神通自在に身をあらはすといふ意味で、「翔(かけ)り身」といふ意味も含まれてゐます。神は姿形が隠れてゐる「光」であり、神通自在にして何処にでも姿を現すことが出来るといふ、さういふ色々の意味が「カミ」の語意には含まれてゐるのであります。「カミ」の「カ」が「隠れて見えない」といふ意味だといふことは一見コジツケみたいにきこえますけれども、コジツケではありません。

 「カ」といふ語を考へて御覧なさい。“幽かな”とか“隠れてゐる”とか“風”とか“香”とか“霞”とか、皆かすかにして肉眼でハッキリ見えないことに「カ」がつく。影などといふのも全然影つてしまつて光がないと見えない。「かがやく」といふのは、あまり輝くものは、其処にあつても眩しくて幽かであつて見えません。「翔り身」なんかも、空飛ぶ円盤のやうにあまり速力早く翔るものは見えない。結局、「隠り身」「輝く身」「翔り身」といふ風に三つに説明できるけれども神通自在で、姿が見えないといふ意味を含んでをります。

 さういふやうに、神様は姿形が見えずして遍在であり、宇宙到る処に、何処にでも充満してをられて、吾々の生命となつてをられるのであります。さういふ普遍の本体である神様には社や神殿は要らないわけであります。しかしながら、それだけが神様かといふと、さうぢやない。今申しましたのは第一義の神様であります。第一義といふと本来の意味に於てといふことです。第二義の神、第三義の神といふと、本来の意味から多少はなれて、副次的に第二義的、第三義的な意味に於て又別の神があるといふ意味であります。

 第二義の神様と申しますと、第一義の神様――実相の神様――即ち宇宙に充ち満ちてをられて、姿かたちが見えない、無相にして無限の姿の本源の神様が、無限の姿の一つを化身として現されたものであります。例へば、観世音菩薩であるとか、白髪の老翁の姿をして多くの誌友の霊眼に生長の家の神様として現れられた神様といふやうな方であります。

 ところが第三義の神様といふのは、簡単にいへば、霊魂即ち霊魂(みたま)の神であります。(幽霊とは霊魂でも神格を得ないで、迷つてゐるものですが)霊魂の神といふのは、幽体といふ体があつて、(物質ではない一種の幽質で出来てゐる「肉体と同じやうな形」の体(たい)と思へばよろしい。)靖国神社等に神としてお祀りしてあつて、神格を得てゐられる人間の霊魂であります。或ひは乃木神社には乃木希典公の霊魂がお祀りしてあるとか、或ひは東郷神社には東郷平八郎公の霊魂がお祀りしてある。護王神社に和気清麻呂公の霊魂がお祀りしてある。湊川神社には楠正成公の霊魂がお祀りしてある。生田神社に若姫君命がお祀りしてある。槵触(くしふる)神社には瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)がお祀りしてある。その他色々あるけれどもこれらはみんな霊魂の神様です。

 かういふ風な神様たちはこれは「第三義の神」であつて、個別霊即ち個々別々の霊魂であります。個別霊であるからそれぞれ個性がある、それぞれ職責が異ふ、性格が異ふ、受持が異ふわけで全能でない、從つて何でも彼でも、祈ればきいて下さるといふ訳には行かないのであります。広い意味に於ては、「霊魂(みたま)の神」も神様の中には入つてをりますけれども、「宇宙の大神」ではないのでありますが、宇宙の大神の一つの表現の中心として個性的に現れてゐられるといふことに於ては皆さんと同じであります。皆さんに個性があると同じやうに、神社に祀つてある神々にも、色々の個性があるわけであります。そしてそれぞれ司る処が異ふといふことになつてをります。
<つづく>

455復興G:2012/04/18(水) 21:28:00 ID:ojEbkDH2

<つづき>
谷口雅春先生著『神ひとに語り給う』
  (神示講義 教の巻)より
「万教帰一の神示」ご講義 謹写<5>

   〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 大体霊魂の世界といふものは、吾々の世界と密接な関係があるのであります。私たちは肉体によつて物質の世界に生きてゐると同じやうに、霊体によつて霊魂の世界に交渉をもつてをります。其の霊魂の世界も、低い波長の霊魂の世界、高度の波長の霊魂の世界と色々あります。丁度NHKの第一放送の世界、第二放送の世界、或ひは文化放送、日本放送、ラジオ東京等各局放送の波の世界が二重三重に皆一つ処、今此処にあるでせう、それと同じ様に、霊魂の世界といふものが、肉眼には触れないけれども、二重三重にあるのです。そして、その二重三重の、その奥の奥の奥に、実相世界といふのがあつて、吾々は「本体」によつて実相世界に交渉をもつてゐる。実相世界は何処にあるかといふと、やつぱり此処にあるんです。現に私たちの実相(本体)は実相世界にをるのです。現に実在世界にをるのですけれども、感覚面には出て来ないのです。五官面には出て来ないけれども其処に私の本体は居るのです。

   実相の世界とは

 霊界と一と口に申しますけれども、一番深奥にある実在の世界は実相の世界でありまして、これが第一義の世界であります。其処は天国浄土といはうか、極樂といはうか、龍宮といはうか、名前の附け方は色々ありますが、兎も角既に完全円満に成就せる世界であります。キリストが「御意(みこころ)の天に成る如く、地にも成らせ給へ」と言はれたやうに、「既に天に成る」さういふ世界が実在してゐる。

 「天」といふのは、実相の世界――実の相(すがた)の世界であつて、永遠に滅びないところの世界である。それが此処にあるのであります。或ひは佛教では何といひますか、「空」ですね。「色即是空、空即是色」といふ「真空」ですね。「真空妙有」の世界ですね。或ひは禅に於ける「無」ですね。「無」といつても、「有」と相対する「無」ではなくて、一切のものが無相にして其処に無限を包藏する「無」ですから、「相対無」でなくて「絶対無」ですね。さういふ世界があつて、それが実相の世界で、これが「本体界」であつて、「吾々の本体」が生活してをります。

 その次は霊魂界ですが、霊魂界を二つに別ければ「霊界」と「幽界」との二つになります。幽界はまだ悟りをひらかぬ霊の世界、霊界は稍々(やや)悟りをひらいた霊の世界であります。
 (後略)
 <万教帰一の神示 ご講義 謹写終わり>

456志恩:2012/04/18(水) 21:57:16 ID:.QY5jUA6
復興G様

「神ひとに語り給う」、これは、深いご講義が書かれてあるのですよね。
今、プリントアウトさせて頂きました。

アマゾンコムを見ましたら、中古本で、9、980円もしていました。

高くて買えません。
確か、昔、私も持っていましたが、また貸ししたりして、無いのか、今は手元にありませんでした。

457ももんが《宗教・歴史篇》:2012/04/18(水) 22:09:34 ID:XXCuaQns
〜ユダの福音書〜《再投稿》

『キリスト教グノーシス派』の福音書の『ユダの福音書』です。
ある意味、”光明思想“に良く似てとこもあります。
大変、面白い、『福音書』です。

神の解釈が、面白いので、是非御覧になって、下さい。


http://m.youtube.com/watch?guid=ON&amp;gl=JP&amp;hl=ja&amp;client=mv-google&amp;v=KTO3zHGIDCY

http://m.youtube.com/watch?guid=ON&amp;gl=JP&amp;hl=ja&amp;client=mv-google&amp;v=g0C0DSb4Gu4


では、一つの歴学として、御覧ください。

合掌、拝。

458a hope:2012/04/19(木) 09:04:14 ID:kcv2QXTk

人生読本 谷口雅春先生著

悪いところへ自然に手が行く


神想感を一か月も或いはそれ以上も続いて稽古なさった人が病人を揉んであげたりすると、自然にその手が相手の病気のところ、凝りのところに触れて行って、その凝りを解してあげるように手が自然に動いて来て、柔らかく揉んだり強く捻ったりあるいは急所(つぼ)を押さえたりすることがあります。神想観をした後で、「お母様の肩を揉んであげたい、どうぞお母さま肩の凝りの治るように自然に手を動かして揉ましてください」と念じてやると、たいていの皆さまでもそれができるようでありましょう。

そういうふうな事がどうして起こるかというと、人間の生命(いのち)は自他一体―――即ち、どの人間も神の生命に生かされていて元は一つという根本原理からくるのであります。人と吾とが別ものでありましたならば、決してこちらの手が、見えもしない向こう様の悪いところへ自然にゆくなどということはあり得ようがないのです。

眼で見てここが悪いのであるとか、聴診器を当てて見てここが悪いのだと指さすことなら誰にもできるのでありますが、そんな道具も何も使わないで、ただ神想観をして自他一体の観念を深めてから、人に手を触れて、「この人の病気を治して上げたいナ」という気持ちを起こしますと、自然とその病患部(びょうきのところ)に掌が吸いつけられるようにゆくのでありますが、これは皆さんが神想観をよく稽古してからおやりになれば判りますが、電気療法とか、生気術とか、指圧療法とかをお習いになった人でもできる人があります。

その時に掌が病気のところへ吸寄せられるような感じのする人もありますが、何の感じもなしに自然と何となしにそこへ手をやりたいという気持で、掌がその病患部へゆく人もあります。いずれにせよ、これは要するに相手と自分とが本来一つのものであるから、眼で見ず機械で測らずして悪いところが判るのであります。

この現象をもっと人間の身体と身体との触合(ふれあい)以上に広く考えて行きますと、機械の取扱い方や、鉱山の採掘や、経済界の問題などにも、ここをこうやればよくなるということが判るようになるのであります。もう少し放って置けば大故障の起こるというときに、何となくそこへ行きたくなってその故障を未然に防いだり、何となく前の晩に読みたくなったものが明くる日の試験に出ているなどはそれであります。

「この人を治してあげたいナ」と思って、そこへ手がゆくということを経済界でいいますと、「私の所で金が要る」」という事になっていると、そこに自然に金のある人が「お金を出してやろう」という気持ちになって自分のところへ振向いてきてくれるのも同じであります。

自然に故障のあるところに救いの手がいって治そうとしているのが「神」の働き、「全体の生命」の働きであります。この「全体の生命」のお助けを受けることができないのは、それは自分が「全体の生命」から離れている―――言い換えると自他一体の観念が欠乏していて、自分と他(ひと)とは別ものだとはっきりと自分と全体を区別し過ぎて、我と我が心で仕切りを拵(こしら)えているからであります。

言い換えるとその人が利己主義なのです。世の中が都合よくゆかないという人は、たいていこういう自分と他とを区別し過ぎた利己主義の人であります。自分の心の中に、彼と我とは他人であって、眼で見える通り物質的肉体によって分かれておる。人間というものはこれだけの一メートル数十センチの丈と数十キログラムの重量の肉体であるに過ぎない―――こう考えて「彼」と「我」とはすっかり物質的に別々で何等の連絡もないものだという心で仕切りをつけると、こちらの心で仕切りをつけていますから、こちらの必要な時に向こうからも誰からも助けてくれないのであります。

そして私は「運が悪い」と、ぶつぶつ言うのであります。「全体の生命」の助けが、我々を助けるやめに誰かを寄越そうとしても、自分の心が邪魔をしていてそうさせないのです。ちょうど、太陽の光は煌々と照り輝いても、私達が目をつぶっていれば、光は眼には入らないとおなじように、自他一体―――全体の命は一体―――の事実があっても、それを目をつぶって人間は別々なものだという観念を持っていると、自分の欠乏しているものを他から自然と補っていただく作用(はたらき)が出てこないのであります。


ところが神想観を実修し、『生命の実相』を十分お読みになりまして、「自分と「他」とが一体であり、「全体の生命」によって繋がっているという事が分かってまいりますと、病気の患部(わるいところ)へ自然に手がゆくように、経済界においても足りないところへ自然と他の手が届いて助けていただけるようになるのであります。

(つづく)

459ハマナス:2012/04/19(木) 09:34:08 ID:u5mC.eb2
神の子のみなさま

おはようございます。皆様にとって神様の法悦に満たされた一日でありますように。

    必勝の力  (『新版 生活の智慧365章』P.131)

 悲しみの来るとき、孤独感におそわれたとき、心を神に振り向けよ。神はつねにあなたの愛人であり、
最も愛ふかき慰め手であるのである。実際、変化常なき現象界の出来事に振り廻されて一喜一憂して
いるような状態に於ては、本当に魂の休まるときは来ないのである。魂の本当の平和は、移り変わら
ないもの、永遠に信頼できるものに倚り頼り、母の手にまかせ切った赤ん坊のような心持になった時
にのみ得られるのである。

 野球の打者が“三度振り”をしたからとて、相手の投手が悪いのでも、野球の開催者が悪いのでも
ないのである。自分が人生で面白くない点数しかあげ得ないからとて、人生そのものを呪ったり、
対人関係を呪ったりする理由は決してないのである。自分をさえ研けば、点数を沢山あげることも出来るし、
人生の勝者となることが出来るのである。弱い相手とのみ試合して「勝てる」と自負していて、強い相手と
試合して零敗するようでは何の価値もないのである。強敵と常に試合し、困難と常に打ち闘うことによって
その人は、如何なる相手とも互角に立ち向かう力が養われるのである。そして困難に立ち向かうとき、自己
の内に宿る“常に敵二倍力”の神を呼ぶことを忘れてはならない。

感謝合掌

460SAKURA:2012/04/19(木) 22:14:30 ID:FEa/NNlc
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ

こんばんは…
ロ−マ字の【SAKURA】で〜〜す。
今日は遅くなりましたが…毎日、此の“書物”を開きます時〜〜
「神様!お願いします」と〜〜不思議なのですが?“ピッタリ”した【答…】?
【課題…】が出て来ます…。勿論!この書籍は続きものでしょうが…
これは「雅春先生の書物」の中で…この本を開いて「人生行路の羅針盤」にと、
記載してありました。それから、【オ−プン 】します様になりまして、
“ピッタリ”した【神事…】を頂く事になりました。すご〜〜イ!!!
それでは…始めます【スタ−ト】

■【幸福を招く365章】
―――神の子の自覚は現状満足ではない―――

自分だって、自分自身は気がつかぬけれども、他の人に対して不快な思いをさせたことが
度々あるのである。考えて見れば他を責める資格など自分にはないのである。
——— 斯う気がついたとき却って自分の心が平安になるのである。神は謙れる者に
来り給うて其人を平安に護りたまうのである。人間神の子の自覚は、現在の自分は、
まだまだ内在の神性が完全に発現していないと云う自己反省に裏づけられるのである。
だから「神に救われている」と云う自覚は、奇しくも「罪悪深重の凡夫」と裏表である。
                        (谷口雅春著)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
私なりの【解釈論…】を、久しぶりに“投稿”させて頂きます…。
観覧者の皆様方、宜しかったら“拝読”していただけますと幸いです。

■「今の教え」と「本流復活」を考える・信仰/体験板/2 >>278です!!!

461金木犀:2012/04/19(木) 23:09:36 ID:zilIu2tA
『神真理を告げ給う』から
「第一章 宇宙及び人間の創造について」の一部(4)

“わたし”は創造者である。全てのものをアイディアによって創造したのである。アイディアは現象界の一切の形に先行する形である。それは“心でつくった形”である。それを人間たちは想念とか観念とか呼んでいる。ともかく“わたし”は“生命”であるからジッとしていることはない。必ず動く。必ず動くけれども物質のように無目的でうごくのではないのである。智慧によって動き、愛によって動く。わが動くところ必ず、智慧による計画があり、愛による結びがあり、生命による“生かす”はたらきがある。そこに生物が出現するのである。

何事によらず、“わたし”の生命の動きがなければ何物も創造されることはない。すべて真に存在するものは、“わたし”の創造である。“わたし”の生命が動けば必ず智慧がはたらき出す。生命と智慧とは一体であるからだ。智慧は生命から離れて独立するものではない。しかもその智慧は愛から離れて独立するものではない。本当の智慧は愛を完(まっと)うするようにはたらく。愛を完うするように働かない智慧は智慧ではなくて、知識の樹の果である。それは蛇に瞞されて、本当の智慧から脱線して物質に幸福ありと思う“ニセモノの知恵”である。そのような“ニセモノの知恵”は生命を尊重するよりも物質を獲得するようにはたらく。そのような“ニセモノの知恵”は魂の愛を獲得するより肉体の快楽を得ようとするようにはたらく。そして結局はエデンの楽園から追放せられるのである。



“わたし”は“思う”ということによって一切のものを造った。“思う”ということは、生命が或るアイディアを発動さすことである。名人が銃弾を発射すれば必ず“的”に命中する。銃弾は、あるエネルギーを持っており、そのエネルギーは“心”の狙いによってその動きが統制せられているのである。生命から発動したエネルギーは、アイディアによって統制され、その動く方向を決定せられることになって、そのアイディアの姿を具体化することになるのである。それゆえにあなたの運命は、あなた自身の発するアイディアの形をとるのである。あなたの運命を、神から強制的に課せられた宿命的なものだと考えては間違いである。あなたの運命はあなた自身の発想したアイディアが決定するのである。

462さくら:2012/04/20(金) 08:00:47 ID:tPVxKQcE
おはようございます。

  「聖道へ」          
                       谷口雅春先生著

     はしがき

本書はわたしの青年時代の人生論である。この十一月二十二日に
わたしが満八十歳の誕生日を迎へるに臨んで、初心に帰りたいつ
もりで、この『聖道へ』を読み返して見て、その解説を「生長の
家」誌の新年号に書いてたのであつた。この論文集には生長の家
の信仰と思想とが創かれて来た最初のわたしの心が書かれてゐる
ので、生長の家の信仰と思想の淵源に遡つて、その新鮮な蕾の将
にひらかうとするやうな若々しい純粋な、ひた向きな求道精神を
汲んでみたいと思はれる方には是非読んで頂かねばならぬ書である。
 キリストが再臨して天変地変による最後の審判が将に下されん
とする瞬刻限が今だと、その危機を説いた大本教にゐて、その神
の審判に耐へるやうな純粋な清浄な人間になりたいと、ひたすら
心身の浄化につとめた青年時代から、その神罰を起す残酷な神に
つひに疑ひをいだいて大本教を脱退して、至高の愛の神を求めて、
一燈園を訪ねてその尊い、”懺悔の生活”に共感し、更にそれを
契機として維摩経に触れ、つひに現世を無明縁起の世界として、
物質の否定、肉体の否定を通して實相のみ独在するといふ現在の
生長の家の思想と信仰に到達した其の真理入門の道程が、本書に
は録されてゐるのである。詳しい解説は本書の巻末に収録した今
年の「生長の家」新年号ものした法語に述べてあるから、本文と
対照しながら読んで頂くことにしたいと思ふ。共版の序文及びそ
のころ西田香師が書いて下さつた本書推薦の序文も。そのまま残
しておくことにした。

 昭和四十八年十一月
                      著者しるす

463ハマナス:2012/04/20(金) 08:24:58 ID:u5mC.eb2
神の子のみなさま
 おはようございます。皆様にとって、素晴らしい一日でありますように。

真珠は深海の底にある  (『新版 生活の智慧365章』P.132)

 悲しみの奥には聖地がある。悲しみに溺るること勿れ。悲しみの彼方に見ゆる聖地に
希望をもてよ。高価なるダイヤモンドは地殻の底に深く秘められ、高貴なる真珠は深海
の底に貝殻をもって秘められている。外の地殻や貝殻を見て、その奥に秘められてある
高貴な宝を見失ってはならないのである。今ある困難は最後の「光輝」を発見するための
坑内掘削工事だと見ればよいのである。

 すべての悩みを神からの神罰又は仏陀からの仏だと考えてはならないものである。
通行すべからざる車道を人間が通行したためにトラックに撥ねられて死傷するのは神罰でも
仏罰でもない、法則に違反し、法則に触れたからである。これは交通条例と云う法則に違反し、
人間が歩くべからざる道を歩いたために肉体と云う柔らかい物質がトラックと云う鋼鉄車に
衝突すれば、柔らかい物質の方がくだけると云う物質の法則に触れたのである。
それと同じく“心の法則”と云うものがあり、その“心の法則”に違反して触れると法則に
よって傷つくのである。その傷つきによって今後、法則に触れないようにすれば、幸福と
健康との聖地を見出すのである。

感謝合掌

464a hope:2012/04/20(金) 09:29:53 ID:kcv2QXTk

人生読本 谷口雅春先生著

ケチをつける心は卑怯な心


ところがこの自他一体の観念の少ない人は利己主義になるのでありますが、利己主義になってまいりますと、自分が偉くなるためには人を貶さなければ偉くなれないという気持ちがしてくるのであります。

自分が八十点ならば他を七十点にし、六十点にしなければ自分が偉く感じられない事になって人を嫉妬するようになります。金持ちを見れば癪に触るし、自分より点数の多い学生は憎らしいし、自分より収入の多い社員には腹が立つ。そういう嫉妬を起こす心になると、自分の心が苦しい上に自分が立身出世できないのです。他が八十点なら自分は九十点になろうと努力する人なら偉くなるけれども、そんな気持ちでなしに相手の点数にケチをつけてやろうと思って悪口を言うようになったら、人間はもう駄目であります。

生長の家が他の宗教から一時悪口を言われたのも、やはりこれは、生長の家があまり良いために他の宗教から嫉妬されたのであります。伊藤証信さんなども言っておられましたが、他の宗教が生長の家に反対したりするのは、生長の家が本当に邪教(わるいおしえ)であって、なんの力のないものなら反対しないのであります。本当に邪教なら放っておいても、値打ちのないことが誰にも自然に分かるから反対しないでも潰れてしまうのですから、反対する必要がない。

ところが生長の家の教えは釈迦の教えと同じものである。またキリストの教えと同じ真理を説いている。同じものであるがもう一つ生き生きとして説いているから、このように力のあるものが現れたら、もしかしたら自分の方が負けることになるかも知れぬ、そういう恐怖心から予防のために悪口をおっしゃるのであります。

或る誌友の集会にお坊様が出席して、「生長の家は邪教であるから止めなさい」といろいろ悪口をおっしゃいましたところ、誌友はじっとそれを聞いていましたが、そのうちの一人が立って「ただ今たいへん生長の家の悪口をおっしゃいましたが、生長の家では仏教に対してもキリスト教に対しても少しも悪口を言うのを聞いたことはありません。ただ生長の家はみんなを誉め讃えているばかりですから邪教とは思えません」といいましたので、そのお坊さんは赤面したということであります。

自分をえらく見せるためには人を貶さなければ偉く見えないということでは実にあさましいことであって、争いはそこから起こって来るのであります。生長の家の生き方では決して何物をも貶さない、どなたの悪口も言わないという事が生長の家の生き方になっているのであります。それどころか誰かに対してもその美点を見つけ出して賞めるのであります。

(つづく)

465復興G:2012/04/20(金) 12:35:18 ID:ojEbkDH2

<第二回  W E B 誌 友 会>が
●日時:4月28日(土)21:30〜
●テキスト:『生命の實相』第一巻 「七つの光明宣言」
●場所:「部室2」板

にて開催されます。その参考資料として、谷口雅春著作集第4巻 『實相と現象』 より、
『「七つの光明宣言」解義』(p.85〜147)を謹写し、20回に分けて投稿させていただきます。

 私はこの聖典ご文章謹写中に、二度、涙がこみ上げるのを押さえることが出来ませんでした。……
 皆様、ぜひご拝読、心読、霊読、体読くださいませ。

   〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

谷口雅春著作集第4巻『實相と現象』より
『「七つの光明宣言」解義』(1)

   “七つの光明宣言”とは何か

 “七つの光明宣言”というのは生長の家が発祥した最初に、生長の家は何のためにこの世に出現したものであるか、その目的及び理想並びに使命とするところを七ヵ条に分けて宣言したものであります。その“七つの光明宣言”の解説は、『生命の實相』の第一巻の三ページからずーっと載っているのでありますが、あらためて皆さんの前で直接解説する機会を得まして嬉しく思います。先ず冒頭に、

 吾等は宗派を超越し生命を礼拝し生命の法則に随順して生活せんこと期す

 と書いてあるのが第一ヵ条であります。

   生命の起源に就いて

 生命と生命の実相の話につきまして、この人間の“本体”は単なる物質ではないのでありまして“生命”そのものなのであります。しかし唯物論者に言わせますと“生命”というものは、物質がなにか微妙に集まって生命現象というものが出てくるのである――とこういうふうに普通考えられているのであります。

 たとえばソ連のオパーリンという生物学者が、『生命の起源』という本を書いておりますが、それには、最初に何か物質が偶然に集まって、太陽の光を受けて、光合成の化学作用がそこに起って、そして原始的な一種の蛋白質であるアミノ酸というものが出来た。そのアミノ酸というものは生物だけが造るものであって、そういう生物の成分であるものが自然の化合によって起ってくることがあるから、それが生命の起源である。という様な書き方をしているのであります。

 しかしながら、いくらアミノ酸ができても、それは“生命”の起源ではないのであって、それは“生命”が“排泄”したところの一つの物質、あるいは生命が“生産”したところの物質であって、“生命”というものは物質を超えたものであります。

   実験室で人工受精した人間の卵は?

 ある生物学者が、人間の卵を人体の中でなしに実験室で人工受精した。人工受精すると一つの卵が二つになり、二つが四つになり、四つが八つになり、八つが十六になるという具合に分裂して数多く増えて行くのであります。するとその人間の“卵”が“人間”になるかというと“人間”にならなかったのであります。三十二代までは分裂増殖させたのですけれどもそれ以上はできなかったというのであります。

 もっと分裂増殖を重ねて行きまして、その卵細胞が百兆になりましても、その分裂した卵が人間の姿に如何にして適当なる位置に排列せしめられて、この複雑きわまる人体組織となるか、という事が問題になるわけであります。アミノ酸がいくらできても、そのアミノ酸の分子がどのように排列せられて細胞となりその一個一個の細胞が人間の姿に列ぶのにはどうして列ぶかという事が問題なのです。

 物質には“知性”がない。“知性”即ち“心の働”がない。だからどういう形に列(なら)んだら、これが血液を送るポンプ作用をするところの心臓の構造になり得るか。あるいは心臓から出てきている血液を濾過して、本当の良い血液と、尿になるところの老廃物とを分ける腎臓のような装置を、どの様にこしらえたらできるかという事、そのような事は、知性のない考える力のない物質そのものが勝手に集まって造る事によっては決してできないはずであります。
<つづく>

466復興G:2012/04/20(金) 12:37:28 ID:ojEbkDH2
<つづき>
谷口雅春先生『實相と現象』より
『「七つの光明宣言」解義』(2)

   人間が出来るには人間の“設計”即ち“理念”が要る

 単に細胞がいくら増えても必ずしも人間にはならない。人間の形になるには「人間」にならせるところの“理念”又は“設計”がなければならない。ある細胞が増えて、その細胞が色々の形に排列されれば、色々の生物になる。猿になるものもあれば、犬になるのもあるし、また豚になるのもある。何がその細胞群を豚の形に列べるか。何がその細胞群を犬の形に列べるか。その“何が”という事、“主格”になるところの本体、それが問題であるわけです。

 アミノ酸のような物質は、ただ生命がこしらえた生産物にすぎない。その生産物を材料として、どういう形又は構造に列べるかというのは、そこにその形にならせるところの設計又は精神的原型がなければならないのであります。その精神的原型を“理念”というのであります。

 “理念”というのは、心の世界に出来た原型とでもいうべきところのものであります。原型というと、物質の型みたいに受取れるかも知れませんが、「生命」を“本質”としてそれに“叡智”のはたらきが加わって、生命それみずからが一定の人間の姿をあらわした霊的実在でありまして、それが「本当の人間」なのであります。

 皆さんの中には、この「人間」というものは、物質がただ単に集まってできた肉体であると思う人があるかも知れませぬけれども、肉体は「精神的原型」に肖(に)せてつくられた「人間」の皮袋に過ぎないのであります。

   物質の建物のできる迄に心の世界にその建物はできる

 今申しましたように、物質が“ある形”に集まる為にはその形の設計になるべきところの心の世界にある“型”というものが無ければその物質の分子が一定の豚なら豚の形に、犬なら犬の形に、猿なら猿の形に列ぶわけにはいかんわけなのであります。

 たとえばコンクリートが小さい分子として存在するのが、それが建物になる為には、建物の模型となるべきところの設計が心の世界に造られて、それが鉄筋なら鉄筋を柱として、コンクリートの分子がその上に設計通りに列べられて建物がつくられてゆくわけであります。即ち鉄筋の形の奥に、まだ「精神の鉄筋」とも謂うべき、精神の原型(設計)があって、その原型通りにセメントの分子が列べられて建物がつくられるのと同じように、吾々の肉体も、その成分たる分子が、精神的原型の形に列べられてはじめて人間となるわけであります。

   人間の生命の本質を礼拝すること

 人間の精神的型を「理念の人間」というのであります。「理念の人間」が「本当の人間」であって、それは「生命」を本質として叡智によってつくられたものでありますから、この本の四ページには、人間を「生命」として取り扱い次のように書かれているのであります。「そこでわれわれが『生命』を礼拝すると申しますれば自分自身を敬い拝むことになるのであります。自分自身が尊い『生命』であるとの自覚がすべての道徳生活の根本になるのであります」

 「生命」という言葉を使いますと、なにか抽象的なただ「生きるエネルギー」というような感じを与えるのでありますけれども、そういう漠然とした「生命力」というよりも、ちゃんと“一定の形”を持った、“精神的原型”という意味での「理念」という語を使う方が尚いっそう適当であると思うのであります。
<つづく>

467復興G:2012/04/20(金) 12:38:27 ID:ojEbkDH2

<つづき>
谷口雅春先生『實相と現象』より
『「七つの光明宣言」解義』(3)

   “霊”は形がないのではない“無相の相”がある

 旧約聖書の創世記に、神様が、全てのものをお造りになりまして、最後に人間をお造りになりまして「生めよ殖えよ、地に満てよ、これを従わせよ」こうおおせられましたとあります。そして人間を造る時「神その像(かたち)の如くに人を創造(つく)り給えり。即ち神の像の如くに之を造り、これを男と女に創造りたまえり」と、こういうふうに書かれているのであります。

 神様は“霊”であって、霊的な存在である。しかし“霊”というと、やはり“生命”という言葉と似て一種の抽象的な漠然としたような存在の如く考えるのでありますけれども、決して“霊”といっても“生命”といっても漠然としたものではないのであって確固とした理念的存在なのであります。

 ただそれは、肉眼に見えないから、肉眼の方からいうと、それは無形のものである。だから、それを“無相”という。それは、肉眼に見える形ではないから、“無相”だけれども、その“無相”の中に“無限の相”を蔵している。これを「無相にして無限相」という。無限種類の原型が“無相”の中に蔵されていて、それが肉眼に見える形となって現れるのです。

 その“精神的原型”が“理念”であって、人間に於いては、その“人間”の“理念”の形に、眼が二つあり、その眼は横に切れており、鼻が顔の中央に縦に通り、その下に口が横についているからこそ、その設計の通りに、肉体人間は横目縦鼻(おうもくじゆうび)にあらわれているのです。

 ところが根本的設計は同じでありながら皆な人相が違う。人は全部顔の感じが違うのです。実にこれは驚くべきものであります。簡単に目が横に二つつき、鼻が縦につき横に口がついていて、皆形が同じくせに、各人は全然、顔の感じが異う、雰囲気が異う。それは何故であるか。

 それは皆さんの生命の内容というものが、単なる漠然とした、「生きるエネルギー」という様なものではなくて、“心の世界”に或る“精神的原型”を持った、「個性ある生命」であるからであります。「個性ある理念をもった生命」それが「本当の人間」であるわけであります。

 皆さんは、皆、横目縦鼻の人間でありながら皆異なる顔をしている。それは皆さんの精神的原型の内容が悉く違うからなのです。神様は無限でありますから、無限の理念を内に持っておられて、そして無限の精神的原型を人間として現しておられるから皆顔が異うわけです。私は人間の顔を見るたび毎に、すべて人相が異なるので、神の無限さに驚嘆し、神秘の感じに打たれるのであります。

   何故、母から出た子の血液型が母と異なるか

 世界的に有名な血液型の専門家の古畑医学博士の研究によりますと、血液型には、A型、B型、AB型、O型とかいう風に大きく分けられているけれども、細かく検討すると、全部人間の人相の異うだけ血液型も異うということであります。しかも母親の血液型とその母の生んだ子供の血液型とが異なったりするのであります。

 赤ん坊は、母親のお腹の中では臍(へそ)の緒を通して、母親の血液が胎児に循環して、その血液によって搬ばれている養分によって養われ成長して行くのであります。だから母親の血液が循環して成長してゆくところの子供であるから、母親と同一の血液型であるかと思うと、そうではない。単に唯物論的に考えたら、母親の血液が送られ、その血液が循環して成長した子供なんだから同じ物質的成分の続きとして母と子は同じ血液型であるべきはずであります。

 ところが、そのお母さんと全然ちがう血液型を持っている子供が随分沢山ある訳でありますから、母と子は単なる物質の続きでないことが分かるのです。すなわち血液型というのは血液の人相みたいなものであってその人独特のものであり、その人独得の精神内容型をあらわしているのであります。
<つづく>

468復興G:2012/04/20(金) 12:39:07 ID:ojEbkDH2

<つづき>
谷口雅春先生『實相と現象』より
『「七つの光明宣言」解義』(4)

 皆さんの生命は結局神様から天降って来たところの独特の個性を持ったところの「神の子」なるもの、独特の“精神的原型”(理念)を持って天降ってきたところの“生命”であるということができるのであります。そしてその本源はことごとく神様から天降って来ているのでありますから、それを「神の子」というわけであります。

 ですから人間は、単に“親”と“子”とが、親の男性物質と女性物質とが集まって物質的にただ結合したものでなく、“神の子”なる個性ある霊的内容をもっていて、肉体はその内容なる個性の表現であります。だから同じ親から生れた兄弟姉妹は、唯物論的に考えたら皆同じ血液型でなければならないものが兄弟姉妹皆血液型が違い、又母親とも血液型が違うような姿が出て来るのであります。

 このように皆さんは神様から天降って来た、独特の精神的原型(理念)を持っているところの生命でありますから、その生命を吾々はみな、「神の子」として礼拝するというのであります。

   宗派を超越し万教帰一と称する理由

 さて、この第一ヵ条には、生長の家は宗派を超越すると宣言されているのでありまして、決して一宗一派の宗教ではないのであります。この万教帰一ということは、凡そ数百年もつづいて尚ほろびない宗教には、その滅びない訳がある。

 それは人間を救う真理が、それらの宗教には金線として一本ズーッと通っている、その一本ズーッと通っている真理のみを純粋に押し出したら、万教はすべて一つの真理に帰一するのであって、各々異なる教義の宗教だと見えるのは、その宗教出現の時代の常識や知識の程度に従った夾雑物がまじっているからである。その夾雑物を取り除いて純粋の真理化すれば、みな同一の真理となる――それは恰も世界の何処の金鉱で採取した鉱石も鉱石だけを見れば皆品質がちがうけれども、その夾雑物を取除いて純金にすれば皆同じ“金”になるのと同じだと言うのであります。

 生長の家は創価学会の様に「あらゆる宗教は邪教である。大石寺にある『楠の板』を本尊として拝む日蓮正宗だけが正しいのである」というような「物」を拝む宗教ではないのであります。「物」を拝むと拝物宗教になります。「物」には全然同じ物は世の中に一つもありませんから、自然に他教排斥になるのであります。

   生長の家は民族の文化的遺産を尊敬する

 生長の家は全ての過去の文化的遺産というものを尊敬する。人類の文化的遺産というものは、全て今言いました生命が此の地上に生れて、生み出して来たところのものでありますから、それを尊敬しなければならない。これは生命を尊敬するという根本的な立場から自らそうなって来るのであります。

 そして吾々の祖先――祖先として生れた生命達――が、努力をして築き上げて来たところの全ての文化的遺産に対して尊敬を払って、それを無闇に否定してしまわないのであります。ですから皆さんの祖先が或る宗教を築き上げて、それによって祖先の魂が或る“安心”を得、ある程度まで救われたということは、それは確かに立派なことであって、その築き上げたところの宗教の中には必ず立派な真理が宿っている訳なのであります。すなわちそれには「真理」が宿っている。人間の魂がそれに触れると、喜びを得、安心を得、そして生き甲斐を感ずる様な真理が色々の立派な宗教には必ず宿っているのでありまして、吾々の祖先はそれを信じて来たのであります。
<つづく>

469復興G:2012/04/20(金) 12:39:56 ID:ojEbkDH2

<つづき>
谷口雅春先生『實相と現象』より
『「七つの光明宣言」解義』(5)

 ところがそれらの宗教の教がその時代を過ぎて次から次へと伝わっている間に段々と歪んで来る。そしてその一番最初の教祖の発見したところの真理と言うものが埋没されて埃(ほこり)につつまれて、本当の姿を現さなくなっているのが現代の多くの宗教の現状である訳であります。そこでそれらの宗教の神髄を埋めて覆い隠している埃をきれいに払って、「あなたの祖先の宗教の奥にはこう言うような立派な真理があるのですよ」と、こういうように示してあげるのが生長の家の宗教である訳であります。

   “七つの燈台の点燈者”という意味

 それですから生長の家の教は「七つの燈台に燈を点ずる者」と呼ばれている。「燈台」というのは「世を照らす光」即ち宗教の象徴であります。宗教は世を照らす光として、その光を水先案内として人生の航路を歩んで行けば暗礁に乗り上げる事もないし、本当の正しい行くべき港に着くことが出来るのである。

 そういう真理の光が、祖先の時代から宗教という燈台に点(つ)いておったんだけれども、月日がたつにつれて年代を経るにつれて、その燈台の窓硝子が煙霧で曇ってしまって、光を放たぬ様に成ってしまっている。その燈台の窓硝子を綺麗に拭いて輝くようにしてあげるというのが生長の家の宗教であります。それで、今までの“祖先の宗教”+“生長の家”ということにした時に初めて祖先の宗教が光を放って来る訳であります。

 生長の家に触れなかったら埋没されたままで、光を放つことなく、単なる葬式だけを営む宗教になっていた宗教が多かったのでありまして、家族の誰かが死んだ時にお坊さんを呼んで来て拝んでもらうのが何宗という宗教だと云うような、そういう単なる“葬式宗教”になってしまっておった眠れる宗教が生長の家に触れると、光を放って、“祖先の宗教”のまま改宗しないで素晴しい功徳を得ると云う事になるわけであります。

   無限の内容を内に蔵する人間の生命

 さて、吾々の生命は、神の生命が天降って来たものでありますから、私たちの生命の内には無限の内容を持っているのであります。無限の内容、無限の可能性、無限の力、無限の美しさを内部に持っているのであります。けれどもそれが現象界に現れて来るのには、時間的に一定の順序を追って、「段々生長して来る」という形において現れて来るのであります。それが次の“七つの光明宣言”の第二ヵ条であります。

  吾等は生命顕現の法則を無限生長の道なりと信じ、個人に宿る生命も不死なりと信ず。

 すなわち、生命が現象界に現れることを「生命顕現」と、ここには表現されているのであります。生命が顕現してくるには一定の法則を通して“無限生長”という姿を持って出て来るわけであります。それはちょうどあの映画の物語の過去・現在・未来が、ひと握りの渦巻形フィルムの中にこういうふうに巻き収められている。(図を黒板に書いて)この中には過去・未来・現在が一握りの中にあるのであります。映画のフィルムは時間・空間を超えた実相の世界のたとえであります。つまり過去・現在・未来がそのまま「超次元」の中に握られている訳であります。

 それが現象世界に現れてくるとき一駒一駒がこういう具合に段々巻きもどされて出てきて、レンズがあって、光がこう来てレンズで屈折して空間的にひろがりを生じて、銀幕にうつるという事になるのであります。フィルムが展開するに従って(図で説明しながら)段々現在が出てきて、それがやがて過去になり、そして未来のひとこまが新らしく出て来て現在となる、というように、時間的流れというものに従って、超次元の世界に本来ある“過去・現在・未来”が悉く順序を通して出て来るというようになるのであります。

 それは丁度種をまいたら、種の中にその植物の「過去・現在・未来」がもうすでにあるわけなのが、それが植物の発芽、若葉、茎の生長、蕾(つぼみ)の出現という風に出て来るようなものであります。
<つづく>

470復興G:2012/04/20(金) 12:41:10 ID:ojEbkDH2

<つづき>
谷口雅春先生『實相と現象』より
『「七つの光明宣言」解義』(6)

   朝顔の花にたとえて理念が現象化することを説明する

 よく私は、この真理を説明するのに、朝顔にたとえることがあるのですが、朝顔の種を播いたら、その種の中に、植物の「過去・現在・未来」が既にあるのですが、併しその種の中にある「理念」というものは、現象界の“時間・空間”を超えた世界でありますから、顕微鏡で見ても見えない。顕微鏡は時間空間の縦横厚みの世界のものだけを拡大して見るのだから、種の奥の奥にあるところの縦横厚み以前の、奥にあるところの“朝顔の花”の形というものは顕微鏡で見ても解らないのであります。

 けれどもその種が発芽して段々と蔓(つる)が出てきて、蕾ができて葉が出て花が咲くと、その花は朝顔の花になり朝顔の種が出来る。それはその種の中に既に必ず朝顔の花となり、実を結ぶべき原型があるからであります。

 さっき言いました人間の人相が皆異うのと同じように、朝顔なら朝顔、赤い花の朝顔になる種は、必ず赤い花の朝顔になるべき精神的原型が、その種の中の超次元世界にあって、それが現象界に一駒一駒あらわれて、それが段々生長する姿となり、そして蕾の形に生長し、さらに蕾が大きくなって花咲くという形に生長してくる。これがす.なわち「生命顕現の法則は無限生長なり」ということであります。

 ところがそれが生長して実を結んだら、その朝顔は枯れてしまう。その朝顔が枯れてしまったら、朝顔の生命は終りかと思ったら、終りではないのであって、そこにちゃんと次の年に播かれたら、そこから又同じ朝顔の花の形の出てくる「原型」がそこに種を契機とした超次元界にあるわけです。すなわち朝顔の花の精神的原型――理念なるものがそこにあるわけです。

 だから、現象の朝顔に宿っている朝顔の生命も種の中にある朝顔の生命(いのち)も、それは朝顔の花の形が死ぬとともに死ぬのではない、常に超次元の世界に保存されている訳です。個人内に宿っているところの生命もやはり永遠不滅の生命であって、肉体が死んでも死する訳ではない、また生れ変ってくるのであります。それですから、皆さんの生命は幾度でも生れ変って、それを繰返す毎に無限に生長しているのであります。

   人間は“生れ変り”を続けて魂が無限に生長する

 ヘンリー・フォードとトラインというアメリカの光明思想家の会話の本の中には、こういうことが書いてあります。

 「キリストは三十三歳で死んだけれども、彼は老人である。」

 これはどういう意味かというと、彼は何遍も“生れ変った”のである。そして彼はこの世の中においては三十三歳で死んだけれども、しかしその“生れ変り”の数の多さにおいて年齢を数えるとしたならば非常に老人である。だから、このような立派な真理を説くことができたのである――というような意味のことをいっているのであります。

 佛教においても、この生れ変りということは、繰返し説かれているのであります。たとえば法華経の常不軽菩薩品の中にもでています。
<つづく>

471復興G:2012/04/20(金) 12:41:48 ID:ojEbkDH2

<つづき>
谷口雅春先生『實相と現象』より
『「七つの光明宣言」解義』(7)

   常不軽菩薩(じょうふきょうぼさつ)のこと

 常不軽菩薩という高徳の菩薩があって、彼は「吾常に人を軽(かろ)んぜず」といって、すべての人間を拝んだ。すべての人間のうちには“神の生命(いのち)”“佛の生命”がやどっているのであるから、どんなルンペンでも、どんなヤクザでも、わたくしはすべての人間を軽んじないのである。といって出逢うすべての人間を拝んだ。どんなヤクザでも、どんなルンペンでも皆、

「あなたのうちには佛様の実相が宿っていらっしゃいます。ありがとうございます。将来かならずその佛の実相が現れてくる方に違いございません」といって拝んだ。すると、ヤクザの男が、

「何が俺が佛だ、馬鹿なこというな。」といって石を投げ付けて、菩薩を傷つけようとしたら、常不軽菩薩は、石の届かぬ所へ行って、

「貴男(あなた)が何んとおっしゃいましても、貴男様は佛様に違いございません」と、一心に拝んだ。常不軽菩薩はこうしてすべての人間を礼拝した功徳によって、今、釈迦牟尼如来としてここに現れているのである――と釈尊は自分が常不軽菩薩の生れ変りだといっておられる。そういうように“生れ変り”の説を、お釈迦様も説いておられるのであります。

 さて、お釈迦さんやキリストがこの世の中にでてこられて、人類救済のために真理をお説きになることができたのは、一遍ぐらいの“生れ変り”ではなく、幾百回も幾千回も“生れ変って”いろいろの苦労をなさって修行せられた結果、真理を悟られたのであります。

   釈尊も人生の意義を探ねられた

 お釈迦さんは自分の生れた王宮におれば、非常に贅沢な楽な生活ができたはずなのに、自ら人生問題に悩まれて、王宮から家出されたのです。そして、人間は何のために生きているのであるか、人生の意義はどこにあるかを知りたいとおもって、神経衰弱のようになって、悩んでおられた。そしてとうとう家出してからバラモンの先生について教をきいたけれども、よくわからない。

 それで六年間ウルビルワーという林のなかに這入ってそこで食うや飲まずのきびしい断食に近い生活を送って、痩せさらぼうて「苦しんで、苦しんで、行をしたら真理がわかるであろう」とおもって肉体を苦しめて修行なさったけれども、どうしても真理がわからなかった。それでお釈迦さんはついに苦行をあきらめた。

 そして最後に、「苦行は悟りの因(たね)にあらず。」と悟られまして、いくら肉体を苦しめても悟りの原因にならない。というので、あの「出山(しゅっせん)の釈迦像」にあるように、肋(あばら)の骨がいっぱい飛び出した骨と皮との痩せさらぼうた姿で苦行林からでてこられまして尼連禅河(にっれんぜんがわ)のほとりで坐禅を組んで、「人生何の意義ありや」と瞑想にふけっておられた。

 その時に、ひとりのバラモンの娘が、供養のために、牛乳のおかゆを持って参りまして、「どうぞこれをおあがり下さいませ」といって、釈迦に差出したのです。釈迦はそれをお飲みになったわけです。その時、釈迦は忽然として悟りをひらかれて釈迦牟尼佛となられたのであります。

   釈尊はこのように悟られた

 その悟りというのはなにかというと、「山川草木国土悉皆成佛(さんせんそうもくこくどしっかいじょうぶつ)、有情非情同時成道(うじょうひじょうどうじじょうどう)」ということであったのであります。わかり易くいうならば、山も川も、草も木も、国も土も、悉く皆成れる佛である。佛の生命そのものが、天地間の万物として表れているのであるとお悟りになったのであります。
<つづく>

472復興G:2012/04/20(金) 12:42:27 ID:ojEbkDH2

<つづき>
谷口雅春先生『實相と現象』より
『「七つの光明宣言」解義』(8)

 山や川をわれわれは普通あれを鉱物だとおもっているけれども、あれは鉱物ではないのだ、佛の生命なんだ。草や木は植物だと思っているけれども、あれもやっぱり佛の生命が表れているのだ。国土もこれは、鉱物だとおもっているけれども佛の生命が表れているのだという意味です。そして「有情非情同時成道」の“有情”というのは「情(こころ)のあるもの」“非情”というのは、「情(こころ)のないもの」無機物みたいなものです。情の有る生物も、情の無い無機物と思われているものも、悉く同時に、今ここに、天地いっぱいの「道」を現成しているのだという悟りをえられたのです。

   太初(はじめ)に道(ことば)あり

 「道」というのは「コトバ」とも読む字です。この字は「首(はじめ)」という字に「辶(しんにゅう)」がかけてありまして、「首(はじめ)に進むもの」が道なのであります。天地の万物がうまれる前の、その元始(はじめ)に、まずあったものが“道”であります。宇宙にミチ満ちておって、一切のもののはじめである。それですからこの「道」という字は「ことば」とも読める字なんです。

 「太初(はじめ)に言(ことば)あり、言は神と偕にあり、言は神なりき」というふうにキリスト教の日本訳のバイブルのヨハネ伝の第一章に書かれておりますが、明治時代に和訳された聖書に「太初に言あり」というところを「太初に道(ことば)あり」と書いて、その「道」という字に「ことば」と振り仮名がつけてあったものです。この「道」という字は、ギリシャ語のLogos(ロゴス)という字の訳で、はじめに進むところのもので、宇宙にみちみちているところのコトバであって、人間の口からでる言葉でないから「道」という字の方が当てはまるのであります。いいかえると神の生命(いのち)のことであります。

 そこで「有情非情同時成道」というのは、心あるものも、心なきものも同時に――今ここに――神の生命が現成しているのである、というのです。

 「現成」とは、現に今成り鳴り響いているという意味であります。「成」というのは、すべてのものは“神”即ちコトバの鳴りひびきによって成就しているのでありますから、それで「成る」も「鳴る」いずれも、語源が同じなのであります。キリスト教の聖書には、「太初に言あり、言は神と偕にあり」という風に神を言として表現しておりますが、神道では、神様を「命(みこと)」といっている。「みこと」というのは、「御言(みこと)」でありまして、コトバであります。宇宙にみちみちている御言(みこと)すなわち言(ことば)が神であります。

 「言(ことば)」といっても、宇宙にみちみちている言は、われわれが咽喉からだすような貧弱な言葉ではないのでありまして、宇宙にみちみちている言は、ちょっと想像しにくいけれども、ラジオやテレビが発達しました今では割合に説明しやすいのであります。

   宇宙に満つる言(ことば)としての神

 皆さん、ここには、ちゃんとラジオの放送局からきている言葉があるのだけれども、皆さんはその言葉を目で見ることができず、耳できくことができないのであります。しかしラジオ・セットを持ってきて、波長を合わせたらちゃんと言葉がでてくるのであります。

 もしこのところに放送されている言葉がなかったら、いくらラジオ・セットを持ってきても言葉がでてくる筈はない。いまこのところにはラジオ・セットを持ってきても、持ってこなくても言葉があるのです。だから、ラジオ・セットを持ってきて波長を合わすと、その言葉が現象化してでてくるのです。

 そういうように、神様の言(ことば)というものは、耳に聞こえないでも、神様の心のうちに「これを、こうしよう」とコトバで想い浮かべられたら、それが想念でありまして、想念すなわち言葉であります。そのようなわけで、宇宙には、神様の言がみちみちておりまして、それは言でありますから、鳴り響くわけであります。で、言葉が「鳴る」と、全てのことが「成る」ということに成るわけであります。
<つづく>

473復興G:2012/04/20(金) 12:43:01 ID:ojEbkDH2

<つづき>
谷口雅春先生『實相と現象』より
『「七つの光明宣言」解義』(9)

 「言」と「事」とは語源が同じなんです、「言事不二(ごんじふに)」というわけで、「言」の発するところ、必ずそれが「事」として現れるということになるのでありまして、すなわち「言葉は鳴り」「事は成る」のであります。このことをすべての事は、「言(ことば)」すなわち、「想念」が形に現れているというのであります。

 ここにこういう場合がありますが、この湯呑は陶器である。陶器は陶土という粘土みたいな物質を固めてこしらえたので、物質がもとであると考える人があるかも知れませんが、物質が、勝手にスーッと、ここへ出て来て、こんな湯呑の形になったのなら、物質がもとだけれども、この物質をこういう形にならべて、斯くあらしめたのは「陶器師」の心の中に作られた「思い」が、それが形に現れたのでありますから、すなわち、心の中の「思い」というのが言でありまして、その言が形に現れたのですから、これは言が鳴り響いて湯呑の形になっているのであります。

 これは陶器だけではない。全てのものは、みなコトバが因(もと)になって出来ている。だから、湯呑のことを、「これは湯呑なり」という。「これはタオルなり」という。「これは書物なり」という。「なり」というのは「也」であり、「鳴り」であり、「成り」であり、コトバが実現しているという意味であります。

 それを口語体でいいますと、「これは湯呑と言うものである」「これはタオルと言うものである」「これは書物というものである」というのであります。

 「言うもの」とは「言葉によってなり立っている」という意味で、そのことを吾々は無意識のうちに知っておって、そういう言語を使っているのであります。

 一切のものは物質のように見えているけれども、物質で出来ているのではないのでありまして、悉く「心の世界に想い浮かべられた言(ことば)」、言い換えると「想念」が形に現れているのであります。このように一切の物は想念が形に現れたものである。

 世界の革命でも、想念によって行われる。マルクスが『資本論』を書いた。その本の中の想念がロシヤに共産革命を起こし、中国に共産革命を起こした。マルキシズムの想念が、全世界を風靡したならば、全世界に社会主義革命とか、共産主義革命とかいうものが成就する、想念は創造力であり、世界を動かす。

 そういう共産主義革命に対して、もっと完全な理想主義社会建設の想念をもっている吾々の「生命の実相」の想念というものがそれであって、これが、社会主義革命の想念に打ち勝ったら、神の世界にあるところの、独特な理想的な有様が、この世界に実現する、すなわち理想世界が実現するというふうになるわけであります。

   吾々の生命は無限の可能性をもっている

 さて、「七つの光明宣言」の第三ヵ条には次の如く宣言されております。

  吾等は人類が無限生長の真道(まことのみち)を歩まんが為に生命の創化の法則を研究発表す。

 吾々の生命は神から天降って来た神の生命そのものですから、「無限の可能性」を持っておるのであります。既に「実相」に於いては無限がある。しかし、現象面から見ると、それはまだ完全にあらわれていないので可能性として存在する。そして、ある時間的流れを通して徐々に、その無限内容が生長という姿で展開してくるということになるのであります。

 このことは既に申しましたが、その展開のしかたには、法則があるわけであって、正しい法則に則とらなかったならば、色々と苦労をして、遠廻りに麓をドウドウめぐりして、なかなか早く生長しないということになるのであります。それですから、早く、人類の生命が「無限の可能性」を出来るだけ多く展開して、早く人類が幸福になって貰うように、生命が創化作用を、完全にいとなむ法則を研究して発表するのが生長の家出現の使命だという宣言であります。
<つづく>

474復興G:2012/04/20(金) 12:43:39 ID:ojEbkDH2

<つづき>
谷口雅春先生『實相と現象』より
『「七つの光明宣言」解義』(10)

   愛を実現するのは祈りと愛語と讃め言葉である

 宣言の第四ヵ条は次のように書かれております。

  吾等は生命の糧は愛にして、祈りと愛語と讃嘆とは愛を実現する言葉の創化力なりと信ず。

 さてその生命の無限生長を速めるためには、祈りと、愛語と、讃嘆との「言葉の創化力」が必要なのであります。生命の糧は愛であって、愛は生命の食糧みたいなものです。しかし食糧が与えられても、それを消化して同化吸収させなければならない。それにはどの様にしたらいいかというと、祈りと愛語と讃嘆との言葉によって、その愛をしみじみと感じさせ、相手の生命が愛によって培われて生長しやすいようにしてあげるのであります。創化作用というのは形なき状態から形あるものに化して創り出すはたらきであります。

   祈りの意義について

 「祈り」といいますと、普通の宗教では、たいてい神に懇願する意味につかわれています。神様にかきくどき、泣き付いて、「私は貧乏で困っているのであります。どうぞ神様、何とか今日の食事を与えたまえ。」という様な祈りをしたり、「私は病気で困っているのです。神様お慈悲がありましたら、この病苦からお救い下さいませ。」と縋(すが)り付き泣き付くのが、いわゆる「祈り」だと思われていたのであります。

 けれども、生長の家の祈りは、神様のおこしらえになった世界には、神は全能であり、全智であり、無限の智慧であり、無限の愛である――その神様が設計せられてお創りになった世界は完全であって「悪いもの」など本来無いのですから、「悪いものを直して下さい」というようには祈らないのであります。

 創世記の第一章には、「神その造りたる諸(すべて)の物を視たまいけるに甚だ善かりき」と、このように書かれているのでありまして、神様御自身が自分の造った一切のものを点検なさいまして、「すべて善し、悪いものは無い」と宣言なさった。それに対して「悪いものがあるから、神様どうぞお慈悲でこれをお直し下さいませ」と頼むというのは、ちょっと矛盾しているではありませんか。

 ですから、生長の家の祈りというものは、そういう「悪いもの」があると認めて、それをなんとか「神様のお慈悲で、善い状態に改善して下さい。」というような祈りではないのであります。「神様のおこしらえになった一切のものは善である」ということを、生命(いのち)の底から宣言する。「命宣(いのり)」というのが「祈り」である。「イノリ」の「イ」は命という意味であります。「ノリ」というのは「宣(の)り」即ち「宣べる」ということでありまして、吾々は命の底深く「すでに完全な姿がある」ということを宣言する。そしてそれを確認するのです。それが本当の祈りであります。そしてその想念を心の想いの世界にそれを確認した時に、それが現れてくるということになるのであります。
<つづく>

475復興G:2012/04/20(金) 12:44:22 ID:ojEbkDH2

<つづき>
谷口雅春先生『實相と現象』より
『「七つの光明宣言」解義』(11)

   何故今までの宗教は人類の道徳心の進歩に貢献しなかったか

 今までの宗教家が、あるいは教育家が、人間を善くしようと思い、子供を善くしようと思って一所懸命に道を説いたり、学校で教えたりしておっても子供がどうしてもよくならないのは何故であるかというと、心の底深く、「人間は罪人である。罪悪深重の凡夫である」と、その子供を本来悪いものと認めて、「ここに不良少年がいる。」「ここに不良少女がいる。」「ここに非行少年がいる。」という風に、「悪いものがある」と命で宣言(いのり)して、それを直そうとおもったから直らなかったのです。

 創世記には「アダムの名付けた通りに生きものはなった。」と書いてあります。アダムというのは、モーゼが霊感によって天地創造及び人間創造を書いた神話に於いて、人間の一番の祖先で、人間を代表しているのであります。人間そのものが、自分が名付けたとおりのものに全ての“生きもの”はなるのだという真理が、象徴的に書かれているのであります。

 人間が“言葉の力”で名づけた通りのものになるのですから「ここに非行少年が居る。」「お前は非行少年である。」「お前は不良少年である。」と名付けたら、その通りになるのです。

 今まで色々の宗教家があらわれて、人類を善導しようとした。釈迦牟尼佛が現れて、二千六百幾十年、キリストが生れて約二千年、その間に釈迦の弟子である坊さんや、あるいはキリストの弟子であるところの牧師や宣教師達が、一所懸命に道を説いて来たけれども、少しも人類がよくならなかったのは何故であるかというと、彼らの祈りが間違っていたからです。

 命の底深く、何を命宣したかというと、キリスト教では人間は「罪の子」だと宣言し、佛教では「罪悪深重の凡夫」であると宣言して、「悪」を言葉の力で祈り顕しておったのです。まるで、すべての人間が罪人なるように、命の底深く宣言しながら、どうして人類が善くなることができましょう。それは、もう実験ずみなのです。

 そこで吾々は、祈りを変えなければならない。「神様のお造りになった人間には、非行少年だとか、不良少年だとかそんなものは無いのである。皆な“神の子”で素晴しいのである。」ということを命の底深く宣言して、その生命の実相を拝むのです。これが本当の正しい祈りなのです。この正しい祈りを行った時に、始めて相手が善くなるのであります。

 それが実際善くなる実例は各地にある生長の家の練成道場で毎月実験されて成果を挙げているのであります。だからこの世界をよくする為には生長の家的な「人間の実相は神の子であって本来完全である」という真理を宣言して、それを心にハッキリ認めて、人類の善なる実相を礼拝する行事を行う人たちが殖えることによってのみはじめて人類がよくなるわけであります。

 御存知の通り、生長の家では、不良少年や非行青年が優良な子供に一変するほかに病気が治る実例が随分沢山出ているのでありますが、皆さんの様に若くして元気で滅多に病気にかからぬというような人は、病気が治った実例をあげても、たいして興味が起らないのでありますけれども、病気が治る実例は何を示すかというと、これは物理学の実験室において科学者が小さな実験の設備機械の中でやることが、大いなる意義をもっており、それが世界を変貌さすことになるのと同じです。

 例えば、どうすれば原子の崩壊が連鎖反応をおこして原子爆弾になるのだとかいうようなことは小さな実験室で実験される、それがもとで、今世界が全滅か、全面的に戦争禁止かの境に立っているようなものであります。それと同じように、一個の人体に於いて、そこに病人があっても、神は病気を造らないから病人はないのであるということを徹底的にそれを拝んでみることによって、病気が消えてしまうという事実によって、全ての人間は皆な神の子であって完全であるということを、それを実証する証拠となるわけであります。
<つづく>

476復興G:2012/04/20(金) 12:44:59 ID:ojEbkDH2

<つづき>
谷口雅春先生『實相と現象』より
『「七つの光明宣言」解義』(12)

   生命の糧は愛である

 さて、この光明宣言の第四ヵ条に、「生命の糧は愛にして」と書かれているのでありますが、愛とは何であるかというと、『生命の實相』の第十三巻、倫理篇に、「愛の感じは自他一体の感じである」とこう書かれているのであります。「愛」というものはいったいなにかというと、肉体が別れておっても、彼と吾と別々の存在のように見えておっても、「互いに一体だ」という感じであります。それで、ある青年が、あるお嬢さんを愛するとする。肉体は自分と彼女とは全然別々であり、体格も違うし、性別も違うけれども、しかし本来一体であるという感じが、すなわち「愛」という感じに現れてくるわけなのであります。

 吾々生長の家家族が、人間は神と一体である。神と同体であると申しますと、人間が“神の子”であってたまるものか、人間は“罪の子”だ。こういうクリスチャンもあるし、人間が神と一体であるというのは不遜なことだという。神は人間の「主」であって、人間は神の「僕(しもべ)」にすぎないのである。というように、このキリスト教信者の中では、人間を「神の子」といわないで「神の僕」であるという人などがあるのです。だけども、聖書の中にキリストははっきりとこう言っておられるのであります。

 「汝らもし我が命ずる事をおこなわば“我が友”なり。今よりのち我なんじらを“僕(しもべ)”といわず、“僕”は主人のなす事を知らざるなり。我なんじらを“友”と呼べり。」

 このようにヨハネ伝に書かれてあるのであります。これはキリストが磔(はりつ)けになる直前の言葉でありますが、それで僕というものは、主人の心がよくわからない。僕は僕だけのことを考えておって、主人の心は解らないのである。若し人間が神の僕ならば神様の御心はわからないのであります。「併し人間はそんな神様なる主人のことがわからないような、そんなつまらないものではないんだ、イエス・キリストと同じく同等の神の子であるから、これからお前達を友と呼ぶのである。」とこうイエス自身が言っているのであります。

   神との自他一体感が「神を愛する」ということである

 或る時、弟子が、イエスに対して、「誡めの内で一番尊い誡めは何でございますか」と訊いた。誡めというのは道徳律とでもいう意味であります。道徳律の中で一番尊い道徳律は、いったい何でございますか。といってたずねた時に、マタイ伝の二十二章で、イエスはこういうふうに答えておられます。

 「『なんじ心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして主なる汝の神を愛すべし』これは大にして第一の誡命(いましめ)なり」といっているのであります。それでここに「主なる神」とありますから、人間の方は僕で、主人であるところの神様を愛するのであるかというと、そういう意味ではないのです。「なんじ心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、主なる“汝の神”を愛すべし。」といわれた教に注目すべき言葉があるのです。

 「汝、イエスの神を愛すべし。」とはいっておられないのです。「主なる“汝の神”を愛すべし。」即ちお前の主人公であるところの“汝の神”を愛すべし。とこう言っておられるのであって、すべての人間には、その自己の内に神が宿っているということをイエスは認めて、「汝の内に宿っている汝の主なる神を愛すべし。」と、このように言っておられるのです。

 その時まで弟子たちは自分の内に神が宿っているなんて知らないで、罪が宿っているくらいに思っておったのですね。ところがそうではないのであって、汝の神が、汝の内にあるのだから、それを愛すべし。とこういわれたわけなのであります。
<つづく>

477復興G:2012/04/20(金) 12:45:33 ID:ojEbkDH2

<つづき>
谷口雅春先生『實相と現象』より
『「七つの光明宣言」解義』(13)

 「愛する」とは「自他一体」の自覚でありますから、神を愛するとは、神と一体であると認めることをもって第一とするのであります。妻を愛するとは妻と一体であると認めること、子を愛するとは、子と一体であると認めること。隣人を愛するとは、隣人と一体であると認めること。この一体であると認めることが「愛」であります。「主なる汝の神を愛すべし」とは、汝に宿っている神と一体であると認めることが第一であると仰せられたのであります。

 色々の掟、すなわち“殺すなかれ”とか“盗むなかれ”とか、“姦淫するなかれ”とか“偽りの誓をたてるなかれ”とかいうようにモーゼの十誡には色々書いてありますけれども、何よりも一番尊い誡は、神と一体であることを認めることが第一である。「ここに自分の内に神が宿っておる。自分は神と一体である」という中心自覚が伴わなかったならば、本当に「神を愛する」ことは出来ないのであります。それですから、自分が、神様の本当の子であるということを知らなければ、神を愛するといっても、本当に愛することはできない。お前は神様の継子(ままこ)であるなんていうのだったら、やっぱりひねくれてしまって本当に神様を愛するわけにはゆかないでしょう。

 あるいは神様が雲の上にいらっしゃって、吾々の一挙手一投足――何でもやっていること――を雲の上からにらんでおって、「あいつ間違いをした、一つ罰をあててやろうか」と思って裁判官のようににらんでいると思ったら神様を愛するわけにはゆかない。それでは神を畏れるかも知らんけれども、本当に神を愛するわけに行かないんです。それですから、神を愛するためには、神と吾とは、「一体である」という中心自覚がなければならないのであります。

 これに反して、神と人間とを、主人と下僕との関係に見たて、神を愛しなければ罰せられると思って、愛しようと努力し、愛したと同じ行いを外に表しても、「罰があたる」と思って、恐怖心で一所懸命やっているのでは、それは愛しているのではなくて、忠実に努めてはいるが、本当に神様を愛しているということにはならないのです。
 神を愛するとは、自分が神の子である。言換えれば、「神の生命とは一体である。」と自覚することです。さらに極言するならば、「自分は神そのものである。」という中心自覚があってこそはじめて吾々は神を愛することが出来るのであります。

 (註・自分が「神そのもの」であるということについてはデーヴィス氏著『人間とは何か』によくあらわされている。読んで頂きたい)

 この問題がすなわち「吾等は生命の糧は愛にして」というわけでありまして、神と一体であるという根本自覚を得た時に、生命が本当に成長する栄養を得て、生長するわけであります。
<つづく>

478復興G:2012/04/20(金) 12:46:09 ID:ojEbkDH2

<つづき>
谷口雅春先生『實相と現象』より
『「七つの光明宣言」解義』(14)

   内部に宿る“無限の可能性”を発揮するには

 正しき祈りというものは「悪」の存在をみとめて、「神様どうぞ、この悪を取除きたまえ」と懇願するのではなく、「神のつくり給うたこの世界には、悪は存在しないのである。あなたは神の子である。善のほかないのである。」と心の中に唱えて、その人の“実相”をじーっと拝む祈りであります。それが「愛を実現する言葉の創化力」なのであります。

 創化力とは、先に申しましたように“創”というのは“つくる”です。“化”というのは、“お化け”の“化”であって、姿なき世界にあるものが、姿を現すことであります。

 最近では、“化成”などという言葉がありますね。液体で一定の形のなかったものが、繊維になったり固形的なプラスチックになって姿を現してくる。それが化成です。

 そういうように、人間は“神の生命”そのものであるが、“神の生命”は肉眼には見えないけれども、それが形に現れて来る。人間の“無限の可能性”というものは肉眼に見えないけれども、それが見えない世界から、見えてくる世界に現れてくるための力が、すなわち祈りと愛語と讃嘆であります。

 愛語というのは、愛の言葉、やさしい愛情に満ちた言葉です。讃嘆とはほめ言葉、吾々は、だれでも「認められたい」、「愛されたい」、「称(ほ)められたい」、「誰かのお役に立ちたい。自分は必要な人物だと思われたい」このような根本的な願いがある。その願いを愛情に満ちた言葉で満足させてあげるとき、その人は“生き甲斐”を感じて益々精進努力することになる。そうすると内部にある無限の可能性が出て来るのであります。

 さて、吾々青年の機関誌「理想世界」誌も諸君が弘めようとして、大いに努力したら一度に数万も増えたけれども、近頃又多少減って来たというので、一ぺんに無理して努力しても、また減るから、つまらんから、あんまり大きな目標を立てないで徐々に、着実に少しずつ増やそうなんていうことになったそうだけれども、そんなに自己縮小することは私は賛成しないのであります。

 大いに増やしておいたら、脱落する人も多いから、大いに増やさないことにしたら脱落する人も少なくなる。そんな消極的な論理を弄んでいたら、もう一人も誌友をつくらなかったら、一人も誌友が減らないことになる。それでは「理想世界」はどうして実現するのです? 一時ふえた誌友が脱落するのは、雑誌を大いに弘めたからではない。単に部数を増やすということばかり考えて、理想世界建設の人間をつくらなかったからです。部数のふえることばかり考えているが、「理想世界」の部数拡大は、理想世界を建設する同志が増えるから尊いのです。

 吾々は人類を救うのです。人類を救うんだ。雑誌をふやすのはただ理想実現の手段にすぎないのである。それなのに新聞配達みたいに、増やす部数のことばかりやって、その人間を、理想実現の選士に導かなかったら喜びがないのですよ。喜びがないから脱落するのです。実際に雑誌を手渡した人たちに、人類を救う選士になったという喜びをもたせることが出来た時に、その時はじめて、「あの人も救われた」「この人も救われた」というので、どこどこまでも喜びが続くので脱落しない。また其の人から救われた人も、ただ雑誌をもらっただけではなしに、その感激が出てくるから、また次へ次へと伝えるということが出来てくるのであります。

 だけども、「ともかく部数さえ増やせ。」というわけで、ただ雑誌を配ったらそれでお終いということなら、自分の知人に皆な渡した、もうあとに知人はないから渡す人はないのだ。という様なことになって行き詰まってしまう。そこから、後退する人がでて来るのです。吾々同志は理想世界実現、目本の実相顕現、人を救う喜びの躍動というものを出て来させなければならぬ。その時に、はじめて、自分は「人のお役にたっているのだ」という魂の喜びが起って来る。

 他の人の“生命”と自分の“生命”とは神の子の命であるから互いに兄弟である。その愛を実現するということによって、そこに本当の喜びが感じられて来るので、いくら「理想世界」を普及しても、くたぶれない「無限の可能性」が出てくる事になる訳なんであります。
<つづく>

479復興G:2012/04/20(金) 12:46:46 ID:ojEbkDH2

<つづき>
谷口雅春先生『實相と現象』より
『「七つの光明宣言」解義』(15)

 だから、“七つの光明宣言”の第五ヵ条には、

  吾等は神の子として無限の可能性を内に包有し言葉の創化力を駆使して、大自在の境に達し得ることを信ず。

 と、書かれております。人間は“神の子”として自己の内に“無限の可能性”を有するのですが、それを現実にあらわすには言葉の創化力を使うのです。すなわち言葉によって賞めるのであります。賞められると内在のカがでて来るのです。

 それは人を賞めてあげる。自分の兄弟を賞める。あるいは子供を賞める。赤ちゃんを賞める。これは生長の家の教育法で、既に無数の実績をあげているのでありますが、さらに、自分を賞めるということが大切でありまして、これを忘れている人が多いのです。この神想観の実修そのものが、実は自分自身を称め讃える行事でありまして、言葉の創化力を駆使して、大自在の境地に達し得るところの方法であるわけなんであります。すなわち“言葉の力”によって、

 「神の無限の智慧、無限の愛、無限の生命、無限の供給、無限の歓び、無限の調和が充ち満ちている」

 ということを心の内に言葉で誦(とな)えて、その通りの想いを喚起し、神様の智慧が、無限の愛が、無限の生命が、無限の供給が、無限の歓び及び調和が、ズーと自分に流れ入って充ち満ちている有様を、心にハッキリ描いてジーッと心の眼で見詰めるのです。これは“言葉の力”と、“観”の力とを併用して、自覚が速やかに高まるようにした行法であります。

 “観”とは“心で見ること”であります。凡て観なければそれがあっても現れないのであります。
 どんなに宝物が一杯あっても、目を閉(ふさ)いでおったら、わからないのです。ところが、肉眼で見るものは現象であって、それには限りがある。この現象世界には吾々の色々の“迷いの心”がレンズのはたらきをして、“本当の姿”(実相)が屈折して、歪められて、そこに現れているわけであります。そのことを谷口清超先生の『人間の体験』という本には、次のように書かれてあるのであります。

   誤った常識を超えること

 「世の中には『常識論』と言われるものがありますが、『常識』の中にはよい考えも悪い考えも混在しております。たとえば昔は『人間は空を飛ぶことができない』というのが常識となっていたのであって、この常識をくつがえしてはいけないということになれば、今日の航空機の発達は望めなかったに違いありません。したがってこのような常識は打ち破ってゆかなければならないのでありますが……」

 いろいろの常識がこの世界にはあるのです。そして「病気がある」なんていうような常識も随分あります。その常識が形に現れているのです。この世界は心の現す世界でありますから、間違った常識は間違ったものを現す。そして色々の間違いがこの世界に現れているわけなんであります。現象世界は、殆どそういう間違った常識の現れの世界であるといってもいいのであります。

 そこで、そういう間違った常識の現れている世界に目を閉じて、そして神様のお造りになったところの「神、その創りたる諸(すべて)の物を視たまいけるに甚だ善かりき。」と創世記の第一章に神が宣言されているところの、「全てのものが美しく楽しく、豊かに調和している」そういう実相の完全な世界を目の裡(うち)に描くのです。即ち心の世界に描くのです。そしてそれをジーッと心の眼で観ずるのです。見れば現れる、観ずれば現れるのです。すべて心に思ったものが、形に現れてくるわけのものであります。これを釈尊は“三界唯心”と説かれ、キリストは「汝の信ずる如く汝にまで成れ」とか、「汝の信仰、汝を癒やせり」とか仰せられたのであります。
<つづく>

480復興G:2012/04/20(金) 12:47:27 ID:ojEbkDH2

<つづき>
谷口雅春先生『實相と現象』より
『「七つの光明宣言」解義』(16)

   ブラジリヤが伯国の首都となる預言

 私がブラジルへ行きました時、ブラジリヤと称するブラジルの新らしい首都を視察に行きまして、そこでも講演会がありましたが、その時、日系のブラジル上院議員の田村幸重さんに聴いた話でありましたが、その町ができるということは1877年10月30目、イタリーのカトリックの坊さんのヨハネス・ボズゴーという聖者が、祈っている時に、此の奥地のブラジリヤというところにブラジル国首都ができるという事を、ジーッと霊眼で視て、それを預言した。

 ところが当時ポルトガル領土であったブラジルが、今から七十何年か前に独立して、新らしい憲法が制定されることになった。その時に、ヨハネス・ボズゴーの預言に従って、ブラジル国の都をブラジリヤに創るということが書き入れられたが、今から約四年程前に現象界にそれが実現して、この大分奥地であるところのブラジリヤの大平原にブラジルの都を作ることになってきたのであります。

   何故、預言はできるか

 さて、それでは、その「事実に符合する預言」というものがどうしてできるかといいますと、“現象界”に現れてくるものは、悉く“心の世界”に先ず“想念”として、“言葉”として、“心の思い”(心の中で唱えられるコトバ)として存在したものが、それが形の世界に現れてくるのだからです。だからすべての事物は、“形の世界”にあるまでに、“心の世界”に必ずその精神的原型が――元の形が――あるわけであります。

 しかしそれは“心の世界”の存在であるから、普通の肉眼では感じられない。肉の耳にも聴こえない。けれども、祈りによって心を澄ましているときには、そういう「現象以前の世界」に波長が合うことがありまして、それがいわゆる霊感として現れてきて、その原型が視えたり聴こえたりするのです。その霊感で視聴したものを発表すれば、それが預言者すなわち、やがて来るべき事をまず知った人ということになる訳なのであります。

 すべて形あるものは、“心の世界”にあるのであるから、霊感によってそれを感じたとき、霊感者は、それを預言することが出来るわけであります。しかしながら、霊感者が預言しても、預言しなくても、すべてのものはまず“心の世界”にその“原型”があって、それが現象化して形に現れて来るのであります。

 さっき言いましたように、朝顔の花の形でも、種の奥の奥に、肉眼に見えない縦横厚み以上の世界に、ちゃんと朝顔の“花の原型”があって、それがやがて現象界に形に現れて来るわけであります。人間がこの現象世界において、成功をしたり、発展をしたり、色々幸福生活が現れて来るというのも、先ず“心の世界”にそれが描かれていなかったならば、“形の世界”にそれは出てこないということになるわけなんです。

 “心の世界”が“現象の世界”に先行するのです。吾々は現象世界にあらわれているものが「本当にある」かのように肉眼で見て感じているけれども、現象世界は“心の世界”にあるものの唯“影”にすぎないのであります。影だから移ろう――変化して、やがて消えてしまうのです。
<つづく>

481復興G:2012/04/20(金) 12:48:06 ID:ojEbkDH2

<つづき>
谷口雅春先生『實相と現象』より
『「七つの光明宣言」解義』(17)

   変化するものは本来ない

 だいたい、ものが変化するということは、如何なることかというと、前の形が消えて、別の姿が出てくるということを変化するというのであります。前の形が消えるというのは、今は形が現れておるけれども、「本来ない」から消えるのです。本当にあるものは消えないのです。消えるものは唯の影にすぎないから、実在性がないから消えてしまうのであります。そういう点から考えますと、吾々が本当に確乎としてあると見ているところの“物質の世界”は「本当はない」のである。その“物質の世界”の奥にあるところの、“心の世界”にある理念的存在というものだけが、「本当にある」というわけであります。

   先ず“心の世界”に描かれたものが形にあらわれる

 徳久先生は、ブラジルへ三回もおいでになりましたが、どうしてブラジルへ行くことになったかというと、“心の世界”に、ブラジルへ行くことを強く描かれた。それが形に現れたのです。それは具体的にはどうせられたかといいますと、徳久先生は御自分の部屋に大きな紙に、「神様有難うございます。すでにブラジル国へやっていただきましてありがとうございます。」と墨で黒々と書いて貼っておいて、毎日それを見る毎に「既に自分はブラジル国に行っている」と心に描いて感謝されたのです。

 無論、それは必ずしも書いて貼らなくてもよいのです。心に書いて貼っておくのが本義でありますけれども、肉眼に見えるところに貼って置かないと、吾々の心はそれを忘れてしまって、毎日それを心に念じないかも知れない。ところが自分の部屋に貼っておいたら、それを一日に必ず何回か見る。そして、「ああ神様ありがとうございます。すでにブラジル国へやっていただきましてありがとうございます。」と念じ感謝して、ブラジルにすでに居る有様を心に如実に描くのに便利なわけであります。徳久さんは、こうして“心の世界”にまずブラジルへ往って、それが影を映して現実世界にもブラジルへ行くことになられたのであります。

 また或る時、徳久先生は自動車を通勤用に欲しいと思われた。そこで「神様すでに自動車一台与えて下さいましてありがとうございます。」と書いて貼っておいて、それを見る度毎に「すでに自動車を与えられて、ありがとうございます」と念ずることにせられた。そしたら自動車が天降って来たのです。天降るといっても、“心の世界”から現象界に物質化して来るのであって、それが出てくるのは現象的な自然の秩序で時間的流れを追って、順序を追って出てくるということになる訳です。

 具体的にいいますと、高知県にいらっしゃるお父さんが、自分の地面をお売りになったが、このお父さんは、徳久先生一人だけしか息子がないので、他にお金やる人もないから、「地面を売ったお金はお前のものじゃ」というわけで、徳久先生のところへ何十万円か送ってこられたのです。徳久先生が何故自動車が欲しかったかといいますと、飛田給の自宅から原宿の生長の家本部へ毎日通うのには、自動車のない時には、電車を乗り更えたりすると電車は混んで押し合い、へし合いですから電車の中では勉強はできないし、片道に一時間半くらいかかるのです。往復に三時間もかかる。

 人間、一日の内に三時間も往復のために無駄に時間を空費していたのではもったいないから、徳久先生は自動車が欲しいというので、「自動車をすでに与えていただきましてありがとうございます」と書いて貼って、そのように念じたのです。そうしたら郷里のお父さんから金を送って来たのです。しかしお父さんから送って来たお金だけではトヨペットの新らしい自動車を買うためには半分くらいの金額しかないわけなんでした。

 そのとき、徳久先生は、紙に「自動車は既に与えられた。有りがとうございます。」と書いて貼っておいたら、有りがたいことに父から、その半分位の金額が来たという話を私にされたのです。そしたら、「その半分の金は生長の家の本部から出すことにしましょう」と僕が言ったのです。それでちゃんとトヨペットの新らしい自動車が徳久先生の手に入るということになったのです。

 その購入費の半分の金は公けの金、半分の金は徳久個人の金であるから、その自動車は、私用にも公用にも両方に遠慮なしに使えるという、たいへん便利な自動車になったのであります。公用の自動車だけ買ってもらったら、私用に使おうと思ったって使えないのですが、自分のお金も半分出ているから、両方に自由につかえる、税金もガソリン代も公用の自動車として公けから出るというような便利な車が出来た訳です。
<つづく>

482復興G:2012/04/20(金) 12:48:38 ID:ojEbkDH2

<つづき>
谷口雅春先生『實相と現象』より
『「七つの光明宣言」解義』(18)

   世界一安価な高級車

 ところが、最近聞いてみると、仙頭君が自動車を一台買った。それは又安い、たった一万円の自動車である。それが得られた由来をきいてみると、徳久先生は東京都の教化支部長になったとき、トヨペットでは狭い路地などに入るのに都合が悪い。スバルが小さくて東京の街々を走り廻るのに便利であるし、ガソリンがよけいいらないで本部の負担にならないといって、トヨペットをやめて、スバルを買って乗ることにしていらっしゃった。

 ところが仙頭君が、飛田給の練成道場に同居していたのをやめて、自分の家を建てた。それは飛田給よりも一層本部に遠いのです。それで仙頭君は、小さなスバルよりも、もっとほかの自動車が欲しいと思ったのだけども、先輩の徳久先生がスバルに乗っているので、後輩の自分が「もっといい自動車を」と思うといかんと思って、遠慮したというのです。そして「まあ、ダットサン位の自動車なら、それ程先輩に対して遠慮せずともよい」と思って、これは、徳久先生のように紙に書いて貼っておいたのではなく、ダットサンの自動車の写真の印刷したのを切り抜いて眼につくところに貼っておいたというのです。

 仙頭君は、毎日幾回かそれを見詰めて、「すでにその自動車は与えられているのである。ありがとうございます」と念じておったら、だれか熱心な誌友の人が、新車を買ったので、今まで使っていたダットサンが要らなくなったので、ゆずってやる。“ただであげるというと遠慮したらいかんから一万円でゆずってあげたい”といって、たった一万円でゆずってもらって、それを乗り廻して自宅から本部へ出勤していられる。

 仙頭君は軍隊におったことがあり、自分で自動車をあつかったことがあって、自分で修繕もできる。ダットサンはガソリンもそんなにいらぬ。非常に便利で、たった一万円の自動車で自由に乗り廻わして、この前も、富士河口湖練成道場へあの車に乗ってとんで行ったということであります。

 そういうように心の世界に描いておったら、自動車を買う金があるなしに拘らず、そんな世界一の安い自動車でも、天降ってくるということになるわけです。こんな話をするのは、自動車でも何でも「金がなければ得られない」と考えてはならないことを知って頂くためで、吾々は言葉の力を応用すれば、吾々が“神の子”としての無限の可能性を引き出して欲するものを金なしにでも実現することが出来るということを申し上げたかったのであります。

 それから第六ヵ条は、

  吾等は善き言葉の創化力にて人類の運命を改善せんが為に、善き言葉の雑誌『生長の家』及び聖典を結集して発行す。

 と書かれております。

 本日のテキストの『眞理』という本とか、あるいは『生命の實相』とかいうような善き言葉を載せた雑誌や書物を発行することによって、人類を光明化するのが生長の家の使命であるわけであります。人間の運命はその人の読む書物の言葉によって左右されるのでありますから、現行の憲法に言論の自由、表現の自由が許されているからとて、罷り通っているセックス文学や犯罪文学を読んでいると、無意識のうちにその言葉と自己同一して、自分の運命を堕落させることになるのであります。今度海外旅行で知ったことは、驚くべき奇蹟がブラジルに唯、単に『生命の實相』を読むだけで起っているということであります。
<つづく>

483復興G:2012/04/20(金) 12:49:16 ID:ojEbkDH2

<つづき>
谷口雅春先生『實相と現象』より
『「七つの光明宣言」解義』(19)

   繁栄のための心の法則

 私がブラジルへ行って感じたことは、「与えよ、さらば与えられん。奪えよ、さらば奪われん」という生長の家の真理が如実に生活に実証されていることであります。
 最初ブラジルへ移民した人達の中には、「四、五十年あそこで働いて、相当の金をこしらえて日本へ帰りたい。」こう思って行った人達が非常に多かったのであります。つまり或る意味ではブラジルの富を奪って日本へ持って帰るつもりだったのです。そういうブラジルの富を日本へ持って帰りたいという気持で行った人達は、たいてい成功しなかったのです。

 ところが目本が戦争に敗けたということを聞きまして、日本の大都市が殆ど焼けて灰になってしまって、もう日本へ帰っても安住の土地ではないから、ブラジルへ腰をすえてブラジルの繁栄とともに自分も繁栄致しましょうという気持になって、ブラジル国の建設に自分の命を注ごうという訳で、即ち“与える心”になって働き出したのです。それから日本人はブラジルで、すばらしく発展するようになったのです。幾百エーカーの地面の持主になって白人系の労働者を幾百家族も雇って大事業をやっている日本人も随分あります。
   (谷口輝子著『世界を旅して』後篇、参照)

 これはすべて、「与えよ、さらば与えられん」というところの法則によってそういうことが起って来るのであります。皆さんがこの生長の家の真理を、人に勧められる場合でも、やっぱり与えることによって自分の運命が好転してくるわけであります。

   商売の競争相手を祝福して却って繁昌

 このあいだも浜松の講習会の時、熱海の八百半デパートの和田一夫さんが、“八百半ビル”を建てて、始めは食料品ばかり売っていたのでありますけれども、去年から大きなビルの一部分に衣料品をあつかう衣料部をこしらえて、反物を売りだしたのです。ところが最近、八百半から歩いて五分間くらいの処に長崎屋という衣料専門の大デパートが建築を始めた。それが近く愈々開店するという事になったら、さすがの和田一夫さんも、衣料を主にした大デパートが自分の店から歩いてわずか五分間くらいの距離にできることになったら、そこへ自分の衣料部の客を取られるのは決まっている。それでどうしたら好いか。というので、一時非常に悩んだというのです。

 ところが、和田一夫さんはやっぱり生長の家の信者ですから偉いですね。“与えよ、さらば与えられん”“祝福するものが祝福される”という根本法則を利用するより仕方がないと悟られまして、神想観をなさいますときに、その長崎屋が繁栄しているありさまを、心に描いて一所懸命に「長崎屋の繁栄」を祈ったというのです。そうして、いよいよ長崎屋のデパートが開店する日に、「長崎屋さん、開店おめでとう。八百半。」と書いた広告を四つの新聞に堂々と出して、長崎屋の開店を祝福してあげたのです。

 そうしますと、その開店の日は自分の店の衣料部はいつもの売上げ高の三十パーセント減ったけれども、そのかわり、長崎屋さんは「開店祝い」の広告まで出して祝福してもらったので、沢山のお客さんが長崎屋になだれ込んで満員の盛況になったそうですが、午前中に長崎屋へ買物に出かけて行ったお客さんが、そこから歩いて五分くらいの距離ですから、帰り途に八百半の食堂の方へなだれ込んできて、その時には食堂が満員になった。その日、衣料部の売上げは減ったけれども、食料品の売上げの増加で、いつもよりもなお収益が多かったという結果が出て、競争相手を祝福してあげることによって自分の店も一層繁昌することになったのであります。

 それから後も、また奇蹟が起ったというのです。あたり前ならば衣料品の方は長崎屋さんの方へ沢山お客が流れて行って、自分の店のお客は減ると思っておったら、そうではなくて、自分の方の店の衣料部も、これまでの売上げより増え、総売上げは今迄の三倍も増えて来て、今では長崎屋ができる時より繁昌しているというような話をなさいましたが、そういう風に“敵”とみとめられるものも、本当は“敵”じゃないのであります。およそ“敵”なんてものは“実相”に於いてはないのです。神様のおこしらえになった世界は、みんな大調和の「共存共栄の世界」なのであります。
<つづく>

484復興G:2012/04/20(金) 12:51:22 ID:ojEbkDH2


<つづき>
谷口雅春先生『實相と現象』より
『「七つの光明宣言」解義』(20)

 そういうわけで吾々が実相を観る目を開いて敵の無い世界を見ると、そこにすべてのものが互いに調和しながら共存共栄の繁栄・平和の世界が実現するのであります。だから正しき人生観と正しき生活法と正しき教育法が必要になって来るのであります。

 だから七つの光明宣言の第七ヵ条には、

  吾等は正しき人生観と正しき生活法と正しき教育法とにより病苦その他一切の人生苦を克服し相愛協力の天国を地上に建設せんが為に実際運動を起こす。

 と宣言されているのであります。生長の家は、この光明宣言の第七ヵ条に書かれてありますように、天国を地上に建設するための実際運動であり、それは発祥当初から宣言されているのであります。生長の家の信仰を生活に実践すれば、健康も得られ、繁栄も達成せられるけれども、ただ単に、個人の自分だけが悟って、それで自分だけが幸福を得たらそれでおしまいというような、そういう小さな目的の団体ではないのであります。

 すべての人類に正しき人生観を知らせること。人間がこの世の中に生れた意義は何であるか、それをまず知らせること。それからこの人生を如何に生きるのが正しいか。その正しい生き方、生活法を知らせること。人間は自己の生命の生長をせしめるためにはどのような法則に従わねばならぬか。心の法則はこうであるから、このような心懸けで生活すれば、人間は幸福になることができるのである。これを教えて人類全艦の生活を至福の天国にするのが生長の家の使命であります。

 次には正しい教育法を教える。さっきの八百半の実例でいえば、“敵”と見えるのも“敵”ではない。それを祝福したら、かえって自分がいっそう繁昌するのであるというような、そういうすばらしい凡ての人が幸福繁昌の生かし合いの生活法を教える。そして正しき教育法によって次代の人類及び国家の運命を背負って立つ立派な人間をつくる。

 今までの教育法では子供の欠点を指摘して、「お前はここが悪い。数学が下手であるから、よく勉強しなさい」というように、欠点をみつけて、その欠点を改善させるつもりで教育して、かえって子供に劣等感を植え付けながら善くしようと思っておった。いや子供だけではない、人間全体を「罪悪深重」といい、「罪の子」として教えた。

 このような間違った教育法を改めて、そしてすべての人間に“言葉の力”によって、本来ないところの“悪”を無いと宣言することによって消滅して、病気を治したり、人生苦をなくしたり、犯罪傾向を無くしたり、一切の悪を消尽して、皆なが「人間、神の子。互いに兄弟姉妹である」との自覚をもって互いに愛し愛されて、相愛協力の人類すべてが拝み合い、互いに力を合わして、みんなが栄えて行くところの地上天国を建設せんが為の、実際運動を起こすのが、生長の家であるというわけであります。皆さんは、そういう高い理想と、重大な目的との為に、ここへ集まって来ておられるのでありまして、自分だけが救われたらいいというような、けちな考えの人はいないわけなのであります。

 さて、その為には、自分自身が神の子であるという事を悟らねばなりません。皆さん、十分、『生命の實相』を読み、真理を体得し、“国の柱”となり、“人類の救済者”となり、神が皆さんを人類光明化の選士として選びたもうた、その使命を忘れずに一路邁進、愛行に努力せられんことを希望いたします。
<終わり> 
 (昭和39年5月・青年会全国大会講話)
    〈「理想世界」昭和39年9〜11月〉

485a hope:2012/04/21(土) 08:29:58 ID:kcv2QXTk

人生読本 谷口雅春先生著

人の魂を傷つけるな


人の魂の傷口にナイフを刺込むような、そういうふうな皮肉を浴びせる悪い習慣のある人が往々ありますが、こういう心の人は出世できないのであります。こんな人は織田信長のように明智光秀のようにどちらも滅びてしまわなければならないのです。

何か人が良い噂をすると、「しかしあの人はこうですよ」と何かケチをつける人がありますが、まことにあさましいことであります。そういうふうな人は自分は自分の性質に気がつかないかも知れませんけれども、そういう人は往々にして切開手術を要するような病気にかかる事があります。それは「類は類を招(よ)ぶ」という心の法則によりまして、人の奥底を切り開いてそうして汚いものを掘出したいという気持ちがある。その心は類は類を招(よ)んで自分の身体(からだ)に具象化(かたちにあらわ)れるのです。これを生長の家では「肉体は心の影」と申しております。

よほど良い人格をもった人で、自分よりも弱い人に深切にする人でも、それでいて自分と同等の人や、自分より少し偉いかもしれぬと思われる人には、すぐにそれを貶(けな)したくなったり悪口言いたくなったりする人があります。こういう人は強いようで、その実まだ弱いところがあるのです。そんなに強い者に反抗する気持ちにならないで、弱い人に深切にすると同時に強い人にも、自分より上の人にも、深切にならなければ、吾々はまだ平等の高さまで偉くなっていないのであります。

弱い人にも深切、強い人にも深切の平等の高さに達するのが生長の家の生き方であります。強きを挫(くじ)き弱きを助ける侠客肌(きょうかくはだ)というような人は、ちょっと偉そうに見えますけれども、その人が強い者に反抗せずにいられないのは「負ける」という不安があるからで、まだ全く強くなってない証拠であります。

(つづく)

486ハマナス:2012/04/21(土) 08:54:59 ID:u5mC.eb2

神の子のみなさま
 おはようございます。

   自分で自分を限るなかれ   (『新版 生活の智慧365章』P.134)

 人間は神の子であり、神の全能の力を譲り受けたる後嗣者であるから、何でも、善きこと、
正しきことであったら成就し得ないと云うことはあり得ないのである。しかし、それでも成就し
得ないものがあるのは、それは自己が自分を限るからである。即ち自己限定がなければ、その
程度に随って驚くべき奇跡をさえ実現する力が人間には宿っているのである。しかし、人間が
“神の子”として賦(あた)えられている無限力は、“父なる神”又は“創造の親様”なる神
との関係に於て、“神の子”として与えられているのであるから、“神”とのつながりに於て
それは実現するのである。だから、神を無視して、自分を「肉体の子」であると誤認している
限りに於て、その無限力は現われて来ないのである。

 吾々は「人間・神の子」の真理を教えられながら、依然として潜在意識の底には
「人間は物質的存在である、肉体が人間である」と云う考えが中々抜きがたいものである
からこれが自己限定となって、霊的実在たる無限力を発揮する力が限られ縮小するのである。
この潜在意識の自己限定を去る最良の方法が神想観なのである。毎日怠らず神想観を実習
することが必要である。

感謝合掌

487志恩:2012/04/21(土) 09:51:21 ID:.QY5jUA6
復興Gさまが謹写して下さった
『神ひとに語り給う』のご講義につづき、
實相と現象』の20に分けて謹写してくださった真理の数々、
まだ十分に咀嚼出来ていませんが、落ちついて何度も拝読して、WEB誌友会までに間に合うよう、勉強しておきたいと思って
おります。

実は,復興G様が参加されたという昭和39年5月3日〜5日の間の、
東京台東区台東体育館に於いて開催された「全国青年大会」・「全国白鳩大会」(他に、全国相愛会大会もありましたね)
に、私も、裏方のお世話係として参加しております。

アルバムに、その『全国青年大会』のときに、台東体育館前で、青年会の友人たちと一緒に、記念写真を撮った笑顔の写真が
貼ってあります(笑)

その年だったか、どうか、はっきりしませんが、我々の地元の青年会支部の委員長(私は副委員長だった)が、東京都の
予選を通過して、東京都代表に選出され、その「全国青年大会」で、されていた全国各地区代表による「全国青年弁論大会」
に出場しまして、うちの委員長が、見事、全国優勝した誇らしく晴れやかな記憶が、ございます。

私は、なぜ、こんなに、あほなのかなぁと、自らを省みますと、全国大会に参加させて頂いたにも関わらず、ご講話は、ほとんど
拝聴してなかったからかもしれないと、自分でおかしがっております。

ある時は、私は、裏の部屋の方で、総裁先生ご夫妻のお茶や昼ご飯の、お世話の仕事のことで、頭がいっぱいだったり、ある時は、
全国からお越しくださった幹部の皆様の雑用係に追われていたりしていましたので、肝腎のご講話の方は、
右からら左へ抜けてしまっており、はずかしながら、心に入っておりませんでした。

ですから、復興G様が謹写してくださった『實相と現象』のご講話の内容も、初めて聴かせて頂いているように
感じております。

復興Gさまのお陰で、生きているうちに、改めて、こんなすばらしい内容のご講話に触れる事ができましたこと、
ほんとに、ありがたくかたじけない気持ちでいっぱいです。感謝 礼拝

488志恩:2012/04/21(土) 10:07:56 ID:.QY5jUA6
昭和39年の,総裁先生とは、言うまでもなく、谷口雅春先生 のことです。

489復興G:2012/04/21(土) 14:59:46 ID:ojEbkDH2

>>487
志恩様。

丁寧なご感想、ありがとうございます。

>昭和39年5月3日〜5日の間の、東京台東区台東体育館に於いて開催された「全国青年大会」・「全国白鳩大会」(他に、全国相愛会大会もありましたね)<

――昭和39年5月3日〜5日の3日間は3日とも全部、青年会の特別教修会・全国大会でした。「四十年史」にも、そう書かれています。このころは白鳩会全国大会は3月、輝子先生のお誕生日に行われており、相愛会の全国大会というのはありませんでした。いかに谷口雅春先生は青年に期待されるところが大きかったかがわかります。

>その年だったか、どうか、はっきりしませんが、我々の地元の青年会支部の委員長(私は副委員長だった)が、東京都の予選を通過して、東京都代表に選出され、その「全国青年大会」で、されていた全国各地区代表による「全国青年弁論大会」に出場しまして、うちの委員長が、見事、全国優勝した誇らしく晴れやかな記憶が、ございます。<

そうでしたか。私はこの年に台東体育館での雄弁大会で優勝したという人に最近会ってきましたが、その方は地元青年会委員長はされていなかったと思いますので、多分、そのころ志恩様の地元青年会委員長が優勝されたのは、開催年が違うと思われます。

台東体育館は、隅田川ぞいにあって、今は台東リバーサイドスポーツセンターというのになっているようですね。
なつかしい場所です。ありがとうございます。

490志恩:2012/04/21(土) 16:54:41 ID:.QY5jUA6
復興G様

お返事、ありがとうございます。
そうでしたか。昭和39年(1964年)では、なかったんだ、うちの委員長が雄弁大会で優勝したのは。日記、つけてないころでしたので。

でも、場所は、台東体育館でしたし、「全国青年大会」の(全国弁論大会でなく)全国雄弁大会で、うちの委員長が、全国優勝したのは、
ほんとうの事ですから、それは、別の年だったのですね。

今年は,2012年ですから、あの時から数えましたら、早、48年も経ちました。
しかし、つい最近のことのように思えますから不思議ですね。

最近のあの辺りの事は知らなかったのですが、今は様変わりして、台東リバーサイドスポーツセンターというのになってるそうで、情報、
ありがとうございます。

昔は,あの辺りは、「靴・下駄」などの履物の問屋さん街が、近くにありましたよ。

491志恩:2012/04/21(土) 17:21:02 ID:.QY5jUA6
489:復興G様のご文章を,再度読ませていただきました。

もう、約50年も前のことなので、私の記憶が、あやふやになっている点が多くあるのですね。
私は、「四十年史」は、持っておりませんので、記録が記されているのを確認された復興Gさまのおっしゃることの方が、正解です。


5月3日〜5日は、全部、全国青年大会関係で、3日間とも、全国青年教修会、青年大会を開催していたのでしたか。
すごいことですよね。当時は、3日間連続やっても会場が埋まるほどの青年が、全国から集まっていたのですから。

全国白鳩大会は、あの当時は、3月に開催でしたか。古い記憶なので、私の頭の中で、記憶が、ごちゃまぜになっておりました。
正しい情報を、ありがとうございました。失礼いたしました。あの当時は、相愛会の全国大会は、なかったのですね。

復興G様が、おっしゃるように、雅春先生は、青年にすごく期待されてましたね。

ずっと,ずっと前の20年代だったかの全国青年大会の雄弁大会に,東京都代表で、中沖様というお方が,東京代表で
出場されて、全国第5位になられたと、どこかに書いてございましたが、

中沖様とは、企画の佐脇嘉久先生の旧名ですので、佐脇先生は,昔,雄弁大会に出たことがあると,本部時代、親しくして頂いておりましたので、
確か,直にお話を聞いたことがありますので、当時は、
そのような全国青年大会、教修会で勉強されて、その後、本部の幹部になれたお方も多かったのかもしれませんね。

いろいろと教えてくださいまして、深謝いたします。

492a hope:2012/04/22(日) 11:19:25 ID:kcv2QXTk

人生読本 谷口雅春先生著

弱きを助け、強きにも深切


私達は弱きをも助けるが、強きをも挫(くじ)く事は要らないのであります。弱きにも深切にし強きにも深切にし、どちらも褒めてみんなを生かし、みんなを味方にしてゆくという事によってのみ私達は本当に生長することができるのであります。

人間をよく見ていますと判ります。たいてい発達しない人、立身出世しない人は、よほど頭も鋭い人で、こんな人がどうして出世しないのだろうと思ってよく見ると、強きを挫くという性質があるのであります。これが私達の成功を妨げる事が非常に多いのであります。自分より上役に丁寧にすることをお追従(ついしょう)をするように思い、自分より偉い人に深切にする事をおべっかを使う事だというように、自分考えで誤解している人が出世しない人に多いのであります。純な気持で、偉い人を偉い人として尊敬する事は、素直な動機であっって、それは尊敬すべき美点であります。

それなのに、それを何かおべっかを使う事だと考えて、そうしてその素直な人の悪口を言ってみたり、邪魔をしてみたりしておりますと、その人はどうしても自分自身の運命を自分の言葉で阻まれて発達しない、幸福に見舞われないという事になります。なぜかと言うと、それはやはり「類は類を招(よ)ぶ」という心の法則によるのであります。そういう人は弱き人ばかりに深切にしているから弱い者ばかりが自分の見かたである。本当に自分の助けになるような強い人は自分の味方になってくれないという事になるのであります。それでは出世のしようがありません。

本当に自分が発達しようと思うには弱い人に深切にすると同時に強い人にも深切にしなければならないのです。私達は上役にも、点数の多い人にも、月給の多い人にも、どんな強い人にも親切丁寧にしなければなりません。むろん卑劣な根性で、阿諛追従(おべっかついしょう)をするのではありません。けれども他(ひと)の偉いところを正直に認める事ができるのは、それだけでも非常に偉大な心なのです。

むろん大きな光の中にも或いは陰があるかもしれません。太陽にだって黒点があるのですが、太陽の黒点ばかりを睨んでおって、太陽だって黒いじゃないかと悪口(あっこう)を言っておってもしかたがないのです。光明思想というのはその太陽の明るい方ばかりを見て、「太陽は明るい、ありがとうございます」とお礼を言い、感謝する心であります。

こういう心の人はきっと成功いたします。如何にその人に黒点があっても、大きな光は大きな光として尊敬する、それが自分自身を大きくするゆえんであります。級長や、金持ちや、目上の者や、ともかく自分より多きなるものの悪口を言う心の中にはきっと、嫉妬(ねたみ)羨望(うらやみ)などという悪い心持、不徳な気持ちが隠れているのでありまして、それは卑怯なやり方であります。偉いものを偉い者として朗らかに褒め得る、それはまた非常に偉大な人間でなければできない。それができれば、それだけでも偉いのであります。なんでも素直に白い者は白いと言い得るように、偉い者は偉いと誉め得る者でないと出世しません。

(つづく)

493うのはな:2012/04/22(日) 20:30:18 ID:El6gIMAw
  迷いの暗を切り光を現わす真理の神剣の働き

 『生命の實相』第一巻の開巻冒頭に、“はしがき”よりも、目次よりも、尚、
その前の頁に、新約聖書の『黙示録』の第一章にある白髪の翁の姿をもってあらわれた
「久遠のキリスト」の姿が描写されているのである。「何故、生長の家はキリスト教ではないのに、
キリスト教聖書の一節を、『生命の實相』第一巻の“はしがき”よりも目次よりも尚前に引用して提出
してあるか」といいますと白髪は久遠の表象であり、キリスト教に於いては“生長の家の大神”は白髪の
久遠神(ユダヤ人のイエスではない)としてあらわれていられるからであります。その白髪のキリストの御姿の
描写の中に「その口より両刃の利き剣出で」と示されている。

これ真と偽とを別ち美と醜とを分別し、善悪を審く、最後の審判の神剣なのである。善悪・美醜を審判する“秩序の智慧”が
神であり、その神剣によって悪は切り棄てられ、偽は葬られ、本来無いのに姿をあらわしている病その他一切の醜きものは切り棄てられて
地獄の火の杭に投げ入れられ焼きほろぼされて、真なるもの、美なるもの、善なるもののみがそこに住吉の世界が地上天国として姿をあらわすのであります。
もし、この真と偽とを分ち、真なるもの、善なるもの、美なるもののみを顕わし、これに反するものを切り棄てるハタラキが発動しなければ天地は完成しないのであります。
この真偽を分ち、美醜を区別し、善悪を審判するはたらきによって、天地は一新するのである。
『黙示録』第二十一章にはこの事が明らかにされている

『我また新しき天と新しき地を見たり、これ前の天と地とは過ぎ去り、海も亦なきなり。我また聖なる都、新しきエルサレムの夫のために飾りたる新婦のごとく準備して、神の許をいで、
天より降るを見たり・・・見よ、神の幕屋、人と偕にあり、神、人と偕に住み、人、神の民となり、神みづから人と偕に在して、かれらの目の涙をことごとく拭い去り給はん。今よりのち
死もなく、悲嘆も、号叫も、苦痛もなかるべし。前のもの既に過ぎ去りたればなり・・・斯くて御座に坐し給ふもの言ひたまふ「視よ、われ一切のものを新たにするなり」....』

これが、“両刃の剣”のはたらきであります。“剣”は“片無”(刀)ではないのであって、敵を切るために、敵に向う一方にのみ刃がついていないで、自分に向う側にも刃がついていて、真ならざるもの、
美ならざるもの、善ならざるものがあれば自分を切るのが、剣のハタラキであります。
これが地上に平和をもち来らし、最後の審判によって、新しき天と地とをもち来たす住吉の世界を創造する神剣のはたらきである。
参考につぎに『秘められたる神示』の中に収録せられている『最後の審判の神示』を再録して、両刃の剣のハタラキを明らかにする。

 生長の家 誌 昭和53年11月号  谷口雅春 先生

494ハマナス:2012/04/22(日) 21:40:00 ID:u5mC.eb2

神の子のみなさま
 こんばんは。すみません、今日は、出掛けていまして遅くなりました。

  苦痛を迎える五つの態度 (『新版 生活の智慧365章』P.133)

 苦痛がやって来たときに、それを迎える受け方に五種類ある。
(一)苦痛に対して恐怖し、悲鳴をあげて逃げ出そうとする受け方である。これでは
苦痛は軽減せず、恐怖すればするほど、その苦痛は吾々を追っかけて来て益々苦痛の
種が増えて来るのである。

(二)次には苦痛を意志の力によって忍耐する克己的(こっきてき)方法である。
苦痛と戦うことによってその人の意志の力は鍛錬し増加する。克己主義(ストイズム)
がこれである。

(三)苦痛を本来無きものとして、苦痛あるがままに、「自己」を「苦痛」そのものから
遊離して、第三者として「苦痛」を傍観し、「苦痛」に対して無関心となり、苦痛を超え
る方法である。

(四)すべては自己の心の所現であると観じ、苦痛があらわれて来たときに、自分の
「どの想い」が間違いであったかを反省して、その間違った想いを改めて良き想いに
更(か)えることによって苦痛を消除する方法である。

(五)ひたすら実相の完全さを観て、実相そのままの完全さに成り切り、自然に
不完全さが消えて、苦痛も消滅し、天国浄土的状態が現実化する方法である。

 この最後の(五)が生長の家の“縦の真理”であり、(四)の解決方法が生長
の家の“横の真理”である、その方法を実践する途上に於て、(三)の「苦痛
本来なし」の否定によって、自己を苦痛から引き離す方法が用いられるのである。

感謝合掌

495金木犀:2012/04/22(日) 21:46:20 ID:XJ2w09Xw
うの花様

ああ、この文章です。
これを私は以前読んで、この文章が頭に残っていたのですが、
一体どこで読んだのかがわかりませんでした。
ああ、そうです。この御文章、『永久に国護り給わん』の一節ですね。
私はこの御文章に付箋までつけていたのに、ここにあったことを忘れていました。
尤も全体のページ数長いですから、印象だけ残って全部を覚えてはいないですものね。
私もこの御文章を皆様に紹介したかったのです。
うの花さま、有難うございます。

496金木犀:2012/04/22(日) 21:48:58 ID:XJ2w09Xw
うの花様ではなく、うのはな様でした。すみません。

497訊け氏へ:2012/04/22(日) 22:24:50 ID:El6gIMAw
金木犀様。

 合掌、ありがとうございます。
 金木犀様は大東亜戦争や靖国問題にお詳しい感じがするので、
 また機会があれば、いろいろと教えていただければ幸いです。
 おやすみなさい。 

               再拝。

498うのはな:2012/04/22(日) 22:25:41 ID:El6gIMAw
 訊け氏へ というのは うのはなです。

499金木犀:2012/04/22(日) 22:54:03 ID:XJ2w09Xw
うのはな様

有難うございます。
そのようにおっしゃって頂き恐縮ですが、私の知っていることは、
実は雅春先生や、ネットのいろんなサイトからの受け売りです。それらの寄せ集めのような
知識であり、教えるには自信がありませんが、ここには役行者様もいらっしゃって
よくご存知のようですから、色々やり取りしているうちに、もし間違ったら訂正してくださるでしょう。

うのはな様も知識は豊富だと拝察します。お互いに勉強しあえたらいいですね。
そういえば春らんまん様もよくご存知のようでしたよね。
うのはな様のいろんな投稿、いつも感銘受けました。引用の文章もですが、乙女の祈り最高でした。
それに花々素敵でしたね。とくに野の花が素敵でした。

500SAKURA:2012/04/22(日) 23:26:30 ID:FEa/NNlc
トキ様 へ
観覧者様 へ

こんばんは…ロ−マ字の【SAKURA】です。御無沙汰していますが…
久しぶりに…【仏教典…】以前からの続きですが“投稿”させて頂きます。
【はじめの第1章…】からの“続編”で〜〜〜〜〜す!
 
■第2章 最後の教え

1.釈尊はクシナガラの郊外、シャ−ラ樹の木の中で最後の教えを説かれた。
 弟子たちよ、おまえたちは、おのおの、自らを灯火とし、自らをよりどころとせよ、
他を頼りとしてはならない。この法を灯火とし、よりどころとせよ、他の教えを
よりどころとしてはならない。
 わが身を見ては、その汚れを思って貪らず、苦しみも楽しみもともに苦しみの因であると思ってふけらず、わが心を観ては、その中に「我」はないと思い、それらに迷ってはならない。
そうすれば、すべての苦しみを断つことができる。わたしがこの世を去った後も、
このように教えを守るならば、これこそわたしのまことの弟子である。

 
2.弟子たちよ、これでおまえたちのために説いたわたしの教えは、常に聞き、常に考え、
  常に修めて捨ててはならない。もし教えのとおりに行うなら常に幸いに 
 満たされるであろう。
  教えのかなめは心を修めることにある。だから、欲をおさえておのれに克つことに
努めなければならない。身を正し、心を正し、ことばをまことあるものに
しなければならない。
貧ることをやめ、怒りをなくし、悪を遠ざけ、常に無常を忘れてはならない。
 もし心が邪悪に引かれ、欲にとらわれようとするなら、これをおさえなければならない。
心に従わず、心の主となれ。心は人を仏にし、また、畜生にする。迷って鬼となり、
さとって仏と成るのもみな、この心のしわざである。だから、よく心を正しくし、
道に外れないよう努めるがよい。


3.弟子たちよ、おまえたちはこの教えのもとに、相和し、相敬い、争いを起こしてはならない。
 水と乳とのように和合せよ。水と油のようにはじきあってはならない。
  ともにわたしの教えを守り、ともに学び、ともに修め、励ましあって、道の楽しみを
ともにせよ。つまらないことに心をつかい、むだなことに時をついやせず、さとりの花を摘み、道の果をとるがよい。
 弟子たちよ、わたしは自らこの教えをさとり、おまえたちのためにこの教えを説いた。
おまえたちはよくこれを守って、ことごとにこの教えに従って行わなければならない。

 だから、この教えのとおりに行わない者は、わたしに会っていながらわたしに会わず、
わたしと一緒にいながらわたしから遠く離れている。また、この教えの通りに行う者は、
たとえわたしから遠く離れていてもわたしと一緒にいる。


4.弟子たちよ、わたしの終わりはすでに近い。別離も遠いことではない。しかし、いたずらに
 悲しんではならない。世は無常であり、生まれて死なない者はない。今わたしの身が朽ちた
車のようにこわれるのも、この無常の道理を身をもって示すのである。
 いたずらに悲しむことをやめて、この無常の道理に気がつき、人の世の真実のすがたに眼を
覚まさなければならない。変わるものを変わらせまいとするのは無理な願いである。
煩悩の賊は常におまえたちのすきまをうかがって倒そうとしている。
もしおまたちの部屋に毒蛇が住んでいるのなら、その毒蛇を追いださない限り、
落ちついてその部屋で眠ることはできないであろう。
 煩悩の賊は追わなければならない。煩悩の蛇は出さなければならない。おまえたちは
慎んでその心を守るがよい。


5・弟子たちよ、今わたしの最期の時である。しかし、この死は肉体の死であることを
忘れてはならない。肉体は父母より生まれ、食によって保たれるものであるから、病み、
傷つき、こわれることはやむを得ない。
 仏の本質は肉体ではない。さとりである。肉体はここに滅びても、さとりは永遠に
法と道にいきている。だから、わたしの肉体を見る者がわたしを見るのでなく、
わたしの教えを知る者こそわたしを見る。
わたしの亡き後は、わたしの説き遺した法がおまえたちの師である。この法を保ち続けて
わたしに使えるようにするがよい。
弟子たちよ、わたしはこの人生の後半四十五年間において、説くべきものはすべて
説き終わり、なすべきことはすべてなし終わった。
わたしにはもはや秘密はない。内もなく、外もなく、すべてみな完全に説きあかし終わった。
弟子たちよ、今やわたしの最期である。わたしは今より涅槃に入るであろう。
これがわたしの最期の教戒である。

501ユタカ(なせば成る我ハ神の子):2012/04/22(日) 23:38:06 ID:45UP8rIY

永久に国護り給わん」と言う本はどのような本なのだろう??

興味あります。。。色々と知る事が出来てネットはいいです。

502金木犀:2012/04/23(月) 05:41:56 ID:XJ2w09Xw
『永久に国護り給わん』というのは本ではなく、雅春先生が、すみ

503金木犀:2012/04/23(月) 05:49:09 ID:XJ2w09Xw
すみません、途中で、切れてしまいました。
雅春先生が、神誌住吉大神について書かれたものを『生長の家』誌の編集部が
集めて53年11月号で、集大成して載せたものです。
生長の家出現の意義がわかりやすく書かれています。

龍宮住吉本宮御造営奉祝特別企画(昭和53年)

永遠(とわ)に国護り給わん  
                         谷口雅春  (生長の家誌編集部構成)



第一章住吉大神出現の意義と生長の家


生長の家発祥の因縁について

 生長の家の教えは一宗一派ではない。万教の真髄は唯一の「真理」に帰一する、真理は普遍的なものであるから、どの正しい宗教にも宿っている。その真理を明らかにするとき、あらゆる正しき宗教は同一真理を宣布しつつあるのだということが明らかになり、宗教と宗教とが互いに仲よく手をつなぐことができるようになり、祖先伝承の宗教を棄てるのでもなく祖先の宗教が生きて来て功徳があらわれて来るのであります。

 この真理の啓示を受けましたのは、私が兵庫県武庫郡住吉村に住んでおりました頃に、勇湯という銭湯がありまして、午前五時からもう新湯が沸いておりましたので、風呂好きの私はいち早くその銭湯へ出掛けて行き、快い湯加減に温まって爽かな気持ちになり、身も清浄、心も清浄に洗い浄めたそのままに、勇湯から三丁ばかりの距離にある産土神社なる本住吉神社に、毎朝日参して日本国の隆昌と皇室の御安泰とを祈願して帰ることにいたしておりました際に、霊感をいただいて始まったのが生長の家の人類光明化運動であります。



生長の家大神とは住吉大神(すみのえのおおかみ)である



生長の家大神とは住吉大神(すみのえのおおかみ)である

 この生長の家大神とは誰方(どなた)であるかと言いますと、『古事記』に、天照大御神様がお生まれになるに先立って、この大宇宙浄めの神として、水と塩(霊)とを以て浄め給うところの龍宮海の神様として現れられたところの上筒之男神、中筒之男神、底筒之男神と言われる三柱の神様を一体に総称して、住吉大神(俗称すみよしの大神)と申しているのであります。

『古事記』にあらわれたる住吉大神は其の後同書に塩椎神又は塩椎翁(日本書紀・神武天皇の巻)として現れていらっしゃるのであります。塩椎神は塩筒之男神であらせられまして、海の潮(うしお)を上潮(うわうしお)、中潮(なかうしお)、底潮(そこうしお)と分けまして上筒之男神、中筒之男神、底筒之男神の三柱に顕れていられるのでありますが、総じて塩筒之男神と申し上げるのであります。此の神様は宇宙創造の神であると同時に宇宙浄化の神であり、東道(みちびき)の神でもいらせられます。

504金木犀:2012/04/23(月) 05:54:13 ID:XJ2w09Xw
住吉大神と阿弥陀仏、観世音菩薩との関係

この住吉大神は如何なる神様であるかと言いますと、人生を住みよき世界にする所の神様であります。仏教で言うと、この神様は阿弥陀仏にあたるのであります。阿弥陀仏の慈悲の働きが観世音菩薩、阿弥陀仏の智慧の働きが勢至菩薩であります。阿弥陀・観世・勢至の三尊一体であります。生長の家の神様は観世音菩薩であると言われておりますが、その本地は阿弥陀仏であります。

聖観世音菩薩の仏像を拝見致しますと、宝冠をかぶっておられる。その宝冠の真中に普通は、もう一つ仏像が刻んであるのであります。その宝冠の仏像は阿弥陀如来であります。これは観世音菩薩が阿弥陀仏の示現であることをあらわしております。

阿弥陀仏は尽十方に満満(みちみち)ておられる“宇宙の本体”的実在であらせられ、尽十方無碍光如来とよばれているのであります。尽十方というのは八方に天地の二方を加えて十方であります。十方をことごとく尽してあらゆる方角にも充ち満ちていられる無礙の光が阿弥陀仏なのです。無礙というのは、どんなものもさわりにならない障礙物(しょうがいぶつ)にならないで何処にでも満ちておられることであって、「光」というのは「智慧」のことであります。

宇宙遍満の智慧が阿弥陀如来である。如来は尽十方に満ちみちておられるから、「彼の仏如来は去って去る所なく、来って来る所なく」と、法顕訳の大無量寿経に書いてあります様に、去来して、どこからどこへ来迎あそばれてお救けになるというような、そういう空間的な距離的働きがなく、十方――あらゆる方角――に満ちみちておられるのが阿弥陀如来であります。

だから現実に人格的に姿を顕して人をお救いになるという時には、阿弥陀仏そのままでは出てこられないで“観世音菩薩”のお姿をして出て来られるという事になるのであります。この観世音菩薩が生長の家の神様なのであります。



普門成就の観世音菩薩
 
さて、この観世音菩薩という仏様は一宗一派の仏様ではないのでありまして、これは仏教のどんな宗派の方でも、真言宗であろうが、浄土宗であろうが、日蓮宗であろうが、観世音菩薩を拝まないところの仏教はないのであります。

この観世音菩薩の功徳がかかれてあるところのお経は、法華経の“普門品第二十五”という所に書かれているのであります。この“普門品第二十五”というところを、独立さして“観音経”とも謂われているのであります。観音様は、何故“普門品”に収録(おさ)めてあるかと言いますと、“普門”というのは、“あまねき門”ということで“あまねく”というのは“どこにでも”ということです。“門”というのは“宗門”です。観世音菩薩はあらゆる宗門を、あまねく成就するところの仏様であるから、普門成就の仏様として「普門品」に収録めてあるのです。

このように観世音菩薩という仏様は、普門成就のキリスト教にも、神道にも、この観世音菩薩は示現して救いを垂れていられるのです。神道に於いては既に申しました様に、住吉大神、塩椎大神、それからまた綿津見神という様に龍宮の大神として顕れてましますのであります。

505金木犀:2012/04/23(月) 05:56:11 ID:XJ2w09Xw
あ、本流青年掲示板に載っていますから、後はそこで読んで下さい。

506金木犀:2012/04/23(月) 06:03:59 ID:XJ2w09Xw
>>503
訂正します。

神誌住吉大神について → 神誌で住吉大神について

507ユタカ(なせば成る我ハ神の子):2012/04/23(月) 06:18:32 ID:T2l6C5DY
わ=====い!!

金木犀さん!!!


ありがと==========!!!


青年板  行ってきま====す!!

508ハマナス:2012/04/23(月) 09:49:08 ID:u5mC.eb2
神の子のみなさま
 
おはようございます。
今週も皆さまによって、喜びいっぱいの光輝く一週間でありますように。

愛は他と共に自己をも癒す  (『新版 生活の智慧365章』P.135)

『愛は凡て癒す』と云う谷口清超氏の著書の中には無数の奇跡的治癒が書かれているが、
ブラザー・マンデス師の著書の中にも次のような愛の奇蹟が書かれている。
  
 或る婦人が慢性の頭痛と、中耳炎とで悩んでいたが色々の医療を受けても治らなかった。
この婦人がマンデス師の説教会にやって来て、その由を訴えたのである。そして「自分の
心が完全になるまでこの病気は治らないでしょうか」とたずねた。マンデス師は「自分の
心が完全になるまで、神の救いが来ないのであれば、すべての人間は永遠に神の救いを
待ちのぞむばかりで救われる事はないでしょう」と答えた。そして「今あなたが自分の事
を忘れて人を愛そう、人を癒してあげたいと云う愛の心を起こしたら、神のすべてを癒し
給う愛の力が流れ入ってあなたは癒されてしまうのである。さあ、私が神の癒す力の仲立ちに
なってあげましょう。あなたは自分の病気を治そうと云う考えを捨て、自分の病気を忘れて、
他の人を癒してあげようと思う心になって、他の病人に手を触れてあげなさい」と言った。

 そしてマンデス師は、その頭と耳とが慢性的に悪い病人の手を握り、握られた彼は脊椎と
臀部の痛む病人に手を按して、「神の癒す力、われを媒介としてこの人に流れ入り癒し給う」
と念ぜしめたのである。すると、脊椎と臀部の神経痛の患者は忽ち治ると同時に、それを
癒そうと愛の思いを起こした人の慢性の耳及び頭の病気も治ってしまったのであった。

感謝合掌

509a hope:2012/04/23(月) 10:28:49 ID:kcv2QXTk

人生読本 谷口雅春先生著

出世するには人を妬むな


出世しようと思う人は嫉妬心を起こしてはなりません。私達が偉い人に深切にした場合、
「あいつは目上に阿諛追従(おべっかついしょう)をしている、けしからん」と思う心持を起こす人には、
実はその人自身に阿諛追従する気持ちがあるので人のすることがそう見えるのです。
自分にある阿諛追従の心を無理に抑えているので、その経験が心にあるから人が偉い人に深切にしていると
「あいつは阿諛追従しているのだ」と想像できるのであります。

環境は心の影です。他(ひと)が悪いと見える場合には自分が悪いのです。
人があいつ泥棒をするかも知れぬと思うならば、その人は自分に泥棒する根性があって、
それを心のうちに経験したことがあるからであります。
ここにひとりの赤ん坊が人のものを盗って来て、そうして自分のものとして舐めているとしても、
これは子供同士で見ると、あの赤ん坊は泥棒したとは思わないのであります。
子供はむしろ自他一体の観念が強いために自分のものは他のもの、他のものは自分のものだと思っている。

ところが自分と他との区別のハッキリした大人になると「あいつ泥棒した」という事になります。
大人になるといろいろの経験から「盗み」という思いが心のどこかに教えられてあるので、
その思いに照らして「泥棒した」と判るのであります。
人間は自分の心にない事は判らない。他を阿諛(おべっか)使いだと思うのは、
自分に阿諛使いの心があるのであります。そういうふうな心持が自分にあるものですから、
素直に偉い人や目上の人を尊敬する人を阿諛使いだと邪推する事になるのであります。

(つづく)

510ももんが《宗教・詩》:2012/04/23(月) 12:14:35 ID:XXCuaQns
〜失望と神へ恨み〜

『願いが叶う、一時、一瞬、手前で、その願いが、跡形も消え去る時。心に大きいな、“失望”が、顕れる。この“失望”が強い時、あるいわ、蓄積され、増幅された時、その人は、“神へ強い恨み”を抱き、その心に、“悪魔の子”が現れ、“悪の権化”と化していく。』


〜魔王の王国〜

『光は、深海までは、届かない闇である。それでも、生命《せいめい》は活きている。それと、同じで”暗黒“もまた、存在する。
”暗黒生命“を無しにしてならない。神の使命にて暗黒を支配しているのである。光明だけが、実相にあらず。両者相まって、世界に初めて調和を成す。』

511ハマナス:2012/04/24(火) 08:46:29 ID:u5mC.eb2

神の子のみなさま
 おはようございます。
今日は、谷口輝子先生の24年祭がございます。

  祈り合いの神想観  (『新版 生活の智慧365章』P.136)

眼底の網膜剥離で、自分のために読書するのだったら、十分間と継続して読書できない人が
他の人の腎臓炎を治してあげたいと思って幾時間もその腎臓炎の患者の枕頭で『生命の實相』を
読んであげたら、その腎臓炎の患者も症状が非常によくなったが、自分の網膜剥離も軽快して
少しも痛まなくなったと云う体験談を発表された誌友があった。

 生長の家本部の飛田給練成道場に於ける「祈りの神想観」と云うのは、互いに相向かい合って
自分の病気(その他の不幸)や自分のことは全然忘れて、互いに相手が神の愛によって既に完全
に癒されていることを観ずる神想観であって、それが驚くべき奇跡的効験をあげつつあるのも、
「自己」忘れて他を救おうと云う「愛」そのものになったとき、神の愛は完全に流通するものだと
云う実証である。天理教で、悪因縁を断ち切って完全に業から解放されるためには、「わが身
わすれて日の寄進」と教えているのも正しい事である。寄進と云うのは必ずしも労働奉仕ばかり
ではない。寄進と云うのは布施行と同じことである。報いもとめず唯与えることである。
「祈り」を与えるのも偉大なる布施である。


感謝合掌

512a hope:2012/04/24(火) 08:57:13 ID:kcv2QXTk

人生読本 谷口雅春先生著

素直が一等大なる美徳


私達は素直になる事が一番必要であります。生長の家の生き方は素直な生き方であります。偉い者は偉いとして、偉くないものは偉くないとして、光は光として、影は影として正直に一切のものをそのまま受容(うけい)れる心持には、ちっとも無理がありません。無理があるのはどこかに本当でないところがあるのです。耳が聞こえないとか、目が見えないとか、或いは鼻がよく利かぬとか、蓄膿症とかいう人の中には、素直な気持ちが乏しい人が多いのであります。

素直な気持ちが乏しい場合、すなわち総てのものをそのまま受容れる心がない場合には、心の目を閉じ、心の鼻を抑え、心の耳を塞いでいるのでありますから、それが肉体にあらわれますと、目が疎くなったり、耳が聞こえなくなったり、鼻が利かなくなったりするのであります。蓄膿症や、乱視や、中耳炎などはこれから起こることがあります。それですから、健康のためにも成功のためにも何でも素直な心、ハイハイというような心持、一切のものをそのままありがたく受容れるという心持になることこそ非常に大切であります。

すべてを素直に受容れる心は神の心であります。神というものは善にもあれ、悪にもあれ、太陽の照るがごとく一様に光を与えてくださる、これが本当の神であります。この大包容の心持になった時、病気の治る事はもちろんですが、総ての事業にも成功するのであります。これが生長の家の生き方であります。小さい心は小さいおかげしか受けることができません。

太陽に黒点があっても黒点なんか目もくれないで、太陽の光の良いところばかり讃歎(さんたん)して吸収する、そうすると私達は生き生きと自分自身がその太陽に育てられて伸びてくるのであります。私達は科学者が太陽の黒点を研究している間に黒点なんかを忘れてしまい、「ああ私の暖かい太陽よ!光の太陽よ!」と喜ばねばなりません。そういう人は必ず発達し成功するのであります。

(つづく)

513ハマナス:2012/04/25(水) 00:05:29 ID:u5mC.eb2
神の子のみなさま

こんばんは。
女子会の板の方にも、引用させて頂きましたが、今日4月24日は谷口輝子先生のご命日ですので、
こちらにも謹写いたします。

谷口輝子先生著『めざめゆく魂』の『はしがき』

 彼女というのは私の妻のことである。人間は、彼がどんな女性を自分の妻にするかということによって、
自分の運命が変わってくるのである。若し私の理想に向かって彼女がついてくることを拒んでいたならば、
また、拒まないにしても反対意見をもっていたならば、私はただの会社員で一生涯を終わっていたかも知れないと
思うのである。彼女は私が浴衣一枚の着のみ着のままで縄の帯を締めて、世界で一ばん貧しい生活をするのが理想
だと思っていた時、結婚してくれたのである。たしかには売れるという目算もない精神修養の雑誌を出して”人類
光明化“と云う大それた運動を起こすというような第三者から見たら狂喜の沙汰だと思えるような仕事を私が初め
ても、反対するどころか、それこそ人間としてうまれた生き甲斐であるといって激励し協力してくれたのが彼女である。
もし、彼女がそんな理想には、とて馬鹿らしく随いていけないというような妻であったならば、私は屹度、その運動を
つづけて行く勇気を失っていただろうと思われるのである。私はこの随筆を最初のページから読みながら、生長の家の
人類光明化運動の今日のあるのは、まったく、この妻のお陰であると自然に感謝の念で眼がしらが熱くなるのを感じた。
(中略)
こうした問題とたたかいながら彼女は始終かわることなく私の理想について来てくれたのである。私は妻の協力に支え
られつつ、突兀(とつこつ)たる人生の険路を越え、色々の迫害や侮辱やマスコミの見当ちがいの批評に耐えながら
生長の家の人類光明化運動が、実際に多くの人を救う今日の実績を築き挙げるに至ったのである。それは神が私に「真理」
の炬火(たいまつ)を授けられた結果であり、人々が救われるのは、その「真理」の力によるのであって、私の自力では
ないに相違ないけれども、この運動の初期時代の貧しさと、色々の困難とをものともせず、四十年間もの長い間、この
「真理」の炬火をもちつづけて人類の先頭に立って走りつづけてくれた妻があったればこそであるのである。まったく
この随筆の著者は私の魂の半身であると共に、生長の家・人類光明化運動の半身でもあるのである。
本書を読む人はその随想随筆に始終一貫して流れている清潔は魂の声に必ず何らかの共鳴を得られるに違いないと思う
のである。

   昭和四十四年二月十一日  谷口雅春先生

51495%ロムの信徒:2012/04/25(水) 09:19:13 ID:tWP7OEjY
甘露の法雨

ある日天使生長の家に来りて歌い給う
創造の神は五感を超越している六感も超越している・・・・

五感六感を超越しているもをどうやって感じたのだろうか・・・
私には7感というものがあるのだろうか・・・ずっと疑問なんです。

51595%ロムの信徒:2012/04/25(水) 09:20:35 ID:tWP7OEjY
突然 すみませんでした。

516a hope:2012/04/25(水) 09:42:05 ID:kcv2QXTk

人生読本 谷口雅春先生著

花びらの降るような褒め言葉(前半)


人の悪口(あっこう)を言う暇があれば、良き言葉を発すると、自分自身がその良き言葉の力によって育てられるのであります。善き言葉は空から花びらが降るような、音楽が聞えてくるような美しい感じがしますが、悪しき言葉は雷のように吾々の心を真黒にするのであります。空から花びらが降るように讃嘆(ほめたたえる)語(ことば)をもって雨降らすのが生長の家の生き方であります。

この世の中を住みよくするのも住み難(にく)くするのも、皆さん自身の言葉一つできまります。必ずしも金があるから、それで人間は幸福(しあわせ)だというものではない。金が幾らあっても、その家の中が針の筵(むしろ)のように苦しい世界であって、奥様がヒステリーになったり、子どもが疳虫(かんむし)になったりしていてはなんにもなりません。

それで皆さんは今日から、空から花びらが降るように、いつも善き言葉を雨降らそうではありませんか。皆さんの口から常に花びらのような良い言葉が出るようになったら、どんな狭い裏長屋におりましても、そこがこの世の極楽となり天国となるのであります。たいてい会社や、工場商店などの勤め先へ行ってもやはり能率がはっきり上がらないで、そのために勤め先で又ぶつぶつやっている。その結果、昇給もしないという事になります。事業の発達しないのも、元はと言うと、皆家庭が悪いのであります。

家庭の中で讃(ほ)め合わず、暗い心持で、責め合っている時には、事業は失敗し、工場や鉱山では故障が起こり、子供の健康も成績も悪くなります。何事も家が元になるのでありまして、生長の家へ来れば病気が名乗るという事も、要するに人間の身体の病気を治すのではなく、心の持ち方をかえさせて家の病気を治すのであります。家の病気を治すと言っても家に何かあるのではない、それは家の家族の互いの調和という事ができていないことです。家族と家族とが調和していなければ、喧嘩しながら互いに争って熱心に『生命の實相』を読んでも、病気もなおらないことがあり、成績がよくならない場合が多いのです。だから何よりもます家族同士仲よくして互いに褒め合う生活をして『生命の實相』を読む事であります。褒める言葉ぐらい結構な言葉はないのであります。

ところがなかなか家族同士が褒め合えないものであります。というのは、それは現象(あらわれ)に執(とら)われて、目前の姿に執われて、人間の実相(ほんとうのすがた)を見失ってしまって、人間が神の子である、ここが現実(このよ)の浄土であるということを忘れてしまって、ちょっと何か外に現れた失敗があると、それに執われてしまって、一分間あった失敗を一時間ぐらい怒鳴りつける。その上、そのことをいつまでも心に持続けるというような事をしているような人たちの集まっている家庭は、いつも面白くないのであります。そして「自家(うち)の親爺は一日中叱言(こごと)ばかり言ってる」と言う奥さんもありますけれど、必ずしもそうではないので、本当はその御主人が偶(たま)に十分間ぐらい怒鳴った事を、一日中叱言言うと誇張して奥さんが考えている場合が多いのです。

それは、心の中にその叱言を常に持続けているから、十分間位ちょっと叱言を言った事が一日中言った様に思えるのです。どんな悪い主人でも、どんな疳癪持ちのお父さんでも、一日中叱言をいう主人はいないのであります。ときたま叱言がある場合でも、それは一日のうちの何分の一に過ぎない叱言であります。

(つづく)

517うのはな:2012/04/25(水) 18:01:46 ID:El6gIMAw
  奇跡のごとく見えるもの

 昭和五十三年四月二十一日。
府中青年会の招請を受けて衛藤氏宅の二階で講話していました。そのとき、片岡委員長から申し出があり、
午後九時からはスライドを映写する時間にして欲しいということでした。それで、十分前に話をやめて、委員長の方に
バトンをわたそうとしたのです。
 すると、片岡氏は非常に困った表情をしてこういうのです。
「実は、幻灯機を自動車内においたまま、鍵がかかってしまって出すことができません。
鍵も車内の腰掛けの上においたままです。もう二時間も前から府中や国分寺の町の鍵屋を探し、万能鍵を買って
きてあげようと努力してみましたがどうしてもあきません。万策つきました。
もう先生に祈っていただくより外しかたない状態です。よろしくお願いします」

 参会者は皆生長の家の誌友で、祈りに理解のある人たちなので、相談することにしました。
「今、委員長が話した通りです。祈りによって自動車の中にあるスライドを出してこようということになったのです。
それで、これから皆さんと一緒に祈ることにしますが、そんなバカげたことはできるはずがないと思われる方は、申しわけありませんが
席を外して下さい。祈りについて疑いをもっている人の念が、祈りの実現を滅殺してしまうことになりますので、ぜひ御協力をして下さい。
祈りについて真正面に信じている人だけ残って下さい。

つづく

518うのはな:2012/04/25(水) 18:25:24 ID:El6gIMAw
517つづき

 では、祈りにうつりますが、その前に、祈りについての心のリズムをととのえる言葉を唱えますから、
眼をつむったまま静かに聞いていて下さい。このように心をととのえることが第一の関門です。

● 祈りに入るための心の姿勢

  次の聖句を繰返し念じます。

 為し得ばというか、信ずる者には、凡ての事なし得らるるなり。(マルコ伝 九 ニ三)
 なんじら心を騒がすな、神を信じ、また我を信ぜよ。     (ヨハネ伝 一四 一)
 神は凡ての事をなし得るなり。               (マタイ伝 一九 ニ六)
 怖るるなかれ、我なんじと偕にあり             (イザヤ書 四三 五)
 かつ祈りのとき何にても信じて求めば、ことごとく得べし。  (マタイ伝 ニ一 ニニ)
 われ汝の行為を知る、汝は冷やかにもあらず熱きにもあらず、
 我は寧ろ汝が冷やかならんか、熱からんかを願う。かく熱きにもあらず、冷やかにもあらず
 ただ微温が故に、我なんじをわが口より吐き出さん。   (黙示録三 一五〜一六)
 されば大いなる報いを受くべき汝らの確信を投げすつな。
 なんじらの神の御意を行いて約束のものを受けん為に必要なるは忍耐なり。
 いま暫くせば、来るべきものきたらん、遅からじ。    (ヘブル書 一〇 三五〜三七)
 誠に汝らに告ぐ、人のもし此の山に「移りて海に入れ」と言うとも、其の言うところ必ず成るべしと
 信じて、心に疑わずば、その如く成るべし。       (マルコ伝 一一 ニ三)

つづく

519ももんが《宗教篇・聖典》:2012/04/25(水) 18:48:28 ID:XXCuaQns
〜根源と礎《いしずえ》〜
人間は創造されつつある。それは、主なる神を賛美し、敬い、仕えるため、また、それによって、自分の魂を救うためである。
さらに、地上の他のものが創られつつあるのも、人間のためであり、人間が創られた目的を達成する上で助けるためである。
従って、人間は、それらのものが自分の目的を達成する上で助けとなる度合いに応じて、それらを用いる必要があり、妨げとなる程度に応じて、それらを放棄しなければならない。
そのために、われわれは、自分の自由意志に委ねられ、禁じられていない限り、われわれの方からは、病気よりも健康を、貧しさよりは富を、不名誉より名誉を、短命よりも長生きなどを好むことなく、ただわれわれが創られた目的へよりよく導くものだけを好み、選ぶべきである。

〜イグナチオ・デ・ロヨラ著『霊 操』より〜

520うのはな:2012/04/25(水) 20:16:44 ID:El6gIMAw
518つづき

次に、祈りの実現のための瞑想の注意を申します。
1 願望成就には、あらゆる疑惑がなくなってしまうまで、信じて瞑想を続けます。
2 願望は必ず実現すると、ハッキリと心に確信します。
3 ズバリ、その欲するものを得たりと深く信ずるまで瞑想を続けます。
4 この信仰は幼児のように全く単純であればあるほどよろしいのです。
5 これまでに神がないたまうた事蹟をかぞえあげて、神への感謝の大饗宴をひらきます。

 神への感謝こそ霊的生活への冒険の第一歩であり、最も重要なことです。
 では、神想観にうつります。
 招神歌をとなえます。
 大いそぎで神様を招ぶときは、「すみのえのおおかみ」と感情こめてくり返しよびます。
 谷口雅春先生がお示し下さった方法は、熱心に「神よびうた」を唱えることです。
 そうすると具体的な導きをいただくことができます。

次に、神様に対する大いなる信頼と感謝の心を湧きたたすことです。
神の眼は雀の涙さえ見まもりたまう。一羽の雀も神のゆるしなくては屋根より落つることとはないのです。
ましてや神の子人間については、親さまなる神は、わが心のすみずみまで知りたもうて、わが求むるに先立って、
なくてはならぬものを知りたまい、それを与えたくて与えたくてたまらないのが神の愛です。

 ですから、私たちは、神様にお願いするよりも、ただひたすら神様の救いを受ける最大の近道になっています。
その近道のパイプをひらくにはどうしたらよいかと言うと、今までの人生で、神様が具体的にどんなにか自分を愛し、
わがためにどんなにたくさんの導きをして下さったかを数えあげて、その一つ一つに丹念にお礼を申しあげて、随喜の涙を
流さんばかりの感動をこめて感謝もコトバをささげることにします。そうして、わが願いについては、神様はすでに御存知であって、
今、それを実現する道を講じておられるのだと、安心してすべてを神様のなさることにおまかせするのであります。
では、皆さん、それぞれに、これまでに神様から戴いた御愛念を探しだして感動こめてお礼をする行事をはじめて下さい。
 各自、それぞれ黙然に入る 」

 私は、『生命の實相』にふれて以来、数々の奇跡ともいうべき神様の恩寵について思い浮かべては感謝の大饗宴をひらいた。
先ず第一に、わが家の子どもたちは、神様にお願いしていただいた、神様から授けられた宝である。
この世の何ものをもっても代えることのできないすばらしい神の子を授けて下さった神様に、無限の感謝をささげます。

 学芸大学(当時は師範学校)に付属中学が新設されたとき、校長にならせて下さいと神様にお願いしました。
一旦は任命されたのが御破算になり、民主的な選挙制度となって選挙になりました。波乱万丈のなかで、神様はいつもはげまして下さり、
僅少差で当選させて下さいました。あのときの神様の導きがなければ、私は、あぼごたごたをのりきることはできませんでした。神様ありがとうございます。
 次に、大学教育になるための資格審査がありました。私にはもとるべき学歴も学問上の成果もあげてなかったのに、全く不思議という外はありません。
奇跡的に文部省の資格審査にパスしました。私は早く業績をあげ、学位を取得する必要にせまられ、あせりにあせって、学者としは全く致命傷の失敗をしてしまいました。
そのとき、神様は、私に本当の信仰というものを教えて下さいました。
何とお礼を申しあげてよいかわかりません。

つづく

521SAKURA:2012/04/25(水) 22:27:16 ID:FEa/NNlc
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ

今日!「生命の実相」拝読しながら〜
■生命の実相抜粋・・・
『文章術によって生命力を振起する道を拓いたのが
『生命の実相』である。学と術とはちがう。現象学は正確に
告げる必要があるし、現象学は現象を正確に告げる必要があるし、人を生かす術は
現象を飛び越えさせてしまう。』           (谷口雅春著)

此の文章に、心打つものがありました。「現総裁先生…」の書物…
現代版としてマッチ致すものと、私なりに解釈致しました。此処で、改めまして、
『投稿』という形を、とらさせて頂きます…。

■■ 【 心でつくる世界 】
【序章 生長の家の世界観】

―――現実は仕方がないのか?―――
「それが現実だから、仕方がないよ」

―――こういう言葉を、我々は学生時代によく使った記憶があるだろう。その頃は、
子供から大人になりつつある時期だから、家庭や学校で学んだ「正しい生き方」
とか「理想」や「夢」を胸に抱きながらも、そのような望ましい生き方ができず、
あるいは自分の希望が実現しないことが多かった。そんな時、「壁にぶつかる」と
いう表現もよく使ったはずだ。もちろん、大人になっても同じ言葉を使いたい時は
あるだろう。が、大人は“ 現実 ”が何であるかを先に見越して「仕方がない」
ことに手を触れなくなりがちだし、あらかじめ “壁 ”との接触を避ける方法を
考え出していたりする。また、夢などとうに失っている場合には、 “壁 ”の
存在も感じなくなっているかもしれない。だから多くの大人は、学生の頃の覇気を
失い、“現実”や “壁” とは闘わなくなる。そういう “敵”が自分より強い
ことは、もう十分経験してわかっていることだからだ。
このようにして我々は、いつの間にか “現実”や “壁” というものが、自分
一人の手にはとても負えない、何か堅固で、頑丈で、恐るべき存在であるかのような
印象を心の中に作り上げてしまう。そして次第に、そのようなものが ”現実世界“
であり、客観世界であると思いこむようになる。自己は現実の外側に違和感をもって
対峠し、自分と客観は対立してくる。重要なのは、この迫り来る “現実” とどう
取り組み、“客観世界” にどのようなインパクトを与えるかだ、と思う。
だから、「現実的な生き方をしろ」と言えば、「理想や夢を追うのは価値がない」という
ニュアンスが含まれ、「主観的な問題だ」と言えば、「あまり重要でない」という意味が、
その背後にある。
そのように広大で、硬質で、無情な世界の中で、人間はたった一人で生きて
いかねばならないと思うと、我々は時に、たまらなく不安になり、寂しくなる。
そこで恋人や家族にその「不安」や「寂しさ」を癒してもらおうとする。
また、この孤独の不安の問題を解決するために、宗教の門を叩く人もあるだろう。
すると、そんな人に向かって「宗教に入るのは、現実からの逃壁だ」と非難する人も
出てくる。また、「孤独に耐えられない弱者の溜り場が、宗教だ」と言う者もいるだろう。
こういう宗教批判者の心の中には、独力で “壁”を破り、“現実”を
自力でネジ曲げることができるのが強者であり、人生の勝利者であるとの考えが
あるのだろう。そこには、やはり“現実世界”堅固で、容易に変えることのできない
世界が、本当に我々の周りにあるのだろうか?
              <つづく>             No.1

522SAKURA:2012/04/25(水) 22:28:30 ID:FEa/NNlc
<つづく>             No.2

祇園精舍の鐘の聲、諸行無常の響あり。娑羅双樹の花の色、盛者必衰のことはりを
あらはす。おごれる人は久しからず、只春の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ、
偏に風の前の塵に同じ。

これは有名な「平家物語」の出だしだ。平家の登場と降盛、そして滅亡の様子を、
年代を追って長編叙事詩として描き、天下を自分のものにした者もいずれ滅びるという
「盛者必衰」の仏教的無常観をよく表している。「諸行無常」とは、
すべての人間の行いは、常に移り変わり、常なるものはない―つまり、我々の周りの
世界は、堅固で、動かし難いものではなく、いつも流動して変化して
止まることがない、というわけだ。
 日本人ならば恐らく誰もが、学校でこの文章を読んだことだろう。そして、「無常」
ということの意味を学んだはずだ。にもかかわらず、社会から出てから
「現実は堅固だ」という印象をもっているとしたら、それは一体どうしたことだ。
 我々はもしかしたら、“現実世界”は変化するが、自分の周りの“壁”だけは堅固
だという、奇妙な認識をもっているのかもしれない。この考えが、なぜか奇妙か?
それは、自分のまえにある“壁”が現実ではないという意味になるからだ。
“壁”が現実でなければ、それは“夢”のようなものであり“夢”が堅固である
はずがないからだ。
                              再合掌
PS:
次回も…引き続き“続編…”投稿させて頂きます…。
■【「今の教え」と「本流復活」を考える・挨拶板】に、私なりの解釈論を、
投稿させて頂いておりますので…。

523ハマナス:2012/04/26(木) 00:01:41 ID:u5mC.eb2

神の子のみなさま
 こんばんは。

愛他心は自己の病を癒す  (『新版 生活の智慧365章』P.127)

 九州の鹿児島だか宮崎高の講習会で、こんな体験談を述べた人があった。
 一生懸命、自分の結核を治したいと思って神想観と祈りとを続けていたが、中々治らなかった。或る日、彼は神誌を
読んでいるうちにふと気がついたのであった。「自分は自分の病気を治すことばかりを念じて神想観をしていたが、
それは一種の利己心の表現でしかなかった。利己心を去ったとき、其処に神の救いがあらわれるのである」
そう考えてこの人は、もう自分の肺結核を治そうという考えを棄ててしまった。そうして神想観をするときには主として,
”世界平和の祈り“を念じたのであった。

 「神の無限の愛われに流れ入り給いて、われに於て愛の霊光燦然と輝き給う。その光愈々輝きを増して全地上を覆い、
全ての人類の心に愛と平和の想いを以って満たし給うのである。」この祈りを毎日続けていたが、或る日ふと気が
ついてみると肺結核が完全に癒されているらしいので、医師にレントゲン検査をして貰ったが、結核の痕跡は全然
消えてしまっていたのであった。

感謝合掌

524ハマナス:2012/04/26(木) 00:04:11 ID:u5mC.eb2

すみません、訂正いたします。
宮崎高ーー>宮崎県

525a hope:2012/04/26(木) 09:14:43 ID:kcv2QXTk

人生読本 谷口雅春先生著

花びらが降るような誉め言葉(後半)


ところが「自家(うち)のおやじは一日中叱言(こごと)言う」とか「一年中叱言を言っている」とか考えているのは、そう考える奥様や子供の心の中に「叱言」がいつまでも忘れられずに貯えられているからです。そういう場合にはどうもその家庭は面白くないから、良人の方でもあんな家内に話しかけても面白くないと思って奥様の部屋に行かないで、夫婦一つ屋根の下で同棲していながら、黙って十日も二十日も物も言わずに暮らしているような状態になる事もあります。

そんな状態はなぜ起こりかと申しますと、それは「悪いこと」をいつまでも心に持っているからであります。「悪い事」をするのは悪いには相違ありませんが、「悪いこと」を心に持っているのは尚いけないのです。なぜなら悪いことを実行するだけなら、やってしまったあとはもう無いのですけれども、心の中に持っている時は、その悪いことを何時(いつ)までも何時までも持っているからであります。

悪い事はなんでも忘れる事が、生長の家の生き方でありまして、たまには腹が立ってもよろしい。しかし五分間もしたらその腹立ちが心の中ですっかり帳消しになって忘れてしまうようでないといけません。それを生長の家では自壊作用と申しまして、業が解消する作用の一つとして叱言が出たり夫婦喧嘩をしたり、時には攫(つか)み合いをするという事がありましても、それは決して悪い事ではないのでありまして、過去に溜まっておった自分の念(おもい)―――その念の鬱積(うっせき)というものが形になったのであって、形に現れた時、内部の心もつれは消える時なのであります。

たまたま主人ががんがん言っても、「これはありがたい、これで二人の間の蟠(わだかまり)が今夕立のようにあらわれて明日は晴れるのだ、これで二人の中が晴天になるのだ」と思うと本当に晴天になって、よけい中が良くなる事になります。会社、工場で上役や同僚(なかま)の者とイザコザが起こるのも同じこと、業が消えてなお一層よくなる。「これはありがたい!」と感謝の心で受ければ、その後は一層よくなるのです。そういうふうに致しますと、私達の生活が本当に生長の家となり、栄える家の生活になるのであります。

(つづく)

526金木犀:2012/04/26(木) 09:26:24 ID:gUphdZ4w
『生長の家』誌 昭和53年10月号から謹謝致します。

生長の家入門講義   谷口雅春先生
   (ブラジル、アニヤンビー国際会議場での講義)

夫の浮気が本妻の肉体に病気をあらわした実例

今日はひとつ三角関係の解消した実例を話したいと思います。
私が日本の高知県の安芸市という所で講習会を開いて、講習会の最後が終りまして、その後で幹部会が開かれたのであります。

そこにはその町の生長の家の幹部が三十人ばかり集まっておりました。そこひとりの男が遅れて参りました。その遅れてきた男を他の幹部の人が指差して、「この人は小林君と言うんです。新聞記者なんですよ」
と言って紹介しました。そこで私は「あー、あんたは新聞記者ですか、何という新聞の記者ですか」と尋ねました。その人は答えました。「そんな大新聞じゃないんですよ。実はこの町の商工業の職業紹介の連絡機関みたいな新聞なんですよ」と言いました。「実は私の本宅と神戸との間にある芦屋という町にあるんですが、商用をもって私はこの町へ時々来ていたんです」彼はこう言って体験を話し出しました。

「そしたら或る女に引っかかりましてね、そしてこの町から離れられなくなったんでございます。それでこの町に滞在する口実を設けなければならないので、それでここで商工業の機関新聞みたいなものを拵えて発行することにしたんです。そうしたら、女性の本能で、芦屋における本妻がそのことを知りまして、非常に嫉妬心を起こしたんです。嫉妬心を起こしましたらそれが忽ち肉体に現れまして、家内の肉体の生殖器に変なおできが出来まして、何だか生椎茸の腐ったような形をして、押えてみるとブヨブヨとして、そんなおできが出来たんです。これは医者と家内自身と私の他は誰も知らないんですが、医者が色々と薬を変えてみるけれども、どんな黴菌か判らないので、どうしても治らなかったんです」

ところが、その時分にその地方に住んでいた坂井正義という生長の家の地方講師をしている先生がおりまして、その先生に本妻の奥さんが導かれたというのであります。坂井先生は奥さんにこう言われた。

527金木犀:2012/04/26(木) 09:27:57 ID:gUphdZ4w
生長の家入門講義(2)   谷口雅春先生
   (ブラジル、アニヤンビー国際会議場での講義)

夫が浮気する原因は?

「夫が浮気して他に女を拵えるのは、夫に対する愛情が足りないからするんですよ」と、そして、「他に女の愛情を求めるような夫は、それは本妻から貰いたいところの愛情に飢えているからだ。やさしい温かい女らしい愛情を本妻が充分満足するように捧げてくれないから、夫は女性的なやさしい愛情に飢えて、何処かに愛情のお腹の減った自分の心を満足させるような相手はいないかと思って、フラフラしていると、丁度そういう女がおって、それに引っかかるということになるんですよ。日常生活中に夫が不満を感ずることと云えば、例せば、あなたは夫がこうしてくれとこう言ってもその通りハイと素直にしないことも色々あったり、夫がこうしたいと言ってもなかなか素直にしないで、尻が重く動かなかったこともあるでしょう。そういう小さな不満足が積ると、夫は妻が自分に対して冷たいと感ずるようになるのです。妻の外に女を拵えるような夫は、本当は妻を愛し過ぎて、もっともっと妻から豊かなる愛情を欲しいと思っているのに、それを与えてくれないから、この愛情の空腹をどこか別の女から得ようということになるんですよ。だからね。夫が浮気をしたのはあんたが悪いんですよ、夫にお詫びをしなければいけません」
と言いました。

その奥さんは言いました。
「夫にお詫びをしようにも、夫はなかなか家へ帰って来ないんですもの」
坂井先生は言いました。
「帰って来ないでも、お詫びの心は通ずるのです。人間はどんなに距離がはなれておっても、心と心とは無線電信以上に通ずるんですよ」
こう説明してから、次のよう念じなさいと教えました。
「それには神想観をしてから夫の顔を思い浮かべて、名前を唱えて呼び出し、そのような気になって、“今迄私は妻として愛情の献げようが足りないのでございまして、誠に申し訳ございませんでした。これからは豊かにあなたに愛情を献げまして、あなたの仰る通り何でも素直にさして頂きますから、どうぞ、私の所へ帰って来て下さいませ”と真実を籠めてお念じなさい」


妻は夫のお妾または愛人を憎んではならない

それから坂井先生は、
「あんたはその第二夫人を、お妾を憎んでいるから、憎んでおったら何時まで
 経っても、そのお妾は消えないですよ。憎む者は嫌う者は益々現れるんですよ」
と言いました。

528金木犀:2012/04/26(木) 09:29:10 ID:gUphdZ4w
生長の家入門講義(3)   谷口雅春先生
   (ブラジル、アニヤンビー国際会議場での講義)

何故お妾に感謝しなければならないか

「あんたはそのお妾に感謝しなければなりません。何故なら、そのお妾はあなたが夫に対する仕えようが足りないもんだから、妻という者は男にはこのように親切にして仕えるんだ、という手本を示してあなたに教える為に、お妾として現れていらっしゃるんですよ。だからそのお妾に感謝しなければならんのです。その感謝を神想観のうちに念じなさい」
と言いました。そうして、
「神想観の姿勢をして眼の裏にそのお妾の姿を思い浮かべ、名前を唱えてその魂を呼び出して、次のように念じなさい」と教えました。


お妾を解消するために念ずる言葉

その念ずる言葉は次のようであります。
「今迄私の夫を貴女が愛して下さいまして有難うございます。私の献げる愛情の足りない所を、あなた様が補って下さったんで御座いまして、まことに有難うございます。若し貴女が私の足りない愛情を補って下さらなかったら、私の夫は愛情に飢えて、あるいは気が狂っておったかもしれないのを、それを助けて下さったのは貴女の愛情で御座います。有難うございます。然しこれからは私は豊かに夫に愛情を献げますから、もう貴女様には愛情を補って頂かなくても結構でございますから、どうぞお引き取り下さいませ。今迄のご親切を感謝いたします。有難うございます」

こういうふうに念ずるように教えたのでありました。
彼女は教えられた通りに三日間熱心に念じました。三日目には本当に精神が統一して、この祈りは必ず通じたという感じがしました。そしたらその彼女即ち自分の妻の生殖器に出来ておった生椎茸のような形をしたその変な腫物(おでき)は姿を消してしまいました。
「それと同時にそのお妾も姿を消しちゃったんです」
と小林くんは言うのでした。
私は小林くんに尋ねました。
「お妾が姿を消したと仰ったが、どうなったんですか」と。
小林くんは答えました。
「ああ、彼女は死んじゃったんですよ」と無造作に言うのでした。

こういうように、お妾を拝んだら死んだ実例を私は三つ程、講習会の体験談で聞かされておるのであります。それはお妾出現の使命が終ったからであります。

529金木犀:2012/04/26(木) 09:30:24 ID:gUphdZ4w
生長の家入門講義(4)   谷口雅春先生
   (ブラジル、アニヤンビー国際会議場での講義)

お妾出現の使命について

大体お妾という者は、その本妻の奥さんの心を教育するために現れているところの、愛情の先生でありますから、だから本妻の心が今迄夫に対して愛情が、愛情の捧げようが足りなかったということに気が付くまでは、それを追っているために姿が消えないのであります。そのお妾がもう已に寿命が来て死ぬ筈になっておっても、その本妻の心が本当に自分が悪かったと気が付くまでは、その妻の教育者としてこの世に滞在しなければならないから生きているんですが、その本妻が“ああ、私が悪かった、夫に対する愛情の献げようが足りなかった”と気が付いたら、もう教える役目は終ったというわけで、寿命の来ているお妾さんは、これで死んでしまうということになるわけであって、すべてのお妾は、彼女に感謝して拝んだら、皆死ぬというわけではないのであります。


今より一層家庭が幸せになる真理

さて、小林君は自分のお妾が解消した話の次に、こういう話をしたのであります。
「先生、ただ今私が遅刻して参りましたのは、実はこの会場から五軒あちらに、料理屋があるでしょう。あの料理屋のマダムの恵美さんというのが、この講習を受けに来ていたんです。その恵美さんの夫は六ヶ月も前から家出をして行方不明になっておったんです。ところがその恵美さんが講習を聴いていましたら、先生は妻が夫に愛情を献げるのは、このようでなければならないという話をなさいましたね。“夫というものは自分の宅(うち)が一番気兼ねなく、気安らかで、誰に遠慮もなしに足腰延ばして自由になれる一番居心地のいい、安らぎのある場所なのです。その最も安らぎのある筈の家庭に居ることが出来ないで、そしてよそへ飛び出して行ったり、女を拵えたりするのはそれは本妻がその一番安らぎのある場所に夫を置かないで、夫を追い出すようなそういう険しい雰囲気を持っているから、そういうことになったんだ”という話を先生はされました……

「それを聴いた時、恵美さんは、六ヶ月前から夫は自分の家を飛び出して行方不明になっていたので、こんな一番夫にとって安らぎのある家庭に、居ることができないようにしたのは誰がしたんだろう、私がしたんだ、私が悪かった。“夫よ赦せ、赦せ、赦せ”と心で繰り返しながら涙を流して、そして先生の続きのお話を聞いておったんです。それで恵美さんは講習会を終って自宅へ帰りました。突然今まで蒸発して行方不明だった夫から電話がかかって来とったんです……」

530金木犀:2012/04/26(木) 09:31:24 ID:gUphdZ4w
生長の家入門講義(5)   谷口雅春先生
   (ブラジル、アニヤンビー国際会議場での講義)

恵美さんの夫は、高知の町から六十哩も離れている宇和島という町に居ったんですけれども、妻の恵美さんが講習を聴きながら、“夫よ、赦せ、赦してください、あんたが出て行かなければならないようにしたのは、この私の愛情が足りなかったからです。赦して下さい。赦してください”と涙ながらに、一心に念じて居ったその時間に、夫は急に自分の妻君のことを思い出したんです。夫婦は幾十哩も距れていても心は通うのであります。……

小林君は続けてこう話されました。
「その夫の電話はこのように言いました。
『今日突然お前のことを思い出してね。そしてお前の顔を見たくて仕方なくなった。けれども距離が六十哩もあるからお前の顔を見るわけにいかんから、せめてお前の声だけでも聞きたいと思って、今電話をかけて居るんだよ。もう一週間程もしたら私がここでやりかけている事業が一段落終るから、そしたら帰るから待っていてくれよ』

こういう電話がかかって来て居ったんです。そこへ私は行っておって話をきいていたので遅れて来たんです」

この小林君の体験が語るように、六十哩も距(へだ)てておっても、妻の心が夫に対して冷淡である時には、その夫は妻の愛情に飢えて妻のいる家から飛び出しておったのに、妻の心がクラリと変って、夫にお詫びをする心になると、その夫は妻恋しくなり、せめて妻の声だけでも聞きたいと言って、電話をかけるほど妻に対して夫が、愛情を戻して来たということはですね、夫の心の状態は妻の愛情を反映するものであるということを現しているのであります。

この真理をお聞きになりましたら、きっと皆さんの家庭は今より一層幸福におなりになることを信じます。

531うのはな:2012/04/26(木) 10:40:58 ID:El6gIMAw
>520つづき  『奇跡の教育』 鹿沼景揚 先生著

  近年になってからのことです。生命学園の練成会が富士河口湖道場であったとき、
四万円の盗難事件がありました。あのとき、神様にお祈りしましたら、「ものがなくなるということはない。
それはお金がある場所から別の場所へ移動しただけである。天地一切のものに感謝し、神のつくりたもうた世界では、
あるべきものが、あるべきところに、ちゃんと返っていると、強く念じなさい」と教えられて、その通りにしましたら、
とうとうお金が自然にでてきた、そして盗みをしたという犯人もいないということを教えていただきました。
神様はすばらしいことを教えて下さいます。ありがとうございます。

 さて、いよいよ道場から帰京するとき、K君の車にのせてもらうことになりました。
そうしたら、鍵がドアーにさしこんだままで、おしてもひいてもとどうしてもビクともしません。
どうすることもできないで、K君が祈ってほしいと言ってきました。三十分くらい道場の祈りの間で祈っていると、
K君がきて、鍵がとれましたというのです。あのときも、神様がみわざをなさしめたのでした。

 このようなことは、合理的な科学精神からは全く理解することはできません。
全く不合理なことを神様は解決してしまうのです。
 私は次から次へと神のなしたまうみわざをたたえて、感謝の饗宴をひらいてたのしんでおりました。
すると耳元で声がするのです。「先生、幻灯機がでました。もうスライドが写せます」
片岡委員長の報告がありました。
私は、おわりの祈りの言葉を唱えて神想観を終りました。

『奇跡の教育』 鹿沼景揚 先生著 奇跡の教育ノートP36〜

532ハマナス:2012/04/26(木) 12:50:43 ID:u5mC.eb2

神の子のみなさま
 
こんにちは。もうすく、ゴールデンウイークですね。私は、都会を離れて関西の方面へ
行きたいと思っています。
明日のWEB誌友会が大成功でありますように。

主権を神様に返せ  (『新版 生活の智慧365章』P.138)

神に完全に無条件降伏せよ。神は全ての癒す力を持ち給うのである。神は戦争に於ける占領軍のように、
こちらに抵抗の心があるのに無理に暴力をもって進駐して来られる云うことはないのである。神は一切の
ものの生みの親として、また創造(つく)り主として、吾等の人事に潜在主権をもち給うのである。
しかし、吾々自身が「我」の仮主権を握って頑張っている限りは、その仮主権を排除してまで、神の潜在
主権を実行に移し給うことはないのである。

 神の全能の完全なる機能を、わが身体及び人事、事業等に於て実現しようと思ったならば、完全に神に
主権を返還して、神の叡智によって、自分の一挙手一投足を支配せしめるようにしなければならないので
ある。神に主権を返還するなどと言えば、自分以外の「神」に自分の主権を奪われるかのように錯覚する
人があるかも知れぬが、「神」と云うのは、自己の霊なる“本当の自分”なのである。“肉体の自我”の
主権を“霊の自我”の主権に譲り渡すことなのである。

感謝合掌

533ももんが《聖典》:2012/04/26(木) 18:37:04 ID:XXCuaQns
〜修証義〜
第一章総序

生を明きらめ死を明きらむるは仏家一大事の因縁なり、生死の中に仏心あれば生死なし、但生死即ち涅槃と心得て、生死として厭うべきもなく、涅槃として欣うべきもなし、是時初めて生死を離れる分あり、唯一大事因縁と究尽《ぐんじん》すべし。
人身得ること難し、仏法値うこと稀れなり、今我等宿善の助くるに依りて、已に受け難き人身を受けたるのみに非ず、遇い難き仏法に値い奉れり、生死の中の善生、最勝の生なるべし、最勝の善身を徒《いたず》らにして露命を無常の風に任すこと勿れ。
無常憑《たの》み難し、知らず露命いかなる道の草にか落ちん、身已に私に非ず、命は光陰に移されて暫くも停《とど》め難し、紅顔いずくへか去りにし、尋ねんとするに蹤跡《しょうせき》なし、熟観《つらつらかん》ずる所に往事の再び逢べからざる多し、無常忽ちに至るときは、国王大臣親ジツ《注①》従僕妻子珍宝たすくる無し、唯独り黄泉《こうせん》に赴くなり、己れに随い行くは、只是れ善悪業等のみなり。
〜つづく。


※《注①》の『ジツ』は、漢字では、『目匿』と書く、『なれる』とも読む。
端末になかったので、カタカナとしました。

『修証義』は、曹洞宗で『仏戒』を易しく、説いた、聖典です。

以上。

合掌、拝。

534a hope:2012/04/27(金) 10:14:14 ID:kcv2QXTk

人生読本 谷口雅春先生著

善い言葉は人生の宝(前半)


善き言葉は人生の宝であります。何がなくとも「深切」は言葉でできるのです。貧乏では深切ができない、金がなければ深切ができないというようなものではないのであって、私達は深切の第一歩を言葉によって実行する事ができるのであります。人に深切な言葉をかけてあげる、人が意気消沈している時にそれを鼓舞(こぶ)して高め上げるような言葉を出す、これが深切であります。

人が誰も同情してくらない、淋しくなって人生を呪うような心の起こった時に、本当に深切な表情をして、深切な微笑を投げかける、これが深切の実行であります。誰だって微笑はできるのでありまして、その深切な微笑がどれだけ相手を生かすことになるか分からないのであります。私達は、なんにも持っていないから深切ができないと言うのはあまり物質的な考えに執(とら)われているのであります。

本当に深切にしようと思えば、どんな場合でもできないという事はないのであります。常に優しい心持をもち、愛に満ちた霑(うるお)いのある心を持ち、人に接する時、拝み合い感謝し合い、相手を尊敬して、その自信を失わしめない。これが深切の中の一番深切になるのであります。どんなに金をやっても或いは物をやっても、本当にその人を尊ばなければ深切にはならないという事になります。

「貴様みたいな仕方のない奴はこいつやるから持って帰れ」と乱暴な言葉を出して千円札を放り出したところが、それは深切にはならないで却って恨まれるかも知れません。物を与えても相手を怒らせるのは、それは深切にならないのです。物をやらなくとも相手を生かして喜ばすようにすれば、それが本当に深切をした事になるのであります。

(つづく)

535ももんが:2012/04/27(金) 10:43:08 ID:XXCuaQns
>>534
a hope様


a hope様、おはようございます。毎朝、素晴らしい、御投稿文、ありがとうございます。合掌、拝。

先日は、静観して、頂きありがとうございます。感謝、礼拝。


さて、お話は、変わります。

先日、a hope様は、静観して、いただいた事に関しましてて、感謝しております。

しかし、その後a hope様は?私へ、祝福や賛嘆を何故?
されなかったのでしょ?
最も、さいそく、するわけでは、ないですが、いつも、a hope様は、この様に言われてますね。

①、『わたしの愛する「生長の家」のみなさま、』

と?

これは、誰にされているのですか?《心の奥に差別の心が存在してる証》

先日、復興G様へ御言葉は、ありました。

しかし、私へはありませんでした。《その事は気にしてません》
その行い、行動を見るなら、上の言動と矛盾していますし。

先日の行動は、私へ当て付けの行動だったととれるわけです。

ahope様の行動は、『憎しみのみ』行動であり、感情に流された、行動であったと、理解します。

それが、a hope様の言う
②「真の生長の家の教え」
なら、間違えた、行いであり、行動だと、思うしだいです。

私は、先日、a hope様の『憎しみの感情』も、私は感受してしまったので、
神様の火で、“浄心行”させて頂きました。和解の祈りも、させて頂きました。
本日は、朝から、気分の良くない、お話をして、真に、申し訳ありません。
しかし、a hope様の心の影を観たものですから、御自分で、気づいて、頂きたく、この様に、言葉にいたしました。真に、差別なく、許し与えらる心を、取り戻して、頂きたく、心より、御祈りしております。

ありがとうございます。
合掌、拝。

536ハマナス:2012/04/27(金) 17:52:11 ID:u5mC.eb2
神の子のみなさま
 ありがとうございます。。

  勇敢に困難と取り組め   (『新版 生活の智慧365章』P.139)

 「人生には一面、色々の苦痛や困難がある。それを苦痛とし困難として受け取るかどうかはその人自身の“受け方”(精神的受け方)によるのである。
それらの苦痛や困難があるということは、恰も学校で学ぶ過程に於て色々の学科があるのと同じことである。勉強家は、その困難な学科を学習し、
問題を解いて行くことに却って喜びを感じるが、或る学生はそれを困難として苦痛として感ずるのである。

 私たちは人生の色々の学科を学ぶべく色々の問題にぶつかるのであるが、それを困難として苦痛として受け取らずに、喜びとし、楽しみとして受け
取らなければならないのである。若しあなたに何らかの困難な問題が起こって来たならば、それを回避し、それから逃げだそうなどと考えてはならない。
たとい一時その問題から逃げ出しても、それはあなたの魂の進歩について必要な学習であるから、再びそれに類似の問題を課せられることになるので
ある。だから人生の問題については進んで勇敢に取り組んで解決するようにするがよい。その人の魂がその学科を卒業し得た心境に到達したとき、
その問題はあなたの人生から消え去るのである。」


感謝合掌

537SAKURA:2012/04/27(金) 21:07:57 ID:FEa/NNlc

トキ様 へ
観覧者様 へ

こんばんは…ロ−マ字の【SAKURA】です。御無沙汰していますが…
久しぶりに…【仏教典…】以前からの続きですが“投稿”させて頂きます。
【はじめの第1章…】からで〜〜〜〜〜す! 続編です…。
 
■ 第2章  永遠の仏
−−−第1節  いつくしみと願い−−ー

1.仏の心とは大慈悲である。あらゆる手だてによって、すべての人びとを救う大慈の心、
人とともに病み、人ともに悩む大悲の心である。

ちょうど子を思う母のように、しばらくの間も捨て去ることなく、守り、育て、
救い取るのが仏の心である。「おまえの悩みはわたしの悩み、おまえの楽しみはわたしの楽しみ」と、かたときも捨てることがない。

仏の大悲は人によって起こり、この大悲に触れて信ずる心が生まれ、信ずる心に
よってさとりが得られる。それは、子を愛することによって母であることを自覚し、
母の心に触れて子の心が安らかとなるようなものである。ところが、
人びとはこの仏の心を知らず、その無知から愛着を起こして苦しみ、煩悩のままに
ふるまって悩む。罪業の重荷を負って、あえぎつつ、迷いの山から山を駆けめぐる。

2.仏の慈悲をただこの世の一生だけのことと思ってはならない。それは久しい間の
ことである。人びとが生まれ変わり
死に変わりして迷いを重ねてきたその初めから今日まで続いている。


 仏は常に人びとの前、その人びとにもっとも親しみのある姿を示し、
救いの手段を尽くす。


釈尊族の太子と生まれ、出家し、苦行をし、道をさとり、教えを説き、死を示した。

人びとの迷いに限りがないから、仏のはたらきにも限りがなく、人びとの罪の深さに
底がないから仏の慈悲にも底がない。
 だから、仏はその修行の初めに四つの大誓願を起こした。
一つには誓ってすべての人びとを救おう。二つには誓ってすべての煩悩を断とう。
三つには誓ってすべての教えを学ぼう。四つには誓ってこの上ないさとりを得よう。
この四つの誓願をもととして仏は修行した。仏の修行のもとがこの誓願であることは、
そのまま仏の心が人びとを救う大慈悲であることを示している。
            
            <つづく>              No.1

538SAKURA:2012/04/27(金) 21:10:04 ID:FEa/NNlc
           
<つづく>              No.2

3.仏は、仏に成ろうとして殺生の罪を離れることを修め、そしてその功徳によって
人びとの長寿を願った。
 仏は盗みの罪を離れることを修め、その功徳によって人びとが求めるものを
得られるようにと願った。
 仏はみだらな行いを離れることを修め、その功徳によって人びとの心に
害心がなく、また身に飢えや渇きがないようにと願った。
 仏は、仏に成ろうとして、偽りの言葉を離れる行を修め、その功徳によって
人びとが真実を語る心の静けさを知るようにと願った。
 二枚舌を離れる行を修めては、人びとが常に和合して互いに道を語るようにと
願った。また悪口を離れる行を修めては、人びとの心が平らかでうろたえ騒ぐ
ことがないようにと願った。

むだ口を離れる行を修めては、人びとに思いやりの心をつちかうよにと願った。

また仏は、仏に成ろうとして、貪りを離れる行を修め、その功徳によつて人びとの
心に貪りがない様にと願った。

 憎しみを離れる行を修めて、人びとの心に慈しみの思いやりがあるれる
ようにと願った。

 愚かさを離れる行を修めて、人びとの心に因果の道理を無視する誤った考えが
ないようにと願った。

このように、仏の慈悲はすべての人々に向かうものであり、その本領はすべての
人びとの幸福のため以外の何ものでもない。仏はあたかも父母のように人びとを
あわれみ、人びとをして迷いの海を渡らせようと願ったのである。

                 <つづく>

539a hope:2012/04/28(土) 06:38:40 ID:kcv2QXTk

人生読本 谷口雅春先生著

善い言葉は人生の宝(後半)


人というものは、物を貰う癖がつきますと、相手に依頼心(たよりごころ)が生じて来、却ってその人が堕落することもあります。すなわち深切が却って仇を成すとはこの事であります。あの勤勉家の蜜蜂も、インドの持ってゆけば、そこは花が常に咲いているからよく蜜が取れるだろうと思って蜜蜂を連れていったら、蜜蜂はインドはいつも花があるから蜜を貯えて置く必要はないと思って働かなくなり、いっこう蜜がとれなくなったという事を本で読んだ事があります。

ですからあまり物があり過ぎると、人は働かなくなり、立身出世する必要もなくなって依頼心ばかり増長する恐れがあります。だから物を与える事は賢い智慧をもって適当な与え方をしなければならないのであります。生長の家では「出せば出すほど殖える」という諺がありますが、それでも所わきまえず相手わきまえず、金を無暗にだすようなことではいけません。

出すという事は、物を出しただけではいけないのです。もっと智慧を出さなければならないのです。生命を出さなければならないのです。物ばかり出すのが殖えるのであれば、家の財産を全部浪費して懶(なま)けていれば財産は殖えるということになるはずですが、決して殖えないのであります。物ばかり出すのが、「出せば出すほど殖える」というのではありません。

本当に出して殖えるのは自分の中にあるところの智慧を出し、愛の力を出し、生命の働く力を出して、みんなを生かすことにして出せば、出すほど殖える。ところが智慧を出し惜しみして、生命を出し惜しみしていながら、「私は物を出したが殖えない」と言って小言を言ってもそれは殖えないはずであります。「物質」は本来ないものです。「無いもの」を出しても殖えないのが当たり前です。有るものを出したら殖えるのです。

では、「本当にあるもの」とは何であるか、それは物質ではない。私達の「生命(いのち)」「智慧」「愛」「誠」……これが本当にあるものです。その本当にあるところの「生命」「智慧」「愛」「誠」……を出したとき「出せば出すほど殖える」事になります。金を出すにしても、物を出すにしても、それに「生命」をつけて出し、「智慧」をつけて出すところに、初めてそれがぐんぐん殖えてくるのです。

日本を再建するには力の出し方、物の出し方、節約の仕方には是非とも智慧を出し、愛を出し、生命も出し、力も出す、そうすれば出せば出すほど無限に物が殖えて来る、せまい日本でも、資源(もの)が足りないなどの心配はないのであります。今自分の手許に合っても要らぬものを蔵って置くのは、その物の生命を生かさない事になりますから、そういう品物は、紙屑でも何でも出して循環させる……そうすると出せば出すほど殖えます。紙屑でも糸屑でも布切れでも何一つ捨てないで、それを有用の方面に出す―――こういうふうに、智慧と愛と生命とを出すようにすれば、到る所に宝が満ちている。この世界は無限供給の世界であります。

(第9章「他人の生かし方」終り、次回から、第10章「働き方の生かし方」へ)

540ハマナス:2012/04/28(土) 09:06:09 ID:u5mC.eb2
神の子のみなさま

おはようございます。こちらの板にも、再投稿させて頂きます。

毎晩寝る前に、雅春先生のテープを拝聴していますが、最近、
『真理の吟唱』の中に印象に残るところがありましたので、謹写させて頂きます。

 想念感情を浄める祈り  (『真理の吟唱』P.57より)

 神の“平和の霊”よ、吾に臨(きた)り給え。われを平和の雰囲気をもって包み給え。わがうちに“平和の想念”をもって満たし給え、
“調和の霊”をもって満たし給え、争いの心を起こさしめ給うことなかれ。憎しみの感情を起こさしめ給うことなかれ。憂え悲しみの念
(こころ)を起こさしめ給うことなかれ。すべての暗黒なる想念感情を、太陽の光を乗せた朝風が、夕べの霧を吹き払うがごとく雲散霧消
せしめ給え。ああ我れかく祈り奉る。

 ああ神の霊(みたま)わがうちにあり、神の霊わがうちに輝きわたる。霊の光あまねくわが内にあり、また、わが外を包めり。
わがうちに神のコトバあり、神がそのコトバにて天地の一切のものを造り給いしが如く、われも亦わが身辺、わが運命の一切をわが
コトバにて造るのである。コトバは創造のエネルギーであり、創造の鋳型であるのである。鉄を溶かしてそれを鋳型の中に流し込めば、
その鉄が固まるとき鋳型の通りになるが如く、宇宙に満つる“無形の実質”が固定化して物質の形を帯びてくるとき、それはコトバで
述べた通りの姿形をあらわすのである。


 それゆえに、私は今後決して、悪しき事をコトバにて言い表すことをしないのはもちろんのこと、コトバによって悪しき事を心に
想うことさえもしないのである。心に想うことは“無性のコトバ”を心の中で発しているのであるから、それは、ガラス工場の工員が、
“無形の息”を透明のガラスの中に吹き込むその吹き方の相違によって、色々のガラスの像(かたち)やガラスの器具を作るのと同じ
であって、色々の運命、環境、境遇、健不健の肉体等を造り出すことになるのである。

今より後、決して私は悪しきことを思わず悪しきことを言わず、人を呪うことなく、怒ることなく、現象の悪に心を捉えられることなく、
ただ善のみ、光のみ、美のみ、幸福のみ、豊かさのみ、調和のみ、平和のみの実相を心に見、コトバに発し、常に想念感情を浄めて、
この世界の実相たる天国浄土を地上に実現せんことを期するのである。仰ぎ願わくは、大神の御慈導を得て、われら行く道に迷うことなく、
険しきを平らかならしめ給い、あやまりて暗黒の想念を起こすことなく、我が心を常に護りて、もろもろの汚れより遠ざからしめ給え。
 
ああ、われは、天地を想像し給いし大いなる力ある“神のコトバ”と同じき言葉をわが内に有(も)つのである。コトバは双刃(もろは)
の剣である。それは公平に自己を斬り、相手を斬り、一切の悪しき言葉を出す者のすべてのものに公平なる宣告を与えるのである。
善き言葉をいだす者は永遠に祝福せられ、悪しき言葉をいだす者は常にその言葉相応の傷を受けるのである。われは今、この真理を
知らしめ給いしことを神に感謝いたします。ありがとうございます。

541ユタカ(なせば成る我ハ神の子):2012/04/28(土) 16:01:34 ID:4u9fyInI
<誌友会案内詳細>

●日時:4月28日(土)21:30〜23:30(延長あり)
●テキスト:『生命の實相』第一巻 「七つの光明宣言」
●場所:「トーキングスティックボード」板(業務連絡は「部室2」板)
●前夜祭期間:28日迄
(前夜祭期間は該当箇所に関する話題を、どしどしお寄せください。多少の脱線もありです)


* WEB誌友会は「皆で同一箇所を拝読すること」これを最大の目的としております。
* 誌友会での発言に関してですが、「完璧を期す必要はございません。」65点主義でお願い致します。
* 同時に他者投稿文に対しての、細かなご指摘等はご遠慮願います。
* 輪読箇所関連資料が、聖典板(465以降)に掲載されております。事前拝読されるとより理解が深まります。

542ハマナス:2012/04/28(土) 18:40:43 ID:u5mC.eb2

神の子のみなさま
こんばんは。

自己を誤魔化すことなかれ  (『新版 生活の智慧365章』P.140)

 人間のみが地上に於ける自己反省の能力をもっている唯一の生物であって人を批判し、
反省し、分析し、改造遷善し得るすぐれたる精神をそなえているのである。それにも拘わらず、
人間ほど自分自身の欠点を知らないものも少ないと言ってよいほど、自分自身のことに気が
つかないのである。他人(ひと)のことだったら、自分のことよりもよく解って、色々批評
したり、悪口を叩いたりする。何故だろうか。まともに自分の欠点を見たくないので、自分を
誤魔化そうとするのである。

 自分の顔に白粉(おしろい)を塗って素地を見えぬようにして、白粉を塗った表面から、
自分を鏡に映してみて、「自分は美しいな」と暫し、自分の美粧したかとに見惚れたいよう
なものなのである。そこで摂理が自分の心の姿を、自分の病気や、周囲の人々の風当たりや、
形にあらわれる姿に見せてくれて自己反省せしめ、改造遷善が行われやすいようにしていて
下さるのである。環境を見、周囲を見、自己の肉体の状態を観て心を改める者は幸いなるかな。

感謝合掌

543ユタカ(なせば成る我ハ神の子):2012/04/28(土) 19:26:48 ID:qAbFUkAo
正しい信仰
 

  正しい信仰は、聖書、経典、その他霊感の書にもとずいて、肉眼に見えざる完全な〃霊なる實相〃を、先ず心の世界に観ることによって、完全な實相を地上に現実化する力を得るのである。


  『生命の實相』を読み、『甘露の法雨』を読誦し、先ずあなたの實相の完全さを観、観ることによって実践の勇気と力とを得、地上に天国をつくるために邁進するがよい。



  正しい信仰は前途に光を見、疑いは前途に暗黒を見る。光を見る者は前進して〃生き甲斐〃を感じ、暗黒を見る者は前進することが出来ないで、暗澹たる泥沼に陥って、ただもがくばかりである。


  正しい信仰とは、「真理」をみつめる信仰である。「真理」とは、神のみが実在であり、神は善であり、善のみが実在であり、人間は〃神の子〃であり、神の善徳を継承して地上に出現した霊的実在であるから、悪しき運命にとざされることは絶対にないとの信仰である。


                   谷口雅春先生  『理想世界』誌 47年4月号

(某ブログより)

544SAKURA:2012/04/28(土) 20:50:54 ID:FEa/NNlc

トキ様 へ
観覧者の皆様 へ

久しぶりに“本”を開きますと……やはり!当たっています〜〜〜ネ!
更に、今日は【二項目を渡航…】します。では!!“スタ−ト”……です。

■【幸福を招く365章】
―――神はどんな難問題をも解決し給う―――

神はすべての渾てであるから、神は外にも内にも到る処にいますのである。
何事が起こって来ようとも、問題が起こるのは解決があるから
起こるのであるから心配することは要らないのである。
解決が出来ないのは智慧が足りないからである。
神の智慧をもって来さえすればどんな問題でも解決ができるのである。
神の智慧をもって来るのはどうするか、神にその問題を
わたしてしまえば好いのである。
神に「自分」を明け渡すのである。「神よ、この問題を貴方に全部ゆだねます。
神よ、あなたは無限の愛であり、無限のちであられます。だから必ず此の問題を
すべての人の幸福になるよう解決して下さいます」
このように祈るが好い。
                      (谷口雅春著)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

ここしばらく【祈りも不規則…】な時間帯でした。…そして?
「結果???」は、やはり!大きい〜〜ですネ!
【祈ること】により、私の“神性開発の向上”に……
不規則なる時間帯に?或いは…神想観が出来ない時には?
■【甘露の法雨】に黙読したり、瞼を閉じて、
静かに精神統一をしまして、最初の【神呼び歌】を、何度も〜何度も〜繰り返し
唱えたり、ある時は?魔除けの様に【宇宙浄化の歌】を…でも!やはり!
日々の【規則正しい時間の祈り】は、大切です〜〜〜ネ!
そして、どんな問題も、必ず!答を下さるのですから……
■【神様の叡智】を頂けますように〜〜〜“祈り・祈り・・・祈り”にと、思います。

もしかしますと?今の「生長の家」の問題も“祈りが足りない”のでは??とも??
思いながら…唯!!ひたすらに【祈る事】でしょうか???

PS:トキ様へ
久しぶりに“投稿”させて頂きました…。「祈り」ひたすら精神統一しまして…
神様に“全托“しますと…必ず!“神様からのメッセ−ジ”頂けますもの〜ネ!
トキ「管理人」様は、この事に関しまして、如何でしょうか?

545SAKURA:2012/04/28(土) 20:52:51 ID:FEa/NNlc

トキ様 へ
観覧者の皆様 へ

■【幸福を招く365章】
――――神の愛を「今」を完全に生きよ――――

あなたの生命(いのち)の内に神の愛が宿っているのである。神の愛は
唯勝利するほかないのである。過去に何があろうとも、それは今日の魂の前進の
準備となったのである。過去の失敗に捉われるな。形の一進一退のうちに魂は
必ず前進して行くのである。今生かせ、神を信じ、神に祈りつつ今を全力を出して
生きるのである。「今」は実相世界に既にあるところの勝利が現実世界に
あらわれて来るところの門であるのである。「今」を支配するものは過去の失敗を
勝利にかえ、魂の進歩にかえ、未来永劫にただ悦びの生活を送ることが
できるのである。次の如く念ぜよ。
「われは今日、善と愛と親切の言葉のみを語るのである。われはそれ故に愛と深切
のみを刈り取るのである。われは如何なる悪しき言葉も今より後に口にしない
のである。自分は人の行いと其の動機とをさばかない。
自分はあらゆる人々の行いに其の善意をみるのである。自分は人を軽蔑する
ような言葉を決して語らない。自分はすべての人々の美点のみを見、美点のみを
かたるのである。自分は言語が神であり、創造者であることをしったのである。
だから、今後自分は善き事のみ語り、善き事のみが実現するのである。」繁昌は
一日にして来らず、それが単なる偶然の好意であるかに見えても、必ず過去に
蓄積されている善き想念、善き言葉、善き感情が現実化して生ずるのである。
すべての想念、感情、言葉、行為の結果は実現しないではいないのである。
それは原因結果の法則である。原因結果の法則には、物理化学な法則と、
心の法則とがあるのである。大抵の人は物理化学的法則のみを知っていて、心の
法則を知らないのである。繁栄せんと欲する者は顧客に対してよき想念、善き感情、
深切な注意、行き届いたサービスの精神を揮い起さなければならないのである。
                      (谷口雅春著)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
“今日の言葉”から、“過去の失敗”は、ふとした事で、最近よく思いだします。
「何故!!」この様になったのかしら〜〜〜ン!自問自答!!
この様な“祈り”をしています時には、どうしても“そちらの想念”に心を奪われて
行く事が多々あります…。

そして“過去の失敗”と分かった瞬間から「悪しきの想念」にきりかえられるのです。
【悪の想念…感情】は、“失敗”と言う言葉が、どうしても出てくる訳ですが…
仕事をしております時にも、何かの拍子にそのような気持ちになってしまう…私が!!
「ネガティブ感情である不安」が、何故!何故!起きるのでしょうか?
此処3年半近くの間…振り返りますと、同じ繰り返しの様に感じた次第です。…が?

いつも、その“原点の繰り返し”にも見えます。「今日の言葉」で…
■【過去の失敗】を【勝利に帰る事】は、
まず!!私の【深い傷…】を呼びおこさないようにと…更に!
それに対して、仮に生じました場合は【立ち向かわなければいけない】と…
其の勇気の必要性を…思う様になりました…。

■【言葉は神】ですから…【言葉を駆使】しまして、
どんな状態でも【善と!愛と!深切!を語る…】ように、
なるべく【正しい想念感情の訓練】が足りないようですので
私自身「今日の言葉」を、唱えて行く様にと、心の深層部に深く刻みこみました…。
きっと!!更に!!
此処「2チャンネル」でも【SAKURA…いじめ】は、起きている様なものでしょうが?

■そう云えば…ある所に【昨日のダイエット献立にて…】キノコを使用致しましたが?
今まで“話題性にもならなかった??キノコ”…が…まるで【悪いキノコ?】
変な現象??■【悪いキノコ〜〜〜〜!!!!】
つい!私は【悪の想念連想…ゲ−ム】でしょうか??
ここが、わたしの“修行”なのでしょう〜〜〜〜〜〜〜ネ!
余りにも“タイミング…”がと、思いつつも【一応再投稿!!】致しましたが?
■■【心の善の言葉】は、周囲にも、明るい輝き〜☆〜が…
【報恩に感謝】が出て来ますよ〜〜〜ネ!      再合掌
                             
PS:トキ様へ
続けて“投稿”させて頂きました…。先程の「雅春先生の言葉」関連して
いますものと思いまして…「感情のコントロ−ル」…難しい時もありますが…?
これが「人生劇場」にての訓練でしょうかと、つくづく“人の投稿言葉”を
拝読しながら思いました。トキ「管理人」様は、この事に関しまして、如何でしょうか?

546トキ:2012/04/28(土) 21:39:11 ID:AfiyqW7Q
>>545

SAKURA様

 すばらしい御文章、ありがとうございました。

 先の戦争で「撃墜王」として活躍した坂井三郎さんが、「失敗をした時に、”しまった”と100回言っても
何もならない。それよりも、早く立て直す事。これが生き残る秘訣だ。」と、どこかで書いていました。

 最初は誰でも、失敗をしたり、他人とトラブルがあれば、気持ちが落ち込みます。でも、いつまでもそれに
留まっていたら、進歩はありません。

 気持ちのきりかえができる人になることが、修行だと思います。頑張って下さい。

合掌 ありがとうございます

547ハマナス:2012/04/29(日) 14:18:40 ID:u5mC.eb2

神の子のみなさま
こんにちは。今日は、爽やかな、素晴らしいお天気です。

機嫌の悪さは人に感染する  (『新版 生活の智慧365章』P.141)

 御機嫌が悪いということは自分だけの問題であり、その時の生理作用であり、頭の
具合によるのであり、他の人の関する事ではないし、それは何も重大な事柄ではないと
考えている人もあるけれども、これは非常に重大な問題なのである。人間は一個の精神
ラジオ・セット又は生きたテレビ・セットとして自分の気分に波長の合ったものを受信し
受像して、それを自己の運命として、具体化するものだからである。

 機嫌の悪さは、単にその人一個を不幸に突き落すだけではなく、その人に触れる殆ど
すべての人に、その不機嫌を感染させ、他の人々をも不幸の運命に巻き込むことになる
のである。だから、“機嫌の悪さ”は単なる自己虐待であるばかりでなく、他の人々をも
不幸に陥れる罪悪であり、それを感染させて行くとき、大なる戦争さえも起こりかねない
のである。世界の人々がフルシチョフのご機嫌がよかったとか、悪かったとかで一喜一憂
しているのもそのためである。

感謝合掌

548金木犀:2012/04/29(日) 14:58:49 ID:fLEJ35eI
『生長の家』誌昭和五十七年六月号より
『古事記』連続講話(ラジオ放送より) 谷口雅春先生

「夫先ず唱え妻これに随う」という天地の法則

おみなを先だてた結果……

さて、女性がトップに立っておりますと、ろくなことが起こって来ない。これは天地の法則に背いているからであります。

それが、女性の正しい位置に戻って夫を優先させて、夫を立てて夫に感謝するような心になると、その家庭がよくなって、夫が競輪にこったり、パチンコ遊びに夢中になっておったのが直ってしまうという実例も出て来るのであります。

これは、昭和四十四年の六月二十六日に、長崎公会堂で生長の家の講習会があった時に長崎市の郊外に長与という所がありまして、そこの前田ミキエさんといわれる四十七歳の奥さんが、こういう話をなさったのです。その録音を朗読してみます。

『有難うございます。昭和四十三年の九月のことです。私は子供に導かれたのであります。それまでの私は、一日、十五日にお聖経を誦げる程度のことでした』

お聖経というのは『甘露の法雨』というお経のことです。この方は生長の家の誌友であるわけです。それで生長の家の人は毎日一回は聖経を誦げるのですけれども、この方は一日と十五日に誦げるぐらいで、まだ熱心でなかったことを言っておられるわけです。続いてこう言われる。

『主人は戦後流行しましたパチンコ、競輪、ボートレースと、気狂いのように目の色を変えて夢中だったんでございます。私は何度も止めてくれるように頼んだのですけれども、私の言うことなど、フンフンと鼻の先であしらうんです。少しも言うことを聞いてくれないのです。主人にいくら言うても聞きませんから、子供達の顔を見ると、私が働かなくちゃならないと思いまして生命保険の外交をして働いたんですが、私が働けば働くほど、主人に賭け事を止めてくれと言えば言うほど、主人は夢中で賭け事に熱中するのです。どうしようもありません。

もう貧乏という字の二字でございます。私は貧乏でどうしようもなかったんです。それで私は、こんな嫌な生活ならば、いっそ死んだ方がましだと思ったことが再三でございました。でも三人の子供の顔を見ると「死ぬということはやさしいものだ。よし競輪に夢中になっている主人に負けないように私も子供を育てよう」と思ったのです。それで働きましたが、主人はますます賭け事に夢中になって、いくら言っても聞きません。私はそれでサジを投げました。これはもう“ガン”だ。死ななくては治らないと思って途方に暮れていました。そんな或る日のこと、それは去年の九月(昭和四十三年)のことでございました』

549SAKURA:2012/04/29(日) 16:55:31 ID:FIUIhwU2
>>546

トキ様 へ

昨日のお返事ありがとうございます。
■坂井三郎さんの言葉を「失敗をした時に、”しまった”と100回言っても
何もならない。それよりも、早く立て直す事。これが生き残る秘訣だ。」

この“言葉…”教えて頂きまして、本当にそうです〜〜ネ!
失敗するたびに、“あっ!しまった…ヮ”と言っている間は?
正直な話、まだ!余裕があるのでしょうか…?つまり!何度も〜何度も〜><
繰り返す事になるのでしょうか?
それを“早く立て直す事”が大事…とあらためて思いました。
この“言葉”より“過去の失敗に悔む”前に、どの様にしていったらよいかの対策…
更に!講じて、いつまでも“悲劇の主人公”では“進歩向上”何も得る事ができなく
なりますでしょう〜〜ネ!当に“後退=負け組”でしょうか??
やはり、【前進!!】如何なる状況下にても、その様に思います…。

■最後に「トキ様の言葉」より、
>最初は誰でも、失敗をしたり、他人とトラブルがあれば、気持ちが落ち込みます。でも、いつまでもそれに留まっていたら、進歩はありません。
 気持ちのきりかえができる人になることが、修行だと思います…。

私も気持ちを切り替える“訓練”をしていきます。ありがとうございます。

PS:
先程、“悲報”の電話がありましたので、今から出かけます…。
いつも【感情コントロ−ル】出来ます人間でありたいと思います…。

550ももんが:2012/04/29(日) 19:10:30 ID:XXCuaQns
>>547

ハマナス様


ハマナス様、いつも、素晴らしい、紹介文ありがとうございます。感謝、合掌、拝。


私は、いつも、ハマナス様の選ばれる紹介文に、感動と教えらる事ばかりです。


本日も、私の心に響きました。

真に、御教え感謝申し上げます。

ありがとうございます。
感謝敬白、合掌、拝。

551ハマナス:2012/04/29(日) 23:31:24 ID:u5mC.eb2

ももんが様

 ありがとうございます。

ご丁寧なレスを恐れ入りました。

ももんが様のいつも思いやりのある、優しいお言葉に“力”を頂いております。

感謝申し上げます。

552晴れときどき・・・:2012/04/30(月) 00:43:40 ID:UCkc6HMs
 合掌

 拙ブログ掲載記事(谷口雅春先生のお言葉)を貴掲示板にて、転載されているようですが

 せめて足跡を残してからにしてください

 生長の家の教えを忘れた皆さまのお役に立てるのは嬉しいのですが。

553ルミエール:2012/04/30(月) 01:31:42 ID:vsZYH/3w
:金木犀様
526から530 読ませていただきました。
私、ちょっと質問があるのですが、
夫が浮気をした場合、このような考え方をするのが生長の家だとは知っていますが
では、妻が浮気をした場合はどうなんでしょうか?
その場合も「夫が悪い。妻の浮気相手に感謝せよ。」と指導されるのでしょうか?

554ユタカ(なせば成る我ハ神の子):2012/04/30(月) 01:55:44 ID:PVyWFNfg
はれ時々ホークスさん。

あこがれのホークスさん、足跡を残せないので、今度は挨拶をします。

あこがれのホークスさん、誌友会、前夜祭に是非参加してください!!!

お待ちしています!!!

555金木犀:2012/04/30(月) 10:54:32 ID:fLEJ35eI
>>553

相談相手が妻である場合に、そのような指導がなされていると思いますが、
これは、妻が悪いとか夫が悪いとかいうことではなく、きっと、自分自身の運命は
全て自分が責任を持つという意味であると思います。もっとも陰陽の法則などもあり、
妻が夫を立てるということも法則としてありますが、その前に自分の運命は自分が作った
ものであるとすれば、夫の立場からすれば、夫自身の心の影であり、妻がやさしくないのも
あるいは妻が浮気した場合も、全て夫の心の影であり、妻が自分を立ててくれないから、
外に愛人を作っているのも、夫自身の方から見れば、夫がそのように自分が運命を
作っているということではないでしょうか。
自分の不幸を誰か他人のせいだと恨むことをやめて、全てを自分の責任と感じることで、
自分自身がまたその運命を変えることも自由にできるという、自分が運命を支配する
主人公であるという自覚を得るように、指導されているのではないかと思います。

だから夫自身を指導する時には、当然夫自身の心の影なのであり、
夫自身に責任があると指導されるのだと思います。

私も組織に属した経験はごく少なくしかも末端信徒ですから、
指導的立場に立ったことはないので、ご著書から得た知識ですので、
実際には現場のことはわかりません。

556ハマナス:2012/04/30(月) 11:08:17 ID:u5mC.eb2

神の子のみなさま
おはようございます。今日も皆さまにとって、燦々と光輝く日でありますように。

  機嫌の善さは万人を明るくする  (『新版 生活の智慧365章』P.142)

 「愛はよく耐え忍ぶ」と云うことは、愛深き人は、怒りや不機嫌を爆発さすとき、
その影響がどんなに多くの人々に破壊的結果をもたらすかを知っているからである。
御機嫌がよいと云うことはその人の心が明るいことであり、心が明るい時には、
その人のもって生まれた智能がいつもよりよく働くから、よき考えが浮かび、よき
仕事ができるということになるのである。心明るき時には肩が凝らない。筋肉が
無理な緊張をしない。人が自分を侮辱して来ても腹が立たない。常に平和で、何事
も善意に受けることができるのである。新しき智慧が湧き出で、新しき勇気を生じ
どんな逆境をも好転させる不思議なるインスピレーションを受けることができる。
次の如く念ぜよ。

 「私は神の子である。神は光である。私は光の子である。それゆえ私は常に
心が明るくて、何事も光明面を見て暗黒を見ないのである。自分自身が光である
から闇が近づいてもそれを光に変えてしまうことができるのである。」


感謝合掌

557金木犀:2012/04/30(月) 11:21:33 ID:fLEJ35eI
ハマナス様

有難うございます。ほんとに自分の機嫌をコントロールすると言うことの
重要さを感じます。
念じる言葉、書き取って、暗記するまで覚えることにします。
そして、うっかり不機嫌な念波を受信したり、自分が発信しそうになった時、
これを常に唱えることに致します。
ありがとうございました。

558うのはな:2012/04/30(月) 14:18:57 ID:El6gIMAw

本日の朝の時間より、いいちこ氏ブログ 晴れときどき競馬とホークス
 において、田中忠雄先生などの神誌の文章が掲載されています。
 休日の間ゆっくり拝読させていただきます。 
                       感謝 拝。

  : http://blogs.yahoo.co.jp/yghms533/22680399.html

559ももんが《感想》:2012/04/30(月) 14:48:01 ID:XXCuaQns
うのはな様
ハマナス様


うのはな様、ハマナス様、本日の御文章、拝読しました。ありがとうございます。


うのはな様の、お話は、先日より、道元様のお話ですね。大変、面白く読ませて、頂きました。ありがとうございます。


ハマナス様の、本日の御文章も、真に自分のいつも、心でイメージしてるものと同じであります。いつも、素晴らしい教えを受け止めて、自分の心に止めなが、学んでおります。ありがとうございます。
合掌、礼拝。

560うのはな:2012/04/30(月) 15:11:52 ID:El6gIMAw
生長の家「今昔物語」ブログにも、谷口雅春先生御高弟 諸先生方

 真の生長の家の教えや、貴重な資料が掲載されています。
 御覧下さい。

 http://blog.zaq.ne.jp/sinseityounoierengou/

561志恩:2012/04/30(月) 16:52:30 ID:.QY5jUA6
うのはな様

いいちこ氏のブログと、生長の家「今昔物語」ブログのご紹介を、ありがとうございました。
「今昔物語」は、愛読させて頂いてますけれど、いいちこ氏のブログは、初めてでした。

田中忠雄先生と佐脇嘉久先生の対談が、掲載されていて、お二人とも存知上げておりますので、
お懐かしく、タイムスリップしたような幸せな気持ちで、読ませていただきました。

うのはな様、いつもありがとう。

562金木犀:2012/04/30(月) 19:13:49 ID:fLEJ35eI
『生長の家』誌昭和五十七年六月号より
『古事記』連続講話(ラジオ放送より) 谷口雅春先生
「夫先ず唱え妻これに随う」という天地の法則(2)


ご主人は“観音様”ですよ

『皆さんも御存知と思いますが、九月の『生長の家』誌の増刊号を、上の女の子が歯医者さんに行きまして、「知らないおばさんから貰ったのよ」と言って貰って来ました。そして「お母さんね、お父さんがパチンコや競輪に夢中になるのは何かあると思うのよ。それがここに書いてあるから見ておいてね」と言って娘は会社に行ったのです。

私は浮かぬ顔をして「ああ、こんなの見たってどうしようもないわね」と思い思い手に取って開いてみまして、はっと思ったのです。本当にどうしようもない時でしたので、
「これは子供が言う事じゃない、何かのお導きかも知れない」
と思って教化部の道場に行ったのです。そしたらその時の講師が、藤井先生でございまして、「どうしました?」と聞かれました。私はこれ幸いと思いまして今までの胸の支えを吐き出すようにペラペラと話したんです。そうしましたところ先生は、「御主人に感謝をしなさい」とおっしゃるんです。「まあ主人のどこを取って感謝すればいいのですか?」と私は言ったんです。そうしたら、「御主人は観音様ですよ。あなたの心の姿が形に現れてそういうことになっているんですよ。御主人にあなたが下から出て感謝をしたらいいんですよ。あなたは毎日道場へ来て、一人一人の講師のお話を聞いて、御主人は観音様だから、御主人を上に立てて、自分は下に降りて、御主人に感謝をしなさい」

とおっしゃって、三時間半もかかって、私と腰を突き合わせて、長いこと一所懸命になって夫婦の生活の原理をお話下さったのであります。そして、
「あなたはきっと幸せになりますよ」
とおっしゃいました。私には“幸せ”なんて縁遠いと思っていたのですけれども、幸せということを聞いたものですから、もう無我夢中でした。それで、先生のおっしゃいましたように、その場ですぐ、主人と私を聖使命会に入会させて頂きました。更に、子供達三人も入会させて頂き、それから霊宮聖使命会二十柱申し込み、そして毎月道場通いを始めました』

「れいぐう」というのは“霊のお宮”と書きます。これは京都府の宇治(お茶の名所)に生長の家別格本山というのがありまして、そこに宝蔵神社と言って、信徒や誌友の祖先を、特に生長の家の真理で祀って上げる神社があるのです。生長の家の誌友や信徒は、霊界へ行った魂でも、生きている人と同じように考えて、生長の家の聖使命会員に霊魂を登録して祀って上げる。これが“霊宮聖使命会員としてお祀りして上げる”ということです。それで、祖先の人達を十柱もお祀りして上げたというわけです。

563ルミエール:2012/04/30(月) 22:36:36 ID:vsZYH/3w
>>555
金木犀さま
お返事ありがとうございます。
そうですね。この世界は心の影ですものね。
ですが、生長の家は、どっちかいうと男尊女卑風のところがあるように思えて
ついそんな事を考えてしまいました。

564金木犀:2012/04/30(月) 23:42:08 ID:fLEJ35eI
ルミエール様

確かに一見そう言う感じもしますよね。
然し、これはものごとが生成化育しているための陰陽に分かれて
それが再び結び合って新しいものが生まれるという法則が、陽が先に進み、
陰が退いてという調和のなかから起るとする単なる法則であり、これは
法則であるから、そのようにならざるを得ないものと思います。

然し、男女それぞれの中にまた陰陽があり、陽ばかりの人も、陰ばかりの人もいないのであり、
現世で振り当てられた役を完ぺきにこなしていきながら、陰陽どちらも揃った完全円満の人間神の子を
顕現していけばいいのではないでしょうか。
現世でどちらの役になろうと、来世ではまた別の役となって、進化の過程を進んでいるのだから、
現世の役がどちらになろうと、私はこだわることはないと思うのですが。

それに重要さは意外と女性のほうがより役割は大きいかも知れません。
男性の成否を左右するのは女性だというのですから、
支えるものは余程大きな力が必要で、
縁の下の力持ちと言われるくらいに、
見えている部分より、それを支えている部分のほうが、
実は重要なのかもと思います。

565晴れときどき・・・:2012/05/01(火) 01:51:07 ID:UCkc6HMs
合掌
 うのはな様 

   拙ブログを紹介していただき有難うございます

 志恩様

   ご訪問いただき有難うございます

  左欄の『今日の言葉』をやってもらいますと、バックナンバーが読めます
  最近忘れられた谷口雅春師の御教えが光輝いて導いてくださいます

566志恩:2012/05/01(火) 02:29:21 ID:.QY5jUA6
晴れときどき…ホークス様(いいちこ様)

早速、お訪ねして『今日の言葉』のバックナンバーを繰り、拝読してまいりました。

とてもいい真理類をチョイスされてありますね。

いいちこ様が、載せられた
谷口雅春先生、清超先生、佐脇嘉久先生、その他、、の真理の言葉は、「明窓浄机」から「生長の家」誌s24から等々、
かなり昔の神誌からの抜粋が多いですが、よくあのような古い時代の神誌を持っておられましたねぇ。

いいちこ様が、おっしゃる通り、最近忘れられた谷口雅春先生の教えが、光り輝いていていますね。
ありがとうございました。

567金木犀:2012/05/01(火) 11:37:03 ID:wfGwvgwo
『生長の家』誌昭和五十七年六月号より
『古事記』連続講話(ラジオ放送より) 谷口雅春先生
「夫先ず唱え妻これに随う」という天地の法則(3)

ピタッと消えた賭博癖

『そして、「夫を観世音菩薩として拝みなさい」と言われましたけれども、夫に面と向かっては拝めないものですから、朝出勤する時に「有難うございます、有難うございます」と夫の後姿を拝んでおりました。

ところが十二日になりました時に、どうしたことか、あの気狂いじみた競輪やパチンコが、とうとう止まってしまったのです』

奥さんが上に立って「あなた、こんなことをしてはいけませんよ」と、女性が、こと先だって「競輪をやめなさい」「パチンコを止めなさい」と言っておった間は、結果が悪いんです。どうしても賭け事が止まないのです。それで「もう一生涯、私の家庭には幸福は来ない」と思っていた。そして貧乏のドン底であった。

ところが「夫を立てなさい。夫を拝みなさい」と言われて、女性がトップであるという現代的な考えがクラリと変ってしまった。「還り降りて改め言え」と天津神(あまつかみ)が仰せられた――それを実践したわけです。

『そうしたら夫の競輪、パチンコの気狂いが止まってしまったんです。そして久しぶりに今まで見なかったお給料まで頂いたのです』

この夫はそれまで、会社でもらうお給料をみな使ってしまって、奥さんに渡さなかったらしいですね。それで奥さんの方は保険会社の外交員か何かしておられて、それでやっと生活しておられたのですね。今まで夫の給料なんか見たことなかったのが、夫が久しぶりにその給料を奥さんに渡した。

『私は有頂天になりました。飛びつきました。皆さん、御想像下さい。本当に嬉しくて主人に飛びついて「ああ、有難うございます」と言いますと、主人は「初めて喜ばれた!」と言ったんです。私は今まで“感謝”という言葉を忘れていたのだと思って、私はあらためて座って、そして夫を上から下へ、下から上へとじーっと眺めわたしました。その時の主人の神々しい顔は、今もって忘れることが出来ません』

今まで「パチンコの気狂いだ、競輪の気狂いだ」と思っておった夫を、今度は観世音菩薩として拝んだら、神々しい拝める顔に変っているのです。だから、奥さんの幸福は、夫を馬鹿にするところにあるのじゃないんです。夫を拝める心境になった時に、本当に奥さんの幸福が出て来るということですね。

『こんな素晴らしい主人、神々しい神様のような表情をしている主人を、私はどうして今まであんなに蔑んだものかと、私は恥ずかしくなりました。そして私が働こう働こうと一所懸命思っていればいる程、私の我の強さというものを主人が教えてくれました。私は我が強すぎて、夫に先立って、夫を剋していたのだ、済まなかったと気がついたのです。

私は両親もございますし、兄弟も沢山おりますのに、たった一人の主人であればこそ私の強い我を、体でもって私に教えて下さったのだと思いました。「お前の我が強いから、わしがこうして現れているんだよ」と言って肉体をもって私の我の強さを教えて下さっておったので、私の我が砕けた時に、夫の本当の優しい神々しい姿が現れたのだ――と感じたんです。本当に有難うございます。

そして現在では、夫は晩酌の二合のお酒に顔をほころばせて、とても喜んでおります。本当に素晴らしい主人になって頂きました』

568ハマナス:2012/05/01(火) 23:03:03 ID:u5mC.eb2

神の子のみなさま
こんばんは。今日は、母の用事で一日、出掛けていました。
引用が遅く失礼いたしました。

殻がわれて雛が生れる   (『新版 生活の智慧365章』P.143)

 人が過ちを犯したときに、その人を“愚か者”または“悪人”と思ってはならない。
神の造り給うた世界には“愚か者”も“悪人”もいないのである。唯、彼等の実相が
あらわれていないだけである。彼の実相の完全さがあらわれるように、神想観又は
いのりによって、彼の「完全なる実相」を心に描き、すでに彼が完全であることを
心に念ずるがよいのである。

 「彼も神の子である。彼の実相は完全なのである。現象はどのように見えていても、
それは卵の殻がわれて、中から鶏の雛が生れて来るように、完全なる実相があら
われて来つつあるのである」と念じて、その人を祝福するがよい。雛が現象界に
あらわれて来るためには、卵と殻がわれなければならないのであるあ。それと同じく
実相の完全な姿があらわられる過程としては、現象的には破壊的に見えることが
人間の行動にも、世界の運命にもあらわれて来るであろう。
併し喜び歓べ、それは幸福を生み出す卵の殻が破れつつあるのである。

感謝合掌

569ルミエール:2012/05/02(水) 00:04:35 ID:vsZYH/3w
金木犀様
再び、ご親切にご教示くださってありがとうございます。
そういう風に考えたらいいのですね。

570うのはな:2012/05/02(水) 13:54:51 ID:El6gIMAw
  赤ちゃん誕生 『奇跡の教育』 鹿沼景揚 先生著 P146〜

 私が戦地から復員してわが家に帰りますと、家族は泣いてよろこびました。
しかし、そのよろこびもニ〜三ヶ月で平静となりますと、これまで、母と娘の二人で
バランスのとれていたところへ、夫が入ってきますと、夫と妻のむすびつきとなり、母が一寸はみ
だすというむずかしい人間関係となりました。

 この際、妻が働きにでて、母が留守役にまわるというのが、普通のケースですが、私の場合は、妻は
ながく一人で働いてきたので、この辺で家に留まり、母が働くというすがたとなりました。
しかし、大人三人の生活はなんとなくギシギシしていますので、こういう場合に、赤ちゃんでもできれば、
それに気がまぎれてきっとうまく行くだろうと思いました。そして待望の赤ちゃんが生れました。

 これですばらしくなるだろうと期待していましたら、ここに厄介なことがおこりました。
姑と私とが教育意見が全くちがっていたのです。姑は、鉄は熱いうちにきたえよといい、私は、むしろ
ほめよ、たたえよと行きたいところです。
 それは、表面上のちがいですが、もっと腹の底を割ってみると、この生れた赤ちゃんの奪いあいのようなものです。
なんとなく幸せでないときに、執着の愛でネバリツイテしまいます。おばあちゃんは淋しいからでしょう、赤ちゃんを抱いて放しません。
 赤ちゃんが一人だから奪いあいになるのです。神さま、もっともっと赤ちゃんを下さいと祈っておりましたら、赤ちゃんが生れてくる通路が
大きく開いたのでしょうか。一年十一ヶ月で二番目の子、また一年十一ヶ月すると三番目、また、一年十一ヶ月で四番目が生れそうになりました。

つづく

571うのはな:2012/05/02(水) 14:16:13 ID:El6gIMAw
570つづき

 そのとき一寸不安になりました。
「こんなに規則正しく一年十一ヶ月に生れると、家内の妊娠可能な年齢の間に、
相当に沢山の数となります。神様、この辺でストップして下さい」とひとり言を申しましたら、
何の前ぶれもなく、スーッと流産してしまいました。
 私は非常に驚いて懺悔しました。あれほどまでに欲しいと一所懸命にお願いしていたのに、神様の方から、
それではというので三人四人と授けはじめて下さるようになったところを、もう多すぎます、もういりませというのは、
いかにも恩知らずであります。
 神様、申しわけありません。これからは何人でも下さるだけいただきます。
赤ちゃんが生れるということは、無秩序にでたらめに生れてくるのではありません。
『生命の實相』霊界篇によれば、高級霊は地上で受くべき運命や、果たすべき使命をしって、それにふさわしい家を選んで
天降ってくるのです。わが家の教育環境はこの父とこの妻とそしてこの姑とがそれぞれの意見をもって教育はどのようにされるかを、ちゃんと
予見して生まれてくるのが、わが家の子供たちであります。

 次に、地上のわれわれ夫婦はどのように考えたらよいかと言えば、特に、私について言えば、私は教育者としてできるだけ多くの体験をつむことが
よい指導者となれて、多くの人を救うことができるようになるのです。神様はそのことを承知の上で、私に与えて下さる子どもの性格やら、子供の人数やらを
きめられるのです。私の使命を果す上に大切な役割を果す子どもだけを下さるのです。
そして大事なことは、子供は生れてくるときに、自分の一生の食糧は携えてくるのであります。
ですから、子どもが増えることによって豊かになってくるのであります。
 これらのことは、現代人の子どもの産みかたの上に、もっとも基本的な原理であって、
これを外れると本当の人生の意義を見失ってしまうことになります。



572ハマナス:2012/05/02(水) 14:46:13 ID:u5mC.eb2

神の子のみなさま
ありがとうございます。

 仕事に立ち向かうときの構え  (『新版 生活の智慧365章』P.144)

 仕事をする時には、(一)先ず心を明るくし、(二)希望をもち。(三)必ずよいインスピ
レーションが来ると信じ、(四)今までの神の導きに対して感謝してから、(五)神の導きが
あるように祈りをし、(六)祈って心が落ち着いた時に想を練り、計画すると、神の智慧の
導きがある。(七)その計画にしたがって撓(たゆ)みなく努力を続ける――この七つの
過剰を一つでも欠いたら事業成就の鎖の円環の一つが欠けることになって効果が薄いのである。
 
仕事と云うものを、結果としての成績や利潤を挙げるためのみの目的のものだと思っては
ならない。事業は、成績も利潤も大切であるが、もっと必要なのは、その仕事を遂行する
心構えと、その進行中に起る色々の具体的な問題に対応する時に於ける心の練磨による魂の
向上こそ重要なのである。仕事の進行中に起こる問題の処理の仕方で、魂が却って堕落する
人もあるし、それによって大いに心が練れて、魂が向上する人もある。
仕事というものを単に唯物論的に利潤目的のものと考えてはならない。

感謝合掌

573SAKURA:2012/05/02(水) 22:27:34 ID:FEa/NNlc

トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
こんばんは

■幸福を招く365章
―――今を活かす事は過去未来も活かす―――

今を活かすことが光明生活の一つの重要なるようそである。明日のことを
思い煩うこと勿れ。昨日以前のことも持越苦労することはいらないのである。
一日の苦労は一日で足れりである。今の生活そのものに全力をそそぐとき、
その思い煩いに消耗するところのエネルギ−が、逆に建設的に生かされ、
新しき創造の力となり、過去の業績もそれによって活を入れられ、
生きてくるのである。「今」を生かすとき、過去の蓄積が生きて来て、
大いなる未来が創造される。「今」を生かさないで悩み煩うことに時を費やすとき、
過去はただの醜しい残骸となり、未来も失敗して悲しき末路を
辿るより仕方がないのである。「今」を活かすことはただ努力するだけでは足りない。
神想観して、神の叡智を受けることが必要である。
                       (谷口雅春著)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

「今日の言葉」当にその通りに思います。
東京在中の頃、「時間人間になれる事」を、目標にしていました。
〜〜〜が〜〜〜まだ!「時間」を上手に使えてないのです…。

■「今」を活かす事が、前に進む事なんでしょう!!

そう云えば「デイリ−の小川さん」は、勤務時間が何と短いのですが…?
「今日の言葉」で…納得!で〜〜〜す。

■仕事を集中します事は、「今」を活かす事です〜〜〜ョネ!
今を大事に行動します時、“叡智”が、働きだします〜〜ネ!
                                 再合掌

【今を活かす事】とは・・・
【時を活かす事】・・・つまりは「マインド・コントロ−ル!」なのですョ〜〜ネ!
私も此の瞬時“今”を活かす「マインドコントロ−ル」に人間に“変身”です〜〜ネ!

Ps: トキ様へ
ともすれば…過去・現在・未来…この時の流れの内…
「現象世界=現実世界…」思い煩ったり?持越苦労?とり越苦労?…
このようなア〜〜ダ!コ〜〜ダ!其の事柄を捕まえていまいますと…
「時間管理の概念が?」私自身甘いもの〜〜〜?なり
この頃、反省しきりです…。今!この瞬間の時間を大切にと思う次第です…。
「先延ばし組??」にならない様に…「時間管理」をと、思っております。集中!!
トキ様は、“先生の言葉”から、どのような事柄を、関連し思いますかしら〜ン?

574ハマナス:2012/05/03(木) 08:01:23 ID:u5mC.eb2
神の子のみなさま

おはようございます。
今日から、出掛けますので、すみません、引用はお休み致します。
連休明けに“お目にかかります。”
どうぞ皆様も、ゆっくりと連休をお過し下さいませ。

相手が昂奮(こうふん)しているとき  (『新版 生活の智慧365章』P.145)

 こちらは何の悪気もなく言った言葉や、した行為に対して、相手が事情に昂奮して呶鳴りつけたり、
罵倒したりすることがあるならば、相手の「完全な実相」を観て、その激しく昂奮している“悪い姿”
にこちらの心を引っかからせてはならない。人には“虫の居どころ”と云うものがあり、何らかの
悩みがあって神経が過分になっているのであろうから、相手をもっと同情してあげる心になることが
必要である。

 相手が昂奮して罵っていても、「神様、この人は屹度何か思いあまったなやみがあるに違いあり
ません。どうぞその悩みを取り除いて実相の完全な姿があらわれてまいりますように」と祈って
あげるがよい。これが相手の「完全な実相」を引き出す力になるのである。
相手の昂奮は、時には自分が、「相手を憎む念(こころ)」をもっている其の念の反映であることも
あるのであるから、こちらが相手を祝福し、相手の幸福を祈る心になる事によって、相手の昂奮が
静まり、敵と見えたものが見方ともなるのである。

感謝合掌

575金木犀:2012/05/03(木) 11:18:35 ID:wrF1mhWI
田中忠雄先生は『生長の家』誌で「雄峯一膳飯」と
いう連載をされていましたが、けっこう面白い味わい深い文章でした。
以下は昭和57年9月号の文章です。南朝の忠臣菊池氏一族の
精神的支柱であられた大智禅師について書かれています。

五更の残月     田中忠雄先生 (1)

世は挙げてグループぼけ、独りでは何を考え何をすることもできぬ。こんな時勢にこそ、大智禅師の偈頌は生きてくる

香を焚いて独坐す長松のもと
風寒露を吹いて禅衣を湿(うるお)す
有時(うじ)は定(じょう)より起って双澗に下り
瓶(びょう)に五更の残月を汲んで帰る

これは大智禅師作「山居の偈頌(げじゅ)」八首中の一つである。大智は永平道元下、第六代の大善知識である。また古今を通じて第一級の大詩人である。

「山居」というのは、生まれ故郷の肥後の国熊本の斑蛇口山(はんじゃくやま)に住むこと二十一年の時代をいう。そこは肥後熊本の菊池郡穴郷村である。

その頃、わが国は南朝と北朝に分れて長期の戦いがつづいていた。日本中の豪族が二つに分れて戦い、九州では日和見的に強きに与して向背常ならず、自己防衛に汲々たる彼らの姿であった。ところが、ここ肥後の国菊池の一族だけは、両陣営の間をうろうろすることなく、徹頭徹尾一貫して南朝を守護し、逆賊足利の軍と戦ったのである。

南朝の大忠臣、菊池武時は菊池氏第十二代の当主で、狂瀾怒涛のさなかにも大智禅師に帰依し、家の子郎党をひきいて弟子の礼をとり、熱心に参禅した。

大智が菊池郡班蛇口山の深山に住したのは、元徳二年(1330)である。そこに武時の外護で鳳儀山聖護寺(ほうぎざんしょうごじ)が建立され、禅師はその開山第一世となった。禅師四十一歳、武時三十九歳のときだった。

これより二十一年間、武時、武重、武士(たけひと)、武光の四代にわたって、殉忠菊池一族の精神的支柱となったのは、じつに大智禅師であった。大智を開山とする聖護寺(しょうごじ)及び広福寺は今もなお存続している。彼らは戦闘に明け暮れながらも時を盗んで、居城から三里もある幽邃(ゆうすい)な鳳儀山聖護寺に出かけて行って、大智のきびしい鉗鎚(けんつい)を受けた。

576金木犀:2012/05/03(木) 15:45:35 ID:wrF1mhWI
五更の残月     田中忠雄先生 (2)


二十一年にわたる鳳儀山聖護寺の時代は、文字通り「山居」であり、禅師はこのあいだに一歩も山を出なかったのである。

いまは大智禅師伝の「山居」の事情について、そのあらましだけを述べるにとどめ、以下は専ら、前掲の偈頌一篇を味わって、この比類稀な禅匠の面目を窺うことにする。

香を焚いて独坐す長松の下(もと)
「香を焚く」の「香」は梵語tagara、音訳して多伽羅(たから)、略して伽羅(から、きゃら)、仏前にこの香料を焚いて供養するのである。これを嗅ぐと、眼、耳、鼻、舌、身の五根とその対境が清浄になるとされる。今でも仏前に香や線香をくゆらせるのは、仏教徒の習わしである。

「独坐す長松の下」……松の巨木の緑の下で、ただ独り座禅をする。樹下石上に座して頭で天を衝き、大地に結跏趺坐して微動もしないのだ。ここでは「独坐」の「独」が最も大切である。そこには群衆は存在せぬ。グループを作ってする大衆行動は存在せぬ。たとえ何人並んで坐っていても、坐るのはわれただ一人である。

坐ること自体、すでに自己が自己に成りきることだ。外から雑多な夾雑物を詰め込んだ自己が五官の迷いを去り、先入の思想を捨て、背負い込んだ俗人の荷物を残らずおろし、天上天下ただわれ一人になる。但し、一人といえば一、二、三の数のようだから、やはり「独り」の方がよい。

学徒あり、百丈大和尚(唐代の大哲人)に問う。「如何なるか是れ奇特の事」……めったにない特別に素晴らしいことは、どんなものでしょうか、と。百丈答えて云く、「独坐す大雄峯」……わしがこの大雄峯(百丈山の別名)に、この通り独り坐っていること、これが宇宙で最大の奇特である、と。この「独坐す大雄峯」は、千古不朽の名高い金言であるから、久しくこれに参じた大智禅師が、「香を焚いて独坐す長松の下」という一句を吐いたのは、たくまずして最尊至高の仏行たる坐禅をする姿である。

577トキ:2012/05/03(木) 19:05:01 ID:Gl6TQvmc
 会社の重役をしていた生長の家の先達が言われていたのですが、現役で仕事をしていた頃は
信仰をしている人もしていない人も同じ様に生き生きしているが、さて定年で退職すると、
信仰をしている人は同じく生き生きしているのに、信仰をしていない人はとたんに老けて
しまう、と言われていました。仕事で忙しい時には、信仰をしていなくても「今」を生きて
いるのですが、仕事がなくなると、信仰をしていない人は「今」を生きていないので、
老けるのでしょう。
 いそがしい事は、素晴らしい事です。

578SAKURA:2012/05/04(金) 02:22:56 ID:nzaNcD6I
>>577

「トキ様」本当に、そうです〜〜ネ…!
「定年退職」されました方達は、急に?“老いる”確かに見受けられますかしら〜〜ン?
思いますに、定年になり、今から“再スタート”と言って張りきっていた方がいましたが…
その後、急にふけられまして“ビックリ”なのです?聞きますと、やはりと想う処が…
どうもこの方は、奥様に振り回されている様なのです…。
今までは、仕事の会話で“外に向けての行動でありましたのが…近所の付き合いから…
更に!低次元?の“井戸端会話”に入っていて、少しでも“反論”しますと…
もう〜〜〜それはすごい“反論の洪水が〜〜><”

結局!ふり廻される事になり、何が?どの様に?なって行くとか〜〜ではなく…
何も考えたくなくなる!!そうなので〜〜す。
“振り回されない”その様にするには「ハイ!ハイ!あなたは最高の奥様です…」と、
“毎日!呪文の様に、唱えているそうです…。そうでもしないと食事の準備が〜〜?」
聞いていて大変なのです〜〜〜ネ!
今回!急に“老いる”のも、このような「夫婦の関係」による場合もある様です〜〜〜ネ!

私も、「この年齢???」と成りますと…
「雅春先生の言葉」から、いつも女性も“書物”を読む事と、言っておられましたが…

■「読書の力」というものは非常に大きなものでありまして本を読む事によって、その人の
思想が変わり、人格が変わり、行動が変わるのであります。
或いは悪い本を読めば、悪い感化を受ける。…云々…
良き書物を読みますと、言葉の力が精神に感応して、心の波長が自然に変わって
来るのであります。
                                 谷口雅春著
「女の生き甲斐」より一部抜粋…
                                                再合掌

579志恩:2012/05/04(金) 02:26:08 ID:.QY5jUA6
トキさま

いいお話をありがとうございます。
ほんとうにトキ様が、おっしゃる通りですね。

私も,毎日、幸せいっぱい、生き生きと生きております。

我が家は夫が、大部前に定年になり年金生活に入っておりますが、
われわれは、いい宗教に入信出来,生長の家に触れる事が出来、幸運だったと、いつも言っております。

私の場合、特に恵まれているのは,家族も全員、親戚,兄弟姉妹も全員、他の宗教に入信している人がいなくて、
見回す限り、温度差はありますが、全員が生長の家であり、いい宗教だと思って下さっていることです。

ですから、善意に溢れた方ばかりに囲まれていますので、いつも心に安心感があるのです。
もちろん、日々晴天ばかりではありません。人間ですから、時には現象から見て、過酷だと思える課題も
与えられる事もございますが、
自然と時間が、解決して下さいます。この教えが、あればこそだと、感謝する日々です。

トキ様、
私は,純子先生著「四季の弁当」(ノーミート)を,アマゾンコムで注文して買って,読んでみました。
上質の紙を使用していて、ノーミート料理の数々が紹介されていて、1000円にしてあるので、これは買い易い値段ですので、
売れると思いました。この本自体は、いい本だと思います。

しかし、これを,テキストにして、本来の生長の家の著書をテキストにしないなんて、本末転倒だと思いました。

私自身、ずっと昔から、たまに肉も食べますが、あとは、もともと、このノーミートの本のような食生活を実践している人間ですから、
尚、そう思いました。

トキ様、
本来の生長の家を知らない人達は、今の教えである《 脱原発、環境、ノーミート、絵手紙》 が、生長の家であると思いますから、

教団本部の皆様も総裁について行くしか,暮らしが成り立ちませんし、教団の人達は、何も考えないようにして、無になって、

総裁ご夫妻をマツリアゲて、このまま、行くんでしょうね。

580志恩:2012/05/04(金) 02:42:43 ID:.QY5jUA6
定年後に老けないで済む、生き生きと生きていかれるコツは、

勿論、いい信仰を持つことですが、他は、
何か,なんでもいいですから、自分が打ち込むことのできる趣味を持つ事だと思います。

それと、一日一つ、大した事でなくてもいいですから、自分の為でなく,ごく身近な家族のため他人のため、
見返りを求めず、深切にしたり、やさしくしたり、小さいいいことをすれば、自分の心がよろこびますから、
だれでも、生き生きと生きて行かれると思います。

581志恩:2012/05/04(金) 03:09:46 ID:.QY5jUA6
金木犀様

田中忠雄先生の禅のお話を謹写して下さいまして、ありがとうございます。
これは、ももんが様の得意分野ですね。
私には,難しくて、分った様な分らない様な、というご文章です。

田中忠雄先生は、雅春先生のご信任の厚かった元・生長の家長老・本部講師でいらしたお方。

この田中忠雄先生の
「法燈継承」「法脈」…の考え方を引用されたご文章が、愛国「本流☆…復活」掲示板の(68)に載っていました。
  投稿者…一求道者様の文より一部抜粋

 田中忠雄先生曰く「何をもって【法燈】となすかー「法脈…」について

          常識的な社会通念から考えると、宗教において、開祖の教えを受け継ぐという

          「法燈継承」の定義は、
           
          ”一杯の盃の水を、一滴の水も零さず、残さず、そのまま次の盃へ移しかえる事です。”」

582金木犀:2012/05/04(金) 05:20:40 ID:wrF1mhWI
志恩様

「法燈継承」の定義は、
           
          ”一杯の盃の水を、一滴の水も零さず、残さず、そのまま次の盃へ移しかえる事です。”」

さすが田中忠雄先生ですね。まさにその通りですよね。

583金木犀:2012/05/04(金) 05:22:54 ID:wrF1mhWI
五更の残月     田中忠雄先生 (3)

ちなみに、今の質の悪い民主主義社会では、凡夫の凡情がたくさん集って大きい勢力を形成し、この多数者の凡情に従わないやつは、民主主義に反すると言って、むかしの言葉で言うと、まるで「非国民」のようにこれを村八分にする。みんながこうだ、といえば、2と2が5になっても反対できないみたいに横車が押せる世のさまである。

ということは、世は挙げてグループぼけして、独りでは何も考えることができず、何をすることもできないということだ。その変わり、グループで景気をつけて、一斉に同じことを叫び、一斉に腕を突きだして、やるぞ、やるぞと気勢を挙げるときは、一ばんくだらぬ劣等者が生き返ったように元気づく。反面、グループを離れて一人になると、途端にしょんぼりして、やがてうとうとと居眠りしながら、だらだらと涎(よだれ)をこぼす。

最近、小学校に行く子供の一人もあろうかと思われる女の人が、訪ねてきて、反核運動に賛成の署名をして欲しいと言った。今の反核運動には反対だから、私は署名しませんと言ったら、びっくりした様子で、唖然として私の顔を見詰めた、そこで、この運動はソ連を喜ばせるだけなんですよ、と言ったら、なおさら唖然としている。やがて気を取り直すような様子で、つぶやくように言った。「ご近所の皆さんは残らず署名されたのですけれど……」と。この一語を残して、彼女は出て行った。

今の多くの文学者、音楽家、芸能人、そして多くの仏教教団、多くの新宗教教団は、この婦人と本質は同じだ。むかしヒットラーが台頭した頃、これに対抗した反ファッショ人民戦線も国際共産党の戦略戦術だった。京大の勝田吉太郎教授の最近刊『平和病日本を撃つ』を貰ったら、そのへんのことが詳しく立証されていた。同教授は宗教新聞『中外日報』でもこれを痛論し、大多数の宗教教団人は、政治音痴、国際音痴だと断言しておられた。みんなグループを頼り、大新聞におだてられ、平和と反核を訴えるが、中味はそっくり共産党に持っていかれることを知らないお人よしである。

こんな時勢にこそ、香を焚いて長松のもとに独坐せよ。そうして、「独」の一字に参ずべしだ。咄(とつ)。

584志恩:2012/05/04(金) 05:34:56 ID:.QY5jUA6
金木犀様

583:
五更の残月  田中忠雄 (3)

を拝読して、やっと、(1) (2) (3)で、
田中忠雄先生が述べられた真意を理解することが、できました。

謹写、感謝申し上げます.合掌。

585金木犀:2012/05/04(金) 07:01:26 ID:wrF1mhWI
志恩様

たしかにそうですよね。途切れ途切れに読むことになるので、
一部では意味不明になることありますよね。
実はまだまだ続くんです。やっと半分に来たかどうかというところです。
田中忠雄先生の文章は、むかしの方だし、禅の研究家のような方なので、
いろいろと現代人が使わない言葉をふんだんに使われますから、
難解なところがあります。
でもそういう言葉を味わうのもまた一興かなと思います。

586志恩:2012/05/04(金) 07:11:24 ID:.QY5jUA6
金木犀様

あははははっ
未だ,続くのでしたか。すみませんでしたね。いくつも横スレしてしまいまして。
続きを楽しみにしています。謹写、ありがとうございます。

今後,そういうときは、
「長文ですから、私が、おわりですと書くまで 横スレ、ご遠慮ください」と、

一筆、最初に断りを書かれますと、横スレは、ありませんよ。

587志恩:2012/05/04(金) 07:27:14 ID:.QY5jUA6
聖典引用板でなくても,他の板に普通の会話は,書き込めますから。
よろしくおねがしします。

588金木犀:2012/05/04(金) 10:02:31 ID:wrF1mhWI
志恩様

そうですね。今度から、つづくときには、つづくと書いておきます。

589金木犀:2012/05/04(金) 10:04:27 ID:wrF1mhWI
五更の残月     田中忠雄先生 (4)

風寒露を吹いて禅衣を湿(うるお)す

長松下に独坐していると、そよ風が松を渡って、松にやどる露が滴って我が禅衣をうるおす。つまり、自己に雑物の混入がなくて澄みわたると、一夜に一滴の露が落ちても、そのかすかな音が聞こえる。だから、良寛の詩や歌を「音の芸術」と言った人がある。国上山(くがみやま)の草庵に独り坐し独り寝ていると、笹竹の雪をはねる音、松風の音、遠くで鳴く鹿の声などが、静寂の夜を更に一層静寂にして、しんしんと更けてゆくのである。

独りということは、自己が自己になり切ることであり、精神の高貴な人が必ず透過した関門である。それは決して寝そべって暢気にだらりとすることではない。大自然の中で、風寒露を吹いて禅衣を湿(うるお)すのである。寒いから火を持って来いというわけにはいかぬ。明日は晴れそうだなと希望的観測をしても、誰一人共感もせぬし反対もせぬ。自然の運行には恵みばかりでなく、きびしさがあって、われ独りでそれに応対しなければならぬ。のみならず、毒蛇や毒虫がおり、猛禽や猛獣もおる。

おのれだけの宇宙ではないことが、おのれ独りになってみて初めて体験的にわかるのだ。私のような下根劣機は、厚い壁の牢獄にぶち込まれて、一年間留置所で強盗や痴漢や詐欺師と一緒に暮らして後、一年間独房で暮らし、一年間無言の行をやり、寒さで千回も万回も寝返りを打ち、暑さで無風の二畳の中でゆでられ、首や股がひどく爛れても、誰も助けてくれる者がなく、苦痛に同情してくれる者もなくなって、はじめて親の恩、衆生の恩、師の恩がわかり、それがわかっても天地の恩や国王の恩などは、なおわからなかったのである。

小人閑居すれば不善を為す、という言葉があるが、小人の閑居は不善を為す相手がいるからのことで、独りではない。人目のとどかぬところへ逃げて、そっと隠れていても、思うことは意馬心猿で大騒ぎだ。人目がなく、どんな勝手もできるときに独りを慎む人を君子というのだろう。その風光が「風寒露を吹いて禅衣を湿す」というさりげない表現になっている。
            
                      つづく

590ももんが:2012/05/04(金) 10:44:40 ID:XXCuaQns
4日の日捲り

『常に物事を明るく考え、心に良き人生を思い描け』

谷口清超先生『言葉は生きている』

591SAKURA:2012/05/04(金) 13:39:19 ID:zhRcXJMw
トキ様 へ

こんにちは…
日本では…「ゴ−ルデン・ウイ−ク…」企業に働いていらっしゃいます皆様は、
この時期は?長期ヴァケ−ション期間?と言いましても諸外国と比較しますと…
まだまだ日数的には少ないかもしれません〜〜ネ!

この間の“上手な時間”の使い方…女性の立場で考えてしまいます〜ネ!

■【幸せな女性となるために…】 
そのために??只今【読書…】いそしんでいます。(微笑み)
さて!夜中に“投稿”致しましたので…再投稿させて頂きます。

>>577

「トキ様」本当に、そうです〜〜ネ…!
「定年退職」されました方達は、急に?“老いる”確かに見受けられますかしら〜〜ン?
思いますに、定年になり、今から“再スタート”と言って張りきっていた方がいましたが…
その後、急にふけられまして“ビックリ”なのです?聞きますと、やはりと想う処が…
どうもこの方は、奥様に振り回されている様なのです…。
今までは、仕事の会話で“外に向けての行動でありましたのが…近所の付き合いから…
更に!低次元?の“井戸端会話”に入っていて、少しでも“反論”しますと…
もう〜〜〜それはすごい“反論の洪水が〜〜><”

結局!ふり廻される事になり、何が?どの様に?なって行くとか〜〜ではなく…
何も考えたくなくなる!!そうなので〜〜す。
“振り回されない”その様にするには「ハイ!ハイ!あなたは最高の奥様です…」と、
“毎日!呪文の様に、唱えているそうです…。そうでもしないと食事の準備が〜〜?」
聞いていて大変なのです〜〜〜ネ!
今回!急に“老いる”のも、このような「夫婦の関係」による場合もある様です〜〜〜ネ!

私も、「この年齢???」と成りますと…
「雅春先生の言葉」から、いつも女性も“書物”を読む事と、言っておられましたが…

■「読書の力」というものは非常に大きなものでありまして本を読む事によって、その人の
思想が変わり、人格が変わり、行動が変わるのであります。
或いは悪い本を読めば、悪い感化を受ける。…云々…
良き書物を読みますと、言葉の力が精神に感応して、心の波長が自然に変わって
来るのであります。
                                 谷口雅春著
「女の生き甲斐」より一部抜粋…
                                                再合掌

592「訊け」管理人:2012/05/04(金) 23:44:30 ID:???
 
『光明道中記』256頁より謹写――

 世の中には悪人さえ極楽往生を遂げるのに、いわんや善人が極楽行きは当然だと云う人があるが、これは如何にも表面そのように思えるけれども、実際は反対である。何故かというと普通善人と云うのは自力作善の人ーすなわち自分の力で今日は斯う云う善行を励みましたと云うように、「“わたし”が善をしましたから救われる資格がある」と云うような人である。ところが、その「“わたし”」なるものは本来無いのであって、一切の善はただ大本体たる弥陀の御徳のあらわれである。
 「“わたし”がした」などと云うものは世の中に一つもない。それだのに「“わたし”がした」と云うのは大の偽善者であるから、かえって救われないのである。「悪人成仏」の悪人は、「わたしはこんな悪をしたから救われる」と云うような「罪悪誇り」の人間ではないのである。だから「他力をたのみたてまつる悪人」と親鸞聖人は注釈し給うたのである。「他力をたのみ奉る」とは、「自分には何の力もないのだ。すべての『善』は神力、仏力によるのである」と自己を謙る人を言うのである。自分に何らかの善が行じられるならば、仏力が廻向(えこう)して自分にやらせて頂くのであると知るが故に「自力修善」を誇ることがないのである。

593「訊け」管理人:2012/05/04(金) 23:47:28 ID:???

『光明道中記』249頁より謹写――

 宇宙の本体の中に在する救わずにおかない大慈悲そのものが「弥陀の誓願」であって、それは人間の思慮を超えたるものである。すなわち「誓願不思議」である。その「誓願」が吾々の“いのち”の内部に廻向(えこう)し来って「念仏申さん」という思い立ちが起るのである。
 だから吾等が「念仏申そう」という心が起ったとき、その心の中に「救わずにおかない弥陀の誓願」が既に宿っているのであるから、既に「摂取不捨」(すくわずにおかぬ)なのである。



『あなたは自分で治せる』89頁より謹写――

 実に祈りが成就する根本は「わが祈れることは、既に成れるがゆえに、我祈るなり」の信念を有たなければならないのであります。
 これが聖書にある「神は求むに先立ちてなくてはならぬものを知りたまう」とか「汝ら祈りて何事にても求むるとき、既にそれを受けたりと信ぜよ。即ち汝はそれを輿えられん」と云う祈りの基本法則なのであります。



『光明道中記』267頁より謹写――

 念仏を称えたら何故救われるのか、そんな思いは雑念妄想である。如来の誓願こそ救いの本体である。

594金木犀:2012/05/05(土) 02:59:04 ID:wrF1mhWI
五更の残月     田中忠雄先生 (5)

有時(うじ)定(じょう)より起って双澗(そうかん)に下り

有時は、「有る時は」と読んでもよい。「定」は「禅」のことだ。禅は梵語jhzanaの音訳「禅那(ぜんな)」の略であって、意訳して「定」といい、また「静慮(じょうりょ)」ともいう。世の俗縁に煩わされず心を専らにして動揺させないことである。

長い間坐って「定」の境地にいたが、ある時にはふと「定」から出て座を立ち、双澗に降りて行く。双澗の「澗」は峰と峰との間の渓流のことだから、双澗は渓流が両方から流れて一つになるところ。そこが水を汲むに適している。そこで、有る時は定より起って双澗に下り……

瓶(びょう)に五更の残月を汲んで帰る

瓶は水瓶のこと、元来は菩薩が仏行を行じつつ諸方を往来するとき、身にたずさえていなくてはならないものが十八あって、これを『菩薩戒経』というお経には「十八物(もつ)」と称して三衣(え)、鉢、坐具、錫杖などを十八種あげてあって、その中に「瓶」というのがある。水を汲んで入れる器だ。

だから瓶は、今の人のいう瓶、ビール壜の壜、とはちがって、神仏にお供えする浄水の容器である。だから、ここにいう瓶は、仏教でいう閼伽桶(あかおけ)のことだろう。仏教語はインド産で、シナを経由して日本に来たので、ややこしいが辛抱して一応はわかっておかないと具合がわるい。むかし中学四年のとき鴨長明の『方丈記』の一節を習ったことがある。今でもおぼえているが、その中に「よひよひごとの閼伽の水」という文句がたしかにあった。それを六十年近くも後になってから調べてみるのだから、恥ずかしいやら可笑しいやらである。

梵語でarghaというのを音訳して「閼伽」というそうだ。くわしいことは語学者に聞くよりほかはないが、これは「水」のことらしい。浄水だと、神仏にささげる供物の意味になる。それから、これを入れる器の意味にもなるが、今では専ら仏前やら神前やらに供える浄水のことである。そうすると、『方丈記』の「閼伽の水」は、浄水の水というので言葉がダブって奇怪な日本語である。サンスクリットとシナ語と日本語の「みづ」の三つがチャンポンになっているわけだ。まことに国際的で面白いといえば面白い。

つづく

595金木犀:2012/05/05(土) 03:00:50 ID:wrF1mhWI
五更の残月     田中忠雄先生 (6)

かくて、瓶とは閼伽(浄水)を入れる桶のことで、この桶を閼伽棚に供え置くのである。「おけ」だの「たな」だのという日本語が附着して、これも国際的で奇妙だけれども、意味はよくわかるのでありがたい。

さあ、そこで、原文に帰る。――定より起って双澗に下り、瓶に五更の残月を汲んで帰る。

この結句のなんと美しいことよ。瓶に五更の残月を汲んで帰る。もうそろそろ、ひんがしの野に陽炎(かぎろい)の立つみえて、今汲む閼伽の水は、かたむく月を宿して、神秘な光を放っている。残(のこ)んの月と谷川の水とを一緒に汲んで、わが草の庵(いおり)に帰る。

何か、こう、大智の運ぶ瓶の中に大宇宙の神秘がこもっているような感じである。

蛇足ながら、五更の残月の「五更」は一夜を五つに分けた総称であり、また初更、二更、三更、四更、五更というときは、五つの時刻の中の第五更をいう。これは寅の刻で、今の人のいう午前四時にあたる。

大智禅師は道場の弟子が開枕(就寝)した後、真夜中に長松の下の石上に、しばしば結跏趺坐されたことがこの偈頌でよくわかる。むかしの禅僧は、これを「夜坐(やざ)」と言っていた。夕刻に坐るのも夜坐といったが、真夜中の坐禅も夜坐といった。夜坐して暁に及び、水を残月と共に汲んで、これを仏前に供えたのである。

瓶の中の水は、月と共に仏前にある。また、余った水は月と共に炊いてお粥にして、これを敬っていただくのである。
                        
                       おわり

596うのはな:2012/05/05(土) 11:33:02 ID:El6gIMAw

金木犀さま。 長文おつかれさまでした。貴重な資料を提供いただきありがとうございます。

 私も田中先生の「信仰夜話」の書写を一時考えていましたが、長文なので
 あきらめていました。貴女のきめこまかさには敬服いたします。
  
                               拝

597うのはな:2012/05/05(土) 11:43:24 ID:El6gIMAw

   感謝と喜びをまず与えよ

 常に感謝せよ、天に対して、地に対して、日光に対して、すべての生き物に対して、
 家に対して、身のまわりの道具に対して、ありとあらゆるものに感謝せよ。
 感謝は光の言葉である。感謝するところによきものが集り来たり、よろこびの所に
 幸福は集り来たるのである。

 今日、今、朝から、喜びの生活を始めようではないか。
 すべてのものに感謝して今日の生活を始めよう。
 喜びにみたされて今日の生活をはじめよう。

 喜びを表現すれば、喜びを与えたことになるのである。
「与えれば与えるほど与えられる」の心の法則に従って吾々の喜びの表現を
 万物になげかける時、吾々も世界のすべてのものから喜びを与えられることになるのである。

『 生活応用 健全の真理 』 谷口雅春 先生著 P174

598金木犀:2012/05/05(土) 11:47:14 ID:wrF1mhWI
うのはな様

そうおっしゃっていただくと、ものすごく嬉しいです。
実は、田中先生の文章は少し難解な部分もあるので、皆様が取っつきにくく
思われて、読んでもらえないかもと、ちょっと心配しながら、書き始めましたので、
志恩様が読んで下さり、励まされた気持ちで書き続け、さらにうのはな様にそう言って
頂き、やった甲斐があります。

私の手元にある、『生長の家』誌の中の田中先生の雄峰一膳飯は
けっこう面白いものは、他で転写利用させてもらい、実は残ったものは私にとって
取っ付きにくかったのですが、今回きちんと読んだら、実に味わい深かったので、
ここに転写させて頂きました。
田中先生の少しやんちゃなご性格と、昔風の一徹な部分など、
近年読むたびに非常に惹かれて来ています。
若いころはそう思わなかったんですが。

599うのはな:2012/05/05(土) 12:24:22 ID:El6gIMAw

>若いころはそう思わなかったんですが。

 いえいえ、今でも金木犀さまも田中忠雄先生も永遠にお若いですよ

               日常生活の真理 女性信徒 版 より

600金木犀:2012/05/05(土) 12:48:28 ID:wrF1mhWI
うのはな様

おお、有難うございます。
全くその通りですね。

601うのはな:2012/05/06(日) 17:14:58 ID:El6gIMAw

 ....それは生長の家の最初の原稿を書いた所謂る“発祥の家”で、私と家内とが
 互いに向かい合って神想観を実修している時、私の背後に空中に立っていられる
 白髪の老翁の神様の姿を拝したというのである。この神姿はその後、他の信徒の
 集まりにもあらわれたし、その頃熱心に私の宅へ日参のように来ていられた長尾初枝さんも
 見たと言われた。

 《 唯今神宮前一丁目ニ三ノ三〇(旧地名“原宿”)にある本部の旧館の正面玄関の上部に安置
  せられてある神像は、服部仁郎氏が、家内の霊視せる神姿を詳細に聴き、それによって模型を造り、
  家内が「此処はこんなでなかった。此処は斯うであった」といちいち訂正して、家内の霊視した神像に
  出来るだけ近づけて創作せられたものである.......》

  「神秘面より観たる生長の家四十年史」

602うのはな:2012/05/06(日) 19:37:09 ID:El6gIMAw
   『黙示録』第一章 十二 二十節

 われ振り反りて我に語る声を見んとし、振り反り見れば七つの金の燈台あり。
また燈台の間に人の子のごとき者ありて足まで垂るる衣を着、胸に金の帯を束ね、
その頭と頭髪とは白き毛のごとく雪にごとく白く、その目は炎の如く、その足は
炉にて焼きたる輝ける真鍮のごとく、その声は衆くの水の声のごとし。

 その右の手に七つの星を持ちその口より両刃の利き剣いで、その顔は烈しく照る日
のごとし。我これを見しとき其の足元に倒れて死にたる者の如くなれり。
彼その右の手を我に按きて言ひ給ふ。

 「懼るな、我は最先なり、最後なり、活ける者なり。われかつて死にたりしが、視よ
世々限りなく生く。また死と陰府との鍵をもてり。されば汝が見しことと今あることと、
後に成らんとする事とを録せ。すなわち汝が見しところの我が右の手にある七つの星と
七つの金の燈台との奥義なり。七つの星は七つの教会の使ひにして、七つの燈台は七つの教会なり」

603金木犀:2012/05/06(日) 23:12:21 ID:WQgf7Y2.
うのはな様

おお、ここにいる全員と同い年の白髪の老翁様ですね。

この白髪の老翁は雅春先生自身は見られていないそうで、それは自分自身の姿は
自分では見られないと言った理由に近いとおっしゃっていましたよね。

604うのはな:2012/05/06(日) 23:46:48 ID:El6gIMAw
>>603

上記で金木犀さまがいわれている話は、わたしも他の信徒さんから
お聞きしたことがあるのですが、私自身は清超先生の代になってから、
平成になってから生長の家に入ったので実際に雅春先生からお聞きしたことは
ないんです。

605金木犀:2012/05/07(月) 05:46:44 ID:WQgf7Y2.
うのはな様

私もご著書で読んだ話で、直接雅春先生のご講話とかでお聞きした話ではないのです。

でもうのはな様はお若いから、雅春先生に実際にお会いしていらっしゃらないのは当然ですよね。
いろいろ古い神誌や聖使命新聞を持っていらっしゃるから、なんとなくしっかり昔からの信徒のような
錯覚に陥りそうですね。と言って若いというイメージもしっかりあるから、不思議な存在、不可思議
神秘の雰囲気ですね。

606金木犀:2012/05/07(月) 08:06:31 ID:WQgf7Y2.
昭和五十七年六月号『生長の家』から「甦る建国の精神」
龍宮住吉本宮で行われた紀元祭の様子

美しい自然と太陽に恵まれた総本山の空は抜けるように青い、樹木の枝には若芽がふくらみ、龍宮住吉本宮の境内地は透き通るような新緑に蔽われていく。太陽の光も揺れて、桜前線が南から北へ進むと、参道の金蓮花は今が盛りと咲き誇っている。明るい総本山の素晴らしい春だ。桜をたずねて野に出る人々が、ひきもきらずに総本山を訪れて来る。此の頃は、龍宮住吉本宮、龍宮住吉霊宮に参拝を済ませたその足で温故資料館を拝観していく人々の数が一日約百名にも達するほどになった。また龍宮横の峰に建立中の「七つの灯台」を仰ぎ見、その威容に賛嘆して、「さすがに生長の家は日本一だ!!」との声も聞かれるようになって来た。

この早春の総本山で、去る二月十一日、地元を中心に一五〇余名の熱烈な愛国者が相集い、紀元祭が厳粛に執り行われた。総本山ではこの日のために、西彼町、琴海町、大瀬戸町の全戸(約八千戸)に、新聞折込チラシ配布の愛行を行って来た。その結果、此の度の紀元祭には、西彼町をはじめ各町民も積極的に参加して、例年にない盛大な紀元祭となった。この日を待ちに待っていた地元の鳥伽老人クラブの人々は、朝早くから駆けつけ、顕斎殿前に置かれている「さざれ石」の前に立って、日本の昔の姿に思いを馳せ、深い感銘を受けながら、晴れの式典に他の人々と共に参列した。

鎮護国家出龍宮顕斎殿の住吉大神の御前で国の誕生日を奉祝できる無上の悦びが、それぞれ参列者の顔に溢れている。午後十時、国歌・君が代斉唱のあと、ただちに式典が始められた。修祓、御扉開扉の儀、招神歌、献饌のあと、宮司が恭々しく祭壇に進む。東方に姿勢を正して「伊勢皇大神宮並びに橿原神宮遥拝式」が、熱烈なる愛国精神の雰囲気の中で執り行われる。続いて宮司より祝詞が奏上され、宇宙浄化の祈りがなされると、皇紀二千六百四十二年の記念すべき日の慶びが、誰の胸にも熱く高まり、荘厳な中にも護国の理念が甦ってくる。さらに、日本書紀神典がよどみなく奉読されると、日本人としての魂の誇りと悦びが沸々と湧き起こり、会場全体が深い感動につつまれていく。なかでも、老人クラブの人々は、甦る建国の魂に我を忘れ、青年に若返ったような輝かしい目をして式典を見守っている。楽しい紀元節奉祝歌の斉唱のひとときには、誰もが童心にもどって声高らかに歌っていた。歌う喜びの中に、天皇仰慕の心がいやが上にも高まり、涙さえ浮かべる人も見られた。式は粛々と進行し、玉串奉奠が来賓及び関係者によってなされたあと、大和理念が地上に悠久であれと、神舞姫の正装で舞う「悠久の舞」があでやかに奉納され、午前十一時四十分式典は滞りなく終了した。

このあと西彼町町長が来賓代表の挨拶に立たれ、
「今日ほど瑞穂の国日本に生れた喜びを感じたことはございません。今の日本の教育は荒廃し切っています。この御教えを教育の中にとり入れ、真の日本人造りのために、正しい教育をすべきだと痛感致しました。私達も龍宮住吉本宮のお膝元で、神聖日本国再建のために頑張ります」と力強く述べられた。

これを受けて、良元宮司は、
「住吉大神より使命を受けられた皆様すべてが、私たちの人類光明化運動に参加して頂き、それぞれの地元で天皇国日本の実現のために、立ち上がって下さい」と、熱烈な挨拶、参列者一同に深い感動を与えた。
「今日はほんとうに素晴らしい一日でした」
「来年はもっと多くの人達を連れて、きっとやって来ます。それまで皆様も頑張ってください」
と、互いにあらためて祖国再建の志を誓い合った総本山の一日であった。

607ハマナス:2012/05/07(月) 09:37:02 ID:u5mC.eb2
神の子のみなさま

おはようございます。魂のお勉強に行って来ました。真理がわかるという事は、
何物にも代えられない喜びですね。生長の家に触れられてありがたいです。

問題を神にゆだねよ  (『新版 生活の智慧365章』P.146)

如何なる問題が起こって来ても、常に明るい心を以ってそれに立ち向かうことが必要
である。どんな問題でも、神なら解決できるのである。自分の「我」の力で解決しようと
思うから、解決の方法を失ってどうすることもできないような事になるのである。問題を
神に振り向け、神に肩代わりしてもらうがよいのである。

 そのためには、「神は全知全能であるから、どんな問題でも必ず解決できるのである。
私はこの問題を神様あなたに委ねます」と繰り返し繰り返し、心に念して祈り、その問題を
神に委ねるがよい。徹底的に神に解決をゆだねたら、神は必ずその問題を解決に導き給うの
である。それは自分に好い考えが思い浮かんで来ることもあれば、誰か、思いがけない
ところから、援助の手を差しのべる人が出てくることもあるのである。充分祈った後に、
誰かがその問題解決について案を示してくれるならば素直にそれに従うがよい。

感謝合掌

608ハマナス:2012/05/07(月) 10:12:03 ID:u5mC.eb2

ありがとうございます。
『新版真理第8巻』P.270にも、素晴らしいご文章がありました。

本当に神に全托するとは   

 「神に一切を委(まか)す」のは本当に「神に一切を委す」のでなければならない。
「自分の力で神に委そうと努力する」のであったならば、それでは自力が半分混入して
いると云うことになるから、本当に神に委(まか)したことにならないのである。
まことに神に委すのは、「自分の力で神にまかす」のでなく、自己放棄して、「神の
力で神にまかす」と云うことにならなければならない。「自分の力」で何とか工夫を
しようと考えている限りに於いては、どこまでも完全なる他力にはなり得ないのである。

「放つ」ことは、ただ「放つ」のであって、「放つことを努力する」と云う事ではない。
本当に放ったとき、本当に神の力が完全にあらわれる。病気なども忽然と治り得る所以
(ゆえん)である。
宗教で治るのは斯(こ)うした「自己精神を抜く」ことであって精神力を使うことでない。

感謝合掌

609SAKURA:2012/05/07(月) 21:33:17 ID:FEa/NNlc
トキ様 へ
観覧者に皆様 へ

「ゴ−ルデン連休明け?」ですが…私の“連休”は???と
思う位〜〜〜“いつもの生活”でしたが…
皆様は、この“ゴ−ルデンウイ−ク期間中”如何お過ごしでしたかしら〜〜ン?
では!久しぶりに「今日の言葉」を 【開け〜〜〜ごま〜〜〜♫〜〜〜】念じます。
出ました〜〜「今日の言葉」

■【幸福を招く生活365章】
――――神独在以外の真理は本物ではない――――
あなたを救う真理は、「唯、神のみ実在したまう」と云うことである。
この真理から外れたところのあらゆる論理も学説もあなたを幸福にすることは
出来ないのである。今病気で苦しんでいる人は、また貧乏で苦しんでいる人は、
その他如何なる不幸にでも苦しんでいる人はこの真理から外れて、ほかの真理を
信じている人なのである。或る人は病気や不幸を実在であると信じている。
そして神に対して、「この不幸を取り去り給え」と祈るのである。
そして中々その不幸は癒されないのである。そして時には「不幸」の方が
「神」よりも力が強いのではないかと思う。併し、この人の心が「神」
も信じ、「不幸」も信じている限りそれは二元論であって真理ではない。
                        (谷口雅春著)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

「祈る時」…“迷い”は、タブ−です〜〜ネ!もう〜〜【絶対論】でしょうか!
必ず!【願いが叶うと金剛心で祈ります…】
更に!【もう〜〜〜慣れた!そうです“実現出来た!”と断定し祈っていました】が…

■この頃は「神様に委ねる心境」で、
【なすべき道を示したまえ〜〜〜♫〜と云って神の啓示を、待つような状態ですが…】
時としては、不安になる事も?
このような“心境”では、【神と一体】とは云えませんです〜〜〜ヨネ!
更に「祈り」ながら…
「自分は不幸だとか…?“心”でネガティブな感情は一変でも思えば…
その【願いは通じない】のです〜〜〜ョネ!当に!「金剛心…」が必要でしょう!
今回!【心…強く思念する事】だと、新たに思いました…。

■更に“何時も幸せ〜〜〜☆〜”と、心からの【感謝!感謝!】からが…
「神…」に対しましての“絶対論”でしょうかしら〜〜ン?
更に【神の啓示】が来ましたら…忠実に従って【start・me・up……信じて邁進!!】

                                 再合掌

PS; トキ様 へ
今日の“言葉”どの様に?思われますか?【絶対論=神】そうなのですが“とき”と
いたしまして、“雑念=煩悩”が、どうしても入る時がありますが…?
トキ様は?如何でしょうか??

610a hope:2012/05/08(火) 08:02:44 ID:kcv2QXTk
人生読本 谷口雅春先生著

第十章 働きの生かし方

心は常に働く


心は働くようにできています。心は自分が生きているからには働くほかに道はないのです。
身体(からだ)はじっとしていても心は働いています。心を休ませる方法はないのです。

寝ている時にも心は働いています。ただその時には身体や頭を使わないでいて、
心だけで働きますから、頭にはその働きは憶えていませんが、やはり心は働いているのです。

その証拠に皆さんは眠っている間にも夢を見るでしょう。
身体はじっと寝ているのに運動会の夢を見るでしょう、遠足の夢を見るでしょう。
勉強の夢も見るでしょう。しかしそれは「心」だけで働いたので、
「頭」の方は働かなかったからハッキリとは思いだすことができないのであります。

このように「心」は眠っている間も働いているのです。
すべての生きてものは少しも休みなしに働いているのです。
一分間でも働きが止まったら死んだということになるのです。

どんなに獺(なま)けていてもお腹が減るのは、身体が獺けていても心がつまらない事に働いている証拠です。
だから獺けている人は同じように働いていながらも、自分はちょっとも進歩しないし、(ひと)からは「あいつは獺けている」
と憎まれるだけが損なのです。

同じお腹が減るくらいなら、同じ自分働くくらいなら、
「あいつは獺けている」と言っている人から憎まれるようなことをしないで、
自分自身が進歩しながら、人から誉められるような働きようをした方がよいではありませんか。

それには仕事をすることです。それには勉強をすることです。
仕事をし、勉強をしたら、人は喜んでくれます。自分が進歩します。
身体が達者になります。立身出世ができるのです。

(つづく)

611a hope:2012/05/08(火) 08:08:47 ID:kcv2QXTk
>>610 訂正

 獺(なま)ける → 懶(なま)ける

612ハマナス:2012/05/08(火) 09:06:07 ID:u5mC.eb2

神の子のみなさま
 おはようございます。今日も、愛いっぱいの、素晴らしい一日でありますように。

相手の攻撃は自分の鏡  (『新版 生活の智慧365章』P.146より)

 「与えよ、さらば与えられん」と「ルカ伝」に教えられている心の法則は常に働いて
いるのである。金銭を与えるだけではなく、他の人に対して信頼を与えれば、信頼が与え
返されるのである。愛を与えれば愛が与え返される。賞讃を与えれば賞讃が与え返される。
他の人の攻撃の言葉に対して、攻撃を与え返したのでは、攻撃と争闘とは更にひどくなる
だけである。憎しみに対して、愛を与え、批判に対して感謝を与える雅量をあらわすのが
本当の“神の子”である。もっとも攻撃の手ひどい相手ほど、自分にとってよき反省を
与えてくれる諫言(かんげん)であるのである。

 自分の眼が自分自身の眼を見ることができない、自分の眼を見ようと思ったならば
鏡に向かって相対しなければならない。自分を非難し、攻撃する人は自分の鏡となって、
自分の欠点に照明を与えていて下さる人である。時には微細なとるに足りない自分の
欠点を顕微鏡的に拡大して下さる親切な相手もある。素直にそれを忠言として受ける
ことによって、あなたの魂の進歩があるのである。

感謝合掌

613復興G:2012/05/08(火) 12:06:57 ID:ojEbkDH2


   清 寂 の 生 活
 (谷口雅春先生『叡智の断片』14〜15頁より)

 道は絶対である。絶対には対立がない。道に乗って生きるとは絶対無我の生活になり切ることである。一切の対立がなくなることである。一切の対立がなくなるから一切に和解し、一切を敬(とうと)び、一切が清まり、一切が寂である。これが茶道の清寂であり、そのまま清まる日本の道である。対立する争いをもって生活するが如きは、日本の道ではなかったのである。道は「寂」であり、動くものなくして動いており、その動くや必ず万物を生かすのである。対立のなき動きは全機であり、無にして一切であり、○(ゼロ)であるから一切と調和するのである。それを大和(だいわ)の道と言う。構える心がないから、事を構えず、事を構えないから事が起らないのである。構えることがなければそのままとなり、其のままは実相であり、実相は善ばかりであるから善きことのみが現われる。「私」のはからいがないから、全体の動きとピッタリと「一」である。全機である、全即一であり、一即全である。
 本常に明るいと云うのは、全然対立がない「無」になり、無構えになって、天地と一つにとけ合って「寂」となることによって自然に得られる明るさでなければならない。真の明るさは構えた明るさではない。そのまま天地の明るさがあらわれたとき、真に明るくなり、立ち対(むか)うところが悉く明るくなる。


  「悪」に抗することなかれ (同上 35〜37頁)

「悪に抗することなかれ」と云うキリストの教えは、生長の家の「汝等天地一切のものと和解せよ」の神示によって完成するのである。悪に抗して悪を一時排斥し得たとしても、それは「悪」の存在をみとめているがゆえに、それは存在するところの悪を抵抗によって一時遠ざけたに過ぎないのであるから、「悪」の存在が消えたのではないのである。それは一時締め出しても、亦あらわれる。厳重な家庭に於ける制裁や処罰や威嚇による強制はこれである。何物に対しても和解せず、単に抵抗によってこれを退けんとする者は、結局、空しく抵抗して何物をも支配することは出来ないのである。其の支配は、天地一切のものと和解することによってのみ得られる。天地一切のものと和解するとき、天地一切のものは汝の味方であり、こちらを生かすためのみに働くからである。「悪」を消滅する道は「悪」をみとめないことより始まる。闇をみとめながら闇を撲滅せんと欲しても、到底それは不可能のことである。
 如何に敵対する者も敵だと思わずに味方だと思って愛すればその情愛に感動して、敵と見えていたところの相手が味方にかわるのである。病気の症状に於いても此の事は真実である。熱を敵だと思わずに、味方として愛すれば速かにその熱のために病菌は消滅してその病いは癒えるのである。疼痛、喀血、吐血、発疹、下痢、嘔吐――ことごとく敵だと思わず、治す働きだと――感謝して受けるとき、それは味方となって却って病いを撲滅し健康を回復してくれるのである。凡そ「悪」よりして善徳は生ぜず、「悪」よりして生かす力は生じない。「憎み」は悪であるから「悪」を憎むと云うことは結局は、「悪」に対するに「悪」をもってするに過ぎないのであるから、それは永久循環して再び「悪」は姿を顕わすのである。ただ「善」のみを認め、一切を「善」と信頼して感謝して受ける無抵抗のみが「悪」を消滅する力であるのである。「悪」に抵抗するところの心境に於ては尚「自我」が滅していないのである。ただ相手の利己主義を遠ざけんがために、自己主義の利己を護らんとするに過ぎない。真に「悪」に無抵抗になるときにのみ、それは「自我」さえも滅し去って、ただ「神」のみ、「善」のみ、実相のみが現前するのである。そのとき「真の自我」実相の自我、絶対自我が本当の姿をあらわして自由自在の境地に達するのである。
<つづく>

614復興G:2012/05/08(火) 12:07:43 ID:ojEbkDH2

<つづき>

   叡 智 の 断 片
 (谷口雅春先生『叡智の断片』330〜331頁より)

 神は人間を裸で生み給うた。人間は獣の様に毛皮で覆われて居ず、鳥の様に羽毛を持っていない。人間が裸で生れたという事は、人間は一定の姿をもたなかったという事であって、人間は自分自身の好む衣裳を身に着ける事が出来るのである。それは神が人間を神の像(すがた)にかたどり給うた万徳の一つの表現(あらわれ)である。「無」からはじめて「凡て」が生ずるのである。人間も亦「無」にして「凡て」である。一切は自分の内にあるのである。
          ○
 「神の前に空(むな)しくなる」とは、自分が空しくなるから神の智慧と愛と生命とが自分の中に流れ入るのである。また自分を放棄して神様の中に自分が飛び込むとも言い得る。かくしてはじめて自分が神の子であり神を実現する「神の宮」であることが出来るのである。
          ○
 男性の尊厳は女性を虐待するところにあるのではない。女性を本当に拝むところにある。
          ○
 凡てのものを神として拝める人は、自分が神であるのである。神のみ神を拝めるのだ。妻を神として拝める良人は神であり、良人を神として拝める妻は神である。

615志恩:2012/05/08(火) 12:26:18 ID:.QY5jUA6
復興Gさま

謹写してくださいまして、ありがとうございます。
後ほど、落ちつきましてから、熟読させて頂きます。

616復興G:2012/05/08(火) 13:58:44 ID:ojEbkDH2

   『新版 真理』第7巻{悟入篇}
   (谷口雅春先生著)より(p.10〜13)

   毘廬遮那仏(びるしゃなぶつ)説法の世界

 ところが「一個の物体の周囲(まわり)に百万の鏡を按(お)きてこれに相対せしむれば一個もまた百万の姿を現ぜん」と聖経『天使の言葉』にありますように、鏡と鏡とが相対していると一人の人間でも、あちらへ写った姿がこちらへ写り、又こちらへ写った姿があちらへ写りして、ずーっと無限に反映しますと、一個が無限に現れるのであります。平行に立てた大鏡の真中に立って、自分の左右を見ますと、あなたの影が、右の影が左にうつり、左の影が右にうつり、左にうつったのがもう一つ右にうつって、無限にずーっと現れているのでありますが、その無限の個々が実は個々でありながら個々ではなく一つのものである。「一個もまた百万の姿を現ぜん」というわけであります。人類のいのちは、相即相入(そうそくそうにゅう)で、一つのいのちが、ずーっと幾十億の人類となって現じているわけであります。これが唯心所現(ゆいしんしょげん)の世界――心の現すところの世界なのであります。

 そういう世界の中に吾々は住んでいるのでありますから、自分の心の思いは、たちまち幾百万の人の心の思いにうつるわけであります。そして吾々が自分で一つ良き考えを起すと、無数の良きものがその波長の類似に随(したが)ってずーっと自然と集るようになっているのです。その代り残念ながら、もし間違った心の思いを起すと、無数の悪いものが集るようになっている。それはNHKの放送の波長と同じ波長を受信機に起すとNHKの番組があらわれて来、KRの放送波長にこちらの受信機の波長を合わすとKRの番組があらわれて来るようなものであります。しかし悪いものは実在ではない。自分の心に起した波動がただ鏡にうつっている自分の迷いの「心の影」であります。善いものは実在の番組の投影である。ともかくそういう世界であって、外にあると見えているものは実は内にある、内にあると見えているものは実は外にある。それですべてのものは物質に非ず皆心の姿であります。
 そういう訳であって、それで実在界即ち実相世界というものは、宇宙普遍の大神様――仏教では毘盧遮那仏(びるしゃな)と言う――日本では大日如来(だいにちにょらい)と訳している所のびるしゃな仏の説法の姿であるのであります。説法というと、これも又、対立的なものの考え方になって来ます。聞く人と聞かれる人とがあるのが説法ということになるのでありますけれども、毘盧遮那仏の説法というのは、そう云う対他的説法じゃない、大生命のいのちの波を言葉と言う。毘盧遮那仏のいのちの波が、それ自身絶対者としてひろがっているのを称して説法と言うのであります。この毘盧遮那仏を仏像にしたのが東大寺にあるところの大仏像であります。
 私の娘が、まだ小学校の小さい時に、奈良に修学旅行に行った。その時に奈良からおみやげを持って帰って来た。小ちゃいお人形みたいなのを持って来て、
「お父さん、これおみやげ上げます。」
「ホゥ、これ何じゃね。」
「これは小さいけれども大仏です。」と言う。
 ほんとうに、それは小さいけれども大仏でありました。大仏と云うのは宇宙に充ち満ちている所の、大いなる毘盧遮那仏、大日如来のその相(すがた)を象徴してそこに現されているものなのです。像の寸法が大きいから大仏と言うんではない。小さくってもそれは宇宙に満ちひろがる所の大日如来の肖像であるから大仏と云うのであります。
<つづく>

617復興G:2012/05/08(火) 13:59:59 ID:ojEbkDH2

<つづき>

   『新版 真理』第7巻{悟入篇}
   (谷口雅春先生著)より(p.13〜16)

 皆さんが、東大寺へお出でになって大仏の像を御覧になりますと、その毘盧遮那仏の後光の中に無数の仏が安置されてあります。そして大仏の台座の所にも、こう線が引いてあって、色々の世界を区画し、その一々の世界に仏が坐っていらっしゃる有様が、彫刻してあるのであります。これはあらゆる世界にこの毘盧遮那仏の影が映っていることをあらわしております。影というと変でありますが、これはラジオや、テレビや、映画のように一つの根元の世界が各方面の受信装置に映っているのでありまして、一仏一切仏と云う華厳(けごん)の哲学を仏像に表象してあらわしたものであります。一仏一切仏であって、一つの仏さまが、無数の仏様に現れていらっしゃるので、其の荘厳極りなき姿が、あの仏像に現されているのであって、一仏一切仏、相即相入の世界と云うのが実相であります。
 そして毘盧遮那仏が説法するというのは、中心座に本仏がましまして、自分の分身の仏様に対して、説法しているというように、現象化して言えば相対的に言うほかないのでありますけれども、もともと、それは一つの仏様のいのちの波が、無数の仏様になっておって、それが別々に相対的に分れてはいないで、互に相即相入して、到る所で説法が行われているのでありまして、そういう荘厳極りなき世界が、実相の世界なのであります。即ち如来説法のコトバの拡がりが、客観的に見れば「世界」なのであります。釈迦牟尼如来が法華経をお説きになりました時にも、そう云うことが書いてあります。

   妙法蓮華経の多宝塔品

 法華経の中に多宝塔品という所がありまして、釈迦牟尼如来が説法をなさいますと、荘厳きわまりなき多宝塔が空中に忽然(こつねん)と出て来る。そして塔の中に多宝如来が出現せられる。この時に、多宝如来の分身の、即ち分れたるからだの、無限のほとけ様が、一時にそこに集って来られるということが書かれてあるのであります。これがまた一仏は一切仏であることを現しております。そして釈迦牟尼如来が法華経をお説きになる時に、無数の分身の仏様がずーっと来集して来られて、そしてその説法を聞き給うのである、というと、これは話す人と話される人との対立関係みたいだけれども、それは全部自仏の分身の仏様なのです。他仏は何処にもないのであります。
 丁度私がここで説法をいたしておりますと、皆さんがここにこうして集って来て、そして、私の説法をお聞きになる、そうすると、話す人と聞く人と対立的に別れているように見えているけれども、実はそうじゃないのであって、互に私と皆さんとは一つなんであります。謂わば釈迦牟尼如来が、こうして説法なさいますと、無数の聖使命菩薩がここに集って来て、その説法を聞き給うのでありまして、菩薩は皆、釈迦牟尼如来の一つのいのちの波の現れであって、諸君は皆その分身の菩薩である、ということになっているのであります。それでその多宝如来が、「釈迦牟尼仏ここに坐し給え」と言って多宝塔の中で半座をわけられると、その半座の上に釈迦牟尼如来がお坐りになる。これは多宝如来と釈迦牟尼如来が互に一体であると云う事をあらわしている。多宝如来という仏様が別の世界から出て来られたところの別の仏様かと思うとそうではないのであって、釈迦牟尼世尊と、多宝如来とが一体であらせられるということがあらわされているのであります。諸仏は互に一体であることがわかりますと、宗派争いと云うようなことも自然になくなるのであります。

   菩薩雲集(ぼさつうんじゅう)・光明三昧

 それと同じ事が今ここに現れているのでありまして、此処に雲の如く集っているのは皆聖使命菩薩である。そして私の分身である。まことに一仏一切仏の光景をあらわした荘厳極りなき講習会であるのであります。だから私が神想観をしまして、招神歌を歌って手を拍(たた)くと、皆さんが一つも乱れずに、ちゃんとただ一つの手のひらを拍いているように皆んな一度にピタリとお拍きになる。これはつまり一つのいのちが互に共感し共鳴して、一つになっているという所の素晴しい状態があらわれているのであります。一即多・多即一であり、相即相入であり、皆さんのいのちは、私のうちにあり、私のいのちは皆さんのうちにあり、相即相入していることがわかるのであります。これが華厳の真理であり、生長の家の真理でもあり、法華経にもそれが説かれているのであります。
 そのように人間の生命の実相は互に一体でありますから、一人が悟ればすべての人が悟るということになっでいるのであります。

618うのはな:2012/05/08(火) 16:10:09 ID:???
 兄弟なかよく育てる鍵

  父の臨終のときのうた

   わが子らよ 仲よく暮らせと くり返し 言いつつ父は みまかりたまう

 ともかく、この我が父は、天才的な教育家であり給うたのです。
学校は小学四年しかでていません。小男で全身から武士のような雰囲気を出していますが、
何とも言えずあたたかいのです。青年のころ、村の大地主の家に小僧で入って使われながら、
金をため、その大地主から愛され、祝福され、藁ぶきの小さな家を建て、そこで母と結婚します。
そして次々と八人の子どもが生れるのです。
この父は、 養蚕の ひまなるときに 死にたしと 春の浅きに 病父は語りぬ

 死ぬときも、村の人の迷惑にならないように、あたたかくて、みんながひまなときに死にたいものだと言っていましたが、
その通りになりました。昭和二十七年四月二十七日、養蚕のない日、あたたかい日に眠るように息をひきとりました。
八人の子ども(六男ニ女)が皆丈夫で、先年一人欠けましたが、一番上の兄が八十七歳で、威厳があって愛深く、今も元気いっぱいで
兄弟姉妹の手綱をしっかり握っています。これが父の長幼序ありの教育の成果です。

 一番上の兄に一切の権限を託し、次いで二番目、三番目と、それぞれの位置にあって秩序整然たる分限を守るように教育したのです。
この秩序が兄弟仲よく育つ鍵となっています。一番上の兄が父の代理となって一切の兄弟を統率しています。
兄の指揮下にあって、兄弟姉妹全部とその伴侶に至るまで、みんな仲よくすべてが生長の家家族です。

 私が河口湖道場の総務をしていますので、この長兄が兄弟家族を一人ずつすべて練成道場へ来てよろこんで練成をうけ、終ると長兄のところへ報告に
行き、こまかい指示をうけることになっています。
 父の命日は、この兄の召集で一堂に会してお祭りをします。兄弟姉たち口をそろえて「わが父」を讃嘆します。
地位もなく、名もなく、学もなく、ただ直く清く、父は父の道を歩んでいました。
父の歩んだあとからは後光のような光がさしています。
「父は本当に偉大な高級霊でした」と兄弟たちは異口同音に讃嘆するのです。

 黙したる ままにて空を 仰ぎいる 百姓姿の 父のかなしも
 十人の 家族ひきいて 小男の 父は畑にて 統べたまいけり

 『子育て免許証』 鹿沼景揚 先生著 P32-34

619うのはな:2012/05/08(火) 17:30:18 ID:???
    不思善悪

「神様、この問題をよろしくお願いします。よいお答えを下さい」と、義母の「叱る教育」
と、私の「ほめる教育」の意見のくいちがいのとき、一心に神様にお伺いしていると、神様が
すばらしいアイデアを教えて下さいました。
 ある日、突然、天来の声をききました。
  “不思善悪!!”これはすごいお答えでした。
この世の中には人間知でおしはかって何が善、何が悪ときまることはできない事がたくさんあります。
どんなに「善」と思うことでも、ある立場に立って、これしか善はないと握ってしまったら、もうそこから
善がなくなっているのです。今までは自分が握っている「ほめる教育」が正しくて「叱る教育」はまちがっていると、ただその
立場にこりかかたまっていたため、すっかり大自在性を失っていたのです。

 ほめるばかりでそれでいいとは限らない。このわが家の子どもたちには、親のしつけが行き届かないから、おばあちゃんのしつけが
丁度必要なのであって、これはまさに天の配剤ともいうべきであります。
私の足りない面を補ない、どんな波風にも堪えられるような強い教育をして下さっているのです。
『生命の實相』題14巻の教育篇にはすばらしい強いお言葉があります。

 遺伝が良くないといって絶望するな。胎教を過ったといって失望するな。
人間はその最も深いところに実に根強く、神の子としての神性の遺伝を持っているのである。
神性の根強い遺伝に比ぶれば、数代前十数代前くらいからの遺伝の力は太陽の前の星でしかないのだ。
このことを強く信ずるものは幸いなるかな。
 諸君よ、われわれが毎日子供の心に対して「この馬鹿者めが!」とか「貴様は実に不良だ!」とか
始終罵声をあびせかけることによって子供の心に「悪い種子」を蒔いてさえも、なおそれほどに実際に馬鹿者が出現せず、
不良が出現しないのは何故であるか。これこそ実に強く神から護られた「神性の遺伝」がわれわれにはたらいていてくれる
証拠であるのである。(一九四頁)

 生長の家の教育法の何と行き届いていることであろう。教育に失敗したと言ってどんなに失望、落胆している者にも、限りない
勇気と光明を与えて下さるのであります。

 つづく

620うのはな:2012/05/08(火) 17:42:57 ID:???
619 つづき

 さて、静かなる瞑想によって得られたことは、結局、おばあちゃんが悪いということはなかったのであります。
 おばあちゃんに何故お叱言が多かったかと言えば、一つにおばあちゃんのお心の中にある、
「みんなから愛されたい。みんなから認められたい。みんなのお役に立ちたい」
 という切なる願望に私が気づいていなかったからであります。
 また、気づいていても、行きがかり上、「おばあちゃんがいるのでありがたい。これも、あれも、おばあちゃんのおかげです」
というような感謝の表現において行き届いていなかった点が多かったのであります。

 更にまた、叱言が次から次へと連続して絶え間ないのは、叱言の奥にある心の中の悩みを理解しようとせずに、ただはねかえすばかりで、
叱言をちっとも受け入れてあげるという寛容の心がなかったからです。
誰だって注意したのに、それをちっとも守ってくれないのだったら、いい気持ちになれるものではありません。
叱言の意義を理解し、叱言に感謝し、それを受け入れて、すっかり頂いてしまったら、叱言のもとがそれだけ吸収されてしまいますから、
次第にその回数が減ってくることになるのであります。

 『子育て免許証』 鹿沼景揚 先生著 P68−71

621うのはな:2012/05/08(火) 19:56:06 ID:???
>>619 訂正します。

生命の實相題14巻 ×  生命の實相第14巻 ○

622SAKURA:2012/05/08(火) 20:34:33 ID:FEa/NNlc
トキ様 へ
観覧者様 へ
こんばんは

もう〜〜〜昨日から、私は「半袖スタイル」…初夏の香りが〜〜〜♫
もう大変です〜〜〜ネ!今年は、暑そうにも思えて、今から“夏対策検討中”ですが?
その前に【神の提示…】を! “開け〜〜〜ごま 〜〜〜♫”です。
今日の言葉は…

■【幸福を招く365章】
―――――天地一切のものを感謝せよ―――――

朝めざめたならば、神想観を行い、「神の生命われに流れ入りて、わが生命を
健やかならしめ給う」と念じつつ呼吸を整え、
更に「神の愛われに流れ入りて、光明燦然と輝き給い、われを通して
天地一切のものを祝福したまう」という思念を繰返すことは、
天地一切のものと和解することを如実に実践する上にきわめて善き方法である。
一切の不幸と病いは、自己が天地一切のものと和解していないで、
ある程度又は或る意味に於いて敵対状態にあるから生ずるのである。
然るに上記のような思念をおこなうときには心の中に、こちらから積極的に
天地一切のものと和解する以上に、天地一切のものを祝福することになるのである。
                         (谷口雅春著)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

毎日の「神想観の行事」を行っていますが…
【天地一切のものを祝福する…】すごくいいです〜〜〜ョネ!
若い頃の私は
■父・母に感謝せぬものは、神の心に叶わぬの…云々…この言葉に、
“がんじがらめに”とらわれ過ぎた時期が、ありました…。
そうなのですョ〜〜ネ!“両親の言う通りにする事”が、【親孝行…】と言われますが?
少し“オカシナ現象…”ではと若い時に思いました。

何故なら「両親でも間違った考え方」があるわけでしょ〜〜〜〜〜?
例えば?失礼ながら仮に“罪を犯した人(前科者の方)の子供が、親の言う通りに、
盗みをしなさいと言われたとしますと…?
しないと“親孝行”になれないといっている様なもので…“感謝”と言う事は、
【自然…】にほとばしる感情の事…その様に解釈しています…。

それで、私の“解釈論”は、【生んでくれてありがとう…】と言う事なのでしょうか?
その様なる“理屈?で【反抗期】”でいましたが…

今にして思えば、やはり【人生の先輩】その様な解釈をしております…。
その様に「両親=親」の立場になりますという事は、やはり!それ以上に
“心構えの責任”が、必要になるのでしょうか???

私も「里親の候補」に、将来は“申し込み”と望んでいますが……
何と言いましても“周りの方達”は、猛反対なのですが……?
「亡くなる直前の母」は、別に“反対”しませんでした…?

■【天地一切のものに感謝…の訓示】が、毎日“言葉”として出来る“聖教…”は
「生長の家」の何ものでもありませんでしょう〜〜♫
日々に於きまして【感謝の訓練】は【神想観…】から始まるものでしょう。
私もいつかは???と思いながら、先ず「里親の申し込み」をして、
【天地一切の調和の訓示…】をと思いますが…・…?

でも!“不思議”な事ですが……
【神想観】後、“不思議に周りの光景がキラ〜〜キラ〜〜☆”と輝いて見えますが…
皆様は、どのように感じられていらっしゃいますでしょうか??

                             再合掌

PS: トキ様 へ
「今日の言葉」どのように思いになりますか???
この「両親…(父・母)」この部分が?いまだに疑問点なのです???この点は、
いかが考えれば宜しいのでしょうか…?

623うのはな:2012/05/08(火) 20:58:19 ID:???
黒塗り教科書

 昭和二十年、終戦の詔勅を私はスマトラで拝しました。
一年間の捕虜の生活の末、日本に帰還しました。妻は三鷹第三小学校で教員を
しており、六年生の担任をしていました。戦争が終り、何もかも大変動が起りましたが、
教育界の大混乱もその大なるものの一つでした。妻の語るところによると、子供たちに墨を
すらせて、国語、歴史、地理等の教科書にでてくる天照大神、ニニギノミコト、神武天皇をはじめ、
天壌無窮の神勅などを真黒に抹消することが授業として続きました。

これまで最高に尊いものとしてあがめてきたものを、児童を使って消し去るという残酷なことを誰が
考えたのであろうか。先生も子どもも泣きながら、その占領政策に従ったのでした。
 これは、ほんの序の口で、次から次へと日本の大きな礎石が破壊され、とり去られて行きました。
私は、まもなく付属中学の校長に任命されました。
夜を徹して、青年教師と語りつつ、これからの教育方針を打ちたてなければなりませんでした。
そして、三つの柱ができました。

 第一、これからの教育は科学的でなければならない。やまとだましいと竹槍では、原子爆弾に
 立ち向うことはできない。

 第二、何でも言える強い人間に、民主主義を土台として平和国家をつくる。
 (こうして師範学校は廃止された)

 第三、再び、子どもを戦場におくるな.....。

これらの逆風をうけて、非科学的で、戦争のもととなったのが神話的歴史であるとの
攻撃がさかんに行なわれるようになってきました。神話的歴史が消えて考古学が中心となり、
日本は、権力、武力、財力の強大な豪族が勝ちのこり、それが今の天皇の先祖であるという
単純な国の成り立ちとなり、建国の理想もなく、劣等民族の教育が四十年、五十年と続いてきたのです。

こうして、『古事記』『日本書紀』に登場してくる日本建国の大ロマンは教科書から一切消え去り、今や、
神武天皇の名も知らず、天照大神を「てんしょうだいじん」と読み、「日の丸」も「君が代」も、
その意味も教えられずに育った若い世代が人口の過半数を占めるようになっているのであります。

 『子育て免許証』 鹿沼景揚 先生著

624a hope:2012/05/09(水) 08:17:52 ID:kcv2QXTk

人生読本 谷口雅春先生著

心の使い方一つで


同じ働きをしながらでも、「心」ひとつの使いようで病気にもなれば達者にもなり、
零落(おちぶ)れもすれば立身出世もするのです。

「生長の家」の本を読んだら病気が治るというのも、本の紙や活字のインキが病気を治すのではありません。
心の持ち方を更(か)えさせて懶(なま)ける心から働く心に更えさせるから病気が治るのです。
懶ける心から勉強する心に更えさせるから成績が良くなるのです。

心を更えさせるのが、生長の家の本の文章の力です。皆さんがこのような真理の本を読んでいたら、
自然に懶けているのが馬鹿らしくなって、自然に働きたくなり勉強したくなるのです。
そして仕事が嬉しくなり、勉強が楽しくて耐(たま)らないようになって来るのです。

これは本当です。皆さんは明日からいっそう働き手になり、勉強家になります。
毎日一層、明日は今日より、明後日は明日よりと自然にそうなってくるのです。

これが言葉の力です。文章の力です。働くといっても嫌々そうなるのではありません。
仕事が楽しくて、勉強が嬉しくてしかたなくて、自然にそうなるのだから結構なのです。

(つづく)

625ハマナス:2012/05/10(木) 00:11:03 ID:u5mC.eb2

神の子のみなさま
 こんばんは。

女は女らしく (『新版 生活の智慧365章』P.148より)

 私は結婚生活に於て妻が夫の上に支配権をもっている場合、往々にしてその子宮が疾患にかかり、
あるいは潰瘍を起こし、腐爛し、あるいは子宮癌を引き起こすことがあるとして、妻が夫に従順に
従う心になるように指導して治った実例を述べたことがあり、子宮は「女性なるもの」の象徴で
あり、子宮に於ける此等の女性疾患は「女性なるもの」の拒否(女らしさの拒否)の精神が肉体に
具象化したのであるとして、女らしさを恢復し、夫に対して真に従順の徳を発揮することによって、
九〇パーセント腐爛して切除のほかなしと医師から診断された子宮が健康を恢復した症例をも
挙げておいたのであるが、メニンジャ―博士は「“女であること”の拒否」によって、不感症、
悪阻(つわり)、月経障害、子宮出血が生ずることを述べ(メ博士著『こわれたパーソナリテイ』
一八五頁)更に「何人かの権威者たちは、子宮脱や膀胱脱、繊維性筋腫すらも、精神性欲の障害の
身体的な結果であるという証拠を報告しています。そして、そのような精神性欲の障害とは……
〈女であること〉の拒否するものであります」と追加して書いているのである。
「女は女らしくあらねばならぬ」と云うことは決して単なるj封建時代の因習でなく、最新の
精神分析学が証明するところなのである。

感謝合掌

626a hope:2012/05/10(木) 08:59:30 ID:kcv2QXTk

人生読本 谷口雅春先生著

病気の正体は何?


皆さんは、病気とはどんなものだか知っていますか。
病気と言ったら、身体のどこかが懶(なま)けていることなのです。

胃袋がグズグズ不平をいって懶けているのが胃病です。
お腹が懶けて食べ物を選り分けて、血や肉にしてくれないで、
みんな外へ出してしまうのが下痢です、
身体(からだ)全体が熱っぽく懶けているのが風邪引きです。
不平をいい、鼻膨らましてブツブツ言っているのが鼻感冒(はなかぜ)です。

身体中のすべての道具が懶けずに働いていましたら私達は達者なのです。
では身体を達者にしようと思うには、身体に怠けることを教えないようにしなければなりません。

それには皆さんは懶けることは得だという考えを捨てねばなりません。
いつも皆さん自身が懶けておって、身体のあちこちの道具に懶けてらいかんと言っても駄目であります。

身体中のすべての道具を懶けさせずに健康に働かせようと思ったら、
皆さん自身が本当に懶けずによく勉強し、よく仕事のできる人にならねばなりません。
これが病気すなわち「身体の道具の懶ける」ことを防ぐ第一の心掛けです。

(つづく)

627志恩:2012/05/10(木) 09:51:25 ID:.QY5jUA6
うのはな様

黒塗りの教科書

鹿沼掲揚 先生著『子育て免許証』からの謹写、感謝いたします。

鹿沼先生(本部講師)は、学芸大学付属中学の校長先生をなさってて、その後に、学芸大学教授・理学博士になられた
インテリジェンスの高い先生でしたが、鹿沼先生は、そのような地位とか名誉など、ちっとも鼻にかけることのない、とても謙虚で人格的にもすばらしい先生でしたので、
多くの信徒の方々から愛され
憧れられてた先生でした。

生長の家 新教連・生命学園の講師も兼務されてました。
夏休みに、鹿沼先生が、当時、総務をされてた「河口湖 練成道場」で、生命学園小学生練成会があり、そのとき、私は、3人の子供たちを連れて
練成会に参加しました。親子で参加する練成会でしたので。

そのときの練成会には、学校の教師であり、生命学園の講師でもいらした”野木清司先生”も、ご指導のため参加されてました。

私が、印象に強くのこっておりますのは、野木先生は、ご自分のご講話の時間以外は、練成会の参加に混じってというより、一番後ろのところに
ずっと正座されておられて、神想観のときも真面目に参加されてましたし、鹿沼先生のご講話も、生徒のようなまなざしで、真剣に聞いておられたことです。

早朝に、富士山にバスで登ることもプログラムに、はいっていたのですが、
私は、当時、野木先生には、本部で、有志の皆様とご一緒に、書道を教えて
頂いておりまして、野木先生とは、顔見知りでしたので、富士登山のときは、野木先生のお隣りにずっといて、いろいろとお話させて頂いていました。

そのとき、野木先生は、この生命学園の練成会は、私が最後に参加する練成会なのだ、とおっしゃっておられました。
昔の時代は、このような大物の先生が、いっぱいおられましたよ。

628志恩:2012/05/10(木) 09:57:30 ID:.QY5jUA6
うのはな様

急用ができ、謹写してくださった肝腎の本の方の感想を書く時間が、なくなりました。夜にでも
書かせていただきます。すみません。

629志恩:2012/05/10(木) 11:22:53 ID:.QY5jUA6
627,一部訂正

野木清司先生に、ボランティアで、本部に於いて「書道」を教えて頂いていた時期は、
私が、本部在職中の時でした。

結婚後、では、ありませんので、「当時」と書きましたのは。まちがいです。訂正します。

630ハマナス:2012/05/10(木) 11:48:12 ID:u5mC.eb2
神の子のみなさま
こんにちは。今日も“嬉しい、楽しい、ありがたい”一日でありますように。

自分を赦すこと  (『新版 生活の智慧365章』P.149より)

 私は『幸福を招く365章』の本の中に、「自分を赦すこと」が大切であると云うことを
書いて置いたが人類の不幸及び災禍を絶滅するためには、人間自身の“自己処罰”を無く
しなければならないのである。その“自己処罰”は自分を赦さないところから生ずるので
ある。メニンジャ―博士は「数多くの病気は――通常、器質的と呼ばれるものも、機能的
と呼ばれるものも――慢性で間接的な自殺という自己破壊の多様な形態とみなすことが
できるが、このような意見をのべることは、おそらく、理論を拡張しすぎることにはなら
ないであろう」と述べているのである。(メ博士著『こわれたパーソナリテイ』二七五頁)

 兎も角、人間は“神の子”であり、本来完全であり、神と同じく“無限の力”を自己の
内に有(も)っているのであるから、自己が許さない限りは、どんな災害も受けることが
できないのであり、若し、全能なる者が災害を受けるとしたら、自己が自己を処罰する場合
だけだと言い得るのである。

感謝合掌

631志恩:2012/05/10(木) 12:27:06 ID:.QY5jUA6
山本富士子さま

淵脇先生の奥様の、旧姓名を、調べて、ここの掲示板に、書かれなくて、いいですからね。

そこまで、身バレされる必要は、ありませんので。

どうぞ、その件は、書き込まれないように お願いします。

632山本富士子:2012/05/10(木) 19:14:22 ID:vYsrynO.
志恩様

了解しました。

いつもご配慮ありがとうございます。

633志恩:2012/05/11(金) 00:23:31 ID:.QY5jUA6
うのはな様

627で書きました様に、うのはな様が謹写して下さった『子育て免許証』の著者の鹿沼掲揚本部講師は、
学芸大学教授、理学博士でもいらしのです、その前の時代の付属中学の校長であった、そして先生の奥様は小学校で教員を
されてましたから、
戦後直後、占領政策下のため、その政策に従わざるを得ず、神話的歴史に関わる言葉を「黒塗り」せねばならず、教科書は、
黒塗りだらけになった。

このお話は、私は、鹿沼先生の、ご講演でも拝聴したことがございました

実際に生徒に教える立場でいらしたからこそ、尚のこと、神話的歴史が語れなくなったこと、
「古事記」「日本書紀」に登場してくる日本建国の大ロマンは、教科書から一切消え去り、

日の丸も君が代も、その意味も
教えられずに育った若い世代が、人口の過半数をしまるようになっている、ことを痛感されてました。

以前の、生長の家では、新教連が、生命学園をやってましたから、そこで子供たちに、日本建国の大ロマンを
教えていましたが、雅春先生が、亡きあと、「古事記」や「日本書紀」などの愛国を語るという理由で、
生長の家教団から、新教連を追放してしまったことは、

日本国にとって、大きな損失であったと,思われてなりません。

634a hope:2012/05/11(金) 08:06:28 ID:kcv2QXTk

人生読本 谷口雅春先生著

休息の喜びは働きにある

多くの人達の欲しがっている休息すなわち「休み」の快さというものは、
成るべく働かないようにしていることによって得られるものではありません。
本当に働いたものだけが、休息すなわち「休み」の快さを知っているのです。

病人はいつも寝床の中に寝ているから、
さぞ「休み」の快さを毎日毎時間味わっているようにお思いになるかも知れませんが、
いつも休んでいる人には「休息」がないのです。
それは、だるい退屈な仕様のない時間の続きです。

よく働いた日に、夜になって寝床に入って足を伸ばす快さこそ本当の休息です。
働かない人にはこの休息の喜びはわからない。
人間は働くように、仕事をするように、勉強をするように、神から創られているのです。

だから働かない人、仕事をしない人、勉強しない人には、
休息の快さを神様は与えてくださらないのです。

真の休息の快さは働く人にのみあるのです。
毎日休んでいる人には日曜日の楽しさは本当にわかりません。
ただダラダラ遊んでいるだけで、くだらない味のない、楽しさのない、
退屈な日が続くばかりです。
  
(つづく)

635ハマナス:2012/05/11(金) 09:44:47 ID:u5mC.eb2
神の子のみなさま
 おはようございます。

他人を赦すこと  (『新版 生活の智慧365章』P.150より)

  自己が災害を受けないために、自己を赦そうと思っても、自己が他を害そうと云う
悪念が現に動いている限りに於ては、自己の潜在意識の奥底にある“良心”が自己を
処罰するに至って、やっぱり災害を受ける事をまぬがれることはできないのである。
メニンジャ―博士は次のような実例を掲げている。――
 
「もっと劇的でさえあるような別の実例が、最近私の注意を惹いた。私は新聞である
男のことを読んだが、この男は、自分の鶏を盗もうとする奴を自動的に鉄砲が打つような、
泥棒除けのわなをしかけていたが、彼自身このことを忘れてしまって、一番先に鶏小屋に
入り込み、自分自身のしかけた鉄砲で殺されてしまったのである。私は、これこそ自分で
自分に行った死刑の見事な実例だと思う。・・・二ヵ月ほどして私は、自分の自動車を
守ろうと、自分のガレージにわなをしかけていた男の別の実例を見つけた。彼は、
一月ばかりの旅行に出たが、戻って来た時、自分自身のしかけた泥棒よけのわなで殺
されてしまったのである。私はこの切り抜きをもとっておいたが、更にもっと沢山の
実例を探し始めた。一年ほどのうちに私は、他の男を殺すためにしかけたわなに、
自分自身がひっかかった五人の男の実例を手に入れた。私には、これらの事故が単なる
偶然の一致ということだけで説明できるとは考えられない。自分でしかけた死のわなに
自分がひっかかるような男には、一種の、(無意識的な)罪悪感、おそらくは他人(泥棒)
を殺そうと願ったことから生じた罪悪感という要素が存在していたにちがいない。」
(メ博士著『こわれたパーソナリテイ』二七九頁)

 以上のような実例によってわかることは、自分を害そうと思う者や、自分から何かを
奪おうとしている者さえも、吾々は赦さねばならないと云うことである。相手を憎んで
相手を害しようと思うならば自分が害されることになるのである。

感謝合掌

636うのはな:2012/05/11(金) 18:30:10 ID:???
大聖師御講義『続々甘露の法雨』 谷口清超編纂 はしがき

 生長の家の聖経では『甘露の法雨』とその続編の『天使の言葉』とが、まず
谷口雅春大聖師によって書き下ろされた。それから『続々甘露の法雨』が作詩されたが、
これらは「三部経」として大切に日々読誦されている。
 そこには生長の家の真理が、流麗な文章で書かれていて、毎日読誦しているそのリズムによって、
知らず知らずのうちに教えの神髄が自覚されてくるものだ。

 とくにこの『続々甘露の法雨』は、病人の心を励まし救うところの力強い言葉が満ちあふれているので、
「病気になったら読む」という人もいて、そうした功徳もあるが、実は人生万般の現象すべてをナシと断定する
“真理の言葉”であるから、あれこれと現象を掴まず、ただ「そのままの心」で感謝して拝読するのが一番よいのである。

 この点について、大聖師は本文第四話の中で、次のように御教示されている。
『「健康は既に汝を訪れたりと知れ」ここが大切ですね。これから病気を治そうと思うと、病気を心で掴むでしょう。
「既に健康は訪れた」とこう思ったら、心はもう病気を掴まんですよ。「病気を治したい」というのは、「病気がある」という
観念が働いているから、心に念ずるものがあらわれるのですから、それではまずいですね。
「既に健康である」と健康を念ずるがよい。だから神想観をしても「神の生命流れ入って私の病気を今治し給いつつある」と念ずる。
まあこれでも効かんことはないけれども、そう念ずるよりも「神の生命流れ入りて光明燦然と輝いて、病気はどこにも無い既に健康である」と、
その既に健康である相をじーっと観ずる方がいいんです。

 “病気を治し給う”じゃ「病気がある」という観念が矢張り働くからまずいですね。
それで、『心を鎮めて平和ならしむるの秘訣は唯「有難う」と一切のものに感謝するにあり』と示されている通りに、
 “ありがとうございます。ありがとうございます”と感謝するんです。
本当に感謝の念を起すということが必要であります。しかし、まだ実際に感謝の念が起らないでも“ありがとうございます。
ありがとうございます”と、こう言葉に出して繰返し言っておりますと、“言葉の力”で感謝の念が湧いてくるのであります。』


つづく

637うのはな:2012/05/11(金) 18:50:18 ID:???
636つづき

 その他にこの御講義のなかには、正しい宗教は脅しではなく解放の教えであること、さらに
事業や家庭や夫婦の問題、さらに又教育や子育てに関することなどの解決した実例が、実にさまざまな
角度から引用されている。青年時代、雅春先生が如何にして就職し、さらにそれをやめて「生長の家」を始められたか
という経緯についても、第十話でユーモアを交えて話しておられるから、この御講義はまさに生前の先生のお話を承っている
ときそのままの“雰囲気”を再現していると言えるであろう。

 さて最初、この『続々甘露の法雨』についての大聖師の御講義が行われたのは、昭和三十年十一月に秋の記念祝賀講習会が
東京の本部会館で行われた時であった。その部分の収録は第一話から第十話までであるが、その後さらに数多くの追加原稿が、
昭和四十三年一月号から昭和四十八年九月号にかけて「白鳩」誌に連載された。
しかし途中には休載の月もあり、その全部はここに収められてはいない。
即ちこれらを谷口貴康氏が克明に纏めて編集して出来上がったのがこの書物である。

 また貴康氏は本書を谷口雅春先生ご生誕百年の記念出版として上梓できるように努力し、
その校閲や装丁にも携わってくれたのであり、ここに厚く感謝の言葉を述べさせて頂く次第である。
勿論いつもの様に、日本教文社の永井光延氏をはじめ編集部の方々には、色々とお世話になった次第であり、
重ねてお礼を申し上げるものである。

 平成五年六月十七日   編纂者 謹んでしるす

638SAKURA:2012/05/11(金) 20:09:30 ID:WTW7YSyM
こんばんは…
今回は【生徒の家…お家騒動】神の御心に?この事は叶うのでしょうか?

■■【谷口雅春先生の…「生命の実相」一部抜粋投稿より】

「ひとりの先覚者が現れてある教義や主義綱領を掲げて民衆の賞賛をはくしていると、
その同じ教義や主義綱領を自分は前から称えていたと言って、その団体の人員を
浚って行ったり、同じ主義綱領をほんの少しばかり変更して自分の方が勝って
いるといって崇拝を自分の方へ集めようとする者がある。
牛後となるより鶏口となれという小才子(こざいし)が多いから
この世は乱れるのである。人間はなぜ大同団結をしないのだろう。

三十年黙って一つの団体の牛後に喜んで真面目に活動しうる人は、ついに
その団体で押しも押されれもせぬ人物になることができるのである。
明智光秀のような才子はいくら多くとも世が乱れるばかりである。ついに
天下をとったものは徳川家康であったことを知らねばならない。」

          「生命の実相」より抜粋です!!!      谷口雅春著

639SAKURA:2012/05/11(金) 20:23:35 ID:WTW7YSyM
   <つづく> No.2
今日は谷口雅宣先生の【プログ…】に記載されていますモノを、一部投稿せて頂きます…。
参考になる様に思えますので…【シリーズ中…第4回目】を、投稿します。(特に共鳴…)

■観世音菩薩について…(4)
 
ここまでの議論では、観世音菩薩についてその“出自”に即して仏教の文脈で考えてきた。
しかし、今年の全国幹部研鑽会に参加した読者はご存知だが、私はこの菩薩に関連づけて
全く別の分野の話もした。それは脳科学(神経科学)の話だった。そこで本欄でもこの分野に
踏み込んで議論を続けたいと思う。つまり、宗教と科学との接点を見出し、考えてみたいので
ある。具体的には、もし観世音菩薩が我々の“内部”にある人間の「本性」だと宗教で
言うならば、脳科学的にはその本性が脳のどの辺に位置しているのか、あるいは
脳のどのような機能として説明できるのかという問題を考えてみたい。もちろん私は
脳科学者ではないから、ここで何かオリジナルな研究成果を発表するつもりはない。
そんなことは不可能である。私にできることがあるとすれば、それは近年の脳科学の
研究成果の中から、人間の「良心」や「宗教心」と関係のありそうなものを紹介するくらいである。そして、すべての人間の脳がそのような特徴的な構造と機能をもつのだから、
「人間は神の子である」あるいは「人間の本性は仏である」という宗教上の主張は、
単なるナイーヴな理想論ではなく、きちんとした科学的な裏づけがあることを示したい。
 
 脳科学的な説明に入る前に、人間の心の素晴らしさと複雑さについて、
谷口雅春先生の御文章から確認しよう。まずは、『新版 光明法語<道の巻>』から
「1月20日の法語」を引用する−− 

「吾が全ての願いは吾が中(うち)に宿り給う神が内よりもよおし給う願いである。
されば吾が願いは決して成就しない事はないのである。吾と神と一体であるという事を
自覚するが故に如何なる願いも必ず成就しないということはないのである。
吾は吾が中(うち)に宿る神のもよおしに対していと素直にそれに従うのである。
神よりの導きは内からも外からも来るであろう。吾に何事でも勧めてくれる人は
神が遣わし給いし天の使(つかい)である。吾は素直に外の導きにも内の導きにも
従うのである。吾はあらゆるものにすなおに喜びをもって従うのである。」(同書、p.43)

 この本は、引用した箇所ほどの短い文章を毎日読み進めていくことで、読者が
神我一体の自覚を深めていく目的で編まれている。だから、短い文章中のリズムや勢いを
重視する代わりに、論理性や汎用性が犠牲になることもある。引用箇所はその典型で、
「人間・神の子」の自覚がある程度深まった人が読めば、さらに自覚が深まり、
勇気と信念をもってその日を送ることができるに違いない。私が特にこの文章を引用した
理由は、現下のテーマである観世音菩薩と関係が深い表現があるからだ。
それは「吾は吾が中に宿る神のもよおしに対していと素直にそれに従うのである。
神よりの導きは内からも外からも来るであろう」というくだりで、雅春先生はここで
「観世音菩薩の教えは自分の内にも外にも溢れているから、そこから学べ」と仰っている
のである。
 
 しかし、そういう深い意味を読み取るに至らない読者もいる。例えば、自分の選択に
自信がもてず、かつ他の選択肢にも魅力を感じていたり、さらには周囲の人々の意見に
振り回される傾向のある人などは、引用箇所だけを読んだ場合、誤った印象をもつ
可能性がないわけではない。また、自我意識が強く、周囲の人々の意見を無視して物事を
押し進める傾向のある人も、間違った解釈をしかねない。なぜなら、引用の最初の部分を
文字通りに解釈すれば、「自分の希望はすべて神の御心だ」という浅薄な読み方も
できるからだ。さらに引用の最後の文章も、生長の家の教えをよく知らず、
物質的な誘惑に弱い人は、誤った解釈をする可能性を否定できないだろう。
もちろん私は、雅春先生の文章に欠陥があると言っているのではない。
そもそも文章とは、読む人の知識のレベルや心境によって、内容の理解や解釈が
変わってくるものである。学術論文であれば、そういう違いが最小限に留まるだろうが、
宗教や芸術に関わる文章の場合は、読み手の力量が理解度を大きく左右することになる
−−そう言いたいのだ。
 
 谷口 雅宣

640a hope:2012/05/12(土) 09:50:22 ID:kcv2QXTk

人生読本 谷口雅春先生著

働く者の喜び

働く人、仕事をする人、勉強する人の楽しさは、休息の時間や休日が本当に楽しくて、
快いばかりではなく、まだまだ尊い楽しさを与えられます。

自分がする仕事がだんだん捗(はかど)り進行してゆきつつあるのを見る楽しみはその一つです。
仕事の一段を終わる毎に「もう、これだけできた!」という喜び、
勉強のひとくさりが終わる毎に、もうこれだけ自分は進歩したと思い返す喜び。
仕事の中に、勉強の中に、時々刻々の運びの中に進歩があり喜びがあるのです。

皆さんは本を読んで、もう大分読んで、「もうこれだけ進んだ」と思って、読み終わったその本の厚みを、
じっと見てさわやかなホッとした楽しい息をする喜びを味わったことはありませんか。
これは読書の楽しみですが、仕事をすれば、勉強をすれば、
「もうこれだけ進んだ」と振返って考えられるその時の楽しみはまた格別です。

(つづく)

641如月:2012/05/12(土) 10:52:51 ID:ki/haAjk
  
昭和60年11月号 『理想世界』 60頁
 愛 の 三 十 一 章 愛と祈りの女性となるために⑫  谷 口 雅 春 先 生
 第二十四章  本当の愛は法則の如く峻厳である

真の愛は叡智に導かれた愛でなければならないのである。
愛は煩悩(ぼんのう)に従わず、智慧(ちえ)に従う。

截ち断る(たちきる)べきものは截ち断り、捨離すべきものは捨離する。
猫が猫の仔を舐めるような愛撫(あいぶ)が必ずしも真の愛ではないのである。
真の愛は峻厳(しゅんげん)なものである。
それは法則の如く峻厳である。
斬るべきは斬り、批(う)つべきは批つ。

しかし相手の性を知り。相手の美点を見のがすことなく、明らかに観て、
褒むべき点は容赦なく称揚(しょうよう)するのであり、
それによって相手の、人性に共通なる
「称(ほ)められたい、認められたい、愛されたい」願いを満足せしめつつ、
苟(いやしく)も、愛に狎(な)れて長幼の秩序を失い、尊敬すべきものを
尊敬せざるような過ちを犯さしめないようにするのが本当の愛なのである。
             (『白鳩』昭和43年7月27日の箴言より)

642SAKURA:2012/05/12(土) 22:18:34 ID:FEa/NNlc
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ

こんばんは…
この頃、睡眠時間が少ない【SAKURA…】ですが、意外と体力が続いています。
それはやはり祈りです〜〜ネ!益々「神と一体」に“ゴ−!サイン」ですかと?
さぁ〜〜今日も【聖典】を開きます…。此の“書”を開き給いて…
出ました〜!今から“スタ−ト”……>>

■【幸福を招く365章】
――――人から誤解された場合――――

他人から誤解されたからと云って失望してはならない。
自分も多くの人々の美点の総てを見ることに失敗し、時々誤解によって
人々を悪しざまに思ったことがあるからである。
肉体人間は視野が狭いから時々観察を誤るものであると云うことを知って、
誤解した人を宥さねばならない。又どんなに偉い人でも、釈迦でも、キリストでも、
親鸞でも、日蓮でも、誤解されてその時代に容れられなかった
時があるのだと云うことを知って、自分が受けた誤れる批難くらいは
何でもないことだ、と心から捨ててしまう事が必要である。
そして「すべての人は神の子であるから、互いに愛し合い理解し合っていて誤解
し合っている人は一人もない」と実相調和の有様を心に描くことがひつようである。

                         (谷口雅春著)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

「今日の言葉」は、日常茶飯事にて多々あります〜〜〜ョネ!この頃!
誤解されやすい人は、落ち着きがない人?更に読解力が無い人?つまり…
きちんと読んでない人…それらの人は、必ず!表面上で理解しますから、当然!
「問題」が生じます事は、当然であり、この頃は特に思っていました…。が…

「今日の言葉」では、先生の言葉より…
■「肉体人間は視野が狭いから時々観察を誤るものであると云うこと…」
確かに“決めつける心”でしょうか??私自身“反省”点は、多々あります。
今日も〜〜又!なの?これはどういう〜〜〜事なの〜〜〜? ><?
此の様に、いやな〜〜〜感情が心に芽生えましたら?「誤解…」もできる訳で、
そうなのですョ〜〜〜ネ!「ネガティブな感情」です〜〜〜モノ!
更に!この様な時には【時間管理】が……狂い“一日の予定”の【時間管理】が…
前に進めなくなりますが…!

■「今日の言葉」より時として、私の考え方に賛同の方々?反対論に賛同の方々?
双方が【受け入れなかった事】は、当に!!時として
【肉体人間の現象を超えて、実相調和を描く】この啓示を神から頂いたのでしょうか?
当に「人生劇場」に於きましての“エクササイズ”でしょうか…?

■偉人でも、当時の迫害を、何でもな〜〜〜い!云い切るくらいの【不屈の精神】
これが…【人を…時代を…動かすのでしょう!!】
この精神は“アメリカンドリ−ムの精神”でしょうか〜〜〜?

私も更に「雅春先生の教え」を受け次いで【実相調和の心の映画館】に入って行きます。

「今日の出来事」は、必ず!いえ…更に!私の精神を、正しい方向性に導く…?
この事は【肉体人間…】に必要な“エクササイズ”でしょうか?
「今日は早速」…この問題に近い事を与えられましたが……??
此の与えられた事に…感謝!そして…前に進むべきでしょう〜〜〜♫〜【認識】
                              再合掌
PS:
トキ様へ
人は“誤解”を受けました時…その対処・又!そこに行きつくまでの段階…原因
この事は反省すべきであり、「時を待つ」事の重要性を感じる次第です。
トキ様に於かれまして、この“誤解”対処法??どの様にお考えでしょうか…?

643ハマナス:2012/05/13(日) 00:13:59 ID:u5mC.eb2

神の子のみなさま
ありがとうございます。
今日から、「第六章 智慧はどうしてくるか」に入ります。
    
不思議な無限の叡智  (『新版 生活の智慧365章』P.153)

 吾々は肉体からいうならば常に死につつあるのである。吾々に肉体を構成する細胞、
それは生れ、組織をつくり、その割り当てられたる仕事をし、やがて死んでいく。
その死んで行った後の椅子を、新しく生れた細胞が埋め、前の細胞が行って来た仕事の
引き継ぎをして、全体として統一ある仕事が行われるのである。新たに生れた細胞は
生きていて、仕事を引き継いで、継続してその任務とする仕事に従事する“引き継ぎ”は
如何にして行われるであろうか。引き継がおこなわれるためには“心”がなければなら
ないのである。細胞から細胞へとその事務引継ぎは行われるのだろうか。それとも、
中枢からの命令が無線伝導で行われるのだろうか。直接その事務引き継ぎが行われるに
しても、中枢からの命令が無線伝導で行われるしても、いずれにせよ、細胞が行きていて、
それに“心”があるからこそ引き継ぎができたり、中枢の命令が感受できるのだといわ
なければならないのである。

 或いはそれは“心”によって感受するのではなく、電子計算機のように自動的にその
引継ぎや命令の伝達が行われるのかも知れない。併しなお、問題は残るのである。
この極めて微小な、肉眼で見えないほどに小さな細胞に電子計算機のような複雑な構造が
組み込まれているだろうか。若しそうだったら、そのような微小な中に複雑な構想を組み
込んだところの「創造者」は実に驚くべき叡智を備えた者でなければならない。
それは到底、吾々人間の脳髄の知恵でできることではないのである。脳髄をも造った
ところの不思議なる「無限の叡智」それを神というのである。吾々はどうしても神の存在を
認めなければならないのである。

感謝合掌

644a hope:2012/05/13(日) 09:09:01 ID:kcv2QXTk

人生読本 谷口雅春先生著

仕事と勉強の喜び


最も幸福な人間は、仕事をし、勉強をする喜びを知った人です。
それは世の中に益をを与え、人に益を与えながら、自分も益を与えられ、
心に無限の喜びを味わいつつ、自分自身が進歩する道なのです。

そのほかにも、本当の休息の楽しみや、夜寝床で足を伸ばす、快さや、
日曜日に本当に誰はばからずに、自由に伸び伸びとして時間を得る喜びや、
身体が健康で食べ物の美味しさを与えられる楽しさは、働いた後にこそ来るのです。

これに反して世界で最も気の毒な人は仕事を持たない人です。
病人でも仕事は手先ででき、心でできます。仕事さえあれば、
病気で長く寝ている人も、なお心を楽しませることはできます。

しかし、仕事をすることを知らない人が病気になったら、
ただ苦しみと退屈を味わうばかりで、実に惨めで気の毒だと言わねばなりません。

たいていの病気は、不平を言わずにただ喜んで仕事をするということ―――それだけで治るのです。
私に相談なさった方で、仕事に喜んで精出すという、
ただそれだけのことで病気の治った人はたくさんあります。

リビングストンは「神のために働くとき、額の汗は神経の強壮剤である」と申しました。
「神のために働く」とは世の中のためになる仕事に喜んで働くということです。

一巻(ひとまき)の糸を紡いでも、一足の靴下を織っても、
「この私の力によって、吾々の兄弟である人間が寒さを凌いで喜んでくれるのだ」
と思えば、その仕事が楽しくなってくるのです。

(つづく)

645ハマナス:2012/05/13(日) 23:18:00 ID:u5mC.eb2
神の子のみなさま
 ありがとうございます。

新陳代謝と老衰  (『新版 生活の智慧365章』P.154より)

 常に新陳代謝の行われている人体は、或る生理学者の説によると、忍耐の柔らかい部分の組織は、
もう二ヵ月もたったら殆ど過去の細胞は死滅して運び出され、新しい細胞によって、再組織せられて
いるということである。(脳細胞だけは別である。) それなのに、その人体の構造や形態が、数ヵ月
前の今日も全く同じき構造をもっているというのは、如何なる理由によるのであろうか。それは
電子計算機のように自動的にそれが計算されて、新しい細胞が自動的に元の位置を占めるからで
あろうか。自動的に、そのような新陳代謝が行われるのだったら、全く同じき変わらない構造を
もっている人体は老衰し、皮膚はしわみ、精力は衰えて行くのは何故であろうか。人体の電子
計算機が不完全な為なのであろうか。それとも、人体は物質であるから、電子計算機でも、
それが物質で出来ている限りに於て長期間使っているうちには全体が摩耗して、ちびて来る
からであろうか。

 併し新陳代謝の行われない物質の機械では禿(ち)びて来て長期間には使いものになら
なくなるのは当然だけれども、人体は新陳代謝が行われているから、長期間使用して禿(ち)びて
来て使いものにならない場合は、その部分は、新しい細胞がその組織を再造してくれるから、
それだけでは老衰の原因の説明にはならないのである。

感謝合掌

646ハマナス:2012/05/13(日) 23:18:30 ID:u5mC.eb2
神の子のみなさま
 ありがとうございます。

新陳代謝と老衰  (『新版 生活の智慧365章』P.154より)

 常に新陳代謝の行われている人体は、或る生理学者の説によると、忍耐の柔らかい部分の組織は、
もう二ヵ月もたったら殆ど過去の細胞は死滅して運び出され、新しい細胞によって、再組織せられて
いるということである。(脳細胞だけは別である。) それなのに、その人体の構造や形態が、数ヵ月
前の今日も全く同じき構造をもっているというのは、如何なる理由によるのであろうか。それは
電子計算機のように自動的にそれが計算されて、新しい細胞が自動的に元の位置を占めるからで
あろうか。自動的に、そのような新陳代謝が行われるのだったら、全く同じき変わらない構造を
もっている人体は老衰し、皮膚はしわみ、精力は衰えて行くのは何故であろうか。人体の電子
計算機が不完全な為なのであろうか。それとも、人体は物質であるから、電子計算機でも、
それが物質で出来ている限りに於て長期間使っているうちには全体が摩耗して、ちびて来る
からであろうか。

 併し新陳代謝の行われない物質の機械では禿(ち)びて来て長期間には使いものになら
なくなるのは当然だけれども、人体は新陳代謝が行われているから、長期間使用して禿(ち)びて
来て使いものにならない場合は、その部分は、新しい細胞がその組織を再造してくれるから、
それだけでは老衰の原因の説明にはならないのである。

感謝合掌

647ハマナス:2012/05/13(日) 23:21:24 ID:u5mC.eb2
トキ様
 すみません、2重に書き込みをしてしまいました。
646の削除をお願いいたします。

648a hope:2012/05/14(月) 08:07:03 ID:kcv2QXTk

人生読本 谷口雅春先生著

仕事の面白みを出す法


仕事や勉強は、人間が自分の生命(自分の内にある生きる力)を生かすために、
神がくださったものでありますから、あまり好まない仕事でも、あまり好まない学科でも、
熱心にただやりさえすれば、しまいには面白くなってくるようにできているのです。
仕事や勉強が面白くないのは、ただその理由は、その人がそれを熱心にやらないということだけです。

つとめつとめて無理にでも根限(こんかぎ)りやっているうちには、それがどんな仕事でも、
本当に楽しくできるようになってくるのは、あの本来苦い不味い煙草でも、
無理につとめて喫(す)っているうちには、美味しくて、
とても止められないほどの味がでてくるのでも知れるでしょう。

まことの習慣の力ほど強いものはありません。
苦い酒や煙草でも、美味しく感じさせるのは習慣の力です。
はじめは如何に、仕事が苦しくとも、勉強が辛くとも、
それは「本当のあなた」の現れではありません。
つとめて行えば必ず仕事や勉強に味が出てくるのです。
必ず仕事が楽しくなってきます。勉強が歓ばしくなってきます。
(つづく)

649うのはな:2012/05/14(月) 18:19:25 ID:???
  祈りを有効ならしめるには

 何事でも不結果が起ったときには、神に一致しない心があるのであるから、
先ず神に一致する心を起すことが必要である。
神は愛であるから、神に一致した心を起すには、先ず愛の心を起さなければならないのである。
誰かを憎んでいたならば、その憎みを捨て、相手の罪を赦し、心に愛と平和を有たなければならないのである。

 次の如く瞑目して静かに念ずるのが好いのである。
「彼(相手の名を念ずる)と私とを神の愛と平和と調和と赦しとが取り巻いている。
私は彼を愛し、彼は私を愛し、私は彼を理解し、その間に何らの誤解もないのである。
愛は憎まない。愛は欠点を見ない。愛は怨まない。愛は相手の立場を理解して決して無理な
要求をしないのである。」

 『真理』第八巻 信仰篇  谷口雅春 先生著

650ハマナス:2012/05/15(火) 00:03:13 ID:u5mC.eb2
神の子のみなさま
ありがとうございます。

心と生理作用  (『新版 生活の智慧365章』P.155より)

 人体の老衰の原因は、単なる物質的機械のような新陳代謝の出来ないものなら、「使い禿(ち)びる」で
説明されるけれども、新しい細胞が常に古い細胞と置き代っているから、「使い禿(ち)びる」と説明
できないとすれば、如何なる理由によるのであろうか。ここに物資的原因以外に、“心”をその原因者と
して説明に取り入れなければならないことになるのである。“心”というものが吾々人体の生理作用に
非常な影響を与えるものであることを考慮に入れなければならなくなるのである。ちょいと羞恥の感情を
起せば顔は赤くなるし、恐れればふるえるし、悲しめば涙が出る。梅干を見れば唾液が湧く。このように
機械的な電子計算機の調節のほかに、人体には、精神的要素によって生理作用の異なってくる要素がある
ことが明らかである。

 老衰の原因も、心の要素を考慮に入れるとき説明し易くなるのである。或る人は心の鑿(のみ)をもって
老衰をきざみ、或る人は心で血行や新陳代謝を盛んならしめて、その老衰をふせぐことができるのである。
『甘露の法雨』には「若しと思う者は忽ち若返り、老いたりと思う者は忽ち老い朽(く)つるも宣(むべ)
なるかな」と示されている。

感謝合掌

651じっそおー:2012/05/15(火) 05:11:08 ID:vsZYH/3w
a hope 様
初めましてじっそおーです。
>>1962(トーキングステイックボード板)

ご親切におっしゃってくださって本当にありがとうございます。
そんな風に言って頂いてうれしかったです。(それと訊け様をはじめ、たくさんの人に色々教えて貰いまして有難かったです。
ご返事が遅れて申し訳ありません。
(ご返事を)聖典引用板で書かせていただいた理由は
私は、WEB誌友会に参加できそうにありません。仕事があるのとパソコンを家族で共有していますのです。
で、トーキングスティックボード板(今はWEB誌友板ですね。)に書き込みをしにくいので
ここの板でお礼を書かせてもらいました。
パートのお仕事、がんばって下さいね。

652a hope:2012/05/15(火) 07:53:38 ID:kcv2QXTk

人生読本 谷口雅春先生著

先ず進んで自分からやれ


仕事や勉強を楽しくするには、懶(なま)けている習慣に負けているかぎりは、
仕事や勉強の喜びは味わえるものではありません。

本当に噛み締めて味わわずには、
物の本当の味わいというものは分かるものではありません。
仕事や勉強の楽しさを本当に味わうには、
身を入れてしっかりとその仕事や勉強を一心不乱にやってみなければなりません。

親が上役から、いつでも勉強せよ、仕事をせよと口喧(くちやかま)しく言われるために、
勉強や仕事が嫌になっている人は、親や上役が見ていない時に、知らぬ間に、
この仕事、この勉強をやって置こうと、そういう機会を覘(ねら)って一生懸命に仕事し勉強をしてみて、
自分から進んでする仕事、自分から進んでする勉強の楽しさの味わいを知ってみるのも一方法です。

ともかく、仕事や勉強の味は、先ず思い切って、一所懸命やってみなければ判りません。
仕事や勉強の味が本当に判ってきたら、この世の中に、これほど楽しい爽やかな喜びはありません。

(つづく)

653ハマナス:2012/05/15(火) 09:53:35 ID:u5mC.eb2

みなさま、おはようございます。

五月十五日 不断の祈り   (谷口雅春先生著作集『光明法語』より)

 「常の祈り」が大切である。所謂る「不断念佛」「平常業成(ごうじょう)」である。
平生の祈りの業が成就して、現象界に現れるのである。朝起きれば、「寝ている間にも
呼吸をなさしめ給い、血液を循環せしめたまい、夜中自分の生命を護り給うた神よ、
有難うございます」と神に感謝し、「一夜を暖かく眠らせ給うた布団よ有難うございます」と
感謝して起きるのである。今与えられている事に充分感謝しないでいて、次の善きものが
与えられると云うことはあり得ない。感謝する事によってのみ、今与えられたものの充分の
価値を享受出来る。

感謝合掌

654うのはな:2012/05/15(火) 17:36:39 ID:???

全宇宙は一つの生命体でありますから、例えば、人間の身体にも比ぶべきものであります。
われわれの身体においては、皮膚にある損傷ができますと、皮膚そのものに変化が起こるだけではなく、
全身にその違和が感じられ、全身の血液が環流して、その所の皮膚の傷を癒す成分を送ってくれるのであります。
それと同じことが、われわれ個人の経済状態においても起こるのであります。

 われわれが経済状態にあるマイナス状態を生じますと、必ず全宇宙の供給の流れが還流して、そのマイナス状態を
埋めてくれるようになっているのであります。だからわれわれの生活が大宇宙の一つの流れに繋がっているという実相
に目覚める限り、われらには絶対に「貧」ということはありえないのです。

 宇宙は無限供給である。その無限供給に繋がっているとき、どうしてわれわれに「貧」ということがありましょうぞ。
すべての富は今すでにわれらに与えられているのであります。われわれは、宇宙の無限供給の富の中心にいるのであります。


『生命の實相』第八巻 観行篇 谷口雅春 先生著 P115

655SAKURA:2012/05/15(火) 21:10:54 ID:FEa/NNlc
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ

■【幸福を招く365章】
――――人間が幸福になるためには――――

人間が幸福になるためには、自分の周囲に光をみなければならない。
この世界を物質の機械作用で、人間の欲望などは踏み躙って勝手に動いている
世界なぞと思ってはならぬ。それは希望のない恐ろしい宿命論だ。
機械的世界観と、宿命的人生観ほど人間を不幸に陥れるものはない。
それは宿命と云う鉄鎖にしばられている囚人の人生観だ。
人間が幸福になるためには、この世界を神の愛に満たされている
世界だと観じなければならぬ。
愛にとりまかれている感じのみが人間を幸福にするのである。
『この世界は神の国である。自分は神の愛ぐし児である』
この自覚が深まれば深まるほど、人間は光にとりまかれ、
幸福感が深まってくるのである。すべての人間を神として観よ。
すべての事物の中に、その動きの中に神の愛が充ち満ちて我等を生かしつつあると観よ。
                        (谷口雅春著) 
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

現在の「住居」は……TYOに上京する前は、此処の環境は“一等地”でした。
…が?その「イメ−ジ」もあり、此処の“マンション”を「神に祈り」…
当時必死に「神様…」へ、ひたすら一生懸命“思念”して見つかったのですが…?
手前の「ライオンズ M」を勧められた時“物件”を見まして“改装工事”するにしても…?思いながら、最終的には“手前”の現在のマンションを見ながら〜♫
あそこがあいてたらいいなぁ〜〜♫〜と思いながら…
「第一回TYO」に戻りました…。それから“不動産からの連絡”が、2か月後でしょうか?
連絡が入り、手前のMと知らず,此処に決めようと…“ 候補3件”絞って、
最後に、やはり此処を決めたのです。

引っ越しをした当日!正直な話?胸騒ぎもありましたが……?

まだ当初“環境”がいい方でした……ある時!「吸血鬼・ゾンビ達…」が、
住みだしてから“一変…”した次第です…。

今では私の周りは“ミ―ハ―族”ばかりか?“水物”が多くなり、見ていて“気分”
的にはいいものでは無いです〰〜ネ!

此処は「黒田節??」と云いますから?【アル中みたいな人】が〜〜〜
ゴロゴロ増えて、そればかりが“目”につくようになりました…。
もっと“今”と云う時間を大切にしたら〜〜?その様に思います…。

外に出ますと「吸血鬼・ゾンビ…達」が、必ず!出て来ますし、もしくは仲間も!
このような“環境”での戦いは【精神統一…絶対的】にしなさいとの、
「神のお告げ」の様に、最近思えて来ました…。その後の私は【愚痴】を出す前に、

■「すべての事物の中に、その動きの中に神の愛が充ち満ちて我等を
生かしつつあると観よ………」を…
思念して前に前に“steppe・me・up〜〜〜〜!!”
                             再合掌

PS:トキ様へ
本日の「幸福論」先生の“お言葉”どのように解釈されますでしょうか?
アドバイス頂きますと…幸いです。

656ハマナス:2012/05/16(水) 00:16:48 ID:u5mC.eb2

神の子のみなさま
 ありがとうございます。

人類全体の総合された想念  (『新版 生活の智慧365章』P.157より)

 機械的な磨滅や使い禿(ち)び以外に老衰の原因が心にあるとすれば、その心は「個人の心」で
あるか、「人類の心」であるかということが問題になってくるのである。その心は「個人の心」
でもあるし、「人類の心」でもある。人類全体の総合された想念が人類意識というのである
。人類意識の中に「人間は幾歳になったらこれほど老衰する」という共通総合の想念がある。

 個人の意識は人類意識の黒潮の中を泳いている一尾(いっぴき)の魚みたいなもので、
自由意志もあり、欲する方向に運動する自由もあるのだけれども、やはり人類意志全体の
潮流の方に動かされることは避け得られない。黒潮に乗って一定の方向に黒潮の色と同じの
背の蒼い魚が群れをまして泳いで行くように、人類全体の「人間は必ず老衰する」という
潮流に押し流されながら、人間も群れをなして老衰の方向に進んでいくのである。
ただ潮流の流れを、その人がどの程度「人間は神の子で、老いない」という想念によって
逆泳し得るかによって、その人の若さの持続が異なるのである。

感謝合掌

657a hope:2012/05/16(水) 07:13:35 ID:kcv2QXTk

人生読本 谷口雅春先生著

思いついたら直ぐ始めよ


仕事や勉強が楽しくないのは、何でも思いついた時すぐしないのに依(よ)るのです。

後からそれをしようと思って尻重くしているために、必要なことも思うように進行せず、
「いざしよう」となったときには、あれもせねばならぬ、これもせねばならぬと、
仕事や勉強が溜まっているために、心がアチコチ踏み迷い、どうしたら好いか分からなくなり、
イライラし、急いで来、急ぐために血は逆(のぼ)せ、呼吸はみだれ、
肩は凝っていろいろの病気を惹起(ひきおこ)す原因となるのです。
(つづく)

658a hope:2012/05/17(木) 07:35:31 ID:kcv2QXTk

人生読本 谷口雅春先生著

考えるより実行せよ


「面白くないから仕事ができない、勉強にとりかかれない」と言う人があるかもしれませんが、
事や、勉強は、乾鯣(するめ)を食べるようなものです。
乾鯣はちょっと舐めてみただけでは本当の味というものは出てこないのです。

本当の仕事と勉強との味は、それを乾鯣のように
噛み締め、噛み締めやっているうちに出てくるのです。
仕事は、それをしないでその仕事のことを考えているうちの味と、
実際にやってみる時の味とは異(ちが)うものです。

仕事をせずに、仕事をせねばならぬと考えているだけでも頭を使う。
仕事をせずに頭を使う事は、却って苦しい仕事でありますが、
仕事に実際とり掛かってみますと案外楽で、やっているうちに、
思いも掛けないよい智慧が湧いてくるものです。

仕事は実際始めれば少しも考えたり頭を悩ましたりすることなしに
よい考えが湧いてくるものです。

神は人間を働くように造ったものでありますから、
働いているときには神の智慧が湧いてきて手伝ってくれるものに相違ありません。

(つづく)

659SAKURA:2012/05/17(木) 20:03:32 ID:FEa/NNlc
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ

こんばんは…
今日は、ちょっと…色々考えされてしまいましたが……?
海外のグル−プの「女性ボ−カルの話」なのですが……
今日は「女子会」に、投稿してみようと思います。さて!!
今から「人生の永遠…??」の勉強です。その中から【今日の言葉は…】

■【幸福を招く365章】
――――愛は失敗することはない――――

神と偕に生くると云うことは、神は愛であるから、愛を配達する人になると
云うことである。全世界の人類が配達する人になったときこそ地上に天国が
生じたときである。何事を為すにしても、語るにしても、交渉するにしても、
「神の愛、われを通して貴方を祝福し給う」と愛念を先に送って置いてから
為せば、行く道は平らかとなり、愉快になり、成功多きものとなるのである。
憎しみは失敗することがあっても、愛は失敗することはないのである。
憎しみは争いを起すが、愛は必ず平和を起こすのである。吾々は「愛念」を
実生活の道具として凡ゆる方面に活用することにしなければならぬ
                           (谷口雅春著)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆

「商談…」で、交渉します時は、必ず!黙然して【神想観…】をします。
■【生きとし〜生けるもの〜生かしたまえるみ 親神〜〜〜】と!
“何度も〜何度も〜”唱えて「相手への思念」をしていましたが?そうです〜〜〜ネ!
大体!最後に【愛…絶対の愛…】になるのです〜〜〜ョネ!

“お客様”と接触します時、先ず“お客様”が綺麗に見える様に「思念」します。
そうしますと“フ〜〜〜ット!”アイデアが浮かびまして“お客様”の似会う
“スタイル”が自然に〜〜♫〜
どのように生かすかを「心の目」で見つめていたのでしょう

当時の私は、“売り上げ”より先に!これが優先でした…。気が付きますと
現在では、気が付きますと

何と〜〜〜〜〜何と!売り上げ“優先順位”になりまして、
売り上げより出費がふえて〜〜〜“お金”が逃げてゆくのです〜〜ョネ! ><
「お金を追う?」のではなく「愛を優先に…」
■【世の為…人の為に…どれだけのお役にたつのか…?】が、此処が大事です〜ョネ!
いつの間にか、私の“心の目”が“アキメクラ”になっていましたが…
【真理・光明・絶対の“愛”】なんですョネ〜〜〜〜!

さらに「男女の関係」も、今思いますと、私自信、相手に対しての思いやりは〜と?
何故?そう思うのかと云いますと…
結構!私は思いやりがあるのでは?と…心の奥では思ってたのですが
蓋を開けますと…?そうでは無かったのです〜ネ!
相手の“やさしさ”をくみ取る事より、自分の“要望”を優先でしたかしら〜〜ン?
今!振替ますと、実に恥かしい限りです…。

全て、此の現象界で生きて行く事は「絶対の真理・愛」にまさるものは、
ないのです〜ョネ!今から遅くはないハズです…。
==>気がついたその“瞬間”から、進歩向上の“スタ−ト”です〜〜〜ョネ!
今の私は“スタ−ト・ライン”に、立つています。
「神の愛、われを通して貴方を祝福し給うあらゆる方面に“愛念”をに送って、
必ず!私の希望も失敗する事なく“成就”しますでしょう〜。
■“愛”は広き門…に【入門】です。

■【生命の実相】の巻頭から
「汝ら天地一切のものと和解せよ」と書いてあります。あの「和解」が
“愛”であります。“愛”とは「和解する」すなわち互いに手を繋ぐ事であります。
自他は本来一体でありますから、分れたように見えても本の姿になったならば、
自然手を繋ぎ合うということになるのです。   (谷口雅春著)

■今日の言葉で……“愛”“愛”“愛”〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜“愛”程…
勝るものはないです〜ネ!此の「気づき」に“神への感謝”が…!  再合掌

PS: トキ様へ
本日の「言葉…」どのように思われますでしょうか?
【愛は、全てを癒す…】その様に私は思いますが……?

660トキ:2012/05/17(木) 21:48:55 ID:UhCo.q7I
>>659

 昔、ダイエーの中内功さんが、「売り上げは全てを癒す」と言っていましたが、
結果、彼の会社は倒産間際になり、中内さんも晩年は不遇のうちに亡くなりました。
 山を動かすほどの信仰があっても、愛の心がなければ、それは無であります。
あと、男女の間ですが、これは、相手を理解していない事から来る誤解から争いが
生まれると思いますから、理解できない事があっても、相手の悪意を想像するのは
よくないと思っています。

 と、これは小生の偏見ですから、あまり気にしないで下さいね。

661ハマナス:2012/05/17(木) 23:40:12 ID:u5mC.eb2

神の子のみなさま
こんばんは。ありがとうございます。

寿命の延長  (『新版 生活の智慧365章』P.157より)

 「老衰しない」ということと、その人の此の世の寿命が尽きて霊界に誕生することとは
別であるのである。その人の地上の寿命というものは、その人の魂が、地上の任務に赴任
する時にあらかじめ定められたる赴任期間というものであって、大体その人の赴任期間は、
その人の赴任が発令されたときに定まっているのである。それは会社の社員は外国へ出張
赴任を命ぜられるとき大体その赴任期間が定まっているのとよく似ている。しかし外国で
その社員が予定以上の成績をあげたとき、会社ではその社員を、も少し其処に駐在せしめた
方が会社によって利益だと考えられるときには出張滞在期間が延長されることがある。

 それと同じように、その人が地上生活を営んでいるうちに、自己の霊的進歩に成績を
あげると共に、その人の周囲の人々の魂の進歩に一層成績を挙げるとみとめられる場合
には、地上生活の任期は延長せられて、一層長生きを享受せしめられることもある。

感謝合掌

662a hope:2012/05/18(金) 07:06:44 ID:kcv2QXTk

人生読本 谷口雅春先生著

易しい仕事で興味を出して


仕事や勉強をするのに、難しそうな部分からいちいち征服してやってゆく
方法もありますが、それは仕事や勉強がスッカリ好きになってからの事であります。

幾らか仕事や勉強の事を考えるとウンザリするというような人達は、
仕事の中(うち)でできるだけ易しい部分、勉強の中でできるだけ易しい部分から始める事が必要です。

仕事や勉強は喰いつきさえすれば、その中から味が出て来、
神の智慧が一緒に働いてくれますから、仕事や勉強の面倒な部分も自然に易しくなってくるのです。

ですから何よりも先ずどこからでも仕事や勉強に喰いつく呼吸が肝腎(かんじん)なのです。
(つづく)

663ハマナス:2012/05/18(金) 09:21:47 ID:u5mC.eb2

おはようございます。
皆さまにとって、“嬉しい、楽しい、ありがたい一日”でありますように。

長生きと霊魂の高下  (『新版 生活の智慧365章』P.158)

 長生きする者、必ずしも霊魂の進歩が高いと云うにはきまっていないのである。地上の
修行が完了しないために、いつまでも同じ学級にとどまらせられているために、地上生活が
長引いている如き長生きもある。つまり四ヵ年に卒業するはずの大学を七年間もかかって
卒業するのんびりした学生もあるようなものである。長生き必ずしものんびりではない。
十数年間も、或は二十数年間も病苦と闘いながら、その受苦(といっても、それは学課で
あるが)の本当の意義がわからないために、尚寿命が尽きず、苦しみながら此の世の生活を
終え得ない霊魂もあるのである。しかしまた霊魂がみずから進んで苦痛の科目を励むことni
よって、急速に霊魂の進歩を得べく、肢体不完全に生れて来たり、小児麻痺の後遺症で肢体
不自由の中で修行している高級な霊魂もある。ただ一概に、長生きだとか、健康だとかで、
その人の霊魂の高下を判断することはできないし、病苦であえいでいるからとて魂が低いと
いう訳でもないのである。

感謝合掌

664ハマナス:2012/05/18(金) 09:39:23 ID:u5mC.eb2

光明法語〈道の巻〉  谷口雅春先生著作集第1巻

五月十八日の法語   仕事をなす時の祈り

 「わが仕事はわれとわが家族と全人類の福祉のための祈りである」。 
常に仕事をなさんとする時には目をつぶりてかく祈りてから始めよ。仕事のあいまに、
「仕事が祈りである。祈りが仕事である」と念ぜよ。かくすれば仕事の質が上がり、
量が殖え、新しき智慧が発現し、仕事に新生面がひらかれるのである。思わぬ間違いが
発見され故障に到らずにすむのである。「仕事よ有りがとう。この仕事は神のみ栄えで
ある」と念ぜよ。かくすれば神のみ栄えの顕現として立派な仕事が成就するのである。

感謝合掌

665aj:2012/05/18(金) 10:42:14 ID:VckWJuk6
おはようございます。初めましてです。
!仕事が祈りなんだ! へぇぇぇと 今日これから出勤したら
仕事の前に 試してみます。

666SAKURA:2012/05/18(金) 20:57:09 ID:FEa/NNlc
>>660

>「山を動かすほどの信仰があっても、愛の心がなければ、それは無であります
理解できない事があっても、相手の悪意を想像するのはよくないと
思っています。」<

そうです〜〜ョネ!
「もう一度…巡り会い」ますと?そのようになれる様な“心境”に?
なれる私に“変身”出来る…「イメ−ジ」でしょうか?進行形!!
もう一度“チャンスの女神”到来かしら〜〜〜ン!

■更に「ダイエ−の中内さん」も、最後に気づかれたのでしょうか???
気づかずに“あの世でも金が永遠?”といって、その同じ考えの世界に、
それともいらっしゃいますのでしょうか……?
子供さん達は、余りにも“金に執着”したような事件が、あり…
今!思い出しますと、

■【商いの道】…その心得は?……“愛の心”です〜〜ネ!
そして「恋愛は、相手を信じる事…」でしょうか……??
理解出来ない時は、“ジ〜〜〜〜〜ッ!”と“信じる心”も【愛…】でしょうか?

*素敵な“アドバイス”ありがとうございます。    再合掌

667SAKURA:2012/05/18(金) 21:33:05 ID:FEa/NNlc
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
こんばんは…

毎日「聖典…」を投稿されていらっしゃいます方々の“文章”拝読!!
そして私自身此処に“投稿”させて頂きますと、こちらまで“気持のいい〜
さわやかな気分“になります…。
もう少し早く“パソコン”に〜〜〜と思いますが?…どうしても遅くなりがちで?
それでも【明日に向けて!!さぁ〜〜今「この本を開き給いて〜〜〜」…神に思念】
「今日の言葉」を頂きました…。では?一緒に参りましょう!!
■【心の宇宙の世界へ〜〜〜♫〜〜〜】

■【幸福を招く365章】
――――他の人の不幸を来たす物を求めるな――――

あなたが神にお祈りになるときに、「此の問題は神が欲したまうものでないかも知れぬ」
と思ってはなりません。そう云う考えがありますと、自分の心で自分の獲得を制限
することになるのであります。神は無限のものを持ち給うのでありまして、
神の子たる吾らに無限に善きものを与えたまうと云うのが神意なのであります。
ただ吾々は自分だけ利益を得て、他の人は損になる云うことや、
自分のみが快楽を得て、他の人は苦痛や不快を得るようなことを望んでは
ならないのであります。神はすべての人類を「吾が児」として生み給うたので
ありますから、他の犠牲において自己のみが幸福を得るようなことに賛成
なさらないのであります。その他のことなら幾ら豊富に求めても過ぎると
云うことはないのであります。
                       (谷口雅春著)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆

私も「祈り」ます時、どうかしますと…><
これは“自分の事のみだから〜?ダメ〜〜〜?”と“一瞬”よぎる事があります。
その時「祈り方」を変えるのです…。それでも、迷いの中での“迷想観”に、
なっている時がありますのですが〜〜〜 ><その時!!

■【われは好悪を捨て 私心を去り 我の判断を捨て〜〜〜〜心を空しくして
〜〜〜 云々…】と

唱えて行っているのです。その時は、もう〜〜【神様の叡智】に尋ねているのです。
「今日の言葉」から、モット〜〜モット〜〜強く“思念”して行かないといけません。
その様にこの頃は、痛切に思います…。唯!!!
他人に“苦痛”を与えるような「祈り」この事は「神の御心」に反します〜ョネ!

今日からもっと「強く思念…集中」です!!【一念集中??】で〜〜す。
そして【世の為!人の為!に必ずお役立つ事】でしょうか〜〜?
自分の出来ることから〜〜♫〜〜 始めましょう〜〜♫

■今日は“人様に…小さな”善“を、させて頂きましたが…【夢を与える事】ですが?
遠慮せずに“指導”していまいました…。
今日の私は「即行動派??」少しでも【光明化…】していきたいと思いますが?
                          再合掌

PS:
トキ様へ
今日の“言葉”頂きました時、フラフラ〜♫ 迷いの「祈り」…は、やはり…
成就することは……そして「神の御心」に叶うモノでなければと…思いました。
トキ様は、“迷い?”その様な時もあられますのでしょうか?
(失礼な質問でごめんなさい…。)

668a hope:2012/05/19(土) 07:40:10 ID:kcv2QXTk

人生読本 谷口雅春先生著

力の働かせ方


「生長の家」では働けば働くほど無限に力が出てきて達者になると申します。
しかし、力は無駄に働かしては無限に力は殖えるものではありません。

あまりに大切でもないことに時間と力を使っていますと、
肝腎な仕事や勉強をせねばならぬときに時間が足りなくなって来たり、
力が足りなくなってきたりすることがあるものです。

人間の力は使えば使うほど殖えるということについて十分知っていただきたいのは、
「智慧の力」も一緒に十分使わねばならぬということです。
「智慧の力」を十分使えば、くだらない事に使う力を必要なことに使うように廻すことができるのです。

必要なことに力を働かせれば、働かした力以上の結果が生まれてくるのです。
働かせした力以上の結果が出てくることをば、使えば使うほど殖えると言うのです。
力を使えば使うほど殖えるようにするには、無駄に力と時間を使わず尊い仕事に使わねばなりません。

(つつく)

669ハマナス:2012/05/19(土) 08:51:29 ID:u5mC.eb2

神の子のみなさま

おはようございます。
今日は素晴らしいお天気です。感謝に充ちた一日でありますように。

高級霊にも色々の等級がある  (『新版 生活の智慧365章』P.159より)

 霊魂の品等には色々の段階があるのであって、高級霊と称せられる者のうちにも色々の
品等がある。まだ受苦を必要とする如き程度の高級霊は、苦痛や業の存在をみとめている
程度の高級さであって、まだ地上の修行を必要とする段階の高級さであるのである。
地上の修行を必要とするからこそ地上生活の受苦を選んでいるのである。

 霊魂の高級さが高くなるに従って、もう受苦の必要はなくなるし、また受苦をみずから
進んでしなくなるが、しかし斯くの如き霊といえども、すべて彼らが生きている限りに
於て働く使命があるのである。過去の善業の上に胡坐(あぐら)をかいて働きを怠ることは
許されないのである。若し働きを怠るようなことがあると、摂理の手が再び地上誕生の霊的
流動の上にのせて苦しみつつ働かねばならぬような境遇のところへ生れ変らせることになる
のである。

感謝合掌

670ハマナス:2012/05/19(土) 09:09:11 ID:u5mC.eb2
ai様
 はじめまして。おはようございます。
お仕事の前に試されて如何でしたか?
私は、益々仕事が楽しくなり、無限の力が出ていつもよりはかどりました。
「我が魂の底の底なる神よ、無限の力湧き出でよ。」の言葉も良いですね。

>「仕事が祈りである。祈りが仕事である」と念ぜよ。かくすれば仕事の質が上がり、
量が殖え、新しき智慧が発現し、仕事に新生面がひらかれるのである。思わぬ間違いが
発見され故障に到らずにすむのである。「仕事よ有りがとう。この仕事は神のみ栄えで
ある」と念ぜよ。かくすれば神のみ栄えの顕現として立派な仕事が成就するのである。

感謝合掌

671うのはな:2012/05/19(土) 15:00:47 ID:???
メンタル・サイエンス奥義 別冊1 生活応用『健全の真理』 谷口雅春 先生著

 「人生は王者と奴隷の鏡である。若し君が友人を欲すれば自分が先ず友人となれ」
とエマーソンは言った。如何なる場所、如何なる人間、如何なる事物にも其の各々の
雰囲気と言うものがある。その雰囲気によって、「類は友を招ぶ」「類をもって集る」の
法則によって、それぞれのものが引きつけられ相合するのである。

 「失敗の雰囲気をもった成功者と言うものはあり得ない」とアーネスト・ホルムスは言っている。
成功する人物は成功を思うのである、成功する人物は自信と力の雰囲気をもって物事をなし、その
雰囲気が微妙なる或るものとなって、その人の身辺の一切のものに漂うているのである。

 人を惹きつける力ある人でなければ大いなる事業は出来るものではないのである。
しからばその微妙なるもの或る物を自分の身辺に漂はすにはどうしたらよいのであるか。
自分は人を引きつけるような魅力はないものである、自分の風采はあがらないなどと自卑すること勿れ。
すべての人間には、誰も皆、最高の魅力あるもの----神が宿っているのである。
その神は完全なる者であるから必ず人を魅きつける力があるのである。

 人を惹きつけるところの力は必ずしも容貌風采が最も美しいと言う訳ではない。
容貌風采が美しくとも、その人間が何となく低卑な感じのする人間もある。
そんな人間は低卑な俗人ばかりを引寄せ得るに過ぎないのである。人格から立ち騰るところの
不思議な雰囲気とは一体何であるか。それはその人の内部から立ち騰る神性である。

 自己の内部にやどる神性、これのみが萬物を支えている本源であり、これのみが他の人の内にも
やどる唯一の實在の力である。この内部神性を発揮せしめるとき何人をも魅きつけ得ないと言うことはあり得ないのである。
先ず、自己に宿る神性を自覚したのち、その神の全能力をもって、心に友を描けば、友が現れるのである。

P200-201   現代仮名に投稿者変更写

672金木犀:2012/05/19(土) 15:05:26 ID:L0Ei6.zw
『秘められたる神示』 谷口雅春先生

 君民同治の神示

國は人間生命の外延である。それは身體が人間生命の外延であるが如くである。人間生命が神より生れたる神聖なるものであるといふ自覺が、その外延であるところの國をも神より生れたる國であるとの神聖性を要求するのである。この要求が神によってその國が造られたのであるとの神話を創造するのである。しかも人は自己が無にして絶對であり、一切の主であり、永遠者であり、久遠の主宰者である(民主)との自覺を、生命の外延の世界に於ても持つことを要請するのである。観られる世界は観る人の心の世界であるからである。身體も國も共に観る者(主體)からの反映せられる世界(客體)である。

観る心の要請が身體に於ては脳髄の存在となり、國に於ては永遠の元首なる、無にして絶對であり、一切の主であるところの天皇の存在を要請するのである。天皇の神聖性は、人間自身の生命が神聖であるところから來る。即ち観る主體(民)が神聖であるから、観らるる天皇が神聖なのである。観る主體(民)の神聖性が包まれ蔽はれて混濁するとき、天皇の神聖性は蔽はれて發現しなくなるのは其のためである。今の状態がそれである。人間は自己自身の神聖性のゆゑに神造の國家に神聖降臨の神話を創造してその歴史の中に住む自己を観るのである。

天孫降臨とは人間自身すなはち民自身が天孫であり、神の子である自覺の反映にほかならない。かく天皇の神聖性は人民自身の神聖性より反映するのである。されば民が主であり君は客である。是を主客合一の立場に於て把握すれば主客一體であり、民は君を拝み、君は民を拝む。民を拝みたまふ治は、君を拝むところの事と一體である。治事一體であり、治めると事(つか)へるとは一體であり、君民同治である。天皇は絶對者にましますとは、観る主體たる人間(民)の絕對性より來る。民が自身の絕對性の把握が破れるとき、その反映として國の絶對性と天皇の絕對性とは破れるのである。打ち續く敗戦により、民自身の永遠性と久遠性との自覺が破れたのが國家大權、天皇大權の一時中斷の形をもって現れたのである。(一二、二八、午後一二時)

673SAKURA:2012/05/19(土) 22:10:42 ID:FEa/NNlc
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ

こんばんは…
昨日から此処【2チャンネル各ボ−ド】の空気??“オカシク”なっている様に〜〜
感じてしまうのですが〜〜〜私の“考え過ぎ”かしら〜〜〜ン!
「生長の家」は、やはり【 調和の精神 】です〜〜〜ョネ〜〜!
この頃では、おかしな雰囲気?雲行き?になりつつなのでしょうか?
さて!!これにもめげず「宮沢賢治の精神」で…今日も「天の神様」に…“祈り”
開け〜〜〜〜〜ごま〜〜〜〜〜ぁ!!「今日の言葉」を頂きました…。

■【幸福を招く365章】
――――相手の姿を神愛の表現として拝め――――

自分の周囲にあらわれる状態は、すべて自分の想念(こころ)の影なので
あるから、周囲の状態をよくしようと思うならば自分自身の想念をよくする
ほかに道はないのである。若しあなたが誰かが不快なことをしたら、
それは貴方の性格を強くし、どんな現象に接しても其の奥にある善を
見る力を養い、愛を深くするために神が与え給うた絶好の機会であるとして、
相手の人の美点を見るように練習するがよいのである。神の愛が、
相手の姿とあらわれて私を訓練し、高め上げ、磨いて下さるのであると信じ、
相手を「酷い」とか「意地悪」であるとか考えないで、相手を慈悲の権化、
神愛の化身として「ありがとうございます」と拝むとき、相手が真に神愛の
表現として優しき姿にあらわれて来るのである。
                         (谷口雅春著)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆

今日“ペ−ジ”を開きますと…本当に!私の“心の現象”が……
出て参りました。“ピッタリ〜〜〜ですョネ!……
本当に!楽しく【2チャンネル各ボ−ド】を、開きますと……
■「ワァ〜〜〜とか?マタァ〜〜〜とか?云う感じでしょうかしら〜〜〜ン!」
内容も、その人それぞれの“個性の中身”ですから、
その内容が?派長が?合わない場合は、当然の事ですが、ありますもの〜〜〜ネ!

ある人は、いつまでも〜いつまでも〜何処までも【ネガティブな感情】ばかりで…
「生長の家」の御教え?本当に理解していらっしゃいますのでしょうか?
と……思いながら?
以前は“拝読”させて頂いておりました…が!!…今では、殆どの“投稿文”は?
ケ−ス・バイ・ケ−スにて拝読の形をとらせて頂いております…。
何故なら、こちらまで【ネガティブ感情】が?押し寄せて来る感じでしょうか?
〜〜〜その人の【心の問題】ではと、思いながら〜〜〜
今日は、正直!釈然としないまま、「雅春先生の書物」を開きますと…其の瞬間!!
“タイトル”が……これには参りましたが〜〜〜!
私自身の【想念…】なのです〜〜〜ョネ!
“文章”を…拝読する!理解する!その前に“別の観点”で【ボディティブ】に解釈!
していこうと…それによりまして“前に〜前に〜♫〜”進むのではと思いますが…

■此処【2チャンネル各ボ−ド】で、いじめの“対象の存在”でしょうか??
これは【私の精神を高め上げてくれる場所】を、神様が提供されている!!
益々!!“強靭な精神”の“修行の場”を頂きましたと…
逆に!「インタ−ネット・ライティング」が、出来るわけですから〜〜〜
“素晴らしいコ−ナ−”ですし、“自分のポリシ−発言投稿”出来ますし、
私の【心の法則の完成】其の途上なのでしょうか〜〜〜??

■相手が真に神愛の表現として、私の【観世菩薩】です〜〜ネ!
“今日の言葉”が、心に深く入りまして…
今から“扉を…天の岩戸を開きま〜〜〜す!”私の自己形成!!
完成〜〜〜までの其の道のり〜〜〜開け〜〜〜ごま〜〜〜ぁ!
                          再合掌
PS:
トキ様 へ
人は“逆境…”と云う“現象=現実”を目の前にしました時、ともすれば?
「???せい」としやすいのですョ〜ネ!それを自分の【観世菩薩】と、
切り替え“行”ずることは難しいのですが〜〜〜今!それを、私は修行!
させて頂いておりますが?トキ様は、このような時の体験は、ございますか?
(失礼な事お聞きしましたら、ごめんなさい。)

674a hope:2012/05/20(日) 08:34:11 ID:kcv2QXTk

人生読本 谷口雅春先生著

朝の時間を無駄にするな


早朝の数時間は、最も自分を進歩させる尊い仕事または勉強のために使わねばなりません。
朝新聞が配達されるということは、一部の政治界・実業界の人たちのほかの人にとってはたいてい大いなる損失です。
目まぐるしい実業界で値段の上がり下がりで金儲けをしようとする人以外には、
一週間くらい新聞を見ないでも世間に送れることはありません。

私は、諸法へ講演旅行する時には一切新聞を見ないのでありますが、
一向それで損をしたということはありません。
たいていの新聞は、善悪の差別なしに世間の出来事を、人々の心を惹くよう、
い加減に善悪の区別なく集めたものですから、善い事を教えられもすれば悪いことを教えられもするのです。
毒々しい新聞の薬の広告の刺激で病気を起こす人さえあります。

時間を上手に使おうとする人は、一週間か十日毎に、その間に起こった重要な出来事を、
判り易く簡単に書いた、少しも悪い記事を載せない旬刊新聞か、
週刊新聞を読まれるようにするならば、一生の間にどんなに時間が助かるかも知れません。

(第10章 「働きの生かし」終わり、 次回から、第11章 「時間の生かし方」へ)

675ハマナス:2012/05/20(日) 14:30:19 ID:u5mC.eb2
神の子のみなさま
ありがとうございます。

エリザベス女王の即位60年を祝う行事に出席するため、イギリスをご訪問されて
いらした、天皇皇后両陛下が今日の午後ご無事にご帰国されました。
喜ばしい限りです。

読書百遍の意味  (『新版 生活の智慧365章』P.160)

 宇宙には、吾々がそれから避けることの出来ない法則があるのである。それは、原因あれば
必ず結果があるという法則である。それは物質界に於てもそうであるが精神界に於てもそうで
あるということである。そして精神界と物質界との連関に於ては、想うことは物質界に実現
する原因となるということである。一切の文化的産物は人間が「想う」ことによって生み出さ
れたのである。

 「想うこと」も、その「想い」が強烈でなければ、それは潜在的に蓄積されたままであるが、
その蓄積が次第に増強されて来るときには、突如として強烈なる内圧力となって外界にそれが
現れて来ることになるのである。「読書百遍意おのずから通ず」という諺があるが、「人間神の子」
の思想も、『生命の實相』を精読すること幾十回を重ねるにしたがって、「人間神の子」の想念が
潜在意識に愈々多く蓄積されついに爆発的な力となって、その想念が現象的に具体化することに
なるのである。

感謝合掌

676SAKURA:2012/05/20(日) 20:18:21 ID:FRkn9FYs
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ

こんばんは…
今日は“オフ日”になり、自宅にて“片付??タイム”です…。
空を見上げますと〜〜もうすぐ“雨…”が降りそうな気配で…
今から“ケ−キの材料”に入れる“??”を買いに行こうかしら〜〜〜ン?
どうしようかしら〜〜〜ン?と“悩み心”……たったこれ位で“生活権”が…
振り回されるの〜〜〜><まるで……【心=固定観念】でしょうか〜〜〜?
同じ【固定観念】でも【向上心を伸ばす】のは……「生長の家…数々の本」です〜ネ!
では“今日もスタ−ト”〜〜〜☆

■【栄える生活365章】
――――老衰をふせぐには――――

老年は、暦日の年数によって来るのではなく、自分の精神が先ず「老年」を
想念して肉体にその印象を刻みつけるのである。肉体は常に新陳代謝して、
古き細胞は運び去られて、新しき細胞をもって置きかえられているのである。
それ故に、細胞それ自体は常に新しいのに、その新しい細胞をつくるときに、
自分の想念が「老衰」の刻印を押すのである。それ故、新しくつくられた細胞にも
「老衰」形態が彫刻されるのである。ではその「老衰」の想念は何処から出て
来るかというと、人類全体の潜在意識の中にあるのである。
それは“精神テレビ局”の放送電波のように空間に漂うているのである。
そして多少とも波長の類似のところへ行って受像される。
そして、テレビに映る影のように、あなたの肉体にその“老衰”の影を映すのである。
だから、自分が“老衰”の念を起こすとそれだけ人類意識の
”老衰“を受像し易くなるのである。
                        (谷口雅春著)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆

「老衰」という“心に先入観”が入りますと…当に!その通りになります〜〜〜ネ!
私の「亡き母」は84歳の頃は、手紙で私が“結婚相手”がで出来るまで頑張ると…!
その様に、私にも励ましてくていました存在の人でした。
そう言いながら、なかなか実現しないので…とうとう「亡き母」は、表現が変化して
きまして、87歳の頃は…「後90歳まで頑張る…!」と口癖のように言ってました…。
いざ!89歳になって「老人ホ−ム」に、入ってからでしょうか?
「後期高齢者」という“認識”が入りそまして、それからなのですが……??
入所してから、3カ月目に“体力ダウン”更に!3ヶ月後は“寝たきり状態”に…
                 <つづく>        NO.1

677SAKURA:2012/05/20(日) 20:19:14 ID:FRkn9FYs
    <つづく>       NO.2                 
■今!!思い出しますと…【老人ホ−ムの介護】は、確かに“言葉”として?
或いは体外的(世間)には?いいでしょうが〜〜〜♫〜〜〜
此の「老人ホ−ムに入所するまでの母」は、しっかり“自分自身の足”で歩行して
いましたのに… >< 【老人ホ−ム】に入ってからは???
変に!【潜在意識に後期高齢者の自覚!!】
この様に本人の自覚は【外部からのインプットでの潜在意識へ】この様に入れられた
【自覚…】もあるのです〜〜〜ネ!!

■私も「地下鉄通勤中…」最近!この年齢で“髪”を下げていますが……
まだ!大丈夫かしら〜〜〜ンと云う思いがありますが??
この頃「同世代の方」で“髪”を下げている方を、よく見かけます…。
更に!私の前に分かる様に「同年代」がいつも登場されて…
つい!私自身は、視角的に物事を見てしまう(職業柄も含め)どうような角度で〜〜
見ましても??まず“年齢”が…??更に!“顔”のイメージで判断しますと…
素直な気持ちですが?“似合わない〜〜〜”と云う方に遭遇してしまいます。
此の時!つい〜つい〜大丈夫なのかしら〜〜ン?思ってしまうのです〜〜〜ョネ!

更に“不思議な事”は、通勤中、この頃若い方が更に“私の周辺”に取り囲む様に、
立ちはばかる感じでしょうか??若いですから…勿論!髪は下げていますし、
勿論!若さのシンボルですから“誰でも一応はオカシクナイ”のですが??
ついついこちらも【年齢の自覚のインプット】を潜在意識の中にされるような
気持ちになった矢先に【心=現象に惑わされない心】…

そうなので〜〜〜すョネ!“今日の言葉”にて、
これも【外部要因…】でかなりのインパクトにての“潜在意識”の中にインプット!
そうされているのかしら〜〜〜ンとの “気づき”を頂きました…。
どう見ましても…此の若者達が「吸血鬼・ゾンビ…の仲間」に見えていました矢先の、
出来事でした…。これは“天からのメッセ−ジ”と、感謝申し上げました…。

■この様に【外部要因によります潜在意識への入れ込み】これは、日常茶飯事…
見えない形で…今日では複雑化した社会では多々ある事でしょう〜〜〜ネ!
■改めまして【自分の心で…“心の法則”に従い揺るぎのない“イメ−ジ化”】集中!
                                  再合掌
PS:トキ様は、本日の“言葉”どの様に受け止められましたでしょうか?

678金木犀:2012/05/21(月) 08:13:56 ID:L0Ei6.zw
『秘められたる神示』 谷口雅春先生

 君民同治の神示講義

この神示は、昭和二十一年三月一日発行の『生長の家』誌三月号の巻頭に掲載されているので、その末尾に書かれてある「一二・二八」というのは終戦の年なる昭和二十年の十二月二十八日だと思われます。丁度その頃は占領軍が日本に上陸して来た当座で、日本を弱体化せんがために、占領軍司令部が新聞記事内容や放送内容を悉く支配し、その指導監督の下に記事が書かれ、放送番組が定められていたために、日本軍の南方に於ける残虐行為などを殊更に強調し、それを天皇陛下の責任の方へ結びつけ、日本民族はこのような残虐行為をなす劣等民族で、その精神年齢は十二歳位だというような、日本民族自身の自信を失わしめる目的で構成せられた新聞記事と放送番組とによって、目と耳と両方から「言葉の力」で吹きこまれた結果、日本人の殆ど全部は、日本民族の優秀性についての自信を失い、天皇の尊厳など口にするものもなく、民主主義が利己主義と混同せられ、精神的動揺は隠し切れない状態が外部生活にもあらわれ始め、かてて加えて食糧の欠乏による闇売り・闇買いが至るところに行われ、それが日本人の常套生活であるかの如き観を呈していた時代であった。この神示はその時代を背景として、神が、日本民族の自信を恢復せしめんがために、日本民族の将来と、今後の日本国の成行きとに、深く思いを馳せて悩んでいる私に対してくだされた神示であるのである。占領軍の管理下で、これだけ天皇の尊厳を書くのは大変な冒険の時代であった。

この神示は、先ず、国とは如何なるものかという解明から始まっているのである。「国は人間生命の外延である。それは身體が人間生命の外延であるが如くである」としめされている。人間の生命は、神より来たり、神の自己実現として地上に「生」を保つのである。その「生命の波動」が外部に具象化したものが「肉体」である。その「生命の波動」は、人間に於いては想念感情となってあらわれるのであるが、想念感情の変化にしたがって、肉体に健・不健の状態があらわれるのは、生長の家誌友に無数の実例があるのであって、それは既に読者諸君が充分知悉していられるところである。

肉体が「人間生命の外延」として想念感情の変動を容易にその健・不健にあらわすとするならば、國家が「人間生命の外延」である限りに於いて、国民自身の想念感情が、国家の状態に具象化することは当然の事だと言わねばならないのであります。

国家の事を述べるに先立って順序として「環境」について考えて見るならば、「心が変われば環境が変わる」という事実は随分沢山あるのであります。それを先ず述べて理解の基礎を築いて置きたいと思います。(つづく)

679ハマナス:2012/05/21(月) 09:36:59 ID:u5mC.eb2

神の子のみなさま
 おはようございます。皆さまは金環日食を見られましたか?
私は、TVで見ましたが、真ん丸の円満完全な美しい姿でした。

泣き面に蜂  (『新版 生活の智慧365章』P.161)

 想念は、その想われている内容が、やがて実現するだけではなく、「類をもって集まる」
又は「波長の合うものは感応する」という法則によって、その想われている事柄以外に、
その想念に波長の合う番組(出来事)を次から次へと実現すること、テレビの受像機の
ようになるのである。このことを古人は知っていたので「泣き面に蜂」というような諺が
あるのである。

 即ち、或る悲しい事件が起こって泣いていると、その悲しい事件ではなく、また別の、
併(しか)しその悲しみに波長の合う色々の「痛い出来事」が引きつづいて襲って来る
ことになるのである。だから悲しい事件が見舞って来たときほどその悲しみの感情から
早く脱却しなければならない。

感謝合掌

680金木犀:2012/05/21(月) 23:16:12 ID:L0Ei6.zw
『秘められたる神示』 谷口雅春先生

 君民同治の神示講義(2)

例えば兵庫県三原郡南淡町本庄の岡本義人と言われる人は、洲本の講習会のときに、このような体験談を談(はな)されたのであります。

岡本さんは当時、玉葱とか枇杷とか農園の作物を取りつぎ販売によって生計を樹(た)てていられたのでありますが、軍隊時代からの知人で、気心の知っている筈の友人から、そのころ収穫時期であった枇杷を卸してくれと言われるので、相手を信用して、船積みでこれらの品物を大量に送ってあげたのでありますが、豈はからんや、送金の約束の日が来ても一向代金を送ってくれないのであります。それで自分で出掛けて往って代金を請求すると、“小切手にしてくれ”と言うので、その小切手を貰って、銀行へ行くと、その小切手は不渡りです。それで再び請求に行くと、今度は“約束手形にしてくれ”と言って、約手を書いてくれましたが、期限が来ると又不渡りであります。

恰度、その頃は、戦後の新円、、旧円の切換当時で、その頃の貨幣価値で約二十万円の品物代金ですから相当な金額だったのです。しかもその送った商品というのが、自分の果樹園に出来た自分の商品ではなく、友人に頼んで出荷して貰った商品でありましたから、岡本さんは、諸方から無理をして借金したり、色々の工面をして支払っているのですが、売り渡し先の男からは少しも金を入れてくれない。その頃岡本さんは、まだ生長の家の教えに触れていませんでしたから、
「あの野郎!本当に不逞野郎だ。あの野郎見たくもない!」
と相手を憎む一本槍で、憎みに憎み、呪いに呪っていたのでした。

「自分の環境は自分の心の影」「立ち向う人の心は自分の心の反映だ」ということを知らないで、こちらが鬼のような心を以って相手に対しておりますと、相手が人情もない鬼のようになって、無代で品物を引取って、それを売って、自分は金を受け取りながら、それを岡本さんへは支払ってくれない。こちらが鬼の心になって相手を責めに行くと、向うは更に鬼の心になって、全然支払う気持ちをもっていない。それだから最初から喧嘩のようになってしまう。岡本さんにしてみれば、知人であるから別段儲けるつもりでなしに品物を提供してやったのに、先方は平気でこちらに損害を与えるつもりでいたのだと思うと、如何にも割り切れない気がするのでした。

そんな気持ちでいる時に、岡本さんは生長の家に触れて其の頃、尾道にあった生長の家西日本錬成道場(現在は生長の家文化女学院と称する花嫁学校になっている)に往って錬成を受けたのです。(つづく)

681SAKURA:2012/05/22(火) 00:20:30 ID:V.pKl3yA
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ

こんばんは…
此処昨今は“振り回されました感”と申しましょうか?……
皆様も、どのように感じていらっしゃいますでしょうか??その思いです…。
私は、今日は“つくづく…言葉の重み”を、実感している次第なのですが…?
パソコンで“投稿文”を拝読しますと“読解力?”時としては、読み飛ばす事も、
あるでしょうが…これが【原因…での人間関係】もマイナス要素に >< 
なり易いです〜〜〜ネ???本日は、普段よりは、少々参りましたが〜〜〜
では!いつものように「ゴマ〜〜〜開け〜〜〜♫〜〜〜〜ゴマ」

■【幸福を招く365章】
――――神なる無限供給の源泉と連絡せよ―――――

神は万物を生み給うた。神は愛である。それうえに神は無限の富の源泉であり、
与えるために、貯えられたる貯蔵庫であることが判るのであろう。
神御自身では天然現象のような受動的な無意識的な大まかな運動や構成は
出来るのであるが、意識的な発動的創造の中心は、神が人間として現れてのみ
出来ることになったのである。神は無限の富の源泉であるから、人間は
その無限の富の意識的表出口だと云うことが出来るのである。
だから人間を神の子だと云うのである。神の子たるものが貧しく生活
しなければならぬなどと云うことは実際あり得ないことなのである。
神が貧しいのは神の真意を知らず、神と人間との連絡を汝自身で断ち切って
いるからである。                    (谷口雅春著)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

【神=人間】の“パイプ”は、不可欠な存在そのものではないでしょうか〜〜〜?
この頃“祈る”時も、【自我意識を中心にして祈る事】もあります…。
神様への“思念”は、人間の……私の思念も“=”でしょうか〜〜〜?
その様に【引き寄せの法則】をいつも【神と一体】で意識を集中するです…。
人間は【念=霊】ですから【心=意識】ではないかと、この頃思いまして…?
私の“心”そのものが“意識一体”ですので、ひたすら
「神様に通じる心!!一体感」なのでしょうか〜〜〜しらン?

地下鉄の通勤で“ポジティブ意識”を集中思念しながら……周りの“状況・情勢”を、
この頃、ついつい判断している私なのです…。
いつも〜いつも〜♫〜太陽のように、光!サン〜サン〜と…
ふりそそいで、私の心に暖か〜〜〜い“エ−テル”が…伝わります…。
「神様とのパイプ」を、いつも繋ぐ私ですので…少しでも「断ち切る時」は?
【祈り…】が、おろそかになっている時でしょうか〜〜〜?

■どんな時でも〜どんな時でも〜毎日「神様へアンテナ」を向けまして…
神様からの“メッセ−ジ”を、いつでも〜どこでも〜【意識】しながら〜〜〜♫〜〜
“受信出来ます様にと〜〜〜”信じて待ちます…。本当に!つながりますと!
とても“楽しい〜〜嬉しい〜〜ポジティブ感情”です…。

今日も一日楽しい【祈り…】更に!仕事中でも、体中で意識出来るように…
毎日が“神様からのメッセ−ジ”受信していますので、
此の大切な「神様とのパイプ」断ち切る事は、できませんモノ!!何故なら…
■【私は神の子ですもの……】  ありがとうございます。

                           再合掌
PS:トキ様 へ
「神が貧しいのは神の真意を知らず、神と人間との連絡を汝自身で断ち切って
いるからである。」此の事は、確かに“祈る”事を、怠りますと……
この体験は、私自身致しましたが…?
この件は、どのようにお感じますでしょうか??

682a hope:2012/05/22(火) 08:15:47 ID:kcv2QXTk

人生読本 谷口雅春先生著

第11章 時間の生かし方

「いのち」を大切にせよ


たいていの人は、時間というものをぼんやりと過ごしてしまう人が多いのであります。
ところが、「時間」ぐらい大事なものは世の中にないのであって、
何物をもって較(くら)べてみましても、時間以上に尊いものはこの世にないのであります。

というのは、第一私達の寿命(いのち)というものが時間によって成立っている。
人は生命(いのち)から二番目は金である、とこう申しますけれども、
その生命そのものはもう一番目である。

その生命が何によって成立っているかというと、
時間の継続によって成立っているのでありますから、
この時間を十分(ぷん)でも無駄に費やしたら、
その十分だけ自分の寿命が縮まった事になるわけであります。

しかも、それに気のつく人が実際少ないのは残念であります。
それに気のついた人は必ず何かできる人になっている。
必ず何か世の中で頭になっておられるとか、
或いは何か事業に成功するとかしているのであります。

「時間」さえ生かして使えば私達はこの世の中に於いてなんでもできないというものはないのであります。

(つづく)

683金木犀:2012/05/22(火) 16:34:42 ID:L0Ei6.zw
『秘められたる神示』 谷口雅春先生

 君民同治の神示講義(3)

岡本さんは錬成中講話をききながらも、どうも割り切れない気がするのです。――
「俺は正しいことをして、こんなに苦労している。そして自分は銀行から金を借りたり、親戚で無理を言って金を借りたりして品物の代金を支払っている。それなのに、俺に“屁”をかました奴は、のうのうとして“晩酌でもやろうか”と言っている。こっちは、そんな所の騒ぎではない。八方金策をして、夜行の電車に乗って集金に往ってふらふらに草臥(くたび)れて帰ってくる。やられたものが苦労して、やった奴がのうのうと楽をしている。こんな割り切れん問題はない」と思って、その考えが頭の中に一杯充満しているものですから、せっかくの錬成中の講話も、最初の五日間は自分の胸にピッタリ来なかった。青白い痩せた顔を骨ばらせて、眉を釣り上がらせ、鬼のような顔をして、相手を呪いながら講話を機械的に聴いていた。ところが六日目になって徳久講師や嘉村講師の講話を聴いている時に何かパッと悟るというか、心にコツンと来たものがあったのです。

「出すものは出す。入れるところは入れる。出したところから、それが必ずしも返ると思って掴むからいけないのだ。宇宙は一体であるから、互いに循環している。一時出したものは損に見えていても、それは奪ったものでないから、必ず何処からか循環して還って来る。凡ゆる仏さんは吾々を済度せんがために、時には鬼の姿になり、時には菩薩の姿となってあらわれるというが、先方の鬼の姿は、仏が私にこの真理を知らせるために仮に鬼の姿になって現れているのではなかろうか。彼は、人に迷惑をかけながら、夜逃げもせんと悠々と、悪く言えば不逞ぶてしく、良く言えば逞しい度胸をもって、泰然自若と落ち着いて晩酌でもしている。ところが良いことをしたつもりの自分は慌てふためいて、恨みに恨んで痩せ細っている。落ち着くのも落ち着かないのも、人生は心の世界ではないか。“あいつが払わん、払わん”と、俺は富の一方の入り口ばかりを掴んでいたのが悪かったのだ。」

こんな気持ちになって岡本さんは、十日間の錬成を八日間で「もう分かった!!」と切り上げて、今まで掴んでいた債権を放つ気持ちになって淡路の自分の家に帰る途中に、その相手の家に立寄って、
「おい、お前んとこの勘定棒引きや、堪(こら)えたるから心配するな」と言って帰った。そしたら、今まで引っかかっていて重苦しかった気持ちが軽くなったのです。「あいつから返してもらわんならん」と考えている間は、その方にばかり心が引っかかっているから、別の仕事をすることも出来ない。好い考えが浮かばなかった。収入は杜絶えるし、すること為すこと旨く行かぬ。だから常にイライラしていて、子供が何かすると怒る。家内が物を言うと「やかましいわい!!」と怒鳴りつける。心が貧しさに捉われ不調和だったから、實相の無限供給に波長が合わないで、自分もよい計画は浮かばないし、誰もよい話は持って来てくれなかったのです。(つづく)

684金木犀:2012/05/22(火) 18:18:09 ID:L0Ei6.zw
『秘められたる神示』 谷口雅春先生

 君民同治の神示講義(4)

ところがその債権を棒引きして、無限供給の出口は何処からでもあると気がついたときに、今まで掴んでいた仕事とは別に何か新たに創意工夫をしなければならないと岡本さんは思い出した。するとそれから半年程して、新しい仕事の計画ができ上がり、それに着手しようとし出しますと、無限供給の流入口が処方に出来て来たのです。あちらからも、こちらからも、
「お前、嘘はいわん正直な男だから、まあ五十円使ってくれ。」
「お前、去年引っかかってエラかったなあ。お前はウソを言わんから百万円先に使うてくれ。そのかわり百万円の品物間違いなく入れてくれよ。」
というような具合で、いつの間にか合計五百万円の金が集まったのであります。あの二十万円を取り立てて向うが支払ってくれていたところで、そんな金だけでは新規の事業はできないのに、二十万円を放つ気になったときに、このように無限供給が入って来たのでした。岡本さんは、あのズルイ不逞ぶてしい奴だと思っていた奴が、実は「掴んでいる物を放て、さすれば無限供給の入口は至る所にある」という真理を教えてくれるために、鬼面をかぶって出て来た仏様だとわかったのでありました。このように、人間の環境というものは、「人間生命の外延」であって、人間自身と別ものではなく、自分の心の雰囲気が環境という形に具体化してあらわれているものなのです。一個人の環境が自分の心の具対化であるということが解れば、国家というものは国民の住む環境として、国民全体の心が具象化したものであるということが解って頂けると思うのであります。

自己の心が「神より生れたる神聖なもの」だという自覚が得られると、その「外延である肉体」が、神らしく健康なものとなる実例は沢山ありますし、また心が一変すれば、上記のように環境が一変するという実例も沢山あるのであります。「生命の外延」というものを、生命を包む一種の「肉体」としてみとめるならば、環境や境遇は広い意味に於いて、人間の「肉体」であり、国家というものは、「多くの国民の心」の外延として多くの国民の心を反映している全国民の「肉体」みたいなもので、国民大多数の心の状態が国家の状態を決定するのであります。だから、その国の人民が、自分が「神の子」であり、“ミコト”であるという自覚がある場合には、その人民の生命の外延(肉体)としての国家は、「神の国」だという国民自覚を生ずるのであります。このことが、
「人間生命が神より生れたる神聖なものであるという自覚が、その外延であるところの国をも神より生れたる国であるとの神聖性を要求するのである。この要求が神によってその国が造られたのであるとの神話を創造するのである」
と示されているのであります。(つづく)

685復興G:2012/05/22(火) 22:48:44 ID:84pogn5s


  『生命の實相』第一巻(總説篇)より <1>

生長の家七つの光明宣言

▽ 吾等は宗派を超越し生命を礼拝し生命の法則に随順して生活せんことを期す。

▽ 吾等は生命顕現の法則を無限生長の道なりと信じ個人に宿る生命も不死なりと信ず。

▽ 吾等は人類が無限生長の真道(まことのみち)を歩まんが為に生命の創化の法則を研究発表す。

▽ 吾等は生命の糧は愛にして祈りと愛語と讃嘆とは愛を実現する言葉の創化力なりと信ず。

▽ 吾等は神の子として無限の可能性を内に包有し、言葉の創化力を駆使して大自在の境に達し得ることを信ず。

▽ 吾等は善き言葉の創化力にて人類の運命を改善せんが為に、善き言葉の著述、出版、講習、講演、ラジオ放送、テレビジョンその他凡ゆる文化施設を通じて教義を宣布するものとす。

▽ 吾等は正しき人生観と正しき生活法と正しき教育法とにより病苦その他一切の人生苦を克服し相愛協力の天国を地上に実現せんが為に実際運動を起す。

   総 説 「七つの光明宣言」の解説

 生命の実相の自性円満(そのままでえんまんなこと)を自覚すれば大生命の癒力(なおすちから)が働いてメタフィジカル・ヒーリング(神癒)となります。メタ(meta)とは「超越」するという意味でありましてフィジカル(physical)とは「物質的」という意味であります。そしてヒーリング(healing)という言葉は癒すこと治すことを意味しております。つまりメタフィジカル・ヒーリングと申しますのは、物質的方法によらずに実相円満の自覚によって、大生命のお力をよび起こしてわれわれの不幸を癒していただく方法であります。わたしがこの面倒な長い名称をことさらに用いることにしましたのは、「生長の家」のこの救済法が世間にふつうある心霊療法や「手のひら療法」と同一視せられないためであります。

 元来「生長の家」は人類の思想中よりその転倒妄想(まよい)を去らしめ人類生活の全面を光明化せんがために出現したので、病気治療のみを目的に出現したのではありません。ご参考のためにここに「七つの光明宣言」を略解しておきたいと思うのであります。

 一、吾等は宗派を超越し生命を礼拝し生命の法則に随順して生活せんことを期す。

「生長の家」の目的はその宣言の第一条にありますように生命を礼拝し生命の法則に随順してみずからも生活し、推しひろめてはこの生活を他の人々にもできるだけ多勢の人に生きてもらいまして、しだいに全人類の生活を光明化することが目的なのであります。われわれが生命を礼拝し、こうした「生命」の法則にしたがって生活することを目標においていますのは、われわれがこの世界に「生命」を享(う)けてきた事実から出発するのでありまして事実ほど力強いものはないのであります。

 われわれが「生命」をこの世界に享けてきたと申しますと、わたしというものが別にどこかにあって「生命」というものをどこかほかのところからもらってきたように聞こえるかもしれませんが、そういう意味ではないのであります。われわれおのおのそのものが一個の「生命」であります。何ものを否定しましても、自分が生きているという事実は否定できないのであります。自分は生きているという事実はとりもなおさず自分自身が「生命」であるということであります。

 そこでわれわれが「生命」を礼拝すると申しますれば自分自身を敬い拝むことになるのであります。自分自身が尊い「生命」であるとの自覚がすべての道徳生活の根本になるのであります。自分自身が尊い「生命」であればこそ、自分自身をはずかしめない生活をすることができるのでありますし、また他人の生命や個性や生活をも尊重することができるのでありまして、ひいては、われわれの「生命」の大元(もと)の「大生命」をも尊び礼拝したくなるのであります。これと反対に自分自身が尊いということが解らねば自分と同じ一個の生命であるところの他人を尊ぶべきゆえんも、その本源である神を尊ぶべきゆえんも解らなくなるのであります。

 われわれがわれわれの生命の大元(もと)の「生命」を尊び拝みたくなりますとき、われわれはこれを「み親」として、その法則のままにひたすら生きてゆくことを念願せずにいられなくなるのであります。
 <つづく>

686復興G:2012/05/22(火) 22:49:25 ID:84pogn5s


  『生命の實相』第一巻(總説篇)より <2>

 二、吾等は生命顕現の法則を無限生長の道なりと信じ個人に宿る生命も不死なりと信ず。

 さて、それならば、われわれがひたすらそれに従って生きてゆこうとする生命顕現の法則とはなんであるかと申しますと、生々化育(生み生みて生長さす)ということであります。

 これも、われわれ、「生命」として顕現(うま)れて来たという否定できない事実から出発するのでありまして理屈ではないのであります。われわれは事実上生まれてきて生長しつつあるのであります。この事実より考えるとき、生命の法則は「生長」することにあるので退歩することではないことがわかるのであります。退歩する者は生命の法則にかなわないのでありまして、「生命の法則」にかなわないものは生命の世界においては落後することになっているのであります。

 進化といい生存競争といい優勝劣敗と申しますのは、いずれもこの現象(ことがら)をいい表わしたものなのであります。生存競争にやぶれたものは何か自分と競争している同輩にうち負かされたように思って恨んだりしがちでありますが、実は誰にもうち負かされたのではないのであって、生命顕現の法則に最もよくかなうもののみ最もよく生長する、という厳とした法則によっておのおのの「生命」は宣告されているのであります。競争者があるがために滅びるような「生命」は競争者がなくては生長しないで退歩またはせいぜい現状維持ぐらいのところでお茶を濁す退嬰(たいえい)的な「生命(たましい)」であるに相違ないのであります。結局、かかる「生命(たましい)」はその生長を「鞭撻」して促進するために競争者があらわれたり、苦痛や不幸があらわれたりするのでありまして、競争者や苦痛や不幸は、その人の「生命(たましい)」の生長にはぜひなくてはならぬ迷妄(まよい)の自壊過程であります。この刺激や反省資料があるためにわれわれの「生命(たましい)」は反省の機会を与えられ、いろいろの経験を積んで生長することができるのであります。だから「智慧の言葉」にも「苦痛を不幸だと思うのは肉体心のあやまりである。苦痛が魂の生長にどんなに必要かということを知る者は苦痛でも喜べる」と書かれてあるのであります。

 わたしは先刻われわれは「生命(せいめい)」として顕現(うま)れて来たという否定できない事実から出発すると申しました。「われわれは生命(たましい)である」と申しますとき、肉体のほかに生命はないと考えている唯物主義の人たちにとっては、生存競争や、その他の苦痛によって落後者や夭折(ようせつ)者として死んで行く人間のあるのを見るとき、この世の生存競争や、病苦はただ人間(その他の生物)を不幸にするためばかりにあるのであって、それが少しも「生命」の生長のためになっていない、かえって、われわれの「生命(たましい)」の萎縮や疲労や憔悴のためばかりになっていると思われるのであります。

 けれどもこういう唯物的な浅い見方から観ないで、深くわれわれの「生命(せいめい)」の本質を直観的に掘りさげてゆきますならば、われわれの「生命(たましい)」は肉体が死んでも死なない、生きとおしのものであるということが解ってきます。
 <つづく>

687復興G:2012/05/22(火) 22:50:21 ID:84pogn5s


  『生命の實相』第一巻(總説篇)より <3>

 われわれの生命(たましい)が生きとおしであるという意味には二つあります。われわれの生命は宇宙の大生命(おやさま)の支流であって、宇宙の大生命に生かされている。さらにもっと適切にいいますれば、宇宙の大生命の流れと一緒になって流れているのであります。それだからその一つの支流(わかれ)であるところの自分の水(生命)が涸れようとも、その水は大生命の大きな流れに注がれて大生命と一緒にいつまでもとうとうと流れているという観方がその一つであります。

 今までの宗教家の説明はこの観方を採用していたのでありまして、多くは死んだのちにおけるひとりひとりの特性ある霊魂の不死をみとめないで、全体と一緒になって流れている大生命に帰る意味の不死のみを説いています。そしてその方がいかにも大乗の観方らしく、深い哲人的観察らしく聞こえまして皆さまからも歓迎されたのであります。この観方にもむろん真理はないではありません。「生長の家」におきましても死後ばかりでなく、現在肉体の生きているうちのわれわれの生命も宇宙の大生命と一緒に流れているのであるから、この大事実を心の底からさとらせていただくことのよってわれわれ個々の生命(たましい)はいっそう深い生活ができ、安心と自信とをもってその日その日を明るく豊かに経済的にも肉体的にも生き切ることができると信じているのであります。

 しかしわれわれ個々(ひとりひとり)の生命(たましい)が、ただ流るる河の水の上に浮かべる波紋のようなものであって、河の上に浮かんだ一つの波紋が消えたあとには、ほかの波紋がまた新しく起こるだけで、消えた波紋はもうぜんぜんあとかたもなくなると同じように肉体の死は個性として今までありしいっさいのすがたを消してしまって何一つ残らないようになるとしますならば、なんのためにわれわれは個性としてこの世に苦しんできたのか、われわれが切実に個性(ひとりひとり)として経験し、切実に個性(ひとりひとり)として生長を闘いとってきたところの、その切実な個性感がただの幻影(まぼろし)であってウソであったということになるのでありまして、どうもそれはおのおの個性(ひとりひとり)として特徴をもっているところの、われわれ生命(たましい)の必然の要求として不合理であることが直感されるのであります。ところがこのわれわれ生命(たましい)の必然の要求として認めねばならない肉体消滅後の個性生命の不滅ということが最近しだいに科学的に肯定されつつある「霊界通信」(スピリット・コミュニケーション)によって明らかになってきたのは喜ばしいことであります。『生命の實相』第五巻の「霊界と死後の生活篇」に採録してある二つの霊界通信は小説や作り物語ではないのでありまして、最近フランス美術家およびデンマーク戯曲家に起こった「霊界通信」ならびに本部の心霊実験を死後の霊魂実在の実証として掲げたものでありますから、ぜひ目をとおされたいのであります。

 このようにして「生長の家」では単に哲学的に肉体死後の生命(たましい)が大生命(おやさま)へ復帰しての不死を理屈づけして考えるだけではなく、霊界通信の事実によって「個人に宿る生命(たましい)の不死」をも信ずるのであります。われわれは生くるも死するも結局は生命(たましい)はほろびないで「無限生長の道」に乗せていただいていますので、各人ひとりひとりの「生命(たましい)」の生長に最もよいときに、それぞれふさわしい苦しみも、悲しみも、病気も、肉体の死も、生命創化の法則によってやって来るのでありますから、たとい苦しみが起こって来ましても、悲しみがやって来ましても病気になりましても、肉体が死んで腐ってしまいましても、この肉体に宿っている「生命(たましい)」は滅んではしまわないで、個々の人格の特性(個性)をそなえたまま、わたしはわたしとして、皆さんは皆さんとして、やはり「無限生長の道」をあゆんで行くことができるのであります。このことが信ぜられればもうどんな苦しみも悲しみも自己の無限生長の資料としていただいた皆ありがたい修行であると合掌して受け取らしていただき、感謝感謝で暮らすことができるようになるのであります。
 <つづく>

688復興G:2012/05/22(火) 22:54:15 ID:84pogn5s


  『生命の實相』第一巻(總説篇)より <5>

      「生長の家」とわたし

「わたしはこの『生長の家』の生き方がどんなに善い生活だかということについては、確信をもっている。諸方の読者から集まって来る多くの讃辞は、わたしのこの確信がただのウヌぼれでないことを第三者として証拠だてている。なかにはわたしを教祖あつかいにしてくださる誌友もあるが、わたしは『生長の家』の教祖ではない。わたしは諸君と共に『生長の家』の教えを聴聞して、ひたすら、その教えのごとく生き行こうと努力する一人の求道者にすぎない。わたしがまだこの世的な悩みをいく分でも持っているのはわたしの生活がまだ『生長の家』の生き方には完全になり切っていないからである。むろんこの雑誌の原稿はわたしの手にもったペンにより書かれる。しかし、ひとたび『生長の家』を書こうとしてわたしがペンをもって机に向かうとき、わたしはもうふだんのわたしではないのである。霊きたりてわたしを導く。弱い性質のわたしにはとても書けない強い言葉が流れるように湧いて来る。第二号の『生長の家の歌』のごときは自分ながら驚くほど強いことが書けている。わたしが亀岡にいたとき、わたしが専念、教えのことを書いているのをかたわらで見ていた霊視能力者の加藤氏は、わたしと別な霊人が筆をとっている姿を見たといっていた。それは信じてよいかどうかは知らない。しかしもし『生長の家』に教祖というものがあるならば、この地上のわたしではないであろう。

「およそ宗教的な深さをもったものは、それが教えであると芸術であるとを問わず、その源(みなもと)は霊界にあるのである。古来から神品(しんぴん)といい神徠(しんらい)といったのはこれである。われわれはすべて霊界および現世の人々からラジオ的に放送されて来る思想波動を感受するところの受信機であるのである。しかしJOAKの放送を受けるにはラジオの受信機の調節をJOAKの放送に合わさなければならぬであろう。それと同じくわれらがいっそう高き世界より来る思想波動に感ずるためには、自分の心をその思想波動に調子を合わさねばならぬのである。ここにわれらは不断に心を清め、こころをいっそう高き世界よりの波動に感ずるように訓練しなければならない。この訓練がたりないとき雑音が混じる。受けるインスピレーションが不純なものとなる。もしわたしの書くものに純粋でない雑音が混じっているならば、それはわたしの罪であって、霊界よりこの地上に『生長の家』運動をはじめた神秘者の罪ではないのである。」

 ところが埼玉県から霊眼によって、わたしが『生長の家』の原稿を書いている現場を透視した人があって、わたしが霊感によって書くということを客観的に証拠だてたひとがあります。それは埼玉県の笠原政好君であって、同君からは昭和六年一月一日付けでつぎのような報告が来ています。

「神想観を実修して、大虚無の境地に入っていた。ふと目に映じ出した、私の処から西南に当たる方向に先生の姿が髣髴(ほうふつ)として見える。実はまだ私は一度も先生のお顔を拝見したことはない。それが霊の性質かもしれないが、確実に見える。さっきから先生は広間の片隅で穆々(ぼくぼく)しく机に向かっておなじみのペンを持って何かお考えを書いている。姿勢よく坐し、しかとペンを握り十分に含ませたインク、あたりの光景は手に取るように見える。光明は先生の躯(からだ)から無限にも放出する。ちょっと弱そうな容貌、しかしその熱烈さ。『道』に奉ずるのご決心は一目瞭然である。生き生きしたペンはソロリソロリ走り出した。まだなん行とも書かぬうちに先生は無我のうちにおかれ、またたくまにペンのスピードは前とはまるで変わってくる。走る走るあらっと思う間もなくぜんぜん先生とは異(ちが)った人になっている。口元の締った、あご髯の胸まで垂れ下った、見るだに気高き霊人だ。あれ先生はどこにと、見詰めた。ああ先生は霊人の内に融け込んでいるのだ。霊人は全支配権を握り、わき目もふらず書を進めてゆく。あれなんという、推敲もせずそしてペンの早さは目も及ばぬほどだ。まあ不思議なこと一体どこから来た方だろう。霊人の神々しい霊光が放たれ付近は光明浄土と化した。静寂また静寂、付近はまだ霊人の占領地となっている。やがてペンははたと止み、霊人はどこかに姿を消してしまった。目的の文ができあがったらしい。後は先生の独坐と変わった。
 <つづく>

689復興G:2012/05/22(火) 22:55:10 ID:84pogn5s


  『生命の實相』第一巻(總説篇)より <6>

やれやれ重荷でもおりた様子。篭の鳥が放たれたように急にのんびりして今書き終った短文を精読している。精鋭な先生の視力はやたらに文字に引きずられてゆく。二回も三回も熟読してますます神秘の霊感に打たれている。『無理はない』渺漠(びょうばく)の領域に導かれるどころか独専霊人の書だ。数十分の間私は恍然(こうぜん)としてこの光景につりこまれて、ひたすら現象のなり行きを見つめていた。先生はこれを整理してまた他の目的に向かってお働きになられた。

付言、先月十四日にも神想観実修のおり、目に映ったことがあり、昨夜も同然御動静を拝し、当夜はまたこんな勝(すぐ)れた光景にまで出くわしました。政好は年若く、世の経験に乏しいものです。ですがすべてを政好の感性の所産と思召(おぼしめ)しくださるな。私は初めて自分の偉大さを知る。私は私の背後にもやはり常に私を操ってくださる方のいることを信ずる故に。頓首。(十二月三十日夜)

当夜ありました現象(ことがら)を記しておいて少しはせわしかったためにお送りできませんでした。ただ今自分ながらなんだか変な感じがします。いったいこんな事があったろうか。もしや先生に笑われはしないだろうか。しかし只事ではなかった、実際あったのだ。また気づいてご照会いたします。偶然こんなふうにできあがっていたのですから、なにとぞあしからず。(一月一日朝)」


 四、吾等は生命の糧は愛にして祈りと愛語と讃嘆とは愛を実現する言葉の創化力なりと信ず。

 愛は生み育てる力、癒(いや)す力であります。慈愛の心で少しも恐怖なしに神様の聖愛が必ずこの祈りを通じてはたらくと念じつつ、病人のために祈りますと、治るべき病気ならば癒えるのでありますし、子なき人も神様の大愛を信仰して「子をお授けください」と念ずれば子が授けられるのであります。例をあげればかつて生長の家の誌友で長尾初枝さんといわれる方があった。この人がまごころの愛の心で知人六名の子なき方に子を授かるように「子育て観音」に祈願なされますと、長きは十数年もえられなかった子宝をはじめとして、知人にいく人も子を授かられた実例があるのであります。これは長尾初枝さんの愛の祈りによりまして、観世音菩薩さまの愛のみ心が、子供を授かって愛したいという本人の母性愛に感応しまして、祈る人、与える愛、受ける人の三者の愛が揃うことになり、ここに医学などではどうすることもできない不妊の人に「生命」が宿って生まれて来るということになったのであります。これによりましても、愛は生み育てる力、癒す力であるということがわかるのでありますが、この愛も祈りという言葉の力がなかったら成就しなかったに相違ないのであります。黙祷でも言葉に出しての祈りでも、どちらもやはり言葉の力であります。

 日本惟神(かんながら)の道では「愛」ということを「むすび」というのであります。「むすび」というのは「縁むすび」などの「むすび」などと同じ意味でありまして、愛の結合をいうのであります。これを古くから日本では「産む霊」という字をあてはめてムスビと読ませてきたのであります。つまり愛は産む霊でありまして、愛が無ければ「生命」は産まれることも育つことも完全にできないのであります。

 かくのごとく愛は「生命」の生長に必要欠くべからざるものでありまして、生命界の現象は大生命の愛の花模様(マンダラ)であるということができるのであります。しかもこの大生命の愛が生きた肉体を備えて眼に見え手で触ることができるように現われて来ましたのが両親の愛であります。ご承知のとおり、有名なるリンカーンは米国大統領になったとき、「自分の今日ある、また将来あらんとするところすべてわが天使のごとき母のおかげである」といっているのです。また大発明家トーマス・エジソンも「自分をつくってくれたのは母の愛だ。母は心からわたしを愛してくれた。わたしはそんなにわたしを真心から愛してくれる母を失望させてはならないと思った。わたしが今日あるのは母を喜ばしたいという衝動に駆られたからであるといっても過言ではない」といっているのであります。
 <つづく>

690復興G:2012/05/22(火) 22:56:20 ID:84pogn5s


  『生命の實相』第一巻(總説篇)より <7>

 父の愛も母の愛に決して劣りませんが、言葉に出している機会が少ないために閑却されがちであります。父親はどうしても外の生活の戦いにいそしまねばならぬ時間が多いのでしんみりと愛を言葉に言いあらわしている余裕がないのであります。子供のことを思い、家族全体の幸福のために自分は外に出て、大黒様のように重い荷物を入れた袋をかついで苦痛を忍びながら生活道中をしているのであります。それが習慣になっていますから、うちへ帰ってもやはり苦痛を忍んでいるつづきのような顔をしていて言葉の上ではちょっとしたことにもイライラして叱り飛ばしたりすることが多いのであります。愛語をともなわない愛であるから愛をもちながらも愛の生かす力が完全に発揮せず、愛をもっていない父であり良人のように思われがちであります。世の中の父親である方に「生長の家」の生き方や、言葉の生かす力がわかってきますと本当に大黒様のように背中に重い荷物を背負いながらも、いつもニコニコして愛語を話しうることになるのであります。すると一番重荷を背負っている父親でさえ明るくなるのですからその家庭全体が明るく、和気藹々(あいあい)としてくるのでありまして、そこにおのずから地上天国そのもが実現してくるのは当然であります。

「生長の家」の智慧の言葉には「人を咎むべきことあれば、その人を咎めず、かえって賞むべき点をさがし出して賞めよ」という訓(おし)えがあります。愛がいかに深くとも、愛の心で批(う)つばかりで、讃嘆(ほめことば)がこれにともなわなければ、人間は善くなりにくいのであります。愛語(やさしきことば)も讃嘆(ほめことば)も「言葉の力」であって、善を造る力なのであります。わたしの聞いた話に、ある所に盗み癖のある子供がありましたが、どうしてもなおらないのでいよいよ感化院へまで入れねばならなくなりました。このいよいよのわが子の危急の時が来たので母親に不思議な知恵が出て来たのであります。その母親はその子供の盗みを責めていては盗みということを心に印象するばかりでいつまでもその盗癖はなおらないと気がついたのであります。それでその母親はその子供を叱ることをやめて、わざとその子の通る道にその頃の経済にとってはずいぶんの大金である二十六円おいう金を落しておきました。その子はそれを拾いましたが、あなりの大金なので使うことも能(よ)うせず、警察へとどけに行きますと、警察からは賞められる、学校からは賞められる、ついに人間が善き事をすることのいかに歓ばしいことであるかを知ってその盗みがなおったのであります。この善き話の裏には子供を救うために大金を捨てた母親の愛と善き事をわざと賞めるようにし向けた讃嘆の力とが働いているのであります。つまり相手を信じて善きことを捜し出して賞めるようにすれば誰でもその人の心のうちには神性が宿っていますから、この神性が言葉の力で目をさまして輝き出してくるのであります。

 旧貴族院議員なりし根津嘉一郎氏の実話によれば、氏は若い時分に悪所がよいをして手がつけられなかった。いつもお茶屋に入りびたっていて家へも帰らないのであります。しかしその父親が偉い人でありまして、ひとことも小言をいわないで、黙々として息子の代わりに商品の配達車を引いていられたのであります。その有様をふと往来で見た嘉一郎氏はまずその父の愛の深さに心をうたれましたが、お茶屋へ帰ってみると父から手紙が来ていたのであります。その手紙には「わしはお前を信じている。お前は心がしっかりした男だから結局はまちがいのない男だと信じている。身体(からだ)を大切にせよ」という意味のことが書いてありましたので、嘉一郎氏はこの父親の愛の深さに打たれてしまったのであります。氏は以来ふっつり悪所がよいを止めて、ついに貴族院議員になるほどに努力せられたのであります。

 さきの盗癖ある子供の母にしましても、根津嘉一郎氏の父にしましても、初めから子に対する愛をもっていられたのでありまして、子供が改心して行ないを改めるさいにのみ、愛の心が起こったのではありません。愛の心は前々から親にはあるのだけれども、それが賞讃の言葉となって表われ、信頼の言葉となって書かれるまでは、その生かす力が完全に発現しなかったのであります。だから「七つの光明宣言」第四条には生命の糧は愛であっても、祈りや愛語や讃嘆の言葉となって表われるまでは、本当にその生かす力が完全に発現しないということを宣言してあります。
 <つづく>

691復興G:2012/05/22(火) 22:57:11 ID:84pogn5s


  『生命の實相』第一巻(總説篇)より <8>

 五、吾等は神の子として無限の可能性を内に包有し、言葉の創化力を駆使して大自在の境に達し得ることを信ず。

 われわれは宗教上の言葉で「たましいの救い」という言葉を使いますが、救われるということは工場で営々とはたらき苦しんでいる職工を網ですくうようにすくい出して、楽にのらくら遊べるように遊里(ゆうり)のちまたに置くというような助けようではないのであります。「たましいの救い」とは最も厳粛な意味での救いでありまして、救われるということはわれわれのたましいが個性(ひとりびとりの特性)をもちながらも神または仏そのものなる大自在の境地――欲しいと思う事物(もの)はそこに現われ、欲せざる事物はそこから姿を消すというような大自在境に達するということであります。

 この大自在境をわれわれは実相の世界においては今現にもっておるのでありますが、現象世界においてはしだいに開発されてくる可能性としてもっているのであります。われわれの「生長」とは実相の世界におけるこの大自在境を現象世界において一歩一歩その実現に近づかせることであります。われわれの内に潜んでいるところの無限大のこの可能性こそわれわれの実相なるところの真如または仏性であります。この真如または仏性は、これを発揮(ひら)けばコトバ(真言(しんごん))となり、名号(みょうごう)となり、念力(ねんりき)となり、真に驚くべき創造力を発現するのであります。日本神道(かんながらのみち)ではこれを言霊(ことだま)の力といい、息吹きにて病を癒し、祝詞(のりと)にて禍(わざわい)をはらい、和歌にて雨を降らしたりしますが、キリスト教では「万(よろず)の物すべて言葉にて造らる」(『ヨハネ伝』福音書第一章)といい、「なんじの信仰なんじを医(い)やせり」等々となって現われているのであります。また仏教では「声字(しょうじ)即実相」と説かれまして真言秘密加持法によって神通をあらわし、称名(しょうみょう)念仏と申しまして、阿弥陀仏の名号(みょうごう)を唯となえるだけで驚くべき功徳をあらわし、「生長の家」では「聖典の読誦(とくじゅ)」といって、本書のごとき真理の書かれている言葉を読むだけで難病が治ったりするのであります。こんなことがなぜできるかといいますと、宇宙のいっさい事物はリズムすなわち言葉(近代の科学的術語を使えば波動)でできているからであります。「生長の家」では必ずしも耳に聞こえなくともエーテル波動(ラジオ等)でも思念波動でもすべて波動を指して、コトバというのでありますがわれわれの実践生活のうえでは思念と発声音と表情とが最も重要な、善かれ悪(あ)しかれわれわれの運命を左右するコトバになっているのであります。
 <つづく>

692復興G:2012/05/22(火) 22:57:58 ID:84pogn5s


  『生命の實相』第一巻(總説篇)より <9>

 六、吾等は善き言葉の創化力にて人類の運命を改善せんが為に、善き言葉の著述、出版、講習、講演、ラジオ放送、テレビジョンその他凡ゆる文化施設を通じて教義を宣布するものとす。

 そこでわれわれは思念と発声音と表情とを実生活の上にいかに応用するかが切実な問題となってくるのであります。われわれは、自分の言葉の使い方一つで、心の持ちよう一つで、表情一つで、今まで暗く不幸であった日常生活が明るくもなれば幸福にもなり、今まで病弱であった身体(からだ)が健康にもなれば、常人以上の精力を発揮することができるようにもなり、衰えていた運命の開拓も徐々に意のままになって来るのであります。(ここに徐々にと申しますのは時間を超越せる心の世界ではコトバと同時に、いっさいが成就しますが、現象の世界における事物の成就は植物の種子(たね)の発芽や生長と同じように時間という要素が要るからであります。)こうしてわれわれが心の持ち方と言葉と表情とでわれわれの生活を正しく「生長の本道」に乗せるとき、人生苦が一つ一つ解決していって苦痛がなくなるという事実等を考えますときには、あらゆる人間の「生命」の生長に必ずしも苦痛が必要なのではないことがわかるのであります。われわれに与えられている人生苦には何かわれわれの生活にどこかあたり前でないところ、すなわち生長の本道に乗っていないところがある・・そのあたり前でないところを気づかせてくださるために現わされているものであるということがあるのであります。(ただしある「生命」が急速度に進化をとげるために特に病弱な肉体に宿って来た場合は別でこれはまた別に説明します。)これを肉体に譬(たと)えてみますと、身体(からだ)のどこかが痛いのはその痛みのある所に何かあたり前でないところがある。それを気づかずに放(ほう)っておいては危い、そこで早く手当をするように生命から痛みというもので警告せられているようなものであります。そこでわれわれが身体(からだ)の傷口や病所に手当てをすればやがて痛みがなくなりますのと同じように、病気や貧乏や煩悶のある人もその生活の「生長の本道」にはずれている所を直しますと、こつねんまたは徐々に、その人の病気や不運や煩悶がなくなってしまうのであります。だから人類から人生苦をなくするにはどうしても広く人類に「生長の本道」に乗った生活を知らさねばならない。これを広く知らすことは何よりも刻下の急務である。そこでわれわれは善き言葉の雑誌『生長の家』を現在も連続発行させていただいているわけであります。最初の『生命の實相』は同誌に約五年にわたって連載されたものを系統立て、秩序立てて一冊でだいたい「生長の本道に乗った生き方」すなわち苦しみという警告を与えられないでいながら「生命」の伸び伸びと生長できる生き方を知りうるように編纂したものでありました。で、本書にのっている生活法や言葉の力の威力はすでに実証ずみであります。じっさい本書にのっている記事は雑誌『生長の家』にのっている当時、ただ読んでくださるだけで神経衰弱のなおった人や、暗い性格が明るくなった人や、ひっこみ思案であった人が前途に光をみとめて大活動家となった例が頻々(ひんぴん)と報告されて来、中には肺病がなおり、胃癌までもなおった人が出て来ていますので、この雑誌を書いたのは谷口のような貧しき知恵者ではない、いっそう高き存在から書かされておるのだと皆々感じていまさら驚き「雑誌」と称せず、誰いうとなく「神誌(しんし)」と称するにいたったわけであります。

 こんなわけで『生長の家』を月々発行して言葉によってこの世を浄め、人生を住みよくし世界の家庭家庭を明るくし、個人個人を幸福にすることは生長の家の主要な事業の一つであります。それは今後皆さんが「心の法則」を深く研究して行かれるに従ってしだいに明瞭になって来ますが、先刻もちょっと言及しましたようにこの世界は言葉の力によってささえられているからであります。ご参考までに東西の経典から言葉の力に関したものを手あたりしだいに抜き書きしてみましょう。
 <つづく>

693復興G:2012/05/22(火) 22:58:39 ID:84pogn5s


  『生命の實相』第一巻(總説篇)より <10>

神光あれと言いたまいければ光ありき。(『創世記』第一章)

太初(はじめ)に道(ことば)あり、道(ことば)は神と偕(とも)にあり、道(ことば)は神なりき。万(よろず)のものこれに由(よ)りて成り、成りたるものに一つとしてこれによらで成りたるはなし。これに生命(いのち)あり、この生命(いのち)は人の光なりき。(『ヨハネ伝』福音書第一章)

人の生くるはパンのみによるにあらず神の口より出(い)ずるすべての言葉によると録(しる)されたり。(『マタイ伝』福音書第四章)

それ如来の説法は必ず文字による。内外の風気わずかに発すれば、必ず響くを名づけて声(ことば)というなり。響きは必ず声(ことば)による。声(ことば)はすなわち響きの本(もと)なり。声(ことば)発してむなしからず、必ず物の名をあらわすを号して字というなり。名は必ず体(たい)を招く、これを実相と名づく。……声字(ことば)には必ず実相を有し実相には必ず声字(ことば)を有す。互いに能所(のうしょ)たり。(真言宗経典『声字(しょうじ)実相義』)

天地(あめつち)のはじめの時大宇宙(たかあまはら)に成りませる神の名(みな)は天之御中主之御言(あめのみなかぬしのみこと)(『古事記』)(成る、鳴る、語源同じ)

言葉は肉体となりてわれらの中(うち)に宿りたまえり。(『ヨハネ伝』福音書第一章)

 かくのごとく、東西の経典は筆をそろえて、言葉に生命(いのち)あり、言葉は必ず体(たい)を招き、言葉はわれらに宿って肉体となることを説いているのであります。古(いにし)えわれわれ日本人が互いにみこと(みは美称、ことは言(こと))と呼び、互いを神として敬し合ったのはこのためでありました。「生長の家」は、この点において神代(かみよの)日本に還るべきであることを提言するのであります。われらはなんであるよりもまず言葉すなわち神の子である。これはじつに否定できない。言葉によってわれらは清くもなれば醜くもなり、幸福にもなれば不幸にもなるのであります。皆さんは毎朝歯ブラシで歯を磨かれるでありましょう。では歯よりも大切な心があることを自覚せられねばなりません。毎朝歯を磨くのにこの大切な心を磨かないのは不合理であります。では、心はなにをもって磨くべきでありましょうか。それは言葉によってであります。皆さんもし朝起きるとひと声「ばかやろう」と家族を叱咤したならば、その日いちにち不愉快なことを自覚せねばならないでありましょう。それは言葉が悪いからであります。われわれが、自己の人生を幸福にし、家庭を明るくし、環境を良化し、運命を改善しようと思うならば、毎日すくなくとも二、三回はそのために作られたる善き、明るき言葉で心を浄め磨かなければならないのであります。それは実際われわれにとって食事をとるよりもなお絶対に必要なことであります。それは心の食事であります。心に善き言葉を食して心を幸福にすれば、肉体は健康化し、運命は良化するのであります。この目的のために、本書および月刊雑誌『生長の家』は生まれたのであります。世界はいま、恐ろしい生存競争と階級闘争との渦の中に転回しています。皆さんは自覚せられないかもしれませんが、われわれがこの争いの世界に住んでいる以上、悩める人類の頭脳から放射される呪詛(じゅそ)、嫉妬、憎悪等の恐ろしい精神波動は、われわれの心に感応して諸君の心をかき乱さずにはいないのであります。よくあることですが、たいした理由もないのに腹立たしく、焦々(いらいら)しく不快でたまらない気分になったり、なんの理由もなく気分がムシャクシャしてきて悲しく不幸に感じられることがありましょう。これは実に、他から放送された不快な感情波動を自己の頭脳に受信しているからであります。思考感情は一つのラジオ波のような波動であって、われわれの頭脳がそれに感じやすい受信機であることを人類は知る時が来るでありましょう。じっさい、われわれはこの恐ろしい呪いの、悩みの、悲哀の感情波動を防ぎとめる方法を講じなくてはならぬところの緊急な必要にせまられているのです。多くの富める家庭が不幸であり、病人が絶えないのはなぜであるか。それは貧しき人々から発せられた呪いの感情波動の支配下にあるからであります。
 <つづく>

694復興G:2012/05/22(火) 22:59:28 ID:84pogn5s


  『生命の實相』第一巻(總説篇)より <11>

皆さんはブランコに乗って見られたことがありましょう。同じ小さい力でも、それが加わる回数が重なるにつれて大きく揺れて来るのであります。しかし大きく揺れて来ない前に、またぜんぜん静止させてから揺るならば、そのブランコは永遠に大きく揺れて来ないのであります。われわれはこの原理を利用すべきであります。呪いや、悲哀や、憎悪の感情波動がわれわれの頭脳に感応してわえわれをいく分不快にしたときには、われわれはさっそくこの全集または『生長の家』誌を開いてそこに書かれている善き言葉を読めばよいのであります。揺れかかっていたわれわれの感情のブランコはたちまち平静に立ちかえる。われわれの感情波動の波長が、もうその呪いの感情波動に合わなくなります。こうしてわれわれの感情は再び愛と平和と幸福にみたされて幸福生活を築く基礎ができるのであります。毎日このことを繰り返せば毎日愛と平和と幸福に心が充たされる。これは幸福をもとめる人の毎日繰り返さなくてはならない必須のことであります。一回きりで読んで止めてしまうようでは、せっかく善い方向に振れかかったブランコも停まってしまうように、諸君の運命の良化も停止してしまうのであります。「精読八回自分は境遇を一変した」と一読者はいったがそこに真理がふくまれているのであります。ドシャ降りも一回では石に穴を穿つことができないが、繰り返すとき点滴よく運命の石を穿つのです。自分はこの意味においてこの全集が繰り返し読まれることを希望します。朝起きた時、眠りに入る前、電車や汽車の中の暇な時間に、またお昼の休憩時間やこれから誰かに面会に行こうとする前に、この『生命の實相』の一ページがどんなに諸君の運命を幸福にするでありましょう。しかし言葉はそれに慣れて来るとき新しく心を打つ力を失うのであります。わたしはこの意味において、『生長の家』を毎日毎日新しく書いて皆さんの座右(ざう)に届けたいのであります。けれども時間の関係もあり現在新しい言葉の力としては、『生長の家』『白鳩』『理想世界』『理想世界ジュニア版』『光の泉』『精神科学』や、英語、スペイン語、ポルトガル語、ドイツ語の〝生長の家〟が出ています。せめていずれか毎日一回は読んでください。これが諸君の運命の石を穿つ点滴であります。だからぜひとも毎日一回は光明思想の本を開いてください。本書に飽きてきたら右の諸雑誌を読んでください。いずれにせよ、繰り返し繰り返し読んでください。やがて諸君の思考が根本的にあらたまる時が来ます。それが徐々であろうとも、あるいは急激であろうとも、その時諸君の運命も根本的にあらたまり、病は癒され、境遇は改まり、欲する事物が自由自在に集まる境地になられるに違いないのであります。

 本節の最後にぜひとも申し上げておかなければならないことは、荏苒(じんぜん)長びいていた病人がこの真理をお読みになっているうちに、その慢性的症状が急性的症状に変じてきたり、病状がかえって増悪したような観を呈することが往々あることです。それはそれは酸に対してアルカリを投入すれば一時沸騰現象を起こして激しい動揺をあらわすけれども、やがてその沸騰現象は止んで酸が中和されてしまうのと同じで、病人の心の内にわだかまっていた迷いが、真理の言葉を投入されるので沸騰現象を起こすのですから、その時期が通過すれば、迷いは完全に真理によって中和され、ここに根本的にスガスガしい心的状態に達し、したがって肉体の方も、めきめき健康が回復してくるのでありますから、この精神的化学反応の起こったさいに、迷わず恐れず、いよいよ多年の宿痾(しゅくあ)の治るべき前提(まえぶれ)が来たということを自覚して『生命の實相』の読誦(とくじゅ)を自身がお続けになるか、自身で読む気力がなければ、看護者に読んでおもらいになれば、完全に病気を征服しうる時期に達せられるのであります。なお、病人に読んで聞かせれば、ふつうは病人の心が真の平和に達して眠ってしまうものでありますが、そういう場合には『生命の實相』を読むことを中止せず病人の眠ってからも一時間ぐらいも読んで聞かせてあげると、人間には眠っていても眠らない心があるので、この眠らない心こそ、眠っている間にもその人の呼吸や血液循環やその他すべての生理作用を司どっている心でありますから、この心が真理を知ることになり、覚醒中に読むにもまして効果をあげることができます。なお幼児は読んで聴かせても意味を解しないで駄目だろうと思われるかもしれませんが、解って読む人の念波が感応するのですから、幼児に読みきかせても驚くような効果を顕わします。
 <つづく>

695復興G:2012/05/22(火) 23:04:04 ID:84pogn5s


  『生命の實相』第一巻(總説篇)より <12>

 七、吾等は正しき人生観と正しき生活法と正しき教育法とにより病苦その他一切の人生苦を克服し相愛協力の天国を地上に実現せんが為に実際運動を起す。

 そもそも「生長の家」は机上の空論を書籍に書いて、それを売る商売ではありませんから自己の生活を善くするとともに、しだいに具体的に社会的にも救いの方法を実現して行かなければならないのであります。救いの方法の一つとしましては、病気の場合には「生長の家」の家族はメタフィジカル・ヒーリングの原理により神想観いたしまして、高価な医療を要せずして病気を治療することができ、相愛協力の実をあげることができるのでありますが、病気治しばかりが地上天国建設の方法でもありませんし、またいかなる霊妙な治療法も、ただそれだけで万病を癒すということはできないのであります。時には、あらゆる病気をたちどころに治しうるようにいう心霊治療家がありますが、それはただ誇大的にその効能を吹聴するのであります。病気の原因はこれを時間的に縦に観察しますならば、その人一代につくった原因もあれば、数代否数十代前からつくられて代々子々孫々につたえられて来た原因もあるのであります。キリスト教ではこれを「原罪」と申しまして遠くアダムとイブとの造った罪までも数えているのであります。仏教ではこれを業(ごう)と申しまして、一たびわれわれが作りました業は因縁にしたがって車の輪のようにぐるぐるまわってなかなか果てしなく流転(るてん)するものだと説いているのであります。この仏教で説きます業の流転説は、近代の霊界通信の科学的な実験と観察とによって、その真実が確証されてきているのでありまして、過去世において悪業を作った人間の霊魂が苦行によって罪の消滅をはかるために、ことさら不治的悪疾を肉体にあらわしている場合も多いのであります。かくのごとき霊魂は肉体の精神では病気を治したい治したいと思いながらも、霊魂そのものはその不具とか不治の悪疾とかになって苦しむことによって過去世の罪の浄まることを喜んでいるのであります。これはその人に潜在する霊魂の病気になりたい意志のあらわれであって、聖フランシスの聖痕(せいこん)と同じことであります。かくのごとき病気は宿業的に来るのでありますから、なかなか治りにくいのであります。これを治す唯一の道は「罪は本来ない。生命は神であるから苦行しなくともそのままで完全であり円相である」という真理を、その人の奥底にあるたましいに自覚せしめるほかはないのでありまして、その人の奥底のたましいがこの真理をいかほどまでに受け容れるかによって、その不治的悪疾の治ると否とが決するのであります。

 これを横に空間的に観察いたしますならば、人は環境によっても病気を起こすのであります。家庭の不和でヒステリーや神経衰弱や胃病などがおこるのは、皆さんすでにご承知のとおりでありますが、欧州大戦当時などにはずいぶん奇妙な病気が起こったのであります。これは精神分析(サイコアナリシス)の領域に属するものでありますが、ドイツ、オーストリアの兵隊たちが国家の権力によって徴発され、無意識的にもせよまた有意識的にもせよ戦争をはなはだしく嫌っている時に、イザ戦地に赴いて砲煙弾雨に直面して、眼が急に見えなくなるとか、耳が急に聞こえなくなるとか、手足が急に利かなくなるとか、すなわち一種の神経病的症状を呈するにいたるものがかくさんできたのであります。しかもそれが決してある意味での仮病(けびょう)ではないのでありまして、本人の表面の心にハッキリ意識されないで生じて来るのであります。つまり、これは「生長の家」で常に申しますところの奥底に潜んでいて自覚にはあらわれていないところの心が仕業(しわざ)をしたのでありまして、そういう病気に本人をかかれせておけば、出たくない戦争場裡に出なくともすむという「隠れたる心」のはからいでこうなったのであります。ところがこのさい効果をあらわした第一の治療法は銃口を本人に擬してその生命をおびやかすような威嚇を加えると、その兵隊たちは思わず声をあげるとか、前へ進むとかして勇気を振い起こし、これでただちに神経症状が消失してしまったのであります。戦場よりも危険な死刑に処せられるくらいならば、戦場へ出た方がまだ安全だというので、本人の「隠れたる心」が、今までかからせていた病気を治してしまったのであります。
 <つづく>

696復興G:2012/05/22(火) 23:07:53 ID:84pogn5s


  『生命の實相』第一巻(總説篇)より <13>

 ところがこの擬殺(ぎさつ)療法によってまず平癒した神経病的症状も、さらに本人を駆り立てて無理おしにも戦争をやらせると、こんどはさらに、前よりもいっそう悪い症状が生じて来ました。それは身体(からだ)が衰弱して消極的に食事がとれなくなるとか、囈言(うわごと)をいうとか、或いはぜんぜん死んだもののように昏睡状態になってきたのであります。これでは単なるヒステリー患者ではなく、医者に名前をつけさせれば早発性痴呆症の最もすすんだ症状といわねばならぬのでありまして、在来の医学では決して治療法がないのであります。死んだように昏睡状態になっている者に対して鉄砲の筒先を擬(ぎ)して威(おど)すわけにもゆかないのであります。

 われわれの存在の奥底に隠れている心はなかなか巧みな工夫をするものでありまして、とうとうこの方法によって戦場へ出たくない希望をどこまでも押しとおして満足することができたのであります。ところが戦争が終結して、もはや病気になっている必要がなくなってきますと、多勢のこの種の病気がケロリと治ってしまったのであります。

 以上は病気の話でありますが、人生のその他の不幸もまた同じような関係から起こるので、これは本書を読んでいられるうちにだんだんわかってまいります。人間の生命は縦には過去世の因果関係から、横には環境に対する自衛手段として、いろいろの病気や不幸をつくって、それによって、病気そのものや不幸そのものを一種の手段として生命の自由すなわち救いをもとめているものであります。ですから、将来この世界に病気その他の不幸をなくするには、縦には、未来世に病気、その他の不幸の芽を出す業因(たね)を蒔かない工夫をしなければならない。すなわち罪を犯さないでもこの世に生きられる工夫をしなければならないのであります。横には現在われわれが接触する環境を浄めて、「生命」が苦痛や病気という手段を使って自衛を講ずる必要のない天国浄土のような環境をつくるようにしなければならないのであります。ところがこの環境というものが一方においては自身の念(こころ)の影なれども、同時にまた念は環境の影であって、二つ向い合わせた鏡のように環境と念とは互いに影響しあうものであります。毅然とした強い念は環境の方を征服しますが、弱い、発達の程度の低い念(こころ)は環境に征服せられるのであります。

 人間の念(こころ)は幼ければ幼いほど、まだ一定の習慣性を備えていませんから、善い方へでも悪い方へでも環境に感化せられやすいのであります。これを悪い環境のうちに放(ほ)っておけば不良少年少女となるべき者も、幼いときから生長の家式に、愛と信と讃嘆との環境において感化を受け、事物の明るい方面に心が向くようになっていれば、彼らのたましいは健やかに伸び伸びと発達しまして、ひねくれた厭味(いやみ)な性格や、人を苦しめることで自分の快感や利益をえようとするような卑劣な性格は影を潜め、これらの少年少女が成長して社会の中堅となって行くころには、人類がこの世界でつくる悪業もよほど減ってゆき、地上に天国建設の理想実現にだんだん近づいてくるに相違ないのであります。
 <つづく>

697復興G:2012/05/22(火) 23:08:31 ID:84pogn5s


  『生命の實相』第一巻(總説篇)より <14>

 生長の家が、聖典の實相篇、光明篇、生命篇、觀行篇等によって人間の肉体を健康化する道を説き、「生長の家の生き方」によって生活を光明化する方法を指導するほか、さらに「生長の家の教育法」によって人間を若芽のうちから、その神性を発揮せしめ、天才を伸ばさしめようとしているのは、地上の天国建設を子供の生長とともに生長せしめたいと念願しているからであります。存在(ものみな)の実相を円満完全なりと認むるこの「生長の家」の人生観と、生活法(生長の家の生き方)と、児童教育法(生長の家の教育法)とが全世界を風靡するようになれば、その時こそ地上天国の成就せるときであります。そのときにはメタフィジカル・ヒーリングによってこの世に病なく「生長の家の生き方」によってこの世に苦悩なく、「生長の家の教育法」によってすべての人間はその子供の時から神性の発達を妨げられないで、皆そのもって生まれた天才を発揮することになるのであります。

 こんな世界がいつ来るかは初期に「生長の家」に集まってくださった熱心な同志または誌友の尽力にまつところが多いのであります。しかし何事も生長は徐々でありますから今はその第一歩からはじめてゆかねばなりません。「生長の家」で最初に天国建設事業として手を出そうとするのは、やはり正しい人生観と、正しい生活法と、正しい教育法とを出版物によって人類に知らせることであります。本書が出版されたのも、地上天国建設事業の一端でありますが、この人生観、生活法、教育法を実地に教える学校のようなものも、「生長の家」の誌友たちによって生まれて来るに相違ないのであります。すでにその芽生えは所々(しょしょ)に生えかかっています。ああ、人生はなんという喜ばしさだ! わたしは諸君とともに手をたずさえて、この善き事業が大きくひろがる日のために尽したいとの念願で一杯です。

○われらはやがて「心」というものが使い方によれば非常な強壮剤となり、薬用葡萄酒にもまさる興奮剤ともなるのであって、われらの「心」を正しく活きるときは、心それ自体が栄養剤とも若返り薬ともなって物質的薬剤は決して要らぬものだということを知る時代が到達するにちがいないのである。これは心を正しく活かすこと、心を調和せしめて少しも摩擦の起こらない状態におくこと、明るい思想、深切な思想、愛の思想を常に心に充たしておくだけでよいのである。光の満つるところに闇は存在しえないと同じように、かくのごとき生命と光明と愛との思想を心に充ち満ちさせるとき、その反対のものはすべて破砕され、滅ぼされて存在することができないのである。一日中生活のために労苦し焦慮した心のみだれも、就寝前十分間の「神想観」の修行によって神の愛と生命と光明とを心にみたせば苦慮の雲霧(うんむ)たちまち消散して新しい明日の活力がめぐまれる。これ自性円満(じしょうえんまん)の生命の実相が自覚されるからである。
 <『生命の實相』第一巻「總説篇」 完>

698復興G:2012/05/22(火) 23:09:32 ID:84pogn5s


 顕 斎 (まつり) の 時 は 今 <1>
 《龍宮住吉本宮鎮座落慶 記念座談会》
(『理想世界』昭和53年11月号より)

あなたの中に太陽が昇る

 K やあやあ遅くなりました。きょうは午前中ある後輩が弁理士の事務所開きをするので、その潔めのお祭りをしてくれというので行って来たんですよ。神職の方にたのめばいいといったら、神職の方は職業上、形式ばかりのことをするような気がする、それより素人でも心のこもった祭りの方がというので、行って来たんだけれどね。

 日本人は本来、家を建ててもそれは自分の家を建てるんじゃなく、神さまの宮を建てて、神の宮に住まわせていただくんだという気持だったんですね。だから入口にしめなわを張って、おまつりをするんですよ。

 食事だって、天照大御神の御いのちをいただく神事であるし、寝るのだって、単に疲れたから寝るというのじゃなくて、マドコオウフスマに入ってお籠りをする神事なんです。すべてこれ顕斎ですよ。

 O すばらしい話ですね。住吉大神の顕斎ということは、他人事(ひとごと)ではなく、私たちのいのちのことなんだということですね。

 K そう。顕斎(まつり)というのはね、まずみそぎをしますが、これは霊注(みそそぎ)ぎで、神さまが霊止(ひと)にお生れになるというのが、まつりの根本的意義なんですよ。

 天照大御神が天皇さまにお生れになるというのが御即位のときの大嘗祭(だいじょうさい)、そして毎年十一月二十三日の新嘗祭(にいなめさい)です。その新嘗祭の前の日である十一月二十二日に、天照大御神の前の霊(ひ)である住吉大神が、谷口雅春先生をはじめとして、われわれ信徒一人一人に御誕生になるんですよ。ですから大変なことであるわけです。谷口雅春先生の御誕生日が十一月二十二日だということは偶然じゃない、宇宙的な大経綸が秘められているという気がしますね。

 O たいへんなことですねえ。

 K 一般に知られている祭りというのは、神さまがここに人のいのちとして生れて、何とありがたいことか、嬉しくて楽しくてたまらないというのが神楽となり、舞となり、踊りとなり、とそういった神遊びで、氏子の地域一帯を神のいのちで充満させるためにお神輿(みこし)をかついでねり歩いたり、神船に乗ってお渡りになるとか、山車(だし)を引いて舞うとかするわけです。

 その、神さまがお生れになって、なんとありがたいことか、たのしいことかという「神遊び」の行事だけが、一般のお祭りとなって残っているわけですが、本当はその前に禊という「幽斎」がある。ところが顕斎だけに世の中の人の眼が向いているので、現在の神道界では、幽斎に向けて熱心になっているんです。生長の家はもともと顕幽一如、幽斎即顕斎だったのですが、今までどちらかといえば「祈ればいい」という幽斎の方が強かったので、今、神さまを形に顕わして行く顕斎の方に向いて来たんですね。

 で「顕斎」というのはお宮を建てて神事を行うということも一つですが、同時に生活の一つ一つに神さまを顕わして行く、生活のすべてを「神遊び」にするということなんですね。

 O うれしくなってきますね。食事も、睡眠さえもが神の祭りであるというのは……

   生活のすべてが「神遊び」である

 K そう、われわれが何の気なしに毎日寝んでいる寝床も、これは日々新生するための神聖な真床追衾(まどこおうふすま)ですよ。寝床に入ることは、いったん今までの自分は死んで、また神のいのちを宿して新たに生まれる、「籠り」の行事なんです。それは人間の誕生だって、胎内に宿ってから十ヵ月のお籠りの期間があるでしょう。それは熟成の期間なんです。紙だって、機械から出て来たナマの紙をすぐ印刷にかけると、あまりかんばしくない。お習字に使う紙だって、半年か一年ねかせておくといいんです。それは何でもそうです、アイディアだってしばらくねかせておくと熟成してくる。神想観していったん死に切って寝むと、またお籠りの期間を経て、「只今誕生」と、新しいいのちが生れてくる、というのが、われわれが日常、寝床に入り、朝起きるという行事なんですね。こういう神事を、日本人はずっとやってきたんですよ。
 <つづく>

699復興G:2012/05/22(火) 23:10:28 ID:84pogn5s


 顕 斎 (まつり) の 時 は 今 <2>
 《龍宮住吉本宮鎮座落慶 記念座談会》
(『理想世界』昭和53年11月号より)

    食事は人類共通の顕斎

 食事をいただくのも、これは「大調和の神示」以前に、「食事は自己に宿る神に供え物を献ずる最も厳粛な儀式である」という神示で教えられている通り、たいへんなお祭りですよ。日本古来の言葉でいえば、「贄(にえ)の祭り」または「饗(あえ)の祭り」と言いますが、食事が祭りだというのは日本だけのことじゃないんです。

 われわれ、人類光明化運動と言いますが、その人類共通の祭りは何かといったら、食事ですよ。それから音楽ですね。アイヌの熊祭りというのも、食事によって神と一体になる祭りだし、ヨーロッパでも、ゲルマンをはじめいろんな諸民族で、キリスト教のために自分の民族にうけつがれてきた祭りが抹殺されて今は稀薄になっているけれども、諸民族の祭りの根源をたどって行くと、全部神さまと一体になる、食事によって神さまのいのちをいただいて生れ変るというのが、全人類共通の祭り、全人類共通の顕斎なんですよ。

 その全人類共通の顕斎が、日本に、最も純粋に深く伝えられてきているんです。そのいちばんいいサンプルが、天皇さまのお祭り(大嘗祭・新嘗祭)なんです。そこに、日本の世界的使命というものが感じられるんです。

 だから、現在意識ではそのことをみんな忘れていても、日中条約を結ぶとかなんとか、しち面倒くさい外交交渉なんかの前には、必ず食事の宴がはられるでしょ。それは、全人類共通の顕斎は食事であるということが、深い潜在意識の底にあるからですよ。だからいっしょに一つのテーブルについて飲食を共にするという食事の席では、ケンカをしないでしょう。

 ヨーロッパ人などが未開民族のところへはいって行っても、まず、持っているものを交換したり、いっしょに食事をしたり、というところからやって行くと、警戒心を解いてしまう。

 全く言語も、歴史、伝統、風俗習慣もちがう者同士が会ってもね、一つテーブルについて飲食を共にする行事でもって、お互い一ついのちに生かされているんですよという、つながりを思い出させている……

 O おもしろいですね。

 K だから、世界の、コトバもちがい風俗習慣もちがういろんな諸民族が、長崎の住吉本宮に参拝に来ても、全然不自然なことはないんです。
 <つづく>

700復興G:2012/05/22(火) 23:11:13 ID:84pogn5s


 顕 斎 (まつり) の 時 は 今 <3>
 《龍宮住吉本宮鎮座落慶 記念座談会》
(『理想世界』昭和53年11月号より)

   神のいのちが顕われると

 E 木間さんの「祭りの形と心」には、日本の古代の村の長老というような人は、いつも神に祈り神と対話することが日常の会話のようになっていたということが書かれていましたね。なにか、それが現代にも行なわれる時が来ているんだなあと、顕斎の時代の意味するものが迫って来るような気がします。すべての人に、それがいのちの底からよみがえってくる……

 K 幽斎・顕斎というのがこう一致してくると、私なるものがかわって来るんですね。生れかわりが行なわれるというか、自我をスパッと死に切って行くと、いろいろと具体的に変化が顕われてきます。

 私は最近、自然にたばこを喫(の)まなくなったんです。たばこをやめようと考えたこともなかったんだけど……実は私は戦時中、戦地に行ったとき、ある先輩が、「君はこれから大勢の部下を持つようになるんだから、兵隊の気持をわかるためには、たばこを喫め。たばこの味がわからなければ兵隊の気持もわからないよ」と言われたんです。当時は、「上官の命令は朕(天皇陛下)が命令と心得よ」ということだったので、私はその先輩の命令のような言葉を忠実に守って三十数年たばこを吸いつづけてきて、やめる気は全然なかった。それはあの、小野田少尉が上官の命令を忠実に守って、上官が命令を解除するというまでフィリピンのミンダナオ島のジャングルから出て来なかったのと同じだなと思ったんですがね。ところが、「顕斎」について書いているうちに、私自身が非常に変ってきて、私の体の中からたばこなるものがフワフワ、フワフワと抜け出して行って、私とたばことがずれてしまったような感じなんですね。そうして全然たばこを吸わなくなってしまった。

 それから、二十何年もつれそった、四十幾歳の家内が、非常にかわいくなって……(笑)

 E いやあ、すばらしいですね。

 F 私も、最近変ってきたんです。子供を見ていて、嬉しくてしようがないんです。女房を見ても、以前は子供の教育のしかたが不満で小言を言ったりしていたりしたんですが、それが全然なくなって、ただ嬉しい。庭の草花を見ても、ひじょうに嬉しい。何が嬉しいというのでもなく……あらゆるものが神なんですね。

 E なるほど。自分の奥さんを神さまと観て拝むことも顕斎ですよね。

 すべての人に、いのちの底から、そういう甦りが起ってくる。それは、生長の家に入っているとかいないとかの形の問題ではなく、空気も水も火も、花も草も木も甦ってしまう。

 F 住吉大神の“顕斎の気” が、大気の中に満ちてきて、それに包まれたというようなことなんでしょうか。

 O これは本当に、おどろくべきことだな。こうして人類全体が、なんとなくお互い同士いとおしくなり、なつかしくなって来るとしたら……どんなことになって行くんでしょうね。
 <つづく>

701復興G:2012/05/22(火) 23:11:50 ID:84pogn5s


 顕 斎 (まつり) の 時 は 今 <4>
 《龍宮住吉本宮鎮座落慶 記念座談会》
(『理想世界』昭和53年11月号より)

   住吉大神、宇宙を浄めたまう

 F 住吉大神は、古事記神話では、天照大御神がお生れになる前、イザナミの命のみそぎはらいの完成のときにお生れになった神さまですが、それは地上の人間ばかりでなしに、神々をも、一切を浄化される。住吉大神は浄化の神で、浄化とは秩序を正すということである。中心を中心として、中心に帰一した神々の世界がだから、神界においても浄化が行なわれる、つまり住吉大神が住吉大神として正しく祭られることによって、天照大御神以後の神々がみんな秩序あらしめられて、その御働きを及ぼされる。そうすると、八百万の神々、日本のいたるところ、津々浦々にある神社の神々も復活するんですね。生長の家は万教帰一で、一切の宗教を生かし、すべての教祖のいのちを現代に生かしてきた。聖書のコトバが生活に生きてきたとか、法華経の本当の意味がわかったとか……それは教えの復活、神々の復活ですね。

 E 万教帰一というのは、すべての教えが一つに帰るという意味がありますが、顕斎ということからいうと、つまり実相の側からいうと、すべての教えは一つから展開しているという宇宙の創造のすがたをいい表わした真理のコトバだと思います。そうして私たちは、その中心なる天照大御神のふところに抱かれて私たちのいのちがあるんですから、すべては自分のいのちの展開であると言える。

   自分の中に宇宙がある

 ぼくはね、以前はベートーヴェンの音楽をきいても、バッハの音楽をきいても、「これはベートーヴェンという人の体験した、ある生命体験を描写したものだ」あるいは「バッハの世界を表現したのもだ」と思っていました。それは他人事(ひとごと)だったんです。そして、ベートーヴェンの能力に嫉妬心を起していたんです。ところが、そうではなかった。これは、ベートーヴェンが、ぼくのいのちをまつってくれて、ぼくのいのちをたたえて、こうして顕斎してくれているんだ、という気持になってきたんです。ベートーヴェンが他人事じゃなくなったんですね。こういった大天才たちが自分のいのちの延長として出て来て、自分のいのちをたたえてくれている、という感じになってきたんです。そしたらもう、うれしくてうれしくて……

 O ベートーヴェンが自分のいのちの延長……すばらしい。

 E ぼくはね、住吉大神が宇宙浄化をされるというのは、浄化とは秩序だてること、秩序の回復だとおっしゃる、それはどういうふうに秩序づけるかというと、まず、自分のいのちの中に宇宙があると自覚して、自分が自覚的に宇宙にひろがって、宇宙というものを自分のいのちの中に秩序づけるということではないかと思っているんです。

 木間さんは、「祭りの形と心」(本誌七月号)の中で、時間・空間の発する一点、その一点を透過したすみ切りの妙境ということをお書きになっていますね。そこのところに尊師のいのちがあり、そこから尊師のおコトバが発せられて来ているんですね。そこは大調和にすみ切った世界ですね。私はそこを“聖なる今”と言ってもよいと思うんです。そこから「大調和の神示」が鳴り出している。その大調和の神示に、“汝が天地一切のものと和解したとき、そこに吾れは顕われる”と書かれていますが、ここに顕斎の道が示されているんですね。
 <つづく>

702復興G:2012/05/22(火) 23:12:29 ID:84pogn5s


 顕 斎 (まつり) の 時 は 今 <5>
 《龍宮住吉本宮鎮座落慶 記念座談会》
(『理想世界』昭和53年11月号より)

   神に無条件降伏して

 三月一日の立教記念日の祝賀式での谷口雅春先生のお話に、神に無条件降伏して天地一切のものと和解する、ここに住吉世界をもちきたす極意があると言われました。神に無条件降伏したとき、“もはや吾れ生くるにあらず、神のいのちここにあって生くるなり”で、もはや、そこに神が生きていられる、神が顕われているんですね。

 神が顕われるとは、ある限られた、五官とか六感とかの感覚にふれるような限定されたすがたでとらえられるということではなく、実に全相をもってわがいのちと合一するということ。顕斎的にいうと――つまり、神の側からいうと、神がわが姿となって顕われるということですね。“人間神の子”から“神の子人間”への自覚だ。

 K 「神の子人間」の自覚から顛落して、実相の側に立たないで現象の側から自分を中心に教えを受けとって、「俺は今までこういう功績をあげた」とかね、あたかも自分が自分の力で光明化したような、とんでもない不遜の気を起すことがある。それで谷口先生は今、「顕斎」ということを言われるようになったと思うんです。人間が人間を指導したり、育成したりすることはできないと思うんですよ。神様のおはたらきで光明化ということは行われるんですねえ。

 だから、いろいろ奇蹟的なことが起きたりすると、癒された本人よりも、指導にたずさわったこちらの方がありがたくなるんですね。

 E 「吾が業は吾が為すにあらず」ですね。

 K そう。それでその時は、ただありがたいという素晴しい感動なんだけれども、しばらくたつと、「あれは俺が指導したんだ」とか、「自分が救ってやった」「自分が成績を上げた」と、そういった意識が残る……。

 本当は、バイブルの言葉じゃないけど、自分の力で身長一センチ伸ばせるわけじゃない。自分がしているわけじゃない、全部神様のおはたらきでしょ。それを、自分が何をしたというような功をほこる意識が残る、そんな未熟な、救いがたい、ニセモノの自分を去って、本来の神の子の姿にかえらしめ給え――と、そこで自分が死ぬわけだ。そういうことでないと、神のみもとへ行けない、ぼくは神想観できないですよ。

 神想観というのはね、吾々が祈るんじゃないんですよ。住吉大神が祈られる。それには、自分を捨て切らないと、祈りが始まらないんですよ。

 E 神想観というのが、神を想い観るのではなくて、もう一つ、生長の家の大神がここに坐し給うてなし給うのですから、神が想い観るということになるんですね。そうして、非常に強い神の光の放射する中に坐しているというような……それが顕斎ということなんですかねえ。

 K それは言葉で言ってしまえば簡単なことですけれども、大変なことで、死に切れるかどうかということによって、祈りに入らせていただけるかどうか、本当の顕斎に入らせていただけるかどうかということがきまる。
 <つづく>

703復興G:2012/05/22(火) 23:13:20 ID:84pogn5s


 顕 斎 (まつり) の 時 は 今 <6>
 《龍宮住吉本宮鎮座落慶 記念座談会》
(『理想世界』昭和53年11月号より)

   両刃(もろは)の剣(つるぎ)をうちふるえば

 E 住吉本宮の御神体は「護国の神剣」で「両刃の剣」になっているわけですが、「両刃の剣」というのは、相手がまちがっていれば相手も切るけれどこっちがまちがってればこっちも切るんだというところにすばらしい魅力があると思うんですね。ところが、今は「こっちに切るべきものがあったら切るけれども、今はない」というような感じになっていないかどうか。

 F 今年の青年大会のときの谷口雅春先生の最後の御講話で、「神の子無限力の真理」という題だったと思いますが、「どんなに神想観をしても、たとえば食膳で人の悪口を言ったりしている限り、無眼力は出ません」ということを言われましたね。私は自分自身をふり返ってみて、ショックを受けたんですがね。

 悪口をいうということは、物質の世界を見ているわけですね。自分自身も物の世界からしか物を言っていない。そこからは、限定された力しか出ないですよね。

「奇蹟の時は今」の「今」、感謝合掌礼拝して、物を観て、感じて、行動する。先生は最近、ラジオ放送でもそういうお話ばかりされていますよ。

 頭だけで教えを聞いていることがある、その姿勢が問題だと思います。頭だけで教義を理解してわかった気になっていると、いのちが無くなってしまう。それが、「顕斎」となると、神の子が神そのものの御姿をあらわす、そういう自覚の生れ変りが行なわれて来るんだと思うんです。「両刃の剣」ですから、まず自分が正しいすがたをあらわす――そうして、全世界が、神さまのつくりたもうた世界のすがたをあらわして来る……

 E 「三界は唯心の所現」と最初にスパッと説かれたときに、全宇宙は自分の心の影なんだという、これはすごい宇宙をひらく言葉だったんです。それが今は、「自分の心も影もあるけど、ほかの国の心の影もある」というふうに、なにか切れ味がニブくなってきたんじゃないか。つまり、世界を変えるには、自分だけが変ればよいということを忘れているのではないか。「自分の心が変れば世界が変る」これをひっくり返して、「世界を変えるには自分の心を変えるだけでよい」というところまで徹底することができなくて、いささかニブっていて、そのニブった部分、その誤差の部分に光明化運動論を成立せしめているようなまちがいをおかしていないか……

 O うーん、それは痛烈な反省ですね。

 E 運動が、「実相独在」の否定から始まってはいないか――両刃の剣で「切る」としたら、まずその辺がいちばん先に切られるべきこととして、あるんじゃないか。

 早い話が、神想観して「光明一元」と言っちゃったら、光明化運動の意義づけができなくなるというような――それでは、祈ろうとしても本当にすっと祈ることができない。神想観が、おかしな神想観になってしまう。

 O こわい、こわい。
 <つづく>

704復興G:2012/05/22(火) 23:14:00 ID:84pogn5s


 顕 斎 (まつり) の 時 は 今 <7>
 《龍宮住吉本宮鎮座落慶 記念座談会》
(『理想世界』昭和53年11月号より)

   「神ながら」の運動を展開しよう

 K 先日私の知合いが、「北方領土返還要求」ということで、九州の南端から北海道の現地まで日本全国縦断のキャンペーンをやるんだという連絡が来て、もうスタートしちゃったそうだけれども、ぼくは「ちょっと待て、出発する前に話し合おう」と言いたかったところです。この北方領土の問題は。「それは日本のものだ、返せ」と言えば、向うはすでに自分のものとして基地を作ったりして、地図にもソ連領として書かれているとなると、「何を言ってるか」ということになる。そうすると今度は、力づくで取り戻さないと戻って来ないことになる。今、こういう状態では、戻る可能性は百パーセントないと言っていいですよ。「戻せ」というと戻さない。「何を言うか」とひとひねりされたら、もうしようがない。では、どうすればいいか。私は、エトロフ、クナシリや千島の島の神様をお祭りすればいいと思うんです。それは日本書紀に書かれてあるんですよね。島の国魂神の顕斎を、本当に心を合わせてやるようになったら必ず返ってきますよ。ソ連の居心地が悪くなって、いられなくなってきますよ。それは、一人や二人が祈ったのではだめだけれども、日本人の百人に一人が真剣に祈ったら、筒単に実現すると思うんです。

 ところが、「返せ、戻せ」と言ったら、現象の次元での衝突になってしまう。それではかえって、「何をいうか」ということになって、憎まれて、反動が来るだけで、どうしようもないと思うんだね。

 E 一番確実な方法は何かということですね。

 F ぼくは、『生長の家』誌の「明窓浄机」等に谷口雅春先生が九州本山についてお書きになったものを最初から今日にいたるまでの全部をコピーして綴じて持っているんですが、さっきそれを最初からずっと読みかえしてみましたら、先生は実に「神ながら」なんですねえ。九州本山には百万坪の土地があるわけですが、最初はあまりに広大で、山は雑木ばかりで、いろんな構想はあっても、ちょっと手がつけられないでしょう、まあ孫の代のいい遺産になるのでは――というようなことをいう人もいた、その時に先生は、「人間の力ではほとんど手のつけようがない。しかし、神なら、これをすみやかに開拓して、本山にふさわしい土地つくり、道つくりもできる」とおっしゃっているんです。そうして、なさっていることが、あとで振り返ってみると、全然無駄がなく、みんな見事にぴしっとはまっているんですね。それは驚くべきことですよ。

 だから、私思いますのに、元号法制化でも憲法復元でも、神ならそれを実現する方法をちゃんと知っていらっしゃる。いや、憲法復元もすでに御心に成っている世界があるわけです。それを、み心のままに、最もふさわしい時に、最もふさわしいあり方で、それを神の子なる私にお授け下さいと祈る、そういうところから神ながらの働きかけが出てくる。

 K そうして、神ながらの運動をして行くには、青年会運動にも先輩からの継承がなくてはいけない。生長の家は「汝の父母に感謝せよ」が基本なんですから。一つには、今まで青年会運動の中で志半ばにして斃れた同志が全国では相当な数に上っていると思うので、その同志たちの顕彰感謝祭を行なうといいと思うんです。そうして、お祭りというのは全員参加、“村は総出の大祭り”で、みんなが一つ心になっておみこしをかつぐというところに大きな意義があるんですから、この顕斎を機会に、過去を捨ててみんな一つになって力を出し合うということが必要だと思う。今がそのチャンスなんです。
 ぼくは、これからおどろくべきすばらしいすがたが顕われてくると思う。
<完>

705復興G:2012/05/22(火) 23:28:52 ID:84pogn5s


  『生命の實相』第一巻(總説篇)より <4−1>

(<お詫び>これは<<688に入るべきものでしたが、うっかりミスで抜けておりましたので、ここに入れさせて頂きます。)

 三、吾等は人類が無限生長の真道(まことのみち)を歩まんが為に生命の創化の法則を研究発表す。

 このようにわれわれの「生命(たましい)」は死んでも死なない。ただ「無限生長の道」をあゆませていただいているのでありますから、どんな苦しみが来ようともただ安心して恐れる必要がないのであります。しかし何もわれわれは苦しみをことさらに来るように自分で招いて作るにはおよばないのであります。聖フランシスは「悪魔は主のつかわしたまえる獄吏である」と申されました。また神道の諸派では苦しみとか病気とかいうものを魂のけがれをきよめるために神から与えられた修祓(きよめ)とかお気づけ(注意)とか解釈してありがたくお受けしているのであります。婆羅門(ばらもん)教では苦行はさとりに達する唯一の方法だとして断食水行はもちろんいろいろの苦行の方法が案出されていました。釈尊も結局はただいまの「生長の家」と同じように、苦行は必ずしもさとり(大自在境)に達するために必要ではない、心の向き方を変えればよいのだとて、苦行をやめて尼連禅(ナイランジャナー)河に水浴して、施される一杯の牛乳を飲んでさとりを開かれたのでありますが、最初は婆羅門の教えにしたがって六年間苦行をされたのでありました。

 このように、苦しみはある期間にわれわれの魂の生長に必要なものでありますので、敬虔なキリスト教信者などのうちには「主の模倣」と申しまして、十字架にかかられたイエス・キリストの苦しみを自分の身にも受けて苦しむことを唯一の歓びにしているような方までできているのであります。しかし、それはイエス・キリストの御心を知らないものといわねばなりません。

 イエス・キリストが十字架にはりつけられて死の苦しみを受け給うたのは、われらのたましいの苦しみを救わんがために身代わりとなられたのでありまして、われわれを今後そんなに苦しませるためではないのであります。ふつう徒歩で行けば長時日苦しみなやんで東海道を往復しなければならぬのに、ここに偉大な発明家があって苦心惨憺の結果汽車が発明されたために、実に短時間でわれわれは東海道を往復することができると同じようにわれわれはあたり前ならば長期の苦しみを重ねて、やっとある段階の魂の生長がえられますところを大生命の親さまがその子イエス・キリストをわれわれの苦しみの身代わりに与え給うてそれから後はそんな苦しみもなしに魂の生長がえられるようにくださったのであります。それは仏教でも同じことでありまして自分の力だでの修行で再びわれわれの生命がこの地上に出て来ないでもよいほどに立派な十分の生長をするには、なかなか生命としての一代や二代の修行ではできないのであります。輪廻(りんね)と申しましていくたびも輪のめぐるように死んでは生まれかわって来なければならないのであります。それを大生命の親様はそのひとり子を法蔵菩薩としてこの世に遣わし給い、法蔵菩薩がわれわれに代わって数えきれぬほどの苦労と修行をなさった結果、ついに正覚(さとり)を得たまうて阿弥陀仏(あみだぶつ)となりたまい、ここに、阿弥陀仏におすがりさえしておれば、われわれの生命がそんなに苦しまなくとも、楽々と生長することができるようになって来たのであります。
 <つづく>

706復興G:2012/05/22(火) 23:29:29 ID:84pogn5s


  『生命の實相』第一巻(總説篇)より <4−2>

 このようにキリストも阿弥陀仏も、結局は大生命なる親さまからわれわれがそんなに苦しまないでも救われうるようにつかわし給うた救い主であって、あらわれは二つでありますが、元は一つなのであります。

 大生命なる親さまが耶蘇(やそ)キリストや、阿弥陀仏をわれわれの救い主としてつかわし給うたことから考えましても、親さまはわれわれ子供の苦しみや病を与え給うのでありますが、できるだけえ苦しまずに生長してくれることが、親さまの子に対する慈悲ぶかい親心に相違ないのであります。

 そこでこの大生命なる親様のみこころ、イエス・キリストのみこころ、阿弥陀仏のみこころを「生長の家」は受けつぎまして、人間の生命(たましい)が「生長の本道」を真っ直に向いて進んで行くならば、何もそんなに苦しみや病気で大生命(おやさま)から反省やお気づけを与えられなくとも楽しくいきいきと生活しながら自己の生命を生長させうるということを気づかせていただき、われわれが「生長の本道」をあゆむべき方法を研究しまして、(研究といいましても、実はわたしがペンをとる時に霊感的に教えられて自分の予想もしない真理がパッとわかってくる場合が多いのでありますが、)これを皆さまにお取り次ぎしまして、できるだけ病気や苦痛(くるしみ)等の、迷いの自壊過程をへずにわれらの生命の生長する道を皆さまにお伝えしたいと思うのであります。霊感的に真理を知るということについては、本書全体をお読みになっているうちに解ってきますが、当時『生長の家』第一集第三号の表紙裏にわたしが書いた一文がありますから、とりあえずその概念を得られるために、左(さ)にそれを収録します。
 <つづく>

707復興G:2012/05/22(火) 23:36:48 ID:84pogn5s


  <『生命の實相』第一巻(總説篇)より>は、すでに前にアップされていますので、以上で終わりです。

感謝 合掌 拝

708ハマナス:2012/05/23(水) 00:01:47 ID:u5mC.eb2
神の子のみなさま
ありがとうございます。

悲しみはこらえず、これを転換せよ  (『新版 生活の智慧365章』P.161)

 悲しみの感情から脱却すると云うことと、悲しみの感情をこらえて内部へ押し込んで
しまうこととは異なるのである。こらえて内部へ押し込んでしまった感情は、それが消え
ないで、所謂る「抑圧感情」と称せられるところのものとなって、それがある程度以上
蓄積されると具象化して病気を引き起こす原因となるのである。

 そこで悲しみの感情は、単にこらえて押し込むだけではなく、その感情を他の方向へ
誘導し光明化したものとしなければならない。即ち不幸が起こって来たときに、「この
不幸は不幸ではないのであって、幸福に到達するための途中の踏み石である」と思い返
すか、「この不幸は過去の業が形にあらわれて消え行く姿である。過去の業が消えたあと
には幸福が来るほかはないから有り難いのである」と念ずるがよいのである。

感謝合掌

709金木犀:2012/05/23(水) 06:39:19 ID:L0Ei6.zw
『秘められたる神示』 谷口雅春先生

 君民同治の神示講義(5)

では、神とは何であるかというと、
「無にして絶対であり、一切の主であり、永遠者であり、久遠の主宰者である」とあります。従って神の生命を分かち有つところの「神の子・人間」も「無にして絶対であり、一切の主であり、永遠者であり、久遠の主宰者」でなければならない。その「久遠の主宰者」たる自覚を「生命の外延の世界(社会及び国家)に於いても持つことを要請する」主義が民主主義なのであります。

そこで、その民主主義なるものは天皇制と背反するものであるかの如く説く人もありますが、天皇制そのものが、「久遠の中心者」又は「久遠の主宰者」を要請する「人民の心」の反映として、日本民族の「生命の外延」として存在することを此の神示には次の如く示されているのであります。

「身體も國も共に、観る者(主體)から反映せられる世界(客體)である。観る心の要請が身體に於いては脳髄の存在となり、國に於いては永遠の元首なる、無にして絕對であり、一切の主であるところの天皇の存在を要請するのである。天皇の神聖性は、人間自身の生命が神聖であるところから來る……」

この神示によりますと、観られる対象は、「観る心」の反映であり、その感情想念又は自覚が、対象に移入されて、対象をそのように感ずるのでありますから、吾々が国家に於いても、「変わらざる永遠の中心者」を要請するのは、人間自身の生命に、「変わらざる永遠の中心者」を要請する理念があるからであります。人間自身の生命に、「変わらざる永遠の中心者」を要請する理念がやどっているのは、人間生命をつくった「大生命」(神)御自身に、「変わらざる永遠の中心者」を要請する根本要求があるためであって、そのためにすべての造られたる物には「変わらざる永遠の中心」が備わっているのであります。即ち原子には原子核があり、細胞には細胞核があり、樹木には幹があり、人間及び高等動物には脳神経中枢があり、太陽系統には太陽という「永遠に変わらざる中心」があるのであります。

このような宇宙万物を造った「大生命」の生命を宿し生れている人間の心の中に「変わらざる永遠の中心者」を求める要請が宿っているのは当然のことであります。だから、「観る心の要請が、身體に於いては脳髄の存在となり、國に於いては永遠の元首なる、無にして絕對であり、一切の主であるところの天皇の存在を要請するのである」と示されているのであります。(つづく)

710金木犀:2012/05/23(水) 06:40:51 ID:L0Ei6.zw
『秘められたる神示』 谷口雅春先生

 君民同治の神示講義(6)

この神示に於いて注目すべき点は「無にして絕對であり、一切の主であるところの天皇」とあることであります。天皇は単に「一切の主」であるだけではなく、「無にして絕對」なのであります。他の国の色々な人間団体にも中心者や主宰者はあります。しかし「無にして絶對」なる中心者は殆ど全く存在しないのであります。だから常に権力争いが付き物であり、権力候補が選任争いをするか、実力闘争によって中心者の座を占めようとするのであります。ところが日本天皇に限り、権力争いというようなことがない。自己を主張しようとはせられないし、対立がないのであります。だから「無」なのであります。天皇は自分自身の幸福や利益を求められない。だから「無」なのであります。ただ全体の福祉と祥運を願われるばかりであります。それは脳髄及び脳神経系統が脳髄自身の幸福や利益を願うことなく、全身の、そして全細胞の健康のために奉仕しているのと同じであります。

この天皇が「無にして絶対者」であられるということは大東亜戦争の開始に際しても、その重職にある者の多数決に対して抗争することなく「無」の立場であられたことにも現れていますし、終戦直前の御前会議において阿南陸相と梅津参謀総長と豊田軍令部総長とが戦争継続を主張したのに対し東郷外相、米内海相、平沼枢相が戦争終結を述べたほかは、重臣ことごとく自己の意見を述べることが出来ないから、多数決で国事を決することができなくなり、ついに天皇の御聖断を請うしか道はないということになったのであります。

「無にして絕對なる神」は、人間が迷っていても、御自分の意見を出して、それを止め給うことはない。しかし謙虚なる心になって「無」なる神に相対すれば其処に實相無限の智慧と愛とが呼び出され、その智慧と愛との導きに従うとき、一切の不幸が消滅し實相大調和の状態が実現することになるのであります。

それと同じく「無にして絕對なる天皇」は吾々が天皇に対して振り向くことなく、天皇をただ看板にして、「虎の威をかる狐」のように天皇をただ利用して軍閥が自分の権力の増大をはかっている限りは、天皇は神と同じく別に罰を与えられることもないが、その迷いを制せられることなく、その迷いの行くがままにそのまま委せていられるのでありますが、その迷いが行き詰まって、謙虚でいるしか仕方がなくなって天皇の方へ振り向くとき、其処に天皇の御心があらわれるのであります。日本の歴史は、常に時の権力階級が我の力が行き詰まっては、天皇の方に振り向き、そこから神智が実現して正しき道に帰るということが繰り返されているのであります。それですから、大東亜戦争の末期に於ける御前会議に於いて、誰も意見をのべる者がなくなった時、ついに天皇は「ほかに誰も意見を述べる者がないならば、私の意見を述べよう。私の身体はどうなってもよいから、この上国民を戦争の惨禍の中に苦しめるのは見るに忍びないからポツダム宣言を受諾して戦争をやめる」と仰せられ、その後、天皇はマッカーサー元帥を訪問せられて、
「戦争の責任は皆私にある。国民には責任はない。私は絞首刑をも覚悟している。皇室財産は司令部の処置にまかせる。私の一身はどうなってもよいから、国民をどうぞこれ以上苦しめないで頂きたい」と仰せられたのである。「無にして絕對であり、一切の主である」ということは、「無」でありながらも、責任を回避するということではない。「一切の主である」とは「一切の責任は自分にある」との自覚である。「無」であるがゆえに神聖であり、一切の責任を自己に背負って自己が一切の者に代って苦しもうとする愛の深さゆえに天皇は神聖であるのである。

711金木犀:2012/05/23(水) 06:42:30 ID:L0Ei6.zw
『秘められたる神示』 谷口雅春先生

 君民同治の神示講義(7)

しかし、そのような天皇の神聖性は、人民自身が「無」になって謙虚に天皇に対して回帰しない限りはあらわれない。傲慢に天皇を批判している者にとって、天皇の神聖性が理解されないのは当然のことである。だから、「観る主體(民)の神聖性が包まれて蔽はれて混濁するとき、天皇の神聖性は蔽はれて撥現しなくなるのは其のためである。今の状態がそれである」と示されているのである。紅緑色盲に於いては、紅や緑の色彩が実際そこにあっても、自己自身に内在する紅緑の感覚が目覚めていないために、其処に紅緑の色彩をみとめることが出来ない。それと同じく自己に内在する「神聖性」が包まれ蔽われて混濁している場合には、天皇の神聖性は蔽われて発現しない。それ故に、「天皇の皇位を剥奪し、皇室費を停止して、天皇を唯のサラリーマン又は文教労働者となすべし」というような唯物論者の議論も生じて来るのであります。唯物論者にとっては、人間はただの“物質の塊”以上のものではないから、その価値や尊さを、その能率的エネルギーの量に一般化して、それを平等に取り扱おうとするのは無理もないことであるけれども、自己の内に「神聖性」が発現し、その「神聖性」を観る眼をもって、国家を観、天皇を観るとき、其処に、自己の神聖自覚の投影としての、神聖国家及び神聖天皇を観ることができるのであります。

だからこの神示には、
「人間は自己自身の神聖性のゆゑに神造の國家に神聖降臨の神話を創造してその歴史の中に住む自己を観るのである。天孫降臨とは人間自身すなはち民自身が、天孫であり、神の子である自覺の反映にほかならない。かく天皇の神聖性は人民自身の神聖性より反映するのである。されば民が主であり、君は客である」と時代に適応したところの民主主義に背反することなき、天皇神聖論をお諭しになっていられるのであります。

しかし、「民が主であり、君は客である」という表現をつかうと誤解を招くおそれがあり、「人民のほうが君主より偉いんだぞ、天皇は吾々の得た月給から納めた税金で養っているんだぞ」などというような間違った考えを懐くものも出て来る恐れがあるから、神示は更にこれを綜合的立場から説明を加えて、「是を主客合一の立場に於いて把握すれば主客一體であり、君民一體であり、民は君を拝み、君は民を拝む」と説かれ、天皇の「治」を民を拝みたまう行事として、次のように示されているのである。
「民は君を拝み、君は民を拝む。民を拝みたまふ“治”は君を拝むところの“事”と一體である。治事一體であり、治めると事(つか)へるとは一體であり、君民同治である。……」

このように神示によれば、政治とは権力階級が非権力階級を圧えつつ治めることではなく、「民は君を拝み、君は民を拝む」――すなわち「君と民との拝み合い」ひいては「政府と国民との拝み合い」が本当の政治なのであります。近頃の政治を観ると、政府と国民とは「拝み合い」どころか、「憎み合い」又は「争い合い」の様相を呈しているので、このような政府の要員や国民の代表にとってはこの神示は誠に好箇の反省資料だと思われるのであります。併し現在の日本の状態は、天皇の神聖性などを観ることが出来る者は残念ながらきわめて少ないのであります。それは人民自身が自己の神聖性をみとめないで、自己をただの「物質なる肉塊だ」と観じている。そしてこの肉体なる化学物質の反応の如き本能満足の要求を「基本人権」だなどと信じているのですから、「人民自身の絕對性の把握」など殆どない。そして、“観られる世界”は“観る心”の反映であるから、天皇の絶対性など観得る人も殆ど無いのであります。そのことを此の神示には、
「天皇は絕對者にましますとは、観る主體たる人間(民)の絕對性より來る。民が自身の絕對性の把握が破れるとき、その反映として國の絕對性と天皇の絕對性とは破れるのである。打ち續く敗戦により、民自身の永遠性と久遠性との自覺が破れたのが國家大權、天皇大權の一時中斷の形をもって現れたのである」という風に諭されているのであります。(完)

712うのはな:2012/05/23(水) 16:12:01 ID:???
 
  私たちは神の守りの中に包まれている

 神は普遍の霊であるから到る処に満ちみちていたまうのである。
私たちが何処にいようとも、常に私たちは神の普遍霊の中にいて生活しているのである。
だから私たちは常に神にまもられ、神から守護を受けることができるのである。
若し神からの守りがなく、守護を得けていないで不幸に見舞われたと見えるようなことがあるならば、
それは守護がなくなったのではなく、自分の心が神に振り向かず「心そこにあらざれば見れども見えず、
聴けども聴えず」式に、神と波長が合わなくなって、神の導きから、波長が外れてしまった結果にほかならないのである。
若し自分が神の方へ心を振向け、神の導きに心の波長を同調するようにするならば、たちまち
神の導きに触れることが出来、運命が好転してくるのである。

 『真理』 実相篇 第10巻  谷口雅春 先生著

713うのはな:2012/05/23(水) 17:45:14 ID:???

 生長の家はそれが地上に発祥したのは昭和四年十二月三十一日に『生長の家』
といふ雑誌が製本完成したときであり、その處は唯今、神戸市内に編入されていますが、
当時は兵庫県武庫郡住吉村八甲田と称された處で其処にささやかな家の門柱に“生長の家出版部”
といふ竪看板のような大きな檜の問標がその翌年掲げられたのであります。
その雑誌の創刊号の奥附けに昭和五年三月一日発行としてありまして、創刊号がひろまるのに、次の第二号発行まで
の間隔がひろまるのに、次の第二号発行までの間隔を三ヶ月間とってあったのであります。

第三号から第三種郵便物の認可がおりました。奥附の三月一日発行を、公式的な生長の家発祥の春の記念日としてあるのは、
時候が人々の集り易い陽春を選んだのであります。
しかし、生長の家は地上に発祥したときに始まったのではなく、「久遠の昔」からあるとこの神示に示されている通り、久遠の
昔から實在の世界にあって、時期が熟して、地上人類救済の瞬刻限に地上に出現したのであります。
それだから、既に何処かで書いて置きました通り、昭和十年のこと、天理中学の国語の先生、山村楢次郎氏は、
『生命の實相』の初版(註・黒布表紙の雲に三本金線のある装丁の本)を書店で求められたとき、突然十八年前に夢の中で白髪の神様から
黒いドッシリとした黒表紙金銭図案の本を頂いて、荘厳な感じがして有りがたさに目が覚めたことを思出だし、「この本だ!!」
という感じを受けられたのであります。
昭和十年の十八年前にはまだ生長の家は地上に出現していない。
それなのに既に十八年前に夢の中で見えたのは地上出現以前にそれが存在した証拠であります。

 山村楢次郎さんは既に故人でありますがお嬢さんは現在非常に熱心な誌友でありまして、先般、
生長の家本部の白鳩会に出席して体験談をお述べになったのであります。

『到彼岸の神示』 神示講義・自覚の巻 谷口雅春 先生著 P70

               ( 投稿者 現代漢字に変更書写)

714SAKURA:2012/05/23(水) 19:44:18 ID:V.pKl3yA
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
こんばんは
昨日から【〜♫ come on! come on!♫〜】と、強い言葉が流れて来ます…?
「生長の家」私も【come on!】と…私も自然と“口ずさんで〜♫”いましたが?
さて“今日の言葉”は…【合掌します。幸福なる“道印!〜〜〜ごま〜〜開け〜〜”】
今日の言葉は……

■【幸福を招く365章】
――――此処に天国浄土が実現するには――――

今日は人に是非とも深切を尽して見る一日としようではないか。何か人のために
させて頂くことを心掛けて一生懸命にやって見ようではありませんか。
それを真に実行して見たときにあなたの心に平和と感謝とが訪れるでしょう。
本当の悦びは人からして貰ったときよりも、人に対してしてあげた時の方に
それがあると云うことが体験として分かるのであります。
更に今まで何の気にもかけなかった風のそよぎを、樹々の緑を、小鳥の囀りを、
神の愛の表現であるとしてきいて見ようではありませんか。
あなたの周囲に別の幸福な世界が訪れます。
なるほど此処が神の国だとわかってまいります。そして、
あなたの周囲にある家族のよろこばしそうな笑顔を御覧なさい。
まだ笑顔があらわれていませんでしたら、笑顔があらわれているとして
優しい言葉をかけてやんなさい。本当に笑顔があらわれてまいります。
                           (谷口雅春著)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆

“朝のめざめ”其の瞬間…一番に思い浮かんだのは“徳上の笑顔”にしなさいと…
めざめる瞬間の【夢…】でした?これって「正夢」なのでしょうか?
何のことか分からず〜〜〜“ボ〜〜〜ッ”としていますと…私の“ブレイン”が…
ようやく軌道し始めました…。ウフフ

■日本と海外の違いですが……日本の場合は、女性の方を例えますと…
若い時は“精神面”に拘らず、唯!“若さ”でしょうか〜〜〜?
海外の女性の方の場合は、もう〜〜〜〜〜〜〜大変!の様に見受けられます。
若い時の“感情”を〜〜“動作”を〜〜表現を訓練するのですが……><
どうしても、“感情表現”が……でも!“訓練”しながら、大人になっていきます…。
■逆に、日本の女性の方の場合は、若い時の“習慣?慣習?…そのままで大人“に
なり“50歳過ぎ”ても自覚がなく、そのままです〜〜〜ョネ!

それを“比較論” していきますと、やはり!【精神面…】でしょうかしら〜〜〜ン!
どんな時でも【表情を豊かにする】・【ボディティブに行動する】事が、
他人に対しての“深切”と今日は思えて来ました…。
今日の私は、どんないやな人??とすれ違っても【我が身の精神進歩向上】の為に
誰に対しても〜〜〜〜〜“特上の笑顔”を進呈しようと…

今日は、バカみたいに「笑顔の筋肉運動」再スタ−トしてきましたら、
今のこの時間でも、気持ちよく持続しています…。【ハイ!ニコ!ポン!!】
これなら、ズ〜〜〜ッと、がんばりがいが出来そうな感じなのですが〜〜〜?
「三日坊主にならない…」ように“精神集中”で〜〜〜す。
これも?もしかしますと“年”をとらない“秘訣”でしょうか?

■最後に!!【素敵な“笑顔”は、人様に“小さな深切”でしょうかしら〜〜〜ン】
                             再合掌

PS:
トキ様の“笑顔”は、素敵そう〜〜〜♫に、見えますが…
“文章”から、その様な「イメ−ジ」が致しますが……どうでしょうかしら〜〜〜ン?
「笑顔も小さな深切」なのです〜〜〜ョネ!唯今!!“鏡とニラメッコ〜〜〜☆”
トキ様は、女性の“笑顔”??リクエストありますか??

716SAKURA:2012/05/23(水) 23:38:32 ID:V.pKl3yA
管理人「トキ様」へ

大変恐縮ですが…間違って“投稿”してしまいましたので
(「WEB 誌友会」投稿ボ−ド…と間違いました…。ごめんなさい…。)
■715 『削除…』御願い申し上げます。

717a hope:2012/05/24(木) 08:37:12 ID:kcv2QXTk

人生読本 谷口雅春先生著

金貨よりも時間は大切

ところが、この時間ぐらい目に見えないものはない。
目に見えないためにどうも粗末にされ易く、失われ易いのであります。
金はなくしたら人から借りる事もできますが、時間をなくしたら人から借りる事はできません。

仮りに金貨を握ってそれを捨ててあるいたら、
「ああもったいない」と言って拾って歩く人はありますけれども、
時間を捨てて歩く人の後ろからついて往って、
「ああったいない」と言って時間を拾って歩く人はないのであります。

時間は目に見えないから拾って歩くわけにはゆかないし、
時計で測って見て、眼に見えたからといって、時計の捻子(ねじ)を逆に廻して、
針を逆さまに廻してみても、時間そのものは後へ戻って来るものでもなく、
「あんた時間を落としてますよ」と言って拾って上げるわけにもゆかないのであります。

このように時間と言うものは生命(いのち)から二番目の金よりも大切で、
一番の一番の生命そのものでして、時間を失ってしまったらどうにも仕方がないのでありますから、
皆さんどうぞ一分間でも時間を生かして、良い事に、勉強に、仕事に、人に喜ばれることに、
自分をよくする事に、人をよくすることに、人のためになることに、使うことにいたしましょう。

(つづく)

718SAKURA:2012/05/24(木) 20:55:01 ID:V.pKl3yA
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ

こんばんは…

毎日の“聖典板…”への投稿を、もう少し早く投稿しましたら〜〜〜(微笑)
そのように思いつつ〜〜〜「time is money〜♫〜」ですもの〜ネ!
この頃“時間”のたつのが、早く感じる次第です…。さて!今から〜〜〜♫
今日の課題は????

■【幸福を招く365章】
=====天地一切のものを祝福せよ=====

朝めざめたならば、神想観を行い、
「神の生命われに流れ入りて、わが生命を健かならしめ給う」
念じつつ呼吸を整え、さらに「神の愛われに流れ入りて、光明燦然と輝き給い、
われを通して天地一切のものを祝福したまう」と
云う思念を繰返すことは、天地一切のものと和解することを如実に
実践する上にきわめて善き方法善き方法である。
一切の不幸と病は、自己が天地一切のものと和解していないで、ある程度
又は或る意味に於いて敵対状態にあるから生ずるのである。
然るに上記のような思念をおこなうときには心の中に、こちらから積極的に
天地一切のものと和解する以上に、天地一切のものを祝福することになるのである。
                            (谷口雅春著)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆

■「祈り」ます時は、“大調和の精神”です〜〜〜ョネ! ウフフ
これが【集中〜〜〜!集中〜〜〜“力”です〜〜〜ョネ!】
そして何度も「祈り」ながら、気が付きますと、もう〜〜〜【希望成就】!!
その気になりまして、成就したかのような気持ちに、
これがいけない様にも思います〜♫“継続する心”が必要でしょうかしら〜〜〜ン?

唯!「神様と一体…大調和の世界」に突入していく内に、【希望成就】が〜〜〜
叶えられますのでしょうかしら〜〜〜ン??
此処が?最近の私の“迷い心”でしょうか〜〜〜♫

つまり…
先ず!【希望成就】を先にして…【天地一切に和解】なんです〜〜〜ネ!〜〜〜
そうしますと{焦りの??祈り???}
【天地一切に和解…】が?此処に私の“心”が引っかかりまして、
これから先が〜〜〜><いつまでも〜いつまでも〜前に進めなく…><
「精神統一」がいつの間にか、ふらつき状態なのですモノ??
此の様な状態でしたので…出来なかったのが現状ですが……

■「イメ−ジトレ−ニング」で“瞑想”していきますと、
そうなのですョ〜〜〜ネ!もう〜〜〜【天地一切と和解】しているのです…。
【天地一切は“感謝”からの“スタ−ト”……“感謝”は、既に〜〜〜
和解!和解!−−−−−−−>和解!の“大調和”ですから…
“心”も“リフレッシュ”になり【和解=若い精神===>老化防止】でしょうか?
「神に祈る事」とは、【天地一切に感謝=若さの精神=神想観】です〜〜〜ネ!

                            再合掌

PS:トキ様 へ
本日の言葉…にての「天地一切への和解…」が先なのか?それとも…
「希望成就への祈り」が先なのでしょうか?…この頃悩みますのですが???
“アドバイス”頂きますと、幸いに存じますが…???
「卵が先???それとも鶏が先???」なのでしょうかしら〜〜〜ン!

719トキ:2012/05/24(木) 20:57:34 ID:glP3dfpk
>>718

 個人的には、和解の祈りが先だと思いますが、他の皆様、どうお考えでしょうか?

720SAKURA:2012/05/24(木) 22:24:37 ID:V.pKl3yA
>>719
トキ様 へ

“お返事”ありがとうございます…。「和解が…先?」なのです〜〜ネ!
“鶏”・“卵”〜〜〜〜〜どっちかしらん??考えこんでしまい〜〜〜><
今!私事なのですが?起きています…目の前の“大きな〜〜〜壁?”
“私も”“パ−トナ−も”…兄弟・姉妹の問題もありまして…?

そうなのです〜〜ネ!
「和解……神想観」させて頂きま〜〜〜す。ありがとうございます…。 再合掌

721a hope:2012/05/25(金) 07:09:17 ID:kcv2QXTk

人生読本 谷口雅春先生著

一度失われた時間は帰らぬ


いつも午前八時には時計の針は一定の8の字を所を指しますけれども、
今日この「八時」という時間は永遠にやって来ないのであります。
午前八時というのは何回でもやってきますけれども、今日のこの時間、
自分の生きるこの時間という同じ時間はやって来ないのであります。

今日のこの自分の「生きるこの時間」というものを生かさなければ、
この私達の有する自分の生命(いのち)というものが全然ないわけであります。
ですから、いつでも、「今」が自分の生きるか死ぬかの正念場なのであります。
私達自身を生かすか殺すかの重大な時期、それが時々刻々の時間であります。

(つづく)

722ハマナス:2012/05/25(金) 18:07:42 ID:u5mC.eb2

神の子のみなさま

こんばんは。今週は仕事で毎晩遅く、投稿できませんでしたので、続けて謹写させて
頂きます。


難有り、有り難し  (『新版 生活の智慧365章』P.162より)

 不幸が来るごとに、これで過去の業が消滅し、今後好転の運命を刻む自分になったのであり、
謂わば、この不幸は、幸福への曲がり角だと観ずることができれば、どんな不幸がやって来ても、
失望落胆することはなくなる筈である。このように考えを転ずることに成功するならば、どんな
不幸や困難がやって来ても、もう大丈夫である。

 これは悲しみの感情を抑圧することではなく、その感情を方向をかえて光明の方へ誘導する
のであるから、もう悲しみが悲しみではなく、悲しみが光明に変質してしまっているのであるから、
それは将来、不幸を現象化する原因が消えたことになっているのである。だから黒住教祖は
「難有り、有り難し」という風に漢字をまじえて解り易く説明されているのである。

感謝合掌

723ハマナス:2012/05/25(金) 18:12:03 ID:u5mC.eb2

幸福の鍵は何処にあるか   (『新版 生活の智慧365章』P.163より)

若しあなたに「どんな幸福の扉でも開く鍵があるのですが、あなたはそれを欲しくありませんか」と
言われるならば屹度あなたは「本当にそんなものがあるならば、それを得たいものだ」と思われる
でしょう。その鍵は決して金属でできているものでも、楠(くすのき)や檜(ひのき)の板で出来
ているものではありません。そんな物質で出来ているものは結局はこわれるものであります。虫食い
錆びくさるものに幸福を求めてはならないと教えられました。

 その鍵は“霊的なもの”で出来ているのです。そして他物にそれを求めても得られるものではなく、
自分自身の内にその鍵があるのです。その鍵を『生命の實相』と呼ぶのです。それは必ずしも書籍の
名前ではありません。『生命の實相』の本はその鍵の在所(ありか)を示した本ですからそのように
名づけたのです。

 その鍵は全ての人が自己の内にもっている万人具有の鍵であります。人間の生命のうちには「無限」
が宿っているのです。その無限に気がついたとき、その人はその鍵を発見したのです。自分自身の
生命のうちに「無限」が宿っている、何という素晴らしい事でしょう。

感謝合掌

724SAKURA:2012/05/25(金) 19:14:09 ID:V.pKl3yA
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ

こんばんは…
【幸福を招く365章】は、発行が“最近版”なのです〜〜〜ネ!
「谷口雅春先生の晩年の御言葉」は、最近?深みを感じますのですが〜〜♫
先生の創立当時からの前半の“書籍”も、又!それなりに、グ−!!ですモノ〜〜!
やはり、私でも“ライティング・思考力”は???
若い時より多少?進歩しているのです〜〜〜ョネ
「人間は進歩向上!!」の過程で……「生長=成長」するのではと思います???
今日の“タイトル”は??神様からの“メッセ−ジ”にてオ−プン!!

■【幸福を招く365章】
====愛の想念を手紙に凝めよ====

あなたが手紙をかくときに唯、事務的に書かないで、
「この手紙を通して神が貴方を祝福したまう」と祝福の想念を
ペンに含ませながら書くときは、それを受け取った人の心に愛念を沸き立たせ、
著しくあなたに対する好感を起さしめるものである。
それに反して腹立ちながら書いた手紙は、どんなに丁寧に書いたつもりでも、
何処かに相手を憎む雰囲気が伴っているものであって、
屹度相手を不快にしてしまうのである。愛の想念は凡ゆるものに調和を惹起し、
憎しみの想念は凡ゆるものに不調和を惹起す。
愛は朗かさを招きよせ、憎しみは暗黒を惹起す。愛なるかな。愛なるかな。
                        (谷口雅春著)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆

最近?思うのですが〜〜〜〜〜><
或る人が“パソコン”を、打った“投稿文”を、どうかしますと……??
スム−ズに?読めなくなる事が、あります…。「雅春先生の本」を“スル―”して、
そのまま“key  ボ−ド”を打つていますが…
不思議なのです〜〜〜ョネ!
「同じ言葉」なのに?此方からな〜〜〜の?どうかしますと、いつの間にか
“心”の中で“拒否反応”が、生じてしまう事もあるのですが……?
これは?本能?【念の法則…】かしら〜〜〜ンと、思っていましたが??? 

今日!さっそく「雅春先生の言葉」から、私なりに理解しました…。

■その人の“心が〜〜形に〜〜”あらわれた事なのです〜〜〜ョネ???

私も“感情”が入りますと…【ポジティブ?ネガティブ?】この感情の相違により、
【ライティングのアイデア…】も?出来なくなる事も〜〜〜><
これではいけないのです〜〜〜ョネ!
「雅春先生のお言葉」を、投稿する為に、打ちこみます時は…
此の“感情”は、なるべく?いえ!!冷静なる!そして、相手に対しての“愛念”…
其の厳粛なる感情にて“打ち込む”その様に本日は、気持ちの上で…
切り替えて“行”ずる事を…決めた次第です。今!!此の事が“勉強”なのです〜ョネ!

■そして“反省”の自覚にて“心が洗われる…自分自身”に気づきまして???
本当に【自分の心の影?】そのものの”感情“が、“文章に移入”される事…
それならば…「今日の言葉」より〜〜〜♫♫
モット〜モット〜【大調和の精神での…ライティング!!】させて頂きます…。
当に!!今から〜〜〜【実践…のみ】

■本当に【念の世界!!!!!!】なのです〜〜〜ョネ!!
                                再合掌
PS:
トキ様へ
今日の言葉【手紙…】一つでも、相手に対しての“念の具象?”なのです〜ョネ?
トキ様はライティグされます時は、“此の感情移入…”どのように対処?
されますのでしょうか??何か、具体的な事が、ありますでしょうか?
“アドバイス”頂きますと幸いです…。
例えば…此の“服”を来ますと〜〜♪♪“ラッキ−“な事が多いとか?
確か「生命の実相」の中にも“セ−タ−のお話”がありましたです〜〜ョネ!

725トキ:2012/05/25(金) 22:25:17 ID:BQ0WW5TQ
>>724

 念の問題は確かにありますね。いつまでも他人に恨み、つらみの念を持っていると
自分にかえってきますから、要注意です。逆に言うと、仕事等で会う相手の幸せを祈るのも、
愛行だと信じます。小さな事から始めたいです。

726a hope:2012/05/26(土) 08:01:13 ID:kcv2QXTk

人生読本 谷口雅春先生著

この境遇にこの時間


さて、すべての人は単なる「時間」という目に見えない流れの中に生きているだけではなしに、
ある具体的の境遇というものの中に住んでおります。
この具体的な境遇というものが、いわば横の広がりであります、時間という縦に続いているものと、
遇という横に続いているものとが交叉した十文字の一点に私達は生きているのであります。

時間は無形で形がありませんから、どの時間でもよく似たように見えておりますけれども、
この境遇、この自分の置かれた横の位置というものは、常に変わっているのであります。
たとえば昨日の午前八時、今日の午前八時、また明日の午前八時、時間は皆午前八時であっても、
自分のいる位置が変って、自分の生命(いのち)の波がかわっているのであります。

時々刻々私達は自分の生命が変っているのでありますから、いつも異う新しい自分であります。
常に新しい自分が、常に新しい境遇に於いて、常に新しい時間の流れに生きるというのが、
私達の時々刻々生きているところの生命であります。

ですから、常に私達は、「今」の時間と境遇とをできるだけ十分生きて、新しき生長をしなければならない。
そうしなければ私達は「今」の自分の生命がを捨てているわけであります。
「今」の自分の生命を捨てては、単に自分の生命が生長しない事になってしまうと同時に、
ニ度と掴む事の出来な千載一遇(せんざいいちぐう)尊い境遇機会というものを逃してしまう事になるのであります。

(つづく)

727a hope:2012/05/26(土) 08:08:03 ID:kcv2QXTk
訂正 

>>721タイトル

一度失われた時間は帰らぬ → 一度失われた時間は復(かえ)らぬ


726本文の上から4行目

遇という横に続いているものとが → 境遇という横に続いているものとが

728金木犀:2012/05/26(土) 15:37:22 ID:L0Ei6.zw
碧巌録解釈 (第五十六回) 谷口雅春先生
第五十六則  欽山一鏃三關を破す

[垂示] 垂示に云く。諸佛嘗て出世せず、亦一法の人に與ふるなし。祖師嘗て西來せず、未だ嘗て“心(しん)”を以って傅授せず。自ら是れ時人了せず、外に向って馳求(ちぐ)す。殊に知らず、自己脚跟(きゃっこん)下、一段の大事因縁、千聖も亦模索不著なることを、只如今、見不見、聞不聞、説不説、知不知、なんの処よりか得來る。若し洞達すること能はずんば、且(しばら)く葛藤窟裡に向って會取(えしゅ)せよ、試みに擧(こ)す看(み)よ。

[解釈] この垂示は「諸仏嘗て出世せず」「祖師嘗て西来せず」という風に、一般に歴史的にあったと信じられている釈尊が出興せられた事実や、祖師達磨大師が天竺から支那へ仏心宗を弘めるために渡来せられた事実を正面から否定する“反語”であって、そういう歴史的事実は無かったということを主張するために書かれているのではないのである。

この垂示の中心は、真理は自己の脚跟(きゃっこん)下すなわち自分の今立っている脚の下にあるのに、「自ら是れ時人了せず、外に向って馳求する」愚を指摘せんがための反語であるのである。

「一段の大事因縁」という語は法華経に「吾一大事因縁を以ての故に世に出興せり」とあるのを引用したのであって、何も釈迦だけが一大事因縁を以ての故にこの世に生まれて来られたのではないのである。すべての人間各自が、みな“神の子”として神の万徳を具(そな)えて神の最高の自己実現として、この世に生まれて来たこと其の事が“一段の一大事因縁”なのである。

それなのに、その“一大事因縁”は釈迦のような、また達磨大師のような天才的な真理の達人にのみ付与されている特権であって、自分のような凡夫には、そんな天分は付与されていないのだと自己劣等感をもってはならないのだと、この垂示は指摘しているのである。

真理というものは釈尊や達磨大師のような特殊な宗教的天才にのみ与えられているのではなく、各人の脚跟下(きゃっこんか)に、各自の“生命の實相”そのものの中に、今現にあ’る’のである。それを外に向って諸仏にもとめたり、達磨大師に求めたりするものだから、そんなもとめ方をしていては、「千聖(せんしょう)もまた模索不著」で、どんな聖者があらわれても、彼らが外に真理を求めているようなことでは“模索不著”すなわち探し求めても、ついにその真理に到達することは出来ないのだ。

だから、そんな「真理は諸仏のサトリの中にある」とかいって外に真理を求める対象となる諸仏や祖師を抹殺してしまわねば、自己のうちにある仏性をさとることができないのだ。

それだから、吾々が外に真理を求める対象となる諸仏や祖師を抹殺するために、この垂示は、「諸仏嘗てこの世に出でず」だから、そんな諸仏から真理を授かろうと思っても、外にそれを求めたのでは「一法の人に與ふるなし」と、そんな諸仏から真理の一片を期待しても、決してそんな諸仏からは一つの真理も出て来ないぞと否定したのである。

また自己の脚跟下(きゃっこんか)にある真理を、天竺から西来した祖師達磨に求めても、未だ嘗てそんな外にある祖師から心をもって真理を伝えてもらえるなどと期待しても駄目だぞ、それなのに「時人」すなわち近頃の人間は、この事を了知せずして、釈尊や達磨に、外に向って真理を求めていて、自己内在の実相に気がつかないぞ、と指摘しているのである。

この人間各自が釈迦達磨とひとしくその実相は、“神の最高の自己実現である”という実相を知るには、只今のところ一般の人間には見不見、聞不聞、説不説、知不知であって、見て見ること能わず、聞くも聞えず、説いて説くこと能わず、“覚知”の知によっては知って知ること能わずである。何処からその真理を得たらよいか。

若しいまだその真理に洞然と到達することが出来なければ且(しばら)く先輩の人生の葛藤及び、その葛藤を描き出した本則について参究を重ねて会得して頂きたい、試みに本則に実例を擧げるから看よといって、愈々(いよいよ)本則に移るのである。

729SAKURA:2012/05/26(土) 19:59:56 ID:V.pKl3yA
>>725拝読させて頂きまして
トキ様 へ

“お返事”ありがとうございます…。
■>いつまでも他人に恨み、つらみの念を持っていると
自分にかえってきますから、要注意です。逆に言うと、仕事等で会う相手の幸せを祈るのも、愛行だと信じます。小さな事から始めたいです。<

そうなのです〜〜〜ョネ!“要注意〜〜〜〜〜”ですョネ!
“念…ネガティブな感情”これは、確かに?自分自身に戻ってきますよ〜〜ネ!
唯!悲惨な事ですが…その“想念”が〜〜〜“病気”を【引き寄せる!】事にもと…?
「雅春先生…」が…おっしゃつていらっしゃいました事を、思い出しました。

■>われわれの心の状態は肉体のみ反映するのあって、事業やら運命には
反映しないと思っているとまちがいであります。
多くの商店会社の不繁盛の原因は従業員の心の不調和であります。内部に働く人の
心が不調和になってきますと、繁栄の雰囲気は逃れ去り、繁栄の雰囲気が逃れ去れば、
注文は激減し、外部の注文が激減すれば不安は募り、内部の不安が募れば外部の
注文はさらに激減し、その商社の没落に拍車をかけることになるのであります。<
                      「雅春先生の言葉…一部抜粋」

仕事にも影響し…最悪状態になりますもの〜〜ネ!
「相手の幸せ」…祈れる“素直な自分…”…
このように“ネガティブ感情”を持つぐらいなら【神を想い…】
“光明思念”を繰り返し〜〜繰り返し〜〜思念しながら【大調和の世界!!】
日常生活に取り入れていきま〜〜〜す。ありがとうございます…。

■【小さな事から始め〜〜♫〜〜】そうなのです〜〜ョネ?
大きくふくらんで〜〜♫〜〜「トキ様の言葉」より〜〜〜 
只今…行動に〜〜〜♫〜〜〜(微笑)          
 再合掌

730SAKURA:2012/05/26(土) 20:36:02 ID:V.pKl3yA
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ

こんばんは…
「阪急のメガネコ−ナ−」に行きまして、“パ−トナ−のメガネレンズ”が〜〜><
外れていましたので、その「修理…」その間に、私のメガネまで“クリ−ニング!!”
して下さり、いろんな“レンズの知識”…頂きましたが…
更に!最近の最新情報内容…etc話している内に。【タイム・オ−バ−!!】なの?
あわてて“事務所”に戻り…ホット!!
此の様に「知識」を知らずにの“買い物”と……?「知識豊富な人」の買い物は??
かなりの隔たりがあります〜〜〜ネ!
“買い物”でも、この様な事が言えますから、ましてや〜〜〜><
【真理…】の勉強でも、豊富に受け入れて行く人の方が、早く!【大成…】します、
その様に、改めて思いました…。
【SAKURA…】も今から、新たに“モット〜モット〜”いろんな角度で読書…です。
その“第一歩”は〜〜〜“今日の言葉”から参りましょう!!

■【幸福を招く365章】

====相手の幸福のために祈れ=====

何か問題が起こって来ても、すぐ、「それは何某が悪いのだ」とその人を
呪うような考えを思い浮かべてはならない。
人を呪うような考えを起せば、その呪いの精神波動があなたを中心として
宇宙の中に必ず何等かの攪乱作用をおこすのである。すると、その派長に合う
乱れた精神波動があなたを中心として集まって来る。
それは結局、あなたの不幸を惹起することになるのである。
それよりも、その人を赦す思念をすべきである――「私はあなたを赦しました。
私はあなたを愛しております。幸福になるようにいのります」と静かに相手を
祝福する言葉をねんずるのである。すると神の秩序は回復されるのである。
                        (谷口雅春著)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆

■「問題」が発生しますと…直ぐ!他人に“責任転嫁”される方が多いです〜ョネ?
そう云います??“私…?? ウフフ ”私“もその仲間かしら〜〜〜ン!
今!思いますと…“精神面??”正直申しますと“弱い”〜〜のでしょうか?

でも〜〜〜でも〜〜〜今回、初めて“観覧する立場”で見ていますと…
気が付きました事は、第三者から見ても「気持ちのいい会話?」は、
見ていても、此方も楽しいです〜〜〜ョネ!

今回!私もおおいに“反省”です…。先ず!他人に“責任転換”する前に、
私自身に“心”を振り向ける事でしょう〜〜〜かしらン?
自分自身を磨く……【プロ並みの人間!!!】でしょうかしら〜〜ン!
更に!相手を赦す【祈り…】をします事が…【心の向上…】に繋がるのです〜ョネ!

いろんな形でのいやな事が起きてますので……><
今日から〜〜更に“いやな人達への愛のメッセ−ジ”を投げかけます????

■今日から〜〜この瞬間から〜〜【SAKURA ===>wink!!】

此処は「生長の家〜〜〜〜〜家〜〜〜〜〜」
ネガティブ感情派??「アウト・サイド〜〜〜〜〜♫〜〜〜〜〜」
ポジティブ感情派??「イン・サイド〜〜〜〜〜♫〜〜〜〜〜」
                               再合掌
PS:s
トキ様へ
「人を呪うような考え方」つまりネガティブ感情…此の“感情のコントロ−ル”
どうかしますと“弱い自分自身”此の時は、ややもしますと
生じやすいモノと思いますが…?
「此の“感情コントロ−ル”そうです〜〜ネ!平常心を持つ…常に!常に!
何か“秘策??”トキ様に取りまして、ありますでしょうか??

731トキ:2012/05/26(土) 21:01:48 ID:48pxKCfs
>>730

 あんまり詳しい事を書くと身元が確定されるので、漠然と書きますが、ある時期、結構、意地悪をされた事がありました。
その時に思案をしたのですが、結論として「神様にお任せしよう」と決めました。つまり、相手が正しいか、自分が正しい
かは今は分からないので、神様がそのうち、教えてくれるであろう、と決めたのです。で、喧嘩はしないが、逆らいもせず、
自分の良心と信仰に任せて過ごしました。結果、意地悪をした偉い人は途中でどこかにいってしまいました。

 これが、小生のやり方でしたが、正しいか、どうかは不明です。

732ハマナス:2012/05/26(土) 21:27:59 ID:u5mC.eb2

神の子のみなさま
 ありがとうございます。

「コトバの力」の正しい使い方  (『新版 生活の智慧365章』P.164)

 自己の内に「幸福を開く鍵」が宿っていることを知っても、その鍵をどのように使えば
本当に「幸福の扉」が開くか、その使い道を知らなければ、鍵はありと知りながらも、
その扉を開くことができないでしょう。その鍵を動かす力は“コトバの力”によるものです。
その力をどちらへ回転するか、どの方向へ向けて動かすかによって、どのような大きな
幸福がおとずれるか、小さな幸福しか与えられないかの相違がでて来るのである。

 時には“コトバの力”を逆回転させると、そこから不幸が飛び出して来ることもあります。
“コトバの力”は諸刃の剣であり、自己が間違えば自己が斬られ、敵が間違えば敵が斬られ
るのです。それは十字であり、×(ななめ)となる時は「必殺」であり、正しく構えるとき
「復活」である。“コトバの力”を順に廻すということは、人を称(ほ)め讃(たた)える
称賛の言葉を使うことでり、自己の受けたる恩恵を感謝する言葉を使うことである。
称讃と感謝の方向に鍵を廻転する事が大切である。

感謝合掌

733金木犀:2012/05/27(日) 14:43:00 ID:6XLEmIgs
碧巌録解釈 (第五十六回) 谷口雅春先生
第五十六則  欽山一鏃三關を破す(2)

[本則] 擧す、良禅客、欽山に問ふ。一鏃破三關の時如何。山曰く、關中の主を放出せよ看ん。良曰く、恁麼(いんも)ならば則ち過(あやまち)を知りて必ず改めん。山曰く、更に何の時をか待たん。良曰く、好箭(こうせん)放ちて所在を着けずと云いて便(すなわ)ち出づ。山曰く、且(しばら)く來れ闍黎(じゃり)。良首(かうべ)を囘(めぐら)す。山曰く、一鏃破三關は即ち且く止(お)く、試みに欽山が與(ため)に箭を發せよ看ん。良擬議す。山打つこと七棒して曰く、且く聽(ゆる)す這(こ)の漢、疑ふこと三十年ならん。

[解釈]  鏃は矢尻である。良禅客という僧が欽山和尚に問うた。「一矢を放って三関をを射貫いてこれを降伏するという語(一鏃破三關)がありますが、私は一本の悟りの箭(や)で以って貪瞋癡(とんじんち)の三つの関所を打ち破ることが出来ると思いますが、そのとき、本当に貪瞋癡の三関を打ち破れたということは如何にして、知ることが出来ますか」
「関中の主を放出せよ看ん」(関所には関所の司令官たる大将がいるであろう。それを探し出して見せよ。それを引きずり出して見せたならば本当に貪瞋癡の三つの関所を打ち破ったことがわかるであろう。貪瞋癡を部下にして人間をまどわしているその迷いの主将たる“根本無明”という奴の首実見(くびじっけん)をするから、その者を引出して見せよ)

と欽山和尚は追求する。良禅客は、一本の悟りの箭(や)をもって貪瞋癡の三関を打ち破ることが出来ると言って見たものの、その三つの関所を支配している司令官たる“根本無明”が何者であるかを知らず、それを射殺すことが出来ていなかったら、三つの関所を打ち破ったなどといっても、本当は打ち破ってはいないのである。そこを欽山和尚は追求して行ったのである。

だいたい貪瞋癡の三毒の兵隊に命令を下して、人間が悟りを得る道を遮蔽している司令官たる“根本無明”とは何者であるか、それを見つけ出して覘(ねら)い撃ちして倒さなければ、三関を破ったということはできないのである。だから、その関所の司令をここへ出して来いと欽山和尚はいうのである。

良禅客は『傳燈録』にもその名が出ている相当立派な僧で巨良和尚という名の人だそうだが、貪瞋癡の根元になっている“根本無明”を今直ぐ考え出そうとしたが、どうしても思い出せないので、「三関を一鏃で美事に破ったなどと軽率な事を申し上げて申し訳ございません。まことに過ちを犯しまして済みません。必ずこの過ちを改めまして本当の答えをそのうちに出しますから暫くお待ち下さいませ」といったのである。

欽山和尚は「それには何の時をか待たん」(どれほどの時を待ったら可いのか)と言う。

すると、良禅客は「好箭放ちて所在を着けず」(いくら好い覘(ねら)いをつけて箭を放っても、思う的に当たりそうにありませんから止めましょう)といって「便(すなわ)ち出づ」大急ぎで出て行こうとするのである。

「ちょっと待った、阿闍黎(あじゃり)よ」と欽山和尚は彼を呼び戻す。良禅客が振り返って戻って来ると、欽山は、
「一箭(いっせん)よく三関を破るという問題はまあ且く後のことにして、この拙衲(わし)の欽山を的にして一箭を放って見たらどうか、そのお手前を拝見したい。何とか汝言句を吐くとか、喝するとか、打つとか」と言った。

突然のことで「良擬議す」(良禅客は、“こうでもない、ああでもない”とまごまごしている)そこで「山打つこと七棒」(欽山は良禅客に七棒を食らわして)、
「しばらく聽(ゆる)す這漢(こいつめ)。こいつ、これでは三十年間もまごまごしているだろうよ」と歎息したというのである。これで本則は終っている。

734SAKURA:2012/05/27(日) 21:27:32 ID:JC2fkQZo
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ

こんばんは…
ロ−マ字の【SAKURA…】で〜〜〜す。五月晴れ??の一日でしたが〜〜♫
今日は“自宅”からの“メッセ−ジ”です…「空気清掃機の掃除!!」……
話は変わりますが“メ−カ−”によって「掃除のやり方」が?色々ですモノ?
今回「新しく買った品物…」なのですが……
“フイルタ−”が、“1年保証??”持つはずなのに〜〜♫〜〜><
も〜〜〜〜〜〜〜〜う!【真黒…黒?黒?〜〜〜苦労?】です…。
【掃除に〜〜掃除に〜〜と】次々と増えて行く【SAKURA】でした…。
そうなのです〜〜〜ョネ!!【灰かぶり〜〜〜♫〜〜〜の“私”】
“時計の針”が〜〜【キンコ〜〜〜カ〜〜ン〜♫〜】となり、気がつきますと?
【シンデレラ姫?=>なりそこねた“靴”もはけず…“お昼”抜き??><
さて!!「今日の言葉」を〜〜〜“本を両手”にはさんで…“神”に〜♫〜
「吾此の“書”を開き給いて〜〜〜☆〜〜」ペ−ジを“オ−プン”!

■【栄える生活365章】
――――真に幸福を得る言葉――――
真に幸福となるためには、自己の欲望を正しき方向に制御しなければならない。
制御なき欲望の飽くなき充足を求めるのは、恰もゴ―・ストップの信号なしに
十字街頭に無数の自動車を勝手に気儘に走らすようなものであって、
必ず自分自身が傷つくのである。“肉体的自己”の利己的欲望を適当に
制御した者のみ、“本当の自己”の自由を得るのである。
真に幸福となるためには謙遜で下の位置につかなければならない。
自己の現在の力量以上に高き位置につこうとするならば常に下に落とされる
危険を感じてその人は幸福になることはできないのである。
真に幸福になるためには寛大な心をもたなければならない。
人を憎んだり恨んだりしている限りに於て、その人は常に自分自身の心を
切りさいなんでいなければならない。本当に人を赦したとき、
あらゆる事件と事物とを感謝をもって受け取ったとき、
人は魂の解放を得るのである。            (谷口雅春著)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆                       

■人は“幸福を探し〜求めて〜♫〜”【青い鳥…探しに??】
勿論!!私も“幸福”になりたいです〜〜〜ョネ!過去を振り返ってみますと…?
思い当たる節が、多々ありま〜〜〜すデショ? ><
やはり【 心の法則 】ですから…
間違った【法則…】に、そして、その方向に行った時は、矢張りそれなりの事が、
“時間・空間”を隔てて、それなりの事物が、必ず生じますモノ〜〜ネ?

■【感情…】の赴くままにての“行動”は、確かにその【瞬間…】は、良いかも??
しれませんが〜〜〜〜〜><
「良い種」を、蒔いていませんから…><「悪い種」が発芽して……><
結果は【幸福の種】を果たして?頂く事ができますでしょうかしら〜〜ン?
かの「ステラ・テリルマン女史」が、おっしゃいました様に…
必ず!必ず!〜〜〜〜【円環の法則…】私自身も身近な人で…その”円環“が…><
現在来ている人を知っております…。■【14年間の円環…】
「悪の種」を招いて【不幸…】になっていくのでしょうかしら〜〜〜ン!

■人を怨んだり!人をさげずんだり!は…“ネガティブ感情”ですから…><
私の【マインドコントロ−ルで“ボディティブ”モ−ドに切り替え……】
ここが〜〜〜〜〜そうなのです〜〜ョネ!【一押し?????】ウ・フ・フ!
私の【意志の強さ…】をと、思いますが〜〜〜?
やはり【祈り…】で“簡単”に行きます〜〜〜ョネ!
【簡単=最高】でしょうか???

■最高・最高〜〜〜〜〜〜〜〜最高!と唱えていましたら、本当に!
此の“現象世界=現実世界”に投影されまして…
本当に〜〜【最高の形〜〜!!】が現れてきますでしょうかしら〜〜〜ン?
最後は【心の世界】が、大事だと思います…。

■■【祈り…】は、“人の魂”を最高!最高!に導く【羅針盤…】です〜〜〜ョネ!

                           再合掌

PS:トキ様へ
本日は“神様からのメッセ−ジ”頂きまし時〜〜♫〜〜
【心の世界…心の法則】全てが作るものと思いますが…その時の“問題…”が?
「意志の強さ…思念」フラリ〜フラリ〜☆の時も、あります。〜〜><
トキ様は、失礼ですが、如何でしょうか??

735SAKURA:2012/05/27(日) 21:50:06 ID:MaFB3F2o
>>731
トキ様へ

ありがとうございます…。
ロ−マ字の【SAKURA】です。“メッセ−ジ”拝読させて頂きまして…
【力強いものを感じ〜〜〜〜〜!】させて頂きました…。

「トキ様」…大変でしたです〜〜〜ョネ!やはり!やはり!ですョ〜〜〜ネ?
どんな“境遇”に置かれても?「耐える精神」も大事なのでしょうか??
ここが【金剛心=精神状態】なんでしょうか〜〜〜〜〜♫
つかまえずに〜とらわれずに〜ただ【神様の御心を信じて“行”ずる事】です〜ネ!

私も“神様のアンテナ”に、方向を向けまして、その“電波受信”しました以上…
「神様」が必ず!私なりの“処遇”をして頂けるまで…【神の声】が〜〜
私の“心の中…メッセ−ジ”届くまで、頑張ります…。

■もしも?もしも?〜〜〜♫〜聞こえない様でしたら……「やまびこ」の様に…?
【大きな“声”で〜〜〜一人静かに“神様”に、届け〜〜〜♫〜〜】と
【送受信…】します…。――>【スイッチ・オン…】
きっと〜〜〜きっと〜〜〜“キャッチ”出来ます〜〜〜〜〜ョネ!
                       再合掌

736ハマナス:2012/05/27(日) 23:00:30 ID:u5mC.eb2

神の子のみなさま
こんばんは。

人の功績を認めよ  (『新版 生活の智慧365章』P.165)

 現象的には、まだ其の人が色々の善き徳や行いや善き性質をあらわしていないように見える時にも、
その人の生命の実相には無限の善徳や善き性質や善き行為が宿っているのである。それを引き出す
のが称讃の言葉の力である。讃められれば讃められた方向に、その人の行動力が動き出して活動を
始めるのである。それゆえに子供を教育する場合などには、特にその子供に欠けていると思われる
徳目が既に本当にあるかのように讃める言葉を使うならば、その子供にやどる実相の完全さが、
その讃められた方向に浮かび上がって来て、その子供が本当に立派になって来るのである。

 しかし子供ばかりではない。無数の大人が如何に称(ほ)められることを欲しているかは、文化
勲章や藍綬褒章(らんじゅほうしょう)や、黄綬(おうじゅ)褒章を貰うことを如何に光栄に考え
られているかで明らかである。人を使う秘訣も、従業員各員の功績をみとめて称める言葉を如何に
巧みに使うかにかかっているとも言い得るのである。

感謝合掌

737a hope:2012/05/28(月) 07:29:13 ID:kcv2QXTk

人生読本 谷口雅春先生著

無限の値打の生み出し方


私達が、もし自分のすべての時間を本当に生かすという事ができますれば、
私達は恐らく、今生きている何倍、否、何十倍も生きられることになるでしょう。

単に時間的に考えると、一日に四時間雑談に使うところを、その四時間だけ何か勉強すれば、
ただそれだけでも、一つの事柄の大学者になることができるのであります。
人が出世できないのは時間の利用法を知らないからです。

その上、四時間を勉強すればその四時間だけ助かると思いますけれども、
それはそんな小さな問題ではないのであります。
そ四時間の時の流れの時々刻々を本当に生きてゆく事にしましたならば、
その四時間の中の時々刻々、一分一秒一瞬が又おのおの無限の価値をもってくるのであります。

そうなりますと、私達の時間の生かし方によっては、
計算のできない無限の価値がそこから生まれてくるのであります。

(つづく)

738金木犀:2012/05/28(月) 10:51:31 ID:6XLEmIgs
碧巌録解釈 (第五十六回) 谷口雅春先生
第五十六則  欽山一鏃三關を破す(3)

[頌(じゅ)]  頌に云く。君が與(ため)に放出す關中の主。放箭の徒、莾鹵(ぼうろ)なること莫(なか)れ。箇の眼を取れば耳必ず聾す。箇の耳を捨つれば、目雙(ふたつ)ながら瞽(こ)す。憐れむべし一鏃破三關。的々分明なり箭後の路。君見ずや、玄沙言へること有り。大丈夫天に先だちて心の祖と爲る。

[解釈] 「君が與(ため)に放出す」という句の“君”というのは、この頌を書いた雪竇禅師が読者全体に対して呼びかけた語である。「さあ諸賢のために三関の司令官をしている“関中の主人公”をここに放り出して見せるぞ」というのである。「箭を放つ人よ、射損じないように箭を放つのじゃよ」というのが、「放箭の徒、莾鹵(ぼうろ)なること莫(なか)れ」である。眼で見る物質をそのままあると思い、耳で聞く“人々の言うもの”をその通りあると思う、そうして物質はあ’る’と思い、物質をあ’る’と思うから“貧”という関所に人から税をとり立ててたくさん我楽多(がらくた)を積んでいながら、“まだ足らぬ”などと思うのである。そして物質の奪い合いや、領土の侵略などに腹を立てて痴(おろ)かにも喧嘩は勿論のこと戦争までも惹き起こすのである。

この貪瞋癡の三関は人間に無限の税を課し、人間からすべての幸福を奪い去る税関の官吏であるが、その司令官たる「根本無明」は何処から生じたものであろうか。『大乗起信論』には「忽然念起」と示されているが、“忽然”とは“忽ち”ということではなくヒョッコリという意味である。ヒョッコリ出て来るというのは何処から出て来たのか判らないままにそこに姿をあらわすという意味である。

しかし唯物論が貪瞋癡の三関を生ずる根元たる最高司令であることはたしかである。人間が地上に生を享(う)けて、赤ん坊として出現したとき、彼は自分の存在及び他者の存在を、感覚を媒介として直感的に錯覚するのである。すなわち「触れる」ということを通して自分の存在が「肉体」という物質であると錯覚し、外界に存在するものも、母親の乳房をはじめとして物質であると錯覚する。つまり“触れ合う”という偶然の出来事を通して忽然ヒョッコリ「自分」も物質であり、母親の乳房をはじめとする外界の万物も物質であると錯覚的に認知する、そして大抵の初歩の人間・原始的人間は素朴的唯物論に陥る。そして物質をかき集めることが“得”だと思い、“貧”が生じ、物の争奪が起り、“瞋”即ち“怒り”が生じ、諸々の白痴的な愚行が全人類を餓鬼道的、修羅道的、地獄的な騒乱の断層に人類ぜんたいを陥れるのである。この三関の収税官吏を指揮している総司令は、こうして探査して行くと、たしかに、“唯物論将軍”なのである。人類解放のために箭を放つ者は、何より先づ、この“唯物論将軍”を斃(たお)さなければならないのである。

この唯物論将軍が出生したそもそもの根因は、眼耳鼻舌身の錯覚的認識を否定しなければならない。即ち『般若心経』がいみじくも説いているように、[無゜眼耳鼻舌身意」と宣告を下し、「五蘊」を引っ捕らえて「皆空」と判決を下し、これらを“無”と“空”との牢獄に閉じ込めて再びと出られないように封印をほどこさなければならないのである。放箭の徒よ、五官の眼にだまされて、ボンヤリするな。イエス・キリストは「汝らは“見ゆ”と言う罪は残れり」と肉の眼の存在を弾劾しているのである。「箇の眼を取れば耳必ず聾す。箇の耳を捨つれば、目雙(ふたつ)ながら瞽(こ)す。憐れむべし一鏃破三關。的々分明なり箭後の路」とはこの事である。敵将を斃(たお)すには、その箭がどっち向いて行くか、先づ放たれた箭の描く路線をハッキリ見なければならないのである。玄沙の岑(しん)和尚が言った言葉に「大丈夫、天に立って心の祖となる」というのがあるが、「祖師嘗て西せず、未だ嘗て“心”を以て傅授せず」と、垂示にある通りであるから、大丈夫たる者は、天が吾々にこの真理を示してくれるよりも、天に先立って、自分みずから“心”の眼をひらいて“心の祖師”となる自己に宿る“生命の實相”を知る位でなければならないのである。

739復興G:2012/05/28(月) 18:41:05 ID:84pogn5s

 『光明道中記』(谷口雅春先生著)より
 一月二十二日〜一月三十一日の金言を謹写投稿させていただきます。合掌 拝

     ○

 一月二十二日 九族生天踊躍(しょうてんゆやく)の日

  吾らは初めから如来であり、成仏している。(『生命の實相』第一巻)

 金の純分のみが金となるのであって瓦を磨いて金とするのではない。凡夫が仏になるのではなく、凡夫が消えて仏があらわれるのである。凡夫のはからいが「雑行雑修」と言って真宗で排斥せられるのも、凡夫が如来になるのではない証拠である。仏と仏とに伝えてよこしまなることなきが禅であると道元は『正法眼蔵』で喝破している。たとい吾等が汚れたように見えようとも、人間は本来汚れているものではあり得ないのである。
 発止として自覚の灼熱状態に於て打たれるとき、人間はその仏なる実相を露呈する。
 そのままが仏であり、打っても打たなくとも仏であるが、打てばそれがあらわれる。
 打つのに色々な打ち方がある。
 昔は「お前は悪い奴じゃ。もっと修行せよ」と言って打った。
 生長の家は「お前は善い本性を無尽蔵に有っている。励めば励むほど、出せば出すほど力が出る」と言って打つ。どちらが効果があるかは既に実証済である。

     ○

 一月二十三日 寒菊競(きそ)い開く日

  十六方位の世界を一つの常住性ある永遠滅びぬ世界とするが日本の使命である。(『秘められたる神示―神示講義〈秘の巻〉』「久遠天上理想国実現の神示」)

 全世界を宇(いえ)と為す神武天皇の八紘為宇(はっこういう)の建国の理想は決して侵略精神ではない。八方の国々が家族となって人類全体が睦み合う理念である。此の理念を「生長の家」と言う。理念は普遍的なものであるから、これは私の家ではない。何故そう云う名称を附したかと言えば、生は縦に無限に生(の)びることを現し、長は横に長(の)びることを現すからである。縦の無限連続は時間であり、横の無限連続が空間であり、縦と横と、時間と空間との交叉する万象発現の枢機を握るものが、内に一切を蔵する無字であり、一切を統一する天皇の御天職である。此の真理に世界の万民が目覚めないから万国互に相争うのである。全世界は天皇に於て一宇(ひとつのいえ)である。万国の民にそれを告げ知らせる東道(みちしるべ)の役目を以て出現したのが吾々の団体である。病気が治り運命がよくなり、万事に成功すると云うが如きはただ副作用に過ぎない。天地の真理、すべてが生長する真理に随順して生きる時、真理の中には病気不幸は存在しないが故に、病気不幸が消えるのは当然のことである。病気不幸が起るには何か真理に離れたことがある。省みて真理に載(の)るものは幸である。
<つづく>

740復興G:2012/05/28(月) 18:42:05 ID:84pogn5s

<つづき>
 『光明道中記』(谷口雅春先生著)より

     ○

 一月二十四日 妙音囀(てん)ずる日

  「汝(な)と我(あ)と天(あめ)の御柱(みはしら)を行きめぐりて国生みなさんと思うは如何に?」と如何にも天地のいのちの交流の厳かさが見えるようではありませんか。これを誰も卑猥に感ずる者はない。(『生命の實相』第二十巻)

 鶯(うぐいす)が啼(な)いている。実に澄んだ声で啼いている。玲朧(れいろう)たる声だ。どこにも汚れの感じられない声である。それは雌雄呼び交す声であるのに何の卑猥も感じない。天地そのものの讃歌のように聞えるのは何故であろう。それは鶯には我が無いからだ。天地の生命と一枚になっているからだ。
 梅の花が香っている。清浄そのものの匂いよ! その一輪一輪の浄潔とでも、浄厳とでも言いたいような花びら、雌蕊雄蕊(めしべおしべ)の美しきには何らの卑猥の影もとどめない。
 それだのに植物学者はその花はやはり雌雄呼び交すための装(よそおい)でしかないと教える。
 人間ひとり、男女呼び交すことを卑猥に感ずると云うのは、人間には我があって、天地の生命と一枚にならないからである。エデンの楽園を追放せられたのは、アダムとイヴとが智慧の樹の果を食べたからだと云う。
 天地の生命と一枚になり切らないで、色々と人間の理窟で考える、打算で考える、欲で考える。そこに純潔であるべき筈の恋愛が不浄なものとして感じられて来る。

     ○

 一月二十五日 光明充満する日

  自分の利益のために楽しもうと思って性欲を扱いますと、性欲が汚れたものに見えて来るのです。(『生命の實相』第二十巻)

「高天原(たかあまはら)に神詰ります」と実に朗々とした声で祝詞が響いて来る。朝の空気を動かし、霧を動かし、「高天原なる大宇宙に神が充満している」と云う観念が天地を動かす、実に荘厳だ。それを古代日本人は知っていた。常に古代日本人は「大宇宙に神遍在す」と誦(とな)え念じ、邪気を祓(はら)っていたのである。神が充満しているから、悪の存在はあり得ない。尽天尽地ただ神のみである。神光遍満、邪気不在である。その大宇宙を「家」と見たのが古代日本人である。吾々はそれを生長の家と名附けた。「生」の縦に生びる神漏伎(かむロギー)と、「長」の横に長びる神漏美(かむロミー)と、一つの中心普遍的神漏皇(かむロゴス)が陽陰の対偶と分化しあらわれて、陽陰の偉大な素晴しき交流となった家が「生長の家」である。私の家が生長の家ではない。大宇宙が「家」であり、生長の家の理で充たされている。生長の家の理を隠蔽することなく生きた時に、其の人が生長の人となり、其の人の家が生長の家となり、国家が生長の国家(いえ)となる。組合(クミ)と云う意味での国々は世界到るところにあるが、国家すなわち国がそのまま家族であるのは日本のみである。全世界を家族となし全世界動乱の因を断つのが日本の使命である。
<つづく>

741復興G:2012/05/28(月) 18:42:58 ID:84pogn5s

<つづき>
 『光明道中記』(谷口雅春先生著)より

     ○

 一月二十六日 万事和する日

  生長の家とは建物の名ではない、「和」の名であり、「愛」の名である。(『一流の人・妻・子を作るには』)

 生長の家は、「生長の人」と称さなかったところに深い意味が蔵されているのである。生長の家は個人主義ではないのである。「肉体本来無し」との宣言(よびかけ)は徹底的に個人主義を粉砕する。肉体のないところに個人はあり得ないからである。個人は無いが全体は有る! 今までの医学は個人医学であったゆえに此の世界から病人を少くすることが出来なかったのである。過去の政治は個人を目標とする政治、又は対立国家を目標とする政治であったが故に全世界を永久平和に置くことが出来なかったのである。今迄の経済は個人経済又は一国の経済を基礎としていたが故に循環流通無限供給と云うことが不可能だったのである。肉体無の真理を知り、ただ全体のみの存在する真理を知り、その全体とは神に在(ま)しますことを知り、その神の全徳の御表現が天皇(すめらみこと)に在らせられ吾らがその股肱(ここう)にして赤子(せきし)であると知る。一君万民、全世界の人類がただ上御一人(かみごいちにん)を大御親(おおみおや)として仰ぎまつるには、肉体を見、肉体の差別を見、皮膚の色、眼の色などを見ていないで、生命のひとつ流れを把握すべきである。

     ○

 一月二十七日 久遠皇位を胆(きも)に銘ずる日

  火にも焼けざる皇位の久遠無窮性を立証せんが為に、火を着けて皇子をお生みになったのです。(『驀進日本の心と力』)

 生命(いのち)のひとつ流れの実相を把握するとき、眼の色は異り、皮膚の色は異るとも、八紘は一宇であり、一家庭であり、すべての人種ことごとく天皇の徳に帰一し奉ることが出来るのである。
 ナチスの血の哲学、民族の哲学はゲルマン民族の栄えのために把握されたる哲学であった。日本の哲学はそんな狭い精神でないのである。東洋民族よ聯合せよ! と云う東洋民族の哲学でもないのである。それはまだ血を見ている。血を見るのは皮膚の色を見ることであり、骨格を見ることであり、人種の差別を見ることである。人と人とを分割することである。
 外国の哲学はどんなに優れていても結局は分割に落着く。日本の哲学は包容帰一である。ヒトとは霊止(ひと)であり「理念止まる」である。全世界が一家庭たる理念降下し、義に於て君臣、理念に於て陛下の赤子である実相を知るとき、何人種と言えども既に日本人である。「日本を守る会」は他国と対立して、小さい現象日本国を守るのではない。天皇を中心に全世界が一家庭となる包容帰一の日本の理想を守る有志の懇談会である。
<つづく>

742復興G:2012/05/28(月) 18:43:40 ID:84pogn5s

<つづき>
 『光明道中記』(谷口雅春先生著)より

     ○

 一月二十八日 一切人間を礼拝する日

  既に善があってそれが出て来る。その善と云うものが存在の本体であり、自分の本体なんです。(『驀進日本の心と力』)

 善とは外から縛る囹圄(れいご)ではない。吾々の生命の本性が善なのである。吾々の生命の本性が善であるが故に、善は内から一種の否定すべからざる圧力を以て迫って来、吾々をして善を為すように強制する。この力を倫理学者は当為(Sollen)と名附けた。若し善の内圧を拒むならば、吾々の生命は苦痛を感じ、苦悩を感じ、その苦痛苦悩を表面にあらわして、それは吾々の肉体に色々の具体的病気として表れる。
 病気は抑圧されたる「善」への衝動の悩み苦しむ有様だとも、「善」が実現せんとしてまだ空虚の状態であるとも言い得る。従って、「善」を為すように勧めることによって病気が治った実例は沢山ある。生長の家へ相談に来て病気が治って帰る人々の殆ど全ては善を為すように勧められ、善を為さんと決心し、抑制せられていた「善」への衝動が解放される故に治るのである。
 すべての善のうち最も大なるものは中心に帰一する心をもつことである。子は親に対して、妻は夫に対して素直に随順感謝するとき病気が不思議に治るのである。

     ○

 一月二十九日 心朗かなる日

  病気は自己を顧る好機会だ。顧みて迷を去るものは幸いなるかな。(『生命の實相』第五巻)

 心朗かなれば病はない。他を憎まなければ病はない。悲しまなければ病はない。物思いに沈むことなければ病はない。怒ることなければ病はない。気づつないこと、見栄を飾ることなければ病はない。不平に思うことなければ病はない。呟くことなければ病はない。ひとから同情して貰おうと思うことなければ病はない。病気になって都合よしと思うことなければ病はない。家に争いなければ病はない。仕事を嫌うことなければ病はない。隠す心なければ病はない。羨(うらや)ましく妬(ねた)ましく思うことなければ病はない。
 心暗ければ病生ず。陰気が強くなるはすべての悪の中の悪である。心明るき悪人は、心暗き善人に打ち勝つものである。心暗ければ本当に善の資格はないのである。人を愛すれば病はない。すべての事物を愛すれば病はない。愛するとは深切丁寧に心掛けることであって、執着してその人または事物に巻き込まれて心が顛倒することではない。
 心顛倒するは智慧が欠けているのである。智慧欠けるは深切丁寧が欠けているのである。
<つづく>

743復興G:2012/05/28(月) 18:44:54 ID:84pogn5s

<つづき>
 『光明道中記』(谷口雅春先生著)より

     ○

 一月三十日 美点を見る日

  憂欝になって来た時哄笑(こうしょう)を爆発させよ、之(これ)が健康と若さを保つ秘法である。(『生命の實相』第十一巻)

 心朗かになる道は、世の中に悪と云うものが決して存在せぬことを根本に知ることである。一局部だけを見ずに大局を見る。短かい眼を以て見ずに長い眼を以て見ることである。冬のうちに春の兆していることを知ることである。陰極は必ず陽転することを知ることである。
 心朗かになる道はすべての人を赦すことである。憎しみを放ち去ること、憤りを含まぬこと。すべての人の美点を見ること。相手の立場に自分を置いて考えること。気にくわぬことは忘れること。呟(つぶや)かぬこと。罵(ののし)らぬこと。みずから立ちて我れに無限力ありと思い返すこと。他と協力するのは好いが、こちらが弱者的角度から同情を請わぬこと。
 人生の戦いはその人の執る生活の角度で最初にきまるのである。負ける人は常に負ける角度から出発し、既に負けているかの如く呟き、既に負けているかの如く左顧右眄(さこ うべん)し、既に負けているかの如く人に依頼し、依頼心を裏切られたと言って嘆き悲しみ呪い呟く。呟くひまに、呪うひまに、悲しむひまに、嘆くひまに、日に日に進歩する者はついに勝利するものである。

     ○

 一月三十一日 絶対善を悟る日

  善くしてやろうと云う想念は相手を害し、既に善いとの想念は相手をよくする。(『生命の實相』第七巻)

 すべての魂の不安を去る信念は神の創造の世界に悪はないとの信念である。神の造り給うた人間の子に悪はない。病気も無く、不成績もない。病気があるかの如く見え、不成績があるかの如く見えるのはそれは五官が見るのであり、五官は吾が信念の賦彩(ふさい)によって真相が歪められたる相(すがた)を見るに過ぎない。されば如何に五官に見える相が悪しかろうとも吾々はその五官の惑(まどわ)しに心を顛倒せしめて了ってはならない。吾が親または子を信ずること。吾が夫または妻を信ずること。兄弟姉妹の美しさを信ずること。すべて人の善さを信ずること。形の上で縛ろうとするとき、生命は自由を欲するものであるから、反動的に反対の方向へ動いて行こうとするものである。信じて善念を送りさえしたら其の人は必ずよく成る。「信じていたのに騙(だま)されました」と言う人があるものだが、その人は信じてはいたけれども、屹度(きっと)善念を送らなかった人に違いない。
 阿弥陀仏を信ずるとは「南無阿弥陀仏」と称えることである。子を信ずるとは放って置くことではない。「善い子だ、有りがとう」と念じ称え、感謝の念を送ることである。

744SAKURA:2012/05/28(月) 20:56:26 ID:V.pKl3yA
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ

こんばんは… ロ−マ字の【SAKURA】で〜〜〜〜す。

“不穏な空気”でしょうか??【知らざるモノ〜あたわらずモノは〜】
先程“パソコン”を開いて見ますと“ビックリ・マ−ク”私の心模様は??
【騒ぐ…?】ようなもの???なのでしょうか???
先ず!【現象で物事…】を、見ているように、感じますが…
先生の本を開きます……【今日は!何と【法則】で〜〜す。】では……「スタ−ト!」

■【幸福を招く365章】
――――「法則」が全てを成就する――――

「私は健康である。私はけんこうである。私は健康である・・・・」
病人はこの言葉を暇のある毎に唱えよ。但し、その回数多きによって自分の言葉の力で、
健康になるのだと考えてはならないのである。そう引っかかると、唱える回数や、
思念の力の薄弱さなどを考えて、結局こんなことで祈りがきかれるだろうかと云う
不安と疑いとに導かれ、そのため効果がなくなってしまうのである。
吾々が善き言葉、健康の言葉を自分から出すことは、ビルディングのルーフから手を
突き出して風呂敷包を自分に手から放つと同じである。
あとは「法則」がその風呂敷を地上に必ず落下せしめる。汝の言葉が汝を健康に
するのではなく、汝の言葉が種となって、後は法則がそれを成就するのである。
                        (谷口雅春著)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆

■【すべて法則…】で、成り立っているんでしょ〜〜〜ネ!
【宇宙〜〜〜〜〜は?“甘露の法雨でも…
”五感“を超越して…“六感”さへも超越…つまり二次元・三次元・四次元の世界へ…
全て!〜〜〜〜〜〜〜“宇宙…”に、生きんです〜〜〜ョネ!

さて【甘露の法雨…】を、もっと分かりやすくしたのが〜〜〜今回!
【雅宣先生の示されました“お経”…】その様にも思えますのです。

■■【奇蹟…】と云うのも、その人の【心の法則…】でショ!!
振り返りますと【成功された方達】を見ますと……
ほとんどの方は【信念・哲学…】があります…。
そして【法則…】に従がった方達ですが……!!
但し「成功も、少なくとも“15年以上”の方達…」を、私は指しています…。

■■話は“ブレイク”しますが……
あの「堀江貴文さん」は、確かに!“財…”を作られましたが〜〜〜><
【法則…法則!】に従わない!!そうですョ〜〜ネ!
神の御心にあった【法則】に!従わなかったのではないでしょうか??
■【法則に従った、正しい“理念”が必要です!!!!】…【成功の条件でしょうか】
“言葉の力”で唱える事は……【宇宙の潜在意識】に導いていくのです〜〜ョネ!
つまり!つまり!
【唱えるながら〜〜〜“宇宙に貫く事!宇宙に行かせる思い!此の事は”法則“】
なんです〜〜〜ョネ!!!その様に思います…。

それで「雅春先生」は【法則…】が…
■“風呂敷を地上に必ず落下せしめる”私自身の心“の奥に入る事!
これが落下せしめる……宇宙の法則に従うことが「成功のマイロ−ド」…!

私は此の様に“把握…”出来ましたが……今回!
【新聖経…??】と申しますか、今までの〜〜「聖経…」を分かりやすく“解説”
していますのでは〜〜〜?
今から「若い方達」を導いていく上では、「御教え」はすばらし〜〜イ !!
さて!これを一般の方々に広めるには?ついて行ける“内容=言葉”では?
又それが必要ではないのでしょうか〜〜〜〜??
                       再合掌

PS:トキ様へ
今回【新・聖・経…】と申しますか??正直話しなのですが……
聖経の唱えられている“言葉”現代人に取りまして?或いは、又!
若者達に取りまして【理解度…】如何なものでしょうか?
例えば…全くの「信仰心」のない方々であるならば…少し反発する?点もあるのでは?
そう云います私も?勉強中!!!!!ウフフ
今回の「新・聖・経…」と申しますか?先ず!!!【イメ―ジ】としては、
分かりやすいのではないでしょうか?どの様に思われますか…?
【害…】?とは別にして…“白紙”で唱えられました時〜♫〜どうでしょうか?

745ハマナス:2012/05/28(月) 23:10:38 ID:u5mC.eb2
神の子のみなさま
こんばんは。ありがとうございます。

実相を礼拝して賞めよ (『新版 生活の智慧365章』P.166より)

 しかし、人を称(ほ)めるにしても、その人から善き行為や性質を引き出す方便又は
技術として称めるのでは効果も薄いし、また本当ではないのである。実際にすべての
人間には実相として「神の善徳」が宿っていることを信じ且つ知り、その実相を礼拝して、
誠心(まごころ)で賞め称えるのでなければ本当ではないのである。これを『法華経』に
於て常不経菩薩(じょうふぎょうぼさつ)がその模範を示し給うて、その相互礼拝によって、
人々が仏の実相をあらわして成仏することを釈尊が示し給うたのである。

 生長の家の教えは、「汝ら天地一切のものと和解せよ・・・和解するとは怺(こら)え
合っていることではなく、感謝し合ったとき本当の和解が成立する」との根本的教示によって
出発するのである。相互礼拝、相互称賛も、本当にそれが手段や技術でなくなるためには、
互いに感謝し合う心境になることが必要なのである。天地一切のものに感謝するとき、
天地一切のものの美点が自然にあらわれて来て其人を取り囲むようになるのである。

感謝合掌

746a hope:2012/05/29(火) 07:50:10 ID:kcv2QXTk

人生読本 谷口雅春先生著

時間を拝んで使え


ですから私達は常に時間をどう使ったらよろしいかというと、
拝んで使うようにするとよいのであります。
時間を拝む気持ちになるのであります。
私達は常になんでも拝む事を忘れてはならないのであります。

生長の家は人間を神の子として拝み合うのでありますが、
時間もやはり神の生命(いのち)の流れだと考えて拝むように使うのがいいのであります。
とにかく、時間は尊ばなければならない。

単に利益だけを考えて、「これだけ捨てたら惜しいものである」と思って、
時間を大切に使うのも結構ではありますが、もっと深く考えますと、
ここにこういう時間に生きているという事は、
これは神様の生命の流れの中に一日一日をこうして生かされているということで、
実にありがたい事である、と、こう思う事によって、私達は今この生きている事実に、
本当に掌(て)を合わして拝む気持ちが出てくるのであります。

そうして今までここにこうしてこの位置に生かされているという事、
それ自体が実にありがたい事であると拝めるようになりますと、
本当に時々刻々が捨てられないところの一つの尊いものになってきて、
自然に時間を無駄にしなくなるのであります。

(つづく)

747金木犀:2012/05/29(火) 13:12:34 ID:6XLEmIgs
復興G様、光明道中記謹写、有難うございます。素晴らしいご文章の力、
読んでいて、まさに心に響くような言葉の芸術と仰った通りの
霊感にあふれた言葉の力です。

748金木犀:2012/05/29(火) 13:17:44 ID:6XLEmIgs
>>747
宛名のあと行を空けずに、すぐに文を続けてしまい申しわけございませんでした。


『生長の家』誌昭和52年8月号から、
【八月の法語】 谷口雅春先生 より

二十二日の法語 宗教的「悟り」の本質について

この時に、今まで物質の世界に住んでおられたお釈迦さんが、別の次元の世界に出られたのです。物質の奥に、肉体の奥に霊妙きわまりなき存在がある――その別の次元の存在の世界に超入することが“悟り”というものでして、唯「頭でわかった」というような次元の低い単なる「知」ではないのですね。

『甘露の法雨』のお経の中に“物質にて成るものひとつもなし”と書かれておりますが、“山川草木国土”というような、そういう肉眼で視たら“物質”に見えておるものが、実は仏のいのちの現成であって、物質というものは一つもないのであると、如実に、そういう悟りに、お釈迦さんはお入りになったわけであります。この「如実に」ということが必要なのでして、これが実相世界にそのまま超入することなんです。

これは人間の生命の本質、存在の本質について釈尊が悟られた一部分でありますけれども、釈尊の悟りはですね、もっと大いなる“宇宙的悟り”にまでひろがっておられた。そしてその悟りを得られてから、二、七日目、十四日目、という時点になって、その“宇宙的悟り”を初めて演説されたのであります。

演説されたといっても、そこに立派なお寺があって、そのお寺に拝聴に信者がやって来たというわけではないのであってですね。だからこれは、誰かをこの説法で救ってやろうという意図で方便説法をなさったんじゃなくて、釈尊のその時の次元の高い“悟り”そのままをズバリぶちまけて、それを表現されたそのお経、これが『華厳経』と略称されているお経であります。詳しくは、『大方広仏華厳経』というお経であります。

二十三日の法語 “宇宙的悟り”を説かれた華厳経

「大方広仏」とは、“大”は無限に広いことを意味します。“方”は方角であります。“広”は“ひろがる”ことですから、「大方広仏」とは、あらゆる方角に、広がっている仏様ということであります。

それですから、「大方広仏華厳経」というのは、仏様すなわち如来の御生命が蓮華の荘厳なる姿に展開しているのが、この宇宙であるという、そういう宇宙的な悟りを得られた、その釈尊のさとられた真理を、方便説法ではなく、そのままズバリと演説されたお経なんであります。

本日のテキストになった生長の家家族必携の経典『聖光録』のなかに“万教帰一要典”という項がありまして、その要典には、色々の宗教の中心真理になっているその一節を、詳しく全部書いてしまったら、もうこの一冊に一つしか書けないということになるので、そうでなしに、その真理を憶い出す為のヒントになる重要な数行ずつを引用して並べてあるのが、この“万教帰一要典”であります。

その中に『華厳経』の事も書かれているのであります。

さて「大方向仏」というのは、あらゆる方角に広がっている如来さまということで、宇宙に満ち給う普遍的仏様という意味であります。宇宙の普遍的仏様だから、これはキリスト教的に言えば普遍神です。あらいは“遍一切所”というように翻訳している仏教学者もあるのであります。

749SAKURA:2012/05/29(火) 22:49:21 ID:V.pKl3yA
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
こんばんは……

今日は本当に“物凄〜〜〜〜イ!意志!!”を持っていかない〜〜〜と〜〜♫!
朝!目覚めてから、私は前以上に………“頭…力んでいますが…?”
本当に「生長の家」は、
現在!殆どが“70代〜〜〜80歳代”ばかりではないでしょうか……?
或る人がいいますには、まるで〜まるで〜【老人ホ−ム】の様に見えるそうです。
本当に今から「生長の家」は…「新しいイメ−ジ」にならないと……
さて「雅春先生」の“今日の言葉”より……

■【幸福を招く365章】
――――不快になった時には――――

人生が退屈になって来たとき、心が憂鬱になって来たとき、
その退屈と憂鬱さの中へ溺れてはならないのである。
新しき興味を見出し、その方へ心を一転することが必要である。
心を新たに刺激する善き修養書を読んで、兎も角、心が明るくなる事が必要である。
身体のどこかが悪いと思ったときには、神様に訴えることだ。眼を瞑じ、静かに
「自分の内に宿りたまう神よ。私の心の中に何か間違いがあったらお赦し下さい。
そして中から自然療能によってこれをお癒し下さい。私も亦、私と不調和になって
いる全ての人々を赦します。有り難うございます」と繰り返し思念して、
自己の全存在自己の全存在を神に委せ切るがよい。     (谷口雅春著)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆

■若い時は、どんな状態でも“精神状態はフル回転!”しかも…私の場合は?
たまに“落ち込む時”は、“スパット横〜〜”になり、眠ります…。
その後、“脳の思考力”の“切り替えモ−ド”が自由自在に出来ていましたが〜〜?

■現在の私は、その様には、ならないのですが〜〜〜唯今!他の問題が発生!
……昨日の疲れを、まるで“引きづったように〜♫〜”
【疲れの原因?】は、いつものように【念の法則…】でしょうか???
そうなのです〜〜〜ョネ!噂の【吸血鬼・ゾンビ軍団…そして黒幕】なのです…。

見るたびに確かに“良い影響”は全く“ゼロ”と言っていいでしょう?
本当に、私にとっては“マイナス要素”なのです…。
いろんな“感情”が…山あり〜♫〜谷あり〜♫〜で押し寄せて来ますが……
そのような時!気分転換に、昔は“書物”を読んで、
気持ちの切り替えが起きていましたが〜〜〜><かなりの【身心力…】ですから?
でも?それでも?ダメなら〜〜〜【祈り…】です〜〜〜ョネ!

■100メ−トル競泳する様な“気持ち”で【神と一体】になるまで…
【宇宙遊泳…】なのです…。毎日!毎日!…「神様」に導かれるまで…
“今日の言葉”を唱えてみま〜〜〜す。

■更に!他のボ−ドで【うのはな様が日露戦争の借金…】が、昭和の終わりに完納!!
そうしますと〜〜〜〜〜〜〜?
【現代の借金?はほぼ同じ〜〜〜><】これ?どうなるのでしょうか…
「生長の家」どころでは無いです〜〜〜ネ!
ある日!!ロスチャイルドに売られる日とか〜〜〜?書いていました【ブログ…】!

これも今!!【日本国・日本人としての経済機能…】は?果たされていないのでは?
これも原因はやはり「和田和夫…さん」も?でしょうか〜〜〜?
いくら【営利に走る“商魂”は、素晴らしい〜〜のかもしれませんが…?】
それが【原因で日本経済が機能?】を果たしていない様に感じてしまいます。
どれだけの当時としては【中小企業が犠牲…】に、しかも【製造部門の崩壊】を、
招いた事は、事実と言っても過言では無いモノと?
もう〜〜〜〜〜!或る人は「和田和夫は…“守銭奴”」と言っていましたが?
更に!創価学会の動きも“日本経済”に対して“不能状態”の原因要素です〜〜〜ョネ!

■■今日は、本当に【不快指数が〜〜〜〜〜倍!倍!】になり…
此の時程、本当に【祈り…】に撤する事でしょうか〜〜〜??
本当に【日本経済は、それでも…“明治”から乗り切っている事は…
そうなのですョ〜〜〜ネ!!■■【神の国…】だからでしょうか〜〜〜?
■【日出づる国…天照大神】なのでしょう!!!

今日は、いつもより〜〜更に!いつも以上に〜〜「先生の言葉」を唱えて行きます?
                           再合掌
PS:トキ様へ
“ネガティブ感情”が起きました時は?どの様に対処されますでしょうか?
“アドバイス”頂きますと…幸いに思います…。

750ハマナス:2012/05/29(火) 23:56:27 ID:u5mC.eb2

神の子のみなさま
ありがとうございます。

あなたは神の善徳の噴出口  (『新版 生活の智慧365章』P.167)

 あなたは自己をもっと尊敬しなければならない。天地を創造した無限の力の噴出口――
又は表出口が自分自身であるということを知らねばならない。それを知ることによって、
あなたは、はじめて他に頼ることなくして自ら完全に他に自分自身を発見することができる
のである。みずから立つ自分自身を発見し、神が善徳の表出口であると知った時に、あなたは
神の如く、人々を救おうという意欲が生れ、且つ救う力が本当に湧き出てくるのである。

 あなたが人を救うために立ち上るまでは、『生命の實相』を読んで概念的に「人間は神の
子だ」と知っていても、それは頭脳の表層でそれを理解しただけのことであって、本当に魂の
底から、その真理を理解したとは言い難いのである。「われ人類の救世主イエス・キリストと
一体なり」「われ人類の救世主釈迦牟尼世尊と一体なり」「最早(もは)やわれ生くるに非ず、
天照大御神の生命この身にあって生くるなり」の自覚が本当に得られるならば、人類の危機
迫る現代に、ひっとしていられる筈はないのである。

感謝合掌

751a hope:2012/05/30(水) 08:07:01 ID:kcv2QXTk

人生読本 谷口雅春先生著

小さな時間を利用せよ


時間を利用して勉強するには、大きな暇な時間が来るのを待っていては駄目です。
大きくつづいた暇な時間は却って海水浴に往ったり、
見物に往ったりするために費やされて勉強にならないことが多いものです。

だから偉くなりたい人は、短い切れ切れの時間を上手に利用しなければなりません。
短い切れ切れの時間は、参考書を探しに往ったり、鉛筆を出したりしている間に、
すぐ失(な)くなってしまうものですから、そんな下手な時間の使い方をしていたら、
あなたは偉くなることはできません。

偉くなるには、ちょっとした時間でもすぐ勉強できるように、
常に小さな手頃の良い本をポケットに入れて置き、
十分間でも十五分間でも暇があれば、その本を披(ひら)いて覚えるようにすることです。

良いことは書き抜くように小さな鉛筆のついた手帳も一緒に持っていると一層よろしい。
たった十五分しかないから何もできないというようでは偉くなれません。

(つづく)

752金木犀:2012/05/30(水) 13:52:27 ID:QivWtXos
『生長の家』誌昭和52年8月号から、
【八月の法語】 谷口雅春先生 より(2)

二十四日の法語  華厳経に説かれている重現無礙の霊々妙々の真理

華厳経には、宇宙の中心に、ベーローシャナ仏(Varocana)という如来さまがいられて説法していらせられることが書かれているのであります。

ベーローシャナというのは、「光明遍く照らす」という意味のインドの古い標準語即ちサンスクリット語でありまして、それを漢字に訳すると、“遍一切所の光明”という文字が当てはまります。そして、そのベーローシャナ仏というサンスクリット語の発音の漢字に並べて表現したのが、毘盧遮那仏ということになっているのであります。

その仏名の最初の“毘”を略して盧舎那仏とも書き、また単に舎那というように漢字では書くこともあります。

宇宙の中心に、ベーローシャナ仏(毘盧遮那仏)が在(いま)して説法していられることを華厳経は、
「彼の一切所の盧舎那仏は衆海の中に於て正法を演説したまう。一塵(いちじん)の内に微細(みさい)の国土ありて、悉くその中に盧舎那仏住し給う。一切の塵(じん)悉く等しく、一々の塵の中に一切の刹(せつ)を現ず」と書いています。塵というのはチリという意味ではなく、微粒子とか素粒子とかいう世界構成の小粒子の中にも、この毘盧遮那仏は重現無礙に在し給うところの“宇宙遍き光明の如来さま”という意味なので、そういう意味から大日如来とも訳されているのであります。

『日本書紀』によりますと、天照大御神が生まれ給いし時、「此の子(みこ)、光華明彩(ひかりうるわしく)、六合(りくごう)に照り徹らせり」とありますので、此の大日如来――大いなる日の大神なる如来はその生命的意義に於いて、天照大御神に一致しますので、大日如来を更に日本的に訳したら天照大御神ということになるのであります。


二十五日の法語  蓮華日宝王地に依りて大宇宙は支えられている

その天照大御神の御生命(おいのち)の実現として日本天皇がましましているということになるとですね、天皇が毘盧遮那如来の御顕現として宇宙の中心座にましまして、その御生命の展開が蓮華蔵荘厳世界として顕れている、これが宇宙の実相であるということになります。(谷口雅春著『無門関解釈』の序文参照)この宇宙的真理を釈尊は直観せられまして、それをそのままズバリと演説されたのが、『大方広仏華厳経』であるわけであります。すなわち“蓮華蔵荘厳世界”(略して蓮華蔵世界)に“すめらみこと”在(ましま)して宇宙はその存在を支えられているのであります。そのことを釈尊は『華厳経』の“盧舎那仏品(るしゃなぶつほん)”に次の如く説いていられるのであります。「仏子よ、当(まさ)に知るべし、此の蓮華蔵世界海の金剛囲山(こんごういせん)は蓮華日宝王地に依りて住せり。彼(かしこ)に一切の香水海あり、一切の衆宝あまねく其地に布き、金剛の厚地(こうち)にして破壊すべからず、一切の衆法を出生し、又能く明かに一切の世界を照せり」これは『聖光録』の286頁に採録してあります。

753ハマナス:2012/05/30(水) 23:09:41 ID:u5mC.eb2

神の子のみなさま
こんばんは。

あなたは宇宙神霊と一体である  (『新版 生活の智慧365章』P.168より)

 「あなたは偉大なる存在である! あなたは最も祝福されたる存在である。不滅なる
存在である。あなたは光輝燦然たる至福の存在、普遍の神性である。あなたは史上の
真理である。真理とは如何なるものか。それは言詮不及(ごんぜんふぎゅう)、不立文字
の存在である。それを書きあらわすことはどんなペンにもできない。それを言い現わす
ことのできる人は此世にひとりもない。それはただ存在する全てのもの-―物質に至るまで
の全てのものを含むすべてのものだ。それを表現せんとする凡(あら)ゆる努力は却って
その偉大さを限定する試みとなるに過ぎない。」

 これは印度現代の聖者シヴァナンダの言葉である。これは真に真理をよく表現している。
諸君はこの語(ことば)に表現されているような実に偉大な存在であるのである。彼は又
言う。「人生の根本的目的は、宇宙神霊と永遠に一体なるところの自己の実現を自覚せんが
ためである」と。(デイヴァイン・ライフ誌一九六〇年一〇月号)まことに其の通りである。

感謝合掌

754a hope:2012/05/31(木) 07:52:39 ID:kcv2QXTk

人生読本 谷口雅春先生著

この吾が「いのち」―――神の生命


時間を大切にいたしまするのも、ここにこうして生かされている生命、
それが神の生命である、あありがたい、何かしなければならない、
無駄にしてはならないという―――この何とも言えない心の奥底から出る自然の自覚で、
ありがたくて自然と動かずにはおられない働きになってこなければならないのであります。

そういう心持で時々刻々を生きてゆく事にしますと、
一分一分一瞬一瞬が無限の価値を持ってきまして、どんな時にも、
どんな境遇にも、凡(あら)ゆる事に対して不平もなく、
みんなありがたい神様の生命を生かさせていただく瞬間である。

今、神様の生き通し生命を生きている。
「久遠(いきとおし)の今」を生きている、
神の永遠(ほろびない)生命をこの瞬間に生きているとういう
ありがたい心持になってくるのであります。

これが「生長の家」の生き方であります。

(つづく)

755金木犀:2012/05/31(木) 11:04:37 ID:cELyeFjs
『生長の家』誌昭和52年8月号から、
【八月の法語】 谷口雅春先生 より(3)

二十六日の法語  普賢菩薩のみ、釈尊の説法の真意を理解す

けれども、なんの素養もなく、準備教育もなんにもなしに、而も、日本人に対してではなく、古代のインドの人に対して、こういう重大な問題を対機説法でなしに、そのままズバリと演説されたのでは、どんな頭のいい人でも、訳がわからないで呆然としているほかはないの無理がないのであります。だから聴衆のうちたった一人だけ、普賢菩薩一人だけ、お釈迦さんの演説の意味がわかったと伝えられています。

他の聴聞せる大衆はただ茫漠として、何のことだかわからなかった。それでお釈迦さんは、この『華厳経』の演説を――わたしは仮に現代人にアッピールするために、“演説”という現代語を使うけれど、実は“説法”されたのであります。――普賢菩薩以外の誰にも意味のわからない話をしても無駄でありますので、釈尊は此の重大な説法を今後話さないことにして、そのとき説かれたる真理の説法である『華厳経』を竜宮海に秘めておかれたのであります。


二十七日の法語  “竜宮”の象徴的意義について

“竜宮”というのは、住吉大神の本地のまします実相世界のことを象徴的神話の形で表現された語であるわけです。という理由は、“竜宮”というのは、“海の底”―― 一切の物を産゜み゜出゜す゜根゜底゜の゜世゜界゜すなわち言いかえると実相世界です。実相世界へ宇宙の中心座に毘盧遮那如来が在すという真理を極秘に宝蔵せしめることになったわけです。これを称して「華厳経は久しく竜宮海に秘められておった」というのであります。

では、その竜宮海に秘められていた『華厳経』というお経は、どのくらいの語数が書かれている大部のお経であるかというと、『聖光録』の283頁に次の如く書かれてあります。

「華厳経の言葉の数は、華厳蔵世界海の言葉の数に等し、無限数なり」
と、これは上本、中本、下本と分冊されていまして、下本は略本であります。竜宮に秘沈されている真理を略さずに一番詳しく書いたのが華厳経の上本で、いくらか圧縮してあるが、半ば詳しく書いてあるのが中本であります。

下本とか、略本とかいうのが、簡略本ですが、これらの華厳経は創造(うみ)の根底世界なる竜宮に、ある時代まで秘められておったのであります。

756ハマナス:2012/05/31(木) 17:41:02 ID:u5mC.eb2

神の子のみなさま
こんにちは。早いもので明日から6月始まります。

生きているから変化する (『新版 生活の智慧365章』P.168より)

 行き詰ったときに道が開かれる。行き詰りに恐怖することはないのである。人知の行き詰まりに
神智がひらかれるのである。八方ふさがりの時に人は、ふさがっていない青空を見るのである。
変化を無常と見たのは暗黒にとらわれた小乗仏教者のことである。大乗の仏教者はもっと明るく
なければならない。

 変化があるので生長があるのである。生命が生きているから変化を生ずるのである。銅像や
乾物(ひもの)やミイラはあまり変化しないが、それは生命が生きていないからである。変化
を通して「無限」が表現されつつあるのである。それ故に、無常と見ゆる一点一面の生命の
動きの中にも久遠の生命を直観することができるのである。“無常”の中に“常恆”(じょう
こう)があり一瞬の中に永遠を孕(はら)んでおり、「今」即「久遠」の生命を生きている
のである。その理由を日々の一瞬一瞬の生活にも忘れないで生きるとき、一瞬一瞬が祝福され
たるものとなり意識深きものとなるのである。

感謝合掌

757SAKURA:2012/05/31(木) 22:20:22 ID:V.pKl3yA
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
こんばんは…

■“今日の言葉”は…何と“不思議”なのです。いつも思いますが…
本当に「神様のお導き」でしょうか?“本”を開く前に……
■「此の書を、開き給いて、なすべき道を示し給え〜〜」と唱えて、開きます。
これは「雅春先生」がおっしゃてますし…更に【他の365章にも掲載】されています。

■【幸福を招く365章】
――――悪しき噂 話をやめよ――――

人のアラさがしや、悪口や、同情のない冷酷な噂話(ゴシップ)などは相手の人を
傷つける以上に自分自身を傷つけるのである。吾々の言葉に人の悪が出るのは
自分の心のうちに愛が足らず、冷たい心があるからだと反省し、出来るだけ愛ふかき、
欠点を見ないで美点のみを見る心を養うように努力すべきである。
欠点が見えているのに見ないでいるなどと云うことは大変難しいようだが、全ての
人に「神」が宿っていることを知り、表面に何か現われていようともその人に宿る
「神」のみを心に見ているのである。
人の欠点を見ている限り、人間の心は楽しくなれないのである。
吾々の心は自由であるから美点を見ることも出来るし、欠点を見ることも出来るが、点を見ることによって自己処罰されて、自分が苦しくなるのである。
「あいつ悪い奴じゃ」と思うことは一種の攻撃精神であるから、他に対する「攻撃精神」は自分の方へ反転して来て、自分を害することになるのである。
弾丸は先ずみずから薬莢を破壊してから相手に到達する。人の悪事を見たとき、
語ったとき既に自己は罰せられているのである。
                          (谷口雅春著)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆

■いろんな方の意見…拝読しまして、改めまして“いろんな方”がいるのです〜〜ネ!
“文章一つ!”とっても、【その人の個性!】でしょうから…?
【文章も“マイウエイ!”ですが…】
相手をけなす前に、本人の“文章”も、どれだけの“レベル”があるのかも?
検討されたら…?つい〜つい〜思ってしまいますが…!
いつもの私?何処かで〜〜此処かで〜〜でしょうかしら〜〜〜ン!
【オンリ−・ワン!】にて頑張ります〜〜〜。

■【悪口?】…人間で或る以上“避難・中傷”は、誰でもあり得ますでしょうか?
ある以上は、“乗り越えないといけない課題”です〜〜ネ!
私も“気に入らない時”更に“相手の欠点を見つけます時”とか?若い頃は、
それを人に伝えます時「正当化!!」して、これは正しい事なのだから〜〜と、
その様に自分に言い聞かせながらの“錯覚”に陥り…
時として、友人に話しますが〜〜><後で後!…実に“後味の悪い気持ち”に
なる事の方が多かったです。が…それでも“変に力んで正当化!”しておりました。

■そして、振り返りますと、今まで?その繰り返し〜繰り返し〜でしたかと?
今回【2チャンネル…でも?初めて…“村八分”】的存在でしょうか…?
“文章”も一人一人の“理解度=知識レベル”でしょうか〜〜?
先ず相手を“けなす!アラを見て云う事!”それはそれなりの【類の仲間…】

■【類の法則】…同じ“人格の仲間”でいるのでしょうか〜〜♫
相手に云う前に?逆に!その人もそう見られていると云う事位は…?
つまり【類の仲間以外から?】逆に申しますと…その様な考えもあるのです。
大人になれば分かる事でしょうかと〜〜!

■今回!さっそく「嫌味文章…」が入り、
私自身の知識レベルでは、どう〜〜も「理解が出来ない!」
それなりの「脳…が働いていない」のではと先生の文章を拝読しながら〜♫〜
…これも!【類の仲間同士!!】です。
今回!私も“一歩”人に伝える場合は“十歩”考えて、相手に伝達しなくてはと、
思う次第です。改めまして【今日の先生の言葉】より、益々【反省!反省!】

■【弾丸は先ずみずから薬莢を破壊してから相手に到達する。人の悪事を見た時、
語ったとき既に自己は罰せられているのである。】 (雅春先生の言葉)
本当に!そう〜〜〜〜〜思います!!!         再合掌

PS:トキ様へ
やはり“ポジティブな言葉”は人の視線が、スム−ズにそこに“目”にとまりますが…
勿論“ポジティブ感情”も含めまして…「今日の言葉」反省!!
必ず!“ネガティブ言葉?”攻撃精神ですから最終的に自己を害する!!
つくづくそう思いますが?「トキ様」は、此処のところはどの様にお考えですか?

758神の子さん:2012/06/01(金) 07:35:09 ID:kcv2QXTk

人生読本 谷口雅春先生著

何とも言えない尊さありがたさ


この何とも言えない心の底から出るありがたさが最も尊いのであります。
この内から湧き出て来るありがたさの心で何事でもおやりになったならば、
どんな事をしても必ず巧く成功するのであります。

たとえばお針をなさるにしましても、神戸の山田さんという洋服屋さんは、
「洋服を縫うときには、これを着てくれる人が必ず幸福に健康になりますように」
と一針ごとに念ずるようにして縫えと、職人たちに教えられたのでありますが、
そういう尊い深切な心持になられますと、自然とその裁縫も上達してくるのであります。

その洋服屋さんは神戸の人でありましたが、仕立が上手でありましたので、
神戸にいながら、姫路とか、広島辺の注文が来るというほどの洋服屋さんでありました。

注文者が遠方にいるのですから、いちいち仮縫いの寸法を合わしに出張していましたら
往復の汽車賃なども大変ですので、仮縫いはしないでも郵便で注文がくる。
それは大体これほどの体格で、和服は何寸ぐらい着る人だということさえ通知すれば、
全然仮縫いしないでいて、ちゃんとその身体にぴったりと合うような洋服ができるのです。
それだから、どんな遠い所からでも通信で注文がくる。

仮縫いをしないでも、その洋服の着手にピッタリ寸法のあうような仕立ができるというのは、
やはり、「この洋服を着る人が幸福になりますように」というような、拝む心で仕立をせられますから、
この深切な心持が、この拝む心持が、愛の心持が、自他一体の天地を貫くところの気持ちでありますから、
天地を貫いて神戸から姫路や広島まで離れておっても、
そこに心と心でちゃんと相手の欲するような洋服ができるという事になるのであります。

そういうふうになって来ますと、何をしても皆に喜ばれるようになってくるのであります。
仕事が上手になり、勉強が上手になるのも、そういう深切心からであります。

(つづく)

759うのはな:2012/06/01(金) 10:49:10 ID:???
  奉祝特別随想  生長の家総本山幹事長  八日市屋 ニ三雄

  生長の家総本山  御顕斎の喜びの日を迎えるまで

 長崎県知事の認証を受けて、「宗教法人生長の家九州別格本山」が登記されたのは、昭和四十七年四月十一日である。
総裁谷口雅春先生は、「昭和五十三年十一月の鎮座大祭を期とし、生長の家の教化及び祭祀、祈願の中心として“龍宮住吉本宮”に
住吉大神を勧請され、大神の鎮座ましますと同時に九州と別格をはずして、この地を“生長の家総本山”とする」
と宣言された。

 そして今、それがついに現実のものとなった。宇宙を浄化し、日本を世界を浄化され給う、「住吉大神」の御出御を仰がれた総裁先生の
御悲願が成就して、人類光明化運動の飛躍の第一歩がいよいよ進められたのである。

 古来より九州の地は、「筑紫嶋」と称され、筑紫の国と呼ばれていた。
ここ総本山の敷地は八十五万坪。筑紫の西端にある“日向の地”に、生長の家大神のみ心を
うけられた総裁先生は、「われ自らにては何事もなし得ず、わがうちに天の父いまして、み業をなさしめ給う」
と、その栄光を直に神に帰されているが、先生の御企画は、神ながら自然法爾にして聖なる総本山が、正に「実相の
天に成るが如く地に顕われ」来たったのである。

つづく

760a hope:2012/06/01(金) 12:47:11 ID:kcv2QXTk
>>758 a hopeです。

761うのはな:2012/06/01(金) 13:29:27 ID:???
>759 つづき

 当時、生長の家用地として、阿蘇山中十七万坪の土地の話があったが、調査の結果不適当ということになった。
清都理之先生が総裁先生に対して、「阿蘇の土地も生長の家用地としては不適当と思われました」と、その土地を
つぶさに調査した結果を報告申し上げた御返答の最後の一行に、たまたま常松商事から聞いていた
「長崎に今、六十万坪の土地があるようです」と付け加えられたのである。

 総裁先生から、「すぐ、その長崎の土地を見て来なさい」と御指示があった。
私は、その長崎の現地に入り、くまなく見て廻った。その土地は中央に殿井手川が流れている。川を遡り、
道もない藪を最後の一滴になる個所まで登り、山に入り谷を渡り、尾根を超え、各所の峯の木の上へ攀じ登って、遠く
大村湾や全山一望の写真を撮した。大村湾が入り込んだ対岸からも撮影して来た。
山また山で岩が多く、生えているのは主に雑木であり、ガスやプロパンの普及しなかった昔、炭に焼く木や、たきぎを伐採
していた山林、原野で、金を掘った跡、硅石が産出した跡などあるが、地質が痩せているので桧の植林位しか利用できぬ地域であった。

第一に山が多くて平地が少いこと、大きな木もほとんどないことなど、清都先生より総裁先生に御返事を呈上した。
「生長の家の用地としては不適当と存ぜられます。土地も痩せていて、桧の植林くらいしか出来ないところであります」
これに対しての総裁先生の御指示には驚いた。
「植林すれば、百年後の子孫が喜びましょう。すぐにその土地を購入して下さい」

 理事会の席上、撮影して来た写真と地図などをお見せして、山又山の土地であることなど御説明申上げたが、既に購入の御決意は堅かった。
私たちは、総裁先生の意を承けて早速始動した。ところが、三十万坪程購入が進んだ時点で、色々と障碍が出て来た。例えば、所有者十数名による
共有地の場合、ほとんどの人が売りたくともその内のただ一人が反対すると、その土地はなかなか購入は不可能である。
しかもこの購入予定地全域の土地所有者は四百数十名に及んでいたのである。

つづく

762金木犀:2012/06/01(金) 16:25:44 ID:jQ6HeCrg
『生長の家』誌昭和52年8月号から、
【八月の法語】 谷口雅春先生 より(4)

二十八日の法語  龍樹菩薩、竜宮界に超入して華厳経を閻浮提に持ち帰る

ところが、龍樹菩薩という神通力者が、お釈迦さんが亡くなられてから四百年程後に(八百年程後だという説もあるんですけれども)インドに生れてこられました。

この人は神話中の人物で本当に歴史的には、釈迦滅後幾百年後に出生した人だかよくわからないんですけれども、龍樹菩薩は、まことに素晴らしい霊的天才で、四歳にして、神通力で当時インドにあったベダンタのお経を全部読破したという。

それから続いて、地球上にある総ての仏教の経典をそれを皆、読破した、読み尽くしたというのであります。

「閻浮提上に遍く大乗の経典を探(たず)ぬるに大乗の経典なし」と龍樹は歎いたということでありますが、閻浮提というのは地球のことですから、地球上にある仏典をあまねく渉猟(しょうりょう)したけれども大乗の経典は見当たらないというわけで、龍樹菩薩は神通力で竜宮界に超入して竜宮秘沈の『華厳経』の原本を見出したと伝えられています。


二十九日の法語  “大乗”といい“彼岸”という語の意味について

大乗というのは小乗に対する言葉で、衆生を“こちらの岸”から“彼方(かなた)の岸”へ渡す乗物という意で“乗”という字を使います。

“こちらの岸”というのは現象世界のことです。“彼方(かなた)の岸”というのは現象の彼方側(あちらがわ)の岸に実相世界がある。実相世界のことを“彼方の岸”即ち「彼岸(ひがん)」というんです。仏供養をして祖先の霊を実相の彼方へ成仏させるための年中行事の期間を、お彼岸というでしょう。“済度する”という語がありますが、“済”は“救う”という意味で、“度”は“度(わた)す”という意味で、彼岸とは成仏得脱(じょうぶつとくだつ)の境地に喩えたのです。現象世界の迷いの心境の此岸から、実相世界の得脱した悟りの“彼岸”に度(わた)すのです。(度も渡も、どちらもワタスと読みます)彼岸に渡れば仏の悟りを得て、実相世界へ超入したということになるわけであります。

さて、龍樹菩薩は神通力で竜宮界に超入して、お釈迦さんが竜宮界にその最初の説法を秘めておかれた『華厳経』を見出してそれを読んで来てから伝えるところによると、その『華厳経』にどれ程の語数があるかというと、“上本”という省略なしに詳しく書いた『華厳経』に収まっている語数は十三千大千世微塵数(じゅうさんぜんだいせんせみじんじゅ)の語数があるというんですから、これは到底一生涯読み尽くすことはできません。

763うのはな:2012/06/01(金) 20:24:53 ID:???
>761 つづき

 ある日町役場へ赴いた。丁度議会の開催中であった。特に時間を三十分程、割いて頂き、
議場で町三役や議員全員に、生長の家に就いてお話しし、現在土地購入中であり、この町にお世話になりたい旨を
お願いして応接室へ帰った。
 しばらくして町長である堀内繁松氏が走ってきた。
「唯今緊急動議で議決しました。それは、生長の家さんに、是非この町へ来て頂きたいから、“生長の家誘致委員会”をつくることを、
委員も委員長も併せて、全員一致の賛成で決定しました」という知らせであった。嬉しかった。本当に嬉しかった。
委員の人々の説得によって、その日から土地の購入は目に見えて進んで行った。
腰の曲った老婆が一人、ゆっくりと山へ登っている。訊いてみると、「生長の家さんにお渡しする前に、うちの土地を、生きているうち最後に
見て置きたい」

 毎日奔走してお世話下さった誘致委員をはじめ、土地所有者の方達のうち、既に亡き人もまことに多い。
土地には、その所有者も知らなかった瑕疵や、考えも及ばない種々の事案が、時に潜在しているものである。
しかし、多くの人々の御努力や、まごころのお陰で、実に順調に購入が進んで行ったのである。

 その年の九月二十八日、総裁先生が現地にお越しになった。しかしその翌日は、宇治の「入龍宮幽斎殿」の上棟式のため充分な時間がなく、
国道沿いと県道を、自動車を走らせつつ中から用地を御覧になっただけである。
 総裁先生に是非御挨拶したいと、町長や議員など、町の役職員が全部随行していた。
昼食時であったので、総裁先生にドライブインで御食事をお摂り頂いた。

 先生はお書きになっていられる。
『この土地の地名を書くことを忘れていたが、“西彼町”と書いて、この町が西方の彼岸に渡る
悟りの町であることをあらわしている。正午前に町長及び町の役員さんたちが私の昼食のために休憩した
大村湾に面するドライブインに訪問して来られて、「生長の家さんがこの町に来て下さったら、セイチョウが発展しますので
生長の家誘致委員会というのが町の役員で組織せられて応援することになっています」と
言われるのである。

「いいえ、吾々のところは単にセイチョウではなく、生長の家と称うんです」と答えると、
「セイチョウというのはこの町の名前です」と言われるのである。
この町の人は西彼町の“彼”を“ヒ”と発音しないで“彼イ”と発音せられるから“セイチョウ”と
耳にきこえるのである。その町名が漢字では西方の彼岸にわたる悟りの町である上に、発音では“生長の家”
そのままに“セイチョウ”と読むのだから神縁深く既に計画された土地だということがわかるのである』と。

 つづく

764ハマナス:2012/06/01(金) 21:40:32 ID:u5mC.eb2

神の子のみなさま
 ありがとうございます。こんばんは。

祝福すべきかな変化無常  (『新版 生活の智慧365章』P.169)

 この世は無常の世界であり、変化の世界である。その変化無常を、好転の方へ変化せしめるか、
凶転の方に変化せしめるかの鍵を握っているのはあなた自身なのである。若し変化無常の世界で
なかったならば、吾々は日本の景色に春夏秋冬の異なる美を楽しむことができなかったであろうし、
幼児から少年少女への生長の悦び、そして青年期の元気溌剌とした活動と進展の悦び、そして家族を
つくって家族相和す悦び、老いて孫をいだく歓びなど色々異なる悦びなどの境涯を体験することが
できなかったに相違ないのである。

 朝を迎えて東天に太陽はさし昇る、そして落日は黄金色に西海に沈むのだ。何という荘厳! 
何という変化の美ぞ。落日の反映を受けて、刻々、紫から淡紅(うすべに)に、淡紅から淡紫に変化
し行く富士の嶺。そして紅のような暈(くま)をもつ雲海によってその麓をかこまれている富士の嶺。
私は刻々その位置を変化する飛行機上からこの秀麗きわまりなき富士の山容を見て感嘆した。若し富士に
この変化がなかったらそれは唯、死灰(しかい)の堆積。ああ変化無常こそ神の生きた芸術である!

感謝合掌

765SAKURA:2012/06/01(金) 22:48:35 ID:V.pKl3yA
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ

こんばんは…  ロ−マ字の【SAKURA】です。
此処しばらくかなりの睡眠不足です。若い時は何ともないぐらい〜〜〜
回復力が〜〜〜昨日は特に!きつかったのですが〜〜「雅春先生の言葉」は神なりと、
思うぐらい自然に、体力回復してきました〜〜〜が!
さて!「今日の言葉」は???ぺ〜〜ジを開きます。

■【幸福を招く365章】
――――真理は実践しなければならぬ―――――

「人間本来完全」の真理を教えられて知ったならば、如何なる問題でも起こって
来たときに、その問題が、自分の問題であろうと、家族の問題であろうと、
友人の問題であろうと、どんな小さな問題であろうと、大きな問題であろうと、
「あの人は完全だ、善い人だ、不親切な人ではない」と云う風に、相手の心の
うちで拝んで、その実相の完全さを常に念ずるようにすることです。
そうすると念じた通りにその完全さがあらわれて来るのです。先ず小さな問題から
始めることです。そしてその効果を体験することによって、自信を増し、更に段々
ほかの大きな問題を念ずるようにするのも好い方法である。併し、最初から
「世界平和」を念ずるようにすることは、結果はすぐあらわれないでも自己の魂の
向上にだけでなく健康増進のためにも大いに役にたつのである。
                           (谷口雅春著)


私も、現在「大きな問題」を抱えています…。「祈る!」時は、やはり【実相礼拝】
「大きな問題」がありますから、そこから順次かたずけて行くより〜〜><
出来る事から〜始めましょう〜〜〜!そうした方がいいです〜〜〜ョネ!

今回!あちらの集団の方々?には、ほとほと〜〜><あきれるばかりなのですが…?
今回「葉書問題…」が、発生!!!【緊急事態!!】

実は私の“住所”を勝手に使用して、“第一教区の練成とか?”…><
いろんな“行事”に“参加”していたのでしょうか??
今回!教区からの“案内はがき”の名前が……
私の姓ではなく?別の人の姓?です…。何度も〜何度も〜舞い込んで来ていまして、
その度に、TELしていましたが…

今回!変!と思うようになり、これが【外部の動き?】でしょうか…
今回!或る突っ込みで分かり、これは“ダイレクト葉書”をかなり悪用している事が、
分かりました…。更に?ある時は、名前の方を使い…
今回幾ら【正義…】と言っても、これは行きすぎではな〜〜い?と思います。

■…でしょうか??
更に!【真理…】は、いつも一方通行で“セット期間が、ゼロに近い…ブル−カラ−”    
教区の友人は、今の総裁先生で“十分”と言っていますし、
“心”がフラ〜フラ〜何処に行っても「向こうの方々」は、同じ繰り返しで〜ショ!
先ずは「良い種」を…
今回は「現総裁先生…」勇気を持っての“行動”…その様に思います。
信者は、“ブログ”etc拝読しながら、総裁先生の人格を 認め出しておりますし、
「種を蒔く」これからの「芽が発芽」致しますまでは、気〜〜長に行こうと思います。

■【心の法則】ですから、心が念じた通りになるのが、今の「現象世界」なのです。
更に!今「芽…」が現実として現れなくとも、何か別の形で出ているのでは?と
思います。
今回!此処至り【真理の勉強】が、前以上に“進歩”しています。

今の私には、とるにたらない“エッセンス”と、言える位…
【真理=>心の中はクリスタル?】なのです…。
とても“自由自在”なのでしょうか……?今のままでは……?
例え!!「小さき生長の家」として「現象=現実世界」に投影されても、
そこに集まる【集団…人!・人!】で、助け合っていこうと思います…。
更に!私もTYOに,戻れば…【私の本格的活動のペ―ジ】の始まりでもありますネ!
                             再合掌

トキ様 へ
【真理…】本当に“行”じなければ、「から念仏」と同じ事ですョ〜〜ネ!
昨日は“小さき愛行”を、させて頂きました…。「ノ―ミ−ト運動」実践!
少しは理解して頂いたものと思いますが…!これも【環境問題…】に入りますモノ!
本日の言葉…【真理=実践】どのように受け止められていらっしゃいますでしょうか?

766a hope:2012/06/02(土) 08:32:06 ID:kcv2QXTk

人生読本 谷口雅春先生著

時事々刻々千載一遇(せんざいいちぐう)


一日のお料理をいたしますにも、今、この時間にお料理をする事その事が千載一遇の機会であります。
別の時は別の機会であって、「今」は「今」しかないのであります。
私達は常に時々刻々が千載一遇の好機会であるという事を知らなければならないのであります。

或いは難しいお姑さんのところにお嫁に行ったという事がありましても、
こんな尊い経験は又とないのでありますから、
それは実に千載一遇の機会であると喜ばなければならないのであります。

そういう口喧(くちやかま)しい姑さんの家に嫁に行って生活するという経験は、
他の処へ嫁に行っては味わうことのできない又とない尊い経験なのであります。
これが千載一遇の機会で、その機会を失ったら、又同じ機会は来ないのであります。

又厳しい工場監督さんの下に雇われて働くにしましても、
厳しい先生に叱られつつなにか勉強するにしましても、
厳しい監督さんや厳しい先生に逢わしていただくのも、
それでなければ得られないところの千載一遇の機会を恵まれて、
神さまが私にここにこいいう経験をさせてくださるのだと思えば、
その難しい監督さん、その難しい先生をありがたく拝みたくなるのが当たり前であります。

(つづく)

767復興G:2012/06/02(土) 09:28:08 ID:84pogn5s

 『菩薩は何を為すべきか』(谷口雅春先生・谷口清超先生共著)の第1章 「菩薩の正しき生き方について――人類光明化運動指針の解義」より、特にその中核と思われる第5条および第9条の全文を、ここに謹写投稿させていただきます。ありがとうございます。

     ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

<人類光明化運動指針>

 第五条 生長の家の各員は、人間神の子の自覚が、日本民族が悠久の昔より世々代々承け継ぎ語り継いで来た「命(みこと)」の自覚にほかならず、生長の家立教の使命が同時に日本建国の理念の現成にほかならない事を明らかにすべきである。日本民族は存在の窮極を、一切のものの生成の根源たる普遍的絶対者を、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)として把握し、その「中(みなか)」への帰一とその「中」の展開、即ち宇宙普遍の原理の地上的顕現を日本国家形成の理念とし、天津日嗣とはこの理念のさながらなる継承以外にはなく、天皇の権威は権力をもって思うがままにこの国を支配する権利にあるのではなく、この理念の継承実現にまします事、従って天皇を中心と仰ぐ日本国家の発展は、天皇の人民支配の手段としての国家の発展と云うが如き専制的な性格のものでは微塵もなく、宇宙真理、即ち神意の地上顕現の至純至高の形体としての日本国家の発展である事これが日本神話の理念であり日本民族の理想であり日本建国の精神である。この真理現成の大まつりごとに、神の子として命(みこと)として自己の責任としてまつろい奉る事が実相の成就である事を明らかにすべきである。単に自分の祖国たるのみの理由にて日本を愛するのではなく、東洋と西洋との中間に位して一切を生かす大乗の真理国家たる事が日本の理念であるからこそこの国の国体を鑽仰してやまず、この国の神の子国民として生を享けしめられた所以の深さに感泣し、わが一身もわが家庭もわが生活もすべてこの理念現成に捧げられてはじめて存在の意義を持ち得るものなることを、各自互に明確に自覚し合い、その行動の根拠となし合うべきである。

       ○

 ここは非常に重大な一節であります。民主主義かぶれのしている人には解するのに難しいところであります。生長の家は「人類光明化運動」と云うから人類を愛したらいいのであって、日本の国なんかどうだっていいじゃあないか、と考える人があるかも知れませぬが、決してそうじゃあないのであります。皆さんは日本民族の一員として日本人として生れた。その事実に立脚して生きている以上、日本民族と云うものは如何なる自覚を持ち如何なる使命を持って此の地上に誕生したのであるかと云うことほど重大な問題はないのであります。古代の日本人は全て何某の命、何某日子、何某日女と云うように自分自身をも呼び、他の人をも尊称して居りました。日子とは即ち天照大御神の御子と云う意味であり、日女とは即ち天照大御神の女(むすめ)と云う意味であり、すべての人間は命(みこと)であったのであります――命とは即ち「神の生命」そのもの、それが天降って来たのが人間であると云う、そう云う魂の自覚の伝統をもって日本人は日本民族の歴史を作って来たのであります。

 こう云う歴史を背負ってその歴史的現実として具象化して、今皆さんが此処に生きておると云うことは誠に荘厳な事実なのであります。他の国の民族の中には、そう云う自覚を持って生れて来た民族はない。その独特の伝承を私たちは尊ばなくてはならない。西洋では人類はアダムとイブの子孫であり「罪の子」の子孫である、と云う様に説かれて来て、彼らは「罪の子」の子孫であると云う、あまり芳しからぬ自覚を伝承しているのですけれども、日本人だけは「神の子」として、「命(みこと)」としてこの地上に生れて来、そして世々代々その伝統を承け継いで来て、「われは命(みこと)なり」の自覚のもとに生きて来たのであります。そして神の子が天降って、地に平和をもたらすために此処に日本民族が大和と云う国号の国を建てたという光栄ある自覚を尊重しなければならぬわけであります。
<つづく>

768復興G:2012/06/02(土) 09:28:54 ID:84pogn5s

<つづき 2>
 その神の子とは如何なるものかと申しますと、爰(ここ)に書かれておりますように、「日本民族は存在の窮極を、一切のものの生成の根源たる普遍的絶対者を天之御中主神として把握」したのであります。日本民族はみずからを「命」と呼び、日子(ひこ)、日女(ひめ)と称するけれども、決して一人の有限な肉体を持った神様から誕生したと云う意味での「神の子」ではない。日本書紀或いは古事記の神話にあるところの天之御中主神の「中(みなか)」の本源より発したる基本生命の自覚である。天之御中主神とは、一個の人格神の固有名詞ではないのであって、「天」の次に「之」と云う接続の詞がついて居る所に注目をしなければならないのであって、これが固有名詞ではない証拠であります。古事記は、その後記述の人格神としての天宇受売命(あめのうずめのみこと)とか天児屋根命(あめのこやねのみこと)とか天菩日命(あめのほひのみこと)とか云う場合には決して「天」の下に「之」の接続詞を使っていないのであります。「之」がついているのは、固有名詞ではなく、説明のための接続詞としてついているのであります。何を説明しようとしているかと云いますと、「天」即ち「天球」即ち「大宇宙」の「中(みなか)」にして主なるところの神様と云う意味を説明しているのであります。私たちはその「中」の「主」なるところの神様から生れて来たのであって、その中のいのちより出でて中に帰る。吾々は中に帰一しなければならない。「神の子」とは天之御中主神の生命が此処に出現して、「中」の理念を実現する為に此処に生きて居ると云うことであります。「中」と云うのは、『中庸』と云う支那の書物に、「喜怒哀楽未だ発せざるを中(ちゅう)と云う」とありますが、この「中」と云う字は、○(宇宙の象徴)に一本貫いた様につくられたのが本来の字形なのであります。四角に一本棒を挿したのじゃなくて、○(うちゅう)を貫く象(かたち)を表わした「中」であります。この「○」は宇宙であって、宇宙を貫く処の真理がφなのであります。真中だけを貫いて居るのではないのであって、これはただ「宇宙を貫く」と云う意味を象形的に書かれているのです。宇宙の一切の物を貫く所の原理に在ますところの神様が天之御中主神であります。

 その「中(みなか)」の原理と云うものは何処にでも現れて居る◎(ス)の原理であって、それは一切のものには一つの中心があると云うことであります。つまり太陽系統には太陽と云う中心がある。そして周囲に遊星が廻って居る。存在の最小単位である原子にも原子核と云う中心があって、その周囲に電子が廻っている。人体を形成して居る所の細胞にも真中に細胞核と云うものがあって、そして周囲に原形質がある。鶏卵にもちゃんと黄身と云う中心がある。中心がなくなったら、細胞もなくなり、卵は死んでしまうのであります。白色レグホーンの鶏の卵の白身だけを抜いて、プリムスロック種の鶏の卵の白身と入れ替える実験をソ連でやったら、それを孵化させるとプリムスロックの雛が産れたと云う話もあるが、白身は他のものと取替られるけれども「中心」なる黄身を取り替えたらもうその鶏卵は生命を失ってしまうのであります。このように中心は一番大切であります。原子でも、原子核を破壊したら、原子は崩壊して飛び散ってしまう。吾々の肉体を構成している細胞も、その中心であるところの細胞核を殺してしまったら、細胞は死んでしまう。植物にも幹と云う中心がある。幹を殺したら植物は枯れてしまう。太陽系統も真中にある太陽が放射能を出しつくして冷えてしまうようなことがあったら、太陽系統には生物がなくなる、結局吾々の地球も冷えてしまって人類もその他の生物も死ななければならない。どうしても◎(ス)をもって表象する「中(みなか)」の理念と云うものに一致したときそこに生命があらわれるのであり、「中」の理念によって宇宙の「切のものは生かされて支えられて居るのであります。
<つづく>

769復興G:2012/06/02(土) 09:29:48 ID:84pogn5s

<つづき 3>
 此の一切存在の基本原理なる「中」の理念を体現した国家、換言すれば「真理国家」の現成が日本国家なのであります。日本国家は西洋の国家の様にバラバラの個人が民主主義の精神によって、ただ個人の幸福を得るための機関又は道具として、個人が代表者を立てて契約して、国家を形成したと云うような国家ではないのであります。外国の国家は、“State”(ステイト)と云う。「ステイト」と云うのは、「状態」と云うことである。人間と人間とが生活をするのに、ただ個人ひとりずつでは淋しいし、或いは敵が攻めて来たり、或いは猛獣が襲って来たりする場合に、それを防ぐためには個人では都合が悪いから団結をして護ろうじゃないか、と互いに約束して、そこに或る集団状態があらわれた。これが、“State”(ステイト)であって、訳せば契約国家とでも申しますか、そう云う単なる状態とは、日本国家は異るのであります。この日本国家は個人の利害関係の集団ではなくして「真理」を体現したところの「真理国家」なのであります。日本の建国は“天孫降臨”にはじまると云うのは「天之御中」の理念の降臨にはじまると云うそれであります。日本民族と云うのは、天之御中主神の理念を承け継いで、その生命を出発さした、即ち「命」の自覚に依って生まれた特殊の存在を保つ。その「命」即ち「命」の本質は何処から出て来たかと云うと、天之御中主神なるところの、○(うちゅう)を貫くところの、宇宙普遍の真理――其処から生れたところの生命であるのであります。そして其の宇宙を貫くところの原理は◎(ス)の原理であり、中心帰一の原理でありますから、その原理の体現としての日本国は、中心帰一の理念が天降って来て、“中心帰一国家”と云うものを其処に形成することになったのであります、理念が先きにあって、理念が形として現成して国家となったのでありまして、人間の個々別々のバラバラが契約をして自分の都合のよいように拵えた「道具」や「機関」としての国家ではないのであります。
<つづく>

770復興G:2012/06/02(土) 09:30:21 ID:84pogn5s

<つづき 4>
 天之御中主神の「中」の理念が天降って、天孫降臨(理念の降臨)となり、それが具体化して神武天皇の“八紘を宇(いえ)と為す”(八方の国々を一家庭的邦とする)即ち世界連邦の基礎国家としての「大和」の国の建国となったのであります。

 大和(ヤマト)の国は「大和の国」であると共に、単なる集団の国ではない、天津日嗣(あまつひつぎ)の国であ、る。天津日嗣とは、天之御中主神の「中」の理念が天降って来ることを言うのであります。日嗣の「日」は「霊(ヒ)」であって「霊的理念」のことであります。「中」の理念をさながらに承け継いで、そしてその姿が国家として顕れたのが、「天皇を中心とするところの国家」である、其処にある天皇の権威と云うものは、真理の体現者としての権威であって、決して個人が強いから天皇になって、その権力に依って人民を圧えているのではないのであります。そして、その天之御中主神の理念の継承実現としての真理国家たる日本国の中心核体として其処に天皇が顕れていられるのであります。随って天皇を中心と仰ぐ日本国家の形態は、天皇の人民支配の手段としての国家形態というようなものではないのであります。

 だから日本国は「天皇国家」であると云っても専制君主的なところは微塵もなく、宇宙の真理、即ち神意の地上顕現の至純至高の理想形態としての日本国家の形成であります。天皇あるがゆえに人民あり、人民あるが故に天皇あり、天皇と人民とはその生命の本源に於て一体であり、それが、天之御中主神の理念に随って所を得ているのです。どんな細胞にも、どんな電子にも、どんな太陽系統にも、みんな「中心帰一理念」と云うものが現れているのであります。国家だけが中心のないバラバラの存在であると云うことは宇宙意志の自然の発現にそむくわけであります。その「中心帰一理念」と云うものが、現象界に天降ってきて自然に中心帰一国家を最も理想的に形成したのが日本国でありますから、日本の国家は「宇宙真理」即ち「神様の御心」の地上顕現の最も純粋であり、最も高き形態としての国家であるといい得るのであります。

 国家を単に国民が幸福になるための施設であると見て、個人が幸福になれないような日本国家ならつぶしてしまって、ソ連の様になった方が都合がよいじゃあないか。アメリカのように大統領でもいいじゃあないかと言う人もあるそうで、鈴木茂三郎氏のことを或る党員は「大統領、大統領」と言って居たともききましたけれども、日本国家は大統領や書記長で治めようと思っても、それはいけないのです。仮りにアメリカが大統領でうまく治って行ったとしても、ソ連が書記長でうまく行っておるとしても、そんな事はまた別の建国の歴史をもった他の国のことであって、日本には日本としての抜きさしならぬ歴史を背負った特殊性があるのであります。日本民族というものが如何に何処から如何なる自覚を持って生れて来たか。古事記に表れたような民族神話をつくり「命」の自覚を代々継承して今日に至る、そう云う霊的歴史的伝統のすべてを背負って、今此処に出現しているところの日本民族の特殊性というものを知らなければならないのです。
<つづく>

771復興G:2012/06/02(土) 09:31:10 ID:84pogn5s

<つづき 5>
 民族の特殊性を強調しますと、それは偏狭であって、人類的で無くなるように思う人もありますけれども、実は決してそうじゃあないのであります。どの民族でも、その民族固有の特殊性を完全に発揮することに依って、却って全人類が幸福になるのであります。

 それは何故かと申しますと、吾々人間でも、頭脳は頭脳としての特殊性を持って、その特殊性が「考える働き」であるとするなら其の「考える働き」という特殊性を頭脳が完全に発揮する時にはじめて人体が最も完全に、その生理機能を営むことが出来るのと同じであります。手として生れたものは、手としての特殊性を完全に発揮することに依って人体全体が幸福になるのであります。全ての世界各国の民族も、民族各々の特殊性をよく自覚して、その特殊性を発揮することに依って人類全体が本当に幸福になるのであります。

 そう云う訳で、日本の国家にも其の個性的な特殊性がある。即ちそれは上述の如き真理国家であって、天之御中主神の理念そのものが実現している万邦無比の国体であると云うことである。今の中学生や高等学校の生徒に「国体」と言ったら、「国民体育」の略称かと思って、「真理国家としての国体」などと云うと何の意味かわからぬ人がある。まことに残念な事でありますが、解り易く言いますと、其の“国”の本来の在り方として内在する「国家理想」と言うものが国体であります。「日本国の実相」と云ってもよろしい。日本のそうした「国の本来の在り方」というものはまことに素晴しいものなのであります。即ち大和国(ヤマトのくに)を基礎国家として、「六合を兼ねて都をひらき、八紘を掩いて宇と為し」世界の国々をこわすことなく一つの家族的つながりの国とする使命を内在する国家なのであります。私たちがこのような国に生れたことは実に有難いことであると云う自覚を持たなければならない。その自覚は自分だけが持っていたら、それで足れりとするようなものではない。この箇条の最後に書いてありますように、各自互に明確に自覚し合わなければならない。「自覚し合う」のであって、互いにその自覚を研き合い、「その行動の根拠となし合う」べきであると示されているのであります。
<つづく>

772復興G:2012/06/02(土) 09:31:49 ID:84pogn5s

<つづき 6>
<人類光明化運動指針>

 第九条 生長の家の各員は、如何に運動の分野が多岐にわたり組織が複雑化すると難も、光明化運動の中心が何であるかを常に見失うことなく明らかに自覚して行動すべきである。
 生長の家大神――総裁・副総裁――御教。この三つを結び貫く神意の展開が、光明化運動の不動の中心である事を、生長の家人たるものは一瞬たりとも忘れてはならない。如何にその人が有力者であろうと長年光明化運動に献身して来ようと、素晴らしき体験をもつ指導者であろうと、断じてその人を中心にしてはならない。若しも人を中心とすれば、その人が理解し把握している以上の運動の展開は不可能となり、歪んでいれば運動も歪むほかなく、その人とそりの合わぬ者、反対意見の者は身を引くか、対立して禍根を残すであろうし、若し或る人が情熱的な信仰を持つ場合、その人が真に中心を明らかに自覚している場合はよいが、唯熱心であるだけならば、何時かその人に頼り過ぎ、その人が転任或は他界した場合は、忽ち火の消えた様に衰微してしまった如き事例は往々にしてある。すべて皆中心を誤っていることに気がつかなかった為である。光明化運動に於いては人は中心ではない、神意が中心である。その神意現成の組織に於ける自己の部署と役割とを誤りなく遂行して、始めて人はその使命を果たし得るのである事をよくよく銘記して行動すべきである。

       ○

 さて、此の条では、生長の家の各員、即ち生長の家の人類光明化運動に参加している全ての菩薩たちは、これは幹部でなくとも、単なる誌友であっても、今日入信した人でも、一ヶ月前に入信した人でも、皆含まれているわけでありますが、その運動が色々広般に亘って、その分野も複雑に岐れておりましても、光明化運動の中心体と云うものが何であるかを見失ってはならない、即ち――功徳の由って来る本体が何処にあるかと云うことを忘れてはならないと云うことが書かれているのであります。この生長の家の人類光明化運動というのは、谷口雅春個人が始めたのではないと云うことであります。此の文章にありますように、「生長の家大神――」と棒が引いてあって、「総裁・副総裁――御教」とあります。此の棒は教えが其の本源から流れて通過して出るパイプの系列を示しているのであります。生長の家の本部は“実相の世界”にあるということが『生命の實相』総説篇の冒頭に宣言しているのでありまして地上の生長の家本部が事務を執っている所の建物の如きは、地上で仕事をする為の中央事務所に過ぎないのであります。そしてまた私を生長の家の総裁と云うけれども、総裁と云うのは一体何かと言いますと、要するに爰に「生長の家大神――総裁・副総裁――御教」と書いてありますように、総裁・副総裁を通して生長の家大神の御教えが流れ出ている其のパイプ的役割が総裁・副総裁であります。即ちこの運動は宇宙の創造神に在しますところの生長の家大神が或る時期に住吉大神と顕れてコトバの力によって御禊祓をなしたまうところの運動であります。

 古事記によりますと、西洋的物質文化を代表する伊邪那美神の軍隊に東洋の霊的文化を代表する伊邪那岐神が追いまくられて、ついに「吾はいな醜め醜めき穢き国に到りてありけり」と仰せられて御身の祓をせられた其の伊邪那岐大神の宇宙潔めの働きとして、上筒之男命、中筒之男命、底筒之男命と云う風に上・中・底と秩序整然とあらわれて出て来ておられるのでありますが、この三柱の神様を総称して潮筒之男神即ち塩椎神と申上げ、別名を住吉大神、又は「すみのえの大神」と申上げるのであります。愈々此の住吉大神の宇宙浄化の働きが起って宇宙の浄化が完成されると、やがて伊邪那岐大神の左の眼から天照大御神がお生れになると云う段取になるのでありまして、この順序は古事記に記載されているのであります。第一回の天照大御神の御誕生は「実相の世界」に既にあったのでありますが、第二の天照大御神の御誕生とはこの現象世界に光明無量が誕生することであり、第二の天之岩戸開きが行われるのであります。新しき天と地とが天降る(黙示録)のであります。新しき世界秩序が発現するのであります。
<つづく>

773復興G:2012/06/02(土) 09:32:27 ID:84pogn5s

<つづき 7>
 今までは贋物の世界の発現でありました。贋物の世界と云うのは、アダムとイブとが土の塵をもってつくられ蛇の知恵にだまされて知恵の樹の果を食べた結果、エデンの楽園から追出されて「汝は苦しみて子を生まん……額に汗して食を得ん、土は薊(あざみ)と棘(いばら)とを生ずべし」と宣言せられた世界であります。ところが今度再び、光明遍照のエデンの楽園が地上に生れて来るのが、この天照大御神様の第二の御誕生であり、ついで第二の地上の「天之岩戸びらき」が実現するのであります。その前駆として、宇宙浄化の働きが始まっているのであります。

 ところが、一方に於て此の宇宙浄化の働きは、一種の自壊作用を伴って出て来るのでありますけれども、他方に於て、住吉大神即ち仏教では観世音菩薩の慈悲によって、人類の霊的目覚めの運動と云うのが起され、宇宙浄化の働きによる自壊作用に伴う人類の悲惨を出来るだけ緩和するための人類光明化運動として現れているのであります。即ち私たちの人類光明化運動とはこの世界の自壊作用の悲惨の程度が、それほど悲惨でなしに人類が通過出来る様に、まず人類の心を潔める運動として起っているわけであります。人類の心が潔められていたならば、それだけ汚れが少く、潔められるべき業が少いから、洗濯をするのに酷い振動を与えないでも、楽にその汚れや業が消えて行くと云うことになるのでありますけれども、その宇宙浄化の自壊作用が起るまでに若し魂の浄まりが少いようでしたら、余り汚れの酷い洗濯物は、これを只一寸ゆすぐだけでは汚れが除れないから、うんと強力に叩きつけるか、劇い苛性ソーダでも使って、布地が破れるほどに洗わなければ綺麗にならんのと同じ様に、この世界の自壊作用が非常に強烈なものとなり、その悲惨な状態が非常に耐えがたいものとなるのであります。随ってその自壊洗濯作用というものを出来るだけ少くする為には、あらかじめ人類の魂を浄めて置かなければならないと云うので、人間霊魂の浄化運動を行い地上に於ける精神波動を浄めると云う方面を分担しているのがこの生長の家の魂の自覚運動即ち「人類光明化運動」と云うことになっているのであります。
<つづく>

774復興G:2012/06/02(土) 09:33:03 ID:84pogn5s

<つづき 8>
 そう云う訳で、宇宙の創造神の慈悲の御はたらきが、人格化して現れているのが生長の家大神であります。その大神の御旨を受けて、各々の役割に随って、沢山の高級霊が協同運動をしているのであります。谷口雅春と云う一個の人間が其の「思い附き」で運動をしているのじゃあないのであります。住吉大神の御旨を受けて沢山の高級霊や、準高級霊が白色スピリットからブリュー・スピリットに至るまで其の能力に随って夫々分相応の色々の役割を分担して総動員されているのであります。これは国家総動員じゃなくて、謂わば、「地球世界非常事態宣言」にもとづいて宇宙の高級霊総動員と云うわけで協力運動を推進しているのであります。そして其の教えや事務を地上で遂行する機関として、総裁・副総裁というものが出来、生長の家本部の理事長・理事・局長以下本部講師であるとか地方教化部の幹事長・幹事であるとか、或いは地方講師会長及び地方講師であるとか、青年会の支部執行委員長であるとか、白鳩会・誌友相愛会の県連会長であるとか、皆夫々この光明化運動に於て役職がつきますと、その役職に従って霊界の高級霊のうちから、夫々の能力と役割とをもったところの高級霊が、其の役職に関する守護霊として、その人たちに一々配属されると云うことになるのであります。そしてその役職に随って人をインスピレーション式に指導したり、組織活動を遂行する上に色々の良きアイディアを与えたりするのであります。

 それぞれ配属された守護霊は、その役目にしたがって、“これはこうしたらよかろう”“これはああしたらよかろう”と云うヒントをインスピレーション式に与えるようになっています。例えば、地方講師なら地方講師の辞令を頂くと、その地方講師たるに相応しい守護霊が其人に配属されまして、その講師を指導すると云うことになるのであります。だから自分は、自分自身だけでは、大して力が無くとも、人を指導する場合に、素晴しい智慧が自ら湧き出て来て、自分はそんな体験も知識もないのに、夫婦調和をさせるにはこう云う話をしたらよかろうと云うようなことが、インスピレーション式にスラスラと話すことができ、その指導の通りにすると好結果が得られると云うような実例が出て来ます。或る講師の体験談では、自分はそう云う経験がないのに、夫婦仲がどうしても好くなれないのをどうしたらよいかと相談に来た婦人に、「あなたは結婚する前に好きな人があったんだろう」と指摘したらその通り当っていた。「その相手の男がやはり思いつめていてその念波が来て、現在の結婚を不仲にしているのだから、その男の念波を成仏さすために、その男の名前を書いて『甘露の法雨』を読んでこうこうしなさい」と思わず、そう言って指導したら、その教えられた通りにやったら、それ切り夫婦仲がよくなってしまったと云うような実例もありますが、そう云う適当な指導が、フッと思い浮ぶのは、自分が自分の頭に自分の力で思い浮べたようでありますけれども、実はそうじゃないのであってその講師に配属されている高級霊が指導して、一寸、常識では思いつかないような、そう云う巧みな指導を与える事になるのであります。

 そう云う訳で、この人類光明化運動というものは、実は宇宙の創造神の御心を受けた高級霊界に於ける一大救済運動であって、その霊界に於ける救済運動の写しが地上に顕れて居るのであります。だから、この人類光明化運動に現実に参加している「肉体の人間」と云うものは、それぞれその指導霊に導かれて、人々を救済するのでありますから、色々と奇蹟的なことがあらわれるのであります。
<つづく>

775復興G:2012/06/02(土) 09:33:57 ID:84pogn5s

<つづき 9>
 昨年三月、宇治修練道場に於て体験談をされた京都の人は、道場の浴場へ行くと体中皮膚病で腐っている醜しい人が、その皮膚病のきたない身体を風呂の中でゴシゴシ洗っているのを見て突然怒鳴りたくなって、口をついて自分の思いもかけない言葉で、其の不心得を諭した。そして「其の皮膚病が治りたいか。治りたければ斯う斯うせよ!」と思わず言ってしまった。すると、その全身の皮膚病が数日のうちに痊(い)えてしまっていたと云うのであります。

 このような事が起るのは、宇治の修練道場を守護して居る霊が、其処に適当にやって来て、その人は単にその守護霊の放送のマイクロホンの如く、スピーカーの如くなって、その人を指導したのであります。イエスの仰せられた通り「われみずからにては何事をも為し得ず、天の父われにいまして御業を為さしめ給うなり」と云うようになっているからこそ、そのような不可思議な奇蹟的治癒と云うものが現れて来たのであります。

 このような機構によって現実界の人々は救われるのでありますから、或る講師や先輩の信者に救われたら、「私はあの人を媒介として救われたのである」と大いに感銘して感謝をするのはいいのですけれども、その講師や先輩が何かの心境変化で生長の家の役職を辞めたら、「私はあの人に救われたのだから、あの人が辞めたら、私が生長の家にいてはあの人に義理が立たぬから、私も生長の家をやめます」なんて云うのは、大変な心得ちがいであります。夫々の講師や先輩は神様から見れば一つのスピーカーとして働いて、そのスピーカーから出る教えによって相手の人は指導されて救われたのでありますから、救いの本尊は高級霊界にあり、その奥に創造神の大慈悲があるのであります。だからある講師とか役職の人が辞めることになったら、スピーカーの取替が行われたと云うことになるのであり、又かわりの人はおのずから次ぎにちゃんと用意されると云うことになるのであります。

 例えば先般生長の家のさきの婦人部長が或る事情で退職なさいました時の如き、その退職を申出られた丁度其の翌日に、実にその翌日にです。前に長崎大学の学長をしておられた高瀬清博士とその夫人の高瀬不二子さんが私の宅へやって来られて、高瀬博士は、千葉県の或る病院と、八王子の或る病院と、もう一つ東京の或る病院と、此の三つの病院から掛け持ちで来て呉れと云うので、広島から東京に移住することになったので挨拶に来ましたと言われる。そして当分、博士の方は、千葉の病院の公宅に住むことになっていて、其処でちゃんと食事の世話もして呉れるし、日常生活の色々の世話も係りの人たちがして呉れることになっているから、夫人の方は暇だから、何か生長の家の用事があったら使って下さいとこう言われたのであります。私が「千葉から本部へお通いになるのは遠いですな」と言うと、「いや、東京の板橋に妹の家がありまして、そして何時でも出て来られるのですから、毎日でも本部へ出て来られます」と言われる。それで高瀬夫人なら、在来の御経歴から、生長の家に深い御体験のある上から、適当な方であるので、丁度今椅子が空いている本部の婦人部長に就任して頂くようお願いした訳であります。必要な役職の人員が一人辞められるとちゃんとその次ぎに後任が出来ていると云う此の事実は、この運動が、人間だけの運動ではなくして、高級霊界からの運動であって霊界の運動が地上に投影しているのであるから、霊界の影として、其処に必要な人物は登場して来ることになるのです。だから霊界に人類光明化の運動があるかぎり、スクリーンが幾ら変っても、其処には、やはりその通りの影が映って来る訳であります。
<つづく>

776復興G:2012/06/02(土) 09:34:36 ID:84pogn5s

<つづき 10>
 そんな訳でありますから、或る講師や先輩を媒介として救われたら、その講師や先輩に感謝するのは無論いい事でありますけれども、その先輩その人が彼を救ったのであると考えると間違いでありまして、真実は高級霊界からの人類救済運動が地上に映って、それに指導されて救われたのであると云うことを知らなければならないのであります。

 だから、「生長の家大神――総裁・副総裁――御教」と云う教えの通過する系列のうち、その総裁でも、現在の総裁たる私が死んだら生長の家も駄目になるであろうと考えるのは間違であります。私が死んでも、私は一種のパイプでありスピーカーに過ぎないから、又次ぎに私に嗣いでスピーカーとなる総裁と云うのが出来まして、その人が私と同じょうな役目につき、一層新型の素晴らしい良質のスピーカーになって、私よりも上手に教えを宣べつたえ教化の体制を整備すると云うことになるのでありますから、そのことについては心配がいらないのであります。既に清超先生が私に劣らず教化の力を発揮しておられまして、今後ついに私を凌駕するようになることは必然であります。
<第9条の解義・完>

777金木犀:2012/06/02(土) 12:22:32 ID:j28jHRaM
復興G様

『菩薩は何をなすべきか』の素晴らしい謹写有難うございます。
拝読させて頂きました。改めて、感銘を深くしました。
信徒として、人類光明化運動指針は何度も繰り返して読んで心得るべきですね。

778金木犀:2012/06/02(土) 12:24:24 ID:j28jHRaM
『生長の家』誌昭和52年8月号から、
【八月の法語】 谷口雅春先生 より(5)

三十日の法語  “十三千大千世微塵数(じゅうさんぜんだいせんせみじんじゅ)”の意味するもの

「十三千大千世微塵数」と、わたしは数(すう)と普通に訓(よ)む字を“じゅ”と読みましたが、仏教では数という字を「じゅ」と読む慣例になっているからであります。

それは念珠のことを「じゅず」と言う時にも、数(じゅ)と珠(じゅ)と書いて「じゅず」と読みます。

大千というのは千を二乗した数です。つまり千に千をかけた数です。千を三乗した(千を三べんかけ合した)数であるという説もありますが、ともかく“大千”というのは千の二乗又は三乗の数です。そしてその数を十三千倍したのが十三千大千でありまして、その次に“世”とありますのは“世界”の事で、これは“蓮華蔵世界”の如く、中心に須弥山のある太陽系統みたいなものを、一“世界”と当時のインドの人は考えたのです。一つの太陽系統が一世界、その太陽系統を千の二乗した数を十三千倍した実に多数の太陽系世界を微塵にすりつぶして歯磨き粉のような微粒子にして、その歯磨き粉の微粒子の数一個を一つの言葉であるとして数えただけの文字又は用語が、竜宮に秘められてあった。『華厳経』の“上本”に書いてあったと言うんですから、『華厳経』のコトバの数は無限の数なんですね。

何しろ太陽系統一つを、すりつぶして歯磨き粉みたいな微粉末にしただけでもその微粉末の数は大変なもんだけれども、十三千大千という多数の世界をすりつぶして、微粉末にした、その粉末のひとつひとつが竜宮界に秘められている華厳経に書かれている文字の数であるなんていうことになると、もうこれは数えようがないということになるわけなんです。

このことは何を意味するかというと、華厳経というのは、そんな紙や竹篇に書いた経文ではない、“海の底”即ち「創造の本源世界(うみのそこにあるせかい)」にある所のあらゆる真理のコトバそのものが華厳経である。この“あらゆる”真理のコトバという意味が、この無限数の文字で綴られた経典が華厳経であるんだと、いうようにこの神話は解釈できるわけであります。

さてお釈迦さんは、この驚くべき真理のコトバを、華厳経に於いてそのものズバリとお説きになったのですが、先刻(さっき)言いましたように、お釈迦さんが亡くなって四百年か八百年経って龍樹菩薩という霊的天才が現れて、神通力によって「創造の本源世界(うみのそこ)」なる竜宮に渡って『華厳経』を読破し、その簡略本を地球上へ持ち上がって来た。それが、今地球に伝わっているところの『華厳経』であると、こういうことになっているんです。


三十一日の法語  華厳経の描いた大宇宙の霊的構造

その『華厳経』はどういうことが書いてあるかというと、この大宇宙の霊的構造が書いてある。すなわち、宇宙の中心座にベローシャナ仏、毘盧遮那如来、盧舎那仏、大日如来、天照大御神、その具体的、人格的、顕現として天皇が中心にまします、こういう霊的構造の世界がこの宇宙であり、この霊的構造は毘盧遮那如来が「正法を演説し給うた」そのコトバの展開として出現した世界であるから、「金剛の厚地にして永遠に破壊(はえ)されない実相」である。それは、“常”の世界であって、無常の世界ではない。それはイエス・キリストが「主の祈り」に於いて「神意(みこころ)の天に成れる世界」と説いた世界であり、従って“苦”の世界でなくて天国的“楽”の世界であり、それは“神意(みこころ)”という“大我”が中心にまします“浄”の世界である。すなわち“常楽我浄”の金波羅華の実相世界を釈尊は成道の最初の説法に於いてお説きになったが、その真理は時期尚早として秘められていたのでありますが、今や時節到来、この荘厳なる宇宙構造が開示されんとしつつあるのであります。

【この法語は9月号に続くことになっていますが、9月号を所持していないためここで終わらせて頂きます。】

779SAKURA:2012/06/02(土) 12:59:14 ID:pTRr5CN6
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ

ロ−マ字の【SAKURA】です。
此処しばらくかなりの睡眠不足です。若い時は何ともないぐらい〜〜〜
回復力が〜〜〜昨日は特に!きつかったのですが〜〜「雅春先生の言葉」は神なりと、
思うぐらい自然に、体力回復してきました〜〜〜が!
さて!「今日の言葉」は???ぺ〜〜ジを開きます。

■【幸福を招く365章】
――――真理は実践しなければならぬ―――――

「人間本来完全」の真理を教えられて知ったならば、如何なる問題でも起こって
来たときに、その問題が、自分の問題であろうと、家族の問題であろうと、
友人の問題であろうと、どんな小さな問題であろうと、大きな問題であろうと、
「あの人は完全だ、善い人だ、不親切な人ではない」と云う風に、相手の心の
うちで拝んで、その実相の完全さを常に念ずるようにすることです。
そうすると念じた通りにその完全さがあらわれて来るのです。先ず小さな問題から
始めることです。そしてその効果を体験することによって、自信を増し、更に段々
ほかの大きな問題を念ずるようにするのも好い方法である。併し、最初から
「世界平和」を念ずるようにすることは、結果はすぐあらわれないでも自己の魂の
向上にだけでなく健康増進のためにも大いに役にたつのである。
                           (谷口雅春著)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
私も、現在「大きな問題」を抱えています…。「祈る!」時は、やはり【実相礼拝】
「大きな問題」がありますから、そこから順次かたずけて行くより〜〜><
出来る事から〜始めましょう〜〜〜!そうした方がいいです〜〜〜ョネ!

今回!あちらの集団の方々?には、ほとほと〜〜><あきれるばかりなのですが…?
今回「葉書問題…」が、発生!!!【緊急事態!!】

実は私の“住所”を勝手に使用して、“第一教区の練成とか?”…><
いろんな“行事”に“参加”していたのでしょうか??
今回!教区からの“案内はがき”の名前が……
私の姓ではなく?別の人の姓?です…。何度も〜何度も〜舞い込んで来ていまして、
その度に、TELしていましたが…

今回!変!と思うようになり、これが【外部の動き?】でしょうか…
今回!或る突っ込みで分かり、これは“ダイレクト葉書”をかなり悪用している事が、
分かりました…。更に?ある時は、名前の方を使い…
今回幾ら【正義…】と言っても、これは行きすぎではな〜〜い?と思います。

■…でしょうか??
更に!【真理…】は、いつも一方通行で“セット期間が、ゼロに近い…ブル−カラ−”    
教区の友人は、今の総裁先生で“十分”と言っていますし、
“心”がフラ〜フラ〜何処に行っても「向こうの方々」は、同じ繰り返しで〜ショ!
先ずは「良い種」を…
今回は「現総裁先生…」勇気を持っての“行動”…その様に思います。
信者は、“ブログ”etc拝読しながら、総裁先生の人格を 認め出しておりますし、
「種を蒔く」これからの「芽が発芽」致しますまでは、気〜〜長に行こうと思います。

■【心の法則】ですから、心が念じた通りになるのが、今の「現象世界」なのです。
更に!今「芽…」が現実として現れなくとも、何か別の形で出ているのでは?と
思います。
今回!此処至り【真理の勉強】が、前以上に“進歩”しています。

今の私には、とるにたらない“エッセンス”と、言える位…
【真理=>心の中はクリスタル?】なのです…。
とても“自由自在”なのでしょうか……?今のままでは……?

例え!!「小さき生長の家」として「現象=現実世界」に投影されても、
そこに集まる【集団…人!・人!】で、助け合っていこうと思います…。
更に!私もTYOに,戻れば…【私の本格的活動のペ―ジ】の始まりでもありますネ!
                             再合掌

トキ様 へ
【真理…】本当に“行”じなければ、「から念仏」と同じ事ですョ〜〜ネ!
昨日は“小さき愛行”を、させて頂きました…。「ノ―ミ−ト運動」実践!
少しは理解して頂いたものと思いますが…!これも【環境問題…】に入りますモノ!
本日の言葉…【真理=実践】どのように受け止められていらっしゃいますでしょうか?

780SAKURA:2012/06/02(土) 22:24:43 ID:V.pKl3yA
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ

こんばんは…ロ−マ字の【SAKURA】です…。
毎日“パソコン”を打ち込んでいますと、やはり良いです〜〜ネ!
“スル―”して流すより、私の考えの根本は“ず〜〜〜と価値”もあり、
更にKEY ボ−ドを打つことで【真理】が身につきますので…
【SAKURA】は、がんばって“パソコン…”と“にらめっこ”です?
今から…“祈り”ま〜〜す。…“スタ―ト”

■【幸福を招く365章】
―――――人から誤解された場合――――――(谷口雅春著)

他人から誤解されたからと云って失望してはならない。自分も多くの人々の美点
の総てを見ることに失敗し、時々誤解によって人々を悪しざまに思ったことが
あるからである。肉体の人間は視野が狭いから時々観察を誤るものであると云うこと
を知って、誤解した人を宥さねばならない。又どんなに偉い人でも、釈迦でも、
キリストでも、親鸞でも、日蓮でも、誤解されてその時代に容れられなかった時が
あるのだと云うことを知って、自分が受けた批難くらいは何でもないことだ、
と心から捨ててしまうことが必要である。そして「すべての人は神の子であるから、
互いに愛し合い理解し合っていて誤解し合っている人は一人もない」と
実相調和の有様を心に描くことがひつようである。


■今日は“各提示版”でも、いろんな事?が、発生しています〰〜ョネ!
不思議なのです〜〜ョネ!本当に…“本…”を開きますと?
神様の“メッセ−ジ”が、私の「心の修行」でしょうか…?
『ピッタリ〜〜”心“にフィット!』です〜〜〜ネ!

他人はそれぞれ“捉え方”が違いまし、“能力・知識・思想・理念…etc”も〜〜><
違いますでしょ〜〜!若い時は、人は誰も同じ様な気持ちに、必ず!
なれると信じていました…。

■これが若さの“甘さ”でしたのでしょうか?過去最大の“失敗”!!!!!

私の「聴覚喪失」も失なったわけです〜〜〜ョネ!
此の様に「誤解」は、いつもつきもの?なのですが…?
「今日の雅春先生の言葉」から、相手を悪く見る“好悪観”が【100%の場合】は、
人間は“念の波動”があります。ですから…いやな観念が相手に【伝染】します。

良い意味でならば、いいのでしょうが…><悪い“念の波動”は、早いのです〜〜ョネ!
なので「祈り」に、私の波動を調整して、前に行ってる処なのですが…?
今回は“楽しんでいました〜♫”から〜〜〜“いやみな文章”でも…
相手の“レベル…”を見ながらでしたが…

更に!貴方に云ってます〜〜ョと、深切に教えてくれる人も…いらっしゃいまして
複雑な気分でした。世の中不思議〜まか不思議〜〜☆異国のひびきにて不思議〜〜☆
色々な「考え・捉え方」を、改めて勉強させて頂きました…。

■……此処で“ブレイク”しますが…?
【赦す…】を、「雅春先生」は…【宥す事…】此の“漢字”を使われています…。
【宥…の意味】は????果たしてどの様な“感情・感覚”なのでしょうか?

■なだめる===>軽く受け流すこと!中国の方が“まぁ〜〜まぁ〜〜”と、
云いますでしょ・・・!つまり!
脳に入れ込まない==>潜在意識に受け入れない……此の様に考えますと…
【人間性=信仰=祈り(イメ−ジ・トレ−ニング)実相調和の世界観】です〜〜ネ!

今!今!私も〜〜〜“心をオ−プン”に!モット〜モット〜広げて行きます…?
私も“モット〜〜かる〜〜い感覚”で理解出来るようにと、思っていますが…?
今日の先生の“言葉”より更に!【心でつくる世界…総てをつくる】のですネ!

■「われは好悪を捨て 私心を去り 我の判断を捨て 心を空しくして 
神の叡智に一体ならんことを期す 神の叡智我に流れ入り給いて 
御心の如く導き給うのである」 今日も“祈り”に徹します。
                             再合掌

PS:トキ様へ…【前回・今回の“雅春先生の言葉“】先生の“漢字・カナ遣い”
つまり!日本語の素晴らしさ!思います。反面「英訳」の難しさ?…><
此の点は、如何お考えでしょうか???

781金木犀:2012/06/03(日) 00:57:22 ID:j28jHRaM
『生長の家』誌昭和52年8月号より
実相研鑽会「生命の進軍」から
諸田浩幸講師(武蔵野市・地方講師)の体験談

有難うございます。私は東京第二教区、武蔵野市吉祥寺の駅前で診療所を開設いたしておりますが、今日私がこの座に立たして頂けるのも、生長の家あればこそでございます。この御教え無かりせば、私の今日は無いのです。

と申しますのは、私は肺癌という業病にとりつかれ、もう十年以上も昔のことになりますが、尊敬する医学の恩師沖中博士から、「君はもうあと一ヶ月保たないねえ」と宣告されたのでした。そう言われた時には、正直申しまして、目の前が真暗になる思いがしました。生長の家の真理を説かして頂いている立場でありながら、何とみじめなことであろうと、本当にそう思いました。

けれども皆さん、信仰は有難いものでございまして、沖中先生からそう言われたけれども、一瞬目の前が暗くはなりましたが、“ああ、天下の大家と言われる先生から、これほどハッキリ太鼓判をおされて、本当に有難うございます。これ以上何も申すことはございません”と思わず合掌させてもらいました。

吾にまだ使命あるなら

さあ、そうなると、あと三十日、私もまだまだやり残したこと、お約束させてもらっておることなど、山ほどございます。
「先生、今日はこのまま入院治療させて頂くわけにはいかないのですが、まことに申し訳ありませんがこのまま帰していただけますでしょうか」
と、御無理をお願いして帰らせてもらいました。そして車にとび乗り、約束の時間に間に合うべく急いで講演会場に駆けつけました。当時、医学講演会、そして生長の家の地方講師としての活動も熱心にやっておりましたので会場に駆けつけさせて頂き、三時間、四時間という長講の講演を致しまして、しかし皆さん、これが心の法則ですが、そういう長い講演を済ませて帰る途中で車の中で、大量の喀血を致したのでございます。“神よ吾にまだ使命あるならば、御心の如くならしめ給え、私の全てはあなたに捧げます。お托(まか)せ致します”と言って、それは命がけで祈りました。本当に真剣に祈らせてもらいました。

その後も各所からの講演の要請があり色々なところへ出向かせて頂き、その途次、高崎市の観音山の白衣観音のあの胴体の中を登り、頭部のところに座しまして、神想観を行じました。真剣に行じておりますと、“お前は肉体ではないのだ!!”現象は無いのだ!!実相そ’の’も’の’がお前ではないのか!!と、内なる神の声の激励を受けたのです。そしてその真理が深く自覚できたのでした。見るものきくものすべてが御光であり、神の祝福であり、唯々、触れるもの感ずるものが皆有難く、感謝感謝の気持がむくむくと起こって参りました。

すると、過去におきまして、事業を経営しておりました時に、二十一億数千万円という大損害を与えられた、部下であるところの私の会社の重役が浮かんで来ました。二十一億数千万円という、大きなどえらい穴をあけられて、そのために私は家屋敷まで売り払い、すべての損害の穴うめをしたのでしたが、そんなものも現象であり、実相(ほんとう)の姿ではなかったのだということを悟らして頂いたのです。今まで恨み、怒り、不愉快な思いをしていたその気持ちが、いっぺんに晴れやかな爽やかな素晴らしい気持ちにならせて頂いたのでございます。これ即ちみんな神の御教えのお陰でございまして、本当にこの気持にならせて頂いたお陰をもって、病気は一昼にして忽然と吹き飛んでしまいました。(拍手)
(つづく)

782金木犀:2012/06/03(日) 00:58:15 ID:j28jHRaM
(つづき)
『光』一元の世界観

さて、本日頂いておりますお題は、“いのちの進軍”でございます。『生命の實相』第十一巻の八頁から九頁にわたって、こうお示し頂いております。
『神が天地を造り給うには材料にも手段にも別に物質というものをお使いにはならなかったのであって、霊を実質とし、また霊を創造(つく)る力とせられたのであります。物質というものは本来定形(かたち)のないものであります。それは本来空(むな)しきものである。空である。それは積極的な存在ではない。それは光を非在にした状態である。光が無゜い゜ということの別名が暗゜黒゜であるということであって、暗黒(やみ)そのものには積極的に実在を主張する力はないのであります。それはただ受身的に消極的に存在するのであります。此処にはその消極的原理を「淵(わだ)」とか「水」とかの言葉で言いあらわしてあります。霊感によりますと、人生とは暗゜の中を厳(おごそ)かに進軍して行く光であるとも、「死」の中を進軍して行く「生命」であるとも教えられております。「神の霊、水の面を覆う」というのは、「水」を以て表した「消極的存在」即ち「無」「仮相」「暗」「死」「無明(まよい)」の中を「積極(プラス)的存在」たる「神の霊」即ち「有」「実在」「光」「生命」「智慧」が、厳かに圧倒的勢いをもって進軍して行くことを言ったのであります。ここに是非とも注意しなければならないのは「無」と「有」との対立、「仮相」と「実相」との対立、「暗」と「光」との対立、「死」と「生命」との対立、「無明」と「智慧」との対立は本当の対立ではなく、これを対立と考えるのは人間の「思考の形式」の誤りであるということであります。「無」と「有」と対立すると言いましても、一方は無゜い゜のでありますから、対立のしようがない訳で、本当は「有゜」の独在――「有゜」の絶対的存在――であります。それと同じように「暗黒(やみ)」も「死」も「無明」も、光が無゜い゜、生命が無゜い゜、自覚(さとり)が無゜い゜というふうに“nothingness”の別名にすぎないのでありますから、この世にありとしあらゆるものは、すべて「光明」であり「生命」であり、「智慧」であるのであって、その反対のものは、どんなにあるように見えても本当は”nothingness”(絶無)なのであります。だから「無゜」の゜中゜に゜「有゜」を゜肯゜定゜す゜る゜の゜は゜な゜ん゜で゜も゜な゜い゜。それは「一人角力(ずもう)」をすれば必ず勝つというのと同じで、神が、ただ、「光あれ」と言い給うだけで、「光」は既に「暗」を征服したのであります。』

かくの如く、尊師谷口雅春先生はお説き下さっているわけでございます。

この真理の実証は、私自身、あと一ヶ月保たないと宣告された肺癌が、忽然と消え去った体験でも明らかなわけですが、もう一つ、あるレプラ(癩病)患者についての体験をお話させて頂きたいと思います。(つづく)

783金木犀:2012/06/03(日) 01:00:16 ID:j28jHRaM
(つづき)
鍵のかかった部屋で

私はある収容所に参りました。この患者さんは、レプラ患者の中でも特に重症で、特別隔離室に鍵をかけて収容されております。その部屋に、鍵をあけて頂いて入らせて頂きました。八年の長い間この患者さんは、親兄弟、親戚すべての人の訪問なく、手紙一通さえ来ることなく、あらゆるものを呪い、恨み、“自分が好きでこんな病気になったのではない。この世の中に神も仏もあるのか”といった暗い悲しい気持ちで暮らしていました。当時、米軍から支給された野戦用の鉄のベッドの上に粗末な毛布をただ一枚敷いただけで、その上に横たわり、本当に、全身の関節という関節は皆曲がり歪んで皮膚は破れて、膿み爛れて、まったくこれ悲惨な状態でございました。

さすがの私も、この姿を見まして、“ああ、地獄というものがあるならばこれが本当の地獄ではないのか”と思いました。私は、その人の名前を呼びまして「○○さん、今日は。今日私がここにお伺いしましたのは、あなたと仲良くしてお話合いがしたいので来たのです」そう言いまして、思わずベッドのそばに近より両手をとりますと、本人はビックリ致しまして、「何をするんだ!!出ていってくれ!!」と怒鳴られました。それも無理からぬことです。八年もの長い間、誰一人として訪なう人のないこの部屋に、突然入って行ったのですから。
「俺は、親も兄弟も、誰一人として来てくれない、手紙一通もくれないのにその俺に、見たことも会ったこともないあんたのような人が、何のために来たのか!!」

そう言って、形相も凄く私の顔を睨みつけておりました。
「○○さん、あなたは八年という長い間どなたが会いに来なくとも、今、あなたの目の前に私が会いに来ておるではありませんか」

と申しますと、じっと私の顔を見つめていらっしゃいました。私は、また、しばらくしてから静かに両手をとって、体を引き寄せ肩を抱いて、耳もとで、

「○○さん、あんたと私とは今日只今から兄弟ですよ。私の方が年上のようだから兄貴、あんたは弟。今から仲の良い兄弟ですよ。兄貴の言うことだから、弟はきいてくれるね……」と、静かに言いました。そして、この素晴らしい生長の家の真理を懇懇と話させて頂きました。聴いているうちにその人は身を震わせておりましたが、たまりかねて、声を出して泣き出してしまわれました。「先生、有難う、有難う」と言って、私にしがみついて来られました。「ああ、よかったね。有難うを言うのは私の方だよ」と、私もともに涙にくれました。

「ああ、よかった。よかった。これでよかったね」
と言って、その日は『甘露の法雨』を一冊置きまして、「そのうちに又来るからね」と言って帰らせてもらいました。(つづく)

784金木犀:2012/06/03(日) 01:01:36 ID:j28jHRaM
(つづき)
素晴らしい聖使命菩薩に

そして三日後の朝、私は癩療養所から連絡を受けました。この御本人が、その朝突然に立ち上がられたという御連絡でございました。(拍手)まったく、八年間も、動くことも、立つこと坐ることさえも出来なかったこの重症患者が、三日目の朝に、皆さん、立ったのです。

これは、医者の業では出来るものではないのです。神あればこそのことでございました。生長の家のこの素晴らしい御教えあればこそ、谷口先生居られればこそでございます。(拍手)まことに有難いことでございます。

この本人が、一ヶ月足らずのうちに療養所内の専門医の診断を受け、無事に、有難くも、全快全治の認定を受けまして、外出証を発行して頂き、八十キロあまりもある私の自宅まで、わざわざ、不自由な身体を運ばれて面会に来てくれました。(拍手)

本当に素晴らしいことだと思うのでございます。
 
その後一ヶ月足らずのうちに、この人、本当に全快して、今日なお所内に踏みとどまりまして、療養所内の患者の指導に当っておられます。生長の家の幹部として、聖使命菩薩の行を、今日もなおひたすらに励んでおられるのでございます。

皆さん、かくも素晴らしい聖使命菩薩がおられるのです。本当に有難く、頭の下がる思いが致します。
有難うございます。
私たちは、これほどまでの生命の尊さを知るとき、この生命の素晴らしさをお説き下さる御教えを、一人でも多くの人にお伝えしなければと思います。神誌拡大の弾丸を雨ふらし、進軍ラッパも勇ましく、堂々の“いのちの進軍”を続けて行こうではありませんか。
有難うございます。           (拍手)
(終わり)

785真に生長を導く者:2012/06/03(日) 03:24:16 ID:KdhUxVl.
なんか㊦↓の>>28に犯行予告している奴がいるぞ

【裁判】 「興奮とストレスで歯止めが利かなかった」 強制わいせつ致傷公判で元京都府警巡査(28)、起訴内容認め結審…大津地裁 
ttp://uni.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1338533270/l50

786a hope:2012/06/03(日) 08:21:46 ID:kcv2QXTk

人生読本 谷口雅春先生著

困難な仕事ほど面白い


人生の経験はちょうどオリンピック大会のようなものでありまして、
いろいろの障害物や困難があるのでおもしろいのであります。
水の中を泳いでみたり、高跳をしたり、何かそこに唯の平地を歩く以上の障害物があるで
力を入れて熱心にやるだけの値打ちがあるのであります。

だから皆さんは難しい仕事や、難しい勉強や、困難な境遇に置かれる毎(ごと)に常に
オリンピック大会に出ている選手みたいな必算(つもり)で、
その時間、その境遇にできるだけ全ての経験をえさせていただきましょう、
と喜んでその境遇、仕事、学科、時間を生きてゆきますと、
どんな時でも喜ばれる、事柄が難しければ難しいほど喜ばれるはずであります。

事柄が難しいほど私達はそれに対して真剣になります。
又それから得られる教訓も、経験も多いという事になります。
困難な事柄がどんなに起こってきましても、それが皆拝めるようになりましたら、
そこから不平というものが一切なくなる、
総(あら)ゆる難しい境遇は、私達の心を富(と)まし、
私達の心に栄養を与える良い機会だ、ああありがたいという事になるのであります。

(つづく)

787SAKURA:2012/06/03(日) 12:47:01 ID:N28agCuQ
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ

こんにちは・・・ロ−マ字の【SAKURA】で〜〜す。
“天使の声”が、鳴り響いています〜〜♫〜〜
昨日から“キン〜〜コン〜〜カン〜〜♫”と“教会の鐘”が〜〜〜
まるで「生長の家の扉…」??そうなのです!!
私たちの「聖典板」此処に集まれる“言葉”すべて【天使の狂想曲…】を、
鳴り響きませましょう〜〜〜♫〜
さて!今日の言葉〜〜〜〜♫〜〜〜“導き下さいませ〜〜☆”

■【幸福を招く365章】
――――真理は実践しなければならぬ―――――

「人間本来完全」の真理を教えられて知ったならば、如何なる問題でも起こって
来たときに、その問題が、自分の問題であろうと、家族の問題であろうと、
友人の問題であろうと、どんな小さな問題であろうと、大きな問題であろうと、
「あの人は完全だ、善い人だ、不親切な人ではない」と云う風に、相手の心の
うちで拝んで、その実相の完全さを常に念ずるようにすることです。
そうすると念じた通りにその完全さがあらわれて来るのです。先ず小さな問題から
始めることです。そしてその効果を体験することによって、自信を増し、更に段々
ほかの大きな問題を念ずるようにするのも好い方法である。併し、最初から
「世界平和」を念ずるようにすることは、結果はすぐあらわれないでも自己の魂の
向上にだけでなく健康増進のためにも大いに役にたつのである。
                           (谷口雅春著)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
私も、現在「大きな問題」を抱えています…。「祈る!」時は、やはり【実相礼拝】
「大きな問題」がありますから、そこから順次かたずけて行くより〜〜><
出来る事から〜始めましょう〜〜〜!そうした方がいいです〜〜〜ョネ!

今回!あちらの集団の方々?には、ほとほと〜〜><あきれるばかりなのですが…?
今回「葉書問題…」が、発生!!!【緊急事態!!】

実は私の“住所”を勝手に使用して、“第一教区の練成とか?”…><
いろんな“行事”に“参加”していたのでしょうか??
今回!教区からの“案内はがき”の名前が……
私の姓ではなく?別の人の姓?です…。何度も〜何度も〜舞い込んで来ていまして、
その度に、TELしていましたが…

今回!変!と思うようになり、これが【外部の動き?】でしょうか…
今回!或る突っ込みで分かり、これは“ダイレクト葉書”をかなり悪用している事が、
分かりました…。更に?ある時は、名前の方を使い…
今回幾ら【正義…】と言っても、これは行きすぎではな〜〜い?と思います。

■…でしょうか??
更に!【真理…】は、いつも一方通行で“セット期間が、ゼロに近い…ブル−カラ−”    
教区の友人は、今の総裁先生で“十分”と言っていますし、
“心”がフラ〜フラ〜何処に行っても「向こうの方々」は、同じ繰り返しで〜ショ!
先ずは「良い種」を…
今回は「現総裁先生…」勇気を持っての“行動”…その様に思います。
信者は、“ブログ”etc拝読しながら、総裁先生の人格を 認め出しておりますし、
「種を蒔く」これからの「芽が発芽」致しますまでは、気〜〜長に行こうと思います。

■【心の法則】ですから、心が念じた通りになるのが、今の「現象世界」なのです。
更に!今「芽…」が現実として現れなくとも、何か別の形で出ているのでは?と
思います。今回!此処至り【真理の勉強】が、前以上に“進歩”しています。

今の私には、とるにたらない“エッセンス”と、言える位…
【真理=>心の中はクリスタル?】なのです…。
とても“自由自在”なのでしょうか……?今のままでは……?

例え!!「小さき生長の家」として「現象=現実世界」に投影されても、
そこに集まる【集団…人!・人!】で、助け合っていこうと思います…。
更に!私もTYOに,戻れば…【私の本格的活動のペ―ジ】の始まりでもありますネ!
                             再合掌

トキ様 へ
【真理…】本当に“行”じなければ、「から念仏」と同じ事ですョ〜〜ネ!
昨日は“小さき愛行”を、させて頂きました…。「ノ―ミ−ト運動」実践!
少しは理解して頂いたものと思いますが…!これも【環境問題…】に入りますモノ!
本日の言葉…【真理=実践】どのように受け止められていらっしゃいますでしょうか?

788SAKURA:2012/06/03(日) 13:04:13 ID:N28agCuQ
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ

こんにちは…… ロ−マ字の【SAKURA】で〜〜す。
どうしたら?・・・「真理の道」に・・・「大道部門のロ−ド」・・・?と
皆様も、そう思っていられるのではないのでしょうか!!!
答えは“簡単”なのです〜〜〜ョ〜〜〜
毎日「聖典を読む!」理解できなければ?何度も読むこれだけでしょうか???
しいて言えば・・・毎日のごはん作りをちゃんとしますでしょ〜
日々読む・理解しようとする心…此処からが出発点なのですモノ〜〜♫〜〜

■【幸福を招く365章】
―――――人から誤解された場合――――――(谷口雅春著)

他人から誤解されたからと云って失望してはならない。自分も多くの人々の美点
の総てを見ることに失敗し、時々誤解によって人々を悪しざまに思ったことが
あるからである。肉体の人間は視野が狭いから時々観察を誤るものであると云うこと
を知って、誤解した人を宥さねばならない。又どんなに偉い人でも、釈迦でも、
キリストでも、親鸞でも、日蓮でも、誤解されてその時代に容れられなかった時が
あるのだと云うことを知って、自分が受けた批難くらいは何でもないことだ、
と心から捨ててしまうことが必要である。そして「すべての人は神の子であるから、
互いに愛し合い理解し合っていて誤解し合っている人は一人もない」と
実相調和の有様を心に描くことがひつようである。


■今日は“各提示版”でも、いろんな事?が、発生しています〰〜ョネ!
不思議なのです〜〜ョネ!本当に…“本…”を開きますと?
神様の“メッセ−ジ”が、私の「心の修行」でしょうか…?
『ピッタリ〜〜”心“にフィット!』です〜〜〜ネ!

他人はそれぞれ“捉え方”が違いまし、“能力・知識・思想・理念…etc”も〜〜><
違いますでしょ〜〜!若い時は、人は誰も同じ様な気持ちに、必ず!
なれると信じていました…。

■これが若さの“甘さ”でしたのでしょうか?過去最大の“失敗”!!!!!

私の「聴覚喪失」も失なったわけです〜〜〜ョネ!
此の様に「誤解」は、いつもつきもの?なのですが…?
「今日の雅春先生の言葉」から、相手を悪く見る“好悪観”が【100%の場合】は、
人間は“念の波動”があります。ですから…いやな観念が相手に【伝染】します。

良い意味でならば、いいのでしょうが…><悪い“念の波動”は、早いのです〜〜ョネ!
なので「祈り」に、私の波動を調整して、前に行ってる処なのですが…?
今回は“楽しんでいました〜♫”から〜〜〜“いやみな文章”でも…
相手の“レベル…”を見ながらでしたが…

更に!貴方に云ってます〜〜ョと、深切に教えてくれる人も…いらっしゃいまして
複雑な気分でした。世の中不思議〜まか不思議〜〜☆異国のひびきにて不思議〜〜☆
色々な「考え・捉え方」を、改めて勉強させて頂きました…。

■……此処で“ブレイク”しますが…?
【赦す…】を、「雅春先生」は…【宥す事…】此の“漢字”を使われています…。
【宥…の意味】は????果たしてどの様な“感情・感覚”なのでしょうか?

■なだめる===>軽く受け流すこと!中国の方が“まぁ〜〜まぁ〜〜”と、
云いますでしょ・・・!つまり!
脳に入れ込まない==>潜在意識に受け入れない……此の様に考えますと…
【人間性=信仰=祈り(イメ−ジ・トレ−ニング)実相調和の世界観】です〜〜ネ!

今!今!私も〜〜〜“心をオ−プン”に!モット〜モット〜広げて行きます…?
私も“モット〜〜かる〜〜い感覚”で理解出来るようにと、思っていますが…?
今日の先生の“言葉”より更に!【心でつくる世界…総てをつくる】のですネ!

■「われは好悪を捨て 私心を去り 我の判断を捨て 心を空しくして 
神の叡智に一体ならんことを期す 神の叡智我に流れ入り給いて 
御心の如く導き給うのである」 今日も“祈り”に徹します。
                             再合掌

PS:トキ様へ…【前回・今回の“雅春先生の言葉“】先生の“漢字・カナ遣い”
つまり!日本語の素晴らしさ!思います。反面「英訳」の難しさ?…><
此の点は、如何お考えでしょうか???

789ハマナス:2012/06/03(日) 19:20:23 ID:u5mC.eb2

神の子のみなさま
ありがとうございます。

人間は進歩と向上あるのみ  (『新版 生活の智慧365章』P.170)

 変化を悦びと見ないで、過去の栄えと今の衰退とを比較して歎く者は憐れなるかな。
また過去にありし労苦を反芻(はんすう)して、持越し苦労を続ける者も愚かなるかな。
植物に春夏秋冬の変化があるが如く、人生にも春夏秋冬があるのである。冬が来て外に
目立って伸びない時に植物は年齢の間隔をせばめて堅緻な材質をつくるが如く、人間も
艱難で鍛えられて堅実なる人格と不撓(ふとう)の意志とが養成せられるのである。
未来の変化を想像して取越苦労をする者は、神の此の世を“変化の芸術”とした摂理と
慈悲とを知らないものである。未来は悉く現在よりも、内容的に豊かにして責める者と
なることは間違いないのである。

 年老いれば、外から見れば、形容枯槁し、その姿に老醜をあらわすと雖(いえど)も、
それは蚕が脱皮するに先立ちて、その皮膚の色変化し醜くなるのと同じことであって、
も早役に立たぬ外皮を脱ぐ準備をしつつあるに過ぎない。吾れら更に脱皮して霊界に
天翔けらん。人間の生命には、ただ進歩あるのみ、向上あるのみである。

感謝合掌

790a hope:2012/06/04(月) 07:46:01 ID:kcv2QXTk

人生読本 谷口雅春先生著

なぜ人間は仕事を嫌うか


人間は妙な習慣がありませして、どういうものか仕事をする事を嫌う人が多いのであります。
仕事をしたら損だという間違った観念がどうして起こったかは知りませんが、
恐らく仕事というものは強制させる事から、その反動的に起こってきたものであろうと思います。

仕事が嫌になるのは、人から強制されたと思うからで、
人間の生命というものは自由というものを求めておりますから、
自由に反して、これからお前は金で雇ってあるから働けというように縛られた気持ちになると、
どうも仕事をするのが面白くなくなるのであります。

しかし、働いてお金を貰うからとて、お金に縛られて強制せれるのだなどとは考えないで、
ただ仕事そのものを考えて、それを熱心にやる、あるいはこれは自分が神様から授かった尊い仕事である、
これで自分の生命(いのち)を伸ばしていただくありがたい勉強であると考えれば、
どんな仕事も、縛られたというような不快な感じなしに喜んでやれるようになるのであります。

勉強という言葉は、「努め強(し)いる」と書いてありますから、
勉強というだけでも嫌いな人がありますが、それを勉強だと考えずに、
自分の生命の伸びる唯一の機会であると喜ぶようにすることが肝腎であります。

「神は今に至るも働き給う」と聖書に書いてありますが、
私達は神の子ですから働きが神の子の使命であり、
働きが神の子の本然(もくぜん)であります。

働かなければ神の子の生命は伸びないと分かったら、
自分の生きる道は働くしかないという事になるわけであります。
言い換えると、仕事をする事その事が自分を伸ばす仕事であって楽しいと思うようにならなければ、
人間は本当に発達するものではないのであります。

(つづく)

791SAKURA:2012/06/04(月) 21:23:53 ID:V.pKl3yA
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ

こんばんは… ロ−マ字の【SAKURA】で〜〜す。

昨日は“オフ・タイム”でした…。久しぶりに“公園周辺”を〜♫〜“ペット”と?
更に「現総裁雅宣先生の観自在菩薩」のシリ−ズ第4回まですが…><
第3回まで拝読させて頂きまして…
■何と!!!【法則・法則…?此の言葉“心”に残り…やはり!
ゆっくり読み直しますと、その中には「雅春先生の真理」が〜〜
受け継いでいます〜〜〜ョネ〜〜〜!では今日も【SAKURA流】 でゴ−!!

■【幸福を招く365章】
======心の窓を閉じて自分を護ること======

外に寒い風が吹きすさんだり、あまり外に埃が立つときに諸君は窓をしめて、
その風が吹きこまないようにするであろう。それならば、誰かが貴方の心の中に
激情の嵐を吹き込ませたり、怒り憎しみや悪口雑言の埃を吹き込ませたりするときに
何故あなたは自分の心の窓をひらいていて、その嵐で自分の心の中をさわがせたり、
吹込んで来る怒りや憎しみの埃だらけの心にしてしまうのであろうか。
人が誰かの悪口を云うときには自分の心の窓を閉じよ。人が汝を悪しざまに
云うときには自分の心の窓を閉じよ。人が病気の話をするときには
自分の心の窓を閉じよ。           (谷口雅春著)

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

今日の“言葉…”は本当に思います…。
「学ぶ会」・「ときみつる会」・「靖国会」…etcの皆様…
この「三者の会…の皆様」……
「現総裁雅宣先生」への“批難”・“中傷”は、すごい〜〜〜ですネ!
いつも〜〜いつも〜〜“批難”集中型です…。
しかも!【悪口・憎怨・悪念集団…】の様に見えまして、
このような時は、本当に!私でも“心の窓”を閉じる事でしょう〜〜!!

しかも「ネット世界」此の事が…【世界中に配信…】されていますとしたならば、
本来の「生長の家」の理念であります…【言葉=言霊=美点】如何なものでしょう?

■“いやな言葉”は……!!!!!
【言 わ ざ る!聞 か ざ る!・見 ざ る!】でしょうか…?

でも!「心の窓」を閉じて、冷静に物事を、見直す事も大事でしょうかしら〜〜ン?
私も、もう少しで?去年は事の成り行きの判断が、分からないままに?
冷静に判断出来ず、のせられそうにもなりましたが〜〜〜???

■【人間関係=コミュニケ−ション】の中で、必要な事です〜〜ネ!
【のせられない様に〜〜〜><】
それには【神と一体】となる事が、不可欠なる条件です〜〜ネ!
今日から、気をつけて“心の窓”を閉じて…私なりの【運動展開】を!!!

                               再合掌

PS:トキ様へ
今日の言葉…【自分の心の窓を閉じよ〜♫〜】この様な状況に、至られました事?
ございますでしょうか…?
今回の「お家騒動」此の事は。。。信者に取りまして当に!冷静に判断する為には、
必要な事と痛感していますが…?【心の窓を閉じよ〜〜】
あくまでも【人類!!信者!!】人々への救済…此の認識を持っての、
【裁判…地裁・高裁…】への行動でしたのでしょうか???
当初は社会事業団からの申し入れとか??お聞きしましたが??
非常に【憤り…】を感じます次第ですが…?

792愛国掲示板より転載:2012/06/04(月) 22:08:15 ID:eWw166D.

>≪衝撃ニュース≫4月に1万人近くの会員が退会した!! 投稿者:情報通V


 ≪衝撃ニュース≫4月:生長の家聖使命会員が、
            月間1万人近くが退会した!!

   生長の家・・・・・・戦後最大級の退会記録。

   原因は、
  「4月1日発表の大自然賛歌」に信徒「激昂!!!!」。

   谷口雅春先生の「聖域」を犯した3代目に怒り爆発・・。

   最大退会教区は、東京第一教区。2000人集団退会。

   愛知。岡山。
   神奈川。兵庫。高知。300人〜400人以上集団退会。

   宮城、広島、埼玉、熊本、京都第一、宮崎、福岡、
   島根、三重、札幌、他・・集団退会100人〜200人以上

   たった、1か月で1万人近く退会したということです。

   雅宣氏は、懲りずに
   5月28日には「観世音菩薩賛歌」を発表。

   今のペースでも「年間10万人退会」のペースだが、
   もしかするとこれで、加速すること必至。

   (最近まで国内70万信徒であったが・・)
    このままでは、50万信徒が、
    来年春までには10万人くらいまでに
    減るのでは・・。

   そうなると、広大な敷地を維持できなくなるのは必至。
   ここ、2〜3年がリミットだろう。

   まさかの経済破綻である。

793ハマナス:2012/06/05(火) 00:17:17 ID:u5mC.eb2

神の子のみなさま
こんばんは。遅くなりました。

無限の力は肉体の内にはない  (『新版 生活の智慧365章』P.171)

 吾々は自分の持っていない力をあらわすことはできない、と同時に自分の持っている力でも、
それを自覚しない時にはそれを自由に使うことはできないのである。他の人の持っている金を
自分が自由に使うことができないのと同様、その力を他の人がもっているのでは自分の自由に
ならないのである。自分の“内”に“無限の力”が宿っていると自覚することができる者のみが
その力を自由に使うことが出来るのである。その自己内在の“無限の力”を自覚するには、自分
自身を単なる肉体だと思う観念(かんがえ)を打ち破らなければならないのである。

有限矮小なる一個の肉塊、かくの如きものの内に、何ぞ“無限の力”が内在する道理があろうや。
そこで肉体を単なる人間の外皮と見、人間の実相が、虚空に満つる霊体であり、神の生命につな
がる者、神と一体であるとの自覚を得なければ“無限の力”が自己の内に内在するということは
到底自覚することはできないのである。

感謝合掌

794a hope:2012/06/05(火) 07:19:37 ID:kcv2QXTk

人生読本 谷口雅春先生著

仕事するほど健康になる


私は自分の事をいうのは気がひけますが、私などは朝起きると寝るまで
常に働いて休暇というものは一年中一日もないのであります。
夏休みというものもありませんけれども、仕事そのものが楽しいのですから、
仕事の中に休暇があるのです。

私達の心臓だって一日も一時間も休暇した事はない。
心臓が休暇をとったら人間は死んでしまう。
心臓が休憩してくれないからこそ、私達は夜寝ていても生きている。
心臓がいつも働く事によって私達は健康を保っているのであります。

ところが世間には、吾々が働き過ぎるから神経衰弱を起こすとか、
仕事をし過ぎるから病気を起こすとか考えている人がありまして、
往々にして深切な人々から「あんたは病気ですから、神経衰弱だから、
家にいてぶらぶらしていなさい」と言われることがありますけれども、
これは、決して本当の深切ではありません。

その証拠に老人になって、会社の仕事をやめて、隠居でもいたしますと、
直ぐ人間は老衰してくるのです。
なぜ老衰してくるのかと言いますと、それだけ働きが無くなったため、
人間の生命は働きそのものでありますから、働きそのものが無くなった時、
生命の生きる力、神の生命(いのち)がだんだん現れなくなってこの世から不要になり、
その挙句の果に本当に死んでしまう事になるのであります。

神は生命であり働きでありますから、私達は働きさえしたら生きる。
心臓にしても、細胞にしても、常に働いて、「新陳代謝」といって、
新しいものを入れ、古きものを排泄して、常に働いているからこそ生きているのであります。
ですから、私達は働かなければ却って自分自身が死につつあるという事を考えなければならないのです。

(つづく)

795SAKURA:2012/06/05(火) 23:32:36 ID:V.pKl3yA
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ

こんばんは…  ローマ字の【SAKURA】で〜〜〜す。
毎日の日課ですが…思いもかけない“気付き”もあり〜毎日“心の掃除”でしょう?
「雅春先生の言葉」で、前に進む事が出来ますし、更に!気がつかなかった事も?
明るみに判り……毎日“心の掃除”なのです〜〜〜が?今日も「心の掃除…」を
では!!参りましょう〜〜〜“スタート!!”

■【幸福を招く365章】

――−――神想観の時の注意――−――
漠然と無意識・無想念のようなボンヤリとした想念の状態に於ては、
それは放送された精神波動に対して選波作用(どの波長を選ぶかのハタラキ)
がありませんから、浮動する出鱈目の精神波動を感受してそれによって動かされます。
それでは其の人は目的の定まらぬ気の変わり易い浮浪者になってしまいます。
従って、神想観をするときには無意識をするときには無意識、
無想念になって、何も考えなくなるのは良くありません。
必ず実相円満の完全なる世界像と人間像とを心に描いて、
それに精神を集中するようにしなければなりません。すると、
実相界の完全なる波動が自分の「人間受信機」に受信され感応されて、
そこに現実界にも幸福なる完全なる有様が現れて来るようになるのであります。
ハッキリと自分の欲する状態を心で選び取らねばなりません。
                        (谷口雅春著)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆

【神想観…中】なのですが〜〜♫〜〜?
「神の無限の力〜〜〜我が中に流れいる〜〜〜♫〜〜〜」と…唱えています時、
ふと!「無意識状態」になりますと…段々!変な方向に流されて〜
これは確かに“本来の思念”が、おかしくなる時もあります…ネ!

■【無意識?無想念?…】は、本当によくありませんです〜〜ネ!!
更に!そのような状態の時は、「悪い波動」も入り込みますから……
最近は“ず〜〜〜っ”と“思念…!”して行きますと「丸い円の中に、小さな字」が…
見えるのです。そして、意識的に見ようと思いますと…読めない状態に陥りますが?
その間の“時間”はまちまちで、瞬時?消えたり?少しの間は見えたりで…
まるで何処かの「言葉…」なのでしょうか〜〜〜??

次に“風景”が見えたり……「宇治の総本山」が見えたり?色々忙しいですが…
更に見て行きますと、必ず“答”を私に下さいますモノ〜〜〜♫
“パートナー”は、何か起きますと?「要望…意識?」が生じまして…
必ず!見える様な感じなのですが???

例えば、今回の「物件…」建物の玄関が“アーチ風”で“街路樹?”が見えるとか?
そのような時は、良く“神からのメッセージ”が此の現実世界に反映・投影され、
その通りの事が現れて来ますから〜〜〜更に!私も“直観”が鋭くなります。〜♫〜
やはり【神想観…】は〜〜〜?
自分の欲することが【宇宙の法則】として“叶う”のなら、必ず【願いは叶う】のです。

■>【実相円満の完全なる世界像と人間像とを心に描いて、
それに精神を集中するようにしなければなりません。実相界の完全なる波動が
自分の「人間受信機」に受信され感応されて、
そこに現実界にも幸福なる完全なる有様が現れて来るようになるのであります。
ハッキリと自分の欲する状態を…心で選び取らねばなりません!!】<
                                
■ ■ 益々!!!【内的意識に集中!!!】なのです…。      再合掌

PS:
トキ様へ…「神想観中…」人間受信機に、ぼんやりとした想念を送りますと〜〜???
今日の「雅春先生」がおっしゃっています“言葉”が〜〜〜?
トキ様は、どのような経験?(ボンヤリとした状態)の時の…メッセージがおありでしょうか?

796ハマナス:2012/06/06(水) 00:54:50 ID:u5mC.eb2

神の子のみなさま
こんばんは。

真理の理解に二種類ある  (『新版 生活の智慧365章』P.172)

 自己の内に“無限”が宿っているということは『生命の實相』を読みましてわかりましたが、
その“無限”を現実世界に顕わす事は中々困難であって、到底それは私に出来ない事ですという
人々が随分あるのである。それは「人間・神の子」の真理を頭脳の表層で理解したに過ぎない
からである。頭脳で理解したから「もうこの真理は解った」と思う。しかしその真理と自分の
全生命とが“一つ”になり切らないでいるからその真理が現実化しないのである“読書百遍、
意おのずから通ず”という諺があるが、最初『生命の實相』を二、三回読んだだけでは頭脳の
表層に印象されただけで、深く自己の潜在意識に印象するためには、それを繰り返し繰り返し
聖典を読誦して潜在意識の深層に呼びかけなければならないのである。それは恰も「眠る」と
いう語(ことば)を度々繰り返されることによって如何なる反抗者も催眠状態に入れるのと
同様である。

 併し現在意識は同一語の反復を嫌うのである。即ち「もう知っている」と思い、「知って
いることを繰り返すのは面倒くさい、退屈だ」と思う。そのために『生命の實相』の同じ巻を
幾度も繰り返すことが不可能になる。その不可能を可能とする為に、同一真理を別の言葉に
よって表現し、更に一層精密に解読した次の巻や、毎月の神誌や、新刊の真理解説書が必要に
なるのである。これらの神誌、聖典、書籍を巻を変え、号を重ねて読むことによって、真理を
語る言葉の刺激が新しくなって、潜在意識に深く真理が印象され、更に潜在意識の奥底に眠って
いた実相の「神性」が活性をもって呼び覚まされることになるのである。


『生命の實相』40巻を3、4回通読していますが、今日の雅春先生のご文章、“二、三回読んだ
だけでは頭脳の表層に印象されただけ”を拝読しまして、“潜在意識の深層に呼びかける”
ために、自分で目標を作り、これからも読み続けていこうと思いました。
一生の内に、何回通読できるか楽しみです。先ずは、10回をめざします!

聖典特に、『生命の實相』は、我々信徒のみならず、多くの人類の“宝”であると思っています。
素晴らしい聖典を残して下さいました、谷口雅春先生に心より感謝申し上げます。

感謝合掌

797a hope:2012/06/06(水) 08:10:41 ID:kcv2QXTk

人生読本 谷口雅春先生著

神経衰弱を治す法


陽気にしておれば、楽をしておれば、その方が健康になるという考え方は、
今までの考え方なのでありますが、それは実際は嘘なのです。間違いなのです。

神経衰弱の患者なんかが私のところへやってこられて相談をなさると、
「あんた働きなさい」こう申し上げて働かせると病気が治るのであります。
これは何も生長の家だけの話ではないので、精神衰弱の治療法で
医学博士になった森田正馬(まさたけ)博士なども、そう説いていられる。

あの人の療法は作業療法といって、働く事によって病気を治すのです。
病院を建てて入院料を取って働かせる。
入院患者は、金を払った上でガラス障子を拭かせられたり、
廊下を拭かせられたり、畑を耕したりさせられる。
男の人でもレースの編物や、毛糸の編物までさせられて、
一生懸命に働かせられて、それによって病気が治るのであります。

そういう工合(ぐあい)に、働く方の人が金を払って働かせてもらうと病気が治るのですが、
月給を貰って働くと働くのがばかばかしくなる人が多いのは変な話であります。

その病院に入院すると入院費が要る。即ちこちらから病院へ月給を払うわけです。
それで早く治すためには働かなかったら損だというので、一生懸命働く。
長くいるほど金が要るから、早く働いて早く治らなかったら損だというので、
一生懸命働くのです。そうすると本当にその病気が治ってしまうのです。

それで森田さんは、入院費を貰って人に働かせて、お剰(まけ)に自分は博士になったのです。
そういうふうに、働きというものは、私達を健康にする不思議な力をもっているのです。
というのは、人間の生命(いきるちから)は働きであるから、私達は働けば健康になるわけです。
(つづく)

798SAKURA:2012/06/06(水) 23:18:16 ID:V.pKl3yA
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ

こんばんは…
もう“梅雨シ−ズン”なのです〜〜ネ!
「通勤途中…」に、或るお店の軒先の前に“アジサイの花”が〜〜♫〜〜
くたびれた様な?元気のない“色”に、一瞬見えてしまいまして???
今から…段々色づいて行きますでしょうが〜〜〜 ><
これも【私の心のレンズ】が、曇っているのでしょうか???
さて!【心のレンズの焦点】を、キャッチ出来ます〜〜〜ョネ!
勿論!「雅春先生の言葉」で可能ではないでしょうかしら〜〜ン!!
いまから開きます・・・・・・【さぁ〜〜〜“スタ−ト”】

■幸福を招く365章
――−――汝の霊の根元に感謝せよ――−――
骨が折れるのは、神と先祖と父母に対する尊敬と愛が足りないからである。
ホネは霊根である。自己の霊のそだつところの根元である。
吾らの霊は、神・先祖・父母と云う風に伝わって来て今日あるを得たのである。
霊根をつちかわないから骨が折れる。父母に反抗している場合に脊椎カリエスに
かかっていて医療では中々治らない場合がある。北海道の札幌で幹部教修会が
あったときに○○修二と云う人が話した体験によると、十四歳の時に家出して
ヤクザの群に入り、ついに刑務所で服役までしたのであるが、出獄後脊椎カリエス
にかかり三つの楼口から毎日多量の膿を排出し、段々生命旦夕に迫ると云う処まで
来たが、たまたま自分の父親が七十幾歳にて老衰した姿で枕元に来て優しい言葉を
かけてくれたとき、父がこんなに老衰させたのは私が済まなかったと思って
おわびの心をおこしたのである。するとその重体が三カ月で癒え炭坑で
重労働をしても耐えられる健康さが恢復したのであった。
                       (谷口雅春著)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆

【両親に感謝する事】でしょうか……?今の私は、もう“両親”はいないのですが?
時折…「仏壇のある部屋」に行きますと、元気な姿の“両親の写真”が……
時々!思い出してしまいます…。一抹の寂しさも?この頃は感じます…。

「父・母の時代…生長の家の活動」を思い浮かべますと…当時は!のどかな感じ〜〜♫
でしたでしょうか〜〜〜?
自宅に本部講師であられました「亡き喜多先生」何度か私の自宅に宿泊して…
その当時の“誌友さん”と…雑談!!今思いますと“身近な存在”当に!!
和気あいあい〜♫〜でしょうか。懐かしく思う次第です…。

更に!当時の私には、そこに集まる方達(誌友さん)は、普通の方が多く…
どうかしますと「知識階級が多かったですもの??」
今思いますと、その様に見受けられるのです。
そして、集まる方達は“熱心”そのものでしたし、
やはり「亡き父」の周りは多くが【大卒…】その中で「亡き父」は〜〜〜!
更に!私自身も“落ちこぼれ族”なのでしょうか〜〜〜? ウフフ

■或る時?小学校の頃でしょうか…?
【佐賀の教化部長】でしたでしょうか…?「喜多先生」が私の家に“講演”
更に!【泊まり込み体制】なのです。{何度か泊まられました〜〜ネ!}

■戦後の事ですから〜〜当時“近所”では〜〜隣の夕食が分かる時代ですモノ?
子供の頃、私は?此の先生が「怖い〜〜〜おじさん」に見えた時がありました。
が……“大人…”は、いつも〜いつも〜笑い転げていた様ですが…?
【真面目に布教活動】されていた“地方講師の方”で、
人気がありましたかと?確か??当時“78歳…”ではなかったかと?いつも
「誌友会」に来られて、又!此の先生にも【個人相談…集中】です。私に家で!

どうかしますと、夜遅くまでの【相談者が多く】私の家は、いつも人だらけ ><
子供の頃落ち着く場所がなく、そのまま“高学年”に入ってからは、
正直申しまして、余計に“落ちつく場”がなく〜〜良く反抗したモノですが??

その私が〜〜今では「生長の家の布教…」を真剣に考えている事に、自分自身
驚いています次第です。そして「此の教え…」を導いてくれました…
「亡き両親…」に対しまして…深く〜〜深く〜〜感謝している昨今です。

■今から【新・生長の家の門を…今は“狭き門”でも“心で広き門”に入門!!】
【両親の愛に護られて…私は今から〜〜“父・母の伝導”を再開始!!】致します。
更に仲間が…頑張れ〜〜♫〜〜と!毎日“連絡…”なのです。
此の出会い…めぐり合い…感謝!!感謝!!         再合掌

PS:トキ様へ…「今日の言葉」からの受けられた“感想”何かありますでしょうか?

799ハマナス:2012/06/07(木) 00:31:52 ID:u5mC.eb2

神の子のみなさま
ありがとうございます。

真理の消化、吸収  (『新版 生活の智慧365章』P.173)

 潜在意識の奥底に横たわる普遍にして超越せる超在意識――“個”としての肉体自己を
超越しながら“個”として其処に顕現し表現せんとしている“本当の自己”(即ち神性)の
内には“無限”が内在しているのである。その無限を開発すれば、無限を内蔵する鉱山から
欲する鉱石を掘り出してくるように、自己の欲する色々のアイディアや能力を喚び出して来る
ことができるのである。

 吾々の意識の奥底に潜在する“無限”を現実化するには聖典、聖経、神誌の反復精読のほか
に神想観の如き瞑想によらなければならないのである。潜在せる“無限”は色々の成分を含んで
いるところの植物みたいなものであり、それを真理解説の聖典等によって頭脳に入れることは
その食物に消化するようなものであり、神想観の如き瞑想法は、その消化した真理を吸収し同化し、
真理と自己とが一体となる行事である。その時、真理と自己とが一体となり、真理の馬に人間が
乗っているのではなく、”鞍上人なく鞍下馬無し”の如く「真理即自己」となるのである。

感謝合掌

800ハマナス:2012/06/08(金) 00:22:12 ID:u5mC.eb2

神の子のみなさま
こんばんは。

運命における栄養不良  (『新版 生活の智慧365章』P.174)

 若しあなたが非常に少(すくな)くしか神誌・聖典を読まず、非常に少くしか神想観を行わない
ならば、“無限”の栄養ある食物を与えられながら、それを少ししか咀嚼せず、少ししか消化せず、
少ししか吸収同化しないようなものであって、誠に残念な事だと言わなければならないのである。
若し食物の栄養分を吸収同化することが十分でないならば、その外的表現としてあなたの肉体が
痩せて来るのと同じように、若しあなたが内在“無限”の宝庫から充分のアイディアや能力を消化
吸収同化することをしないならば、その外的表現としてあなたの運命が痩せて来ることは当然だと
いわなければならないのである。しかも気の毒にも、その運命の悪い人は、何故自分の運命が悪い
のかその理由を知らぬ場合が多いのである。

 そのような運命の栄養不良の人たちは、肉体の栄養不良の人たちが何か間食を求めたり刺激物を
求めたりするように、ない具の“無限”から汲むべきことの代償として、肉体的五官の快楽で、
一時の衰弱感をまぎらそうとすることになるのである。

感謝合掌

801SAKURA:2012/06/08(金) 04:26:16 ID:ZlYnQTFI
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ

おはようございます…  ロ−マ字の【SAKURA】で〜〜す。

益々”心”をしっかり意識する訓練が、必要になりましたです〜〜ョネ!
今日は、更にそれを意識強化する言葉は?……【意識革命!】でしょうか〜〜〜??
勿論!先生の書物をしっかり”インプット”のみです〜〜〜ネ!そうしますと…
益々!現在の総裁の先生の本も、理解力アップ!ができますのでしょうか〜〜?
【意識に繋がる本〜〜〜”スタ〜〜〜ト!”

■【幸福を招く365章】
――−――神は暗黒を照す光――――

神は人間が暗黒なる状態を通過する時に、是非なくてはならない光である。勇気を
見出すであろう。神は遠いところにましますのでなく、極めて
近く自己の内にましますのである。次の如く念ぜよ。
「我は神の子である。神の光が自分に宿っていて自分を導き給うのである。
神の光は智慧の光である。智慧の光の射すところ決して暗きことはないのである。
神の智慧の導きに感謝します。」     (谷口雅春著)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆

■ 「神様」は?まるで遠くにいるような気持ちに〜〜
以前は確かにその様な私ではありましたが…
或る時から「神様は、私の内にあるのだ〜〜ワ」と、分かり、それが“心…”なのです〜〜ョネ!
【心=潜在意識】に入り込む…【内なるもの!】それは〜〜〜♫
“意識”で物事を見て行く事に…ある本に【霊界…】に行きますと“言葉で会話する”のではなく
“意識”で話をしているのだと、云う事になりますよ〜〜ネ!

■以前!妹がまだ結婚したばかりの頃の家に、子供が生まれて“和室の部屋”に、
子供を寝かせていますと…当時!賃貸の一軒家でしたから…実はその部屋に、
その部屋は少し不気味な部屋でしたが…><
子供が生まれましたので、その“部屋を使用する事”に…したのですが?
ある時、御主人の帰宅が遅くて、子供を寝かせるために、一緒に添い寝していますと…
何となく〜〜誰かがいる様に思え、こっそり薄眼で“眼”を開けますと…
布団の横に“年寄りのおばあさん”が坐っていたのだそうです…。
瞬間!妹は“ぎゃ〜〜〜〜〜ッ”と声を…!同時に…妹は“心”でつぶやきはじめたのです…。
「〜〜〜あっちに行って!〜〜〜!あっちに行って!〜〜〜」と!集中して…
【30分間位…思念!!】していますと、いつの間にか消えたそうですが…?
その後!このような状態が再び起きましても、いつものお決まりに〜〜
本人なりの【呪文…としての活用】を、したそうですが〜〜〜><
後日!!調べますと、やはり“元の賃貸の方の幽霊”でしたが〜〜〜><

■この様に、気づかずに、妹は【心で対話・・・幽霊と…!!】をしたのです〜〜〜ョネ!
つまり【内的意識…集中!!】でしょうか??
“心”で“【内的意識=心の念波】は、通じるのですから、今の現状も
【祈り…】で、叶うはずですョ〜〜ネ!益々!断定しまして【祈り…】に“今日の言葉”を念じます。

■■「我は神の子である。神の光が自分に宿っていて自分を導き給うのである。
神の光は智慧の光である。智慧の光の射すところ決して暗きことはないのである。
神の智慧の導きに感謝します。」 
【意識=心】が、先生の言葉で、今日は、良く解りましたので、さっそく【実行!!】です。

きっと“私の願い”は、叶うのみです〜〜〜〜〜ネ!!!
【本来の生長の家…】への願い        ありがとうございます…。

                                                再合掌

802金木犀:2012/06/08(金) 10:36:40 ID:j28jHRaM
国の生命と自分の生命は一つである  谷口雅春先生
(『生長の家』誌昭和52年8月号より)

生命軽視の風潮はどこから来るか

皆さん、有難うございます。(拍手)
今日の皆さんの発表、大変感激致しました。特に、最後の諸田講師のお話は、本当に実相を直視された素晴らしい体験であると思いました。

さて、“いのちの進軍”という題でありますが、“いのち”というものは一体何であるか?今までは人間の生命というものは、なにか物質のアミノ酸というような簡単な蛋白質の一種みたいなものの分子が偶然に衝突して結合して出来た、それが段々と進化して猿になり、その猿が人間に進化したと、そんな風に人間の生命を、つまらない物質の分子の結合であると思っていたのでは、本当に生甲斐というものは感じられないわけであります。

戦後、小学生や中学生という幼い少年たちが、ちょっと親から叱られたら自殺するとか、あるいは上級学校の入学に失敗したから自殺するとかいうような、生命を軽視する傾向があるのですが、そういう子供が生れてきたということは、これは戦後の教育が人間の神聖性を失わしめている。人間をただの物質の結合である、“肉体の子”である、きたないセックスの結合から生れて来たところの存在であるというような低い次元に立って人間を説いて来たからであります。

そして、それが民主主義の人生であるというようなに人生観をずうっと学校で教えて来た。だから肉体を感覚的に楽しませている時にはそれに気を取られて別に悲しいとも思わない、むしろ楽しいと思うかも知れないけれども、一つ躓(つまず)いたり、一つ叱られたり、一つ失敗したりしたら、忽ち自分の生命の拠り所がない。そこに“何のために生れているのか”という自分自身の価値(ねうち)の自覚というものが失われてしまっているのです。物質というものには、本来値打ちはないのです。

それでは値打ちとは一体何かというと、これは、本当にあ’る’というものに値打ちがある。結局諸行無常で壊けてしまうものが自分であったとしたならば、結局それはなくなる値打ちであって、値打ちの外観を呈しているようでも、そんなものには値打ちがないのである。こうして、本当の値打ちの自覚というものが内部にないものだから、生甲斐が感じられないということになるわけなのであります。

803金木犀:2012/06/08(金) 10:40:16 ID:j28jHRaM
国の生命と自分の生命は一つである  谷口雅春先生
(『生長の家』誌昭和52年8月号より) (2)

なぜ地上に人間が誕生したのか

吾々がどうしても生甲斐が感じられる人生を生きようと思ったならば、根本的に、“人間とは何ぞや”という観方が変わらなければならないのです。それが“いのちの革命”ということになる。ここに私の書いた『いのちの革命』という本があります。ちょっと開いてみます。
『そこで神様は、御自分の生命を人間として顕現して、大自然の生の力のままでは出来なかったところの創造の御業(みわざ)を、人間の姿に神があらわれて、それを完成したまうということになったのです。これが地上に人間が誕生したところの目的であるということができるのであります』と書いてある。

火山を爆発させ、台風を吹かせ、地震を揺らせる、これらの大いなる自然力というものは、吾々が見ることも体験することも出来ますが、その大自然力で一つ、この湯呑を拵えてみよと言っても、神様には出来ないですね。どうしても、芸術的作品といったようなものは神様にはできない。神様が自然力のままではできないのです。そこで神様は、出来なものがあったら全知全能の神という資格がない、もっとも神様は資格など欲しがりはしないけれども、その全知全能の創造の働きが無限に完全に、無限に細かいところまで気がついて、そして、どんな自由自在なものでもつくるという、この神様御自身の創造の喜びを完(まっと)うするために、神様の生命が具体化として、しかも無機物的な具体化ではなくて、有意識的な具体化として、ここに人間が生れて来た。そこに、地上に人間が誕生した価値があると考えられるわけなのであります。

そこで、その人間誕生の価値を本当に生かすとすると、神様が大自然力の段階においてはできなかったその神様の生命がそこに噴出して来るということになるのですから、不可能なことはなくなる。人間誕生の価値を本当に生かした生き方に吾々の生活がグラリと変って来たときに、例えば病気でも大自然力のままではもう死ぬはずの生命であっても、それがもう一つ飛躍した高い段階で、“人間として現われた神”であってはじめてできるという価値を創造できるようになったら、それは神様の大歓喜であるから、神様の生命の流れが滔々として吾々に流れ入って来て、今までになかった新しい生命の噴出がそこに起って来るということになるわけなのであります。

こういうところから先程の諸田講師の御自身の体験でも、又、諸田講師が導かれた病人の体験でも生れてきたわけで、そういうところまで生命の自覚を高めてあげることが出来たら、どんな病人でも再び生きかえるということになるのであります。

804金木犀:2012/06/08(金) 10:45:37 ID:j28jHRaM
国の生命と自分の生命は一つである  谷口雅春先生
(『生長の家』誌昭和52年8月号より) (3)


人間は神様のアイディアの具体化

さて、人間の生命というものは、そういう神様の自己顕現でありますが、人間の生命だけではなく、他の生命という問題をも考えてみたい。

最近、私の書いたものが集まって、『国のいのち人のいのち』という書物が出たのですが、そこに詳しく出ていますが、日本国がどうして誕生したかという問題がある。日本国の生命の発現の原点とでも言いますか、それはどこにあるかといいますと、それは『古事記』にあるように、天照大御神様の御心の中に発現したわけである。全てのものは神様の生命の中にあるところのアイディアの具体化であります。聖書のヨハネ伝には「太初に言あり、言は神と偕にあり、言は神なりき。万の物これに由りて成り、成りたる物に一つとして之によらで成りたるはなし。之に生命あり……」とありますが、この場合の言(ことば)とは、神様の生命のエネルギーの上に乗っているところのアイディアであります。アイディアというものは、いたるところに充満している。

例えば冬になって雪が降ってくる。あの雪の結晶を顕微鏡でのぞいてみると、六稜形の美しいデザインがちゃんと出来ている。それが、細部の構図まで皆同じかというと、六稜形という輪郭は同じでも、その中の細かいデザインが一つ一つ異(ちが)うというのです。無数のアイディアが宇宙にあって、ある条件が整えばそれが形になって現われて来るということになるのであります。

終戦後間もなく、私が東京から九州の島原の方へ講習に行った時、正月のことでしたが非常に寒かった。寒いけれどもその時分は物資の欠乏で暖房などはなく、徐行の汽車ですから、東京から行くととこかで夜行にならなくては仕方がなかった。その時も九州のあたりで夜行になって、夜が明けた。すると汽車のガラス窓に実に美しい絵模様が出来ているのです。吾々の吐く息の水蒸気の分子の結晶が、金魚藻のような、あるいは正月の鏡餅の上に飾るウラジロのような、隠花植物の葉や枝のそのデザインが、ずうっとどの窓にも結晶しているんです。それは同じ水の結晶であっても、あの雪の結晶とは形が違うのであります。神様の心の中には無数のアイディアが初めからある。隠花植物のようなアイディアも六稜形の雪の結晶のようなアイディアもある。しかし、その中から、それが現れ出るのにふさわしい条件が整うたものだけが形となって出て来るのであります。

それは恰度、無限のテレビ番組が放送局から送られて来ていても、波長を合わせた番組だけがテレビ・セットの画面の上に浮かんで出て来るようなものです。

私はその汽車の窓ガラスに浮かび出た絵模様を見て、非常に神秘の感じに打たれたのでありますが、後に、あの「牝鹿の脚の話」で有名なグレン・クラーク教授の別の本を読んでいると、こういう話が出て来たんです。

ガラスの表面に水蒸気の水滴が結晶するときに、暗い夜半に結晶すると隠花植物のような姿が現れて来る。ところが、同じような温度で、同じ汽車の窓のようなガラスにおいて、昼の明るい太陽の光線を当てながら結晶させると、バラの花のような又ボタンの花のような美しい花の姿にその水滴の結晶があらわれるというわけです。そういう実験をクラーク教授は書いているのです。

この世界には無限のアイディアがあるのだけれども、そのアイディアの、放送局が神様みたいなもので、その受像機つまりテレビセットが無限のアイディアの中からそれを受けとる波長になった時に、ある場合には隠花植物、ある場合には顕花植物の素晴らしく明るいバラやボタンの花の恰好のものがそこに現われて来るという訳なのです。

805金木犀:2012/06/08(金) 10:54:40 ID:j28jHRaM
国の生命と自分の生命は一つである  谷口雅春先生
(『生長の家』誌昭和52年8月号より) (4)

国柄も神様のアイディアの実現

ところで、何故私がこういう話をするかといいますと、この日本の国が天皇国家として天皇中心の形をもって現われているのは、それは住んでいる人間が勝手に相談して、吾々個人でバラバラだったら敵が襲撃して来たとき防ぎのしようがないから、自分たちを守るために国家というものをつくろうじゃないかそれには規則がいるから憲法みたいなものを拵えようというわけで、部分部分なる人間が相談をして拵えた国家というものではないということです。

日本の国家が天’皇’国’家’としてそこに出現しているということは、もっと次元の高い天照大御神様の宇宙放送局みたいなところにある“尊いアイディア”がそれを日本民族が受像する心境において、自然に天皇国家として現われて来たものである。すなわち、人為的な存在として日本国家があるのではなく、これは惟神(かんながら)の、神様の御意(みこころ)の中にある“日本国はどうしても天皇国家でなければならない”というアイディアが実現して来たものであるのです。そこに、日本国の生命の尊’さ’というものがある。

これは神様のプランの内につくられているのであるから、日本民族というものは他の民族とはとり替えようがない尊い民族であり、他の国の国柄とはとり替えようのないところの国柄が、この天皇国家なる国柄であるということが言えるわけです。ここに、日本という天皇国家なる国柄の中に生れさせて頂いた自分の使命というものの自覚が大切になって来るのであります。

例えばソ連なら、あの鎚と鎌の国旗に表れている、ああいうアイディアが具象化してプロレタリア独裁の国柄が、あそこに現われている。アメリカならば、国旗に水平の直線で表された“天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず”という平等の思想と、色々の地域民衆が各州となって星の数だけ集まっているという合衆のアイディアの実現である。これとて人間がつくった国家ではないと思うのです。アメリカ合衆国にあるテレビ・セットが、神様の無数の国家のアイディアの中から、ああいう国家のあり方を受像して実現したということなのであります。


国の生命と一つになった時本当の喜びがある

こうして、各々の国家は夫々の神様のアイディアをそこに実現しているのであるから、アメリカが大統領でもうまく治まっているのだから日本も大統領でもいいのではないかという考え方はあてはまらないわけです。それは桜の花は五弁で大変美しく出来ているのだから、すべて他の花も桜の形でいいではないか、藤の花とかボタンの花の形になる必要はないではないかというのと同じである。すべて、ボタンの花にボタンの形を与えているのは、これは神様のアイディアであり桜の花に桜の形を与えているのは神様のアイディアであるし、日本国家に天皇国家の形を与えているのも、これも神様のアイディアであるのです。

吾々日本国民はどうしても、この国家形態の奥にあるところの神様の御意(みこころ)を守って行く。そうして個人の生命が神様のアイディアの中にまで延長して行って、つまり、自分が国家のために生きることによって自分の生命を国家的な広さにまで広げて行く、小さな個人の生命が国家の生命と一つになる、そこに本当に吾々の生きる喜びというものが起こって来るのであると、私の体験から言うと、そういうように感じられるわけなのであります。

それで、この個人の谷口の生命は結局「天皇国日本」の生命と一つである、どうしても天皇国日本を守らなければならないし、又守ることが、私をはじめとして日本人ひとりひとりが本当に生きる道であって、この他に尊き道はないのであると、この天与の尊き道を生きる時その人は本当の生甲斐が感じられる。そういう感じを私は持たして頂いているのであります。

今日はこれで終ります。(拍手)   おわり

806金木犀:2012/06/09(土) 15:10:41 ID:j28jHRaM
聲字即實相の神示

吾が第一の神殿は既に成れり。名付けて『生命の實相』と云ふ。完成(ななつ)の年になりて吾が第一の神殿が完成するのも生命の顕現には周期的波動があるからである。七つが事物の顕現の周期律になってゐる。吾に神殿は不要であると嘗て示したことがあらう。吾は道(ことば)であるから、吾が道(ことば)を語るところに吾が神殿は築かれる。吾が道(ことば)を載せた『生命の實相』こそ吾が神殿である。『生命の實相』は吾が本體であり、無形の『生命の實相』を形にあらはしたものが『生命の實相』の本゜である。『言葉』を載せた書物を『本』と云ふのも、『言葉』こそ事物の本であり本質であり、本體であり、本物であるからである。『言葉の宇宙』が先づ出来て、『形の宇宙』がその映像(かげ)としてあらはれるのである。今迄の宇宙は、『言葉』が實相を語らず、不調和で濁ってゐたから、宇宙の萬物の運行が亂(みだ)れて生活苦や、病気や、天災や戦争など色いろ不調和なことばかり起ったのである。『生命の實相』の本゜が出た以上は、言葉が實相を語り、善き圓滿(えんまん)な調和した言葉の『本』が整うたのであるから今後何事も急轉直下(きゅうてんちょっか)する。『生命の實相』を披(ひら)くだけで病念は去り、煩悶は解決し、人々ただ自己生命の實相(ほんとのすがた)を知り、歓喜踊躍して手の舞い足の踏む所を知らないに至る位はその三番叟(さんばそう)にすぎない。その歓びの相(すがた)こそ人間の生命の實相である。吾が道(ことば)を『生命の實相』と呼ばしめ、それを本の形にして、披いて讀むものにさせたのも象徴的因縁のあることである。『生命の實相』を展開(ひら)けば形の理想世界が成就するのである。今は過渡期であるから、仮相(かりのすがた)の自壊作用として色々の出来事が突発する。日支の戦ひはその序幕である。神が戦ひをさせてゐるのではない。迷ひと迷ひと相摶(あいう)って自壊するのだ。まだまだ烈しいことが今後起るであらうともそれは迷ひのケミカライゼーションであるから生命の實相をしっかりと握って神に委せてゐるものは何も恐るる所はない。
(昭和七年一月十一日神示)

807金木犀:2012/06/09(土) 16:07:59 ID:j28jHRaM
a hope様

人生読本のつづき、待っています。毎朝、a hope様の人生読本を読まないと
一日が始まったけじめがなんとなくつかないで困ります。
私達は皆修行途中の菩薩ですから、いろいろありますが、
明るく神様の方を向いて、頑張りましょう。

808神の子さん:2012/06/10(日) 12:51:04 ID:YqJJ0isE
「トンデモ本の世界」と学会・編
トンデモ用語の基礎知識
●シオンの議定書(プロトコール)
「ユダヤプロトコール」とか「シオン長老の議定書」などとも呼ばれている、ユダヤ人が世界征服のために記し
た恐るべき大陰謀の秘密文書、ということにされてしまっている文書のこと。二十四の議定書に分けられてお
り、「我々の合い言葉は権力と偽善である」とか「計画遂行に役立ちさえすれば、暗殺、買収、詐欺、裏切り等
に決して尻込みしてはならない」とか「神聖なるユダヤ王の頭に、欧州各国が彼に捧げる王冠を戴くとき、彼は
全世界の族長、家長となるであろう」などという文句がちりばめられ、いかにして非ユダヤ人の国家を衰退さ
せ、ユダヤ教以外の宗教を撲滅し、世界統一の革命を起こすかということが繰り返し書かれている。
『プロトコール』の存在が広く世間に広まったのは、一九〇五年に神秘主義者セルゲイ・ニルスが自著『卑小な
るもののうちの偉大』の第三版に収録してからだ。『プロトコール』が日本に上陸したのは、一九二一年にシベ
リア出兵した兵士らが、わら半紙五十枚ほどに書かれた物を持ち帰ってきたのが最初とされる。日本で単行本化
されたのは一九二四年で、包荒子というペンネームで書かれた『世界革命之裏面』が最初といわれる。
『プロトコール』は、一八九七年にバーゼルで開かれた第一回シオニスト会議の議事録という謳い文句で広く流
布された文書だが、その文章の五分の二までが、モーリス・ジョリという人物がナポレオン三世批判のために出
版した『モンテスキューとマキャべリの地獄対話』(一八六四)というパンフレットからのパクリだった、とい
うことが一九二一年に英国『タイムズ』紙の報道で暴露されている。
 つまり、『プロトコール』は、疑いようのない明らかな偽書なのだ。

809神の子さん:2012/06/10(日) 12:51:54 ID:YqJJ0isE
(つづき)
 だが、『プロトコール』を読んだヒットラーは、「歴史的に事実かどうかなどはどうでもよい。内容的に事実
であれば体裁などは論ずるに足らん」と述べたとされ、『プロトコール』はナチスのユダヤ人迫害にも大きな力
を貸した。
 この史上最低の偽造文書についての最もまとまった書としては、『シオン賢者の議定書』(ノーマン・コーン
・KKダイナミックセラーズ・一九八六)がある。同書は、一八世紀末から始まったユダヤ=フリーメーソンの
陰謀史観を詳細に迫っていき、最終的に『プロトコール』は、ロシア帝国秘密警察のピョートル・イワノビッチ
・ラチコフスキーが、ロシア帝国政府のユダヤ人弾圧のためにでっち上げたものだと断定している。
『プロトコール』はユダヤの陰謀に名を借りた、ユダヤ人迫害のための陰謀の書であることに間違いはない。
 どう見てもおかしいトンデモ本の多くが、普通の人に広く、まじめに読まれてしまっているという日本の現状
が身に染みている我われとしては、「大衆の力は盲目で、非理性的で、判断力が無く、従って右にも左にも耳を
傾けるものであることに注目しなくてはならない」(第一議定書)などと宣う『プロトコール』が、偽書で良か
ったとつくづく思うわけである。
参考文献:『シオン賢者の議定書』、『増補ユダヤ人論考』(新泉社)

810 志恩:2012/06/10(日) 13:19:51 ID:.QY5jUA6
むかし、むかし、上記のような極悪人の賢者・「シオン」が、居たのですね。
おなじ呼び名の、現代のシオン「志恩」は、皆様に知れ渡ってる通りの 「非・賢者」ですので、
おまけに、そそっかしいところもありますので、油断されてて、だいじょうぶです。

811金木犀:2012/06/10(日) 13:42:07 ID:j28jHRaM
本當の信仰についての神示

平和は内界にあるのであって、外界にあるのではない。外界は現象であり目眩(めまぐる)しく移り変る世界である。常に変移する世界を追ひ廻してゐて落着かうと思っても落着けるものではない。一世を支配する権力者の位置にのぼれば誰も自分を脅かすことが出来なからうと思って最高の位置にのぼってみても、高ければ高いほど不安であるのが常である。では、誰よりも下座の地位について、もうこれ以上は落ちようのない貧しい生活を送ったら不安がなからうと思って、乞食の生活を送ってみても、やはり不安は去るものではない。下座々々と心掛けても、一碗の食にありつくとき、尚、その一椀の食にすらありつき得ない同胞があることを思ったら、その一椀の食も安心して食べられないであらう。所詮は、高く上(のぼ)るも、低く下るも、比較上の世界に住む以上は、その人の心から不安が去らないのは当然である。

何故汝らは絕對の世界に住しないのであるか。目眩(めまぐる)しく回転する円周の世界を追い廻さないで、円の中心の世界に住しないのであるか。中心の世界に坐せば、上下左右天地四維(しい)のいづこに顕現するとも不安はないのである。『我れ神の子』の世界に住すれば、如何に高き位置につくとも高過ぎると云うこともなく、如何に低き位置につくとも穢されたと云う感じも屈辱の感じも受けるものではないのである。かくの如き『我れ神の子』の實相に参ぜしめ、無畏怖の境地に入らしめるのが本当の宗教である。

恐怖心を唆って遷善改過(せんぜんかいか)せしめるものは、それは一種の社会施設であり、刑務所であり、懲治場(ちょうちば)であって宗教ではないのである。宗教とは己が真性を自覚せしめ、上下左右天地四維いづれに動いても、いづれに置かれても、縛られない、恐れない、自由自在の『神の子』たる本姓を自覚せしめるものを云うのである。

汝ら恐怖の宗教に心せよ。神の子は、金剛不壊の実相身、無礙自在(むげじざい)の無罣礙身(むけいげしん)であるから、凡そ恐怖すべき何ものもないのである。恐怖を教えるものは迷を教へるものである。恐怖を唆るものは、迷を唆るものである。病気や天変地変や色々の災厄で恐怖を教へるものは人間の幸福が物質の増減で左右せられ、或は火に焼かれ、或は水に溺れるものだとの迷信に立脚して教をなすのであり、それを信ずる者は、それは信仰は信仰であっても、迷信に堕するものである。火にも焼けず水にも溺れず、天地四維上下左右いづれに置かれるも自由自在な人間の本性を信ずる信仰こそ本当の信仰である。    (昭和8年8月5日神示)

812SAKURA:2012/06/11(月) 21:45:39 ID:V.pKl3yA
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
こんばんは
静かな流れの中の聖典でしょうか??久しぶりに訪れまして
人それぞれの捉え方を見ますとオモシロイですネ此処でも
類は友を呼ぶのでしょうか??さて・・・私の捉え方の解釈で今日もSTART!!

■【幸福を招く365章】
―――――自己の内に宿る神を自覚せよ―――――

あなたの中に「今」神が宿っているのであります。神の無限力があなたを支えて
いるのです。神の愛があなたを護っているのです。神の生命があなたに流れ込んで
あなたの生命となっているのです―――此の素晴らしい真理を目を瞑って、黙想
してごらんなさい。悦びがしみじみと内から湧いてまいります。どんな困難でも、
大問題でも、神にゆだねて解決しないと云うことはありません。
神と云うのは外にあるのではありません。あなたの内に宿っていられるのです。
あなたの肉体は神様のお宮なのです。「わが内に宿り給う無限力なる神よ、あなたは
常に私を導いてくださいます」と呼び掛けなさい。
あなたの肉体は神の宮であり、神の叡智の湧き出でるパイプであり、神の生命が
具体的に顕現するための自動的機構であります。その中に神は座しまして
あなたを導き、動かし、生かしていられるのです。あなたの肉体はあまりに完全
な自動的機構でありますから、それ自身、「我」の意識を有していて、時としては
内に宿りたまう神(これが本当の貴方自身です)の御意に背反するようなことを
行うことがあるものです。そう云うような時に、所謂る「我が出た」と云うことに
なるのでありまして、事物が調子よく行かぬようになったときにはよく反省して
神に懺悔し、神の御心に従って実践して行きますと万事よくなります。
あなたの内に宿り給う神は、常にあなたを内部から力づけ、善き想念を生み出し、
善き計画を思いつかせてい給うのであります。あなたの内に宿りたまう神は、
常にあなたに呼びかけて次のように云っておられるのです。
「わが愛する者よ、わたしはお前を愛している。わたしの愛を受けよ、そして
お前のハートを、全身を全霊をわたしにおくれ。わたしはお前と一体になり
たいのだよ」と何故あなたは、神様のこの尊き求愛を受けないのですか。
神の愛を受けて一体となるとき、貴方には何んでも貴方の欲するものを
得ることが出来るのです。神は無限の富者であるからであります。
                          (谷口雅春著)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆

今日!久しぶりに【神様に導き給え〜〜〜】と、唱えまして“本”を開きますと!
〜〜〜アッ!!何と【心 の 法 則】なのです…。
まだ〜まだ〜足りない「精神面がある!」私自身にと、「自覚…」しましたが…><

そうです〜〜ネ!物事が思うようにいかない時は、私自身の“我”が
芽生え出しますのでしょうか?又“出た〜〜の”と【反省…】なのですが…?

此処「2チャンネル…」は本当に“我”の働きが強く出ていますでしょうか??
さて!!ここが“肝心…”ですかしら〜〜〜ン!

私自信を磨く“精神修行…場”と、この頃ようやく思えるようになりました。
本を開くと「神様の導き…」を〜〜♫〜〜更に!「暗示を下さいます」…。
本当に【感謝!感謝!なのです〜〜〜ョネ】…
そして【内なる神様】は、私の“心…”ですから、どんな状況でも必ず!必ず!
私を「いい方向に導いてくだる」のです。

しかも!【内なる神様】は、私自信ですから、正しい“理念”も植え付けて下さるのです。
■モット〜〜♫〜〜♫〜〜「神様…」に甘えて行こう〜〜〜!!
更に【神様に、全身全霊…集中!!して“神地一体”になった時、
必ずや・…私の「希望=夢」は“実現”です〜〜〜ネ!】

今日から【内なる自己の神様に“トレ−ニング”……start!!ダッシュ!!
■■「わが内に宿り給う無限力なる神よ、あなたは常に私を導いてくださいます」と…
神様への“メッセ−ジ”
                     
                                 再合掌

PS:トキ様へ
今日の言葉…私自身“全托”が出来ない時も〜つまり“我”が先に?“欲望”と
申しまっすかしら〜〜ン?優先してしまいます時があります。特に!精神的に
余裕がない時起きますのですが?
トキ様は、如何でしょうか?

813ハマナス:2012/06/11(月) 22:10:56 ID:u5mC.eb2

神の子のみなさま
こんばんは。

来週は谷口雅春先生の二十七年祭が総本山でおこなわれます。
団体参拝でいらっしゃる教区もあると思います。その前まで、雨が降っていても、不思議に
お祭りの直前にうぐいすの美しい声とともに、雨が止みます。
今年も素晴らしい年祭であります事をお祈り申し上げます。

光明面のみを見る  (『新版 生活の智慧365章』P.173)

 事物の暗黒面を見てはならない。また他(ひと)の暗黒面を見てはならない。更にまた
自分の暗黒面をも見てはならない。暗黒面を見るとき、必ず自己の“心”の中に暗黒な事を
描くことになるのである。そして自己の“心”の中に描かれたものは必ず、いつかはその描か
れたる姿が現実化して自己の運命となったり、自己の境遇となったり、不測の災いとなったり
してあらわれて来るのである。


 暗黒面を見るかわりに事物の光明面を見よ。他の光明面を見よ、更にまた自己の光明面のみを見よ。
光明面を見るとき、光明面のみが“心”に描かれ、“心”に描かれたものが増大し、具体化し、
自分が一層明るい気持ちになり、運命が一層好転し、身辺に気持ちよきもののみが現れ、ついに
自己の住む世界が地上の天国浄土となるに至るのである。暗黒面を見るよりも、光明面を見る方が
余程楽であり、容易であり、気持ちがよいのに、何故多くの人々は光明面よりも暗黒面を見たがる
のであろうか。彼らは心の法則を知らないからである。

感謝合掌。

814HONNE:2012/06/11(月) 23:27:54 ID:jtmmmlXY
単純な質問です。

谷口雅春先生は、「諸悪の根源は現憲法」と仰った。
上記掲載の「光明面を見る」の引用は、「物事は正確に見て判断する」と
混同しているように私は考えますが、いかがでしょうか。
「物事は正確に見て判断する」ことは「暗黒面を見る」とは違うと考えます。
「諸悪の根源は現憲法」とすることが、「暗黒面を見る」ことにはならないでしょう?

815金木犀:2012/06/12(火) 08:04:41 ID:3iUAOjZ.
HONNE様

「諸悪の根源は現憲法」とすることが、「暗黒面を見る」ことにはならないというのは、
おっしゃる通りだと思います。
谷口雅春先生は、和解の倫理について、虚説に和解してはならぬと
仰せられています。汝の敵を愛せよといったイエスも、サタンに対しては
決して和解せず、その邪説に耳を傾けようとはしなかったと言われて、
このサタンとは、異端、邪説、妄説、妄想、雑念のことであると仰っています。
「ただ神のみ、ただ実相のみを観よ」ということが、「主なる汝の神を拝し、
ただこれのみに事(つか)うべし」ということであり、そのほかの妄説妄想には決して
和解してはならない、耳を傾けてはいけないとおっしゃって、かつて、
雅春先生の弟子で、新説を出して「真我も迷う」と言い出した人の説を、
雅春先生は、文章において、徹底的に排撃されたそうです。しかし、そのかたの実相は、
あくまで神の子で、完全であるとして、そのかたの行った公金横領などの罪は、
許されて、実相を観られたということです。
そして、和解とは実相に対して和解することであり、
皆さんも虚説は、徹底的に排撃してくださいとおっしゃっています。

この日本国憲法というものは、唯物的肉体的な考えに基づいて民主主義が語られており、
基本的人権も、その人権が、実相の人間ではなく、唯物論的な人間の人権であり、国家観も
雅春先生が説かれるような生命体国家としての国家ではなく、部分としての個人が集まって
国家という全体が出来上がったとする、組合的国家観であり、日本国家の実相を現していない
憲法であり、唯物論憲法です。
雅春先生は、虚説の中で、最大の虚説は「物質はある」という見解だと仰っていますから、
この憲法がひとつの大きな虚説であることは確かであり、だからこそ「諸悪の根源」となって
いるのだと思います。
この虚説である日本国憲法を破棄して、神話研究など、日本というものを真剣に研究した井上毅が
起草した大日本帝国憲法こそ、実相の観点で書かれた憲法であると思います。

憲法のことが中心の話になり、申し訳ありませんでした。

816SAKURA:2012/06/12(火) 22:37:55 ID:V.pKl3yA
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ

こんばんは…  ロ−マ字の【SAKURA】で〜〜す。
どのような状況でも…どのような環境でも…【真理をつかむ事…】???
『マザ−テレサ』も“祈り”に徹する…最後!に【ゴ−ル!】でしょうか??

■今日も【SAKURA】は【GOAL…】に向かい“一直線…”
そうなのです〜〜ョネ!!【明日に架ける…一本道…GOAL!】なのです…。

■【幸福を招く365章】
―――――呟けば病気となり感謝すれば治る――――

呟くかわりに感謝することです。万物に感謝することをもって新生活を
始めようではありませんか。同じものでも不平をもって受取っては、自分自身の
心も苦しいではありませんか。同じものでも感謝して受取れば、苦痛が苦痛で
無くなり、困難が困難で無くなるのです。和歌山の講習会で川上喜一氏と云われる
元海軍将校が終戦後内地に帰還して見ると、国内の状態は見るに耐えない有様なので
それに対して不平不満の心ばかりを起していたら、全身が硬直して全然板のように
棒のようになっていて一寸も動かない病気に罹った体験談をなさいました。
阪大病院で診て貰ったが全然治療法がない。その時、和歌山県の生長の家連合会長
藤田氏に触れて毎晩『甘露の法雨』を読むことと、『有りがとうございます』を
一日一万編となえて感謝の念を起すことを勧められた。さて手が動かないので
『有りがとうございます』を何遍となえたかをどうして教えようかと思って、
天井の羽目板の木目で心覚えをして其の言葉を心で唱えていたのです。
すると、自分の子供が二個の熟した柿の実を樹からもいで来て、「お父さんこれを
おあがり」と云って懐に入れてくれた。その時、無性にありがたい感じが起って
思わず、自分の手の胸の上へあげて合掌した。その時はじめて手が動きだした
ことが分かり、やがて、全身が自由に動き出したのである。
                         (谷口雅春著)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

■ネガティブ感情「呟く…」前に【感謝!感謝!】なのです〜〜〜〜〜〜〜ネ!
今日は、早速“呟き悲しむ状態”に、陥りそうになりましたが……><
このような“心境”こそ、私の“精神”を高める為の【原動力…パワ−】でしょうか?
その様に思いますと……
“心”を静めて「神の叡智」に〜〜〜【祈る!】
そうなのですョ〜〜〜ネ!
【一心に“神の御心”に、そうように“祈る!”…】と?
自ずから“答え給う”…“神の提示”を頂けるように思えました…。

そして【感謝!感謝!…】の“心”の訓練は、勿論!
「生長の家」では、伝統的な「御教えの一つ」でもありますが……!

■【感謝!】が生みだす“原動力=パワ−”は、私の“エネルギ−”です〜〜ネ!
そして【感謝=愛!!!】でしょうかしら〜〜〜ン?

今日も、こうして「パソコン」に向かい“KEY”を打つ事ができます事に【感謝…!】
更に!投稿者の皆様のいろんな考え方・思考を教えて頂きまして【感謝!・感謝!】

そうなのですョ〜〜ネ!
■■【感謝!】から〜〜〜“私の生命(いのち)”がほとばしるように…
滔々と“川の流れ〜♫〜”のように“アイデアの源泉”が湧き出でて参ります“モノ”

今!【感謝!】此のポジティブなる素晴らしい〜〜“感情”から〜〜
“身体が軽く〜〜軽く〜〜♫”なりました。ありがとうございます…。
【賛歌の合唱です〜〜♫〜〜 “感謝の言葉”】

■ ■すべての言葉のしめくくり〜〜♫〜〜【ありがとうございます…感謝の言葉】
                             
 再合掌

PS:トキ様へ…今日の「雅春先生の言葉」に関しましてどのように受け止められ
ましたでしょうか?“アドバイス”頂きますと幸いです…。

817ハマナス:2012/06/13(水) 00:07:33 ID:u5mC.eb2

神の子のみなさま、金木犀様、
こんばんは。
HONNE様のご質問に対する、素晴らしいご返答をありがとうございました。

汝の信ずる如く汝になれ (『新版 生活の智慧365章』P.176)

 心に描くものが形にあらわれ、心に信ずる如くその人は成るのでる。これが釈尊のお説きになった
“三界唯心”の真理であり、キリストがお説きになった「汝の信ずる如く汝になれ」の真理である。

若し面白くない事件が過去の暗い想念の具象化としてあなたの周囲に起こったとしても、その時、
自分の心を暗黒の方向に下降せしめて暗い失望落胆の境地に陥れてはならないのである。若し暗い
失望落胆の谷底にあなたの心が堕ちるならば、折角、暗黒の後に光明が訪れて来ようとしている時に
その光の流れを堰き止めてしまう事になるのである。

 暗黒が現象世界にあらわれて来るのは、過去の暗黒な想念の貯蓄が、窓口から現象界に払い戻されて、
「暗黒の貯蓄」の残額が少なくなりつつあるのだということを充分知って、もう「暗黒の貯蓄」は払い
戻されたのだから、今後は決して「暗黒」なことは出て来ないということを知り、心を一転して光明面
に転ずる習慣をつけましょう。習慣は第二の天性となり、今後は常に幸福が訪れましょう。 

感謝合掌

818金木犀:2012/06/13(水) 00:34:27 ID:3iUAOjZ.
ハマナス様

うっかり、現憲法という言葉に反応して、差し出がましいコメントを
書いてしまいましたが、そのように仰って頂き、有難くうれしく感じます。
いつも謹写されている真理の言葉から差してくる光明に、はっとして暖かくなります。

819HONNE:2012/06/13(水) 11:22:36 ID:jtmmmlXY
生長の家の人の感覚は、一般常識人からズレているのではないかと思います。
間違った事、又は不適正な事を指摘すると「暗黒面を見るな」と言う。
誰がこの中に「暗黒面」を見ているにでしょうか? 生長の家の人だけではないでしょうか?
指摘した人は「暗黒面」など見ていません。「善」の実現のため指摘しているだけなのです。
私が投稿した№814の趣旨がうまく伝わっていないように感じます。
「光明面を見る」ということについて、私は考えます。
誰かが私の行動について間違いを指摘しました。その指摘が当たっているなら、私は指摘した人に対して
感謝し、善き結果を得るよう行動を改めます。その指摘に不満なら、お互いに納得できるように話し合います。
未来がマイナス(思考)にならないようにすることが「光明面を見る」ことなのだと私は思います。

820金木犀:2012/06/13(水) 16:36:14 ID:3iUAOjZ.
HONNE様

何となくあなたの御投稿の主旨からずれたような気がしましたが、
そのまま投稿してしまい、憲法の話のようになり申し訳ありませんでした。

正しい指摘が、暗黒面を見ることにならないとおっしゃることはその通りだと思います。

821金木犀:2012/06/13(水) 18:39:46 ID:3iUAOjZ.
HONNE様

>>820のように言いましたが、
その人の実相の完全円満さを見るということが常に伴っているならば、指摘するのも
指摘しないのも、ケースバイケースだと思います。
でも、基本的には、仰るとおりでいいのではないでしょうか。

822うのはな:2012/06/13(水) 21:02:00 ID:gTn97m6I
智慧の言葉 (新編 聖光録)

○ 意志の力よりも想像の力の方が強い。想像力は創造力だ。

○ みずから起て。自分の弱さを語るな。自分の弱さは語るほど自分を弱める。

○ 人は自分と同じ者を相手に見出す。あらゆる場合において、人は相手そのものを
  見るのではない。自分の心を相手という鏡にうつして見るのである。

○ もっと奥深い「生命」まで突っ込んで行け。奥の奥、裏の裏にある生命を見よ。

○ 愛でひとを世話する人もあるが、誇りでひとを世話する人もある。前者は神の前で
  高くせられ後者は神の前で低くせられる。

○ 世話したい人には素直に世話してもらって感謝し、世話されて余裕のある人は、また
  助けを呼んでいるものを世話してあげよ。これが愛の巡環であり、報恩の道である。

823SAKURA:2012/06/13(水) 21:53:03 ID:V.pKl3yA
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
こんばんは… ロ−マ字の【SAKURA】で〜〜〜す。

■「生命の実相」より一部抜粋

厳として今ここに、実相の浄土が存在するのであって、その実相円満完全の表面
に、心頭滅却したり、心境を一変したり、向下したり、向上したり、劫火が燃えていたり、
原子爆弾が爆発したり、衆生阿鼻叫喚につつまれていても、それは玲瓏円月上の身雲が
描く陰影にすぎないのである。病気もまた、一片の浮雲にすぎない。
三省して自己の実相の円満完全さを見よだ。


「生命の実相」より抜粋です!!!      谷口雅春著

              <つづく>

■別の「ボ−ド」では”やくざみたいな方の文章??”拝読していますと…
まるで”現象で物事”を、語られています…。
【現実=現象】で見るのではなくて【実相=心の目】で見る事でしょうか??

これって?とても〜とても〜♫〜大事なのではないかしら〜〜ン?
先ず【心の法則】にもとずく”エクササイズ!!”をしてまいりますと…
全て!整っていくようで〜〜〜す。当時の私は【現象で物事】を考える…
そうです〜〜ネ!「タタキ男…」に振り回されてしまいました”結果”は?
「聴覚喪失…」となります結果に…><
モット〜モット〜【心の法則…】を、しっかり〜〜【心の中に根ずかせて…】!!
いましたら、きっと!!「聴覚喪失」までには、至らなかった事でしょう!!

■■”心を駆使”できる人は【心の王国…ですから、絶対の『君臨…王者』】です…。

                            再合掌

824みすまる:2012/06/13(水) 22:21:35 ID:GpLjp1XI
ハマナスさま

800のご文章大変心に染み入りました。
反省と学びの機会を与えて頂いてありがとうございます。

合掌

825HONNE:2012/06/13(水) 22:26:53 ID:jtmmmlXY
本スレッドには適さない事かもしれません。
人間というものは、善に向かう行動しかとれないと思います。
自分が楽しくなりたい、幸せになりたいという思いが第一義だと思う。
ただ、ここに欠落するのは『自分以外の者(他者)』だ。
想像するに、雅宣総裁も自分にやりたい事が第一義として、
創始者である雅春先生の思いに優先させている事が混乱の原因だと思う。

さて、指摘という行為も善に向かう行動といえる。
特に自分に関わるような問題が発生した場合は、一刻も早く解決したいというのが一般的で
あろうと思うし、その解決手段として原因がどこにあるのか、何なのかを指摘することはある。
一方、「時間が解決する」という事もあり、何も対応策を取らない事もある。
この場合は、問題を持つ当事者間に解決のための時間的緊急性はないと思われる。

826ハマナス:2012/06/13(水) 23:43:39 ID:u5mC.eb2

神の子のみなさま
こんばんは。

宇宙の本源に無限智がある  (『新版 生活の智慧365章』P.177)

 宇宙の最始元には、物質はまだ存在しなかった。真空よりして物質が発生するその過程は
今でも見ることができるのである。宇宙最始元の其処は、星と星との間の空間のように真空で
あったのである。その真空の中に極めて微量の水素がつくられつつあり、それが、宇宙雲として
観測せられるのである。その水素は微量であるが、宇宙空間は広いのであるから総計すれば随分
多量に上り、それが集団して天体を形成したのだと天文物理学者は説明する。

 そうして出来上がった天体上に無数の生物が生れたが、その生物の微妙精緻な構造は、偶然に
物質が集合して出来たというにしては余りにも精巧複雑であり、人間が脳髄の知識などでは到底
製造できない極めて高度の知性の表現であるのである。即ち宇宙は「真空」を素材として、高度
の知性によって一切を現したものだということができるのである。鉱物の結晶から人体の組織に
至るまで色々の形、構造、組織等悉く人知の及ぶことのできない智慧によって設計されている
ことを思うとき、どうしても宇宙の本源に無限智の神を認めずにはいられないのである。

感謝合掌

827ハマナス:2012/06/13(水) 23:59:08 ID:u5mC.eb2

みすまる様
 
暖かいお言葉をありがとうございます。励まされます。
私も謹写しながら、自分にぴったりのご文章だなと思うことが度々、あります。
素晴らしい聖典を通して真理を教えて下さいました生長の家と、雅春先生とに感謝します。

感謝合掌

828金木犀:2012/06/14(木) 08:24:37 ID:cOQV.ogI
HONNE 様の問いかけられた問題に、少なからず関係ある気がするので、
本流掲示板の伝統様のスレッドにありました尊師の真理の言葉を転載致します。

日時:2012年06月02日 (土) 05時07分
名前:伝統


     *『光明道中記(六月 神にむすばる)』より

六月ニ日  恐れずに所信を貫く日

 【闇に対しては光をもって相対せよ。
  非実在を滅するものは実在のほかに在(あ)らざるなり。(『甘露の法雨』)】


悪は無いと云うことと、悪を征服することとの問題が時々混同せられる。
彼らは悪が有(あ)るからこそ征服しなければならぬのではないかと言う。

併し私に言わせれば、悪は無いからこそ征服し得るのである。
暗は無いからこそ光によって征服し得るかのようにである。

光が如何にして暗を征服するかの過程をよく眺(なが)める時、
吾等は教えられるところが非常に沢山あることを発見する。

光は暗をみとめてその進軍を遠慮すると云うことはない。
光は驀(まっしぐ)らに暗に向かって進むのである。
光が暗に向かって進軍するとき暗は消える。

進軍は行(ぎょう)である。

「本来『悪』無し」とは、悪に対して卑怯にも眼を閉じて、
「悪」を見ることを避け、それに触れることを避けて、
「触らぬ神に祟りなし」式に行動することではない。

「悪」をその眼の中に直視するのである。
偽存在(にせもの)はその眼をじっと視詰(みつ)められると、裁判官の前に
引き出された罪人のように眼を外(そ)らして、其処にいたたまらなくなるであろう。

光に視詰められるとき暗は消えるのであって、
暗を消す方法は、暗なんてどうせ無いのだからとて
灯(あかり)を点(とも)さないことではない。

829HONNE:2012/06/14(木) 19:41:16 ID:jtmmmlXY
闇に対しては光をもって相対せよ。

闇というものは本来存在しません。それは光が当たっていないだけです。
あらゆる角度から光を当てれば、影(闇)はなくなります。

指摘のいうものは、光はどこにあるのか、どこに光を当てれば影が無くなるのかという
いわば気付きのための助言のようなものです。
ものの見方を変えれば、あらゆる事象の中に光を見出せます。ありがとうございます。

830SAKURA:2012/06/15(金) 00:19:42 ID:L/SSPPk2

トキ様 へ
観覧者の皆様 へ

こんばんは…… ロ−マ字の【SAKURA】で〜〜〜す。

「真理の言葉」は、矢張り【心の探究…書物】に、限ります〜〜〜ョネ!
その「秘訣」は、【真理の本を読む事!更に…毎日がグッド!デ―!】でしょう?
では【心の世界…に“START “〜〜〜♫】

■【栄える生活365章】
――――困難に遭って――――

落葉したときに、その木は委縮したのではなく、年輪をきざみつつ、
その木質は堅緻となる。而して来春の花のために準備がすすめられつつあるのである。
それと同じく、人間も失敗したように見え、行き詰ったように見え、
足ぶみしたように見えるときに、その魂は進歩しつつあるのである。
外に見えるものだけで自分の運命を判断してはならないし、自分を不幸だなと
考えてはならないのである。一長一弛のうちに生命は進歩し、
内在の無限の美と力とを一層より多く展開して行きつつあるのである。
砂の上に建てられた楼閣は崩れ易いけれども、色々の困難によって
搗きかためられた地盤の上に建てられた楼閣は、地震が来ても、大風が来ても
崩れるということはないのである。いつも伸びてばかりいる草木
はウドの大木の如く、堅緻さを失って、早く腐敗してしまうのである。
よくよくこの理を考うべきである。
                       (谷口雅春著)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆

■ 今!まさに「現象…」で見ている世界に【意気消沈…><】……ダウン!ダウン!
その様に見えました時は,

わたしの“心は曇り空”でしょうか〜〜〜?
この様な時こそ【祈りが一番…】なのです〜〜〜モノ!!
そして【魂の生長(成長)?】を、前以上に高めてゆけますから、当に!今の現状は、
【魂の進歩の過程〜〜!】なわけなのですョ〜〜〜ネ!

こんな時こそ〜♫〜どんな時こそ〜♫〜【自分に誇り…】に思う様に…
【心の世界を広げる!】時なのです〜〜〜ョネ!

■通じない“相手”と話す場合は、本当に〜〜〜〜〜 ><
【出口が〜〜〜なくなる〜〜〜><】と聞きましたが…
当に、今日はそれを【体験…】…今の私は〜〜〜【ストップ!モ−ション!!】
その様な時こそ…ひたすら【神にゆだねます…!】といいです〜ネ!!

■■【ウドの大木の如く、堅緻さを失って、早く腐敗してしまうのである】
当に“当たり〜☆☆☆☆☆ 5つです!!”その様に、本日は思いました…。
■【意味のない会話】【上げ足を取る事】しかできない人は〜〜〜><
そう言いますと…此処“九州…?”は、多いですかしら〜〜ン?
【上げ足…取るマン?ウ−マン?連合会】でしょうか??
全くいつまでも、伸び〜〜伸び〜〜しています【草木…】と一緒です〜〜〜ネ!
「だらだら会話」でしょうか??それとも「根なし草…」と云います言葉が、
一番適しておりますでしょうか??
この様に思いました私は…【一歩引く事…!】と判断いたしましたが??

■どんな状態でも、私の「思考」は崩さずに、更に!「精神は揺るがない心」を、
植え付ける様に…今日は一つ勉強になりました…。ありがとうございます…。

■■【魂の修行】をしてきました〜〜〜ルンルン〜〜〜♫〜〜〜が??
まだ!まだ!見えない【心の世界の法則…】に、見えを張らず…
“地”に“足”をつけて〜〜〜【実相世界…】に、当に【突入〜〜〜なのです。】

                            再合掌
PS:トキ様
本日の【言葉…】にて理解しましたのが「ウドの大木」……
この言葉の表現…「雅春先生」はすごいです〜〜〜ネ!本日の“言葉”?
どの様に捉えられましたでしょうか…??

831ハマナス:2012/06/15(金) 01:02:13 ID:0kyCzJg6

神の子のみなさま
ありがとうございます。
『生命の實相』の第14巻にHONNNE様のご質問に関するご文章がありましたので、
謹写させて頂きます。

現実の悪はどう改善するか  (『生命の實相』第14巻 P.108〜P.111)

 しかし、「悪」が現にここにあるのを見ないでもよいものでしょうか。「悪」をそのまま
放置してそれを改善するためのなんらの手段方法をもめぐらさないでもよいもので
しょうかとは、わたしがしばしば質問を受けることであります。しかしわれわれは「悪」に
執着しないでも「悪」を改めしめることは可能であるのであります。それが「悪」であると
われわれが知るのは、そこに「善」が無いということであって、悪が積極的にあるという
ことではないのです。――これは実に大切なる真理であります。「悪」は無でありますから、
「悪」を除かずとも善をつけ加えれば「悪」はおのずから消尽してしまうのであります。
「善」をつけ加えるにはどうすればよいかといえば、どこまでも、どこまでも相手を理想化し、
さらに理想化してどこまでも無限に相手を高め上げてゆくことにすればよいのであります。
どこまでも人間を理想化して眺めても、人間は理想化しすぎるということはありません。
なぜなら人間の実相は神の子であり無限に善さを備えているからであります。

 およそ相手を善くするには自身を良くすることが第一であります。自身が良くならないのに
相手をよくなしうるということは困難であります。そしておよそ自身をよくするための方法は、
自分の心の中に光明の精神波動を照り輝かすことであります。自分の心の中に光明の
精神波動が波立っているときその人は善き人であり、自分の心の中に光明の精神波動が
波立っていないとき、暗黒の思念が押しかぶさっているとき、その人は悪しき人なのであります。
人の欠点を見るとき、その欠点に自分の心が捉(とら)われ、それをとやかく言挙げするとき
自分の心の中には暗黒の思念が波打たずにはいないでしょう。「暗黒の思念」は決して相手を
良化することはできないのです。良人(夫)を良くしてやろうと思って小言をいう細君が良人を
ますます悪くするのは、細君の心の中に「暗黒」の思念が波打っているからであります。細君を
良くしてやろうと思って叱りつける良人が細君を良化しえないのも、細君を叱るときの良人の心
には「暗黒の思念」が波打っているからであります。相手を良化しようと思うならば、先ず自分
の心の中から「暗黒の思念」を除去(とりさ)らなければならない。まず自分自身を、「光明思念」
でみたさなければならない――換言すれば、相手の悪を見るような心になってはならないのです。
結局相手の悪を見ないで実相を見る心にならなければならないのであります。ここにこそ自分
自身が光明化し、さればこそまた相手が光明化してくる可能性があるのであります。

(つづきます)

832ハマナス:2012/06/15(金) 01:06:23 ID:0kyCzJg6

(つづきです。)

 「われらが何人に対してでも相手の実相を見るようにするとき、われらは相手と調和するよう
になってくるのであります。実相においてはわれらは本来自他一体であるからである。調和し
ないで反目し相争うのは実相を見ないからであります。妻は良人の実相の円満完全なる姿を見る
ようにするとき良人と完全に調和してしまうのです。親は子の実相を、子は親の実相を見、執着
の念を捨て、神の完全な護りのうちにあることを信じて、相手を神にまかせ預けるとき、親子は
調和したものとなってしまうのです。そしてその家庭は幸福の家と化し天国浄土となってしまう
のであります。

 諸君よ、どれだけでも自分の妻を無限によい妻だと思い、自分の良人を無限によい良人だと思い、
自分の親を無限によい親だと思い、自分の子を無限によい子だと思え。善く思いすごすことに遠慮
するな。どれほど諸君は自分の家庭を理想化して考えてみても考えすぎるということはないので
あります。この行事を毎日続けよ。諸君の親は、諸君の良人は、諸君の妻は、諸君の子供は日増し
にその理想に近づいてくるでありましょう。進歩は絶えず継続する。そして歓びに満たされた
家庭は出現する。家族の各員たち互いに相手を理想化して眺める行事にもまして尊い行事はない
のであります。

感謝合掌

833金木犀:2012/06/15(金) 06:39:32 ID:cOQV.ogI
ハマナス様

いつも本当に素晴らしい御文章を謹写されますことを、感謝致します。
心に響くような感じで拝読しました。有難うございます。

834SAKURA:2012/06/15(金) 21:20:05 ID:V.pKl3yA
トキ様へ
観覧者の皆様 へ

こんばんは…  ロ−マ字の【SAKURA】で〜〜〜す。
今日も、いつものように“本”を……開きます。
正直、以前は【栄える365章…】を日々読んでいましたが…… ><
現在の私は【幸福を招く365章…】を、中心に“日々拝読”しています…。
この本は「亡き母」が、生前使用していました“モノ”なのです…。
所々に“赤いボ−ダ−ライン”が、入っています…。「亡き母」の字が…><
無くなる!“3年前の字体”なのでしょうか??
よ〜〜く見ますと“字体”が、くずれてきた様な感じで…
ふと!「亡き母」の…若い頃の“字体”を思い出しながら〜「きれいな字」でしたが?

■【幸福を招く365章】
――――人間の本質は健康である―――――

神の子は、その本質に於て神と同質であり、神の美と健康と一切の宜しさとを
表現せるものであるのである。神の自己表現であるところの自分が不完全で
あったり、不健康であったりする筈はないのである。神の完全さはその無限の力を
もって、視えざる世界から絶えず間断なく見える世界へと表現すべく押し迫って
来ているのであるから人間がその力にまかせ切るとき不健全などになりようは
ないのである。若し神の完全さがあらわれないならば、それは、神に委せ切らず、
神の生命の流れ入るのに素直にならず、我の働きが神の波長に合わなかった
結果にほかならないのであります。我によって「癒ろう、癒ろう」と力むことは
却って神の癒す力の流通露を妨げることになるのである。自分を捨てよ
「ままよと云う心にならねばお陰は得られぬ」と金光教祖もいっている。
                           (谷口雅春著)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆

■まだ!まだ!「神様は遠くにいるような気持ち??」になる事が、しばしばですが??
このような時は、まだ「神様に甘えていない私?」なのです〜〜ョネ!
更に!もっと掘り下げますと…「まかせ切れていない“私”なのかも?」
その様に、思ってしまいます…。

■今日の言葉から“現在の境遇”に、もう〜〜〜“アキラメ気分”の私が
チョッピリ“心”の隙間にもたげだした事に…気づき出しました…。

■時間のたつのは??速いものでしょう〜〜〜か?「此処4年目…」に入りまして、
どうしても【自由…!】が〜〜〜><と云う感じで
毎日!毎日!絶え間なく「監視されているの〜〜〜?」
その様な気分に陥りやすいのですが…全く!此処30年間近く“接点”のない人物が…
他人の【プライバシ−に土足で入り込む…】つまりは【監視…】です…。
勿論!【行動も全て監視…状態】に、されているとの“判断”しましたのが…
そうです〰〜ネ!【3年前…】でしょうか〜〜〜?
思い出しますが…「3年前…東京の美容院」に参りました時も…“娘”に…??
でしたかしら〜〜〜ン!!

■まだ「神様に…私は完全に全托?出来ていないのでしょう〜〜か?」と…
今日、つくづく思いました。もう一度「神様に甘えるように」すがって
【祈り…】に徹してみようと…そうなのですョ〜ネ!
「今日から〜〜再スタ−ト」
東京在中の時は、いろんな【奇蹟…】がありまして【祈り…】もそれなりに〜ですが…

■■今の私達は、まだ〜まだ〜【現象で物事を判断している】と自覚しました。
「梅雨に入り」このような時こそ…【ボディティブにて祈り】…との思いにて、
【神様に…全てを“おまかせ主義”…】委ねて行きま〜〜〜す。

                                    再合掌
PS:
トキ様へ…「神の子」この自覚が…本当に出来る方は少ないものと思います…。
此の点は?どう思われますか…?(難しい時がありますのですが〜〜)
「雅春先生の書物」の中からの抜粋…当に“その人の心の影…”と申しますか・
都合のいい解釈論での抜粋になりますかしら〜〜ン!
いつも「祈り…」にて、“本”を開きますと…不思議なのですが??“ピッタリ”
これも?【神様におまかせ?】ウフフ?
本当の「神の子…の自覚」これは…『父上様である我が神…』に全て委せ切る…
これが何処まで出来ますかと云うことが…“課題”なのでしょうか?

835HONNE:2012/06/15(金) 21:52:22 ID:jtmmmlXY
私の問いかけに関して、雅春先生の文章が掲載されました。ありがとうございます。
さて本題なのですが、
掲載された雅春先生の文章と、雅春先生が「諸悪の根源は現憲法である」として
『明治憲法復元』の主張及び運動したこととの整合性を説明してもらえないでしょうか。

836ハマナス:2012/06/16(土) 00:40:21 ID:0kyCzJg6

神の子のみなさま
こんばんは。
金木犀さま
ありがたいお言葉を恐れ入ります。

想念は万物の創造者  (『新版 生活の智慧365章』P.178)

 原子は無論肉眼には見えないし、顕微鏡下にも殆ど見えないほどの微小なるものである。
この極小の中に驚くべきエネルギーが詰め込まれていて、そのエネルギーの扉を開くとき
巨大な動力又は爆発力を得ることができる事は既に何人もよく知る通りである。単に物質の
微小体だと思われていたところのものが、実は“原子の扉”を開いてみるとき、原子全体が
驚くべきエネルギーの宝庫であり、物質とは実はエネルギーの圧縮された塊であったことが
判るのである。宇宙は実にエネルギーが法則によって、無相より無限の相(すがた)に色々
と姿を変えてあらわれているものであることが判明したのである。

 神はどんな微小体にも秘められている此の無限に巨大なるエネルギーをば、如何なる手段
によって変形して、この宇宙を、天体を、万物を造ったのであろうか。宇宙の最始元には
如何なる物資的道具も機械も無いのである。神はただ“心”によって創造するほかに方法を
もたなかった。即ち神の“心”は唯“想念”することによって万物を想像したのである。

感謝合掌

837金木犀:2012/06/16(土) 00:45:58 ID:3HEelJFk
HONNE様

私は>>819で、あなたが憲法に関しては、ただ例としてあげられただけで、
暗黒面を指摘するという事の意味を、問題にされているのかと思いました。

とはいえ、憲法問題が主旨であられたとしても、この伝統様の引用された御文章は
憲法にも当てはまると考えます。
私は、現憲法は、諸悪の根元ですから、本来無いものであると
思います。だから>>828での文章のように、しっかりと見つめてその正体を見れば、
この憲法が、本当は正しい手続きによらないで成立させられたもの、日本の国体を表してないもの、
そういった様々な矛盾が暴露されてくるという意味にとりました。
だからこそ、この憲法をしっかりと見つめてこの憲法の正体を国民の前に暴くことが
必要であり、石原都知事はその一石を投じられたと評価します。そして、本来あるべきでないものとして、
破棄されるべきであると考えます。

もっとも運動論方法論は、あなたの仰るように、運動しながら、それを分析しては、
工夫を凝らして発展させてより良くしていくべきと思います。
運動や方法の結果分析を、暗黒面を見るといって拒否する人がいるとは思えませんが。
また憲法が悪いと知った人が、憲法が間違っているといった人を、
暗黒面を見ていると批判するとは考えられない気がします。

838金木犀:2012/06/16(土) 01:35:44 ID:3HEelJFk
HONNE様

今最初のご質問の部分を見なおしまして、物事を正確に見ることは暗黒面を見ることにはならないと仰ったことについて、
それはそのとおりですが、物事を正確に見た上で、悪は無いと否定することが、暗黒面を見ないということだと思います。
また、人間のような人格を見る場合と憲法のような、理念そのもののようなものを見る場合は違うと思います。

人間は表面の現象がどんなに悪く現れていても、その実相は神の子で完全円満であると教えられました。
だから、表面の現象の奥にある実相を見ることをまず行わなくては、その現象の間違っていることをいくら指摘しても、
それは時には素直に受け入れられる場合もあり、時には反発されることもあると思います。
これは実相を見て、本来善であり、悪はないと否定するときに、
その人の素直さが現われて、指摘したことをすぐに受け入れてくれることもあるでしょうし、
間違った部分を指摘しないで、良いところを逆に指摘したほうが、
かえって良いところが伸びることによって悪いところが改善されることもあると思います。
実相を見ないで、間違っているところを指摘しただけでは、
感謝して受け入れる人もあるかも知れませんが、
反発して激怒する人もあると思います。

それから憲法は、基本法という理念そのものですから、その理念が間違っていれば、(理念というべきかわかりませんが)
これは良くなりようがないのですから、完全に悪として拒否しなくてはならないものだと思います。
妄念、妄説、虚説に相当するものだと思います。

あなたの問いかけがハマナス様への問いかけだったのかも知れませんが、
一応私としても答えさせて頂きました。余計なことだったらすみません。

839ハマナス:2012/06/16(土) 23:52:54 ID:0kyCzJg6

神の子のみなさま
こんばんは。

全ては想念の具象化  (『新版 生活の智慧365章』P.179)

 人間は神の生命を宿し生まれた。(実は神の他に生命の根源はないのだが)そして、神の生命は
心に“想念”を思い浮かべる事によって万物を想像したのである。そうすれば神の生命を宿し生れた
人間もまた想念によって万物を想像することができる筈である。実際、一切の発明も、設計も、機械
も、建築も、文学も、美術も、彫刻も、政治も、戦争も、平和も、悉く、もとは“想念”として心に
思い浮かべられたものが具体化したのである。

 では、あなたの“想念”に暗黒な事を描くな。あなたの“想念”に唯光明のみを描けよ。あなたは
神の如く、“想念”によって万物を造る。殊更に、“想念”に暗黒を描いて暗黒なものを作る必要は
ないではないか。あなたは“想う”という過程を通して、常に間断なく“何ものか”(あなたの想う
もの)を形の世界にあらわすべくその要素を引き寄せつつあるのである。あなたの“心”はラジオ派
のように宇宙にひろがる。そして肉眼に見えない処のものを動かして引き寄せつつあるのである。

感謝合掌

840HONNE:2012/06/17(日) 19:40:25 ID:jtmmmlXY
ハマナスさんの投稿意図とは全く違う事とは思いますが、私の勝手な解釈から考えてみました。
指摘という行為の前に、「“想念”に暗黒な事を描くな。」を思う人もいるのではないか。
コレは妙な事だ。
「光明面を見よ」の生活を提唱しながら、指摘という行為の中に
「“想念”に【暗黒】な事を描くな。」という【暗黒】を見出す事に躍起になっているように思える。
「光明面を見よ」という人が、【暗黒】に対してこだわるというのか、通常以上に反応することには滑稽に見える。
ひょっとして、光明面を見る人は、暗黒を探すのが好きなのだろうか?

841HONNE:2012/06/17(日) 19:51:29 ID:jtmmmlXY
補筆

「本音を見透かれる」ということがすべての人に適用されるのなら、
人はもっと純粋に生きることができるのかもしれない。
この世ではないけれど、そのような世界もあるそうだ。

842SAKURA:2012/06/17(日) 22:48:28 ID:V.pKl3yA
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ

こんばんは…  ロ−マ字の【SAKURA】で〜〜〜す。
「本格的?梅雨…」に入り“湿っぽい空気が部屋の中に?充満”でしょうか?
“雨ふり〜〜のこの頃”ちょっと“見方”の角度を変えてみますと〜〜?
“楽しい雨〜〜”になります〜〜ネ!

もう何十年ぶりでしょうか?「学生時代」からでしょうか〜〜〜?
先日「素敵な雨用の靴…ハ―フ靴」を見つけました。
今!その品物が来ますのが〜〜〜“楽しく!ルン〜♫ルン〜♫”です…。
意外にも、これだけの些細な事でも、何となく〜〜随分“気持ちの変化!”が…
通勤時の『カラフルな雨傘…雨用の靴…』  ウフフ!
さて!! 今日も【楽しい心のペ−ジ】を…もっと“心の探求心”も出来ますように!

■【幸福を招く365章】
――――難問題は神様に委ねること――――

事態が紛糾して来て解決がつかなくなったと思われるような時に直面したならば、
その時に必要なのは、取越苦労でもなければ、とつおいつの思案でもない。
あらゆる人間智を捨ててしまって、神の智慧を呼び出すのが解決の早道である。
心が転倒したり、腹が立ったり、恐怖したりした瞬間に、カッとなって物事を
断行してはならないのである。そんな時に必要なことは唯一つ、心を平和にして、
難問題を神様の肩の上に委ねることである。それには
(一)先ず取越苦労をやめる。
(二)必ず良き解決の道があることを信ずる。そして「わが内に宿りたまう神、
無限の智慧をもってすべての人に最もよいように問題を解決し給う」と
繰返して念ずることである。
                   (谷口雅春著)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆

■【問題?】…そうなのです【難問題は神に委ねる事…】でしょうか〜〜〜?
幾ら、「心をイメ−ジ」してみましても…『現象』で物事を見て行きやすいです〜〜ネ!
そんな時は、やはり“目”を閉じて…私の“心の奥殿”に入り“対面”でしょうか???

ア〜〜〜ッ!時間が〜〜〜 ><その様な“云い訳…”タブ−でしょうかしら〜〜ン!
「わずらしくても、ちょっと“5分…10分間”…心の“目”を…
目を瞑る「イメ―ジ」するだけでも…『現象的な判断が消え』去って行っていますし、
更に!もっと深い“内容”でしたら…これは?そうですョ〜〜ネ!

■【神想観=瞑想…】でしょう〜〜〜か???神様への“メッセ―ジ”

なのに不思議と【現象的=現実的】に見てしまいますし“理性”で判断しがちですが…
今後!気軽に【祈り…】です〜〜〜ョネ!
【祈り=神=潜在意識に突入=イメージ物事の解決】なのでしょうか???

今日は、出勤前に「軽い神想観」をしましたが…意外!にも“スム−ズ”に…
何とな〜〜く?何とな〜〜く?身体が軽く…物事がうまく行きましたようなのです。

更に「今日の言葉」より【難問題は全て神に委ねますし、取越苦労は私には不必要】と…!
今日の言葉より【2項目の言葉…実行するのみでしょう…唯今!進行形…です!!】

                                  再合掌

トキ様へ…
今日の言葉…『取越苦労』…どうかしますと“ネガティブ感情”の時は、
ついつい〜〜この事が、もたげてしまいます事が〜〜〜>< 度々??
トキ様は、この経験はあられますでしょうか??
今の私は!その「気づき」の時点で、全く関係のない事を…考えるようにしています。

843ハマナス:2012/06/17(日) 23:44:57 ID:0kyCzJg6

神の子のみなさま
こんばんは。今日は原宿の本部でも、谷口雅春先生の27年祭が厳かに行われました。
雅春先生のCDを拝聴し、その中で聖経『甘露の法雨』の由来をお話しされていました。


神意の実現者たれ (『新版 生活の智慧365章』P.180)

 吾々が植物の種を蒔く。植物は発芽し生長し、花を開き、実を結ぶ。この微妙にして
神秘なる働きと機構と過程とは、どんな“電子計算機”でも出来ることではないのである。
人知の最高を尽くした“電子計算機”も一個の小さき植物の種子に及ぶことはできない
のである。人間はもっと謙虚に大自然の智慧の前に跪(ひざまず)いて、神からの智慧を
受けるようにしなければならないのである。
 
 医師は傷口に消毒薬を塗って繃帯(ほうたい)する。繃帯も消毒薬も、新しき肉芽と
なることも新しき皮膚となることもできない。傷口に新しき肉と皮膚とを新生せしめる
ものは人体の内部に宿る神の生命である。医師は神の生命の動きに唯協力するに過ぎない。
こう言っても私は医術をいやしめるのではない。人間のすべての動きは「神の生命の動き」
に協力することによって万物を成就するのである。「神の生命の動き」とは法則である。
法則を守り、法則に協力することによって、吾々は益々神と一体となり偉大な神意の実現者
となる事ができるのである。

感謝合掌

844SAKURA:2012/06/18(月) 20:20:04 ID:V.pKl3yA
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ

こんばんは… ロ−マ字の【SAKURA】で〜〜〜す。

“雨”が、シトシト〜〜〜“憂鬱”になり易いです〜ネ!
そのような時には、やはり“仕事”に集中したり…“本”を読んだりして?
このネガティブ感情=憂鬱を、吹き飛ばすのも〜〜“メイン”でしょうか??
今!私自身、平均的には、この“ボ−ド”に投稿させて頂いております“書物”…
これで、随分“心が豊かに”なりますでしょうかしら〜〜〜ン!“不思議”なのです。
今日の「ネガティブ感情への神様からの“メッセ−ジ”頂きました…。
では【課題】に〜〜“本”を開きます〜♫〜

■【幸福を招く365章】
――――人の悪しき言葉に乗るな――――
怒りは火事のようなものである。あなたの心を焼きつくし、地獄の焔の中に投げ込み、
ついに身体までも病気にする力をもっているのである。誰かが不親切な言葉を
発したからとて、それを自分の心の竃の中に抛り込んではならないのである。
不親切な言葉は、あなたの心の竃の中で燃える地獄の火の燃料となるのである。
不親切に対して深切をもってし、憎しみに対して愛をもってするのは、自分の心の
中にほり込む燃料に水を注ぐようなものである。人の告げ口に乗るな。
それは怒りの焔を煽る風のようなものである。愛語と調和の言葉を雨ふらして、
心の火事をけすことである。常に「平和」を念じて祈れ。 (谷口雅春著)                       
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆

■さっそく「事件…」は起きました…。本当に【開けて〜“ビックリ”なのです。】

■まるで〜まるで〜「他人のプログ」に乱入したような感じにされているの?
その様にも受け止められます感じでしょうか…?
もしくは?まるで「このボ−ド」は、私の“モノ”なのョ!〜〜〜とおっしゃって
いるのかしら〜〜〜ン!と思う次第なのですが…「感情文章表現」ですか?
拝読しまして“いやな気持=ネガティブ感”になりましたが…先ず!
持ち前の【SAKURA】に戻り、友人に“メ−ル”で読んでみて〜〜〜と?送信!!
やはり【類は友を呼ぶ…】でしょう“駒がとぶ”ような仲間には、分かる様です〜ネ!

■私も、昔の【古典文学…】は分かりません。…が!何度も読み返していきますと〜〜
アバウト的に“理解”が出来るのですが〜〜?

■■【英語】でも【日本語】と同様に【方言=なまり】がありますでしょ〜〜ウ!
この【なまり…】が〜〜現代の私には【日本語から英語…】に表現します時、
その時点での“感情”を踏まえましての【英語】になりますので…難し〜〜い!

更に【古典…】で表現されます場合???その時の“環境・慣習…”も踏まえまして、
現代日本語表現になりますので、これも私に取りましては?難し〜〜い ><
なのですが〜〜〜今回!投稿者様方々より【SAKURAは火星人】にされましたが?

先ず!相手からの御親切なる“メッセ−ジ”には、一応!受け止めさせて頂きまして、
その上で、私なりの考え方を【女子会にて投稿】させて頂きました。

■今回【生長の家…お家騒動】でも、昔の【生長の家の信者】と比較しますと…
あちらの方はまるで?【創価学会なの〜〜】そのようにも見えて仕方が…
ありませんのですが…?その様な事を相手に伝えたとしても【理解が出来ない〜〜】
なのか?
むしろ【何らかのほかの”目的”が〜〜〜】との判断に至りましたが…

■【人それぞれ??ですから、自分の”視野での考え”を押しつけない事では、
ないのでしょうか〜〜♫〜〜

今回!!私自身も「この人の”文”くらい〜〜ネ!」と”心”で思っても、
いざ!それを”文章投稿”に掲載する事は、相手への??でしょうか。
やはり“本日の言葉”にて、いけないと改めて思いました…。
人の【批判・中傷…】と同じです〜〜〜ョネ!
同様に「告げ口…」は、私は昔から好きではないし、先ず【賛嘆した言葉の表現】を、
私なりに…そうなのです!
どしゃぶりの雨?様に【今後!賛嘆言葉のどしゃぶりの訓練】をして行こうと決意!
私も表現が足りない時も?そう思いますと【どしゃぶりの雨位…賛嘆表現】へ、トライ!
前以上に思った次第なのですが…!今回「先生の言葉」より、

■■【益々!賛嘆物語り】で〜す。【SAKURA…益々” 賛嘆日記…開始!】 再合掌

PS:トキ様…今日の“言葉”どの様に受け止められましたでしょうか?
“アドバイス”頂きますと幸いです…。

845ハマナス:2012/06/18(月) 22:46:50 ID:0kyCzJg6

神の子のみなさま
こんばんは。今日から、第 三 部 繁 栄 の 泉 に入ります。

  いま吾が生活を支配する法則は、
  愛と信仰と繁栄と、そして真理とである
  吾れは人の間違いもなしに吾が未来を透見し得る――
  何故なら吾れは今日(こんにち)
  未来の刈入れのために善き種子を蒔きつつあるからである。
  われは善き収穫を予期する。
  それ故、吾れは平和と信仰とのうちに晏然(あんぜん)としているのである。 
  我れは神の御手に委ねる。 
  神の法則は愛である。
  愛なる神に感謝致します。
                 (谷口雅春先生著 『日々読誦三十章経』より)

第七篇 無限の供給を受ける道
 物質は神の愛の表現   

 キリストが或る時、奇跡を行った。五つのパンを五千人に分けたら食べ飽きて尚籠十二杯に
山盛りにパンが残った。そんな馬鹿らしいことがあるのかと一見思われるのであるが、聖書を
注意して読むと、イエス「一片のカケラも残らないように其のパンの屑を集めよ」と弟子に
指令しているのである。爰(ここ)に真に無限供給の原理があるのである。

 一片のカケラも全て神からの賜(たまもの)なのである。その賜を尊重する心のあるところ
に、そのカケラが増殖して、ついに十二杯の籠に山盛りのパンともなったのである。神からの
賜を尊重しないで、唯単にそれを物質的な塊だと、軽くあしらっているとことに、人間が貧しく
なる原因があるのである。物質はそのまま「神の愛の実現」である。百丈和尚は一枚の菜の葉が
川へ流れて行ったのを駈足で追って行き、それを拾って「仏物」として押し頂いたと云うことである。

感謝合掌

846ハマナス:2012/06/18(月) 22:49:03 ID:0kyCzJg6

ありがとうございます。
『新版 生活の智慧365章』P.183からの引用です。

847ハマナス:2012/06/19(火) 00:09:04 ID:0kyCzJg6

HONNE様、金木犀様
ありがとうございます。
金木犀様が、838でお書きになっていることに殆ど、同意見です。

生長の家では、“現象なし、実相独在”と教えられています。
私達の日常で、何か問題が起きた時に、余程、悟られている方でしたら、すぐに「光明面を見る」と
言われて、すぐに「実相を観る」事が出来るでしょう。
しかし、多くの場合、(長く生長の家を信仰していましても)問題(暗黒面)にひっかかって悩ん
だりします。そこで、雅春先生は、 “光明面”に対比してわかりやすくお説きになるために、
“暗黒面”という言葉をお使いになって、“心”の持ち方の重要性を教えて下さっていると思います。
決して“暗黒面”に引っかかっているのではありません。

光明面のみを見る  (『新版 生活の智慧365章』P.173)
 「事物の暗黒面を見てはならない。また他(ひと)の暗黒面を見てはならない。更にまた自分の
暗黒面をも見てはならない。を見るとき、必ず自己の“心”の中に暗黒な事を描くことになるので
ある。そして自己の“心”の中に描かれたものは必ず、いつかはその描かれたる姿が現実化して
自己の運命となったり、自己の境遇となったり、不測の災いとなったりしてあらわれて来るのである。」
 
「暗黒面を見るかわりに事物の光明面を見よ。他の光明面を見よ、更にまた自己の光明面のみを見よ。
光明面を見るとき、光明面のみが“心”に描かれ、“心”に描かれたものが増大し、具体化し、
自分が一層明るい気持ちになり、運命が一層好転し、身辺に気持ちよきもののみが現れ、ついに
自己の住む世界が地上の天国浄土となるに至るのである。暗黒面を見るよりも、光明面を見る方が
余程楽であり、容易であり、気持ちがよいのに、何故多くの人々は光明面よりも暗黒面を見たがる
のであろうか。彼らは心の法則を知らないからである。」とお書きになっています。

どんな暗闇も、光にあうと、パッーと消えてしまうように、ただ私たちが光になれば良いと教えて
下さっています。
うまくHONNE 様のお答えになっているかどうかわかりませんが。
神想観をして、神の子の自覚を得て、神との一体感を得ることが、大切ではないのでしょうか。

感謝合掌

848金木犀:2012/06/19(火) 09:50:24 ID:vaQBf3X6
相手に宿る美しき清き完全円満なる実相が
あらわれるように祈ってあげることほど
素晴らしい祈りはないのである
実相の中には“全て”が蔵されているのであるから
その実相が顕現するように祈るところの祈りには
相手が健康になるための祈り 裕かになるところの祈り
家庭が調和しすべての人々と完全に調和に入るための祈り
相手が完全に魂の自由を得て完全に個性を発揮し得る祈りが
含まれているのである
祈りは一種の霊波であって
それは電波よりも一層鋭感的に時間を超え 空間を超え
超時空の世界を媒介として われらの祈りの愛念を全人類に通じ
以て全世界に争いなき調和ある美しき裕かなる理想世界を
実顕するためのエネルギーとなるものである

谷口雅春先生著 『真理は生活にあり』より  生長の家誌昭和55年12月号

849HONNE:2012/06/19(火) 12:15:04 ID:jtmmmlXY
人は指摘を受けると、暗黒面しか見えなくなるようです。

「ある人は教えから離れ、人生の暗黒面を見て、
 人々の悪口を言う生活に自ら進んで入っていくこともある。
 せっかく光明一元の人生観を教わっても、人生の何に注目し、
 どういう目的、どういう動機で物事を行うかという点で暗い、
 間違った選択をした場合には、
 生長の家でかつては幹部活動をしていた人でも、
 光明思想から離れていくこともあります。」


【間違った選択】と決め付けていいのでしょうか?

850神の子さん:2012/06/19(火) 12:53:54 ID:???
HONNE さんが指摘した部分の文章はまさに

人間神の子の教えではなく「暗黒思想」を持った人の文章ですね。

教団から離れた人達が・・人々の悪口を言う生活・・って発想がそれです。

光明思想から離れているのはこの作者ですね。

851SAKURA:2012/06/19(火) 21:57:02 ID:V.pKl3yA
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
こんばんは… こんばんは… ロ−マ字の【SAKURA】で〜〜す。

昨日から、相変わらず?人に押し付けているのかしら〜〜〜ンとの“想い”?
ちょっと考え込んでしまいましたが?当初の「計画…」からは、大幅に狂って… >< 
いろんな方々がいますから、当然“相手の生活環境・考えの方”も異なります〜ョネ!
ト−タル的に考えますと“複雑“なる気分です〜〜ネ??
このような“ネガティブ感情=気持ち”で…では!本を開きま〜〜〜す。
■ 名目… 合掌!! … 沈黙〜〜〜
【我此の書を開き給いて なすべき道を〜〜〜☆】出ました…では?“スタ−ト”

■■ 【幸福を招く365章】
――――天地万物に感謝せよ――――
ブラザ−・ロ−レンスは「自分は神の愛を感じながらフライパンの上でケ−キを焼く。
神の愛を感ずるには自分にとっては地に落ち散っている藁ひと筋を拾うだけで充分である」
と云ったそうである。「木の切株に腰をおろすときにはその切株を拝んでから腰をおろせ。
大根を抜くときには、大根にお礼を云ってから抜け」と云うのが金光教祖の教えであった。
一筋の藁、一本の大根、それに神の愛を感じ、感謝出来るのが宗教的境地であって、
金が儲かるから集ると云うのは相場師の境地である。百丈和尚は一枚の大根の葉が流れ
行くのを追っかけて往って拾って頂いたと云う。
人生が退屈であったり、無意識に見えたりするのはその人の愛が乏しいからである。
愛して何事でも、愛のために行うならば自然と歓喜が湧いて来て退屈であったり、
無意識に感じられたりする筈はないのである。
仕事が退屈なのは、その仕事を経済的理由で自分の労力を切売するような気持ちで
するからである。「神様、あなたの愛をこの仕事を通して実現させていただきます。
ありがとうございます」と感謝しながら仕事をするならば、決して仕事は退屈な
重荷となってこないのである。利己主義のところに真の悦びは湧いて来る筈はない。
神の愛を実現する処にのみ真の悦びは湧いてくるのである。  (谷口雅春著)                           
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆

■子供の頃は!“トイレの掃除”は、意外とさせられました方?なのでしょうか?
段々と高学年になっても…正直申しまして“イヤナ感情=気持ち”はなく【実行…】
逆に…【トイレの掃除をしますと〜〜〜綺麗になれる】と、ひたすら信じる“私”
従いまして“高校卒業”しました頃、初めて化粧を…しました時なのですが?
近所の方が「綺麗に〜〜なったネ〜〜♫〜〜去年より〜〜〜綺麗に〜〜♫〜〜」
更に!「美人に見えるョ〜〜〜まるで“ハ−フ”みたいに見えるの〜〜ネ!」と…
良く云われだし、更に!専門学校に行き出してから、帰りが遅くなる…
そして更に!“音楽活動でヤマハ”に行ったり…バイトに行ったり…【時間調整が〜〜】
               <つづく>             NO.1

852SAKURA:2012/06/19(火) 21:59:21 ID:V.pKl3yA
<つづく>             NO.2
トキ様 へ
観覧者様 へ
>>851投稿の続きより

■気がつきますと「トイレ掃除は??」…そうなのです〜〜ョネ!
現在!私の“パ−トナ−”の方が、気が付きますと、私より「トイレ掃除の回数」が
多いのかも??この頃!彼女は“綺麗〜〜〜”に見えます…。
本当に、良く見えるのですが…??おまけに“トイレの歌…”ありますもの〜〜ネ?

■ ■本当に「トイレの神様」は、いらっしゃいますかしら〜〜〜ン???
皆様は、どの様に思われますかしら〰〜ン!

■この頃、新たに「トイレの神様」思い始めまして、私は【ピッカと光が〜〜☆】
そうです〜〜〜ョネ!

■■【年をとらない…永遠性の秘訣??又!!「トイレ掃除…復活組」に〜〜】
今回!先生の言葉“一本の大根を抜くとき神様に感謝”……そうです〜〜ョネ!
この料理出来る“環境”…私の場合は【ダイエット料理】が出来る事…!【感謝!】
私も“神の愛”が伝わる〜〜〜と、“瞼”を閉じまして、「名目…合掌…」
本当に、不満を先に思う前に、狭い中野のあの頃の“思い出のワンル−ム”
そこにての“キッチン”は、問題にならないくらい、とても“狭かった状況”…
当時の私は【料理が…楽しくて〜楽しくて〜狭い“キッチン”を活かす料理】を…
但し、まだ“味付け”〜〜〜当に“下手”でしたが…
あれから比較しますと、現在は“リッチ感”但し私の自己満足??でしょうか?
それなのに〜〜〜 ><人間は「のど元過ぎれば熱さ忘れる?」慣れますと…
いつの間にか【感謝…】がおろそかに〜〜〜反省!
あの頃の“楽しかった事”を思い出しながら……今は“瞼”を閉じて【感謝行…】

■現在の私の環境は【四面楚歌…】ですが、小さな事から〜〜素敵な発見を〜〜
まるで【感謝!感謝!は宝の山が…一杯詰まってる!!】
今日から、再び【宝の山…探しなので〜〜す。】スタ−ト【感謝行…】   再合掌

PS:トキ様?今日の日常の些細な事柄…全て【感謝(心から)】難しいですが?
この【感謝…心から】どの様に思われますか??

853トキ:2012/06/19(火) 22:21:46 ID:tLG2kBs2
 感謝の心は大事ですね。感謝から始めて、感謝に終わる、という事ですね。

 些細な事から始めて、やっと大きな事にいくのですね。お互いに、頑張りましょう。

854ハマナス:2012/06/19(火) 22:26:29 ID:0kyCzJg6

神の子のみなさま
こんばんは。

生活力欠乏の原因  (『新版 生活の智慧365章』P.184)

 「物質は物質に非ず、それは神の愛の具象化である。」私たちが一片のパンの欠けらをも
神の愛として感謝する心になるとき、私たちは実相の世界にある無限供給の霊的波動に
波長を合わすことができ、必要に応じて、その欲するものを現実の世界に実現して来ることが
できるのである。

 生活力の欠乏――即ち虚弱や病気――それから、経済力の欠乏――すなわち貧乏や物質
不足は、私たちが神の愛の具象化に波長を合わさなかったときに、テレビに放送が映って出
ないように、受信力の欠陥としてあらわれて来るのである。この原理を知らないために、
或る種の人は、物質の潤沢を確保するために、霊的世界に波長を合わすことを忘れて、逆に
貪欲になって、貪り取ろうと云うような気持ちになるのである。

感謝合掌

855ハマナス:2012/06/19(火) 23:29:15 ID:0kyCzJg6

ありがとうございます。
今日『生命の實相』を読んでいましたら、ぴったりのご文章がありました。
 
それで、聖経の解釈に帰りますが、「吾は真理なり、真理より遣(つか)わされたる天使
(てんのつかい)なり。真理より照りかがやく光なり、迷いを照破する光なり」とあり
ますが、天の使いとはすなわち、真理より輝き出た光であるのです。それは迷いを破る光
であります。光がさせば闇は消えてしまう。よくない現われ、すなわち、迷いは真理に
照らされたら消えてしまうのです。ですから「生長の家」へ来ると病気が治るというのも、
何かの方法をもって病気を治すのではない。『生命の實相』を読んで、われわれが自分
たちの神の子なる実相を悟った時に、いっさいの闇は消えて不完全な現われである病など
は消え去る他はないのであります。  (『生命の實相』第21巻のP.164)

感謝合掌

856うのはな:2012/06/20(水) 19:39:01 ID:gTn97m6I
 『超宗教を建つるまで』 はしがき 谷口雅春 先生著

 此の書は近頃しきりに出る『我が生活を見よ!』と云うような気負った種類の
自伝ではない。これは寧ろ、幼きときから最近に至るまでの私の生活の恥ずかしい
方面の叙述と描写とである。此の一篇を私が『生命の實相』全集の第十巻に収録したとき、
『著者は聖者のごとき生活をしてきた人だろうと思っていたら、此の書で観ると通常の凡人の、
寧ろ穢れてきた生活を送って来た側ですね。私は今迄憧れていた目標に幻滅を感じずにはいられない』
と云っていた人もあった。また或る読者は『著者がこんなに赤裸々に自分の私生活を公表するのは
生長の家がインチキでない、真正直に本当のことを告白している証拠だと思う。

これだけ人生の色々の苦しみを嘗めて来た人にして初めて人生の指導者になり得るのだと思う。
これはトルストイの「我が懺悔」ルツソオの「懺悔録」以上に峻厳な自己暴露だ』と云って
『生命の實相』のほかのところに書かれている奇跡的な事実を、そのままあり得る、と承認して
救われた。『生命の實相』を読む人たちが、読むに従って、『自分の心の通りが書かれている』
と自己自身の心を自己解剖されて病気が治る事実が頻々あるのは、私自身が自分の心の底深く、その
暗黒面を貫くほどに見詰めて来たからである。一人の心の中に深く穿ち入るとき、それは同時に萬人の
心の世界に穿ち入ることになるのである。

かくして悩みの底にありながらも、光明に憧れ求めて来た私の光明を獲得するまでの喘ぎは、人類萬人の
等しき魂の喘ぎであると思う。この意味に於て、私は此の書が多くの悩んでいる人にも、光を求めている人にも
読んで頂きたいのである。
救いは凡人にも、悪人にも、罪人にも、如何なる人にも来るものであることを本書によって知って頂けば、本書を
単行本にして公刊する目的は足りるのである。
 最後に、最近実施された宗教団体法で、今まで教化団体なりと主張して来た『生長の家』が宗教だと認められるに到った経緯を
叙述したものを附録として収録することにした。それは礼拝の本尊なしに、礼拝の儀礼なしに、礼拝堂なしに、全然宗派的臭味なき
超宗教が、宗教とみとめられるに到った経緯である。やっぱり私は『宗教だ』と文部省でみとめられながらでも『超宗教』だと云い続けて
来たいのである。
この意味こそ、私は『超宗教を建つるまで』と本書を題した所以である。

 昭和十五年六月四日 著者 識     (現代仮名に変更写 投稿者)

857SAKURA:2012/06/20(水) 23:20:14 ID:V.pKl3yA
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ

こんばんは……  ロ−マ字の【SAKURA】で〜〜す。

“セルフイメ−ジ”の観点が悪いと、“プラス思考法の信頼性”は、かなり
低いのです〜〜〜ョネ!  ><
更に!「意志の力」や「気合い」「自制心」などの効率も〜〜〜><
そのような感情では、“心の世界”を考慮していく内に…【変化==>成功】にも、
影響しますかと??従いまして、それを為す前には!!
【心の世界の訓練】です〜〜〜ョネ!私の“メカニズム…脳を活性化”させましょう?
【脳の活性化】は、勿論“セルフイメ−ジの観点”を見直す“心の世界”へ〜〜ゴ−!
では“心の世界”・・・脳活性化・・・“s t a r t !”

■■【幸福を招く365章】
―――――無抵抗が最強者である―――――

恐れたところのものが、気がついて見ると味方であることがある。
困難は自分を磨く砥石である。気嫌いするから相手が意地悪く出る。同じ相手が
和解して見れば、実に自分にとって深切な味方である。この真理を貴方は
今一層はっきり自覚したのである。だから貴方は如何なる境遇にも如何なる人にも
和解の心をもって臨んで決してそれに抵抗し摩擦することはないのである。
今あなたは「無抵抗の真理」を悟ったのである。若し真にあなたが無抵抗に
なるならば何物も貴方を害する事は出来ぬのである。
                       (谷口雅春著)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆

■この頃「学ぶ会」の方々の「イメ−ジ」はかなり悪いです〜〜〜ョネ!
私の知り合いも…彼らの“言葉遣い?”は、【信仰…】ではない〜〜ョネ!!
聞くだけでも“悪口集合体”なの〜〜〜><この頃!
彼らの“投稿文章タッチ…”を見るだけでも〜〜??がでてくるの〜〜ョ!と?
この様な“メ−ル”が…確かに、それは、私でもいつ見ても“悪口集合体”なの〜♫〜

■彼らの【真理…】に対しての“レベル…捉え方”の相違が、感じ取られます。
【聖典…】を拝読していましたら、
もっと【調和的な精神…】更に!【人を引き付ける…言葉=用語】が
出てくる筈なんですが〜〜〜
いつの間にか?まるで【凡夫…】になり過ぎてしまったのでしょうか?
この頃は、特に!見えてしまいますが〜〜〜

これは私の“セルフイメ−ジ”を、決めつけているからでしょうかと??この頃
考えこんでしまいますのに………それでも、持ち前の「明るさ〜〜」で…
【光明面=良い面】を引き出しながら“イメ−ジ”しますが……
やはり“考え方の相違”なのでしょ〜〜か?それとも、
“聖典の捉え方”の相違なのかと……首をかしげてしまいます…。

■■このような時の【和解…?】は、難しいです〜〜〜ョネ!
逆に、そのような時程【相手の欠点…】が、目についてしまします。
そうです〜〜ョネ!【見えます時は…此方も一つの■危険信号の指令■でしょうか??】

先ず!あちら側に“好きなように”して頂きながら〜〜〜
何か?私に得る“モノ”を吸収する事でしょうか???
■■これが【無抵抗の真理】です〜〜ネ!・・・
きっと「現総裁雅宣先生派…」今!今!がまんの潮時??なのでしょうかしら〜〜ン!
このような時程【私の精神は、正しい理念に導かれていく事…この事を“信じ!!”

                               再合掌

トキ様へ
■無抵抗…あの“ガンジ−”の行動を、思い出しますが…??如何でしょうか??
トキ様は、此の“無抵抗”何か体験がおありでしょうかしら〜〜ン?

858ハマナス:2012/06/20(水) 23:47:43 ID:0kyCzJg6

神の子のみなさま
こんばんは。

天の倉に貯えられた徳  (『新版 生活の智慧365章』P.185)

 人の富を、その外形的な数量的な物質や貨幣の量によってはかってはならないのである。
真理を知ったところの人は、全ての富は物質の量ではなくて、天の倉に貯えられたる霊的
なる「徳」であり、その眼に見えざる「徳」が必要に応じて物質的な富として形をかえて
現象界にあらわれて来るものだと云うことを知っているのである。

 人間は神の最高の自己実現としてつくられたものであるから、神が人間を貧しくつくる
ようなことをしたまう筈はないのである。神は人間を自己の最高実現として、最高の「徳」
を実現することを目的としていられるのであるから、「徳」を行じ「徳」を実現するとき、
おのずから経済的にも豊かに「其の実相の富」をこの世に実現することができるように
なっているのである。

感謝合掌

859ハマナス:2012/06/22(金) 00:01:51 ID:0kyCzJg6

神の子のみなさま
ありがとうございます。

現象の奥にある実相の富  (『新版 生活の智慧365章』P.185)

 人生の目的は富を得ることでもなければ名声を羸(か)ち得ることでもないのである。
人生の目的は最高の神の自己実現として、人格を神格にまで高めることである。現象に
あらわれている富を求めることは却って「実相の無限の富」を忘却させて、自己に与え
られている富を縮小することになるのである。神が与えたまう富は、霊的なものであって、
物質的な富は、ただその影に過ぎないのである。

 神は霊であり給う。それゆえに神は霊の賜を与えたまう。即ち、愛を与えたまい、智慧を
与えたまい、生命を与えたまうのである。それを感謝し受け且つ働かすとき、波長が合って、
それがテレビの画面に映像があらわれるように、物質界の富としてあらわれて来るのである。
現象の有限の富だけを握って、其のために現象の背後にある「実相の富」を
見失ってはならない。

感謝合掌

860ハマナス:2012/06/22(金) 13:49:18 ID:0kyCzJg6

SAKURA様

いつも【幸福を招く365章】からの引用をして下さり、ありがとうございます。
毎回素晴らしい、ご文章ですね。
また、精力的はご投稿に頭が下がります。SAKURA様も応援していますよ!

感謝合掌

861ハマナス:2012/06/22(金) 18:31:08 ID:0kyCzJg6
神の子のみなさま
こんばんは。

無限の宝庫を開く鍵  (『新版 生活の智慧365章』P.185)

 愛行をもって「実相の無限の富」の宝庫の扉をひらくために鍵とせよ。利己心をもって
「現象有限の富」を得ようとするならば、それは 「有限」を互いに取り分多く分配しよう
とするのであるから、其処に必ず無理が出て来て争いや戦いを生ずるのである。誰がどんな
に使っても減らないところの富と云うものが実相世界にはあるのである。実相の富は無限で
あるから、其処から幾ら富を引き出して来ても、其処には尚、無限の富が残っているのである。

 徳を積まないで、現象の富のみを積もうと考えてはならない。背後の「徳」を失っている
現象の富は吾々に生活の豊かさと安全とを保障するように見えながら実は色々の心労を齎
(もたら)すのである。それは権力を保障するように見えながら嫉妬羨望と勢力争いとを生ずる。
それは幸福を保障するように見えながら不幸を招来し、永遠を約束しながら須臾(しゆゆ)して
消えるのである。

感謝合掌

862SAKURA:2012/06/22(金) 23:10:11 ID:V.pKl3yA
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ

こんばんは…   ローマ字の【SAKURA】で〜〜〜す。

今!「生長の家…」が、揺れ動いているようです〜〜〜ネ!
【現象】では、そう見えている方が、多いのでしょうか???
私は、あくまでも【実相】で、観ていく内に、何も起きてない位【スカイブル−世界】
其の中に、すっぽりと入り込んでいます様です〜〜〜が?
時折かしら〜〜〜ン“いじわるな方”が、此方の“領域”に踏み込んできます〜〜が、
まるで【シンデレラ姫物語】の様に、今は【トンデルワ?姫物語】でしょうか?
全てに“眠り姫?…暇”もない位に、【精神に集中】です。
■【意識=心世界が現れる事…】を「谷口雅春先生」は、もう〜〜〜!長く根本を、
私ども信者に説いていますのに〜〜〜><では!私も【富んで“心”が富む世界に〜!】

■【幸福を招く365章】
――−――本当の幸福は心の平和より来る――−――

幸福は常に内より来る。外に百万の富があろうとも、心の中に平和なければ
何の幸福ぞや外に何の富がなくとも、心に平和ありて、人を愛することが出来るとき、
それが本当の幸福なのである。心の平和は神との一体感によって得られるのである。
神は我々が離れたと思っている時にも決して離れていないのである。唯、自己に宿る
神の声をわざと聞かず、肉体の恵みに耳を傾けているとき最初は楽しいように
感られていても、それは神から遠ざかるから結局淋しくなって来るのである。
自分が他に対して腹立たしくなったり、あまりに批評的になったりして来た場合には、
他が悪いのではない。自分の心がイラ立っているのだと云うことを反省し、
周囲の人々に対して調和する祈り
(思念)をしなければならぬ。それは次のように念ずるがよいのである。
「神は愛である。神の愛が私の行く処に充ち満ちている。全ての人々は私に好意を
もっており、私は全ての人々に好意をもっているのである。私は周囲の人々から愛され
私は周囲の人々に感謝しているのである。有難う御座います。」
                             (谷口雅春著)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆

■確かに【心の平和…】なくしての“幸福論”はありえないと思います…。
最近!確かに「ネガティブの表現の投稿文」を、されています“コメント”…
拝読しますと〜〜〜><
こちらまで、変に【共有世界…の中へ】と、移動している“私”がそこにいます〜が?
このような方々が〜〜?と“心の中”で、攻めている“私”が其処にいます。
そうしますと〜〜〜><“イライラ病”が…

上層に浮いている〜〜〜の?とても“気持ちの良いもの”ではないのですが?
今日の「雅春先生の言葉」より、更に!このような「心境…」になるのは、
果たして“私の心の捉え方”になるとの事です…。

■「生長の家」は……
本来「雅春先生存命中…他人のせいにせず…先ず!【感謝…】でしたでしょうかと?
【心の状態…金剛心を鍛える…澄み切った“心境”になる事が…メインなのでしょう】
■ 心 の 平 安 !!
今日よりは、いつもの“イライラ病”が、生じました時、先生の“言葉”を唱えます。

                                  再合掌

トキ様へ
やはり「心の平和…」これこそが…“幸福への扉”に繋がるものと思います。
やはり“イライラ病”は、決してこの“扉”を“ノック”する事は出来ないものと、
私自身は思います…。此処最近は「生長の家…お家騒動」にて…心の平安??
何処なのですが?「トキ様」は『心の平安』どのように受け止められますでしょうか?

863a hope:2012/06/23(土) 08:56:22 ID:kJvHf4/g

みなさま、おはようございます。
お久しぶりでございます。
わたしはとても元気にしておりましたが、事情がありしばらく閲覧・書き込みをお休みしていました。
また少し生活に余裕が出て来ましたので、聖典の謹写を再開させていただきます。
数週間分の他の板の書き込みは、ほとんど拝見していませんので、
みなさまのお話について行けるかどうかわかりませんが、
また、書き込みもマイペースでしていきたいと思っています。
みなさま、a hopeをどうぞよろしくお願い致しますね。

感謝 合掌。


人生読本 谷口雅春先生著

>>797「神経衰弱を治す法」のつづき

働かないと病気の治らぬ訳


ところが、病気になった人に楽をしておれと申しますと、楽をしていればいいんだというので、
胃病なら胃病の人が何もしないで楽をしていると、胃袋にへんな感じがしている。

楽であるから他(ほか)の事に気を転ずることができないので、いつも胃袋に気がいって、
「胃が悪い胃が悪い」と、いつも胃袋の事ばかり考えている。

そのため、その人は楽をしているかというと決して楽ではない。
心は一番不快な胃袋の事ばかりを常に考えさせられている。

自分の病気の事は、病人にとって一番嫌な事ですが、
その嫌なことを一所懸命間断なく考えねばならない。

ですから、余所(よそ)から見ると身体(からだ)は楽なように見えますが、
その実一番苦しんでいるのです。

本当に働いたら病気の事なんか忘れてしまう。
役者なんかが胃病とか神経痛なんかで苦しんでいましても、
舞台に出て活動している間はちっとも痛まない。
舞台から降りてやれやれと思うと痛みだすものであります。

役者でなくとも、神経痛という病気の人で昼間働いている間は何でもなくて、
夜になって寝床に入ると痛んでくる人があります。
それはまだ働き方が足りないのです。

昼間働いている時には苦しくないんですが、夜になってから暇ができるので、
「病気が治らないナ」といろいろ考える余裕ができるから苦しくなるのです。

そういうふうに私達は働くという事は実にありがたい事であります。
働く事によって私達は健康も増し、能力も増し、財産も増し、
人からも喜ばれるという四つの徳が備わるのであります。

(つづく)

864SAKURA:2012/06/23(土) 18:19:13 ID:V.pKl3yA
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ

こんばんは……  ローマ字の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>860拝読させて頂きまして

■「ハマナス様」へ
私に“素敵なメッセ−ジ”頂きました事…感謝申し上げます。
私も“パソコン…オ―プン”させて頂きました時…
いつもの“投稿者様方…”の「聖典…」が拝読出来ませんときは??
“ア〜〜〜ッ”どうしたのかしら〜〜ン?いつも思ってしまいます…。

こちらの方こそ「ハマナス」様の文章が【毎日の日課…拝読】となっております〜の!

今後とも“楽しく〜♫〜”拝読させて頂きま〜〜す。
尚!暦の上では『夏至…6月21日』も過ぎますと…何となく“夏本番…近づく”かと?
「ハマナス様」へ…くれぐれも“体調”に気をつけて下さいませ…。
唯今!体調調整中の【SAKURA】で〜〜す。

                                 再合掌

865ハマナス:2012/06/23(土) 21:44:05 ID:0kyCzJg6

神の子のみなさま
こんばんは。

富は聖なる目的に使うもの  (『新版 生活の智慧365章』P.187)

 現象の富は、神の国なる実相の富の現象界への延長であることを知らなければならない。
それであるからその富は、ただ貪(むさぼ)って蓄積するだけに使ってはならないし、浪費
するために使ってもならないのである。それは実相世界の素晴らしさを現象世界にあらわす
ための聖なる目的のために使わなければならない。換言すれば建設的な目的にのみ使わ
なければならないのである。ただ蓄積のためのみに使ってはならないし、ただ消費するため
のみに使ってはならないのである。

 無論、聖なる目的のために使うためには。半端な資金ではどうにもならない事であるから、
ある金額に達するまでそれを蓄積したり、共同貯蓄することも必要である。学校や学生寮を
建設したり宗教目的に使われる建物をつくったりするのは、聖なる目的にかなうもので、
建設的な目的に使うことに当たるのである。


SAKURA様へ
 ご丁寧なメッセージをありがとうございました。嬉しかったです。
暦の上では『夏至…6月21日』も過ぎたのですね。
SAKURA様もどうぞ、体調に気をつけられてお元気にお過ごしください。
これからも、ご投稿を楽しみにしています。

感謝合掌

866 志恩:2012/06/24(日) 05:15:27 ID:.QY5jUA6
a hopeさま

おひさしぶりですね。帰って来てくださって、大変うれしいです。
また、謹写もコメントも たのしみにしています。
皆様にいつも教えていただくばかりです。これからも よろしくおねがいします。

867a hope:2012/06/24(日) 09:23:37 ID:kJvHf4/g
みなさま、おはようございます。

志恩さま、温かいお言葉ありがとうございます。
わたしも、この掲示板でこれからもたくさんお勉強させていただくつもりでいます。
こちらこそ、どうぞよりしくお願い致します。

人生読本 谷口雅春先生著

上役と調和する道


時間を無駄に費やさないで十分それを働かすという事は、
単に専門的な知識を得るというだけではなしに、
まだまだ話しても話しても尽きない功徳があるのであります。

といって、あまり勉強に凝りすぎて、一分間でも勉強しなければ損だと思って、
会社におっても与えられた会社に仕事が終わると、
ちゃんと自分の仕事は終わったから後の時間はこれは自分の時間だと思って、
自分の勉強したい本を持って来て、机の下なんかで内証に拡げて読んでいる人があります。

そうして、上役の人が何か雑談をしたり、昨日のオリンピックはどうだったなどと訊いても、
「煩(うるさ)いナ、わたしはこの勉強しなければならない、
あれもしなければならないのに、ちょっと黙っとって欲しい」などと思いますと、
上役と調和しないことになります。

上役と調和しないために、その事務所にいる事が面白くなくなってくる。
そこで仕事にも力が入らず、したがって成績も上がらず、月給も上がらない。
そこで不平の心が起こってきて、とうとうその会社を飛出す事になります。

こういう人は又次へ行っても同じ事でありまして、そんな人は、上役と調和しないから、
仕事はできても何時まで経っても出世しない事になります。
ですから人間は必ずしも能率一点張りになることがよいのではありません。

それは勉強という事に引っかかりすぎて余裕がなくなっているからであります。
善い事にでも、引っかかれば悪くなるのであります。
どんな場合でも、私達は引っかかって自由自在を失ってはならないのであります。

周囲と調和することが必要です。
「今」の時間を、「今」の機会を百パーセント生かすことが大切であります。
「今」を調和して生かす事が本当の勉強であります。

仮に上役がオリンピック大会の事を話しかけてくれたとしましたならば、
その「今」の機会を生かすのが自分の勉強です。
「今」上役がオリンピック大会の話をしかけたら、
その上役はオリンピック大会についての先生である、ありがたいと思えばよろしい。

それについてどういう表情をして、どういう気持ちで喜んでおるかという事は察して、
相手の喜びそうな事を考え、それに適当な受答えをするという事も処世の一つの生きた学問であります。

それは書物には書いてないが、本当に生きた智慧をそこから生み出してくることができるのであります。

(つづく)

868ハマナス:2012/06/24(日) 23:24:09 ID:0kyCzJg6

神の子のみなさま
ありがとうございます。

真の富はエデンの園から  (『新版 生活の智慧365章』P.188)

 必要な建設的目的に使うために蓄積されたる富は、実相の投影であるけれども、未来に
起るであろう何か不祥事を予想してたくわえる富は恐怖の投影であるから、その予想する
心が予想する不幸を呼び寄せることになるのである。心に予想することが実現すると云う
のが心の法則であるから、不幸を予想してたくわえた富は、将来必ず予想した不幸が来て、
それを消耗してしまうことになるものである。病気したときの治療費として金を貯える人は、
恰度(ちょうど)入院費用だけが貯まったときに、本当に病気に罹(かか)って、その貯金を
治療費に使ってしまい、恰度その治療費の貯えがなくなったときに病気が治ったりするのである。

 真の富と云うものは、一切のものが其処から生み出されて来る「エデンの園」(龍宮海)
即ち実相界から供給されて来るのであって、常に実相に波長の合う心を持っておれば必要に
応じて、それが現象界の富となって供給されるのである。

感謝合掌

869金木犀:2012/06/25(月) 00:55:44 ID:qMq2iFMk
a hope様

帰ってこられて、とても嬉しく思います。毎朝、a hope様の人生読本で掲示板の一日が
始まるのが、やはりいちばん気持ちがいいですね。女子会の方も、楽しい話題を提供して
くださいね。

870a hope:2012/06/25(月) 08:09:01 ID:kJvHf4/g
みなさま おはようございます。

金木犀さま

ありがたい言葉をいただきうれしいです。。
これからも、「人生読本」の謹写感謝の気持ちを持って続けさせていただきます。
そしてもう少し落ち着きましたら、女子会の方も参加したいと思います。
これからも、どうぞよろしくお願い致します。


人生読本 谷口雅春先生著

人を喜ばすのは追従(ついしょう)ではない【前半】


往々純情すぎる青年達は、上役を喜ばす事が何かを追従することだと思って、
役の機嫌をなるべくとらないようにしようと考えたがるような、
潔癖を持っていることがありますが、これは間違った潔癖であります。

むろん、阿諛(へつらい)追従の心持をもってするのは良くないかも知れませんけれども、
そうでなくて、そこに人類の兄弟がいる、そして、
たとえばここにオリンピック大会に於ける日本の選手がこういうふうな活動をしたと言って喜んでいる人がある、
その喜んでいる一人の人類の兄弟があるのに、その兄弟と一緒に喜んでやらないのは、愛の道ではありません。

自分だけ勉強したい、本を読みたい、出世したいという事によって、
自分と一緒に手を繋いで喜びたいと思っている人類の兄弟に対して冷淡に振舞う事は、
それは自分の愛を生かさない事であります。
生きることは働くことであり、仕事をすることでありますが、更に愛を働かすことであります。

自分の立ち対(むか)う人人(ひとびと)のことごとく喜ばし生かす事は、
またひとつの学問であります。この処世上の生きた学問を勉強するのは、
その相対する一人一人の人の気持ち察してそれと一緒に喜ぶ。

あの人の喜びは自分の喜びであると、自分の魂を打開いた気持ちになって、人間と人間とが触れ合ってゆく。
この人間と人間とが触れ合って喜ぶ勉強ができたら、その人はどこに行っても喜ばれる事になります。

立身出世という問題は、必ずしも本を読んで学者になるという事が立身出世の道ではないのであります。
学者で学問はあっても出世する人は少ないというのは、人間を掴む事を知らないからです。

それで人間を掴む道を知るにはどうしたらいいかというと、すべての一人一人の人に対する機会毎に、
その相手の人の気持ちを察することのできる一種の直感力というものを養い、
そうして相手を喜ばし生かして行くところの愛を養い、その愛を実行する技巧も知らなければならないのです。

技巧というとあまり形式的ですけれども、やはりそれもなければならないのです。
相手を喜ばす技巧というのは、或いは清らかな心を抱いている青年達には、
ばからしいお追従みたいな嫌な事だと思われるかも知れませんけれども、
人間を喜ばす技巧は決して悪い事ではありません。

それが悪いのでありましたら、習字の稽古も、絵の稽古も、茶の湯の稽古も、生け花の稽古も皆悪事になってしまいます。
要するに世の中にあるもの総てのものは、人間を喜ばせる程度に従って尊いのであります。
一人の人を喜ばせば一人に尊ばれ、万人を喜ばせば万人に尊ばれるのです。

(後半につづく)

871a hope:2012/06/25(月) 08:13:24 ID:kJvHf4/g
>>870 訂正
上から17行目

役の機嫌→上役の機嫌

872SAKURA:2012/06/25(月) 11:20:55 ID:6kMwcbRA
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ

こんにちは…  ローマ字の【SAKURA】で〜〜〜す。

本当に…【理想…の信仰】は????でしょうか??
本来の【信仰…真理探究】は??程遠いのかしら〜〜ンと思われる様な?今回の
【お家騒動…】でしょうか?しかも乱入「他宗教組…」が入ってきているの〜?
本当の信仰とは【魂の向上…真理探究】ですかと、改めて思います。
そして、此の事が、許されますのは…当に此の【現象世界…】にてなのに〜〜〜><
そうなのです…。自分自身を磨かねばいけない事なのに〜〜〜♫“時間が〜〜〜”
さ〜〜〜ぁ!今日も【SAKURA】
天の親様なる“神”へ…アンテナ向けて…【魂…の旅…真理探究】

■【栄える生活365章】
−−――−−――生活に活用出来る真理−−――−−――

“生長の家”は一宗一派の宗教ではないのである。それは新興宗教でもないのである。
それはあらゆる宗教が、若しその宗教が人を救い得る“真理”を内に蔵するもので
あるならば、その人を救い得る凡ゆる宗教に共通せる“真理”だけを純粋に冶金し
精錬し、抽出して、わかり易く、ここに君たちの祖先が信じて来た宗教の「人を救い
得る真理」の神髄がある“と端的にその”真理“を夾雑物ぬきに示すのである。
それによって祖先伝来又は自己の従来信仰せる宗教の、どこに中心真理があるのか
今まで判らないで、ただ葬式の時にだけ職業宗教家を呼んで来て、葬式の儀式を
行うだけに過ぎなかった人たちが、祖先の宗教に内包せられている真理が、
如何なるものであるかをハッキリ知ることができ、その真理を日常生活に生きる
道を“生長の家”によって教えられる事になるのである。即ちこれを算式によって
示せば、
 祖先の宗教+生長の家=生活に生きて活し得る真理
となる訳である。

                          (谷口雅春著)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆
                                 再合掌

873ハマナス:2012/06/25(月) 23:28:10 ID:0kyCzJg6

神の子のみなさま
こんばんは。

欠乏は心の産物 (『新版 生活の智慧365章』P.189)

  すべての欠乏は、自分の心の産物であるのである。自分の心がケチであり、もっと力を
出さなければならない時に力を出すことを吝(おし)んだり、「実相」に智慧を仰げば、もっと
よい智慧があらわれ来るのに、現象の知恵によって実相の智慧を覆い隠してしまった結果なので
ある。その道の専門家の指導で株に投資して一時大いに儲けたように見えていても、それが実相
の智慧に導からた富でない限りは、一朝経済界の破たんが来た際に、株券がただ一枚の紙片に化
してしまうのである。

 よろしくもっと全智なる神の智慧の導きに従うべきである。全智なる神が吾々自身の内に宿って
いたまうのである。よろしく吾等は神想観して深く自己の内なる神を内観し、其処から如何に富を
処置すべきかを判断すべきである。すべての人間の内部には無限の智慧が宿っているのである。
その智慧を引き出す道が神想観である。

感謝合掌

874a hope:2012/06/26(火) 07:38:25 ID:kJvHf4/g

人生読本 谷口雅春先生著

人を喜ばすのは追従ではない【後半】


それですから、学校を出ただけの人間は役に立たないとよく言われますのは、
それは本当に世の中の生きた学問をしていないからです。
人間というものをよく知らないからです。

世の中を知らず、人間を知らないで本ばかりを読んだとて、
決して本当の人生というものは分からない。

中には商業学校の先生で商売をすると必ず損するというような先生がありますが、
そんな人は本当に人間というものを知らないで書籍だけで勉強しているから、
本当の事をやらせると分からないのであります。

そうすると吾々の勉強は必ずしも本だけにあるのではなく、
常に「今」どんなときにもあるという事を知らねばなりません。

むろん時間を大切にして本を読む事は大切ではあります。
しかし上役が雑談して、本を読めない時は、
その雑談している人間そのものが私達にとって教科書であります。

その人間の顔を見て、その人間の心を察して、その人間を生かすにはどうすればよいか、
その人間を喜ばすにはどうすればよいかという、その生きた教科書を見て勉強できるのであります。

木下藤吉郎が織田信長の心を察して草履を温めたというのは、
藤吉郎は自分の主人を教科書として勉強したのです。

そうしますと、凡(すべ)ての人間が皆自分の生きた教科書であるという事になって、
自分を邪魔する人間は一人もいない、皆自分を勉強させてくれるのであるという事になり、
意地悪の姑でも、意地悪の上役でも、皆ことごとく自分を勉強させてくれる生きた教科書となり、
人生の勉強を積みつつ誰からでもかわいがられて、凡(あら)ゆる場合に応じて、
自分も生き、人をも生かすところの生きた活(かつ)学問というのがそこに成立つのであります。

(第十一章 時間の生かし方 終り、次回より 第十二章 交際の生かし方 へ)

875みすまる:2012/06/26(火) 20:17:24 ID:B61Q13dQ

谷口恵美子先生著 『こころの旅路』P207〜208

物、物にあらず
神のいのちの現れである
つつましく水を使ふこと
つつましく火を使ふこと
一片の菜も、一切れの芋も
人参も牛蒡も生かして使ふこと
一枚の小皿も傷つけたら侘びること
有機物も無機物も一切の物のいのちを
永持ちするやうに心がけること
一切の物は神からの預りものである


これは、東京の両親の住居であった母屋の台所に貼ってある母の書いたメモです。その当時働いていたお手伝いさんに、台所の心がけとして書かれたものでした。

876みすまる:2012/06/26(火) 20:20:50 ID:64CLkKXQ

875投稿のご文章を、我が家も台所に貼り、意識して料理を作るように心がけています。
台所には、真理が秘めてありますね。

877SAKURA:2012/06/26(火) 23:36:11 ID:V.pKl3yA
トキ様 へ
観覧者様 へ
こんばんは… ロ−マ字の【SAKURA】で〜〜〜す。

今日は昨日の「女子会板」で“投稿”しました…若い時は、分からない事が、
スラ〜スラ〜♫〜と理解出来る…!!感激中ですが…更に!続きを“投稿”します。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆
■【奇蹟の時は今…】        J.E.アディントン   (谷口雅春訳)

神はわが生命の内に内在するゆいいちの力であるのである。内に宿る神の
完全な生命は、外からする如何なるものも触れることはできないのである。
過去に何があったにせよ、過去の経験の何ものも、私に対して支配権を
もたないのである。私は神の子であり完全であり、何人が何を為そうとも、
何を言おうとも、神の世継としてのわが完全さに干渉することはできないのである。
わが生命の内に宿る神の力は、如何なる環境の影響力にも打ち勝つところの
偉大なる力をもっているのである。神の力は神の世継たる力であり、いつでも
使うことができるのである。
それに不適任だとかいう劣等感のすべての感情から反転して、わたしは、今自分の
内に必要なすべての資源も能力も存在することを発見するのである。
わたしは、今、わたしの内に、わたしの必要とするすべてのものを発見するのである。
過去を放ち去るに随って、わたしは贖うべき何ものも持たないことを発見するのである。
旧我を投げ棄てたとき、わたしは真の自我を発見する。わたしは人生のしがらみに
縛られる奴隷ではなくして人生を支配する主人公となるのである。
旧き習慣・悪癖の如きものはわたしを支配する何らの力をもたないのである。
環境条件等はわたしを支配するどんな力を持たない。性格がどうのこうのと
いって私を支配することはできない。わたしはわが人生の主宰者である。
わたしは今既に、そして永遠に完全であり、自由であり、円満無欠であり、
それは変ることなきしんじつである。   
                      J.E.アディントン著
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆

■今日改めて『心の世界』を自由に羽ばたく事が…【心の法則…】でしょうか?
母が亡くなってから…初めて【御霊様…】を見まして“ショック!!”
そうなのです〰〜ョネ!!【人間は霊的人間】と私は自覚しました時に、
管理人「トキ様」からの薦めて頂きました【霊界の小桜物語り…】
更に【死後体験Ⅱ…】を読んで【心=意識】此処まで理解する事が出来るように
なりました…。

■「J.E.アディントン」を拝読してみながら、全て【心で支配する事】なのです〜〜ネ!
では【心をどの様に自覚するのか?】といいますと…
これは■【瞑想…】になるのでしょうかしら〜〜〜ン???

■時間に捉われなく【宇宙と一体】になった時に、【心を集中する事!!】
そして【我…】を捨て去る事が出来なくては…【意識=心を集中する事はできない】と、
私は思いますの〜〜〜ョネ!

■□「旧我を投げ棄てたとき、わたしは真の自我を発見する。わたしは人生の
しがらみに縛られる奴隷ではなくして人生を支配する主人公となるのである」□■

そうなんです〜〜〜ョネ!私自身「過去はないと云う事…」更に!
今!今!前向きに進む事…私自身の【魂の目覚め】でしょうか〜〜〜?
例え、私を取り巻く周囲から…どんなに言われようと〜〜〜><
【わが精神=心は、私自身の“モノ”】なのです…。
今の私は、「現総裁雅宣先生…」に、益々【正しい理念…】と思います…。

■どんな悪の手段!“手段!”で来ましても、そこには
【ゆるぎない精神!!金剛心!!私を支配する事は、不可能なのです!】
この事を…私の“潜在意識”に強く送り込んでいきます…。

益々【潜在意識にととどけ〜〜〜心で全てが叶う〜〜法則は心で〜〜決まる】のです

■宗教は?信仰は?【一人一人の魂の目覚めを見つける事が出発点】と思います!

【SAKURA の心】は、さ迷っていますが??【心は前以上に自由〜〜になって】ます。
もう!捉われることもなく「現総裁雅宣先生の言葉通り」に、
今!今!この時にしかできない時間…更に!
私自身の出来ることから〜〜〜♫〜〜〜やって行こうと思います…。
■【 全 て 意 識 で 物 事 が 出 来 る 事】再発見!再確認!

                                 再合掌

878ハマナス:2012/06/26(火) 23:53:14 ID:0kyCzJg6

神の子のみなさま
ありがとうございます。

肉の欲望と魂の願望  (『新版 生活の智慧365章』P.189より)

 人間は自己に忠実でなければならない。併しその「自己」と云うのは如何なる自己で
あろうか。美味なる食物を欲し、美しき服装をし、異性と戯れ遊びたいような煩悩が
本当の自分の「自己」であろうか。「自己に忠実でなければならない」と云う語(ことば)
で多くの人々は利己的本能に身を投じて、魂の節操を失ってしまったのである。

 「自己に忠実であれ」と云う場合の「自己」とは、肉体の本能的自己のことではない
のである。肉体は、魂が地上に於て仕事をなすための乗物又は作業服として、その自己
修復と自己保存のオートメーション作用としての食欲や性欲を発動するのであるが、
それらの欲望は飽くまでも「魂」の使命を果さしめるための基礎工事としての欲望で
あって、「魂」そのものの願望ではないのである。「自己に忠実であれ」と云うのは
「魂」そのものの願望に忠実でなければならないと云うことである。

感謝合掌

879 志恩:2012/06/27(水) 02:01:07 ID:.QY5jUA6
みすまる様

恵美子先生の「こころの旅路」からの引用文の「物、物にあらず。。」
これは、とても大切な真理ですが、ついわすれがちになる真理ですね。

別板で、a hope様が、ももんが様のご紹介で購入されたという仏典から、同じ様な台所での心がけの
ことばを書き込まれていますが、これによって、やはり、真理は1つなのだということを教えて頂けました。

みすまる様のお母様は、このことばを、メモに書いて台所に貼っておられたということですから、お母様も
生長の家でいらしたのですね。私も、よく、真理のことばをメモに書いて、時々,替えますが、台所に貼っています。

880a hope:2012/06/27(水) 07:44:09 ID:kJvHf4/g

人生読本 谷口雅春先生著

第十二章 交際の生かし方
立身出世の道


誰でも出世したい、月給が上がりたい、自分が勤め月給を貰っていない人でも、
自分の父や兄弟や良人などが出世をしたり、月給が上がったり、収入が殖えたりすることは嬉しい。

嬉しいのが当たり前である。嬉しくなければどうかしているのである。

しかしそれが恰(あたか)も嬉しくない出来事ででもあるかのように、
月給が上がらないように、出世をしないように努められていられる人が、
世の中には多いらしく見えるのはなぜでしょう。

(つづく)

881みすまる:2012/06/27(水) 08:00:07 ID:EsVYxlC.
志恩さま

ありがとうございます。
母がこの言葉を貼っていたというのは、恵美子先生のお母様…輝子先生が、お手伝いさんに、台所に貼り伝えていたということです。
私の母ではございません。紛らわしくて申し訳ありません。

882 志恩:2012/06/27(水) 08:50:20 ID:.QY5jUA6
みすまる様

了解です(笑)
忙しい時間帯ですので、短文で すみません。

883かぴばら:2012/06/27(水) 12:24:47 ID:8HSO87Es
みすまる様
a hope様

いつも素晴らしい投稿有難うございます。

我が家でも、以前に普及紙に載っていた輝子先生のこのお言葉を切り抜いて、冷蔵庫に貼ってあります。本日から又、肝に銘じて心がけさせていただきますね。

有難うございました。

884SAKURA:2012/06/27(水) 16:06:43 ID:V.pKl3yA
トキ様 へ
観覧者様 へ
こんにちは… ロ−マ字の【SAKURA】で〜〜〜す。

今日は昨日の「女子会板」で“投稿”しました…若い時は、分からない事が、
スラ〜スラ〜♫〜と理解出来る…!!感激中ですが…更に!続きを“投稿”します。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆
■【奇蹟の時は今…】        J.E.アディントン   (谷口雅春訳)

神はわが生命の内に内在するゆいいちの力であるのである。内に宿る神の
完全な生命は、外からする如何なるものも触れることはできないのである。
過去に何があったにせよ、過去の経験の何ものも、私に対して支配権を
もたないのである。私は神の子であり完全であり、何人が何を為そうとも、
何を言おうとも、神の世継としてのわが完全さに干渉することはできないのである。
わが生命の内に宿る神の力は、如何なる環境の影響力にも打ち勝つところの
偉大なる力をもっているのである。神の力は神の世継たる力であり、いつでも
使うことができるのである。
それに不適任だとかいう劣等感のすべての感情から反転して、わたしは、今自分の
内に必要なすべての資源も能力も存在することを発見するのである。
わたしは、今、わたしの内に、わたしの必要とするすべてのものを発見するのである。
過去を放ち去るに随って、わたしは贖うべき何ものも持たないことを発見するのである。
旧我を投げ棄てたとき、わたしは真の自我を発見する。わたしは人生のしがらみに
縛られる奴隷ではなくして人生を支配する主人公となるのである。
旧き習慣・悪癖の如きものはわたしを支配する何らの力をもたないのである。
環境条件等はわたしを支配するどんな力を持たない。性格がどうのこうのと
いって私を支配することはできない。わたしはわが人生の主宰者である。
わたしは今既に、そして永遠に完全であり、自由であり、円満無欠であり、
それは変ることなきしんじつである。   
                      J.E.アディントン著
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆

■今日改めて『心の世界』を自由に羽ばたく事が…【心の法則…】でしょうか?
母が亡くなってから…初めて【御霊様…】を見まして“ショック!!”
そうなのです〰〜ョネ!!【人間は霊的人間】と私は自覚しました時に、
管理人「トキ様」からの薦めて頂きました【霊界の小桜物語り…】
更に【死後体験Ⅱ…】を読んで【心=意識】此処まで理解する事が出来るように
なりました…。

■「J.E.アディントン」を拝読してみながら、全て【心で支配する事】なのです〜〜ネ!
では【心をどの様に自覚するのか?】といいますと…
これは■【瞑想…】になるのでしょうかしら〜〜〜ン???

■時間に捉われなく【宇宙と一体】になった時に、【心を集中する事!!】
そして【我…】を捨て去る事が出来なくては…【意識=心を集中する事はできない】と、
私は思いますの〜〜〜ョネ!

■□「旧我を投げ棄てたとき、わたしは真の自我を発見する。わたしは人生の
しがらみに縛られる奴隷ではなくして人生を支配する主人公となるのである」□■

そうなんです〜〜〜ョネ!私自身「過去はないと云う事…」更に!
今!今!前向きに進む事…私自身の【魂の目覚め】でしょうか〜〜〜?
例え、私を取り巻く周囲から…どんなに言われようと〜〜〜><
【わが精神=心は、私自身の“モノ”】なのです…。
今の私は、「現総裁雅宣先生…」に、益々【正しい理念…】と思います…。

■どんな悪の手段!“手段!”で来ましても、そこには
【ゆるぎない精神!!金剛心!!私を支配する事は、不可能なのです!】
この事を…私の“潜在意識”に強く送り込んでいきます…。

益々【潜在意識にととどけ〜〜〜心で全てが叶う〜〜法則は心で〜〜決まる】のです

■宗教は?信仰は?【一人一人の魂の目覚めを見つける事が出発点】と思います!

【SAKURA の心】は、さ迷っていますが??【心は前以上に自由〜〜になって】ます。
もう!捉われることもなく「現総裁雅宣先生の言葉通り」に、
今!今!この時にしかできない時間…更に!
私自身の出来ることから〜〜〜♫〜〜〜やって行こうと思います…。
■【 全 て 意 識 で 物 事 が 出 来 る 事】再発見!再確認!

                                 再合掌

885SAKURA:2012/06/27(水) 17:46:35 ID:V.pKl3yA
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ

こんにちは…  ロ―マ字の【SAKURA】で〜〜〜す。
昨日から“仕事場”に泊まり込みです…。〜〜〜ので“睡眠不足?”でしょうか?
「仕事の資料」が、“山積み!ゴチャゴチャ!”していますから?
一つ一つ調べながら…それでも“眠い”です〜〜〜ネ!「オバケ目!@で〜〜す。」
そのような時、昨日の“歌”を口ずさみながら…私の瀬在意識に〜〜〜♫
又!いつものように“今日の言葉”を開きます〜〜〜ゴマひらけ〜〜〜♫

■【幸福を招く365章】
――――常に積極的な心を維持せよ――――
決してあなたは不安、取越苦労、懐疑、嫉妬……等あらゆる消極的な想念感情の
虜になってはならないのである。常に信頼、幸福、楽天の積極的想念をいだくように
すべきである。あなたの想念感情が明るい波長になればなるほど、神の導きの声が
ハッキリときこえるようになるのである。神の声をきくと云うのは耳の中で囁くように
聴こえてくることもありますし、頭の中で「声なき声」として感じられて来ることも
ありますが、誰かが訪問して来て導きになる善い話をもちかけて来ることもある。
                        (谷口雅春著)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆

■ここ一週間ばかり、このような感情(ネガティブ感情)が〜〜〜><
洪水の様に、押し寄せて、又!引きさがりの状態でしたが〜〜〜
彼らの(出て行かれた方)は、ネガティブな感情で…後は“女性の場合”は、
そこの世界に“どっぷり浸かる状態”なのでしょうか??
まるで【井戸端会議】のような錯覚です…。
先ず!第三者を使う【悪質手段はお手のモノ〜〜><】かなり、なれていらっしゃる様に
お見受け致しますが…このような「生長の家…原宿教団」の状態にされたのですかしら〜〜ン!
水面下での〜〜〜>もう!かなり前からの【問題…】だったのでしょうか?
もしかして!もしかして!【雅春先生亡き後…直後から始まったの〜♫〜】

■【SAKURA】はまるで【一匹狼…荒野をひとりで〜♫】の様にとも思うのですが?
かたや「学ぶ会」の皆様方は、恐らく“私個人”を、変わっていると?おっしゃってるかも…ネ!
何処を〜〜と考えてしまいましたら、友人が「その人の尺度で判断!!」で〜〜ショ!
更に【同じ仲間の尺度観】更に【世間体は、似たような世界での捉え方の仲間】での尺度ですから、
■■ 【似た者同士の仲間での…討論】になりますでしょう!私の様な仲間が入ってきますと…?
“疎外感”が生じますでしょうかしら〜〜〜ン!■ ブ〜〜〜イング!!
つまり「会社」に入りますと、当然いろんな人との【討論】をしますが…
このような方の「部署」に配属になりますと…本当に“大変”です〜〜〜ョネ!
それでも?まだ私は「受け入れ」が良かったのか?…まだ!恵まれた感じでしたが……
今!私にされている「向こう側」の彼らは、
その行動を分かってとられていらっしゃいますのでしょうか?
この様に私も「ネガティブな感情…」に、支配されやすくなっていましたら…
それで、その“感情の向きを変える”のはもちろんの事なのですが…?

■「イメ−ジ・トレ−ンニング」しますし、更に!朝は「神想観=瞑想」をしますと
“前向き体制”になるので、“物事”がスム−ズに運びますが〜〜〜
更に「神様」に任せていますから、それなりの“答”が出た時は、【一直線…】に、
真直ぐ挑んでいますが〜〜♫〜〜
今の状態は…昨日の“歌”を口ずさみながら“リズム♫〜〜♫〜〜”必ず!
「総裁先生」は、神の導きで必ず!大き「生長の家」をしていただく様になりますし〜〜〜
周辺は【聡明…知識者!なおかつ・行動力者!】になって行くでしょう〜〜〜ネ!!

■□頑張ります!!【SAKURA】は「神様」の導きは…??
此処!!!【2 チ ャ ン ネ ル で の 戦 い!!】でしょうか??
                                再合掌

PS:トキ様へ
何か?難問題が自分自身に降りかかって参ります時は、「声なき声」に、
静かに耳をかたむけますが〜〜〜?この時!【瞑想…神想観】をしますが…
“邪念”が入ってしまいます事もしばしばです…。
トキ様は、この様な邪念の【瞑想狂想曲…】体験は失礼ですが?あられますでしょうか??

886うのはな:2012/06/27(水) 19:40:02 ID:gTn97m6I
  泥棒も神の子  『光の国から』 渋谷晴雄 著

 話はさかのぼるが、私がラテン・アメリカ教化総長としてブラジル、サンパウロに
駐在して三年目のことであった。ブラジルはその面積が日本の二十三倍もある。
ブラジルでは“すぐそこにあります。ご案内しましょう”と言って、時速一二〇キロで
二〜三時間も車をとばす。
 先日サンタ・テクラ練成道場(ブラジル最南のリオ・グランデ・ド・スール州、ポルト・アレラグアイ、
ウルグアイ等から参加した人々は大抵はバスで来た。チリから練成道場までは四十二時間、アルゼンチンのツクマン市から
は三十二時間、ブエノスアイレス市からでも二十四時間かかる。
そんな距離をものともせずに集って下さる方々には頭が下がる。
ブラジル駐在三年経ってもまだ全教化支部(これは日本でいう生長の家の教区に当る。全国が約一二〇の教化支部から成っている)
をまわることができない。それでもほとんど毎週日曜日は、サンパウロ以外の土地に巡講に出ている。
 一九九三年(平成五年)の十月二日と三日は、マットグロッソ州のクイヤバというところで講師研修会を行なった。
クイヤバは自然の宝庫といわれるパンタナルの北の玄関にあたる都会である。
 私は各地に行くとき、そこの幹部の方々の体験談を聞くのをたのしみにしている。
日本から見れば地球の裏側になるブラジルでも、生長の家のみ教えにふれて幸せになった人はたいへん多いのである。
 これは、車を運転しながら教化支部長の語ってくれた話である。
ある相愛会の幹部が、強盗におそわれた。ブラジルでは強盗や泥棒がたいへん多く、これまで一度も泥棒に入られたことのない人
などまずいないようである。泥棒は拳銃を持っており、簡単に発砲する。だから強盗におそわれたら、言いなりにならないと生命が
危険なのである。

 その幹部の方は、誌友会の帰りに数人組の強盗におそわれ、財布、カバン、服、時計など身ぐるみ剥ぎとられた。
泥棒の一人が、カバンを逆さに振って中味を路上にあけた。そのとき、一枚のカードが落ちた。
泥棒の一人は、「なんだ、このカードは?」
それは聖使命会員カードだった。それを拾いあげたもう一人の泥棒が言った。
「あ、これはSeicho-No-Ieだ。このSeicho-No-Ieというのは、われわれ泥棒に対しても、
泥棒といわないで神の子として拝む宗教だ」
「えっ。そんな宗教をやっている人から持ち物を奪ったら大変なことになる」
こういって、彼等は、今まで奪ったものを皆返してくれたのだった。
こんな話をしながら教化支部長さんは、時速一二〇キロで道を飛ばす。行けども行けども、
まっすぐな道と両側は草原である。実はこの教化支部長は、「すぐそこに教化支部の土地があるから
見てください。将来道場を建てたいと思います」と言って私をつれてきてくれた。
三○○キロ以上も遠かったのである。

 泥棒を泥棒と見ないで「神の子」としてその神性を拝む生長の家の教えは、泥棒からも神の子を引きだしたのである。
この生長の家のみ教えをもっともっとひろげれば、ブラジルは泥棒のいない天国となる。
そのために私たちは頑張っているのである。

887ハマナス:2012/06/28(木) 00:29:56 ID:0kyCzJg6

神の子のみなさま
ありがとうございます。

肉体の自我と魂の自我 (『新版 生活の智慧365章』P.190より)

 「霊肉の闘い」と言う語句があるが、その語句のなかにはハッキリと魂の要求と、肉体の
本能とが別であると云う直観が含まれているのである。肉体の本能的自我を「低き自我」と
云う語(ことば)であらわせば、魂の自我は「より高き自我」又は「高次の自我」とでも
言い表すべきものである。吾らは「高き自我」に対して忠実でなければならないのである。

 若し私たちが「高次の自我」に忠実ならんことを欲(おも)うならば、「肉体の自我」の
要求をしばらく退けて、ひたすら「魂の自我」の囁きに心の耳を傾ける修練をしなければ
ならない。多くの宗教教祖が、(釈尊やイエスをも含めて)断食や水行を行って、肉体的
自我の要求たる食欲や色欲や所有欲や名誉欲や睡眠欲すらも退けて、「魂の自我」の要求に
耳を傾ける修行を積まれたことは伝記の記述するところである。

感謝合掌

888a hope:2012/06/28(木) 07:40:35 ID:kJvHf4/g

人生読本 谷口雅春先生著

人に好かれよ


出世しない人、月給の上がらない人は人から好かれない人です。
先ず出世しようと思うには人から好かれる人にならねばなりません。

人から好かれる人にならねば幾ら仕事や勉強がよくできても出世ができません。
月給も上がりません。

なぜなら人間は自分だけで仕事をしているのではありませんから、自分だけの仕事はよくできても、
その人がその部屋にいるために他の人の気持ちがよくないようでは、
他の人の仕事の妨げになりますし、事務所や、工場や、教室の空気を悪くしますから、
それだけその人の値打ちは値引きされるのです。
仕事はよくできる人だのに、なぜか出世できない人とはこういう人です。

ですから、出世したり、月給が上がったりするには、人に好かれねばなりません。
人に好かれる人になるにはどうしたらよいのでしょうか。

愉快な明るい人にならねばなりません。
愉快な明るい人というのは、騒ぎ廻る人のことではありません。
騒ぎ廻る人でも、人から嫌われる人もあるし、じっとしている人でも人から好かれる人もあります。
そうすると人に好かれるにはコツがあるに相違ありません。

(つづく)

889SAKURA:2012/06/28(木) 20:45:46 ID:V.pKl3yA
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ

こんばんは… ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。

今日は、 やっ〜〜〜と“パソコン”前に、座りましたが…
昨日は、仕事の“ミス”が〜〜〜><それも、やっと!終わり今から“スタ−ト”なのです…。
【聖典】をKEYで打っていきますと“心”がもっと豊かになり、“祈り”も…
限りなく透明…そうなのです〜〜〜ョネ!素晴らしい世界に、入って行く様ですが……
では!今日も【クリアな世界】に、行ける【心の聖典】を開きま〜〜〜す。!!

■幸福を招く365章
―――――我祈れば天地応う―――――
イエスが「我れみずからにては何事も成し得ず、天の父われに在(いま)して
御業をなさしめ給うのである」と云ったのは、自己の内に普遍の神が宿っていて、
自己内在の神を「支店」として宇宙普遍の神の力を動かすことが出来るのだと云う
真理を説いたものである。自己の内に宿りたまう神を自覚するとき、はじめて吾等は
一切の不幸不安から解放されるのである。四面暗黒に見ゆる時にも、自己の内に
無限の力が宿ると自覚するがゆえに何らの不安も恐怖もないのである。
我れ祈れば天地応(こた)うである。
                           (谷口雅春著)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆

■毎日【神想観】をします時、まず!「希望・願い…」とか、いろいろ“お願事”を致しまして、
それから【瞑想…】に入り〜〜〜
まるで「宇宙をさまよう〜〜その様な感じ」になってきます…。そして、
また「希望・お願い…」しながら、もう十分に「神様」へ伝言が出来ましたかしら〜〜ン?
其の気持ちになり、後は「神様」に〜〜〜“おまかせ”気分に…!!

■そして【宇宙遊泳…】をしながら何か?そうです〜〜〜ネ!
一つづつ「お知らせ…モ−ド」みたいな感じで“答え”を、
【縦の真理】或いは【横の真理】から…“伝言メッセ−ジ”頂くのですョ〜〜〜ネ!
しばしば、最近ですが、又!頂くようになりました。
その後の私は、勿論!以前の様な焦りとかは、無くなりまして、更に!
今日もまた【神霊…?】を下さり、とても!楽しくなってきました…。ルン〜♫〜ルン〜♫〜

■【神霊】と言いますと“オ−バ−”ですが…
そうです〜〜〜ネ!【直観…】みたいな感じで“メッセ−ジ”を頂き、直ぐ行動しますと
100パ−セントと言っていいぐらい【良い方向…】に、行くようです…。

■今の私は「神様」に、常に委ねています…???
【不安・恐怖…このようなネガティブ感情】は、いつの間にかなくなっているのです。
〜〜〜本当に【我 いのれば… 天地 応う】当にその通りになっている様なのですが〜〜??

■この【自 己 の 内 に 普 遍 の 神 が 宿 っ て い る ! ! 】

この自覚が…「亡き母の御霊様」を見てから、認識するようになりました事に…
感謝申し上げます…。
この素晴らしい「御教え…」との出会い…感謝!!
                            再合掌

PS:トキ様へ
「我祈れば天地応う」此の認識…やっと出来るようになったのですが…??
「トキ様」は、常にゆるぎのない“神へのテレパシ−”されますのでしょう〜〜〜かと!
私は、まだ?まだ?な?????時がありますが…><如何でしょうか?

890ワハハ:2012/06/28(木) 21:04:31 ID:???
神想観の時間に、こんな場所に来るようではマダマダと・・・

声がきこえました。

891トキ:2012/06/28(木) 21:23:52 ID:pwKH.sew
 こんばんは。私は毎朝、大日本神国観をしております。
外の神様ではなくて、内の神様へ祈る、というい姿勢でおります。
 神想観、真面目にされているのですね。素晴らしいです。

 お互いに、一生、勉強でしょうね。頑張ってください。

892トキ:2012/06/28(木) 21:36:08 ID:pwKH.sew
>>891

 そうですか(笑)

893トキ:2012/06/28(木) 21:36:52 ID:pwKH.sew
訂正です。890はSAKURA様、892はワハハ様宛です。ごめんなさい。

894SAKURA:2012/06/28(木) 21:48:37 ID:V.pKl3yA
トキ様 ヘ
観覧者の皆様 ヘ

こんばんは…  ロ−マ字の(大文字)【SAKURA】で〜〜〜す。
>>891拝読させて頂きまして

■【神 想 観】に関しまして…
今の私は【時として…場所として…】今では?【限定した処】でなく…
いつも「我が内なる神…」ヘの【神想観…】を、させて頂いております…。
そして「トキ様」がおっしゃっています様に…
現在の世界観・社会情勢…etcを考えますと益々と
■【 日 本 国 】この自覚が以前以上に、私の“心”の中に入り込んだ次第です…。
【 大 日 本 神 国 観 】素晴らし〜〜〜イ!「祈り」です〜〜〜ネ!

■■私もこの【水と森〜〜〜ゆたかなる国…日本国…】の“お祈り”益々させて頂きます。…。
                           再合掌

895ハマナス:2012/06/28(木) 23:58:30 ID:0kyCzJg6

神の子のみなさま
こんばんは。

内に宿る霊(たましい)の叫び (『新版 生活の智慧365章』P.191より)

 肉体は個々別々の存在であり、自他分離の存在であるが、霊(たましい)から言えば、
「個人の霊」は神なる「普遍霊」の一部が人間に宿っているのである。だから自己の
「内に宿る霊(たましい)」の叫びに耳傾けると云うことは、同時に「普遍霊」の導き
に対して耳傾けると云うことにもなるのである。それから無限の智慧の導きが湧き出て
くるのである。

 この「内部の霊」の呼び掛けが私たちの道徳生活に対してあらわれて来る場合には、
これを「良心の叫び」と言い、日常生活での導きや、発明発見等の場合の導きとして
あらわれて来る場合には、これを直観とか直覚とは呼びのである。それは普遍霊の導
きが、普遍霊の分霊なる「霊(たましい)の自我」を通してあらわれて来るのである。
私たちがこの「霊の自我」の導きに心の耳を傾け、その導きの通りに実践するならば、
現実生活が健康と愛と繁栄とを実現せる「実相そのまま」の天国となるのである。

感謝合掌

896SAKURA:2012/06/29(金) 08:04:24 ID:HSg8gJDc
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ

おはようございます…。  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。

URL http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/11346/1331290102/1667 
(上記URL)拝読させていただきまして
さて!今日は、朝から「生命の実相」投稿文が、ありましたが…
肝心な“省略の文”の所に、其の前後の深い意味がありますものと思います…。
従いまして、解釈論が…全く人により」異なって参ります…。
そこで「全文」を、此処にて“投稿”させて頂きます…。

■■『邪 説 を 排 撃 す る の 可 否』  「生命の実相30巻抜粋」
■これは別に人と争うために争うのではないのです。真理を述べるために、
他のまちがった邪説と衝突するということはこれまたやむをえないことであります。
だから、自分が正しいと考えているところの真理に対して、反対者がまちがっていると言うの
ならば、そのまちがっている点を挙げて、ここはこうまちがっていると言えと、
こういうぐあいに言っておられるのであります。

「生長の家」の説くところを時々非難する人がある。真理のよく悟れた人は非難しないで
讃嘆されるのでありますが、十分真理の悟れない人や、いわゆる宗教業者で商売敵(がたき)と
思って揚げげ足取りして非難される人がありますが、そういう場合、生長の家では黙殺することも
ありますが、他の人に誤解せしめて真理を伝える邪魔になると思われるような場合には
敢然としてその人たちの妄論を反駁することもあります。

すると「何じゃ、生長の家は全てのものと大調和をせよと教えておるのに、駁論なんかを発表する
のは怪しからん。あんなことでは、生長の家本部そのものが生長の家の教えに背いている」という
ぐあいに考える人もあるようです。
しかし、非真理に対しては、駁論を発表することが必要であることもある。
非真理が滔々(とうとう)こして弘まっている時代に真理を説くには、非真理の説を
是正しなければならない。「虚妄(こもう)を壊(え)するものは真理のほかに非ざるなり」と
聖教『甘露の法雨』の中に書いてありますが、邪説を打ち破るためには
正説の法鼓(ほうこ)をとうとうと打ち鳴らす必要があるのです。
正説の法鼓(ほうこ)を打ち鳴らすことは大調和を破っているのではない、
大調和を破っている邪説の領域を狭めて、大調和の領域を広めることなのであります。

釈迦が仏教をひろめられた時にも、ばらもん教などの邪説に対して、やはりその教えの
まちがっている処を論破することを怠らなかったのであります。ですから、邪説を論破して
大調和の真理を弘めるということと、この「山上の垂訓」でキリストの言われた
「右の頬を打たれたら、左の頬を向け」という教えとは、また別のことであると観なければ
ならないのであります。これはキリスト自身の御生涯をみるとわかるのでありまして、
教えというものと時代、環境、御自身の生活というものとを切り離して考えると、
本当の意味が解せられないのであります。教えというものは、生きた人に教え、
時代に生きているもので、教えそのものが宙ぶらりんに生きているものではないのであります。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆
■「現総裁雅宣先生」は、今!!当に!!
『時代にあった〜〜〜生きた〜〜〜【真理】を、別の角度から私どもに教えて下さっております。

『時 代 は 確 か に 変 化!し か も ス ピ ― ド 化 !!』しております…。
しかも人間の“心”は、「雅春先生」御存命中より、複雑です…。そして現代社会に於きましては、
『心の迷い・悩み…etc』から『自殺』へと意図も簡単に“尊い命”を…たたれます人も><
ですから、色々な観点(見方)によります【真理…】への教えを説いて頂けるものと思います…。
結局…同じ事をおっしゃつています。そして【中心帰一…】なのではないのでしょうか?

本日は【素晴らし〜〜イ“投稿文”】教えて頂きました事に…感謝申し上げます。

                                   再合掌

897a hope:2012/06/29(金) 08:06:19 ID:kJvHf4/g

人生読本 谷口雅春先生著

人に好かれるコツ


人に好かれるコツの一つは表情にあるのです。
表情というのは、その人の顔にあらわれている感じです。
人の顔付、感じです。

その人の顔を見ると何となしに好きになれる人と、何となしに嫌いになる人とがあるでしょう。
この事は全く不思議な問題です。

皆さんは「私の顔は生まれつきだから仕方がない」とお考えになりますか。
そうお考えに真理マスならば、それは問題です。

顔の感じは常に変わっているものです。
今、あなたのお母さんが死にましたという電報が来ましたら、あなたは悲しい顔をなさいます。
その悲しい顔の感じはあなたが喜んでいる時の感じとは異います。

あなたが不平で膨れている時の顔の感じと、
あなたが深切に赤ん坊をいたわっていられる時の顔の感じとは異います。

(つづく)

898a hope:2012/06/29(金) 08:16:51 ID:kJvHf4/g
>>897訂正
上から17行目

そうお考えに真理マスならば、→そうお考えになりますならば、

ごめんなさい。

899ハマナス:2012/06/29(金) 23:23:14 ID:0kyCzJg6

神の子のみなさま
こんばんは。

豊かさがもたらす思念  (『新版 生活の智慧365章』P.192)

 一時的な快楽や一時的の豊富さは人間的工夫によって操作して得られることがあるけれども
永遠の魂の悦びや、永遠の豊かなる流れは人間的工夫によっては得られぬものである。自己の
魂の底にある霊を通して神につながる事によってのみ、私達は永遠の魂の悦びと供給の豊かなる
流れを受けることができるのである。
 
私たちは何としても、現象だけに頼らず、この内なる霊の鍵を通して無限の供給の流れと結び
つかなければならないのである。外のものに頼るよりも「内なる鍵」を通して無限の宝庫の扉を
ひらくのである。私達の内には霊感とも云うべき内部の能力が宿っており、その燈火が私たちを
導いて下さるのである。「わが魂の底の底なる神よ。無限の力わき出でよ」暇あるごとに常に
この言葉を黙念して、内部の無限の力より汲むべきである。

感謝合掌

900SAKURA:2012/06/29(金) 23:34:36 ID:V.pKl3yA
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
こんばんは…  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。

“パソコン”の前に、や〜〜〜っと座れましたが…“朝”から色々考えさせられますが?
ここFUKは、もうすぐ【山笠…】が始まりますもの〜〜〜ウフフ
その準備が…始まっています。
では?私も「大きな山?」を乗り越えるには〜〜〜〜〜勿論!
【心の法則】を、駆使した者だけが“山”を、超えられるのです〜〜〜かしらン?
私も「目の前の山!」を、超えて行きます…。
その【テキスト…】は、勿論「生長の家」の書籍の数々ではないでしょうか?
それでは〜〜〜〜〜〜〜開きます〜〜〜〜〜〜〜!!

■【幸福を招く365章】
―――――観念と意志との分担――――――

意志の力よりも観念の力の方が強力であるのである。「治りたい意志」があっても、
「これはなかなか重病である」と云う観念の力が存する限り、観念の創造力によって、
重病が創造されて治らないことになるのである。「入学したい意志」があっても、
「私は成績が悪いから迚も駄目だ」と云う心があっては入学出来ないのである。
意志は一定の身体又は心の態度を持続する支え棒となるけれども、真に創造
する力を何処へ導くかは観念の力によるのである。観念は、宇宙の創造の力を
一定方向へ導くけれども、その観念を持続するのは意志の力によるのである。
一つの観念を継続的に描いて、意志の力で同一観念を持続するならば、それは必ず
形の世界に実現するのである。他の人に対して「健康」を観念すれば、
それは一種の精神療法となるのである。          
(谷口雅春著)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆
                          
■【観念=意志】は、“観念の方”が勝っているんです〜〜〜ョネ!〜〜〜
当たっているのでは?その様に私は、思う次第です…。
例えば?「重い病気」になりますと、精神的に“もう?だめだわぁ〜〜〜!”と…
言って、私の知り合いは、悲しい事ですが、あっという間に亡くなってしまいました。

■これとは逆に“仕事での締め切り”が、迫っています時、
もう〜〜〜どう〜〜見ても“間に合うはずが??”と思う時、私は“変”に、
起きてしまうのです。つまり挑戦的…自分の“限界に挑戦”でしょうかしら〜〜〜ン!
が…逆に“パ―トナ−”は、もう〜〜〜?ここらへんで相手に連絡しようか〜〜〜と!
この時!私の心が…【観念の方に偏って……】

■後で思い返しますと、充分に、その“対処方法”は、出来たはずなのですが…
“言葉の力”で、ついつい負けます時がありましたが…??
その様に【観念=意志】は、先ず!“言葉から〜〜〜発する!!”
つまり“言葉”からですから〜〜〜“意志を持続する場合”は、“言葉で導く事”に
よりまして…次第にその“意志が強力的”になりやすくなるのではと、思いますが??
出来る〜〜〜出来る〜〜〜出来る〜〜〜♫〜〜〜
勝つ!〜〜〜勝つ!〜〜〜勝つ!〜〜〜♫〜〜〜  この様に“潜在意識”にインプット!!

その“想念感情”が【善の想念−−>ポディティブ表現】しますと…
【意志=言葉】で、全てが〜良くなるしかなぁ〜〜〜イ!
つまり“行きづまる事”は、無くなるとの思いが致します。
私は“言葉で意志”を繋いでいこうと思いますし、“言葉”だけでは…“ダメ”ですので…
■【想 念 を 潜 在 意 識 に 送 り 込 み 意 志 = 心 で 限 定】
するのではと、思います。

■【潜 在 意 識 = 心 = 意 志 】なのでしょうかしら〜〜〜ン!

                                 再合掌

PS:トキ様へ
今日の私の“解釈”如何でしょうか?アドバイス頂きますと…幸いですが???

901a hope:2012/06/30(土) 08:25:37 ID:kJvHf4/g

人生読本 谷口雅春先生著

不平を持つ人は出世せぬ


あなたは不平で顔を膨らませている人の顔を見たことがあるでしょう。
その人の顔を見ていると好い感じがいたしましたか、しないでしょう。

不平で膨れている人の顔は誰だって好きにはなれないでしょう。
もしそうだとしたら、あなたが常に不平で顔を膨らせている人だったならば、
あなたは人から好かれないし、出世もしないし、月給の上がり方も少ないでしょう。
(つづく)

902a hope:2012/07/01(日) 07:07:25 ID:kJvHf4/g

人生読本 谷口雅春先生著 

何にでも深切な気持ちの人は人に好かれる


これに反して、あなたが常に人々に対して深切な行為ある表情をしていられましたならば、
あなたに対(むか)った人は常にあなたから好い感じを受けましょう。

あなたから好い感じを受けましたら、その対手(あいて)の人はあなたを好きにならずにはいられないでしょう。
あなたを好きになったら、その人はあなたに深切にもしてくださいましょうし、
また色々とお世話もして、出世に導いてもくださいますでしょう。
(つづく)

903a hope:2012/07/01(日) 07:30:16 ID:kJvHf4/g
>>902 訂正
上から5行目

深切な行為ある表情→深切な好意ある表情

904SAKURA:2012/07/01(日) 21:41:04 ID:V.pKl3yA
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
こんばんは…   ロ−マ字(大文字 )の【SAKURA】で〜〜〜す。

今日から、ここFUK は『山笠…』でにぎあいますでしょうか?……が……
窓越しに?外を眺めますと「雨摸様〜〜〜 ><」なのです〜〜〜ョネ!!
“マァ〜〜〜15日間”もありますから、こちらは?いつもより早く帰宅しないと…
“地下鉄”の中はとても??【黒田節?酒…?酒の臭〜〜イ><】連想しまして、
〜〜〜早く帰ろう〜〜焦り??と、思いました次第なのですが〜〜〜?
さて「今日の聖典…」は?????では〜〜〜開きます〜〜〜!!

■【 幸福を招く365章 】
――――汝自身を幸福な神の子と観ぜよ――――
病気も不幸も何人にも属するものではないのである。それは群衆の潜在意識の
放送を個人の潜在意識が受信し易い状態になったときにあらわれたスピ−カ−の
声みたいなものである。本人がその声を出していないのであるから、
本人は不幸でも病気でもないのである。それを自分のほんとうの姿だと思って
くるしんだり悩んだりするところに錯覚があり、その錯覚を断ち切らないところに、
錯覚は錯覚を招んで苦しみを増大することになるのである。汝自身を病人だと
見る限りに於て、汝自身は病人の姿をあらわし、汝自身を不幸だと思う限りに於て、
汝自身は不幸の姿をあらわすのである。すべからく汝は超越して実相に
超入せざるべからず。              (谷口雅春著)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆

■【病気…】を、例えた“話…”に、まるで〜〜
今の「総裁雅宣先生」に対しての【中傷論!!】と、全く同じ事です〜〜〜ョネ!!
以前は確かに「総裁雅宣先生」に対しての「イメ−ジ」は〜〜〜><
出て行かれた方達の【暴言論??】で、
信者一人一人の「潜在意識…」には、全く限りなく【ゼロ…】に近い状況では?
なかったと思いますが〜〜〜、それは当時の私は「本部の体制」が分からなかったのです。

が……今日に至りまして、唯!「元?出て行かれました幹部達」は、吾がモノのように、振舞っていた事が、最近よう〜〜〜やく!見えて来ました次第です。そして、
それを【正論…】としての、開き直りでしょうか〜〜〜??先ず!
当時の私は、全て「総裁雅宣先生」が【独断…決定?】かとの解釈が出来ます様な??
文章投稿でしたが…><

■其処が「疑問点〜〜??」なのですが〜〜〜〜〜♫〜〜〜〜〜今では、正当化して?
あちらサイドが【スピ−カ−で…まるで“トラックのダンプ”の“スピ−カ−”】に、
見えて来ますから、不思議なモノです〰〜ネ!【個人潜在意識…】に、送り込んでくる〜〜〜><
でも【真理…】が?あるの〜〜〜これでは【人を幸せにする!】様に見えません。

■私は例えて【病人集団……】ではな〜〜〜く、【総裁先生側…健全なる団体!!】
そうなのです!!『生長の家』として「現総裁側」にやはり【擁 護 !!】
毎日【ネガティブな言葉…】を、発していますから〜〜〜
「言葉=言霊」ですから…【神…】なのですモノ〜〜〜☆
ですから【ネガティブな言葉】を、毎日【潜在意識…】に入れていますと〜〜〜><
当然!!いつか【病気…】として、必ず!!姿・形に現れて来るものと思います。
でも!!そうなりますと、
簡単に【病気なりやすい“環境”…】では??…ついつい“オカシク”思って…
しまう昨今なのですが〜〜〜?

■「現総裁雅宣先生」で、益々“私の心”…“聡明な心”になって行くでしょう!!
【エコ−運動も、此の“地球”にとっては、物質界での“形”なのでしょうが〜〜〜
この事は「天の命令」の様に思いますから、この事は【神からの伝言】では??
と思いますが…?
【エコ−運動】しながら〜〜〜【実 相 論 で 超 越 し ま す!!】
                              再合掌

PS:トキ様へ
今日の“言葉”の中で【病気…】も、やはり“ネガティブ感情”から、おのずと……><
此の現実世界に現れて来るものと思いますが?如何でしょうか〜〜〜?
全て…【ポジティブ感】良いですョ〜〜〜ネ!!

905ハマナス:2012/07/01(日) 23:44:04 ID:0kyCzJg6

神の子のみなさま
こんばんは。早いもので、今日から7月です。

事業好転の思念  (『新版 生活の智慧365章』P.193より)

 どんなに神に祈っても、問題が好転しないことがあるならば、それはあなたが其の問題を
つかみ過ぎているからである。祈りは既に成就して、それは現実化しようとして其の途上に
あるのだけれども、あなたが余りに問題を心でつかみ過ぎているために、その現実化の通路が
ふさがれているだけである。そんなときには、あなたの心をその問題から完全に放してしまう
がよいのである。

 「この問題を神様あなたにおまかせします。わが意を成さんとするには非ず。神のみ心の
ままにならしめ給え」と祈ることによって、自己解放をとげ、自分の心を自由にするがよい
のである。「祈り」と云うものも、執着を持って遮二無二祈るときには、自己の祈りの念力に
よって何物かを成就しようと自力的に力むことによって却ってその祈りの成就を妨げるのである。

感謝合掌

906神の子さん:2012/07/02(月) 00:47:23 ID:???
■私は例えて【病人集団……】ではな〜〜〜く、【総裁先生側…健全なる団体!!】


今度は
【病人集団……】ですか(笑) もはや何も言葉になりません。お気の毒な洗脳された白鳩のサンプルさんに

・・・・・・・・・・合掌・・・・・・・・・・

907a hope:2012/07/02(月) 06:46:16 ID:kJvHf4/g

人生読本 谷口雅春先生著

顔は生来(うまれつき)よりも習慣


では、皆さん、人に対したときには不平そうな膨(ふく)れた表情(かおつき)をしないで、
深切な、愉快な相手を歓迎するような表情をいたしましょう。

しかし顔の様子というものは、習慣になっているものですから、
今、この人によく思われたいと思って愉快に深切に見せかけようとしましても、
一時は努めてわざとそういう表情ができるでしょうけれども、
すぐ習慣のついた顔付(かおつき)に変るものです。

ですから学校の先生は学校の先生みたいな顔付をしているし、
大工さんは大工さんの顔をしておられましょう。

いつも怒っている人はこわい顔になりますし、
いつも人に好い感じをもっている人は、また自分がよい感じの顔になりましょう。

ですから顔の表情(ようす)をよくするには一時の付焼刃では駄目です。
いつもいつも、深切な、やさしい、快活な、好意のある、
誰のためでも思い遣りのある心をもっていれば、そのような顔になるのです。

人相を観れば、その人の運命が判るということが言われますが、
それは顔にはその人の心が顕れているからなのです。

人相というものが、生まれつきで変らないものなら仕方がありませんが、
人相は変るもので、人相が変わるだけでその人の運命が変ってくるのです。

そして人相をよくするのも、常日頃の心の持方によるのです。
人間は運がよくなるのも、悪くなるのも、人相にあり、人相は心にあるのです。
(つづく)

908SAKURA:2012/07/02(月) 21:54:14 ID:V.pKl3yA
トキ様へ
観覧者の皆様 へ

こんばんは…  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。

今日は久しぶりに”ドト−ル“に昼食を…??ふと!目につく”隣人席“
若い男性(学生かしら〜〜ン?)は、一生懸命と“本…”を、読みながら?
そしてその“テ−ブル”には目覚まし時計も〜〜〜置いて〜〜〜??
しかも“何冊も〜〜〜束に!”机の上に“ドカ〜〜〜ン”と…
更に!向こう側の若い女性は?耳にイヤホ−ン!楽しそうな“リズム”が何となく
伝わり……此処から“リズムの霊派”が伝わり〜〜〜ルンルン〜〜〜♫
【若さと云うエネルギ−】は、自然に伝わるものです〜〜〜ネ!
「外的」に変えても「内面」を磨く事の方が〜?大切です〜〜〜ョネ!!!!
この原動力は【生長の家の聖典…で!!start ・ me ・ up !!】

■【幸福を招く365章】
――――ただ善事のみ教えよ――――
人が自分に対して行った過ちを数えあげるな。小さな過ちを廓大鏡で見て増大
するような事を避けよ。善事はどんな小さな事でもこれを廓大して見、そしてそれを
賞め語れ。さらば他の人々も諸君の過ちを見のがし、諸君の善事を看過さないであろう。
それが心の法則である。他人に辛くするときには自分も亦辛くせられ、他人に寛大である者は
自分も亦寛大に取扱われるのである。人が自分に対して冷酷だと思う者よ。
他を怨むまでに、自分が他に対して冷酷でなかったかを反省して見よ。
そして今まで批難していた人々を赦せよ。
                          (谷口雅春著)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆

■そうです〜〜〜ョネ!…ちょっとした“間違い“を犯した時とか?或いは、
“大きなミス”を?…この時はちょっと【精神的…】には、
その人の力量になりますのでしょうか〜〜〜???
私など“精神面”薄弱なので、つい!つい!口に出して言ってしまう事もあり〜〜〜><
これは【反省・認識】で〜〜〜す。

■今回!「名指しで投稿」しておりませんのに、
いろんな【ネガティブ感情…投稿】が、掲示されておりますが〜〜〜><
ちいさな事を、そこを中心に“反論文章(批判文章)”されましても…その人自身の自覚!!
【改善…】しない限りはと、思う次第なのですが〜〜〜??
今まで、かなり「現総裁雅宣先生」に対しての【中傷論を正当化!!】していながら、
いざ!!私が“遠回しに投稿文”を掲示致しますと〜〜〜〜〜
物凄い〜〜〜すご〜〜〜い『ブ−イング…』になってしまいますもの〜〜〜ネ!!

■この様に「本人が、逆の立場にての体験」しますと『ブ−イング』ですかと?
果たして【精神…】はと?考えてしまいます。つまり〜〜〜全く『ゼロ??』なのでしょうか?
自分の事はさて於きまして、相手に対して平気に“反論(批判)”を、述べられますから〜〜〜
このような人達には【善…意識】は、実際問題其の“定義”がどの様なものかと〜〜〜?
いつも思う次第ですが〜〜〜
やはり【心の法則】…もう一度私なりに『認識…そして意識集中』でしょうか??
それで!!今現在の私は【神様にお任せしている!!】次第です…。

■精神は“大海原”に、泳いでいます???ス〜〜〜イ!ス〜〜〜イ!
そして、“鳥のさえずり〜♫”を『意識…』しながらの『精 神 統 一』なのです!!

PS:
トキ様も、このような時は?〜〜〜【相手からのネガティブ感情…】を、持ってこられましたら、
常に!「寛大な心=精神」を、お持ちなのでしょうか〜〜〜??
今から、益々『心ひろげ〜〜〜♫〜〜〜』なのですが??

909ハマナス:2012/07/02(月) 22:48:54 ID:0kyCzJg6

神の子のみなさま
こんばんは。

繁栄をもたらす夜の思念  (『新版 生活の智慧365章』P.193より)

 「今日一日の仕事を神の智慧によって導きたまえ」毎朝捧げられるこの祈りは、其の日
の最初から自分のなすべき仕事を神にあずけて、自己解放を遂げるために適当な祈りである。
そしてその祈りにつづいて「神はわが内に宿り給うて、今日わが為すべき事を教えたまう
のである」とその祈り成就の黙念をするのである。そして仕事に出かけて、夜眠るとき又は、
夜の神想観の時に、「今日一日の仕事を神の智慧によって導き給いて、有りがとうござい
ます。今夜の眠りをやすらかに護りたまいて、明日また神の仕事をさせて頂く力を内に
恢復(かいふく)せしめ給え」と祈ってから眠るのである。

 この祈りを続けるとき、自分で力むことがなくなり、神から智慧と力とが流れ入る心の
パイプが開放される結果、事業も順調に行くようになるのである。

感謝合掌

910a hope:2012/07/03(火) 08:11:26 ID:kJvHf4/g

人生読本 谷口雅春先生著

私の母校の校医の話【前半】


私の出身中学は大阪の市岡中学(現在は府立市岡高校)でありますが、
私の在学中その中学に校医をしていた別所彰善(べっしょあきよし)というお医者さんがありました。

いつも青い元気のないしかめっ面をして、私などは、なぜあの人は、
お医者さんならば自分の病気ぐらい治らないのだろうと思っていました。

あとで聞きますと別所彰善さんは、大阪医学専門学校へ入学して生理衛生を学び始めた頃から、
食事に対して「こんなものはカロリーがない」とか、
「こんなものは不消化だ」とか人間の心で考えるようになってから胃が弱くなったということです。

これは食べ物に不足の心が起こってきたからです。
医学専門学校を卒業する頃になって肺炎になり、それは幸い治りましたが、
つづいて慢性気管支炎になり、そのほか病気の問屋のようになってしまって、
冬などは風邪の引きづめというような有様になり、風邪を引かぬようにと、
冷水摩擦をやってみましたが、風邪が治るどころか胸背筋(きょうはいきん)リューマチと行って、
胸の筋肉と背中の筋肉が痛むリュウマチに罹ってしまったのです。

医者だけにお手のものの凡(あら)ゆる薬を応用し、
あらゆる養生法をやってみるけれども健康はよくならないのです。

医学から見ると、「あれも病気には悪い」「これも病気には悪いと食物に不平を言っていると、
もう別所さんには食べるものが無くなりました。

一切の不消化物を食べぬようにし、沢庵一切れ――茄子漬一切れさえ摂らぬようにしていましたが、
三百六十五日一度してお腹の空いた事はない。

おまけに、あの食べ物も悪い、この食べ物も悪い、食べ物の好き嫌いをするので脚気に罹ってしまい、
便通がないと胸ぐるしくなるので、毎日毎日舎利塩(しゃりえん)という薬を服(の)んでいましたら、
とうとう神経衰弱に罹ってしまいました。

(後半につづく)

911SAKURA:2012/07/03(火) 22:31:11 ID:V.pKl3yA
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
こんばんは…  ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。

最近“時計”が止まって〜〜〜><“電池”切れ??【霊界通信…メッセ−ジ】
かしら〜〜〜ン?と思ってしまいます…。
きっと!まだ『時計…時間管理…時は金なり〜〜〜』でしょうか…???
まだ!まだ!【時間管理が〜〜〜><足りない】ようですから〜〜〜
上手に【時間管理】そうなのです!!【時は金なり〜〜〜】
当に!!幕開けで〜〜〜す。では!今から〜〜〜〜〜“スタ−ト”

■【幸福を招く365章】
―――――あなたの想念の力を練習なさい―――――

あなたが想念の力を覚えて、それを使用するに従って、あなたの想念の力は
段々強くなってきます。あなたの有するどんな力でも練習と努力とによって
大いに力を増すことができるのです。想念の力が如何なるものであるかについて、先ず手近かな
ところから実験して御覧になるが宜しい。それには、若し、家族が感冒を引いた場合などに、
静かにその枕頭に座して、合掌し(或はその前額部に掌を軽くつけて、
想念の有線伝導のような気持ちになるのも宜しい)そして次の如く念ずるのです。
「神よ、我を媒介として神の無限の癒すちからを、此○○氏に流し入らし給え」
こう祈ってから、○○氏の額に触れていない方の掌を高く天にかかげその掌から神の
癒やす力が流れ入り、それが自分の全身を触れている掌に伝わり、その掌から患者の
全身に神の癒やす力が流れ入り、○○氏の全身に神の癒やす力が光輝く状態で充ち満ち
ている有様を観ずるのです。(念じ方の詳しい事については別箸『神癒への道』参照)
                       (谷口雅春著)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆

■今日は、久しぶりに「イメ−ジ・トレ−ニング」を致しました。
最近!【神想観…】をしてますから……「ドクタ―モルツ博士のイメ−ジ・トレ−ニング」を、
久しぶりに致しますと、どうしても『集中が出来なくなり』まして〜〜〜><
更に!ジ〜〜〜ッ!とある一点に『集中』しました…。

■先ず“瞼”を閉じまして「映画館」に入って…観客席に!!座ります。
それから「映画の画像」を、映し出しまして、そして、主人公は“私”です…。
“私”が、画像から出て来ます…。そして、そこの登場人物として動いている“姿”に、
自分が入りこんで行きます…。更に!今日の「目的・実行…」を、実現に向けて『集中』しますと、
そこでは?私は「映画の主人公」みたいに“動”いている訳で〜〜〜す。

そのような“光景”が、ありありと浮かぶようになりますと、もう『舞台は実現』に向けて、
一直線なのでしょうかしら〜〜〜ン!何となく“気持ち”は、必ず!現実化として…
“心”が、動いている様です…。
これが「ドクタ―モルツ博士のイメ−ジ・トレ−ニング」なんですが〜〜〜♫
【神想観…】も、似た様に『集中』しますが〜〜〜><この『集中』が足りない時は、どうしても、
“手が重く”なりやすいので(私個人…ですが?)どうしても、手が下がってしまうのですが…><

■此処が大事なのでしょう〜〜〜ネ!『集中心』は、一点に絞る事なのでしょうか〜〜〜?
まだ!まだ!「念じ方」が、私も足りない様です〜〜〜が?
『集中』します時…ある意味で“川のせせらぎ〜♫〜”を、連想するとか?
あるいは“清涼感〜♫〜を描く”のも、良いのではと、思う次第ですが??
今日は「就寝前…」に、「雅春先生の言葉」を〜〜〜〜〜と思います。

■「神様、我を媒介して神の無限の癒やす力をSAKURAに流しいりたまえ〜〜〜」
「更に!無限の宝庫を導き給え〜〜」と念じてみます…。

                                 再合掌

PS:トキ様 へ
“心”が〜〜〜><どうしても『集中』出来ませんときは、【想念力…】多少は?
弱まります時があります…。(冷汗)
その様に、自分自身で観じます時は、どうしても“邪念”が、否応なしに入り込んで??ウフフ
トキ様は?その様な時は、どの様に対処されますかしら〜〜〜ン!!

912ハマナス:2012/07/03(火) 23:31:02 ID:0kyCzJg6

神の子のみなさま
こんばんは。

毎日必ず何かを貢献する  (『新版 生活の智慧365章』P.194)

 あなたが生きていると云うことは、神がそして此の世界が、そして人類が、あなたの貢献を
何事か希望している証拠である。随(したが)ってあなたの方から言えば、あなたが生きて
いる限りは、神に対して、そして此の世界に対して、人類に対して何かを貢献しなければなら
ないのである。

 あなたが何事かをするとき、この仕事は神のため、世界のため、人類のため、と思って、
「この仕事をさせて頂きます事を感謝致します」と念じてすれば疲れることも少なく、生き
甲斐が感じられ、精神も身体(からだ)も一層すこやかになるのである。実際、人間は実相
に於ては、神と一体であり、全人類と一体であり、その実相から無限の力が流れ入って来る
のであるけれども、力が不足するのは、その一体なる実相を自覚せず、自分だけで事を運ぼう
とするからである。

感謝合掌

913a hope:2012/07/04(水) 07:02:45 ID:kJvHf4/g

人生読本 谷口雅春先生著

私の母校の校医の話【後半】


神経衰弱は今の医学では完全に治る薬ではありません。
せめて浮世はなれて、景色のよいところで別荘暮らしでもして頭を使わずにいられたら、
神経衰弱も治ったかも知れませんが、別所さんにはそんな贅沢をするお金はありませんでした。

ところが、その頃どうしたのか別所さんの奥さんが、
ヒステリーになって良人たる別所さんに当たり散らすのです。
ヒステリーというと女の神経衰弱の昂じたので、
周囲の人にガミガミ言って誠(まこと)にうるさい病気です。

別所さんは、せめて「家内のこのヒステリーでも治ってくれたら自分のこの神経衰弱も治るだろうにな」
と思うのでありますが、奥さんのヒステリーを治す薬も、
神経衰弱を治す薬も、医学の方にはありませんので、
別所さんはますますイライラするばかりでありました。

別所さんは、自分の病気は周囲の人や物が悪いから治らないのだと思っていましたが、
そう考えている間じゅうは別所さんの病気はなおりませんでした。

(つづく)

914SAKURA:2012/07/04(水) 20:18:28 ID:V.pKl3yA
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ

こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。

レインシュ−ズ(長靴)を履いて〜〜〜ルンルン〜〜〜
“外”に飛び出したものの〜〜〜♫〜〜〜空模様を〜〜〜見まして!!
また!引き返し〜〜〜今度は“サンダル”に履き替えましたが〜〜〜??
何故か「天気が不安定」なのです〜〜〜ョネ!
マイファミリ−の【黒猫…SAKURA】に、“質問”致しますと〜〜〜お答【猫ちゃん】に??
聞きますと〜〜〜「どちらでもいいのです〜〜〜ニャ−オン!」ですって!!
一応は“雨が降る”と言いますから?でも!どう〜〜〜見ましても?上空の空模様は??
“雨天”になりそうに見えるのですが…夕方より“雨…”??になり出しそうですかと??
さすがに【黒猫…SAKURA 】ちゃんですが……この様に、
■この【真理】でも【迷いの真理】は、ダメです〜〜〜ネ!更に!【思い付き“宗教”??】も…
でしょうか??さて!今から【素晴らしい真理を〜〜☆〜〜start〜〜☆】

■【幸福を招く365章】
―――――肉体は心の影―――――

心を騒がせていては、その心の姿が現象としてあらわれてまいります。
騒ぐ心の姿は、生理作用の攘乱となってあらわれてまいります。はずかしければ顔が
赤くなり、腹が立てば筋肉や皮膚が収縮して硬くなり、心配すれば心臓が苦しくなり、
顔色が青くなり、呼吸がみだれたてまいります。悲しめば泪がでるでしょうし、
梅干しを見れば唾液が沢山出るでしょう。こう云う風に心に従って、
心の通りに現れて来ることを「心の影」と云うのであります。
肉体は「心の影」でありまして心を変えれば状態がかわります。
                                   (谷口雅春著)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆

■当に「他のボ−ド」での“事件が発生”なので〜〜〜す。〜〜〜【緊急事態】で〜〜〜す。
〜〜〜と【心が騒ぐ!!】ので〜〜〜す。

■とても?はなやかなモノではなく【ネガティブ感情】が〜〜〜どうしてでしょう???
…と!!相手の文章を拝読いたしますと??『科学的な事の文章…ブラックホ−ルetc』で…
そういいますと…この件は私が20代の頃、一時この事は、もてはやされていましたかしら〜〜〜ン!
まるで〜まるで〜【過去にタイムスリット…】その気分にて
【宇宙の理論】を当時聞きましたが〜〜〜??
まるで【宇宙の観測…20代の頃の想い】を、此処にて思い出した次第なのですが…??

さて!とても“気分”が悪くなり〜〜〜ましたの!!
まるで!まるで!「現総裁先生??」風?モドキ?にての【討論会…会話仲間】でしょうか?
ましてや「総裁先生」に扮していますから〜〜〜実に“モット〜〜気分”が悪くなりますが〜〜?
その方の【心…】は??と思いますが??いくら此処が【2チャンネル掲示板…】でしょうが〜〜
この様に?とどまり知らずに、行くのですかしら〜〜〜ン!〜〜〜!

■【肉 体 は 心 の 影 】ですから、
先ず!“冷静”に見てから、よくないい様を?対話方式を?見てみますと…
「似た者同士の討論」と思えば好いのでしょうか???【類 の 法 則】
それなりの感覚です〜〜〜ネ!〜〜〜どのような状態になっても、
先ず!!【神 想 観 に 集 中 す る】この事は、当然!!
【心…】が、大事に思えるようになり、どんな時でも…
【神様からのテレパシ−=暗示】を頂けますので、私の【心を切り替える…】
つまりは〜〜〜【神に心を振り向ける】と云う事でしょうか〜〜〜??
                             再合掌

PS;トキ様へ
“心”…本当にこの頃は?【心の影…】と云う実感が、湧いてきます…。
今日の「先生の言葉」当に、その通りでしょうか〜〜〜?気づかない処に、私達自身、
既にそれを、経験していますのに??
トキ様は?「今日の言葉」どの様に、受け止められましたでしょうか〜〜〜?

915元本部講師:2012/07/04(水) 21:03:39 ID:???
神想観の時間にトキさんに話しかけては迷惑ですよ。

たくさん聖典引用しても身についていないのは、神想観や観行が足らないからです。
こんな掲示板で書き込む暇があったらゆにはで練成奉仕しながら習得してください。信仰は永さではありません。

916トキ:2012/07/04(水) 21:51:09 ID:5TFkOsYY
>>914

 SAKURA様、ただいま神想観がおわりました。
遅れてすみませんでした。SAKURA様は、超少数意見ですから、頑張って下さい。

 前回も申し上げましたが、本部ではともかく、教区では総裁援護派はどんどん
減少しており、間もなく絶滅危惧種になります。保護が必要になる日も近いので
大切にしたいと思っております。(笑)

 心の影ですが、これは、自分を省みて向上するためには大事ですが、他人を裁いたり
評価する手段としては、難しいと思っています。まあ、私自身、反省の日々です。
 つくづく、まだまだだと感じますね。

合掌 ありがとうございます

917ハマナス:2012/07/05(木) 00:02:02 ID:Z7K9Z3Eg

神のみなさま
こんばんは。
7月4日はアメリカに独立記念日です。NYにある、ハドソン川では4万発の花火が
打ち上げられるそうです。良いお天気になってくれますように。

“ I am” の特権  (『新版 生活の智慧365章』P.195)

あなたは素晴らしい特権を持っているのである。それはあなたの内に「I am」(私は
…である)が宿っているからである。あなたは「私は……である」と念ずる処のもの
になるのである。「私は病気である」と念じたら、あなたは病気となる事も出来るし、
「私は神の子で健康である」と命じたら、健康になることもできるのである。

 あなたは此の特権を愚かなことを実現するためにつかってはならないのである。この
特権を利用して、「私は神と一体である」と常に念じて、「神と一体である」ところの
実相を日常生活に実現するようにしたいものである。神との一体感が深まれば、何を
為すにも恐怖感が無くなり、自信力が湧いて来、時と処と人とに応じて適当な智慧が
湧いて来て、失敗することがなくなるのである。

感謝合掌

918a hope:2012/07/05(木) 07:45:16 ID:kJvHf4/g

人生読本 谷口雅春先生著

医術無力


しかし、別所さんにも救いの手がまいりました。
或る日、別所さんが机に対(むか)って本を読んでいますと、
「医者よ、汝みずからを医(い)やせ」と書いてありました。

別所さんはびっくりしました。
自分は医者であるのに、自分の胃病も治し得ないし、自分の神経衰弱も治し得ない。

それだのに胃病の人には胃病の薬をやり、神経衰弱の人には神経衰弱の薬をやっている。
それは自分自身すら治し得ない薬を、この薬で治し得るというような顔をして売っているのだ。

何というインチキな自分であっただろうか。もう医者を辞めて田舎へでも引込もうか。
しかし腕力がないから百姓もできない。……ああ、どうしたら好いだろうか。

(つづく)

919SAKURA:2012/07/05(木) 22:24:04 ID:V.pKl3yA
トキ様 へ 
観覧者の皆様 へ
こんばんは…  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。

一昨日から“心霊科学”を投稿しだして〜〜〜“脳?”が〜〜〜ごちゃごちゃ〜〜><(冷汗)
なっていますから〜〜〜大変な状態でしょうかと??
でも!人間は【霊的存在】ですから〜〜〜【霊的人間…】と分かり、前以上に、物事の見方が
変わって行く様です…。
でも【霊的人間】にも必要な“要素”は〜〜〜なんでしょうかと?
「魂」を深く!深〜〜〜く掘り下げていきますと、「精神」も多少は?と思う次第なのですが…><
今から“スタ−ト”します。。。【宇宙の法則】につながりま〜〜〜すでしょうか〜〜〜
では!いつものように“開きます。”…【天の声〜〜】……聞こえて来る様です〜〜〜♫〜〜?

■【幸福を招く365章】
―――――先ず神の国を求めるとは?―――――

すべての生命力と智慧と愛とを退蔵することなく、それを百%今日使いつくすがよいのである。
翌日はもっと新しき生命力と智慧と愛がこんこんと湧き出てくるであろう。すべてのものの
豊かななる供給が神の意志であるから、水垢をためて置くように、何らかの停滞物で神からの
供給を遮断しない限りは、また次の日には一層新しき生命力と智慧と愛とが前よりも
ゆたかに流れ入ってくるのである。神を知ること、神の意志を知ること、神の意志を実践に移すこと、
神とつながる方法を知って、それを実行すること、神は無限であるから、神と正しく結ばれるならば、
無限が流れ入って来て吾らの力は決して尽きないのである。神は完全であるから神と正しく
むすばれるとき、すべての自分の身辺の出来事が必ず完全に運行するようになる。
これを知るのが「先ず神の国を求めること」になるのである。
                               (谷口雅春著)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆

■朝!早く「祈る…」その時?9時くらいに「祈る…」その時は〜〜〜
随分!その日一日の“出来事”が、違います〜〜〜ョネ!

でも?もうどうかしますと「仕事の関係上」…昼過ぎ?そうです〰〜〜ネ!
3時頃の「祈る…」時は、本当に“時間”通りの【価値=>実現!】しかかなわない様に思います?

■■ただ【朝 は 黄 金!】【昼 は 銀!】【夜 は 銅!】と〜〜〜先生がおっしゃって〜〜

■本当に“その通りの事”しかの?「願いの実現」なんですから〜〜〜つい!つい!
人には言われませんが〜〜〜><どんなに“徹夜”しても、「祈り…」はなるべく〜〜と思います。
が…“時間の使い方”で、きっと「祈り…」を“行”ずる事によりまして、
天からの“メッセ−ジ”を頂けます者と思います。

■【神の国】を求めるのは、私自身の“心”が豊かになる事でしょうか〜〜〜???
いつも【神の国】に、入っている“自覚”を持ち、いつも「神様」にアンテナを〜〜〜♫
私の“心”はいつも〜いつも〜【神と一体…】で〜〜す。
そうなのです〜〜〜ョネ!いつも“バラの花”を掲げていますョネ〜〜〜と“毎日!微笑む事”も、
大事でしょうか〜〜〜???

■今日やりかけた“事・物”は、【先延ばし〜〜〜】をせずに、今日で【解決〜〜】出来ますと……
しっかり【潜在意識】に、インプットして行きます。更に「祈り…」で、実現中です!!                                                                                                                                                                     

■■私の【心の世界】は〜〜〜私の【成功実現】に向けて〜〜〜
今日!私自身が作る事が〜〜〜明日に向けて、私の【成功への道】へと導いてくれる“モノ”では??
これが【神 の 国 に 入 る こ と 】でしょうか〜〜〜???

                                    再合掌

PS:トキ様は?「神の国に入る事!!」これは、本当に【狭き門】と痛感します…。
■【すべての生命力と智慧と愛とを退蔵することなく、それを百%今日使いつくすがよいのである。】
中々?難しい〜〜時もありますモノ?その時は?焦り?感じます事が、度々なのです。
トキ様は?いつも【百%…】体制なのでしょうか??

920ハマナス:2012/07/06(金) 00:02:40 ID:Z7K9Z3Eg

神の子のみなさま
こんばんは。

時期の熟するのを待つ  (『新版 生活の智慧365章』P.196より)

 急いではならない。急ぐ心は老衰をはやめ、血圧を高くし、死期を早めるばかりである。
物には時期の熟する機があるのである。物事が熟しないうちに捥(も)ぎ取ろうと思って
はならない。熟しないうちに捥ぎ取った果物は、酸っぱいか、苦いか、渋いかして、衛生
にもよくないのである。熟しないうちに物事を成就しようと思ったならば、屹度無理が
出来て自分か誰かが傷つくのである。

 十字路で「赤」の信号が出ているならば、「青」の信号が出るまで待っていることが
必要である。「赤」は停止の符標であるから、どんなに急いでいても停止符標が出ている
限りは停止していなければ却って危険を招くのである。時期の熟するのを待ちなさい。
今は停止符標が出ていてもやがては必ず、行進符標の「青」が出て来る時が来ます。
その時には機会を失わぬように行進なさい。

感謝合掌

921a hope:2012/07/06(金) 07:30:28 ID:kJvHf4/g

人生読本 谷口雅春先生著

凄い男の顔【前半】


別所さんはふと読んでいた書物から目を外(そら)して他を眺めますと、
そこに何という嫌な顔付きの男がいて自分の顔を見ていることでしょう。

眉と眉の間に凄い皺が堅(たて)によって、イライラとした眼からは火花のような鋭い光が、
別所さんを咎(とが)めるように睨みつけています。
額から顔一面にかけて暗黒の翳(かぶ)さったような陰気な、見るからに不快な気持ちの男なのです。

別所さんはこの男の顔をじっと睨みつけていました。
「お前だな、わしを呪っていたのは。お前だな、わしを不幸にしていたのは。」
別所さんはその男に「そこを去れ、お前のような男は嫌いだ!」と一喝(いっかつ)しようとしました。

別所さんは手を挙げました。その男も手を挙げました。
「何じゃ、お前は、わしの影法師か、わしの姿が鏡に映っていたのだな」、
別所さんは心のうちに呟いてジッと考え込みました。

「わしは、あの鏡の中に移っていた自分の姿に、『お前のような男は嫌いだ、去れ!』
と呶鳴(どな)りつけようとした。
今まで人が私に深切にしてくれないので、自分は人を恨み、人を呪い、
何故、よその人は自分に深切にしてくれないのか。
私はこれまで人と交わるには誠(まこと)を尽くして来たつもりだったのに、
誰も彼も自分を毛嫌いするようで不快で不快で堪えられなかった。
ところが、自分でも鏡に映った自分の姿に『お前のような男は嫌いだ』と言おうとしていた。
それは無理もない話だったのだ。どこが私の姿をこんなに人に嫌われるようにしたものか。」

別所さんは、もう一度鏡の中の自分の姿を眺めました。
「この自分の顔のどこから、こんな不快な感じが立ちのぼるのか。」

別所さんは眉と眉の間に深い竪溝(たてみぞ)がつくられていることに気がつきました。
眉と眉との間に皺をよせる癖を直してみよう。

別所さんは鏡に向かっていろいろ工夫しました。
習慣になっているので、ともすれば眉に皺がよります。
眉根をひろげて鉢巻きをしてみたり、両方のこめかみに絆創膏(ばんそうこう)
を貼ってみたりしていろいろ工夫されました。

(後半につづく)

922ハマナス:2012/07/06(金) 22:54:55 ID:Z7K9Z3Eg

神の子のみなさま
こんばんは。

文明文化のおける見せかけの幸福  (『新版 生活の智慧365章』P.197より)

 物質文明が発達して来るにつれて、人間は幸福になるかと思うと、だんだん人間は噪音
(
そうおん)になやまされることになった。飛行機が発達して速力は迅(はや)くなって
きたけれども、噪音は愈々はげしい。最早、防音設備のない部屋では、静かなる録音が
出来ないようになっている。

 では音速以上の飛行機にのってでも旅行したら、音を彼方へのこして置いて走るから
噪音は聞こえないかと云うと、音の壁を破る時の飛行のショックが大変なものであるし、
他の飛行機からの噪音も聞こえてくるし、自分の起こした噪音は目的地に達して若干時
の後に追いかけて来るから噪音を逃れる道はない。原水爆は論(い)うに及ばず、物質
文明は今や人間に幸福と見せかけて不幸を与えようとしつつある。若しこの文明を霊的に
導きによって調節することがなかったら人類は破滅に近づきつつあるのである。

感謝合掌

923SAKURA:2012/07/06(金) 23:13:59 ID:V.pKl3yA
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ

こんばんは… ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。

私も、此処で【聖典を投稿…】しましてから、正直!それなりの「精神状態」が、
変わって来ております…。
更に!前以上に【時間管理…】が、大事ですが〜〜〜!!
本日の「雅春先生の言葉」より、改めまして【精神統一は神想観が一番】と、
この思いが〜〜〜痛切に思う次第なのですが???
では「今日の言葉」は〜〜〜〜〜〜〜パラパラ〜♫〜♫〜ごまひらけ〜〜〜

■【幸福を招く365章】
―――――神は貴方に特殊の使命を与え給う―――――

神があなたを地上に遣わし給うたのは、この地上に於て、あなた自身でなければ
出来ない特殊の使命を遂行せしめんがためである。あなた自身が此の特殊の位置を
選んだのではないから、神が特に貴方を選ばれたのであるから、何も貴方自身は
心配することは要らないのである。あなたは他の人のする事で出来ぬ事があるかも
知れないが、またあなたには他の人の出来ぬことで、あなただけに出来る特殊の
使命能力があるのである。「吾に神宿れり、何をか恐れん」と唱えて何事にもでも
邁進せよ。                   
(谷口雅春著)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆

■【この世に生れて、私にしか“出来ない事”が、ある!!…】
…と、確信して“邁進中”なのですが〜〜〜
帰郷してからの“私”は、此の【邁進中…】が、ぼやけているのでしょうか???
つまり【目標…使命感の位置づけ】と申しましょうか???

■つまり【目標設定…】が、以前と比べますと〜〜〜“変化”しているのに気付きました。
若い時の様に、ひたすら〜がむしゃら〜その様な「精神状態」ではなく、
今日では【唯!神と一体】で、動いている私に気づき出した次第なのですが…?
どんな状況でも?“生かされている〜満たされている〜”でしょうかしら〜〜〜ン!

■悪い時は、何かの“伝言メッセ−ジ”とか思いんす。
神様からの「電話のベル〜♫〜」を、静かに見護っています〜〜〜。必ず!必ず!
私の「潜在意識…」に、届きまして「伝言メッセ−ジ」が入って来るのですもの???
今から、更に【 進 歩 続 行 中 】なのです。

■■今から、【私…SAKURAの使命物語り】が〜〜〜♫〜〜〜
始まる!此処で幕くが〜〜〜開け〜〜〜ごま〜〜〜ひらけ〜〜〜♫〜〜〜

                              再合掌

PS:トキ様へ
この世に、人間の「使命感…」人それぞれでしょうが〜〜〜><
此の事に“気づく人々”は、いかほどなのでしょうか?そして、“行”ずるまで…至る事は、
やはり【持続精神…意識集中】と思います…。この件は?如何でしょうかしら〜〜〜ン!更に!
此の「使命感…」失礼ですが?「トキ様」に於かれましては、どの様にお考えでしょうか??

924a hope:2012/07/07(土) 07:44:30 ID:kJvHf4/g

人生読本 谷口雅春先生著

凄い男の顔【後半】


毎日眉を伸ばして、心を愉快に愉快にするようになりましたら、
今まで別所さんに不深切であった人が深切にしてくれるようになりました。

人が自分に不親切だと思っていたが、本当は自分の顔の感じが悪かったのだとわかりました。
自分の顔の感じが悪いのは、いつも不平で暗い思いをしていたからだと判りました。

そして心を明るくして楽天的になるとともに、夜もよく眠れるようになり、
僅か二ヶ月もたたぬうちに神経衰弱が治ってしまいました。
やがて胃病も治る時が来ました。

……ただ眉と眉の間を伸ばすだけで医学で治らなかったこれだけの病気が治った。
むろん、人相もよくなったのです。

そこで考えられたのは眉を展(の)ばす健康法です。
別所さんはこの健康法でどれほど多くの人を救(たす)けたか知れません。

そしてこの健康法でお金を儲けて数十万の資金を造り、
今では精常会という財団法人になっているということです。

もちろん、やがて奥さんのヒステリーも治りましたし、眉を一つ展ばし、
気持ちのよい人間になるだけのことで、こんなに人間は健康にもなれば、運命も開けてくるものです。

皆さんは何よりも人から見て気持ちのよい人間にならねばなりません。

(つづく)

925ハマナス:2012/07/07(土) 22:48:44 ID:Z7K9Z3Eg

神の子のみなさま
ありがとうございます。

素晴らしいアイディア (『新版 生活の智慧365章』P.197)

 神が人間に導きを伝える方法には色々の方法ある。先ず「神格の内流」そして其の人
自身が恰も考えるが如く、そのままの状態でスラスラと善き言葉や、よき考えが思い
浮かんで来るのである。そこに何ら不自然な状態はないのに、その湧き出て来た言葉や
アイディアが、「人間たる自分では迚(とて)も考えられないような」高さと格調とを
そなえた妙想であるのに驚くのである。

 下腹から沫が込み上げて来るように声がこみ上げて来て奇想天外な事を話す場合がある。
これは明らかに憑霊(ひょうれい)であり、憑霊が喋るのであるから,二重人格にあらわ
れるのであって、これを天言通とも言う。その憑霊の高さ低さによって宇宙の大神の神意を
伝えるための高級霊の言葉であることもあれば、人間を弄(もてあそ)んで愚弄(ぐろう)
悦ぶ低級な動物霊であることもある。こう云う霊示は常識で判断して審神(さにわ)しなけ
ればならない。

感謝合掌

926SAKURA:2012/07/08(日) 01:16:58 ID:V.pKl3yA
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。

今日は【七夕〜☆〜】です…。
私も「心の短冊」を織り込みました…。ウフフ〜〜〜〜〜
今年の「願い事??」は〜〜〜〜何でしょうか??唯今!独身の私、子供のいない大人だけの生活
でも、この“日本の年間行事”〜〜【七夕〜☆〜】何となく〜〜“涼”を呼ぶアクセサリ−として
【七夕かざり〜〜】を……『 心 の 七 夕 』で〜〜〜す。
瞼を閉じて……如何にも夏らしさが……“風情豊かな〜〜行事”ですもの〰〜〜ネ!
では!もう一つの【 七 夕 】は〜〜〜“聖典”での願いを〜〜〜“短冊”に〜〜〜☆〜〜〜

■【幸福を招く365章】
―――――人間の本質は健康である―――――

神の子は、その本質に於て神と同質であり、神の美と健康と一切の宜しさとを
表現せるものであるのである。神の自己表現であるところの自分が不完全であったり、
不健康であったりする筈はないのである。神の完全さはその無限の力をもって、
視えざる世界から絶えず間断なく見える世界へと表現すべく押し迫って来ているので
あるから人間がその力にまかせ切ると不健全などになりようはないのである。
若し神の完全さが人間にあらわれないならば、それは、神に委せ切らず、神の生命
の流れ入るのに素直にならず、我の働きが神の波長に合わなかった結果にほかならない
のであります。我によって「癒(なお)ろう、癒ろう」と力むことは却って神の
癒やす力の流通路を妨げることになるのである。自分を捨てよ「ままよと云う心に
ならねばお陰は得られぬ」と金光教祖もいっている。 
        (谷口雅春著)
                          
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆

■私も、10年前に大変な“病気…”になりました。その時!「早期発見…」で見つかり、
その時は、物凄〜〜〜く?落ち込み〜〜〜?当に!お先“真っ暗になり”><【暗黒世界突入】
しかも“千葉の行徳(自宅)”に、移り住みましてからの出来事で、丁度“一か月後”の病気でした。

                 <つづく>             NO.1

927SAKURA:2012/07/08(日) 01:18:42 ID:V.pKl3yA
                 <つづく>             NO.2         ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。それでは、
>>926投稿の続きです

■その頃…私は【 信 仰 〜〜〜 真理を求め 〜〜〜 心の旅に 〜〜〜 】

当時!私は【法の華…】に出入りを、何カ月間の間ですが〜〜〜?
朝起きますと“大きなな声”で歌う〜♫〜【般若心経…】をしていましたが〜〜〜
そこに【信仰の出入りをする】までは、きちんと【先祖供養…】をしていましたが〜〜〜><

更に!あるお客様と知り合い、その方の紹介で【創価学会…】に入会しましたが?
お客様が「あれを捨てるよう〜〜に!これを捨てるよう〜〜に!」と、
今まで持っていました【神棚】持って帰られてしまい…振り返りますと…この“出来事”の、
その後に起きたのが“早期発見…病気!”でした。
私は、それで【原因は、父に対しての“先祖供養”が〜〜〜】その様に、考えまして…
それからは、当時は分からずじまいにて“号に従って…学会のお経”を、
皆様も御存じの【法華経…】を、毎朝!!何と“6時から祈り〜〜〜♫〜〜〜日中は、もちろんですが?
毎日の行事「朝晩は祈り…」当時の「創価学会の方の…祈り」は、すごい〜〜〜ですネ!

■それから「創価学会」は、【先祖供養…】に関しまして“重視”していない様に解釈致しましたが…
…私なりに【先祖供養…】しまして〜〜〜
更に【お彼岸・お盆・】必ず!参加して、そこの「会員の方々に必ずしないといけない!!」と、
反対に…【先祖供養…大切さを口酸っぱく…!】言いながら〜〜〜
何年か前でしょうか、当時“私の耳…”が、全く聞こえない状態に陥りまして…
そうなのです〜〜〜ョネ!【補聴器…】を、使用しても“音”そのものが入らずに〜〜〜
ズ〜〜〜ッと欠かさずに【祈り…】に徹していました。
そうこうしています内に【直感にて“神の声”でしょう〜〜補聴器を付けてみなさい!!】
帰宅後、直ぐ【補聴器…】を出して、聞きますと?“音…”が入ります…。かすかな“音…”
それでも…1時間しますと?“音…”が流れてしまうので、聞こえない状態が〜〜〜><
その繰り返し〜〜繰り返し〜〜の日々でしたが…
少しの【お願い…】でしたが、「学会の祈り…」で少しは“成就…”でしたが〜〜〜><
その後【調布…】に移り住み、近くの【本部練成道場の飛田給…】に、
なるべく「早朝行事…」参加をさせて頂きながら〜〜♫〜〜
ある日の“出来事”…【一日中…“補聴器”で聞こえる】状態になり、此処まで回復!!
それからは、もう〜〜〜私は【生長の家…祈り】が〜〜〜

■【創価学会の祈り…】は確かに、それなりに“功徳”があるのでしょうが〜〜〜!
【祈り方…は“神に委ねる”のではなく、「仏様…」を、遠くに置いて?眺めている様な感じです…。
【宇宙…】まで、【祈り〜〜届け〜〜】と云った感じでしょうか〜〜〜???
これが「生長の家」は、【内なる神に〜〜〜】と、此処が違うのです〜〜〜ョネ!私も、もっと!
「神様に甘えて見よう〜〜〜」その様に思います。

■■【ままよと云う心にならねばお陰は得られぬ…】神様は、遠くではなく、近くにいる
【 私 の 心 = 潜 在 意 識 】なのです〜〜〜ョネ!【 祈 り = 心 】ですネ!
                                 再合掌

トキ様へ:「神に委ねる…!」この事を100%出来るという事は?難し〜〜〜イ!時が〜〜><
どうしても【自我…】に捉われていますと〜〜〜?この事は?どの様に思われますでしょうか?

928a hope:2012/07/08(日) 09:39:06 ID:kJvHf4/g

人生読本 谷口雅春先生著

第十三章 詩の朗読による将来の運命の生かし方①


昭和のはじめの頃のことです。
東京駅頭(とう)にあった美松(みまつ)というデパートが閉められてその後に、
美松食堂別名「味の美松」といって有名な百貨店全体が食堂になっている店が開かれたことがあります。

あそこの開店最初の支配人に雇われた人に徳山さん(仮名)といわれる人があったのであります。
この徳山さんという人は、生長の家の京都支部をしておられます石川貞子(ていこ)さんの
旧(ふる)くからの馴染みの友達であるのです。

ところが、この徳山さんは同志社出身の方でありまして、今までいろいろな仕事をしてこられた。
或る時には商館の番頭をしてみたり、或る時は落ちぶれて関東煮屋になったり、
或る時は植木屋になったり、色々さまざまな艱苦(かんく)を嘗(な)めてこられた人で、
ほとんど世の中のことは何でも知らぬことはない。

そのくらい何でもできる人であるのに、出世ができないで赤貧(せきひん)洗うがように苦しい生活を送っておられたのです。
そうして奥さんになっておられた方は肺結核になって血を喀(は)いておられたのです。

ところが或る日のこと、その奥さんの所へ生長の家のパンフレットが行ったのです。
その奥さんが生長の家のパンフレットを読んでごらんになると、病本来無しということが悟られて、
今まで血を喀いておられたのが元気を取戻してだんだん健康になって来られたのです。

その時に良人の方の徳山さんも、誰からか生長の家のパンフレットを貰ったのだそうです。
それを読んでみると、これは素晴しい。読むに従って心が引立ってくる。
貧乏に押しつめられて暗い思いで悲観しておられたのが、「大いにやるぞ!」というような勇気が湧いてくるのでした。

読み物ぐらい大切なものはない、読み物の種類によって、悲しくなって死にたくなったり、
嬉しくなって、大いにやるぞ!という勇気が湧いて来たりするのです。

今まで悲観しておられた徳山さんは嬉しくて耐(たま)らない。
そこで「お前これ読んでごらん」と言って奥さんに見せられたのです。

すると、奥さんが、「これなら私も人から貰いまして読みましたら、私はこんなに病気がよくなりました」という話なのです。

(②につづく)

929ハマナス:2012/07/08(日) 23:51:16 ID:Z7K9Z3Eg

神の子のみなさま
こんばんは。

災いをまぬかれる神示  (『新版 生活の智慧365章』P.198より)

 神事は必ずしも「言語」と云う方法によってのみ伝えられるものではなく、自然に或る行為を
止めたり、しなければならないように、事件が進展して来て、自分の行動が支配されると云う
こともある。

 たとえば、いつも朝寝したことのない人が、その日に限って朝寝をしてしまって、いつも利用
していた省線電車の時間に間に合わないので、やむを得ず他の乗物を利用して出勤したら、あの
乗り遅れた省線電車は衝突して出火し、乗客の殆んど全部が死傷したと云う事件や、その日、木星
号飛行機に乗って大阪へ行く筈になっていたのに、ある事情の突発で木星号にのれなくなって、
飛行機の座席券が無駄になったが、あとから考えて見ると、木星号に乗れないのが幸いだったと
いう話もある。木星号は運転をあやまって三原山に激突して粉砕し、乗客全員は死亡してしまった。
この朝寝や突発の事情が神示である。

感謝合掌

930a hope:2012/07/09(月) 07:10:49 ID:kJvHf4/g
人生読本 谷口雅春先生著

第十三章 詩の朗読による将来の運命の生かし方②


ところがこの生長の家のパンフレットというのは、
革表紙の『生命の實相』の約二十分の一ほどを分けて一冊のパンフレットにしたものでしたから、
原本の部厚(ぶあつ)い本が欲しくて仕方がないというので一所懸命お金の苦面(くめん)をして、
やっと革表紙の『生命の實相』をお買いになったのであります。

すると革表紙の『生命の實相』の終りのところに「生長の家の歌」といって、
力強い美しい言葉で書き綴った詩をあつめた所があります。

徳山さんは同志社におられた頃から詩の朗詠(ろうえい)が大変好きでありましたが、
毎朝、生長の家の歌の中の「生きた生命」という詩と、
「夢を描け」という詩を読むことが好きで好きで仕方なくなったのです。

読むと力が出てくるのです。

「生きた生命」の方の詩の一部を皆様に御紹介いたしましょう。
皆様もこれをお読みになると勃念(ぼつねん)と勇気が湧いてきて、
明るい人はいよいよ明るく、失意に沈む人も、再びこの世に希望が湧いてくるでしょう。


生きた生命

名乗れ、境遇に屈従(くつじゅう)する卑怯者は誰だ。
誰がわが生命を食べ物でこねあげた塊(かたまり)だと思っているのだ。
生命は蝋(ろう)細工ではないぞ。
石膏(せっこう)細工でもないんだぞ。
おれは旋風(せんぷう)だ。
渦巻(うずまき)だ。
おれは環境を
徐々にわが望みのままに
飴のように
捻(ね)じまげる
俺は宇宙を造った大いなる力と一つの者だ。
おれは空中電気を雷(かみなり)に変じ、
太陽の光を七色の虹に変じ、
真黒な土から燃えるような赤い花を咲かし、
火山を爆発さし、
あの不思議な星雲(せいうん)から、
太陽系を生んだところの大いなる力と一つの者だ。
環境が何だ、
運命が何だ、
おれはおれの好きな時が来れば
鰻(うなぎ)が石垣(いしがき)の間から抜け出すように、
どんなに苦(にが)い運命からでも脱(ぬ)け出すのだ。
…………

(③につづく)

931SAKURA:2012/07/09(月) 21:53:23 ID:V.pKl3yA
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
こんばんは…  ローマ字の【SAKURA】で〜〜〜す。

「催眠術…」にかかると…どうなりますか?……いい意味での「催眠術…」は??
それは〜〜〜【幸福切符】です〜〜〜ョネ!しかも【往復…】ですから〜〜^^
しかし「ネガティブな催眠術」は??
当然の事でしょうが〜〜〜【片道切符】ですかしら〜〜〜ン!「催眠術…」も、
中途ではダメです〜〜〜ョネ!…全て【ボディティブな心境で「催眠術…」】でしょうか〜〜〜?
まるで【奥様は魔女???】口を左右に動かしまして、まるで「天使のミカエル」でしょうか?
天使でも「霊媒」にて……のお話が、ありました…。
後に〜〜〜では【幸福の切符】を、手に入れる“近道”は?〜〜〜今から“本”を開きます。
では【幸福を招く365章…】………に乗りましょうか〜〜〜??銀河の彼方へ

■【幸福を招く365章】
――――あなたの意識を高く昇らせよ―――――

あなたの意識を愈々高く昇らせよ。釈迦牟尼世尊の高さまで昇らせよ。
みずから神の子と称したイエス・キリストの高さまで昇らせよ。其処にあなたの内に、
「神」を「仏性(ほとけ)」を見出すであろう。あなたが仮令、如何に病気に
悩まされているかの如く見えようとも、如何に貧苦のどん底にあるが如く見えようとも、
それはただ円月にかかっている雲の形のようなものである。雲の形が如何に暗澹として
見えようとも、円月それ自身は未だ曇ったことがないのである。その如く、如何に
あなたの外見が暗澹として見えようとも、あなたの実の相(すがた)は円満完全であって
病気でも貧乏でもないのである。神があなたのうちにあるのだ。尽十方に満ちわたる
無礙光の資源の出口があなたの内にあるのだ。これを悟れ。
                           (谷口雅春著)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆

■今!本を開きますと、出て来ましたところは??「亡き母」が、赤の“ボ−ダ−ライン”を、
ぎっしり引いていました…。
きっと!「白鳩の勉強会…」に、当時参加したのでしょうか〜〜〜??

■さて!どんな状態になりましょうとも「現象=現実」として現われても?
それは、丁度!雲がかかっている“お月様”を見ても〜〜〜
“お月様”が…“おぼろ月”で??見えてしまい、本当の“姿”は、“お月様”はきれいな月なのに、
“おぼろ月”で、現われている!此の“現象=現実世界”に〜〜〜><

■これが、私達の“掴んだ心”なんでしょうか〜〜〜? 是と同じように、
今!“経済〜〜〜が”破綻“してもオカシクないのに〜〜〜
そうなのですョ〜〜〜ネ!周囲の人は?いつものように“買い物”…?購買力ありますモノ??
現状は“経済が成り立っている事”……

■さて〜〜〜現在!【信者が減少している〜〜〜】とか??此の“投稿メッセ−ジ”にて!!
これも“おぼろ月”で、例えたら〜〜〜「新しい信者…」が増える事だけの事?なのでしょうか??
何も変わってないのに、唯一つの事に“焦点”を置き過ぎているだけでは???と思います。
どんな状況でも「現象=現実」で、物事を見るのではなく〜〜〜
私達の【心で実相】を、みつめる!【心…】そうです〜〜ネ!既に【此処に或る心】でしょうか?
【無礙光の資源の出口が、あなたの内にあるのだ。これを悟れ。】これなのです〜〜〜ョネ!!
今は神様に委ねて、前に“心”が向かっています!!
母が……本当に「亡き母」も、大変な時期を乗り越えて、頑張った“姿”が浮かびました。
私も【 実 相 = 心 の 展 開 】で…フル“回転中”で〜〜〜す!!
                                     再合掌

PS:
本日の言葉…“お月さま”に例えて頂きましての「雅春先生」の御指導…!
分かりやすく…私の心に響きましたが…

トキ様は??本日の言葉?どの様に思われましたでしょうか……??
“アドバイス”頂きますと、幸いに思います…。

932ハマナス:2012/07/09(月) 23:38:56 ID:Z7K9Z3Eg

神の子のみなさま
こんばんは。

夢による視覚的霊示  (『新版 生活の智慧365章』P.199より)

 時として夢などで未来のことを見せられることがある。それは概ね霊示が多いのである。
旧約聖書の最後に収録されてあるダニエル書のある預言の如きは、ダニエルにあらわれたる
夢による霊示であって、しかもその預言は歴史に照らし合わしてみるとき、悉く完全に実現
していると謂われている。

 祈りや精神統一の行事の時にあらわれる視覚的な霊示もある。「黙示録」に記されている
ヨハネの見た異象(まぼろし)の如きはそれであって多くは象徴的な図形をもってあらわれて
来るが、何を象徴した図形であるのか、その解釈は人間知の及ばないところであって、それが
歴史的順序を持ってあらわれて来たときに、成る程、この異象(まぼろし)にあらわれた図形は、
この事件の象徴として預言されていたものであって、既に霊界にはこの事件の原型が存在して
いたものだと云うことが頷(うなず)けるのである。

感謝合掌

933a hope:2012/07/10(火) 07:08:59 ID:kJvHf4/g
人生読本 谷口雅春先生著

第十三章 詩の朗読による将来の運命の生かし方③


毎日、朗々とした徳山さんのこうした詩の朗読の声が、
朝の澄み切った空気を震わせて響いてきますと、徳山さん自身の魂は振い起つのでした。

「必ず良い運命が来るぞ。『生命の實相』の本の中には、
心に描いて心を明るくして待つものは必ず実現すると書いてあった。」
こう徳山さんは勇み立たずにはいられませんでした。

ところが、徳山さんが心の中に「必ず良いことが来るぞ」と描いていた種は、
とうとう芽を吹き生長する時が来ました。

或る朝、例の通り徳山さんは詩の朗読を終って、貧しい生活のうちにも心だけは勇んで、
奥様も次第に健康になってくるのを喜びながら、フト新聞を開いて御覧になると、
「英語、及(および)独逸(どいつ)語に達者であって、料理店の経営に興味があり、
広告文の上手な人が要る」という、なかなか難しい注文の広告が載っておったのであります。

徳山さんは、これは自分に打ってつけの注文の広告だと思って、
広告の出し主のところへ行ってみると、それは或る口入屋(くちいれや)
【職業をあっせんした業者】から広告をしていたのであります。

その口入屋の主人がいうのに、「もう三十人ばかり、履歴書を持って来た人があって、
今、人数を締切って雇主の方へ連れて行ったからもう駄目です」と言うのです。

しかし徳山さんはそんなことで黙って引きさがるような人でなかった。
と言うのは、徳山さんは『生命の實相』を読んで、「押しの力」の生き方に徹底していられたからです。

生長の家の生き方の中に「思いきりよく、押し強く、勇敢に断行せよ」という一カ条があります。
ちょっとぐらい邪魔者があったからとて退却するようでは何事も成功はできないのであります。
そんな障礙(しょうがい)にも屈せずに勇敢にどこどこまでも進んで行く。
暗いことを考えたり、取越(とりこし)苦労をしたり、心の中でモジャモジャ思いながら引込思案(ひっこみじあん)のようなことはしてはならないのです。

(④につづく)

934ハマナス:2012/07/10(火) 23:50:00 ID:Z7K9Z3Eg

神の子のみなさま
こんばんは。

予言よりも常識と良心で  (『新版 生活の智慧365章』P.200より)

 予言はそれによって巨利を得るためのものでも、危険をまぬがれるためのものでもないのである。
若し「汝は地震によって圧死する」と云う予言が出たとして、どんな地震にも耐えられる鉄筋コン
クリートの大いなる箱をつくって其の中に生活して圧死をまぬがれたとしたならば、「圧死する」
と云う予言は実現しなかったと云うことになる。すなわち、予言によって予言された事項から免れる
ことができるならば、その予言はあたらない予言だと云う「矛盾したもの」になるのである。だから
予言を当てにして、吉凶禍福の判断によって自己の行動を定めようなどとは考えずに、常識と良心と
によって行動することが、人間として最も健全な生活であると云うことである。

 誰でも何が善であるか、何が悪であるかは常識と良心とでわかるのである。他を侵してはならない。
殺生してはならない。真剣に愛を行じなければならない……等々。

感謝合掌

935SAKURA:2012/07/11(水) 01:03:38 ID:V.pKl3yA
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
こんばんは…  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。

ア〜〜〜ッ!今日は遅くなりましたが……やっと!パソコンを開いて……今から
「奇蹟の本」を、開きます……。必ず!「幸福になれる本」です〜〜〜と!
今日は、思ってしまいました。
では!【幸福を引き寄せる…近道】です。その“法則”は?勿論……今から“スタ−ト!!”

■【幸福を招く365章】
―――――人間そのものと不幸とを分離せよ―――――

不幸や病気があらわれてきたときに、何よりも大切なことは、その不幸や病気と、
人間そのもの(自分又は治療してあげる相手の人)とを分離して考えることである。
―――丁度、月と雲とを分離して考えて、「月に決して雲っていないのだ。曇って
いるのは『雲』自身だ」と考えるようにである。そして人間そのものの完全さを
じっと心に見詰めて、病気や不幸の方へは心を向けないで、「私は(又は彼)は現に
幸福だ、私は現に健康だ」と念ずるようにすることである。
そしてその念ずる言葉は、自分から放ったが最後、法則によってまっしぐらに現象の
世界へ向けて、あらわれて行きつつあると信ずるが好いのである。病気や不幸は
造った人間の問題ではない。それは自分の想念の映画に過ぎない。
                         (谷口雅春著)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆

■「想念の感情」は、全て“心で解析”できる!!此処まで「専門家」は言っておりますが〜〜?
全てに及んダネガティブな気持ちを、ポジティブな明るい気持ちに、振り向ける事です〜〜ョネ?

■病気になった時は、軽い病気なら?
人に甘える事も、出来るぐらいの“気持ちの余裕”が或るのでしょうが……??
ましては?重い病の場合は、“ネガティブな気持ち”に、“心”が向けやすくなりますが〜〜〜><
これも“ボディティブな気持ち”に、“心”を切り替えますと必ず!“病気”も何処かに〜〜〜
飛んで行く〜〜〜♫〜〜〜のでは??と思える様に思いますが?

■これが『経済面…商業』になりますと?中々【現象=現実…】で、物事が簡単には、捉えにくく?
気が付きますと〜〜〜雲が曇ってないのに、曇っていると『断定…』してしまいがちになります。
此処が、実に大事な〜〜“ポイント”です〜〜〜ョネ!
「私は健康だ〜〜!!私は商売繁盛だ〜〜!!…益々!これから好くなる!既に好くなる…!」と、
念じますが……><仮に?“集中”が出来ない時は、
【イメ−ジ=神想観】で〜〜〜「神様」に、委ねる時間を作る方がいいのではと思いますし?
更に【イメ−ジ…】と、同じように、“心の映画館”に入り、既に治った“姿”を【イメ−ジ!】
更に!成功した“姿”を、【イメ−ジ…】

■これは「潜在意識!」に深く〜深く〜入って行く事は?【人間は霊的人間…】ですから、
もう〜〜〜!既に【成就している…】のです〜〜〜ョネ!
【イメ−ジ】でも【霊の世界】に、入っていく様なものですから、「ボディティブな感情」で挑めば、
【全て願いは叶う…!】もちろん“病気”も本来無いモノですから〜〜“消える”訳です〜〜〜ョネ!当に【心 の 法 則】でしょう〜〜〜か??
“心”を常に光明面に〜〜〜抱きます事は【明るい物を引き寄せる…】
つまりは!!!【全 て 叶 う 事】のように思いましたが……(微笑)・・・

■■今日から〜〜〜もっと!もっと!スマイル!!「雲のじゅうたん」は、私の“心”には、
かかっていません〜〜〜ですモノ!!
【いつも〜〜〜私の心は〜〜〜♫〜〜〜“SKY〜〜〜 BLUE〜〜〜〜♫】

                              再合掌

PS;トキ様へ
今日は?こちらの天気は…「ほぼ??晴天」でしたかしら〜〜ン!
■時には???【天気に左右される〜〜〜でしょうか???】
「ポジティブな念=感情」は、法則によりましてそれなりの「光明なる結果」が〜〜〜
此の現象世界に現われますモノ〜〜〜ネ!
今!自分の環境が?状況が?「ネガティブ感情」…に陥りやすい時!この時こそ……
「神様」からの“メッセ−ジ”を、頂きまして「もっと!もっと!良くなるので〜〜〜ワ!」
この様に思えるように、ようやく〜〜〜の思いにて“心のスイッチ”切り替えられるように、
なりましたがz〜〜〜ウフフ!トキ様は?如何でしょうか〜〜〜?

936a hope:2012/07/11(水) 07:34:28 ID:kJvHf4/g
人生読本 谷口雅春先生著

第十三章 詩の朗読による将来の運命の生かし方④


そこで徳山さんは口入屋(くちいれや)さんが、
「もう締切ってしまったから、駄目だ」と言ったけれども、中々黙って引込んではいないで、
「一体その広告を出した店は何という店ですか」と、どこ迄も押し強く訊いて止まないのです。

そこで、口入屋は仕方なく、「道頓堀の赤玉という一番大きなカフェ―ですよ」と申しました。
徳山さんは得たり賢しと、「道頓堀の赤玉の主人なら僕は知っている。
『文芸春秋』という雑誌に『立志伝中(りっしでんちゅう)の人物である』と褒めておったことがある。
あの男なら、一遍会ってくれたら私を雇ってくれるに違いないから、ぜひ伴(つ)れて往ってくれ」と、
どこどこまでも押しつよく頼みました。

そうして到頭(とうとう)、口入屋を言いまかせて、広告主の東京の店へ連れて行って貰いました。
もう前に連れて行った三十人はみんな同じ部屋に入れられて、何か試験問題の答案を書いているのです。

徳山さんは後から行ったお陰で、別に静かな一つの部屋に入れられて試験問題が出たのです。
前の三十人は、何だかジャズの蓄音機のかかっているガヤガヤした部屋に入れられて答案を書いているから気が散って旨く書けない。
徳山さんは後から行ったお陰で、ジャズも何も聞こえない非常に静かな部屋で思う存分答案を書くことができました。

そしてその成績が素晴らしいので、いっぺんに「味の美松」の支配人に上げられたのです。
「必ず自分には良いことが来るぞ!」と常に自分の心の中に徳山さんは言って聞かせておりましたから、
それがとうとう実現(ほんとうにあらわれた)れたのです。

心に言って聞かせて信じつづけて待っている者は、必ず、それが出て来るのです。
心がすべての造り主であるからです。

(⑤につづく)

937「訊け」管理人:2012/07/11(水) 08:48:04 ID:???
<コメント>

 明日7月12日は、敬愛する榎本恵吾先生ご命日であります。以下謹んで転写させて頂きます。ご文章は「体験談」であります。榎本先生のご指導ぶりがよく、うかがえると思います。


<謹写文 掲載開始>


合掌 ありがとうございます。

 学生の頃、何人かの友人たちと、その頃東京の郊外に住まわれていた榎本先生のお宅に押し掛けて、教えのお話をお聴きしたり、一緒に歌を歌ったりしました。奥様も素晴らしい方で、よくおのろけを聴かされたものでした。宇治に行かれてからはお会いする事もなくなりましたが、書かれているものを読んだり、人から話を聴いたりして懐かしんでおりました。

 最近、榎本先生の素晴らしいご指導を知りました。それは、何度も手術を受けている重い病気の子供があり、その父親が、「こんなに聖経を読み、神想観しているのに、まだよくならないのは、やはり私の業が深いのかと思ったり、娘に神の子の自覚がまだ薄いのかと思ったりして落ち着かず、自分を責めたり、娘を恨めしく思ったりしてしまう。どうしたらいいか」と質問された。すると榎本先生は、

 「娘さんは神の子であり、観世音菩薩ですよ。観世音菩薩というのは、素晴らしい神様ですよ。そんな素晴らしい神様が、自分を――何とかしてその実相が現れますようにと拝む。そんな思いで――拝んでくれなければ現れないということはあり得ないんです。私は別にあなたに拝んで貰わなくともちっとも困りませんよ。自分で現れる力は十分にありますよと、別に喜ばないんですよ。あなたはただ、素晴らしい神様として、娘さんを拝んでいればいいんですよ。娘さんは『私を拝んでほしい』と言っているんです。ただ『素晴らしい神様、有難うございます』と、拝めばいいだけです」

 と指導されたら、それからグングンよくなったそうです。

 榎本先生はまた別のお母さんが、泣きながら電話して来られて、「医者が、あなたの息子は白血病でもう危ないと言われた。どうしたらいいか」と、泣いている。それに対して、

「あなたは今、息子を愛しているが故に泣いている。その愛は尊い。その愛は神様の愛なんです。だから息子さんをただ神様として拝んであげて下さい。それだけでいいんですよ。病気だとかなんだとかではない。ただ神様が神様を拝めばいいんですよ」

 と、このような事を指導された。そしたら後日、「有難うございました。おっしゃった通りにひたすら息子を神様として拝み、自分も神様であるとして拝んでいたら、すっかりよくなりました」と、喜びの電話があったそうです。

 榎本先生は、教えの最後のぎりぎりの所をずっと守り通して来られた先生であったと思います。尤も岳父であられた藤原先生が、「いつもいつもこの心境でいる事は難しい」と笑っていられたとおっしゃり、自由自在に神の子として現世の生活を楽しまれた自由人であられたと思います。 

再拝

<了>

938SAKURA:2012/07/11(水) 18:56:43 ID:V.pKl3yA
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
こんばんは…  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。

毎日〜〜「日々の感謝!」をする事で、更に!毎日聖典に“ライティング”します事は?
それだけでも、リズムが出来て来ます〜〜〜ネ!ですから「不思議な現象」かしら〜〜〜ン!
今日も又「テキスト…」を、片手に勉強会です。【神との一体】に〜〜〜では、開きま〜〜す!!
今日の“言葉”を〜〜ヒラ〜〜ヒラ〜〜ヒラ〜〜と〜〜♫〜〜♫

■【幸福を招く365章】
―――――「迷い」はどうしたら消えるか―――――
心の「迷い」を無くするには、「迷い」を捉えて破壊しようと力む事は要らないのである。
それは却って自分の心が「迷い」を掴むことになって益々大いに「迷う」ばかりである。
「迷い」を無くする唯一の道は、心を「迷い」から一転せしめて、「人間」の本来完全
なる相(すがた)を見詰めるようにすれば好いのである。自分の病気を癒すには、
自分の病気を見詰めないで、自分の実相の完全さを見詰めれば好いのであるし、他の
病気を治すには、彼の病気を治そうとか、病気をどうしようとか思わないで、ただ
彼の完全さを見詰めれば好いのである。全世界の人々が、ただ他の善のみを見詰める
ことにすれば忽ち平和はくるのである。

自分が祈る力や、自分の思念力によって不幸や病気を退散せしめようなどと思っては
ならないのである。われわれが善き言葉で祈り、善き想いを想念したならば、あとは
神が成就したまうのであると知らなければならないのである。それは種を蒔くのと同じ
ことである。善き言葉又は善き想念を述べることは、大宇宙の創価力の沃地に、善き種
を蒔く事になるのである。その種を育て生長せしめたまい実を結ばしめ給う力は神に
あるのである。吾々は自分の力で、蒔いた種子から茎や葉を引張りだそうなどと
考えてはならないのである。「吾れはただ善き想念の種子を蒔く、これを育てたまうは
神のちからである」と念じて、静かに神に全托せよ。(谷口雅春著)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆

■「病気…」で例えますと、その人自身が「甘露の法雨」聖経のみしか治らないと〜〜〜
【固定観念…】が、あるのではないかしら〜〜ン!しかも、それで“治った”のですから〜〜〜
益々!【固定観念…】飽和状態の【脳回路…】なのでしょうか…?
■■【こうせねば〜〜〜ならない!!】と同じ事と思います。【限定…】と同様ではないのですか?

■例えば、“モノ”で言いますと、先日“パ−トナ−”の家に行きました…。
彼女の父親は、今でも「圧力鍋」で“ご飯”を炊いています…。前回!彼女の家に行きますと…
なんと〜〜♫〜〜「玄米が30kg…二袋」あり、今迄は、「玄米食」でしたが、
今回“病気”になり、医師の指示にて「白米食」になりましたが〜〜〜><
何と〜〜〜「玄米が○○kg??〜〜も」ありまして、それを見て【精米機】を、買う事を以前より
進めていましたが…本当に何度も!何度も!言っても“受け入れない”ので〜〜〜す。【固定観念】
どうかしますと、まだ〜〜〜〜玄米に???と見えまして、とりあえず【玄米を3kg…】持って帰り、自宅の【精米機】で白米にして、送りましたら〜〜〜もう!!「美味しかった〜〜!」の一言!!
                 <つづく>           NO.1

939SAKURA:2012/07/11(水) 18:58:39 ID:V.pKl3yA
                 <つづく>           NO.2 

>>938投稿より続く
■■>「迷い」を無くする唯一の道は、心を「迷い」から一転せしめて…<、

■その後!!何と〜〜〜何と〜〜〜♫〜〜この「迷い」??本当に!【一転…】でしょうか!!
【精米機…】を、ネットで買って欲しい〜〜〜との“電話”でした…。更に!私は〜〜〜><
「圧力鍋」でご飯を炊いていますから〜〜〜時間のロスが“大変”に思えますので〜〜〜><
「電気釜…」を進めましたが〜〜〜また!いつもの様に【固定観念…】があり受け入れないのです。
“パ−トナ−”の父親にしますと【電気釜より圧力鍋】で炊く方が“オイシイ!と言う【固定観念】
がありますが〜〜〜><“食”しますと、“ご飯”が膨らんでない!さら更に!私にしますと…
“美味しくな〜〜い”のですモノ!−−>
【強硬手段!!】で“パ−トナ−”とまず【電気釜】を購入してから、良くなければ“事務所用”に、思いを胸に〜〜〜♫〜〜〜また【再度!!電気釜】を進めましたら、とりあえず「買入してとの事」
早々“注文”しまして、荷物が来て、再度“パ−トナ−宅”へ…ゴ―サイン!!
次の日に彼女の実家に行きまして【精米機・電気釜の使用方法】を教えて、精米したてのお米で、
ご飯を炊き、一緒に“夕食タイム”しましたら〜〜〜何と“パートナー”の父親は“オイシイ!”と
実に!嬉しそうに〜〜〜“ご飯”を〜〜〜

■その後“パ−トナ−の弟さん”が来て、また【固定観念】があり…また!同じ繰り返しですが?
同じ様に、父親が説明したのかしら〜〜ン!そうしますと“弟さん”も認めてくれて〜〜〜

■その様に【病気…】も【甘露の法雨…】でしか“ダメ”との【固定観念…】がありますと〜〜〜
“病気…”でも治りにくくなりそう〜〜〜なのですが??如何でしょうか??
さて!【新しい聖経】でも、同様な事があり、
■■是は当時の【一般信者】が、これがいいと云った【念の波動の動き】でしょうかと??
私は、それに“気づき”今は【新しい聖経??】を読んでみておりますが〜〜〜?
しかも【仏壇の前…】で読んでいますが?「御先祖様…」も納得している様です。(一言説明して)
これも、読んで行きます内に「良い事」が起きて来ますと〜〜〜!
【蒔いた種の奇蹟…】の始まりになる様にも思います…。
「甘露の法雨」は。実に“素晴らし〜〜〜い!”のですが……><よ〜〜〜く考えて頂きますと!
■■現在【甘露の法雨…拝読】しても、【生長の家…派閥論争】でしょう〜〜〜><
しかも?しかも?【水面下では長〜〜〜い間】ですモノ??
果たして!!【甘露の法雨…功徳?】ありますでしょうか?■神は調和したところにしか…!!

従いまして…現在の私は…「ケ−ス・バイ・ケ−ス」で、【二つの聖経】をして行きます。

■■「吾れはただ善き想念の種子を蒔く、これを育てたまうは神のちからである」と
念じて〜〜【静かに神に全托せよ!実行開始!!全開!!START ME  UP! GO…!】

                                     再合掌

PS:トキ様 へ
>自分が祈る力や、自分の思念力によって不幸や病気を退散せしめようなどと思っては
ならないのである。われわれが善き言葉で祈り、善き想いを想念したならば、あとは
神が成就したまうのであると知らなければならないのである。<(一部抜粋)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆
善き想いの「想念」は、本当に…「引き寄せの法則」にて…それなりの結果が??
現われるのではないでしょうか?
【新…長編詩?】に【法則…】と云う“言葉…”が、書かれてありましすが…
此の“法則”に準じますと?【善き想念の種…それなりの結果が】と思います…。
そして、現代版の表現で“解釈”しやすいのでは〜〜ないでしょうか?
トキ様は?どの様に感じられますでしょうか【固定観念…】

PPS:更に「電気釜」一つでも選択するにしても?その人の“知識能力”になります〜〜〜ネ!
今回!とても〜良い“買い物”をさせて頂きましたが〜〜〜!! ウフフ“自己満足☆☆☆☆☆”

940うのはな:2012/07/11(水) 20:43:34 ID:gTn97m6I
  今は亡き吉田國太郎講師の逸話から

 ここにはこういう話が書いてあります。七三頁の終りから二行目、
「或る時、私が湯殿へ歯を磨こうと思って、湯殿のタイルの上にある駒下駄の上に
足をおろすと、タイルが濡れていたためにその駒下駄が足をおろした途端に(スパッ)と
辷って、私は湯殿のタイルの上に倒れてしたたか背骨と肘とをそのタイルに打ちつけたことがあります。
そのとき『ひさや』という女中が私の家にいましたが、物音に驚いてとび出して来て、私が倒れているのを
見ると、眼を丸くして、『先生でも辷って転ぶんですか?』と不思議そうな顔をして、唯倒れている私を眺めているだけでした。

 その時のことを、いつだったか吉田國太郎君に話したら、
『先生は辷って転んでいても、辷って転んでなどいないことがわからないのかなア!!』と言われたことがある。
辷って転んでいながら辷っていないのが実相である、というわけであります。

『日常生活の中の真理』仏典篇 P35−36 谷口雅春 先生著

941トキ:2012/07/11(水) 21:45:29 ID:0xHdFJu2
 山ちゃん1952様から、「トキさんは、読解力がない」と言われているトキです。
しかし、SAKURA様に鍛えて頂いているおかげで、相当、向上しました。
ありがとうございます。(笑)

 さて、申し訳ない事に、私は大自然讃歌や観世音菩薩讃歌もパスしている
人間ですが、SAKURA様が新しい「長編詩」から学ばれたとしたら、素晴らしい事です。
 きっと谷口雅宣先生もお喜びだと思います。頑張って下さい。

 甘露の法雨については、谷口雅春先生の講義テープ「甘露の法雨講義」を拝聴される
事をぜひお勧めします。聖経が成立した経過から詳しい意義など、詳細を述べられて
います。

 では、今後ともよろしくお願いします。

合掌 ありがとうございます

942観覧車:2012/07/11(水) 23:09:30 ID:???

>>941 トキ様
「甘露の法雨講義」は出版停止にならないのでしょうか?
CDのほうを、出版停止にならないうちに購入したいと思います。

943ハマナス:2012/07/11(水) 23:16:40 ID:Z7K9Z3Eg

神の子のみなさま
こんばんは。

運命のプラス・マイナス  (『新版 生活の智慧365章』P.201より)

 毎日わたしたちは。自分の運命を自分で造りつつあるのである。自分の生活にプラスを
つけ加えるか、将(はた)またマイナスをつけ加えるかと云うことによって自分自身の
未来の運命を自己決定しつつあるのである。人のためのなることを行えば、自分の運命に
プラスを加えたのである。人のためにならぬことを行えば、自分の運命にマイナスを加え
たのである。このような行動によるプラス・マイナスのほかに、自分の心の明るさ暗さに
よって運命を左右するプラス・マイナスがあるのである。

 常に「明るい心」をもっておれば、「類をもって集る」と云う心の法則にしたがって、
「明るい運命」が自分に集まって来るし、常に「暗い心」を持ちつづけておれば、「暗い
運命」が自分に集まって来るのである。常に私たちは「過去の成績」(業)の中から立上
りつつあるのである。

感謝合掌

944復興G:2012/07/12(木) 00:58:41 ID:84pogn5s

<第4回 WEB誌友会 予告>

・《日時》 7月13日(金)夜 9時30分より
     7月15日(日)夜 11時30分まで(50時間)

・《場所》 WEB誌友会板

・《テキスト》 『生命の實相』第1巻の「實相篇」(光明の真理)【頭注版P41〜】

・《内容》 「物質無」の真理、メタフィジカル・ヒーリング(生長の家の健康学)

――ということになっております。
それで、以下に、そのテキスト(『生命の實相』第1巻「實相篇」(光明の真理 第1章・第2章)【頭注版P41〜75】を、13回に分けて謹写掲載させていただきます。

WEB誌友会にご参加の皆様、どうぞ以下のテキストご文章より、感銘を受けたところや疑問を感じたところを部分的にコピペして意見を投稿する・・・などにご使用ください。

945復興G:2012/07/12(木) 01:00:02 ID:84pogn5s

  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

<第4回 WEB誌友会用テキスト>

 『生命の實相』 第1巻

  《實相篇(上) 光明の真理》 より(1)

   -----------------------

 《扉裏の言葉》

 自性(じしょう)円満の「生命の実相(ほんとうのすがた)」を大悟すれば、忽然(こつねん)として病自消す。生命はこれ神性そのものにして本来無病なればなり。悟らざるを「迷い」といい「迷い」の相(すがた)を病という。往昔(むかし)、維摩は自ら身に病を現わして「生命の実相」を説明する機縁となせり。病に即して、「生命の実相」の本来無病、無罣礙(けいげ)、自由自在なることを説明し、読んで病の自消する体験によって、自己生命の無病、無罣礙、自由自在なることを自証せしめんとするもの本篇なり。月刊『生長の家』誌に昭和五年より六年にわたりて「メタフィジカル・ヒーリング講座」と題して連載せる、人間更生の真理を一つにまとめたるものにして、本篇の題示はそのころ熊本市松田かね女史が自己が光明に導かれたりとて命名せられたものである。今、松田かね女史の消息を知らないが、なつかしいままに、ここにその名を存する所以(ゆえん)である。
   ---------------------

  第一章 近代科学の空即是色(くうそくぜしき)的展開

 医者を英語でフィジッシャン(physician)といいますが、メタフィジカル・ヒーリングを行なう人はメタ・フィジッシャン(meta-physician)というべきであります。フィジッシャンはフィジックすなわち物質的なものに頼って病を癒そうとする人でありますが、メタフィジカル・ヒーリングを行なう人はメタ・フィジッシャンすなわち哲学者として、物質発生以前の原理の体得者でなければならないのであります。すなわち物質はどうしてこの世にできて来たものであるか。物質というものははたしてわれわれにとって破壊しえないほどの実在性を備えているものであろうか。心と物質との関係はどうであるか。物質というものはわれわれには存在するように見えてはいるが、実はそれは念の影なのではなかろうか。こういう複雑な問題についての根本的理解がないと、肉体という一見物質でできているわれわれのからだに起こる病気の解決が完全に行なわれないのであります。

 昔から心はすべてであって「物質は念の映像」にすぎないという唯心主義の学説と、物質はすべてであって、心というのは物質の化学作用の一種にすぎないという唯物論とが交替にとなえられて、ある時代にはもっぱら唯物論が盛んであるかと思うと、つぎの時代にはその論拠を打ちやぶるいっそう深い唯心論が勃興して来るというふうな順序になっているのであります。

 ところが最近、物質科学の全盛期に達しまして、ここに、はしなくも今まで勿質はどこまで分解しても物質であると考えられていた在来の概念が破壊してしまったのであります。古典物理学において「物質」と名づけたものの概念は、一定の空間的容積を占める形あるものだったが、その物質を取り扱っているはずであった物理学や化学がついに物質とは形のあるものでなく単に一種のエネルギー(生命力)が形にあらわれているものにすぎないというところまで、ほとんど実験的に説明しうるほどに漕ぎつけましたので、在来の唯物論は、物質科学それ自身の手で自壊してしまうことになったのであります。

 精神力で病気を治療するさいに最も邪魔になるのは、病気なるものが動かしえざる物質的根拠をもっているという一般人の信念であって、この信念を根本から打ち破って行かなければ病気の根源を絶滅するということができないのであります。そこで物質とは本来「無」であること、仏教でいえば「色即是空(しきそくぜくう)」すなわち「色(しき)」(物質)とは畢竟(ひっきょう)「空(くう)」であるということ、キリスト教でいえば「すべての物はコトバにて造らる」すなわちコトバ(心の波動)が万物の創造者であるということ、これが根本的にわかって来たときはじめてわれわれは本当に完全なメタ・フィジッシャンすなわち物質にとらわれない哲学者になれるのであります。昔はメタ・フィジッシャンといえば机上で宇宙論や実在論を唱えるだけの哲学者のことを申しましたが「生長の家」の皆さまは「哲学を生きる人」または「哲学を実生活する生活者」という意味でのメタ・フィジッシャンになっていただきたいのであります。
<つづく>

946復興G:2012/07/12(木) 01:04:27 ID:84pogn5s

  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

<第4回 WEB誌友会用テキスト(2)>

『生命の實相』 第1巻

  《實相篇(上) 光明の真理》 より(2)

   -----------------------

 さて、皆さまはあの銀砂をちりばめたように輝く無限の虚空を仰いでごらんになったことがありましょう。あの燦めく星と星とのあいだの空間にははたして何が存在するのでありましょうか。地球をとりまいている空気は、地上を距(さ)ればさるほど薄くなって空中へ四、五里ほどの高きもあがって行くならば、そこにはもう空気はないのでありまして、「空中」というのにふさわしくない――そこは真に空っぽで「何もない」というのであります。しかしその「何もない」にもかかわらず天体から来る光の波や電気の波はその「何もない」ところを伝わって来る、だから「何もない」けれども、全然の「無」ではない、何か光とか電気とかを伝えるために何かある。そこで科学者はこの何もないと見えるところのものにエーテルという名称を付して存在を認めたのであります。

 さてこの太陽と地球と、星と星との間の何もない空間には光もないから非常に暗黒であります。温度もないから非常に冷たいのであります。科学者の測定したところによりますと、華氏寒暖計で五百度あまりもこの地上より冷たい(摂氏零下二七三度・絶対温度零度)のであります。われわれが高山へのぼればのぼるほど温度が低くなるのは、この寒冷な真空圏に近づくからであります。
 この空気も何もないところにさえも充ち満ちているエーテルという実質――これが科学者が発見したところの最も根本的な実質であります。このエーテルのうちに結ばれた無数無限の泡、これが電気の本体である電子であって、この電子がいくつも集合して物質はできているのであります。

 科学者はこのエーテルという実質が宇宙のいたるところに充ち満ちていると申しますけれども、エーテルそれ自身はわれわれの眼には見えず、耳には聞こえず、手には触れることができず、ぜんぜん無味で無臭であります。だから、われわれにとっては、エーテルという宇宙存在の根本実質は「無」とか「空」とかいうのが適切であります。そしてこの「空無」から一切の現象が展開してきたので、仏教で説きますところの「空即是色」ということも、「色即是空」ということも科学的に解ってきたのであります。

 ところが、われわれはこの「空」を、否エーテルを、毎日利用して生きているのであります。わたしがここにこんなことを説きはじめましたのも、実はわれわれは眼に見えないものは、たといそれが真実存在であっても存在しないと思ったり、眼に見えるものなら、ほんらい「非存在」のものでも存在しているように信じているーこうしたまちがった信念があるために、人間はないものをあると思って苦しんだり、あるものをないと思ってあせったりして、われとわが心で苦しみの世界を活動写真のように映し出してもがいている――それを救いたい助けたいと思うからであります。最も手近な例でいいますと、ここに空気というものがある。しかしこの空気というもの、それ自体はわれわれの五官ではその存在がわからないのであります。だからわれわれは幼い子供に「空気というものが有る」ということを教えるのになかなか困難を感ずるのであります。空気をおなか一杯に吸いなさい、といっても幼い子供はなかなかそれを吸うすべがわからない。しかし風が吹いて来たといえば子供にもわかる――空気そのものはわからないが、風すなわち空気が「波動」になって来ると誰にもわかる。「波動」は「無」のかたちをした真実存在が、形に化して感覚的事物となって顕われるためにぜひ必要な過程であって、われわれが波動(すなわちリズムまたはコトバ)によって創造活動が展開すると申します真理もこんな点からも理解されるのであります。
<つづく>

947復興G:2012/07/12(木) 01:08:03 ID:84pogn5s

  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

<第4回 WEB誌友会用テキスト(3)>

『生命の實相』 第1巻

  《實相篇(上) 光明の真理》 より(3)

   -----------------------

 さて万物創造の最根本の実質として宇宙に一杯に充ち満ちているといわれている「エーテル」の中を、われわれの地球は非常な高速度をもって走っているのであります。空気の中をわれわれが自動車や飛行機に乗って非常な高速度で走りますと、われわれは烈しい風を自分の肌に感じますのですぐ空気の存在がわかるのでありますが、エーテルの中をわれわれが地球に乗せられたまま現に非常な高速度で走っていながらもエーテルの風をわれわれは少しも感ずることができないのであります。エーテルは空気よりもよほど稀薄なものに相違ないから、たとい風が起こっていても微妙な測定機械でも作らなければわからないだろうというので、これを測るための精妙な機械を工夫した科学者もあったのでありますが、結局この地球がどんなに高速力でエーテルの中を疾走してもエーテルは風なんか生じないことが判ったのでありまして、この点、空気などという「すでに造られてしまったもの」とはよほど違う本当の「空無なもの」であります。

 また空気なら、これを紙袋に入れまして、入れた口を密封して、紙袋の外から押えてみますと紙袋がなかなか凹まない、それでなるほど、紙袋の中には空気があるなということがわかるのでありますが、われわれは空気をぬいてエーテルを紙袋に入れ、これを押えてみましても手ごたえを感ずることはないのであります。

 こういうように押えてみても手ごたえがない、その中を地球が太陽の周囲を公転する素晴らしい高速度で走っていても風一つ生じないというのでありますから、このエーテルというものはよほど無礙自在な一定の形にとらわれない実質であるということができるのであります。

 空気はこの点において眼には見えないでも、物質として現われたものでありますから、エーテルとちがってよほど自由な性質が少ないのであります。それは紙袋の中へ入れられて出られなかったり、それはある重さをもっているので、下へ下へと溜っていてわずか地球の表面にあるばかりで、宇宙全体にひろがっていることができない。この空気の目方はと申しますと、一平方尺だけの地上にかかる容積だけで一トンあるということを科学者は測定しているのであります。ところがこのエーテルといえば無際涯の天空高く無限につづいているので、その目方すなわちわれわれが受けている圧力は非常に大きいものだと思われるのでありますが、エーテルはここにもその無礙自在な特性を発揮していて、われわれの測定機にはかからないのであります。ここが面白いところで大自在の大聖者がわれわれの判断の測定にかからないと同様であります。
<つづく>

948復興G:2012/07/12(木) 01:18:31 ID:84pogn5s

  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

<第4回 WEB誌友会用テキスト(4)>

『生命の實相』 第1巻

  《實相篇(上) 光明の真理》 より(4)

   -----------------------

 エーテルはこのようにわれわれがその実体を測ってやろうと思うと何もない。しかもそれはわれわれに光と熱とをつたえてくれるのでありまして、それはまた大聖者がとらえどころのない自由な人格でありながら光と熱とをわれわれに与えてくれるようなものであります。たとえば、あなたが今持って来たばかりの火鉢の火に手をかざしますと、手はただちに温(ぬく)みを感ずるのであります。この火は今持って来たばかりですから、手と火鉢との間にある空気はまだ熱くないのであります。それにもかかわらず、われわれが温か味を与えられるというのはエーテルの波動によってわれわれの皮膚の神経細胞が刺激されるからであります。それからまた、われわれは曇り日に戸外を歩いているととつぜん雲がきれると日光が直射して来る。空気の温度は急にそんなに高まらないのに一度にわれわれは熱くなって来たことを皮膚に感ずるのであります。単に感ずるだけではない、長い間、皮膚をそれに晒していると、われわれの皮膚は日やけを生じたりするのであります。このわれわれの皮膚に感ずる熱――温か味はエーテルの波動によって伝えられて来るのであります。日光についていいますと、最初太陽で発生した光の波動は九千三百万マイルの空間を唯の8分間でこのエーテルという実質を伝わってきて、われわれの皮膚に温熱の刺激を与えてくれるのであります。温熱ばかりではありません。われわれはこのエーテルのおかげによって生かされているのでありまして、エーテルがなければわれわれは光も熱も活力も受けることができない。野にも山にもどんな緑の植物も生育することはできない。実に生きとし生けるものは、このエーテルの波動の中から生命力を吸収してそれを蓄え、それによって生活を営んでいるのであります。われわれが日常いただく食物はもちろんのこと、ストーブで燃やす石炭も窯の下で焚く薪も、自動車を走らすガソリンも、すべてこのエーテル波動を吸収して潜在的エネルギーとして蓄えられていたものを再び利用しうるエネルギーの形にし、それを活用して生活しているのでありまして、事々物々エーテルのご厄介にならないではわれわれは生活することができないのであります。

 われわれの皮膚全体はこのエーテル波動に感じやすいのでありますが、特に感じやすい部分は眼でありまして、この眼を通してわれわれは物を見るのであります。といっても実はわれわれはそれが在るとおりに見るのではない。このエーテルという自分自身の本体は眼に見えないところの不可思議霊妙な実体がいろいろに振動している、それをわれわれの心が物の色や形に客観化して見るのであります。

 このようにエーテルという実体はわれわれに光と熱とを与えてくれ、あらゆる生物に生命力を与えてくれ、われわれの眼をひらいて物の色や形の美しさを見せてくれていながら、自分自身の姿を顕わさないのでありますから、人類はながい間、このエーテルという霊妙不可思議体の存在を知らなかったのであります。十九世紀の初めになってその存在にうすうす気づいた先覚者が出てきました。ところが、その後またエーテルの存在を否定する学者が出てきたりしまして、やっと最近になって電気磁気の実験はもちろん、ラジオなどの日常目的にこのエーテル波動を利用する装置が発明せられるようになり、とうていこのエーテルの存在を否定することができなくなったのであります。

 かくのごとくこのエーテルという霊妙な実質の波動によってわれわれは日々生存しなくてはならないエネルギーを供給されているにもかかわらず、人間はついこの間までエーテルなんてものは存在しないと思っていた。なんでも人間というものは、触ることも眼に見ることもできないものは存在しないと考えたがるものであって、無神論、無霊魂論などというものも五官ばかりにたよろうとする、こういう人間の弱点から出発しているのであります。
<つづく>

949復興G:2012/07/12(木) 01:31:36 ID:84pogn5s

  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

<第4回 WEB誌友会用テキスト(5)>

『生命の實相』 第1巻

  《實相篇(上) 光明の真理》 より(5)

   -----------------------

 しかし人間の五つの感覚にかからないからとて、事実は事実であって、五官がそれを認める認めないで、事実を変化することはできないのであります。久しいあいだ人間はあの蒼空にきらめく銀砂のような無数の星を別の太陽系の太陽であることを知らなかった。そしてただわれわれの住む地上の付属品であるかのように考えていたのであります。ところで今では小学校の生徒でも多くの星が太陽よりも小さく見えるのは太陽よりもズッと遠いところにあるからだということを知るようになっています。われわれ人間はまだまだ知らねばならないことが多いのであります。存在の神秘は深い。人間はまだまだ心の眼を開く必要がある。諸君がこの『生命の實相』をお読み下さったのは、じゅうらい物質的にのみとらわれていた人間の心の眼を開く先達として、眼に見えないいっそう奥の神秘の世界に炬火をかざして進んで行くべき使命をもっていられるからに相違ないのであります。わが持てるライターは小さくとも、諸君のかざしていられる大小さまざまの炬火に灯を点ずるには役立つだろう。わたしはこの小さなライターをすりつつ、神秘の世界の内陣へと人間が近づいてゆくお手伝いをさせていただこうとこの光明の真理を書いているのであります。

 さて順序として、この霊妙不可見なエーテルという存在について科学者が最近の研究により結論をくだしたところを平易に紹介することにいたします。第一、エーテルは絶対不可分に少しの間隙もなしに続いているのであります。これをエーテルの連続性と申しまして物質には見られない性質であります。物質というものは、大きな塊りはそれだけ大きな距離を隔てて位置を占めており、小さなかたまりはまたそれに比例した割合いで互いに距離を隔ててその位置を占めているのであります。空の星や太陽は非常に大きな物体であるから、それだけ離れている距離も大きいのであって、仮に、われわれが無限の距離まで届く大砲の弾丸をやたらに天空にむけて発射しましても、どの天体にも当らないほどに互いの天体の距離が隔たっているのであります。ケルビン卿の計算したところによりますと、天空に発射した無限距離までとどく弾丸が天体に命中する率は、めったやたらに空中へ発射した猟銃の弾丸が小鳥に命中する率にも等しいということで、もっていかに星その他の天体間の距離が隔たっているかが推測せられるのであります。

 星や太陽などの相互間の距離が隔たっていることは明瞭なことでありますが、われわれが住む地球上の物質分子間の距離も互いに離れていて一つとして密着しているものはないのであります。水を瓶に入れますと、水というものは水面から瓶の底にいたるまでスッカリ続いていて間隙などはないように見えます。ところがこの水に炭酸ガスの圧力を加えながら押し込みますと、水の分量が少しも増えないで炭酸ガスがずんずん水の中へはいってゆく。これがいわゆるラムネやサイダー類の炭酸水であります。こうして炭酸ガスが水の中へはいっても水の分量がふえないのは水の分子と分子との間には、分子の大きさでいうならば、星と星との間ほどの大きな間隙がある、その間隙に炭酸ガスがはいるために、この間隙に余裕がなくならない限りは水の分量はふえないのであります。
<つづく>

950復興G:2012/07/12(木) 01:32:26 ID:84pogn5s

  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

<第4回 WEB誌友会用テキスト(6)>

『生命の實相』 第1巻

  《實相篇(上) 光明の真理》 より(6)

   -----------------------

 水の分子と分子とが互いに隔たっていることは解ったが、ガス体の分子と分子との距離はどうであるかといいますと、それは液体の分子と分子との距離よりもいっそうはなれている。ガス体の容積は圧えれば圧えるほど小きくなるというのが物理学上の定則になっていて、この空気なども強烈な圧力を加えると容積が非常に小さくなって、液体空気となってしまうのであります。この圧えると小さくなるというのは、分子と分子との間に隙があるからであって、ちょうどカステラや海綿を圧えると小さくなるのと同じようなわけであります。

 液体やガス体の分子と分子との間が隔たっていることは解ったが、石や金のような固体は圧えてもなかなか小さくならないから、これらの物質分子相互間はそんなに隔たっていないだろうと言われる方があるかもしれません。ところがあにはからんや石や金属の分子などでも、その分子の大きさを標準に比較していうならば、星と星との間に大きな距離があるほどに分子間の距離が互いに隔たっているのであります。もしわれわれが分子の大きさほどの太さの針を作ることができるとすれば、この針で一直線に石なり金(かね)なりを突き通せば、なんの苦もなくずんずんはいっていって、一個の分子にも衝突しないのでありまして、それはちょうど天空に向かって大砲を発射しても星に当たらないほどの割合いだと研究されています。
 ところがこの分子という物はとても小さい。顕微鏡でさえも見ることができない。だから、その分子と分子間の離れている距離もかなり大きいけれどもなかなか見ることはできない。ここにもわれわれの感覚がかなり鈍いものであって、眼に見えないから存在しないなどということが、いかに時代おくれの言葉であるかが解るのであります。

 かくのごとく物質というものは、離ればなれの無数の分子という小粒から成り立っていて、その小粒と小粒とは非常な距離を隔てているのであります。ちょっと考えると、分子と分子とが互いにひっ着いて離れないであってこそ、物質が一定の形を保ちうると考えるでしょう。たとえば煉瓦と煉瓦との間をセメントでぴったりひっ着けてしまってこそ、その煉瓦建築は一定の形を保ちうるのでありましょう。今仮に、煉瓦と煉瓦との間隔が一枚の煉瓦の寸法の何十倍何百倍という距離をへだててその間に何もつめないで煉瓦建ての建物をつくるとしますと、なかなかその煉瓦建ては一定の形をたもってはいられないのであります。しかし分子という小粒の煉瓦で建築きれている物質というこの建築物は、その小粒の煉瓦(分子)同士の距離が、実に驚くべきほど隔たっていながら一定の形をたもっているのであります。するとぜひともこの小粒の煉瓦に比すべき分子と分子との間には、互いに結合するところの何か力がなければならないとはたやすくわれわれの気づくところであります。
<つづく>

951復興G:2012/07/12(木) 01:33:07 ID:84pogn5s

  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

<第4回 WEB誌友会用テキスト(7)>

『生命の實相』 第1巻

  《實相篇(上) 光明の真理》 より(7)

   -----------------------

 じっさいこの分子と分子との間には不思議な力が介在しております。凝集力といって、それ以上引きはなすまいとする引力と、斥力といってそれ以上近づけまいとする反発力と、この二つの相反する力があるために、物質を組み立てている分子はそれ以上に相互に近づいて崩れ込むこともできず、さりとてそれ以上相互に離れてバラバラになることもできず、常に一定の形をたもっていることができるようになっているのであります。

 この二つの力は何も小さな物質分子相互間だけに限ったことではなく、太陽や遊星のような大きな天体相互の間にもはたらいているのでありまして、われわれの地球をはじめ、火星や水星や木星等のいろいろの遊星が、常に太陽から一定の距離を隔てながら太陽の周囲を運行していて、むやみに近よることもむやみに離れることもできないことになっているのは、実にこの二つの引きつける力と反発する力とが好い具合の比例ではたらいているからであります。しかもこの引力と斥力とはただ盲目的に働いているのではなく、実に整然とした知恵をもって働いています。それは水晶を六角の結晶体に、雪を美しい花模様に、あらゆる結晶体をそれぞれ独自の形に固めている知恵であります。この知性ある力の背後にはおそらく愛と叡智と生命との根元なる大生命が働いているのでありましょうが、科学者はその研究によってそのハタラキを、星と星との間の空間、分子と分子との間の空間を埋めている何ものかに相違ないと想像して、これにエーテルという名前をつけているのであります。しかし科学者がそれにエーテルという名前をつけたからとて、エーテルは物質的なものだということになる訳はなく、霊妙不可思議な存在たるに変わることはないのであります。エーテルはその中を地球のように高速度で走ってもなんらの抵抗をも感ぜず風も生じないほどに粘着する力のないものであります。しかも諸君が鋼鉄の一片を引きちぎろうとして引きちぎることができないのはこのエーテルが分子を引きつけておく力によるとしますと、実にエーテルというものは強い粘着力をもっているといわねばなりません。それではエーテルというものは、粘着力があるようでないようで実に捕えどころのない、場合にしたがって自由自在な相(すがた)を現ずる実体だといわなければなりません。それは一方にはわれわれに生命力を供給し、われわれの肉体はもちろんすべての物質的存在を場合場合に応じて一定の形態にたもっているところの霊知性でありまして、現代の科学者はこのエーテルという存在の背後にある神秘を解くことによってしだいに生命そのものを解明してゆこうとしつつあるのであります。
<つづく>

952復興G:2012/07/12(木) 01:33:52 ID:84pogn5s

  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

<第4回 WEB誌友会用テキスト(8)>

『生命の實相』 第1巻

  《實相篇(上) 光明の真理》 より(8)

   -----------------------

   第二章 「生長の家」の健康学

 現代の「病理学」のみならずおよそ病気についての学問はかの人類をエデンの楽園より追放した「禁断の果実(このみ)」中の一つであります。「悪魔(サタン)」すなわち人間の迷いの心がこの「病理学」という禁断の果実をたべたら、人間は神のような完全な健康になれるだろうと教えたのです。(『創世記』第三章)ところがアダムすなわち「人間」は「病理学」という知恵の果実をたべたためにエデンの楽園から追い出された。人間はほんらい健康で病気になるべきではなかったのに、それからは、刻苦努力して、自分で造った「健康の法則」というものに従わねば健康がたもてぬようになってきたのであります。

 ごらんなさい、野獣には病気はないのであります。野獣は健康法をもっていない。薬をもっていない。それで完全な健康を生まれながらに備えている。けれども野獣をつれてきて、人間界に同居させ動物園なり、牧場なりに放って飼うようにし、人間の思想の雰囲気内に入るようにしておきますと必ず病気になります。獣医がつききりで、野獣が山の中でしたい放題の生活をしていた時分よりも、よほど衛生的規則的に生活させておいてさえも病気になるのであります。これは人間の病的思想――つまりいえば、こうしたら不衛生ではあるまいか、こうしたら病気になりはしないだろうかというような、本来「病気」が存在するということをあらかじめ信じておいて、それを避ける方法ばかりを考えている人間の思想の波動の中に住むから病気になるのであります。

  キリストの超健康法

 この点ではキリストは古今独歩の生命主義者であります。キリストは一度だってひとびとに衛生法や健康法を勧めたことはない。彼は口癖のようになんじの生活のために思い煩うなかれ、何を食らい何を飲まんと思い煩うなかれ、なんじの肉体に何を着んと思い煩うなかれというふうに、衛生のために心を労することにはぜんぜん反対されている。生を衛(まも)るのは人間のこざかしい知恵でできることではなく、生命そのものの自療力であるということをキリストは知っていられたのであります。

 ところが現代の生物学はこのキリストが教えた超健康法とはぜんぜん反対であります。それは宇宙にまず「生命」という偉大なものがあって人間の脳髄や身体の諸機関を作ったということを忘れてしまい、人間の精神力を脳髄の分量で測ろうとしたり、人間の生命力を体重で測ろうとしたりしているのであって、生命とは物質の化学的一作用なりという仮定のもとにあらゆる養生法と治療法とを出発させているのでありますから、物質が生命におよぼす力を非常に恐れている。それでほんらい自発的、能動的、創造的であって物質を支配すべき生命の本性を忘れて、ほんらい無力な他動的受動的な物質の法則の奴隷になろうと努力しているのであります。だから生命はその奔放自在な自己創造的な力を失って、自己萎縮をして、自分が自分で萎縮した程度に応じて物質のまえに無力になっているのであります。だから医学がますます発達し、いろいろの健康法が数えきれぬほど案出され、それによって癒される――あるいは癒されるように見える病気もたくさんあるにもかかわらず、病者の数がずんずんふえてゆきますのは、医学というものが一方では病気を治しながら、他方では人間の霊的自覚を奪ってゆき物質のまえに人間を無力にしてしまいますから、差し引き計算してみると病気を治す数よりも、病気の起こりやすい精神状態を伝播する範囲の方が広いからであります。
<つづく>

953復興G:2012/07/12(木) 01:34:36 ID:84pogn5s

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<第4回 WEB誌友会用テキスト(9)>

『生命の實相』 第1巻

  《實相篇(上) 光明の真理》 より(9)

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   肉体は想念(こころ)の影

 人は心であり、物質は心に思い浮べた想念(おもい)が形に化したものでありますから、人の肉体は心で思うとおりになるのであります。心が感じ、はたらき、または、はたらきを停止するのであって、胃が悪いとか、胃が消化不良であるとかいっても、実は胃という物質が悪いのではなく、胃をはたらかせている心が、何かの機会たとえば食い過ぎたとかお腹が冷えたとかいうことを感じ、それでは消化が悪くなるだろうと思い、その心のはたらきが胃の活動を鈍くし、消化液の分泌を悪くしたので、最初は心に起こった「感じ」なり「思い」なりが肉体が実際病気になるまでにまず病気になって肉体の活力を止めてしまうので、昔から病気とは気を病むということだといわれているのはこういう意味であります。

 ところがたいてい誰でも胃が悪いといえば、もともと心が病んでいるのだということを忘れて、「昨日何々を食べたので」とか、「ついお腹を冷したもので」とかいって物質的方面に原因を求め、その治療にも物質的方法を用いようとするのであります。こうしますと、それでたとい病気が一時回復しましても、おおむねそのため将来において病気にかかりやすい素地を養成します。なぜなら、物質的方法によって病気が治ったということから出発して、生命は物質によって生かしも殺しもできるものだという誤れる暗示を受けることになり、自己の生命の霊妙さの自覚が失われてしまうからであります。そのため、常に生活が衛生法にかない、医者よ薬よといっている家庭には病人が絶えないのであります。

 自己の生命の霊妙さの自覚――これすなわち仏教でいえば正等覚(さとり)を得ることであり、キリスト教でいえば神の子としての自覚を得ることであり、古神道でいえば「尊(みこと)」としての大自覚をうることであります。この大自覚に達するのがあらゆる宗教の目的――いな、人間そのものの目的であり、この大自覚に達すれば、自覚した程度にわれわれに宿っている生命力は発現するのでありますから、キリストのように他人の病気を一言でなおしたり、釈迦のようにいろいろの神通力を発揮することもできるわけで、むろん自分が病気で苦しんだり、生活難で苦しんだりするような、不如意不自由な状態は消滅してしまうはずであります。

 一体ぜんたい、われわれが病気のときに生命の大本源であるところの大生命(神)に頼らないということはあやまりであります。われわれが病気のときにも神はわれわれが健康のときと同様に、われわれになくてならぬものを与えたまいます。否、かえってこの時こそ神を信じ、「神において能わざることなし」の大信念をもって、一心に神に縋(すが)れば、神は必ずわれらを癒し給うのであります。

 あらゆる医術、あらゆる健康法にたよってみたが、それではどうすることもできない、病気はますます悪くなるというようなときになって、看護人や病人は「かなわぬときの神だのみ」というわけで、物質的治療を捨てて、大生命の癒力(なおすちから)に頼ってくる人もあります。迷いにとらわれた人間ほどやっかいなものはないのでして、まずあらゆる物質的な治療法をことごとくやってみたのちでないと、「大生命」の方へ心が向いてこないのであります。だから、そうした人間の心の天秤の中では、「生命」というものと「物質」というものとが常につりあいがとれていないで、「物質」ばかりに心の中を占領され、大自在の生命の自覚がないから病気になるのがあたりまえであります、しかしそういう人でも『生命の實相』を読み、自己生命の本然の自由さを自覚せられるようになると、おのずから病気が実際に回復して来るのであります。

 われわれは二つの主に仕えることはできない。「生命」を信じて、物質を奴隷にするか、「物質」を信じて「生命」をそれの奴隷とするかのほかはない。薬物や衛生の奴隷になっているものは、生命の力をますます萎縮させてしまうのであります。薬を用いると、一時は薬に対する信仰から病気がよくなっても、結局はわれわれは大損害をする。すなわち自己の霊的生命の自存力(じぶんでたつちから)をますます弱くし、われわれの修養の根本目的たるものからいよいよ遠ざかってしまうことになるのであります。これは実に惜しみてもなお余りあることであります。
<つづく>

954復興G:2012/07/12(木) 01:35:21 ID:84pogn5s

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<第4回 WEB誌友会用テキスト(10)>

『生命の實相』 第1巻

  《實相篇(上) 光明の真理》 より(10)

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   病気は無い

 いったい、皆さんは「病」というものが実際この世にあると信じておられますか。「病気」というものを神がこの世に造り給うたと信じておられますか。もし神にして「病気」というものをお造りにならないならば、病気は第一義的にいえば本当は存在しない。ただそれはあるように見えているにすぎないのです。それは本当は「無い」けれども、あるように見えている「迷い」なのです。「ない」ものをあると思っているから「迷い」なのであります。「迷い」という心的状態が客観的(かたち)にあらわれて映っている。これを病気とかいろいろの人生苦とかいうのであります。これをたとえていいますと、「大生命」は活動写真を映す機械の本源に輝いている光のような、不可思議光(光明生命)であります。それを無色透明の正念(しょうねん)のレンズを透すとただ光輝燦然(こうきさんぜん)たる大生命の肖像(にすがた)ができる。これが神のつくり給うたままの光輝燦然たる人間そのままの姿であります。ただこのわれわれの生命にいろいろの影や不完全な状態があらわれるのは、それにいろいろの迷いの姿を描いた「念(こころ)というフィルム」をあてがうからで、われわれが「念(こころ)しだいでどうでもなる」というのはこのことであります。

 本来、われわれ自身の「生命」が「光明生命」でないならば、影さえも顕わすことができない。光がなかったら活動写真を映すことができないと同じであります。いろいろの病気や、いろいろの苦しみを「人生という映画」にうつし出すことができるのは、病気や苦しみ以上の「光」がその本源にあるからで、この「光」こそ、われわれが大生命からいただいているわれわれの「真生命」なのであります。いい換えると、それは神が造り給いしままの「真の人間(リーアル・マン)」であって、この「真の人間」そのままを観るとき、それは円満完全であって、なんらの欠点もない。むろん、病気や不幸はぜんぜんないのであります。各人の、この「真の人間」を観ることを「実相を観ずる」とか「本来の面目を観る」とかいうのであります。「生長の家の生き方」に「生命の実相を礼拝せよ」とあるのは各人に宿っている「真の人間」を礼し拝することをいうのであって、この「真の人間」というものは心でこれを認めれば認めるほど、明らかに形にも顕われてくるのであります。

 つまり「真の人間(リーアル・マン)」を認めるということは、「真の人間」(光明生命)に陰影(かげ)のあるフィルムを当てがわずに、「真の人間」そのものを直接(じか)に見ることになり、したがって陰影のある暗い映画が人生というスクリーンにあらわれなくなり、「光明生命」ばかりが客観化してスクリーンにあらわれることになるのであります。
<つづく>

955復興G:2012/07/12(木) 01:36:07 ID:84pogn5s

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<第4回 WEB誌友会用テキスト(11)>

『生命の實相』 第1巻

  《實相篇(上) 光明の真理》 より(11)

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   「真の人間」を観る修行

 従来から、仏教ではこの「真の人間」を観るということを修行の大目標においていたので、諸種の坐禅観法も要はこの「真の人間」(生命ほんらいの面目)を自覚せしむるにあるのであります。『般若心経』にある観自在菩薩のせられた般若波羅蜜多(はんにゃはらみた)の修行は、実に徹底した「神想観」の修行であります。観自在菩薩はこの観法においてこの「真の人間」本来の面目が、不生(ふしょう)、不滅、不垢(ふく)、不浄、不増、不減の光明生命であって、これのみが唯一の実在である。したがって、それは病むことも死すこともない。そのほかのものは皆「無明(まよい)」である。病気や死などというものはことごとく「無明(まよい)」であって、存在しない。そしてまたその「無明」というものは、実はほんらい無いものを、有ると思っているからこそ迷いであって「無明」というものも無いのだ。それはただ「明るきが無い」というだけの消極的状態で、闇があるというような積極的な実在ではない。もし「無明」が積極的の力として有るのであれば「無明」を無くするのに骨もおれようが、「無明」はほんらい無いのだから、「真の人間」を自覚しさえすれば、ひとりでに「無明」は消えると観ぜられるのであります。この徹底的な大々的楽天主義が釈迦の説教の骨髄を貫いているのでありまして、仏教をもって厭世(えんせい)教だというのは解釈をまちがえた一知半解の人のいうことであります。

 人間には「真の人間」と、「虚妄(まよい)の人間」との二相(ふたつのすがた)がある。一方は実在であるが、他方は虚妄(まよい)であって、有るようにみえていても、その実は存在しない――仏教は最初からこの真理に出発していたのであったが、キリスト教がこの真理に目覚めてからまだ百年に満たないのであります。それまではイエスの説いた教えも、『創世記』にある宇宙創造説なども本当には理解せられず、「真の創造」と、「まよい」による「仮の創造」とを一緒にしてしまっていたために、一般人は人生の矛盾苦痛悲惨などということを、神の創造の不完全さの責任に帰し、創造神の実在の有無を疑ったり、神の全能力を疑ったり、神の愛の有無を疑ったりしていて、神とは神学者の頭に描かれた、ただの空想だと思われていたのであります。

   クィンビー博士の新治療法

 ところが十九世紀の中頃のこと、米国メイン州ベルファスト市にクィンビー博士(Dr. P. P. Quimby)という催眠術に堪能な人があって、催眠術でいろいろと実験をしているうちに、あまりにもみごとに催眠術の実験ができるものだから、これを病気治療に応用してみようということを思いたったのであります。もっともこれはクィンビー自身が当時医術では治らない病気で長年苦しんでいて、その病気でいつ死ぬかもしれぬと思っていたために、医術で治らない病気を治しうる方法があれば、さっそくやってみたいような気分が動いていたのであります。それで試みに数人の病人に催眠術を施して「なんじは神の子だから病気はない」という暗示を与えてみると、ずいぶん好い成績で治ったのであります。ところが催眠術というものは相手を眠らしてしまってから暗示をかけるのでありますが、自分の病気を治すには、自分を自分で眠らしてから暗示をかけるわけにゆかない。そこでなんとか好い方法はないかとクィンビーは考えだした――それでかれは催眠術というものの精髄は眠らすことにあるのではなく、「暗示」すなわち「言葉の力の応用」にあるということを考えついたのであります。それ以来かれは病人に催眠術をかけることなく単に患者の目を閉じさせておくだけで「暗示」すなわち「言葉」によって病気の観念をとり去ると同時に自己の神性を自覚せしめるようにし、人間は神の子であるから何ものにも支配せられるものではないという強い自覚を吹きこむようにしたのであります。これは催眠術からみれば一大進歩であります。催眠術では、自分自身以外のもの(催眠術家)に支配され征服されるという弱さの自覚から出発して病気が治るのでありますから一時は病気が治ってもこの弱さの自覚が、また次の病気を起こりやすくするのであります。ところが、こんど始めたクィンビーの治療は「人間は何物にも支配されない神の子だ」という自覚を言葉で吹きこんで治すのですから、人間の弱さという方面はスッカリうち消されてしまって、治ったが最後いよいよ自分が強くなり、健康だけにではなく、あらゆる方面に活動力をのばしうる根本的な精神的準備ができることになるのであります。
<つづく>

956復興G:2012/07/12(木) 01:37:05 ID:84pogn5s

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<第4回 WEB誌友会用テキスト(12)>

『生命の實相』 第1巻

  《實相篇(上) 光明の真理》 より(12)

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 クィンビー博士はこの原理を応用して自分自身の医学的不治症を根治すると共に、数百千の患者を治癒せしめたのであります。クィンビー博士を訪れて治してもらった患者のうちに世界的に有名な人が一人あります。それはメリー・べーカー・エディ夫人(Mrs. Mary Baker Eddy)で後にクリスチャン・サイエンスの創始者となったのであります。

 さて、このクィンビー博士の新治療法はどういうふうにするかといいますと、すこぶる簡単であります。博士の意見にしたがうと、病気というのは迷いの一様式であって、この原因の主なる一つは「病気は物質的原因で起こるという誤れる観念の遺伝」であり、また一部分は、「何か症状を感ずればただちにその病気になっていると思う一般の誤想」に基づくから病気をなおすには、病気の原因であるところのこの遺伝的の迷いを取り去り、そのかわりに、自己本来の面目、すなわち神の子としての完全な自覚を心の中へ「置き換えるようにすればよい」というのであります。それで実際的方法としては、クィンビー博士は患者の額に軽く手を触れてみずから精神を統一し、次のごとく厳かな口調でいうか、念ずるかしたのであります。「聖書にいわずや、神すべての創造(つく)り給いしものをはなはだ善しと観たまえりと。神は人間を神の相(すがた)に作り給いて、これに万物を支配せしめ給うたのである。だからなんじは健全である。神ひとたび善に作りたまえるものは何物の力をもってするも悪に変ずることはできない。神ひとたび健全につくりたまえるなんじは、何物の力をもってするも病に変化することはできない。なんじが今病気であるということは虚妄(こもう)の迷いである。迷いを去れ! 神は今もなお、なんじが健全で完全円満で一切の支配者であるのを観たまうのだ。」

 驚くべき森厳(しんげん)な口調が博士の唇から降りそそぐように患者の耳元に注ぎこまれると、いわゆる不治症といわれたものも、みるみるよくなってキリストの奇蹟もおそらくこのようであろうと思われたといいます。

 耳許(みみもと)でクィンビーがささやいた森厳なこの真理が病を治したのは少しも不思議ではないのであります。

 本来人間の病気を神がつくったものであるならば、人間がどんな方法でもってしても治るはずがないのであります。たまたま人間がなんらかの方法で病気を治すことができるというのは、病気というものの造り主が神でないからであります。ところが、宇宙万物は一元で一切の実在は神によって造られたのでありますから、神によって造られないものは実在しないのであります。「病気とは『無』の別名である」とクリスチャン・サイエンスの創始者エディ夫人が賢くもいっているのは真理であります。

 ここに注目すべきことはクィンビー博士が病気を治療するときに使った「言葉」とさきに述べた『般若心経』の意義とがぴったり符合していることであります。どちらも「真の人間」を自覚せよ、病気などは「無」の別名であるといっているので、仏教とキリスト教とはここにまったく一致することになったのであります。
<つづく>

957復興G:2012/07/12(木) 01:37:58 ID:84pogn5s

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<第4回 WEB誌友会用テキスト(13)>

『生命の實相』 第1巻

  《實相篇(上) 光明の真理》 より(13)

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   古神道で説く罪の意義

 ここでわれわれ日本人の祖先の宗教たる惟神(かんながら)の道(古神道)ではどういうふうに実在を観ずるかということを述べてみたいのであります。日本人は昔からいっさいの病気は罪穢(けが)れから起こるといって、ツミということとケガレということとを非常に忌みきらっているのであります。言霊学で解しますと、ケガレというのは「気枯(けが)れ」ということであります。「気」とは「霊気」であり、「生気」であり「真理」であり、「生命の実相」であります。仮に「気」が枯れるといいますけれど、われわれに宿っている「生命の実相」そのものは事実においては枯れようはないのでありますから、「生命の実相」が枯れるといいましても、本当は枯れているのではない、ただ枯れたようにみえているのであります。なぜ枯れていないものが枯れたようにみえるかというと、「生命の実相」を「迷い」が包んでいるからであります。実相を「包み」て実相の無礙自在な本性を隠してしまっているのであります。ツミとは、実は「積み」または「包み」という意味で本来あるものの上に、他のものが重なって本来のものの自由を妨げていることをいうのであります。すなわち、日本古神道でいうところのツミとは、要するに仏教でいう「迷い」にほかならないのであります。仏教では、病気になれば『大般若経』を読誦(とくじゅ)して迷いを去り、迷いが去ると障(さわ)りがとれて病気が治ったりするのであります。キリスト教では、前記のクィンビー博士一派やクリスチャン・サイエンス一派では「真理の黙念」ということによって病気を全癒せしめ、病気がほんらい神の創造ではなく、迷い、すなわち「無」の別名であるという証明をするのであります。日本では『天津祝詞(あまつのりと)』をあげたり、身禊(みそぎ)をしたりして、言葉の力と、水にて罪穢れを洗い浄めるという形式による暗示にてツミを去り、気枯れを去って、病気その他の禍(わざわい)を去り、「大生命」すなわち法身(ほっしん)の天照大御神(あまてらすおおみかみ)の分けみたまとしての完全円満なる「生命の実相」を如実に顕現するのであります。
<つづく>

958復興G:2012/07/12(木) 01:38:50 ID:84pogn5s

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<第4回 WEB誌友会用テキスト(14)>

『生命の實相』 第1巻

  《實相篇(上) 光明の真理》 より(14)

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  生命の実相を自覚すれぱ病気は治る

 このようにどの宗教においても「生命の実相」を自覚するという方法にて病気その他の禍をはらうのであります。だから「生命の実相」を自覚する方法ならば必ずしも何宗派の方式に則らねばならぬということはないのであります。そこに世界の主要宗教は一つの共通の真理――生命の実相は完全円満だという真理を指さしているのであって、伝道者にこの自覚が失われる程度にしたがって、その宗教に生命があるかないかのわかれる所以(ゆえん)があるのであります。「生命の実相」を真に自覚した伝道者が教えを説けば、どの宗教でも生きてきますし、「生命の実相」を自覚しない伝道者が教えを説けば、どんな良い宗教でも生命がなくなるのであります。よく既成宗教はだめだという批評を聞きますが、それは既成宗教がだめなのではない、それを説く人がだめなのであります。

 で、クィンビー博士の言葉の力で「生命の実相」を自覚させられて病気がなおるならば、それとまったく同じ意味の『般若心経』をあげて、病気が治らない理由がないわけであります。なかには、『般若心経』をあげて病気をなおす仏教信者もないことはありませんが、ごく少数である。これは失礼ですが「般若の智慧」によって実相を本当に解する仏徒が少ないからであります。むろん一字一句講義をさせれば、なかなか博学の名僧知識がありますが、たましいの奥底でその知恵がピッタリとは自分のものになっていない人が多いのであります。

 ご承知のとおり『般若心経』はもちろん、『大般若経』でも『涅槃経(ねはんぎょう)』でもなかなか現代語ばなれのした言葉で書いてあります。インドの言葉を支那の言葉に訳して支那の発音のままに棒読みさしてあるのですから、ふつうの日本人がその経を読んでも意味の解りようがないのであります。『仏教大辞典』などと首っ引きして読んでみても、それに説いてある「生命の実相」がなかなかつかめないのであります。

 どんな経典を読んでも「生命の実相」がわからなければ、蓄音器にお経が吹きこんであるのと同じでたいした効能はないのであります。現代人に「生命の実相」を解らすためには、もっと現代的に解りやすく説かねばなりません。「生長の家」はここに使命があるのであります。或る人は「生長の家」をもって、あらゆる宗教を現代化し実生活化したと評されましたし、また或る人は、一切宗教の尖端.をゆくものは「生長の家」であるとも評されました。これらの批評は読む人おのおのの見方にまかせておくとして、月々出ている『生長の家』誌および『生命の實相』を読むだけで病気のなおる人がある事実は何を意味していましょうか。これはこれらの刊行物には現代人にわかりやすい言葉で「生命の実相」が説いてあるからであります。釈迦が説いた真理、キリストが説いた真理、『古事記』や『祝詞(のりと)』にかいてある真理を実に平易にわかりやすく説いてある。それも単に学究的に説いてあるだけでなく一つ一つ日常生活に応用ができ、これによって真理を生活に織り込み、心に光明をたもち、生活に幸福を実現し、肉体を健康化して、わたしのように生まれつき虚弱な肉体であったもので、ふつうの人の二倍以上の仕事をして平然としていることができる方法が説いてあるのであります。わたしが思いますのに月刊の『生長の家』を本当に心読してくだされば、ほとんどどんな病気でも治ります。諸君の知人には何か慢性病で苦しんでいる人はありませんか。そんな人たちに月刊の『生長の家』誌や『生命の實相』の本を読むようにすすめてあげてください。はじめは「本を読むくらいで病気が治れば世の中に医者にかかるものはあるまい」とその人はいわれるかもしれません。しかし、そういう人にこそ強いても読ませてあげてくだされば、後になってきっとその人の病気が治って喜ばれるのであります。

 これ等の刊行物は初めから終りまでただ一つの目的――「真理」すなわち「生命の実相」を説き明かして、これを皆さんが覚ってくだきることによって肉体的にも境遇上にも健康になれるように苦心して編集してあるのです。ひとりびとりに治療法を施しているのでは、なかなか私の身体がなん百あっても世界の一切の病人を救うにはたりないのであります。それでわたしは真理を書いて読んでもらって、自然に読む人の病気が治るということを始めたので、本書もまた、その目的のために編纂されたのであります。

959a hope:2012/07/12(木) 07:51:39 ID:kJvHf4/g
人生読本 谷口雅春先生著

第十三章 詩の朗読による将来の運命の生かし方⑤


徳山さんはルンペンから一躍して、日本一の大きい料理屋の総支配人になったのでした。
また出世するような人は異(ちが)います。

恩を忘れず、感謝の心を失わないのです。
徳山さんは「自分はこの谷口雅春先生の『生命の実相』という本に出遇(であ)ったからこそ、
こういうふうに急に運命がよくなって、一躍こうした高い位置に置かれたのだ。
自分の心に言ってきかせて、自分の心の力でなったようなものだけれども、
心の力の使い方を教えて貰ったのは谷口先生である。一度先生にお会いしてお礼を申したい」
ということをいって私を招待されましたので、或る日私は京都の石川貞子さんと一緒に「味の美松」を訪れました。

徳山さんは、広い「美松」の食堂の南洋風景を真似て棕梠竹(しゅろちく)などを植えた静かな片隅(コーナー)へ
私達を連れて往って、私たちに珍しい料理を御馳走してくださったのち、
「先生、私にあの詩の朗読をさせてください。私は、あの詩を先生の前で歌って先生きいていただきたいのです」と言って、
黒革表紙の聖書型の『生命の實相』の本を披いて、あの「夢を描け」の私の作った詩を私に朗読して聴かせてくださいました。

徳山さんの朗々として澄み切った詩の朗読の声は、南洋の島の一遇かと思われる室(へや)の隅に、
まるで別世界の空気のような韻(ひびき)を立てて広がって行きました。

私は、私の書いた詩がこんなに力強い、そして美しいものであるということを、
徳山さんの朗読によって初めて知らされたのでした。私は恍惚(うっとり)とそれを聴いていました。

皆さんもこれを聴いて希望と勇気を奮い起してください。
徳山さんの歌う声!


夢を描け

若きと老いたるとを問わず
兄弟よ、夢を描け、
蜃気楼よりも大いなる夢を。
夢はあなたの肉体を超えて虚空(こくう)にひろがり、
ひろくひろく宇宙にひろがる雲となって、
あなたをより高き世界へ
あま翔けらす大いなる翼となるであろう。
…………
あたなの心は夢をえがくことによって
天地をつくった偉大なる心と一つになるのだ。
兄弟よ、
悲しみに打たれるな。
打たれても起き上がれ。
描いた夢が破れても
あなたはまだ夢を描く自由はあるのだ。
自分にはまだ偉大な力が残っていると想像せよ。
夢を描くものにとっては
この世界は常に新天新地である。
…………

詩はまだ続くが、ここにはこれだけしか書かない。
詳しく知りたい人は、私の著書『ひかりの語録』
(『生命の實相』愛蔵版では第十巻、頭注版・携帯版では第ニ十巻に収録)を読んでください。
そして言葉の力で心に言ってきかせた通りに運命をよくしていただきたいものです。

(第十三章 終り 次回から、第十四章 表情動作の生かし方 へ)

960「訊け」管理人:2012/07/12(木) 11:47:31 ID:???


 合掌、ありがとうございます。

 さて本日は「榎本恵吾先生のご命日」であります。そこで以下記事を、作成させて頂きました。諸賢に於かれましては、ご高覧頂きたく思う次第であります。

○2012.7.12 「今日も使命は元気です!」――恵吾先生、ご命日に
http://blog.livedoor.jp/con5151/archives/65673245.html


 さて榎本先生ですが、幾度となく私を救ってくださいました。

 ・・・・・・あれは信仰5年目を前にした時期でしたがやはり、私はなにか、信仰に対してマンネリ化を覚えていた時期があったように思います。それを救ってくださったのが、恵吾先生でございました。さて、このマンネリ化とはなにか――なにかこう、雅春先生の御本を拝読していても「信じられない」という時期、皆さんにもおありかもしれません。あの頃の私はまさに、そんな時期でした。
 事業経営の世界では現象、これを無視することなど出来ません。そしていつの間にか五官に瞞着されて、自分を見失ってしまうものです。曰く「雅春先生は『気にするな』とおっしゃられるが、実際は・・・」とか、「実相はスゴイんでしょうよ。でもネ、現実はね・・・」とか、そんな屁理屈をこねて仕舞い勝ちな時期、これが私にはありました。恵吾先生に出会う直前の時期がそう、なのでありまして連日、「もっともっと聖典拝読して(=自力で)」「なんとか現象を良くせねば」と、モガイテいた時期だったのです。でも、(聖典誤読の)私がなんとか乗り越えられたのは、榎本恵吾先生のお陰なのでございました。先生は私にこう、言われました――「喜んでいいのですよ!」と。

 「実相は、自分で『出てこよう出てこよう』としているのですよ!」「それくらい素晴らしいのが、『実相』なのですよ!」「実相がそれくらい素晴らしいものじゃなかったら、ウソじゃないですか!?」「雅春先生がただ『実相』とだけ、ご揮毫された意味が解らないでしょう!?」と・・・・いやたしかにそう、書いてありました。『生命の實相』にはそう、書いてあるのです。ですが私は恵吾先生、この方からこんなご指摘を賜るまでこの事実――「実相の素晴らしさ」に気づけずにいたのでした。あの時期、恵吾先生との出会いがなかったらいったい、現在の私はどうなっていただろうか・・・・
 この、恵吾先生との出会いも実相、この有難い真理が自動的に顕現したものだったのでしょう。「実相は、自分で『出てこよう出てこよう』としているのですよ!」「それくらい素晴らしいのが、『実相』なのですよ!」そんな恵吾先生のお気づきに本日も、救われている私です。

 さて、7年前の本日、同先生は卒然として神界へと旅立っていかれました。そこで本日7月12日、皆さまと一緒に恵吾先生のご文章を拝読できましたら、幸いであります。そして、皆で一緒に唱えませんか?「実相は、自分で『出てこよう出てこよう』としているのですよ!」「それくらい素晴らしいのが、『実相』なのですよ!」と。



961 志恩:2012/07/12(木) 12:01:48 ID:.QY5jUA6
訊け管理人様

訊け様ブログに、本日は、榎本恵吾先生の記事を掲載して下さって,ありがとうございます。
よく命日を覚えておられましたね。
あの日から はや7年経ちましたか。合掌

962商人:2012/07/12(木) 12:24:02 ID:TCt66b8E
私の尊敬する訊け管理人様

すばらしい文章をありがとうございます。

 私も小さい会社ですが事業をを預かっております。

私も「なんとか現象を良くせねば」と毎日もがいております。
 神経衰弱になるくらいです。笑
勉強が足りず苦心しております。

そんな時に訊けブログで元気を、いや、パワーをもらいます。

ただ、感謝感謝です。
あまり時間がないので榎本恵吾先生の動画を少し見させていただきますね。

商人

963SAKURA:2012/07/12(木) 13:01:30 ID:4dkLkzV2
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
こんにちは…  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。

毎日〜〜「日々の感謝!」をする事で、更に!毎日聖典に“ライティング”します事は?
それだけでも、リズムが出来て来ます〜〜〜ネ!ですから「不思議な現象」かしら〜〜〜ン!
今日も又「テキスト…」を、片手に勉強会です。【神との一体】に〜〜〜では、開きま〜〜す!!
今日の“言葉”を〜〜ヒラ〜〜ヒラ〜〜ヒラ〜〜と〜〜♫〜〜♫

■【幸福を招く365章】
―――――「迷い」はどうしたら消えるか―――――
心の「迷い」を無くするには、「迷い」を捉えて破壊しようと力む事は要らないのである。
それは却って自分の心が「迷い」を掴むことになって益々大いに「迷う」ばかりである。
「迷い」を無くする唯一の道は、心を「迷い」から一転せしめて、「人間」の本来完全
なる相(すがた)を見詰めるようにすれば好いのである。自分の病気を癒すには、
自分の病気を見詰めないで、自分の実相の完全さを見詰めれば好いのであるし、他の
病気を治すには、彼の病気を治そうとか、病気をどうしようとか思わないで、ただ
彼の完全さを見詰めれば好いのである。全世界の人々が、ただ他の善のみを見詰める
ことにすれば忽ち平和はくるのである。

自分が祈る力や、自分の思念力によって不幸や病気を退散せしめようなどと思っては
ならないのである。われわれが善き言葉で祈り、善き想いを想念したならば、あとは
神が成就したまうのであると知らなければならないのである。それは種を蒔くのと同じ
ことである。善き言葉又は善き想念を述べることは、大宇宙の創価力の沃地に、善き種
を蒔く事になるのである。その種を育て生長せしめたまい実を結ばしめ給う力は神に
あるのである。吾々は自分の力で、蒔いた種子から茎や葉を引張りだそうなどと
考えてはならないのである。「吾れはただ善き想念の種子を蒔く、これを育てたまうは
神のちからである」と念じて、静かに神に全托せよ。(谷口雅春著)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆

■「病気…」で例えますと、その人自身が「甘露の法雨」聖経のみしか治らないと〜〜〜
【固定観念…】が、あるのではないかしら〜〜ン!しかも、それで“治った”のですから〜〜〜
益々!【固定観念…】飽和状態の【脳回路…】なのでしょうか…?
■■【こうせねば〜〜〜ならない!!】と同じ事と思います。【限定…】と同様ではないのですか?

■例えば、“モノ”で言いますと、先日“パ−トナ−”の家に行きました…。
彼女の父親は、今でも「圧力鍋」で“ご飯”を炊いています…。前回!彼女の家に行きますと…
なんと〜〜♫〜〜「玄米が30kg…二袋」あり、今迄は、「玄米食」でしたが、
今回“病気”になり、医師の指示にて「白米食」になりましたが〜〜〜><
何と〜〜〜「玄米が○○kg??〜〜も」ありまして、それを見て【精米機】を、買う事を以前より
進めていましたが…本当に何度も!何度も!言っても“受け入れない”ので〜〜〜す。【固定観念】
どうかしますと、まだ〜〜〜〜玄米に???と見えまして、とりあえず【玄米を3kg…】持って
帰り、自宅の【精米機】で白米にして、送りましたら〜〜〜もう!!「美味しかった〜〜!」の一言!
                 <つづく>           NO.1

964SAKURA:2012/07/12(木) 13:03:32 ID:4dkLkzV2
                <つづく>           NO.2 

>>963投稿より続く
■■>「迷い」を無くする唯一の道は、心を「迷い」から一転せしめて…<、

■その後!!何と〜〜〜何と〜〜〜♫〜〜この「迷い」??本当に!【一転…】でしょうか!!
【精米機…】を、ネットで買って欲しい〜〜〜との“電話”でした…。更に!私は〜〜〜><
「圧力鍋」でご飯を炊いていますから〜〜〜時間のロスが“大変”に思えますので〜〜〜><
「電気釜…」を進めましたが〜〜〜また!いつもの様に【固定観念…】があり受け入れないのです。
“パ−トナ−”の父親にしますと【電気釜より圧力鍋】で炊く方が“オイシイ!と言う【固定観念】
がありますが〜〜〜><“食”しますと、“ご飯”が膨らんでない!さら更に!私にしますと…
“美味しくな〜〜い”のですモノ!−−>
【強硬手段!!】で“パ−トナ−”とまず【電気釜】を購入してから、良くなければ“事務所用”に、
思いを胸に〜〜〜♫〜〜〜また【再度!!電気釜】を進めましたら、とりあえず「買入してとの事」
早々“注文”しまして、荷物が来て、再度“パ−トナ−宅”へ…ゴ―サイン!!
次の日に彼女の実家に行きまして【精米機・電気釜の使用方法】を教えて、精米したてのお米で、
ご飯を炊き、一緒に“夕食タイム”しましたら〜〜〜何と“パートナー”の父親は“オイシイ!”と
実に!嬉しそうに〜〜〜“ご飯”を〜〜〜

■その後“パ−トナ−の弟さん”が来て、また【固定観念】があり…また!同じ繰り返しですが?
同じ様に、父親が説明したのかしら〜〜ン!そうしますと“弟さん”も認めてくれて〜〜〜

■その様に【病気…】も【甘露の法雨…】でしか“ダメ”との【固定観念…】がありますと〜〜〜
“病気…”でも治りにくくなりそう〜〜〜なのですが??如何でしょうか??
さて!【新しい聖経】でも、同様な事があり、
■■是は当時の【一般信者】が、これがいいと云った【念の波動の動き】でしょうかと??
私は、それに“気づき”今は【新しい聖経??】を読んでみておりますが〜〜〜?
しかも【仏壇の前…】で読んでいますが?「御先祖様…」も納得している様です。(一言説明して)
これも、読んで行きます内に「良い事」が起きて来ますと〜〜〜!
【蒔いた種の奇蹟…】の始まりになる様にも思います…。
「甘露の法雨」は。実に“素晴らし〜〜〜い!”のですが……><よ〜〜〜く考えて頂きますと!
■■現在【甘露の法雨…拝読】しても、【生長の家…派閥論争】でしょう〜〜〜><
しかも?しかも?【水面下では長〜〜〜い間】ですモノ??
果たして!!【甘露の法雨…功徳?】ありますでしょうか?■神は調和したところにしか…!!

従いまして…現在の私は…「ケ−ス・バイ・ケ−ス」で、【二つの聖経】をして行きます。

■■「吾れはただ善き想念の種子を蒔く、これを育てたまうは神のちからである」と
念じて〜〜【静かに神に全托せよ!実行開始!!全開!!START ME  UP! GO…!】

                                     再合掌

PS:トキ様 へ
>自分が祈る力や、自分の思念力によって不幸や病気を退散せしめようなどと思っては
ならないのである。われわれが善き言葉で祈り、善き想いを想念したならば、あとは
神が成就したまうのであると知らなければならないのである。<(一部抜粋)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆
善き想いの「想念」は、本当に…「引き寄せの法則」にて…それなりの結果が??
現われるのではないでしょうか?
【新…長編詩?】に【法則…】と云う“言葉…”が、書かれてありましすが…
此の“法則”に準じますと?【善き想念の種…それなりの結果が】と思います…。
そして、現代版の表現で“解釈”しやすいのでは〜〜ないでしょうか?
トキ様は?どの様に感じられますでしょうか【固定観念…】

PPS:更に「電気釜」一つでも選択するにしても?その人の“知識能力”になります〜〜〜ネ!
今回!とても〜良い“買い物”をさせて頂きましたが〜〜〜!! ウフフ“自己満足☆☆☆☆☆”

965 志恩:2012/07/12(木) 13:10:57 ID:.QY5jUA6
皆様すみません。私も、ここへ 先ほど 会話の書き込みをしてしまいましたが、
ここは、聖典板ですので、
会話は、今後,部屋板の方で、させていただきましょう。
そうでないと、WEB誌友会のために謹写して下さいました復興G様の944~958が、奥へ行って
しまって見えなくなってしまいますので、よろしくお願いします。

966再掲示:2012/07/12(木) 13:15:24 ID:???
雅宣先生の本を読み、祈りのことばを誦えるということは、心のバランスを壊すということになります。なぜか読みたくない、祈りのことばがしっくりしない、そうあなたはまだ正常です。これからは読まないこと、誦えないことが賢明と思われます。しかし、現教団組織にいるとむりでしょうね。もし、「生命の實相」24巻をお持ちでしたら88p〜99pをお読みください。きっとその原因がわかるとおもいます。

「生命の實相」24巻88p〜99pより抜粋
 「現象なしの自覚について」

 「現象はない」という言葉をわたしが使うようになるには霊感的な導きはありますが、わたしとしては人間的にもよほど苦心したのであります。

  かくのごとく「無」の字は竣効を有するので、生長の家では、それが人間に働きかけて、生命を生かすので、有効無害の働きをするように、文章中に巧みに他の言葉と混ぜて調合してあるのです。「無」の字、「ない」という言葉は、生長の家の発明でも発見でもありません。釈迦の昔からある言葉ですが、生長の家の独創的なところは、「無」の字、「ない」という言葉を文章全体の中に織り込んであるその織り込み方にあるのであります。
  この織り込み方はわたし独特であって、わたし独特のインスピレーションによって書いてゆくので、誰にも真似はできないのであります。だから、今までお経を読んでも聖書を読んでも治らなかった病気でも、その同じ眞理が説いてある生長の家では、聖典(生命の實相)を読んだり話を聴いただけで病気が治るのであります。

  近ごろ、生長の家思想の有名なると効果の顕著なるにつれて、その全体の思想を踏襲して、包装や名称だけを加えて、一旗あげてみようとし、かつあまり同じことを書いても受け売りであると一見わかるので、同じ意味を異なる文章で書き表し、「何々会」等という別意の名称で雑誌などを出される方がありますが、そういう雑誌の文章は「無」の字の言葉の調合法がちがうので、わたしの処方した「言葉の鉄剤」に「茶々」を入れることになります。茶々を入れられるとその人の心のうちで、「無」字のバランスがこわれるので『生長の家』を読んで万事好転していた人がその種の雑誌を併用したために「無」字の鉄剤の吸収率が鈍ってふらつく人があります。そうしてその種の、雑誌の現象はあるとかないとか論じてある文章を読んだ日には、心のバランスが破れてなんとなく不安で、会社にいても思うように仕事が運ばなかったり、集金が集まらなかったり、ついぞ起こらなかった歯痛が起こってきた人などもあります。
 「無」を説くのは仏教でも、一燈園でも説いている。キリスト教でも解釈の仕様によれば「無」を説いているのです。生長の家と、それらの宗教とどこが違うかと言いますと、「無」字の扱い方が「ない」と易しく言いきって、その「ない」がわたしの文章全体の流れの上に巧みに効果的に織り混ぜられていて、古今に多く類例を見ないような、読む人のこころに端的に作用して、病を即座になおすほどに心の開放を与え、「無」を説くとも隠遁的にならず、かえって積極的な活動力を与える点にあるのであります。

967神の子さん:2012/07/12(木) 13:26:27 ID:???
>>思想を踏襲して、包装や名称だけを加えて、一旗あげてみようとし、かつあまり同じことを書いても受け売りであると一見わかるので、同じ意味を異なる文章で書き表し、「何々会」等という別意の名称で雑誌などを出される方がありますが、
そういう雑誌の文章は「無」の字の言葉の調合法がちがうので、わたしの処方した「言葉の鉄剤」に「茶々」を入れることになります。茶々を入れられるとその人の心のうちで、「無」字のバランスがこわれるので『生長の家』を読んで万事好転していた人がその種の雑誌を併用したために
「無」字の鉄剤の吸収率が鈍ってふらつく人があります。そうしてその種の、雑誌の現象はあるとかないとか論じてある文章を読んだ日には、

心のバランスが破れてなんとなく不安で、会社にいても思うように仕事が運ばなかったり、集金が集まらなかったり、ついぞ起こらなかった歯痛が起こってきた人などもあります。>>

能力も霊感もない人が「補強する」とか「ニューバージョン」と言って行っていることはつまり、雅春先生に「茶々」を入れているだけなのです。
くれぐれも体調を崩さないようにおきお付けください。 SAKURAさまへ

968うのはな:2012/07/12(木) 14:44:29 ID:gTn97m6I
 訊け管理人さんのブログでも拒否を表明してきましたが、私は「雅春先生に訊け」
ブログを、昔からこまめに見ているほうではなく、今後も毎日みるとは限りません。

 もしも、私の文の引用や投稿記事の無断転用を発見された方は、こちらまで
通報おねがいします。

969うのはな:2012/07/12(木) 15:39:34 ID:gTn97m6I
 『続 生命医療を求めて』 内科医 内田久子 先生著

 『我が内なる゛自然療能博士』 その一“熱さん、ありがとう”

 私が過去に四十度の高熱が続いた時、往診の先生が解熱剤を注射されると、暫くして、多量の発汗と
共に熱が急降下して三十五度になったのですが、深夜から再び悪寒戦慄がきて四十度に上昇、翌日又注射
されるといったことが何日も繰り返した挙句、とうとう心臓衰弱を起して緊急入院となりました。
意識もうろうとしている私の枕元で、「どこの医者が解熱剤を注射したのだ!熱型をくずすとはけしからん。
熱は出しっぱなしにするのがよいのだ。体が必要にして出している熱を、解熱剤で無理に下げると、心臓を弱らせてしまうから
却って危険なのだ!!」と、どなっておられる院長先生のお声にハッとしたのです。
これは敗血症で重態になった時のことでした。

このことは、私がかつて阪大第二内科へ入局した頃、教授が病棟回診の途中で、
「病気の治癒過程に、必要にして出ている熱を、理由もなく解熱剤で抑えることは、
絶対してはいけない」と、医局員たちに何度もご注意くださったことですが、この時再び耳にし、
改めて「発熱の意義」を自分の苦しい体験を通して知らされたのです。

 後に、肺炎や気管支炎、胆嚢炎その他の感染症で高熱のため入院された患者さんや家族の方々には、
このことをよく説明しますと、それまでの心配や恐怖感が去って、とても安心して過されます。
実際、三十八度以上の熱が出ますと、ビールスや、抗生物質の効かなかった耐性菌でも、この高熱や肋骨炎の胸水のかげも消え、
微熱がいつまでも続くというようなことは全く起りません。
この際、高熱が一日で下がるのではなくて、翌日には又上昇しますが、図1の如く、熱の頂点が前日よりはやや低く、翌々日は又、熱が
上がりますが、前日よりはやや低い、といった様に、「階状下降」の形をとるのが自然解熱の特徴であります。
 中略〜

 手術した後や、脳出血の発作後しばらくして出る熱も同じく「吸収熱」であって、病気や手術した所が順調に治りつつあることを示しています。
入院患者さんには、一応感染予防として抗生物質の点滴注射はしますが、このような理由から解熱剤は一度も使用したことはなく、みなさん順調に回復なさいます。
私達の体にはこのような不可思議な生理作用が様々な形で営まれていますから、発熱の原理も正しく理解していますと、一見悪く見えるような症状でも実は、生体の自然治癒現象の一つで
ありまして、「熱さん、ありがとうございます」と、『我が内なる“自然療能博士”』の妙なる御働きに感謝して、お托せすると、安心して治る迄の時期を待つことが出来ます。

970ハマナス:2012/07/12(木) 23:50:08 ID:Z7K9Z3Eg

神の子のみなさま
こんばんは。前線の影響で、九州では、記録的は大雨が降り、全国的に雨になっている
ようで、こちらも方も雨脚が強くなってきました。皆さまの所は、大丈夫ですか。

幸福への精神的導火線  (『新版 生活の智慧365章』P.201より)

 あなたの受くべき運命を「最高」のものとして想像せよ。而してその「最高なるもの」
が自己に近づきつつあると信ぜよ。毎日毎日自分は一層幸福になり、一層健康になり、
一層繁栄に向かいつつあるのだと信ぜよ。この明るい精神の根本的態度があなたを今より
もいっそう幸福に健康に繁栄に導く、精神的導火線を築くことになるのである。毎日毎日
神の最高の智慧が自分をみちびくのであると信ぜよ、かく信ずることによってあなたの
精神は一層多く神の智慧に波長が合い、神の智慧を一層完全に受信することができるので
ある。

 神と自己との分離を想像してはならない。つねに神とつながり、神に護られている自覚
を持っていなければならない。自分自身を自分の想念によって自己縮小してはならない。
常に「自分は神の子である」と云うことを黙念して自覚を強め、もって、自己強化をはかる
べきである。

感謝合掌

971a hope:2012/07/13(金) 09:04:57 ID:kJvHf4/g

人生読本 谷口雅春先生著

第十四章 表情動作の生かし方

動作を丁寧に、表情を深切に


運命をよくするには常に良い言葉を使い、身体の動作を深切丁寧にしなければなりません。
丁寧にお辞儀をしたら損するとか、自分が相手より下のものだと思われて恥ずかしいとか考えるのは間違いです。

世の中の人は、表情や身体の深切丁寧にする人をかえって、「あの人は偉い人だ」と誉めるのです。
これに反して「あいつは馬鹿だ、ろくろく言葉の使い方も知らない、お辞儀をする術(すべ)も知らない」
と言って人から軽蔑せられるのは、言葉の使い方のぞんざいな人や、身体の動作に深切があらわれていない人です。

こんな人の運命はよくなりません。
こんな店員や社員を使っている店や会社は繁盛いたしません。
繁盛するには社員店員の訓練を怠ってはなりません。

(つづく)

972ハマナス:2012/07/14(土) 00:41:32 ID:Z7K9Z3Eg

神の子のみなさま
こんばんは。
Web誌友会素晴らしいですね。皆さまのご投稿拝見させて頂いています。

今ある恵みに感謝する  (『新版 生活の智慧365章』P.202より)

 既に求むるものを受けたりと云う信念から衷心(ちゅうしん)からの情熱的な感謝をする
ならば、奇跡的にその求るものを得ることができるものである。「実際に求むるものがまだ
現実にあらわれて来ていないのに感謝出来ません」と言う人が往々にしてあるけれども、
これは大変間違った考え方なのである。

 先ず、既に与えられている無数の恵みについて感謝せよ。空気、日光、住宅、衣類、家族、
食物、健康等既になくてはならぬ多くのものを与えられているのであってその事実に対して
感謝せよ。病人は、「まだ健康を与えられていないのに感謝なんど出来ません」と言うかも
知れないけれども、全身病の人は殆どないのである。肺臓が悪くてもたぶん眼は見えるし、
耳は聞こえるであろう。手足も動くであろう。たとい盲人であっても食物はたべられるで
あろう。感謝すべき点をさがしたら無数にあるのである。感謝すべき点を探し出して感謝せよ。

感謝合掌

973a hope:2012/07/14(土) 07:28:41 ID:kJvHf4/g

人生読本 谷口雅春先生著

丁寧な動作の癖をつけるには


子供に限らず、大人でも頭を下げることを屈辱(はずかしいこと)のように思っている方がありますが、
そんな方は一度自分の全身が映る鏡の前に立って、にこやかに微笑して丁寧にお辞儀して鏡の中を御覧なさい。

どのくらい自分が上品に気高く立派に見えましょう。
こんな自分なら尊敬してよいと、我ながら自分が好きになるでしょう。

その次に、今度は、いやいや無理にちょっと頭を下げた時のことを想出(おもいだ)し、
その時の気持ちでぞんざいにちょっと頭を下げて、その映る姿を鏡に映して御覧なさい
―――自分の恰好がどんなに不快な気持ちの悪い様子である事が判りましょう。

我ながら、「こんなキザな格好をする奴は嫌いだなア」とお考えになるでしょう。
あなた自身すら「嫌いだなア」とお考えになるくらいなら、他(ひと)から見たら一層嫌われるにきまっています。
そんな人から嫌われるような店員のいる店は繁昌(はんじょう)しません。

皆さん、「ああ、あの人は上品で気高くて深切だ、尊敬したくなる」
というようなお辞儀の仕方や身体の動作を鏡の前で稽古しておいて、
その気持ちを忘れないで、人を出迎え、物言う時に、その通りに丁寧深切になさいませ。

店主から誉められ、その店は栄え、皆さん自身も出世します。

店でも会社でも自分の家でも同じことです。

善いことをするのは決して恥ずかしい事ではありません。

(つづく)

976うのはな:2012/07/14(土) 14:32:06 ID:gTn97m6I
管理人様

 上記 974、975、今のこの投稿の削除をお願いします。
 お手数かけて申し訳ありません。

 拝

977ハマナス:2012/07/15(日) 00:27:08 ID:Z7K9Z3Eg

神の子のみなさま
ありがとうございます。

神に、家族同僚 等に感謝する (『新版 生活の智慧365章』P.203より)

  身辺の全てのものに感謝すると共にそれらの恵みを与えたまうた神に対して感謝せよ。
「ああ神の造りたまいし此の世界の妙なるかな! 無限の智慧に充たされてあるかな! 
無限の愛に充たされてあるかな! 無限の生命に充たされてあるかな! 無限の供給に
充たされてあるかな! 無限の調和に充たされてあるかな!」と讃嘆の神想観を行うとき
には神に対して最大の感謝を捧げていることになっているのである。また暇がある毎に
「神さま、有りがとうございます。と感謝の言葉を黙念するのもよい。

 神に感謝したならば次に気分の家族、勤め先の先輩同僚その他のメンバー等にも感謝
すべきである。感謝を黙念するだけではなく、言葉にあらわし態度にあらわすときは
周囲と一層調和してよい結果が得られるのである。

感謝合掌

978SAKURA:2012/07/15(日) 03:16:13 ID:V.pKl3yA
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
こんばんは…  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。

「WEB誌友会」…いろんな考え方が、あるのです〜〜〜ネ!
どれが“正しい”のかは、それは「神様」だけが、一番ご存じでしょう〜〜〜かと?
今日は、つくづく思いましたが〜〜〜><その中で、やはり【生活に実践をする事!】優先にと!!
「今を活かす事」が、当然「他人を活かす事」と私は、自然に思えるようになりましたら、
別の先生がそのような事をおっしゃっているとの事???でも【私自身の真理…】は、
それも【今を活かす事…】でしょうか〜〜〜♫〜〜〜【活かす=生かす事】です〜〜〜モノ!
では!只今より〜〜〜“今日の項目”を開けます〜♫〜

■【幸福を招く365章】
―――――神の啓示をわれ受けて――――

無限の智慧なる神を信じ、その神より啓示来たることを信じ、それに従うことによって、
神のみ心を地上に実践し得るものなることを信じ、神のみ心を地上に表現することによって、
地上の人類が等しく幸福となり、同時に個人も幸福になり寿福おのずから兼ね備わるのである。
この信念の中核を成すものは「われ神の子なり」の自覚である。「われ神の子なり」の自覚を
中心として、無限の神智は流れ来り、神との一体感によって、神の智慧と一円融によって行動
することが出来るのである。「われは神の子であるが故に、神の智慧はわれに流れ入りて、
わが一挙手一投足を導きたまうのである。われは事毎に成功し、無限の繁栄は必ず流れ入り
来るのである」神想観中に斯くの如く念ぜよ。神想観中「なまくら」である勿れ。
真剣であり誠であれ。
                              (谷口雅春著)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆

■神を信じる事は、自分を信じる事…!自分を信じる事は、私の【心の扉…埋蔵の入り口】…
入口は“天国の門”…
神を信じる“心”は、果たして「天国の門も、広き門」なのでしょうか〜〜〜??

■私は「神の子」と〜〜〜自然に自ずと“心”から湧きあがるようです…???

■私の“心”が自ずと“潜在意識”に入って行く過程に於きまして…自ずと【意識…】に、
繋がって行くモノではないでしょうか!!
今日から、もっと“心を強く”鍛えていこうと思います…。
どんな時も、私を起す“原動力”は、【私は神の子ですモノ??】この自覚と…『神との一体感』!
今日から、更に〜〜〜〜〜力強く「実践中」なのです!!
                                  再合掌
PS;トキ様へ
【神想観中「なまくら」である勿れ…】此の言葉…痛烈に“痛い”ですモノ??どうしても、
“意識集中”出来ない様な精神力の時は〜〜〜〜〜><
きっとその時は【天国の門】叩けないのかも知れませ〜〜〜〜〜ンネ!
トキ様は、この事はどの様にお考えでしょうか???“アドバイス”頂けますと幸いです…。

979a hope:2012/07/15(日) 09:53:41 ID:kJvHf4/g

人生読本 谷口雅春先生著

玄関番が大切です


玄関番ぐらいだから、出来の悪い人をおいて差支えないと思う人があるかも知れませんが、
会社商店の玄関番に言葉動作の不丁寧な人を置くほど損なことはありません。

会社商店の玄関は人間にすれば顔です。
顔に墨を塗って人に面会する人はないでしょう。

訓練の足りない給仕を玄関に置いて初めての人に会わせるのは、
顔に墨を塗って人に会うのと同じことです。
店の信用を墜(おと)とし、会社の信用を失います。

給仕ぐらいだから、言葉遣いやお辞儀のしようはどうでもよいと思っていてはなりません。
そんなことでは給仕はつとまりません。

私はこれまでいろいろの種類のいわゆる偉い人にも会いましたが、
そんな人ほど言葉が優しく、お辞儀が丁寧です。
なるほど偉くなる人は異(ちが)うものだと感心いたしました。

(つづく)

980a hope:2012/07/16(月) 09:53:50 ID:kJvHf4/g

人生読本 谷口雅春先生著

一寸(ちょっと)したことで人間の運が変る


世の中には学問も良くでき、立派な才能を有(も)ちながら、運が悪くて、
勤め先をあちらへ更(かわ)り、こちらへ更り、しまいには落ちぶれて働く先もなくなるような人があります。
そんな人はたいてい、気が短くて、言葉使いに深切がなく、身体(からだ)の動作に礼儀正しさのない人です。

礼儀作法は女だけの習うものではありません。
礼儀作法は男にも必要です。

人間の値打ちを智慧や学問ばかりにあると思うのは間違です。
尚それよりも態度の優美ということは、何よりも必要な人間の値打ちです。

最初はどういう態度が美しいかは、鏡を見て稽古をなさるのもよろしい。
どの程度に微笑する事が相手に気持ちのよい感じを与えるか、
十分研究して置いて相手に快(よ)い気持ちを与える稽古をなさい。

「そんな詰まらないことを研究するよりも、本を読む方が偉くなる」とお考えになるかも知れません。
しかしあなたがいくら偉くなっても、姿態(かおかたち)はあなた自身の玄関のショーウインドウーです。

ショーウインドーが埃(ほこり)だらけでは、いくら家の中に上等の品物があっても、
中まで入って買ってくれないでしょう。
あなたの中味の値打がどれほど偉くても、言葉態度が下手では、その中味は値打ちを出す時が来ないのです。

中味はどんなにおいしい御馳走でも、泥にまみれたら誰でも食べ手がないでしょう。
せっかく立派な才能(ちえちから)をもちながらも、言葉態度に深切丁寧さがなくては、
せっかくのよい御馳走を泥まみれにして出すのも同じことです。

これではどんなに才能ある人でも立身出世はいたしません。
これではどんな中味の立派な店でも会社でも繁昌いたしません。

(つづく)

981a hope:2012/07/16(月) 12:36:23 ID:kJvHf4/g

「罪の自覚と贖罪の観念は人間を不幸に導く」

清貧礼賛の心に密接に関係しているのは、「罪」の観念であります。「罪」は苦しまなければつぐなうことができないというのが人類の通念でありまして、この人類共通観念のために罪を浄(きよ)めるための自己処罰の一方法として、多くの人々の潜在意識は、自己に自己処罰の一形式として貧乏、病気、不幸、災難等を導き出すのであります。

わたしは『生い立ちの記』(本全集第十九・ニ十巻)にありますように、青年時代に大本教にいて、その機関雑誌や機関新聞を編集していたのであります。今は大本教は愛善園といって、生長の家で「万教帰一」という所を、「万教同根」と称し、各宗教と調和していく教えに転向しているようでありますが、当時の大本教は、その教祖の筆先にも「地震雷火の雨ふらしてたいらげるぞよ」とありますように、神さまの気に入らぬもの、罪あるものなどに対してははなはだしい威嚇的な神罰宗教であったのであります。しかもその最後の審判において、罪ある者が地震雷等々の天災地変で皆殺しにされる日、大正十一年五月五日には、すでに‘みろく’の世が来るというので、その直前に罪人一掃的な一大天変地変来るのだという予言になっていました。わたしは目の前数年のうちに迫るこの最後の審判の日に生き残ることができるほどに罪をきよめておきたいと、ある時は断食し、ある時は水行をし、ことさらに貧乏をもとめていましたが、断食や、水行や、貧乏では罪の消える感じはどうしても起こらないのでありました。

一体、罪はどうしたら消えるのであろうか。罪とはいかなるものであろうか。罪の本質やいかんなどと、大本教の神さまによって、日限きって予告された最後の審判の日を前にして、真剣に考えずにはいられなかったのであります。そして遂に神罰の神を否定してしまい、神は愛であり、善であり、すべてのすべてであるから、罪というものを神は造らないのであるから、罪は存在しないのであるという一大真理に到達した結果、今まで罪をつぐなわんがために自分を自縄自縛して苦しまなければならぬというその考えが、潜在意識からのぞかれることになったのであります。その結果「貧乏でないと天国へ行けない」というような潜在意識がわたしの心の中からのぞかれ、わたしはやっと広々とした世界に出たのであります。それとともに、その今まで一文の印税も原稿料もとれなかったその本を十五年も後になって出すと、数十万部も売れて、わたしに無限供給の豊かな生活がじつげんするようになったのであります。……

「頭注版「生命の實相」第8巻P138 3行目より」

982SAKURA:2012/07/16(月) 14:38:10 ID:EUALcDkQ
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
こんにちは…  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。

「WEB誌友会」…いろんな考え方が、あるのです〜〜〜ネ!
どれが“正しい”のかは、それは「神様」だけが、一番ご存じでしょう〜〜〜かと?
今日は、つくづく思いましたが〜〜〜><その中で、やはり【生活に実践をする事!】優先にと!!
「今を活かす事」が、当然「他人を活かす事」と私は、自然に思えるようになりましたら、
別の先生がそのような事をおっしゃっているとの事???でも【私自身の真理…】は、
それも【今を活かす事…】でしょうか〜〜〜♫〜〜〜【活かす=生かす事】です〜〜〜モノ!
では!只今より〜〜〜“今日の項目”を開けます〜♫〜

■【幸福を招く365章】
―――――神の啓示をわれ受けて――――

無限の智慧なる神を信じ、その神より啓示来たることを信じ、それに従うことによって、
神のみ心を地上に実践し得るものなることを信じ、神のみ心を地上に表現することによって、
地上の人類が等しく幸福となり、同時に個人も幸福になり寿福おのずから兼ね備わるのである。
この信念の中核を成すものは「われ神の子なり」の自覚である。「われ神の子なり」の自覚を
中心として、無限の神智は流れ来り、神との一体感によって、神の智慧と一円融によって行動
することが出来るのである。「われは神の子であるが故に、神の智慧はわれに流れ入りて、
わが一挙手一投足を導きたまうのである。われは事毎に成功し、無限の繁栄は必ず流れ入り
来るのである」神想観中に斯くの如く念ぜよ。神想観中「なまくら」である勿れ。
真剣であり誠であれ。
                              (谷口雅春著)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆

■神を信じる事は、自分を信じる事…!自分を信じる事は、私の【心の扉…埋蔵の入り口】…
入口は“天国の門”…神を信じる“心”は、果たして「天国の門も、広き門」なのでしょうか〜〜〜??

■私は「神の子」と〜〜〜自然に自ずと“心”から湧きあがるようです…???

■私の“心”が自ずと“潜在意識”に入って行く過程に於きまして…自ずと【意識…】に、
繋がって行くモノではないでしょうか!!
今日から、もっと“心を強く”鍛えていこうと思います…。
どんな時も、私を起す“原動力”は、【私は神の子ですモノ??】この自覚と…『神との一体感』!
今日から、更に〜〜〜〜〜力強く「実践中」なのです!!
                                  再合掌
PS;トキ様へ
【神想観中「なまくら」である勿れ…】此の言葉…痛烈に“痛い”ですモノ??どうしても、
“意識集中”出来ない様な精神力の時は〜〜〜〜〜><
きっとその時は【天国の門】叩けないのかも知れませ〜〜〜〜〜ンネ!
トキ様は、この事はどの様にお考えでしょうか???“アドバイス”頂けますと幸いです…。

983SAKURA:2012/07/16(月) 23:40:20 ID:V.pKl3yA
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
こんばんは…  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。

天気が不安定です〜〜〜ネ!〜〜〜まるで「私の心模様」かしら〜〜〜ン!
【負ける==>落ち込む==>いろいろの心の葛藤】なのですが〜〜〜><」
も〜〜〜う!此処でおりたら【負け組】と思う前に、そうですョ〜〜〜ネ!
【心を軌道修正!!】“神の声”でしょうか??
私はもっと強い「イメ−ジで投稿」すべきでした…との、思いが致しました。
さて!今日は別の本に致しますので…では!“今日の言葉”より〜〜〜♫

■【幸福生活への招待20章】
第8章   龍宮無限供給の世界に不況はない
―――― 富裕も貧乏もみな心の中にある ―――――

真の裕かさというものは心の中にあるのである。如何に多くの数量の物質又は貨幣を
もっていようとも、尚欠乏しているという“不足”の感じをもっている者は、依然と
して貧乏人である。多く持っても、(富がゆたかに)有っても、尚渇くようにほしがる
人間を仏教では、“餓鬼道”に堕ちたと言うのである。真の意味の富者は、神が一切の
供給の本源であり、その本源は無限であるから、私たちが心の(波)波長をその本源に
同調させるならば、必要に随って必要な供給がその無尽蔵の本源から供給されるもので
あることを知り、それを単に知るだけでなく、それを瞑想すると同時にそれを実行に
移して、その真理を実証しつつある者でなければならないのである。私たちが供給の
現象的な有限のみを見て、「供給は有限である」と想うならば、私たちは自分自身の
想念によって無尽蔵の本源からの供給を阻みつつあるのだと言わなければならない。

                           (谷口雅春著)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆

■さて!今から【軌道修正…】です〜〜〜。
あれも欲しい〜〜〜これも欲しい〜〜〜ときりが無いくらい?若い時はありました。
しかしながら、最近は「物の見方」が、変化でしょうか…?
「物を整頓」します時、どうしても“貧乏少”かしら〜〜〜ン!
捨てきれないで“モノ”・思い出ある“モノ”がありますので、躊躇する事が、多々あり、
ゴミ箱行き?ゴミ箱から戻す?この繰り返しでしたでしょう〜〜〜か??
要約!最近“スパッ〜〜ト”ゴミ箱行きに、捨てれるようになりました…。(微笑)

■例えば、若い頃に来た“洋服”とかです。当時は、「極細並み?の細さ」で〜〜〜
そうです〰〜〜ネ!“サイズ”は、今では〜〜〜ピチピチ!ですモノ?
そのような“洋服”を、捨てきれないで、いつかまた〜〜〜との希望を胸に、
その様に“捨てきれないモノ”のでしたが〜〜〜><

■この頃!ポン〜ポン〜と捨てている訳なのですが〜〜〜
そうしますと、「不思議」なのですが?新しい“モノ”が、私の前に飛び込んで来ます。
まるで【小槌を打つ…】ように、ポン〜ポン〜と入ってきますから〜〜〜
但し…【感謝の気持ち】にて、聖経を上げさせて頂きますが…?

■■これも“心”が前向きになりますと〜〜〜そうです〜〜〜ョネ!
“心豊か”になり、新しい“モノ”が引き寄せて来る様なのですが…!
【引き寄せの法則】でしょうか?
いつも〜いつも〜必要に随ってくる様ですが〜〜〜
“心”そのものが前向きに、進むようになりますと、当然“心豊か”な気持ちで…
「心でイメ−ジ」しながら、私の“心”が、自由自在に“心”で描く事によって、
その“想念”が【引き寄せの法則】でしょうか〜〜〜??
私の“想念”をもっと広げていきましょうと〜〜〜そうです〜〜〜ョネ!
そうしないと【前進!!】する事が、できないような気持になりました…!!

                                  再合掌

PS:トキ様 へ
今日は、別の書籍にての抜粋投稿を、させて頂きました。やはり!最終的には、
【心の法則…人生は心で支配せよ(雅春先生の言葉)…心で作る世界(雅宣先生)】
その様に、思いましたが??この点は、どの様に思われますでしょうか?
“アドバイス”頂きますと、幸いに存じます。

984SAKURA:2012/07/16(月) 23:45:01 ID:V.pKl3yA
トキ様 へ
>>978
あわてておりましたので“二重投稿”になっておりました…。
ですから上記ナンバ−“消去”お願いします。お忙しいところ、申し訳ございません。

985ハマナス:2012/07/17(火) 00:24:50 ID:0kyCzJg6

神の子のみなさま
こんばんは。
連休中は、皆さまはどのようにお過ごしになられましたか?
web誌友会も大成功のようで、おめでとうございます。

復興G様
膨大な聖典からの謹写に感謝申し上げます。
また、トキ様を初め、ご参加の皆さまも、素晴らしいご投稿をありがとうございました。
じっくりと読み、お勉強させて頂きます。
私は、連休中息子が帰って来たり、お墓参りや、実家に行ったりで、PCの前に座る事が
出来ませんで、失礼致しました。

自己の魂と肉体に感謝する  (『新版 生活の智慧365章』P.204より)

 神に感謝し、神の恵み給うた一切の事物に感謝し、周囲のすべての人々に感謝して
いるけれども、まだその人に感謝することをわすれがちである一人がある。その一人は
「自分自身」である。「自分自身」の魂は神の子として此処に神から与えられた使命
遂行に尊き努力を捧げつつあるのである。此の「自分自身」の魂に感謝を捧げないのは
肉体に対して感謝しないのも片手落ちである。

 例えば「○○○○の魂よ、肉体よ、(○○は自分の姓名を唱える)いつも神から与え
られた尊き使命を忠実に遂行して下さってありがとうございます。」と心で唱え、又は
低声(こごえ)唱えるならば、自分自身の魂も肉体も尊く使命遂行を自覚して、堕落
することもなく、不健康に陥ることもなくなるのである。

感謝合掌

986a hope:2012/07/17(火) 07:20:31 ID:kJvHf4/g

人生読本 谷口雅春先生著

「形」と共に「心」を深切にせよ


と言って、言葉態度の美しさは形ばかり真似ても、真似ないよりはよろしいが、
それだけでは本当に言葉態度が良くなりません。

心に気品を持ち、心に優しさを持ち、心に深切を本当に持たないで、言葉や形ばかり真似たのでは、
どうしても嘘らしい空々しさが見え透いて人が感心するものではありません。

何よりも必要なのは本当に深切な心持です。
「あの人に良い思いをさせてあげたい、あの人をよい気持ちにさせてあげたい、
どんな人にも不快な気持ちをさせたくない。」
こういう気持ちを持つように々心掛けておれば自然に言葉態度が優しく深切に、
誰にとっても気持ちよくなれるのです。

(つづく)

987SAKURA:2012/07/17(火) 23:25:17 ID:tB36Kte6
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ

こんばんは…  ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
今日は,実に“ いい天気”そのものでした。……今日は、久しぶりに「自宅での仕事」です。
本が“自宅に多量”にあり、調べる事が、私なりに多々ありまして、現在!自宅なんですが〜〜〜?
一冊一冊見て行くうちに「参考…になりそうな言葉」…“ライティング上”がいっぱいワンサカ!
あれも使える〜〜♫〜〜これも使える〜〜♫〜〜と、再現なく“夢…”が広がります〜〜〜?
でも…今は「生長の家…の数々の書籍本」で、前に進む事が出来ますので、それに一杯の私ですが?
では!本当に為になり舞う『心の法則…』……その関連書籍本を、開きま〜〜す。1!2!3!ハイ〜!

■【栄える生活365章】
―――――幸福生活には調和が必要―――――

すべて調和が備わるということが善であり、また人間が幸福になるところの道であるのである。
必要に応じて使える金銭を持つことは幸福であり、それによって人間の自由が確保されるのである。
しかし必要に応じて使える以上の富を持つことは、他の人に嫉妬心を起さしめ、時には盗みの
心すらも起さしめ、盗まれはしないかという心配に始終苦しめられ、税金に攻められて税金対策に
心を悩まされなければならなくなるのである。親切な友人があることは善いことである。
しかしあまり多くの友人が出来てそれらの友人とおつき合いを親密にしなければならないといっても、
どの会合へも皆出る時間がないとすれば、誰かに対して不思議を重ねることになるのである。
重点的につき合って行くことにすれば、重点的に取り扱ってくれなかった友人は失望するか反感を
起すか嫉妬で苦しむか、時には敵に回ることもある。人時処の調和のほかに数量の調和ということも
幸福生活を送るためには必要なのである。神は自己の内に在す“実在”として把握するとき、
あなたの希望は「多分かなえられるであろう」ではなくして「希望は神が植えつけたのであり、既に
実相の世界に於いては叶えられているのである」併し今直ぐそのフイルムを映写機にかけて行動
しないと実現しないのである。されば映画のフイルムの如く吾々が行動を起すとき、既に一齣々々
(ひとこまひとこま)ずつそのフイルムの光景は時間の経過と共に時間空間のスクリ−ンに実現
しつつあるのである。但し、その希望の実現によって他の人が迷惑や損失を被る者を除く。 
 (谷口雅春著)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆

■オモシロイで〜〜〜すョネ!
私の知り合いで、当時、かなりの“資産家”の方が、いつも〜いつも〜“お金”を、
抱えて居るので、当に“お金に縛り付けられた生活スタイル”そのものでしたが??
“大金”を持つ事は、その様に?心理的な面からも、そうなるのでしょうか??
               
 <つづく>     No.1

988SAKURA:2012/07/17(火) 23:27:21 ID:tB36Kte6
                  <つづく>          No.2

>>987続き投稿です。

■>必要に応じて使える金銭を持つことは幸福であり、それによって人間の自由が
確保されるのである……<(一部抜粋)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆

私も、「雅春先生の言葉」…そうです〜〜〜ョネ!当に【うちでの小槌】が〜〜☆
又!ある人は、奥さんが、金使いが荒く全て“通帳をバック”に詰め込んでいる方を見かけました…。
“大金”を作る!これは全く「雅春先生」の“言葉”通りで、お金に悩まされているのです〜〜ネ!
(個人的に、一度は経験したい気持ちも〜〜〜ないではないのですが〜〜〜><)

■ブレイク致しますが!友人関係も“八方美人”は、何も得られないと、良く聞きますが…?
今日の“先生の言葉”で、改めて納得した思いです。有名な「資産家…ダンケネディ」
私の尊敬致します方ですが…「ダン…」は、友人(真の友人)は、5人持てばいい方かと、
言っておりました記憶が?「雅春先生」も、少人数でよいとの事…私も思うのですが??

「講習会の券の購入」を、かなり指示されていた様な記憶があります。
そうです〜〜ョネ!もう、十数年前になりますでしょうか?
【元理事会の方々?】が、活躍されていた頃、かなりの「普及紙・講演券購入」に関し…
今考えますと、無茶苦茶なる“デ−タ−数字”を、一般信者に押し付けていたものと判断します。
【一人の主婦に“100枚”・“50枚”〜〜〜><】何処からの“数字デ−タ−”でしょうか?
やはり!付き合いは“5人〜?人”までが、長〜〜〜く付き合う上では“正解”ですかと
しかも、当時は「毎年…恒例の講習会」でしたもの〜〜〜ネ!

■私が、幼少の頃「生長の家の講習会の券」は、いつも“仏壇に10枚”しか?
おいて、「亡き母」がその後配っていました記憶があります…。
当時の私は“小学校5年”ですが〜〜〜この頃の「雅春先生」は、まだ!
当時の時代背景を含んでの【正確な数字デ−タ−】を、出されていらっしゃいました記憶が?

正直申しまして、「2代目総裁清超先生」から、オカシイ状況かとの記憶が脳裏に、残っています。
ある時、「本部練成道場…飛田給の講習会場」にての“出来事”です…。
そうです〜〜〜ョネ!【誘導尋問…コ−ナ−】にて、当時50代前半の男性が…
此の【講習会券…枚数】に関し、質問されますと…その時の「2代目総裁清澄先生の言葉」は、
『白鳩会長に任せていますから、それが正しいのです…』と、おっしゃいました“言葉…”を、
しっかり記憶しています…。(勿論!“パ−トナ−”筆談にて)
此の時の私の胸の内は、「エ〜〜〜ッ!無責任では?思い切って質問されたのに><
しかも、当時の“白鳩会の指定枚数??”に関して、疑問があるから〜〜〜
勇気を持って質問されたのでは?」正直、私自身の落胆した次第です。」

この“書籍本”に書かれていますのに、
【当時の理事会の方達…】今!あちらサイドに行かれましたの方々は、本当に本を拝読されて
いたのかしら〜〜〜ン???話は戻りまして…今から私も、残された人生を重点的に
『人類光明化…運動』にしぼって行じます!            再合掌
                                    
PS:トキ様へ  
今日の先生の言葉“お金”に関しては、私は一度は“経験〜〜”して見たいです…ネ!ウフフ…
それより「今の私…」は、【心の法則…自由自在に駆使出来る“心”】この事が、一番と!!
トキ様、「本日の言葉」どの様に、受け止められましたでしょうか??

989ハマナス:2012/07/17(火) 23:54:16 ID:0kyCzJg6


神の子のみなさま
こんばんは。

ニセモノは本来ナイ  (『新版 生活の智慧365章』P.205より)

 あなた自身を神の創給(つくり)たまうた其の儘の完全な相(すがた)であるとみとめましょう。
創世記には「神その造りたる全てのものを見給いけるに甚(はなは)だ善かりき」と書かれている
のである。神の創造せられた一切のものは「甚だよし」即ち完全円満であって悪いものは本来無い
のである。悪いものは本来無い以上、悪なる病気や貧乏や戦争などは存在しないのである。これが
事物の実相である。実相は実はスガタであって、実のスガタ以外のものはニセモノだ。ニセモノは
実はスガタの如く「見せかけ」ているだけであるからアルかの如く見えても本来無いのである。

 ではナイものが何故アルかと如くあらわれているかと言えば、それは三界唯心であって、心の
あらわす所であるのである。心で病気をつかんでいる間は病気は消えないし、ソ連とアメリカとが
心で戦争をつかんで準備している間は戦争の危険は消えないのである。

感謝合掌

990神の子さん:2012/07/18(水) 00:46:25 ID:???
SAKURAさん

今度は清超先生とその部下であった理事さんのの批判ですか・・・

貴方のいいかげんな憶測と偏見に満ちた書き込みにはうんざりします。

どうしてここまで生長の家を批判する人が雅宣擁護派?なのか・・・不思議です。

991a hope:2012/07/18(水) 07:14:50 ID:kJvHf4/g

人生読本 谷口雅春先生著

電話一つで会社が判る


ある会社へ電話を掛けましたら、小使(こづかい)さんが実にゾンザイな返事をしました。
また次の会社へ電話を掛けたら、その会社の小使いさんはたいへん丁寧深切な言葉で返事をいたしました。

先の会社は「あんな会社は駄目だ」と信用を墜(おと)しました。
後の会社は「小使いさんでさえあれだから、よほど好い会社に違いない」とたいへん信用を博しました。

小使さんだって馬鹿にできません。
小使さんでも本当に立派な小使さんなら、その会社の大変よい広告になります。

毎年広告費に何百万円と支払う会社にとっては、本当によい小使さんなら、
小使さんにだって何百万円の月給を支払っても惜しいことはないのです。
しかし残念ながら、小使さんにそれほどの人がいないので出世しません。

電話で入学願書を出す日をきいたところ、一つの学校は小使さんがゾンザイに返事をしたので、
その学校をやめて、小使さんが深切に返事をした方へ入学願書を出したという話があります。

(つづき)

992トキ:2012/07/18(水) 09:29:48 ID:IVHmm1/Q
 実は、今朝、神想観をしていたときに、以前、やった「両論併記」の投稿を
再開しようと思いました。これはやるとなかなか大変なのですが、同時に板の
雰囲気が変わると思うので、トライしてみます。

 あと、来月始めに、別の板を作ります。

 今はバタバタしているので、後で、再度、投稿いたします。

合掌 ありがとうございます

993ハマナス:2012/07/18(水) 23:31:37 ID:0kyCzJg6

神の子のみなさま
こんばんは。

平和を祈るための言葉(次の如く繰り返し黙念する)(『新版 生活の智慧365章』P.205)

 「われは神と一体である。われのみならず全人類は神と一体である。それゆえに全人類は
神に於て完全に平和であり、争いの心はないのである。神は全人類の父でありたまい、すべて
の民族を平和に護りたまうのである。或る民族が他の民族の領土を侵さなければ、その民族が
幸福になれないなどと云うことはないのである。この真理をさとるとき、世界に平和は来るの
である。われは神人類にこの真理を放送するのである。全人類はこの真理の念送を今受信し
つつあるのである。ケネディもフルシチョフもナセルもドゴールも全ての人類がこの真理を
さとりつつあるのである。神の愛がすべての人類に降りそそがれ、神の平和が地上にあまねく
臨む。すでにみこころは天になるが如く地にも実現したのである。今より後、人類に戦いが
あることなく、悲しみあることなく、地の万民は天の父を仰ぎみて讃嘆するのである。」

感謝合掌

994a hope:2012/07/19(木) 07:53:56 ID:kJvHf4/g

人生読本 谷口雅春先生著

或る小使さんの話


或る日、二人の小使さんが早く出勤して雪道の雪をシャベルで搔き分けていました。
それは大変感心なころで、もし社長がそれを見ていたら、その半期の賞与を沢山くれたかも知れません。

しかしその時一人の技術部の社員が出勤して小使さんがその部屋にいないので腹を立てて、
窓から覗いて見ると、そこに小使さんが雪掻をしているので、大声で「オイ!お茶を持って来い」と呶鳴りました。
「ハイ」と言って、小使さんの一人は雪掻を止めてお茶を淹れて持って来ましたが、心の中では不平で堪りません。

それで自分の位置に近い工場の工員たちに会う毎に、
「技術部の社員は学校出だと思って威張っている。人が会社のために雪を搔き分けているのに、
遅くから来て人に茶を淹れろって呶鳴りやがった。雪を分ける方が会社の仕事が、茶を飲むのが会社の仕事か」
と言って不平小言(こごと)を言うようになりました。

弱い者に同情するのが人情です。
工員たちは技術部の技師たちの言う事を諾(き)かなくなり出しました。

何かその技師が工員に言いつけると、工員たちは口の中でブツブツ言って、命令された通りしません。
工員が何かを口の中で言っているかと耳をすましてよく聴くと、
「ヘン、茶を飲むのと仕事をするのとどちらが会社のためか!」と言っていました。

間もなく全行員の同盟休業(ストライキ)が始まりました。
会社は大騒ぎです。世間に対する信用はなくなります。製品は売れなくなります。

元はと言えば、一人の小使さんを軽んじたことから始まったのです。
もし、あの時、あの技術部の社員が、小使さんに、
「君、早くから雪分けしてくれて済まないな、ありがとう。僕もひとつ手伝ってあげようか」
というような気持ちだったら、こんな大騒動は起こらなかったでしょう。

又、もし小使さんが、どんなに上役の社員から言われても不平を言わずに、
何事でもハイハイと柔順にやっていたら、こんな大騒動は起こらなかったでしょう。

深切の心と、善き言葉使いと、この二つが無かったために、この会社は潰れるほどの大騒ぎが起こったのです。
あなたの会社はどうですか。お考えください。

(つづく)

995SAKURA:2012/07/19(木) 21:11:44 ID:V.pKl3yA
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ

こんばんは…… ローマ字(大文字)の【SAKURA】 で〜〜〜す。

もう“夏の天気?”…昨日より、蒸し暑い〜〜のですが〜〜〜?【エコ運動=消費電力対策】です。
このような“暑いさなか?”に、涼しくなるには〜〜〜><
【心で“クール”な心境に…】つまり、“潜在意識”に深〜〜く!深〜〜く!でしょうか?
でもその前に【右脳=左脳の働き】で、【脳を騙す方法】もあり、一番身近なのは【良書を読む!】
では〜〜〜“心”も涼しくなるもの〜〜は■「幸福を招く365章」を開きま〜〜す。

■【幸福を招く365章】
―――― 心の窓を閉じて自分を護ること―――――

外に寒い風が吹きすさんだり、あまり外に埃が立つときには諸君は窓をしめて、その風や埃が
吹き込まないようにするであろう。それならば、誰かが貴方の心の中に激情の嵐を吹き込ませたり、
怒りや憎しみや悪口雑言の埃を吹きこませたりするときに何故あなたは自分の心の窓をひらいていて、
その嵐で自分の心の中をさわがせたり、吹込んで来る怒りや憎しみの埃だらけの心にしてしまうので
あろうか。人が誰かの悪口を云うときには自分の心の窓を閉じよ。人が汝を悪しざまに云うときには
自分の心の窓を閉じよ。人が病気の話をするときには自分の心の窓を閉じよ。
                                    (谷口雅春著)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆

■女性の場合は【井戸端会議】というものが、あります〜〜〜ョネ!
此処!九州は、すご〜〜〜い!この“言葉”につきますかしら〜〜〜ン?その様に思います。

私の「亡き母」は、陰口とか悪口は、殆どない方でしたが、母の友人で、話好きの方がいまして、
必ず!このおばさんは、近所の事を、“根堀り?葉堀り?”話しますので、私も当時は、
よく傍で聞いていますと“ビックリ”するぐらいの【悪口憎怨】に、聴こえるのです。
その時、たまたま、傍にいました私は、直ぐおばさんに対しまして「それ悪口なの?」と聞きますと、
例の如く!このおばさんは「私のモラルでは、悪口では無い!」と言いますが〜〜〜?
当時の私は、高校生でしたので「完璧に悪口になるわ〜〜〜ョ!」と、言いましたが、
おばさんには、通じないのです〜〜〜ョネ!!
こような方を、帰郷しましてから、しばしばみかけますが?
本人が“不利な状況”になりますと、物の見事に“かわすのが上手”なのです〜〜〜かと?
このような感じが「九州の女性の場合」は、通常“頭がいい!あたり前な事!”と表現する様です。
逆に、私の知っております「東京の知人達の場合」は、“バカに等しい”と表現しますが?


でも“例外”がありますでしょうか?
元元元白鳩会長は、どうも聞くところによりますと“九州出身”とか聞いておりましたが?
ですから?この様な一面性は、やはり思い出しますと、ありましたでしょうかと?
【嘘も方便?】

或る時!元?「相愛会長」さんが、私どもに「嘘が多くて困る?」と、おっしゃいましたが…
或る時の「練成会の講演」がありまして、元・「相愛会長の方」が〜〜〜
話の成り行きでしょうか(私も参加しておりましたが)大きな声で、
「教授?教授?って、毎回!毎回!嘘を云うが〜〜〜」そうしますと、今度は、元元元会長は、
私には、京都に弟?がいて、その兄弟が学長…云々…とか??親せきにいますとか??
成り行きが〜〜〜二転三転変わって行くことに〜〜〜><
で…当時は、「どうして、会長にその様な事をおっしゃるのか??」と思い、元?「相愛会長」に
お聞きしますと…色々【真理の話…個人話…も含めetc】を、指導して下さいました。
逆に、その元々元白鳩会長は、元?「相愛会長」悪口???でしたが〜〜〜><
当時は、正直な話、誰を信じたらよいかが、分かりませんでした。
その時の教訓が【お調子のよい人ほど嘘が多い】でしょうかしら〜〜〜ン!その様に判断しましたが?

私の「亡き母」は、いつも、このおばさんの“聞き役”でしたが…
最後に、一言たしなめていました。
【人の話を…“10”聞いて、自分の心は閉じましょう!】という事なのでしょうか?
私も「亡き母」の気持ちが、最近分かる様に、なりだしましたが?
「悪口」・「病気」…etcは、“心の埃”ですから、自分の【心の窓】を、しっかり閉じましょう!!
本日の“言葉”しっかり胸の内に、刻ませて頂きました。ありがとうございます。

                                         再合掌

PS:トキ様もこのような時は、同じように、なされますでしょうか??

996ハマナス:2012/07/19(木) 23:47:22 ID:0kyCzJg6

神の子のみなさま
こんばんは。

精神の同志を結集しよう  (『新版 生活の智慧365章』P.206より)

 私たち真理の使徒は、大衆が心につかんでいるところの「悪」をありとして雷同的に
みとめてならない。 大衆が心につかんでいるものが如何なるものであるかを知ることは、
医者が患者に対して聴診器を当てるように現状把握として一応それを病気の兆候として
みとめねばならない。人類の争闘精神の具象化現象として世界は戦争の危機に近づきつつ
ある――と云うのは、現象の事実を聴診して所在を明らかにし、その争闘精神を中和する
ために吾らが総力を結集すべき必要がどれほどあるかを明らかにするためには現状把握を
せねばならぬ。

 しかし戦争の危機を、それが現実するまでに精神の世界から抑制するのは宗教人のつと
めである。三界は唯心の現れであるから、若し、戦争を惹き起こす闘争精神の量よりも
戦争を抑制する精神力の結集が足りなければ、戦争の仮想的権限を抑制することができ
ないことになるから吾らは多くの同志を得たいのである。されば現状の危機を把握した
後は心を浄めて「平和を祈るための言葉」にあるが如くいのりましょう。

感謝合掌

997a hope:2012/07/20(金) 07:51:39 ID:kJvHf4/g

人生読本 谷口雅春先生著

社員互いに悪口言うな


その社員ばかりが悪いのではありません。
その小使さんも悪いのです。

「一つの会社の空気を悪くするには、ただ一人のブツブツ言う給仕がおれば十分だ」と、
産業能率研究所長の上野陽一氏は言っています。

どんな深切な行いをしても、それを恩に着せがましく、
「私がこんなにしているのに、あいつはこうだ」と、
後から社員の悪口を言うようでは最初から雪道を明けない方がましです。

雪道は明けないでも、放って置けば雪は消えて無くなります。
あとから言う小言(こごと)は絶え間なく降り積って、
ついには会社の信用さえ埋(うず)めてしまうのです。

こんな小使さんは実直でよく働くようでも、言葉で不平を言うから、
結局会社のためになりません。

(つづく)

998うのはな:2012/07/20(金) 18:57:03 ID:gTn97m6I
   錦旗を護る先祖の人々

 神戸で私や清超夫婦と別れた夫は、三日後に大津その他を巡講して帰京された。
先ず巡講先のみやげ話を伺い、その話が一段落すると、三日前の神戸で見聞した事柄に
話題は転じて行った。
 昭和四十六年は夫の實父が帰幽されて満五十年目になるので、五十回忌法要を営むために、
私たち夫婦と清超夫婦と孫の佳世子との五人は、神戸の谷口家の菩提寺願成寺へ行った。
私の夫の誕生日は十一月二十二日であるが、夫の實父の命日は四月二十二日であった。お寺の境内にある墓地には、
谷口家の最も古いお墓が幾つもあったが、その中の一つの墓には元禄六年と記され、十一月二十二日と彫られてあったのを見て、
私は不思議な因縁を感じた。古い墓はみな戒名だけが彫られてあるので、姓も名も判らない。ただ墓石の前に「谷口」と彫られているだけである。
私はこのお寺の墓には何度も詣ったが、亡き姑は誰の墓とも教えて下さらなくて、唯古い先祖の墓だと言われただけであった。
今思うと、姑も余りに古いので誰の墓なのか知らなかったであろう。
しかし、烏原水源池の山の墓地のは、全部誰の墓であるかは判っている。
法要が終って本堂から廣間に移ってお膳についた時、四人の僧と親戚一同は、和やかに箸を動かしながら語り合った。
その時願成寺の住職は、「今から六百年前に、後醍醐天皇を護ろうとして足利尊氏と戦って武将の一人に、谷口泰重という人がありました。
その人が谷口先生の祖先なのです」と言われたので、私たちは驚いて住職の顔を見つめた。
家附きの娘であった姑は、「新田義貞の仲間が戦に敗けて烏原の谷に隠れ住んでいたのが先祖や」と言われただけで、その人の名も知って居られなかったので、
私たちは泰重という名は初耳であった。

願成寺は後醍醐天皇の御代よりもずっと古く、天平時代に名僧行基によって建立された観音寺が、後世法然上人の弟子住蓮坊によって再建されて名を変えたお寺であって、
いろいろの史蹟や文献を持っているので、近年住職を継がれたその人は、預かっている檀家一軒一軒のお墓について、非常な熱意をもって研究して居られることが判った。
「後醍醐天皇は、谷口泰重の忠心を喜ばれて、『菊の御紋章』を用いることを許されたのです。
その証拠がこの寺にあります」と言って、住職は私たちを墓地へ案内して、一つの墓を指し示された。
その墓は、観音開きの扉の右側には、まさしく十六菊御紋章が陰紋として彫られてあった。
寺を去る時、住職は、「これを是非お読み下さい。いろいろ詳しいことが書いてあります」と言って二冊の書物を下さった。
それは『西攝大観』という三百八十ページほどのものが、上巻(金色)下巻(銀巻)となっていて、紫の絹糸で綴じた立派な書物であった。
帰京した私は、翌日からその書物を読み初め、殊に「烏原」や「夢野」など、谷口家ゆかりの地の頃を一心に読んだ。『西攝大観』とは、
神戸を中心に摂津の国の西部の郷土史であって、神代の昔からの伝説や史実を、こと細かに記されてあった。

 中略 「谷口家の祖先は、ただの百姓ではなかったのですよ」
との住職の言葉を思い出しながら、私は嬉しい興奮で胸の熱くなるのを覚えた。
「楠木正成には菊の御紋章の上半分だけ許されたのに、谷口泰重には全部許されたのです。
大した武将だったのですね」
「新田義貞の一門だったと姑は言ってましたが」
「いや、新田義貞より上位の武将なんです」と住職は断固と言われた。私たちは勝手な憶測をしていたことに気づいた。
昔は百姓や町人には名はあったが姓はなかったから、烏原の谷に住んでいるから谷口と姓をつけたのかと思っていたが、さにあらず、
烏原の谷に住む以前から谷口姓を名乗って居られたことが判った。後略〜

『人生の光と影』 谷口輝子 著

999SAKURA:2012/07/20(金) 21:57:12 ID:V.pKl3yA
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
こんばんは……  ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。

【正しい理念】は、“意識から繋がる心”でしょうか〜〜〜?
つながる“心の電話??”は、【心の旅立ちを本から〜♫〜】始めませんか???
私は、今日も“心の電話”を繋いでいますが〜〜
では!!!繋がる“心”に響く本…【幸福を招く365章】を、開きま〜〜す〜〜☆

■【幸福を招く365章】
――――――神の道を歩む人生は滑らかである―――――

人間は神の子ですから、人の歩く道は神の歩く道であります。だから神の道を
真直に歩かないでは、自動車に撥ねとばされたり、崖から墜落したりいたします。
人に対して悪意をもったり、嫌悪の情を感じたり、素直でなく剛情であったり、
人を憎んで赦すことをしなかったり致しますと、それは神の道から離れて歩いて
いることになるのであります。吾々の歩む人生の行路が滑かでないのは、神の道を
歩いていないからであります。神の道は愛の道、サ−ビスの道、赦しの道、
包容の道、円い道、角のたたない道、人を助ける道、やさしい言葉の道
利己主義でない、霊と法悦の道であります。あなたの生活がこれらの道に乗って
いるか反省してみて下さい。
                        (谷口雅春著)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆

■「私は神の子」と、毎日云いながらでも【正しい理念】から外れる事が、あります。
それは【法則…】に従ってない場合と、言いますよりは、
私自身の「尺度?固定観念?での捉え方」から、来るものでしょうか??
その様な時に、【アクシデント発生】が、起きるのです〜〜〜ョネ!〜〜〜
相手が、私に対して「反対論」とかの“投稿”・“名指しでの中傷”が来ますと、
ここが“ポイント”でしょうか……???

私の「心の持ち方」の展開が〜〜〜><後での【反省…】も多々ありまして、
勿論!毎日「心で反省会」を、致しておりますが〜〜〜【お祈り】して行きますうちに、
いつも【神と一体…】私の“潜在意識”に繋がりまして…そうなのです〰〜〜ョネ!
【私のベストフレンドは私の神の子】なのです。

この様に……
【潜在意識の奥に神様が要られています…】ので、いつも傍にと?
【my!ベ ス ト フ レ ン ド】です〜〜〜が、もっと深〜〜く
全ての「道のり」ますます滑らかに歩んで行きます事を、毎日「神の子」として、
【イメ−ジトレ−ニング中】なのです? ><
まだ!まだ!足りないようですから?「道のり」いばらなのでしょうかと?
「神の道」を歩んで行きたいですモノ〜〜〜ネ!      

 再合掌
PS;トキ様へ
「神の道」此の“言葉”?私自身の“心”に、自問自答してしまします。

神の道は愛の道
サ−ビスの道
赦しの道
包容の道
円い道
角のたたない道
人を助ける道
やさしい言葉の道
利己主義でない道
霊と法悦の道……etc 

今回「生長の家」本来「人々への救済」と考えますと?複雑な心境ですが?
この点は、どの様に思われますでしょうか?“アドバイス”頂けますと幸いです。

1000ハマナス:2012/07/20(金) 23:36:44 ID:0kyCzJg6

神の子のみなさま
こんばんは。
昨日は、日差しが強くて、日傘が手放せない位でしたが、今日は打って変わって
涼しい一日でした。

「今」を祝福しよう  (『新版 生活の智慧365章』P.207より)

 あなたは今日より決して取越苦労も持越苦労もしないように決意したのである。あなたは
全力を“今”に集中して心を動揺せしめることは決してないのである。また起こらないところ
の不幸を、「多分起こるかも知れぬ」と取越苦労をしてみても何の甲斐もないことである。
恐怖のうちに心に描いた状態は最も現実し易いのであるから、恐怖し取越苦労することは決して
あなたの運命を好転せしめる原因とはならないのである。だから、あなたは「今」あなたの働き
の中に、神が働きていたまうことをみなければならないのである。

 あなたは「今」を祝福すべきである。過去はそれが如何に良かったにせよ。また如何に悪か
ったにせよ、それは何らかの体験をプラスにして過ぎ去ったのである。だからそれを歎くことは
不合理であり、ただ感謝して別れればよいのである。

感謝合掌

1001a hope:2012/07/21(土) 08:09:52 ID:kJvHf4/g

人生読本 谷口雅春先生著

こんな社員は社の為にならぬ


その社員が一人その部屋にいるだけで、社の空気が悪くなる人があります。
その一人は陰気な暗い顔をした人です。

その一人はブツブツ不平小言を言っている人です。

その一人は上役や同僚の陰口を言う人です。
「これは内証ですよ」と言って仲間の秘密をあちこちに伝え歩く人です。

そんな人でも自分が常に不平小言を言いながら、自分で気づかぬ人があります。

今皆さん、「自分はどうだ?」と考えて御覧なさい。
そして自分にそんな性質があると思ったら直ぐ改めなさい。

(つづく)

1002SAKURA:2012/07/22(日) 00:38:28 ID:V.pKl3yA
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
こんばんは…… ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。

一週間前は、このような気持が〜〜「ある日!突然!変わる事は?」あります〜〜〜ョネ!
次第に状況判断にて“考え方”が変化しますと、「心の状態も変化」ですから、当たり前でしょうに!
ある人は、以前は、あの様に人をさばいていたのに、今では?その人と組んで仕事を〜〜〜
これは【心の変化】…更に!【魂の進歩】でしょうか???人間関係も【変化進行中】ですから〜〜
まるで「スポ−ツの変化球」でしょうか??私の頑な「心の変化球」を、今から〜〜〜
この“本”で、切り広げていきます???きっと【天国の門…】も、広がる事でしょう!!

では!【心の変化球】は〜〜〜【幸福を招く365章】から〜〜〜投稿とさせて頂きます。
■【幸福を招く365章】
―――――万物に神の祝福の声をきけ―――――

何時、いかなる場合、何が自分を呼びかけて来ても、電話が呼びかけて来ても、
訪問者があらわれて来ても、それに対談する場合には、「神はこの電話(又は人名)を
通して私を祝福したまうのである。そして神の愛わらに流れ入って私を通して此の
人を祝福したまうのである」と念じつつ対話するが好い。見るのも、聞くのも、
それが花であろうとも、音楽であろうとも、「神はこの花を通して(又は音楽を通して)
私を祝福したまうのである。有りがとうございます」と念じつつ、その花を見、音楽を
聴くがよいのである。そして「神の愛われを通してこの花を、この音楽を祝福したまう」
と更に念ずるのである。

                       (谷口雅春著)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆

■私も苦手な“課題”がありました…。ある時、仕事関係ですが〜〜〜「嫌な担当者」との応対は
とても神経を使いますが…><
例えば、私自身“重度聴覚障害”との事を“露骨”に相手に伝えますと?ある担当者からは、
かなりの“嫌な発言…”を、露骨に云われましたが…?
その様な担当者がいましたかと思うほど“ビックリ・マ−ク”…
そのような方は、いつも申し訳ないのですが「学歴」が〜〜〜高卒の男性でしたが〜〜〜><
平然と言われて……とにかくも……???

そうです〜〜〜ョネ!私への【負担…料金】を、押さえこまれながらも【我慢…】の一言!
相手のいい所を、探しだしながら〜〜ルンルン〜〜【対話形式】この様に、
「商談話」を進めていきますと、必ずこちらの考え方に目を向けてくれるようです。
今!思いますと、いつも相手が“分る!”“分る!”と、一人で『黙然して交渉』しました…。

やはり!少しは、通じる様ですかしら〜〜〜ン!今は「イメ−ジトレ−ニング」に、入ってから
『交渉…』です。抜群の“効力”ですかしら〜〜〜ン!更に!毎日の「瞑想=神想観」は、
『心の意識開発』に…更に『進歩向上』に繋がりますモノ!

■【神の愛われを通してこのデザイン画を、この洋服のデザインをを祝福したまう…】
ありがとうございます〜〜〜この様に“念じ”ていきます。
                           
                               再合掌

PS:トキ様
トキ様も「絶対絶命」のピンチの場合は、どの様な“言葉”にて?
思念をなさいますでしょうか“アドバイス”頂きますと、幸いなのですが??

1003a hope:2012/07/22(日) 08:18:23 ID:kJvHf4/g

人生読本 谷口雅春先生著

大穴よりも小孔(あな)が恐ろしい


自分のものだと思うと一枚の紙でも大切にするくせに、
会社のものだと思うとゾンザイに使って平気でいる人があります。
自分の宅では十ワットの電燈でももったいないといって消して寝る人が、
会社のものだと思うと、百ワットでも二百ワットでも不要になっても点して置く人があります。

自分が金を払わねばならぬから大切にする。
自分が金を払わなくてよいから粗末にする。
こういうやり方の人は出世のできぬ人です。

何でも物を生かして使うようでないとその人は出世しません。
自分の金を払うときにでも入用なら二百ワットの電燈でも使うし、
会社が金を払うときにでも不要なら5ワットの電燈でも無駄にせぬようでないと、
物を生かして使うとは言えません。

時間でもわずかな時間を上手に使って勉強する人は偉くなるし、
花の蜜でもわずかな一滴を集め得る蜜蜂でこそあれほどの蜂蜜を貯え得るのです。

少しだからとて無駄にすることは、思いがけない大きなものを捨てていることがあるものです。
誰でもバケツ一杯の清水は無駄に捨てませんが、バケツに孔が明いていれば、
いつの間にかそのバケツが空になっているものです。

大きな穴より小さな孔が恐ろしいのです。
底ぬけの器には誰でも警戒して水を入れませんが、
小さい漏れのある器には気がつかないで物を入れて、
いつの間にか無くなっていることがあります。

大きな穴より小さい孔が恐ろしいのです。
小さく貯えて大きく使う人が偉くなるのです。

これはお金だけではありませんが、智慧でも同じことです。
毎日怠らず良き本を読んで少しずつ進歩しておいた者が、
イザという時に大きな仕事ができるのです。

(つづく)

1004SAKURA:2012/07/22(日) 14:04:28 ID:V.pKl3yA
トキ様 ヘ
観覧者の皆様 へ
こんにちは… ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。

いよいよ〜夏本番〜♫ 季節となって参りました。本日は暦では『大暑…』
観覧者の皆様も、休みの日は、思い思いの時間の過ごし方をなさっていらっしゃいます事と…
今日は、“素敵な言葉”に目がとまり此処に“投稿”の形を、とらせて頂きます。

■■【愛 は 全 て を 癒 や す】 「徳久先生の書物」からの一部抜粋です…。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆

日本におけるスタ−・デ−リ−の講演語録は…云々…
谷口先生の著書『愛は刑よりも強し』の12頁に、
「愛は欠点を見てそれを矯正することではなく、そのいたい傷に触れることではなかったのである。
愛はその人の傷をやさしく包んでその人の欠点の奥にある円満完全なる実相を、じっと愛の心で
眺めやり、これが彼の実相であると、それを心でいたわり育ててやることであったのである。」と
書かれています。生長の家の教えを、人に伝える講師でありながら、まことに批判力が強く、
すぐ心の中で、他を裁いていた私には、このコトバはショックでした。

「そうだ、そうだ、愛を、実践しているつもりでいたのだが、まだまだ、私は愛とはほど遠い
人間であった」と反省しました。
また、同書の16頁に、「人が人の弱点に触れることなく愛すると云うことは最大の愛である」
「人を愛すると云うことは、人を知ると云うことである。
人を知ると云うことは彼を助け、癒すことが出来ると云うことである。かようにして神は、
愛を通してその癒す力を働かせ給うのである」と書かれています。

また『愛は決して失敗はしない。愛は恐怖をかなぐり棄てる。愛は法則を成就するものである。
汝の宗教が正しいか否かのテストは知識や智慧ではない。憎しみにみたされる無神論者も
知識や智慧は持ち得るのであるが、それは真の信仰でも信条でもない。
悪魔でさえも、ある意味では信仰をもち不屈の信条をもっている。然しそれには真の癒しの力も、
聖句を解決する真の力もない。……真の宗教なりや否やの最後のテストは、
彼が愛に満たされた魂を有っているかどうかの問題である。神の愛と人の愛とを持っているか
どうかの問題である。
汝に宿っている神の愛は、神が汝の中に働き給うのである」と書かれています。
…云々…
                  
<つづく>               No.1

1005SAKURA:2012/07/22(日) 14:06:40 ID:V.pKl3yA
               <つづく>               No.2

>>1004続き投稿です。

しかし、伝道とか、愛とかいう問題にぶつかりますと、私はこの『愛は刑よりも強し』を拝読
します。伝道しようとしたスタ−・デ−リ−が、今まで一緒に悪の仲間として、つきあっていた
人々に、キリスト教を伝えるのに、どんな苦労をしているのか、ということを知ることにより、
また新しく伝道の勇気がわいてきます。しかし、彼は何回も何回も、つまずきながら、
ライファ−に教えられて、導かれて、一流の伝道者になってゆくのです。その経過が、
そのままいつわらずに書かれているのが、この『愛は刑よりも強し』です。
…云々…

「多くの宗教の教師は、『自分が他を救う』という高慢になっており、『自分が誰かのために
こんなにはたらいているのに、感謝されない』などと不平に思ったりし勝ちであるが、この書は
そう云う宗教の教師に是非読ましたいし、自分みずから幾度でも読んで反省の資料としたいのである。
ライファ−は又言う。
『愛のない説教は未だ寡って一人の魂を救ったことはないし、これからも決して救い得ないだろう。
人類を愛し抱擁することによってのみ、君は君の魂を救うことが出来るのだ』」

ただただ、頭がさがるのみです。もう一度、最後に、
「愛のない説教は未だ寡って一人の魂を救ったことはない」との言葉を、かみしめたいものです。
                                  (抜粋投稿)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆

■「谷口雅春先生」時代の「徳久本部講師」先生の著書の中からの一部抜粋なのです…。

徳久先生の人格・考え方が…御文章の“言葉”一つ一つから伺えました。驕ることなく常に、
自分の言動に対し、自問自答さまして、謙虚に、そして次なる言動につなげられました事に…
その『人格』が〜〜〜
忘れもしませんが…最初で最後と申しますか?【飛田給練成道場】にて個人的に奉仕に参りました時、
玄関先で“ニッコリ”として見送って下さいました先生は、私達が後ろを何度も〜何度も〜
振り返りましても、其処にたたずんでいて下さいました。

■この中に「本部講師…幹部の方々」が、いらっしゃいますでしょうかと?思います。
この様に「生長の家」は“讃嘆”する事が「雅春先生の人を育てる…」という事でしょうかと、
思います。それは、その人に“自信”というエネルギ―を与えることになります。当然ながら、
それにより、次なるステップに繋がるかと思います。
しかしながら、この『考え』方に、今回そぐわない方たちもいらっしゃいます様で…
唯!そのことを気付きました時点から、次なる”ステップ“へと繋がると思います。
此処で「私…」自身、勉強させて頂きながら、『人格形成…向上』へと、ひたすら歩んで
参りたいと思います。「霊界世界…」いずれ予備軍の私ですもの〜〜〜ネ!

本当に今日の文章から?
『人類を愛し抱擁することによってのみ、君は君の魂を救うことが出来るのだ』…この言葉を、
脳裏に刻みつけ、今後の“言動”に対しまして「責任ある行動」をと、改めて思いました。
そして『今の時点』で気付きを、頂きました事に、感謝申し上げます…。

                                再合掌
PS;トキ様 ヘ
今日の“徳久先生”の文章抜粋…どの様に感じられましたでしょうか?

1006ハマナス:2012/07/22(日) 23:12:30 ID:.wxfb6P6
神の子のみなさま
こんばんは。
今日から、第 八 篇 失敗から立ち上がる道 に入ります。

 繁栄のコツ  (『新版 生活の智慧365章』P.209より)

心の法則によって富もうとする場合、兎もすれば人々は、労少なくして多くの富を得ようと
するような間違いにとらわれることがあるのであるが、心の法則は決してそんな魔術では
ないのである。少なく価を支払ったものは少なく受け取るより仕方がないのが心の法則なの
である。

 いつか短波放送で東京の成田屋と云う店が非常に繁昌しているのを放送記者が訪問して
主人の成田さんにその繁栄のコツと云うようなものを聴いていたが、成田さんは引揚者であり、
最初は微々たる店を開いていたが、繁栄するには良き品を安価に売らねばならないと云うので、
毎日築地の卸売市場へ商品を買いに行くのであったが、都内電車の始発に乗って築地に行って
いたのでは他の商人が安い商品を仕入れてしまった後で、自分の店に安い良品が手に入らない
と云うので、始発電車の二時間前に自転車を自分の足で漕いて築地まで通って安価な良商品を
手に入れて顧客(とくい)にサービスしたと云うことであった。

 ひと以上に親切な努力とサービスとがあってのみ本当の繁栄が得られるのである。繁栄する
店には繁栄する原因があり、つぶれる店にはつぶれる原因があるのである。皆経営する人の心
である。

感謝合掌

1007a hope:2012/07/23(月) 06:59:20 ID:kJvHf4/g

人生読本 谷口雅春先生著

一人にでも悪く思われるな


一人の人にでも、「あいつ気にくわぬ」と思われるようになってはなりません。
せっかく、立派な才能を有(も)ちながら、一人の人から「気にくわぬ」と思われているために、
せっかくあの人を部長にしたいと思っても部長にしてあげられないことが度々あります。
これは大変残念なことです。

心は尖っていてよく人と衝突する人は長にはなれません。
そんな人が長になったら、部下の者が不平を言います。
それでは下を治めることができませんから、長にすることができないのであります。

(つづく)

1008SAKURA:2012/07/23(月) 20:36:54 ID:9k1xUNFw
こんばんは…ローマ字(大文字)の
【SAKURA】で〜〜〜す。
ただいま スマートフォンのテストです。
これは大変です〜〜フゥ(T_T)
             再合掌

1009神の子さん:2012/07/23(月) 22:50:31 ID:L/GLhGeg
SAKURAさん、テストは離れ小島板でやってもらえませんか?

1010ハマナス:2012/07/23(月) 23:59:41 ID:0kyCzJg6

神の子のみなさま
こんばんは。

光明思想は魔術ではない  (『新版 生活の智慧365章』P.210より)

 光明思想は、決して自分の欲する事物を無条件で何でも得られると云う方法を教えるのでは
ないのである。若し人間が自己の欲する事物を無条件で何でも得られると云うことになるならば、
人間は正しい努力を為すことを忘れてしまい、ただ享楽と怠惰と貪欲とを事とする愚かな利己
主義者に成りさがってしまうであろう。

 人間が地上に生れて来たのは、ある条件の下に、その条件に適合しながら困難を克服する努力を
つづけることによって、愛を実現し、自己の品性を陶冶し、自己の能力を開発し、魂を向上せし
めんがための神の御意志によるのである。この神の御意志に反対して、努力もなく、愛もなく、
ただ自分の利己的満足を得んがために、「労せずして効多き方法」を得るために、「心の力」を
うならばそれは、宗教ではなく、魔術になってしまうのである。

感謝合掌

1011a hope:2012/07/24(火) 06:59:35 ID:kJvHf4/g

人生読本 谷口雅春先生著

仕事に魂を打込め

遅くまで居残っていたら、残業手当を貰えると思って、
普通の勤務時間中だらだらのろのろ仕事をしていて、
普通の働く時間が終わる頃になると忙しそうに仕事をする人があります。

こういう人は間違った考え方に捉われているのです。
そんな人はだらだらのろのろしていたら自分は得だと思っているかも知れませんが、
一番損をするのは、だらだらのろのろしている本人なのです。

だらだらのろのろしている間に失(な)くなって行きつつあるのは、その人自身の時間なのです。
時間が経つだけその人の死ぬ時が近づいているのです。

生きている限りはだらだらのろのろするものではありません。
本当に勉強したり、仕事をすれば自分が出世し、自分の仕事がいついつまでも残るのです。

私達のした仕事は、どんな仕事でも天地の目に見えないレコードに刻まれて消えるものではありません。

(第十四章 表情動作の生かし方 終り 次回から、第十五章 困難の生かし方へ)

1012ハマナス:2012/07/24(火) 19:14:59 ID:0kyCzJg6

神の子のみなさま
今日は、いつもより早くに、“こんばんは”です。

労しただけの功がある (『新版 生活の智慧365章』P.211より)

 併しまた光明思想は、決して「労多くして効少き方法」を教えるのでもないのである。
 世間の多くの人のやり方は、「労多くして効少き方法」をとっているので、「働けど、
働けど、なおわがくらし楽にならざり、じっと手を見る」と云う石川啄木の歌のような
生活に陥っているのである。だから、ひとたび生長の家の「光明思想」に触れると、
「労多くして効少き方法」から、「労しただけの効ある方法」に移るから、非常に能率
高くして、恰も、「労せずして効ある方法」であるかの如き観を呈し、それに眩惑せら
れて、「労せずして効が得られる」と錯覚し、正しき愛に満ちた努力をなすことをわす
れてしまって、しまいに愛行も精進も怠って、「此頃は私には光明思想はきかぬ」などと
愚かなことを言い出すに至るのである。

感謝合掌

1013ハマナス:2012/07/24(火) 19:57:35 ID:0kyCzJg6

神の子のみなさま
 ありがとうございます。
毎朝、神想観の前に、『生命の實相』38巻と「光明法語」、「光明道中記」のその日の所を読んでいます。
特に心に残るところがありましたので、謹写させて頂きます。


『生命の實相』第38巻   七 月 二 十 四 日

 瞑目精神を統一して、「神はすべてのすべて……神は全き叡智(みちえ)」と繰り返し繰り返し
念ぜよ。そして宇宙全体は、すべてのもののうちに、さらに自分自身のうちにも、神の智慧充満せり
と観じ神の智慧の中に溶け込んでしまうのである。
 
神はすべてであり、全てに行きわたって存在する智慧であるならばその智慧の中に没入するとき、
われらは知らないものは一つもないのである。
 
潜在意識が何を知らなくともわれらは恐れることは要らないのである.現在意識は「脳髄」と
いう個別的反射鏡の上に投光された普遍意識(すべてに満ちて行きわたれる智慧)の一部が反射し
出されたる反射光に過ぎない。反射光が何を知っていようとも、また、何を知らずにいようとも、
自分のうちに宿り給う普遍意識はすべてを知っているのであるから、われらはこの普遍意識の中に
没入し普遍の智慧と一つになるとき、知らず知らず万事が都合よくゆくのである。
 
「何でも都合よくゆく」という人は不変の智慧を知らず知らずわがものとしている人である。
 普遍意識は自分のうちにも宿ると同時に、他のうちにも宿るが故に、自分自身のみならず、
他をも知らず知らずに動かしつつ、万事都合のよい配合にまでいっさいを動かしてゆくのである。

感謝合掌

1014a hope:2012/07/25(水) 07:17:12 ID:kJvHf4/g

人生読本 谷口雅春先生著

第十五章 困難の生かし方

苦労は人間を鍛える


困難ということ、「難かしい」ということは、決して不幸なことではありません。
困難が出てくるほど、私達は鍛えられるのです。

正宗の名刀があんなに良い刀であるのは、幾度も、火や水の中をくぐり、
幾度(いくたび)も鉄鎚(てつつい)で擲(なぐ)られ、幾度も打ちのめされてきたからです。

「若い時の苦労は買ってでもせよ」「かわいい子には旅をさせよ」などという諺がありますが、
若くなくてさえさえ苦労は買ってでもする程でないと偉くなれないものです。

若いくせに、自分は貧乏に生まれたから出世ができないとか、
自分は借金があるから偉くなれないとか考えて縮(ちぢ)かんでしまう人がありますが、
英国の小説家サー・ウォルター・スコットは五十五歳の時、六十万ドルの借金を押しつけられたのです。

スコットは、この借金を一銭も残らなくなるまで支払っていまおうと決心しました。
彼は文筆家でありましたから、筆の力でこの六十万ドルという大きなお金を稼ぎだして支払わねばならないのです。

「ヨシ!六十万ドルくらいが何だ!自分は神の子だから支払って見せるぞ!」
この決心が彼に力を与えました。彼は一所懸命書きました。

この決心ができたとき、彼の文章に力が出てきたのです。
彼の文章に油がのってきたのです。
彼は夜も昼も、書いて、書いて、書きまくりました。

とうとう彼は六十万ドルの大きな借金を支払ってしまいました。
そのため、今でもスコツトの名文は有名なので、後々の人々から尊ばれているのです。

(つづく)

1015「訊け」管理人:2012/07/25(水) 11:56:31 ID:???


『常楽への道』(吉田國太郎著)10頁より謹写――

 ある日の記――

 イエス途行くとき、生まれながらの盲人を見給いたれば、弟子たち問いて言う、『ラビ、この人の盲人にて生れしは、誰の罪によるぞ、己のか、親のか』、イエス答え給う『この人の罪にも親の罪にもあらず、ただ彼の上に神の業(わざ)の顕れんがためなり』
(つづきhttp://blog.livedoor.jp/con5151/archives/65676423.html【國太郎先生画像付き】)


<コメント>

 今回上京時に携帯した本は、『常楽への道』(吉田國太郎著)でございました。飛行機の中でも拝読し、山手線や京王線の電車内でも拝読し、ついでに酒席途中にも読みたくなり、トイレに行って拝読しました。さらにはついでに二次会、珍しくこれを断りホテル内、深夜まで読みふけってしまいました。・・・・ところで國太郎先生ですけれども、享年47歳くらいですね。今回あらためて経歴欄なども読んだのですけれども、「この若さでこのような本をお書きになられたのか」と、感嘆すること多々でありました。
 さて今回の上京ですが、特に心に残ったのは以下箇所であります。ブログ記事にもしましたが、「イエス途行くとき、生まれながらの盲人を見給いたれば、弟子たち問いて言う、『ラビ、この人の盲人にて生れしは、誰の罪によるぞ、己のか、親のか』」――ここが特に印象深かった次第です。

 今回の事業経営者会合ですが、私を含めて参集者、全てがこの弟子の状態です。「先生、この不況は誰の罪によるぞ、政府の罪か、我々の罪か」と言った、嘆息だらけの会合(※)になりました。五官で判断するならばもう、お先真っ暗という感じです。しかし「イエス答え給う『この人の罪にも親の罪にもあらず、ただ彼の上に神の業(わざ)の顕れんがためなり』」を解釈できる、そんな経営者がいったい何名いるでしょう。この「常楽」の状態さえ実現すれば経営者、意気満々で邁進できると考えます。そのためには『生命の實相』、これを広域流布せねばなりますまい。「この不況ですがこれも、神の救い(=自壊作用)です。神の栄光が顕れようとしている衝動です」そんな解釈を、腑に落ちるところまで納得できれば、常楽の道を歩んでいけることと思います。そしてこのレベルの大不況ですが、これも「神の御業の顕れんがため」と解釈できる真の陽転思考の者、育成が急務と考えます。・・・・ともかくもう、日本の中小企業の7割が「本年8−9月を乗り切れるのか」という状況です。実際前年同月比で雇用者、我が国では30万人減少しています(!)。社会の底は割れております。

 ・・・ちなみに今回上京時、二名の方に『生命の實相』をお勧めして参りました。

追伸

 「本部が解体されるのに、なんで騒がないのか!?」てな苦情が来ているようです。私の返答は本部以外にも解体、「進んでいるもんがあるんだぜ」になろうかと。意味を補足するならば権力闘争、「そんなこと、やってる時間が惜しいのよ」になりましょうか。組織ってそこまで、重要ですか。組織がダメなら聖典、これをマジメに拝読しようではないですか。それなら組織、関係ない話です。
 『生命の實相』ですが、今まで以上に求められている時代、来るでしょう。いやとっくに、来ています。それはそれで悲しい話なのかもしれませんがもう、同胞の苦しみをスルーしている連中、それを「愛国者」と呼称するのは、止めたいものです。日本中が尖閣以上の緊迫感に、晒されているんだぜ?







<註>

※ 嘆息だらけの会合

(出席者談を箇条書きにて)

・ 社会保険機構の横暴甚だしく生活資金、これを強制徴収されホームレス寸前である。
・ 同機構が強制引落を実行したため、決済資金が枯渇。結果的に中国企業に不義理をしたため、命の危険がある。
・ 工場が競売にかけられ、子供の大学進学を断念。
・ 自殺を決行したが未遂に。身体障害者となりますます苦しくなる。
・ 債権回収機構の請求が、熾烈なものになっている。サラ金や闇金などまだ、カワイイものである。
・ 地方自治体レベルでも税徴集が強化されている。夜八時の自宅訪問などザラにある。
・ 子供の進学費用等は無論、生命保険の入金を期待するかのような徴集を、公的機関が行っている。

1016SAKURA:2012/07/25(水) 14:16:14 ID:V.pKl3yA
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
こんにちは…… ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。

今日は、“積乱雲”も垣間見るぐらい…もう!夏そのものの天気なのです〜〜〜ョネ!
駅周辺を歩いていますと、若者達が、夏休みも入りましたのでしょうか?多く見かけます。
流れも、また一段と変わって来るようですが〜〜〜?こちらも、外に出るのは?「朝・晩」のみ?
暑さも、凌げるようにも?思えますし【心の法則】に従っていけば、必ず!道は開かれる様です!
では、その道は『王道の道』でしょうか…?今から“スタ−ト”です。

■【幸福を招く365章】
―――――諸君よ平和の天使となれ―――――
吾々が神のつくりたまいし完全な世界を見詰める習慣をつけるとき、現象世界に
どんな状態があらわれて来ようとも、もう恐れることはないのである。見せかけの
不幸や、病気や、失敗は、もう決して吾らから魂の平安と調和と幸福とを奪う
ことは出来ないのである。吾々が自分のうちに常に生命を自覚し、すべての出来事
の奥に、摂理の愛の御手があることを知るならば、すべての出来事に平和な、友達に
対するような気持で相対することが出来るのである。どんな事が起こって来ても
平和な心境でいられる人が一人でもあるならばその雰囲気の力で、その周囲の
すべてのものが平和に化せられてしまうのである。わたしは読者のひとりひとりが
其のような人々になって下さることを希わずにはいられないのである。かかる人は
真に平和の天使である。  (雅春先生箸)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆
■今の現在の状態が、どんなに悪くても、それが「現象としての形」で、眼の前に現れていても…
必ず!道は開かれると思います。…が?そうです!断固として、そう思う次第なのです!!
振り返りますと、若い頃は、とても“無防備な処”が、よかったのでしょうか〜〜〜?
これは、「若さのシンボル」と申しますかしら〜〜〜ン?

30代の頃ですが、仕事で、販売を余儀なくさせられる羽目になりました…。そこは、
或る「デパ−トの催事会場」でした。商品の価格が、全体的に安く抑えて売っています会場で、
当時!その催事場に来店されて来られます「お客様」も、単価優先にての購買が、文字通り
あたり前との考え方が、定着しておりました「催事会場」なのです〜〜〜が??
当時の私は、まだ若く30代の半ば!「私達の商品」は、とても単価が高いのです…。
ほとんどの方は「無理〜〜〜ょ!」との一言であしらわれてしまったのです。
しかしながら、そう言われましても、私は、持ち前の「生長の家…教え」が、脳裏にこびりつき、
そうなのです〰〜〜ョネ!「売れる!売れる!〜〜〜〜〜売れる!」其の思いのみを、考えました。
販売の素人で、しかも「上代が高級品価格」でした…。1日目初めての“スタ−ト”は、
先ずお客様との応対で、売り上げは“ゼロ”ですが〜〜〜><この時に「種まき」という感じで、
宣伝アピ−ルした次第なのです。

或る「お客様」は“90%”と、決めて、最後の決断の一声??〜〜〜><と思いきや…
「又!後で、見合わせます。」と言って、しかも一人の「お客様」応対に3時間位も、要しますから、
なるべく“二人三脚体制”で、繋いでいきます。“聴力”の悪い私は“洋服のコ−ディネ−トとか?”
“オシャレの一言アドバイス!”と、いろいろな話を、持ちだしながら、会話を繋いでいきます…。
その様な日々が、2日続きまして、3日目に入りましてから、一人!二人!と、
「お客様」の購買に繋がり、アッ〜〜〜という間に「売り上げ」が伸びました…。

こうして、振り返りますと、思いますには【心 の 法 則】通りに、今の現状が、どんなに悪く
見える「現象世界」でも、恐れずに“前に進む…心!”“神に全托しまして…ひたすら前に進む心!”
当時の私は、金銭面は【片道切符】ばかりでしたが?
必ず!売れる!売れる!〜〜〜これが“ミソ”でした。これを、思い出しました。…が?
“聴力”が悪い事で、どうしても弱気になりやすいですが〜〜〜><ここを“ポイント”に、
【私は、全てが出来る“最高の持ち主”である。必ず!幸せの幸福切符は、天から舞い降りて来ます】
こう思いながら〜〜〜全て!いつも前進中…!!全ては【心で形成】しますので、
やはり日頃の訓練が大事です〜〜ネ!どんな時も〜どんな時も〜一番良かった事を、思い出しながら、
■【魂 = 心】です〜〜〜ョネ!               再合掌

PS:トキ様 へ…「絶体絶命…追い詰められた“セトギワ”?」この時は、どのような状態に、
自分自身の精神を挑みますか?そして行動は?如何でしょうか…?

1017ハマナス:2012/07/25(水) 19:18:25 ID:0kyCzJg6

神の子のみなさま
こんばんは。昨日のつづきです。

『生命の實相』第38巻   七 月 二 十 五 日

今日はさらに、「神はすべてのすべて……神は完き聖愛(みあい)……」と念じよう。そして
すべてのものの内に、宇宙全体の内に神の聖愛の充ち満ちていること、そして自分のうちにも
神の聖愛が充ち満ちていることを深き精神統一のうちに念じよう。そして「神の愛に護られ、
生かされ、育てられている」ことを念じよう。

 すべての不安と恐怖とは、この神の聖愛を観ずる神想観によって消滅してしまうのである。
 すべての自己の不安、焦燥がこの神想観によって完全に消滅したとき、その反映として自分
の家族の精神状態が非常に円満になるものである。そしていっさいが神の聖愛で包まれている
ことを心の底深く知るがゆえに、感覚的な麻酔的陶酔の必要が消える。飲酒癖、喫煙癖などは
かかる心境に達した時、本当に自然に、抑制する必要なく剥落する……。

感謝合掌

1018トキ:2012/07/25(水) 19:48:48 ID:Qab6ammg
>>1015

 会合、大変でしたね。社会保険は、国税の次にきつい扱いを受けるので、大変だと思います。
 本当なら、こういう時期こそ生長の家栄える会が頑張る必要があるのですが。八方ふさがり
だが、天井が空いている。こういう時期こそ、本当の信仰が必要とされるのでしょう。

 この掲示板でも、何かお役に立つ事がないか、虚心に考えたいと思います。

 今後ともよろしくお願いします。

合掌 ありがとうございます

1019ハマナス:2012/07/25(水) 19:51:12 ID:0kyCzJg6

神の子のみなさま
ありがとうございます。

自然の法則と心の法則は車の両輪  (『新版 生活の智慧365章』P.211)

此の世界には、その運行を司っている法則がある。その法則を実際に応用することによって、
私たちは労しただけの効果を挙げ、或は価を払っただけの悦びや楽しみを得ることができる。
私たちが法則に順応すれば、法則は私たちに順応してくれるのである。法則には自然科学の
法則と、心の法則とがある。今までは、自然科学の法則だけが重んじられていて、心の法則が
軽んじられていたために、多くの人々は「労多くして、効すくなき生活」を送っていた。

 「自然科学の法則」と、「心の法則」とは車の両輪のようなものである。一方の車輪が欠け
ていると、生活に能率があがらない。科学的に繁栄の法則にかなうような方法を講じても、
心がそれに副わなかったら繁栄はない。滋養物をいくら食っても、心が心配に満たされて
いたら、健康になれないようなものだ。

感謝合掌

1020a hope:2012/07/26(木) 07:22:42 ID:kJvHf4/g

人生読本 谷口雅春先生著

決心ほど強いものはない


皆さん、決心ほど強いものはありません。
「是非やろう」と決心する人は、必ずそれを成し就(と)げる人です。

「やろう」と決心しない人と、困難を恐れる人とは何事も成し就げ得ません。
天下無敵の人となろうと思うならば、成功する事のみを知って、
失敗することを知らない人にならねばなりません。

貧乏になったから失敗したと思うようでは、成功する人ではありません。
借金ができたから失敗したと思うようでは、成功する人ではありません。

スコットのように貧乏になった時に、
「この時こそ!」と決心するような人にならねばなりません。

六十万ドルの借金ができた時に、
「この時こそ!」と渾身の力を揮(ふる)い出し得る人にならねばなりません。

両脚がなくなったら、両脚の切株ででも仕事をする人にならねばなりません。
こんな人にはどんなときにも失敗ということはないのです。
(つづく)

1021ハマナス:2012/07/26(木) 21:23:33 ID:0kyCzJg6

神の子のみなさま
こんばんは。

行動を伴わねばならない (『新版 生活の智慧365章』P.212)

 「心の法則」は私たちに告げて言う。
 「汝の求むるものをわれは汝に与えるのではない。汝の想念が如何なる波長のものであるかに
随って、その波長に合うものを与えるのである。心暗黒にもてば、われは汝に暗黒を与える。
心を暗黒にもちながら、光明を求めてもわれは光明を汝に与えることはできない。しかし、心を
明るくもっていたならば、労せずして何でも欲するものを現象界に於て得られると思ってならない。
汝にすべてのものが与えられているのは、実相界に於てのことである。その実相界にある無限の
ものを、如何なる形に噴出せしめるかは、汝の心によって、“心の形”の噴出口を如何につくるか
によってきまる。しかしそれだけでは足りないのである。その噴出口から、実相界にある“無限の
もの”を引き出すには、行動を起こさねばならない。」

感謝合掌

1022ハマナス:2012/07/26(木) 21:47:57 ID:0kyCzJg6

『生命の實相』第38巻   七 月 二 十 六 日

 神は光である。
 わが室(へや)の窓の外に、
神の光は待っているのである。
倦(う)まず撓(たゆ)まず。

わたしはいつまで神がそこにいることに気がつかなかったろう。
神はわたしがその窓を開くのを待っているのだ。
神はいないのではない。
わたしが心の窓を開かなかったのだ。
――光はわたしの内にある
だれかが戸を叩いている。
神がわたしの家の門口に戸を叩いているのだ。
わたしは神を求めなかったのに、
神はわたしを求めてい給うたのだ。
わたしはなんという親不孝者だったのだろう。
わたしが神の膝に跳びつきさえすれば
すべてはすでに与えられているのだ。

神のないところに生命はない、
神のないところに美はない、
神のないところに智慧はない。
神のないところに愛はない、
生命があり、
美があり、
智慧があり、
愛があるということは、
そこに神が在すということだ。
すべてのものに、
自分の外に、
自分の内に。

かくてわたしはあらゆるところに神を見出すのだ。

感謝合掌

1023SAKURA:2012/07/27(金) 01:26:39 ID:V.pKl3yA
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
こんばんは…… ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。

毎日、こうして“パソコンのキ−を打っていますと…今までの、私の行動も【反省】!!
「環境は心の影」でしょうか??ですから、今!置かれている立場に、
なって行く事になったのでしょうか〜〜〜?毎日が、精神の叩きがあり〜〜〜
これが、永遠に続きそうな気持になり〜〜〜落ち込む〜〜〜再び!気持ちが〜〜〜><
このような時に、いつものこの本で、助けられます。『真理は本当に一つ』なんです〜ョネ!
では!いつものように、日々の練習を…『心の修行』を〜♫

■【幸福を招く365章】
――――――先ず「 内 」なる宝を発見せよ――――

吾々は自己が神の子として、自己の内に与えられている力を自覚することを先ず
目標としなければならない。外の宝を求めるよりも、先ず自分の内にある 「宝」 を
発見することを先にしなければならない。外の力に頼るな。先ず自分を発見せよ。
自分の内の力を発見したら先ずその力を働かせることが必要である。祈っただけで何も
しないでいることは、電気の存在を知っただけで、発電装置を作らず、スイッチを入れ
ないのとおなじである。それでは、電気は存在すれども何の効果もあらわさないのと同
じように、神は存在すれども何の効果(おかげ)もあらわさないのである。
                        (谷口雅春著)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆

■今日ぐらいは、本を読まなくてもいいと言いながらも……普段の“行動”を
いい加減にしますと、せっかくの【真理…】も、台無しです〜〜〜ョネ!
更に!【私の心を磨くチャンス!…扇】ですから〜♫

手順の分らない「表現・言葉」でも…毎日を、磨く「言葉の練習」をしていますと…
『言 葉 = 言 霊』そして…
いつの間にか、更に『真理が…』身についていくような“モノ”なのでしょうか?…が?

更に!「祈り」も、いい加減にしますと、今だけでの現状だけでは、済まされないのでは><
大げさに言いますと〜〜〜『人生なんて、どうしようもないくらい空しいモノ…?』
『退屈極まりないとか?…』この様に言いかねませんでしょう〜〜〜か??

毎日の「祈り・聖典を読誦」これだけでも、前に進むことが〜〜更に!チャンス到来でしょうか?
【チャンスは、一つの一つを大事に積み重ねる試金石!】…そして、
そこから「スタ―ト」が始まり、【無限の可能性】を、皆様、お一人お一人で楽しんで参りましょう!
では?今日も開きます…。「無限の可能性をチャレンジ」……スタート!!
その様に思いますから…この行動こそが「神様からのテレパシ−」でしょうか??

今から“スイッチ”を、いれて【自分の心=内なる神様に探求】きっと“私の無限”が、見つかる
【埋 蔵 金 = 宝 】を、見つけに行ってきます。               
                             再合掌

PS; トキ様 へ
「自分の内なる力」と、いつも対話しながら“行動”しないといけませんです〜〜〜ョネ!
その為には、「感情?」を、いつも“ポジティブ感”にしませんと…?正確なテレパシ−受信?
出来ませです〜〜〜ョネ!トキ様は、どの様にお考えですかしら〜〜〜ン?

1024a hope:2012/07/27(金) 06:45:32 ID:kJvHf4/g

人生読本 谷口雅春先生著

逆境は幸福である(前半)


今まで、普通の人は、困難というものと、不幸というものとを同じ意味だと考えて、
困難は不幸である、「ああ困難がやって来た、自分は不幸である」とこう考えたものであります。

ところが生長の家では「困難」を「幸福」であると教えるのであります。
私達は障礙(しょうがい)物競走をしたり、或いはオリンピック競技に選手として出場しましても、
あの競技は一種の困難である、困難であるけれども、あの選手たちはあれを不幸であると思っていない。

あれは幸福である。
もし、あれが平地を歩く競技であって御覧なさい。
平地を歩くには困難がないから却って面白味が少ない、力も出ないのです。

困難はかくのごとく幸福なのです。
普通の人が困難を不幸であるとするのは、一種の迷妄(まよい)でありまして、
そのために困難の前に立竦(たちすく)んで、徒(いたずら)に人間一疋(ぴき)、何事も成し得ないのです。

ところが生長の家では、人間は神の子であるから逆境に立てば立つだけ、
二倍三倍の力が出て来るという事を教えるのでありますから、
どんな場合に処してでも挫折してしまうということがないのです。

無限に力を引出してくるということができる―――これこそ生長の家で教えられた人の特長であります。
(後半につづく)

1025金木犀:2012/07/27(金) 12:48:53 ID:auusu5IE
日本再建の道を拓くもの  谷口雅春先生  『生長の家』誌昭和57年8月号

過去を捨てる自由

新しき日本が生れる。新しい人間が生れる。朝々が新生である。昨日見た夢がどんなに見苦しいものであったにせよ。よるがそれを消してくれたのである。新しき日本が生れる。新しい人間が生れる。新しき人生が生れる。

新しい人生をつくり出す基礎は、過去を捨てる諸君自身の能力にある。敗戦した日本などはないのである。日に日に新しき日本である。戦前よりも数等優れたる新しき日本である。戦前よりも数等優れたる新しき日本である。しかも占領下に押しつけられたる民主主義の日本であってはならない。万物は常に新しく生れる。過去を把まなければ過去は消えるのである。押しつけられたる民主主義も結局過去のものである。それを捨てよ。捨てて新しきものを見出してそれに生きよ。

押しつけられ、宣伝されたる民主主義の中には日本を弱める為に正しいと宣伝されたる思想が沢山混っている。それを脱ぎ捨てる事を反動だとか軍国主義に還ることだとか思ってはならないのである。間違った民主主義が皇居前の乱闘を引起し、学生の警官つるし上げ事件が発生し、その反動として行き過ぎた学生と警官との乱闘事件が惹き起され、由々しき事態に立ち到らしめつつあることに注意しなければならない。

暴力を捨てる自由

本当の民主主義は「人間は神の子で平等だ」と云うことである。それは自分ばかりの権利を主張するためばかりの平等であったり、相手の自由を侵害しても好いような平等であってはならないのである。文部省の次官通達の意味をとりちがえて、学生が職務執行のために学内に立ち入った警官をつるし上げたと云う事の中には、あまりに通達とか法律とかの文句に拘泥して、それに支配されている学生の態度が見えるのである。これは文章に縛られたのであって、学生自身の両親の自由を得たのではない。法律や通達の文章は、天下の最も悪文章家の綴ったものであるから、どちらにでも解釈されるものなのである。警官は警官の好いように解釈し、学生は学生の好いように解釈して暴力を揮う。暴力のあるところに自由はない。自由を護ると云いながら、人の自由を暴力で束縛しては何の自由であるか。

「戦う」とか「闘争」とか云う言葉を捨てよ

吾々は「自由のために戦う」とか「平和を戦いとる」などと云う言葉を人類の世界から拭い去らなければならないのである。言葉は「種子」であるから、「戦う」という言葉が人類に用いられている限りに於いてこの世界に戦争はたえないのである。如何に多くの戦いが平和のための名のもとに行われたか。また平和のための名のもとに、国内争議が現に行われつつあるか。そして戦争準備が行われつつあるか。

真の人類の平和を得るためには人類すべては「人間・神の子」の自覚を確立し礼拝しなければならないのである。他の人をも尊敬し礼拝しなければならないのである。ひとを暴力によって押しのけるのではなく、相互に尊敬し、合掌し、礼拝し、よろこんで互いに譲歩するのである。譲歩すると云うことを自己を束縛することだと考えている人や、ひとのために尽くすことや、尊敬すべきものを尊敬しないことを民主主義だと考えて新人をもって任じている人もある。それが社会の木鐸たる新聞記者の中にも随分あるから驚くのである。(つづく)

1026金木犀:2012/07/27(金) 12:56:39 ID:auusu5IE
日本再建の道を拓くもの(2)  谷口雅春先生  『生長の家』誌昭和57年8月号

ある新聞の日本婦人観

ある有名な一流新聞の時評欄には次のようなことが書かれていた―――
「日本の最も驚嘆すべき産物は婦人である。もちろん彼女を作るには幾千年もか かっているが、日本の婦人は日本人と同じ種族に属していないぐらい立派である。おそらくかかる形の婦人は今後十万年くらいは再びこの世に出現しないだろう ―――この驚嘆すべき言葉は…ラフカディオ・ハーンの明治三十七年の著書に発見されるのである。……これは女性を礼賛していて、その実は女性侮蔑の言葉で ある。過去の日本がいかに男性のための国であったかを証明する言葉に外ならない。ハーンの知性も男性としての本能の前には曇らざるを得なかったのだ。アメ リカの男は女性を喜ばせるために全力を注ぎ、日本の女性は男性を喜ばせるために献身するという見方もある。男女同権になって、日本婦人も一歩一歩自覚を高 めているようだ。自覚は男性に従属するだけの環境に満足させなくなるに違いない。その意味では男性のための、かかる形の婦人は十万年くらいは現れないとい う予言は当たるであろう」と。


無我献身の美徳を復活せよ

しかし、ハーンの驚嘆し賛美した日本の女性の美しさは、従順と無我献身であったのである。これに対するこの新聞記者の批評は従順と無我献身することを、 「相手に対する従属」とみとめ、それを「自主精神の欠乏」であると見ているのである。一見、合理的に見えるこの民主主義精神は、人間から従順と無我献身の 精神を奪い去り、自己主張と自己発展とのためには闘争を辞せないのが美徳であると推賞するものであって、家庭内にも、産業界にも内部闘争と内部紛争を常に 巻き起こす争闘の合理化論であるのである。無我献身の精神と従順の美徳は、真の民主主義の根本であるところの「先ず与えよ、与えられん」を言いかえたもの に過ぎないのである。この精神によってのみ、平和国家、平和世界が建設されるのである。争闘によって自己発展自己拡大をはかることを民主主義とみとめるな らば、国内はストライキや群衆示威によって内部闘争はあとを絶たないことになり、国際的には戦争によって自国の発展と拡大とを図ることになるから、かかる 似非民主主義は、戦争を根絶する思想とはおよそ甚だ遠いのである。アメリカでも真の民主主義は「先ず与えよ、与えられん」のイエスの教えを実践することで あって、この語を別の言葉で言い換えれば「無我献身と従順」ということになるのである。「無我献身」をもって、封建思想なりと排斥した「民主主義」の押し 付け的植え付けは、アメリカが占領中に、日本を弱体化そうとして行った日本における失敗の第一であって、今や従順でなく自己主張のために絶えず争闘を考え ている民衆をこしらえて、朝に皇居前の乱闘、夕べに学園における学生警官の乱闘を惹き起こして、その功罪はあきらかになりつつあるのである。(つづく)

1027金木犀:2012/07/27(金) 13:02:14 ID:auusu5IE
日本再建の道を拓くもの(3)  谷口雅春先生  『生長の家』誌昭和57年8月号

礼拝合掌の精神を復興せよ

似非民主主義の弊害のもう一つは、人間平等の思想が悪平等にまで発展して、尊ぶべきものを尊ばず、従って自己をも尊ばず、すべての者を動物的肉体人間の一 線に引き降ろしたことである。人間の平等は、人類すべてが神性(あるいは仏性)を内に宿すということであって、先ず自己と相手を礼拝することから始まらな ければならないのである。しかるに尊ぶべきものを偶像崇拝の破壊という意味において尊ばないことが民主主義と言うが如き考えである。天皇に対して尊敬の念 を持たないということは「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」(憲法による)を侮辱することであるから、日本国そのものを侮辱することであり、自己が 日本国民である限り、自己を侮辱し、国民統合の意志を侮辱することである。昭和二十七年五月十日の中外日報に筧潮風氏が、皇居外苑における平和条約発効記 念式典の状況を書いているがその中にこんなことが書かれている。

「それに新聞記者の行儀の悪いのは昔からの通則だが、この連中の無作法には全 く以て愛想がつきた。陛下のお言葉に後ろを向いたり横を向いたり、一体何をしに参列したのか、今さらおれはここにいるぞと気狂い天狗にでもなっているの か。遺族の中にはその不行儀、不謹慎をぷんぷんに怒っていた連中もあった」

こういう日本を侮辱する新聞記者が日本国民の思想を導いて行くのであるから甚だ危険な訳である。真の民主主義とは、「人間すべてを礼拝していくのであり、 秩序に従って上が上であり、右が右であり、左が左であり、男が男であり、女が女であり、その位置における差別を認めながら、その本質なる神性(仏性)を礼 拝し尊敬して互いに与え、かつ奉仕し合って行く」ところに真の民主主義があり、地上に天国浄土がうまれてくるのである。相手を礼拝せず互いに軽蔑し、心 で、また言葉で罵り合い、自分の利益を暴力で、または集団で威脅して戦いとって行くところには好戦主義の利己主義があるばかりである。(つづく)

1028金木犀:2012/07/27(金) 13:05:02 ID:auusu5IE
日本再建の道を拓くもの(4)  谷口雅春先生  『生長の家』誌昭和57年8月号

「家」の制度を復活せよ

占領中にアメリカが与えたところの施策の中には表面は日本人に民主主義という好餌を与え、恩恵を与えているかのように見せて懐柔しながら、その内容は被占 領国を弱体化して米国の永久支配の下にあらしめようと意図したものが続々含まれていたことを知らなければならない。一方政治犯を釈放して共産党の自由活動 を便にしながら、野坂参三を愛国者と称して中国からアメリカの飛行機に乗せて日本に上陸せしめ日比谷公園にいわゆる愛国者の講演を行わしめ、ラジオは勿 論、大新聞を動員して一ページ大にわたる記事を書かしめ、週刊何々、サンデー何々を動員して『野坂参三特集号』を発行させるなど、共産党こそ真の愛国者で あり、真の民主主義者であり、少なくとも真の人道主義者であるという印象を、日本国民の大多数に与えたのである。それが現在、日本の治安維持に一大障害を 与えていることは否むことはできないのである。頭脳の単純な学生層には特にこの印象は深くきざまれていて最近の学生の集団的反治安的行為の如きは、アメリ カの失政のもたらした好ましからざる成果だということができるのである。

占領下にある被占領国に一面恩恵を与えていると見せかけながら、被占領国を骨抜きにして永久に属領の如き状態にならしむるためにとられたるもう一つの占領 政策は、日本国家の強力なる骨組みであった所の、天皇を中心とする日本国家の大家族的信念の破壊である。天皇は神格から引き降ろされ人民と平等の格にまで 引き落とされたのは人間平等の民主主義的立場からは合理としても、家督相続を廃止して家は一代限りとしたのは、日本国民を家系的歴史なき浮浪児として、歴 史的連綿継続のうちの「今」に立つ一員として「家」を護る―――さらに進んでは「国家」を護ろうとする―――愛国精神を失わしめることになったのである。 今、アメリカがそのご都合政策で日本を東洋の防壁に仕立てるために日本に国防軍を組織せしめようと願いながらも、最も困っているのは国防軍が何を目標とし て「国」を護るか、その目標がなく、歴史なく、神格ある天皇なく、浮浪児国民という観念にまで教育されてきたところの日本国民の大多数にとっては、生命を 賭してまで護るべき「国」はない感じがするのであって、その国の支配者がコスイギンであろうが、ジョンソンであろうが、毛沢東であろうがそんなことはどう でもよい。「国」はただ人間の住む場所であって、「国」なる理念は破壊されているのであるから、なるべく兵隊になどとってくれず、高い租税などを請求せ ず、平和に安楽にくらさしてくれる統治者であればよいというような気骨の抜けた状態になっているのであって、いつ国防軍に編成替えされるかもしれない自衛 隊に日本の若い人達があまり興味を持たないということは、この辺の消息を物語るものだということができるのである。(つづく)

1029a hope:2012/07/28(土) 07:55:57 ID:kJvHf4/g

人生読本 谷口雅春先生著

逆境は幸福である(後半)


私達の生命は、たとえば水のようなものであります。
フラスコの中に静止せしめて常温に置かれた水は困難な状態ではない。
チャンと箱入娘みたいに護られた状態です。
その代りにどんな力も出てこないのであります。

これを一旦高所へ上げて、そこから落差をつけて落としましたならば、
何万キロワット、何十万キロワットの水力タービンでも動かすことができる。
これは水が嶮(けわ)しい高所に、逆境に置かれたための賜(たまもの)です。

或いは皆さん、水の下から何千度という石炭の燃焼熱を与えてやると、
たちまち沸騰して、蒸気の力で何千馬力の大機関車でも動かすことができましょう。
これも水が逆境に置かれた賜であります。

私達は、逆境を不幸であると考えることが間違いなのです。
逆境は私達の中に宿っている無限の力を掘り出してくれるところの「縁」を与えてくれる、
たいへんありがたい友だちであると思わなければならないのです。

そうなりますと、私達は決して逆境や困難に挫折しない。
困難のくる度毎に、自分はそれだけ高まるのであるということを常に信じる事ができて、
どんな逆境も困難も、失望や落胆の原因となるものではありません。

逆境に置かれ困難に置かれるほど、常に私達は伸びるほか仕方ないのであります。
この常に伸びるほか仕方ない生活、これが生長の家の生活であります。
それには自分が神の子であるということを自覚することが根本であります。

私たちが困難に対して崩(くずお)れてしまい、挫折してしまうというのは、
自分の中(うち)に生きている「生命」が有限であり、単なる物質的エネルギーであって、
それには限りがあり、或る程度以上の困難になると、
打勝つことができないものであるというような間違った考えを以って
自分自身の生命を委縮させているからなのです。

ところが一転してこの生長の家の人生観になりますと、
自分自身の本体は、神の生命がここに宿っているものである、
或いは仏の生命がここにあるのである、
どんな力でも無限に出てくるのがこの自分自身であるという確固とした自覚を得ますから、
困難に逢えば逢うほど、内から湧き出してくる力が多くなってくるのであります。

或る教祖は「難儀は節(ふし)や、節から芽が出る」ということを言いましたが、
これは実に優しい言葉で真理を穿(うがって)っています。
どんなに攻撃されても迫害されても、「難儀は節や、節から芽がでる」と信じていると、
どこまでも伸びる底力がどこからか出て来るのであります。
(つづく)

1030a hope:2012/07/28(土) 08:00:25 ID:kJvHf4/g
>>1029訂正 下から4行目

優しい言葉→易しい言葉

1031金木犀:2012/07/28(土) 15:50:25 ID:auusu5IE
日本再建の道を拓くもの(5)  谷口雅春先生  『生長の家』誌昭和57年8月号

忠孝の感情を育成せよ

称するところの民主主義が、日本の家族制度の美風を破壊するために利用されたということは、小中学の教科書に「忠孝」の文字が一字も見当たらぬようにされ ているということである。

「家」とか「忠孝」とかいうのは封建思想だというのである。もっとも、占領軍にとっては、被占領国民が旧支配者に「忠」であって は占領行政に困難を生ずる点もあるので、「忠」を非民主主義的道徳として排斥したのは、占領政策としてやむを得ないことは諒とし得る。しかし「孝」を排斥 してしまったのはどういう訳であろうか。母の日を設定して、その日には胸にカーネーションの花を挿して母の愛を偲ぶ風習はアメリカから講和後になって日本 に来たのである。

「孝」は必然的に、血をもって過去の歴史的連続に直結する。そこから歴史的連続としての天皇直結の日本国家への「忠」が再発するおそれが あるから、言うところの民主主義の原則に従って「老年の親というものは子どもが愛情をもって養う必要はない。それは社会保障制度によって社会が養老院を 造って養えばよい」という風に、「子」との愛情的つながりを切断した。そして遺産相続も「家督相続をする長男」という家を護る役目の特定の「子」がなく なったので、その遺産は平等に分配される。従って兄弟姉妹互いに、「わしばかりが親孝行する必要はない。お前だって財産を分けてもらったのだから、お前が 親孝行すればよい。という風に、親孝行の譲り合いをして、実際には一人として親に孝養を尽くすものがなくなるのである。私はこういう実例を、沢山見てい る。わたしは、決して、親というものが老年になって子供から経済的援助を期待するのが正しいと言うのではない。それを期待すべきものとも思っていない。し かし親たるものが求むるものは、生活の社会保障制度によって人間的愛情のない養老院という機構で世話されるということではないのである。彼らが求めるもの は、肉親の温かい愛情であるのである。愛のない社会保障機構が自動的に世話してくれても、それは肉体は栄養を取ることができるにしても、魂は栄養をとるこ とが出来ないのである。いわゆる民主主義による「家」の制度の破壊はかくのごとくして親子の間の魂の間の暖かいつながりを遮断して、魂なき形骸に置き換え たのである。これによって家庭争議、親子喧嘩、兄弟蛎に相せめぐ状態が頻々と起こるようになって、日本国は内部闘争によって弱体化せしめられたのである。 これは占領軍が被占領国を弱体化する政策としては好個のものであったにしても、独立国の日本を強化するためには「家」の理念を復活し「家」の制度を復活せ しめなけれはならないのである。(つづく)

1032金木犀:2012/07/28(土) 23:22:59 ID:auusu5IE
日本再建の道を拓くもの(6)  谷口雅春先生  『生長の家』誌昭和57年8月号

民主主義を再検討せよ

単に民主主義、民主主義と謂う名称や掛声が尊いのではない。付和雷同して民主主義のレッテルを貼ってあるものならすべて正しいと考え、自分の気に入らぬものを「非民主主義だ」と称して排撃さえすれば好いと考えるが如きは、戦争中に「非国民」だと云う一語で自分の考えとちがうすべてを排撃し去ったと同じ過ちを繰返すことになるのである。私は民主主義と称して行われた凡てが悪いと云うのではない。名称やレッテルで胡麻化されてはならないと云うのである。所謂る民主主義はこうして「家」の観念の破壊と共に、人間の人格の自由を尊重すると云う名目の下に「肉体的欲望の自由」を唱道した。姦通は公許され、姦通しながら離婚訴訟によって生活費や手切金を要求する勇敢な女性もあらわれた。そして文学界では「肉体文学」が横行し、出版会社は金さえ儲ければ好いと云う訳で猥褻文書が氾濫し、それを取締ろうとする当局を「言論の自由」を圧迫するものであるとして文学者総出でその取締りに抗争すると云うが如き不可思議現象を呈したのである。

そして社会の多勢の人たちは、猥褻なことを見ることや、猥褻なことを書いたものを読むことが好きであるから、猥褻文書を取締ることは、多数者の欲望に反するのであるから、民主主義に反すると結論せられた。何でも多数決であればそれを正しいとするのが民主主義であるならば、斯かる民主主義は文化発達の基礎を危うくするものと云わざるを得ないのである。おおよそ大多数と云うものはその当時の最高文化のレベルの標準までは往っていない。そして、その平均点数に一致せぬものは非民主主義的だと云って排撃する事になっているならば人類はその発展を大衆の平均点数まで引卸されるのである。多数者が猥褻文書を読むのが好きなら、猥褻文書を取締るのは非民主的であると云われる。多数者が姦通の自由がみとめられることを好むならば、姦通を有罪にすることは非民主的だと云われる。多数者が賭博が好きであったら、賭博を取締ることは非民主的だと考えられる。そしてついには、競馬とか競輪とか賭博的なものを奨励して市でそのテラ銭をとって、市の経費をまかなうのが適策だ―― とんだ民主主義が登場したものである。所謂る民主主義は日本に何の目的で占領軍によって播種せられたか、また如何なる効果を与えたか。独立後の日本は他からの政策によって何々主義と云うようなものを植え付けられることなしに、白紙になって、今後日本を再建するには、「主義」などと云うものに泥(なづ)むことなく、もっと「人間神の子」の本質的な立場になって考え直さなければならない時なのである。(つづく)

1033金木犀:2012/07/28(土) 23:30:32 ID:auusu5IE
日本再建の道を拓くもの(7)  谷口雅春先生  『生長の家』誌昭和57年8月号

外人記者もみとめる日本の美風

ここまで書いたとき昭和二十七年六月号の『文藝春秋』が私の机に届けられた。それには1948年、英国のタイムズ特別記者として初めて日本に来て、八ヶ月滞在したトレイシー女史の日本観が『占領下とは専制下のことか』と題して書かれているのである。傍目八目の喩えの通り、宣伝にのせられていた日本人自身には却ってわからず、占領軍自身にも気がつかないで潜在意識で日本を弱体化そうとしていたことも、第三者から観るならば比較的公平にその事情がわかるのである。さきにあげた日本の或る大新聞の記者はラフカディオ・ハーンが日本婦人を賞めたことを明治三十七年の古い出来事であり、封建的産物にすぎない日本女性の従順と無我献身を何の賞める値打があるかと云う風に、日本女性をあたまから卑しめてかかっているのであるが、日本人記者よりもトレイシー女史のような、第三者的外来記者の方が、日本の善さをもっとよく知っていてくれるのである。日本人よ、もっと日本国と日本人自身とに自信を持たなければならないのである。女史は次のように述べている――
「私は日本人が質朴で優雅で、美しいものを愛し、自然を敬うのに感嘆した。彼らの社会風習は、多くの点でヨーロッパの風習よりもすぐれているように思えた。だが、このデリケートな文明国は多年、西洋がつかみ合いの衝突をするような危険な目にあって来た。そして今や西洋はこの国を圧倒して、できればこの国を生み出した精神までも、破壊しようと思っていたのだ。西洋では実際次のように言っていた。我々はいろんな機械装備をもっているから、原子力や大砲も、巨大な爆撃機や艦隊もあるのだから、人間がすぐれているにちがいない。君たち日本人は、我々の家、我々の物質、我々の知識をもつことはできないが、我々の風習や倫理を、君たちに教えてやることはできると。……」(『文藝春秋』昭和二十七年六月号127頁)

日本人の多くも、欧米の物質文明のそして武器の優秀に暗示されて、日本民族自身の「ヨーロッパよりもすぐれている」社会風習を「封建的」と云うただ三字の評語をもって葬り去って、家庭制度は封建的である、女性の従順は自覚が足りないのである、争議をせず奉仕的に働くのは人権を尊重しないのである、姦通や人工流産を法律で取締るのは民主的ではない、大多数の人は「性の自由」をもちたいのである……等々と云う風に、そのもっとも尊い日本の社会的風習の部分を捨てることにいそしんでいるのは遺憾である。(つづく)

1034金木犀:2012/07/28(土) 23:36:12 ID:auusu5IE
日本再建の道を拓くもの(8)  谷口雅春先生  『生長の家』誌昭和57年8月号

そして到頭、占領軍の日本猥褻化による精神の弱体化と云う思う壺にはまったのである。日本国民は日本のそれ自身の風俗習慣のうちに美しいもの、尊きものがあるのに、それを捨てて、原子力や、強大な底力を持つ西欧人の風俗習慣のほうがよいと思ってそれに乗り換えたのである。しかも甚だ「板に載らぬ」下手さ加減で西洋を模倣して得意になっていることをトレイシー女子は皮肉な書き方で嘆いているのである。その一、二の場所を抜粋して見るならば、先ず、「……街路に沿って所々に拡声機が据えられて、ベートーベンの交響楽も、アメリカのダンスのヒット曲も、ゲイシャの唄も、能楽の謡も、無差別にがなり立てる。また一人は和服を着ている二人連れの若い女が一緒に散歩している姿も、しばしば見うけられる。前者は、きらびやかだが、いつも調和のとれた色彩を身にまとった、小柄なしとやかな娘で、仔鹿のように身軽に、下駄ばきで軽快な足どりを運んでいる」と日本人本来の服装の調和を賞め、それから洋装に浮き身を窶(やつ)している婦人を、
「後者は彼女の体のぶさまにふくれている部分の両脚を、十分重んじたような、短いドレスを着て、一まわりか二まわりも大きい形のくずれた靴をはき、明るい緑色か桃色の、足首までの短い一対のソックスをはいているのが目をひく」
と書いてその不様さを嗤って書いているのである。そして占領軍が日本猥褻化の目的を達した事実として次のような光景を描写しているのである。
「ダンス・ホールは“今晩アベック・タイム”と広告している。アベック・タイムなるものは大へん新しい魅力で、そこはホールの電灯を暗くし、こってりポマードで髪を固めた若い男がけばけばしい化粧をした女の子と、ぴったり頬をくっつけ合い、低能みたいな顔付きで、床を廻っている。見なければ信じられぬ情景だ。……」

最後の「見なければ信じられる情景だ」と云うのは西洋にも見られない猥雑な光景で、話した位ではウソだと思うほどの露骨な低能さだと云う意味であると思う。そんな情景は、占領軍の来るまでは日本人にはなかった風習であり、占領軍が日本に播種した風俗の頽廃である。日本を真に健全に再建し発達させるためには、社会習慣、服装、交際の儀礼、家庭の装飾等に到るまで、日本の本来のものの中に西洋にくらべて優秀なるものがあることを再認識し、西洋の悪い方面に辶(しんにゅう)をかけて輸入し模倣するようなことを止めなければならないのである。

トレイシー女史は、日本の愚かな西洋風の模倣を次の如くこっぴどく叩いているのである。
―― 「日本人たちは、東京のあのぞっとするような西洋風の厭なものの間を、平気でうろついている。彼等はよい洋画を選ぶことができないし、西洋風に品よく部屋を整えることも出来ない。……彼等の言によれば西洋風は有用であり、実利てきだからなのだ。だが、あなた方も、西’洋’風’は’全’く’ぞ’っ’と’す’る’と’思’わ’な’い’だ’ろ’う’か’?」
爪点は私が付したのだが、まったくぞっとするような、愚かなる跛行的な西洋模倣である。それが所謂る民主主義であって、此の場合の民主主義とは個人主義、利己主義的主張、そして肉体の快楽追求主義であって人間の道徳性を破壊させる主義なのである。そして愚かなる個人にとっては、個人の快楽ほど好ましいものはないのであるから大勢の人は民主主義に賛成する。議会でも囂々(ごうごう)の論議をひきおこすのはそう云う利己主義的主張を制禦しようと云う法案に対する反対の野次である。そして反対の理由は、それは反民主主義だと云うのである。しかし、日本の民主化と云うことは占領軍がポツダム宣言によって規定したところの日本精神を弱体化せしめるために、日本精神におきかえるための頽廃化政策だと云うことを、もうそろそろ日本人は気がついてもよい筈である。これには外人記者の方がもっともっと早く気がついているのである。「占領の目的は昔のように、敵を押さえつけて武装解除をさせたり、損害賠償をさせたりするのではなくて、被征服者の生活態度を、すっかり征服者の生活態度に見倣わせるように、作り直すことであった」とトレイシー女史は云っているではないか。(つづく)

1035金木犀:2012/07/28(土) 23:40:19 ID:auusu5IE
日本再建の道を拓くもの(9)  谷口雅春先生  『生長の家』誌昭和57年8月号

彼ら西欧が吾らを弱体化して支配する方法は大体に、日本の「家」と云う良俗を失わしめること。日本を歴史なき国家として忠孝の感情を一掃すること。日本人に淫蕩な習慣を植えつけて、精神的及び肉体的に頽廃させると云うこと。人口を減少せしめることによって日本の国力を減弱せしめること。産業でも土地でも分割することによって弱体化せしめることであったのである。白昼、女が男にぶらさがって恥ずかしがりもせずに往来をのさばり歩くは先ず占領軍がつけたのである。たった八ヶ月日本に滞在した英国婦人記者でさえもそれを炯眼に見ぬいているのである。トレイシー女史は曰く、
「……三人の米兵が、めいめい左右に二人ずつパンパンを抱えて、ある大学の構内に押し入ったが、そこには水泳場があった。彼らは服をかなぐり捨てて水中に飛び込み、静かな競技場内で、大声をあげてはしゃぎ立てた。そして再びプールから匍い上がるや否や、多数の学生が見ているところで、しかもまっ昼間、さっそく懸命に交接をやりはじめたのだ。大学では連合軍当局に電話をかけたが、当局は順おくりに、この精神病者に電話をかけた……」

この記事を見たときに、これは誤植ではないかと思ったけれども誤植ではないのである。こうして占領軍の淫蕩な習慣を見せられたとき、被征服者は征服者を或る意味に於いて尊敬するから、そして尊敬する者の行いは模倣したくなるから、そして尊敬するものに対しては、女性は自然に身を委せたくなるから、こうして日本人の性道徳は益々頽廃したのである。そしてその淫蕩な行為の結果はらんだところの生命は、指定医さえ認定すれば人工流産で殺して出してしまえばよいと云う法律が議会に持ち出されて、議員は皆々賛成する。全くお話にならない民主化ぶりであるのである。(つづく)

1036SAKURA:2012/07/29(日) 01:23:08 ID:V.pKl3yA
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
こんばんは……ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。

今日は、【落ち込み…日記】なのです。…が?
その前にやはり「精神修行」が優先になりますでしょうか?最近「心霊勉強中…」なのですが、
精神を正しい理念の方向に行かせるような“心霊”が、一番です〜〜〜ョネ!
そして、ある面では「宗教家の元祖?」は、いかにしてもやはり“心霊”から来る様に思えましたが、
私も【心霊=神】に、映って行く勉強なのでしょうか???今日からまた【幸福になるチャンス】…
ゲット!できます様な「世界観」を〜〜〜ぺ〜〜ジを“開き”ま〜〜す。

■【幸福を招く365章】
――――汝の肉体を賛美せよ―――――
 あなたが肉体を愛し、その健康を求めるならば、肉体に小言を云ってはならないのである。
肉体に感謝し、肉体にお礼を云い、肉体の美を讃え、肉体の健康を祝福しなければならないの
である。こんな不健康な肉体をどうして賛美し祝福することが出来ようと思う人があるかも知
れないけれども、あなたの肉体の何処が健康であるであろう。肺ののわるい人も眼はみえるで
あろう。耳は聞こえるであろう。手足は健全であるであろう。然らば何故、その眼を、耳を、手
足を賛美し、祝福し、それに感謝しないのであろうか。真に神の恵みに感謝したとき、その肺
も治るであろうに。                  (谷口雅春著)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆

■そうです〜〜〜ョネ!今を!今を!感謝でしょう〜〜〜か?
それでも、今の現状に“感謝不足”が多いのでしょうかと?私自身思ってしまいます〜〜〜ョネ!
ア〜〜〜ッと“嫌な吸血鬼・ゾンビ達”が、通勤中!毎日〜毎日〜押し寄せて来ますでしょ?
其の「ストレス!」しかも、彼らの臭気は???なのですが〜〜〜><
これは私の“偏見”から来るのかしら〜〜〜ン!思いながらも、ついつい其の臭い?には、
勝てませんのですが〜〜〜><

今回【心霊勉強?】で、臭気は、その人の後ろの“背後霊”についている“霊”が、
「邪悪の霊」では、ないのでしょうか〜〜〜?そうしますと、その“臭気???”
はっきり申しますと、【霊界の世界】で行きますと、「悪霊」らしいのではと、判断します。
こちらの【心=精神】が、数段上になりますと“悪霊”のつかれている方は、
こちらから見ますとかなりの臭気臭いそうです〜〜〜が?と、聞きました次第です。…が?
本当に「吸血鬼・ゾンビ達…」は、臭気が臭いのです〰〜〜ョネ!

これは、私の方が、数段と【魂が向上】に至った事なのでしょうか〜〜〜?
さて!「今を活かす事」が、【生長の家のスロ−ガン】なのです。
私も【今!・今!を生きる事に、全力投球…速球】なので〜〜〜す。更に【感謝!】です。

今は、とても“環境的には〜><〜”なのですが?きっと、“心が整います”と、
必ず!「神の恵み」が〜!現れるようにと、毎日!毎日!【賛嘆】して行っている次第なのです。

■益々……今日も【SAKURAの心?進歩向上の経過中】で〜〜〜す。
                                   再合掌                                      
PS:トキ様へ…
来月は、いよいよ「裏盆供養祭…」です。今年「亡き母」の白い御霊様を、見まして、
今!今!を感謝しまして、日々【賛嘆日記】でしょうかと?
今日は【落ち込み日記】になりました時は、どの様にしまして切り替えれば?と思いますと、
【感謝…】この事につきますでしょうか?トキ様は、どの様になさいますでしょうか

1037a hope:2012/07/29(日) 10:11:30 ID:kJvHf4/g

人生読本 谷口雅春先生著

何処(どこ)でもできる神の子の教育


私達は人間を教育するのに、困難を避けしめるような教育を施しているようなことでは駄目であります。
どんな困難にでも、「自分は神の子である、不可能ということはないのだ、
我(わ)が行くところ必ず成功あり」という強い自覚を、幼い時から植えつけて置くということが必要であります。
これが、近頃喧しくいわれている「人を作る教育」の根本であると思うのであります。

別に何宗教何宗派というのでなしに、だだ「人間は神の子、又は仏の子である。
人間の中には無限の力が宿っているのであるから、それを悟れ」ということを、
常に子供の頃から知らして置くということにいたしましたならば、
何宗派の人であろうと一向差支えありませんし、必ずその子供たちは人生に立ち、
社会へ出ましてから、善き効果を挙げ、人生の勝利者となることができるに相違ないのであります。

ですから、生長の家の教育法と申しますのは、必ずしも単に子供の教育だけではありません。
一切の人間の再教育をするのであります。
教育というと、何か学校だけで教えるように聞こえますが、教化と申してもよろしい。

大人も一緒に「人間神の子、力は無限」の思想で再教育されることは刻下(こくか)の最大急務であります。
(つづく)

1038金木犀:2012/07/29(日) 15:25:41 ID:auusu5IE
日本再建の道を拓くもの(10)  谷口雅春先生  『生長の家』誌昭和57年8月号

表現文字の制限は文化を低下させる

私は『文藝春秋』から引用した文章を原文のままの「発音通り仮名遣」にしておいたが、私自身の書くものは、なるべく歴史的仮名遣を堅持しているのである。(原文は歴史的仮名遣になっていますが、謹写する際に現代仮名遣に直させていただきました)日本の民主化とは「言論の自由」と云いながらその使用する文字を制限することであり、言論の自由を奪うことだったのである。凡て占領中の占領者が被占領者に与えるところの施策は、被占領者の弱体化であるけれども、(ソ連に対する防壁として強化の必要を認めてからは別だけれども)正面から「お前を弱体化する為に」と云えば被占領者が反抗して収拾がつかなくなるから、一見道義的とか仁愛的とか感じられる言葉を用いているのである。

常用漢字を設定し、子供の学習の便利にし、発音通りの仮名遣いを用いさせる事は、幼弱な児童の頭脳を保持する為だと一見親切めかしく云われているけれども、早くから漢字を多数覚えさせたからとて頭脳が悪くなる様なものではないのである。漢字の如き象形文字は、視覚型の記憶力をもっている人には、アルファベットを組合せて符号的文字を記憶するよりも記憶し易いのである。眼をつぶればその形が思い浮かび、それが象徴する或る情調が思い浮かぶ。象形文字がその図形のもたらすそれぞれのニューアンスをもっている事は、絵の具が同じ「青」であっても色々の微妙な色調の変化がある様に、文字の象(かたち)のもっているそれぞれのニューアンスによって吾々はいろいろの複雑多様な感情や情景を表現する事が出来る。符号的文字では電文を読むのにも似て、象(かたち)から来る情景や感情が伴わない。しかもその象の奥にはその文字のもっている色々の歴史的背景から来る連想もあり、現在使われている漢字は、その歴史的存在として、単なる符号のあらわし得ない処のものを表すのである。

西洋人には、そう云う文字の齎(もたら)す感情や感覚はわからない。意味がわかり実務に便利で勉強に労力が要らなければ好いと云う――しかし表現される言葉の数が多いほど、その国の文化が進んでいると云うことをあらわし、心の感受性が複雑化していることを示すのである。その国の文化的水準の高さはひとり物質的な機械や装備や発明力によって判断されるものではない。「機械文明がお前の方より進んでいるから、お前の国は後進国である。だからおれの国の生活習慣や社会生活の風習を教え込んで教化してやる」と云うが如きは、甚だしい僭越さであると云わなければならないのである。しかも占領軍のそう云う教化政策にいつの間にか胡麻化されて、日本人の美しい癖のない頭髪を火事場で焼けちぢれた陰毛のように気の毒にちぢらせたり、折角、美しい日本人独特の衣装をやめて、大根に毛の生えたやうな太い脚に、ナイロンの靴下をはかせて雲助のような毛脛をすき通らせて得々としている日本婦人や、姦通したり人工流産をすることが民主的当然の人権擁護であるが如く考え違いをしている日本婦人が多数出来て来たことは何と云っても残念なことだと云わずにはおれないのである。(つづく)

1039金木犀:2012/07/29(日) 15:27:20 ID:auusu5IE
日本再建の道を拓くもの(11)  谷口雅春先生  『生長の家』誌昭和57年8月号

歴史的仮名遣を廃して発音式になんでも書けば簡単で児童の精神を過労せしめないために結構だと云う、アメリカさんの日本への押し付け政策が正しいのならば、何故アメリカさんはhighとかneighbourとかphotographとかの発音には不要なサイレントのghを消さないのか、phを何の為に簡単な発音通りのfにしないのか。アメリカの兵隊さんにphotographの綴りが書けない者が沢山あったこともきいた。アメリカさんは自国の歴史的綴字法を廃せずして日本に対してのみ親切めかしく歴史的仮名遣を廃するように勧めたのは何かその奥に理由がなければならないのである。それはまことに「占領政策」であって、日本強化の政策では無論ない。

発音通りの仮名遣いにして、しかも使用する感じの数を減らしてしまって、二、三代経つうちには、その発音は如何なる漢字から来たか不明となり、現に使っている言葉と、それがよって由来した語源との連絡が不明になり、日本の古典や古き歴史の書物が読めなる。かくて日本の歴史を読む能力のなくされた日本人は、心のなかで歴史なき日本人となるのである。歴史なき国民は浮浪児と同じである。浮浪児は「家」がないから、「家」を護ろうなどとは考えない。それと同じく、歴史なき国民は歴史的存在としての日本国を護ろうなどとは考えなくなる。日本人はコスモポリタンとして、国際的浮浪児として、全体の中に溶けて無くなる。まことに巧みな占領政策であったのである。

このような占領政策に迎合して参議院で、常用漢字の制定や、発音通りの仮名遣いを全日本人に強制することに骨折った議員が、錚々たる文学者の中にもあったのだから、如何にその占領政策が巧みなものであったかがわかるのである。教科書の漢字制限以後に教育された青年が、どんなに読書力が低下しているかは日本教文社で発行している『理想世界』と題した易しい雑誌が読めない青年が多いのでもハッキリわかるのである。言葉と文字とは幼年時代に教えて置けば、同時に三ヶ国語位は覚えられるのである。吾々よりは十年も前の日本人は四、五歳位にして漢文を修め四書五経を素読し得たのであるが、それでも、難しすぎて頭脳を悪くした、と云う明治初年時代の人間はいなかったのである。吾々の時代になると漢文はそんな幼年では教えられなかった。やっと中学時代になって漢文を習ったのであり、従って、もう吾々の時代には短くて含蓄と深味のある文章を書けるものは乏しくなった。まづ森鴎外あたりをもって漢学の素養が文章に味いを与えていた時代の終末と見て好いのである。漢字が読めなくなると忠孝の思想を盛った古典が読めなくなる。こう云う点にも占領軍の施策に深謀遠慮がみられるのである。(つづく)

1040金木犀:2012/07/29(日) 15:31:14 ID:auusu5IE
訂正です。
>>1039の2段落の1行目

しかも使用する感じの数→しかも使用する漢字の数

1041a hope:2012/07/30(月) 06:57:20 ID:kJvHf4/g

人生読本 谷口雅春先生著

子は親の心の影


神戸市兵庫の入江小学校の村山栄太先生は、子供を教育するのには先ず保護者を招(よん)で、
保護者にお願いになって、子供に対して準備的暗示をして貰ったということでありますが、
子供を善くするには、ぜひとも親を善くしなければならぬのであります。

子供は親の心の影である。
これは単なる学業成績だけの問題ではないのであります。
子供の健康状態も親の心の変化にしたがって常に変わってくるのであります。

大阪府豊中市の千田(せんだ)さんの子供は、親ご自身が十八年間も病気でおられたものですから、
子供が常に身体が弱くて欠席勝ちであったというのであります。

ところが親が『生命の實相』を読み、子供に「あなたは神の子である」ということを
知らして上げるようになってからは、ほとんど病気をしなくなった。

或る時、その子供が大腸カタルを患ってたいへん熱が出たそうであります。
それで「お前学校を休むか」と訊いたら、「いや休まぬ、私は神の子だから大丈夫だ」こう言って、
まだ小学校二年生のお嬢さんですが、病気は病気、勉強は勉強と、きれいに病気を超越してしまって、
お掃除の当番までチャンとやってのけて帰ってこられたのであります。

これは、ただ学校の当番をチャンと済ましたというだけのことではない。
こういうふうな子供が大きく生長して大人になった時に、病気になっても人生に処して、
人生に於ける人間の役目を、人間の当番をどんな困難がこようとも、
やり遂げるだけの大きな力を学び得たということになるのであります。

教育は常にあるのです。
常に私達は教育されているということを忘れてはなりません。
(つづく)

1042ハマナス:2012/07/30(月) 10:41:44 ID:0kyCzJg6

神の子のみなさま
おはようございます。
先週末は、行事の為出かけていまして、引用はお休みしました。

心のレンズの向け方  (『新版 生活の智慧365章』P.213より)

宇宙には無限の供給が充ち満ちているけれども、それを現実世界に持ち来すためには、
それが現実世界にあらわれて来るための通路を作らなければならない。

 景色は無限にひろがっているけれども、それを写真に撮影して現像するためには、
先ずその人の持つカメラのレンズをどの方向に向けるかを定めなければならないのと
同じである。どんなに美しい景色が無限にひろがっているにしても、私たちはカメラ
のレンズを向けた方向の景色だけ写真にうつし取るのである。それと同じく私たちの
「心のレンズ」を暗い方面にのみ向けるならば、私たちは、暗い事物のみを現象世界に
あらわすことになるのである。これに反して私たちの「心のレンズ」を明るい方面のみ
向けるならば明るい世界が現象界にあらわれて来るのである。

感謝合掌

1043SAKURA:2012/07/30(月) 16:13:59 ID:k.Au8o5Q
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
こんにちは……   ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。

今日、“投稿”しますは、私が19歳の頃読みました本・・・『ベスト・フレンド』で〜〜〜す。
久しぶりに、本棚から現れたのです。ペ−ジを開きますと・・・これも「真理」なのですネ!
若い時は、ながし読みで・・・理解度は???(微笑)では、紹介させて頂きます。
【コロンビア大の方達が、真理…サイコ的】に・・・?ちょっと開いていきます

■【ベスト・フレンド…】
(新しい自分の出会い)
―――――幸せの国のカギはどこに――――――
| ◆人は誰でも幸せになりたいといいます。でも、ほんとうの幸せなど、実現不可能な夢の
| ようです。誰もが必死になってつかもうとしているのに、少しもわたしたちに近寄って
| きてくれないように思えます。これは、わたしたちがなにかまちがったことをしている
| からなのでしょうか。多くの人々が、いろんな形で不満を感じているのはなぜでしょうか。
| わたしたちがあまり多くのことを望んだり、筋ちがいのことを望んでいるためでしょうか。

❖いや、いまの世のなかは、おっしゃるほど、すべて悪いわけではありませんよ。すばらしい
人生を送っている人もたくさんおります。その人たちは自分の人生を徹底的に享受し、
一刻一刻を楽しめるだけ楽しんでいます。ただ、そういう人たちは自分のことをあまり口に
しないのです。誰かに話すより、そんな時間があったら、もっともっと自分で楽しもうと
して忙しいのです。
こういう人たちはふだん、新聞、雑誌に投書したり、精神分析医にかかったりするような
ことはしません。
 ただあなたがおっしゃるように、みんながみんな、日々の生活に楽しさを感じている
わけではないということも、また事実です。幸せをつかむ技術を身につけていない人々も
確かにおおいのです。
         ――――――――― * ――――――――――

| ◆あなたは、今「技術」とおっしゃいましたね。それはダンスをしたり、詩をつくるのと
| 同じように、誰かに救われば身につくようなものなのですか。人間は幸せかそうでないか、
| どちらかだと思いますが、自分が幸せになれるかどうか決めることはできないでしょう。
| 人間はその気になれば、たいていできるかもしれませんが、幸せをどうやってつくり出す
| ことができるのかわかりません。たしかに、自分を幸せにしてくれるだろうと思うものを
| 追いかけていくことはできるでしょう。しかし、幸せというものは実際手にしてみるまでは、
| それが本物かどうかがわからないはずだと思うのですが。

❖ある意味ではたしかにあなたのいわれるとおりかもしれませんしかしいまあなたがおっしゃった
ことは、たいていの人が幸せをもとめるときかならずぶつかる問題なのです。これさえ手に入れる
ことができれば自分は幸せになれる―――そういうものが、この世に実在すると思い込んで
いる人たちがおおいのです。幸せがタナボタ式に自分の手のなかに入ることだけを期待して
いるのです。幸せとはみずからの手でつかみとらなければならないものだということがわかって
いないのです。誰だってフランス語や物理学やスキュ−バダイビングを学ぶときには大変な
苦労をするでしょう。車の運転を習うときにもずいぶん努力するでしょう。でも自分自身を
動かすこととなると、その苦労をしようとしないのです。

                     <つづく>

1044SAKURA:2012/07/30(月) 16:16:31 ID:k.Au8o5Q

>>1043投稿の続きです。
こんにちは……   ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。

| ◆それはおかしな考えです。あなたのおっしゃり方はまるで、わたしたちが、自分の意志に
| よってすべての始動ボタンを押すべきだといっているようですね。
| しかし、生きるためには技術とはもっと自然なものではないでしょうか。

❖おそらくそうかもしれません。そうあるべきかもしれませんね。しかし、多くの人にとって、
そうではありません。人は生まれながらにして生き方の技術をもっているわけではありませんし、
その技術を身につけようとする人は非常に少ないのです。技術といっても、それは血のかよわい
ものや機械的なものではありませんが、学ばなければならないことがたくさんあるのです。
         ――――――――― * ――――――――――

| ◆それはたとえば、どんなことですか。

❖まず第一に、わたしたちは、これまでおそらくまちがったところを探していたのだということに
気づくことです。その源はわたしたちのこころの外側にあるのではなく、内側にこそあるのです。
自分の潜在能力の扉をたたいた人が何人いたでしょうか。たいていの人は自分のもっている
能力以下のことしかしていません。そして誰かが幸せの国のカギを渡してくれることを待ち
つづけている限り、いまの状態をつづけて行きます。
わたしたちは、その幸せの国は自分のこころの内にあることを知るべきなのです。つまり以前から
そのカギは手に握っているのです。ちょっと豊かな人生航路に向けて出発する合図を待つばかり
なのです。しかし、その合図を出せるのは自分自身だけなのです。
自分の人生に起こる出来事は、自分自身に責任があるからです。どの道を選ぶか、その選択権は
あなたの手のなかにあります。ですから、わたしたちは自分の幸せに対して責任があるのです。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆
◆みずからの【ベスト・フレンド】若い頃の私は、この意味が“理解”できませんでした。…が?
要約、この年になりまして【心…心の声?】と云うべきなのです〜〜〜ョネ!ウフフ?
「谷口雅春先生」も【人生は心で支配せよ…】或いは「谷口雅宣先生」も…
「全ては心でつくる世界」…両先生ともども【心の世界…】そうなのです〜〜〜ョネ!
【一般=末端信者】にとりましては、【心の法則=真理】の言う“深見?”に入り込みまして、

◆【幸せ探しの…人生航路】への舵取りを、していきたいものです…。
その選択権を頂いておりますのが〜〜〜【生長の家…真理】ですもの?
なのに〜〜〜【お家騒動…】変です〜〜〜ョネ!

今は、神に全托しまして「祈り」に徹していきたいものと思います…。
                                  再合掌

PS:トキ様へ…
実は、この著者は精神分析の開業医であり、サイコロジストとしての資格を持っている夫婦…
バ−ナ−ド・ベルコビッツとミルドレッド・ニュ−マン夫婦なのです。…が?
しかも、バ−ナ−ド・ベルコビッツは【コロンビア大学でソ−シャルワ−クの修士号】を…
つまり【現総裁雅宣先生…コロンビア大学】でした〜〜ョネ!
大方、現総裁先生は、コロンビア大学在住にて何らかの「ソ−シャルワ−ク」関連の影響を、
受けられましたでしょうかと、思いますが…。この点は、いかがお考えでしょうか?

【コロンビア大学…有名なドクタ−モルツ博士(サイコサイバネティクス)が、
いらっしゃいましたです〜〜〜ョネ】と云う事は、哲学的な考えができられますものと思いますが?

1045金木犀:2012/07/31(火) 03:50:38 ID:auusu5IE
日本再建の道を拓くもの(12)  谷口雅春先生  『生長の家』誌昭和57年8月号

人口制限は日本を弱体化する

人口が過剰になると、止むを得ず侵略をする惧(おそ)れがあるから日本の人口を制限しようと云う人は、人口がとぼしいためにその固有の領土すら常に近隣の大国の侵入に晒されて手も足も出ない少数民族の現状を見るがよいのである。真に完全に独立している国は、他国の手助けを借りることなくして自国を護り得る者でなければならないのである。この意味に於いて、人口の少ない少数民族の国は、国際的に独立国とみとめられているだけで、実質は独立しているのではないのである。実質が独立国になるためには人口が多くなければならないのである。その国の人口が唯、多いと云うだけでも一つの対外的威力となり得るのである。中共が朝鮮に侵入して来て、それが明らかに北京政府の司令によるものでありながら、中共義勇軍と仮称して国連軍に対して押しをきかせて北鮮を有利にしたのは、中共軍の装備が立派だからではなく、中共の人口が尨大(ぼうだい)なものであり、アメリカが出来るだけ中共軍を怒らせたくないために遠慮したからに過ぎないのである。人口の多いさは、ただそれだけで強大なアメリカに対してすらもこれだけの威力を発揮し得るのである。アメリカが日本の人口を増加しないように、或る点でくいとめたいために産児制限を奨励しようとしたのは占領政策として無理もないことであったけれども、日本人自身が人口を制限して、自国の威信を弱小に制限しようなどと考えるのはまことに愚かなことだと云わなければならないのである。(つづく)

1046a hope:2012/07/31(火) 07:09:02 ID:kJvHf4/g

人生読本 谷口雅春先生著

重田さんの体験①


生長の家に家庭光明寮という花嫁学校がありましたが、
そこを卒業された方に重田さんというお嬢さんがありますが、
その方のお母さんは生長の家の誌友になって大変心境がお進みになったのであります。

家族中全体が生長の家の思想をお持ちになりまして、
人間を誰でもみんな神の子であると拝むような気持ちになられました。

その息子さんで商業学校出のまだニ十歳ぐらいの方がございますが、
家が金物屋で、この息子さんが商売の手伝をして金物を売っておられた。

或る日のこと、その息子さんが、お客さんに少しでも深切をしてあげたい動機で、
何でも二十三銭とかにうるバケツを、一銭値引きして二十二銭でお売りになったら、
お客さんが非常に喜んだというので、その息子さんがまた喜ばれまして、
同じ値段を引くくらいならばひとつ原価で売って上げようと言って、
元値(もとね)の十九銭でお売りになったそうであります。

そうすると、重田さんのところは金物が安いというので、
京都中で一番よく繁昌(はや)る金物屋さんになった。

すると金物屋の同業組合から、
「君の方でそんなことして貰うと市価(しか)が下がって困る」という苦情が出て、
それは中止しなければならなかったそうでありますが、
余りよく売れるので卸売値段が安くなって元値で売ったときにも、
やはり儲かったということでありました。【昭和十年ころの話】
(つづく)

1047金木犀:2012/07/31(火) 12:38:28 ID:auusu5IE
日本再建の道を拓くもの(13)  谷口雅春先生  『生長の家』誌昭和57年8月号

避妊と堕胎の公認は性道徳を頽廃せしめる

産児制限は避妊法と人工流産(堕胎)によって行われる。最近一年間に指定医によって届け出 られた人工流産の数は六十万人だと言われるが、指定医によらずして手軽に堕胎されたる胎児はその二倍数にのぼるということである。一年に合計百八十万人が 殺されているということになっているのである。

しかし最近、指定通り認定さえあれば何人でも自由に堕胎して差し支えないことになったので、これはどのくらい増加するか今のところわからないが、これも占領政策に迎合した被占領者の愚かなる追随である。せっかく宿った人間生命を殺すというようなそういう残酷なことはなるべくしないように避妊法を行えというように宣伝され、避妊薬が氾濫し、避妊法を政府の 役人または政府から命令を受けた人が公然と教えて歩くというようなことまで行われているのであるが、それがどんな結果になるかというと、「性欲はできるだ け恣(ほしいま)まに楽しめ。そしてその結果としての重荷を負うな」ということになって、いよいよ性道徳の頽廃を奨励することになるのである。

古代ローマが滅びてしまった原因は五官の楽しみを満足させるための味覚の饗宴や、性設備が行き届いて、宴会などでも、食事は五官を楽しますためであって働 くためのエネルギーを補給する栄養ではなくなり、腹いっぱい楽しんで食べた後にはそれを吐き出す設備がととのえてあって、吐き出してはまた食べるというよ うな楽しみ方になっていたという。

食物が栄養のためにとられず、ただ五官の楽しみのためにとられ、性欲が生殖や夫婦の愛情の満足のためではなく、ただ五官の満足のためにのみ遂行せられるようになったとき、それは「自然」の意志に反逆するのであるから、必ずや「自然」は彼にその報いを与えるのである。
その報いとは人間生活の堕落、道徳の頽廃、毅然たる道徳精神の滅衰ということである。現に日本人の多数(大多数ではないかもしれぬが)はその報いを受けつつあるのであり、幾多のいまわしき事態が続々と起こりつつあるのである。

これは日本の人口を減少せしめようとする占領目的と同時に、一石二鳥的日本頽廃化の目的を達しつつあるのである。

1048SAKURA:2012/07/31(火) 21:48:52 ID:V.pKl3yA
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。

暑いです〜ョネ!モ〜〜〰ゥ!汗が“タラタラ”><と?今年はとても暑くなりそうな予感です。…が?
「エコ−対策」の御蔭で、実は〜〜〜“電気代”も、抑えられて!何と【感謝…】
部屋の中は〜〜〜やや!涼感です。…が?それでも“冷房…規定の温度”で使用できます事が【感謝…】
「エコ−対策」で、随分“節電”が出来まして、今年の“電気代”は〜〜〜何と!何と!半分です。
それと同様…【心の対策】も、必要のようですが〜〜〜><外で求めるより…【内に求める心】…
【鬼は外〜〜♫〜〜福は内〜〜♫〜〜】です〜ョネ!
そうです〰〜〜ョネ!【福音の書物〜〜〜福は内から“幸福を招く365章”〜♫】

■【幸福を招く365章】
――――常に積極的なこころを維持せよ――――

決してあなたは不安、取越苦労、懐疑、嫉妬……等あらゆる消極的な想念感情の虜となって
はならないのである。常に信頼、幸福、明朗、楽天の積極的想念をいだくようにすべきである。
あなたの想念感情が明るい波長にならばなるほど、神の導きの声がハッキリときこえるように
なるのである。神の声をきくと云うのは耳の中で囁くように聴こえて来ることもありますし、頭
の中で「声なき声」として感じられて来ることもありますが、誰かが訪問して来て導きになる
善い話をもちかけて来る事もある。
                          (谷口雅春著)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆

■そうなんです〜〜〜ョネ!
もう〜〜〜“不安”は、何処かへいったような“心境”でしょうか…!
「なる様に?なる?」…これは“ダメ”です〜〜〜ョネ!心の奥で“ネガティブ感情”ですから?
私は、必ず“いい方向”にいくと強い“意識=意志力”をい抱きましての“行”を…
そう致しますと“実現”となりますで〜〜〜ショ!

「実相顕現」で、“心が力む”という事は、潜在意識の中に多少“現象をつかむ心”があるのでは?
無いのでしょうかしら〜〜〜ン!その様にこの頃は、思いますので
“心は?いつも自然体”で、いきましょうかと?思うようになりました。…が?

きっと!「良くなるしか無〜〜〜イ!」と思います。…が?今の私は、その様に【楽観心境】です。
現教団側から出ていかれました方々…?これから出ていかれようとの思いの方々…?
個人的には、何処に行っても“同じ繰り返し〜繰り返し〜♫”のように、思えてなりませんが?

ある面では【長編詩…新聖経】でも、いいのではないでしょうか?

■実は、一昨日・昨日は、“パ−トナ−の母親”に「普及誌」を読ませる機会がありました。…が?
彼女の母親は「認知症…」??
はたから見ましても“心”が、晴れ〜晴れ〜♫となる様な感じが見受けました次第なのです。
「人を活かせる事が、自分も活かす事にも繋がります。」この“言葉”から…今回の体験は、
現在の「総裁雅宣先生」の考え方によります「運動展開」が出来る様にとも、思えますが〜〜〜?

私は「神の声」が、聞こえるまで【祈り…】をしてみようと、思いますが、
【長編詩…新聖経】を読んでも、瞬時ではなく、時間・空間を経過しまして…必ず!
後から“良い方向”に、物事がいくような気持になるのです。…が?
更に「昔の霊の方」で、やはり【現総裁先生…の指導霊】の方は、上の方の様に見受けられましたが?
更に!“意志力”を強く!そうしますと、必ず!“実現”を起すように思えます。…が?
「ネガティブな感情」が起きますと、当然私の“潜在意識”を「ボディティブ感情」に転換です。

【長編詩…新聖経】も、後から「結果=奇蹟=解決」が出来ますのでは無いのでしょうか?
唯今「現象=現実世界」にて論争が、起きています。…が?今までとは、違うようにも思えるのです。この頃「甘露の法雨」を、読誦していますと〜〜〜(微笑)“睡魔”が〜〜><
一人で?これは私に“頼っているの〜♫”とか?
やはりそれを考えまして【長編詩…新聖経】読誦すべきでしょうか〜〜〜しらン?
悩みますが「今日の言葉」より、
モット〜〜【自信と信頼を神へ…】・更に【内なる神に…】です〜〜〜ョネ!!
                              
                                    再合掌
PS:
トキ様は、「新聖経…」に対して、抵抗感があられる様ですが〜〜〜?
果たして【奇蹟…】が、起きる様になりますと〜その時は如何なお考えになられますかしら〜〜〜ン!

1049ハマナス:2012/07/31(火) 23:41:05 ID:0kyCzJg6

神の子のみなさま
こんばんは。

パン種とふくらす力  (『新版 生活の智慧365章』P.214)

実相世界はメリケン粉の中の入れられたパン種のようなものである。それは内部から
ふくらんで現象の形をつくろうとするのである。しかしその「パンの形」を如何に
するかは、パン焼師が心によって水で捏ねたメリケン粉を如何なる形にして置くかに
よって定まるのである。麭焼師(べーカリー)がメリケン粉の塊を丸くして置けば丸
い形のパンが出来るのである。麭焼師(べーカリー)がメリケン粉の塊を細長くして
置けば細長い形のパンが出来るのである。コッペ型にして置けばコッペパンが出来る
のである。

 それをふくらす力は内部の実相にあるのだけれども、どんな形にふくらすかは人間、
自身が如何なる心で如何なる形をつくっておくかによって定まるのである。法則は
厳重であり、愛憎によって現象界の姿を変化するものではないのである。

感謝合掌

1050a hope:2012/08/01(水) 08:04:40 ID:kJvHf4/g

人生読本 谷口雅春先生著

重田さんの体験②


或る日のこと「今川焼」といって、メリケン粉を溶いて流し込んで、
そこへ餡(あんこ)を入れた饅頭(まんじゅう)のようなものを焼いて売る露天商人がありますが、
その露店商人が重田さんの店へ来て、その今川焼を焼く鍋をくれと言うのです。

店頭(みせさき)に型の大きいのと小さいのと二種類その鍋が陳列してあったのであります。
ところが重田さんのお母さんが、奥座敷でちょっと手の離しにくい忙しい用事をしておられたので、
そのお客さんが「この今川焼のお鍋これは幾らですか」と言われたら、
店先まで出て行かないで、座敷からちょっと覗いて見て、
「その大きい方はいくらで、小さい方はいくらでございます」と言われて首を引込められた。

「それじゃ小さいのを貰ってゆきます」こう言って、
その露天商人はお金を置いて立ち去ったようでありました。
あとで見ると、大きな鍋を持って帰って小さい方の値段を置いて帰っておったのであります。

それを見て、息子さんが、
「今まで生長の家の本を読んで、人間は神の子である、仏の子であると思っていたが、
ああ人間にも神の子でない者がある」こう言われたそうであります。

重田さんのお母さんはそれを聞かれて、すぐ反省せられたのであります。
「ああ申訳ないことをした。人間にも神の子でない者があるという理由がない。
神の子でない悪人のように見えるのは心の迷いがそこに現れているので、
誰も本当の人間はみんな神の子なのだ。
それだのにただ一人でもこの人類の兄弟を神の子ではないと
自分の息子に思わせたということは申し訳のないことをした。
何とかしてみんな人間は神の子だと思わすようにしたい。
神の子であり善人である人間を悪人だと思わすようにしたのは、それは私が悪かった。
なぜなら、私は商売をしているのだから、お客さんが来たら側(そば)までいって鄭重(ていちょう)に応対して、
品物を渡してお金をいただいてお礼を言わなければならないのを、
つい忙しいからと自分勝手の理由で、奥座敷の方から『それはいくらですよ』と軽率にお客さんを取扱った、
それで私の軽率な心が映ってお客さんがこういうふうな軽率なことをなさったのだ。
これはお客さんがわるいのではない、私の心の軽率がお客様の上に映写(うつ)されて、
そういう仮の相(すがた)が現れただけであるから、
ぜひとももう一度あの人にも神の子であるという実の姿を現していただくようにしなければ申訳がない」
とお考えになりまして、

「そうじゃありませんよ」と、その息子さんに言って、

「あの方もやはり神の子だ。
私が軽率でわるかったのだから、
今にきっとあの方は必ずお金を持って来て、
正しい神の子の実相(ほんとうのすがた)を現されますよ」
と言われたそうであります。
(つづく)

1051ハマナス:2012/08/01(水) 17:33:17 ID:0kyCzJg6

神の子のみなさま
こんばんは。

自己表現としての世界  (『新版 生活の智慧365章』P.214より)

 この世界は自己表現の世界である。自己の内部に播かれたる普遍的にして個性的な天分を
表現したとき、その人は悦びを感ずるのである。母親は子供に対する愛情を完全に表現し得た
とき母親としての普遍的な悦びを感ずる。しかしその表現の仕方は個性的であって、ひとりひとり
の母親によって異なるのである。だからこれを「普遍的にして個性的な天分の表現」と言うのである。
良人は妻を愛し得たとき良人として普遍的は悦びを感ずる。しかしその愛し方は個性的である。

 宗教家は信仰をその体験と説教とを通じて表現し得たとき宗教家としての普遍的な悦びを感ずる。
しかしその体験と信仰とはその人に独特の個性的なものである。美術家は美を表現し得たとき
普遍的な悦びを感ずる。しかしその美の表現の仕方は個性的なものである。
この世界はまことに普遍的にして個性的な表現の世界である。

感謝合掌

1052SAKURA:2012/08/01(水) 23:29:09 ID:V.pKl3yA
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。

私の青春時代の本【ベスト・フレンド】で〜〜す。
きょうで「2回目」ですが、意外と真理に分かりやすく【討論形式】ですが〜〜〜??
【コロンビア大の方達が、真理…サイコ的】に・・・?ちょっと開いていきます

■【ベスト・フレンド】  ( 新しい自分との出会い )

――――みずからを助ける心――――

| ❤ まだどうもよくわかりかねるのですが……。もし幸せがわたしたち次第で、魔法の
| スイッチを押すことができれば、すぐ幸せになれるようなものならば、なぜみんなが
| すぐそうしないのでしょうか。

魔法のスイッチなんてものはありません。ただあるのはこころのもち方だけです。自分の
大切な人生に責任をもつということは、わたしたちがさまざまなことに立ち向かっていく
方法に深い変化を生むことを意味します。ところが、わたしたちはこうした変化、この責任
をなんとか回避しようとしていろいろなことをしているのです。
 
自分が不幸せだと感じると、誰がいけなかったとか、なにがいけなかったとか、他人や他の
ことに責任を転換するだけで、少しでも幸せの方にちかづいていく努力をしないのです。自分
の気持ちをいうときでさえ、まるで他人のことを話しているような言い方をします。単純に
「わたしはそう感じた」といえばいいものを、まるでなにか驚異的なちからで圧倒された無力
な生き物のように、「こんな感情がわたしをおそってしまった」という無責任ないい方をします。

 そんなときには、私たちにはコントロ−ル不可能な天候のように、感情が晴れから嵐に
急変するかのようなもののいい方をします。このように自分の気持ちをお天気のように考えて
しまうやり方は、きわめて便利ですね。それはたしかにわたしたちに逃げ道を与えてくれますから。
ただ自分で選択するチャンスをおしのけようとして、自分自身を小さくさせてしまうのです。

           ――――――― * ――――――――

| ❤ あなたの話ではわたしの気持ちはまだすっきりしないのですが。つまり、感情と
| いうものは不思議なもので、たしかにわたしたちのこころのなかを去来するものですが、
| たいていは、なぜあのとき感情がああなり、いまこうなっているのか、ということは
| 誰にもわからないものです。
|  もしわたしがなにかに怒りを感じたり、動揺したりしたときでも、わたしは自分を
| 制して、皿を投げたり、涙を流したりするのをやめることはできます。しかし、動揺
| したりみじめになったりすること自体はどうにも自制できるものではありません。
| もっとも、みずから好んで怒ったり動揺したりしているのかどうかは、自分でもはっきり
| しないのですが。でも要するに、たまたまなにかでこころが傷ついたとき、わたしはその
| 「 傷 」をそのまま感じる権利はあると思うのです。 

たしかにそのとおり、あなたには感じる権利があります。幸せを感じるのと同じように、苦しみ
を感じるちゃんとした権利をもっているのです。すべてのことにある感情を抱くということは、
あなたが真に人間であるという証拠です。しかし、人間は不快な感情にのみとらわれることが
あまりにも多いのです。それはときには好んでそうしているのではないかとさえ思われるのです。
 
 人々は自分がやろうとしていることの意味をあまり考えずに、なんにでも取りかかってしまうこと
があります。自分を不快に感じさせるようなことを自分でして、「ああ、わたしは耐えられない」
と嘆くことがあります。ところがそれは、ほんとうは、「ああ、わたしはなにもしなかった」を意味
しているのです。でも、わたしたちはみな、どんなことにぶつかってもみずからを助けることが
できるはずなのです。
     
           ――――――――― * ――――――――
                              <つづく>

PS・「トキ様」へ…
【ベスト・フレンド】今回の項目は長いのですが〜〜〜><
当時の【翻訳の表現…】が、固くて、この頃の時代の“翻訳=日本語”の表現は〜〜〜
【真理…】も、やはり“言葉の表現”での影響力は多大なモノではと?
改めまして思う次第なのです。…が??
それによりまして「悟り?」も〜〜〜><なのでしょうか???
「トキ様」は、どう思われますでしょうか〜〜〜??
更に、引き続き【みずからを助ける心…】シリ−ズを投稿させて頂きます…。  再合掌

1053a hope:2012/08/02(木) 07:31:14 ID:kJvHf4/g

人生読本 谷口雅春先生著

重田さんの体験③


その露店商人はその金物屋の前を毎日屋台店を押して行くのでしたが、
その事のあって以来、その露店商人は一向(こう)重田さんの店の前を通らなくなってしまったのです。
何かうしろめたいような気がするのでありましょう。
それで、重田さんの奥さんはますます恐縮せられた。

「これは申訳ないことをした。あの人が極(きま)りの悪い思いをしてここを通らないのは、
自分のいまひとつの落度から、あの人の住む世界がこれだけ狭くなったのである。
ああ申訳のないことをした。もっと私が深切にお客さんに応接する心があったならば、
人の世界がこんなに狭くならなかったであろうに」こうお考えになられまして、
その露店商人のために祈っておられました。

或る日重田さんの奥さんが、京都の街を歩いておられますと、
その露店商人がどこかで屋台店をおろして今川焼を焼いておったのであります。
それを見て、重田さんは心で掌(て)を合して
「露店商人に申訳ないことをしました」と言ってお詫びになった。

そして家へお帰りになると息子に、
「あすこにあの今川焼屋さんがいるから、あんたお金を貰ってきてください。
きっとあの人は今では実相があらわれて神の子になっておられてお金をくださるから」と言われた。

そこでその息子さんは、自転車に乗ってそこに出掛けて行き、今川焼屋の屋台店のところへ行って、
「おじさん!」とこう一言言った。

そうしますと、露店商人はこちらを見て、重田さんの息子さんの顔を見ると、
「いや、わかっとる、わかっとる。つい忙しかったので持って行かなかったが、
後から持って行くから」と言った。
そうして暫くすると、本当にその残りの金を持って来て、
「どうも申訳なかった」と言ってお詫びをして帰ったということであります。

これは、重田さんのお母さんが、その今川焼屋の実相を見られて、
「あの人は本来神の子であって、泥棒ではないのだ、泥棒に現れているのはうその相(すがた)だ、
本当の相は神の子である」という心持で、その本当の相を祈り出されたからであります。

(「第十五章 困難の生かし方」 終り 次回から「第十六章 日常生活の生かし方 へ)

1054志恩:2012/08/02(木) 11:33:29 ID:.QY5jUA6
訊けさまの
臨時ブログのことが、島流れ島の方に、載っていましたので貼付させて頂きます。

今、拝見しましたが、見れる様になっていましたよ。よかった、よかった。^^

http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/11788/1343643044/30

1055ハマナス:2012/08/02(木) 15:51:12 ID:0kyCzJg6

神の子のみなさま
こんにちは。

志恩様
ご親切に、訊け様のブログを貼って頂きありがとうございました。

実相世界の秩序  (『新版 生活の智慧365章』P.215)

 此の世界は自己表現の世界ではあるけれども、自己表現を遂げるがために、他の人の自己表現を
妨げたり、他の人に苦痛や不幸を与えるようなことをしてはならないのである。何故なら、此の
世界を表現している「奥なる生命」はすべてのものが一体であり、互いに侵し合うことなく調和
した生かし合いの世界であるからである。これが「実相の世界」の秩序である。だから此の「実相
の世界」にある善きものを現象界に調和してあらわすには、他の幸福を侵すような形でそれを求め
てはならないのである。

 他を侵すような形に於いて求めるならば、それは実相の秩序と相反することになるから、実相の
世界の秩序と波長が合わず、求むる事物が得られないことになるばかりではなく、若し、それが
得られたら、実相の秩序が崩れて不調和な状態に苦しむようになるのである。

感謝合掌

1056トキ:2012/08/02(木) 17:10:51 ID:l4LpfzzY
>>1052

 大学入試の英文和訳なら正確さだけが問題でしょうが、普通の和訳なら、わかりやすい
日本語にする事が大事だと思います。言うのは簡単ですが、実行するのは大変な努力が
必要だと感じますが。

 一般論ですが、人間はどうしても自分を基準に物事を考えるので、相手に誤解を与える
時があります。

 戦争中、捕虜収容所の所長が、捕虜に栄養を与えようと、苦心して「ごぼう」を手に入れて
捕虜に食べさせたら、戦後、BC級の戦争犯罪人裁判で、「捕虜に木の根を食べさせた」と
言って、捕虜虐待で有罪になった事例がありました。

 国が違うと考えは違います。ただ、その中で、人間性とか愛情というコアな部分は共通します。
生長の家が、世界で受け入れられたのは、そういう部分が共通したのだと思います。

1057SAKURA:2012/08/02(木) 19:41:40 ID:V.pKl3yA
トキ様 ヘ
観覧者の皆様 へ

こんばんは…… ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1056拝読させて頂きまして…

■「日本語の英文和訳」は〜〜〜><
“大学の入試の場合”は、いいのでしょう。…が?

そうです〜〜〜ョネ!私自身、思いますが〜〜〜このように「哲学的…」になりますと?
【言葉の重さ?表現力?…etc幾分変わって来るように思えてなりません。】
しかし、当時の場合は、それなりに“素晴らしい翻訳”だと思います。
今日の“情報社会体制”となりました現在は〜〜〜しかしながら?
やはり!更に“高度化?”……上手く表現ができませんが「単語一つ」に、致しましても、
その「単語の持つ?意味するところの“感情”が〜〜〜」どの様なものかを、把握しました上で、正確なる“通訳”を、求められる時代背景へ、突入した感じが致します…。

それは、更に申しますと、その人自身の表現に、なりますのではと思います。
【表現の個性化】でしょうか??

更に「終戦後裁判での情報」を、教えて下さいまして、ありがとうございます。
投稿を拝読させて頂き、解釈のあり方も国によって違うことが〜〜〜><
【木の根?……ごぼう?】随分違いますモノ〜〜〜><

私も最近【国際化…】で、戸惑う場面が多々あります。…が?
これに関しまして、更に【モラル…慣習…習慣】も異なりますモノ??
各国に於けます違う概念・・・・・特に「東南アジアに旅行される方々」…も
最近では、色々問題事が起きているようです〜〜〜ョネ!同じアジア圏でも?なのですかと?
後程…「女子会 板」で、詳しく“投稿”させて頂きましょうかしら〜〜〜ン?
                             再合掌

PS:トキ様は、国際化によります「モラル性・慣習・習慣??」感じられました事は、
在られますでしょうか?この頃思うのですが?【感情の捉え方…】が、
全く異なっていますモノと??それ故に、この感情の捉え方の相違によりまして、最終的には、
「戦争…」という原因にもなりかねませんです〜〜〜ョネ!

1058SAKURA:2012/08/02(木) 21:24:30 ID:V.pKl3yA
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。

私の青春時代の本【ベスト・フレンド】で〜〜す。
きょうで「2回目」ですが、意外と真理に分かりやすく【討論形式】ですが〜〜〜??
【コロンビア大の方達が、真理…サイコ的】に・・・? 昨日の“投稿文章”は、如何でしたか?

引き続き>>1052【新しい自分との出会い】の“投稿”なので〜〜〜す。

■【ベスト・フレンド】  ( 新しい自分との出会い )                   


| ❤ほんとうにできるのでしょうか。できるとすれば、それはすばらしい考えです。もっと詳し|
| く聞かせてください。どうすればいいのでしょうか。                  |
 

方法はいろいろあります。まず、最初に基本的な決断をしなければなりません。あなたは自分
自身を向上させたいと思っているのですか、それとも堕落してもいいと考えているのですか。
あなたは自分自身の味方となりたいのですか、それとも自分を敵にまわしてもいいと思って
いるのですか。

 奇妙な質問と思われるでしょうが、たいていの人は自分を自分の最大の敵にしてしまっている
のです。もしあなたが自分を救おうと決心したら、自分が恐怖を感じるようなことをしないで、
爽快な気分を味わえるようなことだけ選んで行うべきです。あなたに喜びを与える行為もあれば、
苦しみを与える行為もあります。あなたはなにもわざわざ自分に苦しみを与えるような行為を選ぶ
ことはないではありませんか。これはあなた自身が自分に問うてみるべき重要な質問なのです。

 人々は公害問題について心配しています。しかし、わたしたちがみずからのこころに与える
害悪は環境破壊よりずっと危険なのです。こころを汚染させるにはテレビも雑誌の漫画もいらな
いのです。自分自身で自分のこころを汚染させているのです。誰もみずからの価値をさげる方法
を教えてもらおうなどとは思っていないはずです。人間の過ちや欠点というものは、たとえ現実に
存在しなくても、簡単に見つけ出し、作り出せるものです。

自分の価値を高めてくれるものを見つけ出すことは、ほんとうの意味での自分への挑戦なのです。
ところが、人は自分のもっている長所を逆におおい隠してしまっているように思えます。

         ―――――――― * ―――――――――

| ❤しかし、自分のすぐれた面しか見ない人もたくさんいるようです。現         |
| 在の自分の状況 にまったく満足してしまって、なにかぐあいの悪いこと        | 
| が起こると、それを自分ではなくて、他人のせいにする人も多いように思えますが    |


もちろん、います。しかし、そういう人でもこころから他人のせいにしているわけではありません。
自分自身がいかに偉大な存在であるか、あるいは他人がいかに偉大な存在なのかを認められずに、
暮らしている人もまた自分で目をおおっている人たちなのです。自分に取り柄のない人間という
レッテルが貼られるのをこわがって、自分の欠点につい目をつむってしまうのです。こういう
タイプの人たちは、自分が完全な人間になるか、でなければ史上最低の人間になってしますかと
いう二者択一的な考え方しかしないのです。


問題は自分自身を見るときにこうした態度を捨てきれないという点にあります。これは根本的には
自己省察を否定しているからなのです。自分を変革しようと思うなら、まず自分の行為に欠点が
ないかどうか、冷厳に見つめることが大切です。と同時に、堕落の道に通じる手口を見抜く能力と、
かりにその道に入ったときでもこれは自分の本意ではないという自覚をもたねばなりません。
そうなってはじめて、あなたは生活の誇りと喜びを味わえる仕事に着手できるのです。

        
 ―――――――― * ―――――――――

PS:
「トキ様」は、何か?難問題が自分自身に、のしかかってきました時?
【心が外に向けられた事】が、ありますでしょう〜〜〜か??
以前の私の場合は、振り返りますと【内に向ける事が出来ずに、全て!外に向けて…】
いましたが、当に!今【反 省 … !】の“心”そのものです。…が?
私の「潜在意識=心」は、あくまでも私自身の“心”です〜〜〜ョネ!

今回!改めて直ぐ外に向ける“心”を、もっと掘り下げて【祈り…】に集中でしょうか??
「トキ様」は、もしも?外に向けられた時は、果たしてどの様に“対処”されますでしょうか??

1059a hope:2012/08/03(金) 07:24:17 ID:kJvHf4/g

人生読本 谷口雅春先生著

第十六章 日常生活の生かし方


一、あなたは何のために勉強しますか?
あなたは何のために働きますか?
人に威張るために勉強する、お金や衣服や食物を得(う)るために働く、とこう考えておいでなら、今日からこうした考え方を止めにしましょう。なぜでしょうか?

二、勉強すること、仕事をすることは、自分の生命が伸びることだから、楽しくてするのです。

三、使ったら減る、働いたら損をすると思うことは大きな間違いです。
誰でも自分の持っている力が限りなくあることを信じて、何をするにも全力を出す人は何事にでも必ず成功します。
よいと信じたことを確(かた)く守って倦(う)まず撓(たゆ)まずに努力する人は、いつも他の人より優った地位に就くことができます。

四、この世の中には大臣も代議士も博士も必要です。しかしそれより前に強く正しく明るい人に成ることが必要です。
強く正しく明るい人とは、他の誰に対しても自分に対するのと同じように深切を尽して悲しみや苦しみに負けずに、いつも元気で力いっぱい自分の仕事に精を出す人です。

五、あなたと一所(しょ)にこの世に住んでいる人は皆神様仏様の思召(おぼしめし)でこの世に生まれた、神の子仏の子で、あなたとは未だ一度も会ったことも話したこともない人でも、その人はあなたの兄弟姉妹と同じですから、互いに助け合い深切を尽くしましょう。
病気や不幸で苦しみ悩んでいる人にはまごころを以(もって)て慰め、元気をつけてあげましょう。

六、神様仏様はあなた達銘々(めいめい)の中にもいられます。神様仏様は絵に描いたものでも、木や金(かね)で作ったものでもありません。
よい事をして嬉しいのは、あなたの神様仏様がお喜びになるからです。神様仏様にいつも本当に喜んでいただける様な事のたくさんできる方は仕合せな人です。
(つづく)

1060金木犀:2012/08/03(金) 14:25:52 ID:auusu5IE
日本再建の道を拓くもの(14)  谷口雅春先生  『生長の家』誌昭和57年8月号

殺生を無くする農業

しかし人口制限を行わなくては、一定の領土内で生活し得る食糧が量的に不足して、避妊数と人工流産数とを加えただけの人間が健全に育っていたならば、愈々益々食糧が不足して多くの国民が餓死するようになるだろうと云う人がある。しかしこれは杞憂に過ぎないのである。

私は終戦直後、日本の人口は横に他国を侵略しないでも、空中に摩天閣をつくって伸びて行くならば、現在の人口がその十倍になっても二十倍になっても面積に困ることがないことを述べた。先づ大体平均十階以上のビルディングを建てさせる。そして互いに建物同士が光を邪魔して他の建物のルーフを陰らすことのないよう各建物のルーフが平等に日光を受けるように高さを平均する。そしてこの日光の豊かな階上のルーフを食糧にある植物の水栽培の田地とするのである。

かくてこの屋上で栽培される食物を収穫し、そのビルディングに住む人の食糧は大体、その建物のルーフで収穫し得る食物で足りるようにするのである。人類は殺人のためにいろいろ新兵器を作っているが、その懸命の努力を、このルーフの水栽培の方法に注ぐとき、近い将来に人類の食糧は各々の住宅の階上で得られる収穫で足りることになり、その収穫物を味覚に適するように脱臭、調味などすればよいことになる筈である。

或はその栽培される品種によっては人間の味覚に適するものがあるかも知れない。田宮博士の栽培しているクロレラと云う水栽培の緑藻はピレノイドサと云う品種で、ソバに似た味で味覚も大して悪くないと云う。クロレラと云う直径1,5乃至8ミクロンの球形又は楕円形の単細胞の藻を栽培する実験は、五年前カーネギー植物研究所のスポーア博士が提唱して以来、米国では大仕掛に行われている。この提唱は私が『白鳩』誌に、高層建築のルーフに水栽培せよと提唱した時と略々(ほぼ)同時であるが、これは世界はひとつの生命の波によってつながっているから同時に同様の構想に到着するのである。

1061金木犀:2012/08/03(金) 14:27:21 ID:auusu5IE
日本再建の道を拓くもの(15)  谷口雅春先生  『生長の家』誌昭和57年8月号

日本でも徳川生物研究所長の田宮博士が行っているのである。この緑藻は一日十倍にふえるという繁殖率をもっていて、太陽エネルギーの吸収率は普通の農作物の四十倍以上、反当り収率は米の三石(四百五十キロ)、大豆の百二十五キロに比べて4,5トンである。栽培法の改善によってなお収量を増加し得るのである。田宮博士は「年中ひまなしに働かされたのではクロレラだってたまるまい。たまには休ませた方がよくはないか」と思いついて間欠的に日光を照射する工夫をしたら、これだけで忽ち倍近く収量が殖えたと云う。その成分は蛋白質42、脂肪22、澱粉24、灰分12、ビタミン各種豊富と云うように頗る栄養価が高いのであって、殆ど人造肉と云っても好い位だと云われている。

池や沼などがなくてもビルディングの屋上を栽培池として、それにその建物にに住む人の排泄物を消毒し、清浄澄明なる化学肥料とでもする装置を発明して、必要に応じて、階上の栽培池に配給栓一つひねればその適当量の肥料を送ることが出来るように工夫するのである。かくて人口問題、居住問題、食糧問題が解決すれば、殺人的人工流産の必要はなくなり、戦争の危険はなくなり、食糧として肉食に匹敵する緑藻の類を食するのであるから、人類相互の殺戮だけではなく、あらゆる生物を殺すと云う悪業の因を断ち切ることが出来るのである。

人間が生物を殺して生きていながら、人類だけが殺し合いの戦争をしないで平和に生活したいと考えるのは、すべての業は循環する、一点一画といえども、播いた種子は刈りとらなければならないと云う原因結果の法則と矛盾するのである。人類の平和は先づ生物を殺さないことから始まらなければならないのである。最近、生長の家の誌友にして万国生類愛護協会の会員たる小牧久時君から次の様な平和愛好の感情に満ちあふれた手紙が来ているので、平和日本再建の基礎は、こう云う深’い’生’類’愛’護’の’し’み’じ’み’と’し’た’感’情’から生まれて来るのであって、平和を戦い取るごとき好戦的な感情から来るものでないことを知って頂くためにその手紙の一部を次に再録させて頂く……筆者は京都薬科大学微生物研究室の先生である。

1062金木犀:2012/08/03(金) 14:28:54 ID:auusu5IE
日本再建の道を拓くもの(16)  谷口雅春先生  『生長の家』誌昭和57年8月号

「農耕にも殺虫の如き殺生がつきものではないかと申される方もございましょう。しかし『黄金の土』のロデイルは『害虫の真の役目は検閲官のようなもので、不自然に肥培した作物を指摘するのである』と克明な実験と統計をあげてのべております。ロデイルは又こうも申しております。『若しミミズが死ぬような条件(強い化学肥料)があればバクテリアの繁殖は妨げられ不作になるから、益々焦って化肥だ消毒だと……土地を台無しにしてしまうのである』ミミズは自然なる農夫だとさえいわれております。よし此の愛らしいミミズを多少、私共の不明から傷つけることがあるにもせよ、詫びたい真情の片鱗でもございましたら、無辜(むこ)のミミズを大量殺戮など思いもよらぬこと、それ以前に何か他の道を選んだことでございましょう。……思い切りが大切だとつくづく思います。

そうして思い切りは和解・和解・和解・ただ和解からのみすらすらと出てまいりますのでございますね。和解こそ決断の母でございます。拝み切った時、――まったくたくまずに決断ができるものであることを、しみじみ解らせていただきました。母に感謝しきったとき、私は『私は菜食を好みます。なるほど世間の慣習とはすこしばかり異なるかも知れない。しかし、私の使命は法施にあります。法施のためには、その方が良い筈です。とにかく殺生は好みません』とたくまずに申すことが出来ました。そこで道が開けました。私はもう誰はばかることなく自分の希望を率直に人に語ることが出来ました。

洪水のようにエア・メイルが来るようになり、アメリカやスイスの新聞やラジオも私の心からの念願をとりあげてくれました。思い切って意志を表示して以来、先輩も友人も後輩も『小牧さん、小牧さん』と慕うてくれます。農耕でも同じことで、一喜一憂して生涯を過ごすよりも、石の上にも三年、その後、全世界の農民の友となり、全人類の友となり、全生類の好意を受くる道を選ばれたほうが生甲斐があるかと存じます。和解(感謝)こそ、よろこびの鍵であり、よろこびそのものであることを毎日々々痛感致しております。『私』と云う無口な青年が息をふきかえして、毎日々々を楽しくすごさせていただくことになりましたのは偏へに先生のお導きのお蔭でございます。……」

(完)

1063SAKURA:2012/08/03(金) 22:34:01 ID:V.pKl3yA
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。

私の青春シリーズの本【ベスト・フレンド】で〜〜す。
きょうで「3 回目」ですが、意外と真理に分かりやすく【討論形式】ですが〜〜〜??
【コロンビア大の方達が、真理…サイコ的】に・・・? 昨日の“投稿文章”は、
如何でしたか?
引き続き>>1052>>1058【新しい自分との出会い】の“投稿”なので〜〜〜す。

■【ベスト・フレンド】  ( 新しい自分との出会い )                   
     ―――――――― * ―――――――――**

| ❤それはたとえば、どんなことですか。

たとえば、あなたが達成したことに目を向けることです。自分で誇りうる
ことを行ったときには、自分によくやったぞといいきかせ、その体験をよ
くかみしめ、じっくりこころで味わうことです。わたしたちは自分自身でも、
他人にたいしてもこの習慣が身についていないのです。物事がうまくいかな
いときには、自然にわたしたちのこころはそれにこだわってしまいますが、
物事が順調にはこんだときでも積極的にそのことをこころにとめることが大
切です。

自分をどう認識するかは自分自身にかかっています。他人が認めてくれる
のを待っていると、もし認めてくれないときわたしたちは憤慨するでしょう
し、また認めてくれたときには、逆にわたしたちの方で拒否してしまうこと
もあります。重要なのは他人の言葉ではないのです。誰でも人からよくいわ
れれば、悪い気持はしませんが、お世辞をいわれたときのうれしい気持ち
なんかはすぐ消え去ってしまうものだということを、あなたは考えたことが
ありますか。わたしたちが自分自身に贈った賛辞こそ、こころのなかにいつ
までも消えずにとどまっているものです。

人からほめられるのもまた気分のよいものです。しかし、すでに自分で自
分のことをほめているのですから、人の言葉などはもう問題ではありません。
じつはこの点の認識不足が、ある種の偉大な成功者の悲劇を招いています。
まわりの人からつねにほめそやされないと気がすまないくせに、自分の個室
にもどるととたんに冷めてしまう成功者には、こうした悲劇がついてまわる
のです。それは彼らが自分自身のこころの声を聞いたことがないからです。
                          <つづく>
PS:トキ様
九州にいた頃は、他人の視線?が〜〜〜気になりましたし、相手の評価とか?第三者の言葉に
バカみたいに、翻弄されていました事に、気づいた次第なのです。…が?
実を申しますと、此処最近までは、“気にするタイプ”なのでしたが〜〜〜><
TYOに住みだしてからは、逆に「いい事は認める…“心”」が、自然にうまれていたのです。><

先ず!【自分で自分をほめる事】が、大切でしょうか???【自 己 賛 嘆 !!】
又!ここにて、嫌な気持ちが起きやすい“環境”であるからこそ…こだわりを放ち去り
【自 分 自 身 へ の 再 発 見 】でしょうか〜〜〜????点でしょうか?
「トキ様」は、「自分自身で賛嘆」〜〜〜どの様な処が〜〜〜と?採点で行きますと〜〜〜
???点でしょうかしら〜〜〜ン!(微笑)

1064ハマナス:2012/08/03(金) 22:48:53 ID:0kyCzJg6

神の子のみなさま
こんばんは。

法則は制限の条件  (『新版 生活の智慧365章』P.216)

 私たちはみずから其処へ行くことによって其の風光を楽しむことが出来るのである。
テレビや映画でも風光を楽しむことはできるが、それは、またそれだけに価(あたい)
を支払ってあるからである。 すべて何らかの形に於て相当の支払いをしないでいて
事物を得ようと思ってはならないのである。無論、価を支払わないでも得られるときが
あるけれども、必ず何らかの形で、その後にそれ相当の価を支払わさせられるのである。
それが因果の法則であり、平衡の法則である。

 法則と云うものは、無限に自由なと云うものではない。法則と云うものは事物の運動に
限界を与える条件であるからである。酸素と水素とが集まって水となる法則は、酸素と
水素以外のものが集まっても水にはならないと云う制限の条件である。

感謝合掌

1065うのはな:2012/08/04(土) 03:27:16 ID:eorGcccE
『幸福生活への招待20章』 谷口雅春 先生著P93

 わたしは、(というのは山岡さんのこと)昭和十一年に生長の家に入信させていただきまして、以来
三十年にもなりまして、その間、『甘露の法雨』のお守りを受けまして....。
と山岡さんは先ず言われる。

 『甘露の法雨』というのは、ご存知であると思いますが、生長の家のお経になっているのであります。
そして、それは本来わたしが霊感によって書いた詩であったんですけれども、それを読む人にいろいろの功徳が
あらわれてまいりまして、医者が「不治である」と宣告しておった病人が癒るとか、あるいは戦争に出て敵弾に当らなかったとか...
いろんな奇蹟が起ってまいりまして、“それで”といっても、われわれ自身がこれを生長の家の「お経である」としたんじゃないのであって、
それを読んだ人が「これは単なる詩ではない、こんな霊験が出て来るのは聖経である、尊いお経である」と言いまして、その詩を
お経型の“折り本”型にして頒布することを、生長の家の京都の教化部の幹部の方から始めたのが元なんであります。
それが聖経『甘露の法雨』であります。

1066「訊け」管理人:2012/08/04(土) 03:50:48 ID:???

<告知>

○ ブログ再開のお知らせ

 こんにちは。ようやくブログ再開の目途が立ちましたので、ご報告致します。
本日ただ今の事時刻より「谷口雅春に訊け」ブログ、平常通りの運営をして参ります。皆様にご迷惑をおかけ致しましたが、今後も我がブログをご愛顧くださいましたら幸いです。

 今後も偕に学んで参りませんか。皆様、よろしくお願い致します。


「谷口雅春に訊け」
http://blog.livedoor.jp/con5151/





追伸

 なお、臨時開設致しました以下ブログですが、これもそのままに致します。WEB空間ですが、谷口雅春先生の御名・・・・出来るだけ沢山存在した方が得でございましょう。(検索して掲載されるブログ等、多々あった方が良いと思います。)

 以下もどうぞ、ご愛顧の程よろしくお願い致します。

○ 「谷口雅春の言」――神洲清潔の民に告ぐ
http://blog.livedoor.jp/con5151-5151/

1067a hope:2012/08/04(土) 10:10:45 ID:kJvHf4/g
人生読本 谷口雅春先生著

日常生活の生かし方 ②


七、偉い人とは大臣、代議士、博士、大会社の重役等に限った事ではないのです。自分の仕事をまごころを以(もっ)て完全に行う人は皆偉いのです。
たといあなたが、大工さんでも八百屋さんでも工場の工員さんでも自動車の運転手さんでもかまいません。あなたのする事が多くの人に喜ばれたならあなたは偉い人です。

八、あなたは生きています。生きているということは、誰か他(ほか)の人から喜ばれていることなのです。他の人から憎まれ嫌われる人は生きていても死んだと同様です。
少しでも世の中がよく成る様に努める人は本当に生き甲斐のある人です。

九、着物、食物、住んでいる家、その他何から何まで自分の力だけでできるものは一つもない。あなたの食べるものや着るものを作るために、数えきれぬほど多勢(おおぜい)の人達が昼も夜も働いていてくださいます。そんなに多くの人の骨折りででき上がったものを、あなたが働かずに食べたり着たりしてよいものでしょうか。
あなたはこの多勢の人達にお礼するためにも一所懸命にお働きなさい。

十、鉛筆一本紙一枚も粗末に取扱ってはなりません。倹約とは要るものを使わないことではありません。何でも最後までそのものの役目を完全に果たすまで使い切ることが倹約です。
それを作った人の骨折りをありがたく思い、大切に使うことが本当の倹約です。

十一、成功した人を見て、「あの人は運が良い」と言ったり考えたりすることは間違いです。成功した人には必ず人に知られぬ多くの苦心や努力があるものです。すべての物事の成就には努力と忍耐が必要である事を知って、これを自分の上にも適用(あてはめ)る人は幸いです。これこそ成功する唯一の方法です。

十二、誰かがあなたに対して悪い事をしたり、悪口を言ったりしても、怒ったり憎んだりしてはなりません。あなたの中にある神様仏様は誰よりもあなたが正しいこと御承知ですから、そしてあなたは、その人があなたに対して抱いていた考えが間違であったという事を、あなた自身の深切の行いで知らせなさい。
人と争うことは、たとえあなたが正しいにしても、決してよい事ではありません。

(つづく)

1068SAKURA:2012/08/04(土) 20:56:43 ID:V.pKl3yA
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。

>>1043>>1044>>1052>>1057>>1058>>1063【ベスト・フレンド】シリ−ズで〜〜〜す。

実は、私の「青春シリ−ズの一冊の本」なので〜す。(討論課題項目が、幾つかに分かれていますが?)
意外と真理が、分かりやすい【討論形式】なのです。…が〜〜〜??
【コロンビア大の方達が、真理…サイコ的】に…? 昨日の投稿文章は、皆様!如何でしたかしら〜ン?
引き続き>>1052>>1058【新しい自分との出会い】の“投稿”なので〜〜〜す。

■【ベスト・フレンド】  ( 新しい自分との出会い ) 

        ―――――――― * ――――――――

| ❤そんな人は、自分でほんとうに確信がもてないために、何回も何回も
|  同じ事情を証明しないと気がすまないのですね。ちょうど、同じものを
|  いくつもつづけて買っていながら、自分がほんとうに所有したと信ら
|  れない人間、つまり何事につけても充実した気持ちをもつことのできな
|  い人間のように思うのですが……。

   
そうです。そうした人たちはやはりまだまちがった座標軸から物事を眺め
ているのです。それはドン・ファン(スペインの伝統的遊蕩者)の行為を思
い起こさせます。そうした極端な例では、それが一種の狂気とも思える執念
深さだとはっきりとわかってくるのですが、自分のことになると、みんな見
極めそこなってしまうのです。

 もしある人が一週間の食事制限をしていて、一日だけその禁を破って食べ
すぎたとしましょう。そんなことはその人がそのとき夢中になっていた食事
制限という自虚的行為に比べればとるに足らないものです。その人が食事制
限をつづけていた一週間の意義はいったいどこにあるのでしょうか。もしそ
の人が自分ですすんで行なったものならば、その価値を認め直してただちに
食事制限を再開するはずです。問題はここなのです。それは八日目に禁を破
ったということよりも、むしろその人が一週間も禁欲してつくった虚栄の自
己像をこわしたいという誘惑にかられたことこそ問題なのです。

 これは多くの人がなかなか理解しにくいことなのです。いうなれば、自分
自身のこころを大切にするほんとうの感情かもしれません。一夜寝てみて自
分に嫌気を感じたなら、なぜそんなことになったのかを考えるべきでしょう。
つまり前夜行動したときから嫌気を感じていたのか、それとも翌日になって
自責の念にかられた自分に嫌気がさしたのかを考えるべきです。

                     <つづく>
PS:トキ様
人は「満足度」この感情は、何処を基準とするものでしょうか?
唯今!「ダイエット挑戦組??」ウフフ…!の私なのです。…が?この文章は、
ことの他、今回!私の“ハ−ト”に〜〜〜><時々「食事制限」が?ぐらつきます時…
実にこの様な“心境”と申しましょうかしら〜〜〜ン!><

■>その人が一週間も禁欲してつくった虚栄の自己像をこわしたいという誘惑にかられたこと
こそ問題なのです<(一分抜粋文)
ここの処が、私としては?「自発的なもの?」…「強制的のもの?」での感情が変わって来る
のでしょうかしら〜〜〜ン?その様に考えてしまいますが?
トキ様は、此処の心理を、どの様に解釈されますでしょう〜〜〜か?


                                     再合掌

1069トキ:2012/08/04(土) 21:11:29 ID:iJ14ylBM
>>1068

 百里を行かんとする者は、九十九里を半ばせよ、と古い諺は言っています。

 もう勝ったという場面でも、気をつけなさい、という事でしょう。
常に気に留めるべき事ですね。

1070SAKURA:2012/08/04(土) 22:50:42 ID:V.pKl3yA
トキ様 へ…
>>1069拝読させて頂きまして…

■「百里を行かんとする者は、九十九里を半ばせよ」・・・・?

もしかしますと【ダイエット…】も、後の“1%が勝負の分かれ道”でしょうか???
更に【人生…】も、そうなのでしょう〜〜〜ネ?
私の【ダイエット宣言…実行日記】も、更に!引き締め…ボディ〜も?引き締め…
もちろん!!“続行”ですかしら〜〜〜ン!
モット〜モット〜「強化対策…」です〜〜〜ネ!

                             再合掌

1071ハマナス:2012/08/05(日) 00:22:43 ID:0kyCzJg6

神の子のみなさま
こんばんは。

法則を実践する訓練  (『新版 生活の智慧365章』P.217)

 「心に描いたものが形にあらわれる」と云う心の法則は、同時に「心に描かないものは
形にあらわれない」と云う限界の法則でもある。心に暗いものを描きながら、明るい事物を
希望しては無駄である。「類をもって集る」と云う心の法則は、「類でないものは集まらない」
と云う法則でもある。

 私たちは単に其の法則を学んだだけで足れりとせず、つねにそれを実践する訓練をつまな
ければならない。自己の欲する「希望された状態」を既にあるかの如く心に描く練習をしな
ければならない。其の練習をしないでおって、行きずりに一寸(ちょっと)「明るい心」を
持っただけで、「明るい事物」が現れなかったからと云って、「心に思った通りにあらわれ
ない」などと思ってはならない。人間の心は、現在意識の底に潜在意識があってそれが尚も
暗黒を想念している事があるからである。

感謝合掌

1072a hope:2012/08/05(日) 07:07:30 ID:kJvHf4/g

人生読本 谷口雅春先生著

日常生活の生かし方③


十三、慈悲深き神様仏様は必ずあなたをよい方へ導いてくださいます。一時悪い位置や境遇にいるように見えても、それは一年に春夏秋冬があって、寒い冬の後に暖かく心地よい春があるように、やがて楽しい日があなたにも必ずやって来るのです。希望と勇気で仕事を励みましょう。

十四、力一杯に働いた後の気持のよい事はどうでしょう。何もせずにのらくらと過ごした時に比べてなんと大きな違いでしょう。
人は働いたから本当によい休息があるのです。休みばかりの連続―――毎日を働かずに過ごす人、働くことがあっても怠ける人は、こんな楽しい気分を味わう事はできません。
よく働きましょう。そして楽しく休みましょう。

十五、いつもニコニコしている人は太陽の様なものです。そんな人が家にいると家中の人が晴れやかに成ります。学校にいると級中が活気づきます。商店にいるとお客様の足を繁くします。事務所にいると皆を愉快にさせます。あなたの家の中の太陽に成りましょう。あなたの店、事務所、工場の太陽に成りましょう、そしてあなたの住んでいる町や村の太陽に成りましょう。

十六、細かい所によく気のつく人は、大きな仕事を成就する人です。玄関に脱ぎ棄(す)てられた履物を揃えたり、机の上に溜った埃(ほこり)をソッと拭(ぬぐ)うたり、路傍(ろぼう)に落ちている折釘(おれくぎ)を拾い除けたりするような小さな深切はあなたにだんだん磨きをかけます。

十七、人の本当の値打はその人の持っている名誉でも、財産でも、地位でもありません。人の値打は、世のため人のためにどれだけのよいことをしたかによって決まります。人の迷惑をなんとも思わぬ人、働かずに暮らしている人は、いかに地位や財産があってもその人の値打は零(ゼロ)です。

十八、人を着物や持物のよい悪いで差別してはなりません。よい着物を着てよい物を持っている人に案外つまらぬ人が多くありますから。
他を尊敬する人は他からも尊敬されます。人は神の子仏の子である事を知って互いに尊敬しましょう。

(つづく)

1073SAKURA:2012/08/05(日) 21:41:59 ID:V.pKl3yA

トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。

>>1043>>1044>>1052>>1057>>1058>>1063>>1068に関しましては、
【ベスト・フレンド】シリ−ズで〜〜〜す。 

実は、私の「青春シリ−ズの一冊の本」なのです。(討論課題項目が、幾つかに分かれていますが?)
意外と真理が、分かりやすい【討論形式】なのです。…が〜〜〜??
【コロンビア大の方達が、真理…サイコ的】に? 昨日の投稿文章は、皆様!如何でしたかしら〜ン?
引き続き>>1052>>1058【新しい自分との出会い】の“投稿”なので〜〜〜す。

■【ベスト・フレンド】  ( 新しい自分との出会い ) 

        ―――――――― * ――――――――
|❤しかし、実際に自分自身に嫌気を感じたとしたら、どうなんでしょう。
| それもまた当然の心理として受けとめてよいのではないでしょうか。あ
| る人がこころから自分はあわれな人間だと思い込んでいるとき、いった
| いどうやってその人に幸せになる道を教えたらよいのでしょうか。

 『いいかい、わたしはあわれな人間だよ。しかし自分はこれでいいのだ。ほ
っといてくれよ』と誰かがいったとしたら、わたしが教えることはあまりな
いとおもいます。

 しかし、その人が本気でそう考えていないということもありえます。誰だ
って自分をみじめなものと考えたら、ほんとうに不幸せなものです。その人
のこころのなかでは、おそらく深刻な心理的葛藤が起こっているはずです。
一面では自分を卑下していながら、他の一面では自分はそんなものではない
と叫び声をあげているのです。これは自分に対する思いやりをもった問いか
けなのです。ですから、自分の気持ちを不快にするようなことをするときに
は、それが真に自分の望んでるいることなのか、ほんとうにそういう気持ちに
なりたいのか問いかけてみることです。もしいやいややるのなら、そんな行
為は即座にやめて、その代わりに自分の気持ちをよくさせることを行うべき
なのです            

(新しい自分との出会い)シリ−ズは、ここで終わりになりました…。
次回は【生きる秘訣…シリ−ズ】に、入って行きます。   

 <つづく>

PS:トキ様
若い時は、“嫌な気持”になりますと、まるで「悲劇の主人公みたい」な行動を、
したモノなのです〜〜〜が><現在の“心境”は、先ず!!前向きに考える方が、優先で
しょうか〜〜〜?そして、「外部要因」が多い中、現在の私は、毎日の【心の葛藤】でも、
あります。…が?
そうなのですョ〜〜〜ネ!「雨にも負けず???風にも負けず???」なので〜〜〜す。

「平安な心境」は、いずこにかあらんや〜〜〜♫〜〜〜でいますと……?“アクシデント発生”
つまり!!!「嫌な事」に、関わる時は〜〜〜、
これは、モ〜〜〜ゥ!益々“ネガティブ感”〜〜〜が><充満しますモノ><
心の“チェンジ”…つまり“スイッチ切り替え”をしませんと…前にも進めませんですモノ!!
このような時、私の“潜在意識”に深く送り込むのは〜〜〜
やはり、【イメ−ジで祈る事】でしょうかしら〜〜〜ン???勿論【神想観=瞑想】です。…が?

「トキ様」も、この様な時は、やはり【祈り…】に徹する事に、なりますでしょうか〜〜〜???

                              再合掌

1074ハマナス:2012/08/06(月) 00:43:10 ID:0kyCzJg6

神の子のみなさま
こんばんは。
オリンピックで日本人の若者の活躍が素晴らしく、テレビから目が離せません。
体操の内村選手は床で、女子バトミントンも、銀メダルを獲得しました。
フェンシングにしても、最後の30秒で逆転して、決勝へと、またバレーボール女子も
決勝に進みました。日本人は、粘り強いくて、素晴らしいです。


目的地へ導く準備工作  (『新版 生活の智慧365章』P.217)

 何事もまだ終焉ではないのである。生命は永遠であるからである。無限の善さが顕現
しようと云う途上にあるのであるから、悲観するにはまだ早いのである。栗の実に棘
だった毬があるからとて、それは却って、その実が完熟するための保護であるのである。
蜜柑の果実が酸っぱいからとて、それは決して不完全ではないのである。それはやがて
時来れば甘くなるための準備工作が行われつつあるのである。

 私たちは、ただ自己の生命のうちにある無限の智慧に導かれて、その智慧に信頼して、
動揺しないで心を平和に保ち、導かれるままに素直に行動するだけでよいのである。
その智慧は或る時は私たちにジグザグ・コースをとらせることもあれば、或るときは
迂回路をとらせることもあろうが、それによって、やがて私たちを目的の地に導いて
下さるのである。

感謝合掌

1075a hope:2012/08/06(月) 06:06:05 ID:kJvHf4/g

人生読本 谷口雅春先生著

日常生活の生かし方④


十九、意志の強いのと強情っ張りとは異(ちが)います。他から自分の誤りを知らされたなら感謝してすぐに改めましょう。
自分より目下の者でも、年少のものでも、正しいことに変わりはありません。
年長者であるから、目上であるからと言って、威圧(おどし)で正しくない事を正しいと強(し)うるのは大なる誤りです。

二十、年齢の長幼を問わず他(ひと)を尊敬しましょう。人は皆神の子仏の子であなたと兄弟姉妹なのですから。そして皆に感謝しましょう。
何事にも感謝する心が持てるように成ると、あなたは幸福を知らず識(し)らずに得られます。

二十一、他人の欠点を見たら先ず自分にもその様な欠点があるかどうか見ましょう。他人の顔についた墨はよく見えても、自分の顔についた墨は見えません。人の顔の墨を笑うより、自分にもついていないか御覧なさい。
他人の誤りは深切に言葉やさしく教えてあげなさい。

二十二、他人に叱られたり咎められたりするのは不愉快なことです。他人の欠点や過失を咎めたり叱ったりせずに、よい所を探して褒めてあげましょう。
あなたがよい人と思って対すれば、その人は必ずよい人になります。
人は鏡と同じでこちらの思う心の通りによくも悪くもうつるものです。

二十三、悲しんだり怒ったり不平を言ったりする人は健康に成れません。
心を平(たいら)かにしていつも愉快に元気に働けば、いつも健康で人一倍に多くの仕事をすることができます。
愉快に元気に働くものには不健康はありません。

二十四、転んだら起きなさい。失敗は転んだのと同じで直ぐ起きて又歩けばいいのです。赤ん坊は歩きはじめにはよく転びます。転んだ時に起きて歩けなかったなら、いつになってもその赤ん坊は決して歩けるようになりません。成功は、転んでも起きる人、失敗しても失敗に負けずに努力する人のものです。直ぐ起きる人には、失敗は成功の基(もとい)です。

(第十六章 「日常生活の生かし方」 終わり、 次回から 第十七章 「精神力の生かし方」へ)

1076金木犀:2012/08/06(月) 09:59:37 ID:auusu5IE
フランス人と天皇制  谷口清超先生 『生長の家』誌昭和57年8月号巻頭言

フランスのミッテラン大統領が来日して、いくつかのことを学習し、また日本への教訓もいくらか与えて帰って行った。その学ぶべき点は、言うべきことをハッキリ言い切る態度だ。日本の核反対論者が何を言おうと、フランスには核エネルギーも核兵器も必要だと断定する。さらに彼らはフランスに対する愛国心と誇りとを示してくれた。だからそれにふれるようなことを聞くと、ひどく怒るのだ。そして又一方、日本のよい所もいくつか見て、その活力に感心したようである。

大統領に同行した八十人のフランス人記者の中には「天皇制から秋葉原の電気街や夜の新宿」まで見学したものがかなりいた。そして日本の発展の原動力に「天皇制」を見たものもいる。これはフランス人らしいすぐれた直感力だ。日本の記者諸君の目はフシアナらしいが、実は天皇を中心においた国作りの永い歴史が、現代日本を支える根源力なのである。私はしばしばこのことを指摘した。それは宇宙を構成する根源力でもあり、太陽を太陽たらしめ、全ての星を星たらしめている神秘力なのである。

この力を国家の中にとり入れ、それを何千年にもわたって政治化したその力は、国民一人一人のものであり、その心が国民に今も内在している。これが日本をいざという時団結させ、「国家」のために自我を滅却せしめる良識である。

ところが戦後とんとこの力を忘却し、ただデモクラシーばかりを最高のものらしくあがめ奉ったのだ。それは欧米からの輸入品崇拝の一種かも知れないが、デモクラシーだけでは何かが欠落する。それは人体の各細胞に「人間の全遺伝子がある」という事だけの主張だからだ。たしかにそこには人間それ自体の全設計図はあるが、しかし全細胞に同じくある遺伝子から、「その一細胞」に「かくあれ」と命ずるものが一体どこにいるか、細胞自身が、自分勝手に命ずるのではない。もしそうなら、全細胞は、その分裂過程からして、「同じもの」になるか、バラバラグシャグシャになるかする外はないからである。

これと同じことが国家構成についても言える。デモクラシーだけではバラバラになるのだ。それを一つにまとめ上げて、「中心帰一」せしめる智性がなくてはならず、それが「人格」としてなくてはならぬのだ。このことを日本民族は、歴史を通して表現した。こんなすばらしいデモクラシーとセオクラシーとの結合はありえない。それが生命体のあり方でもあるから、この構成を取りえた日本には、生命力があふれでるのだ。

しかしどんなすばらしい力があっても、それを認め、称讃せず、逆に否定したり、罵倒したりしては、実力は表れない。それをハッキリと認識する心眼が必要だ。それにはフシアナの目を持つ諸君ではだめで、外国人であっても、心眼をもって見れば、見えるということを示した点で、フランス人もまんざらではなかった。

1078SAKURA:2012/08/06(月) 16:06:39 ID:V.pKl3yA
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
こんにちは…… ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。

昨日から“仕事が長引き”それでも“活かす毎日の日々”…更新中の“私”なのですが…?
では!幸せの道印の書籍本でしょう〜〜〜か?【心の法則の手引き】……
では〜〜〜開きます〜〜〜

■【幸福を招く365章】
―――――霊・精神・肉体・病気の関係―――――

吾々は物質の治療に反するものではないのである。それは、人間の物質的面に於て或る作用
を与えるのである。「レンズ」が「霊」であるとし、「水蒸気」が「精神」であるとし、レンズ
に出来た水蒸気の凝結によって出来た「曇り」が肉体の「病気」であると考えれば其の関係は
わかり易いのである。レンズの曇りはそれを直後、物質によって拭えば消えるであろう――こ
れが物質的治療である。たしかにこれは効果があるのである。併し水蒸気が多いかぎりは又し
ばらくにしてそれがレンズ面に凝結して曇りを生ずる。永久に曇りを生じないためには水蒸気
を少くしなければならない。即ち心の迷いを少くしなければならないのである。

                         (谷口雅春著)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆

■「霊界通信」を、此処の掲示板に“投稿”させて頂きておりますが〜〜〜
つくづく“人間”は、「霊的人間…」と、あらためて思います。此処昨今は、
【不思議な気持ち】に、なりますが〜〜〜><
【霊=精神=肉体=病気の関係……】は、やはり“心の迷い”からでしょうか〜〜〜?
今の私は、まだ「肉体人間」として、どれだけの【魂の変化】が〜〜〜???

■【心の迷い】を、取り去るには、【祈り…】に、“行”ずる事だと、思うのです。
今日は、あらためて〜〜〜重い“腰”を??おこしましたが〜〜〜???ウフフ

何と言いましても「病気にかかる」ということ自体が…潜在意識の中に「迷い」が
生じておりますし、そうです〜〜〜ョネ!ガンにしろ?全てが〜〜〜><
「肉体のわたし」という事に、捕まえているモノと思います…。従いまして
この事は「病気を治す」と言います事は、「病気を捉えている」ということですから?
此の前に、必要な事は、「病気を放す」事なのでは?ないでしょうかしら〜〜〜ン!

■思いますが……
私は、ある“男性”にて「アイロンのタタキ棒」で、頭部を叩かれて、
その後!「聴力失調」になりましたのですが〜〜〜><
■【学ぶ会…会員の方】???あちらの方々は、「聴力喪失」となりますと、“言葉の表現”も、
更に!「生長の家…」真理関連の書籍の数々を、【理解されているの〜〜〜】でしょうか?
いつも〜いつも〜その様に思いますが……
                   <つづく>          NO・1

1079SAKURA:2012/08/06(月) 16:13:27 ID:V.pKl3yA
<つづく>          NO・2

こんにちは…… ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1078投稿の続きです…。

■【聴力喪失…】が〜〜〜〜〜【業…】と取れます表現でしょうか??

■■それならば【全ての病気】も【業!・業!・業!何でしょうかと〜〜〜】!!思います。…が?
そうではなく、【認めた…心の法則】より、成り立っているのではと、思います。
…が?【何故この様に執拗に取り上げる…その人の心そのもの】??
そうです〜ョネ!その人の見方に反映されています様に、思います。

今回!!【霊界板で投稿された方】は、何を言いたいのでしょうか〜〜〜?
相手に対しての“心”を封じ込めたい!相手を蹴落としたい!
その人自身の“心の反映”からの投稿抜粋と…【心理的作戦】との推測に、いたります…。

■「生長の家の教え」を、何処を理解されているのかしら〜〜〜ン??
「雅春先生」も“哲学”をとりいれたのですが〜〜〜それにて「生長の家の哲学」が…
出来ましたのでは、との思いです…。

PS:「トキ様」…今回改めて、あちらの方達の【聖典の捉え方…】しかも、
何回かに渡りましての“私事の聴力喪失原因を投稿していますが…”
この事に関しまして…更に【ビ ッ ク リ !!】しました。…が?
「学ぶ会の…月刊誌」?…【つ ん ぼ】これは【差 別 用 語】!!!しかも、
この掲示板「2チャンネル…にまでの投稿」は、如何でしょうか

■これに関しては【イ ジ メ …】と判断します。
前回の「言葉の使い方」に於けます時も同様に…今回も…
■■明らかに【障 害 者 イ ジ メ を ス ル 団 体 が …学 ぶ 会 会 員】
なのでしょうか〜〜〜♫
これは、明らかに場合によりましては…それなりの事をと、考慮していますが……!
                           
PPS:今回の裁判にて「基本的人権…差別用語」として…取り上げられる事は〜〜〜
再合掌

1080SAKURA:2012/08/06(月) 16:18:05 ID:V.pKl3yA
管理人「トキ様」 ヘ

こんにちは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】 で〜〜〜す。
>>1077投稿文…
【ネ−ム?】が〜〜〜『神の子さん』になってしまいまして〜〜〜〜<
お忙しいと思いますが…「デリ−ト」御願い申し上げます…。
                        再合掌

1081ハマナス:2012/08/06(月) 21:06:28 ID:0kyCzJg6


神の子のみなさま
こんばんは。

他の過ちを怒るなかれ  (『新版 生活の智慧365章』P.218)

 人が間違った行動をしたからと云って、それに対して腹を立てたり、憤慨したり、
攻撃精神を起こしたりしてはならない。そんな事をする暇に、相手が「神の子であって
今後そんな間違いをしない」と祈る方がよいのである。その方が自分の心が安らぐ。

 人が間違っているからとて、自分の心を不安に陥れなければならぬ理由は何処にも
ないのである。しかも相手の「悪」や「間違」をみとめて、それを心に描いて強く憎ん
でいる限りは、相手の「悪」も「間違」も益々顕れるばかりであるのが心の法則である。
それよりも、彼の過ちをゆるして、彼をその過ちから釈き放ってやるようにすれば、
彼は必ず改まって来るに相違ないし、そうすることが自分自身の魂の修養にもなるし、
自分自分の神性を顕現し、愛を長陽することになるのである。

感謝合掌

1082a hope:2012/08/07(火) 06:31:01 ID:kJvHf4/g
人生読本 谷口雅春先生著

第十七章 精神力の生かし方

精神一到とはどんなことか


「精神一到何事か成らざらん」という諺(ことわざ)がございます。
この言葉はありふれた言葉であり、一心に心をこめてやれば、
何だってできないことはない、というふうな意味に考えられておりました。
そうです、一心に心をこめてやれば、何だってできないことはないのです。
しかし、その「やる」とはどうすることでしょうか。
皆さんこれを考えてみたことがございますか。
(つづく)

1083金木犀:2012/08/07(火) 12:21:31 ID:auusu5IE
SAKURA様

霊界板でもお答えしましたが、あなたに対していじめをしようと思ったりそういう意図はまったくありません。
私も顕浄土成仏経は、その言葉の美しさに魅了されて、亡くなった方を成仏させるには非常に功徳があるような
気がしていましたので、私も、父がなくなった時には、毎日ずっと甘露の法雨とともに、この顕浄土成仏経を誦げていました。
だから、このお経には思い入れがあったので、こちらにも転載して、このお経について知っていただこうと思ったのですが、
確かに、不適切な言葉が使われていることを、もう少し考慮すべきであったかも知れません。

しかし、これをいじめであると確信されるあなたのお気持ちが少し意外です。
謙譲語についても、私は別に感情的に反論したわけではなく、論理的に意見を言ったつもりです。
このこともいじめだと思われているようですが、私は、その後は別にしつこく言った覚えはありません。

また現在において、私もそれほど暇でないので、SAKURA様の投稿を一部しか見ておらず、読まないことがほとんどです。
だから、SAKURA様と私の間には、別段いじめをするような間柄になってはいないはずです。
なぜ私があなたにいじめをする理由があるのでしょうか。
それに聴覚障害者といわれますが、あなたは音楽の動画を貼っておられたこともあるし、
私はあなたが多少耳が遠い程度だろうと思って、障害者というほどに感じたことはありません。
だから、急に障害者という言葉を使われ始めたことに違和感を感じます。
もっともしっかりとあなたの投稿を読んでいないので、誤解していたのかも知れません。

童子様も原文のまま載せたと書いておられたように、昔は障害者を表す言葉を誰も差別用語だと思っていなかったので、
皆平気で使っていたし、障害者自身も使っていました。だから昔の体験談が今で言う公の場で使う時の
禁止用語を使っていても、それをあえて変えるわけにもいかず原文のまま載せるのは仕方ないと思います。
これを載せてはいけないとなると、昔の文章は何も読めなくなります。

それから、しつこくといわれますが、私はあなたの聴力障害について今までなにか言った覚えはありません。
私はあなたが障害者だという意識もないくらいなのです。
だから、学ぶ会の月刊誌で取り上げ、本流掲示板に載せ、ここの掲示板にも載せたということで、
しつこいと仰っていますが、月刊誌は顕浄土成仏経の読誦のススメの記事で、体験談は乗っていませんし、
本流の童子様の記事は、単に体験談を皆さんにも知らせようとされただけで、親切心からの投稿であり、
それを転載した私がうかつだったと云えばそうかも知れませんが、SAKURA様の連載投稿を邪魔した形になったのは
申し訳ないとは思いますが、いじめを意図したものではありません。

1084志恩:2012/08/07(火) 12:48:18 ID:.QY5jUA6
おどろきました。SAKURAさまは、童子さまだけでなく、金木犀さまのことまでも、
SAKURAさまにたいして、いじめ、とか、いやみをしているとか、
そのようなことを、彼女は、書いているのですか。それは、気がつきませんでししたよ。

とにかく、彼女の文章については、
折角書かれていても、やたら、いまでも〜〜 〜〜みたいな、記号満載なので、
いまでも、とても よみずらいので 私は、ほとんど読んでおりません。

数多くの方々が、それについて、どのように彼女に、低姿勢で、その改善のいくつかを、お願いしても、それらも、すべて、
彼女は、無視です。

彼女は、自分は、唯一総裁先生を養護している人間だから、そういう自分に対する、嫌がらせをよってたかって、みながしているのだと思うと
反論されて、まったく、改善されていません。

それで、よみづらいので、私は、わるいですけれど、サラーとしか読んでいないので、

金木犀さまのことまで、いじめを言ってるなんて事を書いてあるとは、知りませんでした。

それは、まったくの 勘違いですよ、SAKURAさま。

だれも、あなたをいじめていません。

1085金木犀:2012/08/07(火) 13:04:16 ID:auusu5IE
志恩様
フォロー有難うございます。
>>1079のSAKURA様の投稿に反応して、思わず書いてしまいましたが、
ここは聖典板なのでした。
皆様、聖典以外の書き込みをしまして、失礼しました。

1086ハマナス:2012/08/07(火) 18:24:44 ID:mR2szZkc

神の子のみなさまこんばんは。こんばんは


パイプの中を掃除せよ

生活の智慧365章

形なき真空の世界から、この宇宙と人間とを創造した神の無限の智慧がわが中に宿っているのである。今、自分の肉体がどんな病気にかかっているようとも、その無限の智慧は此の自分を内部から完全なるものに再創造することはできるのである。神の無限の智慧と力とが自分の身体を健全に恢復し得ないような如何なる難病もないのである。

「自分の信仰の力で、この自分の病気を治してみせる」と思ってはならない。自分の力などで治るのではないのである。
「自分」が無くなり、自分の力みがなくなり、神に全托して、神がその智慧によって完全き働き給うことができるようにすることが、人間の役目であり、神が完全に働き易いようにしさえすれば、あとは全能の神が為したまうのである。つまり「自分」と云うパイプの中をよく掃除してさえ置けば、あとは完全に神の癒す力の浄水が流れる訳である。

感謝合掌

1087SAKURA:2012/08/08(水) 05:00:32 ID:V.pKl3yA
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
おはようございます……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。

>>1043>>1044>>1052>>1057>>1058>>1063>>1068>>1073に関しましては、
【ベスト・フレンド】シリ−ズで〜〜〜す。 

実は、私の「青春シリ−ズの一冊の本」なのです。(討論課題項目が、幾つかに分かれていますが?)
意外と真理が、分かりやすい【討論形式】なのです。…が〜〜〜??
【コロンビア大の方達が、真理…サイコ的】に? 昨日の投稿文章は、皆様!如何でしたかしら〜ン?

■【ベスト・フレンド】  ( 生きる秘訣 ) 

―――― 生きる秘訣 ―――――

| ❤あなたは人間が生きていくうえでの秘訣をいろいろご存じのようです
| が、他にわたしたちのできることといったらどんなことがありますか。


  それはけっして秘訣というほどのものではありません。人は自分で考えて
 いる以上にずっと多くのことを知っています。みずから秘訣を隠していると
 もいえます。なかにはきわめて単純なものもあるのです。

  たとえばひとつ基本的な例をあげれば、あなた自身の期待を満足させるこ
 とです。もしあなたが家事とか、宿題やなにかほかの仕事をもっていながら、
 手をつける気持ちが起こらなかったとします。そんなときはもしその仕事を
 延び延びにしていたら自分がどんな気持ちにおちいるかを自分に問うことで
 す。もしあなたが多少なりともいやだなという気持ちになっていたら、思い
 きってその仕事に手をつけるべきです。そして実行したときの充足感をみず
 から味わいなさい。自分で自分を管理しているのだという喜びを体験するの
 です。それはおおいにわたしたちの気持ちを引き立ててくれるものです。

  家事なんていうものは人生のほんのささいな部分にすぎません。しかし一
 日を通じてあなたが自分をどう感じているかということは人生そのものとい
 えます。このように、あなたが何事かはじめるとき、そのときの正直な気持
 ちを考えながら実行すると、ときにびっくりするような成果を生むこともあ
ります。そうなれば、あなたが家事以外のことをするときでも、それよりも
っと充足感を感じていることがあるのに気がつくでしょう。たとえば詩をつ
くることによっても、あなたは充足感を得ることができるのです。

             <つづく>           NO:1
PS;トキ様 へ
人は?こうなんだけれども〜〜〜?とか考え過ぎましてでしょうか?
「先延ばし」〜〜〜?しても、結局は、後で“自己嫌悪”に陥る事も、
ありますモノ? この経験は、誰にでもと思いますが、如何でしょうか?

そうです〜〜〜ョネ!今出来る事を、あたえられている“課題”を、
クリアするだけでも、乗り切った時の「充足感」は絶対にいいですネ〜〜〜!
それを心で「イメ−ジ」でしょうか??
トキ様も?「先延ばし」は、ありますでしょうか??

今回の【お家騒動…】先延ばし〜〜〜になるのでしょうか〜〜〜?
更に【信仰…奉職者】の自覚は…?どの様にお持ちなのでしょうか〜〜〜?

1089a hope:2012/08/08(水) 06:55:15 ID:kJvHf4/g
人生読本 谷口雅春先生著

根限(こんかぎ)りやっても成功しない人もある


心をこめてやる、ということを何でもコツコツと根限りやることだ、と考えておられる方もあるでしょう。
中には、こんなに心を籠(こ)めてコツコツ勉強しているのに成功しなかったという人もありましょう。
また時には「あの人は私ほどコツコツ勉強しないで暢気に構えているのに成功したから、
『精神一到何事か成らざらん』という諺も好い加減な嘘だ、
成功は運にあるのだ」と不平をお漏らしになる人もあるでしょう。
(つづく)

1091神の子さん:2012/08/08(水) 10:50:21 ID:???

>>http://www.youtube.com/watch?v=MNVEYy-4XIc&amp;feature=relmfu

和解は無理のようですね!

トップも擁護派も我が道を行く・・・・ああ!

1092SAKURA:2012/08/08(水) 15:58:54 ID:V.pKl3yA
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
こんにちは…… ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1043>>1044>>1052>>1057>>1058>>1063>>1068>>1073に関しましては、
【ベスト・フレンド】シリ−ズで〜〜〜す。 

実は、私の「青春シリ−ズの一冊の本」なのです。(討論課題項目が、幾つかに分類されて
いますが?)【コロンビア大の方達が、真理…サイコ的】に? 昨日の投稿文章は、皆様!
如何でしたかしら〜ン?私もサイコシリ−ズ悪戦苦戦ですが〜〜〜?
>>1087投稿の続きです。

■【ベスト・フレンド】  ( 生きる秘訣 ) 

―――― 生きる秘訣 ―――――

| ❤そんなやり方はきわめて自己中心的な態度を援助することになりませ
| んか。たとえばつぎのような女性が思い浮かんできます。夫が夕方帰宅
| したときに、奥さんは自信に満ちた目つきで迎えます。夫がまわりを見
| まわすと、赤ん坊はギャ−ギャ−泣いているし、寝具をととのえてもい
| ない。そして『夕食は?』と聞くと、彼女は夫の目の前に一枚の紙切れ
| をぴらぴらさせながら、『わたしは、その代りに詩をつくったのよ、あ
| なた』といいます。あなたのお話からこんな女性を想定してしまうので

  そんな犠牲を払ってまで詩を書いて、いい気持ちになる女性はまずいない
 と思います。人に不親切にしてまで、いい気持ちになるということはあまり
 ないのではないでしょうか。もしそういうことがあったとしても、その女性
 は得意になってはいるものの、同時に困惑の気持ちにおそわれるのではない
 かと思います。それでもなお詩を書きたいという意欲がつづいたとしたら、
 彼女はいくつかの選択をせまられることになるでしょう。つまり、彼女は詩
 をつくることと、家事をすることとをうまく両立させられるか、ということ
 です。もしできないとするならば、詩をつくることにどれほどの意味がある
 だろうか、を考えることになります。それでも、どうしても詩をつくりたい
 というのならば、他の責任をはたすために援助を得なければなりません。お
 そらく夫も彼女にもっと多くのことをしてくれるでしょう。
 
  もちろん、芸術家のなかには結婚や家族よりも自分の芸術に熱を入れる人
 もいます。それもまた正しい生き方です。キャサリン・アン・ボ−ダ−は何
 度か結婚に失敗しましたが、そのときにある夫は「とにかく、おまえはわた
 しと結婚したのだからね」といったそうです。お互いに優先順位というもの
 を、はっきりさせておく必要があるのです。

                  <つづく>          NO:1

1093SAKURA:2012/08/08(水) 16:02:38 ID:V.pKl3yA
                   <つづく>          NO:2

こんにちは…… ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。

>>1092投稿の続きです。…

ご存じのように多くの女性解放主義者は、母親が子どもとともに家庭に閉
じこもって、精神的に沈滞してしまうのを防ぐためにみんながヘルパ−をも
 っと広く利用すべきだと出張しています。わたしはヘルパ−をたのむことや、
女性が仕事をもつことに反対するわけではありません。しかし、子どもをも
つということはみずから選んだ道でもあるし、また選ぶべき道でもあるので
す。女性が子どもを欲しいと思うなら、子どもをつくればよい。しかし、も
し子どもを育てるのがいやなら、つくるべきではないでしょう。いったん子
どもをつくった責任をもたなければいけません。

 女性が家庭と職業の両方をもちたいというなら、それは彼女らの決断によ
  ればいいわけです。そうした女性は大変な重荷を背負うことになりますが、
  それをまっとうするのが義務です。もし望むならば、託児所を設立してもら
  うための陳情運動をするのもよいでしょう。しかし、くれぐれも自分は犠牲
  になっているんだという考え方はやめるべきです。

PS;トキ様 へ
トキ様…今回!私は、相手に伝えます時は、いい気持ちになれない場合もありますネ!
今回!私もまず普通の生き方?だったらと?…気にならない事も、あります。…が、
最近!「神の子さん」とか?「誰だかわからない方達」から、“嫌な投稿文章”を、
引き続き頂く事が、ありました。…が?(ID:???)
まるで「機関銃??」その時まるで〜〜♫〜〜「ネガティブ感情」を頂きました。

あなたは【障害者…!】として“自覚”がないような捉え方の投稿にも見えました。
そして…【文章…更に!性格が悪いから“聴力を失う”…etcの中傷】を、
受けましてからでしょうか…?■【障害者へのイジメ…】

今回の「雅春先生…真理」の教えを、一般の方々に広めたいと…
「孝徳のあやかり」を書いたつもりでしょうが、これも同じくやはり、ある面では
【愛の精神の捉え方】の相違に、なりますでしょうかしら〜〜〜ン!

この様に、自己中心者の性格になる様にも思えますが〜〜〜?
【信仰の孝徳を広めます時】は、現在!義務教育を受けました世代ですから、

■【言葉による暴言から自殺…】に到りました時の責任とか?
考慮された事はあられますのでしょうか?
色々な点での“ 配慮”無くしては【心がない様】にも〜〜〜捉える事になるのでは?
更に!!【知恵=知識】無くしての愛は?本来の「生長の家…愛」これはどの部類に、
価するのでしょうか?といった感じを、抱く機会になりました…。

                             再合掌

1094ハマナス:2012/08/08(水) 22:09:26 ID:mR2szZkc
神の子のみなさまこんばんは。

人間の善意を信頼せよ 生活の智慧365章

神の万物を調和したまう愛が全世界、全存在の内部に動いているのである。この事を私たちは、どんな混乱の中に於ても信じなければならない。万物は混乱しているように見えても、その混乱を過程として、永久の平和と調和との世界へと移行しつつあるのである。もっと人間の善意を互いに信頼し合わなくてはならない。

平和への呼び掛けに対しても、「その裏に何があるか」と疑うまえに、その奥には神の「万物調和」の摂理が働いていると云うことを信じなければならない。この「信」がなければ常に冷戦は消えず、熱戦の危険にいつも人類は戦いていなければならない。神の愛と智慧とはすべての人間の内部に潜在的に動いており、それを認め讃えることによって、それは顕在的にあらわれて来るのである。
感謝合掌

1095a hope:2012/08/09(木) 07:10:49 ID:kJvHf4/g

人生読本 谷口雅春先生著

一つのことをいつまでも貫かねば


そこで「精神一到何事か成らざらん」ということも良い加減な嘘であるか、
本当であるか、それともこの諺(ことわざ)の本当の意味はどこにあるかということを、
もう一度とっくりと皆さんと一緒に考え直してみようではありませんか。

「精神一到何事か成らざらん」―――この言葉のどこにもコツコツと勉強せよというようなところはありません。

「精神一到」であって、精神が第一です。心が第一です。
「一到」というのは一ぺんだけちょっと考えるというような、力の弱い考えではありません。

「一到」の「到」の字は「到(いた)る」という文字でありますけれども、
この字を分析してみますと、「至(いたる)」と「刂(りっとう)」になります。
「至」は至極(しごく)であり、最後のギリギリまで至ることであり
「刂(りっとう)」は「立刀」であり、刀を縦にして刺し貫く形をあらわしています。

最後のギリギリまで一つの心を以(もっ)て貫き通す事が「精神一到」であります。
「心がいっぺんその方向へ振向く」ぐらいではまだまだ精神一到ではありません。
一度心を振向けたら、目的を貫き通すまで心を変えないでいなければ「精神一到」ではありません。
(つづく)

1096ハマナス:2012/08/09(木) 22:02:27 ID:mR2szZkc
神の子のみなさまこんばんは。

神に選ばれた生活の選手

『新版生活の智慧365章』

神が自己に与えたまうた天分を最高度に発揮すべく毎日毎日を決意し、実践しなければならないのである。今、与えられている仕事に自己の全精神力と体力とを集中すべきである。その時人間は幸福感を得るのである。たとえばオリンピックの選手が全力を尽くしているときには一切の自我が無くなってただ、その競技にのみ全生命がそそがれているようにである。選手にとっては、その競技に全心身を集注しているときが無上の幸福感の時なのである。

人間が地上に生まれたのも、地上で或る使命を果すために選手として選ばれたのであるから、その全力を出し切っているときに本当の幸福感が来るのである。人生に悦びがないなどと思っている人は、全生命を出し切らないから生命がスランプに陥って、幸福感が湧いて来ないに過ぎないのである。

感謝合掌

1097SAKURA:2012/08/10(金) 00:25:55 ID:V.pKl3yA
                <つづく>           NO:3

トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
こんにちは…… ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。

>>1043>>1044>>1052>>1057>>1058>>1063>>1068>>1073>>1092>>1093に関しましては、
【ベスト・フレンド】シリ−ズで〜〜〜す。 

意外と真理が、分かりやすい【討論形式】なのです。…が〜〜〜??
【コロンビア大の方達が、真理…サイコ的】に? 昨日の投稿文章は、皆様!
如何でしたかしら〜ン?引き続き、【生きる秘訣】の続編です…。
>>1092>>1093投稿の続きです

■【ベスト・フレンド】  ( 生きる秘訣 ) 

―――― 生きる秘訣 ―――――
          
| ❤もし、やりたいと思うことが全部できず――たいていの場合、そうで
| すが――、どちらかを選択しなければならないとしたら、どうなります
| か。自分にとってよいことを選ぶとすれば、どのようなときにそれは身
| 勝手な行為となってしまいますか。


  自分をよい気分にさせることをするのは、身勝手な行為とは正反対なこと
 なのです。それはあなたの特定の側面を満足させるものではなく、あなたの
 全体的な自己を充分させるものです。そしてこのことはあなたが他人にたい
 してもつ感情、対人関係、責任といったものをも同時に含んでいます。それ
 にたいして、自分の身勝手ということはあなたの自己のごく限られた部分を
 一時的にのみ充足させるにすぎないのです。

  ですから、よい気分になるということは、あなた自身のことを気づかい、
 自分のめんどうをみるために、自己中心的になるということを意味していま
 す。もし、あなたがそうした技術を習得しない限りは、上手に他人のめんど
 うをみることができないでしょう。

  聖書にも、「汝の近き者を己れの如く愛すべし」とあります。これは自分
 と同じように愛せと記されているのであって、自分にたいするより以上にと
 か、自分の代りにとかいっているのではありません。

  自分自身を愛することもできない人が、どうして他人を愛することができ
 るでしょうか。みずからを愛さない人でも他人を崇拝することができます。
 なぜなら、崇拝とは他人を偉大なものと見なし、自己を小さな存在と見なす
 ことだからです。こうした人は他人にいろいろ望むことができます。なぜな
 ら、要望というものはその人の内面的不完全さから生じるもので、充足され
 ることを待っているからです。
  
しかし、そういう人は他人を愛することはできません。なぜなら愛とはす
 べての人のこころのなかで生まれ育っていくもののあかしだからです。もし
 あなた自身に人を愛する気持ちがなければ、愛を人に与えることができない
 はずです。


              <つづく>           NO:3

1098SAKURA:2012/08/10(金) 00:27:53 ID:V.pKl3yA
                <つづく>         NO:4

こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1097投稿の続きです

         ――――――― * ―――――――

| ❤人間愛というものは家庭からはじまるというわけですね。


  そのとおりです。あなたは親子関係のなかに、愛と愛のようにみえるもの
 との相違をはっきりみとめることができるでしょう。親というものは自分が
 子どもにたいする愛にもとづいて行動していることをつねに主張しているの
 ですが、実際にはそうでないことがよくあります。

  親が子どもの「犠牲」になっているというときは、子どもの反応からどこ
 かおかしいと気づきます。そういうとき、子どもは罪の意識を感じてはいて
 も、感謝の気持ちはもっていないのです。なぜなら、そのときの子どもが得
 たものは、愛からではなく、親の自己否定から生じたものだからです。他人
 の自己否定がもたらしたものを望むような人はいないでしょう。自己否定は
 さっき申し上げた身勝手な態度のなかで最悪の形のひとつです。それは自分
 で価値がないと感ずるあなたの一面をかえって助長するようなものです。自
 己否定からなにも得るものはありません。

  これは、あなたがときには物事を放棄するための決断をしてはいけないと
 いう意味ではありません。あなたの選択の問題なのです。その選択は自己嫌
悪の感情から行なわれるものではなくて、自尊心にもとづいて行なわれるも
のなのです。


PS:トキ様

■>あなたがときには物事を放棄するための決断をしてはいけないと いう意味ではありません。
あなたの選択の問題なのです。その選択は自己嫌悪の感情から行なわれるものではなくて、
自尊心にもとづいて行なわれるものなのです。<
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆

私も「考え方」が、狭いのかしら〜〜〜ン?そう「心の中の…ベストフレンド」に問いますと…
…それまれなのですが〜〜〜><
どうしても「私の発言…」を、その人の考え方みたいに、“投稿表現”されますと、さすが〜〜〜に!
気分が悪いです〜〜〜ョネ!
今日もさっそく「何処かで〜」でしょうか??【アクシデント発生…】でしょうか?

こちらの意見を“横取り”にされた気分かしら〜〜〜ン?
このような時は、人間関係も“嫌”になりますが〜〜〜><「トキ様」も、この様に…
「トキ様の考え・アイデア」を、利用されて、その人の意見・考えの様な発言を、
対外的にされたら、果たして、どのような気持ちになられますでしょうか???
社会現代…会社という組織では、意外と人間関係(職員関係)でも、多いのではと思いますが?
何か?経験があられますでしょう〜〜〜か?

                                 再合掌

1099a hope:2012/08/10(金) 07:15:59 ID:r8H4x9xE

人生読本 谷口雅春先生著

「心を変えない」とはどんなこと


目的を貫き通すまで心を変えない―――そうすれば何事でもできるというのが
「精神一到達何事か成らざらん」だと申しましたら、それでよく解ったように思う方もあるかもしれませんが、
解らないように思う人もあるかも知れません。

それでは「心を変えない」とはどうすることなのか、よく考えてみてください。
そんなに考えてみないでも「心を変えない」ということはどうすることだかハッキリお解りになった方は、
大変お偉い方であります。

また「心を変えない」とはどんなことだかわかったつもりで本当は十分判らず、
よい加減にぼんやりと「こんなことだろう」と思っている人よりも、
「心を変えない」とは実際には一体どうすることだろう、詳しく教えて貰いたいと思う人も、
また物事の考え方が精(くわ)しく細かくたいへん立派な人だろうと思います。

では皆さん、「心を変えない」とはどうすることですか、もう一ぺん考え直してみましょう。
「心を変えない」とは、「心」に一ぺん「これはできる」と思ったことは、
それを「貫き通す」まで、いつまでも「これはできる」と心に描いた考えを捨てないことです。

何でも心の中に「これはできる」と心に画(え)を描くように思い浮かべた考えが、
やがて形になってこの世の中にあらわれてくるのですから、
「これはできる」と一旦きめた考えを捨てなければ、それは必ずできるのです。
(つづく)

1100ルンルン:2012/08/10(金) 07:35:35 ID:NS71OwS.
トキ様
今、どの板にいらっしゃいますか?
私は、削除してください。と願いしました(2日半も前に)何故、
まだして下さってません?お返事ください。
私は、今日、会社ですがそれを見届けるまでいけません。

1101トキ:2012/08/10(金) 09:55:59 ID:8rpDHx/w
>>1100

 見落としました。申し訳ありません。既に削除終了しております。
行き届かず、すみませんでした。

 なお、削除要請は気がついたら直ぐに行いますが、日曜日や深夜、早朝を
除いて、昼間だと2時間以内に削除しますが、掲示板上で見落とす場合があり
ます。その場合は、お手数ですが、再度、削除要請をお願いします。

トキ

1102トキ:2012/08/10(金) 10:22:52 ID:8rpDHx/w
謹告

 今回、管理人が行き届かず削除が遅れて投稿者様にご迷惑をおかけしました。
深くお詫び申し上げます。

 つきまては、誠にお手数ですが、ご本人もそうですが削除要請に気がつかれた方が、
管理人へ連絡を頂ければ、見落とし防止のため、助かります。

tokirijicyo@yahoo.co.jp

 なお、削除要請は、本人確認ならびに削除手続の公正のため、掲示板上に投稿でお願い
する形式には変化はありません。

 では、宜しくお願い申し上げます。

合掌 ありがとうございます

管理人敬白

1103復興G:2012/08/10(金) 18:25:40 ID:xKxowNU.


<第5回 WEB誌友会 予告>

・《日時》 8月10日(金)夜 9時30分より
     8月12日(日)夜 11時30分まで(50時間)

・《場所》 WEB誌友会板

・《テキスト》 『生命の實相』第1巻「實相篇」(光明の真理)
第3章 あらゆる人生苦の解決と実例 【頭注版P77〜112】

――以上の要項で、まもなく開催となります。

それで、以下に、そのテキスト(『生命の實相』第1巻「實相篇」(光明の真理 第3章)を、14回に分けて謹写掲載させていただきます。

WEB誌友会にご参加の皆様、どうぞ以下のテキストご文章より、感銘を受けたところや疑問を感じたところを部分的にコピペして意見を投稿する・・・などにご使用ください。

1104復興G:2012/08/10(金) 18:27:05 ID:xKxowNU.

<第5回 WEB誌友会用テキスト 1>

 『生命の實相』 第1巻

 《實相篇(上) 光明の真理》 

 「第三章 あらゆる人生苦の解決と実例」より(1)

  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

  第三章 あらゆる人生苦の解決と実例

   光の子とならんために光のある間(うち)に光を信ぜよ、われは光として世にきたれり。(『ヨハネ伝』第十二章)

 皆さんが「生長の家」の説くところを読んだり「神想観」を実修したりして、神の子たる自己の生命の実相に触れ、真理をさとって病気(その他の人生の凡ゆる不幸)が治るのは、他の類似の治療法のおよびもつかぬ根本的な治療であります。なぜなら、それは自己の生命の実相が自覚されてくるにしたがって、本物でない、ウソの、仮の、迷いの、実際はありもせぬのにあるようにみえているいろいろのあらゆる人生苦が、あたかも光が輝き出せば闇が消えてしまうように消えてしまうからであります。

 他の治療はすべて、毒をもって毒を制するとでもいいましょうか、無明(まよい)をもって無明を征服するとでもいいましょうか、ともかく一つのまちがった信念――たとえば、病はあるという信念――を、他のまちがっている信念――物質(薬)が生命を補うという信念――によって破壊する方法であります。病があるという信念よりも、薬が生命を補うという信念の方が強く働けばこれで病気はなおるのであります。

       生命みずからで治せ

「薬が生命を補う」という信念で病気が治るのは、いっけん、非常に結構ではあるけれども、同時にそれは逆に生命は薬によって、補填しなければ完全ではない――という消極的信念を喚び起こすことになり、自己の「生命」それ自身の完全性の自覚をそれだけ弱めることになります。自己の「生命」に対してその完全性を自信することができなくなったが最後、その人はもはや物質の奴隷または家来であって、物質によって生殺与奪の権を握られている悲惨このうえもない人間になるのであります。それでは霊的療法なら他の霊力ある人に頼って治してもらってもよかろうといわれる方があるかもしれませんが、それは薬物療法でも霊的療法でも結局は同じことであって、自分以外の他の物に頼らねば自分が自分を治す力がないという信念をつぎこまれるということは、しょうらい自己の「生命」が生長の本道をたどってゆくうえに重大な障害となるのであります。

 で、私は皆さんはむろんのこと、皆さんの知人のかたにも、「みずから起て。生命みずからで治せ。何ものにも頼るな」の一点張りで押し通したいのであります。「生命」みずからの力で自分自身を治すことができるならば、なんの弊害もない、弊害がないばかりか、治すたびごとに「生命」自身の霊妙な力についての自信ができてくるのであります。

       真理はなんじを自由ならしめん

「生命」自身の力で治すには「生命」とはいったいどんなものであるかということを知らねばなりません。表面の心で知るだけではなく、奥底の心で知らねばなりません。「生命とは神の子である」――一言にしてこういえばなんでもないけれども、なかなかこの真理が本当にわかる人が少ない。本当にこれがわかれば自分で自分を治すことができる。病気だけではなく境遇でも運命でも自分で治すことができる。治すのでなく、真理を本当に知ったときひとりでに治っているのである。つまり、キリストのいった「真理はなんじを自由ならしめん」とはこのことであります。釈迦のいった「大覚(さとり)をうれば因縁を超越してしまう」とはこのことであります。「真理を知る」というのも「大覚をうる」というのも、ひっきょうは自分の生命の本質すなわち実相を知ることで、これができれば因縁を超越して完全な自由がえられるのであります。その人は因縁を超越しますから、物質的な原因結果に束縛されるようなことがけっしてなくなる。遺伝がどうの、体質がどうの、冷たい空気がどうの、固い食物がどうの――そんなことに縛られないで「生命」それ自身の本質の完全な状態――すなわち「真の人間」が表に出てくる、そのときすなわち病気が治ってしまうのであります。
<つづく>

1105復興G:2012/08/10(金) 18:28:04 ID:xKxowNU.
<つづき>

<第5回 WEB誌友会用テキスト 2>

 『生命の實相』 第1巻

 《實相篇(上) 光明の真理》 

 「第三章 あらゆる人生苦の解決と実例」より(2)

  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 真理を知って病気がなおるのは、恐怖心と不安とが去って、精神的に安心かできるからであろうから、神経的な病気は治っても実質的な病気は治るまいと思われる方がありましょうが、それは物質とはいったいなんであるかを知られない方のいわれることであります。前章の「近代科学の空即是色的展開」にもちょっとのべておきましたように、物質の分子と分子との間はけっして密着しないで非常な距離が隔たっており、その間隙には無形の知性ある精力(エネルギー)があって、その物質を一定の形に維持しているのであります。肉体という特殊の物質にあっては、とくに密接にわれわれの心のはたらきが、物質に一定の性質を与えているところのこの無形のエネルギーを支配しているのであります。だから心の働き一つで肉体という物質の形や質や化学的成分までも変わるのであります。「金光教」では「理解」といってお道がわかれば自然に病気が治るとされています。「天理教」ではあらゆる病気はそれに応ずるそれ相当の心のさわりがあるからで、その心のさわりをとるようにすれば病気は治るものとされています。また実際これらの宗教では多くの治った例をもっているのであります。金光教や天理教を引き合いに出すと迷信くさいといわれる方には、最近科学の精粋たる精神分析を引き合いに出せばよいでしょう。多くの病気は、心から曇りを吐き出して掃除してしまえば薬も霊術もなしに自然に治るのであります。心の中から曇りを吐き出すことを精神分析学では観念洗浄といっていますが、宗教では「懺悔」といっている。「懺悔」すると病気が治る。なぜ治るかといいますと、「懺悔」して心の中の五目多を放下(ほか)してしまうと、「生命」本来の健全なる実相があらわれてくるからであります。

 ともかく、「生命」の素地を出すように磨きをかけさえすれば、「生命」が本当に完全な相(すがた)をあらわしてくるのであります。『生長の家』のように真理を書いた書物を読むということはその一つの方法であります。「神想観」によって「生命の実相」を観ずることも一つの方法であります。クリスチャン・サイエンスの創始者エディ夫人はその晩年にはみずから病人に治療をしないで、「私の著書を読め、真理があなたを治すでしょう」といったそうであります。それでじっさいエディ夫人の著書を読んでたくさんの病人が治っているのであります。

 最近ではユニティ協会という新しい実践キリスト教団の書物を読むだけで病気その他の不幸が消滅している事実もあり、われわれはユニティの出版物を要約して『人生の鍵シリーズ』(全五巻)として別に紹介しているのでありますが、クリスチャン・サイエンスやユニティはキリスト教の聖書のほかに典拠をもとめないが「生長の家」は仏典にも、日本古典にも、最近の電子論、スピリチュアリズムにまでも典拠をもとめて、古い人にも新しい人にも、またいかなる宗派の人びとにも、真理がみずからの宗教として悟れるように説いてあるのであります。真理はキリスト教のみにあるのではありませんから、一つの真理をクリスチャン・サイエンス(キリスト教の真理)として説くことも結構ですが、同時に仏教の真理、または日本古神道の真理としても説くことも必要であります。そうでないとキリスト教以外の多くの人々を救うことができないのであります。これがわれらの万教帰一的立場であって、説くところの真理は一つであるけれども博引傍捜どこからでも真理を引っぱって来てそれの自覚に入らせる道を講ずるのであります。その点において「生長の家」は非常に自由なのであります。つぎに本を読むだけでも、真理を悟れば、いかに各種の難病が治るものであるかの実例を示して、病気の本来「無」なることを明らかにし、病気で悩める人々への励ましとするために、試みにエディ夫人の著書の中から面白い治験例を引用することにいたします。
<つづく>

1106復興G:2012/08/10(金) 18:28:56 ID:xKxowNU.

<つづき>

<第5回 WEB誌友会用テキスト 3>

 『生命の實相』 第1巻

 《實相篇(上) 光明の真理》 

 「第三章 あらゆる人生苦の解決と実例」より(3)

  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 真理の治験例―1 わたしは多年の間、癌と肺結核とのために苦しんでいました。わたしはニューヨーク、ミネアポリス、ダリュース等、各地の名医という名医をたずねて診察をこうたけれども、けっきょく不治症との宣告を受けたのでした。肺結核にかかっていた近隣の人が本を読んで治ったというので、その人が深切にもわたしにエディ夫人著の『真理と健康』という本を貸してくださった。わたしはそれを読んで興味を覚えているうちに、早くも三ヵ月にして癒されてしまったのです。この書がわたしに伝えてくれた真理がわたしを癒してくれたのでした。ただに病気が治ったばかりでなく、わたしの精神状態全体が改造されてしまいました。それ以来十一年間というもの、わたしは一日も病床についたことはありません。この期間にわたしはずいぶんいろいろの体験に接しました。幾多の火のような試煉をも通過しましたが、この恵まれた真理がわたしをしてそれに耐えさせてくれました。時にはわたしはただ一人で誰もわたしに味方してくれる者がないと思われるような時もありましたが、神が常にわたしと偕にいてくださいました。

 わたしはここに無痛分娩の実例を書いておきたいと思います。それは、わたしがこのアイダホに来てからの体験です。このわたしの体験はこの種の「真理の治験例」を求めていられる愛姉たちの励ましとなると思うので書かせていただきます。ここでは手助けをしてくれる人がありませんので産褥につく時まで家事に従事していましたが、完全に健康でした。或る朝、午前五時にわたしは良人を起こしました。午前五時半にはもう子供が生まれていました。わたしと良人とのほか誰も産む時にはいなかったのです。生まれた子供をかかえて暖炉のそばの椅子にかけているわたしを見て家族のほかの者はびっくりしました。息子が朝食を運んで来てくれましたのでウンとわたしは食べたものです。昼食にはもう食堂に出かけて皆と一緒にたべました。第二日には室内を散歩し、第三日には庭園を散歩し、それから、最近まで三年間ズッと健康でとおしています。これまで常に産科医のやっかいになって苦しみとおしてきたお産の経験あるわたしには奇跡のようなことです。真理を求めていられる愛姉たちにこれが参考となることを祈ります。(アイダホ州、リュースイストン市、F・C・C夫人)
<つづく>

1107復興G:2012/08/10(金) 18:29:52 ID:xKxowNU.

<つづき>

<第5回 WEB誌友会用テキスト 4>

 『生命の實相』 第1巻

 《實相篇(上) 光明の真理》 

 「第三章 あらゆる人生苦の解決と実例」より(4)

  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 真理の治験例―2 九年前のことです。わたしのひとり子は生死の境をさまようていました。ボストン市きっての名医は不治の宣告をくだして、もし死ななくても生涯病気に苦しみまたちんばになってしまうだろうといいました。禁食品が多くて食べ物の種類はきわめてわずかに限られていました。注意に注意を加えていましても半日に一度は痙攣(ひきつけ)を起こしました。子供はまた佝僂(くる)病にもかかって手足の骨が曲っていまして、医者はこの子供の身体には普通人の骨はないのだといいました。

 わたしがはじめてクリスチャン・サイエンスのことを知った当時は子供が苦しんでいる最中で、わたしが失望の暗黒のどん底に沈んでいる時でした。救いの神のみ手が、或る人を通じて、神の真理が現代に演じつつある奇跡をきたりて見よ、という福音をわたしにもたらしてくれたのでした。わたしは自分の子供を助けることができるためならばどんなことでもしたいと思っていたところでしたから、さっそくその招きに応じたのであります。やがて金曜日の夕方、はじめてわたしはクリスチャン・サイエンスの集まりに列席しました。毎週のふつうの礼拝日であるにかかわらず、礼拝がはじまるまでに席はすっかり一杯になっていましたのでまず驚いたことでした。その席で、いろいろ病気の治った体験談をききました。……翌日治療をしてくださる先生のお宅をたずねましたが、あまりに諸方から患者に招ばれていらしってお目にかかることができませんでした。わたしは前夜聞いた治病の体験談のうちに単に『真理と健康』の本を読んで治ったという人々の話を聴き、この本を一部借りたいと思いましたが、この書を借りることが友だちにとってそんなに犠牲を払わしめることだろうとは夢にも思いおよばなかったのであります。ところが友だちにこの本を貸してくれといいますと、その友だちはまるで自分の生命に別れでもするようにその書と別れることを惜しみながら貸してくれたものです。

 わたしは家にかえってこの書を昼も夜も読みました。黙って読んだり、声をあげて読んだりしました。わたしにはこの書はむずかしくて十分わからないような気がしました。しかしさっそく「真理の療能」があらわれはじめました。痙攣で苦しんでいた子供が常態に復して、すぐ病床から離れて、他の子供と同じように家の周囲を跳び廻って遊ぶようになりました。ちょうどその頃、米国西部へはるばる移転せねばならぬような事情が突発しました。

 まだ「真理の道」に入って間もないわたしのことです。良人はこの旅行で子供の病気が後戻りをしないだろうか、と心配しました。しかし子供はますますよくなって行きました。わたしは間断なく聖書と『真理と健康』の真理の治験例などを読みました。われわれは二週間の汽車旅行で、汽車に酔わない人といってはただわれわれ家族の者ばかりでした。子供の手足は完全にまっすぐになってしまいました。子供は欲しいものはなんでも食べることができるようになり、それいらいもう数年間、どこも不足のない壮健な子供として暮しています。付近に激烈な伝染性の小児病がはやった時も彼は少しも感染せずにすみました。わたしは数ヵ月間自分自身の多くの持病をかえりみる余裕もなしに『真理と健康』の本を読みつづけました。わたしはがんらいあまり強壮ではなかったのです。医学の法則と遺伝の法則とを信じて不健康な生活をたどたどしく送っていたのです。わたしは『真理と健康』を読みはじめるちょうど前日、ボストンの有名な眼科医に眼の診断を受けました。眼科医はわたしの眼がひどい状態になっていると診断して、生涯眼鏡をかけていなければならないといったのです。そのうちに『真理と健康』を読み始めたのでしたが、自分の眼に気がついたときには、眼鏡の必要がスッカリなくなっていました。この本を読んでいる間中わたしは夜となく昼となく眼を酷使し、いろいろ細い手仕事をも眼鏡をかけずにしたものです。子供の病気をなおしたい一念で真理の本を読んでいますと、わたし自身の病気も全部なおってしまったのです。外にあらわれた病気はただ破壊されんがためのみに表面に浮かびあがってきたものでした。歯痛も起こらなくなり、知らず識らず顔の斑点(しみ)までとれてしまいましたが、こんなことはわたしのえた魂の向上に比べればとるにたりない小事です。わたしは感謝に満ちた心で一切のものを受けています。(カリフォルニア州ロスアンゼルス、M・T・W夫人)
<つづく>

1108復興G:2012/08/10(金) 18:31:21 ID:xKxowNU.

<つづき>

<第5回 WEB誌友会用テキスト 5>

 『生命の實相』 第1巻

 《實相篇(上) 光明の真理》 

 「第三章 あらゆる人生苦の解決と実例」より(5)

  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 真理の治験例―3 ながい間わたしは耳と咽喉との病気に苦しんで、英国でも米国でも専門家の治療を受けましたが、少しもよくならずに悪くなる一方でした。ところがクリスチャン・サイエンスで治ったある人から『真理と健康』の本を買って研究するようにすすめられました。最初、わたしはいやいやながらに買ってみたのですが、五十ページも読んでいるうちにわたしの魂を解放する真理を発見したように感じました。それ以来わたしの病気は拭うようによくなり、二度と再発しなかったのであります。

 先日、三歳になるわたしの娘が誤って肩の関節を脱いたのであります。その時家にいるのはわたしばかりでした。娘は激しく痛むので顔色は蒼白(まっさお)になっていました。わたしは極力心霊治療をやってみましたが、一方では誰かが来たらすぐ医者へ駈けつけてもらおうと思っていました。彼女はますます苦しみ激しく泣き叫びました。わたしは幼女の着物をぬがせて関節をはめこもうとしました。しかしそれは患部の痛みを増させるばかりなのでわたしはとうとう恐ろしくなりました。その時きらめくように、「お前は治療家がそばにいないときにどうしたら好いか考えよ。今この神の力と実在とを実証すべき時ではないか?」という考えが浮かびました……。わたしは『真理と健康』の本を声高に読みはじめました。半時間もすると幼女は脱けた方の手を上げようとしだしましたが、また痛そうに叫んで顔を蒼白にしました。わたしはまた声高に読みつづけました。するとこんどは幼女はお菓子を口のところへもってゆこうとするのです。なんと嬉しいではありませんか、脱けた方の手がほとんど口のところまで届いても痛みがないのです。わたしはなおも『真理と健康』を読みつづけていますと、わたしの妹が子供の二人の兄をつれて帰って来ました。幼女は兄弟が帰って来たのを見るとすっかり手の痛みを忘れてベッドから走り出て「わたしは腕をぬいて痛かったの。だけどお母さんが本を読んで治してくださったわ」と申しました。この出来事は午前十時から午後三時までのことであります。それきり幼女は何事もなかったように列で遊んでいました。(ウインペッグ市、W・G夫人)

 以上は病気についてのクリスチャン・サイエンスの治験例でありますが、次には「生長の家」で、癒されて健康と運命を改善せられた実例を、皆さんの信念を強めるために申し上げようと思います。月刊の『生長の家』誌には毎号この種の実際の礼状がのっていますから、それもあわせてお読みください。
<つづく>

1109復興G:2012/08/10(金) 18:32:09 ID:g6nDEgV2

<つづき>

<第5回 WEB誌友会用テキスト 6>

 『生命の實相』 第1巻

 《實相篇(上) 光明の真理》 

 「第三章 あらゆる人生苦の解決と実例」より(6)

  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

       心の力で椎骨は調整しうる

 先日、岐阜の一読者からこういう手紙が来たのであります。「自分は数年来強度の顔面神経痛にかかって夜も眠られないほどの苦しみでありますが、あらゆる医療という医療、あらゆる治療法という治療法を試みたけれども、寸効もなく失望しています。近ごろある透視家に診てもらったところが頸椎骨に物理的の狂いがあるので、それを物理的に治さないかぎりはこの神経痛は治るものではないといいます。しかし当方は田舎でそんな椎骨を治す医者はないのです。御地付近に椎骨の矯正をする名医があれば知らしてください」というお尋ねの手紙です。わたしはさっそく、神戸のカイロプラクター桜井某と、東京にある某々椎骨矯正医二名の住所を知らしてあげ、それにつけ加えて、「あなたが物理的にその病気を治そうと思うならばこれらの人たちにかかってみてください。それも一つの方法です。しかし真理を申せば、物質はそれ自身において痛みを感ずる力はないのです。だから痛みを感ずるのは『念』です。『痛いと思う念』が痛みを感じているのです。『念』から『痛い』という思いをとってしまえば痛むものではありません。ところが、心はこれ『生命』のはたらきであって、『生命』は神から受けたものですから完全であって病気になるものではありません。病気だと思う『迷いの念』が、痛むはずもない物質の肉体を痛むように思わせているのです。椎骨の脱臼ということをこのごろだいぶやかましくいいますが、椎骨と椎骨との間には伸び縮みの自由なゴムのような靭帯があって、それが椎骨を一定の位置にたもっているのです。その靱帯が一方へ痙攣(ひきつ)けて不平均でいれば椎骨が脱臼しているのです。この靱帯というものは物質だから、自分自身の力では一方へ痙攣(ひきつ)ることはできないのです。もしそれが痙攣っているならば、あなたの心がこれを引きつらせたのです。あなたの心が引きつらせたのならば、あなたの心が健全に帰れば靱帯の不平均な一方への痙攣も治りますから、椎骨の脱臼も治ります。もし心で病気を治そうとお考えになるのでしたら、『神想観』を実修して神との一体感に完全に精神が統一したとき『自己の生命は神の子であって病気になるはずはない。そして物質には心がないから痛みを感ずるはずがない。痛みは迷いである』と繰り返し繰り返し念じてごらんなさい、きっと治ります」と書いてご返事を差し上げたのであります。この方が神想観の実修をされたのは六月二十日からであります。二十日から五日間はこちらからも「祈り」と「思念」とを送ってその実修をおたすけし、あとはその方の自修にまかせておきましたところ、翌月の五日出の葉書には、「おかげさまで昨今では数年にわたる難病もほとんど全快しました」という快報が来たのであります。「神想観」を実修せられてからまだ半月しかたたないのに、「生命の実相(ほんとのすがた)の自覚」さえ行なわれれば、数年間不治の難病でもこんなにすみやかに治るのであります。

 こんなにもたやすく病気は治るものであるのに、医学が進歩しいろいろの物質的薬が発明せられてくると、かえって病気がなおらなくなるのみか、新しい病気が続々と殖えてくるのは、医学が進歩すればするほど、「生命は神の子だ」という信念がいよいよますます稀薄になってゆくからであります。薬物に対する信仰が高まれば、「生命」に対する信仰、自己の「神性」の自覚はだんだん薄まるのであってこの二つはけっして両立しないのであります。だからできうる限りわれわれは、薬物その他の物質的方法に頼ることをやめて、「生命」の霊妙性を自覚するように努め、これによって、「生命」それ自身の力を発現せしめて病気を治すようにしたいものであります。

 生理学者は人間の筋肉には随意筋と不随意筋とがあって、随意筋は自分の心で思うように動くけれども、不随意筋は自分の心では随意に動かすことができないといっているのであります。しかしこれはただ表面そう見えるだけのことで、心で動かない肉体組織はないのであります。骨の位置を定めている靱帯でさえも、前述のように心に真理を自覚すれば正しい位置にかえるのでありまして、胃腸や心臓の運動が心の力によって正しくなったり不整になったりするくらいはあたりまえのことであります。
<つづく>

1110復興G:2012/08/10(金) 18:33:13 ID:xKxowNU.

<つづき>

<第5回 WEB誌友会用テキスト 7>

 『生命の實相』 第1巻

 《實相篇(上) 光明の真理》 

 「第三章 あらゆる人生苦の解決と実例」より(7)

  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

       体温計が麻痺症を癒す

 心の作用は実に微妙なもので、信じて「治る」と思えば、どんな治療法を使おうが、どんな薬を使おうが治るのであります。治らないのはその信じ方がたりないからであります。もうだいぶ古い話でありますが、アメリカにサー・ハムプリー・デビーという医者がありました。そこへ一人の麻痺症の男がやって来て治してくれというのです。麻痺のために腋の下に体温計をはさみにくいので、体温計を口に入れさせて、体温をはかってみたのであります。かなり古い出来事であって、患者はこれまで体温計というものを口へ入れて検温するという経験がなかったので、これはテッキリ口へ入れておけば病気が治る機械だ、と信じて思い違いをしたのであります。この機械に対する信念が強かったものだから、その体温計を口から出すころには、さしもの麻痺症が治ってしまっていたので医者も驚いたのであります。

 クリスチャン・サイエンスの開祖エディ夫人は普通の食卓塩を水に薄めて、ぜんぜん塩からくないようにし、その稀薄な食塩水をいかにも高貴薬のように一杯のコップの水に一滴たらし、その水を三時間ごとに茶さじ一杯ずつ、末期の腸チフス患者に与えてとうとう病気を治したという実例を発表しています。「鰯(いわし)の頭も信心から後光が射す」という言葉がありますが、それと同じことで体温計でも、食塩水でも、蒸溜水でも、信仰さえすれば病気が治るのであるとしましたら、何も自分の貴い生命以外のものを信仰する必要はないのであります。自分の「生命」を信仰し、神の子としての自分の「生命」の貴さを自覚し、これによって病気を治すことにしたならば、人間というものが物質にひざまずいて、どうぞ治してくださいとほかの物に頼む必要がなくなり、同時に自分の「生命」がどんなに霊妙な全能なものであるかということがわかってきますから、こん後病気を怖れなくなるばかりでなく、処世上にもあらゆる点において、この自己生命の強い生きる力の自覚が大いにわれわれを裨益(ひえき)してくれるのであります。

 さきほど、私は肉体は物質であるから痛みを感ずるはずがないと申しました。厳密にいえば心のない物質はないのでありまして、物質がある形をあらわしているというのは、心が背後にあって、物質にそういう形を現わさしめているのであります。で、「物質には心がない」と前にいいましたのは、普通人が考えているところの「物質」というものはこんなものだという概念をまずひきあいに出してきて、そんなら肉体は物質だから痛みはないはずじゃないかといったのであります。この肉体の痛いと感じますのは心があって痛いと思うから痛いのであって、心がなければ痛いとは感じないのであります。たとえばちょっと熱い湯がかかれば、われわれの皮膚は赤くなって、しまいには水泡(みずぶくれ)までできてきますが、死骸にちょっとぐらい熱湯をかけても赤くもならず水泡もできないのであります。死骸はいわゆる「心」がないから、本当にクラクラ沸る湯の中へでも入れて本当に物質的に変化を起こすほどの時間煮なければ色が変わるようなことはないのであります。ところが生きているわれわれは、ちょっとした熱湯をあびてもスグ皮膚の色が変わり爛(ただ)れて来たりすることがあるのであります。これは熱湯をあびたから火傷をするに違いない、皮膚が赤くなって水泡ができるに違いないというわれわれの心の信仰が肉体の形や色に変化を与えるのであります。だから「熱い」という観念、「火傷(やけど)をする」という観念をわれわれの心のうちから取り去ってしまうと、炎の中へしばらくぐらいは手を突っ込んでも、焼け火箸を手でしごいても火傷をしないでいることができるのであって、これは御嶽教行者の「火渡りの術」などにも見ることができるのであります。
<つづく>

1111復興G:2012/08/10(金) 18:34:42 ID:xKxowNU.

<つづき>

<第5回 WEB誌友会用テキスト 8>

 『生命の實相』 第1巻

 《實相篇(上) 光明の真理》 

 「第三章 あらゆる人生苦の解決と実例」より(8)

  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 そんなら「熱い」という観念、「火傷をする」という観念をとり去ってしまったら、火の中へ数時間坐っていても焼けないかと申しますと、そうはまいらないのであります。これは「火の中に坐っていれば焼ける」という人類全体の信念の力が、火中に坐っているただ一人の「焼けない」という信念の力に打ち勝つからであります。この人類全体の信念を人類意識(race consiousness)といいます。われわれがこの人類意識の外に超出しえない限り、われわれはその影響を受けるのであります。昔、ある名僧は「心頭を滅却すれば火もまた涼し」といって、炎の中に坐って、熱いという考えを心から除(と)り去って、ぜんぜん熱いともなんとも思わずにいたけれども焼けて死んでしまったのであります。江間式心身鍛練法の講習などをみると、刃渡りの術といって、抜き身の刃の上を跣足(はだし)で歩く修行をきせたりしますが、この術を受けても必ずしも身体が鉄のように固くなって、どんな剣も槍もその肉体にとおらなくなるというのではありません。この刃を上向きに並べた抜き身の上をわれわれは誰が歩いても力が平均にかかれば足の裏は切れるものではないのであります。このためにこの実験に使う刀は刃を両方から研いでつけてあるのであって、片面研ぎのものを使うとこの刃渡りの術はできにくいのであります。この力が平均に、片よらないで相手に向かうということが江間式に限らずいろいろの霊的修行の中心になるのであって、心に恐怖心ができれば、どこかにスキができて、本来なら自分が傷つかないのが当然であるべき相手にぶつかっても自分を傷つけることになるのであります。

 ところがたいていの人は心に恐怖心があるために、本当に皮膚や肉が煮えてしまうほどの熱さにあわなくても火傷や火ぶくれができるのであります。砒素(ひそ)のような毒薬や硝酸のような劇薬ならいざしらず、一般の人間がおよそ普通に食べている食物なら、これは人間が神から与えられているのですから、それを食べたからとて本来なら胃腸を害するなどということは決してないのであります。しかし胃腸病の患者にかぎって、あれを食べると胸が焼けるの、これを食べると下痢するのと、しじゅう恐怖心で食べ物の小言ばかりをいっていますから、ますます言葉の力で食物に対する恐怖が強くなるのであります。この恐怖のために自分の心が相手の食べ物に対して平然として片よらないで立ち向かうことができない。そのために消化液の成分にも片よりができて胃酸が多くなったり、ペプシンの分泌が少なくなったりして、食べた物が完全な消化をえないで腐敗することになるので、これが胃腸病の本体であります。それはちょうど、踏んでいる足の力が平均に刀の刃に立ち向かわなかったら足の裏が切れるのと同じで、本来なら傷つかずにすむべき胃腸がまず食べ物に「気合い負け」して、食べ物に傷つけられることになるのです。

 クリスチャン・サイエンスの開祖エディ夫人は砒素のような毒薬を飲んでそれで人間が死ぬのは砒素という物質の力が人間を殺すのではない。砒素を飲んだら死ぬという人類の信念が人間を殺すのだ、とまで極言しているのであります。「それなら毒殺せられる人や、毒と知らずに食物をたべて中毒するような人は、心でそれが毒だと信じないで死ぬではないか」とエディ夫人に反問した人がありました。するとエディ夫人は、「毒と知らずに食べた人やその周囲の数名は毒だと思わなかったかもしれないが、人類の大多数の腹の底に隠れている信念が、それを毒だと認めているから、大多数の人類の信念が合併して実に大きな信念となって、その信念の力によってそれが毒となって、それを飲む人を殺したので、物質そのものには決して人を殺す力などはないのだ」と答えたのであります。

 このエディ夫人の答えはなかなかおもしろい答えであります。人間というものが、本来「心」であって「物質」でないならば、物質が人間を生かしたり殺したりするということはできないはずであります。「心」は「心」自身のはたらきで生き生きとしたり、弱ったりするほかに生きる道も死ぬる道もないのであります。また人間というものが本来「心」ではなくてその本質が物質であるならば「心」のない物質には生きるも死ぬるもないのですから、それではぜんぜん問題にはならないのであります。
<つづく>

1112復興G:2012/08/10(金) 18:35:31 ID:xKxowNU.

<つづき>

<第5回 WEB誌友会用テキスト 9>

 『生命の實相』 第1巻

 《實相篇(上) 光明の真理》 

 「第三章 あらゆる人生苦の解決と実例」より(9)

  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 それで、こういうことが解るのであります。物質がわれわれを治したり、殺したりするのは、第一、人間というものが「物質」ではなく「心」でできている生命であるということ。第二、物質というものは色や形や特有の性質をもっているように思われるけれども、ほんらいそんなものは無であること、すなわち『般若心経』にも説いてあるように物質の色声香味触法(しきしょうこうみそくほう)等の諸性質はすべて無であって、ただその背後(うしろ)に個人の信念、または人類の信念という「心」の作用が働いておって、この信念の力が人間という「心の生物」を治しもすれば殺しもするということであります。

 つまり人間は物質という死物でないからこそ生き死にがあり、物質だと思っていたものも、その実は「信念」(ひろくいって「人類意識」または「宇宙意識」)が仮に形をあらわしたものであるから、人間という心的存在に関係をもちうるということになるのであります。それでわれわれは人間と薬との関係を、物質と物質との関係のように思っていたのが誤りであることがわかり、人間と薬との関係は「心」と「心」との関係、意識と意識との関係であることが覚られるのであります。

       大乗仏教の神髄

 物質は無い! 何という大胆きわまる宣言でありましょう。しかしこの真理こそいつの時代にも大切であって、この真理がいよいよはっきりするにしたがって人間は本当の自由がえられ、自己の霊的自在性が完全に発揮されるのであります。釈迦は三千年前にすでにこの真理を明らかにせられた。「物質は無い!」色即是空だ。大乗仏教の経文の中心となっているのは、この五字の真理につきるといってもよいのであります。しかし釈迦は相手しだいでいろいろの方便をお使いになったらしく、薬を欲しがっている病人には薬をやって病気をお治しになったということも経文には出ているのであります。信仰さえあれば体温計であろうがボタンであろうが、口に入れさせておけば病気は治るのですから、釈迦は物質を仲介にして病人の信仰を喚起して治されたものとみえます。だからわれわれも決して薬剤を排斥するものではありません。

       キリスト教の神髄

 キリストになると病気や薬に対する態度はいっそうハッキリしているのであります。キリストはどんな病気でも難病だといわれたことはない。キリストにとっては、病(物質)は無いのだから、病に重いも軽いもないのであります。弟子が難病者の病気を癒しそこなって帰って来ると、「おお、なんじら信仰薄きものなるかな」と彼は嘆じているのであります。これは病の治ると治らぬとは「病の物質的軽重にあるのではない。信仰の深い浅いによるのだ」という意味であります。キリストは病の軽重をみなかったばかりでなく、死をもみなかった。ラザロが死んでいるのをみても「死せるに非ず、眠れるなり」と断言した。この断定的な信仰の言葉によってラザロは肉体的にも復活してきた。これをみても肉体は信念の影だということがわかるのであります。またキリストは誰にも薬を処方してあげられたこともなければ、食養法を説かれたこともなく、あべこべに、「なんじら何を食らい何を飲まんと思い煩うことなかれ」と切言せられているのであります。

 ラザロは万人の目からみて現に死んで数日たつのに、キリストにとっては、「物質は無い!」のであるから、死んで腐りかかっているラザロの肉体などは心の目に触れなかったのであります。彼はラザロの霊なる「真の人間」(real-man)を見た。神によって造られたる神の子たる「神人」(God-man)を見た。「真の人聞」「生命の実相」「神人」を認めることによって「真の人間」が現象的にもノコノコ立ち上って動き出した。これがラザロの復活であります。
<つづく>

1113復興G:2012/08/10(金) 18:36:23 ID:xKxowNU.

<つづき>

<第5回 WEB誌友会用テキスト 10>

 『生命の實相』 第1巻

 《實相篇(上) 光明の真理》 

 「第三章 あらゆる人生苦の解決と実例」より(10)

  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

       重症胃腸炎癒ゆ

 神癒の骨髄となるのは「真の人間」たる完全なる「神人」を自分において観るとき自己治療が行なわれ、相手においてみるとき他人治療が行なわれるのであります。

 生長の家発祥当時、朝鮮の支部のお世話をしてくださった池田房治さんは、そのころ支部はこしらえてくださるし、集まった誌友の名前は知らしてくださったけれども、なんら支部としての活動を開始してくださっているような様子がなかった。それで支部をこしらえてくださった以上、支部としての実力を備えておいてもらわねばならぬと思いましたが、遠方であって来ていただくのも大変でありますので、朝鮮にいられるままで「神想観」を五日間実修してもらうことにし、こちらから祈りと思念を送って、それを助けることにしたいといってあげたのです。すると池田さんからの返事に「実は生後十一ヵ月になる自分の子供が重症胃腸炎で、四十日間も赤十字病院に入院しているけれども少しも快方におもむかないし、自分としても手をつかねて見ているよりほかに手をくだす力もなく困っているさいであるから、仰せにしたがって『神想観』を実修し自分の霊力がどれほど出るか試してみたいと思う」との返事であります。それでさっそく、実修の時間を定めて「神想観」の実修をしていただいたのであります。すると数日後「五日間の実修を指導せられたことを謝す。昨日子供は病院を退院させました」というハガキが来たのであります。それでは、池田君は子供を病院から引きとってこれから自分の「神想観」の癒す力を試す考えであろうと察していたのであります。ところが、それから一ヵ月ばかりも便りが池田君からは来ないのであります。では、やはりまだ子供が悪いので知らせるのも気の毒と思って、なんとも便りがないのであろうなどとも思いましたが、そんなはずはないがなあ、という気もするのであります。すると一ヵ月後、その池田さんがとつぜん朝鮮から「生長の家」出版部へたずねて来られた。で、「坊ちゃんのご病気はどうです?」とたずねると、「あれから急によくなりまして、いまでは元気です」と答えられる。「それでは手を按(あん)じて、祈ってあげられましたか?」ときくと「実はまだそれをやってみないのです。やってはみないけれども、わたしが神想観の実修を始めると同時にメキメキ快くなって、もうわたしが手を按じて祈る必要がなくなったのです。神想観をやると実に自信がでますね。実はこんど郷里の母が病気で悪いというので、なんだか自信ができたようで治してみたいと思って帰って来たんです。ところがわたしが帰郷すると急に母がまた元気になって食欲が進んできて、またこれも手を按じて祈る必要がなくなっているのです」などと答えられたのであります。

 イエスが手を按じて祈ったということは聖書のところどころに出ていますが、神想観にて実相を観じて病気を治すには、手を按ずるということは必須のことではないのであります。手を触れず按ぜずに病人の前で「神想観」をやっているだけでは、病人自身にとってはなんだか頼りない気がするだろうと思って、手を按じて思念してさしあげてもよい場台かありますが、このごろのように「手のひら療治」や触手的治療法がはやるときには、手を按じない方が混同されなくてよいのであります。手のひらという物質で治るのなら物質治療であって超物質治療(メタフィジカル・ヒーリング)ではないのであります。ただ神想観によっておのずから自分または病人の生命の実相たる「神人」が輝き出すことによって病気が消滅するのであってこそ、メタフィジカル・ヒーリングであります。ことに池田さんの場合のように子供がまだ乳のみ児のような場合には、その子供はまだ独立した人格ではなく親の人格の一部分たるにすぎないのですから、親が自身で神想観をするか親の心をこっちから神想観で治せば、子供の方は放っておいてもよくなるのであります。

 相手にある「神人」を、こちらからハッキリと観ずれば、相手の病気が治るばかりでなく相手の人格などもすっかり変わってくるのであります。「神想観」を病気治療法だと思っていられるとまちがいであります。病気が治るのは、ただそのごくごく随伴的の功徳にすぎないで、神想観の功徳は実に宏大無辺、性格でも運命でも境遇でも、この「神想観」によって改善されてくるのであります。
<つづく>

1114復興G:2012/08/10(金) 18:37:07 ID:xKxowNU.

<つづき>

<第5回 WEB誌友会用テキスト 11>

 『生命の實相』 第1巻

 《實相篇(上) 光明の真理》 

 「第三章 あらゆる人生苦の解決と実例」より(11)

  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

       家庭改善の実例

 こんな面白い実話があります。アメリカのウイスコンシンに不幸な家庭があった。家庭がどうも思わしくゆかないので、もう明日にも夫婦別れをしなければならないようになっていたのであります。熱心な信仰家があって、その気の毒な奥様をたずねて言うには「あなたは初めからいまの旦那様をお好きじゃなかったのですか?」「いいえわたしたち結婚した当時は愛していましたの。」そこで、この信仰家が言うのに「神様は人間を神の子として完全な神人にお造りになったのだ。家へ帰って、あなたの肉体の良人(おっと)の背後(そのおく)にある本当の存在――神様がお造りになったままの神人を観るようになさい。いまのような放蕩無頼な良人は、良人を罪ありと信ずる信念の影であってそんなものは実は存在しないのです。本当に存在するのは影の後にある本体です。神が造ったままの人間、完全な神人があるのみです。神がいったん人間を完全に造った以上は、人間は堕落することはできない。だから堕落したようにみえるのは信念の影であって、信念を変えてしまえば『本当の、神がつくったままの、完全な神人』が表にあらわれて来るのです。五官は信念の影を見るだけのものですから、五官で今見えている有様にとらわれて、あなたの良人の本当の存在たる神人を見のがしてはなりません。帰ってこれから、あなたの信念の影なんか見ないようにしてその後にある本当の神の子たる良人を観るようにしてあげてください。」こういう熱烈な信仰家の言葉をきいて、それ以来彼女には生まれかわりが始まったのです。それ以来、いかなることがあろうとも、彼女は良人の悪いところを五官の眼で見ないことにし、心の眼で、真実存在たる実相の善い良人を見るようにしたのです。間もなく彼女の家庭には平和と愛とが復活し、和気藹々とした家庭を楽しむことができるようになったのであります。なお後に詳しく説明する機会があると思いますが、家庭の不調和が原因で肉体に病気があらわれている場合が非常にたくさんあるのでありますから、病気になった場合、自分は誰かを憎んでいないか、不平を持っていないかを反省してみて憎みを捨て、不平をなくし、すべての人を赦すようにして、人々の神の子たる実相を観て感謝するようにすると、不思議に病気が全快してしまうようになるのであります。

       就職戦に打ち勝つ

 家庭苦はなるほどこういうようにして救われるということが解りましたが、失業苦はどういうようにして救われるかという実例を申しましょう。

 北海道函館に三好さん(仮名)といって非常にまじめなよい青年があります。高等商船学校の卒業者であられますが、学校を出てもう数年間失業していられたのであります。ところが因縁によって、『生長の家』の創刊号以来からの愛読者になられた。この雑誌を読んでいると生まれかわったような明るい気持になられたのであります。「朗らかに笑って」という文句が必ずはいっている葉書の通信をば、たびたびこの青年から私は受けとったものです。葉書にさえ「朗らかな笑い」がはいっているのですから、性格も一変して明るくなられたに相違ないのであります。そこからこの方の運命がひらけてきたのであります。
<つづく>

1115復興G:2012/08/10(金) 18:37:59 ID:xKxowNU.

<つづき>

<第5回 WEB誌友会用テキスト 12>

 『生命の實相』 第1巻

 《實相篇(上) 光明の真理》 

 「第三章 あらゆる人生苦の解決と実例」より(12)

  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 前節には、私は真理の書籍を読むだけで病気が治ったという話を紹介しましたが、読むだけで治るのは病気だけではないのであります。本書を読んで自分の生命が神の子であるという真理が本当に理解できてきましたら、運命も境遇も徐々に転換してくるのであります。

 さてこの三好さんも自分というものが神の子であるということがわかり、根本から性格が明るくなってくるとともに、運命がこの方の上にほほえみかけてきたのであります。それまで三年間就職運動をつづけていたけれど、常にその選考に落選していた目的の会社から、人物考査の上で採否を決定するから、なん月なん日には面会するから出頭せよという通知が来たのであります。そしてもうその面会日は前途に旬日もないほどに目の前に迫っている。さすがに三好さんも心が動揺せずにはいられないのであります。試験官の前でどういって答えたらよいだろうか。どんな態度をとったら採用になるだろうか。実は自己の生涯の運命がこの人物考査のさいにとるべき自分の態度と返事いかんによって決するのだという気がされたのでありましょう。三好さんは人物考査受験にのぞむさいの注意を至急知らしてくださいという手紙をわたしによこされたのであります。

 わたしは早速神に祈って返事をしたためました。その返事の内容を簡単にいってみますとこうであります――いよいよのときになって試験官がどういう質問を発するか、その質問に対していかなる返事をしたら試験官に好印象を与えるかというようなことはあらかじめ予測することはできません。あらゆる質問の種類を列記してそれにいちいち応ずべき試験問題解答集のようなものを差しあげるわけにもゆきません。あなたが人物考査試験にパスすると否とはあなたの全体からそれとはなしに立ちのぼる雰囲気で大部分は決するものです。それから試験官の問いに対していかなる答えをすれば好いかは、あなたが神と一致したときおのずから発せられる言葉でよいのです。自分ではずいぶんばかな返事をしたものだと思うような答えが、かえって試験官に好印象を与えることもありえます。また自分にはいかにも適当な返事をしたと思うことが試験官にかえって悪印象を与えることもあります。だから、その時その時にいかに答うべきかについて思い煩うのはばかげています。キリストも弟子に教えて、なんじらいかに説教すべきかを思い煩うな、その時に口をついて出る言葉が神の言葉だ、といっています。思い煩えば思い煩うだけ自分の雰囲気を悪くするばかりです。だから何よりも恐れずへいぜんとして神に一致することが肝心です。神に一致するためには試験の当日まで毎朝夕「神想観」を実修してください。そして神と自己との一体感を深めてくだきい。ほんらい神と自己とは一体であって、いつだって離れているわけではありませんが、自分で一体感を失っているから、神と一致した行動が形の世界へ現われてこないのです。神との一体感さえ深めれば、神と一致した一言一行が形の世界に現われるようになり、あらゆる事物がことごとく自己の善を成就するように動き出しますから何も心配することはありません。だから「神想観」を実修して神との一体感を深めることが第一です。あなたが「神想観」を実修して神との一体の感じに精神が統一した時、あなたの求める事物が神からすでに与えられている状態を想像して、これをアリアリと心のうちに強く観じなさい。「求めよさらば与えられん」とはこのことです。「なんじが祈る時にすでにそれを受けたりと信ぜば、必ず与えられる」とはこのことです。神と我とは一体だとの信念が強まったとき、欲する事物を心に描けば神すなわち大宇宙の創造力が、その心に描いた状態を形にあらわすために、活動しはじめるのです。一定の時間の「神想観」の修行が終ったならば、もうそのことについて思い煩ったり、心配したり、実現を危ぶんだりしないことが肝心です。心配や取り越し苦労は逆の否定的な破壊的な想念でありますから「神想観」で、順の、肯定的な、創造的な思念をしておいた効果を打ち消すことになります。
<つづく>

1116復興G:2012/08/10(金) 18:38:46 ID:xKxowNU.

<つづき>

<第5回 WEB誌友会用テキスト 13>

 『生命の實相』 第1巻

 《實相篇(上) 光明の真理》 

 「第三章 あらゆる人生苦の解決と実例」より(13)

  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 ――まずざっとこんな意味の事を書いて三好さんにさっそく返事を送ってあげたのであります。するといよいよ三好さんの人物考査の試験日が来たのであります。すると三好さんからは、お蔭で実に落ち着いてわれながらこれでは満点だという心の態度で試験官に対することができたので非常に嬉しく思っています。十五日には採用の通知が来るはずですから、採用と決まればさっそく電報で生長の家へ知らせて喜んでいただきたい――というような意味を書いた感謝状をよこされたのであります。さてわたしは家内と一緒に、三好さんのために神に祈って三好さんが採用になることを待っていたのであります。ところが十五日になっても、十六日になっても、電報どころか、手紙も来ないのであります。私も家内も熱心に祈ってあげたのでありますし、それだけまた、一時失望が激しかったのでありますが、われわれでさえこんなに失望するのであれば、当事者たる三好さんはさぞや失望しているだろうと思うと、慰めの言葉を送ってあげなければならないという気がして、わたしは長文の手紙をまた三好さんに送ったのであります。慰めるといっても、いいかげんな、でたらめをいって一時の気休めをさせるというのではありません。われわれが「神想観」によってある事物の成功を神にもとめる場合に、その求めた事物がえられないで失望していると、こんどは求めた以上のものが他の方面から与えられることがおうおうあるのであります。これは神の知恵が人間の予想した以上のところに働きたまうからであり、迷いの自壊作用でもあります。たとえば、ある病気に対し、健康な状態を神に求めていると、かえって熱が高くなったり、痛みが増加したり、分泌物がふえたりして、いっけん病状が急激に悪くなったりすることがあります。これでは「神想観」も効力がなかったのかと思って失望していると、その病状の急変が一転機となって、驟雨(しゅうう)の後の快晴のような爽快な健康がめきめきと回復してくるのであります。クリスチャン・サイエンスの開祖エディ夫人はこの「病状の急変」をケミカライゼーションと名付けて「これは真理の朝日が立ちのぼる前に『無明』の自壊作用が起こるのであるから、このケミカライゼーションが起こったら、あなたの病気はもう治ったと自分は病人に宣言する」とまでいっています。「神想観」によって生命の実相を観じたり、『生長の家』誌や『生命の實相』のような生命の真理を判りやすく書いてある本を読んで、病状が急激に悪変したならばこのケミカライゼーションという「迷いの自壊作用」であって、近くまったき健康の出現する前兆なのでありますから、自信をもって、やはり神想観を続けてください。そして毎日せめて一時間ぐらいは『生長の家』誌や『生命の實相』實相篇、光明篇、生命篇、萬教帰一篇等を読み、聖経『甘露の法雨』を祖先の霊前で繰り返し誦(よ)んでいただいておれば必ず急速にその病気は回復するのであります。病苦とか衰弱とかで読めない人は、看護に親しむ、身に近い人に読んでもらえば、読む人から健康の思想が言葉とともに放射されて病人に達するので回復が早いのであります。『生命の實相』は決して一ぺん読んで表面の心で解ったからそれでもう捨ててしまってもよいという書物でないのであります。幾たびも繰り返し読むほど潜在意識に深く真理がたたみこまれてきて、じっさいの治病力または運命の改善力となって発現するのであります。たいていの人は病気が急変してくるとびっくりして信仰に動揺をきたして医者に相談してみる。すると医者はその病状の急変が、病気の自壊作用すなわちケミカライゼーションだということが判らないから、書物などをこの大病人に読ませてはいけないといって読書を禁じてしまう。かかる医者の注意がどんなに病人にとって致命的なものであるかは医者自身には解らないのであります。
<つづく>

1117復興G:2012/08/10(金) 18:39:27 ID:xKxowNU.

<つづき>

<第5回 WEB誌友会用テキスト 14>

 『生命の實相』 第1巻

 《實相篇(上) 光明の真理》 

 「第三章 あらゆる人生苦の解決と実例」より(14)

  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

       運命のケミカライゼーション

 これは病気のケミカライゼーションでありますが、「真理の書」を読み、「神想観」を実修しているとわれわれの運命にもケミカライゼーションが起こってくることがあります。たとえば今まで前途にみとめていた光明が急に消えてしまって暗黒になる。コロンブスがアメリカ大陸発見の時に、すでにアメリカ大陸に近づいてきたころになると、かえって船員たちが不安に思い出して、コロンブスを監禁するか海へ投げこんで、後へ船を引き返さなければ向こうに陸地なんかはない、といって希望を失い始めたのと同じことであります。このときにコロンブスも一緒になって前途に希望を失ってしまったら、現在のアメリカ大陸は世界の地図の上にないのであります。灯火の消える前は一時かえって明るいのと同じように、運命の明け方のくる前には真っ暗な真夜中がくる。けれどもこの真っ暗な真夜中はいっそう明け方の近づいた証拠なのでありますから、コロンブスのように前途を信じて確信をもって突進すればよいのであります。運命のケミカライゼーション(転機)の時には、今までよい具合にいっていた勤め先がどうも思わしくなくなったり、同僚と衝突したり、会社が潰れたり、解雇になったりすることがあるけれども、そのために見出した新職業や生活の新転換で、揚々と追い風に帆をあげて成功することもあります。それで運命にもケミカライゼーションということがあるがために、われわれにとっては人生が非常におもしろくなるのであります。運命にケミカライゼーションが起こらねば、医者はいつまでも医者、看護婦はいつまでも看護婦、会社員はいつまでも会社員、労働者はいつまでも労働者であって、転換期というものに会うことができないのであります。ただ、この転換期の暗黒期に「失望」という奴によって確信を失つてしまうと、せっかく明るくなりかかっていた運命が、自分の心の力でまた本当に暗くなって来るかもしれないのであります。生長の家の『智慧の言葉』に「悪くなるほど、善きことが近づいて来たと思え」という意味のことが書かれていますが、これは病気を治そうとする人にとっても、運命を開拓せんと欲する人にとっても、いつまでも座右に備うべき箴言(しんげん)であります。

 では、話を三好さんにもどしてこの一節をひとまずまとめることにしましょう。三好さんからは電報では私のところへ採用の通知が来なかったけれども、じっさいは望みどおりに目的先に就職がかなったのであります。というのはその二十日ばかり後、絵葉書におかげさまで長い間希望していた職業をえたという簡単ではあるけれども喜ばしげな報知をえたのであります。これなどは実に『生長の家』の反復熟読と「神想観」の実修とによって運命を開拓した一つの実例であります。
<第3章 完>

1118ハマナス:2012/08/10(金) 21:33:24 ID:mR2szZkc
神の子のみなさまこんばんは。

携帯から、投稿させて頂いています。PCの画面が見れませんので、もし不手際がありましたら、お許し下さい。

無限供給のパイプをふせぐもの

『新版生活の智慧365章』

あなたが若し無限供給の来たらんことを欲せられるならば、自己の想念によって、宇宙の無限供給の流入口をふさいでしまってはならないのである。あなたは現在あるところの収入量だけを勘定したり、現在の収益の場所、収入の財源だけを考えて、そのほかの何処からも収入の道がないなどと考えてはならないのである。宇宙は無限に広いのであって、あなたの収入が流れ入るパイプはあなたが肉眼で見ている場所のほかにも色々あるのである。

あなたは祈りの際に、その無限の供給の流れ入る無限のパイプを瞑視しなければならない。あなたの供給を遮るものは、あなた自身の「限る想念」だけである。今すぐ其の「限る想念」を取除けなさい。月給取だから、そのほかのに収入の道がある筈はないなどと云う考えを捨てなさい。みずからを「限る」ものは、限っただけしか得ることができない。

感謝合掌

1119a hope:2012/08/11(土) 07:54:51 ID:r8H4x9xE

人生読本 谷口雅春先生著

「これはできる」


「そんなこと位は初めから知っていた。だから私は『これをしよう』と思ったらいつまでも心を変えずにやってきたが、やっぱり運が悪いことに変わりはない」
とお考えになる人もありましょう。

だけれども、そうおっしゃるあなたの考え方は、私の考え方とたいへん異(ちが)います。
私は「こ'れ'は'で'き'る'」というお考えをいつまでも捨てないで貫き通すことが「精神一到」だと申しました。
ところがあなたは「こ'れ'を'し'よ'う'」という考えはいつまでも捨てずにいるが「運が悪い」と言われます。

あなたの考えと私の考えとがどれだけ異(ちが)うか、太い活字で書いたところを比べてみてください*。

私は「こ'れ'は'で'き'る'」という考えを捨てるなと申しました。
あなたは「こ'れ'を'し'よ'う'……し'か'し'で'き'ぬ'、運'が'悪'い'」と言っているのです。
「運 が 悪 い」とあなたがおっしゃるのは、「こ'れ'は'で'き'ぬ」という考えが混じっているのです。
私の言う「これはできる」という考えとはまるきり反対ではありませんか。
【*「太い活字」の箇所は一字ずつに〈’〉を入れてあります】
(つづく)

1120ハマナス:2012/08/11(土) 22:29:29 ID:mR2szZkc
神の子のみなさまこんばんは。


月給取りにも無限供給の道はある
『新版生活の智慧365章』

或る月給取がありました。彼は肺結核にかかった。それが動機になって彼は生長の家に触れたのである。それから医師にみてもらうと、驚いた事には、喀痰(かくたん)中に無数に結核菌がいるとの事で、彼ひ強制的に会社を休まされることになった。その間に彼は一所懸命に『生命の實相』を読んだ。そして其処に書かれている通り、「健康」と「神からの無限供給」が既にあることを深く想念したのである。すると次に医者に診断を受けた時には全然喀痰中から菌が検出されなかった。塗抹試験をしても、菌培養試験をしても菌の不在が証明された。彼は会社へ出勤することを許されたのである。

彼はやはり神からの無限供給を祈りつづけた。すると会社の社宅が抽選であたった。そのために普通の家賃を支払っている時よりも三千円も節約になかったのである。病気欠勤していたに拘わらず、その期末には二千円月給が上がった。定額所得者でも定額以上を得ることができる例である。


感謝合掌

1121a hope:2012/08/12(日) 07:46:09 ID:r8H4x9xE

人生読本 谷口雅春先生著

「これをしよう」


「これはできる」という考えの中には、「できる」という考えのほかに何にも混ぜ物がありませんが、
「これをしよう」という考えの中には、「これをしよう、しかしできないかも知れない」という考えが混じっているものなのです。
「これをしよう」と考えるだけの「精神一到」では必ずしも成功しないのは当たり前です。

入学試験に行く人たちは皆「この試験にパスしよう」と思って行くのです。
しかし、皆が皆まで試験にパスしないのは、「パスしよう」という考えはあっても、
「パスできる」と本当に信じている人が少ないからです。

「しよう」とか「成ろう」とかいう考えよりも、「できる」とか「成る」とかいう考えの方が強いのです。
(つづく)

1122ハマナス:2012/08/12(日) 21:51:16 ID:mR2szZkc
神の子のみなさまこんばんは。

不安恐怖を除くための祈り

『新版生活の智慧365章』

何よりも心の迷い、恐怖、不安等を取り除きなさい。毎日の祈りの際に、神が無限の供給源であり、無限の生命源であることを念じなさい。そうすることによって、一切の心の迷い、恐怖、不安等を取り除くことができるのです。
「神は無限生命であり無限の供給でありたまう。わたしは神の子であるから、常に神より無限の生命と無限の供給とを与えられているのである。だから私は常に健康であり、裕かであるのである。神は常にわたしを護りたまうが故にわたしには何らの不安も恐怖もない。心は常に明るく愉快で、私は神の生命と財福の供給が無限に流れ入るパイプになっているのである」
と云う風に祈るならば、恐怖心も不安も除かれ、真に「神」の流入する不思議のパイプとなることができて、日常生活に必要なあらゆる物を得ることができるのである。

感謝合掌

1123ハマナス:2012/08/13(月) 22:14:37 ID:mR2szZkc
神の子のみなさまこんばんは。

体験に失敗はない『新版生活の智慧365章』

過去について思い嘆くこと勿れ。過去は既に蚕が、一眠ごとに脱ぎ捨てた皮のようなものであり、蝉の抜け殻みたいなものである。過去の殻の形が如何にあろうとも、それは現在の自己にとって何のかかわりもないことである。真に自分にとって大切なことは、脱ぎ捨てた過去の殻が如何なる形をしているかと云うことでなく、その殻の中にあって如何に自分の魂が生長を遂げたかと云うことである。

如何なる困難も、如何なる失敗も、決して完全なるマイナスと云うものは人生には全然ないのである。エジソンは千百の実験に失敗した後一つの発明を完成しても、その千百の実験を「失敗」と呼ばないで、「こうしたら、こうなる」と云う実験のデータを得たのであるから、それだけ自分は進歩したのだと言ったそうである。

感謝合掌

1124ハマナス:2012/08/15(水) 10:01:53 ID:mR2szZkc
神の子のみなさま
おはようございます。

宇治では大雨の被害があった様ですね。
盂蘭盆供養大祭のご成功をお祈り致します。


病気が消えるための祈り
『新版生活の智慧365章』

あなたが若し病気であれば、あなたの想念を病気の症状に集中してはなりません。症状を超え、現象を越え、“神の子”たる完全なる実相に集中しなければなりません。既に癒されている完全なる状態を心に描いて、その想念を心のうちに持ち続けることが必要であります。次の如く祈りなさい。

「神はわが内なる実相の生命である。実相のみが実在するのである。神は完全であるからわが内なる実相の生命は完全である。実相のほかには何ものも実在でないから、わが全心身は実相そのものである。実相は完全であるから、実相そのものであるところの全心身は健全である。病気と見えているところのものは、それは実相の完全さを知らない迷いの影にすぎないのである。迷いは真理を知ることによって消えるのである。私は今神より叡智の光を受けてすべての迷いが消えたが故に『迷いの産物』なる病も消えたのである。」

感謝合掌

1125ハマナス:2012/08/15(水) 21:32:06 ID:mR2szZkc
神の子のみなさまこんばんは。

消極的な想念の誘惑

『新版生活の智慧365章』

神は人間に完全なる自由を与え給うたのである。この実相に心を振り向けるとき、一切の自分を不幸に陥れる束縛も制約も消え去ってしまうのである。事物を処置するに当って、否定的な消極的な面に心を振向ける者には大なる成功と云うことはあり得ないのである。神が常に自分の仕事を導き給うと云う信念があれば、一時その仕事が如何に行詰(ゆきずま)ったように見えても、また別の道がひらけて其処から素晴らしい仕事の枝が出て来て、主要なる仕事よりも其の枝の収益で損失をおぎなうことも出来るようになるものである。

消極的な考えが起きて来たならば、「神はわが父であり給い、わが求むるすべてのものを神は与えたまうのであるから、必ずわが行くべき道は拓かれるのである。神は無限の智慧をわれに授け給いてわが行くべき道を示し給う」と念ぜよ。


感謝合掌

1126SAKURA:2012/08/16(木) 03:52:32 ID:jH5uEFzM
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
おはようございます……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。

もう…「ご先祖様…」が、お帰りになられましたでしょうか?今年は【二つ部門の聖教】を唱え、
ました次第です。…が?一つは「甘露の法雨」「観世音菩薩賛歌」の“お経”を唱えました…。
皆様も「御先祖様の見送り?」の“お聖経”を、唱えられましたでしょう〜〜〜か?
では、私達にも必要な精神は、…【心の聖典】を〜〜〜開きます〜〜〜♫

■幸福を招く365章
―――――― あなたが幸福になろうと思ったら ――――――――

「神よ、私はあなたに対して今日約束を致します」皆さん、こう云って神様に約束の祈りをし
て下さい。「今日より私は、あなたのお力を得て、私の心よりすべての暗黒なるものを、憎しみ
や、怒りや、悲しみや、嫉妬や、人の不幸を喜ぶ心などを綺麗に洗い流して、再びそのような
感情を私の心の中に起すことなきように誓います。この誓いが実行出来るようお力をお添え下
さい。私はあなたの許しを得て、私の意志と感情と想念とをあなたの中に投げ込みます。あな
たの尊き高き清らかなる意志と想念と感情とを我れに流れ入らしめ給え。わたしの心は既に私
のものではありません。あなた様から与えられ、あなた様に献げられたるものであります。私
は力を尽くしてこの私の心があなた様に献げられたる目的にかないますよう聖らかなるよう努
力いたします。」
                             ( 谷口雅春著 )
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆

■今日は「御先祖様のお見送り」…【お祈り】をしましたが?皆様は如何でしたでしょうか?
私も【祈り…】の後、仏壇に向かって話しかけますが、これがとても照れくさい?のです。…が?
それでも「亡き両親」に、今回の【新聖経…】を、いいのかしら〜〜〜ンと聴きますと?
“ロ−ソクの炎”…揺らぎから〜〜〜良い〜〜〜のでは?と…嬉しそうに、頷いています〜♫〜
私も【甘露の法雨】後に、読誦しますと、とても読み辛くなります事もしばしばです。…が?
その後、段々と“心が爽快”になりまして、不思議と“意志が強く”なってくるのです。

私自身も、まだ読誦しだしてから間がないのです。ですから、先ず!読んでみまして、その後
“効果”がなければ、その時に“対策を講じても”良いのではと思いますが?
私の考えは、読みます前からの批判論(ア〜〜〜ダ?コ~~~ダ?)には??
それなりの“効果”があるものと“信じて祈る!”ですから、“不安とか?”は無く、
其の言葉の“意味を理解”しながらでしょうか〜〜〜?
とても分かりやすい【文章 と 聖典】です!!(しいて言いますと厳格性?でしょうか?)

さて!人は誰もが【幸せ捜し…幸せの青い鳥?】勿論!私もやはり…
“幸せになりた〜〜い”ですモノネ???
今日から、更に【神想観=瞑想】です。この“言葉通り”に…【実行開始!!】
“嫌な感情…不安?恐怖?妬み?嫉妬?…etcネガティブ感情を、遠く遥か彼方へ…捨て去る!!
アウト・プット〜〜〜と「イメ−ジ」で…!そうなのです〰~~ョネ!今日から、私の“メモリ−”に、
【今日の言葉を、一気に暗記しまして、唱えていきま〜〜〜す〜♫】
今から【幸せロ−ドに入る“近道…入門でしょうか?】信じて、
My load〜〜〜on!!!…Come back my load !!!

PS:トキ様 へ
お盆前からの気象庁の情報で【集中豪雨警報…】が?ありましたモノ?
其の結果…?「集中豪雨…被害が各地に〜〜〜><」悲しい出来事が〜〜〜><

さて!【お聖経問題…】ですが、私は先ず!“実行”からしています。…が?
やはり【心 の 法 則】で行きますと、目前の「現象」での理解(心の捉え方)は、当に!
そのような形で現実世界に現れますし…更に【天界からの伝言】では???と思いながら、
今「地質学」を読んでいますと…?なるほどと言った感じが見えて来ましたが、
全てを【新 聖 経 の せ い】になさる根拠は、大変失礼ながら、
昔の【迷 信 世 界】に、戻ってしまった気持になります次第なのです。…が??
                                   再合掌

1127a hope:2012/08/16(木) 07:53:31 ID:r8H4x9xE
人生読本 谷口雅春先生著

「成ろう」と「成れる」との相異


誰でも偉い者に「成ろう」とは思うのですが、そのうちの極わずかな人だけしか偉くなれないのは
「成ろう」と思う考えは捨てないくせに、「成れる」という考えをいつの間にか捨ててしまうからです。

そしていつの間にかそんな人は、「成’ろ’う’と思うけれども成’れ’ぬ’」と言うのです。
そして、そういう人はとうとう偉いものには成’れ’ぬ’のです。

これで「成’ろ’う’」と「成’れ’る’」との相違が判ったでありましょう。
(つづく)

1128a hope:2012/08/17(金) 07:17:28 ID:r8H4x9xE
人生読本 谷口雅春先生著

立身出世の秘訣


皆さん成功の秘訣も、立身出世の秘訣もここにあるのです。
「精神一到」とは、どこどこ迄も、ただ 成’れ’る’――成’れ’る’で突き貫(とお)すことです。

「心」で「成れる」と信じたときには、心のフィルムではすでにそう成っているのです。
心のフィルムに描かれていたことは必ず活動写真に映し出されるように、この世の中に本当に出てくるのです。

しかし、自分がこうあって欲しいことがまだ本当に出てこないうちに、
「成れる」という考えを捨ててしまって、「成れぬ」という考えにいつの間にか成ってしまったら、
その「成れぬ」という考えがこの世に出てくるのですから、運は悪くなるのは当然です。
(つづく)

1129志恩:2012/08/17(金) 07:42:54 ID:.QY5jUA6
 ヨハネ伝講義 谷口雅春先生著


「私を信じる者は私を信じるのではない。私を遣わし給うた者を信ずるのだ。
神は光源であって、私は光である。だから私を見る者は、神を見るものだ。

私が光としてこの世に来ったのは、すべて私を信じる者が、暗黒の世界に、彷徨わないためである、

人がたとい私のコトバをきいて、それを守らないでも、私は守らない人を審きはしない。
私は審きのために来たのではない。救いのために来たのであるから。

しかし、私を棄て(すて) 私のコトバを素直に受けぬ者を審く者は、別にある。

それは、法則である。
わが語れる神のコトバである。

【私は、心の法則を語るのであって、心の法則にそむいたものは、最後には、その法則によって、審かれるのだ。】

私は、おのれの知恵や力で、しゃべっているのではない。
私を遣わし給いし父自ら 我が言うべきこと、語るべきことを命じたまうのだ。

私は、その命令が永遠の生命であることを知る。さらば私は、天の父が、私に言いたまうままを語るのだ。」

               (十字架に架かる前、このようにイエスは群衆に向かって、大声で説教して言われた。)

1130金木犀:2012/08/17(金) 18:14:39 ID:auusu5IE
志恩様

まさに雅春先生が、言っておられることと同じですね。雅春先生は、ご自分をラッパと言われましたが、
雅春先生の言葉を神の言葉として聞く気持ちのない人間が、総裁ですね。
だから、『甘露の法雨』を補強などと言われるのでしょう。本当に雅春先生の言葉を神の言葉として捉えたら、
補強などという言い方など出来るものではないと思います。

この謹写された文章を見て、戯曲編の耶蘇伝を思い出します。
戯曲の最後では、ユダが、サタンに、あなたは神ですかと聞くと、サタンが、
「まあ、神のようなものだ」と答えて、さらに、「私は心の法則というものだ」と答えますよね。
うろ覚えですから、少し違うかも知れませんが。
あの時、サタンと見えるような人生のあらゆる物事は、心の法則なのだと、
このサタンの言葉が強く印象に残りました。

1131志恩:2012/08/17(金) 18:48:58 ID:.QY5jUA6
金木犀さま

生長の家総裁というお立場の人が、雅春先生のコトバを神のコトバとして聞く気持ちがないのですからね。
すごく切なく悲しいことです。「甘露の法雨」を補強するなんて、どうかしてます。

雅宣総裁は、人が理解できないコトバで語り、理解できない相手を【人間知】だとばかにしたように言いますが、
あまりにも理解できない人ばかりでは、いくらご自分の主張を理解させようとされても、机上の空論となります。

初心者様が、なにを言いたいのか、この1年間以上、ここの掲示板に出ていらして、雅春先生がどうのこのと言って、
どれだけの人を説得で来たでしょう。
理解出来ないわれわれのせいでしょうか。
よき理解者は、極少数の
しっぽりコンビのさくらさんとSAKUAさんぐらいでは、ないですか。

       つづく(今、急用ができましたので、のちほど…)

1132志恩:2012/08/17(金) 19:33:18 ID:.QY5jUA6
私は、さくらさんもSAKURAさんも、雅宣総裁の味方であることは、
別に気にしておりません。ここは、自由な掲示板ですから、それぞれにご自由な発言があるから、いいのだと思っていますので。

本流対策板のほうでは、今日は、ベテランのトキ様、役行者様が、又goro様、金木犀様、うのはな様、如月様、さくら様も、加わって
初心者様と,熱いディスカッションを交わされていましたので、読ませて頂いて、大変勉強になりました。

それから、話変わって,
戯曲編の耶蘇伝ですね。以前、ももんが様がいらしている時、復興G様や、役行者様も加わられて、戯曲編の耶蘇伝の話がでた
ことがありました。
「生命の實相 第31巻」。

「五十鈴川とイスラエル」のお話とかも、復興G様に教えて頂きました.

「磔刑は、人間を殺すことはできない。十字架に釘けられても、死なない人間がいるのだ」というイエスの言葉は、力強さがありますよね。
抹殺しよう,抹殺しようとしても、ほんものの真理は、殺せない、生き返るのだと思います。

ヨハネ伝講義の中に、印象的な場面があります。

イエスを十字架に架けて,処刑するおえらいさんでピラトという人物がいるのですが、イエスを処刑するまえに、ピラトはイエスに聞きます。

(要約)

{ピラトは、イエスに
「真理とは、何じゃ?」と、尋ねました。

しかし、イエスは、黙然として答えなかった。

なぜ,答えなかったというと、答えても、ピラトには理解のされようがない、ピラトに今それを語っても、何も甲斐がないから黙然としていられたのでした。

真理がわかるのは「真理に属する者」だけでありまして、肉体人間に話してもわからないのです。

イエスのこの一黙も恐らく雷の如しであって、ピラトを一黙のうちに威圧しておったに違いないのであります。}

1133ハマナス:2012/08/17(金) 19:51:30 ID:mR2szZkc
神の子のみなさま

こんばんは。

失敗という観念を拭い去れ

『新版生活の智慧365章』

若しあなたの事業が失敗したように見えようとも、真実何処にも失敗と云うものが存在しないと云うことを知らねばならぬ。「失敗」と云う観念にあなたが固執するとき、「類は友を招ぶ」と云う心の法則によって、益々「失敗」と見えるような事件が重なってあらわれて来るのである。失敗を転じて成功に導こうと思うならば、「失敗」と云う観念を、心の黒板から拭い去ってしまわなければならない。

イエスが「悪に対して抗する事なかれ」と言い、「上衣を盗る者には下着をもとらせよ」と言ったのは、悪と見ゆるものに対して無抵抗であるときは、悪は本来存在しないものであるから、その悪は生長しつつあるかの如き観を呈しつつ実は自壊して行きつつあるものだからである。「陰極は陽転する」と云うのは、暗黒はそれ自身で自壊するからである。

感謝合掌

1134志恩:2012/08/17(金) 20:06:11 ID:.QY5jUA6
ハマナスさま

今日は、おつかれさまでした。猛暑のなか、感謝いたします。
宇治の天気予報を見ましたら、日中は、35℃と載っていました。

こちらは、今日は,今夏で一番暑い日だと感じるほどの暑さでした。
冷房を入れているのに、室内温度は、昼間、28,5℃もありました。
庭仕事は,今日は、やめときました。

いつも、謹写をありがとうございます。

1135志恩:2012/08/17(金) 20:36:04 ID:.QY5jUA6
金木犀さま

耶蘇伝を話し合われていたとき、金木犀様も参加されてましたね。今年の5月初旬頃でした。
すみません。

1136ハマナス:2012/08/17(金) 22:18:54 ID:mR2szZkc
志恩様
こんばんは。
ご丁寧にありがとうございます。

今日は照り返しが強く暑かったですが、美味しいグリーティーを頂き、元気になりました。

お姉様もご奉仕さらているのですね。

今、浄めるの雨が降っています。
明日は晴れてほしいです!

感謝合掌

1137a hope:2012/08/18(土) 10:14:30 ID:r8H4x9xE

ハマナスさま

宇治は、宇治茶が有名ですね。
ご奉仕本当にありがとうございます。

昨晩は、宇治から聖典を謹写してくださったのですね!

>>イエスが「悪に対して抗する事なかれ」と言い、「上衣を盗る者には下着をもとらせよ」と言ったのは、
悪と見ゆるものに対して無抵抗であるときは、悪は本来存在しないものであるから、
その悪は生長しつつあるかの如き観を呈しつつ実は自壊して行きつつあるものだからである。
「陰極は陽転する」と云うのは、暗黒はそれ自身で自壊するからである。<<

この、聖典のお言葉が心に響きました。

「無抵抗」のとらえ方が難しいと感じますが、キリストが十字架にはり付けられた時、
無抵抗であったために、キリストが簡単に「悪に屈してしまった」ように見えてしまうけれど、
その心に信じる「真理」はガンとして貫き通していて、
「本来ない“悪”」を最後まで観ることはなかったのだと感じました。
この、キリストのお言葉を拝読して、「無抵抗」とは「心まで言いなりになる」ことではないのだなと感じました。
もう、本当に、これからはよくなるしかないのですね!

ハマナスさまの毎日の素晴らしい聖典の謹写に心から感謝しています。

1138ハマナス:2012/08/18(土) 22:53:14 ID:mR2szZkc
神の子のみなさまこんばんは。

hope様

ご丁寧なレスをありがとうございました。

こちらこそ、いつも素晴らしい、雅春先生のご文章の謹写をありがとうございます。

感謝申し上げます。

明日は早いのですみません、今日の引用は、お休みします。

感謝合掌

1139a hope:2012/08/19(日) 08:21:29 ID:r8H4x9xE

人生読本 谷口雅春先生著

クーエの話

フランスのナンシーという町に、エミール・クーエという薬剤師がおりました。
薬剤師というのは、この薬はどういう成分が入っているから、
どういう病気に効くとういうことを研究した専門家です。

或る日、クーエのところへひとりの病人が薬を買いにまいりまして、
「こういう名前の薬が欲しいから売ってくれ」と申しました。
するとクーエの店にはその名前の薬はありましたが、
もう古くなって成分が変っているから、その薬だけの効目(ききめ)がないことは明らかでした。

クーエは「今その薬はあるにはあるが腐ってしまって成分が変っているから、売ってあげても効きません」とお断りしました。
するとその病人は「その名前の薬であれば効くのだから、腐っていても何でもよいから売ってくれ」と言いまして、
とうとうその薬を無理に買って帰りました。

数日すると、その病人はクーエのところへお礼にまいりました。
「あの薬をのんだら、おかげでその病気が治りました」と言うのです。

クーエはびっくりしてしまいました。
なぜならその薬は腐って性質が変ってしまって、もう効かなくなっていることが、
薬剤師の自分にはよく分かっていたからです。
「効かないはずの薬がなぜ効いたか」クーエは考え始めました。
(つづく)

1140うのはな:2012/08/19(日) 18:06:53 ID:f2bwKGw2
芸者里駒さんの音痴が治った実例

 神戸の生長の家の教化部が花隈という芸者町にあった時代があるんです。
その門前町にあった時代があるんです。その門前に掲示板がかけてありまして、生長の家の
『智慧の言葉』を毎日新しいのを書いて掲示してあったのであります。その時分に里駒さんという
芸者が常磐津を専門の先生について習いに行っておったんですけれども、どうも先天的音痴のようで
どうしてもうまく常磐津の節まわしがうたえないんです。それで先生にいつも叱られる。
彼女は、今日も常磐津の先生のところへけいこに行くんだが、また今日も叱られるかと思いながら花隈の町を
歩いていると、生長の家の教化部の前へ来た。教化部の前に掲示板がかかっておって、それに、
“しようと思うよりできると思え”と書いてあるんです。里駒さんは、何のことだろうと思ってしばらく立ち止まって
それを読んで考えておった。

「私は常磐津を上手に“しよう”と思っているけれどもうまくできない。“しよう”と思うけれども“できない”と私は思いつづけて
いたのだ。それはまちがっておった。常磐津を上手に“歌おう”と思うよりも私は常磐津を上手に“歌うことが出来るんだ”と、こういうように
思えばいいのである」と気がついたのです。
 それから彼女は、師匠のところへ歩いて行くその間中、“私は常磐津が上手にできる、上手にできる、上手にうたえる”と、こう思いながら行ったのです。
それから彼女は、その日は師匠の前で教えられるままに常磐津をうたったら、すばらしく上手にうたえた。それで師匠が大変ほめてくれた。
「あんた音痴かと思っていたら何も音痴ではなかったじゃない、今日はすばらしくよくできたよ」と言ってほめられたというのです。

『生命の根元を培う新しき教育』 谷口雅春 先生著 P93 新教育者連盟 編

1141a hope:2012/08/20(月) 07:31:19 ID:r8H4x9xE

人生読本 谷口雅春先生著

「治りたい」と「必ず治る」との相異(ちがい)


「効かないはずの薬がなぜ効いたか」皆さんも考えてみてください。
それはその病人が「この名称(なまえ)の薬なら必ず効く。そして必ず治る。」と思ったからです。

この病人は今まで多くの病院を渡り歩いて来ましたが、病気が重くなる一方で治らなかったのです。
なぜ諸方の病院を渡り歩いたかと申しますと「治りたい」と思ったからです。

しかしどういうものかこの病人は治らなかった。
病院のくれる薬も服(の)んでみましたが、どういうものか治らなかった。

それは「治ろう」と思っても、「必ず治る」と信じなかったし「必ず効く」とも信じなかったからです。
「治りたい」と心に思っても、「治る」と信じなかったら、効きもしないし、治りもしないのです。

「成ろう」と思っても「成れる」と信じなかったら、成功しないし、立身出世もしないのもそのためです。
(つづく)

1142うのはな:2012/08/20(月) 10:33:59 ID:Gsql6f66
   はしがき

 人の偉大なるは人それ自身の本質による。金の良質なるは金それ自身の本質による。
金は鉱石を外から磨いても純金となるのではなく、その本質を抽出するところに純金が顕現するのである。
人間の教育もかくの如く、人間を外より磨くよりも、その本質を内より抽出することによって完成するのである。
併し人は金よりもなお偉大なるものである。金は自然に放任するときは、みずから内よりその純分を析出しないけれども、人は
生命であるから、本当に自然に放任するとき、栗の実が毬を破って出ずる如く、おのずから其の本質の善さを露呈するのである。

 人の偉大なるは縛られて善くなるのではない。「本当の自然にまかす」とき、内在無限の善さが、内在無限の能力が、内在無限の智慧が、
内より露呈して発現するのである。併し「本当の自然にまかす」とは、何であるか。
それはただの放任ではない、大生命を知り、大生命に任せるのである。

 ただの放任は「自然にまかせた」ように見えていて、その実は今迄の「悪しき惰力」に縛らせている場合が多いのである。
悪しき惰力に縛られずして、人それ自身に宿るところの大自然を喚び出して、それにまかせて教育する教育が吾らの生命を培う教育である。
人それ自身に宿るところの大自然とは何であるか。これこそ吾らに内在する神性であり仏性である。
この内在の神仏を呼び出すは言葉の力により、文章の力による。

 吾らの教育の本質と方法とを万人に宣べ伝えて、一挙にして全人類を光明化し、地上に一人の劣等児童なく、虚弱児童なく、家庭争議なく、一切の
歪める思想家なく、神そのものの如き人間を地上に創造せしめんがために、吾らの生命の根元を培う教育を通じて成就せんとする地上天国建設運動に協力せられん
事を庶願う。

『生命の根元を培う新しき教育』 谷口雅春 著 新教育者連盟 編

1143ハマナス:2012/08/20(月) 10:55:44 ID:0kyCzJg6

神の子のみなさま
おはようございます。
無事に盂蘭盆供養祭が終わり、本当に良かったです。

心の映写機構  (『新版 生活の智慧365章』P.228)

 人が事物の成就に失敗するのは、心がその成就を裏付けるような心境になれないからで
ある。宇宙に無限に存在する“善き物”を現象界に持ち出すための、「心の映写機構」が
まだ完全に整わないからである。

 現在、如何なる失敗があろうとも、個々の現象的な失敗はそれほど重大視する必要は
ないのである。最も重大視しなければならないのは、個々の失敗そのものではなく、個々の
失敗をあわらわすようにならしめたところの「心境」そのものが今も尚続いていると云う
ことである。人間の潜在意識にあるところの「失敗の傾向」と云うものを取り除かない限り
は再び、三たび、そして幾度もその人は失敗するのである。その人が日々に少しでも一層
明るく、一層よき物を表現しつつあるならばその人の潜在意識内容は改善されつつあると
見てよいのである。

感謝合掌

1144SAKURA:2012/08/20(月) 11:17:04 ID:UeqbdFRM
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ

こんにちは……ロ−マ字の【SAKURA】で〜〜〜す。

17日から19日まで宇治の【宝蔵神社盆供養大祭】に“参加”して無事に……
この様子を別のボ−ドで……とても素晴らしい「団結力」が伝わり……
今から【新・生長の家…スタ−ト地点】でしょうか〜〜〜??
さて、この素晴らしい教えを、伝える事は、実践!
更に、新しい方々に“伝道”して参りますのは?“言葉の引用”でしょうか〜〜〜?
素晴らしい先輩!まだまだ残られている方々は、【実相・心の目】で、正観できる方なのです…。
それには、感動の連続でしたが…?
さて!久しぶりに「精神の勉強」を、心豊かになる「聖典…」で〜〜〜す。

■【栄える生活365章…】              
第 ハ 篇  “絶対者”を生きる
――――“一粒の麦”の死は――――

吾々は、自己の行為を考うるに、その物質的価値を評価するよりも、先ずその霊的価値を
評価して霊的価値の標準によって行為しなければならないのである。吾々の行為は決して
自己本位のみのものであってはならないのである。すべての人が(少なくとも、出来るだけ多
くの人々が)恵福を受け得ることに関連して吾々は行動しなければならないのである。かく
の如く為すことによってのみあなた自身も、一層多くの恵福を受け得るし、あなたの魂も
発達するのである。人は全体(神と人類)」につながる生物であるから、全体と無関係に孤立
して恵福を受ける事もできないし、魂が発達することもできないのである。出来るだけ多勢
の人々を救け、向上せしめる行為によって、自己も向上し、自己も救われることになるので
ある。「一粒麦死して多くの実を結ばん」とイエスが言った如く一つの犠牲的な勇敢な行為が、
本当は犠牲ではなくして却って多くの実を結ぶのである。   
(谷口雅春著)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

PS;トキ様…

■【吾々は、自己の行為を考うるに、その物質的価値を評価するよりも、先ずその霊的価値を
評価して霊的価値の標準によって行為しなければならないのである】

特に、上記の“言葉”が…心に残ります…。実感なので〜〜〜す。
当に!そうです〜〜〜ョネ?
「人間の価値観も“物質面”でみないで“精神面”で、見て行きますと、
やはりそのような方は、「姿・形」が、外見でも良く見られ傾向が、ある様に思えます〜〜〜ネ!
当然の事でしょうかしら〜〜〜ン!

【精神を中心】にしていきますと、服装も、正しい着こなしに、なりますでしょ〜♫
やはり【精神…】で、全てが整うのです〜〜〜ョネ!
【精神もすべて規律が入って来ます…】と言います事は?【心の法則】でしょうか〜〜〜?

■「トキ様」も、どの様に、思いになられますでしょう〜〜〜か?

  再合掌

1145SAKURA:2012/08/20(月) 11:24:31 ID:UeqbdFRM
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
こんにちは……ロ−マ字の【SAKURA】で〜〜〜す。

>>1144投稿文中…訂正致します…。 (あわてて投稿しましたので…ごめんなさい。)

【宝蔵神社盆供養大祭】…    ×

【宝蔵神社盂蘭盆供養大祭】 … ○          再合掌

1146「訊け」管理人:2012/08/20(月) 11:58:29 ID:???

『続 真理の吟唱』267頁より謹写――
http://blog.livedoor.jp/con5151/archives/65628910.html

〝心の曇り〟を除り去る祈り

 この世界は無限の叡智の持ち主であらせられる神の創造り給える世界である。この世界は神の一元の叡智によって設計せられ、神の一元の叡智によって創造せられた世界であるから、その内部には完全な調和が充ち満ちており、如何なる矛盾も、如何なる反対抗争も存在しない世界である。それゆえに色彩や構図に於いても無限の変化を顕しながら、互いにそれらが他を生かし合い、完全な美と調和とを、実現している世界であるのである。
 色とりどりの花は咲き乱れて繚乱たる姿を見せているけれども、そこには無限の調和の美が発揮されているのである。色とりどりの鳥は美しき羽根をひろげ、空に翔り、地に舞い、それぞれ個性ある啼声にて歌を唄うといえども、それぞれは個性の美を発揮しながら、すべての楽器が個性のひびきを奏でながら諧話している交響曲のように完全に調和した一体をなしているのがこの世界の実相であるのである。

 もし私たちの周囲に不協和な噪音があらわれ、互いに矛盾衝突し、不協和な争いが起るならば、それはこの世界の実の相があらわれていないのである。それは神の創造し給える完全な実相を何かが覆い隠しているのである。それは恰も常に皎々(こうこう)と照っている月であるのに、地球上に生じたるところの浮雲が月の明光を覆いかくして見えないようにしているのと同じように、吾々の心の中に巻き起こった浮雲のような〝心の迷い〟の波動が、実相の完全な状(すがた)を見えなくしているに過ぎないのである。
 いくら雲が月光を覆い隠していようとも、月そのものは依然として皎々と輝いているのと同じように、私たちが心の曇りによって不完全な姿を顕わしていようとも、私たちの〝いのち〟の実相は少しも曇ることなく、病むことなく、明晃々(めいこうこう)と清浄な光を発しているのである。そして〝心の曇り〟をとり去るならば、直ちに、その実相の清浄な光を現実に顕すことが出来るのである。では〝心の曇り〟を取り除くにはどうすればよいのであろうか。

 人間は〝神の子〟だから本来〝心の曇り〟などは無いのである。〝無いもの〟がアルかの如く顕れているのは〝心の力〟でその仮存在を持ち上げて支えているからであるから、〝心〟で〝心の曇り〟を取り除こうと力んで、それをつかむならば、却ってそれは心の力で持ちあげられて消えないのである。今まで、心の力でその仮存在を支えて来た力を「抜く」ことによってのみ〝無いもの〟は〝ナイ〟と、はっきり消えることになるのである。即ち〝悪〟を思わず、悪しき相を心に描かず、ただ心を一転して、本来実在する〝完全なる実相〟に心を振り向け一心にそれを瞑想し頂礼すれば、一切の〝心の曇り〟も〝心の曇り〟の表すところの一切の悪も消えてしまうのである。この真理を知らしめ給いし神に感謝し奉る。ありがとうございます。

1147うのはな:2012/08/20(月) 16:41:03 ID:zRCwkl8c
假初にも“悪”が実現した如く語ってはならない

 谷口清超氏訳、ステラ・テリル・マン女史原著『怖れなき生活』の中には、
假病をつかったところが本当に盲目になったポラード夫人の実例を書いている。
彼女は良人の愛情が他の美しい婦人に移りつつあることを恐怖して、いろいろ良人の
愛情が自分に帰って来るようにしたが駄目だった。そこで、彼女は最後の試みとして、自動車
に乗ろうとした際に、急に網膜剥離でも起こったように眼が見えなくなった真似をして「急に私、
眼が見えなくなりました。手を引いて自動車に乗せて下さい」と假病を使ってみたのであった。
ところが、良人は妻が本当に盲目になったかと驚いて、心配のあまり、他の女を思うことがなくなったらしいので、
更に心臓病の発作を訴えることによって、良人の自分に対する関心が一層深まるように彼女は工夫したのだった。
その試みには成功したが、良人の愛情を引きつけるために使った「目が見えなくなりました」
「心臓をナイフで刺すように痛みます」などという断定的な夫人自身の言葉が創造の種子となり、ついに言葉の創化力によって
彼女は本当に、失明し、本当に心臓病を起こすようになったというのである。
假りそめにも、ウソでも悪い事が起こったように言ってはならないのである。
言葉は神であり、創造する力をもっているのである。

『愛はかくして完成す』 谷口雅春 先生著 P118

1148うのはな:2012/08/20(月) 18:10:49 ID:uISmJ.rA
  天皇の御代をたたえる君が代

 生長の家は、国歌君が代を、如何にみるか、これについて同誌(三十七年)七月号に
谷口雅春先生がおとき下さって居りますのを、そのまま引用させて頂きます。

 国家の「君が代」の解釈についてですね。旧い時代の“君”はあなたのことであり、
“君が代”とは“あなたの代”の意味で、国歌の内容は「あなたがいつまでも永生きして幸でありますように、
というほどの意味であります。という解釈があるが、これは国民を欺くものだと思います。
こういう解釈は「君が代」の歌を保存するために、わざと国歌の本来の意味を枉げたものであると思うので、その
解釈には僕は反対します。それは、

 大君は神にしませば天雲の雷の上にいほりせるかも

というような歌を(柿本人麻呂、万葉集)もあって、天皇を大君とお称びしていることもありますけれども、
「君が代」が国歌として定められ国歌として唱われてきた明治以来の歴史的伝統の意義は、決して新解釈による
民主的な“あなた”という意味の“君”という意味ではなかったわけなんですよ。

『愛国心の教育』 生長の家教育者研修会 P36 昭和37年8月10日発行

1149a hope:2012/08/21(火) 07:23:20 ID:r8H4x9xE

人生読本 谷口雅春先生著

「治るという心」を服(の)ます治療法


そこでクーエは薬が効くのは、本当は薬という「物」が効くのではないことに気がついたのです。
「効く」という「心」が効き、「治る」という「心」が治すということに気がついたのです。

「心」の力がわかったクーエは薬剤師を辞めてしまって「心」で病気を治すことを始めたのです。
「効く」という心、「治る」という心―――を服(の)ませて病気を治すことを始めたのです。
そして、それでよく治るので、クーエの方法は「クーエ・メソッド」といって全世界に有名になりました。

「効く」という心、「治る」という心は、どういうふうにして服ませるか、
皆さま、考えてみてください。

それは紙に包んで服ませますか、コップの水で服ませますか、
この「治る」という心、「よくなる」という心を旨く服ましさえしたら病気が治るのですが、
それは「心」でありますから、水で流し込むわけにも口の中で溶かして服むわけにもゆかないのです。
(つづく)

1150「訊け」管理人:2012/08/21(火) 09:04:02 ID:???


『健全の真理』250頁より謹写――

素直に神様に話しかけよ

 祈りにも方法があり、原理がある。それが方法である限りに於いて上手下手があるということは止むを得ないのである。原理を知らない者は正しい方法を用いることは出来ないのである。神は、善人にも悪人にも一様に恵みを与え給うものであるが、その光を上手にうける人と受けない人とがあるのは、太陽の光には依怙贔屓はないけれども、それをうける人の方が斜め向いたりあべこべ向いたりしている時には完全にその光をうけることはできないのである。祈りに上手下手があるというのは、光は同じように照らしているが、光を斜めにうけたり、光に対してあべこべむいたりしているのは祈りが下手なのであり、光に対してまともに向いているのは祈りが上手だといい得るのである。どうしたら神の方へ真正面に向いて神の光を百パーセント受け得るようになるかということが問題なのである。と云って「祈りの大学」というものがあるのではなく大いに何か学問的に勉強しなければ祈りが上手になるということでもないのである。祈りを上手にするには、ただ祈るということが必要なのである。「ただ」である。「ただ」ということは素直と云うことである。子供のようにすなおに神さまの方に心を振向いて自分の欲することを話しかけるのである。

1151「訊け」管理人:2012/08/21(火) 09:05:46 ID:???

『健全の真理』255頁より謹写――

<ピエール博士の祈りのかなえられる十要項>

 神に無条件降服するためには神を信じなければならない、神の善意を信じなければならないのである。神はすべての根源であるということを信じてそれを神に対して全托するのである。『君は如何に祈るべきかを知れりや』の著者であるピエール博士は効果ある祈りの方法として次の十ケ条をあげているのである。

(一) 一人静かに祈るべきまとまった時間を一日のうちに数十分間設けるのである。即ち一定時間に神想観することに当る。まず凡(あら)ゆる問題から心を一転して神に心を振り向けよ。肉体も心も霊も、すねて力みをなくしてしまうのである。即ち全心全霊に我の緊張や硬直がなくなってゆったりとそのままの気持になるのである。
(二) 自分の心にあることを何でも自然に無邪気に神さまに対して話しかけるのである。固苦しく宗教的な、意味が自分にもわからないような難しい文句を使わなければ神に通じないなどと考えてはならない。自分の心持を現わすそのままの言葉で神に話しかけるのはよいのである。すると神はそれを理解し給うのである。
(三) その日の仕事に出掛け乍(なが)ら、その途上で、又仕事をしながら、神に対して話しかけることを実践せよ。電車の中で或いはバスの中で或いは仕事机の前に坐って、暫くの間目をつぶって神に対して短かい言葉で話しかけるのである。この通り実践すれば神が今此処に自分に接触しておられるということを思いだして、神に近づいている実感を深めることになるのである。
(四) 「神は今自分と偕にあり、自分を護ってい給うのである」と機会あるごとに念ずることである。これは「神よ吾に祝福を與え給え」とまだ祝福せられていないものが祝福を求めるような言葉ではよくないのである。「神は今既にその祝福を與えておられるのである」というふうに、祈るものを「すでに受けたり」と信ずる言葉を念ずるがいいのである。
(五) 誰かのために祈ってあげる時には、「自分の祈りが神に達して、神の愛と守りとがすでにその人の周囲をとりまいている」というふうに念ずることがいいのである。
(六) 「病気を癒し給え」とか、「吾が貧しきを憐み給え」とか、消極的言葉を使ってはならないのである。「すでに私は神に守られて健康である」とか、「すでに自分は神の無限の供給を受けているのである」とか、積極的な言葉を念ずるのがよいのである。
(七) 神のみ心を受けるように祈ることが必要である。自分の欲するものを與え給えと云うように祈って、「神さまの智慧に於いて尚一層自分にとって善きものがあるならば、み心の如くならしめ給え」と祈ることはよき方法であるのである。
(八) 自分の好まない人、或いは自分に敵対する人、憎む人を赦してその人のために幸福を祈ってやる言葉をのべることは、自分の心の中に積もっていた不浄物を清掃して神の大いなる力を流れ入らす方法になるのである。
(九) 一日の中時々全世界のために、又自分の住んでいる国家のために、又、自分の属している団体のために、その繁栄と平和を思念することは、それが報恩の行事であると同時に、利己的祈りでないために自分の中にかくれている所の驚くべき力をよびだすためのよき方法となるのである。
(十) 最後に神の最高の善意を信じ、神のみ手にすべてを委ねることを祈り、自分の最善をつくす力を與え給えと祈って、後は神さまのみ心に全托するのである。

1152「訊け」管理人:2012/08/21(火) 09:07:14 ID:???

>トキさま

<削除依頼>

 >>1151とこの投稿ですが、削除ください。

 改行をあらため再度、掲載したいと思います。お手数ですが、よろしくお願い致します。




1153「訊け」管理人:2012/08/21(火) 09:10:10 ID:???
『健全の真理』255頁より謹写――

<ピエール博士の祈りのかなえられる十要項>

 神に無条件降服するためには神を信じなければならない、神の善意を信じなければならないのである。神はすべての根源であるということを信じてそれを神に対して全托するのである。『君は如何に祈るべきかを知れりや』の著者であるピエール博士は効果ある祈りの方法として次の十ケ条をあげているのである。

(一)  一人静かに祈るべきまとまった時間を一日のうちに数十分間設けるのである。即ち一定時間に神想観することに当る。まず凡(あら)ゆる問題から心を一転して神に心を振り向けよ。肉体も心も霊も、すねて力みをなくしてしまうのである。即ち全心全霊に我の緊張や硬直がなくなってゆったりとそのままの気持になるのである。

(二) 自分の心にあることを何でも自然に無邪気に神さまに対して話しかけるのである。固苦しく宗教的な、意味が自分にもわからないような難しい文句を使わなければ神に通じないなどと考えてはならない。自分の心持を現わすそのままの言葉で神に話しかけるのはよいのである。すると神はそれを理解し給うのである。

(三) その日の仕事に出掛け乍(なが)ら、その途上で、又仕事をしながら、神に対して話しかけることを実践せよ。電車の中で或いはバスの中で或いは仕事机の前に坐って、暫くの間目をつぶって神に対して短かい言葉で話しかけるのである。この通り実践すれば神が今此処に自分に接触しておられるということを思いだして、神に近づいている実感を深めることになるのである。

(四) 「神は今自分と偕にあり、自分を護ってい給うのである」と機会あるごとに念ずることである。これは「神よ吾に祝福を與え給え」とまだ祝福せられていないものが祝福を求めるような言葉ではよくないのである。「神は今既にその祝福を與えておられるのである」というふうに、祈るものを「すでに受けたり」と信ずる言葉を念ずるがいいのである。

(五) 誰かのために祈ってあげる時には、「自分の祈りが神に達して、神の愛と守りとがすでにその人の周囲をとりまいている」というふうに念ずることがいいのである。

(六) 「病気を癒し給え」とか、「吾が貧しきを憐み給え」とか、消極的言葉を使ってはならないのである。「すでに私は神に守られて健康である」とか、「すでに自分は神の無限の供給を受けているのである」とか、積極的な言葉を念ずるのがよいのである。

(七) 神のみ心を受けるように祈ることが必要である。自分の欲するものを與え給えと云うように祈って、「神さまの智慧に於いて尚一層自分にとって善きものがあるならば、み心の如くならしめ給え」と祈ることはよき方法であるのである。

(八) 自分の好まない人、或いは自分に敵対する人、憎む人を赦してその人のために幸福を祈ってやる言葉をのべることは、自分の心の中に積もっていた不浄物を清掃して神の大いなる力を流れ入らす方法になるのである。

(九) 一日の中時々全世界のために、又自分の住んでいる国家のために、又、自分の属している団体のために、その繁栄と平和を思念することは、それが報恩の行事であると同時に、利己的祈りでないために自分の中にかくれている所の驚くべき力をよびだすためのよき方法となるのである。

(十) 最後に神の最高の善意を信じ、神のみ手にすべてを委ねることを祈り、自分の最善をつくす力を與え給えと祈って、後は神さまのみ心に全托するのである。

1154金木犀:2012/08/21(火) 09:25:06 ID:VOugKW.o
訊け管理人様

有難うございます。
わかりやすく、見やすく、とてもためになります。
プリントアウトして、毎日見るといいですね。
聞いたことはあっても、いつもは頭の中にごちゃごちゃに入っていて、
整理されていないですから、このような箇条書きは助かりますね。

1155ハマナス:2012/08/21(火) 10:32:38 ID:0kyCzJg6

神の子のみなさま
おはようございます。

過去のすべては魂の進歩のための肥料 (『新版 生活の智慧365章』P.224より)

 もう、あなたは過去の失敗について、また過去の過ちについてグジグジ思い煩うことを
しないのである。神は、あらゆる塵芥(じんかい)や糞尿を浄化して、作物がよき実を結ぶ
肥料としたまう如く、過去のあらゆる失敗も過ちも悉く浄化して、よき魂の収穫を得るため
の肥料となしたまうのである。あなたの過去の過ちはあなたの人生観を深からしめ、心の
視野をひろめ、人生の意義を悟らしめるのに非常に役立っているのである。

 あなたは過去を斯く観ずることによって、心の混乱や不安や退嬰(たいえい)や過度緊張
が取り除かれ、心に平和と愛と調和がみたされ、過去に体験したものを、真に自分の魂の
生長に役立たしめることができるのである。また他の人々の過ちについても寛容であれ。
すべての人は一見「過ち」と見えるものを通して魂が進歩しつつあるのである。

感謝合掌

1156志恩:2012/08/21(火) 12:08:32 ID:.QY5jUA6
訊け様

「ピエール博士の祈りの叶えられる…」謹写してくださって、ありがとうございます。
やはり、行を開けた方が、読み易いですね。心に刻みました。

1157SAKURA:2012/08/21(火) 23:26:00 ID:jH5uEFzM
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ

こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。

>>1043>>1044>>1052>>1057>>1058>>1063>>1068>>1073>>1087>>1092>>1093
>>1097>>1098に関しましては、【ベスト・フレンド】シリ−ズで〜〜〜す。 

実は、私の「青春シリ−ズの一冊の本」なのです。(討論課題項目が、幾つかに分かれてい
ますが?)意外と真理が、分かりやすい【討論形式】なのです。…が〜〜〜??
【コロンビア大の方達が、真理…サイコ的】に? 昨日の投稿文章は、皆様!如何でしたかしら〜ン?

■【ベスト・フレンド】  ( 昨日とはちがう自分 ) 

―――― 昨日とはちがう自分  ―――――

| ❤いいかえれば、なにをするか、ということよりも、なぜそうするのか、
| が問題なんですね。つまり、選択についての考え方にもどってきたわけ
| ですが、同時にこの考え方は自由についてもあてはまるように思えます
| ね。

 人はつねに選択をしつづけています。しかし、そのことを認めようとはし
ないのです。あなたは自分の選んだ道について責任をもつ限り、自由である
といえます。あなたがもっとも興味ある事柄を選んだときも、同じです。そ
れは言葉でいうほど困難なことではありません。

       ――−――−―― * ――−――−――

PS: トキ様
「生活習慣」と「性格」を、変える事は、出来るのでしょうか〜〜〜?
私は、今でもいやな【自分との戦い】なのですが〜〜〜?
今回の「昨日とは違う自分」のタイトルから、変えられるものなら〜〜〜と?
今はそればかりですが???トキ様は、どう思われますでしょうか〜〜〜??

<つづく>

1158goro:2012/08/21(火) 23:37:49 ID:Cc8Z7oOY
聖典から様々な内容の御紹介を有難く拝読させて頂いています。
御紹介くださる方々に心から御礼申します。

私の場合は聖典の紹介文をPDFに変換してPCのDropboxに保存しアイパッドのDropboxで拝読しています。
Dropboxを家族で共有して夫々のアイパッド・スマホなどで拝読させて頂いています。

ありがたい世になったものです。心から感謝します。

1159SAKURA:2012/08/22(水) 02:30:54 ID:gxBcdBTM
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ

こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。

>>1043>>1044>>1052>>1057>>1058>>1063>>1068>>1073>>1087>>1092>>1093
>>1097>>1098>>1157に関しましては、【ベスト・フレンド】シリ−ズで〜〜〜す。 

■更に、考えましたのですが〜〜〜><
>>1157投稿の続きなのです。…が?
PS:トキ様
「生活習慣」と「性格」を、変える事は、出来るのでしょうか〜〜〜?
私は、今でもいやな【自分との戦い】なのですが〜〜〜?
今回の「昨日とは違う自分」のタイトルから、変えられるものなら〜〜〜と?
今はそればかりですが???トキ様は、どう?思われますでしょうか〜〜〜??

PPS:
今回の【生長の家…お家騒動】での“出来事”は、「現総裁先生」への“人格中傷”を
見ていますと〜〜〜
■【1年近くも批判…中傷…】をしている人々の性格…
つまり世間一般は!社会常識としては、「自分の思い通り…自我通りにならない時は、
必ず“中傷・批判”ばかりの言動しか?しないでしょう〜〜〜と!
つまりは【切り替え…スイッチ】は、余程の事がない限り〜〜〜と見ていますモノですが?
まして…【信仰…奉職者】としての?【人格性??如何でしょうか】
これだけ…【グ−グルにて…世界中に配信ですから???】
どちらに致しましても…「学ぶ会」「靖国見真会」「ときみつる会」…への世間の目は??
如何でしょうか〜〜〜?

実に!悲しい限りです…。既に!この時点から?「生長の家…」は〜〜〜荒波に〜〜〜??

1160a hope:2012/08/22(水) 06:42:02 ID:r8H4x9xE

人生読本 谷口雅春先生著

自己暗示法


そこでクーエは、「治る」という心、「よくなる」という心を
人間にのませる方法を考案しようと思ってその方法を発明しました。
それは「自己暗示」という方法だったのです。
「自己暗示」というのは「よくなる」という観念を言葉の力で自分の心の中へ流し込む方法なのです。

言葉というのは不思議な力を持ったものです。
「あなたは温順(おとな)しい良い子ですね」と言いますと、その子供は温順しくなります。
「「この子は悪戯(いたずら)ッ子で仕方ない子ですよ」と言いますと、
その子供はますます悪戯ッ子になります。

これを言葉の力と申します。
言葉というものは、それを効く人の心に、その言葉とおりの心を流し込む役目をするのです。
(つづく)

1161「訊け」管理人:2012/08/22(水) 07:41:39 ID:???

『あなたは自分で治せる』89頁より謹写――

 どう云う風に祈ったならば一層効果があるだろうかと云うようなことを私は度々、人々からたずねられたのです。私はそれに就いて既に度々書いて来たつもりです。多くの人たちは正しい祈り方をしていながら、その結果をあまりに早く得ようとして、それが得られないものですから、途中で自信を失ってしまって、「この祈りはきかれない」と、折角、今まで「創造の沃地」に蒔いて来たところの祈りの種子を掘り返して捨ててしまうようなことをしていられるのであります。
 祈りは実相の世界に於いては、それが真実の祈りである限りにおいて、既に成就しているのであることを知らなければなりません。「真実の祈りである」と云うのは、既にあるから、それを憶い出さずにはいられなくなり、求めずにはいられなくなると云う意味であります。たとえば誰かが「煙草を喫いたい」と思うならば、一度も煙草を見たことも喫ったこともない人には、「煙草を喫いたい」とは憶い出だしもしないでありましょう。即ち「煙草を喫いたい」と思う人は既に煙草を喫い済みの人であるのであります。この意味に於いて「無限の富を輿えたまえ」と祈る人は既に実相に於いて、「無限の富を得済み」の人であるのであり、「無限の生命を輿え給え」と祈る人は「既に無限の生命を持ち済み」の人であるのであります。
 大体「有限体」は「無限」を想像することも、希求することも出来ない筈なのであります。「有限」と「無限」とは全然範疇が異なるからであります。いやしくも「有限」と見える人間が「無限」を想望し、それに憧れ、希求する所以は、自己の内に、どこか無限なるものが包蔵されているからであります。「真実の祈り」とか「真実の希求」とか云うものは、このように、既に内部にあるものだから自然に祈らざるを得なくなるのでありまして、それは「種子」を蒔くが如きものであります。「種子」の中には肉眼には見えねども、既にその胚子の中に花もあれば収穫もある、それを既に知るがゆえに「種子」を蒔きたくなるようなものであります。
 実に祈りが成就する根本は「わが祈れることは、既に成れるがゆえに、我祈るなり」の信念を有たなければならないのであります。これが聖書にある「神は求むに先立ちてなくてはならぬものを知りたまう」とか「汝ら祈りて何事にても求むるとき、既にそれを受けたりと信ぜよ。即ち汝はそれを輿えられん」と云う祈りの基本法則なのであります。

1162ハマナス:2012/08/22(水) 13:17:54 ID:0kyCzJg6

神の子のみなさま
こんにちは。残暑が続きますが、お変わりありませんか。

賢い与え方   (『新版 生活の智慧365章』P.225より)

 あなたは寛大に人々をゆるし、人々に先ず裕かに与えることによって、神からも豊かに
愛と生命とを与えられるのである。あなたの持てる能力の全部を捧げて人類のために尽く
すが良い。あなたの能力、物資、時間、心身のエネルギー、それらは本来、神から来った
ものであるから、神の栄えをあらわすために、人類に捧げなければならない。神の栄えを
あらわするために、先ず自分の有てるものを捧げることが、自己が健康になり、また富む
ことの主要原因であるのである。

 併し、何時、如何に、何に、誰に、何処に与えるかが問題である。それを知るためには、
先ず充分神に祈って、神からの叡智の流れを汲み取って、その智慧に導かれて与えなければ
ならないのである。「神よ、わたしの有てる全てのものを何時、如何に、何に、何処に、
誰に与えるべきかを教えたまえ」と祈ることは、賢命なる与え方をするために必要である。

感謝合掌

1163トキ:2012/08/22(水) 17:13:59 ID:Sx5WiKRc
>>1159

 谷口雅春先生が、性格を治すのは、病気を治すよりも難しいと生命の実相で書かれています。
自分も省みると、それは痛感します。理屈では分かっていても、つい,我が出ます。

 谷口雅宣先生への「誹謗中傷」の件です。
 
 創価学会の池田大作氏の月刊ペン事件や幸福の科学の大川隆法氏の名誉毀損が裁判になり、
最高裁判所まで争われた事例はあります。結論を言うと、宗教法人のトップは公人に準じる
のでプライバシーの制限は他の人よりも広く認められます。また、宗教家という地位にある
人への人格の議論も認められるとされています。これらは、判例の本に書いてあります。

 他の有名人、例えば会社の経営者の場合などは、能力がメインの問題ですから、人格が問題
にされる事は少ないです。が、宗教家というのは、いわば人格が売り物ですから、激しい評価
を受けるのは仕方がない、という考えがこの判決の背景にあります。

 ただ、相手が公人であるのを幸いに、誹謗中傷の限りを尽くすのは、不当であり、批判される
べきだと思います。この場合、ご本人は立場上も反論ができないのですから、周囲の人が弁護
なり、反論をすべきだと思います。

 その意味で、この掲示板に総裁援護の意見が増えるのも歓迎しております。

 今後とも、宜しくお願いします。

合掌 ありがとうございます

1164アボガド:2012/08/22(水) 21:38:58 ID:/egGcx9Y
>>1158
goro様

クラウドとスマホは本当に便利ですね。
私はもっぱらevernoteです。
光明掲示板の伝統様やの書き込みはとっても役に立つので、
掲示板そのままコピー&ペーストをして保存しております。

1166うのはな:2012/08/22(水) 22:07:23 ID:ERSa5h8A
書くところを間違えて失礼しました。
上の1165は削除をおねがいします。

1167SAKURA:2012/08/22(水) 22:46:05 ID:jH5uEFzM
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。

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>>1097>>1098に関しましては、【ベスト・フレンド】シリ−ズで〜〜〜す。 

実は、私の「青春シリ−ズの一冊の本」なのです。(討論課題項目が、幾つかに分かれてい
ますが?)意外と真理が、分かりやすい【討論形式】なのです。…が〜〜〜??
【コロンビア大の方達が、真理…サイコ的】に? 昨日の投稿文章は、皆様!如何でしたかしら〜ン?

■【ベスト・フレンド】  ( 昨日とはちがう自分 ) 

―――― 昨日とはちがう自分  ―――――

| ❤いや、それは大変むずかしいことです。わたしは自分の過去をふりか
| えってみて、なにかしらいつも後悔するようなことをしていました。そ
| れが日とともに、はっきりしてきても、依然として後悔しつづけてきた
| し、ときに食べたくもないケーキにむさぼりついたり、あるいは母親へ
| 短気を起こして、金切り声でもあげたくなったものでした。わたしは自
| 分がもう少し賢く、思慮深く、優雅でありたいと思ったことが、これま
| で何百回あったかしれません。しかし、結局そう願望しながら、まるで
| 子どものような振舞いしかできなかったのです。

 しかし、それは誰でもやっていることです。なぜあなたは自分が、親切で
思慮深かったときのことを考えないのでしょうか。なぜ勝利のことを考えず、
敗北のことだけを思い出し、それをくよくよ考えるのでしょうか。こういう
一種の否定的自己催眠にかかっている人たちがあまりにも多いのです。自分
に弱者のラべルを貼りつけているのです。
そういう人たちはよくこういいます。わたしは、(a)ひどい人間であり、(b)
恐ろしいことばかりやっていて、(c)少しも進歩、向上しないのです、と。自
分のしたいことをやる前から実現不可能だなどと決め込んでしまわずに、な
んとか実現できる方策を探すことにそのエネルギ−を使うべきだと思います。

 わたしたちは自分自身を勇気づけなくてはなりません。もし、できないと
信じてしまったら、何事もできるはずはありません。


 あなたがもし自分は高い山に登ったり、人前で演説したりすることが苦手
なタイプだと主張するならば、それは、そのようなことを今日まで実行しな
かったといっているだけのことです。もちろん、ときにはそれさえ真実でな
い場合もあります。というのは、たとえば自分はどうしてもあることができ
ないのだと思いたがっている人の場合、それは実際にやったことがあるのを
忘れてしまおうと無意識のうちに努力しているからです。いえ、たとえその
人たちがほとんどなにも実行しなかった人たちであったとしても、その話の
すべてはその人自身の過去の行動でしょう。その人が将来なにをするか、い
ったい誰が知っているでしょうか。

 もしわたしたちが従来の行為をそのまま繰り返してきたとしたら、人間は
けっして変化しなかったと思います。人はつねに変化しているのです。それ
は、成長とはなにか、という問題でもあります。あなたがいままでに一度も
したことのない事柄、自分にできると夢にも思ったことのない事柄を実行し
てみることによって、あなたは成長していくのです。

PS:トキ様 へ
全ての“夢”は、行動をしなければ何も始まらないのです〜〜〜ョネ!!
今から「スタ−ト地点」です……。「生長の家…」は、“小さな花”でしょうが……今は!
それが、段々【夢実現…】に向けて、高い山に登って行く事でしょう〜〜〜???
きっと【実現…】それは【心の法則…】に、叶うように思えます。私も今!新たに、
もう一度!!挑戦!!【幸せ切符…行進中】で〜〜〜す。

トキ様は「本部職員の方々」が…【本の販売を〜〜〜悪戦苦戦中】と、言っておられました。
…が??長い意味で思いますが〜〜〜?
■【小さな出来事から〜〜〜おおきな出来事になる】のでは、ないのでしょうか?
“経験”から大きくなって行くように、「職員の方々の販売」は、【売るという観点の勉強】では…
その“創意工夫”が必要になるのではないのでしょうかしら〜〜〜ン!
ある面では、「いい勉強…」では、と思いますが〜〜〜?【社会勉強……???】
「トキ様」は、どう思われますでしょうかしら〜〜〜ン??

1168a hope:2012/08/23(木) 06:33:00 ID:r8H4x9xE

人生読本 谷口雅春先生著

言葉を心に服(の)ませる法


そこでクーエは考えついたのです。
朝眼が覚めてまだ寝床から出ない前と、寝床に入ってもう眠くなって来た自分に、
「これから毎日一層すべての点で自分は良くなる」
と言う言葉を自分に聞こえるくらいの小さな声で、ニ十ぺん口のうちで唱えて自分に聴かせて、
「ほんとうにそうだ。必ずよくなる」と心から思い込むようにするのです。
これが「精神一到」です。
心で「必ずよくなる」と思い込んで、最後までその思いを変えなければ必ずよくなるのです。

何の病気もなく、これという事柄もない時なら「これから毎日いっそう全ての点で自分はよくなる」
と毎朝、毎晩二十ぺんずつ唱えるだけで、全ての点でその人は必ずよくなりますが、
一日か二日位それをやってみて、「こんな事でよくならぬ」と思って捨ててしまってはなんにもなりませぬ。
それでは「よくならぬ」という心を服(の)んだことになりますから、
その心の通りにすべて「よくならぬ」ということになってしまいます。

特に、病気ででもあるときには、「人間神の子、病気はない、病気のように見えていてもこれは嘘だから、すぐ治る」
と朝晩ニ十ぺんずつ口のうちで称(とな)えるようにするとその病気が速やかに治るのです。
仕事のときでも試験の時でも、まず最初に心の中で「神様と一緒させていただきますから必ずよくできる」
と五、六ぺん称えてから、本当に神様と一緒にいるつもりでおれば必ずよくできるのです。
「できる」という言葉を常にとなえているようにすれば、常に「できる」という心になり、
その心は必ず形にあらわれて、本当にできるようになるのです。

人間は、なりたいものになれるのではなく、なれると思うものになれるのです。
人間は、しようと思うものが必ずしもできるのではなく、できると思うものが必ずできるのです。
運がよくなり、偉くなり、達者になり、立身出世できるようになるには、精神の生かし方を知れねばなりません。
(つづく)

1169ハマナス:2012/08/23(木) 13:02:56 ID:0kyCzJg6

神の子のみなさま
こんにちは。

人類への無条件サービス (『新版 生活の智慧365章』P.229より)

 若しあなたの事業の行末を改善しようと思ったならば、あなたの心に明るさを持つこと、
歓びを持つことが必要である。神は光明であり、歓喜であるから、神の賜を受けるために
心の波長を合わすには是非明るさと歓びとが必要であるのである。つぎに既に今まで与え
られて来た賜について感謝の心を起こすことである。失敗をぐじぐじ思い患う暗黒な感情は、
更に次の失敗を導き出す前触れであるに過ぎないのである。

 次に、「神は自分の父であり、無限供給の本源者である」ことを心の底深く念ずること
である。そしてその無限供給の本源者より、今自分にその無限の供給が既に与えられ既に
現象化しつつあることを信念深き予期の心をもつことである。そしても一つ大切なのは、
今自分の眼の前にある「何か」を人類への無条件愛行(サービス)として実践することである。

感謝合掌

1170SAKURA:2012/08/23(木) 21:35:26 ID:jH5uEFzM
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。

>>1043>>1044>>1052>>1057>>1058>>1063>>1068>>1073>>1087>>1092>>1093
>>1097>>1098>>1167に関しましては、【ベスト・フレンド】シリ−ズで〜〜〜す。 

実は、私の「青春シリ−ズの一冊の本」なのです。(討論課題項目が、幾つかに分かれてい
ますが?)意外と真理が、分かりやすい【討論形式】なのです。…が〜〜〜??
【コロンビア大の方達が、真理…サイコ的】に? 昨日の投稿文章は、皆様!如何でしたかしら〜ン?

■【ベスト・フレンド】  ( 昨日とはちがう自分 ) 

―――― 昨日とはちがう自分  ―――――
| ❤わたしは実際、いままでに一回も高い山に登った経験がありませんし、
| また現在もそうしたいと思わないのですが。

 あなたがいままでにそう願ったことがまったくなかったのでしょう。もち
ろん困難なことを実行するためにはかなりの努力が必要ですから、そうした
いと非常に強く願う必要があります。しかし、あなたがたゆまぬ努力をする
ならば、かならずや偉大な成果がもたらされるものです。

 わたしはある若い女性のことを思い出します。彼女は他の分析医からまわ
された患者ですが、そのとき彼女についてなにも知らされていませんでした。
約一年間、彼女を診たのですが、ある日、前の分析医がやってきてこういっ
たのです。「先日、街で彼女に会いましたが、大変はれやかな表情をしてい
ました。生き生きとして、輝かしく、とても幸せそうに見えたんですが、い
ったいあなたはどんな治療をしたのですか」。わたしがその医者に彼女のど
こがいままでとちがうのかを聞いたところ、こういうのです。「知らなかっ
たのですか。あの子は分裂症だったんですよ」。実際にわたしはそんなこと
は知らなかったのです。だからなんの先入観もなく、彼女と接することがで
きたわけです。そしてその結果、快方に向かったのでした。

 同性愛についても同じことがいえます。かっての精神分析医は同性愛的傾
向は治る可能性がほとんどないと考えていました。事実、治療が成功した例
はきわめて少ないのです。しかし、一部の分析医はそうは思っていませんで
した。わたしたちは長い間治療をつづけていて、同性愛の患者でも、ほんと
うに自分が治りたいと思っている人には、ちゃんと治るチャンスがあるとい
うに自分が治りたいと思っている人には、ちゃんと治るチャンスがあるとい
うことに気づいたのです。現在、わたしたちは多くの治療の成功例を耳にし
ます。同性愛の基本的性質は変えることはできなかったのですが、本人の同
性愛にたいする見方は変えることができました。
               <つづく>          NO・Ⅰ

1171SAKURA:2012/08/23(木) 21:37:01 ID:jH5uEFzM
               <つづく>          NO・2
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1170投稿の続きです

 これはいわゆる自己実現の一種でしょう。学校で児童が学力が足らない児
童として分類されてしまうと、ますます成績が低下してしまうものです。こ
れは教師の児童にたいする期待とも関連があります。子どもたちはそのこと
に気づいています。そのうえ、児童たちはたとえ、その学級にどんな名称が
つけられていたとしても、自分がどんな学級に入れられているかをつねに気
にしています。したがって、彼らは自己にあまり多く期待しないようになっ
てしまうのです。学力が低い児童といってもその多くは、ちょっと成長が遅
くて、なにかの加減で勉強が阻害されるような問題をもっている子にすぎな
いのですから、適切な勇気づけさえしてやればぐんと成績があがってくるの
です。

 ちなみに、連邦刑務所長は囚人の扱い方について、最近は、つぎのようなこ
とを述べています。

「人を扱うときに、現状のままの人間としてそのひとを扱えば、その人は現状
のままにとどまっていっこうに進歩しないものです。しかし、君たちはこう
あるべきだ、あるいは君たちはこうすることができるといった態度で囚人を
扱えば、おそらく囚人はそのような人間になっていくでしょう」

 わたしたちはみんな自分が考えている以上に、はるかに多くのことを実行
することができるのです。しかし、それにはまず第一に、自分がそう信じる
ことが大切です。みずからにたいして変化あるいは進歩を求めて積極的な自
己催眠を施すことが必要なのです。
                              再合掌

PS:トキ様
この様にみていきますと、“自覚次第“で、人間すべて【霊的人間】です〜〜ョネ!!
努力次第では【自己実現は叶う…?】では?“叶うにはどうしたらいいのか〜〜〜”
勿論!!!【霊的人間=私は神の子無限力】でしょうかしら〜〜〜ン??私の心に
【自己催眠を施す…】のは、それは勿論【祈り…】でしょうか??トキ様は、どう思われますか?

1172ハマナス:2012/08/24(金) 09:10:20 ID:0kyCzJg6

神の子のみなさま
おはようございます。

神の供給を受けるメイン・パイプ (『新版 生活の智慧365章』P.230より)

 失敗の最大の原因は、潜在意識内にある生活態度――神観――人生観――人間関係――
と云うようなものが正常でないことである。

 人々は金銭を求めたり、物資を求めたり、協力者を求めたり、健康を求めたり、愛人を
求めたりするけれども、これら個々のものは、全体のものの一部的な断片であって、主要
なものではないのである。全体が既に「実相世界」に於て与えられているのに、人々は
その全体が流入する「心のパイプ」となろうとしないで、個々の断片を求めようとする
のである。主導管(メイン・パイプ)をつめて置いて、枝のパイプで何ものかを得ようと
するのであるから、それらのものが得られる筈がないのである。何よりも神を正しく理解し、
夫婦の心的関係を正常にすることが神の供給を受ける主導管を開くことになるのである。

感謝合掌

1173a hope:2012/08/24(金) 10:15:35 ID:r8H4x9xE

人生読本 谷口雅春先生著

一人の若い母親の話


一人の若いお母さまが、まだ生まれて六カ月ばかりの赤ちゃんを負(お)んぶして道場へまいられました。
そして「先生、お陰さまで私の六年間の肺病が治りました。御礼申上げます」と言われるのです。

お陰さまと言われる理由は、この若いお母さんは私の書いた『生命の實相』という本をお読みになって、
心がくらりと一転して肺病を恐れなくなった結果、生きる力が強くなって、
さしもの永い間の肺病も治ってしまって、お陰で赤ん坊までも生まれたと言うのです。
その赤ん坊を生むときもほとんど無痛で痛まないで生まれたと言うことです。

なぜ、この若いお母さんは今まで肺病が治らなかったかと言うと、肺病を恐れていたからです。
人間は何でも恐れる相手には負けるものです。試験に往っても、負けると思ったら及第できません。
普通のお母さんがお産をなさるときに陣痛と言ってお腹が痛むのも、お産を恐れるからです。

この若いお母さんが無痛安産でお産の時に痛まなかったのも、『生命の實相』を読んで
お産は病気じゃないから痛まないのが当然だと思って恐れなくなったからです。
(つづく)

1174SAKURA:2012/08/24(金) 22:17:08 ID:jH5uEFzM
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1043>>1044>>1052>>1057>>1058>>1063>>1068>>1073>>1087>>1092>>1093
>>1097>>1098>>1167>>1170>>1171
に関しましては、【ベスト・フレンド】シリ−ズで〜〜〜す。 

実は、私の「青春シリ−ズの一冊の本」なのです。(討論課題項目が、幾つかに分かれてい
ますが?)意外と真理が、分かりやすい【討論形式】なのです。…が〜〜〜??
【コロンビア大の方達が、真理…サイコ的】に? 昨日の投稿文章は、皆様!如何でしたかしら〜ン?

■【ベスト・フレンド】  ( 積極的に考えよう ) 
――――― 積極的に考えよう  ―――――

|❤それはおそらくク−エがいったような積極的思考法なのでしょうね。
|「わたしは日ごとによくなっていく」といったようなたぐいの元気づけ
|の会話は、アメリカではよくみんなの間でかわされています。しかし、
|こんな会話は、かえってわたしたちにとってマイナスになりはしないかと
|思うのです。困難を否定してみても、それを克服することにはならない
|と思います。それでは問題を解決することにはなりません。かえって困
|難に直面するのを妨げているようなものです。ほほえみを浮かべてなに
|もかもうまくいっているような顔をしている人がいるかもしれませんが、
|じつは相も変わらず古い錨を重々しく引きずりながら生活しているので
|ないですか。

 とすれば、それは残念なことです。積極的思考というのは、そのなかにお
おいなる真理を含んでおり、その効果が過大なこともあるし、ときに発揮さ
れないこともあります。あなたが、ひとつの「決断」をするときに意志の力
を用いたとしても、それは向上のための道具のうちほんのひとつだけを使っ
ているにすぎないのです。とにかく決断力こそ大切なのですが、幸せという
ものは自分自身を無理にそちらに向けても得られるものでないのです。

 すべての幸せを意志の力だけで得ようとするのは、自分自身を尊重してい
ないということになるのです。あなたは、進歩というものはなにか上からの
力によって与えられるべきものであって、自分自身にはそういう意欲はない
ものと考えているようですが、そんなことはけっしてないのです。
 ほんとうの意味での成長というものは自分の内部からのみ起こってくるも
のなのです。あなたは自分というものを動かす方法を身につける必要があり
ます。自分の側に立って意志の力を生かしていく必要があるのです。しかも
その際、あなたの自己が自発的に活動するようにしなければなりません。も
ちろん、そうはいっても、そのための多少の説得の技術は必要となってくる
でしょう。
                 <つづく>         NO・1

1175SAKURA:2012/08/24(金) 22:17:57 ID:jH5uEFzM
 <つづく>         NO・2

こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>投稿の続きです

 こうして、あなたが真になしとげたいと願っていることを完遂するために
は、意志力を必要とします。わたしたちはよく達成不可能と思われるような
目標を設定することがあります。「やりたいと思えば」なんでもできると考
えている人は、自分をよく知らない人です。それは限度をわきまえていない
傲慢な考え方です。真の自分との闘いは、際限のないものですが、わたした
ちの実際の能力や興味や努力の程度によって規定されています。わたしが画
家になろうと「決心」しても、その才能がなければ無意味でしょう。しかし
実際は、もし才能がなければ、願望は出てこないのです。

 あなたの真の自己は、見たことも聞いたこともないような事柄を実行しよ
うとは願わないはずです。潜在的な可能性がなければ実現しようと思うこと
もないでしょう。もちろん、人間は自分がこうしたい、こうなりたいという
手前勝手な考えをいくらでももつことができます。しかし、それはあくまで
頭のなかだけの考えであって真の意欲ではないのです。

 自分の内部から必然的に生じた目標ではなく、他人を喜ばすために、ある
いは自分がこうありたいというたんなる空想を満たすために設定した目標に
向かって自分の意志力を行使しようとするならば、わたしたちはみずからを
一種の怪物か、機械人間にしてしまいます。同時に、生き生きとした自分を
あざむくことになるのでしょう。たんある意志力によって統一を保っている
人間はたくさんいます。そんな人は恐ろしいくらい努力しているのですが、
其の結果は努力に値するものではありません。そういう人たちと一緒にいて
も、ちっとも楽しくないし、またその人たち自身も楽しくないのです。

PS:トキ様
一つの「決断」があり、それに向けての行動はやはり“ボディティブな感情”が大事ですネ!!
「意志だけ…」では、という感じは、私にもありますが、これが「精神波動」を、起すのは、
【心の法則…】にはいっていく事!これが出来ることによって【狭い門が?広き門】に、
入れる事なのですかしら〜〜〜ン!!私の意志は、今の「最大の難問題」を、一つだけですが?
【発見…認識…】です!!今から、冷静に対処する為【修正・修正…】です〜〜〜。
トキ様も「意志」を貫くときは、その時の“感情”はどうなんでしょうか〜〜〜???

1176ハマナス:2012/08/25(土) 05:47:25 ID:0kyCzJg6

神の子のみなさま
おはようございます。

想念と現実  (『新版 生活の智慧365章』P.231より)

 「善き樹は善き果実を結ぶ、それゆえに果実を見てその樹の善悪を知れ」とイエスは
教えたが、その人が良き運命にめぐまれないと云うことは、その人の想念が「本当のもの」
でない証拠であると云うことができるのである。想念は原因であり、現実は結果であるから
である。

 その人の想念が「本当のもの」でないと云うことは、その人の「本来の姿」即ち実相から
来る想念ではなく、現象にとらわれて実相には存在しないような「不完全さ」を心に常に描
いていると云うことである。もっとその人自身の想念を実相の明るさに近づけ、人を憎む心や、
攻撃精神をなくし、万物と和解して実相そのままの完全な調和した想念にあらしめたとき、
現象界の不完全さは消えてしまい、実相そのままの完全にして調和した状態が現象界にあら
われて来るのである。

感謝合掌

1177a hope:2012/08/25(土) 07:30:21 ID:r8H4x9xE

人生読本 谷口雅春先生著

排便(うんこ)の出ない赤ん坊


ところが、この若いお母さんは、お礼を言われるだけで、もうお仕舞いかと思っていましたら、
背中の赤ちゃんがムズかり出しました。
お母さんは赤ちゃんを安慰(あや)すように揺すぶりながら、
「ですけれど先生、ちょっとわたくし引掛りました」と言われるのです。

「何ですか。何に引掛ったのですか」と私が言いますと、
「先生、この赤ちゃんのウンコが出ません。」
「出るときが来れば出るでしょう。」
「だけど先生、ほうって置いたら一週間でも十日でも出ないのですもの。」
「出なかったら、面倒がなくて助かりましょう。」
「イイエ先生、赤ん坊はウンウン呻って泣きだしていかにも苦しそうです。」
「なぜウンコが出ないのかあなたに判りませんか。」
「判りません。先生にそれを教えていただこうと思ってまいりました。」
「それはあなたの心が赤ん坊に引掛っているからです。
あなたは御自分でそうおっしゃったじゃありませんか。」
「ですけれど……」
「ですけど?やはり引掛らせて置きたいですか?」
「先生、心配です。ウンコがでないとウンウン呻るんで、赤ん坊が死にそうなんですもの。」
「死ぬかもしれませんな。」
「死んだら困ります。先生、助けて下さい。」
「引掛っていては思うように出ないのは当たり前じゃありませんか。
だから、その引掛る心を捨てなさい。出るべき時がきたら出るんですから。」
「だって、ウンウン呻って死にそうなんですもの、浣腸せねばいられません。」
「浣腸したかったら、浣腸なすったらよろしい。」
「ですけど、先生、いつまでも浣腸しなければ出ないでは、大人になってから困るだろうと思います。」
「困るでしょうね。」
「先生、困らないようにしてください。」
「困ると思うから困るようになるのです。困らないようになるには困ると思わぬことです。
ウンコは出るようになっているのです。孔があるところに溜まっているのですから、
出るより仕方がないのです。それが出ないのは心にウンコが引掛っているのです。」

こう私は申しまして、この若いお母さんの恐怖心を除(と)ってあげるために、
こんな話をいたしました。次に話すところは本当の話なのです。
(つづく)

1178a hope:2012/08/26(日) 08:08:07 ID:r8H4x9xE

人生読本 谷口雅春先生著

肛門の無かった子供


それは東京の本所に住んでいる或る魚屋の主婦(おかみ)さんでありました。
或る日一人の男の子を連れてこられて申されますのに、
「先生、この子供は浣腸しないとウンコが出ないのです。近頃では浣腸してもなかなか出ません」と訴えられます。
そこで私は、「刺激というものは馴れてきますと、強烈な刺激でないと感じなくなりますから、
浣腸のような人工刺激で排便を促していたら、次第にその浣腸薬を強くしなければ出なくなります」と言いますと、
その魚屋の主婦さんは、

「実は先生、この子供は当たり前の肛門がなかったのです。
生まれたときには肛門というものが全然なく、放って置いたら死ぬというので、
早速この辺という所を切開して貰いましたら、もう直ぐそこまで直腸がきておりましたので、
そこへ人工肛門を造っていただきました。
人工肛門ですから肛門括約筋がないので、思うように肛門を締め括(くく)ることも開くこともできないのです。
ですから、毎日適当の時を見計らって浣腸するしか仕方ないのです。」
「なるほど。」
「最初、人工肛門を拵(こしら)えていただきまた頃には、ちょうど適当の大きさでございましたけれども、
だんだん子供が成長するに連れて、孔(あな)の周囲の肉が太ってまいりまして、段々孔が小さくなってきました。
それで浣腸しましても便が出難(でにく)くなったのでございます。」
「あなたは時々腹が立ってムシャクシャしや致しませんか。」
「腹が立つことは悪いと知っていますから腹が立っても怺(こら)えているようにして決して外に出しません。」
「そうでしょう。穢(きたな)いものを腹の中に溜めていて、それを出さない心でいるからだ。」
「そんなら腹の立つときには、その腹立ちを口に出した方がよろしいでしょうか。」
「そうでもありませんね。言葉に出して言い合えば互いにいっそう腹が立って、穢いものが腹に溜るでしょう。」
「それでどうすればよろしいのでございますか。」
「さらりとその腹立ちを水に流すのですね。そしたら、サラリと、そのお子さんの便も流れて出ることになりゃしませんか。」

こう言ってあげましたら、その翌日その魚屋さんの内儀(おかみ)さんがやって来て、
「先生昨日から、この子供の便が浣腸をしないでも自然に出るようになりました」と言われたのです。……
           ※
私はこの話をしてあげました。
そして「人工肛門の子供でさえもこのように母親の心持一つで自然に排便があるようになるのです。
ましてあなたのお子さんなどは自然の肛門があるのですから、あなたの心さえ引掛けねばだいじょうぶですよ。
溜っているのは子供の便でなしに、あなたの心持なのですから。」

こう申上げた翌々日、その奥様は私の道場へ出て来られて、
「先生、今日、生れて初めて赤ん坊が自然に排便をいたしました。もう嬉しくてありがたくて堪りません」
とお礼をいわれるのでありました。
(つづく)

1179うのはな:2012/08/26(日) 22:45:49 ID:DYtKCfk2
  宇治のひととき  谷口輝子 先生

 私たち夫婦は例年のように宇治へ出かけて行った。宇治に於ける四日間は曇り日が
つづき、小雨の降る日もあった。智泉荘の玄関を出ようとする私たちに、係りの人は白の
ビニールの雨ゴートを着ることは初めてであった。着物の裾が一尺ばかり出ていたが、小雨だったので
よごれることはなかった。

 宝蔵神社の大拝殿は、いつもながらの超満員で、信徒たちは毎日のように座を詰めさせられていた。
広い檀上にいた私は、詰めこまれる人たちを気の毒に思ったが、皆さんには苦しそうな表情は見当らず、
明るい輝いた眼をした人が多かった。講習会に出席することは、講師の講話はもとより、体験談を聴くことは、
私の魂の大きな喜びであった。御教えによって救われたことは、話す人も喜びいっぱいで話されるが、聴く人たちも喜び
に満たされるようである。

 体験談は顕著なものばかりなので拍手が止まなかった。中には、若き医学博士が元気な姿で、熱情をこめて語られたのも
珍しかったが、ブラジルよりはるばると、訪日団団長として来られた竹本清光氏(地方講師)の夫人の体験談も異彩を放っていた。
竹本清光氏は、戦後幾度日本へ来られたか知らないが、二、三年前に来日したされた時、飛田給道場に滞在せられた。竹本氏は夫人を
亡くされたが、長男、次男に嫁を貰って家業を継がして居られた。鰥となった竹本氏が飛田給道場で聴講して居られると、氏の隣に中年の
一婦人が座って居られた。隣同士なので、つい話しかけると、その婦人はアメリカから来て居られた未亡人であった。
二人は親しくなっていると、或る日、竹本氏よりプロポーズされた。
“神様の道場で隣りに坐っていたということは、何か神縁であると思う”という意味の言葉であった。
二人はスムーズに婚約することになり、ブラジルの伝道本部で結婚式を挙げられた。その時の式場の写真を、私はかつて見せて貰ったことがあるが、
ブラジル住居の竹本氏と、アメリカで暮らしていた人との結婚式なのに、黒の紋付裾模様姿であった。
いくら外国在住でも、日本人は矢張り日本的な服装をしたいものらしいと嬉しかった。

 竹本夫人は、物静かな誠実な雰囲気をもって雄弁に話つづけられた。
先妻の遺された男四人、女四人の子供たちと仲よく暮し、一家二十人同居し、近所へ嫁入っている娘たちと
毎日顔を合わしているので、二十五人の家族全員什一会員だと言われた。長男が一番生長の家の信仰に熱心だそうだから、
その円満な大家族の楽しい生活が想像されてうれしい。
 私たち夫婦が十三年前にブラジルへ初めて行った時、ノーバエスペランサ市の講習会場へ来られた竹本氏は「一家十二人全員受講
しています」と言われた。その十二人のうち、最初の夫人は亡くなられたが、今は二十人の大家族が、仲よくコーヒーやその他の栽培に
働いて居られる。ブラジル在住の日系人は大家族が多いが、御教えあばこそ大調和して居られることと有難いことに思う。
竹本夫人は、先妻の遺子たちと調和した家庭を作りながら、夫を助けて光明化運動に活躍しておられ、白鳩会員も増加の一途を進んでいる。
私たちの住む智泉荘は訊ねる人は少ないが、夕食後のくつろいだひとときにと、二日目と三日目に訪ねて来た人があった。
三日目の朝、秘書に手紙をことづけたМ子という女性があった。その女性は何年か前に我が家にいたことのある人であった。

『・・・今晩お風呂から上られましてお暇なお時間がございましたら、マテナ(指圧)をさせて下さい。何んとか、かんとか口実を作り、奥様に
甘えてお側へ行かせて頂く機会を作ろうとする私でございます』私はこの率直な手紙を見てほほ笑ましくなり、“来てください”と秘書にことづけた。

つづく

1180志恩:2012/08/27(月) 00:15:00 ID:.QY5jUA6
うのはな様

輝子奥様の慈愛溢れるお人柄が,滲みでている、すてきなご文章を書き込んで下さって、
ありがとうございます。信徒の方々への愛情も、すごく感じられますよね。

宇治大拝殿も、満員で、詰めて詰めて、という状態だったのですね。
東京でも、入り切れないときは、壇上にも、皆様あがって、そこへ正座されて,拝聴していました。

1181「訊け」管理人:2012/08/27(月) 08:14:19 ID:???

 『生命の實相』23巻49頁より謹写――
 
 わたしは今まで諸所の説明において「わが心が迷うて病気を造る」というような意味のことを書いたことがあったでありましょうが、それは一足飛びにこの真理を語るには早すぎたので、曖昧に説明してあったのでありまして、今こそわたしは真実を語るのであります。


(つづき:http://blog.livedoor.jp/con5151/archives/65684189.html

1182a hope:2012/08/27(月) 08:21:49 ID:r8H4x9xE
>>1179 うのはなさま

輝子先生の「宇治のひととき」謹写ありがとうございます。
当時の宇治での講習会の様子が、目に浮かんでくるようです。
竹本清光氏(地方講師)の夫人の体験談も素晴らしいでうね!
また、志恩さまがおっしゃっていますが、昔は東京の講習会も人々があふれていたのですね。
それが「真の御教え」や「真の体験談」であれば拝聴するだけで自分の魂も救われるのですから、
人々が集まるのは当然のことなのかもしれませんね。
つづき楽しみです!

1183a hope:2012/08/27(月) 08:24:29 ID:r8H4x9xE

人生読本 谷口雅春先生著

嬉しい、ありがたいは何処にもある


皆さん。
あなたたちは毎日自然に排便をしてこのお母さんのように嬉しくありがたく感じなさいますか。
嬉しいありがたいことは到る所に満ちているのに多くの人たちは嬉しいともありがたいとも感じません。

嬉しいありがたいということは、「この事柄」でないとありがたくもないというような一定の事柄ではないのです。
人間の心の目を開いてどこにもある本当のありがたさを悟ったら、
何時でも何処にでも排便の中にでもありがたさがあるのです。

それだのに、毎日不自由なく当り前に暮らさせていただいている私達は、
まるでありがたい中に浸っているのと同じことです。
(つづく)

1184うのはな:2012/08/27(月) 08:39:56 ID:20AcZStc
>>1179つづき

 約束の八時半にМ子はやってきた。夫の仕事の邪魔にならないようにと、奥の八畳へ通した。
近況報告をいろいろ聞きながら、私は座蒲団に坐って彼女に背を向けた。
 М子は私の頭から、ぐんぐん指で強く急所急所を圧しながら、次第に体を下へと圧し進んで行った。
私は痛かったが、しかし快かった。彼女は一風変わったところのある女性で、幼い兄妹と共に、両親に
早く死別したので、母親代りとなって働き、弟妹を養って来た。男勝りだが、男勝りにならざるを得ない境遇であった。
そのために婚期を逸してしまい、今三十を幾つか過ぎて独身である。

 彼女は御嶽山に二年くらい修行に行って、そこの寺の坊さんにマテナを習って帰郷し、目下郷里でマテナを職業としている。
彼女は声をひそめて私に話したことは、世にも珍しいことであった。
彼女は誰かに聞いた福井県敦賀の或る山に出かけ、そこの山に懸る滝に打たれて、谷口先生の長命を祈ろうと決心した。
山を登りつつあるとき、彼女の嫌いな蛇が一匹現れて、彼女を振り返って、じっと彼女の顔を見つめたのでゾッとした。
恐かったが、敗けるものかと元気を出して登って行くと、蛇は彼女の道案内でもするかのごとく、ずっと彼女の行こうと思う方向へ先行した。
寒い冬であった。

「蛇は冬眠しているのじゃないの」「いいえ奥様、蛇は出ていました。それが不思議に思われました」
彼女の声は怯えたような響きをもった。何週間か滝に打たれていると、或る日、滝の中にいる彼女の眼前に、パッと光が射したと思う瞬間、そこに
現れたのは蛇のような眼をした怪物の顔であった。大きな大きなと彼女は両手でバケツくらいの輪を作って、
「こんな大きさの顔でした。恐くて恐くて逃げ帰ろうと思ったが頑張って、翌日また滝に打たれていると、今度はまた鳥のような形の大きな顔が現れました。
私は気が狂ったのではないかと思いながら、敗けまいと敗けまいと頑張りました。
家に帰って来ますと、誰も私が気が狂っていると言う者もなく、常と同じでした。
奥様、ああいう変化の世界があるということを、私は初めて知りました」
と、彼女は繰り返して言った。その山に住む人の家に行ってその変化を見たことを話したら、その家の主人は、「そんな話を聞くことは私は嫌いだ。うちの家内は
そんなことをやっているが、、、」と不快な顔をされたので、そこを去って、その主人の妻である女の行者を訪ねると、「あんたにも見えたかね。あんた霊覚が出来たのだよ」
と言われた。生長の家の教えが多少とも心に入っているМ子は、「あんな怪異の世界は本物ではない」と否定した。

「奥様、それでよろしいでしょうか。私は気が狂ったのではないでしょうね」
「貴女が蛇に見つめられて敗けたり、大きな顔に恐れて敗けたりしたら、貴女は気が狂ったかも知れないけれど、貴女はしっかりしていて、それらの無気味な
ものに敗けなかったから良かった。また、女行者に『霊覚が出来た』とおだてられて、何か偉くなったように自惚れたら、或いはのぼせ上って気狂いのようになってしまったかも
知れないけれど、貴女はそれらの怪しい現象に惑わされることがなくて良かったね。そういう怪しい現象に執われないで、無視してしまったらいいのよ。そういうことに興味をもって惹かれて
行くと、良い運命は得られません、、、、」

 私はМ子と話していると、若い頃のことを追憶するのであった。

つづく

1185a hope:2012/08/27(月) 09:54:22 ID:r8H4x9xE
>>1182訂正
下から3行目

それが「真の御教え」や「真の体験談」であれば・・・
       ↓
それが「正しく悟られた教え」や「真実の体験談」であれば・・・

「真」のという言葉は、使わないことにしたのでした。
すみませんでした。

1186「訊け」管理人:2012/08/27(月) 10:10:45 ID:???

『生命の實相』38巻64頁より謹写――

◇8月27日

 愛するも憎むも心であるが、それは本心ではない。愛憎の心は妄心である。妄心とは本来〝ない〟心である。本心は愛憎を離れた心である。平等の心である。愛憎を離れた平等の本心のみ、よく自己の心中の敵を殺し、自己の内なる敵を殺す者よく自己の外に敵手を必殺する。
 無敵流の兵法(※)の極意はここにある。



<註>

※ 無敵流の兵法
http://blog.livedoor.jp/con5151/archives/65626135.html(復興Gさまご謹写文です。)

1187ハマナス:2012/08/27(月) 13:03:58 ID:0kyCzJg6

神の子のみなさま
こんにちは。

SAKURA様
宇治盂蘭盆供養祭の詳しい様子をありがとうございます。SAKURA様は、描写がお上手ですね。
お蔭さまで、楽しかった大祭を思い出しました。

例年塔の島で行われる予定の盆踊りが、雨の為、宇治の大拝殿で行われました。
そのおかげで、年配の方の中で、歩かないで済み、盆踊りを見れたと言う人が沢山いました。

毎年盂蘭盆供養祭に来ていましたが、今年は久しぶりに、盆踊りに参加しました。
青年会の方もいらして(浴衣姿が可愛らしい)、教区で、何度も練習したせいか、どうにか
踊れました。
何もかも忘れて、馬鹿になってただただ、踊りました。とっても、楽しかったです!!
ただ、喜んで踊っていると、自然に、心も明るくなり、楽しくなる点で、笑いの練習と、
同じだと、思いました。

古事記の中に、「天照大神が岩戸にお隠れになり、困っていたところ、天宇受賣命
(あめのうずめ)が、裸踊りをしたら、八百万の神が大笑いをしました。それを聞いた、
天照大神が不思議に思い、岩戸をちょっと開けた所、隠れていたアメノタヂカラオが
その手を取って岩戸の外へ引きずり出しました。そして再び、高天原が明るくなりました。」
と言うお話がありますが、笑うことも、踊ることも大切なのですね。

踊り終り、壇上から降りますと、練成仲間たちが、真ん前で見ていて、「○○さーん、素敵
だったわよ。」と声をかけてくれました。
花道の両サイドにも、教区の方、他教区の方、練成参加者などが、「良かった!」「ゆかたも
きれいだったわよ!」と、握手し、私たちを讃嘆してくれて、あたかもスターになった、気分でした。

フィナーレは、徳島の阿波踊りで、大勢の参加者が輪に加わり、みんなで音楽に合わせて、
踊りました。皆さん、笑顔、笑顔で、大拝殿中が、喜びで満たされ、“一つ生命”を感じました。
あー、生長の家をやっていて、良かった、こんなに素晴らしい、仲間がいる、魂の姉妹、兄弟がいると、
ただ嬉しいそして、楽しい、感動の一夜でした。

大祭奉仕も、割合楽な係りでして、先輩の方々から教えてもらい3日間無事に務めさせて頂きました。
同じ係りでご一緒になった方からは、徳久先生がアメリカで講話された珍しいテープを頂き、色々の方の
お話しも伺えて、楽しかったです。
神様からのプレゼントなのかなと思いました。

皆さま、機会がありましたが、どうぞ宇治の練成に参加されて、ご奉仕されて下さい。
心からの歓びを得られます。
生長の家宇治別格本山の電話番号は、0774(21)2151(代)です。

感謝合掌

1188うのはな:2012/08/27(月) 14:10:47 ID:NhCcI7Jo
>.1184

 私は23歳の時ある宗教に入信した。そこの道場では、多くの信者をずらりと並べて
鎮魂を指導していた。指導者たちは熱心だったが、霊媒を養成しているかに見えた。
霊が憑って来た信者は、さまざまな状態を見せていた。

 私は毎日道場へ通って、冷静にその場の状況を見ていた。憑依現象に未知だった私は、
初めは唯不思議なことに驚異のまなこを見はっていたが、日が経つにつれて興味がうすらいで行った。
何故なら、私と同じ家(今井楳軒宅)に住んでいた青森県人のY女史は、毎日毎日霊界から電話がかかって
来て忙しかった。私の他四人の女性と暮らしていたが、皆で食事中でも、霊界から電話が来ると、Y女史は食事半ば
に箸を投げ出して、霊の示す場所へ飛んで行くのであった。

 それは朝のこともあり、昼のこともあり、夜中のこともあった。或る日などは、着物も羽織も泥まみれの臭い姿で帰ってきたので
「どうなさったの」と訊くと「溝のそばを歩いていたら、狸がここへ這入れと溝の中から呼ぶので、はいったのよ」などと言われた。
私たちは臭さをこらえてYさんのよごれた衣類を洗ってあげた。Yさんの生活は乱れ果てていた。
Yさんは人はよいのだが、霊のおもちゃにされているようで、女子大出のインテリの俤は失われて、唯だらしのない生活をしているので、
私は愛想が尽きる思いをしたものだった。

 Yさんの他、幾人も霊媒的な人を知ったが、それらの人たちは、私は少しも尊敬できるような生活をしていなかった。
むしろ不幸な人たちだと思った。
教団の高い位置にいる人ですら、憑霊にまどわされるのか、事実無根のウソを言うのを知ると、私はいよいよ霊媒現象を
否定するようになってしまった。

 敦賀の山の家に住むそこの主人が、霊異の話に不快な顔をするのは、霊覚のある妻なる女行者によって、彼は幸福を得ていない
ことを意味すると思う。当り前の生活を、愛をこめて生きられたら、それが幸福なのである。

 『愛が魂に目覚める時』 谷口輝子先生 著

1189ハマナス:2012/08/27(月) 20:32:57 ID:0kyCzJg6

神の子のみなさま
こんばんは。

棘立った想念感情  (『新版 生活の智慧365章』P.231より)

 健康を得ようと欲するならば、先ず自己批判から始めなければならない。自己が周囲に
対する感情又は想念が棘立ったものであるか、円満なものであるか、他の人の欠点が目に
つきすぎて、それを批判し憎むような攻撃精神が多くはないか。

 棘立った想念感情があるならば円満な想念感情に置き換えるようにしなければならないし、
攻撃精神があるならば愛と赦しの想念感情にそれを置きかえなければならない。イライラ
した焦燥の感じがあるならば、心をもっと落ち着けて現象にひっかからないで、事物の底に
ある実相の円満完全さを見るようにしなければならない。欲求不満足の感じがあるならば、
「実相に於ては万事満ち足れり」と念じて、既にあらゆる欲求が満足せしめられている円満
なる状態を神想観中に心で観じて欲求不満足の感を取去るようにしなければならないのである。

感謝合掌

1190SAKURA:2012/08/27(月) 21:48:28 ID:jH5uEFzM

トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1043>>1044>>1052>>1057>>1058>>1063>>1068>>1073>>1087>>1092>>1093
>>1097>>1098>>1167>>1170>>1171
に関しましては、【ベスト・フレンド】シリ−ズで〜〜〜す。 

実は、私の「青春シリ−ズの一冊の本」なのです。(討論課題項目が、幾つかに分かれてい
ますが?)意外と真理が、分かりやすい【討論形式】なのです。…が〜〜〜??
【コロンビア大の方達が、真理…サイコ的】に? 昨日の投稿文章は、皆様!如何でしたかしら〜ン?

■【ベスト・フレンド】  ( 積極的に考えよう ) 

――――― 積極的に考えよう  ―――――

|❤アルコ−ル依存症だった人はしばしばそうした印象を与えます。彼らが大きな苦悩
|をもっていることはおわかりでしょう。彼らはそのために大きな犠牲を払っているの
|ですが、だからといって、その努力が価値のないものだとか、こころから自由になり
|たいと願った結果、生じたものではないとはいえないと思うのですが。

 
そのとおりだと思います。彼らの悲劇はつぎの点にあるようです。つまり彼らはエネル
ギ−を自分のいやなことを避けることに使わず、理想像を追う方向にばかり向けていること
です。たしかに彼らは重要な第一歩を踏み出したといえますが、そこからさらに前進する
必要があります。

要するにわたしのいいたいことは、もし自分はこうありたい、このような人間になりたい
と思うならば、いままでに身につけてきたあらゆる事柄、つまり感情、直観、知能、意志力
など自分のすべてを活用しなければならないということです。そうすれば、その結果得られ
るものはきわめて大きいものとなるのです。

          ======== * ========

|❤ではなぜわたしたちはそうしないのでしょうか。なぜそうした生き方をする人が
|少ないのでしょうか。

 
なぜなら、悩みつづけることにもまた隠された見返りがあるからです。ひとつにはわたした
ちは悩むことに慣れきっているのです。かえって、その方がこころ休まる思いがするのでしょう。
昔たどってきた自己敗北の道をもう一度たどり、つぎつぎと誤った行為を繰り返すことによって、
逆に安心感を得ているのです。

 わたしたちはこれからなにを期待したらよいかわかっています。それは、自分たちの世界を
よりよく理解し、その未来を予測し、ある意味で自由に動かせるようになることです。人間に
とってぜひとも必要なことのひとつは、自分が自分で理解できる世界に生きているという実感
です。これは、宗教におけるもっとも深遠な主張のひとつです。今日、わたしたちが安らぎを
得られないのは、さわがしい環境のためばかりでなく、周囲のことがよく理解できなくなって
いるという気がするからです。もはや昔の考え方が通用しないように思えるのです。

PS:トキ様 へ
「アル中依存症の方」は???私は、好きではないのです〜〜〜〜が?
「生命の実相」にも、「雅春先生」が記載されていますが〜〜〜><
“アル中の方”は、やはり(感情、直観、知能、意志力)が発揮できていない
という事なのでしょうか?つまりは【心の弱さ…迷い】からなのでしょうか〜〜〜??
この様な時は??「トキ様」は、どの様に「心の迷い…対処法」を〜〜〜なのでしょうか??

1191「訊け」管理人:2012/08/28(火) 07:53:28 ID:???

『生命の實相』38巻65頁より謹写――

◇8月28日

 これが和解の真理の応用である。和解の真理というものは、都合のいいことだけに和解しているのじゃ足りないのであって、悪く見えるものをそのまま素直に受けて拝む。痛み来たれば痛みに礼(らい)し、熱来たれば熱に礼し、下痢来たれば下痢に礼し、いかなる症状をも敵と思わず、自然療能の催しなりとして感謝して受けるのである。

(全文:http://blog.livedoor.jp/con5151/archives/65684465.html

1192a hope:2012/08/28(火) 07:53:37 ID:r8H4x9xE

人生読本 谷口雅春先生著

なぜ、この赤ん坊は治ったか


それはとにかく、なぜ、この赤ちゃんの便(うんこ)が前には出なかったのでしょうか。
それは「便がでなかったら、この赤ちゃんは死ぬかも知れぬ」と恐れていたからです。

それから、私の話をきいてこの赤ちゃんの便が出るようになったのはなぜでしょうか。
それは、「人工肛門の子供でさえも自然に便が出るのだから、
まして当り前の肛門(おしりのあな)のある子供なら大丈夫だ」と便が出ないことを恐れなくなったからです。

本当に恐れるものは皆来るのです。
恐れさえせねば達者であるはずの子供が、恐れたがためにどれほど病気をしているか判りません。

たいていの悪い出来事は、本人か、子供か、親かの恐れる心が映っているのです。
(つづく)

1193うのはな:2012/08/28(火) 15:03:33 ID:uISmJ.rA
私たちの中の二つの「心」 藤原敏之 先生

 私たちの心の中には絶えず二つの心がはたらいているのであります。
一方の心は本能的欲望を満足したときに喜ぶ心でありますが、反面、そのことを喜ばないで
逆にあれはいけないこれはいけないことをしたナーと後悔し苦痛を感ずる心がります。

 この二つの心があるのであります。他人と取引きをしたとき、大変自分に有利に展開して大きな
利益をおさめた時など、“ああうまくやったナ。儲けた”と喜ぶ反面、心の奥底では“あれはちょっとまずいことをしたナ”
と自責の念で苦しむ心がはたらくものであります。犯罪を犯すような悪党とみえる人間でも上手に忍びこんで家人の気のつかぬうちに
沢山の財宝を盗んで逃走してみても、“よかった”と思う反面、悪いことをしたナ。もし捕まったらどうしよう”という不安が伴うのであります。

 これなども悪いことをしたという自覚があるからであります。善いことと悪いこととを誰よりも知っている証拠であります。
動物などはその点罪悪意識ははたらきません。それは動物は人間とちがって肉体についた欲望本能だけで生きておりますから、反省や罪の意識は起こらないのであります。

仏教でも釈尊は十方の衆生に悉く仏性があると仰せられました。また、山川草木国土悉皆成仏とも申しておられます。
人間や生きものだけではない。山も川も草も木も大地までも悉くみな仏であると申しておられます。
これなぞも肉眼で見てもわかるものではありません。生長の家では唯神実相論といって神以外のものは一つとして存在しないと教えられています。
神以外、仏以外のものもあるとする考え方や観方からは、このような深遠な真理は生まれません。

 生長の家は特定の神、仏を御本尊として祀ったり拝んだりする宗教ではありません。
自分の内にある生命を礼拝し、一切の事物の実相(生命と理念)を礼拝する教えであります。実相が神であり、目に見えない生命となって現象の奥にあって
万物を動かし生かしておられるのであります。その神の生命を分ち与えられてこの世に生を受け、今も生かされているのが人間でありますから、肉体としての存在
ではなく、生命としての本もの(実相)の人間は神そのものなのであります。それだから生長の家では人間は神の子であると教えられているのであります。

 すべての人間が神の生命を授かり、神の現れであり、神の心を内に蔵しているということは間違いないのであります。このことを一般には人間は万物の霊長であり、
どんな人間にも良心があるというのであります。この心を仏性、または神性と言うのであります。


『魂のめぐり逢い』 藤原敏之 先生著 P38〜

1194SAKURA:2012/08/28(火) 19:39:23 ID:jH5uEFzM
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
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に関しましては、【ベスト・フレンド】シリ−ズで〜〜〜す。 

実は、私の「青春シリ−ズの一冊の本」なのです。(討論課題項目が、幾つかに分かれてい
ますが?)意外と真理が、分かりやすい【討論形式】なのです。…が〜〜〜??
【コロンビア大の方達が、真理…サイコ的】に? 昨日の投稿文章は、皆様!如何でしたかしら〜ン?

■【ベスト・フレンド】  ( 混乱を静める方法 ) 

――――― 混乱静める方法  ―――――

|❤たしかに、わたしたち今日は、なにを頼りに生きたらよいのかわかっ
|ていません。事態はますますふたしかなものになっています。


 社会的な混乱も恐ろしいが、個人の混乱はもっとこわいのです。その混乱
を静めるにはどうしたらよいか考えつづけてきました。人はすべてある種の
科学者として人生を出発するものです。そして徐々に世界をこころで見るよ
うになっています。その見方にもとづいて、行く手に出現する無数の事実を
分類し、あるものは善良で、理想的で安全なものと判断し、他のものは悪で、
危険なものと見なすのです。そして、どういう行為が好結果をもたらし、ど
ういう行為がトラブルをおこしやすいかは、わたしたちが決めるのです。

PS:トキ様
今回の【生長の家…お家騒動】は、
最初の発端は??【社会事業団の行動…】からなのでしょうか〜〜〜??
今回!私自身でも“嫌な言葉=ネガティブ言葉”を、投げかけれますが〜〜〜?
冷静に判断しましても【生長の家の教え…】を、本当に学んだ方なのかしらん〜〜〜><

まるで〜まるで〜「吸血鬼・ゾンビ集団??」の様ですかしら〜〜ン?と
不思議なモノで、その様に見えてしまいます。
■「生長の家…」でよく言われます【調和精神…】を育てる事は“心”から
始まるのはないでしょうか〜〜〜?【“心〜〜”何処〜〜でしょうか?】
この“ボ−ド”を見ていますと本当に「生長の家…信者」なのでしょうか???

本日の“言葉”…当にその通りと思いますが、「トキ様」どの様にお考えでしょうか?

                                再合掌

1195ハマナス:2012/08/28(火) 23:49:08 ID:0kyCzJg6

神の子のみなさま
こんばんは。

万物はあなたの味方である  (『新版 生活の智慧365章』P.232)

 あなたの中には既に完全なる実相があるのである。あなたの実相は神であり、神聖である。
あなたの実相は神と偕にあるがゆえに、未だ嘗て生れざる不生の存在である。不生の存在で
あるがゆえに無始無終の存在であり決して死せざるものである。

 あなたの実相は神であり、普遍の神と一体であるがゆえにあなたの実相は万物と調和して
いるのである。あなたの実相は万物と調和しているがゆえに、万物はすべてあなたの味方で
ある。万物すべて味方である実相をあなたが悟るならば何らあなたにとって恐怖すべきことは
ないのである。恐怖すべき事がないゆえにあなたの心は平和である。心が平和であるがゆえに、
正しい智慧が湧き出て来て、時に随い、場所に応じて適当な行動をとることが出来るようになり、
凡(あら)ゆることが好都合に行くようになるのである。

感謝合掌

1196a hope:2012/08/29(水) 07:41:51 ID:r8H4x9xE

人生読本 谷口雅春先生著

恐れないようになる秘訣


では恐れないようにするには、どうしたらよいのでしょう。
それにはこの世の中には本当に恐ろしいものとては無いことを知ることです。
人間は神の子であり、この世界は神の造り給うた世界であり、
私達は神に護られていることを知ることです。

これを知らないで、恐れるなと言っても駄目です。
だから皆さんは『生命の實相』の本や、この『人生読本』をよく読んで、
なるほど人間は神の子だという事実を知るのがおそれなくなる一番の捷径(ちかみち)です。

高い所へ上がっても恐れて下を見れば、足が顫(ふる)えて堕ちるでしょう。
恐れないでおれば足が顫えないから墜ちないのです。
墜ちると墜ちないとは、恐れると恐れないとで決まります。

ですから皆さんは、常に心の内で「自分は神の子だから、決して悪いことは怒ってこない」と常に自分が神の子であることを思い出す毎に、
こう心の中で、又は口の中で称えて、自分が神の子であるという自覚を強めて、何事にもいかなる時にも恐れない心を養わねばなりません。

凡そ恐怖心は今現に無いことを恐れることが多いのです。
高い所に立って下を見て恐れるのも、墜ちたら怖いと思うのですが、
まだ墜ちていないのですから、墜ちたら怖いという考えは今は無いところの事柄を恐れているのです。

有ることなら恐ろしいのも無理はありませんが、無いことを恐れるのは馬鹿なことです。
試験に辷(すべ)ことを恐れるのも、まだ辷っていないのですから、
無いことを恐れているのですから、恐れるのは愚かなことです。

却って落第してしまった人は、恐れはしないものです。
却って高い所から落ちてしまった人は、痛かったかも知れませんが、もう恐れはしないものです。

凡そ、「恐れる」ということは今は「無い」ことを恐れるのですから、有り得ないウソの心なのです。
(つづく)

1197goro:2012/08/29(水) 11:13:07 ID:Cc8Z7oOY
心の法則「難聴」についての答えがありますので紹介しもす。

生長の家「今昔物語」

大聖師御講義『続々甘露の法雨』第6話 2012年07月16日(月)


聞きたくない心は難聴の症状をつくる

http://blog.zaq.ne.jp/sinseityounoierengou/article/951/

これは度々皆さんに申し上げる体験談ですけれども、滋賀県の大津に野沢宗一という郵便局長がありまして、
その人の御夫人が姑さんと仲が悪かった。そして姑さんの言うことを諾(き)かんもんだから終始小言を
言われておったんですが、或る日のこと、姑さんが憤慨してお嫁さんの頬ぺたをピシャリと殴ったのでした。

そしたらお嫁さんは殴られまいと思ってヒュッと体を躱(かわ)したんですね。その躱したのが却って悪かった、
掌(てのひら)の見当が狂って耳の上を殴ったのです。そのはずみで鼓膜が破れて、それ以来お嫁さんの耳が
聴こえなくなったのです。

しかも、鼓膜が破れた方の耳が聴こえなくなるのなら何も不思議はないんですけれども、鼓膜の破れない方の耳も
聴こえなくなったんです。これは変じゃないですか? もっとも極(ごく)側へ寄って、耳元で、電話口で
ものを言うように口を近づけて大声で話せば、聴えるんですけれども、もう一尺も離れてものを言うと聴こえないのでした。

この、聾(ろう)という病気は大変都合の好い病気でありまして、言いたいことは言い放題、他が弁解しようが、
反対しようが、どうしようが、自分の言う事さえ言えばよいのであって、他(ひと)の言うことは聞いてやらないでも
よいのでありますから、こんな便利な病気はない。

肉体は“心の影”でありまして、この人は“姑さんの言うこと聞きたくない”と心に終始思っておったものですから、
それで、耳の聴こえない病気になったわけであります。つまり、これは自分の生命力自身が聴こえない病気を拵えて、
姑からの小言に対して自己防衛した訳であります。

それは姑が外から殴ったのでありますけれども、すべて外の物に当って怪我するということも、実は、
その怪我しそうな処へ自分の身体を持って行ったということなんです──自分の身体は自分の自由なんですから。
姑は嫁の頬辺(ほつぺた)を殴ろうとしたので、耳を殴ろうとしたんじゃなかった。
耳を殴らせたのは彼女自身であったんです。

1199SAKURA:2012/08/29(水) 15:40:09 ID:JqFULnHI
トキ 様 へ

こんにちは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。

>>1198の投稿なのですが…「ボ−ド」を間違いましたので「デリ−ト」して下さいませ…。
何卒、宜しくお願い申しあげます…。
                               再合掌

1200うのはな:2012/08/29(水) 17:14:14 ID:0OK1Hwak
生活にあらわれたる“秩序の智慧”

 私たちが“秩序の智慧”即ち「調和の智慧」を得るならば、そしてすべての事物及び人と
秩序の関係にあろうと心掛けるならば、私たちの生活、衣服、時間の割当その他一切の生活様式が
一変して来る筈である。

 其処には食物は簡素となり、残忍な感じのする食物は食膳に出なくなり、
家族相互に交わす言語なども自然におだやかな調和した状態になるのである。
濃厚な食物を食べないと栄養にならないなどと云う間違った栄養の“既成観念”に
捉われてはならないのである。

 小牧実秀氏の『栄養の科学』(東洋経済報社発行)と云う本を読んでみられるならば、今までの
栄養観念とは全く異なる正しき秩序の食物に接しられるであろう。人間は肉食をしなければ栄養が
とれないなどと考えてはならないのである。

 全然肉食をとらない私の養母は九十五歳で健在であるのである。淡白なる食物の適量は却って人間の
精神を清浄に保ち、健康を長く持続せしめるのである。

 『真理』第10巻 実相篇 谷口雅春 先生著

1201SAKURA:2012/08/29(水) 17:54:58 ID:JqFULnHI
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
こんばんは…… ロ―マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。

■栄える生活365章

第五章  今、 神の祝福を受けて
――――あなたは絶対価値の存在者である――――

 神は人間を神の最高の自己実現として創造したのである。それにも関らず、唯ひとりとし
て同じ人間は存在しないのである。何故なら神は自己の内に『無限』を蔵し給うのであるか
ら、それを具体化するときには、具体的には『無限』を重複して顕現することができないか
ら、すべて個性ある独特の貴き姿をもって表現せられるのである。それゆえにあなたは、
他の類型のない独得(ユニ−ク)な存在であり、かけがえない絶対価値の存在であるのである。

 各人はすべて絶対価値をもち、独特の尊貴なる内容を表現し、その人でなければならない
独得の能力と、人生に於ける独得の位置と、独得の目的とを与えられているのである。これ
を知るとき、本当に自分の生命の尊さが自覚されるのである。あなたがこの世界から消え
るならば、あなたの代わりになるべき何人も存在しないのである。会社の椅子ならば一人の
社員が退社しても、また別の人がその椅子を埋める事ができるけれども、人生に於ける位置は
何人も代行できないのである。
                            (谷口雅春著)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

■トキ様】へ
今回の「雅春先生…の言葉」これからも先生自身が
>【各人はすべて絶対価値をもち、独特の尊貴なる内容を表現し、その人でなければならない
独得の能力と、人生に於ける独得の位置と、独得の目的とを与えられているのである。これ
を知るとき、本当に自分の生命の尊さが自覚されるのである。】<  (一部抜粋)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆

この様に、裏を返しますと『生長の家』では“讃嘆…”から始まりましてでしょうか?
私は「この教えの中の…真理の一つ」を持ちまして…
相手への「嫌な“中傷言葉”…つまり“言葉”の暴力」を、投げかけますと、
如何に〜“ネガティブ感情”を与えますを痛切に思いますし、本当の「生長の家…信者」としては、
あり得ない【言動・行為…】と判断しました。…が?

■改めまして本当に「生長の家…信者」なのでしょうか??
そして「分派の方々…」の“イメ−ジ”が、逆に申しますと
【相手への言論の自由…】も、与えない様な「学ぶ会」「靖国見真会」「ときみつる会」…etc
と、捉えられますのではないのでしょうか?
それは、本当に逆に申しますと「マイナス・メリット」であり、むしろ【分派の方々の…】
そこでの【考え・活動体制…】此処にて“アピ−ル”されます事が…いいのではと思います。
それによりまして、更に賛同されます方々が、増えられればいいのではないのでしょうか??

                                     再合掌

1202うのはな:2012/08/29(水) 18:52:39 ID:XnNLNTjU
『生命の實相』第8巻 観行篇 P43 谷口雅春 先生著

 われわれが執着を脱する程度に従って、計らいの心が無くなる程度に従って、
みがきをかければかける程度に従って、内から多量に光を放射するダイヤモンドのごとく、
内から示されてくるものが「神示」であります。

 執着の念をもって「神示」をきくがごときは自己撞着のはなはだしきものであります。
われわれはその本姓において神でありますから「神示」を聴くということは、霊媒的素質の有無
にかかわらず、自己の執着を脱する程度に従って、完全にできるのであります。

「真の人間」は神である。だからわれわれが我執の皮をはいで「真の人間」がそこに出たとき、
その思うところ、感ずるところがことごとく神示であります。ある宗教ではこれを「神格の内流」と
言って霊媒の霊示とは区別しているのであり神示は内流であって大脳に感応し、おおむね直覚的にあらわれます。

 霊示は外から延髄に感応しおおむね霊媒式、二重人格式にあらわれます。
神示は対立を絶した内からの啓示でありますが、霊示は第二者、第三者などの対立せる人格からの意見であります。
神示は、我執に対して答えず、我執を捨てたとき、おのずから現われるものでありますが、霊示は我執にも答えてくれ、
時々的中の明答を得たり、見当違いの答えで背負い投げを喰うこともあります。

 ともかくも、学校教育などのごとく人間の先生に教えを乞うこともよく、霊媒によるがごとく霊界の先生に教えを乞うことも
よいのでありますが、学校の先生の教えにもまちがいがあり、霊媒の答えにもまちがいがあります。
ただまちがわないのは、われらの「神格」の内的啓示に照らして行動するのがよいのであります。

1203SAKURA:2012/08/29(水) 21:37:30 ID:3bLXh3jA
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
こんばんは……  ロ―マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。

■生活読本
――――人の欠点を見るな――――

常に愉快でいるためには人の欠点を見てはなりません。人間にありがちな最も悪い癖
は、人の欠点(よくないところ)を見る癖です。アラサガシの癖です。人生を不愉快にする
一番悪い癖は、このアラサガシであります。家の中に一人、此のアラサガシの癖をもった人が
いますと、その家庭が面白く愉快になりません。団体の中に一人、仲間のアラサガシをする人が
あると其の団体はバラバラに仲間われがしてしまいます。

 人間は、その人の欠点を見つけて、いくらその欠点をあばき立てたからと云って、それ
によって其人の欠点がなくなる訳ではありません。何でもみとめれば認めるほどハッキリ
あらわれるのが心の法則ですから、欠点をみつければ見つけるほど、その欠点は一層大き
くあらわれてまいります。美点(よいところ)をみとめればみとめるほど美点があらわれて
まいります。ヤミだ、ヤミだとみとめていると、いくらでもヤミが出て来ます。ヤミなんか
みとめないで、ヤミと云う言葉さえもなくなればヤミが出て来なくなるのです。これが
心の法則です。「悪いもの」や「善くないもの」があると云うことをみとめることは、その
悪いもの善くないものにこちらから力を添えてやるようなものです。欠点をなくするには欠点を
みとめないで、美点のみをみとめて行けばよいのです。

 善いもの、美しいもの、素晴らしいもの――調和、平和――こんなもののみが本当はある
のです。悪いもの、醜いもの、貧弱なもの、不調和なもの、争いや、いさかいなどは神
がつくらないから本当は「無い」のです。その無いものがどうして現れるかと云うと、そ
れは「みとめる」心の力で現れて来るのです。たとえば、「あいつと自分との間には争いが
ある」認めてばかりいますと、屹度争いが現れてまいります。今まで世界に起った戦争
はみな、この「争い」を認めた為に、争いが益々大きくなり、ついに戦争になったので
あります。家庭の仲でも面白くない事が起ったり、家族同士が悪くなったりするのは、
互いにその欠点を見つけて、悪いことを「ある」としてそれを言葉に現すからなのです。

                           谷口雅春 著
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆

■>人間は、その人の欠点を見つけて、いくらその欠点をあばき立てたからと云って、それ
によって其人の欠点がなくなる訳ではありません。何でもみとめれば認めるほどハッキリ
あらわれるのが【心の法則…】……云々……

そうなのですョ〜〜〜ネ!【強い意志力にての想念・持続力】は、必ず!成就するモノと、
私自身も認めます…。例えば…
知人の“お兄ちゃん”が大学受験の時、第一希望は“東大”でしたが〜〜♫〜〜
経済観念を持ちまして【九大受験…受かりました…。】この様な断定した言葉にて、
【祈り…】に徹して行かれました事を、覚えています。その通りの事が【実現…】です。

更に【タイムショック…世界一周】此の事を、断定しました【お祈り…】にて、結果は〜〜
その通りの事が、現象界に実現しました…。今は、【世界に羽ばたく企業家…】として
活躍されています…。

■今思いますと、そのお兄ちゃんの“アドバイス”は、【神想観…実相】をと、
私に“口すっぱく”助言して下さった事を、今!思いだしながら【心の法則…駆使】を、
痛切に思う次第です…。但しあくまでも【心の法則…神の御心に叶う】べきなのでしょうかと……
思う次第なのです。……が?

但し「雅春先生」の述べられます様に【心の持ち方!!次第の事が実現】でしょうか?
それならば【ポジティブな事?感情?】を持ちましての【心の法則】を、
駆使すべきかと思う次第なのです。…が?           再合掌

PS:トキ様 へ
この様に私なりの体験(身近な人)を見ての感想を述べました。…が?如何でしょうか?
ある面?この頃「疑問点…」が、生じましたので後にて“投稿…別板”にてさせて頂きますが?

1204ハマナス:2012/08/29(水) 23:41:57 ID:0kyCzJg6

神の子のみなさま
こんばんは。

今日から、「第九篇 豊かさを得る道」に入ります。
  明るい雰囲気の魅力  (『新版 生活の智慧365章』P.233より)

 事業又は商売の繁栄をきたすには、明るい希望に満ちた殷賑(いんしん)の雰囲気をその
従業員がもつと云うことが必要なのである。明るい銀座街頭に人が集まるように、また昆虫が
燈火を追うて集って来るように、明るいところに生物も人間も集まることをよろこぶのである。
暗い雰囲気は生々とした生物を遠ざけ、黴菌のようなジメジメしたものを引き寄せることになる。
そして従業員の仕事の能率は上がらなくなり、顧客は減少し、事業は沈滞してしまうのである。
従業員の表情から、明るい微笑がなくなって、ただ冷たく沈滞した表情になってしまったならば、
その事業は次第に破局に近づきつつあるのだと言わなければならない。  

 生長の家の飛田給練成道場で毎朝五時十分前から起床の合図に“カッコー・ワルツ”の明るい
曲の演奏を放送して、その音楽の中に目覚めて一日の出発をするところに、多くの病人が恢復し、
ノイローゼが癒え、生活に生き甲斐を感じて来るひとつの原因が、(それは多くの要素中の唯
一つの要素であるが、)潜んでいると云うことができるのである。一日の出発によい音楽を
従業員にきかせて、悦びに満ちた快活な雰囲気で顧客に接せしめるとき千客万来となるもので
あるし、そのような雰囲気が職場に満つるならば、仕事の能率があがり、緻密な仕事が狂いなく
出来るのである。

感謝合掌

1205a hope:2012/08/30(木) 07:44:52 ID:r8H4x9xE

人生読本 谷口雅春先生著

恐れる心を無くする方


そこでこんな事が判りましょう。
恐れる心は無い物に対して起こる感情なのですから、
「恐れる心」があるようにみえていても、本当はないものなのです。

それは幽霊と同じように無いものなのですけれども、
あると思っている間だけあるようにみえるのです。
ですから恐れる心は無いものだと知ったときに、恐れる心は消えてしまうのです。

恐れたら悪いから恐れないようにしようと思って、
「恐れまい、恐れまい」と恐れる心を抑えても恐れる心は消えるものではありません。

恐れる心をなくするには、「自分は神の子だから、恐れる心はないものだ。
恐れているようにみえていても、自分はちょっとも恐れていない。
この恐れる心は神の子である自分の心ではない。自分は少しも恐れていない。
自分とは別のありもせぬ心が恐れているのだ。勝手にしろ!」
という気になったら却って恐れる心は消えてしまうものです。

恐れるようなケチ臭い心が自分の心だと思っていたのが悪かったのだ、
自分は神の子だから恐れるものはこの世にひとつもないのだと思うようにし、
どんな難しくみえることでも、喜んで愉快にやることにいたしましょうね。

そうすればあなたは必ず立派な仕事ができて、出世をするのに定(きま)っています。
神の子は恐れないので、その時その時を生かして行くようにすれば、成功するのに定っているのです。
(つづく)

1206ハマナス:2012/08/30(木) 11:02:49 ID:0kyCzJg6

神の子のみなさま
ありがとうございます。

朝の出発に心の調律を  (『新版 生活の智慧365章』P.234より)

 一年の計画は元旦にあり、一日の謀(はかりごと)は朝にあると言われている。朝の出発に、
心を調律して歓びの想念感情に波長が合うようにして置くならば、その日一日、悦びの番組が
次から次へとあらわれて来るようになるのであるが、朝の出発に、陰気な不快な不調和な想念
感情のままで、心の調律を怠っているならば、その日一日じゅう不快な出来事が、生活番組と
して出て来ることになるのである。

 人間の心は一種の放送局でもあるし、受信局でもあり、テレビ・セットのように、その受信
した精神内容を形に具体化してその人の身辺に実現することになるのである。宇宙は、過去現在
に於て放送され又は放送されつつある精神波動の貯蔵庫みたいなところであるから、そのうちの
どの波長に自分の“精神テレビ”を同調されるかによって、幸福でも不幸でも失敗でも成功でも
実現することになるのである。

感謝合掌

1207うのはな:2012/08/30(木) 11:35:56 ID:R80If25o
  私と蘭の花とどちらを愛しているの?  渋谷晴雄 先生

 話は再びハワイ時代にさかのぼる。ハワイは太平洋の楽園だといわれている。
私がハワイに行った頃は、本当にそうであった。人々が優しい心をもって、いたわりあっていた。
それをアロハ・スピリットとか、ハワイアン・ホスピタリティとか言っていた。
 前にも述べた通り、私は一九六五年(昭和四十年)から三年間、ハワイ駐在本部講師としてオアフ島に
暮らすことになった。はじめの一年は単身赴任で、のち家内が来て一緒に生活することになった。

 当時はハワイの生活水準は、日本と比べてだいぶ高かったようである。一ドル五十セントだったが、日本の円の
感覚からいうと1000円ぐらいに当った。道路が整備されていて、車もやたらに多くはなく、女性ドライバーには男性は
道をゆずったりした。日本のわれ先に走る車の混雑と比べると、優雅で心あたたまる車の運転で、さすがに太平洋の楽園だ、と思った。

 ある日、白鳩会連合会長といっしょに家庭訪問をした帰り、食事をしに日本レストランに寄った。
そこの店の女主人に、白鳩会長が言った。
 「この方が、日本から来た生長の家の渋谷先生です」私ははじめて会った女主人にあいさつした。彼女は、「日本から来られた生長の家の
渋谷先生ですか。それではきょうの食事の代金は要りません。無料にしますからどうぞ何でも召し上がって下さい」
 私は、この女主人が生長の家の信徒さんだと思った。「どうもそんなにサービスしていただいて恐縮ですね」
ところで、白鳩会長に聞いてみると、この女主人は、生長の家とは何のかかわりもない方だという。
ただ彼女は、どんな宗教でも、その宗教の先生に深切をつくすとゆたかになれる、ということを信じているのだ、という。
私は冗談で、白鳩会長に言った。「それはすばらしい信仰ですネ。世界中に普及したいですネ」

 その女主人はお坊さんにお布施するといったセンスで無料サービスをしてくれたのだった。
そういう宗派にとらわれないやさしい愛の心が、ハワイの人々に息づいていた。

 ある日、教化部で早朝行事が終ったあとのこと。だいたいハワイでは、朝が涼しいので人が集まりやすく、
早朝行事には100人以上が参加した。朝の行事が終ると、人によっては、教化部でパンとコーヒーで朝食を済まし、
会社に出勤した。私は教化部の隣にある、生長の家がオーナーになっているアパートに住んでいた。そして私は毎朝早く教化部の
鍵を開けて皆さんを迎えていた。早朝行事が終ると、教化部で働く人が来るまで一応鍵をかけておく。
だから用事のある信徒さんはアパートの方に訪ねてきた。

 その日は朝食を食べていたら、一人の白鳩会員の方が訪ねてきて、
「先生、これさしあげます」という。何かと思うと靴下だった。そのあと、また一人が訪ねてきて、
靴下をプレゼントしてくれた。私は不思議に思って、ふと自分の足を見た。すると靴下が破れていたのだ。
気がつかず早朝行事で壇上に坐っていた私の靴下から足が見えたわけで、さっそく靴下を買ってきてくれたのだった。
それにしても深切な人々だと感謝したことであった。

つづく

1208うのはな:2012/08/30(木) 16:55:38 ID:TYG5qr22
>>1207 つづき

 こんな楽園にも、なやみがないわけではない。おもに人間関係の問題である。
ある日、永田夫人(仮名・三十五歳位)が私を訪ねてきた。なやみというのはご主人の
ことであった。このご主人は、会社から帰ってくると、カバンを玄関に置くなり、すぐ温室に入ってしまう。
温室では二〇〇鉢以上の蘭を栽培していた。奥さんはご主人が蘭の手入れを終って夕食をたべに来るのを
いつも待っているが、時には二時間も三時間も温室から出てこない。

 あたためた料理が冷たくなってしまう。なんとか、夕食を済ましてから温室に入ってほしいのだが、奥さんが何度たのんでも言うこと
を聴いてくれない。「まるで私より蘭の花の方を愛しているのです。私はしゃくにさわって、蘭の花を見るのもいやです。植木鉢をみんな
壊してしまいたいくらいです」
 永田夫人は、自分は正しく、悪いのは主人だ、といった調子でご主人を非難するのだった。
たしかに、奥さんとご主人をくらべれば、悪いのはご主人の方だろう。しかし、家庭のトラブルは善・悪だけでは解決しない。
やはり夫婦間の“愛”が解決の鍵になる。私は永田夫人といっしょに祈った。
それは“和解の神想観”である。

 ご主人が奥さんに向かってニコニコ笑っている姿を心に描いて、
「私はあなたを赦しました。あなたも私を赦しました..........。あなたと私とは神において一体
でございます」ではじまる、よく知られたあの祈りを行ったのであった。
神想観が終って、奥さんが言った。
「はじめのうちは主人がニコニコ笑っている顔なんか思い浮かばなかったんですが、先生が
言ったように、主人は、別に浮気しているわけでもないし、ただ蘭の花が好きなだけだ。やっぱり
考えてみると、主人は心やさしいひとなんだ........こんなように思えてきました。そして、ほんとに主人が
私にニコニコ笑いかけている姿が見えるようでした」

 ハワイの蘭の花はたいへん美しい。オーキッドといって、花の女王ともいうべき高価なもので、たくさんの
人が栽培していた。私は奥さんに言った。「ご主人もそんな美しい花をつくっておられるのだから、心やさしい人ですよ。
そんな人と結婚しているあなたは、幸福だと思わねばなりません」
 この私が言った言葉が、彼女の心に深く残ったようだった。数日たって、永田夫人がふたたび教化部を訪ねてきた。
「先生!おかげ様で解決しました........」彼女の顔はよろこびいっぱいだった。
彼女の言ったことを要約すると次のようだった。

 祈りが終って家に帰ったら、温室に入ってみたくなった。これまでは“うらみ重なるオーキッド!」というわけで、温室から
遠ざかっていた。温室に入ってみると、よごれている。あっちにもこっちにもタバコの吸い殻やゴミが捨ててあって、灰皿にも
吸い殻がいっぱいだった。ごく自然に彼女は温室を掃除した。一時間以上かかって、見違えるようにきれいになった。
「よかったわ。これで主人もきれいなところで花のお世話ができるわ」
ところが、その日の夕方。ご主人はいつものように家に帰ると、すぐ温室に入った。
しかし、三十分もすると温室からでてきて、「おなかすいたよ。食事にして。キミが温室を掃除してくれたのかい。ありがとう。
これまで迷惑をかけてわるかったね。これからは、さきに食事をしてから花の世話をするよ......」

 ほんとうに久しぶりに明るいご主人の顔であった。
それからは、お二人は新婚当時のように仲よくなった、というのである。
美しい蘭の花をめぐるハワイらしいエピソードだと思った。やはり、相手の姿は、こちらの“心の影”であった。
そしてここでも、愛はすべてを解決してくれるものだった。

 『光の国から』 渋谷晴雄 先生著 P67〜

1209ハマナス:2012/08/30(木) 22:59:37 ID:0kyCzJg6

こんばんは。
聖典引用ですので、こちらの版にも投稿します。

『生命の實相』第21巻(甘露の法雨講義)のはしがきを謹写いたします。

『甘露の法雨』はいわゆるインスピレーションによって突然浮かんで来た思想が一種詩的な
リズムを帯びてきたのを書き止めて置いたものである。後より見るとこの聖経は期せずして、
『生命の實相』全巻の真理を集約して歌ったものになっている。それを読誦することによって
いろいろの奇蹟を演じたので、ついに聖経と称せられることになったのである。

その英訳をたんに携帯することによって第二次世界大戦中ハワイの日本民族第二世の軍隊
(第百大隊、四四二部隊)がイタリーの南端から上陸する際に、期間銃弾がその英訳『甘露の
法雨』に命中しながら、それを貫通することができず無傷で大量の兵員が上陸くして戦功を立
てたような奇跡もあり、交通事故に遭いながら、無事だった実例のごときは数限りもないので
ある。この聖経はたんに現実界の人間が読誦して悟りを開いて病苦悩苦去るばかりではなく、
霊界の諸霊もその読誦の声を聞いて悟りをひらき、迷える障りの霊も守護の霊となることが後
に明らかとなったので、神仏礼拝の際その祭壇に対いて読誦すべき生長の家の聖経となったの
である。
しかし読んで意味の分らないようでは功徳が薄いので、かつて毎日曜日に東京小石川護国寺の
月光殿においてその大要を講義したものを次に捧げることにした。主として講義の速記によった
ので、わたしの文章だというよりも私の語調が写されているところに特徴があるであろう。
『生命の實相』の縮約が『甘露の法雨』であるから、どの講義を読むだけで生命の実相の大要が
摑めることと思う。第一章は当時の講義の筆記漏れを後より再述して完璧としたのである。
   
昭和三十九年一月十日                 著者しるす

1210SAKURA:2012/08/30(木) 23:22:54 ID:jH5uEFzM

トキ様 へ
観覧者の皆様 へ

こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1043>>1044>>1052>>1057>>1058>>1063>>1068>>1073>>1087>>1092>>1093
>>1097>>1098>>1167>>1170>>1171>>1174>>1175>>1190>>1194
に関しましては、【ベスト・フレンド】シリ−ズで〜〜〜す。 

実は、私の「青春シリ−ズの一冊の本」なのです。(討論課題項目が、幾つかに分かれてい
ますが?)意外と真理が、分かりやすい【討論形式】なのです。…が〜〜〜??
【コロンビア大の方達が、真理…サイコ的】に? 昨日の投稿文章は、皆様!如何でしたかしら〜ン?

■【ベスト・フレンド】  ( 混乱を静める方法 ) 

――――― 混乱静める方法  ―――――

|❤ それはどのようにしてあらわれてくるのですか。

  お互いに、「人生とはこんなものだ」という仮説をつくります。人生の早
い時期につくると、これはきわめて卓越していて、生存競争に役立つことが
よくあります。ところが、問題はお互いに歳をとり、経験を積み重ねていく
にもかかわらず、その仮説をいっこうに改訂しようとしないことです。つま
り、新しい経験を古い原則に無理やりあてはめているのです。

         ―――――――― * ―――――――――

|❤子供のころの経験をもとにできた偏見や習慣をいまだにもっている
|ということをほとんどの人が否定すると思いますよ。まして人が原理と
|いえるほどはっきりした形でもっていると考えられないのですが……

 たいていの人は自分がそうした原理をもっていることに気づかないもので
す。なぜなら、それは一度も言葉にあらわしたことがないからです。
 それは漠然とした感情や、表現できない観念、あるいは子どものころ、話
もせず、自分自身でも認めることさえしなかったような事柄などが、混じり
合ってできているのです。この原理は、セックスの衝動や攻撃的衝動のよ
うな人間生活においてもっとも強力な問題を生じるような力に対してかかわ
っています。

 たいていの家庭ではこの問題は手に負えない議論です。そして、現実とは
なんであるかということについて、複雑な考え方をもつようになるのです。
というのは、この現実の本質について、一度も話し合ったことも調査したこ
ともないからです。神はうわのそらで世界を創造してしまった、と述べた人
がいますが、わたしたちもまさにそれと同じことをしているからです。
 
半分ねむりながら世界観をつくりあげ、それにもとづいてあたかも色めが
ねをとおしてものを見るように自分の人生を着色して見ているのです。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆
                  <つづく>


PS:【SAKURA 独り言】……
≪三つ子魂〜〜〜≫体験・経験は、確かに“潜在意識”に、残りますかしら〜〜〜ン!
良いことも?悪いことも?でしょうか〜〜〜?
【言葉…言霊】にて、相手へ“心模様”伝えるにしましても…本当に難し〰〜イ><

こちらの捉え方?相手の捉え方?…現実は、いかんせん…“でしょうか?
【一つ言えます事は…相手への“ポジティブ感情”を抱かせるような“言葉…”を、
駆使出来ましたら〜〜〜そこには、きっと【調和…の世界】が広がるでしょうかしら〜ン!】

1211a hope:2012/08/31(金) 07:18:47 ID:r8H4x9xE

人生読本 谷口雅春先生著

ヘレン・ケラーの何処が偉いか


ヘレン・ケラーの言った言葉に、「何でも明るく見る心、光明主義は物事を成しとげる基(もとい)である。
希望がなければ、何事も成しとげることはできない」というのがあります。

ヘレン・ケラーは三歳の時、脳膜炎という病気を思い、その結果、目は見えなくなり、
耳は聞こえなくなり、言葉は言えなくなったのだということですが、
その後眼で見ず、耳で聴かずして、皮膚や指先やにおいなどによって、
世の中の全ての事がよく判るようになったり、人生の三重苦の苦しみを征服した聖女として尊敬されていますが、
それにはヘレン・ケラーを教えたサリヴァン先生の教え方が上手であったのにもよりましょうけれども、
ヘレン・ケラー自身が、盲になり、聾になり、唖になっても少しも失望落胆せず、
心に希望(のぞみ)をもっていたからです。

失望とは心に望みを失うことです。
落胆とは勇気を落して、気が沈んでしまうことです。

眼が見えず、耳が聞えず、口が利けなくとも、希望を失わず、勇気を落さずにいたら、
人間はヘレン・ケラーのように偉い者になれるのです。

眼が見え、耳が聞こえ、口が利ける皆さんが希望を失わず、
自分の目的とするところへ突進して往ったら、どれほど優れた人になれるか、考えてみずとも判るでしょう。
(つづく)

1212ハマナス:2012/08/31(金) 23:16:48 ID:0kyCzJg6

神の子のみなさま
こんばんは。早いもので、明日から9月です。

職場の雰囲気 (『新版 生活の智慧365章』P.235より)

 社長や店主や部長、課長と言われる人たちは、その一言一顰一笑(いちごんいっぴんいっしょう)が
その社員、行員、店員たちの感情を左右する力をもっているものである。早朝から社員や店員にたい
して叱りつけるような荒々しい言葉を使ってはならないのである。先ず事業の前途に希望があることを
語り、その前途に光明をみとめしめ、そこに働いていることが悦びであり、事業の伸展とともに自分の運
命も発展して行くものだと云う希望に胸ふくらませるような言葉でその日一日の仕事を出発せしめるよう
にしなければならない。そうすれば、事業も繁栄し、社員、店員の運命も伸びて行くのは実際であり、
それが「想うことは必ず実現する」と云う心の法則なのである。

 社長又は店主と云うものは社員を叱るものだなどと云う感銘を与えてはならない。社長又は店主は
社員又は店員に感謝し、その職場を温かいものにしなければならない。

感謝合掌

1213うのはな:2012/08/31(金) 23:26:23 ID:esvyfr1E
霊的実在とお陰との関係  『真理』第8巻 信仰篇 谷口雅春 先生著

 法華経に三車(牛車、羊車、鹿車の三つ)火宅(火災の起っている家)の譬があります。
火宅はやがて滅びて行く現象世界の譬であり、三車は現象世界の「宝の車」であります。
現象世界の宝に執着している限りは、火宅は焼け落ちて、その下敷になって死ぬほかはならないのであります。
しかし、火宅の下で「現象界の宝」のもてあそびに熱中している子供(幼稚な魂)を救い出すには別の玩具(やがて
くだけるもので、本物ではないお陰)を与えるほかはないのであります。

 これが或る種の宗教で得られる現世利益です。しかしそのお蔭は玩具であって実物ではないのであるから、やがて
壊けるときが来るのであります。その壊けるときに信仰を堕してしまうようでは、本当の信仰ではありません。
すべてのお陰は「影」であるからその本源は霊的実在の世界から来るのであります。

 そして、お蔭は霊的実在を把握させるための方便にすぎないのであります。
いつまでもお陰にしがみついて霊的実在を忘れたら本末顚倒(モトとスエとがあべこべになること)になります。

1214SAKURA:2012/09/01(土) 03:22:09 ID:KIb1uXbE
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ

こんばんは……ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。

■ どんな教えが生長の家か
――――目を開けば世界は光に満ちている ――――  藤原先生著

それでは、そのように人類ことごとく救うことの出来る生長の家の救いとは一体どのようなもの
であるかと申しますと、何もむずかしいことではなく、本当に簡単な原理によるものであるというほ
かないのです。

 人間が悩んだり、苦しんだりするということは、すべてのものの観方や考え方がまちがっているか
らだということが出来ます。世の中の不幸はことごとく物事を正しく観ないで、思い違いをしている
結果起るのでありますから、不幸から逃れようと思ったならば、今現れている不幸な状態を何とかし
ようと努力するよりも、その原因であるものの観方や考え方を正すことが、最も大切なものでありま
す。

 此のことを仏教では正見、正思惟と説いてあります。すべてのものを正しく見よというのが政見で
あり、間違った考えをしてはならないということを正思惟というの
であります。

信仰とは、その正しく見る眼を開かせることであり、このことを活眼を開くと申します。真昼間で
も、目をあけている人と閉じている人とがあった場合、一方の人は明るいというでありましょう。も
う一方の人は真暗だというでしょう。このように外部条件は同じであっても意見(思い)は二つにわ
かれることになるのであります。しかも一応は、どちらも間違った意見(思い)ではないのです。し
かしよくよく考えてみると、暗いのは間違いであって明るいのが本当なのであります。暗いと明るい
とふた通りの結果が現れていても、実は明るいのが絶対正しいのであって、暗いのはその人が目を閉
じて光を見ないからなのです。明るい世界をわざわざ眼を閉じて、光を見ようとせず、暗いのが本当
だと思いこんで「暗い暗い」といっているのは、その人にとっては暗いだけのことであって、絶対で
はなく、相対的な出来事なのです。

 素直に目を開いて、真相(明るさ)を正しくみることの出来る人には、もともと闇はないのが本当
ですから、明るくなるのが当たり前なのです。
                        
                          <つづく>

1215a hope:2012/09/01(土) 07:50:29 ID:r8H4x9xE

人生読本 谷口雅春先生著

希望は人生の光


希望は人生の光です。
眼が見え、太陽の光や電燈の光が見えていても、
希望を失った人は心に光を失った人で、その人の人生は真暗です。
だから、良く見える眼を持ちながらでも、この世の中は真暗だといって自殺する人もあります。

希望(のぞみ)さえあれば、今はその人がどこにおろうとも前途は明るいのです。
希望は自動車のヘッド・ライトのようなものです。
勇気は自動車のエンジンのようなものです。
希望で前途を照らしながら、勇気のエンジンを駆り立てて毎日進んで行くならば、
皆さんは、たとい今どんな所にいられようとも、前途は必ずよい世界へ出られるのです。
(つづく)

1216SAKURA:2012/09/02(日) 04:02:01 ID:kkC4PA/k
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
こんばんは……  ロ―マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。

此処しばらく“遠方…”におりましたので〜〜〜“パソコン”を開く時間も?
勿論!投稿する事も?……唯!時折“スマ−ト・ホ−ン”から、第三者的に閲覧させて頂きました、
【SAKURA…】ですが、やっと“時間”が……?でも、いつもと変わらずの“時間帯…”ですが?
今日も【活かす力のパワ−】を、頂きました。では、簡単で分かりやすく、表現されてますので
【人生の近道…切符・スタ−ト】なので〜〜〜す。

■ 【生 活 読 本】
――――― 常に人の美点を見つけましょう ――――――

 常に明るいことのみを心に描きましょう。常に人々の美点をみつけてそれを賞嘆(ほめたたえ)
しましょう。人々の美点を他山の石(じぶんのためにするたとえ)として尚一そう大いなる美に
到達するのを自分の理想といたしましょう。みにくき欠点を見ないで、いよいよ高く美しき理想
を描きましょう。自分の描く理想は自己の生活する人生の性格を一変してしまうものなのです。
人は理想に従って、その人の人生の色彩、匂い、動作、性格、方向、運命等が自ずから変ってく
るものなのです。もし理想が低ければ、吾々の人生の全体の調子が低いものとなってしまうで
ありましょう。そこから、堕落と下向(したえむく)とが始まるのです。
 
 もし吾々の理想(だい一のきぼう)が高く清く尊きものであるならば、それは必ず吾々の日常
言行動作(おこないうごき)に現れるのであります。強いてそれを他に告げずとも人々は、その
人から発する所の雰囲気によってそれを知り、その周囲に自から集まって来て、彼をその高き理
想にまで、おしあげてくれる仕事をしてくれるのであります。かかる人の全身(からだじゅう)
からは何となき崇高(けだかい)なる雰囲気がたちのぼるのです。かくの如き人こそ常に天国
に住む人といわなければなりません。天国に住む人とは、富の俗悪(げびてみにくい)な物質
のがらくたが山積(山のようにつもる)している中に埋もれて住むことではなくして、斯くの如
き天国的な雰囲気の中に住む人こそいうのであります。

 すべてこれらのことは、心の習慣によって人間の雰囲気が変ることを示しているのであります。
今日行う勉強とか教養とか目的は、人間を粗野(いやしくげひん)なる欠点ばかり見つける
習慣から美なるものを見つける崇高な習慣へあらためさせることにあるのであります。常に間断 
(たえま)なく一そう高き理想に邁進(おそれずすすむ)するものは、常によき雰囲気を得るの
であります。偉大なる人格とは常に美点のみ見て欠点を見ず、常に光のみを見て闇を見ず、善
悪ともにそのあたたかき光にて包んでしまう太陽の如き人をいうのであります。すべて欠点
を心に描けば、その暗い影はまず自分の心に印象(きざみつける)せられるのであって、自分
心のを汚す汚点(よごれ)となるのであります。
                         (谷口雅春著)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆

PS:トキ様 へ
今の私の置かれている【環境のこころ構え?】でしょうかしら〜〜〜ン???
着実に“ゴ−サインへ展開中”です…。きっと!必ず!“魂”は、前以上に進歩でしょうか??
【心 の 法 則】しっかり…認識体制?です〜〜〜ョネ!
やはり【難問題…】にぶつかりました時こそ【心の法則…】駆使出来る様に意志力集中…
でしょうか?トキ様は、この件に関しましてどの様に思われますでしょうか?

       再合掌

1217a hope:2012/09/02(日) 06:16:52 ID:r8H4x9xE

人生読本 谷口雅春先生著

朝起きたときの心掛け


世の中で最も大きく成功した者はみんな心の明るい愉快な人ばかりです。

朝起きたとき先ず、「自分は楽しい、自分の前途には光が輝いている」
と三べん心の中で言って、微笑してから起きなさい。
微笑をもって一日を迎えるのです。
必ずその日一日楽しく勉強や仕事ができるでしょう。
先生や目上の人から誉められるでしょう。

どんな難かしいことがきても、先ず微笑してその難かしく見える事柄に対(むか)って、
「ねえ、君、君と私と仲よしになりましょう。仲よくなったら、君は私に難かしい顔をしないでしょう」
と微笑み掛けて、その事柄に、愉快に楽しく朗らかにぶつかることです。
必ずあなたは、その難かしく見えた事が、容易(やさ)しくなり、
スラスラと事を運ぶ事ができるでしょう。

朗らかな愉快な微笑は、どんな難かしいことでも易しく滑らかにする油の役目をするものです。
(つづく)

1218ハマナス:2012/09/02(日) 11:49:36 ID:mR2szZkc
神の子の皆さま
ありがとうございます。

職場こそ生き甲斐『新版生活の知慧365章』P.236

其処につとめている人たちは、其の職場の雰囲気を楽しいものにすることができなかったならば、その社員又は店員は、その職場に永続して働く意欲がなくなり、ただ一時の「腰掛け」だと思い、仕事に熱がなくなり、顧客に対する対する対応も、熱情のない誠意のかけたものになるから、益々その事業も商売も発展しなくなるのである。社員や工員や店員がこの職場こそ生き甲斐がある仕事場であり、一生を託して惜しまない気持ちになるようでなければ、その事業の真実の発展は期しがたいのである。

近頃では多くの商社は、昼の休憩時間に、テニスや、ピンポンや色々のレクリエーションの施設をもうけて、従業員の気分を快活にするような試みが行われていることはよいことである。出勤中は、「お前の時間は買い取ってあるのだから」と云うような考えで、従業員の心を縛ってしまうならば従業員は慢性のサボタージュに入るであろう。

感謝合掌

1219goro:2012/09/02(日) 17:36:34 ID:Cc8Z7oOY
ケント・M・キースの祈り 「逆説の十カ条」を紹介します。

心静かに黙読して下さい。感動のさざ波が広がっていきます。
本流派を言い募る掲示板のあり方も考えさせられます。


逆説の十カ条

1 人は不合理で、わからず屋で、わがままな存在だ。
  それでもなお、人を愛しなさい。

2 何か良いことをすれば、隠された利己的な動機があるはずだと人に責められるだろう。
  それでもなお、良いことをしなさい。

3 成功すれば、うその友だちと本物の敵を得ることになる。
  それでもなお、成功しなさい。

4 今日の善行は明日になれば忘れられてしまうだろう。
  それでもなお、良いことをしなさい。

5 正直で率直なあり方はあなたを無防備にするだろう。
  それでもなお、正直で率直なあなたでいなさい。

6 最大の考えをもった最も大きな男女は、最小の心をもった最も小さな男女によって撃ち落されるかもしれない。
  それでもなお、大きな考えをもちなさい。

7 人は弱者をひいきにはするが、勝者の後にしかついていない。
  それでもなお、弱者のために戦いなさい。

8 何年もかけて築いたものが一夜にして崩れ去るかもしれない。
  それでもなお、築きあげなさい。

9 人が本当に助けを必要としていても、実際に助けの手を差し伸べると攻撃されるかもしれない。
  それでもなお、人を助けなさい。

10 世界のために最善を尽くしても、その見返りにひどい仕打ちを受けるかもしれない。
  それでもなお、世界のために最善を尽くしなさい。


【著者について】
ケント・M.キース  1949年、ニューヨーク生まれ。
ハーバード大学在学中に、高校の生徒会のリーダーたちを激励すべく150回以上の講演を行なう。
本書で紹介している「逆説の10カ条」は、その活動の一環として出版した小冊子ではじめて発表された。
その後、オックスフォード大学で哲学と政治学、早稲田大学で日本語を学び、ハワイ州立大学では法学博士号を取得。
1979年よりハワイ州の経済企画開発局の要職を歴任し、同局長として州政府の閣僚も務める。
その後も私立大学の学長、YMCAのリーダーなどを務める。

【本の内容】
1968年、当時大学生だった著者が高校生向けの小冊子に記した「逆説の10カ条」は、30年の年月をかけて、
口づてで、写しで、インターネットで本人の知らない間に、ゆっくりと広まり、世界中で愛される格言となっていった…。

マザー・テレサも感動し、引用した至高の処世訓が指し示す「人がこの世界に生きる意味」とは?
たった10カ条の心構えが、あなたの人生に大きな違いを生みだす!ニューヨーク・タイムズ紙も、
その出版までの不思議な経緯と格言の価値を1面で報じた話題の書。

【出典】 ケント・M・キース 著 「それでもなお、人を愛しなさい」 早川書房

1220SAKURA:2012/09/02(日) 23:34:00 ID:jH5uEFzM

トキ様 へ
観覧者の皆様 へ

こんばんは……ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1214続き投稿です…。

■ どんな教えが生長の家か
――――目を開けば世界は光に満ちている ――――  藤原先生著

宗教とは、このように物事を当り前に観、正しく観ることが出来る人間に育てることなのでありま
す。
一般の人は、宗教といえば、何か特別のことをして、どうにもなりそうもない難問題や、医学や、
常識ではとうてい解決も治癒も出来そうもない事件を信心とか修行とかによって、特定の限られた人
達だけに用のあるもので、普通の人には難かしいものであるかのように早飲みこみして頭から敬遠し
ておられる人もあるようですが、正しい意味の宗教というものは、決してそのようなものではないの
であります。
 
本来明るいものを、わざわざ目を閉じて、暗い暗いといっていたのが、目をあけたとたんに、いっ
ぺんに明るくなるのと同じですから、別におどろくようなことではないのです。ただ長い間、目を閉
じていて暗いのが当たり前だと思いこんでいるのが突然明るくなるので、ちょっとビックリするだけの
ことであります。このビックリするのを懺悔というのです。大いにビックリするのを大懺悔というの
です。信仰とは、常に懺悔し、驚き続ける生活をいうのです。
 
お釈迦様が悟りをお開きになったとき、 「天地六種に震動す」とありますから、この天地が六つに
も割れて、大きな音をたてて砕け散ったという意味であります。
 これは物質の否定であり、現象の否定であったと思うのであります。
 肉眼だけで物を見るところの唯物論の立場からだけこの世界を見ていたのが、自己の霊的自覚を得
て、生命を見る眼が開けることによって、見えている物質がないとわかり、今まで考えたことも、思
ったこともなかった目に見えないもの(神、仏、生長の家では生命の実相という)がハッキリと観られる
ようになり、見えるもの (物質) と見えないもの (霊、生命) とが入れ変わることになるのでありま
す。すなわち、生長の家の教義の基本であるところの「唯神実相論」としての世界の観方に完全に変
ってしまうのであります。
 
世間一般にいうものの考え方は、大きくわけてふた通りに分類されております。
 
一つは科学の立場からだけものを考える唯物論と、哲学の立場からものを考える唯心論とでありま
すが、唯物論は五官という感覚器官、目、耳、鼻、口、皮膚の五つの器官を通してだけ物を観察する
考え方であり、 唯心論とは、 物と物と感じられるのは感ずるという心があるからで、心というものが
なければ、何があってもあると感ずることは出来ない、すべては心によるものであるとする考え方を  
いうのであります。このように一般常識ではその二つしかないのでありますが、 「生長の家」の思想
でいえば、そのどちらもが相対的なものの考え方であって、絶対的なものの考え方ではなく、相対的
にはどちらも正しく、 またどちらも間違っているということになり、 真理 (絶対の法則) ではなく、
そのような曖昧なものの考え方では確信なある答え(結論)が得られないのは当然であります。

                                   <つづく>

1221トキ:2012/09/02(日) 23:53:07 ID:LC0vKgj6
>>1219


 すばらしい御文章ですね。伝道者の座右の銘です。ご紹介、ありがあとうございました。

合掌 ありがとうございます

1222a hope:2012/09/03(月) 06:54:54 ID:r8H4x9xE

人生読本 谷口雅春先生著

憂い顔では出世せぬ


「憂い顔の奥さんを持つな、一生出世せぬ」という諺(ことわざ)があります。
憂い顔とは、陰気くさくふさぎ込んだ顔のことです。
陰気くさい顔をしていれば、本人が人に嫌われるばかりでなく、その良人まで出世させなくするのです。

顔の感じは習慣性ですから、少し気をつけ、朗らかに愉快に微笑するようにすれば、
どんな陰気な憂い顔でも暫くのうちに、陽気な明るい顔になれます。

陰気な顔と、陰気な心は、物を壊す作用(はたらき)を有(も)っていますが、
陽気な顔と、陽気な心は、物を生かし、物を成し就(と)げさし、
更に新しく良い考えを思いつかす力を持っています。
陽気は、人生という複雑な機械の摩擦を少なくする油です。
陽気の油を差してさえ置けば人と人との間に摩擦は起こりません。

どんな正しい人でも、陰気臭く、人の暗いところばかりを探しあるいて告げ口しているような人は、
人生という機械に砂利を抛(ほう)り込むようなものです。
そんな人の人生は直ぐに壊れてしまって仲が悪くなってしまいます。

内証で告げ口しても、告げ口は必ず聞えるものです。
他の人の良いことを告げ口しておれば、その人は必ずよくなり、その人と必ず仲がよくなります。
その人の悪いことを告げ口しておれば、その人は必ずいっそう悪くなり、その人と必ず仲が悪くなります。

言葉は種子(たね)です。
悪いことを話しては悪いことは殖えます。
善いことを話したら善いことは殖えます。
愉快な、毒にならない、明るい話ばかりをするようにいたしましょう。
(つづく)

1223a hope:2012/09/03(月) 08:11:33 ID:r8H4x9xE
SAKURAさま

>>1214>>1220と謹写してくださっているのは、
藤原敏之先生の「あなたは必ず救われる」のご文章ですね!

この藤原先生のご著書はわたしも拝読しました。
信じられないような「生長の家の愛の奇蹟」がたくさん紹介されていてとても驚きました。

わたしが、強く赤線を引いてある箇所を紹介させていただきます。

藤原敏之先生の「あなたは必ず救われる」 P233 後ろから4行目〜
―――――――――――――――――
……一人の神の子を自覚した人の真心と愛行によって、このようなすばらしい成果を生むことができるということを、眼のあたりに見せていただくことが出来たのであります。
知った力には限界がありますが、信じた力は全く無限であります。昔から「信は力なり」といわれるのもそのためであります。理解だけでは力の一番の根源につながっておらないのであります。すべての徳も力もどこから来るかと申しますと、神(絶対者)からくるのでありますから、そこにつながり、そこに発したものが本物なのであります。その発見と自覚が信なのであります。信とは自と他がなくなる事であり、自他が一つになることであります。その一つになった状態を信と言うのでありますから、信は無限であり絶対であります。相対の信は、形は信のようでも力とはならないのであります。何かに頼ろうとする心は、ますます自信を失うばかりで無力信仰となるのであります。正信と迷信の区別は何によって区別するかと申しますと、正信とは自信であり、名信とは依頼心のことであります。何かに頼れと教える宗教は明らかに迷信なのであります。自分自身の中の神を観、神を発見する以外に本当に救われる道はないのであります。
(つづく)

1224a hope:2012/09/03(月) 08:13:32 ID:r8H4x9xE
(つづき)
>>何かに頼れと教える宗教は明らかに迷信なのであります。自分自身の中の神を観、神
を発見する以外に本当に救われる道はないのであります。<<

この最後の言葉が、「ドーン」と魂に響きました。

また、goroさまが謹写してくださった、ケント・M・キースの祈り 「逆説の十カ条」も、
神(自分)への信を貫かれている素晴らしい文章だと感じました。
ハマナスさまや、うのはなさま、他の方々の聖典の謹写もとてもお勉強になるものばかりです。

みなさま、いつも本当にありがとうございます。

合掌

1225ハマナス:2012/09/03(月) 13:31:06 ID:mR2szZkc
神の子のみなさま
ありがとうございます。
どう言う訳か、ネットの接続が出来なくなってしまいました。携帯から謹写させて頂きます。


業主と従業員との間
『新版生活の知慧365章』p236

従業員を自分の家族のように思い、それを愛し、大切にし、その一家の幸福を自分の幸福のように思う社長、店主、部長などのいる会社や商店および職場は栄えるのである。従業員の一人が病気であれば、自分の娘又は息子が病気であるかの如く親切に見舞ってやり、花でも送ってやるだけの愛情を社長や店主は持つべきである。社長みずからは忙しくて出来なければ、「社長の命令で来た」と云うので社長秘書が社員を見舞ってあげる位のことは是非とも為すべきである。

その結果は従業員と業主との間を精神的に愛情をもって結びつけることになり、その会社又は店の発展するのために従業員が懸命の努力をしてくれることになるのである。このような緊密な愛情によって従業員と業主が結ばれるとき、ストライキどころか、仕事が忙しいときにみずから進んで早朝出勤や残業までしてくれるようになる。

感謝合掌

1226うのはな:2012/09/03(月) 18:00:07 ID:cZ3Ym7Bg
精神統一の形式   谷口雅春 先生

 すべて善き言葉は潜在意識の中に植えつけられて善き果実を結ぶ種子となるのである。
善き言葉が信仰及び精神統一の力によって培養せられ、それが根を卸して深く潜在意識の中に
はびこり、更に宇宙意識の中にまでその善き言葉が浸透する時、それは宇宙的な養分によって養われ、
すばらしき偉大なる果実を結ぶに到るのである。

 善き言葉の種子を潜在意識の中に蒔くためには色々の方法があるのであるが、ともかくその「善き言葉」は、
生き生きとした言葉でなければならないし、雑念や疑いをさしはさんではならないのである。
  信仰と、熱情と、精神統一と、平和なる信頼の念とによって魂の奥深く「善き言葉」をくりかえすことが
必要なのである。

 だからヨガナンダは簡単な機械的な言葉のくりかえしを避けているのである。
その点生長の家の『甘露の法雨』の読誦に類している自由詩のような美しき言葉を、詩を朗誦するようにまず
自分の耳にきこえる言葉にてそれを高誦し、やがて次第に声を低くして深く魂の奥底にその言葉を印象することを
すすめているのである。

投稿者現代字に変更写

生活応用『健全の真理』 谷口雅春 先生著 P130〜

1227SAKURA:2012/09/03(月) 22:44:49 ID:jH5uEFzM
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1043>>1044>>1052>>1057>>1058>>1063>>1068>>1073>>1087>>1092>>1093
>>1097>>1098>>1167>>1170>>1171>>1174>>1175>>1190>>1194>>1210
に関しましては、【ベスト・フレンド】シリ−ズで〜〜〜す。 

実は、私の「青春シリ−ズの一冊の本」なのです。(討論課題項目が、幾つかに分かれてい
ますが?)意外と真理が、分かりやすい【討論形式】なのです。…が〜〜〜??
【コロンビア大の方達が、真理…サイコ的】に? 昨日の投稿文章は、皆様!如何でしたかしら〜ン?

■【ベスト・フレンド】  ( 混乱を静める方法 ) 

――――― 混乱静める方法  ―――――

|❤あなたは、わたしたちが人生のもっとも重要な部分については意識す
|らしないままに、子どものころからいままでできたといわれるのですね。

そうです。しかもその影響力はきわめて強いことがあるのです。自分では
現実の人間や事業にたいして反応しているつもりでも、じつはそれは自分が
生まれて以来こころのなかでずっと書いてきた小説の一部分を書きつづけて
いるのにすぎないということがよくあります。

 たとえば、子どものときに肉親に見捨てられたと感じた人は、その体験が
世のなかを見る目に重大な影響をもたらすものとなり、その結果、処世術さ
えも規定されてしまうのです。だから、おとなになってからも、この人は自
分を見捨てる人かどうかをつい考えてしまうのです。こうした点については
きわめて敏感です。

 もうひとつは、自分の行動によってこちらの方から人を追い払ってしまう
ことです。あるいはほんとうは少しも自分にたいしてまちがった扱いをしな
かった人を、「あの人は自分を見捨てたのだ」というように思い込んでしま
うこともあるでしょう。どんな処世術を選ぶにしろ、そういう人は人に期待
することについて自分の考え方を確立してしまいます。それが自分にとても
満足感をあたえるわけです。
                  <つづく>          再合掌
PS:トキ様 へ………   すべて「環境…」から始まるのでしょうか〜〜〜???
昨日の【悪霊…】も、“我欲からの執着?”からの出発ですが…
そのような“人間の心”の捉え方次第なのでしょう〜〜〜。“複雑な気分”と“今しかない!”
その様な“自覚・認識”が、私にはあります…。現在の私は、FUKに在中ですが…、
25年前にいた頃は、FUKのイメ−ジは、自慢する程「良かった子ちゃん」なのですが〜〜〜?
25年後の現在は、当時と変わりまして“ビックリ”する事ばかりが目にとまりますかしら〜〜ン><

この様に「過ぎ去りし25年間の歳月の過程」から感じますものでしょうが、
これもやはり「環境…」からですし、TYO在住の頃の影響が…多大だと思います…。
過去の【イメ−ジのFUK】を引きづりながら、今でも、【四面楚歌という現状の“環境”】が、
今の私にとりまして…やはり【イメ−ジに属さないモノ!!関わりたくないモノ!!が多すぎた事】
なのでしょう。…この頃は、痛切に思います??
今の私の“環境”には【悪霊のかたまり集団…吸血鬼・ゾンビ…】に包囲されています。…が?
全てのもの事…例えば?仕事とか?行動なすこととか?を【妨害…】されながらですが、
この様な環境は、私にとりまして前代未聞…想定外なのですが〜〜〜??

■昨日より、更に!今日の【意識について】彼ら【悪霊…吸血鬼集団の満足度】は〜〜〜
益々“加速”されますでしょうが〜〜〜><
これでも【意志力=心の法則】にのっとりまして【心の法則…駆使…修行中】です!!
まだ〜まだ〜【討論形式】で、【真理…】を此処にて投稿させて頂きます。…が?
今の私は、昨日より今日〜♫〜今日より明日〜♫〜この様に強くなっていく自分自身を感じます。
「トキ様」は、どう思われますでしょうか〜〜〜??(少々…ブレイクしましたが??)

1228a hope:2012/09/04(火) 07:16:09 ID:r8H4x9xE

人生読本 谷口雅春先生著

明るい心は健康の基(もとい)


愉快な明るい毒にならない言葉と申しましたが、愉快な明るい心と言葉とは
毒にならないでかえって薬となりますが、陰気な、暗い、ふさぎ込んだ心と言葉とは毒になります。
それは人の運命を悪くする毒になるばかりでなく、人の健康を悪くする毒になります。

黒住教の宗教(おしえ)を開いた黒住宗忠(むねただ)という人は、
一週間ほどの間に両親が相継いで死んだものですから、
悲しみの末、胸がふさがり、陰気な暗い暗い心になったものですから、
肺病にかかりましたが、人間は肉体は死んでも魂は生き通しであることを悟って、
心がクラリと一転しまして、毎日にこにこ笑うようになられましてから病気が治ってしまったのです。

そんな話は、生長の家の誌友の中にはザラにあります。
日本ばかりではない。
マーデン博士の本の中にも、米国アラバマ州の一人の肺結核患者の農夫が、
或る日、野良(の)へ出て鍬(くわ)を持って田を耕しているときに多量の喀血をしたが、
助かったという話が書いてあります。

慌てて招(よ)ばれてきた医者は、余り多量の喀血なので、
その農夫に「あなたはもう助からぬ」と申しました。
その農夫は「まだ死ぬのは早い」とだけ申しました。
しかし起きあがる力もなく唯じっとしておりました。
家族が出て自宅へ舁(かつ)ぎ込みます。
そのうちにやっと物にもたれて坐ることができるようになりました。

その農夫はこの時はじめて気がつきました。
「もう自分は世の中の全ての物にお別れをする時が近づいたのだ。
色々の物のお世話になって私は今まで生きて来た。
しかし自分はそれらの物に一度も礼を言ったことがない。
いつも自分はすべての物にシカメ面ばかりを見せて来た。
これから何分間生きるか知らないが、その間じゅう私は、
すべてのものに感謝して微笑み掛けよう。」

こう決心して、天井にも、机にも、敷物にも、本にも、
そのあたりに見えている全てのものに常に間断なく心で
「君たちありがとう、君たちありがとう」
と感謝して微笑みかけることにしました。

間もなく、病人は見違えるように元気になり、喀血のために減っていた血も暫くのうちに殖えてきて、
前よりも一層健康な愉快な男になってきた―――とマーデン博士は書いております。
(つづく)

1229「訊け」管理人:2012/09/04(火) 09:54:35 ID:???
『すべてを癒す道』(藤原敏之著)128頁より謹写――


<< 往信 >>

 長年の生長の家信徒で、教えはよくわかっているが、心臓病と喘息で苦しんでいるという婦人から。


<< 復信 >>


合掌

 御文意正しく拝承致しました。次から次と種々の魂向上のための自壊作用が現れ難儀しておられるご様子、心より御同情申し上げます。私達は天の使いとして神意を地上に顕現するための尊い使命によって、地上に誕生したものでありますが、また一面魂が無限に向上を遂げるための過程として人生学校に入学したものでもあります。ですから人生とはその人の魂の程度に応じて問題のあるところなのです。問題のないことを願う気持はわかりますが、それは神の子とわかってはいても、未だ自覚が得られていないからであります。神を知ってはいるけれども信じていないからであります。わかったのと信じたのとの違いであります。知った知識が救うのではなく、信がそのまま、即救いとなるのであります。


 キリストも〝汝の信ずる如く汝にまでなれ〟と教えられ、又〝汝の信仰汝を癒せり〟とも教えておられます。よく判ったら救われると教えておられないところに御注目ください。


(つづく)

1230「訊け」管理人:2012/09/04(火) 09:55:07 ID:???

(つづき)

 尊師谷口雅春先生も救いの根本が自覚にあることをお教え下さっております。自覚とは気がつくことでありますが、ただ表面の心で気がつくのではなく、魂(生命)で知ることであります。もっとわかりやすくいえば身体で知ることであります。信とは実感となることであり、実感は身体を通して知ったときであります。火が熱いとわかるのは、手に触れてみるからです。考えたからでも、熱い論理がわかるからでもありません。実感を通してのみ、信念となるのです。料理を食べておいしいと感ずるのは、訳がわかったからおいしいのではなく、食べてみたからです。料理に関する知識や訳が全然わからなくて食べても、おいしいものはおいしいのであります。いくらきいても読んでも救われないというのはこの肝腎の行がないからです。

 何もわからず、知らずにいても、行じている人は救われるのであります。それは救われていない者は本来無いからであり、みんな既に救われておりながら、救いを現さないだけなのです。工事も完璧であり、電球も備え付けてあり、発電所では無限に発電せられておりながら、暗いのはスイッチを入れないからであり、電源につながらないからであります。発電所には電力があるとわかり、電球はともるとわかっておりながら、スイッチを入れないで〝どうして明るくならないのであろうか?〟と思い煩っているのと同じであります。信仰に最も大切なことは真剣さと素直さであり、勇気と行動力であります。何故かと考える先に行動致しましょう。救いの根本行とは、ただ〝有難う〟と感謝することであります。どうすればよいか・・・ではありません。そのままで感謝するのです。善くても有難く、悪くても有難いのであります。自分の力によるものは何一つないのでありますから、一から十までことごとく頂きものであった、丸貰いの丸儲けとわかれば感謝以外にはないはずであります。自己の力をちょっとでも頼みにし、当てにしている間は無条件に感謝出来ないのです。〝私が無かった〟とわかるとき、無条件の感謝となります。

 人間としての私は昨日死んだものと決めなさい。死に切ってごらんなさい。今あるのは神様だけになります。神様だと決まったら、病気はないのです。神以外に〝私がある〟と思っているから病気を認め、病気を許すのです。病気と妥協し、病気の存在を許すから、無い病気が〝のさばって〟あるかのように幅をきかせるのです。今日限り、今限り、病気の存在を否定し、断乎として追い払いましょう。無い病気を認め、許すのが無明です。その無い無明が病気の姿をして頑張っているだけです。
 『甘露の法雨』に「あらざるものを有りと想像するが故に迷いなり」とあります如く、全く夢であります。夢は無いけれどもみている間はあると感じて苦しむのです。あなたも病気の正体を見破りなさい。あると認めて治そうと思っておられる限り、あるように現われます。救われようと思い、焦っている限り救いは現われません。それは救われていないと信じているからです。救われていなかったら、生まれることも生きることさえも出来ません。生かされている事実を信じて、只管(ひたすら)感謝し、「有難うございます」を一日少なくとも、一万回以上誦えましょう。三時間半で一万回誦えられます。これを実行して十年間の全身リュウマチが一日で治った実例があります。なぜといって、理由も訳もありません。神様に波長を合わせるから、本来の姿が現われるだけであります。結果を予想せず、ただ「有難うございます」をコトバに誦えましょう。求めなくても結果(答え)は現われます。大根の種を蒔けば、訳も理由もなく大根が生えるようにであります。

 このことを信じて唯々行じましょう。

 再拝


<了>

1231ハマナス:2012/09/04(火) 12:45:01 ID:mR2szZkc
神の子のみなさまこんにちは。

業主の愛情の表現『新版生活の知慧365章』p.237

企業は業主のものでもなければ、従業員のものでもない、資本、経済、労働、知能の各要素が渾然結ばれたる有機的な一体のものである。その一体感が失われるとき、その企業は躓きはじめる。企業全体の繁栄は従業員全体の繁栄となるような構想で事業を運営するようにしなければならないのである。従業員をただの生産をあげる機械だと云うような考えから脱却しなければならない。仕事場全体が幸福の雰囲気に包まれているようにしなければならない。

時々、社長や部長の贈り物として、ややくたびれた頭脳をひき立たせる一個のケーキに添えてお茶又は珈琲などサービスするのも、仕事場を楽しい幸福の場にする社長の愛情の表現であってほしいものである。“愛情の表現"が必要なのであって、そう云う規則と云うことになってしまっては、空気は必要であるけれども、それを与えられることによって何の幸福感も感謝の念も起こらぬのと同じことで、このようになっては効果がない。

感謝合掌

1232SAKURA:2012/09/04(火) 17:23:47 ID:jH5uEFzM
a hope様 ヘ

こんにちは……  ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。

【横スレ?】ここの“ボード”良いのかしら〜〜〜ン?と思いつつも……
>>1223>>1224【a hope様の投稿文】を拝読させて頂きまして……
■>一人の神の子を自覚した人の真心と愛行によって、このようなすばらしい成果を生むことができると
いうことを、眼のあたりに見せていただくことが出来たのであります。
知った力には限界がありますが、信じた力は全く無限であります。…云々…  (一部抜粋)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆
■藤原敏之先生の「あなたは必ず救われる」…此の抜粋文の紹介…ありがとうございます。

私も…時々「藤原 敏之先生」の書籍を、紹介させて頂いておりますが…
実は?先生との出会いもありますが…
先生の「ブックカバーの中に記載されています言葉」が〜特に!私は印象深く、それからの始まりでしょうか。

〜〜〜【一部抜粋投稿】 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆
「あなたは今幸せですか?」とたずねられて、
「ハイ幸福です」と言いきれますか。
 人間は誰でも多かれ少なかれ不安を持っていて、心の底ではもっと安心を願いながら本当の救いを
求めいます。…云々…
“人生という畑に菜っ葉を願っているのに大根がでてきてしまったら、菜っ葉の種を蒔けばいいのだ“と。
“行く先の違う電車に乗ってしまったら、ただちに乗りかえよう”と………
さて皆さん、菜っ葉を願いながら大根を蒔いている方はありませんか?
東京に行きたいのに九州行の電車に乗っている方はありませんか?
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆

ツイ〜ツイ〜♫  笑ってしまいまして「菜っ葉派?ダイコン派?…」と、此処から引き込まれましたでしょうか? 
このように「書籍」との出会いは、“心”があらわれる思いが多々あります。

今回の紹介して頂きました「抜粋文…」本当にありがとうございます。【真理…】を、勉強して参ります上で、
今後とも【a hope様…聖典抜粋…】楽しみに、致しております。
何卒、宜しくお願い致します…。(おそくなりましての“返事”…申し訳ありません。)

                                                    再合掌

1233SAKURA:2012/09/04(火) 18:52:50 ID:jH5uEFzM
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
こんばんは…… ロ―マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。

■幸福を招く365章
――――― 誰かに役に立つよう心掛けよ ――――

 何か、誰かに対して役に立っていると云う想いが自分の存在価値をみとめしめるのである。
誰かのためになることを一日に一度でもせよ。それは貴方の生活を支えて行く力となるのであろ
う。人のためになる行為は自分の生活の基礎を築いて行くのである。自分のためになる仕事は
その基礎の上にのみ築かれてのみ永続するのである。一つとして人のためになる行為をしたこ
とのない人は、どんなにその人が成功しても、心の中には敗北があり、寂しいのである。与え
る物がなければ、激励の言葉や、鼓舞する言葉や、誉める言葉や、愛語や、微笑を与えるだけ
でも相手を生かすことができるのである。
                               (谷口雅春著)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

PS:トキ様

此処「2チャンネル…ボード“のコメンターの方で、非常に身内びいきの表現とか?敵対心とか?
丸出しでの表現文章…が出てきます時は、つい!こちらも構えてしまいますでしょうかしら〜〜ン!
あくまでも「投稿文章の中の世界…」ですから、その人の“心の広がり”を表現するのが、大事では…?
何故なら「狭い範囲の世界」ですから、当然の事ながら “表現”が、非常に重視されるのです〜〜〜ョネ!

読者の皆様は、「御本人達の読みなれた人?ファン?」の対象から先に、閲覧でしょうから……
如何に、“表現方法”が出来ますかは、読書(本の購読)により、相手に伝える事が出来るのでしょうと??
最近!他人の言葉を“スル―”して表現されていますが…その人の【個性の捉え方】では……
と、視点を変えまして、考える様にしています。

この様に「置き換え…」て、切り替えて参りますと……
【対話形式】でも、やはり“聞く事”・“熟読する事”で、つながりが、もっと出来るのでしょうか〜〜〜??
更に、それに付属して【相手を賛嘆】しながら、生かす事が…大切な事でしょう〜〜〜。
但し…此の生かす事は “媚を売る” のではなく、自由に私自身の意見を発言しながらも、
先ず!相手の意見を、受け入れながら、吟味しまして、尚!かつ自分の意見を、相手へ伝える事が、
真の意味での、相手をたてる事なのではないのかしら〜〜〜ン!と、この頃、つくづく思います。…が?
今回【此処の別のボード】で、時間をかけて投稿しましたら“投稿文章”が長いので、その後でしょうか?
【ネガティブ言葉(暗い)…】を頂きましたが?個人的に、その様に“投稿表現”が、そうみましたが???
■【SAKURA】に埋め尽くされます〜〜〜。と“文章の短さ”に、当時の私は、不快感を、頂きました…。
それに、別の方々が…【同じように…各ボード埋め尽くし作戦】されても??何の音沙汰?と言いましょうか?
批判的言葉…されて居ません〜〜〜モノ!!
■【イジメ…】でしょう〜〜〜!!

その後!其の方の文章…全てが暗い〜暗い〜暗い〜暗い〜感じで“ネガティブ表現”に…
本当に、この方?「生長の家…」なのでしょうか?御本人は「教区…」とかおっしゃいますが〜〜〜??
もしかして…幹部?本部職員?部外者?……etcこのような【人間模様…】が、色々いますので、
今後!相手を生かす事を、果たしてこのような人達が、何処まで出来ますでしょうか?悩んでしまいますが?
たまたま【ネ ッ ト の 世 界】ですから……【心 の 修 行 】と思いながら……
現在の私の心模様は “トライ!!トライ!!” しながら前に前進!のみです。

「トキ管理人様」は……
今日の「雅春先生」の言葉…■【相手を生かす】この件は、どの様にお考えなのでしょうか??
                                                        再合掌

1234うのはな:2012/09/04(火) 22:49:20 ID:wEsUJlf6

實相直観的思念法は、三段論法的に一歩一歩論理的に積み重ねて行くことなしに、
直観的に相手が神の子であることをそして完全であることをそして完全であることを
直観するのである。

 もし彼が真に神の子の完全さを直観することが出来るならば、たちどころにその
治癒は完成する。

 メンタル・サイエンスの治療家は病人から病気と見るものを自分の心の中に奪いとり、
それを自分の心の中で真理の光に照して熔してしまうのである。それが行われる場所は
どこまでも自分の心の中である。

 メンタル・サイエンス奥義  谷口雅春 先生

1235a hope:2012/09/05(水) 07:00:37 ID:r8H4x9xE

人生読本 谷口雅春先生著

常に微笑せよ・常に感謝せよ


明るい微笑と感謝の心こそ、浄(きよ)い健康な血液の造血者(つくりて)なのです。
増血剤(ぞうけつざい)をいくら服(の)んでも暗い心で血を瀆(けが)していては何にもなりません。
多くの病人が治らないのはそのためです。

心が腐れば肉体が腐るのです。
心が腐れば事業が腐るのです。

「笑う門に福来る」です。
明るく笑う人の前には、常に健康と幸福の門が開いているのです。
微笑にまさる健康法も幸福法もありません。
(つづく)

1236「訊け」管理人:2012/09/05(水) 11:34:26 ID:???
――――――――――――――――――――――――――――

 「あなたは苦しみが伴うから無い病気をあると認めておられ
ます。つまり迷いと妥協し、偽もの を許しておられます。」

――藤原敏之

――――――――――――――――――――――――――――

 合掌、ありがとうございます。さて本日も『すべてを癒す道』より藤原先生のお言葉、謹んで紹介させて頂きます。宜しくお願い致します。




『すべてを癒す道』131頁より謹写――


<< 往信 >>


 長年の喘息の発作に苦しむ、入院中の女性。




<< 復信 >>

 合掌

 お手紙によりますと、長い間の喘息の発作にてお苦しみの御様子、誠にお気の毒です。七月の練成会にもおこし頂いたそうですが、未だ快癒せず入院中の由、私の祈りと愛念の不足を痛感致し、深くお詫び申し上げます。  
 あなたは宗教による救いと医師の医療とを混同しておられるようですが、身体に現れた疾患を治すのは医師の仕事であり、医療の目的でありますが、宗教の目的はそのような現象の悪や不完全を取り除いたり、身体の病気を治すためのものではありません。神様を医療の代行機関や薬や注射と間違えてはなりません。信仰によって、難病や奇病が癒えるのは悪いのが何かの力を借りて、何かを足してもらって快くなるのではありません。元々、どうもなっていないから、どうもなくなるだけです。あなたのお手紙では、どうもそこの所が未だ本当におわかり(覚り)になっていないように思われます。生長の家のみ教えは絶対でありまして医学や常識では絶対に治らないとされている業病や奇病でも簡単に消えてしまって、治っているのですが、あなたの考えておられるように悪いものが何かによって快くなるのではありません。どうもないと覚ったとき、どうもなくなるだけであります。練成会のときにも申した通り、目を閉じて暗い暗いと思っているのが、目を開けなさいといわれて素直に目を開いて今まで暗かったのが明るくなるのであって、本当に暗があるのであれば、どんなにしても暗を除くことは出来ないはずであります。光を見ないから暗いだけであります。夢の中での出来ごとがどんなに恐ろしいものや苦しいものであっても夢は元々実在ではないから目がさめれば、みんな消えてなくなるのと同じであります。宗教による解決法はすべて今まで本当だと思っていたものが、例えば目に見えるもの(現象)が実在だと考えていたのが、根本的なまちがいであって現象はすべて影であり、実在ではなかったと心の底から気づく(自覚する)ことであります。肉眼では見ることの出来ないもの、即ち本当にあるものは生命であり、理念という心であったと気づくことであります。普通一般常識はみな逆なのです。実在するもの(實相)は目に見えないから無いと思い込み、影である現象は目で見えるから本当にあると思い込んでおりますが、このことを仏教でも生長の家でも無明である、これが根本的な間違いであるとお教え頂くのであります。


 しかも一切の苦悩、病気も貧乏も争いもことごとく無明から生まれると教えられます。この根本を解決せず、結果である病気だけを治そうとしても本末転倒ですから解決のしようがないのであります。あなたほどの人であれば、ここの道理がわからないはずはありません。したがって運命も環境もすべて心で決め、心の思っている通りに現れるのであります。
 あなたは苦しみが伴うから無い病気をあると認めておられます。つまり迷いと妥協し、偽ものを許しておられます。お化けがいると思っているのと同じであります。無い現象の方を信じ、實相(真理)を信じていないから、「よくなりたい、よくなりたい」と願いながら、いつまでも治らないのであります。あなたはみ教えを知り、理解はしておられるようでありますが、未だ信じておられないようであります。

(つづく)

1237「訊け」管理人:2012/09/05(水) 11:35:01 ID:???

(つづき)

 宗教は学問ではありません。私達は現実に生活しているのであって考えているだけではありません。宗教は考え方も変えますが、生活をも変えるのであります。実践(行)を伴わないのは宗教学であって信仰とはなりません。お腹の空いたのは、どんなに食べたらふくれるとわかっても考えてもおいしくもなければ満腹感も生まれません。行を通さなければ実感とはなりません。実感を通さないから信とはならず、現実の救いともならないのであります。〝こうらしい〟と〝こうだ〟とでは内容的には大きな開きがあり、力の生まれる度合いに於いては問題にならない程大きな違いを生ずるのであります。先ず第一に神の子である事実を生命で把握しましょう。自分の力で出来ていることは何一つない事実を素直に確認し、根こそぎ全托しましょう。後は神の生命、神の権能(ちから)だけに生かされている事実に目覚めましょう。


 病状から推察してあなたは大変潔癖症で間違ったことは許せないという性格のようですね。その上大変気が短い方のように思います。喘息になる方は大体性急な人です。これは長所であると同時に短所でもあります。この性格は信仰による以外にはちょっと治りません。それとご主人に〝絶対ハイ〟が足りません。心の底でご主人の命を突き返しておられる、その心が息(生命)の通る道をふさぐのであります。神の子だと自覚したとき、他を裁く心がなくなり、そのままで感謝し拝めるようになります。責める気持が逆にお詫びする心になります。喘息など神様がお造りにならないから元々無いのです。あなたの思いが一変すれば勝手に消えてしまいます。あなたは今、尊い体験を通して喘息で悩んでいる沢山の人を助ける使命をさずかっておられるのであります。喜びを以て精進して下さい。

<了>

1238SAKURA:2012/09/05(水) 23:04:25 ID:jH5uEFzM
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1043>>1044>>1052>>1057>>1058>>1063>>1068>>1073>>1087>>1092>>1093
>>1097>>1098>>1167>>1170>>1171>>1174>>1175>>1190>>1194>>1210>>1227
に関しましては、【ベスト・フレンド】シリ−ズで〜〜〜す。 

実は、私の「青春シリ−ズの一冊の本」なのです。(討論課題項目が、幾つかに分かれてい
ますが?)意外と真理が、分かりやすい【討論形式】なのです。…が〜〜〜??
【コロンビア大の方達が、真理…サイコ的】に? 昨日の投稿文章は、皆様!如何でしたかしら〜ン?

■【ベスト・フレンド】  ( 混乱を静める方法 ) 

――――― 混乱静める方法  ―――――

|❤ それはまったく深刻なことですね。

 あるいは驚かれたかもしれません。正しい行為はこの世でもっとも人間を
満足させてくれるものです。逆にいうと、誤った行為をしていると、気持ち
はつねに不安定になります。自分が失敗したなと感じることは自分自身にき
わめて強い衝撃を与えます。

 人々が変化を望まない理由はここにあるのです。変化を求めることは、自
分のまちがいを認めることになるからでしょう。かってある患者が怒って、
『しかし、そんなことをいえば、わたしは生まれてこのかた四○年間を無為
に過ごしたことになるじゃありませんか』といったことがありました。多く
の人のなかには、自分の過去の過ちを悔いて損失を少なくするよりもむしろ、
これから四○年間、いままでと同じ過ちを繰り返す方がいいという人もいる
のです。

 人間とはなんとかたくなな存在なのでしょう。現在の誤れる行為を少しで
も長くつづけていれば、そのうちそれが正しいものとして認められるように
なるだろうとひそかに信じ込んでいるようです。現実は彼らのものの見方に
したがうようになるでしょう。その逆ではありません。こうした人たちはい
まなお自分の両親を降参させようと努めていることになります。たとえば、
自分が五歳のときにしてもらえなかったことにたいする怒りの気持ちをいま
だに捨てきれていないのです。

 しかも、そうした怒りをきわめて正しいものと考えています。そして自分
がいかに不公平な扱いを受けたかについて、くどくどと説明するでしょう。
ふつうはそれはそれで正しいといえます。つまり、その人はかって子どもで
あったときにあざむかれたわけです。しかしその人は、現在、おとなとして
自分自身をあざむいているということに気づいていないのです。その人が、
かって自分を拒否した相手にたいしていまでも怒りのエネルギ−を費やして
いる限り、自分自身にとって必要な事柄を達成するための努力ができなくな
ります。その怒りは両親を傷つけるのではなく、自分自身を歪めることにな
りかねないのです。

PS:トキ様 へ
わたしも【お家騒動…分派の方の考え方…】を、理解しようと思いました。…が?
彼らは、あくまでも『雅春先生時代通り?…そのままでしょうか?つまり!昔のやり方に、
誇示している様に、思えてなりません。…が?これは、
私!戦後生まれ…です。【第一世としての両親の運動展開 】を、幼少から見ていましたが、ある時、
高校の終わりの頃でしょうか〜〜〜?当時!私の街は、殆ど方が「生長の家…家族」でした。
なのに?どうして?なぜ陰りが?出て来たのでしょうか〜〜〜?【原因は??】
彼らは余りにも【昔の運動体制…】のみを良い!!この様に美化しているのでしょうか!!
最近は、思えてなりませんし、当時の私も両親が、熱心に運動展開をしていましたから、【当たり前?】
でしたが……ここにきての【お家騒動…】を考えますと?

■時代の流れを考慮し、その時代の人々の“心の中の深層部に…伝わる真理・伝導”が必要では・

今回「今日の言葉」より、過去のやり方を〜〜〜><
【 正しいと信じている姿は、時代の流れに、取り残された集団!!!】に、
つい!つい!見えるのでは?その様に思えてなりません…。どの様にお考えでしょうか〜〜〜?

                                     再合掌

1239ハマナス:2012/09/05(水) 23:55:34 ID:0kyCzJg6

神の子のみなさま
こんばんは。九月に入り、朝晩が少し、過ごしやすくなりました。

人間の三つの願い  (『新版 生活の智慧365章』P.239より)

 従業員の魂に“悦び”の油をさすのは、上役の思慮深き親切さと、従業員の仕事の価値を
みとめてやり、それを誉め且つ、その仕事に報いるだけの待遇をしてやることである。そして、
お前の仕事がこんなに会社の、そして人類の役に立っているぞと云う認識を新たにしてやる
ことなのである。

 人には是非とも必要な三つの願いがあるのである。それは(一)愛されたい。
(二)認められたい。(三)人のお役に立ちたいと云う願いである。上役から自分たちは
愛されている。上役から自分たちは認められている。自分の働きが会社及び人類の繁栄に
役立っている。このような自覚が得られたときには、給料などの多寡は問題でなくなるの
である。「人は己を知る人のために生命(いのち)を損てる」と云う諺があるが、従業員の
実相を知り、その誠実をみとめ、それを礼拝するとき、全ての従業員はその会社の繁栄の
ために働くのである。

感謝合掌

1240a hope:2012/09/06(木) 07:22:14 ID:r8H4x9xE
人生読本 谷口雅春先生著

腹の立った時は人を咎めてはならぬ


他(ひと)が間違いをしても、相手を愛する心でその間違いを静かに教えてあげることはよろしいが、
それを荒立てて、激しい言葉で非難するなどということはよくありません。
もし相手を憎む心が起こって、腹が立っているのでしたら、むしろ何も言わない方がよいでしょう。

激しい言葉を使えば、そういう激しい言葉を出し自分自身の心が乱れます。
頭がイライラして不愉快になります。
その不愉快がいつまでも続いて、一日中暗いムシャクシャした気分で生活しなければなりません。
他が悪いのに、その悪い人よりも自分自身が暗いイヤな気持ちで暮らさなければならぬなど愚かなことです。

それよりも他が悪ければ、その悪いということを、心に外へ逐出(おいだ)してしまうことです。
そして反対に「あの人は好いのだ」と心の中で何べんも強くとなえるのです。
何事でも心の中でそれができて、外に現れてくるのですから、心の中で「そんなことはないのだ」と強く打ち消せば、
その悪い事柄はきえてしまうのです。
(つづく)

1241うのはな:2012/09/06(木) 10:58:03 ID:uISmJ.rA
 晴れときどき競馬とホークス いいちこ氏 ブログより

 吉田圀太郎 講師 http://blogs.yahoo.co.jp/yghms533

1242ハマナス:2012/09/06(木) 23:46:24 ID:0kyCzJg6

神の子のみなさま
こんばんは。

「愛」は最大の投資  (『新版 生活の智慧365章』P.240)

 上役は下役の者に恐れられるようであってはならない。しかし馬鹿にされ軽蔑されては
ならないのである。上役たるものは下役の者から尊敬されるだけの徳をもたなくてはならない。
と同時に下役から親しまれるだけの愛をもっていなければならない。

 若し下役が問題を起こしたら、それについて譴(とが)め立てする代りに、それを赦し、
相手の身になって同情してあげるだけの雅量をもたなければならないのである。相手の身に
なってする「親身」の同情は、一体感を深く味わわせて、「愛」によって、その従業員と
自分とを結びつけることになるのである。親身になってする同情は、彼と我とを直接に魂の
底から結びつける働きをするものである。それは最も大いなる事業投資となるのである。
従業員が、業主及び上役に、親身の愛を感ずるようになる以上に大いなる投資はほかには
ないのである。

感謝合掌

1243a hope:2012/09/07(金) 08:01:14 ID:r8H4x9xE

人生読本 谷口雅春先生著

世の中には何ひとつ悪はない


心を常に明るくするには、この世の中に何ひとつ悪いことはないということを信ずることです。
自分にとって都合が悪くみえていることでも、それが都合が悪くみえるのは、
自分の考え方が狭いからで、もっと広々とした心で考えてみれば、いま都合が悪くみえることも、
実は必ず後々のためになっているのだと思えば、どんなことでもありがたく愉快に生活することができるのであります。

倒れても、倒れなければ得られないところの何かを教えられるにきまっています。
躓(つまず)いても、躓かなければ得られないところの何かが得られるに定まっています。

金持ちになるような人は「転んでもタダでは起きない」と申しますが、
何事によらず世の中で立派な人だと言われるようになっている人は、
転んでも、倒れても、何かを握って起上がってくる人です。
その人が再び起上がったときには、転げる前より偉くなっているのです。

こういう人には失敗というものはありません。
常に成功、転んでも成功、倒れても成功です。
こういう人はどんな時にも陰気に欝(ふさ)ぎ込んでしまうことはありません。
常に明るく、常に微笑しているのです。
(つづく)

1244復興G:2012/09/07(金) 14:37:49 ID:xKxowNU.

<第6回WEB誌友会予告>

≪日時≫ 9月7日(金)21:30より
     9月9日(日)23:30まで
≪テキスト≫ 『生命の實相』第1巻「實相篇 光明の真理<上>」P113〜P166
≪内容≫ 第4章「心の世界における運命の形成」・第5章「生きた事実を語る」
≪場所≫ WEB誌友会板

――ということになっております。
それで、以下に、そのテキスト(『生命の實相』第1巻「實相篇」第4章「心の世界における運命の形成」・第5章「生きた事実を語る」【頭注版P113〜166】を、20回に分けて謹写掲載させていただきます。

WEB誌友会にご参加の皆様、どうぞ以下のテキストご文章より、感銘を受けたところや疑問を感じたところを部分的にコピペして意見を投稿する・・・などにご使用ください。

  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

1245復興G:2012/09/07(金) 14:38:43 ID:xKxowNU.

<第6回 WEB誌友会用テキスト>

 『生命の實相』 第1巻

  《實相篇(上)光明の真理 第4章》 より(1)

   -----------------------

   第四章 心の世界における運命の形成

 運命のケミカライゼーションという話がでましたので、ここにちょっとわれわれの運命は「心の世界」でいかにして形成され、現実界へいかにして出現するかの問題をのべておきたいと思います。

 昭和五年十一月十四日午後零時半のことでした。私は用事があって私の先輩、今井楳軒氏を神戸に訪ねたのでした。その日の午前九時浜口首相は東京駅において愛国社の某青年のためピストルにて狙撃され腹部に重傷を負うたというので、往来はその号外でにぎわっていました。わたしは今井楳軒氏にお目にかかると、すぐ「浜口首相は大変な目に会いましたね」といったものです。今井氏は「実に人間の運命は不思議で、感慨ぶかいものがある。それで今ある人に手紙を書こうと思っていたのだ」といってわたしに話しだされたところによりますと、田中前首相がとつぜん急死された時、今井楳軒氏はある霊媒を使って、ある霊界の霊人よりその後の政界の推移について聞かれたそうで、そのさいの霊告によれば、浜口首相の運命だって平和ではない、不慮の危害を加えられる恐れがある。その時期は昭和五年の秋の終りか冬の初めということだったそうであります。

 こういう予言はみだりに他人に口外すべき性質のものではないので今井氏は他の人には少しも口外せられませんでしたが、王子製紙株式会社の取締役堀越寿助氏にだけはこの予言をあらかじめ話しておかれたので、堀越氏も今ごろその事を思い出して感慨深いものがあろうとのことでした。堀越寿助氏は『生長の家』の誌友であられましたが、浜口首相の令甥水口出世氏が王子製紙淀川工場長をしていられた関係上、水口氏と親しい間柄でありますので今井楳軒氏は堀越寿助氏にだけ、その当時すでにこの予言を発表しておかれたのでありまして、この事実によって田中前首相逝去の当時すでに霊界では浜口首相が何者かに狙撃されるということが明らかになつていたという生きた証人があるわけであります。

 予言の的中した実例は、他にいくらもあるのであります。ここにも欧州大戦の予言的霊告の実例を挙げることにいたします。この時使われた霊媒はレイヌというフランスの一少女、立ち会い人たる審霊者はコルニリエというフランスの画家、霊告者はヴェッテリニという霊人であります。それは一九一三年二月十四日の降霊会にあらわれた霊示であって欧州大戦は一九一四年に始まったのでありますから約一年半前の霊示であります。次に掲ぐるはその当時のコルニリエ氏の手記であります。

 「一九一三年二月十四日。午後三時。われわれはテーブルにあい対してすわった。長時間霊媒の休養の後なのでテーブルは激しく、猛烈な運動を始めた。レイヌは大喜びだ。彼女は今までこんな激しいテーブルの運動を見たことはなかったのである。午後四時、われわれは小さな暗室にはいった。採光はほとんど理想的というほどの暗さである。赤いランプをともしておく。自分は正式に順序をふんだレイヌを遊魂状態に導く。ばんじ都合よくゆくらしい。レイヌはすぐに深い遊魂状態にはいる。例のように体温が冷たくなってくる。自分は彼女の椅子の周囲をまわりながら霊的流動対を送り彼女の霊が完全に肉体から遊離するように命令を繰り返す。

 突然、彼女は身体をのけぞらして驚いたように両腕をひろげた。何か恐怖すべき光景を見たかのような所作である。赤いランプと、かすかにさしこむ昼間の光で自分は彼女の身ぶりと表情とを読むことができた。彼女は恐怖にみちた金切り声で叫びだした。
<つづく>

1246復興G:2012/09/07(金) 14:39:48 ID:xKxowNU.
<つづく>


<つづき>
<第6回 WEB誌友会用テキスト>

 『生命の實相』 第1巻

  《實相篇(上)光明の真理 第4章》 より(2)

   -----------------------

「ア……ア!……大変です、大変です。恐ろしい光景です!……まあ、ごらんなさい、みんな戦っています。軍人、騎馬の軍人――オオ、なんという恐ろしい戦いでしょう!……血、どこもかしこも、そして火の海です!オオ恐ろしい、恐ろしい皆殺し!なんという虐殺……どこもかしこも死骸だらけです。数千の死体、数千の怪我人。四方八方火の海です――死と火とばかり。市街は崩壊しています!……天井からも炎、大空からも弾丸が降って来ます!……アア……たくさんの軍人が列車に乗っています。戦場へ行く軍人です。……ああ、このたくさんの馬……数千の馬が列車に積み込まれます。列車……列車……数限りがない、数えきれません……。どの列車も軍人ばかりです……みんな殺しに行くのです。……いたるところ、炎の海です! 森といわず、町といわず、国中荒れ果てています……殺人と劫掠とのほかには何もありません。オオ、なんと恐怖すべき光景! なんと恐怖すべき光景! オオ……オオ……オオ!……」

 こういうと少女レイヌは椅子の後に身体をドシンともたらせた。恐怖すべき光景を見せられたので烈しい息をしてあえいでいるのだ。彼女の縮めた手は、私を探しているかと思うと、自分の眼をおおった。

 しかし、恐るべき光景はなんの容赦もなしに彼女の前に展開するもののようだ。

 時々、彼女は自身の叫び声を止めて、眼の前に展開する光景を説明する。彼女の説明では、実際それは活動写真のように見えるらしい。「眼路(めじ)のとどく限り、戦争がつづいています……地上全部、空まで、砲煙弾雨……すべては殺戮(さつりく)と破壊です。それはフランスだけではありません、ヨーロッパ全土です。……フランスは長い間戦争に参加しませんが、ついに参戦します……それは避けがたいのです……」

 霊示の光景はまた変わる。また別の恐ろしい光景、いな、いっそう凄惨な光景といってよい。

「だって……パリです……燃えているのはパリです……オオパリ!……全市が戦っています。どこもかしこも殺し合いばかりです……そのほかに何もありません! 全市が破壊されました……廃虚、ただ廃虚です……建物の壁の一部があちこちにまだ残って煙を吹いています……死屍が山とつんでいます……血の河、血の洪水…それに飢餓が迫ってきます。パンさえない……殺戮を免れた人々も飢餓のために死んでいる!」

 以上はその一部にすぎませんが、ともかく一九一三年二月十四日においてすでに約一年半後において起こるべき欧州大戦を、少女レイヌがありあり見たということは、実に意味深いことだといわなければなりません。どういう点で意味深いかと申しますと少女レイヌのように、まだ物質的世界に現われていない未来に属する事件を眼に見ることができたり、あるいはそのほか今井楳軒氏のあげられた予言のように、未来の出来事を予め知ることができたりするのは、世界の事件は物質世界に出てくるまでに、「物質とは異(ちが)う世界」ですでに形造られていると考えるほかに説明することはできないのであります。

 よくこの点をお考えください。全然無いものは見ることも知ることもできないはずであります。また物質世界にすでに出て来たものが見えるのも当然であります。しかし物質世界にまだ出ていない事件を見たり知ったりできるのは、その事件がすでにどこかになければならないのであります。そのどこかというのも、物質世界にはまだその事件は起こっていないのですから、物質世界のことではむろんありません。そうしたらその「どこ」かは「心の世界」とか「念の世界」とかいうものだと断定しなければならないのであります。

 じっさいいろいろ最近の研究の結果によりますと、すべての地上の事件は「物質世界」にあらわれて来る以前に「念の世界」でできあがるのでありまして、「念の世界」でできたとおりが、物質世界に映ってはじめて地上の事件となってあらわれて来るのであります。
<つづく>

1247復興G:2012/09/07(金) 14:40:41 ID:xKxowNU.
<つづく>


<つづき>
<第6回 WEB誌友会用テキスト>

 『生命の實相』 第1巻

  《實相篇(上)光明の真理 第4章》 より(3)

   -----------------------

 この「念の世界」でできあがるという事件は、すでに永劫の昔からできあがっていて、もうちょっとも変えることができないものであるかといいますと、決してそうではないのであります。「念の世界」でできあがる事件も、宇宙に満ちているいろいろの生物の心の働きの組み合わせにしたがって、時々刻々作られてゆくのであります。

 大きなあらすじの事件は、多くの「念」の働きを成立要素としてこまかい事件よりも早く、いわばむしろ、多数の「念」の多数決で決ってゆくのでありますが、それとて「進行中」のものであって、できあがってしまったものではありませんから、ある事件を起こしている「念の要素」の変化によって、またその事件は変わってゆくのであります。ここにわれわれの運命を支配しうる自由があるのであります。

 レイヌの霊視した状態とはしだいに少しずつ変化しているのでありまして、後に霊視した状態ほどけっきょく物質世界にあらわれた時の状態に近いのであります。つまり、これは最初に「念の世界」にできた事件が「物質世界」に顕われて来るまでには或る時間がかかる、その時間のうちに「念の世界」に起こった事件を修正するようにしたら、「物質世界」にはその修正したとおりに事件が変わって顕われて来るという事実を示しているのであります。

 われわれの災難とか不幸とか病気とかいうことも最初は「念の世界」に造られるのでありますが、これも「物質世界」に顕われてくるまでに「念の世界」にまだ事件があるうちに、修正(なお)しておいたら、災難が災難にならず、不幸が不幸にならず、病気が病気にならずに「物質世界」にあらわれてくるのであります。

 つまりメタフイジカル・ヒーリングというのは「念の世界」における事件を修正しておいて、こん後「物質世界」へそれが映って現実の事件として出て来るさいに不幸や不健康をなるべく出さないようにする方法だということがいえましょう。

 しかし多勢の「念の総合的力」で強く決ってしまった事件、たとえば災難は、われわれがいかに精神統一をして、その反対の思念をしましても、その事件を起こらなくさせるということはできないのであります。そういう場合には、われわれ自身の心がその災難の渦中にひきつけられないような健全な信念をもっていさえすれば、災難は起こりましても、「類で無いものは反発する」という心の法則によりまして、たとい災難を受くべきもののみがその災難の渦中に巻きこまれましても、自分は、その災難の渦の外へ放り出されことになるのであります。

 米国カリホルニア州ロスアンゼルスの心霊治療家ピー・ハワード夫人の手記には次のような一節があります――

 「ある日わたしは朝食後の皿を洗っていました。その時わたしは数マイル隔たったところに住んでいる友だちを訪問したいという気が起こりました。わたしは仕事を簡単にすませて外出の服装をととのえました。その時とつぜんわたしの気分が陰欝になり、何者かに押しつけられるようで、外出がとてもいやになりました。どうしてそんな気分になったのかわたしには判りません。
 わたしは服装を整えながら、気分を引き立てようと努力しました。とうとうわたしは帽子をかぶって片手に手袋をはめながら戸口のところまで出ました。しかしどうしたことだか、とても耐えられない憂鬱に襲われてわたしは部屋へ舞い戻らざるをえませんでした。わたしは部屋へ戻るとひざまずいて、『神よ、いったいこれはどうしたことですか』と尋ねました。とつぜん、その答えが強いシッカリした声で聞えました。
 『家にとどまれ!』
 わたしはその声にしたがって家にとどまることに決めて、帽子を脱ぎ、手袋もケープもかなぐり捨てると、わたしの気分は晴れやかに明るい気分になってきました。
 わたしは『家にとどまれ!』という声だといいましたが、声というほかに説明のしようがないので声と仮にいったのであります。誰かがわたしを尋ねて来ようとしているので家にとどまっているように神から命ぜられたのだと思いました。
 ちょうどそれはわたしが宗教家として、また霊的治療家としてたった最初の年でした。しかしその日は誰も訪ねて来ませんでした。夜になってもいぜんとして誰も来ません。それでわたしは『なんのことだ、ばからしい。友だちのところへ訪問したらよかった』という気がして来ました。
 ところが、ちょうどわたしの乗るはずになっていた列車に大事変が突発して多数の死傷者ができたのでありました。……これはわたしの多数の経験中の一つです。わたしはわたしの直覚に従って失敗したことはありません。」
<つづく>

1248復興G:2012/09/07(金) 14:46:29 ID:xKxowNU.
<つづき>
<第6回 WEB誌友会用テキスト>

 『生命の實相』 第1巻

  《實相篇(上)光明の真理 第4章》 より(4)

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 また、高橋正雄さんの雑誌『生』の第二巻第十一号に三輪栄子さんの火事にあったときの実話の筆記がのっていますが、それにも似たようなことが書いてありますから、その一節を次に抜粋させていただきます。

 「後から考えてみますと、神さまのご都合はおそろしいものと思いますが、わたしは子供に小さい時分から、夜分寝る時にはすっかり着物を着替えさせる習慣にしておりますが、その日に限って頭が痛くて、どうも気分が悪くて、シャツもズボンも着たまま寝させました。
 わたしも頭が痛くて寝つかれないので、うつうつしておりましたが、その時にパチパチという音がしましたので、雨が降って雨だれが落ちる音かと思っておりましたが、そうするとなんともいえない音がしますので、何かひっくりかえったのかしらんと思っておりましたが、ひょっと起きて障子を開けて工場に出ますと、上一面に燃え上がっておりました。……」

 三輪栄子さんは、その夜、頭が痛かったために、自分は寝つきが悪かったし、子供を寝巻に着かえさせずにいたので、いざ火事だという急の場合にすみやかに子供をつれて避難されることができたのであります。
 おそらく、三輪さんのお宅が火事にあうということは「念の世界」ではあまりにも確定的にできあがってしまったので、これを止めることはできなかったのでありましょう。
 しかし、火事が起こるということは避け難かったにしても、焼け死んだり怪我をしたりするような不幸と、信心深い三輪さんの心とは「互いに類でないものは反発する」という「心の法則」によって、互いに反発して、三輪さんは焼死と火傷との渦巻きの圏外へ放り出されざるをえなかったのです。そのためそこに起こるはずになっている火事をそれとなく予知して、三輪さんの潜在意識(おくそこのこころ)は、その晩、三輪さんを眠らせないでおき、子供も避難しやすいように寝間着を着せず常着のままで寝かしつけてあったのであります。

 三輪栄子さんはまたつぎのようにいっておられます――

 「保険に入ります時にも、信心のお陰で、神さまのお引き立てが多いように思われたのであります。最初ある保険に入っておりましたが、その保険会社が新聞に出ましてどうも噂が悪くて不安でしようがないので、これではまさかの時にもらわれぬかもしれないと思いまして、ほかに替りたいと思っておりましたが、その時ちょうど東京火災なれば社長さんも安田さんであるから、まさかの時にはもらえるであろうと思いまして、葉書を出して来てもらいました。ちょうど主人の留守の時に来ましたので保険は捨て金でありますけれども、一万円ぐらい入っておかなければまさかの時には半分もとれませぬからね、などと冗談をいいながら一万円入りました。それは七月のことであります。そうして最初の保険会社の方は解約ということにしました。
 そうして主人が帰られましたからこの事を申しますと、一万円は多い、みすみす捨て金である、こういう一軒屋でうちより火を出さなければ類焼するということはない、気を付けさえすれば火は出ない、一万円も入らなくてもよいといわれましたがわたしは何を始末しておいても、入っておきさえすれば心配がないからといって、ちょうど七月に一回かけましただけで、もらうようになりました。それが唯一回の掛金だけで九千円もらいました。
 そうしてそれを得意先の方に、全部お渡ししまして、あとはどうにかこうにか切り抜けさせていただきました。こん日こういうようにご贔屓(ひいき)になりましてやらしていただいておりますのは、まことにありがたいことだと思っております。……」

 この話でもわかりますように、火事が他のいろいろな関係上、ある場所に避けえられないような場合でも、神によって護られているという強い信念のある人は、護られていないという事実(怪我をしたり損をしたりするような事実)と「心の法則」によって互いに反発しますから、怪我さすような事件や損さすような事件がいかに近くに出てきましても、まるで自分だけは油と水とが混じらないように、自分の身体とその不幸とが別々になっており決して自分の運命にまで不幸がしみこんで来ることがないように自然になるのであります。
<つづく>

1249復興G:2012/09/07(金) 14:50:02 ID:xKxowNU.
<つづき>
<第6回 WEB誌友会用テキスト>

 『生命の實相』 第1巻

  《實相篇(上)光明の真理 第4章》 より(5)

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 誰でも「災難にあった」というような時には、外から「災難」というとんでもない乱暴な奴がやって来て、自分にはなんの罪もないのに、ぶっつかったと思うのでありますが、われわれが災難にあって自分が傷つくのは、その災難と自分の心の状態とが、類似性をもっていて、互いに「類をもつて集まる」ようになるからであります。
 自分の心が招(よ)ばない物は何一つ、この世で自分に近づいて来ることはできないのであります。

 自分の心の状態が、災難や不幸とは全然似つきもせずかけはなれた明るい信仰状態にいましたなら、われわれは災難や不幸のまっタダ中にいてさえも、災難や不幸から鰻(うなぎ)のようにぬるぬる滑り出して傷つけられるということはないのであります。

 誰でもこの三輪さんや、ピー・ハワード夫人のように火事が起こっても自分も焼けず、家は焼けても保険金がおのずからはいって来て焼けないと同じ結果になる。汽車が転覆するような時には、その汽車に乗る予定であっても、どうしてもその汽車に乗れないような事情になってきて、そのために危害から助かる、こういうふうになるとわれわれは運命から不死身になってしまうのであります。

 運命に対して不死身になってしまったら、われわれは何一つ恐れるものはこの世に無くなる、こんなけっこうなことはないのであります。

 むろん、火事も起こらず、汽車の転覆も起こらなければ多勢の人が助かって、いっそうけっこうではありますが、火事でも戦争でも汽車の転覆でも多勢の人々の運命に関係して起こって来るのでありますから、それを起こらなくするにはそれに直接間接関係のある大勢の人々が皆、念を変えねばなりません。

 多勢の人々の念を変えることができない以上は、その念の力が集まって火事でも汽車の転覆でも、まず「念の世界」に組み立てられます。するとわれわれ個々の人の心はラジオの受信機のようなものでありますから、誰でも「念の世界」にできあがった火事や汽車の転覆をそれとなく感ずることができる。Aの磁石の付近にBの磁石がおかれると、すぐ互いに感じ合うようなものであります。しかし、Aの磁石とBの磁石とは互いに側に置かれるとすぐ吸いつくかといいますと、吸いつく時もあれば、吸いつかぬ時もある。かえって、磁石の向き方で、Bの磁石をAの磁石に近づければ近づけるほど、Aの磁石が逃げ出してしまうこともある。これと同じくわれわれの心は一個の磁石で、その向き方一つで、どんな悪い運命が近づいて来てもズンズン反発して、悪い運命の手の届かない所へ逃げてしまうことができるのであります。

 三輪さんもピー・ハワード夫人も、信仰によって不幸というものとは水と油とのように一つになれないような心の状態になっていられたのであります。

 ピー・ハワード夫人が出発の間ぎわに不快になって、その日乗ろうと思っていた汽車に乗り込むことができなかったその同じ日に、外出がとても愉快になって、わざわざその転覆する汽車に乗り合わすようになった人も多勢あつたことでしょう。ちょうどそれは一つの大磁石(運命)が近づくと他の小磁石(人間)がそれを感じ、その小磁石の向き方によっては近づいて来た大磁石の方向へまっしぐらに突進していって大磁石にぶっつかるのと同じであります。

 人が不幸な運命にあうのは、その人の心が不幸な運命を予知することができないからではないのでありまして、われわれが「心」をもっている以上は、まず「念の世界」に自分自身に関係するほどの近さで起こっている事件は、皆それとなく感ずるのであります。感じてもそれが肉体の意識にハッキリ判ると判らぬとは肉体の霊化の程度によるのでありますが、それが肉体の意識に判ると否とにかかわらず、われわれの「潜在(おくそこ)の心」はわざと予知したその不幸めがけてまっしぐらにその人の身体をぶっつけてゆくこともあります。それは念の親和力によるのでありまして、念の向き方が不幸な事変に吸いつけられるようになっている以上は、どんなにもがいても反抗しても、不幸な事変に吸いつけられてゆくのであります。

 関東大震火災のような大事変は一人の人間の念の向き方を変えるだけでは、それを起こらないようにとどめることはできないけれども、念の向き方が、その当時幸運の方へ吸いつくようになっている人は、あの震災にあってちっとも不幸になりようがない。あの震災にあったために逃げ出したり職業を変えたりしたためにかえって幸福な運命が開けてきているのであります。
<つづく>

1250復興G:2012/09/07(金) 14:51:54 ID:xKxowNU.
<つづき>
<第6回 WEB誌友会用テキスト>

 『生命の實相』 第1巻

  《實相篇(上)光明の真理 第4章》 より(6)

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 ところがその当時念の向き方が不運の方へ吸いつくようになっていた人は、ここなら広場で大丈夫助かるだろうと思って本所の被服廠跡などに避難していると、あにはからんや、おりから吹き起こった旋風のために火炎が渦巻き襲いかかってきて悲惨な焼死をとげたのであります。
 これは一方から考えますと、本所の被服廠跡のようなところへ避難していたら、かえって火炎が襲ってきて逃げ路を失うということをその肉体の意識が予知しなかったからで、それは霊的直覚力がたりなかったためだといえるのでありまして、もっと平生から霊的修行をしていたならば、ピー・ハワード夫人が汽車の遭難の危禍からのがれたように、この危難からのがれられたかもしれないのであります。
 けれども霊的修行を積み霊的直覚力が養成されていましても、念の向き方がやはり不幸に吸いつけられるようになっている人は、霊的直覚力がいくらあっても、不幸が近づいてくると、アレヨアレヨといっているうちに不可抗的に小舟が魔の淵の渦に吸い寄せられ、吸いこまれて沈んでしまうように、その不幸な事変がハッキリ眼の前に見えていながら、その不幸の渦巻きの方へグングン吸い寄せられ、不幸の渦巻きに身をさらわれてしまうのであります。

 神信心をする人のうちには、霊的直覚の発達した人が時々あって、なんでも予知することができる。株式や米の相場でも実験的に神示をあおいで予知してみるとずいぶん当たる。そこで、これなら大丈夫だろうと思って、いよいよ本気になって資金を調え相場でも実際にやってみると、実際にやる時だけはいっこう予知力が的中しないで「買い」と出れば下がる、「売り」と出れば上がる、めちゃめちゃに損をするというような実例がたくさんあるのであります。
 これなども、その人は霊的直覚力は発達していながら「自分」の念の状態が「損失」というものに引きつけられ親和するようになっているから「損失」の渦巻がその人に近づいてくると、グングン容赦もなくその損失の方へ引きつけられていって、平常の霊的直覚力が役にたたなくなるのであります。

 心霊学者たるW・T・ステッド氏の著書『幽霊実話(リアル・ゴースト・ストーリー)』中には次のような話がのっているのであります。

 「この話の主人公は或る製造工場に勤めている鍛冶職である。この製造工場は動力を水車から得ているのであったが、彼はその水車が破損しながら運転しているのに気がついていた。ところが或る晩、彼は夢を見たのである――

 その夢の中の時間は翌日の仕事が終ったときになっていた。工場の支配人がその水車を修繕するように彼に頼んだ。彼は修繕中脚をすべらして二個の水車の間に巻きこまれて怪我をし、その後外科医の施術を受けて脚を切断することになった。
 彼はその朝目を覚ますと、この夢を自分の妻に話した。そしてその晩、もし水車を修繕するように頼まれたなら逃げ出そうと決心していた。
 その日工場へ行くと支配人が彼を呼んで、今晩職工たちが仕事を終って帰った後で水車を修繕してくださいと命じた。彼はいよいよ夢の事件が来たなと思った。で彼はその時間までに工場を逃げ出そうと決心した。
 そして彼は本当にその付近の森の中へ逃げ出していった。彼は今やその森の窪地へはいりこんで身を隠そうとしていた。その時、彼の眼についたものがある。それは一人の若者がその工場所有の材木を盗み出しているのだ。で彼はその若者から材木を取り返さねばならぬと思って若者を追いかけた。彼は興奮していて、さきの決心を忘れて工場へ帰って来た。ちょうど職工の退出時間、水車を修繕すべき時間になっていた。
 支配人が彼の眼の前に立っていた。彼は支配人の命令に従わねばならなかった。彼は鍛冶の工長であったので水車の上へあがらねばならなかった。注意に注意をかさねようと彼は決心した。
 しかし、彼が注意に注意をかさねたにもかかわらず、彼は脚をすべらして墜落し、二個の水車の間へ脚を挟まれた。それは夢に見たとおりの光景であった。脚はひどくグジャグジャに挫折していた。彼はブラッドフォード病院へ担ぎこまれて、そこで膝の上から施術して切断した。それで彼の予言的夢は完全に実現したのだった。」
<つづく>

1251復興G:2012/09/07(金) 14:52:44 ID:xKxowNU.
<つづき>
<第6回 WEB誌友会用テキスト>

 『生命の實相』 第1巻

  《實相篇(上)光明の真理 第4章》 より(7)

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 また文豪メーテルリンク氏の著書『未知の賓客』の中にはこれと同様な実話が掲載されているのであります。

 「或る若い機会職工は十一月はじめに次のような夢をみた。すなわち彼が午後の五時半に家に帰ってみると、姉の小さな娘が家の入口の前の街路を横切ろうとして電車に轢(ひ)かれているのを見た。彼は非常に心配して、その夢を家人に語った。
 しかるに同月十三日に、できるだけ警戒をしていたにもかかわらず、その少女は予言された時刻に避けがたく電車のためにひき殺された。」

 また同書には次のような事件ものっています。

 「五月四日にテスト博士は彼女の夫の眼の前でホルタンス・M――夫人を催眠させた。夫人は催眠状態に入るやいなや、彼女は自分は二週間前から妊娠している。臨月まではもたぬ、五月十二日に、自分は何事かに驚く、そしてその場に卒倒した結果、流産するということを述べたてた。彼女はさらに付言して、この五月十二日には三時半に何かに驚いた後で気絶し、その気絶は八分間続くといい、次いでその病気の経過を各時間にわたって詳しく語り、その病気の結果は三日間精神錯乱となるが、自分はそれから回復すると述べたのだった。

 「催眠状態から覚めると同時に、彼女はすべてを忘れてしまった。彼らは催眠中に起こった事柄をM――夫人自身には秘密にした。
 テスト博士は、彼が当時書きとめた手記をアメデー・ラチュール博士に送っている。これが証拠になるわけである。
 予言された五月十二日になると、テスト博士はM――夫人とその良人とを訪問した。博士はM――夫人を催眠状態に導くと、彼女は八日前に言った事を一語一語繰り返した。彼女は催眠状態から覚醒状態に戻された。
 予告された危険な時刻が刻一刻近づいてきた。博士と良人は、想像しうるあらゆる用心をして鎧戸(よろいど)さえも閉めてしまった。
 M――夫人は自分は全然理解することのできぬ、この異常な警戒ぶりを見て、かえって不安の念にかられ始めた。そして『いったいあなたたちはわたしに何をなさろうとするのです』と尋ねた。その時、あたかも時計が三時半を打った。M――夫人は掛けていた長椅子から立ちあがって、戸口の方へ行こうとする。博士と良人はそれを妨げた。
 「『けれどいったいあなたがたはどうなさるんです? わたしはどんな事があっても出て行きます』
 とM――夫人は抗弁した。
 『いいえ、奥さん、部屋を出ては、あなたの健康のために悪いのです』
『それなら大丈夫です。先生、わたしの健康のためならいっそう外へ出る方がよいじゃありませんか』
 夫人は笑いながらこう答えた。
 その理由はいかにももっともであり、それ以上抵抗することができなかった。だが、良人(おっと)は、運命と最後まで戦ってみようと思ったので、妻についてゆこうと言い出した。
 博士はこの事件がやや滑稽な経路をとって展開して行くにもかかわらず、かなり心配して部屋にひとり待っていたのだった。
 と、とつぜん耳をつんざくような叫び声が聞えた。博士が急いで行ってみると、狂乱したM――夫人が瀕死の状態で良人の腕に抱かれていた。
 わずかの間良人のそばを離れて、彼女が自分の行こうと思っていた場所の扉を開けた刹那(せつな)、二十年来一度も出たことのない場所で、一匹の鼠(ねずみ)が彼女に跳びついて、非常な驚愕を彼女に与えたので驚きのあまり彼女は仰向けに倒れてしまった。そして予言の残りの部分も、一刻もたがわず、一事もあやまたずしてすべて的中したのであった。」

 ここにあげたこれら数々の不幸の運命の予言は、できるだけ注意して逃れようと焦りながらもどうすることもできないで、不幸な運命に吸い寄せられて行った人々の実例であります。

 先刻申しましたように、われわれの心は未来において物質世界に映し出さるべき事件を、それがまず「念の世界」にあるうちに感ずることができるのでありますが、この感じ知った事件に、或る心の向き方の人は、どんなに巻きこまれまいと反抗しながらでも必然的にその不幸な事件へグングン磁石的な力で引きつけられて行くのであります。そうかと思うと、三輪栄子さんや、ピー・ハワード夫人のような人は、不幸な事件が自分の付近に、あるいは自分の住んでいる家にさえ起こってでも、その事件には引きつけられないでちょっとも危害を受けないですむのであります。なぜ、人によってこんなに結果が相違するかということは、われわれがぜひ考えなければならないことではありますまいか。
<つづく>

1252復興G:2012/09/07(金) 14:53:40 ID:xKxowNU.
<つづき>
<第6回 WEB誌友会用テキスト>

 『生命の實相』 第1巻

  《實相篇(上)光明の真理 第4章》 より(8)

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 わたしが常にいうことでありますが、誰も自分の心で招(よ)ばない不幸には出くわすことはできないのであります。どんな事件でも、最初は「心的存在」であって、自分の心もまた「心的存在」である。そしてこれらの「心的存在」は「心の法則」すなわち「類は類を招ぶ」という法則と、「類でないものは反発する」という法則とに支配されて、互いに牽引し合ったり反発したりしているのであります。

 それで不幸な事件にあう人々は、誰を恨むこともない。自分の「心」のうちにそんな不幸を引きつける不幸の種を必ず宿しているからであります。だから昔から「泣面(なきつら)に蜂」とか「悪いことは三度ある」とかいいまして、人間の運が傾いて来ると各方面から悪いことばかりが引き続いて起こるようになるのであります。運命が傾くというのは、その人の「心」の中に不幸な事件を吸い寄せる磁石ができているわけであって、こんな磁石を「心」の中から取り出して捨ててしまわないかぎりは、その人の運命が善くなる気づかいはないのであります。

 では、この不幸な事件を吸い寄せる「心の中の磁石」とはなんであるかと申しますと、その根本的なものは、神と一体でない、神と離れた心であります。心の内に神という無限力に生かされているという自信がなく、自分の生命は物質の偶然的集合でつくられていて、外から加わる偶然の力ですぐ破壊してしまうであろうというような誤れる生命観がわれわれの心の奥底の大部分を占領していると、それが磁石となって不幸を引き寄せる、病気を引き寄せる、そのほかさまざまの人生苦を引き寄せる。だからこの「磁石」を取りのけるためには、何よりもまず、自分は大生命の無限力に生かされているという徹底した大信念を心の奥底に築きあげて、自分の生命は決して物質の偶然的集合でつくられたものではなく、常に大生命の無限力で護られているという真理を心の底深く信ずるようにならなければならないのであります。

 われわれを生かさずにおかない、無限の大生命のお力、それは神とも顕われ、仏とも顕われ、名前のつけようがないので、或る教えではこれを「妙」といいます。ともかく宗派によって名前が異なっているにしてもみんな一体である。この霊妙な無限力に生かされていることを信ずる者には力が与えられ、どんな不幸な事件が近づいて来ても、その人を傷つけることができないのであります。

 むかし或る刺客が高僧を暗殺しようとして、毎日つけ狙っていたけれども、どうしてもその高僧と道が行き違いになって刺すことができなかったというような話もあります。自分の心の中に、自分を刺す剣をおいとかないものは、外から刺そうとおもっても刺すことができない。
 或る高僧を斬罪に処そうとしたらその刃がかえってきれぎれに折れてしまったというような話は作り話のようであっても、真実それは起こりうる事実であります。

 ともかく、自分の心のうちに病気や死がなければわれわれは病気に罹ることも死ぬこともできない。自分の心のうちに刃(やいば)がなければ、われわれは刃にかかって死ぬことがない。人を審判(さば)く心のある人は審判かれる。ピストルの弾丸にあたるような人の心には、必ずどこかにピストルの弾丸と同じような、一徹な鋭い性質があってその心の引力はピストルを引き寄せているに相違ないのであります。
 柳生但馬守(やぎゅうたじまのかみ)のような剣道の名人でも全然心の中に剣をもたない人を斬ることはできない。その証拠に但馬守は沢庵禅師(たくあんんぜんじ)にうち込むことができなかったといいます。
 剣でもピストルの弾丸でも外からわれわれにうち込んで来るものだと思ったらそれこそ大まちがいで、われわれの心の内にそれを引き寄せる磁石があって、周囲から剣でもピストルでも災難でも病気でも失業でも引き寄せるのであります。

 ここの道理がおわかりになりますと、どんな災難にあっても病気にかかっても外に対して恨んだり小言をいったりする必要がなくなって、自分の好まない事件が起こってきたならば、自分の心の中にその好まない事件と同じものがあるということをかえりみて、そのよろしくない性質を心の中から取り去るようにすればよいのであります。そうすると自分の周囲、境遇、肉体の健康状態などが自分の改善された心を映して改善されてくるのであります。
<つづく>

1253復興G:2012/09/07(金) 14:54:22 ID:xKxowNU.
<つづき>
<第6回 WEB誌友会用テキスト>

 『生命の實相』 第1巻

  《實相篇(上)光明の真理 第4章》 より(9)

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 先日ある読者から霊感が養成されて未来の事件があらかじめ判るようになれば、金儲けもできるだろうと思うから、神想観によって未来の透視力をえたいから、どうぞ指導をお願いしたいという意味を書いてよこされたのであります。
 どうもこういう方には返事に困るのであります。
 多少とも霊媒的天分のある人は催眠術によっても、鎮魂によっても、坐禅によっても、神想観によっても、その他の霊術によっても、おそいか早いかの差はあれ、未来を透視したり予感したりすることができるようになります。
 しかし未来の透視能力があるということと、その人が幸運になるということとは全然別であります。
 多くの人はいわゆる未来の予知能力がなくとも幸運なのであります。
 これに反して、いかに未来の不幸が予知されても、先刻述べた鍛冶屋さんは水車に巻き込まれて脚を折り、少女は電車に轢(ひ)かれて死に、M――夫人は鼠に驚いて倒れて流産したのであります。
 本当は、「予知される未来」というものは、念の世界ですでに起こっている現在であって、ある事が「念の世界」に起こってしまった以上は、その映しである「物質世界」にその事件は必然的に起こってくるのであります。これはとても避けられない。これを避けるには「念の世界」に自分の好まない事件を全然起こらせないようにするほかはない。
 不幸が起こってそれを予知できるよりも、予知できなくともなんの不幸も起こらぬにこしたことはない。

 だいたい、未来の予知的能力を獲得しなければ、自分は不幸にあろうであろうというような、自己を信ぜず、神を信ぜざる心的態度そのものが、すでに「念の世界」に自分の不幸の種子をまいていることになります。
 そのような心であればこそ未来を予知したくもなれば、予知しながらでも、その未来の不幸にグングン不可抗的に吸い寄せられて行く。
 だいいち、予知してから避けようと思うのではすでに遅い。
 未来を予知する、すなわち「未来を見る」ということは現在すでに「念のフィルム」にできている事件を心の眼で見ることであります。
 それが未来の事件のように思われるのは「念のフィルム」を自然力と称する「活動写真機」にかけて「物質世界の舞台面」に映し出すのに、今しばらく時間がかかるだけのことでありまして、その避けたいと思う事件はすでに「念の世界」に起こりずみの事件であります。
 起こりずみの事件を避けようと焦るだけがばかな話であります。
 で、われわれが避けられる不幸な事件はその不幸な事件がまだ「念(こころ)の世界」においてさえもハッキリした形をとっていない場合だけであります。
 「念の世界」においてさえまだハッキリ形をとっていないその不幸な事件は、それは形がないから、心の眼でも霊眼でもハッキリ見ることはできないのであります。
 ただそれは、ばくぜんとわれわれがそれを感じ、自分自身の念の性質によって、ある人はその事件の起こるところに近づきたくなり、ある人はその事件に近づきがたくなるほかはないのであります。
 しかしその時こそわれわれがその起こるかもしれぬその不幸から逃れることができる唯一の時であります。
 ある不幸な事件が「念(こころ)の世界」で造られる順序を見ますに、それは多勢の「心」の想念(おもい)が因子(たね)となって、「類をもって集まる」の心の法則により、類似した想念ばかりがモヤモヤとガスのようにまだ形が定まらないで集まります。それが大きく集まって一団となって来るにつれて、類似している「心」を引きつける磁石的引力も増加してきます。ちょうどそれは、月よりも地球の方が引力が強い、地球よりも太陽の方が引力が強いようなものであります。
 それはまだ事件としてのハッキリした形を備えていないけれども、その「類」を引き寄せる力はかなりな遠方までも及ぶのであります。遠くにいる人もその引力を感じて近寄って来て、その事件を構成する一人物となります。しかし一方、その起こるべき事件とは「心の波長」において一致しない人は、その事件の波及する距離以内にいることなんとなく、不快な落ち着かない気分を感じて、その距離以外に遠ざかって行くか、あるいはその距離以内にいても何物かの庇護によってその不幸な事件に巻き込まれない位置に身を隠していることになるのであります。
<つづく>

1254復興G:2012/09/07(金) 14:55:02 ID:xKxowNU.
<つづき>
<第6回 WEB誌友会用テキスト>

 『生命の實相』 第1巻

  《實相篇(上)光明の真理 第4章》 より(10)

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 関東の大震火災の時でも、わざわざその前日、地方から上京して震災の洗礼を受けて死んだ人もあれば、その前日関東から地方へ移転して罹災を免れた人もあります。
 震災で丸焼けになった人で再び起つことができない経済的不運にあった人もあれば、一時は丸焼けになったけれども、それが当時あまり香ばしくなかった過去の職業をなげうって将来大いに成功する新事業を始める動機となった人もあります。
 一つの事件に対してでも人それぞれの念の磁石的性質によって、その事件の圏外に飛び出す人と、その事件の圏内にいて危害を受ける人と、その事件によってかえっていっそうの幸福を受ける人があるのであります。
 だから単に未来に起こる事件が予知できたからとてその人は必ずしも幸福になるとは決っていないのであります。
 「だって、ピー・ハワード夫人は汽車が未来に転覆するということを予感して助かったのではないか」という人があるかもしれません。ピー・ハワード夫人は、「念(こころ)の世界」において起こってしまった事件を予知したのではありません。夫人は唯、そこに起ころうとしつつある事件の「心的雰囲気」を感じて、夫人自信の心的性質がその「雰囲気」に引きつけられずその雰囲気に近づこうとするとなんとなく不快になるので、旅立ちをやめてその危険に近づけなかったのであります。
 もし誰でもこういうふうに念の世界でまだ漠然とした雰囲気だけあって、ハッキリと形を備えていない間に念の反発を感じて避ければ避けられるのであります。
 もしピー・ハワード夫人がその汽車に乗って汽車の転覆にあって重傷を負うているような事件を正確な霊覚とか霊夢によってハッキリ目撃したのでありましたら、その事件は「念(こころ)の世界」ではすでに起こりずみであるからこそ見えたのでありますから、夫人がいくら、それを避けようと努力しても、どうしても拒まれない事情が発生してその汽車に乗ることになり、その汽車は転覆して予知したとおりの危害を避けることはできないのであります。

 ここがわれわれにとって最も注意を要する肝要な所で、われわれが未来の不幸を避けるためには、その不幸を予知する霊感などをいくらもっていてもなんの役にも立たないのであります。予知された未来はすでに起こりずみであるからそれを取り消す道がない。それを取り消そうとあせるのは活動写真の映写機に一定の事件のフィルムをかけて活動写真を映しながら、舞台面の映画を消しゴムで消そうとするのと同じ愚であります。

 現実世界という舞台面にこんな事件が映ってはいかぬと思うならば、「念のフィルム」にそんな事件を撮影しておかぬがよろしい。
 他のひとびとが集まってそういう事件の「念のフィルム」を合作しそうであったら自分だけ「類でないものは反発する」という法則によって、そのフィルムに入らなければよろしいのです。
 「類でないものは反発する!」
 これこそわれわれが悪運を避ける唯一の法則であります。
 悪い事件が映っている「念のフィルム」に自分だけ映るまいと思うならば、自分の生命に、その悪い事件と親和し、互いに引き合うようないろいろの心持ち――暗い心持ちとか、鋭い心持ちとか、心で人を刺す性質とか、窮屈で人をいれない性質とか、恐怖の感情とか、取り越し苦労の感情とかを捨てて朗らかな、明るい、愛深い、人を咎めない、赦しの深い、寛大な、平和な、落ちついた、角のない、円満な、自信のある、自分を神の子として神と一体であると信ずる心を養成すればよいのであります。これだけの心の準備ができるならば、自分の周囲にどんな不幸な事件が起こって来ても、自分だけはその不幸な事件の映画俳優の一座に加えられず、一緒に不幸の分け前を味わわねばならぬようなことはなくなるのであります。
<つづく>

1255復興G:2012/09/07(金) 14:55:48 ID:xKxowNU.
<つづき>
<第6回 WEB誌友会用テキスト>

 『生命の實相』 第1巻

  《實相篇(上)光明の真理 第4章》 より(11)

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 こう申しますと、なかなか繁雑な種類の心の修養をしなければならぬようで、この忙しい世の中に、とてもわれわれには実行できそうてでないと思われる方もあるかもしれませぬが、これを一つの根本原理に還元しますと、決してこの修養は皆さんの想像されるほどは繁雑なものではないのであります。

 この修養の根本原則とは、「自己が神の子であって、自己の生命は神の霊である」との事実に目覚めることであります。

 この事実に目覚めるとき、われわれは心の根本において神の無限力に生かされていることを感じますから、おのずから心が朗らかになり、明るくなり、寛大になり、愛深くなり、円満な、平和な、恐怖心のない、取り越し苦労をしない人間になり、したがってどんな不幸も自分の側(そば)を素通りして近づかず、幸福ばかりが引き寄せられて来る心的磁石となるのであります。

 では、「自己が神の子であって自己の生命は神の霊である」という事実に目覚めるにはどうしたらよいかという一つの秘訣を申しますと、常に言葉の力で「わたしは神の子である」という思想の種子(たね)を自分の心に植えつけるようにするのであります。
 道を歩く時にも「神の子が今歩いていると低声(こごえ)でいって、その言葉のとおりに思って神聖な罪にけがれない「本物の自分」を心に印象するようにします。
 往復の電車に乗っている小さな暇を利用しても「私の神性は神である。神こそ本当のわたしである。だからわたしは恐れない」と自分だけに聞える声で自分自身にいって聞かせます。
 人に面会する前にも「わたしは神である。神がわが父である。父と子とは一体であるからわがなすは父がなし給うのだ」と言葉に出して数回繰り返して自分にいって聞かせて心に自信力を植えつけてから会うようにします。
 すると、その一回の面会には失敗してもだんだん人に面会するのに自信ができ、やがてはすばらしく成功するようになれます。結果を急いではなりません。

 要するに「神と我とは父と子との関係であって自分は神の無限力に後援されている」という意味のことばを、暇あるごとに、機会あるごとに、言葉の力で、自分自身の心の奥底にたたみこむようにするならば、この自覚の深まるにしたがって運命が開けてくるようになり、神我一体の真理がいよいよ深く心の底に目覚めて、心全体が照り輝くようになりますと、「類をもって集まる」の心の法則によって、どんな時にも明るい運命ばかりが自分に吸い寄せられて来るようになり、もう前途の予感力が欲しいなどという欲望も全然なくなってしまうのであります。なぜなら、もうその人は運命に対して不死身となり、何事が起ころうとも自分にとって悪いことは一つとして起こらないとの大確信に到達するからであります。

 確信は「念(こころ)の世界」における運命のひな形で、この世の出来事はすべて、このひな形のとおり出てくるのであって、悪い確信をもては運命が悪くなり、善い確信をもてば運命が善くなることは免れがたい事実なのであります。
<つづく>

1256復興G:2012/09/07(金) 14:56:36 ID:xKxowNU.
<つづき>
<第6回 WEB誌友会用テキスト>

 『生命の實相』 第1巻

  《實相篇(上)光明の真理 第4章》 より(12)

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   第五章 生きた事実を語る

 皆さんは悲し気な顔をしている人のそばへ来ると自分もなんとなく悲しくなり、淋しそうな顔をしている人のそばへ来ると自分も何となく淋しくなったような経験がおありでありましょう。
 また腹立たしい顔をして咎めつけられるとこちらも腹が立って来たというような経験もまたおありでしょう。
 このようにわれわれの心の状態は付近の人々に感染(うつ)って行くのであります。心の状態が感染るものであるとしますと、病気すなわち病的な心の状態が形にあらわれたものも、感染るのが当然であります。
 たいていの人は伝染病だけが感染るように思ってほかの病気は感染らないように思っていられますが、胃病や神経衰弱も感染るのであります。家族全体が一種の気鬱症になって、そのためみんなが消化不良症や神経衰弱症に悩まされているような実例も世の中には少なくはありません。これは皆あらゆる病気は精神的に感染するからであります。

   連想作用で起こる病気

 ある種の心の状態は連想作用によっても起こるのであります。連想作用といえば「梅干」といえば「酸(す)い」ということを思い出し、「酸い」と思えば唾液が口からたくさん出て来るように、一つの事柄を思えば、それに連絡のある他の事柄が自然に思われてくる心の作用をいうのであります。ある心の状態がこのように連想作用によつて起こることが解りますと、病気もまた一つの心の状態の客観化(かたちになったもの)でありますから、連想作用によってもおこることが解るのであります。

 皆さんのお友だちのうちには雑誌の衛生記事を常に好んで読んだり、通俗医学書を常にあさって読んだりしている方がありましょう。こういう人たちはよほど自分の健康に自信のある方でないかぎりたいてい自分の身体が虚弱になって病気にかかりやすいのであります。
 皆さんのお友だちは虚弱なために、健康になりたいと思って、薬の広告や衛生や医学や健康法の本をお読みになるのかもしれませんが、それはおぼれまい、おぼれまいと思いながら逆に水の深みへはいって行くようなものであります。

 たとえばここに『健康世紀』とか『家庭医学』とかいう衛生雑誌があるとしますと、それをちょっと開いて見ると、その中の記事に医学博士と麗々しく肩書を付けた人が「何々病の予防と治療」などという題で、ちょっと見たらいかにもその記事を読めばその病気を予防したり治療したりすることができるかのように見せた記事がのっているのであります。が、記事の内容(なかみ)をよくよく読んでみますと少しも病気を予防する方法も治療する方法も書いてないのであって、かえって病気にかからすための暗示が書いてある場合が多いのであります。
 なぜ私がこんな皮肉なことをいうかと申しますと、たいていはそんな記事にかぎって、病気を予防するためにといって病気の症状が書いてあるのであります。こんな容体になったら萎縮腎であるとか、こんな徴候は神経衰弱の徴候であるとか、胃がこういうふうに痛めば胃潰瘍の疑いがあるとか、原因不明の微熱がつづいて不眠や消化不良がともなう場合には肺結核の疑いがあるから注意すべきであるとか、実に読者の恐怖をそそることが書いてあるすえに、それを治す方法が深切に書いてあるかというと、何一つそんな深切なものは書いてはないのであって、ただ、こういう徴候の場合には素人療治や素人診断は危険であるから医者に診断してもらえと書いてあるだけなのであります。
 これでは何かの生理的感じをもってただちに病気ということを連想せしめ、その連想作用によって病気にかからせ、読者の恐怖心を利用して、医者のところへわざと来させるように医者が自己繁昌策として書いたものだと思われてもしかたがないでありましょう。だから私はそんな記事は皆さんの病気を治すためよりも、病気にかからすために書いてあるというのであります。

 薬の広告もこれとほとんど同様でありまして、誰にでもあるようなちょっとした疲労の感じや、折ふしの消化不良や、不眠などを、実に恐ろしい病気の前兆ででもあるかのように書いてあって、その終いにこの薬を服めとすすめてあるのがザラにあります。
 こんな広告記事を読んでいますと、連想作用によって自分もその病気ではないかとフト思うようになり、フト思ったところの「自分は何病だ」という観念の種子が潜在意識に植えつけられて強く強く心の底に根を張るようになりますと、肉体の上にも本当にその病気があらわれて来るのであります。
<つづく>

1257復興G:2012/09/07(金) 14:57:17 ID:xKxowNU.
<つづき>
<第6回 WEB誌友会用テキスト>

 『生命の實相』 第1巻

  《實相篇(上)光明の真理 第4章》 より(13)

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   言葉で心臓病が全治す

 私の知っている実例を申しあげましょう。東京に、心臓弁膜症だという診断を数名の医者から受けてもうこの病気は不治症だとあきらめていた婦人がありました。その婦人はいつも一分間百二十回ぐらいの脈博で、ものの半町も歩けば息ぎれがするのであります。この状態は数年間つづきました。
 ところが或る日のこと、ほかの病気のことで石塚右玄という食療法の医者をたずねて診察をこうたのであります。
 この医者は双塩療法の開祖石塚左玄氏の嫡子で、もう今は故人でありますが、その頃、東京牛込市ヶ谷にいて診療に従事していられた。医師の免状がないので手を触れて診察をするということがない。形式だけ医師の資格のある塩田宗沢という副院長に診断させて、自分は望診といって少しく離れたところから患者の風貌を見ていて診断をくだすのであります。
 ところがその診断がふしぎ、手を触れずにいても患者の日ごろの性行から容体にいたるまで患者の心にピシピシと思い当るようなことをいうのであります。
 この患者がこの医者の前の椅子に掛けたときもやはり同じで石塚右玄氏の堂々たる体躯から出て来る力強い音声でいわれる言葉がすべて事実に的中して患者の肺腑をついたものです。なるほどこの医者なら信頼できるという信念が患者の心にたかまったに違いありません。
 医者というものは、何よりもまず患者の心を治すのですから、患者から信ぜられることが大切であります。信ぜられさえすれば片栗粉を散薬として飲ませておいてもきくのであります。
 小首をかしげて、どうもまだハッキリなんの病気か私には判りませんというようなアヤフヤな態度を医者が示すようなことでは、患者の方では自分の病気はこの医者にはわからないのだからその投薬だって効くはずがないと思っています。こう患者が医者を疑い出せばその薬がいかに良薬でも効かないのであります。
 だから医者はどんなに診断のつかぬ病気でも「こんな病気なら、たくさん治した経験がある」ということを断言し、「それには実によくきく特効薬があります。その薬で治らなかった人は一人もありません。その薬を処方しましょう」というような事を断言し、一にも断言、二にも断言、言葉の力を極力発揮するようにすれば、どんな不治症だってズンズン治って行くのであります。

 治す力は薬そのものの力はわずかで、医者の言葉と、言葉によって喚(よ)び起こされた信仰とが治すのですから、じっさいそれを治しうる特効薬というものが無い病気でもこの薬が特効薬だといったらじっさい特効をあらわすのであります。
 それからこの患者のように他の医者から不治症と診断されて、その「不治」ということが心の底にしがみついているものには、その「病気の存在」そのものを否定してしまうことが非常に効果があります。

 ここで先の患者の話に戻りますが、前にいいましたように、この患者は自分は心臓弁膜病で不治であると信じていた。ところが石塚右玄氏がいろいろと患者の日ごろの性行やら容体などを単に望診するだけで当ててしまったので、患者は非常に石塚氏の診断力を信ずるようになって来たのであります。そして
 「実は私は心臓も前から悪いので、いろいろの医者に診てもらいましたが弁膜病で不治だといわれるのですが」
 と尋ねました。すると、石塚氏は言下に、
 「あなたのは心臓弁膜病じゃない。似ているから、医者も患者も時々まちがうが、バセドー氏病だ。心臓の病気ではなく咽喉(のど)のここのところにある腺の病気だ。心臓そのものが悪いのじゃない。脈搏の早いのはバセドー氏病の影響だから、バセドー氏病が治れば脈搏の早いのも一緒に治る」
 と、さもそれは軽い病気だというふうに断言してしまったのであります。

 この患者は今まで諸方で心臓弁膜病だと診断され、「心臓病は不治だ、不治だ」という観念をいたるところの医者から植えつけられていたのでありますが、「あなたの病気は心臓の病気ではない、咽喉の腺の病気だ」と強く強く断言されたときに病気の位置が転換してきた。「ヤレヤレ自分の病気は心臓にない」という気がしてきたのであります。彼女は急に心臓が楽なような気がして、バセドー氏病によいという服薬と食療法を続けているうちに一ヵ月ばかりで心臓病の症侯がスッカリなくなってしまったのであります。
<つづく>

1258復興G:2012/09/07(金) 14:57:56 ID:xKxowNU.
<つづき>
<第6回 WEB誌友会用テキスト>

 『生命の實相』 第1巻

  《實相篇(上)光明の真理 第4章》 より(14)

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 この実話は実に面白いではありませんか。心臓弁膜病も、バセドー氏病も現代医学ではどちらも劣らぬ難治症なのであります。
 「心臓弁膜病でない、バセドー氏病だ」といわれても、医学の知識のある人にとっては、一つの不治症を他の難治症におきかえられたにすぎないのでありますが、この患者は心臓弁膜病の不治であることは知っていても、さいわいにしてバセドー氏病の難治だということを知らなかった。なんだか変な名前の新しい病気だから、今まで診(み)てもらったほかの医者には判断がつきかねたのであろう、この医者があんなに軽々しそうにいう以上はすみやかに治るに相違ないという「信念」がわいて来、その「信念」のとおりじっさいすみやかに治ってしまったのであります。
 ここにも半可通な医学の知識のない方が健康になれる実例があるのであります。

 この場合石塚右玄氏がこの患者をバセドー氏病だといったのは診断が正しかったのか、故意に誤診して患者から不治症の観念をとり去ったのかは別問題として、医者がいわゆる不治症の患者に対してどんな態度をとることが愛の道にかなうか、「医術」が「医道」として真に癒す力を発揮するには「言葉の力」をいかに発揮すべきものであるかについての深い深い暗示があると思います。
 或る病人が一つの病名が付せられて不治だと思っていると時には、医者としてはことさらその病気を別の病気だと診断してその患者から今までの「不治症」という観念を奪いとってやることは非常に愛深き賢き手段と思われるのであります。

   万病は眼病より来るという新説

 それについて思い出されるのは、神戸の元町に西村美亀太郎(みきたろう)という眼科の医学博士がありました。
 この医者は万病一元論者で、どんな病気でも一種の眼病(角膜表層炎)から来るということを唱え、自分もじっさいそう信じていたのであります。
 だから心臓病の人が来ようが、慢性胃腸病の人が来ようが、神経痛の人が来ようが、どの病人にも
 「あなたは心臓じゃない、眼病だ」
 とか、
 「あなたは胃腸が悪いのではない、眼病だ」
 とか、断固として宣言するのであります。
 じっさい医者自身がそう信じていてそう宣言するのですから、いう言葉に確信が満ちていて、権威がある。そして胃腸が悪かろうが、座骨神経痛であろうが、目の上に厚い温湿布をしてその上をグルグル繃帯(ほうたい)で巻いて三十分ぐらい放っておくのであります。
 患者は、今まで胃そのものが病気だとか心臓そのものが病気だとか思っていたのがまちがいであって、想像もつかなかった眼病だったという観念を与えられたまま、三十分も眼を繃帯で巻かれて暗黒(くらがり)の中を見つめていなければならないのです。眼は薬液と温湿布の影響でその間にいかにも眼病だったかのように充血して来て、なんだか本当に自分は眼病だったのであって心臓や胃腸が悪かったのではなかったという観念がいよいよ深く染みこんでくるのであります。
 長期間の慢性病が、短時日、なかには一回のこの療法で治ってしまう人さえもあるのであります。
 これを西村博士は、万病は一元であって、すべては眼病から来るのだといっているのでありますが、わたしの考えでは、今まで患者が不治だと信じていた病気を全然否定してしまって、そんな病気は存在しない、あなたのは眼病だ、その眼病は今こうして治るのだといって、今までの病患部だと思っていたところとは全然別の部分を温罨法(おんあんぽう)で刺激されるために、今までの不治症という観念がとり去られてしまって、不治症もずんずん治ってくるのであります。

 わたしはこういう治療法を「病名転換療法」だと名づけています。病名すなわちコトバを変えるために病気そのものさえも変わって来て病気が治るのであって、これも「コトバの力」の応用の一部門にはいるのであります。
<つづく>

1259復興G:2012/09/07(金) 14:58:34 ID:xKxowNU.
<つづき>
<第6回 WEB誌友会用テキスト>

 『生命の實相』 第1巻

  《實相篇(上)光明の真理 第4章》 より(15)

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   言葉は健康を左右す

 このように言葉は「信念」を喚び起こし信念はただちに人間の健康を左右するものでありますから、われわれはできるかぎり言葉の善き使い方を知らねばならないのであります。
 「言葉」でこの世界に健康を満たせば、この世界の人類が健康になる。「言葉」でこの世界に光明を満たせばこの世界が光明化される。
 「生長の家」は実にこの「言葉の力」によって人類生活を健康化し、幸福化し、光明化せんがための「神の国運動」であって、「生長の家」の発行部数がふえるほど、この世界に「善き言葉の力」がふえることになる。
 「善き言葉の力」がふえればそれだけ人間の心が光明化し、地上に浮動している人間の「想念の波動」が光明化し、いっさいの現実的悪の種子(たね)が浄められ、キリスト教でいえばキリスト再臨、仏教でいえば弥勒菩薩下生(みろくぼさつげしょう)、すなわち地上天国建設の時期が早まることになるのであります。

 こうして「コトバの力」の見地から考えてみますときには「生長の家」がコトバの力によって人類生活を健康化し、幸福化し、光明化しようという運動に相反して、いかにこの世界にはコトバの力によって人類生活を不健康化し、不幸化し、暗黒化そうという運動が多いことでしょう。
 毎日日本国中に合計なん百万なん千万という発行部数をもったジャーナリズムは皆いちようにこの人類生活不健康化、不幸化の運動に味方しているようにみえる。全世界でいうときは十数億の発行部数に達するジャーナリズムが毎日コトバの力で人類生活を不健康化するための印刷物をバラまいていることになる。
 新聞紙の大半は栄養剤と薬との広告で埋まっている。その広告は
 「おまえたち物質で造られた人間よ、おまえはこの薬を飲まないと治らないぞ。」
 「この栄養剤を飲まないと健康になれないぞ。」
 とおどしつけている。これは新聞が広告料という金のために牽制されて「悪しき言葉」の力の宣伝に利用されているからであって、こんな広告を読めば読むほど、われわれ人間が神の子だという信念、物質ではなくて生命であるという信念が失われて、人間は物質であるから永久に薬物の奴隷として永久にその前にひざまずくべきものなりとの烙印(やきいん)を押されることになるのであります。

   「生長の家」出現の使命

 このようにジャーナリズムは自覚せずして資本主義に買収されて知らずしらず人類生活暗黒化運動に参加していることになり、日々世界中に十数億の印刷物をバラまいて、人類を暗黒の病的想念で一呑みにしようとしているのであります。

 「生長の家」運動がこの時起こらなかったら、われわれ人類はこの暗黒の想念の大きな口に鯨(くじら)が鰯(いわし)の群を呑みほすように一呑みにされるかもしれないのであります。

 しかし、神はわれわれ人類をまだ見捨て給わなかった。そしてこの真理の言葉の運動を起こすべくわれらに起つように命ぜられたのであります。

 本書や『生長の家』誌を谷口雅春個人の機関誌だと思っていられる方があればそれはたいへんな勘違いであります。これは神が起こされた「神の国運動」の一つのあらわれであって、谷口雅春はただ、神から霊感的に示された言葉をペン尖(さき)にふくませたインキで文字にしてゆく。『生長の家』誌に書かれた一言一句も、肉体なる谷口雅春の言葉はない。外国物の紹介でさえも「神の言葉」である。これはなるほど、いっけん「神の言葉」でないようにみえるでもありましょう。わたしもはじめはこれは「神の言葉」でないと思っていた。しかし、その外国書がわたしの手に入る経路というものが全然霊感に導かれているのでありまして、それを考えるとやはり、この本を翻訳して『生長の家』誌上に発表せよと神から霊感的に命ぜられていることがわかるのであります。
<つづく>

1260復興G:2012/09/07(金) 14:59:21 ID:xKxowNU.
<つづき>
<第6回 WEB誌友会用テキスト>

 『生命の實相』 第1巻

  《實相篇(上)光明の真理 第4章》 より(16)

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 或る日、わたしがフト街を歩いていて古本屋の前を通ったとき、急に引きつけられるようにその古本屋へはいりたくなった。それでその古本屋の中にはいって行くと最初にわたしの眼についた本がある。その本を開いて見ると「生長の家」の主張に全然共鳴したようなことが書いてある。それでこれを翻訳して『生長の家』にのせて皆さんに紹介したというような順序になっているのであります。
 「生長の家」へ集って来る多くの心霊主義や光明思想の原書はたいていこうであって、海外の新刊書を別に注文したわけではないのであります。

 こんなことからでも、この生長の家運動が全然神の手によって計画され、外国物紹介でさえも必要に応じて海外から自由に引き寄せられている事実がわかるのであります。神は宇宙を摂理の手で支配してい給うので、あらゆる世界の出来事は、みんな神の手で蜘蛛(くも)の糸を引いたようにあやつられています。アメリカで新刊された本も日本へ渡航して来る西洋人がふと読みたくなり、それを船の中で読んで日本へ着くと同時に古本屋へ売る、その翌日わたしがその本を買うと、直接こちらから送金して海外から原書を取寄せるよりも早くその本がわたしの手に入るのであります。

 近ごろ、「物品引き寄せ」(apport)という心霊現象を行う霊術家があらわれて、大阪心霊科学協会実験会の席上において横浜にある実験者の門標を実験会場に引き寄せたという事実がありますが、(霊媒亀井三郎氏の実験)「物品引き寄せ」という心霊現象は、
 (1)この心霊現象の実験のように自然界の法則を一時破って奇術的に行われる場合と、
 (2)自然界の法則に従って、必要なものを必要な時に、必要な所へ、或る人間によって持ってよこさせるという方法とがあるのであります。
 (1)の場合は、自然界の法則を一時破って物品を引き寄せたのでありますから、引き寄せた物をまた持ち主に返さねばならないのであります。
 (2)の場合は「必要なものは神が必ず与え給う」という神から許された事実でありまして信仰の深き人には誰にでも日常生活において体験されている事実であります。「生長の家」のように人類光明化運動のために神から使命を受けている場合には、その機関雑誌の編集に必要なすべてのものはそれがアメリカにあろうとイギリスにあろうと、誰かの手を通じて迅速にわれわれの手に集まってくることになっているのであります。

 ともかく、現代の誤れる物質主義を源流とする人類生活暗黒化運動は、全世界のほとんどすべての出版物を金力で掌握して、記事に、広告に、全力をつくして人間生活から光明を奪おうとしているのであります。
 これに対抗すべく生長の家の人類光明化運動が出現したということは、実に神様の恵み深き計画であって、この運動に参加してくださる方は、その中心人物となる方が一国一郡に必ず十数名をおいてあって、それは劫初(こうしょ)以来の浅からぬ神縁のある方ばかりであります。

 この「神の国運動」の芽生えの時に神の使徒として人類光明化運動のためにつくしてくださる人は中でも特に「神縁の深い選ばれた人々」であって、原始キリスト教時代の十二使徒にも当たる人々であります。

 これらの人々のうちには「生長の家」の神界における本尊――この人類光明化運動を霊界から指揮してい給う神――の霊姿をありありと観たという方が数名ならずあるのであります。神の姿を拝した方々の話を総合してみますと、神は別の時に別の処で別の人にその神姿をあらわし給うたのでありながら、同じ神姿を各人に観せ給うてその実在を証し給うたのであります。

 わたしは神の霊姿などはどうでもよいと思っているのでありますが、神さまも非常時には非常な手段を示されるものとみえます。キリストも、十字架にかかって亡くなられてから、自分は「永生」であって「不死」であるという事実を証明するために弟子に対してその霊姿を各所で見せられ、それから弟子の信仰が白熱的にたかまったのであります。
<つづく>

1261復興G:2012/09/07(金) 15:00:03 ID:xKxowNU.
<つづき>
<第6回 WEB誌友会用テキスト>

 『生命の實相』 第1巻

  《實相篇(上)光明の真理 第4章》 より(17)

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   選ばれた人々

 この非常時の時!
 ――形なき神が形をさえ示し給うほどの一大非常時に、この神の国運動の経典たる本書があなたたちのお手に入ったということは決して偶然ではないのであります。

 今申しましたように人類生活暗黒化運動は金力の魔手をもって全世界を掌握し、毎日の発行部数十数億万にのぼる宣伝機関を備えて、われわれ人類から神の子(または仏子)たる自覚を失わしめようとしていて余念がないのであります。だから、これに対抗して人類の生活を光明化するためには、ぜひともわが生長の家の出版物を読んでくれる人をできるだけふやすようにし、光明思想の出版物を読む人々の声が、人類生活暗黒化運動の機関紙を読む人々の声を圧するようにならなければならないのであります。
 そのためには読者をふやすということが今のところ何よりも必要な、神の国建設運動参加者の使命であります。

 皆さんは光明思想をひろめることをもって、一人の人間の営利事業に参加していると思ってはなりません。わたしはただ神から書かしめられている。そして編集の監修をしている。
 これをひろめてくださるのはあなたたちの使命なのであります。他の人々よりも一日早くこの「神の国運動」を知らされたということは、この「神の国運動」の最初の大使徒として選ばれた証拠ではありますまいか。

 諸君よ、選ばれた使命をゆるがせになしたまうな。時は過ぎ行く。「後(のち)なる者先とならん。」わたしはあの信仰深きキリスト教徒が戸別訪問をしながら聖書を売り、入信を勧めて歩く熱心さに心を打たれ襟を正す。諸君も、光明思想をひろめるのに、この熱心なキリスト教徒をならってくださることを希望する。
 希望は実現の母である。わが希望は必ず実現する。信じて望めば能わざることは一つもないのである。

 わたしは信仰深き生長の家誌友が結束して起(た)って、光明思想普及団体を組織し、全国の大新聞に大広告を出して、この光明思想を宣伝してくださる時期が必ずくることを期待していたのでした。
 いよいよその時が来ました。その結果、この真理の書が諸君の手に入ることになったのです。そして同志の協力にて本部道場もできました。全国に数百の同志の誌友会場もできました。

 ここにいたるまで、わたしは会社員として一日およそ十時間を労苦し、その余暇に『生長の家』の原稿書きをし、さらに誌友のために祈ってその病気を癒し、三重に献身していたものでした。現在は一ヵ月中の二十日間は講習旅行で南船北馬し、あと十日ほどで五雑誌に執筆し、毎月一冊ほどの単行本の校正をやっているのであります。

 神は献身を要求し給う。「容易に」ということを神は決して喜び給わないのであります。

 むかし、布施太子は眼を求むる者には眼を与え、耳を求むる者には耳を与え、手足を求むる者には手足を与え、およそ身体の一切と身体につける一切のものを捧げたがために、後の世に仏として正等覚(さとり)を開くことができたということであります。
 これは、何も正等覚(さとり)を開いて仏となるのに必ずしも苦しみが必要だということではないのであります。
 ただ神は何事にも「本気」すなわち真剣ということを要求し給うのであります。「献身」の前には、誰でも自分が「本気」であるか、よい加減な自己欺瞞(にせもの)であるかが自分自身にハッキリわかる。そのために神は「献身」を要求したまうのであります。
 換言すれば「価を払う」ということを要求したまうのであります。この本でも無料(ただ)なら読んでやろうというような人は、献身的要素がないから、たといタダで差しあげても「本気」にこれを読んでくださらないで、したがって得るところは少ないのであります。
 これは小さな問題でありますが、献身のない不真剣さでは神縁が結ばれないのであります。
 『使徒行伝』第五章にはアナニヤという人が妻と共に資産を売り、その価のいく分をかくしておき、残るいく分をその全部であると偽って献金しますと、ペテロが「アナニヤよ、何故なんじの心サタンにて満ち、聖霊に対して偽りたるぞ」と叱咤します。と、アナニヤその言葉に打たれて息絶えて死んでいます。
 これは、必ずしも神罰というわけではない。つまりそういうような方の精神波動と、神の救いの霊波とは波長が合わないために霊的恩寵(みたまのさきはえ)を受けることができない。神霊(みたま)の割愛(さきはい)を受けることができなければ本来神の生命を受けて生きているわれわれの生命は生きるはずはない。それでアナニヤの息が絶えたのは当然であります。
<つづく>

1262復興G:2012/09/07(金) 15:00:39 ID:xKxowNU.
<つづき>
<第6回 WEB誌友会用テキスト>

 『生命の實相』 第1巻

  《實相篇(上)光明の真理 第4章》 より(18)

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 本当の献身とは必ずしも持ち物を神様の所へ持って行くことではない。かくしなき心になって、持ち物のみならず、自分の全部(すべて)が、その生命までも、神様のものだと認めることであります。自分の生命(いのち)さえも神様のものであると解れば、かくしなき心で神の家族の働きができるのであります。生長の家は神の人類光明化運動の現われでありますから、神の家族として同志増加につくしてくださる方にはそれだけの報いが必ずあるものです。

 わたしは何事も生きた事実を語るのであって、こしらえ事をいうのではありません。
 倉田百三氏の雑誌『生活者』に時々寄稿していられた香川県木田郡庵治(あじ)村の阿野義一氏は、『生長の家』の創刊号が出るとともに誌友となってくださった上、この雑誌は実によい雑誌だといって知友の方にも勧め、しばらくのうちに十五人ばかりも誌友を造ってくださったのであります。

 この方は非常に敬虔な仏教信者であって、毎月仏教の先生を招いて村の青年や信心深い人たちに有り難い話を聞かしてあげるための会をつくっていられた。まだ二十歳ぐらいのころから「人生」というものを深く考え、考えれば考えるほど解決のつかない人生の悩みについに行き詰って、はては自殺でもしようかというほど思いつめて思い悩まれたほどの真剣な人であります。
 この方は造り醤油屋の嗣子(あとつぎ)になっていられる方でありましたから、別に経済に困るから悩まれたのではありません。また自分の身体(からだ)が病弱なために悩まれたのでもありません。純粋に「人生」というもの、「人間」というもの、「欲望」というものなどのことを考えて死ぬほどに思い悩まれた。まだ二十歳という若さでこんな問題にこれほど悩まれたというのでありますから、どんなに阿野氏の人格が生まれつき真剣であったかがわかるのであります。
 わたしはこの話を聞いたとき阿野氏の人格の本気さに頭がさがった。
 そのころ阿野氏は人生の悩みを解決するために、一室に篭(こも)って合掌静坐してお念仏を唱えていられた。するとある日、氏に霊覚がひらけて光明輝く仏土のような状態がありありと拝まれた。光明遍照のその世界のありさまを自分の目でありありと御覧になったとき、氏の今までの暗黒な人生の悩みがあとかたもなく消えてしまって、あとには歓喜と法悦とが心を満たしているのであった。この光明遍照の世界を見せしめられた霊覚は一ヵ月ばかり引きつづいて持続した。
 あまりの歓喜、あまりの法悦に、氏の心のうちにはもう一度、前のように「人生」というものに悩んでみたいという気が起こったのであります。氏は「もう一度人生というものに悩ましてください」といって祈られた。するととつぜん、実にとつぜん、氏の霊覚が停止し、光明遍照の世界が眼界から消えてしまった。それ以来、氏は自分の求めた祈りのとおりに「人生」について悩みつづけられて、やっと近ごろになってその求めた人生の悩みを克服せられたのであります。
 氏はこのように真剣な人格をもっていられる方でありまして、先年、村会議員の選挙のあったときにも、村民全体から立候補を勧められたが自分で進んで立つということをせられないで、その騒然たる浮世の名利(みょうり)の仕事をあとにして、四国から海を越えて「道」を知るべく、はるばるわたしの家すなわち当時の生長の家出版部を訪ねて来られた。けれどもやはり氏はその選挙に当選せられた。
 氏の霊的体験をわたしが聞いたのもその時の事であった。わたしも語った。氏も語られた。「道」の話は尽くるべくもなかった。
 氏がはるばる生長の家出版部をたずねて来られたのは、ともに「道」を語り、「神」を語ることが主要の目的ではあったが、もう一つそれに付随した願いがあった。それは自分の義兄が昨年の四月精神病となり、鳴門の阿波井島保養院に入院してもう十ヵ月あまりになるけれども少しも快(よ)くならないから、わたしに頼んで治るものなら治してもらいたいと思っていられた。しかしわたしに会ってみると、わたしが実に忙しい生活をしているので、氏はそんな私事をわたしに頼むことができず、ただわたしにそんな病気をわずらっている義兄があることを話して、それを治す方法を相談された。わたしはここがこのまま極楽浄土であること、病気などは念のあらわす影であって実在でないこと、したがって義兄の精神異状も本来無いことなどを話しました。阿野氏は喜んで帰られたのであります。
<つづく>

1263復興G:2012/09/07(金) 15:01:17 ID:xKxowNU.
<つづき>
<第6回 WEB誌友会用テキスト>

 『生命の實相』 第1巻

  《實相篇(上)光明の真理 第4章》 より(19)

   -----------------------

 ところが阿野氏が、生長の家出版部をたずねられてから、氏の義兄の精神異状が急角度をもってよくなり、はじめ病人から
 「不図(ふと)前夜より何となく少し気慥(たしか)に相成候(あいなりそうろう)、色々御話も致度(いたしたき)件も有之候(これありそうろう)に付御多忙之御事と察し申上候(もうしあげそうら)え共御手すきの時御足労被下度(くだされたく)御依頼申上候」(原文のまま)
 と少しも精神に異状のない書きぶりのはがきが届いたのであります。それ以来、この人の病気は急速に快くなられ、六月の八日には七、八分全快して阿波井島保養院を退院せられましたが、六月二十九日消印の阿野氏からの便りには、
 「兄の精神状態も常と変わりなくなりました」と報じて来られたのであります。

 私はこの生きた事実を思い出すごとに、イエス・キリストの奇跡を思い出すのであります。イエスが道を伝えてカペナウンに入り給いし時、百卒長(ひゃくにんのおさ)が来て、
 「主よ、わが僕、中風を病んで家で臥(ね)ていまして非常に苦しんでいます」
 といいますと、イエスが
 「わたしが往(い)って治してやろう」
 と申された。しかし百卒長は
 「尊き主を賤(しず)が伏屋(ふせや)に迎え奉ることはおそれ多いことでございます。だからただお言葉で治れとおっしゃってくだされば治るに相違ありません」
 と申し上げたので、イエスは、
 「なんじの信ずるごとくなんじになれ」
 とおっしゃった。するとそのとおりに病人は治ったという話であります。
 この話においてイエスはただ、その病人を「治してあげたいな」という愛が動いただけであります。べつだん手を触れることも按摩(あんま)することもせられなかった。「治してあげたいな」という心は愛の心である。愛の心は神の心であるから治してあげたいなと深く心で思うだけで、それが宇宙遍満の神に通ずるのであります。
 その愛の心が神に通ずると、神から、「救ってやろう」という「救いの霊的波動」が病人に送られる。「救いの霊的波動」を霊眼の開けた人が見ると天使の姿にも見えるのでありまして、治してあげたいと愛の心で真に思えば、この天使が病気を治してくださるのであります。
 しかし、暗い陰気くさい心で「治してあげたい」と思っても、暗い心は神の光明霊波と波長が合わないからだめであります。人間は本来「神の子」だから病気は無いのだという真理を根本に知って、「その真理がくらまされていてかわいそうだ、治してあげたい」と愛の心を起こすのでなければなりません。
 この場合、必ずしも天使とは羽根の生えた天の童子のような姿にかぎると思ってはなりません。天使とは神さまから「救ってやろう」という愛の心で送り給う「救いの霊的波動」が、それを見る人の心の鏡に反射して客観化(すがたにあらわ)れて見えるのでありますから、見る人の心によっていろいろの姿に見えるのであります。
 キリスト教の人には、天父の姿にも見えましょうし、また天使の姿にも見えましょうが、仏教の方には観世音菩薩の姿や毘沙門天(びしゃもんてん)の姿にも見えましょう。日本神道の方には衣冠束帯の神々(こうごう)しい古代人のような神姿が見えたりするのであります。
 これは「救いの化身」たる神々であって、第二巻の第六章「神への道しるべ」において私が第二類の神として説明している神であります。元は一つの神だけれども、映る鏡(心)に種類がたくさんあるからその鏡に反射していろいろの形相があらわれて諸神諸仏とあらわれるのであります。
<つづく>

1264復興G:2012/09/07(金) 15:02:19 ID:xKxowNU.
<つづき>
<第6回 WEB誌友会用テキスト>

 『生命の實相』 第1巻

  《實相篇(上)光明の真理 第4章》 より(20)

   -----------------------

   愛の心は通じる

 「治してあげたい」と思う愛の心が通ずるということについて先年私は面白い体験をしたのであります。

 昭和四年、生長の家を創始する前年の暮、わたしの子供が扁桃腺炎(へんとうせんえん)をわずらって、熱が出て数日間臥(ね)ていたのでありますが、自分の子供だというとなぜかそれほどに霊的に治すことに熱心になれないのであります。そして子供の病気は家内の処置にまかせておき、自分の恩師今井先生が一、二ヵ月前から持病の胃腸病を起こして毎日痛んで衰弱していられるということを聞きましたので、会社の昼の休み時間に霊的治療にいったのであります。
 その頃私はまだ会社に通っていましたが、霊感をえた直後でまだ「生長の家」の創始前でした。一回の思念で痛みはとれましたが、その四日目はちょうど土曜日でありました。正午すぎ、わたしは今井先生宅へ行くために電車に乗ったままこんなことを考えたのであります。
 ――「わたしはなぜ自分の子供の病気を家内の処置にまかせておいてひとの病気ばかりを霊的に治してゆくのであろう。自分の子供をあんなに冷淡に放っておいてはいけないがな。」こうわたしは自分の子供に対して治したいという深い愛の心が動いたのであります。
 電車の中でわたしはしばらく合掌して祈っていました。

 土曜日だったので、すっかり気持ちがよくなったといわれる今井先生とゆっくり神さまの話などをして、夕方帰って来ますと、家内が
 「今日の昼、妙なことがありましたのです」というのです。
 「昼ご飯がすんで、湿布薬を酢(す)に溶いたのを紙にのばして食卓にこうしておき、恵美子のまえの湿布を取ってしまって、これからその紙にのばした新しい湿布薬を咽喉(のど)へ貼ろうとする時に、急にわたしは神憑(かんがかり)になったように夢中で両手のひらを恵美子の咽喉へあててお経やら祝詞(のりと)やらをとなえ出したのですね。恵美子はすぐ膝の上で眠ってしまいました。すっかり夢中で唱えごとをしていましたが、気がついて見ると、さっき紙へのばした湿布薬はすっかり乾いてカラカラになっているのですの。時計を見ると、もう三時になっていました。恵美子はまだぐっすり寝ています。ソラ恵美子もう三時(おやつ)だよといって恵美子をゆり起こして、もう一度湿布薬を溶かねばならぬような始末でした」
 というのです。わたしは
 「そうか、それは霊的感応現象だ。ちょうどその十二時半ごろに僕は電車の中で、恵美子の病気を薬ばかりに任せておいてはいかんがなと思って祈っていたのだ。それが感応したんだな」
 といって、しみじみ祈りは感応するものであること、愛の心は神に通ずるものであるということを体験させられまして、ただちに咽喉の湿布をとってしまうように命じたのでありますが、それきり湿布も内服薬もなしに子供の扁桃腺炎は治ってしまったのであります。
<以上、第6回 WEB誌友会テキスト 完>

1265神の子さん:2012/09/07(金) 22:55:55 ID:0kyCzJg6


神の子のみなさま
こんばんは。

従業員が失敗したとき (『新版 生活の智慧365章』P.240より)

 上役が下役を罵るごときは、いと易き出来事なのである。両者は対等の立場に立って
いないのである。対等の立場に立っての応酬ならば、それは言論は自由であるから自分が
言いたいままに批評を加え、鋭い矛先をもって相手に立ち向かうのも或いは卑怯でない
かも知れないけれども、上役と下役と云うような対等の立場でないものが、上役から鋭い
言葉の剣をもって斬りつけると云うことは「卑怯」であると言うほかはない。

 たとい従業員に失策があったとしても、皮肉や罵りや怒りや侮辱を従業員にあびせかけた
にしても、それによって失錯が取り返せるわけではないのである。失錯したときには従業員
みずからそれを「失錯だ。しまった!」と思って後悔して、今後こんな失錯を繰り返すまい
と心にちかいつつあるのである。その時冷たい罵詈讒謗(ばりざんぼう)の言葉を与えられる
と其の人の後悔や反省は却って反抗心に変わるのである。

感謝合掌

1266神の子さん:2012/09/07(金) 23:05:34 ID:0kyCzJg6

ありがとうございます。1265は、ハマナスです。

1267ハマナス:2012/09/09(日) 12:10:34 ID:0kyCzJg6


神の子のみなさま
ありがとうございます。

劣等感から立ち直らせる  (『新版 生活の智慧365章』P.241)

従業員が失錯した場合には、既に彼は、自己を卑下し、自己劣等感に陥り、上役から罵られる
ことを覚悟し、自己萎縮している時であるから、そのときにそれを冷たく追い打ちの言葉で罵る
かわりに、温かい同情或る言葉をかけてやるならば、彼はホッと救われたように感じ、恩義に思い、
愛を感じ、尚一層、その上役の恩義と愛とに報いたいと思うようになるものである。

 誰でも失意落胆の心境にあるときには好い仕事が出来ないのである。失錯をして自己劣等感に
陥っている時に、その劣等感から立ち直らせて、好き仕事をなさしめるには、愛情ある同情ある
言葉で励ましてやることである。苛酷な、奴隷を酷使するような冷酷な態度で従業員に臨むときは、
従業員も業主(又は経営者)に対して苛酷な態度で立ち向かうことになるのである。与えよさらば
与えられん。自己が冷酷ならば相手も冷酷となるのである。

感謝合掌

1268a hope:2012/09/10(月) 06:28:08 ID:r8H4x9xE
人生読本 谷口雅春先生著

仕事と勉強をよくする法


仕事をする時には、先ず「今日も一緒にあなたと仕事をしましょうね」と言って、仕事の材料に微笑みかけよ。
勉強する時には、先ずその勉強の材料に、教科書に、答案用紙に、雑記帳に対(むか)って、
「今日もあなたと仲よく一緒に勉強しましょうね。あなたはきっと、わたしをよくできる子にしてくださるわ!」
こう心で話しかけてから、教科書や、答案用紙と仲よくなって勉強することです。
教科書や、答案用紙を嫌いつつ、「お前なんかこの世の中にあるものだから、
私が勉強しなければならぬ、なんて詰まらない事だろう」と思って、
教科書や答案用紙を憎みながら勉強したのでは、勉強は上手になりません。
(つづく)

1269SAKURA:2012/09/10(月) 09:56:58 ID:SbalnCM2
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ

おはようございます…。  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。

今月は…『セフテンバ−…9月』
暦の上では、どうしても浮かびますのが……二百十日、二百二十日と…
そうなのです〜〜ョネ!【台風シ−ズン】…何となく?過ぎ去って欲しいものです…。
それでは、本日の“言葉”から〜♫〜

■■ ―― 如意自在の生活365章 ――
―――【 汝は“神の子”一切は自己より出ず 】 ―――

ソクラテスが“汝みずからを知れ”と言ったごとく、宗教の根本課題は“汝みずからを知る”こと
である。“お前はどこから来たのか” “お前は一体何者か”の問題である。自己を物質でできた肉体
であり、中には内臓があり、内臓の内部には糞雑穢が充ち満ちている有限の存在であると見ている限
りにおいては、人間は物質の法則に左右され、物質の法則の奴隷であり、出せば減る存在であり、富
むためには奪わなければならない惨めな劣弱なる存在であるほかないのである。

 肉体は“自己の表現”の一部分であり、自分は宇宙の造り主なる神と一体であり、あらゆる処に
“自己表現”を自分がなしつつあるのだという自覚をもたなければならないのである。わたしたち
は、善なる神を妨げる対立的な力があるということをみとめてはならないのである。不調和を来たす
力が実在すると考えてはならないのである。そのような不調和を起す力があると考える程度におい
て、“不調和な力”を自分がそこにその時点に表現しつつあるのである。   (雅春先生著)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆

■肉体…一時的な借物でしょうか?
この「現象世界=現実世界…」での、人生劇場の役者としまして…頂きました“仮の姿”かと?
当に【自己表現…】の手段としての【肉体人間…】でしょう。

では?本質の私は、何者でしょうか〜〜〜? 自問自答しますと〜〜〜?
勿論!【霊的人間…】なので〜〜す。今年亡くなりました「母の御霊様」を、見ましてからは、
更に“お前はどこから来たのか”と言われますと…勿論!
この現象世界の次なる世界…そうです〜〜ョネ!【霊界…】から〜♫〜
そこには、肉体こそありませんが、今の私の状態を引きずった状態での“世界…”と申すべき
でしょうかしら〜〜〜ン!

但し懸念して居ます事があります…。その「御霊の色…」ウフフ><
【生命の実相】の中に“色別…評価”がありましたモノ!
「赤色」・「黄色」・「青色」・「白色」……etc いったい?私の場合は〜〜〜なんて考えてしまいます。
ならば…『神と一体』に於きまして…『魂の向上』を、この現実世界である今!今!…
磨いていきます事が、次なる世界への素晴らし〜〜〜イ!世界へ「旅立つ〜♫」でしょうか?

神の世界は「調和の世界」ですから…これを踏まえまして【自我をたちきるべし…】
そうしませんと…【我欲…執着】になりまして【調和の世界…】には、到底行けませんでしょうか?

今から…『神の子としての自覚』を持ちまして【今!今!この世界にて“心の向上”…】を、
霊的人間は“自由自在”しかも”無限の力“がありますモノ〜♫〜
益々勉強して参りたく思います。…が?
                              再合掌 

PS:トキ様は?本日の“言葉”どの様に受け止められましたでしょうか〜〜〜?
アドバイス頂きますと、幸いです。…が?

1270ハマナス:2012/09/10(月) 13:35:32 ID:0kyCzJg6
神の子のみなさま
こんにちは。今日も、こちらは暑いですが、皆さまは如何にお過ごしですか?

上役のやさしい言葉  (『新版 生活の智慧365章』P.242)

 人は本当に自由になったとき、責任感をもち、真面目に仕事をすることが出来るのである。
業主は従業者を自分の息子又は娘であると感じて、その幸福のために誠心(まごころ)を
尽くしてやるべきである。真心は真心を呼び出し、冷酷は冷酷を呼び出すのである。冷酷
なる親に対しては子は親不孝になるのは当然である。子は親の愛を感じたら、親に対して
反逆の心を起こしたりすることはないのである。

 従業員は概ね貧しいのである。その生活には苦労が多いのである。その上経営者から辛く
扱われてはたまらないのである。経営者はもっと従業員の生活の労苦を軽減してやるように
意を用いてやらなければならないのである。上役のやさしい言葉や、同情ある態度、思いやり
ある扱いが、これらの従業員を明るい温かいものにしてくれるのである。人は何の位置におかれても人に愛を施すことが出来るのである。

感謝合掌

1271うのはな:2012/09/10(月) 14:43:33 ID:2lPhm8Go
私のクラス会  谷口輝子 先生著 『愛が魂に目覚める時』P146〜

 私の車が停ったところはクラスメートの国方さんの玄関前であった。
私は車を降りてもすぐにドアに手をかけられなかった。国方さんの庭から這い上り、
堀の上から顔を出しているツルバラの花が、余りに美しく可憐なので、私はそれに近よって、
しばし見惚れていたからであった。

 やがてドアをあけると、気配を感じてドヤドヤと出迎えて下さったのは、国方さんとお嫁さんと、先着の
二人の友たちであった。応接間に通されてしばらくすると、四人の友もみんな到着されたので、予定通り八人が揃った。
みんな二階に案内されて落ち着いて坐った。みんなは直ちに楽しい賑やかな会話にはいった。
国方さんの息子さんは建築家なので、変った面白い建て方がしてあり、洋間にも日本間にも棚の上には亡き御主人の作らしい
彫像が飾られてあった。一流の彫刻家だった御主人が去年亡くなられたが、沢山の作品が、あの部屋この部屋に、そして廊下にも
飾られてあるので、矢張り夫と共に暮して居られる感じがした。

 八人のクラスメートの中で、夫が生きて居られるのは、矢沢さんと私との二人だけであった。
大阪からはるばると上京して、今日のクラス会に加わられた高井さんの夫は、最近亡くなられたのである。
仲のよいという評判の夫に逝かれたのに、高井さんは思いのほか明るい顔をして居られる。私の隣りの席に坐って、
高井さんは夫の死について話しつづけられた。
「去年から、誰からか判らないのですが、毎月私に『白鳩』を送って下さるので拝見しています。貴女は二つも文章を
出して居られるんですね」
「ええ、もう、もう一つ『理想世界』という青年誌にも書いて居りますの」
「うちの主人はね、軽い脳軟化症でしたが元気だったのですよ。死ぬ前の晩に“わしはもう死ぬよ”と申しましたが、元気でしたから
私は本当に思って居りませんでした。ところが翌朝の七時頃でした。水が飲みたいから持って来てくれと申しますので、コップに入れて
持って行きますと、『ああ美味しい。もう一杯くれ』と申しますので、また持って行きますと、それを飲まないうちに、横になったかと思うと、
息が切れたのですよ。私は水を運ぶ時、それが末期の水になるとは思いもかけないことでしたが、後で考えて見ると、近頃は逢う人毎に、『いろいろお世話に
なりまして』と御礼を言って居りましたし、私にも、『お前は良い妻だった。大変世話になった。有難うよ』などと申して居ました。
自分では死の予感があったのでしょうね」
などと高井さんは言われた。

 御主人が余りにも立派な死に方をされたので、彼女の顔は明るいのであった。私は大阪の白鳩の一人が、名も告げないで愛行をして、
高井さんに送本していて下さることに、蔭ながら御礼を言いたいと思った。一昨年まで東京に居られた高井さんが、もはや東京のクラス会の
メンバーでなくなったのに、特にはるばる参加されたのは、こんな話や、満州引揚げの時に、一般の引揚者は一人千円しか持ち帰れなかったのに、
高井さんは大袋いっぱいのお金を持って帰られた話もされた。引揚げぎわに、銀行から会社の預金を引き出されたので、日本へ帰って来られた時、
会社から非常に感謝されたそうである。珍しい話だと思った。

 杉並に住んで居られる佐賀さんも「白鳩」誌を長年読んで居られ、大阪に在られる息子さんも、九州の大学へ行ってる孫さんも「生長の家」に熱心だと、
ひどく私に御礼を言われたのでクラス会なのに、白鳩会と錯覚しそうになった。
クラス会に行った翌日、沢山の郵便物の中から取り出した二通の封書の一つは、品川の海雲寺というお寺から送られた“時の宣伝”なる印刷物であった。
時間を大切に生かして使えという宣伝を、前住職から続けて来られたそうである。
そ 世の中は今日より外はなかりけり 昨日はすぎつ明日は知られず
 昨日見し人はと問へば今日はなし 明日また我も人に問はれん
 後の世と聞けば遠きに似たれども 知らずや今日もその日なるらん
 かほどまで偽り多き世なれども  死ぬるばかりは偽りでなし

 (読人不知)


つづく

1272うのはな:2012/09/10(月) 14:44:47 ID:2lPhm8Go
>1271 つづき

 お寺らしく、仏教的無常観の歌を記して居られるが、全く現象の世界は映し世と呼ばれる通り、
今日あって明日はどうなるか解らない肉体人間の世界である。私は高井さんの御主人のように、少しも
苦しまないで、見る人ごとに感謝してあの世へ旅立たれ、遺族も心安らかに明るい顔をして
暮らせることを、有難く尊いことに思いながら、もう一通の手紙を開いた。それは愛知県の或る町の誌友の娘
Aさんからのものであった。
『拝啓、前文ごめん下さい。私の父は十年ほど前から生長の家に参加し、心そう感やら、甘露の法雨を一所懸命読んで
おりました。それが二月十八日突然吐血し、市立病院に入院しました。今日まで病院で一進一退の状態で、何の奇蹟も起らず、
悲嘆のあまり、一宮市の婦人講師Nさんに来ていただき、個人指導をお願いいたしましたが、いっこうに要領をえず、三度目の奇蹟も
おこりません。神様は、かねて平等の愛である生長の家に書かれておりますが、十年も誌友となっておりました者が、何んの奇蹟もいただけないもの
でしょうか。私の家では毎月一度、二十名ぐらいの人があつまりまして、たのもしの常会を開き、生長の家の本の話や、世間話などを話合っております。
私も誌友であり話合っておりますが、これはどういう事でしょうか。よく理解できます返事を、私個人にお送り下さい。
神様は平等にお守り下さると言う事ですが、生長の家の本に書いてある事とは大ちがいで、びっくりしています。
毎月集まって来る人達もご返事を待っています。返事がもらえぬ事なら、私達もその様に思います。父は返事がいただける迄この世に生きていられるかどうか
わかりませんが、出来ますれば、この世に生きていられる間に、なっとくの行く返事を聞かせてあげたいと、私達子供、親戚一同せつにお願い申し上げます』

 このお手紙は原文のままのものであるが、私はこのお手紙を読みながら、今更のように考えさせられた。信仰というものは一人一人のものであって、同じ教えを
受けても、各自の受け入れ態勢が異なるために、深く悟る人もあるし、浅い理解しか得られない人もある。
この手紙の人のように、入信して十年もたつというのに、「生長の家」の最も重要な行事である「神想観」を「心そう感」としか書けないということは、信仰に熱心でないことを
表している。毎月発行される「白鳩」誌を読み、「白鳩相談室」へこのお手紙をよせられた人なのに、心そう感と書かれるようでは、心をこめて読んで居られないことが判る。
「白鳩相談室」宛のものは誌上回答を原則としてあるので、この人個人への返事は早速本部講師より出して貰ったが、この人の家に集って来る人たちや、同じ質問をもつ人たちのために、
私は誌上で答えることにした。の宣伝ビラの終りの方に、四首の歌が記されてあった。

つづく

1273うのはな:2012/09/10(月) 14:49:20 ID:2lPhm8Go
すみません。上の1272 の最後の文 の宣伝の終りに、、消し忘れていました。

1274うのはな:2012/09/10(月) 15:31:09 ID:YWcH1hUU
>1272 つづき

 まことに神様は一切の人々に平等の愛を与えて居給うのである。あの人を愛し、
この人を愛さないということは、最高の神の心ではなく、如何なる人をも愛し給うものである。
 神は、生きとし生けるもの凡てに、愛を振りかけていられるのだけれど、その愛を受け取る人と
受け取らない人とがあるのである。ちょうど、ラジオ局から放送をしていると、スイッチを入れて受けようとする人と、
スイッチを入れない人とがあるように、神は愛の放送を休みなくしつづけてい給うけれど、受け入れ態勢をしない人には、
幸福は得られないのである。


 幸福な人とは何であろうか。それは人々の幸せのために働き、生きている限り感謝の生活をし、死ぬる時も、神に感謝を捧げ、
一切の人々に感謝を捧げて死ねる人のことをいうのである。
 信仰する人たちは、しばしば奇蹟的な救いを語り、信仰すれば奇蹟が得られると思いがちであるが、「生長の家」では、奇蹟は無いと
説かれている。一見奇蹟のごとく思われる不思議な救われを得る人がしばしばあるけれど、それは特別な奇蹟というものではなく、その人の
或いはその人の家族の信仰によって現れた当然の現象なのであるから、入信しても、真剣にみ教えを実生活に生かしているか、よい加減に生活して
いるかによって、結果は原因にふさわしいものとして現れるのである。入信して一ヵ月の人も、十年二十年の人も、年月の長短とかかわりなく、唯その人が
如何に真剣に道を行じるかにあるのであって、多く与えた人は多く得られ、与えなかった人は得られないのである。

 手紙の人は、唯奇蹟ばかりを欲しがり、『甘露の法雨』を読んだが奇蹟が起らない、N先生に来て貰ったが奇蹟は現れなかった。三度目の奇蹟も起らなかったら、
教えがうそのように思って居られる。この人たちは、奇蹟を奇蹟をと、唯お蔭を欲しがってばかり居られるが、父君が仮りに胃潰瘍で吐血されたとすると、その病気になられた
について、その原因の心の在り方について、反省して見られたであろうか。一切の不幸は自分の心で作ったのであるから、その病気の原因である心の持ち方を変えねばならない。

 現代の医学者でも、胃潰瘍は精神的な原因によると言われているほどだから、自己を反省して、誰を憎んだか、何ごとに不足をもったか、何が思うようにゆかないと不満をもっていたか
を思いめぐらせて、人に、事に、調和し赦し、感謝に変えるように努力されたらよいと思う。
感謝あるところに、病気やその他の不幸が現れる筈がないからである。

 アメリカの光明思想家グレン・クラーク教授は、子供が瀕死の重態に陥っているので祈ってくれと頼んで来た婦人に、
「みこころならば、どうぞこの子供を、天国にお引き取り下さいと祈りなさい」と教えています。
これは「治したい、治したい」という病気をつかむ心を棄てさせるためである。
そしてその母親が、その心境になって、神様にお委せする気になったとき、子供が治っているのである。
自分の心の中から病気を放さないので、お蔭が得られないことを金光教祖は、
「ままよという心にならねばお蔭は得られぬ」とおっしゃっていられる。
生きるも死ぬるも、神様あなたにお委せいたしますという気持ちになった時、神の癒しの働きが自分に及んで来るのである。
そのままの心、神意のまにまに在らしめ給えという祈りの心が大切である。

 私の友の佐賀さんの令息が癌の疑いで入院された時、令息の見舞いに大阪まで行かれた佐賀さんは、枕許に『生命の實相』を
置いて帰京せられた。熱心に読まれた令息は癒された。真理を知って心が変られたのであろう。
今はその令息夫妻もその子も、熱心な生長の家人となって居られる。母として祖母として、深い感謝の意を私に示された。
クラス会に行った私の、思いがけない収穫であった。
わたしには眼には見えない大きなおみやげであった。

昭和45年8月  おわり

1275a hope:2012/09/11(火) 07:40:56 ID:r8H4x9xE

人生読本 谷口雅春先生著

明るい人はなぜ出世する


事業の成功ということも、就職の希望がかなうということも、
良き良人や妻を迎えるということも、すべて明るい、元気な、その人の顔を一目見るだけで、
とても愉快になり、気持ちがよくなるような人間であってこそ速やかに得られるのです。
誰でも、こんな人に在ったら好意を感ぜずにはいられません。
こんな人から頼まれることは嫌だとは言われません。
こんな人には何か助けをしてあげたくなります。
雇ってくれと頼まれれば雇わずにはとてもいられません。
そういう人は、他の人々を自分の思う通りに動かす魔術の棒を持っているようなものです。
その魔術の棒はどこにあるか。
それはあなたの明るい心と明るい微笑とにあるのです。
(つづく)

1276ハマナス:2012/09/11(火) 12:51:40 ID:0kyCzJg6


神の子のみなさま
こんにちは。

奪うものは奪われる  (『新版 生活の智慧365章』P.243)

 上役や経営者は利己的であってはならない。また上役が貪欲であってはならない。上役及び
経営者は、従業者と共に富んで行くのでなければならない。従業者の犠牲に於て富もうと思う
ならば、それは「奪う心」であるから「奪う者は奪われる」と云う法則に随って、従業者の
サボタージュや、ストライキで「奪い返す」はたらきが起こってる来るノである。

 またサボやストを露骨に行わないにしても従業者が上役や経営者に対して好意を持たない
ときには、働く意欲が減少し、機械、器具、什器などを乱暴に取扱い、火災に対する深重な
警戒などもしてくれないので、不測の災害を惹起すに到らないとも限らないのである。
火災は往々「人心の摩擦」の具象化として起りがちなものである。仕事に対する従業者の
深切注意を喚起するには、上役及び経営者が従業者の生活について深切な愛を持つに若(し)
くはなのである。

感謝合掌

1277SAKURA:2012/09/11(火) 22:32:15 ID:jH5uEFzM
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1043>>1044>>1052>>1057>>1058>>1063>>1068>>1073>>1087>>1092>>1093
>>1097>>1098>>1167>>1170>>1171>>1174>>1175>>1190>>1194>>1210>>1227
>>1238に関しましては、【ベスト・フレンド】シリ−ズで〜〜〜す。
実は、私の「青春シリ−ズの一冊の本」なのです。(討論課題項目が、幾つかに分かれてい
ますが?)意外と真理が、分かりやすい【討論形式】なのです。…が〜〜〜??
【コロンビア大の方達が、真理…サイコ的】に? 昨日の投稿文章は、皆様!如何でしたかしら〜ン?

■【ベスト・フレンド】  ( 混乱を静める方法 ) 

――――― 混乱静める方法  ―――――

|❤なんですって。そんなことは不公平です。そんなことではあの人たち
|をそのままにほっておくことになるではありませんか。すんだことは水
|に流せというのですか。それでは結局、わたしたちはあの人たちにやら
|れっぱなしということになるじゃありませんか。

 たしかに不公平です。しかし、人生とは不公平なものですよ。あの人たち
は実際、逃げおおせたことになります。そのことにたいして、あなたが現在
できることはなにもありません。いまさら貸したものを清算する方法はなに
もないのです。ハムレットは他の悲劇の主人公と同じように、結局は賃借を
清算したのですが、それは死歌流形かのどちらかを選ぶことによってのみ達
成されたのでした。神話にもあるように、エレクトラは母親を殺してしまい、
二度と家庭で母親を見ることはなかったのです。

 人生にはまた別の生き方があります。それは寛容の精神をもって、愚痴を
こぼすのはやめ、物事を大目に見ることです。あなたは全人生を両親に持ち
逃げされないようにしなさい。あなたの全人生をみずからあきらめてしまう
ことをやめることができるのです。
      ――――――― ❤ ――――――
|❤わたしたちは過去を帳消しにするべきなのですね。あらゆる悩み、過
|去の年月、子どものときに信じていたことのすべて、これらを全部忘れ
|なさいというのですか。わたしたちが考えていたことはすべてなにもな
|かったのだということを受け入れなければいけないのですね。

 いいえ、ある意味では、そのときあなたが考えていたとおりだったのです。
人間というのは、それを打ち立てた時点ではまちがっていなかったという
ことが、なかなかわからないのです。
          ――――――― ❤ ――――――――

                        (つづく)

1278SAKURA:2012/09/11(火) 22:34:58 ID:jH5uEFzM
                        
トキ様 へ 観覧者の皆様 へ
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1277投稿の続きです

|❤言葉で表現できないような漠然した見解をもっている限りは、世間
|を正しく認識しているとはお考えにならないわけですね。

 いやむしろ、それはわたしたち自身の問題と取り組むときの最善の方法だ
ったわけです。わたしたちは、家庭という身近な世界で、もっとも小さな非
力な存在として出発しています。子どものころの無力感は理屈ではなく、事
実なのです。

 社会とかかわりをもつ初期の段階では、他人の力をかりなければなりませ
ん。五歳のときには誰もが母親を必要とします。欲しいものを手に入れるた
めには母親に気に入られ、母親の機嫌をうかがう必要があります。わたした
ちの人生は文字どおりそうすることしかありません。子どもが子どもとして
の独自のことを達成するためには、おとなを動かさねばならないのです。キ
ャンデ−を手に入れたり、映画に行くためにはおとなを征服しなければなり
ません。すなわち、こどものころは人に頼り、他人の愛や同情、理解を求め
る方法を身につけることが、適切なやり方なのです。自分の力に頼ることが
できるのはあくまで二次的なものでしかないのです。

 この無力感、そして他人を操作する要求を成人期までつづけて持ち越すと
ころにまちがいがあるのです。かっては事実であった事柄が、いまや虚構の
ものになっているのです。成人期には人の機嫌をうかがうことで、すべてが
うまくいくとは限らないのです。かって人があなたにしてくれたことを、い
まやあなたは自分自身にたいしてやれるのです。

 三〇歳にもなればあなたが三歳のときのように、母親から愛を受ける必
要はもはやないのです。子どものときのように母親を気にしたりする必要も
ないし、当時のような接し方も必要ないのです。もはや母親の怒りを恐れる
こともありません。母親の好きなネクタイをしたり、母親が認めるような女
性とデ−トしなくてもよいのです。それらはすべて過ぎ去ったことです。あ
なたの古い歴史のひとこまにすぎません。いまやあなたは独立した人格をも
った一人前の人間なのです。しかし、多くの人はこの事実に気づいていない
ようです。

PS:トキ様
子どもの頃(赤ちゃんも含め…)は、その行動には?確かに限度が、ありますでしょうか?
つまり其の“行為”の「主体者」・「客体…」この区別が、必要です〜〜〜ョネ!
この件は「機関誌…9月号」にて「現総裁雅宣先生…」が述べられています。…が?
ある程度の年齢までは「両親…母親…」からの影響が、多大なモノです〜ョネ!
しかし、この事から更に【時間…経過】を致しまして【自分自身での行為】事が可能であり、
それはすべての事に関して【自己責任…】といいます事を認識しました時、
次なる“ステップ”へと繋がるモノと思います。これこそが「成功へのステ−タス」でしょうか?
【人 格 の 向 上】へもつながりますでしょうかと???
この事は「トキ様…」如何お考えでしょうか?
                                   再合掌

1279a hope:2012/09/12(水) 07:52:57 ID:r8H4x9xE

人生読本 谷口雅春先生著

自分の人物試験法


先ずあなたの顔を鏡に映して御覧なさい。
当り前にしている時の心持で、故意と顔の表情をかえないで、今あるままの顔で、
口をボンヤリ開いているならば開いているままで、眉をしかめているならば顰(しか)めているままで、
ソーッと今あなたの机の上にある手鏡を、あなたの顔の前に持ってお出でなさい。
そして、その鏡の中に移っている自分の顔を御覧なさい。

あなたの顔は明るい気持ちの良い顔をしておりますか。
あなたの今の顔は自分でも好きですか。
自分でも嫌になるような陰気な顔をしておられはしませんか。

口がポカンと開いている癖があったら、これから常に心を引締めて物を言わない時には、
口をしっかり噤(つぐ)んでいる習慣をつけましょう。
眉を顰めているならば、これからは常に眉と眉の間を引伸ばすような心持で生活しましょう。
眼に険があって鋭ければ、母に甘えるような一番柔らかな気持ちで物を観るようにしましょう。
眉をひそめている習慣があるのは、心が常にイライラしているか、焦っているか、悲しんでいるか、
狭い心でいる証拠ですから、眉を左右へ伸ばして暢(の)んびりとした広々とした愉快な気持におなんなさい。

そして口辺(くちのあたり)に微笑を湛(たたえ)えて、すべての物に微笑みかける気持になんなさい。
そういう人は人生の宝です。世の中が世知辛くなって、みんながイライラした顔をしている中に、
そういう愉快な輝かしい顔をしている人は人生の宝です。

人生の宝ならばあちらからもこちらからも来て欲しいという人が多数で、
思わぬ幸福はそこから生まれて来るのです。
これが出世する道、幸福になる道です。



人生読本 (完)

1280うのはな:2012/09/12(水) 13:36:55 ID:q1/hjc9I
信仰の操を貫く 『實相研鑽』第三集 谷口雅春 先生監修

林 利男

 さて私の申し上げたいことは、信仰には“操と信念”がなくてはならぬということです。
私の考えているのはそれだけで、あっちへ行ったり、フラフラしたりするようなことじゃいかん。
生長の家は万教帰一だから、日蓮宗関係へ行っても、他の団体へ行って信仰の対象としても良いというような、
操のないことではいかんと思います。私が伊藤都連会長に褒められるとしたら、その操を貫いてきたということだけです。

 御承知の通り私は、今度の戦争で三度も焼け出され、六法全書と聖経と中聖典(『生命の實相』)一冊と若干の夜具のみの文無し
になり、「物質無」を徹底して味わいました。また、たった一人の可愛い大切な息子はまだ帰っていません。
現象的には逆境とみえましょう、それで、生長の家を離れて自分が別の教団をつくり教祖になった人が、私を仲間に入れようとして断られたあげく
自分の本に何と書いたといいますと、「生長の家の顧問弁護士・林利男を見よ。彼は生長の家の誌友であるけれども、一人息子を死なせ、戦災で三度も
焼けて倉住まいをしているようなみじめな生活をしているじゃないか」と書いています。

 またある婦人は最近、「林さんはいっこうに幸福になっていない。生長の家の教えが良けりゃ、林さんなんかもっと幸福になってなきゃならんのに」と
言うわけなんです。

 しかし私は、現象的に逆境とみえるそんな体験を、私の魂を磨く糧としてありがたく受けているんです。
寂しくも何ともない。一人息子はいませんけれども、毎日陰膳をすえて三人ともに食事をしていますし、夫婦して喜んで生活しています。
ですから、そんな現象上の不幸でよろめくような信仰だったら、やめたらよいと言うんです。
家が焼けたから信仰を失うとか、身近に病人があり、現象の肉体を失うものならやめた方が良い、と私は申しております。

 前回も申上げましたが、紳士録の宗教欄に私は『生長の家』と出しています。
私の家は代々浄土真宗ですが、私は死ぬまで、否二世三世、未来永劫に生長の家の誌友と確信しておりますから、馬鹿の一つ覚えと
言いますか、操を通しているという私の信念の証しとして出しております。

 別に難しい理論の下に通しているわけでもなく、惰性でいるわけでもありません。
それが神への道であり、谷口先生への御恩返しの道であると、ただそれだけを考えて全ては神まかせに精進しているだけです。
谷口先生の前でこんなことを申上げては恐縮ですが、戦時中に多少、生長の家が弾圧されはしないかという傾きがあったとき、
もしものことがあったら先生と運命を偕にしよう、先生の御盾となろう、という覚悟でついてきました。

 故人の小永井先生が郡山警察に留置されたときも、私は行くばかりになっていましたが、必ず釈放されると念じていて、まもなく
釈放されました。そういうしだいで、私としましてはつねにみ教えと一緒にという決心で一貫して、信仰生活をつづけているだけでございます。

1281トキ:2012/09/12(水) 14:01:22 ID:wOnf3jnI
>>1280

林先生は弁護士さんですね。立派な方です。このくだりは、自分も感激して読んだ記憶があります。

1282うのはな:2012/09/12(水) 18:20:55 ID:R80If25o
 自己処罰と失敗について  断られて残念がらず

 安達 鼎

 私自身の体験を申上げます。私は満州から終戦一カ月前に内地に帰って参りましたが、
前から私は事業とか一切の仕事をすてて、生長の家を通して、人類を救うことをやりたいという希望を
もっておりましたので、習字でも教えて小遣いを五十円位もらったなら生活は出来るから、後は全部人類光明化
のために働きたいと、こういう覚悟でした。けれども戦後は社会情勢が激変してしまったので、再び勤めることを
決心したのであります。

 そうしますと、「あなたなら、私の所へ来て下さい」「参りましょう」という所が三、四ヵ所ございました。
ところが、向うから言われて、こっちも承知した話ですから、もう大丈夫だと思っておるのが、九分九厘の所でポッと駄目に
なるんです。その時に、私は“あっ、断られて残念だ”と思ったことは一回もありません。駄目になったときにすぐ「ありがとうございます」
と神様に感謝致します。なぜかというと「これが得られなかったのは、私に下さるものは、こんなちっぽけなものではなかったのか、もっと大きな
仕事を私に下さるんだ。ああ、ありがとうございます。大きな仕事には手間がかかります。ありがとうございます」と思うから必ず、そのとき感謝致します。
そして最後に頼まれたのが、ある工場の工場長の話でした。

 そこは給料はよろしい しかも、共産党などの非常に盛んなところで、始終闘争があったところです。そこに頼まれたとき、「ああよかった、これが私の仕事である。
どうか、この工場の人達を、みんな生長の家にしたい」という念願から、給料は望みませんからということで入りましたが、おかげで社長が生長の家に共鳴し、会社はすばらしく
よくなりました。

 そこでこの体験から、九分九厘成功してあと一分で駄目になったからと落胆することは、これは本当に神を信じておらないものがやることだと思います。
本当に神を信じたならば、神はすでに与えておるんです。私たちはすでに仕合せをもらっておるんです。
ですからたとい何かのために話が進まなくっても、遅れているのは何かほかに理由があるからだと
“本来のもの”を神に感謝しておれば、必ず結果はよくなると確信をもって待っています。

 それを、九分九厘できているのに、一分の所で欠けてしまったじゃないかと残念がったり、くやしがったり、
生長の家をやっておるのに、まだお蔭が与えられない、という考えをもつようになると、ますますだめになってしまうのだと
解釈致します。

『實相研鑽』 第三集 谷口雅春 先生監修 P84〜

1283SAKURA:2012/09/12(水) 20:38:13 ID:jH5uEFzM
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。

今日はこの前【ウエブ誌友会…】のテキストからの一部です。いろいろ“投稿”させて頂こうかと、
思いました。…が?時間的に〜〜〜><でも!更に“続き投稿”を私なりにマイペースにて“投稿”…
してみたくなりました。では〜♫〜

■【生命の実相Ⅰ巻 總説篇/實相篇 上】
―――― 第 五 章  活きた事実を語る ―――――
 
皆さんは悲しげな顔をしている人のそばへ来ると自分もなんとなく悲しくなり、淋しそ
うな顔をしている人のそばへ来ると自分も何となく寂しくなったような経験がおありであ
りましょう。また腹立たしい顔をして咎めつけられるとこちらも腹が立って来たというよ
うな経験もまたおありでしょう。このようにわれわれの心の状態は付近の人々に感染(うつ)
って行くのであります。心の状態が感染るものであるとしますと、病気すなわち病的な
心の状態が形にあらわれたものも、感染るのが当然であります。たいていの人は伝染病
だけが感染るように思ってほかの病気は感染らないように思っていられますが、胃病や神
経衰弱も感染るのであります。家族全体が一種の気欝症になって、そのためみんなが消化
不良症や神経衰弱症に悩まされているような実例も世の中には少なくはありません。こ
れは皆あらゆる病気は精神的に感染するからであります。
                         (谷口雅春著)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆
■【伝染系の病気…】だけではなく【心の病気…】も“感染”されます〜〜〜ョネ!
【笑いの体操…】をします時に、大きな声をあげて笑います。
“ワ〜〜〜ハ!ハ!ハッ!〜♫〜” そして、気がつきますと【笑いの渦…】に、
まるで?打ち寄せては引く“波み”のように…引きこまれたり〜♫〜更に【浄心行…】の時は、
逆に【涙の渦…】でしょうか??

■私が小・中学の時代でしょうか??大牟田まで【小中学の練成会…】に、参加したモノです。
私一人で、其処に参加する様にと、両親から行かされましたが、今振り返りますと、素直に、
良くその道場へ行ったものです〜〜〜ョネ!当時は、“八幡駅”から〜〜〜“大牟田駅”までです。…が?
更に、駅の道案内で問い合わせながら?小学校の頃!一人で、まるで当時の私は、
【一人の行動が一人前のような感じで…】本当にルン〜ルン〜♫〜気分で、張り切って出かけたモノです。
その時は【笑いの体操…】は、ありませんでしたが〜【浄心行…】です。

当時を振り返りますと【両親への感謝…】という感じですが、私自身、当時は「悩み無し?」という
心境そのもので、実に「平和な心境」でしたから、“両親への不満・反発心”は、まったく無く、素直に
参加していますから…困惑しましたのが、正直な気持ちです。

当時の先生からの【親に感謝…】を、表しなさいと言われて……いざ【浄心行…】が、始まり〜〜〜
『お父様・お母様 ありがとうございます…。』と、何度も唱えていましたら…><
“隣の子”がシクシク泣いています。更に“また隣の子”も泣いています〜♫ “また!また隣の子”も!
当時の私は?泣かないといけないのかしら〜〜〜ン!と、当時は「小学高5年生?」でした。…が?
一生懸命 “父・母の顔!” を描きながら、気がつきますと“涙…”が出て来ます。

段々!あふれるように“泣きだしました。…が〜♫〜”大粒の涙くん“です。
その後の【浄心行…】でも、よく“涙くん〜♫”が出ました。…が?
やはり【心ヘの感染…】しますでしょうか〜〜〜?ですから【ア!ウン!の呼吸…】なのです〜ョネ!
私も【ア!ウン!の呼吸…】で【心の法則】つまり、【心 = 人 格】でしょうかしら〜〜ン!

■■同じ“感染系”でしたら……【真 理 の 感 染】が、最高ですかと???
 
再合掌

PS:トキ様 へ
脱線しますかしら〜〜ン?「トキ様」も【浄心行…】は“涙くん〜♫”でしたでしょうか???
余談になりますが??「もらい泣き〜♫〜専門…」が、パ−トナ−です。…が?

1284ハマナス:2012/09/12(水) 23:42:53 ID:0kyCzJg6
神の子のみなさま
こんばんは。

温かい太陽の如く  (『新版 生活の智慧365章』P.244)

 温かい太陽の日差しにおかれた縁側にある鉢植えの梅がもうふくらんで、二,三輪ひらいている。
しかし霜に覆われた庭の梅の蕾は固い。暖かい愛情のあるところ、生命は中(うち)から開いて
くるのである。冷たい寒風のような心をもって人に対するとき、其の人の魂が固くとじて開かなく
なるのも無理はないのである。普通の人は冷酷な人や、むごい人に対して、忠誠な働きをすること
はできない。低卑な貪欲な業主に対して真面目に好意をもって働くことが出来ないのが普通である。

 愛する者は愛され、好意を示す者は好意を示される。尊敬する者は尊敬され、深切を施す者には
深切が返って来る。従業者から愛され、好意を持たれ、尊敬され、深切忠実に仕事をして貰おうと
思ったならば、先ず自分自らが、これらの諸徳を従業者に与えねばならぬのである。而も今なお
多くの経営者がこの真理を知らないのは残念なことである。

感謝合掌

1285a hope:2012/09/13(木) 07:07:15 ID:r8H4x9xE

みなさま おはようございます。

丁度、8か月前の今年1月11日、わたしは「信仰/体験板」に聖典『人生読本』
の謹写を始めました。

その時の、決意表明が下の文章です。

――――――――――――――――――
730 :a hope:2012/01/11(水) 08:14:08 ID:kcv2QXTk
みなさま 

おはようございます。
わたしは 最近思うのです。
「真理」を知るとはどういうことだろう?
「生長の家」の教えは奥が深くて、勉強すればするほど、さらに新しいことを知りたくなります。
そして、次から次へと新しい本を買って、読み、新しい知識を増やしていく。
でも、頭の中にどんなにたくさん「真理」の知識が入っていたとしても、
魂が納得していなければ、それは本当に「真理」を知ったとは言えないような気がします。

わたしは、毎日少しずつ子どもたちに「人生読本」を読み聞かせています。
雅春先生が、子どもに語るようにお話されていて、どのページを読んでも、良く理解でき、
自分も純粋な童心にもどって、真理の言葉をスポンジのように魂にしみ込ませることができるのです。

これから、この場所をかりて、無理のないように、少しずつ、書き写させていただきたいと思います。

感謝 合掌。
――――――――――――――――――

実は、昨日、聖典『人生読本』の全ての謹写を終えて、その達成感からか、
もう、一冊の聖典を連続してこちらの掲示板に謹写するのはやめようと考えていました。
ですが、今朝神想観をしていると、自分がどうして8か月前に『人生読本』の謹写を始めたのか思い出しました。
それは、『誰のためではない、自分自身の魂の向上のために始めたこと』なのでした!

ですから、これからも、自分のペースで、聖典の謹写を続けさせていただきたいと思います。

このような素晴らしい勉強の場を与えてくださる、管理人のトキさまにはいつも心から感謝しています。

合掌。

1286a hope:2012/09/13(木) 07:11:54 ID:r8H4x9xE

新版 生活読本 谷口雅春先生著

はしがき①

人間は〝神の子″ですから、如何なる境遇も、如何なる人間も、
吾々自身を侵害して吾々の幸福を吾々から奪いとることは出来ません。
それならどうして吾々の生活が貧乏になったり、不幸になったりするのでしょうか。

それは自分が自分の「生命(いのち)」の本質を知らず、そのため自分で不幸になったり、
貧乏になったりするのであります。吾々は自分の生命の本質を知れば今直ぐにでも幸福になれるのでありまして、
未来のある時に、環境がどういう風になって来たから幸福になれるというのではなく、今すぐ幸福になれるのであります。

吾々は幸福を探し廻るのにあちこち、ここに見よ彼処(かしこ)に見よという如くはには探し廻る必要はないのであります。
幸福とは空に舞う蝶のようなものであります。
それを捕らえようとして走り廻れば幸福の蝶は逃げてしまって、空にとび去るのであります。

吾々が幸福を求めあぐねる心を捨てて、唯自分の心を平和にし、自分の心の花を美しく咲かしてしていたならば、
幸福の蝶は私達のそばに今来たって、肩の上にとまってくれるのです。

まことに、幸福は追求して得られるものではなく、幸福は「今此処(いまここ)」に見出さるべきものなのであります。
(はしがき②へ つづく)

1287ハマナス:2012/09/13(木) 14:10:03 ID:0kyCzJg6


神の子のみなさま
こんにちは。

人生は山彦である  (『新版 生活の智慧365章』P.244)

世界は鏡であり、人生は山彦である。世界は自分の心が示す姿の通りの表情をもって応えて
くれるし、人生は自分の心の響きの通りを呼び返してくれるのである。鏡に向かって手を
あげて挑(いと)みかかれば、鏡の中の像も手をあげて挑みかかって来るであろう。鏡に
向ってにこやかに微笑めば鏡の中の像もにこやかに笑い返してくれるのである。谷に向かって
大声で叫べば山彦は大声でその通りの声を送り返すし、金切声で叫べば山彦はまた金切声で
応えてくれるのである。

 それと同じことが経営者(又は業主)と従業員との間にも行われるのである。経営者が
従業員の福祉を切実に思ってくれるならば、従業員もその事業と経営者の繁栄と福祉とを
切実に思ってくれるのである。経営者が唯、単に従業員にサラリーと云う物質を形式的に
冷たい心で与えているだけで、従業者の温かい忠誠を期待するのは無理である。

感謝合掌

1288a hope:2012/09/14(金) 07:27:48 ID:r8H4x9xE

新版 生活読本 谷口雅春先生著

はしがき②


幸福の蝶が自分のところへ向こうから飛んで来るのではなく、
又こちらから向こうへ往って幸福の蝶をつかむのでもなく、
自分の心に「今」幸福の花は咲くことが必要なのであります。
幸福は外から与えられるものでなく、自分の内からよびだされるべきものなのであります。
偶然の出来事が、吾々の足もとに咲く菫(すみれ)の花のように吾々の生活を飾ってくれるものではないのであります。

幸福は、立派な画家がどんな景色を見ても美しい姿にそれを油絵に描きだし得るのと同じように、
どんな環境にでも美しく心の中に描き出す技術によって得られるのであります。
幸福は芸術の創作と同じであります。
心が悩んでいる人は悩んでいる創作を造りだすよりしかたないと同じように、
心が悩んでいる人は、どんな環境をも不幸に感ずるのであります。
だから高位高官の人も、富める人も、やはり悩むのでありますが、
ダイオジェネスのように樽の中に生活していても、心の中にその幸福を失わない人もあるのであります。

多くの人にとっては環境というものは、まことにその文字の通りに、
自分の周囲にあるものだと思われているのであります。
ところが環境というものは、自分から、はなれてあるものではないのであって、
自分の心が変れば自分の環境が変ってしまうものなのであります。
(はしがき③につづく)

1289「訊け」管理人:2012/09/14(金) 16:29:00 ID:???
「生長の家」誌(昭和50年12月号)より謹写――

神の國のみこころ
吾が中に流れ入り來たりて、
吾が心となり給ひて
吾が内に輝き滿ちぬ。
されば吾がねがひは、
されば吾が求めは、
されば吾が働きは、
吾が業のなすに非ず、
神により行はれ、
且つ導かる。
吾が意志は吾が意志ならず、
神の意志吾を導く。

1290うのはな:2012/09/14(金) 20:52:44 ID:uk3bgnv2
   握りめしの味  谷口輝子 先生

 孫の佳代子が、毎朝のように弟妹たちのためにお弁当をつくっている。
大きな運び盆に並べて、台所から運んで来たのを見ると、赤や緑や黄などの
色とりどりのおかずが、白い御飯の上に花咲いたように美しい。

 朝食を頂きながら見ているので、私はそれを食べたいとも思わないが、彼女の弟妹たちは、
学校での昼食は楽しく美味しいことだろうと想像するだけである。
 佳代子の作るお弁当は、時々握りめしのことがある。その握りめしは大抵三角形である。表面は白い御飯
の時は、中におかずがはいっているらしいが、表面に赤や緑が出ている時は、おかずが御飯全体にまぜてあるらしい。
とにかく味は知らないが、色彩の美しいことが魅力的である。

 握りめしを見ていると、私は幼い頃の「母の味」を思い出す。母の作ってくれた握りめしは、三角形でなく、丸く握って
上下を押えて平らにした形や、米俵のような形のものであった。中に入れられた梅干は、赤紫蘇を沢山入れた母の手製のものであって、
握りめしを割ると、内部が真赤に染まっていることもうれしかった。煎卵を入れて海苔で巻いて贅沢なものよりも、赤い梅干入りの方が
私は好きだった。

 母亡きあとの台所では、嫂が御飯をお櫃に移したあと、窯底に残った薄焦の御飯を米俵型に握って、お釜のふたの上に並べていたことを
覚えている。嫂の子供たちも、「お母さん、おにぎり、おにぎり」とせがんでいるのであった。
どこの子供もお握りが好きのようであるし、お握りは母親の愛とつながっているようでもある。
丸型のお握りしか知らなかった私が、二十四歳の時、綾部の今井楳軒先生を頼って行った或る日、今井夫人が器用な手つきで握られた握りめしは
三角形であった。「まあ、三角のおにぎり」と私は珍しがって眼を丸くした。
握りなれないと三角はむつかしそうに思えた。しかし私がそう言うと、佳代子も壽美も、
「あら、三角にするの何でもないわ」とサラリと言う。ともあれ握りめしは、庶民的で親しみ深い食べものである。

 この間、作家の渡邊喜恵子さんが、尼僧法団の機関紙『花はちす』に寄せられた随筆を読んだ。
渡邊さんが或る日汽車中で、帰郷する女医さんに逢って、その身上話を聞かされたそうである。
女医さんの愛娘が東大出の秀才と結婚後、わずか一ヵ月で離婚された。離婚の原因となったものは握りめしであった。
握りめしくらいで離婚に踏み切るとはと人は思うであろうが、根本は夫なる人の精神である。
女医さんの娘の第一の失望は新婚旅行の時に感じたのであった。新夫婦は、楽しい旅行の帰りに、夫の實家に立ちより、翌朝
帰京しようとすると、貧しい母親は大きな日の丸握りめしを作って下さった。車中で新婦が食べようとしたら、新郎は怒って、
「窓から捨ててしまえ」と、取り上げるが早いか、足で踏みつけてしまった。一等車で握りめしを食べることは不体裁であろうけれど、
母が折角作ってくれた弁当を、足蹴にするような人と、一生を倶にするのが嫌になったと言うのである。

 つまり、花婿は新婚旅行の途中で、早くも花嫁に愛想をつかされたのである。
東大出の秀才も台なしである。秀才とは、学問がよくできる人のことであって、人格的に秀でている意味ではない。
自分の母を愛し尊敬しないで、母の愛情のしるしである握りめしを、足蹴にかけて踏みにじるような男性は、新妻から愛と
尊敬の心を受けることだ出来なかったのである。学問的にだけ優れていることは人間的には価値少なく、魅力がないので、燃え上ろうとしていた
新婚の妻の、楽しい夢に冷水を浴びせたのであった。女医さんは、「わがままに育てた親の責任を感じている」と言われたそうだが、渡邊喜恵子さんは、
「世間ていは二の次です。別れてよかったんじゃありませんか」と答えて居られる。

このような場合、世の母たちは、そして花嫁たちは、どうしたらよいのであろうか。
「わがままを言わないで辛抱しなさい」と娘を押えなだめる母もあろう。
「そんな人は、サッサと見切りをつけて帰って来なさい」と甘やかす母もあろうし、
「夫を徹底的に拝みなさい。拝んで拝んで、夫の神性を掘り出しなさい。貴女の愛が足りないのです」
ときびしい激励の言葉をかける母もあろう。そして娘たちは、この母の言葉に従うのだろうか。それは
娘たち各自それぞれの愛情と力量が問題である。

つづく

1291SAKURA:2012/09/14(金) 20:58:21 ID:jH5uEFzM
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。

今日はこの前【ウエブ誌友会…】のテキストからの一部です。いろいろ“投稿”させて頂こうかと、
思いました。…が?時間的に〜〜〜><でも!更に“続き投稿”を私なりにマイペースにて“投稿”…
してみたくなりました。では〜♫〜【>>1283投稿の続きです。】

■【生命の実相Ⅰ巻 總説篇/實相篇 上】
―――――  第 五 章  連想作用で起こる病気  ―――――

 ある種のこころの状態は連想作用によって起こるのであります。連想作用といえば「梅
干」といえば「酸い」ということを思い出し、「酸い」と思えば唾液が口からたくさん出て来
るように、一つの事柄を思えば、それに連絡のある他の事柄が自然に思われてくる心の作用を
いうのであります。ある心の状態がこのように連絡作用によって起こることが解りますと、病
気もまた一つの心の状態の客観化(かたちになったもの)でありますから、連想作用によって
も起こることがわかるのであります。

 皆さんのお友だちのうちには雑誌の衛生記事を常に好んで読んだり、通欲医学書を常に
あさって読んだりしている方がありましょう。こういう人たちはよほど自分の健康に自信
のある方でないかぎりたいてい自分の身体が虚弱になって病気にかかりやすいのでありま
す。皆さんのお友だちは虚弱なために、健康になりたいと思って、薬の広告や衛生や医学や
健康法の本をお読みになるかもしれませんが、それはおぼれまい、おぼれまいと思いなが
ら逆に水の深みへはいって行くようなものであります。たとえばここに『健康世紀』とか
『家庭医学』とかいう衛生雑誌があるとしますと、それをちょっと開いて見ると、その中の
記事に医学博士と麗々しく肩書を付けた人が「何々病の予防と治療」などという題で、ちょ
っと見たらいかにもその記事を読めばその病気を予防したり治療したりすることができる
かのように見せた記事がのっているのであります。が、記事の内容(なかみ)をよくよく読
んでみますと少しも病気を予防する方法も治療する方法も書いてはないのであって、かえっ
て病気にかからすための暗示が書いてある場合が多いのであります。なぜ私がこんな皮肉な
こというかと申しますと、たいていそんな記事にかぎって、病気を予防するためにといって
病気の症状が書いてあるのであります。こんな容体になったら萎縮腎であるとか、こんな徴
候は神経衰弱の徴候であるとか、胃がこういうふうに痛めば胃潰瘍の疑いがあるとか、、原因
不明の微熱がつづいて不眠や消化不良がともなう場合には肺結核の疑いがあるから注意すべき
であるとか、実に読者の恐怖をそそることが書いてあるすえに、それを治す方法が親切に書い
てあるかというと、何一つそんな深切なものは書いてないのであって、ただ、こういう徴候の
場合には素人診断は危険であるから医者に診断してもらえと書いてあるだけなのであります。
これでは何かの生理的感じをもってただちに病気ということを連想せしめ、その連想作用に
よって病気かからせ、読者の恐怖心を利用して、医者のところへわざと来させるように
医者が自己繁昌策として書いたものだと思われてもしかたがないでありましょう。だから
私はそんな記事は皆さんの病気を治すためよりも、病気にかからすために書いてあるというの
であります。

 薬の広告もこれとほとんど同様でありまして、誰にでもあるようなちょっとした疲労の
感じや、折りふしの消化不良や、不眠などを、実に恐ろしい病気の前兆でもあるかのよう
に書いてあって、その終(しま)いにこの薬を服(の)めとすすめてあるのがザラにあります。
こんな広告記事を読んでいますと、連想作用によって自分も其の病気ではないかとフト思う
ようになり、フト思ったところの「自分は何病だ」という観念の種が潜在意識に植えつけ
られて強く強く心の底に根を張る様になりますと、肉体の上にも本当にその病気があらわれて
来るのであります。                            (谷口雅春著)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆
             
 <つづく>

1292SAKURA:2012/09/14(金) 21:00:39 ID:jH5uEFzM

こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1291投稿の続きです…。

■【前回…】の続きなのですが?【>>1283の続きです。】
【心の状態が…感染】と申しますか?確かに【連想ゲ−ム?】と申しますか?
先生の“梅干し”の例からでも、人はその「イメ−ジ」を想像できます…。“すっぱ〜〜〜イ”

という事は「すべて…心で“イメ−ジ化”ができますモノという事になります〜〜〜ョネ!
よく「生長の家…」では、【肉体なし〜♫】と申します〜ョネ!
■『甘露の法雨』の中にも……その中の「人間の項…」を拝読しますと、天の童子が、???
「人間は物質には非ず、        肉体に非ず、
脳髄細胞に非ず、          神経細胞に非ず、  
血球に非ず、            血清に非ず、
筋肉細胞に非ず。          それらすべてを組み合わせたるものにも非ず」
このように教えいらっしゃいます。私は何度も申します様に「亡き母の魅霊」を、見るまでは、
『霊的人間…』この実感がありませんでした。【白い〜白い〜丸い“魅霊様”】です。…が?

更に『甘露の法雨』の中に「肉体はただ心の影なる事実を見たり」…当に、実感しましたかと?

■『久遠生命の神示』の中にもあります様に、
「『死は無い』というのは肉体のことではない。現に肉体細胞は刻々死滅し流転している」
「すべての人はいつかは肉体を失うであろうが死ぬのではない」
誰もが“肉体”そんものは、死んでなくなります。

■『天使の言葉』の中に…更に…
「迷いは言う『人とは肉体也』と。           されど肉体は人には非ざるなり。
『人』の実相は神の子として、             生きとおしの生命なれば
生滅常なき肉体を以て代表せしめ得るものには非ず。   すべて生滅常なきものには
実体に非ずして                    ただ信念の反映に過ぎず 」
このように生れてきたり、死んでなくなるような、生滅常なきものは、【信念の反映?心の影?】…
最終的には実体でないことになります。

では「雅春先生」も説かれます様に…
■『甘露の法雨』の中にも…最終的には
「真の『汝そのもの』は物質にあらず、肉体に非ず」
「人間と神とは一体なり」…云々…

ですからすべてが「心で作られたモノ…“病”…」その事が現実となって“肉体の上”に、
あらわれたに過ぎないものです〜〜〜ョネ!
しかしながら「神の子…」の自覚が在りましたならば、当に『病無し〜♫』ですネ!

■海外の【霊界通信…】でも“人は死なない〜永遠の生命〜”と…【ジュリアンの音信】でも〜
従いまして、「本来は“病無し”…」という事ですもの?
こうしていきますと…「本来は“病”はありえません…病なし」…しっかり『意識…』すべきかと?

■更に今回の「現総裁雅宣先生」の『大自然讃歌〜♫』の中にも
「人間も肉体の維持・発達為すこと能(あた)わず。    されど汝ら、
人間の真の目的は肉体の維持・発達に非ず、   地上に神の栄光現すことなり。」…云々…
従いまして、【神の子…人間】を、説かれています。…

更につづきを“投稿”させて頂きますが『個性…表現方法』は人によりまして、異なって来ます。
その事が「偽物」とか〜〜〜この表現は“オカシイ〜もの”との判断になりますかしらん!
それぞれの方が『共鳴する…文章表現法』で…納得されましたらよろしい〜〜のでは?

■■何度も申しますが〜♫〜『真理は一つ…』という事になりますのでは〜〜〜☆

                                再合掌

1293神の子さん:2012/09/14(金) 21:10:13 ID:???
よろしいですかー

雅春先生は多くの人々から共鳴されて「生長の家」は大きく発展しました。

雅宣総裁は共鳴する人が少なくなり「生長の家」は衰退しています。

これは歴然とした事実であり、誰か他の人が悪いのではありません。

真理のコトバの輝きが圧倒的に違うからです。

本当はみんな気がついているはずです。

1294ハマナス:2012/09/15(土) 00:28:52 ID:0kyCzJg6


神の子のみなさま
ありがとうございます。

現象の沈滞を見ない (『新版 生活の智慧365章』P.245)

 原稿を書くのを仕事にしている人なら誰でも知っていることだが、その時の自分の気分の
有りかたによって全然筆がとまってしまうこともあれば、すらすらと筆が運ぶこともある
のである。建築設計家にしても、科学的発明をするのを仕事にしているにしても、その時
のムード(気分)によって、どんなに努力してもいいものが思い浮かばないことがあるもの
である。単なる手工業ではそれほどでないにしても、矢張り、其の人の気分が如何にあるかが
仕事の品質に非常に関係があるのである。

 景気が後退し、需要不振期に入り、製品の滞貨が山のように倉庫に堆積していつ捌けるか
わからないようは状態のときには誰でも気分が陰鬱になり、絶望感に覆われやすいのであるが、
そんな時に事業を挽回打するには、そのような現象の「沈滞」を見ず、実相の完全さを見て
先ず気分を引き立たすことである。その時よい考えが出て自分を救ってくれるのである。

感謝合掌

1295a hope:2012/09/15(土) 06:46:06 ID:r8H4x9xE

新版 生活読本 谷口雅春先生著

はしがき③


幸福は心の乱れたる世界には、存在しないのであります。
幸福とは心の平和から来るのであります。
心の平和は、今ある所の恵みに満足するところから来るのであります。
印度(インド)の本には、牛が如何にも幸福そうに草を食べているのを見て、
ある悩んでいる人が、そのわけを宗教家に尋ねたということがあります。

「あの牛はどうしてあんなに、たのしそうなんだろう」とききますと、
「彼は草を食べて生けるなり」と宗教家は答えたそうであります。
草を食べて生きているというのは最低生活に甘んじているということにではないのであります。
そのままそこに幸福に生活しているという意味なのであります。
そのままそこに幸福を見出すということが大切であります。
そのままそこに幸福を生きる時、そこに常に幸福が見出されるのであります。

汝は幸福である、この小さき石よ
道ばたに静かに横たわりて
哲人の如くものを考う。

という誰かの詩がありますが、あなたは小さき石よりも偉大なのです。
この事実に目覚めねばなりません。
この小さき石ころは、どうして幸福なのでありましょうか。
それはそのままそこに与えられたる生命をたのしんでいるからであります。
そのままうけてたのしむものは常に幸福なのであります。

そのままそこに横たわるということは、何もしないで生活しているということではないのであります。
与えられるそのままに横たわり、神催(かみもよお)しのままに動くという意味であります。
流るるままに不動、不動のままに流れるのであります。
自分のはからいがないのでありまして、神にはからわれるのであります。
自分の今与えられた位置をたのしんで、そのままそこに全能力を発揮する時、
その人は幸福になれるのであります。
(はしがき④につづく)

1296ハマナス:2012/09/16(日) 09:22:33 ID:mR2szZkc
神の子のみなさま
おはようございます。

繁栄のための基礎
(『新版生活の智慧365章』p.246)

経営者も気分が引き立たねば、良い考えが浮かんで来ないと同じように、従業者も気分が引き立たねば、良い考えは浮かはず、よい精密な仕事はできないのである。不安定な憂鬱な気分の下で働いているとき能率の上らない成績不良の工員が、安定した悦びの感情で生き生きと仕事をするとき、見ちがえるほど良質の仕事を手ぎわよくやってのけることがあるものである。

収入の安定、将来への進展の希望、自分の伎倆(ぎりょう)と能力とがみとめられていると云う悦び、自分がその会社に有用な重要人物であると云う自覚、自分が社長や上役から愛されていると云う歓喜ーーこれらのものは、その人の仕事の能率と品質とを高め、新しい良き計画や発案が浮かび上って来るために基礎となるべき心の状態であるのである。その基盤を培ってやるのが経営者及び上役の仕事である。

感謝合掌

1297a hope:2012/09/16(日) 09:47:08 ID:r8H4x9xE

新版 生活読本 谷口雅春先生著

はしがき④


若(も)しあなたが、自分の生命(いのち)の本性を自覚しそれを行動にあわせれば、
毎日すべての時間が幸福の時間になるのであります。
その自覚と実行の方法を本書は与えるものです。
特定の日、特定の時間、特定の境遇によって幸福が来るのではないのであります。
境遇を支配する力はあなた自身のうちにあるのです。
キリストは「求めよ。さらば与えられん」と仰しゃられました。
然(しか)し求めて与えられている人は少ないのであります。
求める心を捨てて、そのまま自分のもてるすべてのものを人に与え切った時、本当の幸福が出て来るのであります。

此(こ)の本は、むつかしい真理を出来るだけ易しく書いたのですが、
なお分かりにくいと思われる文字の下には(括弧・かっこ)の中にその意味を書いておきましたから、
どんな子供にも、文字をならわない老人にも読んでいただいて、その人の人生が幸福になれるのであります。

著者識(しるす)
(はしがき終り 次回から本文へ)

1298a hope:2012/09/17(月) 06:43:53 ID:r8H4x9xE

新版 生活読本  谷口雅春先生著

第一章 此の世界の成立ちは?

♦世界は心の「思い」でつくられた

人間は自分の思いで、一歩一歩、自分の運命をきずいて行きます。
国の運命も、その国の人々の思いで、築いて行くのです。
築くばかりではない、こわしても行くのです。
その人が自分の思いの善し悪しを知っておろうが、知らずにおろうが、
こわす思いは自分をこわし、生かす思いは自分をも生かすのです。

何よりも知らなければならないことは、この世界は、「思い」でつくられていると云うことなのです。
神様がこの世界をおつくりになったのも、神さまが心の中に先ずどんな世界をおつくりになろうかと
お考えになったその「思い」によってつくられたのです。
「思い」どおりになったのがこの世界なのです。

「思い」と云うのは生命の動きでありまして、生命の動きをコトバとも申します。
何でも考えるのは心のコトバを思い浮かべるのでありますから、「思い」でこの世界が造られたと云うことは、
この世界がコトバで造られたと云うのと同じであります。
神様はこの世界をおつくりになって、七日目にお休みになったと聖書には書いてあります。
これは神様は世界の大きな部分をお造りになりまして、
あとは自分の生命をつぎ込んで神様自身のお姿につくられた人間に一切のことをおまかせになりまして、
自分みずからは、人間のことに直接には干渉(おせっかい)しないことにして、お休みになったことを云ったものであります。
(つづく)

1299ハマナス:2012/09/17(月) 07:18:49 ID:mR2szZkc

神の子のみなさまおはようございます。

部下の家庭状態に愛情を
(『新版生活の智慧365章』p.247)

類は副会長類を呼び寄せ、類でないものは反撥する。愛念は愛念を招び、冷淡は冷淡を招び憎しみは憎しみを招ぶ。これみな心の法則にほかならないのである。学校教師のうちでも深切な人は家庭訪問をして、その家庭の状況を知り、子供を良くする方法について充分なヒントを与えようとするのである。

ある事業会社の上役の人だって、これほどの愛情ある注意を、自分の“部”に属する社員の家庭訪問をしてあげ、病人はいないか、成績不良のために困っている児童はいないか、その家庭状態は幸福であるか、不幸であるかーー充分自分の家庭を見てやるような気持ちで親しく接して相談に乗ってやるならば、その社員も家庭的な愛情で仕事にはげんでくれることになるのである。家庭の中に心配すべき状態をいだきながら、勤め先だけは能率を完全に挙げ得ると云うことはあり得ないのである。

感謝合掌

1300ハマナス:2012/09/17(月) 07:25:28 ID:mR2szZkc
すみません、一行目を訂正お願いします。
正しくは→類は類を呼び寄せ

1301うのはな:2012/09/17(月) 11:32:02 ID:R80If25o

生長の家光明掲示板

 http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&amp;mode=res&amp;log=261

1302SAKURA:2012/09/17(月) 21:57:09 ID:A5psoVbE
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。

いろいろ書いて参りますうちに、やはり【心の法則…】を、最終的には“マスタ−”する事が、
【人生の航路…】航海します上での一番の“メイン=羅針盤”ですかしら〜〜〜ン!
そうです〜〜〜ョネ!【人生は心で支配せよ…】・【心でつくる世界…】でしょうか?
それが【意識=我】を超越していく【起動力…】になるものでしょうか??
【人生の勝者になる…】には〜〜♫〜〜
では!〜〜今から【栄える生活365章】を開きます。

■栄える生活365章
―――――人間誕生の神聖性―――――

あなたが此の人生に生まれて来たことは、まことに素晴らしい事なのです。神はその大自然
力をもって鉱物植物動物等のいろいろなものをお造りになりましたが、それらはすべてのもの
はすべて神の創作であり、神から造られたもの――被造物に過ぎないのであり、神の属性の
一部分が表現されているに過ぎないのであるけれども、人間は単なる被造物ではなく、神御
自身の最高の自己実現であるのである。

 神が無機物的な、“大自然の力”をもってしては成し遂げなかった色々の精巧な仕事を、
神が“人間”という知能的人格としてあらわれ給うて、成し遂げようとなさるのが、この世
に“人間誕生”の意識であるのである。人間誕生の、この神聖なる意義を忘れて、単に人間
を肉体的性欲の因果関係の産物として自分が生れて来たのだというような「根本的劣等感」
から、人生の色々の罪悪が生じて来るのである。吾々は自己存在の根元をもっと神聖なもの
に認め得たとき、人生は全く異なる光で観ることができるのである。
                               (谷口雅春著)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆

PS:トキ様 へ
今日【栄える生活365章】を、開きますと……不思議で〜〜〜す。
やはり【総裁雅宣先生】は、【雅春先生の伝言…】を、と思います。…が?

既に販売されています【讃歌…大自然賛歌】でも、同じ様【自然とのかかわり事】を、更に、
詳細に、述べられていますかと???

■【人間は、意識=我=愛 に“超越”する事のできる…素晴らしい存在】だと改めて、
思う次第です。…が?今回の「雅春先生」の言葉より、
【人間誕生の神聖性…】は、同様な意味合いを説かれていらっしゃいますものと思われますが?

「トキ様」は、どの様に、思われますでしょうか……???

                                  再合掌

1303a hope:2012/09/18(火) 07:41:20 ID:r8H4x9xE

新版 生活読本 谷口雅春先生著

第1章 此の世界の成立ちは?
♦人間の運は自分でつくる(p17~)


そこで神様にすべてのことをまかせられた人間は、人生(このよのくらし)の主人公となったのであります。
人間は自分で自分の主人公なのです。人間は奴隷ではないのです。
人間は自分の運を自分でつくるのであって、人間の運と云うのは、よそから勝手にやってくるのではなく、
われわれの命ずるままにやってくるのです。
だから人間の運のことを命運(めいうん)とか運命とか云うのです。
命令するままに人間の運は、よい運でも悪い運でもやって来ます。
命令すると云うのは、心の中にコトバを思い浮かべるか、その思い浮かべたコトバを口で発表するかすることなのです。

運の悪い人は、「私の運が悪い、悪い」と口でブツブツ云い、心でブツブツ思います。
その「思い」の力、「コトバ」の力でいつまでも悪い運を引き寄せるのです。
東京裁判でわかったところによりますと、山本五十六元元帥(やまもといそろくもとげんすい)でさえも、
「負ける」と思い「負ける」とコトバで言っていたそうです。
そして、日本人全体は「海行かば水(み)づく屍(かばね)、
山ゆかば草むすかばね」(海へ往ったら日本軍は負けて土左衛門(どざえもん)になる、山で戦争したら死んで屍(しがい)には草が生える)と云っていました。
そして、そのコトバを音楽と共に合唱して感情(こころ)の底に深く思っていたのです。
何と云うこれまでの日本人は愚かなことだったでしょう。
言葉は万物をつくる。国をつぶすのも国を起こすのも皆、人間の「思い」と「コトバ」の力です。
今まで、国をつぶして来た日本人は早く目をさまして、国を平和におこし、国民を生かす「思い」と「言葉」をつかわねばなりません。
(つづく)

1304SAKURA:2012/09/18(火) 23:05:40 ID:jH5uEFzM
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1043>>1044>>1052>>1057>>1058>>1063>>1068>>1073>>1087>>1092>>1093
>>1097>>1098>>1167>>1170>>1171>>1174>>1175>>1190>>1194>>1210>>1227
>>1238に関しましては、【ベスト・フレンド】シリ−ズで〜〜〜す。
実は、私の「青春シリ−ズの一冊の本」なのです。(討論課題項目が、幾つかに分かれてい
ますが?)意外と真理が、分かりやすい【討論形式】なのです。…が〜〜〜??【コロンビ
ア大の方達が、真理…サイコ的】に? 昨日の投稿文章は、皆様!如何でしたかしら〜ン?

■【ベスト・フレンド】  ( 思い込みを捨てよう ) 

―――――   思い込みを捨てよう  ―――――

|❤なぜ気が付かないのでしょうか。なぜ人はその自由を得ようとしない
|のでしょうか。


 人には誰にでも大切なもの、つまりそれなしでは生きていけないと思い込
んでいるものがあります。そして、それを失うことを極度に恐れているので
す。ご存じのようにフランスの哲学者のルソーは、「人は生まれながらにし
て自由である。しかし、いたるところで人は束縛されている」といいました
が、これはつぎのようにいうと、さらに 真理に近くなるでしょう。「人は生
まれながらにして束縛されている。しかし、誰でも自由になれる可能性をも
っている」と。人間というものは、すでに自分がこうした束縛を脱してしま
ったあとでさえも、それに固執する傾向を示すものなのです。


|❤ええ、みんなは明らかにそういう傾向にはまっているように思われま
|す。しかし、なぜわたしたちはそうするのでしょうか。いったいなにを
|失うことをそんなに恐れているのでしょうか。


 それは実際、わたしたちがずっとかかえてきた幼稚な安心感なのでしょう
ね。自分のことを小さな、頼りない人間であると考えている限り、わたした
ちは目に見えない、強力なおとなの前にいるように感じてしまうのです。

 そうしたおとなたちは、かならずしも立派な人間ではないのかもしれませ
ん。わたしたちはいつもそういうおとなたちが自分を非難したり、どなった
りするのではないかと思っています。しかし、おとなが近くにいる限りにお
いては、一人ぼっちではないのです。もしどんないやな両親でも、いなくな
れば、わたしたちは一人ぼっちになってしまう――このことがもっとも恐ろ
しいことなのです。しかしながら、この心理もまた四歳ぐらいのときから身
についてきたものです。捨てられるということは、子どもにとって大きな不
安をもたらします。つまり、子どもは生きていくことができなくなるからです。

 しかし、おとなにとって孤独というものは、子どもの場合とはちがった意
味をもつのです。おとなは生き残ることができます。いや、そればかりでは
なく、孤独というものは、人間的に成長し、自分を知り、力を養うために
往々にして必要なものなのです。孤独に耐えられない人は、自分が孤独によ
って成長するということがわからない人です。たしかに幼年期につちかわれ
た安心感という虚構を捨て去るには、とても勇気がいります。一度捨て去っ
てしまえば、世界はもはやそれほど安心感に満ちた、たしかなものとした目
に映らなくなるからです。

 しかし、わたしたちが自己の独立を獲得し、独自の人格を形成しえたとき
には、どんなにか気分爽快な新しい息吹きを感じることでしょう。このとき、
おとなとしての人生がはじまるのです。

                 (つづく)

PS:トキ様 へ
■【人 間 の 孤 独 感】を考えますと……別の観点から〜♫〜
現在の私の“環境…”は、前以上に“次なるステップへ羽ばたく為?”の勉強でしょうか?
今回!此処FUKでの問題で、前以上に【信仰…】について、更に【真理…】が、解るように
なりました。…が?まだ!まだ「勉強中…」で〜〜〜す。
今の「生長の家…」も、モット〜モット〜前以上に、大きくなる前の
【自壊作用…通過地点】でしょうか〜〜〜??そして今!かかえている問題も、
【今の…「生長の家?」は今から、段々!本当の意味での“真理…伝導”に代わって行く!
途中経過…更に、通過地点】なのでしょう。…とも思いますと、「序盤=前触れ…」にと、
思える様になりましたが……??
「トキ様」は、どの様に思われますでしょうか〜〜〜?

1305a hope:2012/09/19(水) 07:27:49 ID:r8H4x9xE

新版 生活読本 谷口雅春先生著

第1章 此の世界の成立ちは?
♦自分の心の舵をとれ(p19~)


船を海の上に走らすのにも舵が要ります。
ただ波のもてあそぶままに船を浮かべておくだけでは、
大波がきたときに其の船は岩にうち上げられて、くだけてしまうでしょう。
人間の運命も、ただ思いついたコトバを出鱈目に云い、
ただ思いついた「思い」を出鱈目に思うだけでは「運」の波をのり切ることは出来ないのです。

航海のとき、船長の命令するとおりに舵取(かじとり)が舵を取るのと同じように、
人生の海をわたるにも、一時の自分の気分の運ぶ(ハコブは「運」です)ままにまかせず、
自分の心を自分で舵をとり、命令して、自分の運命を自分で支配しなければならないのです。

あなたは自分の心に自分で命令を与えておりますか。
腹が立ったときに腹の立つにまかせ、悲しいときに悲しがらせるにまかせ、
なまけたいときになまけるにまかせているのでは、それはただ成行きにまかせているのです。
お釈迦さんは、法句経(ほっくきょう)の中で、「よく調えられた自分こそ、世界のどんな王様よりも尊い王様である」と云われました。

「よく調えられた自分」になることが何よりも必要なのです。
どんな時にも、明るい、愉快な、楽しい、失望せず、落胆しないように、
心の舵をとり、明るい、楽しい、平和な、希望に満ちたコトバを使うことが必要なのです。
「よく調えられたる自分」こそ、どんな都合のわるい境遇でも、よく乗り切って、美しい楽しい希望の国へ連れて往ってくれるのです。
何よりも先ず「よく調えられた自分」をつくることが大切です。

それには「思い」の力、「コトバ」の力を上手に使うことが大切です。
(つづく)

1306ハマナス:2012/09/19(水) 13:05:47 ID:mR2szZkc
神の子のみなさま
ありがとうございます。

事業は人である
(『新版生活の智慧365章』p.248)
精神は交流し、互いに相感応するものである。経営者が心に描いている従業者に対する想念(かんがえ)は従業者は甚だすみやかにそれを感じとって知っているのである。“自分は経営者にただ利用されているに過ぎないのか”それとも“経営者は私を愛しているのであるか”それとなく、それを知っており、それが仕事の面にあらわれて来るのである。その会社の成績は経営者の“心の成績”にほかならないのである。

事業は経営にあり、経営の良否は経営者の心境の如何にあるのである。だから経営者が立派な人事関係をもち、新しい技術に進出する意欲をもつ会社であるならば、その会社の営業が現在世界景気の波動によって不景気に陥っておろうとも、その会社はいつかは立ち直ること必至である。投資するなら、そのような立派な精神の会社の沈衰期に投資しておけば必ずむくいられる時が来るのである。言うまでもなく事業は人である。

感謝合掌

1307SAKURA:2012/09/19(水) 23:26:16 ID:jH5uEFzM
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1043>>1044>>1052>>1057>>1058>>1063>>1068>>1073>>1087>>1092>>1093
>>1097>>1098>>1167>>1170>>1171>>1174>>1175>>1190>>1194>>1210>>1227
>>1238>>1304に関しましては、【ベスト・フレンド】シリ−ズで〜〜〜す。
実は、私の「青春シリ−ズの一冊の本」なのです。(討論課題項目が、幾つかに分かれてい
ますが?)意外と真理が、分かりやすい【討論形式】なのです。…が〜〜〜??【コロンビ
ア大の方達が、真理…サイコ的】に? 昨日の投稿文章は、皆様!如何でしたかしら〜ン?

■【ベスト・フレンド】  ( 思い込みを捨てよう ) 

―――――   思い込みを捨てよう  ―――――

|❤あなたのおっしゃることは、わたしにもわかります。それはすばらし
いことのように思えますが、でも、同時にまた脅威でもあり、なんとな
く背筋が寒くなる感じもします。あなた自身はそのようなお考えかもし
れませんが、わたしのこころのなかのなにかが、そうするのをためらわ
せるのです。それがなぜなのか、わたしにはわからないのですが。

 なにもあなたに限ったことではありません。たいていの人はその第一歩を
踏み出すことをためらいます。その理由はもし自分が前進したらどんなこと
が起こるかということについて、きわめて大きな誤解をしているからです。

 それは幼年期のもうひとつの神話でもあるのです。子どものころ、わたし
たちは世界には一人の男と女、つまり両親がいました。両親は偉大なおとな
でした。子どもとして振舞うことが、子どもにとって唯一の生き方であった
わけです。したがって、この世界には一人の男と女しか存在しないと思い込
むようになり、もし別の誰かがあつかましくも、自分はおとなであると自慢
するようなことがあれば、その人をたたきのめさなければならなくなります。
このようにして、わたしたちは人生の競争に足を踏み入れることになります。
つまり、ボールにお金を払うためには、ピーターからお金を盗まなければな
らないのです。

 こうして人生観は、この同じつまらない人生観をもっている両親によって
再認識させられます。

 自分の得た成果が、もし十分にみんなに行き渡らないときには、かならず、
他人の憤慨をかうでしょう。そのとき、わたしたちの行為はなんともみじめ
なものになるのです。自分の人生を守ろうとすれば、他人の人生を乱すよう
なことにもなりまねないのです。そんなとき、わたしたちは致命的な一撃を
あるとすれば、みんながためらうのも不思議ではありません。

 みずからの人生をはじめるためにはとんでもない悪者として振舞わなけれ
ばならないのです。まるで殺人者のような心理をもつことには耐えられない
ので、尻込みしてしまいます。しかし、そうした心境に耐え、とにかく、前
進しなければなりません。それが自己主張のための代償なのです。
                            <つづく>
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆

PS:トキ様 へ
今!私が、置かれています“環境”は、実に私の【精神の成長…】に、なくては、
ならないモノと、今にして思います。…が?
そうしますと、現在の【お家騒動…】は、やはり一つの“思い込み”にも?思えます。
…が?…今回「別のボ−ド」に投稿しましたものは、やはり〜〜〜
なくてはならない、それを踏まえての【行動開始…】に、なるのでしょうか〜〜〜?
さらに“投稿の続き”をさせて頂きますが〜〜〜とりあえず“此処”までと?? 

再合掌

1308a hope:2012/09/20(木) 07:12:45 ID:r8H4x9xE

新版 生活読本 谷口雅春先生著

第1章 此の世界の成立ちは?
♦毎日の「思い」を善くせよ


仏教では、「思い」の力、「コトバ」の力を業と云いました。
仏教は業の力を説く宗教です。あの人は業が深いと申しますと、
業と云うものは悪ばかりだと思えるかも知れませんが、業の力は悪ばかりではありません。

お手本を見て習字をします。
すると最初は下手であったのが、毎日お習字をつづけて行くうちに段々上手になって行きます。
これは毎日、よき文字の形を見、心にその形を思いうかべて、その通り筆を動かす業をかさねて行ったからです。

そのように吾々の「思い」の力も、最初は自由に思うようにならないでも、
つとめて明るいことを思う、楽しいことを思う、人のよい方面ばかりを見る、
悲しいときにも笑うようにして行きますと、習字がだんだん上手になって行くように、
心もだんだん善くなって「よく調えられた心」になって来るのであります。

心がよく調ってくると、何事も都合よく往くようになり、仕事も、勉強も、成績も、健康も、
すべての運命が調ってくるのであります。
(つづく)

1309ハマナス:2012/09/21(金) 00:20:04 ID:mR2szZkc
神の子のみなさま
こんばんは。

周囲に「愛」の燈を点ずる

(『新版生活の智慧365章』p.248)
人に愛念を与えることは、決して自分が損をすることにはならないのである。それは自分の燈をもって周囲の蝋燭に火を点じて行くようなものである。それによって自分の燈が光を減ずる訳ではなく、周囲の燭台が輝いてくるだけである。自分一個の燭台の光であれば“燈台もと暗し"の諺の通り、自分の脚下は、兎もすればよく見えないのであるけれども、周囲の燈台が輝いていれば、自分の脚下もよく見えるようになり、自分自身の繁栄の基礎を築くことなるのである。

経営者は、多くの燭台の立ち並んでいる中の一本の中心になる大きな燭台のようなものであるのである。自分一個だけが輝いているのでは部屋全体を照らすことは不可能なのである。「愛」の燈を移して周囲の燈台に「愛」を点じてやることによってのみ、全体の部屋が明かるくなり、自己の燭台の脚下も明かるくなるのである。

感謝合掌

1311元本部職員s:2012/09/21(金) 00:47:32 ID:4XyYSDw.

管理人様上記のさくら様への書き込む場所を間違えましたので削除をお願い申し上げます。

1312a hope:2012/09/21(金) 09:30:45 ID:r8H4x9xE

新版 生活読本 谷口雅春先生著

第1章 此の世界の成立ちとは?
♦民主主義とは何か

自分が自分の主人公であると云うのが民主主義であります。
これは自分勝手な我儘をしても好いと云う意味ではないのであります。
他(ひと)にたよらずに、自分で自分の心の調子をととのえることが出来ると云うことであります。
また自分の運は自分の心で思うようになれると云うことです。

先ず朝目がさめたら、学生ならば口のうちで自分にだけ聞こえる言葉で、
「自分は神の子だ、いつも達者だ。いつもたのしい。品行方正、学術優等」
こう云う言葉をニ十ペン程となえてから元気に愉快に起きることにし、
夜寝床で眠りしなにも「眠っている間に神様が一層わたしをよくして下さる。達者で楽しく優等だ」
と心のうちでとなえながら眠ってしまうことです。

そうすると、夢を見ても楽しい夢が見られますし、寝ている間に健康となり、
頭がよくなり、どんな勉強もすぐれて出来るようになります。
何故なら、この世界は、神が先ず、コトバと「思い」でおつくりになり、
あとは、人間自身が、コトバと「思い」で自由に出来るようにおまかせ下さったからであります。
(つづく)

1313ハマナス:2012/09/22(土) 00:20:26 ID:mR2szZkc
神の子のみなさま
こんばんは。

経営者の人格的権威

(『新版生活の智慧365章』p.249)
経営者にとって必要なのは従業者に対する愛と、その事業に対する強き意欲である。従業者に対する愛が薄れて来るとき、経営者に対する従業者の尊敬と信頼がなくなるのである。尊敬は自己を高慢に振舞うことによって得られるものではなく、寛大なる愛によって得られるのである。みずから高くするものは却って低くせられ、みずから低きに降りて愛する者は却って高くあげられて尊敬せられるのである。

始終、従業者の欠点を見つけて、軽蔑し、小言を言うものは、却って従業者から軽蔑せられる。度かさなる小言の繰返しは蓄音機の噪音(そうおん)のようになって人格的権威と云うものはなくなるので、小言を言う効果は零になり、ただ経営者に対する憎悪と反撥とが多くなるばかりである。そのような会社の工場に於ては「心の影」として故障が起りがちであり、鉱山に於ては爆発や落盤が頻繁に起る。


感謝合掌

1314a hope:2012/09/22(土) 10:17:08 ID:r8H4x9xE

新版 生活読本

第1章 此の世界の成立ちは?
♦幸福になるには幸福の種をまけ


われわれがこの世で幸福な生活を送ろうと思いましたならば、
「自分は不幸である、幸福になりたい」などとかんがえてはだめなのであります。
「自分は不幸である」という心の思い種をまけば、心がもとで、すべてのものがうまれてきたのでありますから、
「自分は不幸である」という心の思いが種となって、形に見える世界に「不幸」なすがたがあらわれてくるのであります。
だから幸福になりたい人は、今、不幸であっても、今、幸福がなくとも、どちらでも
「わたしは今、幸福である、幸福である」ととなえていれば幸福がでてくるのであります。

神さまは太陽も地球も、天も地も、お星さまもない世界に「天がある、天がある」と思われますと、
すなわち心で「言葉」を宣(の)べますと、「天」があらわれてきたのであります。
「地がある、地がある」と心でとなえられますと、しまいには地球がうまれてきたのであります。
草も木もない世界に「草がある、草がある」と心でくりかえしくりかえし思われますと、「草」があらわれてきたのであります。
そして「人間がある、人間がある。神さまのように、なんでもできる力を形にあらわしたものがでてくる、でてくる」
と心でねんじられますと、人間がうまれてきたのであります。

「人間が神のすがたにつくられた」と聖書に書いてありまするのは、
「神さまのような、なんでも知り、なんでもできる力をもったすがたにあらわしたら人間になった」という意味であります。
だから、人間は神さまとおなじように、心で思うことを、この世界になんでもつくり、
なんでもうみだす力をもっているのであります。
(つづく)

1315<削除>:<削除>
<削除>

1316ハマナス:2012/09/22(土) 23:20:36 ID:mR2szZkc
みなさま
ありがとうございます。

新しいアイディアの創造

(『新版生活の智慧365新版章』p.250)

繁栄に関する新しい企業進出ーーその智慧と意欲ーーそれがまた経営者には絶対必要な性質である。新しい企業進出の智慧と意欲がない場合には企業に前途の希望が少ないから従業者にも希望が少なくなるのである。従業者には「希望」を吹き込まなければならない。前途に希望があれば、現在の収入が少なくともその希望に燃えて心が明るくなるし、仕事を熱心にやる勇気も出てくるのである。

新しいアイディアの欠乏せる経営者には何の魅力もないのである。何を生産するかは重大である。常に新しいアイディアによって新製品をつくり出し、その新製品の魅力によって販路と需要を拡大して行かなければならないのである。またその宣伝技術に於ても常に新しいアイディアの創造が必要である。それには、新しいタレント(才能者)を見出だして豊かに人物を招聘する大度胸をもたなければならない。


感謝合掌

1317ハマナス:2012/09/22(土) 23:27:46 ID:mR2szZkc
すみません、タイトルが間違っていました。

正しくは、『新版生活の智慧365章』です。

1318a hope:2012/09/23(日) 09:31:56 ID:r8H4x9xE

新版 生活読本 谷口雅春先生著

第1章 此の世界の成立ちは?
♦うれしいきもちで父母に感謝していると良いことが出てくる

うれしい、うれしい。お父さん、お母さん、ありがとうございます、と心のなかで、
つねに喜んでお父さんやお母さんに感謝していますと、人間は自然とうれしいことがでてきて、
ありがたい感謝すべきことがうまれてくるのであります。

それは「うれしい、うれしい」という心の種をまくから、そのとおりのものが、
形の世界にあらわれてくるのであります。

また「お父さま、お母さま、ありがとうございます」という心の種をまきますから、
形の世界に本当の深切な、ありがたいお父さんお母さんのすがたがあらわれてくるのであります。
(つづく)

1319SAKURA:2012/09/23(日) 09:35:49 ID:O9S1o2DM
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
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実は、私の「青春シリ−ズの一冊の本」なのです。(討論課題項目が、幾つかに分かれてい
ますが?)意外と真理が、分かりやすい【討論形式】なのです。…が〜〜〜??【コロンビ
ア大の方達が、真理…サイコ的】に? 昨日の投稿文章は、皆様!如何でしたかしら〜ン?

■【ベスト・フレンド】  ( 思い込みを捨てよう ) 

―――――   思い込みを捨てよう  ―――――

|❤しかし、みんなが尻込みするからといって、責める気にはなりません。
|わたしだって殺人犯のようになりたくないのです。それでなくてもみん
|なはそれ相応の罪を背負っているのですから。

 あなたが自己の成長を願うならば、そうした感情を克服しなければなりま
せん。あなたがやっつけようとしているものはじつは両親ではなく、両親を
恐れる気持ちであり、両親から受ける圧力であるといえます。容赦のない素
朴なやり方でそれを制圧しなければなりません。もしあなたがいつまでも自
分の要求や衝動や願望を両親の支配下におきつづけるなら、あなたはけっし
て自信をもつことができないでしょう。

 この根本的な主張を思いきってするならば、亡霊以外には、誰もこころの
戦場で死ぬような結果にはなりません。もちろん、あなたがそれをなるべく
早く実行するならば、その間に現実というものがあなたの空想する虚構に調
和し、真実のものの見方ができるようになるでしょう。

わたしの知ってるいるある女性は、もし自分が子どもをもったら、その子が
祖母にあたる彼女の母親を殺すかもしれないと考えたことがあるそうです。
そのため、彼女は四五歳になるまで子どもを生むのを待ちました。ところが
現実には彼女の母親は、その年に亡くなりました。こうした場合の結果はた
いていそれほど劇的なものではないのです。

 強いしっとや心理的葛藤や怒りなどの原因となる情緒の欠乏状態とは、ま
ったく不思議な現実です。それは魔法のような思考法であり、他の人に与え
る衝撃を大きく誇張するものです。しかし、実際はまったくそんなものでは
ないのです。あなたがなにかを達成したとしても、それは他の人からなにか
を取り上げることではありません。あなたがなにをしようと、世間は無関係
に動きつづけるでしょう。

              <つづく>

1320SAKURA:2012/09/23(日) 09:37:45 ID:O9S1o2DM

ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1319投稿の続きです。…


 人間は現実の世界で、現実的なものを求めて競争しなければならないので
す。たとえば職を求めたり、奨学金を得ようとするのもいいでしょう。しか
し、わたしがお話したいことはそんなことではありません。わたしたちは自
分にたいするよい評価を求めて競い合う必要はないのです。あなたがもっと
よくなってもそれでわたしが悪くなるわけではありまえん。世のなかには、
すばらしい人間になりうる余地も、すばらしい仕事をなしとげる余地もいく
らでもあります。その余地を現実につかんだとき、わたしたちは他の人が仕
事をなしとげたことを喜び合うことができるのです。つまり自分が小さな存
在であるというひがみを感じなくてもすむのです。そして他人にたいする不
安や罪の意識をもつことなく、自分自身の問題に専念できるでしょう。

 わたしたちは、実際には感情面で豊かな社会に生活しています。それはみ
んなに十分行き渡ってあまりあるくらいです。人間資源を開発するというこ
とはそれを使いつくすことではありません。むしろ人間がもつ可能性を拡大
することなのです。これらの資源は保存のきかないものです。いま、あなた
がそれを採掘しておかないと、その鉱脈は永遠に失われてしまうでしょう。
 このことも人々がなかなか気がついていないのです。人々は自分の前途は
はてしないもので、きょう実行しなくても、明日があればあさってもあるさ、
と思っています。あたかもゲ−ムでもやっているかのように考えていて、つ
づけてやっていれば勝つと思っているのです。ゲ−ムなら結局最終的には相
手がいやになってしまい、こちらの望むこと、つまり勝利を譲ってくれるの
ですが、人生はゲームではありません。そこには相手がいないのです。いつ
までも引き延ばしていたならば、あらゆるチャンスを失ってしまうでしょう。

 わたしたちは永遠の世界に生きているのではなく、有限の世界に生きてい
るのです。そのことを計算に入れておかねばなりません。わたしたちの成長
と発展には際限がないけれども、時間には際限があります。もちろん、誰し
もこのことは認識しています。人々はしばしば、自分を歳をとっていくこと
や、時間が刻一刻と過ぎ去ることをとても気にします。しかし、そんなこと
を気にするよりも、わたしたちはいつ、なにをしたらよいか、ということに
もっと関心を払うべきです。

PS:トキ様 へ
一昔前・・・【人生はゲ−ム〜♫】といいます“言葉”が、流行りましたが…?
これは本当に、間違いです〜〜〜ョネ!
今!私は【現 象 世 界 = 有 限 社 会】の中で生きている…!!
この事は、まぎれもない事実?若い頃は、これが当たり前の事のように思いがち?
になるのでしょうか??そうです〜〜〜ョネ!
今日出来なかった事は“明日”が!!あると言った感じでの“捉え方”でした。…が?
この年齢になりますと、否応なしに“刻々過ぎ去る時間の概念…”が、怖いくらいに、
早く〜余りにも早く〜感じますが〜〜〜
【生長の家…】では今を活かす事!今!今!…今を生き抜く!これが大事です〜ョネ!

私の“夢…”は、何年も待ちつづけて?待ちぼうけ?なのでしたかと??大変です。
これは…【待つ事は〜〜〜“末”で終わる事に、つながりやすいです〜〜〜ョネ?

今日の“言葉”より???
【今を活かすことに“全力投球”しながら、捉えて行くべきでしょうか〜〜〜?】
【活 か す こ と が 人 生 の 勝 利 者】でしょうか???
トキ様も「時間管理…」は、どの様に、捉えていますでしょうか???

                             再合掌

1321ハマナス:2012/09/23(日) 22:48:27 ID:mR2szZkc
神の子のみなさま
こんばんは。

経営の智慧も人類愛から

(『新版生活の智慧365章』p.251)

「立ち向かう人の心は鏡なりおのが姿をうつしてや見ん」と云う黒住教祖の教歌は真理を表現しているのである。相手の神性を呼び出そうと思えば、こちらの神性を相手に示さなければならないのである。神は愛であるから、自己が先ず愛を相手に示さないでいて、相手の愛をかち得ようと思ってはならないのである。

本当の愛があれば智慧が出てくるのである。技術の智慧も、経営の智慧も、その事業を本当に愛し、その事業が人類のためになることを念願して止まない大愛を経営者がもっているならば、必ずその事業を発展さすための智慧と熱意が経営者にも出てくるし、その人類愛の熱意は、神の愛につながり、神の智慧を呼び出し、困難を切り抜ける勇気と自信とが湧いて来るにちがいないし、その意気と理想と大愛と勇気と自信とは従業員にも反映してその事業を益々発展せしめるに至るのである。

感謝合掌

1322a hope:2012/09/24(月) 06:20:04 ID:r8H4x9xE

新版 生活読本 谷口雅春先生著

第1章 此の世界の成立ちは?
♦ふくれ面をしたら面白くない事がでてくる


ふくれっ面をしたら、ますますふくれっ面をしなければならないような面白くないことがでてくるのは、
自分が「心」の世界に面白くないことを、心に思いうかべて「面白くない、面白くない、つまらない、
つまらない」という心の種をまいているからであります。

朝目がさめた時から「今日はうれしいぞ。すばらしい日だぞ。よいことがでてくるぞ。たのしいぞ」とかんがえなさい。
そうすると、よいことが、たのしいことが、ぞくぞくと皆さんの身のまわりにでてくるのであります。
「愉快を思えば、愉快がでてくる」「つまらないと思えば、つまらないものがでてくる」のであります。
心でえがいたものがはえてきて実をむすぶのであります。

この法則を利用しますと、自分の成績でもなんでもよくすることができます。
勉強する時にでも、「自分は算術がへただからよく勉強しましょう」などと考えてはなりません。
「へただから」などと思うと、その「へた」ということが心の種になって、じっさいへたになってしまうのであります。

そこで、勉強する時には、「自分はへただから」などとはかんがえずに、
「自分は、神さまのえらい力が、形にあらわれたのが私だ。自分にはえらいえらい力がやどっている。
自分は天才だ。自分はよくできる。よくできるから、喜んで勉強するのだ」と、
こう心にとなえながら勉強にとりかかるのです。
すると心にえがいたとおりが、形にあらわれてくるのであります。

(第1章 終り 次回から「第2章 人間の「考え」は血の流れを変えます」 へ)

1323「訊け」管理人:2012/09/24(月) 16:47:42 ID:???
『神の意義とその理解』59頁より謹写――

◇超越内在の神を〝生命の体験〟として自覚せよ

 生長の家は「神」をそのように説く。その学説を諸君が読む、そして生長の家は、「神」のことをそのように説いているのだな――と諸君がわかっただけでは何の効果もないのであります。諸君自身が、「超越無限力の神が自己に内在していて、その神こそが自分の本体であり実相である」と自覚しなければならないのです。その自覚が〝生命の体験〟として完成してこそ、「天の父われに在(いま)して、御業をなさしめ給う」とイエスが言ったような偉大なる功業を樹(た)てることができるのであります。
 時々、一見信仰深き人は「神にすべてをお委せ致します」と言います。しかしその「神」とは自己に「内在する神」だということを知らなければなりません。遠く天上にある神にお委せして自分は何の努力も工夫もしないでも好いのだというような考えで、「すべてを神にお委せします」というのでは、神を自分と離れた「外にあるもの」(外在神)とみとめる信心で、迷信だというほかはありません。
 「わが魂の底にこそ宇宙にみち満ちている超越普遍の神が宿ってい給うのだ。その〝魂の底の底なる神〟こそ〝本当の自分〟であり、その神を今自分は喚(よ)び出して働かせるのだ。否、現にその神が働き給うているのだ」という自覚を喚び起すのでなければ、実際に神の無限の力を自己の出口を通して発揮させることはできないのであります。「わが魂の底の底なる神よ、無限の力湧き出でよ」と私たちは一日数回、一寸した時間でも利用して、この内在超越の神を意識面に喚び出して活動せしむべきであります。

1324SAKURA:2012/09/24(月) 21:33:17 ID:jH5uEFzM
トキ様 へ  
観覧者の皆様 へ
こんばんは……   ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1043>>1044>>1052>>1057>>1058>>1063>>1068>>1073>>1087>>1092>>1093
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>>1238>>1304>>1307>>1319>>1320に関しましては、【ベスト・フレンド】シリ−ズで〜す。

実は、私の「青春シリ−ズの一冊の本」なのです。(討論課題項目が、幾つかに分かれてい
ますが?)意外と真理が、分かりやすい【討論形式】なのです。…が〜〜〜??【コロンビ
ア大の方達が、真理…サイコ的】に? 昨日の投稿文章は、皆様!如何でしたかしら〜ン?

◆【ベスト・フレンド】  ( 成長と発展の条件 ) 

―――――  ►► 成長と発展の条件 ◄◄ ―――――

|♣おっしゃることはきわめて賢明であり、すばらしいことだと思います。
|わたしはそれをそのまま大事に家へ持って帰りたいくらいです。しかし
|「言うは易く、行うは難し」ではないかと思うのです。それは人々に
|とってあまりに過大な要求ではないでしょうか。現実を、そんなにも堅
|実な目で眺めることのできる人がいるでしょうか。わたしだって人生に
|ついて多少のことは知っているつもりです。しかし、人生の指針をしば
|しば失ってしまうことがあります。そんなときわたしは勇気を失い、い
|らいらし、不安でたまらなくなり、将来がどうなるか、とても心配にな
|ります。いったい、わたしたちはあなたがおっしゃるほどに成長できる
|ものなのでしょうか。

 人はあらゆる面で完全に成長する必要はないのです。これはみんなが誤解している
ことのひとつです。成人期というものは片開きのドアではないのです。誰もがいった
んそれをくぐり抜けたら、二度と後戻りできないものと考えがちです。成長する、と
いうことは片道切符の旅行ではありません。子どもがおとなのような行動を示すこと
があるように、おとなもまた子どもっぽい行為を示すことがあります。

 このふたつの状態は幸いなことに相互に相容れないものではありません。もしそう
でなければいわゆるジェネレーション・ギャップというものはもっといっそう大きな
ものになり、両者は橘のかけられないほどに大きな溝に直面することになったはずで
す。これは子をもつ親が現在直面している問題でもあるのですが、ふつうおとなには、
人を理解するための努力や、想像力を働かせる努力をしようとする真摯な態度、さら
に他人は自分とは異なるのだという事実を認めようとする真摯な努力が不足している
といえます。

 ときには未熟な面があっても、それはかまわないでしょう。たとえば完全に成長し
たおとなはまわりから見ると多少の脅威を感じさせるものです。

 結婚というすばらしい事実もその一例でありましょう。望ましい結婚は二人が
まったくおとなとしての関係をもつことです。しかし、夫と妻は互いにどんな役割を
も演じるのです。二人は愛する者と愛される者の関係にあることは当然ですが、互い
に親にもなり、遊び友だちにもなるのです。また必要とあれば赤ん坊にもなるわけです。
わたしたちはみんなそうしているのです。ただひとつ困ることは二人が同時に赤ん坊の
ようになりたいと望み、しかもどちらもどうしてそれを譲らない場合です。

PS:トキ様
今回の【お家騒動…】は、これにたとえますと〜〜〜
まるで〜まるで〜どちらも【精神の成長は? 心の成長は?】と考えてしまいますが?
「雅宣先生は、現在!「生長の家…総裁」でいらっしゃいます。…が?
今までの!“投稿…”を閲覧していますと
【分派…「学ぶ会」「靖国見真会」「ときみつる会」……etc】 皆様の…
【人 格 の 成 長】は???と考えてしまうような“言動”が多いのですが?
ご存じのように……私自身…【現総裁雅宣先生…擁護派一人】です。・・・が?

◆何度も!何度も!【分派の方々からの…“イジメ”…】がありましたが……
例えばですが?【文章が…云々…とか??記号が…云々…とか??】
これが…【人 格 向 上…】と言えますのでしょうか??
この事をとりましても…【人 へ の 救 済】果たして、出来るものでしょうか?
ここでの“投稿発言”も、やはり???私は【人 格】が、必要にも思えますが???

それに関して、トキ様はどの様に思われますでしょうかしら〜〜〜ン   再合掌

1325ハマナス:2012/09/24(月) 23:39:16 ID:mR2szZkc
神の子のみなさま
こんばんは。

事業の成否は「人」に
(『新版生活の智慧365章』)

その事業が成功するか成功しないかはそれに従事する「人」如何によるのである。されど「人」とは如何なるものであるか。それは「これ位の能力」と限定されるべき者ではないのである。何故なら「人」は神の子であり、その内には「無限」が宿っているからである。されば、その事業の成否は、「無限」の宿っているところの人間から、どれだけの量と質とをその「無限」から引き出し得るか否かによって定まるのである。より多く引き出し得た者は、その事業により多く成功するであろうし、より少なく引き出した者は少しか成功しないであろう。

多くの事業会社の従業員は自己の持っている能力や天分の十分の一すらも完全に発揮し得ないような仕組みになっているからである。それはただ上司の命令を機械的に「事務する」だけであって、創意を出すべき機会を与えられていないからである。機会と責任とを与えられるときのみ能力は発揮される。
」感謝合掌

1326a hope:2012/09/25(火) 06:11:04 ID:r8H4x9xE

新版 生活読本 谷口雅春先生著

第二章 人間の「考え」は血の流れを変えます
♦「考え」の目方をはかる法①


エール大学のW・G・アンダーソン教授は人間の「考え」(心の力)目方をはかるのに成功したと云うことが、
マーデンの本の中に書いてあります。
先ず大きな天秤のハカリに人間を仰向けにのせます。
その天秤は一枚の板のようなもので、その中程(人間の腰のあたりが乗る辺)に中心があって少しでも重い方に、
丁度シーソーゲームのように一方に傾くようになっているのです。

その板の上に先ず人間が乗りまして、その板がとちらへも傾かないように水平になるように調節(ちょうしをととのえる)します。
さてその板の上に乗っている人間に算術の難しい問題を考えさせるのです。
すると、その人間の乗っている板は、頭の載っている方が重くなって下へ傾くのです。

これは頭が物を考えるから「考え」の重みによって頭が普通より重くなったのです。
皆さんはこれを「考え」の目方だと思いますか。
いつも、いらぬ取越苦労を考えて、頭が重い重いと云っている人がありますが、
それはつまらぬことを考えすぎるが為に「考え]の目方で頭がおさえつけられているのです。
吾々はつまらぬ「考え」を思わぬようにすることが頭を軽くするのに大切です。

ところで、もっと頭のよい人は、それは「考え」の目方ではない。
その「考え」が頭へ血をのぼらせ其の血の目方だと思うでしょう。
こう考えることの出来る人は、普通以上にとびぬけた頭の好い方です。
本当は「考え」に目方はありません。
その証拠に諸君が体格検査のときに自分の目方をはかる台秤(だいばかり)の上に乗って、
笑おうが、心配しようが、むつかしい算術の問題を考えようが、同じ目方でありましょう。

ところで、此処に問題となるのは難しい問題を考えると、頭の方へ血がのぼせてくることです。
心配や取越苦労をすると頭に血がのぼせ過ぎて、そこで頭が重くなるのです。
だからものを考えるのに下っ腹に力を入れて物を考えますと、肝玉が落着いてあまり頭の方へ血がのぼせずに、
いつまでも物を考えてもつかれずに落着いて物を考えることができます。
(②につづく)

1327うのはな:2012/09/25(火) 14:35:19 ID:WMqYQDyc
>1323
『神の真義とその理解』だとばかり思い込んでいました。
ありがとうございます。

1328神の子さん:2012/09/25(火) 17:11:52 ID:4JneCjg.
>>1327
http://www.amazon.co.jp/gp/product/images/B000J8I9ZG/ref=dp_image_text_0/378-9750956-1701548?ie=UTF8&amp;n=465392&amp;s=books

1329神の子さん:2012/09/25(火) 17:18:52 ID:4JneCjg.
信仰心なく神を語る亡者の群れ

訊け、初心者、さくら、・・・・

1330天の童子:2012/09/25(火) 17:33:21 ID:4JneCjg.
>>1329
トキさんへ

上記書き込みと>>1329は、書きかけであるし、スレッド違いなので削除願います。

1331SAKURA:2012/09/25(火) 20:20:58 ID:jH5uEFzM
トキ様 へ  
観覧者の皆様 へ
こんばんは……   ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1043>>1044>>1052>>1057>>1058>>1063>>1068>>1073>>1087>>1092>>1093
>>1097>>1098>>1167>>1170>>1171>>1174>>1175>>1190>>1194>>1210>>1227
>>1238>>1304>>1307>>1319>>1320>>1324
に関しましては、【ベスト・フレンド】シリ−ズで〜す。

実は、私の「青春シリ−ズの一冊の本」なのです。(討論課題項目が、幾つかに分かれてい
ますが?)意外と真理が、分かりやすい【討論形式】なのです。…が〜〜〜??【コロンビ
ア大の方達が、真理…サイコ的】に? 昨日の投稿文章は、皆様!如何でしたかしら〜ン?

◆【ベスト・フレンド】  ( 成長と発展の条件 ) 

―――――  ►► 成長と発展の条件 ◄◄ ―――――

|♣とても結構なお話ですね。うかがって安心しました。わたしが超人で
|ある必要はないことがわかり、ほっとしました。わたしはふだんなんと
|か完全な人間になりたいと努めていたのですが、じつはそれが人から見ると、
|他人を軽べつするような態度にみえたのではないかと思います。
|みんなまったくそんな態度を好んでいなかったのです。

 あなたは自分が子どものようであることをけっしてよいことだと思わなか
ったでしょう。しかし、わたしたちそれぞれのなかに子どもの部分があるの
です。そしてその子どもにやさしくしなければなりません。

 もうひとつ認識しておかなければならないことはつぎの点です。たとえば
二五歳になってあることをあきらめたときに、それは、それを必要としてい
た四歳のときの自分から取り上げたということはならないのです。誰しも自
分が四歳のときに起こったことをぬぐい去ることはできません。せいぜいで
きることは」、いまなお自分のこころのなかに存在する四歳の子どもにたいし
て共感を示すことぐらいです。おとなは、四歳の子どもにたいしては、たい
ていの場合やさしく振舞います。ところが、自分が四歳の子どものような気
持ちになったり、行動したりすると自分にたいしてものすごくいやになるの
です。そして自分にあいそをつかし、自分のこころのなかに存在する子ども
を拒否してしまうのです。
                      (つづく)

1332SAKURA:2012/09/25(火) 20:22:51 ID:jH5uEFzM
こんばんは……   ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1331投稿の続きです。…

おそらくそういう人たちは、ごく小さいときからそうしていたと思います。
どういうわけか、成長の過程――これは基本的には新しいものの見方に到達
することでなければならないのですが――において、むしろいままでの古い
ものの見方に嫌気をさすようになってしまいます。これがじつは自己嫌悪の
はじまりなのです。真の成長とは新しいことを試みる勇気と自信とを身につ
けることであり、その過程において過去の殻を打ち破ることなのです。

とにかく前へ進みなさい。新しい挑戦を開拓することは楽しいもので、わたし
たちの興奮を呼びさますものなのですから。あなたは行動を起こすことに脅威
を感じることもあるでしょう。これはけっしてあなたの昔からある自己を否定
することにはならないのです。あなたはもっとよいものを手に入れるために、
もはや必要としないものは思いきって捨ててしまいなさい。
                   (次回につづく)

Ps 「トキ様」 へ
■【成長する…】には、『新しい挑戦!!』が、大事です〜〜〜ョネ!!
【 日本開国…明治維新 】は、やはり、当時に於きましても…
【斬新なアイデア・新しい挑戦…】と、思います。

そして、今!尚【生長の家も、新しい開国論…】が始まりまして“スタ−ト地点”
いつまでも〜いつまでも〜“古い体制・考え・・・”を誇示している様では、
【将 来 の 展 望】もと?思います。…が?

今日の“言葉”より……
私も「デザイン…」は、いつまでも、同じデザインをしていますと〜〜〜
これは決して“時代性…”を、反映するものでは有りません。【経験済み】
そこに…泊まるのではなく、前向きに?進むには??
私の仕事を例にとりますと……【新しい息吹〜♫〜】を取り入れる事が
進歩向上!!になる分けなのです。そして、人々に受け入れられる〜
このように思いますと、前以上に【真 剣 な 光 明 化】をしていきます。…が?

「建物も古い場合」??それを維持し後世に残す場合は??
【修理・補修…】が、必要だったり、或いは、どうかしますと、立て直しもあるカモ?
この様に、今!【 生長の家 】も、新しい挑戦に挑む事が〜〜〜
今・今・今しか“チャンス”がない様にも〜〜〜思えます。…が?

【今日のベストフレンドで】のお考えは、トキ様はどの様に思いになりますか???

1333a hope:2012/09/26(水) 07:40:40 ID:r8H4x9xE

新版 生活読本 谷口雅春先生著

第二章 人間の「考え」は血の流れを変えます
♦「考え」の目方をはかる法②


アンダーソン教授は、その次に板の上に仰向けに乗っている人に、
算術を考えさせることを止めて、自分の脚で一生懸命足の体操をしていることを思わせたのです。
すると、足の方の目方がふえて、人間の載っている板は足の方が重くなって下(さが)りました。

そこで、こういう事がわかります。
「考える」ことは必ずしも、頭へ血がのぼせない。
「頭で考える」―――頭・頭・頭と思うから、頭の方へ血がのぼせるのです。

腹でものを考えると思って、いつもへその下の丹田と云うところに力を入れて、
其処で考えるのだと思って、勉強すれば、頭が常に軽くてよく勉強が出来るのです。
昔から偉くなった人は、丹田の修行と云って、下っ腹に力を入れる修行をしたものです。

白隠禅師は、寝るときに足の踵で呼吸をする稽古をしたと云われています。
呼吸は鼻からするのは、白隠さんだって同じことですが、真直(まっすぐ)に足をのばして、
足のかかとに軽く力を入れ、かかとに息の出入口があって、かかとでゆっくり呼吸をする気になると、
血が足の方へ沢山いって、心が落着き、頭が軽くなって、いつの間にか好い気持で眠れるのであります。
(つづく)

1334SAKURA:2012/09/26(水) 21:29:30 ID:jH5uEFzM
トキ様 へ  
観覧者の皆様 へ
こんばんは……   ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1043>>1044>>1052>>1057>>1058>>1063>>1068>>1073>>1087>>1092>>1093
>>1097>>1098>>1167>>1170>>1171>>1174>>1175>>1190>>1194>>1210>>1227
>>1238>>1304>>1307>>1319>>1320>>1324>>1331>>1332
に関しましては、【ベスト・フレンド】シリ−ズで〜す。

実は、私の「青春シリ−ズの一冊の本」なのです。(討論課題項目が、幾つかに分かれてい
ますが?)意外と真理が、分かりやすい【討論形式】なのです。…が〜〜〜??【コロンビ
ア大の方達が、真理…サイコ的】に? 昨日の投稿文章は、皆様!如何でしたかしら〜ン?

◆【ベスト・フレンド】  ( 成長と発展の条件 ) 

―――――  ►► 成長と発展の条件 ◄◄ ―――――

|♣お話だけうかがうとそれは大変やさしく、簡単で、すぐできるように
|思えます。しかし、成長することは容易なことではありません。それは
|わたしたちにとって大きな苦しみですし、至難の業のように思えます。
|わたしたちはどこを目ざして進めばよいのでしょうか。はたしてそこへ
|到達できるのでしょうか。この点について、どうもあなたのお話では確
|信がもてないのです。もうひとつこれだというものが欲しいし、まだま
|だすっきり入ってないのですが。

 そのとおりです。子どもが重要な新しい一歩を踏み出そうと努力するとき
には、いままでの古い習慣をむしろ荒っぽいやり方で追い払う必要がありま
す。もはやそうした古いものは必要としないのですが、部分的にはまだそれ
に固執する面が残ります。だから子どもたちの行動はまわりの人たちとはま
ったく対立し、安定を欠くことがあるのです。子をもつ親ならわたしのいう
ことがよくわかるでしょう。

 しかし、そうした幼いころの自我をあまりにも強く否定してしまうと、そ
の結果として成長するどころか自己嫌悪が生じてしまいます。そうした人は、
自分が成長して脱出しなければならないと思っているさまざまな欲求を充足
させないままに、なんとかやっていく手だてを身につけることができるかも
しれませんが、そのためにエネルギーをつかいはたしてしまうでしょう。

 わたしたちは、幼いころの自我に反抗しながら成長していくのではなく、
その自我がもっている力に依存しながら成長していかなければなりません。
それがお互いにとって有益なことであることを認識する必要があります。し
かし、いまは別のことに専念するときなのです。

PS:トキ様
「生長の家」が発展するには〜〜〜♫〜
やはり…【新 し い モ ノ へ の 挑 戦 !】でしょうか…??

【時代が変化…】しています。観覧者の皆様も、感じます事があられますのでは??
何度も〜何度も〜申し上げますが…
【今 を 活 か す…】のは〜〜〜><
❤〜今の【教義・教本以上に、すばらしい現代人の心を揺さぶるモノ】が必要では?

良いものをこの世に再び出す事が〜〜と、思わずにいられません。…が?
【世の中は、病んでいるのです。私の廻りにも?皆様の廻りにも…?】

時代は変わるのです。いえ!時代は変わりつつあるのです…。

例えば「服職業…」を携わっていますと…【流行のサイクル??】は、一応あります。
したがいまして…今!皆様が見られています【アジアン・ルック…】これも?
【私 が 高 校 の 頃 で し ょ う か??】

アジアンは、当時は、詳しく申しますと【フオ−ク調】の感じでしたが…
今!また繰り返しでも〜〜〜よく見ますと……
またそれなりの【デ ザ イ ン の 変 化】なのです〰〜〜ョネ!
【信仰も求める者の価値観】が、変化していますが〜〜〜
【成 長 と は?】
今の時代の【現 状 を 認 識 す 事】ではないでしょうか?
もう一度…【分派の皆様方は・・・“時代の流れ”〜〜対応性は???】

                             再合掌

1335うのはな:2012/09/26(水) 21:48:55 ID:YT9aDVnY
   天地一切のものと和解すること

 私が神戸におりました時に河野とみ子さんという婦人が子供の教育の話で指導を
求めて来られたことがあります。この人は当時山下汽船株式会社の重役の奥さんでしたが、
彼女に中学二年生ぐらいの子供があったんです。

 その子供が不良少年の仲間にはいりまして、体は大きいんだけれども、ちょっと足がちんばである。
どういうもんですか、心がちんばになっていると足がちんばになる。大阪の北浜に松岡道治先生という
医学博士で整形外科の先生があったんだが、そこへ行ってみてもらったけれども治らない。
手術はしなかったけれども。わたしが兵庫県の住吉村にまだおった時代にその子共をつれてきて、そして
「先生この子供どうしたらよくなりますか」と言われた。

 その時分は、まだ映画を活動写真といった時代で、「悪漢ジゴマ」と題する活動写真が映画館で上映されて
評判だったんです。そのお母さんは私に、「先生、この子供の目を見てごらんなさい。あのジゴマみたいな目をしてるでしょう」と
いって人相の悪いことを特に強調して、「こんな子供になったんですが、どうしたらよくなりますか」と言われたことがあるんです。

 その時にわたしは注意した。
「子供の前で、あんたそんな悪い言葉を使うもんじゃないですよ。親の言う通りに子供はなるのですよ。悪いことをコトバで聞かしてはならない。
すべての子共は“神の子”であり、神の完全な生命が宿っているんだから、それをほめて引き出すようにすればいいのですよ」という話をしたのでありました。

 その子供はちっとも勉強しないと母親は訴える。そしてその不良少年のグループの中へはいって、そしておどかされて金をもち出したりいろんなことばっかりやっておったんです。
その時、私は直感で、その子供が不良になった原因がわかった。それで、「あんた子供がこんなに悪くなったのは誰かに怨まれてはいないですか」と言った。
そしたら彼女は、恨んでいる人があることを告白したんです。

 それは、山下汽船の重役の椅子に今、この子供のお父さんが坐ってるんですけれども、この子供の父は、神戸の商科大学をでた人なんですが、実はこの商科大学をでるについて学資なんかを
援助してもらっておった山下汽船の前任の重役があったんです。それが何かスキャンダルがあって、会社の公金三十万円とかを自分の名前にしたとか消費したとか その時分の三十万円といったら
たいしたものです。今の金じゃ、おそらく三億円以上かもしれない そんな噂がたってその前任の重役は詰め腹を切らせられて、ともかく刑法の上では内緒で済ましたんだけれども退職を命ぜられた。
その後任として重役の椅子に坐ったのが、前任の重役のお世話になって商科大学を卒業して引き立てて貰った今の河野とみ子さんの夫が重役になったんです。
そしたら、その前任の重役は、「自分のスキャンダルを知っているのはあの河野君の他はないんだ。それをあいつ、あばきやがって、自分を落してそのあとがまに重役としてすわりやがった。怪しからん」と、
非常に憤慨して河野家を恨んでいるというのであります。

 そんな経緯がありましてから、河野一家では、今までは、お世話になっていたから毎月一回はこの重役のところへ挨拶にでかけて行って親しく仲好くつき合っておったんですけれども、そういう事件があってからは、
一ぺんも訪問したことがないというのでした。

つづく

1336うのはな:2012/09/26(水) 21:50:16 ID:YT9aDVnY
>1335 つづき

 それでわたしは言いました。
「あんた聖経『甘露の法雨』の冒頭に、“汝が何物かに傷つけられたり、黴菌や悪霊に
冒されたりするのは汝が天地一切のものと和解していない証拠であるから省みて和解せよ”
ということが『七つの燈台の点燈者の神示』にあるでしょう。それで子供がそういう不良になるのは
誰かに怨まれておって、逆念が遠隔操縦みたいに放送されてきて、子供が不良になったり次から次に運が
悪くなるということがあらわれてくるのは、誰かに怨まれたり憎まれたりしているのが、その念波の影響で
出てくることがある。その前任の重役の人と仲直りしなければならない。それだから、その重役の家を、重役の好きな
ようなものを手土産にもって訪問し、長い間の御無沙汰したそのおわびをして、その間の事情を詳しく話して、けっして
時分がそういうあなたのスキャンダルなどをあばいたりしたことはないということを相手が納得するまで、諄々と話して
仲直りしなさい」とわたしは勧告したのでした。

 そしたら、河野夫婦は、わたしが勧告したように、早速、その日の夕方でありましたが、夕食が終ってからその前任重役の
宅を訪問していってその重役に会い、諄々と事情を話しして仲直りしたんです。そしたら、相手の恨みが解けたと思われるその
時間に不思議な感応が起こったのです。

 今までどんなに勉強せよと言っても勉強しなかった中学二年の河野さんの息子が突然自分の書斎で勉強を始めたということが後で
わかったんです。それ以来その子供は勉強家になりまして、成績もよくなってきた。けれども同じ学校にいると不良の友達からまだまだ
離れられないので、誘惑される恐れがあるので、神戸第一中学校を これはいい学校なんでしたが、それを退学させて、それから立派な
息子さんになったという話です。

こういうことはみなさんが家庭訪問せられて、成績の不良の子共でもある時に、何か他の人と仲違いしてるとか、恨まれているとか、
天地一切のものと和解していないことがないかと省みて、もしそんなことがあると、不良の子共がでてくることがあるんですから、何らかの
方法で仲直りをしておくとよいのであります。

 子供は感応しやすいアンテナみたいな心をもっているものですから一番感じやすいわけなんです。
だから天地間、何事でも、何物とでも和解していないならばまず「天地一切のものと和解する」ことが
必要です。皆さんに、不良の子共の指導を求めて来られた人があるなら、恨んだり憎んだりしている相手は
ないかと反省して、それと仲良くなるというように指導してあげるということが必要なのであります。

『生命の根元を培う新しき教育』 谷口雅春 先生著 新教育者連盟編

1337ハマナス:2012/09/27(木) 00:20:25 ID:mR2szZkc
神の子のみなさま
こんばんは。

位置と責任を与える
(『新版生活の智慧365章』p.252)
何人も充分責任ある地位に置かれるならば、内在無限の力を揮り絞り出す機会も与えられるのである。世間に随分沢山ある実例であるが、良人が生きている間は、全然良人の経済力と能力にたよって、ただ深窓にこもって家庭の仕事だけをつとめるのが精一杯だと思われたお嬢さん育ちの婦人が、突然夫が死んだために、自分で経済を何かとやって行かなければならなくなったときに、何と、彼女は旺盛な企業意欲を伸展し得て、良人が生きていたときよりも尚一層事業を発展させてその経済能力を発揮し得たような実例が随分あるのである。

それは彼女自身に重大な「責任」がふりかかったのと、自分で女主人公として能力を搾り出して一切を切り盛りして行くより仕方がない責任ある位置に立たせられた結果なのである。それと同じく従業員それぞれ責任ある位置に信頼して置くならば今より尚一層の能力を出させることができるのである。
感謝合掌

1338a hope:2012/09/27(木) 08:13:34 ID:r8H4x9xE

新版 生活読本 谷口雅春先生著

第二章 人間の「考え」は血の流れを変えます
♦眠るときの気持ちを楽しくせよ


眠る時の気持ちと云うものほど大切なものはありません。
いい気持ちで眠ったら、明日の朝目がさめたときには、スガスガしい好い気持で、
その日いちにち愉快にたのしく勉強が出来、仕事が出来ます。


眠りしなに私は、
「神様の生命(いのち)、わたしに流れ入って、眠っているうちに健康に幸福に、無限の智慧を与えて下さるのである」
と心のうちで唱えながら眠ることをおすすめ致します。これは私もやっています。
これは子供でも学生でも、大人でも唱えて効果がある方法です。
また、
「神様、私の中に流れ入り満ちたまえ」と念じながら眠ってもよいのです。

毎晩そうとなえて眠りに入るように致しますと、その人の智慧があきらかになり、
勉強の力が加わり、記憶力(ものおぼえ)がよくなり、肉体が健康となります。
足のことを心に強く思ったら、足に血が行きますように、「勉強がよく出来る」
と念じたら勉強がよく出来るところに、身体の血がめぐって、其処を丈夫にして下さるのであります。
(つづく)

1339SAKURA:2012/09/27(木) 22:49:37 ID:jH5uEFzM
トキ様 へ  
観覧者の皆様 へ
こんばんは……   ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1043>>1044>>1052>>1057>>1058>>1063>>1068>>1073>>1087>>1092>>1093
>>1097>>1098>>1167>>1170>>1171>>1174>>1175>>1190>>1194>>1210>>1227
>>1238>>1304>>1307>>1319>>1320>>1324>>1331>>1332>>1334>>
に関しましては、【ベスト・フレンド】シリ−ズで〜す。

実は、私の「青春シリ−ズの一冊の本」なのです。(討論課題項目が、幾つかに分かれてい
ますが?)意外と真理が、分かりやすい【討論形式】なのです。…が〜〜〜??【コロンビ
ア大の方達が、真理…サイコ的】に? 昨日の投稿文章は、皆様!如何でしたかしら〜ン?

◆【ベスト・フレンド】  ( 成長と発展の条件 ) 

―――――  ►► 成長と発展の条件 ◄◄ ―――――

|♣ほんとうにおとなになるためにはかならず正真正銘の幼年期を経なけ
|ればならない、と誰かがいっていますが、それはどういう意味でしょうか。

 望ましい幼年期とは自由で開放的なものです。賢い親は自分の子どもが進
歩するのを援助します。幼年期の非劇はおとなが鍵をかけてふたをしてしま
うことからはじまります。そうしたおとなたちは自分がかって手にしていた
もの。あるいは望んでいたものを自分の肩越しに見ながら人生を送っている
といえましょう。彼らはおとなとしての喜びを手にもできず、自分が幼年期
に十分に得られなかった幸せを取り返そうとして、いたずらに年月を費やし
ているだけです。

       ――――――― * ――――――――

|♣それは麻薬患者が求めているものと同じですね。

 そうです。そういう人々は以前の幸せを取り戻したい、と願っているだけ
です。しかし、それはうまくいくものではありません。わたしたちは前進し
なけばならないのです。それはもっとむずかしいことです。立ち戻ったとこ
ろで、そこでなにが得られるというのでしょうか。現実にはそこへ立ち戻る
ことはできないのですから、そうした試みはまったく無益なのです。前進す
るということはチャンスをつかみ、一度もしたことのないことをやってみる
ことなのです。あなたが先ほどいわれたことのなかで――どこに到達するの
か確かでない――、もっとも辛いことは、あなたがなんらかのものを放棄し
なければならないことであり、またもしそうしたとしてもその代りになにを
手に入れることができるのかわかっていない点です。

 人生、悩むことをやめないという理由はほんとうはこの点にあるのです。
人はひとたびなにかを手に入れてしまうと、それ以外にもまだなにかがある
とは信じようとしないのです。フォークナーの小説に出てくる人物の一人が、
つぎのようにいっています。「悲しみと無のどちらかを選べというならば、
わたしは悲しみをとるでしょう」と。わたしたちの場合は悲しみと生きがい
に満ちた人生のどちらを選ぶか、ということになります。生きがいのある人
生に向かって第一歩を踏み出すためには孤独感と喪失感の鋭い痛みに耐えな
ければならないでしょう。しかし、いずれにしても人間は一人ぼっちの存在
なのですし、あなたがいま抱いている喪失感もずっと以前に起きたことなの
です。あなたがいま失いつつあると思っているものは、ただの夢にすぎない
のです。
         ―――――  *  ――――――

|♣不思議な目ざめにちがいないですね。生まれてはじめて目を開いたよ
|うな………。

 ただ、このときは、生まれたままの裸のままではありませんが、おとなと
して目ざめる準備ができたときには、わたしたちはおとなの社会に対応する
ために必要なものを備えているべきです。

PS:トキ様
此処【2チャンネル】に参加しながら、思いにふけることが増えました。…が?
最初は、唯!唯!と〜〜どまる事ばかりでしたし、本当に「生長の家…の人」なの?
と、思えてなりませんのですが??【真理…の勉強】の捉え方…一つでも、
各自の【個性…】が見えて…本当に【生まれてから〜死ぬ時は“一人”なのですョネ!     
それでも、本当に見る?見える世界?……それは、やはり【心 の 眼】でしょうか?
少し【私 の 心 は 自 由 に 進 歩】になって行くようです。トキ様は〜??

1340ハマナス:2012/09/27(木) 23:58:56 ID:mR2szZkc
神の子のみなさま
こんばんは。

人物は到る処に
(『新版生活の智慧365章』p.253)

多くの経営者は「人が無い」「人物が無い」などと叫んでいるけれども、それは現象を見て実相を見ないからである。現象は「自己」及び「他の人」が認めた程度にしかかあらわれて来ないものであるら、今、現象界にあらわれている彼の状態は、「過去に認めた程度」だけがあらわれているのである。今後のことは、これから「認める」程度にしたがってあらわれて来るのである。

経営者又は上役は従業員に劣等感を与えるような言葉をもって、叱りつけたり侮辱したりしてはならない。そのような劣等感を与える言葉は将来有能なる其の事業の支配人となり重役となり、その事業を更に大きくならしめる筈の“事業の支柱”を取り除きつつあるようなものである。従業員を信頼し、その価値をみとめ、それに責任ある地位を与え、賞賛と激励とを与えるならば、どんなに沢山仕事が山積していても、それを充分消化(こな)して行くにちがいないのである。

感謝合掌

1341菊池風磨:2012/09/28(金) 08:41:27 ID:SYyxbZaw
[※ これを全部読んだら願いが叶います。祈ってください。

菊池風磨の境界性人格障害は心の余裕が無くキレやすい。激しい怒りの感情をコントロール出来ない。物事を勝ち・負け でしか考えられない両極端思考。見捨てられる事に不安を感じている・自己否定されると自己防衛の為に相手の評価を下げる。フられるとストーカーになる。常に精神状態が不安定・情緒不安定。変な人・性格が悪い人と思われる。気が付くと周りから人が居なくなる。周りの人を振りまわす。嫌われたと思うともっと嫌われる様な事をする。会話が成立しない。コミュニケーションが下手。落ち着きが無い。気分によって態度がコロコロ変わる。フられるとリストカットをして気を引こうとする。アダルトチルドレン。トラブルになりやすい。自己中心的。自殺率が高い。繊細で傷付きやすい。幼少期に虐待されていた。人の意見を真に受けやすい。人との意見の違いに怒りを感じる。感情のコントロールが出来ない。などの症状が有ります。

この文章をコピーして2ちゃんねるの掲示板に10回貼り付けないと願いと逆の事が起こります。 ]

1342a hope:2012/09/28(金) 08:42:24 ID:r8H4x9xE

新版 生活読本 谷口雅春先生著

第二章 人間の「考え」は血の流れを変えます
♦朝目が覚めたときには


そして朝、目がさめた時には、すぐ寝床の上に坐って、手をあわして、目をつぶり
「神のいのち、私に流れ入って、われを健康にして下さいます。」
これをニ十遍(ぺん)ほど心で唱え、さらに、
「神の智慧、私に流れ入って、今日一日私を導いてくださるから何事も都合よく行く」
と念ずるのであります「念ずる」というのは、
「心でとなえて、そのことをシッカリ思う」のであります。

そうすると思うとおりに、血がめぐって、健康になる。
またすべて考えることがハッキリした智慧に導かれて、よく出来るのであります。

何事も、よいことだと教えられたら必ずやって御覧なさい。
それも、たった一日ではなく、少なくとも三カ月は実行して御覧なさい、
屹度(きっと)いいことが出て来るのであります。

廊下でも、たった一日拭いたのでは艶はでません。
毎日拭けばつやが出るのであります。
心もその通りですから、毎日実行なさいませ。
(つづく)

1343「訊け」管理人:2012/09/28(金) 16:15:15 ID:???
『生命の實相』第24巻113頁より謹写――


生命の實相読者――

 五官と頭で神が分ると思ったら大間違いだということになるが、完全な人間なら、そんなにまでせずとも、素直にすらすらと神が分り、したがって迷いもせず、本来悟入していなければならないはずに思えるが、事実はこれと反対だとすれば、人間は至極不完全なものということになり、したがって神の完全性と相容れないように思われます。そしてこんなに考えても(人間の神性、完全さが)分らないということは人間の不完全を表していると言えるのではないでしょうか。結局、人間小智の小円内で議論しているかぎり、この問題は分らぬとも言えるが、しからば完全なるべき人間はなぜこの小智から脱却できないのかということになり、ここでまた不完全ということになります。


谷口雅春――


 ご質問は「実相人間」と「肉体人間」とを混同して、「肉体人間の知恵はなぜ不完全で真理がわからぬのであるか?」と言っていられるので、いつまで経っても正当な回答ができぬのであります。釈迦は『法句経』において「怨み心ではいつまでも怨みは解けぬ」と申されましたそのように、「肉体人間の迷い心ではいつまでも迷いは解けぬ」のであります。
「肉体人間」は本来存在しないのであります。(本来存在しないから、やがて崩壊するのであります。)存在しないものが不完全であるのは当然であって、ただ完全なるもののみが存在するのであります。
存在しないものが「存在するもの」を理解しえないのは当然であります。あなたは「なにゆえに完全なるべき神の子『人間』がその実相を直観できないのであるか」と言っておられますが、完全なるべき神の子たる「実相人間」には、その実相を直観するもしないもない、すでに完全なのだから問題はないのであります。
この辺の消息は議論をもって押し進めていっても「肉体人間の知恵」にわかるはずはないのであります。ただ「肉体人間の知恵」(迷い)を薄くすることによって、霧が破れて日光の輝き出ずるがごとく、肉体人間にも実相智の光線が射しはじめるのです。この「虚」の闇を破って実相智の光線を射しはじめることを、「直観によって、実相人間の完全さを知る」というのであります。
肉体人間の知恵は「暗」のようなもので、実相人間は「光」のようなものであります。「暗」はそれを薄くすることによって光の存在を知るのであります。「暗の無知無明はなぜあるのか」とあなたは論議されますが、暗とは「光の虚」であります。「光の虚」が光を知らないのは当然であります。光を知ればもう「光の虚」(暗)ではないのであります。がから「光の虚」なる人間知は真理を知らないのは当然であります。
あなたは「肉体人間が聖典を読んで、実相人間を知る」と言われますが、「肉体人間」が聖典を読むのは、本来無いところの我見(肉体人間の知恵ー迷い)を捨てるためで、「肉体人間の知恵」がなくなれば、ひとりでに内在の光が発現してきて、「本来の実相」が輝く。これは「肉体人間が聖典を読んだので実相人間を知った」のではなく、肉体人間(光の虚)がそれだけ減ったので実相が輝き出したのであります。
肉体人間の知恵、はからいいっさいを捨てるほど実相人間があらわれるので、「肉体人間が実相人間を自覚する」などということは「迷いが悟りを自覚する」などという言葉と同様で、ありえないことなのであります。

1344「訊け」管理人:2012/09/28(金) 16:20:50 ID:???
この投稿と1343を削除願います(改行でミスを致しました)

1345「訊け」管理人:2012/09/28(金) 16:21:29 ID:???


『生命の實相』第24巻113頁より謹写――


生命の實相読者――

 五官と頭で神が分ると思ったら大間違いだということになるが、完全な人間なら、そんなにまでせずとも、素直にすらすらと神が分り、したがって迷いもせず、本来悟入していなければならないはずに思えるが、事実はこれと反対だとすれば、人間は至極不完全なものということになり、したがって神の完全性と相容れないように思われます。そしてこんなに考えても(人間の神性、完全さが)分らないということは人間の不完全を表していると言えるのではないでしょうか。結局、人間小智の小円内で議論しているかぎり、この問題は分らぬとも言えるが、しからば完全なるべき人間はなぜこの小智から脱却できないのかということになり、ここでまた不完全ということになります。


谷口雅春――


 ご質問は「実相人間」と「肉体人間」とを混同して、「肉体人間の知恵はなぜ不完全で真理がわからぬのであるか?」と言っていられるので、いつまで経っても正当な回答ができぬのであります。釈迦は『法句経』において「怨み心ではいつまでも怨みは解けぬ」と申されましたそのように、「肉体人間の迷い心ではいつまでも迷いは解けぬ」のであります。

「肉体人間」は本来存在しないのであります。(本来存在しないから、やがて崩壊するのであります。)存在しないものが不完全であるのは当然であって、ただ完全なるもののみが存在するのであります。
 存在しないものが「存在するもの」を理解しえないのは当然であります。あなたは「なにゆえに完全なるべき神の子『人間』がその実相を直観できないのであるか」と言っておられますが、完全なるべき神の子たる「実相人間」には、その実相を直観するもしないもない、すでに完全なのだから問題はないのであります。
 この辺の消息は議論をもって押し進めていっても「肉体人間の知恵」にわかるはずはないのであります。ただ「肉体人間の知恵」(迷い)を薄くすることによって、霧が破れて日光の輝き出ずるがごとく、肉体人間にも実相智の光線が射しはじめるのです。この「虚」の闇を破って実相智の光線を射しはじめることを、「直観によって、実相人間の完全さを知る」というのであります。
 肉体人間の知恵は「暗」のようなもので、実相人間は「光」のようなものであります。「暗」はそれを薄くすることによって光の存在を知るのであります。「暗の無知無明はなぜあるのか」とあなたは論議されますが、暗とは「光の虚」であります。「光の虚」が光を知らないのは当然であります。光を知ればもう「光の虚」(暗)ではないのであります。がから「光の虚」なる人間知は真理を知らないのは当然であります。
 あなたは「肉体人間が聖典を読んで、実相人間を知る」と言われますが、「肉体人間」が聖典を読むのは、本来無いところの我見(肉体人間の知恵ー迷い)を捨てるためで、「肉体人間の知恵」がなくなれば、ひとりでに内在の光が発現してきて、「本来の実相」が輝く。これは「肉体人間が聖典を読んだので実相人間を知った」のではなく、肉体人間(光の虚)がそれだけ減ったので実相が輝き出したのであります。
 肉体人間の知恵、はからいいっさいを捨てるほど実相人間があらわれるので、「肉体人間が実相人間を自覚する」などということは「迷いが悟りを自覚する」などという言葉と同様で、ありえないことなのであります。

1346ハマナス:2012/09/28(金) 23:52:33 ID:mR2szZkc
神の子のみなさま
こんばんは。

埋れた無限の才能
(『新版生活の智慧365章p.254)

ある会社に勤めていた社員が、その会社にいた頃には碌々として何ら為すところを知らなかった平凡な人間であったのに、其社を止めて他に転じた後、急にその才能を発揮して課長となり、部長となり新任の会社でなくてならぬ一流社員や重役となってしまった実例なども随分あるが、これは前の会社で認められなかった“埋蔵されたる才能”が後の会社に於て認められたために機会と智恵を得て、十二分に発揮されることになったからである。後の会社の経営者又は上役は彼を信頼し、地位を与え誉め勇気づけた結果、彼の内に潜んでいた“無限の力”の一部が発揮されることになったのである。

人にやどる「無限の力」は、それを発揮し得る地位と責任と機会と賞嘆とを与えることによってどれだけでも発揮させることができるのである。人物を雇いながら、これらを発揮せしめずに埋れたままで放置するのは大いなる資源を失いつつあるものである。

感謝合掌

1347SAKURA:2012/09/29(土) 00:29:20 ID:jH5uEFzM
トキ様 へ  
観覧者の皆様 へ
こんばんは……   ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1043>>1044>>1052>>1057>>1058>>1063>>1068>>1073>>1087>>1092>>1093
>>1097>>1098>>1167>>1170>>1171>>1174>>1175>>1190>>1194>>1210>>1227
>>1238>>1304>>1307>>1319>>1320>>1324>>1331>>1332>>1334>>1339
に関しましては、【ベスト・フレンド】シリ−ズで〜す。

実は、私の「青春シリ−ズの一冊の本」なのです。(討論課題項目が、幾つかに分かれてい
ますが?)意外と真理が、分かりやすい【討論形式】なのです。…が〜〜〜??
❤〜【コロンビア大の方達が、真理…サイコ的】に? ベスト・フレンドは哲学になります…
初歩のかたでも、判り易いのでは〜〜昨日の投稿文章は、皆様!如何でしたかしら〜ン?

・・◆【ベスト・フレンド】  ( 幸福への第一歩 ) 

―――――  ►► 幸福への第一歩 ◄◄ ―――――

|♣あなたはわたしたちが第一歩を踏み出すべきだといいました。その第
|一歩とはなんでしょうか。どのようにして出発するのですか。

 その第一歩は昔の夢を捨て去ることです。というよりもむしろ、夢のひも
をゆるめ、少しずつそれを捨てていくことです。誰でもいっぺんにそのすべ
てを放棄することはできませんから。これは基本的な第一歩です。つまり、
どうやって踏みだしたらよいか誰かが教えようと思っても教えることのでき
ない最初の一歩なのです。夜が明けてくるように、なにかが少しずつ目に見
えてくるはずです。昔の夢に固執する努力がいかに無益で、なんと報いの少
ないものか、ということが少しずつわかってくるでしょう。またもしそうし
た無益な努力をやめるならば、わたしたちの行く手にはもっとすばらしいこ
とがあらわれてくるかもしれないということに徐々に気がついていくでしょ
う。
      ―――――――― * ――――――――
|♣お話をうかがっていて「Hold Back the Dawn」という古い映画を思
い出しました。しかし、そうした夜明けをもたらすためにわたしたちは
なにをすればよいのでしょうか。
 
 まずはじめに、注意深くなることです。もし物事があなたの思うように進
まないときには、自分からわざわざ進ませないようにしていないかどうかを
自問してみることです。あなたの行為と気持ちとの間に食いちがいがないか
どうかもう一度考えてみなさい。じっくり落ち着いて考え、その後で答えを
引き出しなさい。なぜあなたは自分自身にたいして不親切に冷たく振舞うの
か。なぜ自分の足をすくうようなことをみずからやるのか。それによってな
にを得ようとしているのか。どのような生き方に固執しているのか。もし自
分がひとりでやっていけなくなったら、誰かがとんできてくれるとでも内心
思っているのではないか。本心は、失敗しても人が愛すべき者として見てく
れると考えているのじゃないか。
        ―――――――― * ―――――――――
                         (つづく)


PS:トキ様
実は、この書物…若い時に読みました。…が?この年で読み返しますと…
本当に、若い時は【財産…❤】ですネ!〜〜〜当時の私は、“書物”について、
悟りました?(微笑) 身についてい感じで“天才バカ”でしたでしょうか〜〜?

この様に、現在!多々なる書物を、読む機会を得ました現在、
やはり【海外の哲学…】は、すごいです〜〜〜ョネ! 【ネット・ニュ−ス】にて、
【ハリ−ポッタ−・シリ−ズ】の女性作家が“本”を出版するそうで……
この方も「イギリス人」で、経歴が〜〜〜><子どもを寝かし…場所が狭いので…
当時「カフェが本人の仕事場…」そこにて、執筆活動…
【働きながらも〜〜“執筆”〜〜〜】やはりそのベ−スに【哲学…篇】でしょうか〜?
分野が違っても【哲学…は、奥深いモノ】〜〜ですネ!

■【今!立て……!】と「雅春先生」の“声”が、耳元で聞こえてきそうですが〜〜☆
                        
                            再合掌

1348a hope:2012/09/29(土) 07:30:54 ID:r8H4x9xE

新版 生活読本 谷口雅春先生著

第二章 人間の「考え」は血の流れを変えます
♦右腕を運動させると左腕も発達する


アンダーソン教授はまた別の実験をして見ました。
大学の学生に腕の力の試験をしたのであります。

すると、皆の力を平均しますと、右手で引上げ得る力は百十一ポンドでした。
(一ポンドは百二十匁(もんめ)<453グラム>ですから、
百十一ポンドは十三貫(かん)三百二十匁<50・283キログラム>です)
左の腕の力は九十七ポンドでした。

ところで、一週間のあいだ特別に引上げる力を増す運動を右手ばかりにさせたのです。
すると右手の力は六ポンド増えました。

左手はその間、すこしも力持の運動をしませんでしたがその力は六ポンドふえていました。

こんなことになったのは何故でしょうか。
運動して鍛錬(きたえる)した腕力がふえるのは当りまえですが、
運動しない方までも其の力がふえているのは、筋肉が発達するかのは、
必ずしも運動するからではなく、運動を心に思うからなのであります。

「物を引上げよう」と思うと、実際は右手だけしか使わなくとも、
左手の物を引上げる力も一しょに増えるのであります。

世界で一番美しい筋肉の発達したサンドウと云う運動選手は、
(この人は鉄啞鈴体操を創始(はじめ)た人でありますが)鏡を見ながら、
運動ごとに筋肉が美しく張り切るさまを鏡にうつして、それを見つめて、
「私の筋肉はこんなに美しく張り切っている」と心に念じながら体操すると、
普通に体操するよりも、一層はやく筋肉が発達すると云っています。
(つづく)

1349「訊け」(:2012/09/29(土) 08:01:29 ID:???
『神 真理を告げ給う』44頁より謹写――

完全な神の分身であるあなたが何故迷うかと、あなたは問うであろう。〝迷いは何処から来たのか〟 というのは仏教でも重大な設問になっている。「〝迷い〟本来無し」と一刀両断に截ち切る解答は従来からある。それでも、「では、その本来無き迷いが、どうして恰(あたか)もあるかの如くあらわれて来るのか」という最後の問が残るのである。その最後の問に〝わたし〟は答えることにする。

                                      ○

 あなたは仏教の「煩悩即菩提(ぼんのうそくぼだい)」という語をたびたび聴いたこともあるし、読んだこともあるであろう。〝迷い〟がそのまま〝菩提〟の道程であるということである。〝迷い〟という「菩提とは別なもの」があるのではないのである。〝迷い〟と見えているものが、實は〝悟り〟が動き出し、現象化しつつある道程であるから、〝迷い〟本来無しといい得るのである。
 あなた達が〝迷い〟だと思っているものは、実は〝わたし〟が〝神の国〟を地上に顕現するための土台又は地盤になるための精神的基礎工事を行うために授けたところのものなのである。
                                      ○

 時間及び空間というものは本来ない。実相世界は超時空的存在の世界であるからである。時間の観念、空間の観念は物質的存在を心に描くための謂(い)わば〝画布(カンバス)〟として必要なので〝わたし〟が人間に与えたところの架空的観念である。それは光の波を固定して映画の光景として見せるスクリーンの役目をなさしめるために〝人間の心〟に対して〝わたし〟が与えたところの概念である。このスクリーン上に生命の波動(心の波)が放射されると、生命の波動(心の波)が固定化されて物質化して感じられるのである。この物質化として感じられる基盤がなければ、地上に天國を建設するという〝わたし〟の芸術を成就することが出来ないので、〝わたし〟は人間に時間空間の観念を与えたのである。
 時間及び空間は〝わたし〟の創造である。
                                      ○

 空間の観念を与えられた人間は、恰もスクリーンを与えられた人間が映写機から放射される光の波を、単に〝光の波〟として感受せずに物質界に起った具体的事象として感ずると同じ原理で、生命の波動(心の波)を単に波動として感受せずに、それを地上世界の物質的事象として感じ、その物質を具体的確固な存在として感ずるのである。地上が具体的存在だと感ずる精神的地盤が成立しなかったら、地上に天国を実現することは不可能なのだから、生命の霊的波動を物質化して感じ、地上を具象的存在だと感ずることは地上天国建設の第一歩の成就なのである。
                                      ○

 しかしながら、また別の観点からするならば、生命的波動を、空間面上の〝物質〟と飜訳して誤認することは〝迷い〟の発生ということにもなるのである。そして、それが、その〝迷い〟の発生は何処から生じたかという常に投げかけられる原因になるのである。〝光〟がなければ影を投ずることもないように、〝迷い〟は地上に天国を描き出すための画布として、〝わたし〟が投げかけた影である。

1350「訊け」(初心者さま向け):2012/09/29(土) 08:03:26 ID:???
『實相研鑽一』174頁より謹写――

自己の意識と現象生命と実相

◇現象生命は不滅か

柴山実:私は昨年地方講師補に御任命いただきました。入信しまして二年あまり、一番わからないでいつも質問しています〝実相〟の問題についてお訊ねしようと思いましたが、結局〝現象〟ということになってしまいまして、こんな問題ではどうもならないと思いましたけど、これもまた研鑽会の意義であると思いまして、勇をこしておたずねいたします。(以下質問書を読む)

 ――人間の過程は永遠であり、物質界、霊界と輪廻転生の各周期をくり返しつつ、最後の終局に達するまで、いな達しようとして〝永遠の生命の道〟を進むものであります。その無限の道をわれわれは〝自己〟という明らかな意識を持って進み、その過程において限りない神の愛と智慧とを学ぶのであります。このすばらしい自己は永遠であるとしますと、その不滅の自己意識とは、すなわち〝現象〟の意識ではないでしょうか。
 この〝意識〟のない限り〝自己〟はなく、〝自己意識〟ある限り〝現象〟であるとしますと、われわれは永久に〝自己〟であるところの〝現象意識〟と、自らが〝実相であるという意識〟との〝二つの意識〟の中にあることになります。そして一方においては〝現象〟を否定し、一方においては自覚しながら、〝永遠〟に進むのではないかと思います。この〝二つの意識〟の比較対照によって、その矛盾性によってわれわれは初めて、〝実相〟のなにものかを、〝表現〟の何ものかを学びとることが出来るし、〝二つの意識〟なくして実在すら知ろうとすることもできない。としますと、〝現象意識〟すなわち〝仮の存在〟なる〝現象の自己〟は、真の実在のようには永遠そのものではないが、永遠と区別できないほど永久のものであり、実在的のもののように考えられますが、いかがでございましょうか。〝現象意識〟を〝実在〟と対立せしめるのではありませんが、〝自己〟という〝現象意識〟の永遠性を思うとき、現象もある観点から不滅のように考えられますが、これは完全なる二元論か、間違っているのか、諸先生の御高説を頂きたいとお願いします。

(このとき谷口雅春先生より御発言あり、「あまり深遠な難しい問題を、文書を一ぺんスラスラと早口で読むだけでは、質問の内容はよく分からんですよ」と注意さる。次いで参集の各講師より意見が発表された)


谷口雅春:柴山さん、今、いろんな意見を述べられた人に対して、「私の質問はそういう意味じゃないんだ」とか、「それならこういう問題があるじゃないか」と反論を言ってごらんなさい。そうでないと、あんたの質問の要旨がよくわからない。


◇輪廻転生における意識は?


柴山実:はい、〝実相〟ということをよく把握できないで、こういう質問をするのはちょっとおかしいのでございますが、結局、われわれが肉体の世界を離れて霊界に行き、また肉体にもどり、また霊界に行き、輪廻転生をくり返しますが、霊界の各段階の高所に、無限に上がるとしましても、自己の意識はあくまでも自分の意識として残っており、これは永久に消えることがない。たとえば古今の多くの聖者も、現象から見るならば絶対に神とは一体になれない。実相そのものに入ることはできない、と聞いているのであります。そうしますと結局、いろいろの生命の過程を通じて無限に進展しましても、いつまでたっても〝自己〟という意識はなくならないとしますと、それは実相とはあくまでも別個なものと感じるのです。実相のなかにありながら、しかも自己をもって無限に進んでいくと考えますときに、それはいつまでたっても平行線で一体にはなれないということになります。自分が実相であるということは先生の御本で理論としては分るのでありますが、実相に入ることができない。しかも自己の〝意識〟は無限につづいていくというような矛盾が、常に難問として出て来るのであります。


谷口雅春:実相の中には、個生命がないという意味ですか。


柴山実:ええ、今まで私が知ったところによりますと、実相は――


谷口雅春:実相の中には、個性あるところの個々の生命はないという前提で言っているのですか。


柴山実:実相の中には〝個生命〟はある。あるけれども実相そのものは〝個〟はない、いわゆる一つの・・・・

(つづく)

1351「訊け」(初心者さま向け):2012/09/29(土) 08:04:00 ID:???
(つづき)

◇実相は具体的なもの


谷口雅春:そんなことない、そんなことないですよ。実相の中に〝個生命〟があるんだ、だからあんたの考えは前提が違うんだ。実相といったらズンベラ棒で、目も鼻も何もなしに、空気みたいなエーテルみたいなものだというんじゃないんですよ。実相の中には〝実の相(すがた)〟があるから実相と言うんで〝空〟じゃないんだ。あんたは〝空〟みたいな実相を考えているが、そんなズンベラ棒な意味じゃない、現象よりもっと具体的なものがあるんです。それが実相です。その具体的なもの――実相が、縦、横、厚みの現象世界へ映って出ているので、それはちょうど、テレビ・スタジオの(実物の)テレビのスターがテレビ・セットへ映って出ているように、生まれ変わっているのであって、テレビ・スターがいつもテレビ・スタジオの中におるのと同じように、いつも個生命が実相の世界の中におるのです。


柴山実:個生命は結局、実相の世界にある〝理念〟でございますね。


谷口雅春:理念といっても、そういう抽象的なものじゃない。具体的に生き生きとあるのであって、「理念ですね」なんていうような哲学的な表現をすることも、説明のためにあるけれどもだね、理念というような哲学的な漠然とした概念じゃないんですよ。生きている生命として、個々の生き生きとした〝いのち〟として実相の世界にちゃんと個生命がおる。テレビのスターが、テレビ・スタジオにおるようにおる。それがテレビ・セットにいろいろ映って出て来ておるように出て来るんだよ。波長が違うと日本教育テレビに出て来たり、日本テレビ、NHKテレビに出て来たりするように、各所に転現しながら同一スタジオにおる。各所に生まれ変わりながら実相は生まれ変わっていないという状態――だから「維摩経」における文殊菩薩と維摩居士との問答のように〝来らずして来る〟というように、現象(ここ)へ実際は出て来ないで、しかも出て来たように現れている。


柴山実:どうもわかるようでわからんような・・・・・・・・・・。

1352志恩:2012/09/29(土) 20:34:45 ID:.QY5jUA6
『真理5巻』女性編


宗教というものは、無我になってただ、ひたすら神の心を実現する事であります・・

わが意を実現することではないのであって神の心を実現するというのが、これが本当の信仰生活であります。

そして、神の御こころを本当に実現できたならば、神の御こころのなかには悪いものはないのだから、現実世界はまた、

必ず良くなるのである・・・



本当の信仰は無我になることから始まるのであります。

無我ということは握っているものをまず捨てることなのです。



信仰というものは、仏の御心をいきること、神の御心を生きることであって

自分の都合の良いように工夫することではない・

自分がいっぺんほんとうにカラッポになって、そこから出直すことなんです。

1353ハマナス:2012/09/30(日) 00:06:01 ID:???
神の子のみなさま
こんばんは。

信用こそ事業者発展の一大資産

(『新版生活の智慧365章』p.255)
事業発展の最大の要素は、顧客から受ける信用である。あの会社又はあの商店の品物はすべて良心的でウソがなく廉価で良品であると云う信頼を受けたならばその会社又は商店は必ず繁栄するのである。仕事商品にケレンや掛け引きがあってはならない。ケレンや掛け引きがあってはならない。ケレンや掛け引きがあっては、一時は儲かるかもしれないけれども永遠に繁栄することは難しい。いつかはそのケレンや掛け引きがバレて信用を失い、商売がガタ落ちになってしまうものである。

それをふせぐためには、一にも誠実、二にも誠実をもってし、顧客の幸福と便利とに奉仕し得る末長き使用に耐える商品のみを供給するようにするならば、必ずやその商社は信頼されるようになるのである。レッテルと中味とが相反したり、上に並べたもののみが上等で、下には屑や未熟の品をつめ合わせて売る式の誤魔化しの商法では、やがて店の破滅の時が来るのである。それは人から欺いて奪う心であるから又人から奪われるのである。
感謝合掌

1354るんるん:2012/09/30(日) 01:02:20 ID:NS71OwS.
志恩様
>>1352
そうなれば、いいですねぇ。私は自我の塊だから。

1355るんるん:2012/09/30(日) 01:04:19 ID:NS71OwS.
訊けさま
>>1350
>>1351 の続きをどうかお願いしまっす!!

1356志恩:2012/09/30(日) 02:46:03 ID:.QY5jUA6
るんるん様

私もそうです。人間て、うっかりしてると、自我で考えてる。
で、気がついて、その都度、神に振り向くのですよね。

1357a hope:2012/09/30(日) 08:49:04 ID:r8H4x9xE

新版 生活読本 谷口雅春先生著

第二章 人間の「考え」は血の流れを変えます
♦胃袋を丈夫にする法


そこまで解ってまいりますと、御飯を食べるときにも、胃袋の筋肉を丈夫にし、
胃腸を達者にするには、どうしたら好いかよくわかるのです。

筋肉がはたらくためには「思い」の力が必要なのです。
「思い」の力で鼓舞(はげます)しますと筋肉は発達します。

腕の筋肉は物を持上げたり押したりするための筋肉ですから、
「物を持上げる」と強くはげしく繰返し思ったり、
「物を押す」と一生懸命思ったりしたら発達するのでありますが、
胃袋は「美味しい物」を消化するための筋肉ですから、
「これは美味しい、有りがたい」と思いながらたべたらよく消化するのであります。

「不味(まず)い、こんなものは食べられない」と思ったら、消化液を出さず、
却って食べものを吐き出すように、胃袋の筋肉は働きます。
それでは健康になりようがないのであります。

胃を丈夫にして、どんなものを食べても、よく消化して達者になるためには、
何を食べるときにも、「これは神様から頂いたたべものであるから美味しい、身体の滋養になる」と、
「美味しい」と云う思い、「有りがたい」と云う思いをしっかり起こしながら食べると、
胃袋の筋肉は丈夫になり、なにを食べてもよく消化して身体が元気に愉快になるのであります。
(つづく)

1358SAKURA:2012/09/30(日) 16:10:37 ID:7joi1ZJA
トキ様 へ  
観覧者の皆様 へ
こんにちは……   ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
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>>1097>>1098>>1167>>1170>>1171>>1174>>1175>>1190>>1194>>1210>>1227
>>1238>>1304>>1307>>1319>>1320>>1324>>1331>>1332>>1334>>1339>>1347
に関しましては、【ベスト・フレンド】シリ−ズで〜す。

実は、私の「青春シリ−ズの一冊の本」なのです。(討論課題項目が、幾つかに分かれてい
ますが?)意外と真理が、分かりやすい【討論形式】なのです。…が〜〜〜??
❤〜【コロンビア大の方達が、真理…サイコ的】に? ベスト・フレンドは哲学になります…
初歩のかたでも、判り易いのでは〜〜昨日の投稿文章は、皆様!如何でしたかしら〜ン?

・・◆【ベスト・フレンド】  ( 幸福への第一歩 ) 

―――――  ►► 幸福への第一歩 ◄◄ ―――――

|♣あなたは前にわたしたちは全人生をとおしてこころの小説を書いてい
|るとおっしゃいましたが、それは演技の一種で、わたしたちは私小説ド
|ラマのなかで自分の役を演じながら、できれば他の人がいまの役割を演
|じて欲しいと願っているように思うのです。もし、それがすべて幻想に
|すぎないとしたらなぜ自分で自分にそんな割に合わない役割を与えるの
|でしょうか。

 そこが重要なところです。それはあなたが考えるほど損な役割ではありま
せん。わたしたちが自分自身にたいして犯す大きなまちがいには、つねにな
んらかの報酬を期待する気持ちが含まれているのです。結局、罰でさえも現
実には報酬となることがあるのです。

 罰を受けているときのみ、自分が愛されているという気持ちをもつ子ども
がいます。そういう子どもが罰以外に両親から与えられるものといえば、無
関心さだけです。これは最悪の状況です。そうして、おとなになったときに、
かっては自分にとって大切な存在であった人をうまくあやつって、思うつぼ
にあてはめてやろうと絶えず考えるようになるのです。そして、そういう人
たちが、まだまわりにいるのではないかと思っては、みずからを地獄の苦し
みに追い込むのです。しかし、もはやそんな人はわたしたちの近くにはいな
いのです。そうした苦しみを味わったところでなんの意味もないのです。た
とえそれらの人たちが、まだ現実に生きている人間の亡霊であったとしても、
しょせんは亡霊とつきあっているにすぎないのです。

          ――――――― * ――――――――
                    次の質問につづきます……
PS:トキ様
「吸血鬼…ゾンビ達」に…【四面楚歌…】されています現在…まるで“亡霊”みたいでしょうか?
「生きた亡霊に?」でも!〜〜〜【こころの法則】が、潜在意識に入り込み、更に!それを、
自由自在に活用出来ますと…「亡霊」に付きまとわれる必要も、なくなるのです〜〜〜ョネ!

❤〜全ては【 心 = 意 識 = 意 志 に 繋 ぐ 事!!】の様に〜〜現在の私は、
「亡霊…」に?「悪魔の囁き」に?心が、揺れ動いているのです〜〜〜ョネ!
これを払いのけるには【魔法の呪文…】 ウフフ そうなのです〜〜〜ョネ!
「悪魔天使?」更に「亡霊・ゾンビに?」にも決して犯されない【心…】を保つには、
私の・・・【活きた〜〜意 志 = 意 志 力】に繋いでいきま〜〜〜す。
                                再合掌

1359志恩:2012/09/30(日) 18:10:34 ID:.QY5jUA6
生命の実相 14巻 

  「和解の倫理の要点」   今昔物語より

三代目・谷口雅宣氏の「今の教え」が「日時計主義」の“傘”に隠れた「間違いの教え(虚説)」であることを言えば、

 “それは「批判」である。批判せず実相を直視すれば、実相が自然に自分で出てくる。

「大調和」の教えであるから“批判”するのは間違いである、
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 という信徒の人々も沢山いることも事実であります。

 そのような考え方は間違いであることが『生命の實相』にはハッキリと書いてあるのであります。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

*「生命の實相」第14巻・倫理篇下巻 ・第4章< 和解の倫理>には、
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
<<われわれは天地一切のもの(実在)と和解しなければなりませんけれども、虚説に対して和解してはならないのであります。虚説に和解したら実相をくらますことになります。実相をくらませば、みずから迷うことになるのであります。(P.60)


異端・盲説・妄念・妄想は、<本来無い説>―虚説―でありますから、その実相をみれば「本来ない」ことが判るわけでありますから、本来ないもの「虚説」に和解することは絶対に出来ないのであります。光は闇と和解することは出来ない。光が近ずけば闇は消えるほかはない。それと同じく、真説は虚説に近ずけば虚説を消す働きをする。(P.63)


虚説を許さないことをもって、和解と寛容の徳が無いように思うのは間違いであります。

 また、虚説を容れることをもって寛容と和解の徳があるように思うのも間違いであります。

 虚説を排撃すること、いよいよ明瞭であればあるほど真説は明らかに照り、それに照らされて救われる人間もまた多いのであります。(P.63−64)


虚説に対してはあくまでも戦い、人に対してはどこまでも実相を見て許すことにしたのであります。・・・

 要は「天地一切のものと和解せよ」との「生長の家」の第一最大の誡命(いましめ)は「天地一切のものの実相と和解せよ」ということであって、

 仮相や虚説に対しては「サタンよ去れ」と排撃すべきなのであります。

 釈迦もキリストも同じような態度で虚説を駁撃(ばくげき)せられたのであります。(P.64−65)

1360志恩:2012/09/30(日) 18:22:29 ID:.QY5jUA6
【「時代即応」について】
              本当の「生長の家」を伝え遺す信徒連合 作成


「生命の実相」第14巻・倫理篇下巻には「虚説に和解してはならぬ」とあり!然らば「真説(正説)」とは?
「虚説」とは?その見分け方は如何?!これが大切であります。


・第三代目・谷口雅宣先生は、この見分け方の基準を「理性」に求められていると推察できます。

 しかし改めて「理性とは?」となると明確な説明は無いのであります。

 この見分け方の正解は、<真説(正説)は真如すなわち「久遠を流るる生命」の世界から出てきたもの>で、

 真説(正説)は実相世界にその源が存在するものであります。これは肉体頭脳知のみの思索では到達出来るものではありません。


・真説(正説)に到達するには現象の存在を一切「無し」と全否定して「無の関門」を超えて百尺竿頭進一歩して実相世界に超入し、
 自らの実相生命の実相覚で以って絶対実在の絶対認識を為さねばならない訳でありますが、
 これは凡人の到底なし得ざるところのものであり、深き神縁による人のみが可能なのです。

 大宇宙神界の摂理に基づき使命づけられた深き霊的機縁の熟した人のみであり、生長の家においては開祖・谷口雅春先生お一人のみであります。

 この事は「生命の実相」第20巻<神示を受けるまで>・「無門関解釈」<第6則世尊拈花の公案解釈>・

 「驀進日本の心と力」<日本学的大乗仏教の樹立>等の御著書において明白であります。


・以上の意味において生長の家の御教えの「真説(正説)」は、開祖・谷口雅春先生の実相把握(お悟り)の全相であって、その法灯継承者・谷口清超先生以下谷口雅宣先生をも含めて、すべてが雅春先生のお弟子さんであって、この「真説(正説)」を奉じてゆかねばならないのであります。

「時代即応」とは、この「真説(正説)」を人・時・処三相応に応じた説き方を工夫してゆくこと、霊的感動を与え失わしめないような説き方の変化・変革であって、

 開祖・谷口雅春先生のお悟りの全相から逸脱した真説ならざる<新説>を肉体頭脳知で作り上げて行くことではないのであります。


<新説>ではもはや大宇宙に今、鳴り響いている「真・生長の家」ではないのであります。

 雅宣先生の説かれる「今の教え」は何ら霊的感動のない学者的・評論家的「虚説」の部分が多く、
 その「虚説」の権威付けのために開祖・谷口雅春先生の真説(正説)の中から利用できる部分の引用(いわゆる真理のつまみ食い)を上手になさっているに過ぎないのであります。

 しかし時々その引用が的外れになっているのです。この観が否めないというのが古参の信徒たちの偽らざる本音の感想であります。

<私心>を無にして常に虚心坦懐・謙虚かつ真剣な求道心が必要かつ大切なる所以であります。

1361志恩:2012/09/30(日) 18:27:47 ID:.QY5jUA6
生長の家本流宣言掲示板より 転載

【中心帰一理念】

日時:2012年05月30日 (水)
名前:伝統

    *『生命の實相 第37巻(幸福篇上)<五月三十日>』(P145〜146)より

「三界は唯心の所現である」釈迦のこの所説は正しい。

しかし、「唯心」とはただの「思考作用(おもうはたらき)」だけではない。
深いところの感情である。

ハッキリ思考に現れない以前に心の中に動いている原因不明の魂的な動きがそれである。

思考の上では完全に論理的には組み立てられないが、大和魂なるものは理論を超越している。

戦死の瞬間に天皇陛下万歳を唱える心は、これは理論でも学問でも思想でもない。
われわれの魂の奥底に横たわる深い感情である。

この深い感情は、明瞭に脳髄的意識としては理論的には組み立てられていないが、
脳髄的思考の理論発生以前にその奥に存在する実在の理念なのであって、

この中心帰一理念(弥的魂<ヤマトだましい>)こそが真統(ほんとう)の
日本人の深い感情の根本となっているのである。

物質分子さえも「中心帰一理念」の中にあるから
原子核を中心として陰電子が回転しているのである。

理念といえば、その文字面から「道理と想念」とを一緒にしたような言葉に思われるが、
人間の深いところの感情はすべて、実在者の「理念」から発生してくるものなのである。

「理念」の力は内より押し出す最も力強い感情であり、その「理念」はそれが現象的に
現れるのに幾回失敗しても、

やがてそれが形に現れずにはいないのは、朝顔の花は何回
萎れてもまたやがてそれが形に現れずにいないのと同じである。

楠本正成の忠誠心は「中心帰一理念」の発現であるから、
湊川で挫折しても、「理念」は結局は敗北するものではない。

「七生報国」の正成の語(ことば)は、
「中心帰一理念」は全世界を支配することになるのだということを顕わしている。

全世界は「中心帰一理念」に支配されているのである。
一勝一敗を契機として中心帰一理念を失ってはならないのである。
物質でさえ原子核が破壊されたら正体もなく飛び散るではないか。

”みずからの民族の中心を見失い、帰一すべき何物もなくなったとき、
民族は崩壊するほかはない。”

”理念は永遠である。”

理念さえ失わねば形には幾変遷あろうとも、またもとの姿があらわれて来るのである。

   

1362ハマナス:2012/09/30(日) 23:36:29 ID:mR2szZkc
神の子のみなさま
こんばんは。

人と仕事は一体

(『新版生活の智慧365章p.256)

其処に“働きたい人”があるならば、その人の働くべき“位置”は既にあるのである。また其処に働く人を求める位置があるならば、其処に“働きたい人”は既にあるのである。“働きたい人”と“位置”とは、本来別々の存在ではなく「一つ」のものの別の面に過ぎないのである。“人”と“位置”とは互いに求め合っているのであるが、それが迷いによって見いだされないだけのことである。謂わば、彼は“迷い児”になっているのである。“迷い児”は家に帰る道を見出せばよいのである。その道を見出す方法が「祈り」であり、「神想観」である。
適当な働き人を求める人は「求むる仕事と、求むる人とは一体である。此処に仕事がある以上、それに適する人が存在しない筈がないのである。既にその適当な人は此処に来て働いているのである」と繰り返し念ぜよ。また求職する人は、この祈りの言葉の「仕事」と「人」とを取り換えて祈ればよい。

感謝合掌

1363うのはな:2012/10/01(月) 01:06:18 ID:f2bwKGw2

 生長の家神示講義 光明掲示板より

 http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&amp;mode=res&amp;log=416

1364志恩:2012/10/01(月) 05:19:59 ID:.QY5jUA6

「地上生活は人間にとってその、魂が訓練され、陶冶され、研磨されて、無限に美しき神霊たる実相の
霊光を放つに至るまで入学せあられている魂の生活学校なのである。

完全にその過程を終了して、つに卒業するに至るまで幾度でも、魂は地上生活に生まれ変わって来るのである。」

  (続・真理の吟唱 p259・260)

1365志恩:2012/10/01(月) 05:30:17 ID:.QY5jUA6

唯物論ではなく、唯心論でもなく「唯神実相論」である。

この哲学こそ、人類を根本的にこのままお救い下さる真理である。宇宙にある一切のものは、唯神によって創造された・・・
これが実相であり、実相の他はニセモノ、唯一神のみが実在。

神はコトバである。聖書に「始めに言(コトバ)あり、言は神と供にあり、言は神なり、萬のものこれによりてならざるものなし」

すべてのものは神様のコトバ即ち、神様の心の思いが形に顕われたのである。
そして神は無限の善であり、無限の完全である。

そして、その善にして完全なる神様の造られた世界が即ち「実相の世界」でありますから、実相世界には無限に完全なものであり
其処に住んでいる人間はみんな「神の子」であって、無限に完全である。皆さんも神の子なんです。

そして、実相世界のすべてのものは、何によってつくられているかと言うと、物質によってはつくられてはいないのである。

吾々がそれを物質と見るのは、この五感の目を通して見るからそれを物質と解釈して見るだけの事である。
本当の人間は何によって造られているかと言うと、「神の言葉」によって創られているのであります。

悟りというものは相対認識の立場を超えて、実相を直視する立場に立ってはじめて得られる。
それは絶対意識の絶対認識であってこれが本当の立場なんです。

すでに今此処に実相の世界があり完全な実相の人間と言うものがある。

    (実相と現象 p59〜)

1366志恩:2012/10/01(月) 05:48:23 ID:.QY5jUA6

< 「本来の教え」・・・比較〉  【生長の家は「空・無」の思想を超えたもの】



・「今の教え」の内容を読めば、「常恒不変なる肉体は無い」・「水の流れの無くなったものは川ではない」。
  ここから連想されるものは<空仏教>の教歌である「引き寄せて結べば柴の庵なり。解くれば元の薪なりけり。」であります。  

・「今の教え」の「肉体は無い」の説明は、この空仏教の教えと同じであります。なぜならば、「肉体はナイ」だけの説明、
  つまり学者的緻密な分析知による説明だけで終わっており、「金剛不壊なる理念としての人間」・「人間・神の子の真理」・「実在としての実相宇宙の形相」が
  説かれていないのであります。

・「今の教え」では、「理念は現象に先立つ」・「理念が現象として現れてくる」の所まで説明が行き届いていない。
 「理念としての人間」・「理念としての川」・「現象世界の無限倍層の至美至妙なる実相世界の実態」の説明がなされていない。

・空仏教の範囲だけの説明では厭世的無常感に陥り、人間の病・悩・苦の現実的救いは現われないのであります。
 宗教の講演・講習会は、学者の研究発表の場所ではない。話を聴くものに霊的感動を与え、病・悩・苦から現実に救われる場でなければならないのであります。

・さらに言えば、神様の自己実現としての私たち個生命は、仮存在としての本来ナイ肉体を顕して、それを乗馬としてこの仮存在としての三次元地上世界に於いて真理を学び、
 無限の価値の創造の過程を通して、自己の霊魂進化の階梯を登って行くのであると言うところまで生長の家の講習会であれば説かれなければならないのであります。

 ここにおいて、本当の霊的感動と霊的歓喜の人生が開けて来るのであります。
 お話を聴きに来た人達もそれを心の底から望んでいるのであります。
 

                           本当の「生長の家」を伝え遺す信徒連合・作成

1367志恩:2012/10/01(月) 06:22:01 ID:.QY5jUA6
「信仰とは自分が宇宙とひとつである自覚を取り戻すことであり、神の中に新たに生まれることである」
そこから片寄りのない、平衡のとれた動きが生まれて来る事だと申されております。
                  
                           (常楽への道 p120 )

1368SAKURA:2012/10/01(月) 06:25:16 ID:ZcyE/ry6
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
おはようございます…。  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。

【祈り…】
やはり神様との“メッセ−ジ”交信…この事は、魂の向上にもなりますもの〜
【自 己 改 善】でしょう〜〜〜か?

■■ 私 は こ う し て 祈 る      「谷口雅春 著」

―――― ■ 愛と寛容の精神を養うには…… ――――

貧乏は、「欠乏」の想念、「努力」の欠乏、「誠実」の欠乏、「サ−ビス」の欠乏、「愛念」の欠乏、
「持続の力」の欠乏、「寛容精神」の欠乏、「与える心」の欠乏等の具象化 であるということが
できる。特に寛容精神の欠乏は、甚だしく他に対して批評的になるために、他から愛されること
なく、いかに自己が賢明でも、実力も、努力も、誠実もありながら世に容れられないで失敗して
しまう原因になるのである。だから、次のように念じて愛と寛容の精神を養うように私はつとめ
ている。

「吾と神と一体である。神が吾を赦し愛し給うが如く、吾もすべての人を赦し愛するのである。
神の無限の愛と赦しが、わがうちに満ちていてすべての人を赦し愛したまうのである」
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆

PS;トキ様
そうです〜〜ネ!精神の欠乏??「いつも!いつも!心をポジティブ状態に、持って行く事の
出来る…いかなる状況でも??その様に思います。…が?

今回は、投稿しています内容を…【即…奥に押し込む】しかも? “ 1 行 ”たらず??
それにての【回転率…】でしょうか?これって【嫌がらせ…】なのでしょうか??
この事も【心 の 豊 か さ の 欠 乏??】でしょうか……
そして
この頃は、如何なる状況下でも【心の豊かさ…】保つために…そのためにも、
強い〜〜〜【意 志 力 = 認 識 = 意 識】という事を、常に、心がけています…。

「トキ様」「観覧者の皆様」……  今日も〜❤〜 素敵な一日 を… 神と共に

                                     再合掌

1369志恩:2012/10/01(月) 06:40:43 ID:.QY5jUA6
SAKURA様

貴女の投稿文を押し込むつもりで、謹写したのでは、ないのです。
「本来の生長の家」と「今の生長の家」の違いについて、只今、いろいろと話題になってますので、
聖典関係のことは、聖典引用板に、書いたのですが、多く謹写したので、結果的に、
SAKURA様の投稿文が、奥へ行ってしまいました。すみませんでした。
今後は、少なめに謹写します。

下記へ、SAKURAの、奥へ行ってしまった投稿文を、貼付させて頂きます。


聖典引用 板
1358 :SAKURA:2012/09/30(日) 16:10:37 ID:7joi1ZJA
トキ様 へ  
観覧者の皆様 へ
こんにちは……   ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1043>>1044>>1052>>1057>>1058>>1063>>1068>>1073>>1087>>1092>>1093
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に関しましては、【ベスト・フレンド】シリ−ズで〜す。

実は、私の「青春シリ−ズの一冊の本」なのです。(討論課題項目が、幾つかに分かれてい
ますが?)意外と真理が、分かりやすい【討論形式】なのです。…が〜〜〜??
❤〜【コロンビア大の方達が、真理…サイコ的】に? ベスト・フレンドは哲学になります…
初歩のかたでも、判り易いのでは〜〜昨日の投稿文章は、皆様!如何でしたかしら〜ン?

・・◆【ベスト・フレンド】  ( 幸福への第一歩 ) 

―――――  ►► 幸福への第一歩 ◄◄ ―――――

|♣あなたは前にわたしたちは全人生をとおしてこころの小説を書いてい
|るとおっしゃいましたが、それは演技の一種で、わたしたちは私小説ド
|ラマのなかで自分の役を演じながら、できれば他の人がいまの役割を演
|じて欲しいと願っているように思うのです。もし、それがすべて幻想に
|すぎないとしたらなぜ自分で自分にそんな割に合わない役割を与えるの
|でしょうか。

 そこが重要なところです。それはあなたが考えるほど損な役割ではありま
せん。わたしたちが自分自身にたいして犯す大きなまちがいには、つねにな
んらかの報酬を期待する気持ちが含まれているのです。結局、罰でさえも現
実には報酬となることがあるのです。

 罰を受けているときのみ、自分が愛されているという気持ちをもつ子ども
がいます。そういう子どもが罰以外に両親から与えられるものといえば、無
関心さだけです。これは最悪の状況です。そうして、おとなになったときに、
かっては自分にとって大切な存在であった人をうまくあやつって、思うつぼ
にあてはめてやろうと絶えず考えるようになるのです。そして、そういう人
たちが、まだまわりにいるのではないかと思っては、みずからを地獄の苦し
みに追い込むのです。しかし、もはやそんな人はわたしたちの近くにはいな
いのです。そうした苦しみを味わったところでなんの意味もないのです。た
とえそれらの人たちが、まだ現実に生きている人間の亡霊であったとしても、
しょせんは亡霊とつきあっているにすぎないのです。

          ――――――― * ――――――――
                    次の質問につづきます……
PS:トキ様
「吸血鬼…ゾンビ達」に…【四面楚歌…】されています現在…まるで“亡霊”みたいでしょうか?
「生きた亡霊に?」でも!〜〜〜【こころの法則】が、潜在意識に入り込み、更に!それを、
自由自在に活用出来ますと…「亡霊」に付きまとわれる必要も、なくなるのです〜〜〜ョネ!

❤〜全ては【 心 = 意 識 = 意 志 に 繋 ぐ 事!!】の様に〜〜現在の私は、
「亡霊…」に?「悪魔の囁き」に?心が、揺れ動いているのです〜〜〜ョネ!
これを払いのけるには【魔法の呪文…】 ウフフ そうなのです〜〜〜ョネ!
「悪魔天使?」更に「亡霊・ゾンビに?」にも決して犯されない【心…】を保つには、
私の・・・【活きた〜〜意 志 = 意 志 力】に繋いでいきま〜〜〜す。
                                再合掌

1370a hope:2012/10/01(月) 08:06:50 ID:r8H4x9xE

新版 生活読本 谷口雅春先生著

第二章 人間の「考え」は血の流れを変えます
♦条件反射ということ①


ロシアの大生理学者イワン・パブロフ教授は大脳の条件反射と云うことを発見したので世界的に有名でありますが、
その条件反射と云うのは、一例をあげますと、人間でも動物でも、一定の条件を与えると、
反射的に(かがみにものがうつるように)胃液がよく出て消化がよくなると云うようなことであります。

パブロフは先ず犬の胃袋に孔(あな)をあけました。
そしてその孔にゴム管を通して、その胃袋の中に出てくる胃液の性質や分量を色々と研究したのであります。
鈴(りん)を鳴らしながら美味しい食べ物を与えますとさかんに良い胃液が出て食べ物をよく消化いたします。
それを何べんもくり返したのちに、今度は、食べ物をやらないで、鈴だけ鳴らしましても、
同じように良い胃液が出ることがこの実験によってわかりました。

今度は別の犬に不味い食物(犬はにがいものが嫌いです)
をたべるように口元へもって往ってやりながら、コンコンと別の音をさせます。
すると、今度は、にがい食物をやらないでも、コンコンと音をさせるだけで吐き出すようになり、
食べ物を消化する胃液の出がわるくなって来ます。

このように条件に対して一定の反射的なハタラキを起こすのが条件反射であります。

ところで、これが判りますと、美味しい食物を食べるときに、
「これは美味しい、有りがたい」と思って良い胃液が沢山出て消化が好いとしますと、
これを繰返しているうちに、(諸君は、生まれてから何遍もそれを繰り返したことがあるに違いありません。)
今度は、不味い食物でも、「有りがたい、これは美味しい」と思いながら食べたらよく消化するようになるのは、
条件反射と云う現象(できごと)で当前(あたりまえ)のことであります。
(♦条件反射ということ② につづく)

1371ハマナス:2012/10/01(月) 13:39:15 ID:mR2szZkc
みなさま
こんにちは。皆様の所では、大丈夫でしたか?
こちらでは台風も去り、秋晴れになりました。

「実相流」の剣道の極意

(『新版生活の智慧365章』p.257)
どんな事件が起っても、それを敵対的な心で迎えてはならないのである。株式が暴落したときにはそこが絶好の買場であり、株式が暴騰したときにはそこが絶好の売場であるのと同じように、運命が上昇したときには其処が益々反省して謙遜になる好機会であり、運命が暴落したときには其処が、また新しい上昇のチャンスを作っているのである。上がるも下がるも好機会ならざるはないのである。だから、どんな運命がやって来ようとも、その運命を誼(のろ)ってはならないのである。

人生は剣道の試合のようなものである。相手が打ち込んで来るときが、こちらが勝利を得る機会なのである。何事が起こって来ようとも、常に絶好の機会を其処に見出すのが
「実相流」剣道の極意である。変化があるので人生は新しい機会を提供してくれるのである。運命の変転に恐怖心を起こしてはならない。


今日で、「第九篇 豊かさを得る道」を終わります。

感謝合掌

1372a hope:2012/10/02(火) 07:53:31 ID:r8H4x9xE

新版 生活読本 谷口雅春先生著

第二章 人間の「考え」は血の流れを変えます
♦条件反射ということ②

また諸君は、不味い食物を出されて、「有りがたくない」と思いながら吐き出しそうになったり、
不消化だったり、下痢したことがあるでしょう。
それを何遍も繰返しているうちには、「有難くない」と思うだけで、
どんな結構な食物でも吐き出したくなったり、不消化になったりするのは、条件反射の結果であります。

女の人がお腹に子供がやどって、二か月、三か月すると、悪阻(つわり)と云って、
神経が感じやすい状態になることがあります。
そんなときに、「有りがたくない」と思うことがあると、ただそれだけで、
どんなに美味しい滋養になる食べ物でも吐き出す様になることがあります。

妊娠(こどもがおなかにできる)して、この吐き出すことが一カ月も二カ月も続きますと、
母親もお腹の子供もやせて、弱って死んでしまうことになります。

あるとき生長の家の花嫁学校の生徒のお姉さんが、そんな吐き出す状態になり、
それが1か月もつづいたので、お医者が、これでは母親が死ぬから、
お腹の子供だけを殺して出さねばならぬと云っていましたので、
どうしようかと私にたずねてくれと云って来られました。

私は「誰かと仲が悪くて、有り難くないと云う気持ちがあるからだから、
誰にでも感謝して、有りがとうございますと、周囲のすべての人に、
すべての物に、すべての事に、感謝しなさい」と申してやりなさいと教えました。

その通り書いて送りましたら、その人は、誰か周囲の人と仲がわるくて
「有りがたくない」と思っていたことが、自分でわかり、その人と仲良くして、
「有りがとございます」とお礼を云うような気持ちになったときに、
すぐ、その吐き出す「悪阻」と云う状態はなくなったのであります。
(つづく)

1373SAKURA:2012/10/02(火) 12:07:36 ID:jH5uEFzM
トキ様 へ  
観覧者の皆様 へ
こんにちは……   ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
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実は、私の「青春シリ−ズの一冊の本」なのです。(討論課題項目が、幾つかに分かれてい
ますが?)意外と真理が、分かりやすい【討論形式】なのです。…が〜〜〜??
❤〜【コロンビア大の方達が、真理…サイコ的】に? ベスト・フレンドは哲学になります…
初歩のかたでも、判り易いのでは〜〜昨日の投稿文章は、皆様!如何でしたかしら〜ン?

・・◆【ベスト・フレンド】  ( 幸福への第一歩 ) 

―――――  ►► 幸福への第一歩 ◄◄ ―――――

|❤亡霊であっても、何もないよりはまだましだとおもうのですが。

 それが亡霊にまつわる悲劇なのです。わたしたちはこうした日に見えない存在から得てい
る安心感を捨て去ってしまうと、もう自分には頼りになる人は誰もいないのだと考えてしま
いがちです。たしかにそんなものでも手放してしまうとわたしたちは別離の苦しみを体験
することになります。それはまた一人前の人間ならば、誰でも一度は知らなければならな
い孤独感でもあるのです。

 しかし、もしその別離の苦しみに耐えるだけの勇気をもちえたとき、あなたには、すで
に放棄した子どもっぽい依頼心より、はるかにすぐれたものへの道が開けたことになるの
です。対等のつきあい、おとな同士のつきあいにのみ存在する真実の親密さがあなたを待
っているのです。そのときこそあなたのこころのなかに人生の楽しみというものが実際に
芽生えてくる瞬間なのです。

 自分に十分な確信を抱くようになってとき、自分がなんであるかをほんとうに知ったと
き、本来の自分でありえたとき、はじめて他人にたいしてみずからのこころを開いてみせ
ることができるのです。人が自分に与えてくれないものを無理やりその人から得ようとす
る態度をやめたとき、あなたははじめてその人が自分に与えてくれたものを喜んで受け入
れることができるのです。人はお互いにいろいろな世界を共有することができるものですが、
最初はやはり自分自身の世界に接近していくことが必要なのです。
                        (つづく)
PS:トキ様へ
ある程度の【孤独感】を、味わった時に、そこからの展望が見えてきます。これは必要
なモノです〜〜〜ョネ!!私自身、ここFUKに帰り、新しい友人が、自然に出来ました。
…が? その後!変!変!〜〜〜な“現象”なのですが、必ず!「吸血鬼・ゾンビ達」が、
新しい友人を、つかまえて……「悪口…ある事ない事〜〜」を、云いますのでしょう。
それが、一回ならまだしも?例えば…最初の頃の事です。知り合いは、私達とあった直後に、
帰りの途中で、見も知らない人から声をかけられ、実に!嫌な思いに〜〜〜><
ある時、知り合い??から聞きまして、はじめて事の成り行きが分かったのですが ><
ここで、新しい人間関係を作りますと、必ず“嫌がらせ”が、入るのです〜〜〜ョネ!

■この様に、此処【2チャンネル…ある別板ボ−ド】でも…私の【悪口…】を投稿されています。
…が? この方達は、必ず!気にいる?気に入らない?なのでしょうか…??
この方々の“投稿”後に於きましての事は??ある面では私にとりましては
【孤独…戦い】でしょうか?
益々と【私 の 心 を 益 々 強 く す る モ ノ】なのです〜〜〜ョネ!
「トキ様」に於きましても【中傷…メ−ル】が毎日大変かと?それでも、共有で出来るものは、
やはり【信仰…真理】の共通の考え方の仲間…は同じ【類の友…】なのでしょうか???
                                   再合掌

1374ハマナス:2012/10/02(火) 14:33:13 ID:mR2szZkc
みなさま、ありがとうございます。
今日から1週間ほど留守しますので、すみませんがお休みさせて頂きます。

感謝合掌

1375a hope:2012/10/03(水) 09:25:50 ID:r8H4x9xE

新版 生活読本 谷口雅春先生著

第二章 人間の「考え」は血の流れを変えます
♦食物と胃腸とに感謝しなさい


何でも有りがとうと思いなさい。
すると、良いことがあって有りがとうと思ったときと同じように、身体の血のめぐりがよくなり、
頭がよくなり、胃腸が丈夫になり、達者になり、元気になり、勉強の成績もよくなります。

胃腸病の人は特にお食事の度毎に、食物に掌(て)を合わしてお礼を云いなさい。
そして胃腸にもお礼をいいなさい。そして本当の自分の胃腸は丈夫なのだと思いなさい。
それを信じなさい。

人間を使っても信じなければよく働きません。胃腸だって同じことです。
(つづく)

1376SAKURA:2012/10/03(水) 21:20:48 ID:jH5uEFzM
トキ様 へ  
観覧者の皆様 へ
こんばんは……   ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
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|❤ということは、おとなの親密さは子どもの知っている親密さ、子ども
|が欲している親密さとはまったく異なるものだという意味ですか。

 おとなの親密さはもっともっと楽しみの多いものですよ。あなたが想像し
てるいる唯一の親密さが、子どもから両親にたいするようなものだとすれば、
もしそれを必死で求めるかもしれないけれど、しかし、同時におそれも感じ
なければなりません。なぜなら、その親密さはあなたを文字どおり、わけの
わからない愚か者に後戻りさせてしまうからです。その方向の行き着く先は
母親の子宮のなかです。自分はまだ幼いのだから、誰か大きい人に保護を求
めるのだといって、親密さを求めるとしたら、あなたはそれを失うまいとし
てつねに恐怖にさらされることになるでしょう。

 おとなの愛は対等なものであり、お互いの精神を高揚し、わたしたちの人
間をさらに大きくするものです。
    
    ――――――――――――― * ――――――――――――
 
                              (つづく)  

PS:トキ様
此処までの話ですが〜〜なんともいえませんが……「愛」は、やはり…
大きく見守るもの…と思います。そうです〜〜〜ョネ!それは、母親が子どもを、
見守るような〜〜〜包むような〜〜〜モノでしょうか??「愛」の捉え方は、
若い頃は、分かりませんでした。…が??

「現総裁雅宣先生」も、おっしゃつていましたが…「愛の形…」……
大人の「愛」の見方!…子どもの「愛」の見方は、もちろん!違います〜〜〜ョネ!

子どもの「愛」は、両親から守られ育てられた〜〜あたたかき「愛」なのでしょうか?
『信頼性…求める』この様な感じでしょうか?此処!昨今ですが〜〜〜 ><
【社会問題…】としての「子どもへの虐待」…多発性… ><
これは両親自身が?『子供的…精神』なのでしょうか?この頃『幼児虐待…事件』
に関しましては、残念でなりません。
この事は「トキ様」は、どの様に?捉えられますでしょうか…?

更に!反対に大人になりますと、ある意味で『履き違えた部分』も
ありますでしょうか?
次回は、どの様に展開していくか楽しみ〜♫〜です。
トキ様…この「愛」の捉え方は、“視点…”として、どのようにお考えでしょうか?

                            再合掌

1377a hope:2012/10/04(木) 07:36:53 ID:r8H4x9xE

新版 生活読本 谷口雅春先生著

第ニ章 人間の「考え」は血の流れを変えます
♦病気を呟いては治らぬ


胃病の人はいつも「胃病、胃病」と思っていますから胃病は治りません。
「胃病」を思わなくなったとき治るのです。

いつも病気を人に吹聴(いいふらす)してきかせることが楽しいようでは病気はなおりません。
病気だと云うと、人から「ああ可哀そうだ」と思われる―――そのことがうれしいようでは病気は治らぬのです。
病気を‘は‘じ だと思って決して人に自慢のように話してはなりません。

北海道の池田花子さんは風邪を引いたりお腹をこわしたりして寝ていると、
お父さんが「そんな病気ぐらい、じきに治る」といわれまして、「可哀そうに」とは云って下さいませんでした。
それで、「今に見ておれ、可哀そうにと云わずにはおれんほどの病気になりたい。
そしてお父さんから、可哀そうにと云われたい」と思いつめていましたら、
脊椎カリエスという病気になって足が立たなくなりました。

この人は生長の家の星野先生に、「心で病気が起こる」と云う話をきいて、
心を治したら、病気も治りましたが、病気と云うものは、
人から可哀そうがられたいと思っていては治るものではありません。
(つづく)

1378SAKURA:2012/10/04(木) 22:41:31 ID:jH5uEFzM
トキ様 へ  
観覧者の皆様 へ
こんばんは……   ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
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|❤愛をもつ危険性はわたしたちが考えているほど大きいものではないかと
|思いですか。

 愛から危険を取り去ることは誰にも不可能なことです。あなたが自分を投
げ出して相手にささげても受け入れられない危険性はるねにあります。全身
をさらけ出しても、傷付けられる可能性はかならずあります。世間には他人
に愛を抱こうとしない人もいますが、それはこうした愛の危険性のためです。

 こういう人たちは裸の自分をさらけ出すことによって――愛とは本来そん
なものですが――、あえて苦しみの危険をおかすよりも、むしろ自分の殻の
なかに閉じこもっていた方がましだと考えるのです。

 しかし、おとなの場合は、かりに愛するようになっても、全生命を愛にか
けることはありません。おとなはすでに自分のなかに愛をもっており、相手
がどう反応しようとも、愛を失うことはないからです。しかし、あなたがな
んとか自分を確立しようとして、他人に依存するとしたら、その人がもしい
なくなったとき、あなたは大変な挫折感におそわれることもあるのです。

       ――――――――― * ――――――――――
|❤ということは、どんなに深く人を愛したときでも、距離感を保つとい
|うことですか。

 深いこころのふれあいの瞬間においては、互いに、離れている自分という
意識はないと思います。しかし、どんなに親密な共通の立場にいるとしても、
相手をまるごと飲み込んでしまうこととはまったくちがうのです。
                   (つづく)

PS:トキ様
やはり!昨日と同じ事をおっしゃっていますです〜〜〜ョネ!
「愛…」は、やはり包む事が〜〜〜「愛」何です〜〜〜ネ!当時の私は包む事??
距離感がたりなかったようなのですが……??
いま頃、要約?それが理解できるようになりましたが〜〜〜><

「トキ様」も昨日の続きなのですが?やはり!どのような“視覚”を「愛…」に、
ついて思いになられますでしょうか〜〜〜“アドバイス”頂きますと幸いです。
                         再合掌

1379a hope:2012/10/05(金) 08:44:07 ID:r8H4x9xE

新版 生活読本 谷口雅春先生著

第三章 恐怖の心を捨てましょう
♦何が一番恐ろしいか(p40)


「あらゆる恐ろしいもののうちで一番おそろしいものは何か」
とある集りで、その会議の議長さんがきいたことがあります。

或る人は「病気だ」と云いました。
「何故なら病気になれば死ぬからだ」と云いました。

もう一人は「一番恐ろしいのは貧乏だ」と云いました。
「貧乏になったら御飯が食べられない、勉強も出来ない」と云いました。

三番目の人は「僕の最もおそろしいものは敗戦(まけいくさ)だ」と云いました。
敗戦のために日本は貧乏になり、病気になっても薬もかえない」と云いました。

議長は、「みんなの云うことは一々尤(もっと)もだ」と云いました。
「しかし病気に何故なるか」と云いました。

「それは食べ物がわるいからだ」と云う人がありました。

「それは寒い空気に当たるからだ」と云う人がありました。

議長は「同じ家で、同じような粗末な食べ物を食べていても、或る人は病気にならないのは何故か」と云いました。
誰も答えませんでした。

そこで議長は「それでは、同じように寒い風にあたっても、風邪を引く人と引かぬ人があるのはどういう訳だ」とききました。
暫く誰も答えませんでした。

やっと考えついたと見えて一人の男が答えました。
「同じ食べ物を食べても当たらぬ人は、その人の身体が達者だからです。」

するともう一人が云いました。
「同じように寒い風に当たっても風邪をひかぬ人は身体が達者だからです。」

そこで、皆の物は口をそろえて「そうだ、そうだ」と云いました。
(つづく)

1380a hope:2012/10/05(金) 08:45:12 ID:r8H4x9xE

(つづき)
皆の者がそう云うから、それは必ずしも正しいとは定まっていません。
一人の人が云うからとて間違っているとは定まっていません。

人間は付和雷同(ふわらいどう)〈ひとつの雷がなり出すと、あちらからもこちらからも同じようにゴロゴロ云うのと同じに、
何でも一人が云うと考えもせず一しょになってそれについて行くこと〉してはなりません。
自分でよく考えて真理(ほんとうのこと)をしっかり見定めて、正しい道をしっかりと知って、その考えを云うことが民主主義です。

その時、議長がこう申しました。
「きっとそれにはきまっていません。同じ物を食べながら、かえって身体のほそい者が病気にならなかったり、
よく肥えた人が病気になっているのに、弱そうな人がかえって病気にならなかったりすることがあるのは何故ですか。」

誰も考えていて返事をする人がありませんでした。

「それはこうなんですよ」と議長が申しました。
「身体の達者な人でも、病気をおそれたり、何か心配事があったときには病気にかかるのです。
身体の弱い人でも病気を恐れず、心配せず、腹を立てず、愉快でたのしければ病気にかからないのですよ。」

ほんとに、此の議長さんの被仰(おっしゃ)るとおりなのです。
皆さん、心を明るく、楽しく何事もおそれないようにしようではありませんか。
(つづく)

1381るんるん:2012/10/05(金) 20:27:48 ID:NS71OwS.
a hope様
お久しぶりでございます。
>>1379 >>1380

ほんとにそうですね。私は会社を入社して2か月位たった頃、五月病?みたいなものになってしまいました。
(今は治りましたが)(・´ω`・人).:*゚..ナオリマッター

特に日曜の夜がつらかったです。が、心が苦しい感情でいっぱいのときは、食べたものをもどしたり、体がかゆかったり、体調がめちゃめちゃ悪かったです。
しかしこの頃は、なんだか心の状態がてきめんに現われるように思います。良い感情の場合も早く現れたらいいですのに。  ●´з`)  ナカナカ・・・

1382a hope:2012/10/05(金) 21:37:39 ID:r8H4x9xE

るんるんさま

ほんとうに、お久しぶりです(笑顔)
いつの時代でも、仕事でのストレスから病気になる人は多いのではないでしょうか・・・。
でも、るんるんさまは乗り越えられたのですね。さすがです!!

わたしは、毎朝、聖典をここに謹写させていただきながら、
「この掲示板をご覧の方々が、健康で、幸せに一日を過ごせますように・・・」と、
お祈りさせていただいています。

周りの人の幸せを心からお祈りできるようになったとき、
自分にも本当の幸せが訪れるような気がしています。

向上心旺盛なるんるんさまですから、これから、どんどん良くなりますよ!
お互いに〝仕事″楽しみながらがんばりましょうね。!!

1383るんるん:2012/10/05(金) 22:30:48 ID:NS71OwS.
a hope様
レス、有難うございます。
「この掲示板をご覧の方々が、健康で、幸せに一日を過ごせますように・・・」と、
お祈りさせていただいています。

>>周りの人の幸せを心からお祈りできるようになったとき、<<
>>自分にも本当の幸せが訪れるような気がしています。  <<

a hope様は、なんて心のきれいな方なんでしょう。 前からわかってましたが、改めて思いました。 ヽ(*’-^*)。

少しでもa hope 様に近づけるように頑張ります。頑張るっていっても、なかなか性格は変わるもんじゃありませんが・・・・
神想観をがむばって、その威力でa hope様に近づけるようにがンバリます。

a hope 様のお陰で心が洗われたような感じです。ありがとうございます。

えっと・・・(@゜▽゜)_ q□ 紅茶 どうぞ、お礼です。ahope様のお好きなカモミールティーです。お仕事の疲れ、癒して下さいね。では。

1384a hope:2012/10/06(土) 06:11:31 ID:r8H4x9xE
るんるんさま

昨晩は、カモミールティーごしそうさまでした。おかげでぐっすり眠れました。
今朝の神想観も素晴らしかったです!!



新版 生活読本 谷口雅春先生著

第三章 恐怖の心を捨てましょう
♦恐れると血の中に毒が出来る


恐れていると身体に毒素を生ずるのです。
鼠を金網の箱の中に入れて、棒切れで五六時間も追いまわしますと、鼠はおそれて死んでしまうそうです。
その鼠の血を人間に注射すると、少しの分量でも人間は死ぬそうです。

恐れた鼠の血の中に毒素が出来たのです。
人間でも他の動物でも恐れると血の中に毒が出来て、身体が弱って来ますから、
平素たっしゃな人でも、肥えている人でもそんなときには色々の病気にかかりやすくなるのです。

金魚でも硝子瓶の中でそだてると大きく生長しません。
外にいる人間や猫やいろいろの物が見えて恐ろしがるので身体の中に毒素が出来て身体がよわくなって大きくなれないのです。

鉢に金魚の子ばかり入れてそだてますと、大きくなりますが、その中に一ニ匹大きな金魚を入れますと、
大きな金魚が小さな金魚を追いかけまわすために、小さな金魚は中々おおきくなりません。

これは恐怖心(おそれるこころ)がどんなに身体に悪いかを示しているのです。

米国の物理学者ホーレンス・フレッチャー氏(Horace Fletcher)は
「恐れる心は空気の中のポンプで炭酸瓦斯をつぎこむようなものだ。
それは心の、精神の、霊の窒息状態(いきがつまる)を引きおこすのだ、時としては死を引きおこす。
人間のエネルギー(生きる力)の死、身体の組織の死、すべての発達の中止を引きおこすのだ」と云っています。
(つづく)

1385a hope:2012/10/06(土) 07:02:59 ID:r8H4x9xE
訂正 >>1384
上から3行目

カモミールティーごしそうさまでした。→カモミールティーごちそうさまでした。

るんるんさまごめんなさい。なまってしまいました(笑)

1386復興G:2012/10/06(土) 22:07:36 ID:vWpLkCzM

合掌 皆さま、ありがとうございます。

第7回WEB誌友会が、あと1週間以内となりました。
ご一緒に、『生命の實相』の真理を、より一層深く学ばせていただきましょう。

  <第7回WEB誌友会予告>

≪日時≫10月12日(第2金曜日)21:30より
    10月14日(第2日曜日)23:30まで
≪テキスト≫『生命の實相』第1巻「實相篇 光明の真理<上>」の残り全部、頭注版p.167〜p.219
≪内容≫ 第6章「愛と真理によって更生せよ」・第7章「『生長の家』の超生理学」

以下に、そのテキスト(『生命の實相』第1巻「實相篇」(光明の真理 第6章・第7章)を、22回に分けて謹写掲載させていただきます。

WEB誌友会にご参加の皆様、どうぞ以下のテキストご文章より、感銘を受けたところや疑問を感じたところを部分的にコピペして意見を投稿する・・・などにご使用ください。 よろしくお願いいたします。

1387復興G:2012/10/06(土) 22:08:21 ID:vWpLkCzM

<第7回 WEB誌友会用テキスト>
 『生命の實相』 第1巻
  《實相篇(上)光明の真理 第6章》 より(1)
       (頭注版 p.167〜169)
   -----------------------

   第六章 愛と真理によって更正せよ

 神癒によって兄弟の病気を治すには、われわれは自分の念(こころ)が浄まらなければならないのであります。自分の念が、ありとあらゆる「罪」や「迷い」というものから除き去られて、神の無限の生命力が自分の念をパイプとして流れこんで来るようにならなければならぬのであります。こうして神の無限の生命力が流れこんで来るとき、いっさいの気涸れ(けがれ=Spirjtual barrenness――大生命の霊気が自分に涸れること)がなくなって病気その他のいっさいの不幸が即座にあるいは徐々に消えてしまうのであります。

 これに反して自分の念が「迷い」に閉ざされ罪に堰(せ)かれて、自分自身が神の「生命の水」を流しこむパイプになることができなければ、神の「生命の水」(治してくださるお力)が患者に達せず、したがって病気が治りにくいのであります。

    愛による更生

 聖書を読みますと、「眼に見える兄弟を愛することができないで、どうして眼に見えない神を本当に愛することができようぞ」という言葉があります。神は愛でありますから、愛が深くならなければわれわれは本当に神を解ることができません。いわんや「神の生命のリズム」を自分の身に受けて、その完全な「生命のリズム」によって患者の生命のリズムの調律をするというようなことは、真に心に愛が深くならなければできることではないのであります。

 本物の人間は本来神の子すなわち仏性であって「病気はない」のですから、病人というものは必ず自分の心で造った「観念(まよい)の牢獄」の中に閉じこもっているのであります。なぜ人間が自分の心でつくった「観念(まよい)の牢獄」の中に閉じこもるようになったかと申しますと、病人はきっと人間というものを冷たいものだと観ている。人間だけでなく「生命」というもの、「神」というものを、冷たいものであると観ている。「生命」と「生命」、人間と人間とが互いに孤立しているかのように観ている。あるいは「神」なんてないものだと観ている。あるいは「神」というものはあると思っていても、神と人間とのあいだに親と子との関係ほど親しいつながり、すなわち「愛」というものを感じることができないで、「神罰」とか「神の怒り」とかいう冷たい方面ばかりを見ている、こんなわけで、病人は心の底が温かい愛にうえている、人間と人間とを冷たく、なんの関係もないもののように見ている、とても、世界のあらゆるものが北極星を中心としてあらゆる星座が一糸みだれず動いていると同じように、自分を中心として自分の幸福を持ちきたすために運行しているというような完全なつながり(愛)を感ずることができない。こういう心――すなわち人間の本性を互いに孤立した連絡のないものだと思い違っている心が、形にあらわれて「病気の肉体」になっているのであります。

 ですから、病気を治すには、まず病人の心から「人間は孤立して淋しいものだ」という誤った先入観念を取り去ってしまわなければならないのであります。そのためには人間と神との関係を知的に理解するということも必要ではありますが、何よりもまず、具体的な愛――愛の生きた言葉、病人への力づけ、深切な態度、勇気をつけ、心を明るくするような言葉によって、なるほど人間は自分一人という小さな力で孤立して生きているのではないという事実を目の前に見せる。アリアリと手で触れるように兄弟の愛で見せると、その結果、病人が心に兄弟の愛、神の愛をアリアリと感ずる。ここに本当の「神からいただく癒す力」が流れ入る門が病人の心にひらかれるのであります。

1388復興G:2012/10/06(土) 22:09:11 ID:vWpLkCzM

<第7回 WEB誌友会用テキスト>
 『生命の實相』 第1巻
  《實相篇(上)光明の真理 第6章》 より(2)
       (頭注版 p.169〜172)
   -----------------------

 存在の実相(ほんとのすがた)においては万物は一体でありますから、互いに調和ある関係(すなわち愛)によって繋がっているべきであって、憎みも怒りも嫉妬も本来あるべきではないのであります。ところが、現象としてこれらの悪感情が存在するのは、「万物は調和ある一体である」という存在の実相に触れないからであります。すなわちこれらの悪感情は実相を知らないこと、すなわち迷いに出発しているのであります。これらの悪感情がいずれも肉体という心の鏡に映る場合は、血液の科学的成分に影響するということは、『生命の實相』第四巻生活篇「生長の家の生き方」の第十項「わが心の王国を支配せよ」という条項で述べたとおりでありまして、これをいいかえれば、心の迷いが、肉体に映って血液の成分に変化を起こしたということになるのであります。

 万物調和――万物一体――この真理から生ずる感じが愛でありますから、その反対たる万物孤立――万物争闘――という「迷い」から生ずる悪感情(したがって生ずる生理的反映たる病気)を征服するには、やさしい言葉や行いでかたわらにいる人が「愛」をありありと実際に示してくれるにかぎるのであります。あるいは患者自身が何かに対して本当の愛を注ぐ、仕事に対してでもよい、本当に仕事を愛して、それに熱中する。そうすると、今まで血液の中に毒素をこしらえていた悪感情が消えてしまい、したがって血液の中の毒素が消滅して、けっきょく、その病気が治ってしまうことがしばしばあるのであります。

   人をゆるせば病気が癒る

 自動車王ヘンリー・フォードが常に数十冊を手もとにたくわえていて、悩んでいる友人に会うごとにその一冊を与えることにしていたという書に『無限と調和する生活』と題するニュー・ソートの本(原題“In Tune with the Infinite”、邦訳『幸福はあなたの心で』<新選谷口雅春選集9>)があります。その第四十四頁に次のような実話がのっています。

 「医者をしているわたしの友人が、激烈なリューマチスにかかって苦しんでいる婦人を見舞ってやったときの話です。友は、この婦人とその妹との間にはけわしい精神的葛藤があることを知っていましたので、この婦人の病苦の訴えを親切に聞いてやった後、まともにこの婦人の顔を注視して、だんぜんとしかし深い思いやりのある語調で『妹さんをゆるしておやりなさい』といいました。婦人はびっくりした顔つきで彼の顔をしばらくまじまじ注視していましたが、『わたくし、どうしても妹をゆるすことはできません』と答えたものです。そこでこの友は『そうですか、それでは止むをえませんね。この関節の硬直と、あなたのお心の硬くてゆるし難いこととは親類筋なんですからね』というほかはなかった。

 それから数日たった。友は再びその婦人を見舞にいったのです。と、軽いかの女の足どりが応接室へ近づいて来ました。かの女の顔は健康そうに明るく輝いていました。『どうして治りました?』とたずねると、『わたくしあなたのび助言に従いましたの。わたくし妹をゆるしましたわ。二人はもうとても仲善しになりました。するとどうしたわけでございましょう。二人が仲直りをしたその日から、あの重症のリューマチスが快(よ)くなって、今では、もうあとかたもありません』と答えたのでありました。」

 皆さんはこの実話を聞いて非常に興味深く感じられるでありましょう。また常に病気に悩む人たちにとっては必ず心当たりがあると思います。心がゆるしがたくなって愛に背くとき、その人はわれとわが心で堰(せき)をして、大生命からの生かす力を受けることができなくなるのであります。だから、わたしはこのページを読まれたのを機会に、読者諸君にむかって、あなたのすべての隣人をゆるすことを提議したいのであります。

1389復興G:2012/10/06(土) 22:11:44 ID:vWpLkCzM

<第7回 WEB誌友会用テキスト>
 『生命の實相』 第1巻
  《實相篇(上)光明の真理 第6章》 より(3)
       (頭注版 p.172〜174)
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 皆さんは自分自身が現在病気でないからとて他をゆるさなくてもよいということはないのであります。ある誌友の実話を聞くに、その人は非常に感じやすい子供をもっていられて、家庭に何か争いごとがあると、必ずその子供が、医者には原因不明の病気に襲われて打ち倒れるのでした。わたしはその誌友に会って、いろいろと日常の精神波動のふしぎな影響を話して修養してもらったところが、今では医者と薬が長年もてあましたそのし不思議な病気が、薬を廃して、ただ親の心の持ち方ひとつでおこらないということであります。

 これほど鋭敏な感じの子供も少ないではありましょうが、日常のわれわれの心の持ち方は、ひとり自分のみならず、自分の家族の健康と運命とにも非常に関係があるのであります。その上、精神波動が、ラジオのエーテル波動のように無辺の空間に放送されるものであるということを知るとき、もし、われわれが人を怒れば、自分の精神波動で(その人の精神力の相違で程度の差こそあれ)相手の人を暗殺しつつあることになるということを知らねばなりません。
 「女を見て色情を起こすものはすでに姦淫せるなり」とか「七たびを七十倍たび赦せ」といったイエスは、精神波動が現実的力であることを知っていたに相違ないのであります。

    物質に生命はない

 われわれの生命、われわれの生きる力が物質にあるという考えが根本的な迷いであります。物質は本来無い。あると思うその信念が、フィルムになってスクリーンの上に「物質」という映画をあらわしているにすぎないということはたびたび申し上げたとおりであります。
 じつさいここが大切なところでありまして、われわれが物質というものを真に存在していると観るからには、物質は間断なくうつり変わるものでありますから、物質の科学的変化、病的変化というようなことも認めねばならなくなるのであります。したがって病気の存在ということも認めねばならなくなるのであります。病気が真実存在するということになってきますと、われわれは病気をあたかも強盗のように恐れるということはやむをえない。それは生命を脅(おびや)かす強賊であるから、誰でも恐れるのは当然のことであります。

 ところが物質は本来無い。それは自分の念(こころ)を鏡に映してみたようなものであって、念(こころ)さえととのえて鏡に向かって見れば、自分の顔が優しい顔にうつるのと同じように、自分の心さえととのえて自分の肉体に対すれば、自分の肉体は姿をかえて健康になれるのだということになると、われわれの着眼点がちがってくるのであります。

 猿が鏡を見て、鏡にうつる醜い顔がじっさいあるのかと思って、鏡の裏へ廻ったり横へ廻ったりして、いろいろ鏡に白粉(おしろい)をつけたり、紅をつけたりしてみても、いっこう鏡にうつる影が美人にならない。
 これではならないと思って渋面をつくればつくるほどかえって鏡の中の姿が醜くなる。どうもこれは変だなと思ってよくよく考えてみると、鏡の中には本来そんな姿がいるのではなかった。そこにあるように見えている姿はかえって自分――こちらにいる自分の影だとわかったので、自分ながら滑稽になって笑ったら、今まで醜く渋面をつくっていた鏡の中の姿までも笑い出して非常に鏡の中までが美しい愛らしい顔に見えたという話があります。

 これと道理は同じでありまして、念(こころ)をかえて肉体という鏡に向かえば肉体はどれほどでも健康になってくるのであります。だから念でひとの病気を治してあげようという人は、自己が相手に対する深い愛を持つと同時に、病気をば鏡の中に映っている影であると思って、その実在性を根本から否定しえなければならないのであります。これができないで、病気を真に実在すると思ってこちらからむかってかかりますと、こちらの念が向こうに映ってますます相手の病気がこちらの思うとおりに強い実在性をおびてくるのであります。

1390復興G:2012/10/06(土) 22:12:27 ID:vWpLkCzM

<第7回 WEB誌友会用テキスト>
 『生命の實相』 第1巻
  《實相篇(上)光明の真理 第6章》 より(4)
       (頭注版 p.174〜177)
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 むかしから「ありま親しい肉親の者を看護させると病気に悪い」と申しますのは、肉親の者はそれだけ病人に対して直接的な物質的つながりがあるので、病気に対しても本当の真理を観ずることができず、真に病気を実在するものと思って心がうろたえ動揺しますので、その心の動揺が相手に映って病気を重くすることが多いからであります。こうして病気を真に実在すると思って心が動揺する人はメタ・フィジツシャン(神癒能力者)としてひとの病気を治す資格がないのであります。

 人間の本性――本物の人間――は物質ではない、物質は念のフィルムの映した影だという真理がハッキリ解ってきます程度につれて、その人が肉体の健康を支配する力が強くなってくるのであります。

 イエス・キリストやその弟子が病気を治したのをみましても、黒住宗忠(くろずみむねただ)が病気を治したのをみましても、決して彼らは病気を実在として研究して、その解剖学的知識がこうであるからこういうふうな治療法をしなければならぬというようなことは考えてはいなかったのです。イエス・キリストにとっては病気は無いのであるから慢性も急性も無い、いわんや不治症などはテンで存在しないのであります。ここに「生命」に対する驚くべき強き確信がある。だからキリストの治す力もまたすばらしいのでありまして、たいていは、そくざに治ってしまっているのであります。キリストは「人の生命」は神から受けたものであること、神そのものこそ人間自身の生命であること、人間の生命は神から受けた生命のほかにはないこと、その生命は不増不減絶対の完全さをもっているもので、病気などに冒されるおそれなどは絶対にないことを信じていたからこそ、あれだけすばらしい治療力を発揮しえたのに相違ないのであります。

 自己の生命の、不増不減の絶対完全な本性をば、肉体の上にも実現しようとするには、五官すなわち眼耳鼻舌身等の感覚にて感じられる不完全なすがたを本当に存在するものだと思い違えてはならないのであります。
 五官というものは、念のフィルムでうつし出した映画を見るための道具であって、フィルムの奥底でめまぐるしいほどに輝いている本当の生命を見るための道具ではないのであります。

 本当の自分の生命のすがたを知るにはわれわれは五官というものを超越してしまわねばならないのであります。すなわち仏教でいえば禅定(ぜんじょう)、古神道でいえば鎮魂(ちんこん)、キリスト教でいえば、霊の洗礼――いいかえれば「霊のバプテスマ」を受けねばならないのであります。
 「生長の家」ではいずれの宗派をも生かしつつ神との一体感を深める「神想観」という修行をするのであります。

 いずれにせよ、われわれの心の奥底の思想――思想だけではない信念までも――が、自分の生命の完全な実相(ほんとのすがた)を自覚するにしたがって境遇も健康も改善してくる。これが改善してこないのは奥底の心がまだ自分の生命の完全な本性(ほんとのすがた)が「神だ」ということを自覚しえていないからであって心の底に恐怖心があるからであります。
 われわれが何かを恐怖するとき、その何かがきっとあらわれてくる。これは切り離すことのできない原因結果の法則であって「類は類を招ぶ」の心の法則というのであります。

 一時、ドイツおよびアメリカを風靡した療法にホメオパチーといって人間にある分量飲ませると一種の病的症状を呈するような毒薬を、それと同じような症状を呈している患者にむかって「これはそれを治す薬だ」といつてごく少量飲ませると、じっさいその症状が消えてしまう治療法があるのだそうであります。ホメオパチーすなわち「同種療法」という意味で、同じような病気になる薬を使って、かえって病気を治すからそう呼ぶのだそうでありますが、これなども患者の心しだいで、同じ薬が毒にもなれば薬にもなるという実例であります。

1391復興G:2012/10/06(土) 22:13:08 ID:vWpLkCzM

<第7回 WEB誌友会用テキスト>
 『生命の實相』 第1巻
  《實相篇(上)光明の真理 第6章》 より(5)
       (頭注版 p.177〜180)
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 じっさい、人間の心ほど不思議な畑はないのであります。心の畑へ植えこまれた種子が「真理」(生命の実相)であればその人は健康になりますし、心の畑へ植えこまれた種子が「迷い」(病的観念)であればただちに病気が芽を出し生長するのであります。この点において医者というものは患者から信用せられているだけに、患者に対していう言葉には、なかなか注意を払わなければならないのであります。

 新薬というものが出現しますと、しばらくの間は非常によく効くのでありますけれども、それが広告(言葉の力)を利用しなくなると、たいていはいつのまにか効かなくなって世人から忘れられてしまうのであります。はじめには効いたけれどもだんだん効かなくなるというのは、なぜでしょうか。

 昭和二十七年五月三十日号の『日本経済新聞』に結核予防会第一健康相談所副所長の渡辺博博士が「科学療法と気胸療法」と題して、新薬の効果がだんだん減ることについて次のように書いておられます。

 「病気は薬で治すという考え方は一応もっともであるが、薬だけで治る病気はそう多くはない。薬にはたくさんの種類がある。しかし病原体に直接はたらいて、病気の原因を除くほど力のあるものは少ない。たいていの薬は病気の原因に効くのではなく、病気の症侯をやわらげるのに役だつくらいのもので、痛みを止め、熱を下げて、苦しみを軽くしているうちに、身体に備わった治癒力で自然に治るのを待つのが常道である。

 「土壌菌からえられたペニシリンが抗菌作用を持つことはたしかである。このはたらきが、菌を殺すのか、あるいは菌の発育を阻止するだけなのか、まだ問題は残っている。抗菌作用の本態はまだ全容がつかめない。
「結核菌は肺炎菌と違って、化学薬品に対する抵抗力がはるかに強い。ペニシリンができて、肺炎はむかしほど恐ろしい病気ではなくなったが、ストレプトマイシンではそうはいかない。

 「むかしから結核の特効薬なるものはずいぶんたくさん現われ、すべて、いつとはなしに忘れ去られた。極端な場合は副作用さえさければ、実効があろうとなかろうと薬として用いられた。しかし今はむかしと違う。われわれはある薬剤が結核にはたして効くかどうかをたしかめる有力な試験方法を持っている。

 「最近のイソニコチン酸ヒドラジッドはこの試験に一応パスした。しかしマイシンが発見され、これで結核は治ると思ったのもつかの間、むしろこの薬で肺外科の領域が拡がったように、こんどの新薬も宣伝されるほどの威力はないとみてよい。結核を化学療法だけで治すことのできる日はまだ遠いものと考えられる。……」

 これが結核に対する化学療法、薬剤療法の最新知識というところであります。

 梅毒に対するサルバルサンが発見されたときには、これさえあれば梅毒は完全治癒すると思われましたが、それがだんだん効かなくなっています。新聞や医学雑誌に大きく喧伝(けんでん)された当初だけ新薬がきくというのは、その化学的成分に絶対威力があるからではなく、流行神(はやりがみ)さんと同じことで、新薬だというからよく効くにちがいないと医者も患者も信じている。そこへ新聞雑誌がその効果を言葉の力で宣伝する。ますますその信念が喚起されます。そしてその累加した信念がかさなって効いてくるのであります。ところが発見した当時は、世間が言葉でハヤシたてるが、やがて、それにつにて何も書かず、宣伝されぬようになると、言葉の力がうすれ、きくという信念がうすれて効かなくなるのであります。

 薬にも流行があるように健康法にも流行があります。健康法でも、はじめて発表されて新聞や雑誌の記事や広告に鳴り物いりで大々的に宣伝せられますと、その宣伝の力――つまり言葉の力でその健康法がきいてくるのでありまして、一時はやった何々式健康法というようなものも間もなく世間から忘れられます。

1392復興G:2012/10/06(土) 22:13:52 ID:vWpLkCzM

<第7回 WEB誌友会用テキスト>
 『生命の實相』 第1巻
  《實相篇(上)光明の真理 第6章》 より(6)
       (頭注版 p.180〜182)
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 患者に信頼せられない藪(やぶ)医者の場合は患者の方でばかにしてかかっているから、有名な医師が使ってよくきく同じ薬でもきかない。そこで、この医者はだめだと見かぎる。そして別の有名な医学博士にかかるのであります。ところがやはりその医学博士も診断(みたて)は同じで、同じ薬をくれるのでありますが、ただちがうのは診察料と薬価とが高いことであります。値段が高くて有名な医学博士の薬であるから、きっとよく効くに相違ないと患者が信用してかかるから、その信用が病気に効くのです。信用とは心の問題です。

 どの病気にはどの薬を使うかぐらいは、医者なら誰でも知っているのですが、名医と庸医(やぶい)との相違は患者に信用せられる手段の上手下手によるのであります。外科医には手術の上手下手がありますが、施術したあとの傷痕を治すのは自然良能でありますから、そして自然良能は、その人の心の持ち方で変わりますから、「物質」が病気に効くのではなく、「心」が病気に効くのだということがわかるのであります。

    肉体には結果があるだけで原因はない

 ふつうの医者は脈搏だの、呼吸だの、血圧だの、舌だのというものをしらべて見て、肉体の状態はどんなふうになっているかを発見しようとするのであります。しかし肉体は「心の影」でありますから、いくらしらべても肉体には結果があるだけで原因はない、そして患者の肉体状態は患者の心に何があるかを示しているにすぎないのであります。

 病気に関する論文、医術の参考書、治療法の解説書、家庭医学の本などを素人が読むことは、暗闇の中で子供が幽霊の話をしてきかせられたのと同様の効果を与えられるのであります。何も見えない暗闇の中で子供に怪談をしてやると、子供はおびえて、想像の幽霊が今にもじっさい出て来るかと思って、キャッキャッと泣き叫ぶのでありますが、それと同じく「真理の光」の射しこんでいない人の心に病気の話をすれば、その話が種子になって想像で病気を栽培してだんだんその想像病を生長さし、ついには物質的にも明らかに認められる病気になってしまうのであります。人間の心は光が欠乏してくれば恐怖心を起こすのであります。
 反対に「真理の光」が心の中に射しこめば、白日のもとに想像の幽霊が消えてしまうように、想像の恐怖心も消えてしまいます。

 ところで、あらゆる病気は「念(こころ)の影」すなわち「想像病」であって、迷いから起こった恐怖心で自分がかってにつくっているのでありますから、この点、病気になる大人は幽霊を恐怖する子供と、なんらその無知な点において異ならないのであります。太陽が出れば子供の恐怖心も消え、したがって幽霊も消えてしまうと同じように、「真理」という太陽が心のうちに輝き出せば、病気はおのずから消える。「真理」という太陽をかかげて皆さんの心を照らす――これがこの書の役目であります。

 われわれは赤ン坊をいっぺんに大人にしてしまうわけにはゆかないのであります。それと同じように皆さんの心のうちを、いっぺんに太陽のような「真理」の光でくまなく照りかがやかしてしまうということはできないのであります。そこで本書または月刊の『生長の家』を毎号繰り返し繰り返し暇さえあれば読んでくださるようにしていただけば、しだいに皆さんの心の中に「真理」という偉大な太陽の光線が強く照り輝くようになる。すると、病気はむろん、どんな人生苦でも自然に消滅するようになるのであります。

 それから神想観の修行も一日一回はぜひ怠らぬようにしてくださると、いっそうすみやかに心の奥底に真理をかがやかすことになるので、効果も早いのであります。この坐法や観念法は『生命の實相』全集第四巻観行篇(頭注版では第8巻)に詳記してありますからご覧のうえ実修してくださるようにお願いいたします。

1393復興G:2012/10/06(土) 22:14:39 ID:vWpLkCzM

<第7回 WEB誌友会用テキスト>
 『生命の實相』 第1巻
  《實相篇(上)光明の真理 第6章》 より(7)
       (頭注版 p.182〜185)
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 皆さん、脳髄という物質に心があると思ってはなりません。胃袋という物質に消化力があると思ってはなりません。心が複雑になるから、それが映って脳髄の組織が複雑になるので、脳髄が複雑になってから心が複雑になったのではないのであります。おいしいと思ったら胃袋に消化液が分泌してきてよく消化するのでありまして、まずいと思ったり、感情が興奮していて食欲が本当に起こらない時には何を食べてもなかなか消化液を分泌しないのであります。

     無知無明

 われわれが「生長の家」でとく「生命の真理」――「存在の実相」が根本的にわかってきますと病気にならないばかりでなく、性格も善くなり、境遇も運命も善くなるのであります。善くなるのではない。われわれが本来神が造った「神の子」であるからはじめから善いのしでありますが、その「善さ」が隠れていたのがしだいにあらわれて来るのであります。

 「罪」と「迷い」とはひっきょう同じものでありまして、その本来の善さを無知無明(まよい)のためにツツミ隠している、これが「罪」であり「迷い」であり、真理の無自覚、すなわち「本当の知恵」の欠乏から来るのであります。
 世の中で知恵が欠乏しているほどの大きな罪(つみ=包みかくす意)はないのでありまして、あらゆる罪悪は、この「本当の知恵」の欠乏からくるのであります。

 修行中の弟子が、ある日釈迦にむかって「知らずに犯した罪と、知って犯した罪とはどちらが重いでしょうか」とおたずねしたということがお経に書いてあります。すると釈迦は「知って焼火箸(やけひばし)を握るのと、知らずに焼火箸を握るのと、どちらが大きな怪我をするか?」とたずね返された。そこで弟子は「それはお師匠さま、知らずに握った人の方が大きな火傷(やけど)をするに相違ありません」とお答えした。釈迦はニコニコ笑って、「そうじゃろう、だから知らずに犯した罪は、知って犯した罪よりも深いのだ」とおっしゃったということであります。

 つまり「真理を知らぬ」ということは、あらゆる罪の源になる大きな罪(包み)であって、この大きな「包み」に包まれて、真理の光線が心の中にはいりこまないから、その暗闇の中でいろいろとありもせぬ怪物が心の迷いではびこる――この怪物の中に、病気とか、不幸とか、不和とか、家庭苦とか、生活難などといういろいろの一つ目小僧や、三つ目小僧や、大入道がいるのであります。

 「本当の知恵」のないところから、あらゆる不如意不完全は出発するのでありますから、仏教でも「阿耨多羅三藐三菩提心(あのくたらさんみゃくさんぼだいしん)」すなわち「サトリ」ということを第一においている。キリストも「真理はなんじを自由ならしめん」といって、「真理を知る」ということすなわち、サトルということをその教えの第一においている。それからまたキリスト教の信者となるには「洗礼」ということをする。「洗礼」というのは水をそそぐことで、日本古神道でいう身禊(みそぎ)に当たり、「罪」すなわち本当の自己の生命を包んでいる「迷い」を洗い浄めるという精神を形にあらわして水をかけたり水の中に浸ったりするのであります。

 こうして、身禊すなわち洗礼をせられたときに、キリストの身体に「聖霊(みたま)鳩のごとく降れり」と聖書にはあるのであります。つまり自分の生命と御祖神(みおやがみ)の大生命とを絶縁させていた「迷い」が洗礼によって洗い浄められ、心のうちに知恵が輝き出し「迷い」という絶縁体がなくなれば、神と人間との間に完全な感応道交(かんのうどうこう)の道がひらけ、「聖霊(みたま)が鳩のごとく」キリストの身体(からだ)に降臨して、ここにキリストは完全に「神の子」としての自覚に入ることができ、驚くべき奇跡や神通力を発揮するにいたられたのであります。」

1394復興G:2012/10/06(土) 22:15:22 ID:vWpLkCzM

<第7回 WEB誌友会用テキスト>
 『生命の實相』 第1巻
  《實相篇(上)光明の真理 第6章》 より(8)
       (頭注版 p.185〜187)
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     旧我の否定と新しき更生

 このようにどの宗教におきましても、「迷い」を洗いきよめて本当の知恵をうることをもってその主要眼目としているのでありますが、では「本当の知恵」をうるとはどういうことであるかと申しますと、それは「人間は神の子である」という一大事実に目覚めることであります。キリスト教でいえば「なんじにやどるキリスト」を知ることでありります。仏教でいえば「仏性」を自覚することであります。

 わたしが光明生活法を説いて、「人間は神の子である、自分自身をも悪く非難してはならない」と申しますと、なかには早呑みこみして「このままの自分で完全な神の子だ」と思って、驕慢(たかぶ)った心になっている方もあるかもしれませぬが、「本当の知恵」とか、「神の子の自覚」とかいうのは、そんなに安っぽい自覚ではないのであります。

 仮に、ここに、身体じゅう腫物(できもの)だらけの人間があるとしまして、「人間は神の子だ」と教えられたとします。そこでその人間が、その腫物だらけの身体(からだ)を「神の子としての完全な身体」であると思いこみ、その腫物だらけの身体を「これこそ完全な神の子の姿だ」といって自慢しだしたとしたならば、実にはたから見て見苦しい鼻つまみの所業(しわざ)でありますし、それではまた、その病気もなおらないのであります。

 人の徳性にしましても芸道上の技倆にしましても、このままで「神の子」としての自分の貴さや深さがでていると思ったらそれは慢心でありまして、それ以上、その人は徳性においても、芸道においても進歩するということはないのであります。

 本当の「神の子」としての自覚というものはそんな安っぽいものではない。今の状態をありありと反省し、こんな見苦しい不完全な状態は「神の子」らしくないということを知り、自分は神の子であるから、こんな不完全な状態は自分の本性ではない、本性でないものはウソである、いつまでもウソを自分の天性だと思って天狗になっていてはならないと、豁然(かつぜん)大悟、「神の子」としての自分が別に厳然として存在することを悟る――これが「神の子」としての本当の自覚であります。

 こうして今まで「これこそ自分だ」と思っていた「仮妄(うそ)の自分」を捨ててしまうことが、新しく「神の子としての自覚」に入る第一歩であって、毎日反省して、蛇が皮をぬぐように毎日「ウソの自分」を捨てる――こうすることによってわれらは毎日新たに神にいっそう近づくことができる、すなわちわれわれの無限生長の道があるのであります。

 われわれが毎日『生長の家』を読んだり「神想観」を実修したりするのは、要するに「旧我(ふるいわれ)」を捨てて「新我(あたらしいわれ)を掴むことにあるので、本当の「神の子」としての自覚を得るにはぜひともいったん「旧我」を捨ててしまわねばならないのであります。

 それでメタフィジカル・ヒーリングによって他人の病気を治すにも、ぜひとも「否定」と「肯定」との思念法を用いるのであります。「否定」とは現在の不完全な病気の状態は偽物であって本物の存在でないと取り消す思念で、「肯定」とは「本物の自分」は神の子であって現に今も神の造りたまえる世界――すなわち真実存在の世界に、完全な病気無き相(すがた)で存在すると肯定する思念であります。

1395復興G:2012/10/06(土) 22:16:01 ID:vWpLkCzM

<第7回 WEB誌友会用テキスト>
 『生命の實相』 第1巻
  《實相篇(上)光明の真理 第6章》 より(9)
       (頭注版 p.187〜189)
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 この思念が徹底し、魂の底の奥の心までこの真理が自覚されれば、それで病気が治るのであります。性格でも同じことでありまして、たとえばここに小さなことにでも腹が立ってしかたがない性格の人がある。こんな人に「おまえは神の子だ、完全な性格である」と教えるとしますと、「なるほどわたしは神の子であって、この小さなことにも腹を立てやすいということが、そのまま完全に偉いんだな」と思ってしまったとしますと、この小さなことにも腹を立てるという性格は決して治らないのであります。なぜならばそれでは反省がなく、懺悔がなく、自分の悪いところを捨てるということがないからであります。

 腹を立てる性格を治すには、第一に自分を反省して「偽我(にせのわれ)」と「真我(ほんとのわれ)」とを見わけ、この腹を立てるというような小さな狭い性格は偽我であって、本当の自分ではないとしていったんそれを捨て去り、その捨てたあとにハッキリと「自分の本性は神の子であるから小事には決して腹を立てない完全な自分である」という自覚を植えつけることが必要なのであります。

 万事こうして偽我を捨て、真我を自覚することによって性格も善くなり病気もなおるのであります。「生長の家は自分を悪く言わない」というのは「真我を悪く言わない」ということでありまして、偽我はどこまでも排斥して消滅さしてしまうのであります。つまらない現在の性格や病気の状態を「神の子」であるところの「真我」の状態であると思い違いしていては、「真我」を悪く言わないどころか、「真我」に汚名を着せているのであって、「生長の家」の主張とはぜんぜん反対になるのであります。

     実生活を癒す宗教

 真我――これは「神の子」であり、「仏性」であり、真理でありただこれのみが唯一の「実在」なのであります。「偽我」、「病気の我」、「悪性格の我」などはいかに実在するようにみえても、それは「迷い」であり、念(こころ)がかってに胸に描いて、その描いた念(おもい)を蜃気楼(しんきろう)のように空中に映し出しているのであって、その実、決して存在しないのであります。

 われわれが本当の「神の子」としての完全な生活、仏子としての完全な生活、病気も欠点もない「理想の我」としての生活を実現するにはぜひ、この偽ものの旧我(ふるいわれ)を毎日毎日捨て去らねばならないのであります。これを仏教では「懺悔」といい、キリスト教では「悔改め」といい、日本神道では「みそぎ」または「祓(はら)い」といって、いずれの宗教でも同じことであります。
 玉ねぎの皮をむくように毎日または毎時間一枚一枚と偽ものの皮をむいて祓いのけてゆくのであります。すると、あとには何も残らなくなって、空無自在な我の「真性」だけが残る。この境地には誰でもなかなか一度には達せられないけれども、半分でもこの真性に近いところまで「迷いの皮」がむけ、サトリが開けて来ますと、その心境が肉体にも境遇にも反映して非常にわれわれの実生活がラクになって来るのであります。

 宗教とは魂だけを救う教えであって、実生活を救うものではないと思っている方があるかもしれませんが、実生活は心で支配されているのですから実生活を治しえないようなことでは生きた宗教とはいわれないのであります。「形」は心の影でありますから、心を本当に治しうる宗教ならば病気でも境遇でも治しえなければならないのであります。

1396復興G:2012/10/06(土) 22:16:41 ID:vWpLkCzM

<第7回 WEB誌友会用テキスト>
 『生命の實相』 第1巻
  《實相篇(上)光明の真理 第6章》 より(10)
       (頭注版 p.189〜191)
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 われわれの経験によると病気はかなりな大病でも治りやすいのでありますが、性格は病気よりもいく分治りにくいのであります。この理由を考えますに、人間は病気というものに対してはこれは自分の本性ではない、本来自分は健康であったのだという「自覚」がたいていはある。その上、この病気をぜひ治したいという「熱望」がある。この「自覚」と「熱望」とが病気の治る上に非常な助けとなるのであります。
 ところが性格の欠点にいたっては、よほどの反省のある人でない限りは欠点があるか無いかもわからない。低い程度の性格のままで神の子だと思い上がって「神の子」たる自分の真我(ほんとのわれ)に対して安い値段をつけて甘んじている。だから、自分の性格の欠点を治したいとも思わず、よいかげんのところで自分をごまかして、自分はこれで向上の余地がないというような思い違いに陥りやすいのであります。これを高慢とか慢心とかいいまして、性格の向上の上に非常な障(さわ)りになるのであります。

 むかしから聖人君子といわれるような徳の高い人ほど自分の罪深さをひとしお感ずるというのは、「真我(ほんとのわれ)」に一文も負けない正札(しょうふだ)値段をつけているから、今の程度の自分ではまだまだ偽我(にせのわれ)であって正札値段に達しないということを感ずるからであります。

 ところが、自己批判のたりない人は、よいかげんの現在の自分のままの低い人格であって、すでに高い「真我」の正札値段に達していると慢心しているのであります。
 こんな人には「自分は神の子だ」という本当の自分がわからない。こんな人たちに「自分を尊べ」といいますと、不徳のままで大天狗になって不完全な「偽我」を尊ぶだけで「真我」に低い値段をつけていばっているのでありますから、かえって「真我」を安く見くびっていることになり決して本当の自覚に達しないのであります。

 「真我」に高い値段をつける――すなわち「自己の本性」を本当に尊ぶ人とは、常に自己を反省して今の状態ではまだ本物の自分に達していない、これからどれだけでも向上の余地があるということを自覚して毎日精進を続ける人でなければならないのであります。

     慢心を去れば治る病気

 本当の自尊ははなはだけっこうでありますが、この「偽我慢心」と、病気やいろいろの物質的不幸を恐れる恐怖心と――この慢心と恐怖心とは人間が本当の自由を得る――すなわち真性開発上の二つの重大な妨害となるのであります。

 慢心があれば性格上の欠陥を生ずるばかりでなく、肉体上の病気を生ずることもあります。そしてこれは、単に病気に対する恐怖心から起こる病気よりも複雑であって、恐怖心を取り除くだけでも薬物療法だけでも治らないので、慢心を取り除いたら初めて治るのであります。この慢心を取り去るには自己を反省し、自己を凝視し凝視して、自己批判を厳重にしなければなりません。

 近ごろの新しい精神科学、精神分析療法では、患者の精神を分析して隠れている慢心――そのままの不完全の自分でいながら家人にうち勝ちたい心、医者にうち勝ちたい心、社会にうち勝ちたい心等の不満足を――ありありと分析して患者の目の前にさらし出せば、ただそれだけで治る種類の病気がたくさん発見されているのであります。

1397復興G:2012/10/06(土) 22:17:19 ID:vWpLkCzM

<第7回 WEB誌友会用テキスト>
 『生命の實相』 第1巻
  《實相篇(上)光明の真理 第6章》 より(11)
       (頭注版 p.191〜193)
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 昭和五年十一月十九日にありました生長の家例会で、平野町新聞社の松浦長寿(ながとし)君が話された実話によりますと、当時、大阪天王寺区南日東町(みなみにっとうちょう)方面委員をしている松本外次というもう六十数歳になる老人があった。何教の信者というわけではないが、非常に隠れたるところに徳を積むということが好きな老人で、常に無宿の人を助けたり無縁の死者を葬ったり、貧しき人に施したりすることを楽しみにしていながら、右の手にした善行を左の手にも知らせないというような人であった。松浦長寿氏が一度平野町新聞にその徳行をのせたいと思ってその老人を訪われると、自分は知られるために徳行をしているのではない、人に知れたら自分の善行はそれで消えてしまうのだといってしいて辞退されたそうであります。
 その老人は近所に病人があるということを聞くと見舞っては「道」の話をしてあげることにしていられた。そして病人に対してあなたのこの心得が悪いとかこういう行いをしなければならぬとかいうことを指摘して、本人の心を道にかなうように導かれる。すると、おのずからその病人の病気が治ったのであります。
 この方法で治された人は、実に挙げて数うべからずだそうでありまして、葉書の礼状ばかりでも四、五寸の高さがあるほど集まっているとは、それを見て来た松浦氏の話であります。ところが治った病人が礼をもって来る、礼をもらっては、天の倉へ貯えた徳が消えるというわけで、またわざわざその人の家へ返しに行かれたものでありますが、それではあまり繁雑に耐えられないというので、やがて病気を治すことをやめて、晩年は礼を決して持って来るおそれのない無縁の浮浪者に施したり、無縁仏のために碑を建てたりして余生を送られたそうであります。
 それはとにかく、病人に道話(どうわ)をしてあげて、病人が自分の心の持ち方の非を悟ったとき、自然に、その人の病気が治るということは非常に面白い事実ではありませんか。この老人の「道話治療法」や最近の精神分析学(サイコアナリシス)は、いかに病気が「罪」や「心の障(さわ)り」から起こり、「罪」を除き、「心の障り」を除けば自然に治るかを明かにしていて、まことにわれわれの参考になるのであります。

1398復興G:2012/10/06(土) 22:18:11 ID:vWpLkCzM

<第7回 WEB誌友会用テキスト>
 『生命の實相』 第1巻
  《實相篇(上)光明の真理 第7章》 より(1)
       (頭注版 p.194〜196)
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   第七章 「生長の家」の超生理学

   肉体の疲労や病苦は仮想的存在

 皆さんは「あまり歩いたのでわたしは疲れた」こうおっしゃることがありましょう。この「わたし」とは一体なんでありましょうか。この疲れた「わたし」とは筋肉でありましょうか、心でありましょうか、これが問題であります。物質なるところの筋肉は心でないから疲れたと感ずることができません。牛肉の一片が疲れたと感じますか。切り出された脳味噌の一片が痛いと感じますか。そんな事はありますまい。あなたは「疲れた」とおっしゃいますが、そのあなたなるものは一体なんでありますか。それは一片の筋肉の代りに代弁をつとめるものでありますか。じっさい、知性のない物質なるところの筋肉は疲労を感じていない。感じていないものを感じているように思わせる、無いものをあるように思わせる――これは「迷いの心」がそう思わせるのであります。

 皆さんは机が疲労を感じているのをご覧になったことはありますまい。荷車はすれちびても疲れたとも、苦しいとも、痛いとも感じますまい。われわれの肉体は机や荷車と同じように知性のない物質たることにおいてなんの変わりもないのであります。もしわれわれの迷いの「心」が「肉体が疲れる」とか「肉体が痛む」などという不合理なことを空想して、われとわが心の自己暗示で疲れを感じたり、痛みを感じたりしなかったらば、われわれの肉体はいくら働いても疲れるということも、いくら無理しても痛むなどということもないのであります。

 じっさい肉体は物質であるから疲れない――疲れようがない、痛みようがない、苦しみようがない。だから疲れたと思わせ、痛いと思わせ、苦しいと思わせる迷いの心を捨てさせ、「本物の自分」――神に造られたままの自分をほんのしばらく振り返って自覚するようにすると、数時間もポカンとして休息するよりも身体がやすまって来るのであります。

 先日もある誌友の方から「仕事の合い間、あいまに『生長の家』の数行を読むと疲労が回復してきて、また生き生きした精力で仕事が続けられる」と感謝してこられたのであります。これはわれわれが大生命からいただいた生命そのものは決して疲労することができないものであって、疲労なるものは「迷いの心」が造った空想でありますから、『生長の家』のような真理の書物によって「迷いの心」を追い出せば、その「迷いの心」の産物なる疲労も、おのずから消えてしまう証拠であります。

 痛みでも同じことであって、肉体という物質そのものは、たとい如何に壊れていようが痛みを感じないものでありますから、われわれが「肉体が痛い」と感ずるのは「迷いの心」がそんな空想を描いて自己暗示でかってに、無い痛みをあると思って苦しんでいるのでありますから、「迷いの心」を他に転じてしまえばその痛みは消えるのであります。
 たとえば、胃が痛いといって苦しんでいる患者があれば、この全集の読了者が軽く患部に手をあてて真理を黙念して「痛みは本来無い、生命は神であるから完全である」と念じていると、痛みは消えて病人はスヤスヤ眠ってしまうのであります。
 この原理を体得しますと、無痛安産でも無痛施術でもできる。身体に百本も、かなり長いヘヤーピンを突き刺して決して痛くないというような実験をした人もあるくらいであります。

 元来、自然な生理的現象であるお産などに痛みを感ずるはずはないのであります。エディ夫人の本を読んで無通分娩をした実例は本書の第三章にあり、第三巻には早期破水逆産の無痛分娩の実例をあげておきましたが、本書を読んで健康の真理が解ればおのずから無通分娩ができるのであります。もしそれができないならば読んでも書いてあることの意味が体得できなかったからでそんな人は、本部道場または各地の教化部および誌友相愛会での直接指導で好結果をあげています。

1399復興G:2012/10/06(土) 22:18:50 ID:vWpLkCzM

<第7回 WEB誌友会用テキスト>
 『生命の實相』 第1巻
  《實相篇(上)光明の真理 第7章》 より(2)
       (頭注版 p.196〜199)
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 女学校の生徒などでお腹がしくしく痛いと思っている時に、先生から指名されてある質問をあびせられると、その瞬間、心がその質問に集中して、お腹のことに心がゆかない。すると、その先生の質問に答えている間中お腹の痛みを忘れているなどということはたびたびあるのであります。
 無痛分娩の原理もこれと同じで、「迷いの心」を痛みのところへやらないようにすれば、なんでもないのであります。

 焮衝性(きんしょうせい)のリューマチにかかって、杖の力をかりてもホテルから劇場まで辻二つと歩けなかったある有名な俳優は、自分の出演の時間が来るまでは、ほとんど動けないほど激痛に悩んでいたにもかかわらず、出演のときが来るとぜんぜん健康な別人のような活発な演技ができて、出演中、肉体には少しの痛みも感じなかった実例をマーデンはあげています。

 日本でも名優十五代目市村羽左衛門は七十二歳で病没(昭和二十年)しましたが、楽屋へたずねて行きますと、もう老衰して腰が曲ったヨボヨボしたかっこうでしたが、舞台に出て白井権八などの若衆姿に扮しますと、完全に老衰の状態が消えてしまって溌剌(はつらつ)たる青年のキビキビした演技を見せたものであります。

 「どうも身体が悪い!」と病人はいいますが、それは身体がくるしいのでも痛いのでもありません。「迷いの心」が苦しく、「迷いの心」が痛いのであって、それはだんぜん主観的なものであります。「迷いの心」を肉体から転ずれば、もう苦しみも痛みもなくなるのであります。

 つまり、病気というものは、罪(すなわち包みて生命の円満完全さを自覚せぬこと)から起こるのであって、「心」がわれわれの本来の生命の実相(ほんとのすがた)を自覚せず、「心」の苦しみ、心の痛みは「心」自身で治すことができるものであることを自覚せず、肉体が「心」というものから独立して病苦を感じうるという誤れる信念から起こるのであります。

 病気の苦しさを超越する一つの方法は、まずじっとその苦しみの真相を見つめることであります。肉体の一部が痛めばじっとその痛みを見つめるがよろしい。そしてその痛み、苦しみをば、よく観察して「それははたしてこの肉体が痛がっているのだろうか。肉体は物質だから知性をもたないから『痛い』と感ずるはずがない。そうしたらこの『痛い』と感じているのは『心』だ。『心』は無形のものだから実質的に故障が起こるはずがない。実質的に故障がないのに『痛い』と思うのは『痛い』という夢を見ているのだ」
 こういうふうに肉体の痛みをことごとく観察して、その痛みが肉体に実在しないし、『心』にも実在しないで、ただそれは無いものをあると見ている夢だと宣告を与えて、なおじっとその痛みを見つめていますと、最初その痛みが自分の痛みだと思っていたのに、だんだんそれが離れて観られるようになり、痛みは感じているがその痛みはもう自分の痛みではない、完全円満な自分というものがよそにあってその痛みを第三者として観ている、ちょうど自分が「痛み」というラジオを第三者として聴いているような塩梅(あんばい)になって、自分自身が痛まなくなり、自分自身が痛まなくなると、結局その病気は治ってしまうのであります。

 肉体は物質であるから痛みを感じないといえば、肉体には知覚神経とか神経細胞というものがあるから痛みを感ずるのは当然だといわれる人があるかもしれません。しかし知覚細胞も神経細胞も、一個の物質的装置である点においては変わりはないのでありまして、物質そのものには意識がない。それはラジオの受信機のようなものであります。いくらラジオの受信機があっても、心がこれに痛みを吹き込まず、心が痛みの吹奏を聞かなければ痛みというものを感じようはないのであります。

 だから心がそこにないところの一片の切り落とされた片腕は、知覚神経も神経細胞もそっくりそのまま残っていても痛まないのであります。こんなわけで肉体が痛むの、知覚神経が痛むの、神経細胞が痛むのといっても、皆「心」が痛いと迷うから痛いと感ずるのであって、この「迷い」の心を免職させて実相覚と交替させたら、痛みはなくなり、病気はおのずから消滅するのであります。

1400復興G:2012/10/06(土) 22:19:28 ID:vWpLkCzM

<第7回 WEB誌友会用テキスト>
 『生命の實相』 第1巻
  《實相篇(上)光明の真理 第7章》 より(3)
       (頭注版 p.199〜201)
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     病気を超越する法

 病気とは心が病み、心が痛むのであって、心の病、心の痛みを「肉体が痛みを感ずる」という不合理な迷信によって、肉体の上に投影し、最後にその心の力によって、肉体の化学的成分、肉体の生理的作用にまでも病的変化を起こすことになるのであります。

 ここの道理がわかって来ますと、われわれはけっして自分の欲しない肉体の状態を、自分の心に想像しないようにしなければならないのであります。肉体を強くしたいと思うものは、かりそめにも、自分の肉体を弱いと思ってはなりません。また「弱い」といつてもなりません。
 世間にはおうおう「わたしの生まれつきは体質が弱いもので」などと口癖のように弱音を吐く人がありますが、言葉は必ずその言葉の意味相応な想念感情をよび起こし、その心の働きに従って肉体もまた弱くなって来るのであります。

 一つの病気が肉体に発生する――それは水仙の球根から芽が出て蕾(つぼみ)ができ、花が咲くようなものであります。水仙に水仙の花が咲いてほかの花が咲かないのは、水仙の心の中に水仙の花の形が貯えられているからであります。
 中耳炎になるとか鼻茸(はなたけ)ができるとかしますと、外科医やふつうの人たちは、ただそれは肉体にだけ病気の部分ができたのであるから、その病気のところを切ってほかしてしまったら、もう病気は無くなるように思っています。けれどもいくたび施術して病気のところを切ってほかしてしまいましても、その施術と同時に心の病気を消滅さすことができなかったものは、いくたびでもその病気が再発するのであります。

 施術しまして病気のところを切ってほかすということはなるほど、一時的には手っ取り早い治療法には相違ない――それは水仙の花の嫌いな人がその「花」だけをことごとくキレイに切ってほかすようなものであります。しかし、その水仙が生きているかぎりは、そのうちに「花」や「蕾」の元になる「念(こころ)」があるから、また「蕾」をこしらえ同じ形の花を咲かせるようになるのであります。

 病気もまたそのとおりで、施術は手っ取り早いが一時的の効果しかない、心から「病気」の素(もと)を取り去るのは、たとえば水仙を根から引っこ抜いてほかしてしまうようなもので、根から引っこ抜いても、水仙の花はしばらくはいきいきとしているかもしれないが、今度こそは根本的にその花が出なくなり枯れてしまうのであります。

 水仙には水仙の花が咲き、梅には梅の花が咲くように、人間にも、おのおのの人に時々咲き出でる病気には一定の型があるのであります。
 耳の悪い人は一時治っていたかと思っても、またしても耳鼻咽喉系統の病気にかかる。
 ずいぶん消化器などは達者なのに、風邪ばかり引いているという性質(たち)の人もある。
 しじゅう胃腸が悪いのに決して耳鼻の病気にならないという人もある。
 このように人間の病気にも一種の「傾向」とか「個性」とでもいいうるような一定の型があるのは、水仙の心から水仙の花ばかりが咲いて他の花が咲かず、梅の心から梅の花が造られて他の花が造られないと同じであって、これは、病気の本源が心にあって心に設計されたプランのとおりに、肉体にその病気が具体化して来てその他にはなりえないという証拠になるのであります。

 で、あらゆる病気にかからぬようになるには、心のうちにあらゆる病気の設計図を描かぬようにしなければならないのであります。つまり決して病気というものを心に思わず、病気の説明の本を読まず、治療法や売薬の広告を読まないようにしなければならないのであります。

1401復興G:2012/10/06(土) 22:20:08 ID:vWpLkCzM

<第7回 WEB誌友会用テキスト>
 『生命の實相』 第1巻
  《實相篇(上)光明の真理 第7章》 より(4)
       (頭注版 p.201〜204)
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 こう申しますと、なかには「自分は病気のことなど一度も思ったことがないのに、病気にかかっているではないか」と抗弁せられる方もありましょうが、そんな方はまだ「心」というものの研究がたりないのであります。
 海の水を見ていると紺碧に澄みきってその中にはいっけんなんにもないように見えるかもしれない。けれども潜水眼鏡をつけて海の中にはいって眺めて見ますと、いつの間にはいったのか、いろいろのものが沈んでいる、いろいろの生物が泳いでいる、その中には人間にとって有害なものもあれば有益なものもあると同じように、われわれの意識(こころ)の海の中にはいつの間にはいったのか、ふとした新聞広告や電車内広告の記事からでも病的観念が染み込むので、いろいろの観念が泳いでいるのであります。
 このいろいろの観念の中から、われわれの害になる「病気の観念(たね)」だけは病気になりたくない人はぜひとも取り除かなければなりません。それには一種の心的施術が要るのでありまして、今後なるべく病気を思わないようにするというだけの消極的手段だけでは、もうすでに「心」の底にはいり込んでいる「病気の観念」を破壊するにはたりないのであります。

 こちらから進んで積極的に、すでにはいり込んでいる「病気の観念」を攻撃し、破壊するようにしなければならない。
 それには、「病気の観念」を積極敵に攻撃して、「おまえはわたしの心の底にいる権利があるように主張しているけれども、おまえは本当はわたしの心のうちにもどこにも存在する権利はないのだ。神の造らないところのなんじはいかに実在するかのような仮面をかぶっていても、本当は実在しないではないか」という道理を諄々(じゅんじゅん)と自身の病気に説き聞かせてこれを論破する必要がある。

 靜坐と精神統一と信仰とをむすび合わして、「病気の観念」を論破して本来の無に帰せしめる方法が、生長の家道場で毎日実修せしめている「神想観」であります。読書によって自身の「心」に諄々と説いてきかせて「病気の観念」を論破して、本来の無に帰せしめる方法が、『生命の實相』の毎日読誦法であります。『生命の實相』を毎日繰り返し読んでいるうちに病気が治ったとの報告があるのは、ちょっと聞くと不思議な奇跡のようでもありますが、われわれの「意識(こころ)」と肉体との関係を十分研究してみるとそれは当然の科学的結果であります。

     本能的の健康法

 われわれがよく聞くことでありますが、「わたしは皮膚を鍛練するために毎日冷水浴をし、呼吸器を強健にするために戸外で深呼吸をしているのにやっぱり風邪をひいて困る」というような人があります。
 そうかと思うと「わたしは少しも固いものを食べないようにし、お粥やパンやオートミールばかりを食べているのにしじゅう胃が悪くて困る」という人もあります。
 こんな人が健康になれないのは、「健康」すなわち「生命力の充実」は何か物質的方法で来ると思っている根本観念に誤りがあるので、この根本観念に根本的革命を加えればなおるのであります。

 「健康」すなわち「生命力の充実」は「生命」そのものを、順に、自然に、正しい道にのびのびとさせることによってのみえられるのであります。そのためにはまず「心」が「迷い」から解放されて、その自然に帰らねばならないのであります。

1402復興G:2012/10/06(土) 22:21:08 ID:vWpLkCzM

<第7回 WEB誌友会用テキスト>
 『生命の實相』 第1巻
  《實相篇(上)光明の真理 第7章》 より(5)
       (頭注版 p.204〜206)
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 「生長の家」では、いわゆる「健康法」だの「衛生」だのというものを無視してはしまいますが、わざと不養生をしたり、不衛生をしたりするようにすすめるのではありません。「心」が「迷い」から解放されて自然にかえり、「生命」が順に正しい自然の道にのるようになると、直覚と本能とに導かれて、おのずから生活が本当の自然になります。
 生活が本当の自然になれば、生活全体が健康法にも衛生にも自然にかなうようになって、今まで人為的に生活が健康法に適うようにと心がけていたものが、今度は本能的に健康法に適う生活ができるようになるのであります。

 正しい本能は誤れる人知の小細工よりもわれわれを健康に導いてくれるのであります。鳥獣は、彼らが自然の山野に生活しているかぎり、完全に健康であって決して病気にならないのであります。雪を踏んで歩む熊も、露にぬれて餌をあさる小鳥も、寒さに負けて風邪を引くということはない。それは生活が正しい本能に導かれ、自然に健康法にかなう生活をしているからであります。
 ところが山野の鳥獣を捕獲してきて人間の雰囲気内につれて来ると、いろいろと暖房装置に気をつけてやっているにもかかわらず、ともすれば病気にかかったり風邪をひいたりするのであります。これから考えてみましても風邪をひくというのは必ずしも寒さのためではなく、生活が不自然になったからだということがわかるのであります。

 別所彰善(べっしょしょうぜん)氏の著書のなかにもお腹をこわしてもうほとんど動けないようになった猫をかわいそうに思って、どうせ死ぬなら暖かい柔らかな蒲団の上で死なせてやりたいといたわって柔らかな蒲団の上に寝かせてやると、いつの間にかそこを逃げ出して冷たい土の上へ腹ばいになって、腹を冷やしてジッと死んだようになっている。これではよけい病気に悪いだろうと思って、またまた柔らかな蒲団の上へ連れて来てやると、人の見ている間はそこにジッとしているが、いつの間にかまた冷たい土の上へ腹ばいになってジッとしている。
 ところが、ちょっと人間知では衛生に悪いと考えられるようなお腹を土で冷やすということが、かえって自然な健康法であるということをこの猫は知っていたのであって、この自然的健康法が効果をあらわして、しだいにその猫が元気を回復してきたという実例が書いてあるのであります。

 とにかく、人間は「自然に還る」ということが必要であります。自然的健康法ということが唱えられますが、生活の形式を自然に還すまでに「心」を自然に還す、すなわち「心」から迷いをとり去るということの方がいっそう必要であります。心が自然にかえれば、生活の形式もひとりでに自然に還るようになってきます。

 食物の嗜好(このみ)などもおのずから変わってきて、自然に健康的食物が好きになってくるのであります。『生長の家』を読み出してから、いつの間にか食物の嗜好が、以前には濃厚な肉食が好きであったのが、近ごろはかえって淡白な野菜が好きになったといわれる方もあれば、酒やたばこが前には無くてはたまらなかったが、このごろは喫(の)むまいと思ったら無くてもすむようになったといわれる方もある。以前には甘味品が好きであったが、近ごろは砂糖気のあるものは好まなくなったという人もあります。
 つまり、これは『生長の家』を読んで「心」が実相を悟った結果、実相の反映として、その人の生活が自然に還るようになったのだと思われるのであります。

 どんな修養でも、外から、形の方から「これは悪いことだからやめましょう」というふうに矯(た)め直すばかりで、内から「想念(こころ)」という映源(フィルム)に正しい相(すがた)を描かなかったら、一、二回は無理に抑えて正しい生活をしてみても、その抑えることが苦しくてたまらない。内から「想念」が反発して来て不健全な生活へ誘惑する、そしてついにその誘惑に負けて外の生活の形もやはりまた元の不健全になってしまう、そこがいわゆる世間の修養というものの欠陥であります。

 修養は外から直してゆこうとする。ところが「生長の家」はうちから、心の根本の自覚から変えてゆこうとするのであります。

1403復興G:2012/10/06(土) 22:21:46 ID:vWpLkCzM

<第7回 WEB誌友会用テキスト>
 『生命の實相』 第1巻
  《實相篇(上)光明の真理 第7章》 より(6)
       (頭注版 p.206〜208)
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     食物療法は仮想

 世の中には断食療法をとく人ももあれば、栄養療法をとく人もあり、なかには大食療法、過食療法までもとく人があります。しかしキリストはいとも明瞭に「なんじら何を食らい何を飲まんと思い煩う勿れ」と、食物を人間ごころで選択する必要のないことを説いていられるのであります。

 何を食べてもよい! しかし、それは時と人とによって必ずしも一定しているものではなく、人間知恵で考えて解るものでもない。心が自然になるとき、腹を土につけて冷やした猫のように本能的に、最も今の自身にとって必用な事がしたくなる。こうして本能がひとりでにつごうがよいよう調節されて来るのであってこそ理想的健康生活であります。

 この境地には「何を食べては悪い」とか「何か食べねばいかぬ」とかいうふうな、外から律する人間知恵に頼っていては達せられない。「心」の根本の持ち方をかえて「生命の実相(ほんとのすがた)」を自覚し、生命は外から養われるものではなく、内から養われるものだということをハッキリ体得してこそ、本能の指示に従い、何を食べても健康によいというふうになるのであります。

     わたしの体験

 わたしの体験で申しますと、わたしはずいぶん以前からたいへん胃腸が弱かったのであります。胃は弛緩(しかん)症で、胃の筋肉の収縮力が弱いのだそうで、何を食べてもなかなか腸の方へは行かないで長時間胃の方に溜っていました。胃の中に食物が停滞している時間が長いので、食べた物が異常発酵を起こして、腸へ行くと腸の粘膜を刺激するのだそうで、毎日下痢ばかりしているのであります。

 医者は、「あなたのように胃の筋肉の弱い者は、胃筋の負担を軽くするためにできるだけ飲料を少なくとらねばならない。食事の時には絶対に飲料をとらぬがよい。それは消化液を薄めるとともに、胃筋肉の負担を重くする。飲料を飲むならば食間に、それも小量ずつ飲んで一時に胃腸に重荷をかけてはならぬ」というのです。

 一時私はずいぶん厳重にそれを励行したものであります。そのころわたしの宅で世話をしていた親類の一青年などは、わたしが食事の時に一滴も飲料をとらないので、自分がお茶を飲みたくても非常に遠慮していて窮屈だったそうで、この事実は私の親類じゅう誰でも知らない人はないくらいであります。

 ところが今ではわたしは食事の時にかなり大きな湯沸しに、一杯の茶をほとんど一人で飲んでしまうこともあります。そうかと思うと一滴も飲まないこともある。飲みたくば飲むし、飲みたくなければ飲まぬし、飲んでも飲まんでもその時の自然の本能にまかせているので、健康法のためにと思ってやってはいませんが、それでいて前には弛緩症だった胃が一升も茶を飲んでも別になんともないのであります。

1404復興G:2012/10/06(土) 22:22:22 ID:vWpLkCzM

<第7回 WEB誌友会用テキスト>
 『生命の實相』 第1巻
  《實相篇(上)光明の真理 第7章》 より(7)
       (頭注版 p.208〜211)
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 わたしが、こういうふうになぜなれたかと申しますと、以前には胃袋というものは一種の物質の袋であって、ある目方以上のものを入れると、ゴムのように伸びてしまって収縮力を失ってしまうと教えられて、それを信じていましたから、信じたとおりにわたしの胃袋は収縮力を失っていたのであります。
 ところが、わたしは「念(こころ)」と「肉体」との関係を研究しているうちに肉体の状態は念(こころ)の状態を形にあらわしたものであるということがわかってきたのであります。
 「念(こころ)」を抜きにした胃袋そのものは収縮する力も消化液を出す力もない。胃袋を収縮したり消化液を出したりする力は念(こころ)にあるのだ。医者はわたしの胃袋を弛緩症だというが、本当は、食物や飲料を恐怖する念が、自分自身の恐怖心のために胃袋を収縮することを怠っているのである。病気は念にあって胃袋にない。今までわたしは胃病だと思っていたが胃病ではなかった――こういう真理がだんだん明瞭にわたしの念に刻まれてくると共に、わたしはわたしの胃の弛緩症を実在しないものだと信ずるようになり信じたとおりに私の胃病は実在しなくなったのであります。

 このわたしの経験と同じようなことがエディ夫人の著書のなかにもあります。それは消化不良症の一児童にグラハム式摂食法を応用した実例であります。

 この児童は消化不良症を癒すために、パンと野菜のみを食し、飲料はただ少量の水のみに限られていたのであります。しかるにその消化不良症は少しも良くならないでますます悪くなって来ました。で、彼はいっそう厳重に食養生を守ろうと決心して一日一回ただ薄い一片のパンだけを水も何もなしに食べることにしました。医者はまた食後三時間たたなければ、その渇いた咽喉(のど)をうるおしてはならないというのでした。
 こうしてこの児童は数年間ほとんど飢餓のなかで生活しましたけれども少しも彼の胃は丈夫になりません。
 医者はあらゆる手段をつくしたがその胃病を治す術(すべ)を見いだすことができないので、「この病気は死ななければ治りますまい」といったりしました。病人の方でもこんなに苦しい希望のない生活を続けるくらいだったら死んだ方がましだと思いました。

 この時、彼はエディ夫人と相識(し)るようになったのです。
 彼は病苦の数年を経過してもう青年になっていました。エディ夫人は彼に真理をといて聞かせました――病気と苦しみとは人間がわれとわが信念でかってに作った幻である。愛の神、全能の神は決して病気を作りはしないのである。だから病気は「実在の世界」にはないのである。神は決して断食や減食をしなければ健康が維持できないようには人間を不完全には造り給わなかったのである。だから、断食健康法などというものは神の造り給いし「実相の世界」の健康法ではない。そんな健康法は夢の中でお化けに追いかけられてやはり夢の中で走って逃げているのと同じである。夢の中のお化けが恐ろしければ夢の中で走って逃げてもなんにもならない。ただ覚めればよいのである。
 真理に目覚めればすべてのお化けが消滅する。つまり「生命の実相(ほんとのすがた)」がどんなに完全なものであるかを自覚したら、本物でないニセ物の病気はおのずから消滅して人間は健康になるのである。――こう彼はエディ夫人から教えられました。

 この真理が彼の病気を消滅させました。もう彼の胃袋は何を食べても痛みませんでした。また欲するものは何を食べても栄養になったのであります。

 そこで皆さんにはこういうことがわかるでありましょう。食物が肉体に害になったり栄養になったりすることができるのは「迷いの心」――一種の信念――がかくのごとき力を食物に与えるのであって、食物本来の力ではないのであります。

1405復興G:2012/10/06(土) 22:23:00 ID:vWpLkCzM

<第7回 WEB誌友会用テキスト>
 『生命の實相』 第1巻
  《實相篇(上)光明の真理 第7章》 より(8)
       (頭注版 p.211〜213)
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 食物は本来、人間に害を与える力も栄養になる力もない。ある人には栄養になる食品も、恐怖心をもって食すれば害になります。ある人に害になるような食品も、神から与えられた食物に人間を害するものは決してありえないということを信じて食すれば害になるようなことはないのであります。

     神から与えられた食物

 ここに大切なことはわれわれのとるべきは、何よりもまず「神から与えられた食物」であらねばならぬことであります。私心(わたくしごころ)で、「何を食らい何を飲まんと思い煩うて」えた食物であってはならないのであります。

 神は「全体の渾一的生命」であり調和の統体でありますから、神の力で循環して自分の食膳にのぼる物ばかりを食べていれば自分の健康も調和してくるのであります。
 「形の世界」は「念(こころ)の世界」の映像(かげ)でありますから、念(こころ)が整うて神に一致するようにならねば本当にその人に適する成分を含んだ食品がその人の食膳に運ばれることにならないのであります。
 分析表や栄養料理の解説書を片手に、できるだけ自分にとって適当な食品を選ぼうと思っても、それは学問上では栄養料理ということになっているかもしれませんが、また相当その栄養料理にその人が信仰をもっていましても、栄養料理ぜめで胃腸がますます弱り、体力がますます衰弱していったような実例はたくさんあります。

 元来、その人にとっていかなる食物が適当であるかは、その人の血液検査をして見てもわかるものではありません。むろん、容貌や外観では容易にわからない。同じひとりの人でも、その日、その時間によってその人にとって必要な栄養分は変わってゆくのであります。
 われわれの心の働き、感情の動かし方の相異でわれわれの血液の中にできる毒素、疲労素、興奮素その他いろいろのホルモンのでき方がちがい、その分量も質も変わって来るのでありますから、この分量と質とがことごとくわからねば何をその人に食べさせてよいかは学問ではわからない。
 だからもし今後医術というものが極度に発達して、これら人体中の生成物を完全に知る方法が発見され、またそれに従って相互に調和すべき食物の供給方法が見いだされないかぎりは医者としては患者に「あなたにはどんな食物が適当しています」などという資格はほとんど無いのであります。

 では、われわれは何を標準として食物を選択したら良いでしょうかと皆さまはおたずねになるでしょうが、――だいたい、こんな事を気にしている事からして、われわれが、宇宙の渾一的生命、大調和の統体たる神から離れた感じをもっている証拠であります。

 生長の家の立場から、何よりもまずわれわれが克服しなければならぬのは、この「神から離れたという感じ」であります。われわれは常に神のうちに生きているが故に、神から離れることは絶対にできない、離れたと思っても離れていない、離れたと思うのは「迷いの心」であります。しかし「形の世界」は「観念(こころ)の映像(かげ)の世界」でありますから、「神に離れた」という感じをもっている以上は、「形の世界」のあらゆる事柄も全体的調和を得たように循環してこないのは当然のことであります。

 われわれが栄養分の調和をうる方法には二通りあります。第一は、外から食膳にのぼる料理が自分にとって必要な成分を含んでいるものであるということであります。
 しかし、これは今申しましたように食物成分の分析や栄養学ではわからないのであります。
 それはわれわれが神すなわち「大調和の統体」と一致したとき、必ず必要なものが食膳にのぼるようになり、またその食膳にのぼったもののうちでも必要な食物に対してだけ大いに食欲が動いてくるのであります。
 われわれが、神すなわち「大調和の統体」に一致しますとわれわれは「本能」に従って行動して食物が自分に調和したものをとることができるのであります。正しい「本能」に従うときわれわれは「欲するところに従ってその矩(のり)を超えず」というようになるのであります。

1406復興G:2012/10/06(土) 22:23:38 ID:vWpLkCzM

<第7回 WEB誌友会用テキスト>
 『生命の實相』 第1巻
  《實相篇(上)光明の真理 第7章》 より(9)
       (頭注版 p.213〜215)
   -----------------------

 この点では人間は「知恵の樹の果」を食べて人知というもので、病理学だの、衛生学だの、栄養学だのという「迷いの学問」を作りあげ、あくまでもその学問の力で食物を選択しようとしていますから、学問を超越した生命自身の選択力――正しい「本能」――を非常に鈍らしているのであります。この点では動物の方が偉い、ひよこでさえ卵の殻を破(わ)って出るとすぐ、何が自分にとって適当な食品であるかを本能的に知っているのであります。

 蚕(かいこ)でも、毛虫でも、どの植物の葉が自分の食品として適当であるかを知っていて誤らない。また食物を子供に当てがってやる毛虫の親にしても必ず自分の子供に適当な食物を与えるのであって、人間のように、親の与えた食物の選択が誤っていたために子供が腸をこわしたなどということはないのであります。
 毛虫の親は蝶でありますが、蝶は必ず自分の子供が孵化して幼虫となった時に食物となるべき植物に自分の卵を生んでおくのであります。こうなると人間最高の知恵の結晶たる大学教授の栄養学よりも、毛虫の「本能」の方がすぐれているといわねばなりません。
 われわれはまた、野生の毛虫が食い過ぎて胃腸を悪くしたという実例を見たことはありません。またわれわれは犬や馬が過淫で神経衰弱になった例に接したこともありません。「正しい本能」に導かれるものは、決して過食することも、過淫することもなくなる。これは正しい「本能」というものが生命自身の選択力、調節力の発現であるからであります。

     本能を正しくする道

 では、「本能」を正しくするにはどうしたらよいか、われわれはエデンの園で人類が一度蛇にだまされて食べたという「知恵の樹の果」をことごとく吐き出してしまって、神の英知(ちえ)を心の中に吸い込んでその導きにおまかせしなければならないのであります。

 では「知恵の樹の果」を吐き出すにはどうしたらよいでしょうか。「生命」を「生命」とせず人間を物質的機械と観ずる在来の「迷の学問」をば、「生命」を「生命」として取り扱う真学問の光りで照破するのが何よりもよいのであります。
 仏典にも、聖書にも、日本の古典にも、「生命を生命として取り扱う真学問」が書いてあるのであります。これらの聖典が尊いのはそれが釈迦の言葉だから尊いの、イエスの言葉だから尊いのというわけではなく、この「真学問」が書いてあるから尊いのであります。
 しかし、仏典、皇典の難解はいうまでもなく、聖書にしましても、表面はかなりやさしいけれども、それは霊感によって書かれたのでありますから、表面の字句だけを読んで、霊感でこれを読むことができなければ、本当の真理がわからず、真理がわからねばせっかく読んでもなんにもならないのであります。だから仏典でも、聖書でも、古典でも、それを読んで病気が治ったという人はめったにない。それは読んでも本当に解らなかった証拠であります。

1407復興G:2012/10/06(土) 22:24:14 ID:vWpLkCzM

<第7回 WEB誌友会用テキスト>
 『生命の實相』 第1巻
  《實相篇(上)光明の真理 第7章》 より(10)
       (頭注版 p.215〜217)
   -----------------------

 宗教家のうちには、「病気などを自分で治すことは考えていない。そんな現世利益(げんぜりやく)はどうだってよい、自分は霊魂(たましい)の救済を考えているのだ」という方があるかもしれませんが、それはやせ我慢か、でなければ無知かであります。
 「真理の世界」に病気は無いのでありますから、真理を知る以上は病気の夢がことごとく破壊されて、無病なる本来の完全な生命状態が顕れることが当然なのであります。それができなければ真理を知ったということはできません。
 ところが『生長の家』誌を繰り返し本当にわかるまで読んでいる方には、ぞくぞく病気が治ったり、大食癖が治ったり、喫煙癖が治ったりして「生命」本来の完全さを肉体の上に実現せられつつあるのであります。これはなぜかと申しますと、『生長の家』誌には「生命の実相(ほんとのすがた)」(真理、神、道)がいかにも解りやすく書いてありますから、むつかしい仏典、聖書を読むよりも、真理を知りやすく、真理を知るにしたがって、自己の生命の完全な実相がアリアリと肉体の上にも映し出されるからであります。

     島薗内科における西田天香氏の実験

 それはさておき、われわれが栄養物の調和をうる二つの方法のうち、外からわれわれの食膳に上るものは、摂理と本能とによってかくのごとくして調節されるということについては説明を終わりましたから、今度は内からわれわれの生命力がいかに自分の栄養を調節してくれるかということを述べておきたいとぞんじます。

 数年前に京都帝国大学医学部内科の島薗(しまぞの)博士が、脚気の病原を研究するため一燈園の西田天香氏はじめ数名の一燈園同人を、モルモット代わりにして数十日間厳重にビタミンBをぜんぜん含まない食物をとらせて実験せられましたところ、その実験台になった西田氏はじめ数氏とも決して脚気にかからなかったという事実があるのであります。

 この場合はことさらに実験でありますから自然に循環して来る外からの摂理を遮断して、食膳にのぼる食品の種類をわざと不健全なものに限り、本能的嗜好を利用して栄養の不足分が自然的に補われるということもでき難くしてあったのであります。このように外からは摂理も本能も利用することができないけれどもさすがは西田天香氏であり、一燈園の同人であります。心の平和が常人と違う。心に一点の恐怖もない。

 わたしは雑誌『生長の家』第二集第二号に「心の平和の生かす力」という題で、心の平和がいかに絶大な治病力を発揮するものであるかを書きましたが、その真理がこの場合にも実証されたのであります。わざと病気になるように献立された食物、ぜんぜんある種の栄養素を除き去った物ばかりを数十日間食べさせられても病気一つ起こさない――この否定し難き事実は何を語るでありましょうか。それは心さえ平和であるならば、決していかなる食物もわれわれの健康を害することができないという一大証拠があげられたことになるのではありますまいか。

1408復興G:2012/10/06(土) 22:25:29 ID:vWpLkCzM

<第7回 WEB誌友会用テキスト>
 『生命の實相』 第1巻
  《實相篇(上)光明の真理 第7章》 より(11)
       (頭注版 p.217〜219)
   -----------------------

     食物の小言は禁物

 よく滋養物だの栄養料理だのといって、「知恵の樹の果」の一種なる栄養学にとらわれている方がありますが、そういう方に限って、その日その日の食膳にのぼる食物をなんらの権威のない栄養学の立場から批評して、コレは悪いとか、アレは悪いとかしじゅう小言ばかり云う傾向があるのであります。小言は心の平和が乱れた証拠であります。
 よほど修養のできた人でも、栄養学にとらわれている限りは小言を口でいわないだけで、心の中には「こんな物は滋養にならぬ」とか、「こんな物は胃腸に悪い」とか不平や恐怖をとなえながら食べているものであります。すると食物そのものは決してわれわれの健康を害することがないにもかかわらず、心が平和を欠くために、心でその食物が身体に悪いだろうと予想し恐怖するために、その心の乱れを整理作用に映し出して、その人の健康はしだいに調子を乱してくるのでありまして、食物そのものにわれわれの生命を害する積極的力はないのであります。

 このようにわれわれの肉体の栄養分の調節は、外からは摂理と本能がやってくれ、内からは自然の生命力が調子をとってくれるのでありますから、われわれは何も自分で何を食らい何を飲まんと思い煩う必要はないのであります。
 もし外からの調節ができなくなり、外界からある栄養素をぜんぜん引き抜かれましても、心さえ平和であればわれわれは一燈園の西田天香氏のように病気にならずにいられるのであります。
 だいいち、神の子たるわれわれ人間、創造(つく)られた物のうちでも神のもっとも完全な万徳を賦(あた)えられてすべての多のものを支配する権力を与えられたわれわれ人間が、消化不良といって、食べた物質にアベコベに支配されるというわけはないはずであります。
 だからもし諸君が消化不良であるならば、もし糖尿病であるならば、もし腎臓病であるならば、そのほかおよそ食物に原因するという病気にもしかかっているならば、今後決して、食膳にのぼる食物の成分を考えたり、固さを考えたり、これを食べてはよいか悪いかなどと考えたりしないで、自然の摂理によって食膳に運ばれて来るものを、神から与ええられたる自分にとっての最善の食物として感謝して素直に食べるがよいのであります。
 これが唯一のこの種の病気の心的治療法であります。

 生命や活力やその他なんらかの積極的力が物質そのものにあるという信念――こんな迷いの信念を捨てて、「われこの食物を神より与えられたれば、最善の食物なり」との信念で、いかなる食物をも平和な、素直な恐怖のない心でとるとき、この正しい信念が自分で自分を養うて、その人はいかなる食物からでも人一倍豊富な栄養を吸収することができるのであります。

<完>

1409a hope:2012/10/07(日) 07:21:58 ID:r8H4x9xE
新版 人生読本 谷口雅春先生著

第三章 恐怖の心を捨てましょう
♦恐れないためには


それではどうしたら人間は恐れなくなるかと云いますと、人間は神の子であり、神様がまもっていて下さるのであり、
人間の内部には丁度私の童話の『ファウスト物語』の中にある「黄金(きん)の筥(はこ)」のように、
それをさすって念ずれば、何でも思うものが出て来、何でも思うことが出来る「生命(いのち)の力」が宿っているからなのです。

吾々の内に宿っている「生命の力」は神様が何でもほしいものを引き出すために与えて下さった魔法の「黄金の筥」なのです。
自分の生命の中には目に見えない秘密の「黄金の筥」があって心で念ずれば何でも出て来ると、先ず信じなさい。
(つづく)

1410a hope:2012/10/08(月) 08:04:50 ID:r8H4x9xE
>>1409訂正 一行目
 新版 人生読本 → 新版 生活読本

新版 生活読本 谷口雅春先生著

第三章 恐怖の心を捨てましょう
♦問題をやさしく解くには


その次には、吾々が恐れているものは、恐れているから、恐ろしい姿でやってくるけれども、
恐れずにいれば、その恐ろしいものは決して出て来ないものだと云うことを知らねばなりません。

犬などでも恐れて逃げると追いかけて来て後から吠えつきます。
だまって静かに平気で側(そば)をあるくと、知らぬ顔をしています。
美味しいお魚の骨でもやって「コイコイ」と云うと、やさしい友達になってなついて来るのです。

何でもこの犬のとおりで、自分がこわがるからこわい形に出てくるのです。
犬と仲よしになるように、すべてのものと仲よしになることです。

学校の学科でも問題を恐れていると、いよいよ恐ろしい、むつかしい問題に見えるのでよう。
これは、やさしい問題だ、問題と仲よしになろうと思って、楽しみながら問題にぶつかると、ふしぎに楽にその問題が解けるのです。

病気にかかったときでも、こんな病気位すぐ治るのだと恐れずにいますと、本当にすぐ治るのです。
「これは大変だ。死ぬかも知れぬ」などと思うと、その恐れる心で身体に毒が出来て中々治らぬことになるのです。

ランニングをしていても競争相手おそれると負けてしまいます。
「私は神の子なんだもの、神様と一しょに走るんだ、神さまが走らせて下さるんだ」と思って一所けんめい走りますと、
不思議によく走れて、一等になれるのです。何をしてもこのコツです。

負けることを恐れる者は負けますし、必ず勝つと信じている者は必ず勝つのです。
(第三章 終り 次回から 第四章 明るい心を持ちましょう へ)

※「第七回 web誌友会」が終了するまで、聖典「新版 生活読本」の謹写をお休みさせていただきます。

1411うのはな:2012/10/09(火) 19:24:17 ID:bZiCwTy.
『運命の原理』 谷口雅春 先生著  (投稿者 現代字に変更)

   法と我とを分離するもの

 法悦と云うものは天地萬物同根だと云う哲学などで殊更にそう感ずるのではなしに、
本当に吾吾の生命は悦びであると云う實感が湧いてくるのでなければなりません。
 若しそれが湧いて来なかったら、何か霞のようなものを隔てて『法』を見ているのであって、
アリアリと『法』に直接接しているのではない。

 一枚の紙があって『法』と『自分』との間に挟まれているようなものであるから、『法』そのもの
は悦びであっても法の本当の悦びと云うものが分らないのであります。ですからこの一枚の紙を剥ぎ取って
了う必要があります。その一枚の紙とは、我見と云いますか理屈と云いますか、兎も角も宇宙全体と一つにならない
ものがあって『法』とぴったりしないことを云うのです。

 『法』とぴったりしなければ『法』そのものが悦びであっても、その間に挟んである紙を透してぼんやりと見たり、
或は三角ガラスを透光するような屈折作用を起して見るものですから、それが歪んで見えることになるのであります。
ですから、どんなに偉い哲学者であろうとも、またどんなに偉い宗教家であろうとも、生活に法悦のない人はまだ本物で
ないのであります。この儘この世界が寂光土と申された方もありますが、寂光と云う言葉ではその悦び満つる世界、法悦の
世界である。

 ですから、『法』そのもの、實體そのものと一つになっていると、生きていることが悦びそのものであると實感的に感じられて来る
筈なのであります。『法』が悦びでありまして、『法』以外のものは何もないのであります。
ここに云う『法』とは所謂實在でありまして、實在そのもの、實在そのものの他に何もないのであります。
そして、實在そのものが悦びなんですから、實在以外の相がどんなに見えようとも、そんなものは無いのです。
それは要するに活動写真を見ているようなものなのであります。

 そこで『法』と云うものと一體になっていると何時でも喜べる、何時でも喜べない人はまだ本物ではないのであります。
釈迦も王宮を飛出した時分はまだ本物ではなかった。三十五歳の十二月の八日暁の明星の光を見て、『みんな救われている、
有情非情悉く皆佛のいのちで悦びそのものである』と悟った。
この時に本物になったのであります。吾々もその境地に達したならば、不平も不満足も癇癪も何も起らなくなる、そして常に
有難く法悦に満たされて生きておられるのであります。

P160〜 昭和二十一年七月一日 初版発行

1412SAKURA:2012/10/09(火) 20:06:52 ID:jH5uEFzM
トキ様 へ  
観覧者の皆様 へ
こんばんは……   ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1238>>1304>>1307>>1319>>1320>>1324>>1331>>1332>>1334>>1339>>1347
>>1358>>1373>>1376>>1378に関しましては、【ベスト・フレンド】シリ−ズで〜す。

実は、私の「青春シリ−ズの一冊の本」なのです。(討論課題項目が、幾つかに分かれてい
ますが?)意外と真理が、分かりやすい【討論形式】なのです。…が〜〜〜??
❤〜【コロンビア大の方達が、真理…サイコ的】に? ベスト・フレンドは哲学になります…
初歩のかたでも、判り易いのでは〜〜昨日の投稿文章は、皆様!如何でしたかしら〜ン?

・・◆【ベスト・フレンド】  ( 幸福への第一歩 ) 

―――――  ►► 幸福への第一歩 ◄◄ ―――――

|❤しかし、わたしには愛のない人生なんて、とても望めません。

 誰だってそうですよ。愛があるからこそあなたの行動は豊かに、完全なも
のになっているのです。しかし、愛はかならずしもつねに存在するとは限り
ません。そして、あなたの愛を受けとめ、あなたに愛を返してくれるような
人がまわりにいないとき、あなたがどんな気持ちになるか――それは現実に
愛する人を得たときに、愛の体験がいかにすばらしいものであるかというこ
ととかかわってくるのです。

 わたしは大叔母のことを思い出すのです。いま彼女は八〇歳もなかば過ぎ
ており、カリフォルニアの砂漠のはずれに住んでおります。かってわたしは
彼女に「最近はどうですか」と聞いたことがあります。大叔母はこう答えた
ものです。「昼間は十分な時間がなくてね」と、最近、彼女を訪問したとき、
その言葉の意味がようやくわかったのです。

 わたしたち夫婦が彼女の家にいたとき、彼女は読書グル−プの会員をもて
なしていました。毎週、読む本があり、ケ−キを焼いていました。彼女はま
た創作もかいており、そうした文化活動の合間に草花を育てたり、人を訪問
したり、友人や親戚、あるいはラジオのショ−に登場する人などと幅広く交
際しています。
                            (つづく)

1413SAKURA:2012/10/09(火) 20:08:44 ID:jH5uEFzM
こんばんは……   ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1412投稿の続きです…【ベスト・フレンド】シリ−ズで〜す。

それでいて、少しも忙しい様子は見受けられません。つまり、
自分のすることをこころから楽しんでいるのです。二、三年前、一人で外国
旅行に出かけました。そして大変楽しんできました。帰りにしばらくわたし
たちのところに滞在していました。それがまた、彼女には楽しみでもあった
のです。わたしたちと一緒に過ごすことをとても喜んでいました。ところが、
わたしたちがちょっと出かけて留守にしているときでも、まったく幸せその
ものだったのです。わたしたちが帰ってきて、相手をしてくれるのを待って
いるといった気配一度も感じさせたことがありませんでした。
 
 「わたしを慰めて欲しい」なんていう表情は一度もしたことはなかったので
す。大叔母はみずから満足させる方法をすでに身につけていたのです。
  
【幸福への第一歩】は終わりました。次回は【自分のメッセージを聞く】に入ります   
                        
PS:トキ様 へ
「亡き母」が、健在でいました頃は、家に帰りますと、直ぐ!口癖のように〜〜><
「仕事…をするように!」と、そればかりでしたかしら〜〜〜ン!80歳の頃は、まだ
顔見知りの近所のおばさんが、健在で多少は、母なりのコミュニケ−ションが〜〜〜?
でした。…が?その後のことですが?叔母さんの息子さんが、栃木に当時居住していま
したので、その息子さんが、ある事情から?当然引き取る様になりまして、その後?
人間関係が一つのきっかけにて【ボケ症状…】が、その叔母さんに出てきましてからは、
娘さんが小倉に住んでいますので、今度は、娘さんが、引き取ると治るだろう
という感じで、その後!ピタッと〜〜〜><簡単に他界されたのです…。

この様に…私自身の亡き母も、ある一定年齢からは“本を読む事!!”もなくなり…?
この頃「亡き母の書物」を、開きますと?母が読んだのでしょう〜〜〜その本のペ−ジ
のある部分に、赤鉛筆でボ−ダ−ラインが〜〜〜><フト!痛々しい感じでしょうか?

字が読みにくかったのでしょうか?いろいろ「亡き母」の健康状態を顧みまして、
いずれにしましても、私もいつかは?“加齢…”です〜〜〜ョネ!今、現在の“信仰”
を携わりながら【心 の 哲 学 の 完 成】更に【心 を 磨 く】には、やはり
“本を読む事”なのでしょうか〜〜〜???

■現在!社会問題としての【認 知 症】この事は、一人一人がもう一度、考える
必要性があるのでは〜〜〜と思います。…が?

作者の【大叔母さん…】は、すごいです〜〜〜ョネ!今!私の身近には、正直申します
と?そのような方は、現在はおらず…という感じが致します。…が?少し前は、
「栄える会…」にて、亡くなられます直前までは「本を読む事」を、なされました方
が、いらっしゃいましたのです〜〜〜ョネ!確か?84歳でしたか…!(永眠)
一人暮らしでいらっしゃいましたが……!本当に、精神面が強い方と……!!更に、
凄い方なのです〜〜〜ョネ!80歳から“誌友会”を発足されましたのです〜〜ョネ!
最後に、息子さんの一人が??“本部講師?職員?”でしたでしょうか??

余談ですが…亡くなる前に一度!意識を取り戻されまして…おっしゃいました“言葉”
❤〜【いつまでも…親がいると思うな〜〜♫〜〜】との“言葉”を……

さて「トキ様」も、このような“人格者の方”が、身近におられますか〜〜〜?
ご高齢で、この様な「人の押しつけもしない感じの方」は???本当に……?
                                再合掌

1414うのはな:2012/10/11(木) 13:10:36 ID:CVNuh5cE
悪とは創造途中の善   『百時如意』 谷口雅春 先生著

 フォード 体験上教えられる点から云えば、消極思想は積極思想よりも教えられる点が多いですね。
 と云うのは人間と云うものは間違いによって教えられ、困難によって反省せしめられるからです。
 吾々が悪と称するものは、要するに私には、暗黒の中で頭を打ち衝けているようなものなのです。
 時には、ひどい頭の打ちようで、これは堪らないと思うこともありましょうが、人間はもっと別の方法で体験
 を得る準備が出来ていなければ斯うして頭をぶつ衝けながら体験を積むほかはないのですよ。
 無論、心の持方の準備さえ出来ていれば、頭を打たないで経験を得る方法もあります。

 トライン それで思い出しました。エマースンが、悪とは今だ『創造されつつある善』であると云いましたっけね。

 フォード 其処です。『間違い』は経験の源であり、智慧の泉である経験の精髄なんです。

 トライン 恐らく人間が此の地球に生を享けたのは、殆ど全く経験のためなんです。

 フォード 私はそれを確信しています。吾々は此の地球上の生活から得られる筈の全ての
 経験を得終るまでは地上に生を享けるのです。

 トライン もう一つ吾々が地上に生を享けている目的があると思います。それはある友人が
 私に話してくれました。貴方もその説は御存知で余程其の方面には興味をお有ちのことだと
 思いますが、ほら地上は、若き霊魂たちが霊魂の休養のために新しい空気を吸いに来る処だと云う
 ことです。これは、彼ら霊魂の特定の時期に極めて重要なことだそうですねえ。

 フォード 若き霊魂たちはその仕事から大いに魂の休養を得るんですよ。

 トライン 若き霊魂たちが或る種の『魂の休養』と云うか、『気晴し』と云うかを得なければ
 ならんのは当然ですが、その『気晴し』が正しいものであれば結構ですが、悪い種類のものであれば
 その結果苦しみを受ける..........

 フォード 人間は自己の一切の行為から経験を積むのです。

 トライン 人間に必要なことよりも間違いを多くやりすぎて犠牲を拂っていやしないでしょうか、
 そして、その度毎に多大の損失をやっている?

 フォード 或は損失をやっているかも知れないが、私の知っている殆ど全ての人は、その人特有の
 そうしたやり方で経験を積み教えられなければならなかった人のようです。
 ジャズを例に引いて見れば、ジャズには随分非難もあるが、私はジャズのことは深く知らないが、ジャズ
 が与える経験を必要とする人だけがジャズの方へ引付けられて行くのではないでしょうか。

 トライン ダンスに就ては一般からその価値が再吟味せられようとしている。
 古典的なものを貴方のお好みになっていることは今更云う迄もないですが、そして本当の味と云うものは
 古典的なものの方にあることは勿論ですが、この方面で貴方は何か霊魂の進歩が得られると云うような希望が
 ありますか、何かそれの利益と云う風なものが?どうお考えですか?

 (投稿者 現代字に変更書き)P99−101

1415ハマナス:2012/10/11(木) 23:53:22 ID:mR2szZkc
神の子のみなさま
ご無沙汰しております。帰って参りました。

今日から『新版生活の智慧365章』の第四部健康の泉に入ります。
「第十篇 肉体の苦痛はどこからくるか」

苦痛は心にある

若しあなたの肉体に苦痛が起ってて来た場合、その苦痛を実在だと思ってはなりません苦痛と云うものは。苦痛と云うものは心の状態なのです。肉体は単なる物質として存在する限り苦痛は感じられない筈です。所謂る「物質」には知覚がないからです。心が苦痛を感じ、心が苦痛を「実在」として感ずる限りに於て苦痛は益々増大するのです。

あなたの腋の下を人にさわらせて御覧なさい。心がそれを気にもとめねば何ともないのです。心がそれを擽(くすぐ)ったいと気にし始めるならば、いくらでも擽ったくてたまらなくなるでしょう。物質的事実はそれを心につかまなければ何ともないのです。心にそれをつかみ始めるとき苦痛や擽ったさがでて来るのです。「病気だ」と思うとき、心がその病気をつかみます。其処から苦痛がはじまるのです。

感謝合掌

1416さくら:2012/10/12(金) 23:37:37 ID:e8ieIrPA
ハマナスさま

お帰りなさい〜お待ちしてました。
…ますます清らかになられましたね、笑。

いつも聖典謹写真の行に励まれ、ありがとうございます。

短くて読みやすいので助かります。

涼しい季節になりましたので、ご自愛ください…。

感謝合掌。

1417ハマナス:2012/10/14(日) 01:53:39 ID:x2zmnlqw

神の子のみなさま
さくら様

ありがとうございます。
ただいま! 念願のYale大学とHarvard大学に行ってきました。
まだ、時差ボケしていまして、昨日も投稿できませんでした。すみません・・・

「間違ったレントゲン写真」 (『新版 生活の智慧365章』P.262)

 集団検診で自分の胸部のレントゲン写真をとって貰って、其処に大きな黒い影や空洞が
写っていることを指摘せられます。そして明らかに肉眼で見て、自分は結核に侵されて
いるのだと信じます。すると、今まで元気であった活力が肉体から抜け去り、無限の疲労
感が全身に覆いかぶさって来てほとんど動けなくなります。ところがそのレントゲン写真は、
番号の隣の人のレントゲン写真であって、写真の順序がくるっていたので間違ったのだと
わかった時には、一ぺんに其の人の疲労感や、胸の重圧感はなくなって、活力が全身にみな
ぎって元気になって来ます。

胸を結核菌にやられていると云う考えを捨てなさい。胸を結核菌におかされていると思って
常に胸に心を集中していると、其処に血液は停滞し充血を来して新陳代謝が不完全となり、
若し病菌がいるならば却って病菌が繁殖し易くなるのである。心が病気を作り、心が病気を
治すのです。

感謝合掌

1418さくら:2012/10/14(日) 06:31:22 ID:d3HE6i2s
みなさま。おはようございます。

ハマナスさま

海外だったのですか!ステキですね〜。
大学巡りとはアカデミックな旅ですね、笑、
時差ぼけには、昼間太陽の光をたくさん浴びることがよいですね、

…ここへ来ましたので、島に書いたご文章ですが、
最近繰り返し読ませて頂いている箇所を、短く謹写させて頂きます。

「高く廣く大いなる神の御言葉ー汝等天地一切のものと和解せよ、との七つの燈台の點燈者の神示。
此處に神がましまし、萬教の真髄がこもる。
天地一切和解とは絶対感謝である。
有無を云はずに無条件感謝である。其の儘感謝である。
これが甦りの生命である。
神の子となるとは絶對感謝の誕生である。
有難いと云ふ心の無い處には神は居ない。
絶対感謝の無い悟りは悟りの幽霊であるにすぎない。
天地一切和解とは絶對が誕生することであり、絶對にまみえることである。」

『常楽への道』吉田 國太郎先生著



1419ハマナス:2012/10/14(日) 12:52:14 ID:mR2szZkc

みなさま
おはようございます。

さくら様
アドバイスと素晴らしいご文章をありがとうございます。
「絶対感謝」の言葉、心に響きました。

感謝合掌

1420ハマナス:2012/10/14(日) 23:13:38 ID:x2zmnlqw

神の子のみなさま
こんばんは。

 無いものはナイ (『新版 生活の智慧365章』P.263)

 心を一転しなさい。現象はどうあろうとも、現象は結局うつり変る姿ですから
気にとめないで、あなたの実相の完全さに心を転じなさい。実相のみ実在であって、
現象は実在でないから現象がどうあろうとも心にかけることは要りません。あなたの
実相は神の子であって、今現に健康なのです。健康のみが実在なのです。

 病気なんてものは、神が作らないから、どんなにアルかの如く見えてもナイのです。
無いものは無いのです。それは夢の中で、病気にかかっている夢を見ているようなもので、
その病気には実体がないのです。実体のない病気を実体があるなどと考えるのは妄想です。

『般若心経』にはナイものをアルと思う「サカサマの想い」を「顛倒夢想」と書いてあり

ます。そんな「サカサマの想い」を捨てなさい。夢の中で物を見る心は、その心もニセモノ
です。ニセモノの心を「妄心」と言います。「妄心」を捨てなさい。

感謝合掌

1421a hope:2012/10/15(月) 08:27:27 ID:8tjYhMb6

新版 生活読本 谷口雅春先生著

第四章 明るい心を持ちましょう
♦健康を考えて健康を得よ


悪いことや詰まらぬことなど、考えないように致しましょう。
これを食べたらお腹をこわすとか、寒い風にあたったら風を引くとか、つまらぬことを思わないようにしましょう。

思うとおりにあらわれるのが、心の法則なのです。
「わたしは神の子だから常に健康で楽しくて、愉快だ」と考えるように致しましょう。
そう考えると、いつも愉快で達者でいられるのです。

乞食はゴモクの半分腐ったような食べ物をひろって食べても一向に病気にならないのです。
浮浪児は、貰ったオニギリをゴミだらけのきたない手で、鷲づかみにして食べていても一向おなかをこわしません。
布団もなしに、夜露のおりる上野公園でねていながら元気で病気にかかりません。
それは病気なんて思わないからなのです。

ところが、よい家に育った坊ちゃんや、嬢ちゃんは、病気にならせてはいかぬ、
風邪を引かせたらいかぬ、お腹をこわしたら大変だと、始終小さいことに気をつかって、
注意に注意をかさねていても始終病気になっているのが多いのです。

それは何故ですか。
それは「病気」のことを始終思っているからなのです。
「病気になったら大変だ」と始終思っているからなのです。

こう云う人はアメリカではトラブル・シーカー(trouble seeker)と云って軽蔑(みさげる)されています。
病気のない間から、病気が何処かにないかしらと、さがしまわっているようなものなのです。
それだから、病気をさがし当て、小さい病気でも、心で恐れて大きな病気にしてしまうのです。

キリストは「求めよ、さらば与えられん」と申しましたが、こう云う人は、病気を求めて病気を与えられるのです。
それよりも諸君は健康を求めて健康を得たらよいでしょう。
(つづく)

1422うのはな:2012/10/15(月) 12:05:53 ID:JsVayk8A
   自壊作用は魂を磨かれる機会

  先生の御本に“自壊作用がこなくて、全てが整うというような甘い考えを持つな”
というお言葉を拝見したことがございます。私宅にも、「神想観をやり、『甘露の法雨』
を誦げているが何か調子が良くゆかない」という誌友さんがいらっしゃったのでございます。

 長いこと生長の家の本をお読みになっておられるそうですけれども、実はどこを読んでいるのか
分らないような読み方だろうと思います。その場合、その人にそれだけの自壊作用があるということは、
その人の魂を、今ここですばらしく研かれる機会が与えられたのだということを、先生は口がすっぱく
なるほど、私達におっしゃっていただいております。

 私たちはややもすると、目の前の現象が整うことが何よりも良いことかの如く、考えがちでございます。
けれども目の前に良いことが現われたのを良いと思うときは、すでに峠を越したときじゃないかと私は思って
おります。常に私達は、失敗とみえることに直面することによって、すばらしく研かれてゆくんじゃないかと、
“自壊作用”に自分ながら感謝させていただいております。

『實相研鑽』第三集 川野岩五郎氏 P88 谷口雅春 先生監修

1423うのはな:2012/10/15(月) 15:38:25 ID:r.C5sfeA
    生長の家は単なる唯心論ではない

 唯物論を抛棄すると言いますと、その対蹠的な唯心論ということを考える人が
多いのですが、生長の家では「唯神実相論」と言っていまして、「人間の心」が何でも
創造すると云うのではないのであります。

 唯神のみ、実相のみ、実在であって、人間の妄心などみとめないと云うのが、生長の家の
説いている唯神実相論の哲学であります。現象世界というのは、これは神様の造ったものじゃないの
であって、神様の創った“実在の世界”のその表面を、雲の漂うように“心の迷い”をもって蔽いかくして、
もやもやと現している“虚の世界”にしか過ぎないと云うことを、説いているのであります。
実在は満月のように円満完全であるのに、心の曇りがもやんもやとしているから、ハッキリと明るい円満な月が
あらわれないで、薄暗い、斑点のある汚い月が現象として見えている。

その、もやもやっと縺れ紛糾しているこぐらかった心を、さっぱりと、ほどいてしまったら、それが即ち“解脱”であります。
解脱とは一切の束縛から、ほどかれ、脱することで、そうすると、自由自在の本来の実相、実際の状態が現れて来るのです。
これが仏の状態であります。

『涅槃経』には「解脱をもって仏となす」と書かれていますが、私たちは本来の自由自在を奪還して一切の苦厄から解き脱した状態に
なって終うのです。そして人間の「いのちの実相」の円満完全な姿がそこに現れて来るのです。それがエデンの楽園の奪還であります。
楽園を地上に奪い還して、もう一ぺんこの世界を、地上天国的な状態にしようとする運動が、
この生長の家の人類光明化運動であります。

『日常生活の中の真理』 無門関・聖書篇  谷口雅春 先生P167-168

1424SAKURA:2012/10/15(月) 18:14:59 ID:jH5uEFzM
トキ様 へ  
観覧者の皆様 へ
こんばんは……   ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1238>>1304>>1307>>1319>>1320>>1324>>1331>>1332>>1334>>1339>>1347
>>1358>>1373>>1376>>1378>>1412に関しましては、【ベスト・フレンド】シリ−ズで〜す。

実は、私の「青春シリ−ズの一冊の本」なのです。(討論課題項目が、幾つかに分かれてい
ますが?)意外と真理が、分かりやすい【討論形式】なのです。…が〜〜〜??
❤〜【コロンビア大の方達が、真理…サイコ的】に? ベスト・フレンドは哲学になります…
初歩のかたでも、判り易いのでは〜〜昨日の投稿文章は、皆様!如何でしたかしら〜ン?

・・◆【ベスト・フレンド】  ( 自分のメッセージを聞く ) 
―――――  ►► 自分のメッセージを聞く ◄◄ ―――――

|❤ではわたしたちはどうやって、みずからを満足させる方法を身につけ
|ることができるでしようか。どうすればみずからを成長させる方法が会
|得できるでしょうか。

 自分自身に耳を傾ける習慣をつけることが大切です。たいていの人は外の声に自分を合わ
せています。自分のメッセ―ジをはっきりと受け取ることから取りかからなければなりませ
ん。赤ん坊だって空腹のときと痛みを感じたときはわかるのです。しかし、わたしたちが小
さいときには、他人の声の方が自分の声よりもずっと大きく、確かなものに聞こえるもので
す。他人の言葉にしたがっていくのはきわめて容易な方法です。他人の言葉はすでに計算し
ていわれているのですから、子どもはただそのひとつひとつをつなぎ合わせることからはじ
めるわけです。そのうえ、他人様がパンにバタ−をぬってくれるのです。彼のいうことをよ
く聞いていれば、わたしたちはまかないつきの生活ができるのです。こういう他人様と対等
にやっていくためには、自分でなにかをすればいいのでしょうか。子どもとして生き延びて
いくのなら話は別です。しかし、そうでないとすればもう同じことを繰り返していくことも
ないでしょう。
                           (つづく)

1425SAKURA:2012/10/15(月) 18:17:18 ID:jH5uEFzM
トキ様 へ  
観覧者の皆様 へ
こんばんは……   ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1424投稿の続きです…。

 もう一度自分に目を向けるには、ある訓練を要します。まず勇気を出して大声で自分の考
えていることを話さなければなりません。あまり長い間、自分自身の声に耳を傾けないと、
その声にそのうち聞こえなくなってしまいます。なかばあきらめて放棄してしまうことにな
るでしょう。また、あまり長い間、自分の声にふたをしておくと、しまいには猛烈な怒りを
爆発することになるでしょう。とにかくその声は生きているのです。わたしたちはその声に
チャンスを与えてやるべきです。自分の内部の声に耳をかす方法を会得すれば、わたしたち
はたくさんのことを発見し、多くのすばらしい話を聞くことができるでしょう。
       ―――――――――― * ―――――――――――
PSトキ様 へ
若い時は“他人の言葉”に振り回された時期がありました。これは、今思いますと?他人は
ある程度計算が入りますから〜〜【人のつながりはやはり“心の目”で見る…事?】地元の
故郷に帰郷した頃、ただ職場で現在の“服飾関連”をまだトライ!伸ばしたい!と思い当時
の私は“夜間専門学校”に再チャレンジ!入学!しました。その時の“クラス?”にいたの
が【吸血鬼…男・女達】です。彼らの素状?は、女性を覗いて【男性の方?】は、知りませ
んでしたから、ただ知り合いといっても?全く“話し”をかわした事もない状況で、“クラ
スの人間??”ぐらいとの感覚でした。それが何十年振りに街角で見かけて…そこからです
が〜〜><私は見た“瞬間”どうもふに落ちなく…変!変!逆に“パ−トナ−”はオモシロ
イ?というだけで〜どうしても【神様からの啓示??】すっきり感?が〜〜〜如何してもな
く!腑に落ちない点があり〜〜〜!と私は【警戒状態…】【第6感…直感】がやはり〜〜〜
“的中”しました。…が?この時、私は、何故?人は簡単に認める事をしたのでしょうか?
【後 悔…一言】〜〜〜><今!にして思えば…

“今日の言葉”から〜〜“人間関係”の時は“学生時代”と違いますから、当時の私は
【人 類 は み な 兄 弟】のスロ−ガンとして、単純に人を信頼したモノです。
計算ある付き合いも多い、現在の世では、やはり【自分の心を見詰め直す事…】が大事に思えます。
■【自 分 の 声 を 聞 く ???】そうです。“内なる声…”
これはやはり自分の“本当の心”それは〜〜〜【神想観…実相感!】です〜〜〜ョネ!
自分を見つめ直すには【神想観・瞑想】と思います。「トキ様」は、どうでしょうか?
                                   再合掌

1426うのはな:2012/10/15(月) 18:17:38 ID:PYl4tM0Y
個人指導の実際  この御文章は、谷口雅春先生が昭和三十六年の新年特別教修会に
おいてお話し下さいましたことを録音筆写して『生長の家』誌(同年五月号から九月号まで)に
掲載されましたのをまとめたものであります。

  はじめの言葉

 大体今日集まっておられる方は、生長の家の講師の方、或いは幹部の方、それから
今日講師試験を受ける準備をしておられる方が主でありまして、新しい人は少ないと思うのであります。
それで、現在又は将来、生長の家の講師として人を導く場合に、どういうように導くべきか、ということを
主にして話してゆきたいと思うのであります。

 大体、生長の家は、病気を治すというところではないのであります。
「病気は無い」という哲学を話しているのであります。それで、先ず根本的に知らなければならないことは、
現象と実相との区別であります。たしかに現象としては病気はあるのであります。
けれども、実相としては無いのでありまして、その区別をはっきりしなければならないのであります。

1427神の子さん:2012/10/15(月) 21:12:37 ID:fwBhZpmg
>>1421
a hope様
いつもすばらしいご文章を謹写していただきありがとうございます。
陰ながら感動しながら拝読させていただいています。
このご文章は少し疑問に思いましたので質問させていただきます。
最後から二行目のキリストはというところです。
こう云う人はというのはキリスト様の事になりますよね?
キリスト様が病気を与えるということになってしまわないでしょうか?
私の解釈の仕方がだめなのでしょうか?

1428神の子さん:2012/10/15(月) 21:26:04 ID:fwBhZpmg
>>1422
うのはな様
すばらしいご文章を謹写していただきありがとうございます。
生長の家は「唯神実相論」であると書いてありますが、「現象は自分の心の写しである」と書かれたご文章も他のところで拝読した記憶があるのですが、これは唯心論で、これも生長の家の教えとは言わないのでしょうか?

1429神の子さん:2012/10/15(月) 21:28:53 ID:fwBhZpmg
>>1426
うのはな様
これはとても興味深いご文章です。
今後も楽しみにしております。
ありがとうございます。

1430a hope:2012/10/15(月) 22:53:53 ID:8tjYhMb6
>>1427 神の子さん

うれしいお言葉をありがとうございます。
以前、謹写していた 「人生読本」や今回の「新版 生活読本」は、
谷口雅春先生の、子どもやお年寄りでも生長の家の真理が理解でき、
幸せになれるようにとの愛念から執筆された聖典だとのことが、はしがきに書いててありました。
わたしは、「これを読んでくださる人が、ひとりでも、幸せな気分になってくれたらいいな〜」
と祈りを込めて謹写させていただいています。


ですが、今回の神の子さんの質問は、言われてみれば、ちょっと考えてしまいますね。

>>キリストは「求めよ、さらば与えられん」と申しましたが、こう云う人は、病気を求めて病気を与えられるのです。
>>それよりも諸君は健康を求めて健康を得たらよいでしょう。

ここのところですよね?
わたしは、生長の家の新入生で、講師でもなんでもありません。
ですから、今回の神の子さんのご質問にお答えできるような立場ではないのですが、
これもお勉強なので、自分なりに考えてみました。

キリスト=実相=神の子である。

自分自身に完全円満な健康な姿(キリスト=実相)を求めれば、現象にも完全円満な健康な姿が与えらますよ。
でも、キリストを求めず、現象の不完全な姿(不健康)ばかりを求めていれば、
キリストは顕れることはできないので、代わりに心に思ったままの不完全な姿(病気)が与えらますよ。

こんな意味でしょうか・・・?
うーん。難しいですね。
復興Gさま、トキさま、他の先輩方、ご指導をよろしくお願いたします!

1431a hope:2012/10/15(月) 23:15:53 ID:8tjYhMb6
>>1472神の子さん 

>>こう云う人はというのはキリスト様の事になりますよね?

ここの、「こう云う人」とは、トラブル・シーカー(trouble seeker)つまり、
「病気になったら大変だ」と始終思っている人のことだと思います。

1432ハマナス:2012/10/16(火) 00:47:24 ID:x2zmnlqw

神の子のみなさま
こんばんは。

心のフィルム (『新版 生活の智慧365章』P.263)

 『観普賢菩薩行 法経』に書かれている句に、「心を観ずるに心なし」と云うのがあります。
また「法、法の中に往せず」とも書かれております。法と云うのは現象のことです。現象は
現象の中には無いと云う意味です。そんなら何処にあるかと言うと心の中にあるのです。
現象は映画のようなものであって、映画の画(え)は映っている映像の中にはなくて、「フィ
ルムの中にある」と云うのと同じです。心に病気を描くから象(かたち)の世界に病気があら
われて来るのです。

 あらわれている映像が嫌いだったら、スクリーンに映っている映像を消そうと思っても駄目
です。心のフィルムにある印画を修正しなければなりません。最も簡単なのは「心のフィルム」を
捨てることです。それが「心を観ずるに心無し」であります。病気の夢を見ていた「心」はさめて
から健康を知る「心」のようには実在ではありません。

感謝合掌

1433NANCY:2012/10/16(火) 03:15:07 ID:3qAmcmTw
こんばんは…… ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】 さんの“パ−トナ−”です。

今日は?【 SAKURA(大文字) の 投稿“聖典…投稿”…】 夕方にての“投稿”でしたでしょう…か?
いつもより【スピ−ディ−消去】なのでしょうか???
仲間意識で……しょうか??

■まだ!時間帯が早く【 奥殿入り? 】でしたので…閲覧されていない方が?いらっしゃいますでしょうから、
そして、私の知人も??含めまして【 再投稿… 】 した方がいいわよ!…と云うことですから。。。?
                                 
 再合掌

1434NANCY:2012/10/16(火) 03:18:38 ID:3qAmcmTw
トキ様 へ  
観覧者の皆様 へ
こんばんは……   ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1238>>1304>>1307>>1319>>1320>>1324>>1331>>1332>>1334>>1339>>1347
>>1358>>1373>>1376>>1378>>1412に関しましては、【ベスト・フレンド】シリ−ズで〜す。

実は、私の「青春シリ−ズの一冊の本」なのです。(討論課題項目が、幾つかに分かれてい
ますが?)意外と真理が、分かりやすい【討論形式】なのです。…が〜〜〜??
❤〜【コロンビア大の方達が、真理…サイコ的】に? ベスト・フレンドは哲学になります…
初歩のかたでも、判り易いのでは〜〜昨日の投稿文章は、皆様!如何でしたかしら〜ン?

・・◆【ベスト・フレンド】  ( 自分のメッセージを聞く ) 
―――――  ►► 自分のメッセージを聞く ◄◄ ―――――

|❤ではわたしたちはどうやって、みずからを満足させる方法を身につけ
|ることができるでしようか。どうすればみずからを成長させる方法が会
|得できるでしょうか。

 自分自身に耳を傾ける習慣をつけることが大切です。たいていの人は外の声に自分を合わ
せています。自分のメッセ―ジをはっきりと受け取ることから取りかからなければなりませ
ん。赤ん坊だって空腹のときと痛みを感じたときはわかるのです。しかし、わたしたちが小
さいときには、他人の声の方が自分の声よりもずっと大きく、確かなものに聞こえるもので
す。他人の言葉にしたがっていくのはきわめて容易な方法です。他人の言葉はすでに計算し
ていわれているのですから、子どもはただそのひとつひとつをつなぎ合わせることからはじ
めるわけです。そのうえ、他人様がパンにバタ−をぬってくれるのです。彼のいうことをよ
く聞いていれば、わたしたちはまかないつきの生活ができるのです。こういう他人様と対等
にやっていくためには、自分でなにかをすればいいのでしょうか。子どもとして生き延びて
いくのなら話は別です。しかし、そうでないとすればもう同じことを繰り返していくことも
ないでしょう。
                           (つづく)

1435SAKURA:2012/10/16(火) 03:24:57 ID:3qAmcmTw
トキ様 へ  
観覧者の皆様 へ
こんばんは……   ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1238>>1304>>1307>>1319>>1320>>1324>>1331>>1332>>1334>>1339>>1347
>>1358>>1373>>1376>>1378>>1412に関しましては、【ベスト・フレンド】シリ−ズで〜す。

実は、私の「青春シリ−ズの一冊の本」なのです。(討論課題項目が、幾つかに分かれてい
ますが?)意外と真理が、分かりやすい【討論形式】なのです。…が〜〜〜??
❤〜【コロンビア大の方達が、真理…サイコ的】に? ベスト・フレンドは哲学になります…
初歩のかたでも、判り易いのでは〜〜昨日の投稿文章は、皆様!如何でしたかしら〜ン?

・・◆【ベスト・フレンド】  ( 自分のメッセージを聞く ) 
―――――  ►► 自分のメッセージを聞く ◄◄ ―――――

|❤ではわたしたちはどうやって、みずからを満足させる方法を身につけ
|ることができるでしようか。どうすればみずからを成長させる方法が会
|得できるでしょうか。

 自分自身に耳を傾ける習慣をつけることが大切です。たいていの人は外の声に自分を合わ
せています。自分のメッセ―ジをはっきりと受け取ることから取りかからなければなりませ
ん。赤ん坊だって空腹のときと痛みを感じたときはわかるのです。しかし、わたしたちが小
さいときには、他人の声の方が自分の声よりもずっと大きく、確かなものに聞こえるもので
す。他人の言葉にしたがっていくのはきわめて容易な方法です。他人の言葉はすでに計算し
ていわれているのですから、子どもはただそのひとつひとつをつなぎ合わせることからはじ
めるわけです。そのうえ、他人様がパンにバタ−をぬってくれるのです。彼のいうことをよ
く聞いていれば、わたしたちはまかないつきの生活ができるのです。こういう他人様と対等
にやっていくためには、自分でなにかをすればいいのでしょうか。子どもとして生き延びて
いくのなら話は別です。しかし、そうでないとすればもう同じことを繰り返していくことも
ないでしょう。
                           (つづく)

1436SAKURA:2012/10/16(火) 03:26:48 ID:3qAmcmTw
トキ様 へ  
観覧者の皆様 へ
こんばんは……   ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1435投稿の続きです…。
 もう一度自分に目を向けるには、ある訓練を要します。まず勇気を出して大声で自分の考
えていることを話さなければなりません。あまり長い間、自分自身の声に耳を傾けないと、
その声にそのうち聞こえなくなってしまいます。なかばあきらめて放棄してしまうことにな
るでしょう。また、あまり長い間、自分の声にふたをしておくと、しまいには猛烈な怒りを
爆発することになるでしょう。とにかくその声は生きているのです。わたしたちはその声に
チャンスを与えてやるべきです。自分の内部の声に耳をかす方法を会得すれば、わたしたち
はたくさんのことを発見し、多くのすばらしい話を聞くことができるでしょう。
       ―――――――――― * ―――――――――――
PSトキ様 へ
若い時は“他人の言葉”に振り回された時期がありました。これは、今思いますと?他人は
ある程度計算が入りますから〜〜【人のつながりはやはり“心の目”で見る…事?】地元の
故郷に帰郷した頃、ただ職場で現在の“服飾関連”をまだトライ!伸ばしたい!と思い当時
の私は“夜間専門学校”に再チャレンジ!入学!しました。その時の“クラス?”にいたの
が【吸血鬼…男・女達】です。彼らの素状?は、女性を覗いて【男性の方?】は、知りませ
んでしたから、ただ知り合いといっても?全く“話し”をかわした事もない状況で、“クラ
スの人間??”ぐらいとの感覚でした。それが何十年振りに街角で見かけて…そこからです
が〜〜><私は見た“瞬間”どうもふに落ちなく…変!変!逆に“パ−トナ−”はオモシロ
イ?というだけで〜どうしても【神様からの啓示??】すっきり感?が〜〜〜如何してもな
く!腑に落ちない点があり〜〜〜!と私は【警戒状態…】【第6感…直感】がやはり〜〜〜
“的中”しました。…が?この時、私は、何故?人は簡単に認める事をしたのでしょうか?
【後 悔…一言】〜〜〜><今!にして思えば…

“今日の言葉”から〜〜“人間関係”の時は“学生時代”と違いますから、当時の私は
【人 類 は み な 兄 弟】のスロ−ガンとして、単純に人を信頼したモノです。
計算ある付き合いも多い、現在の世では、やはり【自分の心を見詰め直す事…】が大事に思えます。
■【自 分 の 声 を 聞 く ???】そうです。“内なる声…”
これはやはり自分の“本当の心”それは〜〜〜【神想観…実相感!】です〜〜〜ョネ!
自分を見つめ直すには【神想観・瞑想】と思います。「トキ様」は、どうでしょうか?
                                   再合掌

1437SAKURA:2012/10/16(火) 03:32:38 ID:3qAmcmTw
トキ様 へ
こんばんは……   ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。

>>1434の投稿は…【NANCY】 の名前で投稿してしまいましたので……“ミス”してしまいました。
お忙しいところ、申し訳ありませんが…【 デリート 】お願い致します…。

                                                  再合掌

1438神の子さん:2012/10/16(火) 06:24:58 ID:YfMozNg.
>>1431
a hope様 ありがとうございます。
本当ですね、二回目よく読みましたらトラブル&bull;シーカーである事がわかりました。
よく読んでから質問をするべきでした。拙い質問にお時間をとっていただき申し訳ございませんでした。今後ともよろしくお願いいたします。

1439神の子さん:2012/10/16(火) 07:16:39 ID:YfMozNg.
>>1432 ハマナス様 ありがとうございます。
以前から毎日楽しみにしながら拝読させていただいておりました。
パソコンに向かう時間が少ない私は、毎日少しずつのご文章がとてもありがたいです。
お礼を言わなければならないと思い今日になってしまったことをお許しください。

最近やっと「心のフィルム」の「存在」を理解していた矢先、
今朝のご文章ではなんと映像を消す最も簡単なのは「心のフィルム」を「捨てる」ことだという。
雅春先生ってすごく思い切ったことを言われるお人なんですね(苦笑)
捨ててしまうと確かに楽に生きられそうです。
今日も幸せになれるエッセンスを紹介していただきありがとうございました。

今後も毎日のご文章を楽しみにしておりますので、よろしくお願いいたします。

1440a hope:2012/10/16(火) 07:37:28 ID:8tjYhMb6
>>1438 神の子さん

>>よく読んでから質問をするべきでした。拙い質問にお時間をとっていただき申し訳ございませんでした。

とんでもありません。 
わたし自身も、たとえ、「こう云う人」がトラブル・シ―カ―であっても、
ちょっと疑問の残る文章だと思ったので、考えてみてよかったです。
 ただ、解釈が正しいかは、不明です(笑)
先輩方のご指導を待ちたいと思います。

神の子さま、こちらこそ、こらからもどうぞよろしくお願い致します。

1441a hope:2012/10/16(火) 07:41:44 ID:8tjYhMb6

新版 生活読本 谷口雅春先生著

明るい心を持ちましょう
♦常に希望を失うな


ヘレン・ケラー女史「楽天主義こそ一切を成功にみちびくところの信仰である。希望がなければ何事も成就しない」と云いました。
楽天主義とは、ものの明るい方面ばかりを見てつねに「よくなる」と云う希望を失わない「考え方」です。

今、日本に必要なのは、この「必ずよくなると云う希望」ではないでしょうか。
希望を失わない、愉快な明るい民族は栄えるのです。
発達する国民の奥にはこの愉快な明るい国民性があるのです。
日本人も本来、明るい国民でしたが、いつの間にか暗い陰気な苦が虫かみつぶした顔をしている方が上品だなどと考え出したのです。

暗いところでは大きな樹はそだちません。
人間でも同じです。心に日光をもつことです。

暗い気持ちで物をつくっても、好いものは作れません。
明るい気持ちで物をつくれば好い考えが浮かんでくるでしょう。

考えて御覧なさい。
叱られて暗い気持ちになってから勉強してもよくおぼえられないでしょう。
ほめられて楽しい気持でやったときには、難かしい算術の応用問題でもスラスラと解けるでしょう。
歴史の本や読本をおぼえようと思っても中々おぼえられないのに、面白い芝居を愉快な楽しい気持ちで見ていると、
読本よりも、ズッと長い、むつかしい役者の言葉を「誰が、あの時こう云った」と一つ一つ間違えずに覚えられるでしょう。

これは愉快な気持でおれば、心がよく働くからです。
愉快な気持は、機械に油をさすように、心の運転に油をさすものです。
油を充分差した機械は、どんなに激しく回転しても摩滅(すれてちびる)ことはありません。

それと同じく、「楽しさ」で油をさした心は、どんなに働いても疲れることはありません。
(つづく)

1442ハマナス:2012/10/16(火) 13:17:30 ID:x2zmnlqw

神の子のみなさま
こんにちは。

神の子様
皆さまと共に、真理を学び、お幸せになって頂きたい思いで謹写させて頂いています。
喜んで頂いて嬉しいです。
「心」が大事なのですね。『生命の實相』20巻にも、「心」についてお書き下さって
います
雅春先生は、きっぱりとしかも解り易いご文章で説いて下さっていらっしゃいます。
有り難いことです。

   「潮満の珠 汐干の珠の祈り」
 ナイナイナイナイ みんな無い
 迷いも罪もない何もない
 心もなければ 病気もない
 現象世界は想念の
 描いて 歩んだ 影世界

 ただ本当にあるものは
 神一元の 実相界
 私は神の子久遠のいのち
 宇宙に満つる 無限知恵
 無限生命 無限愛
 すべて善のみ 実相世界
 完全円満 神の子の
 光り輝く 光明身
 うれしい たのしい ありがたい

1443ハマナス:2012/10/16(火) 13:57:57 ID:x2zmnlqw

神の子のみなさま
今日は、とても気持ちの良い、秋晴れです。

精神身体医学 (『新版 生活の智慧365章』P.264)

 肉体を普通の物質だと考えてはなりません。上野公園の銅像は、寒い風に当たっても
呼吸器の粘膜に炎症を起こして、風邪を引いたりすることはありません。それには心が
ないからです。ところが肉体が不用意に寒風にさらされると風邪をひきます。時には
重症の肺炎を患って危篤の症状を呈することがあります。鼓膜に炎症を起こしたり、
風邪を引いたりするのは、「心」が恐怖を感じて異常の振動を起こすからです。その
異常振動が肉体的に具体化して喉や気管支の粘膜に炎症や糜爛(びらん)の現象を
起こすのです。

 最近「精神身体医学」が発達しまして、新しい神父的な医師は皆その学説に共鳴して
おりますが、胃腸の潰瘍なども、恐怖や、怒りや憎しみによって内部から発するので
あって、如何に薬剤をもって炎症を治療せしめても、内部(なか)から次から次へと
炎症を作って行けば治すことを得ないのです。

感謝合掌

1444a hope:2012/10/17(水) 07:20:57 ID:8tjYhMb6

新版 生活読本 谷口雅春先生著

第4章 明るい心を持ちましょう
♦笑い健康法


たとい病気になっても、暗いいやな気持にならずに、常に愉快でおれば早くなおるのです。
わがままを云って、人をこまらせ、自分もしかめ面をして、むりに暗い気持になれるのが、
病人の権利のように思っていては病気などと云うものは中々なおりません。
明るい愉快な気持でおれば、血液の中に元気をよくする成分が沢山つくられるので、早く健康になるのです。

アメリカに、ラーフ・キュアー(Laugh cure)と云う言葉があります。
日本語なら「笑い健康法」とでも云うところでしょう。
いらいらしたり、くよくよしたり、ぶつぶつおもったり、腹を立てたり、心配したりする代りに、
常に愉快に笑う事によって病気を治す新しい方法なのです。

面白からぬ事を見つけ、人の悪口を云ったり、人の欠点をさがしたり、人のアラさがしをすることは決してよい趣味とは云えないのです。
人の性質の「悪」は「悪」と見なければ消えてしまうものなのです。
何故なら人間・神の子で、人の性質の「悪」は本来無いからなのです。
それを心で取上げて「悪」として問題にするといつまでも、その「悪」は消えず、
却って「悪」の捕虜(とりこ)になり、「悪」に制服せられてしまうのです。

機械などの発明なら、どこまでも欠点をさがして、それを益々よいものにすることが必要です。
しかし、人の性質の悪と云うものはないのです。

アメリカで有名な「子供の街」の創設者(はじめてつくったひと)であった故フラナガン教父の教育法は、善いところを見て賞(ほ)める教育です。
フナラガン教父が「この子はよい子だ」とそのよい所を探し出して賞(ほ)めると、みんな立派な「神の子」の坊ちゃん、嬢ちゃんになったと云います。
(つづく)

1445うのはな:2012/10/17(水) 18:44:24 ID:hQDSe4oM
[個人指導の実際] 谷口雅春先生

  現象と実相との区別を知らせること

 それで、実相というものは、どういうものかということ、現象というのはどういうものであるかということをはっきり患者に
知らしてあげる必要があると思うのであります。病気は無い、と頭から言ったって、現にあるじゃないかと言うことになるんですから、
現象と実相の区別、「ある」と「ない」の区別をはっきりしなければならないわけであります。

 そこに難しいところがあるのであります。病気を余り早く治してしまったら、病院と間違ってしまいまして、病気が治ったら病院から退院
するように、生長の家はもう用無しとやめてしまって、また病気になったら来ます、と言うようなことになり勝ちです。こんなことでは、魂の救いにはならんのであります。
生長の家は魂を救うところで、病気が治るのは随伴現象であり、魂を救うための方便なのであります。

 だから、病気は治してあげたいけれども、もっと根本的に治してあげなければならないのは魂の問題、心の問題であるというわけなのであります。

1446うのはな:2012/10/17(水) 20:54:06 ID:SXwG/Idc
妻への手紙  『魂のめぐり遭い』 藤原敏之 先生著

 谷口雅春先生の御講習の方も、順調に進んでいるそうです。
初めての、就任第一回の大行事ですので、何とか盛会にし、先生にお喜びいただこうと、
幹部とともに祈っております。

 貴女もだんだんち覚りが深まり、明るくなられて何よりです。
人生とは、捨てて捨てて、捨て切る修行です。思い煩うことが、いかに無益なことでムダなことであるかを、
ハッキリ覚り、どこにも何事にも執われず、一切を心から放すことが一番肝要です。
 只今あることだけを感謝する生活。そこから幸福は展開します。

 極楽に参りたかったら、極楽はどこにあるか、また、どうすることが極楽に参られる方法であるかを、明確に
することが第一です。どこにあるか、どうすれば極楽に行けるかを知らずに極楽を願っても、無駄です。
今ここを離れて極楽はあり得ません。その外に極楽があるとして、いくら求めても、探しても、どこにもありません。
一切を捨てきり、私もなかったとわからせてもらう時、仏の生命のみある、私と見えるそのままが仏の生命である。

 衆生、本来仏であるとの自覚が一番大切です。仏のまします処は常に極楽であります。
私が、という自我が頭を持ち上げると、仏は眩まされ、迷いとなり、迷いの所産は苦しみと、悩みしかありません。
愛と感謝のみが神を現わすのです。感謝の念が生れたら救われているのです。
誰でも気が付けば感謝できるのです。感謝出来た時、救われ、幸福になるしかないのです。

 (結婚を間近かに控えた娘へ)了子ちゃんに
人間いかなる時にも素直さを失わず、感謝の心を忘れないよう、精進努力すれば必ず幸福になれます。
貴女が幸福である事が相手を幸福にすることです。相手を幸福にすることが貴女の幸福につながるのです。
結婚は“結魂”であり、自分の生命を、相手の生命の中に見い出すことであります。
御精進をお祈りします。

1447うのはな:2012/10/17(水) 20:56:14 ID:YT9aDVnY
訂正 『魂のめぐり逢い』 です。

1448SAKURA:2012/10/17(水) 23:06:31 ID:jH5uEFzM
トキ様 へ  
観覧者の皆様 へ
こんばんは……   ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1238>>1304>>1307>>1319>>1320>>1324>>1331>>1332>>1334>>1339>>1347
>>1358>>1373>>1376>>1378>>1412>>1424>>1425>>
に関しましては、【ベスト・フレンド】シリ−ズで〜す。

実は、私の「青春シリ−ズの一冊の本」なのです。(討論課題項目が、幾つかに分かれてい
ますが?)意外と真理が、分かりやすい【討論形式】なのです。…が〜〜〜??
❤〜【コロンビア大の方達が、真理…サイコ的】に? ベスト・フレンドは哲学になります…
初歩のかたでも、判り易いのでは〜〜昨日の投稿文章は、皆様!如何でしたかしら〜ン?

・・◆【ベスト・フレンド】  ( 自分のメッセージを聞く ) 
―――――  ►► 自分のメッセージを聞く ◄◄ ―――――

|❤わたしはなにか恐ろしいことも聞くのではないかという気がします。
|わたしたちのこころのなかにはなかなか取り出しにくいものがたくさん
|ひそんでいるのでしょうね。それが表面にあらわれると、あまりに多す
|ぎて扱いにくくなるのでしょうか。そのために精神分析医というものが
|存在して、隠れているものを掘り起こさせ、ふるいにかけ、そして終局
|的には、そこからわたしたちを解放しようというわけですね。

 もちろん、精神分析医は人がなぜ自分自身を虐待そているかという理由を明らかにさせる
という点では、おおいに役に立つことができます。多くの人のなかには自分が自分に害を与
えていることにこころを奪われていながら、その理由がわからない人たちもおります。精神
分析医はそうした人たちの自己破壊的な悪循環を断ち切る方法を提示する唯一の存在です。

 人間の成長期にはいくつかの障害があります。それはときには他人によってすえつけられ
たものもあり、わたしたちがわざわざ努力して保存しておくものもあります。この障害物を
乗り越えさせてくれるのも精神分析医の仕事なのです。
                          (つづく)

1449SAKURA:2012/10/17(水) 23:07:53 ID:jH5uEFzM
トキ様 へ  
観覧者の皆様 へ
こんばんは……   ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1448投稿の続きです…。


 ですから、精神分析は解放された人生を送るためのひとつのすぐれた方法なのです。はじ
めて患者が寝椅子に横たわったとき、それは人類にとってまことに大きな一歩でした。しか
し、あなたは分析を受けるためにかならずしも、寝椅子に横たわる必要はありません。わたし
は電話による分析に成功したこともあります。また、たとえ分析医にかかっていても、自分自
身でも分析を行なわなければなりません。分析がときどきかなり長期にわたるときがあります
が、その理由は変化というものが本質的に患者自身には必要だということを患者が理解してく
れないからです。なかには、どんなに深い洞察力を体得しても、まだどんなに多くの情緒的な
カタルシスをとげたとしても、変化が生じないことがあるのです。

                    「自分のメッセージ」次回につづきます…。

PS:トキ様…
『悩み相談…』日本の場合は〜〜〜><
一般の方は“哲学的に考える事”をされていませんし、ましてや『迷信深い傾向の方』でしょうか?ですから・・・【精神分析医…】は???「生長の家」で申しますと、私には?
【悩みはすべて練成会…】に!!これが【悩み駆け込み寺…】という事なのでしょうか?

■「相談担当の先生方」は、失礼ながら?社会にもまれてない方の場合の相談は〜〜〜?
正直な話?場合によりましては…それは〜〜それは〜〜【空中論…】になるのでは?
例えば…当時20年ぐらい前でしたかしら〜〜ン“瞬間の私”は、理解したような気持ちになり、
その時は、それで終わるのです。…が?内容は“具体的な言葉…アドバイス”がなく、
いつもの“繰り返しの言葉”… そして、決まりの“言葉…”【最後に…祈り】と言って
終わりますかしら〜〜〜ン!やはり」?『なやみ相談』の時は、具体的なアドバイスが〜〜
(それから?「人格…論」も含まれるのでしょうか?その様に思います。…が?)

“良い事が起きる!”…それだけで【精神=こころの法則】は、なにもなく、果たして???
【魂の向上…心の成長】は、なされているのでしょうか〜〜〜?

そう言います“私自身”もその組でした。何度も!何度も!〜〜〜><気がつくと、単に、
わからず仕舞いなのでしょうか??【祈る…】のです。当時の私は、きっとこの様に、
相手が【精神=心の法則で、人生が決まる事…人生が支配される事】を、理解しなければ、
■【奇蹟・変化は起きない…】と、改めまして、この頃、要約分かり、今は【祈る…】事は、
全てですが〜〜〜
何と言っても【意識=意志=心の法則】なんです〜〜〜ョネ!
「トキ様」も、この件に関しましては、そのような感じられますでしょうか??

                             再合掌

1450ハマナス:2012/10/18(木) 00:16:05 ID:x2zmnlqw

神の子のみなさま
こんばんは。

病気を起す心  (『新版 生活の智慧365章』P.264)

 今「悲しんでいる心」、それは次の瞬間に「笑っている心」になることがあります。
悲喜交々(ひきこもごも)、もう笑ってる時には「悲しんでいる心」なないのであります。
今あるようでも次の瞬間にないものは「本来無い」のであります。そんな心を「妄心」と
申します。「本来無い心」の動揺によってあらわれている肉体の炎症その他の病気は
「本来無い」と言わなければなりません。

 悲喜交々、恐怖や怒りの交替する其縻(そんな)こころのあらわれである病気を「ある」と
思うことをやめなさい。最初何らかの動機で「妄心」が異常に振動してそれが肉体面に具象化
して病気となってあらわれた現象(症状)を見て、それを「ある」と見て常に恐怖(心の異常
振動)としているから、いつまで経っても病気が消えないのです。病気を放つことです! 
そして、その病気を表現している「心」を放つことです。

感謝合掌

1451a hope:2012/10/18(木) 08:02:49 ID:8tjYhMb6

新版 人生読本 谷口雅春先生著

第四章 明るい心を持ちましょう
♦愉快な子は必ず善い子です


ジョン・ラポック卿は、「教育者が義務と明朗、否明朗と義務とをもっと強調して児童を教育したならば、
人生はもっと愉快に幸福になったであろう」と云うことを云っていますが、
何よりも、諸君が心掛(こころが)くべきことは「善い子」の云うかわりに、
「愉快な子」「楽しい子」にならねばなりません。

「愉快な子」「楽しい子」はお父さん、お母さんを喜ばせ、
近所の人を喜ばせ、友達を喜ばせ、みんなを喜ばせるのです。
そして皆を喜ばせることは「善いこと」なのです。
「愉快な子」「楽しい子」は「善い子」になるのにきまっています。

これに反して、暗い陰気な気むずかしい子は親をこまらせ、女中をこまらせ、
近所の人をこまらせ、みんなに迷惑をかけるのですから、それが、どんなに真面目な子であっても
「善い子」だとは云えないのです。
(つづく)

1452a hope:2012/10/18(木) 08:22:00 ID:8tjYhMb6
>>1451訂正
新版 人生読本 → 新版 生活読本

1453さくら:2012/10/18(木) 08:35:06 ID:e8ieIrPA
みなさまおはようございます。
ハマナスさま
>>1442
ほんとうに、雅春先生は、簡潔な言葉で、深い真理をずばりと説いてくださってるのですすよね・・

・・それにしても、ハマナス様に「神の子のみなさま」といわれると、
「はい」と素直に返事をしたくなるのは、なぜでしょう、笑。
信仰生活は、ふつふつと、おだやかなで幸せな気持ちでありたいですね、。
いつもお仕事終わってからの謹写でしょうか。。
ありがとうございます。

「そのまま常楽

或る日の記。−
今朝、熱海は雨。まばらな松の並木越しに、海と山とのみえている旅館の二階。
部屋には暖かく陽がチンチンと沸つている。おだやかなよい感じである。
未だ誰も来訪者もない早朝の一時、『生長の家』誌の二月号を一日から読みなほす。
自分は幸せだ。こんな気分が、ふーっとこころの中へ湧いて来る。穏やかな静けさである。
然し、その静けさの中に何もかもすべてが入ってゐ様なこの静けさ。ふーっと一点になつて湧き出し自分の中一杯にひろがつたこの穏やかな静けさ。何処から湧いてきたのだらう。かう考へた時、何か合掌したい気分であつた。
 既に自分は幸せである。無限の神が、そのすべての力をそそいで、愛してゐてくれるのだもの、救つてゐてくれるのだもの。いつもいつも、そして、今も、たった今も、繰り返しとなへながら、沁々幸せだと思ふ。
 あんな濁りきつてゐた自分が、よくぞ此処までやつて来られた。助けの力が有難かつた。
自分に自分でお礼を云ひたくなつた朝である。
『神、その創りたる様をみたるに甚だよかりき。』
 かう言葉しながら外をみる。山の眺め、海の眺め、それらをこめて雨足の響き。美しい、何か、目に見えないものに触れた感じである。神がをられるのだなあと思ふ。美しいと感じられた自分がうれしい。自分も亦美しいのだ。繰りかへしてゐると、ずーつと深い処から動き出してくるものがある。粛然と襟を正し、居住ひを革めたくなる様なものである。」

『常楽への道』 吉田國太郎先生 著 P3〜

1454うのはな:2012/10/18(木) 09:26:39 ID:Z.EtH8v.
   『病が消える』谷口清超 先生著 P69

   難病なんかナイ  自然治癒力

 近頃はずいぶん色々なものが作られ、大変便利になって来ましたが、病気にも新種が出てきて、
色々と人を悩ませています。又それにつれて、薬も数多く売り出されていますが、案外と利かないらしいのです。
その証拠に、次々と別な薬が多数出廻ってくるでしょう。これは、「今迄の薬があまり利かなかった」ということを
表しているのではありますまいか。

 第一、風邪薬一つにしても、未だこれといった特効薬はありません。ただ症状を押さえるだけの薬しかないものですから、
ごくありきたりの風邪でも、根本的には人間の“自然治癒力”に頼る他仕方がない有様です。
要するに薬は一時おさえにすぎないのであって、使い方によっては、一時的には役立つこともありますが、決して頼りにはなりません。
どうしても病気そのものをスッカリよくするには、「生命力」が強くわき上がってきて、“自然治癒力”がもりもりと高まってくるようにする他
仕方がないのです。

 ことに、難病や奇病、珍病となりますと、とてもではないが薬や手術にたよることが出来なくなってきます。
そこで「苦しい時の神だのみ」とかで、こんな時人は急に神信心をしてみようかと思ったりするのですが、これも亦変なものです。
だって、そうでしょう、神様をまるで「薬」か「治療法」のように使おうというのですから。

 しかし本当の信仰は、そんな「病気を治すため」というような“手段”であってはいけない。
人間は「神の子」である、それが絶対的に正しいのだという根本信念から、すべてのよいことがあらわれてくるのであって、この「信仰」こそ
が全ての全てです。人間はどうしても「神の子」であり、「完全円満」でなくてはならぬ。
そのことがわかってくると、この「心の影」として、病気もよくなるし、他の凡ゆることがトントン拍子にうまく行くのです。

 人間が「神の子」であり、完全であるということになると、“生き甲斐”が感ぜられます。
私達はすべてすばらしく、完全でありたい。ところが、本当は完全だということになると、その完全さをあらわすことが出来るようになる。
そこに悦びが感ぜられ、生き甲斐が味える。それが「生命力」のたかまりとなり、「自然治癒力」のわき上りとなってあらわれてくるのです。

1455うのはな:2012/10/18(木) 09:31:37 ID:NhCcI7Jo
訂正 『病いが消える』 です。

1456うのはな:2012/10/18(木) 10:46:19 ID:HKwAnRuw
   徳久克己教務局長「生長の家地方講師会報」より

  『生命の實相』に精通し、あらゆる面の適切な指導ができること

 生長の家は、別名「人類光明化運動」といわれています。そして『生命の實相』第一巻の三頁に
「元来生長の家は人類の思想中よりその転倒妄想を去らしめ人類生活の全面を光明化せんがために出現した
ので、病気治療のみを目的に出現したのではありません」と説かれていまして
「人類生活の全面を光明化せんがために出現した」と生長の家の使命、目的が、はっきりと説かれているのであります。

 ですから、生長の家の講師になった、ということは、人類生活の「全面を」光明化しなければやまない、という使命を与えられた
ことになるのです。生長の家の講師は、病気の治療だけでが目的ではないのですから、病人のためには病気を癒してあげるのは勿論ですが、
それ以外に、人間としての生活の全面を、光明化する使命を与えられているのです。

 人類生活の全面ということになりますと、病気以外に、家庭調和、教育、経済、繁栄、政治等々、一切の人生問題の指導をしなければなりません。
このように考えますと、講師という仕事は、なかなか大変なことだと思われます。事実、大変な仕事です。
 しかし、谷口先生は、『生命の實相』全四〇巻の中には、これらの人生問題を、あらゆる方面から解説しておられますので、『生命の實相』を精読しさえすれば
どんな人でも光明化することができるのであります。

 講師である方の、指導をうける人への一言が、その人の人生をかえるだけの、実に大きな力をもっていることは、講師の皆さまは、よく御存知と思います。
相手の運命を変えるような、大きい力をもった指導をする人たちは、それだけに、大きい責任があるわけです。ですから、講師たる者は常に『生命の實相』に学んで
指導をしなければなりません。私が医者になってまもなくのことでした。ある先輩が「君が病人に注射する、その薬をうっかり間違えると、病人が死ぬ場合があるのだから
慎重にしないといけないよ!」といわれたことを、講師になった時に思い出しました。
自分の一言が相手の運命を変える。講師の一言が、相手を殺しも、生かしもする、医者が患者へ注射するようなものなのだな、これは慎重にして、いいかげんなことは、言えない、
とヒシヒシ感じました。

 その時、私は講師となった以上、うんと勉強しないといけないと、感じました。
医者でも、名医といわれる人は、その病気、病気に応じて、適当な時に、適当な処置のとれる人です。
講師でも名講師といわれる人は、相手に応じて、適当な時に、適当な指導ができる人です。ですから、病気の
ことは指導できたが、他のことになると、さっぱり指導できないのでは、魅力がありません。
「人類生活の全面を光明化する」という使命があるのですから、治病のことでも、家庭のことでも、教育のことでも、
繁栄のことでも、政治のことでも、適切な指導のできる講師は、魅力のある講師です。

 こんなふうにいうと、とても、難しいように思う人がありますが、『生命の實相』を精読すれば、一切の問題を解決する、根本原理を教えられますので、
決して難しいことではないことがわかります。

 人生のあらゆる面を、適切に指導できるように、『生命の實相』に精通した講師は、魅力ある講師です。

1457うのはな:2012/10/18(木) 13:50:22 ID:f2bwKGw2
   前世の宿業によって起った寝小便

 業は消えるという問題は、『女性の理想』(日本教文社刊)という谷口輝子と私との共著
の本がありますが、あの本の中に私はアメリカのエドガー・ケイシーという前世的因縁を知る
宿命通の霊能をもって治病をした人のことを紹介して書いておきましたが、その治験例の中に、
寝小便をする子供が生長をしてもう大人になっているけれども、その寝小便が未だに治らないのを
治した實話を紹介してあります。

 普通寝小便する子には、その子共が眠りに入りかけて、覚醒と眠りとの境目位の時点が一番潜在意識が
浮き上がって、暗示に感応しやすい時点なので、その時を見はからって、耳の側で、“貴方は神の子であるから
決して豚のように寝床でおしっこをしないのですよ。おしっこをしたいと思ったら自然に目が覚めて、お便所に
行ってから、用便するのである。お便所へ行かない限りは決して尿道は開かないのである。必ずおしっこしたくなったら
目が覚めて一人で自分で便所に行く。便所に行かない限りは小便は出ないのである”

 ということを繰返し五分間位ずつ、毎晩、眠りかけた時に、その子に対して、力強い語調で暗示してやると、大抵は、その
寝小便は治るものなのですが、この青年は、そういう暗示を与えても、どうしても寝小便が治らないで既に大人になってしまったのです。
ところが、エドガー・ケイシーを訪問して指導を受けると、ケイシーは自己催眠に入ってその寝小便する男の前世の因縁を語り出した。
ケイシーの言うところによると、この寝小便男は、ヨーロッパの中世時代にキリスト教の牧師に生れていた。

 その頃巫女には“悪魔”または、“汚れたる霊”がついているという迷信があり、聖書にはキリストが“汚れたる霊”を逐い出し給うたら、
それに憑かれていた豚の群が海の中にみずから身を投じて大量に死んだというような例が書かれている。
現代では巫女のことを霊媒と請われているが、中世ではその霊媒を皆、“汚れたる霊”即ち“悪霊”がついているものであって、それは神に敵する霊
であるから、そういうものを亡ぼしてしまうのが神様の御心だとこういう風にキリスト教の人たちは考えて巫女を虐殺した時代があったのです。

つづく

1458うのはな:2012/10/18(木) 13:51:52 ID:f2bwKGw2
>1457 つづき

 
  その頃、その人はヨーロッパで牧師に生れて、そういう霊媒なる婦人を“縛り棒”に縛りつけて、それを川の中に押し込んで窒息さして殺しておった。
 それが牧師の役目で、その牧師をしていた男が生れ変って今の寝小便男になっているのである。
 彼は前世に於いて、斯くの如く人を水浸しにして殺しておったその業の報いが形に現れて、その業を解消しつつあるのだと指導したのであった。
 すべて“心の世界”に蓄積したエネルギーは仕事をして、それを形に現したら解消するのであるから、彼は毎日、小便の水浸しの中に浸って、過去に犯した業が
 消えるまでその現れとしての寝小便を続けているのであるというのであった。

 だから、この寝小便は、前世の業との関係で根が深いのであるから、それを治すのには「小便がしたくなったら眼が覚める」なんていうような催眠術的暗示では
治らない。こうケイシーは言って、次のような實相の完全さを語る言葉を唱えて暗示するように教えたのだった。
「汝は神の子であって、完全円満であって誰にでも汝の会う人に対して深切な愛情ある、深切な手助けをしてやるのである。汝は完全円満なものであって決して悪い人間
ではないのである」

 このような意味の實相を念ずる言葉を耳許で暗示してあげなさいと教えられて、それからは、今迄の暗示の仕方を変えて、「貴方は神の子であって完全円満であって、神様の
愛が實現している人である。それ故、貴方の会う全ての人々に行き届いた深切な愛を施してあげる立派な人であって、罪は無い、業は無いのである」という意味を耳許で、たった一度
暗示したのでした。すると、その晩から寝小便がぴたりと止まってしまったというケイシーの霊読の記録があるのであります。

 この事實によっても宿業というものは、いったい何処にあるかと云うと、その人の潜在意識の中にある。
その潜在意識の中にある過去に犯した“罪”や“業”の観念を浄心行や、神想観や、人間は神の子であって業も無い罪も無いという真理の思念や、真理を語る「聖経」の読誦によって消してしまう。
それによって今迄、医学的には不治の難症だと思われていた重病をも不思議に治癒せしめているのが生長の家なのであります。

 これは結局、イエスの「真理は汝を自由ならしめん」と教えたところの真理の治病的方面であるが、人類の戦争の惨禍も一種の人間の“罪”と“業”との展開としてあらわれた自己処罰的病的現象として
見るとき、こも真理の全世界的普及によって、永久平和の至福世界が生じ得ることを知って、アメリカ合衆国は勿論、中南米諸国に強力なる布教体勢を築きつつあるのである。

<「精神科学」昭和46年4月>  『人間無病の原理』 谷口雅春 先生著

1459SAKURA:2012/10/18(木) 22:00:51 ID:3qyBj0qU
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>>1238>>1304>>1307>>1319>>1320>>1324>>1331>>1332>>1334>>1339>>1347
>>1358>>1373>>1376>>1378>>1412>>1424>>1425>>1448
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実は、私の「青春シリ−ズの一冊の本」なのです。(討論課題項目が、幾つかに分かれてい
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|❤しかし、わたしには変化はときには簡単にやってくることがあるよう
|に思われます。わたしにもそういう経験があります。突然、周囲のこと
|がこれまでとまったくちがって見えるときがあるでしょう。たとえば、
|重荷が軽くなる、ドアが開く、いままで苦闘していたものがたちまち楽
|になる、というようなことが起るのです。

 まさに奇蹟が起ころうとしているわけですが、これは大変よいことです。なぜなら、こうした
奇蹟は人が生きていくうえでおおいにプラスになるからです。しかし、そのためにはまず葛藤が
なければなりません。行きづまりがたくさんあることは、奇蹟をつくり出すことに通じます。奇
蹟はその受け入れ態勢ができている人によく起こるのです。

 しかし、人生に変化をもたらすためには、このような突然の飛躍以上のものが必要なのです。
そのためには、ちゃんと自分でそれを意識した行動、自分の人生を自分の手におさめようとする
決断を必要とするのですが、たいていの人はこの決断をあえて行なおうとしないのです。彼らは
精神分析医のことをこれまで夢にも見なかったほどのやさしい父親か母親のように思い、これか
らずっとめんどうをみてもらえると決め込んでいます。それはかならずしも悪いことではないで
しょうが、分析医がもたらしてくれる重要な成果のひとつは、愛情ある配慮ということなのです。
ところが一般の人は、ほんとうによい両親とは、子どもが自分で、自分自身の世話をしていける
ようにしつけてくれるものだということに気がつかないのです。ある人がつぎのようにいいまし
た。「もしあなたがある人に食物を与えれば、その日一日は食べさせることができますが、自分の
食べ物をつくる方法を教えてあげるなら、彼らは一生自分の力で食べていくことができるように
なります」と。
(つづく)

1460SAKURA:2012/10/18(木) 22:04:52 ID:3qyBj0qU
トキ様 へ  観覧者の皆様 へ
こんばんは……   ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1238>>1304>>1307>>1319>>1320>>1324>>1331>>1332>>1334>>1339>>1347
>>1358>>1373>>1376>>1378>>1412>>1424>>1425>>1448>>1459
に関しましては、【ベスト・フレンド】シリ−ズで〜す。
            ―――――――― * ―――――――
>>1459の続きから〜〜です・・・。

 あなたが自分でみずからの世話をし、自力でやっていく決心ができると、つぎにまた大きな仕事
が待っているのです。悪い習慣を断ち切るときには分別と努力が必要です。いま、あなたのこころ
のどこかであなたがこれから挑もうとしている変化に異議をとなえているとしても不思議ではあり
ません。古い慣習のなかにいれば、きわめて快適ですし、なにもわざわざ変わったやり方で物事を
見たりやったりする気持ちが起こらないからです。しかし、そういうときのあなたのこころは、ま
さにある闘争が展開されるのです。

                   【自分のメッセージを聞く】シリーズつづく


PS:トキ様 へ
■【背水の陣…】そうです〜〜〜ョネ!これ〜〜って“良くなる前触れ??”かしら〜〜〜ン!
良くなる前触れです〜〜〜ョネ???
【行 き 詰 ま っ た 時 に …… 当 に “ 奇 蹟 … ” が 起 き る!!】・・・
そう思いますと、今!私自身の“心”の行き詰まり?は…いい前触れにもなるのです〜〜〜ョネ!
【悪い事は良いこの前触れです。…】と「雅春先生」が、おっしゃっていらっしゃいました。…が?

“落ち込む前”に、もっと!【私自身を好きにならなくては?】この様に“心”の変化に…?
【教団も衰退しているとの事?】を、“週刊文春”が載せられているそうですが、
物事を“開拓する”前には、必ず!でしょうか?■【裏工作…】でしょうか〜〜〜? ><
このような【数字…金額】を、今回!公表されてしまったのです。…が?

まず【奇 蹟 が 起 き る 】のは、その後の事で、今は【現象=現実】との見方を致し、
この【現象=現実】をみとめない“揺るぎない心…”の訓練でしょうかしら〜〜〜ン!

                                     再合掌

1461ハマナス:2012/10/18(木) 23:51:57 ID:x2zmnlqw
神の子のみなさま
ありがとうございます。

さくら様
仕事で帰宅が遅いものですから、いつも“日付変更線”ギリギリか過ぎてしまいすみません。
毎日謹写させて頂いていますと、気付きもあります。


妄心の生理作用に及ぼす影響 (『新版 生活の智慧365章』P.267)

 恐怖を感じると顔面が蒼白となり、羞恥を感ずると顔が紅潮します。これは異常な感情が
ホルモンの分泌に異常変化を起させた結果、毛間の一部拡張や一部収縮を起こした結果が
血流に変化を生じたのです。これは肉眼に見える顔面の変化を指摘して諸君にわかりやすく
説明するためでありますが、それと同時に、肺臓や心臓や胃腸のハタラキにも異常変化を
起こしているのです。

 「妄心」はこのようにして人体内の生理作用に影響を与えます。麻酔薬は時として「妄心」の
ハタラキを麻酔せしめて却って「妄心」のあらわれである病気を軽減することがあります。
兎の四肢を縛って天井から五日間もぶらさげると、兎は恐怖と不安のためにホルモンの不調和を
来して死んでしまうが、同じように縛って天井からぶらさげても、その兎に麻酔剤を注射しておくと
「妄心」が麻酔して「恐怖」や「不安」を感じないから死なない。

感謝合掌

1462神の子さん:2012/10/19(金) 06:57:22 ID:YfMozNg.
ハマナス様

 合掌 いつもありがとうございます。

毎朝読ませていただいき、一日の活力をいただいております。
ところでこの謹写は抜粋でございましょうか?
たとえば、1450と1461のご投稿の間に2ページほど開いておりますから、
その間は飛ばされているのか疑問に思いました。
私が見落としていたらごめんなさい。

>>1450
病気を起す心  (『新版 生活の智慧365章』P.264)
>>1461
妄心の生理作用に及ぼす影響 (『新版 生活の智慧365章』P.267)

1463a hope:2012/10/19(金) 07:23:40 ID:8tjYhMb6

新版 生活読本 谷口雅春先生著

第4章 明るい心を持ちましょう
♦店が繁昌するには


心が楽しく明朗であれば、考えることは自然に正しくなります。すること為すこと軌道に乗ります。
すなわち、汽車がレールの上を滑ってすこしも脱線しないようにスラスラとよい考えが浮び、よい行いが出来るのです。

よい発明も出来れば、店の商品の列(なら)べ方も上手に出来ます。
愉快な人が列べた店の商品は、何となしに愉快な気持がただようていて、その店へはいって買いたくなるものなのです。

はやらない店の主人や番頭や売子はつねに不機嫌な、「楽しくない」顔をしているものです。
はやらぬから「楽しくない顔」をしているのかと思うと、そうではなくて、
「楽しくない顔」をしているから、人がよりつかなくなるのです。

よい運命を招くには、先ず「楽しい心」になることです。
(つづく)

1464うのはな:2012/10/19(金) 20:22:42 ID:a.OcI.Rc

 こうして心の思いを文章という形に現して、書き終ったら、それを佛様或は神の祭壇
に供えて、“神様この私のいやらしい心を浄めて下さい。どうぞ佛様、貴方のお力によってこの汚れている
心を浄めて下さい”と言ってお願いをして、浄化の神力佛力を呼びだすために、それに対して聖経『甘露の法雨』を誦んで、
直ぐそれをおろして焼いてしまうか、何処かへ流してしまうというようにすればね、いままで心の中に固まっていた腹立ちの感情が、
文字という形に現れて、それが焼かれたり流されたりして捨てられて無くなることになるから、その心の痛みが内攻して神経痛に罹っているのが
治ってしまうんですよ」と言って教えてあげたのであります。

 それから一ヵ月程したとき、又、その青木さんがやって来られました。そして言われました。
「先生に教えられた通り、それを詳しく書いて、鎌倉の友達に送ってあげたのです。
そしたらその日のうちに、もう一年間も続いておったその全身の神経痛が治ってしまったのです。それで
今は小学校へ通って、健康でね、幸福な生活を送っておりますという禮状が来ましたので、お禮を申し上げます」と
言われたのであります。

 この話を私は講習会の時に時々するんですが、それを宇治の講習会で私が話した時に、その頃吉田武利講師が宇治に勤めていて、
その話を聴いて、“いい話聴いたなあ”と思ってこれを宇治の道場へ練成に来る人たちに応用してみたら良かろうと考えられた。
生長の家の道場へ練成に来る人たちは随分色々と悩みやらを持っている人が“救われたい”と思って来るのだから、だから集まる人々は
皆心の中に何かの悩みやら不平やら色々持っている。

 そこで練成に来た人にその心の中の悩みや不平や怨みや鬱憤を紙に詳しく書かすことにして、その書いた紙を祭壇に供えて祈り、それを
集めて燃やしながら聖経『甘露の法雨』を誦んで、「聖経読誦の功徳によってこの汚れたる心の迷いの罪も業も悉く消えてしまって、自分の心は
清浄、完全なものになります」という、そういう思いを起こしながら聖経を集団で合誦する。
これによって心が浄まり、その結果として病気が治るにちがいないというので、それを浄心行と称して實行することにした訳であります。

『人間無病の原理』 P111−112 谷口雅春 先生著

1465ハマナス:2012/10/20(土) 00:29:25 ID:x2zmnlqw

神の子様
ご指摘ありがとうございました。仰る通り、ひとつ飛ばしていました。
失礼いたしました。
>>1450
病気を起す心  (『新版 生活の智慧365章』P.264)のページ数が間違っていました。
P.265に訂正いたします。この後に、今日の所が続きます。申し訳ございません。
ありがとうございました。

病気は妄心の現れ  (『新版 生活の智慧365章』P.266)

 病気の話をすれば、達者な人はそれに興味を感じません。しかし病気は「不調和な現象」の
一例として引用されているのであって、「家庭の不調和」でも、「貧乏」や「事業の不振」と
云う「経済上の不調和」でも、みんな「妄心」のあらわすところの現象であって、「妄心」を
放ち去って、「真心」を出してくれば、其処には「真心」の表現としての調和ある状態があら
われて来るのであります。

 「真心」は「神の心」であり、「実相の心」であり、永遠不滅の存在であり、「実相の世界」は
此の「真心」の創造するところであります。随って真心の創造するところの「実相世界」には、
不景気も不調和も、病気も、罪悪も、一切の悪が存在しないのであります。存在しないものを存在
すると観る心を捨て「真心」を出すようにすれば光明方面へと展開するのです。

感謝合掌

1466神の子さん:2012/10/20(土) 07:54:39 ID:YfMozNg.
>>1465
ハマナス様
お手数をおかけました。
今日もありがとうございます。

1467「訊け」管理人:2012/10/20(土) 11:49:12 ID:???

『善と福の実現』158頁より謹写――

 神のつくり給いしこの世界には一切の悪もなく罪もない、吾々はあるべきようにあらしめられるべく、内部の神の催しによって動かされている。自分で「こう生きよう」と力(りき)むときは、〝そのまま〟がくだけ、神の催しがくだける。来るもの、催して来るものは悉く有り難いものだけである。旧(ふる)い道徳的の眼をもって人を批判してはならない、真に民主主義の宗教は、「人を斯くあれ」と縛る宗教ではない。各人の内から催して来るところの催しをいずれも神の催しであると拝んでそのまま受けるとき煩悩もそのまま菩提(ぼだい)である。悩みは「悩み」と云う実在があらわれているのではなく神の実相があらわれようとする陣痛の如きものである。悩みを通じて実相が尚一層輝いて顕現する。しかもその陣痛の如き悩みもお産のときの陣痛が、産婦の心持で無痛分娩となったり、快楽となったりするように、神性があらわれ向上するための魂の陣痛も、それは必至のものではなく、受ける心持の如何によって苦痛が苦痛でなくなるのである。苦痛は本来無いのであって、それは如何にして人生の体験を受けるかの受け方の練習課題としてあたえられる。課題は過ぎ行くべきものであって、いつまでも課題をつかんでいるのでは進級が出来ないのである。あらゆる経験は人生の教科として与えられたる課題である。離婚と云うような人生上の悲劇も、その課題と真剣にとり組んでそれを解決するとき、そのような問題と取組まなかった人よりも其の人の魂は進化するのである。・・・・・罪は罪として掴んでいる間じゅう消えないが、罪は心の中で放ったときに消えてしまう。・・・・・

1468うのはな:2012/10/20(土) 15:49:15 ID:3jb./WYM
  『生命の實相』新修版第一巻序より再録

 宗教の自由が叫ばれ、それが認められるようになってから、ある種の術を施して
病気を治す所謂る「霊術的宗教」の中には、意識的なると無意識的なるとを問わず、一種の
催眠術的暗示によって信者を永久に自己の奴隷として屈従せしめてしまって其の宗教から脱退することに
恐怖心を感ぜしめるに至らしめるものが多いのである。

 しかし、かかる宗教は、その名称は「宗教」と云われているが、一種の「人格侵害」又は「人格の独立性蹂躙」を
行うのであって、それが宗教として甘んじてその横行が許されているのは、其の取締当局が「宗教とは、人間内在の神性、
佛性を開顕して、大宇宙の生命と一體なるところの無限性及び自主性を自覚せしめるものなり」と云う根本定義に想到せず
「医者以外の方法で病気が治るのが宗教だ」とか「何でも信ずるものが宗教だ」とか漠然と考えているから、どんな事でも人を
信ぜしめて人を集めさえすれば、そしてその信じた人たちが運営する結社をつくって登記さえすれば、直ちに宗教法人となると云うのであるから、
凡ゆる心霊療法や催眠術は「宗教」と登記して、税金をまぬがれたり「信仰は自由なり」の標語の下に百鬼夜行の現状を呈するようになったのである。

 しかし法人は登記によって成立するが、宗教と云うものは登記によって成立するものではなく、その内容によって成立するものだと云うことを知らなければならないのである。

 (中略)

 本書は約二〇年前に初版を出したものだが、その間に無数の難治症が全快したと云う治験の禮状を受けた部分である。
實相は不変であるから今も書き直す必要を私はみとめなかった。唯、記述中に出て来る人物の中には、境遇の変った人もあるから、
「先日」とある処も「或る時」と直したり、「何々をしている人」とあるのは「当時何々をしていた人」と云う風に直したりした。
が、そのほかには、最近の医学の発達と抗生物質の発見について言及した点が全く新らしいのである。

 尚、「七つの光明宣言」は現在生長の家教団の宗教法人規則に登載されているものとは多少異なるが、創刊当時の宣言を保持して置くことは
歴史的由来を明らかにする上に必要であるから、当時のままにして加筆しなかったのである。

 昭和二十七年八月一日 『生命の實相』愛蔵版第一巻序にも輯録

1469SAKURA:2012/10/20(土) 18:10:47 ID:rwd7gX3g
トキ様 へ  
観覧者の皆様 へ

こんばんは……   ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1238>>1304>>1307>>1319>>1320>>1324>>1331>>1332>>1334>>1339>>1347
>>1358>>1373>>1376>>1378>>1412>>1424に関しましては、【ベスト・フレンド】シリ−ズで〜す。

実は、私の「青春シリ−ズの一冊の本」なのです。(討論課題項目が、幾つかに分かれてい
ますが?)意外と真理が、分かりやすい【討論形式】なのです。…が〜〜〜??
❤〜【コロンビア大の方達が、真理…サイコ的】に? ベスト・フレンドは哲学になります…
初歩のかたでも、判り易いのでは〜〜昨日の投稿文章は、皆様!如何でしたかしら〜ン?

・・◆【ベスト・フレンド】  ( 自分のメッセージを聞く ) 
―――――  ►► 自分のメッセージを聞く ◄◄ ―――――

|❤わたしはなにか恐ろしいことも聞くのではないかという気がします。
|わたしたちのこころのなかにはなかなか取り出しにくいものがたくさん
|ひそんでいるのでしょうね。それが表面にあらわれると、あまりに多す
|て扱いにくくなるのでしょうか。そのために精神分析医というものが
|存在して、隠れているものを掘り起こさせ、ふるいにかけ、そして終局
|的には、そこからわたしたちを解放しようというわけですね。

 もちろん、精神分析医は人がなぜ自分自身を虐待しているかという理由を
明らかにさせるという点では、おおいに役に立つことができます。多くの人
のなかには自分が自分に害を与えていることにこころを奪われていながら、
その理由がわからない人たちもおります。精神分析医はそうした人たちの自
己破壊的な悪循環を断ち切る方法を提示する唯一の存在です。

 人間の成長期にはいくつかの障害があります。それはときには他人によっ
てすえつけられたものもあり、わたしたちがわざわざ努力して保存しておく
ものもあります。この障害物を乗り越えさせてくれるのも精神分析医の仕事
なのです。

                        (つづく)

1470SAKURA:2012/10/20(土) 18:13:35 ID:rwd7gX3g
トキ様 へ  観覧者の皆様 へ
こんばんは……   ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1469からの投稿の続きです…。

 ですから、精神分析は解放された人生を送るためのひとつのすぐれた方法
なのです。はじめて患者が寝椅子に横たわったとき、それは人類にとってま
ことに大きな一歩でした。しかし、あなたは分析を受けるためにかならずし
も、寝椅子に横たわる必要はありません。わたしは電話による分析に成功し
たこともあります。また、たとえ分析医にかかっていても、自分自身でも分
析を行なわなければなりません。分析がときどきかなり長期にわたるときが
ありますが、その理由は変化というものが本質的に患者自身には必要だとい
うことを患者が理解してくれないからです。なかには、どんなに深い洞察力
を体得しての、またどんなに多くの情緒的なカタルシスをとげたとしても、
変化が生じないことがあるのです。

                           つづく
PS;トキ様 へ
今回の様に、自分自身にとって“マイナス要素”のものは、多々なるこじつけにより、
それを受け付けない?仮に受け付けたとしましても…逆に“マイナス”ダウン!ダウン!
転げ落ちて…落ちるところまで落ちる?その様な道しかないのかと…そのように不安材料
にもなりますでしょうか??
しかし、この時だからこそ【信仰…真理…】素なのです〜〜〜ョネ!
【心の法則…】にて、ポジティブなる感情に持っていけるその事を、導くのが…
「生長の家…」の信者の皆様の「使命…」でしょうか?
ですから、以前以上に多々なる条件下でも“救済…”出来ます己自身に成る必要性と、
日々の【真理…探究心】でしょうか??
この点は?如何なるお考えをお持ちでしょうかしら〜〜〜ン??

1471ハマナス:2012/10/20(土) 22:44:15 ID:x2zmnlqw
神の子のみなさま
こんばんは。

苦痛も「妄心」にある  (『新版 生活の智慧365章』P.267)

 胃潰瘍を手術する場合に。患者にクロロフォルムをかがせますと、脳髄を機関として働いて
いる「妄心」が麻酔します。「妄心」が麻酔しますと、もう潰瘍の痛みが感じられなくなります。
肉体に潰瘍はまだ依然として存在しているのに、潰瘍の痛みが感じられないのは、「妄心」が
麻酔しているからなのです。痛みは肉体そのものにはないのであって、「妄心」にあるのだと
云うことがわかります。
 麻酔からさめて「妄心」のはたらきが蘇生(よみがえ)って来ますと、手術した後の痛みが
感じられて来ます。「妄心」を「真心」に置きかへ「真心」が表面にあらわれて、人間の実相が
「神の子」であり、霊的実在であり、未だ嘗て病まざるものであり、これからも病まざるもので
あり、仏身、金剛身、不可壊身であると悟ることがきでるまでは、本当の健康は永続しないので
あります。

感謝合掌

1472ハマナス:2012/10/21(日) 23:19:14 ID:mR2szZkc
神の子のみなさまこんばんは。

エーテル体と妄心(「新版生活の智慧365賞P.268」)

「自分」と普通みとめている「身(しん)」は、物質身ではなく霊身、金剛身、不可壊身であります。それに、「エーテル体」「幽体」等の知覚身、感情身がからみ合い、その表面に知覚と感情によって動かされ行動する「肉体」が包んでおります。エーテル体は物質的自覚を生ずる「妄心」の“座”でありまして、行動便宜上、自分を物質として感ずると同時に、肉体を物質としてあらわしているのであります。そして幽体は感情を生ずる妄心の“座”でありまして、その感情の動揺が肉体面に表現されて病気となります。

肉体を物質としてあらわしているのは、これらの「妄心」でありますから「妄心」の“座”である「エーテル体」や「幽体」が、臨終によって肉体から去りますと、肉体としてあらわしている体は、それを持続する力が去りますから、その姿形が崩壊してしまうのであります。しかし金剛身、不可壊身たる霊身は「本当の自分」であって、肉眼には見えないでも、壊(くだ)けないで永遠の存在であります。

感謝合掌

1473a hope:2012/10/22(月) 07:49:07 ID:8tjYhMb6

新版 生活読本 谷口雅春先生著

第五章 腹立つ思いを捨てましょう
♦腹立つ事を止めると胸が丈夫になる


一八七九年、ハーバード大学のゲーツ教授は、或る患者の呼吸から出てくる沈殿物(したにたまるもの)について研究した実験録を発表しました。

その報告によりますと、患者にゴム管をくわえさせ、ゴムの管(くだ)を通して、
或る薬品(ある元素の沃化物〈ヨードとほかのものとのかこいしたもの〉)の液体の中に導き入れます。
そのゴム管は氷をもって冷やして、息の中の瓦斯体が凍って液体となり、薬の水の中へ入れるようにしてあるのであります。

患者の心が静かで気持の好いときには、いくら時間がたってもその薬の液体には何の変化もありません。
ところが、患者が急に怒りはじめたとき、五分間ほどしましたら、その薬の液体の中に褐色の沈殿物が出来たと云うのであります。

この褐色のおりをとって人間や動物に注射しますと、その人間や動物が、怒ったように、興奮したようになったと云うことです。
すなわち、怒ると云うことは、そういう毒素を身体から製造し、息の中からまでも、その毒素がでていると云うことをあらわしております。
その毒気が息から出るとしますと、毒気は肺臓を通って出るのですから、肺臓に害を与えているのは明らかなことであります。
肺を病んでいる諸君、胸が弱いと云う諸君、腹立てていることを止めると胸が丈夫になります。

またゲーツ教授は、愛する子供が死んで非常に悲しんでいる婦人の口に、ゴム管をくわえさせて、
同じような実験をして見ましたところが、薬の液体の中に灰色の沈殿物が生じたと発表しています。

そこでゲーツ教授は、色々の実験の末、次のように申しました。
「腹立ちや、悪意や気鬱(こころがふさぐ)は人体内に害の有る化学薬品をこしらえる。その中には非常に毒性のつよいものもある。
これに反して、楽しい、愉快な感情は、生理作用をととのえ、細胞のはたらきを活発にする栄養剤となる薬品を身体の中で製造する。」
(つづく)

1474ハマナス:2012/10/22(月) 23:49:20 ID:x2zmnlqw

神の子のみなさま
こんばんは。

病気は夢である  (『新版 生活の智慧365章』P.269)

 人間それ自体は、金剛不壊の存在でありますから、病気は一つの夢にすぎません。薬物で
治ることもあるが、それは「薬で病気が治る」と云う信念で、夢の中で「治ると云う夢」を
見るのです。「夢である病気」が夢によって治ったとて不思議ではありません。しかしまた
夢の中で再び夢を見るのは止むを得ません。何故ならその夢が覚めていないからであります。

 真に自分が「金剛不壊なる霊的実在」であると悟るならば、その悟りにバックされて、
たとい夢を見ても、今後は、病気の夢など見るものでありません。「人間は金剛不壊であって
病気はない」と信じなさい。そして元気を出しなさい。元気を出せば、体力はそれに比例して
元気になります。肉体を動かしているのは「エーテル体」と「感情体」ですから感情が滅入っ
てしまって、元気を出さない限り、肉体は健康になり切れません。

感謝合掌

1475a hope:2012/10/23(火) 07:13:00 ID:8tjYhMb6

新版 生活読本 谷口雅春先生著

第五章 腹立つ思いを捨てましょう
♦世の中は自分の心の鏡


『世界は、人々に人々自身の払っただけの貨幣を支払う』と云う諺があります。
あなたが世界に対して微笑(ほほえ)みかければ、世界もあなたに対して微笑みかけるのであります。
あなたが世界に対して渋面(にがいかおつき)すれば、世界もあなたに対して渋面するのであります。
あなたがやさしく世界に対して歌いかければ、世界もあなたに対して歌いかけるのでありましょう。

「もし、もし」と呼びかければ、「え、何ですか」と答えますが、「おいこら」と呼びかければ「え、何じゃ?」と鋭い顔でこたえるでしょう。
「坊ちゃん」と呼べば、「ハイ」と答え、「坊や」と呼べば、「ウン」と答える。
「お前馬鹿だな」と云えば、「お父ちゃんだって馬鹿だよ」と答えます。
売り言葉に買いことば、こちらの出した価(ねだん)だけのものが帰ってまいります。

あなたが世界を愛すれば、世界はあなたを愛してくれるのです。
あなたが世界に貢献(ためになることをする)すれば、世界は貴方によい待遇(もてなし)を与えるでしょう。
この世界をつまらないと見れば、つまらないことが、世界から貴方に帰って来るでしょう。

あなたが人類を愛せば、人類が集まって来ます。
あなたが友達を愛せば友達があなたを愛してくれます。
こちらが世界に何ものもささげないでいて、世界から何か自分に都合のよいものを貰おうと思ってもそうはまいりません。
(つづく)

1476「訊け」管理人:2012/10/23(火) 08:24:50 ID:???
『希望実現の鍵』84頁より謹写――

 天地一切のものと和解するという事は、ただたんに表面の心で、自分は彼を赦しているというような浅い赦しようでは足りないのであります。
 詳しく言えば、赦すなどという観念がすでに相手の悪をみとめていることになっているのであって、それでは、すべての人間が吾が子として愛し給う神の霊波に波長が合わないのである。心の隅のどこかにでも、誰かが自分に悪意をもっているとか自分に害を与えるとかの考えを捨てることができないでいる限りは、神は創造に何かまだ不完全があると信じているということになっているのであるから、それはまだ神と完全に和解しているということができないのである。
 祈りがきかれる為には神と和解しなければならない。神と和解するためにはこの世の中に、赦すべき必要があるような人間をまだかつて神は造り給うたことがないという深い信念にまで到達しなければならないのである。もし「赦さねばならぬ人間」が自分の目の前に現れていて消えないとするならば、それは、神がかくの如き人間を造ったのではなく、自分がまだ神の造り給うたこの世界にそんな不完全な人間があるという迷いを持ち続けている証拠であるから、間違いは自分の方にあるのであって、神の創造に間違いがあるのではないのである。
 だから吾々は相手を赦すどころか自分を赦し給へと祈らなければならないのである。「神よ、吾が信仰浅きを赦し給へ」と祈ったイエスの弟子のように、「神よ吾信仰うすきを赦し給へ、あなたのお造りになりましたこの世界には不完全なものはないのであります。あなたの造り給ひしそのままの完全なる世界が、どうぞ私の目にみえるようにして下さいませ」と祈ってから、しばらく黙して「神の無限の智慧が流れ入り来て一切の悪とみえるものが自分の目の前には消えてしまった」と念じて感謝をもってその祈りを終わるようにすればいいのである。

1477「訊け」管理人:2012/10/23(火) 08:28:15 ID:???

『希望実現の鍵』71頁より謹写――

 数週間の間、何事も順調に進んでいる様に見えました。所が突然、或る日その映画会社の作品を配給していた会社との契約が切れ、その作品のことは継続されませんでした。そこで彼は再び解雇されることになりました。けれども彼は失望しませんでした。素直にその運命を感謝して受け、更に一層よくなる始めであると信じていました。
 所がその映画会社のプロデューサーが一通の紹介状をニューヨークの某映画会社宛に書いてくれたのです。その映画会社は有名な映画会社でした。突然彼の収入は増加し、彼の権威は、彼の位置は益々重要となりました。一年たたない中に彼は嘗て編集者として受けていた最高のサラリーの2倍以上を得るようになりました。3年経たない中に当時の3倍以上となり、年々歳々その収入は増加し、3年経つと最初のサラリーの5倍以上のサラリーとなり、6年経った頃には、小説編集者として解雇された時の10倍以上も収入のあるようになりました。

 そこで皆さん考えてください。この人にとって悪いニュースというのは一体どこにあったのでしょうか?考えて見まするに、すべては尚一層よくなるために神が導いていられる事を見出すのです。

 それは唯偶然と思われるかも知れませんが、それはすべて偶然ではありません。自分の周囲に出てくる所のすべてのものを自分を生かす神の深切なる導きとして感謝して受ける時、すべてのものは好転してくるのであります。子供の教育も矢張りそれと同じことがあるのであります。子供に現はれるどんな悪しき状態でも結局それは、よくなるより仕方がないところの神の導きであると信じて実相を拝んで居れば、きっと子供はよくなるのであります。一見悪と見えることも決して悪と見てはいけません。そのまま素直にそれをうけて、きっとよくなる始めである、神の造り給うたこの世界には決して悪はないのである、神の造り給うた人間は必ずよくなるより外に仕方がないのであると素直に信じて拝んで行けば、如何なる境遇でも運命でも子供でも全部よくなるより仕方がないのであります。

1478「訊け」管理人:2012/10/23(火) 08:29:06 ID:???

『希望実現の鍵』79頁より謹写――

「ユニティ」の1948年10月号の週刊誌より――

 紙の上に一方に人間を描き、一方にその人間に飛びかかろうとしているライオンが描いてあるとする。人間を善であるとし、ライオンを「悪」であるとする。しかし、本来「人間」もなければライオンもないのである。善もなければ悪もないのである。それはただ同じ紙の上に描かれたる絵にすぎないのである。鉛筆で描いた輪郭を消してしまったらライオンも人間も結局同じ本質の紙にすぎないのである。そこで人間がもしライオンの外形を見るならば恐ろしいかもしれないけれども、そのライオンの本質を見てライオンにこう言えばいいのである。
 「私は紙である。キミもまた紙ではないか。ライオンなんて存在しないのである。自分の生命とキミの生命とは本来一つのものである。だから私はキミを恐れたりなどしないよ。キミと私とは本来一体なのだからキミはキミ自身を害することはないし、又私は私自身を憎むことはないのだ。」
 こうわかってしまえば、世の中に恐ろしいものはないのである。すべて世の中に現われている形は吾々が「想念」でその輪郭を描いた所の影にすぎないのである。そしてその本質は皆神の生活であるから、互いに害し害されることはないのである。この真理を知れば如何なる場合にも恐れることはないのであり、あらゆる難問も解決され、憎み、恐怖、嫉妬、猜疑等の如き悪循環は悉く消えてしまうのである。そして一つの兄弟であると感謝できる筈である。この真理をしることが即ち「汝は真理をしらん、真理は汝を自由ならしめん」とのキリストのいい給いし所以である。あらゆる人生の善と福との実現すると否とは、この真理を知ると否とによって別れるのである。

1479SAKURA:2012/10/23(火) 23:40:57 ID:jH5uEFzM
トキ様 へ  
観覧者の皆様 へ
こんばんは……   ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
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>>1358>>1373>>1376>>1378>>1412>>1424に関しましては【ベスト・フレンド】シリ−ズで〜す。

実は、私の「青春シリ−ズの一冊の本」なのです。(討論課題項目が、幾つかに分かれてい
ますが?)意外と真理が、分かりやすい【討論形式】なのです。…が〜〜〜??
❤〜【コロンビア大の方達が、真理…サイコ的】に? ベスト・フレンドは哲学になります…
初歩のかたでも、判り易いのでは〜〜昨日の投稿文章は、皆様!如何でしたかしら〜ン?

・・◆【ベスト・フレンド】  ( 自分のメッセージを聞く ) 
―――――  ►► 自分のメッセージを聞く ◄◄ ―――――

|❤しかし、わたしには変化はときには簡単にやってくることがあるよう
|に思われます。わたしにはそういう経験があります。突然、周囲のこと
|がこれまでとまったくちがって見えるときがあるでしょう。たとえば、
|重荷が軽くなる、ドアが開く、いままで苦闘していたものがたちまち楽
|になる、というようなことが起こるのです。

 まさに奇跡が起ころうとしているわけですが、これは大変よいことです。なぜなら、こう
した奇跡は人が生きていくうえでおおいにプラスになるからです。しかし、そのためにはま
ず葛藤がなければなりません。ゆきづまりがたくさんあることは、奇蹟をつくり出すことに
通じます。奇蹟はその受け入れ態勢ができている人によく起こるのです。

 しかし、人生に変化をもたらすためには、このような突然の飛躍以上のものが必要なので
す。そのためには、ちゃんと自分でそれを意識した行動、自分に人生を自分の手におさめよ
うとする決断を必要とするのですが、たいていの人はこの決断をあえて行なおうとしないの
です。彼らは精神分析医のことをこれまで夢にも見なかったほどのやさしい父親か母親のよ
うに思い、これからずっとめんどうをみてもらえると決め込んでいます。それはかならずし
も悪いことではないでしょうが、分析医がもたらしてくれる重要な成果のひとつは、愛情あ
る配慮ということなのです。ところが一般の人は、ほんとうによい両親とは、子どもが自分
で、自分自身の世話をしていけるようにしつけてくれるものだということに気がつかないの
です。ある人がつぎのようにいいました。「もしあなたがある人に食物を与えれば、その日一
日は食べさせることができますが、自分の食べ物をつくる方法を教えてあげるなら彼らは一
生自分の力で食べていくことができるようになります」と。

 あなたが自分でみずからの世話をし、自力でやっていく決心ができると、つぎにまた大き
な仕事が待っているのです。悪い習慣を断ち切るときには分別と努力が必要です。いま、あ
なたのこころのどこかであなたがこれから挑もうとしている変化に異議をとなえているとし
ても不思議ではありません。

古い慣習のなかにいれば、きわめて快適ですし、なにもわざわざ変わったやり方で物事を
見たりやったりする気持ちが起こらないからです。しかし、そういうときにあなたのこころ
は、まさにある闘争が展開されるのです。
                   (つづく)

PS:トキ様 へ
「雅春先生」の言葉より……『人間は努力しただけの分だけ“奇蹟”が起こる』のです。
そして、次のステップの踏み台にも〜〜!!此の“言葉”からも、同様な解釈がありますから
改めまして、悪い時程…良い事の始まり〜♫〜でしょうか。
さらに!【飛 躍 の 前 触 れ 現 象】です〜〜〜ョネ!!私も前以上に引き締めて?
信じて?行動で〜〜〜す。さぁ〜〜〜頑張ろう!!と、ちょっとリズム〜♫〜が出来てきました。
…が?〜〜「トキ様」も如何でしょうか??
素晴らしい文章を読みまして【前向きになれる!】のは〜〜やはり【言葉の力…魔術師??】
でしょうか??
                            再合掌

1480ハマナス:2012/10/23(火) 23:59:59 ID:x2zmnlqw

神の子のみなさま
ありがとうございます。

病気に思い軽いはない  (『新版 生活の智慧365章』P.270)

「生命」は物質そのものにはないのであって、「生命」が物質を支配するのである。物質を

生ぜしめ、それを仮に物質として、吾々に感ぜしめているのも「生命」の力である。物質は
「生命」の影であって実体ではないのである。 「生命」は霊的実体であって金剛不壊であり、
細菌やヴィールスに冒されざるものである。それが冒されるようにあらわれるのは、本来の
霊身を「物質身」として翻訳して感ずるところにあるのである。

 自己を「物質身」と見、病み且つ死するものであると見るのは、「妄心」の夢であるのである。
夢は醒めるものであり、「夢の病気」には重いも軽いもないのである。軽い病気が治るならば、
重い病気も、同じ軽さで治る筈である。どちらも夢であるのだから、その夢からさめさえする
ならば、病気に重い軽いはなく、どんな病気でも消えてしまうのである。

感謝合掌

1481うのはな:2012/10/24(水) 00:12:43 ID:mbxezudY

 忘れ得ぬ人 榎さん 『光の国から』 渋谷晴雄 先生著

 榎さんは日に焼けた肌の、骨太いつくりで、顔はつやつやしている。六十歳ぐらいの感じで
とても八十歳とは思えなかった。
 私が榎哲太郎さんとはじめて会ったのは、生長の家本部からハワイ州本部駐在講師を命ぜられて赴任した
一九六五年(昭和四十年)のことである。榎さんは当時。カウアイ島の講師会長であった。
カウアイ島というところは、ガーデン・アイランドともいわれ、美しいハワイのうちで、とくに緑の多い、あまり
文明開化の波をうけないようなのどかなところだった。

 教化部のあるホノルルから、はじめてカウアイ島に巡講に行ったときである。
地元の信徒の方々が大勢で歓迎会を開いてくれた。翌日講演会が終ったあと、講師会長の榎さんが、会場で、私を引きとめて
言った。「先生、私は生長の家のみ教えのお蔭ですばらしい体験をいただきました。先生、ぜひ聴いて下さい」
以下は、榎さんの体験談である。

 数年前榎さんは、身体の調子がわるく、疲れやすく、尿の出る回数がやたらに多くなった。
しかたがないので、病院に行って診察してもらった。しかし、カウアイ島には日本人の医者はいなくて、白人の医師にかかった。
ところが、榎さんは日本からハワイに行って数十年になるのに、英語が満足に出来ない。
そしてその医者はまた日本語がわからない。医者は診断してダイヤベーティズ(糖尿病)だ、といった。
しかし、榎さんにはその病名がわからない。

「ウォチュー ミーン?」(それ、どんな意味ですか?)
「ウェル・・それは、ユウのシーシーからシュガーが出る病気だ」と医者は、おしっこをする身振りをして教えた。
榎さんはシュガーという英語が砂糖だということは知っていた。榎さんは思った。
“なんだ、そんな病気か。おしっこから砂糖が出る病気か。どおりで。それじゃ砂糖を食べればいいんじゃないか”
医者が薬をやる、というのを断って、榎さんは、“なるほどダイヤベーティズ、よくわかりました。センキュウバイバイ”
榎さんは、家に帰る途中で、大きな砂糖袋を二つ買って車のトランクスに入れた。

 家に帰ってから、榎さんは、“砂糖さえ食べればいいんだ”と、コーヒーには砂糖を四杯も五杯もかけ、また、御飯にも砂糖を
かけて食べた。効果はテキメンであった。翌日からぐんぐん元気になった。一ヵ月たって見違えるように元気になった榎さんは、念のために、またその
医者に会った。医者は榎さんの尿の検査をして言った。
「おや、糖尿が全然出ていない。完全に治っている。ところで、きみ、病院はここしかないはずなのに、あんたは、いったいどこへ行って治ったんだ?」
「砂糖をいっしょうけんめい食べた」という榎さんの言葉に医者は大きく眼をむいて絶句した。
糖尿病で砂糖をとるのは、御承知のように医学的にはいちばんわるいのである。しかし、榎さんは“砂糖を食べれば治る!”と堅く信じていたのである。

 この体験談を話し終って、榎さんは私を見てニッコリ笑った。
私は、感動したというよりは、あっけにとられた。これが講師会長である。講師会長といえば、日本では大抵知識人である。医学の常識などは持ち合わせて
いるのが普通である。それなのに......というわけで、私は榎さんの顔をまじまじと見るよりほかなかった。
 しかし、私はここに深い真理があるということを知った。
私たちは医学や科学の常識がありすぎるのではないか。ありすぎるために、これはいけない、こうしなければならない、と、自分自身を束縛している。
自己限定する。そして、いちばんわるいことには恐怖心によって生命力をさまたげている。
“知らぬが仏”というが、何も知らない榎さんは“砂糖を食べれば、糖尿病は治る!”と信じた。
その信ずる力は、医学の法則を上まわった。なぜなら医学の法則というものは生命の働きの痕跡を法則化したものであり、生命というものは、その法則を法則にしている
元のものではないか。だから、一見奇蹟と思われるものも、そこに高次元の生命の法則が働いているのではないか。

 私はハワイに三年いて、日本に帰った。日本で、個人指導のとき、生半可な医学の知識があるために自分の病気が難病だと信じこんでいる人に会うと、ニコニコ笑っている
榎さんの顔を思い出す。そして榎さんの体験談を話すのである。

 榎さんは、その後ずっと元気だったが、やがて九十歳の天寿を完うされて昇天された。
今でも天国でニコニコ笑っている榎さんの顔を私は忘れられないのである。

1482ハマナス:2012/10/24(水) 14:06:14 ID:x2zmnlqw
神の子のみなさま
こんにちは。

実相の覆いを取り除け  (『新版 生活の智慧365章』P.271)

 怒り、憎み、悲しみ、恐怖、悪意、貪欲、嫉妬などは、自己が物質的存在であり、何物かに
奪われたり、傷つけられるかも知れぬと云う予想から、それを防御する感情として起って来る
ものである。従ってそれは「実相」の円満完全さを覆い隠してしまって不完全な肉体を表現
するようになるのである。その覆い隠された状態が病気であるから、その病気を消滅せしめる
方法は、二つの面から考えられる。即ち、一つはその覆い隠しているもの――怒り、憎み、
悲しみ、恐怖、悪意、貪欲、嫉妬などの感情を取り除くことである。

 怒り又は、憎んでいる相と心の中で和解しなさい。「私はあなたを赦しました。私はあなたに
感謝しております。私はあなたを愛しています。」と云う言葉を、目をつぶってその相手の人に
呼びかけるような気持で心の中で繰返し繰返しとなえなさい。

感謝合掌

1483「訊け」管理人:2012/10/24(水) 15:20:09 ID:???

『希望実現の鍵』66頁より謹写――

(脚本家チェーズ氏は、その能力を嫉妬され周囲からのいじめに遭っている)

 彼をとりまくところの彼に好感をもっていない人々は恐らくチェーズがこの四面楚歌の中に憤激し、抵抗し、反抗するだろうと思っていたのに、彼が悶々としてそのまま、それに無抵抗であるのに驚かされました。彼自身は何等憤激することなしに普通に忍耐と機嫌のよさとを以てそれに対していることが、不思議に彼に悪くあたっている人達を沈黙せしめ、不思議がらせているのに驚く程でした。
 ここに他のあらゆる方法が失敗すべき時にも、今まで気にもとめなかった法則・神・無抵抗の真理が、斯くも素晴らしく働くものであるということが解って来たのでした。「悪に抗することなかれ」となぜイエスが山上の垂訓に於いて教えたのであろうか。此は最も科学的な相手に対する征服方法なのです。その結果は実に驚くべき結果があるのです。
 次に述べようとするのはその結果である。そのスタジオの有名なプロデューサーがスターのためにシナリオの続きを書くようにチェーズに申し込んできたのである。此のプロデューサーはあらゆる出来事に神経過敏で色々の批評をする男なのである。チェーズはこれはなかなか大変な仕事であると思ったが、「抵抗するなかれ」の真理を実践するために、それを素直にうけたのである。チェーズの心の中には古い格言が思い浮かんで来た。「汝の最善を尽くせ。しかし、その余は神に委ねよ」此は無抵抗を裏書きするものであったのである。彼は自分自身を忘れて、その映画製作に没頭した。しかしあせりはしなかったのである。すると今まで低迷していた暗雲から一条の光が差してきた。そのプロデューサーがチェーズに向かって言った。「君、君はなんて素晴らしい卵だ。こんな素晴らしい辛抱強い人を見たことはない。君と仕事することは全くうれしい」やがてチェーズの作品はこのスタジオの最も有名なディレクターにも認められた。このディレクターは勿体らしく頭をふって「これは小さな宝石だ。全くの傑作だよ!」と賛嘆したのだった。こうして素直にあたえられたものを無抵抗に受け取るとき自ずから道が開けてくるのである。

1484「訊け」管理人:2012/10/24(水) 15:22:36 ID:???


『希望実現の鍵』58頁より謹写――

 パウロは「神を愛するのは神を霊として愛さなければならない」といったが、人間も「神の子」である以上はそれを霊として愛さなければならないのである。吾らは時として人間を愛する道を誤る。そして彼を肉体として愛する。そこに時として間違いが生じる彼や自己を見るのに肉体として見るのである。吾々の祈りがきかれない場合には、以上に述べた色々の原因が交錯しているのである。

 まづ第一に注意すべきことは、自分或いは自分の子供をその他すべての家族達を神の子として霊としてみているかを反省してみるべきである。もし治らない恐怖心や、死の恐怖があるならば、それは人間を霊として見ていない証拠である。霊は病もなく死もないからである。

 第二には、自分は誰か恨んでいないか、憎んでいないかを反省して見ることである。時とすれば、もう記憶にも残らないほど誰かを憎んだままで赦していないでそのまま忘却していることもあるのである。できるだけ過去を記憶によびもどして、もし不調和な人があるならばその人を赦して彼と和解する事である。憎むべき原因、色々の争い等は本来実相の世界には存在しないのであって、すべての人間は、皆善き人間ばかりなのである。従って憎み恨みということは結局は根拠のないことだと悟って、すべてを赦してしまうことである。それには坐して目をつぶり、目の中に相手の姿を思い浮かべその名前を数回となえて相手を呼び出すような気持ちになり、「私はあなたを赦しました、私はあなたを愛しています。私は貴方に感謝しています。もし私があやまってあなたに気に入らないことをしていましたならばどうぞお赦し下さいませ。あなたと私とは神の愛の中に渾然と溶け込んで互いに一体でございます」というような言葉を心の中で幾回も繰り返し、数十分その思念に精神を集中し、心の世界で相手と和解するのである。

 第三には吾々は業の観念から解放されなければならないのである。過去に何か誤った業をおかしてその報いを受けなければならないというような罪の観念を捨ててしまうことが必要である。多くの不幸・病気・災難等は自己処罰の観念の具象化として現われている事が多いのだから自己処罰の観念を捨てなければならないのである。そのためには瞑目合掌神想観して、「神の光吾に流れ入り給うてすべての過去の罪と業とを浄め給うたのである。今吾は完全に洗い浄められて、本来罪なき所の円満完全清浄無垢なる神の子に生まれ変わったのである。もう自分は如何なる罪の束縛も業の束縛も受けることはないのであって、自分は自由自在である」というような言葉を心の中に繰り返し念ずることが必要である。

1485「訊け」管理人:2012/10/24(水) 15:24:26 ID:???


『希望実現の鍵』82頁より謹写――


 宗教を信じ、神を信じ、神に祈り求めていながらその祈りを成就することができない場合に注意しなければならないのは、人を赦していない場合が多いのであります。祈りがきかれないのは実は自分が神の霊波と波長の合わない心をおこしているからである。キリストは主の祈りに於いて「吾々が人の負債を赦すかの如く、吾が負債をも赦し給へ」と祈れと教えているのであります。もし吾々が人のあやまちを赦さず憎む心をもちつづけているならば、吾々の祈りがきかれないのも無理はないのであります。その実例は日本にも沢山あります。飛田給の生長の家道場に来て練成を受けた青年がこういう体験談を発表せられたことがあります。
 彼はエディポス・コンプレックスに陥って父を激しく憎んでいたすると父は妾を一時に3人もこしらえているので益々憎んでいました。飛田給の練成会に来て、父が他に愛情を求めるのは自分が父を愛しないからで、父を憎む心をすてる様に教えられた。そして私は父を絶対憎むまいと決心した。心では赦す気持ちになっていたのである。ところがどうしても父の前へでるとぴったりしないし、又どうしても父を尊敬する深い愛情が湧いて来ない。従って父の妾狂いは止まらないのである。そこで再び飛田給の練成会へ来た時に練成担当の徳久克己博士に、「どうしたら父と調和できるであろうか」ときいてみた。すると、徳久さんは、
 「それは君父を赦さなければいかん」といはれた。
 「赦しているんですが」
 「赦している積もりでも潜在意識の底では赦していないんだよ。もっと深く赦すことだ、潜在意識の底から赦すことだ。そのためには祈りの部屋へ行って私はあなたを赦しました。あなたも私を赦しました。あなたと私とは神に於いて一体でございます。あなたも私を愛しております。あなたと私とは神に於いて一体でございます。私はあなたに感謝しております。あなたも私に感謝しております。お父さんありがとうございます。お父さんありがとうございます。とこう心の底深く念じて神想観をやんなさい」と教えられた。

 この青年が練成を終えて帰郷した時、その長い間不調和であった父が、息子である其の青年を、上座の床の間に坐らせて、自分は下座に坐って、父は両手を畳の上について低頭して「いままで、わしが悪かった。心得違いをしてすまなかった」といって涙を流して真実溢れて息子に詫びるのでした。青年も「お父さん僕が悪いのです。赦して下さい。」といって、こみあげてくる涙と共におわびをしたというのである。それ以来同君の家庭は天国浄土のような温かい春風駘蕩の家庭になって、いつとなく3人の妾も解消したというのであります。

1486「訊け」管理人:2012/10/24(水) 15:25:55 ID:???


『希望実現の鍵』24頁より謹写――


( 貧しい母親が赤ん坊への乳母車を欲しいと思った。ある日新聞の三行広告に「乳母車」の文字があった。早速広告主に電話したところ「貴女が来るまでに真に欲しくて受け取りに来る人があるならばその人に渡すが、もしそれまでに買い手がつかなかったら貴女に売りましょう」というものだった。 )

 それから彼女は神様に祈った――「神様、もしその乳母車が私に与えられるものでしたら、どうぞ私の手に入りますように。あなたは私に乳母車が必要だと云うことを知っていらっしゃいます。あの乳母車を受け取りにやらせる人が私には見つかりません。もし私の願いが正しゅうございましたら、あの乳母車を手に入れる方法をあなたは知っていらっしゃいます。神様、私はあなたに全てをお委せいたします。」この祈りは誠に典型的な祈りである。だから私は祈りの典型的な実例としてここに引用したのである。この祈りの「乳母車」と云う名称を、他のどんな物の名称に、書籍であろうと、衣服であろうと、装身具であろうと、また「恋人」であろうと、それに置き換えて祈れば好いのである。その祈りになくてはならない要領はすなわち次の5つである。

1、もしそれが私に与えられたものでしたら、
2、あなたはそれが必要だと云うことを知っていらっしゃいます。
3、もし私の願いが正しゅうございましたら、
4、あなたはそれを私のものとする方法を知っていらっしゃいます。
5、あなたに全てお委せいたします。

 「広告主様ありがとうございます。乳母車様ありがとうございます。その持ち主様ありがとうございます。」彼女はこう念じながら眼を閉じて眠ろうとした。

(後略:その後彼女の元に持ち主が車を飛ばして乳母車を持参してきたのであった。何かに突き動かされて持ち主は見ず知らずの彼女の元まで乳母車を持参してきた。)

1487SAKURA:2012/10/24(水) 23:30:57 ID:jH5uEFzM
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|❤わたしたちの多くはどちらかといえば、変化を好まないのがふつうで
|す。しかし、真剣に考えてみると、快適な慣習を変えることよりも、ず
|っと重要な問題があるのです。このことはたしかにそのままに捨てては
|おけません。

わたしたちが話し合ってきたことは、すべて重大な問題です。錯覚や虚構
も世のなかやわたしたち自身について正しいと感じていることも重要な問題
だといえます。深い意味を考えれば、わたしたちはこころのどこかで、いま
自分の存在そのものが脅かされ、自分が生きるための闘いをつづけていると
考えています。しかし、それはそう感じているだけで、じつは誤解なのです。
わたしたちの闘いの相手は、自分がもつ悪い習慣、すなわちわたしたちの人
生をこれまで毒してきた思考と行動の悪循環なのです。

 これを取り除くには多大な忍耐を要します。変化を望むだけでは不十分で
す。変化したいと思うようになろうと、望まなければなりません。変化した
くないことですら変化したいと望まなければなりません。

 それを試みる方法はいくらでもあります。たとえばつぎの格言のような、
一見古めかしい方法もあります。「自由の代償は永遠の警戒」(訳者注――完全
に自由になると、いつも警戒していなくてはならない)とか、「七転び八起き」と
いったものです。それは古くさいけれども、真実を物語っています。あなた
はいま自分がしていることを見つめるべきです。自分を卑下していることに
気がついたら、ただちにその場で立ち止まり、方向転換してみずからを上昇
させなさい。

 現実主義も必要です。人は往々にして完全でありたいと望み、そうでない
とガックリくるものです。そんなことはもうやめなさい。完全という言葉
は人間のためにあるのではなののです。芸術作品にはたしかに完全といわれ
るものが、いくつかあるかもしれませんが、それにしてもかぞえるほどでし
ょう。完全な人間とは、それがどんなものであるにせよ、とうてい耐えられ
ない存在でしょう。あなた自身を超人のものさしで判断することは、みずか
らを傷つけることになります。それはまた同時に、そういう判断のしかたを
あきらめるよい口実となります。あなた自身に判定を下すことはやめなさい。
まず、いまの自分をよしとし、そこから前進すべきです。

                             (つづく)

1488SAKURA:2012/10/24(水) 23:35:49 ID:jH5uEFzM
トキ様 へ  
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|❤それでは、混乱と過失を受け入れなさいというのですか。わたしは混
|乱も過失もいっさいしないようにすることこそ、いま重要だと思うので
|すが。

 もしあなたが、ほんとうにそうするならば、あなたはそのような唯一の人
間になるでしょうね。

 *【自分のメッセージを開く】を終わりました。
次回は【自発的に物事を考える】に入ります。〜〜〜(つづく)

PS:トキ様……
『人生は?“心との闘い”!』です〜〜〜ョネ!【こころの悪循環を断ち切る!】には、
やはり、今現状に置かれています処の私の環境は、やはり【意志=意識】からでしょうか?

“ネガティブな感情”が進入されますと?それを“ボディティブ感情”に切り替えるのも
そうです〜〜〜ョネ『心・・・』ですモノ!
有名“コピ−ライタ−”が言っていましたが・・・【意志=根性】とか?
意志が出来ますと、それにむけて“根気よく”して行くモノ!それが【根性に繋がる!】と…
それと同じく…前に進む事は【今を!やはり、今!を活かす事】でしょうか??
今日もまた“おもしろい事”を、記載されていました。…が???
「トキ様」今回の【自分メ−セ−ジ…】如何思われましたでしょうか〜〜〜??
“アドバイス…”頂きますと、幸いです。…が?
                                 再合掌

1489a hope:2012/10/25(木) 07:43:31 ID:8tjYhMb6

新版 生活読本 谷口雅春先生著

第五章 腹立つ思いを捨てましょう
♦絶えず不幸を見出す人になるな


ところで、貴方は世界に対して、良きものを支払っていますか。
微笑みを支払っていますか。悲しみを支払っていますか。
微笑みを支払っているならば、微笑みが周囲からやって来るでしょう。
悲しみを支払っているならば、悲しみが周囲からやって来るでしょう。

大体は、「今日は楽しくない」と思う習慣のある人は常に楽しくないことに取りかこまれるのでありましょう。
そう云う人は、天気が曇りであると云っては鬱(うっ)とうしいと云い、雨が降ると、ジメジメして気持ちが悪いと云い、
晴れていると暑くるしいと云う。

何が来ても不平を云い、面白くないと云う。
御飯が固いと云っては小言を云い、柔らかければお粥のようで不味いと云う。
そして絶えず小言を云っているうちに自分の性格がそこなわれ、人からはきらわれ、
世の中のすべての物は面白くなくなります。

その反対を行いなさい。世の中は屹度(きっと)幸福になります。
雨が降ったら「ありがたいおしめりです。これで水力発電が沢山とれます。畑の作物が喜びます」と云いなさい。
曇っていれば「今日の天気は落着いて宜しい」と云いなさい。
晴れていれば「まことに朗かな快晴(きもちよくはれること)で結構です。気分まで晴ればれします」と云いなさい。

この通りに云わなければならぬのではありません。
これは一例です。何でも好い方面を見て、讃(ほ)めたり、感謝したりするようにしていますと、
しまいには、ほめたり、感謝したりすることばかりがあなたの周囲に集まってくることになるのです。
(つづく)

1490トキ:2012/10/25(木) 11:48:08 ID:9G9F8IBU
 すばらしいご文章を投稿して下さり、感謝申し上げます。

1491SAKURA:2012/10/25(木) 22:31:48 ID:jH5uEFzM
トキ様 へ  
観覧者の皆様 へ
こんばんは……   ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
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>>1358>>1373>>1376>>1378>>1412>>1424>>1469>>1470>>1479>>1487>>
に関しましては、【ベスト・フレンド】シリ−ズで〜す。

実は、私の「青春シリ−ズの一冊の本」なのです。(討論課題項目が、幾つかに分かれてい
ますが?)意外と真理が、分かりやすい【討論形式】なのです。…が〜〜〜??
❤〜【コロンビア大の方達が、真理…サイコ的】に? ベスト・フレンドは哲学になります…
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・・◆【ベスト・フレンド】  ( 自発的に物事を考える ) 
―――――  ►► 自発的に物事を考える ◄◄ ―――――

|❤もうひとつ、わたしの悩んでいる問題があります。それは、このよう
|にいつもそれを見つめて取り組んでいるということなのです。もうそれ
|について考えるのもいやですし、どう考えても、楽しいこととはほど遠
|いのです。わたしたちが最初のころに話し合っていたあの情熱はどこへ
|行ってしまったのでしょう。自分からやろうという気持ちはいったいど
|うすれば起きてくるのでしょうか。

 人はすぐ自発的になりたい、感情のままに生きたい、などといいます。そ
ういう人たちは自分を知性の殻のなかに閉じこめてしまって、なにを感じて
いるのかほとんどわからなくなっているのです。ですから、自分の平凡で単
純な感情を体験したくなります。そして、もし自分のこころを外に投げ出し
てしまえたら、さぞかし自由になれるだろうと、考えるようになります。D
・H・ロレンスの考え方と同じ主張です。

 しかし、自由にしても、感情にしても、いずれもそんなに単純なものでは
ありません。わたしたちのこころのなかには、ひとつの引き出しがあって、
そこにはこれまでの人生で見せた反応がちゃんと整理されて入っているので
す。たとえば、叱られたこと、教科書のなかの格言、ノスタルジア、愚かな
迷信などが、わたしたちの本来の感情といりまじって入っているのです。
 
(つづく)

1492SAKURA:2012/10/25(木) 22:34:17 ID:jH5uEFzM
トキ様 へ  
観覧者の皆様 へ
こんばんは……   ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1491【自発的に物事を考える】シリーズ投稿の続きです…。

ですから、現実問題として考えてみると、あなたのいわれた「自分でつく
り出していく情熱」、つまり自発的というものは、ふつうはこころのなかに
最初に浮かびあがってきたものをとらえて、それがあたかもこころの深層部
から送られてきたメッセージであるかのようにしくんだ作用と考えられてい
ます。しかし、この深層部はかなり汚染されています。そこで、そのメッセ
ージがどこから送られてきたかを見極めるために、表面にあらわれた反応を
吟味しなければなりません。どのメッセージにもとづいて行動したらよいか、
どれが真実の気持ちをあらわしているか、決めなければなりません。
              
 だからといって、一秒の休みもなく自分自身を見つめていなければならな
いということではありません。歩き方を忘れたムカデのように気にする必要
はないのです。しかし、自分自身の真実の感情にもとづいて生きることはか
なりの努力を要します。あなたがすすんでこういう努力をしようとするとき、
真の生きる情熱があなたを訪れるのです。

 人は「解放」されたいといいます。しかし、必要なことは逆に、自分をつ
かまえることです。自分をほんとうにしっかりとつかまえているときにのみ、
あなたは解放されるし、自発性も生まれてくるし、すばらしい人生を期待す
る余裕がもてるのです。おとなの場合、セックスがより充実しているのもこ
のためです。成熟した人間だけが、自己をつきはなす冷静さをもっているし、
またそこから傷つくことなく立ち直ることを知っているのです。これは一見
逆説的に聞こえますが、愛の秘密のひとつなのです。
                             再合掌

PS:トキ様 へ
“感情…”も“意志…力”が入ってきますと当に【夢の一直線…】でしょうか???
“感情”も“意志”に繋いで参りますと〜〜〜そうしますと【感情=意識=意志】に変化して
いきますので??最終的には【私自身の繰り返しの力…】でしょうかしら〜〜〜ン???
【祈り…】も、当然!そうなっていくのです〜〜〜ョネ???

❤〜「アンソニ−・ロビンスの言葉…」から…とても“素敵な言葉”なのです。
「何度も何度も繰り返す。行動を変えるためには繰り返しである。
習慣を変えるためには繰り返しである。」【「反復はスキルの母」】

「トキ様」は、どう思われますでしょうか???

1493ハマナス:2012/10/25(木) 23:52:48 ID:x2zmnlqw

神の子のみなさま
こんばんは。

無い病気の恐怖 (『新版 生活の智慧365章』P.271)

「言葉は神である」と言われている通り、コトバに発したことは、その通りに事物を動かす
力があります。あなたが相手を「赦しました。感謝しています。愛しています」と言葉で
繰返し念じているうちに、実際に相手に対する怒りや憎みの感情がやわらいで来、相手の
立場に立って考えてやる心の余裕ができ、そして本当に相手を愛することができるように
なります。これで病気を起こしていた第一の原因は除かれたのです。

 次には病気に対する恐怖を除くことです。病気の恐怖は、病気を実在すると思うから
起るのです。神は病気を造らないのであるから、病気などは存在しないのです。存在し
ない病気は進行する筈もないのです。「無い病気」があなたの生命(いのち)を奪う
筈もないのです――この真理を繰返し自分の心に言ってきかせるが宜しい。これには
『続々甘露の法雨』を読むか、人から読んで聞かせて貰いなさい。

感謝合掌

1494a hope:2012/10/26(金) 07:42:07 ID:8tjYhMb6
新版 生活読本 谷口雅春先生著

第五章 腹立つ思いを捨てましょう
♦始終、楽しい話をせよ

始終、仕事の景気のよい話をしていますと、屹度しまいには自分の仕事がよく繁昌し、景気がよくなってまいります。
いつも不景気な損する話ばかりしていますと、だんだん仕事がひっそく(せまりふさがること)し、景気がわるくなり、
することなすこと面白く行かなくなります。貧乏の話をしていると、貧乏が集まって来ます。

「僕は屹度えらいものになるのだ」と毎日云うようにしなさい。屹度えらい者になって来ます。
尤も、そのえらいと云う意味は色々ありますが、とも角(かく)世のためになり、世の中の人に喜ばれ、人から、
「あの人がいてくれたので助かった」と云われるような人になるには、毎日、「わたしは、そう云う人になれる」と思うことが大切です。
思うとおりにあらわれるのがこの世界なのであります。
(つづく)

1495るん:2012/10/27(土) 01:41:07 ID:NS71OwS.
>>1457 >>1458
うのはなちゃん

そう、そうですよね。 
どんな時も、結局雅春先生の教えである『実相は完全円満』の自覚が大切なのですよね。

しかし、エドガーケイシーも実相を知っていたのか・・・・(*・○・)ビックリ

1496SAKURA:2012/10/27(土) 02:06:37 ID:xBP3lXis
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。

今日はしごとで、やっとパソコンを、時間を見ますと、
深夜ですが、雅春先生の言葉より

■谷口雅春著  『新版 栄える生活365章』より

【神は「自己の努力」の中に 顕れたまう】
魂の底の底なる深き願いは必ず成就するのである。
併し、「屹度、神様が成就させて下さる」 と信じて、それが成就するに必要な

「自己の努力」を棄ててはならない。
「神はみずから助くる者を助く」という古諺があるが、
「あなた自身の努力」のすがたとあらわれて「神の力」が迸り出るのである。

                             再合掌

1497a hope:2012/10/27(土) 07:39:00 ID:8tjYhMb6
>>1496 SAKURAさま

すばらしい雅春先生のお言葉を紹介してくださりありがとうございます。

【神は「自己の努力」の中に 顕れたまう】

座右の銘にしたいと思いました。

感謝 合掌

1498a hope:2012/10/27(土) 07:43:38 ID:8tjYhMb6

新版 生活読本 谷口雅春先生著

第五章 腹立つ思いを捨てましょう
♦人間は怒ると損です


人間は怒ってはならない。悲しんではならない。心配してはならない。暗い気持ちにしずんではならない。
怒りや、悲しみや、心配や、暗い気持は、自分を殺すものであります。自分の身体の中に毒素をつくります。

ある有名な法学博士は京都で講演会があると云うので出掛けましたが、
駅に誰も出迎えていないと云うので腹を立ててカッカになって怒りながらやっと講演会場にゆきましたが、
その講演会場で脳溢血と云う、あたまに血がのぼせて起こる病気で倒れて死んでしまいました。

永い間心配したために、気がついて見ると頭の毛が全部真白になった人もあります。
長い間の嫉妬心(やきもち)が原因でバセドー氏病と云う眼玉のとび出る病気になった人もあります。
グジグジ小さい小言(こごと)や不平を心の中で思っている人には水虫がよく出来ます。
長い間の悲しみをこらえていたために、腹膜炎や、腎臓結核になった人もあります。
このような腹立ちや、心配や、嫉妬心や、不平や、悲しみは人間の生命(いのち)を殺すことになります。

キーツと云う詩人はその作品があまり感傷的だといって激しい批評をせられた為に、心をなやまして死んだと云われています。
モーパッサンは、神を呪う小説を書いているうちに気が狂ったと云われています。
芥川龍之介は、怪畸(かいき)な神経質な小説を書いているうちに、あまりに神経をとんがらせて毒をのんで死んだのです。

心のなやみや、呪いや、神経質的なものはすべて人間を害するものです。
多くの歌よみは、歌と云うものは悲しいことを歌わないと値打ちがないように思って、
悲しいことを常に思うようにしていますので、始終身体が不健康でいるのです。
石川啄木が肺病で死んだのなども其の一例であります。

ショーペンハウエルと云う哲学者は、人生は生きる値打ちがないなどと、
悲しみの哲学を常に考えていましたので、一生涯胃病になやまされていたと云います。
夏目漱石はその小説『道草』にあらわれているような激しい家庭内の心の暗闘(あうらでのあらそう)で
血を吐くような思いをしていたので胃潰瘍をわずらって血を吐いて死んだのです。

死ぬほどでなくとも、心の激動(はげしくうごく)は食欲をなくし、消化をさまたげ、或は冷汗を出させ、
顔を青ざめさせ、溜息や喘ぎをおこさせ、夜眠れなくさせると云うことは、誰でも知っていることであります。
母親の悲しみや心配で、胎(おなか)子供が流産することがあり、またお乳が出なくなったり、お乳の中に乳児脚気を生じたりいたします。
心は常に楽しくしているように心掛けねばなりません。
(つづく)

1499a hope:2012/10/27(土) 07:49:24 ID:8tjYhMb6
>>1498訂正
下から8行目

心の暗闘(あうらでのあらそう)→心の暗闘(うらでのあらそい)

1500SAKURA:2012/10/27(土) 15:35:30 ID:zhRcXJMw
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
こんにちは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。

昨日は、パソコンの前に、やっ〜〜と打ちます事が出来ましたのが?【深夜…】
…今日は、ふと「雅春先生の本」を、パラ〜パラ〜♫めくるっていますと……
【 続・真理の吟唱 】から“素敵な言葉”が!目にとまりましたのが、何と!
「雅春先生の四無量心の解説」が、あるのではありませんか〜〜〜???
では!今日は、これで…“投稿”とさせていただきます…。

■ 続 真理の吟唱
―――――❖ 慈悲喜捨の四無量心を完成する祈り ――――――

 『観無量寿経』には、「仏心とは四無量心是なり」と示されているのである。
四無量心は慈悲喜捨の四徳をいうのである。無量の衆生を縁として生ずる仏
の心である。そして功徳また無量であるのである。「慈」は「めぐむ」とも読
む字であって、その人の徳乏しくして貧、病い等の苦難を負いて苦しめる人
に恵みを施してその苦しみを除ってやりたい仏心である。「悲」は「かなしむ」
とも読む字であって、人が悲痛な災厄を受けて悲しみ嘆いている気の毒な状
態を見て、倶に悲しみ、その悲しみを脱却させて常楽の境地に住まわせてや
りたい心が仏心である。親鸞聖人の和讃を見れば「超世の悲願ききしより、
われらは生死の凡夫かは」という聖句がある。

 この超世の悲願を建立して、世間を超え、現象の生死を超え、世俗の凡聖
を超えて、その人の実相が仏であり、如来であり、“神の子”であるというこ
とを悟らせるよう誘引することが本当の慈悲であるのである。ひとから憐れ
まれて、なにがしらの物質又は財物の施しを受けたことが習慣となって、常
にひとから憐れまれ、同情されるために弱さを装い、病いをあらわして見せ
ることが如き「甘え」の心を起こさしめるのは、永遠の抜苦与楽に程遠いもので
あって、慈悲心の失敗である。

 如来の慈悲心は時として峻厳である。「飢饉の年には農家に托鉢せよ」と釈
尊は仰せられたということである。その農家の所有地に飢饉が起こるという
ことは、その農家が豊饒なるときに供養することも恵与することもしないで、
ただ天与の賜物を壟断(ろうだん)し、私的享楽のために浪費したる如き彼の過去
の業が循環して、飢饉の状態を招き出しているのであるから、その農家が救わ
れるためには、その農家の主人が一転して“修行僧に恵む”というような慈悲
心を起こす心境にならなければならないのである。

                          (つづく)

1501SAKURA:2012/10/27(土) 15:41:31 ID:zhRcXJMw
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
こんにちは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1500投稿の「慈悲喜捨の四無量心を完成する祈り」からの続きです…。

 だから飢饉で自分が食うや食わずにいる際に、鉢を託して食を求める貧僧
に一握の米麦でもよい“恵む”心を引き出してあげるために釈尊は「飢饉の
年ほど農家に托鉢せよ」と仰せられたのである。そして、乏しき農人がその
乏しき中から自己の飢を凌ぐ食を割いて托鉢僧に施し得たとき、その農人
は、「汝、よくやった」という賞讃の声が自己の内部から起こるのを 魂 の底
から聞くことが出来、その賞讃の声をきいて彼の内に“喜心”を生ずるのである。

 このように峻厳なる慈悲行為は相手に「甘える心」を起こさせることなく、
却って“喜心”を呼び起こす。その農人に喜心が起これば類を以て集まる法 
則に順って、喜び事がその農人に集まって来るのである。その翌年、その農
人が所有する田畑の作物は豊饒なる収穫を得るのである。而もその豊饒を自
己のわたくしの手柄と思わず、天地の恵みであるとして受け、公の所有を、
かりに今あずかれるものとして、公けの必要に応じて惜しみなく散ずる。す
べての富を有たずして持ち、空を行じて引っかかることがないから、常楽の
喜心はつねに失われず、万物を放ち去って自由自在を得る捨徳を完成するこ
とになるのである。われ今、神の導きを受け四無量心の完成の道を知り、歓
喜無限であります。神に感謝し奉る。ありがとうございます。
(谷口雅春著)
再合掌

PS:トキ様
昨日は…帰宅途中に「浮浪者…」の御年配が、目にとまりました。…が?
その人が、或る“ベイカリ−店”の前に、たたずんでいるのです…。ふと!私達は、
その「浮浪者…」の行動を、ジ〜〜〜ッと見守っていました。…が?もしかしますと?
“お腹がすいているのでしょうかと〜〜〜”随分その人の行動を、遠くから?
見守っていました…。反対口からその“ベイカリ−店”に入り…場合によっては?
パンをさし上げないと…そう考えて見守っていますと?その御年配の「浮浪者」の
方は、場所を移動して…口をもぐもぐさせ、何か口の中に入れて…??
その時、二人して、どなたかが“食べ物?”差し上げたのでしょう…その様に、判断
しました。そして、その場を…立ち去りながら、まだ!私の故郷(北九州)には、まだ?
“慈愛の心”をもった方が〜〜〜そう思いながら、立ち去りました。

今日は【今!活かされている私自身に…“感謝”と共に改めて「自他一体」の意味を、
認識しながら「必要に応じまして惜しみなく…】と思い、その勇気・行動…を、
「信仰…」者として“行”じる事を『神との約束』と。。。させて頂きました。【感謝…】

1502ハマナス:2012/10/28(日) 00:47:46 ID:x2zmnlqw
神の子のみなさま
こんばんは。

心の馬を支配せよ  (『新版 生活の智慧365章』P.272)

 肉体の症状に心を引っかからせてはなりません。症状を心に描いて、それに恐怖を集中
していますと、心が描く通りに象(かたち)が現れると云う原則にしたがって病気が一層
増悪するものです。心が「馬」であり、「病気」とう云う厄介な荷物を搬(はこ)んで
くるのも、この「馬」ですから、「馬」さえあなたが支配したならば、「病気」と云う
荷物を搬び去らせることができるのです。だから「心」に注意しなさい。

 まだ人を憎むこころが残っていないか、本当に天地一切のものに感謝する心になれて
いるであろうか。まだ病気を実在だと思って恐怖していないだろうか。本当に明るい心に
なれているだろうか。そして「実相」の完全さをのみ心に描いて、実相の完全さに自分の
心の波長を合わすことができているだろうかと反省して、実相の完全さに自分の心の波長を
合わすように努力するが良いのです。

感謝合掌

1503うのはな:2012/10/28(日) 22:49:41 ID:f2bwKGw2

実相を観ずる詩

 これはフェンウィック・L・ホルムス博士の『沈黙の詩』“Songs of the Silence”という

『ただ善のみを観よ。されば汝は人生に悦びを見出すのである。最悪の事態があるというのか、
 ・・・われらが多くの病を見るとき、善を見るのは至難だと言うのか。しかし善は必ずそこにあるのだ。
 ・・・現実を超えた精妙なるかたち、雄大率直にして真実なる霊の表現、
 神は自己をすべてのものに表現す。
 すべてを貫き、全ての中に、神の御わざ、神の御いのちは満ちているのだ。
 そして神みずから観たまいけるに、それは実在なるがゆえに、至るところに善はあるのだ。

 <中略>

 美しき花の中の女王、豊かなる薫りとともに
 今を盛りと咲きほこる、その芳しき吐息は、
 にごりえの水面いっぱいに漲りわたり、陽光をその胸の中にふくらませ、
 百合は清楚に輝き、へりくだりて満ち足れるつつましき花、

 人とてもこの美しき花と同じこと、すべてのものの内に善があり神がある。
 すべてのものの内に、神おんみずからの力が 切実に表現を求めて動いているのである。
 それを見て我々は知る、神はそこに、“神の子”我らの内にあると。
 みずから罪の子として神の子を嘲り ひとりみずからの説を正しとする輩に対し、
 キリストおんみずから宣いし如く、いまここに善が在る。
 みごとなる善が在るのだ・・・・』

 このみごとなる善が本当に在るんだ。それは『旧約聖書』の「創世記」の第一章の終りに、
「神その造りたる緒の物を視たまいけるに甚だ善りき」と書いてある。神様がすべての物を視給うて、
 自分の造った物を全知全能の力で点検なさって、「どこにも悪はない、これが実相だ」
 と、それらを視られたのです。

 そして人間は神の肖像(にすがた)として、神のイメージの実現としてここに現れているのであるから、
 皆んな善なる人間ばかりであると。

 これが生長の家の自然に対する、また人間に対するものの見方であります。
 悪はナイ、一切は善であると。

 『新たに生まれるための講話』 谷口雅春 先生著 P45-49

1504ハマナス:2012/10/28(日) 23:14:00 ID:x2zmnlqw
神の子のみなさまv
こんばんは。
今日は、本部で谷口清超大聖師の4年祭が行われました。平成20年に98歳で昇天されてから、
もう4年が経ちます。
総裁先生は、さっそくブログ「唐草模様」にお書きになられていらっしゃいます。

妄心の自壊作用  (『新版 生活の智慧365章』P.273)

 「実相の完全さ」に波長を合わすように「心」をどりょくしていますと、「妄心」がみがかれて
中の「真心」が現れ、「真心」が「実相の完全さ」を現象界に現すことになります。「実相の完全
さ」が現象界に現れて来ますと、日常の生活も調和したものになり、生理作用も非常に完全になって
来ます。

時として、「妄心」が消滅するときに「妄心」の築き挙げた病的症状が急激に自壊する結果、所謂る
自壊作用と称して症状に急激な 変化が起り、却って一見重篤な状態を呈するころがありますが、
そんな時に心が周章(うろた)えてはなりません。「実相に於ては自壊作用もなく、重篤な症状も
ない、ただ神のみが一切の創造者であり、悪なる症状は決して存在しないのである。自分は完全に
健康である」と念じなさい。こうしていっさいの恐怖心を消滅せしめなさい。『天使の言葉』には
「恐怖滅すれば一切の不幸と病(やまい)おのずから滅せん」と示されております。

感謝合掌

1505うのはな:2012/10/29(月) 00:02:54 ID:esvyfr1E

 『生命の實相』読誦の功徳について

 『生命の實相』を読んで病気が治る。これは無数の礼状が実証するところである。
しかしこれは谷口雅春の功績ではない。「わが神殿は既に成れり、名づけて『生命の實相』と称う」
と神は仰せられているのである。

 『生命の實相』は神がその御栄えをあらわしたまうための道具である。其処に奇蹟を生ずるのである。
しかし、心が頑固で其処に書かれている真理を素直に受容れることの出来ない人には治病の奇蹟は起らない。
神の力が及ばないのではない。

 光は充ち満ちていてすらも、眼を瞑じている人には光を受容れることができないのと同じことである。
しかし、眼を瞑じている人にも光があれば明暗ぐらいは分るのである。
明暗をたよりに、其処に光があることを自覚して眼をひらけよ。

 『真理』第9巻 生活篇  谷口雅春 先生著 P334

1506SAKURA:2012/10/29(月) 02:43:42 ID:RIOFtJIE
ハマナス様 へ

こんばんは…… ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1504投稿に関して…?

■【ハマナス様…投稿文章中の「清超先生」の亡くなられた“御年齢”が、
違っております。…が??
今は亡き「清超先生」は、“89歳”で、おしくも他界されましたが???
……此処の処が?気になりまして“一言…メッセ−ジ”をさせて頂きました。
御了承下さいませ…。

                                再合掌

1507SAKURA:2012/10/29(月) 03:17:55 ID:RIOFtJIE
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
こんばんは…… ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。

■【10月28日…亡き谷口清澄先生…4周回忌】でしたかと〜〜〜
昨日は、恒例の如く【原宿本部での…行事】が〜〜〜開催でしたかと、思います。…が?

TYO在住でしたら、原宿本部にての“行事”開催には、参加しておりましたでしょうが?
私は、今回【山口…講演会】に昨日は?まいりました。…が?(別の形にての追悼と…)
その中で「貴康先生」が【亡き清澄先生…荒地家】に事を、少しお話されました事が、
印象的でしたかと?思います。

昨日にちなみまして「亡き清超先生…」の“言葉”から抜粋させて頂きます。
❤〜【 「心に強く描く」ことは、全てが「祈り」である 】

……祈りは叶えられる。それは「心」によってこの現象界がつくられて行くものでありますから、
「心」さえしっかりと求めるものを描いて放さなかったならば、やがてそれがある時間の経過の
後に実現して来るようになっているからであります。
「心に強く描く」ことが実は「祈り」なのであります。……
                      ( 谷口清超先生『「愛」は勝利する』より )

                                 再合掌

1508SAKURA:2012/10/29(月) 03:50:38 ID:RIOFtJIE
a hope様 へ
>>1496【SAKURAの投稿】から>>1497の【a hope様 宛】への“投稿”です。

■「a hope様」へ…
お返事が遅くなりました事を…お詫び申し上げます。唯!唯!“恐縮”です。
いつも先生の“言葉”を投稿して頂き、更に!こちらこそ“朝の貴重な時間”に、“言葉”を、
頂きまして、ありがとうございます。

❤〜本当に【努力した価だけの価値が、人間の人格につながる様にも思えるのです。】
今では、世の中が不安?ファン〜〜ファン〜〜ファンな感じで【人格否定…】しますような方が、
増えて来ているように思いまして、このような時こそ【信仰=宗教の在り方】が〜〜〜?
問い直されるモノではないか?改めまして、思う次第です。…が?

■毎日の【聖典投稿…】をしていらっしゃいます「「a hope様」の抜粋投稿を、毎朝!
楽しく拝読させて頂いております。今後とも、宜しくお願い申し上げます。

                               再合掌

1509商人:2012/10/29(月) 07:10:02 ID:TCt66b8E
神は吾が手をとりて、今や吾を完全なる平和と豊かなる世界に導き給う。

谷口雅春 先生著 祈りの科学より

1510a hope:2012/10/29(月) 07:42:36 ID:8tjYhMb6
新版 生活読本 谷口雅春先生著

第五章 腹立つ思いを捨てましょう
♦怒(いか)る毒蛇の毒素


恐怖や憤怒(いかり)の時に身体(からだ)から出る毒は、
丁度、毒蛇が怒って人にかみつく時に、その歯の所から毒が出るのと同じような毒が出るのです。
併し毒蛇の場合には、その毒をためて置く袋があり、その袋から出た毒は体外へ出るようになっているのですが、
人間には、そのような毒をためて置く袋はありません。
だから怒ったり恐れたりして出来た毒素は、自分の身体の中をまわるより仕方ないのです。
だから怒ったり恐れたりすれば自分を害する事になるのです。
だから諸君は決して恐れたり、怒ったりしてはなりません。
(つづく)

1511神の子さん:2012/10/29(月) 08:51:08 ID:AWG1OEtw
>>1506
ローマ字のSAKURA様

総裁のブログでは以下のように書かれています。

“谷口清超先生は、今からちょうど4年前の平成20年10月28日に98歳で昇天されました。”

私はどちらが正しいかわかりません。
SAKURAさんを信じるか、実の息子さんを信じるか…???

1512さくら:2012/10/29(月) 09:08:12 ID:ItctBh/.
>>1509
商人さまへ

ますますのご繁栄をお祈りしております!

「仮相には実相をもって相対せよ

"悪"は本来"非存在"なのであるから、悪があらわれたとき、興奮したり、激怒したり、取り乱したりする必要はないのである。心を鎮めて、静かに「そのような状態は存在しない」ことを念じ、その見せかけの"悪"の奥に、慈悲の神、愛の神がましますことを瞑想し、悪なる"見せかけ"が消えつつあり、すでに"善なる実相"があらわれて来つつあることを繰り返し念ずるがよい。そのようにして心が落ちついた後に、自分の心に「その問題をいかに処理するがよいか」について思い浮かんできた通りに処理すればよいのである。現象界の悪と見える問題を「なし」と考えるだけで、それを手を拱いて傍観し、「処理する必要はない」というのではないのである。その処理する場合に、まず心を平和にして「実相のあらわられる智慧」を呼び出してきて処理すれば、現象に対して現象智をだして処理するよりも、現象に対して実相智を出して処理する方がすみやかに現象が好転するからである。聖経には「仮相に対しては実相を以て相対せよ」と示されているのである。」

如意自在の生活365章P250より

1513神の子さん:2012/10/29(月) 09:45:13 ID:???
>>1511

ウイキぺデイアによると89歳での御逝去となっています。

1514神の子さん:2012/10/29(月) 10:00:14 ID:???
>>1513
元本部講師様も自信がないのですか?
ちょっと悲しいかもです~_~;

1515トキ:2012/10/29(月) 11:31:28 ID:W4kD3vME
>>1511

 「唐松模様」誤植ですね。

1516ハマナス:2012/10/29(月) 12:17:59 ID:x2zmnlqw
SAKURA様、神の子様、トキ様
ありがとうございます。

SAKURA様と神の子様のご指摘通り、89歳が正しいようです。
そのまま投稿してしまい、申し訳ございません。お詫びいたします。

4年前の総裁先生のブログをご紹介いたします。

2008年10月28日
谷口清超先生、ご逝去される 
 
生長の家総裁、谷口清超先生は、10月28日午後10時21分に老衰のため、東京・渋谷
の生長の家総裁公邸にて亡くなられました。満89歳でした。
ここに謹んでご生前のご法恩に篤く深く感謝申し上げるとともに、これからの
生長の家の人類光明化運動・国際平和信仰運動を高き霊界からお導き下さる
ことを心から祈念申し上げます。先生、永い間、本当にありがとうございました。
 
 谷口清超先生は、2005年2月20日に長崎・西彼町(当時)の生長の家総本山で
行われていた団体参拝練成会の際に倒れられ、長崎市の原爆病院に入院され、
その後帰京して静養生活をされていた。先生は静養中も、生長の家の普及誌や
機関誌の原稿を執筆されていたが、機関誌3誌の本年4月号に掲載されたご文章
「本当の愛について」が、発表されたものとしては最後のものとなった。このご
文章の末尾には、「平成二十年一月十日」という日付が書かれている。
 
 谷口清超先生は、1985(昭和60)年に生長の家創始者、谷口雅春先生のご逝去に
ともなって2代目の生長の家総裁を襲任され、以後23年間、全世界の生長の家の
中心者として、世界では20世紀末から21世紀にかけて、日本では昭和から平成へ
移る激動の時代に、不変の真理を説き続けられた。特に、1948(昭和23)年9月から
1994(平成6)年3月まで46年間続けられた生長の家講習会では、毎年日本の全教区を
回られるなどして、大勢の人々に真理を宣布され、数多くの救いを成就された。海外
にも1956(昭和31)年にハワイ・北米・南米へ、1970(昭和45)年にブラジルへ、1977
(昭和52)年には南北アメリカ大陸へご巡錫されるなど、万教帰一の教えを世界に述べ
伝えられるとともに、海外の信徒に多くの救いと励ましをもたらされた。
 
 また清超先生は、国内の組織運動を改革されることで、女性信徒の組織である生長
の家白鳩会が飛躍的に伸びる体制を作られた。これは、かつての単位組織だった誌友
相愛会が、男性が女性を使う形で運営されてきたことで、女性の個性を生かした運動が
生まれにくかった点を改革されたもの。これによって女性信徒が自立し、主体性をもって
真理宣布の運動に取り組むことが可能となり、教勢は大いに拡大した。また、地方講師会
を“組織の血液”として位置づけられることにより、相愛会、白鳩会、青年会の三者協力
体制と「教え」との関係を明確化された。さらに先生は、政治活動に偏っていた1970年代
の運動の弊害に気づかれ、1983(昭和58)年、政治団体であった生長の家政治連合の活動停止
を決意されたことで、今日の生長の家の「信仰運動」としての基盤を確立された。
 谷口清超先生は、執筆、講話、組織運営以外の方面でも、今日の生長の家の運動発展に
多大な貢献をされている。それは、生長の家の聖歌の作詞・作曲である。谷口雅春先生は
多くの素晴らしい聖歌を作詞されているが、作曲はされなかった。清超先生は自らバイオリン、
ピアノ、オルガンを弾かれ、作曲もされた。今日の生長の家の聖歌の3分の1弱が先生の作で
ある。詳しく言えば、2003(平成15)年発行の『新版 生長の家聖歌歌詞』(日本教文社刊)に収録
されている68曲の聖歌のうち、20曲が清超先生の作詞であり、そのうち15曲は自ら作曲もされて
いる。先生の作品は形式に囚われず、独特の宗教性に溢れていて、歌うものに深い感動を与える。
これは歌詞のことだけではなく、曲そのものについても言える、と私は感じている。
 
 清超先生は音楽だけでなく、写真や書もたしなまれた。特に写真では、生長の家の講習会で
各地を回った際などに撮られた写真が多くあり、自著の表紙カバーに使われたり、写真集
『何となく写した 谷口清超写真集』(1991年、世界聖典普及協会刊)として残っている。また、
日めくりである『ひかりの言葉』の表紙写真も毎年担当されてきた。その日めくりの「平成21
年版」の表紙写真が、発表されたものの中では最後の写真となった。この写真は、昨年秋、
ご自宅の書斎の外に車椅子で出られて、南西の竹林方向にレンズを向けて紅葉のある風景を
撮られたもの。
 (谷口 雅宣先生)

1517ハマナス:2012/10/29(月) 12:21:12 ID:x2zmnlqw

神の子のみなさま
ありがとうございます。

実相の活力を体得せよ  (『新版 生活の智慧365章』P.274)

 「心」が「実相」に波長が合い、「実相」の光が肉体を全領するとき、暗黒が影をうつして
いた「病気」はその影を消してしまうのです。光は暗黒を消し、実相は仮想を滅し、真理は
非真理を破壊せしめてしまいます。怒りが感謝に変り、憎しみが愛に変り、心の不調和が調和
に変りますと、その心の波長に同調してあらわれて来るものは唯、善きもののみとなるのです。
寿命が尽き、霊界に移行するとき以外には、どんな衰えも肉体には現れないのです。
この真理を信じなさい。信ずることは力です。信念を動揺させてはなりません。

 「実相の完全さ」に波長の合う心の状態は、肉体に実相の活力を賦与してこれを健康なら
しめます。どんなに重篤な症状であっても、病気と寿命とは異なるから失望してはならない。
「実相の完全さ」のみ実在であるから、どんな現象悪よりも強力であることを信じなさい。

感謝合掌

1518うのはな:2012/10/29(月) 12:50:50 ID:sERBKLDk

『祈りの科学』を読みなさい

 祈りと云うことは懇願することだと間違えられているために時々間違えられた祈りが
行われるのです。或る人は自分の良人が死んだときのことを想像しますと、迚(とて)も
たまらないものですから、「神よ、私の良人を死なせないで下さい」と一心に祈りました。
やがて其の良人は死にました。

 祈りはきかれなかったようです。併しこれは祈りがきかれたのです。
「祈り」と云うことは「心の内に常に深く念ずる」ことなのです。
「良人が死にませぬように」と一心に念じた人の心のなかには「良人の死」が深く念じられていたので、
「良人の死」が実現したのです。

 これと同じように「この病気を癒したまえ」と祈りながら癒えないことが随分あるのは、その祈りによって
「既に癒えたり」の観念が得られないで、却って「吾は重き病なり」と念ずることになっているからです。


 『真理』第9巻 生活篇 谷口雅春 先生著 P324

1519神の子さん:2012/10/29(月) 13:16:31 ID:AWG1OEtw
>>1515
トキ様 ありがとうございます。
今総裁のブログを見たら直っていました(^J^)

1520うのはな:2012/10/29(月) 13:58:55 ID:HwTu0TYs

だいたい前篇に書いたような、時間を定めた放尿の習慣をつけますと、条件反射によって寝床の中では
どうしても放尿しにくくなるものなのです。絶対安静を命ぜられている重病の人のくせにどうしても寝床では
小用を達することができないで便所に行くのなども習慣による条件反射です。

 ところが、だらしなくおむつを濡らしてほうっておく習慣をつけますと、最初は濡れた股ぐらを気持ち悪がった赤ん坊が、
習慣によって股ぐらを温かい液体でぬらすことに快感に思うようになり、放尿は寝床でやるのが一番気持ちがよいと感ずるようになります。
こうなればなかなか寝小便の癖はやまなくなります。寝小便を叱って直そうとするのは、悲しませて涙を止めようとするのと同じで、逆効果しかありません。

 寝小便は親夫婦の精神的葛藤から来る悲しみの感情的泪が、子供に具象化して排泄されていることもありますから、親夫婦が仲良く愉快な人生を送っていないで
絶えず夫婦げんかをして悲しんでいるようなことでは治らない場合が多いのです。抑圧されたる感情はそのままでは生命の障礙物でありますから、それで生命の自浄作用は
常に排泄して生命の健全さを保とうとしているのです。

 その排泄の方法が表現であります。感情は常に言葉や行為となって表現され排泄されつつありますが、その全部が完全に表現されきるものではない。
その表現されないで内部に溜まっている見えざる感情の残渣が、自分の病気や、子供の病気または悪癖と表現され具象化して消えるのです。

 『新しい結婚』 谷口雅春 先生著

1521うのはな:2012/10/29(月) 14:19:05 ID:t6MuUMSM

    実相十全の恵みを見よ 『生命の實相』第6巻 P113〜

「実相」において本当に与えられている神の恵みーー「実相」において本当はすでに受けているわがあらゆる善き物ー
を認めえないで、現象界にあらわれた個々の出来事に感謝しているのでは、蟻を探し出して、象を見のがしているのと同じであります。
それは神様から見れば見当違いの感謝であります。

 神様は「お前にはもっとよいものが与えてあるのに、それには感謝しないで、人間はつまらないことに感謝するものだな」とおっしゃいましょう。
また実際それほどありがたいとも感じないのに、神様は讃美や感謝の言葉でおだて上げれば、いっそうよき恵みを与え給うであろうと思って、讃美歌を
歌ったり、感謝の祈りを捧げている人もあるようですが、何もかも知っていられる神様の目から見たら、人間の心情が見え透いて、
「偽善もいい加減にせよ」とおっしゃるでありましょう。

 そうしますと、われわれは真に神から歓ばれる感謝を捧げるには、どうしても神がすでにわれわれに与え給うている十全の実相を明らかに見て、それに対して
ありがたさを感じなければならないのであります。そうでない感謝は見当違いの感謝になるか、偽善者の感謝になるのであります。
 すでに与えられている「実相」の十全の善さを知ることができない場合に、われらはただ「神想観」をつとめ修して、実相の十全の善さを観ずるようにつとめることが
必要なのであります。

  谷口雅春 先生著

1522うのはな:2012/10/29(月) 15:36:45 ID:3jb./WYM

    神の生命が咲いている

 谷口雅春先生は、『新日本の心』で、ある婦人が、水仙の花を見て、それが神の生命が咲いていると
感じた体験談を紹介して次のように言っておられる。
< 先日、白鳩の集まりの席で或る奥さんが、これは体験談じゃありませんけれども、と被仰って話し出されましたが、
それは実に素晴らしい体験談だと私は思うのであります。体験談と云いますと病気が治ったことだと思っていられる方もあるかもしれませんけれども、
病気が治るだけが体験談じゃないのでありまして、もっと深い体験談があってもいい訳であります。>(一0八頁、原文は正漢字・旧かな遣い)

 たしかに、この『聖使命』紙に載っている体験談はそういった“深い”体験談である。それは“聖なる自己の発見”といっていいと思う。
“聖なる”という形容詞のもつその内実は、この体験によってはじめて体験者にはわかったはずである。ということは、それを理解する私たちにも、
同じような体験がなければ感情移入をすることが出来ないことになる。

 宗教体験を理解するということのむずかしさは、同じような深みや高みを既に体験している人でなければ本来わからない世界があるということである。
しかし、そうした至難のことを、谷口雅春先生は文章の力によって『生命の實相』に流露された。
そのご文章に吸い込まれているうちに、心が浄化され回心が起る。今回の末松さんの体験も『生命の實相』を読んでいて突然訪れた体験である。

 これらの体験は、見る者と見られるものとの対立が見せかけのものであり、心の目を開くと、自他一体のかがやかしい世界が今此処にあるのだということを教える。
見るものは、すべていのちに、輝いている。そしてその輝きを見ている自分自身も光かがやいているのであった。
こうした体験は、深い心境の産物であると同時に、私たちの住んでいる世界の、より深い層が顕われたということであり、あるいはそうした層が認識されたということである。
それはこの世界が「相即相入」であることの認識でもある。

『光の国から』 渋谷晴雄 先生著 P221-222

1523うのはな:2012/10/29(月) 16:44:20 ID:a.OcI.Rc
 
  貧しい青年が豊かに.......

ある日、一人の青年がブラックソンさんの個人指導を受けにやってきた。
「私はゆたかになりたいんですが、どうしたらいいでしょう」
ブラックソンさんは言った。「財布を出してみせなさい」
 お金は五ドルしかなかった。ブラックソンさんは言った。
「このお金を全部愛行に使いなさい。そこにコカ・コーラの自動販売機がある。コカ・コーラは
一ドルだから、五本取ることができる。それを全部、のどがかわいている人に差し上げなさい」

 青年は言葉に従った。自動販売機から、五本のコカ・コーラを取り、その販売機のそばにあるホテルに入っていった。
そしてロビーで憩んでいる人にコカ・コーラをただであげたのである。
 五人目の人は白人の老人だった。彼はこう言った。
「コカ・コーラか、ありがとう。コカ・コーラは世界中どこにでもあるんだな。私はこれが好きでね」
こう言いながら、ふと彼はその青年の顔を見て、「君は大変深切な人だな。ところで君はいま働いているのかね」
青年は答えた。「いいえ、私は失業中です」すると、その老人は、
「そうか、もしよかったら私の会社で働いてくれないか。私の会社は、ホラ、あそこのビルの十二階だ。来週の月曜から
来てくれないか。それにしてもきみの服はきたないね」

 こう言いながら老人はズボンのポケットから百ドル紙幣を三枚出して、
「これで背広を買って着て来なさい」こうして、この貧しい青年は職を得たのである。
ブラックソンさんは、この講話を次のように締めくくった。

「この青年は、のちに私が生長の家の中学校を建てるとき、一人で土地をすべてただで寄附してくれました。
それほどゆたかになったのです」

 この話は、コカ・コーラを他人に与えれば金持ちになれる、という話ではない。ブラックソンさんはその青年のために祈っていた、
その祈りが叶えられたのである。ここには「与えれば与えられる」という法則が働いている。
それは日本でも、アフリカでも、アメリカでも当てはまるのである。

『光の国から』 渋谷晴雄 先生著

1524SAKURA:2012/10/29(月) 20:20:23 ID:jH5uEFzM
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
こんばんは…… ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。

一昨日にちなみまして「亡き清超先生…」の“言葉”から抜粋させて頂きます。

❤〜【 「心に強く描く」ことは、全てが「祈り」である 】

『……祈りは叶えられる。それは「心」によってこの現象界がつくられて行くものでありますから、
「心」さえしっかりと求めるものを描いて放さなかったならば、やがてそれがある時間の経過の
後に実現して来るようになっているからであります。
「心に強く描く」ことが実は【祈り…】なのであります。……』
                     
 ( 谷口清超先生『「愛」は勝利する』より )

■【10月28日…亡き谷口清澄先生…4周回忌】でしたかと〜〜〜
一昨日は、恒例の如く【原宿本部での…行事】が〜〜〜開催でしたかと、思います。…が?

TYO在住でしたら、原宿本部にての“行事”開催には、参加しておりましたでしょうが?
私は、今回【山口…講演会】に昨日は?まいりました。…が?(別の形にての追悼と…)
その中で「貴康先生」が【亡き清澄先生…荒地家】に事を、少しお話されました事が、
印象的でしたかと?思います。

                                 再合掌

1525長州っぽ:2012/10/29(月) 20:57:35 ID:???
SAKURAさん・・・清超先生の名前・・・変換ミスが残念。

それとSAKURAさん・・・擁護派のアナタが山口の講演会に行ったなんて書いて
大丈夫ですかあーー  僕達は行ったらどうなるか判らないぞと脅されていけませんでしたー。

でもね、今日の午前中に萩の荒地家のお墓参りに行ったら・・・

なんと・・・貴康先生が一人で聖経をあげておられた姿を見てビックリ!
やっぱり昨日は参加させてもらえばよかったと後悔しました。
昨日の講演会の様子、もっと教えてください「ワカリヤスク」お願いします。

1526SAKURA:2012/10/29(月) 22:33:45 ID:jH5uEFzM
トキ様 へ  
観覧者の皆様 へ
こんばんは……   ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1238>>1304>>1307>>1319>>1320>>1324>>1331>>1332>>1334>>1339>>1347
>>1358>>1373>>1376>>1378>>1412>>1424>>1469>>1470>>1479>>1487>>
に関しましては、【ベスト・フレンド】シリ−ズで〜す。

実は、私の「青春シリ−ズの一冊の本」なのです。(討論課題項目が、幾つかに分かれてい
ますが?)意外と真理が、分かりやすい【討論形式】なのです。…が〜〜〜??
❤〜【コロンビア大の方達が、真理…サイコ的】に? ベスト・フレンドは哲学になります…
初歩のかたでも、判り易いのでは〜〜昨日の投稿文章は、皆様!如何でしたかしら〜ン?

・・◆【ベスト・フレンド】  ( 自発的に物事を考える ) 
―――――  ►► 自発的に物事を考える ◄◄ ―――――


|❤おっしゃることが」、だんだんわかってきたように思えます。しかし、
|まだ十分でないような気があるのです。さらにどんなことをしたらよい
|のでしょうか。

 自分自身に話しかけること学ばなければなりません。これは非常に大切
なことです。
 自分自身に説明し、自分自身を安心させる必要があります。あなたは自分
との対話を確立する必要があります。そうしておけば、どんなつらい境遇に
追い込まれても、あなたはきっと役立つはずです。
 あなたのこころにある子どもの部分がいたずらをしそうになったら、それ
をやめさせ、まずそれについて話し合うことができるはずです。その子ども
に「いけませんよ」と叱ることもできます。他の方法で行なえる場合もある
でしょう。注意さえしていれば、その機会に自分がほんとうはなにを望んで
いるかをつかむことができます。あなたには自分を制するだけの力がありま
す。このことは知っておいてよいことです。はじめはむずかしいかもしれま
せんが、だんだんやさしくなるものです。


PS:トキ様 へ
私の“こころ”を【マインド・コントロ−ル】しますには……><
やはり!見つめ直す事…でしょうか??それは「良本を読む事」から“始まる”のでしょうか?
そして【心のイメ−ジ・トレ―ニング】を、どこまで…限りになく追究できる“心…”?
人は?それがなかなか出来ない!と言います。……が?
「生長の家」では“自分の深層”を見つめなおしますと…【内なる声…】
自ずから〜〜〜此処に『宇宙〜〜の彼方』が“イマ−ジネ−ション”として現われてきます
かと〜〜〜
やはり【心のレンズ】をあわせて、まず【心の映画館】に入っていく事なのでしょうか??
これなら簡単に、私の“心…”がみえてくるようにも思えます。
なんといっても最後には【精神統一…】に、なりますでしょうかしら〜〜〜ン」??
これは【仏教…】では?出来ない世界カモ??この事は…
実は本日「大住職様」と…討論中です。…が??
「生長の家…」の人なら〜〜〜本当の“信仰者=信者”ならば必ず!出来る事かも?
しれませんです〜〜〜ョネ! 私の表…【表面=側面の世界】でしょうか??
唯今!私は【 “心”の開拓 】で〜〜〜す。

「トキ様」は、処で、この事は、如何思われます〜〜〜か???
                               再合掌

1527SAKURA:2012/10/29(月) 23:13:53 ID:jH5uEFzM
トキ様 へ
長州っぽ 様 ヘ

こんばんは…… ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
「長州っぽ様」 始めまして…【SAKURA】と申します。…が?

>>1525の投稿から〜〜「貴康先生」が、【お墓参り…】なさっていたのです〜〜ネ!
この“情報”ありがとうございます…。
そして「亡き清超先生」のご冥福を心よりお祈り申し上げます…。

■【生長の家…永遠なり〜〜】  そうなのです〜〜〜ョネ!  【真理は一つ…】
私は…今回、大変失礼ながら?【分派…「学ぶ会」「靖国見真会」「ときみつる会」の皆様方々…】
此処の皆様方の“投稿…”内容から?判断しまして…? 「生長の家…の方」…?とか…
人はそれぞれ“捉え方?”・“思考力?”の相違にて、随分第3者からの“イメ−ジ”…
如何なものか?随分悩んでいました。…が?

■今回【貴康先生・前原先生】両先生の講話内容を、拝聴出来ます機会を得ました事に…【感謝】

「皆様…」が、御心配いただきましたが??“パ−トナ−”の筆談によりまして?無事に
…両先生の講話…投稿させて頂きます。(メモっていま〜〜〜す。)
「お言葉…」ありがとうございました。(もうしばらく “お時間”を〜〜〜)

          再合掌

1528a hope:2012/10/30(火) 08:00:52 ID:8tjYhMb6

新版 生活読本 谷口雅春先生著

第五章 腹立つ思いを捨てましょう
♦民主主義の人間になれ


怒ったり恐れたりする人は、「怒り」や「恐れ」の奴隷です。奴隷には自由はないのです。
怒りや恐れに支配されない人こそ真に、自分が自分の主人公であるところの民主主義の人間であります。

若し人間が怒らなければ戦争は始まらなかったでありましょう。
戦争は他が自分を侵すかも知れぬという恐怖と、相手を憎む怒りとによって起こったのです。

恐怖と怒りのない所には戦争はありません。
だから戦争を起こらぬようにする為には、人間全部が、自分で自分の主人公になり、
恐怖や憤怒の奴隷とならぬ様にならねばなりません。

この自分が自分の主人公となることが民主主義と云うのであります。
そこで戦争の起こるのを防ぐ為には民主主義の教育が必要だと云うのです。

将来の戦争をなくす為に日本を民主化せねばならぬと云うのも、
こう考えてくれば、その理由がハッキリ解るでしょう。
(第五章終り)

>>1312 ♦民主主義とは何か

1529SAKURA:2012/10/30(火) 20:15:55 ID:jH5uEFzM
トキ様 へ  
観覧者の皆様 へ
こんばんは……   ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1238>>1304>>1307>>1319>>1320>>1324>>1331>>1332>>1334>>1339>>1347
>>1358>>1373>>1376>>1378>>1412>>1424>>1469>>1470>>1479>>1487>>1526
>>に関しましては、【ベスト・フレンド】シリ−ズで〜す。

実は、私の「青春シリ−ズの一冊の本」なのです。(討論課題項目が、幾つかに分かれてい
ますが?)意外と真理が、分かりやすい【討論形式】なのです。…が〜〜〜??
❤〜【コロンビア大の方達が、真理…サイコ的】に? ベスト・フレンドは哲学になります…
初歩のかたでも、判り易いのでは〜〜昨日の投稿文章は、皆様!如何でしたかしら〜ン?

・・◆【ベスト・フレンド】  ( 自発的に物事を考える ) 
―――――  ►► 自発的に物事を考える ◄◄ ―――――

|❤人間の自由というものは、そのちょっとした判断の瞬間にひそんでい
|るようですね。なんと短い限られた時間なのでしょう。

 いずれにしても、あなたはかならずしもその時間をうまく利用していると
はいえません。あなたのこころのなかにある子どもの部分がいたずらをした
とき、自分自身を罰してはいけないのです。にもかかわらず、あなたはよく
そうしてきたでしょう。あなたのこころのなかの子どもを許しておやりなさ
い。あなたが恐ろしいと思っていることでも、その多くは、はじめはそれほ
ど悪くなかったのです。

 わたしたちはこれまで自分の意にさからって、さまざまなことをしてきま
したが、結果は自分こそ、子どものころに想像していた恐ろしいおとなにな
っているのです。わたしたちには両親にたいする深い愛情もあれば、自分を
なぜもっと成長させてくれなかったのかという怒りもあります。また、弟が
生まれて自分の立場がないがしろにされたときの自信の喪失もあります。こ
うしたことが重なって一種の罪意識がわたしたちのこころのなかに生まれ、
それに悩まされつづけているのです。わたしたちは罪を憎んで人を憎まず、
というように教えられましたが、この意味がよくわかっていないのです。自
分のこころのなかにいる人を憎み、その罪にこだわっています。この過失
をあまり過大視してはいけません。ただ、なぜそういうことが起こったのか
をよく理解し、自分を正しい軌道にもどすように努めることです。

 あなたが、子どもにしてやる親切で思いやりのある行為や、愛情ある手助
けこそ、自分自身にしてやることができるはずです。もしあなたが子どもの
ことをよく知っていれば、いつ子どもに注意したらよいか、いつやさしくし
てやったらよいか、いつなら子どもをほっておいてもよいか、ということが
勘でわかるはずです。あなたのこころのなかにある子どものことをよく知る
ようになれば、自分自身にたいしてそれと同じようなことができるはずです。
自分自身とうまくやっていかなければなりません。自分のこころのなかの子
どもを抱きしめてやりなさい。つまり、自分自身と友だちになりなさい。そ
のことがあなたに必要な力を与えてくれるのです。

                       (つづく)

1530SAKURA:2012/10/30(火) 20:18:20 ID:jH5uEFzM
トキ様 へ  
観覧者の皆様 へ
こんばんは……   ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1529自発的に物事を考える】シリーズ投稿の続きです…。

 わたしはかって悲しみにうち沈んでいる人を診たことがあります。その人
はもっとも親しい友だちを亡くして、淋しさに打ちひしがれていたのです。
わたしはその人とお話してその悲しみの深さを感じ取ることができました。
最後にわたしは彼にいいました。「あなたはあなたのベスト・フレンドを失
ってしまったように見えます」。するとその人は「そのとおりです」と答え
ました。

 わたしは「あなたは、あなたのベスト・フレンドとは誰なのか知らない
のではないでしょうか」といいましたら、その人はわたしをはっとして見つ
めました。しばらくの間、考えていましたが、やがて目に涙があふれてきま
した。そして、いいました。「『あなたこそあなた自身のベスト・フレンドです』
と先生が以前いわれましたが、ほんとうにそうなのですね」。

    「自発的に物事を考える」は終わりました次回【 ベスト・フレンド 】に入ります。

PS:トキ様 へ
【私の中の私…】・・・改めて、考えさせられます。
昨日は【亡き父の17回忌…“お寺の住職様”と話しを〜〜『四無量心・・・』に関しまして、
この“言葉”には、私自身…多少?反発心がありました。“パ−トナ−”は【お気に入り?】なのです。
…が? 此処で、調べていきます内に❤〜【 慈悲・慈愛精神 】なのです〜〜〜ョネ!
それでも“私の心”は、何処かに〜〜〜??同じ“感情”がある自分自身に気づいていますかと?
何故ならば「相手の喜ぶ事が、自分の喜びにと言う感じ」です〜〜〜ョネ!
そうしますと、その人の【レベルの関係で…人生が決まるの??でしょうか】ならば…
例えば“勉学”しましても“心の中”では、【親がバカ!なら自分もバカになるのは、当たり前?】
それは“環境…”からきますから、もう“惰性的”に繋がりやすくなりますのではないのでしょうか?

■此処が何故そのような“環境”になるのかを見つめ直す時に、やはり“自分の心”を、
深く深層部分まで入っていく事が、次のステップの踏み台?なんです〜〜〜ョネ???

今回!私も聴力が悪い事を物事に対処します時“前面”に出しての考え・悩みますのですが??
そうしますと、その時点で“前に進む”のが停滞気味でしょうか?
此処を、もう一度!【私の中の私…】に〜〜〜問いかけていきたいと…今!久しぶりに思います。
この様に「大住職様は〜〜〜無理な事は“無理”と…」と言って【仏教…は断定】します。…が?

【西洋論では“慈愛精神”を更に超えていきまして…おしみなく“愛”になるようです。……が?】
この本を……『 ベスト・フレンド 』ですが?
「19歳の時…まだ!私は【夢と希望…】があり、今から未来へ“羽ばたく年齢”でした。…が?
そうです。聴力も失う事無く…良かったのですから〜〜〜物事への対処の仕方は、現実問題として、
変わっていたと思います〜〜〜ョネ!〜〜あの頃“此処のポイント”を理解が足りない“私”でした
が〜〜〜><
「トキ様」も、自分自身の【 ベスト・フレンド 】は、どうですか〜〜〜???

                                   再合掌

1531ハマナス:2012/10/30(火) 23:41:56 ID:0pK2MwMg
神の子のみなさま
こんばんは。

病気を消すための思念 (『新版 生活の智慧365章』P.274)

 「一切の悪は、神の創造でないから存在しない」――段々乎として強く心に愬(うった)えよ。
心の眼を悪しき状態より一転して、完全なる実相に転ぜよ。如何なる悪も仮想(みせかけ)で
あって存在しない。それは夢であり、妄想であり、醒めたならば消えてしまう心が、醒めない間
だけ見ている夢だと信ぜよ。「悪はないのだ。罪もないのだ。病気もないのだ。無いものは唯
ないのだ。それは妄想の産物であり、ただ想像が描いている影に過ぎない」自分の心に対(むか)
って斯くの如く繰返し宣言せよ。そうして、想像によって描いた恐怖心が消えてしまうとき、
潰瘍や炎症や腫瘍は消滅しはじめるのです。

 自壊作用を見て、病気の悪化だと考えてはなりません。症状は現象である。現象は変化するの
です。今の状態は次の状態ではないのです。ビールが沸騰するのは隠れているガスが消散する
ためです。症状の増悪と見えるのは病児の消散するためです。

感謝合掌

1532a hope:2012/10/31(水) 06:18:54 ID:8tjYhMb6

新版 生活読本 谷口雅春先生著

第六章 希望の夢を描きましょう
♦心に夢をえがけ


心に夢をえがくということは何でも大きなことを成し就(と)げるのに大切な事であります。
夢をえがくと言うのは、決して出鱈目なことを考えるのではなく、
「必ず出来る」と未来に起こる善いことを心に思い浮かべることであります。

コロンブスは、これから西へ西へと進んで行けば大陸があると、
まだ肉眼に見えない世界を心にえがいて突進して行きましたから、
とうとう其の心にえがいたアメリカ大陸を発見したのです。

まだ見えないが、心の眼でじっと未来におこって来る善き世界を、
善き状態を、一層よき自分を、心に描くことを「夢を描く」と云うのです。
深く心にえがくことは祈りであります。それが正しい祈りである場合には必ず成就するのであります。
正しい祈りと云うのは、その祈ることが、他を害しないで、自分の本性(うまれつき)にかなうものを心に描くことであります。
その祈りがかなえられたら、誰かに損害になるというようなものを心に描いても、祈っても成就するものではありません。

未来に起こることを心に描くと云うことは結局、すべての心の力をそれに集めるということになります。
しかも自分の心は、宇宙の心の一部分でありますから、自分の心を、或る一つのことに集めますと、
宇宙の心が動きだして、自分が心にえがいたことを成しとげられるように、天地間のすべての力が、
その一点に集められるようになってくるのであります。そうして、ついにそれが本当に成るようになるのです。

しかし、心に強く夢をえがいても、他を害して自分がよくなろうとするようなことを心にえがいてはなりませぬ。
人を押したおして自分が出世するような考えを心にえがいても、その人の心が強く、押しが強い場合にはしばらくそれが成就するのであります。
しかし、そうして出世しても、無理をして出来た出世は、金が出来、地位が出来ても、その金のために悩まされたり、
地位のために色々の人が出入りして、会いたくない人に会わせられたり、家族が病気になったり、色々面倒がおこって来たりするのであります。
(つづく)

1533ハマナス:2012/10/31(水) 13:19:27 ID:x2zmnlqw

神の子のみなさま
こんにちは。

あなたは物質身ではない  (『新版 生活の智慧365章』P.275)

 神は、「霊」であり、普遍的存在であり、神は全ての全てであるとしたならば、存在する
のは悉く「霊」であって、たとい「物質」と見えていようと「物質」なるものは何処にも
存在しないと言わなければなりません。ではあなたの「肉体」は物質ではないのです。
「霊身」なのです。これが真理なのです。これが実相なのです。非真理が如何に自己を
主張して「物質」の如く見えしめようとも、非真理とは結局「ウソ」と云うことです。

 実相が「霊身」であるかぎり、如何に、あなたの体が「肉体」と見え、「物質」と見え
ましょうとも、それは「仮相」に過ぎないのです。それは仮装された相(すがた)であって
本当ではないのです。本当でないものはニセモノであり、ニセモノは「ウソ」であるのです。
見せかけの「物質身」と云う仮装を脱いでしまえば、あなたは金剛不壊の霊身である事実が
現れるのです。

感謝合掌

1534SAKURA:2012/10/31(水) 20:58:56 ID:jH5uEFzM
トキ様 へ  
観覧者の皆様 へ
こんばんは……   ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1238>>1304>>1307>>1319>>1320>>1324>>1331>>1332>>1334>>1339>>1347
>>1358>>1373>>1376>>1378>>1412>>1424>>1469>>1470>>1479>>1487>>1526
>>1529>>1530>>に関しましては、【ベスト・フレンド】シリ−ズで〜す。

実は、私の「青春シリ−ズの一冊の本」なのです。(討論課題項目が、幾つかに分かれてい
ますが?)意外と真理が、分かりやすい【討論形式】なのです。…が〜〜〜??
❤〜【コロンビア大の方達が、真理…サイコ的】に? ベスト・フレンドは哲学になります…
初歩のかたでも、判り易いのでは〜〜昨日の投稿文章は、皆様!如何でしたかしら〜ン?

・・◆【ベスト・フレンド】  ( ベストフレンド ) 
―――――  ►► ベストフレンド ◄◄ ―――――
|❤もしあなたのいわれたことをすべて実行し、理解すれば、実際に人生
|を変えることができるでしょうか。

 もし自分が愛し、自分を養育することが体得できれば、人生は想像したよりも豊かなもの
だということを発見するでしょう。もっとも、わたしたちは相変わらず現実の問題にかこま
れ、現実の敗北に悩みを抱いていきます。人生はピクニックやバラの花園のような楽しいも
のではありません。世のなかはただわたしたちの利益のために動いているのではありません。
苦痛、困難、失意といった人間の宿命から逃れるすべはないのです。

 しかし、生きていくうえでの困難に耐えるためには、お互いにどんなことでもできるし、
人生が与えてくれるものを、最大限に活用できるのです。自分を妄想から解放し、自分自身
の真のよりどころがどこにあるかをしるとき、全世界がわたしたちの眼前に開けてくるのです。

 人はよく、自分自身をあきらめてしまったかのように、あるいは自分はもう精魂つきはて、
最善をつくし、自分のもっているものを全部使いはたしたかのように思いたがるものです。
しかしながら、自分の可能性を自分のために利用しはじめるときには、未開拓のエネルギ−
意識を目ざして試掘するような感じがするものですし、まだ手をつけていない銀行貯金を見
つけたような感じにもなるのです。それは、もっとも気楽で安上がりな楽しみともいえます。
あなたはけっして疲れはてることはないし、人生にあきることもありません。

 あるいはまた、それは養老保険のようなものともいえます。かって美術評論家のパ−ナ−
ド・べレンス・氏が九〇歳にもなろうとしたころ、「わたしなら喜んで街角に立ち、帽子を手
にしながら通行人に向かって、あなたの使わない時間を帽子のなかに入れてくださいと頼む
でしょう」といったそうです。べレンスン氏はほんの一瞬の時間でもそれをフルに活用する能
力を、けっして失っていなかったのです。「彼の場合は例外だったんですよ」といわれるかもし
れません。しかし、それはわたしたちすべての人ができることなのです。
                           (つづく)
PS:トキ様 へ
❤〜【人生は、苦しい中から…生み出す…】此処の【宝石?】は〜〜〜
その人の【個性の試金石??】でしょうかしら〜〜〜ン??
これは私の【無限力を意識】すれば〜〜〜まるで【アラジンのランプ…】のように、
【照らし続ける“こころ”…宝石】なのです〜〜〜ョネ!
私は私自身の【試金石…】!!今から来る憂しい時こそ【意志=意識に集中!】でしょうか?
このような時こそ、今の【生長の家…お家騒動】もいい意味で言いますと、
必ず!必ず!よくなります前触れの様に見えますかと……
「トキ様」は、この件に関しまして、如何思われますでしょうか??

1535ハマナス:2012/11/01(木) 12:19:44 ID:x2zmnlqw

神の子のみなさま
こんにちは。今日から、新しい月、11月に入ります。早いもので今年も、残すところ、
2ヵ月になりました。時間がとても早く過ぎていきます。


月の実相は常に円満完全である (『新版 生活の智慧365章』P.276)

 人間は神の最高の自己実現として、神の無限内容の「理念」を内に包蔵し、その無限の
「理想」を永遠に一層広く、一層高く表現するのが人間の生活なのである。人間の意識の
最も深層には「神の心」があって、神の有(も)ち給えるすべての「善き物」が其処に横
たわっており、私たちが瞑想によって、それを発掘しさえすれば、そのすべての「善き物」
が形の世界にあらわれて来るのです。即ち、健康、繁栄、幸福等・・・です。

所謂る「五官」の感覚は、外界の事物だけをするための作用ですから、此の内在無限の宝に
ついては無感覚です。「霊的実在」であり、「神の子」である実相については、五官の感覚は
知ることが出来ないのです。五官の感覚は、三日月を見て、月が虧(か)けたと思い、三日月
に見えるときにも、月の実相は円満完全であると云うことを見ることが出来ないのです。

感謝合掌

1536トキ:2012/11/01(木) 14:03:50 ID:pkKjz4yE
>>1535

ハマナス様、すばらしい御文章をご紹介下さりありがとうございました。

 あと2ヶ月ですが、大晦日まで、笑顔で過ごしたいと思います。

1537トキ:2012/11/01(木) 14:07:07 ID:pkKjz4yE
>>1532

 確かに、人の道から外れた方法で出世をしても、後で寂しい人生を送る人は
多いです。その事にはやく気がつく事が大事ですね。

1538a hope:2012/11/02(金) 07:21:42 ID:8tjYhMb6

新版 生活読本 谷口雅春先生著

第六章 希望の夢を描きましょう
♦サービスが成功の基(もとい)


すべて、金とか、権力とか、名声(なまえがでる)とか、贅沢とか、
利己的(じぶんのみによい)なことを心に描いて成就(なしとげる)した場合には、
多少とも自分を悩ますものがつきそうて来るのであります。真に悩みのない生活を送るには、
そんな利己的なものを心にえがかず、人につくすこと、世につくすこと、どうしたら人のために、
また世のためになるかということを考えてサービスをつとめて行くようにすれば、
金も名誉も地位も自然に得られてくるのであります。

金や名前や地位などは目的にすべきものではなく、
世のため、人のためにつくした誠が自然にあらわれた結果でなければならぬのです。
(つづく)

1539SAKURA:2012/11/02(金) 18:55:29 ID:jH5uEFzM
トキ様へ
観覧者の皆様 へ
こんばんは……   ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。

久しぶりに「雅春先生…」の書物であります処の…
■■「生命の実相」  第37巻から“抜粋投稿”です。

「人間の親切にも物施と法施とがある。物を与えることも時には必要であるが、あまり物
のみを与えすぎるとかえって依頼心を起させ、貰うことが権利のような感恩の無い状態
にまで相手の心を荒ませることがある。」

 物を与えるならば、心もちを添えて贈らなければならぬ。紙に包み、水引を掛けるのは
心持ちを添える方法の一つである。人間は心もちによって生かされているのである。機械的
な「与え」の前には感恩の心は起こるものではない。与える側からいうならば、物を贈るの
に相手に感恩の心を起こさせようと思ってするのは不純ではあるが、相手の心を依頼心に
満ちたり、忘恩的な荒んだ心にまでならなせないためには機械的な与え方をしてはならない。

 勤務時間以上に働きをサ−ビスする社員に、上役が感謝して夜食をおごったりしてくれ
る場合には、いかにも上役の好意が身に沁みて感謝されるが、規則によって夜勤手当とい
うものを定めて、一定時間の夜勤をする者には一定の夜勤料を支払うことに機械的に定め
てしまうならば、もう誰も夜勤料をありがたく思わなくなるものである。それどころか、
時としては夜勤料が少ないといって零すようにさえなりがちである。与える悦びがなくな
って、奪い足りないという不平に代わるのである。生活に困っている失業者に仕事を紹
介してやったら、その当座は命を救けてもらったように感謝するが、毎月月給を貰うと
いうことが器械的に度重なってくるならば、もうぼつぼつ月給の不足を零しがちである。

感恩の心は機械的になるとしだいに薄れてくるのである。子供の愛情に養われる老人は幸
福であるが、社会保障度で養老院に養われる老人には前者ほどの喜びはない。われわれ
は毎日空気を吸っているが、機械的に空気を供給されているがゆえにありがた味を感じ
ない。われわれは太陽がなくては生きられない人間でありながら、太陽は機械的に毎朝地
平線から顔を出すから太陽のありがた味をさほど感じない。

 しかし、これでよいだろうか。目ざめて立て! わたしたちはあらゆる恩恵のうちに生
きているのである。

「 ありがたさは物の分量にあるのではなくて、心の【“目ざめ”】にある。【心の目ざめて】
いる人を悟っていると言う。一かど悟っていると自負している人が常に不平を唱えているの
は何を悟っているのか、訊いてみたい。」
                      (谷口雅春著)

1540SAKURA:2012/11/02(金) 19:33:39 ID:jH5uEFzM
トキ様 へ  
観覧者の皆様 へ
こんばんは……   ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1238>>1304>>1307>>1319>>1320>>1324>>1331>>1332>>1334>>1339>>1347
>>1358>>1373>>1376>>1378>>1412>>1424>>1469>>1470>>1479>>1487>>1526
>>1529>>1530>>1534>>に関しましては、【ベスト・フレンド】シリ−ズで〜す。

実は、私の「青春シリ−ズの一冊の本」なのです。(討論課題項目が、幾つかに分かれてい
ますが?)意外と真理が、分かりやすい【討論形式】なのです。…が〜〜〜??
❤〜【コロンビア大の方達が、真理…サイコ的】に? ベスト・フレンドは哲学になります…
初歩のかたでも、判り易いのでは〜〜昨日の投稿文章は、皆様!如何でしたかしら〜ン?

・・◆【ベスト・フレンド】  ( ベストフレンド ) 最終回
―――――  ►► ベストフレンド ◄◄ ―――――

|❤それこそ生きるための技術のようですね。わたしたちはすべて、その
|ように生きることを学べるのだと信じたいものです。

 つぃかにそれができるのです。わたしは実際にやった人々をたくさん知っ
ており、現実にそうした人々はよみがえりました。誰でも自分を変化させ、
成長させ、本来の自分を完成させるために自分に力をかしてやることができ
るのです。わたしたちはみずからのベスト・フレンドになることを学ぶこと
ができます。そうすれば生涯の友をもつことになります。一人ぼっちのとき
でも、自分自身をはげまし、慰め、栄養を与えることができます。わたした
ち自身が、激励とすばらしい助言を生み出す最良の源なのです。わたしたち
には誰かが親切な言葉を与えてくれるのを待つ習慣がついてしまっているの
ですが、わたしたちは、ほんとうはそういうやさしい言葉を多くもっていて、
自分自身のために役立たせることができるのです。
         ――――――― * ――――――――
|❤いろいろと生きるための技術を学びとり、多くの賢明なご意見を聞く
|ことができましたが、これから永くこころに銘じておきたいと思います。

 もちろん、あなたは忘れることはないでしょう。これらのことはあなたが
とうの昔からずっと知っていたはずですよ。

PS:トキ様 へ
【今日で最終回…】になりました。…が?私は今更ながらですが、これを“20代の頃”と
同じように、前以上に精神面が強くなったようです。…が?
私は、内なる心に問いかけます…。
【私 の 心 は そ れ は ベ ス ト フ レ ン ド…祈 り】です〜〜〜ネ!!
最後となりましたが…「生長の家…御教え」では?いかようかと??お考えでしょうか?

PPS:【20代の頃…】フォ−クに熱中していました時……
「アリスの谷村俊二…」さんから紹介して頂いたのです。…が?当時の私の“理解力”…ウフフ
要約〜〜〜今!“理解しつつ〜〜〜”でしょうか??やはり…【良書との出会い】は大切
ですが…【理解力…」これが最終的には〜???         再合掌

1541うのはな:2012/11/02(金) 21:22:06 ID:3jb./WYM
  見る立場によってちがう

善福 こういう時にハッキリさせなければならないと思いまして、おたずねの形で私の
考えを申し上げたいと思います。“生命の実相”というのは、生命の本当のすがたと考えております。
私、誌友会で「霊こそ尊し、善のみの世界」というテーマでよくお話いたします。
生命といいますと魂のことであり、『甘露の法雨』では“心”ということで出て来たり、『天使の言葉』では
“念”という語で出て来ます。これは内在の神、内在の神性、内在の仏性だと思います。
個生命は大生命とつながりがあって、大生命のうちに個生命がある。
“神の世界”のうちに“私の肉体”があり、その“肉体”のうちに私の“魂”がある。

 それはちょうど、ラジオの電波の中にラジオの“機械”があり、“機械”の中にも“電波”があるのと
似たようなことだと言っています。“実相”というのは“本当の相”。”本当の魂の相”はみな“神の子”でありますけれれども、
これがいろんな意識によって覆われて(包まれて)いる。たとえばよごれており。かすみがかかり、波があり、雲にかくれている。
それらをみんなとりのぞいてしまえば、それこそ即身成仏、いま仏の心、神の心になる、というふうに解釈しておりますんです。
いかがでございましょうか。

谷口 それは、現象の方からのぞいてみたら、そういうふうに解釈できるというだけだ。

林 表現が悪いかもしれませんが、そうなると二元論の残渣が少しあるような気がするんですね。

谷口 現象からのぞいての説明になってるわけだからね。

『實相研鑽』第一集 谷口雅春 先生監修 P183-184

1542うのはな:2012/11/02(金) 21:47:06 ID:a.OcI.Rc
    富は“信”を中心に集り来る

 富は常に信念なくして動揺する者には来らない。たとい富が一時来ることがあっても磯に来る波の
ように常に動揺して去ってしまうものである。先ず自己の信ずること、そして他を信ずること、そして自己の
たずさわる事業に対して将来の一層繁栄を信ずることである。

 そして“わが為すは神が為さしめ給うのであるから、窮極に於いて必ず自分の計画する事業は栄えるより仕方がない”
ことを信ずることである。自己にこの信念がなければ、他の人々からその人は信頼をかち得ることができず、多くの人々から
真に協力を得ることができないで結局その事業は大きく成功することは不可能となるのである。

 また自分自身を信頼せず、自分自身に劣等感を持つ者は、自分の持っている能力の半分も完全に発揮することができないのである。

 『新版 真理』第9巻 生活篇  谷口雅春 先生著 P158

1543トキ:2012/11/02(金) 21:53:44 ID:R6Vk4plg
>>1542

 良い文章ですね。

1544ハマナス:2012/11/02(金) 23:03:12 ID:x2zmnlqw

神の子のみなさま
ありがとうございます。

あなたは常に健康である  (『新版 生活の智慧365章』P.277)

 瞑想又は神想観によって霊的直観力を発達させることによって、あなたは人間の神聖性を

知ることが出来るようになります。人間は肉体によって互いに孤立している存在でもなく、
肉体が死ねば、個人の霊は宇宙の大海に没し去って「何もなくなる」と云うような存在でも
ありません。個々人、ひとりひとりの霊が、神の各々異る理念の表現でありますから、それ
は普遍と一体でありながら、「個」として永遠に存続するのであります。個にして全、全に
して個、此の不可思議にして広大無辺な存在が人間なのです。

 先ず神の完全さとその無限の力とを信じなさい。その無限の力にて、その「完全」さを
最高度に表現すべくつくられたのが、「人間」なのです。一度神が「完全」につくった
ところの人間が不完全に変化すると云うことはあり得ないのです。だから貴方は完全であり
健康なのです。

感謝合掌

1545うのはな:2012/11/02(金) 23:42:32 ID:Z48Us0zE

 神さまの教えをひろめるには、“純粋な献身”が要求されるのでありまして、ただの「売れたら好い雑誌」
の出版とは異なるのであります。それがただ「栄える企業」としてはじめるのだったら、無論、その収入の中から
自分の生活費も、休養費も娯楽費も出してよいのでありますけれども、“純粋な献身”が要求されるところの宗教の伝道に
於いては、少しでも利慾的又は利己的動機が含まれておりますと、宗教というものは、その伝道者が神様からの放送を受信する
アンテナになり、それを発声するラジオ・セットのスピーカーにならねばならぬのでありますから、伝道者の精神態度が一寸でも
不純になると、完全に神さまからの教えの放送を受信できないおそれがあります。
そして神様からの純粋の放送が受信できないで、他の低い霊魂などからの放送を混信することになるならば、その宗教は生命なきもの
となり崩れ去るのであります。

『到彼岸の神示』149頁 谷口雅春 先生著

1546志恩:2012/11/03(土) 02:50:42 ID:.QY5jUA6
『生長の家五十年史』324頁〜325頁 
「天皇信仰」から・・・・」
 
 谷口雅春先生は昭和十五年の『生命の教育』九月号の巻頭言に
「天皇信仰」といふ生長の家の教義の根本である文章を発表された。

天皇への帰一の道すなはち忠なり。忠は、天皇より出でて天皇に帰るなり。
天皇は一なり。ハジメなり。一切のもの、天皇より流れ出て、天皇に帰るなり。

わが『忠』、わたくしの『忠』、我輩の『忠』などと言ひて、『我』を鼻に掛ける『忠』はニセモノなり。

私なきが『忠』なり。天皇は、天照大御神と一体なり。天照大御神は、天之御中主神と一体なり。

斯くして、天皇はすべての渾てにまします。忠』の本源は天之御中主神の『御中』の理念より発して
再び天之御中主神に復帰するなり。

天皇を仰ぎ、天皇に帰一し、私なきが『忠』なり。わが『忠』と誇るとき、もうそれは『忠』にあらず
『我』となるなり。全ての宗教は、天皇に帰一するための前提として存在の意義があるなり。

すべての宗教が、『我』を捨つるを説き、『無我』を説き、富を捨つるを説き、
『無所有』を説くは、『この世は何も無いものだから諦めよ』と云ふ意味に非ず。すべてのものは、天皇の一元より
発現することを教へたるなり。

すべての森羅万象、天皇の大御いのちの顕現ならざるはなきなり。
天皇を説かず、仰がず、『無』のみを説く宗教は準備時代の宗教に過ぎず。

 わたくしの『生命』を愛護すること勿れ。
『生命』が尊きは、天皇の大御いのちの流れであり、岐れであるが故に尊きなり。
寸時も、『天皇のみたまのふゆ』なることを忘るべからず。

『天皇のみたまのふゆ』なることを忘れるとき、人は悪逆無道の迷妄の徒となるなり。
 愈々日本も政治新体制の曙は近づけり。

一切の政党は解党せり。新たに党を結ばんがための解党にては意味を成さず、この事肝に銘ずべきなり。
挙国一党なりとも、党のある限りは、『無我』に非ざるなり。
大みごころあるのみなり。
大みごころへの無我随順あるのみなり。

若し新党を樹つるとも、新政体を建つるとも一点の『我』ありて、大みごころを晦ますとき、
天皇の御徳を遮して、自分の都合をはかる無道の徒となり了るなり。

 無道とは、道の無きことなり。
道は宇宙にミチてあれども、『我』のあるところには、道は遮られてあらはれぬなり。
大海原に海水は満ちたれども岩石の固まりたるところには海水は満ちをること
能はざるが如きなり。

『我』がなくなりて、はじめて『道』は生きるなり。私の『善』、私の『道』、
私の『宗教』などと言ふものあるべからざることなり。

 すべて宗教は、天皇より発するなり。大日如来も、釈迦牟尼仏も、イエスキリストも、天皇より発する也。
ただ一つの光源より七色の虹が発する如きなり。

各宗の本尊のみを礼拝して、天皇を礼拝せざるは、虹のみを礼拝して、太陽を知らざる徒なり。すべてのもの、
太陽にて生くるが如く、すべてのもの、天皇の大御いのちにて生くるなり。

 生長の家が、一宗一派を樹てざるは、宗派と言ひて党を樹て、閥に籠りて、相争ふことが『忠』に非ることを知る故なり。

特に『一宗一派に非ず』と言ふことを教義の『七つの光明宣言』に記入して、宗教であることを許されしは、文部当局の賢明なる処置なり。
文部当局が一宗一派にあらざる宗教をみとめたるなり。

宗教が正しくなりたるなり。すべての宗教は私のものにあらざるなり。すべてを、天皇に帰一し、天皇に奉還し奉る宗教なり。

1547志恩:2012/11/03(土) 02:55:37 ID:.QY5jUA6
 (つづき) 
宗はオホモトなり。天皇なり。すべての教も則も範も矩も規も法も、悉くスメラミコトより発するなり。

宗教は宗派と言ふものに立ち籠りて、宗祖と言ふ一人の国民に過ぎざる人間を尊崇するは邪道なり。
されば我は夙に喇叭に過ぎずと言ひたるなり。すべての宗祖は喇叭に過ぎざるなり。

宇宙の大教祖は、天皇にてあらせられるなり。ミチとノリとは悉く、スメラミコトより出づればなり。
 釈迦在世のとき、金波羅華を拈じて衆に示すに、迦葉のみ微笑す。

金波羅華は『空』の象徴に非ず、宇宙がコスモスであり、中心帰一である象徴なり。
日本国体の象徴也。迦葉のみ微笑す、とは悲しいかな。

他の大弟子皆解せざる也。今の仏教者はいかほど金波羅華の秘密を解せりや。
仏教を以て『空』を説くとなす者、百尺竿頭に坐する底の者なり。

百尺竿頭に達せざる者よりは優れり。されど『空』の百尺竿頭より進一歩して、中心帰一世界を見ざるものは、
外道の仏教にして、日本仏教にあらざるなり。

 東大寺の大仏は中心帰一の蓮華蔵世界を彫刻にあらはせるなり。中心座にましますは、光明遍照者(ヴェーローシャナ)にましまして、
それを守護し奉るために、千葉(せんよう)の蓮華その御足の下にありて、各々の蓮華に、悉く釈迦牟尼仏ゐまして、

光明遍照者(ヴェーローシャナ)の御徳を讚ふるなり。
ヴェーローシャナと言ふ梵語をば、大日如来などと、仏教が如来の如く訳したるは誤謬にはあらざれども、人をして外国の仏様の如く誤解せしめたるや久し。

 ヴェーローシャナとは、単に『光明遍照』の意なり。宇宙の中心座に在す『光明遍照』なり。

畏くも天照大御神にましますなり。
天皇は天照大御神と一身にましますが故に、釈迦は、天皇信仰を教へたるなり。

それを知らずして、迦葉のみ微笑す。善い哉。迦葉微笑せり。今は日本人悉くが微笑せざるべからざる時なり。
天皇信仰を知らざるべからざる時なり。

今はすべての宗教が天照大御神を礼拝すべき時なり。そのほかに宗教ある筈はなきなり。

1548神の子さん:2012/11/03(土) 09:57:58 ID:uEcp2dog
http://blog.livedoor.jp/con5151/archives/65694013.html
訊けさんブログより。

『常楽への道』(吉田國太郎著)210頁より謹写――


 私達が本当の喜びを生きますには、今まで『自分』だと思っていたその『自分』へ点数を附けようとしたり、その自分を大切にしようとしたり、その自分をどこか安穏なところへ持って行こうとしたり、先程地震の揺れている話をしましたが、どこか揺れないところへ持って行こうとしたり、そう云うようなことを追いまわしていたりしましたなら、いつまで経っても吾々は幸福を戴けないのであります。恩師は『生命の實相』の中に、本当の人間と偽物の人間と云うものを別にお分けになって説いておられますが、今迄『自分』だと思っていた『自分』は『本当の自分』でなくて偽物の人間だったのであります。そして本当の人間と云うものは神の子なのだ、本当の生命はこの『神の子』で、神の生命に生かされていたのに、それに気が着かずに偽物を自分だと思って来たのです。そして理窟(りくつ)を云い、自己弁解し、こう云う訳で、ああ云う訳で、そう云う訳でと云ってこの『偽物の自分』と云うものを振廻そうとするが、それは実体のないものだ、それは非実在の人間だと云うことが説かれております。吾々は御教を戴きました時に、そうした今まで『自分』だと思っていたところの『偽者』を何とかしてどこか安穏なところへ持って行こうとしたり、それを握って箔をつけて何とか生きて行こうと云うような風にしていなかったかどうかと云うことを反省せしめられたのであります。そうやってはいない積もりであっても、よくよく反省して見ますと、一番私達の肚(はら)の奥、一番どん底のところに、やはりその『にせもの』が本物の様な顔をして生きていて、その『にせもの』の上に『生命の實相』の法話を載せたり、一寸(ちょっと)ばかり行ずると云うことを乗せたりしておったということに気がつくのであります。こんなことでは自分の本当の生命は生きて来ないと同時に、人も随(つ)いて来ない。私達が一番世の中を動かせる時は自分の生命を投げ出した時であります。自分の生命を投げ出したら一番働く。私なら私が許されている限りの一番大きなことが出来るのは私が生命を投げ出した時であります。だから私がよりよく生きたかったら、好い意味に於て世界を動かし人を動かしたかったら、即ち地上に生れて来た使命を完全に果たしたかったら、私が一番『自分』を投げ出すこと、『自分』が死ぬことであります。古来本当に人類の生命を揺り動かして来た人は、『自分』をなげ出して死んでいる人です。『自分』と云う『にせもの』が死に切ったときそこに動いて来るものが『神』の力であります。

1549SAKURA:2012/11/03(土) 10:37:09 ID:jTinNDNM
トキ様 へ  
観覧者の皆様 へ
こんにちは……   ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1238>>1304>>1307>>1319>>1320>>1324>>1331>>1332>>1334>>1339>>1347
>>1358>>1373>>1376>>1378>>1412>>1424>>1469>>1470>>1479>>1487>>1526
>>1529>>1530>>1534>>に関しましては、【ベスト・フレンド】シリ−ズで〜す。

実は、私の「青春シリ−ズの一冊の本」なのです。(討論課題項目が、幾つかに分かれてい
ますが?)意外と真理が、分かりやすい【討論形式】なのです。…が〜〜〜??
❤〜【コロンビア大の方達が、真理…サイコ的】に? ベスト・フレンドは哲学になります…
初歩のかたでも、判り易いのでは〜〜昨日の投稿文章は、皆様!如何でしたかしら〜ン?
そして、投稿中、間違いがありましたので、此処にて修正しましたので【再度投稿…】です。

・・◆【ベスト・フレンド】  ( ベストフレンド ) 最終回
―――――  ►► ベストフレンド ◄◄ ―――――

|❤それこそ生きるための技術のようですね。わたしたちはすべて、その
|ように生きることを学べるのだと信じたいものです。

 つぃかにそれができるのです。わたしは実際にやった人々をたくさん知っており、現実にそうし
た人々はよみがえりました。誰でも自分を変化させ、成長させ、本来の自分を完成させるために自
分に力をかしてやることができるのです。わたしたちはみずからのベスト・フレンドになることを
学ぶことができます。そうすれば生涯の友をもつことになります。一人ぼっちのときでも、自分自
身をはげまし、慰め、栄養を与えることができます。わたしたち自身が、激励とすばらしい助言を
生み出す最良の源なのです。わたしたちには誰かが親切な言葉を与えてくれるのを待つ習慣がつい
てしまっているのですが、わたしたちは、ほんとうはそういうやさしい言葉を多くもっていて、自
分自身のために役立たせることができるのです。
         ――――――― * ――――――――
|❤いろいろと生きるための技術を学びとり、多くの賢明なご意見を聞く
|ことができましたが、これから永くこころに銘じておきたいと思います。

 もちろん、あなたは忘れることはないでしょう。これらのことはあなたがとうの昔からずっと知
っていたはずですよ。

PS:トキ様 へ
【今日で最終回…】になりました。…が?私は今更ながらですが、これを“20代の頃”と
同じように、前以上に精神面が強くなったようです。…が?
私は、内なる心に問いかけます…。
【私 の 心 は そ れ は ベ ス ト フ レ ン ド…祈 り】です〜〜〜ネ!!
最後となりましたが…「生長の家…御教え」では?いかようかと??お考えでしょうか?

PPS:【20代の頃…】フォ−クに熱中していました時……
「アリスの谷村新司…」さんから紹介して頂いたのです。…が?当時の私の“理解力”…ウフフ
要約〜〜〜今!“理解しつつ〜〜〜”でしょうか??やはり【良書との出会い】は大切ですが?
【理解力…」これが最終的には〜???でしょうか         

再合掌

1550うのはな:2012/11/03(土) 11:36:08 ID:SXwG/Idc

   万教帰一の意味するもの

 私(谷口雅春先生)が昭和四十八年にペルーに行ったとき、そこでの記者会見で、
「この生長の家とは、万教帰一だといいますが、凡ゆる宗教を生長の家の教えで統一してしまって、
その他の宗教を抹殺する意志を有っているのと違いますか」という意味の質問がありました。

 生長の家の万教帰一というのはそういう意味じゃないんです。生長の家では、「この神を“七つの灯台の点灯者”と
呼ぶがよい」という神示がありまして、神みずから灯台に灯をとぼす者だと仰せられているのであります。灯台というのは
世を照らす光のことでありまして、宗教は人々の魂を照らす光の灯台であります。
で“七つ”というのは、七日間で神様が天地の創造を完成されたという神話に基づいて、“全ての渾て”というような意味で、
世のなかの全ての灯台すなわち宗教が、現代はキリストが行なったり釈尊が行なったりしたような奇蹟が現て来ないのは、何故であるかと
いうと、それは、釈尊の教え、キリストの教えは立派であるけれども、それが次から次へと伝えられている間に、だんだんと元の教えから
遠ざかって、自分の考えというものが入ってくる。

 恰度それは灯台の窓に埃が積って、折角灯台は在りながら、その灯台の窓ガラスがほこりで曇って、光が完全に航行する船を照らして導いてやるには
燭光が足らんというようになっている。或は灯台の中の油がもう燃え切っているのもあるかも知れないが......
兎も角、現代の宗教は“末法の宗教”といわれていて世を照らす光が曇って来ているのは事実であります。

 そういう灯台を、われわれ生長の家はそれを潰してしまうんじゃないんです。
すでに在る灯台の窓ガラスを拭いてあげて、そして「こんな曇があるから光が遠くへ届かないんだ」と、その曇りを除ってあげ、
或は灯台の灯火の油がもう無くなって火が消えかかっているのには、油を注いであげて、そして、その灯台を教祖の時代のように
光が明らかに出るようにしてあげる。これが生長の家であるぞよ、という神様のお示しに基づいて、私は自分のことを、いつも教祖と
称わないんです。「私は教租ではない」「教祖は神様である」というのです。

 即ち「われ自らにては何事をも為し得ず」であります。「私は教租でない。ただラッパである」と常にいっているのです。
ラッパというのは、中が空っぽであります。もし中が空っぽではなくて詰っていたらラッパは鳴らないということになるわけでありますから、
私はパイプのように空っぽでばくて詰っていたらラッパは鳴らないということになるわけでありますから、私はパイプのように空っぽで、
私はただ取次いでいるというだけのことなんであります。

 (私はこんな話を、この通りの言葉で言ったんじゃないんですけれども、そういう意味の話をしたのでした)

 すると、次の新聞記者が、「いろいろの宗教が、種々の教説を有っており、異る教義をもっているのが、どうして
それが一つに一致するんですか」といって質問するんです。
 それで私はこんな話をしました。十年前にも私は世界旅行して、世界各国の人類にお目にかかったんだが、皆などの人種の
顔を見ても、横目縦鼻で、目が横について、鼻が縦についている。口はその下に横に開いている。
耳は左右にある。顔の道具一つとってみても、みんな平等である。顔だけじゃないんです。
内臓の形から構造から骨格から人体全部に至るまでその設計が同じである。

 設計が同じであるとすると、これは、その製造元が一つであるということの証拠でなければならない。
そして製造元が一つであれば、その一つの製造元によって造られた人間が救われる真理も、一つの共通的な
真理でなければならない というのが、私の根本的な考え方なんです。だから、もし人間を救い得る宗教と
いうものが本当にあるならば、その宗教の奥には、必ず共通の真理が在って、同じ神に創造られた人間なのだから、
その人間が救われる真理はどの宗教にも一つの共通のものでなければならない筈なんです。

 その共通の“救いの光”を指し示して、点し、その各々の灯台に、輝く光を出させようというのが生長の家であって、
決して他宗排斥ということはいわないのであります。

 『精神科学』四十八年十月号

1551SAKURA:2012/11/03(土) 12:12:43 ID:jTinNDNM
トキ様 へ  観覧者の皆様 へ
こんにちは……。   ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。

昨日、投稿しました【ベスト・フレンド…】…なのですが、“間違い…”がありました事に、
気づき>>1549にて投稿…更に【ベスト・フレンド…】最終となりました次第です。…が?

はやくも?皆様方の“投稿言葉…”それも兼ねて、既に奥の方へ参りました様で、
此処にて、訂正致したく【再度…投稿】の形式を取らせて頂きました次第なのです。…が?

■いつになっても【人間の心の意識力】が生みだされない限りは、いつまでも同じ状態でしょうか?
繰り返し?繰り返し?反復なる問題を与えられますのでしょうか?とこの頃思います。…が?
更に!投稿文でもその人の【心の念…想念】も、入って来るのでしょう〜〜〜かと!
【念の法則…】そうです〜ョネ!その念が?“ネガティブなる念”属にいます【呪詛・密教…】も
ありますから〜〜〜怖いです〜〜〜ョネ!
後に「雅春先生」が、それに近い文章内容を、載せていましたので…次回また投稿させて頂きたい
との思いです…。
                                 再合掌
                          つづく

1552うのはな:2012/11/03(土) 14:26:11 ID:.iGF2jO6
「個人指導の指針」 徳久克己教務局長『生長の家』誌昭和三十三年三月号

「生長の家」の講師として、また幹部として、個人指導する時には、私たちは先ず「生長の家」の御教えに
従って個人指導をするのだ、ということを再認識し、いつの間にか、我流になっている仕方を、もう一度反省してみる
必要があります。その為には、谷口先生の御講習を受け、また『生命の實相』及び先生の御著書を繰り返し拝読し、神誌を
拝読しなければなりません。

「『生長の家』は決して病気を治さないのであります。病気を心から放さしめるところなのであります。
病気と云うものを心に握っていて、『此の病気を治して呉れ』と言うのでしたら、そういう方はお医者さんへお出になるが可いので
あります。『生長の家』はお医者さんと商売争いをしようと云う気はさらさらないのであります。
お医者さんは病気を治そうとして色々と処置工夫をめぐらせてくれるのですから、病気を治して欲しい人はお医者さんへお出かけになるように
お勧めします。」

(『生命の實相』新修版第十四巻、携帯版第二十七巻十九頁)

1553SAKURA:2012/11/03(土) 18:07:37 ID:jH5uEFzM
トキ様へ
観覧者の皆様 へ
こんばんは……   ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。

昨日投稿しましたが、以前『ボランティアについて』と『浮浪者について』ですが…?
偶然…本を開きますと「谷口雅春先生の著書」ですが…素晴らしい解説です。

■■『生命の実相…』 第37巻 から “ 抜粋投稿 ” です。
============================================
「人間の親切にも物施と法施とがある。物を与えることも時には必要であるが、あまり物
のみを与えすぎるとかえって依頼心を起させ、貰うことが権利のような感恩の無い状態
にまで相手の心を荒ませることがある。」

 物を与えるならば、心もちを添えて贈らなければならぬ。紙に包み、水引を掛けるのは
心持ちを添える方法の一つである。人間は心もちによって生かされているのである。機械的
な「与え」の前には感恩の心は起こるものではない。与える側からいうならば、物を贈るの
に相手に感恩の心を起こさせようと思ってするのは不純ではあるが、相手の心を依頼心に
満ちたり、忘恩的な荒んだ心にまでならなせないためには機械的な与え方をしてはならない。

 勤務時間以上に働きをサ−ビスする社員に、上役が感謝して夜食をおごったりしてくれ
る場合には、いかにも上役の好意が身に沁みて感謝されるが、規則によって夜勤手当とい
うものを定めて、一定時間の夜勤をする者には一定の夜勤料を支払うことに機械的に定め
てしまうならば、もう誰も夜勤料をありがたく思わなくなるものである。それどころか、
時としては夜勤料が少ないといって零すようにさえなりがちである。与える悦びがなくな
って、奪い足りないという不平に代わるのである。生活に困っている失業者に仕事を紹
介してやったら、その当座は命を救けてもらったように感謝するが、毎月月給を貰うと
いうことが機械的に度重なってくるならば、もうぼつぼつ月給の不足を零しがちである。

            つづく

1554SAKURA:2012/11/03(土) 18:10:31 ID:jH5uEFzM
トキ様へ
観覧者の皆様 へ
こんばんは……   ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1553の投稿の続きです。…が??

感恩の心は機械的になるとしだいに薄れてくるのである。子供の愛情に養われる老人は幸
福であるが、社会保障度で養老院に養われる老人には前者ほどの喜びはない。われわれ
は毎日空気を吸っているが、機械的に空気を供給されているがゆえにありがた味を感じ
ない。われわれは太陽がなくては生きられない人間でありながら、太陽は機械的に毎朝地
平線から顔を出すから太陽のありがた味をさほど感じない。

 しかし、これでよいだろうか。目ざめて立て! わたしたちはあらゆる恩恵のうちに生
きているのである。

「 ありがたさは物の分量にあるのではなくて、心の【“目ざめ”】にある。【心の目ざめて】
いる人を悟っていると言う。一かど悟っていると自負している人が常に不平を唱えているの
は何を悟っているのか、訊いてみたい。」  『生命の実相…』 第37巻 (谷口雅春著)
============================================                      

■上記の“言葉”…それを此処に“投稿…”致しましたが、…もう“奥殿特急便”ですネ!
更に、閲覧された方達は、変?に捉える方達なのでしょうか…??私自身は、ためになりまして、
今後の“物事への見方?捉え方?”にて…更に、深めていく上で、今後の“テキスト”にして、
いきたいのです。〜〜〜そして、まだ…閲覧されてない方も、それは【SAKURAの仲間?】…
つまり■【類の法則】でしょうかしら〜〜〜ン!昨日の地下鉄で、見られていました方も……
(偶然…2チャンネルの閲覧が、チラリ?)いますでしょうし、此処にて“再投稿”させて頂き
ます。久しぶりに【谷口雅春先生…】の書物であります処の……抜粋となりました。…が?

PS;【捉え方…】でしょう〜ネ!私は、ここ数年間、精神の状態は、以前より進歩でしょうか??
更に、仕事の苦労面も、まだ続投中です。…が?世間にもまれた人の考え方?・捉え方?
まだ!一人一人の捉え方???色々あるのでしょうか??
今回、私は【物施…法施…の捉え方と見方?】が、良く解りましたので…私自身は、有益になる
ようですが、「管理人…トキ様」側から見られますと…現職員サイド?の見解でしょうか?
こうして見ますと…ある面!世間一般の捉え方?として考えますと、職員としての料簡の狭さの
考え方とも?ある面では…???捉えてしまいますかと思います。…が?
私は「うのはなさん」・「志恩さん」の抜粋投稿…時としては「共有性」出来ないのです。…が??
一人一人の“投稿時の心境…念の具象化”でしょうか〜〜〜??今回、随分考えされました。
いろんな意味で、最後に…
【一人一人の観覧者様が、閲覧して頂きまして、それなりの『真理…』を、掴む事が大事ですネ!】

                                    再合掌

1555ハマナス:2012/11/03(土) 22:50:09 ID:mR2szZkc
神の子のみなさま
こんばんは。

本来存在しない迷い
(新版『生活の智慧365章』P.278)
夢の中にあなたは色々な事を見ます。それは目覚めてみれば本当には存在しないのです。それは心理学的に言えば潜在意識が心に描いたことの投映であります。また脳髄のオートメーション的な作用によって、目覚めているうちの記憶を自動的に組み立てて、それを客観化してみているのであって、実際に存在する事ではないのです。それと同じような過程を私たちは目覚めている間にもやっているのです。即ち「五官の心」の想念によって描いたところのものを「本来は存在しないのに」存在するかの如く如実に見るのです。

感謝合掌

1556SAKURA:2012/11/04(日) 18:47:01 ID:jH5uEFzM
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1553>>1554>>投稿の続きです…。❤〜『生命の実相哲学シリ−ズ…SAKURA論』

ア〜〜ア〜〜“人の捉え方”にも、“七色〜〜??”当に【不思議…世界】でしょうか??
昨日ですが?“投稿”しましたのも、以前「トキ様」が【施し…】について、
「雅春先生の例え…」として、投稿されていらっしゃいました記憶があります。…が?
まるで【四 無 量 心 の 心 の 世 界 観】でしょうか…??

■そして思いながらも〜〜「谷口雅春先生の言葉」から〜〜引用させて頂きます。…が?
【 生命の実相 】より
===【抜粋文】======================================
❤「憎みながら叱るこころで軽く子供を打つ子供は泣く。同じ強さで打っても愛撫する心で
愛慰すような形で打ったら子供はかえって喜ぶだろう。痛さは心にあるからである。」(抜粋)
==============================================

この様に私はライティングを打ちます時は、やはり閲覧者の皆様が“心の安らぎ感”をと…
思いなが…更に!似た者同士の“考え方”もあり【類の法則】でしょうか…??
あちらサイド側に取りまして“良い文”でも?…こちらは“気分の悪い文”に、見えるのも?
私の【心模様…】でしょうか???それはどこから来るのでしょうかと?考えて行きます内に…
今日の「雅春先生の言葉」が、出て来ました。先程!投稿しましたのも含めて、気が向かれた方が
閲覧されましたら、幸いに思います。【四無量心・・・】とは〜〜〜
■「拘らない…つかまらない…“こころ”とも言えますのでしょうかと…」只今!!修行中です。
                                  再合掌
 
つづく

1557うのはな:2012/11/04(日) 19:09:53 ID:0OK1Hwak

    物質は実相から出る蛍光である

 盲人は象に触れて、これを四斗樽のようなものだとみとめ、それ以上に一歩も認識が進歩することが出来ない。
唯物論者もそれと同じであって、存在(もの)を五官の感覚で触れて見て「物質」だとみとめ、それ以上に一歩も
認識が進歩することがないのである。唯物論者は“霊盲”とも称うべき一種の盲人であって、紅緑色盲が紅緑の色彩を
感じとることが出来ないように霊的存在を感じとることができないのである。

 実は、物質と見えているものは「霊的存在」から発する一種の「蛍光」みたいなものである。
その「蛍光」だけをみて、その本体たる「霊的存在」を知らないのは本末顚倒の甚だしいものである。
実相を知ることが出来るならば物質はただそれから出る「波動」を、感覚器官と云うブラウン管に映し出して、
「翻訳して見ている」ものに過ぎないことが判るであろう。

『真理』第10巻 実相篇 谷口雅春 先生著 P 206

1558SAKURA:2012/11/04(日) 20:59:36 ID:jH5uEFzM
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1553>>1554>>1556投稿の続きです。…が

昨日ですが?“投稿”しましたのも、以前「トキ様」が【施し…】についてですが、もっと深く、
日常生活面を、それなりに考えていきますと、私なりの「雅春先生の哲学」がみえて更に人生観が
感慨深いものになりますので、私なりに「生命哲学…勉強会」を〜♫〜では続き投稿していきます。
「雅春先生の例え…」として、投稿されていらっしゃいました記憶があります。…が?
ここは、まるで【四 無 量 心 の 心 の 世 界 観】でしょうか…??

■■『生命の実相哲学シリ−ズ…SAKURA論』
「生命の実相 37巻」より……
==【抜粋文】======================================
❤打つ心は打たれるこころである。打つことを心に描けば、その念は形と表われて相手を打つ。
相手の気魄がつよければ、それはかえって自分自身に還ってきて自分自身を打つのである。
阿難が釈尊に対って人を憎んだ心を相手がうけなかったら、その憎んだ心はどこへ行きますかと
尋ねたときに、釈尊は「お前は贈り物を人に持っていった時に相手がそれを受け取らなかったら
その贈り物は誰のものになるか」と問い返された。阿難は「それは贈った人に返って来ます」
と答えた。釈尊は「人を憎むこころもそのとおりだ」とおっしゃった。
==============================================

■これが、ある方の“捉え方”はと申しますと?その人の“心…次第”にも繋がるのでしょうネ!
私は【いい言葉の表現…】と、思いますので〜〜【再度!投稿…】します。…が?
ある人達一部の方は、“ネガティブ感情…ライティング”に、見えます。…が?
「雅春先生の言葉」…一つでもその人の中身の問題にての【抜粋投稿……】でしょうか??
本当に【心 模 様】です〜〜〜ョネ!!
これも「私の心の捉え方?」でしょう〜〜〜ネ!
【人、それぞれ…でしょうか??拘らない“心…”にて〜〜四無量心の世界観…】

■パソコンも、相手が見えないだけに「自分の世界観」での判断でしょうかしら〜〜〜ン?
もしかしますと【心の種まき…】は???「良い表現…言葉」も大事です〜〜ネ!
【言葉は神様の表現としての…近道!!文章体も…大事です】??
ます!ます!「表現の大事さ…」を、今日は学ぶことが出来ましたかと?思います。【感謝…】
再合掌
                つづく

1559ハマナス:2012/11/04(日) 22:06:13 ID:x2zmnlqw

神の子のみなさま
こんばんは。

真心現るれば妄心消ゆ  (『新版 生活の智慧365章』P.278)

 映画の画面に色々の喜劇や惨劇があらわれて見えようとも、そんな喜劇も惨劇も存在しない
のです。それは映写機械が光の波動をスクリーンに送っているに過ぎないのです。波動は如何
に巧妙なすがたを現そうとも、それには生命がないのです。病気もやはり「迷いの心」の誤れ
る信念が放送している「波動」が姿をあらわしているものなのですから、それ自身、生命はなく、
それ自身進行するものではないのです。

 病気が進行したように見えるのは、それに波動を送って或る病的症状を現わしめている
「妄心の動揺」によるのです。そんな妄心を捨てなさい。病気の症候に目をとじなさい。
そうして瞑想によって「真心」をよび出し本来完全なる神の自己実現なる自己の「生命の
実相」を観なさい。「真心」は実在であり「妄心」は仮妄(こもう)ですから「真心」
現るれば「妄心」は消えてしまいます。

感謝合掌

1560a hope:2012/11/05(月) 07:13:45 ID:8tjYhMb6
新版 生活読本 谷口雅春先生著

第六章 希望の夢を描きましょう
♦苦難の道だと云うな


あなたが現在の苦しみや乏しさや貧しさになやんでいられるならば、
それは「人間の生きる道はどうせ苦難の道だ、思うようにならぬ」と云うことを前から考えて来たからです。

「苦難が来るぞ、荊棘(いばら)がくるぞ」と云っていると、「苦難」が来、荊棘が来るのです。
これを言葉の力と云うのです。ことばは神であり、ことばは心に思っても、口に出しても、それはいずれも「造る力」をもっているのです。
思ったとおりにあらわれ、言ったとおりに出てくる世界なのです。

明るい言葉、たのしい言葉、ゆかいな言葉、希望に燃える、前途(ゆくさき)のよくなると云う言葉を出していると、
そのとおりに、人生は明るくなり、たのしくなり、愉快になり、希望に燃えるとおりに何事もよくなってくるのです。
(つづく)

1561ハマナス:2012/11/05(月) 13:09:03 ID:x2zmnlqw

神の子のみなさま
ありがとうございます。

心の仕事場に良いモデルを  (『新版 生活の智慧365章』P.279)

 醜婦をモデル使いながら、美女を彫刻することはできません。美女を彫刻するには美女を
モデルに使わねばなりません。心に描く姿をモデルにして、私たちの生命は、肉体と云う
栄養物物質の素材上に、健康の姿でも病気の姿でも彫刻するのです。

 あなたが今健康であるならば、今まで、あなたは心の仕事場に「健康の姿」をモデルに
してそれに随って肉体の上に「生理作用」の鑿(のみ)を加えたのです。あなたが今病気を
しているならば、今まで貴方は心の仕事場に「不健康の姿」をモデルにして、それを心で
みつめて「病気の肉体」と云う作品を制作したのです。その「病気の肉体」がお気に召さ
ないのでしたら、一つあなたが毎日見詰めるモデルを取り替えて、「不健康の姿」を去って
「健康の姿」をモデルとして見つめなさい。即ち神想観して、目を瞑(と)じ、心の眼を
もって、じっと自分の「健康の姿」を描いてそれを凝視するのです。

感謝合掌

1562SAKURA:2012/11/05(月) 21:43:32 ID:jH5uEFzM
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1553>>1554>>1556投稿の続きです。…が

昨日ですが?“投稿”しましたのも、以前「トキ様」が【施し…】についてですが、もっと深く、
日常生活面を、それなりに考えていきますと、私なりの「雅春先生の哲学」がみえて更に人生観が
感慨深いものになりますので、私なりに「生命哲学…勉強会」を〜♫〜では続き投稿していきます。
「雅春先生の例え…」として、投稿されていらっしゃいました記憶があります。…が?
ここは、まるで【四 無 量 心 の 心 の 世 界 観】でしょうか…??

■■『生命の実相哲学シリ−ズ…SAKURA論』
「生命の実相 37巻」より……

==【抜粋文】======================================
これは神話であるから「大和理念」の地上顕現が悠久であることの象徴と見るべきである。
日本の建国の歴史をわざわざ長くないように考証している人もあるが、それは結局自己侮辱
であり、自己破壊本能の展開にすぎない。人間には「生」の本能と「死」(自己破壊)の本能
とがあって、「生」の本能が旺んなるものが栄え、「死」の本能が「生」の本能に打ち勝つとき
衰えかつ滅びるのである。自己の卑小に言うことに誇りを感ずるような悪い趣味はやめた方がよい。
=============================================

■人間には「生」の本能と「死」(自己破壊)の本能とがありまして…【 生=天  死=悪 】
と置き換えまして考えますと、人間の心の中は『ジキルとハイドで、まず二重人面=二重人格』と
いいますから、そこの“こころ”が何処に振り向くかと言いますと、その人の“こころの測り”
になるのでしょうか〜〜〜??

心が天に向いた時は、精神は“正しい理念”に目ざめ=芽が出て来まして、スクスク伸びていきま
すが…?逆に申しますと……悪に心を振り向ける事は、目ざめ=芽が伸びなく…停止状態!でし
ょうか?それこそ…【 精神は枯れる! 】のです〜〜〜ョネ!!

人間とは、「甘露の法雨」で申しますところの本来【善のみ…】と…つまりは“悪に打ち勝つ”
ものを持っています。…が?ある時【霊界に一本の車輪の棒…】を、置いていたら??
それは【業…車輪の棒】ですから、やはり、相当の【祈り…】が必要かと思う次第です。
精神に正しい理念をと…集中するべきでしょう!!まず、今の私は、人への“悪口・中傷…”を
論ずる事に、喜びを抱く事によりまして…
【魂の目ざめた“こころ”…】で“明るい理念”さらに“感謝・報恩のこころ”で、今!活かさ
れていますことに【集中…】でしょうか???

そして【祈り…】が素晴らしい〜〜♫〜〜爽やかな朝の時間に【感謝…】でしょうか?
ますます【 意識=意志 】でしょうか…?このように考えますと
【 捕われない心=四無量心 】に、入っていく “ 私 ”ですが〜〜〜?

                                  再合掌

                       (つづく)

1563SAKURA:2012/11/05(月) 22:01:20 ID:jH5uEFzM
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1553>>1554>>1556>>1562>>投稿の続きです。…が

>>1562の箇所の【 訂 正 事 項】……

① 「今の私は、人への“悪口・中傷…”を論ずる事に、喜びを抱く事によりまして」 ×
                 ↓↓↓↓↓
② 「今の私は、人への“悪口・中傷…”を論ずる事に、喜びを抱くことより」、ましては、逆に
【魂の目ざめた“こころ”…】で“明るい理念”さらに“感謝・報恩のこころ”で、今!活かさ
れていますことに【集中…】でしょうか???

① から ②に訂正です。                 再合掌

1564<削除>:<削除>
<削除>

1565a hope:2012/11/06(火) 07:55:56 ID:8tjYhMb6
新版 生活読本 谷口雅春先生著


第六章 希望の夢を描きましょう
♦自分の運命は自分で造る


吾々は自分でわれわれの前途(これから)の運命をつくるのです。
運命と云うのは運がよくてまわってくる天からの命令と云うものではなくて、
われわれの心でどうにでもなるものなのです。
われわれの心で常に思っているとおりに世界は運転してくるのです。

世界の運転のしようを自分の思いどおりにしているのが人間なのです。
だから人間は運命の主人公であって、人間は運命の奴隷ではありません。
奴隷には自由はありませんが、主人公には自由があるのです。

自由と云うのはなんでありましょうか。
自由と云うものは外から自分のやることを邪魔しているものを取りのぞいてもらうことも自由であります。
それは自動車が走るのに邪魔になる石塊(いしころ)や溝を取除いて貰うようなものです。

しかしそれだけでは本当の自由はないのであります。
本当の自由は、どんな石塊があっても、どんな溝があっても、それを自由に避けて通れるような、
中からの舵取(かじとり)が自由に出来る事でなければならないのです。

吾々は、こうありたいと思うように自分の心を、自分の言葉を、舵取することによってのみ、
自動車がどんな石塊道でも、山道でも、自由に走れるのと同じように、
どんな難しい世の中でも自由に楽しく愉快に生きることが出来るのです。

吾々は何よりも、自分の心を自由に楽しく愉快に明るくする自由を得なければなりません。
これこそ「中」からの自由であって「外」にどんな石塊や溝があっても自由に楽しく走れる自動車のようなものです。
(つづく)

1566コピペ:2012/11/06(火) 11:22:57 ID:???
生長の家は住吉大神が始められた信仰運動であるNEW (3276)
日時:2012年11月06日 (火) 10時53分
名前:中村晃生

マサノブ氏および八ヶ岳教団が犯している根本的な間違いは、こ

の信仰運動が谷口雅春先生個人が創設されたのは間違いの無い事

実ですが、実は本当は住吉大神が起こされた運動であることが分

かっていない。だからこそ路線を全く外れても何とも思わない。

ケロッとして大自然賛歌などという教えとは全く関係の無いシロ

モノを、堂々と信徒に聖経代わりに使わせようとするのです。

我々がキチンと認識しなければならないのは、先生は現世を去る

まで一貫して「私はパイプに過ぎない」と主張してこられたこと

です。「自分の教えだ」などとの不遜な言葉は一度も述べられた

ことがない。それどころか「果たしてパイプ役として神様の言葉

を正しく伝えたののだろうか」と日々反省し、お気遣いをされて

こられた。神様に対しての、そうした謙虚なそして真摯な態度は

最後まで一貫しておられたのです。

「今の教え」などとして、自分の浅薄な環境主義をおしつけよう

などのマサノブ氏のような不遜な態度は、微塵も示してこられな

かった。

私たちも、雅春先生のように、常に大神を礼拝し、大神に対して

真摯で真剣であらねばならないと考えます。「八ヶ岳教団」を正

す原点はここなのです。

1567ハマナス:2012/11/06(火) 23:55:59 ID:x2zmnlqw

神の子のみなさま
こんばんは。

迷いの心の第一歩  (『新版 生活の智慧365章』P.280)

 病的症状を心に描いて思い煩うこと勿れ。「心に描いた通りに肉体は造られる」と云う
原理が判るならば、病的症状を心に描いている限り、いくらその症状を薬剤で中和しても、
心が描いて、次から次へとその症状を再創造して行けば、病的症状の消えようはないでは
ありませんか。大体、人体を「物質体」だと見ているのが、人間を不健康にする「迷いの
心」の第一歩なのです。即ち「自分の体は物質だ」と思っている限り、「やがては摩耗する
もの」「朽ち果(は)つべきもの」即ち病気になるべきものとの思想が先行しているのです。

 人体を「物質」とみとめるな。霊身であるとみとめよ。「神の子」であるとみとめよ。
常に、暇ある毎に短時間ずつでも瞑目して、「われは神の子である。霊的実在である。無限
力である。永遠に老いず病まず衰えざるものである」と念ぜよ。

感謝合掌

1568a hope:2012/11/07(水) 08:25:17 ID:8tjYhMb6
新版 生活読本 谷口雅春先生著

第六章 希望の夢を描きましょう
♦自分の心の支配者


自分が自分で自分の主人公である人は、先ず自分の心の支配者となって、
面白からぬ感情や想念(おもうこと)を自分の心の中から追放しなければなりません。

追放とは追いだすことです。
怒りや、心のいらいらしさや、憎みや、嫉(ねた)みや、陰気くさい想いや、悲しみや、
ずるい考えや、取越し苦労や、持越し苦労を追い出さなければならぬのです。

自分の心一つを、自分の気持ちのよいように掃除出来ないで、
世の中のことを支配しようと思っても出来るものではありません。

先ず自分の心の中から憎しみや悲しみや、怒りや取越し苦労を捨てなさい。
外の世界はわが心の影ですから屹度よくなるに相違ありません。
(つづく)

1569復興G:2012/11/07(水) 19:13:59 ID:vWpLkCzM

合掌 皆さま、ありがとうございます。

  <第8回WEB誌友会予告>

≪日時≫11月9日(第2金曜日)21:30より
    11月11日(第2日曜日)23:30まで
≪テキスト≫『生命の實相』第2巻「實相篇 光明の真理<下>」 (p.1〜p.50)
≪内容≫ 第1章 「生長の家」の超薬物学

――以上の要項で、まもなく開催となります。すでに、前夜祭が始まっております。

それで、以下に、そのテキスト『生命の實相』第2巻「實相篇 光明の真理<下>」 第1章 「生長の家」の超薬物学(p.1〜p.50)を、14回に分けて謹写掲載させていただきます。

WEB誌友会にご参加の皆様、どうぞ以下のテキストご文章より、感銘を受けたところや疑問を感じたところを部分的にコピペして意見を投稿する・・・などにご使用ください。 よろしくお願いいたします。

1570復興G:2012/11/07(水) 19:14:46 ID:vWpLkCzM

<第8回 WEB誌友会用テキスト>
 『生命の實相』 第2巻「實相篇下」より (1)
   -----------------------

<扉裏の言葉>
   -----------------------
 細胞は粘土、心は彫塑家(ちょうそか)、作品はわれらの肉体である。われらはすべて自己の肉体をいかようにでも作る権利をもった全能者であるのである。ウエルズによれば、人体内の細胞の総数は一千兆以上ある。この驚くべき多数の細胞が、「一糸乱れない支配」のもとにいろいろの分業に専心している。この「一糸乱れない支配」は誰がするのであるか、それはわれらの「心」がするのである。心を切り離すとき、細胞はもういろいろの分業をしなくなる。
 一個の細胞を「人間」から切り離して人工培養をした実験によれば、心臓の細胞でも、腎臓の細胞でも、その他人体のどこの細胞でも、生きてはいるけれども、一列一帯に、どれが心臓の細胞だか腎臓の細胞だかいっこう区別のつかぬ類型的な働きしか、いとなむことはできないのである。
 そうすると心臓の細胞が心臓特有の働きをし、腎臓の細胞が腎臓特有の働きをし、その他、人体各所の細胞がおのおの特有の働きをしているのは細胞自身の働きではなく、「われ」の「心」の支配力を受けてのことであることがわかるのである。
 わが「心」は全身の肉体細胞にいかなる働きをさせるかについて絶対の支配権をもっているのである。この心が支配権を捨てるとき全身の細胞の働きが乱れる。これを病気というのである。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

  第1章 「生長の家」の超薬物学

   薬物を無毒にする念(こころ)の力(p.3)

 昭和六年『毎日年鑑』の付録『家庭医典』に医学博士岩野政太氏は「医学から見た精神療法」と題して次のごとき興味ある記事を掲げていられます。

 「中尾弘明氏が創始した一元同化療法が、ある種の病気にすばらしい効果があることを認めたので、精神療法中の一元同化療法をモルモットに施した上で試験することにした。
 まずハブ蛇毒の乾燥したものを濃度に溶解し、その致死量を六頭のモルモットに注射し、うち三頭には水村昌吉氏の一元同化の術を施し、残りの三頭は対照として、そのまま放飼した。その結果、被術動物のうち一頭は注射後七時間を経て死し、二頭は死を免(まぬか)れた。対照動物は三頭とも九時間のうちに死んだ。
 第二回は結核菌を試用した実験で、純培養の結核菌を五頭のモルモットに注射して、そのうちの三頭には死ぬまで毎日水村氏の術を施し、二頭はそのままにしておいた。しかるに約一ヵ月半から二ヵ月の間に五頭とも消化器疾患で急死した。なおその期間五頭とも日々秤量、検温とを怠らなかったが、体温上では試獣も対照獣もそれほど変わりはなかった。被術動物は三頭とも体重が増加し、対照の方は二頭とも痩せていた。
 解剖所見では五頭とも結核性病変を現示していたが、被術獣の方は対照獣に比較していくぶんかその病的の進侵が緩慢停頓の状態を呈していたように思われた。
 なおこの動物実験は、ただ一回だけではその成績が不確実であるから、この実験はいずれも三回反復して大同小異の結果を得た。

 以上は昭和二年三月二十八日から同五年一月三十一日にわたっての実験である。これによってみても、人間の有するあの偉大な力が病気の上に働きかけることは決して否定できない。ちょうど病気は看護によるがごとく、人の念力によって変化するものである。
 いにしえの聖者が奇跡をあらわしたのもまたかかる不思議な力を示したわけであろう。どこまで病気を治療するかというのではない、人間の念力の強さが病気の上に働くのであるから、これを科学的に限界を定めるわけにはゆかないらしい。」(岩野政太博士稿)
<つづく>

1571復興G:2012/11/07(水) 19:15:51 ID:vWpLkCzM

<第8回 WEB誌友会用テキスト>
 『生命の實相』 第2巻「實相篇下」より (3)
   -----------------------

    毒素の本体は精神力(p.6)

 がんらい、ハブ蛇毒の毒素なるものは、ハブ蛇が他の動物をたおそうという一種の毒気(害悪の精神力)の物質化したものでありまして、本来このハブ蛇毒そのものの本体は精神力なのであります。毒素は本来「精神力」の仮に物質化したものであるからこそ、人間(精神力)を殺すことができるのであります。
 人間でも非常に腹を立てると唾液の中に烈しい毒素ができるということをハーバード大学のゲーツ教授は発表しているのであります。なぜ腹を立てると毒素ができるかといいますと、腹を立てると相手を害してやろうという気になる、つまりわれわれの心の中に毒素すなわち(害悪の精神力)が発生する、この害悪の精神力が凝(こ)って物質化して毒素に変ずるのであります。だから人開は腹を立てるということが非常に悪い、われとわが身体に毒素を飲ましているようなものであります。アメリカのある有名な健康法の大家は「長寿したいものは腹の立ったときには食事をするな」といっています。つまり「唾液の中にできた毒を飲むな」という意味でありましょう。

    菜食と肉食との優劣(p.7)

 河上肇博士の訳された『如何に生活すべきか』という本には、菜食の人と肉食の人との健康を比較し、いろいろの実験のすえ、菜食した人間の方が持続力が強いという統計を発表してあるのであります。医学博士二木謙三氏や小田部荘三郎氏も本当の健康は菜食でないと得られないといって菜食をすすめていられます。この小田部博士の話によりますと、一時、全欧米を風靡(ふうび)した大拳闘選手バットリング・ネルソンが、ある時勝ちうべき勝負に敗れた一大原因を、その朝にとった肉食に帰し「肉食がわたしを疲労せしめた」と嘆声をもらしたとのことであります。

    肉食中に含まれる毒素は殺された動物の精神力(p.8)

 肉食から来る健康に対する有害作用の原因を、医家は消化吸収に困難なために胃腸内で腐敗して毒素を発生すると説明しているのであります、もちろんそういうふうな説明のしようもありましょう。しかし見のがしてならないのは、肉食に供せられる動物が死の刹那に苦しむ。一寸の虫にも五分の魂をもっていて苦しみながら、その不条理な殺害に対して憤りながら死ぬということであります。憤るさいには動物はたいてい相手に噛みつこうとするのでありまして、これは害悪の精神力が客観化した結果、相手を歯で傷つけると同時に、唾液中に発生した毒素で相手をたおそうとする作用となったのであります。そのさいに発生する毒素はハブ蛇毒のように猛毒作用を有するものもあればそれほどでないものもありますが、ともかく「いかり」すなわち「害悪の精神力」が物質化して毒素を唾液中に発生することは明瞭なのであります。

 それと同時にその怒った動物の血液中にはこの毒素を中和する抗毒素が発生します。そうでないとハブ蛇はもちろん他の動物でも怒ると同時に自分自身がその毒に当てられて毒死してしまわねばなりません。ところが相手をたおして自分を護ろうというのが怒りの目的でありますから、「自分を護ろう」という精神力が物質化してこの抗毒素となるのであります。
 ところが抗毒素それ自身は毒でないかと申しますと、それは反対性の毒素と合した時に始めてその毒性が互いに中和して無毒となるのでありまして、それは中和する反対性の毒素がない場合、すなわち抗毒素ばかりではまたかえって毒作用を有するのであります。
<つづく>

1572復興G:2012/11/07(水) 19:17:14 ID:vWpLkCzM

<第8回 WEB誌友会用テキスト>
 『生命の實相』 第2巻「實相篇下」より (4)
   -----------------------

    肉食生活者の短気な理由(p.9)

 ところでわれわれが動物を食します場合には、むろん動物の唾液などを食べませんから、唾液中の毒素を食べる恐れはありません、しかしわれわれが肉食をする場合には筋肉組織中に含まれている血管も一緒に食べてしまうのであります。牛肉などは血液は大部分は搾り出してしまってあるのですが、その血管内にはやはりいく分の血液が残っており、その血液の中には「憤怒の毒素」と中和してはじめて無毒となるところの有力な毒分(抗毒素)が含まれているのであります。肉食家は肉を食するごとにこの毒分を食べているのであります。

 医家の説によりましても、また実際の人間について見ましても、また肉食動物と菜食動物とを比較してみましても、肉食する物は非常に気が短くて腹を立てやすいのであります。これはなぜかと申しますと、常に肉食している結果「憤怒の毒素」と合して中和しなければ治まらない毒性をもった抗毒素を吸収しているので、この抗毒素を中和するために「憤怒の毒素」を必要とする結果、生理的に怒ることを要求して来るのであります。だから肉食家はどうしても腹を立てやすい、羊や馬はめったに腹を立てないが、虎や獅子はすぐ腹を立てる。人間でも肉食をしているとどうしても興奮しやすいので、あまり神経過敏で夜中眠りにくいような人は肉食を避け、菜食にする方がよいとは専門家の説であります。

 メタフィジカル・ヒーリングの立場から申せば「何を食(くら)い何を飲まんと思い煩うことなかれ」でありますから、肉食菜食は問題にはならない。ただ「摂理」がわれわれに与えてくれたところのものを感謝して平和な心で食べていればよいのでありますが、ここに肉食菜食の話をしましたのは、心の作用(はたらき)がどういうふうにして客観化して生理的物質となるかの経路をご説明申し上げるためであります。

 元来物質には毒性も抗毒性もないのでありまして、これに毒性を賦(あた)えたり、抗毒性を与えたりするのは「念(こころ)」の力であります。ハブ蛇毒はハブ蛇の「害悪の精神力」が物質化したのであって、精神力がまず起こってそれが物質化して毒物となるのであって、物質が先ではないのであります。

 物質そのものに毒性というものが固有しているならば、物質の毒性が精神の力によって解消してしまうことはできないはずであります。ところが前述しましたように、岩野医学博士がモルモットに試みた実験によれば、物質的存在と思われたハブ蛇毒の毒性が、精神療法家の念力によって中和して、毒性を発揮しなくなったのであります。
 これは物質の毒作用というものは本来物質の固有的性質ではなく「念(こころ)の力」によって生じたものであるから、反対の「念の力」を作用させればおのずから消滅するという「生長の家」の主張に裏書きを与えたわけであります。

    口よリ出ずる言葉なんじを穢(けが)す(p.11)

 「念(こころ)の力」で、毒物も毒にならぬということが解ればわれわれは実際もう、キリストのいったように「何を食らい何を飲もうかと思い煩う」必要はないのであります。キリストはまた「口より入るものはなんじを穢(けが)さず、かえって口より出ずる言葉なんじを穢す」といっています。
 物質そのものに本来の毒性がなければわれわれは何を口より入れて食べようともわれわれを傷つけることはできないのであります。かえって、これは「毒になる」とか、「これは消化が悪い」とかいって批評する口より出ずる言葉の力が心に恐怖心や不安を起こせば、その心の力で毒素が自分の生理的組織内にでき、必要な消化液やホルモンの分泌量を減じ、本来毒性のない物質までも毒性を有するかのごとくわれわれを害するにいたるのであります。
<つづく>

1573復興G:2012/11/07(水) 19:20:20 ID:vWpLkCzM

<第8回 WEB誌友会用テキスト>
 『生命の實相』 第2巻「實相篇下」より (5)
   -----------------------

    恐怖の生理的影響(p.12)

 憤怒(いかり)は「害悪の精神力」でありますから、積極的に害悪をおよぼす有毒性の生理的物質を発生せしめますが、恐怖心や不安は消極的に小さくちぢかんで相手の目をのがれて身を完うしようという精神力でありますから、われわれに恐怖心や不安があるとすべての生理的器官は小さくちぢかんで完全に働かないのであります。それで必要な消化液やホルモンの分泌量は減じ、完全に生理的機能を発揮することができなくなり、同時に全身の細胞を統帥してその活動力を鼓舞しているところの本人の精神力が恐怖に襲われて萎縮しているのでありますから、弱将の下に強卒のあるわけはなく、全身の細胞ことごとくが活力を失って病気に対する抵抗力を弱らしてしまうのであります。これひっきょう恐怖という虚弱な精神状態が客観化して虚弱な肉体となったのでありまして、精神状態によって肉体は強くも弱くも変化する、すなわち「念力(ことば)が肉体となる」のであって、「肉体は念(こころ)の影」だという真理がこれによって解るのであります。

 こういうふうに、憤怒は積極的に有毒物質をわれわれの肉体のうちに作り、恐怖や不安は消極的にわれわれの生理機能を萎靡沈衰せしめるのであるから、健康になろうと思う者や、病気を治そうと思うものは、せひともこの憤怒と恐怖の二大強敵を心のうちより絶滅し、常に心を平和にたもつようにしなければならないのであります。

 わたしは雑誌『生長の家』第二集の第二号に「心の平和の生かす力」と題して、「心の平和」がいかに治病上効果があるかにつき説明し、恐怖せざるナポレオンの「心の平和」の前には、さすがに猖獗(しょうけつ)した伝染病も終熄した実例をあげたのでありますが、現代の医学者もその薔奥に達した人たちはさすがに、しだいに「心の治療」ということを称えるようになっているのであります。

 元侍医頭医学博士入沢達吉氏は、かつて雑誌『實業の日本』において「余が医者としての座右銘」と題して「真に病気を治療しようとするには対症療法の必要なることはもちろんであるけれども、まずもって対人療法を試みることが緊切である」と告白して「医者たるものは病気を治療するだけではいかぬ。病人たる人間をも治療せねばならぬ」という西洋の格言を引用していられるのであります。

    心を治せば病気が治る(p.13)

 ありふれた庸医(やぶい)たちは病気を治そう治そうとばかり心がけて、人間全体、すなわちその「心」までも治そうとはしないために失敗するのであります。彼らは人間というものをまるで部分品を寄せあつめて造った機械であるかのように心得ていて「有機体としての人間」全体を治そうとはしないで、悪いところがあればその悪いところを切って捨てる式の治療をするのであります。だから病気が治って人間が死んだり、一つの病気が影をひそめて他の病気が入れ代りに発生したりするのであります。

 「生長の家」では個々の病気を一つ一つ別々には治そうとは決してしないのであって、人間そのもの――「人間の念(こころ)」を根本的に治そうとするのであります。人間の念(こころ)が治って病気が治らないということは決してありえないのでありまして、最近にもある読者から次のような感謝状に接したのであります。
<つづく>

1574復興G:2012/11/07(水) 19:20:55 ID:vWpLkCzM

<第8回 WEB誌友会用テキスト>
 『生命の實相』 第2巻「實相篇下」より (6)
   -----------------------

     ○
 「明けましておめでとうございます。『生.長の家』毎月ありがたく拝見いたしております。そしてぜひお礼の手紙を差し上げたい、また差し上げねばならぬと思いながらも、ついつい今日までごぶさたいたしましてなんとも申し訳ございません。
 わたしは無線電信の技術者ですが、以前から宗教問題については相当心を留めていましたが、なかなか合掌するようにはなれませんでした。一、二年前から少し信仰しうるようになってまいりました。またわたしは心霊問題等にも興味を持ち知人の紹介にて浅野氏の心霊実験会も実見いたしました。それで『心霊と人生』によりはじめて先生の『生長の家』を知り、さっそく読者になったのでございます。
 わたしは生来頑健な身体でもありませんが、内科的疾患のため医者の診療を受けたこともありませんでした。ところが一昨年春ごろより肺を冒され、その後治癒もはかどらず閉口しておりました。昨春ごろは毎日体温計持参にて体温曲線を作っては心配し、常に医師の診療を求めあるいは栄養物だ、やれX光線療法だなどといって高い金を払って苦しんでいました。ちょうどこの時『生長の家』人となり救われました。
 前記のような心配はみずから病の雰囲気を作り、その中に籠居するものであることを知り、医師も薬も捨てましたが、その後しだいに健康も回復してまいりまして最近はきわめて元気にて働いています。わたしはこう考えています。いかなる修行もまた健康の回復も階一階と進むので、もし修行を怠たれば還元するであろうと。無限の未来を持つこの身、今後も『生長の家』人として不断に進む考えでございます。」(昭和六年一月七日付、原文保存)
     ○
 この種の感謝状はずいぶんたくさんくるのですが、こんな感謝状を受けるごとに自分は『生長の家』を執筆し「生長の家の生き方」を宣伝し始めて本当に好かったと、みずから顧みて涙がこぼれるほどの嬉しい思いに打たれるのであります。悲嘆に暮れる肺病患者が健康を回復し無限の未来を想望して喜べるということはただ事ではないのであります。
 生長の家は「真理」を語る。そして「真理」があなたを癒すのであって、あなたはただ、「真理」を知ればよいのであります。どうぞ皆さん、この医薬も光線療法もはかばかしく効を奏しなかった肺病が『生長の家』を読むだけで、誰に治療を受けるわけでもないのに、このように癒された「生きた事実」を、もう一度深くお考えになっていただきたいのであります。
 精神療法家がある短時間思念をこらして「平和の思念」を波及するだけでも、ハブ蛇毒が中毒作用を失い、いろいろの難病が癒されるという確実な証明がある以上、自分自身が心の内に平和を常にたもっていて病気が癒されないという理由はないではありませんか。
 他人に精神療法を受けるのは、他の心霊または他人の思念が波及して来るだけですから、間接的であり、それだけまた、その効果も稀薄なわけであります。その上、精神療法において術者の治療を受ける時間は短時間でありますから、自分で真理を悟って、長時間否常に、恐怖心なく心を平和に保つことができれば、それは他人から精神療法を受けるように間接的な緩慢なものではなく、直接的に強烈に、自分の病気を治してしまうのであります。
<つづく>

1575復興G:2012/11/07(水) 19:21:29 ID:vWpLkCzM

<第8回 WEB誌友会用テキスト>
 『生命の實相』 第2巻「實相篇下」より (7)
   -----------------------

 だから、「生長の家」では「あなたは無限の治す力を内にもっているのだから、あなたの病はあなたで治せ」と常にいっているのでありまして、坊間(ぼうかん)の心霊治療家のように「私が術を施してあげるから、宅へ来なさい」といって金をとるなどということはしないのであります。
 それは実に知恵の道であるとともに「菩薩(ぼさつ)の道」なのであります。この「菩薩の道」をひろめてくださる方は、またその一人びとりが菩薩なのであります。誰でも「無限の治す力」を自分自身の内にもっている。自覚さえすれば、どれだけでもその治す力が出て来てすぐ治ってしまう。それを自覚しないのが、すなわち病人であります。
 ちょうどそれは催眠術をかけられた人が、小さな礫(こいし)を与えられて、「これは非常に重いからとてもお前には持ちきれない」と暗示されたら、その小石が大きな巖のような重さに感じられて持ちきれなくなったと同じで、そういう人は家庭医学書だの病理学書だの、売薬の広告などという催眠術家に催眠術をかけてもらって、「とても病気というものは恐ろしいものだぞ。なかなかおまえ自身の力では持ちきれるものではない。それは解剖してみてもわかるとおり物質的な病的変化を起こしている。こんな形のある物質的変化はおまえ自身の生命力や糟神力などという無形の力で治るものではない。医者にかかれ、物質的薬剤をのめ、光線療法をせよ、滋養物をとれ」などと、八方から暗示してもらって、人間自体の内に宿っている無限の「生命力」「治癒力」「精神力」を、なんでもない病気や、薬などよりも弱いものであると信ぜしめられているのであります。
 だからわれわれは無限に治す力をもっていながら、小さな病気一つが治らない。それは小石の目方に比べれば無限大ほどの腕力をもっている人間でも、暗示の力でその小石を持ち上げえないと同じであります。

 この「なんじは弱いぞ」という暗示の力を、善き言葉の力によって消滅させてしまい、人間自身の本体が「完全な、無限の生命力」であるという真理を自覚さすようにしますと、もともと外から与えられたのでもなく自分のうちに宿っていた無限の生命力が働き出して来て、「なんだ、いままで持ちあがらないと思ったのは、こんな小石であったのか!」と自分自身の病気をなんの雑作もなしに小石のように捨て去ることができるのであります。

    薬の効力は客観的に確証できぬ(p.18)

 医家のうちにはいろいろの薬剤につきその一々の効力を力説する人もありますが、薬剤の効果は決して客観的に確証をあげえないのであります。
 第一、試験管の中で薬剤がどんな化学的作用を起こそうとも、それは生物の生きた内臓や血管の中へはいれば、生命体は服用した薬剤に抵抗するいろいろの抵抗素を分泌して来るので、その抵抗素と合して試験管内で起こるのとは、ぜんぜんちがう作用を起こすのであります。
 そのため医家は動物試験によって、薬剤が生体(いきもの)に及ぼす作用をうかがい知ろうとするのでありますが、モルモットや兎は決して人間と同一の生体ではないのであります。そこに動物試験の根本的誤謬があります。
 むろんたびたび動物試験をやってみた結果、ある新薬の注射がある人間の病気に効果があるだろうと信じ、医者がかく信じて人間に注射してみた結果、その新薬が効果をあらわす場合があったにしましても、それはその薬という物質そのものの力のみだとは決めてしまうわけにはゆかないのであります。
 ここには医者の信念および新薬注射に対する患者自身の信念の作用が加わっていることをみのがすことはできないのであります。
 術者の思念力で、ハブ蛇毒の中毒作用が解消したり、モルヒネ中毒思者に蒸溜水を注射してもモルヒネ注射と同一効力があったりするからとて「蒸溜水はモルヒネと同一効果を常にあらわす」とも[ハブ蛇毒は常に毒性を呈せず」とも結論するわけにゆかないと同じであります。
 薬剤が人間に及ぼす効果は、決して「常に何々の効果をあらわす」とはいいえないのであります。それは人間の信念の力(心の力)が多分に加わるからで、どこからどこまでが薬そのものの力とはいいえないのであります。
 じっさい薬剤は心の力でハブ蛇毒できえもその毒性が消えたり、蒸溜水でさえも催眠効果をあらわしたりするのであります。
 次には無毒の薬が毒性を表わした実例をあげましょう。
<つづく>

1576復興G:2012/11/07(水) 19:22:05 ID:vWpLkCzM

<第8回 WEB誌友会用テキスト>
 『生命の實相』 第2巻「實相篇下」より (8)
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    無毒物が精禎力で毒曲をあらわす(p.19)

 それはフランス科学界の耆宿(きしゅく)大天文学者にして同時に心霊学者として有名なフラマリオン博士の大著『未知の世界』のうちにあるものです。

 「ある年若い婦人が、除虫粉を服用して自殺をはかりました。そして床につくとそのまま絶命してしまったのでした。死因をたしかめるために死体が解剖されましたが、胃袋に見出された除虫粉を分析してみましても、いっこう人体には無害な物質であることが発見されたのであります。この婦人は、自分は毒薬をのんだという信念によって、そのとおりになって死んだのであります。
 また薬でなくとも他の物質でもそれが触れれば死ぬと信じますとその信念で人間は死ぬものです。このフラマリオン博士の友人の父で内臓外科を担任している医師が、ある日胆石症患者の手術を行なうことになりましたが、切開すべき場所の皮膚をアルコールで冷え冷えと拭きますと、まだメスをあてないうちに、患者はアルコールの冷たさでメスが当たったと誤信し、その恐怖の念のために絶息してしまったのであります。」
 また同博士の著書のなかには次のような実例もあげられています。
 「ある時死刑囚を実験につかいました。まず其の男に目隠しをしまして身体を厳重に椅子に縛りつけ、さて『これからなんじの頸部から一滴ずつ血液をしたたらしてじょじょになんじの全身の血を搾り取ってしまうぞ』と宣告しました。こういう宣告をして恐怖の暗示を与えた後、実験者は囚人の頸部に針のさきをもって微細な傷をつけ、あたかも局所から血がしたたっているかのように、彼の頸部に水を伝わらせて、床の上に一滴ずつ音を立てて落ちるような仕掛けをしておいたのであります。六分間ほど経過して『サアおまえは全身の血液の三分の二を失ってしまった』と暗示しますと、死刑囚はそれを信じて恐怖のあまり絶命してしまったのであります。」
  (フラマリオン著『未知の世界』)

 また次のような事実は英国のある大学に起こった事件であります。

 「その大学の門衛は非常に学生たちから憎まれていたのであります。ある日、いたずら盛りの若い学生連が彼をとらえて一室に監禁し、模擬裁判だといって、学生たちは彼を被告にし、かわるがわる立って彼の罪状を指摘し、ついに彼に死刑の宣告をくだしました。そして彼らは室の中央に材木を並べ、ピカピカ研ぎすました斧(おの)を持ち出し、彼に三分間の猶予を与えて彼に懺悔をさせ、天国へゆく用意をさせました。いよいよ三分間を経過しますと、学生らは恐れおののいている門衛に目隠しをして、むりやりにひざまずかせて材木の上へ頭を乗せさせ、それから一人の学生が背後へ廻って、あたかもその研ぎすました斧を打つかのごとく、冷水の濡手拭(ぬれてぬぐい)でふいに彼の頸部(けいぶ)を打ったものです。その刹那(せつな)門衛はビクリとしたようでした。一同はドッと大笑いをして、『もう許してやるから立て』と命じましたが、もう門衛はグッタリとして身動きもしませんでした。
 学生たちはふしぎに思って近よってあらためてみましたが、門衛はもうほんとうに死んでいるのです。彼は頸(くび)を濡手拭で打たれた刹那テッキリ斧で頸を切られて自分は死ぬであろうと信じてしまったものだから、その信念によって死んでしまったのであります。」
  (フラマリオン博士『未知の世界』)
<つづく>

1577復興G:2012/11/07(水) 19:22:51 ID:vWpLkCzM

<第8回 WEB誌友会用テキスト>
 『生命の實相』 第2巻「實相篇下」より (9)
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    感覚にともなう連想暗示(p.21)

 これらの実例はいったいなにをわれわれに語るのでしょうか。それは人間は感覚というものをもっている。この感覚に付随して起こる連想作用によって人間の信念はいちじるしく動揺せしめられ、その信念によって人間は死にもすれば生きもするということであります。
 たとえば若い帰人が除虫菊を毒薬とまちがえてのみくだした時の咽喉の感覚、胆石症患者が施術前にアルコールで皮膚を冷え冷えと拭いた時の皮膚面の刺激、死刑囚の頸部にポタポタとあたかも血潮のようにしたたったなまぬるい水の触覚――その流れ落ちる血潮かと思われる滴々の音、門衛が濡手拭で頸をひっ叩かれた時のゾッとする冷たさ、これらの感覚が伝えたのはみんな危険でもなんでもないつまらない出来事だったのですけれども、その感覚を起こす前に、言葉なり行為なりでいずれもはなはだ大げさな準備的暗示がしてあるのであります。

 すべてひとつの感覚は、その感覚の意義を大げさに吹聴して、お前の咽喉にこんな感覚が起こったときにはお前はこんな病気になるとか、こんな感覚が皮膚に起こったときにはお前は斬られてもう死んでいるのだとか、あらかじめいいふらしておいて、その感覚を一定部位に起こすようにしますと、きっと予告しておいたとおりに病気になったり、死んだりするのであります。
 一定部位に与える感覚というものは、われわれの精神を多少ともその刹那、一箇所または一つの事柄に集中せしめるのであります。つまり一定場所に限られた感覚に誘導されて精神が一時的に統一してくるのであります。
 その精神統一の刹那に、あらかじめ予備的に与えられていたところの「この感じが皮膚に起こったらお前はこうなるぞ!」というような暗示が効果をあらわして、そのとおりの死または症状が肉体に顕われてくるのであります。

    一定の形のない病気に形を与える医者(p.23)

 ふつうの医者は患者を診察し、脈搏を検し、聴診器で患者の内臓の状態をさぐろうといたします。その病気が深く進行していないかぎり、その病気は一定の形を備えていないのでありまして、何病だか医者自身にもわからないような漠然とした兆候があるのであります。
 これに医者が診断して一定の名称をつけますと、たいてい間もなく容体がハッキリした形をとって、そのつけられた名称の病気に断然なって来るのであります。これはいわば言葉の力であります。
 天地が渾沌としてまだ形がないときに、神が「光あれ」といい給うたら光ができたというのと同じで、兆候が漠然としてまだ一定の形がない時、医者が「何病」だと宣言すると、その言葉が種子となって、二、三日もすると、いままで漠然としてハッキリしなかった病状がその指名されたとおりの形にかたまって来るのであります。
 だから病名を軽率にいう医者というものは多くの場合、病気の名付け親であると同時に、病気の生みの親であります。病気の生みの親の好きな人は、常に医者と仲好しにしていればよいわけであります。
<つづく>

1578復興G:2012/11/07(水) 19:23:26 ID:vWpLkCzM

<第8回 WEB誌友会用テキスト>
 『生命の實相』 第2巻「實相篇下」より (10)
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    風邪を引かぬ法(p.24)

 皮膚の一定部位にある刺激を与えながら「お前はこのために死ぬ」と思わせられればその人が死ぬという道理がわかれば、皮膚の一定部位にある刺激を受けた場合「これは風邪をひく」と思ったならば風邪を引くのは当然のことであります。
 くしゃみをして風邪を引くと思えば、鼻粘膜の一定部位を異常感覚でくすぐられて瞬間的に精神が統一しているさいですから、その刹那に思うことは必ず成就するわけで、その刹那に「風邪を引く」と思うならばその念(おも)いが成就して風邪を引くのは当然のことであります。
 だからこれとは反対にくしゃみをする瞬間に「風邪が出た」と思ったら「風邪を引く」わけのものではありません。

 昭和六年世界感冒の流行のさい、わたしは当時会社に勤務していましたが、わたしの会社の友人は『生長の家』の読者である某氏のほか、みんな数日はそれにかかって休まれたのでありますが、わたしは感冒にかからず、一日も会社を欠動しなかったのであります。

    病気の自壊作用(p.24)

 たいてい、肺結核の方が『生長の家』を繰り返してお読みになり、真理に目覚め、自分の生命の実相を知り、自分の生命が神(大生命)につながる生命で常に大生命の無限生命を供給されているものである、という自覚が深まって来ますと、体温が平温または平温近くなって、しだいに無熱状態になってくるのであります。そのくせ、一時的に咳(せき)や痰(たん)の方は前よりもいくぶんはげしくなってくる例が多いのであります。
 これは、エディ夫人がケミカライゼーション(chemicalization)すなわち「心機一転の化学的反応」と名づけたところのものでありまして、心が光明に照らされてくると、今まで「迷い」のやみが「肉体という影」に映し出していたところの病的状態の自壊を促すので病気そのものが自壊する必要上、黴菌(ばいきん)や分泌物を排除すべき痰や咳がいくぶん増加してくるのであって、いっこう恐るべきことではなく、むしろ歓迎すべきことなのであります。
 このさい起こる咽喉(のど)の感覚的刺激にて刹那的の精神集中状態になったとき、「これで悪いものが排出されてかえって健康は良くなる」という事実に目覚めるならば、自己暗示として働いて、まず病気を根本的に消滅さし、遠からず痰や咳の分量度数も減じて、本当の全快を来たすのであります。
 ところがどうもまだ真理を本当に解っていない人になると、せっかく病気の自壊作用として起こった痰咳の増加を病気の増悪した兆候だと信じて、その自分の誤った信念によって、せっかく治りかけていた病気を逆戻りさせるのであります。
 こういう病気の人は咳が頻発して咳入って苦しいときはとても堪らないではありましょうが、その時に「これは悪くなった」と自分で思うものだから、頸部を濡手拭で引っぱたかれて自分の信念で絶命した門衛のように、自分の信念で病気を悪くするのであります。
 こういう咳入って苦しい時にこそ咳という感覚的刺激でその方に心が集注して雑念が少なくなっているのですから、これで「病根は一掃されつつある」と信ずればその連想暗示はてきめんにきくのであります。
 そんなことをいっても咳が激しく出て苦しいさいに「病気が快くなりつつある」などとはどうして思えよう、といわれるかもしれません。しかし、実際、それで快くなりつつあるのだったら、「快くなりつつある」と思うよりほかにしかたがないじゃありませんか。

 先日私の知っている奥さんがある病気を手術してその後敗血症を起こして死なれたのでありますが、手術の傷面を調べてみると、少しもジメジメとした分泌物がなく肉を盛って来ないままで傷面は薄い紫色の皮膚ができて乾いていたそうであります。
 専門の外科医の話によりますと、肉を盛らないうちに傷面が乾いて、少しも分泌物がなくなると敗血症の徴候で危険なのだそうであります。
 敗血症というと、外へ徽菌が排出されないで血液の中へ黴菌が這入(はい)って血液そのものが腐敗するのだと医者は説明するのであります。
 ともかくも、傷口は全然そこが治り切るまではジメジメとして分泌物を出してそれとともに毒素や徽菌を外へ逐(お)い出すようでないと治りつつあるとは見られないのでありますから、その人がもし肺病なら治りかけの時には痰や咳が多くなってこそ本当に治りつつあるのであります。
<つづく>

1579復興G:2012/11/07(水) 19:24:01 ID:vWpLkCzM

<第8回 WEB誌友会用テキスト>
 『生命の實相』 第2巻「實相篇下」より (11)
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    喀血は自浄作用(p.27)

 一度でも喀血(かっけつ)したことのある人は、こんなに咳(せき)が出てはその震動でまた喀血しやしないかと心配したがるものですが、人体の組織はそんなに脆弱(ぜいじゃく)にできているものではありません。
 医者に聞けば、喀血のある肺病は悪性ではなく治りやすいのだといいます。それは当然のことであります。
 喀血は喀痰(かくたん)と同じく一種の自浄作用と認めるべきもので、それがあるのは、病気の自浄作用として黴菌と悪血とを外に流しだす作用の顕著な証拠で、その人の生命力がまだ麻痺(まひ)していない、すなわち自然療能が目覚めている証拠なのであります。
 だから皆さんのうちに、もし呼吸器病の方があれば、喀血歓迎、痰咳歓迎、すべてこれらは自然療能の力で起こるのであるから恐るべきことはちっともないと考えるべきであります。
 この歓迎すべき喀血や痰咳をば思い誤って、「そのために死ぬだろう」と信じる。そしてわれとわが信念で病気が悪くなって死んでしまうのは、頸部を濡手拭で叩かれて死刑だと思い誤って死んだ彼(か)の門番と同様な愚かさであります。

    自然の瀉血(しゃけつ)療法(p.27)

 ただ大きな喀血がありますと、血液消失のために死にはしないかと恐怖する人がありましょうけれども、自然の生きる力は実に不思議な力をもっていて、その人間が死ぬほどの分量は決して出血するものではないのであります。
 昔から瀉血(しゃけつ)療法といって蛭(ひる)に血を吸わせたり、血管を傷つけたりして血を多量に放出して血液を浄め、かえって新鮮な血液を作らしめて病気を治す方法がありますが、喀血は弾丸で打たれたとか、刀で斬られたとかいうのではありませんので自然の生きる力が自己調節によってこの瀉血療法をやってくれているのですから、必要な時がくれば自然に停まるので決して恐れる必要はないのであります。

 小酒井不木(こざかい・ふぼく)博士も「血は出るだけ出て止まる時期が来れば自然に止まるものである。じっさい止血剤を用いなくとも、出るだけ出てしまうと、ぴったりと止まるものであって、いろいろともがくだけ損なわけである」と断言しておられるのであります。

 「だけどもあなたはそんな事をいって気休めをいうけれども、どこの何某も誰某も、皆多量に喀血して血液が減って死んでしまったではないか」と反対論を唱えられる方があるかもしれません。
 しかし喀血して死んだ人は、百人が百人ながら、決して喀血そのもののために死んだのではありません。喀血したから自分は死ぬであろうという強い信念で気死するか、喀血を恐れて咽喉のところで止めようとして血液が空気に触れて凝結(ぎょうけつ)した結果、窒息(ちっそく)死を招くのであります。
 げに、肉体は「信念の影」であって、「死ぬ」という信念さえ強ければ頸部に水滴を一滴一滴流して出血だと思わせても死ぬ実験さえできるのですから、喀血して死ぬ人は、この自分自身の心の動揺を「肉体なる影」に映して死を招くのですから、心さえ安静にして、喀血が来たら「自然の瀉血療法」をしていただくのである、これはありがたいことだと思い、感謝して心を平和にしておれば、必要なだけの自浄作用が終ると、ピタリと血は止まってしまうのであります。
<つづく>

1580復興G:2012/11/07(水) 19:24:50 ID:vWpLkCzM

<第8回 WEB誌友会用テキスト>
 『生命の實相』 第2巻「實相篇下」より (12)
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    生命の本質は無限に生きる力(p.29)

 人間の本体は、調節力の無限に自由自在な生命であることを根本的に自覚しなければなりません。
 人間を物質でできた機械であると思う人だけが喀血を恐怖するのであります。
 肺臓は身体の内部にあってその血管がやぶれたら縫うこともできないから、血をとめるのにさぞや困難を感じるであろうと心に勝手な信念をもっているから、その「信念の影」なるところの肉体に自身の心の信念のとおりのことが起こってきて、瀉血の必要がすんでも血が止まらなかったりするのであります。
 これもわれわれに与えられた心の力がいかに肉体を左右するかの証拠にはなるのでありまして、人間の肉体が決して心を離れた物質ではないことを示しているのであります。
 元来、われわれの「生命」(生きる力)は神から受けたものであります。そして、われわれの「生命」は常に神とつながっているのでありまして、その神なるものは無限の生命力であると同時に、無限の知恵であり、また同時に無限の愛でありますから、常にわれわれを愛してわれわれよりも賢き知恵をもって、必要に応じて善きようにお計らいがあるのであります。
 これを信じうれば、その信念に従って肉体の生理作用も善きように調節されるのは心の力であります。
 それにもかかわらず、人間は小賢しき小さき知恵で、喀血が多すぎるから危険であるとか、喀痰が多すぎるから、病気ではあるまいかなどと、存在もしない病気――ただ、自身の「信念の影」でしかない病気――を想像してわれとわが念(こころ)に描き出すがために、その想念の映像(かげ)として「念(こころ)の影」なるわが肉体にその病気が客観化されてあらわれて来るのであります。
 すなわちここにも念の力の実証があるわけであります。

 「生命」の本質が「心」であることを知らない人は一度喀血しますと、身体を動揺すればまたその血管が破れて大いに出血する恐れがあるように想像して恐れるのですが、心さえ動揺させねば「念(こころ)の影」である肉体の血管が不必要に破れるということはありません。
 後ほど外傷から移行した肺病の患者さえ、翻然さとったその日から血がとまった例をあげますが、小酒井医学博士のあげていられる例によりますと、田舎の人などはいわゆる「医学」を知らないから、患者が喀血でもすると、背中をたたいて血を止まらせようとします。それがまた実際大いに効を奏して血がとまるそうであります。
 ふつう、医学の方からいいますと喀血は血管が破れているのであるから、その血管が癒着するまでは絶対安静を必要とするのは物理上当然のことであります。それに、絶対安静どころか、かえって背中を叩いて大いに肉体を動揺きせても血がとまるというゆえんは「背中をたたけば血が止まる」という信念が強く肉体に作用する結果でありまして、肉体というものは決して物理的法則に支配されるものではなく、心の法則にこそ支配されるものであること
<つづく>

1581復興G:2012/11/07(水) 19:25:24 ID:vWpLkCzM

<第8回 WEB誌友会用テキスト>
 『生命の實相』 第2巻「實相篇下」より (13)
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がこれでもわかるのであります。

 このように信念を変えれば、肉体が変わる、信念で「善い」と信ずれば、物理的には害のあるような行為もかえって健康によい結果になるのであります。
 それではわれわれは、「こうしたらば健康に悪い」とか「よい」とかいう判断を物理的にはしないようにし、心の力によって、いっさいを「健康に善い」と信じ、信念の力によって実際そうならせようではありませんか。
 なんの術を施してもらうのでもなし、ただ『生命の實相』や『生長の家』誌を読むだけで肉体の健康状態が一変し不治の病も全快する実証が続々あらわれるゆえんも、真理を書いた本を読めば皆さまの信念が変わるからであります。
 おそらく本書のこの一節を一度お読みになっただけでも皆さんの信念は大いに変わられたであろうと思います。
 病気の読者はできるならば本書を三度でも五度でも、信念が心の底から大いに変化してくるまで繰り返しお読みになれば、今までの「病的信念の影」であるところの肉体の病的状態は一変して健康状態に化するのであります。

    神の子たる人間に病気はない(p.32)

 本当のことを申しますと、この本が病気を治すのではありません。神の子たる人間に病気は本来無いのであるから、治すも治さぬもない、本来治っているのであります。
 それにあなたが病気だというならば、それはあなたの「信念」にまちがったところがある、そのまちがった「信念」がちょうど活動写真のように影を映して、肉体に病的状態をあらわしているのであります。
 皆さんが仮に喀血や胃出血を起こしたならば、物質的に肉体という物質が損じて、その血の流れているパイプに物質的の孔が明いた、どうも手のとどかないところに明いた孔だからふさぎようがなくて困るなどとお考えになる一方に、どうも痰や咳や盗汗(ねあせ)が出て肉体が苦しいとか、胃が痛んで苦しいとかお考えになるのであります。
 ところがこの考えには非常な矛盾があるのであります――まずあなたは「肉体は物質であって、その物質に孔があいた」と考えていられますが、肉体が物質であれば、それが単に物質であるというその理由だけで、もう肉体は苦痛を感ずるはずはないじゃありませんか。
 物質は苦痛を感ずる性能がない。それだのに肉体が苦しいと感じられる。これこそ肉体が吻質でなくて「念(こころ)の影」(観念的存在)である証拠であります。
 念(こころ)が苦しいと感じていられればこそ、その念(こころ)のあらわれなる肉体が苦しいと感じるのです。苦しみは念(こころ)にあって物質にあるわけはないのであります。

 こうして肉体が「念(こころ)の影」(観念的存在)だということがわかれば、喀血しても何もあわてることはないのであります。
 「心」が映画技師で、喀血と題する映画を、肉体というスクリーンに映し出しているのですから、それを適当の時に止血させるのには、やはり「心」という映画技師を雇って来るほかはないのであります。
 実際喀血とかなんとか、大いに身体に変調のある時にこそ「心」を落ちつかせて人間の本体が無限に完全な調節能力をもった「生命」(生きる力)であるという事実を「心」に描くべき時なのであります。こうすれば喀血でも、その他の変調でも、適当に調節されて来るのです。といって、一所懸命心をおちつけ精神を統一しようとして焦ったり力んだりする必要はないのであります。

 われわれの生命というものは焦ったり力んだりしなければ、調節が完全にできないようなそんな不完全なものではない。われわれの生命は「神の子」であるからそんなに不調和にはできていない。ただこの真理がわれわれの心の底に「信念」になってさえおれば、その「信念の影」として肉体が調和した完全な調節したものとならねばならぬはずであります。
<つづく>

1582復興G:2012/11/07(水) 19:26:04 ID:vWpLkCzM

<第8回 WEB誌友会用テキスト>
 『生命の實相』 第2巻「實相篇下」より (14)
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 われわれが焦(あせ)ったり力んだりするのは、まだ自分の「生命」(生きる力)が神の生命の「分け生命(いのち)」であって、神そのもののごとくに完全であるという真理(ほんとのこと)を知らないからであります。
 焦ることも力むことも何もいらない、肉体は観念的存在(こころのかげ)でありますから、心が正しき真理を知っておちついていると肉体はなんの感じもない、「影」に感じがないのは当然のことだからであります。
 だから肉体はどこに胃があるか、心臓があるか、肺臓があるか、感じがない時に一等健康なのであります。
 神想観でも坐禅でも鎮魂でもするとその深い境地に入れば肉体があるかないかわからなくなる、これが本来の面目なのであります。
 「生命」は全体として調和した渾一体(ひとつ)でありますから、「生命の実相」を自覚したならば、肉体は渾然とした「一つ」として感じられるのが当然で、「ここに肺臓がある」とか「ここに胃がある」とか「ここに心臓がある」とか個々別々にその存在が感じられる時は、「生命」の渾然とした統一感――「真理の自覚」が心に失われた時で、真理を心に自覚し、自己生命の完全な統一感が得られれば、どこに胃があるとか、心臓があるとかいう「統一自覚の分裂」が消えて、肉体は渾然とした調和した生きもの(生々の実在)として感じられて来るのであります。

    肉体は激勧しても心が安静なれば血は止まる(p.34)

 喀血が起これば医者もびっくりして病人に絶対安静を命じ、本人はもちろん、たいていは家人全体がびっくりしてしまう。しかしこのびっくりすることが何よりも悪い。
 この世の中にびっくりせねばならぬことは何一つ無い。眼に見える症状は「念(こころ)の影」であるから肉体が混乱状態におちいっているならば、心が混.乱しているのが映っているのでありますから、肉体そのものを激動させてさえも、心が安静をうれば出血もとまるのであります。
 小酒井博士の話に、患者のうちには喀血が起こると登山して止めるという人があります。
 登山すれば肉体が激動するばかりか、呼吸を激しくしなければならぬ、呼吸を激しくすれば直接出血部たる肺臓を激動せしめなければならぬ、その上、山上の空気は稀薄で、気圧の開係上ふつうでも出血を促すのであります。しかも、そのために喀血すなわち肺臓の出血が止まるというのはどういうわけでありましょうか。
 それは信念が働くからであります。そういう人は、誰からか、ある機会に「喀血したら山へ登れば血が止まる」と聞いたに相違ないのであります。それを聞いたとき「なるほど」と思った。「喀血したら山へ登れば血が止まる」ということがグッと心の奥底にたたみ込まれて信念になっているのであります。
 信念ほど強いものはない。肉体は「心の影」であるから、登山して激動し、その上稀薄の空気に触れれば破れた血管はますます破れるという、「物質界の法則」を無視して出血がピッタリと止まってしまうのであります。
 信念は「物質界の法則を破壊する」というのはこれで、強い信念の前には「物質界の法則」は降伏してしまうのであります。

 医界で難治症または不治症と認められている病気は、胃でも肺でも決して薬をのんで治るものではありません。
 というのは、難治症または不治症と定評ある病気は、医者や薬学者がいろいろ医薬を試みても治らず、また病人自身がいろいろ民間薬を試みても治らず、ついに「この病気は薬では治らない」という信念をほとんど皆が皆までもっているのが、この難治症または不治症であるからであります。
 だから「こういう病気は薬では治らない」ということが人類的信念になっているのであります。
 一人の人の信念でも強く働けばずいぶん偉大な力をあらわすのですから、ほとんど人類全体がその潜在意識に「この病気は薬では治らない」と信じている以上、その全体の信念は総合的力として宇宙に充ち満ちているので、なかなかその信念を破ることは難かしく、したがってそんな病気に薬を用いても治らないのであります。
<つづく>

1583復興G:2012/11/07(水) 19:26:36 ID:vWpLkCzM

<第8回 WEB誌友会用テキスト>
 『生命の實相』 第2巻「實相篇下」より (15)
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    難病慢性病に薬が効(き)かぬ理由(p.36)

 薬が最もよく効くのは、薬に対する人類の信念と、薬を与える医者の信念と、それをもらう患者の信念とがピッタリと合ってクライマックスに達したときであります。
 ところが難治病者は、
 (1)自分自身にこの薬をのんだら必ず効くという信念なく、
 (2)医者自身この薬で彼を治しうるという自信なく、
 (3)人類全体が「薬では治らぬ」と信じているのですから、薬の最も良く効く部分(信念)が去勢されてしまっていて何もない。
 否むしろ「薬では治らぬ」という人類的信念の心的波動の影響を受けて、薬を用いれば用いるほど治らぬことになるのであります。

 だから現代医学の難治症にかかった人は薬をやめた方が、人類的信念から「治らぬ」という精神波動の放送を受けることが少なく、薬を止めただけでもその病状が快方におもむくのが常であります。
 それだのに現代医学の難治症にかかった人が、何かの薬をのんでいなければ不安に思い、経済上にいろいろの苦慮煩悶を重ねつつ、薬に親しんでいるのを見るとわたしは実に悲惨な思いがするのであります。
 わたしはこういう人たちを救ってあげたい。なんとかして真理(ほんとうのこと)を知らしてあげたい。そんな病気は薬を止めればかえって病気がよくなるという真理を知らしてあげたい。
 病人に薬がなくてもすむということがわかれば、病気のために長らく職業を休んで収入も少なく、経済的にも家計にも常に心配の絶えなかった病人の心にとっては、一つの重荷がなくなるのであります。
 病人の心から一つの重荷がなくなれば、それだけでもその病気が軽くなる原因となります。すなわち薬を止めて病が軽くなる理由は次のように三重になるのであります。
 (1)人類的信念から「治らぬ」という精神波動の放送を受けることが少なくなり、
 (2)病人の心のうちから経済的重荷をなくするのであります。
 (3)しかしそれにもましてなおなお大きな利益は、人間が自分の運命を「薬」という物質に頼らせず、ひたすら自分の「生命」(すなわち生きる力)にのみ頼って生きぬこうという決心ができることであります。

 生長の家に「背水(はいすい)の陣を布(し)いて生きる」という生き方があります。
 この背水の陣を布いて生きる生き方はすべての退路と依頼心とを捨てて、進むほかに道がないようにしていやでも応でもまっしぐらに生きてゆくという生き方であります。
 この生き方になりきって薬にも注射にも依頼心を起こさず、ただ、自分が治るには「自分の生命力」に頼るほかはないと本当の決心ができて来ますと、いままで自分の内に隠れていて働かなかった無尽蔵の力が働き出して来て今まで不治だと思った病がたちまちケロリと治ってしまうようなことになるのであります。
 不治というのも、実に薬に対して依頼心を起こしていたからこその不治であって、ぜんぜん他物に依頼心を起こさず、ひたすら自己自身の生命力にのみ頼るものは、自己の内に隠れている無限生命の源泉(神)に触れるので、「神はみずから助くるものを助く」という千古の金言を如実に味わわしてもらうことになるのであります。
<つづく>

1584復興G:2012/11/07(水) 19:27:09 ID:vWpLkCzM

<第8回 WEB誌友会用テキスト>
 『生命の實相』 第2巻「實相篇下」より (16)
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 われわれは飢饉にでもあい絶食せねばならぬようになって一、二週間も断食しますと、身体の衰弱がはなはだしく健康に非常に有害でありますが、健康法の一種として一、二週間断食しますと非常に身体の健康状態が改善するのであります。
 これはなぜであるかと考えてみますと、飢饉のさいには「食べなければ衰弱する」と思いながらも食物がないからやむをえず絶食しているのでその信念のとおり衰弱するのであります。
 が、断食療法のさいには「断食していれば健康になる」と信じて断食をしますからその信念のとおり健康になるのであります。同じ「断食」でもこのとおりで、信念の差異によって健康法ともなれば衰弱法ともなるのであります。

 薬をやめるのもそれと同じで真理を知って薬をやめますと、先刻申しましたように三重の利益が伴い、かえって病気が全快するのであります。
 が、これとは異って、真理を知らないでぜひとも薬がなければ助からぬように思いながら、経済的理由などでやむをえず薬を止めますと、その人の心は今までただひたすら薬にすがりついていたのが、急にすがりつく対象物がなくなり、失望落胆して病気が急に悪くなる事が世間には時々あるのであります。
 これは何も、薬をやめたことが病気を悪くしたのではない、患者自身の心が「薬をやめたら病気が悪くなる」と強く強く信じている――その信念の力によって病気が悪くなったのであります。
 だからそんなまちがった信念を放下してしまって自発的に薬をやめるならば、薬をやめたために病が悪くなるという恐れは断じてない。それはわたしが請け合っておく。
 わたしが請けあうので頼りなければ医学博士でも請け合ってくれる――すなわち『小酒井不木全集』第五巻四十九ページにも「長い間持続した薬剤を廃するときはかえって健康を増進するのである」と明瞭に断言してあるのであります。

 『明るい家』という雑誌の昭和六年一月号にも「医学の正道は?」と題して湯本医院の大塚敬節氏が、昼食後の医院の楽屋ばなしを書いていられるのであります。
 これは医者自身の漫談なので実際薬剤というものが、現代医学においていかなる立場にあるかを示していて、薬迷信におちいっている病人に反省を与えるのに有益だと思われますので、次にその一節を抜粋することにします。
     ○
 医学士A「学校を出た当時は勉めて、新しい薬をいろいろと使ってみたものだったが、それがすべてむだであったことがこの頃わかって来た。」

 医学士B「それは君が大家に近づきつつあるたのもしき現象だ。結核患者を初期から末期まで重曹一方で押し通すだけの胆力がなければ大家とはいえない、といった博士がある。これも一面の真理だといえよう。」

 医学士C「薬剤で病気が治るように思うのはすでに迷信だ。しかし迷信を必要とする哀れな民衆が存在するかぎりは薬剤はやはり必要だ。マルキシストがいくら宗教はアヘンなりといって宗教撲滅のために努力しようとも、アヘンを欲求する民衆がこの地上に溢れている現代においては、宗教はそうたやすく滅びはしない。」

 医学士D「それらの言葉は西洋医学へのおそろしき爆弾であるかもしれない。西洋医学は民衆のアヘンなり、と僕は叫ぶことができる……屍体(したい)から得た解剖学の知識を生活体に応用するところに西洋医学の根本的の誤謬(ごびゅう)がある。屍体と生活体とが等しきものなりとの証明ができうる日まで西洋医学もまた想像の医学にすぎぬ。」
     ○
<つづく>

1585復興G:2012/11/07(水) 19:27:43 ID:vWpLkCzM

<第8回 WEB誌友会用テキスト>
 『生命の實相』 第2巻「實相篇下」より (17)
   -----------------------

 皆さんはこの医者の楽屋ばなしを読んでどんな気がなさいますか。
 実際、庸医(やぶい)は薬を売るために薬の効果を喋々(ちょうちょう)しますが、名医は薬に付属さして与える「治る」という信念を売るために薬の効果を喋々するのであります。
 薬のくだらないことを百も知りながらも、名医は患者自身が「治して欲しい」と思うよりも「薬を欲しい」と思っているものだから薬を与えるのであります。
 診察する時の医者の態度、薬を与えるさいの医者の態度、これによって喚起された「治る」という信念を薬に付着させて思者にやる、ここが治病の極意であります。
 聖医になってくると薬を与えないで、病的観念を他に転換してしまうだけで病気を治すのであります。

 病気は本来無い。神の造り給わないところの病気はぜんぜん無い。
 病気とは心に描いた仮想的存在でありますから、その仮想的存在の仮面をはがしてしまって、「それごらんなさい。お前は念(こころ)で描いた仮面を被(かぶ)って、そらあるぞ! と威(おど)しつけているけれども、その『病気の念』という『仮面』を取り去ってみると中味は空っぽで、その実存在しないじゃないか、」といわれてみると、病気の夢を見ていた人が目を覚まされた時のように、今まであると思っていた病気が、どうしてこんなに治ったのだろうと不思議がるような事実もできてくるのであります。

 『生長の家』の読者でまだ若いがなかなか精神的に悟りを開いている人があります。
 この人が今まで乗っていた船を下りて「土を耕す人」になるべく故郷へ帰る途中で、私の説くところに大いに共鳴したので一ぺんわたしに会いたいといって立ち寄られた。
 わたしはあいにく不在だったのでお目にかかれなかったが、家内が私の代りに会って話したのであります。
 この人の話を一言もまちがえないで取り次ぐことはできないのでありますが、かいつまんで話すと、この人は外傷性肋膜炎がもとになって肺病にかかり、たびたび多量の喀血をせられたのであります、その時分、この人はずいぶん悲観し煩悶していられたものらしい。
 ある日小酒井不木博士に自分の病気の事について相談すべく博士邸を訪れられた。ところが小酒井不木博士はこの人の顔を見ると
 「君は煩悶してるな。そんな事でどうする!」
 と一喝を浴びせかけた。この人はハッと思った。
 「なるほど自分は煩悶している。煩悶しているからこそ、自分自身に宿っている全能の治癒力が働かない。それに違いないと悟った、いかに思い煩うともわが生命を寸陰をも延ばすことはできないではないか、煩悶を捨てよう。」
 カラリと秋晴れの空のように、実にきれいさっぱりとこの人は煩悶を捨てられたのであります。
 すると昨日まで続いていた喀血がその日から止まってしまったのであります。
 わたしは病気は仮想的存在でたとえば白昼に悪夢を見ているようなものだと申しますと、どうも君のいうことはわからない、じっさい解剖してみても物質的病的変化のある病気を、病気は無いだの夢だのといわれて、あまりに高遠すぎて解らない、も少し解るように説明して欲しいといわれる方もあります。
 けれども実相を見る目から見て病気は無いのだから、無いと説明するより説明のしかたがない。そして「神想観」によってしだいに実相を見る力を養うよりしかたがないのであります。
<つづく>

1586復興G:2012/11/07(水) 19:28:22 ID:vWpLkCzM

<第8回 WEB誌友会用テキスト>
 『生命の實相』 第2巻「實相篇下」より (18)
   -----------------------

 じっさい「無いもの」を夢に見てその心の状態を肉体に映し出しているのが病気ですから、小酒井博士のように一喝をくらわしたのが動機になってその夢がさめると、忽焉(こつえん)として、喀血の夢も、外傷性肋膜炎の夢も消えてしまう。ここが大切なサトリでありまして、われわれの肉体は、心の影でありますから
 「なるほど自分の生命というものは無限に完全なる神の子だ、その生きる力は無限だ。今まで自分の力は有限なものだと思っていたので、外の力――薬や注射や光線療法などに頼っていたけれども、そんな外からの力は、自分の内に宿っている無限の生きる力に比べれば実に太陽の前の星ほどの力もない」
 ということがハッキリ判り、他の療法や薬にいっさい頼らなくなって、「内から出て来る生命の無限の生きる力」に打ちまかせて生きるようになると、「解剖的に実際在るではないか」と反対論者の示されるような外傷的肋膜炎でも、喀血でも消滅してしまうのであります。
 これも空論ではなんにもならない。実際だから力強い。
 こうなると解剖学的に実際存在するという病気も、ちょっとした心のサトリで消えてしまうのだから、実在だかどうだか、すこぶるたよりないものだといわねばなりますまい。

    直接体験に立脚した自分の生きる力に任せきれ(p.44)

 それだのに病人に限って病気を崇拝している。
 そういう人は目に見えない神を信仰する人を指して迷信扱いしがちでありますが、じっさいちょっとしたサトリで消えてしまうようなはかない存在力しかない病気をあたかも無限の力をもっている神のように崇拝し、その前にひざまずき、薬代だの、注射料だの診察費だのと、やたらに多額のお賽銭を捧げている人こそ迷信家ではありませんか。
 「生長の家」はこういう病気迷信を撲滅し、真の正しい信仰――自分が生きているという否定しえざる直接体験に立脚し、この自分を生かしている無限の生命力を礼し、敬し、この無限の生命力にまかせきって生きる道を指導するので、それは実に生命の直接体験に立脚しているのであって、頼りない感覚や、その感覚の眼鏡を通して見たらこう見えたというような不確かなものを根拠としているのではありませんから、決して迷信的分子はないのであります。

 さっきの湯本医院の楽屋ばなしにありますように、薬剤で病気が治ると思うのが迷信なのであります。
 病気を治すのは自分に宿る生命力(神)のみであります。
 皆さんのうちには『生長の家』も読み、薬も服(の)み、そのほか、いろいろの治療法も手当たりしだいにやってみてそのどれかが効くであろうと、八方美人式に数多くの治療法に秋波(いろめ)を使っている人があるかもしれませんが、この八方美人主義は他のことにはよい場合があるかもしれませんが、「生命」のことに関してだけは断然いけないのであります。
 「生命力」そのものを信じ、礼(らい)し、まかせきるのと、「生命力」以外の力を信じ、礼し、その力にも半分を委ねようとするのとは、決して両立しないのであります。
 自分に宿る「生命力」以外のものを信ずる、あるいは、ちょっとでもこの「生命力」以外のものから助けを得ようとするのは、自分の「生命力」に全信頼を捧げないことを意味する。これでは「真理」を知ったということができない。「生命の実相」を悟ったということができない。
 宇宙を支配する摂理の手は十方にあまねく自在であり、生命は無限の生きる力をもつのに、何か自分のわたくしのはからいで思い煩い補助しなければならぬであろうと思って、これを行ないに現わすところに「迷い」がある。
 この「迷い」は必然肉体に反映して虚弱な身体となるのであります。
<つづく>

1587復興G:2012/11/07(水) 19:28:54 ID:vWpLkCzM

<第8回 WEB誌友会用テキスト>
 『生命の實相』 第2巻「實相篇下」より (19)
   -----------------------

    他物に頼らざる者はついに勝つ(p.45)

 われわれは誰でも自分自身の内に「無限の生きる力」を潜在せしめているのでありますから、この力を完全に発現させればどれだけでも健康になるのであります。
 では、これを発現さすにはどうしたらよいかと申しますと、「他物に頼るな」ということであります。純粋にただひとすじ、自分の生命力――自己生命を生かしている無限の力にのみ頼れということであります。
 いつかの「智慧の言葉」にも「自分自身の力で立て。他物に頼るな」と書いてあったとおりであります。
 そのよい例がわれわれの両足であります。両足のうち片足でも轢(ひ)きちぎられたら、われわれは片足の代りに義足というものを工夫して、この義足に頼るか、松葉杖というものを工夫して、この松葉杖に頼るかするのが、普通であります。そしてたいていの人間は、義足や松葉杖を工夫する発明力も神が与え給うたものであるから、結局、松葉杖や義足を工夫してこれを使うのは人間の特権であるというふうに考えるのであります。
 薬についてもこれと同じ見解をもつ人がありまして、「薬も神さまが直接間接造ってくださったものですから、それを使ってもよいでしょう」といわれるのであります。
 こういう問いにお答えするには議論ではいけない、議論ではどちらにでも理屈がつくからであります。
 でここにわたしは、片足片手を失いながら、松葉杖にも義足にも頼らないでひたすら自分の生命力のみに頼っていたならば、その人間は松葉杖や義足に頼った人とどれだけ大きな相違を生ずるかということを、実例をもってお答えしようと思うのであります。

 東海道線国府津(こうづ)駅を降りて小田原街道を十四、五町小八幡(こやわた)という小村に石井峰雄氏という片手片足の偉人がありました。
 この人は実に偉人だ。昭和八年頃新聞雑誌に紹介されて一時有名でありました。
 というのは、六歳の時小田原電鉄上り電車に轢(ひ)かれて片手と片足とを失ったのであるけれども、義足にも松葉杖にも頼らずに、自分の内に潜んでいる「無限の生命力」にのみ頼って歩くことにせられたからであります。
 「何物にも頼るな。ひとりで立て。」
 この人はまるで「生長の家」のこの「智慧の言葉」そのままを生活されたのであります。
 その結果はどうなったかといいますと、松葉杖にすがって歩く片足の不具者はふつうかろうじて歩むことができるというほかに能がないのに、この人は片手片足のままで高跳びができる、水泳ができる、木登りができる、果物むきができる、およそ四肢のある人のできることならなんでも人に劣らずできるというようになられたのであります。

 ここにもわれわれの生命の力が無尽蔵である証拠があげられているのでありまして、松葉杖に頼る者は、その依頼心相当の小さな力しか与えられないのに、松葉杖に頼らない者は、またそれだけよけいに生きる力が発現されて来るのであります。
 こうなると松葉杖は神が人間に与えたものであるとか与えないものであるとかの問題ではなくなるので、松葉杖がたとい神から与えられたものにもせよ、われわれの出しうる力の分量は、われわれが依頼心を出さぬか、出すかで決まるのであります。
 薬物も松葉杖と同じことで、それが神が作ったものであろうと、治したいというわれわれ人間の精神力が物質化したものであろうと、それがたといいずれであろうとも、依頼心を起こしただけ、われわれの生命力は小さくしか発現せず、われわれの健康も小さくしか発現しないのであります。
 ここが大いに生長せんとする者、大いに健康を得ようとするものの大切な点でありまして、依頼心を起こさないで、どこどこまでも自分の生命力を掘り下げてゆくものはついに無限の生命力の噴湧(ふんゆう)する「大生命」から豊かな健康の供給を受けることができるのであります。
<つづく>

1588復興G:2012/11/07(水) 19:30:52 ID:vWpLkCzM

<第8回 WEB誌友会用テキスト>
 『生命の實相』 第2巻「實相篇下」より (20)
   -----------------------



 だいたい人間は、これだけきりしか生理的に力が出ないと思っているのがまちがいであります。
 シャックルトン大尉の北極探険隊一行中に禿頭のものが一人ありましたが、この北極探険のために極地滞留中、寒冷の外気にやや長く接触していたために、以前には毛生え薬を塗りつけても、なかなか生えなかった禿げ頭に頭髪が濃く生えて来たというのは有名な事実であります。
 暖地の空気に温かく保護され甘やかされていては、いくら薬を与えられても、彼の毛根はついにその機能を完全に営むことができなかったのであります。
 「大自然は薬よりも名医なり」とは千古を貫く金言でありまして、現代人の多くは、薬だとか滋養剤だとかによって人体を甘やかしすぎるために、その生活力を萎靡(いび)せしめているのですから、健康になりたいと思うならばわれわれはもっと大自然と直接に接するようにしなければならないのであります。

 薬剤がなければ人間は総体的にもっと健康が増進したであろうとは、真に生命の何ものなるかを知った医道の名家が口を揃えていっているところであります。
 文豪森鷗外氏は医学博士でありながら、自分の病気の治療に薬剤を用いることを拒んだということは、誰も知らないもののないほど有名な事実であります。
 また明治天皇の侍医だった入沢達吉博士は自分の臨終にも薬剤を用いることを拒んだのであります。
 英国皇帝ウィリアム四世の侍医であったゼームズ・ジョンソンも「自分は長い間の臨床的観察と自己省察とを基礎として、誠実な真面自な意見として発表するのであるが、もしこの世界に一人の内科医も、外科医も、薬剤師も、看護婦も、薬学者も、製薬業者も、それから薬も無かったならば、人類は病気にかかること、もっと少なく、もっと長寿を楽しんだであろう」といっているのであります。
 これは薬剤を排斥するよりも薬剤に頼る心が人間の罹病率を増加する意味でありましょう。
 ロンドン医大の碩学、メースン・グット博士にいたっては、
「人体に及ぼす薬剤の効能というものはとても不確実なものであって、ただ確実と称しうるのは、薬が人間を殺した人数は戦争、疫病、飢饉が今までに人間を殺した数よりも多い」
 とさえ極言しているのであります。
 これはむろん、ペニシリンや、クロロマイセチンやオーレオマイシン等の抗生物質が発見されるまでの医者の言葉でありますけれども、しかし総体として、杖は一時、脚の弱い人の助けになるけれども、杖に頼っているとき、その人は健脚となることができないように、薬剤に頼っているとき、それは一時、生活力の弱っている時に助けになることはあるけれども、いつまでも薬剤に頼っている時にはその人は本当に健康となることはできないのであります。
 その上、効くような薬剤には必ずなんらかの副作用があって、一つの病気の症状を減退せしめながら、他の病気にかかりやすい素地(もと)を作ったり、薬毒の蓄積によって血管硬化や老衰をはやめるからであります。
<完>
以上、20回に分けてテキストをアップロードさせていただきました。
合掌 礼拝

1589復興G:2012/11/07(水) 19:36:46 ID:vWpLkCzM

たいへん申し訳ございません。(2) (2回目)が抜けておりましたので、あとになりましたが、ここにアップさせて頂きます。
よろしくお願い申し上げます。合掌

<第8回 WEB誌友会用テキスト>
 『生命の實相』 第2巻「實相篇下」より (2)
   -----------------------


 さすがに岩野博士は医者だけに、病人自身の主観的要素の這入(はい)らないように、いわば学用患者を人間にしないで動物にし、ひたすら術者の心力(しんりょく)が、どの程度まで動物の健康状態を左右するものであるかを実験しようとせられたので、実にその結果は科学的価値あるもので坊間(ぼうかん)の心霊術者の報告と同一視できないのであります。
 ところがその結果をみますにハブ蛇毒の致死量を注射されたモルモット三匹のうち二匹は、術者の精神力によって死ななかったというのは実に興味あるものといわなければなりません。
 また結核菌を注射された五頭のモルモットは、たとい後に消化器病で死んだにしましても、術者の念力が加えられた三頭は体重が増加し、他は皆やせていたのであります。

    病を予想する念力と、治癒を予想する念力との戦い(p.5)

 ともかく、これで人間の念力が病気を治し、または毒薬を無毒にしてしまう力があることを証明されたといわなければなりません。それならば、なぜどのモルモットもみんな術者の念力(こころのちから)で助からなかったかといいますと、モルモット一頭ごとにおのおの固有の精神的要素がある上、これには術者以外の他の念力が加わっていることを認めねばならないのであります。
 精神療法家の念力を認める以上はモルモットは毒素や結核菌を注射した医者の念力をも認めなければなりません。医者はモルモットに毒素を注射しながら「今自分はハブ蛇毒の致死量を注射するから、このモルモットは必ず死ぬ」と信じて、かく心に、無意識にもせよ、念じたに違いありません。あるいはまた結核菌を注射しながら「今わたしはなんじに結核菌を注射するから、なんじは必ず結核に感染して死ぬに相違ない」と医者は信じて、かく心に、無意識にもせよ念じたに相違ないのであります。
 ところが精神療法家は、「われこの術を行なう上はいかなる病も癒えずにはいないのだ」と信じてそう念じたでありましょう。
 こうなるといっけんこの実験は物質(ハブ蛇毒または結核菌)と精神療法家の念力との戦いであるようでありますが、実は医者の「彼は死ぬ」という念力と精神療法家の「治る」という「念力」との戦いであって、精神療法家の「治る」という念力が勝った場合には、被験動物は死なないで生き、医者の「彼は死ぬ」という念力の勝った場合に被験動物は死んでしまったのであります。

    念力一つで同一物が毒にも薬にもなる(p.6)

 いったい一つの物質(ハブ蛇毒)に医者の「彼は死ぬ」という念力が加われば猛毒となり、同じ物質に精神療法家の治るという念力が加われば無毒となるのはどういう訳でありましょうか、ここにわれらに与えられたる「真理への鍵」があるのであります。

 同じ物質が念力一つで猛毒ともなれば無毒ともなるのでありますから、物質そのものは本来、毒でも無毒でもないのであって、人間の念がこれを毒にもすれば無毒にもするのであります。
<つづく>

1590復興G:2012/11/07(水) 19:40:10 ID:vWpLkCzM

合掌 <つづく>とありますが、つづきはすでに >>1571 にアップされていますので、もう「つづき」はありません。

1591ハマナス:2012/11/07(水) 23:49:17 ID:x2zmnlqw


神の子のみなさま
ありがとうございます。

物質身の衣を脱ぎすてよ (『新版 生活の智慧365章』P.281)

 自己の霊的自覚が深まって来るに随って、その程度に応じて、肉体は霊化され、物質的
な衰弱や疲労や労須地が肉体にあらわれて来る程度が減じて来ます。人体が霊化するに
随って、人間は愈々神の最高の自己実現としての役割を一層完全に果たすことができる
ようになるのです。

 神は霊的実在でありますから、神の最高実現としての役割を果たすには、自己を単なる
「物質的存在」だと観ている限りに於ては充分な役割は果たせません。霊なる神の最高
実現としての役割を完全に果たすには、自己が「霊的実在」であると云う自覚から出発
して、其処から全知全能の「神の力」を引き出して来なければなりません。心の世界から
「物質身」の衣を脱ぎすて「霊なる体」を見に着けなさい。

感謝合掌

1592a hope:2012/11/08(木) 09:08:48 ID:8tjYhMb6

新版 生活読本 谷口雅春先生著

第六章 希望の夢を描きましょう
♦思ったとおりになる世界


何でも思った通りになるのです。「力がない」と思えば力がなくなります。
「すべての力は与えられているのだ」と信ずれば力が出てまいります。

「弱い、弱い」と語りながら強くなったものはありません。
「私は病気だ」と語りながら健康な者はありません。
強くなるのには常に「自分は強い、強い」と語らねばならないのです。

貧乏を考え、貧乏を語り、貧乏について悲しんで気を落とし、貧乏を夢み、
貧乏を実行していて、金持になったものはありません。

消極的(ひかえめ)な、悲観的な、退嬰的(しりごみする)事ばかり考えていながら幸福はやって来る筈はないのであります。

そんな人は悲観的なことばかりを引付ける磁石になったようなものです。
何でも、自分の心の波長に合うもののみが引きつけられて来るのは、
波長のあう放送だけがラジオに受信されて音を たてるのと同じことであります。

「笑う門には福来る」「泣き面に蜂がさす」などと云う諺は、ここの道理を説いたものであります。
幸福と成功と上達と繁栄と希望の夢をえがいて、常にほほえみ、努力をおこたらぬ者のみに真の幸福は来るのです。
(第六章終り) 

第8回web誌友会開催期間は、「新版 生活読本」の謹写をお休みさせていただきます。

1593ハマナス:2012/11/08(木) 23:19:51 ID:x2zmnlqw

神の子のみなさま
こんばんは。

物質の装いをつけた生命  (『新版 生活の智慧365章』P.281)

 生命なきものから生命は生じない。物質から生命は生まれたのではなく、物質は生命の創造した
ものである。だから単に物質の最初の示現と見えているような簡単な「原子」構想に於てすらも、
そこの「知性」の影がやどっているのである。それが結合したり分離するのが一定の秩序性を以って
法則によって行われるのが、それを証明しているのである。それみずからによって秩序性を以って
法則によって行われるのが、それを証明しているのである。それみずからによって秩序を保つものは
「生命」であり、「知性」である。それは実は「物質」の装いをつけたところの「霊」であり「生命」
である。

 ただし吾々が知識や学問によって、人間を「物質」だと思いちがいし、「物質」だと思いちがいし、
「物質」の装いをつけたときには、「生命の完全な姿」は恰もアダムが「知恵の樹の実を食った揚句、
無花果の葉を綴ってその体を覆った」ときにその霊的完全なる姿が失われてエデンの楽園から追放せ
られたように、「完全健康」の世界から追放せられるのである。

感謝合掌

1594うのはな:2012/11/09(金) 18:59:57 ID:0OK1Hwak

 ブラックソンさんの夢の中に谷口雅春先生があらわれて、「すぐガーナを去ってロンドンに行きなさい」
と言われた。ブラックソンさんはすぐにそれに従った。当時ガーナでは政変があったのである。
クーデターで、アチャンボン大統領が暗殺されたのは、彼がロンドンに行った数日後のことであった。

 ブラックソンさんはこの大統領と親友であったから、もしブラックソンさんがもう数日ガーナにいたら大変な
ことが起ったと思われる。一九八五年(昭和六十年)、私がヨーロッパに行ったときロンドンで私はブッラクソンさんに会った。
彼はベサニー教会という名のキリスト教会を主宰していた。午前十時ごろ訪問したその教会には信徒がいっぱいだった。
ブラックソンさんは私に言った。

「この教会はロンドンで一番活動的な教会としてBBC放送がテレビで放映してくれました。ロンドンにはアフリカから来た多くの人が
おります。こういう人々はたくさん問題をかかえています。しかし個人指導によって解決されない問題はありません。奇蹟が起るのです。
谷口雅春先生は今でも私に現れます。そして真理を啓示してくれます....」

 演壇にはアフリカの民族衣装を着た、美しい純子さんが微笑んでおられた。ブラックソンさんと純子さんの間の中学生の男の子もそこにいた。
ブラックソンさんは私に言った。「すべては神様と谷口雅春先生のおかげです。私は何ヶ月かアフリカをまわり、残りはロンドンです。渋谷先生、
どうか私たちのために祈って下さい。私も生長の家の発展のため祈っております」
このブラックソンさんの訪日は、多くの生長の家の信徒さんたちを元気づけた。

 何よりも谷口雅春先生が、肉体は日本におられても霊としてアフリカにおいて、“人間神の子”の真理を説かれたことは、世界の宗教史上特筆されるべき奇蹟である。
「人間は肉体にあらず霊なり」という真理を先生は示されたのである。
 私自身はといえば、ブラックソンさんの講演の通訳を通して、人間は肉体ではない、という真理を目のあたりにしたのである。

『光の国から』 渋谷晴雄 先生著

1595ハマナス:2012/11/09(金) 22:47:29 ID:x2zmnlqw


神の子のみなさま
こんばんは。

「霊的実在」の誤訳  (『新版 生活の智慧365章』P.282)

 「物質」は本来物質ではなく「霊的実在」なる本来の存在を、吾々の「五官の心」が「物質」
として翻訳して見せていてくれるものなのである。それは翻訳と云うよりは誤訳と云う方が正
しいのである。本来自由自在なる「霊」を、不自由不完全なる物質と謂う「固定的な姿」に
翻訳したのであるから全く誤訳も甚だしいのである。

 吾々は「霊的実在の世界」に於ける「健康なる生命の実相」や、融通無碍なる「経済状態の
実相」を見ることなしに、病気を見、物質の乏しきを見、欲念を起こして奪い合いをし、戦争
や闘争を繰り返しているのである。これは人間が「知恵の樹の実」をたべた結果、「妄心」を
起こして、この世界を物質だと見、奪い合いをするほかには裕かになる道はないと錯覚した
錯誤観念の上に「妄想」を描いている結果である。奪い合いをすれば裕かなものも却って乏
しくなる。

感謝合掌

1596<削除>:<削除>
<削除>

1597ハマナス:2012/11/10(土) 23:58:01 ID:x2zmnlqw
神の子のみなさま
こんばんは。

「夢」を打ち消せ (『新版 生活の智慧365章』P.283)

 すべては霊である。何故ならすべて実在するものは、「神」とその「表現」
とであるからである。神は完全であり調和であるから、完全であり調和である
ものから不完全または不調和が表現されると云うことはあり得ないのである。
それゆえ、神の最高の自己実現である人間が不完全になり不健康になっている
と云うことはあり得ないのである。それが不完全になり不健康にあらわれて
いるのは、「妄心」が夢を見ているのである。

 あなたが不健康だったらそれは夢です。あなたの子供が不良だったらそれは
夢です。あなたに職業がなかったら、それは夢です。あらゆる不完全なものを
心の中で「思念」によって「夢だ」「夢だ」と打ち消しなさい。そしてあなた
の「実相」である完全さを既に「実在」であると、心の中で繰返し繰返し肯定
なさい。実相世界の完全さに波長が合うまでその肯定が高調したとき実相の
完全さが現実化します。

感謝合掌

1598うのはな:2012/11/11(日) 20:50:04 ID:Z48Us0zE

   『生命の實相』その他の文献

 さて、『生命の實相』頭注版第11、12巻は万教帰一篇であり、以上述べた内容がくわしく説かれるている。
また第25巻一九二頁には《仏教の無明縁起は「創世記」第二章に書いてあり、『法華経』に説いてある久遠実成の浄土は
「創世記」第一章に説いてある》として、仏教、キリスト教が一致する所以が説明されている。

 第30巻には「山上の垂訓の示す真理」がある。何れにしても「万教帰一」を理解するためには
『生命の實相』のそれらの巻を精読しよう。

「生長の家の全貌ーーー生長の家は現代に何を与えるか」(一九五五年一月号『生長の家』<『生長の家の三十年史』所載の
「生長の家の信仰及び谷口雅春先生の事業」に摘録>)には「万教の真理の一致を指摘して世界を平和ならしめる」および「独創的な
直感による各宗教の偏差の調整」(原文を指摘して世界を平和ならしめる」および「独創的な直感による各宗教義の偏差の調整」(原文は正漢字・旧かな遣い)
という見出しで、この万教帰一の真理が明解に説かれている。

 ここで私たちが忘れてならないことがある。それは、この万教が一致するということは『生命の實相』の真理を通してはじめてわかることであり、『生命の實相』の
真理が如何に偉大であるかをわれわれはあらためて知らねばならないということである。

 キリスト教国ブラジルにおいて、生長の家が高く評価されているのは、この万教帰一の真理のすばらしさが人々に理解され、そしてまた事実、多くの救済の成果があがって
いるからである。

 『光の国から』 渋谷晴雄 著

1599SAKURA:2012/11/11(日) 21:40:21 ID:jH5uEFzM
トキ様 へ 観覧者の皆様 へ
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1553>>1554>>1556>>1558>>1562>>投稿の続きです。…が

日常生活面を、それなりに考えていきますと、私なりの「雅春先生の哲学」がみえて更に人生観が
感慨深いものになりますので、私なりに「生命哲学…勉強会」を〜♫〜では続き投稿していきます。
「雅春先生の例え…」として、投稿されていらっしゃいました記憶があります。…が?
ここは、まるで【四 無 量 心 の 心 の 世 界 観】でしょうか…??

■■『生命の実相哲学シリ−ズ…SAKURA論』
「生命の実相 37巻」より……

===【抜粋文】=====================================
そのころ塩土老翁なる老翁来りて神武天皇に「東に美地有り」と御奏上申し上げたということ
が同じく『日本書紀』に書かれている。東方より「大和」の理念が生まれて来るという象徴物
語である。

 この塩土老翁は『古事記』では塩土神とて目無堅間の小舟を作り彦火々出見尊を乗せまつって
金 銀 饒なる龍宮海に導き奉ったとでている。

 龍宮海とはウミの底である、「創造の根底」にある世界とは現象のよってもってあらわれる根源
の世界である。格言すれば実相の浄土である。目無堅間の小舟とは、時間の目盛無く空間無く堅く
つまりたる小なる一点である。格言すれば、無時間・無空間の世界、時空を超越し、そこより時空
生まるる一点(久遠の今此処)に乗るとき衆宝あまねく充つる龍宮海に入ることができるのである。
「無字透関」である。「無」を超えてsらに実相地に透関するときそこに龍宮海すなわち、無限供
給の極楽浄土を実現することができるのである。この無限供給の極楽世界に入る方法を教えたまう
神が塩土神である。そして龍宮海は極楽にして住み吉きがゆえに住吉世界の本尊大神と申し上げ
るのである。

(つづく)①

1600SAKURA:2012/11/11(日) 21:42:16 ID:jH5uEFzM
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1553>>1554>>1556>>1558>>1562>>1599>>投稿の続きです。…が
>>1599①投稿の続きです…。

 龍宮海は、時間空間を超えた世界であるから、浦島太郎はそこにあるとき永遠に年老いず、
このことを仏教では無量寿世界に入るとき無良寿仏と同じ悟りに入ると言うのである。
老病死の三奸を征伐せられてから住吉大神は茅渟(ちぬ)の海に面して長湾をなせる山峡に
鎮め祀られたのである。今は神戸市東灘区住吉に本住吉神社があり、神功皇后を主神とし、
脇神として筒男の三神をお祭りしてある。後に泉州堺に御遷座申し上げたるにより、ここを
本住吉神社というと承っている。

 三韓征伐とは、老病死の三奸の克服の象徴物語である。住吉大神が竜宮の大神であり、
無量寿仏のあらわれである以上、老病死の三奸の克服せられたことは当然のことでなけ
ればならない。 (抜粋投稿)
============================================☆
PS:
■【日本書記…】より大和の理念からの「象徴物語」です。…が?・・塩土神・・東方より大和
ここからが、私の「ロマンの旅」なんでしょうか???前回!なのですが……

【女子板…】にて、ご紹介しました【皿倉山…】ここから始まる様にも〜♫〜
“大和朝廷”以前のお話なのですが、私の故郷には【皿倉山=帆柱山…】此処には?
『大和朝廷のお話』に、つながるような“神話…”があります。…が?・・・そして、
『龍宮海…』は、私たちの【心…の中の潜在意識】でしょうか??その様に思えます。

■【底の〜底の〜海】それは❤〜【私の心=魂=念】なのです〜〜〜ョネ!
…【時間・空間】は私の希望実現の芽生えが^^?それに“種”を蒔きますと…
【時間・空間】に現われる“モノ”・・・それは【無限の心】でしょうか???
今を活かしながら…【龍宮海の底の底の海を引きあげる“心”】これが【祈り…】に
思えましたが???「浦島太郎」は、なにもせずに、楽しんで【時間・空間】を通り過ぎた時、
現われたのは“年老いた姿…”でした。この事は『人間の心は、今を活かす事!』それは、
今!今!を…一生懸命に“目的”に向かい当に“一直線”に前に〜前に〜進む事…
これが【今を活かす事】に繋がり【時間・空間の世界】で生きた“私自身が現われる事”だと…
【神話の話…】から思いました。

■【心の無限…】を出せば〜出すほど【無量寿の扇…】が開きまして、
ここから【無限供給の始まり〜♫〜 スタ−ト!】でしょうかしら〜〜〜ン?その様に思いました。

                                  再合掌

1601ハマナス:2012/11/12(月) 23:07:18 ID:x2zmnlqw


神の子のみなさま
ありがとうございます。

「過去」に感謝せよ  (『新版 生活の智慧365章』P.284)

 あなたの心の緊張を解きゆるめなさい。過去はないのです。今の苦しみも既に過去に刻々
なりつつあるのです。それらのものは全て過ぎ去るものに過ぎないのです。過ぎ去るものは
実在ではないのです。実在でないところのものを捉えて悩んでみても仕方がないではありま
せんか。心に重荷を背負わせてはなりません。過ぎ去るものが、如何にあなたに苦労をあた
えたにせよ。それが過ぎ去るときにはそれに祝福と感謝とを与えなさい。どんな艱難も何か
の意味に於て、あなたの魂に経験を与えそれだけあなたの魂に教訓を与えたのです。
 
過ぎ去るものに御礼を言う心持ちになったとき、次に来るものが貴方によって一層よきもの
となるのです。一切を祝福する気持ちになるとき、もう何ものもあなたを害することは出来
ないのです。すべて憎むとき恨むとき、心につかんで歎くときのみ、それはあなた害するのです。

感謝合掌

1602ハマナス:2012/11/13(火) 00:30:36 ID:x2zmnlqw

復興G様、みなさま
こんばんは。
web誌友会での、いつもながら聖典からの膨大な謹写をありがとうございました。
また、素晴らしいご指導に感謝申し上げます。
昨日は、仕事が入り参加出来ませんでしたが、じっくりと学ばせて頂きました。
ありがとうございました。
御礼に“神の自己実現”を高める祈り を謹写いたします。

“神の自己実現”を高める祈り  (聖経『真理の吟唱』)

 人間は神の最高の自己実現であるのである。したがって、私たちの生命(いのち)の最も
深いところには、神の心が宿っているのである。わが“深層の心“は“神の心”であり、
神の“愛”と“真理”と “叡知”に満たされているのである。

 私たちの表現の心は、肉体の意識に属するものであるがゆえに、時々、外界の出来事に振り
廻されて迷うことや、悩むことがあるけれども、わが“深層の心”は神に属するものである
から、何事にも現象界の出来事に引っかからず、悩むことなく、苦しむことなき、常住歓喜の
心なのである。私たちは現象界の混乱で、“表現の心”が悩むときには、その“表面の心”に
まどわされることなく、わが深層より“神の心”を出してきて必ず、平和と調和と愛と智慧と
に満ちた心に恢復するのである。
 
私が、今、自己の生命の奥底に“神聖なるもの”“神の心”が宿っていることを知ったので
ある。そして、自己の深層よりその叡智と歓びと、愛と、調和と、繁栄と、幸福と、健康とを
呼び出してきて、日常生活にそれを具体化するのである。わが深層に宿っている神の神聖性は、
毎日神想観を実習することによって、日ごとに一層ハッキリと外部に表現してくるのである。
かくして、私は常に神の叡智に導かれるがゆえに、事物に対して常に正しき判断ができ、適当
なる計画と行動とがそれに伴い、決して失敗することはないのである。

 常に毎日一層、われわれ家族の深層に宿る“神性”は表面にあらわれて具体化するのである
から、われわれ家族の健康は日毎に増進し、肉体は逞(たくま)しく美しくなり、事業は繁栄
し、国家社会のために大いに貢献することができるのである。わが事業は、神の導きと、神の
愛とによって繁栄するのであるから、私たちはその収益を決して“私”しないのである。それを
神からの恵みの預かりものとして、国家、社会、人類のために貢献するためには惜しみなく、
それを出資するのである。この世界には、「与えよ、さらば与えられん」の法則が行われている
のであるから、私たち一家の繁栄は、私たちが国家、社会、人類のために貢献し得た程度にした
がって、その程度が増加してくるのである。

 わたしたちは、“神の子”であり、深層において神が宿っているのであり、それを国家社会
人類のために貢献するたび毎に、一層完全にわたしたちは神の自己実現を完成するのである。
そして釈尊が三十二相と八十種類の好き相貌を備えたまうように、毎日一層よき人相が輝き出で、
人から懐かしがられ、愛され、喜ばれ、わが顔を見るだけでも、見る人の魂に愛と平和が訪れる
ようになるのである。

1603a hope:2012/11/13(火) 08:07:51 ID:lAQRWvUs

新版 生活読本 谷口雅春先生著
第七章 明るい心で運命を好くしましょう

♦明るい心が職業を得る力

学校を出て、又は海外から帰って来て、就職するにしても、
必ずしも学問が出来るから仕事にありつくと云うものではありませぬ。

どんなに立派な仕事をする腕があり、頭があっても、「面白くない顔」「苦い顔」「不幸な顔」をしている人は、
一しょに仕事をしていても楽しくないから、そんな人を雇おうと思う人はありませぬ。

その人が部屋にいてくれると、何となく、愉快で、事務所や工場の空気が楽しく、明るくなり、
皆が愉快に仕事が出来るようだと、それだけでも一つの大きな役割ですから、人がその人を雇いたくなるのです。

日本人はあまり鹿爪(しかつめ)らしく、電車に乗っても、汽車にのっても、
お互いが愉快に楽しく談(はな)したりしないようです。
いつでも何か不快なことを考えているのか、何か心配しているのか、重々しい顔をしている人が多いようです。

その習慣を改めましょう。いつも愉快に、ニコニコしようではありませんか。
そこからこそ、日本の本当の建直しが出来るのだと思います。
(つづく)

1604ハマナス:2012/11/13(火) 13:07:57 ID:x2zmnlqw

神の子のみなさま
こんにちは。

生命の法則の優位  (『新版 生活の智慧365章』P.285)

 生命は常に物質の機械的な無機物的状態を克服し、それを自分の想念の形にまで造形する
ために戦って来たのである。生命が物質の機械的な法則に支配されている限りに於ては生物は
発生することができなかったのです。物質の法則は、生命の前には常に服従して来たもので
あることが判るのである。生命は肉体を構成している物質の物理化学的法則を必要に応じて
巧みに利用しつつ、必要に応じて、物資のハタラキを抑制し、それを征服して自己の希望する
形にまで築き上げるのである。

若し私たちの“心”が物質の法則に優位をみとめるならば、生命の力はそれだけ物質の力に
譲歩して、生命が自主的な力を減弱することのなるのである。“生命の法則”が常に“ 物質
の法則“よりも優位に立って、これを克服し得たところに生命の凱歌があがり、生命体を発生
することができたのである。生命体の発生のみならず、既に発生した生命体を健康に維持する
上にも、無機物の法則を克服して、有機体を作り、更にそれを総合して精密なるオーメーション
装置の一大運動機構をつくり上げ、それをたくみに操縦して間断なく修復作用を行いながら
常に健康を維持し得ているのが、吾々の生体なのである。一分一秒と雖(いえど)も、“生命
の法則”が物質の無機物的な分解下降現象にその優位を奪われたならば、其処に病気の現象を
起すのである。私たちは、どこどこまでも“生命”(即ち神)が物質の法則に対して常に優位
を保つように“心”を神の方に振り向け、“内在の神”(生命力)の働きを尚一層健全にする
必要があるのである。

感謝合掌

1605うのはな:2012/11/13(火) 19:28:19 ID:M7ON3MOw

縦の真理と横の真理を如何に使うか 「心はない」ということ

 お手紙拝見いたしました。あなたの信仰深いのに感激いたしております。
近頃、地方で講演したり、指導したりしている生長の家講師が、「人間本来神の子、本来健康、
本来完全、病気なし、不幸なし」の縦の真理をあまり説かずに、「どういう病気は、どういう心の影だ。」
とか、「心が治らずにおって、人間神の子だなんて言っても、病気は治らないぞ。」などと言って、恰も人間の心が
病気を治すがごとく説き、横の真理ばかりに重点を置いていられるのを見ると、私は本末顛倒のような気がすると言って、
あなた自身が精神分析的な横の真理を説かずに、「人間本来神の子だ。病気はないぞ、肉体もないぞ、心も無いぞ。心なんて
ないんだから何を思おうと心配いらぬ。恐れることはない。」と一喝して病気を治癒せしめた実例が沢山あると言われ、
「治す力は人間の心にあるのではない、神一元、神のみが癒す。」と言われるのは、誠に尊い体験です。

「心がない」ということは、『観世音菩薩行法経』などにも「心を観ずるに心無し」と書かれてあり、「物が物としはてあるのではない」
ということは「法、法の中に住せず」と書かれております。映画の画面上の姿(法)は画面上の姿(法)にあるのではない、實相のみ独在するという意味であります。
 仏教ではつとに「心が無い」ということが説かれているのでありまして、慧可禅師が、ある日達磨大師の方丈に来って、
「先生、私は心が迷って悩んで仕方がございません。どうぞこの心の迷いを取り去って下さい(意訳)。」とお願い申しあげると、
「その迷っている心とやらをここへ持って来て見せろ、その迷いを除ってやろう。」と達磨大使は仰せられた。

 すると、慧可はその迷いの心を探して持ってこようとして、何処にあるかと求めたけれども、ついに心を見つけることが出来なかった。
そこで慧可は、「もとむれども遂に得ず。」(いくら探しても心の在所は分かりません)と答えた。
すると、達磨は、「われ汝を安んじ終んぬ。」と言った。という意味は、迷っている心をあると思って、自分で勝手にクヨクヨ思って掴んでいるから、
悩まねばならぬ。「悩んでいる心」を無いと知って、それを放ってしまえば悩みも苦しみも何もなくなるということであります。

1606うのはな:2012/11/13(火) 19:29:04 ID:M7ON3MOw
1605 続き

  このように「心はない」ということは仏教で説いていることであり、一応以上の説明でわかったようでありますが、よくよく考えて見ると、心というものが有るか
無いか、まだまだわからないことになるのであります。
「“悩んでいる心”を無いと知ってそれを放してしまえば悩みも苦しみも何もなくなる」こう教えられて、“悩んでいる心”を掴まなくなり、心が平和になり、悩みも無くなり、
病気も消えてしまう人も随分あります。

 しかし「“悩んでいる心”を無いと知って、それを放つ」ところの主体は一体何でしょうか。
「知る」とか「悩みを放つ」とかいうのは「心」の作用であります。心が知るのであり、心が放つのであります。それでは「心が無い」のではないのであって、心があって、その心を知ることになるのであります。

 そこで「悩んでいる心」があらわれているが、その「悩んでいる心」を無いと知って「放つ心」がある。
その「放つ心」も無いと知って廓然としてして明々白々になるかというと、やっぱり「知って」とか「覚って」とか言われると、「知」とか「覚」とかいうのは「心」の問題でありますから、「その知るという心も無いと知って」
などと言って、幾度繰り返して見ても、いつまでたっても循環して堂々めぐりをするしか仕方がないでしょう。

   縦の真理だけでよいか

 そこでこの話は中断して、あなたの体験であるところの「人間は神の子だ。病気はないぞ。肉体も無いぞ。心も無いぞ。心なんてないんだから何を思おうと心配いらぬ。恐れることはない」と
一喝して多くの病者が癒やされたという実例について考えて見ましょう。こういう実例がでるのだから、
あなたは「人間・神の子、病気は無い」の縦の真理だけで、病気などは無いのだから、病気は消し飛んでしまう、心の法則を説く必要もないし、「心が変わらねば病気は治らぬ」などと
言って、心を改めさせるために横の真理などを諄諄と説く必要はない.........と言われますが、成る程、或る人々に対しては、「人間・神の子、完全円満」の縦の真理を説くだけで充分であります。

 生長の家本部の飛田給練成道場では、概ね「人間・神の子、完全円満」の縦の真理だけを説くだけで、ヒロポンの中毒が治ったり、無数の悪癖が治ったりしています。
「その悪い心を直せ」などと言って「心」を直すことを説きはじめると、“その悪い心”を心で掴むことになり、掴むがゆえに“悪い心”は固定化して消えないことになり、或いは「心を改めよ」と説教してくれる人に反抗心を起こして、
更にその“悪い心”を増強してしまうことになります。それですから、「心は無い」「人間・神の子、完全円満」と説かれると、原因である「悪い心」は雲散霧消してしまいますから、「人間・神の子、完全円満」の縦の真理だけで、ヒロポンの
中毒患者や、色々の悪癖や、無数の病気が解消するのは当然であります。


 『人間そのものの発見とその自覚』 谷口雅春 先生著

1607SAKURA:2012/11/13(火) 20:19:00 ID:jH5uEFzM
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1553>>1554>>1556>>1558>>1562>>1599>>1600投稿の続きです。…が

日常生活面を、それなりに考えていきますと、私なりの「雅春先生の哲学」がみえて更に人生観が
感慨深いものになりますので、私なりに「生命哲学…勉強会」を〜♫〜では続き投稿していきます。
「雅春先生の例え…」として、投稿されていらっしゃいました記憶があります。…が?
ここは、まるで【四 無 量 心 の 心 の 世 界 観】でしょうか…??

■■『生命の実相哲学シリ−ズ…SAKURA論』
「生命の実相 37巻   ……①

===【抜粋文】 ====================================
……その後、生長の家神と申し上げるは塩土老翁、筒男神であらせられると知らされ、ハ
ットしてその端倪すべからざる因縁に驚いたのである。
塩土神とは水火津霊(シホツチ)の神である。水の霊(陰の原理)と火の霊(陽の原理)とを津な
ぎ結びて、一切を生み出す「生みの神」である。だから塩土神(住吉神社・塩釜神社に奉斎)は
古来安産の神として称せられ、エホバ神の「懐妊(はらみ)の劬労(くるしみ)を増すべし、汝は
苦しみて子を産まん」という宣言を覆して、子を産むのに無痛分娩なることを実証したのである。
生長の家の教えを聞いてそのとおりに守るものは無痛分娩であるのはそのためである。塩釜大神
とは水火醸として陰陽交叉いて生み出す神という意味である。
                   (つづく)

1608SAKURA:2012/11/13(火) 20:20:59 ID:jH5uEFzM
トキ様 へ  観覧者の皆様 へ
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1553>>1554>>1556>>1558>>1562>>1599>>1600>>1607投稿の続きです。…が
>>1607①の続き投稿です…。

 生長の家神を拝みたければ住吉神社に参るがよし、塩土神社に参拝するのもよい。われわれの団
体は無宗派の万教帰一を説く団体であるから、拝殿もなければ御祈祷をするということもない。
ただ書籍、講演、放送、直接指導等によって老病死を克服する教化団体である。(抜粋文)
                           谷口雅春著
=============================================
PS:
今年の年頭にて“事務所”の近くの、【住吉神社…】に、久しぶりに初詣しました。…が?
私にとりまして今年は、とりわけ意味ある年となってしまいましたが『三社参り…』は、
【櫛田神社、住吉神社、警固神社…】にお参り致しました。ここで?
やはり【第6感…】といいますのは有るのでしょうか??住吉神社にお参りの時に、
今年に入り「亡き母」が第一回…倒れました。その時のことなのですが……??実は〜〜><
愛用の“サングラス”が落ちまして、耳に掛ける処のア−ムの部分が本体から?外れたのです。

その時!瞬間【不吉な予感…】が?脳裏を横切ってしまいました。…が?それでも、その事を、
私は、かき消すかのように、翌日!母を見舞いに行きますと、まだ、いつもの“母の顔”で…
その時は、ホット!安堵感が浮かんだのです。…が?【住吉神社…】は、当に……
【大海原の海の母…】でしょうか??「亡き母」は、きっとあの時にもう【霊界…】に、半分は
行ったり来たりしていたのかも???その様に思えます。

ここでは【無痛分娩の例え】ですが??【産みの苦しみ…を】と〜〜〜これは?
【私達の“生(せい)”への生みの苦しみ…><】を、いい方向に導いてくれる事なのでしょうか?
【産みの苦しみは、生(せい)への生きる事の苦しみ?…悩みいろんな現象事を、かくまって
下さる『神様…』それは【私の心の無尽蔵…】なんです〜〜〜ョネ???

■当に…遠くにいて近くにいます【 神様 】でしょうか……??
「雅春先生」は、住吉神社にいきたければ、それはそれで良い!とおっしゃつています。
【住 吉 神 社 は 私 の “ こ こ ろ の 無 尽 蔵 ”…】です。
■うてば響く“心”……当に!!私の“心の魂”なんです〜〜〜ョネ???
何処でも【祈り…】ますと、産みの苦しみを取り除いて下さるのが【心の住吉の神様】なの??
当に!近くにいるのです〜〜〜かしらン??その様に、考えながら……

また、私達“一人一人”が自覚して【心を強化…します事が『生長の家』なんです】と…
「雅春先生」がおっしゃつています。…が???本日は、なるほど!!と思いながらも、
私自身も【万教帰一に参加…】です。
❤〜【心を強化運動…】当に『教化部』にて『心の強化』でしょうか??“スタ−ト…”
その様に…解釈しますと今回の【お家騒動…】は〜〜〜
私にとりましては『原理主義…決め込み主義』との解釈論になった次第なのです。
                                      再合掌

1609a hope:2012/11/14(水) 08:07:23 ID:lAQRWvUs
新版 生活読本 谷口雅春先生著
第七章 明るい心で運命を好くしましょう

♦晴れやかな気持の功徳

晴れやかな明るい気持になれば、顔が生々(いきいき)と輝いてまいります。
全身の血のめぐりがよくなります。
全身の血のめぐりがよくなれば、身体を動かすのが楽しみになり、
生き生きと何でも思うことが出来ますので、勉強や仕事が楽しくなり、
何をしても上手になり、成績があがるのであります。
(つづく)

1610ハマナス:2012/11/14(水) 09:46:17 ID:x2zmnlqw
神の子のみなさま
おはようございます。
今日から第十一篇に入ります。
皆さまにとって、今日も光り輝く素晴らしい一日でありますように。

第十一篇 治癒する力はどこからくるか 
 光と光源とは一体なり  (『新版 生活の智慧365章』P.287)

 神と分離の感情や想念をもってはならないのである。「天にまします我らの父」と云う
ような祈りの言葉は、自分は地上におり、神は天上にましますと云うような離れた感じを
与えるものであるから、あまりに感心した祈りの言葉ではないのである。「わが魂の底の
底なる神よ、無限の力湧き出でよ」と云うような、もっと自己と一体感の深い言葉をもって
祈るべきである。

 言葉と云うものは想念を動かす。無意識に使っている言葉でも、それを始終つかっていると、
その言葉の意味する通りに自分の想念感情が動かされてしますことになるのである。
『甘露の法雨』には「光と光源とは一体なるが如く、人間と神とは一体なり」と示されている。
すなわち神と人間とは緊密に一体なのであって、天から降りて来て地上の人間を救うような
長距離の隔たりはないのである。

感謝合掌

1611<削除>:<削除>
<削除>

1612うのはな:2012/11/14(水) 14:56:13 ID:PYl4tM0Y
   隣人を愛せよと云う意味

 我々の本当の相(すがた)は自他一體でございます。吾々はみんな兄弟であり、全體に繋がっているのでございます。
併しその繋がっているままでは實生活に都合が悪いから縦横厚みの枠に嵌めて覗いて見ると、個人々々が分れたように見え、無限のものが
有限に見えるから本当でない。本当でないから『迷より生ず』と云うのですが、その個々別々の五官に見える相に囚えられて本物の自他一體の
すがたを見ないで、自分だけの為を計って行動するのが利己主義でございます。

 利己主義が却って自分を苦しめることになるのは個々別々が人間の本当の相でないからでございます。形で見れば分れているように見えましても、
いのちで観れば本当は繋がっていると云う事に目覚めて、自他一體の行にあらわして實践すると云うところに、吾々は幸福感即ち自己拡大の感じを得るのでございます。
今まで自分と云うものは五尺の長さ十数貫の小さいもののように感じられて居ったけれども、それが本当は、大いなるものであると云うことが分るのは、神想観の座禅的修行で
も体得し得ますけれども、一方に自他一体の行を實践しなければ本当に分らないのでございます。
自他一體の行と云えば難しいようでありますが、簡単に云えば他に深切をせよと云うことでございます。

キリストに言わせれば、『汝の如く汝の隣を愛せよ』と云うことでございます。
『汝の如く』でございます。他の人を助けてやると云うような恩に着せて愛するものはないでしょう。
自分自身と一つのものとして兄弟を愛せよ、隣人を愛せよです。

 だから恩に着せるとか、愛の代償を求めるとか云うことはあり得ないのでございます。
『隣人を愛せよ』と云う意味が今迄誤り考えられていたようでございます。
『隣人を愛せよ』とは自分の家人を棄てて置いて隣の人だけを愛せよ、と云うのではないのでした。
 先ず自分の家を愛さなければならないのです。

 隣人と云うと英訳の聖書には(neighbour)と云う字が使ってありますが、是は隣りの人のことではなく
、『近くの人』と云う意味でございます。自分の家の人が一番近くの人なのでございます。
それから次第に及んで隣家の人、同じ村の人、町の人、同じ市の人、同県の人と云う風になりますが、先ず
一番間近かに居る家人と調和しなければ、工場で働いても故障や怪我をし易いですから生産力拡充の道にも副はず
国家を愛することにもならないのでございます。

 キリストは『汝の隣を愛すると云うことが出来ないようなことで、眼には見えない神をどうして愛することが出来るか』
と言って居られますが、私に云わせれば、『自分が本当に深切に愛しなければならない家族と不仲でいるようなことで、もっと
大き過ぎる国家を本当に愛し得ようか』と云いたいところでございます。


 『運命の原理』谷口雅春 先生著P127  (投稿者 現代かな遣いに変更)

1613a hope:2012/11/15(木) 07:08:24 ID:lAQRWvUs
新版 生活読本 谷口雅春先生著
第七章 明るい心で運命を好くしましょう

♦怒りや恐怖は人を殺す

晴れやかな心の反対は、怒る心、恐れる心、驚く心、暗い心、憂鬱な心、陰気くさい心などであります。
これらの心は血液の中に毒素を生ぜしめ、人体の生きる力を殺すはたらきをするのであります。

或る父親は娘が口答えをしたので憤激(はげしくおこって)して娘を叱りつけようとしたとき、
大喀血を起こして死んでしまいました。
びっくりして目をまわして倒れた例などはザラにあります。

恐れれば顔が青ざめ、心臓がどきどきします。
愛する子供が死んだために悲しみのあまり気の狂った人もあります。
大陸へ戦争に往って帰って来ると、唯一年間のあいだに十年ほど年が寄った人が多くあります。

ロジャー教授は「健康に殆ど影響を与えない場合でも、憂鬱の感情や、心配や、
深い悲しみの思いは頭髪を枯死(かれてしぬこと)せしめる」と云うことを発表しておられます。

日華事変中大陸戦線で一年にして白髪を倍加した人たちの事を考えると、それらの人たちが平気な顔をしていたようでも、
心配や憂鬱や恐怖にさいなまれた証拠物件(じょうこになるもの)をさげて歩いているようなものです。
(つづく)

1614うのはな:2012/11/15(木) 15:43:10 ID:waBIOL7w
   生長の家の国家観の基本

 “国家”は、領土があって、人民があって、そしてそういう部分品がこう集まっただけで出来ているか
と思ったら、間違いである。国家を、領土と其処に住んでいる人民とにバラバラに分けて、そしてそこに国が在るか、
と言ったら、もう国はないんです。領土と人民だけで、それを組織し総攬する主宰者がなければ、それは“国”とはいえないのです。

 日本は、その組織を総攬する主宰者にまします天皇が政治の圏外に追放された。
日本は占領されてバラバラにさせられて、そしてアメリカから民主主義という美名で個人主義の肉体快楽主義が輸入された。
自分だけ快楽が得られればよい、自分の肉体だけ幸福になればいい。

 此れが基本的人権だというような、そういう利己主義が輸入されて、主権は“中心”にはなくて、皆なバラバラの国民ひとりひとり
という部分々々に分解された。こうなると部分々々に解体された車は、もう車ではなくなったと同じように、もう日本の“国”というものは
無くなったのである。「国は在るか」と言って探し廻っても、国は見つからないんです。

 だから立派なインテリの政治家や法律家が“政府”のやったことを“国”が悪いといって国側に賠償を請求したりする。
つまり「国」を探しても見つからないから「政府」を「国」だなどと錯覚するのである。国とは政府のことだと錯覚してしまったら“愛国心”というものは
時の政府を衛る心だなんていうことになる。こうして国とは何ぞやということが分らなくなったので“愛国心”というような尊いものは戦後、殆どの日本人の
心の中から消えちゃったのです。

 バラバラの国民に分解してしまって、その部分々々の個人々々に主権があることになったから、けいちゅうの車を探しても見つからないのと同じように国を探しても、
国は見つからない。それだから「愛し得るような国ならば愛するけれども、こんな国では愛することが出来ない」というような表現をした大学生もあった。
しかし、国は部分に分解したら無くなる。本当の国は、そういう部分品の中を探しても見つからないんです。
 では、果して日本の国は一体どこに在るか。

 部分品の奥に、肉体の奥に、物質の奥に、更に、超次元の世界に、本当の人間ー理念の人間ー永遠に砕けない人間があって、その永遠に砕けない霊的人間が、
それが天降って、物質の養分や、成分を集めて、人体が出来た、そして現象の人間が現われたように、日本の国でもですね、領土とか国民とかいう部分品が勝手に....
こう偶然に集まって相談して出来たんじゃなくって、日本の国なる理念が天降って来て、そして爰にですねえ、“豊葦原の瑞穂の国”という、此の日本国が出来たわけです。

(後略)

『精神科学』昭和四十八年八月号15頁 谷口雅春 先生著

1615うのはな:2012/11/15(木) 17:37:44 ID:XuKa5ZNI
指導者の心構へ

 個人指導をするということは、迷っている凡夫(相手)を、神の子なる自分が指導するのではなく、
あくまでも、神の子(自分)が神の子(相手)を導かして戴く、相手の神の子なる実相を拝ましていただく行であり、
如何に迷い苦しんでいるように見える相手であっても、その迷いの奥にある神の子なる実相を拝み出す行であるのであります。

 つまり、自分が指導するのではなく、無我になって相手の実相を拝むときに、自分を通して神の言葉が流れるのが、個人指導であります。
相手を導くのは、常に「自我」ではなく、「我がうちに宿る神」であります。
このことが理解されますとき、指導する人の態度と言うものは、自らわかってくるのであります。

 相手が訪れて来て、最初に逢った時に、いきなり相手にいろいろと尋ねるのではなく、先ず、相手を自分の前に坐って貰って、五分間神想観をし、
「唯今より、神の無限の智慧、無限の愛に導かれて、指導をさしていただきます。私の使う言葉は、神の御言葉であり、それによってこの方の実相が
顕現し、神の御栄えが現われますことを感謝いたします」

 このように祈って、「我が業は我が為すに非ず、天地を貫きて生くる租神の権能」と深く念じて、それから相手の実相を拝み導き出す聖なる行が始まるであります。
くわえ煙草で、「どうしたんだ!」というような調子や、酒気をおびて指導をすると、たとい口から出る言葉は、どんなにすばらしくても、何か小馬鹿にされたような印象を
相手に与えるもので、それでは宗教的な聖い行としての個人指導という印象を相手に与えることができません。
相手は思い余って、苦しくて来ているのですから、小馬鹿にされたような感じでも、救われたい一念で指導を受けるには受けますが、第一印象に悪い感じを与えておきますと、その
指導した人が嫌われるだけでなく、生長の家の個人指導を受けたのですから、結局、生長の家を嫌うような結果になります。

 折角、指導して病気を治しておきながら、その人が生長の家へよりつかない理由の一つに、このような理由もあるのであります。
「尊敬すれば尊敬される」というのは「心の法則」でありまして、相手がどんなに困って憐れな状態にあっても、相手の神の子の実相を拝み、尊敬して指導すれば、その人は自分を長く尊敬
してくれ、延いては生長の家を尊敬し、生長の家からはなれることはありません。
「馬鹿にすれば馬鹿にされる」のは法則です。

 生長の家の指導者の個人指導であるということは、普通の人生相談とは違うのでありまして、「相手の実相を礼拝し、導き出す聖なる行」であるということを、深く認識して、宗教的雰囲気の中で
行われなければならないのですから、最初に神想観をして相手と共に神に祈る行から、始めらるべきであります。
この祈りで始まりますと、生長の家を全然知らないで来た人でも、何となく暖い愛情を感じ、指導者に対する態度も、真面目に真剣になり、厳粛な指導ができるのであります。

「個人指導の指針」『生長の家』誌 昭和三十三年三月号 徳久克己教務局長

1616SAKURA:2012/11/15(木) 21:36:52 ID:jH5uEFzM
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1553>>1554>>1556>>1558>>1562>>1599>>1600>>1607>>1608>>投稿の続きです。…が

日常生活面を、それなりに考えていきますと、私なりの「雅春先生の哲学」がみえて更に人生観が
感慨深いものになりますので、私なりに「生命哲学…勉強会」を〜♫〜では続き投稿していきます。
「雅春先生の例え…」として、投稿されていらっしゃいました記憶があります。…が?
ここは、まるで【四 無 量 心 の 心 の 世 界 観】でしょうか…??

■■『生命の実相哲学シリ−ズ…SAKURA論』
「生命の実相 37巻 より  …… ①

=======【抜粋文】================================
 悲しいことがあれば、喜びの初めである。イエス・キリストも「幸福(さいわい)なるかな
悲しむ者。その人の慰められん」と言っている。物質の満足に五官の表層を快く楽しませてい
たような人が、その物質なる富が眼の前から剝落した時に、物質なる肉体があるいは病み、あ
るいは眼の前から姿を没しようとする時に、その人は悲しむのである。悲しむだけ悲しむがよ
い。涙はその人の心の汚れを淨めるであろう。淨まり淨まったとき、本当の世界は物質の世界
でなかったということがわかるである。淨まり淨まったとき、本当の人間は物質の肉体ではな
かったことを知るのである。「本当の人間」は物質なる肉体が死んだと見えているときにも、死ん
ではいないのであって、彼が生きた程度に従って、より自由に生き通していることをしるのである。

人間は死なない。ことに公のために殉じた者はいっそう高く生きているのである。このことに
ついては、『生命の実相』の第九・十巻「霊界と死後の救い」を読んでいただきたい。

 肉体は蒲団の上にいて、誰のためにもならず、かえって人に迷惑をかけつつもついには滅びる
ものである。陛下のために、国家のために、全国民のために、何を献げて死することができるな
らば光栄これに渦ぐるものはないではないか。          谷口雅春著
===========================================

■この現実世界=現象世界に於きまして【物質…】に恵まれた方は〜〜〜?
確かに!明るい…朗らかな…“顔”です〜〜〜ョネ!!それが、ある日、困窮な状態になり
【天 と 地 が 逆 転】した様な状態になりますと、もうその人の“顔の相”は貧窮そのもに、
なりやすい方が、多いです〜〜〜ョネ!!
私の故郷…FUKは、そのような方が、余りにも多いですかと?思いますネ!!
「やさしさの欠如?」とか…言いわれるかもしれませんが???
【見えッパリ!で…第三者から良く見られたい!感覚】なのでしょうか???それにて“ビックリ”
本当に、帰郷しましてから【整形…がダントツ!ベストテン!】それは、それでいいのですが?
個人の自由でも「参考写真…」にての【尾行…】は、■【法律上…】かと??

更に、今は【整形の材料不足…?なのでしょうか?】ですから“安価な材料”でしていますと、
【後・後〜〜〜後に後遺症…】更に【崩れた顔…】が???
このような状態の時こそ…【反省…】を持つべき事ではと、思う次第なのですが???
ここFUKのシンガ−【涙も?つくり涙…“松田聖子の作り涙”…】で、その当時は、
ごまかして、随分もてはやされた記憶があります。…が?それなりの事が、その人に帰って来る
のです〜〜〜ョネ!!“顔…”も、確かに、ある一定の年齢になりますと、【整形…】しなくても
それなりの【老化…】は有るのです。…が???
                          (つづく)

1617SAKURA:2012/11/15(木) 21:39:31 ID:jH5uEFzM
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1553>>1554>>1556>>1558>>1562>>1599>>1600>>1607>>1608>>1616投稿の続きです。…が
>>1616>>①続き投稿です…。

「生命の実相 37巻 より  …… ②

■昨日【森 光子さんが亡くなった訃報ニュ−ス】心から、故人の御冥福をお祈り申し上げます。

さて、話はブレイクしますが…これを同じように、考えてしまいました。が??
「亡くなられました森光子さん」は、確か【東京・帝劇のビルの工事?】でしばらく【休業宣言】…
されて、その後の“若作り…”でしょうか??【整形…】されての登場です。
登場されました時は、「可愛い〜お祖母ちゃん風での若者のスタイル」と言いますか?“ビックリ”
でしたが??これもまた「黒幕デザイナ−」に、そそのかされての【整形…】でしょうか……?
失礼ながら、やはり“顔…”は?肉体の老化も含めまして“壊れる”ので、何度も修正です。
観ていて…悲しくなりました。…が?もし【整形…】されずにいたら?肌の状態も良い方でしたし、
モット〜ピチ!ピチ!した印象で【永遠の舞台俳優として…】脳裏に?心に?残ったと思います。

そして「森光子さん」の画像を追っていく内に【デビュ−?遅し?】でしたのでしょうか……??
或る写真をみて“ビックリ”くぎづけで、まるで【私の亡き母の顔】そのものでした。
洋服も「亡き母」の学生時代の洋服に似ていましたから…まるで!まるで!【合成写真…】
でしょうか??この様にしてまで〜〜〜>< あの素晴らしい“笑顔“…その人が「森光子さん」
私の心には存在として残っています。…が?あの好感ある“笑顔の森光子…さん”は〜〜〜

■【霊界世界…】からの考えでは
【整形…】されますと“生まれた時の本来の顔”・“過去の顔”“を抹殺される事では〜〜〜?
ならば【肉体は〜〜〜】???本当に“日本人”としての自覚での【誇り】で亡くなられたら?
本当に、モット!素晴らしいのですが???そこまでの気持ちではなく…
【肉体人間としての執着…】でしたらと、一瞬!考えましたが??後で?【女子会…】で、
「亡き母」に似てる「森光子の写真…」を“投稿”しようかしら〜〜〜ン??
そうこうするうちに、既に…“デリ−ト”かと…??
http://matome.naver.jp/odai/2135293700899758901(参照URL…)
❤〜 パ−マの“ヘヤ―スタイル”の白黒写真で、冒頭に“宝塚風?”の顔写真

ブレイクしますが「亡き母」は50代になってから、ある人から「若い時は美人だったネ」と、
言われたそうで、当時の母は“ビックリ…”本当に、自覚のない母でしたから〜〜♫〜〜
「もっと!母を取りまく周りの方々が、同じ事を言って下さっていたら?」と、笑って良く
私にもパ−トナ−にも、よく話したものです。…が?その「亡き母」は、いつも“素顔”でした。
…が?■【霊界通信?霊の世界】からの知識を頂くようになりまして、「亡き母」は、今頃は?
手入れされてない“顔”で、私の心の中にある“見なれたいつもの顔”であの世に行きました。

そうです〜〜〜ョネ!あの頃の「亡き母の時代」では【美人像…】
確か?“丸顔”・“ぽっちゃり”…etcが【美人像の条件】でしたかしら〜〜〜ン
「亡き母」の顔は“面長美人”でしたので?当時は受け入れられない時代の背景でしょうかと。
今回の事を踏まえてみまして〜〜〜【整形…も】繰り返しの事なんでしょうかと??
【一つの比喩論…】で、考えた次第です。…が???
■【肉体人間…ではなく霊体人間…との自覚を持つ事が、全ての“物事の始まり〜♫〜”】でしょう。

再合掌

1618ハマナス:2012/11/15(木) 23:15:43 ID:x2zmnlqw

神の子のみなさま
こんばんは。

神御自身の自己完成  (『新版 生活の智慧365章』P.288)

人間は神の最高の自己実現であり、神の愛し児であり、神の全内容を完全に具象化したもの
なのである。若し人間が地上に生れなかったならば、神はその創造のみ業(わざ)を、ただ
大自然力にまかせるだけで、それを完成することができなかったに相違ないのである。だから
人間が地上に出現したと云うことは、神の希望の実現であり、目的の達成であり、神御自身
の自己完成であるのである。だからあなたは神にとってまことに尊き存在なのである。

 若し人間が地上に生れなかったならば、神は自己完成を遂げることが出来なかったのである。
神は人間を通してのみその理想を地上に投影することができるのである。だからあなたが若し
心を澄まして、神の“声なき声”を聴くべくつとめるならば神は、あなたが如何に行動するが
最もよく、神の理想を地上に実現し得るかを示し給うにちがいないのである。そしてその啓示
に素直に従うとき、あなたに祥福は実現するのである。

感謝合掌

1623ハマナス:2012/11/16(金) 09:31:36 ID:x2zmnlqw

神の子のみなさま
おはようございます。

神と偕に生活する  (『新版 生活の智慧365章』P.289)

 心を澄まして神の声を聴くには、神想観を為すがよいのである。「衆生、仏を億念すれば、
仏、衆生を億念したまう」と仏典にある通り、私たちが神を億念すれば、神の億念(衆生に
対する愛念と叡智の導き)を感受することができるのである。神は私たちが神を億念しない
時にも億念していられるのであるけれども、私たちの心が神に振り向かない時には、神の
億念を私たちは感受することができないから、神が憶念し給わないのと同じような事なのである。

 何事を為すにも、神にそれを訊いてからその通り実行するならば、自力的努力に無駄な時間と
エネルギーとを浪費することなく、物事が順調に運んで行くようになるのである。自力的に刻苦
する時間を神と交通し、神を讃美し、神に感謝し、神との一体感を深めるために費やすならば、
あなたの生活は、もっと明るいもの、豊かなるもの、順調に過ぎ行くもととなるに相違ないのである。

感謝合掌

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1626うのはな:2012/11/16(金) 18:31:54 ID:AjOElYbo
    ラザロの復活

 キリストがラザロを復活せしめられた原理もそれであります。
『聖書』に書いてあるところのキリストが多くの難病を治したと云う奇蹟は、あんなことは
ある筈がない、嘘なんだろう。あれは弟子がキリストを尊敬して、わざと箔をつけるためにあんな
事を書いたんだろうと云う様な人があるかも知れませんけれども、あんな出来事は実際にあり得るのです。

 今でも「生長の家」の誌友は、現象を超えて「実相」を完全に観る力が強烈であれば馬場久さんのようにできるのです。
それでキリストはラザロを見て、「死せるに非ず、寝ねたるなり」(ラザロは死んでいるんじゃない、生きているんだ)と、
ラザロの「完全な実相」を見給うて、「起きよ」と言われると、四日間も墓の中に入って腐ったようになって、異臭芬々たるラザロが、
むくむくと起き出して治ったのです。

 この場合に注目しなければならないことは、キリストが病気を治された場合にですね、ただの一度も「お前は病気であるから治してやる」と
仰言った事が何処にも『聖書』に書いてないことであります。いつも「床を取り上げて歩め」とか、「起きよ」とか「汝の罪ゆるされたり」とか、
患者の眼に泥を塗って、「汝の目をシロアムの池へ行って洗え、お前は見える」と仰言ったりしているだけで、何処にも病気を治したと云う様な事は
言われていないのであります。

 イエスは病気を見なかった。ただ「完全な実相の人間」だけを見られたのです。
病気を見る世界に於いて病気が出て来る。戦を見る世界に於いては戦が出て来る。争いを見る世界に於いて争いが出て来るのであります。
その逆にですね、「争いなんてないんだ」とこの世界を観れば、争いが無くなるのであります。
ですからキリストが生まれつきの盲の少年を癒され時に、ユダヤ人達があんな者が治す筈がないなんて言っている時に、癒され少年は、
「私を治したのは神の子イエスである」と言う。

 すると、キリストはユダヤ人たちに、「汝等の見ゆと言う罪は遺れり」と言っていられる。
肉眼がひらいて見えると言っている者は、肉眼で見えているところの世界を、病気のある世界を、争いのある世界を妄想によってアルと見ている。
「自分たちは肉眼がよく見えるんだ」と偉そうに言っている者の方が却って盲なんだ。

 これが「汝らの見ゆと言う罪は遺れり」とイエスが言われた意味であります。
現象の争いとか、病気とかは妄想のあらわれに過ぎませんから、そんなものを見ないで、「実相」を深く強く諦かに観たならば、そこには悪いものは
ひとつもないと云う事実があらわれてくるのであります。

『日常生活の真理』無門関・聖書篇 谷口雅春 先生著 P181−182

1627NANCY:2012/11/16(金) 20:15:44 ID:jH5uEFzM
トキ様 へ
こんばんは…… ロ−マ字(大文字)の【NANCY】です。

■■【気 付 き 宣 言】……
以前から思っておりましたが〜〜〜?“不思議…”な気分と言いましょうか?
投稿者の方の中に…下記にて【例…】と致しまして、投稿させて頂きました。【オカシイ?】ですネ

■■【嫌がらせ〜〜?】【奥殿に行かせるため〜〜?】……etc なのでしょうかと??
〜〜【抜 粋 例】〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
❖名前:<削除> 投稿日: <削除>
<削除>
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

■変!変!〜〜〜〜〜〜〜 変!です。
1)「投稿者…本人」の【 ID??? 】も記載されていません。
しかも【 投稿 時間 】も……記載されていません。…が???

2)しかも??何も 【 投稿文章…】も?ありません。…が?

3)【最高裁…判決】前に致しましての…当に【嫌がらせ…行為】でしょうかとの判断ですが??
閲覧します上でも…【気分が…??】悪いモノのです。…が?

■■「管理人…トキ様」は、この件を、どの様にお考えなのでしょうか……???
果たして、注意の対象にならないのでしょうか……?
                                             再合掌

1628うのはな:2012/11/16(金) 20:32:27 ID:9TO4H8Ho
   死刑を免れた話

 遠藤義雄さんという人が、海南島で戦争中何か役職をしておって、終戦後、戦犯になって
死刑の宣告を受けたという話が『真理は死刑の鎖を断つ』という本に書いてあります。
その遠藤義雄さんは、死刑の宣告を受けて、今日死刑になるか、明日死刑になるかと待っておったが、一遍に
処刑出来ないので、ぼつぼつと順番に死刑になるんですが、或る日のこと、大尉の一人が死刑になるというので、
“もう死刑になるのにこういう書物を持っておっても仕方がない”というので『生命の實相』の第六巻と、ちり紙に鉛筆で
写した『甘露の法雨』とを刑場へ行く道すがら監獄の鉄格子の間からほうり込んでくれたのです。

 遠藤さんは、何をほうり込んでくれたかと思って見ると、『生命の實相』の第六巻です。
それは『萬教帰一篇』で、それには、生長の家の教えというものは、一宗一派ではないのであって、万教は「人間は肉体ではなく、
霊的存在である」という一つの真理に帰一するものである、ということがかかれているところでありますが、その『生命の實相』と、
ちり紙に写した『甘露の法雨』とを手に入れた遠藤義雄さんは、監房におっても暇ですから、それを繰り返し繰り返し読んだのです。
そのうちに、人間は肉体にあらず物質にあらず、肉体というものは人間の生命の外套みたいなものであって、この世の中に、ある仕事をする
期間だけ、この肉体はその道具として存在するのである。

 肉体というのは私じゃない、自分そのものじゃない、これは自分の外套に過ぎないんだ、そしたらこの外套が死刑になったって私は死なないんだという
自覚を得られたのです。
 その『生命の實相』のところどころに「神想観」をやるように勧められてあるが、遠藤さんには神想観のやり方というのがわからんのです。
神想観のやり方は第四巻に書いてあるもんですから、よくはわからんけれども、神想観をしたらなんとかということが、いろいろのところを読んでいると、
何か招神歌をとなえて、真っすぐに坐って合掌するものだということぐらいは想像がつくのでした。ところが『甘露の法雨』のちり紙に写したのに招神歌が書いてあったので
遠藤さんはあれを一心に念じて、瞑目合掌して招神歌三昧になっておったのです。

 海南島ってところはあたたかい南方ですから、もう藪蚊がいっぱいいて、坐っていると胡麻を振りかけたように身体に蚊がとまるけれども、神想観をしていると一向螫さんのであります。
神想観をやめて身体を動かすとブーンといって一斉に飛んでゆくけれども、身体にいっぱいとまっていながら、ちっともさしていないのです。
或いは遠藤義雄さんのベッドから南京虫がぞろぞろぞろぞろぞろと、どこかへ集団移動を始めて、もう決し螫さなくなったというのです。
そういう奇蹟的事実もあったのです。しかしこれは奇蹟というよりも、自分の心が変われば、南京虫にさされるという運命も変わってくるという訳です。

 遠藤さんは、さて、愈々自分の死刑の順番が廻ってくる頃だと思うのですけれども、死刑の順番が廻ってこないのです。
或る日、看守が..その看守は、遠藤さんが、いつも合掌して敬虔な態度をとっていたのでしたが、神想観をしてから非常に深切になってきていたのです
その看守が、「遠藤さん、あんたはね、死刑にならんよ。」と言うのです。
「死刑にならんと言ったって死刑の判決が下っているんだから。」「しかしね、遠藤さん、私は今まで多勢の死刑になった人を見ているがね、死刑になる人はみな
死相をあらわしているけれども、あんたには死相があらわれていない。あんたは、蒋介石に、自分は無実であると、戦犯になる筈はないという理由を書いて、無罪になる請願書を
出したかね。」と言う。
「いや、軍には出したけれども蒋介石には出さない。」「軍になんか出してもだめだよ。そんなものは途中でにぎりつぶしてしまうから。だから、蒋介石の中央政府に直接出さなければいかん。
私が、それの手続きしてあげるから書きなさい。」

 看守は深切にもこう言ってくれまして、いよいよ蒋介石の中央政府へ無罪放免の請願書を差し出したら、それが許可になって、執行される筈の死刑が執行されずに救かって内地に帰ってこられて、
諸方で『生命の實相』の第六巻を自分で一万冊売るという悲願をたてて講演して歩いておられましたが、この遠藤義雄さんの場合なぞも、当り前なら死刑になる運命をもって、既に死刑の判決が下って、今日それが執行されるか、明日執行されるかという瀬戸際に来ていたのです。
明日それが執行されるかという瀬戸際に来ていたのです。それが、心が変化することによって運命が変わってきたものであるということがわかるわけであります。

『人間そのものの発見とその自覚』 谷口雅春 先生著

1629NANCY:2012/11/16(金) 21:04:42 ID:jH5uEFzM
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【NANCY】です。
昨日【SAKURAさんの投稿】内容を…まだ閲覧されていらっしゃらない方が…と思い【再投稿…】

===【再投稿文】====================================☆
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1553>>1554>>1556>>1558>>1562>>1599>>1600>>1607>>1608>>投稿の続きです。…が

日常生活面を、それなりに考えていきますと、私なりの「雅春先生の哲学」がみえて更に人生観が
感慨深いものになりますので、私なりに「生命哲学…勉強会」を〜♫〜では続き投稿していきます。
「雅春先生の例え…」として、投稿されていらっしゃいました記憶があります。…が?
ここは、まるで【四 無 量 心 の 心 の 世 界 観】でしょうか…??

■■『生命の実相哲学シリ−ズ…SAKURA論』
「生命の実相 37巻 より  …… ①

=======【抜粋文】================================
 悲しいことがあれば、喜びの初めである。イエス・キリストも「幸福(さいわい)なるかな
悲しむ者。その人の慰められん」と言っている。物質の満足に五官の表層を快く楽しませてい
たような人が、その物質なる富が眼の前から剝落した時に、物質なる肉体があるいは病み、あ
るいは眼の前から姿を没しようとする時に、その人は悲しむのである。悲しむだけ悲しむがよ
い。涙はその人の心の汚れを淨めるであろう。淨まり淨まったとき、本当の世界は物質の世界
でなかったということがわかるである。淨まり淨まったとき、本当の人間は物質の肉体ではな
かったことを知るのである。「本当の人間」は物質なる肉体が死んだと見えているときにも、死ん
ではいないのであって、彼が生きた程度に従って、より自由に生き通していることをしるのである。

人間は死なない。ことに公のために殉じた者はいっそう高く生きているのである。このことに
ついては、『生命の実相』の第九・十巻「霊界と死後の救い」を読んでいただきたい。

 肉体は蒲団の上にいて、誰のためにもならず、かえって人に迷惑をかけつつもついには滅びる
ものである。陛下のために、国家のために、全国民のために、何を献げて死することができるな
らば光栄これに渦ぐるものはないではないか。          谷口雅春著
===========================================

■この現実世界=現象世界に於きまして【物質…】に恵まれた方は〜〜〜?
確かに!明るい…朗らかな…“顔”です〜〜〜ョネ!!それが、ある日、困窮な状態になり
【天 と 地 が 逆 転】した様な状態になりますと、もうその人の“顔の相”は貧窮そのもに、
なりやすい方が、多いです〜〜〜ョネ!!
私の故郷…FUKは、そのような方が、余りにも多いですかと?思いますネ!!
「やさしさの欠如?」とか…言いわれるかもしれませんが???
【見えッパリ!で…第三者から良く見られたい!感覚】なのでしょうか???それにて“ビックリ”
本当に、帰郷しましてから【整形…がダントツ!ベストテン!】それは、それでいいのですが?
個人の自由でも「参考写真…」にての【尾行…】は、■【法律上…】かと??

更に、今は【整形の材料不足…?なのでしょうか?】ですから“安価な材料”でしていますと、
【後・後〜〜〜後に後遺症…】更に【崩れた顔…】が???
このような状態の時こそ…【反省…】を持つべき事ではと、思う次第なのですが???
ここFUKのシンガ−【涙も?つくり涙…“松田聖子の作り涙”…】で、その当時は、
ごまかして、随分もてはやされた記憶があります。…が?それなりの事が、その人に帰って来る
のです〜〜〜ョネ!!“顔…”も、確かに、ある一定の年齢になりますと、【整形…】しなくても
それなりの【老化…】は有るのです。…が???       

(つづく)

1630NANCY:2012/11/16(金) 21:07:29 ID:jH5uEFzM
>>1629の続き投稿です…。

===【再投稿文】====================================☆
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1553>>1554>>1556>>1558>>1562>>1599>>1600>>1607>>1608>>1616投稿の続きです。…が
>>1616>>①続き投稿です…。
「生命の実相 37巻 より  …… ②

■昨日【森 光子さんが亡くなった訃報ニュ−ス】心から、故人の御冥福をお祈り申し上げます。

さて、話はブレイクしますが…これを同じように、考えてしまいました。が??
「亡くなられました森光子さん」は、確か【東京・帝劇のビルの工事?】でしばらく【休業宣言】…
されて、その後の“若作り…”でしょうか??【整形…】されての登場です。
登場されました時は、「可愛い〜お祖母ちゃん風での若者のスタイル」と言いますか?“ビックリ”
でしたが??これもまた「黒幕デザイナ−」に、そそのかされての【整形…】でしょうか……?
失礼ながら、やはり“顔…”は?肉体の老化も含めまして“壊れる”ので、何度も修正です。
観ていて…悲しくなりました。…が?もし【整形…】されずにいたら?肌の状態も良い方でしたし、
モット〜ピチ!ピチ!した印象で【永遠の舞台俳優として…】脳裏に?心に?残ったと思います。

そして「森光子さん」の画像を追っていく内に【デビュ−?遅し?】でしたのでしょうか……??
或る写真をみて“ビックリ”くぎづけで、まるで【私の亡き母の顔】そのものでした。
洋服も「亡き母」の学生時代の洋服に似ていましたから…まるで!まるで!【合成写真…】
でしょうか??この様にしてまで〜〜〜>< あの素晴らしい“笑顔“…その人が「森光子さん」
私の心には存在として残っています。…が?あの好感ある“笑顔の森光子…さん”は〜〜〜

■【霊界世界…】からの考えでは
【整形…】されますと“生まれた時の本来の顔”・“過去の顔”“を抹殺される事では〜〜〜?
ならば【肉体は〜〜〜】???本当に“日本人”としての自覚での【誇り】で亡くなられたら?
本当に、モット!素晴らしいのですが???そこまでの気持ちではなく…
【肉体人間としての執着…】でしたらと、一瞬!考えましたが??後で?【女子会…】で、
「亡き母」に似てる「森光子の写真…」を“投稿”しようかしら〜〜〜ン??
そうこうするうちに、既に…“デリ−ト”かと…??
http://matome.naver.jp/odai/2135293700899758901(参照URL…)
❤〜 パ−マの“ヘヤ―スタイル”の白黒写真で、冒頭に“宝塚風?”の顔写真

ブレイクしますが「亡き母」は50代になってから、ある人から「若い時は美人だったネ」と、
言われたそうで、当時の母は“ビックリ…”本当に、自覚のない母でしたから〜〜♫〜〜
「もっと!母を取りまく周りの方々が、同じ事を言って下さっていたら?」と、笑って良く
私にもパ−トナ−にも、よく話したものです。…が?その「亡き母」は、いつも“素顔”でした。
…が?■【霊界通信?霊の世界】からの知識を頂くようになりまして、「亡き母」は、今頃は?
手入れされてない“顔”で、私の心の中にある“見なれたいつもの顔”であの世に行きました。

そうです〜〜〜ョネ!あの頃の「亡き母の時代」では【美人像…】
確か?“丸顔”・“ぽっちゃり”…etcが【美人像の条件】でしたかしら〜〜〜ン
「亡き母」の顔は“面長美人”でしたので?当時は受け入れられない時代の背景でしょうかと。
今回の事を踏まえてみまして〜〜〜【整形…も】繰り返しの事なんでしょうかと??
【一つの比喩論…】で、考えた次第です。…が???
■【肉体人間…ではなく霊体人間…との自覚を持つ事が、全ての“物事の始まり〜♫〜”】でしょう。

再合掌

1631神の子さん:2012/11/17(土) 08:35:29 ID:???
>>1630

故人を勝手な憶測で貶めて恥ずかしく無いのでしょうか?

これが証拠だ!と整形医院のカルテ(ありえませんが)を提示されたとしとも、生長の家の信徒だと名乗る方の行いとは思えません!

そのようなことはそっとしておいてあげるのが、信仰者の姿では?

1632トキ:2012/11/17(土) 09:40:16 ID:Ejcv9Jp2
>>1630

 ご投稿、ありがとうございました。

 森光子さんの事、また私も書かさせていただきます。

 ただ、整形の話は私も聞いた事がありません。
あと、趣旨から考えると、できれば聖典板よりも部室か別室でお願いをいたします。

 せっかくご投稿して下さったのに、注文をつけまして、すみません。
今後とも、ご投稿をお願いいたします。

合掌 ありがとうございます

1633a hope:2012/11/17(土) 10:23:35 ID:lAQRWvUs
新版 生活読本 谷口雅春先生著
第七章 明るい心で運命を好くしましょう

♦何事も積極的に

物事を消極的に考える人は何事も成就するものではありません。
消極的と云うと何でも悲観的に考えることです。
悲観的と云うと、何でも「悪くなるかも知れぬ」と云う方から見て、
物事を引込み思案の考え方をすることであります。

一時の勝ちに乗じて度を過ごすのはよくありませんが、何をするにも、
悪くなるかも知れぬと思って尻込みしているのでは、大きな仕事は出来ようがありません。

原子爆弾でも、そんな巨大(すごくおおきい)なエネルギーが実用になるものかと、
日本が消極的に尻込みしている間に、アメリカはそれを研究してとうとう戦争に最後の勝利を勝ち得たではありませんが。
(つづく)

1634a hope:2012/11/17(土) 10:27:39 ID:lAQRWvUs
>>1633訂正 最後の行

勝ち得たではありませんが。→勝ち得たではありませんか。

1635NANCY:2012/11/17(土) 20:26:31 ID:jH5uEFzM
トキ様 ヘ
観覧者の皆様 ヘ
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【NANCY】です。

私の【再投稿…】が、問題になっているようですが…最終的に申し上げたい事は??
>>1629>>1630の投稿に関しましてですが……
❤【信仰…】この根本は“精神の向上…つまりは心の向上”と、申し上げたかったのです。…が?

■■『 生長の家 』の観相学   ≪谷口雅春先生の言葉より抜粋投稿≫

―― 手相よりも人相よりもその人の心である ――
>私たちが信じなければならないのは“形”のもとになっている“心”を如何にもつかという
ことである。心を明るくしてもてば運命も明るくなり、人相も明るくなる。
心が、「あらわれの形」に捉えられて自由を失い、心が暗くなれば運命が暗くなり、人相も暗く
なるのである。<     (一部抜粋)

>人の相を観る事を観相学と申します。人の相貌を見てその人の心を占うのであります。そして
心そのものがその人の運命を左右するのでありますから、人相を見れば心がわかり、心がわか
れば、その人の運命もわかるということになるのであります。そのことを引っくるめていえば、
肉体は心の影ということになります。<   (一部抜粋)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆

■『信仰者…』としての一番の心構えは??【心!!心!!そのモノの向上】では……
ないのでしょうか?…
ましてや?全く違う【もう一人の顔…その虚像の顔?】この事は、如何なものでしょうかと?
「整形…」とは、自分自身の“欲望…”??からなされますのでしょうかと?
果たして、厳密に申しますと? 外見からの優先しての“信仰…論?”なのでしょうか…??

■■その場合、価値ある本当の【個人指導…?】何処まで出来ますのでしょうか〜〜〜??

余談ですが…
【故人…森 光子さん】あの“素敵な笑顔…”誰よりも!心に残っています一人です。
晩年の彼女の顔…(東京・帝劇…ビル再建)という事で…しばらく?引退の様な状態に、なって
しまいました。…また?あの素敵な“笑顔〜♫”を、映像の中で観る事が出来ますでしょう!
その矢先にでの【訃報…】悲しい限りです。
此処にて、あらためまして故人のご冥福を心からお祈り申し上げます・・・。

                                    再合掌

1636ハマナス:2012/11/17(土) 20:40:12 ID:x2zmnlqw

神の子のみなさま
こんばんは。

神の声をきく  (『新版 生活の智慧365章』P.290)

 今、あなたがどんな困難と見える問題に直面していられようとも、それについてあなたは
心を悩ます必要はないのである。心を悩ますかわりに神の方へ振り向けばよいのである。
「神の方へ振り向く」と言っても、外方へ振り向くのではなく「自分の宿る神」に振りむく
のである。肉体は生命がその波動でつくった“神の宮”である。神が其処で、自己実現し
給う“場”であるのである。神想観に於て内在の神を呼び出し、それに対して話しかけるが
よいのである。

 神の声をきくには日常生活が浄くして神が其処の鎮まりますに相応(ふさ)わしくなけ
ればならないのである。だから能(あた)う限り「これは清浄なり」と自己がみとめ得る
生活を送るがよい。投げやりに肉体生活を汚(けが)して置いて、さて“困ったときの
神頼み”では神の子の皆さまの心に波長が合いそうにないのである。常に神と一体の自覚を
持つために生活を清浄にすると共に常に神想観を怠らず、神に波長が合うよう努むべきである。

感謝合掌

1637SAKURA:2012/11/17(土) 21:33:35 ID:jH5uEFzM
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1553>>1554>>1556>>1558>>1562>>1599>>1600>>1607>>1608>>1616>>1617
投稿の続きです。…が

日常生活面を、それなりに考えていきますと、私なりの「雅春先生の哲学」がみえて更に人生観が
感慨深いものになりますので、私なりに「生命哲学…勉強会」を〜♫〜では続き投稿していきます。
「雅春先生の例え…」として、投稿されていらっしゃいました記憶があります。…が?
ここは、まるで【四 無 量 心 の 心 の 世 界 観】でしょうか…??

■■『生命の実相哲学シリ−ズ…SAKURA論』
「生命の実相 37巻 より  ……
=======【抜粋文】================================
 素直に飛びついて来る子供はかわいがられる。素直に舅 姑の懐にとびついて来る嫁はかわい
がられる。素直に先生の懐に飛びついてくる生徒はかわいがられる。夫婦仲が悪いとか、家庭が
おもしろくないという人があるけれども、それは互いに飛びつくような素直さをなくしたからであ
る。神のみふところに飛びつく者は神に愛される。     谷口雅春著
                           
============================================
PS:【 素直さ?】が一番いいのでしょう〜〜〜かと…?

■例えば…混沌とした現在の社会問題になっています【幼児虐待…】ネガティブな話になりますが?
この様に“両親に虐待された環境に育った子供”は、“素直さ?”より、まず!“怖い…”が
先に優先となりますでしょ〜〜〜か!そのような“環境の子供”は、どうなるのでしょうか??
更に、“素直な子供に育つ事”は、もちろん“環境”更に“両親の愛”も幾分含んでいますから、
今回のこの“表現…言葉”も、捉え方が難しいです〜〜〜ョネ???
特に現代と言います時代背景に於きましては〜〜〜実に“難問”になりますでしょうか?
■更に、学校の教師が、ある子に対しまして“エコひいき…”します〜〜〜ョネ!!
そのような事を、学生が見て生じます“感情論…”ですと、これも“大人”に逆らう事になり、
【素直ではない!!】とか?その学生に対しての“評価”の言葉になるのではないのでしょうか?
■そして【夫婦の問題…】でも、単なる【夫婦間の問題】でしょうが〜〜〜?
よ〜〜〜く考えますと、それを飛び越えた【問題…】がある…例えば、相手の女性に手を上げる
暴力的行為は…果たして?それは女性はそのまま【素直…】に受け入れる問題でしょうか???

この【素直の表現】が、果たして【何処の階級の対象??】なのかを、今いま初めて思うのです。

一歩間違いますと…【表現も素直…】という“対象相手”が〜〜〜?相手の内容によっては、
かなり異なりますでしょうかと??(個人的な体験?経験?も踏まえて…)
「雅春先生」の当時の戦前の階級は、まぁ〜〜〜良家の家庭対象か??知識階級か?及び…
ある程の度富裕族か?…etcこの様な“環境での人達”の【対象論…】でしょうか??
それでも、この【表現…】は“ケ−ス・バイ・ケ−ス”です〜〜〜ョネ???
まず!この様な私の解釈論…同じような解釈をされます方が周りに〜〜〜><世の中ですが???
まず【素直に神様…に、すがる事!!全托!!】でしょうかしら〜〜〜ン???

❤【素直さ…が、祈り】に繋がるのでしょうかと思う次第です。…が?
これについては、【次回!別のボ−ド板】で、【素直〜♫】について“投稿”してみようと思います。

                                      再合掌

1638ハマナス:2012/11/18(日) 18:40:41 ID:x2zmnlqw

神の子のみなさま
こんばんは。

心を神に振り向ける (『新版 生活の智慧365章』P.291)

 若し病があるならば、常に神に心を振り向けよ。神は常にあなたの全身に新しき活力を
流れ入らしめ給いつつあるのである。その事を憶(おも)い出して念ぜよ。憶い出して念
ずることは、それに対して波長を合わせることになるのである。人間を物質として取り扱う
健康の法則は、時として「知恵の樹の果」を食して“エデンの楽園”を追い出されたアダム
のように、健康の世界から人間を追い出すことになるのである。不消化な食物を食べたから
胃が痛むとか、不眠が続くから頭痛がするとか言う人があるけれども、物質としての胃も、
頭脳も、それが単なる物質である限りに於て、物質は家具什器と同じようなものであるから、
それが痛いと云う感覚を起こす筈はないのである。

 「痛む」と云うのは心が痛むのである。“心が痛む”限りに於て、不消化とか不眠とか
云う肉体的物質的原因そのものが「痛み」の原因ではなくて、不消化とか不眠とか云うもの
に引っかかっていて恐怖する心が「痛む」のである。だから寧ろ病気の原因と認められる
ようなものを心で認めない方が、心がそれに引っかかって痛むことなく痛みが早く治るので
ある。病気の物資的原因を探(たず)ねるひまがあったら、心を神に振り向けよ、そして
神から新しき活力が間断なく流れ入るつつあると云うことを心に念ぜよ。

感謝合掌

1639NANCY:2012/11/18(日) 20:54:16 ID:jH5uEFzM
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)【NANCY】です。 
>>1635の投稿の続きです。

■■『 生長の家 』の観相学   ≪谷口雅春先生の言葉より抜粋投稿≫…

>人間の心は常に変化するものであります。だからその人の人相も常に変化するもので
ありまして、怒っているときには地獄の相でありますし、笑っているときはエビスの相であり、
極楽の相であります。しかし笑っていても怒っていても、しかしその奥にはその人でなければ
ならない特色ある性格があるのでありまして、その性格というのは一時的な笑いとか怒りとか
ではない―――心が習慣的にある一定の方向に向いているのが性格であります。そこで、一時
的な喜びとか悲しみとかいう心の感情をぬきにして、喜んでも悲しんでもいないときにも、あ
る想いの習慣性が心の底にながれていまして、それがまた人相として象徴(かたち)に現れて
いるのであります。<    (一部抜粋)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆

■【人間の心】…常に変化するから?【進歩向上…】へと繋がりますのでしょうかと、思います。
ところが?ある時点で?「後退…」へと…その場合は【ネガティブ感情・思考】でしょうかと?
思えます。
❤〜一般的には、個人の【心の持ち方…習慣性】が、多少は関与しますでしょうと思えます。…が?

精神的に“気落ち”しています場合は、当然の事ながら“鏡の中の私の顔…”覗き込みますと…
そうです〜〜〜ョネ!雅春先生の表現で行きますと【地獄の相】でしょか?
当に【心が形として…表れる】という事でしょう…。“顔の相”反省で〜〜〜す。

❤〜肉体とは……「雅春先生」も、おっしゃつていますが、
「『念』に従って一つの組織を現ぜるもの」・「心の影」・「心の波動の影」「想念の影」……etc
肉体と云いますモノは「現実=現象世界」での五官で見えるモノではなく、あくまでも……
『肉体…心の影』にて、あらわれる事を、おっしゃつています。格言にも「病は気から〜♫〜」かと。
つまりは【心…次第で肉体は?どうにでもなる〜〜〜の?】でしょうかとの判断になります。

■【心…】姿・形として“顔”に表れる…という事は、
ある面では【心の持ち方…最高の医療機関…整形医】でしょうか……??これは普遍でしょうか??
そして、この時こそ、当に【心…魂の向上】へと繋がりますから…ある面では、真の意味での
『人の救済…』が出来る状況になるのではないのでしょうか???

改めまして【心…魂の向上】を、私なりにレッスンして参りたく思います。
                                  
                                   再合掌

1640a hope:2012/11/19(月) 08:17:50 ID:lAQRWvUs
新版 生活読本 谷口雅春先生著
第七章 明るい心で運命を好くしましょう

♦悪いことを考えるな

「消極的」ということは、引込思案で物をひかえ目にするだけでなく、
病気でも、店の事業でも、「これは悪くなるぞ」という方面から考えたり、
また「悪くなるぞ」と云う言葉を口にしたりすることも「消極的」だと云うのであります。

「景気が悪くなるぞ」「苦難の道が待ってるぞ」「最低生活がやっと出来るほどだぞ」
「屹度(きっと)面白くないことがやってくるぞ」「自分の前途は駄目だ」などと云う考えはみな消極的な考えでありまして、
こんなことを思ったり、言ったりしていたのでは、「思い」の力、「言葉」の力で、破壊的な面白くないことがやってくるのであります。
(第七章 終り)

1641ハマナス:2012/11/19(月) 10:05:08 ID:x2zmnlqw

神の子のみなさま
おはようございます。

心が肉体の主人公 (『新版 生活の智慧365章』P.292)

 『人生は心で支配せよ』と云う私の本があるが、“自分の肉体は自分の心で支配施せよ”
である。何故なら、肉体は物質であり、物質はみずからの力にてその位置や構造を変化する
ことができず、その構造する細胞を健全な姿に置き並べ、その病的構造を健全な構造に組み
かえるのは“心”のハタラキであるからである。
 
その“心”が物質たる肉体に対する“支配者”たることを自覚せず、その “支配者”たる
権利を抛棄(ほうき)して、肉体の病気の物質的原因なるものの前に萎縮して、「こう云う
“物質的原因”があるから、このような病気になる」などと、“物質的原因”を主人公と
みとめて、其の前に拝跪(はいき)するようなことになったならば、“心”の委縮と恐怖
とが、その病的観念を肉体細胞に具象化して、ついに本当に病気を構成し、また新たに病気を
造ることになるのである。併しこの場合も、結局は“心”が主人公であって、その病的観念を
肉体に反映したにすぎないのである。

感謝合掌

1642うのはな:2012/11/19(月) 12:36:03 ID:cZ3Ym7Bg
仏に遭っては仏を殺し

 「仏に遭っては仏を殺し、祖に会っては租を殺す」と禅語にあるのは宗教の師に
遭ったら宗教の師を殺す、そして祖先や父母に会ったら祖先や父母を亡きものにするなどと云う
意味じゃないのであります。

 師恩は大切でありますが、本当の師は弟子に何を教えようとしたかと言うと「真理」を教えようと
したのであって、決して恩や愛着を売りつけようとしたのではありません。それなのに「あの先生が止め
たら、私もこの教えを止める」などと云う弟子があるが、これは「愛着」を受けとって「真理」を受け取っていない
のであります。
この「愛着」を断ち切って真理に直参するのが、「仏に遭っては仏を殺し、祖に会っては租を殺す」であります。

 家庭に於いても、本当に父母を愛しようと思ったら父母を殺さんといかぬのであります。
こう言っても刀なんかで突いて殺すのではありません。本当に父母を父母たらしめようと思ったならば、父母に対する
愛着を殺さねと父母を父母たらしめることが出来ないのであります。僕でも父母を殺しているのです。

 僕は世間的に謂えば、大変親不孝です。九十幾歳の老母を神戸に放ったらかしておるのです。
あれは恩愛の執着を殺しておるのです。恩愛の情を殺して置かぬと父母が父母として本当に生きることが出来ない。
若し私が「最高理想の生活は斯う云う理想の生活だから、お父さんとお母さんこう云う具合いになさい」と言って連れて来て、
そしてその通りにしなさいと言ったらお父さんお母さんは窮屈でとても堪え切れないで、
キッとお困りになるだろうと思うのであります。

 一燈園などでは「素恩入無為」と言っています。恩愛の情を一度棄て切って、「無為」即ち、「そのまま」の実相があらわれるのであります。

『日常生活の中の真理』無門関・聖書篇 谷口雅春 先生著

1643NANCY:2012/11/19(月) 21:01:05 ID:jH5uEFzM
「トキ様」 ヘ  「観覧者の皆様」 ヘ
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【NANCY】です。

■■『 生長の家 』の観相学   ≪谷口雅春先生の言葉より抜粋投稿≫…

―― 生まれつきの人相はどうして起こるか ――
>また、生れつき帝王になる人相とか、下賤の人相とかいうのがあります。人間はその本質はい
ずれも、神の生命がやどっているのでありますから、その本質においては平等でありますけれど
も、何編も生まれかわって来ているのでありますから、過去世(前世ともいう。この世に生れ出て
来るまでの前の世)において、いろいろ心に思ったことが集積して、それを習慣性の意業として
背負って生れて来ているのでありますから、その心をもっていても死ねばおしまいだから、どん
な心をもっていてもよいというような自暴自棄(ヤケクソ)のことを考えてはならないのであり
ます。

だから、ある意味では、人々は、生まれつき一定の心の習慣(性格)をもっていましたし、そ
の心の習慣にしたがって、一定の人相や体質をもっています。したがって、またその人の運命
もその心の習慣にしたがって大体きまっているともいえるのであります。しかし、大体きまっ
ていましても、心は自由に自分の大決心によっては、どうにでも自分の自由になるのでありま
すから、失望するにあたらない、心の変化にしたがって人相でも体質でも、ある程度変えるこ
とができ、修養の程度にしたがっては、大いに変えることができるのであります。<(抜粋)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆

■先日投稿しておりました「ジュリアの音信」…勿論「仏教」でも?言われておりますが…
『人は生まれかわります…』
しかしこの【生まれかわり…】と云いますのは…例えば「人格…」現在の私自身は、
つまりは「大きな人格…」のほんの一部であって『大いなる自我が限りなく神に近付こうと
進化致しています。やはりかけがえの
ない一個ずつの人格で、同じく神に向かって進化していきます。』

❤〜つまりは【神の生命…神の子たる人格へとの…進化】でしょうか???

そうしますと…当然「神の子…」誰もが「イメ−ジ」としては?柔和な?やさしい目元?…etc
つまり…個人個人で【神の子…としてのイメ−ジ】がありますでしょうから??
その“顔”も当然ながら、それなりの“心の想いが…表れますモノ”と思います。

前回『心は人相にあらわれる』と申しましたが…当に今!与えられていますの【人生劇場…】
に於きましては、この【人格…心の習慣】が、大いに左右するのです〜〜〜ネ!
ネガティブな感情(性格)を何時も心の中に抱いておりますと…確かに“顔…”まで、事実!
暗〜〜〜〜イ“顔”になりますし?これでは“運命”も〜〜〜><ますます下降気味でしょう。

「雅春先生」もおっしゃつていますが
>心は自由に自分の大決心によっては、どうにでも自分の自由になるのでありますから、失望
するにあたらない、心の変化にしたがって人相でも体質でも、ある程度変えることができ、修
養の程度にしたがっては、大いに変えることができるのであります。<(抜粋)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆

ですから、この【人生…】に於きましての【心の訓練…】です。そうなのです〜〜〜ョネ!
楽しく!明るく!…云々…とか?素晴らし〜〜〜イ!微笑みの顔…モナリザのほほ笑み!とか?
何と申しますか…?私自身が、どの様な“顔…”に「イメ−ジ」出来ますかと…さっそく
毎日!毎日!【心の向上…心のエクササイズ】です。

余談になりますが?【心のエクササイズ…】によります“素敵な顔”…は?
“後遺症”も、ありませんモノ〜ネ!むしろ…【魂も向上】ですから、良いことだらけでしょうか?

■あらゆる宗教の目的は…
キリスト教で申しますと…神の子としての自覚であり……
仏教で言いますと正等覚(さとり)をうることであり……
古神道でいえば『尊(みこと)』としての大自覚であり……
■■人生の目的は、要するにこの世に神の生命を顕現することでります…。と!
『神の子の自覚』…でしょうか?それなりの【行動・雰囲気(表情)…】になりますのではと、
改めて、色々考えてしまいました。…が??  

                                再合掌

1644SAKURA:2012/11/19(月) 22:01:28 ID:jH5uEFzM
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1553>>1554>>1556>>1558>>1562>>1599>>1600>>1607>>1608>>1616>>1617>>1637>>
投稿の続きです。…が

日常生活面を、それなりに考えていきますと、私なりの「雅春先生の哲学」がみえて更に人生観が
感慨深いものになりますので、私なりに「生命哲学…勉強会」を〜♫〜では続き投稿していきます。
「雅春先生の例え…」として、投稿されていらっしゃいました記憶があります。…が?
ここは、まるで【四 無 量 心 の 心 の 世 界 観】でしょうか…??

■■『生命の実相哲学シリ−ズ…SAKURA論』
「生命の実相 37巻 より  ……
=======【抜粋文】================================
 どんな美しいバラの花でも、その棘に触ったときにはハッと驚いて捨てられる。人に嫌われる
のは心に棘があるからである。これだけ立派な仕事をしているのに人が自分を遠ざけるというよ
うな人は、これだけ美しい花がさいているのになぜ人が捨てるのだろうと、みずから疑うバラの
はなようなものである。

 とげとげしい眼、とげとげしい言葉、とげとげしい行動、その一つ一つを制えようとしてもな
かなか直るものでない。まずとげとげしい心を捨てなければならぬ。とげとげしい心を捨てるに
は「とげとげしい心」をアリとして制えてもなかなか直るものではない。暗(やみ)は暗をいく
ら押さえてみても消えるものでない。暗を消すには光を持ってくるにかぎる。
とげとげしい心が自分にあると気づいたら、その反対を持ってくるのである。「自分は優しい優し
い人間であって、とげとげしいところはちっともない」と、その反対の念を自分自身にいって
聞かせればよいのである。                  谷口雅春著
===========================================

■【バラの花…】の捉え方でしょうか??人それぞれ??
私は【バラの花…】の連想は如何に??なりますでしょうかと??
まず“正しい方向に導く場合”は、時には【棘…】も必要になるとは思うのです。…が?
冷たい中にも、優しさが〜〜〜?含んでるモノ【バラの花…神秘性・気品】その様に思うのです。
「雅春先生」の解説では【バラの花…】の例えは、あまりいい印象が〜><ないのでしょうか?


■【バラの花言葉…】から〜〜〜❤〜
≪バラの花=愛・恋・幸福・乙女・無邪気・清新 バラの葉(希望あり、頑張れ)そして、
バラの茎(不幸中の幸い)〜〜〜≫から連想しますと、やはり!ある意味では、
冷たいところに【愛…❤】があるのです〜〜〜ョネ!!【イギリスの国花…】でもありますモノ!

【バラの茎】からでは、まず!正しい方向に振り向かせるモノが【不幸中の幸い…】と、つい
連想しますから、
【バラの棘…】は、とげとげしい感じに見えるという事は、その反対に…なればいいことでしょう
かと?つまり【心の方向転換…】をすればいいのでしょうか!それは【祈り…】でしょうか??

若い時は、思う通りにならない時、つい周りの“人のせい”にしやすく、これがもしかしますと
【バラの棘…】だったんです〜〜〜ョネ??
今では【私の棘…】は、目の前のビルに、います■【吸血鬼=ゾンビ=叩き男達…】でしょうか??
通勤途中でも、突然の出方で、こちらまで“嫌な気分”になり〜〜〜ついつい“イラ付く”事が?
このような時…【私の心はバラの棘に刺さった気持ち】ですから…
「不幸中の幸いで方向転換」のエクササイズ・トレ−ニング中です〜〜〜ョネ!!
【バラの花…】は、やはり【私の幸せ〰❤】を、授けてくれるものだと思います。…が?



                                    再合掌
PS: トキ様へ
トキ様にとりまして【バラの花…】どの様な連想を抱かれますのでしょうか??

1645ハマナス:2012/11/20(火) 08:37:05 ID:x2zmnlqw
神の子のみなさま
おはようございます。

「心」の自主権を恢復せよ  (『新版 生活の智慧365章』P.293)

 “心”が自己の唯心所現的な全能力を忘れて病気の物質的原因の前に恐怖し萎縮する
ときは、“心”はその全能力を抛棄(ほうき)し、物質に対する支配権を抛棄して、
物質の権威の前に跪いたことになるのである。本来“自主権”をもつ“心”が、その
自主権と物質支配権とを抛棄した結果は、“心”の本来性と矛盾し、“心”の本来性に
対して不調和となる結果、そこに其の反映として不調和な状態を肉体にあらわる結果と
なるのである。よろしく、“心”の自主権と、物質に対する支配権とを恢復すべし。

感謝合掌

1646うのはな:2012/11/20(火) 19:22:37 ID:08rsSsiE
心の窓を開く

 谷口雅春先生の「天使の声」という詩に、次のような行がある。

  或る日、私は心の窓を開いて、
  大生命のみ空から光線のように降り濺ぐ生命の讃歌に耳を傾けた。

 心の窓を開く、とはどんなことだろうか。よく、「目のうろこが落ちる」という表現が、
さとりの時の経験を述べる宗教家の言葉のなかにあるが、「心の窓を開く」というのもそう容易い
ことではないようである。自分の心の窓が閉じているか、開いているかは、見た世界がどんなふうなのかに
よってわかる。

 つまり、いままで知らなかったような、すばらしい実相世界があらわれるとき、それは、自分自身の実相の
自分になるわけである。見られる世界と見る人間とはもともとひとつなのだから、私たちが、現象の自分のなかに閉じこもって
いれば、見られる世界も現象もということになる。

 そして、実相とか現象とかいう区別も、もともと深い宗教体験によってはじめて実感として自分のものになるわけである。
実相を観ずることは、五官の世界を去って、はじめてできるが、五官の世界を去るとは、目を閉じなければならないとは限らない。
キリスト教神秘思想家のうちには、目を開いていて、そのまま世界が荘厳な神の国に変貌するのを体験した人たちもすくなくない。

 もっとも、実相を観ずることは、神秘といえば神秘だが、逆に、もっとも現実的なものが実相であるから、それは却って、神秘という
「彼方」のものであるより、「いま、此処」という確実で現実的なものであるとも言える。
よく、「実相はすばらしいが、現実はちがう」というように、実相というものを、ただ理想の彼方にある現実の否定概念として考える人がいる。
しかし、実相=実在ということばは、「ほんとうに在るもの」という意味であるから、それは、もともとリアル(現実的)なものなのである。

 私たちの目の前にある樹木や、草原や、鳥や、人々というものが誰の目にも同じように物として私たちと無関係にあるのではない。
私たちが、ふつう、物がある、と見たり、思ったりするときは、そうしたものは、私たちが見ても、見なくても同じようにあるように思われがちである。
しかし、ほんとうは物は、私たちに示す、隠れたものの顔のようなものである。

 樹や花や山なども、私たちの向きあい方に従って、素早く表情を変える。だから、一本の樹を見るときも、私たちの心の姿勢が曇っていたり、ゆがんでいたりしては、
樹は、ほんとうの姿を見せてはくれない。同じことは、じぶんの子どもたちでもそうである。
自分が子供たちに対するいろいろな要求に泡立っていれば、子どもたちもそれにふさわしい姿で現われる。
生長の家では、それを仏教の「三界は唯心の所現」という言葉で明らかにしている。

 谷口雅春先生が、前掲の詩を歌われたのは神啓を受けられたときであった。
そして、その詩のあとに、先生は次のように書いておられる。
 ≪わたしはついに神を見出し、本当の自分を見出したのであった。三界は唯心の所現である、その心をも、また現ずるところの
現象をも、一切空無と截ち切って、その空無を縦に貫く久遠不滅の大生命が自分であった。それ以来、私の見る景色が変貌した。......≫
(『生命の實相』頭注版第20巻一三八頁)これは窮極の体験とも言える稀有の瞬間であるが、私たちも、心の窓を開くことによって
現象否定の極から実相の開花を体験できることになる。

 ひとつの花が開くというのも、これは、永い修練を通して到り得る境であるが、同時に、素直な、明るい、予断のない、無我と感謝の、そのままの
いのちが、自分のうちに開くとき、花の美しいいのちの開花をじかに感じ得るのである。
 現実とは、じっさい、途方もない世界なのである。美しく、荘厳で、清らかな、言葉を超えた世界の秩序である。
それを描こうとして本当の画家は、カンバスをひろげる。しかし、そのためには彼は、何らかの意味でその世界をすでに体験していなければならない。
そして同時に、それはこれから開かれるものを持つ、ことになる。

 子供の実相を観ずるとは、だから、親の側で、心の窓を開くことなのである。
素直になることである。拝むことである。それは情の問題であるとともに、正しい認識である。
もっとも現実的なものに出会うことなのである。

  『光の国から』 渋谷晴雄 先生著

1647うのはな:2012/11/20(火) 21:25:28 ID:q1/hjc9I
夫の喜壽によせて

 結婚して半年ほど経た頃に、私は心臓弁膜症にかかって寝ついてしまった。
それは京都府亀岡町矢田町の新居でのことであった。
 六畳と四畳半二間の一戸建ての家だったが、狭い庭に高い土塀が立っていたので、光線が
足りなくて暗い家であった。

 人の薦めもあったので転宅することにして、探し当てたのは今なお思い出してもなつかしい余力町の、
四畳半と三畳の家主の離家であって、前も後も見はるかす晴れ晴れとした住居であった。
 夫が講習会の時などによく話される二円の家賃で、雨漏の跡に茸が畳に生えた家であった。
そのあたりでは最低の家賃だったが、私たち夫婦は大好きな家であった。

 一人暮らしの家主の宮部みのさんは七十五歳の老婆だったが、私たち夫婦を非常に好いて下さったし、
私たちもこのクリスチャンの老夫人と、何を話してもよく気が合って楽しかった。いつまでもこの家に住んでいたいと
願っていたのに、大本教の綾部の本部の仕事をして欲しいと湯浅仁蔡氏が出口王仁三郎師のお使いとして来られたので、
綾部に移転しなければならなくなった。

 私たち二人は、綾部のコンニャク屋の二階二室を借りて住むことになったが、二ヵ月ほどしたら、近くの今井楳軒先生の
別宅の留守番の人が去ったから、私たちに住んで欲しいと頼まれて、結婚前に私が住んでいたその家に、再び住むことになった。
 その頃、夫は大本教の教に疑問を持ちはじめられ、信仰に動揺があった。
間もなく、大本教の第一次事件が起った。先きに亀岡の矢田町にいた頃、夫の留守中に家宅捜査を受け、天井裏から床下まで調べられたが、
夫の思想や行動に不審な点がなかったので、第一次事件の時は、夫は取調べを受けることはなかった。
それどころか・大阪控訴院から、当時押収された大本教租のお筆先二万冊の内容調査を依頼された三人(谷口、江上、吉田)のうちの一人として、
夫は四十日ほどの間、大阪の控訴院通いをすることになった。

 夫の留守の四十日を、一人淋しく暮すよりは、故郷へ帰った方がよいと思い、私は姉に手紙を書いた。
姉にとっても、私が来てくれることは好都合だったらしい。夫は大阪へ、私は富山県高岡市へと、別れ別れに汽車に乗った。
 当時、姉の夫はノイローゼになっていた。霊場と言われて、年中修行者の絶えない大岩山へ、義兄を連れて行くことを人から
勧められるが、姉は学校の教員をしていたし、息子たちは中学生だったし、義兄の随行者がいないので決行できなかった時だったので、
早速私がその役を引き受けた。

 汽車に乗って、人力車に乗りついで、義兄と私とは大岩山へ登った。
山上のお寺には不動明王が祀ってあり、岩山から流れ落ちる瀧の下には、白衣を着た人たちが瀧に打たれていた。
脳の悪い人、眼の悪い人が多かった。瀧壺の前にお不動様の堂が建っており、その堂の四囲にぐるりと人々が坐り、
各自が鉦を叩きながらお経を唱和するのであった。


つづく

1648うのはな:2012/11/20(火) 21:26:04 ID:q1/hjc9I
 少しも眼を離すことのできない義兄の状態であった。私が見ていないと、いつ山から跳び降りるかも知れないし、
瀧壺で死ぬかも知れないので、義兄の眠っているすきを見ては、私はお堂の前に坐って、他の人たちから習ったばかりの御経を唱和した。
鉦を叩きながら義兄を思い、姉や姉の子供たちのことを思うと、涙があふれて来た。
その私の心中も知らないで、鉦を叩きながら、「やあ、奥さん、よい声ですね」と、實感か、ひやかしか、男の人が、お経にまぜて叫ぶと、
私はよけい情なかった。

 義兄が私の眠っている間に飛び出さないかと思うと、夜ごとの眠りも浅かった。
その私の許へ、或る日大阪の夫から手紙が来た。なつかしさいっぱいで、宿の机によって開封した私は、読み終えると机上に泣き伏した。
夫の手紙は私に絶望を与えたのであった。
「....毎日控訴院へ通って仕事にはげんで居るが、相当疲れて来たらしく、夜眠っている時は亀臥の姿勢でいるそうである。同室の江上さんが
僕に『君の亀臥の蚊達で寝ているが、その状態では君の寿命は三年ももたない』と言った。年配の江上さんの経験上そう断言したのだろう....」
という意味のことが書いてあった。

 若い私は、そのまま信じたので、山上の宿屋から、高岡市の姉へその通り書き送った。
姉からは世にも悲しい返事が来た。妹の私の不運を憐れみ、姉も私のために涙を流してくれているようであった。
姉と妹とは、たがいの夫の上を思い、手紙の上で泣き合ったのであった。
「義兄さん、しっかりして下さい。貴方は命にかかわりのない脳の病気だけど、雅春さんは三年もたない命なんですよ」
私は義兄に向って、叱るような、はげますような口調で叫んだ。義兄はうつろな眼をして私の言葉を聞いていた。

 “控訴院の仕事が予定より少し早く終ったので、綾部へ帰って来たから、貴女もそろそろ帰って欲しい”との夫の手紙を見て、
私は義兄をうながして高岡へ帰った。夫の許へ出発しようとする私に、姉は、「雅春さんはしょんぼりして居られるでしょう。
綺麗にして帰りなさい。丸髷に結ってびっくりさせなさい」と言った。

 姉の知り合いの髪結いさんへ行って、丸髷に結って汽車に乗った。姉は関野神社前の出店で、“一口茄子”を買って大袋に入れて私に持たせた。
綾部駅のプラットホームに着いた時、果してそこに出迎えいる夫の姿があった。
汽車から降り立った私は、わざと夫の方へ背を向けて茄子の袋をさわりながら、チラと夫の様子を見ると、期待した妻の姿が見えないので、うろうろして
あたりを見まわして居られた。私は可笑しがりながら、サッサと改札口へ行き、そこに立って、あとからやって来た夫にお辞儀をした。
その時の夫の驚き顔は、いつまでも忘れられない。

 二十九歳の時、三年後には死ぬ筈だった夫が、今年は喜壽を祝うことになった。
神様は、壬死できない大きな、重い使命を与え給うたのであった。

(現代字に変更 投稿者) 『人生の光と影』 谷口輝子 先生著

1649NANCY:2012/11/20(火) 21:48:35 ID:jH5uEFzM
「トキ様」 ヘ  「観覧者の皆様」 ヘ
こんばんは……  ローマ字(大文字)の【NANCY】です。
>>1635>>1639>>1643>>の投稿の続きです。

■■『 生長の家 』の観相学   ≪谷口雅春先生の言葉より抜粋投稿≫…
―― 人間の本体と霊体 ――

人間が本来平等であるという人間の本性は、図解の中心点にある「神の生命」でありまして、これは   
万人とも同じ「神の生命」であって、はじめから救われている清浄体であります。それは時間・空間
以前の存在でありますから大いさもないので、「点」をもってあらわしました。本当は「点」でもないので
すから「点」もかく必要がないのですけれども、何も書いても図解はできませんから「点」を書きました。
この「神の生命」は生きていますから動くのであります。動くと、ちょうど、池の中へ小石をほり込んだ
ように波のひろがりができるということであります。これは「神の生命」の最初の第一念の直接波であり
ますから、清浄な、きよらかな「波の体」であります。これを「霊体」と申します。もっとも「霊体」は肉眼
には見えません。 (谷口雅春先生著…一部抜粋)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆

■前回ですが…「人間は神の生命がやどっている…」という事を、更に「雅春先生」は、
肉体
エーテル体
幽体
霊体
神の生命…… 
■この【神の生命…】に、至るまでの“説明”を〜〜〜♫〜〜

「湖面に小石を投げました時の“波紋”…これにての説明」を頂き…そうなのです〜〜〜ョネ!と…納得!
【霊界通信…】でも、現世=現実世界での、つまりは五官で見えます【肉体人間…】から〜〜
次なる【世界…霊界】へとの説明が、同様になされていまして、今回!更に、理解ができました。…が?

では?形としてあらわれている【肉体人間…】は?どの様なモノ?なのでしょうか〜〜〜?

■■何度も言います様に【心で変わる!】
そうです!!
❤〜変わる〜変わる〜変わる〜♫〜『こころで変わる……』という事でしょうか??
                                                再合掌

1650うのはな:2012/11/21(水) 01:29:25 ID:MXfo9tzo

 『光明法語』道の巻より 谷口雅春 先生著

    酒は飲まぬ方が好い

 祈りをする時には茶断ち塩断ちの如き「断ち物」は要らないのである。
 祈りは親に会う時であるから憔悴したる顔付きをして見せるな。
 寧ろ神の恵みであるすべてのものを豊富にとり、顔を剃り、脂を塗り、髪を
 梳って元気な顔をして祈るべきである。

 全て明るい心持は明るい事物を引き寄せるのである。
 しかし酒は飲まぬ方が好い。
 酒を飲むと一時気分を明るくするが、それは麻酔剤であるから一時の心の
 暗さをごまかすのであって、次が乱れて来る。
 生活に節度がなくなり、節度がない事を豪傑ぶって自慢するようになる。

1651a hope:2012/11/21(水) 09:07:30 ID:lAQRWvUs
新版 生活読本 谷口雅春先生著
第八章 斯(こ)うして希望を実現しましょう

♦物事は建設的に明るく考えよ

何でも物を建設して行くことの出来る思想は明るい思想でなければならないのです。
建設と云うのは、毀(こわ)して行く反対です。次へ次へと物をつくって伸びていくことです。

伸びて行くためには明るい心でなければならないのです。
暗い思想は破壊的(こわすこと)で、明るい思想は建設的であります。

破壊的な言葉を使い、破壊的な考え方をしている人には、美しい生活も、幸福な生活も逃げてしまうのであります。
そして親切な協力者は無くなってしまいます。

何故なら破壊的な言葉や、考え方は、「類は類を呼ぶ」「類は友を呼ぶ」法則に従って、
破壊的なもののみを引き寄せるからであります。

伸びる力は、荒々しく怒鳴る言葉や、暗く沈んで行く考えの中にはありません。
だからそういう言葉を使ったり、考えたりしていては事業は失敗し、仕事はうまく行かず、
常に社会の落後者(おちぶれもの)となるのであります。
(つづく)

1652ハマナス:2012/11/21(水) 10:01:22 ID:x2zmnlqw

神の子のみなさま

おはようございます。秋晴れの素晴らしいお天気で気持ちが良いです。
本日から、総本山で秋季大祭が行われます。

神の方に全回転せよ  (『新版 生活の智慧365章』P.293)

 神が生命の本源者であるから、生命に不調和があらわれたときには、心を神に振り向けて
本源者より健全なる生命の充分なる供給を受けなければならないのである。神に対して心を
振り向けよ。病気のときほど、病気の症状に“心”を振り向けず、神に対して心を振り向けよ。
完全に“心”が神に振り向けば、滔々(とうとう)として癒す力があなたに流れ入るであろう。

感謝合掌

1653SAKURA:2012/11/21(水) 20:36:54 ID:jH5uEFzM
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1553>>1554>>1556>>1558>>1562>>1599>>1600>>1607>>1608>>1616>>1617>>1637
>>1644>>投稿の続きです。…が

日常生活面を、それなりに考えていきますと、私なりの「雅春先生の哲学」が見えまして、
更に“人生観”が〜〜実に!感慨深いものになりますので、私なりに「生命哲学…勉強会」を
〜♫〜では“続き投稿”していきます。
「雅春先生の例え…」として、投稿されていらっしゃいました記憶があります。…が?
ここは、まるで【四 無 量 心 の 心 の 世 界 観】でしょうか…??

■■『生命の実相哲学シリ−ズ…SAKURA論』
「生命の実相 37巻 より  ……    ①

=======【抜粋文】================================
 常に新しくなるものは老いない。老いるとは常に新しくなれないことの別名である。人体の
細胞を切り離して培養し、その培養基を常に新しく取り替えれば、結局人間の細胞は永遠に分
裂増殖して死なないものであることが生物学上の実験によって確かめられたという。人間の肉
体が老いて衰え死するということは、細胞が複雑に組み合っているために、常に新しくなれな
いからであって、必ずしも人間が老衰死するということが運命ではないのである。ただ老衰死
の原因は常にわれらが新しくなれないということが原因である。

 人間の心もそのとおりである、常に毎日新しくなれないものは死につつあるものである。陳
(ふる)びつつあるものである。

 老人が陳腐であるといって人から嫌われるのは、ただ過去の楕力で生きており、過去の楕力
でものを考え、過去の楕力で行為をし、過去の楕力で若い人を推し測るからである。

 過去の楕力で行為されたものは、すでに形骸であって生命はない。これを称して型にはまる
というのである。型にはまっているものは形は立派に見えても、もう屍である。
                            (谷口雅春著 抜粋)
============================================

■【分派の方達…】は「雅春先生の古〰〜イ?本」を、読まれて?投稿されています。…が?
「雅春先生」は、当時は【真理追究…】に、明け暮れていらっしゃいまして、次々に本を、
書かれたのです〜〜〜ョネ!!まるで【小乗経=>大乗経】の様になりますかしら〜〜〜ン?
…そうしますと「雅春先生の書籍本」から見ていきますと“前半”より“後半”の方が、より
理解しやすい表現?ではと…“前半”は難しい言葉が多く、「理解度」としては???
更に!後半の【真理の捉え方…】が、奥が深〜〜〜く!なっていられるのでありますかと?
…これも【お釈迦…】に、例えましても、実に似ています〜〜〜ョネ!

■時代が複雑になり、人間の“心”も複雑で、絡み合っていますから〜〜〜それと同様に、
【真理…探究】も、同じやり方では?果たして…何処まで通用するモノなのでしょうか!!
【仏教。。。】でも「小乗経」・「大乗経」に於けます【真理の方便…】は、より「大乗教の方」
が解りやすく、解説されていますので、一つの【比喩論…】に於きましても、時代の変化に
伴って【お釈迦様の“心”も?変化…では?】そうしますと、これは【進歩…】のみになる
のではないでしょうかと?
 
つづく

1654SAKURA:2012/11/21(水) 20:38:39 ID:jH5uEFzM
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1553>>1554>>1556>>1558>>1562>>1599>>1600>>1607>>1608>>1616>>1617>>1637
>>1644>>1653>>投稿の続きです。…が

「生命の実相 37巻 より  ……    ②  
 >>1653①続き投稿から〜〜〜。

■私達…戦後生まれ…更に!戦後教育のおかげで、より深〜〜く!【真理…追究】します
から、当に!【真理追究への方便…】は、多種多様になっていくように思えます。…が?
…【分派の皆様方達】は、古〜〜〜イ!書籍本の例えに、現実!第三者から見ましても、
しがみついている様に“ムシ”になるのではなく“心”を広げて、相手を認める豊かな
“心…”も、ある面では必要でしょうかと???
“ムシ”のような“心の執着”は、やはりこれも【老人化…】の始まりでしょうか??
いつまでも【進歩…】もなく、同じ“方便スタイル”での繰り返しのように思えます。
今までの投稿内容が【分派の方達…投稿】と致しますと、文体からの【真理追究…】が、
残念ながら見えないのです。少しでも認める“豊かな心”更に【真理…】を正しく把握
して…救済へと導いて頂きたいモノです〜〜〜ョネ!!

この様に、彼らを見ながら、私も【進歩向上へ】と、更に【繰り返しの無い正しい真理追究】
を、唯今!【再発見中…】です!!
「雅春先生の言葉」より、あらたに【新しい真理…】を探し求めていく“私”なのです。
そして、それを活かすのが【生長の家…の宗教】ではないでしょうかと??
【形…】にハマりすぎますと、【固定観念…】で、身動きが出来なくなりガンジガラメ!!
その前に、まず!“自由な心”になる事では??ないのでしょうかと……?
【形に固まらない…モット!モット!自由な明るい「生長の家」になる事であり、この事は
私の“心の羽…”を、大きく羽ばたかせ〜伸ばすモノでしょう……と!!
私も、まだ!まだ!【真理…追究中】で〜〜〜す。         (再合掌)

Ps:「トキ様」は、【形にハマらない!】とおっしゃいながらも【無意識…】にと申しますか、
“ハマっている”のではないでしょうか〜〜〜??
“心を自由に〜♫〜描く…キャンパス”のように、今からいい方向にへと……
“心のキャンパス〜♫〜”を、パステルカラ−に、塗ってみませんか〜〜〜?

1655うのはな:2012/11/21(水) 21:49:06 ID:shBPIho6

     家庭の雰囲気をよくするには明るい表情を

 “夫婦げんか”という“憑き物”を『真理の吟唱』によって追い祓うと同時に、
夫婦家族仲良くするには、表情を柔らかくし、愛ふかく深切な感じを常に心懸けることが大切である。
「人間はおかしいから笑うのではなく、笑うからおかしくなるのである。人間は悲しいから渋面をつくるのではなく、
 渋面をつくるからかなしくなるのである。」というジェームス・ランゲの法則という心理学上の法則がある。

 人間の表情というものは大切なものであって、御自分が鏡に向って、“泣き面”をしてみたら、どんな感じになるか、
にこにこと笑ってみたら、どんな感じになるか実験してみればお分りになると思うのである。
肉体というものは唯の物質の塊ではなく、“心の動き”の表現であるから、無理にでも“楽しい表情”をすると、“心の動き”
の方にそれが反射して行って“楽しい心”を起こすことになるのである。

 もし奥様が、常に眉に皺をよせて不快な表情をしていたら、その顔を見ている夫に、その不快感情が伝染して、
夫も不快になり、いらただしくなり、家に帰るのが面白くなくなり、それをまぎらわすためにキャバレーなどに行くようになり、
そこから他の女との関係も起こることもあるので、妻というものは夫の顔を見るとき常に明るい楽しい表情をして、
「わたくし、あなたと一緒にいるのがうれしいの」というような感じを与えるようでなければならない。


  『愛はかくして完成す』谷口雅春 先生著

1656a hope:2012/11/22(木) 07:54:38 ID:lAQRWvUs
新版 生活読本 谷口雅春先生著
第八章 斯(こ)うして希望を実現しましょう

♦何事をするにも真に「出来る」と思うまで手をだすな

物事を悲観的に考えてはなりません。
悲観的な考え方は人生に希望をなくし、夢を抹殺し、美しいものを萎(しお)れさせてしまいます。
美しいものを生かすには、どうしても物事を楽観的に考えることが必要であります。

何事をするにしても、その力の大部分は自己が成し得ると云う信念にあるのです。
自己が成し得ると考えないでいて何事をなしても真に成功するものではありません。

何事をするにも真に「出来る」と思うまで手を出さぬことです。
自分は「上手に出来る」と思うまでは真に出来るようになるものではありません。

形の世界は心の影であります。
形の世界にそれがあらわれてくるまでには、形の世界にそれを押しだす力が必要なのです。
心の世界に強くハッキリ出来上ったものが形の世界にあらわれてくるのであります。
(つづく)

1657うのはな:2012/11/22(木) 10:53:18 ID:eorGcccE

当時生長の家本部の理事の一人であった徳久克己博士は、産婦人科の博士で、
満州の興安病院の副院長をしておられた。あの人が儲かる産婦人科の仕事をかなぐり捨てて、
宗教へ飛び込んで来られた心境の変化は、御自身の著書『よろこびの発見』にくわしく出ています。

 この本は「科学者が何故宗教を信ずるか」の参考になってよい本です。
この徳久博士が、満州に居られた時分にお書きになった本に『夫と妻との間』と云う本がありますが、
あの本を読んでみると、「原因不明で子供が産まれない時には産婦人科の医者ではこれを“子宮の発育不全”
という名前をつけるのが習慣になっている」と書かれている。

 実際、腹をたち割って子宮の発育が不全かどうかみないのですから、本当は分からないのです。
だけれども、そういう風に唱える習慣になっていると云うのであります。
 あの徳久博士が僕が初めて満州に講習会に行きました時に、結婚して七年間子供が産まれなかった。
その時、ちょうど生長の家の講習会がありましたので、講習後、私の宿に尋ねて来られて、「先生、私は結婚
して七年になりますが、子供がうまれないんですが、どうしたら子供が産まれますか教えて下さい」と言われた。

「君、産婦人科のお医者さんで、それが専門じゃないか。こちらはそんな、どうしたら子供を妊娠するか知らんよ。
然し心の持ち方なら教えてあげる」と云うことを言ったものです。そしたらその翌年、また満州へ行きましたら、また
夫婦づれでやって来られて、奥さんが妊娠してもう七か月にもなっていられました。

「先生の教えをきく迄はどうしても妊娠しなかったけれど、先生が来られたら一遍に妊娠しましたから、それでこの子供は
先生にこしらえて貰ったようなものですから、名前をつけて下さい」とたのまれた。
 その子供が生まれるための心の持ち方と云うのは、結局、夫婦が互いに霊魂に於いて一体だと云うことを知り、互いに相手を快楽の
道具などにせず、一体の悦びを味わうために夫婦生活をすると云うことなんです。
「ともかく、満州と内地とでは名前をつけるのも大変だから、名前を郵便で届ける間に戸籍登録の期間に遅れてしまうといかんから、まあ
自分でつけ給え」と私は言った。

 その産まれた子供が、徳久日出一君であります。その子が父の徳久博士に似ていない。
お父さんの色の黒い、その頃は痩せて細長い顔をしていられた。その産まれた子供がお父さんにちいっとも似ていない。
何に似ているかと云うと、私がその時「万徳円満」と書いてあげた掛軸があるのです。
その掛軸を胎教の為に毎日見つめておられたので、その「円満」の“円”という字がまんまるく行書で書いてあった、それを
一所懸命みつめておられたら、その行書の“円”と云う字の通りの丸顔の可愛い顔をして生まれたのであります。
今でも丸顔の可愛い顔をしているのです。こう云う様に、胎教というものは素晴らしく効果があるのであります。

 何しろ、人間の卵は鶏の卵みたいに大きくはないのです。直径百二十五分の一吋と云うから、虫眼鏡で見んならん程に小さい。
その一個の卵子が二個に分裂し、二個が四個に分裂し、四個が八個に分裂し、八個が十六個になり、十六個が三十二個になり、三十二個が六十四個になり、
ずうっと分裂して増えて行って、生まれるときには八百匁とかになる。増えるだけでは駄目であります。
単に細胞が増殖しただけではブドウ状鬼胎になる。そこに魂が宿るのです。

つづく

1658うのはな:2012/11/22(木) 10:54:17 ID:eorGcccE
>1657

 即ち“神の子”の理念に随ってずーっと列んで、心臓は心臓に、肺臓は肺臓にとなって、それが組織され配列されて、人体となってオギャーと出て来るのであります。
そうすると、その赤ん坊は小さいので五、六百匁、大きいのでは一貫五百匁というのもあるけれど、
ともかく何十万倍と云う大きさになるのです。この小さい虫眼鏡で見んならん卵子が何十万倍になるから、
一つの卵子が分裂して二個になることを一代として計算すると、何十万代の間、腹の中でそだっていることになるのであります。
その間、腹の中で、母親の精神波動によって、教育されているのであります。
それが胎教であります。

 だから胎教位大切なものはないのであります。だから、いい子供をこしらえようと思ったら胎教が非常に大切であります。
妊娠したら、まず夫婦が調和しなければいけないですね。部屋の飾りも、剣やら、槍やら、鹿の角なんかを置いて飾っておくのは
尖った部屋の空気をつくるからいかんですね。部屋のどこかに美しい花の一輪ざしを置いておくとか、可愛い人形を置いておくとか、
私は美しい容貌の子供が欲しいと思ったら、自分の理想とする様な容貌の人形又は写真を飾る。
こういう顔の子供が欲しいと思ったら、そういう写真を置いて、ジィーっと見つめる様にして居りますと、心の描いた通りのものになると
云うのが原則なんですから、夫婦が調和すると、そういういい子が出来るのであります。

 私の家内が妊娠して居りました時には私は『聖フランシスの完全の鏡』と云う本にある聖キアーラと云う聖女の壁画の写真を壁に貼り付けて
家内に毎日見詰めさすようにしていましたら、今でも真正面向きの私の娘の顔が、その聖キアーラの肖像によく似ていると思うことがあるのであります。

 『日常生活の真理』無門関・聖書篇 谷口雅春 先生著

1659ハマナス:2012/11/22(木) 13:12:12 ID:x2zmnlqw

神の子のみなさま
こんにちは。

「愛憎の神」を超えよ  (『新版 生活の智慧365章』P.294)

 神に振り向くと言っても、色々の神々があるのである。個性をもち愛憎の念をもって
活動する個別的神霊の方に振り向くならば、個別的神霊の愛憎の念に吾々は支配され、
その前に跪(ひざまず)くことになるのである。愛憎の念ある個別神霊の前に跪くならば、
愛念を受けるときはご利益を生ずるし、憎念を受けるときはその反対の結果を生ずる恐怖
があるから、その恐怖心が具象化して次なる不幸や病気を具体化することになるのである。

 私たちは愛憎の神を超えて、普遍の神、平等の愛の神に振り向かなければならない。
其の時はじめて恐怖心がなくなり、平和が心におとずれ、その心の具象化として、祥福が
実現するのである。

感謝合掌

1660うのはな:2012/11/22(木) 16:36:42 ID:vkulhJXI
 1657,1658

 上記は『日常生活の中の真理』無門関・聖書篇 第4章 夫婦は一体である 

 の中からの途中からの一部抜粋であることをお断りしておきます。

 拝。

1661SAKURA:2012/11/22(木) 21:04:36 ID:jH5uEFzM
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ

こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1553>>1554>>1556>>1558>>1562>>1599>>1600>>1607>>1608>>1616>>1617>>1637
>>1644>>1653>>投稿の続きです。…が

日常生活面を、それなりに考えていきますと、私なりの「雅春先生の哲学」が見えまして、
更に“人生観”が〜〜実に!感慨深いものになりますので、私なりに「生命哲学…勉強会」を〜♫〜
では“続き投稿”していきます。
「雅春先生の例え…」として、投稿されていらっしゃいました記憶があります。…が?
ここは、まるで【四 無 量 心 の 心 の 世 界 観】でしょうか…??

■■ 『生命の実相哲学シリ−ズ…SAKURA論』
「生命の実相 37巻 より  ……
   
=======【抜粋文】=================================
 ぼつぼつ樹木に新しい芽が出る。まだ*双葉*にも開かない前の、あのふっくりとした逞し
い樹の眼を見ていると、本当に若々しい生命に触れた気がする。開き切った葉よりもまだ
開かない新芽の方に力がある。生命は久遠であるが、現象界のものは何物でもまだ完全
に開き切らないものには底力がこもっている。宗教でも古い時代に起こったものは過ぎ
去る。今は新しい時代が来つつあるのである。史代革新期である。新しい酒を古き革袋に
いれるときは破れる。                    ( 谷口雅春著 )
============================================

■新しい“芽…”は【 現総裁雅宣先生…「生長の家」… 】でしょうか〜〜〜と??
「古い殻」に、閉じ込められたのも〜〜〜いつの間にか??知らず知らずと言いますか??
私の【生長の家の思想…】は、変!変!〜〜変!な具合です。
昨年からのまず【分派…の方達】の言動の現総裁先生への「中傷…」に驚くばかりの昨今でした。
ですが〜〜〜?このような方達が【古い信者???ナノ???】不思議です。
「亡き父の時代」から見ていきますと、異なることばかり〜〜〜ようやく「現総裁雅宣先生」が、最初
の基本に戻るが〜〜〜?という事ですから判断しますと〜〜〜?

■■ > 古い革袋に入れますと破れる…… !!<

これは“古いやり方”も、同様に【再起動…開始!】としますと?果たして〜〜〜><
【進歩向上へ道…】は、ないモノです〜〜〜かしらン!と……その様に思う次第です。

此処で【 破れないため… 】には、当然のことながら【 新しい息吹き… 】が必要ではないでしょうか?
それは、時代に合った【 新しい真理の解釈論 】なので〜〜す!!現代人の心に響く【真理…解釈論】
私は、今回!「現総裁雅宣先生」は【正しい選択・決断!!】された様に、も思えます。…が?喝采!!

そして、古き時代から…そして今!当に、今からが、本当の意味での進歩向上にと……繋がる!
【生長の家の論理観】を……世界に繋ぐ……これが【人 類 光 明 化】でしょうか〜〜〜♫ 
■【真理の吟唱…】に 記載されています!!                

  再合掌

1662うのはな:2012/11/23(金) 09:14:14 ID:i3j8Ep5w
>1647,1648   谷口輝子先生 著 『人生の光と影』  カバー装画 谷口壽美 先生

<夫の喜壽によせて> 、投稿者の独断で現代漢字に変えて書写させていただきました。

  光明掲示板 いい夫婦 http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&amp;mode=res&amp;log=737

1663「訊け」管理人:2012/11/23(金) 10:19:35 ID:???

『生命の實相』第27巻127頁より謹写――


 彼は「事実に面しては」という。しかしその「事実」とは何ぞや。現象のみ、本来無きもののみ。しかもこの「本来無き現象」をありと観るかぎり、彼のごとく実相一如の世界に没入する体験を得るとも、何人も「われらは弱し、われらは完からず」と嘆ぜざるをえないのである。しかし、これを「事実」というのはまちがいであるのである。知れ、事実というは実相のみであるのである。だから実相の実在のみを強調し「弱きものは無し、完からぬもの無し」と、いっさいの悪を空(くう)じ去って、しかして「一切皆善の実相的事実」のみを肯定するとき、われらは現象的事実をも征服しえて、「われらは弱し、われらは完からず」と現象的事実に征服された弱音を吐く必要がなくなるのである。
 生長の家はかく「実相皆善」のみを強調して、「現象は無なり」と現象的不幸一切を空じ去る。さればこそ現実を征服する現実的威力を発揮するのである。「現象あり」と観ずればわれらは現象に力を認めるがゆえに現象を征服することができないのである。「現象も現象として在るのであって、かく本体界のみを主張し、本体界の完全観念を現象界にも適用せんとするのは、本体界と現象界とを混同するものである」との諸宗教家または哲学者よりの非難があるが、われらは本体界と現象界とを混同するのではない、混同とは現象界を在りと認めての立場であるが、われらは現象界無しと自覚するがゆえに、無きものは混同するの恐れなきがゆえに、われらはただ常に本体界の完全性のみを主張するのである。その結果、本体界の完全性がそのまま現象界に投影して、現象界の不幸を征服することができるのである。

「現象は現象としては在るのである」といって現象界を本体界に対立せしめたり、「本体界の自叙自展が現象界であって、本体界と現象界とは一如である、そして、現象界は本体界のうちに包摂せられるものである」というような在来の見方を脱しえないような宗教では、とうていそれは現実人生を支配することができないのである。生長の家の思想が、かく素晴しい現実人生の支配力を有しているのは、主として「現象無し」とスカッと截(た)ち断り、実相独在を明快に斬然(ざんぜん)と主張しているからであるのである。

<了>

1664ハマナス:2012/11/23(金) 22:51:46 ID:mR2szZkc
神の子のみなさま
こんばんは。

神は人間を健康に造った (『新版生活の智慧365章』P.294)

「創世記」には「神その造りたるすべてのものを見給(みたま)いけるに甚だ善かりき」と書かれているし「神の像(かたち)の如く人を造り」とも録(しる)されているのである。神がその完全なる自己の像に肖(に)せて人間を造った以上、人間は完全で善であり健康であるほかはないのである。そして神は、その創造せる一切のものを点検して「甚だ善かりき」と言明していられるのである。何人の力をもってしても、如何なる力をもってしても、神が完全に造ったものを不完全に、不健康に変じ得ることはできないのである。従って人間が病気になった如く見えているのは一種の妄想又は幻覚があらわれているに過ぎないのである。

私たちは、病気や症状の幻覚を見て、その病気を実在だと思ってはならない。どこどこまでも神の善と愛と智慧と完全さと、その力とを信じ、その神よりつくられたところの存在が本当に完全なものであることを信じなければならない。従って人間の完全さ健全さを信じなければならない。それこそが真に神を信ずると言うものなのである。

感謝合掌

1665神の子さん:2012/11/23(金) 23:02:53 ID:???
>>1663
読みにくい謹写はいらないんだけど。。。

1666a hope:2012/11/24(土) 06:54:16 ID:lAQRWvUs
新版 生活読本 谷口雅春先生著
第八章 斯(こ)うして希望を実現しましょう

♦「必ず出来る」と信ぜよ

ものを破壊する感情を心に持ちながら物を完全に建設することは出来ません。
イライラしながら円満に事物(ものごと)を成就することなどは出来ないのです。

自分で自分の心を攪(か)きまわしながら、心をしずかに物事を考えることなどは出来ない相談です。
物事を円満完全に育て上げるには、心の中にどんなイライラしさも、どんな不完全な考えも、
どんな心配もなくする事が必要なのです。

「われこれを成就せんと欲すは、神がこれを成就せんと欲し給うのである」
と信じて物事にとりかかってこそ真にそれを成就することが出来るのです。

私は歩くことが出来ないと考えながら歩き得た人は一人もいないのです。
誰でも歩き得ると考えたときのみ歩くことが出来るのです。

吾々が歩くことが出来るのは、「私は歩くことが出来る」と云う「永遠肯定」(つねにできるとおもうこと)
によってのみ歩くことが出来るのです。
一歩一歩が「歩くことが出来る」と云う肯定によって支えられてのみ歩くことが出来るのであります。

単に「歩く」ことですら此の通りでございますから、
もっと大きな仕事が「吾れ是を成さんとすれば必ず出来る」と云う
「永遠の肯定」に支えられないで、成就することはあり得ないのであります。
(つづく)

1667トキ:2012/11/24(土) 11:36:33 ID:tLXulRtI
>>1163

 個人的には、聖典を熱心に書いて下さったのですから、感謝の気持ちでいっぱいです。

1668神の子さん:2012/11/24(土) 14:02:59 ID:ssk.Cqhw
>>1663
移すだけなら誰でも出来る。

1669「訊け」管理人:2012/11/24(土) 14:34:48 ID:???



『叡智の断片』131頁「道場雑話」より謹写――

 生長の家の根本の教えは、戦争反対である。「七つの燈臺の點燈者」の神示には「汝ら天地一切のものと和解せよ」とあるし、「天地万物との和解が成立せねば、神は助けとうても、争いの念波は神の救いの念波を能う受けぬ。」と示されている。又「神が戦いをさせているのではない。迷いと迷いとが自壊しているのである。」とはっきりと『生命の實相』第二巻収録の神示には戦争を否定しているのである。

1670通りすがり:2012/11/24(土) 17:42:23 ID:3Ozkx1gY
>>1669
ご自分のブログで十分

1671トキ:2012/11/24(土) 17:48:30 ID:tLXulRtI
>>1669

 管理人としては、ご投稿に深く感謝しています。

1672ハマナス:2012/11/24(土) 22:24:15 ID:mR2szZkc
神の子のみなさま
こんばんは。

神を信ずるか、現象を信ずるか
(『新版生活の智慧365章』P.295)
私たちは、日常生活に於て、神の完全さの実在を信ずるか、現象の相(すがた)の不完全さの実在を信ずるか、二者択一の場に立たされているのである。天秤の両側の秤皿の一方に「神」を置き、他方に「現象」を置いて完全に平均せしめて置くとしよう。「神」を信ずるか、「現象」を信ずるか、そのどちらかを信ずるかと云うことによって、天秤は「物質」の方にも傾き、「神」の方にも傾くのである。そして、それが「物質」の方に傾いたとき、人間は物質的法則の支配下に入り、その人の健康度は、物質の影響を信ずる通りに制約せられる。即ち寒冷の空気に触れれば風邪を引き、病菌に触れれば病気にかかると云う風になるのである。

若し天秤の、もう一方の「神」の方に私たちの信仰が深まるならば、その天秤は「神」の方に傾き、その人の健康は、物質の法則に支配される量が次第に減じて、遂に外界の物質的条件を超えて、如何なる場合にも完全に健康なる実相を現身にあらわすことができるようになるのである。
感謝合掌

1673ハマナス:2012/11/25(日) 12:40:48 ID:x2zmnlqw

神の子のみなさま
ありがとうございます。

「縦の真理」と「横の真理」 (『新版 生活の智慧365章』P.296)

 病気が症状としてあらわれるときに病気は起ったのではないのである。それよりズッと
以前に、心の中にその病気に就いての知識、症状、恐怖、不安などが培われ、それが次第に
生長して発芽するようになったのである。発芽の直接契機となったように見えるものは、
植物にたとえれば、春雨が一夜(ひとや)降りつづいたことであり、雨あがりの翌朝見ると
水仙が土を割って芽を吹き蕾をもっていることを発見するようなものである。

 “春雨が一夜降りつづく”と同じように、其の人が、何らかの感情で一夜心を悩ますこと
があるとすると、その翌日、気がついてみると或る病気があらわれているのである。しかし
その病気が現れるまでには、発芽直前になるまで培われた精神的な病的観念があり、それが
一夜の精神的な悩みで愈々現象化することになったのである。結局、「病気」と云うものの
本体は「人間は老い且つ病むべきもの」だと云う根本的な信念であり、その信念が深く底に
あって、色々の精神的又は感情的なショック又は悩みが誘因となって、その「深く底にある
病念」が表面にあらわれて来るのである。そのために「人間は神の子のである」と云う真理
を充分理会し、「深く底にある」ところの「人間は老い且つ病むべきもの」と云う信念を取
去るか、或は誘因となる精神的感情的悩みを取り去るか、どちらかをすれば一時は病気は消え
去るのである。

 「人間は神の子である」と云う実相を知るのは「縦の真理」を知ることである、精神的感情
的な悩みを解きほぐして行くには或は“想念の法則”を説き、“精神分析”をを行うなど相手
に随って色々の方法を用いるのであるが、これは「横の真理」の応用である。

感謝合掌

1674SAKURA:2012/11/26(月) 22:09:37 ID:jH5uEFzM
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1553>>1554>>1556>>1558>>1562>>1599>>1600>>1607>>1608>>1616>>1617>>1637
>>1644>>1653>>1654>>1661>>投稿の続きです。…が

日常生活面を、それなりに考えていきますと、私なりの「雅春先生の哲学」が見えまして、
更に“人生観”が〜〜実に!感慨深いものになりますので、私なりに「生命哲学…勉強会」を
〜♫〜では“続き投稿”していきます。
「雅春先生の例え…」として、投稿されていらっしゃいました記憶があります。…が?
ここは、まるで【四 無 量 心 の 心 の 世 界 観】でしょうか…??

■■『生命の実相哲学シリ−ズ…SAKURA論』
「生命の実相 37巻 より  ……    ①

===【抜粋文】===================================美
 人間を不幸にするものはわがままである。わがままは他を不幸福にするばかりではなく、自
分自身を不幸にする。精神分析的に見ればわがままとは自己虐待の変形である。わがままは自
分のしたいままをする自己愛撫だと考えられやすいけれどそうでない。わがままは往来で転ん
で、誰が起こしてくれるまで地踏鞴(じだたら)踏んで泣き叫んでいる悪童の延長でしかない。
彼は誰かに迷惑をかけるために自己虐待をしているのである。
 わがままが自己虐待である証拠に、わがままを通そうとする人は常に自分自身が愉快な滑ら
かな感情の楽しさというものを味わうことができない。
 わがままを別語でいえば、「我を出す」または「我が強い」という。「我」という字は、
「われ」という字が書いてあるが、「本当の我(われ)ではない。それは久遠普遍のひろびろ
とした「本当の我(われ)」を縛るところの自己限定である。「本当の自分」は天地にひろが
るひろびろとした大いなる存在であるのに、これだけの部分だけが自分だと自己限定するの
が、「我を出す」ということである。だから「我を出す」というのはかえって自分を限る、自
分を引っ込める、自分を縛る、自分を虐待することになる。
 本当の自分が、天地にひろがる広々とした存在であることに気がついた時には、人間は誰と
も大調和するものである。
 大調和の心は神のままの心である。神のままは自然を縛らない心、わがままは自然を縛る心。
                          谷口雅春著抜粋
==========================================

■「我が強い」といって変に自慢される方が、此処“九州…”に多いです〜〜〜ョネ!!
本人の考え方が“A”とします。ある事から“B”に変更しますと、まるで負けてしまった様な
感じを受けるのでしょうか??分かってても、それを、押し通す。これも【我を通す事!】
でしょうか?FUKに帰郷してからの私は、落ち着きのない日々を送っています。原因は、彼ら
の執着心です。「吸血鬼・ゾンビ達…」は、私達に執着して、それなりのお金になったのでしょう!その原因は、「黒幕デザイナ−の執着」です。黒幕は「吸血鬼・ゾンビ達…」に私達を、包囲
する事、更に尾行!情報収集!更に、仕事が出来ない様にする!!それは「孫娘への想い」か
らでしょうか??私が「障害者…」として、立ちあがっているのに〜〜〜あくまでも
「黒幕デザイナ−の家族の将来性」と「自分の名声…」執着この「黒幕デザイナ−」は、
東北地方に“障害者の関連施設”を〜〜〜><この様に自分自身、黒幕は分かっての行動です。

多々なる理由を上げて、更に「吸血鬼・ゾンビ達…」を使う!彼らがいいますには“お金”
に成るとの【正当化論】で、これも執着■【我…】に成るのではと思います!!私は、これ
に対して、この「黒幕デザイナ−」に対しての、戦いを新たにしているところです。…が?
本当に❤〜【我は相手に対して・・・不愉快なモノ!】だと、思います。
                        
 (つづく)

1675SAKURA:2012/11/26(月) 22:14:20 ID:jH5uEFzM

「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1553>>1554>>1556>>1558>>1562>>1599>>1600>>1607>>1608>>1616>>1617>>1637
>>1644>>1653>>1654>>1661>>1674>>投稿の続きです。…が

■■『生命の実相哲学シリ−ズ…SAKURA論』
「生命の実相 37巻 より  ……    ②
>>1674 ①からの投稿の続きです…。

■今回【分派の方達…】は、まず“認める事”ではないでしょうか〜〜〜?

私は、毎日思いますが■【まず!第一のモノは、今の総裁雅宣先生だと、思えます。】
ある話ですが〜〜〜?ご存じでしょうか〜〜〜?【アメリカの洪水での出来事…】です。
ある時、大量の雨量にて川が氾濫し、洪水が〜〜〜><一気に“家”が流されて、
その地方の山奥に住んでいます処の「ある高齢の一人暮らしのお祖父さん」が、いました。
親戚の方は、心配して「お祖父さんの安否」を、救助隊員に頼みます。ゆっくり空気付きの
ボートをこいで、お祖父さんの処に“声”をかけます。「大丈夫ですか…?」と言って、
「こちらに来て下さいと…?」言います。お祖父さんは、「いえ!いいです。神様から助けて
頂けますから〜〜♫〜〜」といって断り、救助隊員は、次の人への救援活動にてその場を去り
ます。そうこうしていきます内に、水かさが〜〜ドンドン上昇〜〜“危ない!!” ><
ドンドン水が〜〜〜かさんで行きますから、また!救助隊員はまたその場に戻り“声”をかけ
ます。…が?お祖父さんは、また!「神様が助けてくれます…!」と答えて、家の屋根から、
直ぐそこまで水が押し寄せていますのに、救助隊員の助言を聴き入れませんでした。実に!
何度も〜何度も〜救助隊員は行きますが「神様が、必ず!助けて下さいます。」此の一点ばり
で、救助隊員の助言を訊いてくれません。そうこうしています内に、救助隊員が見ています
目の前で、とうとう“家”は〜〜〜アット!!!流されてしまったのです。
これは【アメリカ中にニュ−ス】で放映されていたとの事です。
【神様…】も、ある時は……【横からの真理】にて“アドバイス…”でしょう。この事は、
大事ではないでしょうか〜〜〜と【リ−・ミルティアさん】は、おっしゃつていました。…が?

私も今回の【生長の家…騒動】は、少なくとも中傷されています「現総裁雅宣先生の行動」は、
【天の導き…】と、思います。【エコ−運動】も、行動をしなくては、何も?
この【地球…環境問題】には、変化が?つまり対応策は起きません。一人一人が【輪…】に
なってはじめて【天 の 蔵 が 開 く!】と思います。
古い伝導体制を誇示されます【分派…皆様】をこの「我」と、たとえますと…?
【分派の方達…】は、いつまでも“過去のやり方”では、果たして【人の救済…】は、何処
まで対応できますのでしょうか?【日々…環境は変化?人の心も変化?…etc】 人数的には、
増えないと思います。更に【洗脳された方達?つまりマインド・コントロ−ルされた方々】は、
今となっては【分派…で、活動体制】を、なされましたらと?今!今を活かしきればいいので
しょうかと。そう!!私は思うに【真理…】は、いたるところにあると思います。勉強中!
「我」をなくす事から始まる様に、思います。…が?【執着も…我!!】と思います。


そして、複雑化した現代の時代にそぐわない【真理…】それを今風に“解説”します事が
新たなる【よみがえり〜☆】この事が【天の岩戸が開く】様に、ゆっくり〜ゆっくり〜
開いて行くようです。【真理…伝導】は「現総裁雅宣先生」にもあります。そして、
【日本の歴史は、神武天皇から〜〜〜私たち“祖先”は、世界平和!なのです!!】

■聖徳太子も……【十七カ条憲法】
一に曰(い)わく、和を以(も)って貴(とうと)しとなし、忤(さから)うこと無きを宗(むね)とせよ。
人みな党あり、また達(さと)れるもの少なし。ここをもって、あるいは君父(くんぷ)に順(したが)
わず、また隣里(りんり)に違(たが)う。しかれども、上(かみ)和(やわら)ぎ下(しも)睦(むつ)びて、
事を論(あげつら)うに諧(かな)うときは、すなわち事理おのずから通ず。
何事か成らざらん。
                            再合掌

1676ハマナス:2012/11/26(月) 22:34:13 ID:x2zmnlqw

神の子のみなさま
こんばんは。

迷妄の自壊作用  (『新版 生活の智慧365章』P.297)

 私たちが「人間神の子・本来無病」の“縦の真理”を知り、「唯心所現」の“横の真理”に
よって心の悩みを解きほぐして行くに随って、迷妄の根の浅いものである場合には、速やかに
に症状が消え去るのであるけれども、それが迷妄の根が深いものである場合には、一見その
症状が悪化したように見えることがある。そんな時に驚いてはならないのである。それは迷妄
(にせもの)の上に築き上げられたる高層建築のような重い慢性的な病気は、その迷妄の基礎
工事がくずれ去ると共に、大いなる音を立てて崩れ落ちる。その崩れ落ちる大音響や、崩れ落
ちた残骸の堆積は、以前のそのままで病気の建物が建っていた時よりも、混沌としたいやらしい
光景を呈するのである。これが迷妄(まよい)の自壊せる徴候である。    
   
自然の浄化作用によって、その崩れ落ちた次回の残骸が運び去られるまでは、尚しばらくその
症状はつづくのであるけれども、自壊作用そのものは、病気の精神的基礎が崩れた証拠である
から、もうその時「病気は消えた」と宣言してもよいのである。

感謝合掌

1677a hope:2012/11/27(火) 08:08:57 ID:lAQRWvUs

新版 生活読本 谷口雅春先生著
第八章 斯(こ)うして希望を実現しましょう

♦一念集中が成功の要件です

成功に一念集中と云うことが必要であります。
電気の技術者で成功しようと思う者は、常に電気のことを考えていなければなりません。
常に植物の事を考えていれば、植物学者として成功するかもしれなせんが、
電気の技術者として成功するものではありません。

あまりに懸けはなれて反対であるものを考えていては、決して事物は成就しません。
失敗を考えていて成功するものではありません。
成功は成功を心に描くことによってのみ得られるのです。

どんな多くの青少年が、「自分は身体が弱い」と考えたり、
「自分は天分(天からもらったちから)がない」と思って尻込みしたりすることによって、
折角の人生(ひとのよ)に落後者(おちぶれもの)となったことでしょう。
これらの人達は、しっかりした自信力を与えさえしたら立派に社会(よのなか)に成功した筈の人たちなのです。

「自分が弱い」と云う馬鹿々々しい迷信をお捨てなさい。
「自分には力がない」と云う迷信をお捨てなさい。
そんな迷信に誤魔化されてはなりません。
そんな無力な迷信をかなぐり捨てて立ち上がりなさい。
「そして自分は神の子だ。すべての力は与えられているのだ」と思いなおして立ち上がりなさい。
(つづく)

1678ハマナス:2012/11/27(火) 09:50:23 ID:x2zmnlqw

神の子のみなさま

おはようございます。今日は良いお天気に恵まれました。
皆さまにとって、神の愛に満たされた素晴らしい一日でありますように。

薬剤多くして病気繁し (『新版 生活の智慧365章』谷口雅春先生著 P.298) 

 “健康法、健康法”と唱える者ほど病気に罹り易いのである。栄養剤やビタミン剤などに
とりまかれながら脚気になったり、始終風邪を引いたりする人があるのも、その人の信仰の
天秤の“分銅”が「物質」の方に傾いていて、人間の実相の完全さの方の “分銅”が小さ
過ぎるからである。「人間」と云う存在を物質的存在であると思う信念は、薬剤を用うる
度数が多いほど強くなるのである。その結果、「物質と自覚せる人間」は物質の「朽ち果つ
るべき法則」の前に屈従せざるを得なくなり、薬剤愈々多くして病気愈々繁しと云うような
状態となるのである。

 「私は病気のことを考えないのに病気になった」と言って、「心で思うことが肉体にあら
われる」と云う真理に抗弁(こうべん)しようとする人もあるが、病気というものを直接
考えないでも、「人間は物質的存在であり、朽ち果つべき無常の存在である」と信じている
ことそのことが、朽ち果つべき肉体の病気となってあらわれるのである。

感謝合掌

1679「訊け」管理人:2012/11/27(火) 10:29:44 ID:???
○ Climb every mountain
http://www.youtube.com/watch?v=0aUXUr5rogM


『叡智の断片』25頁より謹写――

◆「悪」に抗することなかれ

 「悪に抗することなかれ」と云うキリストの教えは、生長の家の「汝等天地一切のものと和解せよ」の神示によって完成するのである。悪に抗して悪を一時排斥し得たとしても、それは「悪」の存在をみとめているがゆえに、それは存在するところの悪を抵抗によって一時遠ざけたに過ぎないのであるから、「悪」の存在が消えたのではないのである。それは一時締め出しても、亦あらわれる。厳重な家庭に於ける制裁や処罰や威嚇による強制はこれである。何物に対しても和解せず、単に抵抗によってこれを退けんとする者は、結局、空しく抵抗して何物をも支配することは出来ないのである。真の支配は、天地一切のものと和解することによってのみ得られる。天地一切のものと和解するとき、天地一切のものは汝の味方であり、こちらを生かすために働くからである。「悪」を消滅する道は「悪」をみとめないことより始まる。闇をみとめながら闇を撲滅せんと欲しても、到底それは不可能のことである。
 如何に敵対する者も敵だと思わずに味方だと思って愛すればその情愛に感動して、敵と見えていたところの相手が味方にかわるのである。病気の症状に於いても此の事は真実である。熱を敵だと思わずに、味方として愛すれば速かにその熱のために病菌は消滅してその病いは癒えるのである。疼痛、喀血、吐血、発疹、下痢、嘔吐――ことごとく敵だと思わず、治す働きだと――感謝して受けるとき、それは味方となって却って病いを撲滅し健康を回復してくれるのである。凡そ「悪」よりして善徳は生ぜず、「悪」よりして生かす力は生じない。「憎み」は悪であるから「悪」を憎むと云うことは結局は、「悪」に対するに「悪」をもってするに過ぎないのであるから、それは永久循環して再び「悪」は姿を顕わすのである。ただ「善」のみを認め、一切を「善」と信頼して感謝して受ける無抵抗のみが「悪」を消滅する力であるのである。「悪」に抵抗するところの心境に於ては尚「自我」が滅していないのである。ただ相手の利己主義を遠ざけんがために、自己主義の利己を譲らんとするに過ぎない。真に「悪」に無抵抗になるときにのみ、それは「自我」さえも滅し去って、ただ「神」のみ、「善」のみ、実相のみが現前するのである。そのとき「真の自我」実相の自我、絶対自我が本当の姿をあらわして自由自在の境地に達するのである。

<了>

1680「訊け」管理人:2012/11/27(火) 10:33:50 ID:???

『明窓浄机』草創篇269頁より謹写――

◆日本精神を誤解するもの

 兎も角、生長の家は今や海外諸国にまで日本にこういう好い思想が生まれたと云うので、日本の名誉となりつつあるのである。
 近来國體明徴が叫ばれ、日本精神が叫ばれているけれども、日本精神が『大和(やまと)』の意味に於いて、一切包容統一の意味に於いて叫ばれないで、すべて日本的と云うものを非常に狭義に解して、日本的でないという意味に於いて、基督教を排斥し仏教を排斥し、ただ小さき伝統の中にせぐくまってしまおうとする傾向があるのは、大和の日本精神を誤解するものと云わなければならないのである。


 生長の家は在来仏教側からも、基督教側からも、人の道からも商売敵としてその誤れる排他的精神から悪口を云われ、色々の投書を当局へ送った人もあるそうであるが、生長の家は決して他の宗教を排撃するものではなく、常にすべての宗教の味方をし、弁護者の位置に立ってきたのである。日本精神とは一切を包容して、『あれも日本の教えだ』『あれも日本の教えだ、日本に於いて大乗的に成就する教えだ』として、無限包容の精神を持つべきものであると私は思うのである。
 排外的日本人は外人を見て、『あれは外人だ、外人は排斥すべきものだ』と見るが、包容的日本精神は、イギリス人を見れば、『あれも日本人だ、日本人がイギリスと云う土地に生まれたのだ』と見、インド人を見れば、『あれも日本人だ、インドに生まれている日本人をインド人だと云う』と考える。斯くの如くして普天卒土(ふてんそつど)、天上天下、日本の国土ならざるはなく、日本の国民ならざるはなく、仏教も基督教も、日本の教えならざるはないのである。


 兎も角、吾々はそう云う立場に於いて、すべてを排斥する代わりに、欠点を除き、時所不相応のものを撥無(はつむ)し、美点を高揚して、生かすべきものを生かして行きたいのである。
 その目的でキリスト教のためには『完成(ななつ)の聖書』を、『ひとのみち』のためには『去就に迷うひとのみち信徒に与たう』を著(あらわ)したのである。幸いに各読者から熱読せられている。殊に後者は二万部増刷の計画であるから知人の去就に迷える兄弟に御贈呈願いたい。

1681「訊け」管理人:2012/11/27(火) 12:34:44 ID:???

『試論・波状光明化への道』(榎本惠吾著)342頁より謹写――

 概観するに、生長の家人の中には、それぞれの自覚により、運動の展開に二つの姿があるのではなかろうか。仮りに、現象に悪の状態が出て来たとき、どのように対しているかによってそれは分岐れる。即ち、

(一)現象に悪が現れて来るのは、それは余りに「唯神實相論」に傾き過ぎた為である。「現象を現象としてはあるのであるから、現象をもその意味では認めて行かなければならない」と云う實相現象の二元論に進む。

(二)現象に思わしからぬものが現れるのは、それは唯一つ『實相一元、唯神實相論』への徹し切り方が足りなかったからである。飽く迄も『唯神實相論』を貫ぬかなければならない。


 吾々はあくまでも、(二)の立場を貫かなければならない。(一)の道を選ぶか、(二)の道を選ぶか。これは真の「生長の家」人となるか、迷える人となるかの天下分け目である。


(つづき全文http://blog.livedoor.jp/con5151/archives/65587714.html

1682神の子さん:2012/11/27(火) 19:30:28 ID:???
>>1679
Youtube貼るのは自分のブログだけにしろよ

1683神の子さん:2012/11/27(火) 19:31:14 ID:???
>>1681
わざわざ宣伝するなよ

1684a hope:2012/11/28(水) 06:35:08 ID:lAQRWvUs

新版 生活読本 谷口雅春先生著
第八章 斯(こ)うして希望を実現しましょう

♦困難と戦ってもニコニコと

アメリカ人のあの偉大な「開拓者精神」と云うものは素晴らしいものです。
開拓者精神と云うのはあの広い、殆ど手をつけようもないような地面を、
どこまでも撓(たゆ)まず屈せず、開き耕して往った精神です。

猛獣も多いし、草や木の根も深い、砂漠もある、大きな岩もある、山もある、滝もある、
アメリカは土地がひろいだけに、いろいろな障害物も非常に大きいものです。
それに負けずに、一歩一歩その困難を笑いながら楽しく征服していったのがアメリカ精神の素晴らしいところです。

ドイツ民族なども困難と戦ってきた民族ですが、どこか眉の間に、ニガイ表情(かおつき)があります。
いつもわしは苦難(くるしみ)と戦っているのだと云うような表情をしております。

ところがアメリカ人にはあれだけ広い地面と戦って来ながらどこにも困難と戦って来たと云うようなニガイ眉をひそめた表情はありません。
みんなニコニコしているのは日本にきていたアメリカの兵隊さんの表情(かおつき)でわかります。
そこにアメリカ人の強味があります。

日本は戦争中に誰も彼もニガ虫をかみつぶしたような顔をしていないと非国民だと行って叱られたものです。
そうして泣き面をしていると、「泣き面に蜂」ならぬB29が来て、次へ次へと日本の都市をやいて行きました。

すべて「われより出ずるものはわれに帰る」であります。
「泣き面」をしていると泣くことが群(むらが)り起ってくるのです。
(つづく)

1685うのはな:2012/11/28(水) 21:16:28 ID:Pp0T7lVc
個人指導の実際  谷口雅春 先生 生長の家本部教務局編

    耳の病気は“聞きたくない”という念の表現である

 それですから、耳は“ききたくない”と思っておればきこえなくなるし、
“何でも素直にききましょう”という気持になればきこえる事になる。
 あんまり忙しいので人が周囲で、ものを言うのを「うるさいなあ」というような気持で、
人の言うのを打ち消すような気持でいると、耳鳴りがして止まらないというような事も随分おこってくるのであります。

 或る時赤坂の道場で、一人の奥さんが、「先生、私もう耳鳴りがしてうるさくて仕方がないんです」と言うのでした。
その時、私は、「耳鳴りなんて、何も鳴っておらんじゃないか。どうじゃ、耳が鳴っとらんか、一遍きいてあげよう」私はこう言って、
その人の耳のそばへ私の耳を近づけて「何にも鳴っとらんじゃないですか。実際に鳴っとったら私にも聞える筈じゃ。それは耳が鳴っておるんじゃない、
貴女の心が鳴っているんだ、心が“うるさい、うるさい”と声を打ち消す念を起している
家族がうるさいとか、嫁がうるさいとか、色々そんなことを事を思っているんでしょう。
そういう心の癖から治すんだよ。

 何も耳が鳴っておるんじゃない。貴女の心が鳴っておるんだ」と言ったんですよ。
そうしたらその耳鳴りは治ってしまったのであります。

1686うのはな:2012/11/28(水) 21:29:58 ID:AjOElYbo
    病気を温存したい心で再発 

 それからその治った話を僕が道場で一遍話して、「耳の鳴るに非ず、心が鳴る也」という
真理を皆さんにきかしていた。そしたら、翌日その耳の治った人から手紙が来た。
“先生あの話を道場でしてもろたら困ります。あれは内緒にしといて下さい”と言って手紙が来たのです。
それから数日すると、またその人から手紙が来た。それには“先生、又、耳がなり出しました。何とか、もう一度
治してください”と書いてある。

 それは神様がちゃんとそれを治して下さっているのに、神の栄えをあらわす為にそれを使わないで、治った事実に再び耳を蔽おうとした
からであります。「私はまだ耳鳴りが治っておらん」と言いたかったから、その通りになったのであります。

 キリストが盲目の少年を治された時にですね、弟子が「この盲目の少年が現われているのは、これは親の罪であるか、本人の罪であるか」
と言って問うたのです。「親の罪でもない、本人の罪でもない。神の御業の現われんが為である」それが癒される事によって、神さまの栄えが現われんが
為に、今かりにこういう姿になって出て来ているのである。という意味の事をキリストが言っておられることに注目しなければなりません。

1687さくら:2012/11/28(水) 22:32:44 ID:e8ieIrPA
到彼岸の神示
谷口雅春 先生 著

「本當の信仰についての神示

平和は内界にあるのであつて、外界にあるのではない。
外界は現象であり目眩しく移り戀る世界である。常に戀移する世界を追ひ廻してゐて落ちつかうと思つても落著けるものではない。
一世を支配する権力者の位置にのぼれば誰も自分を脅かすことが出来なかろうと思つて最高の位置にのぼつてみても、高ければ高いほど不安であるのが常である。では、誰よりも下座の地位について、
もうこれ以上は落ちやうのない貧しい生活を送つたら不安がなからうと思つて、乞食の生活を送つてみても、やはり不安は去るものではない。
下座々々と心掛けても、一椀の食にありつくとき、尚、その一椀の食にすらありつき得ない同胞があることを思つたら、その一椀の食も安心して食べられないであらう。所詮は、高く上るも、低く下がるも、比較上の世界に住む以上は、その人の心から不安は去らないのは當然である。何故汝は絶對の世界に住しないのであるか。
目眩同転する圓周の世界を追ひ廻さないで、圓の中心の世界に住しないのであるか。何故汝らは比較を絶した『我れ神の子』の世界に住しないのであるか。
中心の世界に坐せば、上下左右天地四維のいづこに顕現すると不安はないのである。『我は神の子』の世界に住すれば、如何に高き位置につくとも高過ぎると云ふことはなく、如何に低き位置につくとも穢されたと云ふ感じも屈辱の感じも受けるものではないのである。
かくの如き『我れ神の子』の實相に参ぜしめ、無畏怖の境地に入らしめるのが本當の宗教である。
恐怖心を唆つて遷善改過せしめるものは、それは一種の社會施設であり、刑務所であり、懲治場であつて宗教ではないのである。宗教とは己が眞性を自覚せしめ、上下左右天地四維いづれに動いても、いづれに置かれても、縛られない、恐れない、自由自在の『神の子』だる本性を自覚せしめるものを云ふのである。
汝ら恐怖の宗教に心せよ。神の子は、金剛不壊の實相身、無碍自在の無けい礙身であるから、凡そ恐怖すべき何ものもないのである。
恐怖を教へるものは迷を教へるものである。恐怖を唆るものは、迷を唆るものである。病気や天變地變や色々の災厄で恐怖を教へるものは人間の幸福が物質の増減で左右せられ、或は火に焼かれ、或は水に溺れるものだとの迷信に立脚して教へをなすのであり、それを信じる者は、それは信仰は信仰であつても、迷信に堕するものである。
火にも焼けず水にも溺れず、天地四維上下左右いづれに置かれるも自由自在な人間の本性に信ずる信仰こそ本當の信仰である。

(昭和八年八月五日神示)

1688うのはな:2012/11/28(水) 23:30:22 ID:shBPIho6
耳の病気はこんな心の影である  谷口雅春 先生

 次に耳の病気は、耳は聞く期間でありますから、“ききたくない”という心が起るとだんぜん耳が遠くなって来るの
であります。実際聾くらい便利なものはないのです。言いたい事は言いたい放題だし向うからいくら何を言っても聞えないから
都合がよい。人の言うことをききたくなくなると、聾という殻を造って其処へ逃避するのです。
だから、そういう気持になりますと、自然と耳が聞えなくなるのであります。

 京都の郊外のある町に野沢宗一という郵便局長さんが居られました。当時、三等郵便局と言ったものです。
その奥さんが、耳が聞えなくなった。聞えないといっても、電話の受話器みたいに、耳に口をくっつけて大声で言うと
辛うじてきこえるのでした。けれども一尺も離れたらもう全然きこえないのです。
姑が物を言ってもきこえないで、「治るまで実家へ帰っておれ」と言うことになって、実家へ帰って医者に半年もかかったが、
その難聴が治らないのです。

 それで先生に一遍指導して欲しいと仰言って、私が東京へ移転して間もなく京都で誌友会があるから一遍来てくれというので、
石川芳次郎さんのお宅で誌友会がある時に行きましたら、その時に野沢さんは夫婦でしめし合わせて、夫は郵便局から、妻は実家から来て、
私に面会せられたのであります。

 その奥さんの話によりますと、姑と仲が悪くて、あるとき姑さんに口ごたえをしたら、姑さんが頬っぺたをなぐった。
それを避けようとしたら姑の手のひらが、耳に当って鼓膜が破れた。それ以来、耳が聞えなくなったと言うのであります。
そうして姑さんが物を言っても知らん顔をしているので、姑さんの気に入らないのです。
「だって鼓膜の破れたのは、一方だけなんでしょう」「はい」
「ところが両方とも一緒にきこえんようになったというところに、其処に、その耳のきこえないのは単に殴られたという物理的原因だけではないものがあるのですよ」
とからか害を受けて、そうして相手をゆるさないで、相手を咎める気持でおったら、その害された状態は、“相手が悪い。私に害を加えた”という“証拠物件”として、
その被害状態を湮滅してはならないと潜在意識がはたらいて、その被害状態を治さないのですよ。あなたは“耳がきこえなくなった”という“証拠物件”を何時迄も保存しておきたいのですよ。
すると、その証拠物件たる難聴が治らないんですよ。治るためには姑をゆるしなさい。姑を許したらもう難聴という証拠物件が要らなくなるから難聴が治るのですよ」
こう言って姑さんをゆるす神想観を二人でしました。

 それから一週間程しましたら、その難聴が治ってよくきこえるようになったのであります。
さて、難聴が治りますと、「治ったのなら、お前嫁入り先へ帰って来い」ということになりまして夫の許へ
帰りましたが、帰りましたら又その姑さんのそばへ寄ると又時々聞えんようになる。
そうして外へ出るとよくきこえる。そういう過渡時代もありましたけれども、よくよく反省して心を改めて「何でも
姑の言うことをききましょう」という気になりましたら、よくきこえるようになったということを、その後、報告されて来たのであります。
その話の後日談でありますが、実は、野沢さんの奥さんは、姑さんと仲が悪い時分に妊娠していたのであります。
そうして「この家を出ようか出まいか」と思っていた時代なんです。その時分にいよいよ出産という時になると、産気づいて二昼夜たっても、
どうも子供が出ないのです。大変な難産でした。それで医者が来て鉗子でつかんで引っぱり出した。
それでやっと産まれたのであります。どうしてそういう難産になったかと言うと「この姑のいる家を出ようか出まいか、出ようか出まいか...]
母体が思い悩んでおるそれがちゃんと肉体に具象化して現われたのです。私は説明いたしました。

つづく

1689うのはな:2012/11/28(水) 23:32:09 ID:shBPIho6


1688つづき

「しかし姑さんに“あんたが殴ったのでこうなった”というような、姑のことを口実にして自分の『言うことをききたくない心』を弁解する気持ではこの耳の病気は治らないですよ」
野沢夫人の話すところによりますと、夫人の耳がきこえなくなって姑の言うことに返事をしなくなりますと姑は野沢夫人に、「お前そんな聞えないような事ではもう家庭におっても仕方ないから
実家へ帰って養生せよ」というので追放されて実家へ帰っているのだということでした。
それだから夫人は実家の方から誌友会へやって来ておられたのでした。

 私は更に耳の病気の原因について説明を続けました。
「あんたの其の殴られん方の鼓膜の破れない耳も聞えなくなったのは、それは何も鼓膜の結果じゃないんじゃないの?
人間と言うものは鼓膜で聴くんじゃないんだよ。心できくんだ。鼓膜なんか無い方が、音が素直に中まではいるんです。
鼓膜なんて、何も拡声器になってやしないんだよ。それだから、耳の聞え難い人が、補聴器を使う場合に、耳につける補聴器もあるけれども、
歯で咬んで聴く補聴器もある。口の中からも鼻の中からでもきける。

 あーんと口を開けておってでもきこえるんですよ。鼓膜は無かった方が余計きこえるのですよ。
鼓膜は中耳へホコリが入らないための襖に過ぎない。その証拠に、あんたラジオ・セットにスイッチを入れておいて、
襖を閉めて襖のこっちからきいてご覧なさい。襖を閉めてある方がきこえ難いから。

そして襖を開けた方がよくきこえる。だから、鼓膜が破れたから聞えないというのは、あんたが姑さんに因縁つけているというもんです。
“姑が殴りやがったからこんなにきこえなくなったんだ、姑の乱暴のおかげじゃ”というのでその姑を憎んでいるから、それできこえないのですよ。
誰からか害を受けて、そうして相手をゆるさないで、相手を咎める気持でおったら、その害された状態は、“相手が悪い。私に害を加えた”という“証拠物件”として、
その被害状態を湮滅してはならないと潜在意識がはたらいて、その被害状態を治さないのですよ。あなたは“耳がきこえなくなった”という“証拠物件”を何時迄も保存しておきたいのですよ。
すると、その証拠物件たる難聴が治らないんですよ。治るためには姑をゆるしなさい。姑を許したらもう難聴という証拠物件が要らなくなるから難聴が治るのですよ」
こう言って姑さんをゆるす神想観を二人でしました。

 それから一週間程しましたら、その難聴が治ってよくきこえるようになったのであります。
さて、難聴が治りますと、「治ったのなら、お前嫁入り先へ帰って来い」ということになりまして夫の許へ
帰りましたが、帰りましたら又その姑さんのそばへ寄ると又時々聞えんようになる。
そうして外へ出るとよくきこえる。そういう過渡時代もありましたけれども、よくよく反省して心を改めて「何でも
姑の言うことをききましょう」という気になりましたら、よくきこえるようになったということを、その後、報告されて来たのであります。
その話の後日談でありますが、実は、野沢さんの奥さんは、姑さんと仲が悪い時分に妊娠していたのであります。
そうして「この家を出ようか出まいか」と思っていた時代なんです。その時分にいよいよ出産という時になると、産気づいて二昼夜たっても、
どうも子供が出ないのです。大変な難産でした。それで医者が来て鉗子でつかんで引っぱり出した。
それでやっと産まれたのであります。どうしてそういう難産になったかと言うと「この姑のいる家を出ようか出まいか、出ようか出まいか...]
母体が思い悩んでおるそれがちゃんと肉体に具象化して現われたのです

1690ハマナス:2012/11/28(水) 23:32:18 ID:x2zmnlqw
神の子のみなさま
こんばんは。

薬剤は補助的工作 (『新版 生活の智慧365章』P.299)

 治病のための、どんな物質的手段や処置法が発見されようとも、知病の力は「生命」その
ものにあるのであって、薬剤や色々の処置方法は、自然の治癒力を妨げないように補助的
工作をするに過ぎないのである。補助的工作も、坑道の落盤を防ぐために坑木をもって支える
ことが必要なのと同じように、必要ではあるけれども、補助的作用に頼りすぎることは、神
(生命の本源)に頼る心をそれだけ減殺することになるから、一方で或る利益を得ながら、
一方で或る貴きものを失いつつあると言えるのである。

感謝合掌

1691a hope:2012/11/29(木) 06:36:24 ID:lAQRWvUs

新版 生活読本 谷口雅春先生著
第八章 斯(こ)うして希望を実現しましょう

♦人間自身が運命の彫刻家

吾々は「自分の心」と云う鑿(のみ)で自分の運命を彫刻している彫刻家のようなものです。
自分の心の動かし方の一つ一つが未来の自分の運命を、良くも悪くも彫(きざ)んでゆきつつあるのです。

心の一つ一つの動きをゆるがせにしてはならないのです。
一寸(ちょっと)した腹立ちの心、一寸した憎しみの心、一寸したイライラした心、ブツブツの心、
それなども必ず肉体の或る形をきざみつつあり、境遇(まわりあわせ)にある形にきざみつつあると云うのは事実です。

あなたが中年や老人になって額や眉間に皺が出来たり、目尻に皺が出来たりするのは、
心の動きで目に見えぬほどずつ積りつもった皺が何十年もするうちにそんな形にあらわれたのです。

あなたの皮膚にニキビやオデキやジンマシンのブツブツが出来るのも
あなたの心のうちにブツブツとふくれる心があるからです。

ゲーテも「吾らの心が吾らの肉体の上に及ぼす力は驚くべきものがある。
されば心をして常に自分の肉体の主人公たらしめよ」と云っています。

心は肉体をそのように彫むだけではありません。境遇をも運命をもきざむのです。
自分が常に明るい心を持っておれば明るい楽しい運命がつくられます。
自分が常に悲しい心を持っておれば、悲しい運命がつくられます。
(つづく)

1692ハマナス:2012/11/29(木) 10:09:01 ID:x2zmnlqw

神の子のみなさま

おはようございます。
私事で、恐縮ですが、今日は子供の誕生日です。私を母と選んで生れてきてくれた事に
感謝いたします。そして神様、ご先祖様ありがとうございます。

「人間」は肉の集合体ではない (『新版 生活の智慧365章』P.300より)

 「人間は物質で構成されている肉体だ」という見解が、蛇の知恵に教えられて人間が食べた
ところの「知恵の樹の果実(み)」である。“蛇の知恵”即ち唯物論は「人間は物質で構成
された部分品の集合体である」と教えるのである。果たして然らば、人間の片腕を切れば、
その人間は「一人」たる資格を失ってしまうであろうか。彼は「人間マイナス片腕」となって
しまうであろうか。そんな事は決して無いのである。片腕又は片脚を失っても、大いに奮起
して、両手両脚を有する人よりも人間的な仕事を為し得る人もあるのである。そうすれば、
人間そのものは、肉体の部分品の増減によって、増減するものでなないことが判るのである。
  
 人間が単なる肉体であるならば、肉屋の店先にぶらさげられている骨のついた牛肉と大差
はないのである。それは目方によって価値が秤(はか)られなければならないが、実際は
そんな事なないのである。目方の少ない小さな人間でも、目方の多い巨人のような人間よりも
価値多きことがあるのである。これによっても、「人間」は単なる物質でないことを知ること
ができるのである。

感謝合掌

1693うのはな:2012/11/29(木) 15:27:51 ID:YT9aDVnY
    今後の日本の進むべき道

 『新しい開国の時代』に総裁谷口清超先生は、この国際時代にわれらは何を為すべきかについて
次のようにお示し下さっている。
《連綿とした継続の中に異なる形や個性が表現されるという「諸法実相」の真理が深く理解されなければならない。この
理解が乏しい時、「異」のみをあげつらって争いを激化させ、「同」のみに固執して「新しい鎖国」を実現しようとする。
こうなると「普遍性」と「個性」とが対立し合い、それを内包して自己同一化することが出来なくなるのである。
かつての時代の「島国根性」は、現代に於いてもしばしば見出され、それをもって「日本精神」と誤解している輩も亦ないことはない。

 しかし、新時代の日本は、どうしてもそのすぐれた中心帰一の天皇国家の個性をどこまでも護持すると同時に、広く全世界に向って普遍的な
愛と正義を実践して行かなければならないのである。(中略)
 こうして必然的に新しい日本は全世界とさらに一層交流を活発にし、輸出もするが、輸入もやるのである。
輸出か輸入か、そのどちらかに偏るのではない。これが『自然流通の神示』に示されているところの古くて新しい教えである。≫(三一四〜三一六頁)
また『伸びゆく日々の言葉』には、次のように述べられている。

《 もしあなたが日本を愛するなら、日本をよい国にしなければならない。日本がよい国になるということは、日本が、独自の個性を発揮し、中心帰一の
 “真理国家”となると共に、世界各国に愛される“国際国家”に成長することである。≫(四二頁)

《 日本国も立派な歴史と文化を創造した。しかし諸外国にもすぐれた国や国民が沢山いることを忘れてはならない。
 それを否定して夜郎自大をきめこみ、増上慢に陥る時、日本人は神意にそむき、進歩発展を停止するか、さもなくば失敗するであろう。
 過去の敗戦の歴史もその一端を示す。それ故、自国を閉鎖し、諸外国の文化やすぐれた産品を除外し、日本を孤立化させてはならない。》(四三頁)

 このようにわれらは世界に誇るべき天皇国日本を護持するために、政治家をふくめた日本国民がすべて天皇の大御心に還帰し、国家エゴイズムを超えた「神の国」
を実現しなければならない。ここに生長の家の国家観と今後の進むべき道があるのである。

『光の国から』渋晴雄 先生著

1694a hope:2012/11/30(金) 06:39:37 ID:lAQRWvUs

新版 生活読本 谷口雅春先生著
第八章 斯(こ)うして希望を実現しましょう

♦どんな心の働きでも脳髄に印象せられます

心が肉体から去ったら、肉体は動かなくなります。
肉体を動かしているのは心の力であります。その心がなまけていては肉体は完全に動きません。

その心が「病気になる方が学校を休めて好い」とか
「あまり忙しいから、病気にでもなって一週間も休んで見たいな」などと考えているようでは肉体は達者になりません。

大体、どんな心の作用でも、脳髄に印象せられるのであります。
すべて吾々の霊魂(たましい)は自分の思いを「脳髄」と云うラジオ・セットに送って、
そこから身体(からだ)の各部に命令をつたえます。

だから身体各部を密接(ぴったり)に脳髄に連絡しているのであって、
脳髄で考えられたことは「運動する」と「しない」とに拘わらず、
必ず肉体各部に伝わって何らかの印象なくとも「憂鬱な考え」(おもくるしいきぶん)を心に起しますと、
直(ただち)に脳髄からそれが筋肉につたわり、顔の筋肉が憂鬱な形にふさぎ込みます。

それはただに顔の筋肉に伝わるばかりではなく、全身の神経につたわりますから、
胃腸の働きも憂鬱にして、便秘を起こしたり、消化不良のために下痢を起こしたりします。

血液の中にも毒素が出来ます。
呼吸器や循環器にも影響を与えまして、血のめぐりが悪くなり、したがって、
血液の色も悪くなり、青ざめた顔になったり静脈がゆるんで、皮膚に青すじが太く出来たり致します。

健康になり容貌(かおかたち)が美しくなるためには、
心が晴れやかに、明るい気持にして、生活することであります。
(第八章終り)

1695さくら:2012/11/30(金) 08:22:03 ID:e8ieIrPA
「到彼岸の藭示」谷口雅春先生

自他一體の藭示

『生命の實相』を読んで自分だけが眞理を悟つてそれで善いと思ふものはまだ生命の實相を悟つたものではない。眞理は自他一體のものであるから、ひとに傳へるとき、其處に『結び』の力が發現するのである。『結び』は愛の力、慈悲の力、藭の力、佛の力である。
これを日本古道でムズビ(産霊)言ひ、ムスビによつて醸生(藭)の力、即ち生々化育の力が發現して来るのである。
 だから『生命の實相』に書いてある通りのことを病人に愛の心で話してあげれば、ただ話をするだけで病氣が治るのである。話すのが下手なら『生命の實相』の中の『光明の眞理』のところを、本の由来を話してから讀んで聞かせてもよい。

藭の道では『結び』の反對『切る』ことを最も厭ふのである。怒つたり、審判いたりするのは心で切るから善くない。離縁、背信、忘恩、不忠、叛逆等がすべて善くないのは人と人との間を切るからである。『藭』は『道』であると云うのも『道』と云ふものは離れてゐるものを結び合はす働きがあるから『道』即ち藭である。結び合はす働きがなくて、審判く働きばかりあるものはどんな善人でも藭に遠い。

 一人の男子が縁があつて一人の女性と結ばれたならば再び離れるのは『道』ではない、それを圓く結んでやるのが道である。藭の道を知り『生命の實相』を知ると云うこともその道びきになる人々の間には深い因縁があることであるから、橋掛けになつた人の恩を忘れてはならぬ。自分はもう藭と直取引が出来るから掛けになつた人の恩は忘れても好いと思ふやうな人は、自分はもう藭を知つたから藭に背いても好いと云ふのと同じく不合理である。『生長の家』を知らせてくれる人は其の人にとつて天の使ひであるから何日までも恩を忘れてはならぬ。

日本人は忠孝一貫恩を忘れぬ國民であるから強いのである。今度の戦ひは國民の魂の質から言へば知恩と忘恩の戦ひ、『結び』働きと、バラバラに分離する働きとの戦ひである。
バラバラに分離する働きは結局自滅して『結びの働き』が世界を統一する。
医学でも大和の医学は結合の医学であるが外國の医学は分析の医学である。
『生命』は結合の統體であるからバラバラの医学では解らぬ。
(昭和七年二月四日藭示)

1696うのはな:2012/11/30(金) 11:23:21 ID:rDrPNupg
   聖使命新聞 昭和四十六年十二月十一日号 途中一部抜粋

 神想観を修しているとき、「生長の家の教えをしておられる本尊の神様のお姿を拝ませて
下さい」と一心に祈ったら、観世音菩薩が姿を現わされた。そして、それはまだ生長の家のマークがない
四年前だったのに、その観世音の頭を飾る宝冠の中央にあの生長の家のマークをつけておられたというような、
奇跡的な、神秘的な現象があったということは、もう多くの信徒の知る所でありますが、これは観世音菩薩が人類救済
のため法華経の真理を説くために出て来ておられるのが“生長の家”だということをあらわしている。

 そしてその法華経の真理が説かれたものだから、それを讃歎するために竜宮界の本地に坐します住吉大神ー即ち多宝如来が
“七宝の塔”に乗って地上に出現せられて「善い哉、善い哉、釈迦牟尼仏、法華経を説き給う」と、嘗て讃歎されたように、私が
『生長の家』誌によって、法華経の真理を説いているとき、竜宮界から、住吉大神が顕われて「善い哉、善い哉、谷口雅春、法華経を
説き給う」と讃歎せられたのであります。

 その竜宮界にまします多宝如来すなわち住吉大神が出現せられて「善い哉、善い哉、谷口雅春、法華経を説き給う」と初めて姿を顕わされた
のが、今神戸市東灘区にある「生長の家発祥道場」となっているところの、あの家の奥座敷に、私と家内とが相対座して神想観をしているその時に、
今、東京の生長の家本部の正門の上に、服部仁郎先生の作であるところの住吉大神(生長の家大神)の像がありますが、あの像の如き住吉大神のお姿で
私の背後の空中に立っておられる白髪の老翁の神のお姿を拝したというわけであります。

 それからあの神姿は霊覚ある熱心な諸方の信者たちの前に姿を顕わされた。
カナダのトロントにもお姿を顕わされたり、インドにもお姿を顕わされたりして、それは単に一人の人が空想的に幻を見たのではないのであって、本当に実在
する神の顕現であるということを証するために別々の人に別々の所で同じ姿をもって顕われておられるわけなのであります。

つづく

1697うのはな:2012/11/30(金) 11:24:02 ID:rDrPNupg
    天照大神の霊統をつぎ給う〝天皇〟

 この神姿が、竜宮の大神・住吉大神・多宝如来のお姿であります。竜宮は一切の富の本源でありますから、
多宝の世界であり、七宝充満せる世界であり、そこは時間・空間以前の世界でありますから、そこは年寄らない世界
であって、浦島太郎の神話にあるように、あの竜宮界へ入って行けば、年寄らないという事になるのであります。

 皆さんも神想観をして、その度ごとに竜宮界即ち実相世界へ入って行く。
言い換えると、「吾れ今五官の世界を去って実相の世界に入る」と、実相の世界に度々お入りになって、現象界の人間は老いるものである
朽ち果てるものであるという妄想を洗い浄められる其の程度に従って、その人は常に若々しく元気で長生きできるということになるのであります。
その多宝如来が、姿を顕わされたその多宝塔の姿に模してこしらえたのが、宇治の別格本山に竣工しましたところの「神癒の社」と言いますのは、
そこは時間・空間を超えた無量寿の生命の世界であるから、あそこへ入れば、一切の地上の妄想、迷い穢れ、及び、憤り、憎しみ、恨み、貪欲、憂え、悲しみ、
その他一切の悪しき地上の想念感情は悉く洗い浄められて、そして本来の実相の完全な生命のすがたを復元するということになるので、
それは、「神様の癒し」というので、仮りに「神癒の社」と名づけた訳であります。

 こうして生長の家の教えは、竜宮の大神・多宝如来・住吉大神が出現せられて、「善い哉、善い哉、谷口雅春、法華経を説き給う」と讃歎せられたので、法華経の真理
本当の真理ーが説かれている教えだということがわかるのであります。
その宇宙の真理、実相の世界の姿というものの根本が、天照大神の霊統をつぎ給う天皇を中心とする
「日本国の実相」であるわけです。それだから吾々の運動には自然に、愛国運動とか、明治憲法復元運動というものが起こって来るのであって、決して、谷口雅春が勝手に
なんでありますそんな教えをしたら皆が感心するだろうと思って人間知恵で工夫してこしらえたという教えではないのであって私はただ竜宮の大神の説き給う華厳経の真理・法華経の真理を伝えるラッパ
であるという訳なんであります。

1698神の子さん:2012/11/30(金) 17:36:05 ID:???
>>1695
>>これを日本古道でムズビ(産霊)言ひ、

どういう意味ですか?

1699さくら 訂正:2012/11/30(金) 22:06:48 ID:e8ieIrPA
>>これを日本古道でムズビ(産霊)言ひ、

>>これを日本古道でムスビ(産霊)言ひ、

1700さくら 訂正:2012/11/30(金) 22:12:34 ID:e8ieIrPA



観覧者のみなさまへ


聖典謹写の際、気をつけておりますが、
iphonからしか打ち込めないことも多々あり、

打ち間違いがしばしありましたら、深くお詫びいたします。


ご指摘には感謝いたします。




1701ハマナス:2012/11/30(金) 22:57:57 ID:x2zmnlqw

神の子のみなさま
こんばんは。

「肉体」から「廻れ右」させる「喝」 (『新版 生活の智慧365章』P.301)

 生長の家では「人間は肉体にあらず物質にあらず」と説く。また、「物質は無い、肉体は無い、
現象は無い」とも説く。これらは悉く人間を物資として、又、肉体として把握している人々の心を、
一転して「人間は“神の子”であり“霊的実在”である」と云う自覚に振り向けるための“一転語”
であり “喝”であるのである。

ある西洋人は「 “病気は無い”と念じて病気が消えるのなら、“肉体は無い”と念じたら肉体が
消えてしまう筈ではないか。それなのに肉体が消えないのは論理に矛盾があるのではないか」と
質問したそうである。元来、「肉体は無い」とか「病気は無い」とか言うのは、肉体や病気を、
どうにもならない固定物質として把(つか)んでいて、心で把んでいるから、その心が肉体や
病気に固着していて自由を失ってしまい、本来の“霊的実在”たる人間の実相をさとることが
出来ない状態の人の“心”を、肉体や病気から振り向いて“廻れ右”させるための一転語なので
ある。そしてその一転語が功を奏して其の人が“肉体”や “病気”から念を放してしまった
ときに、念によって「実相の完全さ」が表面にあらわれて健康が恢復するのである。従って
「肉体は無い」と云う念が徹底しても、肉体が消滅することにはならないで、却って肉体に健康
があらわれるのである。

感謝合掌

1702うのはな:2012/12/01(土) 01:14:20 ID:q1/hjc9I
Q 生長の家の教えとはどんな教えですか?その特徴を簡潔に教えてください。

A 谷口雅春先生のご著書『實相研鑽』第二集に、そのご質問の回答に相応しい箇所があります。
要約してお伝えします。
 各宗門は「宗門」と言われますように「門」であります。その門がいいとか悪いとか争っていますが、
これが宗教同士の争いであります。門には良し悪しがあり欠陥があったり、人の気を引くための対機説法で
「人間罪の子」や業を強調したりします。

 しかし「門」はどの門から入っても、奥の院に行くためにあるものです。
奥の院にはただ一つの大真理があるだけであります。しかしこの奥の院の真理に辿り着くためには門に掛かっている鍵を
開かねばなりません。この鍵を開け、その宗門を通って奥の院に導く者こそが生長の家なのです。
その門を開ける鍵は「唯神実相論」という鍵です。「唯神実相論」とは、神のみが実在であって、悪も罪も病気も神はお造りにならなかったから、
それらはことごとく存在しないと断言します。それを“現象なし”と言います。

 これが奥の院に直結している真理でありますが、この真理を印刷物による“文書伝道”という全く新しい独特の方法によって普及して来たのが生長の家
であります。
 第二の特徴は、「生長の家は日本的宗教」だということです。日本的と言うと狭いように聞こえますが、
「日本的宗教であるから広い」のです。なぜなら「天皇信仰の宗教」であり、「天皇」とは実相世界の中心に在す存在であり、「神意の天に成るが如く地にも成らせ給え」
というキリストの祈りを成就する教えだからであります。

 どういうことかと言いますと、「神意の天に成る」世界とは、多くの中心があるのではなく、唯一つの神が中心にあり、その中心に帰一して諸々のものが秩序整然と調和している世界
であります。その「天に成る世界」を「地にも成らせる」世界とは、一つの王がましまして、全ての人間がおのおのの天分に従って、しかも他と衝突することなく調和する世界であります。
「一つの王」とは、天之御中主神(幽の幽なる神)−天照大御神(幽の神)−瓊々杵尊(幽の顕なる神)−天皇(顕の神)の系譜を持つご皇室であり、民が君に中心帰一し調和する一君万民の
姿をもって、祭りと政事(まつりごと)とが一つである祭政一致の実相の理想的模型国家が日本国家であります。
その日本国家のあり方が全世界に拡がることが「神意の天に成るが如く地にも成らせ給え」のキリストの祈りの成就ということになるのであります。

 そして、その成就を使命とするものこそ「生長の家」なのだということであります。

『谷口雅春先生を学ぶ』 生長の家入門 平成十六年五月号

1703さくら:2012/12/01(土) 10:29:12 ID:e8ieIrPA
『秘められたる藭示』  谷口雅春 先生

萬教包容の藭示

 キリスト教では聖地エルサレムが世界の中心であると云ひ、大本教では丹波の綾部が世界の中心であると云ひ、天理教では大和の丹波市が世界の中心であると云ひ、天行居では周防の岩城山が世界の中心であると云ふ。世界の中心争ひも久しいものである。

併しわれは言ふ、それらは悉く皆世界の中心であると。一定の場所が世界の中心だと思つてゐるものは憐れなるかな。生命の實相の教へが最も鮮かに顕れたところが形の世界の中心であるのである。そこは最も世を照らす光が多いからである。

基督教でもイエスの教へがエルサレムに最もよく輝いてゐた時代はエルサレムが世界の中心であつたのである。天理教でも教への光が最もよく輝いてゐた時代は大和の丹波市が世界の中心であつたし、大本教でも教への光が最もよく輝いてゐた時代は丹波の綾部が中心であつたのである。わが行きてとどまるところは悉く世界の中心であるのである。

誰にてもあれ生命の實相を此世に最も多く輝かせた處に吾は行きてとどまり其處が世界の中心となるのである。十字架の本地も、卍の本地も悉く日の本にある。『+』もヒノモトと讀み、卍もヒノモトと讀む。いづれも中心より四方に救ひの慈光の放射された相を形どつたものであるからヒノモトと讀むのである。
古藭道ひとすぢで行く、基督教ひとすぢで行く、阿彌陀ひとすぢで行くと云ふやうな人があり、そのひとすぢの所に誠があらはれてゐて喜ばしいが、大抵は自教の外に他教を認め、他と混りたくない意味で云ふのであるから、自分で自分の崇める藭なり佛なりを小さく貶してゐるのが氣の毒である。
本當の藭は一つであり、他の藭と對立するやうな小さな存在ではない。

本當の古藭道は自餘の一切の教を包括するものであり、本當の基督教は自餘の一切の教へを包括するものであり、本當の佛教は自餘の一切の教へを包括するである。そして如何なる教にてもあれ一切の教へを包括する本當の實相に到達したとき『生長の家(たかあまはら)』と云ふのである。それは天爾の『家』であり『巣』であり『統』であつて教ではない。その家の中にあつて色々の教が生きているのである。

本當の古藭道は『生長の家』の内にあり、本當の基督教は『生長の家』のうちにあり、本當の佛教は『生長の家』の内にあり、生命の實相の顕現する所、説かるる所、讀まるる所、その悉くが世界の中心である。

(昭和七年七月七日朝藭示)」

1704「訊け」管理人:2012/12/01(土) 10:50:49 ID:???

『幸福を招く365章』60頁より謹写――

◆悪に対して悪を以てしてはならぬ

 あらゆる物は神の創造であるから、すべてその実相(ほんとのすがた)は善である。若しそこに善があらわれていないならば、それは其の物から吾々自身が善を呼出さないからである。若し吾々がすべての物から善を呼び出すことに成功するならば、すべての物は「善」に姿をかえてしまうのである。善を呼出す秘密の法は、「あなたは善である。あなたは神の子であるから、悪である筈はない。悪に見えるのは私が心の中に悪を描いて見るからで、誠に申訳ございません」と、人に対してでも、物に対してでも、心の中で強く呼びかけることである。悪に対して、暴力や言葉や威嚇で対抗したり、徒(いたず)らに嘆いて見ても何にもならない。


◆悪に抗するなかれ

 今のことを有り難く受けよ。今の事を素直に受けよ。この世の中に無駄な事は何一つないのである。悪しく見える事は、過去の悪しき想念の力が形にあらわれて消えて行きつつあるのである。「悪に抗する心」を起すとき、吾々は「悪」を実在として身構えするのである。「悪」を実在として観る心を起すとき、「悪」の外見的存在は、それを実在と観る心の力に支えられて、却って消えない事になるのである。相手の「悪」を見ないで、その悪と見える仮相の奥に存在する「善」を見よ。「悪」を見て瞞(だま)されないよりも瞞(だま)されても尚相手の善を信ずる者は幸福である。

1705神の子さん:2012/12/01(土) 19:08:35 ID:???
>>1700
iPhoneから打つと毎日IDが変わるんですけど、さくらさんのiPhoneはずっと同じですね

1706ハマナス:2012/12/01(土) 21:23:16 ID:x2zmnlqw

神の子のみなさま
こんばんは。

肉体も本来仏の現成  (『新版 生活の智慧365章』P.302)

 「肉体は無い」「物質は無い」と云うことは、換言すれば、吾々は五官の感覚のよって一切の
存在を翻訳して、それを便宜上「物質」と見、「肉体」と見ているけれども、それは日常生活の
便宜上の翻訳であり、寧ろ誤訳であると云うことができると云うのである。翻訳せずに、その
実相を把握すれば、物質と見えているものは物質ではなく「山川草木国土悉皆、仏の現成(げん
じょう)」だと云うことを意味する。肉体と見えているものもそれを誤訳しなかったら、それは
肉体ではなく神の生命そのものの示現なる霊的実在であると云うことを意味する。

 こうして「物質と見えているもの」が実は物質ではなく、仏の現成であり、「肉体と見えて
いるもの」が実は肉体でなく「霊体」であるとするならば、さて、何処にも物質はなく、肉体は
なく、それを物質と見、肉体と見るのは、迷妄であり、幻想であり、誤訳であると言うことが
できるのである。「物質は無い」「肉体は無い」と云う意味はこのような意味なのである。

感謝合掌

1707ハマナス:2012/12/01(土) 21:52:11 ID:x2zmnlqw

『生命の實相』第38巻  幸福篇下 P.158より謹写

 もっともっと気高く生きよう、
最も気尚(けだか)いことのほか何事も考えまい、
最も気尚(けだか)いことのほか何事も為すまい。

 他(ひと)を助けよう、
 他(ひと)のためになろう。
 他(ひと)に愛を注ごう。
 愛を注げば、
 愛が自分に還って来る。

 悪い人というのは本来一人もない、
 地獄というものも決してない。
 悪いことがそこに語られるとき
 そこが地獄であり、
 それを語る人が悪い人である。

 汝の世界に天国浄土を実現せんと欲するならば
 決して人の悪を語るな、
 決して人の悪を思うな、
 天国を目指しつつ人の悪を語るものは
 必ずや穽(おとしあな)に陥って地獄へと墜落せん。


 感謝合掌

1708ハマナス:2012/12/01(土) 22:29:22 ID:x2zmnlqw

光明法語〈道の巻」谷口雅春先生著作集  第1巻

   十二月一日の法語   去私すなわち神

「わが魂の底なる神よ。あなたのみ声を誤りなく聴くことが出来ますように。あなたの
み心が私の心となって顕れてまいりますように。我(が)をなくならしめ給え。わたしの
行いがあなたの行いでありますように」。これが私の祈りである。我がなくなったとき、
其処に神が顕れる。神が顕れたとき、其処には完全円満のみが存在するのである。悪しき
ものは存在しない。それは我の顕れに過ぎないのである。私心を去ったとき唯円満完全
のみがあらわれる。あまり自分でたくまぬが好い。

感謝合掌

1709さくら:2012/12/01(土) 23:01:14 ID:e8ieIrPA
到彼岸の藭示
   谷口雅春先生
 
『いのちのゆには』の藭示

見眞道場(いのちのゆには)とは眞(まこと)を見はす齊めの場である。『眞(まこと)』とは『生命の實相(せいめいのまことのすがた)』のことである。齋めるとは迷ひを除くことである。人は藭の子であるから、その實相を見はせば病なく、悩みなく、死なく、一切の不幸は無い。人の世は、藭の子と藭の子とが相寄つて造つてゐる世界であるから、その眞實の相があらはれれば、人と人、階級と階級、國と國との争ひも戦ひも自然に消える。

實相をさとつた人が少ないために皆が苦しむのである。假相を實相だと思ひ誤り、皆が苦しんでゐるのが可哀相であるから、さきには智慧の光で迷を照破するために、聖典『生命の實相』を造らせたのである。これを讀むだけで救はれる人は餘程藭縁の深い人達である。此の藭縁をおろそかにせずに人に傳へて尚々多くの兄弟を救ふやう協力せよ。人はすべて藭に於て兄弟である。人を救ひ道を傳へようと思へば、それが愛即ち藭心であるから、その人に藭は偕にありて藭の言葉を其の人に話さすのであるから、自分はまだ人に話すだけの力がないなどと思はず、其の時に『生長の家』について思出したことを話せば、それが種子となつて相手が救はれる。人は種子を播きさへすれば好い。教への種子は藭が人の心の中へ吹き込むから、思い出すままに語ればそれで相手が救はれる。人ひとりでも救ふのは藭の前に大いなる仕事である。

此の事はだいじである。本だけ讀んで悟れる程の境に達してゐない人のためと、人を救ふために尚一層深く知りたい人のために、智慧の光に、愛の温かさを加へて色々世話をやくやうに智と愛との十字で曼陀羅を織らせるのが見眞道場(いのちのゆには)である。これから人を救ふための天使の靈の宿つてゐる善き人たちが諸方から此の道場へ集まつ来て、奇蹟(てほん)を此の道場(ゆには)で見せる。愛の心で来るものは藭徳を受けて歸るが、審判く心や素見し心で来るものは藭と心の波長が合わぬから其の心が直らぬうちは藭徳は受けられぬ。

(昭和七年三月十四日藭示)

1710さくら:2012/12/01(土) 23:16:00 ID:e8ieIrPA
『生活と人間の再建』  谷口雅春先生
 
「 光に對して眼をひらけ

 人は罪を犯したが故にとて、藭に跪いてその赦しを求めるのであるが、罪とは果して何であるか。罪とは實相に對して目をつぶつてゐることであつて、それは眼をつぶつた目に光の存在しないと云ふことにすぎないのである。

それは罪といふ實物が存在するのではなくして、光に對して目をとぢてゐることだけの消極的状態にすぎないのである。吾々は唯目を開けば好いのである。ただ赦せばよいのである。餘りに赦す心なく、心のレンズを絞るから光が入らないのである。自分自身の心を小さく絞ることをやめよ。」



1711a hope:2012/12/02(日) 10:24:14 ID:ueIDSztA
新版 生活読本 谷口雅春先生著
第九章 斯(こ)うして愉快に生きましょう
♦愉快な生々(いきいき)した人になれ

何よりも吾々は人らしい人になることが必要なのです。
神の子の生活と云うのは別に人を離れて神の子の生活があるのではございません。
それでは人らしい生活と云うのはどういう生活であるかと云うと、お釈迦さんは、
「笑うべき時に笑わず、悦ぶべき時に歓ばず、慈心(なさけごころ)を起すべき時に慈心を起さず、
悪を作(な)して恥じず、善を聞いて意(こころ)に著(つ)けない人は確かに人らしくない人である。」そして又こう云われた。
「笑うべき時に笑い、歓ぶべき時に歓び、悪を作(な)して恥じ、善を聞いてそれを意(こころ)に感銘する者は確かに人らしい人である。」

愉快に楽しく生々していることは、確かに人間にとっての美徳であるのである。
美徳と云うのは美しい徳だと云うことである。
徳と云う字は「直心(じきしん)を彳(ぎょう)ず」と云うことを文字に組み合わせたものである。
直心と云うのは、素直にそのままの心を出すことである。
即ち笑うべき時に笑うことである。歓ぶべきときに歓ぶことである。
なさけの心を起すべきときに、素直に可哀そうだと思って救(たす)けてやることである。

歓びと云うものは、身体(からだ)の血のめぐりをよくし、勉強や仕事をする力を増し、
悲観したり気が鬱(ふさ)いだリしている人にはとても及ばない良い考えを起させてくれるものである。

日本人は、古くから、「喜怒(きど)、色に現さず」と云って歓びがあっても喜ばない、怒りの念が起こっても
其(そ)の怒りを顔にあらわさないことを美徳としてきましたが、これは大変な間違いだったのです。
多くの病気は、心の中に持っているよろこびや悲しみを形にあらわさないために起こるのです。

怒(おこ)ることは感心しませんが、素直な気持で、何でも心に思っていることを出すようにしていますと、
心にものがたまって腐ることがありませんから、怒(いか)ることも自然になくなるのです。
何でも心を自由にしている人間の実相は愉快なのが本当ですから、愉快に楽しくなるほかはないのです。

常にニコニコ微笑している者は身体(からだ)も達者であります。微笑とは「ほほえみ」です。
「頬」に何となく嬉しさの笑(わらい)が浮かんでいることです。
「ニコニコ健康法」を機会ある毎におやんなさい。人間は愉快な時にも笑いますが、笑っていると愉快になるのです。

マドリッドには「ラーフ・キュアー」(ニコニコ治療)の病院がありました。
そこでは普通の医療で治らない人たちが、入院して毎日鏡を見て笑う稽古をするのです。
どうしても笑わないヒステリーの患者などは、唇と歯の間に燐寸(マッチ)の軸木(じくぎ)をバネのように突込んで、
その形が可笑しいと云って笑わせたりします。わらっているとズンズン健康になってくるのです。
(つづく)

1712神の子さん:2012/12/02(日) 13:44:08 ID:jBAYE4o2
>>1705
iPhoneの設定もいじれない情弱乙

1713「訊け」管理人:2012/12/02(日) 17:57:26 ID:???


 >>1712は、『生命の實相』(和解例外篇)よりの謹写?


二日の経言――
心の独立を得る言葉

 自分は神の子であるから、今自己の生活を、意識的に自分自身で支配するのである。自分は今より自分の考えようと思う事物をのみ考える。自分は自分の生活に何事が湧いて来ようとも自己の心を支配することによってそれを支配することが出来るのである。吾等は自己の思想を日に日に一層よきものたらしめ、創造を司る宇宙霊が、吾等に一層幸福なる状態に此の世界を創造して呉れることを信ずる。吾等は至上の智慧に導かれんがために、真理についてのみ考えるのである。吾等は、あらゆる智能に優った神的平和を獲(う)るために信仰の事についてのみ考えるのである。
 吾れは今愛の霊に充たされている。吾れは今聖なる宇宙の心と調和している。吾れは今心を開いて至上なるものの感情を胸に受けているのである。吾れは今意識的に愛とそして智慧なる宇宙の心に接触している。吾れは今神の御側(みそば)にはべって、神が吾が力を新たならしめたまうのを待っている。吾が心は今神の上にのみ注がれている。それ故に、吾れはすべての人々に対して、又自分自身に対しても平和なのである。如何なる禍も自分の上には降り濺(そそ)がない。愛の天使が自分の周囲をとり巻いている。吾れはいま吾がいのちが神の子であることを知るが故に、無限なる者の力をうけて歩むのである。吾らは神の子として生きて決して奴隷の如くには屈従しない。われは法則を守り、法則は吾れを護るのである。われは法則に従い、法則はに吾れに従うのである。吾れは無我の聖悦に充たされながら、神に吾が胸を打ちまかすのである。今此の時、吾れは神の援助の慈手(やさしきみて)が吾が上に来ている事を感ずる。吾れは歓喜(よろこび)に充たされている。吾れは強し。吾れは今生命を愛とを吾が裡に感ずる。

『日々読誦三十章経』より謹写――

1714ハマナス:2012/12/02(日) 22:57:55 ID:x2zmnlqw

神の子のみなさま
こんばんは。

「肉体」とは「霊的実在の誤訳 (『新版 生活の智慧365章』P.303)

 霊的実在のみが“本当に在る”のである。それを物質と見るのは誤訳に過ぎない。誤訳の文章は
あるかのように見えても、“本当のもの”を表わしていないから、それが表わす意味のものは
「本来無い」ものを「ある」かの如く表現しているに過ぎないのである。「物質はない」「肉体は
ない」と言うのは。そういう意味なのである。

誤訳には何等本当の実質はあり得ない。それと同じく、物質には何ら本当の実質はあり得ないので
ある。従って肉体、そのものもただ誤訳者たる “心”の表現であるほかの何ものでもないのである。
訳者が異なれば誤訳の程度が変わって来て、多少「原文」の意味をあらわして来るように、“心”が
多少真理を理解すれば、多少「実相」の本当の姿がわかって来て、肉体にも、より多く実相の完全な
有様を表現することになるのである。それが即ち、『生命の實相』を読んで真理をさとれば肉体の
健康度が改善される所以である。

感謝合掌

1715a hope:2012/12/03(月) 07:52:02 ID:ueIDSztA
新版 生活読本 谷口雅春先生著
第九章 斯(こ)うして愉快に生きましょう

♦人の欠点を見るな

常に愉快でいるためには人の欠点を見てはなりません。
人間に有りがちな最も悪い癖は、人の欠点(よくないところ)を見る癖です。アラサガシの癖です。

人生を不愉快にする一番悪い癖は、このアラサガシであります。
家(うち)の中に一人、此のアラサガシの癖を持った人がいますと、その家庭が面白く愉快になりません。
団体の中に一人、仲間のアラサガシをする人があると其の団体はバラバラに仲間われがしてしまいます。

人間は、その人の欠点を見つけて、いくらその欠点をあばき立てたからと云って、
それによって其人(そのひと)の欠点がなくなる訳ではありません。

何でもみとめれば認めるほどハッキリあらわれるのが心の法則ですから、
欠点をみつければ見つけるほど、その欠点は一層大きくあらわれてまいります。
美点(よいところ)をみとめればみとめるほど美点があらわれてまいります。

ヤミだ、ヤミだとみとめていると、いくらでもヤミが出て来ます。
ヤミなんかみとめないで、ヤミと云う言葉さえもなくすればヤミが出て来なくなるのです。

これが心の法則です。
「悪いもの」や「善くないもの」があると云うことをみとめることは、
その悪いもの善くないものにこちらから力を添えてやるようなものです。
欠点をなくするには欠点をみとめないで、美点のみをみとめて行けばよいのです。

善いもの、美しいもの――調和、平和――こんなもののみが本当はあるのです。
悪いもの、醜いもの、貧弱なもの、不調和なもの、争いや、いさかいなどは神がつくらないから本当は「無い」のです。

その無いものがどうして現れるかと云うと、それは「みとめる」心の力で現れて来るのです。
たとえば、「あいつと自分との間には争いがある」と認めてばかりいますと、屹度(きっと)争いが現れてまいります。

今まで世界に起った戦争はみな、この「争い」を認めた為に、争いが益々大きくなり、ついに戦争になったのであります。
家庭の仲でも面白くない事が起こったり、家族同士仲が悪くなったりするのは、互いにその欠点を見つけて、
悪いことを「ある」としてそれを言葉に現すからなのです。
(つづく)

1716「訊け」管理人:2012/12/03(月) 11:34:12 ID:???



三日の経言――

観音妙智観

 吾れはいま吾が住む世界を観音妙智力の表現であると観ずる。み空の星は観世音菩薩がわれを看(み)まもりたまう瞳である。梢に鳴る風の音(ね)、小川の潺々(せんせん)たる囁(ささや)き、これら全ては観世音の吾れに告げ給う御言葉である。自然界の凡ゆる力は吾れを生かそう生かそうとしている力の顕れである。吾が住む世界は最早未知の世界ではないのである。吾れは此の世界を理解し、此(この)世界は吾れを理解している。

 されば吾れは今より恐るるところはないのである。吾れはいま宇宙に偏在し給う隠れたる力の泉を汲む。吾れはいま宇宙の凡ての力と調和している。吾れはいま真(しん)に『愛』そのもの『智慧』そのものに導かれて平和の道を歩んでいるのである。観音経には、

 『或(あるい)は怨賊(おんぞく)の繞(かこ)みて、各々刀を執(と)りて害を加うるに値(あ)わんにも彼(か)の観世音の力を念ずれば、ことごとく即ち慈心を起さん。呪詛(じゅそ)諸々(もろもろ)の毒薬もて身を害せんと欲する者あらんにも、彼(か)の観世音の力を念ずれば、還(かえ)りて本人に著(つ)きなん。若(もし)くは悪獣に囲繞(いにょう)せられ、利(と)き牙爪(げそう)の怖るべきあらんにも彼(か)の観世音の力を念ずれば、疾(すみや)かに無辺の彼方に走り去らん。』

 と書かれているのである。観世音菩薩は宇宙浄化の智慧であり、宇宙を育みたまう大慈悲である。吾れ観世音菩薩と倶(とも)なるが故に、吾れに抗(さから)う力は何処にもないのである。観世音の大慈悲はいま吾れを愛したまい、吾れを導きたまい、吾れに新しき生命を与えたまう。観世音の妙智力は全てのものに宿り給う。それ故に吾が世界の一切は調和しているのである。吾れ観世音菩薩に感謝し奉る。

『日々読誦三十章経』より謹写――

1717さくら:2012/12/03(月) 14:58:55 ID:KZaB1vfg
「静思集」
谷口雅春先生

「寂静にして鳴るなり」このことを悟らざる人の多きを悲しむ。

『智慧の言葉』に「縛られて自由自在」とあるのはこのことである。普通は、縛られていたら自由自在ではないと思う。人生の苦悩は其処から生れる。人生は本来「自由」なる生命が「縛り」(時空の制約)の世界にあらわれたのである。縛られて自由自在「一即多」を悟った境地である。そこに坐りながら、自分の生命が全世界に動いているのである。

「寂静にして鳴るなり」とはそのことである。現象を眼の前に見ながら「現象無し」と知るのも、その境地である。病を眼の前に見ながら「病なし」と知るのも、其の境地である。「寂静にして鳴るなり」「寂静にして病むなり」畢竟病なきなり。風のことに非ず、鈴のことに非ず、われらの生命のことである。

「生死にあり」と観るは、風鈴を鳴るとするのである。如何にも風鈴は鳴るのである。しかも風も鈴もともに寂静なのである。

寂静にして鳴る。
生死なくして生死す。
一点にして無限大。
寂静にして鳴るなり。」



1718ハマナス:2012/12/03(月) 23:35:23 ID:x2zmnlqw

神の子のみなさま
こんばんは。

さくら様、a hope様、訊け様
いつも、素晴らしいご文章の謹写をありがとうございます。感謝しています。


永遠に生き通しの生命  (『新版 生活の智慧365章』P.303)

 聖経『甘露の法雨』には人間は肉体に非ず、物質に非ず、脳髄細胞に非ず。神経細胞に非ず、
血球に非ず、血清に非ず、筋肉細胞に非ず、それらすべてを組み合わせたるものにも非ず」と
示されているのである。解剖学は人間を分解して、これらの諸部分に分解して考えるであろう
けれども、それではこれらの諸部分をつなぎ合わせたら「人間」が出来るかと言うと、決して
「人間」にはならないのである。

 「人間」は物質なる部分品をいくらつなぎ合わしても出来ない。肉体は「人間」ではなく
「人間」の産物であり、蛇がぬいだ脱皮の如く、一旦は生命によってつくられたものであるが、
霊的生命が其処を去ると、単なる脱け殻になってしまうものである。「人間」そのものは、
蛇が皮を脱いでも、蛇そのものは生きているように、肉体の皮を脱いでも、永遠に行き通すと
琴の霊的実在なのである。

感謝合掌

1719a hope:2012/12/04(火) 06:48:41 ID:ueIDSztA

ハマナスさま

優しいお言葉をありがとうございます。

感謝 合掌


新版 生活読本 谷口雅春先生著
第九章 斯(こ)うして愉快に生きましょう

♦心に不平を思ってはならぬ

工場で働くにも愉快な人たちは失敗がなく故障がなく、よい仕事が出来、仕事の能率(はか)があがります。
日本が戦争に負けた理由には色々ありますが、其のなかには工場の職工が月給が少ないと云って
ブツブツ不平を思いながら製品をつくったことです。

そう云う不平な心でつくった飛行機は、たいてい、現地まで行くとガタガタになっていました。
また、せっかく空中高く上がったと思うと空中分解(そらのうえでくだける)して、
乗っている兵たいもろとも海中につっこんだりしました。

日本が平和国家として立派に立直るためには生産がふるわなければなりません。
生産とは、働いて物を産み出すことです。
さかんに働いてよい品物をたくさん産み出してこそ、日本は見返り物資の輸出も出来、
外国から食料や必要な原料物資を輸入してもらえるのです。

働かないで、ものを造り出さず、ストライキをして月給だけ沢山貰うようにすれば大変利益のようでありますが、
働かないとものが少なくなり、ものが少なくなって、買う力の給料ばかりがふえますと、ものの値段は益々たかくなるばかりで、
あげて貰った給料よりもまだまだ物の値段が上がりますから、給料を上げてもらって、
前の安い給料の時ほどには沢山ものが買えなくなり、折角ストライクしても、
給料が上がりながら、その給料でも却(かえ)って前ほど物が買えぬことになるばかりであります。

月給は上がらなくとも、物が沢山つくられて物が安く買えるようになりますと、月給が上がったと同じことになります。
だから、ものを作らないでストライキをして月給を上げて貰う運動ほど愚かなものはありません。
国を興(おこ)すには、出来るだけ沢山働いて、出来るだけ沢山ものを造り出すことであります。
(つづく)

1720「訊け」管理人:2012/12/04(火) 09:52:54 ID:???


四日の経言――

無限力を発揮するための言葉

 吾れは今心の眼を開いて、わが魂の神的なる性質を意識する。吾れはいま神にして吾等凡てのものの父なる者とのまつたき結合を意識するのである。神は総ての上に、また凡てに行(ゆき)亙(わた)りて、そして自分の中の凡(あら)ゆるところに内在して坐(ま)しますのである。此の高き自覚を得たのであるから、吾れは敢(あえ)て一切のもののうちの最も善き物を要求することが出来るのである。吾れはいま徒(いたづ)らに他(た)に力を求めない。何となれば神こそ渾(すべ)ての渾てなる力であることを知るからである。
 吾れは吾がうちに絶大なる力が宿っていることを敢て確認する。現在吾が中(うち)に蔵(かく)されたる力が悉くは発(ひら)かれてはいないとは云え、吾れは其の力を所有することを自覚する。吾れは吾れに内在する神の力の全部を次第に発揮しつつあるのである。吾れは無限の生命と一体である。吾れは無限の智慧と一体である。吾れは無限の愛と一体である。

 『祖神(みおやがみ)』の所有し給う一切を吾れも亦所有するのである。吾れは何者にも吾が魂の束縛せられないことを誇りとする。しかも吾れは『祖神(みおやがみ)』と吾れとが完き結合に於いて一体であることを知るが故に平和である。『祖神(みおやがみ)』と吾れとの結合を破るような感情が若しあらば、吾れは今それを永遠に放下(ほうか)するのである。吾れは善その物と一体である。吾れは吾が御親(みおや)、吾が神と一体である。吾れ今吾が魂にこの感じを得せしめ給いしことを感謝し奉る。


『日々読誦三十章経』より謹写――

1721ハマナス:2012/12/04(火) 12:43:50 ID:x2zmnlqw

神の子のみなさま
ありがとうございます。

「心」は実相の翻訳係  (『新版 生活の智慧365章』P.304)

 「人間」は肉体ではなく、“神の子”であり、“霊的実在”ではあるが、五官の感覚には
“霊的実在”は見えないのであるから、五官面にそれが感覚せられるようにあらわすため
には、「実相」を「現象」にまで翻訳し出す翻訳係りが必要なのである。その翻訳係りが
“心”である。

 “心”が「実相」の霊的状態を本当に理会して翻訳すれば、無限次元の実相の荘厳且つ
完全な姿が、縦横厚みの三次元の空間に縮約して翻訳されるのだから、霊的実在としての
人間の荘厳さはあらわれないにしても、三次元は、三次元なりに完全な姿があらわれて来る
ことになるのである。

感謝合掌

1722SAKURA:2012/12/04(火) 19:14:20 ID:jH5uEFzM
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1553>>1554>>1556>>1558>>1562>>1599>>1600>>1607>>1608>>1616>>1617>>1637
>>1644>>1653>>1654>>1661>>1674>>1675>>投稿の続きです。…が

日常生活面を、それなりに考えていきますと、私なりの「雅春先生の哲学」が見えまして、
更に“人生観”が〜〜実に!感慨深いものになりますので、私なりに「生命哲学…勉強会」を
〜♫〜では“続き投稿”していきます。
「雅春先生の例え…」として、投稿されていらっしゃいました記憶があります。…が?
ここは、まるで【四 無 量 心 の 心 の 世 界 観】でしょうか…??

■■『生命の実相哲学シリ−ズ…SAKURA論』
「生命の実相 37巻 より  ……   
===【抜粋文】===================================
時間を大切にするということは、いのちを大切にするということである。現象界のいのちは
時間の流れに展開する。時間の流れにしたがっていのちも過ぎて行く。時間を大切にしない
ものは酔生夢死する。しかしわたしたちは時間を本当に大切にしているだろうか。

時間は眼に見えないものであるから、そして使わず置いても消えてゆくものであるから、
ともすれば浪費しがちである。「使わないことが浪費であって、使えば使うほど殖える」とい
う生長の家の経済学は時間に関していっそう真実である。

 時間は箱詰めにしておいても、瓶詰にしておいても、それは蒸発して消えてしまう。時間
を大切にしようと思って時間時間と考えてもイライラして心が忙しいだけである。時間を大切
にする最も有効なる秘訣は何事もすぐ実行に取りかかるということである。せねばならぬこと
を次に延ばさぬことである。

 せねばならぬことを次へ延ばすことは、行ないの負担を避けるために、その避けている間中、
それは心の負担となっている。行ないは苦しみではなく、心の負担は苦しみである。ぐずぐず
の習慣ほど愚かしきものはない。
 
今を生かす生活、その時その場をすぐ生かす生活、具象的今を生かすことが超時の生命を
今生きることになるのである。
「超時に今」を生きる者は常に生きるものである。ぐずぐずの生活を生きる者は常に死に
つつあるものである。                  (谷口雅春著)
==========================================

■今年も残りわずか〜〜〜今月は【師走…】です。
今日の「雅春先生」の言葉…この月に“ピッタリ”かと…改めて“時間の概念”を、心に刻む
事に!私も今以上に【時間管理…】を???自問自答しながら“反省中”です。…が?
「雅春先生の言葉」通りに、確かに“時間”は放置しても過ぎて行きますモノ「光陰矢のごとし…」でしょうか〜〜〜?
そうなのです〜〜〜ョネ!戻る事もできないのですし?過去を振り返る時が、出来るのは、
【霊界…】の場面でしょうか???そこまで、行きつき更に、走りつづける事でしょうか??

【時間管理】の使い方も、まだ!まだ!甘い私ですが、更に、まだ気持ちばかりが先行し、
手付かず仕舞いの事がありますから…これって「先延ばし??」確かにそうです〜〜〜ョネ!
それを眺めながらの私がいました。毎日!毎日!“心がそこに戻り、ストップ”………
これではいけな〜〜〜い!と“心が焦る私…”がいました。…が?モ〜〜〰ゥ!「先延ばし?」
タイムリミット!!でしょうか?と…改めて、思います。まず“計画表…”を記して、
【時間管理】に入ってゆきます。

■【今!今!生かすことができる人は、人生の勝者…】です〜〜〜ョネ!
私も、今!気づいた地点から〜〜〜【ゴ−!ゴ−!my load start!!】で〜〜〜す。
当に❤〜【つ か え ば 殖 え る 時 間 管 理!!】でしょうか??
                                   再合掌

1723a hope:2012/12/05(水) 07:08:49 ID:ueIDSztA

新版 生活読本 谷口雅春先生著
第九章 斯(こ)うして愉快に生きましょう

♦社長又は上役の不機嫌は心の影である


或る会社の社員で後に大成功者になった人はこういっています。

「私は或る朝、自分の仕事を愉快に始めようと決心したのです。
どれほど明るい思想が事業の進展(のびひろがる)の上に
効果(ききめ)があるものかと云うことを試して見ようと決心したのです。

私は本来、憂鬱な陰気の性質の男だったのです。

私は歩行している最中に、
『私は幸福なのだ。世間の人々は皆自分に好意(しんせつな心)を持っているのだ。私はズンズン出世して世間に認められるのだ』
と一所懸命思いつづけるようにつとめながら行きました。

すると私は歩いている足取りも軽くなり、わたしはまるで空中歩行をしているような素晴らしい好い気持になったものです。
やがて私は事務室へ入って行きました。私の側(かたわら)にいる人に気持よく通りがかりの挨拶を致しました。

それは私は今まで出来なかったことだったのです。
私はそれまで気軽に人に物云える性質ではなかったのです。

私の雇われていた会社の社長と云うのは多忙であり、気むつかしやであり、
社長が私にものを云いかけると、又叱られるのではないかとゾッとするような私でした。

しかし、今日は私は気が朗らかになっているので、今日は社長も御機嫌が頗(すこぶ)るよさそうに見えて気持がよい。
結局、社長が御機嫌が悪いと見えたのは、社長自身が御機嫌が悪いのではなくて、
自分の機嫌の悪いのが相手に映っていたのに過ぎなかったのだと気がついた……。」


こう云う風に周囲の人たちは社長さんでも、上役でも、父でも、母でも、
誰でも自分の心の持方で、やさしい親切な好い人になってくれるのです。

だから皆さん、吾々は、どんな時にも、いつもニコニコして周囲に愉快な気持を投げかけようではありませんか。
それは一文もいらない慈善であり、愛であり、サービスであります。
(つづく)

1724「訊け」管理人:2012/12/05(水) 07:21:42 ID:???


『生命の實相』第38巻(幸福篇下)162頁より謹写――

<12月5日>

 ただ真理のみを語れ。多言なるべからず。多言なれば調子にのりて虚偽を語ることあるべし。
 ただ優しき言葉のみを語れ。烈しき語調の言葉は深切より出ずる場合にも、憎悪をもって語るる言葉なりと誤解せらるることあり。心のうちにでも、言葉に現わしても、行ないにあらわしても、人を傷つけてはならない。誠実であれ、虚偽であってはならない。素直に、直截に、かまえることなく、そのままの心で生活し、行ない、言わねばならぬ。

 値(あた)いなしに受けようとしてはならぬ。肉体の汗か、心の汗か、金銭か、物質的な贈物か、いずれにせよ何らかの値(あた)いを払って受けよ。値いなしに受けたものは、いつかは奪い返されることがある。自己の生活が気尚(けだか)き基礎に立つかどうか顧みよ。

 なんじの生活を、愛と赦しと忍耐との上に築きて、怒りと憎みとを常に支配せよ。怒りと憎みとは神と汝とを隔てる最も大なる敵である。

 常に朗らかであれ。不快なこと、争いのこと、憎むべきこと、人の悪しきことを忘れ去れ。忘れ上手が光明生活の第一歩である。

 恩を忘れてはならない。恩を忘れる者は根と培わない樹木の枝のごとく、一時(じ)は生け花のごとく美しくともやがては枯れてしまうであろう。人に深切をつくすのが、最善の宗教である。ただ教えの説教師になってはならないのである。

 一日に1回以上、できるだけ自分の利益にも何にもならないことで、純粋に他(ひと)のために尽くせ。純粋で無我でつくすことはそのこと自体が神に通ずる祈りである。無我の愛でささげたる奉仕は神に献(ささ)げたことになるのである。

 自分の収入の二分ないし一割で、自分の救われた教えを弘めるために真理の小冊子を買って無代進呈することじゃ神に対する恩返しとなる。与えただけが与え返されるのである。

<了>

1725「訊け」管理人:2012/12/05(水) 07:26:57 ID:???


五日の経言――

善と融合する言葉

 吾れは今、『善』そのものと融合して一体であることを感ずる。吾れは最早、『善』そのものと疎隔の感じをいだかない。吾れは『神』の家に住む神の子としての権利を自覚して悦びに満たされているのである。吾れは悪夢より目覚めて『神』の御許に往くのである。いま吾れは吾れに内在する神の生命(いのち)と愛と智慧とを明らかに知るのである。吾れは吾が境遇と運命とが自己自身の想念の反映に過ぎないことをさとったのである。それ故に吾れは最も善きものを、最も潔(きよ)きものを、最も眞なるものをのみ思うのである。吾れは凡てのもののうちに、吾が求むる善きものを見出すことが出来るのである。

 吾れは今、神の智慧と力とで満ち溢れている。吾れは、今宇宙生命(せいめい)と一体なることを感じて歓びに満たされているのである。それ故に吾が求むる一切は必ず成就するのである。

 吾れ此のことを感謝し奉る。


『日々読誦三十章経』より謹写――

1726神の子さん:2012/12/05(水) 09:01:20 ID:???
聖典謹写は著作権違反になりませんか?

1727さくら:2012/12/05(水) 09:24:13 ID:dXSek0Nw
ハマナスさま

先日はお言葉をありがとうございました。
こちらこそいつもありがとうございます。
お言葉に励まされ、聖典板には謹写させて頂きたいと思います。
こちらで、またご迷惑おかけすることあったら、申し訳ありません。
感謝合掌。

1728さくら:2012/12/05(水) 09:25:45 ID:dXSek0Nw
『新版 叡智の断片』谷口雅春先生

「静寂の生活

道は絶対である。絶対には対立がない。道に乗って生きるとは絶対無我の生活になり切ることである。
一切対立がなくなることである。一切対立がなくなるから一切に和解し、一切を尊び、一切が清まり、一切が寂である。
これが茶道の静寂であり、そのまま清まる日本の道である。

対立する争いをもって生活するが如きは、日本の道ではなかったのである。
道は「寂」であり、動くものなくして動いており、その動くや必ず万物を生かすのである。
対立なき動きは全機であり、無にして 一切であり、○であるから一切と調和するのである。それを大和の道と言う。構える心がないから事を構えず、事を構えないから事が起こらないのである。構えることがなければそのままとなり、其のままは実相であり、実相は善ばかりであるから善きことのみが現れる。
「私」のはからいがないから、全体の動きとピッタリと「一」である。全機である。全即一であり、一即全である。

本当に明るいというのは、全然対立がない「無」になり、無構えになって、天地と一つにとけ合って「寂」となることによって自然に得られる明るさでなければならない。
真の明るさは構えた明るさではない。そのまま天地の明るさがあらわれたとき、真に明るくなり、立ち対うところが悉く明るくなる。」

1729goro:2012/12/05(水) 10:43:08 ID:3Dk63Vjg

 トキ管理人殿

 聖典等の転載について、著作権に抵触する問題が発生する可能性がありますが
 トキ掲示板ではどのようにお考えでしょうか?

 青空文庫などのように著作権が消滅している著作物の転載は問題無いと思いますが、
 公正を期するために、掲示板などでの転載について、法的な問題を確認したほうがいいと思います。

1730goro:2012/12/05(水) 10:44:16 ID:3Dk63Vjg

 追加
 部分参照などについても調べたほうがいいと思います。

1731「訊け」管理人:2012/12/05(水) 10:48:56 ID:???


◆「人類光明化のパテントは諸君に譲られた!」(谷口雅春先生:「生長の家五十年史」より)
http://blog.livedoor.jp/con5151/archives/65704980.html




1732トキ:2012/12/05(水) 13:43:28 ID:/N.xbRE.
>>1729

goro 様

 ご投稿、ありがとうございます。

 著作権上の「引用」については、以下のWikpediaの文章が参考になると思います。

http://ja.wikipedia.org/wiki/引用

日本では、一定の条件を満たした「引用」は、権利者に無許可で行うことができる(32条)。これは著作権侵害にならない。

(中略)

ア 既に公表されている著作物であること
イ 「公正な慣行」に合致すること
ウ 報道,批評,研究などの引用の目的上「正当な範囲内」であること
エ 引用部分とそれ以外の部分の「主従関係」が明確であること
オ カギ括弧などにより「引用部分」が明確になっていること
カ 引用を行う「必然性」があること
キ 「出所の明示」が必要(コピー以外はその慣行があるとき)

 などの要件が必要とされています。

 インターネットのサイト上では、書籍からの「抜き書き」が広く一般的に行われているのも事実であり、特に、この件
で裁判になったという話は、ないようです。(私が知らないだけで、もし、あった場合は、ご教示下さい。)。私も、他の
「宗教」掲示板をいくつか拝見しましたが、その点が問題になった掲示板はありませんでした。

 この点は、法律に詳しい人に尋ねると、形式的には法律の条文に抵触する場合でも、実質的には問題がない場合は、「一般
条項」(例えば、民法1条や90条)を使って、不問に付するケースが多いみたいです。

 しかし、聖典の文章だけを抜き書きする事は、厳密に言えば、「引用」という点では、好ましくないようです。
ですから、出来れば、聖典を引用する場合は、引用すると共に、投稿者様の感想やご意見なども一緒に書き込んで下さる
ほうが、法律の「引用」の趣旨に合致すると思われます。今後、投稿者様におかれましては、その点、ご協力をお願いでき
れば幸いです。

 その他、出典の本、著者、ページなどは明記する事、内容に改編を加えない事、あまり長文にならない事などは、絶対に
投稿者様にお願いをしたいと思います。幸い、現在のところ、この掲示板では、以上の点は皆様が守って下さるので、問題
はないかと思っています。

 他の掲示板ですが、本を1冊、まるまる読めるようにしたものがありました。
これは、さすがに気になります。ただ、現時点では、、これは問題にはなっていないみたいです。(この掲示板では、それは
ご遠慮願いたいと思います。)

 これらの点も、皆様のご意見を頂戴できれば幸いです。

合掌 ありがとうございます

管理人敬白

1733SAKURA:2012/12/05(水) 14:36:01 ID:P5ICfcqA
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんにちは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1553>>1554>>1556>>1558>>1562>>1599>>1600>>1607>>1608>>1616>>1617>>1637
>>1644>>1653>>1654>>1661>>1674>>1675>>1722>>投稿の続きです。…が

日常生活面を、それなりに考えていきますと、私なりの「雅春先生の哲学」が見えまして、
更に“人生観”が〜〜実に!感慨深いものになりますので、私なりに「生命哲学…勉強会」を
〜♫〜では“続き投稿”していきます。
「雅春先生の例え…」として、投稿されていらっしゃいました記憶があります。…が?
ここは、まるで【四 無 量 心 の 心 の 世 界 観】でしょうか…??

■■『生命の実相哲学シリ−ズ…SAKURA論』
「生命の実相 37巻 より  ……   
===【抜粋文】===================================
時間を大切にするということは、いのちを大切にするということである。現象界のいのちは
時間の流れに展開する。時間の流れにしたがっていのちも過ぎて行く。時間を大切にしない
ものは酔生夢死する。しかしわたしたちは時間を本当に大切にしているだろうか。

時間は眼に見えないものであるから、そして使わず置いても消えてゆくものであるから、
ともすれば浪費しがちである。「使わないことが浪費であって、使えば使うほど殖える」とい
う生長の家の経済学は時間に関していっそう真実である。

 時間は箱詰めにしておいても、瓶詰にしておいても、それは蒸発して消えてしまう。時間
を大切にしようと思って時間時間と考えてもイライラして心が忙しいだけである。時間を大切
にする最も有効なる秘訣は何事もすぐ実行に取りかかるということである。せねばならぬこと
を次に延ばさぬことである。

 せねばならぬことを次へ延ばすことは、行ないの負担を避けるために、その避けている間中、
それは心の負担となっている。行ないは苦しみではなく、心の負担は苦しみである。ぐずぐず
の習慣ほど愚かしきものはない。
 
今を生かす生活、その時その場をすぐ生かす生活、具象的今を生かすことが超時の生命を
今生きることになるのである。
「超時に今」を生きる者は常に生きるものである。ぐずぐずの生活を生きる者は常に死に
つつあるものである。                  (谷口雅春著)
==========================================

■今年も残りわずか〜〜〜今月は【師走…】です。
今日の「雅春先生」の言葉…この月に“ピッタリ”かと…改めて“時間の概念”を、心に刻む
事に!私も今以上に【時間管理…】を???自問自答しながら“反省中”です。…が?
「雅春先生の言葉」通りに、確かに“時間”は放置しても過ぎて行きますモノ「光陰矢のごとし…」でしょうか〜〜〜?
そうなのです〜〜〜ョネ!戻る事もできないのですし?過去を振り返る時が、出来るのは、
【霊界…】の場面でしょうか???そこまで、行きつき更に、走りつづける事でしょうか??

【時間管理】の使い方も、まだ!まだ!甘い私ですが、更に、まだ気持ちばかりが先行し、
手付かず仕舞いの事がありますから…これって「先延ばし??」確かにそうです〜〜〜ョネ!
それを眺めながらの私がいました。毎日!毎日!“心がそこに戻り、ストップ”………
これではいけな〜〜〜い!と“心が焦る私…”がいました。…が?モ〜〜〰ゥ!「先延ばし?」
タイムリミット!!でしょうか?と…改めて、思います。まず“計画表…”を記して、
【時間管理】に入ってゆきます。

■【今!今!生かすことができる人は、人生の勝者…】です〜〜〜ョネ!
私も、今!気づいた地点から〜〜〜【ゴ−!ゴ−!my load start!!】で〜〜〜す。
                                        再合掌

PS: 「トキ様」 へ
当に❤〜【つ か え ば 殖 え る 時 間 管 理!!】でしょうか??この点は、
どの様なお考えでしょうかしら〜〜〜ン?

1734goro:2012/12/05(水) 14:49:10 ID:3Dk63Vjg
トキ管理人殿

http://ja.wikipedia.org/wiki/ ←ウィキペディアへようこそ・・・???

↓著作権侵害について
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%91%97%E4%BD%9C%E6%A8%A9%E4%BE%B5%E5%AE%B3

電子掲示板
裁判において、匿名BBS(電子掲示板)での書き込みが著作物であると判断され、多額の賠償金の支払いが命じられた事例も存在する。

管理人の責任において調査しておいたほうがいいと思います。

1735goro:2012/12/05(水) 14:55:33 ID:3Dk63Vjg
 トキ管理人殿
 
 聖典を転写してくださることで、電子ブックとして場所を選ばず拝読できることは
誠に有難いのですが、法に抵触する場合もありますので要注意です。
尊師を呼び捨てにする人の掲示板などは、ほとんどの文章が著作権に抵触している可能性があると思っています。

1737トキ:2012/12/05(水) 15:44:31 ID:/N.xbRE.
>>1734

goro様

 ご投稿、ありがとうございました。

 ご指摘の部分を拝見しました。言及されていた裁判は、「ホテル・ジャンキーズ」事件だと思われます。
事件の内容は以下の通りです。


「この裁判(東京地裁 平成13年(ワ)第22066号著作権侵害差止等請求事件)は、複数の投稿者がホテル情報に関するWebサイト「ホテル・ジャンキーズ」の掲示板に書き込んだ内容を、サイトの運営者らが出版した文庫本「世界極上ホテル術」(光文社刊)に無断で転載されたとして、掲示板の投稿者が著者と出版社を相手取って損害賠償と当該書籍の出版差止を、東京地裁に請求したもの。」

http://itpro.nikkeibp.co.jp/free/ITPro/OPINION/20020416/1/

です。簡単に言うと、BBSの投稿を関係のない人が勝手に抜き書きをして、本を1冊作って、売り出したという
話です。これは、どうみても酷い話です。つまり、抜き書きが本1冊という多量であり、目的が営利目的であり、多数の方の
投稿を無許可で引用し、しかも、出典を明記しなかったケースです。裁判になっても、仕方がないケースだと
個人的には感じます。

 上記の事件は、BBSの書き込みを紙媒体の管理人である著者が、著作権侵害をしたケースですが、逆の場合も当然、あり得る
と思います。ですから、管理人としても、今後も気をつけたいと考えています。ただ、今の時点では、問題になる
ようなケースは、この掲示板の投稿に関しては、なかったと考えています。

 が、聖典をめぐる、最高裁判所の判決がまもなく出ますから、気をつけたいとは思います。

 goro様におかれましては、丁寧なご教示とご指摘を下さった事に深く感謝申し上げます。

合掌 ありがとうございます

管理人敬白

1738トキ:2012/12/05(水) 15:45:23 ID:/N.xbRE.
訂正です。

X BBSの投稿を関係のない人が勝手に抜き書きをして
○ BBSの投稿を管理人が勝手に抜き書きをして

お詫びして、訂正させていただきます。

1739goro:2012/12/05(水) 16:18:43 ID:3Dk63Vjg

 トキ管理人殿

では今までどおり、書籍などを転載していいのですね?

1740トキ:2012/12/05(水) 16:23:15 ID:/N.xbRE.
>>1739

goro様

 ご投稿、ありがとうございました。

 私が調べた範囲では、現時点では問題はないと思います。

 ただ、聖典については、投稿者様が、ご自分の感想や意見なども同時に投稿をして
下されば、法律の趣旨にあうと思います。また、出典を明記して下さる事や、内容に
は変更を加えない事、あまり長文にならないように工夫をして下さり、現在、出版さ
れている聖典や出版物については、原本の購入も呼びかけて下さるなら、さらに安心
できると思います。

 以上、もし間違いや気がついた点がありましたら、ご教示下さい。

 今後とも、ご指導、ご鞭撻のほど、お願いします。

合掌 ありがとうございます

管理人敬白

1741goro:2012/12/05(水) 17:21:50 ID:3Dk63Vjg

 更に確認です。

長期間にわたって聖典一冊を転載することもいいのですね?

1742トキ:2012/12/05(水) 18:12:56 ID:/N.xbRE.
>>1741

goro様

 ご投稿、ありがとうございました。

 うーん、このあたりは微妙ですね。管理人としては、投稿は歓迎しますが、もし、原本の著作権者から
削除要請が来た場合は、対応せずるを得ない場合もあります。

 聖典の紹介は、投稿者様は信仰的には伝道の意図がありますし、閲覧者様にも読んで励まされ、信仰の
深化がはかられる点で、良い事が多いです。投稿者様の動機は純粋で、ご多忙の中、貴重な時間を提供
して下さるのですから、本当に頭が下がります。反面、著作権法という法律の制限がある以上、この
制限を無視する訳にはいかないのも事実です。1冊の本の転載となると、「引用」とは言えない部分も
あり、簡単には返答ができない部分があります。

 例えば、谷口雅春先生は、「365章」シリーズを何冊か発行されておられます。光明法語などもそうです。
こういう本を、1日1章ずつ、365日継続すると、まるまる1冊の本を掲示板で紹介する事になります。

 この場合だと、純粋な法律論だけではなくて、著作権の管理者が、どう感じたか、という点も考慮にいれ
る必要はあります。絶版になった本や神誌などは、紹介に必要性が高いでしょうが、現在も発行されている
本をその形式で紹介するのは、不正競争になりえます。一番良いのは、著作権者の了解を得る事でしょうが、
難しい場合もあります。逆に、吉田國太郎先生のご著書などは、吉田先生は亡くなられてから50年以上は経過
しており、法律上の著作権自体は消滅していますが、現在も日本教文社から著書が発行されているので、まるまる一冊
の紹介は、道義的に見て、問題があるかもしれません。

 つまり、ケースバイケースになるので、もし、1冊の本の全体を紹介したい、という場合は、お手数ですが、事前
にその旨を投稿していただき、皆様で議論をしてから、管理人が決定するというのが好ましい対応かと思い
ます。

 この点については、その方面に造詣の深い方のご意見も募集したいと思います。また、goro様におかれましては、
いつも貴重なご意見を頂戴し、深く感謝申し上げます。

 では、今後とも、宜しくお願い申し上げます。

合掌 ありがとうございます

1743NANCY:2012/12/05(水) 19:39:14 ID:jH5uEFzM
トキ様 ヘ
観覧者の皆様 ヘ
こんばんは…… ロ−マ字(大文字)の【NANCY】です。

■本日12月5日に於きましての下記…討論
今回は>>1734>>1735>>1737>>1739>>1740>>1741>>1742に関しまして…閲覧しておりますと
「聖典…又!雅春先生著書の数々…」の【著作権…】云々…と言います事は、最終的には、個人的
見解ですが…ここ❤〜【2チャンネル…聖典引用すべて不可】とある面では、捉えてしまう事も、
可能でしょうか?

ましてや!!【WEB誌友会での参考文献】これもすべて「雅春先生著…」ですから、悪く考
えますと、如何なものでしょうか??(一部抜粋文章…云々…とおっしゃいますから?)
ここでは【生長の家…雅春先生の著書の数々の中】から、投稿者のお一人お一人の抜粋を投稿
されていますモノ…更にそこでの“感想”をのべる事が…此処の投稿者の一部の人からの
【ブ−イング】かと??思える“フシ”もありますでしょうか?

尚【学生時代…】教科書の文章の感想を討論するのは当たり前でありますから…それを???
【ア〜ダ!コ~ダ!】おっしゃいます事…この事自体が?理解しがたいものであり、その人自身
の“捉え方?”・“考え方?”をのべて…次なる事が始まるのではないのでしょうか???
■“捉え方”・“感想”その事を拒否?すべきという事は、ある面では?【思考…する事は無用】
という事でしょうか?❤【考える人…】これは返上でしょうか???

しかしながら…書籍を拝読しましての個人個人の感想は、当然のことながら【個性…】となり、
ましてや、冷静に思いますに第三者的には【この様な考えがあるの〜〜〜ですネ】と、逆に、
■【アピ−ル】にもなりますし【分派…投稿者様】の考え方を、伝えます手立てとなります
でしょうかと??思う所存です…。

■■最後に…【SAKURA】 の投稿して頂きました「雅春先生…言葉」私一個人としては、当に!!
■【時 間 の 重 要】を、認識して頂く上でも素晴らしい事と思います。それで再度…
【SAKURA】さんにお願い致したく思います。
                                  再合掌

1744SAKURA:2012/12/05(水) 19:45:25 ID:jH5uEFzM
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1553>>1554>>1556>>1558>>1562>>1599>>1600>>1607>>1608>>1616>>1617>>1637
>>1644>>1653>>1654>>1661>>1674>>1675>>投稿の続きです。…が

日常生活面を、それなりに考えていきますと、私なりの「雅春先生の哲学」が見えまして、
更に“人生観”が〜〜実に!感慨深いものになりますので、私なりに「生命哲学…勉強会」を
〜♫〜では“続き投稿”していきます。
「雅春先生の例え…」として、投稿されていらっしゃいました記憶があります。…が?
ここは、まるで【四 無 量 心 の 心 の 世 界 観】でしょうか…??

■■『生命の実相哲学シリ−ズ…SAKURA論』
「生命の実相 37巻 より  ……   
===【抜粋文】===================================
時間を大切にするということは、いのちを大切にするということである。現象界のいのちは
時間の流れに展開する。時間の流れにしたがっていのちも過ぎて行く。時間を大切にしない
ものは酔生夢死する。しかしわたしたちは時間を本当に大切にしているだろうか。

時間は眼に見えないものであるから、そして使わず置いても消えてゆくものであるから、
ともすれば浪費しがちである。「使わないことが浪費であって、使えば使うほど殖える」とい
う生長の家の経済学は時間に関していっそう真実である。

 時間は箱詰めにしておいても、瓶詰にしておいても、それは蒸発して消えてしまう。時間
を大切にしようと思って時間時間と考えてもイライラして心が忙しいだけである。時間を大切
にする最も有効なる秘訣は何事もすぐ実行に取りかかるということである。せねばならぬこと
を次に延ばさぬことである。

 せねばならぬことを次へ延ばすことは、行ないの負担を避けるために、その避けている間中、
それは心の負担となっている。行ないは苦しみではなく、心の負担は苦しみである。ぐずぐず
の習慣ほど愚かしきものはない。
 
今を生かす生活、その時その場をすぐ生かす生活、具象的今を生かすことが超時の生命を
今生きることになるのである。
「超時に今」を生きる者は常に生きるものである。ぐずぐずの生活を生きる者は常に死に
つつあるものである。                  (谷口雅春著)
==========================================

■今年も残りわずか〜〜〜今月は【師走…】です。
今日の「雅春先生」の言葉…この月に“ピッタリ”かと…改めて“時間の概念”を、心に刻む
事に!私も今以上に【時間管理…】を???自問自答しながら“反省中”です。…が?
「雅春先生の言葉」通りに、確かに“時間”は放置しても過ぎて行きますモノ「光陰矢のごとし…」でしょうか〜〜〜?
そうなのです〜〜〜ョネ!戻る事もできないのですし?過去を振り返る時が、出来るのは、
【霊界…】の場面でしょうか???そこまで、行きつき更に、走りつづける事でしょうか??

【時間管理】の使い方も、まだ!まだ!甘い私ですが、更に、まだ気持ちばかりが先行し、
手付かず仕舞いの事がありますから…これって「先延ばし??」確かにそうです〜〜〜ョネ!
それを眺めながらの私がいました。毎日!毎日!“心がそこに戻り、ストップ”………
これではいけな〜〜〜い!と“心が焦る私…”がいました。…が?モ〜〜〰ゥ!「先延ばし?」
タイムリミット!!でしょうか?と…改めて、思います。まず“計画表…”を記して、
【時間管理】に入ってゆきます。

■【今!今!生かすことができる人は、人生の勝者…】です〜〜〜ョネ!
私も、今!気づいた地点から〜〜〜【ゴ−!ゴ−!my load start!!】で〜〜〜す。
                                   再合掌
 
PS: 「トキ様」 へ
当に❤〜【つ か え ば 殖 え る 時 間 管 理!!】でしょうか??この点は、
どの様なお考えでしょうかしら〜〜〜ン?

1745復興G:2012/12/05(水) 19:59:00 ID:vWpLkCzM

goro様
トキ様
皆々さま

合掌 ありがとうございます。

他の著作物からの引用は、>>1732 :トキ様の
http://ja.wikipedia.org/wiki/引用の
< エ 引用部分とそれ以外の部分の「主従関係」が明確であること>

――上記の意味は、自分の文章が「主」で、引用文は「従」であるべきだということ。つまり、自分の意見を述べるために他の文章を引用するという範囲でなければならない。引用文が主であってはならない、という意味だと思われます。

だとすれば、たとえば、私もweb誌友会のテキストとして『生命の實相』を1章ずつ謹写アップロードするようなことをしてきましたが、これは著作権侵害になる可能性が大であろうかと思われます。

それで、第9回web誌友会からは、テキストの原文アップは控えさせて頂こうと思います。

ありがとうございます。合掌

1746神の子さん:2012/12/05(水) 19:59:31 ID:???
著三権については、教文社にこのサイトを見てもらうのが一番早いかもしれませんね。
何らかの方法でお伝えすることにします。

1747神の子さん:2012/12/05(水) 20:00:31 ID:???
×著三権
〇著作権

1748復興G:2012/12/05(水) 20:04:16 ID:vWpLkCzM

上記の意味は、この聖典引用板に1章まるごとアップすることを控えるという意味で、
web誌友会板で自分の感じたことや意見を述べるために部分的に引用することは、全然差し支えないと思います。

ありがとうございます。

1749goro:2012/12/05(水) 20:12:24 ID:3Dk63Vjg
>>【ア〜ダ!コ~ダ!】おっしゃいます事…<<の問題ではなく
単純に著作権という法律の問題です。

全ては自己責任ですから、言い掛かりをつけるのはみっともないですよ。

1750トキ:2012/12/05(水) 20:34:12 ID:/N.xbRE.
 聖典、特に生命の実相の著作権については、今裁判中ですから、最高裁判所の判決が出てから、許諾の件を話し合う必要があると
思われます。素人考えですが、聖典板だけを見たら、確かに生命の実相の転載は、「引用」には当たりませんが、広く掲示板全体
を見ると、生命の実相の転載は、「引用」に該当するような気がします。この辺りは、少し、調べてみますので、お時間を下さい。

1751蜻蛉:2012/12/05(水) 20:50:43 ID:M7ribEwU
  
  某ウェブサイトの使用上の注意事項で

  聖典から引用する場合は、現在の時点で市場に流通している
  (日本教文社及び世界聖典普及協会で購入できる)聖典・・・

  で、『生命の實相』や『甘露の法雨』等は???

1752トキ:2012/12/05(水) 21:04:59 ID:/N.xbRE.
 結論が出るまでは、web誌友会でも、聖典板で独立して生命の実相を転載するのは避けて、講師や参加者が
聖典を転載した後に、同じ投稿で、注釈なり意見なりを述べる対応なら、問題はないと思います。
 
 皆様のご意見をお願いします。

1753NANCY:2012/12/05(水) 21:34:17 ID:jH5uEFzM
トキ様 ヘ
観覧者の皆様 ヘ
こんばんは…… ロ−マ字(大文字)の【NANCY】です。
>>1743の投稿の続きです。…が???

■今回>>1752の投稿も閲覧させて頂きまして… 考えてみますと???
〜〜〜【抜粋文】〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
■>聖典から引用する場合は、現在の時点で市場に流通している
  (日本教文社及び世界聖典普及協会で購入できる)聖典…で、
『生命の實相』や『甘露の法雨』等は???  (抜粋)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

■この件は、理解しがたいモノでしょうか〜〜〜〜??
【聖典…】この言葉…“捉え方”は、多々ありますでしょうが??意味が、理解しがたいもの
なのですかと〜?尚!【日本教文社…公式サイト】を、閲覧させて頂きましたが〜〜〜?

最後に思いますには【著作権…云々…】この事に関しましての【討論…】事態が?最初の方の
意見投稿?は、個人的に思いますが?疑問点でしたら【別のボ−ド】にて討論投稿すべきモノ
では?なかったのでしょうかと、思う次第です。…が??その様に思いますが??                   
                                    再合掌

PS:「トキ様」 へ
尚!私自身も此処の【ボ−ド板】に記載しておりますので矛盾しております。…が?

1754トキ:2012/12/05(水) 22:09:44 ID:/N.xbRE.
 この件について、「現役地方講師」の方から、メールを頂戴しました。現役なので、掲示板に投稿をした事が
露見すると、問題になるので、管理人経由で意見を述べる、という事です。文面はトキが書き直しましたが、
意味は変更していません。

-----------------------------------------------------------------------------------------

 聖典の引用は、確かに著作権が問題になります。しかし、著作権者から異議申立が出たなら削除を含めた措置を
考える必要がありますが、第三者からの申し出の場合、それほど神経質になる必要はないと思います。聖典の著作
の権利者は、生長の家教団か、生長の家社会事業団のどちらかですが、両者とも聖典の頒布の増進と真理の伝道を
目的にしています。だとすれば、聖典等の紹介は、歓迎されるべきで、どちらの立場にしても、文句を言うはずが
ないです。これが、例えば、著作権を理由に使用の対価を払え、というのなら、これは社会通念上、相当な対価な
ら問題はないが、引用や転載の禁止は、その目的に反する事になります。ですから、今の方針が、法律上、問題が
あるとは思いません。実際、過去、数年に渡り、この掲示板を含めて、複数の掲示板で聖典が転載されているの
ですが、問題になった事はなかったはずです。

 ただ、谷口雅春先生は、聖典を読んだ場合、ただ読んだだけでは駄目で、自分がそれを拝読して、どう感じたか
を言わなければ指導されていました。その観点から言えば、今回のgoro様のご意見は、谷口雅春先生のご指導に
そうものだとも思います。ですから、今後は、この掲示板でも、聖典の投稿をした後、投稿者がご自分の感想
や意見を述べてみてはどうでしょうか?

1755通りすがり:2012/12/05(水) 23:30:32 ID:qL/UdddQ
著作権法に違反しないから大丈夫などという考えはおかしくないですか?
生長の家は相手の立場になって考えるところだと思っています。
法律よりも出版社の立場になって考えたいものです。
本の内容を全て書いてしまっては、本を購入する人が少なくなります。

1756ハマナス:2012/12/05(水) 23:50:32 ID:x2zmnlqw

神の子のみなさま
こんばんは。

先ず「心」の診断を  (『新版 生活の智慧365章』P.305)

 “想念”(感情を含む)は動力である。ホルモンの分泌に直接関係をもち、細胞の配列や、
栄養成分の分解、消火、吸収、同化等を支配する力をもっているのである。良人が自分の
ほかに愛人をこしらえていたと云うことを知っただけで、その感情のショックによって急激に
衰弱して病床に横たわるようになった婦人もある。このように“心”と云うものは肉体を左右
する力があるのに、人が病気に罹ったら“心”の診断を求めることなしに、医師にただ物質
的な処置のみを求めるのは不合理だと言わなければならないのである。

 “心”の不調和が病気の原因であり、肉体にあらわれた病気は結果であるに過ぎない
のである。原因を修正変化しようとしないで、結果たる肉体の症状だけに医療を加えよう
とするのは、源流を汚濁したままで放置して、下流の水だけを浄めようとするようなもので
ある。物質的医療が適確な永続的効果を挙げ得ず、一時或る病気を治したように見えても、
又再発するか、他に病気が発生して来るのは、源流にあたるところの“心”の状態を修正
して置かないからである。

感謝合掌

1757「訊け」管理人:2012/12/06(木) 09:13:00 ID:???

六日の経言――

人生に主となる言葉

 吾れは今、吾が本性が神とまったく同体であることを覚(さと)ったのである。吾れは神が渾(すべ)てであり、従って神以外に何者も此の世に存在しないことを知ったのである。神は渾ての渾てである。だから吾れが苟(いやしく)も存在する限り神と吾れとは一体なのである。吾れは存在する、それ故に吾れは神と一体なのである。神と一体なるが故に、吾れは神の本性(ほんせい)よりその善きもの一切を賦(わか)ち与えられているのである。神の有(も)ち給う総ての物を吾れも亦有つのである。此の深き悦びに吾が心はわなないているのである。
 吾が心は深き聖悦に満たされているのである。神は全能である。それ故に吾れも亦全能なのである。吾れは凡てを知る智慧によって導かれているが故に、吾れも亦全智なのである。神は疲れたまうことなく、倦み給うことなきが故に、吾れは決して失敗を拾うもないのである。吾れは神が必ず吾が力を新たならしめ給う事を信ずる。吾れは神に吾自身をうちまかす。それ故に金剛圍山(こんごういさん)の動かざるが如く、吾が心も不動である。吾れはいま他(た)の人たちの偏見や非難や時代の伝統から全然自由である。吾れはいま自分自身の判断と自分自身の標準とを持つのである。吾れは人間である。人間は神の子である。されば吾れは人生の主である。吾れは他の人々に人間は斯くあるべきとは言葉では語らない。吾れは吾が生活を以って人間は斯くあると行じ示すのである。
 吾れはいま、自分の全意識の解放を得て歓喜勇躍の感に堪えない。自己が神の属性を賦(わか)ちもつと云うことが歓びでなくて何であろうぞ!吾れは永遠である。吾れは本性に於て神とは分ちがたきものである。吾れは生命である。吾れは智慧である。吾が実相は完全であり、神は完全である。それ故に吾れは此の完全さを日毎々々に発揮するのである。吾れは生ける神の子である。吾れ今此の真理に目覚めしめ給いしことを感謝し奉るのである。


『日々読誦三十章経』より謹写――

1758トキ:2012/12/06(木) 09:50:29 ID:VekO0piE
>>1755

 ご投稿、ありがとうございました。

http://jbbs.livedoor.jp/study/11788/

生長の家傍流掲示板/別板
掲示板・運営/方針 板

にご返答をかかさせていただきました。
宜しくお願いします。

合掌 ありがとうございます



1759さくら:2012/12/06(木) 10:47:19 ID:e8ieIrPA
『信念にて自己内在の無限力を実現せよ』

世界光明思想全集 第三期

谷口雅春先生
谷口清超先生 共著

「第二十二篇
エマーソンの自己信頼論
(自分が自分の主人公である)

自己信頼の一面は世間の世俗に迎合しない孤高の尊厳を維持することである。
エマーソンは其くの如き人であった。
彼はかう云っている。

孤独は真の社会に先行しなければならない。私はいかなる説教よりも説教の始まる前の沈黙に包まれた教会が好きである。いかに深遠にいかに冷静に、如何に清楚に、人々は見え、各人は一つ一つの区域、一つ一つの聖所にとりまかれている事であらう。

つきる所に吾々は常に坐っていたい。吾々の友人、妻、父、子が吾々の炉辺に坐っている。同じ血を分けたものだと言ふ理由で何故吾々は彼らの欠点を気に病まねばならないであろうか。全ての人間は私の血を分けもってをるし、私は全ての人々の血をもっている。
それだからと言って私は彼らの短気や愚かさをことさらり立てて、それを恥しいものと思ったりはしないのである。

けれどもあなたの取る孤立は機械的の孤立であってはならない、それは霊的なものでなくてはならないのである。即ち高揚された孤立でなければならないのである。

時々全世界はあなたに非常につまらぬことを共謀してせがむ機にも思われる。友人、弁護依頼人、子供、病気、怖れ、欠乏、慈善等が全てただちに折角閉ざした部屋の戸をたたき『さあ、吾々のところにおいでなさい』と言う。されど諸君は諸君の魂をこんな誘惑で転落させてはならないのである。全てを落としてはならない。

汝の常態を保て。
汝自身の天国なる家にとどまりなさい。一瞬たりとも彼らの事件に巻き込まれ、騒々しいあらそひの威声に巻き込まれてはならないのである。
彼らの混乱の上に汝の法則の光をもって照らせ、と。


中々面白いではないか。
これを本編の序曲とする。」

(旧仮名遣いを現代仮名遣いに改めました。)

1760SAKURA:2012/12/06(木) 12:03:34 ID:n9yjoO0g
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんにちは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1553>>1554>>1556>>1558>>1562>>1599>>1600>>1607>>1608>>1616>>1617>>1637
>>1644>>1653>>1654>>1661>>1674>>1675>>1722>>投稿の続きです。…が

今回は、昨日に於きまして“投稿…”いたした内容ですが、モノの1時間にて“奥澱…”…云々
でしたので【再・再投稿…】の形式を取らせて頂きます。今月の【師走…】という事に“ピッタリ”
感が致しますかと。当に【時間管理…】でしょう〜〜か?先生の“言葉”改めて“心”に響きます。

❤ ❤ ❤【 再・再投稿文 】❤ ❤ ❤
日常生活面を、それなりに考えていきますと、私なりの「雅春先生の哲学」が見えまして、
更に“人生観”が〜〜実に!感慨深いものになりますので、私なりに「生命哲学…勉強会」を
〜♫〜では“続き投稿”していきます。
「雅春先生の例え…」として、投稿されていらっしゃいました記憶があります。…が?
ここは、まるで【四 無 量 心 の 心 の 世 界 観】でしょうか…??

■■『生命の実相哲学シリ−ズ…SAKURA論』
「生命の実相 37巻 より  ……   
===【抜粋文】===================================
時間を大切にするということは、いのちを大切にするということである。現象界のいのちは
時間の流れに展開する。時間の流れにしたがっていのちも過ぎて行く。時間を大切にしない
ものは酔生夢死する。しかしわたしたちは時間を本当に大切にしているだろうか。

時間は眼に見えないものであるから、そして使わず置いても消えてゆくものであるから、
ともすれば浪費しがちである。「使わないことが浪費であって、使えば使うほど殖える」とい
う生長の家の経済学は時間に関していっそう真実である。

 時間は箱詰めにしておいても、瓶詰にしておいても、それは蒸発して消えてしまう。時間
を大切にしようと思って時間時間と考えてもイライラして心が忙しいだけである。時間を大切
にする最も有効なる秘訣は何事もすぐ実行に取りかかるということである。せねばならぬこと
を次に延ばさぬことである。

 せねばならぬことを次へ延ばすことは、行ないの負担を避けるために、その避けている間中、
それは心の負担となっている。行ないは苦しみではなく、心の負担は苦しみである。ぐずぐず
の習慣ほど愚かしきものはない。
 
今を生かす生活、その時その場をすぐ生かす生活、具象的今を生かすことが超時の生命を
今生きることになるのである。
「超時に今」を生きる者は常に生きるものである。ぐずぐずの生活を生きる者は常に死に
つつあるものである。                  (谷口雅春著)
==========================================

■今年も残りわずか〜〜〜今月は【師走…】です。
今日の「雅春先生」の言葉…この月に“ピッタリ”かと…改めて“時間の概念”を、心に刻む
事に!私も今以上に【時間管理…】を???自問自答しながら“反省中”です。…が?
「雅春先生の言葉」通りに、確かに“時間”は放置しても過ぎて行きますモノ「光陰矢のごとし…」でしょうか〜〜〜?
そうなのです〜〜〜ョネ!戻る事もできないのですし?過去を振り返る時が、出来るのは、
【霊界…】の場面でしょうか???そこまで、行きつき更に、走りつづける事でしょうか??

【時間管理】の使い方も、まだ!まだ!甘い私ですが、更に、まだ気持ちばかりが先行し、
手付かず仕舞いの事がありますから…これって「先延ばし??」確かにそうです〜〜〜ョネ!
それを眺めながらの私がいました。毎日!毎日!“心がそこに戻り、ストップ”………
これではいけな〜〜〜い!と“心が焦る私…”がいました。…が?モ〜〜〰ゥ!「先延ばし?」
タイムリミット!!でしょうか?と…改めて、思います。まず“計画表…”を記して、
【時間管理】に入ってゆきます。

■【今!今!生かすことができる人は、人生の勝者…】です〜〜〜ョネ!
私も、今!気づいた地点から〜〜〜【ゴ−!ゴ−!my load start!!】で〜〜〜す。
                                        再合掌

PS: 「トキ様」 へ
当に❤〜【つ か え ば 殖 え る 時 間 管 理!!】でしょうか??この点は、
どの様なお考えでしょうかしら〜〜〜ン?

1761神の子さん:2012/12/06(木) 14:39:39 ID:???
>>1759
現代仮名遣いに改めないでください

1763神の子さん:2012/12/06(木) 17:06:25 ID:???
怒りを抑えているさくらさん 笑い

1765SAKURA:2012/12/06(木) 20:32:47 ID:jH5uEFzM
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1553>>1554>>1556>>1558>>1562>>1599>>1600>>1607>>1608>>1616>>1617>>1637
>>1644>>1653>>1654>>1661>>1674>>1675>>1744>>1753>>投稿の続きです。…が

日常生活面を、それなりに考えていきますと、私なりの「雅春先生の哲学」が見えまして、
更に“人生観”が〜〜実に!感慨深いものになりますので、私なりに「生命哲学…勉強会」を
〜♫〜では“続き投稿”していきます。
「雅春先生の例え…」として、投稿されていらっしゃいました記憶があります。…が?
ここは、まるで【四 無 量 心 の 心 の 世 界 観】でしょうか…??

■■『生命の実相哲学シリ−ズ…SAKURA論』
「生命の実相 37巻 より  ……   
===【抜粋文】===================================
伸びることを忘れた時に凋落が始まる。樹木を見て、その真理を悟れ。
                               (谷口雅春著)
===========================================

■まさに“当たっている事”と、思います。FUKに帰郷してからの私は、年々”戦う姿勢”が
おかしくなっていくような不安感? 気がつきますと、一体?何故?このような事が〜〜〜><
毎日!毎日!このような事態になるのかしら〜〜〜ン!と自問自答の日々なのです。
毎日が正直申しますと【出口のない堂々巡り…】でしたかと。延々と〜〜〜><
【心の窓…出口のない戦い!!】でした。…が?初めの時は、まだ多少“気力”というモノ
があり、更に!こちらも“身構える姿勢”がありましたが?段々!構えるだけで、一向に
前!前!にすすむ事が出来なくなって行きました。
■そ〜〜〜〜〜う!【生きる気力…】が、失っていたのでしょうか???

あの頃しかも教区の元元元W3期「白鳩会長」が“お金”の持ち出し〜〜〜!!しかも、
その【処罰…】には、当時の教化部長の処置は個人的には、“甘い”ような感なのです。…が?
更に!その事自体を、知っていますのは、ごく少数であり、噂では【分派…】に〜〜〜と聞
いております。この事は、一たび“教区外“では、知る人がいませんから、以前の【肩書…】
を使い、【分派…への勧誘】そして【吸血鬼・ゾンビとの関連?】が〜〜〜と???ある所から、
遂に“噂…”を耳に致す事となりました。…が??こうなりますと其方に【心の窓…焦点】が?
当然のことながら、本来の【目標達成…】への焦点を合わせる事が“先延ばし”でしたかと?
自問自答です。そうなのです〜〜〜ョネ!

❤〜【伸びる事…】を、何処かに忘れていた事に、フト!!気づきました。

■■その時!やはり【 真理・哲学 】は、他人を“救う!”と思います。
私は、ドクタ−モルツ博士のサイコサイバネティクスを【ダイレクト出版】との出会いで
“心に響く言葉…”を頂きまして、ズシ〜〜〜ト!心に響き、それからは、毎日のように、
まず【ダイレクト出版でコメント】をさせて頂きました。その後【此処2チャンネル…】で、
今!今!【雅春先生の言葉…】からもまた【真理の生活に密着した…当に生きた言葉】が、
浮かび、そこから、当に、今の私は、息を吹き返したと申しても過言ではないのです。そう!
少しずつ“息…”を吹き返しています。そして、昨日申しましたが、本当に【時間は大切…】!
改めて“自覚の認識の薄さ”が、今の私であったと思う次第なのです。

■何時か?何故遠回りしたのか?その原因を、何時か【自分のブログ】に投稿しますが??
きっと、次世代をになう“若い方達”が、【人生の舵取り…】失敗しない事を、少し参考になる
のならと〜〜〜要約、その気持ちになりましたが、まず!今の私の考えは……
❤〜【生かす事は、自分を生かす事でしょうか〜〜〜?】毎日!毎日!“心の種”を植えて、
“芽…”が出てきます様に……そして“心の水”をかけて行こうと思います。そうです!!
その“水…”は、無くてはならない【 真理=哲学 】と、思える私の解釈なのです。
最高の“心の水”……【雅春先生の書籍の数々からの真理の言葉……】でしょうかと!!

                                 再合掌

1766NANCY:2012/12/06(木) 22:04:58 ID:jH5uEFzM
「トキ様」 ヘ  「観覧者の皆様」 ヘ
こんばんは……  ローマ字(大文字)の【NANCY】です。
>>1635>>1639>>1643>>の投稿の続きです。

■■『 生長の家 』の観相学   ≪谷口雅春先生の言葉より抜粋投稿≫…
―― 人間の幽体は想念感情の座として、心の通りの形になる ――

■>霊体が第二念(本体からの「直接の心の思い」でなく、霊体だけで独立して、次の念を起こ
したのを第二念といいます)を起こしますと、その念(こころ)の波がまたひろがりまして、
ある一定の「体」を形造ります。これを「幽体」ともうします。「幽体」も肉眼には見えませんが、
これは第二念でありますから、濁った部分があるのであります。これは肉体とはちがって、霊妙
な霊的原素でできておりますから、念の通りの形にすぐなるのであります。<(一部抜粋)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆

そうです〜〜〜ョネ!以前“投稿”させて頂きました“続き投稿内容…”なのですが?
「雅春先生…」の池の中へ小石をほり込んだように波のひろがり〜〜〜この解説から、正直に申し
ますと“理解力…”が、プラスにかと。実は、私事ですが【SAKURA】さんの「亡きお母様」の
“霊様の写真”を見ましてからは、「雅春先生」のおっしゃいます肉眼では見えない世界が…
確かにあると!確信ができるようになりました次第です。❤〜【肉体…エ−テル体…幽体…霊体…】

更に次の「雅春先生の言葉」当にそうなのです〜〜〜ョネ!〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆
■>たとえば、腹が立ちますと、幽体は凝り固まって図の点線のような形に固く凝り、ふくれ上が
ります。(「怒る」という語源は、「玉の緒が凝る」ということであります)すると、内部の幽体が
ふくれ上がりますから、その外側になる肉体は、それと同じ形にふくれ上がって、腫物となったり
癌となったりすることがあります。顔に皺ができたり、いろいろの斑点ができたりするのも、下部
の幽体が、感情想念の座として、その心の通りの形となり、それがその外側の肉体にあらわれて
くるのであります。だから、念(こころ)を変化すれば人相がかわるとうことになるのであります。
                           (抜粋文)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆

そうなのです。感情が“ネガティブ感情”例えば…相手への悪感情と申しますか〜〜〜?
【 恨み?妬み?怒り?憎しみ?不安感?…云々…】その時の“顔…”を、鏡にて見ますと…
確かに「雅春先生」のおっしゃいます「皺…」が額に??とか〜〜〜>< 顔全体の“筋肉”
も?変に動かす事で…最終的には「皺…」の要因になりますのでしょうか〜〜〜?
また「斑点…」これは“シミ”という事でしょうか??思い浮かべますと、感情が不安定?
その様な時でしょうか?自分自身の体験?と一致しますモノがありますかと。ある日突然…
「シミ=斑点…」になるのでしょう…。更に、当然ですが〜〜〜?
この事に、現代社会では、「オゾン層の破壊…環境問題」は、関連しますでしょうと、思います。
この事は、人類の【モノへの執着心…我欲】が原因でしょうか??

■【想念感情…】つまり心の通りが形としてあらわれることなのでしょうか? 納得です。
そうしますと【想念感情…】は、何時も?何処でも?“ポジティブ感”でしょうかと思います。
あくまでもその【 ポジティブ感は…心から 】かと…そこには素敵な出来事が〜〜〜?
勿論!肉体面でも形として…現われますのでしょう。❤〜【何時も!若々しい〜〜〜い!姿】…

                                再合掌

1767ハマナス:2012/12/06(木) 23:48:18 ID:x2zmnlqw

神の子のみなさま
こんばんは。

現代医療の盲点  (『新版 生活の智慧365章』P.306)

 あらゆる病気は“心”の産物である。肉体そのものが “心”で翻訳し出したところの一種の
翻訳文であるからである。だから精神指導によって治る病気は、単に機能的疾患だけではなく
器質的な疾患も同様に治るのであり、現に癌のような疾患も心の変化で治る実例を幾つも私たちは
出しているのである。“心”が健全細胞を癌細胞に変化するのである。

 このことは子宮癌や乳癌の患者が、医者自身から出した統計によってでも、家庭的愛情に不満足
であった婦人――結婚して子供がなかった夫人、二号さんを良人がつくったために精神的に悩んで
いた婦人、早くから良人に死別した婦人などと云う兎も角も愛情の不満足又は愛情のもつれのあった
婦人に多いことで示されているのである。しかも医者はその方面のことを指導することを忘れて、
原因はほっておいて、物質的な切除やラジウムの照射や、ザルコマイシンの注射などで、単なる
結果に過ぎないところの症状を抑えようとするのである。

感謝合掌

1768a hope:2012/12/07(金) 07:42:30 ID:ueIDSztA
新版 生活読本 谷口雅春先生著
第九章 斯(こ)うして愉快に生きましょう

♦光明の雰囲気を出す人(p93〜)

世界の人々は忙しいのでありますから、皆さんの能力を一々テストしている暇はないのであります。
紙に書いた答案よりも、その人から放射される信念や感情の感じられ方で、
相手の人は、この人は立派だから、重要な職につけてやろうと考えるのです。
そして其の与えられたどんな重要な仕事でも実際にやりとげることが出来る能力もその信念から湧いてまいります。

自信ある人は、其の顔の色、語調(はなすちょうし)、態度(ようす)、悉(ことごとく・みんな)勝利に充ちたものとなります。
そう云う人が保険を勧めにくれば入らずにはいられなくなりますし、商品を売りに来れば買わずにはいられなくなりますし、
雇ってくれと云われれば雇わずにはいられなくなるものです。

こう云う人は何をしても成功します。
それは光明の雰囲気(きぶん)を放射する人になったからです。
愉快に楽しく自信に満ちた生活を送りましょう。
(つづく)

出典 「新版 生活読本」日本教文社  平成八年一月十五日 新版初版発行 


(a hopeの所感)
この、「生活読本」は「人生読本」同様、谷口雅春先生が「生命の實相」の難しい真理を子供やお年寄りにも理解できるようにと、
できるだけ優しい言葉で書いて下さった雅春先生の御愛念のつまった素晴らしい聖典です。
具体的な例がやさしく書かれているのでとても解りやすく、私は、拝読すると必ず元気になり、やる気が出ます。
皆さまにも、お薦めします。

1769「訊け」管理人:2012/12/07(金) 09:34:08 ID:???


七日の経言――

感情を正しくする言葉


 吾れは今神 ―― 常に吾が求めを聴いて応え給う親様 ―― に感謝します。吾が求むるに先だちて吾が語らざる言葉をききて応え給う親様に感謝します。私は今わが住む世界が吾が気分と想念との反映である事を知らして頂きました。此れを自覚するが故に、私は今よりつとめて美しきもの、善なるもの、真理なるもののみを考え、語り、そして聞く事に致します。私は神なる貴方に、『吾と神とは一体なり』と云う真理の理由(ことわり)を知らしめ給うことを感謝します。そして此の真理を常に心に把持してあなたに愈々近づかせて頂きます。・・・神との一体感によって、私の想念が正しくなり、私の感情が正しくなり、従って私の想念と感情との反映なる吾が住む世界が正しくなりつつあることを私は信じます。

 私はいま、此上(このうえ)なき歓びと平和とに満たされています。天に於ても地に於ても、私は総ての力を与えられていますが故に、私はいま創造の喜びを感じています。―― 神の国の永遠の構図に於て神と偕(とも)に創造するの喜びを感じています。私はいまあなたに、生命と永遠の愛とを与え給いしことを感謝致します。


『日々読誦三十章経』より謹写――

1770とおりすがり:2012/12/07(金) 12:07:43 ID:???
八日の経言――

境遇と運命をと支配する言葉

吾れはいま吾が境遇と運命とを自己の思考によって支配し得ることを知ったのである。

吾が心情が善きものであるならば吾が想う所は善であり、
吾が想いが善であれば吾が言葉は善であり、
吾が言葉が善であれば、吾が住む世界も善なる理想世界なることを知ったのである。

其れ故、吾れは今後吾が唇に封印して敢て悪をば語らない。
吾れは吾が思想と言葉とにいちいち気をつけるのである。
吾れは今より悪のことを考えない。

吾れは禍のことを語らない。
吾れは禍のことを決して耳にしないと決意したのである。

人を審判(さば)こうとする吾が性癖は今まったく自分から離れたのである。
悪を見出す吾が習慣はもう消滅して無くなったのである。

吾れは最早自分を、そして自分の友達を、それから自分の職業を、
悲観的な言葉をもっては評さない。

吾れは楽観そのものである。
希望そのものである。
吾れは深き歓びに満ち溢れている。

吾れは万人に幸福を与え、万物を祝福する。
吾れは凡ての者に勇気を与える。

吾が言葉は肉となりて形相(かたち)の世界に姿をあらわすのである。

『日々読誦三十章経』より謹写――

吾れは今実現せんとする事物に対して『此の事は実現する』と
確信に充ちた言葉を発するのである。

此の言葉は創造作用ある言葉である。
従って欲する事物はやがて必ず自己の周囲に集まり来たらざるを得ないのである。

吾れは此の確信を与えたまいしことを神に感謝致します。

1771ハマナス:2012/12/08(土) 00:00:32 ID:x2zmnlqw

神の子のみなさま
こんばんは。

心のレンズ  (『新版 生活の智慧365章』P.307)

その人の肉体と環境との状態は、その人の“心”が如何に「実相」(霊的実在)を翻訳して、
縦横厚みの空間に、それを映し出したかの成績をあらわしているのである。その人の “心”
がその肉体から去れば、その人の環境というものも、その人の肉体と云うのも、共に消えて
しまうのである。それは映写機のレンズが無くなれば、映画の画面に映っていた光景が消え
てしまうようなものである。だから“心”をレンズにたとえて“心のレンズ”と称すること
もある。

“心のレンズ”が変に収縮して波形になっておればスクリーンに映る映像も波形に歪んで
うつるのである。“心のレンズ”が実相に対して完全に焦点距離を合わすことが出来な
ければ、実相が如何に完全であっても、その完全な姿がハッキリとあらわれずボケてあら
われるのである。そして如何に映像が歪んであらわれようとも、如何に映像がボケて現わ
れようとも、実在の景色はハッキリとして美しいのと同じうように、私たちの肉体や環境が
どんなに不完全にあらわれようとも、それは私たち自身の“心のレンズ”の収縮、歪み、
曇りなどが原因で、そのようにあらわれるのであって、“実相の世界”及び“実相の自分”
は完全なのである。

感謝合掌

1772「訊け」管理人:2012/12/08(土) 17:32:58 ID:???

『常楽への道』(吉田國太郎著)296頁より謹写――


 根底に於いて悪を見、困却の相を見たところからの心の動きは、その心自身が、如何に尊げな姿に於いて現れ、如何に深度の状態に於いて現れ、宇宙的な迄の高度な状態の如くに現れても、いずれも全てよしなく空しいことである。それは神の心にもとり、実在の相を忘失し、業の輪廻を深めたに過ぎない。業と云い無明と云うは神の去脱状態であり、人の生命の仮死的窒息状態である。神の国、実在の国にあっては悪と困却とは本来無いのであり、悪と困却とをみていることが無明であり、業障の根なのである。

 困却のない生命を観なければなければならない。悪に禍いされていない生命を観なければならない。それを、かくの如くに静的な相(すがた)に於いて観ると同時に、又即時に、動的な相に於いて観なければならない。動的な相、即ちまことに端的に鳴り渡る真理の音をききえなければならない。

<了>

1773「訊け」管理人:2012/12/08(土) 17:33:59 ID:???

九日の経言――

自己を偉大にする言葉


 吾れは吾が心のうちに広大無辺なる宇宙を蔵する。星をみつめて佇む吾れは見詰めらるる星よりもなお広大なのである。吾れは吾れのうちに星を理解する類なき能力のある事を見出すのである。吾れは空の星以上のものである。何故なら吾れは彼等を理解すると同時に、自分をも理解するからである。吾れは天に在(ましま)す神々の如くに造られたのである。吾れは星の軌道を闊歩する偉大なるものなのだ。吾れは主の如く永遠の道を歩む者なのだ。吾れ心を有するが故に、吾れは世界の王者である。いま吾れは吾が仕事の上に王者としての第一歩を踏むのである。

 吾れは星よりも大なるが故に此の宇宙を造れる力と同じものなのである。然り、吾れは宇宙を造れる力と一体なのである。いま吾れは凡ゆる種類の恐怖と弱小と卑陋(ひろう)とを超越して生活する。吾れは空の星に比肩せらるべきものである。吾れは、大地をつくり、天空を支えたまう神が、吾れを安固(あんこ)に保護したまうことを信ずるのである。それ故に吾はこころ安らかである。地の造り主、天の造り主と吾れは眞(まこと)に一体である。御親神様に感謝いたします

『日々読誦三十章経』より謹写――

1774とおりすがり:2012/12/08(土) 20:24:51 ID:???


十日の経言――

完全健康の言葉

吾が生きている生命(せいめい)は無限の生命(せいめい)である。
それ故に吾は完全に健康である。

吾がいだいている愛は無限の愛である、
それ故に吾れは完全に幸福である。

吾が心に宿る智慧は無限の智慧である、
それ故に吾れは平和であり調和である。

今われは平和と、安心と、及び漲る力の感じとに満たされているのである。

吾れは神の無限の生命(せいめい)の内に生きているのである。
無限の愛の内に生きているのである。
無限の智慧の内に生きているのである。

無限の智慧、無限の愛、無限の生命(せいめい)なる
吾が親(みおや)なる神に感謝いたします。

『日々読誦三十章経』より謹写――

1775さくら:2012/12/08(土) 22:52:38 ID:e8ieIrPA
『日常生活の中の真理 無門関・聖書篇』 谷口 雅春先生

「◎◎◎――――仏に遭っては仏を殺し

「仏に遭って仏を殺し、祖に会っては祖を殺す」と禅語にあるのは宗教の祖に遭ったら宗教の師を殺す、そして祖先や父母に会ったら祖先や父母を亡きものにするなどと云う意味じゃないのであります。
師恩は大切でありますが、本当の師は弟子に何を教えようとしたかと言うと「真理」を教えようとしたのであって、決して恩や愛着を売りつけようとしたのではありません。
それなのに「あの先生がやめたら、私もこの教えを止める」などと云う弟子があるが、これは「愛着」を受けとって「真理」を受け取っていないのであります。
この「愛着」を断ち切って真理に直参するのが、「仏に遭っては仏を殺し、祖に会っては祖を殺す」であります。

家庭においても、本当に父母を愛しようと思ったら父母を殺さんといかぬのであります。
こう言っても刀なんかで突いて殺すのではありません。ほんとうの父母を父母たらしめることが出来ないのであります。
僕でも父母を殺しているのです。僕は世間的に謂えば、大変親不孝です。九十幾歳の老母を神戸に放ったらかしておるのです。
あれは恩愛の執着を殺しておるのです。恩愛の情を殺して置かぬと父母が父母として本当に生きることが出来ない。
若し私が「最高理想の生活はこう云う理想の生活だから、お父さんお母さんこう云う具合になさい」と言って連れて来て、そしてその通りにしなさいと言ったらお父さんお母さんは窮屈でとても堪え切れないで、キットお困りになるだろうと思うのであります。
一燈園などでは「棄恩入無為」と言っています。恩愛の情を一度棄て切って、「無為」即ち、「そのまま」の実相があらわれるのであります。」

1776さくら:2012/12/08(土) 22:57:26 ID:e8ieIrPA
ほんとうの父母を父母たらしめることが出来ないのであります。

訂正:本当に父母を父母たらしめようと思ったならば、父母に対する愛着を殺さぬと
父母を父母たらしめることが出来ないのであります。

1777ハマナス:2012/12/08(土) 23:56:13 ID:mR2szZkc

人類意識の大波を超出すべし
(『新版生活の智慧365章』p.308)

「病気は無い」と“心”で念じたら病気が消えるならば、「肉体は無い」と“心"で念じたら肉体が消える筈だが、そんなに念じても肉体は消えないではないかと云う質問があるが、それは“心”と云うものが幾層にも重なっていて、一個人の単なる表層の現在意識で念ずるだけでは、人類全体の意識や、個人の意識にしても深層にある潜在意識面にある観念は容易に消えないと云う理由によるのである。

一個人一個人の意識内容は集団して一個人の人類意識と云う巨大な波動となって、個人個人の意識をその上に浮動させているのである。だから人類意識が「此の毒薬を幾グラム服(の)んだら死ぬ」と知っている毒薬を飲むならば、その人個人は、それが毒薬だと知らなくとも服用すれば、人類意識の“唯識の所現”としてその人は毒薬に当てられて死ぬことになるのである。だから其の人が人類意識の大波を超出するのだけの大信念を起し得るよう、熱心に神想観をして実相の完全さを揺るぎなく瞶(みつ)めない限りは、人類意識の大波のまにまに打ち上げられて破壊されることになるのである。

個人が「肉体がない」と心の表層で念じても肉体が早速には消えないのは、個人自身の潜在意識の中に「肉体がある」と云う観念の惰力が残っているのと、人類意識の中に「人類は肉体をもつ」と云う観念があり、その波から超出出来ないからである。

感謝合掌

1778NANCY:2012/12/09(日) 01:06:41 ID:jH5uEFzM
トキ様 ヘ
観覧者の皆様 ヘ
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【NANCY】です。
>>1635>>1639>>1643>>1766の投稿の続きです。

■ ■  祈るたび毎に あなたの魂は浄められる    谷口雅春著「人生をみつめて」より

なによりもまず祈ることにいたしましょう。
祈りというものは、そのとき神と交通して、神の持ちたまえる、色々の素晴らしい御徳が
自分の方へ流れこむことによって、自分の霊が浄められ、高められんがするものなのです。

常に祈るということが大切です。祈るたび毎にあなたの魂が浄められるのです。

                                  (一部抜粋…)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆

今年も残り少ない日時となりましたかと…思います。此処昨今は“暗い出来事”と申しますか、
更にここ【生長の家…お家騒動】も含めまして、人間関係の複雑さと、申しますか…?更に!
本当に「生長の家の信者」なのかと?疑いたくなるような言動には、それ以前の事ですが……
【分派…の方々との思考の相違】…そこからの“悪態”・“中傷”…etc…“暗い出来事”が…><

これは、どの様に考えるべきなのでしょうか?はたまた受け止めるべきなのでしょうか?
❤【感情論…】が先行していますかと、思う次第です。その根底には、やはり【我欲…欲望】が、
あるのではないでしょうか??改めて“言葉…”から伺えますかと?思う次第です。
真の【人 へ の 救 済】??

こういう時こそ【祈り…】すべて神に全托でしょうか?必ず!神の御心に叶うものは【実現…】
そうです〜〜〜ョネ!
この地上…『現実世界に、時間・空間を経て…叶いますでしょう』かと……。
■【 正 し い 祈 り … 現 実 化 !】でしょう。

                                再合掌

1779SAKURA:2012/12/09(日) 02:15:40 ID:jH5uEFzM
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1553>>1554>>1556>>1558>>1562>>1599>>1600>>1607>>1608>>1616>>1617>>1637
>>1644>>1653>>1654>>1661>>1674>>1675>>1744>>1753>>1765>>投稿の続きです… が

日常生活面を、それなりに考えていきますと、私なりの「雅春先生の哲学」が見えまして、
更に“人生観”が〜〜実に!感慨深いものになりますので、私なりに「生命哲学…勉強会」
を〜♫〜では“続き投稿”していきます。「雅春先生の例え…」として、投稿されていらっしゃ
いました記憶があります。…が?ここは、まるで【四 無 量 心 の 心 の 世 界 観】

■■『生命の実相哲学シリ−ズ…SAKURA論』
■第二章 無我自在の「生命の本性」を発揮せよ

❤心を肉体に引っかからせるな  その①
=====【生命の実相 2巻から抜粋 】=======================
 病気にかかるとすぐ医者のところへ駆けつけて、胃が悪くないか、心臓はよわっていないか、
肺臓にラッセルでも聞こえていやしないかいろいろと詳しい説明をききたがる人がありますが、
…云々…「人類的恐怖がありますかので、その恐怖を「肉体なる影」に映し出していよいよ本
当に肺臓の組織まで悪くしてしまうのであります。心が肉体の生理作用に及ぼす影響は実に恐
ろしいものがあります。〜〜〜たとえば我々が肩に力が入れれば肩がこります。肩が凝るとい
うのは血液が肩に滞って新しい血液と入れ換わらないことをいうのであります。……云々……
                        
                        つづく

1780SAKURA:2012/12/09(日) 02:19:29 ID:jH5uEFzM
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>>1644>>1653>>1654>>1661>>1674>>1675>>1744>>1753>>1765>>1779>>投稿の続きです… が

❤心を肉体に引っかからせるな  その②
>>1779投稿の続きです…。
…云々…
心が上の方に集注しているから肩におのずから力が入るのであって、決して「筋肉」という物質
が、物質自身の作用でそこに力を入れるというわけではないのであります、心が持とうと思わな
い限り、どうしても鉛筆一本でも持てないでありましょう。で、われわれが肩に力を入れたとい
うのは「心が」肩に力を入れたことであります。「心」が肩に力をいれたとき何が起こるかといい
ますと、「心」の影として最も最初に鋭敏に「心」のとおりに動き出すものは血液なのであります。血は生命の根源ではなく、「心」の作用に最も感じやすい「心の影」なのであります。完全に
血があっても心が死ねば、その人が死ぬ実例は前章にたくさんあげておきました。ただ血は影の
形に添うがごとく心の行くところに添うので、血は古来から霊性があるように思われて、
日本の古書には「霊」のことをチと読ませたところがあります。  (谷口雅春著)                          
===========================================
■そうです〜〜〜ョネ!!心に暗示をかける事でしょうか?そう【アラジンのランプ…」で〜
♫〜ごまひらけ〜♫〜と…心に入れ込む事ですョネ???さらに決めつける「心」からは、何も
生まれないようにも思えます。たとえば”悪口”ばかりいいます人は、寄ってきます人も、
それ好みの方が仲間にでしょうかと???【類の法則…」も、単に”モノ”だけではなく、そう
【心の法則の類の仲間】同士にも、云えます事ではと思えます。当に……!!
❤〜【すべてが”こころ”で決まる】事なんでしょう〜〜〜ネ!!今回、ここでも”固定観念”
で決めつける方が、いらっしゃいます様に思えます。この人は〜〜〜と>< 自分の狭い心で
相手を服従させるような表現が多いです〜〜〜ョネ!そのような時の私の心は、確かに、一瞬!
萎縮して構えます。…が?

■ここが“ミソ”で、まずは、何も自分は変わらないのだから、つかむ事もない!!!と…
”心…”で思いますと、まるで〜まるで〜澄みきった気持ちに、なりますかと。

更に!どうしても落ち着かない場合は、そう〜〜【神想観…」が一番”ピッタリ”でしょうか?
余談ですが?最近!過去を振り向いている自分がいます。そのような時【心は反省】ばかり><
更に、このような人間に出会ったおかげで”私は聴力喪失になった事”…許しがたい!この考え
は、本来の私自身は”楽観主義的思考”なのですが、現在の私に取りまして…あまりにも執拗な
相手の尾行…これも今まで考えなかった事ですから、【心が過去に…タイムマシ−ン】です。

■振り向きますと”過去”にとどまり”前進…”は、ないのです〜〜〜ョネ!!でも少しは、
その過去の【業…】に対しての清算カモ??そうしますと必要な事カモ??と、今の私は、
【強い信念…】で、過去の資料を調べているところです〜〜〜が???

今回頂きました【テキスト該当部分の冒頭から…】
当に【全て…”こころ”で決まる人生とは?全て自分自身の”こころ”で決る。決断!】かと…
あらためまして、思いました。…が???■■【 心の法則 】なのですネ!   再合掌

1781神の子さん:2012/12/09(日) 09:22:05 ID:pic01rm6
いいえ、日本製ですよ

1782「訊け」管理人:2012/12/09(日) 12:33:07 ID:???

◇「悪」を分析しても「善」は顕れて来ない

 「現象悪」を実在すると観て、それを観察し、分析し、「悪」の要素を排撃しようとして「悪」と戦う心を称して「智慧の樹の果」を食べた心と称するのです。併し「悪」と戦う心を起こしても、決して「悪」は減じないのです。それは「水爆」と戦う心を起こせば起すほど、水爆の実験の回数はふえ、地球を取巻く空気は愈々益々ストルンチューム90の放射能で汚染せられる度合が増加するようなものです。若し各国が、相互の相手国の「悪」を見ず、ただ「善」と「愛」とのみを見て親愛の情を深めて行きさえするならば、水爆という〝悪〟は自然に消えて、其処には唯、「原子力の平和利用」と言う〝善〟のみが実現する世界が出て来るのであります。

『眞理』實相篇384頁――



◇暗黒の中に失望してはならない

 暗黒は光明の来るしるしである。あなたは暗黒をおそれないのである。夜明け前には丑満時が来るのである。現象界は暗黒と光明との交錯によってあらわれる映画である。陰極は必ず陽転するのである。暗黒の後に新しい日は生まれる。
 新しい日は光明と自信とに満たされているのである。自信は如何なる暗黒の中にも光明を見て突き進む。既に光明は〝ある〟のである。努力と精進とによって、この暗黒の岩屋を突き破って光明の彼方に出ることができるのである。あなたは神の子であるから、無限の力が宿っており、無限の力は努力によって噴出するのである。信念と努力――これが万事を成就するのである。
 その努力と精進の力も神から来るのである。努力する勇気が湧いてこない時には、「神よ、私に善き事に対して努力する勇気を与えたまえ」と祈るがよい。

『眞理』實相篇128頁――

1783SAKURA:2012/12/09(日) 13:34:48 ID:jH5uEFzM
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投稿の続きです。…が

日常生活面を、それなりに考えていきますと、私なりの「雅春先生の哲学」が見えまして、
更に“人生観”が〜〜実に!感慨深いものになりますので、私なりに「生命哲学…勉強会」を
〜♫〜では“続き投稿”していきます。
「雅春先生の例え…」として、投稿されていらっしゃいました記憶があります。…が?
ここは、まるで【四 無 量 心 の 心 の 世 界 観】でしょうか…??

■■『生命の実相哲学シリ−ズ…SAKURA論』
■第二章 無我自在の「生命の本性」を発揮せよ

❤ 血の滞りは心の滞り
======生命の実相 2巻から抜粋=========================

 ともかく「心が」しじゅう滞る場所には血液が滞るのでありまして、「心」が肩に、滞る人
は血が肩に滞って肩が凝り、「心」が首にとどこおって脳充血や脳溢血や不眠症などを起こす
のであります。こういう傾向のある人はとどこおっている箇所を按摩してもらうと一時その
滞っている血を散らすことになって非常によい気持ちでありますが、それは一時的であって、
「心」を滞らせている限り、そこにまた間もなく鬱血して来てそこが凝るのであります。
                              (谷口雅春著…)
===========================================

■以前は〜〜〜私も“肩コリ”…本当に“コリ〜コリ〜”なのです。特に、この寒さが増し
ます処の冬場は…いつも“首を回して”いましたかと。ですが?此処最近は、少々“肩コリ”
もありますが、以前のようには“肩コリ”飛んで行け〜〜〜♫〜〜〜なのです。
アラ〜〜〜?如何してかしらンと、思ってみますと、以前よりそうなのです。小さい物事に
【執着…】しなくなったのです〜〜〜ョネ!!

そして、今年母がなくなりましたが、此処3年間分からない事実が〜〜〜><
❤〜【亡き母の霊界通信…】で、何と「亡き母」からの【直感…】でしょうか???見え
ない事が?理解しがたい事が?今では、物事が良く見えるよな【透視…】が、多少とも
出来出しまして、それからなのでしょうか…??“肩コリ”の材料が、幾分以前より薄れ
てきまして、最近では、前以上に“物事”が見え、それが良し悪しに付けましても、こう
いう時こそ前に進む言動力の傾向にと……!!言えますでしょうかしら〜〜〜ン

■さて“心が滞る事”は、やはりこれも【執着…】からでしょうか???以前の私は、
ある面【執着のかたまり】でしたでしょうか??“コリ〜コリ〜執着?”
今では【放す事…を!すべて神様におまかせ…全托していたら?】という感じでの“行動・
スタイル“なのです!!そうなのです。モ〜〜〜ウ!何の不安もなく、まず!前進!前進!
前に進む事が【人間の使命…】でしょうかと???
それでも“血液の流れ”は滞る事もあり、この時はまだ【執着心…】が?あるのではと、今
頂きました“復興G様のテキスト該当部分”にて改めて思えます。…が?まだまだ足りない
のでしょうか?【心の執着…を放す、そして、おまかせ心になる事が〜〜〜】でしょうかと。

❤〜【私の“肩コリ”は、心の狭さから器量でしょう〜〜〜ネ!!!また、一つですが?
“心の進歩”に、私の“心のエッセンス”です〜〜〜ネ!!】
この素晴らしい〜〜〜【真理…】を勉強させて頂きます機会に感謝です。
                                   再合掌

1784さくら:2012/12/09(日) 20:53:38 ID:e8ieIrPA
『藭ひとに語り給ふ』 
                谷口 雅春 先生   

「              萬教歸一の藭示  

われに姿かたちあるやうに言ふものあれどわれは姿なきものである。われは道(ことば)である、われは靈性である、智恵である、愛である、生命である。われは如来である、われは一つにして多である。信仰深き諸方のわが藭姿を示したることあれども、そはわが眞の姿に非ず、見えたる藭姿は靈覚者の心識の所現に非ず。そは、われ藭通力によつて、疑う者の蒙を啓かんがために、異る場所と異る人とに同じき一定の藭姿を示して、藭の客観的存在を實証したにすぎない。

されど、本来われに一定の藭姿はない。如何なる姿も欲ひのままに現ずることが自由である。されば、嘗てわれ汝に告げたのである『吾に藭殿は不要である』と。われは藭殿がないとて身の入れ場所に困るやうな藭ではない。供へ物も要らぬ。わが姿を見んと欲がうものは『生長の家』を讀め。われは言葉である。吾が言葉を盛る雑誌こそ吾が藭殿である。この雑誌をひろがるのこそわが藭殿の大きくなることである。われにすがた形はない。われは靈の海である。大海原である。すべての宗教流れ来たりて吾に入らん。吾は完成する者である。われは『七つの燈臺』に燈を点ずる者である。古道も、佛教も、キリスト教も、天理教も、金光教も、黒住教も、大本教も、すべての教我に流れ入りて生命を得ん。

われは大いなるものなるかな。すべての教を呑吐して、これに生命を與へ、すべての相争ふ教をその眞髄に於て握手せしめる。吾れはすべてを包容し、すべてに光を與へ、すべてに栄養を與へ、すべてを生かす地下水である。他の如何なる宗教をも誹らず批たず、常に讃事と、善き言葉とを雨ふらして、それを浄めその眞髄に燈を点ずる。あらゆる宗教がその眞髄を禮拝して手をつなぐやうにならねば此の現實世界の改造は完成せぬ。精藭界が先で現實界はその影である、元亂れて影完からず、宗教家よ、宗派争いをしてゐる時ではない。

(昭和六年四月五日藭示)」

1785うのはな:2012/12/09(日) 23:14:26 ID:RjJT/itc
   『いつまでも楽しくすこやかに』内田久子 先生著

   発刊のことば 総本山知恩院執事長 おてつぎ運動本部長 寺本哲栄 

 近年、多くの日本人のあいだで「健康」についての関心が高まってきました。
医療の進歩によって日本人の平均寿命が延び、長生きできる時代になりましたのはまことに
結構なことであり、みなさんがいつまでも元気で長生きしたいという願望をお持ちになるのは
当然でございます。

 若い方々は、ややもすれば度を過したり、誤った考えにより健康を損なったりしていますが、
私は、日本の将来のため憂うべきことだと思っています。ところで健康というのは、もともと「健康康心」
から来たことばですから、体が健やかで心が安らかな状態を指すのでありましょう。
また西洋の諺にも「健全な精神は、健全な肉体に宿る」とあります。

 慥かに、体が元気ですと気分も壮快になり、病苦に苛まされますと気分も滅入ったりいたします。
また、精神的なストレスにより、体に悪い影響を及ぼすことがあります。
正しい宗教心をお持ちの方が、とく病を克服されたということもお聞きします。

 私はかねてより、人間の心と体について、宗教心を持たれた医師の方からお話を承りたいと思っていました。
さいわい、長年、病弱な体を克服し、その体験をふまえながら患者の治療にあたってこられた内田久子先生に
講演をお願いすることができました。そのお話の内容がたいへん参考になりますので、おてつぎ講演集の一冊として
とりまとめ刊行することにしたゆえんでございます。

 読者の方々は、その行間に滲み出ている内田先生の宗教心を見過ごされることなく、
心と体の健康について再考されますよう念願し、発刊のことばといたします。、


 おてつぎ運動本部

1786うのはな:2012/12/09(日) 23:29:08 ID:9TO4H8Ho
    はじめに  内田久子 先生

 私は内科医師として、日々病院勤務で診療しておりましたが、この度、このような
素晴らしい知恩院様にご縁をいただくということを伺いまいた時、一時はびっくりいたしましたが、
折角のお申し越しでございますので、喜んでお受けさせていただいたのでございます。

「いつまでも楽しくすこやかに」という今日のテーマと同じ言葉を、拙著『生命医療を求めて』に署名
させていただいております。
 現代社会では、文明や科学が進み、病院も立派になりたくさん医療施設ができて、いろいろ研究され病院も
解明されてきているにも拘らず、病院に行けばどこも満員ですね。これほど医学が発達すれば、病院は閑古鳥が
鳴いてもいいはずなのに、現実はこれに正比例して満員なのは何故でしょうか。
私たちはみな、健康だけでなく、人生を楽しく生きがいをもって生きたいという願いをもっています。

 この題の中の「いつまでも」というのは、今だけでなく、死にぎわも元気で、あの世へ行っても、来世もずっと
楽しくすこやかに、という意味です。

1787「訊け」管理人:2012/12/10(月) 09:27:58 ID:???

十日の経言――

完全健康の言葉

 吾が生きている生命は無限の生命である。それ故に吾は完全に健康である。吾がいだいている愛は無限の愛である、それ故に吾れは完全に幸福である。吾が心に宿る智慧は無限の智慧である、それ故に吾れは平和であり調和である。今われは平和と、安心と、及び漲る力の感じとに満たされているのである。

 吾れは神の無限の生命の内に生きているのである。無限の愛の内に生きているのである。無限の智慧の内に生きているのである。無限の智慧、無限の愛、無限の生命なる吾が親(みおや)なる神に感謝いたします。


『日々読誦三十章経』より謹写――

1788「訊け」管理人:2012/12/10(月) 12:47:54 ID:???

『真理入門25章』248頁より謹写――


◆ 〝神洲日本〟そして〝神洲清潔の民〟

 日本人は人間のいのちが〝神の子〟のいのちであることを知っていたのと同時に、日本の国も、神が建てた国で、神から頂いた国だという信念を持っていました。それで日本を〝神洲〟といったのであります。支那から漢字が伝わって来ましたら、我が国の名前(国号といいます)を「日本」と漢字で書いて、「やまと」とか「ひのもと」とか読むようにしました。それは『古事記』に伝えられたところによりますと、日本の国は人間が計画して建てた国でなくして、天照大御神という御名前の“宇宙を照らしたもう神”が、「豊葦原の瑞穂国は世々わが子孫の王たるべき地なり」と、国の根本的設計を示されまして、その設計にしたがって神武天皇さまが天皇中心の国をお建てになったのが国の始めであります。だから日本国は〝神洲〟すなわち〝神国〟なのであります。
 そして、日本人は、この日本国を「日本神国」「日本神国」と呼んでいたのであります。「神国」に〝神の子〟たる日本人が天照大御神の子孫である天皇さまを中心にして住んでいる清らかな国が日本国ほんらいの姿だったのであります。それで日本人のことを「神洲清潔の民」といいました。それなのに西洋の科学文明が入って来て〝国〟というのは、鉱物で出来ている土の塊だくらいに考えて、何も尊いことも何もないと考えはじめました。


◆ 善の代りの語に〝清明心〟といった

 日本人は〝神洲清潔の民〟でありますから、日本人ほど清潔を尊ぶ民族は他にないのであります。『古事記』にある神話の中には天照大御神さまと、須佐之男命さ(スサノオ)さまとが、「受霊」といって、互いの霊を取り交わして、どちらが善かその善悪を定める場面が描かれておりますが、その時に、「心が善い」という言葉の代りに天照大御神は「汝の心の清明(あか)きことはどうしたらわかるか」と仰せられ、須佐之男命は「わが心が清明き故にわたしの魂から、やさしい女の子が生まれた」といっていられます。善とか悪とかいう言葉を使わないで、心が清く明らかで陰気に曇らないのを古代の日本民族は〝善〟であるとしたのでありまして、近代人の考えているような、「こうするのが、悪である」とか「こんな行いが善である」とかいって、事こまかく一々の行ないを定めるのではなく、清く明らかな〝清明心〟をもった者を〝善〟であるとしたのが日本人だったのであります。
 いちいち〝これは善、これは悪〟と分類して、こまかく分けて研究するのは科学的精神でありますが、〝科〟という字は「枝」という意味の字で、科学をこまかく枝を分けて分析的に分析して研究する、「科(えだ)の学」であります。日本人は〝善悪〟といわずに〝清明心〟といったところに、まことに一つにまとめる日本人の心があらわれているのであります。


<了>

1789とおりすがり:2012/12/10(月) 15:03:43 ID:???
>>1784

『藭ひとに語り給ふ』は、光明掲示板でコスモス様がすでに謹写しておられます。

http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&amp;mode=res&amp;log=819

1790とおりすがり:2012/12/10(月) 15:06:19 ID:???
十一日の経言(のりごと)――

【善と健康とを実現する言葉】

吾れは善事を求める。善事をのみ求めるのである。
吾れは万物のうちに、そして万人のうちに神の『善』の宿るのを見る。

神は『善』である。
そして吾が求むるもの、吾が思うものを、何よりも先ず与え給う。

吾れは神を吾が『愛深き父』『優しき救い主』だと認める。
吾れは凡てのうちに宿る神の調和と、宇宙にみなぎる愛と心とを感ずる。
神は凡ての者の父であり給う。

それ故に吾れは万人を吾が友、吾が兄弟であると観ずる。
誰も此の世界に吾れに敵対する者もなければ、
吾れも亦此の世界の誰に対しても敵対しないのである。

全人類は吾が親戚であり、吾れは全人類の友である。

吾れはいま万物、万人および宇宙を司どる法則が
吾が心を反映するものであることを知るのである。
―― それ故に、吾れは高き善き想念のみを心に描きつつあるのである。

吾れはいま最も輝かしき信仰と、朗らかな情緒とで満ちあふれているのである。

吾れは、『悪』に与えた力を取り返すのである。
即ち『悪』が実在すると云う思想を撤回する。
それ故に『悪』は今本来の『無』に帰したのである。

吾れはいま円満完全なる神の子である。

吾れは完全なるものと調和せるもののみを思考する。
吾れはいま健全と調和とのみを宇宙より受けるのである。
宇宙の心は吾が想念に全く相応ずる事物を造って呉れつつあるのである。

吾が想念は完全円満である。
吾が信仰は確固不壊である。

吾れは自己が完全に健康であることを思考する。
いま、吾れは既に癒されたのである。

つねに吾が求めを聴き給う神に感謝致します。

いまより吾れは神と偕(とも)に語り、神と偕に歩む。
それ故に吾れは吾れを信じ、総てのものを信ずるのである。

『日々読誦三十章経』より謹写――

1791さくら:2012/12/10(月) 17:25:22 ID:Ox.iz1Zc
>>1789
通りすがり様

教えて頂いてありがとうございます。
『神ひとに語り給ふ』のすべての神示を拝読でき、コスモス様の素晴らしい愛行ですね!

わたしもこの度、自分の学びのために謹写させて頂いて、この神示の内容の深さに打たれています。

追放されてしまいました掲示板ですが(笑)、
同じ生長の家の真理に触れて学ばせて頂けるとは、
…なんて素晴らしいんだろうと、感激しています。

どうぞまた、よろしくお願いいたします。

ありがとうございます。



1792SAKURA:2012/12/10(月) 20:01:27 ID:jH5uEFzM
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投稿の続きです。…が

日常生活面を、それなりに考えていきますと、私なりの「雅春先生の哲学」が見えまして、
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〜♫〜では“続き投稿”していきます。「雅春先生の例え…」として、投稿されていらっしゃい
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■■『生命の実相哲学シリ−ズ…SAKURA論』

❤ 生理的状態は暗示によって感染する   その①
======生命の実相 2巻から抜粋=========================
 精神的感染によって、あくびという生理作用が感染ったり、人の涙を見てこちらも涙が出た
り人の食べるのを見て唾液が出たりする事実は、誰でも知っているところであります。これを
見ればわれわれの心の状態がどんなに生理作用に影響を及ぼすかは考えてみてもわかるのであ
ります〜〜云々〜〜ラジオ・ドクタ−が衛生のことや健康法のことについて説くことは参考に
なります。けれども、黴菌の恐るべきことや、人間が少しでも不注意であれば病気に冒される
ことなどを説いて、恐怖心をそそることは感心しないのであります。それは人々を病気の想念
の中におくことになりますし、病気の想念により喚起された恐怖心によって、生理作用が攪乱
され、病気に対する抵抗力が鈍ってしまいかえって病気になってしまうのであります。予防医
学は社会政策的立場において必要でありますけれども、すでに病気になっている人が、通俗医
学の書を読んだりラジオ・ドクターの病気恐怖の話をきくのは必要でないばかりか、恐怖心を
そそられて病気に対する抵抗力を薄弱ならしめますから、なるべく避ける方が結構であります。
                             (谷口雅春著)
==========================================

■“病気になる事”は、以前の“心の種をまいた結果”でしょうか???たとえばですが?
父親が【癌に侵されて病気】になりまして、悲しいかな?死亡…そうしますと、人間の潜在
意識の中に【自分もいつか〜〜〜“癌…”になって、同じような死を迎える】という
“恐怖心の種”が、無意識に植えつけられて、いつか月日が立ち【時間・空間】でしょうか?
忘れた時に“恐怖の病気の芽”があらわれるのです〜〜〜ョネ!!
                          つづく

1793SAKURA:2012/12/10(月) 20:03:27 ID:jH5uEFzM
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>>1792>>投稿の続きです。…が


■■『生命の実相哲学シリ−ズ…SAKURA論』
>>1792投稿の続きです…。

❤ 生理的状態は暗示によって感染する  その②
これは【三界の唯心所現】として現れる!「生長の家の人」ならば、必ず知っています言葉!

■私も“5歳の頃交通事故…”に遭い、その時、空中に跳ね跳ばされて運よく“木の枝”が
クッションになり、一命を取り留める結果となりました。…が?ですから“顔のホホ”に、
傷が出来ておりまして“4センチ”くらい縫合しております。当時の医療では難しいのです
が、私の記憶では、車に乗せられて横になって運ばれていく光景を、今でも覚えています。

その後、手術が無事にすみ、目が覚めて“顔のホホを中心に包帯…”更に、腕も骨折です。
ですから、三角巾??みたいな固定していた感じ?当時の包帯をした“姿…”が、この頃よ
く浮かんできます私です。その時、当然の事ながら頭部を打っていますから「体の後遺症」
がと?当時の“両親の恐怖心”は???多大なものであった事でしょう。
ある時…小2の頃でしょうか?「担任先生」が“左の聴力”が、以前より聞こえがオカシイ
のではないのかと言われて、“病院…”へ、その時の病院の担当医の先生は、頭部を打ってい
ますから、今回は、運よく“無事”に乗り切れましたが、今度、なにか事故で…例えば、
頭部を叩かれたり?打ったり?このように“頭部”に何らかの力で、損傷しますと神経系が、
侵かされる事になると…つまり■【聴力喪失…】を言ってた事を「亡き母」は、良く言って
いましたから、私は“潜在意識”で、常に“交通事故…”を、再度!起こさなければいいと
思い、そうしますと、潜在意識に【 “大丈夫!”事故が起きなければいい!! 】と…、
いつかその自覚を、忘れてしまい、そうこうしています内に【21歳の夏の頃…の出来事】…
これが「タタキ男」に叩かれ“出血…”です。
その後、忘れもしませんが“22歳の3月10日の朝”に目が覚めても“音〜♫〜”が全く><
前日の【音のある世界…から…音のない世界】に、当に【暗闇の世界…】に引きずり落とされ
この日が【聴力喪失…日時】に、なりました。

■逆に今思いますと【 心 の 法 則 】 つまり“両親の言葉の念?”で、この様な
“悪い男…タタキ男”に、想念感情から結ぶ事となつたのでしょう〜〜〜。
「種をまく!」のも、やはり“いい種”を巻く事が、その後!結果として“大輪の花”が、
咲くのではと思います。…が?この【タタキ男の執着…】は、今日でも“腹”が立ちます
が、それを「雅春先生の言葉」から…【こころで縛りますと、また同じ繰り返し〜】になり
【四次元の世界…】に入っていくようなモノです〜〜〜ョネ!!この様に、毎日!毎日!
“決めつける事=思い込み事”は、必ずその時は、一時的にごまかしても、必ずや!
化けの皮が、出てくるのですから、そう断言して思うこの頃です。【円環…】

■あの「ヒットラ−の時代」も“永遠”には続かなかった事でしたでしょ〜〜〜う!!
これにならって【必ず!今は善くないけれど…必ず!良くなる事を信じて進む事】に、心を
振り向け…そして【祈る…】事が出来る人が❤〜【人生の勝者…】と思う次第です。

最終的に、相手に“恐怖心”を与える言葉を使用するよりも“希望の言葉”が一番!!
しかも【 正しい希望実現の言葉…】でしょうかと。?

1794ハマナス:2012/12/10(月) 23:45:21 ID:x2zmnlqw

神の子のみなさま
こんばんは。

野生の鳥は風邪を引かない  (『新版 生活の智慧365章』P.309)

 野生の馬は決して風邪を引かないけれども、人間がそれを捕えて家畜とし、厩に入れて
風邪を引かぬように夜は毛布を掛けてやるようにすれば、毛布を忘れたときは風邪を引く
ようになるものである。野鳥はどんなに寒風に晒(さら)されても風邪もひかず霜焼にも
ならないものであるが、これを捕えて暖かい部屋に入れ、風邪を引きはしないかと人間が
心配してやれば風邪を引くようになるものである。これは人類意識と飼主の病的意識に
巻き込まれてその影響を蒙(こうむ)るからである。謂わば、動物に対して人間が「知恵
の樹の果(み)」を食べさせて病的精神に教育した結果なのである。

 病理学 の本を読み、栄養学の本を読み、薬剤の広告をラジオで聴かされ、テレビで視聴
させられて人間は必ず「病むべきもの」と云う印象を潜在意識にたたき込まれれば、集団
インフルエンザで学童が集団欠席を必要とするような事態を生ずるのである。このような
マスコミの力で「言葉の力による病的観念」を吹き込まれておれば人類は益々不健康になり、
医者と薬が唯一の頼りとなり、医者が集団休診すれば、どうなるかと恐怖しなければなら
なくなるのである。併し、本当に病気を治してくれるものは、自己の生命力そのものだと
知らなければならないのである。

感謝合掌

1795a hope:2012/12/11(火) 08:27:19 ID:ueIDSztA

新版 生活読本 谷口雅春先生著(日本教文社)
第九章 斯(こ)うして愉快に生きましょう

♦愉快でいることを義務と思え(P94〜)

人間は愉快でいることを義務だと思うようにならなければなりません。
自分の顔は自分の勝手だから、どんなにふくれ面していても、ほって置いてくれたら好いと考える人があるかも知れませんが、それは大変な間違いであります。

自分ひとりが不愉快な顔をしているために、その周囲(まわり)の人たちがどんなに不愉快になるかも知れません。
不愉快な顔をしているだけで、その人は周囲の人たちに大変な害を与えているのです。

家庭で誰かが膨れ面(ふくれつら)をしていて面白くない気分に皆がなったために、その日仕事へいって怪我をしたなどと云うことはよくある例であります。
不調和は不調和を呼び、調和は調和を招くのであります。


明るい心のものは繁栄を引寄せます。
誰でも明るい世界を好むものです。
赤ん坊を寝かせて置いても明るい方へ顔を向けます。
誰でも愉快な楽しい顔を見ることを喜ぶものです。
吾々は本能的(うまれつき)に暗い顔や、ふさいだ顔を見るのを好みません。

日本人はとかく、あまりにも鹿爪(しかつめ)らしく、苦が虫がおおいようです。
そうして暗い不愉快なところには善い仕事は出来ません。

仕事が激しければ激しいほど、心に光をさしこますことが必要なのです。
心に光がさしこまないで激しい仕事に長く堪えることは出来ません。
野球の試合や、ラグビーの試合は、激しい仕事ですけれども、心が愉快で明るい気持でやっているから決して疲れないのであります。

愉快な楽しい顔をしている店員はお客様を沢山ひきよせます。
不愉快な顔をしている店員が店にいては、その品物は上等でも売行はよくありません。
だから普通店番には愉快な愛嬌(あいきょう)のよい娘などを置くのです。

これは別に娘を売物にすると云う訳ではないのです。
人間は他の人々に好感(よいかんじ)を与えるようでないと、他から協力(ちからをあわす)されるものではありません。
よい感じをあたえることそのことが、サービスであり、世のためになることなのです。
(つづく)

1796SAKURA:2012/12/11(火) 20:33:40 ID:jH5uEFzM
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
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>>1644>>1653>>1654>>1661>>1674>>1675>>1744>>1753>>1765>>1779>>1780>>1783
>>1792>>1792>>1793投稿の続きです。…が
日常生活面を、それなりに考えていきますと、私なりの「雅春先生の哲学」が見えまして、
更に“人生観”が〜〜実に!感慨深いものになりますので、私なりに「生命哲学…勉強会」を
〜♫〜では“続き投稿”していきます。「雅春先生の例え…」として、投稿されていらっしゃい
ました記憶があります。…が?ここは、まるで【四 無 量 心 の 心 の 世 界 観】

■■『生命の実相哲学シリ−ズ…SAKURA論』
❤  病気の真の感染原因
======生命の実相 2巻から抜粋========================
 病気は物質的感染によっても起こる場合もありますが、その根本原因は、物質的感染を
容易ならしめる薄弱な抵抗力と、その病気の忌まわしい症状を心に描く連想作用とが、病
気感染の有力なる精神的土台を作るのであります。 食中毒を起こして下痢をして赤痢に
なったというがごときは、赤痢菌の感染による場合もありますが、その食事の時「これは
変だ」と思わしめるのがあったか「あまり水を飲みすぎてお腹がじゃぶじゃぶする」とか、
「お腹が冷えた」とかいう感じが病気を連想せしめて、 胃腸の消化作用を弱め、腸内消
毒作用をもつ胆汁の分泌などを少なくし、ついに病菌に打ち勝った抵抗力をなくして病気
を起こすのであります。                 (谷口雅春著)
==========================================

■病気になりますと、必ず!【原因・結果の法則】があるようにも思えます。ので、病気の
原因をつきとめていきますと、必ず!心からの“精神作用”が多大でしょうかと??まれに
【外部要因…】で起こる事も、本当にありますモノ! 私の経験ですが、今!思いますと、
当にそのような事が、度々起きたのです。…が?

■此処で、当時「千葉の行徳在中の頃」の出来事です。そこの“賃貸住居…”で、やはり?
今振り返りますと【水…】に、何か?異物が混入された感じの経験があります。…が?
その時は、知らずに【水…】を使用していましたら“パ−トナ−”は胸にしこり、そして、
私も“出血”が頻繁に起きるようになり、当時の私の潜在意識には【病気はない!!】と
固く〜固く〜信じていました時に〜〜〜エッ!【パ−トナ−のガンの早期発見】でした。

その時、自分の病気の事に“心を振り向ける”よりも、ひたすら“パ−トナ−のガン”に
集中!!の私でした。…が?当時は、まず【祈り…】そして【治る…】これのみを“集中”
していましたら【検査の結果…】2週間後に“ガンが消えて”いましたが、この時、私も
気がつきますと【自分自身の出血も収まり】当に【祈り…】で、全て治ったのです。ややも
しますと“病気”は不安ですが、此処で【 一念集中して祈り…】に徹し、心を振り向ける
のですから、この時こそ【チ ャ ン ス 到 来】なんでしょうかと思います。それは当に!

今!今しか出来ない事を、神様が私に“振り向かせる事”その気づき…頂いたものと!
本当に【心 の 法 則 の 訓 練】なんです〜〜〜ョネ!!

「唯物論的…原因」??その前に、全ては【心の精神作用での病気】言い換えますと、すべて
【自分の心の影…迷い】ですから、必ず“治る事”を信じることが、そしてこの事への
【持続精神作用…】が必要かと思えます。
【病気こそ正しい道徳観念の気づきをもつ“チャンス到来”】と解釈しても良いかと思えます。

■■“言葉の力”で……プラス思考の暗示を続けましょう。そうしますと、必ず!
【無限の宝庫…】があらわれる〜〜〜〜そう!「なんでも出来る!無限力」

最後に、今の私は、この時の“心境”を思い出し【獅子奮迅にて前に進む事!!】でしょうか?
「病気本来無し…」これこそ【無の境地…】でしょうか〜〜〜?

1797ハマナス:2012/12/11(火) 23:48:11 ID:x2zmnlqw
神の子のみなさま
こんばんは。

薬剤に服従する勿れ(『新版 生活の智慧365章』P.310)

 栄養学に執(とら)われて、幼児に毎食、食膳にビタミン錠剤を与える習慣は、多くの
場合に於いてその子供に物質殊に薬剤に頼らねば健康が保持できないと云う観念を与える
ことになるのであり、従って幼児に病気が絶えないようになりがちである。かく言えばとて、
ビタミンBや必須アミノ酸が子供の発育促進に必要でないと私は言うのではないのである。
ビタミンB群や必須アミノ酸は発育促進に欠くべからざる栄養素であるけれども、それは、
幼児に“薬を与える”と云うような形式で与えないで、唯、自然の食物を与えているような
形で与える方がよいと云うことである。

 幼い時に潜在意識に「人間が薬剤に屈従する」と云う観念を植えつけると、成人してから
も長く「人間は病むべきもの」と云う観念から脱却するのになかなか手数がかかるものである。
幼いときから子供に対して、「人間は神の子よ。病気なんかには罹(かか)らないものよ」と
常々言ってきかせて置くことは、子供を常に無病にして置く秘訣である。

感謝合掌

1798a hope:2012/12/12(水) 07:03:49 ID:w2ws6uag
みなさま おはようございます。

わたし専用のパソコンの調子が悪いので(今朝は起動すらしません・汗)、
今朝は聖典謹写をおやすみさせていただきます。

感謝 合掌

1799「訊け」管理人:2012/12/12(水) 07:32:16 ID:???

十二日の経言――

愛と繁栄とを実現する言葉

 いま吾が生活を支配する法則は、愛と信仰と繁栄と、そして真理とである。吾れは何の間違もなく吾が未来を透見し得る ―― 何故なら吾れは今日(こんにち)未来の刈入れのために善き種子(たね)を蒔きつつあるからである。
 われは善き収穫を預期する。それ故、吾れは平和と信仰とのうちに晏然(あんぜん)としているのである。吾れは神の御手に吾れを委(ゆだ)ねる。神の法則は愛である。愛なる神に感謝致します。

『日々読誦三十章経』より謹写――

1800さくら:2012/12/12(水) 08:33:45 ID:e8ieIrPA
『新版 叡智の断片』

谷口雅春先生

「意識的世界に高く向上するためには、無意識の世界に深く没することが必要である。
大寂の世界から浮かび上がって来た生命のみが常に清新である。」

1801SAKURA:2012/12/12(水) 19:52:49 ID:jH5uEFzM
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日常生活面を、それなりに考えていきますと、私なりの「雅春先生の哲学」が見えまして、
更に“人生観”が〜〜実に!感慨深いものになりますので、私なりに「生命哲学…勉強会」を
〜♫〜では“続き投稿”していきます。「雅春先生の例え…」として、投稿されていらっしゃい
ました記憶があります。…が?ここは、まるで【四 無 量 心 の 心 の 世 界 観】

■■『生命の実相哲学シリ−ズ…SAKURA論』
❤  人類意識と個人の潜在意識との問題

======生命の実相 2巻から抜粋========================
 病気の知識のない子どもには、病気に対する恐怖心などというものはないのであろうに、
病気にかかることがあるのは、病気が決して心の作用によるのではなく、じっさいに物質
的原因で起こる証拠ではないか――という人があるかもしれませんけれども、それは赤ん
坊の「意識」といえども「人類全体の潜在意識の大海原」の中に動いている「一波」なので
あります。したがって無邪気な赤ん坊の意識は「人類全体の病気を信ずる心」の波動に常に
乗せられて動いているのでありますから、親が病気を思わないでも、本人が思わないで赤ん
坊は病気にかかるのであります。そしてまた「こうしたら病気が治る」ということをすれば
病気がなおるのであります。               (谷口雅春著)
==========================================

■前回!記しました様に、本当にそうなのです〜〜〜ョネ!と、改めて思います、
【念の波動…】を、知らずに受け入れる!これは「無意識な状態」での事でしょうか???
「雅春先生」のおっしゃる言葉から❤〜【 「人類全体の潜在意識の大海原」 】これが
【念の波動】なんです〜〜〜ョネ!!そうしますと【 密教 】も、それに当たります。

…が?

【 密教 】とは???実際に“行”じています「黒幕デザイナ−」・「吸血鬼」・「ゾンビ」が、
更に「元々元W会長」達…もでしょうか【密教の対象…】にしています「人?」もしくは
「赤ん坊のような素直な心の人?」へ…… 知らず知らずの内に…【潜在意識…】に入れ込む
【念の波動…】が、あるのです〜〜〜ョネ!!
これを知らずに受けた方は??その人の心の中に【悪感情…ネガティブ感情】がありますと
この念波と同調し“アクシデント”が起きる事となりますでしょうか?? 逆に申しますと
この【悪念波…密教】を受けた方が、これを知って“捕まえない心境”そうなのです〜〜ョネ!

■【放つ心…捕まえない心】が、一番の対処法でしょうか?
「生長の家…現象なし!物質は無い!心も無い!……」従いまして…「無い…の世界」かと。
そして、心が【正しい心境・境地】に入っていきますと、この様な
「人類全体の潜在意識の悪波動」を、つまり受けつけない事になるはずなのです。

そうしますとこのような【環境は心の影という事!!】になります〜〜〜ョネ!!今の私は、
彼等の仕業に、更に!彼らの“心の貧しさ?=低級霊”に、引っかからない様にと…
【無我の心境】として…
【人間としての大きな使命観】をもちまして、前に進む事と・・・でしょうか??
                        
  再合掌

1802ハマナス:2012/12/12(水) 23:24:10 ID:x2zmnlqw

神の子のみなさま
ありがとうございます。

医者と薬をアクセサリーとする勿れ  (『新版 生活の智慧365章』P.311)

 一寸とした病気にも医者にかかることを、裕福な経済力ある家庭の名誉の如く考えてはならないのである。
なかには医者に罹っていないと、何だか頼りないような気になる婦人もあると云うことである。そうなれば
病膏肓(やまいこうこう)に入ったわけで、医者に罹ることや、薬剤をたしなむことが、一種の生活の装飾
となり、アクセサリーとなるので、それがなければ淋しくなり、淋しくなった時分に病気にかかり、医者に
罹って薬を飲んでそのアクセサリー欲を満足すると、その病気が恢復するのである。

 若し人がこのような状態に陥るならば、それは正に“知恵の樹の実”をたべたアダムとイヴとになって
しまうのである。これらの人はインテリではあるけれども、自分の食った知恵に縛られて自由を失った状態
になっているのである。即ち「エホバ神アダムを召(よ)びて之に言いたまいけるは汝は何処におるや」と
言うようになるのである。最早かれの心は「神の国」にはいないで、迷いの国にいるのである。「エホバ神
彼をエデンの園よりいだし其の取りて造られたるところの土を耕さしめたまえり」(「創世記)、第三章」
と云う楽園追放の状態になるのである。「土」とは物質の象徴であり、唯物論的人生観を耕して、乏しき
世界に悪戦苦闘をしなければならなくなるという意味である。

感謝合掌

1803「訊け」管理人:2012/12/13(木) 10:15:17 ID:???

十三日の経言――

信仰と愛を昂める言葉

 吾れは、神は生命(せいめい)であり、愛であり、そして智慧であることを知る。吾れは神と一体であるが故に、吾れは神の生命と愛と智慧とが吾がうちに宿っていることを知る。吾が裡(うち)には広大なる信仰が植えつけられているのである。吾れは無限愛の持主なる神より流れ出(いで)たところの新しい信念を感ずるのである。吾れのうちに、吾れの上に、吾が周囲に、神が隅々に行き亙(わた)って神の愛は宿っているのである。神のすべての力すべての愛は吾れに与えられているのである。吾が心は完全に浄まっているのである。
 吾れは今神の与え給う最高のものを受けつつあるのである。吾れは今深き歓喜と感謝とに充たされながらそれを受けつつあるのである。吾が求めに常に応えたまう吾(わが)父なるあなたに感謝致します。

『日々読誦三十章経』より謹写――

1804SAKURA:2012/12/13(木) 20:05:20 ID:jH5uEFzM
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
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日常生活面を、それなりに考えていきますと、私なりの「雅春先生の哲学」が見えまして、
更に“人生観”が〜〜実に!感慨深いものになりますので、私なりに「生命哲学…勉強会」を
〜♫〜では“続き投稿”していきます。「雅春先生の例え…」として、投稿されていらっしゃい
ました記憶があります。…が?ここは、まるで【四 無 量 心 の 心 の 世 界 観】

■■『生命の実相哲学シリ−ズ…SAKURA論』
❤  通俗医学書の功罪
======生命の実相 2巻から抜粋========================

 したがってわれわれは人類の病理学的知識がどんなものであるか、治療学的知識がど
んなものであるかを知っておくことはある意味からいって必要なのであります。人類の通
念は、それを現在意識が知ると知らざるとにかかわらず(潜在意識はそれを知っているが
ゆえに)それに触れると害せられ、それに従うとつごうがよくゆくのは、法律はそれを知
ると知らざるとにかかわらず、触れた者は罰せられるようなものであります。だから人類
全体または一地方、一時代の多数人が「これは害がある」とか「こうすると病気にかかる」
というようなことはしないほうが「君子危うきに近寄らず」ということになるのでありま
す。しかしここがむずかしいところでありまして、「これはいかぬ」「これは善い」といろ
いろのことを知りますと、いわゆる「知恵の樹の果」をたべた結果となりまして、生活の一
挙手一投足が戦々競々として、ただこれ、栄養学に、衛生学に、予防医学にかなわざらん
ことを希うことになりますから、常に病気恐怖に心がとらえられ、ちょっとしたことにも
病気を連想し、心に描くものが形にあらわれるという原則にしたがってかえって病気にか
かりやすくなるのであります。            (谷口雅春著)

=========================================

■【知識…】は、知らないより知った方が、いいです〜〜〜ョネ!良く言われます処の
【知らずにします事より、知ってした方が大きなやけどもしません】ですから…そう!!
“知識”を習得しますと、潜在意識に無意識なる“行動”が…“ラクな方”を求めやすい
のカモ…そうしますと【楽々に治る!全てが順調にいく!…】この様になりますでしょうか?

たとえば【金…】をもっていれば、なんでも出来ると、考えやすく、そこから本人の
【自己中心的なる行動…】が生じますでしょうか!【楽〜楽〜〜〜〜♫〜〜】たとえ
不利な状態でもそこに“金”という“ステ−タス”を置いていますと、そこに、その人は
猛進なのです〜〜〜ョネ!!相手の“不幸”とか顧みずと…とりあえずは“表面上”を
つくろう形での“行動”ですかと?

このような人種が「黒幕デザイナ−」と「吸血鬼」「ゾンビ」達…でしょうか???そして
「吸血鬼」「ゾンビ達」は、必ずその言葉の中に似た“表現言葉”で、それは、必ずや
【暴力団…ヤクザ…金…】此の言葉が〜〜〜出てきますネ! これは、ある人に取りネガティ
ブ感情を与えますモノと…そして、この人に取りましては、相手の感情を“ネガティブな状況
へと催眠状態…に導く手段“でしょうか〜〜〜??
これは先生のおっしゃいますように「君子危うきに近寄らず」に当てはまります。…が?
ですから【正しい知識】は、大事なのです〜〜〜ョネ!!【真理…】を、正しく表現できる
ように今の私は、前に!又一つ…前に!進む過程なのですが???そして、【正しい心の法則】
を知りますと、こような人達と関わる接点も?必要性も?自然と消滅するのです。

皆様は、本当に“悪しき言葉…”は、それだけの【価値観…】だと思います。…が?
■■悪い「知恵の樹の果」食べないことは【日々…の祈り】になるはずです。…が?

                          再合掌

1805さくら:2012/12/13(木) 20:45:56 ID:e8ieIrPA
『到彼岸の藭示』               谷口 雅春先生
 
             聲字即實相の藭示

吾が第一の藭殿は既に成れり。名付けて『生命の實相』と云ふ。完成の年になりて吾が第一の藭殿が完成するのも生命の顕現には周期的波動があるからである。
七つが事物の顕現の周期律になつてゐる。吾れに藭殿は不要であると嘗て示したことがあらう。吾は道(ことば)であるから、吾が道(ことば)を語るところに吾が藭殿は築かれる。

吾が道(ことば)を載せた『生命の實相』こそ吾が藭殿である。『生命の實相』は吾が本體であり、無形の『生命の實相』を形にあらはしたのが『生命の實相』の本である。
『言葉』を載せた書物を『本』と云うのも、『言葉』こそ事物の本であり本質であり、本體であり、本物であるからである。『言葉の宇宙』が先づ出來て、『形の宇宙』がその映像(かげ)としてあらはれるのである。

今迄の宇宙は、『言葉』が實相を語らず、不調和で濁つてゐたから、宇宙の萬物の運行が亂れて生活苦や、病氣や、天災や戦争など色いろ不調和なことばかり起つたのである。『生命の實相』の本が出た以上は、言葉が實相を語り、善き圓滿な調和した言葉の『本』が調うたのであるから今後は何事も急轉直下する。

『生命の實相』を披らくだけで病念は去り、煩悶は解決し、人々ただ自己生命の實相を知り歓喜踊躍して手の舞ひ足の踏む所を知らないに至る位はその三番叟に過ぎない。その歓びの相こそ人間の生命の實相である。

吾が道(ことば)を『生命の實相』と呼ばしめ、それを本の形にして、披らいて讀むものにさせたのも象徴的因縁あることである。『生命の實相』を展開けば形の理想世界が成就するのである。

今は過渡期であるから、假相(かりのすがた)の自壊作用として色色の出來事が突發する。
日支の戦ひはその序幕である。
藭が戦ひをさせてゐるのではない。

迷ひと迷ひと相搏つて自壊するのだ。まだまだ烈しいことが今後起こるであらうともそれは迷ひのケミカライゼーションであるから生命の實相をしつかり握つて藭に委せてゐるものは何も恐るる所はない。

(昭和七年一月十一日藭示)

1806ハマナス:2012/12/13(木) 23:08:41 ID:x2zmnlqw

神の子のみなさま
ありがとうございます。

神を差し措いた技術 (『新版 生活の智慧365章』P.312)

 神は一切の実在(本当に在るもの)の本源であり、本当に在るものは唯、神のみから生じた
のである。さすれば、本当に癒す力も唯神のみから来るのであることは当然である。神を差し
措いて、自分だけの力で何事にても成そうと考えるところに唯物論者の間違があるのである。
化学薬品はある毒素を分解し、又中和したりして毒性を和げることが出来る。しかしその分解
産物や中和産物を体外に搬(はこ)び出して血液を浄化し、毒素によって荒らされた肉体組織を
新たに修復するのは神(即ち自己に宿る生命力)によるほかはないのである。

 物質は他の力によって動かされ、且つその惰力によって動くほかは、自動することができない
のである。従って、自己に宿る生命(神)の叡智がはたらいて何処に何の成分を保存し、何の
成分を排泄し、如何に分子組織を変化して“生きた細胞”としてそれを組み立てるかは、知性の
ない「物質」それみずからの力にては出来る筈はないのである。つまり、病気や毒物で破壊され
た組織を完全に修復するには、叡智が必要なのであって、その叡智は自己の「内に宿る神」(生命)
の力に俟(ま)つほかはないのである。神を無視した医術などはあり得ようがないのである。

感謝合掌

1807a hope:2012/12/14(金) 06:51:22 ID:w2ws6uag
新版 生活読本 谷口雅春先生著(日本教文社)
第九章 斯(こ)うして愉快に生きましょう

♦常に愉快な顔をしましょう(p96〜)

愉快な心を持つことは何をしなくともそれだけで大変よい事をしていることになるのです。
自分が楽しい顔をしておれば、自分の周囲(まわり)の人が、その顔を見るだけでも楽しくなります。

御飯の時にあなたが「おいしい、おいしい」と云ってニコニコしてたべれば、あなたの消化(こなれ)がよくなるばかりでなく、
あなたのお父さんの、またお母さんの、兄さんの、姉さんの、消化もよくなるのです。

福山の佐々木流道(りゅうどう)さんと云われる医学博士は、唾液(くちのなかのつば)の消化力を研究して
医学博士になったひとですが、その人の研究によりますと、普通の時の、普通の人の唾液は千五百単位と云って
唾液(つば)の分量の千五百倍の澱粉(でんぷん)を消化する力をもっています。

澱粉と云うのはお米や、麦や、ウドン、ソーメンなどに沢山ふくまれているもので、
人間にとって石炭のような働きをするものです。
人間の身体(からだ)に「体温」といって温か味があるのは、その澱粉が唾液や膵液(すいえき)の力で砂糖分にかわり、
それが血となって身体をめぐって少しずつ燃えているからであります。

だから澱粉が唾液の力で砂糖分にかわらないと、身体の中で燃えませんから、
石炭や薪(まき)をくべないでお風呂をわかそうとするのと同じで、だんだん人間は元気がなくなり痩せてしまいます。
だから、この唾液の消化力を強くして置くことが必要なのです。

長生きした人の唾液をとってその消化力をためして見ますと、たいてい二万倍の澱粉を消化する力をもっています。
だから長生きしようと思うと、唾液の消化力を強めて置かねばならぬ事がわかりましょう。
(つづく)

1808「訊け」管理人:2012/12/14(金) 12:02:06 ID:???

十四日の経言――

新しき計画を生む言葉


 吾れは創造者なる宇宙霊と一体である。宇宙の心は、吾れに依って完全に自己を表現しようとしているのである。吾れは神とともに創造する使命を与えられたのである。今、吾れは創造せんとする理念と構図でみたされている。
 吾れは一切のものを造りたまいし智慧そのものと一体である。吾れは何を思考し何を造るべきかを宇宙の心に教えられるのである。吾れはいまより神の霊に導かれて巧みにそして完全に創作することが出来るのである。吾れは新しき力と能力とを感ずる。吾れは心も肉体も新生したのである。吾れは歓びと希望とに雀躍(こおどり)している。吾れは智慧そのもの真理そのものが自分に宿っている事を感ずる。それ故に吾が創造力は完全である。創造者たる宇宙霊に感謝し奉る。


『日々読誦三十章経』より謹写――

1809「訊け」管理人:2012/12/14(金) 21:09:47 ID:???

十五日の経言――

自信力を増大する言葉


 吾れはいま見えざる力に結ばれている。吾れは神と一体である。神のもち給える一切のものを吾れも亦有(も)つのである。天地をつくり給いし神より吾が援(たす)けは来(きた)るのである。神の力は同時に吾が力である。吾れは神の子である。吾れは神の有(も)ちたまえる一切の物の継承者(よつぎ)である。

 神は力そのものである。それ故吾も亦力そのものである。神は智慧そのものである。それ故、吾れはあらゆる場合に神の智慧に導かれる。神は貧しさをしらない。其れ故、吾れも亦貧しさを知らない。神は愛そのものである。其れ故、われは慈悲と愛とにみたされているのである。神が満たしたまわない欲望は吾れに一つだにないのである。神の目は雀をすら見まもり給う。それ故神が吾れを見まもり給わない筈はないのである。吾れは吾がうちに宿れる神性を自覚して歓喜勇躍している。吾れは神と偕(とも)なるが故に、如何なる禍(わざわい)をも恐れない。常に永久に吾れは与えられて不足すると云うことはないのである。

 今、吾が求めはなされたのである。吾が求めは今なされたのである。吾が求めを常にききたまう吾が御祖(みおや)の神に感謝します。


『日々読誦三十章経』より謹写――

1810さくら:2012/12/14(金) 22:08:31 ID:e8ieIrPA
心の法則”と“平和への道”の藭示            谷口 雅春先生

 吾が來れるは古へ誤れる道徳観念を修正し、新しき正しき生き方を人類に示さんがためである。
『治にゐて亂を忘れず』と云ふのが古き人類の道徳であつたが、『生長の家』の生き方は亂にゐて治を忘れざる生活である。

亂を忘れざる者はつひに亂に逢ふ。亂を忘れざるが故に常に恐怖し、亂を忘れざるが故に武備をたくはへ、武備を蓄ふるが故に近隣を威脅し、近隣を威脅するがために、近隣また恐怖して武備を増す。

かくの如くして近隣兵を増すを見て、また自國は更に兵を加へて互に虎視眈々として近隣相睥睨す。武備に國費を要し、教育費は削られ、俸給は縮められ、民に正色なく、國に寧日なきは當然である。

汝ら、若し治にゐて亂を忘れざらばつひに亂に會ひ、亂にゐて治を忘れざらば平和に逢はん。亂を忘れざるを教へたる古き教も吾前には愚かなる者なるかな。
治にゐて亂を忘れざる者は健康にゐて病ひを忘れざる者である。健康にゐて病ひを忘れざる者は、如何なる善行の者も、如何なる積徳の者も、すべては病ひに逢わん。
忘れずと云ふことは、心の力にて呼び寄せることを意味する。

求めよ、與へられん。呼べよ、答へんと吾れ汝に告げたであらう。
呼ぶものは皆來ることを疑ふな。
高徳の人が病氣になるのは實に不思議だと思ふ人があるかも知れぬが、治にゐて亂を忘れざるを高徳と称すべくんば、健康にゐて病ひを忘れざる高徳者が、病氣になつたとて不思議ではないのである。吾れは汝に、死を豫想するなと言ひ、遺言状を書くなと教へたることがあらう。
また、不幸に對して用意すな、病氣の起る時の用意をして薬をて携へ歩むなと教へたことがあらう。
すべて是れ『心の法則』である。如何なる高徳の者も『心の法則』の外に出ることは出來ぬ。

如何なる高徳の者も『心の法則』の外に出ることは出來ぬ。
汝ら心して亂を思ふこと勿れ、心して病ひを思ふこと勿れ、亂の眞つただ中にゐてすらも、實相の世界の常住平和を思へ。
汝ら眞に實相世界の平和を思へば、汝の世界にも平和は來たるのである。
また汝ら病ひの眞つただ中にゐてすらも、本當の汝の常住健康を思へ。
汝ら眞に實在の汝の健康を念へば健康は來たるのである。

されど悲しいかな。いま實在世界の常住平和を知るものは 寥々なる暁天の星であるぞ。
いま皆のものは一刻と雖も亂を思はない時とてない。
逆の精神波動が積り積つて、汝ら世界はもう累卵の危ぶさである。近いうちに汝らの世界には一大変動が來るであらう。迷ひの自壊作用である。
○○は○○○と戦はねばならぬ。
藭はその時の惨害を出來るだけ少なくするやうに努力してゐるが、人間の方でもその惨害を出來るだけ少なくするやうに協力するやう頼む。

協力と云うても何も難しいことではない。亂の中にゐても心の平和を失はぬ修行をすることである。そのためには常々藭想観の修行をさしてある。

(昭和六年五月三十日夜藭示)

1811a hope:2012/12/15(土) 06:10:00 ID:w2ws6uag
新版 生活読本 谷口雅春先生著(日本教文社)
第九章 斯(こ)うして愉快に生きましょう

♦どうしたら唾液の消化力が増すか(p97〜)

それでは唾液の消化力がどうしたら強まるかと云いますと、食べ物を見て「美味しいな、有りがたいな」と喜んで、
感謝して、そして、充分「たべたい」と云う気持を心にしっかり起こしてから食べれば、その唾液(だえき)の消化力は、
二万五千倍の澱粉(でんぷん)を消化する力があると云うことを、佐々木博士は実験せられました。

だから食べ物はよく見もせずに呑み込まずに、充分にその美味しそうな色や形を見て、
「おいしいな、たべたいな」と云う気持ちを起して、
「神様からこんなに美味しい食べ物を頂いて有り難うございます」と感謝しながらたべなさい。
すると、どんな食物でも、よく消化して血となり肉となるのです。

佐々木博士は、また好きな人の顔を見ながら、うれしい気持ちでお食事をすると、
唾液の消化力がすばらしく強くなると云うことを実験なさいました。

ですから御飯をたべるときには、いつもあなたがニコニコしていれば、
可愛いあなたの顔を見ながらお父さまも、お母さまも、兄さまも、姉さまも、みんなうれしくなり、
お父様もお母様も、兄さまも、姉さまも、食べ物がよくこなれて長生きをして下さいます。
(つづく)

1812SAKURA:2012/12/15(土) 21:56:59 ID:jH5uEFzM
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
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>>1792>>1792>>1793>>1796>>1801>>1804>>投稿の続きです。…が

日常生活面を、それなりに考えていきますと、私なりの「雅春先生の哲学」が見えまして、
更に“人生観”が〜〜実に!感慨深いものになりますので、私なりに「生命哲学…勉強会」を
〜♫〜では“続き投稿”していきます。「雅春先生の例え…」として、投稿されていらっしゃい
ました記憶があります。…が?ここは、まるで【四 無 量 心 の 心 の 世 界 観】

■■『生命の実相哲学シリ−ズ…SAKURA論』  その①
❤  病気の精神的感染を防ぐ法

======生命の実相 2巻から抜粋========================
 そこで栄養学や衛生学や予防医学は知っておかねばなりませんが、それはただ参考にし
ておくくらいで、「人間は神の子であるから、かかる学説を自分の道具として使用するこ
とはできるが、かかる学説に支配され奴隷となるものでない。『神の子』たる人間の権威
を自覚した者はいっさいの主人公であって、決して物質の法則には害されないものではない」
と常に確乎とした信念をもっておりましたら、通常なら人類の通念に抵触して病気にかか
るはずのときでも、病気にならないですむのであります。子供がもし人類の病気を起こす
潜在意識に抵触して病気にかかったり、かかりそうな予感がした場合には「自分の子は神
の子であるから、決して人類の病気の通念によって害されるものでない。自分の子は神
の愛に護られ、常に安全であり、ただ健康のみなる実相の世界に住んでいるのであるから
あんしんである」と強く繰り返し念じて、恐怖の観念を取り去り、病気の人類通念から超出
してその波長に合わないようにしてしまうことが必要なのであります、もし人類の病気の
一般的通念からその母親が超出することができましたならば、母親の「人間、神の子。病
気無し」の信念が子供に反省して、子供が病気にかからず、また病気にかかっていてもす
みやかに治ってしまうのであります。 (谷口雅春著)
=========================================

■そうです〜〜〜ョネ…! このような捉え方の尺度を【老人症…】として捉えますと、
近頃は、思うのですが?確かに【長生き…平均寿命は延びましたかと】それと、相反する
に【認知症……ボケ症状】とか【そう欝症】とかの新たなる“病気かと”…??
❤〜「人類の通念に抵触して病気にかかる」余の“念…”でしょうか???これと同様に、
“高齢…”になりますと、誰しも先の将来の不安があるのではないでしょうか……??

■そのような時【決して“人類の認知(ボケ症状)?・老人症?】は無いと…唯、健康で
私は「愛念の世界…」に入っていく“心境へ念を送る事”でしょうかと???そう!!
それは、強い【意志=意識】になるのです〜〜〜ョネ!!

                つづく

1813SAKURA:2012/12/15(土) 21:59:20 ID:jH5uEFzM
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こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1812>>投稿の続きです…。

■■『生命の実相哲学シリ−ズ…SAKURA論』  その②
❤  病気の精神的感染を防ぐ法

「亡き母」が“医者の言葉”に、信じきり?という表現になりますでしょうか?
【認知症…】にされましたが…【意志=意識】は、しっかりあると言いながら“矛盾”の
言葉を、医者自身が“言葉”として口に発し使用していた事を、思い出します。…が?
現在の医者は、しばしば高齢化社会という名の基【社会保障…福祉医療…】中心ですから
【ボケ老人…認知症…】拡大でしょうか?

■此処で、極端な例ですが…私の知人で「介護関係…ケアマネ−ジャ−」から直ぐ○○すると
保障があり個人負担は、たった○○で済むのです…申請した方が…云々…
この知人自身、自己負担は少なくて済むが…あくまでも■【介護関連会社…】国への申請にて
かなりの資金が流れてくるのでしょう。最終的には、国の財源・次世代を考えているのかと。
あまりにも…次から次への「申請事…」これでは、将来の『国の財源』はどうなるのか?

■ましてや、自民党時代の旧社保庁の【年金問題…未解明】これを【民主党…】がプロジェクト
組んで処理し始めましたが…此処最近は【原発問題で鈍化】でしょうかと。??

今や【高齢化社会…社会福祉医療…国民負担率??】この件で、【介護関連…会社】を増やす事
が、本来の“彼らの思惑”なのでしょうか??そうしないと確実なる“収入源…”が???で
しょうか???【国の医療の資金が流用】されているのでは??このような
【医者としての使命】が欠けた“医者…”も、今後は、ある面で増えてきているのも事実です。

そのような状態ですから、私達は、将来!もし【老人症…認知症?】になるという……
【社会の人類の通念…】として、“こころ…”が侵されている状況になりつつあります。当に!
【潜在意識にインプット】でしょうか??このような時、本当に【真理…】を真剣に、学ぶ
時期ではと思う次第です。…が?

■■【私は神の子、人間病なし、病気も無し、老人症も無し・・・・その他・・・】かと。
この“信念に送り込む事”が、前に〜前に〜進む事ではと、この頃つくづく思う次第です。
「亡き母」の当時の私の無知に、今日!おおきな“損失”をしましたが、これらの事は、
「亡き母からの伝言」の様にこだまして、響くのです。今!今!!・・・起て!今こそ
【生長の家…】をもう一度なのです。モット!魅力ある“ 聡 明 人 間 ”に…

                             再合掌
PS:トキ様
この様な状態の【老人医療関係…あるいは認知症】を、どう思われますでしょうか??
マ〜〜〜ァ?一般の末端信者の考えは、“くだらない!一言”でしょう〜〜〜かしら〜〜〜ン!!
私自身から見ますと【風見鶏論…方】が、お好きな様ですから〜〜〜今の日本の“現状…”は、
厳しい状態です。…が?今後の事を、考えますと、複雑ですが?如何な考えなのでしょうか?

1814「訊け」管理人:2012/12/15(土) 23:54:35 ID:???

十六日の経言――

災厄除けの言葉

 神は吾が光であり給い、吾が救いでありたまう。されば吾れ誰をか恐れんや。神は吾が護りであり給う。されば吾れ誰をか恐れんや。吾れは吾が経験する一切の事物のうちに吾れを導き給う神を感ずる。神が吾れを護り給うとき、吾れに何等の災厄もないのである。神がわれを慰めたまう時、吾れに何等の悲しみもないのである。吾れは神の曇りなき愛、完たき心にいだかれているのである。吾れは神の保護を漏れる恐れを知らない――神の在(い)まさざる所はないからである。
 吾れは『善』そのものに取り巻かれているのである。吾れは『善』そのものの懐にいるのである。神の愛は吾れを取巻きて、吾がうちに、そして吾が外に、周(あま)ねく、在(まし)まして、吾れを見捨て給わないのである。

 吾れ闇を歩むとも、神は吾が光であり給う。吾れ海を航するとも、神は吾が羅針盤にてあり給う。吾れ孤(ひと)りいるときも、神は吾が羅針盤にてあり給う。吾れ孤(ひと)りいるときも、神は吾が伴侶にてあり給う。されば吾れ誰をか恐れんや。吾れには恐るる所のものも人もないのである。吾れに死は来たらない。生命(せいめい)のみが凡てであることを知るからである。吾れは暗黒に見ゆる谷を歩むとも光明はつねに吾れに附き随う。吾れに禍は来たらない。禍と見ゆるものは進一歩の過程である。吾れは生命(いのち)、神は生命(いのち)、凡ては生命(せいめい)であるのである。吾れはいまより信仰と、自信力とをもって進み行くのである。

 神の恵み深き護りに感謝いたします。

『日々読誦三十章経』より謹写――

1815ハマナス:2012/12/16(日) 00:39:57 ID:x2zmnlqw
神の子のみなさま
ありがとうございます。

生物発生の大作用を知れ  (『新版 生活の智慧365章』P.313)

 神よりも物質に強く信頼を置くものは神の心に協(かな)わないものである。物質の力に
頼れば頼るほど、内在の神の力は減ずるのである。科学的知識が発達すればするほど、霊感
と云うものは乏しくなる。薬剤に頼れば霊的治病力はそれだけ減ずるのである。天秤の一方の
皿に「神」を置き、もう一方の皿に「科学知識」を置き、化学知識の方に重点を置くほど、
「神」は軽視せられて、科学知識が、“神の叡智”にとって代わるようになるのである。科学
知識が“神の叡智”に代って、人工衛星や、金星ステーションまで射ち上げるようになっても、
神を軽視したこれらの科学兵器は、ただ人類を破壊の恐怖に追いやる役目をしているだけで
あって何ら人間の招福の源泉とはならないのである。

 生命現象と云うものは、「生命」と云う不可視のものが、物質を支配し、物質の法則を支配し、
単に物質の法則だけでは、どうしても出来ないところの「生物」と云う有機体をこしらえ上げた
ところに起こるのである。試験管の中で、アミノ酸似のものを生ずることに成功しても、それは
“生命の起源”ではなく、生命が生産したところの一種の化合物を模倣してこしらえただけで
あって、物理化学の実験ではアミノ酸以上に進んで、生きた生体を作ることは出来ないのである。
生物が其処に発生するには、生命が“物理化学の法則”をも利用しながら、それを超える生命的
なハタラキを演ずることが必須条件となるのである。

感謝合掌

1816さくら:2012/12/16(日) 07:44:51 ID:e8ieIrPA
『生死の教』        谷口 雅春先生

  生死はままならぬと云へども生死は心のままである。
兄弟を生かす心の者は生き、兄弟を殺す心の者は死す。

殺すと云うても刀で斬ることではない。兄弟を生かす心のないものは殺してゐるのである。
周囲の人々の思はくをいかしてやるのがは『兄弟を生かす』の最も大なるものである。
自己の好まざる所を他に転嫁するのは『兄弟を殺す』の最も大なるものである。

周囲に痰を吐き散らすな、紙屑を投げ捨てるな。
これは物質のことでもあれど、物質のことだけではない。
口角沫を飛ばして兄弟を非難する者は兄弟の心に唾を吐きかける者である。
腹立ちを手紙に書いて送る者は兄弟の心に紙屑を投げる者である。
かれは兄弟の心を言葉で殺し文字で殺す者である。

兄弟の心を殺すより尚大いなる殺しがある。
汝の両親の思ひやりを殺し、汝の主君の思ひやりを殺す者である。
本當に汝が、心の殺人を止めて感謝の心に充たされるやうになるまでは、心の波長が違ふから藭の救ひの霊波はうけられぬ。

(昭和六年九月五日藭示)

1817ハマナス:2012/12/17(月) 00:30:03 ID:x2zmnlqw
神の子のみなさま
こんばんは。今日から、第十二章に入ります。

第十二章 若さと元気はどこからくるか

「宇宙的な自己」への目覚め (『新版 生活の智慧365章』P.315)

 誰でも人生のある段階に達したとき、人間が単なる物質ではなく、物質以上のもの、肉体
以上のものが自分に宿っており、それに生かされているのであることを悟る瞬間が一度や
二度は必ずあるものなのである。それは何か非常な危険に晒されて、迚(とて)も自分の力
ではその危難から救われる筈がないと思われる瞬間に、何か不思議な力によってその危難から
免れ得たようなとき、または既に医師も家族も、自分も、絶望だと信じ切っていたような瞬間
に、ふと気がついてみたら生きている自分を発見したようなとき、此処に生きている生命
(いのち)は自分の生命ではなく、一層偉大なるものに生かされていると云う自覚が得られる
のである。

 そんな体験をある人は軽く見逃してしまって記憶にとどめないで忘れてしまうが、或る人
にはそれが深い感銘を与えて「人間」を見る眼が一変してしまう。小さな「個」の存在から、
偉大なる「宇宙的な自己」へと目覚める――それが新生である。本当の新生は決して、寄る
年波をかぞえる暦の上での新年を迎えることではないのである。

感謝合掌

1818「訊け」管理人:2012/12/17(月) 05:47:15 ID:???

十七日の経言――

恐怖を消滅する言葉

 吾れは恐れない。神はすべてであり給う。神以外のものは何も存在しないのである。神は善なるが故に悪は決して存在しないのである。神は護り給う。神は養いたまう。神は吾れを抱きたまう。神は吾れを愛したまう。如何なる禍(わざわい)も吾れに来らず、如何なる疫病(やまい)も吾が家には見舞わない。神は吾が行くところに常にその天使をつかわしたまいて吾れを看(み)まもり給うのである。吾れは真理を自覚したるがゆえに自由である。吾れは神と偕(とも)に人生の行路を歩む。吾れは『善』と『真理』とのみを見る。吾れはそのほかの何物をも見ないのである。神は渾(すべ)てでありたまう。吾れは終日(ひねもす)吾がたましいの内にかく叫ぶのを聞くのである―― 吾れは心のうちに病いも貧しさも恐怖も考えない。吾れはただ真理と愛と生命とのみを考える。一切のものは神のものである。吾れは神の子である。それ故に一切のものは吾がものである。
 神の力のみが実在する力である。神のもち給う一切のものは吾がものである。吾れ一切のものを神より承(う)けたるが故に、吾れは全てである。吾が父なる神に感謝いたします。

『日々読誦三十章経』より謹写――

1819a hope:2012/12/17(月) 07:52:21 ID:E6WSUXC.
新版 生活読本 谷口雅春先生著(日本教文社)
第九章 斯(こ)うして愉快に生きましょう

♦心は自分の運命を変化する

心と云うものは唾液(つば)の性質を変ずる(かえること)だけではなく、人間の運命もかえる力をもっています。
「人を倒そうと思ったらピストルの引金を引く必要はない。ただ心で彼を憎み呪うだけで充分だ」
と英国の哲学者カーライルは云っています。

あなたが成功し、出世し、すぐれて人のためになり、尊敬される人になるには、
先ず自分は「神の子だ、何でもすぐれて充分出来る」という自信をもつことが必要であります。

こんな人もあります。
A君は九歳の時に、お母さんの机の上にあった『光の泉』をふと読み出して以来、
「人間は神の子だ、何でも出来る。成績は優良(すぐれている)なのが当たり前だ」
と自覚(じぶんでおもう)しますと、急に中位(ちゅうくらい)の成績から七番になり、
五番になり、三番になり、ついに主席(いちばん)になって、特待生になりました。

それから海軍兵学校へ楽々入りましたが、終戦となり、学費がたりないので、夜警の仕事をしながら大学に通い、
夜はわずか二時間しか眠らないのですが、「人間は神の子で無限力だ」と云う自覚をもっているために、疲れもせず、
病気にもかからず、益々元気に肥えて最近大学を卒業さられました。
(つづく)

1820うのはな:2012/12/17(月) 15:06:23 ID:r.C5sfeA

 神話的に云ひますならば、日本国家は天照大御神の理念の中に先ず造られて、
それが「千五百秋の瑞穂の国は世々わが子孫の王たるべき地なり」と云ふ天孫降臨の
神勅となってあらはれてをります。

 神話と云ふのは、作者が誰と云ふ一定の人間ではなくて古代の民族が、その民族全体の
精神によって作られたものであつて、民族全体の一致した信念の協同作品と云ひやうなものであります。
この民族全体の協同信念によつて各人が集団して、日本は天皇中心の国家を形作つたのでありますから、
日本国家が天皇中心の国家であると云ふことは最も民主的なことであります。

 この民族全体の協同精神が謂はば日本国家の設計のやうなものであつて、その協同精神の通りに、形の世界の
日本国は、家が色々の材料が集められて徐々に出来上がるやうに、出来たのです。
 だから日本国家の本質及び設計は、天皇国家の姿をとるべく日本民族全体の心の中に既にあつたのであります。
そして、神武天皇が大和に都をはじめ給うたのは、天皇中心の国と云ふ日本民族全体の精神が具現化した第一期工事の
完成だと云ふことになります。

 『真理』第一巻 谷口雅春 先生著

1821SAKURA:2012/12/17(月) 22:08:49 ID:jH5uEFzM
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>>1793>>1796>>1801>>1804>>1812>>1813>>投稿の続きです。…が
日常生活面を、それなりに考えていきますと、私なりの「雅春先生の哲学」が見えまして、
更に“人生観”が〜〜実に!感慨深いものになりますので、私なりに「生命哲学…勉強会」を
〜♫〜では“続き投稿”していきます。「雅春先生の例え…」として、投稿されていらっしゃい
ました記憶があります。…が?ここは、まるで【四 無 量 心 の 心 の 世 界 観】

■■『生命の実相哲学シリ−ズ…SAKURA論』  
❤  子供の病気の時に母親が動揺してはならない  その①

======生命の実相 2巻から抜粋==========================
 子供が病気にかかったらしい時に母親の心が動揺してはなりません。母親の心の動揺は
ただちに子供に反戦いたします。心の波動そのものは波及いたしますし、顔色や態度や語
調でも子供に影響を与えるのであります。子供の顔色が悪いからといって、「お前顔色が
悪いよ」とか「どこか悪くないの?」「疲れやしない?」「お腹痛くない?」などと言葉の力
で子供自身に不安の念を起こさせたり、病気を連想せしめるような言葉を使ってはならな
いのであります。               (谷口雅春著)
============================================

■子供が病気をしたら“母親”は、動揺しているのでしょうか?それは“ノー!”と、
「亡き両親」の時代は答える事が出来ますでしょうかと。??しかしながら、実の処……?
現代社会に於きましては【現象=現実】では、“断言の言葉”は、言えますでしょうか?

ここで、反対に、自分自身の周辺部の知人が、病気をしたり?仕事先が失ったり?…etc…今!
現状の状態が、悪くなったとしても、それに【心が動揺…】しますのではと??
正直申しますと、日本人の精神面は、以前と比較しますとある面では【軟弱…】でしょうか?
出来る限り、こちらからの“明るい光明面”を、見せる事も、大事なのでしょうかと思うの
です。…が?
つづく

1822SAKURA:2012/12/17(月) 22:12:26 ID:jH5uEFzM
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>>1793>>1796>>1801>>1804>>1812>>1813>>1821>>投稿の続きです。…が

❤  子供の病気の時に母親が動揺してはならない   その②
>>1821その①の投稿の続きです…。

■私一人が『ローソクの灯…』を照らすとしますと、次に、また一人の方が照らしていく様に、
『心の光明面…』でしょうか?振り返りますと【古き良き時代?…一番いい時代は、国民が
一眼となって、経済面で日本復興との思いでしたかと。】そうですョネ!働いていましたネ!

「亡き両親の時代」ですが、隣の家の“夕食…”が、お互いに判る時代背景でしたのです。
あの頃の状態までは〜〜〜如何に〜〜〜でしょうか??
❤〜【私は太陽だ!!お日様がさんさんと輝いています〜〜と“心…”で唱えていく内に
…そう!人間は“想念の世界”ですから、“あ・うん呼吸”でいきましょうかと???】
その様に、なっていくのでは??全ての物事のに関しまして…健康!経済面!…etc…も、
■【『ローソクの灯』の様に……『心の灯』の連鎖反応・連想…】でしょうかと???

さて!ブレイクしますが…“昔の顔”を見て下さい「生き生き…イキ・スタイル」ですモノ!
これを見ながら…子供の頃の時代から“姉が大ファン…”でしたが【ピーナツ…】
今!振り返り【検索…】しますと、結構“イケてる感!”でしょうか??良いですネ!
いつからか?「日本人の心は何処に?」と思う面も?なきにしもあらず?でしょうか??
もう一度【常にポジティブな…明るい表情…真理の言葉】を、そこからの“スタート”と!

❤〜今から、“一人!一人!の力を合わせて…一本の”ローソクの灯“を〜〜〜”でしょう。
ビックリは【30年前で…この曲を英語で歌った事】は?素敵な感!と“パートナー”が…
私も、かすかな聴力にて、始めて聞こえてきましたが〜><本当に“リズム感・センス”が
“グー”でしょうかと! 本当に、今こそ〜〜〜〜〜!
【いいモノの価値観が認識され、後世に残る処の…“本物志向”でしょうか?】

■■本当に、誠意ある“行動”の時代に入っていく…『時代!それを“リード”する』のは、
私達【生長の家…真理】なのでは〜〜〜その様に、思います。…が?
■皆様…もう一度“原点”に戻りまして、まず!暗黒面を見るべから〜〜〜ず!!です。
そこから【スタート!ガンバロー!!!】と、心が躍動しています。いえ!その様に
“心を方向転換”している最中です。…が?余談ですが、当時の両親達の時代が見えます。
ある面では【妥 協 の 許 さ な い 社 会】でしたでしょうかと?
                               再合掌

1823ハマナス:2012/12/18(火) 00:23:48 ID:x2zmnlqw

悟りと実践  (『新版 生活の智慧365章』P.316)

自己の内に埋蔵されたる「一層偉大なるもの」を発見するのが「新生」であり、仏教的に
謂うならば「悟り」である。併し、その「悟り」が一時的な“魂の光耀”で消え去って
しまう人が多いのは、その「悟り」を実践の上で生かさないからである。白隠禅師が「大悟
十八回」を重ねられたと云うのは、その「悟り」が「悟り」のままで静止し、眠ってしまわ
ないで、動的な「悟り」となり、実践的に、その「悟り」が実現して行く、巨大なる“悟り
歩み”の足跡を振り返ってみて斯く形容されたものだと思われる。

誰でも実践的に使わないところの力は退歩してしまう。“悟り”も実践的にそれを行使しない
とき、折角、その悟られたる「一層大なる力」は徒(いたず)らに眠ってしまう。凡そ人生に
於て偉大に聳(そび)え立つところの人は、その悟りによって把握したところの「一層大い
なる内在の力」を眠らせないでそれを自由に駆使して行った人々である。

感謝合掌

1824「訊け」管理人:2012/12/18(火) 07:19:18 ID:???

十八日の経言――

萬成就の言葉

 神は霊の世界にまします。霊の世界に『悪』は無い。吾れはもう悪を恐れない。何故なら神は吾れと偕にいますからである。如何なる禍も吾身に振りかかっては来ないし、如何なる疫病も吾が住家(すみか)には来たらない。神は吾が往くところに常にその使者(つかい)を遣わして吾れをまもり給うているのである。神の使者(みつかい)の手は吾が身を支えてい給うが故に、吾れを躓かしめる一箇の石だもないのである。
 吾れはまったき愛に懐かれて恐怖心一切は消滅したのである。吾れは最高のもの至美(しいび)のもののみを心に思うが故に、恐怖心は吾れに近寄らない。失望よ、恐怖よ、吾れは今汝を正視して汝を拒絶する。吾れは汝以上のものである。汝は自分に何の関係もないのである。
 吾は自分を憐れまない。何故なら自己憐憫は恐怖心を一層増大するものであるからである。吾れは天に於いても、地に於いても神の全ての力を与えられているのである。吾れは此の吾が内に宿れる神の力を駆使して、一切の欲する事を成就し得て神に感謝し奉る。自己憐憫及び恐怖の情は最早われに対して何の力もないのである。吾れは何人(なんぴと)も自分を憐憫することを許さない。何故なら他から憐れまれるのは自分の弱さを肯定する事である。自分は神の子であるが故に決して弱さをもっていないのである。自分は完全に神と結ばれているが故に、吾は決して恐れはしないのである。

 吾が事業は神に導かれて必ず成就するのである。吾が事業に必要なる一切は、必要な時必要な場所に於て与えられるのである。否既に実相の世界に於て与えられているのである。野の百合をすら装わせ給うた神が吾がことを看まもっていたまうのである。それ故何事かがすらすら進まなかったならばそれは一層善きことが来たらんがためである。吾れはそれを安心して確信することが出来るのである。信念を持て。此れが最も必要なことである。自己を信頼せよ。他(ひと)を信頼せよ。未来を信頼せよ。神を信頼せよ。勇気と信念とだにあれば其の戦(たたかい)は既に半ばは勝ったのである。決断、意志の強さ、勤勉は残りの半分であることを知るのである。吾れは勝利する力があると知るが故に吾れは勝利するのである。吾れは吾が志すことを必ず勝利する。吾れは信念そのものである。吾れは勝利そのものである。信仰は世界を支配する勝利者である。吾が信仰は宇宙にひろがる大きさを有(も)っているのである。

 神よ、あなたは何よりも先(ま)づ吾が求むるものを与え給います。吾れの関係せる事物はすべて都合よく行くことを御親の神に感謝致します。

『日々読誦三十章経』より謹写――

1825a hope:2012/12/18(火) 08:05:38 ID:E6WSUXC.
新版 生活読本 谷口雅春先生著(日本教文社)
第九章 斯(こ)うして愉快に生きましょう

♦周囲の人々と調和せよ

人の成功は、他(ひと)が自分を信じてくれる為であり、人が自分を持ち上げてくれる為であります。
人間は自分のみが幾ら偉くとも他が認めてくれず、協力してくれないならば、大きな仕事は出来るものではありません。

だから、成功しようと思う人は周囲の人々と仲良く調和することが必要で、また他から信じられるには、
自分の自信力が相手の心にうつるのですから、自分自身を自分が信じないような事では、他の人もまた自分を信じてはくれません。

信念と云うものは伝染力をもっているものですから、「自分は神の子で立派なものだ」と云う自分の信念が他にうつって、
他もまた、あなたを「あの人は立派だ」と信じてあなたのことをきいてくれ、
仕事に力を協(あわ)してくれるようになるのであります。

虎の檻の中にはいりましても、その人が、「これは虎ではない、猫である。優しい、優しい、猫である」
と信じていますと、その虎は猫のように優しくなるのです。

柳生但馬守(やぎゅうたじまのかみ)が虎の檻の中へ入って害されなかったり、
ペルシャのダニエルと云う人が虎の檻の中で害されなかったりしたのは、こちらの信念の影であります。

先ず自分を「神の子である」と信ずる事が第一です。
(つづく)

1826ハマナス:2012/12/18(火) 23:31:38 ID:x2zmnlqw

神の子のみなさま
こんばんは。

内部と外部をつなぐスイッチ (『新版 生活の智慧365章』P.317)

 人間は五官に感じられる面から観れば肉体と云う物質的な存在である。しかしその内性を
観ずれば、宇宙大生命が宿っているのである。宇宙大生命は虚空に満ちており、わが内に
流れ入って個々の人々の内部生命を成しているのである。しかし内部に満ちているからとて
必ずしも現実的な力にはならない。蓄電池のうちに電気が満ちているからとて、必ずしも
それが現実的な力となってあらわれて来ないのと同じことである。

 内部の電気的力を現実的な力とし“光”を輝かせ、モーターを回転させるためには、内部と
外部とを繋ぐためにスイッチを入れなければならない。その“内部”の「一層大なる力」と、
“現実”の「有限なる力」とを結び合わすスイッチとなるものは“心”である。“心”の媒介
を通じて、内部の「霊」の無限の力は外界にまであらわれて現実的な力となってくれるのである。

感謝合掌

1827a hope:2012/12/19(水) 08:16:17 ID:E6WSUXC.
新版 生活読本 谷口雅春先生著(日本教文社)
第九章 斯(こ)うして愉快に生きましょう

♦自己を信ずる力

自己を信ずる者は、他人をして自己を信ぜしめます。
決然、引き結んだ唇、断乎たる眼光(まなざし)、信念に満ちた言葉――これらは人を引きずって、
その人に協力(ちからをあわす)させずには置きません。

信念の力は、魔術的なラジオの波となって八方にひろがり、適当な時に、適当な物を、適当な人を引寄せます。
信じて「波に静まれ」と云ったら波もまた静まるのであります。
信じて「汝病なし」と断言すれば、その人の病は癒えるのです。
信じて「われ神の子なり成績は優良なり」と常に念ずれば、必ず成績は優良になるのであります。

ああ信念の力なるかな。
(第九章終り)


数日間、聖典の謹写をおやすみします。
 
合掌

1828「訊け」管理人:2012/12/19(水) 09:17:40 ID:???

十九日の経言――

神と融合するための言葉


 吾れは今最(い)と高き御親の神の奥殿に這入(はい)ったのである。吾れは神の御前(みまえ)にいて平和である。此の世のものは今わが眼界にない。吾れは今五官の世界を去って霊の奥殿にとじこもるっている。われは渾ての渾てなる者 ―― 神に触れている。吾れはそこから生命と平和と豊富との泉を汲むのである。吾れは神の御前(みまえ)に侍る ―― 神は吾が力を新生したまいつつある。吾が心は開かれ、吾がたましいは啓示を待つ。吾が体は神の無限の治癒力に触れている。此の霊の静かなる奥殿に吾れは恐れなく、いとやすらかにいるのである。如何なる禍も、吾れには降りかかることが出来ない。如何なる悪も吾を悩ますことは出来ない。何故なら吾れは悪を恐れない。悪は実在の力ではないからである。

 吾れは唯善のみを見、善の実を聞くのである。吾が前にはすべてのものは美(うる)わしく、すべてのものは善である。吾れは神の有(も)ちたまう新生力と創造力にうちまかせる。吾れは神を信じて法悦に満たされているのである。御祖(みおや)の神に感謝をささげます。


『日々読誦三十章経』より謹写――

1829NANCY:2012/12/19(水) 12:14:36 ID:bdP2hNg2
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
こんにちは…… ロ−マ字(大文字)の【NANCY】です。
>>1635>>1639>>1643>>1766>>1778>>の投稿の続きです

無事に“衆院選挙投票…”も終わり、残り少ない日々…となりました。…が?早いものでしょうかと。
今年も、あと“半月…をキリ”……>< 全てに於きまして、ラスト・スパ−ト!!

今日は【 清超澄先生……『 「愛」は勝利する 』よりの抜粋…

■【 「心に強く描く」 ことは、全てが「祈り」である

❤〜祈りはかなえられる。それは「心」によってこの現象界が作られて行くものであります
から、「心」さえしっかりと求めるものを描いてはなさなかったならば、やがてそれが或る
時間の経過に実現してくるようになっているからであります。
「心に強く描く」ことが実は「祈り」なのであります。   (抜粋投稿)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

【 心に強く描く事=祈り 】そうなのです〜〜〜ョネ!
これが当に【 心の法則 】でしょう。
しかしながら?やはり【神様の御心に…】叶わなければならないでしょうかと…

❤〜【祈り…『イブの日に…』夜空の・:・☆・:・:に向かって“祈り” 】

〜♫〜 きよしこの夜 星はひかり
すくいのみ子は
まぶねの中に
ねむりたまう いとやすく

きよしこの夜
み告げうけし
ひつじかいらは
み子のみ前に
ぬかずきぬ かしこみて

きよしこの夜
み子の笑みに
めぐみのみ代みに
あしたのひかり
かがやけり ほがらかに      〜♫〜

■【夢…実現】に向かい…心に強く≪設計図≫を、描きま〜〜〜す。…シ−クレット…  

再合掌

1830ハマナス:2012/12/19(水) 23:20:17 ID:x2zmnlqw
神の子のみなさま
こんばんは。

内部の霊なる智慧  (『新版 生活の智慧365章』P.317)

 内部の「霊」は「一層大なる自己」であると共に、「一層大なる智慧」である。その智慧の
啓示にしたがって生活する者は、流れに従って航(こう)するようなもので、速やかに進む
ことができるが、その智慧の啓示に従わずして生活する者は流れに逆らって航するもので、
色々の困難を閲(けみ)しなければならないのである。だから、私たちは「内部の霊なる智慧」
を呼び出して来て、その導きに素直に随うようにしなければならないのである。

 ただ肉体脳髄の限られたる知識だけで、不安定な道を遮二無二突き進んで行くだけでは、
肉体的力は消耗(しょうこう)してしまって、ついに完全に物事を成就することは出来ない
のである。この「内部の霊なる智慧」を導き出すのが「心」の働きであって、神想観を実修
して「心」を調節することによって、内部の霊と波長が合い、内部の智慧が肉体面に現実化
してくることになるのである。

感謝合掌

1831「訊け」管理人:2012/12/20(木) 10:07:39 ID:???

二十日の経言――

萬能の自信を強むる言葉


 『神と偕なるが故に一切のこと能(あた)わざるなしである。われは如何なる禍をも恐れない。神われと偕にいますからである。われは神を信ずる。神を愛する人に対しては、一切萬事都合よく行くのである。吾れは今新しき世界を発見しつつあるのである。』

 一日三回、きまった間隔をおいて、三、四分間まったく静かな休養の時間を見出して諸君は自己自身に対し以上の如く繰返されよ。―― こう断乎として決然とした態度で自己自身に云うのである。諸君はこれによって、法則をして諸君の都合よきようにめぐらしめる事が出来るであろう。

『日々読誦三十章経』より謹写――

1832うのはな:2012/12/20(木) 23:32:38 ID:LB749By6
   『唯神実相の世界を説く』 谷口雅春 先生 P11〜

     唯"善なる神のみ”が実在である

 皆さん、有難うございます。
生長の家の教は、唯心論と唯物論を並べると、唯心論の中に包括されるようではありますけれども、
精しく言うと、体験談の中にも出たようですが、唯神実相論というところの哲学であります。
唯神とは“唯、神のみ”唯、神のみが実在であるということであります。

 神の造り給うた完全な存在のみが実在であって、悪は本来ないのであるーというところの根本的な、
善なる神の存在を信ずる、この根本信念から全てのものは出て来ているのであります。

 私はこの詳密講習会で、どういう話をしようかと考えておったんです。
詳密というのは詳しく緻密に話をしなければならないが、しかしこの生長の家の教を根本的に理解しようと思ったならば、
善なる一つの神の実在を本当に信ずるという、これがまず大切であります。

 “善なる神”のみが本当に実在する。悪意のある神とか、色々の罰を当てたり、呪いをかけたり、腹立てて復讐をする、そういう神を
信ずる信仰から完全に自分自身を脱却させることが必要であります。
 さて、テキストとして書物の名前が数冊出ておりますが、『甘露の法雨』なんかは出ていないけれども、『甘露の法雨』を皆さんはともかく
読んでいますですね。これが根本なんですよ。この『甘露の法雨』をずうっと講義するーそうすればそこに全ての問題が含まれているわけなんです。
ですからこれを講義しながら話をしたいと思うわけであります。

 まず、こう書いてありますね。
『神ー或る日天使い生長の家に来たりて歌い給うー』
 何の気もなしに読むと、文字の表面は、解ったようだけれども、これは非常に
深い意味が書かれているのであります。

 「或る日」というのは、何月何日、某月某日というような意味ではないのです。
「或る日」というのは、あの『奇蹟の時は今』という書物がありますね、あの永遠の今なんです。
何時でも「或る日」です。どの時間にでも其処にましますのは「天使」である。
「天使」とは何かと言うと、これは神様の愛念の放射ですね。念というのは、一つの念波と言って、
光のように波に乗って出て来るんです。それで、神様の愛の念波が人格化してーパーソニファイされて、
そして或る童子のような姿をした、観世音菩薩みたいな姿をして出て来られるー仏教で言えば、一仏一切仏ということ
が含まれているのであります。

 この“一仏一切仏”を忘れていると、仏の名前の数だけ、宗派が別々にあるように考えて、それが対立的になって、派閥的な
宗派的信仰というものが、そこに起ることになるのであります。

1833ハマナス:2012/12/20(木) 23:33:01 ID:x2zmnlqw

神の子のみなさま
ありがとうございます。

平和と幸福の大道  (『新版 生活の智慧365章』P.318)

禅宗に「日日是好日」と云う語(ことば)があるが、そのような流れに沿うて仙境を下るような眺めのよい生活を
日々おくるようになるには心が調和して、「肉体」の生活が「内部の霊」の生活と波長が合ったものとならなければ
ならない。神は決して人間を罰したまうことなく、平和と幸福との大道をつくって下さっているのであるけれども、
肉体の歩みが、叡智の導きに従わないがゆえに、時々「神の備えたまわざる道」を歩んで墜落して怪我をするのである。

 即ち私たちが傷つくのは神罰ではなく、智慧の導きを受ける方法を知らないため、又は知っていても、その導きを
受けようとしないために、みずから道をが踏み外して崖から墜落するのである。神は法則を与えた。そして法則を
人間が「心」の力によって発見するように委ねられたのである。

感謝合掌

1834「訊け」管理人:2012/12/21(金) 08:27:10 ID:???


全員が暗いから、
私は明るくいく。



――斎藤一人の言葉

1835うのはな:2012/12/21(金) 17:33:08 ID:R80If25o

この「永遠の開祖、谷口雅春師による真の生長の家の御教え」こそ、
時代を超え、国境をこえて人々の魂を救い、現実の人生から不幸や病を消し、
さらに、人々の人生を、単なる“もの”や“金”や肉体の欲望満足のためのものから、
喜びと生き甲斐にあふれる有意義な人生に一変するものなのである。

 そして、このような「真の生長の家の教え」を、開祖のいのちのひびきと共に世に伝え、
後世にしっかりと伝え残していくことは、われわれにとって最高の生き甲斐でもあり、また
われわれがこの世で為しえる最高の人々への奉仕であり、それぞれの祖国への報恩の道であり、
母なる大地への感謝の実践ともなるのではなかろうか。

「生長の家オーストラリア法人」の独立も、日本の「ときみつる會」の発足も、すべてこの目的の
ためであり、ほんのささやかな団体ではあるが、われわれはあくまでも谷口雅春先生を永遠の開祖と
仰ぎ、「雅春先生による真の生長の家の御教え」を堅く信じ、人々にお伝えし、かつ後世に伝え残すため、
そして開祖の高邁なる理想を現代と未来に向けて実現するために邁進する。

 本章の終わりに、『生長乃家三拾年史』冒頭から谷口雅春先生の御文章を転載させていただく。

 愈々、“生長の家”も発祥以来三十周年を迎えることになりました。色々の宗教が発生し、潰れ、
非難され、受難を受けたなかにいて、生長の家のみは戦前も戦中も戦後も、終始一貫ひたすら真理を
説きながら、受難もなくスクスクと伸びて来ることが出来たのは、神護の灼然なることは無論ですが、
常に、間違った野心を起さず、謙遜に、神授された真理をただひたすら説きつづけて来たからでもあり、
更にその上、誌友や読者や信徒の方々がこの真理を護りつづけて来て下さったお蔭であると感謝せずには
いられないのであります。

 谷口雅春先生のこのお言葉を胸にいただき、これからも先生の説かれた尊い真理を護りつづけて、
雅春先生にさらにお喜びいただけるよう、感謝と報恩のまことをつくそうではありませんか。
雅春先生と輝子先生は今でも、神界からわたしたちをじっと見守っていて下さるのです。

『谷口雅春師に捧げる誓いと信仰』 宮澤 潔・宮澤壽美 先生著

1836SAKURA:2012/12/21(金) 23:05:28 ID:jH5uEFzM
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1653>>1654>>1661>>1674>>1675>>1744>>1753>>1765>>1779>>1780>>1783>>1792>>1792
>>1793>>1796>>1801>>1804>>1812>>1813>>1821>>1822>>投稿の続きです。…が

日常生活面を、それなりに考えていきますと、私なりの「雅春先生の哲学」が見えまして、
更に“人生観”が〜〜実に!感慨深いものになりますので、私なりに「生命哲学…勉強会」を
〜♫〜では“続き投稿”していきます。「雅春先生の例え…」として、投稿されていらっしゃい
ました記憶があります。…が?ここは、まるで【四 無 量 心 の 心 の 世 界 観】

■■『生命の実相哲学シリ−ズ…SAKURA論』  その①

======生命の実相 37 巻から抜粋 ========================

今日は記念すべき本が出る。わたしの『人間死んでも死なぬ』という本。これがわたしが
関東大震災に遭って無一物になって郷里へ帰って、職業もなく養父母の許で居候しながら無
数の心霊現象の原書を取り寄せてそのうちから興味のある事実を取り上げ、系統づけて書き
上げて、小西書店から『心霊現象と宗教思想』と題して出した本を最近に増補改訂したもの
である。類は類を招び、貧しい運命の時には、貧しさを招ぶものと見えて、当時素寒貧のわ
たしに、小西書店は一銭も印税もよこさなかった。わたしはやむをえず印税代わりに紙型を
貰っておいたのを友人鳥谷部君が生活に困っているので、その紙型を差し上げて、原稿料も
活字の組賃も不要で鳥谷部君の生活費の幾分にでもなるように進上した。これは『信仰革命』
と題して再販まででているから鳥谷部君は幾分かこれで助かっているはずである。今この本
にさらに百数十ペ−ジを加えて『人間死んでも死なぬ』と題する本としてだしたのは、戦死
した軍人の遺族への贈り物としてである。人間は肉体ではないから、肉体は死んでも「人間
そのもの」は死んではいない。この理論と哲学とは『生命の実相』のあらゆる部分に書いて
ある。しかしその実証は、死んだ人が出て来て実際に通信した無数の実話、死の刹那に霊魂
の幽体が脱離する瞬間に撮った写真、その死後の状態はそういう状態であるか――

                    つづく

1837SAKURA:2012/12/21(金) 23:07:47 ID:jH5uEFzM
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1653>>1654>>1661>>1674>>1675>>1744>>1753>>1765>>1779>>1780>>1783>>1792>>1792
>>1793>>1796>>1801>>1804>>1812>>1813>>1821>>1822>>1836>>投稿の続きです。…が

■■『生命の実相哲学シリ−ズ…SAKURA論』  その ②

>>1836 その①の投稿の続きです…。
■これは
『生命の実相』の「霊界編」にも出ているが、この書に採録したのは英 国 心 霊 大 学
の学長マッケンジ−博士(数年前物故)が精神統一状態中の霊魂出遊現象によって七圏に分
かれている霊界を探検踏査してその状態を記述した記事であって、それには当時「哲学者グ
ル−プの集まっている」霊界の第四圏にいたハ−ヴァ−ド大学のウイリアム・ジェイムス
教授の霊が指導霊となったといわれている。その記録は『生命の実相』中にヴェッテリ二
の霊界通信と符節を合わして霊界存在の真実性をいっそうハッキリ確認せしむるものがあ
る。この書を戦死者の遺族に、また戦死者でなくとも、良人を、妻を、子を、親類縁者を
失える悲しめる遺族たちに贈ることは大いなる意義と慰めとを与うるものであると思う。
                     つづく

PS:「トキ様」へ
『霊界編…』を読んで、更に「浅野先生の書籍」で、詳しく判り、霊界の中身が見えてきまし
た。…が?そうです〜〜〜ネ!長崎に在中の頃でしょうか??本当に『霊界の世界??』が、
あるという“書籍上の言葉”としてだけで、それは、当時の私には、『霊界の妻が語るの本』の
中で、当時の私は「想いを寄せた人」を、浮かべながらも、もし??という時このような関係
は、“素敵だな〜〜〜☆”と思ったものです。…が??【架空の世界…】
“想いを寄せる人”が、今世で縁がなければ『霊界…』ではと思っていましたが『霊界…』
でも、厳しく【類の法則…】なのだと、あらためて、考えされました次第です。…が?今年は
「亡き母」が亡くなってもうすぐ“一年近く”となります。その間に「亡き母かの伝言…」が、
耳元にこだまして、今まで判らなかった“答え…”が、ことごとく“ス〜〜〜っ”と理解出来
るのです。【不思議な気分…】かと。全て〜〜〜「母からのメッセ−ジ」かと??

ちなみに今日の「亡き母のメッセ−ジ」なのですが……【早起きして職場・学校に行く〜♫】
これが、目につきまして、最近?仕事場に行くのが〜〜〜><

そして「今年のおせち料理…」は、まず【喪に服す…】にて出来ません。…が?
「2月の旧暦…」に、作ろうかと思いますが??「雅春先生」のおおらかな“金銭…”にこだ
わらない…【イエスキリスト…パン】を連想しまして、【器…】が、後から大きくなったよう
ですかと、思いますが、私の場合も、後半からの年齢で逞しく【運勢…】をよくするには、まず
【心 の 法 則】しかも【霊界…】でもその様ですので、私がおおきな【心の器…】になれば
もしかしますと【霊界…】にもこだまして、それなりの『類の法則』に、仲間入りで…しょうかと?フト!!!思いました。…が???
                                      再合掌

1838ハマナス:2012/12/21(金) 23:16:11 ID:x2zmnlqw

「心」は人生航路の船長  (『新版 生活の智慧365章』P.319)

 人生はみずからそれの自然の流れに逆らわないで、“そのままの心”で人生の航路を渡る
ならば、そんなに困難な世界でないのである。すべて人生に於て与えられるものは、科学の
世界に属するものも、霊の政界に属するものも、法則を通じて与えられるものなのである。
そして其の法則を発見するのは「心」であり、「心」が法則を発見する方法は、「調心」と
「研究」とである。

 「研究」に一心になるとき、心がそれに統一されておのずから「調心」が得られるので
あるが、研究が正しい方向に向かっているかどうかを知るのは「調心」即ち心を整えることに
よってである。ただ遮二無に努力して航海をつづけるだけでは暗礁に乗り上げるかも知れない
のである。「心」は船長であり、正しい方向に行動の舵をとらなければならない。

感謝合掌

1839うのはな:2012/12/22(土) 02:00:58 ID:eorGcccE
谷口雅春氏に献ぐ(正しき宗教の樹立と促進に関する谷口氏の貢献)

           ハーヴィ・S・ハードマン (関口野薔薇 訳)

 過ぎし歴史の年月の 代々の聖者は 民の指導と教化の為めに
 真理の言葉を口より語り 又は筆もて之を誌した。
   (中略)
 私は精神科学協会の 創立者または頭領として
 北米合衆国内の 門弟及び朋輩と共に
 谷口氏の為め 讃嘆の言葉を捧げよう。
 
 『世に希望と平和を齎らさんとて 皎々として輝く星が
  東洋のみ空に現われた。 その光を仰見る人こそ 幸福なるかな』と。

 斯くは谷口氏を賞讃しつつ 私自身は 私の奉ずる『精神科学』と
 谷口氏の『生命の實相』に 全き調和の存在する事を 嬉しく思うものである。
 西と東と 所を遠く隔って居ても 真理は一つ
 アア、深遠なる哲理よ 神の御声よ

1840うのはな:2012/12/22(土) 02:22:54 ID:Gsql6f66
    わが憂国の戦い

 谷口雅春先生は、昭和二十七年四月の講和条約発効を期して、日本再建の論策を次々と
月刊誌を通じて発表して行かれた。そして、その頂点に立つ論文「日本再建の道を拓くもの」
が『生長の家』昭和二十七年八月号に発表された。

《 新しき日本が生れる。新しい人間が生れる。朝々が新生である。昨日見た夢がどんなに
  見苦しいものであったにせよ。夜がそれを消してくれたのである。(中略)新しい人生を
  つくり出す基礎は、過去を捨てる諸君自身の能力にある。敗戦した日本などはないのである。
  日に日に新しき日本である。戦前よりも数等すぐれたる新しき日本である。
  しかも占領下に押しつけられたる民主主義の日本であってはならない。

  すでにそれも過去である。過去はないのである。万物は常に新しく生れる。
  過去を把まなければ過去は消えるのである。押しつけられたる民主主義も
  結局過去のものである。それを捨てよ。捨てて新しきものを見出しそれに生きよ》

 力強い書き出しで始まるこの論文は、つづいて「暴力を捨てる自由」「無我献身の美徳を復活せよ」
「礼拝合掌の精神を復興せよ」「"家”の制度を復活せよ」「忠孝の感情を育成せよ」
「民主主義を再検討せよ」「人口制限は日本を弱体化する」等々、講和発効後の日本のあるべき姿について
 いち早く喝破されたのであった。

 (後略)

  『神ハ愛也』 谷口雅春先生九十年の足跡

1841「訊け」管理人:2012/12/22(土) 11:26:15 ID:???

二十二日の経言――

消極的暗示を排撃する言葉

 吾れはいま吾が生命にどんな欠陥も感じられない。吾れはいま自分の認めたところのもののみ実在であることを知ったのである。吾れは最早禍と生命の弛緩とに本来なき所の力を賦与しない。吾れは悪と不幸とを見ないのである。吾れは悪と不幸とを聞かないのである。吾れは悪と不幸とを語らない。誰も自分に対しては不正と不完全とに就いて話を持ち出すことは出来ないのである。何故なら自分は不正と不完全とを聴かないからである。吾れは消極的なる思想や暗示に感じない。そのようなものは自分を動かすことは出来ないのである。何故なら自分は其れら以上のものであるからだ。
 吾れは、あらゆる弱さと小ささとを踏み越えてしまっているのである。いま、吾が心は積極的である。自分は果断と、勇気と、そして神、人間、及び自己に対する信頼の念で満たされている。吾れは吾が為す所のものを権威をもってなすのである。吾れは吾が云うところの言葉を断固たる態度で云うのである。自分は強く、力に充ち、沈着で、平静である。吾が背後には神の無限の生命、無限の愛、無限の智慧がひかえているのである。吾れは強き自信力にみたされて揺るがないのである。吾れは天に於ても地に於ても、一切の権(ちから)を与えられているのである。

 吾が御親の神に感謝いたします。

『日々読誦三十章経』より謹写――

1842SAKURA:2012/12/24(月) 15:36:03 ID:q9UkkTZw
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんにちは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1653>>1654>>1661>>1674>>1675>>1744>>1753>>1765>>1779>>1780>>1783>>1792>>1792
>>1793>>1796>>1801>>1804>>1812>>1813>>1821>>1822>>1836>>1837投稿の続きです。…が

日常生活面を、それなりに考えていきますと、私なりの「雅春先生の哲学」が見えまして、
更に“人生観”が〜〜実に!感慨深いものになりますので、私なりに「生命哲学…勉強会」を
〜♫〜では“続き投稿”していきます。「雅春先生の例え…」として、投稿されていらっしゃい
ました記憶があります。…が?ここは、まるで【四 無 量 心 の 心 の 世 界 観】

■■『生命の実相哲学シリ−ズ…SAKURA論』  その ③

>>1836>>1837>> その①②の投稿の続きです…。
 先日高地の一誌友から、戦死せる婚約の青年に殉ずるために戦死の報知を受け取ると同
時にカルモチンを致死量飲んだ令嬢が医者の手当てで蘇生したが、殉死を覚悟せる彼女は、
遺骨到着の日にふたたび自殺すると主張して頑として応じない、そして「わたしは『生命の
実相』の本全一五巻をことごとく読みましたが、その三分の一は運命であり、三分の一は自
己の決定により、その三分の一は霊界の高級の霊魂人の運命の修正により避けうるとある
だけで、自殺は悪いとは「生命の実相」には書いてないから、自殺は悪いとは思えません」
と主張するので、なんとかわたしから自殺を思い止まらす手紙を書いてくれ、という要求
を受け取った。そのわたしからの手紙が到着しない先に遺骨が着いた。彼女は再び遺書の
到着した日に、前回よりも大量の超致死量の薬剤を呑んだ。しかし彼女は死ななかった。
霊界から高級霊の干渉があったのであろう。しかもさらに彼女は第三回の自殺を考え
ていた。そこへわたしからの手紙(家内に代筆させた)が着いた。その手紙によってかろう
じて彼女は慰められ、三回目は自殺は思い止まったのであった。

 
わたしの記憶のうちには、ある霊界通信に因れば、自殺を超越した神の目からは、自殺
は他殺と同じく殺人であると書いてあって、そのことを『生命の実相』の中に書いておいた
と思って『生命の実相』の索引によって検べてみたが見出すことができなかった。だから、
それに対する返事は記憶によって書いたのだった。あとで気がついてみると、それは今度
出る『人間死んでも死なぬ』の本の中に自殺者の霊魂が霊界へ移行しても自殺の時の行為そ
のままの状態で、たとえば短刀を腹に刺したままの状態で永らく苦悶を継続しているのだ
というような霊界通信の実例が書いてあるのであった。

                 つづく

1843SAKURA:2012/12/24(月) 15:38:21 ID:q9UkkTZw
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>>1793>>1796>>1801>>1804>>1812>>1813>>1821>>1822>>1836>>1837>>1842投稿の続きです。

■■『生命の実相哲学シリ−ズ…SAKURA論』  その ④

>>1836>>1837>>1842 その①②③の投稿の続きです…。
■しかもこの書におさめられている霊界通信の中には、欧州大戦中砲弾の破片に当たって
戦士した兵士の霊魂が、少しも傷つかずに自分の遺骸を眺めながら歩いていたという通信
もある。我執で死ぬのと、国家に捧げて死するのは、死の意義の異なるのがこれで分かる。

 こういうことをこの本によって戦死者の遺族に知らせてやりたい。
 戦死を悲報だと思うのはまちがいである。このまちがいの中から反戦思想が生まれ、戦
後の国家攪乱運動がはぐくまれる。霊界の消息を知るとき、戦死は実に光栄であり、霊魂
の高揚であるのだ。  (一部抜粋論)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆

PS:「トキ様」へ
 【自殺…】尊い命を…自ら断つ!!私が“高校時代の友人”はこの「自殺」で……><
振り返りますと、友人は物静かな性格・頭脳優秀の友人でしたでしょうか??
「母子家庭…」で育った友人!しかも、後日知ることとなりましたが“母親の職業”は、
【清掃の仕事…】に携わっており、ついそのそぶりすらも、この友人は、最後まで、私に
見せることなく他界してしまいました。…が?正直、【自殺…】する前迄、私は彼女の自宅に
も行った事がなく、彼女の死後、はじめて“母親の職業”を、知った訳ですが、当時!
高校の学費も、正直言いますと「高い私学…」ですから、きっと、彼女の母親は、
一生懸命彼女の為に働き、苦しいやりくりにもそれなりの【夢…】を、彼女に託していた
モノと思います。

その原因は「年下の男の子に恋?」をして「失恋…」でしょうか?それも、
その「年下の男の子」からの【きつい言葉…一言】にて、投げかけられた“言葉”で…
更に、当時の若い“思春期”ですから、“母親の職業”をひた隠しした当時の【傷つきやすい心】
全てがガラスの破片の様に粉々に…いつしか“彼女の顔”から【笑い…】そのモノが消え去り、
【自殺まで追い込まれた…彼女】…当日は、普断通りに学校に来て、一緒に途中まで帰りま
したが、その後、この事件が起きたのですが〜〜〜?


当時の私はまだ若く、相手の「年下の男の子の自宅」に、文句を云いに行きたくなったくらい
当時、激怒して、しばらくは感情が納まりきれずの状態でしたかと。相手の両親が、一応は、
お詫びに、彼女の家に御焼香に……行った様です。…が?【差別用語…】からの発展劇かと、
最近!理解した次第ですが、きっと友人もある面では【我執…心】で、命を断っています
から、今私は言えるのは『霊の世界…向こう側でも“精神の放浪”なのでしょうか』
今回【宇治別格本山…】に、お位牌を出さなくてはと、改めて思いました。…が?

ブレイクしますが『小泉元総理』は、毎回靖国に参杯されていらっしゃいましたかと…私も
毎年“年の初め…”には【靖国神社へのお参り】には行ったものです。来年は、新年早々の
『講習会…』もありますから、当日、参加しますと、当然ですが、【靖国神社参拝…】を!

■本当に「今日の我が国…日本!」…「日本国の存在」は、この戦死されました方々の
尊い霊魂…の上で成り立っていますモノと…思います。…が?
勿論!あの【明治維新…】でも携わった人々も含めまして、
【我 執 も 無 く し 〜 〜 国 家 安 泰 】という尊い志…にて、
初めて、【私が国…日本!!日いずるところの国…和の国…『日本国が発展』したモノ】と、
断言していいのではないのでしょうか??
心から【この尊き英霊の霊魂…】対して、感謝申し上げます…。

                                  再合掌

1844a hope:2012/12/26(水) 08:54:03 ID:E6WSUXC.
新版 生活読本 谷口雅春先生著(日本教文社)
第十一章 心の花園に美しい花を咲かせましょう
◆感謝する顔と喜ぶ顔は美しい(p112〜)

感謝するということは、金銭よりも、とうといものを、周囲(まわり)の人々におくるということになるのであります。
合掌(てをあわす)して感謝している姿ほど美しいものはありません。

怒っている顔はみぐるしいし、にこにこしている顔は美しいものです。
よろこびを周囲の人にふりまくことは、ほかのものを周囲の人にふりまくよりも、とうといことです。

喜んでいると血液はきよまります。
そして顔色が生き生きと美しくなり、元気になり、達者になり、人からもかわいがられるようになります。
子供が喜んでいる顔ほど楽しいものはありません。
(つづく)

1845a hope:2012/12/27(木) 07:41:11 ID:E6WSUXC.
新版 生活読本 谷口雅春先生著(日本教文社)
第十一章 心の花園に美しい花を咲かせましょう
◆人のよろこびを喜びなさい(p113〜)

自分に楽しいものがなかったならば、そして他の人が楽しいものを持っているならば、
人が楽しいものを持っていることを喜びなさい。

誰がたのしんでいても、それが喜べるようになったとき、人のよろこびをうらやむ心はなくなるものです。

人の喜びをうらやむ者は常に苦しいものですが、人の喜びを喜ぶものは楽しいばかりであります。
(つづく)

1846通りすがり:2012/12/27(木) 11:58:46 ID:???
>>1844

a hope様、いつも謹写をありがとうございます。

2012/12/19(水)にて、
「(第九章終り)数日間、聖典の謹写をおやすみします。」と書かれていましたので私もしばらく訪問せず、いま久しぶりにアクセスさせていただきましたが、昨日、第十一章から始まっています。
第十章が見当たりません。私の見落としでしょうか?

1847さくら:2012/12/28(金) 06:14:23 ID:ens0NEME
合掌。
十二月二十八日は、「日本の實相顯現の神示」の天降った日ですので、謹写させて頂きます。

みなさま、今年も残りわずかですが、
よいお年をお迎えくださいますようお祈りいたします。



1848さくら:2012/12/28(金) 06:15:14 ID:ens0NEME
『日本の實相顯現の神示』谷口雅春先生

「 敗戰の原因は多々あれども戰爭を始めたから敗けたのである。
是は過去現在未来永劫に變ることなき眞理である。
戰爭を始めねば敗戰もない。
當り前のことが當り前なのである。
眞理と云ふものは簡單で直截明瞭である。
當り前のことがなかなか解らぬ人が多いから此の世界が亂れるのである。
神が戰をさせてゐるのではない、
迷ひと迷ひと打ち合つて自壊するのだと教へてある。
迷ひの軍隊を皇軍だなどと思つたのが間違だつたのである。

この神の教へは『自給他足・他給自足』と教へてあるのに獨逸にならつて經濟自給圏を確立しようと思つたりしたのが既に相對のこころである。
心に相對があらはれ、彼我對立する心は既に戰ひの心、分裂抗争を豫想しての心であるから、戰爭準備の心である。

世界は一圓相であると云ふことを知らねばならぬ。
世界一環互に手と手を繋ぎ合って、しつかりと和する心になつてゐたらば戰爭もなく敗戰もなく、實相無限の圓満調和世界が實現する筈であつたのに、當時の日本人は氣が狭くて島國根性であり、排他的精神で、我慢自慢獨善精神に陥り、それを日本精神だと誤解して、一人よがりに易々加減な氣持になつて、遂に世界を敵として戰ふやうになつたのである。


(つづく)

1849さくら:2012/12/28(金) 06:16:01 ID:ens0NEME
(つづき)
排他の心は、他と自分とを切り分ける心であるから、
切る心は切られる心と教へてある通りに自分が切られる事になつたのである。

切る心は三日月の心であり、利鎌のやうに氣が細く、
角だつてゐて、空にあらはれてゐる時間も少く、その光も弱く、
直に地平線下に沈んでしまふ心である。

心の通りに日本の國が沈んでしまつても、
それは日本人の心みづからの反映であるから、
徒に失望、落膽、放心してしまつてはならない。

『見よ、われすべてのものを新たにするなり』と教へてある。
現象の三日月は沈んでも實相の圓満玲瓏一圓相の満月は依然として虚空に輝いてゐる。

これと同じく、心狭く尖りたる排他的な軍國主義の似非日本の國は沈んでしまつも、
實相圓満の日章旗のやうにまんまるい日本の國は無くなつてはゐないのである。

有るもの、有りしものは永遠に滅びることなく、
必ずそれは日本人全體の心が圓満になり、實相の波動に日本人全體の心の波動がぴつたりと合ふやうになれば、
現象界にもその不滅圓相のすがたをあらはすのである。

無きものは滅びるほかはない。
軍國日本の如きは本来無き國であるから滅びたのである。

神州日本は不滅であり、永遠に滅びることはない。
滅びたやうに見えてゐるのは實相が蔽ひ隠されてゐるだけである。
實相を蔽ふ心が眼鏡をかけてゐる心である。
すべて此の世の中の事物は象徴であるから、
その象をよく見てゐれば、世界に何が起こりつつあるかを知ることが出来るのである。」

(昭和二十年十二月二十八に日未明神示)

1850a hope:2012/12/28(金) 07:35:41 ID:E6WSUXC.
>>1846「通りすがり」さま

はじめまして!
わたしが、「第十章」を飛ばしたことに気づいてくださりうれしいです。
わたしは聖典を謹写しながら、この掲示板をご覧のみなさまの幸せをお祈りさせていただいているのですが、
聖典一冊丸ごとの謹写になってしまうと著作権などを侵害してしまう可能性を御指摘いただいたので、
今回、故意に「第十章」を飛ばさせていただきました。


「第十章」は、『今あなたの失望を捨てましょう』 というタイトルで、
「因果の法則」や「心の法則」がわかりやすく説明されています。

これからも、無理のないように聖典謹写をしていきたいと思いますので、
みなさま、どうぞよろしくお願いいたします。

感謝 合掌

1851a hope:2012/12/28(金) 07:39:42 ID:E6WSUXC.
新版 生活読本 谷口雅春先生著(日本教文社)
第十一章 心の花園に美しい花を咲かせましょう
◆あるまずしい人の喜び

あるところに貴金属商がありました。
そのショーウィンドウには立派なダイヤモンドや黄金(きん)の指輪や、いろいろの宝の玉がかざってありました。
一人のまずしい人がそのショーウィンドーの前に立って、それを見ていました。
しばらくすると、そのまずしい人は、その店へはいって「どうもたくさんのダイヤモンドを見せていただきましてありがとう」と感謝しました。
店の主人はおどろきました。そして、
「あなたは、どうしてそんな事を感謝するのですか。わたしは一個もあなたにダイヤモンドをさしあげていないのに」といいました。
すると貧乏人はいいました。
「わたしは見るだけでたくさんなのです。どんな金持ちでも、ダイヤモンドは見るだけでしょう。そうすると、
私はダイヤモンドを持っている金持ちと同じことです。
ただ、ちがうのは金持ちは、そのダイヤモンドをぬすまれないように心配しなければならぬのですが、私はただ見て楽しむだけで、
ぬすまれないように心配する必要はありません」といいました。

人が持っていても、それをうらやまず喜べたら、金持ちでなくとも、自分はいつでも楽しいのです。

つねに喜んでいる者には、なんとなく喜びの空気みたいなのもが、その人の身体(からだ)から出るものなのです。
その人の身体からでるなんとなき喜びの感じは、人をよろこばせて、その人になんとなくしたしみを感じさせるのであります。
そういう人は、人から人気があって、人をひきつけ、人の頭(かしら)となり、たくさんの崇拝者(うらやむひと)ができて、
えらいものになれるのです。
(つづく)

1852SAKURA:2012/12/28(金) 12:01:10 ID:MAOC5c.E
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投稿の続きです…。
日常生活面を、それなりに考えていきますと、私なりの「雅春先生の哲学」が見えまして、
更に“人生観”が〜〜実に!感慨深いものになりますので、私なりに「生命哲学…勉強会」を
〜♫〜では“続き投稿”していきます。「雅春先生の例え…」として、投稿されていらっしゃい
ました記憶があります。…が?ここは、まるで【四 無 量 心 の 心 の 世 界 観】

■■『生命の実相哲学シリ−ズ…SAKURA論』  

======「生命の実相 30 巻」からの抜粋 =======================
―――――― あなたが生きるべき時は、まさに「今」である――――――
  今の他に生きる時は一つもないのであります。「これは善いことだけれども明日に
しよう」などと考えているような人は、とても成功のおぼつかない人であります。「今」思い
たった時に、素直にこれは神が与え給うたことであるとして、ただちに実行に移りうる人は
心の柔軟性を保っている人であります         (谷口雅春著…「生命の実相」より)
==========================================

■そうですョネ〜〜〜!!当に【無限実行…】でしょうか??
先に“言葉”を、発しますと!大変な事に、なる事もあるのです〜〜〜ョネ!!
【有言実行…】がいいと?言いますが〜〜〜??
私の場合は、実に嫌な“思い出”もあります。私の知人関係ならいいのでしょうがと??

この頃では、まず【実行…】する前に“言葉”を発します時は、その時の状態が?果たして、
【生きるか?死ぬか?の問題!!】成功します要因は、思いついた事項は、どんどん取り入れ
る事も…そして、それを実行する事も…大事でしょうかと思います。!!……が?今!私も、
出来る事から、もう一度!!そうなのです〜〜〜ョネ!今日!出来る事から始めて行ってます。
…が?それでも、【人間は想念の世界…】ですので“言葉…”を発する前に【類の法則…】にて、
その仲間になる事が、いいでしょうかと。??

反対に【悪因縁…】を持たれている関係の方からの【想念感情…】は、その人の行動…etcを、
出来ない様にと、相手への“封じ込める想念・感情”があり、従いまして【今!活かす…】
この時は、こちら側は、その人以上の【想念…】を持つ必要性がありますでしょうか??
私は、今回【東京…】に急遽行きまして、以前と変わらずに、のびのび〜〜〜伸びと、話せる
“環境…”に感謝しました。!!やはり【同じ類の法則…】に基ずいて行く“行動”ですと、
どんな事でもやりぬける【意志力…】が、“自然に湧き出でまして、更に、強く!益々と揺るぎ
のないものとなり〜〜〜ますでしょうか??逆に申しますと【反対の環境下…の場合】では、
こちらが【確固たる多大な想念…】を起こす事が必要なります。!!

■【今を活かす事…】とは、ある面では“環境”も自分で“心を切り替える事”ではと???
思いながら、現在の私は 、前に進む!ひたすら進む!この事に焦点を当てている次第です。

                                    再合掌

1853ハマナス:2012/12/28(金) 13:26:36 ID:mR2szZkc
神の子のみなさまありがとうございます。

ご無沙汰しております。実家に帰っていますので、すみませんが、しばらくお休みさせて頂きます。

皆様、どうぞ良いお年をお迎え下さいませ。

感謝合掌

1854通りすがり:2012/12/28(金) 17:08:16 ID:???
>>1850

a hope様

そうだったのですね、わかりました!
十一章からもよろしくお願いいたしますm(_ _)m

1855通りすがり:2012/12/28(金) 17:11:12 ID:???
>>1853

ハマナス様

いつもすばらしい謹写ありがとうございます。
ハマナス様も良いお年をお迎え下さいませ。

来年もよろしくお願いいたしますm(_ _)m

1856トキ:2012/12/28(金) 21:44:45 ID:QejVymnY
>>1853

 ハマナス様、いつも素晴らしいご投稿に感謝申し上げます。

 今年はお世話になりました。来年もよろしくお願いします。
よいお年を御迎え下さい。

合掌 ありがとうございます

1857さくら:2012/12/29(土) 07:33:44 ID:MAv9sFeE
>>1853ハマナス様

いつもありがとうございます。

ご実家は、ハーバードのお近くですか?笑。

どうぞ、ご家族みなさまと、よいお年をお迎えくださいますように…。

ありがとうございます。



1858a hope:2012/12/29(土) 08:33:05 ID:E6WSUXC.
新版 生活読本 谷口雅春先生著(日本教文社)
第十一章 心の花園に美しい花を咲かせましょう
◆人をひきつける力ある人となれ

えらい人は、どことなく人をひきつける力をもっているのです。
人をひきつけて、理屈なしに、人をひきずってゆく力をもっており、そのために、よい友だちや、
よい協力者が出来てきて、その人の仕事はいよいよますます大きくなってゆくのであります。

そういう力はどうしたら出来るかというと、いつも感謝し、よろこんでいる人に出来るのです。
だからみなさん、つねに感謝し、よろこぼうではありませんか。
(つづく)

1859a hope:2012/12/31(月) 07:15:48 ID:E6WSUXC.
新版 生活読本 谷口雅春先生著(日本教文社)
第十一章 心の花園に美しい花を咲かせましょう
◆心に喜べば形に喜びが出てきます

すべてのものは心の中に出てきたものが、形にあらわれてくるのです。
心の中に喜んでいるものは、きっと喜ぶべき、たのしいことが出てくるのです。
よろこべば喜びがあらわれてきますし、悲しめば悲しみが出てくるのです。
それでは、いつでもにこにこして喜ぼうではありませんか。
(つづく)

わたしの愛する「生長の家」のみなさま、大切な方々と喜びにあふれたすばらしい新年をお迎えください!

1860通りすがり:2012/12/31(月) 07:27:12 ID:???
>>1859

a hope様

合掌 いつもありがとうございます。

良いお年をお迎えくださいませ。

そして来年もよろしくお願いします。

1861トキ:2012/12/31(月) 22:54:10 ID:FptI/wKI
>>1859

a hope様

 すばらしいご投稿をありがとうございます。

 こういう地道で真面目な投稿者様によって、この掲示板は支えられていると痛感します。
本当にありがとうございます。

 来年もぜひ、ご投稿を宜しくお願いいたします。

 来年が実り多き年でありますよう、心からお祈り申しあげます。

合掌 ありがとうございます

管理人敬白

1862トキ:2012/12/31(月) 23:02:43 ID:FptI/wKI
>>1857

さくら様

 ご挨拶、ありがとうございました。いつも、さくら様のご投稿は、熱意と誠意に溢れており、感銘を
受けています。私も学ぶ点が多々あり、さくら様のご投稿を拝見するのが楽しみです。

来年もぜひ、ご投稿を宜しくお願いいたします。

 さくら様にとり、来年が実り多き年でありますよう、心からお祈り申しあげます。

合掌 ありがとうございます

トキ

1863a hope:2013/01/04(金) 09:33:54 ID:E6WSUXC.

トキさま、みなさま あけましておめでとうございます。

わたしは、毎朝、神想観後に聖経「真理の吟唱」を黙読しています。
“神の子”の自覚がさらに深まるような気がします。
すばらしい「生長の家の教え」とこの掲示板のみなさまに出会えたことに心から感謝して、
今年も自分にできることを無理なく頑張っていこうと思います。

みなさま、今年もa hopeをどうぞよろしくお願いいたします。

1864トキ:2013/01/04(金) 09:40:29 ID:G6NygkMI
>>1863

a hope 様

 あけまして おめでとうございます。

 昨年は素晴らしい聖典をご紹介下さり、ありがとうございました。
本当に素晴らしい文章で、感激しています。
 今年も、無理のない範囲で、この掲示板でお会いできれば嬉しいです。

 今年も、a hope 様にとって、幸多い1年でありますよう、お祈り申し上げます。

合掌 ありがとうございます

管理人敬白

1865a hope:2013/01/04(金) 09:42:52 ID:E6WSUXC.

聖経「真理の吟唱」(日本教文社)より

新しき天地に生まれる祈りp138〜


生まれ変わりの時が来たのである。
われわれ自身がまず生まれ変わることが必要なのである。
自分自身の心が生まれ変わることが必要なのである。
釈尊の説かれたごとく、この世界はことごとく自分の心の展開であるから、
自分の心が生まれ変わることは自分の環境が一変し、自分の生活が一変し、
自分の肉体の健康が一変することを意味するのである。
われわれが心に強く描いてそれを見つめるところのものが現象界にあらわれてくるのである。
これが現象顕現の法則である。
だから、私たちは、人を見るのに、人を悪人だと見て、それを善導しようなどと思っては、
決して相手の人々を強化して善ならしめることはできないのである。
“悪人”と見れば、そしてその人の“悪”を心で見つめれば、
悪は一層ハッキリと現象化いきたって収拾がつかなくなるのである。
だから、私たちは、決して人の“悪”をば、肉眼で見ることがあっても、心では見ないのである。
そして彼は実相においては善であり、彼の内には釈尊同様に仏性が宿っており、
キリスト同様に神性が宿っているのだと見て、心で合掌し礼拝するのである。
私たちは、自分自身が自分の心で善のみを見ることができるようになったとき、
環境も運命もただ“善”のみの展開としてよくなるよりほかはないと知るのである。

私たちは、まず心を神に振り向ける。
心を神に振り向けるとき、この世界に神があらわれるのである。
神は善であるから、この世界に神があらわれれば、この世界は善のみの世界となることは当然であるのである。
神は病まないのであるから、心を神にのみ振り向けるとき、自分たちは病むことなき状態に到達し得るのである。

心を神にのみ振り向けるとき神は乏しくないのであるからわれわれも求むるのに乏しいということはあり得なくなるのである。

心を神にのみ振り向けるとき神は老いないのであるから、われわれも老いるということが無くなるのである。

すべての病い、貧乏、老衰等の悪現象は神の造りたまうたものないのであって、
人間の消極的想念の産物であるのであるから、われわれが心を神に振り向けるようにのみ心がけるならば、
すべての悪現象は私たちの世界から姿を消してしまうようになるのである。
それはあたかも光の照るところの世界には闇が存在し得ないようにである。

われわれは遷(うつ)り易(かわ)る現象の善悪に心を捕えられてはならないのである。
遷り易るものは本来実在でないから、先のものが消えては、次のものがあらわれ、あらわれてはまた消えるのである。
われわれがこの遷り易る現象世界に住みながら常住不変のただ善のみの世界を諦観(ていかん)するとき、
このうつり変わる現象世界に「永遠の善の世界」が影をうつして、現象世界に、ただ善のみの世界が展開する。
これが地上に永久平和の天国楽園を建設する唯一の道なのである。
この真理をしらせ給いし神に対して深く篤(あつ)き感謝をささげます。

1866a hope:2013/01/05(土) 06:11:06 ID:E6WSUXC.
新版 生活読本 谷口雅春先生著(日本教文社)
第十一章 心の花園に美しい花を咲かせましょう
◆心の中の泥棒に気をつけなさい(p116〜)

あなたは家(うち)の中へ泥棒がしのび入って、お金や着物を、うばっていったら、あなたは悲しいでありましょう。
しかしあなたの心の中へ泥棒がはいって、あなたの心の中の「喜び」をうばってゆくのは、
なお悲しいことではありませんか。

あなたの心の中の喜びは、お金や、着物などよりも、もっともっと大切なものです。
お金や着物がどんなにたくさんあっても、なんにもならないではありませんか。
あなたが一つ喜べば、あなたの心の中に一つの「宝物」をふやすことになるのです。
二つ喜べば、二つの「宝物」をふやすことになるのです。
三つ喜べば、三つの宝物をふやすことになるのです。

腹を立てたり、泣いたりすれば、そのたびごとに、この宝物がなくなるのです。
「腹立ち」や「悲しみ」は、あなたの心の中から「喜び」の宝物をうばってゆく泥棒と同じことですから
腹を立てたり、泣いたりしてはなりません。
いつもにこにこ、うれしで感謝しておれば、かならずうれしいことがやってくるのです。
(つづく)

1867うのはな:2013/01/05(土) 21:50:02 ID:XuKa5ZNI
  谷口雅春先生 あなたは既に神から人生を動かす梃子を与えられた

 充分しっかりした支点と、その支点を中心にして動かす充分長い梃子とを与えてくれたならば、
わたしは、その梃子によって地球を動かして見せるといった人がある。
これは紀元前三世紀のギリシャの数学者アルキメデスであるが、これは喩えであるが、梃子とは、
“心の力”の喩えであり、その梃子の支点にたとえられているのは“心の法則”であり、〝地球"にたとえられて
いるのは自分の住む人生である。

 梃子は既に与えられているのである。つまりあなたには“心の力”が既に与えられているのである。
そしてその“心の力”という梃子を支えている支点となる“心の法則”は宇宙普遍の法則として常にあるのである。

  ● しかし“心”は単なる梃子ではない

 アルキメデスのこの考え方は既に、それはそれとして吾々に自信を与えてくれるものである。
しかしながら生長の家の説く真理は、あなたに尚一層の真理と自身とを与えてくれるにちがいない。
 何故なら生長の家の聖経『甘露の法雨』は“心”を定義するのに、単なる人生というものを相手にして
それを動かす力だけではなく、“心”は万物の実質であり、また万物の造り主であり、“心”こそ“全能の神”である
ということを次の如く説いているからである。

 神こそ渾ての渾て、
 神は渾てにましまして絶対なるが故に、
 神の外にあるものなし。
 神は実在のすべてを蔽う。
 存在するものにして
 神によって造られざるものなし
 神が一切のものを造りたまうや・・・(中略)
 如何なる道具も材料も用い給わず、
 ただ〝心〟をもって造りたまう。
 〝心〟はすべての造り主、
 〝心〟は宇宙に満つる実質、〝心〟こそ〝全能〟の神にして遍在したまう。

1868うのはな:2013/01/05(土) 22:00:09 ID:f2bwKGw2
1867 つづき

 わたしは、もう一度、生長の家の真理をたしかめるために『甘露の法雨』を披いて見て、
以上に引用したところまで読み進んで、毎日読んでいる聖句でありながら、それが常とは異る
別の光をもって、別の新しき力をもって、私に迫ってくることを感じたのだった。

〝心〟は単なる人生を動かし万物を動かす梃子ではなく、人生の実質、存在の実質であると同時に、
それは創造神であり、全能の神であり、遍在の神であるから、自分自身にも、その〝全能なる神〟が
宿っているのだという新しき大自覚であった。

 聖経『甘露の法雨』の受持せられるところ、読誦されるところ色々の奇蹟が出現するのは、その内容が
そのように実に深遠なるものであるからだと気がついたのであった。

 『生長乃家』 昭和五十二年四月号 谷口雅春 先生 法語

1869うのはな:2013/01/05(土) 23:23:31 ID:Lu5TENfc
    友達と読み物は明るいものを選べ

   じかに阿弥陀仏の懐へパッと飛びこむのがよいのである(『女の教養』)
 
 子供の友達は快活な明るい者を選ぶがよい。暗い陰気な子供とまじわらしていると、
自分の子供も暗い陰気なものになりやすい。したがって健康も害われやすいのである。
快活な明るい子供と遊ばせることにしただけでも、その子供が健康になった実例があります。

 子供の読物は明るい、父母の愛や、友愛にみちた物語、、道徳的な、努力して楽しむ、困難を物ともせず
成功する立志伝または武勇伝などがよい。陰気な物語、お化けの出てくる物語、正しき者が滅びる物語などはよろしくありません。
子供は絶対に叱ってはならないということはない。過って悪を犯したり、人の迷惑になることをしたときのみは、叱っても悪くはない。
けれども「そんなことをする子は悪人です」などと、本人そのものを悪人と宣言するような叱り方をしてはならない。

 もしそんな叱り方をするならば、子供は自分を悪人だと思いこんでしまい、善に遷る動機と勇気を見失ってしまう。
子供が過ちを犯したら、「あなたは善い子だのに、こんなことをするはずの子ではないのに、悪いと気がつかなかったのね。
もう悪いと気がついたらけっして悪いことをするあなたではありません」と断言するがよい。


『新しい結婚』 谷口雅春 先生著

1870うのはな:2013/01/05(土) 23:59:22 ID:vkulhJXI
『生長乃家』昭和五十一年十一月号 谷口雅春 先生 六日の法語

   ストレスというもの

 精神身体医学の世界的権威であるといわれている、カナダのモントリオール大学の
ハンス・セリエ博士という教授は、総ての病気は心の「ストレス」(stress)
から起ると、こういっているのであります。

「ストレス」というのは、心の沈みとか、歪みとか、あるいは異常痙攣とかいうようなものであります。
この語は本来、材料力学や工学上の用語だったのを、心の歪みに用いるようになったのであります。
例えば此処に屋根があるとします。此の屋根は地球の引力ー言い換えると“重力”で、(書籍の表紙を開いて屋根形に
俯向けて示しながら)こういうふうに重みで歪もうとしているのであります。

 けれども、それがやっぱり真直ぐでいるのは、歪もうとする力に反対の、逆の押し返す力が内部に働いているのでありまして、
その両方の力が平均して、この屋根が歪まないで真直になっているのであります。
この相手の押しつける重力に応じてそれに抵抗して内部に起る逆歪みの力がストレスでありまして、昔はこれを“応力”と訳したものであります。

 例えば家庭に於いて姑が嫁に圧力をかける、すると、こういうふうに(表紙を歪めて見せながら)圧力をかける、それでもそのお嫁さんは、内心は強く
反撥を感じていますけども、すました顔して、そして真直な平常の顔を現わしている。
けれども、これはそのお嫁さんの心が真直ぐなんじゃなくって、心の内部には、相手の圧迫に対する反対歪みという念が起って怺えている。
この何かの圧迫に応じて起る反対歪みの心を「ストレス」(応力)というわけであります。

1871さくら:2013/01/06(日) 06:18:00 ID:g0C9V0mg
新年明けましておめでとうございます。(遅ればせながら…)
トキ管理人さま
ご縁のあるみなさま
今年もさらなる飛躍の素晴らしい一年になりますことを、こころより祈念いたします。

P.S.トキさま
年末には、温かいご挨拶を賜りまして、ありがとうございます。
今年もますますのご活躍をお祈り申し上げます。

本日は、『大和の國の神示』が天降った日です。



1872さくら:2013/01/06(日) 06:18:35 ID:g0C9V0mg
『大和の國の神示』 谷口雅春先生

われ再び大日本天津日嗣天皇と云ふ意味について語らん。

天孫降臨と云ふことは天の父のみこころが天降つて、天の下ことごとくが一つの光の世界になり、大和、平和の世界があらはれると云ふ意味の象徴的表現である。

日本民族が世界を治めるのでなく、
『天孫』すなはち『天の父のみこころ』が全世界を治める時期が到ることである。
これがイエスの『主の祈り』にある御心が既に成る世界の意味である。

それが真の大日本世界國である。

大日本世界國と云ふことを狭い意味に解して、日本民族の國だなどと考へるから誤解を生ずるのである。
そんなものは、小日本であり、本當の大日本國ではない。

天の下ことごとくが『天のみこころ』で満ちひろがる世界が来ることを「全世界五大洲の國土を『天孫(てんのみこころ)』に御奉還申すべき時期が來る」と教へたのである。

天孫とは肉體のことではない。
「肉體は無い」と云ふことをあれほど教へてあるのに、やはり肉體のことだと思つて執着が強いから大それた間違をして取返しがつかぬことになるのである。

神からみればすべての人間は神の子であるから、特に日本民族のみを愛すると云ふことはない。
あまり自惚れるから間違ふのである。

大日本天津日嗣スメラミコトとは固有名詞ではない。

理念の表現である。

「大日本」すなわち「ひかりあまねき」、「天津」すなわち「天の父の」、「日嗣」すなわち「みこころを嗣ぎたまへる」、「スメラミコト」すなはち「天降りましたる帝王」と云ふ意味であるから、
総じて譯せば「ひかりあまねき天の父のみこころを嗣ぎたまへる天降りましたる帝王」と云ふことである。

天の父のみこころが全世界に光被してあまねく平和になる世界になれば、それが本當の大和の國である。

それが本當の大日本天津日嗣すめらみことの治しめし給世界である。
肉體のことではない。

(昭和二十一年一月六日朝の啓示による)

1873「靖国見真会」参加者:2013/01/06(日) 10:24:39 ID:D6Ow5sls

「さくら」さんへ

一月六日に因み、「大和の國の神示」を引いていただき感謝申し上げます。

蛇足とは思いましたが、この「神示」を考察するにおいて、谷口雅春先生がどうお書きになっていられるかということも大事だと思い、ここに記されていただく次第です。

これは、「光明掲示板」において(3976)で書かせていただいたものの一部です。

〉谷口雅宣先生は、「神示」を解釈するに当たっては、それが生まれた時代背景を見逃してはならないと、常に口をすっぱくして指導してきました。

そうであれば、当然「大和の国の神示」ついても、それが生まれた時代背景を抜きにしてはいけない筈です。

ところが、谷口雅宣先生はこの観点を見事にスポイルしてしまっているのです。

この「大和の国の神示」をどう解釈するか、それについては、次の観点が要注意だと谷口雅春先生は次のように仰っています。

『大和の国日本』より引用させていただきます。(33頁)

…さてこの「大和の国の神示」は、昭和二十一年一月一日に「天皇の人間宣言」と世にいわれる詔勅が渙発された五日後の一月六日の朝に掲示されたものであります。そして当時のことを回想すると、神武天皇の「八紘為宇」の建国の理想は世界を征服して一つに統一するという侵略主義であって、その軍閥の中枢を成しているのが天皇であるといった判断を連合国がもっていて、日本を裁くところの極東軍事裁判(東京裁判)において、天皇を戦争犯罪人として出廷せしめようとする強い動きがあるなかで、私はこの啓示を受けたのであります。従って占領軍の天皇への風当たりを避けしめるためその表現には配慮がなされているわけであります。私は、天皇さまを、實相を直視して全知全能の神の御現われであるというように今も考えているのであります。そしてアインシュタインがいみじくも言った如く世界連邦が成立し、誰をその連邦の神聖な中心にすべきであるかというと、自然に日本天皇がその首座に推されるほかはないと信ずるものであります。


如何でありましょうか。

これが、谷口雅春先生の御心なのです。

最後の「信ずるものであります」

この谷口雅春先生のお言葉が、如実に示されたのが、先に私が引用した『限りなく日本を愛す』のこの箇所なのだと私は理解しています。

…「併し、時期が来ます。キリスト再臨の時が!天皇の實相が天降りたまひて、人の王であるところの天皇が、王の王であるところの實相をあらはし給ふ時が!!

谷口雅春先生のこの“真意”からすれば、谷口雅宣先生の今回の解釈は、極めて“恣意”に過ぎると言わざるを得ません。

谷口雅春先生の御心に反して、意図的に自分の主義主張に合うように、都合のいいように「神示」解釈を施している、そんな気がしてならないのです。

谷口雅春先生の“真意”に添うべく尽力するのが、少なくとも、法燈を継承したものの責務ではないでしょうか。〈

1874うのはな:2013/01/06(日) 14:24:11 ID:pdwtTUcA
   合掌の中にすべてがある

 最大多数の最大幸福が叫ばれています。他のための幸福を先にしたならば必ず
私益もそれに伴って流れ入って来るのでありますが、それを予想して働くのでは、
それはまだ捧げているとは言えないのであります。

 唯無我奉公の心になって御心を本当に行じているところに、其処に必要なものが
おのづから与えられるのであります。日本人は『無我奉公』などと云う言葉をよく使い
ますが、奉公とは、社会的道徳を守り、社会の公けに奉ずることですが、日本人の社会道徳は
今まで随分ひどかったのであります。

 これが現れて戦争中でも現地の器物や人間までも大切にしなかった。これはすべての物と人との
本質が『神』であると云うことを知らず、拝む心、合掌の心を知らなかった結果であります。
すべての物の本質を神として拝む心の中にこそ民主主義があるのであります。

『愛と光との生活』 谷口雅春 先生著 ※ 投稿者現代字に変更謹写 拝。

1875SAKURA:2013/01/06(日) 15:46:43 ID:tDwE4uGo
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんにちは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1653>>1654>>1661>>1674>>1675>>1744>>1753>>1765>>1779>>1780>>1783>>1792>>1792
>>1793>>1796>>1801>>1804>>1812>>1813>>1821>>1822>>1836>>1837>>1842>>1843>>1852
>>投稿の続きです…。
ここは、まるで【四 無 量 心 の 心 の 世 界 観】
日常生活面を、それなりに考えていきますと、私なりの「雅春先生の哲学」が見えまして、更に“人
生観”が〜〜実に!感慨深いものになりますので、私なりに「生命哲学…勉強会」を〜♫〜では“続き
投稿”していきます。「雅春先生の例え…」として、投稿されていらっしゃいました記憶があります。

■■『生命の実相哲学シリ−ズ…SAKURA論』  その①
======「生命の実相 37巻」からの抜粋 =======================
 われわを生かすのは明るい思想である。さし昇る朝日のごとくさわやかな思想である。さし
昇る朝日のごとくさわやかな精神こそ日本精神である。生命は暗黒の中にも光を見る。暗室に
置かれた豆もやしは、外から洩れるわずかな光を求めて、光の方へ光の方へと向いて行く。そ
して光のない間は細く長くかよわく貧弱に伸びてゆくにすぎないが、ひとたび光を得たときに
は太くしっかりと逞しく勢いよく生長する。生命には光が必要なのである。光が全然ないとき
には、伸びかかった豆もやしも数日枯れてしまう。再び言う、生命には光が必要なのである。

新しい年には新しい心が生まれる。元旦は物事の始めであり、生活更新に最も都合の良い時
である。他の時にも新しい覚悟ができ、賢明なる人はいつからでも新生活に突進しうるが、わ
れわれには新しい決意を実行するのには元旦がよい。元旦からまず始めよう。それは明るい心
を持つということである。一度にあれこれもと考えて、それが実行できなかったら、新しい決
意も最初に一日から崩れてしまう。ただ今日いちにち明るい心を持つことにしたい。
ただそれだけ一つのことである。これだけのことならばわたしにもできると思う。

 明るい心を持つには何事が起こっても怒らぬということである。何事が起こっても悲しまぬ
ということである。何事が起こっても失望せぬということである。何事が起こっても怒らず悲
しまず失望せぬためには、起こった事物は「もうすんだのだ」としることである。
去年の暮はもう起こったからすんだのである。すんだからこそ新しい年が来たのである。
木枯に散る葉があるからこそ、春には美しい若葉の美が讃えられるのである。
つづく

1876SAKURA:2013/01/06(日) 15:48:58 ID:tDwE4uGo
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんにちは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1653>>1654>>1661>>1674>>1675>>1744>>1753>>1765>>1779>>1780>>1783>>1792>>1792
>>1793>>1796>>1801>>1804>>1812>>1813>>1821>>1822>>1836>>1837>>1842>>1843>>1852
>>1875>>投稿の続きです…。
■■『生命の実相哲学シリ−ズ…SAKURA論』  その② 

>>1875>>その①の投稿の続きです
 明るい心を持つには何事が起こっても怒らぬということである。何事が起こっても悲しまぬ
ということである。何事が起こっても失望せぬということである。何事が起こっても怒らず悲
しまず失望せぬためには、起こった事物は「もうすんだのだ」としることである。
去年の暮はもう起こったからすんだのである。すんだからこそ新しい年が来たのである。
木枯に散る葉があるからこそ、春には美しい若葉の美が讃えられるのである。

天地一新。悪しきことは未だかってひとつも起こらなかったし、これからも起こらない。
それはすべて一新しゆく姿である。                 (谷口雅春著)
===========================================

PS:「トキ様」 へ
今年は【正月…早々の風邪】で、寝込み落ち込んでいましたら、今日の「雅春先生」の……
【元旦の言葉】が目にとまり、“パワ−・アップ”頂きましたでしょうかと【元気パワ−】!!
まだ、熱がありますが、それでも「意志・気力…」で、今!投稿させて頂いておりますモノ?
逆に申しますと…【年の初めに病気しました事は、きっと一年間は病気知らず!起動再開始!】
でしょうかと思いました次第です。…が?近くの病院で“薬の処方”をして頂き、いつもですと
その“薬…”を、TYOの先生に連絡して、アドバイスを頂くのですが??いつもの感じで…
TELしますと、先生は【国外脱出?旅行先が“タイ”】ということです。

ア〜〜〜〜〜ッ!!先生も東南アジアにと?これまた?また?落ち込みましたが、あそこには
【アンコ−ル・ワット】があります。…が?年早々〜〜〜“腰”にでも?身体の支障が、おき
なければいいのですが〜〜〜個人的に、ついつい思いながら、今回の私は「東南アジアの風邪?」を、空気感染にてうつされましので、【ネガティブ思想の芽生え…】を、360度転換しまして?
思いかえしましての【ポジティブ思想…】にて、【前以上に良くなるほかにな〜〜〜イ!】と、
【年の初めに際し、生活更新…】にて、一新し息を吹き返しましたかしら〜〜〜ン!

■サ〜〜〜ァ!今日もまた“一年間”私は、前以上に進む!〜〜〜進む!これが、私の中の
【心の光明面…ポジティブ思想に向かって邁進!】です。走って〜走って〜行こうと思います。

今日は、まだ熱もあります。…が?愛犬“ワン君”が、ちゃめっけたっぷりで“運動不足”
との意志表示ですので、出来る限り、後で【散歩…ウオ−キングする予定】で〜〜〜す。

■すべて“光”ある所に、すくすく伸びて行くのです〜〜〜ョネ!
今!私の“心…”も、太陽からの輝く光にサン〜サン〜照らされています。きっと!きっと!
あの【ゴ−ル…に向かい】夢中に、突き進んでいく内に、この“熱…”は、何処かに吹き飛ば
されて行く事でしょうかと。すべては【正しいモノのみが、最後に残るのです〜〜〜ョネ!!】

■■当に!完治の後は【一新して、生まれ変わる姿でしょう。…すべて一新しゆく姿…】
「トキ様」は、どう思われますでしょう〜〜〜か??
                                   再合掌

1877NANCY:2013/01/06(日) 16:17:28 ID:tDwE4uGo
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
こんにちは…… ロ−マ字(大文字)の【NANCY】です。
>>1635>>1639>>1643>>1766>>1778>>1829>>の投稿の続きです

■遅くなりましたが……
本年も、皆様方に取りまして、幸多き素晴らしい年になります事を、心よりお祈り申し上げます。
何卒、宜しくお願い申し上げます…。    

===【谷口 清澄 先生著】==============================

■■何事が起こって来ようとも、それは常に絶好の機会である

もしあなたにとって苦しく困難な事が起こり「とても私には務まらない」と思ったら、その
時こそ飛躍のチャンスである。人は自分がやすやすと乗りこえられるハ−ドルを越えても、
何一つ進歩しない。
けれども、自分には出来そうもない事をやりとげた時は、大いに飛躍するのだ。

============================================

■今日の頂きました“言葉…”そうなのです〜〜〜ョネ!実は、私はお客様に“販売”すると
いう職種は、当に【晴天の霹靂…】でした。しかも長時間“立つ…”この事も、含めまして?
当時は?心に不安感?恐怖心?が充満していたモノです…。併しながら?不思議なモノです。

人間【土壇場…】と申しますか?いざ!
「心に自分の強い決意…」を秘め、トライ!しかも【目標数字…】認識しての販売は……
今でも忘れませんが【当に…不可能を可能…無限力が出ますモノ】

今回当時の事を思い出しながら【今!今!出来そうにもな〜〜〜ィ!その心を…今一度…
この大きな【 ハ−ドル=壁 】に向かいトライする!!この勇気を、過去の忘れ去った経験を
踏まえまして…【今日の言葉】から…再挑戦です…。

                              再合掌

1878a hope:2013/01/07(月) 07:19:28 ID:E6WSUXC.

新版 生活読本 谷口雅春先生著(日本教文社)
第十一章 心の花園に美しい花を咲かせましょう
◆似たものがあつまってくる(p117〜)

世の中のものは、なんでも類をもってあつまってくるものであります。
すべて似たものがあつまってくるのであります。
だから「泣きっ面に蜂」というとおり、泣いて悲しんでおれば、
泣かなければならぬ悲しいことがいくらでもやってきます。

朝に一ぺん悲しい思いをおこしますと、その日、一日じゅう、
なんだか悲しい事ばかり出てきて、なんでもつまらなくなってくるのです。

朝おきると、にこにこして、「お父さん、お母さん、おはようございます。ありがとうございます」
ということが出来て、うれしくなれば、その日一日じゅううれしいことが出てくるでしょう。

だから朝に嬉しい気持を持つことは一日じゅう、うれしい感じをつづけるのに便利です。
もし悲しいことがあっても泣かぬことです。

「私は神の子なんだもの、なにも悲しいことはない。私はうれしいのだ」と一生懸命おもうようになさい。
きっとうれしくなってきます。
(つづく)

1879SAKURA:2013/01/07(月) 18:45:18 ID:SbalnCM2
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1653>>1654>>1661>>1674>>1675>>1744>>1753>>1765>>1779>>1780>>1783>>1792>>1792
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>>1875>>1876>>投稿の続きです…。
ここは、まるで【四 無 量 心 の 心 の 世 界 観】
日常生活面を、それなりに考えていきますと、私なりの「雅春先生の哲学」が見えまして、更に“人
生観”が〜〜実に!感慨深いものになりますので、私なりに「生命哲学…勉強会」を〜♫〜では“続き
投稿”していきます。「雅春先生の例え…」として、投稿されていらっしゃいました記憶があります。

■■『生命の実相哲学シリ−ズ…SAKURA論』  

======「生命の実相 37巻」からの抜粋 ====================

 すんだことの中に生活せず、「今」のなかに生活せよ。「今」は常に生きている。「今」の中
にはあらゆるものが輝いている。「今」は常に新しく、「今」は常に喜びに満ちている。過去
にどんな悲しいことがあったにしても、それについては思い煩うな。「今」天地一新したの
である。もう別の天地に生きているのである。過去に寒風に吹き暴されたことを嘆かない
で、「今」梅の花は喜びに満たされて咲いている。梅の花よりも尊く強く逞しきが人間で
ある。
喜ぶべきことしかないのが人生である。           (谷口雅春著)                          

==========================================

■現在の状態!置かれた環境を、ながめても、まず【過去の私…】に、振り返るのではなく
今!現在起きた事は、必ず“修復できる…”といった感じが、幾分“心の何処に?”芽生え
始めて来ました。…が?帰郷してからの、四年間…実に私の潜在意識には『時間の無駄…』を、
考えて行くより【今…】を生かすことに、集中!でしょうかと。? 【全力投球…】

そこから、まず!進む事になりそうです。クヨクヨする前に、まず“心を前向き…”に、
振り向くだけでも、前!前!に進む“原動力”になりますし、今からは、まず“進む事”が
それが【三歩進んで二歩下がる…つまり確実に一歩…前進】この事が【本年度の課題】です。

■【病気で倒れた事】は、今は静養中ですが?前以上に前に進める事を、信じて行く事も…
【心の法則…】ではと、要約!思えますこの頃になりましたかと。まず!今年は、
【爽やかに…感謝】でしょうか???今日も前に進む!爽やかななるSTARTで…!
気持ちは、次第にハイテンション!!『頑張ろう〜〜〜と!』…風邪の症状は、少しずつ良く
なってきています。…が?逆に言いますと、これだけ倒れた事で、きっと「免疫力がつき…」
今年は、これ以上おおきな「病気ナシ〜♫」です。そして、
改めまして…いろんな方との出会い…支え…があり、私が生かされている事に対しまして

■■【報恩の感謝】今年は〜〜〜走り続けましょうかと…。

                                再合掌

1880NANCY:2013/01/07(月) 19:12:29 ID:SbalnCM2
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
こんばんは…… ロ−マ字(大文字)の【NANCY】です。
>>1635>>1639>>1643>>1766>>1778>>1829>>1877>>の投稿の続きです。

===【 谷口 雅春 先生 著 】===========================

■■吾々の中に、すでに一切のよきものがある。

自信をお持ちなさい。あなたは神の子なんですから。あなたの実相は、現象的に表面に
あらわれている相よりも余程立派な優れた状態なのである。あなたは完全であり、
万徳を兼備しており、神通自在なのである。
劣等感に陥って、自分で自分を限ってはなりません。   『新版 栄える生活365章』より

============================================

■やはり“心の持ち方…”次第でしょうか??
気持ちが“明るく持てる事”は、その時の精神状態は、やはり『自信…』が、大なり小なり?
ある面では、持っていますかと。

今!『大学受験…シ−ズン』になりましたが?やはり『自信…』がなく受験しますと…
【結果も〜〜〜><】それなりの事しか?出て来ませんモノ。勿論【努力…】は必要ですが…!
そうです〜〜〜ョネ!『ネガティブな感情…不安・恐怖…etc』 は、その通りの事しかと?
今の私は当時を振り返りますと…【自分自身の力を限定…自己限定の結果】が、その通りに、
現実となって表れたモノと【確信…】出来ますでしょう。

【揺るぎのない強い意志・信念…にてのチャレンジ…】は、それなりの【結果…】が、
出て来ますモノと、今は断言できますでしょうか?そして、『親の信じる心…』この事も、
【想念感情…】として相手(子供達)にも伝わりましょうかと。

そうなのです〜〜〜ョネ!これは【最大の援軍…両親の信じる“信力”…】でしょうと!!!

                                   再合掌

1881うのはな:2013/01/08(火) 00:08:40 ID:hdrUUxBw
   生長の家入門講義(八) 谷口雅春 先生

  第六十九章 本当の〝富〟とは如何なるものであるか

 最後に経済問題の話をしたいと思うのであります。大抵の人は〝富〟というのは紙幣が
沢山あることだと考えたり、あるいは土地や建物や物質が沢山あるのが〝富〟だと考えたりするのであります。
然しそれは本当の〝富〟では無いのであって、〝富〟の物質的幻影であります。

 本当の富というものは神様のお拵えになった実相世界、本当の世界、神の国にあるところの人間を幸福にするアイディアそのものが
〝富〟であります。神様は無限の〝智慧〟であり、〝愛〟であり、〝富〟の源泉であられますから、神の子たる人間が幸福に、豊かに、
健康に生活するために必要なあらゆるアイディアを持っておられるのであります。

 神様の、その人間を幸福にするアイディアの放送を、我々が受信機となって、それを受取ってそれをテレビの様に人生の画面に姿を
現わせば現実の〝富〟になって出て来るのであります。
 ある人が〝富〟を得ようと思って神様に祈りました。そしてこう言いました。
「神様私に百万ドルを与え給え」と、一心に祈りました。その人は紙幣が沢山有るのを〝富〟だと考えていたのであって、
紙幣さえ沢山有れば何でも出来ると考えておりました。その人は神様にどうぞ私に百万ドル与え給えと一心に祈りましたから、神様はその祈りを
聞き給うて、〝天の使〟を多勢集めて言われました。神様はこう言われたのです。

『皆さん、私は聖書の中で「求めよ、さらば与えられん」と約束しました。
ところが彼は私に百万ドルを与え給えと祈っているのであるから、それを与えなかったら私は嘘をついたことになるから、それで是非とも
お前達は此の神の世界を探し廻って、紙幣を百万ドル集めて彼にやってくれ』

 神の天使ーエンゼル達は、羽を拡げて神様の命令に従って、神の国中百万ドルの紙幣を探し廻って歩きました。
やがて天の使達は神様の前にやって来まして、『神様まことに申訳ございませんけれども、神様の御命令で此の実相の国じゅう探し廻って百万ドル紙幣を
集めようと努力いたしましたけれども、百万ドルどころか壱ドルの紙幣も見当たらないのであります。どういう訳かといろいろ考えて見ましたのですが、
実相世界には貨幣制度が無いのでございまして、紙幣を一枚も印刷したことがないので、いくら探しても見つからない訳がわかりましてございます』と言いました。

つづく

1882うのはな:2013/01/08(火) 00:30:57 ID:bnNIA3Jo

   第七十章 神の国の〝善きアイディア〟を得る祈り

 これは寓話でありますが、物質の富ばかり追いかけ廻している人達は、
此の愚かなる百万ドルの紙幣のみを求めている人と同じであります。物質の
富というものはそれは恰度太陽から来るところの光と熱みたいなものでありまして、
我々はそれを光と感じ、熱と感ずるのでありますけれども、太陽の世界へ行ったらあれは
水素の原子核融合によりまして、ヘリウムに原子転換するときの、その放射線が送られているの
でありまして、その目に見えない放射線が地球の人間界に入って来ると、それが光と熱とに感じられるのであります。

 それと同じように神様の世界にある人間を幸福にする善きアイディアが、肉眼に見えないけれどもそれが人間界に
入って来た時に、それが人間を幸福にする色々の〝富〟の形と変わって来るのであります。
 それゆえに皆さんが、富を得ようと思うならば、〝我に百万ドルの紙幣を与え給え〟と祈るよりも、次の如く祈るといいのであります。
その祈りの言葉は次の如くであります。

「私の天分にかないまする出来るだけ多くの人を幸福にする善きアイディアを与え給え。善き智慧を与え給え。そしてそのアイディアを実現
する力を与え給え」

 このように念じてから、多勢の人を幸福にする善きアイディアが光明燦然と輝きながら自分に天降って来る有様を、心の目でじいっと見つめて、
暫くそれに精神を統一してそれを既に受けたと思って「有難うございます」と感謝の語を念ずるといいのであります。
 実例をもって話したいと思います。今から約八年前、生長の家本部へ訪れて来た人があります。
その人はリコーというカメラ会社の社長であります。名前は市村清といいます。
市村清さんは私に面会を求めて「先生にもっと早くお礼に上らなければならなかったけれども、然しあまり事業が忙しいのでお礼に参上することが
遅れまして申訳ありません。本日、更めてお礼に上りました」と言われました。

つづく

1883a hope:2013/01/08(火) 07:11:19 ID:PzSu3pbw
新版 生活読本 谷口雅春先生著(日本教文社)
第十一章 心の花園に美しい花を咲かせましょう
◆明るい心には暗いものははいらぬ(p118)

たびたび云うようですが、吾々は心に明るい希望をもつようにしなければなりません。
なんでもよくなることばかりを考えるのです。

よくなることばかりを考えていれば、よいことばかり出てくるのです。
明るいことばかりを考えていたならば、わるいことは考えられなくなります。
人間の心は明るいこと、暗いことを一しょに考えることは出来ないのです。

つねに心に明るい希望をいだいておれば、暗いことや、陰気なことや、
悪いことは考えられませんから、自然によいことばかりが出て来るようになるのであります。
(つづく)

1884うのはな:2013/01/08(火) 12:49:08 ID:HwTu0TYs
>>1882

 市村さんは続いて言われました。
「今から三十年程前に、わたしは肺結核に罹って入院しておったんでありますが、その時は
結核の特効薬は未だ発明されていないので、もう結核に罹ったら死ぬ、もう特定の療法が無い。
空気療法、安静療法、医者の薬も気安めになるくらいで、段々悪くなって死に近づいておりました。

「ところが一人の友達が『生命の實相』という本を持って来て、君、これを読め、〝人間は神の子・病気は無い〟
という哲学が書いてある。病気本来無いという哲学が分ったら、そんな病気はけし飛んでしまう。
だから是非読めといって本を置いて行きました。それを読むに従って、人本来無病という哲学を知って、そして速やかに
病気が癒って私は退院して、今に到るまで三十年間一度も病気に罹ったことはありません。
ところがその『生命の實相』には、経済問題の事も書いてありました。
そして〝富〟を得るために如何に祈るかということが書いてありました。
それで私は毎日寝しなに神想観をして、祈ることを始めたのであります。

『生命の實相』に書いてある通り、こう言って祈りました。
〝私の天分にかないます出来るだけ多勢の人を幸福にする善きアイディアを与え給え。
そしてそれを実現する力を与え給え〟と祈りました」

つづく

1885うのはな:2013/01/08(火) 16:00:23 ID:Hn6nsTC2
>>1884 続

   第七十一章 祈りが叶えられるためにまず大切なことは

 皆さん、これは、〝典型的な祈り〟であります。誰でも天分にかなうものを祈らなければ
いけないのであります。バラの木がバラの美しき花を咲かしめ給えと祈るんだったら、その祈りをかなえられる
わけであります。然しそのバラの木が、杉の木が亭々と高く延びているのを見て羨ましがって「私はバラの木でこんなに
背が低いのでございます。あの杉の木のように亭々と高く伸ばして下さい」と祈っても、それは叶えられないのであります。

 もし、此の谷口がプロレスの選手になって、「どんなに強いプロレスの相手にでも打ち勝つような、筋肉隆々とした体格にならせて
下さい」と祈っても、それは叶えられないのであります。然しもし私が、「神よ、私の天分にかないますところの、人類の魂を救済する善き智慧を
与え給え、その真理を人類に普及する手段を与え給え」と祈ったら、そういう智慧と手段とは与えられるのであります。
そして、それは多くの人類を幸福にする智慧でありますから、その智慧が天降って来てそれを普及したら、自から富にもなるのであります。
併し、今は自分のことは言わないで、市村清さんの体験の話のつづきを言います。

つづく

1886志恩:2013/01/08(火) 16:53:31 ID:.QY5jUA6
 〜生長の家の「今の教え」の考え方は、「鶏肉」は「肉」ではない 
          という認識です。〜

生長の家青年会の、公式のホームページに、
「クリスマス・イヴをノーミートで過ごしませんか?」

  というスロ-ガンが掲載されてます。

【生長の家青年会では、12月24日を
「ノーミート・デー」と定めました。その間、肉食の弊害に関する情報や、

肉を使わない「ノーミート料理」をネットで紹介するなど、
肉食の習慣を改善するためのキャンペーンを展開します。】と載せているのです。

普通でしたら、どのご家庭でも
クリスマス・イヴの食事の主役は、なにを食卓にだすでしょう?

ずっと昔から、海外では「七面鳥の丸焼き」ですが、
日本では、主役は通常「ニワトリの丸焼き」(ローストチキン)と、決まっています。

しかし、生長の家は「ノーミート運動」をやっているので

その,習慣をやめましょう。肉を食べないクリスマス・イヴを,実践しましょう。
と、公式のホームページで,青年会 全信徒に、呼びかけているのです。

http://www.jp.seicho-no-ie.org/yyaa/no-meat/nm-111224-event.html

この写真には「牛」「豚」だけでなく、「ニワトリ」も「肉のなかま」として、写っています。

つまり、生長の家の信徒の多くは,鶏肉も、「肉」として認識していることになります。

純子先生のブログ”恵味な日々”の12月24日の
表向きの写真には、
純子先生が「お料理に腕を振るいました」というコメントを述べられ、

テーブルに並べられた表の写真には、主役である筈の【ローストチキン】はありません。

   【ノーミート料理の部分だけ】を写した写真を載せているのです。

これを閲覧された信徒たちは、

「さすが、ノーミートを推進されている純子先生でいらっしゃるわ。
ノーミート料理だけで、12月24日の誕生パーティをされたんだ」と、
勘違いして思うでしょう。

しかし、番記者様が,光明掲示板に、載せてくださった 裏写真 のほうには、

大きめの「ローストチキン レッグ」が、同じテーブル上の皿に、堂々と写っている。
テーブルの奥の方にも、いくつか写っている…

それで、な〜んだ、ということになりまして、

お二人の相変わらずの、隠蔽体質というか、言行不一致という点を、
光明掲示板のほうで皆様で、論議していたわけなのです。

鶏肉は肉ではないと,ご主張されるなら、主役であるローストチキンを
表の写真として、堂々と載せないのはなぜでしょう。

そして、先にも書きましたが
生長の家の公式の青年会のホームページに

「肉(ローストチキン)を食べないクリスマス イヴを実践しましょう」
などと、信徒に呼びかけたのは、なぜでしょう。

このような行為は、信徒からみたら、雅宣総裁先生ご夫妻に対して
いよいよ不信感を抱く恐れのある行為のように思います。

世間一般常識である「ノーミート」とは、いうまでもなく
「牛、豚、鶏肉」を食べない事をいいます。

今回判明したことによりますと、
雅宣総裁先生ご夫妻は、「鶏肉」については、「肉ではない」という
お考えだということが分りました。

純子先生の出版された肝腎のノーミートの本にも鶏肉は、肉ではない
ということも、ひとことも触れられていないのですが。

ですから、知らなくて,ノーミーとを実践せねばと真面目に捉えて
鶏肉も 食べない信徒の方々も、多くいらっしゃると思います。

そういうわけで、皆様、
今の生長の家の教えの考え方は、鶏肉は 肉 ではない、という考え方だそうですから
今後は,心置きなく 鶏肉 を 召し上がって下さいませ。

1887志恩:2013/01/08(火) 17:02:26 ID:.QY5jUA6
トキ様

間違えて、聖典版に書き込みました。
すみませんが、
1886と、ここの削除を お願いします。

1888SAKURA:2013/01/08(火) 17:30:31 ID:s5HxQYFA
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1653>>1654>>1661>>1674>>1675>>1744>>1753>>1765>>1779>>1780>>1783>>1792>>1792
>>1793>>1796>>1801>>1804>>1812>>1813>>1821>>1822>>1836>>1837>>1842>>1843>>1852
>>1875>>1876>>1879>>投稿の続きです…。
ここは、まるで【四 無 量 心 の 心 の 世 界 観】
日常生活面を、それなりに考えていきますと、私なりの「雅春先生の哲学」が見えまして、更に“人
生観”が〜〜実に!感慨深いものになりますので、私なりに「生命哲学…勉強会」を〜♫〜では“続き
投稿”していきます。「雅春先生の例え…」として、投稿されていらっしゃいました記憶があります。

■■『生命の実相哲学シリ−ズ…SAKURA論』  その①

======「生命の実相 37巻」からの抜粋 ====================
 人生の唯一の目的は神の国をこの世の実現するということである。神の国は天人常に
充満し、絶えず天鼓の響妙に、摩訶曼陀羅華の花降る世界である。
 
天鼓とは天の鼓ではない。人間の人を賞め讃える声である。曼陀羅華とはインドにある
華ではない。華の笑むように和やかな微笑、深切な言葉、思いやりのある行ないが天上か
ら降る曼陀羅華である。
 
これら天鼓と曼陀羅華とで飾られた妙なる世界の姿が天国である。天国とは別の世界の
ことではない。われらの思いと、言葉と、行ないとの中にある。   (谷口雅春著)
==========================================
■天国とは別の世界のことではない。われらの思いと、言葉と、行ないとの中にある。  

確かに、そう思います。今回の私は“東南アジアの風邪?”にかかり、医者から“皇室の方々”
もひかれた同様な症状なのです〜〜ョネ!この様に、病院に行って診察を受けまして、担当
医師の言葉を、聞きまして“ビックリ・マ−ク”でした。…が?実に、私なりに、
…風邪に至りました“経過報告”を、事こまやかに伝えましての【診断結果…】でした。…が?

【 初めて東南アジアの風邪? 】肺炎にまでは至らずこの事だけでも幸いで…空気感染です
から、今から急増の兆しのインフルエンザ対策も含めまして【煙草を吸われる方よりその周辺部
の人に影響…】とよく耳にしますが…益々と用心なのです…。
【煙草を吸われていらっしゃいますと、どうしても慢性的な気管支の炎症を起こしやすくなり、
空気の通りが悪くなるためしつこい「せき」の原因ともなり、更に2次感染として、第三者に、
空気感染にて細菌・ウイルスが侵入する事になりますので…今の【日本人の体力?】に、どの
ように感染しますかは、問題です。更に、“おかしな菌??”が、入ってきていますから、尚の
事【精神力は、前以上に強靭なる戦い!!】の必要性でしょうかと。??

つづく

1889SAKURA:2013/01/08(火) 17:32:11 ID:s5HxQYFA
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1653>>1654>>1661>>1674>>1675>>1744>>1753>>1765>>1779>>1780>>1783>>1792>>1792
>>1793>>1796>>1801>>1804>>1812>>1813>>1821>>1822>>1836>>1837>>1842>>1843>>1852
>>1875>>1876>>1879>>1888>>投稿の続きです…。

■■『生命の実相哲学シリ−ズ…SAKURA論』  その②

>>1888>> その① 投稿の続きです…。
■何故!どうして!【 国 際 運 動 】という言葉自身…もう一度考える必要性を感じ
ます次第です。…が?さて、今の状態が「現象…」なのでしょうか?私は、その状態を、
体験しまして、今回はこれを活かす事が【実相世界に入っていく】このような気持ちになり
今の私は、まだ、自分自身で“料理が出来る体力”に、まず【感謝…】し、口にご飯を通す
事も出来ます事に【感謝…感謝…していく内に、此処天国が見えてくるのでは〜〜〜?】と。

では【天国…は何処?】自分の“心の力量”にも見えるものですから、【地獄も天国も紙一重…】
なのでは〜〜〜と思いますモノ。そのように考えて行きますと、今の於かれた私は、きっと
潜在意識の中に、無意識な何かにしばられた“心…”が、何処かにあり、これが形としての
今回の【病気としての風邪…】になったのでしょうかと。きっと【私の心の影…】と思います。

今の私は、まず【現象人間の戦い…吸血鬼・ゾンビ達とのかかわりを一切もたない事!】で
しょうか〜〜〜>< 今だに、こちらが捕まえる心があるのでは?と思いながら、まだ!
まだ!【自分の“心…”での天国の量り…】を、見比べている処でしょうか???

■今回の私は、前以上に【心 の 法 則】の勉強中です。“言葉は神”ですので、
【天国は、まじかに、私の心にある!!広き門を広げる心…まるで天の岩戸をあける心】
この様な心境の私でしょうか〜〜〜???
                                  再合掌
PS: トキ様 へ
【天国とは別の世界のことではない。われらの思いと、言葉と、行ないとの中にある。】この
言葉…いかように思われますのでしょうか??当に此処【地上天国とするために…真理】を、
人々の心の中に“種”をまいていく事が「生長の家」の信者としての使命かと??
今日も、【ネット・ニュ−ス】にて、若者が【自殺…尊い命を…】本当に“悲しい出来事”です。  

http://mainichi.jp/feature/news/20130108dde041040007000c.html
■自殺:体罰受けた高2、自宅で バスケ部主将「顧問から」と手紙−−大阪

1890NANCY:2013/01/08(火) 17:59:59 ID:s5HxQYFA

トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
こんばんは…… ロ−マ字(大文字)の【NANCY】です。
>>1635>>1639>>1643>>1766>>1778>>1829>>1877>>の投稿の続きです。

===【谷口 清超 先生著】=============================

■ 困難と見えるものは、成功への足がかりである

「困難」と見えるものは、成功への足がかりなのだ。人間は、如何なる困難にもへこたれず
それを逆に活用し、そこから又と得難い教訓を学びとって、初めて立派な人間となることが
できる。
困難にうちひしがれることなく、決然として立ち上がろう。そして、生き生きと積極的に
生き抜いていこう。                  『真実を求めて』より     
============================================

■【困難…】この言葉は、だれしもが必ず一度は“脳裏”に浮かぶ言葉でしょうかと。つまり、
この時の、自分の“心…”は、すでに自分自身の“力…無限力”を、否定し、精神的には
「マイナス要因…ダメ!ダメ!」という気持ちにて、既にそこからが『負け組?』でしょうか?

【生長の家…無限力】この信念・意志力ですと、自ずからそれなりの“行動…”となりましょう。
私もこの“意志力…気薄”の時は、まず!【言葉の力…魔術】にて、自己暗示を入れます…。
【出来る!間に合う!…】何度も〜何度も〜脳裏にinput!!で〜〜〜す。

そうしますと…「心の持ち方…気持ちの上での変化」が生まれまして、次第に「プラス要因」の
心の方へと、方向転換です。こうなりますと“やった〜〜!次は”行動…“へと繋がりますモノ。

「清超先生の言葉」どおり、積極的思考にて、与えられた【人生…】を、前向きに進んでいく
この思いを、常に心に持ちたいと思います。…が? 
                                再合掌

1891goro:2013/01/08(火) 18:23:19 ID:nCo1DokU

皇室と国民 元侍従次長 木下道雄著
 昭和44年10月 財団法人 皇居外苑保存教会発行

 目次
1.まえがき
2.陛下と皇室財産
3.荒天下の分列式
4.鹿児島湾上の聖なる夜景
5.天皇とその御責任
6.皇居勤労奉仕発端の物語
7.敬重すべき二つのやまとことば「しらす」と「うしはく」
8.国民に対する陛下の御期待
9.あとがき

 1.まえがき

 我々日本人には、民族としての長い間の君民同和の歴史があり且つこれに伴う信仰がある。
終戦時、占領軍と共に国内に持ち込まれた「自由」と「民主主義」とに関する半知半解の鵜呑みの模倣は三十余年後の今日、果たして国内各地に意外な程の無秩序な混乱をかもしつつある。

元来、我々は海外のよきものを採り入れて之を活用することに特に優れた才能を持った国民である。儒教も採り入れた。仏教もとりいれた。これらは、ともに、国民の共同生活の上で、且つまた、一家、一族、一国の秩序、組織を固める上で非常に役に立った。

この経験を生かし、「自由」も「民主主義」も単なる模倣をやめ、われわれの叡智と信仰を以って、これをよりよきものに向上させ、以て世界平和の中核たらしめようではないか。
この国民運動を起こすに先だち、まず承りたいのは、陛下の御心境である。

  (註)
  「自由」も「民主主義」も口先だけでは何もならぬ。「教とまごころと信仰」とを以て必ずこれを包 
  をことを忘れてはならない。これを怠れば、世の中はたちまち混乱し、悪党横行の天下となる
  こと必定。民主主義の元祖の如くいわれるリンカーン大統領も米合衆国の南北戦争のさなか、
  ゲッチスバーグの古戦場跡の建墓式式典で「われわれは神のみ前に跪いて「自由」という言葉
  の意味を、もう一度よく考えなおしてみようではないか」と言う意味のことを聴衆に訴えているし、
  また「孟子」にも、仁義に関し、自重自由の重んずべきことを思わせる自暴自棄論があるでは
  ないか。

1892goro:2013/01/08(火) 18:33:12 ID:nCo1DokU
 私は大正十三年の夏、三十七歳の時、内閣書記官から東宮事務官兼東宮侍従に転任を命ぜられ、親しく東宮殿下(今の天皇陛下)の御身辺に侍することとなった。友人などからは、さぞ窮屈だろうなどと同情の言葉をもらったこともあったが、私としては始めこそは、見るもの、聞くもの、皆珍しく思ったこともあったが、だんだん落ちついてくると、ちょっと暫く海外旅行をしてきた者が久しぶりで日本の港の土を踏んだときの気持ちのようなものを感ずるようになった。
 
 それは、こここそは、ほんとうの日本だな、と言うような気持ちだ。なぜそんな気持ちになったか、その理由を尋ねられてもちょっと説明はできないが、とにかく、そんな気持ちになったことは事実であり、思えば不思議な事である。私が転任したのは東宮殿下御結婚直後のことであり、殿下のお年が二十三、妃殿下(今の皇后さま)のお年が二十一、おん父君、大正天皇が久しく御病気であらせられたため、東宮殿下が天皇に代わって摂政のお仕事をしておいでになったときであった。

 両殿下の周囲には珍田東宮大夫、入江東宮侍従長、奈良東宮武官長、島津東宮女官長という年長のかたがたは別として若い連中としては東宮侍従が七人、東宮武官が陸海各二人、東宮女官が五人、侍医が四人いたが、これらの者は各一人づつ宿直するのが定めであった。当時、両殿下のお住まいは今の赤坂迎賓館であり、正面から向かって右半分が置く宮殿、左半分が表宮殿として使われており、摂政殿下の御政務室、謁見室その他東宮職の事務室、宿直室等は全部表宮殿にあり、奥宮殿は御家庭向きのところとして使われていた。

夜、我々が宿直をしながら雑談をしていると、ときどき、殿下が仲間入りをなさる。われわれは殿下が仲間入りをなさったからといって別段四角張りもしなかったが、ただ他人の批評特に悪口は絶対につつしむことに申し合わせていた。その内に私は、はっきりした解決がつかないまま、一抹のの疑問を胸中に抱くようになった。それは何かというと、世の中には身分の高い貴族の家や大金持ちの家に生まれ、幼少のときから多くの召使に世話を受けて育った人で非常に聡明な人物も少なくないが、残念ながら殆んどが一種の通弊を持っている。それは何かというと、周囲の人々に対する好き嫌いの感情が露骨に顕れるということで、自分では努めて抑制しているつもりでも、どことなく、それが現れてくる。

ところが、殿下は常に十数人の男たちに囲まれておられながら誰彼への好憎の念をいささかもお持ちにならない。そこで私はひそかに考えた。殿下に限ってこの共通の弱点をお持ちにならないということは一体何に起因するのであろうか。殿下の御幼少の頃から殿下をお預り申して専心その御教育につとめたのが東郷元帥、乃木大将、杉浦重剛先生の諸氏であるから、その懸命の努力の結果であろうか、それとも、これが皇室の御伝統であろうか。

1893goro:2013/01/08(火) 18:34:12 ID:nCo1DokU

 たまたま、その秋、殿下は京都に御旅行になり、京都御所内にある仙洞御所に一週間御滞在になったことがある。京都御所内には数棟の土蔵があるが、その内の一つ、別に目立たぬ普通のお蔵のようであるが。これが所謂東山御文庫で皇室にとっては非常に大切なお蔵である。扉には勅封が施されてあり、毎年秋季に東京から特に侍従が差し遣わされ、開扉の上約一ヶ月かかって内蔵品を曝涼するのが霊となっている。内蔵されているものは御歴代の宸翰、旧記の類である。

 殿下の京都御滞在が、ちょうど、この曝涼期間であったため、一日、殿下はお蔵拝見においでになった。私もお供をしていたため内部を拝見する機会を得たのであるが、多くの陳列品のうち、たまたま私の目にうつったのが光格天皇の御書簡であった。明治天皇より三代前の光格天皇は幼少僅か九歳で閑院宮家から入って継がせられ、御先々代、御桜町上皇(女帝)の並々ならぬ御訓育を多年に亘り受けさせられた次第であるが、御年二十九歳のとき、その上皇に対し、したためられた御書簡がこれであった。別にゆっくり拝読したわけではなかったが、

「仰せの通り、身に欲なく、天下万民をのみ慈悲仁恵に存じ候うこと、人君たるものの第一の教云々」

のお筆の跡に、私は一瞬電撃を感じた次第であった。大江戸城によって天下を睥睨する徳川幕府全盛の時代にあって、三十六峰に包まれた、ここ京洛の地、清くさやけき御所のうちには、人知れず寂かに天下万民をのみ念とせられる御精神が脈々として皇統のうちに流れていた長い年月のあったことを初めて知り、私はおのずから身の引き締まるのを覚えた次第であった。

 右の御書簡の外、色々なお歌等を拝見しているうちに、私は大いに覚るところがあった。東山御文庫に充満する空気は「無私、ただ、くにたみを念う」の一言に尽きる、と私は観たのである。その夜、京都市民の盛大な提灯行列が催され、一群また一群と数万の人々が仙洞御所の御門前を通り、万歳の声は広い御苑内を埋め尽くした。

 殿下は提灯片手に御門のところに立たせられて歓呼の声にこたええられ、私もお側におったが、そのうちに私の両眼から玉のような涙が次から次へと出てきて、何ともしようがない。いくら暗がりでも、あたりの人に余り恥ずかしいので、私は提灯の列を横ぎって反対側の人のいない芝生に逃れでて遠慮なく泣いた。

1894a hope:2013/01/09(水) 07:08:56 ID:PzSu3pbw
新版 生活読本 谷口雅春先生著(日本教文社)
第十一章 心の花園に美しい花を咲かせましょう
◆悲しい事よりも嬉しい事の方がたくさんある(P118〜)

前にあった悲しいことを考えるな。
それはもう過ぎさってなくなったものなのです。

自分を害した人を考えるな。
それも、すでにすんだのです。
今、自分は幸福だと考えなさい。

どんなに悲しいことがあっても、それは一つではありませんか。
もう一つ悲しいことがあるというのですか。
それをあわせても二つではありませんか。
しかも、それは、今ではないでしょう。
それは昨日のことか、一時間前のことか、十二分まえのことか、ともかく、もう、すんだことでしょう。

嬉しいことは一つや二つではないではありませんか。
お父さんもいらっしゃるし、お母さんもいらっしゃるし、家もあるし、洋服もあるし、靴もあるし、本もあるし、御飯も食べられるし
……まだまだうれしいことがたくさんあるではありませんか。

そんなに嬉しいことが、たくさんあるのに、一つや二つの悲しいことばかりを考える必要はないではありませんか。
悲しいこと、暗いこと、腹の立つことは心に中からすてましょう。
そして、よいことばかりを、うれしいことばかりを、心に花園でそだてましょう。
(後半につづく)

1895a hope:2013/01/09(水) 07:11:56 ID:PzSu3pbw
>>1894のつづき)
心のお庭には、うれしい花を植えましょう。
悲しい心は雑草ですから、ぬきすてましょう。
腹の立つのも雑草ですから抜きすてましょう。

たのしい思い出だけをのこしておきましょう。
つねに、自分はうれしいのだ、幸福なものだとお考えなさい。
自分をかわいそうなものだと思ってはなりません。

人間は思ったとおりになるのですから、自分を幸福なものだと考えたら幸福になります。
つねに、自分は幸福だ、今までどんなことがあったにしても、
もう此の『生活読本』を読み出したら幸福になるより仕方がないと信じなさい。

一日かならず十ページは、よい本を読むように心がけなさい。
その十ページがきっとあなたの心に元気をつけ、勇気をださせ、心を美しくし、
一しょうけんめい勉強する力を出させてくれます。

つまらない本をよむと、心の中につまらない事がつめこみますから、
一年二年とたつうちには、あなたはつまらない人間になってしまいます。

毎日十ページでもよい本を読めば、あなたの心に毎日よい事がつめこまれますから、
一年、二年とたつうちには、あなたはきっと立派な人になっています。
(つづく)

1896a hope:2013/01/10(木) 08:08:53 ID:PzSu3pbw

「久遠生命」の神示
(無相円相一切相の神示)

吾が臨(きた)れるのは物のためではない、生命のためである。
肉のためではない、霊のためである。
これを覚(さと)るものは少ない。
物の生滅に心を捉われ、物が殖えたときに信仰を高め、物が減ったとこに信仰を失い、
身体が健康になったときに神を讃(たた)え、家族の誰かに病苦が起ったと云っては信仰を失うが如きは、
神を信じているのではなく物を信じているのである。
物は結局移り変わるものであるから、物の御利益の上に建てられた信仰は、物の移り変わりによって壊れるのである。
神が病気を治して見せるのは、肉体は心でどうにでも移り変わらせることが出来ると云う事実を見せて、
『体(たい)』は念(こころ)の影だと云う真理をさとらせるためである。
念の影だと云う『体』とは肉体ばかりのことではない。
幽体も霊体もすべて念の影である。
『死は無い』というのは肉体のことではない。
現に肉体細胞は刻々死滅し流転している。
生き通しであるのは、斯(か)くならしめている『生命』のみである。
『生命』のみが吾れであり汝であり、そのほかに吾れも汝もないのである。
此の『生命』をみたまと云う。
みたまの形は珠(たま)のように真ん円いからみたまと云うように解するものもあれども、真ん円いのは形のことではない。
神は本来形無く、空(くう)のうちに円満具足して自由自在であるから仮に称して円相と云うのである。
自由自在なるが故に或る時は竜神の姿を現じ、また或る時は衣冠束帯の姿を現じ、或る時は天使天童の姿を現ずる。
いずれの姿も権化(こんげ)であって偽(いつわり)ではない。
しかし一つの形に執(しゅう)して、それのみを吾であると思うものは、吾が真実を知らざるものである。
吾が全相を知らざるものである。
汝ら心して真(まこと)を知れ。
汝たちも神の子であるから我れと同じきものである。
肉体は汝の一つの現れであって汝の全相ではないのである。
(昭和七年四月十日、神示)

感謝 合掌。

1897a hope:2013/01/10(木) 08:47:14 ID:PzSu3pbw

(帰幽の神示)

汝の肉体は汝の念弦(ねんげん)の弾奏する曲譜である。
生命が肉体に宿ると云うのは二元的な考え方であって真理ではない。
正しく言えば生命はその念弦の断ずる曲譜に従って肉体を現すのである。
肉体と云い、複体と云い、幽体と云い、霊体と云うはこれ悉(ことごと)く念の映像に過ぎない、
汝の念譜(ねんぷ)の種類に従って或いは肉体を現じ、或いは複体を現じ、或いは幽体を現じ、或いは霊体を現ずる。
すべての人はいつかは肉体を失うであろうが死ぬのではない。
人は神の子であるから不死である。
念譜の形式が変るに従って汝の仮有(けう)の形式が変るのである。
すべての人の仮有は念の異(ことな)るに従って、その顕現を異(こと)にする。
念の形式に大変動を生ずれば、汝の仮有は高いに顕現し、今迄の念の顕現たる肉体は速かに自壊自消(じかいじしょう)する。
これを人々は死と呼ぶが死ではない。
それは『生命』が念の弦をもって一曲を弾じ終ってそれを止め、他の奏曲に移らんとするにも等しい。
『生命』の弾ずる念の曲譜の形式に大変動を生ぜず、その念弦の律動にただ調和を欠きたるのみなるを病と云う。
かくの如き病は、念弦の律動の調子を直せば治るのである。
併(しか)し如何にもその念弦の律動正しくとも初歩の一曲は必ず終って一層高き形式の曲譜を学ばねばならない。
吾が云う意味は、地上の生活は必ず終らねばならないと云うことである。
地上の生活は汝の初歩の一曲である。
速かにこれを終るものは、初歩の教本を速やかに終えたものである。
一曲が終らんとするを悲しむな。
それはなお高き一曲に進まんがためである。
その前に調律者が来て汝の念弦の調子を正すであろう。
この調律のために一時汝の仮有は調子ならぬ調子を奏でるであろう。
此の世の一曲が終る前に肉体の調子が乱れたように見えるのは此の調律のためであって真(しん)に調子が乱れたのではない。
汝らかくの如くして次第に高き曲譜に進み行け。
一曲は終るとも弾き手は終るのではない。
弾き手は神の子であって不死であるぞ。
(昭和六年六月二十六日、 神示)

感謝 合掌。

1898さくら:2013/01/11(金) 03:50:56 ID:VxpE5cyY
合掌ありがとうございます。

本日は、『聲字即實相の神示』が天降った日です。

改めて謹写させて頂きます。



1899さくら:2013/01/11(金) 03:51:26 ID:VxpE5cyY
 『聲字即實相の神示』    谷口雅春先生
 
            吾が第一の神殿は既に成れり。
名付けて『生命の實相』と云ふ。
完成の年になりて吾が第一の神殿が完成するのも生命の顕現には周期的波動があるからである。
七つが事物の顕現の周期律になつてゐる。

吾れに神殿は不要であると嘗て示したことがあらう。
吾は道(ことば)であるから、吾が道(ことば)を語るところに吾が神殿は築かれる。
吾が道(ことば)を載せた『生命の實相』こそ吾が神殿である。
『生命の實相』は吾が本體であり、無形の『生命の實相』を形にあらはしたのが『生命の實相』の本である。
『言葉』を載せた書物を『本』と云うのも、『言葉』こそ事物の本であり本質であり、本體であり、本物であるからである。
『言葉の宇宙』が先づ出來て、『形の宇宙』がその映像(かげ)としてあらはれるのである。

今迄の宇宙は、『言葉』が實相を語らず、不調和で濁つてゐたから、宇宙の萬物の運行が亂れて生活苦や、病氣や、天災や戦争など色いろ不調和なことばかり起つたのである。

『生命の實相』の本が出た以上は、言葉が實相を語り、善き圓滿な調和した言葉の『本』が調うたのであるから今後は何事も急轉直下する。

『生命の實相』を披らくだけで病念は去り、煩悶は解決し、人々ただ自己生命の實相を知り歓喜踊躍して手の舞ひ足の踏む所を知らないに至る位はその三番叟に過ぎない。
その歓びの相こそ人間の生命の實相である。

吾が道(ことば)を『生命の實相』と呼ばしめ、それを本の形にして、披らいて讀むものにさせたのも象徴的因縁あることである。
『生命の實相』を展開けば形の理想世界が成就するのである。

今は過渡期であるから、假相(かりのすがた)の自壊作用として色色の出來事が突發する。
日支の戦ひはその序幕である。
神が戦ひをさせてゐるのではない。

迷ひと迷ひと相搏つて自壊するのだ。
まだまだ烈しいことが今後起こるであらうともそれは迷ひのケミカライゼーションであるから生命の實相をしつかり握つて神に委せてゐるものは何も恐るる所はない。

(昭和七年一月十一日神示)

1900a hope:2013/01/11(金) 08:05:08 ID:PzSu3pbw
新版 生活読本 谷口雅春先生著(日本教文社)
第十一章 心の花園に美しい花を咲かせましょう
◆父母に立派な本を選んでもらいなさい

どんな本が立派な本かは、お父さんや、お母さんや、先生が知っていられます。
よい本は出来るだけたくさん買ってもらいなさい。

本というものは、「心」が外の景色を見るための窓のようなものです。
私が中学生の時分には、中学に図書室(本をならべたへや)がありまして、
昼の休憩時間に一しょうけんめい読んだものです。
それが今でもたいへん私の役に立っているのであります。

「本のない部屋は窓のないようなものだ」といった人もあります。
よい本がならんでいるのを見るだけでも、自分の心に楽しいよろこびをあたえるものです。

よい本をしっかり読まない人で、立派になった人はありません。
ほかの玩具(おもちゃ)や、遊び道具を買ってもらうよりも、よい本をお父さま、
お母さまに買ってもらって、それをつねに読むように心がけなさい。
(つづく)

1901通りすがり:2013/01/11(金) 08:40:37 ID:???
>>1899

一行目の「吾が第一の神殿は既に成れり。」は、中央揃いでよろしいですか?

1902goro:2013/01/11(金) 11:45:39 ID:nCo1DokU
>>1893の続き

 殿下は、この万歳の声を、どんなお気持ちでお聞きになっておいでになるだろうかと思うと、涙が止まらない。今日の昼、ごらんになった東山御文庫内の烈々たる芳香は、いま殿下を厳しく且つ暖かく包んでいるに相違ない。いま聞こえるこの万歳の歓呼の声は、結局は歴代の聖天子の御余得に対する京都市民の感謝の声ではないか。積徳の余栄に、いま、このお若い殿下が酔われてはならぬ、と思うと、居ても立ってもいられない気持ちになった。

やがて提灯行列も終り、殿下は御殿にお帰りになったが、泣きぬれた私は、もはや人に顔を見られたくないから、そっと後から御殿に足をふみ入れはしたが、明るい室には顔を出すのも恥ずかしく、薄暗い廊下で、ありあわせの巻紙を引き割いて、鉛筆で自分の思うところを、無遠慮に且つ露骨に、したためていた。

先刻から私が姿を消してしまったのを心配して、広い御殿の中を捜してくれていた先輩の西園寺御用掛が、薄暗い廊下で私を見付け、声をかけてきたので私は余計なことは云わず、ただ、これを殿下に、と私の書いた紙片を同氏に渡したまま、私は旅館に早々に退出してしまった。床に横たわっても興奮は治まらない。自分は奈良に正倉院という世界的に有名なお蔵のあることは知っていけれども、この京都の御所の内に、かくも立派な東山御文庫のあることを少しも知らなかった自分の愚鈍を憐れむと共に、長い年月の間、静かに流れつづけてきた、この皇統無私の御精神に対し、知らぬこととは云いながら、いささかの感拝の念をも起こしたことのなかったことは、誠に相すまぬことだったと思う自責の念に深くさいなまれた。

翌朝、御殿に参上すると、西園寺先輩が「君、殿下に鉛筆の走り書きなどを上げるのは失礼だよ」と新米侍従の私をたしなめながらも、「だから僕は、あれを殿下に読んでおきかせしたよ」と、誠に行きとどいたことをしてくれた。後で殿下にお目にかかったら、大そう真面目なお顔つきで「昨晩は、よいことをいってくれて、ありがとう」とお小言の影すらもなかった。

長い間、私が考えつづけてきた心中の疑問は、この一瞬に解決した。皇統無私の御精神は、そのまま殿下がうけついでおいでになる。これに磨きをかけて差し上げたのが東郷、乃木、杉浦の諸公だ、というのが、この時から私の確信となった次第である。思えば、私が若き日に、お供をして東山御文庫内で、光格天皇の御書簡を拝見したという一事は私にとっては忘れがたいことであり、爾来私が日本皇室の伝統的御精神ということについて特別の関心を持つようになったのも、このためではないかと思っているし、また、古文書の保存ということが、いかに大切であるかということを思い知らされた次第でもあった。

1903さくら:2013/01/11(金) 12:27:46 ID:VxpE5cyY
>>1901
通りすがり様

ご指摘、ありがとうございます。

実は、いつもはじめの文字のスペース一つでは、一マス空けることができなくて、
余分にスペースを打ちすぎてこのようになりましたという、…ミスです。
ひとマス空けて、左揃えで読んで頂けましたら、有難いです。

せっかくの神示が、見づらい様子になりまして、申し訳ありません、



これからもご教示、よろしくお願い申し上げます。



1904通りすがり:2013/01/11(金) 14:54:22 ID:???
>>1903
さくら様

お返事ありがとうございます。承知いたしました。
あと、普通ならちっちゃい「っ」だと思いますが、旧仮名遣いだから大きい「つ」になっているのでしょうか?
細かいことを申し上げますが、お許しくださいませ。

1905さくら:2013/01/11(金) 17:04:47 ID:VxpE5cyY
>>1904
通りすがり様

はい、ご指摘の通りです。

旧仮名遣いであるので、
例えば、「なっている。」のちっちゃい「っ」が、「なつてゐる。」と表記されておりました。

行き届いた配慮で、目を通して頂きまして、ありがとうございます。

どうぞよろしくお願いいたします。




1906うのはな:2013/01/11(金) 22:06:58 ID:DYtKCfk2
>1881 生長の家入門講義 『生長乃家』 誌 谷口雅春先生

 1881から続けて謹写させていただいてきましたが、都合により
 中途で終了します。
 関連する話が光明掲示板にありましたので御参照下さい。

  http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&amp;mode=res&amp;log=1037

1912さくら:2013/01/12(土) 07:05:27 ID:77/ZZxYM
『静思集』 谷口雅春先生



「潔く生きると云うこと。

潔く生きるとは我と云うものが無くなることである。
一寸でも我があったら潔くなれない。
潔くとは一寸も引っかからずにサラリと水のように神様のみこころに流されて行くことである。

「法、法の中に住せず」と云う語『観普賢菩薩行法経』にあるが、
萬法すなわち萬ずの現象が、住まらず、
流水のように引っかかりなく、はからい心なく、そのままに流れ行くことである。
我があっては、そう云うように引っかからずにいる訳には行かない。

我が無くなったのが佛である。
我と云う固塊がほどけてしまって、ただ「神」がうちから湧き出て来ることである。
強いて言えば、「衆生の内から湧き出て来た神」がほとけである。
「ほとけとは衆生が悟りを開いたものである」と云う意味は斯う云う意味である。

衆生が悟りを開いて佛となるが、その佛なるものは、
同時に超越的なところにあって、この世界をあるべきようにあらしめているところの神である。

此の世界をあるべきようにあらしめていることを此の世界を「神が造った」と云うのである。
そして、その神を創造神と云うのである。

こう考えて来ると、衆生の内から湧き出て来るところの内在の神(佛性)と、
この外から、又は超越的なところから、この世界をあるべきようにあらしめていること「神」とは、本来「一つ」である。

神佛一體論は斯うしたところからも頷ける。」

1913SAKURA:2013/01/12(土) 14:08:11 ID:U9ONro8Y
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ

こんにちは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1653>>1654>>1661>>1674>>1675>>1744>>1753>>1765>>1779>>1780>>1783>>1792>>1792
>>1793>>1796>>1801>>1804>>1812>>1813>>1821>>1822>>1836>>1837>>1842>>1843>>1852
>>1875>>1876>>1879>>1888>>1889>>投稿の続きです…。

ここは、まるで【四 無 量 心 の 心 の 世 界 観】
日常生活面を、それなりに考えていきますと、私なりの「雅春先生の哲学」が見えまして、更に“人
生観”が〜〜実に!感慨深いものになりますので、私なりに「生命哲学…勉強会」を〜♫〜では“続き
投稿”していきます。「雅春先生の例え…」として、投稿されていらっしゃいました記憶があります。

■■『生命の実相哲学シリ−ズ…SAKURA論』 その①
======【生命の実相 37巻】からの抜粋 ====================
『生命の実相』を読んで薬を廃めて病気の治る人もある。薬を廃めないで治る人もある。
またかえって薬を拝んで服むようになり、心境の一変とともに病勢とみに減ずる人もある。
これはその人のひとりひとりの心の悟りである。刺身包丁を見て、それで人殺しをする人も
あれば、自殺する者もある。また包丁は包丁だけに魚肉だけを料理して喜ぶ人もある。先
日はまた医師がメスを出すのを見て発狂して鉄道自殺を遂げた美貌の若き母があった。そ
れはまたその人ひとりひとりの心境の問題である。たまたま包丁で人殺しをしたり、メス
を見て発狂または自殺をしたりする人があるからとて、包丁やメスは危険であるからとい
って、その発狂や所有を禁止したり、メスや包丁を殺人罪で告発したら滑稽であろう。
『生命の実相』には病人に対してむやみに医薬の服用を止めよと書いたところは一句もな
い。たとえば『生命の実相』の巻頭の神示には、
 「もし病人にして医薬を服用する者あらんにはそれを四口に分けて飲み、この同じ想念
をなして飲めば病必ず速やかに癒えるのである。すべての他の人の罪を赦すは、吾らの
過ちをまた大生命なる神より赦されんがためである。もしわれらが心を閉じて他を赦
さなければ、大生命の癒能もまた閉ざされてわれらに流れ入ることはできないのである。」

 この『同じ想念』をなすというのは「一口目を手にしては、これ今まで過ちて人に対して
憎み怒りし自己の罪が神によって赦されんがための供物であると念いて服み、二口目を手
してはこれすべての人の罪が神によりて赦されんがための供物であると念いて服み、三
口目を手にしては是れ神の護りによりて自己が再び隣人を憎み怒るの罪を犯さざらんがた
めの供物であると念いて服み、四口目に一杯の飲料を手にしてはすべての人の罪をこの水
のごとくわが心より洗い流して心にとどめざらんがための象徴(しるし)であると思って
服(の)む」べきことがその前行の文章に書いてあるのである。

 これは薬物服用の際における心の持ち方の懇切なる指導である。それが『生命の実相』
の、特に巻頭に書いてあったのは、それが重大な事柄であるからである。近代のサイコア
ナリシス(精神分析)は観念泄瀉が心的原因の病気の治療に大いなる効果のあることを証明
した。この神示にははっきりと書いてあるところの方法は、医薬の服用と同時に観念泄瀉を
行なう方法であるともいえるのである。
                   つづく

1914SAKURA:2013/01/12(土) 14:10:18 ID:U9ONro8Y
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんにちは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1793>>1796>>1801>>1804>>1812>>1813>>1821>>1822>>1836>>1837>>1842>>1843>>1852
>>1875>>1876>>1879>>1888>>1889>>1913>>投稿の続きです…。

■■『生命の実相哲学シリ−ズ…SAKURA論』 その①
>>1913 その①の投稿の続きです
■『生命の実相』は現に医薬を服用していない者に
「医薬を服め」とは勧めてはいないが、「病人にして医薬を服用する者あらんには……かく
かく心持にて服め」と書いてあるのであって、「服むな」とか「その服用を廃せよ」とは書
いてはない。しかるに『生命の実相』を読んで、薬を廃める者があるのは、仏教的真理「色
即是空」(物質本来無し)、または諸法皆空(現象本来無し)の思想に目覚めた結果、自己内在
の生命の自然超能力に頼ることを重んじて物質的薬剤に頼ることを軽視するようになる
からである。                (谷口雅春著)
==========================================
■今年の年頭から“風邪?”にかかり、昨日(11日)まで【検査の結果…】が分かるまで、
自宅療養でした。昨日にて検査結果の中身が分かり、一安心です。(ホッ〜☆)検査はまだ軽症
との事で…飛沫感染によるモノであり、喘息にもかからずよかったと思います。【感謝…】
やはり細菌がまだ体内に少しあり、もう少しで、完治する様ですが、本当にこのような“風邪”
今までの中で初めてでした。たまたま数日前、少し快方に向かい【神社のお札】だけは?
年明けて勿論「亡き母」の事もありますが…一度も神社へ伺う事もできず「自宅待機…」で
した。そして9日に体調がいいので、何となく行く事に、その帰り、また“フラ〜〜〜?”と
してしまいますから「コ−ヒ−ショップ」により休憩しますと!><10分もたたずに、
“変な?変な?仲間”が場違いかと思う人が?隣に坐り…一瞬の感にて?【吸血鬼仲間…】と
分かり“コ−ヒ−”も飲めずに、その場を立ち去りました。…が?体調が、幾分ふらつき状態
ですから、また、もう一軒の「コ−ヒ−店(ドト−ル)」に立ち寄りますと、また15分後に
今度は【吸血鬼…男自身?】が、変態みたいに寄ってきますから、私達は、あわてて立ち上がり
その場から逃げ去った状況でした。その間、一瞬でありますが飛沫感染にて、相手の細菌が強く、また幾分ぶり返しの状態です。【吸血鬼達…?】は自覚がなく、病院にいっても担当医に病気の
症状を明確に伝えないのが実情かと?果たして“説明”が〜〜〜?【尾行でも…感染かと】

■ある担当医師は、このような“人種?”がいて、通院に来てなく困りモノ!!更に、
飛沫感染症の場合は、周囲の人の事も考慮するのが「人間としてのモラル」とおっしゃつて…
【吸血鬼達…】は、単なる“風邪…”だろうと、安易な考えにての行動でも、最終的な結果は、
かなり悪いのです〜〜〜ョネ!この様な人が、此処九州は、自覚のない人が多くて、今回の
“風邪…”も確かに…
■【生長の家の御教え…病気はない!!】と自覚しても、一応【神の警告…】として、私どもに
“予防対策のお知せ”だと、今回思えたのです。…が?先日は「東京のホ−ム・ドクタ−」先生
が、旅行中で留守でしたから、東京の行きつけの「薬剤師…」に問い合わせますと【大丈夫…】
ホ〜ッ☆と…安心して服用しました。【感謝…】この様に“薬…”も時と!場合!には、やはり
【神様の導き…】と思い、今は、服用出来る事に、ただただ【素直に感謝…】して服用していき
ましたが、更に、今日からはまた
❤〜【医者の薬の勧めに従いまして…神の導きによります処の“一口目”〜〜〜“四口目”に
実行していきます】この事に【感謝…】の念が……
本当に今回の“風邪症状”は軽症にて済みまして【大安心…】でした。きっと、あの日
一生懸命【先祖供養…】しました時、いつもより“ロ−ソクの減り方”が早くて??もしかし
ますと【義春様…が私達は?どんな人物かと?見に来て下さいましたのでしょうか???】と、
ついつい思いましたが、今回は【感謝して…素直に薬に依存】しました次第です。…が?

■「医薬を服め」とは勧めてはいないが、「病人にして医薬を服用する者あらんには……かく
かく心持にて服め」と書いてあるのであって、「服むな」とか「その服用を廃せよ」とは書
いてはない。…この“言葉”がしっかりと潜在意識に入りましたかと。
                                再合掌

1915a hope:2013/01/14(月) 07:13:45 ID:TqpbsVIM
新版 生活読本 谷口雅春先生著(日本教文社)
第十一章 心の花園に美しい花を咲かせましょう

・本は先生よりも十倍安くてためになる


よい百科事典(なんでもあるじびき)や、歴史の本や、生長の家の『人生読本』や、
清超先生の童話『黄色い灯台』などは、つねに机のそばにおいて読むようにしますと、ためになります。

たのしみに、十ページ、二十ページと読んでいるうちに、いつのまにか、よい先生についているよりも、
もっと自分に力がつき、もっと自分の心が美しくなり、深切なよい自分になってしまうのです。

本というものは、それを書いた人が、自分の知っているうちで、
一番立派なものを書いて出しているのですから、学校の先生について習う時間の十分の一ぐらいの時間と、
十分の一位の費用で、もっと立派な智慧と、よい心とを植えつけてくれるものなのです。
(つづく)

1916うのはな:2013/01/14(月) 13:49:10 ID:O14KGmdU

      太陽の讃歌

 わたしが昔見た光は 月光帯びて幽谷を流れる水であったのに
 今わたしの見る光は 旭日を映した真赤な大海洋になっている
 いつのまに 
 こんなに大きな海原に出て来たのか私は知らない
 
 ただわたしは
 海の波のその一つ一つが 唇をそろえて太陽をたたえる
 その讃歌を聞くのみだ

 ああわたしも
 太陽を讃えたくなった 太陽をほめる千万の波の唇と共に
 わたしも声をそろえて 生命の讃歌をうたおう

 『ひかりの語録』より  谷口雅春先生著

1917うのはな:2013/01/14(月) 15:59:45 ID:j/a0WopM
   「保守」の本当の意義について

 神は無限であり、その無限内容を常に新しき創造をもって顕現したまうのである。
陳きものは謝り行き、新しきものが常に創造せられつつあるのである。
 私たちは陳きものが新しきものによって取って代られることを悲しんではならないのである。

 けれども私たちは神の創造の根本構図を破壊することを「新しき創造」だと考えちがいしてはならないのである。
例えば、人体の根本構図は胴体を中軸として四肢が適当な位置に適当な長さで調和した姿で備わっている筈なのに、
それが人体の根本構図であるのに、サリドマイド睡眠剤を服用した母親から生まれた奇形児の如きは、これまでになかった
両腕の不足している「新しき形態」であるけれども、それは「新しき創造」ではなく、歪められた創造であり、神の創造であり、
神の創造の根本構図が破壊されたイビツの姿であるに過ぎないのである。

 これは一例であるけれども、何でも破壊して「新たなる形」を表現するのが「新いい進歩」だとか「革新」だと思ってはならないのである。
前衛書道や、活け花のオブジェというものの内には、このようなサリドマイド的奇形があるのである。ここに真の「保守」が却って本当の尊さの
あることを知らなければならないのである。

「保守」とは決して何でも古いものを踏襲するというような浅い意味ではないのである。
「保守」とは本来の「神の構図」を崩さないように守りながら、その構図の線に則って新たなる発展をなすことなのである。
人体が躯幹四肢を完全に備えながら、それが貧弱ではなく益々その美を発揮するようなものである。

 それ故に私は今日、次の如く、真理を心の中に吟唱するのである。

〝神の構図われに流れ入り給いて、わが人體は益々美しく強健となり、わが為すことは神の愛に
かなうところの自ずからなる善行となるのである。ありがとうございます〟


 『白鳩』五月号 昭和四十六年 谷口雅春 先生 ○ 投稿者現代字に変更写 拝。

1918NANCY:2013/01/14(月) 22:34:19 ID:2h8iqLlY
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
こんばんは…… ロ−マ字(大文字)の【NANCY】です。
>>1635>>1639>>1643>>1766>>1778>>1829>>1877>>1880>>1890の投稿の続きです

===【谷口 清超 著】================================
 
■すべての物は、みな一つの神の命のあらわれである。
 
万物は本来みな「神」である。その根本を忘れ、神を否定したり無視したりして、
地球の万物を単なる物質だとみて暮らすことから、“エネルギ−浪費”の方向に文明を
推し進めて行ったのである。
この点を強く反省し、現象の奥に宿る「神」への感謝・礼拝・報恩を忘れないことが
大切である。                  『一番大切なもの』より

============================================

■私達は、今日の生活基盤は【自然との共存である地球…】この事自体を【唯物論…】的な
捉え方をしている人もおおいのでしょうか?今日は、関東方面の気象は【大雪…】とのこと。
それにはそれなりの“エネルギ−(暖房)”が必要になりますでしょうかと。例えば……
石油・ガス・原子力エネルギ−…昔の木炭・石炭…etcも含めまして?
このエネルギ−も「神の国にからの宝物」として【感謝…】を忘れない事が…
如何なる状況になりましても必ずや「神の賜物」を受け取ることになりますでしょうかと。

先日の【中国の大気汚染…ニュ−ス】は、此処の企業・事業団体が…利益追求という事で、
“生産過剰”・“大量消費”…から生じて来ましたのですからそこに【需要・供給のバランス】
とは程遠い【現象界での利益追求】でしょうかと。いつも「神に心を振り向けます事は…」
そこに【無限の富者となる真理…この法則】を、悟る事となりますでしょうかと。

■■常に【現象の奥に宿る「神」への感謝・礼拝・報恩を忘れないこと】が、
神からの賜物を受ける事になりますでしょう…。今以上に、心を明るくもって
“神の波長”にあう心を常に起こさなければなりません〜〜〜ョネ!どんな時でも…!!!

                              再合掌

1919a hope:2013/01/15(火) 07:21:47 ID:TqpbsVIM
新版 生活読本 谷口雅春先生著(日本教文社)
第十一章 心の花園に美しい花を咲かせましょう

着物など節約して本を買いなさい(p122〜)


着物や洋服や靴は「つぎ」が当っているもので我慢しても、その代わりによい本を買ってもらいなさい。
着物や洋服や靴がどんなに立派であっても、ぜいたくな感じを起させるだけで、別によい事は教えてくれません。
それよりも良い本はつねにあなたによい事を教えてくれるのであります。

よい本を書斎(べんきょうのへや)にならべておくことは、良い先生をやとっておくのと同じことで、
時として、よい百科事典は良い先生よりも、なんでもくわしく知っているのであります。
着物や靴をせつやくして本を買いなさい。

あなたの身体の筋肉は、それをよく運動させることによって立派になり、
力瘤(ちからこぶ)がもりあがるように発達(ちからづよくなる)します。
あなたの精神は心を運動させることによって発達するのです。

心の運動を充分させるには、よい本を読むことによってであります。
よい本を読んで、人に深切にすることが善いことだとわかれば、
人に深切を実行することによって心の中の愛(しんせつのこころ)が発達します。

本をよむと、昔のえらい人の言葉にもじかにふれることが出来ます。
昔のえらい先生も、今のえらい先生も、一堂(ひとつのいえ)にあつめてその教えを受けることが出来るのです。
(つづく)

1920さくら:2013/01/15(火) 07:47:23 ID:LeI7UqPY
合掌ありがとうございます。

本日は、『完成(ななつ)の燈臺の神示』が、天降った一月十五日ですので、
謹写させて頂きます。



1921さくら:2013/01/15(火) 07:48:24 ID:LeI7UqPY
『完成(ななつ)の燈臺の神示』 谷口雅春先生

時が來た。
今すべての病人は起つことが出來るのである。
最早、あなたにとつて病氣は存在しない時が來たのである。

二千年前、キリストが『汝の信仰によつて汝の信ずる如くなれ』と云ふ唯一語で、
遠隔の地にゐる病人を癒やした其の眞理が、
すべての人類に開顕される時期が來たのである。

『生長の家』を讀み眞理を知るだけで遠くにゐて病氣が治る事實を見よ。
此の燈臺より眞理の光を受くるものは、
創世記のエデンの楽園追放以後、人類を悩ましたところの『罪』と『病』と『死』との三暗黒を消盡するのである。

光が近付くときすべての暗黒は消える。
『眞理』が近づく時、すべての『迷』が消える。
『迷』が消える時、『迷』の産物は『罪』『病』『死』とは消える。

疑はずに吾が光を受けよ。
われは『完成(ななつ)の燈臺』に燈を點ずるものである。

(昭和六年一月十五日神示)

1922閲覧者:2013/01/15(火) 17:21:26 ID:???
>>1921
新さくら様でしょうか?

とても読みやすく、旧漢字で謹写してくださりありがとうございます。

1923SAKURA:2013/01/15(火) 21:28:47 ID:dGeUHjWM
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1653>>1654>>1661>>1674>>1675>>1744>>1753>>1765>>1779>>1780>>1783>>1792>>1792
>>1793>>1796>>1801>>1804>>1812>>1813>>1821>>1822>>1836>>1837>>1842>>1843>>1852
>>1875>>1876>>1879>>1888>>1889>>1913>>1914>>投稿の続きです…。
ここは、まるで【四 無 量 心 の 心 の 世 界 観】
日常生活面を、それなりに考えていきますと、私なりの「雅春先生の哲学」が見えまして、更に“人
生観”が〜〜実に!感慨深いものになりますので、私なりに「生命哲学…勉強会」を〜♫〜では“続き
投稿”していきます。「雅春先生の例え…」として、投稿されていらっしゃいました記憶があります。

■■ 『生命の実相哲学シリ−ズ…SAKURA論』   ― その① ―

======【生命の実相 37巻】からの抜粋 ====================
ある強化団体のある講師があるところへ講演に出かけて行った。彼はその教化団体で救
われ人生観が一変し、性格が一変し、生活が一変したものであるからそのことを聴衆に
語りたかった。どんなに自分の生活が一変したかということを知らせるには、自分の過去
の生活を述べねばならない。彼は「わたしはこんなに悪い者だったのです」といって女を騙
したことや、酒を飲んだことなどを過去の生活を懺悔のつもりで五十分間も喋り続けた。
そしてこんな浄まった生活になったのはこういう動機であるといって、その転向の明暗を明朗
(はっきり)させるつもりであったのだが、彼が五十分間も自分の過去の罪悪を喋っている
間に、聴衆は『そんな悪い人の話は聴く必要はない』と一人去り二人去りして、彼が本当
によくなったところを話すころには聴衆は四分の一に減ってしまった。

 懺悔でも、悪いことをあまり喋りつづける者は、ついに人の信用を墜すものである。言
葉は力であるからできるだけ善いことを喋らねばならぬ。美人の色の白さを引き立てるた
めの斑点美粧も、それが顔反面イッパイに及ぶようになっては痣としてまちがえられる。
光を引き立たす陰影(かげ)は濃く、ただし少量でなければならむ。  
(谷口雅春著)
========================================
                                 
つづく

1924SAKURA:2013/01/15(火) 21:30:43 ID:dGeUHjWM
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……。  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1653>>1654>>1661>>1674>>1675>>1744>>1753>>1765>>1779>>1780>>1783>>1792>>1792
>>1793>>1796>>1801>>1804>>1812>>1813>>1821>>1822>>1836>>1837>>1842>>1843>>1852
>>1875>>1876>>1879>>1888>>1889>>1913>>1914>>1923投稿の続きです…。

■■ 『生命の実相哲学シリ−ズ…SAKURA論』   ― その② ―
>>1923>>投稿の続きです…。

PS:「トキ様」へ
■そうで〜〜〜ョネ!【他人の過去…】は、その人自身の問題に関してですから、やはり、正直申し
ますと【ア〜〜〜ダ!コ〜〜〜ダ!くどくど論】を言われますと、第三者も“聞く耳…心”も、次第に
失せていきますのが…人間の【心理…】かと。私も「吸血鬼・ゾンビ…」の事を、此処で記しますが、
個人的感情にて、やはり“頻繁に尾行”されてくると…この連中に!!〜〜と思ってしまいますモノ!
でも、やはり、まず!【今の“こころ”を進化…】しなくてはいけませんのです〜〜〜ョネ!

今回、或る本から【御霊様…】になりますと〜〜〜〜〜><現実世界と異なりまして、
■【肉体もない!!洋服すべて、物質は無い!!のです。】よく言われます処の『生長の家…』では、
【物質がないという事は、私たちが今、お互いにコミュニケーションとして相手に伝えます手段としての、
“空中で言葉(ボディ−ランゲッジ含む)”として発します『言葉…』もないのです〜〜〜ョネ!
そうしますと?どの様に、相手に伝える為には??如何になされていますかと言いますと……?

■【テレパシ−】からなのです〜〜〜ョネ!
例えば、現象界で【言葉…】に発する前に、その脳裏に思った【思念…念】と申しますか?
…この事?なのです【その心…】が相手に、瞬時にして伝わるのです〜〜〜ョネ!
■■ 【 ジュリアンの伝言 】でも、見透かされると…この表現を、確か記載されていました。…が?
その通りで【 こころのパイプレーション!!】そのモノなのです。そして、
【 ネガティブな心=感情 】は、絶対に相手に通じないようになっていますから、例えば…
自分の“嘆き”とか?“恨み・中傷の感情(言葉)”…は、まず!!通用しないのですから・・…
【 意 識 は 私 は 神 の 子!と……私は!私は!と〜〜〜】言い続けることに集中でしょうか?

この様に、相手からの“ネガティブ言葉・・・感情”を、いつまでも、いつまでも……ダラダラと聞いても、
【それは、自分自身が、精神をポジティブなる!!明るい方向へと持って行かない限り…
「現実世界=現象世界」以上に…次なる「霊の世界…」では、誰も聞いてくれないのだと思いました。

ますます【今を活かす事…ポジティブ=善】この事が【魂の向上…信仰上】の大切な要素としての
エネルギーでしょうか??実は、この事は〜〜〜〜〜!!
■■今日の朝方【 亡き母から…の伝言 】の様に…私の脳裏に、突然浮かんでしまいまし次第です。

                                           再合掌

1925goro:2013/01/16(水) 00:03:36 ID:nCo1DokU
1902の続き

 殿下と皇室財産

或る時、ある地方に大水害があったので、御手元金のうちから、数百万円を救恤のために御下賜されることになった。その手続として、必要な書類が大臣官房から侍従職に廻ってきたので、私はそれを持って陛下のお室に参り、ご覧に入れた。御覧になるや否や、陛下はすぐに裁可の印をお捺になった。

当時の数百万円は、今の時価でいうと、莫大な金額になるが、そんなことは何とも思っておいでにならない。全て大臣の処置に信頼をおいておいでになる。私は、その書類を頂いてお側をはなれようとして、フト、お机の上を見ると、ちょうど、そのとき、なにか調べものをしておいでになったらしく、小さな仏和辞書がおいてある。それが、もうボロボロになって、いかにもおひきにくそうであったから、「陛下、その仏和辞書を新しいのに、おかえ致しましょうか」とお尋ねしたところ、ご心配そうに、「金はあるだろうか」とおききになる。「ございますとも」と申し上げて、直ちに書店に同じものをを注文したことがあるが、その代価は、たしか二十円たらずであった。

御救恤金といい、仏和辞書といい、購入財源は皆、皇室財産の収入によるものであるが、当時(昭和の初年)、皇室財産は森林だけでも全国に百三十万町歩もあり、その大部分は大河川の水源



地その他、交通不便な山奥等個人経営には不適当な地方ではあったが、それでも、一定の伐採計画に従って、年々市場に供出される木材の収入は、相当多額に上ったため、国内の一部の論者は、皇室財産を目して、国内大財閥の一となして、とかく批判の声をあげるし、省内でも、この問題について会議を開いたこともあったが、私は、皇室財産は国民のための貯蓄であって、いかに多くとも心配ご無用の一点張りで議論をおし通したことを覚えているが、これは、あの「金はあるだろうか」の御一言のうちに含まれている陛下のお心持ちが、深く身にしみていたからこそ、躊躇なく発言し得た私の確信であった。

終戦後、皇室財産の殆んど全部が、政府の所管に移ったが、陛下としては、国民が、金が入り用で自分たちの貯金を引き出した、としか思っておいでにならないだろう。もともとお自身のものとは、考えておいでにならなかったのだから。

1926志恩:2013/01/16(水) 06:34:37 ID:.QY5jUA6
>>1922:閲覧者様

 「>>1921
 新さくら様でしょうか?」と,コメントされてますが、

 さくら様と、SAKURA様は、別人です。

1927さくら:2013/01/16(水) 08:02:34 ID:e8ieIrPA
>>1922
閲覧者様
志恩様

お言葉、ありがとうございます。

新さくらといえば、新年になり、「重い衣」を脱いだような心地がいたします。
(…薄着になったわけではなく心が軽くなった、気持ちです)

ご指導(お手柔らかに…)お願い申し上げます。



1929閲覧者:2013/01/16(水) 17:45:13 ID:???
>>1926
志恩様 ありがとうございます。
久しぶりにきまして、去年いらしたさくら様ではない感じがしましたので新しいさくら様かと思いました。

1930閲覧者:2013/01/16(水) 17:48:05 ID:???
>>1927
さくら様 ありがとうございます。
昨年こちらを閲覧しておるときのさくら様はもっとじゃじゃ馬な感じに思えました(失礼)
すっかり上品になられましたね、別人みたいです(苦笑)

1931NANCY:2013/01/16(水) 19:13:05 ID:dGeUHjWM
管理人「トキ様」へ
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)【NANCY】です。
■此処に、無関係な“質問…投稿”と、思いますが??投稿させて頂きます。

■■>このスレッドは、生長の家の「今の教え」と「本流復活」の問題に関連して、雅春先生や
御高弟、他の真理の言葉のみを掲載していくという板です。
上記に関連するテ−マなら、広く受け付けます…云々…<  (一部抜粋)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆

上記の規約が冒頭に記載されています。それが■【 聖 典 引 用 板】のポリシ−かと。
しかし、此処最近は【 お互いに讃嘆する?・自画自賛? 会議場所…】になっていますかと??
>>1926>>1927>>1929>>1930>>を閲覧しますと……

本来はの【 聖 典 板 …】にして頂きたいのですが??
■■これが【生長の家…分派】の方々の【規約に反する事…】をしても“素晴らしいとする行動”
と、世間一般でいえますのでしょうか?? 疑問ですが〜〜〜?

■新し〜〜〜イ!信者の方が、すべての【生長の家…○○会】へ、入信して来ますでしょうか?                                再合掌

1932goro:2013/01/16(水) 23:02:53 ID:nCo1DokU

1925の続き

 荒天下の分列式

大正十五年の暮れ、大正天皇の崩御に伴う諒闇(つつしみ)の昭和二年も静かに過ぎ、人々は左腕の喪章もとりはずして、いよいよ、今上陛下の即位の大礼を迎える昭和三年に入った。この年の秋、京都で行われる即位式の日程も発表される。京都から東京にお帰りになったら、何日には陸軍大観兵式、何日には海軍大観艦式、何日には何と、奉祝の行事は、次から次へときまっていく。行き逢う人ごとに、お目出とうと喜びの声は全国をおおい、津々浦々、人みな勇み浮き立っている。

宮内省も大礼の準備に忙しくなり始めたが、これに引きかえ、この頃から、陛下の側近に奉仕する侍従のわれわれは、何ごとか沈思黙考の陛下のおん憂いのお姿を煩雑に拝するようになった。お口に出しては何も仰せにならないが、それだけに、御心中は深くお察し申し上げなければならない。

摂政御在任五年、御践祚後すでに一年余、無私、ただ国と民との将来の安危を憂える一念で、政治の機微に触れてこられた陛下のお胸のうちに、いま来往するものは、果たして何であろうか。

第一次世界大戦後、巴里の講和会議において、わが国の提唱にかかる人種平等案の否決は、たしかに世界平和のため、由々しき悪因ながら、覆水ふたたび盆には、かえらない。これに端を発し、大正十三年北米合衆国に於ける排日移民法の実施、昭和二年より三年にかけての、中国に於ける日貨排斥運動、及び欧米一部人士の使嗾によるよる排日教育の激化、ジュネーブに於ける日英米海軍軍縮会議の決裂、済南に於ける日支両軍の衝突、更に近くは、満州における張作霖将軍の爆死事件等、国家の前途、西に東に、黒雲むらがり電光ひらめくのを、陛下は、いち早く望見しておられたのではなかろうか。

この国家の難局を打開する一人の政治家もなきか。議会たのむに足らずする軍部の台頭に、国民はまさに歓呼の嵐を送ろうとしている。やんぬる哉、邦家の艱難必ず来ると、もんもんの幾日夜、遂に国民と同艱共苦の御覚悟を固められたのも、この頃ではなかったか、と私は思う。

1933a hope:2013/01/17(木) 07:31:49 ID:TqpbsVIM
新版 生活読本 谷口雅春先生著(日本教文社)
第十一章 心の花園に美しい花を咲かせましょう

◆本を可愛がって読めば力がつく

勉強室は、すきな本をたくさんならべておいて、気がむいたとき、
自然に、自分でよろこんで読むことにする方が、力がつくのであります。

いやいや人から「読め」といわれて、気がすすまぬのに読んだのでは、
心の窓がしまっていて、本に書いてあることが充分頭へはいらぬのであります。

本を可愛がって、その本をひらくことが、楽しい気持ちになって「わたしの可愛い本よ」といって可愛がってから本を読めば、
本に書いてあることが、一層よく心の中にはいって来るのであります。

食物もよくかみしめて消化して吸収(からだにすいこむ)しなければ力になりません。
本を読んでも、よくかみしめて、それをしみじみ味わって読まねば、あまり力にならないのです。

よくかみしめて読む方法は、五、六行よんでから、その本をとじ、
眼をとじて、その意味を心の中で思い浮かべて深く味わって見ることです。

私などは少年の頃、こうしますと、眼(まなこ)をつぶると眼の前に、
その本のページの形が眼に浮かんで来て、その通りのことがおぼえられたものです。

これは一種の記憶法にもなるのであります。
本を読みながら、時々、眼をつぶってそれを考えて、一々首をすこし動かし
「うなずく」ようにすると、よくおぼえられるものです。
(つづく)

1934SAKURA:2013/01/17(木) 13:45:53 ID:RZS.njMc
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんにちは……。  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
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>>1875>>1876>>1879>>1888>>1889>>1913>>1914>>1923>>1924 投稿の続きです…。

ここは、まるで【四 無 量 心 の 心 の 世 界 観】
日常生活面を、それなりに考えていきますと、私なりの「雅春先生の哲学」が見えまして、更に“人
生観”が〜〜実に!感慨深いものになりますので、私なりに「生命哲学…勉強会」を〜♫〜では“続き
投稿”していきます。「雅春先生の例え…」として、投稿されていらっしゃいました記憶があります。

■■ 『生命の実相哲学シリ−ズ…SAKURA論』   その①

======【生命の実相 37巻】からの抜粋 =====================

善人ということは正しいばかり善人ではない。善悪の標準は生長の家の出現によって変化し
たのである。正しくても暗い人は善人ではない、その人は自分を殺し、他を殺すからである。
正しくとも捉われる人は善人ではない、その人は自分を窮屈にし、他と争い、自分を殺し、
他を殺すからである。正しくとも力の弱い人は善人ではない、彼は自分を殺し、他を助ける
ことができず、同時に他を見殺しにせねばならぬからである。

 どんなに正しい胸せまき人たちが病気になったことであろう。真っ直などということだけ
が善ではない。三角も四角も円も楕円も善である。人時所三相応せるものが善である。生か
すことが真理である。まっすぐばかりが善だと思っているために腹が立てたり、胸が塞がっ
て死んだ人の数は欧州大戦で死んだ人の数よりおおいのである。  (谷口雅春著)

===========================================

PS:「トキ様」
ここで”投稿… “させて頂いておりますと、いつの間にか?という表現が適しますかはさておき、
何が正しいとか?…ゆずりあい?…理解しましょう?の様な柔軟姿勢のものがいつしか無く、
まるで『勝ち組・負け組・対抗論』のように、目に移る時もありますかと。今回も!また…
『新しい板…スレッド』を作成されます…云々…???

そして、「内容…」は、懸案中の規約??と申しますか??
【教えのすばらしさを讃歌・謳歌するオンリ−場所とか??】私は、何か変な〜〜〜ァ感じです。
【この……“ 教え ”の解釈論は、どのように受け止めたら宜しいのでしょうか??】…が?
いつもクレッション・マ−クに思います。私どもの表現から申しますと【生長の家…分派】の   
方々の“提案”らしいのですが?きっと、これも【分派…の皆様方】でのメイン・ボ−ドになります
でしょうかと。そして『舞台設定…に多々作る』ような場合もありますかと?その感じでしょうか?

                           つづく

1935SAKURA:2013/01/17(木) 13:48:58 ID:RZS.njMc
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■■ 『生命の実相哲学シリ−ズ…SAKURA論』   その②

>>1934 その①の投稿の続き…。
■果たして【和解…】この事は、何処までのお考えなのでしょうか??既に【原宿教団…】から、
個人的理由?その退職に於けます理由は多々でしょうが?自分が“一番正しい”と言った考え方
が、潜在意識の根底にありますでしょうから、これも【認めない心…】ですかと。ですから、
今の状態では、良〜〜〜〜〜く!考えましても【無理な関係…】にも反面見えます。…が?

私は私の考え、思考ですが【人それぞれが、同じ“思考”を持つ事は、昔の“軍体調〜♫”の様にも
見え隠れします。…本来は、捉え方の問題ですから、個性があるモノと思います。やはり…
活かす事は、生活面でも活かす事でしょうか???今から“世の中”がもっと混沌とした状態に、
なりそうな感じで ><モット!【 思考豊かな表現 】ができる状態の私に【こころ…豊か】に
今の私は、【全てを活かす事…感謝…】が課題なのでしょうかと。?

「トキ様」…本当にいろんな方がいますから、またいろんな思考もありますでしょうかと。やはり
これは、どうしても【自分での尺度で物事を、測っている面】が多々でしょうと。その様に思い
ます。…?唯!この点が、難しいです〜〜〜ョネ!!このような時は、やはり【神想観…】に
なるようです。【 正 し い 理 念 】…神様からの“メッセ−ジ”かと。

❤〜【 人・時・所・三相応せるものが善である 】そうです〜〜ョネ“
混沌とした、現代社会では、ますますと時代状況によって【方便…】を用いての“説き方”には
変化があって当然ですかと。それでも【正しい理念】が必要でしょう。それには【神からの啓示】!                 

■【神と常に一体…真の神の子ですから…】全ては【祈りに…始まり…祈りに…終わる】という事
でしょうか??
      再合掌

1936NANCY:2013/01/17(木) 19:43:31 ID:dGeUHjWM
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
こんばんは…… ロ−マ字(大文字)の【NANCY】です。
>>1635>>1639>>1643>>1766>>1778>>1829>>1877>>1880>>1890>>1918>>1931の投稿の続きです

===【 谷口 雅春 先生 著 】===============================

■ 生 活 を 芸 術 化 せ よ                  (女性の幸福365章 より)

放蕩息子となって、現象の“ 夢 幻 
の 世 界 ” を貧しい思いを起こして彷徨(さまよ)
い歩いてはならない。智慧の灯火をともしてあなたの行く手を照らして
進むがよい。人生は、「人間・神の子」
という実相の聖地にたどり着くため
の巡礼の旅路である。                             *普及誌に掲載

=============================================

■上記の「雅春先生の言葉」は、【普及誌…白鳩No.30】に、記載されています“言葉”です。

今回の【生長の家…お家騒動】に関しまして、この『 放蕩息子…云々… 』と、値しますのでしょうか〜〜と
いう事なのでしょうかと。??
現原宿教団…『谷口雅宣総裁先生…』と、自分自身の“解釈論”つまり“捉え方”が…
各々の【分派の皆様方…】に於きましては、そぐわない?相反するモノと、言う事でしょう。??

私ども“一般信者…末端信者…”にまで【お家騒動…】が明確に解ったのは、此処最近ですかと。

■原宿本部の【生長の家…雅春先生が建立まして長崎に行かれるまでの拠点地】になりますが??
そこから、何らかの個人個人の考え方により、去られまして…『複数の分派…設立』となりました。…が? 

■【創立者…谷口雅春先生】の、生長の家…信者に託されました【使命感??】と申しますか、
【生長の家…門をくぐる】事が、つまり“聖使命会員”とか?“活動・・・”とか?それも必要でしょうが、
根本は【生長の家…信者】とは、本来、この人生に於きまして【魂の向上…つまり!!成長】と言う
事になりますのでしょうか??
【魂 の 日 々 の 向 上!】かと。そうしますと、各々の“心”には、当然ながら、
【人 間 は 真 神 の 子】と言う認識が、自然に潜在意識に入り、そうしますと“行動”も、
それなりの“行動”になりますかと。そうしますと…『お家騒動は???』如何なものでしょうか??

❤…最終的には【 実 相 】この姿が、現われますでしょうかと……。
この『魂 の 向 上 の 旅』へ……私は、今を活かし、日々邁進すべきと、新たなる自覚となりました。

                                                     再合掌

1937goro:2013/01/18(金) 00:15:24 ID:nCo1DokU
>>1932の続き

東京府でも、奉祝行事として数々の催しを企てたが、そのうちで最も大がかりなものは、府下の大学、高等学校、中学校、青年訓練所の男女学生及び在郷軍人等約五万の参加の下に、代々木練兵場に於いて挙行する男子の分列式及び女子の奉祝歌奉唱の行事であった。ところが、これを伝え聞いた隣の千葉、埼玉、山梨、神奈川の四県から約三万の参加申込があり、結局参加総人員は八万となってしまった。こんな多人数になると、雨天順延ということは、どうしても、できない。それは、これらの多数の人員を泊める宿舎が東京にはないからである。また青年訓練所の勤労青年の参加がある以上、毎月一日と十五日との公休日を除いては、他に適当な日がない。更にまた、雨天でも決行するということになると、代々木は泥濘が甚だしいので、二重橋前の広場以外には適当な場所がない。

以上の訳で、東京府としては、両陛下が京都から御帰京後、十二月十五日午後二時より一時間二十分の間、晴雨に拘わらず二重橋前広場で、東京、千葉、埼玉、山梨、神奈川の一府四県の青年男女八万の分列式及び奉祝歌奉唱の式を行い、これに陛下の御親臨を仰ぎたいという案を以って、あらかじめ、宮内省に申し入れがあった。

この申し入れに関し、宮内省でも会議を開いたが、一同は相当難色を示した。殆んど一ヶ月に亙る御即位の各種の行事で、陛下も随分お疲れであろうし、且つ既に寒冷季に入った十二月中旬に、一時間二十分にも及ぶ長時間、野外にお立ちを願うことは、御健康上、いかがであろうか、殊に晴雨に拘わらずということであると尚更である。一木宮内大臣は非常に心配されたが、とにかく、事は陛下ご自身の御行動に関することであるので、席上私に、陛下の御内意を伺うべく指示があった。これは昭和三年の夏の末ごろであったと記憶する。

1938蟋蟀:2013/01/18(金) 01:10:22 ID:???
goro閣下

よーく読んでね。

>このスレッドは、生長の家の「今の教え」と「本流復活」の問題に関連して、雅春先生や
御高弟、他の真理の言葉のみを掲載していくという板です。

1939志恩:2013/01/18(金) 02:19:43 ID:.QY5jUA6
蟋蟀

あなたこそ、goro様の文を、
よーく読んでね。

天皇陛下のことを、書いて下さっているのですよ。

今の教えでは、説かなくなった、されど、雅春先生の時代では説かれていた

天皇陛下の大事なお話を,書かれているというのに、

なにを、あなたは、ねぼけたことを 言ってるの !

おみおつけで 顔 を洗って 出直して おいで !

1940志恩:2013/01/18(金) 02:40:07 ID:.QY5jUA6
蟋蟀(こおろぎ)様

こおろぎ様の敬称が抜けていました。
すみませんでした。

1941ガガ・ミラノ:2013/01/18(金) 03:27:11 ID:acQyNrDM
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1942NANCY:2013/01/18(金) 06:42:25 ID:5Z7kf.HM
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
おはようございます…… ロ−マ字(大文字)の【NANCY】です。
>>1635>>1639>>1643>>1766>>1778>>1829>>1877>>1880>>1890>>1918>>1931の投稿の続きです

===【 谷口 雅春 先生 著 】===============================

■ 生 活 を 芸 術 化 せ よ                  (女性の幸福365章 より)

放蕩息子となって、現象の“ 夢 幻 
の 世 界 ” を貧しい思いを起こして彷徨(さまよ)
い歩いてはならない。智慧の灯火をともしてあなたの行く手を照らして
進むがよい。人生は、「人間・神の子」
という実相の聖地にたどり着くため
の巡礼の旅路である。                             *普及誌に掲載

=============================================

■上記の「雅春先生の言葉」は、【普及誌…白鳩No.30】に、記載されています“言葉”です。

今回の【生長の家…お家騒動】に関しまして、この『 放蕩息子…云々… 』と、値しますのでしょうか〜〜と
いう事なのでしょうかと。??
現原宿教団…『谷口雅宣総裁先生…』と、自分自身の“解釈論”つまり“捉え方”が…
各々の【分派の皆様方…】に於きましては、そぐわない?相反するモノと、言う事でしょう。??

私ども“一般信者…末端信者…”にまで【お家騒動…】が明確に解ったのは、此処最近ですかと。

■原宿本部の【生長の家…雅春先生が建立まして長崎に行かれるまでの拠点地】になりますが??
そこから、何らかの個人個人の考え方により、去られまして…『複数の分派…設立』となりました。…が? 

■【創立者…谷口雅春先生】の、生長の家…信者に託されました【使命感??】と申しますか、
【生長の家…門をくぐる】事が、つまり“聖使命会員”とか?“活動・・・”とか?それも必要でしょうが、
根本は【生長の家…信者】とは、本来、この人生に於きまして【魂の向上…つまり!!成長】と言う
事になりますのでしょうか??
【魂 の 日 々 の 向 上!】かと。そうしますと、各々の“心”には、当然ながら、
【人 間 は 真 神 の 子】と言う認識が、自然に潜在意識に入り、そうしますと“行動”も、
それなりの“行動”になりますかと。そうしますと…『お家騒動は???』如何なものでしょうか??

❤…最終的には【 実 相 】この姿が、現われますでしょうかと……。
この『魂 の 向 上 の 旅』へ……私は、今を活かし、日々邁進すべきと、新たなる自覚となりました。

                                                     再合掌

1943NANCY:2013/01/18(金) 06:44:34 ID:5Z7kf.HM
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
おはようございます……。  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1653>>1654>>1661>>1674>>1675>>1744>>1753>>1765>>1779>>1780>>1783>>1792>>1792
>>1793>>1796>>1801>>1804>>1812>>1813>>1821>>1822>>1836>>1837>>1842>>1843>>1852
>>1875>>1876>>1879>>1888>>1889>>1913>>1914>>1923>>1924 投稿の続きです…。

ここは、まるで【四 無 量 心 の 心 の 世 界 観】
日常生活面を、それなりに考えていきますと、私なりの「雅春先生の哲学」が見えまして、更に“人
生観”が〜〜実に!感慨深いものになりますので、私なりに「生命哲学…勉強会」を〜♫〜では“続き
投稿”していきます。「雅春先生の例え…」として、投稿されていらっしゃいました記憶があります。

■■ 『生命の実相哲学シリ−ズ…SAKURA論』   その①

======【生命の実相 37巻】からの抜粋 =====================

善人ということは正しいばかり善人ではない。善悪の標準は生長の家の出現によって変化し
たのである。正しくても暗い人は善人ではない、その人は自分を殺し、他を殺すからである。
正しくとも捉われる人は善人ではない、その人は自分を窮屈にし、他と争い、自分を殺し、
他を殺すからである。正しくとも力の弱い人は善人ではない、彼は自分を殺し、他を助ける
ことができず、同時に他を見殺しにせねばならぬからである。

 どんなに正しい胸せまき人たちが病気になったことであろう。真っ直などということだけ
が善ではない。三角も四角も円も楕円も善である。人時所三相応せるものが善である。生か
すことが真理である。まっすぐばかりが善だと思っているために腹が立てたり、胸が塞がっ
て死んだ人の数は欧州大戦で死んだ人の数よりおおいのである。  (谷口雅春著)

===========================================

PS:「トキ様」
ここで”投稿… “させて頂いておりますと、いつの間にか?という表現が適しますかはさておき、
何が正しいとか?…ゆずりあい?…理解しましょう?の様な柔軟姿勢のものがいつしか無く、
まるで『勝ち組・負け組・対抗論』のように、目に移る時もありますかと。今回も!また…
『新しい板…スレッド』を作成されます…云々…???

そして、「内容…」は、懸案中の規約??と申しますか??
【教えのすばらしさを讃歌・謳歌するオンリ−場所とか??】私は、何か変な〜〜〜ァ感じです。
【この……“ 教え ”の解釈論は、どのように受け止めたら宜しいのでしょうか??】…が?
いつもクレッション・マ−クに思います。私どもの表現から申しますと【生長の家…分派】の   
方々の“提案”らしいのですが?きっと、これも【分派…の皆様方】でのメイン・ボ−ドになります
でしょうかと。そして『舞台設定…に多々作る』ような場合もありますかと?その感じでしょうか?

                           つづく

1944SAKURA:2013/01/18(金) 06:55:25 ID:5Z7kf.HM
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
おはようございます……。  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。

上記の■>>1943の“投稿…”は ―――>   【正しくは…【SAKURA…】の投稿です。
    ↓             ↓          ↓ 
   投稿者の名前…【NANCY】 ×  間違いです。申し訳ござしません。

1945SAKURA:2013/01/18(金) 06:56:32 ID:5Z7kf.HM
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
おはようございます……。  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1653>>1654>>1661>>1674>>1675>>1744>>1753>>1765>>1779>>1780>>1783>>1792>>1792
>>1793>>1796>>1801>>1804>>1812>>1813>>1821>>1822>>1836>>1837>>1842>>1843>>1852
>>1875>>1876>>1879>>1888>>1889>>1913>>1914>>1923>>1924>>1934 投稿の続きです…。

■■ 『生命の実相哲学シリ−ズ…SAKURA論』   その②

>>1934 その①の投稿の続き…。
■果たして【和解…】この事は、何処までのお考えなのでしょうか??既に【原宿教団…】から、
個人的理由?その退職に於けます理由は多々でしょうが?自分が“一番正しい”と言った考え方
が、潜在意識の根底にありますでしょうから、これも【認めない心…】ですかと。ですから、
今の状態では、良〜〜〜〜〜く!考えましても【無理な関係…】にも反面見えます。…が?

私は私の考え、思考ですが【人それぞれが、同じ“思考”を持つ事は、昔の“軍体調〜♫”の様にも
見え隠れします。…本来は、捉え方の問題ですから、個性があるモノと思います。やはり…
活かす事は、生活面でも活かす事でしょうか???今から“世の中”がもっと混沌とした状態に、
なりそうな感じで ><モット!【 思考豊かな表現 】ができる状態の私に【こころ…豊か】に
今の私は、【全てを活かす事…感謝…】が課題なのでしょうかと。?

「トキ様」…本当にいろんな方がいますから、またいろんな思考もありますでしょうかと。やはり
これは、どうしても【自分での尺度で物事を、測っている面】が多々でしょうと。その様に思い
ます。…?唯!この点が、難しいです〜〜〜ョネ!!このような時は、やはり【神想観…】に
なるようです。【 正 し い 理 念 】…神様からの“メッセ−ジ”かと。

❤〜【 人・時・所・三相応せるものが善である 】そうです〜〜ョネ“
混沌とした、現代社会では、ますますと時代状況によって【方便…】を用いての“説き方”には
変化があって当然ですかと。それでも【正しい理念】が必要でしょう。それには【神からの啓示】!                 

■【神と常に一体…真の神の子ですから…】全ては【祈りに…始まり…祈りに…終わる】という事
でしょうか??
                                 再合掌

1946志恩:2013/01/18(金) 07:03:52 ID:.QY5jUA6
SAKURA様

>>私は私の考え、思考ですが【人それぞれが、同じ“思考”を持つ事は、昔の“軍体調〜♫”の様にも
見え隠れします。…本来は、捉え方の問題ですから、個性があるモノと思います<<


昔の軍隊を、小バカにした言い草ですね。
昔の軍隊が、あったればこそ、今のわれわれの安泰があるのと 違いますか?

1947NANCY:2013/01/18(金) 07:16:04 ID:5Z7kf.HM
管理人「トキ様」へ
おはようございます……。     ロ−マ字(大文字)【NANCY】です。
■此処に、無関係な“質問…投稿”と、思いますが??投稿させて頂きます。

■■>このスレッドは、生長の家の「今の教え」と「本流復活」の問題に関連して、雅春先生や
御高弟、他の真理の言葉のみを掲載していくという板です。
上記に関連するテ−マなら、広く受け付けます…云々…<  (一部抜粋)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆

上記の規約が冒頭に記載されています。それが■【 聖 典 引 用 板】のポリシ−かと。
しかし、此処最近は【 お互いに讃嘆する?・自画自賛? 会議場所…他…】になっていますかと??
昨日も…この事は“投稿…”致しましたが??

本来の【 聖 典 板 …】にして頂きたいのですが??
■■これが【生長の家…分派】の方々の【規約に反する事…】をしても“素晴らしいとする行動”
と、世間一般で、通用しますのでしょうか?? 疑問ですが〜〜〜?
本当に!何度も〜何度も〜このボードの“規約を破る事”が〜【分派の皆様方の方針】なのでしょうか?
【雅春先生の御教え…の魂の向上】を、考えますと…
■新し〜〜〜イ!信者の方が、すべての【生長の家…○○会】へ、この様な行動では、果たして?
入信して来られますでしょうか? 
                                                                      再合掌

PS:
此処は【聖典ボード…】ですので…【投稿者…様】に対する意見・質問は【 他 の 部 室 板 】でと?
「管理人…トキ様」が、以前!確か?おっしゃいっていましたが……??

1950goro:2013/01/18(金) 11:10:58 ID:nCo1DokU
蟋蟀殿

>このスレッドは、生長の家の「今の教え」と「本流復活」の問題に関連して、雅春先生や
御高弟、他の真理の言葉のみを掲載していくという板です。

アナタも確認されているように「他の真理の言葉」を紹介しています。
昭和天皇が御即位されてまもなくの頃、お側に仕えておられた木下元侍従次長の回想録です。
在りし日の昭和天皇の面影を偲び、謹んで転載させて頂いています。
国民のことを「オオミタカラ」とお思いくださり、国民を限りなく慈しんでくださる
天皇陛下をお慕いするヨスガにしていただければ幸いです。

志恩様いつもいつもフォローしてくださり、心から感謝しています。
ありがとう御座います。

1951goro:2013/01/18(金) 11:14:45 ID:nCo1DokU
>>1937の続き

 私は早速、陛下に式の次第を御説明して御内意を伺ったところ、十二月十五日という式の日取りについて、暫く考えておいでになったが、夜の祭りにさえ差支えが起こらぬならば、他はすべて、それでよろしいとの御意見であった。夜の祭りとは例年十二月十五日の夜には、賢所御神楽の儀という祭事が執行されるので、陛下のお寝みになるのは、どうしても、夜半の十二時を過ぎる日なのである。

御同意と同時に、陛下は二つのことを私に御指示になった。一つは、もし雨が降ったならば、青年たちには遠慮なく雨具を着用させること、もう一つは、ご自身のお立ちになる場所には、たとえ、いかように大雨が降っても、天幕は張ってはならぬということであった。これは明らかに、もし雨が降るならば、青年たちだけを雨の中に立たせてはおかない。御自身も共に、というご覚悟であろう。

陛下の御同意を得たので、分列式の準備は東京府庁の手で着々と進められた。私は宮内省側の主務官を命ぜられ、東京府と連絡して式の準備に取り掛かった。計画の一番の難点は十二月十四日の夜半から十五日の朝にかけて、千葉、埼玉、山梨、神奈川の各県から続々と臨時列車で入京する三万余の集団を、いかように手順よく二重橋前の広場付近に集結させ、定刻に分列式及び奉唱式に参加させるかということであったが、これは予め府から陸軍省に交渉し、今村(均)中佐以下数名の将校の努力によって立派に計画実施された。また式のとき、陛下のお立ちになるところとしては、二重橋前の傾斜地の中央に、四尺ばかりの高さの一坪の台を設けることにしたが、
私は陛下の御指示どおり、係りの者に、いかように雨が降っても、天幕を張ってはならぬ旨、予めよく申し渡しておいた。

いよいよ十二月十四日、準備万端でき上がったが、ただ気にかかるのは天気予報だ。明日晴天なりとは一言も言ってくれない。夕刻に私は式場を一巡したが、玉座には私の指示どおり天幕は張ってなく、ただ白布で木部が巻いてあるだけであった。私は我が家に帰って、お天気の心配をしながら床についたが、十五日の夜明けに豪雨の音で目が覚めた。豪雨も豪雨、近年稀な大雨で、しかも西北の強風にあおられて、雨戸も開けられぬような嵐、庭の木も枝も折れんばかりに、ゆさぶられている。驚いた私は、すぐさま宮内省に急いだ。

1952さくら:2013/01/19(土) 07:13:39 ID:e8ieIrPA
平成25年、今年は第62回神宮式年遷宮です。

式年遷宮広報本部公式ウェブサイト

http://www.sengu.info/about.html

 「神宮の祭りの本義は、天皇が御親ら皇祖天照大神(こうそあまてらすおおみかみ)をおまつりされるところにあります。それは、神勅にもとづき第10代崇神(すじん)天皇の御代までは皇居内で、また皇居を離れられた約2000年前からは伊勢の地で、どの時代も皇室の弥栄、国家の安泰、国民の平安、五穀の豊穣を祈るお祭りが変ることなくおこなわれてきました。そのことは、かつては斎内親王(いつきのひめみこ)が天皇に代わって神宮にお仕えになり、現在では、祭主(さいしゅ)が天皇の御手代(みてしろ)としてお仕えになっておられることからも理解できることでしょう。このように神宮のまつりは常に歴代天皇のみ心を体して続けられているのです。
 神宮には年間に千数百ものお祭りがあります。これらの祭りは、恒例祭(こうれいさい)と臨時祭(りんじさい)と遷宮祭(せんぐうさい)とに分けることができます。
 恒例祭とは、毎年定められた月日に行われるお祭りです。その内、神嘗祭(かんなめさい)と6月・12月の月次祭(つきなみさい)は古来、三節祭(さんせつさい)といわれ、とりわけ重要なお祭りです。これに祈年祭(きねんさい)と新嘗祭(にいなめさい)を加えて、五大祭(ごだいさい)と呼ばれます。祈年祭、月次祭(つきなみさい)、神嘗祭(かんなめさい)、新嘗祭には、天皇陛下より幣帛(へいはく)が奉られ、月次祭を除くお祭りには天皇が勅使(ちょくし)を差し遣わされます。
 神嘗祭は、一年で最も大きなお祭りです。祭器具等を新しくし、その年の新穀をまず天照大神にささげ豊穣を感謝するとともに更なるご神徳をいただくというところにこのお祭りの意義があります。
 豊受大神宮(外宮)では毎日、天照大神をはじめ神々に朝夕食事をさし上げるお祭り(日別朝夕大御饌祭・ひごとあさゆうおおみけさい)が鎮座以来欠かすことなく続けられています。
 臨時祭とは、皇室・国家に重大事があったとき、臨時に行われるお祭りです。
 遷宮祭とは、20年に一度お宮を立て替え御装束・御神宝をも新調して、大御神に新宮へお遷りいただくお祭りです。式年遷宮は神宮最大の重儀で大神嘗祭(おおかんなめさい)ともいわれ、社殿や御神宝類をはじめ一切を新しくして、神嘗祭を完全なかたちでとり行うところに本来の趣旨があります。」

1953さくら:2013/01/19(土) 07:14:13 ID:e8ieIrPA

「 遷宮はなぜ二十年

神宮の神殿は東と西に同じ広さの宮地があり、
二十年ごとに同じ形の殿舎をつくる。
そのことによりもっとも古い建築が苔むす姿でなくて、いつも新しいままでどの時代にも存在してきた。
これは自然の生物が、個体の命を維持するために生まれ変わるのと同じ発想である。
このあたりまえのような文化の伝承の方法が、世界のどの国にもみられないのだ。
いま、文化に関心をもつ世界の人々が「伊勢」に注目してくれるのは、この発想とその約束を守りつづけてきた日本の伝統と心にある。

遷宮といえばお宮を移すだけと思われるかもしれないが、そこには稲作を根本とする古代の深遠な思想と信仰がある。
それは伊勢の神宮が新しくなることで、日本の国も生まれ変わり、国の魂が新しく強く若返り、日本の精神がみずみずしさを取り戻し、日本のあるべき姿と民族の自覚を高め、信念と誇りを新たにして、永遠の発展を祈ろうという信仰である。

式年遷宮のめざすところは「常若(とこわか)」という神道の理想であると私は思う。
この言葉は平安時代の遷宮の記録にすでにみられるが、太陽の信仰に基づいていると思う。天照大神に象徴される太陽が、毎朝、東の空に新しく生まれ変わって昇り、お正月にはさらに新鮮な初日の出としてよみがえるのである。

日本の国は常に二十歳のころのように若々しく元気で、「弥栄」をめざしたいという信仰である。
それにはなるべくいつもフレッシュな状態を保つべきであり、その理想をめざして古代は社殿も一年に一度新しくしていたのではなかろうか。

詳しくは拙著『伊勢神宮 知られざる社のうち』に書いたが、毎年遷宮するなんて、そんなことはできないだろうと思われるだろう。
だが榊のヒモロギに御神体の御鏡をかけてお祭りをしたような太古は、神嘗祭に新しい祠をつくり、そこに新米をお供えしたのであろう。
その名残は、いまも「神嘗祭は神官のお正月」といい、できる限りの祭具や調度品もこの大祭の前に新調していることにもみられる。
だが、千三百年前に大きな立派な神殿に発達すると、毎年は遷宮できないから、何年ごとにしようかと天武天皇も考えられたのだろう。

1954さくら:2013/01/19(土) 07:14:46 ID:e8ieIrPA
(つづき)
しかし、なぜ二十年にしたのかは、どこにも記されていない。
すべて後世の人が理由づけしたのだ。

まず木造建築と萱の屋根の耐久年限である。
確かに素木の御殿は、二十年たてば部分的に傷みができ、清々しい美しさは失われ、尊厳な姿を保つには限度がある。
だが建物の朽損だけが理由でない、二十年は時代の大きな区切りである。

人生も二十、四十、六十の還暦と世代の区切りであり、現代でこそ平均寿命が八十歳にもなったが、ついこのあいだまで「人生わずか五十年」であった。
それが千三百年も昔のことだから、その平均寿命はずっと低かったはずである。
つまり技術や信仰を次世代に伝承するにも、精いっぱいの年限だったと思う。

また二十年に一度、正確には十九年七か月だそうだが、正月と立春が重なるという大陸渡来の暦学の知識からという説や、古代天皇の宮殿が御一代ごとに遷都されたこと、また米の力というか貯蓄しておける年限が二十年であるという新説もある。
しかしいずれにしてもそれはまことにふさわしい年限であった。
耐久面からみても二十年を過ぎると傷みは急速に早まり、遷宮後の古材を再利用するにもできなくなる。
わかりやすい例は、五十鈴川にかかる宇治橋の大鳥居は、内側が内宮の、外側は外宮の御正殿の棟持柱を再利用して、さらには参宮街道の鈴鹿峠のふもと、関の追分や、桑名の七里の渡しの鳥居となって合計六十年のつとめを果たし、さらにまた氏神のなにかに利用されたりして、ほとんどの古材は神宮と緑の深い神社に払い下げられて再利用される。
このように式年遷宮の制度はまことに理にかなっており、これを千三百年も守りつづけてきたことに頭が下がる。

松の木はいつも緑をたたえ、不易のシンボルとされるが、緑を維持するために松は密かに古い葉を落とし、私たちの身体も常に細胞を新陳代謝することで、みずみずしさを保っているのと同じシステムを取りいれたのである。」

『伊勢神宮の衣食住』矢野 憲一 著

1955NANCY:2013/01/19(土) 16:41:44 ID:dGeUHjWM
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
こんにちは…… ロ−マ字(大文字)の【NANCY】です。
>>1635>>1639>>1643>>1766>>1778>>1829>>1877>>1880>>1890>>1918>>1931>>1942>>
の投稿の続きです

===【 谷口 雅春 先生 著 】=============================

■ 希 望 を 実 現 す る 三 つ の 肥 料     普及誌に掲載

希望を実現するためには、“希望の樹”に肥料をあたえなければならないのである。そ
の肥料には三種類ある。霊的肥料と、精神的肥料と、物質的肥料とである。すべて与え
た程度に報いかえされるのが法則である。 肥料を“希望の樹”に与えないでいて、その
“希望の樹”が大なる成功の実を結ぶと考えてはならないのである。

霊的肥料を与えるには神想観をして、 実相無限の供給を感じて、観の中で、その仕事
を“無限供給の霊”の中に包んでしまうがよい。すると実相 “無限の供給の世界” から
その事業が育てられ、その事業を育てるに必要な人材や資料や要素が自然に集って来る
ことになるのである。次に精神的肥料は愛と智慧とをその仕事及びその仕事の協力者及
び従業員に注ぐことである。 愛がその仕事に注がれず、また仕事をしてくれる人に愛を
注がないでいたら、その事業を育成するために必要な主要な精神的肥料が与えられない 
ことになるのである。
                              希望を叶える365章 より

=============================================

■【人生という舞台…】必ずや「夢…希望」を抱きながら、それを「実現…」させると云う事で
それに必要な多々なる“事物…”に、トライ!でしょうかと。常に【ポジティブ感!!】かと。

本日の「雅春先生の言葉」に【希望の樹…実現】の為の三大肥料…つまりは、
【霊的肥料と、神的肥料と、物質的肥料…】との“言葉…”を、頂きました。最も重要とします
【霊的肥料…】この為には【神想観…】によります処の“イメ−ジトレ−ニング”を、
日々の“行”として行い、“無限供給の霊”から必要とする物・事…集まって来るのですネ!

それは、確かに「納得…」です。以前の事ですが……
「店舗…を持ちたい〜〜〜ワ!」と、おもいました時に、【紙にその青写真】を、
事細かに記載しまして…当時『神想観…』を、揺るぎない気持ちにて、毎日!毎日!【お祈り…】
に、徹しますと…それなりの【店舗…】が見つかり、その時“資金…”が〜〜〜><手元には、
ほとんどなく、それでも【神想観…】つまり【お祈り…】に徹しますと…それなりの物事が、
確かに“スム−ズ”に、不思議なのですが…集まってきます〜〜〜ョネ!

■当に…“必要”に応じ〜〜〜“事”に応じ〜〜〜かと。

此処最近は【魂の向上…】が、停滞気味でしたかと。もう一度…【夢…】にむかって…そう!
『希望の樹…実現』に向かい、まず!【霊 的 肥 料 …神 想 観】にて“無限の供給の世界”
からの【扉…を開く】を、強く!強く!信じましてトライ!トライ!
この事を【実現させるために…行動】かと。
只今【私 の 今 回 の 希 望 の 樹 … 青 写 真 作 成 中…】進行形ですが?

                             再合掌

1956SAKURA:2013/01/19(土) 17:43:40 ID:dGeUHjWM
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>>1875>>1876>>1879>>1888>>1889>>1913>>1914>>1923>>1934>>1935 投稿の続きです…。
ここは、まるで【四 無 量 心 の 心 の 世 界 観】
日常生活面を、それなりに考えていきますと、私なりの「雅春先生の哲学」が見えまして、更に“人
生観”が〜〜実に!感慨深いものになりますので、私なりに「生命哲学…勉強会」を〜♫〜では“続き
投稿”していきます。「雅春先生の例え…」として、投稿されていらっしゃいました記憶があります。

■■ 『生命の実相哲学シリ−ズ…SAKURA論』   ― その① ―

======【生命の実相 37巻】からの抜粋 =====================
 たえず親から叱られつづけてきた子は、どうも気遅れしがちである。そうでなければ極
端に反抗的に乱暴である。
 
この世の中に悪人はいないということ、もし欠点を指摘してくれる者があったら、その
人は決して悪意からでなく、自分をよくしてくれるために教えてくれるものであるとい
うことを幼い時から子供に知らすことが肝要である。
 子供の(大人も同じであるが)欠点を直すために指摘する際に、腹立ち声を出すことはなん
の益もない。ただ気遅れのする子供をつくるだけである。その性質は生長後も時として「生
涯つきまとい。その人の運命の重荷となることがあるものである。親が子を害していると
知らないで、どんなに多くの子を害していることであろう。
 
心理学者の実験によると、幼児は一定以上の高声または高音響に対して本能的に恐怖
の表情を示すのである。そのことは学童以上の年齢になっても継続する。もし子供をよ
くしてやりたいとの親切から子供の欠点を指摘するような場合には、普通の話以上の高声
を出したり、憤怒の調子を帯びた言葉で話してはならないことである。もし相手に訓示を
与える際に相手に恐怖や不快の念を与えたら、それは反抗となってせっかく話したこと
が反対の結果になることがある。
 
恐怖は閉じる心である。形は心の影である。蛤を見て悟るがよい。高音を出して恐れ
させれば、その蛤は貝殻を閉じるであろう。
 貝殻を閉じる蛤のような気遅れする人間に育てたのは、物を教えるときに使う荒立
った高声である。                (谷口雅春著)

========================================

PS:「トキ様」 ヘ
私も「亡き 父」からよく叱られた方でしょうかと。??確かに“叱る事”はその子の為にとの、
“想い…”からとは理解していますでしょうが?意外と、叱られている間は、その相手の感情
からの“恐怖心”が先走り、何も覚えていないし?聞いていない?のではと、思います。…が?

つづく

1957SAKURA:2013/01/19(土) 17:46:02 ID:dGeUHjWM
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>>1875>>1876>>1879>>1888>>1889>>1913>>1914>>1923>>1934>>1935>>1956 投稿の続きです…。

■■ 『生命の実相哲学シリ−ズ…SAKURA論』   ― その② ―

>>1956その①の投稿の続きです…。
■今回の【大阪での高校生の自殺】も、そうでなのしょうかと。
【運動クラブ…】に、そのような“先生…”がいるようです。私の高校時代の頃です。
友人が「テニス・クラブ」に入って“部活活動…”をしていました。或る時の事です。
「テニス・クラブの早朝訓練…」があり、友人は事もあろうに“寝坊”して“遅刻”したのです。
その時、笑い事ではありませんが「テニス・クラブ」の何人かも“遅刻”をしてしまい、その
「テニス・クラブ担当の先生」は、そうなのです!!【テニスのラケット】で“顔…”を叩いて
いったのです。朝の授業時間が、いつものように始まりまして、その友人は、いつもより遅く教室
に入ってきました。その時の“顔…”は、当然の事ですが、はれていますから“ビックリ…”

■授業の担当の先生が、“赤くはれている顔…”を、見るやいなや“ビックリ…”それで、先生は
彼女のそばに来て“声…”をかけて理由を聞きますと、瞬間!泣きだしながら「テニス・クラブでの
たたかれた話」を担任に話をしますと…クラスの全員が、彼女の話の内容が、余りにも“スゴイ〜”
クラス全員が、みんな〜〜〜頭に来て、その授業時間は、とう〜〜とう〜〜担当の先生は、切り替え
まして【道徳の問題…】についての授業になりました。私は?チョッピリですが【どうして〜〜〜?
数学の授業が道徳の授業になるの〜〜〜】と、あの頃は、考え方が自己中心的?でしょうか……
それでも、担任の先生の“お話…”を聞きながら【叱ると言う行動・虐待!】を、考えこんでしま
いました。当時のこの担任の先生は〜〜〜

やはり【虐待・荒い罵倒をした口調の声】は、何の効果もないし、逆に、精神の問題にまで発展する
事になりうると…かなりの立腹にて、とう〜〜とう〜〜これがきっかけで【問題…】は大きくなって
いったのです。この「テニス・クラブの先生」は、過去に“栄光”のある先生で、この先生のお陰で
私の学校は【テニスが強い…】と云うイメージが定着しまして、当然ながら、結構ですが〜〜〜
【大会優勝…】も結構あった様ですかと。…が?正直、この【大会優勝…】などの名声!!これは
生徒にとって何の“益…”があるのでしょうかと??個人的な考えですが、結局!大人の【テニス
クラブの先生の勲章】だけしか、残らないと思った次第なのです。この様に、その人の為に【叱って
いる事】は、自分の“欲得?つまり”名声?“を、優先にしているのではと、あの時思ったものです。

■私は“独身…”です。…が?「里親」になるとしたら、やはり!子供の為になる【教育…】は、
まず【言葉=言霊】から、始まるのでしょうかと。??此処で〜〜〜
【叱 る と 優 し く 教 え る 事 】とは違うのです〜〜〜ョネ!!私の場合は、母が
“頭の回転が早い”ので「亡き父」にしますと、いつも「亡き母」の方が、有利に見えて、「亡き父」
にしますと私を見ますと、一番母に似ていますのでしょうか?【八つ当たり??】だったのでしょう
かと。今にしてみれば、当時の父の気持ちが、理解できる様になりましたでしょうか?本当に、当時
の私は【叱られるという事…】がわからずに、いつも“一人で腹立ち”を、父に対し抱いていました。
…が?今にしてみますと、本当に【真理の把握…】をするだけで、物事が解決するのです〜〜ョネ?

■「トキ様」も属言います【スパルタ教育…】は、どう思われますでしょうか??そして、
“腹が立つ事”がありましたら、その感情を、どのように対処されていますでしょか??
同じように、やはり【神にお任せして神想観…】でしょうか??やはり【お祈りが一番…】かと。

                                  再合掌

1958goro:2013/01/19(土) 19:56:45 ID:nCo1DokU

>>1951の続き

 二重橋の前に行ってみると、なんと玉座には金色燦たる菊花御紋章のかがやいた天幕が一張張ってあり、且つは正面を除く三方も色幕で雨水が入らぬように囲ってあるではないか。何たることをしてくれたかと、腹も立ったが、さすがにこの大雨では係りの者も張らずにはおけなかったのだろう、と思い直して、別に小言もいわず、そのまま侍従職に急いだ。

雨はいよいよ降りしきるばかりで、一向やむ様子もない。十時頃私は一人で、楠公銅像付近を見廻ってみた。ここは女史の団体、七千名の集合地点に当てられていたので、心配のあまり、見に行った訳だった。見ると雨宿りする蔭もないので、新聞紙或いはふろしきを頭にのせて、立ちながら早昼をたべている。傘を持っているものもいるし、持っていないものもいる。持っていない者は多分きのう家を出て汽車で来た人たちであろう。

侍従職に帰って、陛下に、女子の部隊はいま、かくかくの有様で、陛下のおいでをお待ちしております、ということも申上げたが、十一時半頃になって、あまり雨が降るので心配のあまり、一木宮内大臣と関屋宮内次官とが珍田侍従長の室に来られ、私を呼ばれたので、行ってみると、大臣は私に、この大雨でも分列式をやるのか、と尋ねられる。予定通りやります、と私は答えた。大臣は更に「玉座に天幕は張ってあるだろうね」と念をおされたので、私は今朝不本意ながら天幕の張ってあるのを見てきているので、張ってあります、と答えると、大臣は重ねて、「陛下は天幕の中におはいりになるであろうか」と心配そうに尋ねられる。そこで私は、「たぶん、おはいりにならないと思います」とほんとうのことを答えた。すると大臣は、「それは、よろしくない。きょうは、こんな荒天であるから、ぜひ天幕の中におはいりになるように、これからお願いしてくる。がしかし、防水マントのご用意はしてあるか」とまた問われるので、「それは準備してあります」と私は答えた。

御座所で、陛下との大臣の間に、今日は非常な荒天でございますから、どうか天幕の中で御親閲を願いとう存じます、と申し上げられたが、陛下は常になく、大臣の言葉をお聞き入れにならない。そこで大臣は例を軍隊にとって、一軍の司令官というものは、たとえ部下の兵たちが敵の弾雨の下に立つからといって、司令官自身第一線に立つものではございません。司令官には全軍を指揮する大切な任務がありますので、遙か後方で指揮をとります。陛下は長い間大礼の諸行事でお疲れの際でありますから、きょう青年たちが雨に打たれるからといって、ご自身も雨の中に立たれることは間違っております。

1959goro:2013/01/19(土) 19:59:36 ID:nCo1DokU

>>1958の続き

ぜひ天幕の中に、と重ねて進言されたのであるが、陛下は仲々お聞き入れにならず、司令官でも、時と場合によっては、第一線に立つことがある。今日はその積りであるから、天幕はとり除くように、とのお言葉に、さすがの大臣もお返しする言葉がなく、然らば防水マントはお着用になるように、とお願いし、それは着ようとのお言葉を得て、侍従長室へ帰ってこられ、私に玉座の天幕をとりはずすように、と指示された。

午後一時頃、私は天幕をとりはずすため、係りの者をつれて現場に来た。当日、分列式陪観のために招待を受けた向きは、外国大公使を始め、内閣総理大臣以下各大臣、陸海軍元帥以下将星、貴衆両院議長議員その他沢山の人達であったが、もはやその六分通り陪観席を埋めて、雨傘や、カーキ或は黒のマントが入り混じっている。

この人々の面前で、私たちが玉座の天幕を撤去しはじめたのを見て、みな驚いたらしく、式が中止になるのではないか、場所が変更になるのではないか、など心配して、数々の人々が、わざわざ陪観席から私の立っているところまで来て、何故にこの大雨の中で、玉座の天幕をはずすのか、という質問だ。私は、その方々には、一々、陛下の思召によって撤去しているのです。と答えておったら、そのうちに今村中佐の部下の若い将校が陸軍の本部から走ってきて、私に同じ質問をするから私も同じ答えをした。その若い将校は、朝からの活動で、ずぶぬれの有様だったが、非常な感激の様子で、ああ、そうでしたか、と陸軍の本部に馳せ帰ったが、直ちに伝騎数組を派遣して、この時刻に、すでに皇居の周辺に集結している約八万の青年たちに、陛下の思召により玉座の天幕撤去の旨を伝達せしめた。この伝令の声が、青年たちの胸に、いかように響いたかは、いうまでもない。

当日、朝早くから、武装した約四万の青年の集団は、皇居の大手門外から九段下にかけて、あのコンクリートの道路上に立ったまま、大雨に打たれ、寒風にさらされ、式の開始を長い間、待っていたのだ。体は濡れにぬれて冷えきっている。眠気は出る。腹はへる。恐らく不平だらだらののものも沢山いたであろう。そこに今の伝令の声、思召により天幕の撤去、裏を返せば、君たちがぬれるなら、私も濡れようという陛下のお声だ。

感激の嵐、急に熱い火の玉が、からだの中を走り廻り始めたのであろう。皆いちどきに、雨の中で外套を脱いでしまった。脱ぐには脱いだが、これを巻いてまた背嚢につける場所の余裕が無い。分列行進のときに、紅張した顔で、外套を左わきに抱え、右肩に銃を担った異様な姿で、大地もくだけよとばかり、靴音高く、ザック、ザックと感激に満ちた眼光で、陛下を見上げながら、玉座の前を通過していた青年集団の張り切った姿を、私は今でも忘れない。

1960goro:2013/01/20(日) 16:21:34 ID:nCo1DokU
>>1959の続き

 雨は幸い小降りとなったが、身を切るような寒い北西風は相変わらず吹きまくっている。私は二時少し前、陛下の防水マントを持った野口(明)侍従と二人で、玉座のところに先着して、陛下の御到着をお待ちした。正二時、陛下は二重橋正門から自動車で式場に御到着御下車、野口侍従は直ちに陛下のお後からマントをお掛けした。陛下はお手ずからマントのホックをかけながら、二、三歩砂地を踏んで、四段ばかりの階段を玉座にお上りになったが、台上にお立ちになるや否や、どういう訳か、またマントを後ろにお脱ぎ捨てになってしまった。階段の下には、ちょうど奈良(武次)侍従武官長がおられたので、落ちてきたマントをお受けはしたが、ここで重ねて武官長台に登って陛下にマントをお勧めするという訳にはいかなかった。というのは、壇上にお立ちになると同時に、君が代の軍楽、全員捧げ銃、式場は一瞬にして厳粛なる空気に包まれてしまったのである。

それから一時間と二十分、私たちは玉座の後方にいたが、寒さが身にしみて胴ぶるいが止まらない。足をやたらに踏んで、かろうじて堪えていたが、陛下は高い台の上に御起立、さぞ、お寒かったろうに御前を通過する各集団の敬礼に、挙手の礼を賜る外は微動だになさらない。

陛下が皇居にお帰りになってから後で、夕刻、私は陛下に、なぜ、あのときマントをおぬぎすて遊ばされたか、お尋ねしたところ「皆が着ておらぬから」との御言葉であった。もし、雨天ならば、参加者一同には雨具を着用させ、御自身もマントをお召しになるおつもりであったのに、玉座の階段をお上がりになる瞬間、一同が雨具を脱いでいることが、お目にとまり、それならば自分も、と台の上からマントをお脱ぎ捨てになったのであろう。玉座の天幕が撤去されたときけば、青年たちは雨具を脱いでしまう。青年たちが雨具をつけていない姿をごらんになれば、こんどは陛下がマントを捨てておしまいになる。これは皆、寒い雨風の中で、次から次へと起こった出来事であった。何という心あたたかい上下の感応であろう。私が、陛下の、国民と共に同艱共苦の御覚悟を如実に見せていただいたような気がしたのは、この時である。

1961goro:2013/01/20(日) 16:23:45 ID:nCo1DokU
>>1960

鹿児島湾上の聖なる夜景

今は故人となられたが、大審院(今の最高裁判所)判事の三宅正太郎くんが書かれた本に「嘘のゆくえというのがある。この本のうちに「宮城前」という、まことに面白い、日本人と独逸人との「ものの考え方」のちがいを書いた一文がある。これを、かいつまんでいうと、三宅君が昔、独逸に留学中に知りあった一人の老判事が、東洋旅行の途中、日本に立ち寄って三宅君を訪問したことがあった。一日、三宅君は彼を案内して、東京見物にでかけ、まず二重橋前に行ったところ、時は恰も日支事変勃発直後のことであり、多くの在郷軍人が動員令を受けて、自分の所属する連隊に馳せ参ずるに先だち、二重橋前に来て、陰ながら、陛下に、只今から、戦いに行って参ります、とお別れを申し上げている光景が、そこに展開されていた。

応召の目印のたすきを肩にかけた若者たちは、或は親兄弟と共に、ある群れは旗を立て、またある群れは賑やかな楽隊を伴い、いく群れとなく広場は織るが如くに雑踏している。三宅君たち二人は、この、またとない珍しい光景を眺めていると、そのとき、東京駅の方から、田舎の人らしい親子三人連れが、こちらに近づいてくるのが目に止まった。年老いた父親と応召の息子とその妹らしい三人だが、たった今、東京駅について、また、どこかに旅立っていくのであろう、手には旅の荷物を持っている。三人は遠慮がちに二重橋の奥の玉垣のところに近づく。どうするかと見ていると、彼らは、そこに荷物をおいて、いかにも敬虔な態度でお祈りをしている。

これを、先程から、じーっと見ていた独逸の老判事は、二重橋の上方にある伏見櫓(倉庫)を見上げながら、そっと声を呑んで、「皇帝陛下はいま、あのお城の窓から、こちらを見ておいでになるのか」と三宅君の耳にささやいた。察するところ、この人の考えでは、国民のこんな敬虔な態度は、皇帝陛下の見ておいでになる前でなければ、ありえないことだ、と思ったのであろう。この問を受けた瞬間、三宅君の脳裏にひらめいたのは、かの目をいからせ、腕を振って、群衆を前に、叱咤激励、獅子吼する彼の国の独裁者の姿であった。また、かくしなければ、国民の心を捉えることができない国柄と、我が日本の国柄との、いちじるしい違いを深く心に感じながら、三宅君は「否」とのみ答え、感極まって、しばしその場を立ち去りかねた、という物語である。

これを読んだとき、私は、ぜひ三宅君に見せて上げたい、と思うものがあったが、残念ながら、遂にその機会を得ずに終わった。それは他でもない、ただ一幅の絵である。私の眼底に鮮やかに残る、鹿児島湾上の聖なる夜景が、それである。

1962goro:2013/01/21(月) 22:13:19 ID:nCo1DokU
>>1961

昭和6年の秋、熊本地方で陸軍特別大演習があり、陛下は往路は汽車で熊本までおいでになったが、おかえりは、演習終了後、汽車で鹿児島へ、鹿児島からは軍艦榛名で横須賀へ向かわせられたことがあった。当時、私は行幸任務を主管する大臣官房総務課長として、お伴のうちに加わっていた。忘れもせぬ、時は十一月十九日、日没と同時に、榛名は供奉の駆逐艦四隻を随え、県市民の盛大なる奉送裡に、煙副桜島を後に、いま静かに鹿児島湾を南下しつつある。

艦上に立って見上げると、ゴツゴツした小山のような巨艦の檣頭には天皇旗がへんぽんとひるがえり、忙しく立ち働く水兵たちはみな喜色満面。自分たちの艦に、天皇旗を掲げるということは譬えようもない喜びなのである。御召艦と決定してからの、伝染病予防のための長い間の上陸禁止、艦内整頓、清掃のための日夜の猛作業、みなこれ今日の栄えある日を迎えるためだったのではないか、喜ばずにおられようか。

艦内に於ける陛下の御生活は、いつも極めて御愉快であり、ご自由である。陸上に於けるが如き警戒、警衛は一切ない。全艦みなこれ国家の干城、一人の狂者もおらぬからである。作業にいそしむ水兵たちの群がるなかを、お一人で割っておはいりになる、そのおたのしみ、肩と肩とのすれあい、若者たちの熱気のうちに、われ国民と共にありの御気分を満喫されるからであろう。

榛名で、陛下の御居室兼食堂に充てられたのは、後甲板の真下の司令長官室であった。お室の入り口のすぐ近くに長官専用の階段が上へ通じているから、いつでも、ご自由に、後甲板においでになることができる。この後甲板は陛下の最もお好きな場所で、雨が降っても心配がないように、上にはズックのおおいが一面に張ってある。夜は広い甲板の中央のところに、電灯がたった一つつくだけで、うす暗いところではあるが、夜でも、よくここにおでましになる。折りたたみの軽いズックの椅子が数脚、それから、陛下はタバコをおすいにならないが、他の者のために、火縄のついた大きな灰おとしの真鍮の壺が二、三あるだけで、装飾は何もない。ただ、遠望の御用のために、脚付きの望遠鏡が右舷にも左舷にもところ、どころに備え付けてあるのと、海図の机が一つ、この海図には担当の将校が鉛筆で、艦のコースを書き入れている。

これを見ると鹿児島湾の幅は約二十キロ、鹿児島市から湾口までの距離は約八十キロ、艦のコースはちょうど湾の中央線を、まっすぐに湾口さして南下し、それから、太平洋を黒潮の流れに乗って横須賀へ向かうことになっている。見渡せば、左舷、大隅半島の陸地も、右舷・薩摩半島の山々も、共に十余キロの彼方、夕闇のうちに、薄黒く見えるだけである。

1963goro:2013/01/22(火) 20:28:39 ID:nCo1DokU
>>1962の続き

 間もなく、六時の夕食の時刻となったので、われわれは艦内に降りて、士官の食堂で食事にとりかかった。航海中、陛下の御夕食には艦長以下上級将校が、代わるがわるお相伴に召されるのを例としていたが、このときは出港直後のことであり、艦長以下一同、業務多忙のため、陛下は御居室でお一人でお食事中であった。ちょうど六時半頃であったか、私は皆と食事中、フト昔の記憶が頭に浮かんできた。それは大正十四年の夏、まだ皇太子であらせられたときのことであるが、軍艦長門で樺太に御旅行になったことがある。

ある日、樺太の南端にある大泊の港から、西海岸にある本斗、真岡の方へ回航の途中、その夜、長門は海馬島という絶海の孤島の島かげに仮泊する予定になっていたので、夕食後、われわれは、殿下を中心に、後甲板で涼しい汐風に吹かれながら、黒ずんだ小さな海馬島の小高い丘が、だんだん近づいてくるのを、物珍しく眺めていた。当日は風波がかなりあったので、艦は丘の風下にあたる静かなところに泊めるために、速力を落とし、徐行して、ぐるっと島を廻っている、その時、突然、夜やみの波の間、艦のすぐ近くに、何やら、泣くような、叫ぶような大声がきこえてきた。

舷窓をもれる明かりに照らしだされたところを見ると、日の丸の旗を舳先に立てた一そうの小舟が、荒波にもまれながら、艦と並行して、六人の若者が一生懸命に櫓をこいでいる。左手に、しかと、とも櫓を握って指揮をしているのは、一見、六七十の老父のようであったが、紋付、羽織、袴に、右手に山高帽を高々と差し上げながら、なにか叫んでいる。風が強いため、その言葉はききとれなかったが、嬉し泣きに泣いていることだけは、よくわかる。

私は、一ヶ月前、下検分でこの島にも立ちよったので、島の事情は知っていた。昔から、この島には、百人あまりの日本の漁民がいて、ここを根拠地として漁業を営んでいるのである。きょうの夜、殿下の御召艦が、ここに仮泊することは、みな、知っていたので、恐らく島の人たちは総出で、船をだして、沖で殿下をお迎えする積りでいたのだろうが、日が暮れて、波荒れ狂う夜闇の海上で、そのうちの一艘が、やっと長門の艦影を発見し、少しでもお側に近づこうとして、えいえいと漕いでいたのである。

われわれは、後甲板の上から、帽子やハンカチを振って挨拶をかわしたが、艦がいくら徐行しているとはいえ、二つの船の速力には格段のちがいがあるので一瞬の間に別れてしまった。私は、もしほんとに、手がとどくなら、抱き合って、一緒に喜びたい、と思ったが、まことに残念なことであった。

1964goro:2013/01/23(水) 10:35:33 ID:nCo1DokU
>>1963の続き

 このことを、私は食事中に思い出し、ここも波の静かな鹿児島湾内のことであるから、いつ、どこから、船が来ないとも限らない。今は陛下もお食事中であろうし、我々も皆食堂にいる。後甲板には、いま、誰もおらぬだろう。もし船でも来たら、相すまぬことになる、と考え、皆より早く食事をおえ、大急ぎで後甲板に駆け上がった。艦内は非常によく照明されていて明るいが、後甲板の上は、まことに暗く、電灯の下ならともかく、少しはなれたら、人の顔も、よく見分けのつかぬ有様であった。

ところが、誰もおらぬとばかり思って飛びだした私の目にうつったのが、右舷の手すりのところに、西を向いて立っている、ひとりの人の後ろ姿であった。望遠鏡から手をはなし、挙手敬礼の後ろ姿。

ハテ、今ごろ、誰が、と思って、近づいてみると、こは、いかに、陛下ではないか。さては、奉迎船が下にきているな、と私はすぐ右舷に馳せよって下を見たが、船らしいものは見えない。ハテ、なにか望遠鏡でごらんになったのかな、と思って私も近くの望遠鏡に目をあててみたが、明るいところから、急に暗いところにくると、目が慣れていないので、なかなか見えない。ジーッとがまんして、のぞいていると、そのうちに、だんだんと目がなれてきて、薩摩半島の山々の輪郭が、ぼんやりながら見えてきた。

時刻から推測して、指宿の沖合あたりかな、と思った。そのうちに、こんどは、海の色と陸の色との区別が付くようになり、水陸の境目つまり海岸線一帯に、延々果てしなくつづく赤い紐のようなものが見える。ハテ、これは何だろうか、と考えていたら、次に見えてきたのは、この赤い紐の上、小高いところに、幾百メートルかの間隔をおいて点々ともえさかる篝火。これで私は万事を了解した。

当夜は月もなく、星も稀な、曇りがちの空模様で陸からは軍艦の姿は見えないが、時刻から考えて、今ごろは陛下のお船が沖を通過になるときだ。と語り合い、薩摩半島の村々に住む人々、老いも若きも、ちょうちんやたいまつを持って海岸に立ちならび、また若者たちは山々に登って篝火をたき、半島に住む村びと、こぞって陛下をお見送りしているのである。

陛下は、いま、望遠鏡で、これを発見遊ばされ、うす暗い甲板の上から、ただ、おひとりで沿岸一帯の奉送の灯火に対し、はるかに、御挨拶をなさっておいでになったのである。

1965うのはな:2013/01/23(水) 21:28:39 ID:Gsql6f66
    国旗「日の丸」 阿久根 貢

      形あるものは心の具象化

 すべて形あるものは心の影である。換言すれば内部生命の動きはそれが具象化して
形にあらわれるということであります。それによって、何故日本皇室の御紋章が十六菊であるかと
言いますと、「菊」というものは「聴く」ということを象徴的にあらわしたのであります。

 ヨハネ伝にありますように、全てのものはことばによって作られているのであります。
「治める」というのは「収める」と語源が同じで、自分の方へ取り込んでしまうものでありますが、
そのような収め方は日本天皇の治め方ではないのであります。

 日本天皇の治められるのを「しろしめす」というのは、「知る」という語の敬語であります。
即ち十六方の民のコトバを聴いて、それを知り給うことが「しろしめす」ということであります。
 蓮華蔵世界である実相のハチスの中心から現象界が開き出でて、いろいろの民族や国民が現われて来ている。
その民族や国民の声を聞き給うて、十六方向にある所の世界のすべての民の言葉をその心の思いを
悉く聞いてそれを知らしめして、その民の声をそのままに政治を行われるというのが、天皇が国を治めしめし給う
所の治め方であります。

 だから日本天皇の政治のあり方を「しろしめす」というのであります。

『愛国心の教育』 生長の家教育者研修会

1966SAKURA:2013/01/23(水) 22:08:52 ID:ropSe4RI
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ここは、まるで【四 無 量 心 の 心 の 世 界 観】
日常生活面を、それなりに考えていきますと、私なりの「雅春先生の哲学」が見えまして、更に“人
生観”が〜〜実に!感慨深いものになりますので、私なりに「生命哲学…勉強会」を〜♫〜では“続き
投稿”していきます。「雅春先生の例え…」として、投稿されていらっしゃいました記憶があります。

■■ 『生命の実相哲学シリ−ズ…SAKURA論』   その①
===【生命の実相…2巻 抜粋】==============================

■【五感的存在の否定】    その①

>>皆さん御承知のアイシュタイン博士でありますが、この科学界の大天才が「相対性原理」
という法則を発見した。この学説はなかなかむずかしいもので世界中で数人の天才しか本当
に理解しえないであろうと、アイシュタイン博士自身が言っているほどの学説・・・・
・・その学説の中心となるのは、われわれの五官で知ることの出来るものは、われわれの
知覚力との関係上、相対的にそう見えるにすぎないので、存在の本当の相(すがた)がわか
るのではないかということであります。
>>その一、二の例をここに解りやすく…云々…

>>たとえばある薬を服ませれば、その人には手に持った時計が床の上まで落ちるのに二十四
時間もかかって落ちるように感じられる。それかといってそう感じる人の方がまちがっている
という証拠がはない。
>>ふつうの人がはいろいろの食物や栄養をとって、それが吸収されて知覚機関に循環してい
る結果、手に持った床の上に落ちるまで瞬時しかかからないように感じられるのであります
>>・・・すべてこれは関係上の問題すなわち相対的の問題であって、本当にその時間がどれ
ほど長くかかっているものであるかは、五官では解らないのであります。(一部抜粋)
==============================================

■人によって【時間の観念…】は、本当に違うのです〜〜〜ョネ!
例えば、この時期ですと、ついつい“学生時代”を思い出します。受験の時間は、その内容に、
ある時は「難問の難しい問題〜〜><」が、出ますと、それを理解するまでは、時は、一瞬止まっ
たような感じでしょうか??そして、解答を出すのに“イライラ…焦り”かと。逆に、その問題
が、簡単に解決しますと、その時間は“時間もクリアする…”従いまして、残りの時間も“タップリ”
別の表現ですが、例えば、仕事として“販売の時…”は、売れています際、お客様との回転率が、
多く、本当に“時間の経過”も、“ア〜〜〜ッ!”という間に過ぎていきます。…が?逆に、
お客様との接客が少ない…つまり回転率が殆ど無い場合には、実に悲惨な状況ですかと。(微笑)
実に、ものすごく一日が?時間が?長〜〜〜く!感じられます。このような心理が、全ては……
【人間の心…】から、きているのではと思うのです。
狭量の“考え方”は、またそれも、ある面では【時間経過が無駄!】に過ぎていくのでは?
【時間は常に、刻々と平等に過ぎ去るモノ】では?しかしながら、【心の捉え方…】で、
一日に於けます「時間観念…」が変わり、過ぎ去り、終わっていくのです〜〜〜ョネ!!

                         つづく

1967神の子さん:2013/01/23(水) 23:59:28 ID:pic01rm6

無料ですよ。

1968a hope:2013/01/24(木) 08:38:55 ID:TqpbsVIM
新版 生活読本 谷口雅春先生著(日本教文社)
第十一章 心の花園に美しい花を咲かせましょう

◆本の良い処を考えて吸いとれ

ただ読みっぱなしでは、それの中にある知識は本を書いた人のものにすぎません。
それをよく心でかみくだいて自分のものとした時にのみ、それがはたらく智慧になるのであります。

むやみに、たくさん読んだからとて力にならないのは、むやみにたくさんたべたからとて、
人間の肉にならないのと同じであります。
考えながら、うなずきながら、心の中へ飲みこむようにしながら読むことが大切であります。

本に読まれてはならないのです。
本は読まねばなりません。

読む分量ばかり多くて、読んだことについて深く自分で考えてみない者は、
本に読まれたのであって、本を読んだのではないのであります。

「ことごとく書を信ずれば書なきにしかず」という諺(ことわざ)もあります。
書に読まれてしまっては、自分の力はつきません。

自分で本の善いところを吸いとるだけの力がなくてはなりません。
(つづく)

1969goro:2013/01/24(木) 20:06:11 ID:nCo1DokU
 >>1964の続き

 この光景を、思いがけなくも、私が拝した次第であった。ああ、これこそ、ほんとうの日本の姿、と私は思った。何とか連絡をとって、いま、陛下は艦上から、あなたがたのお見送りのともしびに対して、ご挨拶をしておいでになりますよ、と知らせたい気持ちで胸一杯の私は、その方法がないのに、もだえ苦しんだ。。無線で打電しようかとも思ったが、いま、あの山の上で、かがり火をたいている人たちの耳に、到底、今夜のうちに届くとは思われない。

フト、そのとき、一案を思いついた私は、すぐさま艦長室へ走った。艦長に事情を話して、艦の探照灯を全部つけて貰うことを頼んだところ、艦長も感激して、すぐつけましょう、という。私はお願いしますの一語を残して、また、すぐ後甲板に引き返したところ、そのときは、もう六ケの探照灯の光芒が皎々と、左は大隅半島、右は薩摩半島の空や山や海岸一帯を、くまなく撫でまわしていた。
はるかに、ワッ、とあがる両岸の歓声を想像しながら、私はほんとに嬉しかった。

海上、聖夜の讃

 月もなく星も稀な夜空の元、黙々と鹿児島湾を南下する軍艦榛名の薄暗き後甲板は、人なく声なく、ただ一人、陛下のおん挙手の尊影を仰ぐ。
御会釈を賜る者は、そも誰か。肉眼にこれを求めて之を得ず、わずかに望遠鏡のレンズのうちに、薩摩半島沿岸一帯、はるかに見ゆる奉送のともし火、盛んなるかな、山々には、かがり火、岸辺には、ちょうちんの群れ、延々として果てしなくつづく。

さらば陛下、いざさらば、
  おんすこやかにおかえりませ。

ありがとう、
 皆も元気でね。

げに闇をも貫くは、真心の通い路。海波遠くへだてて、君民無言の、わかれのかたらい。
ああ、誰か、邦家万古の伝統を想わざる。時はこれ、昭和六年十一月十九日。

1970さくら:2013/01/25(金) 07:48:05 ID:e8ieIrPA
合掌ありがとうございます。

本日、一月二十五日は、『自然流通の神示』が天降った日です。



1971さくら:2013/01/25(金) 07:48:41 ID:e8ieIrPA


『自然流通の神示』 谷口雅春先生

『生長の家』は奇蹟を見せるところではない。
『生長の家』は奇蹟を無くするところである。
人間が健康になるのが何が奇蹟であるか。
人間は本來健康なのであるから、健康になるのは自然であつて奇蹟ではない。

『生長の家』はすべての者に眞理を悟らしめ、異常現象を無くし、當り前の人間に人類を歸らしめ、
當り前のままで其の儘で喜べる人間にならしめる處である。
あらゆる人間の不幸は、當り前で喜べない爲に起るものであることを知れ。

當り前で喜べるやうになつたとき、その人の一切の不幸は拭ひとられる。
病氣もなければ、貧乏もない、また搾取された富もなければ、搾取した富もない。
蹂躙られた弱者もなければ蹂躙つた強者もない。
唯、一切が渾然として一切の者が富んでゐる。
此れが實相である。

大いなる生命の流れが一切者に貫流し、とどまらず、堰くところなく、豊かに流れて、ものの供給もおのづから無限である。
一切のものが必要に應じて流れ入ること、一つの大河の流れより水を汲みとれば、隣の水來りて其の虚を埋めるのと同じさまである。

流通無限、貧に執せざるが故に貧とならず、
富に執せざるが故に他を搾取せず、
流通せざる固定の富なきが故に、みづから豊富なる供給の流れを受くれどもそれを占據せず、執着せず、來るに從つて拒まず、受けて更に價値を増して他を潤す。

自給自足などとは自他に捉われた狭い考へである。
自他は一つである。
『生長の家』は自給他足、他給自足、循環してとどまらず、大實在の無限流通の有様を見て、その有様の如く現實世界を生きるのが現實界の『生長の家』である。
貧に執する聖者も、富に執する富者も、『生長の家』人ではない。
當り前の人間を自覺し、當り前に生きるのが『生長の家』の人である。
『當り前の人間』が神の子である。
皆此の眞理を悟つた人が少い。
『當り前の人間』のほかに『神の子』があるやうに思つて異常なものを憧れるのは、
太陽に背を向けて光を求めて走るに等しい。

皆の者よ、人間の生命の實相を悟つて病が治るのは、病念と云ふ異常現象が止んで、人間が本來の自然に歸るからである。
異常現象はすべて病氣の一種である。
貧しさも異常現象であるから、人間の心が自然に還ればなほるのである。

異常現象のなかに神があると思ふな。
そこには好奇を喜ぶ不自然な心があるばかりである。
怒り、憎しみ、恐れ、嫉み、他を蹂躙つて打ち勝ちたい心ーーーすべて是等は異常な心であるから病氣の因である。
異常な心を去れば病氣も貧しさも治る。
當り前の人間になることが大切である。
當り前の人間のほかに神の子はない。

(昭和八年一月二十五日神示)

1972SAKURA:2013/01/25(金) 10:23:08 ID:vHmGGzRQ
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
おはようございます……。  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1653>>1654>>1661>>1674>>1675>>1744>>1753>>1765>>1779>>1780>>1783>>1792>>1792
>>1793>>1796>>1801>>1804>>1812>>1813>>1821>>1822>>1836>>1837>>1842>>1843>>1852
>>1875>>1876>>1879>>1888>>1889>>1913>>1914>>1923>>1924>>1934>>1935>>1956>>1957
>>1966>>投稿の続きです…。

ここは、まるで【四 無 量 心 の 心 の 世 界 観】
日常生活面を、それなりに考えていきますと、私なりの「雅春先生の哲学」が見えまして、更に“人
生観”が〜〜実に!感慨深いものになりますので、私なりに「生命哲学…勉強会」を〜♫〜では“続き
投稿”していきます。「雅春先生の例え…」として、投稿されていらっしゃいました記憶があります。

■■ 『生命の実相哲学シリ−ズ…SAKURA論』   
===【生命の実相…2巻 抜粋】============================

■【五感的存在の否定】   その②
>>われわれの眼にカーブが曲って見えたり、直線がまっすぐに見えたりするのも、われ
われの眼球がまん円い結果であって、眼球をまん円く」ないもの取りかえるとすると、カ
ーブの方がまっすぐに見えたり、直線の方が曲って見えたりするのであります。するとわ
れわれが曲線だ、といっているのも、その線そのものがまっすぐなのであるか、曲って
いるためであるかは五官では判別できない、ただそれはわれわれの眼の球との関係上、そ
う見えるにすぎないのであります。時間的長さも空間的形態も、このようにわれわれの知
覚機関との関係上、相対的にただそう感じられるだけで存在(もの)の実相(ほんとのすがた)
はわれわれの五官ではしることができないのであります。  (一部抜粋)
=============================================

■■ですので【現象での物事】は、それぞれの見た事だけを、認めない見方です〜〜〜ョネ!
人によって、その人の“心の捉え方”で、【人生が短くも!長くも!ある事となり、現象での五官
とは、五感で見る事になりますよ〜〜〜ネ!!
そうして考えますと、やはり【時間の使い方…】は“楽しい心”を伸ばすことは、
【心=実相世界に入る事】でしょうか??やはり無理して“環境”の合わない人とは、避けていき、
どうしても避けられな状況の場合は【心の眼で実相…】を見て【祈る…】だけでいいと思います。
何故なら、今の私は、彼らの「世界観が理解できないし、そして、それは私に取り、理解出来無い
世界ですから」と思います。■【 時 間 の 観 念 は 心 で 決 ま る 】のでしょう。

===【生命の実相…2巻抜粋】==============================

>>先生は、さらに五官を通じて存在(もの)を見る心は{迷わしの心}であって、存在(もの)
の実相(すがた)を観る心ではないことが分かるのであります。
≫≫五官の感覚で見たりしたところのものを存在(もの)の実相(ほんとのすがた)だと
思ってはならない。   (一部抜粋)
===========================================

■■この様に「雅春先生…」は、私どもに指導しておられますので
【心の眼で見る事は、やはり“神想観”でしょうかと??神に“心…”を振り向ける事!!】が、
これが、一番の“かなめ”かと改めて思う次第です。…が?
                               つづく

1973goro:2013/01/25(金) 13:23:04 ID:nCo1DokU
>>1969

天皇とその御責任

戦後、私が皇后宮大夫兼侍従次長として、再び両陛下のお側にお仕えするようになったのは、昭和二十年の十月のことであった。思えば、昭和五年侍従兼皇后宮事務官の職を離れてから十数年ぶりで、その間、私は、宮内大臣官房秘書課長、総務課長、内匠頭、帝室会計審査局長官と、いろいろな仕事に従事したが、久しぶりで侍従職に帰ってみると、往事とは事情が一変しているのに気がついた。長年の間、君側にあって、常時、輔弼の重責を担ってきた内大臣府が戦後、すでに廃止されて、その仕事は侍従職に移管されている。

連合軍の国内進駐、時が時だけに、皇室の将来を憂える論客、隠士、或はまた、一情報を入手するために万金一擲を辞せぬ有志があるかと思えば、また一方には、占領軍との特殊な関係を笠に得意満面の俄か官僚等々、大波小波寄せ来る中に、侍従職は立った次第であった。当時は、いつ何どき、何が起こるか、油断のならぬ時節であったので、私はベッドを侍従職の自室に持ち込んで夜を過ごすことが多くなり、したがって夜毎に、陛下のお室で、ゆっくり、いろいろなお話しを承る機会を持つようになった。

当時、天皇の戦争責任に関する占領軍当局の調査は、かなり手厳しいものがあったらしい。これに対する日本政府の釈明としては、日本は立憲君主国であるから、政治上の最高責任者と軍事上の最高責任者とが一致して開戦を上奏してきた場合には、天皇はこれを裁可せざるを得ない。この場合、もし天皇が独自の判断を以て、これを拒否したとするならば、それは専制君主的の行動であって、立憲君主としては、到底なし得ざるところである。ということであったように聞き及んでいるが、陛下から、ゆっくりいろいろと、お話しを承っているうちに、私が私なりに考えたことは、次のようなことであった。

前掲の日本政府の釈明もさることながら、陛下のお心のうちには、もし自分が開戦を絶対に許さなかったならば、軍部の隠忍自重も遂いにその限界に達するであろうし、もし一歩でも、その限界を踏み越えたとなれば、跡は感情の激発するところ、かえって凶暴なる戦が開始され、その結果、長く世界歴史の上に、日本人の汚名を残すようなことになるのではなかろうか、という、まことに悲痛な御心配と御覚悟があったのではなかろうか。

1974a hope:2013/01/26(土) 10:25:46 ID:TqpbsVIM

新版 生活読本 谷口雅春先生著(日本教文社)
第十一章 心の花園に美しい花を咲かせましょう

◆本を読むにもコツがあります(p125〜)

魚をとるには魚をとる方法があります。
小さな魚を、目のあらい網でとろうと思っても、とれるものではありません。
それと同じように本を読むには、本を読む方法があります。
読みかたが大切なのであります。

いたずらに本をたくさん読んだからといって、えらいわけではありません。
世の中にでて、立派な人になれるか、なれないかということも、その大部分は、
どのようにその人が本を読んで、自分を養ったかによって、きまるのであります。

網やザルで水をすくうようにしたからとて、何一つ自分のものになるわけではありません。
トンネルの中を走る汽車のように、盲(めくら)めっぽう早く本の中を走り抜けたからとて、
何一つ心の中に残らないようでは、なんにもならないでしょう。

汽車に乗っても落着いて、四方の景色をよくながめ、どこの駅は何県の何町にあり、
なんの産地であるか、昔、歴史では織田信長がどうしたところであるかとか、
よく考えながら景色を見ていますと、汽車の走り旅でも、修学旅行ほどの知識が得られますのに、
ただ呆然(ぼんやり)と外を見ながら、汽車で走っているだけでは、何も得ることは出来ないのです。

これと同じような調子で、心が「うわの空」になって本を読んでいるのでは、
それは人間の生命(いのち)と時間との無駄使いをやっているにすぎないのであります。
本を読んでも、その著者(ほんをかいたひと)は誰か、中味には何が書いてあったか、
何を教える為にその本は書かれていたか―――こんなことさえ気がつかないで本を読んだ気持ちになっている人も随分ありますが、
それは実におろかな本の読みかたです。
(つづく)

1975goro:2013/01/26(土) 17:44:29 ID:nCo1DokU
>>1973の続き

かく思うとき、私は明治十年薩摩における西郷隆盛挙兵の心情がよく判るような気がした。忠誠なる彼が、陛下に敵対するような考えのないことは明瞭であり、且つ日本陸軍育ての親の一人として、鹿児島一地方の兵力が全日本陸軍の兵力に対し、到底対抗のできないことは百も承知で上でありながら、敢えて薩摩隼人の強請に応じて立ち上がったのは、我が愛する若殿原に見苦しい狂い死にはさせたくない。この際、自分が統制をとって、われもろとも立派に玉砕しよう、という自分の名誉も命も捨てた最後の処置であったのではなかろうか。

開戦当時、私はお側にお仕えしていなかったが、ほんとに偶然なことで、ちょうど日米戦端の開かれた昭和十六年十二月八日の朝、三十分ばかり、陛下にお目にかかることになった。当時、私は帝室会計審査局長官の職にあったが、長官の仕事は、宮内大臣の指揮監督外に立って、宮内省会計の全般に亙って、これを審査した上、独自の判断を以て、その適否を直接、陛下に上奏する責任を持っていた。この拝謁上奏の時期は毎年十二月が常例であったので、私は十一月の中旬、侍従職を経て、陛下に十二月何日の何時に拝謁上奏いたすべきや御都合をお伺いしたところ、十二月八日午前十時との御指定があった。

八日朝早く、私は我が家の庭の梅の木の下に立った、というのは、上奏のとき図表を御説明する指し棒として、我家の庭の梅の若枝一本を持参するのを毎年の例としていたからである。適当な枝を、と選んでいると、そのとき、ラジオが俄然威勢のいい軍艦マーチを放送しはじめ、続いて日米海軍衝突、真珠湾奇襲攻撃成功の重大ニュースが発表され、日頃静かな私たちの街も俄に騒然としてきた。さては、いよいよ日米衝突か、今日の上奏は当然お取止めになるだろうと思ったが、侍従職から何ら取りやめの電話がないので、私は予定時刻に侍従職に出頭した。

私の到着を聞いて、百武侍従武官長が出てこられ、只今、御前で重大な会議が開かれているから、暫く待たれるように、とのことであった。三十分ばかりたって拝謁したが、陛下は、いかにもお寝不足の御様子である。会計審査報告などは、何も今日に限ったことではない、いつでもよろしいのに、陛下は、一旦お決めになったことは、なかなかご変更にならない。

1976goro:2013/01/26(土) 17:48:00 ID:nCo1DokU
>>1975の続き

私は、陛下のお疲れを思い、いつもなら一時間くらいかかる上奏を、三十分ばかりに短縮して御前を退出することにしたが、数年間お側におった関係から、、つい、いよいよ戦が始まりまして、と申し上げたところ、極めて沈痛な御様子で、真珠湾の緒戦には幸い成功したが・・・ねと仰せになっただけでなっただけでお言葉がない。極めて御心配の御様子だ。私は御心のうちを拝察して何ともいわれぬ気持ちになった。

今日からは敵味方、何万という若者たちが失われていくのか、ということが、勝敗を度外視して、お心にかかっていたのであろう。一歩、皇居の外に出ると、奇襲攻撃成功、万歳々々の歓声のうず。ああ、誰か皇居の奥深く、戦争の悲劇に、心から憂いのおん目を向けさせられて陛下のお心のうちを拝察したものがあったであろうか。

昭和二十年八月十五日、終戦の時にも、私は会計審査局にいたから、当時の陛下の御様子を語る資格はないが、当時お詠みになったお歌を後で拝見させていただいたので、四首ここに載せさせていただく。

  爆撃に倒れ行く民の上をおもひ
    いくさとめけり身はいかならむとも

  身はいかになるともいくさとどめけり
    ただたふれゆく民をおもいて

  国がらをただ守らんといばら道
    すすみゆくともいくさとめけり

外国と離れ小島にのこる民の
    うへやすかれとただいのるなり 

鳥にたとえては、甚だ恐縮であるが、猛鳥の襲撃に対し、雛まもる親鳥の決死の姿を、涙して想うだけである。

1977SAKURA:2013/01/26(土) 17:59:49 ID:ace8L14.
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……。  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1653>>1654>>1661>>1674>>1675>>1744>>1753>>1765>>1779>>1780>>1783>>1792>>1792
>>1793>>1796>>1801>>1804>>1812>>1813>>1821>>1822>>1836>>1837>>1842>>1843>>1852
>>1875>>1876>>1879>>1888>>1889>>1913>>1914>>1923>>1924>>1934>>1935>>1956>>1957
>>1966>>1972>> 投稿の続きです…。

ここは、まるで【四 無 量 心 の 心 の 世 界 観】
日常生活面を、それなりに考えていきますと、私なりの「雅春先生の哲学」が見えまして、更に“人
生観”が〜〜実に!感慨深いものになりますので、私なりに「生命哲学…勉強会」を〜♫〜では“続き
投稿”していきます。「雅春先生の例え…」として、投稿されていらっしゃいました記憶があります。

■■ 『生命の実相哲学シリ−ズ…SAKURA論』   
===【生命の実相…2巻 抜粋】============================

■【実相の世界における神人としてのわれの存在】   その②
>>善財童子が金剛蔵道場の普賢菩薩を見たときの心はどうであったかと申しますと
『華厳経』入法界品第三十四ノ十七によりますと、「正念して……虚空界に等しき心、
一切無着の心、一切刹を清めて障礙なき心、一切法の境涯において障礙なき心、一切十方
に充満する」等々の心を起こしたとあります。この正念して虚空界に等しき等々の心を
起こすことが神想観であります。

>>音声無辺であるというのは、われわれの実相は天地に満つるコトバであるからであります。
これが金剛蔵道場すなわち実相世界における「われ」の実相の世界に入る自分の座っている
のはこれ実相の世界であって、神の無限の知恵、無限の愛、無限の生命、無限の供給に満た
されている大調和の世界である。この大調和の実相の世界にいてわれ神の子として神より無限
の生かす力の供給を受けつつあるのである」と念じて精神統一にいるのは、自己が衆生の一人
であると同時に普賢菩薩と同じように身量無辺、音声無辺、色蔵無辺である自己の実相を悟ら
んがための行法でありまして、これこそ真正の観普賢菩薩行法なのであります。(一部抜粋)
============================================

■■私達は、「普賢菩薩様…」のように【日々の祈り】の自覚が、そして、日々のこの行事で
あります【神想観=瞑想】で〜〜〜【神との一体】になれる素晴らしさは、計り知れないモノ
でありまして、それは【心の青空…あの澄み切った世界観】がみえてきますのでしょうかと。

時折ですが?仕事の関係上【先祖供養…】だけですませる事がありましたが、最近は、
【神想観…】を中心に致しますと、やはり【発想の転換…】ができまして、良い事と云いますか?
物事が、スムーズになる事が、生じます。…が?そして、如何しても【現象で物事捉える】この
ような傾向がちですが、今の私は「活かされている〜〜〜実感」がフツフツ湧きあがり、この
素晴らしい【精神統一…神想観】に感謝です。もっと、深く【祈り…】に徹していき〜〜〜
私も【普賢菩薩の仲間入り】になれるようです〜〜〜ネ!!

■毎日「金剛蔵道場すなわち実相世界における「われ」の実相の世界に入る自分の座っている」
私は、“実に〜幸せかな〜〜♫〜〜”と、あらためて「雅春先生」に感謝です。そして、
現在の「総裁先生」に感謝です。では、今から、そうですとも!
【人間…神の子ですもの!!】と認識しながら“金剛蔵道場”の中へ入っていきましょう!!

                                  つづく

1978goro:2013/01/27(日) 01:20:28 ID:nCo1DokU
>>1976の続き

終戦後の御心境については、語るべき多くの事柄がある。前述のように、私が再び陛下のお側にお仕えするようになったのは、終戦の日から二ヶ月ばかり後であった。当時、国内の状況はいかがであったか。国民は衣食住すべて窮乏の極に達している。私は陛下の御心中を拝察して、まことに断腸の思いに耐えなかった。

敗戦による国内秩序の混乱、また戦時中の統制が解除されたのを機とし、言論の自由は特に目にあまるものがあった。特に天皇の御責任を追求する論説には、なかなか鋭いものがある。陛下は新聞をよくお読みになるから、これらの論説の横行は、よく御存知であるが、どういう訳か、天皇の戦争責任に関する論議にだけは、一言もおふれにならないで、避けよう避けようとなさる。何かのはずみで、話題が天皇の責任論に近ずく様子が見えると、すぐに話題を変えておしまいになる。

私の胸には、昭和の初めの頃の話であるが、陛下が、御自分の御責任について、深刻な反省をなされたことの記憶があるので、このたびの敗戦については、さぞかし、これに数倍する深刻さを以て、おん自らを責めておいでになるであろうことは、お察しするに余りある次第であるが、なぜ、御自分の御責任に関する話題を回避なさるのか、その理由を私の在職中には遂に知ることができなかった。

昭和の初めころのお話しというのは、個人の名誉に関することであるから、その人の姓名や事件の起こった時期を、此処で明らかにすることは避けるが、とにかく私が侍従として陛下のお側におった或る秋の夕暮の頃のことである。その時の内閣書記官が、慌ただしく侍従職に馳せつけてきて、一個の上奏箱を私に手渡していうには、この箱の内には、一刻を争う内閣総理大臣の至急の上奏書が入っているから、速やかに御裁可を仰ぐように特に配慮していただきたい、とのことであった。私は、その箱を受け取って、直ちに陛下のお室に参り、陛下のお机の上にある鍵箱から鍵を拝借して、これを開いた。これは通例のことで、上奏箱は、この鍵でなければ開くことができないのである。

箱の中から出てきたのは、ただ一通の上奏文書であった。何某起訴処分の件、右謹んで裁可を仰ぐ。年月日。内閣総理大臣何某印、という表題の上奏紙の裏に、数枚に亙る司法(現在の法務)大臣の起訴理由書が綴ってあった。当時の慣例として、正三位勲一等というような身分の人が犯罪の疑を持って起訴される場合には、陛下のお許しがなければ手を付けることができない内規があったので、大至急そのお許しを得るための上奏であったのである。

1979goro:2013/01/27(日) 12:22:38 ID:nCo1DokU
>>1978の続き

この事件は既に新聞がやかましく報道していた汚職事件であるが、何分にも火中の人物が政治上の権力者であるので首相及び司法大臣が果たして起訴を断行する勇気ありや否やが世人の注目の的であった。私は、この上奏書を一見した瞬間、総理もいよいよ決心されたか、といささか痛快な気持ちで、これを陛下のお机の上にさしあげた。汚職といえば、陛下の最も忌み嫌われる問題であるから、すぐ裁可の印をお捺しになるだろうと思っていたところ、以外にも、陛下はその書類を一見遊ばすや否、非常にご当惑の御態度をお示しになった。困ったなーといったような御様子である。

これを拝見した瞬間、私の胸中には、はて、なぜだろうか。というような、かすかな疑問が湧いたが、陛下は上奏書に付属した司法大臣の起訴理由書をくり返し、くり返しごらんになり、なかなか裁可の印をお捺しになろうとなさらない。だんだん時がたつにつれ、おそばに立ってお待ちしている私も、いろいろ考え始めた。自分は陛下より十以上も年上の男でありながら、先刻来、いささかなりとも痛快味を覚えたことは、何んと浅ましく恥かしいことか。

陛下は、われわれと違って、いつ人とお会いになっても、対立感というものを少しもお持ちにならない。それだから、汚職そのものは徹底的にお嫌いだが、汚職をした人を憎いとは、お思いにならないらしい。ただ汚職の行われる世の中を、いとも悲しと観じておいでになるのではなかろうか。われわれは、人と会えば、すぐ持ち前の対立感に促われて、この人は自分より身長(せい)が高いか低いか、から始まって果ては、馬鹿か利口かに至るまで、あらゆる比較を腹の中でするものだが、ほんとのところ、神様の目から見れば、お互いに五十歩、百歩のちがいに過ぎないことには、とんと気がつかない。ああ、なんと恥ずかしいことか、と恥じ入る他はなかった。

稍暫らくして、とうとう、陛下は上奏文書に裁可の印をお捺しになった。これで起訴は決定したわけだ。何某氏は今夜にでも逮捕されることになったのである。私はその書類をいただいて、箱に入れ鍵をかけ、一刻も早く、私を待っている内閣書記官に渡そうと思い、一歩お室を踏みだそうとしたところ、私をお呼び止めになったから、何か別の御用かと思い、お側に近づいたところ、ただ一言、沈痛なお声で、「わたしが悪いのだよ」とおっしゃって、考えておいでになる。

このとき私は、ほんとうに、なんともいわれぬ、つらい思いに胸を炒めた。われわれの仲間の犯したあやまちが、かほどまでに、陛下のお胸を傷めるのか、あいすまぬことだ、と思っていたら、つとお椅子から立って椽側におでになったから、、私も無言のままお伴をして椽側に出た。この椽側は、このたびの戦災で焼失してしまったが、明治神宮の絵画館に掲げてある数多の油画のうちの一つ、教育勅語下賜の図という大きな額面に描かれているお二階−御学問所と呼ばれる−の椽側がそれである。

1980goro:2013/01/27(日) 12:27:32 ID:nCo1DokU
>>1979

非常によく晴れた秋の日暮れ、夕日がお庭の松に照りそっていたが、天を仰いで、おっしゃるには、わたしが悪いのだよ、どうすれば政治家の堕落が防げるであろうか、結局わたしの徳が足りないから、こんなことになるのだ。どうすればよいと思うか、とお尋ねになる。このお尋ねをうけても、つい先程、持ち前の対立感から、いささかなりとも痛快味を覚えた私ごとき者に、何とお答えができよう。あふれる涙を抑えて、ただ無言でお室を退出したことがあった。この時の記憶は、あまりにもあざやかで、今でも秋の非常によく晴れた夕暮れ、空を仰ぐと、ときどき、このことが思い出される。

こういう深刻な記憶を胸に焼き付けた、この私が、敗戦後、再び陛下のおん許に帰ってきたのだから、お胸のうちの、おつらさは、よく判るのだが、なぜ、話題が天皇責任論にふれるのをお避けになるのか、その理由の真相は、これを知る由もなかった。私がこれを知ったのは、ずーっと後のことである。私は二十一年に退職し、二十五年以来、荒廃した二重橋前の広場の復旧整備を志す皇居外苑保存教会の仕事に引き続き今も従事しているが、ちょうど昭和三十年の九月十四日の朝、何気なく読売新聞を開いてみたら、その第二面に大きな見出しで「天皇陛下を讃えるマ元帥」という重光外務大臣の手記が掲載されていた。

これを読んでいるうちに、私の胸のうちには感謝感激の情が潮のように高鳴ってきた。それは、終戦以来、私が心ひそかに、求めていた、あるものを、遂に発見したからである。それは何であったか、これは、日本にとって最も大事なことだが、日本に憲法があるとなしとに拘わらず、また、憲法が天皇の御地位に関して、いかような規定を設けようとも、天皇は、日本国民の運命に関しては、皇祖皇宗に対し更にまた上天に対し、絶対の責任を自覚せらるるおん方である。とする私の考え−少なくとも数年間、側近に奉仕した私としては、かく考えざるを得ない−が現に正確な史上の事実として、ここに明らかとなったからである。

終戦処理上、陛下が、いかようなお覚悟を以って、いかような事をなされたか、そして、これを何故に黙秘して、近侍の者にさえ、一言もお洩らしなされなかったか、このことの顛末が、詳細明らかになると共に、あの無遠慮な天皇責任論の横行時代に、敵将との約束を固く守って、一言の説明もなさらず、堪えぬいて来られた、そのおつらさ、その御苦労を拝察して、ただ、ただ、陛下、本当にありがとうございました、と心からお礼を申し上げるより他はなかった。

陛下が、日本占領軍の総大将マッカーサー元帥と初めてお会いになったのは、昭和二十年の九月二十七日のことで、場所は東京のアメリカ大使館内のマ元帥の室であった。この御会見は、会談の内容は一切厳秘に付する堅い約束の下に行われたものであるから、マ元帥は幕僚も遠ざけ、只一人。陛下も通訳一人のほか、何びともおつれにならず、真に一対一の御会見であった。

1981SAKURA:2013/01/28(月) 14:00:04 ID:DcZTURFY
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>>1966>>1972>>1977 投稿の続きです…。

ここは、まるで【四 無 量 心 の 心 の 世 界 観】
日常生活面を、それなりに考えていきますと、私なりの「雅春先生の哲学」が見えまして、更に“人
生観”が〜〜実に!感慨深いものになりますので、私なりに「生命哲学…勉強会」を〜♫〜では“続き
投稿”していきます。「雅春先生の例え…」として、投稿されていらっしゃいました記憶があります。
では最後に〜〜〜❤〜〜〜〜

===【生命の実相…2巻 抜粋】===========================

■【実相の世界における神人としてのわれの存在】   その③−1
>>この自己を掴むためにする修業が、毎日一定の時間を期してみなさんに実修して、
いただいている「神想観」の修行であります。
>>だから「生長の家」の「知恵の言葉」には「道を歩く時には今神が歩いていると思え」
とあるのであります。同じようにわれわれは机に*よっている時も「今神が机に*よっている」
と思うべきであります。こういうようにして常にわれは神人であるという自覚を失わないよう
にすると、われわれは常に朗らかな光線ゆたかな気分を維持することができ、自分の実相の
円満さが「影であるところの肉体」または「境遇」に映写されてきて、肉体は健康に境遇
は幸福になってくるのであります。

==========================================

■【神想観の重み…】を、深く理解しました。私も、今から【神想観の素晴らしさ】にて、
遥かかなたの「宇宙に〜〜宇宙に〜〜☆」に、入っていきそうです。
昨日は【別板…】で、こちらも“ビックリ・マークの出来事”で、「まじめな私?」には、
なじめない部分もあるのでしょうかと?その様な時には、流れがちがいますのでしょうか?
時々!その職業が「夜の世界観?」にみえるような感じもあり、この様に見えます時は、
“心…”は、暗くネガティブ感にて意気消沈…しぼんでしまいますモノ!
その様な時は〜〜〜❤
                        つづく

1982SAKURA:2013/01/28(月) 14:02:41 ID:DcZTURFY
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>>1966>>1972>>1977>>1981 投稿の続きです…。

■【実相の世界における神人としてのわれの存在】   その③−2

>>1981 その③−1の投稿の続きです…。
■【一つ一つが自分にとって何が幸せかを“幸せ探し〜❤探し物は何ですか〜❤…
“コトバの力”で探求…!!
「コトバは神と共にあり…」でしょう?「私の行くところはいつも晴天!」と「雅春先生」が、
おっしゃっていました。そして「現総裁雅宣先生」も行くところは、いつも晴天でしょうかと。
“曇り空…”でも、雲の谷間から“ポッカリとお日さま”が、あらわれて頭上を照らして来ます
でしょうかと!これは、逆に申しますと【今神が机に*よっている。】
【どこでも一体の言葉=神があらわれる】のです〜〜〜ョネ!!今日の私は、久しぶりに、
“徹夜”が出来た事に若さを取り戻しつつでしょうかと?【感謝…】そうだ〜〜〜ヮ!この足で
歩く事も出来る“幸せ…”!!一人だけど…必ず!「神様…」そばにいつもいて下さいまして、
素晴らしい方との出会いを導いて来ると確信!!(微笑)この様に、気持ちを新たにしながら…

〜♫〜愛にあこがれながら、 愛をしらないままで、
人は生きてゆくのさ、    この知らない町を、
ひとりぼっちだと、     思う前に何かする事はあるのだろうか…?
〜♫〜愛をふりまきながら、 愛を日々かせながら〜♫〜

【愛…】は、配るモノなんです〜〜〜ョネ!!私でも【愛…】に、確かに、あこがれながらも…
私はと…見つけて行く内に、ダンダン〜ダンダン〜“幸福列車”に乗れるような気持ちになり
ました。そうなので〜〜〜すョネ!!
■【世の為!人の為!に世界中に走ります!!モ〜〜〜ゥ!「吸血気」・「ゾンビ」達とか?そして、
「黒幕デザイナー」には、モ〜〜〜ゥ!恐れない“強い心”に…!!聞こえないこの耳でも…
心の耳で聞く…いつも私の中にも「神様」が、愛の音色を“心の耳”で聞く事を…教えて下さり
日々!の生活に活かされていますことに、感謝が、ますますとできますかと〜♫〜エクササイズ!

❤〜【神様!!私の“心の影である肉体”…当に「コトバの力」で幸福になれるのです〜ョネ!
毎日が〜毎日が〜“楽しい修行”になりそうな気配なので〜〜〜す。楽しい〜〜〜なぁ!幸せ
一杯です〜〜〜ョネ!当に【祈り…】も、今のこの時を活かす事ですかしら〜〜〜ン!!            

この素晴らしい“気づき”を…我が内なる「神…」に感謝でしょう。ありがとうございます…。

つづく

1983NANCY:2013/01/29(火) 02:58:11 ID:aF3cZJnQ
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こんばんは…… ロ−マ字(大文字)の【NANCY】です。
>>1635>>1639>>1643>>1766>>1778>>1829>>1877>>1880>>1890>>1918>>1931>>1942
>>1955 の投稿の続きです

===【 谷口 雅春 先生 著 】===========================

■ 人間には、自分の運命を、自由に支配する力がある。

あなたにはあなたの運命の主人公であり、あなたの境遇の支配者なのであるから、
あなた自身の想念で、あなたがあなたの独特の運命を造るのを何人も妨げること
は出来ないのである。あなたが想念に描くものと類似のものが、あなたの運命
及び境遇として展開してくるのである。

                   谷口雅春著 『新版 栄える生活365章』

============================================

■■ 何も「信仰…」に触れていない時の私は…『運命…』この言葉は、生まれる前からの
宿命みたいな感覚での捉え方でしたかと。ところが「生長の家…御教え」に触れますと…
思いだしますが「信仰…」当初は、私自身は、まだ!まだ!同じような感覚を抱いておりました。

…が?次第に『心 の 法 則』と言う事を、知りますと【全てのものは“こころ”でつくる】
この事が、次第にわかりだしましたかと、思うのです。
その【心での想念・感情 …】とは、つまり
【心での想った事が?それが良きにしろ?悪しきにしろ?この“現実世界”にて現れてくる
わけですから、それならば“良い〜〜〜想念”を念じ、今現実世界に、現れてきた方が…
それはいいですモノ!!
このように、考えて参りますと【私自身の“こころ”にて、自由に〜〜はばたいて勝ち取る
ことが出来るのです〜〜〜ョネ」!】
ますますと【心 の 法 則】クリア―かと、痛感致しました。

                              再合掌

1984a hope:2013/01/29(火) 07:30:52 ID:TqpbsVIM

新版 生活読本 谷口雅春先生著(日本教文社)
第十一章 心の花園に美しい花を咲かせましょう

◆よく考えながら読み、善いことは実行しなさい(p127〜)

本を読むには、考えながら読むことが必要です。

豊臣秀吉が草履取りをしていたときに、どうして出世をしたかというようなことも、
唯(ただ)おもしいなと思うだけでなしに、なぜ出世をしたのであるか、
なぜ草履をふところの中で温めていたのか感心であるのか、考えながら読まねばなりません。

そして、ここは感心だというようなところへは、赤いすじでもひいて心の中に深くきざみつけるようにし、
一ぺん読んだ本でも、その赤い線を引いたところはなんべんもそこをひらいて、忘れないように思い出し、
それを噛みしめるようにして、よいことは自分もそのとおり実行するようにすることが大切であります。
(つづく)

1985goro:2013/01/29(火) 09:57:54 ID:nCo1DokU
>>1980の続き

このような次第であるから、御会見の内容は一切、外部には不明のまま、年月が経過していったのである。当時、巷間には、いろいろな風説が流布されたけれども、誰も、事の真相を知っているものはいなかった。ところが、昭和三十年の夏、時の外務大臣重光葵氏が用務を帯びて、米国に赴くことになり、出発に先だち、お暇乞いのため、那須の御用邸に伺候して、へいかにおめにかかった。このとき、陛下は重光外相に、一つのご伝言を託された。それはニューヨークにいるマッカーサー元帥に対する、陛下のご挨拶の御言葉であった。

そこで重光外相は、九月二日の朝、ニューヨークで、加瀬国連大使を伴って、ワードルフ・アストリア・ホテルにマ元帥を訪問し、陛下の御伝言を伝えた次第であるが、この際、重光氏はマ元帥の口から、従来厳秘に付せられていた昭和二十年九月二十七日、陛下対マ元帥、第一回御会見の内容を初めて聴かされた次第であった。

元来、内容は一切、厳秘に付された御会見のことであるから、爾来、陛下は一切を黙して、一言たりともお洩らしになったことがない。然るに十年後とはいえ、マ元帥が重光氏に、あえて事の真相を物語ったことは、恐らく、元帥自身の世界情勢判断と、且つ陛下に対する深い思慕の情と非常な好意とが然かあらしめたのであろう。

これを聴き知った重光外相の驚きと喜びとは、想象に絶したものであったらしい、同氏は事の正確を期するため、この会見に同席し、マ元帥と重光外相との会話を詳細に速記していたスクリップ・ハワード通信社主ロイ・ハワード氏の速記録と自己の記録とを照合し、帰朝の後、これを邦訳して、九月十四日の読売の朝刊に寄稿した次第。これが、昭和二十年九月二十七日、陛下とマ元帥との第一回の御会見に関する日本人向けの報道の第一報となったわけである。

この第一回の御会見の際、命乞いに来たのだ、とばかり思って、服も改めず、お出迎えもせず、自分の居室で陛下を迎えた元帥が、お帰りの際には、いとも鄭重に玄関先までお見送り申し上げていることは、一体何を物語るのであろうか。数千年の世界歴史の上で、民族の興亡は、いくたびも、いくたびも、くりかえされたが、未だかつて、国民を庇って、身命を捨てる君主のあることを知らなかった元帥が、眼前に立たれる陛下のお姿を熟視して、何と感じたであろうか。自分は、あのとき、興奮のあまり、陛下に抱きついて、キスしようと思った、と重光外相に告白していることは、元帥がいかに、はげしく、感激したか、を物語るものといわなければなるまい。

1986SAKURA:2013/01/29(火) 11:50:14 ID:x8DbpmW2
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>>1875>>1876>>1879>>1888>>1889>>1913>>1914>>1923>>1924>>1934>>1935>>1956>>1957
>>1966>>1972>>1977>>1981>>1982 投稿の続きです…。

ここは、まるで【四 無 量 心 の 心 の 世 界 観】
日常生活面を、それなりに考えていきますと、私なりの「雅春先生の哲学」が見えまして、更に“人
生観”が〜〜実に!感慨深いものになりますので、私なりに「生命哲学…勉強会」を〜♫〜では“続き
投稿”していきます。「雅春先生の例え…」として、投稿されていらっしゃいました記憶があります。

■■ 『生命の実相哲学シリ−ズ…SAKURA論』       【 その① 】 
===【女 の 浄 土】=================================

■些事も行う心の態度に魂の進歩がある
毎日の生活の小事を親切丁寧に誠心を盡す実践の中に、魂の進歩があるのである。
自分の前におかれたる小さな仕事を熱心に、「神から興へられた仕事」として行き届いて実行する
ことが人間を課せられた第一次の使命なのである。その第一次の使命を無事に卒業することによって
自分の生涯の究極目的として 「神から興へられた第二次の使命」に人間は近づいて行くことが出来る
のである。炊事、洗濯、掃除その他、一寸見ればただの雑事で無価値な仕事のやうに見えるかも知れな
いけれども、仕事そのものの重要性如何の問題ではなく、自分の心が、その仕事をどのやうに扱ふかの
心境如何のよって、自分の魂に異なる點數(てんすう)がつくのである。どんなつまらなく見える仕事
でも感謝して行ふがよい。     (一部抜粋)       (谷口雅春著)

================================================

PS:本を開いて“ペ−ジ”を〜〜〜開きますと、そこには「ボ−ダ−ライン」が〜〜〜??
「亡き母」が引いた赤い線を見て、きっと毎日!毎日!の仕事をこなし、そして、「亡き母」
なりにしたい事が、あったのでしょうか??
当時の母は“普通の主婦”と違い「経理…」・「営業…」「母親…」…etc全てこなし、更に
仕事との両立性を考えますと“主婦業…”も大変だったと思います。…が?
私は、その様な「亡き母」の後ろ姿をいつも見ながら、結婚したらこの様に自由がなくなる
ものだと思いながら……も?例えいやな仕事でも、当たり前のようにこなして、顔にも
見せずに本当に「亡き母」は、素晴らしい人だったと、思います。
                 
つづく

1987SAKURA:2013/01/29(火) 11:53:28 ID:x8DbpmW2
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こんにちは……。  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。

>>1875>>1876>>1879>>1888>>1889>>1913>>1914>>1923>>1924>>1934>>1935>>1956>>1957
>>1966>>1972>>1977>>1981>>1982>>1986>> 投稿の続きです…。

■■ 『生命の実相哲学シリ−ズ…SAKURA論』   【 その② 】

>>1986 その①の投稿の続きです…。
■“89歳…”までは、自分でお風呂に入っていましたから…今の私でしたら…やはりそのよう
な年になったら、どうなのかしら〜〜〜ンと、思います。…が?亡くなる前に
「亡き母の言葉」は〜〜〜〜?
【人間は働く事…】この言葉を私に残して、他界しました。「新しい世界へ…」

そして「老人ホ−ム」に入る前に、私の【将来の結婚式…】に着るるつもりでいた着物…これ
を、私に渡し「亡き母」は、寂しそうな表情の顔を初めて私に、正直に見せましたかと。今!
思い出しますと〜〜〜!!随分昔の事〜〜〜になりますでしょうか?その頃は、既に、私の
耳は「タタキ男の暴力」により【聴力喪失…】となっていたのです…。当時の私は、将来性も
考えまして、或る“お見合い”により…意を決して【結婚…】と考え、決断しましたのです。

【結婚…】の日取りが決まり、三日後に【結婚の予定…】でした。…が?今回、度々投稿します
結論は「タタキ男…」に壊されて!!その相手の家まで殴り込み……云々…その時、実に“感情”の激しい人間…何をしでかすのか?解らない…人間と初めて【男性の身勝手…】を垣間見ました。相手は【まじめな人で…これという取り得は〜〜〜><】それでも、その結婚相手は【結婚…
申し込み】をと…云いよってくれました。色々なる観点から〜><考えての“ことわり”を…!
他にも…話が……(後日、詳しくにての“投稿形式”をと…思っております。)

今!ふり返りますと【人 生 汚 点…人 間 の 嘘】を見つけきれなかった後悔が…
これに関連しますのが…「吸血鬼・ゾンビ…集団」です。その中の女性群…吉○・馬○・光○
(阿○)そして男性群…河○…因○…他にもでしょうかと(学歴詐欺…職歴詐欺は日常茶飯事…)
実に「口のうまい集団…洗脳集団」でしょうかと…いずれにしましても「黒幕デザイナ−含め」
【人 生 の 汚 点…回 想 記】を詳しく投稿するつもりです。【若い世代に…向けて!!】
この事は、ある面では【神から興へられた第二次の使命!!】に近づいて行くのカモ??

■「雅春先生の言葉」には【菩薩、心に闘争をみたせば、その世界に戦い絶えず…】…
この頃では、全てが【心 の 問 題…心 の 法 則】この事を、駆使すべきでしょうか〜〜?


                                  再合掌

1988NANCY:2013/01/29(火) 21:13:31 ID:NvcmVTKk
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こんばんは…… ロ−マ字(大文字)の【NANCY】です。
>>1635>>1639>>1643>>1766>>1778>>1829>>1877>>1880>>1890>>1918>>1931>>1942
>>1955>>1983>> の投稿の続きです。

===【谷口 雅春 先生 著】============================= 

■“ まず神の国を求めよ ”ということ
実相の世界を「神の国」とも「天国」ともいうのである。
そこには善きものは常に無限に充満しているのである。しかし「神の国」は霊の国であるから、
「物質の国」のみを見る力しかない五官(眼耳鼻舌身)の感覚によってはそれを観ることは
出来ないのである。それゆえにしばらく五官を瞑じ、五官の感を蕩尽して、心の眼をもって、
神の国の美しく荘厳なる有様を観ずるようにするがよいのである。これがイエスの教えられ
た「先ず神の国と神の義(霊的秩序)とを求めよ」である。すると、「その余りのものは汝ら
に加えらるべし」とあるように、その「余のもの」(現象界の功徳)はおのずから顕れて来る
ことになるのである。 (一部抜粋)
============================================

■上記は今回の機関誌2月号…冒頭に取り上げられています「雅春先生」の言葉です。以前
此処の投稿にて…「雅春先生の言葉」が〜〜〜ない?とかの記載がありましたかと?記憶の
中にありますが〜〜〜そうでもないです〜〜〜ョネ!

ここに「五官」…(眼耳鼻舌身)の感覚で見ます“世界観”は、どうしても個人個人の捉え方
の視点が異なりますので…先日からの【虚説…】これに関しては、此の肉体人間での五官
(眼耳鼻舌身)からの判断では???或る人は「善きかな?」或る人は「悪しきことかな?」
この様な捉え方になりますでしょうと思います。それは、自分自身の「人間智」での判断です
から、当然のことながらそこに【我欲…欲徳】が入ってきますでしょうかと。それでは、い
つまでたっても解決しませんでしょうかとも。こういう時は、「雅春先生」のおっしゃいます
【心の眼…神想観】にて…「本来あるべき姿…実相」を観る訓練を、日々行ないまして……
「神と一体…神の子の自覚…」をもつべきでしょう。

これでようやく「神の国…扉」をあけることの出来ます“入り口”にたちますのでしょうか?
今回!私も正直な話ですが「五官でみますと…以前出会ったことのない人物達…」これが…
「吸血鬼・ゾンビ達…」に値しますのです…。捉え方の尺度が…かみ合わないと申しましょうか
【類 の 法 則】とではない人達とは…この現象界に於きましては【断ち切る…】これしか?
ないのかと…色々な観点から【神の国・神の義】を含め…考えてしまいました。

■先ず神の国と神の義(霊的秩序)とを求めよ!その余りのものは汝らに加えらるべし!
                              
再合掌

1989goro:2013/01/29(火) 23:17:16 ID:nCo1DokU
>>1985の続き

この重光外相の寄稿文は、日本歴史、否、世界歴史の上で、極めて貴重な文献である。マ元帥すでになきいま、陛下は、あくまで沈黙を守られるであろうし、重光氏も、また、他界した今日、この文献の価値は至大である。かく思うがゆえに、私は読売新聞社の了解を得て、左に重光氏の寄稿の一部を掲げる。

重光「東京出発前、那須御用邸で、陛下に拝謁した際、陛下は、”もしマッカーサー元帥と会合の機もあらば、自分は米国人の友情を忘れた事はない。米国との友好関係は終始重んずるところである。特に元帥の友情を常に感謝して、その健康を祈っている、と伝えてもらいたい”とのことであった」

マック「自分は日本天皇の御伝言を他のなにものよりも喜ぶものである。私は陛下にお出会いして以来、戦後の日本の幸福に最も貢献した人は天皇陛下なりと断言するに憚らないのである。それにもかかわらず、陛下のなされたことは未だかつて、十分に世に知らされておらぬ。十年前、平和再来以来、欧州のことが常に書き立てられて、陛下の平和貢献の仕事が十分了解されていないうらみがある。その時代の歴史が正当に書かれる場合には、天皇陛下こそ新日本の生みの親であるといって崇められることになると信じます。

私は戦前には、天皇陛下にお目にかかったことはありません。初めてお出会いしたのは、東京の米国大使館内であった。どんな態度で陛下が私に会われるかと好奇心を以ってお出会いしました。
しかるに実に驚きました。陛下は、まず戦争責任の問題を自ら持ち出され、つぎのようにおっしゃいました。これには実にびっくりさせられました。すなはち、「私は、日本の戦争遂行に伴ういかなることにも、また、事件にも、全責任をとります。また私は、日本の名においてなされた、すべての軍事指揮官、軍人および政治家の行為に対しても直接に責任を負います。

自分自身の運命について貴下の判断が如何様のものであろうとも、それは自分には問題ではない。私は全責任を負います」これが陛下の御言葉でした。私はこれを聞いて、興奮の余り、陛下にキスしよう、とした位です。もし国の罪をあがのうことが出来れば進んで絞首台に上がることを申出る、という、この日本の元首に対する占領軍の司令官としての私の尊敬の念は、その後ますます高まるばかりでした。

陛下は御自身に対して、いまだかつて恩恵を私に要請したことはありませんでした。どうか日本にお帰りの上は、自分の温かいごあいさつと親しみの情を陛下にお伝え下さい。その際、自分の心からなる尊敬の念をも同時にささげて下さい」

重光「それは必ずお受合い申上げます。」

以下 略

1990goro:2013/01/30(水) 13:02:37 ID:nCo1DokU
>>1989の続き

皇居勤労奉仕発端の物語

この物語は昭和二十年、終戦の年にさかのぼる。戦敗れて人みな茫然自失、言語や風俗の全くちがう占領軍将兵の威圧下にあって、国民全体として行動の積極性を頗る欠いておった当時の有様を読者各位は一応おふくみの上で、この物語を読んでいただきたい。当時、皇居周辺の状況は、どんなであったか。皇居の御門という御門には、いずこも、ここも、占領軍の歩哨が立っている。これは好奇心にかられた無遠慮の外国兵の入門を阻止するための、占領軍総司令部の好意ある意図もおりこまれた処置ではあったろうけれども、事情を知らぬ日本人の眼には、甚だ以て不愉快千万、「日本人近よるべからず」と無言のうちに威圧を加える態度のようにうつったことも無理からぬことであった。

二重橋前の十万坪の広場は、管理の統制を欠いだため、六十余ヶ所の照明灯は一つも残らず破壊され、道路といわず芝生といわず、到るところ踏み荒らされて、昔のような、すがすがしい清らかなおもかげは、どこにもない。あまつさえ占領軍観兵式用の大スタンドが、二重橋の真正面に二ヶ所設けられ、時折は兵士どもが分列式などをやっている。お濠と森林とに囲まれた皇居は、外観こそは一見、昔とかわらぬようであるけれども、一歩、皇居内に踏み入れば、木造の建築物は殆んど消失し、さしも端正雄大であった宮殿の跡も、礎石、玉石、煉瓦、至るところに散乱し、まことに、いたましい有様であった。

ところが、十二月に入って間もないときであったが、皇居の坂下門の門外に六十人ばかりの青年の一群が到着、どこかの駅から下車したまま、まっすぐに来たのであろう、手に手に荷物を携帯している。守門の皇宮警察官を通じて宮内省への申し入れは、--------私たちは、宮城県栗原郡の各村のものでありますが、二重橋前の広場に雑草が生い茂って、たいへん荒れている、ということを聞きましたので、草刈りやお掃除のお手伝いのために上京してきました。東京には食料や燃料が乏しいということも聞いていますので、私たちに必要な数日間分は、ちゃんと用意して持ってきていますから、東京の人たちに迷惑をかけるようなことはいたしません、どうかお手伝いをさせて下さい。--------とのことであった。(昭和二十四年まで二重橋前の広場は宮内省の所管であった)

このことは、すぐ侍従次長の私の室へ大臣官房の筧総務課長から電話で知らせてきた。私は思った。今どき東京の人は、きょう自分たち一家が食べるお米があるか、ないかが、最大の感心事であるというのに、百里も遠くの、仙台のもっと北の地方から、何十人という若い人たちが、二重橋前の広場のお掃除に上京してくるとは、何とたのもしいことだろう。ぜひその人たちの顔を見たいという気持ちになったので、筧君と一緒に二人で坂下門外に出て一同に面会してみると、六十人の人たちは、みな二、三十歳の青年で、うち数名は年も若いモンペ姿の娘さんたちであったが、食料、燃料は勿論のこと、みな一挺ずつ草刈鎌を携えている。

1991goro:2013/01/30(水) 22:01:44 ID:nCo1DokU
>>1990の続き

 今しがた、外国兵の歩哨の前を通って、坂下門のところまで来たのであるけれども、別段怖れた様子もなく、それかといって別に昂然たるところもないが、語る言葉は一語また一語、進むにつれて真剣味を帯びてくる。

われわれの郷里の出身に、長谷川峻という人がいる。緒方国務大臣の秘書官をしていた人だから調べてもらえば判る。この人が先日郷里に帰ってきたとき、皇居の前の広場がたいへん荒廃してることを歎いて話してくれた。そこで、われわれは集って相談をした。それは、まことに相すまぬことだ。みんなで東京へ行って、草刈りや、お掃除のお手伝をして上げようではないか。草刈りは毎日野良でしているのだから、そんなことは何んでもない。だが待てよ、今どき天子様のために何か働いたら、マッカーサがわれわれを検挙するかも知れない。

それで万一検挙されるようなことがあったときの用意として、第二隊は郷里に待機させて、第一隊六十人だけ上京してきた。県庁の知事さんにも挨拶して上京すべきであったが、これも後で、何かの迷惑がかかっては悪いと思ってだまってこっそり郷里をはなれてきた。娘っ子のうちには、両親兄弟と永い別れの水盃をかわしてきたものもいる。と上京の動機や万一の覚悟について、縷々説明するのであった。きいているうちに、私たちは粛然襟を正ださざるを得なかった。厚く一同の厚意を謝するとともに、遠路はるばる上京されたのだから、二重橋前もさることながら、皇居の内は人手不足のため、宮殿の焼跡には、いまだに瓦やコンクリートの破片が到るところに山積している。どうか、皇居の内にきて、それを片付けては下さらぬか、と提案したところ、この予期しない言葉に、一同の喜びはたいへんなものであった。万一を覚悟した検挙どころか、全く予期もしない皇居内の作業をたのまれたものだから、一同の喜びはたいへんなもので、その活動ぷりたるや、連日、実にすさまじいものがあった。

宮殿の焼跡は上下二段の段地で、なかなか広く、上段が奥宮殿、下段が表宮殿の跡である。六十人の青年たちは、ここを作業場として三日問猛烈に働いてくれた。皇居の附近には泊るところもないので、宿舎は小金井附近であったと思うが、皇居から二〇キロもはなれているのに、当時、交通機関も充分に復旧しない混雑の中を、毎日そこから通ってきて、朝からタ刻まで、手弁当で働いてくれたのである。

1992goro:2013/01/31(木) 11:16:55 ID:nCo1DokU
>>1991

三日の後には、何万個という瓦や石の破片は宮殿跡の上段と下段地との境目にある石垣のところに、実に美事に積み上げられてしまった。東北の田舎から遥々上京してきた沢山の青年男女が、皇居内の清掃を手伝つてくれるということは、既に両陛下のお耳にも達していたが、連日の作業が、
いよいよ、今日から始まるという十二月八日の朝、陛下から私に、今日から仕事が始まるなら、その前に一同に会いたい、との御希望があった。

私も、心ひそかに、それを期待していたので、大喜びで、早速使を出して、現場にいる六十人の人たちに、お昼前に、天皇陛下が、作業現場においではなるから、そのつもりでいてもらいたい、ということを通知しておいた。陛下が作業現場におでましになるとき、お供をしたのは僅か数人であつたが、私は御座所から現場まで数百歩の道すがら、焼土の上に歩を進められる陛下のお心のうちを、あれこれと、お後にお供しながら考えた。

ザックザックと砂をふんで一歩また一歩、現場に近ずかれるお靴の音は、まさに日本歴史大転換の歯車のきしる音としか思えない。国民と共に語り、共に苦しみ、共に楽しまんとの御決意は、すでに御即位のときから明瞭に、われわれお側にお仕えしている者には、拝察できたことだったにも拘わらず、いろいろな事情のために、その実現はできなかったが、奇しくも国破れた今日、陛下は、その機会をつかまれたのだ。

宮殿の焼失などは、いま露ほども惜しいとは思っておいでにならないに相違ない。ただ、夜となく昼となく、常にお胸のうちを去らないものは、亜細亜大陸の各地、また太平洋の島々に、とり残こされた末復員の将兵その他の同胞の安否や、国民各家庭のさまざまな悲惨辛苦のことだ。いま数分後には、はるばる仙台の奥から手伝いにきてくれた青年たちにお会いになれる。こんなことが皇居内で行われることは未だ嘗て前例のないことだが、少しはお気が晴れることだろう、など。

陛下のお姿を遠くから拝した六十人の人たちは仕事をやめて、あちこちから集ってきて、陛下をお迎えし、ここに前例のない御対談が始まったのである。代表者(慶応義塾出身の鈴木徳一君、惜しくも昨年末仙台で病投)が御前に出て御挨拶を申し上げたのに対し、陛下は、遠いところから来てくれて、まことにありがとう。郷里の農作のぐあいは、どんなか、地下足袋は満足に手に入るか、肥料の配給はどうか、何が一番不自由か、など、御質間は次から次へと、なかなか尽きない。

1993goro:2013/01/31(木) 17:47:38 ID:nCo1DokU
>>1992の続き

かれこれ十分間ほどお話しがあり、何とぞ国家再建のために、たゆまず精を出して努力して貰いたい。とのお言葉を最後に、一同とお別れになり、また、もとの路をお帰りになるべく、二、三十歩おあるきになったそのとき、突如、列中から湧きおこったのが、君が代の合唱であった。当時、占領軍の取締りがやかましく、殆んど禁句のように思われて誰も口にすることを遠慮していた、その君が代が誰に相談するでもなく、おのずからに皆の胸の中から、ほとばしり出たのであった。ところが意外にも、この君が代の歌ごえに、陛下はおん歩みを止めさせられ、じっと、これをきき入っておいでになる。

一同は、君が代の合唱裡に、陛下をお見送り申上げようと思ったのであろうが、このお姿を拝して、ご歩行をお止めしては相済まぬ、早く唱い終ってお帰りを願わねば、とあせればあせるほど、その歌声は、とだえがちとなり、はては嗚咽(おえつ)の声に代ってしまった。見ると、真黒な手拭を顔に押しあてた面伏(おもぶし)しの姿もある。万感胸に迫り、悲しくて悲しくて唱えないのだ。私も悲しかった、誰も彼も悲しかった。しかし、それは、ただの空しい悲しさではない。何かしら云い知れぬ大きな力のこもった悲しさであった。今から思えば、この大きな力のこもったこの悲しさこそ、日本復興の大原動力となったのではなかろうか。

辛うじて唱い終ったとき、陛下は再び歩を進められてお帰りになったが、私は暫らく後に居残ったところ、青年たちは私に、皇居の草を一把ずついただいて郷里への土産にしたい、という。何のためかと思って尋ねてみたら、その答は次の通りであった。私たちは農民です。草を刈つて、肥料のために堆肥を造ります。この一把の皇居の草を(といつて、堅く、かたく握りしめ、眼に涙していう)いただいて、持って帰って、堆肥の素とし、私たちの畑を皇居と直結したいのです。

この青年たちとの御対談に、陛下は何かよほどお感じになったことが、おありになったご様子で、お部屋にお帰りになるや、皇后さまに、午後、作業現場にゆかるるように、おすすめになり、そのときも、私は再びお供をして現場に参ったが、第二回からは、両陛下お揃いで、奉仕の人々にお会いになることになり、それが今日まで二十数年間つづいているのである。

1994goro:2013/01/31(木) 17:54:19 ID:nCo1DokU
>>1993の続き

 第一回目のとき、皇后さまが陛下に御同行なされなかったのには訳がある当時、国内の各港には、海外で働いていた同胞の引揚げ船が続々と到着しつつあったが、殊に南方から帰つてくる人々は、防寒服がなく、みな薄着のままで日本の冬に上陸せねばならず、老幼の困難は特に甚だしいものがあつた。皇后さまは、これを非常にご心配になり、何か暖かい衣をとお考えになるのだけれども、店は品切れだし、皇居の内も、宮殿は焼失、倉庫も大部分焼けて材料が乏しい。それでも捜せば、多少の綿や布類があるので、それをできるだけお集めになり、女官相手に、毛糸でスウエッター、また綿や布でチャンチャンコを、できる限り沢山おつくりになるのでお忙がしかったのである。

前例の全くない、皇居内での陛下と地方青年たちとの御対談を、宮内省詰めの新聞記者諸君が見のがす筈はない。ニュースは、すぐに全国に伝えられた。三日間の感激の奉仕をおえ、おのおの一把の皇居の草を抱きしめて郷里にかえる青年たちの汽車の旅は、上京のときとは全く反対で、
まことに朗ちかな希望に満ちたものであったに違いない。無断上京のお詫びを兼ね、知事さんに挨拶のため、仙台に途中下車、一同県庁を訪れたところ、折から開会中の県会は青年隊無事帰着の報に接し、にわかに議事を中止し、知事以下議員総出で一同を喜び迎え、大いにその意気と労とをねぎらったとのことである。

以上語りしるす事柄は、国民対皇室、皇室対国民の間に見られる、あらゆる事象のうちの、単なる一こまとして、風の如く来り、また風の如く空しく過ぎ去ったであろうか。疑いもなく、これは名もなき農村青年男女六十人の渺たる一団である。だが然し、名誉を思わず、利益を求めず、占領軍の弾圧あらばあれ、ただ一片の衷情やみがたく、やまとごころの一筋に立ち上った、この一群れの間にひらめく正気の光は、決して空しくは消え去らなかった。

正気は友を呼ぷ。この報、一たび全国に伝わるや、当時、断腸の思いに沈んでいた国民の心の琴線は、俄然、高鳴りを始めだしたのである。栗原郡からは、第二隊、第三隊、第四隊、第五隊と続々上京してくるし、次ぎには隣りの郡、また、その次ぎには隣りの県、終には北は北海遣、南は九州のはてに至るまで、全国からの奉仕の願い出は殺到するばかりで、今日すでにその奉仕の人員は、数十万に達するであろう。官辺より何らの指示勧奨もあるのではない。ただ国民至情の赴くところ、しかあらしめるのである。

1995goro:2013/02/01(金) 15:39:09 ID:nCo1DokU
SAPIO 2009年2月11-18日合併号掲載

【GHQを驚かせた占領下の「皇居勤労奉仕」誕生秘話】

JUGEM(ジュゲム)ブログ 「たまねぎ通信」より転載 (写真付き)
http://tokiy.jugem.jp/?eid=816  

 皇居勤労奉仕
読者のみなさんは、この言葉を耳にしたことがおありだろうか。
全国各地から多くの人々がグループを作って上京し、皇居の中で四日間、ボランティアの清掃活動を行っている。その数、平成に入ってからの実績で言えば、一年間を通じておよそ一万人。この活動のことを「皇居勤労奉仕」と呼んでいる。
  *
清掃活動はまったくの無報酬であるのはもちろん、交通費も宿泊費もすべて自己負担だ。それでも約一万人もの人々が毎年、皇居での勤労奉仕を続けている。一般にはほとんど知られていない事実だ。しかし十分、注目に値するだろう。では、この皇居勤労奉仕はいつ、どのような経緯で始まったのか。この点については、幸いなことに、いくつか関係者の証言が残っている。まず、昭和天皇の側近に仕えた木下道雄侍従次長(当時)の証言を紹介しよう。

時は昭和20年12月。つまり終戦の年の年末のことだ。当時、日本は言うまでもなく占領下にあった。皇居も各門にはアメリカ兵が見張りに立っているありさまだった。その皇居自体も、外観こそ戦前と変わらぬ様子であったものの、一歩、中に入ると戦災の跡が歴然として痛々しいまでの変貌ぶりだった。木造の建造物はほとんど焼失していた。明治時代に建てられた端正雄大な宮殿も焼け落ちて礎石や瓦、レンガなどが散乱し、目も当てられない状態だった。手入れが行き届かないため、雑草があちこち伸び放題に生い茂っていた。これは皇居前広場も同様だったから、外からも一目瞭然にわかった。そんな折、皇居の坂下門の門外に60人ばかりの青年の一団が到着した−−。

【皇居の清掃奉仕を申し出た若者たち】

この若者たちは、門衛の皇官警察官を通して、次のように申し入れたという。
「私たちは、宮城県栗原郡の各村のものでありますが、二重橋の前の広場に雑草が生い茂って、たいへん荒れている、ということを聞きましたので、草刈りやお掃除のお手伝いのため上京してきました。‥どうかお手伝いさせて下さい」と。

このことを筧素彦総務課長(当時)から電話で知らされた木下氏は、ただちに筧氏と一緒に門外で彼らと面会。その熱意に打たれて「一同の厚意に謝するとともに、遠路はるばる上京されたのだから、二重橋前もさることながら、皇居の内は人手不足のため、宮殿の焼跡には、いまだ瓦やコンクリートの破片が到るところに山積している。どうか、皇居の内にきて、それを片付けては下さらぬか、と提案したところ、この予期しない言葉に一同の喜びはたいへんなものであった」−−。
木下氏の証言によれば、皇居勤労奉仕はこのような形で始まったことになっている(同氏『皇室と国民』。)

当時の交通事情を考えると、宮城県栗原郡の地元から上京してくるだけで、大変な苦労があったはずだ。しかも終戦直後だから経済情勢は極めて悪く、食糧の入手さえ困難な状況下でのことだ。その上、皇室そのものの行く末もなお不透明だった頃である。
出獄した日本共産党の面々は虚脱した国民の前で「天皇制の打倒」を叫び、GHQは昭和天皇側近だった内大臣の木戸幸一を戦犯容疑者として捕らえ、皇族の長老、梨本宮守正王まで拘引される始末だった。

そうした中で、60人もの若者たちが意を決して上京してきたことは、じつに驚くべきことと言ってよい。ただし、木下氏の証言だとも六十人の青年グループが突然、皇居に押しかけて「手伝い」を申し出たように受けとれるが、じつはこれ以前に勤労奉仕の受け入れをめぐるやりとりがあった。
この点については筧氏の証言がある。

1996goro:2013/02/01(金) 15:44:33 ID:nCo1DokU
>>1995の続き

【宮内省 総務課長の勇断】

それによれば、ことのいきさつは以下の通りだった。
この年の11月22日、宮城県から上京してきた二人の人物が宮内省(当時)を訪れた。この時、二人に応対したのが筧氏だった。

この二人は、地元で指導的役割を果たしていた。一人は青年団運動のリーダー、鈴木徳一氏、46歳。もう一人は東久邇宮(*ひがしくにのみや)内閣の緒方竹虎国務大臣の秘書官だった長谷川竣氏(のちの衆議院議員)、33歳。彼らは現今の思想悪化を憂いつつ、なお皇室のことを思って荒れた皇居の清掃にあたりたいと願う青年男女がすでに地元に60名にもおよんでいることを告げ、勤労奉仕の許可を求めたのであった。

この熱意ある申し出に対し、筧氏はどう対応したのか。氏の証言を引用しよう。
「当時はすでに占領下にあって、ことごとに占領軍の抑圧を受けている極めて酷い事情の下にあるので、こういう申し出をされる方も命がけなら、それを受け入れる決断をする方もまた異常の覚悟を要する状態でした。(中略)これを組織による意思決定の形をとったら、(中略)万一の場合、上の方にご迷惑が及ぶことがあっては一大事であると考え(中略)一切の責任を負って自分だけの独断でやることを決意しました」(日本教文社編『皇居を愛する人々』)

かくて筧氏は、信頼するただ一人の上司にだけ打ち明け、その内諾を得るや、ただちに二人に勤労奉仕の許可を申し渡したのであった。何とも恐れ入った勇断と言うほかない。

この時、鈴木・長谷川両氏は、何の書類審査もなく即日、許可されてビックリ仰天したという。それも無理はない。ただでさえお役所仕事というのは手続きが煩雑で、時間がかかる。ましてや天皇陛下のお側近くで仕える宮内省に、まったく前例のないことを申請しようというのだから、二人とも相当に手間暇がかかることは覚悟していたはずだ。それなのにただ一回の口頭の申し入れただけで、ただちに願いが聞き届けられたのだから。

1997goro:2013/02/01(金) 15:46:19 ID:nCo1DokU

>>1996の続き

【拡大する勤労奉仕にGHQが疑念】

宮城県栗原郡の若者たちは「みくに奉仕団」と名乗った。正確には男性55名、女性7名の計62名で、団長の鈴木氏と副団長の長谷川氏を除き、ほとんどが22、3歳の若さだった。苛酷な占領下のことゆえ、彼らの行動に対しGHQがどのような対応をとるか予測がつかず、「娘っ子のうちには、両親兄弟と永い別れの水盃をかわしてきたものもいる」という(木下氏証言)。

むろん、占領当局によって拘束されるようなことはなかった。ばかりか、奉仕の初日に一同にとって思いもよらぬ感激的な場面が待っていた。みなの前に昭和天皇が姿を現されたのだ。
鈴木氏の証言を紹介する。

「奉仕はだんだん進んで正午近くになった頃です。静かだった奥御殿の石垣の上に、かすかに人の群の気配がするので、ひょっと見上げると、陛下がお立ちになって、こちらをご覧になっていられます。(中略)お付きの方が見えて、陛下がお呼びだという。私は作業衣のまま石段を上って御前にまいりますと、木下次長さんがお取次ぎで、いろいろ御下問を賜りました。(中略)やがてご政務所へお帰りになりましたが、その御後姿を拝し一同期せずして君が代を合唱しました。誰の眼にも涙がいっぱい光っていました」(前掲書)

その後、女官を伴って香淳皇后もお出ましになった。両陛下のお出ましに一同がどれほど感激したか、察するに余りあるだろう。
「みくに奉仕団」のことが各地に伝わると、我も我もと次々と奉仕団が結成され、勤労奉仕の申し出が宮内省に殺到した。何しろ翌21年には早くも188の奉仕団が名乗りをあげ、一万人余の人々が勤労奉仕に参加しているのだ。ピークは昭和26年で、何と4万人近くの国民が参加した(奉仕団は831団体)。

こうした動きに対し、GHQもさすがに疑念を抱き、背後に強力な組織があって、巨額の資金を投じ、彼らにとって良からぬ策謀をめぐらしているのではないかと、独自の調査を行ったらしい。その情報をキャッチした海外のメディアが奉仕団に取材をかけるようなこともあった。総力戦に敗れた国の君主制は第一次大戦時のドイツや第二次大戦時のイタリアのように滅びるのが通例だ。なのに日本の皇室の場合、滅びるどころか多くの国民がボランティアで皇居の清掃活動を行っている。彼らが不審に思うのも当然だ。だがもちろん、そこには何の背後関係もなかった。人々のひたむきな皇室への思いだけがあったのだ。

【これまで累計 約120万人が奉仕】

占領下から独立回復後、昭和から平成へと時代は推移しても、皇居勤労奉仕は一年の中断もなく続けられている。これまでの参加者は、昭和20年から平成19年までの累計で約120万人にも達している。

この勤労奉仕は、15名以上60名までの奉仕団を結成し、奉仕日(4日間)の半年ないし1ヶ月前までに名簿を提出して申し込めば、原則として誰でも参加することができる(詳しくは宮内庁のHP参照)。だから高校生や大学生などの奉仕団もある。

奉仕期間中の1日、やむを得ない事情がないかぎり、今も天皇・皇后両陛下から直接、お言葉をいただく機会がある。それは天皇と普通の国民が最も近づく貴重なチャンスと言ってよいだろう。

昭和天皇の御製
戦にやぶれしあとのいまもなほ 民のよりきてここに草とる

何だか泣けますね‥。

GHQの占領下、決死の覚悟で焼け跡となった皇居の清掃を申し出る青年団。それも、東京から遠い宮城県の村から。 そして、それに応える宮内省、侍従、陛下。

今回の震災でもそうですが、日本人は困った時ほど、人を助ける事に熱心な民族だと思いました。
で、今、66年前に皇居清掃を申し出た宮城県の皆さんが甚大な被害を受けているんですよね‥。

以上 転載終わり

1998goro:2013/02/01(金) 16:20:19 ID:nCo1DokU

以上で「皇室と国民」元侍従次長 木下道雄著の転載を終ります。

SAPIO 2009年2月11-18日合併号掲載 
【GHQを驚かせた占領下の「皇居勤労奉仕」誕生秘話】

JUGEM(ジュゲム)ブログ 「たまねぎ通信」より転載 (写真付き)につきましては、
特に探したわけでもないのですが、どこからともなく出て来まして?
内容が良かったので転載させて頂きました。

「苟も民に利あらば、何ぞ聖の造に妨はむ」
いやしくも たみにくぼさあらば なんぞひじりのわざにたがはむ

神武天皇の御心そのままに私たち国民を慈しんで下さる
天皇陛下に感謝せずにいられません。

 天皇陛下万歳

1999NANCY:2013/02/01(金) 19:41:40 ID:dGeUHjWM
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
こんばんは…… ロ−マ字(大文字)の【NANCY】です。
>>1635>>1639>>1643>>1766>>1778>>1829>>1877>>1880>>1890>>1918>>1931>>1942
>>1955>>1983>>1988>> の投稿の続きです。

===【谷口 雅春 先生 著】============================= 

■ 明るい希望をもって一日を出発しよう

あなたの人生は、あなたの心の状態の反映であるから、朝起きた時、まず「わたしは
神の子、神の愛に護られて善いことが来る。」 と念じて、
明るい愉しい希望と期待とをもって一日を出発するようにしましょう。
自分の心が、幸福の波動を起こせば、幸福が自然にやって来るのである。

                      『如意自在の生活365章』より
=============================================

■■今日から…新しい月…「2月」旧暦では〜〜〜【如月…きさらぎ】と呼びますかと。
此処でブレイクしますが〜〜♫〜〜「閲覧者の皆様」も御存じでいらっしゃいますでしょうが……

1)旧暦では二月でもまだまだ寒さが残っているので、衣(きぬ)を更に着る月であるから
つまり「きさらぎ…衣更着」

2)草木の芽が張り出す月から「草木張月(くさきはりづき)」

今月は、色々な意味で【出発…始まり】という感じでしょうかしら〜〜ン!
人は…ポジティブな感情…心の状態ですと、前に!前に!と前進する事ができますかと。
それは、確かに、私自身でもネガティブ感情である“恐怖・怠惰・自己満足…etc”とは、
グッバイ!グッバイ!…此処からが、スタ−トとなります。でも、時としては、
何と言いましょうか?外聞を気にしますと…この“心の?感情の?切り替え…”に、躊躇感も
ありますかと…。その時、私自身は【 勇気…持続性 】この自覚が必要になりますでしょう。
やはりそれには、日々の“心の持ち方…”が、大切になりますでしょう。

■朝起きた時、まず「わたしは神の子、神の愛に護られて善いことが来る。」 と念じて…!

そうなのです〜〜〜ョネ!
先ず!!【 真 の 神 の 子 …】この自覚を“潜在意識”に、インプットですモノ…

■■此処で、ブレイクしますが…
今日の“投稿”の中に…「おかしな人??」と云われている投稿…目に入りました。…が?
これって…私のこと〜〜〜!【現総雅宣裁先生…擁護派への中傷〜〜〜】そこで、私の感情が、
“ネガティブ…ヤカン頭??”になりますかと。(微笑)
しかしながら…ヨ〜〜〜ク!考えますと❤〜【与えよ!さらば〜〜〜与えられん!】という言葉…

つまり【やまびこの様に…自分に戻る(返る)!】という事になりますかと。そうです〜〜〜ョネ!
相手も…「おかしな人」という事です〜〜〜ネ!この様に、相手を“侮る様なネガティブ言葉”は…
此処でストップ!!今からは〜〜〜「 ポジティブな言葉 」がいいですモノ!これで…
私の【ネガティブな心】〜〜〜が〜〜〜【ポジティブな心】へと変わりますでショ!!

■この事が…【人 生 の 幸 福 へ の 切 符】になりますモノ!!

さて!私も…この“言葉” 朝の目覚めました時…【 20回 】唱えています…。…が?
皆様も如何でしょうか〜〜〜♫〜〜〜これも、日々の持続が必要かと。“トライ”(微笑)

■しっかり…【脳内革命…クリア−な世界】 サ〜〜〜ァ!【 人 生 の 幸 福 論 へ 】

                                     再合掌

2000トキ:2013/02/01(金) 21:02:53 ID:QuzhyFVA
謹告

 従来、スレッドの投稿数は、2000を限界にしておりました。
が、現在のペースで投稿が続くと、数年で板が満杯になります。

 調べてみると、スレッドの投稿数を増加する事が可能な事が分かりました。

 そこで、誠に勝手ですが、掲示板の投稿数を今後は6000に増やす事に
いたしました。

 以上、勝手ですが、よろしくお願いします。

合掌 ありがとうございます

管理人敬白

2001トキ:2013/02/01(金) 21:03:47 ID:QuzhyFVA
引き続き、この掲示板をご利用下さい。

合掌 ありがとうございます

管理人敬白

2002a hope:2013/02/03(日) 09:22:53 ID:TqpbsVIM
新版 生活読本 谷口雅春先生著(日本教文社)
第十一章 心の花園に美しい花を咲かせましょう

◆立派な人の伝記をお読みなさい

本にかいてあることは、ただお料理の材料みたいなものであります。
その材料をどのように組みあわせて美味しい料理にし、それを自分の心の滋養物にするかどうかは、
本を読む人自身にあるのであります。

材料のよいところは捨ててしまって、くずのところばかりを「面白い、面白い」といって読んで、
ためになるところを捨ててしまっては読まぬほうがましな位です。

面白いばかりを目的に書いた本よりも、昔から立派な人になったり、
世の中のために尽くした人々の伝記をお読みになることは、たいへんためになります。

文章はコトバの力で、書いてあることと同じように、読む人をならせる力をもっているのです。
つまらぬ本を読んでいますと、詰まらぬ人になりますし、
聖人の伝記を読んでいますと、聖人になりますし、英雄の伝記を読んでいますと英雄になるものです。
(つづく)

2003SAKURA:2013/02/03(日) 19:39:04 ID:Ux7iAm.A
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……。  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1875>>1876>>1879>>1888>>1889>>1913>>1914>>1923>>1924>>1934>>1935>>1956>>1957
>>1966>>1972>>1977>>1981>>1982>>1986>>1987 投稿の続きです…。
ここは、まるで【四 無 量 心 の 心 の 世 界 観】
日常生活面を、それなりに考えていきますと、私なりの「雅春先生の哲学」が見えまして、更に“人
生観”が〜〜実に!感慨深いものになりますので、私なりに「生命哲学…勉強会」を〜♫〜では“続き
投稿”していきます。「雅春先生の例え…」として、投稿されていらっしゃいました記憶があります。

■■ 『女 の 浄 土シリ−ズ…SAKURA論』    

===========【第六章  幸福を完うする秘密  ―その①― 】============
■アン未亡人の三つの悩み 

『ウイクリ−・ユニティ』誌に「女性の幸福五十項目」とでも訳してもよい記事を掲げている。日本
の女性もだんだん欧米化しつつあるので、何らかの参考になるかと思うので、その要點を次に紹介す
ることにする。

 日本の女性にとっても、此の頃、肥える事が悩みとなっている人が多数あるらしいのであるが、僕
など女は肥えてゐても痩せてゐても大した関心はないのであり、ある男は痩せた女性に心を魅かれる
が、ある男は肥えた肉感的な女性の肉体に魅力を感ずるかも知れない。しかし、結局は心の問題では
ないだろうか。肥えゐても、そんなにセクシュアルな雰囲気をもたない婦人もあるし、痩せてゐる
癖に非常に性的な魅力をもってゐる婦人もある。
 それにしてもアン・アダムスといふアメリカ婦人には、極めて重大な問題――しかも中々解決でき
ない問題をもってゐた。それは、非常に彼女の体重が重すぎる、格言すれば肥えすぎてゐるといふこ
とであった。

 もう一つの重大問題は、彼女の働き口がなかなか見つからないといふことであった。彼女の良人は
長患いひをして、結婚以来二十年間もかかって蓄めてゐた貯金を殆ど全部療養費に使い尽くしてし
まってから死んだのであつた。良人の生命保険も、もう殆どつかい尽くしてしまつたので、
生活を得るためには是非就職しなければならなかった。それで自分の出来ると思う仕事先へ
数か所、就職を申し込んだが、悉く無駄であつた。就職をことわられた理由は、もうその年齢
では女性の就職はおそすぎるというのであった。彼女の年齢は既に四十五歳であった。
 
もう一つの彼女の悩みは、孤独感であった。良人を死んで以来、きう知の友達も近よらな
くなったし、前のやうに友人から晩餐に招かれるようなこともなくなった。電話で話してく
れる人さへなくなってしまってゐたのであった。          (抜粋投稿…)
                                
===========================================
PS:トキ様
当時の「アメリカ…」でも、今の日本との差がないです〜〜〜ネ??さて「アンさん」は、
その後どのように展開されていくかが、楽しみです〜〜〜ネ!御主人が亡くなりますと、
一般の主婦はやはり、精神的に大変なようですかと。他人事では、ありませんモノ!!

                             つづく

2004SAKURA:2013/02/03(日) 19:41:44 ID:Ux7iAm.A
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……。  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1875>>1876>>1879>>1888>>1889>>1913>>1914>>1923>>1924>>1934>>1935>>1956>>1957
>>1966>>1972>>1977>>1981>>1982>>1986>>1987>>2003>> 投稿の続きです…。

【第六章  幸福を完うする秘密  ―その②― 】

>>2003 その①の投稿の続きです…。
■此処で、私の友人とかは、ある一定の年齢になって、急に働くようになりました。(これは、
家庭事情によりますが…)当時は、子供が中学になり、手がかからなくなり、将来を考えて、
「鍋の会社…?ビタクラフト(ドイツ)…」ですが、そこに“求人募集”がありまして、
たまたまそこに申し込んでみますと、面接にて“OK”でした。…が?職種は事務職でした。
御主人は、NTTの工事関係の職員で、その友人は年上でしたのですが、年齢差が見た目にて
感じる事は一度もありませんでした。…が?ただ!!当時の彼女は、いつも口癖のよう〜〜〜
“現場で事故が起きたら?〜〜〜たら?”…その後、一人で子供を育てなくてはとの状況の
時は〜〜〜と思うようになり、子供が中学入ってから「就職…」を決意しまして……彼女は
“念願”がかないまして「有名な…鍋のメ−カ−(ビタクラフト)」に、就職できたわけです
〜〜〜ョネ!!

私の記憶では、当時!その「鍋セット…10万?」でしたが、それが“卸…”で進めてくれて
ましたので、妹を紹介しまして、購入してくれました。…今!思い出しますと「主婦…」にな
りますと、「鍋…」一つでも、料理をしますと、それなりの“価値観”が分かり、また、家族の
問題とか?子供の問題とか?それなりのいろいろな“問題”もあり、今回「アンさんの問題…」
を参考に致しまして〜〜〜女性の場合は、社会からの受け入れ体制は、当時は、現在以上に、
【大きな壁…】がありましたです〜〜〜ョネ!

さて…私も、一つ悩み問題!!現状の“肥満なるボディ−”なので、どの様にこのストレス
を解消しますかが〜〜〜問題なのですモノ。ある人が「精神状態で痩せて行く」とのアドバ
イスを……>< 次回が楽しみで〜〜〜すネ〜❤〜???

■最後に「雅春先生」の言葉に〜〜〜❤!
【 新しい女性は「今」を完全に生きなければなりません。「今」と云うものを完全に生き切る

では、次は“ 心を不調和から調和に一転するには ”で〜〜〜す。   つづく

PPS
完全に生き切る女性こそ新しい女性なのです。エマ−ソンは、…
「あなたのハ−トに1年のうち最も善き日が『今日』であることを銘記せよ。『今日』と云うも
のはどんな華麗な衣装よりも更に更に絢爛と輝くあなたの衣装なのです」と言っています。

2005さくら:2013/02/04(月) 07:29:37 ID:y2p6rnoM
合掌ありがとうございます。


本日、2月4日は、雅春先生を通して、
生長の家に『自他一體』の天降った日です。



ありがとうございます。



2006さくら:2013/02/04(月) 07:30:12 ID:y2p6rnoM
「自他一體の神示」 谷口雅春先生

『生命の實相』を讀んで自分だけが眞理を悟つてそれで善いと思ふものはまだ“生命の實相”を悟ったものではない。
眞理は自他一體のものであるから、ひとに傳へるとき、其處に『結び』の力が發現するのである。

『結び』は愛の力、慈悲の力、神の力、佛の力である。
これを日本古道ではムスビ(産靈)と言ひ、ムスビによつて醸生(神)の力、即ち生々化育の力が發現して来るのである。

だから『生命の實相』に書いてある通りのことを病人に愛の心で話してあげれば、ただ、話をするだけで病氣が治るのである。
話が下手なら『生命の實相』の中で『光明の眞理』のところを、本の由来を話してから讀んで聞かせてもよい。

神の道では『結び』の反對『切る』ことを最も厭ふのである。
怒つたり、審判いたりするのでは心で切るから善くない。
離縁、背信、忘恩、不忠、叛逆等がすべて善くないのは人と人との間を切るからである。

『神』は『道』であると云ふのも『道』と云ふものは離れてゐるものを結び合はす働きがあるから『道』即ち神である。

結び合わす働きがなくて、審判く働きばかりあるものはどんな善人でも神に遠い。

一人の男子が縁あって一人の女性と結ばれたならば再び離れるのは『道』ではない、それを圓く結んでやるのが道である。

神の道を知り『生命の實相』を知ると云ふこともその道びきになる人々の間には深い因縁があることであるから、橋掛けになつた人の恩を忘れてはならぬ。
自分はもう神と直取引が出来るから、橋掛けになつた人の恩は忘れても良いと思ふやうな人は、自分はもう神を知つたから神に背いても好いと云ふのと同じく不合理である。

『生長の家』を知らしてくれる人は其の人にとつて天の使ひであるから何日までも恩を忘れてはならぬ。

日本人は忠孝一貫恩を忘れぬ國民であるから強いのである。

今度の戰ひは國民の魂の質から言へば知恩と忘恩との戰ひ、『結び』働きと、バラバラに分離する働きとの戰ひである。
バラバラに分離する働きは結局自滅して『結ぶ働き』が世界を統一する。
醫學て大和の醫學は結合の醫學であるが外國の醫學は分析の醫學である。
『生命』は綜合の統體であるからバラバラの醫學では解らぬ。

(昭和七年二月四日神示)

2007a hope:2013/02/04(月) 09:20:01 ID:TqpbsVIM
新版 生活読本 谷口雅春先生著(日本教文社)
第十一章 心の花園に美しい花を咲かせましょう

◆善い本は同じ本でもたびたび読みなさい(p129〜)

数をたくさん読むよりも、すこしの立派な本をよく味わいながら読むことは、その人の精神を立派なものにします。
むやみに大食するよりも、適当な養分を適量にいただくほうが健康によいようなものであります。

よい書物は一遍や二編読んだだけで捨ててしまわないで、十回でも二十回でも、繰返し読むことです。
本の表紙は大切にして上包みでもして、一遍読み終わるごとに取りかえて、新しい気持ちを出すのがよろしい。

本の中味は、読んで感心したところに赤い線を一度引いておき、
その次にまた感心したところには青い線を引いておくなどもたいへんよろしい。
本にすじを引くのを遠慮することはいりません。

読んだときの感想などを本の余白(あいているところ)に書いて置くことはあとでたいへん参考になり、
大人になってからも、自分の少年少女時代にこんなところを、
こう考えながら読んだのだな―――と思い出すのも楽しいものです。

本の中に、こうして書きこみを作るのはよろしいが、読みかたにフリガナを鉛筆でつけておくなどはよくありません。
漢字をいつまでもおぼえないで、仮名ばかりをあてにして読むようになると、文字を憶える力がなくなります。

本は大切にしなければなりません。
本を大切にしない人は、本から教えられることもすくないのです。

早稲田の野球の監督水原義雄さんはバットを非常に大切にして一緒にだいて寝るくらいだったから、
 イザという時には、きっと、そのバットがボールにカチリと当って勝つことが出来たということです。
(つづく)

2008SAKURA:2013/02/05(火) 15:22:12 ID:rqQQibm6
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こんにちは……。  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
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>>1966>>1972>>1977>>1981>>1982>>1986>>1987>>2003>>2004>> 投稿の続きです…。
ここは、まるで【四 無 量 心 の 心 の 世 界 観】
日常生活面を、それなりに考えていきますと、私なりの「雅春先生の哲学」が見えまして、更に“人
生観”が〜〜実に!感慨深いものになりますので、私なりに「生命哲学…勉強会」を〜♫〜では“続き
投稿”していきます。「雅春先生の例え…」として、投稿されていらっしゃいました記憶があります。

■■ 『女 の 浄 土シリ−ズ…SAKURA論』    

===========【第六章  幸福を完うする秘密  ―その①― 】============
■心を不調和から調和に一轉するには

 彼女はこの現象のみじめさから心を一轉し実相の光明に振向かうとつとめるのだったけれども、
それは不可能であった。現象のみじめさを思ふまいと思へども思ひ出されて来るのであった。

 彼女はその頃、人生相談の回答者として有名になってゐた或る教師を訪問した。そして泣きなが
ら自分の悩みをうちあけたのだった。

 その教師は、彼女があるだけの感情を涙と共に放出して、心が静まり、涙がかわいてくるのを待っ
て、彼女を同情の眼をもってみつめながら深切な語調でたづねた。

「あなたは、御自分の住居はお持ちですか」
「はい」
「それは有りがたいことですね。それからあなたの健康はどうですか?」
「健康でゐられることを感謝してをります」
「それはありがたいことです」
 と教師は微笑をたたへながらいった。――
「ねぇ、あんた、色々と問題をもっていらっしゃるやうですけれども、結局はそれらの問題は一つに
歸著(きちゃく)しますね。あまりあんたは問題をにぎり過ぎるのがいけないのですよ」
 彼女はその言葉をきくと魂に希望の光が射して来るやうに感じた。そして、
「先生、先生の仰言る通りに、わたくしいたします。問題は一つに歸著すると仰言いましたが、それ
はどういふ意味なんでございませうか」
 教師は印象的に手を前方へ突き出しながら説明した。
「あなたは、今ある幸福を心に思はないで絶え間なく問題ばかり掴んで考へつづけてゐるのです
よ。不調和を癒す道は、調和を考へるにあるのですよ。病気を癒す道は健康をかんがへるにあるの
ですよ。孤独の境涯から逃れる道は孤独を考えないで友達のことを考えるにあるのですよ。それら
の問題を一つにまとめますと、こうなるんです。すべて吾々の問題の解決は“今ある神からの恵福
(めぐみ)”を考へることなんです。あなたは自家へお帰りになったら、先づ、今あなたが受けてい
る恵み――これは感謝しなければならぬ幸福だといふもの五十種類思い出して、それを書いて御覧
なさい」                          (谷口雅春著)
=============================================

PS; 「トキ様」へ
【個人相談…】は、若い時は、素直に相談していました。…が?「タタキ男…」に、出会って?
その後の私は【個人相談…】は、自分の問題は別にして“他人の問題”ばかり相談するような
傾向でしたでしょうか??やはり、私自身の心には複雑な心境が〜〜〜

今は神様には〜〜〜』と云った感じがありました。…が?最近では、率直に言いますと、
私は【神様に祈り…神想観で神様の御心になしたまえ〜と!導きたまえ〜と!…祈っている】
のです。ですので、【祈り…も実相顕現】です〜〜〜ョネ!!


                       つづく

2009SAKURA:2013/02/05(火) 15:25:43 ID:rqQQibm6
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんにちは……。  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1875>>1876>>1879>>1888>>1889>>1913>>1914>>1923>>1924>>1934>>1935>>1956>>1957
>>1966>>1972>>1977>>1981>>1982>>1986>>1987>>2003>>2004>>2008>> 投稿の続きです…。

【 第六章 幸福を完うする秘密  ―その②― 】

>>2008 その①の投稿の続きです…。

現在の【個人相談…】は、どうなんでしょうかと。私の場合は、過去の於きまして、結局!
相談しました話…?逆にその“内容…”を利用されました苦い経験が〜〜〜ありますから?
『人 生 の 問 題』は、内なる「神…」との〜〜〜対話になりますでしょうかと。

此処で【別板…】で「死にたいと言われた方」は、きっと、何か問題がありそうです。
まず!その人の心の嘆きを?まず!耳を傾ける事が大切ではと。先に、自分の“自慢話…”は、
「人生での難問題」の悩みがある人は〜〜〜耳を傾ける事は、ないのです〜〜〜ョネ!!
【先祖供養の話】なども、まずその人の立場で聞いてから、それから“次へ”と、タイミングを
考えまして“導く事”ではと思います。…が?すぐ!【先祖供養…】と云います事は?相手が、
無神論者の場合には、果たして何処までの理解が足出来ますでしょうかと考えますと“ビックリ”
しました。…が?(今回の“別板での相談投稿の方は、問題が解決に至ったそうで…^^)

■「萩窪…」に住んでいた頃、当時!第二教区に出入りしていました。…が?そこで、当時の
トップの人が「相手の良かったところ?いい印象のところ?をお互いに記載して“何点”その人
から貰えるかのゲ−ム」をしました。例えば…「ある人は全くもって無〜〜〜い!」・「何さんは
とても親切にしてくれた」・「何々さんは笑顔が良く、よく気がきく」…etc点数の多い人程〜その
人は【幸福な人生を歩むこと〜〜〜】になりますかと。私は当時“ひねくれ?”ていましたので、
讃嘆よりも「笑顔が足りない」と言われました“言葉…”が、始めての“採点…”で、やはり、
この時の“ショック”はいまでも〜〜〜><心の奥に残っていますでしょうか??その後、私は、
そこでの開催行事には参加しなくなりました。やはり、他人からの言葉にて【自信…喪失】かと。
当時は【自ら“神の子”という本性の自覚が・・・足りなかったのではと】当時!他人の言葉に
自らを翻弄されてしまったような感が致します。相手の【比較主義論…】は、差別みたいな感じ
が致しますが〜〜〜><
それよりも「リ−・ミルティアさん」が“アドバイス”してくださいました〜〜〜事柄が〜〜〜
【一日の良かった子ちゃん…が!それは、どれ位善い事があったかを書く“日記”】は“グ−”!!
つまり【自分自身を正しく見る!…本当の自分を…これは実相世界】に入る事を意味していくモノ
かと。心が前向きになるので〜す。そして、私も『神の恵み…が?どれだけあるのかしら〜〜〜ン』
今日から、久しぶりに記してみましょうと思います。「50項目!探してみましょうと???」
これは【 生長の家…自己讃嘆… 】と同じ事です〜〜〜ョネ!

❤〜その後の〜〜〜「アンさん」は、どうされていくのでしょうか?興味深く〜〜〜???

「トキ様…」も【個人相談…】は、去年までは“大事とか?”おっしゃっていました。…が?今年
は【聖典・教義よりも〜〜〜組織・運営のほうが大事とか?】信仰の姿勢が、変化していって
いるのですネ!!但し、それが、結果的には“良い事?”“悪しき事?”…如何かと。冷静に見まし
ても「信者…」を大事にしない“幹部職”が多いようです〜〜〜ネ!!そうしますと、
必ずや【神様の御心に叶うものかと?従いまして…それなりの事が起きるかもしれません。】

私は今年に入り「管理人…トキ様」の【中道論…】とお聞き致しておりますが〜〜〜
情緒不安定に、思えてなりません。…が?                   再合掌

                     ❤〜次回は「アンさんの感謝行」で〜〜す。

2010NANCY:2013/02/05(火) 20:32:11 ID:LyynxGoY
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
こんばんは…… ロ−マ字(大文字)の【NANCY】です。
>>1635>>1639>>1643>>1766>>1778>>1829>>1877>>1880>>1890>>1918>>1931>>1942
>>1955>>1983>>1988>>1999 の投稿の続きです。

===【谷口 雅春 先生 著】============================= 

■人の光明面のみを 観るのが“ 愛 ”である
   
人の光明面を観よ。人の光明面のみを観るのが“ 愛 ”である。人の暗黒面のみを
観るとき、観る人が地獄に堕ちるのである。誰にも皆、光明面と暗黒面とがあるので
ある。誰でも皆、美点と欠点とがあるのである。そして、観れば見た面が強くあらわれる
のである。

                        谷口雅春著 『愛はかくして完成す』より
=============================================

■相手から、美点…つまり“讃嘆”されますと、こちらも“うれし〜〜〜い!楽し〜〜〜い!と…
こころもウキウキしていきますので…これが繰り返し〜〜潜在意識に入りますと…『自信…』に
繋がりますでしょうかと。そうしますと…ますますとその自信に満ちた行動になりますでしょう。

「教育問題…」でも、よく世間でいいますところの『誉める!!讃嘆する!!』この旨を、踏まえ
ての指導は、やはり子供の個性を伸ばすうえで、大切な事と思います。

余談ですが、やはり子供の”こころ”は、素直ですから…この「讃嘆された言葉…」素直に
『脳内回路…』に入っていく事と思います。…が

                                    再合掌

2011a hope:2013/02/06(水) 07:53:05 ID:TqpbsVIM
新版 生活読本 谷口雅春先生著(日本教文社)
第十一章 心の花園に美しい花を咲かせましょう

◆本に書いてある知識をつかう力を養うには(p130〜)

吾々は本を読んで、それをおぼえるばかりでは充分だということは出来ません。
おぼえるだけでは、ただ人間が辞書(じびき)になるに過ぎません。

どんな知識も、それを自分の自由につかいこなすことが出来ない間は、
つかい方のわからぬ道具をむやみに買いこんで箱にいれているのと同じであります。

どこへ、どういうようにつかえばよいかがわかったときに、その道具が役に立つように、
本を読んで得た知識も、それを応用し、つかう力が出来ないうちは、役にたたぬのであります。

本に書いてあることをつかう力をやしなうには、本をすこし読んでは考えながら、また読むことです。
(つづく)

2012NANCY:2013/02/06(水) 20:37:40 ID:dGeUHjWM
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
こんばんは…… ロ−マ字(大文字)の【NANCY】です。
>>1635>>1639>>1643>>1766>>1778>>1829>>1877>>1880>>1890>>1918>>1931>>1942
>>1955>>1983>>1988>>1999>>2010の投稿の続きです。

===【谷口 清超 先生 著】==============================

■ 希望を失わずに進んで行けば、必ず道がひらかれる

  私達は、決してみせかけの失敗や破綻に失望落胆してはならないのです。
  たとい周囲の人が、みな「絶望だ」といったところで、絶望しない者にとっては、
  絶望はない。
  困難も、それにたち向い、克服する者にとっては、かえってすばらしい向上の機会に
  他ならないのです。

                    『サラリ−マンの精神衛生』より
==============================================

■私達は、失敗・破綻により…【自信喪失…】になってしまいますモノ!あの時?あの場所で?…
色々悩みあぐねますと、益々と“ 闇の世界 ”へと…底知れぬ“ 暗黒の世界 ”への終着駅で
しょうか…?そうです〜〜〜ネ!【打ちひしがれた“心模様…”でしょうかと】

私は「生長の家…御教え」…つまり「真理…」にふれるまでは、底知れぬ“ 闇の世界 ”へと…
前向きに進むことが…中々出来ない状態が、過去の私でした。日常生活に於きまして、ほとんど
不安感を感じる方でしたかと。皆様の中にも??多少は思い当たる事ではないでしょうか??
私事ですが…特に此処、FUKに於きましては“ビックリな出来事”が…><

しかしながら「真理…」にふれる事により、今までの【自信喪失・自己不信…】を、克服する事
こそが、生きていく上で大きな利益になる。つまり「希望…目標」に向かうためのそれは
【魂の向上】に繋がり…揺るぎない「絶対意識」をもつ訓練の場を、頂いたモノと、思うように
なった次第なのです。

■“心のチャンネル”を切り替え、この【失敗・破綻…から来るところの不安】を、バネとして、
❤【不安をチャンスに切り替え…】まして、【今!この事が価値あるモノに繋がる】と…
この強い『不屈な精神…』これこそが…次なる機会ヘの【鍵…】かと……
そのように思える私自身……になり始めています。

❤〜今日は駄目だった……>< 明日こそ!明日こそ!手につかむ!!でしょう…… (ほほ笑み)

                                    再合掌

2013SAKURA:2013/02/06(水) 23:18:01 ID:dGeUHjWM
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……。  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1875>>1876>>1879>>1888>>1889>>1913>>1914>>1923>>1924>>1934>>1935>>1956>>1957
>>1966>>1972>>1977>>1981>>1982>>1986>>1987>>2003>>2004>>2008>>2009>>
投稿の続きです…。
ここは、まるで【四 無 量 心 の 心 の 世 界 観】
日常生活面を、それなりに考えていきますと、私なりの「雅春先生の哲学」が見えまして、更に“人
生観”が〜〜実に!感慨深いものになりますので、私なりに「生命哲学…勉強会」を〜♫〜では“続き
投稿”していきます。「雅春先生の例え…」として、投稿されていらっしゃいました記憶があります。

■■ 『女 の 浄 土シリ−ズ…SAKURA論』    

===========【第六章  幸福を完うする秘密  ―その①― 】============
■“ 今持てる幸福の目録 ”

 「五十種類の幸福ですって?そんなに……無論わたくし感謝しなければならぬ恵みが今でもニ、三
はあることを知っていますが、そのように沢山の幸福をもっているとは思いません」
 教師は愉快そうに笑った。

「そんなに沢山、あんたが神様に感謝すべき幸福をあれこれを探し出さねばならないというと、吃驚
なさるかも知れませんね。しかし、少し時間をかけて、御自分が持っている。“今の幸福”を目標に
して書いて御覧なさい。五十種類位はすぐ出て来ますよ尾。五十種類の幸福リストが出来たら、私に
電話して下さい」

 そこで彼女は自宅へ帰ると、ノートブックと鉛筆と出して、それに「吾が持てる幸福」という題
を書いた。そして題の下に、あの人生指導の教師と話していた時に思い出した幸福、
一、わたしは自分の家を持っている。
二、わたしは、健康である。
そして、テーブルにその鉛筆を置きかけた時に彼女はもう一つ自分の幸福を思い出して書いた。
三、 わたしは夜、熟睡することができる。
さて彼女は居間に入って部屋着に着がへかけたときに、自分の手首に腕時計があることに気がつい
た。これも“自分の今もてる幸福”である。その時計は午後二時を指していた。そんなにもう時間が
たっているとは考えてもみなかったのである。彼女は九時頃に朝食をたべた切りまだ何も食べていな
かった。いつもは、正午頃になると、昼飯が待ちきれない位に餓えを感じてたくさんの食事をとるの
に、(それが肥満の原因でもあった)どういうものか、その日は、まだその時間になっても空腹を感
じていないのは不思議だと思った。
 
 部屋着に着がえてから、彼女は簡単な食事を、主として生野菜のサラダで済ました。それでも彼女
は充分満腹した感じだった。
 食後、彼女は流し場で、お皿を洗いながら、窓ガラスを通して裏庭に眼をやった。
 そこには花園があって春たけなのに緑の葉が伸びて花が咲いていた。あの、かって板はりつつ植え
つけた紫苑が所せまきまで込み合って繁茂していることよ。彼女は良人の死んだ時以来、忘れたよう
になっていた古い友達のジェーン・ウィンストン夫人のことを思い出した、“彼女はどんなに此の紫
苑を愛していたことだろう“ と思った。

 彼女は「この紫苑の花をウィンストン夫人に自分みづから自動車で持って行ってあげよう。ジェー
ンはさぞ喜ぶだろう」と思った。それで電話をかけようと思った。その途端に彼女は、「わたしは電
話をめぐまれているし、自動車ももっている」ということにきがついたのだ。

 彼女は急に居間に駆け込んで、
「わたしは電話を持っている、自動車をもっている、幸福にめぐまれている」
と、“今持てる幸福の目録”に書いた。

                       つづく

2014a hope:2013/02/07(木) 08:58:10 ID:TqpbsVIM

今朝は、「生活読本」の謹写はお休みして、昨日の光明掲示板の伝統さまの投稿を紹介させていただきます。
伝統さま、いつも素晴らしい真理のお言葉をありがとうございます。

合掌

2015a hope:2013/02/07(木) 08:59:56 ID:TqpbsVIM
日時:2013年02月06日 (水) 04時46分
名前:伝統
       *醍醐千里・著「魂の約束」より


私たちは生まれるとき、神様から魂をいただきました。
みんなその魂を、自分の真ん中においています。

魂は磨けば磨くほど光ります。

漢字の練習を一生懸命しました。
魂は昨日より光ります。

電車でおじいさんに席をゆずりました。
魂は昨日より光ります。

弟におやつをあげました。
魂は昨日より光ります。

今日はごめんねが言えました。
魂は昨日より光ります。

あの人にありがとうが言えました。
魂は昨日より光ります。

努力をしたり、誰かや何かに優しくすることは
魂を磨きます。


けれど
努力をしたり、優しくすることだけではなく、
楽しいこと、うれしいことも、
魂を光らせることが分かりました。

友だちと楽しく大笑い。
魂は昨日より光ります。

誕生日のプレゼント。
魂は昨日より光ります。

楽しいことやうれしいことも魂を磨くと知って、
私はなんだかホッとしました。

(つづく)

2016a hope:2013/02/07(木) 09:02:05 ID:TqpbsVIM
(つづき)

ある日、そうじをさぼって友だちと遊びました。
友だちと楽しく大笑い。
けれどその日、自分の中の魂を見て驚きました。

あんなに楽しく笑ったあとだったのに、
魂は、光るどころかくもっているのです。


ある日、友だちからネックレスをもらいました。
お店から盗ってきたネックレスだと言います。
ほしかったものなので、
よく考えもせずにそれを受け取りました。

その夜、魂を見てみたら、その日もまた魂は、
昨日よりくもっていました。


ある日、一人が言いました。

ねぇ、あの子、はぶかない?
あっという間に、その子はひとりぼっちになりました。
私は、その子をひとりぼっちにさせる側にいました。
その輪の中で私には、急に仲間が増えました。
新しくできた仲間とともに、おもしろおかしく過ごしました。

そんな日々を送る中、
私は久し振りに、自分の中の魂を見てみました。

私の魂は真っ黒になっていました。
私は、自分の魂の色を見て、
とてもおそろしくなりました。


楽しいこと、うれしいことの中にも、
魂をくもらせること、
魂を濁らせることもあると分かりました。



楽しいこと、うれしいことには、
2種類あると分かったので、
これからは、
気をつけていかなければならないと思いました。

(つづく)

2017a hope:2013/02/07(木) 09:04:12 ID:TqpbsVIM
(つづき)

     *

毎日魂を磨き、
毎日魂の様子を見ているうちに、
私は不思議なことに気がつきました。


磨いたつもりのない日でも、
魂の輝きが、増しているときがあるのです。

そういう日の一日を振り返ってみると、
その日は、きれいな花を見たり、美しい夕焼けを見たり、
そういう日だったことが分かってきました。

映画を見たり、本を読んだり、音楽を聴いたり。

そういうことでも魂を、磨くことができるのです。

楽しいことやうれしいこと、
目にした景色や、聞こえてくるメロディ、あたたかな言葉。
その日その日のなんでもないことも、
私の魂を磨き続けてくれたのです。

     *

できるだけ魂を光らせようと、毎日を送っていましたが、
ある日、私は少しだけ疲れてしまいました。

夢の中で私は、神様に会いました。

夢の中で私は、神様に聞いてみました。

神様、私はいつまで魂を磨けばいいのですか。
私の魂は、いつ完璧に美しくなるのですか。

神様は言いました。

あなたは、あなたの最後のひと呼吸まで、
魂を磨き続けなさい。
みんなその約束をして、地上に生まれているのですよ。

でも、神様、磨き終わらないうちに、
最後のひと呼吸がきたら、
どうすればよいのですか。

心配しなくて大丈夫。
あなたの魂は、最後のひと呼吸のとき、
必ず、最高の光を放ちます。


神様、私にはその自信がないのです。

あなたは、毎日魂を磨いています。
だから大丈夫。
最後のひと呼吸のとき、
魂はそれまでで一番美しい姿を見せてくれます。
何も心配いりませんよ。
あなたの魂は毎日、昨日より輝きを増しているのです。

ときどき、自分の魂を、離れたところから見てごらんなさい。

あなたの魂があなたの体を越えて、
まわりに光を与えていることにも、
気づくことができるでしょう。
このごろでは、あなたの魂の輝きで、
道を明るくする人も増えてきました。


さぁ、戻って、魂を磨いてきなさい。
毎日を楽しくうれしく感謝の気持ちで送るのですよ。
そうするとあなたの魂は、キラキラと光を強くしていきます。

あなたがここに来るのは、まだまだずっとずっと先。
あなたの人生を、楽しんでいらっしゃい。

あなたがどんなに素晴らしい魂を持って、ここに帰ってくるか、
私はそれを楽しみにしています。

(つづく)

2018a hope:2013/02/07(木) 09:05:34 ID:TqpbsVIM
(つづき)

    *

目が覚めた私は、
それまで気づかなかったことに気づきました。

昨日より今日。
今日より明日。

私の魂は輝きを増し続け、毎日新しく生まれ変わります。
そして必ず、その日の魂が1番光る魂。


少しの努力、優しい気持ち、
そして
うれしいこと、楽しいこと。
日々の中に散りばめられた美しいもの。


神様との約束を思い出したので、
私は、なんにも心配しないで、
毎日を送っていくことができそうです。

なんにも心配しなくても、
私の魂は、昨日より光ります。

光り続けます。          

(完)

(著者のことば)

最後までお読みいただきありがとうございます。

        * * *

2006年秋の発表以来、卒業式や朝会、道徳の時間、また学校通信、学級通信、
小学校の読み聞かせ、高校の教育講演会、病院等、さまざまの場で読んで頂いて
おります。

勤務校の廊下で書き上げたこの詩が、今こうしてたくさんの方々の心に深く
受けとめていただけるようになったことに、毎日感謝の気持ちが絶えません。
ありがとうございます。

HPやブログ、メールマガジンへの転載につきましてもお問い合わせが
続いておりますのでお伝えします。

一人でも多くの方、子どもたちに読んでいただけたらこんなに嬉しいことは
ありませんのでどうぞご自由に転載なさってください。


・・・

参考Webとして、以下の(「生長の家“本流宣言”掲示板」内)のスレッドがあります。

(1)人生は魂修行の場
   → http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&amp;mode=res&amp;log=89

(2)地球は魂修行の学校 (2925)
   → http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&amp;mode=res&amp;log=575

            <感謝合掌 平成25年2月6日 頓首再拝>

2019SAKURA:2013/02/07(木) 11:35:44 ID:bvtHsLjY
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんにちは……。  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1875>>1876>>1879>>1888>>1889>>1913>>1914>>1923>>1924>>1934>>1935>>1956>>1957
>>1966>>1972>>1977>>1981>>1982>>1986>>1987>>2003>>2004>>2013 >> 投稿の続きです…。

【第六章  幸福を完うする秘密  ―その②― 】
■“ 今持てる幸福の目録
>>2013その①の投稿の続きです…。
 彼女はジェーン・ウィンストン夫人に電話をかけると、夫人は非常に喜んで、「あなたが紫苑をも
つてこられたら、ディンナ―を御馳走いたしますから暫く話して下さる時間を予定して置いて下さい」
という返事であった。

 その晩アン未亡人は、“今持てる幸福の目録”に、
「わたしは再びよき友達を得た」
と書いた。

こうして彼女の“今持てる幸福の目録” 書き込まれる事項は段々と殖えて往つた。それにつれ
て気がついたことは、神から与えられた色々の恵みは必ずしも肉眼で見えるものばかりでないとい
うことが悟れて来たのであった。最も大いなる神から興えられた惠蘄は、愛とか、誠實とか、知性
とか、叡智とか、深切とか、同情とか、勇気とか、信頼など……といふものであることがわかって
来たのであった。アン未亡人は、“今持てる幸福の目録”がふえて来るのを見るに従って、毎日の
生活が楽しくなって来、焦躁の感じがなくなり、心が落ち着いて来て、悲しい気持が段々晴れやか
になって来るのであった。
                            つづく

PS:トキ様 へ
■【アンさんの個人指導の講師の導き方…】が、私には、ぐんぐんと“このお話”にひかれていく
ように……「そうだヮ!そうなのョネ!」と……本当に、納得するものであり、【個人相談…】は、
ある面、他人を導く時、本当に“楽しいもの?”だと思いました。【自分自身も魂の成長へ…】…

私の「亡き母」の時代の、誌友会は皆さんは、よく勉強されていたのでしょうか〜〜〜?
「亡き母」の時代に、「2代目総裁…清超先生」が、はじめて講習会に登場された時が〜〜〜その
記念となります【 書籍……実相・現象 】でした。そして「雅春先生」の自筆サインが入っており
その本には“ボーダーライン”がぎっしりです。やはり、当時の「白鳩会…」は熱心だったかと、
あらためて当時の事が伺えます。「亡き母」は、忙しい時間を凌いで、いろんな方が相談に来ました。
その人と、一緒になって考える。更に!出来ない事は、それなりに、調べてアドバイスをする事と?
そうして考えていきますと、当時の「誌友会…会員」は多いハズです。

■ある時の事です。長崎総本山の「練成会」に参加して、母と一緒に「見知らぬ人」が〜〜〜><
おまけをつれて来ました。(私の表現)この人は、奈良の出身の人で、どうも学校の“英語教師”だ
とか?それから、その人は、私の家に“3日間位…”でしたか?いまして、最後には“お金”を借り
て帰りました。当時の私は「亡き母」に対し『相談は、本にて解決ができるのではないかしら〜ン』
と云いますと「亡き母」は平然として『どちらにしても“生活”が困っているのだから、まず!
“お金”を貸したのョ…』と答えました。私は、それに対し『お金は戻ってこないわ〜〜〜ョ!』と
云いました。

何故なら“英語教師”で、御主人は“黒人の方…米軍の方らしい”とか……?更に、
“子供がハーフ”になりますし、系統が“黒人に近い外見”にて生まれまして、社会生活が><
ある日、黒人の御主人が『問題…』を起こし、米軍のキャンプに残る事が出来ない状態になったそう
です。この女性の方の選択肢は❤〜【アメリカに行く?もしくは…離婚して子供を育てるか?】と
いう感じの選択肢でした。たまたま【長崎総本山の“練成会…”】に出会いました「亡き母」に
相談した事から、此の人の【新たなる人生の再出発…】が、始まったと云っても過言ではない
のでしょうか??

■今日の私は「亡き母」の【個人指導…】の選択肢は〜〜〜神の御心に叶っていましたのでしょう。
その後……
                                  再合掌

                      つづく

2020SAKURA:2013/02/07(木) 19:23:45 ID:dGeUHjWM
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……。  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1875>>1876>>1879>>1888>>1889>>1913>>1914>>1923>>1924>>1934>>1935>>1956>>1957
>>1966>>1972>>1977>>1981>>1982>>1986>>1987>>2003>>2004>>2008>>2009>>2013>>2019
投稿の続きです・…。

【第六章  幸福を完うする秘密  ―その③― 】
■“ 今持てる幸福の目録
>>2013>>2019 その①②の投稿の続きです…。

■何故!「長崎総本山…」まで行って、当時の「本部講師」に相談しなかったのでしょうか〜〜?

やはり口から出ました言葉は【「本部講師」自身が、信者に対して『さげすむ見方…』が多いとか。】
「亡き母」は言っていました。…が?この人は、当時の“米軍の黒人の収入”が悪く、生活はすべて
自分の“英語教師としての収入”で賄っていましたから、尚の事【アメリカ行き?】は躊躇した
ようです。当然の事ですが〜〜〜「お金も片道切符」ですから、まず「亡き母」は、近所の友人を
つれてきて【個人相談…】となりましたのです。勿論!その中には“お兄ちゃん”の父親も…
当時は確かに【ベトナム戦争…が時代背景】にありましたでしょうかと。
そして、このお兄ちゃんの父親が「塾を開設しても良い能力があるから〜〜」…大丈夫!!

❤〜【日本で黒人の子供を育てる〜〜〜のは?大変な事…?】と、みな異口同音言っていました。
【何 故 な ら イ ジ メ が 必 ず 起 き る で し ょ う 〜 〜ネ!】かと。
現在でも、この「 イ ジ メ 問 題 …」は、色々な形での社会問題になっております〜〜〜ョネ!!
しかしも【海外のアメリカでは“人種差別”があり、更に、兵役の義務にて、どこへ行かされるの
かと思うと〜〜〜><何処になるのか不安ですし、更に、当時の戦線で“ベトナム…”に行くよう
になれば〜〜〜><御主人は、まず!生きて帰って来ない事に><】どちらにしても、この人の
【人生…論】はと、みんなで話しあって、そうこうしています内に、いつの間「亡き母」が、つれ
て来たその女性は、急に“奈良…”に帰ってしまいました。

それから〜〜〜月日がたちまして〜〜〜(その間…相談した人の間には手紙でのやり取りが〜〜)

■忘れもしません!!その女性は【30前後…】でしたでしょうか?そうなのです!!あの時の
“女性…”が【【急にもう一度!何がこの先起きましょうとも、自分の子供は此処“日本で育てる!”
しかも、“イジメがあれば、強い信念にて対処する!”この様に≪子供を育ててみせる!!≫と云って…】】皆さんに“お金を借り”ての“再出発…”となったのが当時の【個人相談…】の結果だったのです。

それから、月日が立ちまして、私が【問題…】を起こした前後の時に、その“女性…”から、
≪大きな封筒に〜〜〜“お金”〜〜〜≫が入っており、しかも!貸した“お金…?倍”となって……
【 書 留 郵 便 】が〜〜〜何冊か〜〜〜(おぼろげな記憶にてですが??)
戻ってきました。その時の「亡き母」の顔の“満足な笑み”が思い出されます次第です。
この方は、その後!持ち前の教師という資格にて【数学・英語の塾…】を開設して…当時「亡き母」
が“貸したお金を資金源”にしての【再出発…】をしたそうです。(かなりの○○○万という金額)

当初!その女性に連絡しますと…❤【【黒人の御主人は【ベトナム戦争…】に派遣されて、多分!
戻ってこないでしょう〜〜〜との返事が来て、更に、亡くなりますと“一人で育てていく事”が、
これからの残された課題で“生命は永遠…”と云って、御夫婦の写真を一緒に添えられて……】
「亡き母」へ手紙が舞い込んで来ました。…が?あれから〜〜〜どうなったんでしょうかと、

この頃は「亡き母」を偲びますと、ツイ!ツイ!【 両親の愛行… 】を身近に見ておりましたので、
感慨深いモノがあります。…が?

■この様に、現在の【 生長の家…雅春先生の真理 】を本当に地道に“行”じた年代が〜〜〜
「亡き両親」の年代でしょうかと…今は【誇り…】に思えます。そして…

                           つづく

2021a hope:2013/02/08(金) 08:20:57 ID:TqpbsVIM
新版 生活読本 谷口雅春先生著(日本教文社)
第十一章 心の花園に美しい花を咲かせましょう

◆元気になる本を読みなさい

悲しいことの書いてある本や小説を読んではなりません。
悲しいことの書いてある本を読みまと、心の中に悲しいことを思いますから、
心が悲しくなり、悲しいことがあつまってきて、身体も弱くなります。

勇敢なことの書いてある本、勇気の出る本、元気になる本、
男らしい冒険のことの書いてある本、人に深切をする喜びの書いてある本などを読むと、
読んだ通りに、勇気のある、元気な、健康な、深切な人になります。
(つづく)

2022「訊け」管理人:2013/02/08(金) 17:48:08 ID:???

『成功の秘訣』(F.L.ホルムス著 谷口清超訳)149頁より謹写――

神よ!吾らに人を与え給え。今こそ
真実の心、強き頭、すぐれたる手を。
金銭で得られぬ仕事への愛をもつ人を。
誇り高き人を、誠なる人を。
下らぬ策略や情実に超然たる
強き人物をこそ与え給え。
たじろがず邪まなるデマを粉砕する人を。
何故なら、下劣な詐欺漢が、ひからびた信条や、
卑しき行為や、下らぬやり方で、
些細なことを論じ合うため、ああ、自由が泣き、
虚偽が地を覆い、正義を持つ人が泣いているから。

――F.L.ホルムス

http://blog.livedoor.jp/con5151/archives/65716146.html

2023SAKURA:2013/02/08(金) 18:53:30 ID:bdP2hNg2
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……。  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1875>>1876>>1879>>1888>>1889>>1913>>1914>>1923>>1924>>1934>>1935>>1956>>1957
>>1966>>1972>>1977>>1981>>1982>>1986>>1987>>2003>>2004>>2008>>2009>>2013>>2019
>>2020>>投稿の続きです・…。 

【第六章  幸福を完うする秘密  ―その④― 】
■“ 今持てる幸福の目録
>>2013>>2019>>2020 その①②③の投稿の続きです…。

■そして…この時の「亡き母」と一緒にその女性の将来を考えて下さいましたお兄ちゃんの
“父親(東大卒)”は、地方講師でもありませんでしたが…><この「地方講師」…肩書きの無い
人ほど…多いのでしょうかと「亡き母」の言葉…です。それで、近所の人達も同じ考え……
私も納得する面が〜〜〜【生長の家…絶対の愛】この基本の理念にての【個人相談…】が、
私の近所の誌友さんの考えでしたかと。

■■さて、月日がたち…ある時の事!調布から“玉川の高島屋”に買い物の帰りの事です。偶然!
バスの中で〜〜〜当時は知りませんでしたが……?「母親は有名人?」ですかと。そうしますと、
“黒人の方との間に子供を出産され育て上げた方…”が〜〜〜いましたですョネ!!ご存知で
しょうか?確か?今では≪コマーシャル≫に出演でしたかしら〜〜〜ン!実は、乗車しまして、
後方席の方へと進みますと、何と!その方が、私の座席の後ろに座って、横に“子供さん…”が?
その“目の大きい!綺麗な瞳!…”その子供の“顔…表情”と云いますか?印象としては、
「肌が黒いのですが、素直な顔…」を、していた事が思いだされます。
ふと!「今回の奈良の女性の方」を思い出しまして、私の“脳裏”に、きっと大変だったのでは?
と、その“有名人の伝記”を読んで「亡き母」のした事は❤〜【やはり“ 愛 ”なのですネ!】

今回「アンさんの個人指導のお話」から〜〜〜?思い出してしまいました。余談ですが…私も、
逆の立場にて「お金をお借りした事」はあります。…が?私も、当時は、苦しい状況で“お金”
を借りて、それが、すぐさま返せなく、相手…に対して、嫌な感情を抱かせてしまいました事を…
思いだしました。

■でも、今の私も「亡き母」のした事は
❤〜【世間では“お人よし…”と云われて、その瞬間はバカ!バカ!にされたカモ】〜〜でも!!
【 相手を信じての“行…”しかない!! 】と「亡き母」の言葉に【個人相談…】は〜〜〜
難しいと思いました。かなりの“智慧…体験”がいりますかと。どうしても、人は自分自身の
体験しました?或いは似た環境の対象の方しか【個人相談…】は難しい点がありますでしょう…。

■■当時!この「女性…」は、「長崎の総本山」の「本部講師」に相談しますと、
【黒人の子供を出産した事を、まるで“売 春”みたいな表現での“言葉”を頂いたそうです】…
まして【更に!!さげすむ見方…視線が?】かなり“落ち込む”精神状態になったそうです。…が?

■【だれも相手にされず、「亡き母」が一人だけ“声…”をかけて、それから個人的な話に…】その
様になったそうです。母が私に教えてくれました事は“英語教師…”と聞いて、親近感?でしょうか?
「亡き母」はその人と一緒に「英語で話…が出来る事」にある面“心を開いた”のかしら〜〜〜ン
と…私が≪中学1年…≫までは「亡き母」が教えてくれました。…が?仕事で忙しくなり、
英語は、姉は≪高校2年…≫まで習っていた様です。…が??

■■【個 人 相 談】…これは其の人の「人生を左右する“羅針盤”・・・」となりますから、
如何に重要なのかと思う次第です。場合によりましては「潜在意識に…」そうです〜〜〜ョネ!
【自信喪失…】に繋がるモノと考えますと・・・・【個人相談】での
「言葉…=言霊」これは、導く側としては、もう一度!考えるべきモノかと、個人的に思います。
                              再合掌

2024NANCY:2013/02/08(金) 19:59:52 ID:bdP2hNg2
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
こんばんは…… ロ−マ字(大文字)の【NANCY】です。
>>1635>>1639>>1643>>1766>>1778>>1829>>1877>>1880>>1890>>1918>>1931>>1942
>>1955>>1983>>1988>>1999>>2010>>2012の投稿の続きです。

===【谷口 清超 先生 著】==============================

■「 困 難 」と見えるものは 成功への足がかりである

  「困難」と見えるものは、成功への足がかりなのだ。人間は、如何なる困難にもへこ
たれず、それを逆に活用し、そこから又と得難い教訓を学びとって、
初めて立派な人間となることが出来る。困難にうちひしがれることなく、
決然として立ち上がろう。そして、生き生きと積極的に生き抜いて行こう。

                    谷口清超新書文集4 『真実を求めて』

==============================================

■「 困 難 」此の文字?言葉?を、見ますと…><
どうしても、目の前に【大きな〜大きな〜壁!壁!】が立ちふさがると云います感じでしょうか?
「出来ない!」「治らない!」「無理…!」…この様なネガティブ感情ばかりでしょうか><

そこには、すでに【自 己 限 定】が、潜在意識に入り込んでいますでしょうかと。
そうです〜〜〜ネ!【限定する!】この事は、前に一歩も進みません。そこで【停滞…路線?】
或いは【妥協…路線?】になりますでしょうか?

■今思いますと…この【困 難】こそが、それを“バネ”として…次なる“ステップ”に行くことの
出来ます大切な〜大切な〜【通行手形?…】でしょうかと。若い頃は、???をして見ましょう!
その様に思っても…当時の私は【資金が?能力が?…etc】とのア〜〜〜ダ!コ〜〜〜ダ!にて、
随分と大切な時間を“無駄…”に過ごした感じがします。今でいいますと【後悔!!】かと。

要約〜〜〜その眼の前の「現実=現象」に心をとらわれることなく…「誠意在意識」の〜〜〜
奥を観て…それをこの現実にもって来ることが可能!出来る!と云います【絶対意識…】を、
少しづつ私のマインド・コントロ−ルとして、只今【修行中…】で〜〜〜〜す。

❤ 積極的に!!邁進!!〜〜♫〜〜ワン!ツウ!スリ!〜〜♫〜〜

                                     再合掌

2025さくら:2013/02/09(土) 06:57:48 ID:sh8EJSx.
合掌、ありがとうございます。

本日、二月九日は、

『上求菩薩・下化衆生の神示』が、天降った日です。



2026さくら:2013/02/09(土) 06:58:25 ID:sh8EJSx.
『上求菩薩・下化衆生の神示』 谷口雅春先生

實生活は捨ててはならず、捨てねばならぬ、そこが難しいのである。
實生活を捨てるのも自分だけ浄まるために捨てるのと、他を救ふために捨てるのと二種類ある。

實生活をあまり忙しがるな。
皆の者が『道』をきき病ひを癒して貰ひたうても遠慮して頼みに來にくい。
そのうちに救われる機縁を失うて取返しがつかぬやうになる人もあるのが可哀さうだ。

同じ家族でも心の持方、悟りの程度で、ひとりひとりの運命は別々である。
わが第一の神殿は皆の誠によつて形の世界へ顕はれたから第二の神殿に取りかかつて貰わねばならぬ。

第一の神殿は聖典『生命の實相』であつて智慧のの神殿である。
第二の神殿は愛の神殿であつて、神が愛であり、愛は癒す力であることを知らす『見眞道場』である。

智慧と愛とふたつの神殿が『生長の家』に揃へば全世界の地上天國建設の心柱が出来るのである。
この心柱は心の柱で智慧と愛との十字である、卍である。

(昭和七年二月九日神示)

2027a hope:2013/02/10(日) 06:45:42 ID:TqpbsVIM
新版 生活読本 谷口雅春先生著(日本教文社)
第十一章 心の花園に美しい花を咲かせましょう

◆良書を読んで運命を好くしましょう

凡ての人間は自分自身の運命の製造者であります。
自分が出世するのも、富豪(かねもち)になるものも、
運がよくてなるのではなく、運と云うものは皆自分がつくるものなのです。

人間は自分の運命の建築技師であるばかりでなく、
一つ一つ自分の運命をきずきあげる煉瓦(れんが)を自分で積むものなのです。

諸君は時間を大切にしなければなりません。
貴方は時間を如何に使っていらっしゃいますか。

二十四時間のうち、学校で六時間ほど勉強したら、あとの十八時間は何につかっていらっしゃいますか。
八時間眠るにしてもまだ十時間もあるでしょう。
お食事や休憩の時間に三時間位とっても、まだ七時間もあるでしょう。

その中の五時間を自分の定めた勉強の時間にして御覧なさい。
毎日五時間、これと定めた目的のことを勉強するならば本を読むにしても、
音楽を勉強するにしても、そのほか何を勉強するにしても、二、三年のうちには余程上達して、
五年もしたら、その方面の名人にもなれるものなのです。

何もせずにぽかんとしていたり、役にもたたぬ、勉強にもならぬ、
つまらない仕事に時間をつぶしていては世の中の落伍者(おちぶれもの)となるほか仕方ありませぬ。
(つづく)

2028NANCY:2013/02/10(日) 22:03:44 ID:dGeUHjWM
「トキ様」 へ    「観覧者の皆様」 へ
こんばんは…… ロ−マ字(大文字)の【NANCY】です。
>>1635>>1639>>1643>>1766>>1778>>1829>>1877>>1880>>1890>>1918>>1931>>1942
>>1955>>1983>>1988>>1999>>2010>>2012>>2024の投稿の続きです。

===【谷口 雅春 先生 著】==============================

■経験は魂の栄養素である、感謝して受け、味わうべし

経験は、魂の食物みたいなものである。どんなに貧しい経験であろうとも、
どんなに苦しい経験であろうとも、それは、他の経験では得られない種類の
“ 魂の栄養素 ”を、含んでいるのである。
だから、それを感謝して受け、その経験が自分に何を悟らせようとしているかを
よく噛みしめて味わうべきである。

                   『如意自在の生活365章』より
==============================================

■■【経験…】これは、ある時は自信をつける時もありますが〜〜〜この【経験…】が、失敗と
いう結果の時が“問題…”なのです。その時の“心の持ち方”この事が、この先の「人生の方向」
を、決めてしまいますかと。

どうしても失敗の経験は、自分をなじんだり、悲観したりして…“ネガティブ思考…”に陥りやす
くなりますでしょう。自分を客観的に見る事が、若い頃はどうしても出来なかったと、今振り返り
ますと…かなりの“遠まわり…”をしてしまったかと思います…。自分自身を低くみてしまった
感が致します。【本当の自分探し〜♫〜】を……しなければと!

この「生長の家…御教え」を【SAKURA】 さんから紹介して頂きまして…その“失敗…”の意義が、
解りましたのです…。此の“失敗…”を、“失敗…”だとそこで掴んだ“心…”で停滞するよりも?
(ふさぎ込んでしまう事よりも?)><【不屈の精神】にて…これは一つの“デ−タ−”ができた…
【目標…クリア】するための、次なるステップに進みます時の情報デ−タ−と、潜在意識に入れ込み
ますと、新しい方法?つまり前向きの考え方が、浮かんできました。

                つづく

2029NANCY:2013/02/10(日) 22:05:06 ID:dGeUHjWM
「トキ様」 へ    「観覧者の皆様」 へ
こんばんは…… ロ−マ字(大文字)の【NANCY】です。
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>>1955>>1983>>1988>>1999>>2010>>2012>>2024>>2028の投稿の続きです。

【谷口 雅春 先生 著 『如意自在の生活365章』より 】================

>>2028投稿の続きです…。
■私も…ふり返りますと…【転職組…】です。【SAKURA】さんと仕事を組み出しました時…
そうです〜〜〜ネ!分担作業として【SAKURA】さんは「デザイン・パタ−ン」を担当…!
『縫製部門』は二人仲良くでしたかと。当然ながら“営業”と云いますか「販売=接客」は“私…”
なのですが〜〜〜><当に!青天のへきれき〜〜〜><お客様との“会話…”に、先ずは、躊躇し
てしまい、そうこうしていますと、タイミングが合わずに“お客様…”が〜〜〜
しかも…私でなければ“彼女は販売は出来ないヮ!”と云います“力…”んだモノがありましたかと。
ですから、そういう時は、どうしても思考がそちらに行ってしまい…自分達なりの【営業ノルマ…】
が、思うようにいかない状況でした。…が?それに、当初は資金も無く【絶体絶命…】の後戻りの
きかない状況でした。しかも『販売は〜〜〜大嫌い〜〜〜イ!』という正直な話?“バカにした
モノ“が〜〜〜この様な”固定観念“が〜〜〜><私の潜在意識にはありましたかと…。いざと
なりますと難し〜〜〜イ!これが感想です…。【自分に返って〜〜〜やまびこ!】

❤〜ある時【そのままの姿の二人…】で〜ハンディ−があっても接客出来る!【二人で一人前…】
との考えで【SAKURA】さんも接客を一緒に…「ア〜〜ウン〜〜」の呼吸にて初めますと…但し??
“組み初めました頃”は、随分メチャクチャなる販売を致しましたが…その後…「営業数字…ノルマ
達成」となって行きました。(微笑)そして、私の気持ちの上でも「お客様がワザワザ来て下さって、
私共の商品を購入して下さる」何時しか『感謝…』の気持ちが芽生えました…。そうしますと…
「販売の会話がルン〜〜ルン〜〜♫」楽しくなりました…。そして、一番嬉しく思いましたのが…
或る≪財界のトップ≫の方が「あなた達と会話するのは楽し〜〜イヮ!」ワザワザ…大阪在住でし
たが、東京に上京するに至り、私どもの住まいまで足を運んで下さいました事が、印象的でした。

■この様に一度は“心の持ち方を失敗”しましたが、これを経験として“心のスウィチ”を、変え
る事により、結果的には“良い方向”へと進んだ訳です…。しかもこの事が【自信へと…】

■■どんな失敗に経験でも、これを「不屈の精神」でクリア−する事で「自信」を見出す事ができ、
最終的には、これを何度も何度もマスタ−する事=前向きに進む事により【人生の成功】ヘの道を
進む足がかりかと、この頃は思う次第です。 

                                   再合掌

2030a hope:2013/02/11(月) 08:23:32 ID:TqpbsVIM
新版 生活読本 谷口雅春先生著(日本教文社)
第十一章 心の花園に美しい花を咲かせましょう

◆世間は偉い人を見のがさぬ

自分でこの世界に道をひらいて行く人の前には、どんな邪魔者も、自然に姿を消してしまうのです。

あなたの生まれがどんなに貧しくとも、また職業がどんな仕事でも、
そんなことは人間の値打には何の関係もないことなのです。

それは途中の出来事であって、豊臣秀吉の血筋だと云っても、
それは中村弥助と云う百姓の血統に過ぎないのです。
蜂須賀小六(はちすかころく)と云う盗賊の弟子をしていたこともあるのです。

祖先に遡(さかのぼ)ったら、出世していた祖先もあり、落ちぶれていた祖先もあります。
しかし、もっともっと祖先の祖先のその又祖先に遡って行きますならば、皆さんはすべて神様の子孫なのです。

皆神の子であって生まれが悪いなどと云う人は一人もないのです。
神様の子はどれほど出世しても出世しすぎると云うこともあり得ないのです。

どんなに力を出してもこれで力の種切れだと云うこともないのです。
出せば出すほど力が出るのです。
勉強すれば勉強するほど力がつくのが人間なのです。

つまらない遊びにつぶす時間を、十分間でも二十分間でも節約して、
その時間によい書物を読んで立派な人間をつくることです。

本と云うものは、兎も角、立派な人が一生涯かかったような研究を、
しばらくの間に知ることのできるようにまとめたものですから大したものです。
(第十一章 終わり)

2031SAKURA:2013/02/11(月) 20:16:23 ID:ybpOApPc
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>>2020>>2023>>投稿の続きです・…。 
ここは、まるで【四 無 量 心 の 心 の 世 界 観】
日常生活面を、それなりに考えていきますと、私なりの「雅春先生の哲学」が見えまして、更に“人
生観”が〜〜実に!感慨深いものになりますので、私なりに「生命哲学…勉強会」を〜♫〜では“続き
投稿”していきます。「雅春先生の例え…」として、投稿されていらっしゃいました記憶があります。

■■『女 の 浄 土シリ−ズ…SAKURA論』    

===========【 第六章  幸福を完うする秘密 】================
■“ 愈々體重が減じて来た “

 それから一カ月たって気がついたのは、彼女の體重が数ポンド減量したことであった。彼女が今ま
で痩せたいと思ひながらも、たくさん食べなければならなかったのは、官能を楽します感覚的刺激に
よって失意や自己憐憫の感情を胡麻化すためだったのである。アルコ−ルや甘味品は心の悩みを胡麻
化すための痲醉劑の代用となることが多いのである。しかもこのやうな食物が脂肪に變じて體重増加
の原因になるのである。心の惱みがそれだけ無くなると、このやうな含水炭素系の食物を多食しなく
なり、自然に體重を殖やさない健康食で満足できるやうになるのである。

『ウイクリ−・ユニティ−』誌にはこのアン未亡人が職業を得たかどうかは書かれてゐなかったが、
屹度、今頃は適業を興へられて幸福にくらしてゐるのだろうと私は思ふのである。

 かうして、良人が亡くなって以来、誰も訪ねてくれるものなく、晩餐を伴にする相手もなく、電
話をかけてくれる友さへない寂しさを喞つてゐた彼女も、庭にある紫苑の花を友人に持っていってあ
げようといふ愛念を起こしたときに、既にその寂しさは癒される事になってゐたのである。ディンナ−
に招かれ、直ぐ歸らないで話していってくれといってくれる友達ができてゐたのである。

                            つづく
PS:トキ様
彼女は、小さな【感謝…】から一つ一つ感謝行が出来て行くうちに、いつの間にか、“愛”が芽生
えて、更に“心のゆとり”もできて、小さな発見に至ったのでしょうか??
【本部練成道場…飛田給の玄関】にあります❤〜「神は愛なり」の言葉が思いだします。小さな
積み重ねで、やがて何時か〜何処かで〜【勝利の女神…】が微笑んで来ること……今回「アンさん」
の“50項目の感謝行”を……私も参加しています!!
一つ思いますには、此処【2チャンネル…】で、私は前以上に、精神状態が強くなった事に“感謝行
…リスト“の中に、上げれるようになりました。「トキ様」の思考もある面ためになっている事が
ありまして、これも“感謝行…リスト”へ???

■当初は「50項目…」見つけるのに大変〜〜〜で!当時の私が、如何に“感謝のバロメ−タ”が
悪すぎました事に…【反省】で〜〜〜す。その後は〜〜(微笑)ブツブツ?と云いますか?不満が
無くなりましたでしょうか?但し「黒幕デザイナ−・吸血鬼・ゾンビ…」は問題外なのです〜が?

さて「トキ様」も“感謝行…”は、今は〜〜〜【監査役…】になっているのではと??今とても
大事な時期ですし、体調も壊しやすい季節ですので、いろんな思考が“グルグルと回転”…まる
で「回転木馬…」のような感じですかしら〜〜〜ン!私もいろんな方を見て“パンク寸前”ですが、
❤〜【神は愛なり…】と思えば、まだまだ思考回路の中で??ユトリを!!まずは【心の一本道…
真実路】に到達しますには、やはり“感謝行…”こそが「幸福の近道…切符」でしょうか???
「トキ様」は、どう?お考えでしょうか〜〜〜?

                                   再合掌

2032a hope:2013/02/12(火) 06:43:48 ID:TqpbsVIM
新版 生活読本 谷口雅春先生著(日本教文社)
第十二章 心と顔に太陽を輝かしましょう(p134〜)

◆美しく生きましょう

人間に一番大切なことは、自分自身を美しく生きることです。
決して自分の生活を汚くしてはいけません。

世の中にはお金をもうけることばかりに自分の生命(いのち)を使って、
自分の生き方がどんなに汚くなってもかまわないような人がありますが、
こんな人はお金の尊いということをしっても自分自身の生命の尊さとうことをしらないのです。

美しく生きるということは、自分の心がいらいらせず、くよくよせず、人を突き倒すような悪いことを考えず、
自分ばかり得がゆけば人がどうなってよいというような考え方をおこさず、
人のためを思って、やさしく深切に愛の心をもって人のためにつくしてあげることです。

自分のことばかり考えて欲張っている人を「あの人は汚い人だ」というでしょう。
おおよそそういう言葉から考えて見れば、きれいな生き方と汚い生き方とは自(おのず)からわかるのであります。
(つづく)

2033SAKURA:2013/02/12(火) 13:26:07 ID:1rgrwDUA
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>>2020>>2023>>2031>>投稿の続きです・…。 
ここは、まるで【四 無 量 心 の 心 の 世 界 観】
日常生活面を、それなりに考えていきますと、私なりの「雅春先生の哲学」が見えまして、更に“人
生観”が〜〜実に!感慨深いものになりますので、私なりに「生命哲学…勉強会」を〜♫〜では“続き
投稿”していきます。「雅春先生の例え…」として、投稿されていらっしゃいました記憶があります。

■■ 『女 の 浄 土シリ−ズ…SAKURA論』    †

===========【 第六章  幸福を完うする秘密 】================
 −† 與へよ、さらば與へられん †−   その①

友達だけではなく、生活費なども、今自分のもてるものを隣人に與へて、隣人を幸福にしてあげる
ために奉仕してゐるならば、自然にあたへられることになるのである。『生活の智慧365章』の中に
は或る未亡人が、寂しく孤独感に悩みながら生活してゐたが、光明思想に触れて、“自分の今もてる
能力“を他に與へて、他を幸福にすることによって、反転して、その幸福が自分に還って来るもので
あることを知った話が載ってゐる。

彼女は、「自分が今、人を幸福になし得る“何”を一体もつてゐるのだろうか」と考へた。彼女はピ
アノが相当弾けたが、ピアノ教授を堂々と看板を出してできるほどではなかった。しかし誰かに與
へ得る能力として自分の持つてゐるものは、このピアノの才能だけであつた。

そこで彼女は、「子供の娯楽会などでピアノの演奏を無料奉仕します」といふ小さな三行広告を出す
ことにしたのであつた。すると時々諸方のそのやうな集りから来てくれといふ依頼が来るやうにな
つた。彼女の孤独感も寂寥感もそれによつて終わりを告げた。

「自分は此の世に生まれて誰かのためになつてゐるのだ。誰かに必要とされてゐるのだ」といふ自覚
が出来たときに、その人は愛の息吹を感じ、生き甲斐を感じ、友人を身近に感じ、孤独感が消えてな
くなるのである。

 或る日、彼女は、学童たちの娯楽会にピアノ演奏の奉仕にでかけて往つた。そこで彼女はその娯楽
会に自分の幼い子供を伴れて来てゐる丁度よい年頃の父親と知り合ひになつたのだつた。知った瞬間
から二人は互いに魅力を感じた。やがてふたりは恋愛するやうになり、つひに目出たく結婚すること
になつた。

                        つづく

2034SAKURA:2013/02/12(火) 13:28:19 ID:1rgrwDUA
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【 第六章  幸福を完うする秘密 】
−† 與へよ、さらば與へられん †−   その②

>>2033 その①の投稿の続きです…。
■かうして彼女の孤独生活は完全に終りを告げ、経済的にも富める家の夫人としてゆたかなる生活を
送ることができるやうになつたのである。私たちは、今もてるどんな小さなものからでも、
“自分のもの”で起ちあがらなければならないのである。

アン未亡人が五十項目も、自分の持つてゐる幸福があるものかと最初は疑つてゐたのであるが、さて
自分の持てる幸福を計へあげてみると、次から次に出て来るのである。そして私は「こんなに豊かに
持つてゐる」といふ感情が心の底から湧いて来るやうになると、この世界は心の現はす所の世界(唯
心所現)であるから、本当に現実世界も裕かになつて来るのである。

==============================================

PS:トキ様
【相手の幸福を願う…??】これは捉え方?であり、中身の問題でもあるのでは?と、今回思いま
した。「亡き母」は、確かに、当時、国際結婚(黒人の方との子供)のその女性に“お金…”を貸し
ました。それは、当時の時代の背景もあるかもしれません。近所の方と相談して(お兄ちゃんの父親)
…いろいろな角度で考えたすえかと。その女性の才能は【知識・能力…そして意志力】でしたのでは。振り返りますと、今“出来る事”は、当時の「亡き母」に取りましては、出来る範囲の“お金…”
詳しくは…(近所の方も出し合った部分もありましたのでしょうか?)という事です。…が?後に、
【“お金…”もそうですが〜〜〜たくさんの“お返し…”を頂いた時】……「亡き母」は、この
沢山もらっといったのは、ある面では、その女性の“気持ち…感謝の念”がひしひしと伝わりまし
たのでしょうかと。これ程素晴らしい!最高のモノという感で…「いっぱい〜〜頂いた」と…!
相手の女性の“お返し…”も〜〜〜【 愛 】だったのです〜〜〜ョネ!!
今、私も“出来る事”はと自問自答しています。……勿論の事、此処で閲覧されています皆様方も、
“いろんな悩み・迷い”が在りますでしょう。…“苦い経験”…此処で、私なりに経験した事を、
さらに“具体論…”で投稿させて頂く事が、大事ではと思いました次第です。

ある人は「引用…」を利用しての“悪口答弁?投稿”…その様に、その人が見えるのは〜〜〜><
その人の“心…”そのものがその様に見える?思う?つまり【鏡の表裏一体論】でしょうかと。??
相手に“映るモノ”は〜〜〜自分自身の“心そのモノ…”と思えますから、私は【分派の皆様の活動
体制…】を見て思いましたのは、『真理…』はさておき『生長の家…』の私達の宗教の“中傷ばかり”
ではないのでは?納得して、御自分達の“志…”にての新しい『分派…???会』を作られ、参加し
活動していますのに『現象論』ばかりの内容、更に、観覧者の皆様に不快なる言葉で…嫌な“感情”
のみを、ある面では与える事に値するモノと思います。…が?
これは【与えば さらば 与えられん…の法則】に基ずきますと、結果は『現象』では?与えたモノ
は『現象…』のみですから〜〜❤【天国の門…】は、程遠いものではと、つくづく思えるのです。

此処【2チャネル…】で、いろいろな“思考…”が入り、今の 私は、本当の意味で……
【生長の家…成長する魂…】は、当然のことながら「現総裁雅宣先生」を中心帰一としての
【真理…】を学び【魂の向上…】と思います。昨日は、ブログにて「原宿本部…」にての“お話”
の内容を知ることが出来ました事は、その場に参加できなかった“信者”への愛念では〜〜〜!

❤【今!活かすことから、全てが始まるのですから〜〜〜】私も自分の持てる範囲での行動はと?
“心…豊かに”〜〜〜そうです〜〜ョネ!!【与える事!活かす事!】此処から出発では!!

                                       再合掌

2035goro:2013/02/13(水) 22:47:24 ID:nCo1DokU

 雅宣総裁の建国記念日(紀元節)式典の御挨拶「建国神話の普遍性と特殊性」の内容と、生長の家の本来の古事記解釈とは根本的な違いがあります。雅宣総裁には、生長の家の最高指導者として、せめて、天皇国家としての建国の理想を語って欲しかったと思います。

 以下の文章は、野木先生の「古事記の序文概説」の一部を抜粋したものです。
雅春尊師の「唯神実相哲学」と、野木先生の古事記解釈が渾然一体となって、「天皇国日本の実相」を余すところなく説いて下さっていますので、古事記の学びの道標として参考にして下さい。

 古事記には、外来思想のように、英雄偉人や聖者という固有名詞の評価や理想はない。神々の事績を鏡として、民衆や下位の者に(サタンの利でなく)真実の利があるかどうかという「聖の道」のみが存在する。この違いが見えなければ古事記の思想は理解できない。従って、序文は、次のように古事記の思想を結論している。

泰平の世は歩むようで…事ある時は疾走するように…時代の動きは、異なった時代が、あざなう縄のように去り…現れてくる。「文雅な政治」と、「質朴な政治」は、違っているように思われやすく、時の天皇によって、異なった政治をしているように見えるが、歴代天皇は、歴史を貫く「古事記の初心に従った未来」を見通しており、常に「神々の事績に神習うこと」を一貫した指針として知ろしめす。

従って、教化道徳は廃れ切って、自国の歴史を否定する者が出て来ると…
その中でこそ、人心の汚濁は濾過されて…時節至れば…真実は自ずから萌え騰り、古事記の心を種とする天皇と、神の子吾を自覚する人々が出てきて、常に、新しい時代に応じて…さらに未来を見通した古事記の心が蘇る。従って、新しい学問や風潮が現れて…「古事記の心は絶えるか」と思えても、神ながらなる道は人知れず補われ…必ず新生して顕れるのである。

これは政治に限らない。天地一切のものは、宇宙的レベルから地上の自然や個人に至るまで、それぞれの道(性質)にしたがって、春夏秋冬のような時節を経過している。しかも、現象の世界は、原子的な極微の次元の波動がテレビの画像のように、間断もなく映し出している「映像の世界」(人間関係は想念の現れ)であり、「古(いにしえ)を稽(かんが)え」の言葉通り、天地創造の初めから現在まで造化参神の道に継続して進んでいる。

しかしながら、「風猷(風教道徳)すでに頽(すた)れたるに」という場合。実際は、時代の流行的乱れや組織社会での乱れもあるけれども、根本的な課題として、創世記で言えば、「地を這う蛇(サタン)の知恵に眩(くら)まされた心と認識」であり、古事記の「黄泉国・須佐之男命が事依さしに従わなかった時・天之石屋戸開き」の問題である。須佐之男命は、地上に追放されて、大蛇(おろち)を退治て得た草薙剣を、天照大御神に献上した。この時、天地初発の初心に継続して「和歌(敷島の道)の祖(おや)」となった。

これは、肉体(サタン)人間の心から「神の子人間」を自覚して「風猷(ふうゆう)頽(すた)れたるに縄(ただ)された」のである。即ち「廃(すた)れない限り」例えば、食べ物は、体内で完全に腐敗しなければ下痢になる。果物は熟して腐らなければ種が熟成しない。

「自分で黄泉の心に気づくまでは、神でも為す術(すべ)はない」ということである。

聖哲が真実を説いても、開拓者が事業を起こしても、受け継ぐ組織の地位を得た者は、たちまちサタンに変身して権力者となり世相は廃れる。しかし、マルチメディアの時代になって権力や贈収賄など、役得根性(サタンの心)も糺されて裁かれる時代になって、権力者は存在しにくくなった。…さらに、人間の無責任なサタン的生き方は、自然環境や生態に悪影響を与えている。…二十一世紀以後は、権利と自由謳歌のサタン思想で「自滅する」か「仕え祭る・真釣合う」という、人類初発の思想が常識になるかどうかである。

2037a hope:2013/02/14(木) 07:37:11 ID:TqpbsVIM
「児童教育に関する神示」

多くの母親は子供のことを余りに取り越し苦労するために、
かえって子供に悪思念を放送して子供の健康や運命を害している。
ある母親は一瞬間でも自分の眼の前にいないと心配でたまらないのである。
彼は自分の想像の中で、躓(つまず)いて転んでいる自分の子供の姿を思い浮かべる。
自動車にひかれかかっている自分の子供の姿を思い浮かべる。
水に陥って溺れかかっている自分の子供の姿を思い浮かべる。
世の母親よ、何故あなたはこの反対をしては可けないのか。
こんな取り越し苦労が起こるのは、
子供を神の子だと思わないで人間の子だと思うからである。
神の子は神が育て、人間の子は人間が育てる。
人間の子だと思うものは終世、取り越し苦労をして育てねばならぬ。
子供を神の子だと思うものは、子供を尊敬して出来るだけその世話をさせてはいただくが、
神が守ってい給うと信ずるがゆえに取り越し苦労は必要はないのでる。
人間力で子供を生かしうると思うなら終日終夜起きて子供の番をしておれ。
それはできなかろう。
できない間に子供を生かしているのは神の力である。

感謝 合掌

2038a hope:2013/02/14(木) 08:07:35 ID:TqpbsVIM
新版 生活読本 谷口雅春先生著(日本教文社)
第十二章 心と顔に太陽を輝かしましょう

◆暗い顔をしてはいけません

きれいな心の人はまるで太陽の光や青空を運んでくるような人です。
その人の行く所に何となくあたたかみがさしてくるものなのです。
取越苦労や心配は光の射すようなそんな明るい気持ちの人の近くへ来ると、
自然に和やかになって消えてしまうのです。

吾々は人に深切であっても、にこにこ笑う喜びの心をなくして、深切をするのでは、
一方では人に深切にしながら、自分の暗い顔つきで、人を気持ち悪くしているのですからその深切が何にもなりません。
吾々は明るく生活しなければなりません。

明るい生活の中にはすべての善いものが集まってくるのです。
昔から「笑う門には福来る」という諺がありますが、にこにこ笑っていると、自然に善いことが集まってくるのです。
人をたのしく愉快にしてあげることは美しい行いであり善いことであります。

その楽しく愉快にしてあげるには、色々の贈物をさしあげるのも、一つの方法でありますけれども、
物をさしあげなくとも吾々がにこにこ楽しい顔つきをして、たのしい心を他の人に移してやればそれが最も深切な、
人に幸福を与える方法であります。
(つづく)

2039SAKURA:2013/02/14(木) 22:57:23 ID:KoNTudh6
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投稿”していきます。「雅春先生の例え…」として、投稿されていらっしゃいました記憶があります。

■■ 『女 の 浄 土シリ−ズ…SAKURA論』    

===========【 第六章  幸福を完うする秘密 】================
■ 祖先の霊に “聖 教 読 誦”により真理を與へること

さて、その「與へよ、さらば與へられん」の無限供給の黄金律は、親に“深切”を與へる、即ち親
孝行をすることや、先祖に“真理の言葉”を與へる、即ち先祖にむかつて聖経を読誦することも含ま
れてゐるのである。含まれるどころか、非常に重要な報恩行なのである。吾々は現在この現象界に
生を享けてうまれて来たのは、神の生命が、祖先を通し、父母を通して、地上に自己顕現したのであ
って、今日私たちが、かうして生きてゐられるのは祖先及び父母のお陰なのである。それに対して報
恩の行ひをしないならば、私たちは、“天の倉”から借り越しになってゐる。借り越しになってゐる
ものは、この世には、“バランスの法則”があって返さなければならない。かえさなければ法則によっ
ていつかは強制執行せられることになってゐるのである――この強制執行を受けた状態が、儲けよう
と努力しても儲からないで素寒貧になった状態なのである。こんな人が祖先に感謝し、租先の霊に
對して聖経を上げ、父母に感謝するようになり、更に、夫婦が睦まじく調和した状態になるならば、
神の「無限供給」の霊波と波長が会うようになり、経済的にも裕になって来るのである。その實
例の一つを挙げれば、昭和四十一年五月二十日、小倉市の市民会館で生長の家の講習会があった
時に、北九州市若松区紺屋町の小山壽子さんがこんな体験をお話になったのである。参考につぎに
その一部分を紹介する――
                              つづく

PS:「 トキ様 」へ
■「昭和41年…」ですか〜〜?私は何才だったのかしら〜〜〜ン!この頃を回想しますと〜〜〜
『小倉市民会館で講演…』をなされていたのです〜〜〜ョネ!!【納得感!!】が?
当時は、福岡県内でも“北九州の方々”が、熱心に!さらに道場も!と……当に!
日の目を見る勢いで…切り開いていく“勢い”でした。…が?当時の「亡き父・亡き母の時代背景」が、
見えて参ります……でしょうかと?『ジャンジャンジャンジャンジャン〜〜〜♫』ですもの! 

再合掌

2040SAKURA:2013/02/15(金) 13:56:34 ID:cjjCC9AE
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日常生活面を、それなりに考えていきますと、私なりの「雅春先生の哲学」が見えまして、更に“人
生観”が〜〜実に!感慨深いものになりますので、私なりに「生命哲学…勉強会」を〜♫〜!では
“続き投稿”していきます。そして「雅宣先生の哲学」も理解できるようになった私です!!感謝…

■■ 『女 の 浄 土シリ−ズ…SAKURA論』    

===========【 第六章  幸福を完うする秘密 】================
>>2039 の投稿の続きです…。
■ 祖先の霊に “聖 教 読 誦”により真理を與へること   その①――>その②
 ……私は四十一歳か二歳になる頃まで、この生長の家っていう此の素晴らしい真理を知りませんで
した。それでもう自分の我で、非常にもうっ張りで、お転婆で……もう何にも、神佛がいらっしゃ
やることも分かりませんでしたし、また両親に感謝するなんていう、そういうことも分かりませんで、
まぁ子供の時から余りに苦労しりませんで、まぁ順調に過させて頂きまして、お嫁に参りましても、
主人が非常に温和しくってまぁ大変立派な主人だったんですけれども、私が其の主人の素晴らしいこ
とを観ることもしりませんで――

 主人は勤め先から帰って来ても一つも私に口を利いてくれないんです。だもんですから、私共は見
合い結婚だったもんですから、“あー”これは主人は私を好かんのだなぁー“とこう思っちゃったん
です。それで、
「好かんのですか」
と聞いても返事もしないんですよね。
「好きなんですか」
と聞いても、返事もしない。“これはどうしても誰か好きな人があったんじゃないかな?”と思い
まして、妄想を逞しく致しましてね、主人の若い時の写真をこうして出して見るんです。

そうすると、学生時代に女の方と写真うつってるのがあるんです。“ア−これだ、これだ、こんな人が
あったもんだから私を好いてくれなかったんだ、もう親が「仕様がない貰え」ちゅうもんだから貰った
んだな“と思ったもんですから、それを心の中に持ってをりまして、ずぅーっと十五、六年間、主人を
唯恨んで、“情けないね”私をちっとも愛してくれないが“なんて思いながら、もう悲しく悲しく過し
て来たんです。

 夫婦が不調和だったらラジオのスイッチが切れたようなもので、神からの恵みの放送がうけられな
いと生長の家で教えられています通りです。

その時分は私は生長の家の真理を知らないもんですからね。やっぱり段々悪くなっちゃうんです。私は
主人を尊敬しませんし、“もうこんな人、もう温和しいばっかりで何もならんわ“と思ってですね、”私
が何かやらなきゃ詰まらんわ“と思ってるもんですから、素晴らしい天文のある主人だったのが、私の
想念が具体化して意気地がなくなっちゃいまして、もう本当に失業状態になったのが今から十二年位前
でございました。長いこと話していましたら時間がございませんので掻い摘んで申しますと、兎に角何
にも無くなっちゃったんです。

                            つづく

2041SAKURA:2013/02/17(日) 16:19:01 ID:d36N9scE
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>>2020>>2023>>2031>>2033>>2034>>2039>>2040>>投稿の続きです・…。 
ここは、まるで【四 無 量 心 の 心 の 世 界 観】
日常生活面を、それなりに考えていきますと、私なりの「雅春先生の哲学」が見えまして、更に“人
生観”が〜〜実に!感慨深いものになりますので、私なりに「生命哲学…勉強会」を〜♫〜!では
“続き投稿”していきます。そして「雅宣先生の哲学」も理解できるようになった私です!!感謝…

■■ 『女 の 浄 土シリ−ズ…SAKURA論』    
===========【 第六章  幸福を完うする秘密 】==================

■ 祖先の霊に “聖 教 読 誦”により真理を與へること   その③
>>2039>>2040>> の投稿の続きです…。
両親はもうとっくに死んじゃいましたから居ませんし、五人の子供と主人と私とまあ親子七人だけにな
っちゃったんです。家財道具も、お嫁に来るときもって来たものも何も無くなってしまいました。
最初は、私の物から質屋に持ってってましたけど、もう終いには主人の物持って行く、最後には子供の
物持って行くという状態で、……私が、勤めるなんて、仕事をするなんて、いうその術も知らないし、
考えたこともない……それは昔のことで、もう女学校を出ましたらただ家におって、それからまぁお嫁
さんの口があってパッと今の主人のところへ、(話者が手をひろげた途端にマイク倒れる。聴衆大笑い)
もうこんなふうにお転婆だったもんですから(爆笑)主人も迚も困っておりましたらしかったんです。

それで、もう愈々何にも無くなっちゃいまして、ゆかた一枚になって、もう私は割烹前掛一枚になり、
本当に何でもかんでもある物は皆な持って行って、唯、道具屋さんに持って行ってお金を貰って、それ
を子供に食べさせているという状態だったんです。
それで主人にも、「もうこんなことでは仕様がない。貴方土方でも何でもいいからなさいませ」
っていうんですけど、
「俺はならん」ちゅうんですよね。
「土方なんかなったら一生土方しなきゃならんから、まぁこれで一生終りゃしないから」
なんで呑気なことを言って、自分も骨皮筋右衛門になって、こんなに痩せちゃってんですよね。

それで子供達は――丁度、当時、現在十五の子が三つでございました。その子が一番下で――もう本当
に食べる物が無くなってですね、終戦後はお金が有ったって食べる物が無かったんですけど、その頃は
もうお金さえあれば何でも買えた時分なんです、昭和二十九年でございましたからね。それがもう何
にもがないんですよね、お金がないから。勤め人がお金がなくなっちゃったら本当にないんですよね、
もうそれで私はね、“もう何でもいい”女中でもいいしね、もう何でもいいからやりましょう“と思い
ましてね、本当、女中もやりました――それは一週間でしたけれども――そしてまぁ凡ゆる苦労を
しました。

 そうしているうちに、わたしくしに生長の家に触れましたら、「まぁ理屈を言はんで、
兎に角素直にね、この生長の家の真理を聴きなさい」と仰言ったんですよ。

そのときは、もう私は放っといたら――病気じゃなかったんですけど――もう本当に餓死寸前ですよね。
だもんですからね、もう私もいくら強情張りでも素直に聴きました。そして、

つづく

2042SAKURA:2013/02/17(日) 16:21:33 ID:d36N9scE
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===========【 第六章  幸福を完うする秘密 】 ================

■ 祖先の霊に “聖 教 読 誦”により真理を與へること   その④
>>2039>>2040>>2041>> の投稿の続きです…。
「もう理屈なしに、兎に角“ありがとうございます”と言ひなさい。その中に有難くなって来るよ」と
仰言つたもんですから“まあお金の要る事やないし、ほんなら有難うございます言はう”と思ひまして、

それで「ありがとうございます、ありがとうございます」やつてましたらね、
いま此の會場に来ていらつしゃるかも知れませんが、若松の生長の家の方がですね。 
                                 つづく
PS:「トキ様」へ
この時代に於きまして、北九州は、確か?私が小学校時代“生活保護の方”がクラスに1人から2人は
必ずいましたが、ただ私のクラスでは“イジメ対象”にすることもなく和気あいあいの感がありました。
逆に、隣のクラスでは“生活保護の子供”からの“裕福な子供”に対して【いじめ…】つまり“妬み・
嫉み…“の感情でしょうか?頻繁にありまして、よく担任先生は、その子供たちに「どんなに貧乏でも
必ず努力をすれば、幸せになれると…!」口酸っぱく云っていました。…が?或る日の事です…。

この先生の教え子!卒業生が先生を訪ねて来たのです。その方は、環境から高校も行けずに中卒でした。
それで、担任の先生が“自衛隊…”を紹介し「精神修行には一番いい処…」と云って、3年間そこに
入隊、その後!高校までか?大学までか?…進学するようにと、勧めたそうです。その子は素直に従い
3年後、自衛隊退官しまして、その間の貯金の一部を両親の生活費として渡し、残りは全て貯金をして、
高校進学へ…3年遅れての入学となりました。…が?更に、知識が入り、いろんなバイトを周囲の人の
愛念にての紹介で…更に「奨学金…」を得て、国立の大学に進学するまでになったそうです。この様に
先生は「生活保護でも、学問の自由…受ける権利がある!若さの特権は“時間…”の取り戻すチャンス
なのだ!!」と、その時ノホ〜〜〜ン!とした私どもに対し「高校に行けない時は、自分の処にまで、
相談に来なさい!」と云いていた事を、思い出します。現代でいいますと【金八先生…】でしょうか?
余談ですが〜〜〜「その先生のお名前が……楠本先生」なのです。つい!「宇治…」を思い出し〜♫

■当時の【学校教育…の先生】の方針が【限定することなく…無限力を引き出す!】事でしょうか?

また、当時“生活保護”を受けていた別の男性は、私が、ある時、母に頼まれて野菜屋に行きますと…
尚!その頃の私は、既に“タタキ男の原因で聴力喪失”の状態でしたが……><「野菜屋の御主人」と
なっており、久しぶりの出会いに懐かしさと…私の身の上で起きました“聴力喪失”の状況を知り、
その「野菜屋…経営」の男性が“ビックリ”して、心配してくれた事を、思い出します。…が?和やかな
会話をしておりますと、奥の方から“奥様”が来て、お互いに挨拶を交わし、タイムマシーンにて〜♫〜
「過去の学生時代…」にタイムスリップ!!楽しい〜〜〜昔話を〜〜〜!!

そのように、当時の時代背景が、見えて来ます。私も、また「新たなる挑戦…」が湧いてくるようです!
今回、女性柔道家の「故人…福田敬子」さんは、亡くなる直前まで、全て自分でされたそうですとの事!
「若松の方の“体験談”…」を拝読しながら、私が幼少時代の“ひとコマ”が見えて参りまして、
本当に「亡き両親」に対して…経済的な心配もなくスクスク?育ててくれました事に対しても……
いろんな面で【感謝…】が足りなかったと思います。今では「亡き両親を誇り…」の思う次第です。

❤〜ではまた次を………
                 つづく

2043うのはな:2013/02/18(月) 19:14:34 ID:XnNLNTjU

永遠(とわ)に国護り給わん 谷口雅春先生

 http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=seinen&amp;mode=res&amp;log=70

2044SAKURA:2013/02/18(月) 22:11:47 ID:rqQQibm6
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===========【 第六章  幸福を完うする秘密 】 ================

■ 祖先の霊に “聖 教 読 誦”により真理を與へること   その⑤
>>2039>>2040>>2041>>2042 の投稿の続きです…。

非常にもう皆さんが心配して下さいまして、全然知りもしない私を― 親戚の者でもないのに 
―生長の家の方は本当に暖かくて、三十年のお正月なんか何もないんですよ、 そしたら生長の家の
誌友の皆さんがお餅をかう皆な集めて、家へ持って来て下さつたりね、……それはもう何て生長の家
の皆さんは暖かい素晴しい方なんでせうと思ひました。それから皆さんの教へて下さる通り一生懸命
やつたんです。

御先祖の供養なんてもんも知りませんでした。ほいで「御先祖様の供養をして、『甘露の法雨』を
御先祖様に誦げなさい」つて、それで「お宅がで日蓮宗なら日蓮宗でいいから(私は祖先から身延山の
日蓮宗なんですけど)、その日蓮宗をやめること要らないんだから、まあ『甘露の法雨』を御先祖様に
誦げなさいそしたらよくなりますよ」と仰言つた。

ところが私、日蓮宗なんですけど、“南無妙法蓮華経”を誦げたこともなかつたんですよね。お祖父
ちゃんでもお祖母ちゃんでもいらつしゃればやつたかも知れませんけど、結婚と同時に亡くなつちゃ
つたもんですから。それで私、もう一生懸命『甘露の法雨』を誦げました。

 その頃私はね、家賃も出せないもんですから …… 実はね、山の中腹の、もう本当に、夏になると
百足は出てくるねえ、また蛇も出て来る、そらゃすごい処に居ましたんですよ。 電気はない、水道は
ない、無論ガスはない、山から薪を取つて来て炊いて、そしてチョロチョロ流れて来る水で御飯を拵
へたり、洗濯したりしたんです。 ところが雨が降ったら、ジャーッと真茶色の水が出ましてね、もう
飲めないんですよね。もう家賃出せませんから、そんな処に居たんです。さうしたところが、この位
の小さな細い蝋燭……大きい蝋燭を買ふと高いもんですから、小さいのん沢山あつた方が安いと思ひ
ましてね、そしてこの蝋燭を手に持つちや此の『甘露の法雨』をね、もう毎日夜誦げたんですわ。
私、女中は一週間で止めましたあと、保険に出て働きましてね、そして、帰って来ちや聖教を
誦げたんです。ホラーもう一生懸命『甘露の法雨』を誦げましたねェ。 そしてもう神想観をする、
『甘露の法雨』を誦げる、ジャンジャンジャンジャンやつた。 そしてね、「自分の念つたことが顕て
来るんだから、それを実行しなさい」と先生が仰言る。それで私は、“それじゃ私、お家を与えて頂き
ましょう“と思いましてね、”先ず電気と水道のあるところ、そしてガスも(贅沢言ったら悪いけど)
ガスもあって、そしてまぁ、せめて……七人ですから三間あったらいいから、六畳、四畳半、三畳の
家を“とお願いして、そして一生懸命やっていました。そしたら、五月の二日から、”家を与え
られた“と念ずる行をやり始めまして、四か月でその家が、ぴ−ったり与えられました。

                                つづく

2045SAKURA:2013/02/18(月) 22:14:54 ID:rqQQibm6
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===========【 第六章  幸福を完うする秘密 】 ================

■ 祖先の霊に “聖 教 読 誦”により真理を與へること   その⑥
>>2039>>2040>>2041>>2042>>2044>> の投稿の続きです…。

 この『甘露の法雨』の功徳は素晴らしいもんですから、自分が直に体験しておりますので、もう三人
集まれば三人の処、四人集まれば四人の処、お花の時はお花の処、ほかの何の会合でもこの生長の家の
『甘露の法雨』の功徳のお話をするんです。そうしましたらね、皆さん御不幸で泣いていらっしゃる
方もどんどん――素直になすった方は――好くなるんです、これで。もう素晴らしいんですよ、生長の
家なんか全然知らない方でもね。
「御先祖様に『甘露の法雨』を誦げてごらんなさいませ」
というとね、よくなっちゃうんです。……(下略)
                          つづく
PS:トキ様・皆様へ
今まで「管理人…トキ様」に随分と助けられました点がありましたでしょうかと?全くもって?〜〜〜
拝読されていないようですかと。【分派…中心】なのでしょう〜〜〜ネ!【 管理人=中立の立場 】
これは?こちらサイドの考え方でしたのでしょう〜〜〜かと?今にして思う次第です。さて!さて!
【別板…での管理人の返事は七重?八重?にてサカン…】なのですかと。遂に【有限の世界…どっぷり】
の…管理人様なのでしょうか?【一般の閲覧者の皆様と…真理の追究…無限の世界観へと〜〜♫〜〜】
多少は落ち込みました。…が?「ノケモノ意識」は寂しいです〜〜〜ョネ!!でもやはり、今の私の
【使命…】として此処に“投稿…”頑張りますとの“決意表明”でしょうか。

「小山さん」は、素直に【聖経読誦】をなされて、その後トントンと良くなっていってる光景が目に
浮かびます。此処九州に戻りましてからの、私は“現象的に見る事”が多く【有限世界観…】でした。
そして今!【無限的に思考していくべきなのではとの事】なのに〜〜〜。当に【無限の中に有限を認め
たような感じでしたから、いつまでも〜いつまでも〜“外…”を追っていたのでしょうかと。??
それでも「東京の在中」の頃は、一生懸命【聖経読誦】を唱えたモノです。
昨日ある「ニュース」で見て、人の心の移り変わりの変化が〜〜鮮やかに見えて来まして、考え込んで
しまいました。そんな時、私は今ここで【有限的認めている〜〜〜と!それは無限に到達できない事を
感じ】…十年振りに、まずいろんな事を!心の掃除をしていかないといけないと思うようになりました。

■何時までも〜〜ある一定の事物に、執着しますと、前に進めない!今回「小山さん」の【祈り…】の
実践から教えられて、益々私は❤〜【 神想観・聖経読誦 】を実践していきます。益々と実践していく
事で、その先に何か“答え…”が出てくるのではないかとの期待感も含めて…
私は今回「雅宣先生のお経…」を読まさせて頂いて、前以上に【魂が澄みきって〜♫】いくようです。
当時!萩窪に在中の頃、年を越せない経験があり、その頃の「支部長さん」が、年末の忙しい時期に
【お正月のおせち料理…】を持って来て下さいまして、当時の私は、タダタダ「感謝…」した事です。
思い出しながら〜〜♫〜〜あの頃の【感謝…】色々な“人間関係…”を思い出しまして、今後の人生を
歩んでいく上で、それを無駄にしない「行動」・「実践」していく事でしょうかと。!!

今は、この気持を、一人でも多くの人に「真理…伝道」させて頂きましてと…私の様に遠回りしない
ようにと……「此の素晴らしい御教えの世界観」をお伝えしていきたいと…思う次第です。…が?

では〜〜〜また〜〜〜次は「雅春先生の御説明」がありますので?? ❤〜
                                     再合掌

2046SAKURA:2013/02/19(火) 22:30:20 ID:dGeUHjWM
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===========【 第六章  幸福を完うする秘密 】 ================

■ 祖先の霊に “聖 教 読 誦”により真理を與へること   その⑥
>>2039>>2040>>2041>>2042>>2044>>2045 の投稿の続きです…。

■ 小山壽子さんのこの体験はまだ続いていて聖経『甘露の法雨』を読誦することによって、禿いに
フサフサと黒い髪の毛が生えた人のことをお話になったのであるが、それは今日の話の主流とは異る
ので割愛することにした。この体験談でわかることは、妻というものは良人の運命を左右する力があ
るということである。良人を“甲菱性なし”のように思っている間は、立派な良人もその能力を充分
発揮することができないで、一家は貧窮のドン底に沈んでいたのであるが、生長の家の教えにふれ
て、良人を”神の子“として尊敬し夫婦が調和するようになると運命が好転して来たのである。夫婦
が調和せずして、天輿の恵蘄を受けようと思うのは、スイッチを入れないで陰陽の電気を通じない
で、テレビの放送番組を受像しようとするのと同じことである。

更に聖経『甘露の法雨』を祖先霊の供養のためにいふことは、祖先から受けた恩恵に対する報恩行事
であるのである。受けた恩恵を返さないことは、”天の倉”に於ける借金であるから、その借金を聖
経読誦によって、”真理の言葉”を供養して返す事になるのである。何故なら、既にこの世を去って
”霊魂”になっている祖先にとっては、金銭は”用なし”であり、物質的食物もお喋りにはならない
のであるから、金銭や食物のような物質的なもので報恩することはできないのである。

しかし霊魂は”真理”を知る程度に随って向上し、一層霊界に於て自由を得るのである。聖経という
ものは仏教のお経でも生長の家の『甘露の法雨』でも”真理”が説かれているのであるから、祖先霊
に対して聖経を読誦するとき、霊魂はそれを受けとって歓喜し向上するに従って神通力を増し、それ
も子孫が自分を憶ひ出して聖経を読誦してくれたお陰であると感謝して、今度は、祖先がその神通力
によって、子孫を護ってくれることになるのである。

このやうな色々の事情が交錯して聖経読誦が運命好轉の原因となるのである。小山壽子さんが僅か
四ケ月間祖先に”聖経読誦”を供養して、望み通りの家が得られたのは、祖先霊の加護と導きとが
あったに相違ないのである。吾々は祖先霊の加護と導きとを通さないで、大いなる事は成就し得ない
ものである。
                           終わり・・・次回につづく ❤〜
PS:「トキ様」・「観覧者の皆様」 へ
『先祖供養の孝徳??』は、実に計り知れないものでしょうかと。??
私も就眠の前には、必ずと『先祖供養…』をしてから、横になります。これを、毎日〜毎日〜と続ける事により、
前に!前に!更に〜〜〜前向きに進む!それは、さらに【 魂の向上 】にも、繋がるようですかと。
そして、私も過去の体験にて、それなりにやはり【孝徳…】を頂いてると実感した次第です。…が?
やはり「四カ月間…」は、確かにかかりましたのです。(微笑)

ここでの閲覧者の皆様も「目標…」がありますと、その「目的…」に向かって真剣に『先祖供養』されたら
それなりの【霊界…からの功徳】を頂けますかと。その様に思う次第です。…が?

                                          再合掌

2047うのはな:2013/02/20(水) 18:03:19 ID:Zr.RJU5A
聖使命 昭和53年12月15日 第1127号
 
 龍宮住吉本宮・鎮護国家出龍宮顕斉殿 落慶鎮座奉祝大祭特集 より

        鎮座降神詞

 掛けまくも綾に畏き住吉大神(すみのえのおほかみ)龍宮実相世界の天津御座より、
此の瑞(みず)の御殿(みあらか)龍宮住吉本宮の、御神座に奉安し奉る。
 ここに、“護国の神剣”に、大神の尊き神霊(みたま)を天降し給ひて鎮座(しづまりま)して
この神剣を世界平和の核として、この神剣より世界全部に輝くところの平和の霊光を発し給ひて、
まことに地上に天国を創造(つくり)給へと請(こ)ひ祈(の)み奉(まつ)らくと白(まお)す。

   警蹕(けいひつ)
 
   住吉大神、高天原より天降りまして、この御神体に鎮まります。
  アーオーウーエーイー アーオーウーエーイー アーオーウーエーイー

   警蹕(けいひつ)

  住吉大神、宇宙すべてを浄め給ひて、天照大御神の出でます道を浄め給へり。
   アーオーウーエーイー アーオーウーエーイー アーオーウーエーイー

   警蹕(けいひつ)

 今ぞ護国の神剣に天降(あも)りましたる住吉大神の神霊(みたま)より
 平和の霊光世界全部に広がりまして、洵に地上に天国は創造せられる。
 明日より、総てのことは浄まりまして、世界は別の姿を現すのであります。
 有難うございます。有難うございます。

  アーオーウーエーイー アーオーウーエーイー アーオーウーエーイー
(御気合)イユーウーウーッ

   警蹕(けいひつ)

2048SAKURA:2013/02/21(木) 23:09:56 ID:dGeUHjWM
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投稿の続きです…。 

【第七章  あなたが繁栄を得るために 】
■ 先ず “ 種を蒔く” といふこと

 繁栄のための第一歩は“與へる”といふことであるのである。植物にこれを譬えれば、“種”を蒔
くということに當るのである。“種を”を蒔くことをしないで収穫を得ようと考えるのに似ているの
が、“與へる”ことなくして繁栄を得ようとすることである。地中に“種”を蒔くことが、経済界で
言ふならば投資をするといふことに當るのである。「與へよ、さらば與へられん」の法則は宇宙に儼
存してゐるのであって、その法則に背くならば繁栄は到底得られないのである。

 若しあなたが或る事業を経営してゐて繁栄してゐないならば、先づ振り返りて、
「自分は眞に與へてゐるか」と自問自答するがよいのである。
「じぶんは與へてゐる。それなのに繁栄してゐない」と考へるものは、次に「自分は何に對して與へ
てあるか」と自問自答してみるがよいのである。 (一部抜粋文…)
=============================================
                              つづく
PS:「トキ様 ・観覧者の皆様」 へ
 
❤「與へよ、さらば與へられん」の法則は…“種を蒔く”…【 心の法則 】でしょうか。
“ことば…”で、相手の悪口を毎日〜毎日〜言っていますのも?逆に申しますと“ことば…の力”
にて、相手にネガティブな事を与える事ですから〜〜〜?当に“ことばの種まき…”も同じ事で
しょうかと。
毎日!「良いことを抜粋投稿する事」も〜〜〜よい“想念を与える事…種まき”ですから〜〜〜!
「與へよ、さらば與へられん!!」は、すべてに通じます【 心の法則 】になります〜〜〜ョネ!!

【意識も…よい波動から】と言いますから〜〜〜今の私もここで【聖典板 投稿】をさせて頂いて
いますことは【 与える法則 】になるのではと?思います。 ❤〜では次回に????

                                 再合掌

2049SAKURA:2013/02/23(土) 12:55:41 ID:g1svTII2
「復興G様」 へ  「トキ様」 へ
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>>2048 投稿の続きです…。 

■【 生命の実相から2巻 】
†† 第五章 神への道しるべ(1) からなのですが……

===【抜粋文】=====================================
>>真宗の人は阿弥陀仏だけを信じて、南無阿弥陀仏と六字の名号だけをとなえておれば救われる
というかと思いますと、日蓮上人などは、『無量義経』においてお釈迦様は今まで四十余年間にわた
って説教したことは方便にいったことで真実をいったのではない、今こそ本当の真理を説くといっ
て『妙法蓮華経』をお説きになったのであるから、この『妙法蓮華経』に説かれてあることだけが
本当で、それまでの説法は嘘である、むろん念仏をとなえて救われるなどということは真っ赤な嘘
であって念仏をとなえれば無間地獄(むけんじごく)におちるといって日蓮上人は親鸞聖人の教えを
非常にわるくいっています。   (一部抜粋)
=============================================

■南無阿弥陀仏と六字の名号だけをとなえておれば救われるというかと思いますと<…云々…
と〜〜〜思いますに「念仏…」だけでは、救われないのです〜〜〜ョネ!
これも【霊の世界…】では、以前に於きまして“投稿記載”していますが?やはり
【 意識=心 】ではと、思う次第なのです。…が〜〜〜??

先程「管理人…トキ様」が法要で?お坊様が、“威張るとの事”だそうで、これも【上下関係…】
なのですョネ!!個人的ですが、私の菩提寺のお寺は、確かに“腰の低い方”なんだと思ってい
ましたら、どうも他の処では、やはり「大住職様の顔」を伺かがっているような方がいらっしゃい
まして、これには“ビックリ”…やはり「人間関係 = コミュニケ−ション」の知識から来る
のではと思います。…が?今回、私も話す内容が、いつも宗教に付いて質問しますから、
「大住職様」も、前以上に勉強されているようにお見受けいたしますが、いつも、大それた
質問内容ばかりを「大住職様」に持ち込みます。…が?この頃では、「大住職様」サイドでは前以
上に、私が質問しても“返答…”が早くなって参りまして、こちらも次の質問に勉強でしょうか?

この様に「南無阿弥陀仏と六字の名号」だけを唱えると…救われる事は、やはり“無い!”との事
で、やはり“行じる事…”でしょうかと。
ですから、やはり日本史上でも【宗教同士の争い…】は、実に醜いものではないでしょうか??
それに、西洋の「十字軍…のような戦い(国家間)にも、発展しかねないとしますと…複雑です。
そう云えば日本でも「平安時代…」に「鳥羽上皇?」でしたか?「延暦寺の僧侶での乱」でした
か?この時代の出来事も、これと付随するのかも?やはり「日本…」でもあった事なのです~ョネ!

さて「お寺のお坊さんも威張る人?」ほど、果たして“気位の高さ(中身の勉強)は〜〜〜?”
【 ゼロ 】に等しく思える部分もありましょうかと。

そして【信仰の正しさが劣っている?いない?】は別問題でありまして…如何に現代人が
“無神論者”が多い存在にても…「神の存在」を知ることが大切なのでしょうかと…考えさせら
れます文章かと…思いました次第です。

                                    つづく

2050SAKURA:2013/02/23(土) 20:15:06 ID:dGeUHjWM
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>>2048>>2049 投稿の続きです

【第七章  あなたが繁栄を得るために 】
■ 何に對して與へてゐるか

「あなたは何に對して與へてゐるか」この第二問も第一問に比べて劣らぬほどに大切なものである。
折角、“種”を蒔いても、石地に播種したものは、発芽しないし、一時は発芽してもすぐ枯れてしま
ふのである。痩地に播種したものは発芽し生長するにしても花をつけず果も結ばぬのである。「與へ
る」と一様にいっても、お妾に金を與へるのもあれば、競輪・競馬やパチンコに與へて、財産をすり
減らしてしまふものもあるのである。「何に與へるか」といふことによって、“種”が発芽せず、生
長せず、開花せず、果を結ばないなどの相違があることに注意しなければならない。

                                         つづく

PS:「トキ様」 ・「 閲覧者の皆様」 へ
【法則…に叶わない者】は、実を結ばない!!!ごっもとも〜〜〜と、思います。先程から
【怪談……四ツ谷怪談のお話】から〜〜〜或る女性の方の当時の話です。…が?
其の女性は妊娠されまして、その期間中に、ご主人に対して「何処か遊びにいけばいい〜〜〜わ」と…
自分の身代わりの女性にと……“お金…”を渡したそうです。そうしますと、その御主人は、出来た女性と
いって喜ばれたとか〜〜〜??これって!これって!【与える法則…】なる行為になるのでしょうか??
この事を【出来た女性の〜〜〜“鏡”】とかは?ここFUK市には、多く聞かされますのです。…が?

後に、私は、その話を、聞いて“ビックリ…”です。何も知らずに“遊ばれた女性の方”はと??
〜〜〜如何なるのですかと!! 従いまして、今でも「この夫婦…」は、果たして【落ち着いた生活…】が、
出来ていますのでしょうか〜〜〜他人を“こけおろしてまでの世界観”で、現在でも生活しているようです。
まるで〜〜まるで〜〜【四谷怪談…地獄絵図の世界観】ですかしら〜〜〜ン!

PPS: 上記は 【お岩さん…の話】から、思い出しました…。余談ですが…❤〜『お岩さんの話…』は〜〜〜
■■【「今の教え」と「本流復活」を考える・信仰/体験板/2 】にて、唯今!“公開中!!!”
                                                          
  再合掌

2051SAKURA:2013/02/24(日) 13:03:39 ID:TeNkDr3.
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■【 生命の実相から2巻 】
†† 第五章 神への道しるべ(1) からなのですが……

===【抜 粋 投 稿】=================================
>>たとえばわれわれがバラの色を観てこれを美しいと感じる。この美しいというのは、たいてい
の人はバラの花だけの美しいのをわれわれが感ずるのだと思っていますが、実は自分の心に美しさ
があるから、バラの花の美を感じうるのであってバラの花そのものだけが美しいのではありません。
 バラの花そのものだけが美しいのでありましたら、猫がバラの花を見ても美しいと感じなければ
ならない、鼠がバラの花を見ても美しいと感じなければならない。ところが猫が花を植えて楽しん
でいるのをわたしたちは見たことがありませんし、鼠がバラの花を見て、その美に感心しているの
も見たことはありません。
 これによってみても、美しさは観る人の心が対象たるバラの花に映って、その反射が自分の心に
返ってきて、そこで始めて美しいと感じることがわかるのであります。<<  (一部抜粋)
=============================================

■■バラの例えは、分かりやすい見かたでしょうかと、思います。…が?
同様に“視角…視点…”はそれは【その人の“心の中”の開発??】ということでしょうか?…
“オ−バ−”な話ですが【類 の 法 則 の 仲 間】でいきますと、同様な“心…”は、
“テレパシ−”の如く、“心…”に響くモノなんです〜〜〜ョネ!!その様に“類似性”もしくは
“異なる見方”とは、最終的なる原因は「環境から来る!」のではと思います。…が??
もうすぐ、此処九州はいち早く“春…”が訪れますが…此の地上に咲ききます各種の花は、神様の
世界の“多様性”を表していますでしょうか〜〜〜?

つづく
                                   再合掌

2052SAKURA:2013/02/25(月) 13:05:43 ID:y8fsR43M
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■【 生命の実相から2巻 】
†† 第五章 神への道しるべ からなのですが……此処で「亡き清超先生…の言葉」からの抜粋文

===【抜 粋 投 稿】=================================
ためしに奥深い山に分け入るならば、私達はそこにも人知れずひっそりと、美しい花が咲き誇って
いるのを発見するでしょう。その花は幸いにして今人に知られたかも知れませんが、不幸にして
人間に一度も知られる事なく、むなしく咲いては枯れる草花がどれだけ多くあったかわからないの
です。しかしこれらの草花は、人に知られるからといって美しく咲くのでもなく、人に知られない
からといってイイカゲンに咲くのでもなく、その場所に与えられた条件での最善を尽くし、せい一
杯に咲き誇っていたのであります。それはどの草花においても例外なくそうなのであります。
このような“平素の努力”があるからこそ、たまたま人に見つけられると、「ああ美しい」と感嘆さ
れ……云々……もし彼らが「人に見られる時だけ美しく咲こう」と、平素山奥で咲いている時には
怠けてウスギタナク咲いているのであれば、それは怪物であります。そんなものはもはや「美」で
はなく「醜」であり、吾々はそのような花を、とても珍重する気にはなれないのです。(一部抜粋)
=============================================

例えば…ある人は「バラの花が好き」それは、人に知られている“花…バラ”であり、ある人は
「人知れず…野に咲く花…が好き」…十人十色…ですモノ〜♫〜 今回の「WEB誌友会」にて?
お邪魔虫【SAKURA…】ですが〜〜〜【現総裁先生…擁護派…】ここでは【類の法則…】程遠い
かと〜〜〜これも「バラの花」と似ていますのでしょうかと〜〜〜?

■同じ花を見ましても「綺麗いネ〜〜」と捉えるその“心…”は、そのような似た環境かと。
つまり【環境はこころの影…】だと理解が出来まして、前以上に【類 の 法 則】にのっかり
ますには、やはり〜〜〜【自分の心を向上 = 魂の向上】更に、“奥の〜奥の〜深層部の心”を
引き出すという事かと。
【本当の自分との出会い】==>【実相の姿】に戻ることでしょうか??ミセカケの“心…”では
なく、本当の“心…”私の“心…”に宿った本来の姿が【心の現れ=実相の私=神の子の私】と、
改めて感じいりました次第です。
それは一人一人の【実相…本当の自分の姿】は異なりますから「恨みの心?憎む心?」は当然なが
ら捨て去り…このような心を捨てさえすれば「幸福…切符論」を頂けましょうかと。
かといって…そんなことぐらい〜〜〜わけないこと〜〜〜?でしょうか  (微笑)

                          つづく

PS: 今日は〜〜〜私の“独り言…”舞台〜〜の投稿に〜〜  。
今日は…「閲覧者の皆様」に取りまして、ますますとハッピ−な一日であります事を「お祈り…」…
もちろん!明日も〜〜明後日も〜〜♫

2053うのはな:2013/02/25(月) 14:08:01 ID:pW0hF87w
   あまり相手を心で見つめると反対効果がでる

 ある商売人がこう言われたですよ。個人の専門店と百貨店とがあるでしょう。
百貨店の方がよく売れる。なぜかというと百貨店は自由に品物を手にもってみたり、あるいは
出させたりして買わないで、シューと向うへ行っても、店員がそう怨めしそうな顔はしない。
ところが、専門店へ行って、あれ出さして、これ出さして、気に入らないで帰るというと、怨めしそうな顔をして、
「買ってくれるはずだ」と思って出したのに買いやがらないと思って、怨んでいるようでそれで気持ちが悪いというですね。
店を出るときに気がひける。そこでこういう個人の専門店に入るよりも、百貨店に入る方が気が楽だというわけで百貨店に入る方が
気が楽だというわけで百貨店の品物はよく売れるんだという話をされたことがありますね。

ま、そういうように、もう始終お客さんが来たら、じっとその側に立って、いちいち品物を見るのをみつめたりしていると、心で縛られているようで、
窮屈でね、もうその店に買いに入るのが嫌になってしまう。
ところが、いくら見たって、知らん顔して、店員が知らん顔で自由にさしてくれると、そうすると非常にのんびりした気持で、その百貨店へ入ることができるんだというわけです。
それで、夫と妻との間も、やっぱりそういうところがあるんです。
あんまり窮屈に、あんまり愛しすぎて、愛するといっても掴む方の執着の愛でして、掴みすぎて、そして窮屈にするとそれから逃げ出したいというような状態が出てくるわけであります。
そして、まことに“愛”というものは、相手を心で掴むことから始まってそれを卒業して、そして放つことによって卒業するということになるわけであります。

 愛は、相手との自分との自他一体の自覚である。だから愛は最初は惜しみなく奪おうとする。
最後には、惜しみなく愛は与うというわけであって、自由に放してしまった時に、しかも、その実相の完全な相を信じて放す時にこの完全な姿が現われてくるということになるのであります。
清聴を感謝いたします。

(昭和三十九年八月九日、第五回生命の教育研修会に於ける講話)

2054SAKURA:2013/02/26(火) 15:12:49 ID:ZcyE/ry6
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■【 生命の実相から2巻 】
†† 第五章 神への道しるべ からなのですが……此処で「亡き清超先生…の言葉」からの抜粋

>>2052 の投稿の続きです…。
此処で、私がまだTYOに上京するまでは、此処FUKの人々との違和感は、全くありませんので、
素直に受け入れた感もあります。…が?一つだけ相違点なのは「個性…」での見方でしたかと。
彼らは、“美しい〜♫”といった感じ、例えばですが?【男女の関係の場合…】に於きましては、
此処FUKの方は、必ず「私の事を、どう思ってるの〜〜〜」この様な事を必ず相手に訊きますネ?
つまり「感情論…好き?愛している?」このような事からの会話=コミュニケ−ション術でしょうか?
しかしながら、TYOでは“思考…”が先に優先しますから、“理性…”での物事を捉えた方が多く、
“たわいのない会話内容”でも、第三者からの視点での会話であり、また受け入れる事も多いの
です。…が?

此処に居たりましてFUKの方は【精神面より?肉体(外形)?を先行かと】この重視が強く、正直
な話ですが“ビックリ感”を抱いてが??当時、若い頃の私は、周りの友人の会話の内容を聴いて
いました内容とかが、此処の【土地柄の影響…】だと、帰郷しまして判断することに成りました。
…が?20年ぶりに“帰郷…”して、私の周囲の環境が変わり、その手の“冗談会話”がダメになっ
ていた事に気づきましたのです〜〜〜ョネ!やはり、この様に【土地柄の環境…】もあり……
「雅春先生の言葉」に❤【 環境は心の影 】だと、当に身をもっての痛感を感じた次第です。

■同じバラを見て「綺麗いネ〜〜」と捉えるその“心…”は、そのような【環境のこころの影…】
だと理解が出来まして、前以上に【類 の 法 則】にのっかりますには、やはり〜〜〜
【自分の心を向上 = 魂の向上】更に、“奥の〜奥の〜深層部の心”を引き出すという事かと。
【本当の自分との出会い】==>【実相の姿】に戻ることでしょうか??
ミセカケの“心…”ではなく、本当の“心…”
私の“心…”に宿った本来の姿が…【心の現れ=実相の私=神の子の私】と、改めて感じいりました。

「谷口雅春先生」は、更にこのように、おっしゃっています。…が??

                            再合掌

2055SAKURA:2013/02/26(火) 15:16:00 ID:ZcyE/ry6
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>>2048>>2049>>2050>>2051>>2052>>2054 投稿の続きです

■【 生命の実相から2巻 】
■ここで【WEB誌友会】にて「復興G様」からの“お返事”を頂きました投稿内容の文章中…
>>207のこの中からの一部抜粋投稿せて頂きましたモノです。下記のURL…にて詳しく閲覧できます。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/11346/1358650232/207 

===【抜 粋 投 稿 文】================================
>それらがすべて無であることが真理でなければ、「どうして全能なる神が、釈迦、キリストのよ
うに修行の出来ている人々と、修行の出来ないものとをつくったのか。どうして不完全なもの、す
なわち修行をしなければ救われないものをつくったか」という疑問を解くことが出来ない。神は完
全であるということは、修行の成績は無であって、本来このままで救われ切っている完全なるもの
だけがあるということであります。<   (一部抜粋)
==============================================

「修行の成績は無であって、本来このままで救われ切っている完全なるモノ…云々…」此処の解釈
は、如何なモノでしょうか〜〜〜と一人で考えておりますと
私の捉え方としましては【自我…我】を棄て去る…つまり【無我…】にして初めて、
「全脳なる親さまなる神が、わたくしのすべてのことを見守り下さいますモノと…そして私は
神様にすべてをまかせることとなり、当然ながら心も平和になるモノかと。それは必ずや……
成就するのである」という事なのでしょうかと〜〜〜♫
しかしながら…今の私は「我…無我」という心の修行が、まだまだ〜〜〜><でしょうかと。

それに「修行…」という“言葉からのイメ−ジ”は、どうしても個人的な解釈になりますが……
よく言いますところの修験道的(山伏)なるイメ−ジが個人的にはもたげてしまいますでしょうか?
…山に立てこもり…云々…このような感が致しますかと。
それよりも「雅春先生…神想観=瞑想」によりまして…『神様…とは〜〜〜?』
活ける愛の神・生命の神・智慧の神・美の神…云々…このように「甘露の法雨」の中にも…
そして「神との一体」を深めてまいりまして…これは「神の子なる自覚意識」に入ることとなり…
【実相世界…】への“鍵”を頂いていますモノと、個人的な捉え方に到りましたのですが…。

今回「雅春先生…」の色々なる視点での“解釈…”を改めて知ることが出来ました事に…
感謝いたします。それと共に「テキスト…教材」として取り上げて頂きました「復興G様」へ
感謝申し上げます…。

引き続き…「生命の実相から2巻から(WEB誌友会テキスト…)」からの閲覧にての感想を順次
投稿させて頂きます。
                                   再合掌

2056SAKURA:2013/02/27(水) 13:36:31 ID:StkVUJY6
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■【 生命の実相から2巻 】
†† 第五章 神への道しるべ(1) からなのですが……

===【投稿文】======================================
>そこでわれわれはバラの花の美を感ずる。しかし同じバラの花の美を感ずるにしましても、
それを感ずるわれわれの心のうちに宿っているところの「美」がどの程度まで開発されている
かによって、美の感じかたにも、深さがいろいろあるのであります。<  (一部抜粋)
==============================================

■そのように“心の深さ=魂の高さ”によるものと思うのです。…が?では“魂の高さ”を、
より高く〜高く〜高度にするには〜〜〜もちろんです〜〜ョネ!【真理の勉強…】
つまり、一つは【WEB誌友会…】での意見・捉え方の相違点はありましょうとも…お互いに
意見交換にての“真理を掴む”ということでしょうか〜〜〜

そういえば【別板…】で見ますと『肉体年齢??』と投稿された方がいました。…が?
「雅春先生」も【肉体もすべて、心で!決まる。つまり“精神統一に繋がる”事で……】なのでは
と、思います。「亡き母」を思い出しますと“91歳…”で他界しましたが、思い出しますと、
“89歳”までは、顔の変化もなく、その後「老人ホ−ム」に入ってからでしょうか……??
次第に“老化現象”が第三者的に見ましても、少し出始めた感が致します。…が?
それでも私たちが「老人ホ−ム」を訪ねますと、次第にお互いの会話から「亡き母」の表情が“89歳”
以前のもとの顔を、のぞかせるようになりました。…が?

                         つづく

2058a hope:2013/02/28(木) 07:32:19 ID:TqpbsVIM
みなさま おはようございます。

今朝より、聖典「生活読本」の謹写を再開させていただきます。

感謝 合掌。

2059a hope:2013/02/28(木) 07:33:53 ID:TqpbsVIM
新版 生活読本 谷口雅春先生著(日本教文社)
第十二章 心と顔に太陽を輝かしましょう

◆幸福とは心が楽しいことです

家の中に一人でも不機嫌な人がありますと、その家の人達の心全体が乱れてくるのです。
そして家族は始終病気をしたり、面白くないことばかり起こってくるのです。
そんな家に住んでいる人は、お金を百万円つんであっても幸福だということはできません。

幸福な生活とは心が楽しい生活です。
家族互いにうれしそうな顔をしてにこにこせずにはいられない生活が幸福な生活です。
(つづく)

2060SAKURA:2013/02/28(木) 11:35:31 ID:GAUySuWA
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>>2048>>2049>>2050>>2051>>2052>>2054>>2056>> 投稿の続きです

■【 生命の実相から2巻 】
†† 第五章 神への道しるべ(1) からなのですが……

>>2056 投稿の続きです…。

■やはり「心…が顔に現れる」という事を、その当時、自覚しました。…が?このように
「肉体は、仮モノ」です〜〜〜ョネ!「現象=現実…」で、その人の姿・形としての年齢を見ますと、老化なのでしょうか?年齢制限で見てるのでしょうか?その人自身が「老化現象…」が、かなり肉体
的に顕れているので、相手に対して「にくじ事…」を言われているのではと〜〜〜?感じた次第です。

■ 別板の中の【掲示板・運営/方針 板】==========================
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/11788/1346745644/874 
↓     ↓     ↓     ↓
>>861 http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/11788/1346745644/861 志恩様の投稿

874 :神の子様:2013/02/16(土) 12:40:49
還暦もすぎた70歳(女性)の書き込みだって。
キモチワル 。。。
↓     ↓     ↓     ↓     
875 名前:神の子様 投稿日: 2013/02/16(土) 13:18:18
>>862
それは肉体の年でしょうが                  (一部抜粋)
=============================================

■■≪・・・???≫このよな“会話投稿”を閲覧しまして「精神年齢の幼稚さ」で“ビックリ”
です。この様に【外ばかり求める〜〜〜肉体ばかり求める方達は〜〜〜しかも本人達の年齢も?】

思いますに「投稿の会話…」では“70歳…”と聞いただけで「もう老化と断定!」して……
「気持ち悪いとか?」此の言葉は、ここに登場する事が気持ちが悪い〜〜〜?とも受け止められ、
此の人の“偏見なる見方”は、余りにも幼稚な見方で、全てが『現象的=現実的』にみて、本当に
『心貧しきモノ』という感が致した次第です。…が?このように“投稿された人物こそ”が、
今!時代の流れのピ−クでしょうか【整形のしすぎ…】であるのでしょうかと。本人自身が尚の事
“老化現象”が激しいのでしょう〜〜〜ネ!!

同じ老化でも……“綺麗〜ネと見える方”…更に同じ“70代…でも老けているネと見られる方”…
ここが「ポイント…」ではないでしょうか??「亡き母」は“89歳”までは肉体的には(顔)の
年齢が見受けられませんでした。肉体的に“老けて見られる方”は【現象論】ばかり見つめすぎて、
綺麗に見せる心の“美の開発”されていないのですかと。
先ず【実 相 を 見 る】には、それは何度も言います様に“種をまく”やがて“芽が出て来ます”

この様に『バラの花が綺麗ね〜〜〜』と云われるように〜〜〜
“心に種をまく”・・・それは【祈り…祈り…】で潜在意識の奥底の心を、引き出す事ではないでし
ょうか???最近は、確かに、現象的に「身近な…整形にての変身術」があります。…が?
『パット花…』になる事は『散るのも早い整形…かと』それよりも
『心を見つめて知識・智慧を磨く…さらに“神地一体!”…これは“祈り…”』にてと思いました。
                        
つづく

2061NANCY:2013/02/28(木) 11:45:29 ID:GAUySuWA
「トキ様」 へ     「観覧者の皆様」 へ
こんにちは…… ロ−マ字(大文字)の【NANCY】です。
>>1635>>1639>>1643>>1766>>1778>>1829>>1877>>1880>>1890>>1918>>1931>>1942
>>1955>>1983>>1988>>1999>>2010>>2012>>2024>>2028>>2029の投稿の続きです。

===【谷口 雅春 先生 著】============================= 

■ あなたが生きるべき時は、まさに「今」である

今の他に生きる時は一つもないのであります。「これは善いことだけれども明日にしよ
う」などと考えているような人は、とても成功のおぼつかないひとであります。
「今」思い立った時に、素直にこれは神が与え給うたことであるとして、ただちに実行
に移り移りうる人は心の柔軟性を保っているひとであります。

                         『生命の実相』頭注版30巻より

============================================

■そうなのです〜〜〜ョネ!
時々私の心に囁きかける声〜〜〜!明日があるさ!明日があるさ!〜〜〜〜明日が!><
この様な気持ちになる時は、私の“心の弱さ…意志の弱さ?”でしょうか?
やはり「時間…」という概念に、甘えがある時は、意外と不思議なモノで、結果的には??
あまり“いい答え…”が得られなかったりしますでしょうかとも、思います。

本日の“言葉…”改めまして【時間管理…今!今!を活かす事】に邁進して行く事に〜〜〜

                                   再合掌

2062a hope:2013/03/01(金) 07:55:42 ID:TqpbsVIM
新版 生活読本 谷口雅春先生著(日本教文社)
第十二章 心と顔に太陽を輝かしましょう

◆真面目くさって脹れ面をしてはいかぬ

まじめなことは必要でありますけれども、
まじめくさってしまうと生き生きしさが失われてしまいます。

吾々は常にどこかに笑いのある愉快な所を残しておかなければ、
仕事ばかりで忙しいのでは美しい生活だとはいえません。

うれしくて笑っている時の顔と、面白くない時にふくれている時の顔と、
この両方を鏡にうつしてごらんなさい。
どちらが美しいかがおわかりになるでしょう。

美しい顔をしたたのしい生活が美しい生活なのです。
吾々はたのしい愉快な顔を人様に見せるのを義務だと考えなければなりません。

自分の顔だから、どんな顔つきをしていても勝手じゃないかとなどと
考える人があるかもしれませんけれども、それは大変なまちがいであります。

自分の顔は自分の顔であってもその顔の形が人に不快を与えるようになっては
世の中に害を流してしることになるのです。

だから吾々は義務として人に対しては、
たのしい愉快な顔つきをするようにしなければなりません。
(つづく)

2063a hope:2013/03/02(土) 09:07:15 ID:TqpbsVIM
新版 生活読本 谷口雅春先生著(日本教文社)
第十二章 心と顔に太陽を輝かしましょう

◆人に愉快な元気な顔をするのは善いことです

人に愉快な顔をしてみせるのが大変善いことであるばかりでなく、
自分自身が愉快であることが、又自分自身にとって大変善いことをしているのです。

第一、どんなにつまらないことがあっても、無理にでも顔つきをにこにこしていますと、
実際に自分の心がたのしくなってくるのです。

人間はたのしいと笑いますが、無理に笑っていると仕舞にはたのしくなるものです。
だから面白くない時程一そう笑うようにすることが必要なのです。

「これは私の顔だから、勝手にふくれる権利がある」などというのではいけません。
「これは私の顔だから、人が何をいおうが、外の世界に何がおころうが、
私は私の顔をたのしく笑わす権利がある」というように明るくくらさなければなりません。
(つづく)

2064アクエリアン:2013/03/02(土) 09:42:23 ID:58IsEi0I
■生長の家誌昭和五十一年六月号谷口雅春先生 法語

善き”未来運命”を創造するために

一日の法語

困難を克服し得た勝利感

人は何故、野球を楽しみ、スキーを楽しみ、 ヒマラヤやアルプスの峻峰(しゅんぽう)に登 ることを壮快に感じ、時としては顚落(てんら く)して死することがある危険を前途に見なが ら、随分の費用をかけて、みずから進んでその 困難に直面して行こうとするのであろうか。 それは”困難”は自己に内在する”未見の我 ” ”神の子なる未見の無限力”を、顕在の世 界にあらわしたいという潜在的願いがあるから なのである。 そしてその困難を征服したときに、わたし達 は勝利の快感を味わう。生き甲斐を感じるので ある。何の困難もない平々凡々の生活が毎日続 く時には、人間は倦怠感を生じて、人生そのも のにウンザリしてしまうであろう。

二日の法語

勝利感と生き甲斐の源泉は何か

困難を克服し得た勝利感はどうして起こるの であろうか。実は”困難”というものは、”外 ”にあるのではなくて、自分の”内”にある” 心が描いた仮存在”なのだからである。 人間の実相は”神の子”であり、”無限力” であるから、”困難”などある筈がないのであ る。その本来の”無限力”を覆い隠して”包み ”(罪)によって、”困難”を感ずるのである 。一つでも、その”困難”を征服し得たという ことは”包み”を破って、内在実相の”無限力 ”が一歩一歩一層多く顕現し得たことであるか ら、自己の「実相隠蔽」を克服したことに勝利 感を感ずるのである。そして自己の「実相」が 一歩でも現象の世界に一層多く顕現し得たこと に生き甲斐を感ずるのである。

三日の法語

「我れ世に勝てり」

イエスは自分が磔(はりつけ)の刑に遭うべ き前途を予見したときにゲッセマネで祈るとき 、先ず「願わくはこの苦き盃(さかずき)をわ れより取り去り給え」と祈っているのである。 この願いは”肉体の願い”である。誰でも十字 架上に釘つけられて槍で刺されることを願う肉 体はあり得ない。誰の肉体でも、肉体は苦しみ を避け楽を得ようと欲するのである。しかし、 やがてイエスは「されど我が意(こころ)を成 さんとするには非ず、みこころの如くならしめ 給え」と、”別の言葉”を以って祈っているの である。「”苦き盃”(困難)を取り去り給え 」という前半の祈りは”肉体の願い”であり、 ”世俗的願い”である。しかし、「されど我が 意(こころ)を成さんとするには非ずみこころ の如くならしめ給え」という後半の祈りは、肉 体的自我を放棄し、その”世俗的願い”に打ち 勝ち、人類の罪の身代わりとなる崇高なる魂の 願いに身を捧げる決意ができたとき、彼は”世 俗的願い”に打ち勝ったのである。そこに真の 生き甲斐を感じ、彼は「我れ世に勝てり」と宣 言したのである。

四日の法語

世俗的な自己評価に雷同するな

人間は五官の感覚をもって自分の肉体を見、 自己を一定量の物質だという知覚を得て、常に 自己限定しつつ生活しつつあるのである。その 自己限定のままで生きている限りは、それは世 俗になじんで生きているのであり、「われ世に 勝てり」と宣言することはできないのである。 「われ世に勝てり」とは、外界の物質世界を征 服することではないのである。自己の内にある 「世俗的な自己評価」に打ち勝つことなのであ る。 自己を”神の子”と自覚することは、今これ が「自分の肉体的力」の極限だという自己限定 を打ち破って、常に自己に出来るだけ以上の事 を成すという理想目標をおいて、毎日一歩でも より多く前進し、進歩することなのである。

五日の法語

困難は実相内在の美を磨き出す研 磨機である

困難は、自己に内在する力を、平常普段の生 活以上に発揮させてくれる”呼び水”になるも のである。目標が、日常生活程度では、誰でも 出来る平凡な普通一般の生活になっていて、別 に現在以上の力を引き出してくれる機会をつく ってくれないのである。 それだから、神は一見”困難”と見える問題 又は事象を、時々すべての人に課して、それを 解決するために、その人が”日常以上の力”を 発揮する機会を与えて下さるのである。それだ から”困難”の来る毎に、その”困難”と、そ して、その困難を与え給うた神とに感謝せよ。 困難という研磨機を通して、わたし達の魂に 内在する貴き光が、一層多く燦然と輝き出すこ とになるのである。

2065アクエリアン:2013/03/02(土) 17:49:22 ID:0VgMO/wg
■生長の家誌昭和五十一年六月号
谷口雅春先生 法語

善き”未来運命”を創造するために

六日の法語

運命は課せられた労役ではない

運命というものを他から課せられた労役だと 思ってはならない。”運命”を物質でつくった 革輪(ベルト)が回転させている「物質の歯車 」であるなどとは考えてはならない。”運命の 原点”は”自分の心”にあるのである。”心” が運命の原点である。 ”運命の原点”である”自分の心”が明るく 輝けば、明るい運命が自分に向ってやって来る のである。 何よりも大切なのは”自分の心”を明るくす ることである。部屋が暗いと思っていたが、実 は自分が自分所有の電燈をともさなかったから だと気がつく人は幸いである。 誰でも自己の内に無限燭光(しょっこう)の ”霊の灯(ともしび)”が決意を以てスイッチ を入れれば輝くような霊の実相の霊源をもって いるのである。

七日の法語

”心”を光明面に向くよう切り換 えよ

自分の”心”が暗黒の方向へ向いているか、 光明の方向へ向いているか、自分の心を顧みな さい。そして暗黒の方向へ向いておれば光明の 方向へ心を切り換えなさい。 ”心”という電車が、あなたの”心”の向く ところへ回転して行ってあなたを運ぶのです。 それを”運命”と人はいうのである。『愛と光 との生活』(新選谷口雅春法話集第八巻)の7 7貢には次のように書かれている。暗黒な気分 になった時には必ずこの本をひらいて、その一 節をお読みなさい。必ず心が明るくなり、運命 が明るい方向に回転してまいります。 「諸君よ、必ず諸君の心の中に”光明”のみを 描け、必ず諸君の心の中に成功のみを描け。心 に描くことは、心の世界に種子を蒔いたことに なるのです。そうして、心に”光明”の種子を 蒔いて置いてから、その手入れをし、施肥(こ やし)を一所懸命にやるように、形の世界でで も、出来るだけ勉強し、出来るだけ働き、前進 前進、ただ前進、ただ伸びることのみを知って 、一寸の暇もなく間断なく進むのです・・・・ ・・」

八日の法語

”心”を「幸福行」の電車に乗り 換えよ

さて、『愛と光との生活』の本には「皆さん が幸福な成功をしようと思ったら、手足を無暗 に動かすまでに、心の向きを”幸福行”にして 置かなければなりません」と書かれている。手 足は自分で行き先の方向をきめず、”心”がそ の方向を定(き)めるのであるからである。 しかし ”心”は如何にすれば、その習慣的 方向を定(き)めることができるであろうか。 暗い心を明るくしようと思っても、従来の習慣 や惰力ではどうしても心が暗くなる人があるの である。そこで ”心”を支配するものは何か ? という重要な問題に逢着するのである。

九日の法語

”心”が先か ”コトバ”が先か

”心”を支配するものは ”コトバ”なので ある。聖書の『ヨハネ伝』には「はじめにコト バあり、コトバは神とともに在り、コトバは神 なりき。万のものこれによりて成り、成りたる もの一つとして之(これ)によりて成らざるも のなし」と示されているのである。 また『甘露の法雨』には「『心』動き出でて コトバとなれば一切の現象展開して万物成る」 とも書かれているのである。 「コトバ」は万物生成の根元であり、万物の 本質を成しているもの、万物生成の第一原因は コトバであるというのが『ヨハネ伝』の記述で あるが、『甘露の法雨』の方は、

「神が一切のものを造りたまふや(中略) ただ『心』をもつて造りたまふ。
『心』はすべての造り主、
『心』は宇宙に満つる実質、
『心』こそ『全能』の神にして偏在したまふ。
この全能なる神、 完全なる神の 『心』動き出でてコトバとなれば 一切の現象展開して万物成る」

と示されているのである。そこで ”心”が 先であるか、コトバが先であるかの問題が生ず るのである。

2066NANCY:2013/03/02(土) 20:33:28 ID:VaTGaQRA
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こんばんは…… ロ−マ字(大文字)の【NANCY】です。
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===【谷口 雅春 先生 著】==============================

■ 人生は鏡である。 こちらが微笑すれば 人生も微笑する

 一日数回、必ず鏡を見て微笑せよ。人に対しても、人の話しているのをきくとき、
 微笑を顔に浮かべながら好感をもって相手の話をきくようにするのである。
 すると相手と調和して事をはこぶことが出きるのである。
 人生は一種の鏡であって、こちらが微笑すれば人生も微笑する。

                        『新版 真理』第2巻「基礎編」
=============================================

■「笑顔…微笑」これは一番の『幸福生活をうる上での…切符』でしょうかと、思います。…が?
確かに、「雅春先生」は「心の法則」の中で〜〜〜最初におっしゃいます『生き方…』には〜〜〜
そうなのです〜〜〜ョネ!(生長の家…創刊号にも…)

❤【 ※『生長の家』では朗らかに笑って生きる。※  】

しかしながら、理解していますつもり?つもり?でも、時としましては〜〜?実は、私の経験です。
若い頃は、人との対面での営業は〜〜〜とても“苦手…”なのです。【SAKURAさん】と、始めて
小売店への営業を始めました時、先ず!それでなくとも私自身〜〜〜最初の“コトバ”〜〜〜><
どの様に致しましょう〜〜〜。頭の脳細胞「右脳・左脳…」はめまぐるしく“行ったり?来たり?”
でしたか?しかも、その小売店近くに気まして…ガラス越しから見えます「オ−ナ−の顔?」を
見ますと気持ちの上で“弱気…”に“ムリ?”でしょうか?瞬時、脳裏に浮かびましたモノです。
その時、いつもの“パワ−”を【SAKURAさん】から、いただきましたモノです…。“コトバ”!

「出来る!出来る!〜〜〜〜〜〜〜出来る!」という事を!潜在意識の中にシッカリとインプット!

此処までは、何となく“弱気の私…NANCY”でも〜〜〜さて!営業に必要な”スマイル…“は、
私には次なる【難問題…】です。私の顔の表情は、おそらく“憂鬱そのもの…”でしたかと。
しかし…笑い話ですが、逆に「お店のオ−ナ−」さんから〜〜〜“スマイル”を教えて頂きました。

今では、ふり返りますとオカシイ話なのですが??“ドア…”を開けますと…さすがで〜〜〜す!
明るい声!微笑!〜〜〜私どもに向けてくださいまして、逆に、今までの緊張感が、なくなり、
ホット!何時しか、私自身も“微笑…スマイル”になって、その「小売店」との無事に営業を、
終わらせました…この様な“懐かしい思い出〜♫”が、ありましたモノです。

やはり「笑い・・・微笑」は、そこに漂う特有の雰囲気が在りましても、「微笑=笑い…」という
不思議なパワ−にて、全体の空気をイキイキさせて来る“不思議な魔力……”が、あるのですかと。
此の事が【人生…最大の幸福への切符】ですかしら〜〜〜ン!

                            再合掌

2067NANCY:2013/03/02(土) 20:37:21 ID:VaTGaQRA

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の投稿の続きです。

❤【 ※『生長の家』では朗らかに笑って生きる。※  】
此の事に関しまして…もう少し「雅春先生の御文章」の中から抜粋投稿させて頂きます。…が?

===【抜粋投稿】=====================================

吾らは快活に小鳥のやうに陽気にならなければならない。陽気に充ちた家は必ず生長する。
その家は生長の家となる。此の世界は何も吾々が悲しんでやらなければ、悲しみに不足して困
ると云うやうなことではないか。黒住教祖は醫者に見捨てられた自己の大患を陽気で癒やした。
陽気になれ、嬉しいことを語れ。 噪やげ。 哄笑せよ。 微笑せよ。 併し苦笑や冷笑はお
ことはりだ。
 
カリフォルニアに一人の婦人があつた。とマ−デンは書いてゐる――悲惨な運命に打ちく
だかれてそれ以来憂鬱性にかかつた。夜は眠れない、食べものは味がなくて食べれば胸につか
へる……等々の症状を呈した。そこで彼女は此の憂鬱を拂ひのけんがために一大決心をして実
行にとりかかつた。彼女は一日少なくとも三回、どんなことがあつても必ず心から声を出して笑
ふといふことに極めたのである。それで人と話してゐるときなど、一寸したきっかけがあつても
必ず心から笑ふやうにし、自分の部屋にゐるときには鏡を見て笑ふやうにしたところが、間もな
く健康が見ちがえるやうに良くなり、性格もいっぺんして明るくなつた。かうして主婦が快活に
なると共にその家庭は明るい愉快な幸福な家庭になつていつた。家庭の明るいと暗いとは主婦の
笑ひの分量によるところが多いのである。…云々…
                        (一部抜粋)

=============================================

■【笑い〜〜〜微笑】とは〜〜〜〜!当に!
【 世 界 共 通 … 幸 福 生 活 へ の ス テ イ タ ス か と! 】思います。
♫〜 嬉しい〜〜〜〜〜なぁ!!!楽しい〜〜〜〜〜なぁ!!!幸せだ〜〜〜〜〜なぁ!!!

この様に思う次第です。…が?                  再合掌

2068SAKURA:2013/03/02(土) 22:29:32 ID:VaTGaQRA
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こんばんは……。  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
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>>2048>>2049>>2050>>2051>>2052>>2054>>2056>>2060 投稿の続きです

ここは、まるで【四 無 量 心 の 心 の 世 界 観】
日常生活面を、それなりに考えていきますと、私なりの「雅春先生の哲学」が見えまして、更に
“人生観”が〜〜実に!感慨深いものになりますので、私なりに「生命哲学…勉強会」を〜♫〜では
“続き投稿…”していきます。「雅春先生の例え…」として、投稿されていらっしゃいました記憶が
あります。

■■ 『女 の 浄 土シリ−ズ…SAKURA論』
===========【第七章  あなたの繁栄を得るために 】===============

何に對して與へてゐるか    ―― その① ――
 「あなたは何に對して與へてゐるか」この第二回も第一問に比べて劣らぬほどに大切なものである。
折角、“種”を蒔いても、石地に播種したものは、発芽しないし、一時は発芽してもすぐ枯れてしま
ふなのである。痩地に播種したものは発芽し生長するにしても花をつけずミ果も結ばぬのである。
「與へる」と一様にいっても、お妾に金を與へるのもあれば、競輪、競馬やパチンコに與へて、財産
をすり減らしてしまふものもあるのである。「何に與へるか」といふことによって、“種”が発芽せず、生長せず、開花せず、果を結ばないなどの相違があることに注意しなければならない。
                                   谷口雅春著
==============================================

■何に對して与えるかは、それは“生きたモノ”でしょうか??“生きたモノ”とは、他人を活か
す事では?ないのでしょうか???此処!九州の男性の方は、思うのですが〜〜〜><
“お金に余裕”が出来ますと、必ず!若い女性との関連が多いのでしょうか?「今昔物語…」かと。
それはある時、何かに対しての【業因……“ツケ”がでてくるのカモ!!何故なら?そうですョネ!
【正しい法則…】では無いですモノ!!ここで“コメント投稿”の時間が???と思うことが、時と
してあります。…が?「下ネタの話題…」に注視した“コメント投稿”は、やはり〜〜〜
生きた!活かした!“種まき”では?ないのではと、思う次第です。…が?

“言葉の実感”が生じ、また!現代社会人への“心…”へ、生きた内容?活かす内容?は、やはり、
その人へ伝えたいとの愛念によります“個人の個性ある文章体にもあるのでは?”と、この頃は
思い直しましたかと。

最近は、時間ができますとやはり【真理…】そして、私の実体験した内容を書く事も“種まき”に
と、ある面では思えます。…が?「亡き母」の時代の【誌友会…】がありました頃のことです。
私の町内の【割烹店…】があり、かなり大きな【割烹店…】でした。ここの“女将さん”は、ある
面〜〜〜申し訳ありませんが?何処かの「重役の二号さん」で、本妻は近くに住んでいたそうです。

その方にも、やはり子供が出来まして?妊娠されました当時、近所の方は“出産しないといけない”
と〜〜〜皆で近所の方々は言います。この“女将さん”は、一人で子供を産んで育てていく事を決
められたと……私の【誌友会…】の当時の方達が言っていました。それからは一銭も「相手の男性
の方…」から“お金…”を頂かずに、本当に、真剣に【祈り…】に徹しながら、女性一人で当時は
小さな〜小さな〜お店でしたが、一生懸命働かれまして、いつの間にか、その姿に心を打たれ、
陰口をついていました人達もですが?勿論の事ながら!近所の人達が、応援するようになり、
町内の人も何かの行事(宴会…)を、そこで利用し食事をするようになりましたでしょうか?
【小さな〜輪!!それが、いつしか大きな〜輪!!】になりまして、いつの間にか大きな
【割烹店…】になりました。

                        つづく

2069SAKURA:2013/03/02(土) 22:33:21 ID:VaTGaQRA
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>>2048>>2049>>2050>>2051>>2052>>2054>>2056>>2060>>2068 投稿の続きです

【第七章  あなたの繁栄を得るために 】  >>その①の投稿の続きです…。

何に對して與へてゐるか    ―― その② ――
■そして、気がつきますと〜〜〜相手の男性の方は病気で、その後亡くなり、その時の本妻の方は?
お金を稼ぐ事を、知らない方だとか?お聞きしていましたのです。…が?当然ながら「生活が窮地…」になり……子供との生活能力もなく……そうこうしていますと、その“女将さん”は、人の“噂”で
その事を耳にして…それから「毎月の生活費を贈る!」様になり、更に、本妻の子供を大学までいか
せましたそうです。この“女将さん”がおっしゃるには「全て、私の、過去の“業…”が消えて
いく事で、自分の子供にその“業因…”が関わってこないことが大事なのです。」と…その後、
この本妻は、あの時に、この“女将さん”がした事が、自分の“家庭崩壊の原因なので、当たり前と
…近所の人に、云いふらかしていました。…が?果たして…【神様の御心は〜〜〜】と?

ジ〜〜〜ッと耐えて“子供の将来の事”だけを考えながら……或るとき「製鉄の幹部」が【支店を…
東京……】にと“声…”を掛けられて、その後、いつも〜いつも〜その事を云われる状況でしたかと。
或る時、一大決心をされまして“或る土地”を売却し、その一部の“お金…”を、その本妻の家庭に、
困らないようにと“お金…”を渡して、また“新しい新天地へ”と…この“種まき…”をなさった後
東京に行った様です。…が?その後、その“女将さん”は、向こうで“結婚…”されたと云う話を
風の便りで耳にしましたかと。勿論!2号さんではなく、キチンとした「正統的な奥様に…」と〜!
月日がたち、そのような連絡が入りまして、近所の方達は、それは嬉しそうでした。

「亡き母」も含めて……異口同音に
【やはり!いい種まきも〜〜〜ある面では“精神修行”がかなりいるのですネ!】この話を…私の
母の誌友会員さん達が、ある時なのですが?私に話して下さいました。これも【與へる法則…】では
ないのでしょうか〜〜〜??最近の私は、
❤〜【毎日!悪口を言わない事!毎日!前向きの“言葉…”を発する事!】だと決心しました。
これも【生活の日々の與へる〜〜〜事では、と思いますが??】
「分派の方々への擁護をなされています…「トキ様」は、果たして?如何思われますでしょうか?」

■最後に「トキ様」も今回の【最高裁…判決】に関して「分派…支援側」としての“投稿内容”を
いつも〜いつも〜“アドバイス…投稿?”されています様ですが〜〜〜ハッキリ申しますと
【現総裁雅宣先生…】だからこそ、今回の【新聖経…】を、信者に導いて下さいましたかと。
その様に、思う次第です。…が?それに、仮に「最高裁…判決」が悪い結果?その直前にてでは、
『時間的にも?信者の心にも?』〜〜〜〜〜【動揺…】が生じますでしょうから…その点も踏まえ
ましての今回の行動かと!思います。…が?

                                   再合掌

2070a hope:2013/03/03(日) 08:52:45 ID:TqpbsVIM
新版 生活読本 谷口雅春先生著(日本教文社)
第十二章 心と顔に太陽を輝かしましょう

◆たのしくしていると出世します

たのしい人は幸福になれるばかりではなく、世の中のためになる人になり、
長生きができ、人づきあいがよく、出世ができるのです。

人間は神の子ですからこの世の中に悪口をいったり憎んだりするために生まれてきたのではなく、
よいことを見つけたり、人をほめたり、自分が愉快になったりするように生まれてきたのです。

何時でも、どの時間にも、たのしくしていることが人間の義務であると思って、
どんな時にもたのしくしているように努力しましょう。
(つづく)

2071アクエリアン:2013/03/03(日) 09:11:44 ID:BixDf6bQ
■生長の家誌昭和五十一年六月号
谷口雅春先生 法語

善き”未来運命”を創造するために


十日の法語

医師のコトバは患者の症状を左右 する

ある人が近頃、肉体に元気がなく、衰弱を感 ずるので医師の診察を請うと「これは肝硬変で あるから絶対治らない。入院しても入院しなく とも結局は死ぬ」という診断を受けた。この診 断を下された当人は、妻の下に帰ってくると、 顔色蒼白、気力喪失、診察を受けるまではそれ ほどでもなかった衰弱状態が倍加していたとい うのである。

この場合の現象を考察してみると、
(一)医 師の診断というのはコトバで成された。コトバ によってその後の衰弱現象は成ったのである。
(二)コトバが患者の”心”を動かして、不安 恐怖で満たしたのである。コトバは患者の”心 ”を動かしたのである。
(三)”心”が不安恐 怖で満たされた結果、彼の肉体の症状が悪化し て一層疲労憔悴を増したのである。即ち”心” は生理作用に影響を与えるのである。

以上、コトバを”心”を動かして次に起こる 現象発生の第一原因者として解釈したのである 。しかしこの医師の発したコトバというのは、 本人のコトバではなく、第三者たる医師が発し たコトバの影響である。わたしたちは第三者の 不幸や病気を暗示するコトバに左右されてはな らないのである。他より来る暗黒のコトバを防 衛する方法を知っておかなければならない。

十一日の法語

"心”はコトバと顕れて生理作用 を変化させる

では、第三者たる医師のコトバに左右されず 、自分自身のコトバによって、自分自身の肉体 の症状又は生理作用を健康の方向に支配するこ とができないものだろうか。この場合は「自分 の心」が先ず決意して「私は神の子である。病 気はないのだ」という明るいコトバを心の中で 発し、常に繰返し念ずるのである。即ち、「心 動き出でてコトバと成れば一切の現象展開して 万物なる」と示されている『甘露の法雨』の聖 句の順序に従って、”心”先ず動いてそれ以後 の現象が展開することに成っているのである。

十二日の法語

凡夫は三業に翻転せられて止ま る所を知らず

「南無阿弥陀仏」と称名念仏して、極楽浄土 に往生するという浄土教の諸宗の教義の場合を 考えてみるならば、称名念仏することは「コト バを発する」ことであり、「コトバの力」の応 用である。 ところで称名念仏しようと思うのは、先ず” 心”が思うのであるから「心動き出でてコトバ となる」ということである。コトバは「心のエ ネルギー」の上に乗ったアイディアの展開であ る。 ”心”は動き出でてコトバとなり、その「コ トバの力」によって万物は展開してあらわれる 。その万物を見て”心”が動く。かくて再びコ トバが生じ、コトバによって万物が生じ、その 万物を見て”心”が動く、永遠に循環展伝して 繰返して止まるところを知らないのである。こ れを意業・口業・身業ーー三業の流転といい、 業の流転のままに流され動かされていることを 「業力に転ぜらる」と言うのである。

十三日の法語

善業つねに循環す

「業が深い」などというと、過去の悪業の蓄 積が多いことに普通用いられているけれども、 業というものには善業もあり悪業もあるのであ る。善業の展開として生じたる幸福や健康や繁 栄を見て、心が幸福や健康や繁栄を心に描く。 心に描かれたこのが、また具象化するという法 則に従って、また幸福、健康、繁栄が現われ無 限に連鎖循環するに至ることが善業を積んでお けば起こるのだから、業力に翻転せられている ことは必ずしも悪くはないのである。それは善 業の永遠の流転となって、積善の報いとして善 き現象があらわれて来るので、その善き現象を 見て”心”がよろこび、”心”がよろこんで明 るくなるので、明るい積極的な愛他的な行為が 出来る。そして自然に和顔となり、感謝となり 、親切丁寧なコトバが出て来、善きアイディア が発想せられて来るのである。このようにして 、運の好い人はいつまでも好運にめぐまれ、そ の好運が常につき添って幸福な生活が自然に送 られて来るようになるのである。

2072アクエリアン:2013/03/03(日) 09:48:35 ID:TXUA99pE
■生長の家誌昭和五十一年六月号
谷口雅春先生 法語

善き”未来運命”を創造するために

十四日の法語

あなたの生活を「幸福新幹線」 に乗りかえなさい

以上は常に善業を蓄積している人のことであ るが、過去に悪業を積み重ねて来て、暗い現象 を見、心が暗くなり、心に暗いアイディアのみ が想い浮び、そのアイディアの具象化として暗 い運命、不幸や災厄や病気のおとずれに見舞わ れ、その現象を見て、更に心が暗くなって、暗 い事のみ心に思い浮かぶような気の毒な人は、 どうしたらこの業の流転を喰い停め、業力に翻 転せられる事なしに、幸福の”人生電車”に乗 り換えることができるのだろうか? それは、”不幸の業力”の電車に乗っている ままだから、その「不幸電車」が運んで行くと ころについて行くより仕方がないのである、「 幸福新幹線の電車」に乗り換えればよいのであ る。

十五日の法語

観の原点を「実相世界」に移す こと

「幸福新幹線」に乗り換えるというのは、言 葉はやさしいけれども、一体、具体的には、ど うすればよいのであろうか。人間の住む世界は ”心の世界”であるから、”自分の心”が不幸 ばかりの”暗い世界”を描いて、その自分の描 いた”暗い世界”に、”自分の心”が今まで住 んでいたのであるから、そんな”暗い世界”か ら”自分の心”を呼び出せばよいのである。 「一躍超入実相地」ともいうべき境地に入る のである。今まで”自分の心”という”生活の 原点”が、”現象の脚場”の上に立ち、”現象 の周囲”を見廻して、その現象の暗さのみを見 て、暗いアイディアを積み重ねて来たために、 そのアイディアの具象化としての暗い世界ばか りがあらわれていたのであるから、今度は、「 われ今五官の世界を去って、実相の世界に入( い)る」と、神想観実修の最初の「観の原点」 の転換をするために唱える言葉にある如く、今 まで”五官の世界”(現象界)に立って、現象 界の暗い事象のみを眺めて来ていた其の「観の 原点」を、実相世界に移すのである。 そして新しき”観”がはじまる。神の無限に 完全なる智慧が満ち、その、完全なる智慧によ って構図されたる無欠の実相世界が今ある。其 の万徳現前の世界を”観る”のである。”観る ”ことは、”既にある”ものを顕すことになる のである。

十六日の法語

色受想行識の円環を完成するこ と

”観る”は、心のはたらきであり、意識のは たらきであるから”意業”である、”色受想行 識”の”想業”である。”観る”ことによって 、”想”が思い浮ぶーー内在のアイディアが顕 在になるのである。心の世界に於いてアイディ アが思い浮かぶとき、これを具体化するための ”行動”が起こる、それが”行”である。”行 ”は”想”を完成するのである。”行”が伴わ ない”想”は”空想”に堕してしまう。「今年 は私の田地一段歩に十俵のお米がとれました。 神さま、ありがとうございます。」と神に感謝 して祈っても、種蒔きとか耕運とかの”行”が 伴わない時は、感謝の念も、アイディアの想念 も空転して消えてしまうことになるのである。 ”色”は波動的存在であり、波動を受けて感 覚がそれを感ずる、その”受けて感ずる”のが ”受”である。受けて感じて、それは何を意味 するかを”想う”、即ち感覚がアイディアとな り、想念となり、”行動”となる。その全体を 統合総攬する”心”が”識”である。 この色受想行識の連環を一円想に完結すると き、単に心の波動にすぎなかったものが、現象 界に具体をもって完成するのである。

十七日の法語

あなたに宿る”生命”は”神” である

それゆえに”行”が必要である。行動が必要 なのである。その行動の必要と仕方とを説いた のが私の『人生を前進する』である。毎日”光 ”をかかげて前進するものはついに、”暗い過 去の影”を消して光明輝く世界に自分の住む世 界を光転してしまうことができるのである。『 人生を前進する』の本には、幾たびも過去に地 殻が変動し、一度築かれたものが破壊されて地 殻の中に埋没されても、またその地殻の上に何 かを築きあげずには置かなかった大自然の生命 力の逞しさを説いて、それと同じ生命力が自分 の内に宿っていることを説き、次の如く結論し ているのである。

「諸君に宿っているところの生命力もおよそか くの如きものである。生命がかくも執拗にたく ましく、埋没されても、圧下されても、滅びる ことを知らずに伸びることのみを知って退嬰し ないのは生命とは『神』であるからである」( 『人生を前進する』200頁)

2073a hope:2013/03/04(月) 07:39:37 ID:TqpbsVIM
新版 生活読本 谷口雅春先生著(日本教文社)
第十二章 心と顔に太陽を輝かしましょう

◆難しい仕事もニコニコしてやれば易しくなる

あなたの仕事や勉強がどんなに難しくとも、難しければ難しいほど、そこへ愉快を吹きこまなければなりません。
人生に愉快を吹きこむ技術程尊いものはありません。

たのしく愉快でいつもいられる方法をあなたが発明なさいますならば、
それこそどんな大学でうける教育よりも立派な自己教育ができたものだといわなければなりません。

大学を出ても社会の下づみになっているような人は、大抵まじめくさった暗い顔つきをしている人が多いのでありまして、
学校などは余り出ないでも常にニコニコしている人は、何時の間にか出世して財産も沢山できてくるのです。

どんな難しい仕事でもニコニコしながらやってのけると難しさが難しくなくなります。
所がどんなやさしい問題でもしかつめらしい顔をして重々しい態度でそれを行いますと、
やさしい問題が難しい問題に変ってしまうのです。

だからどんな問題が出て来ても、ニコニコたのしくやってのけることが必要であります。
(つづく)

2074SAKURA:2013/03/04(月) 16:08:32 ID:IhbOR9.o
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>>2048>>2049>>2050>>2051>>2052>>2054>>2056>>2060>>2068>>2069投稿の続きです

■【 生命の実相から2巻 】
†† 第五章 神への道しるべ(1) からなのですが……

>>2056>>2060 の続きです…。
では次に私の「亡き母」と同じ年齢の方ですが『犬養道子さんの画像』を見られたら、如何に…・
『宗教は精神と意識に繋がること……』だと思いましたので、この場にて張り付けさせて頂きます。

■犬養道子さんの写真画像ですが(2007年)の頃ですが???
http://www.inukai-kikin.jp/2007report.htm  ≪ 素敵な画像〜♫ ≫

■キリスト教特別講演会開催 (2004)年ころですが???
http://www.rakuno.ac.jp/news/200412/news28.html 

尚!現在は「老人ホ−ム」に在中との事ですが??

===【素敵なブログ… 転載記事 】============================
母はとある老人ホームに入っている。そこには、聖書の研究家として有名な犬養道子さんが
住んでおられる。ひょんなきっかけから、犬養さんを母が教会へ行くとき、母の運転する車に
おのせすることとなった。父のお別れ会のときも、ご高齢で歩くのがやっとなのに、犬養さんは
来てくださった。私は、子どものころから、聖書を読む習慣がある。洗礼は受けていない。ここ
数年、うつがひどかったせいもあり、しばらく聖書を読んでいなかった。父が亡くなって、また
読みたいと思ったが、愛用の聖書がみつからない。そこで、どうせ買うなら、英語版、しかも口
語体でなるべく易しいものを探したいと思った。どう探してよいかわからなかったので、母から
犬養さんに聞いてもらった。すると、突然、母のところに犬養さんから、さしあげます、と一冊の
聖書が届いた。それは以下のものである。私がいただき、読ませていただくことにした。

尚、「此の方のブログ…URL…」を、下記にて紹介させて頂きます。
ご多忙中と存じますが…閲覧して頂けますと幸いに思います。

http://plaza.rakuten.co.jp/olive3518/diary/?ctgy=5 【素敵なブログ… 転載記事 】

                       
つづく

2075SAKURA:2013/03/04(月) 16:13:50 ID:IhbOR9.o
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投稿の続きです

††【 第五章 神への道しるべ (2―4) 】からなのですが……

>>2056>>2060>>2074 の続きです…。
■おなじ老人ホームの在中の方の娘さんのプログですが、そこで犬養さんから頂いた本の抜粋です。
つくづく聖典をよんで行くことでしょうか??心にス〜〜ト入りましたが??如何でしょうか??
「下ネタでかわす言葉」より「後でいい余韻を残す言葉」は、永遠性です〜〜〜ョネ〜〜〜

The New Jerusalem Bible Reader's Editin
DOUBLEDAY ISBN:0-385-24833-4
今、この中で、愛するものが亡くなった時に読む言葉を読んでいる。それは以下のものである。
THE NEW TESTMENT より

Blessed are those who moun:
they shall be comforted.
(MATTEW CHAPTER 5 - 4)
P.1152

悲しむ者は幸いです。
その人は慰められるからです。
(マタイの福音書 5章 第4節)

Blessed be the God and Father of our Lord Jesus Christ,the mercifull Father and
the God who gives evry possible encouragement;
he supports us in every hardship,so that we are able to come to the support of others,in
every hardship of theirs because of the encouragement that we ourselves receive from God.
(2 ORINTHIANS THE SECOND LETTER OF PAUL TO THE CHURCH AT CORINTH
INTRODUCTION
Address and greetings.Thanksgiving 3,4)
P.1339

私達の主イエス・キリストの父なる神、慈悲の神、すべての慰めの神がほめたたえられますように。
神はどのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私達も、自分自身が神か
ら受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。

(コリント人への手紙第2 第1章 第3節、4節)
===============================================

■ 上記は抜粋投稿させて頂きました…。
やはり「魂を磨く…向上」する事は、改めて素晴らし〜〜イ!「生長の家…テキスト」により、
各個人の方々の捉え方を閲覧することが出来ますし、自分自身なりに考え直す機会を頂きます事は
…感謝!です…。そして、ここ2チャンネルでの「聖典 板」での投稿は意義あるものでしょう。?
此処に管理人「トキ様」の寛大なる方針にて参加させて頂く機会を得ました事に“感謝の念”を〜
                                
つづく

2076a hope:2013/03/05(火) 07:19:20 ID:TqpbsVIM
新版 生活読本 谷口雅春先生著(日本教文社)
第十二章 心と顔に太陽を輝かしましょう

◆仕事や勉強につかれたときには

仕事や勉強につかれた時には、しばらく目をとじて
「私は愉快だ、たのしいのだ。私は神の子だから決してつかれることはない」
こうとなえながら、その言葉の通りに愉快なたんしい気持ちになりながらとなえるのです。

するといつの間にか愉快にたのしくなってきて、つかれもすーっとやすまります。
そして目をつぶったまま、一番自分のうれしい顔を想像して、にこにこ笑うのです。

すると自分の心がほんとうにうれしくたのしくなってきます。
そして元気がでてくるのです。
それから又勉強を始めれば元気が一そう出て来て、その勉強が早く上手にできるでしょう。
(つづく)

2077SAKURA:2013/03/05(火) 14:39:13 ID:3zGtf1Ww
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>>2075 投稿の続きです

■【 生命の実相から2巻 】
††【 第五章 神への道しるべ 】からです。…が?

===【抜粋文】======================================
>>そのようにわれわれは自分の心のうちにあるものしか見ることができません。またたとい
触れてもそれを感ずることができません〜〜略〜〜
>>あまり現在の境遇に満足し切っている人は
神をもとめる必要がないから、神を見ることも感ずることもしないのであります。 
それは神を見ることができないのではなく、しないのであります。<<  (一部抜粋)
==============================================

■■神をもとめ…神を見るは……♫
【背 水 の 陣】をひいた方なのでしょうか……??それも含まれますかと思います。常日頃から
それよりもひたすら【 神にすがる心 = 祈り 】ではと思います。
人は、神様から各自への“テレパシ−”を頂いておりまして、それぞれのアンテナにて受信する
ことが出来るのですから、但し、そのチャンネルはキチンとしていませんと…正確なる
“テレパシ−”は受信することが出来ないかと。それに答えるためにも……やはり
【 祈り・神想観 更に“イメ−ジ” 】だと思えます。…が?

まだ!まだ!私も【祈り…】が足りないのでは…?と思いながら、本格的に『神地一体に融合』で
しょうか??私も〜〜♫〜〜ジャン・ジャン・ジャン・ジャンと【祈る事…】…

それが“宇宙…への遭遇……邁進”で〜〜〜す。…が??
                                再合掌

                          つづく

PS:「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ

ひたすら【祈り…】に、徹していきますと、私の心に応じた分量の神様が現れるのでしょうか?
…と?最近思う次第ですが?「トキ様」は、どう思われますか?? ウフフ!
私自身のこの頃の、心境なのですが???

2078a hope:2013/03/06(水) 07:42:10 ID:TqpbsVIM
新版 生活読本 谷口雅春先生著(日本教文社)
第十二章 心と顔に太陽を輝かしましょう

◆ハツラツとした元気を失ってはならぬ

ある大新聞の編集長は決して五十歳以上の社員をやとわぬことにしていたということです。

その理由はとたずねると、五十歳以上にもなってこの世の苦労をなめて来た人は、
その人の顔から溌剌(いきいき)とした元気さと愉快な笑いがなくなってしまっているからだと答えました。

一人の気むつかしい人が事務所にいると全体の事務所がたのしくなくなってくるのです。
そしてそんな事務所で考えられた計画は必ず暗い影をもっていて失敗することが多いのです。
(つづく)

2079SAKURA:2013/03/06(水) 13:01:46 ID:aj.7X2Bg
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>>2075>>2077>>投稿の続きです

■【 生命の実相から2巻 】
††【 第五章 神への道しるべ 】からなのですが……

===【投稿文】======================================>>キリストが「富める者が神の国に入る事のむずかしいのは、らくだが針の孔を通るよりもむ
ずかしい」と嘆じられましたのは、富める者の驕慢な心が神のみ心にかなわないという意味もあ
りますが、現状に満足しているものは、みずから進んで神の国に入ろうとしないことをいわれた
のでもありましょう。

>> またあるときには「貧しき者は幸いなるかな、神の国はなんじらのものなればなり」と
いわれたのも、貧しくして現状に不満足なものほど神の国に入りたいという欲求が盛んになる
ことをいわれたのでありましょう。   (一部抜粋)
==============================================

■「富める者は神の国に入る事は、むずかしい」…“納得”でしょうかと。??反対に……
「貧しき者は幸いなるかな、神の国はなんじらのものなればなり」これも、分かる感じがします。
“宗教の門=信仰の門を叩く”場合は、やはり!窮地に追い込まれた時の【絶体絶命状態…】から、
神にすがる気持ち!ひたすらすがる気持ち!が、益々と強くなるものでしょう。

逆に「平穏!平和!な状態」ですと、何の不自由感もない場合とか、更に“お金…”に執着した
モノとかは……まず“心…”がモノに焦点をあわせていますから「神様…」は現象的な捉え方に
なるのでしょうか。「神の国…」に入るには、その人の【絶体絶命状態…の心理】においては、
その「神の国の門」を叩き、入りやすのです〜〜〜ョネ??
それでも、尚「貧しき者」になってしまいますのは、やはり【感謝の心…】でしょうかと。
【SAKURA…】 は、ますます【感謝探しの冒険の旅〜☆〜】でしょうか???
“ガンバル心…”…“持続精神…”は『感謝…』からかしら〜〜〜ン!!

                             つづく

2080a hope:2013/03/07(木) 07:34:07 ID:TqpbsVIM
新版 生活読本 谷口雅春先生著(日本教文社)
第十二章 心と顔に太陽を輝かしましょう

◆笑う門に福来たる

昔ドイツでは笑う奴は戦争も忘れるからいかぬといって法律で笑いを禁止したことがあるそうです。
そのように笑いというものは人間の心に平和をもたらすものなのです。

しかつめらしく眉の間に皺をよせて考えているような人の頭からは、
どうしたらあの人をやっつけることができるかなどの暗い考えが思いおこされてくるのです。

暗い考えをしている者は自然と顔も暗くなり、にこにこした明るい顔をした人が
よい仕事をもってきてくれても波長があわないから、二度と幸運が訪れなくなるのです。

ジョンソン博士は、「一日の中(うち)その幾時間かは人間は笑いをもって過ごさねばならぬ」といっています。
どんなに人間が笑いや冗談をもとめているかということは、軽い喜劇や、落語や、まん才や、
手品などがどんなに客をあつめているか、又放送で喜ばれているかということを見ればはっきりわかるのです。

人間は動物とちがうことは笑わずにはおられない所だといった人があります。
何よりも人生に大切な心の休憩所は「笑い」であります。

どんな無学の人でも、どんな貧しい人でもできる所のもっとも尊い人生の成功は
常にどんな所へでもにこにこした顔をして人に接することであります。
そして誰にでも好意のある眼差しをして深切をつくしてあげるということです。

与えられただけの仕事はしているのであるから、悲しい時に笑ったりなどさせられてたまるものかと
考える人があるかもしれませんが、人間は与えられた仕事だけをしているのでは本当に出世するということはできないのです。

十の仕事を与えられたら、十二以上を与え返すようでなければなりません。
それは必ずしも仕事で与え返さなくとも十の仕事を十だけして
あとの二つは人をよろこばす嬉しい気持の表情(かおつき)態度をするようにしてもよいのであります。
(つづく)

2081「訊け」管理人:2013/03/07(木) 11:43:13 ID:???
『アホは神の望み』(村上和雄著)より――

 「苦しいときこそ笑っていられる」ようなアホやバカがいまこそ必要なのだということを述べたい。笑いが減るのと平行するように世の中に利口な人が増えました。頭の回転が速く目先のことに鼻がきいて、機を見るに敏、人に先行して、競争に強く、ムダや抜け目がなく、合理的かつ効率的で、どんな問題もすばやく解いて、決められた道を最短距離で行くことが得意、いわばそんな人たちです。

 しかし、そういう利口な人たちを見て気づくことがあります。一つは、その利口やかしこさのスケールがどこか「小さい」点です。頭は切れる、学歴も高い、知識も豊富だ。しかし、ヘンに世間知らずだったり人間関係がうまく結べなかったり、人の心の機微に疎かったり、あるいは分析は鋭いけれど視野がせまかったり、理が勝ちすぎていて柔軟性にかけていたり…


◇村上和雄先生講演会(動画)
http://blog.livedoor.jp/con5151/archives/65720292.html

2082SAKURA:2013/03/07(木) 13:50:34 ID:BywkQNJ6
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こんにちは……     ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>2020>>2023>>2031>>2033>>2034>>2039>>2040>>2041>>2042>>2044>>2045>>2046
>>2046>>2048>>2049>>2050>>2051>>2052>>2054>>2056>>2060>>2068>>2069>>2074
>>2075>>2077>>2079 の投稿の続きです…。

http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/11346/1358650232/249 
>>249 上記は復興G様の投稿の(URL…)です。その中からの一部抜粋……

===【抜粋投稿】===================================

■>>高き霊界のリズムと調子を合わすことによってのみいっそう偉大に進歩せる霊界、
天界、さらに進んでは実相世界のリズムを感受し、それによって人間界に偉大な芸術や、偉大な
発明や、偉大な思想を生み出すことができるのであります。<<(一部抜粋文)

>>自分の奥底の魂のリズムを高潔にすること…云々…『神想観』…<<  (一部抜粋文)
=============================================

■此の事は…『神想観…瞑想』の重要性をつくづく感じます…。まだまだ〜〜時としては、
周囲の“煩わしい煩悩”にいまだにフラフラ〜〜〜(微笑)ですが??
普段の行動が「神の子…」としての自覚ある行動かと考えますと?いまだに【我欲…】あり…
でしょうか??これでは〜〜〜反省しつつ〜〜〜強い「意志力…」にて
【神想観=>実相世界】へ、突入??日々の努力にて【神想観…神地一体】トライ!トライ!
して参ります…。此の決意を、新たにでしょうかと。
                            再合掌

                 つづく

2083NANCY:2013/03/07(木) 14:17:25 ID:BywkQNJ6
「トキ様」 へ    「観覧者の皆様」 へ
こんにちは…… ロ−マ字(大文字)の【NANCY】です。
>>1635>>1639>>1643>>1766>>1778>>1829>>1877>>1880>>1890>>1918>>1931>>1942
>>1955>>1983>>1988>>1999>>2010>>2012>>2024>>2028>>2029>>2061>>2066>>2067
の投稿の続きです。

===【谷口 清超 著】=================================

■コトバは一回では駄目だ。何回も何回も繰り返す。それも毎日一定の周期をもって
「うれしい、幸福だ」と言う。
そうすれば必ずそのような人生が、あなたのものとなるのである。

あなたはきれいなのである。ただ自分の心でそのすばらしさを蔽いくらましている。…中略…
あなたはまずあなた自身を讃美することである。あなたの夫や妻をほめ称え、さらにあなたの
子供たちを讃美しなければならない。
それはコトバで言うだけではなく「態度でしめそうよ」でなければならない。

                            『幸せへのパスポート』より抜粋
=============================================

■本当にそうなのです〜〜〜ネ!「コトバ…」は、人間だけの“コミュニケーション言語…”だけでなく
そこに“霊…魂”が、入り込みますモノ!ですから?前以上に、この年齢(??)になりますと、その
重要性が分かりますかと…? そうなのです。例えば〜〜〜
相手を傷つけたり?こちらがそのような意味で使っていなくても誤解が生じましたリ??複雑な気分?

そうしますと〜〜〜場合によりましては?悩んだ末での“コトバ…”となります事もあるのです。
…が??>< 
それでもいえます事は「讃嘆するコトバ…」は〜〜〜相手への自信・活力を与えますかと思う次第です。
そして…〜♫ “たいど”で示そうよ  そら  みんなで示そうよ ♫〜
                               
 再合掌

2084トキ:2013/03/07(木) 20:25:05 ID:zDFBGQos
 昭和50年3月号の「生長の家」誌の「明窓浄机」にて、谷口雅春先生が
以下の通り、お書きになっておられます。(p94,95)

 自分は深く感じた点がありましたので、ご紹介をさせていただきます。
(以下、谷口雅春先生のご文章です。)

--------------------------------------------------------------------


 次は、中華民国の台北から来た賀状である。

「谷口雅春先生。

 始めてお手紙差し上げます。先生には人類福祉の増進にご精励の事慶祝に
たへない次第でございます。小生も弘道者の一人として、念々実相に忘るる
事なく、心をつくし、魂をつくし、力をつくし得るべく熱願をしているもの
です。
 

 もともと衆生を度するとは、もっぱら他を救うを目標と思っておりました
が、先生の教えに預かりましてから、衆生自ら我にある事を悟らせて頂き、
歓喜にたえない次第でございます。内にとは肉体の中ではなくて、実相の
事、私にも偉大な超意識世界の真我なる中心が悟入出来得て、感激に涙
もこぼれてしまった程でございます。真理の光を皆様にも悟らせていた
だくべく、こちらの”聖理”誌にもときどき先生の御教えを抜粋で訳して
おきましたところ、普ねく共鳴が得られて、真理そのものの偉大なる力
に頭が自ら下がります。私も仏教の経典を永年修習してきましたが、
先生に点晴しいて下さいましてからはすべてがぐらりと変わってま
いりました。

 この感謝、感激に満る心、ご推察下さい。将来音楽が好きですので、
仏教奉唱の革新を図り事の調べに寄せて、”心経”の曲譜を書いたも
のがありますので、別便にてお送り致しました。ご教示を仰ぎます。
般若の心得は、先生の肉体なし、物質なし、全てはなきと知ったとき
に只ひとつ実相ありの御教へと完全に一致するばかりでなく、詞
ばも簡潔で、ありがたいです。ついであつかましいながら、生長の家
のご家族と仲良く通信が致したいと切願しております故、御幇助の程
一へにお願い申し上げます。

 いよいよ御殊勝に、全人類の幸福の為にご清鋭あらん事を、心から
合掌して祈り上げます。

洪徳声 敬上」

 この手紙で感激したのは、

「衆生を度するとは、もっぱら他を救うを目標と思っておりました
が、先生の教えに預かりましてから、衆生自ら我にある事を悟らせて頂き」

という点である。読者よろしく三読三思して、自己の内に全てがあること
を悟られたい。

(以下、省略)

2085a hope:2013/03/08(金) 07:11:36 ID:TqpbsVIM
新版 生活読本 谷口雅春先生著(日本教文社)
第十二章 心と顔に太陽を輝かしましょう

◆明るい心を持っている者は無限の宝を持つ者だ

うれしい顔をするには何の資本(もとで)もいりません。
深切な目付きをするにも何の資本もいらぬのです。

吾々は、この人をよろこばしてあげたいとただ思うだけで深切な顔にもなれたり、
愉快な微笑を顔に浮かべたりできるのです。

あなたの愉快な顔つきは曇った日にさしこんで来た太陽の光のようなものです。
周囲の人が苦虫をかみつぶしたような顔をしていればいるほど、あなたの明るい顔が必要なのです。

どんな富や財産をもっているよりも明るい心をもっているものは、
もっとも尊い宝をもっているものだといわなければなりません。
(つづく)

2086a hope:2013/03/09(土) 06:51:18 ID:TqpbsVIM
新版 生活読本 谷口雅春先生著(日本教文社)
第十二章 心と顔に太陽を輝かしましょう

◆自分の人物試験法

先ずあなたの顔を鏡にうつしてごらんなさい。
当たり前にしている時の心持でわざと顔の表情をかえないで、今あるままの顔で、
口をボンヤリ開いているならば開いているままで、眉をしかめているならばしかめているままで、
ソーッと今あなたの机の上にある手鏡を、あなたの顔に前に持ってお出でなさい。
そして、その鏡の中にうっている自分の顔をごらんなさい。

あなたの顔は明るい気持ちの好い顔をしておりますか。
あなたの今のその顔は自分でも好きですか。
自分でもいやになるような陰気な顔をしておられはしませんか。

口がポカンとあいている癖があったら、これから常に心を引締めて物を言わない時には、
口がしっかりつぐんでいる習慣をつけましょう。
眉をひそめている習慣があるのは、心が常にイライラしているか、あせっているか、悲しんでいるか、
狭い心でいる証拠ですから、眉を左右に伸ばしてのんびりした広々とした愉快な気持ちにおなんなさい。
そして口のあたりに微笑をたたえて、すべての物に微笑みかける気持ちになんなさい。

そういう人は人生の宝です。
世の中が世智辛くなって、みんながイライラした顔をしている中に、
そういう愉快な輝かしい顔をしている人は人生の宝です。

人生の宝ならば、あちらからも、こちらからも、来てほしいという人が沢山あって、
思わぬ幸福はそこから生まれて来るのです。
これが出世する道、幸福になる道です。
(第十二章終わり)

2087アクエリアン:2013/03/09(土) 10:36:40 ID:ycMJVpl.
■生長の家誌昭和五十一年六月号
谷口雅春先生 法語

善き”未来運命”を創造するために


十八日の法語

ころぶたびに前進している

まことに人生は”七転び八起き”である。現 象はころんだように見えても、その人の魂はこ ろんでいないで、ころぶたびに前進している。 わたしは九州に移転してから曾孫に午前一回、 午後一回、お茶の時間に会うことにしている。 まだ生後一年数ヵ月にしかならない其の幼児は 、一分間もじっとしていないで室の中を走り廻 るのであるが、まだ歩き慣れないものだから、 時々倒れる、けれどもその倒れたことを悲しむ こともなく、にこにこ笑いながら自分で起きる 。彼は倒れた姿勢のときから立ち上がるのに、 どこの筋肉はどのように力を入れれば立ち上が ることができるか、それを自修しつつあるので あり、ついに誰に教えられないでも、絶対に倒 れないで歩いたり走ったりする術を自得し、横 に伏したり、俯向きに臥した状態からどのよう に腕をつっぱり、脚を動かせば直ぐ起き上がれ るかを習得する。彼は幾度も倒れながら、彼は 常に前進しているのである。わたしは、こんな 幼な児の、生命の不屈不撓の精神を讃美する。 イエスは「凡そ、天国に入る者は、この幼児の 如きものである」とわたしのように、また別の 意味で讃美しているのである。

十九日の法語

病気は自己限定によって起る

『愛と光の生活』の91頁には”病気も怠け 者も本当は無い”と題して次のように書かれて いるのである。----------

「神様は善でいらっしゃいますから、悪いもの を決してお創造りになりませんでした。悪いも のを神様は決してお創造りにはならなかったの でありますから、悪いものはあるように見えて も、それは無いのです。病気もあるように見え ても無いのです。あなたがたとい怠け者に見え ていようとも、怠け者のあなたは無いのです。 本当のあなたは決して病気でもありませんし、 怠け者でもないのです。ただあなたはあなたの 心で、病気のように、また怠け者のようにあら わしているに過ぎないのです。それは一万円で あっても五円位きり出さないのと同じなのです 。病気や怠け者は、あるだけの力を出さないで 、一万円を五円の値打ちだと思い間違えている のと同じなのです。」

と示されているのである。
つまり、”人間・ 神の子、無限力”と自分の実相の”本当の健全 さ”を悟ると、自己限定によって生じている病 気は消えてしまうのである。

二十日の法語

運命の三種類について

現在の不幸や病気を運命だなどと考え、自ら の考えによって、その不幸や病気を現象面に固 定させてしまってはならないのである。 だいたい運命には三種類あるのである。

一、根本運命
二、中間運命
三、未来運命 の三つである。

二十一日の法語

人間の根本運命には不幸も病 気もない

だいたい”運命”の”命”という字はイノチ ともミコトとも読む字である。ミコトとはミコ トバ(御言)のことであって、人間のイノチは 神のミコトバが宿っていて、それがわれわれの 人体に運(めぐ)り循環しているので、われわ れは生きているのである。新約聖書の『ヨハネ 伝』に、

「言(ことば)は肉体となりて我らの中(うち )に宿りたまえり。我らその栄光を見たり」( 第一章十四節)

とある。根本運命とはこの一節に録(しる)さ れているわれらの内に宿るところの”栄光”で あるのである。この栄光ある”神の子”として の実相を、”根本運命”又は”根本業”として 、神の像(かたち)の如く、不可視の神の像( かたち)が、可視的像(かたち)をもって生ま れて来たのが人間であるのである。この”根本 運命”として授かって来た”命”をそのまま歪 めることなしに運行せしめて来たならば、人間 はいつまでも本来の完全の相(すがた)にあら われて、病気や不幸はあり得ない筈なのである 。 ”根本運命”というのは、「人間は”神の子” であり、あらゆる方面に於いて完全円満無欠で ある」ということである。これは変わることな き人間の享けた根本の運命である。

2088http://gucci.kanpaku.jp/:2013/03/09(土) 16:44:15 ID:???
***Τ****l*****???(^_^;)*******

2089SAKURA:2013/03/10(日) 03:02:08 ID:I4aQXl92
「トキ様」 へ   「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……     ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。

現在!個人的事情にて、時間調整がとれずに、休んでいます。…が?
も〜〜〜う!しばらくしまして後、投稿をさせて頂きたく思う次第です。何卒ご了承くださいませ。
                                        再合掌

2090アクエリアン:2013/03/10(日) 08:03:53 ID:HX8pgqKg
■生長の家誌昭和五十一年六月号
谷口雅春先生 法語

善き”未来運命”を創造するために

二十二日の法語

中間運命について

第二の中間運命というのは、人間が自己の肉 体的顕現を見て、自己を物質的存在であり、有 限の存在であり、他より奪わなければその”有 限”を何とか”やり繰り”できない不完全な存 在だと誤認することによって、実相の完全な顕 現の上に、”迷い”のヴェールを着せられ、実 相が眩まされて不完全にあらわれて生活が狂っ て来た、その狂って来た生活に於いていとなん だ”間違いの業”の運行が中間運命として、現 世の生活にあらわれているのを指すのである。

その中間運命の現在の運行の轍から大抵の人 は免れることができない。それは自分自身が造 った業であり、その業の轍の運行に今も自分が 関与して、それを運(めぐ)らす”心の力”を それに加えつつあるからである。

二十三日の法語

あなたは”過去の業”の後押 しをしていないか

自分自身が”心の力”を加えて、不幸や病気 をつくる”過去の業”を後押しして運行せしめ ているのであるから、”過去の業”に引きずら れて、その業の運転する方向へ進んで行くほか はない。そして「因果は免れることは出来ない 」とか「業というものは果たさなければならな い」とか思ったりして”呟く”のである。

わたしが一般人は、過去の業の轍に”心の力 ”を加えて後押ししているというのは、「過去 の業は果たさねばならない」とか「因果は免れ ることは出来ない」とか思うことを指して言う のである。「思う」ということは「意業」のエ ネルギーを加えて更に”過去の業”に後押しし ていることであり、それを言葉に出して言った り呟いたりすることは、”言葉の業”(即ち口 業)によって、”過去の業”の運行に拍車をか けて益々、その業力を強めて、自分自身が”業 ”の運行に引き摺られて行くことになるのであ る。

二十四日の法語

あなたの根本運命に超入せよ

あなたが、もし”過去の業”を”心の力”( 意業)や”口業”(言葉の力)によって後押し をしているならば、即刻、今それを止めなさい 。つまり言葉や呟よって、「自分には悪い業が つきまとっている」とか「業は果たさねばなら ない」とかいうことを表現することを止めなさ い。そして、「人間・神の子」の地上誕生の” 原点”に心を振り向けなさい。あなたは決して 、”過去の業”を”誕生の原点”としてこの世 に生まれてたのではなかったのです。”心”を 一躍させて、”神のコトバ”によって創造られ て完全な自性をもって生まれた其の原点に還る のです、『創世記』が示すところの「神の像( かたち)の如く人を創造(つく)り」と神が仰 せられて、人間をつくり給うた”人間の根本運 命”に立ちかえるのです。根本運命だけが、青 空のように常住なのです。”中間運命”に心を 引っかからせて現実の不幸や病気を悩んではな りません。”中間運命”は、青空の上に途中か ら湧き出た”雲”のようなものであり、それは 根本実在ではないから、あなたが”心の力”で それを握って、消えるのを妨げない限り必ず消 えるのです。あなたの”心”の中から”中間運 命”に過ぎない不幸や病気を、今直ぐ放ち去っ て、常住の存在である青空の如き、あなたの根 本運命「人間・神の子の実相」に想いを馳せ、 その根本運命こそ実在だ、そのほかに何もない のだと、「実相」の中に超入するのです。

2091SAKURA:2013/03/11(月) 15:04:34 ID:HzCpoNio
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>>2075>>2077>>2079>>2082の投稿の続きです…。

「 運は外から来るのではなく、 
自分が心で
 作るものである!! 」


■「好運のチャンス…!」というものは、外から突然やって来るものであるかのように
見えるけれども、実は自分でつくって、自分で引き寄せるのである。
昔から「積善の家に余慶あり」という諺がる。人に対して、常に愛行をつとめている
人には自然に、自分が、悦べるようなチャンスがめぐってくるものである。
             (谷口雅春著『神と偕に生きる真理365章』より)


PS:
いつまでも〜いつまでも〜外を追っていますと…【架空の世界観?】なのでしょうか?
そうなのです〜〜〜ョネ!先ずは……!
地に足を付けて大地に根をはり、自分で引き寄せる事は…【心の法則】でしょうか?
私も『類の仲間…』に入っていけるように【心の法則】に乗っかる“訓練…”が??
それは〜〜〜「秘密?公開?」――>【よい種を、まく事】と思う次第です。…が?
もちろん!もちろん!【心の修行…】は、神想観でしょうか??

【三正行】 1)神想観 2)聖典 3)愛行 とのステップ!!
……では〜〜START〜〜❤ 今から生まれ変わり…始まります「生長の家…」かと。

                                再合掌

2092a hope:2013/03/12(火) 07:21:06 ID:TqpbsVIM
新版 生活読本 谷口雅春先生著(日本教文社)
第十三章 こうして富をつくりましょう(p146〜)

◆心で蒔いたものが芽をふいて実をむすぶ

ある学校に一人の生徒がありました。
その生徒の後ろの机にいる生徒が、時々お尻の所を鉛筆でつついていじめるので、
その生徒はたまらなくなって、先生の所へ行きました。
そしてこう申しました。

「先生、橋本君が、授業中に私のお尻を鉛筆のとがった尖(さき)で、つついていじめるのです。
先生、橋本君をしかってください。」

すると先生はおっしゃいました。

「君が鉛筆でつつかれる様な種を蒔いているからそうなるのです。
他(ほか)の生徒を橋本君は鉛筆でつつかないでしょう。
あなただけを鉛筆でつつくのは、あなたに鉛筆でつつくような心があるからです。」

その生徒はいいました。

「先生、私はけっして橋音君のお尻を鉛筆でつついたりはいたしません。
それだのに橋本君が、私のお尻ばかりをつつくのです。」

先生はおっしゃいました。

「君はね、よく考えてごらんなさいよ。
自分のした事を、先生にいいつけられる事ほど、生徒にとっていたいことはないでしょう。
生徒というものは自分の悪い事を告げられるのが、一番いたいのだ。
そのいたいことを君はしようとする。
君は目に見える肉眼では橋本君をつつかないかもしれないけれども、
君の心ではもっともっと痛いもので橋本君をつついているんですよ。
だから自分の心でしたとおりのことが、橋本君からかえってくるのです。
橋本君にあやまりなさい。
そして橋本君に深切にしてあげなさい。
そしたら、橋本君も君にたいして深切になりますよ」

その生徒は橋本君に、

「鉛筆でつつかれた事を、先生にいいつけたりしてすまなかった。かんべんね」

といっておわびしました。

「僕が悪かったんだからゆるしてください」と、涙をながした。

すると橋本君も涙を流しました。

「君が悪いんじゃない。僕が悪いんだ。ゆるしておくれよ。」

二人はたがいに抱きあいました。
二人は仲よしになりました。
そしてたがいに深切のしあいをして、本当によいお友達になりました。

心で蒔いたものが、皆自分の方へ芽をふいてかえって来るのです。
(つづく)

2094SAKURA:2013/03/12(火) 10:56:21 ID:U1Xo11KY
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>>2075>>2077>>2079>>2082>>2091 の投稿の続きです…。
この頃思いますに【生長の家…お家騒動】は〜〜〜最終結末は???でしょうか?

――――・――――・――――・――――・――――・――――・――――・――――・
■□ 『人を憎んだり恨んだりすれば、傷つくのは自分自身である 』 □■

肉体は心の影であって、自分の心がすべて肉体にあらわれてくるのである。
自分の腹立つ心が、自分の肉体を傷つける。病気があらわれてくるのである。
だから、腹立つ心をすて、憎しみをすて、そのかわりに感謝の心をおこし、
有難うございますという生活をすれば、必ずよいことが起こってくる。 
                     谷口清超著 『病いが消える』より
――――・――――・――――・――――・――――・――――・――――・――――・

PS:「トキ様」へ  「観覧者の皆様」へ
東京に“雷おこし…”という“おせんべい”があります〜〜〜ョネ!
実は?これって!ひもときますと【おこす…感謝の気持ちをおこす…】という〜〜〜
例えなのでしょうか〜〜〜??(微笑)
東京在中の頃は、本当に【おこす方が、多い感じでした次第です。…が?】
此処九州では【おこす!といいますより“愚痴を葺きだす”という“塊…”で
しょうか?】???

まるで!まるで!【心が石の塊…】に見える事も、ありますが?今の私は、
【おこしのせんべい…】でしょうか〜〜〜?思いだして
【お こ し 感 謝 の 気 持 ち…】を、起こす事でしょう〜〜〜ネ!!

                           再合掌

2095SAKURA:2013/03/12(火) 12:48:52 ID:U1Xo11KY
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>>2075>>2077>>2079>>2082>>2091>>2094の投稿の続きです…。

――――・――――・――――・――――・――――・――――・――――・――――・
■□ 『心に強く描く 』ことは、全てが『祈り』である □■

祈りは叶えられる。それは「心」に。よってこの現象界がつくられて行くものであり
ますから、「心」さえしっかりと求めるものを描いてはなさなかったならば、やがて
それが或る時間の経過の後に実現して来るようになっているからであります。
「心に強く描く」ことが実は「祈り」なのであります。 
                谷口清超新書文集5著 (『愛は』は勝利するより)
――――・――――・――――・――――・――――・――――・――――・――――・

PS:「トキ様」へ  「観覧者の皆様」へ
“こころ”が不安定な時は、やはり【 祈りor 瞑想 】になるようですが、時としては〜〜〜〜><
【祈る…】までの心境は、“精神の状態”が多分に影響が在りますでしょうかと。??まだ!まだ!
【祈り…】に徹する事に到るまでのフラ〜フラ〜感が在りますでしょうかと、あらためて思います。【反省】

心の奥の“潜在意識…”に入れ込む事、それも“自然に?力まずに?そのままのお任せの精神かも?”
つまり…“お任せ?”は、もうすべてに「イメ−ジ化」しておくことでしょうか〜〜〜??
今!出来ることから〜〜〜はじめましょう〜♫〜
❤〜「祈り」にて、強く!強く!「心に描く事…」これが【実現のための…第一歩!!】そして、
更に「愛を行じる事!!…愛行」でしょうかと。「トキ様…」も、そう思いませんでしょうか〜〜〜?

                               再合掌

2096a hope:2013/03/13(水) 07:58:38 ID:TqpbsVIM
新版 生活読本 谷口雅春先生著(日本教文社)
第十三章 こうして富をつくりましょう

◆貧乏の人でも悲観することはない

力というものは困難を迎えてこれに打ち勝った時に得られるものであります。
弱い相手とばかり競争しているのでは、自分の中にある一杯の力は出て来ないのであります。

力一杯出すことによってのみ、その人の力は発達いたしまして、
その次に力を出す時には尚一そう大きな力が出て来るのであります。

でありますから、貧しい家に生まれたということは、決して自分にとって不幸なことではないのであります。
「こんなにお金があるのに、なぜ働かなければならないか、何でも買える金があるのに、
なぜ勉強しなければならないか」といって、勉強もせず、働きもせずにいるために、
その人の肉体の力も、心の力も発達しないで、だらくしてしまった人は沢山あるのであります。

こういう意味から考えると貧しいということは決して人間にとっては不幸ではないのであります。
貧乏からぬけ出そうと思って、一生懸命働くことが、その人の中にある力を引き出すことになった人はどんなに多いか知れないのであります。

金持ちが三代続かないといわれているのも、金があるのは便利であって有利(とく)であるからますます栄えて行きそうなものであるのに、
それが栄えないのは、金があるから努力しなくてもよいと考えてなまけてしまうからであります。

そういう人は折角「金持」という有利な条件がありながらでも、
無一物からたたきあげて来て、充分力がでるようになっている人に負けてしまうからです。
(つづく)

2097SAKURA:2013/03/13(水) 19:30:48 ID:NbYyDdRY
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こんばんは…… ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
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>>2075>>2077>>2079>>2082>>2091>>2094>>2095の投稿の続きです…。

■【 生命の実相から2巻 】
††【 第五章 神への道しるべ 】からなのですが…… 

===【投稿文】=====================================
>> われわれがこのように現実世界の状態や、現実世界の人間の不完全不円満にあきたらない
で、円満な世界や人格をもとめようとするのは、不完全な現実世界とはピッタリ調和することの
できない完全円満なあるものをわれわれの内にもっているからであります。
われわれが完全円満なあるものを内部にもっていなければ完全円満な人格や状態を予想する
ことができないのであります。このわれわれの内にある完全円満なあるもの、これがすなわち
神であります<< (一部抜粋)
==============================================

■ですので【感謝…】は“人格の形成”にも繋がるのでしょうかと??
「神の国」に入る事は【 人格=心理=真理 】につながる!心は“イメ−ジ”で瞑想する事です
ので、正しい思考へと導く書籍本を読む事でもあり……更に、それを“実践する行動”は〜〜〜、
【 祈り=実践行動 】でしょうか。それが「神の国に入る入門」でしょう。しかも、
完全な円満な世界観を“イメ−ジ・トレ−ニングする訓練”する事で、これがイメ−ジ化に繋がり
この“トレ−ニングのその延長線”が【神想観…】とも言えるのではないのでしょうか?
何となく〜〜何となく〜〜わかった様な感じですが。

❤〜まずは【実践・行動…】へ!! ゴ―!!
                           
  再合掌

2098a hope:2013/03/14(木) 07:57:35 ID:TqpbsVIM
新版 生活読本 谷口雅春先生著(日本教文社)
第十三章 こうして富をつくりましょう

◆自分で新しいものを造る者は強い

人生は「創造」即ち「物を造り出す働き」と、「享受」即ち、
「造られたものを享(う)けて楽しむ」という二つの要素から成り立っているのであります。
この二つが調和する時に人間は幸福になり、人生は楽しくなるのであります。

所が金持ちというものは、金を出せばなんでも得られるというので、
「創造」即ち物を造る方の働きに力を出すことをしないで、
「享受」即ち享けて楽しむことの方ばかりに力を費やしますから、
そのために人間が惰弱(なまけていくじのないこと)になり、
なまけた弱々しい人になってしまって、遂に大金持の三代目がつぶれてしまうことになったり、
国でも、ローマの大帝国のようなものでもつぶれてしまったりするのであります。

アメリカが強いのは、あの国は新しい国であって、貧しい出稼ぎ人から、
努力して自分の能力をきたえあげた人々が多く集まっている国であるからであります。

これに反して、古くから文明のある国は、大抵親ゆずりの財産や、顔や、
名前で飯を食っているのでありますから、何でも独創的(じぶんのかんがえでものごとをはじめること)に、
自分で力を出してやるという性質が欠けているから、やがてつぶれてしまうのであります。

日本でも古い国でありましたから、自分で新しいものを造るということを忘れて、
皆古い人の真似をすることによって生活をしていましたので、外国文明が、日本に入って来ましてからでも、
外国の真似をするだけで、自分で独創的に考えて、困難を自分の力で押し切っていくことになれていませんでしたから、
強いように見えていても弱くなってしまっていたのであります。
(つづく)

2099SAKURA:2013/03/14(木) 11:28:23 ID:P.bDOuWc
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こんにちは……     ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
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>>2046>>2048>>2049>>2050>>2051>>2052>>2054>>2056>>2060>>2068>>2069>>2074
>>2075>>2077>>2079>>2082>>2091>>2094>>2095>>2097 の投稿の続きです…。

■【 生命の実相から2巻 】
††【 第五章 神への道しるべ 】からなのですが……  その①

===【投稿文】=====================================
>>外形は五尺ばかりの有限な肉体でありながら、われわれがこのように「無限」の美を追求
しなければどうしても完全に安心ができないというのは、われわれの内部には「無限性」が宿っ
ていて、その「無限性」の開顕を内部から要求してやまないからであります。 (一部抜粋)
=============================================

■■「肉体は心の影…」と云いますように、現在の私の?“肉体はふくよかで〜〜〜す。
希望としては?モット!細くなりたいと願っていながらも「ダイエット作戦」を思考錯誤して
も?尚〜〜〜現“ボディ!”はと??つまり五官で見るところの“形”に現れたものだけを見て
行く……これが【有限の世界観…】がある限りは、次なる【無限の世界観…】が見えないのです
〜〜〜ョネ!!そうしますと【無限…】を引き出すには、それは魂の奥の奥の心に入れ込む事で
しょうか?【有限…】で見えても、そう“脳を騙す?”とある方が云いました様に、私の潜在
意識に送り込む“言葉の力”で、それは【有限…】でも【無限…】に広がっていくのですョネ!

【 有限から無限に行く 】には、そうですョ!!“ヒカリ”がピカット!光るように
“言葉の力”を出すことも、それは【神からの伝言言葉】になるのです〜〜〜ョネ!!

❤【神は愛なり〜】と云いますように“言葉から潜在意識に入っていく事”を、別の表現では?
【 有限から無限に、繋がっていく事 】を改めて理解しましたかと。
(此処までは「WEB誌友会」にて投稿致しました【SAKURA】 の内容です。)

                        つづく

2100SAKURA:2013/03/14(木) 11:30:16 ID:P.bDOuWc
「トキ様」 へ   「観覧者の皆様」 へ
こんにちは……     ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>2020>>2023>>2031>>2033>>2034>>2039>>2040>>2041>>2042>>2044>>2045>>2046
>>2046>>2048>>2049>>2050>>2051>>2052>>2054>>2056>>2060>>2068>>2069>>2074
>>2075>>2077>>2079>>2082>>2091>>2094>>2095>>2097>>2099 の投稿の続きです…。

■【 生命の実相から2巻 】
††【 第五章 神への道しるべ 】からなのですが……  その②
 
>>2099 その①の投稿の続きです
PS:「トキ様」「観覧者の皆様」 へ
今回の【生命の実相…抜粋】は、全て【2月開催のWEB誌友会…】参加時での私のコメントです。
“再度投稿形式”をしておりますが。更に、今“ふい”に思いますが?『ひらがなのさくら様』
は、別のボ−ド板・光明掲示板にて■【祈りは光と…】表現されていましたが、この事は、
私の【WEB誌友会…】での投稿より、私が上記にて解釈しておりますところの“聖典の内容”
ですが?ある面では?私の“投稿内容…参照”からの解釈から取られていますのでは?尚!更に
深く考えますと?全くその“奥の解釈”は違います。…が?更に【祈りは光…】については、
解釈の捉え方が間違いますと困りますので【SAKURA…】の捉え方を投稿掲載させて頂きます。

■【光…】は、その人の“心からのエ−テル”が、顕れた時に生じるモノですかと。それが時と
して『インスピ−レ−ション』とかでしょうか??『仏教…』では、ある方は“仏様が現れたと
か?”“観世音菩薩が現れとか?”この様に表現としていいますでしょうか??全ての人間に備わ
っているモノなのですが、それは何処からかと申しますと【あなたの心…更に…言葉】からも、
顕れて最終的には『心に浸透…』していくように思いますので〜〜〜!そして、同じ光でも?
【ブラックの光===>悪魔の光】でも確かに【光…】がありますでしょうかと。出来るならば、
私は【黄金の輝かしい光 ===> 天使の光】をと思う次第です。…が????

此の件に関しましては、では、また“
【別のボ−ド板】で詳しく何時か投稿してみたいと思います”ので〜〜〜す。!!
最後に……
【お断り…】として『ひらがなのさくら様』とは、私【ロ−マ字のSAKURA】と全くもちまして、
❤同一人物ではありません=別人ですので…!本当に“前回の文の投稿”をよくコピ−されてい
ますのでしょうか?困ってしまいます〜〜〜が!!            再合掌

2101風に訊け:2013/03/14(木) 12:22:29 ID:???
  『いのちのゆには』の神示

 ・・・愛の心で来るものは神徳を受けて帰るが
 審判く心や素見し心で来るものは神と心の波長が合わぬから
 其の心が直らぬうちは神徳は受けとられぬ。

        (昭和七年三月十四日 神示)

 ブロガ―よ・・・

2102風に訊け:2013/03/14(木) 12:24:04 ID:???
修正

 受けとられぬ  ⇒ 受けられぬ

2103a hope:2013/03/15(金) 09:42:19 ID:TqpbsVIM
新版 生活読本 谷口雅春先生著(日本教文社)
第十三章 こうして富をつくりましょう

◆金持ちでも勉強すれば無論よい

もっとも貧乏の方が金持よりよいというのではありません。
貧乏が値打ちがあるのは、金が必要であるという絶対絶命の押し出す力に刺戟(しげき)されて、
いやでもおうでも自分の力を出し切るようにならせられるということであります。

それは恰度(ちょうど)スポーツの競技に、打ち勝たなければならない相手があるので、
否でも応でも練習をして、自分の体力が発達して来るのと同じことであります。

貧乏だと否でも応でも、何とかしてそれに打ち勝ちたいと色々の智慧を廻らします。
それが大変ありがたい結果になって、自分の智慧が発達し、その智慧を色々の方面に応用できますので、
貧乏からきたえあげた人は、色々の人生の問題にも、金持できたえない人よりも考えが自由自在で遂に打ち勝つようになるのであります。

だから、すでに富んでいる家に生まれた人達は、金持だから努力しなくともよいというような考えを持たずに、
勉強したり、仕事に一所懸命になったりするのは、自分の能力を磨くためであって、決してお金のためではないということを知って、
出来るだけあらゆる方面に趣味をもち、勉強をし、自分が天分だと思う仕事を一所懸命することが必要であります。
(つづく)

2105SAKURA:2013/03/15(金) 12:48:43 ID:ndMIxCBA
「トキ様」 へ   「観覧者の皆様」 へ
こんにちは……     ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
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■【 生命の実相から2巻 】
††【 第五章 神への道しるべ 】からなのですが…… 

===【投稿文】======================================
>> われわれのうちに宿っている円満完全性――これをさっきは神であるといいましたが、
今はわれわれに宿っている「無限性」を神であると申すのであります。つまり、「円満完全性」と
「無限性」とは同じものであります。無限であってこそ完全円満なのでありまして有限なものは
それだけに限られていてけっして円満完全でありえないのであります。(一部抜粋)
==============================================

■「生長の家」では、円満完全をよく唱えますが、これも“無限性に繋がる事”で、当に!!一体
になれる言葉でしょうか??完全円満〜♫と、唱えて行くうちに無限性が出て来まして、
【神地一体…】なのです〜〜〜ネ??

❤【言葉は神…さらに神は愛なり】ですから、更に付け加えて【愛…】も必須条件に見えます。
“言葉”から発した“言葉”は、愛の言葉からは、“神は愛なり…”と自覚し、さらに“無限性”が
広がっていくように思えます。!!

『私は神の子完全円満〜〜〜〜♫〜〜』唱えると〜〜〜そうなので〜〜〜す!繰り返しの“反復…”
そうしますと・…・「そこに!“ヒカリ…”がやがて差し込んで来るのです〜〜〜ョネ!
そのままの心は、澄み切った“心…”で、心遣い・やさしさをかける事となり、“言葉”は……
全て「言霊=魂」に繋がりますものと。【 無限性は神の心=神の子 】なんです〜〜〜ョネ!!

■すべての始まりは、すべて【言葉…】から始まるのですョネ!! ❤〜“神は愛なり”
                        
  再合掌

2106a hope:2013/03/16(土) 08:11:25 ID:TqpbsVIM
新版 生活読本 谷口雅春先生著(日本教文社)
第十三章 こうして富をつくりましょう

◆与える者は与えられる

ある時、アメリカの大鉄道会社の総裁が特別仕立の汽車にのって検察旅行に出掛けたのでありました。
ある所まで行きますと、そこに路線の修繕工夫(しゅうぜんこうふ)が鶴嘴(つるはし)をもって働いているのでした。

総裁は汽車を止めておりると、その働きぶりをみるために工夫の所へ近づいてまいりました。
すると突然一人の男が、総裁の手を握りました。

みると彼の少年時代からの親友で、暫く一緒に鉄道で働いていたことのある友達でした。
かれは今も鉄道工夫の土方(どかた)をしているのです。

「随分君は出世をしたね」とその土方の友達はいいました。
「お互いに何年か前には、一日三ドル貰おうと思って、働いていたんだったがね。」
こういわれると、総裁はその顔に微笑を浮かべました。

「そうだったね。」といったものの総裁は心の中で、
「僕は決して君と同じじゃないよ。君は一日三ドル貰うために、働いたかも知れないが、
僕はその時も今も、この鉄道のために働いているのだ」と考えました。

ここが一人の友達がいつまでも鉄道の工夫をしており、もう一人はいつの間にか、
一大鉄道会社の社長になっている相異(ちがい)のできる原因なのです。

三ドル貰おうと思って働いている者は、「もらおう、もらおう」と思って働いているのであって、
与えようと思って働いているのではないのです。

所が、その時も今も鉄道のために働いているという総裁は、鉄道のために「与えよう、与えよう」と思って働いているのです。
だから「与えるものは与えられる」という心の法則に従って、彼には鉄道会社の総裁という地位が与えられたのであります。

勉強するのでも、点数を「取ろう、取ろう」と思って勉強したり、この学校を卒業したら
「できるだけ多く月給を取ろう」と思って勉強したのでは、本当に立派な成績をあげることはできないのであります。

その勉強に自分の生命を打ち込むのです。
自分の生命を勉強に与える時、自分の勉強が一そうよくできるようになるのです。

自分が一つ偉いものになって、「金を取ってやろう」と考えるよりも、
世の中の人のためにできるだけなってやりたいと考えると、その勉強がよくできて、
学校を卒業してからの仕事にも、色々人のためになるいい考えが浮かんで来て、
世の中のためになると同時に、自分も大変成功することになるのであります。
(つづく)

2107神の子さん:2013/03/16(土) 09:05:02 ID:UhZzopRI
■生長の家誌昭和五十一年六月号
谷口雅春先生 法語

善き”未来運命”を創造するために

二十五日の法語

自己の実相たる神の根本業を 観よ

わたしは人間の運命を「根本運命」「中間運 命」「未来運命」という語で説明して来ました が、それを次の如くを言い換えれば、人によっ ては一層理解し易いかと思います。 ”運命” という語を”業”という語におきかえるので す。

一、根本業(根本運命)
二、中間業(中間運命)
三、未来業(未来運命)

「根本業」というのは、神のコトバによって 、天地一切のものを支配すべき「神の代表」( 神の像(かたち))としてつくられたところの 、あなた自身の存在の根元たる神のみ業(わざ )のことであります。”神のコトバ”が「汝、 わが像(わが代表)として天地一切のものを支 配せよ」と仰せられた。その「コトバ」が我ら の内に宿り給うて地上に誕生した自己の実相の 尊厳さと栄光とを”自覚”の内に観るのであ ります。

「ここに神の御業によって誕生した”神の子 ”たる自分がある」と、今直ちに自分の実相の 完全さを観、”神の子”の完全さを繰り返し コトバに唱え、繰返し心で念じなさい。また毎 朝神想観のときに念じなさい。病気なんていう 中途に出来た”迷いの雲”は吹っ飛んでしま うでしょう。

二十六日の法語

神の根本業こそ本当の実在で ある

「根本業」とか「中間業」とか「未来業」と か申しましたが、”業”という字は”わざ” と読む字で行動または行為を表現するのであり ますが、神は「万物を想うということによって 創造った」と仰せられているのであるが、(『 神 真理を告げ給う』参照)”想う”という行 為をするとは、何をするかと言いますと、コト バ即ちアイディアを心の中に思い浮かべ、それ を心の中で唱えていることであります。それは 心の中にコトバを唱えていることでありますか ら、意業であると共に、口業であります。それ だから”業”という字はわざと読む字であり ますが、業(鳴り)とも読まれる字であります 。在原業平という『伊勢物語』に出て来る有名 な歌人もありましたが、生活とか渡世とかいう 意味の語に「なりわい」(業生い)という語も あります。

兎も角、「元始(はじめ)にコトバあり、コ トバは神とともにあり、コトバは神なりき」と いう『ヨハネ伝』の冒頭の語は、神の”根本業 ”としてコトバ(アイディア)が業(わざ)と なり行動となって、”人間神の子”が創造さ れた人間存在の根本業(根本運命)を示すので あって、その根本業にくらべれば、中間業とし ての現在の不幸な運命の如きものは浮雲のよう に間もなく消えて行くべきものであります。

二十七日の法語

お前の商売をやめて神の商売 をやれ

『生命の実相』の中にこんな話が書かれてあ ります。第一次世界大戦のとき、巨億の船成金 になった山下市助さんが大正九年の恐慌のとき にすべての財産の価値が暴落し、借金だけは暴 落しないので、三百万円の借金が出来、(当時 の三百万円は現在の三十億円にも当たる)その 返済が不可能になった時、山下市助さんは金光 教の信者であったので、当時有名な指導者であ った大阪泉尾教会の三宅先生に指導を求めると 、先生はいとも簡単に「借金なら払ったらよい 」といわれた。「払える力がある位なら先生に 相談にまいりません」と市助さんが答えると、 三宅先生は「お前には払えないかも知れないが 、神なら払える。今日からお前の商売はやめて しまって、神の商売をやれ、そして神の番頭と なって、神さまのお導きのままに動け」といわ れた。そのお導きの通りに実行して破産の宣言 をまぬがれ、再び捲土重来して満州に鉛の鉱山 を経営されという実話が載っているのである。

2108SAKURA:2013/03/16(土) 11:04:37 ID:XKr/ryCE
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(生命の実相から2巻ジャンプしまして〜♫〜)
■■『生命の實相』第9巻 p.121 〜♫

===【 霊界通信 投稿 】================================
>>スピリット自身は「芸術」についてかく語る
 自分はさらに他の問題――芸術――に話題を転じた。霊界の生活には、自分たちが現世で、音楽や
絵画や彫刻や詩歌によって得るような歓喜に相応するものがあるか?――とたずねた。
 「なんのことはない! あらゆる芸術の発生する根元の世界は霊界なのだ!」とヴェッテリニは
叫んだ。…<<     (一部抜粋)
==============================================

■頂きました“テキスト”の中から…初めて「生命の実相」を拝読しました時の事です…。
個人的に“霊の世界”…興味シンシン〜♫〜でしたので??特に上記の文章内容のところで…フト!
当時を思い出しました。

❤「霊界の世界…パワ―頂けるのでしょうか??」そうでしたらと…当時……
今は亡き「デザィナ−・ディオ−ル」の芸術感覚を〜〜〜ことさら「祈り…」にての【暗示…】
を頂ければと〜〜〜【暗示=アイデア】を、ひたすら!ひたすら!でしたかしら〜〜〜ン!
実は、その頃は(15〜17年前…ある大阪財界の方の着物のリフォ−ム)を手掛けるに当たり、
初めての挑戦で…「形見の着物…」と言われますと、尚の事〜〜><心臓がドキドキ!でしたかと?

その後!!【出来る!出来る!〜〜〜出来る!】と云い聞かせながら…途中で、多少の弱気なる
“こころ”にもなりましたが…強い“意志力…出来る!”と潜在意識に入れ込みまして…
以前より「神想観…」真剣に〜♫〜させて頂きまして“多少のアイデア…”を頂き、無事に…
「形見の着物」を、よみがえさせる事が出来ましたのです。…が?
改めて…繰り返し〜繰り返しの“言葉の力”にて…「潜在意識はのインプット」で〜〜〜す。
あの時の【真剣さ…?】しかし、今!【復興G様のテキスト】を拝読していますと…当時の
私はある面では当時の【弱気の心 = 有限…での心】でしたのかと。人間は「有限にして無限」…
と云います事は【強い意志力にての“出来る心”= 無限…での心】に成っていく!

但し、その方法として「雅春先生…言葉の重要性」を、改めて感じました次第です…。
それで…【2月開催のウエブ誌友会】の「復興G様」のこのテキストの部分を拝読しながら…
“思い出”深いモノがありましたので…此処にて、私自身の再認識も含め…
再投稿形式をさせて頂いた次第です…。                                

再合掌

2109アクエリアン:2013/03/17(日) 11:00:00 ID:eu/P8Akc
■生長の家誌昭和五十一年六月号
谷口雅春先生 法語

善き”未来運命”を創造するために


二十八日の法語

自性円満の根本運命に還って 出直すこと

「今から、お前の商売をやめて、神の商売を やれ、神ならどんな巨額な借金でも払える」と いう指導は、単に、商売や、金銭上の問題だけ ではないのである。「今からお前の生活をやめ て、神の生活をはじめる。神ならどんな困難も 切り開くことが出来る」という意味にも解する ことが出来るのである。人間が色々の生活上の 問題で困難を生ずるのは、人間の「我の心」で 利己心が出たり、欲心が出たり、煩悩が出たり して、根本運命であるところの「自分は神の子 」であるという自性円満を忘れてしまって、「 自分は猿の子孫で、動物と同じような下等なも のだ」という現代科学とやらの示す常識で”中 間運命” の不完全な生活をするからなのであ る。こうして生じた困難を解決するには、宜し く ”中間運命” の世界にマゴマゴすること なく、自分の ”根本運命” たる「人間神の 子」の実相に立ちかえって生活をやり直すのが よいのである。本源に還るということによって のみ人間は自由無碍の世界に出ることが出来、 困難が解消するのである。

二十九日の法語

毎日一定時間に神想観を修す ること

『人生を前進する』という本の第四十七章に は次のように書かれている。

「人間は神の自己実現である。最高の自己実現 なのである。自己実現ということは坐して手を 拱いていて”神の実現”が出て来るというこ とではなく、日々の行持を通して行動化してあ らわれて来ることなのである。」

われわれは日々の行持を大切に実行しなけれ ばならないのである。朝起きて洗顔を終った時 、一定時間を定めて必ず神想観をすることによ って、自分の心を神の方向へ向けかえてその日 の出発をするがよいのである。成就したい希望 があるならば、神と一体感を得た心の状態に於 いて、その”希望”を心に唱え、その希望が ”心の世界”に於いて既に成就したことを感謝 するがよい。その希望の成就が世のため人のた めになると同時に、自己の魂の向上に役立つも のであるならば、”心の世界”に於いて既に受 けて感謝したところのその事柄は屹度(きっと )現象界に投影して、実現して来るに相違ない のである。

三十日の法語

善き幸福な ”未来運命” を 創造するために

本源に心の視点を定めて、”根本運命”たる 神の子に本来定められている幸福を見、健康を 見、繁栄を視るがよい。

人間の根本運命は、神がつくった根本の御業 (みわざ)(根本業)なのであるから、それが 唯今、現象界にあらわれていようと、あらわれ ていまいと、それは消えることも無くなること もないのである。”運が悪い”という人は、” 根本運命”が悪いのではなく、神のつくった根 本の御業(みわざ)(根本業)の運行に随わな いで、自分の”我の心”で選んだ、道なき道 を勝手気儘に進んで来たからなのである。

”運が悪い”と思う人は、ここらで一寸たち 停って、自分の生活が本当の道の上を歩いてい るか脚下照顧して考えて見ることが大切なので 、自分が途中で、どんな業(わざ)をしたか、 人を憎んだことはないか、腹を立てたことはな いか、人を怨んだことはないか、憂え悲しんで 暗い心になったことはないか、栄えている人を 見て嫉妬したことはないか、自分の持ち分でな いものを羨んで欲しがったことはないか、人と 喧嘩したことはないか、恩ある人を逆に罵った ことはないか、これらのことは途中で自分がこ しらえた”中間業”であるから、一度それを 懺悔して洗い浄めてしまってから、青空のよう に曇りのない本来運命の方へ進んで行き、本来 運命の延長としての、唯、善のみ、幸福のみ、 繁栄のみの”未来運命”を創造して行くがよ い。その善き未来運命の建物を建てる地均(じ なら)しとして、一度は練成会に参加して、浄 心行を受け、以上あげたような色々の”中間業 ”を紙に書いて懺悔し『甘露の法雨』の集団読 じゅの中に、その懺悔の神と共に悪しき”中間 業”を消去してしまうがよい。

2110トキ:2013/03/17(日) 21:40:35 ID:pzhiBXgA
>>2108

 霊界編は、苦手という人も多いですが、それだけに紹介して下さり、感謝しています。
これからもよろしくお願いします。

合掌 ありがとうございます

2111トキ:2013/03/17(日) 21:41:32 ID:pzhiBXgA
>>2109


 すばらしい部分を紹介して下さり、ありがとうございます。聖典の抜粋は信徒にはとても
大事だと感じます。これからもよろしくお願いします。

2112a hope:2013/03/21(木) 07:37:04 ID:TqpbsVIM
新版 生活読本 谷口雅春先生著(日本教文社)
第十三章 こうして富をつくりましょう

◆富は神さまから来る

吾々が富むためには、富を人間のずるい考えから来るものだなどと考えてはならないのであります。
富というものの来る本源(みなもと)は神さまからくるのでありますから、
神さまのような深切な人のためになる考えを持つことによって、富むということができるのであります。

心に思うことが形に現れるというのが心の法則であります。
今どんなに貧しくとも、「自分は貧しい」などと考えてはなりません。

もし自分が貧乏であると考えだすならば、自分の心の波によって、
貧乏の波をひきよせて、自分を貧乏にしてしまうのであります。

それよりも「自分は神の子である。自分は、もうすでに金持ちである」と考えるようにしておれば、
自然とお金が集まって来るようになるのであります。

お金のことばかりでなく自分の成績でも同じことであります。
今たとい成績が悪くとも、あなたは神の子であって、無限の力がすでに与えられているのですから、
それを自分の心の磁石でひきだして来れば、きっと立派な自分の力がひきだされて来て、成績もよくなるのであります。

勉強する前に目をつぶって、

「私は神の子だから勉強はよくできる。
一ぺん読んだことは決して忘れない。
私は神の子だから、よい頭をもっているのである。
どんな難しい問題でも、すらすらとわかるのだ」

と念ずるようにしていますと、きっとどんな学課でも旨(うま)くできるようになるのであります。
(つづく)

2113うのはな:2013/03/21(木) 17:48:44 ID:HAmNivww

 神に委せよ。神が汝をつかんでいるから必ず善き事のほか起こりようがないと信ぜよ。
然らば必ず善き事のほか起こりようがないのである。
 神に手を握って貰おうと思ったならば、ほかの握っている手を離さなければならぬ。

 空手にして郷に帰るとき、掌の上に、「無限」が載るのである。
しかし神は決して人間に強制して、その悲しみまたは悩みをつかんでいる手を
離させようとはいたまわぬ。つかむも放つも人間の自由である。

 しかし一切を放って神にその空手を差出さぬば 
 神の慈手も彼の手を握ることは出来ぬのである。

『新版 光明法語(道の巻)』135ページ 谷口雅春先生著

2114六期:2013/03/21(木) 18:06:11 ID:oaDOi2n.
うのはなさん

別板版に書き込んでます。

みてくりゃれ!これで書き込み終わるから。

仕事持ちは、時間がないのでな!

2115SAKURA:2013/03/21(木) 22:41:37 ID:BEUD3XFA
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……。  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>2003>>2004>>2008>>2009>>2013>>2019>>2020>>2023>>2031>>2033>>2034>>2039>>2040
>>2041>>2042>>2044>>2045>>2046>>2048>>2050>>2068>>2069「女の浄土」投稿の続きです…。

■□ 『女 の 浄 土シリ−ズ…SAKURA論』    

===========【 第七章  あなたが繁栄を得るために 】 ==============■ あなたは何を與へてゐるか
  
 與へてゐるのに繁栄しないのは、與へる“場所”又は“對象”が間違ってゐたと気がついたときに
は、自分は“何に對して”“何を與へる”のが正しいかを考へなければならないのである。「與へる」
とは決して“金銭だけ”與へることをしないのである。“金銭だけを與へてゐて、それが「與へ
損」になってゐて繁栄の芽が吹いて来ない場合には、「自分は金銭のほかに何か與へるものを忘れて
ゐるのではないか」と反省してみるがよいのである。私たちは自分のもってる能力を、愛を、智慧
を、深切を、誠実に與へなければならないのであって、それらの最も重要なものを與へないでゐて、
「私はこれだけ献金したのに!」といふやうな思ひ上がった考へを起こしてはならないのである。
                                     (谷口雅春著)
============================================
                            
PS:「トキ様」「観覧者の皆様」へ

“痛いところ?”をついています〜〜〜ョネ!!確かに、私は【献金斜陽族…】です。…が??
此処が、当時「両親が献金した事」は、両親自身は【恩…?】をうった事を聞いたことは無いです。
…が?段々〜〜〜そうですネ!“晩年…?”でしょうか??
【生長の家…】の中身が“表面上の状態”になり【モト!献金家族…】よりも【職員中心…の
信仰状態?】になった事でしょうかしら〜〜〜ン??その様に、捉える事になり出しましてから…?

今回ですが?私が「末端信者 = 一般信者」として「2チャンネル」の此処に投稿していきますと、
本当に【分派の方達…?】は〜〜本当に「生長の家…?」と聞き直したいくらいの“不信感…”が
芽生えてきますでしょうか?晩年の両親の「生長の家の活動…」は、どう見ましても?このような
結末になる事は【価値感があったのでしょうか〜〜〜?】といった具合で見ますから「献金家族…」
は、ある面では、かなり厳しい感じを抱いてしまいますでしょうか?……なので“その様な想い?”
〜〜〜が?あるような事はないのでは??そうしますと、当然ながら
【與へることは、本当に神様に與へる根本のような気持】で與へていかないといけませんですョネ!

そう!そう!❤【與へることは?まず、祈り!!】…「早朝神想観…」から與へる事でしょうか??
この時間帯は【 朝の祈りは神様に與へる事 】になります!!かと。このように?思うのです。
…が??「トキ様」は?どの様に思われますでしょうか〜〜〜と?

❤〜それを“行…”ずる事により、すばらしい“芽が出てくように〜〜〜”思えます。??

                                       再合掌

2116NANCY:2013/03/22(金) 19:29:43 ID:BEUD3XFA
「トキ様」 へ    「観覧者の皆様」 へ
こんばんは…… ロ−マ字(大文字)の【NANCY】です。
>>1635>>1639>>1643>>1766>>1778>>1829>>1877>>1880>>1890>>1918>>1931>>1942
>>1955>>1983>>1988>>1999>>2010>>2012>>2024>>2028>>2029>>2061>>2066>>2067
>>2083の投稿の続きです。

===【谷口 清超 先生 著】===============================

■ 人は誰でも、まだ充分現われていない「 宝 」を沢山持っている

人間は誰でもすばらしい才能や愛を持っているが、それは今この世に全て顕れている
のではなく、大部分が隠されている。
ところがこれらの「宝」は、どこかにアルから、それを発見して現し出すと、とても
嬉しくなるし、有難くて、楽しくてたまらなくなる。人が“ 喜ぶ ”のはこのよう
な時である。

                       『あなたを解放するもの』より
==============================================

PS:「トキ様」・「観覧者の皆様」 ヘ

■「“宝物”探し〜〜〜?」は、やはり“ポジティブ感”になりますでしょうか? 
しかしながら…自分自身の心が“ネガティブ感…”どうしても悪感情の時は、どうしても、この
「“宝物”探し〜〜〜?」なかなかと難しく感じますでしょうかと。><
この“ネガティブ感…”の時は、きっと「心のレンズ…」曇っていますから、尚の事…探し物であり
ます「“宝物”探し〜〜〜?」は、どうしても自信がありませんでしょうかと。
皆様は〜〜〜どの様に思われますかしら〜〜〜ン!

しかし!

此処で【自己開発…】という事で「心のレンズ…」を磨きあげまして「“宝物”探し〜〜〜?」を、
こう云います時こそ…すべきなのでしょうか?
只今!自問自答しながら“トライ!”・“トライ!”……“トライ!”です。
繰り返しの“反復”が、何時かしら〜〜〜ン!必ず……潜在意識の中に入り込むでしょうかと。

只今!!私の心情に“ピッタリ”の言葉を…頂きましたかと。「感謝…」
                                    再合掌

2117NANCY:2013/03/23(土) 19:30:47 ID:BEUD3XFA
「トキ様」 へ    「観覧者の皆様」 へ
こんばんは…… ロ−マ字(大文字)の【NANCY】です。
>>1635>>1639>>1643>>1766>>1778>>1829>>1877>>1880>>1890>>1918>>1931>>1942
>>1955>>1983>>1988>>1999>>2010>>2012>>2024>>2028>>2029>>2061>>2066>>2067
>>2083>>2116の投稿の続きです。

===【谷口 清超 先生 著】==============================

■肉体とエンジン
近ごろは日本にも随分自動車がふえた。毎年新しいドライバ−が増える。しかしどんな新米
のドライバ−でも、ガソリンの代わりに水をいれたり、焼酎をガソリン・タンクにいれたりす
ることはないだろう。こんなことをすると、たちまち機械が駄目になるからである。
 ところが、自動車ではなく、自分の肉体となると、あまりよくない飲料とわかっていても、
いくらでもそそぎ込む。それならこの人々はやがて肉体という機械が故障すると判っているか
というと、そうでもない。若ければいくら酒を飲んでも大丈夫と思ったり、いくらたばこをす
っても大したことはないと考える。これは一体どうしたことだろう。
 いや、そればかりでなく、自分の飲んだり吸ったりするついでに、人にまですすめる。これ
は、自分のガソリン・タンクに水をいれるついでに、人のタンクにまで水や牛の小便をそそぎ
込むようなものではないか。
 さらにもっと健康に悪いことしている。それは人の心をつまらぬことでかき乱すことだ。心
をかき乱すのは、自動車のガソリン・タンクに牛の小便と焼酎をカクテルにしてそそぎ込むより
まだ悪い。まるで車のエンジン・カバ−を開いて、火をつけてもやすようなものである。
 もしあなたが人と争いたくなったら、この事を思い出していただきたい。その上、自分自身の
車のエンジンにも火をつけようとしているのだ。これではあなたの肉体という最高級「自動車」
はあまり長持ちしなくなるのは当たり前ではないか。
 「まさか、そんなことはあるまい」と思うかもしれない。しかしこれは本当だ。この吾々の
肉体という機械は、明らかに心によって動かされている。「右に行こう」と思えば右に行くし、
「左へ行こう」と思えば、左に動くのである。目を開こうと思えば開くし、閉じようと思えば
閉じる。
 つまりこのように肉体は心によって自由自在にあやつられる。だから心がカットすると、身
体中に火がついたようになる。そして当たり前の調和のとれた運転ができなくなってしまうので
ある。
 ことに肉体にはもう一つ、「人の心を現わし出す」という働きがある。そこで目の上の者と争
っていると、とかく頭の病気にかかりやすいし、胸の中にモヤモヤの気持ちを抱いていると、胸
の病気によくかかる。またこれと同じ理由によって、ガンとして人に譲らず自我を張り通すよう
な心をもっていると、癌にかかりやすくなるのである。
                            『幸せへのパスポ−ト』より抜粋
============================================== 

■人は「幸福へのパスポ−ト」〜〜〜誰しもが“願う…”ものです…。今日の「清超先生…の言葉」
からでも〜〜〜やはり最終的には?そうなのです〜〜〜ョネ【心…心でつくる】という事かと。

この事は「雅春先生」勿論「現総裁雅宣先生」もおっしゃっていますモノ!!!
改めて「心の訓練…心の法則」を、しっかり〜〜〜〜〜と理解しまして、正しく用いる事により
『歓び…!』『健康…!』『富…!』そして、『平和…!』…etcもたらしてくれますでしょうか?

❤“サ〜〜〜ァ!”今の瞬間からでも、益々と『心の法則…』理解・実践…かと。
                                      再合掌

PS:「トキ様」「観覧者の皆様」へ

この頃…ここFUKで日常茶飯事に見かけます光景が〜〜〜路上で歩きながら〜〜〜><
【くわえたばこ…】しかも!しかも!「若い女性・・・」も!!なので〜〜〜す。
これはTYOでは?見た事ありませんモノ。しかも【ポイ捨て…たばこ】を路面に〜〜〜です。
そして「顔の血色は〜〜〜黄疸?黒々?」当に【肉体は〜〜〜ポンコツ車】でしょうか?
周囲の人への“心くばり〜♫”が必要かと。個人的には、思うのです〜〜〜が?それに、
この頃ではTYOでは「都民の自覚」として【罰金制度…】が、潜在意識に入っていますモノ!
皆様は〜〜〜どの様に思われますでしょうかしら〜〜〜ン!「マナ−面」も考慮して…

2118SAKURA:2013/03/23(土) 19:46:26 ID:BEUD3XFA
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「女の浄土」投稿の続きです…。

■■ 『女 の 浄 土シリ−ズ…SAKURA論』   その① 
===========【 第七章  あなたが繁栄を得るために 】 =============

■ あなたは誠実と愛と深切を與へてゐるか
“與へる”には、自己の誠実を実現し、深切を実現し、深切を實現するために與へなければならない
のである。お正月に明治藭宮に参拝すると、、遠くから賽銭を、まるで河原にゐる乞食に物を投げ與
へるやうに、投げ銭をしてゐる人が多数あるのである。これなどは全く神を穢すものであって、いく
ら與へても功徳はないのである。神は誠実を欲し給ふのである。私は『生命の實相』の中に四国八十
八か所の弘法大師開基の霊場を急速力で自転車でお詣りをして、誠心もなく、ただ「納め札」だけを
して来て、自分の家に歸ってみると、自分が各霊場で奉納して来た「納め札」が全部誰かがまとめて
返して来てあったといふ神秘を書いたことがある。この神秘は、、實際あったことか、單なる傳へ話か
は知らないが、神は誠実を受け給ふのであって決して非禮を受け給はないことが表現されてゐる物語
であるのである。だから藭佛には奉納金の多寡は問題にはならないのであって、如何に自分が誠実を
もってそれを奉納したかが問題となるのである。

 だから「貧者の一燈」 といふ諺もあるのである。 貧しき者は、乏しい中から僅かな献金をする
のにも、殆ど生命懸けの誠心が要るのであるが、富める人が、貧しい人と同額の獻金えおしてゐては
生命懸けの誠心はでて来ない。そこに什一献金の必要なる意義が出て来るのであって、本當に収入の
“什分の一“ 以上の獻金をしようとするには、如何なる富める人も、誠心が動かないと出来ない
訳なのである。                         (投稿抜粋)
==============================================

PS:「トキ様」「観覧者の皆様」へ

東京在中の頃は「お正月…」には勿論のこと『明治神宮…参拝』かと。!!人が多くて、何と!
本殿までたどりつきますまでの“人の行列”には〜〜〜“ビックリ…”でした。…が?始めて上京
しました時…「賽銭…」しますまでの“長蛇の列!!”今でも“長〜〜〜い!”この思い出でしょう
かと。中には?本当に、遠くから「賽銭箱…」めがけて投げる方が、多々いらっしゃいましたで
しょうかしら〜〜〜ン??
                              つづく

2119SAKURA:2013/03/23(土) 19:48:09 ID:BEUD3XFA
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「女の浄土」投稿の続きです…。

■■ 『女 の 浄 土シリ−ズ…SAKURA論』   
■ あなたは誠実と愛と深切を與へてゐるか      その② 

>>2118 その①の投稿 の続きです。
当時の私は、あのような事をして、いいのかしら〜〜〜ンと思い?ちら〜〜〜っ!相手を見ますと、
一件風〜〜〜の裕福そうな感じでした。…が?今では、あの方達は、どうなんでしょう〜〜〜ネ?
❤さて、私も“長〜〜〜イ!行列”にならんで…賽銭したモノですが?正直申しまして……
ここ「FUK」では並ぶ事は、ありますでしょうが?その“行列…?”は、まるで幼稚園のような感じ
でしょう〜〜〜か?><それでも、遠くから「賽銭…される方」が、確かにいますから、これはやは
り“育ち…”になりますのでしょうかと思いましたが、やはり“良い事ではない?”です〜〜〜ネ?

■さて『什一献金…』は、本当に自分の気持ちの“十分の一”ですから【聖使命会費…】は毎月の
“月はじめ”が〜〜良いと言っておられました。…が?私も、この件は「守れていませんでした」…
ので、『月はじめ…に収める』ようにと??                          

私事ですが?私の教区からいつも「支部長さん…」の口座に振り込みしますが、必ず「本部…」から
一緒に提出します処の“確認用紙”が送付されてくるのですが〜〜〜これを、いつもの事ながら、
「後回し〜〜〜組」後で!後で〜〜〜!送り損ねる事が多くておそらく「教区に会費…」が支払われ
てないことになっているのです〜〜〜ョネ?この「専用用紙を記載」し、後に送りますと〜〜〜?
ようやくの事「会費支払い…」この状態になる分けなのです。でも?何だか〜変です〜〜〜ョネ!

「支部長さん」には口座振り込みしていますが「支部長さん」宛てに、その「専用用紙…」を同時に
提出しない事には?そうなのです〜〜〜ョネ【会費未納扱い組…】の状態になっているのではと…
思います。…が?なるべくこの「専用用紙…」を『毎月心こめて同時に送付』しないといけません
です〜〜〜ョネ!!【反省…】そして、更に“一年分をまとめ払い”しますと〜〜〜〜〜?これは
私も『遠くから賽銭箱に投げた事と、果たして同格と見なすべき行為なのでしょうか?』と思います。
と〜〜〜“メンドクサイ!”この感情を抱く前に【神様にお返し〜〜〜】といった気持での自分自身
の“心…”を表す事だと、今!今!本当に思いました次第です。一言〜〜〜【反省…】です!!

                                       再合掌

2120a hope:2013/03/24(日) 07:35:45 ID:TqpbsVIM
新版 生活読本 谷口雅春先生著(日本教文社)
第十三章 こうして富をつくりましょう

◆出来ると思えば出来る

まず何でも「出来る」という考えを起こすことによって、それをする力がでて来るのであります。
誰でも、「私は歩けない」と思いながら、歩ける人はないのであります。

「私は歩ける」と思っているからこそ、歩けているのであります。
心で思う力はそれを行いに現す力となって来るのであります。

あなたの成績も、富も、地位も、悉くあなたの心の思う通りになるのであります。
(つづく)

2123SAKURA:2013/03/25(月) 19:55:29 ID:BEUD3XFA
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「女の浄土」投稿の続きです…。

■■ 『女 の 浄 土シリ−ズ…SAKURA論』    

――――― 【 第七章  あなたが繁栄を得るために 】―――――
■ 食べる物がなくとも與へるものはある   

 ユニティの『繁栄』(Good Business)といふ雑誌にこんな実話が載っていたことを私は思い出す
のである。
 子供が澤山あって、貧乏で、愈々、行き詰って、その多勢の子供に食べさすお昼の食物すらない
のである。昨日から家族一同何一つたべていないのである。それでユニティ教派の個人指導部へ相談
の電話をかけたのであった。
 個人指導受持ちの女の教師が、まず、「受ける」ためには「與へる」ことが先立たねばならぬこと
を教えてくれた。「あなたは何らかの方法で、“與へる”ことをしなければならないのです。
“與へる”という最初の行動によって、宇宙にある“富”の源泉を動かす第一歩がはじまって、
その源泉の出口がひらいて、宇宙の富の源泉から供給が流れ出て、あなたのところへ返ってくるの
ですよ」
 そう教えられても、子供に昨日から食事をやることもできない貧しさで、先ず何を人に與へよと
いうのだろうか。彼女は戸惑うほかなかった。彼女は悲しそうに言った。
「それが問題なのでございます。だって、わたくし何も與へるものをもっていないんですもの」
教師は、かまわず答えた。
「いいえ、あなたは必ず“與へるもの”をもっています。あなたの周囲を見て御覧なさい。屹度あり
ます。“神様”何を人を悦ばすために與へたらよいか教えて下さい“と祈りながら周囲を見て御覧な
さい」
更にその教師は次のように続けた。
「そうしてあなたが與へた後には、すでに宇宙の“富”の源泉からの流出口はひらいているのです
か、そこから流れ出るものを、どのような形にして受けようかと、“受ける準備”をするんですよ。
即ち、心の中に子供に何を食べさせようか、台所で要るものは何と何であるか、台所にある限りの美
しい食器をならべて、それに盛るべき御馳走は何と何とであるかと、それを心の中にリストを作っ
て、“必ずこれらのものは神の無限の資源から流れ来って姿をあらわしてくれるにちがいない”と強
く信じなさい」
 ユニティの指導部の教師からこのような指導を受けた彼女は、この指導に従うほかに道はなにの
で、
「神様、人を悦ばすために何を與へたらよろしゅうございますか」と心に祈りながら周囲を見廻した。
その時、彼女は庭の雑草の中に咲いている美しい草花に目がついたのである。その次に彼女は近所に
久しく病床に横たわっている貧しい婦人の事を想い出したのである。そこで庭の草花を切って、そ
れを病めるこの隣人に持って往ってやった。病人は非常に悦んでくれたのであった。彼女は“與へる
悦び“を知ったのであった。彼女は隣家から帰ってくると、食卓をきれいに拭いて、教えられた通り
に、ある限りの美しい食器――銀器、陶器、新しいリネンのナプキンなどを食卓に並べた。そして天
の使いが今まさに、本当にこの食器に豊かな美味しい食物を並べて下さるにちがいないと信じたので
あった。

❤〜 次の項目に続きます。

2124SAKURA:2013/03/25(月) 19:57:24 ID:BEUD3XFA
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「女の浄土」投稿の続きです…。

■■ 『女 の 浄 土シリ−ズ…SAKURA論』    

――――― 【 第七章  あなたが繁栄を得るために 】―――――
■ 富を得るための三つの根本法則

 以上の富を得るための三つの法則を要約すれば、
(一)先ず“與へる”ことによって、神からの無限資源に対して供給の通路をひらくことになるの
である。
(二)心の中に既に食卓に豊かな食物があることを描くこと。供給の通路をひらいた後には“受け
る“態勢を整えなければならぬ。その”受ける“態勢が、食卓の上に、銀器、陶器等の美し
き食器を並べることによって、家族の心の中につくられたのである。子供たちはそれらの
食器が食卓に並ぶのを見ると、今にも御馳走が並ぶにちがいないと期待して喜んだのであ
った。
(三)深く信ずること。彼女は、これによって必ず必要なものは現実化して来ると信じて、買い
物すべてのリストをつくったのであった。

 ところが、間もなく彼女の家を訪れる人があった。彼女はその人を殆ど忘れていたが、以前に多
少、その人に金を貸して会ったのである。その人が急にその事を思い出して、借りた金三十ドルを
支払いに来てくれたのであった。私たちは、“無代で何物かを得ようと思ってはならないのである。
無論、電話一つで数百万円儲かることもあれば、パチンコや、競輪や、思わぬ金が入ることもある
が、それらは“形”だけの影であって、“富”の実質であるところの“人類の幸福に奉仕する”内
容“が無いために、実質のないものは、一時は大いに膨らんで美しい五彩の光を放つシャボン玉の
ように、やがて間もなく、あとかたもなく消えてしまうことになるのである。

PS:「トキ様」「観覧者の皆様」へ
本日のユニティの雑誌の実話〜〜〜当に【心の法則…】】が出来ます【富の宝庫…】は、“無限…”
に、ひろがるので〜〜〜すネ!!
さて、私事ですが?かって或るところで〜〜〜確か「四日市にての販売…」の頃の話です。…が??
そこの販売場所に参れまして、会場に足を踏み込んだその瞬間!“まさか〜〜〜”><この直感が
働きまして、此処は売りにくいと……とっさに思いましたので、販売の当日…初日の日ですが?
早めに会場に行きましてから〜〜〜まだ、他の販売員もそこにいませんから、誰もいないその場で
「大きな声…」で、いかにも、目の前に「お客様…」が押し寄せてきたという“イメ−ジを”を、
思い描きまして…“パ−トナ−”と二人して〜〜〜「大きな声」で〜♫〜 そうなので〜〜〜す!!

❤〜「いらっしゃいませ!」と…言いながら、更に「何がお好みでしょうか?」とか〜〜〜?
「今日は、何かお求めの商品が、私どものコ−ナ−にありますでしょうか?」とか……云々……
「サイズ的には?如何でしょうか?」とか〜〜〜?【イメ−ジ・トレ−ニングのレッスン…です。】
いかにも目の前に、お客様がいらっしゃるような感じで、パ−トナ−と二人で…会話を致しました
モノです…。開店までの…時間の許す限りなのです。…が?当然!二人の脳裏には【大入り…】の
お客様の…【イメ−ジ化…】で〜〜〜す。時間は“ア〜〜〜ッ”という間に、他の販売員も会場に!

それでも、二人して…誰もいないという認識にて、例え?こちらを“ジ〜〜〜ッ”と見ている人が
いて【イメ−ジ・トレ−ニング中断】になりそうな気配にもめげず…恐らく!相手の販売員の方は、
【気がふれたの〜〜〜?クレイジ−かと?】いった感じで見られましょうとも…
そこは「生長の家…」当に【心の法則】を、多少なりとも信じて?確信して?おりますから〜〜〜♫
更に、次の段階の【売上目標数字…のイメ−ジ化】を、当に!今からする“予定…”でしたが?
残念ながら【タイム…オ−バ−】に。><“モ〜〜〜ゥ!”出来ませんでした〜〜が?(少し弱気)

❤〜嬉しい事に「天の倉…扉がオ−プン!」でしょうか? この日は 確かに【大入り…】でした。
本当に、信じきっての“行…”は、「神様…」に通じますかと。 改めまして『感謝…』


                              再合掌

2125トキ:2013/03/25(月) 20:31:13 ID:QpKnnYcA
SAKURA様

 今、生命の実相第8巻を拝読しているのですが、p150の当たりで、おなじ
ような意味の事が書かれていました。やはり、そういう部分をじっくりと
読むのは大事ですね。素晴らしい御文章、ありがとうございました。

合掌 ありがとうございます

2126神の子さん:2013/03/25(月) 21:24:29 ID:???
SAKURA様
素晴らしいお話と体験をありがとうございます
目頭が熱くなりました

2127SAKURA:2013/03/25(月) 21:41:14 ID:BEUD3XFA
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……。  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。

>>2125「トキ様」の“お返事” ありがとうございます…。

本当にそうなのです〜〜〜ョネ!『生命の実相』は〜〜〜永遠に現代社会にても通じるものが〜〜〜
ありますので…「雅春先生」は、私ども信者に(個人的には“スロ−テンポ”にての理解力?)
【繰り返し〜繰り返し〜にての…『 心の法則 』の力を、教えて頂いておりましたかと。】思います。

従いまして、或る時など?こちらが忘れていました事が、今になって…また!また!
『反省の材料…』になるので〜〜〜す。当に!!!【継 続 性 の パ ワ −】でしょうかと。
本当に“潜在意識”に入れ込む事は、繰り返し〜繰り返し〜「心を切り替える=順応性」に、なる
のです〜〜〜ョネ!!【 時! 処!…その状況!にての対応出来ます処の“心の法則” 】かと。
頭で、分かっている事なのに〜〜〜?これが〜〜〜いつもの【 悪循環 】なので〜〜〜す。

私は『服飾…』をしていますから“デザイン”が浮かびますと、そこから“制作…”に入りますの
で〜〜〜つまり【でき上がった服?…頭の中でイメ−ジを膨らませて制作へ】といきますから
“デザイン画”から〜〜〜“生地(布)”を使いましての〜〜〜“制作”で〜〜〜す。この過程にて、
【洋服が完成する!!】で〜〜〜ショ!!
これと同じ事なのに【無 限 供 給 の 原 理 が 心 の 悪 循 環】になるのは?と…、
そうなのです〜〜〜ョネ!この頃では、思いますに〜〜〜
「吸血鬼・ゾンビ…黒幕デザイナ−達」を見たくな〜〜〜い!><関わりたくな〜〜〜い!と…
思えば〜思うほど〜変な風になっていきまして、連中達は、必ず!不意打ちのように〜〜〜急に
「地下鉄…車内」に現れてきます。…が?当に!“その通り〜〜”となるのでしょうかしら〜ン!
更に、この頃では「浮浪者??古物商にも見えますが??」に頼んでの〜〜“嫌がらせ”なのです。
…が?この事は??彼らは「類の法則…」と判断すべきなでしょう〜〜〜か??

■これも〜〜〜【心の捉え方?】なのですから、モ〜〜〜ゥ!どうしても「切り替え…スイッチ」が
出来ない場合は〜〜〜❤〜【実相…】に突入するには【祈り・・・神想観】になるのですかと。

「祈り」に〜〜〜「祈り」に〜〜〜【心 の 法 則 を 切 り 替 え る】これで、
ゴ−!ゴ−!サイン……かと思う次第なのです。…が?

そして、あのマザ−テレサのように【祈り…も“世のため!”そして“人のため”でしょうかと】

                                再合掌

2128「訊け」管理人:2013/03/26(火) 19:45:57 ID:???
「輝く日々のために」谷口清超

◇虎と人間

 ガツガツ要求するばかりが能ではない。それではまるで、飢えた虎のようなものだ。そこには何ら人間的な美しさが見られない。「何を求めるか」ではなく、「何を与えるか」が問題だ。与える者が与え返されるのであり、奪う者は、奪い返される。あなた自身を国に、社会に、そして神に与えるのだ。そうすれば、神はあなたに必ず、「悦び」と「生き甲斐」とを与え給う。その他、凡ゆるよきもの、よき人々、そして又愛と感動とが確実にあなたのものになるのである。                                           

◇敵と味方

 あまり遠く隔った関係の者同士には、争いは起こりにくい。ところが近しい関係の者の間には、憎しみや対立が起こりやすいのである。中ソの対立も、華国鋒と江青四人組との対立もいそして又党内左右の対立も、親子喧嘩も、夫婦喧嘩も、みなそのようなものだ。だから、「憎い」という関係は、同時に親しくなれる仲間同士の関係を意味している。もしあなたに「憎い人」がおれば、その人はあなたにとって、「味方」となりうる筆頭候補者だと思え。最も害を与える者が、実は最も大いなる救いを与えてくれる〝友人〟なのだ。

◇あなたの分岐点

 あなたの中には全てがある。あなたの中にないものが、あなたの周囲に現われるはずがない。あなたが、誰かをバカだと思えば、そのバカはあなたの中にあるのだ。あなたが誰かを「偉い人だ」と思えば、その偉さや立派さは、あなたの中の、「あなたの偉大さ」なのである。あなたは、あなたの中のバカをのさばらせるか、それともあなたの中の真のあなた、即ち「神の子」の素晴しさを発展させ、周囲の人々を讃嘆しつつ生きぬくか。これがあなたの運命の分岐点だ。

『理想世界』誌(昭和52年5月号)より謹写――
http://blog.livedoor.jp/con5151/archives/65721891.html

2129NANCY:2013/03/26(火) 20:31:07 ID:BEUD3XFA
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こんばんは…… ロ−マ字(大文字)の【NANCY】です。
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===【谷口 清超 先生 著】==============================

■心を活性化する
 人は何事をしても、その心が仕事に現れてくる。仕事というよりも、生活全般にと言った方が
よいであろう。従って主婦が料理を作っても、洗濯をしても、買い物に行っても、育児をしても、
彼女の心がそこにあらわれ、彼女の「作品」を作り出しているのである。
 
例を料理にとると、ぞんざいな心の人は、料理もそんざいな作り、最新式の自動炊飯器を使っ
てもコゲメシを作ったり、生にえごはんを作る。それは水加減を間違えたり、炊飯器の予約時間
を間違えるからである。その上、おかずの塩加減が、一向に定まらない。中に砂をいれたままで
アサリのミソ汁を作るということもよくある。
 ところが心が感謝と悦びにみたされてくると、「この料理如何で、夫が死んだり生きたり、子供
が健康になったり病気になったりする」
 と思うから、力一杯、明るい行きとどいた心で調理し、気持のよい食事が整うのである。その上
さらに夫婦の心がピッタリしていると、夫が「これがほしいな」と思うものも、妻が作りたくなる
から実に不思議である。
 料理ばかりではないが、食事はことに人間生活の原点であるから、その影響する所が大きい。
もし妻がいいかげんな食事を、インスタントラ−メン的に作つていると、家族全体の健康が蝕まれ、
ついには夫が早死したり、子供が発育が充分でなくなったりする。そうなって始めて医者にかかっ
ても、医者は食事のことまで「過去にさかのぼって調整」してはくれないから、中々治らない。
健康は永い間かかって築き上げた城の石垣のようなものであるから、それを根もとから取りかえる
のは大変である。
 
健康ばかりではなく、心もまた多くの時間をかけて作り上げて行く。しかし心はその奥に「神性・
仏性」を宿している。そして又これこそが人間の「本心」であるから、この心を目醒めさせ、活力
化させると、あとからくっつけられたゴミや塵埃のような「迷い心」は、いつとはなしに消えうせ
る。このような心の大浄化を行うことが何よりも肝腎であり、それをやらないでいて、ゴミの上に
又塵埃をつみかさね、見せかけや体面や、上つらの胡麻かしばかりをしてお茶を濁していると、や
がてトンデモナイ事が起って、大いに苦しみ悩むのである。
 
そのトンデモナイ事は、家族の難病、失業、倒産等色々あるが、不倫の愛人がいたという発見も
ある。そのような時、相手をいくら憎み、とがめ、うらみ、罵っても、不幸は深まるばかりである。
けれども唯一絶対の解決法がある。それは正しい信仰によって「神の子・人間」の本心を目ざめ
させ、神の子の愛をもって、悦びと、祈りと、和顔とに徹底するという生き方である。
                         『幸せへのパスポ−ト』より(一部抜粋)
==============================================

■「トキ様」・「観覧者の皆様」へ
本当に「清超先生…」の言葉通り〜〜〜ですかと。 全ての物事に際しては〜〜〜【心…】から
始まりますモノ……!やはり思いますに〜〜〜
「日常生活…」での恨み?憎しみ?恐怖?……etc…このような“悪感情”は精神作用としては、
マイナスになり、人生も全てが〜〜〜悪い方向へと〜〜〜流されて ><

それでは〜〜〜?『 如 何に 生 き る べ き か ? 』と……

それは〜〜〜?
新しい思想「人間・神の子」の姿をもって私ども各自の実際の生活に生かされる……つまり!!
❤〜【 神の子の愛をもって、悦びと、祈りと、和顔とに徹底するという生き方 】かと…。
一日も早く…持続性をもちまして「生長の家…らしく?」の生活を邁進していく事を…
ここで、もう一度「決意…」を新たに〜〜〜トライ!で〜〜〜す。
本日の“清超先生の言葉”に…【感謝…】
                                       再合掌

2130SAKURA:2013/03/27(水) 20:39:01 ID:BEUD3XFA
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ  「神の子様(ブル−色)」 ヘ
こんばんは……。  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。

>>2126 「神の子様(ブル−色)」 ヘ
うれし〜〜〜イ!“お言葉”を頂きました。【 感謝 】です…。(遅くなりまして…ごめんなさい)

振り返りますと〜〜〜随分「若さのいたり??」無鉄砲な事を〜〜〜他にも多々ありましたかと!
今!思い出しますと〜〜“冷汗…”かと。
【あの頃の“成りきること…”此のパワ−】を今!再び!よみがえれ〜〜〜〜“パワ−”です。

そして、今後も〜〜〜閲覧した頂きましたら〜〜〜“幸 せ 一 杯!!”の「SAKURA」です。

                              再合掌

2131a hope:2013/03/28(木) 07:33:57 ID:TqpbsVIM
新版 生活読本 谷口雅春先生著(日本教文社)
第十三章 こうして富をつくりましょう

◆自分の頭は好いと考えなさい

あなたは「自分の頭が悪い」と考えることも自由であります。
又「自分が頭が好い」と考えることも自由であります。
そして、思い通りになるのであります。

あなたは自分の体を丈夫だと考えることもできます。
そうすると体が自然に丈夫になります。

あなたは自分が弱いと考えることもできます。
もしそう考えれば、自分の体が弱くなります。

あなたは自分が頭が好くなりたいですか。
それなら、「私の頭は好い」と常に考えるようになさいませ。

あなたは体を達者にしたいですか。
それならいつでも「私の体は達者だ」と考えるようになしませ。

心に思う力ほど強い力は他にないのです。
肉体の力というものは、どんなにあるように見えても、
心がなければ肉体は動かないのであります。

死骸の動いているのを見たことがないでしょう。
死骸には心がないからです。

どんなによく肥った筋肉をもった人でも、「もう負ける」と心が思ったら、
もっと痩せている人にも負けるのであります。

だから吾々は決して自分を「弱いもの」と考えますまい。
「私は神の子だ。強いのだ。何でもできるのだ」と考えるように致しましょう。

医者に見てもらえば、どうしても治らない足の立たない子供が、
「私は神の子だ。私は達者なのだ。歩けるのだ」と常に心でとなえるようにして、
自分の心の中に、もうすでに歩いて、
愉快にとびはねている自分の姿を毎日思うようにしていましたら、
到頭(とうとう)歩くことができたという話もあります。

自分を体の弱い、力のないつまらないものだと考えれば、その通りになるのであります。
自分は体の丈夫な、頭の好い、立派な人間だと思えば、その通りになるのであります。

あなたが心に思った通りのものが、あなたの姿になるのですから、
これから必ず善いことばかりを心の中で考えましょう。
(つづく)

2132トキ:2013/03/28(木) 10:37:21 ID:30rDhisw
SAKURA様、a hope様

 いつも素晴らしい御文章を書いて下さり、本当に感謝しております。

 多くの閲覧者様にとって、朝の真理の補充になると思います。
応援しています。

合掌 ありがとうございます

2134NANCY:2013/03/28(木) 20:13:30 ID:BEUD3XFA
「トキ様」 へ    「観覧者の皆様」 へ
こんばんは…… ロ−マ字(大文字)の【NANCY】です。
>>1635>>1639>>1643>>1766>>1778>>1829>>1877>>1880>>1890>>1918>>1931>>1942
>>1955>>1983>>1988>>1999>>2010>>2012>>2024>>2028>>2029>>2061>>2066>>2067
>>2083>>2116>>2117>>2129の投稿の続きです。

===【谷口 清超 先生 著】==============================

■心で造り出す      その①
人間はすばらしい「心」をもっている。この「心」で自分の運命を、どのようにでも操縦する。
たとえば、右に行こうと思えば右にいけるし、寝ようと思えば、ねむれるし、山に登ろうと思えば、
登山することができる。
 
それと同じように、自分の肉体も、どうにでも支配することができるのだ。強くなりたい人は
強くなれるし、病気をしたい人は、病気ばかりするようになる。少しなまけて、
「こんなに忙しいのはいやだ。ゆっくり一日中寝ていたい」
と思うと、すぐカゼを引いて、「一日中寝る」ようになるのは、そのせいである。

 しかし、「心」で自由に支配できるといっても、やはりそれには練習がいるし、努力もいる。
ボ−ツとして何の努力もせず、なまけながら「支配する」ということはできない。それでは人間を
「なまけもの」にするばかりだからである。人間は本来「神の子」で、努力家で、しっかりした心
の持ち主であり、多くのことをやりぬく力を持った人格だ。

 病気を治す場合も同じである。「心」で自由にできるがそれには努力が必要である。というのは、
病気をつくり出したものも「心」であるから、もとの「心」を変えなければならないからだ。

 ではどんな心が病気をつくるかというと、第一に「病気になりたい心」即ち「病気でいた方が
都合がよい」という心である。

 次に「自分は弱いものだ」と思う心である。小さい時から「そらカゼを引きますよ」「お腹をこわ
しても知りませんよ」などと言って育てられると、いつの間にか、「自分は弱いカラダである。すぐ
カゼを引き、お腹をこわすものだ」という信念が出来上がる。
 この心が、病気を次々に作り出して行く。だから、そのような間違った心を消し去り、

その代わりに、
 「私は神の子だ、無限力だ、強い、丈夫な人間だ」
 と思う“練習”をしなければならない。
さらには又次には、色々なことをクヨクヨ悩んだり、腹立てたり、心配していると、よく病気
になる。そのような「暗い心」が、不調和な肉体を作り出す。

                      つづく

2135NANCY:2013/03/28(木) 20:17:39 ID:BEUD3XFA
「トキ様」 へ    「観覧者の皆様」 へ
こんばんは…… ロ−マ字(大文字)の【NANCY】です。
>>1635>>1639>>1643>>1766>>1778>>1829>>1877>>1880>>1890>>1918>>1931>>1942
>>1955>>1983>>1988>>1999>>2010>>2012>>2024>>2028>>2029>>2061>>2066>>2067
>>2083>>2116>>2117>>2129>>2134の投稿の続きです。

===【谷口 清超 先生 著】==============================

■心で造り出す     その②

「肉体は心の影」
 
心は肉体の影となってあらわれてくる。いわばオ−トメ−ション的に、自分の心に似た肉体が
作られて行く。それは無意識の力でそうなるともいえる。
 だから私達は、いつも強く明るく愛ふかくい心をもつようにし、毎日コトバでそのような明るい
自分だと唱え、日々調和した心で暮らすようにしなければならない。日々の「神想観」がとても
大切である。  (一部抜粋)
                      『幸福へのパスポ−ト』より
==============================================

■本日の「清超先生…の言葉」も〜〜〜♫〜〜〜
「雅春先生…」が私どもにご指導して頂きましたように【人生は心で支配せよ】という事でしょう
かと。更に、この事は「現総裁雅宣先生…」の著籍…「心で作る世界…」でも述べられております。

此処で「雅春先生…書籍の言葉」からの抜粋です…。(下記にて)

−−−「抜粋文」−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
当に「『悪』も『病気』も、一切は唯心所現であるから、現われている限りは存在する」と云った
ような、アルとアラワレルとの重大な混同をホルムスがしているのも気になるのである。…云々…
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

そうなのです〜〜〜ョネ!特に『病気』などの時には、どうしても?悪く〜悪く〜ネガティブ感情に
なりやすいですモノ!!こういう時こそ『よくなるしかない!!よくなる前ぶれ!!』という物事の
捉え方を、強く〜明るく〜ポジティブ感情に持っていくべきかと。

❤〜これが当に『「私は神の子だ、無限力だ、強い、丈夫な人間だ」……【アル…という断定!】
この根本が『生長の家…御教え』です〜〜〜ョネ!今日も「神の子」……明日も「神の子」……
永久に〜〜〜強く〜〜〜【神の子…人間】この事を、無意識にも【自覚・行動】出来ますように、
しっかりと“潜在意識”の奥〜奥〜にインプット!!頑張りま〜〜〜す。

                                 再合掌

2136トキ:2013/03/28(木) 20:40:56 ID:30rDhisw
>>2135

 谷口清超先生のご聖典も素晴らしいですね。これからも
よろしくお願いします。


合掌 ありがとうございます

2138トキ:2013/03/28(木) 21:14:10 ID:30rDhisw
それで思い出しましたが、義春さんが、亡くなる前に、高級霊界で、谷口清超先生を中心にして、
弟子達が円になって取り囲み、今回の紛争の平穏な解決を祈っている、という事を言っていたよう
です。

 亡くなる前の義春さんは、肉体が衰弱したので、霊的な能力がかなり強くなっており、自身が
「霊界」の下見をしてきた、とも話していたようですから、十分にあり得る事だと思います。

 聞く所では、谷口雅宣先生も、他の谷口家の御兄弟姉妹も、お父様を深く尊敬されていたみた
いです。それだけに、残念なことです。

 今回の事は、総裁だけに責任があるのではないと思います。他にもいろいろな要因があった
と思います。また、解決は真理にのっとってなされるべきだと信じています。

 話し合えば、お互いに理解できる内容だと確信しています。高級霊界での
祈りは届くと信じています。

2139a hope:2013/03/29(金) 06:34:20 ID:TqpbsVIM
新版 生活読本 谷口雅春先生著(日本教文社)
第十三章 こうして富をつくりましょう

◆正直をこちらが出したら正直が返って来る

「正直者が損をする」と云いますけれども、それは損をするのではなく、
こちらが正直に所得額を申告すれば、向うは正直にそれに対して税金をかけて来るのであります。

正直を出したら正直が返って来るのであります。
与えただけのものが返って来ると云うのが心の法則であります。

今あなたが、どんな地位にいるかと云うこと、又は今あなたがどんな成績を挙げているかと云うことは、
あなたが今迄に何を自分が「出した」かということの総計であります。

だから「正直」を出しただけでは必ずも「富」とはならないのであります。
(つづく)

2140解説者:2013/03/29(金) 09:22:00 ID:???

トキ様

>>2138

本流派のなかには現教団の混迷と凋落は
「谷口清超先生に原因がある」と考えている人たちもいるようです。

http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&amp;mode=res&amp;log=1332

「学ぶ会」の誌友会の画像もアップされています。
参加者の手元には日本青年協議会の月刊誌「祖国と青年」も写っています。
それも一人一冊ずつ。

これは「学ぶ会」=日本青年協議会ということでしょうか???

2142NANCY:2013/03/29(金) 19:48:13 ID:BEUD3XFA
「トキ様」 へ    「観覧者の皆様」 へ
こんばんは…… ロ−マ字(大文字)の【NANCY】です。

>>2136>>2138 の「トキ様の言葉…」ありがとうございます…。(遅くなりまして…)
こちらの方こそ〜〜〜拝読して頂いております事に…感謝申し上げます…。(冷汗)

私の方が…!私の方こそが…!『真理の勉強…』を此処2チャンネルでさせて頂いておりますかと。

そして「>>2138」の「トキ様の投稿文…中」…からですが?

−−−「抜粋投稿」−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
>>今回の事は、総裁だけに責任があるのではないと思います。他にもいろいろな要因があった
と思います。また、解決は真理にのっとってなされるべきだと信じています。

 話し合えば、お互いに理解できる内容だと確信しています。高級霊界での祈りは届くと
信じています<<              (抜粋文)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

■そうです〜〜〜ネ!『祈り…』にて…神様からの“メッセ−ジ”をキャッチ致しまして…
「神様の御心…」のなすがままに〜〜〜必ず!こういう状況でも『解決…』ができますでしょうかと。

                              再合掌

2143SAKURA:2013/03/29(金) 20:13:32 ID:BEUD3XFA
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 
こんばんは……。  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>2003>>2004>>2008>>2009>>2013>>2019>>2020>>2023>>2031>>2033>>2034>>2039>>2040
>>2041>>2042>>2044>>2045>>2046>>2048>>2050>>2068>>2069>>2115>>2118 >>2119>>2123
>>2124 「女の浄土」投稿の続きです…。

■■ 『女 の 浄 土シリ−ズ…SAKURA論』    

――――― 【 第七章  あなたが繁栄を得るために 】―――――
■ 誰に? 何時? 何の目的で?

 以上の実例によって富を築くところの根本法則は、先づ “與へる”ことにあることが明らかに
なったのであるが、“與へる”ということも、簡単明瞭なことのようであるが中々むつかしいので
ある。誰に、何の目的に使うために、何時與へるかということが大切なのである。即ち、人時處の
三相應を得なければ、與へたことが却って無駄になるどころか、仇になって還って来ることもあり
得るのである。「自分が今持てるもの」を與へるといっても、一切の本源は“神”であるから、本来
自分のものといふものは無いのであって、神から預からせて頂いてゐるのであるから、無駄なとこ
ろへ消費しては、神から財を委託されてゐる人間として神に叛くことになるのである。神から預ら
せて頂いてゐるものは最も効率高きところに、そして人類のためになるところに與へなければなら
ないのである。
                         (谷口雅春著)
◆−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−◆

PS:「トキ様」・「観覧者の皆様」へ
■本当に〜〜世のため!人のため!にと…?この“心からの呼びかけ…”は、いつのまにか?
何処かへ?〜〜飛んでいってしまったの?このような人生での日々の『心模様…?』でしょうかと。
私も!もう一度〜〜〜今かだら…明日へと飛び立ちま〜〜〜す!
『バタフライ〜 ♫ 〜 バタフライ〜 ♫ 〜 バタフライ〜 ♫ 〜名もない蝶ちょ…』

そうです〜〜〜ョネ!「行動…」にでるには、やはり
【世のため!人のため!に、今現在の私で、どれだけのことが出来るのでしょう〜〜〜か?】此処が
【ポ イ ン ト !!】になるのです〜〜〜ネ??
今からの私は、どれだけの【愛…】を〜〜〜と!!もう一度見つめ直す事にと〜〜〜【原点…】に
立ち戻り〜〜〜冷静に!判断して「行ずる…!!」必要がありますのでしょうかしら〜〜〜ン!
此処が、今の私の“分岐点…”でしょう〜〜〜か??

本当にFUKに帰郷してから、毎日!毎日!が〜〜〜「吸血鬼・ゾンビ…の尾行」に、“神経…”が、
ピリピリ〜〜〜の状態でしたのです。このような「現象人間の行動を見ていく…」と、果たして?
【相手に対し〜〜〜“愛を与える此の行為”は??何処までも〜〜〜何処までも〜〜〜続くのかと。
ところが、気がついたのです…。つまり、私自身の見方の角度を変えていくべきでは〜〜〜と!
そうしなければ〜〜〜私自身も「何時までも!現象的に見る人間」である事と…!!
この「気づき・・・」をいただきましたので〜〜〜まずは、
【心から〜〜〜与えよ!さらば…与えられん】でしょうか〜〜〜??まだ、正直言いますと、
【頭でっかち…。の部分が〜〜〜】まず!今の私にとりましては【別の形での行動再開!!】です。

                                 再合掌

2144青協会員:2013/03/30(土) 11:22:29 ID:0PL7dBUs


“生長の家「本流復活」について考える”掲示板管理人“トキ”殿



 私は、日本協議会・日本青年協議会の古くからの一会員ですが、貴殿がインターネットに開設されているサイト(http://jbbs.livedoor.jp/bbs/lite/read.cgi/study/11346/1322022766/l30)に、適法な根拠を示すことなく事実無根の下記の内容を記載された行為は、日本青年協議会及びその創設者について、悪質な虚偽の風説を流布し、その信用を毀損するものであり、かつ虚偽の事実を適示して名誉を毀損するものでありますから、刑法第233条及び第230条により、三年以下の懲役等に処せられるべき重大な犯罪であります。

 私は、貴殿が即時に謝罪と削除をしない場合、日本協議会・日本青年協議会の会員として、直ちに刑事告訴を行うこと及びプロバイダに対して貴殿の住所氏名を法令に基づき開示するよう、直ちに責任者に進言し、協力する弁護士等を紹介する決意であります。

 なお、古くからの生長の家信徒の方々にも確認しましたが、生長の家教団が、日本青年協議会との「絶縁」宣言を、聖使命新聞や神誌に掲載したことなどはなかったそうです。

 また、私自身は、古くからの『祖國と青年』の愛読者ですが、“谷口清超先生の法灯継承も否定する”ような文章を同誌や他の刊行物で読んだことはまったくありません。



                  記



2141:トキ 2013/03/29(金) 10:09:11ID:xFlQ.Ll. >>2140



日本青年協議会については、私は意識的に距離を置いて来たので、詳細は知りません。ただ、聞く所では、かって生学連で大活躍したK氏が創設し愛国運動に活躍しましたが、生長の家の組織のラインやお金を勝手に使って日本青年協議会の活動をしたりするなど、生長の家の組織に弊害が出たので、教団が「絶縁」宣言を出したみたいです。



 そういう経過や、また生長の家の政治からの撤退もあり、日本青年協議会は、谷口清超先生の法灯継承も否定する立場にあるみたいです。



以上

2145「訊け」管理人:2013/03/30(土) 11:27:52 ID:???

>>悪質な虚偽の風説を流布し、その信用を毀損するものであり、かつ虚偽の事実を適示して名誉を毀損するものでありますから、刑法第233条及び第230条により、三年以下の懲役等に処せられるべき重大な犯罪であります。<<


 総裁が大東亜戦争を「全否定した!」とかも、該当しますかね?(熊本鎮台殿・・・・)





2146トキ:2013/03/30(土) 14:39:06 ID:9j9358Jw
>>2144

青協会員 様

 ご投稿、ありがとうございました。お返事が遅れた点を御詫びします。

 先ず、「絶縁宣言」をご存じないとしたら、あなたは生長の家のことをご存知ではないと思います。
 聖使命新聞や生長の家の定期刊行物に掲載されないが、幹部へは通達される事項は多いです。その点を
ご存知がないようですね。

 現役の活動者は、「日本協議会・日本青年協議会」との接触を持たないように厳しく命令をされていましたし、
現在もそうです。幹部がかかわりを持つと、厳しい処分を受けました。もし、私の言う事が信用できないのなら
お近くの生長の家の教化部か道場に行って、「祖国と青年」を配ってみたら、すぐに分かると思います。

 つぎに、名誉毀損罪の成立について。

 私が上記の投稿の根拠にしたのは、谷口雅宣先生が、講師会部部長をされていた時代の「講師会会報」に掲載
された御文章です。その中で、名指しはしませんが、見る人がみたらすぐに分かる表現で、「ある団体」が
生長の家の組織のラインを利用して活動をしていた事や、組織のお金を流用していたという記述が書かれています。

 さらには、「貴方への手紙」という文章には、さらに詳細な内容が書かれていますが、これは無署名ですから、
証拠にはしません。

 そこで、青協会員 様にお伺いしたいのは、上記の講師会会報は、広く生長の家の地方講師に配布されている上、
宗教法人 生長の家の公式の文書です、すると、もし虚偽の事実だとしたら、「日本協議会・日本青年協議会」の
名誉を毀損するので、刑事告訴の対象になり得ます。当時、「日本協議会・日本青年協議会」の関係者が宗教法人
生長の家または執筆者の谷口雅宣先生を刑事告訴した事実はあるのでしょうか? もし、そういう事実がなるのなら、
私は、御詫びして、取り消します。しかし、私は、そのような事実を知りません。

 私は、上記の通り、現在は総裁にあり、当時は講師部長をされた谷口雅宣先生が、講師会会報という公式
の文章に書かれたご文章を根拠にしました。すると、もし、事実関係が正確なら、これは名誉毀損罪の構成要件に
該当しませんから、犯罪にはなりません。もし、事実関係が不正確でも、根拠をしめした以上、刑法230条の2の
第1項と第2項により、違法性が阻却され、犯罪は成立しません。

(つづく)

2147元々:2013/03/30(土) 15:01:39 ID:???

 統一教会との関係が噂されるTJよりも

 健全だとおもいます。

2148トキ:2013/03/30(土) 15:13:02 ID:9j9358Jw
>>2146

 法律に詳しい友人から指摘があり、訂正をいたします。

 事実関係が正確なら、刑法230条の2の第1項と第2項により、犯罪が不成立。
事実関係が不正確な場合でも、相当の根拠があるので、いわゆる事実の錯誤(
刑法38条)により、違法性が阻却され、犯罪不成立との事でした。

 結論には変化はありませんが、説明が不正確でした。御詫びして、訂正します。

(つづく)

2149トキ:2013/03/30(土) 15:14:37 ID:9j9358Jw
>>2147

 私はよく知りませんでしたが、今回、この文章を書くので、知り合いから「祖国と青年」を借りて
読みました。何十年もこれを続けているのは、すごいと思います。信念は強いと思うし、素直に敬意
は表したいと思います。

2150トキ:2013/03/30(土) 16:08:01 ID:9j9358Jw
(つづき)

 「日本協議会・日本青年協議会」が、谷口清超先生の法灯継承を否定しているか、どうかですが、
教団側は、少なくても、そういう認識でいるようです。かなり多数の本部職員から、そういう発言
を聞いています。また、ある会合に出席したときに、「日本協議会・日本青年協議会」の出席者
が複数おられ、谷口清超先生を名指しで罵倒していた場面に遭遇しています。

 私は、そういう経験から、日本協議会・日本青年協議会」が谷口清超先生の法灯継承を否定している、と
書きました。

 ただ、それが、正確ではないと言うのなら、もちろん御詫びして訂正する事にやぶさか
ではありません。ぜひ、責任ある立場の方が、谷口清超先生の法灯継承を否定している、と
言うのは間違いである、と宣言をして下さい。

(つづく)

2151「訊け」管理人:2013/03/30(土) 16:11:33 ID:???

『人生の秘訣365章』309頁より謹写――

◇宗教家よ口に剣をとること勿れ

 世界の平和は、神を信ずる宗教ですら宗派争いをして激しく他の教団の悪口を宣伝して自分の宗派を拡大しようというような劣悪な教団が幅を利かせているような有様では、到底達成することはできないのである。この山にてもあれ、この教会にてもあれ、この寺院にてもあれ、本尊の名前は異なれども、等しく宇宙本源の唯一の神を礼拝するようにならなければならないのである。キリストは「剣をとる者は剣にて滅びる」とペテロに教えているのであるが、この剣は決して、鋼鉄をもってつくられた剣だけのことではないのである。烈しく他教団を悪口をもって斬りまくる宗教人は、やはり剣をとる者である。神は愛であるのに、愛をもって一切宗教を包容することができずに、攻撃をもって自分の勢力圏の拡大を願う如きは、結局、我執と貪欲と権勢欲によって掉り廻されているのであって、そのような者は宗教界の風上にも立つことができないものである。

2154「訊け」管理人:2013/03/30(土) 16:53:32 ID:???

>>現在の生長の家の言い分が間違っていると思うのなら、それを堂々と主張す
ればいいのです。それを、刑法を持ち出して、言論そのものを封印するやり方は、私は尊敬できないです。<<

 チェスト!



 ・・・・いや、もうホント、やや「マジメな話」をして良いですか?

 いや、「著作権」ですけども、もう「教団に返してよ」と(笑)。そんな話です。・・・本日、この事を強く思う出来事が、あったのです。

 それは、「子供向けの練成会」に出くわした、そんな時の話なのですが、「『生命の實相』をサ、もう、この子らに学ばせてあげなよ」と・・・・。今日は、清超先生の本を購入するため教化部に、行ったんです。そしたら、子供がダーッ、とおりまして(笑)。25−30名くらいでしたか。まあ、ウジャウジャいるわけです。しかも、どの子も(お世辞ではなく)キラキラしておりまして・・・・なお、暴れん坊は、たったの「5名」でした(笑)それは余談。さて・・・・・

 ・・・・・私はこの光景を観て、「これだけの数の子が雅春先生を学ぼうとしてんのか!?」と、感動したんです。なかには「自分から行きたい」と云った、小学生もいた様子です。そして、その時です。
 この子らの、キラキラ輝く瞳を観ている際にですね、こんな(キャバ廃人な)私でも、「・・・・『生命の實相』をサ、もう、この子らに学ばせてあげなよ」と・・・・・(現総裁が「抹殺してて!」とか、このタイミングではよしましょうねw裁判前まではええ、ハッキリと『生命の實相』ですが、使われていたわけであり・・・・なーーーにが「抹殺」ですか。)

 ・・・・いやもう、可哀相ですよ、「あの子」ら。

 裁判さえ無けりゃ、まあ、『生命の實相』を学べたわけでしょう?(よくワカンナイけど。子供の「練成会内容」ね)

 ・・・・それでもう、私なんかはこう、考えるのです。いやあの、「著作権」ですけどももう「教団に返してよ」と(笑)。なんか、いくら大義名分あれども、あの子らを見てみましょうよ。いや、ホント可哀相じゃない?



 
追伸

 ところで、以下は余談です。白鳩姉さんと立ち話したんですが、なんでも「王さんのお母さん」と、「大鵬のお母さん」は生長の家だったとか(!)これ、ホントなんですかね?また、サッカーの本田圭祐と長友佑都ですが、「子供の頃に練成会に来てた」とか(!)

 ・・・いやトキさん、これらって、ホントの話?(つづきは「部室板」あたりで)

2156 NANCY:2013/03/30(土) 18:04:14 ID:BEUD3XFA
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……   ロ−マ字(大文字)の【NANCY】です。 

■横スレにて…失礼致しますが〜〜〜?

どうしても「疑問…」に思いますのは〜〜〜?
此処の【聖 典 板】にて投稿されていますのは〜〜〜個人的には“オカシイ?”のでは〜〜〜
思うのです。…が? 重要な内容でもあり〜〜〜別の【ボ−ド板…】かと。

具体的には……
■上記の「>>2144の投稿…」に関しまして〜〜〜そして、
此の事は、前回の投稿の「>>2140の投稿」が“キッカケ”と?なりましてなのでしょうかと。

前回も此処の【聖典引用 板】にて、多々なる討論とかが?ありましたが…
今回の【上記の投稿内容は…別板?組織板?…】にての内容かとも〜〜〜思う次第です。

ここでの「討論…」は、【聖 典 板…】という事で、本来は“問題外…”と思います。…が?
                               再合掌

PS:
仮に此の上記の投稿者の方々が…【分派…の方々の幹部の皆様】でしたら〜〜〜?思いますに?
やはり上に立たれます方は〜〜〜【ボ−ド板…の選択にての投稿…】も冷静に見て頂くべきかと?

■【谷口清超先生の法灯継承を否定…云々…】他にもありますようです〜〜〜が?

それを一般は閲覧しまして【分派の会…】に対しましての〜〜〜
【賛 否 両 論】の考えになりますかと。このように思うのですが?

2157トキ:2013/03/30(土) 18:18:06 ID:9j9358Jw
>>2156

 ご指摘、ありがとうございました。

 その通りですね。申し訳ありませんでした。以後、別の板に書きます。
よろしくお願いします。

合掌 ありがとうございます

2158SAKURA:2013/03/30(土) 18:49:21 ID:BEUD3XFA
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 
こんばんは……。  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>2003>>2004>>2008>>2009>>2013>>2019>>2020>>2023>>2031>>2033>>2034>>2039>>2040
>>2041>>2042>>2044>>2045>>2046>>2048>>2050>>2068>>2069>>2115>>2118 >>2119>>2123
>>2124>>2143 「女の浄土」投稿の続きです…。

■■ 『女 の 浄 土シリ−ズ…SAKURA論』    
――――― 【 第七章  あなたが繁栄を得るために 】―――――

■ “ 富 “ を排斥する心をもってはならぬ    その①

 私は嘗て、 “富” を富子さんに譬へて、富子さんには両親があるのであるといふ話をしたことがあ
る。父親は 「出して入れてやる働き」 であり、 「種を蒔く働き」 である。しかしいくら種を 蒔いて
も、 「受ける働き」 が缺乏(けつぼう)してゐては富子さんは懐妊することはできないのである。それは
石地に種を蒔くやうなものであって實(みの)りがないのは當然(とうぜん)である。高潔なる人士で「自分
は與へたいのであって、報いを受ける気持などサラに無い」といふやうな人があるが、それは清貧をよろ
こぶ人であって、一生獨身(どくしん)の男子みたいで富子さんを産むことができないのである。このやう
な気持の人は清らかではあるけれども、清貧を固く心に握ってゐて、神から無限の供給を受けようとしな
い人である。こんな人が事業に手を出すと、屹度失敗して損をするのである。
                                            (谷口雅春著)
◆−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−◆
                                       次回に続く

PS: 「トキ様」・「観覧者の皆様」 へ
■私…一個人での“尺度”からの捉え方なのです〜〜〜〜が?
【何が正しいのかは〜〜〜、それは「神様…」に、お尋ねする事でしょうかと??】………【祈り…】ての答え!

最近では、本当にいつも此処にて投稿しますが?【尾行…】が多くて困ってしまいます。いつも投稿します
「黒幕デザイナ−」の存在は、かなり〜〜〜の【悪…そのもの】ですかと。後継者に「孫娘…」に〜〜と!
さらに【本人の名声・を……“永遠性〜〜”に、後世に残したいのでしょうか??】

此処でブレイクしますが?皆様も御存じの【ココ・シャネル…】は、戦後のことですが「パリ…」で〜〜〜
≪ファションショ−≫を開きました時のこと、詳しく申しますと「戦争…」という時代背景にて、一時【中断…】
しておりましたのです。…が?戦争が終結しまして…人々は、また!新しいデザインを〜〜と期待しまして!!
ですから、当時の「マスコミ」更に「シャネル・ファン…」は、期待に胸を膨らませて〜〜≪ファションショ−≫を!
【結果…】は、また〜また〜“同じラインの服…”の発表でした。しかも…><戦前に発表したデザインです。
ですから【パリの人々は失望】し〜〜〜、当時の「マスコミ」からも??〜〜〜です。…が?

                                          つづく

2159SAKURA:2013/03/30(土) 18:51:24 ID:BEUD3XFA
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 
こんばんは……。  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>2003>>2004>>2008>>2009>>2013>>2019>>2020>>2023>>2031>>2033>>2034>>2039>>2040
>>2041>>2042>>2044>>2045>>2046>>2048>>2050>>2068>>2069>>2115>>2118 >>2119>>2123
>>2124>>2143>>2158 「女の浄土」投稿の続きです…。

■ “ 富 “ を排斥する心をもってはならぬ    その②

>>2158その①の続き投稿です…。
ところが【アメリカ…】は、逆に、彼女のデザインを受け入れ、此処で【シャネルは成功…への道】の足がかり
となりまして、その後…本家であります【フランス…】も、受け入れていきま〜〜〜す。思いますに、この様に
彼女の【デザインは、機能性があり!しかも〜〜〜女性の解放へ!と導いたのでしょうかと。】
この様に、いつまでも〜いつまでも〜【シャネル・スーツ…】は、どの時代にも順応性に応じる事のできる
【不変の法則…】【永久不変…】としての存在がありまして…このことが〜〜〜皆様がおっしゃるところの
【ブ ラ ン ド!】―――>永遠性では?ないのでしょうか??更に!〜〜〜
「メリヤス編み…」は、今日では、皆様も御存知の【ティシャツ…下着…etc】とか用いられていますでショ!

この様に【ブ ラ ン ド の 永 遠 性】とは、どの時代でも、活かされるわけで〜〜〜
【ブランド名が残る…】のです〜〜〜ョネ!!「黒幕デザイナ−」は、時代性もあり、その当時の洋服としては、
珍しいモノ=現象として、もてはやされたモノではないでしょうかと??思うのです。…が?
「○○模様を打ちだし…デザイナー・デビュー」の時は、映画全盛時代?背景もありまして、衣装担当としての
「デザイナー」から〜〜〜その後、「デザイナー」としてのデビューのようですが?
やはり【シャネル…】とは、全くかけ離れた感じに見えます。【ブ ラ ン ド】に永遠性を求めるのは〜〜〜?
どれだけ〜〜〜世のため!人のために??が〜〜〜御本人からは見える事なく?ただ!ただ!〜〜〜
「孫娘??」・「本人の名声??」これだけで〜〜〜後世にまでその名前が残るのでしょうかと。??

この頃では【尾行…】もひどくなり、あるところから?「黒幕デザイナー」は〜〜〜
北朝鮮との関係がとか〜〜〜その様なこともあり、そうでしたら、もしかしたら?もしかしたら?〜〜〜
私達が【拉 致!】されましたら、私は此処での投稿は〜〜〜ストップ・モウション!!!で〜〜〜す。
最近!ある所からですが【公安警察の存在…】を〜〜〜知りまして、如何もこれにも【関連…】しての〜><
いろいろと【虚説“噂…多き人”との判断?】〜〜〜かと。 これでは?【無限供給…は〜〜〜?】                

再合掌

2160a hope:2013/03/31(日) 07:17:42 ID:TqpbsVIM
新版 生活読本 谷口雅春先生著(日本教文社)
第十三章 こうして富をつくりましょう

◆ 「人の役に立つ」ことが富である

百姓は土地に種子(たね)を蒔くでしょう。
土地に種子を与えないでいて、収穫(とりいれ)を得ようと思っても、そんな事は出来ません。

麦を蒔けば麦が出る。
米を蒔けば米が出る。
野菜を蒔けば野菜が出ます。

人は自分の蒔いたもの、与えたものだけをかりとることが出来るのです。
友達がほしければ自分が其人(そのひと)に深切に友達らしくしてやることです。
そうすると其の人は友達になってくれるでしょう。
すべて自分が与えないものは与えられないのです。

尤(もっと)も与えないでいて、突然大金持の遺産をもらったり、
運よく富籤(とみくじ)が当って、たった十円の金で百万円を収穫したと云うような人もあるにはあります。

しかしそれは本当ではありません。
一寸(ちょっと)見るとそのようにも見えますが、自分が少しも与えることなしに受けたものは、
それは「実物」でなしに唯「影」に過ぎませんから、屹度(きっと)長持ちいたしません。

富とか金とか云うものは、神の「愛」と「智慧」と人のためになる「働き」との変形なのであります。
人の役に立つ働き(英語ではサービスと申します)が、それが影をうつしてあらわれたのが富ですから、
人の役に立たないでいて得た富は、結局、それは「影」だけのものですから直ぐに消えてしまうのです。
(後半へ)

2161a hope:2013/03/31(日) 07:18:28 ID:TqpbsVIM
(前半から)
先日も新聞に出ていましたが、一人の強盗がとっ捉まって刑務所に送られたのです。
何故強盗になったかと取調べられた結果、その前に「三角籤(さんかくくじ)」に当って
十万円思いもかけぬお金が入ったのでした。

それで急に嬉しくなって料理屋へお酒をのみに行ったのです。
御馳走も食べました。
女給みたいな女が来て一緒にたべた料理代も皆自分が支払わされてしまったのです。
またたく間に十万円位のお金はそれでおしまいになってしまいました。

そのお金は「人のために働いた」と云う「サービス」の実物のない、
ただ「影」だけの「富」でしたから、こんなに早く無くなってしまったのです。

だが、お料理屋の味が忘れられない。
しかしお金がない、金が儲かる近道としてとうとう強盗になったが、やりそこなったと云うのです。

昔から「悪銭身につかず」の諺(ことわざ)もあります。
「売家と唐様に書く三代目」と云う諺もあります。

第一代目は自分が大いにサービスをし、人によいものを与えて来ましたので第一代目はつぶれません。
第二代目になっても第一代目のサービスの徳が蓄えられているのでまだ其の家はつぶれません。

第三代目になるとだんだん初代の徳が失われまして中味のない形ばかりの富になって来ますから、
とうとう先祖からの家も売り払ってしまわなければならぬようになるのであります。

(つづく)

2162SAKURA:2013/03/31(日) 13:23:31 ID:q9UkkTZw
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 
こんにちは……。  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>2041>>2042>>2044>>2045>>2046>>2048>>2050>>2068>>2069>>2115>>2118 >>2119>>2123
>>2124>>2143>>2158>>2159 「女の浄土」投稿の続きです…。 が【番外編】です…。

本日は、「hope様の聖典投稿…」の抜粋から、私なりの引用解説論を、させて頂きます…。

◆ 「人の役に立つ」ことが富であるのシリ−ズですが??
「雅春先生…のお言葉」確かに納得感!かと。…此処で、私の取り巻く現状での捉え方を、先生の
言葉から…“オモシロク”感じたところがあります。この事に関しまして、記載させて頂きます。

急に【大金…】が入りますと、確かに、無駄使いになりがちになる事も…ありますネ??この様な
経験は?誰にでも、勿論!私にもありますので〜〜〜>< 
逆に、急に【お金(大金)…】が減りますと、そこで【お金の価値観…】が消えていきますから、
後には、何にも残るものがなくなってしまうのです〜ョネ!!当時!私の「お客様」でした。…が?
【宝くじ…】が当たったそうです。その時「お客様」が、私達に洋服を注文しながら「私達の商品
は、何年も!何年も!着れるから〜当然ながら、後にでも残る“存在価値”になるヮ〜〜〜ネ!
これは、生きた使い方なのョ!!」と云われまして、当時の私達には、ものすご〜〜〜く!うれし
くなる気持ちの“言葉”を頂きました。余談ですが〜〜〜私どもにとりましては…何よりも益々の
活力を頂く事になり…しなくても良い「サ−ビス…」をこの「お客様」にしてしまいました。…が?

この様に「お客様」との関係でも【お金…】の使用感は【生かしたお金…モノへの変換?】は、
確かに、相手を活かす事となり…如何に喜んでもらえるかにつながる事と成るのでしょうかと。…
これは『納得感…』があります。❤ある面では「世の中のためになる…」と……

さて……下記にて“抜粋…”投稿をさせて頂きます…。

>>「第一代目は自分が大いにサ−ビスをし、人によいものを与えて来ましたので第一代目はつぶれません。
第二代目になっても第一代目のサービスの徳が蓄えられているのでまだ其の家はつぶれません。
第三代目になるとだんだん初代の徳が失われまして中味のない形ばかりの富になって来ますから、
とうとう先祖からの家も売り払ってしまわなければならぬようになるのであります」<<
◆―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――◆

これは現在の私を取り巻く環境での【捉え方…】でいきますと【分派…皆様側】には、解釈としては、
都合のいい感じにもなりますでしょうか〜〜〜と??
ここで、私の【現総裁雅宣先生…擁護派】としての“解説論をと…”メスを入れてみたくなりましたが?

                               つづく

2163SAKURA:2013/03/31(日) 13:27:05 ID:q9UkkTZw
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 
こんにちは……。  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>2041>>2042>>2044>>2045>>2046>>2048>>2050>>2068>>2069>>2115>>2118 >>2119>>2123
>>2124>>2143>>2158>>2159>>2162「女の浄土」投稿の続きです…。 が番外編です…。

>>2162 投稿の続きです…。

※一代目…本人の希望から立ち上がった“創立者…”自身ですから“心意気…”も入りますので当たり前!

※二代目…その“意志を受け継ぐ”事に【焦点…】を置き、又はその事に重点を置きすぎて行きますから、
一応は、二代目が一番大事になのです〜〜〜ョネ!!また、その時点で、将来性とかを考慮した方針を…
それが企業方針とします場合には、その変換期での行動・組織力を再編成となり、その方向で進む事と
したら〜〜〜???果たして、それが途中段階〜〜〜になったり?内部抗争(派閥…)が生じました場合?

※三代目…かなりの【頭脳明晰力!!判断力!!】つまり思いきった「改革」が必要になるのではと…?

■さて!!此処で「雅春先生の言葉」…下記の投稿文の中から〜〜〜

>>第三代目になるとだんだん初代の徳が失われまして中味のない形ばかりの富になって来ますから、
とうとう先祖からの家も売り払ってしまわなければならぬようになるのであります。
◆――−−―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――◆

これは「三代目…の立場」は、確かに!世間一般でも、このような状態は多いカモしれません。…が?
「2代目…」の残された方針の【あとかたずけ…】が〜〜〜〜〜〜〜
「三代目…」に、否応なしに降りかかってきますから、かなりの【頭脳明瞭…冷静な判断】のある人物が
受け継がないと〜〜〜ダメでしょうかしら〜〜〜ン!!❤【徳川時代の…家光でしょうか?】今日!
私達の「現総裁雅宣先生…」は、いろんな角度での“思考…”を入れ込みながら【組織再編成…】かと。
当に…「石橋を叩いて渡る…」此の心境ながら〜〜〜の【思考錯誤…】では〜〜〜?思うのです。

それでも【真理…】への完成度は、時代背景を考慮の上、前以上に“理解…”出来るのですから【不思議】
なので〜〜〜す。さらに『先祖供養…』もこの頃では、その「聖教読誦…」に際しまして…今の私どもを
取り巻く「地球環境問題…」を含めまして【ご先祖様…】に対しましては、私の“想い…”を込めて〜〜〜
【大自然賛歌…】も読誦させて頂いております。…が?それは、それなりに「良き事…」が、現在では、
大なり〜小なり〜起きていますから【不思議…気分】なので〜〜〜す。!

そして、今回『貴康先生…のブログ』より、閲覧させて頂きながら【生命の実相15編からの引用…】を
拝読いたしましての“感想論…”は〜〜〜〜人それぞれの“捉え方”になりますでしょうかと。
                                   再合掌

PS:「トキ様」「観覧者の皆様」へ
思いますに「黒幕デザイナ−」の場合は〜〜〜【三代目…孫娘】に関しましてはどうなるのでしょうか?
今?一人で【SAKURA投稿>>2158>>2159の引き続き…】にて、今回の「三代目…」の在り方は〜かと。
色々考えさせられました次第です。…が?そして〜〜〜

最後になってしまいましたが…「a hope様」の本日の投稿言葉…ありがとうございます。『感謝…』

2164トキ:2013/04/01(月) 09:59:15 ID:Esid1Gs2
>>2163

 ご投稿、ありがとうございました。

 今時間がないので、後ほど投稿をします。

合掌 ありがとうございます

2165 NANCY:2013/04/01(月) 19:58:56 ID:BEUD3XFA
「トキ様」 へ    「観覧者の皆様」 へ
こんばんは…… ロ−マ字(大文字)の【NANCY】です。
>>1635>>1639>>1643>>1766>>1778>>1829>>1877>>1880>>1890>>1918>>1931>>1942
>>1955>>1983>>1988>>1999>>2010>>2012>>2024>>2028>>2029>>2061>>2066>>2067
>>2083>>2116>>2117>>2129>>2134>>2135の投稿の続きです。

===【谷口 清超 先生 著】==============================

■恐怖心を取り去れ        その1
 人はいくら病気を恐れても、それによって病気に罹らなくなる訳ではな
い。それどころか「いつもカゼを引きやすい」と思って恐れおののいてい
る「厚着人間」は、かえってカゼを引いたり腹くだしをしたりして、青白
く痩せ細るのだ。ところが病気のことなど何も考えず、冬でも薄着で寒風
の中をいさましく働いたりスポーツをしたりしている人々は、かえって元
気一杯の人生を送る。

 これは「恐怖心」が人間の力を委縮させるからである。動物を見ても、
弱い動物は、ライオンのような強い動物にねらわれると、腰を抜かしたよ
うになって逃げられなくなる。勿論、人間も「腰を抜かす」。昔の人々はこ
んな臆病者を「腰抜け武士」といって嘲ったものだ。

 原則は全て同じであるから、「敵」と見なされる相手が人間でも、ウィル
スでも、細菌でも、気温でも、ほこりでも花粉でも、同じことである。人
によると「戦争」を恐怖させると、戦争が起らなくなると考え、その恐ろ
しさばかりを強調して「軍備などは持たないのがよい」と主張する。しか
しこの考えは間違っていて、戦争をおそれると、戦争にならないのではな
く、「強敵には戦わずして侵略される」という結果が起り、丁度ライオンの
前で小動物が腰を抜かすような恰好になるのだ。

 即ちこれ一種の「腰抜け主義」であって、昔の武士の最も軽蔑した心情
だ。が今はそのような人々が「平和主義者」だと言われる。しかしながら
本当の平和は、国民が他国から支配され、自由にされるような腰抜けの姿
ではなく、自らが自らの主人公であり、自由自在であるところの「独立の
平和」である。そのためには「戦争を恐怖させる」方法をとるのはまずい
方策で、逆に「人間は神の子であるから死なない」ことを教え、一切の恐
怖心をとりはらうに越したことはない。
 
                   つづく

2166 NANCY:2013/04/01(月) 20:00:51 ID:BEUD3XFA
「トキ様」 へ    「観覧者の皆様」 へ
こんばんは…… ロ−マ字(大文字)の【NANCY】です。
>>1635>>1639>>1643>>1766>>1778>>1829>>1877>>1880>>1890>>1918>>1931>>1942
>>1955>>1983>>1988>>1999>>2010>>2012>>2024>>2028>>2029>>2061>>2066>>2067
>>2083>>2116>>2117>>2129>>2134>>2135>>2165の投稿の続きです。

■恐怖心を取り去れ   その2
>>こうして真に人間が自由自在な「神性」そのものであり、「死なないも
の」と分ったならば、恐怖心から抜け出し、生命力が充実し、病気にも罹
らず、落第も失敗もおそれず、人々のつまらぬ噂にも動じない「無為の真
人」が誕生する。こうなるとどこにも敵はなく、自由自在であり、天衣無
縫である。自由であるから、妙な過去の行きがかりにとらわれることな
く、適当な判断を下して人生の勝利者となることが出来る。
 
このような人間が政治をとるならば、彼の政策は当然日本にとって一番
ふさわしく安全な政策をとりうるのであって「相手を怒らせないためには
非武装の方がよい」などというオドオド理論は通用しない。一%のワクを
こえた防衛費ならどうの、こえないとあぶないのという、タワケタことを
言わない。愛するに「雨がふれば傘をさし、天気になれば傘をささぬ」よ
うなあたり前の自衛策が自由に取れる筈である。   (抜粋投稿)
                            『幸せへのパスポ−ト』より
============================================== 

PS: 「トキ様」「観覧者の皆様」へ
■【恐怖心…】これは、人間の「心の悪魔〜〜〜の1つ」なのでしょうか〜〜〜〜と。

確かに?心が「恐怖…」を抱きますと……体も全て「委縮…」いてしまいます〜〜〜ョネ!
当然ながら、前に!前に!進むことは出来ませんモノ。当に【無用の産物…】ですかと。
そして…過去を振り向く事は…ある面そればかりを誇示し!執着!…これらは同様に【心の悪魔…】
が、その人の心に充満して【恐怖心…種】を、同じように植え付けますかと?思うので〜〜〜す。

例えば〜〜〜「嫌な出来事」に遭遇しますと〜〜〜そればかりを捕まえての“話題性…”になり、
そうしますと此処最近では?その解決策を“ア〜〜〜ダ!コ〜〜〜ダ!”時間ばかりが過ぎて…
そこで堂々巡りになってしまい、本当に【停滞…】という表現が“ピッタリ感〜♫〜”このような
事を〜〜〜皆様も、一度は体験されましかと?思うので〜〜〜すが?

このように【向上心…】これは、人間の「明るい〜〜光を求めての心〜〜」から来るものですョネ!
❤【 夢 … 実 現 】に向けて〜〜〜勿論の事ながら〜〜〜思考はプラスへかと。そして、
【前進!前進!……】には、自分自身への“讃嘆…”勿論の事ですが〜〜〜相手への“讃嘆…”が
必ずや【自 信…】を作り出しまして、それにては、新たなる“パワ−”を頂きますかと。

処で?「現代社会…」に置きましては?政治面・経済面・社会面……多々なる事件が多い昨今です。
そして「ゴシップ…」「噂…」……により「心のコントロ−ル」が?上手くいかず><
その様な時こそ…本日の「清超先生…の言葉」心に刻み〜♫〜

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
■>人々のつまらぬ噂にも動じない「無為の真人」が誕生する。こうなるとどこにも敵はなく、
自由自在であり、天衣無縫である。自由であるから、妙な過去の行きがかりにとらわれること
なく、適当な判断を下して人生の勝利者となることが出来る。<(抜粋の言葉…)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

❤今回!「心配・不安・恐怖…ネガティブ感情」の前に【思考力を前向きに強く】かと思いました。
                                再合掌
PPS:「トキ様」へ 
大変遅くなりましたが〜〜〜「>>2157のお返事…」ありがとうございました…。

2167a hope:2013/04/02(火) 06:10:09 ID:TqpbsVIM
新版 生活読本 谷口雅春先生著(日本教文社)
第十三章 こうして富をつくりましょう

◆生活のためになるもの

富と云うものは、「生活の為になるもの」を云うのであります。
通用しない紙幣や、鼻紙にもならないお札などは富ではないのであります。

お札が「富」と考えられるのは「生活のためになるもの」買うことができるからであります。
生活のためになるものが買えなくなるとお札は富ではなくなるのであります。

だから「富」とは「生活のためになるもの」であることが分かります。
したがって「富」を得るには「生活のためになるもの」を与えれば、
生活のためになるものを与えられることになります。

すなわち人のためになるものを、此の世の中に送り出せば送り出すほど、
その人は「富」を与えられることになるのであります。

だから「生活のためになるもの」を送り出さないでいて、ただ正直ばかりでは富は出来ません。
いわんや、サボタージュやストライキで「生活のためになるもの」を
造り出すことをやめていては富は出来っこありません。

またいくら働いても、多くの人の生活のためになるものを作り出さない働きでは富は出来ません。
(つづく)

2168 SAKURA:2013/04/02(火) 18:24:12 ID:BEUD3XFA
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 
こんばんは……。  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>2041>>2042>>2044>>2045>>2046>>2048>>2050>>2068>>2069>>2115>>2118 >>2119>>2123
>>2124>>2143>>2158>>2159>>2162>>2163「女の浄土」投稿の続きです…。

■■ 『女 の 浄 土シリ−ズ…SAKURA論』    
――――― 【 第七章  あなたが繁栄を得るために 】―――――

■ “與へる” と “受ける” との調和で宇宙は成り立ってゐる

この世界は、“與へる” と “受ける” との二つの法則、男性原理と女性原理の調和した組み合わせ
によって成立ってゐるのであるから、 いくら清潔であらうとも、 女性ぎらひでは子供が出来ないと
同様に “受ける” ことを 潔しとしない人は富むことはできない。大いに受けて、それを更に與へて
(出資して)文化の創造に役立たせるのが富を産みだす根本となるのである。 “富”の創造は文化の
創造とつながらなければならないのであって、単に物資を積んで置くことが “富” の創造ではないの
である。  (抜粋投稿)
◆−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−◆

PS:「トキ様」 へ   「観覧者の皆様」 へ
■【 “與へる” と “受ける” 】との「二つの法則」の組み合わせで、成立しているのです…ネ!
此処で「雅春先生」の❤【男女の解説論…】でオモシロイ!と思います。…が?逆に、私達の経験から行き
ますと「組み合わせ…」でも〜〜〜「無理…」に合わせる必要もなきにしもあらずのではと〜〜〜?誰に対
しても「はつぽう系…」は、どうなんでしょう〜〜〜ネ??正直申しますと、

❤【 意 志 表 示 】は必要ではないのでしょうか〜〜〜??

さて、個人的になりますが、今でも、「嫌な吸血鬼・ゾンビ…達」は、見るだけでも“背筋が凍って”しま
います。…が?最初は、このような感情は無く、いつもの感じでの“挨拶・接触…”ですが?
相手との思考感・行動〜〜〜が?どう考えてみましても“合わない事”・“嫌な行動…”を第三者にされます
と、これは〜〜〜もう【調和の世界…】ではないですョ!!「尾行…」は本当にスゴイ〜〜〜です。><

今日も“タタキ男?の奥さん”なのでしょうか〜〜〜「隣のマンション…」から出勤途中にて、突如?と
申しますか…出てきました。何度も表現しますが「も〜〜〜う!見るだけでも気分の悪い姿・形…です。」
このように【受け入れる=受け入れられない!!】は、「かみあわない者同志…」では【二つの法則…】
から成立しない事でしょう!!そうしますと、この対応策は〜〜〜?このように考えますと、ここで「切る」
つまり「遮断する事…」も、時と!!場合!!により必要なのではと、思います。…が?私も【過去の問題】
で、今では【 後 悔 】の一言に尽きますでしょうかと。当時の私を取り巻く環境から、それを
“導く大人〜〜〜”が余りにも、いなかったのではと思います。…が?一見「吸血鬼・ゾンビ達…」をみて
あまりにも“表面上に惑わす事”が〜〜〜多い連中のようですかと。【唯物論的…でしょうか?】

■まずは【外見で判断する…】前に❤【中身=心を見る事では…】とそれを、どうやって見極めるかが??
【問 題】でしょうか。それは【祈り…神想観】という事につきますでしょうか?
ひたすら〜ひたすら〜【心を神にむけて…「祈り…」に徹しますと、正しい導きが訪れてきますかと。!!】

❤私は今は「ひたすら神にむけて…祈り」を、日々の“行”としていますが〜〜〜
これも【二 つの 法 則】から成り立つのでは、この様に思いますが〜〜〜??  再合掌

PPS:
此の事は「生長の家…お家騒動」に関しても、結びつけての【判 断 を 下 す】事にもなるのでは?

2169うのはな:2013/04/02(火) 19:33:43 ID:yeY/9TTw

 『生命の實相』をより深く読むために (谷口雅春先生著『生命の實相』頭注版全四〇巻索引)

       はじめに 

  本書は、宗教法人「生長の家」の創始者、谷口雅春先生が著された『生命の實相』頭注版全四〇巻の内容を、
 人生のそれぞれの問題に応じた見出し語によって索引できるようにしたものである。
 『生命の實相』は、宗教のみならず、哲学・芸術・経済・健康・教育など、人生のあらゆる問題に対しての理解、および解決の方法が
 説かれており、われわれが幸福になるための、日常生活における貴重な指南書になると思われる。

 『生命の實相』においては、これらの問題に対する解答が、人に応じ場合に応じて、それぞれ異なった表現で、あるいは全く逆の表現で説かれて
 いることがある。このことについて『生命の實相』の中で、例えば第三〇巻二九〇頁にはつぎのように書かれている。
 ある時には、「病気本来なし」と哲学的実在論にによって単刀直入に病気の存在を否定する。

病気もよいじゃありませんか。痛いのは治る働きですよ。その痛さに感謝なさいよ。」こう言うこともある。
 これは悟りに導くための方便自在なのです、ある時はまた、「あなたはお医者さんに行きなさいよ」と言うこともある。
 いろいろの相手に従っていろいろに説き方が変わってくるのです。

 ある一人に言ったことを横合いから観て、それがいつも真理であると思っているとまちがいなのです。
 真理には絶対的真理と相対的真理があります。相対的真理というのはその時の相手にとって相応するように真理を薄めて説く。
 「病気が無い」というのは絶対的真理すなわち第一義諦で、「病気は心の持ち方で生ずる」というのは相対的真理であります。
 従って、問題を誤りなく理解するためには、いろいろの場合を参照することが望ましく、本書はできるだけ同種の項目を整理しまとめる
 よう心がけた。

 また『生命の實相』においては、それぞれの文章が極めて緊密に構成されており、ある文章の深い意味を把握するためには、その前後の文章を
 広く読む必要がある。本書の見出し語は『生命の實相』のそれぞれのページにおけるキーワードと思われるものを選んだが、これに関する文章は、数行の場合もあり
 また数頁に及ぶものもある。少なくともこの文章を含む一節、できれば一章すべてを読むことが望ましい。

 なお見出し語の下の数字、例えば[一・は七]は第一巻のはしがき七頁を示し、[三・五九]は第三巻五十九頁を示す。
 また見出し語の中に複雑な漢字(第2水準漢字)がある場合は、これを平仮名で代用した。

 発行 平成二年十二月二十七日  著者 加納正義

2170トキ:2013/04/02(火) 19:39:32 ID:hzOGmLpM
>>2160

 そういう本があるのははじめて知りました。

ご紹介、ありがとございました。

合掌 ありがとうございます

2171a hope:2013/04/03(水) 07:43:38 ID:TqpbsVIM
新版 生活読本 谷口雅春先生著(日本教文社)
第十三章 こうして富をつくりましょう

◆出来るだけ多くの人を喜ばせよ

富もうと思うものは、出来るだけ多くの人々の「生活のためになるもの」
を発明し、制作し、それを売出せば好いのであります。

十人の人を喜ばすものを作れば、十人の人の喜びがその報酬(むくい)として吾々に与えられて来るでしょう。
万人の人を喜ばすものを作れば、万人の喜びがその報酬として吾々に与えられてくるでしょう。

こちらから出しただけのものが与え返されてくるのであります。
それを知らぬ人は、与えないでいて、出来るだけ少なく与えて出来るだけ多く得ようとするのであります。

それでは泥棒根性であります。
奪おうとするものは奪われるのであります。

「奪い心」をこちらが出せば、向こうからも「奪う心」を起こすでしょう。
「与える心」をこちらが出せば、向こうからも与える心をおこすでしょう。

世界の戦争はみんな与える心で起こったのではありません。
奪う心で起こったのです。

とり合い、奪い合いの世界ほど、みぐるしいものはありません。
吾々はこれから与えられる心ばかりを起そうではありませんか。
(つづく)

2172a hope:2013/04/05(金) 06:46:28 ID:TqpbsVIM
新版 生活読本 谷口雅春先生著(日本教文社)
第十三章 こうして富をつくりましょう

◆心の法則・因果の法則


此の世界は「心の法則」で支配されているのです。
これを「因果の法則」と云うのです。

「原因あれば結果あり」の法則であります。
原因の「因」と云う字と、結果の「果」と云う字と二つ合わせて「因果の法則」と云うのです。

与えた通りに与えられるのです。
こちらがAKの波長を起せばAKの放送がかかって来るのです。
こちらがBKの波長を起せばBKの放送がかかって来るのです。

自分が波を起した真空管は小さくとも、同じ波長のものが皆かかって来て、あらわれて来ますから、
こちらが悪い心の波長を起せば、悪い波長が続々とかかって来て、面白くないことが続々と起ってまいります。

運がかたむいて来たと云う人が、親が死ぬ、子が死ぬ、損をする等、
色々禄でもないことが次へ次へと起ってくるのはそのためです。

運の好いと云う人が、お金は儲かる、子供は達者、成績は好い、家じゅう御機嫌がよいなどと云うのは、
その人の心の波が「好運」のところに波長が合っていますから次から次へと好運がやってくるのであります。
(つづく)

2173 NANCY:2013/04/05(金) 20:20:51 ID:BEUD3XFA

「トキ様」 へ    「観覧者の皆様」 へ
こんばんは…… ロ−マ字(大文字)の【NANCY】です。
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>>2083>>2116>>2117>>2129>>2134>>2135>>2165>>2166の投稿の続きです。

===【谷口 清超 先生 著】==============================

■苦しみを楽しみに
人間は苦しいことがあっても、へこたれてはならない。平生楽な生活ばかりを送っていると、身も心も
ダラケてしまう。雪がふったといって、炬燵にあたってじっとしていては、仕事もできないし、身体も
弱ってしまう。
 そんな時、少しぐらい苦しくても、雪の中にとび出して作業すると、身体も丈夫になるし、仕事もはか
どる。「雪」を決して苦難だと思うな。

「わがものと 思えば軽し 笠の雪」
 というが、自分からすすんで「わがもの」とするとき、凡ての苦しみは、単なる苦悩ではなく、自分の
ための「訓練の道具」になるのである。
 
ある雪のふる寒い日、私は早朝本部へ行くために歩いて、いつも通る四つ角に出た。そこはいつも見なれ
た大通り(神宮前交叉点)だが、その日は特別美しくみえた。雪が一切のきたないものを蔽い隠したから
である。
 「居ながらにして、北欧に行ったようだ」
と思いながら、赤信号が青信号に変わるのを待っていた。この信号も、私が交叉点へ来た時丁度赤になった
ので、永い間待っていなければならない。寒い風の中で「待たされる」と思えば面白くないが、
「丁度よいぐあいに、雪景色をながめる時間が与えられた」
 と思えば、すこしも永くはない。むしろ、短すぎるくらいだ。私はその日、雪がふったので、いつもより
早く家を出た。その時、
「どうして、今日は、早く出るんですか」
と家内はいぶかしがったが、雪がふるからと答えた。そうすれば、雪の日が一層気持よいし、途中で少々の
おくれがあっても、いつもと同じころ目的地へつける。
 いやなことがあったら、それを進んで「よいこと」に変えればよい。永い人生では、色々のことがある。
それらすべてを「よいこと」に変える力が、吾々にはある。心が主人公であり、心に従ってどうにでも
変って行くからである。
 
たとえば、病気になって、熱が出たとしよう。その時、熱が出た、いやだなあ――と思うだけではダメ
だ。そうじゃない。
「熱が出た。今、私の内の自然療能力が働き、最も能率よく活動し出したのだ」
 と思え。熱は自然(神)が用意して下さった万能薬なのだ。どんな病気をも治して下さる働きをもってい
るのが「熱」である。それが、今働き出した。
 「ああ、有難い、万能治療機が動き出した」
 と感謝しなければならない。多少、寒けがしたり、身体が重かったりするだろう。しかし、それでよく
なって行く。見せかけの苦しみは、すべて治そう、一層よくしようとする働きなのであるから。
                                  『幸せへのパスポ−ト』から
◆−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−◆

■>>いやなことがあったら、それを進んで「よいこと」に変えればよい。永い人生では、色々のことが
ある。それらすべてを「よいこと」に変える力が、吾々にはある。心が主人公であり、心に従ってどうに
でも変って行くからである。<<  (一部抜粋)

本日の上記の“言葉…”は、まさしく『心の切り替えスイッチ…』つまり、「ポジティブ=よいこと…」へと
いう・・・この素晴らしい“パワ−”が、各々に備わっている。それを「実行…」するのが、吾々に課され
たモノであり……本当に『 プラス思考 』をすることは〜〜〜前へ!前へ!進む起動力かと。

時には?忘れてしまいそうな〜〜〜?><
どうしても、自分を取り巻く“環境…”に負けそうな時?「この先生の御文章」を思い出しまして、常に
『善きこと…プラス思考』に転換出来ます私自身である事を…自覚しまして“行”じて行きたいと思います。
当に【心 の 法 則】で〜〜〜すネ!!!
                                      再合掌

PS:個人的には?当時の「2代目総裁清超先生の…心境」……
>>雪が一切のきたないものを蔽い隠したからである。…云々…<<此処の言葉に、云い知れぬ“苦悩”が、
「トップ」としての第三者に云えぬ“孤独感”とか〜〜〜が?何となく感じられるモノが〜〜ありますかと。

2174SAKURA:2013/04/07(日) 20:35:33 ID:xF5rKKA.
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 
こんばんは……。  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
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>>2124>>2143>>2158>>2159>>2162>>2163>>2168>>「女の浄土」投稿の続きです…。

■■ 『女 の 浄 土シリ−ズ…SAKURA論』    
――――― 【 第七章  あなたが繁栄を得るために 】―――――

■ 貸しアパ−ト経営者の実例    その①

 「與へよ、さらば與へられん」の法則の實現であるとしてユニティではその機関誌に次のやうな実
例を挙げてゐるのである。

 フロリダ州バ−ム・ビ−チの或る貸しアパ−ト経営者の話である。彼は、海水浴客を宿泊させるた
めのアパ−トを持ってゐた。しかもそれはワ−ス湖と大西洋に面する海岸との中間といふ實に理想的
な位置にあって、湖岸にも、海岸にもどちらにも行ける極めて便利な處(ところ)に位置してあるの
だけれども、一向に宿泊者が得られないのであった。彼は現象的にはお客が得られるやうに随分宣傳
(せんでん)をしてみたけれども全然効果がなかったのであった。ところが彼は或る日ユニティ教会
で催される「繁昌のための講習會」があるといふことをきいて、その講習會に於て、繁栄のための第
一法則は、「與へよ、さらば與へられん」の大法則であることを教えられたのである。彼は自分が今ま
で、“儲ける”ことばかりを考へて、“與へる”ことを忘れてゐたことに気がついた。自分のアパ−ト
に季節に拘らず海水浴客が集まらないのは、供給の本源へのパイプを“與へる”といふ行動によって
栓をねじ開いてゐなかったためだったと気がついたのであった。

                              つづく

2175SAKURA:2013/04/07(日) 20:37:50 ID:xF5rKKA.
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>>2124>>2143>>2158>>2159>>2162>>2163>>2168>>2174「女の浄土」投稿の続きです…。

■■ 『女 の 浄 土シリ−ズ…SAKURA論』    
――――― 【 第七章  あなたが繁栄を得るために 】―――――

■ 貸しアパ−ト経営者の実例    その②

>>2174その①の投稿の続きです…。
 彼は、「何を誰に與へたらよいのだろうか」と考へた。彼の心の中に「與へよう」といふ気が動い
たのである。心は無線電信よりも速かに通ずるものなのである。恰も彼の“與へよう”といふ決心
に應(こた)へるものの如く、郊外に住んでゐる一組の友だちから、「この暑中休暇にバ−ム・ビ
−チへ往きたいのだが、好い宿を世話して貰へないか」といふ電話がかかって来たのであった。そ
こで彼は自分のアパ−トの貸室でない部屋の方を無料で提供して友達にサ−ビスすることにしたので
あった。それ以来、彼のアパ−トの貸室は、その季節の前後ズ−ッと満員つづきの盛況であった。ど
うしてそれまで客が来ないかが不思議な位であった。やっぱり“與へる”といふ繁栄の法則が其処に
働いてゐるとみるほかはないのである。                  
                                  つづく

PS:「トキ様」・「観覧者の皆様」へ
【與へる〜〜〜?】何を“與へる”べきか?今の私にとりましては、いったいなんなのでしょうか〜〜〜??
私達の世代は、この閲覧して頂きます皆様の中にも御存じの通り「日教組に教育…」されていますから、
「與へる事…」は、まず!「自分自身を喜ばす事?」もしくは「同じ仲間たちの共有性?」でしょうかと?
広い観点の視点は〜〜〜何処まで出来ますのでしょうか??

近頃“ニュ―ス”では60代からでの死亡説が多いですョネ??これは、何故こんなにも多いのかしら〜〜ン
と考えていくうちに、どうしても切り離せないモノは、やはり「教育…」からきている感じですかと。??
殆どの方は、自己中心者の世代にも見えますので、これは【業…の深い世代】とも云えるカモ???

■今回の事の発端は「社会事業団問題−−>著作権」を持ち去った事から始まるものなのでしょうか??
「社会事業団…」は、“著作権の権利”を持てば、それで永遠にやっていけるという感じでの行動かと。!

今回の書籍本から拝読していきますと、果たして、これは“正しい事…”なのでしょうか〜〜〜?><

私には、まず見えません!持ち去った“モノ”は、【與へる行動…が欠けている!】ようにも思えます。
「生長に家…」の原点は、まず“生活面に真理を活かす事”なのではないのですか。「著作権」を持ち去っ
てもそれを“活かす事…”は出来ないのです〜〜〜ョネ!【奪うモノは、奪われる…!】ここで、
持ち去られた後…なくしたものを、如何に生みだす作業が〜〜〜此処からが始まりですかと。
【無〜〜〜からの産物】が、今回「現総裁雅宣先生」には、お見受け致します。此処から〜〜〜♫〜〜〜
初めて【與へる作業…が出てきたのでは??】と思えてならないのです。【與へる事…】は、新しい進歩した
モノを生みだす作業にもみえます!!奪い取ったものは〜〜〜><何も生み出す“力…”はなく、ただ!
ただ!永遠に埋もれていくようなモノのように思えてなりません。!

❤ボンヤリ〜ボンヤリ〜考えながら…           再合掌

2178a hope:2013/04/08(月) 11:19:08 ID:6kIbHHgs
新版 生活読本 谷口雅春先生著(日本教文社)
第十三章 こうして富をつくりましょう

◆信じても信じないでも法則は働く

「与えれば与えられる」と云う法則は貴方が信じようと信じまいと、知ろうと知るまいと、
そんなことは問題なく、貴方の生活にいつもその法則は行われているのであります。

それは地球の引力の法則と同じで、そんな法則があると知ろうが知るまいが
林檎が上から下へどこでも落ちると同じように、何処にでも行われているのであります。

若(も)し、貴方が欲しいものを得ることが出来なかったならば、それは誰の罪でもない。
貴方が他の人の欲しいものを与えたことがなかったか、与えることが少なかったに過ぎません。

天秤はその秤皿(おさら)に多くのせれば載せるほど下がるのです。
若しさがらなかったら、秤皿の上に何も与えなかったからにほかならないのです。

若し吾々が他(ひと)から与えられる事が少なければ自己が他に与えたことが少ないことを恥じなさい。

吾々は他から与えられることを考えるよりも、他にどうしたら与え得るか。
どうしたらサービスが完全に出来るか。
そのことばかり一生懸命に考えるようにしていたら好いのです。
(つづく)

2181SAKURA:2013/04/08(月) 20:31:02 ID:BEUD3XFA
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>>2124>>2143>>2158>>2159>>2162>>2163>>2168>>2174>>2175>> 「女の浄土」投稿の続きです…。

■■ 『女 の 浄 土シリ−ズ…SAKURA論』    
――――― 【 第七章  あなたが繁栄を得るために 】―――――

■ 貸しアパ−ト経営者の実例    その③

>>2174>>2175>>その①の投稿の続きです…。
 ユニティ教會の教への著者の一人であるガ−ドナ−・ハンディング氏の著に『神と偕に働きて』
(Working with God)といふ本がある。ガ−ドナ−は「與ヘよ、さらば與へられん」の法則を the
Law of come-back(応報の法則) として次のやうに書いてゐるのである。

 「今、あなたが何処にゐようとも、直ぐ今、其処で、何でもよい“善きもの”をあなたの最も近くに
ある人に與へ始めよ。そして、その與へる行動に対して最初に何が返つて来るかに頓箸(とんじゃく)す
ることなく、その與へる行動に対して最初に何が返って来るかに頓箸することなく、その與へる行動を毎
日續(つづ)けよ。實行せよ! 人にそれを語ること勿れ! その時、あなたは、あなたが悩んでゐる
問題が如何に深刻であろうとも、その問題がスラスラ解決に至ることを見るであらう。試みに實践してみ
たまへ。あなたはその結果に驚くであろう。……咽喉が渇いてたまらない時に、水をゴクゴクのどをなら
しながら飲むほどの熱心さで、忍耐強くその實践を續けよ。あなたは必ず報いを得る――到底、夢にだも
描かなかったやうな報いが必ず来るのである。誰でも、男でも、女でも、子供でも、與へることによって
事物の進行を一變(いっぺん)し、人生全體(じんせいぜんたい)を變貌(へんぼう)することができる
のである」

 このやうな事が書かれてゐるガ−ドナ−の著書『神と偕働きて』を読んで非常に感激した一人の實業家
の話を『繁栄』誌上にカサ−リン・ポンダ−女史は書いてゐるのである。

 それは第二次世界大戦の始まる少し前のことであった。彼は與へることの功徳を知るや、自分が思ひつ
く限りの色々の方面に與へることを始めたのであった。すると彼は或る晩、夢の中で、飛行機に使う特殊
の箸陸用のギヤ−のアイディアを得たのであった。彼は、その夢の中の箸想をもとにして箸陸用新型ギヤ
−を発明した。そして彼の発明したギヤ―は第二次世界戦争中、全世界の航空機に採用せられた。その後
も彼は人類に裨﨟(ひえき)する幾多の発明を行って、間もなく億万長者になってしまったのであった。
今も彼は、與へる、與へる、與へる――それをつづけてゐるのである。何故なら、これこそが繁栄の秘密
だと彼は悟ったからであった。なかにも彼は、自分がこの繁栄の原理を最初に知らしてくれたガ−ドナ−
の著書を知人その他に獻本(けんほん)すること数百冊、そして自分の所属する教會に巨額の維持費
や、敷地を寄付してゐるのである。

 ガ−ドナ−は言ふ「あなたは求むる事物は「自分の内」に既に今存在するのである」と。それを
「見える世界に導き出すための通路を開くのが「與へる」といふ行為なのである」と。

                         つづく

2182SAKURA:2013/04/08(月) 20:43:43 ID:BEUD3XFA

「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 
こんばんは……。  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
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>>2124>>2143>>2158>>2159>>2162>>2163>>2168>>2174>>2175>>2181「女の浄土」投稿の続きです。

■■ 『女 の 浄 土シリ−ズ…SAKURA論』    
――――― 【 第七章  あなたが繁栄を得るために 】―――――

■ 貸しアパ−ト経営者の実例    その④
>>2181投稿の続きです…。

PS: 「トキ様」 「観覧者の皆様」 ヘ
■昨日!投稿しましたように【与える行為…】は、決して【奪う事ではない…】のです〜〜〜ョネ!
此処で、昨日の投稿の続きなのです。…が?

今!今!自分の“こころ…の願い”を現実世界=顕現世界に導くのが〜〜〜そうです【與へる事!!】ではと。
與へる!與へる!與へる!〜〜〜それを如何なる状況でありましょうとも続ける事が【繁栄の法則】!やはり、
考えますに、今回の【分派の皆様…行動は?】疑問に思いますかと。「社会事業団の行動」は、当然ながら
オカシイですし、「著作権」は、たまたま社会事業団の理事の方が〜〜〜勝手な判断にての行動したと?この
様にお聞きしていますが(こう表現しますと語弊がありましょうが?)なので、これはある面での視点から
判断しますと、その理由からでも【 人類の光明化運動 】という“基本方針…”を根底として考えてみま
しても〜〜変!で〜〜すかしら〜〜〜ン? ><
勝手に持ち出した「著作権…」を、たまたま〜〜〜当時の理事担当の方が〜〜〜更に次なる行動にへと!!
果たして?【一般信者…?への救済の行動】それまで、どのような想いにて、行動されていたのでしょうか?
それを、踏まえての“決定!行動!”に出られましたのでしょうか?〜〜〜此の点は、如何でしょうか?

当時の様子では「一般信者…」に対しては、傲慢な態度が伺えましたし?更に御自身は「選ばれた人間」との
自負があられた態度を、お見受け致しましたが?【奉 職 】とは〜〜〜なんと解釈すべきですかと。

更に「社会事業団」の中身は〜〜〜?私の記憶の中では「生命の実相」の冒頭に〜〜〜
「雅春先生の時代」は、あくまでも、戦後すぐとの時代背景からでしょうかと……?つまり【日本人…】
が対象ではなかったかと。果たして、現状は〜〜〜「海外?対象も……」なのでしょうか?それに、
人づてに耳に致しておりますのは〜〜〜その「理事…の方」が、「貴康先生の奥様のお姉様」に当たる方と…
つまり、その「理事…の方との結婚」…云々…とお聞きしています。…が?此の事は?どの様な影響が、
今後起きますかと考えますと〜〜〜ここが“オカシイ感じ”かと。何故なら…その「理事の方」の
【傲 慢 な る 態 度 …】を総本山の奉仕にて、目のあたりに見ておりましたので……

■何と言っても〜〜〜【法則…】に基づいた行動には、私には到底ながら、当時の事を回想しながらも
納得しかねます。…が?更に、此処でも何度も〜何度も〜投稿させて頂いておりますが〜〜〜
【 第一教区の元々元W会長 】は現在72歳前後なのでしょうか〜〜〜?この方の【お金の持ち出し】も!
❤この「莫大なる金額…」当然ながら【新し〜〜〜イ!分派の会…発足の資金源】にもなる位の金額…
結果的には【 教区のお金を奪う形に〜〜〜><】なるのです〜〜〜ョネ!!そのように考えていきますと?

【その後の「教区活動…」此の資金不足には〜〜〜信者の皆様方の一願となっての“大変なる努力”が??】
勿論…その後の「白鳩会長の…功績」は〜〜〜多大ですかと。

つづく

2183SAKURA:2013/04/08(月) 20:46:55 ID:BEUD3XFA
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 
こんばんは……。  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>2041>>2042>>2044>>2045>>2046>>2048>>2050>>2068>>2069>>2115>>2118 >>2119>>2123
>>2124>>2143>>2158>>2159>>2162>>2163>>2168>>2174>>2175>>2181>>2182>>
「女の浄土」投稿の続きです。

■■ 『女 の 浄 土シリ−ズ…SAKURA論』    
――――― 【 第七章  あなたが繁栄を得るために 】―――――

■ 貸しアパ−ト経営者の実例    その⑤
>>2181>>2182投稿の続きです…。

■やはり【 “無…”からの出発は、創り出す原動力です!財産なのです!】

従いまして〜〜〜産み出すモノは、これは、これから見える世界=現実世界に現れてきますかと……!!
今回の『 現総裁雅宣先生 』の私ども信者に❤【與へて下さいました?作られました?“お経…”】は、
今後、形として【奇蹟…etc】 があらわれる事!!そこからが始まりになりますでしょうか〜〜〜♫

❤まだ!まだ!〜〜〜この【新しいお経…「観自在菩薩」・「大自然讃歌」の読誦】は始まったばかりです。
今!!スタ−ト地点です…。【勝利の道へのスタ−ト…】なのです。
それが?いばらの道であろうとも〜〜〜必ずや!【魂の向上…】に繋がる「成長への道…」です。

■■此処で〜〜〜「ガ−ドナ−氏の言葉」からも伺えますが〜〜〜

【見える世界につながる事は、云うまでもなく“導く原動力…”になるのです〜〜〜ョネ!今の私は、
今後の『生長の家…』の繁栄の道…この繁栄の通路をひらく“鍵…”になって行く事でしょう〜〜〜かと。】
この様に、確信しました次第です。…が?
                               再合掌

2184a hope:2013/04/09(火) 07:23:43 ID:6kIbHHgs
新版 生活読本 谷口雅春先生著(日本教文社)
第十三章 こうして富をつくりましょう

◆暗い方を見ずに明るい方を見なさい

誰でも、自分は貧しい貧しいとこぼしながら金持ちになった人はありません。
そんな人も支払いをケチにして、少々位のお金をやめることはあるかもしれませんが、
相当立派な富豪になることなどは出来ません。

誰でも、いつも「自分は身体(からだ)が弱い」とこぼしながら立派な健康をもっている人はありません。
人は誰でも、自分がコトバで云うとおりの人間になるのです。

よく覚えて置きなさい。
何でも、悪い方、暗い方、不景気な方を見て、それを言葉で云ったり、心にとめてはいけません。

常に明るい方のみを、善い方のみを見て、それをコトバで云うことにし、心に思うことにしておれば、
世の中のことはそのとおりに善い方ばかりが出て来るのです。 
(つづく)

2186a hope:2013/04/11(木) 08:39:59 ID:6kIbHHgs
新版 生活読本 谷口雅春先生著(日本教文社)
第十三章 こうして富をつくりましょう

◆常に自分を立派な者だと思いなさい

常に自分を立派なものだと思いなさい。
自分は神の子であって屹度(きっと)立派に成長すると信じなさい。

人間が立派になるには明るい心で常に、その「立派なこと」を心に思い続けるようにすることが必要なのです。
人間は常に心の中に持ちつづけている「思い」の通りの者になるのです。

そして心に常に思わぬように、忘れるようにしているものは、だんだんその姿を消してしまうのです。

悪い事を思いなさるな。
他(ひと)の悪い事を思いなさるな。
自分の悪い事をも思いなさるな。

善い事ばかりを思いなさい。
そうすると貴方の周囲(まわり)には善い事ばかりが集まってくるようになり、
自然と成績がよくなり、出世し、幸福になるものなのです。
(つづく)

2188SAKURA:2013/04/11(木) 22:06:43 ID:BEUD3XFA
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 
こんばんは……。  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
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「女の浄土」投稿の続きです。

■■ 『女 の 浄 土シリ−ズ…SAKURA論』    
――――― 【 第七章  あなたが繁栄を得るために 】―――――

■ 真理の本を “與へる” 功徳はこのやうに
 最近、三十年来の熱心な誌友である磯三喜代さんから御手紙を頂いた。この人は夫婦揃って懸命
に、真理の本を獻本して、隠れたる處で、多くの人々を救ってゐられる人なのである。その手紙の一
節には次のやうな功徳が書かれてゐる。

『……日頃は直接組織活動に餘り(あまり)大きく働いてをりませんが、私共夫婦の人間関係と交際を通じ
て、その一人一人を片っ端から真理に直接させて頂く運動には火の様な情熱をかけて毎日過してをり
ます。否、そうせざるを得ないのです」 このようにして磯さんは、真理を “與へる“ 布施行(愛行ともいう) 
を実践しておられるのであるが、すると、自然に磯さんの仕事の方が発展して来ることになるのであった。
磯さんは続いてつぎのように書いていられる……

『一方私は仕事にかけての情熱も又三十年になるのでございます。好きな音楽を通じ長女の幼児ピアノ
指導を手始めに、この導入の段階のみを見つめて三十年、必要にせまれつつ、数年前、 “幼児ピアノ・
レッスン“ 書を纏めました所、文部省真篠先生の推薦によって、数年前、全音楽譜社から出版されたわ
けでありますが、指導上に真理を当てはめて見て、驚く体験ばかりさせて頂いてをります。その要点を
書きますと、

                                            つづく

2189SAKURA:2013/04/11(木) 22:37:50 ID:BEUD3XFA
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 
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「女の浄土」投稿の続きです。

■■ 『女 の 浄 土シリ−ズ…SAKURA論』    
――――― 【 第七章  あなたが繁栄を得るために 】―――――

■ 真理の本を “與へる” 功徳はこのに   その①〜②に入ります。

一、 中心を固定して教える事
上五線と下五線の間に実はもう一本の中心の線があって之が盲線になっているために、子供がこの盲点
にひっかって苦しむのでありますが、中央を復元して楽器の中心に固定さして教えると初めてはっきりと
理解して行くわけでありますが、折角始めたピアノを中断している子供の多くが大抵この點(てん)に行き
づまってゐるのを救い出す方法でもあるわけですが、これだけでも真理なるかなとうなづけます。
                                      つづく

2190SAKURA:2013/04/11(木) 23:03:45 ID:BEUD3XFA
「管理人 トキ様」 へ   
こんばんは……。  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
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>>2189>>「女の浄土」投稿の続きです。

■■ 『女 の 浄 土シリ−ズ…SAKURA論』    

■□「管理人 トキ様」 ヘ 
【22時37分前後の事です…】不思議な現象なのです。…が?
※此処で投稿するのは、この「ボ−ド板」の主旨に相反しますが、実は、前回もありましたのですが
此処にて、「女の浄土」の原文を投稿させて頂いておりますが〜〜〜御承知の事と思います。…が?

■【N G エラ−】の“メッセ−ジ”が、何度!投稿しても…

今回の投稿は>>2188>>2189に続き【原文…文章の投稿のみ】なのです。…が?此の事は、オカシイのでは!
のではないのでしょうかと思いつつ?(今回は、解釈論は投稿内容としては記載しておりませんでしたが)
【雅春先生…】の御文章が〜〜〜 「ネット上には?投稿無理」という事でしょうか?
此の件の【理由…】を、参考までに…お知らせくださいますと…幸いです。宜しくお願い致します…。

                            再合掌

PS:尚…投稿が【聖典板…】に入力不能でしたので【小項目…】にての投稿となりました次第です。…が?
この続きがありますので〜〜〜理解しがたい“現象…”です。(今までは、旧かなづかいも投稿できており?)

2191SAKURA:2013/04/12(金) 00:53:17 ID:BEUD3XFA
「管理人 トキ様」 へ
こんばんは…… ローマ字(大文字)の【SAKURA】 で〜〜〜す。
此処で【問 題 発 生…解 決 糸 口! 】で〜〜〜す。…が?
【別板…】にて…多々なる「TEST投稿…」を、【「まじめな話」板】そして【ひとり言板】にて、投稿させて頂きました。
◆……………………………………………………………………………………………………◆
二 誉め言葉を使う事
浴びせかける○○に注ぐのですが〜〜〜  (テストの言葉…) 但し【「まじめな話」板>> 699の投稿から】
◆……………………………………………………………………………………………………◆

此処で【 「まじめな話」板>>695>>696>>697>>698>>699 】 に、関しましては、
昨日『本板…聖典引用』にて…【問題発生…】が生じまして…詳細は下記にてURL…記載しております。
此処で昨晩(URL…下記)のことですが…投稿しておりますと ❤『  NG が発生 』なのです…。何度も!
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/11346/1322022766/2188
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/11346/1322022766/2189
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/11346/1322022766/2190

§§この中の『言葉…』なのですが〜〜〜まさか?まさか?「雅春先生…言葉」で〜〜〜><
二 誉め言葉を使う事…

浴びせかける??????  (テストの言葉…) この部分の○○――>「 よう 」という日本語
この言葉が〜〜〜【 NG 】 になります…。
この事は…【別板…多々なるTEST】 をさせて頂きまして…判明しましたが〜〜〜??

別板にて…此の○○にして【再投稿…】致しますと…【投稿ができました…(下記URL…参照) 】
変ですかと??思うのですが〜〜〜??
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/11788/1343270550/3265

◆◆ 今後は【〜〜〜よう】という言葉…変に思いませんか??【不思議発見…】
それとも〜〜〜【イジメ!!…】になるのでしょうか????

最終的には…「現総裁雅宣先生」のおっしゃいますように
❤「雅春先生の言葉」…現代に通用しない“言葉づかい” も〜〜〜という事になりますのでしょうか??
ヘン〜〜〜ですネ??
                                   再合掌

2192【開業日の特恵の活動情報】:2013/04/12(金) 00:59:55 ID:9jzMTzUk
【開業日の特恵の活動情報】

http://www.bagv5.com

2193SAKURA:2013/04/12(金) 05:46:21 ID:BEUD3XFA
「トキ様」 ・  「観覧者の皆様」 へ
おはようございます…。  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。

■今回の【 NG 問題 に関して 】 >> 2191の続きですが……

下記にて【 NG 機能の変わった使い方 】参考にしながら〜〜〜 (URL… 参照)
http://dic.nicovideo.jp/a/ng%E6%A9%9F%E8%83%BD

思うのですが??? 「管理人 トキ様」へ

1)「NGユ−ザID 」これに関しましては?
この頃この中の【うのはな様…】のIDはほとんど投稿の全てと言いますか?【異なる…ID】 ですかと。
そうしますと…上記資料から…今回の私の【ID…】に関しては、2種類ですから 、容易にこの操作にて
【NG…操作】が可能かと〜〜〜判断ができますでしょうか??
これでは、今後の【ID…が明確に認識されている相手】に関しては、この処置が可能でしょうかと。??

2)更に今回の「雅春先生…」の言葉〜〜〜○○――>よう
この言葉が…【NG 問題 対象?】かと…いうことになりました。
しかも、もっとオモシロイ事に、“ふ”に落ちませんこの通常、誰しもが使用する頻度?の“言葉…”
此の事が【 NGコマンド all 】対象なのでしょうか??

■思うのですが〜〜〜まだしも、その前の「雅春先生の言葉」−―>浴びせかける
上記の言葉ですと…解釈論が「批判的…」「罵倒する言葉…」この様に検索しますと、明記されていました。
これに関し〜〜〜「浴びせかける」此の言葉づかいに対しましての【NG 問題…】でしたら、理解できます。
…が?
ところで…実は、以前も同じような事がありまして、それに関しては、当時何とか「対処法…」にて、
巧く処置ができましたのですが〜〜〜
今回の内容は「2チャンネル…内部」での〜〜〜ことなのでしょうかとの『推測』に至るのですいが?

此処で思いますに【末端信者にはこの様にしていいということなのでしょうか〜〜〜?】
「雅春先生」時代からの、献金斜陽族としては不満に思いますが???
この件を、ご多忙と存じますが…お知らせくださいますと幸いです…。
尚「管理人 トキ様」も複数いらっしゃるとの事を(5人?)此処の投稿者様が、おっしゃつていましたが?

                           再合掌

2194a hope:2013/04/12(金) 07:40:25 ID:6kIbHHgs
新版 生活読本 谷口雅春先生著(日本教文社)
第十三章 こうして富をつくりましょう

◆善い考えの次には善い実行を

心に常に善い事を思い、善い事が来ると予想し、自分は必ずよくなると考え、
自分の家や会社や工場は必ずよくなると信じているならば、その人は必ず、
毎日が愉快な人であり、楽しい人であり、幸福な人であり、前途(ゆくさき)必ず伸びる人なのです。

然し(しかし)心でそう思ったり信じたりするだけでは、まだ足りないのです。
信じたとおりにその計画や仕事を実行することが大切です。
善い考えを起こしても、ただ、じっとして考えているだけでは物事は出来ません。

ニュー・ヨークの一番よく売れる店にしても、「繁昌(はんじょう)のこと」をしゃべっているだけで、
良い品物を仕入れず、買いに来ても売りもせず、店の掃除もせずにいたら、結局其の店は繁昌しないことになると思います。

では出世したり、繁昌したりする本(もと)は、よいことを考えること、
その善い考えで、うれしくて、明るくなって、物事をチャンチャンと実行することにあるのです。
(つづく)

2195SAKURA:2013/04/12(金) 16:12:33 ID:BEUD3XFA
「トキ様」 ・ 「観覧者の皆様」 へ
こんにちは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。    

■今回の【 NG 問題 に関して『聖典引用 板』投稿の件 】
>>2191>>2193>>【聖典板…】の続きなのですが? この場にて、一言おことわり申し上げます…。

私事ですが…「聖典引用 板」に下記投稿内容を…記載しますのは恐縮ですが〜〜
『 NG問題…言葉? 』に問題がありますならば…今後の「雅春先生…書籍本」投稿に関しても
関わるモノかと思いまして…今回は此処にて投稿させて頂きます事をご了承の程、御願い申し上げます。
                         
再合掌

2196SAKURA:2013/04/12(金) 16:27:14 ID:BEUD3XFA

「トキ様」 ・ 「観覧者の皆様」 へ
こんにちは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。    ― その1―
■今回の【 NG 問題 に関して『聖典引用 板』投稿の件 】
>>2191>>2193>>2195>>【聖典板…】の続きですが……

昨日から、“キツネ!”につかまれた感じですが……? 今回の出来事…は、どのように考え直しても
オカシイ現象ではと、思います。実は此の【 NG 問題 】は、以前もありその時は対処できました。
処で…昨日は、いつもの調子で〜軽いタッチにての“投稿…”をさせて頂きましょうかと。
それは、【 聖典引用 板 】なのです。…が?何時ものように、一昨日も投稿が“重い文章…”になり
ましたでしょうか??正直申しますと…
「雅春先生のご文章」は、正確に「旧かな遣い」・「旧漢字…」にての投稿をする上では、個人的ですが?
結構!キーボードを打つ上でも、大変なので〜〜〜す。…が? フ〜〜〜ゥ!><

そのような時でも……これは私に課された「勉強…」でしょうかと、ツイツイ学生時代を思い出しながら
「口語・現代語」…etcあの頃の私〜〜〜逆戻りですから?それでも今日では「知識を頂く事の楽しさ」
と云いましょうか〜〜〜一つ一つ新しい物事との出会いは、実に新鮮で躍動力になりますでしょうかと。
そして、いつものように“投稿…”しますと、【 NG問題 】が発生なのです。“緊急事態”……

何度も〜何度も〜何度も〜【その言葉… NG】が画面上に出るのです。それで、以前の知識を頼りながら
【NG…発生】は、「文体にひわいな文章・言葉」があるのかしら〜〜〜ン!と再度見直し…?
まず『旧漢字・旧かな遣い』ですから?最初に、脳裏に引っかかりましたのが『旧かな遣い』なのかしら
〜〜〜ンと…『現代かな』に切り替えて再投稿に挑戦!!〜〜〜でも!又〜又〜又〜現れる【NG…】
何か、こらが悪い事をしたのかしら〜〜〜ン!といった感じに、思わずにはいられない気持ちが心の片隅
に浮かんできましたのです。段々〜〜〜と非常に気分が悪く???そうこうしていますと、フト!!
「うのはな様」が、まるで私に対しての『脅しの文章?言葉?』の投稿があり、その時、瞬時の閲覧にて
非常に気分を害した事を思い出し〜〜〜【何か嫌な出来事が〜〜〜起きるのか?或いは、故意に何かを
擁護派の私に対しするのかしら〜〜〜ン】と思いましたのです。思い出しますと【2チャンネル…投稿】
の各板の中に【“本流板”から“女子会板”に、嫌な文体とも思われる不吉な感じの予告】に今にして
思えるのですが〜〜〜><

◆−−−「抜粋文 その1」−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−◆
923 :うのさん:2013/04/11(木) 18:20:03 ID:bkwlVsik    (本流板)
>>922   SAKURAさま
あなたのレスに反応してザ・ヒットパレードなど歌の貼りをやったわたしも悪いですが、
ここは一応、トキ第二管理人が訊け管理人に使われている、訊け雑談マンガ専用版みたいなものですから  
上のような投稿は今後、部室版などを使用されてはどうでしょうか?  拝。

◆−−−「抜粋文 その2」−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−◆
335 名前:うのさん 投稿日: 2013/04/11(木) 15:18:14 ID:ZlQWsofA (女子会)
悪ふざけをした子に。保育者 やったのはだれ?正直に言いなさい。
 ○ 手を洗っているとき、子どもたちが何やら騒ぎ始めました。誰かがふざけて水を
かけたせいで、何人かの服に水がかかってしまったようです。なかには泣き出す子もいて大騒ぎです。
〜〜〜以下 省略〜〜〜http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/11346/1350959344/335 
◆−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−◆

 つづく

2197SAKURA:2013/04/12(金) 16:29:13 ID:BEUD3XFA
「トキ様」 ・ 「観覧者の皆様」 へ
こんにちは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。    ― その2 ―

■今回の【 NG 問題 に関して 『聖典引用 板』投稿の件 】
>>2191>>2193>>2195>>2196>>【聖典板…】の続きですが……

さて!このように、何か“不吉な感じ”につつまれ、まるでまるで“嫌な感じの想念”が生じますが?
その後【事件発生…NG問題】……

◆−――「抜粋文 その3」−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−◆
>>「うのはな様」が、またまた“不思議な物語”なのですョ???題名が…(生きた宗教 (1))http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/11346/1341453150/1237 谷口雅春師 『生活改善の鍵』>>
◆−――−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−◆

大変失礼ながら、これは何故そのような想いを抱いたかと申しますと…ある事を思い出したのです。
【 第一教区の元々元 渡○会長 がお好きな文章 】でした事を、思い出しましたので……
「教区内の演説…」では、正直今思いますと“ポイント…”が薄れた感じで、私がはじめて拝聴しました
時は内容が、理解し難く“支離滅裂…”それに“言葉に創価学会用語…”が講話の中〜〜〜でしたかと。

■世間一般での判断になりますと【3期…9年の白鳩会長…】になりますと【真理の言葉…方便】も含め
きちんと講話・演説が出来るものと思うのが当然でしょうが〜〜それで初めての講話は、ウキウキ気分
にて“楽しみ”に…いざ!「教区会館…」で拝聴したのです。…が??「春爛漫…霞がかかっていましたのでしょうか?」私どもの“想い”とは裏腹〜〜〜の講話・演説でしたのです。…が??このような印象が
ありまして、当時はその白鳩会長に対しましての「講演のお話…?」は〜〜〜その後、私どもの期待感を
失せた感じかと。FUKに戻りまして、当時「白鳩元元々W会長」を、まだ信じきっていましたから、よく
「第一教区の練成会に参加」したモノです。振り返りますと…経費は痛かったのです〜〜〜が><
此の事は、後にも先にも「ご自分の人数優先…行為」なのでしょうか??
それに会話する中で、御本人は「FUKからの上京」この意味は?「お金…」を使わせらる事にかとも><
「うのはな様」の【生長の家 「今の教え」と「本流復活」を考える/4の登場…投稿】は、実に“嫌な予感”がよぎり
ましたのです…。『 暗 雲 』此処で色々な“交差する想い”が生じていた時…「今回の出来事」と、なったのです

その後は、それにもめげずに……【NG問題…解析】の行動をとる事になり、探す作業を始めましたのです。
(以前もありましたので……今回はさすがに……)根気よく!!!難行の作業なのです。
その後の件は、以下のURL…の説明で御理解できますのではないのでしょうかと。??
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/11346/1322022766/2191  (参照URL…)
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/11346/1322022766/2193 (参照URL…)

更に、「別板…TEST投稿 」を根気よく続行していきますと、分かりましたのが、或る「言葉…」が〜〜それは、
❤ 【 様=よう 】です。最初はポカン!ポカン!あいた口が〜〜何故!この様になるのかと。いろんな角度で
更に、調べて行きますと…?(「別板…」にてのTEST投稿・・・ご迷惑をおかけ致しました。申し訳ありませんでした。)

■□【 イジメ問題 】〜〜〜段々とその様な判断!!に思えまして……

さらに「管理人…トキ様」の許可なのでしょうか??最近の言葉……が印象的で……しょうか?
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/11346/1358853467/896   (上記参照URL…)

それとも「複数の人間の“スパイ大作戦”」なのでしょうか〜〜〜??思いながら〜〜〜??
更に、『 したらば 』側からの職員への「賄賂説…」なのでしょうか??パ−トナ−と二人して、
討論なのです…。まるで冷戦時代の『ス パ イ 代 作 戦』ですネ???
これは【分派…側】のこの様なキタナイ!行動かと“判断…”しましたのです。擁護派の私達ですから><

                                 つづく

2198SAKURA:2013/04/12(金) 16:33:00 ID:BEUD3XFA
「トキ様」 ・ 「観覧者の皆様」 へ
こんにちは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。    ― その2 ―

■今回の【 NG 問題 に関して 『聖典引用 板』投稿の件 】
>>2191>>2193>>2195>>2196>>2197【聖典板…】の続きですが……

そして、此処『2チャンネル…参加』させて頂いております現状の中、当初は分かりませんでしたが、
段々と最後には「う の は な 様 =此処の 女 神 様」これは「管理人 トキ様」の言葉でも
ありますし、私自身は「全てが“イ ヤ ミ”文章」に見えます昨今でしたが??
『追いかけ論・・・』・『スル―!スル―!論』〜〜〜今の私どもに取りましては【生長の家の真理…】が
心の安らぎとしてほしいのです。ことのほか、昨日の投稿は“嫌み…”に目に移りましたかと。??
「観覧者の皆様」の捉え方は、果たしてどのように思われるのでしょうか?

尚!『管理人 トキ様』は、如何しても此処昨今では『分派…擁護派』の様にお見受けますので…
前回の投稿内容状況でも「うのはな様が女王様…」とかの認識のようです。…が??(複数の管理人様説…)
それはそれで宜しいのでは、ないでしょうかと思います。但し、こちら、一般信者は【NG問題…発生】
にて困っています次第なのです。今回の“原因究明解釈”を、どのように思ったらいいのでしょうか?
今後の『雅春先生…御文章』の聖典投稿を今一度、考えるべき問題かと思った次第です。
( 「雅春先生…文章」は、ネット上の媒介をする上で、誤解を招く面もあり〜なのでしょうか )
この様にも判断できますのでしょうか?此の事は「現総裁雅宣先生…」のおっしゃつていました理論が
納得できますのではと、新たに思ったのです。
『雅春先生・・・回帰』を、唱えておられます【分派側…】の主旨には?時代の変化を考えるべきとの
結論に至るのではないのでしょうか???

■「管理人 トキ様」ご自身に取りましては【 NG問題 】が発生しても〜〜〜「うのはな様」とは
特別なる○○関係なのでしょうが〜〜〜??(裏メ−ル作戦でしょうか…?)
一般的にはイメ−ジします『中立…管理人様』の立場から、この件は何卒「原因究明調査…」を、御願い
申し上げます…。御多忙中と思いますが??“社会人”としては、あたり前の事と思うのです。が?
そして今後の両者「現原宿」「分派…」側に於けます処の
【インタ−ネット活用システム…】に於きましては、その『善悪…』の携わっています処の
システムエンジニアの人格も…考慮すべきでしょうかと、思う次第ですが…。

※しかも、今後は【運営上の中枢機関…としての役割】のようですから、尚の事でしょうかと。

                                  再合掌

2199トキ:2013/04/12(金) 18:09:36 ID:kPyknb4Y
>>2198

 うのはな様とは、裏面でそういうやりとりはしておりません。
ですから、ご安心下さい。

 また、掲示板自体は「中立」ですから、どの立場の投稿でも
歓迎をしています。

 それと、トキですが、残念な事に、光明掲示板などでは、
「総裁援護派」と思われているみたいです。少なくても、
「分派」の共鳴者とは思われていないみたいです。

 疑問があるなら、「靖国見真会参加者」様に

「トキさんは、分派の共鳴者だと思われますか?」

とお尋ね下さい。

合掌 ありがとうございます

管理人敬白

2200SAKURA:2013/04/12(金) 19:11:41 ID:BEUD3XFA
「トキ様」 ・ 「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。

>>2199 「管理人 トキ様」
早々の返事頂きました事に、感謝申し上げます…。…が?さて!私が投稿しておりますところの
>>2191>>2193>>2195>>2196>>2197>>2198>>此処【聖典引用 板】の続きになります。…が。 ●印
(この場にての投稿を…皆様方にご迷惑となります事には、深くお詫び申し上げます…。)

「うのはな様との件」ですが、果たして、全体的な投稿のいきさつをよく拝読されていらっしゃらないかと。
裏メール?メールのやり取り…云々…がないようだとか??それは、そちらの関係の中のようですから〜〜?
私には、全くもちまして「男女の中?」・「ギブ・&テイク??の相互関係」ではないでしょうか……
この件は、あくまでも横においての問題…なのです。私の誤認でしたら…この場にてお詫び申し上げます。。。

一番肝心なのは〜〜〜
■今回の【 NG 問題 に関して 『聖典引用 板』投稿の件 】ついての内容を・…これに関してなのですが??
具体的には、私の言いたい事は【 NG…言葉 −―>よう 】が、如何して起きるのでしょうか〜〜〜??
此の事が〜〜〜疑問なのです。…が??
さらに、今回の件は【分派側…】の方にとの推測も致しておりますし、、「文章体が討論会話」にて…最近では
多い感じですから、【分派…側】かと思いましたが???
何と申しましても問題の鍵は【 NG … 雅春先生の書籍本での言葉…の件 】についての“お答…”を、
お願いしたく、その前後関係を詳細に(表現が不十分でしたら申し訳ございません。)●印の項目…にて!
記載投稿しております。…が?それで【 聖典引用 板】にての、今後の投稿の
【聖典・教本…抜粋】に関連して考慮すべき問題がありますかとの??判断なのです…。

余談ですが?「うのはな様」の文章体はある面“嫌味…”に見えますのですが〜〜〜??
これも“好みの問題…”でしょうから「管理人 トキ様」は、それが〜〜〜随分と面白くも?おかしくも?ありと
感じられますようですかと…。人それぞれですネ!!
                                               再合掌

2201うのはな:2013/04/12(金) 19:20:03 ID:tO32XR0w
>うのはな様との件」ですが、果たして、全体的な投稿のいきさつをよく拝読されていらっしゃらないかと。
裏メール?メールのやり取り…云々…がないようだとか??それは、そちらの関係の中のようですから〜〜?
私には、全くもちまして「男女の中?」・「ギブ・&テイク??の相互関係」ではないでしょうか……

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 世の中は、みんなギブ&テイクの関係ですよ。
 しかしわたしはトキ様になにかギブしているでしょうか?
 それが心配なところです。

  (大爆笑wwww)

2202るんるん:2013/04/13(土) 08:55:02 ID:P9lpBWPw
SAKURAsama

トキ管理人様は、うのはなさんに『金』でも借りてるんじゃないの?

2203トキ:2013/04/13(土) 10:19:10 ID:sQgDkB/I
>>2202

 うーん、借金はないですね。まあ、貸してくれませんが(笑)

2204トキ:2013/04/13(土) 10:51:08 ID:sQgDkB/I
 ところで、ここは聖典引用板ですから、みなさま、小話は他の板でしましょう。

合掌 ありがとうございます

管理人敬白

2205「訊け」管理人:2013/04/13(土) 16:02:36 ID:???

明るく歩もう
谷口清超

 君は本当に「明るい」だろうか。君は悲壮感を漂わせてはいないか。それは、君を孤立させ、失敗させる雰囲気となる。悲劇の主人公となり、人々がそのために涙するような主役となることを、私は君に、どうしてもすすめるわけには行かないのである。

 人は心ら奥底で想い描く通りの運命を辿る。君が周囲の人々とあまりにも孤立してしまえば、だれも君について来ない。ついて来ても、ごく少数のえらばれたものだけだ。これでは本当の「人類光明化」はできないのである。

 人類を救うことは、人類という多数者に、誰かが光線を与えることではない。人類そのものの意識が光となってもえ上るのだ。多数の人々が「その心」にならなくてはならない。

 それはあたかも多くの幼な児を連れて目的地へ歩くようなものだ。君が眉にしわをよせ、悲壮な気持で引っぱって行っては、子供達はついてこれないだろう。歌をうたい、笑い、なぐさめ、はげまし、おやつを与え、水筒の水を分ちのみ、たのしく明るく永い道のりを歩むのである。


『理想世界』誌(昭和53年4月号)より謹写――

2208a hope:2013/04/16(火) 07:10:37 ID:6kIbHHgs
新版 生活読本 谷口雅春先生著(日本教文社)
第十三章 こうして富をつくりましょう

◆言葉の力を利用しなさい

食べ物でもそれを食べながら、「これは美味しい、滋養になる。」とほめながら食べると本当に滋養になるのです。
心の中で不味(まず)いとか、食中毒がするとか認めなければ、消化が良く行われてお腹をこわすなどと云うことはないのです。

店の繁昌も、食物の消化も言葉の力で変って来るのです。

マーデンは、或るニューヨークの一番繁昌している店にいった時その店に
「この店では繁昌の話ばかりをする」と云う標語が書いてあったので、

「成程(なるほど)、この店が繁昌する理由は此処にある。
繁昌の話をするから繁昌が出て来るのだ。
彼らは貧乏を認めないから、貧乏が出て来ないのだ」と気がついたと云います。

これは言葉の力に気がついたのです。
(つづく)

2209SAKURA:2013/04/16(火) 16:18:18 ID:BEUD3XFA
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 
こんにちは……。  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
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「女の浄土」投稿の続きです。

■■ 『女 の 浄 土シリ−ズ…SAKURA論』    
――――― 【 第七章  あなたが繁栄を得るために 】―――――

■ 真理の本を “與へる” 功徳はこのやうにに 
  
一、中心を固定して教える事
上五線と下五線の間に実はもう一本の中心の線があって之が盲線になっているために、子供がこの盲点
にひっかって苦しむのでありますが、中央を復元して楽器の中心に固定さして教えると初めてはっきりと
理解して行くわけでありますが、折角始めたピアノを中断している子供の多くが大抵この點(てん)に行き
づまってゐるのを救い出す方法でもあるわけですが、これだけでも真理なるかなとうなづけます。

二、賞め言葉を使ふこと
御稽古始めの幼児にまるで誉め言葉を浴びせかけるように注ぐのですが、『あなたの “お父さん指” 
は御利口ね』などと何でも見つけ次第誉める事によって、まだ音楽的曲らしく何も弾けない子供でも、
その誉められる雰囲気によって、寝ても覚めてもうれしくて、 “早く行かう、早く行かう” とママの手を
引張ってよろこんでまいりますが、今や如何なる人でも子供でも必ず弾くようにさしてあげれる道は
この事によってなしとげられると、私自身の信念ともなって、真理のお導きの素晴らしさを心からよろ
こんでいるわけであります。

三、エミールイ・ク−エ 訓練の方法…・
この方法により、習慣性をつくり、子供の忍耐力、集中力等を養う。特に、自然に、幼児期にその練習
法が身につくと、バイエルの教則本を就学以前に簡単に終了いたしますが、精神科の先生方が仰言っ
ているように、指先の訓練により脳髄の開発が促進されると実証されている如く、ピアノ教育は凡ゆる
子供の御稽古事の中でも最大の任務をもつものであると自負しながら、悦びをもってさせて頂いてを
ります。
                                          つづく

2210SAKURA:2013/04/16(火) 17:03:45 ID:BEUD3XFA
「トキ様」  へ   「観覧者の皆様」  へ
こんにちは……。  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。

■ 前回に於きまして、「トキ様」・「閲覧者の皆様」へ、大変お騒がせましたところの……><
【NG問題 … 含む 聖典投稿】を、本日、念の為に“投稿…”と。

尚【再投稿…聖典】を上記「>>2209」にさせて頂きました。ホ〜〜〜ッ!ホ〜〜〜ッ!無事に通過の
今の心境です…。【無事通過…】

本当に、ありがとうございました…。   感謝!


PS:
【☼】そして、今後も「雅春先生・・・ 真理の言葉」を、投稿させて頂きますので…引き続き…
閲覧の程、よろしくお願いいたします…。
                                    再合掌

2211a hope:2013/04/17(水) 07:43:06 ID:6kIbHHgs
新版 生活読本 谷口雅春先生著(日本教文社)
第十三章 こうして富をつくりましょう

◆出世する秘訣

言葉でいう事は心の中に這入(はい)り、心の中に這入ったことは、
すべて形にあらわれて来るのです。

達者になる秘訣は(こつ・ひでん)は、「達者だ」という事を、
常に心の中に有(も)つ事なのです。

出世する秘訣は、「私は必ず出世する」とコトバに唱え、心に思う事なのです。

成績がよくなる秘訣は、「私は成績が良い、毎日一層私の成績はよくなる」
と常にコトバで云って、そして心の中にそれを信じる事なのです。

商売が繁昌する秘訣は繁昌の事ばかり喋って、
心の中に「繁昌すること」を信ずれば繁昌するのです。

この秘訣を皆さんのお父さんお母さんに教えてあげて下さい。
すると、お父さんの商売が繁昌し皆さん自身も幸福になるでしょう。
(つづく)

2212SAKURA:2013/04/17(水) 21:06:54 ID:BEUD3XFA
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 
こんばんは……。  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
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>>2209 「女の浄土」投稿の続きです。

■■ 『女 の 浄 土シリ−ズ…SAKURA論』    
――――― 【 第七章  あなたが繁栄を得るために 】―――――

■ 真理の本を “與へる” 功徳はこのやうに   その①〜その②です

 ❤入園時、中以下の知能指数しかなかった幼兒に施して、入学後全國トップ指数を出してゐる子供も
顕はれ、それに近い例が澤山あがってまゐりまして、ピアノが情操教育として、補助教育としての役
割の偉大なるを痛感しながら、毎日を意義ある生活させて頂いてをります。

 今日の私の體(からだ)があるのが元よりのこと、これら凡て御師谷口先生のお陰であることを思へ
ば、その感謝の気持ちは筆舌に盡(つく)せません。

 最近も私の希望である息が飛田給練成をうけました所、これまた眞理にふれる縁となりまして、此
の息が自由ヶ丘にサンピアノ社を開業いたしました。もともとやはり音楽が好きで、早稲田の政経
と、藝大器樂科を卒業しました息でございますが、早くから店を経営いたしたくて、ここ数年勤め人
としての行き詰り状態にゐた者が一挙に魚の水を得た如く活気づきまして、嫁も大體決まり大變張切
ってまゐりました。これも亦全くお陰様で御座いますが、小資本ながら、わたくし取締役社長とい
ふことで、高輪教室と共に発展させたい気で一ぱいでございます。

 わたくし女で少々幅つたい言ひ方かも解りませんが、教育事業を夢みてゐます。で、此の際“はじ
め會“に入會させて頂きたく、谷口先生の御誕生日を記念として入會させて頂きます。大事業家のお揃
ひの中に、少々面映(おもはゆ)い気がいたしますが、御先輩に引きあげて頂きたいと思ひますから、
今後とも何分よろしくお願ひ申し上げます。……」
(注・“はじめ會”といふのは生長の家の繁栄の原則を実行しつつ現に繁栄してゐる実業家の集まりであり、時々研究会や講習会を開いて生長の家講師の講話を聴き、自己の繁栄の体験を交換している。栄える會と改称)

 この磯三喜代さんの手紙には全く繁栄の原理が漲ってをり、それを実践していられるところに尊い
ものがあり、必ず繁栄の大道に乗ることになると私は信ずるのである。大実業家や既に財閥の後嗣者
(こうししゃ)として大資本で出発しているような人々の体験談は、一般の人たちでは足元にもよれな
いので参考になれない事が多いが、普通の生活程度の中から次第に伸びて行きながら人類に貢献しつつ
更に伸びて行き繁栄して行きつつある体験をきくことは一層多くの悦びとなり励ましとなることなので
ある。

                            つづく

2213a hope:2013/04/18(木) 07:35:45 ID:6kIbHHgs
新版 生活読本 谷口雅春先生著(日本教文社)
第十三章 こうして富をつくりましょう

◆店が繁昌する秘訣

「どうぞ私の店がつぶれそうですから、たすけると思って私の店へ買いに来て下さい。」
こんな言葉を書いた広告ビラをふりまいたら、その店は繁昌するとおもいますか。

決して繁昌するものではありません。
「どうせあんな店にある品物は、流行おくれのローズ物かなんかだろう」と思って買いにこないのです。
これでは、さっぱり繁昌のしようがないのです。

それよりも大切なのは、
「私の店には立派な品物がある。どんどん新しい流行品が入荷しています。
私の店で売り出す品物が今年の流行(はやり)の魁(さきがけ)となるのです。」
などと景気のよいことを書いてあったら、誰でもその店へ買いに行きたくなり、
従ってその店が繁昌することでしょう。

これが言葉の力というものなのです。
(第十三章 終わり)

2214うのはな:2013/04/18(木) 11:31:41 ID:iB5EfKYI
     自己の全身は大日如来の説法である

 華厳経に示されている“重現無礙”の真理のように、わが全身は大日如来の全身であり、その全身を
構成するひとつひとつの細胞全部はことごとく一世界を構成していて、其処にまた大日如来が坐し給うて
真理の説法をしていたまうのであり、その大日如来の全身の細胞も、更にその世界の微塵の砂粒にいたるまで、
ことごとく皆一世界であって、その中に大日如来が坐して説法していたまうのである。

 つまり吾々の人体を構成している細胞、細胞を構成している分子、その分子を構成している素粒子・・・等等に
至るまで、そこに如来がましまして説法(いのちのひびき)していたまうのだ。
それが人間の實相なのだ。そんな人間が病気などする筈はないのだ。
だから病気などすべての災いは、ことごとく幻でしかないのである。

 この人体がそのまま如来のいのちの顕現だという真理が自覚されるならば、人間は病気など
する筈はないのであり、今、病気に罹っていても、自分が大日如来なる實相を観ずれば、
病気が消えてしまうのが当然なのである。


現代文字に投稿者変更書写 『生長の家』昭和四十一年十二月 谷口雅春 先生著

2215うのはな:2013/04/18(木) 16:02:41 ID:tzEoRToI
晴れときどき競馬とホークス ブログ 今日の言葉より

    『生命の教育』の目指すもの

 生命の教育というのは、『人間・神の子の自覚であり、中心に対する自覚』であるわけです。

 それが非常に単的に現れたのは、生命の教育は別名『神話の教育』であると考えられる位に、神話自体の流れの中にずっと一貫しているものは、この宇宙の根本設計が中心帰一であって、それがあらゆる面に現れた時に、秩序ある世界が此処に成就する。

 しかしあの古事記神話が学校でよく教えられ、一般に理解されればいいんですけれども、神話は登場したけれども、一向にその精神は伝わっていないという現状であります。


 そういう流れに、現在の家庭・学校・社会等の混乱の原因が“中心の問題”である。それは現憲法に由来するところの“中心破壊”が隅々まで浸透している。それを実際に癒して行く。それを心の立場から、教育の立場から、長い時間かかってもやらなければならない“生命の教育運動”の中に実は憲法復原の内面から見た重大な要素をはらんでいるという点を指摘します。


 『生命学園』では“四つの柱”を建てたわけです。


 第一は神想観 ―― これは第一義的にして、神の子の自覚、中心生命の自覚をする。

 第二には日本人としての自覚を体で体得するということに最も重点をおいています。日本の礼法ですね。坐ったり立ったり歩いたり、呼吸のしかたなどがこれが全部中心に帰一するようになっています。それを体で学ぶというわけです。

 第三には、これは和歌の道 ―― 敷島の道というので、小田村寅二郎さんの『日本思想の源流』という本が出版されましたが、これには歴代天皇の和歌のことがくわしく説かれています。歴代の天皇がお一人で一千首、二千首とお詠みになっている。

 歴代天皇は国家の難局に処してお困りになった時、あるいは国民を指導する時、色々な機会に全部和歌でなさっている。国民に対しましても“命令”という形でなしに、“言依さし給う”形で和歌にして示されるということをあらためて学んだわけです。

 生命学園で和歌を取上げましたのは、やはり日本の根源の思想にふれるには、どうしても天皇の御心が解らないといけない。その天皇の御心を理解するには、天皇の事蹟やその時代の事件を知るだけではなかなかわからない。

 天皇のお心を知るには、歴代天皇が“敷島の道”として御精進してこられた和歌の道を国民が全部やったら一番よく解るだろうということで、まあ上手に作ろうとか、技術を上達させようとかいうことを超えて日本人の心の底にある魂の感動を何とかして歌い上げようというので和歌を取上げたのです。


 第四には全国の生命学園で“道”という名のつくものは、指導者さえ得られたらこれをやろうとしています。今“道”として書道を指導しています。

 これも単に字を習うというのでなしに、谷口雅春先生の神示のお言葉を中心に座右の銘を書くということで、この“道”を学ぶということにしています。

 それから地域地域によって、剣道の先生が得られれば剣道をやる。お花の先生が得られれば華道をやるということにしています。

 日本の歴史をみても、この日本が濁流ににごった時には、いつも神のみもとに立ちかえり日本の道に澄みきるとき、日本の本当の相が出て来るということであります。

           鹿沼景揚 東京学芸大学教授  『生長の家』誌46年11月号

2216NANCY:2013/04/19(金) 21:44:43 ID:BEUD3XFA
「トキ様」 へ    「観覧者の皆様」 へ
こんばんは…… ロ−マ字(大文字)の【NANCY】です。
>>1955>>1983>>1988>>1999>>2010>>2012>>2024>>2028>>2029>>2061>>2066>>2067
>>2083>>2116>>2117>>2129>>2134>>2135>>2165>>2166>>2173>>の投稿の続きです。

===【谷口 清超 先生 著】==============================

■ 壁に耳あり
ある夜半、彼女はフト目をさました。すると隣室で、父と母とが、中学生である彼女の噂話をしていた
のである。母が彼女のことを悪く言う。
「あんな子は、うちではもういらない、どこかへ行ってしまえばよい・・・・・・・」
と話すのを聞いた。彼女はびっくりすると同時にムカ―ッとして、以来母に反抗するようになったので
ある。父ともケンカをし、成績も下がったと私に訴えてくるのであった。

 これはコトバの悪用であり、母親の愚かな泣き言が、子供の人生にどんな悪影響を与えるかの見本例で
ある。

しかしこれとは反対に、もしこの時父と母とがお互いに彼女をほめ合い、いい子だね、よかったね、
あんないい子はきっと幸せな人生を送って呉れるだろうね・・・などと話し合っていたなら、彼女はその
コトバの通りいい子になっていたはずである。たとえまだ少しくらい欠点があっても、長所がのびれば短所
は消える。必ずよくなるのに間違いないのである。
 
それと同じように、一家の主婦が、子供もと一緒になって、夫の悪口を言い合っていたらどうなるので
あろう。そんな家庭はとんでもなく悪い夫、そして悪い父を作り出してゆく「武器密造工場」となるに
違いない。
「夫が聞いていない所ならばよかろう……」
 と思うかも知れない。しかしそれは間違いである。昔から 「壁に耳あり、徳利に口あり」と言われるよう
に、「壁の耳」がきいていて、夫が帰宅した後にも、まるで録音機のように、妻と子の悪口を呟き出す。何?
そんな声を聞いたことがない? ハッキリした言葉になっていなくても、一種のモヤモヤとした雰囲気とし
て、心の耳には聞こえてくる。
 
いや、それ以前に心と心とは、どんな距離を距てていても通じ合うから、悪口でも善口でも、必ず伝わ
るのだ。そしてコトバが人生をそのコトバ通りに作り上げて行く。それをよく心得て、「作りたい人生」を
お互いに話し合うことである。

                                       つづく

2217NANCY:2013/04/19(金) 21:47:04 ID:BEUD3XFA
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こんばんは…… ロ−マ字(大文字)の【NANCY】です。
>>1955>>1983>>1988>>1999>>2010>>2012>>2024>>2028>>2029>>2061>>2066>>2067
>>2083>>2116>>2117>>2129>>2134>>2135>>2165>>2166>>2173>>2216の投稿の続きです。

>>2216 の投稿の続きです…。

■これはあまりにも簡単すぎるから、その効果を疑う人もいるかも知れないが、一年間実行すれば、必ず
コトバ通りになることがわかるであろう。テレビ・ドラマもコトバの筋書で作られるし、会社の会議の決定
も言葉で作られる。
「どこそこへ転勤を命ず」
という一通の辞令でニュヨ−クへでもロンドンへでもとばされる。
これもコトバの力であるから、もしあなたが心の中で、
「あなたなんか、どうせダメ人間だ」
 などと呟いていたら、夫はダメ人生の吹き溜りに「飛ばされる」に違いないのである。そんなことを
して人間の粗大ゴミを作ってはならない。神の子の実相をしっかり、拝み、コトバに出し、唱名し、夫や
子供や、さらに自分自身を輝かしい本来の姿に現わし出し、全世界の繁栄と家庭の平和と宇宙全体の保全と
に貢献しようではないか。  
(一部抜粋) 『幸せへのパスポ−ト』より

◆−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−◆

■始めに“コトバ…”あり〜〜〜♫ 人間関係のコミュニ−ケ−ションでも“コトバ…”
そして、自分の人生を思うままに動かす?もう一度やり直してみたいな〜〜〜ァ!と望むならば、やはり
【コトバ…創化力】と申しますか、改めて…【心で思う事――>コトバでの反復――>現実世界へ】……
でしょうか?

どうしても環境に負けそうな時は【コトバ…力】にて、人生の意義を生みだして…私自身の価値観を、今!
もう一度見極めてみよう〜〜〜かとこの頃思います…。
先日…???年ぶりに思っていましたモノ(恐らく潜在意識の奥深く…)ありましたモノが、時間空間にて
やっと〜〜〜目の前に!!でも、ハット気づきましたのが「体力…><」今、自分自身には?〜〜〜
心で出来る〜〜〜出来る〜〜〜出来る〜〜〜念じ!“コトバ…”として口に出し…トライ!トライ!です。

■ 「体力〜〜〜自信がな〜〜〜ぁイ!」
ましてや、第三者から…「まだ!見えるのですか〜〜〜?」この“コトバ”を頂きました時には〜〜〜
フゥ >< 当に、落ち込み〜〜〜ダウン!ダウン!なのです。

しかしながら「生長の家…御教え」の【真理…】を学ぶようになりまして…「決めつけ論…」は撤回!!
【全ては〜〜〜神様にお任せ〜〜〜します】この様な気持ちになりましたので〜〜〜す。当然ながら、
この【決断…】をしましてからは、
【人生の最終価値…】をもう一度、振り返りながら“使命感…”…にてゴ―!!当に〜〜〜今の私は、
【青春…時代】にタイム・スリップ……かと?思う次第です。…が?

■□■ 自分自身の〜〜〜最高を引き出すのは〜〜〜“コトバ…”から、始まりますでしょうか??

                                    再合掌

2220NANCY:2013/04/23(火) 21:35:05 ID:BEUD3XFA
「トキ様」 へ    「観覧者の皆様」 へ
こんばんは…… ロ−マ字(大文字)の【NANCY】です。
>>1955>>1983>>1988>>1999>>2010>>2012>>2024>>2028>>2029>>2061>>2066>>2067
>>2083>>2116>>2117>>2129>>2134>>2135>>2165>>2166>>2173>>2216 >>2217の投稿の続きです。

===【谷口 雅春 先生 著】=================================

■善き想念の種子を蒔こう
 わたしたちは“想念”という種子を、創造の基盤たる“心の世界”に蒔くのである。その想念が神の
国より受け嗣がれたる“想念”である場合には、それを“正念”といい、夢中に囈語を語るがごとく、
“正念”をはずれて、出鱈目または無闇な想念を思い浮かべたものを“妄念”というのである。
わたしたちは美しき、愛深き、愉しき、明るき、光に満ちた、健やかな、生き生きとした積極的な想念を、
宇宙の創造の沃地に播かなければならないのである。そのような想念を常に起こしているならば、それは
種子となって発芽し、ついに現象界に生長して、現実によき果を結ぶことになるのである。
                     谷口雅春先生著 『如意自在の生活365章』より
================================================

■そうなのです〜〜〜ョネ!「想念…」は、必ず!と言っていいほど、此の「現象世界=顕現世界」に、
時間・空間をへて…現われますかと。例えば〜〜〜 

先日、或る“品物…”を、それは、どうしても日常生活にて、必要でした。但し?私の予算の想定を、
「○○○○円」内としておりました。…が?そうです〜〜〜ネ!丁度、2月頃でしたか?たまたま「検索…」
をしておりますと…実に私の“欲しい外観商品”であり、更に“割引セ−ル中…”何と…“ラッキ−!”
と思いましたが…そのショップの「ホ−ム・ペ−ジ」を閲覧していますと?悲しいかな〜〜〜
○○人待ち><との事で…更に、その待つにしても“ハズレ…”もありますと…コメントを頂きまして!!

『期待>>落胆』の思いを、同時に抱く事になり〜〜〜それでも「○○人待ち…」気長〜〜〜に、
待ちましょうかと、思いなおしました。実は、その商品は、手間ひまかけたのでは〜〜〜?その様に、
心にフト!思いましたし、その値段で購入するのも〜〜〜?悪いワ〜〜〜と、思い直しまして
もしも?もしも?【購入出来るならば〜〜〜】と…♫〜待ちぼうけ〜♫…この様に気持ちを切り替え!

ところが!!何と〜何と〜その商品を「ゲット…」出来たのです…。嬉しい〜愉しい〜幸せ〜“気分”
頂く事に…この「期待感…」は、キット「神様の御心」に叶ったのですかと…
当に【正念…】と…!それが現実化したモノと…。

この様に「想念」は❤【人間関係=コミュニケ−ション】に関しても必ずや通じるモノですから、
やはり「神の国より受けつがれたる“想念”を抱く…」事の重要性を改めて感じる事となり、
今回の【生長の家…お家騒動】は、当然ながら『神の国=神の御心に叶う』正しき“正念…”を、
抱かない限りは、どちらも『共倒れ…』になりますでしょうか?

■必ず!【信じて〜〜〜待つ!】そうなのです〜〜〜ョネ!【忍耐づよく〜〜〜待つ!】
そうしますと「善き種…答え」が、この現実に現われてくるものかと、思うのです…。

                               再合掌

2221a hope:2013/04/24(水) 09:43:27 ID:6kIbHHgs
新版 生活読本 谷口雅春先生著(日本教文社)
第十四章 心で貴方を幸福にいたしましょう

◆神さまとはどんなものか

あなたは神さまをどのようなものだと、おかんがえになっていますか?
あなたは子供が思っているような、神さまとは非常に大きなすばらしい力をもった立派な方で、
雲の上の天国にいて、吾々を上から見下ろしていて、そしてよきものにはよき玩具をくださり、
悪しきものには罰をあたえ給うというような方だと、おかんがえになっておりますか?

神さまとは、決してそんな方ではありません。
神さまが天にばかりいらっしゃるようでしたら、吾々を守ってくださるわけにはまいりません。

神さまはどこにでもいらっしゃるのです。
どこにでもいらっしゃるものは、あまり大きすぎて目に見えないのであります。

空気はどこにでも、みちているから見えないのでしょう。
すべて目に見えるものには限りがあるからです。

神さまには限りがないから見えないのです。
見えないから「かくりみ」と申しまして、か’く’れ’て’いるお姿なのであります。

「か くり み」の中の二字をりゃくして「かみ」といったのであります。
(つづく)

2222a hope:2013/04/25(木) 08:45:53 ID:6kIbHHgs
新版 生活読本 谷口雅春先生著(日本教文社)
第十四章 心で貴方を幸福にいたしましょう

◆神さまはどんなにして世界を造ったか

神さまが此の世界をお造りになりましたのは、色々の材料を使って、
物質の鏝(こて)やスコップでかきまわし、セメントや粘土で造りかためたのではないのであります。

この世界の始めにはセメントも粘土もスコップも鏝もありませんでしたから、
そんなものをお使いになることはできないのであります。

物質というような目に見える、形のあるものは何もなかったのでありますから、
ただ心の力をお使いになったにすぎないのであります。
(つづく)

2225SAKURA:2013/04/25(木) 22:25:43 ID:BEUD3XFA
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 
こんばんは……。  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
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>>2209>>2212 「女の浄土」投稿の続きです。

■■ 『女 の 浄 土シリ−ズ…SAKURA論』    
――――― 【 第七章  あなたが繁栄を得るために 】―――――

■ 真理の本を “與へる” 功徳はこのやうに   その③
 
 磯さんの繁栄の原理は以上箇条書にかかげられたもののほかになほ注目すべき點がある。それは感
謝の念を忘れてゐられないことと、その繁栄が單に金儲けのためでなくピアノの教授を通して児童の
情操教育に、基礎教育に、補助教育に、貢献しようといふ神聖な目的があることであり、そこに生き甲
斐の感じが得られ、同時に神の人類救済の智慧に波長が合ひ、神界にある“人間を幸福にするアイデ
ィア“と波長が合ひ、新しき事業が、その令息の希望と共に伸展しつつあることである。私は『祈り
の科学』の本の中に、單に金儲けのために小説を書いた婦人の原稿が、どんなに祈っても、どの雑誌
にも出ないし、單行本にもならなかった実話を書いたし、また東京大学へ入学したいと一心に祈りな
がら、数回受験してもいづれも失敗に終った青年が、「何故東大を選んだか」について、何の神聖な
理由もなく、單に將来就職の便宜が得られ易いといふ物質的な理由だけであるために、神からの共
鳴が得られない、又は神からの電波にこちらの心の波長が合はない結果であると回答したことがある
のである。眞の繁栄を得るには他を生かすところの神聖なる目的がなければならぬのである。

                            つづく

PS: 「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
【サンピアノ…】今現在でも、残ってるようです〜〜〜ネ!!
さて!私も【反省…】です。第三者的に見ましても、最近の販売では、以前より、やはり“数字…”が、
先行しての販売のようです。従いまして〜〜〜これは“納得!!…”で〜〜〜す。
私共が、初めての“販売場所”の実体験〜〜〜思い出深いのは❤【福岡の老舗でありました西新岩田屋】でした。
但し?今は〜〜〜テナントビル〜〜となりましたが!この頃は、まだ“ノホ〜〜ン!”と言う風潮がありました
ようで、“数字…”というよりも、私達の商品を販売し、「お客様」との楽しいコミュニケ−ションを楽しむ〜♫
従いまして、心理的には、まず!商品が売れたら“グ−!”と言う感覚での販売でしたがと。【素人…感覚?】
それにて“上代の設定…”を〜〜〜深く考えていなかったように思います。今!振り返りますと「販売期間…」
と言う“制限期間での売上数字…”の認識が、正直な話?自覚がほとんどなかったかと。期間終了まじかに、
バタバタと…原価プラス薄利の数字にて“上代設定…”を、やり直しまして、その場を切り抜けました。…が?
確か?【上位3位ランク…内】には入り〜〜〜ややヤ!有頂天気味の“パ−トナ−と二人”でした。…が?><

最終的には、【赤字…】と言う数字になると判断しまして〜〜〜“顔色が蒼白……”になった思い出があります。

                                         つづく

2226SAKURA:2013/04/25(木) 22:27:32 ID:BEUD3XFA
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 
こんばんは……。  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
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>>2209>>2212>>2225 「女の浄土」投稿の続きです。

■■ 『女 の 浄 土シリ−ズ…SAKURA論』    
――――― 【 第七章  あなたが繁栄を得るために 】―――――

■ 真理の本を “與へる” 功徳はこのやうに   その④

■>>それが、私どもの初めての「販売体験…思い出」でもあります…。当に【失敗…】なのです。

この事を踏まえまして、素直に「次回の販売先…」で、トライ!その時は?当時のメ−カ−と対等に
“高級服の価格”での挑戦となりまして「熊本のISETAN… 」で販売しました。そうしますと〜〜此処は
「生長の家…無限力」の復活です。【売れる〜〜売れる〜〜売りきる〜〜】シッカリ“潜在意識…”へ!結果は
「総売り上額」を計算しますと、前回の売り上げより、確かに伸びているのです。当時は、初めてでしたから
販売期間として「3日間…の日程」を頂きまして、総合的に比較しますと【価格を上げた方が?売れ筋に…】
この結果が出たのです。その後!此の勢いに乗りまして……また!ワンランク上げて…今度は「長崎の浜屋…」
に販売です。これからが〜〜上昇気流にて〜〜売れて行くのです。振り返りますと…「九州各県での思い出…」
多々ありますかと。一つの“キッカケ…”から自信がつきまして…私自身の「聴力喪失…」の自覚は亡くなり、
つまり【販売は出来ない!】この潜在意識をぬぐいさる事となり〜〜〜

❤〜【 人間関係=「お客様」との“楽しいおしゃれ会話…” 】この事を焦点としての接客して参ります内に、
売り上げ数字も、右上がりへと〜〜〜!当時!聴力の悪い私は“オシャレとか?日常会話とか?…いろいろな
お話を、一方的に話しながら“パ−トナ−”が上手にタイミングよく会話中に入って、そこから次なる話の展開
へと…この様な販売形式を…【二人三脚…】で致しながらの「お客様」方々との“共有性…”でしょうかと??
更に【一番より〜〜〜二番にての売り上げで〜〜〜オンリ−ワン!】でいっていましたが><
不思議なモノで〜〜〜気がつきますと“ナンバ−・ワン…”にいつしか〜〜〜そこでも“イジメ…”が><

特に!大阪でのデパ−トであります「高○屋…」では、担当者から、常に【まずは、売上〜〜売上〜】と、
朝礼での通達でしたから〜〜〜この時からいつしか私の脳裏に【数字優先…】になってしまいましたかと。
いつしか?「お客様」とのコミュニケ−ション――>“楽しい!”という満足感を亡くした感がします。

❤これが〜〜〜わたしの『崩壊…』の始まりでした。今では【反省…】…更にこの事を踏まえ【次なる挑戦…】
この様に、前向きに〜〜〜「 新たな挑戦… 」が始まっています…。

                                 再合掌

2228NANCY:2013/04/26(金) 13:24:11 ID:Hm5lYAz.
「トキ様」 へ   「観覧者の皆様」 へ
こんにちは……     ロ−マ字(大文字)の【NANCY】です。
>>1955>>1983>>1988>>1999>>2010>>2012>>2024>>2028>>2029>>2061>>2066>>2067
>>2083>>2116>>2117>>2129>>2134>>2135>>2165>>2166>>2173>>2216 >>2217>>2220
の投稿の続きです。

――――・――――・――――・――――・――――・――――・――――・――――・
■□ 目的と手段とは、共に正しくなければならない □■

生長の家では、目的と同時に、手段も正当であり、合法的であることをよしとする。
なぜかというと、手段は行動であり、行動はコトバであり、それが業となって、人々
の運命を決定づけて行くからである。行動が間違っておれば、目的が何であろうが、
不幸な結果を招くのは当然だ。
 
                谷口清超著 (『新しいチャンスのとき』より)
――――・――――・――――・――――・――――・――――・――――・――――・

PS:「トキ様」へ  「観覧者の皆様」へ
今!色々な意味で…一つの「タ−ニ−ング・ポイント」でしょうか?
観覧者の皆様も御存じのように「東北・関東大震災…」にての『原発事故…福島の原発事故』これは、当然ながら
【 地震国日本 】の認識ある人でありましたならば、安全性を考えた場合?「人間智…」では考えられない
事故が今後でも発生するという事は、誰しもが推測されますモノと思います。

確かに、此処数年に於きまして「豊富なエネルギ−」の恩恵を受けました私どもは、多々なる面に於きまして、
便利なライフスタイルを過ごす事が、可能になってまいりました。…が?今回の【事故…】は、一つの【警告…】
として受け止めるべき【問題…】と思います。
此処【2チャンネル…ボ−ド】をかわきりに、投稿者・閲覧の皆様方の相互関係が、以前より
【ネット活用依存度…にて情報】が、容易に、しかも時間短縮と云いますか??随分と便利な時代になりました。

…が?そのために知らず知らずの内に『自然破壊…』が、あったのではないのでしょうか?又!私ども自身が
安全面という事を、多少なりとも軽視していた面があり…これが【地震国…日本】という一つの「神からの
メッセ−ジ」かと……!一時期は、電気料金が安く〜〜この様に喜んだ私でもありますが〜〜〜><

従いまして、今回の「原発事故…」は、【原因−−>結果】という事を、冷静に考えて、今後の私どもの行動を、
如何に取るべきか?という問題定義を頂いたモノと…思います。

さて!此処で【分派…の皆様】の中には『エコ運動…』に関しまして?かなりの【ブ−イング=中傷のコトバ】
を【本流対策板…5】多々の投稿がありますが?今日の私どもの生活がなされる上では、やはり【自然との共生】
また【自然に対しての謙虚さなる想い】が必要かと思います…。

そうしませんと…最終的には【文明生活…一瞬に崩壊】する事は、間違いないのでは??
例えば?中国の有害物質汚染問題は?一つの例として、私どもは受けとめていくべきではないでしょうかと。
                                 
■■【 自 然 と 共 に 伸 び て い く べ き も の 】この考え方は、私ども…
次なる世代への…引き渡しとしての【使命感】を痛切に感じます。

再合掌

2229SAKURA & NANCY:2013/04/26(金) 22:10:21 ID:BEUD3XFA
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 
こんばんは……。  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA & NANCY】で〜〜〜す。

■白鳩 No.38 からとても楽しく拝読しました内容です。独身の女性かたにも“おすすめ”です。

――― 信仰随想   「なんていい男!」――夫への変わらぬ想い その①――――――

 ❤最初の結婚を三カ月で解消し、八年間ずっと一人で生きてきたある日、父が言いました。
「お前は一生一人で生きていくかもしれないな。その時のために金を貯めておけよ」

 小説を書きたい夢を持っていた私は、「大丈夫よ、直木賞か何か取って、悠々と生きていくから。
そうでしょ?お母さん」と言って母を見ると、人前で涙を見せたことのない母が泣いているのです。
「娘が一生一人で生きていくのかと考えただけで、親はこんなにも悲しむものなのか」と胸が衝かれ、
「縁があるなら再婚しよう!」と、その時決意しました。

 間もなくです。それまで勤め先のスポーツ仲間としかみていなかった隣席の亀ちゃんが、「今度の休
み、ドライブに行かない?」と誘ってくれたのです。彼は十九歳、私は三十二歳でした。
彼の自宅がある、「森の石松」で有名な静岡県西部の森町へドライブした日は、秋の彼岸の中日で、
山際や川の土手、田の畦などに彼岸花が一面咲き誇っていたのを鮮やかに思い出します。
もしかしたら、それは御先祖の導きがあったからではないか、また、私が再婚を決意すると同時に彼が
動きだしたのは、「吾れ祈れば天地応え、吾れ動けば宇宙動く」
という生長の家の真理が動いたからだったのではないかと、み教えを知ってから思い当たりました。

 さて、彼はその日、私を自宅に連れて行き、家族に紹介までし始めました。出戻り、しかも年上女
という引け目があり、身の置き所のない心地の私でしたが、彼はすでにその時、「この人と結婚しよう」
と決めていたのだと、後になって聞きました。

 周囲の猛反対も、二つの条件を受け入れることで渋々許してもらえることになりました。
一つは、彼が父親から言われた言葉。「絶対に、離婚話など持って来るな。もってきたらバットで
叩き出してやるからな」。一方、私が母から言われたのは「亀澤さんが壮年の男性に成長した時、必ず
あなたより若くて美しい女性に心を移す。その時、あなたが涙一滴もこぼさず、笑って送り出してや
れる覚悟があるなら、結婚してみるのも良いでしょう」でした。

                         つづく

2230SAKURA & NANCY:2013/04/26(金) 22:12:17 ID:BEUD3XFA
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 
こんばんは……。  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。

――― 信仰随想   「なんていい男!」――夫への変わらぬ想い  その②――――――
>>2229 の投稿の続きです…。
❤ 二人の子どもに恵まれ、多少の波風はあるものの、ごく平凡に暮らしていた数年後のある日、
目の前に建つ市営住宅のとある一軒が妙に気になり始めました。そのお宅へは数人の女性がしばしば
出入りしていましたが、そのたびにそこだけ光が当たっているような、空気が躍っているような不思
議な雰囲気。なのです。

 そのうち娘がそのお宅のお嬢さんと仲良しになったので様子を見ていると、そのお嬢さんはいつ
でも相手の喜ぶことをしようとして我が無く、これが三歳の子かと驚きました。
どうしてもこの子のお母様に会いたいと願っていると、ポスト『白鳩』誌が入っており、裏には
その方の名前が書かれていました。その時からわが家は幸せの方向へと歩き始めた気がします。

 かつて暗く内向的だった私に、母は「あなたは十回結婚しても十回離婚する」と断言したもの
ですが、二回目の結婚は三十年が過ぎようとしてしています。
初めの頃、夫の傍らにいるだけで安堵し、安心感に浸ったものですが、それは今も変わりません。
夫のことを思うたびに胸が熱くなり、「何ていい男なの!」と心の中で叫んでいます。

 夫の出会い、「人間・神の子」の真理に出会い、その結果、嬉々として生きている私に、常に
辛口だった母が言いました。
「あなた生長の家さえあれば大丈夫ね」と。私は内心で「夫もね」と付け加えながら、夫の
全面的な理解と応援をバックに、今日も人類光明化に駆け廻っています。

PS:「トキ様」・「観覧者の皆様」へ
拝読して参りますと〜〜〜何と?こちらまで【夢ふくらむ〜〜〜心地】が出来たようです。
私も〜〜〜「年齢は関係ない!!」と…この頃では、思えるようになりました。…が?まずは!これ
ばかりは「神様の御心…」でしょうか〜〜〜??

❤「独身の皆様…」…或いは「年齢が…と考えられます皆様」方も〜〜〜まず「神様に祈り」ですネ?
そうなのです〜〜〜!実は〜〜〜!私も「星の王子様…出会い」は〜〜〜本当に【祈り…】にての
出会いがかなったのですモノ???全ては…【祈り…】から始まる「物語…」でしょう。
❤今!これも〜〜〜『過去のおさらい…SAKURA』なのです〜〜〜(ウフフ)

                                  再合掌

2231a hope:2013/04/27(土) 11:22:06 ID:6kIbHHgs
新版 生活読本 谷口雅春先生著(日本教文社)
第十四章 心で貴方を幸福にいたしましょう

◆心におもった形があらわれる

皆さんが家を建てようとおかんがえになりますと、
まず心の中に自分の建てたい家の形を思い浮かべられますことでしょう。

すると、その心に描いた形が図形に現われて、それが大工に渡されると、
自然に色々の材料が集まって来て、心に描いた通りの家が出来あがるでしょう。

そのように心に思うものが、形に現れて来るのであります。

神さまがこの世界をお造りになった時には太陽もなし、地球もなし、
したがって地球の上にあるような地面もなし、木もなし、煉瓦もなし、
しかたがないから、神さまは「心」でこの世界をつくるより仕方がなかったのであります。

だから「心」がすべてのものの材料になっているのです。
「心」がすべてのものの設計になっているのであり、
さらに「心」がすべてのものを造る力になっているのであります。

「心」とはそんなに力のあるものなのです。
(つづく)

2233a hope:2013/04/29(月) 08:36:25 ID:dHQNZBQc
新版 生活読本 谷口雅春先生著(日本教文社)
第十四章 心で貴方を幸福にいたしましょう

◆神さまが心で思われたことが法則となる

神さまは一番はじめに、何も形のない姿で、ただ「考える力」すなわち「心」でいられたのでありますから、
ものを造るには、ただ「心」で思うより仕方がなかったのであります。
思うとその通りのものが、自然の法則で形にあらわれて来たのであります。

神さまが「酸素と水素とあらわれて来い」と思われますと、酸素と水素があらわれてまいりました。
そして「酸素と水素と結合して水になれ」とおっしゃいますと、水がそこにあらわれてまいりました。
神さまのいわれます言葉を、「ノリ」というのであります。

神さまのいわれましたことが「法則」すなわち「宜(の)り」となってあらわれて来るのであります。
(つづく)

2234SAKURA & NANCY:2013/04/29(月) 22:11:14 ID:BEUD3XFA
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 
こんばんは……。  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA & NANCY】で〜〜〜す。
>>2229>>2230 【 白鳩普及誌シリーズ 】で〜〜す…。

■白鳩 No.31 の表紙の1ペ−ジ…フォトエッセイ〜〜〜♫ にて  その①

−−−−「 谷口雅春   (生長の家創始者) 」−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

■ ひとの長所を讚めましょう!!

  ひとの欠点を見るよりも、美点を見よ。見るものが自分の心の中に入り来って、
 自分を清めたりするのである。ひとの長所を見てそれを惜しみなく讚めるがよい。
 讚めれば長所が拡大して来る。

 長所が拡大して来れば短所が消えるのである。それは光が拡大してくれば闇が消
えるようなものである。闇をいじくり廻しても、闇は消えるものではない。

光をともしさえしたら闇は消えるのである。

            (「新版 女性の幸福365章」103ページ、日本教文社)
◆−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−―−−−◆

PS: 「トキ様」 へ ・「観覧者の皆様」 へ
そうです〜〜〜ョネ!!『ネット…』で見ますと、意外と〜〜〜“落とし穴”が??思わぬところに
意外と人の欠点が良く見えるモノなのでしょうか??一つの“マス…の中”にいますから、何時しか?
【個 人 錯 覚 論】が見えたり〜〜〜ですョネ!!『ネット…』は、見えない世界観なのですが、
読者にとって、その人“個人の思考感覚の問題…”もありますから“文章が理解できない!”><のは、
それだけの事〜〜〜でいいのでは?ないでしょうかと。??

つづく

2235SAKURA & NANCY:2013/04/29(月) 22:13:48 ID:BEUD3XFA
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 
こんばんは……。  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA & NANCY】で〜〜〜す。
>>2229>>2230>>2234 白鳩普及誌シリーズで〜〜す…。

■白鳩 No.31 の表紙の1ペ−ジ…フォトエッセイ〜〜〜♫ にて   その②
−−−−「 谷口雅春   (生長の家創始者) 」−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

「文章の理解…!」もやはり“生活感の共有”もあり、その人の“世界観”ではないかしら〜〜〜ン!
ですので、自分との“反対論の声…”を耳に致しますと、モ〜〜〜ウ!それを排撃したいとか?更に、
相手の欠点を、見つけ出す事で、更には、それを材料にして【攻撃・中傷論】でしょうか???その後、
相手を抑え封じ込めますと、その後は【優越感…】を抱く事になり、更に、その事に【満足感…】を
第三者的にみましても?伺える過程がよく見えますから【文 章 表 現・理 解 力!】に関して、
今回も?何気ない事での“コトバ”からの発展性なのですが、或いは?何かの“チャンス…”を狙って…
日頃につけて、気に入らない相手への感情を、タイミング良く“タタキ・追い出すこと”の理由が、
出来る“チャンス…”を探している感じでしょうかと。

これも、前回の同じ〜〜〜繰り返し!繰り返し!なのです〜〜〜ョネ!前回、私は「記号の文章体…」
に関し?いろいろなる評価?それも一応“理性のない言動…”を、随部と頂きました。…が?まずは、
それでも一応?…云々…と自問自答した上で、続けての投稿をさせて頂きました。…が?今回も
“私の文章…”に関してですが、人それぞれの捉え方ですから、理解できない?出来る?賛否両論との事で、
これは、その人の理解能力の問題ですから、それならば【類の法則…】にて、こちらの投稿の文章を、
無視!無視!〜〜〜していかれればよいのではないかしら〜〜〜ンと、思います。…が???そして、
いつも〜いつも〜理解できないとか?読んでいないとか?――>この“コトバ…”如何に相手を傷つけ
るのでしょうかということを?逆の立場にて、お考えになられた事があられますのでしょうかと思い
ながらも、私自身も【反省…】!!常に〜〜【自他一体…】この想いを抱きながらの“文章投稿…”
を、させて頂こうと思いました。

■正直申しますと?『これって〜〜〜本当に生長の家?信者なのかしら〜〜〜ン』と思うのです。でも
思い返して!!まず、その人の『心範囲の容積…』がよく見えてくる問題ですので…。私は、なるべく
その方達との“交流は避けた方〜〜〜”が賢明でしょうかと。!!『類の法則??』を考えますと、そう
思えて致し方ないのです。…が?そして、それでいいのでは?と、この頃では、常に思い直している処
なんですが??

❤【人間関係=コミュニケ−ション】での『成功の法則』は、やはり【類は友を呼ぶ…こと】ですから
此処からが“スタ−ト”だと思えるのです!!
まず!私の出来る事は、【善のみ…この事が神の御心に叶う】…従いまして、面識ない相手の欠点を
探さない事!!更に、悪口も言わない事!これができれば〜〜〜『一歩!一歩!前進…』です。
そうしていく内に〜〜〜『闇…』が消えるのですョネ!〜〜♫〜〜❤【光明面を見るべし〜〜〜!】
本当に【類の法則の仲間】が、現れて来るのです〜〜〜ョネ!!
この様な出会いは?仲間は?−――>進歩!前進!益々〜〜〜行進するのですかと。!!
                              再合掌

2237トキ:2013/05/01(水) 18:34:02 ID:VRTidxTM
五月の法語「実生活を改善する心の持ち方」

谷口雅春先生

1日の法語 自信力は推進の原動力である

 全ての資格や能力が同じであったら、その人が成功し、又は幸福を得る程度は、
その人の自信力の多少によって定まるのである。優秀なる才能を持ちながら自信力
が欠乏しているために、常に後退していて、その優秀なる能力を発揮し得ないで、
いたづらに為す事なく人生を過ごしてしまう人も多いのである。自信力は船を推進
する力のようなもので、「優秀なる能力」という宝を満載している船も、その船を
推進する力を持たない場合には、その船は立ち往生して目的の所へ運んで行く事は
できないのである。自信力というのは心の力である。それは内部にある「素晴ら
しきもの」を表現するための原動力であるのである。内部に「神の子」として
素晴らしいものを包蔵しようとも表現することが出来ないならば甲斐なき事で
ある。

昭和29年5月号より謹写、p2

2238うのはな:2013/05/01(水) 18:59:21 ID:Y/lCwUCY
  谷口雅春先生をお慕いする掲示板より 五月の祈り

「学ぶ誌5月号水曜日の箴言より」


★★暗黒から光明に転向すること★★

 神から来る智慧と能力(ちから)と生命力と、あらゆる善きものとの供給を、少しも絞らずに豊かにそれらを受けようと思うならば、自己中心・利己主義の心を止(や)め、愛他的の心を起し、心を寛大にして他を赦すと共に、すべての人々に調和と善意の心を持ち、自己をも“罪”の観念によって縛らないようにしなければなりません。「罪」は「包み」であり、「隠覆」であり、「光」に向かず、「光」に背を向けている状態に過ぎません。

「悔改め」と云うのは「ああ、今まで私は光に背を向けていた、間違っていた、済まなかった」と気がついて、クルリと向きをかえて光に面することを言うのです。暗黒から転向して光に向かうことが完了しなければ、本当に「悔改め」が完了したのではありません。

 いつまでも暗い方を向いて「自分は悪かった、悪かった」と自己責罰の感情に捉われているのは「悔改め」ではありません。

2239SAKURA:2013/05/01(水) 22:49:36 ID:BEUD3XFA
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 
こんばんは……。  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>2041>>2042>>2044>>2045>>2046>>2048>>2050>>2068>>2069>>2115>>2118 >>2119>>2123
>>2124>>2143>>2158>>2159>>2162>>2163>>2168>>2174>>2175>>2181>>2182>>2183>>2188
>>2209>>2212>>2225>>2226>> 「女の浄土」投稿の続きです。

■■ 『女 の 浄 土シリ−ズ…SAKURA論』    谷口雅春著
――――― 【 第八章  家庭はかうして光明化される 】―――――

■ 感謝し合って逆下睫の治った話
 わたしがまだ赤坂の檜町の道場で、午後一時から花嫁学校の生徒に一時間講義をして、そのあと
の時間を、一般の信徒及び未信徒のために個人指導をしてゐた頃のことであります。

 八十歳になる老母をつれて来た五十五、六歳の奥さんがありました。その老母は逆睫で、眼をひ
らくと、睫毛が眼球を逆に刺して痛くて仕方がないので、眼をつむってその奥様に手をひかれて来
たのでした。

『どういふ心でこのやうな逆睫になるのですか』と、その奥さんは病状を説明してから尋ねられまし
した。そこで私は、

『眼球といふものは光を見るために神様から與へられたものです。“光”といふものは神様の恵みで
す。その光を素直に受け入れないで逆にそれを衝く心といふものがあるために、それが形にあらはれ
て、光を見ることが出来ないで、神様から與へられた眼球を衝くことになるのですよ。肉体は“心の
影“といひまして自分の心の相(すがた)があらわれて、それを見て自分の心を直すやうに色々の形が
あらはれて来るのです。人から深切に言ってくれる事を逆にとって、それに腹を立てて突き返すやうな
心、人の深切を素直に受け容れないで、逆にとって、ブツブツ不平を言ふ心――そのやうな心を棄てる
やうになさいましたら、瞼も睫毛も素直になって眼球を衝かなくなりますよ』
と答えました。すると、奥さんは、八十歳の老母に向って、

『それみて御覧なさい。お母さん、先生の被仰る通りですよ』と言って、私の方を向いて、『母は眼
が不自由で、人の世話にならねば何事もできないのですのに、どんなに深切にしてあげても、少しも
感謝したことはないのです。いつもブツブツ小言を言って不平ばかり言ふのでございますよ。先生、
よくこの母に言ってきかせてあげて下さい』
と言ふのです。

そこで私はその奥さんに言ひました。
『あんたは、“どんなに深切にしてあげても”などと、自分がこんなに深切にしてあげてゐるのに、し
てあげてゐるのに、と恩に着せがましい心で深切をしてあげてゐるからいけないのですよ。人にいく
ら深切をしてあげても、“こんなに私はお前に深切をしてやってゐるぞ。これがわからなぬか”といふ
ふうに、恩に着せがましく押し付けがましい心で、世話をしてやってやるぞといふふうにやられると、
いくら深切にしてあげても反撥心が起って感謝できなくなるものですよ。お母さんが八十歳以上にな
るまで健康で生きてゐて下さること、そしてそのお母さんをお世話させて頂くこと、その事だけでも、
ありがたいのですよ。それなのにそれを有りがたいと思はず、“こんなに世話をしてやってるるのに
“と思ふ。あんたが感謝がたりないで世話してゐるから、お母さんも世話してもらいひながら感謝が
できなくなるのですよ。あんたの方からは、“お母さんのお世話をさせて頂いてありがとうございます
“と感謝の言葉を心のうちで唱へなさい。そしてお母さんの方は、”眼が不自由でいちいちお世話になら
ねばならぬのに、よくお世話をして下さいました、ありがとうございます“と心のうちで唱えなさい』
                                 つづく

2240SAKURA:2013/05/01(水) 22:51:11 ID:BEUD3XFA
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 
こんばんは……。  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
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■■ 『女 の 浄 土シリ−ズ…SAKURA論』    谷口雅春著
――――― 【 第八章  家庭はかうして光明化される 】―――――

 このやうに指導しましてから、神想観の實修の時間が来ましたので、このお両人も一緒に神
想観を實修なさいました。神想観を終りまして、一同散會する時間になりますと、来る時には
手をひかれて眼をつぶって来た八十歳のお婆さんが、誰にも頼らないで、一禮すると、とつとと
自分だけで躓きもせず當り前に歸って行かれたのであります。翌日、老母をつれて来られた奥さ
んが私の宅へ完全に逆睫が治ったといって感謝にこられたのでした。   

                       ❤〜次回は「肉体も環境も〜〜」に入ります。

PS;「トキ様」 ・ 「観覧者の皆様」 へ
『お話…』の中から、まるで〜まるで〜今回の【WEB誌友会の問題…】に類似していると思いました。
そして、ある部分的にて、このように、いろいろな角度での捉え方があります。…が?
私は、此処【2チャンネル…】で、参加投稿をさせて頂きますようになり、私なりに、前以上に
「精神学・心理学の書籍本…」を読む機会を頂きましたことは、改めて『感謝…』です。
【未知なるジャンル…書籍本】へのチャレンジ!なので〜〜〜す。

以前の私なら、きっと自分の事ばかりの「世界感での物事を捉えていた事」でしょうかと。!!
それは過言でもありません。また!相変わらずに「吸血鬼・ゾンビ…」は、更に「黒幕Mデザイナ−」
の、執着心にての執拗な命令での“尾行…”は、今でも相変わらずです。従いまして、本当に、晴天
下で心地よい風に当たりながら〜〜〜街を歩く機会がありましょうとも〜〜〜><楽しくな〜〜〜イ!
ストレスは増大!なのです。…が?【2チャンネルでの聖典板…】での、コメント投稿して行きます内
に、次第次第のうちに〜〜〜何時しか〜〜〜私なりの“思考…”が出来ていた事に、驚きでした。
そして、今の私にとりまして、必ずや【一日一回は、生長の家の聖典・教義の本】を拝読することは、
まさしく「心の安らぎ…」更に「心の広がり感…」が、出来ているとの確信がこの頃感じます次第です。

今回は、こちらも「観覧者の立場…」として、更には、私の【類の法則の方々】と、楽しんで〜♫〜
行ける事――>共有性を重視としての、此処【2チャンネル…】を閲覧として訪れて下さる皆様に
対しましてといった気持ちでの【感謝の念…】いっぱい〜〜〜の心で“ライティング…”修行中!!

益々、時間の合間にて、皆様と一緒に【真理の勉強…】をして行けたら〜〜〜と、思うのです。
今回の“キッカケ”で勉強になりました。ありがとうございます!!
❤〜【生長の家…万歳!!】と〜〜〜
天に向かい“こころのうち”で叫び……!!さぁ〜〜〜今からスタ−ト地点です。       
                                     再合掌

2241「訊け」管理人:2013/05/02(木) 11:59:00 ID:???

『眞理』實相篇96頁より謹写――

苦痛にも感謝せよ

 苦痛は肉体の何処かに故障があるのを警告するために霊が送って来るところの信号である。苦痛はまたその痛むところへ全生命力を集中して早く治癒に導くための信号である。苦痛のあるところに生命力は集中し、その復旧に必要なる細胞と養分とが送られるのである。だから肉体の何処かに苦痛が現れた場合には、その苦痛を憎んではならないのである。

 むしろ其の苦痛の起こる毎に「これで私の病気は癒されつつあるのだ」と念ずるがよいのである。むしろその苦痛に感謝せよ。苦痛にも調和するとき、その苦痛は消滅してしまうのである。「天地一切のものに和解せよ」と云う教えは「苦痛にも感謝せよ」と云うことを含んでいるのである。

2242「訊け」管理人:2013/05/02(木) 12:04:26 ID:???

『生活の智慧365章』130頁頁より謹写――

あなたの不幸は出尽くした  
 
 悲しみを棄てよ。怒りを棄てよ。憎しみを棄てよ。そこから天国浄土が実現するであろう。よくよく考えて見るならば、真に悲しむべき事は一度もこの世界に起こったこともなければ、これからも起こらないであろう。
 あの戦争の犠牲者となって霊界に悼(おもむ)いた人たちも、本当はその霊魂は生き通しであって、決して死んではいないものであるから、現象界は〝想像の影〟世界にすぎないのであって、実在――即ち「本当に在るもの」は、未だ嘗て無くなりはしないし、無くなるものは、〝本来無いもの〟ばかりであるからである。

 もし悲しみや、怒りや、憎しみを起こすならば、その人は事物の暗い面のみを想像し、必要以上に、不幸や悪を拡大して見、みずから好んで自分の想像がつくり出した暗い煙の中に窒息してしまうことになるであろう。
 不幸は想像することによって増大し、悲しみは〝類は友を招ぶ〟ことによって続々その数を加えて来るのであろう。不幸が起こったときには、これで不幸は出尽くしたと思うのがよい。悲しみが起ったら、これで悲しみは出尽くしたと思うがよい。そしてみずからを祝福し、みずからを歓喜せよ。

2243トキ:2013/05/02(木) 21:44:25 ID:4pIOd94.
五月の法語「実生活を改善する心の持ち方」

谷口雅春先生

2日の法語 心の深層にある劣等感

 自信力の必要なことが解っただけで、その自信力を養成する方法を知らなければ何にもならない。
自信力は養成し得るものであることを先ず知らなければならない。自信力は先ず「心」の中にある
のである。その「心」というのも、表面の心即ち「現在意識」の中にのみあるのではなくて、心の
深層すなはち「潜在意識」の中に印象されている「劣等感」としてあるのである。すなはち、
「自信力の養成」は必然的に「劣等感の克服」という問題を含んでいるのである。自信力がないと
いうことは、先ず、幼い時に何かをやって失敗した 、その印象が深く心の深層に残っていて、
「今度もまた失敗するに違いない」という予想が先に立って何事も出来なくさせているのである。

「生長の家」誌 昭和29年5月号 P3 より謹写、

2244訊けに訊けという人:2013/05/02(木) 23:12:25 ID:???
あなたの不幸は出尽くした

2245トキ:2013/05/03(金) 15:35:57 ID:Y/X2RMTk
五月の法語「実生活を改善する心の持ち方」

谷口雅春先生

3日の法語 誰にでも失敗はある、失敗に悲観するな

 誰でも、どんな能力のある人でも、現象界にそれを応用する場合には、十の成功のうちには2つや3つは旨く行かぬ事柄があるものである。
どんな横綱でも百場所のうち15日間を全部を勝ちはなすことは出来ないのと同じ事である。そのような場合に「旨くいかなかった」場合だ
けを心にとめて、「自分はダメだ!」と思い込んでは劣等感を増加するばかりだと言う事になるのである。いっぺんの失敗でも、百遍心に
繰り返せば、百遍自分の心に印象されることになるのである。こうして、いっぱんの失敗は、それを思い起こすたびに、百倍、千倍、萬倍に
印象されることになる。そして、これが劣等感の原因になる。だから、劣等感を無くしようと思ったならば、失敗をしたことを嘆く事を止めて
成功した事を数える方が良いのである。


「生長の家」誌 昭和29年5月号 P3 より謹写、

2246SAKURA:2013/05/03(金) 23:13:12 ID:BEUD3XFA
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■■ 『女 の 浄 土シリ−ズ…SAKURA論』    谷口雅春著
――――― 【 第八章  家庭はかうして光明化される 】―――――

■ 肉体も環境も “心の影” の実例
以上の話を思ひ出したのは譯があるのです。それは昭和四十一年の三月十三日に兵庫県の加古川市
で生長の家の講習會がありました時に、西宮市甲子園濱田町六六ノ一にお住ひになってゐられる梅原
和江さんといふ奥さんが體験発表の時間に子供に逆睫――等いろいろの故障が起った次のような體験
談をせられたからであります。ここにその體験談の録音をテ−プから筆記したものがありますから、
朗読することにいたします。

 「谷口先生ありがたうございます。皆様ありがたうございます。私が此のみ教へに触れましたの
は、四年程前でございまして、まだ日も浅うございますけれども、四年前の私と現在の私とは雲泥
の差がございまして、唯今生き甲斐のある毎日を過さして頂いてをります。

 私が嫁いで参りましたのは、四年前、両親のある梅原の家へ参りました。両親も夫も心の優しい
人でしたし、私も孝養を盡したいと思って嫁いで参りましたけれども――愛情の一方交通と申しま
すか――お互ひに理解出来ずに……時に触れては摩擦もございました。結婚して間もなく男の子も
生れましたし、両親への心遣ひと子供の育児とに毎日明け暮れてをりました。父は厳格な人で、ま
あ子供をよく可愛がってくれたんでございますけれども、厳しい躾で私は陰で何度も泣いたことが
ございます。私も、子供をよくしようと思ふよりも両親への當てつけのやうな形で子供を叱ってゐ
たやうなわけでございます。そのやうな心が子供に反映しましたのか、成長するにつれて子供はイ
タズラがはげしくなりますし、両方の眼は逆睫で手術致しますし、喉もアデノイドと扁桃腺を手
術し、耳は絶えずオデキが出来ていたがります。その上、いくらお醫者さんにかかりまして鼻血
が止まりませんでしたし、挙句の果ては、肺炎を患って入院するやうな始末でございました。
その間、母も持病の心臓の発作がございまして、一週間か十日位には夜中にお醫者さんに走る
やうな、そんなやうな毎日でございました。そのやうなことで私は、人間は何の為に生きてゐ
るのかしら?といふ人生の意義も分からなくなってをりましたところ、私の實家の母が浄土真宗
の信仰家でございましたので、そのやうなことを話しますと、『人間は皆、宿業をもって生れて
来てゐるのだから、現世で果して行かなければならない……』といふやうな話でございました。
私は、私の何も知らない前世の宿業をどうして現世で果さなければ可けないのかしら?といふ
疑問を持ちながらも、何とか善くならうと努力してゐたのでございます。

                                つづく

2247a hope:2013/05/04(土) 07:32:57 ID:dHQNZBQc
新版 生活読本 谷口雅春先生著(日本教文社)
第十四章 心で貴方を幸福にいたしましょう

◆「自然の法則」というのがノリである

この世界は何も神さまがこしらえたのではないのだ。
「自然の法則」がこしらえたのだという人があるかも知れませんが、
その「法則」というのが、すなわち「宜り」でありまして、
「法」という字も「則」という字も、どちらも「のり」とよむ字であります。

神さまの心の中で「のり言(ごと)」せらたること、すなわち「心」に思われたことが「法則」となって、
その法則ですべてのものは生まれて来るのであります。

皆さんは、なぜ二と二とかけると四になのか知っていらっしゃいますか。
それには理屈はないのであります。

それが法則なのであります。
法則は絶対的に力をもっていますから、その外になることはできないのであります。

法則はどこにもありますが、皆さんは法則を見たことはありますまい。
2×2=4は数字の法則を、数字をかりて書きあらわしたものでありますが、
この式は消すことが出来ますが、二と二をかけるとかならず四になるという法則は、
どこにもみちみちていて、どうしても消すことも、止めることも出来ないものであります。

それを打ち消すことも、反対することも出来ません。
これが絶対的な力であります。

しかも、その絶対的な力は肉眼(にんげんのめ)では目に見えないものであります。
目に見える式は消せるが、目に見えないものは消せないのです。

法則は目に見えないけれどもかならずある、どこにもあるのです。
だから二と二とあわせると、かならず四になるのであります。

どんなに反抗しても、どんなに反対しても、それをかえることは出来ません。
目に見えないが、こんなに大きな力が、法則という絶対的な力がどこにも、かしこにもみちているのです。

その力を神というのです。
吾々は神さまを人間のようなものだと考える迷信をやめなければなりません。
(つづく)

2248トキ:2013/05/04(土) 17:45:18 ID:1lpvUpuM
五月の法語「実生活を改善する心の持ち方」

谷口雅春先生

4日の法語 失敗をいかに取り扱うか
 
 失敗を考えず、成功したことばかり考えて有頂天になっているのでは、脚下照顧を忘れることが起こる。
却下をしっかりとみつめて行かなければ断崖絶壁から奈落底へ墜落するかもしれない。そこで失敗は再び
奈落底へ墜落しないために何事かを教えているということを知らなければならない。「失敗」を見るに、
自分の「能力の低い証拠」として見ないで、今後の「成功」を約束するための「教科課程」として、
「何故にこれは失敗をしたか、その原因を知れ」という問題が出たとして、その失敗の「原因」を検討して
、再びその原因を繰り返さないようにすれば、「失敗の原因」がなくなるから「結果としての失敗」も
なくなる。失敗を自分の「無能力」と連想させないで、将来の成功を約束する「教科課程」と見る事
が必要である。

「生長の家」誌 昭和29年5月号 P34 より謹写、

2249SAKURA:2013/05/05(日) 07:20:53 ID:snyNZiPs
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 
おはようございます……。  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
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■■ 『女 の 浄 土シリ−ズ…SAKURA論』    谷口雅春著
――――― 【 第八章  家庭はかうして光明化される 】―――――

■■  肉体も環境も “心の影” の実例  >>2246 投稿の続きです…。

■その間、私も教會へ行きましたり、お寺へお説教を聴きに行きましたりして、私なりに努力して
をりましたけれども、私の求めるものは何も得られなかったのでございます。
 さうしますと、実家の母が、

『此の本はいいことが書いてあるから読んでごらん』

と言ひまして、『白鳩』と『光の泉』を持って来てくれました。それには私の求めることが一杯
書いてあるのでございます。私は、同じ本を何度もなんども感激して読まして頂きました。さうし
て早速、御近所の生長の家の方に伺いまして、西宮の道場へ参りました。ちょうどその時、田中イサ
ノ先生でございまして、素晴らしいお話で、私は一番前で泣きながら聴いたのでございます。

私は間違ってゐた!!いま迄、“善くならう善くならう”と努力しながら、結局私は間違った方向へ
進んでゐたのでございます。私は、両親に嫁として充分仕へてるといふさういふ自負心ばかりで、
夫や両親に何一つ感謝の気持がなかったのでございます。その頃はもう、父は亡くなってをりまし
て、本当に申し譯ないと思ってお詫び致しました。子供ももう五年生になつてをりましたのです
が、今まではもう、学校からイタズラをするといふ苦情ばかりでございましたが、その頃からは、
さういふ小言は一つもなくなりまして、御蔭さまでお賞めの言葉を頂くやうになりました。

その頃、法貴先生の御講話の中に “法貴先生の素晴しい坊ちゃんのお話” を聞きまして、私の
子供も、どうか法貴先生の坊ちゃんのやうに、阪神間の名門である甲陽中學へ入學さして頂きたい
ものと念じてをりました。その頃から子供の成績もぐんぐん伸びまして、殆んどクラス一番で通し
まして、現在、甲陽中學の二年生に在學致してをります。

私が嘗って、“法貴先生の坊ちゃんのやうに……“と念じてをりましたことが實現したのでござい
ます。入信しまして間もなく気付かせて頂いたのでございますけれども、私の子供が永い間お医者
さんにかかりましても治らなかった鼻血がピタリ止つてをりましたし、母の心臓の発作もその頃か
ら一遍も起つたことがございません。

私は現在、このやうな素晴しい環境に生かされてをりまして、本当に感謝致してをります。どう
か、私もこのやうな素晴しい教へを一人にでもおすすめ致したいと思ひまして努力致してをりま
す。お陰様でこの頃は子供の教育のために入信して下さる方が殖えましたので、本当にうれしい
ことと存じてをります。谷口先生ありがたうございます。皆さんありがたうございます」

  つづく

2250うのはな:2013/05/05(日) 17:56:43 ID:m3449q6Y

“あなた及びあなたの肉体が宇宙と調子を合わせて完全な作用をなし得るように、
 あなたの内部に静けさと平和とを確立せよ。

 あなたの心が静謐となるとき、身辺に高級霊の光を引きつけ得るのである。
 そして、これらの光はあなたにとって、積極的な、愉快な、生ける現実的な人格と
 なってあなたを導くのである”

 『真理』第8巻 信仰篇   谷口雅春 先生著

2251トキ:2013/05/05(日) 20:33:41 ID:5zW6NmK2
五月の法語「実生活を改善する心の持ち方」

谷口雅春先生

5日の法語 失敗と成功とを如何に扱うか

 失敗を「成功のための過程」として扱うと同時に、成功や勝利を「ただ偶然の産物」として有頂天になって
「われ神の子だから、何でも出来る」といい加減な安心感をもっているだけでは、将来、必ず成功と勝利とが
得られるか、どうか、疑わしいのである。「我、これをなさんとす、神がなさしめ給うのであるから必ず成就
する」という最初の信念が必要なのは言うまでもないのであるが、その信念だけで万事終われりとして手を
こまねいているだけでは成功は得られないのである。成功と勝利との要素には緻密なる計算と、用意周到なる
実行とが必要なのである。そのためには「失敗」を将来の「成功のための教材」として研究すると同時に過去の
「成功」について何が故に成功したかを周密に検討することが必要である。


「生長の家」誌 昭和29年5月号 P4 より謹写、

2252「訊け」管理人:2013/05/06(月) 06:08:56 ID:???

WEB「榎本恵吾記念館」
「葩(はなびら)さんさん」(5)より謹写――
http://homepage2.nifty.com/hanabira/


 生長の家の人が實相と現象のことで尋ねてこられる際、「實相は完全円満で、現象は無いのですから、現象にとらわれずに實相を観ればよいのに、どうしても現象にとらわれてしまうのです」という人が多いのですが、この悩みにすべての問題は帰着するのではないかとさえ思えます。
 実はこのような人は、實相は完全円満であるというときの、この「完全」の意味をよく解っていないだけのことなのです。實相は完全なのですから、こちらの心で観ようが観まいが、いちいち努力して實相を引っぱり出そうとしなくても、絶対的に自分で出てくる力を完備しているのです。それを知らないから観る、観ないに引っかかってしまうのです。
 そして、實相と現象の中間あたりに自分を置いて、「實相⇔現象」「實相⇔現象」と左を向いたり右を向いたり、その中間あたりでキョロキョロと首を振っている状態を「観ずる」とか「観じない」とか、「自覚する」とか「自覚しない」とかということだと思ってしまっているのです。なるほど「實相は観ずれば顕われ、観じざれば顕われることなし」と書かれていますし、また、『生命の實相』の第1巻の本論の第1行目には「生命の實相の自性円満を自覚すれば、大生命の癒力が働いてメタフィジカルヒーリング(神癒)となります」と書かれています。しかし、そこに書かれている「観ずる」「自覚する」ということと、自分の受け取っている「観ずる」「自覚する」ということの意味が違ってはいないでしょうか。

 谷口雅春先生が抱かれたお悩みというのは、すべては心の展開であり、いわゆる三界は唯心の所現であるということは解るけれども、その心が思うように支配できなくて困り果てられたのです。そして、「この心を改心して懺悔して改めてからでないと救われないのであれば、自分は決して救われることはない。改心しないまま、懺悔しないままで救ってくれる神が欲しい」と切実に願われたのでした。この悩みを拡げて解釈すれば、實相の円満完全を観ようとしてもなかなか思うように観ることができないから、實相を観られないままで、自覚もできないままで救ってくれる神(實相)が欲しいと言われたということになるでしょう。
 やがて、現象無し、不完全無し、観る観ない、自覚するしないという心も無い、實相はそのまま円満であり、この實相は完全なるがゆえに自ら出てくる力をも備えているということを神からの啓示によって知られたのでした。そして、そのとき初めて「心」というものから解放されて、「生かされている」という喜び、つまり感謝が湧き起こられたのでした。「實相は完全であるからこちらの力は何も要らない」というふうに、喜ぶのを遠慮しないことが「實相を観ずる」とか「自覚する」とかいうことであったのです。

 ですから、實相にはこちらの力というものが要らないのです。ただただ實相のみの世界なのです。實相を現象に顕すといっても、實相が自分で顕れて来るのであり、實相だけがすべてのすべてなのです。顕れる、顕れないは現象であって、顕れても顕れなくてもどちらも無いのであって、實相だけを喜んでいればよいというのが「今を生きよ」ということなのです。實相は「今」完全であり、實相だけでよい、というのが「今」ということなのです。顕すための心や時間というものは要らないということなのです。

(つづく)

2253「訊け」管理人:2013/05/06(月) 06:09:35 ID:???

(つづき)

 「観ずる」ということについては、生長の家で行う行(ぎょう)の一つである「神想観」がまず思い浮かぶのですが、「神想観」は「神を想い観る」ということと同時に、「神が想い観給う」ということでもあるようです。神想観を始めるときに唱える「招神歌」にありますように、すべては神が為し給うのでありますから、自分はどこにも要らないのです。観ることも、自覚することも、感謝することも、すべては神が為し給うているのです。

 「自覚する」ということも、「自覚」という言葉は自ら覚めると書くように、はじめの初めから、宗教をやるやらないとか祈る祈らないよりも以前から、そして今も生きとし生けるものとして生かされている實相なるものが「自ら目覚めて出てくる」ということなのです。内なる實相が自ら出てきて、生長の家の話を聴き、内なる實相が自ら出てきて、聖典を読んでいるのです。すべては外から来るのではないのです。内なる實相がそのままどんどん出てくるのに任せればよいのです。出てくることが、自覚が始まっているということなのですから、それを勝手に自分でああしてから、こうしてからと邪魔をしないことがすばらしいのです。ただただ喜んでいるだけでよいのです。言い替えれば、喜んでもよいということなのです。實相だけでよいと喜んでいることが感謝ということなのです。「感謝せよ」とは「喜べ」ということに他ならなかったのです。喜びとは自分は要らなかったということであり、すでに完成している實相を遠慮しないこと、そのままでよいことを遠慮しないことであったのです。遠慮しないのは神のためであって自分のためではないのです。そのまま今喜んでよいということでなければ、神は今完全な世界を生んでいないということになり、不完全なものしか生めなかったものは神とは言えませんから、神は無いということになってしまうのです。ですから、實相円満、そのままでよいということを認め喜ぶのは自分のためではないのです。神のために遠慮しないようにしなければならないのです。喜びましょう。喜びましょう。すべての不完全は不完全なるがゆえに無いのです。無いということは、今赦され切って、生かされているということなのです。

 ああしてから、こうしてからは止めて、今そのまま素っ裸のままで喜ばせてくださるのが生長の家の御教えなのです。

 どんな善いことでも、ああしてから、こうしてからは要らないのです。善いことをたくさん身にまとっていくと、だんだんと裸でなくなっていくのです。実はこの善いことが曲者なのです。「感謝してから」「我を消してから」「懺悔してから」「潜在意識を浄めてから」「教えを実行してから」「実感してから」「愛行をして徳をたくさん積んでから」「先祖供養してから」「祈ってから」「信仰に徹してから」「實相を観じてから」「實相を自覚してから」……。まだまだ立派な善いことを掴んではいないでしょうか。それをすべて吐き出して、脱ぎ捨ててしまいましょう。死んだつもりになってすべてを捨てるのが生長の家です。そしてゼロでよいのが無我ということなのです。ゼロということは何も要らないということです。自分も要らないということです。

<了>

2254トキ:2013/05/06(月) 11:30:34 ID:eaw/TCPU
五月の法語「実生活を改善する心の持ち方」

谷口雅春先生

6日の法語 臆病を無くするには

 さて、その「失敗の原因」となった要素が、自分の臆病から来たものということが過去の事物を検討して
わかったならば「自分は臆病だから駄目だ」と考える事を止めて、「臆病」とは全然反対の要素を自分の
「心」の中へ追加するようにすればよいのである。「臆病」の反対の要素というのは「大胆」と「勇敢」と
である。こういう場合には、「自分は神の子であるから、決して何事も恐れない。自分は大胆と勇敢との美徳
を兼ね備えているから、常に断行すべき場合には、何事にも大胆勇敢に邁進するのである。自分は”大胆”その
ものであり、”勇敢”そのものである」という言葉を起床時、就寝時の精神の落ち着いた時、又は神想観のとき
に自己暗示するようにすれば、臆病の欠点は除かれて断行の勇気を得るのである。

「生長の家」誌 昭和29年5月号 P4 より謹写、

2255うのはな:2013/05/07(火) 13:40:32 ID:U1E1fz8c
    “神の最高の自己実現”たる実相を喚び出す祈り

 『神は光であり、生命であり、健康の源泉であり、無限供給の本源であり、一切の善きものの根源であるのである。』
   (聖経版『真理の吟唱』二五九頁)

 その神が我々の親様だ。大生命だ。その大生命から流れ出たところの生命の流れが、自分の内に滔々と流れているのであります。
『わたしたちは神の子であるから、光と生命と健康と富と、(神の持ち給える)一切の善きものの後継者として、すべてのものを自己の内に内在
せしめているのである。』

 その内在しているところの「如意宝珠」− 如意自在の宝の球ですー それを自分が持っていることを自覚することが必要です。
それを自覚したら、自分の内に内在する宝の蔵ー如意自在の宝の蔵が開かれる。
『わたしたちは今、おのが心の窓をひらいて神の光の流入に身をゆだねるのである。神の光は暗黒を照す光であり、光が流れ入るとき、
 心の中の暗黒は消え、光明ばかりが充満することになるのである。』

 皆さん、練成会で「祈り合いの神想観」というのがありますね。
この詳密講習会では終わりに近づいた頃に、「祈り合いの神想観」をやりたいと思っているんです。(拍手)
そうして、自分の力だけでは、自分の内にこの輝く実相の生命が充ち満ちているということがハッキリと自覚出来なかったのを、
この祈りの力によって、此処に今、自分の内に、完全円満な神の生命が、無量寿の生命が無限の幸が、如意宝珠が自分の内に在るんだという
それを自覚して頂きたい。

 それを自覚し得た時に、皆さんはその悦びを人に分つことが出来る。
 そうすると、人々がまた喜ぶんです。

 『唯神実相の世界を説く』 谷口雅春先生 著 P129−130

2256トキ:2013/05/07(火) 21:46:00 ID:EcYhkS1g
五月の法語「実生活を改善する心の持ち方」

谷口雅春先生

7日の法語 神の智慧を受け取るためには

 もし、我々が計画に智慧を欠いていたために失敗したのであったならば、
「自分は智慧が足りない。もう駄目だ」などとは考えないで智慧をグングン自分に
流し入れるようにしたら良いのであります。実際そんな事ができるかと疑う人が
あるかも知れませんが、それは何でもありません。宇宙には無限の智慧が満ち満ちて
いるのであります。その智慧を自分に汲み取れば良いのです。そのためには、神想観
のときに次のように祈ると宜しい。

 「神よ、私の生命をあなたが私に使命づけられた仕事のために捧げます。その使命
を遂行するために必要な智慧を私に与えたまえ。」

 このように一心に祈ってから暫く、その智慧の流れ入るのを受けるつもりで、
「受身」の心で静かに精神統一して待つが宜しい。

「生長の家」誌 昭和29年5月号 P5 より謹写、

2257SAKURA:2013/05/07(火) 21:49:19 ID:BEUD3XFA
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 
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■■ 『女 の 浄 土シリ−ズ…SAKURA論』    谷口雅春著
――――― 【 第八章  家庭はかうして光明化される 】―――――

■■  肉体も環境も “心の影” の実例  >>2246>>2249 投稿の続きです…。

■以上の対験談は「肉体は心の影」といふ眞理をまことに端的に表現してゐて、多勢の家庭人を救ふ
のに役立つと思ふから敢て発表した譯でありまして、この體験を分析しながら皆さんに眞理をよく解
って頂きたいと思ふのであります。

 梅原家では両親も夫も心の優しい人であったし、嫁いで来た和江さんも、“孝養を盡したい”といふ
善い覚悟で嫁に来られた。それなのに「子供はイタズラがはげしくなるし、両方の眼は逆睫で手術し
なければならなくなるし、喉もアデノイドと扁桃腺を手術したし、絶えず耳には腫物ができるし、鼻
血が出て醫者に来て貰っても中々止まらないし、挙句の果てに肺炎で入院するといふやうな始末」だ
ったといふのであります。父母も嫁も皆立派な人たちであるのに何故こんな気の毒なことにあったの
でせうか。その原因を考えてみたいと思ふのであります。
                          つづく


PS:「管理人 トキ様」 ・ 「観覧者の皆様」 ヘ

やはり現在の私は、本当に「言葉の使い方」を〜〜〜と?思います。いろいろな面でこの頃、考え
込んでしまいますかと。そうです〜〜〜ネ!よく「おせっかい…!」この“コトバ…”なのですが?
相手が親切にしてきます。…が?それは、受けた側…私にとっては不要なモノで、或る時は、逆に
【 不愉快なネガティブ感情 】が湧きます。
例えば、「日本語がなっていない」「記号が使う事…自体がオカシイ」…etc他にも多々あります。
このようにですが?その事が〜〜〜何度も何度も繰り返されてくると…いつしか?それは、

❤【 感情兵器〜〜? 】になりますでしょうか?その時の“感情が高ぶる事…”は〜〜〜><

それは〜〜いつしか【病気を誘引して…】いく事もなりますのです〜〜〜ョネ!!そこで原因として?
【感情兵器…このもつれかと〜〜〜カモ >< 】? (微笑)
「D.カーネギー」氏の言葉から【ネガティブ感情はむだな時間…かと!】おっしゃっていましたが、
私も、その様に思える次第なのです。…が >< 

❤〜では詳しく次回に「雅春先生」が〜〜〜更に!次の解説論を〜〜なされていますので〜〜〜
                               つづく

2258SAKURA:2013/05/08(水) 14:10:35 ID:686YdHbo
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■■ 『女 の 浄 土シリ−ズ…SAKURA論』    谷口雅春著
――――― 【 第八章  家庭はかうして光明化される 】―――――

■■ “善” に執すれば “善” も悪に變ずる   その①

 和江さんはかう言ってをられます。
「父は厳格な人で、まぁ子供をよく可愛がってくれたんでございますけれども、厳しい躾で私は陰で
何度も泣いたことがございます」と、厳格といふことは、その人の人格の高さを示す示標の一つであ
りまして、「霊界通信」によっても、魂の高さをあらはす特徴の一つは「寛大なる峻厳」だと教えられて
ゐるのです。(『生命の実相』“霊界篇”)厳格とは善を善として悪を悪として一歩も曲げない峻厳さです。
しかしその峻厳さが“寛大”といふオブラ−トに包まれることがわすれますと、「諫言口に苦し」といふ
諺にありますやうに、苦くて呑み込めないで、折角おぢいさんの愛情で、「子供を良くしたい」思ひいつ
ぱいの言葉も、逆に吐き出したくなるのです。その折角の愛情の深切な諫言を、「おぢいさんは深切で
私を愛して、私を良くしたいために、あんなにいつて下さるのだ」とは受取ることができないで、それ
に反抗して、逆さまに突き上げる心が起きる。そのやうな「逆様に突き上げる心」のあらわれが、子供
の逆睫となってゐた譯です。おぢいさんの厳格な叱責に、口答へをしたいと思ふけれども、口答へをす
れば又しかられるから、不平の思ひを吐き出すことが出来ないで「ふくれる思ひ」を咽喉に止めてゐる
心が肉體化して咽喉の奥にアデノイドが腫れ、咽喉の出口の扁桃腺が腫れて手術を必要とするやうにな
ったのであり、あまりに厳格な小言を聞きたくないので、耳で聴きながらブツブツ思ふ不平のふくれる
思ひが肉體化して「子供の耳に絶えずお腫ができた」のであります。   (谷口雅春著)
                               
◆――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――◆

PS:「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ

■そうです〜〜〜ョネ?????今の私の事なのですが?その様に云えるのかも知れません。…が?
【分派の方達…】の捉え方は、とても私どもからみれば“執拗…”に【軍国調の回帰…切望型】のように
見えてしまいますが??現在社会情勢の中では【イデオロギ−】が生じ無きにしも?その時の責任は?
持たれますかしら〜〜〜ン!とか……複雑な気持ちでの閲覧です。おそらくは〜〜〜

【分派の方達…】は、それは「生長の家…」を、善くしたいとの“一心…”で動いているのでしょうけれ
ども、こちらで見ますと、異様な集団にも見えて行くのです〜〜〜ョネ!!【御教えの根本…】が?

正直申しますと【信者…】に対してなのでしょうか〜〜〜??それとも〜〜〜
【分派の方達】の“メンツが最優先”している感じで、まるで【一般信者…】を利用に過ぎません。


                        つづく

2259SAKURA:2013/05/08(水) 14:12:42 ID:686YdHbo
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■■ 『女 の 浄 土シリ−ズ…SAKURA論』    谷口雅春著
――――― 【 第八章  家庭はかうして光明化される 】―――――

■■ “善” に執すれば “善” も悪に變ずる    その②

■果たして?【一般信者…はモノ扱いなのでしょうか〜〜〜?】

私は、この事がとても立腹する事になりますから、“体…”に良くない事なのでしょうと、最近では思えて
致し方がありません。これは【感情兵器…】ですかと。当にこれは【悪魔の兵器…一つ】なのかと?
そのように思います…。

今回も、また!また!こちら「現総裁雅宣先生…擁護派」が投稿しますと、凄い〜〜〜勢いで、こちらの
投稿を!当にア〜〜〜ッ!間に【↓】になったり?或いは【奥殿…ボ−ド行き】作戦法でしょうか??
これは、世間一般の第三者の誰しもが閲覧されてみて、【異常な集団…】に見えてくるモノと思います。
ですから???【人間の心理…】は、バンコク不変の法則と申しますか【ポジティブなコトバ…】或いは
【ポジティブな感情】の方面に行く事を〜〜〜改めて“再発見…”です。これ位の“エネルギ−”を使用
していますから、本当に“無駄な産物…”だと改めて思える私です。❤【光ある方向へ…向きますかと。】

さて【厳格…】とは?本当にどういう事なのでしょうか???たぶん「復興G様」は、キット私達のために
きつく云ったと再三言われます。…が?「記号が?オカシイ」とか??「日本語がオカシイ」とか?これは
「寛大な…厳格なる言葉」でしょうかと???【自問自答…】しております。
又、ある時は「私の言葉の表現が分かりにくい…」と、これも又よく言われます。…が?そのようならば、
キット!キット!今までの【元分派の幹部達の運動展開】は〜〜〜キット伸びたのでしょうか〜〜〜???
それは【一般信者…】へ軍国調にて強制的な部分が多少は存在していたのではないのでは?それ自体が、
ハッキリ言えば〜〜〜“魅力…”がないように思えます。現在人では?義務教育を受けていますから、まず
人は【人格!…人格論】から見て行く事になりますでしょう。!!
そのような時こそ、こちらの「精神修行…」を頂いたモノと感謝しながら…逆にそれは新しい
“旅立ち…出発”なのかしら〜〜〜ンと、思える私ですが???いま仕事の途中ですが、本当に今回つくづく
そう〜〜〜思いましたのです。…が?こちらも【向サイド…分派の感情】を、どうしてそのようになるので
しょうか?こちらも貰わないように気をつけませんと【心の不平…病気を呼ぶ】事になりかねませんネ???

そして思いますに…
「“善” に執すれば “善” も悪に變ずる」は、今の現状では、何に、当てはまるのでしょうか??

「トキ様…」以外は、特別今日の時点(午前中)では【全てスル−!スル−!】してでの投稿ですから、
私どもに対しての批判「記号が?日本語が?…表現が?」この様におっしゃる事と、現実での
「スル−!投稿」との相違は?どの様に解釈していきましたらいいのでしょうか????

■今までの分派の行為は【善の行為…?】なのでしょうか??反対に【悪の行為…】に変じてなのかしらン??、
特に献金斜陽族としては…… >< 一般信者かもしれませんが?

                                   再合掌

2260トキ:2013/05/08(水) 20:47:13 ID:.EGbH5eE
SAKURA様

 いつもご投稿、ありがとうございます。

 これは個人的な感想ですが、確かにSAKURA様の御文章は個性的過ぎて、少し読みにくいと思います。
特に、携帯端末やタブレットなどを御使用の方には、少し読むのが厳しいと思います。復興G様のご意見
は、別にSAKURA様の投稿の内容に関連したものではなくて、単に表記の問題点についての言及です。

 場合によっては、教区のお友達に、ご自分の御文章を見てもらい、ご感想を求めてみられては
どうでしょうか。

 どうも、失礼な内容の投稿になり、たいへん申し訳ありません。ご気分を害されたら、深くお詫び
します。

合掌 ありがとうございます

2262トキ:2013/05/08(水) 21:31:54 ID:.EGbH5eE
五月の法語「実生活を改善する心の持ち方」

谷口雅春先生

8日の法語 運命の転換のための自壊作用

 仕事の成功を求めるために、「神よ、私の生命をあなたが私に使命づけられた仕事のために捧げます。」と言って祈った場合、
あなたはその仕事に失敗するかもしれません。それを自壊作用と言うのです。あなたが現在やっている仕事が、「神があなたに
使命づけられた仕事」ではなかった場合には、その仕事を自然に止めるようになるのは当然のことなのです。いくらあなたが
「神の使命づけられない仕事」に一時的に成功なさいましても、「神の使命づけられない仕事」は恰も根のない樹のようなもの
ですから、やがては枯れることになるのは当然なのです。しかし、「神が使命づけられた仕事」に到著するまでは、現在与えられて
いる仕事は、その使命に到達する過程としての練成であると思い、一心に真心をもってその仕事に邁進すれば、やがてはそれを
踏石として次の仕事が現れて来るのです。


「生長の家」誌 昭和29年5月号 P5 より謹写、

2263SAKURA:2013/05/08(水) 21:55:30 ID:BEUD3XFA
こんばんは……   ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
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>>2260 「管理人 トキ様」 へ
「管理人…トキ様」からの“感想の言葉”ありがとうございました。
御投稿の内容主旨は理解しました…。…が?私の知人関係は〜〜〜理解しております。私事なのですが?

正直申しますと【あいまいな表現?ある面分かりにくい表現】にしました。此処で“ストレ−ト”なる表現
ですと、傷つけますし?いがみ合い?が生じます“モノ”との、判断が在ります。あくまでも?理解して頂
く方々が。。。閲覧して下さればとの思いにての「投稿形式…」と致しております。

■「リンカ−ン」みたいに暗殺されては〜〜〜怖い話ですモノかと。(微笑)

但し“文通しています知人(これは信仰とは関係ない知人関係)も含めまして、このような感じで
楽しんでおります。

■ ―――|―― 【文 章 表 現】
■■凡ての人に…凡てを理解して頂こうと…それは【不 可 能…】と思います。人それぞれ…かと。

■やはり「凡ての方々に理解して頂こうとは?」正直「難しい問題…」と思いますし、思っていません。
また、「感情…」は人により?程度により?異なりますから、此処「管理人 トキ様」何番目の方なのかは、
存じませんが?【分派より…派】ですからそこに感情が多少入りましての閲覧の場合もありますでしょうかと。
それに「トキ様」自身の中には?「御高齢の○○様(漢字)」もいらっしゃいますのでは?

■■それから?【携帯…】【タブレット…】の場合は、正直“投稿…”あるいは“閲覧…”となりますと、
逆に質問ですが?【御自分の思考…考え】を何処まで?表現できますでしょうか?
いつも?第三者的にみておりますと?これは【携帯… 或いは?タブレット…】の場合は、その返答も正直
私どもサイドから申しますと「簡略化しての文章表現でその人の考え方は〜〜〜と?思う事が、多々です。…が?」
逆に?理解しがたいものが在ります。…が?(知り合いの若者の間でも?同じ考えですが?)

このようになりますと?果たして【真理…討論】は〜〜〜何処まで可能なのでしょうかと。?
今後?逆に申しますと「携帯…」「タブレット」対象にての【ネット活動体制…メイン】とお考えなので
しょうか?

■■そして【年代の差…】での“文章内容投稿”もありますかと?思います…。少なくとも、私の知人関係では、
【ギッシリと…詰まった文章は??多少〜〜〜拒絶感が在りますと…】異口同音にお互いに云い合って、
おります次第です。ですから?これも【好みの問題…】に入りますでしょうか??
昭和の戦前?戦後?この頃までの…余りにも「硬い文章(言葉の表現が難しいのです。…が)は??」と、
しばしば思う事が在りますでしょうか?

■■私は?申し訳ありませんが【パソコン…】閲覧者の皆様方々を…メインとしての投稿をさせて頂いて
おります。私個人の思考を伝える手段としては「パソコン」中心という事になります。それから、少なくとも
私の知人関係の「生長の家…信者」では?此の事は“意志疎通…”でしょうかと、思う次第です。…が?

 再合掌

2264トキ:2013/05/09(木) 19:29:28 ID:yXWdSU0Q
五月の法語「実生活を改善する心の持ち方」

谷口雅春先生

8日の法語 成功と繁栄との要素

 成功の要素の一つは、「精神の明るさ」という事です。それが成功の要素の全てではありませんが、非常に重要な要素です。
あらゆる成功の他の要素を備えていても、「精神の明るさ」が無いために人から排斥され、仕事が繁盛しなくなる事もあるもの
です。しかし、心さえ明るくしておれば他の要素は不必要かと言うと、そうではありません。商売なら顧客を礼拝し感謝する
個々とを常に起こし、そして儲けるよりも顧客のためを思う心になって、顧客に喜んでもらいたいという心を起こす事が必要
です。「ぜひ、買ってもらはなければならなぬ」という心を起こしてはなりません。そんな心を起こしたら「相手を縛る心」
ですから、客が窮屈に感じて店に入って来ないのです。

「生長の家」誌 昭和29年5月号 P6 より謹写、

2265トキ:2013/05/10(金) 19:54:54 ID:FwaClEcE
五月の法語「実生活を改善する心の持ち方」

谷口雅春先生

10日の法語 全てを祝福するための祈り

 「神のみが実在であって、今、われを祝福したまう」事務所で仕事をしている時にも、ご飯を食べている時にも、
店でお客と応対している時にも、この言葉を心のうちに唱えて、この「仕事」が神であって今私を祝福してい給う
のである。このご飯が神であって、今、私を祝福し養い給うのである。このお客が神であって今私を祝福しに来て
いられるのである。こういう気持ちにあることが、あなたを繁盛させ成功させ幸福にならしめる心的原因になるの
である。もし、気に喰わぬ人が来た場合にはやはり「神のみが実在であって、今、この人を通して私を祝福するた
めに来たり給うたのである」と繰り返し念ずるならば、敵と見える人も味方と変じ、自分の不快感情も腹立ちの
感情も自然暖かい感情に変化してしまうのである。

「生長の家」誌 昭和29年5月号 P7 より謹写、

2266うのはな:2013/05/11(土) 14:53:50 ID:Azzizfgc

神話的に云ひますならば、日本国家は、天照大御神の理念の中に先ず造られて、
それが「千五百秋の瑞穂の国は世々わが子孫の王たるべき地なり」と云ふ天孫降臨の
神勅となつてあらはれてをります。神話と云ふのは、作者が誰と云ふ一定の人間ではなくて
古代の民族が、その民族全体の精神によつて作られたものであつて、民族全体の一致した
協同作品と云うやうなものであります。

 この民族の協同信念によつて各人が集団して、日本は天皇中心の国家を形作つたのでありますから、
日本国家が天皇中心の国家であると云ふことは最も民主的なことであります。
 この民族全体の協同精神が謂はば日本国家の設計のやうなものであつて、その協同精神の通りに、形の世界
の日本国は、家が色々の材料が集められて徐々に出来上がるやうに、出来たのです。

 だから日本国家の本質及び設計は、天皇国家の姿をとるべく日本民族全体の心の中に既にあつたのであります。
それが世の中の進むに従ひ、形の世界に徐々に出来上がつて来たのであります。
そして、神武天皇が大和に都をはじめた給うたのは、天皇中心の国と云ふ日本民族全体の精神が具体化した第一期工事の
完成だと云ふことになります。

〇 文中旧漢字ひらかなに変更あり

 『真理』第一巻 谷口雅春 先生著

2267うのはな:2013/05/11(土) 16:27:19 ID:N1z5R5m2

  意義深い昭和五十七年 生長の家理事長 和田英雄先生( 聖使命新聞より一部抜粋)

 『生命の實相』というのは、次元を超えた絶対の世界、時間、空間を超えた世界、そこに唯々生命が
躍動している世界であります。しかし、ともすると、吾々は人類光明化運動を傍観者的な立場で論じ、
又、アウトサイダー的な活動をやっていないだろうかと、反省してみる事が大切だと思います。

 例えば、吾々は日本国実相顕現を叫び続けてきていますが、果して、どこまで日本の実相が、現実に顕現してきた
でしょうか。現実は、依然として、主権在民の占領憲法下にあって、「明治憲法に復元せよと叫けべも声いたづらに街に消えゆく」
状態がそのまま続いているのであります。

 そうしたことをじっくりと考えると、一時たりとも安閑としてはいられないのであります。
『生命の實相』発行満五十年に当る今年、今年こそ徹底した光明化運動を展開していかなければならないと思います。
幸いにして、『生命の實相』初版本の復刻版が、今度発行されることになりました。

 皆様一人一人が、この復刻版を手にされて、総裁先生がお受けになられました「今起て!」の啓示そのままを、
吾々も改めて感得して、体当たりで昭和五十七年に臨んで頂きたいと思います。
今年、総裁先生は九十歳即ち卒寿をお迎えになられます。大変すばらしいおめでたい事で、今年こそ総裁先生の御悲願
にお応えすべく吾々信徒は、思いを尽くし、誠を尽くし、五感を超え夫々の組織を通して、無限の可能性を爆発的に開発し、
一大飛躍的に教勢拡大を図ってゆこうではありませんか。

2268うのはな:2013/05/11(土) 17:53:03 ID:ZvmnD.Gc
ヒルトン・ハワイアン・ビレッジで開かれた一般大講演会の模様を報道した
ハワイ最大の日刊紙『ホノルル・スターブレテン』3月28日 紙

    『2500名が光明思想家の講演に集まる』(抄訳)

 昨夜の一般講演会参加者数からみても、谷口雅春博士は、ハワイにおびただしい数の熱心なる共鳴者を
有していることがわかる。
 2500名以上が、万人に宿る神性を説く現代日本の哲学者の講演を聴くために押し寄せてワイキキの海岸通りを
来るまで一杯に埋めた。

 師は43年前に、罪なく、既に救われている人間の実相を説くこの宗教を創始した。
今日全世界に400万人の信徒を擁し、300冊にのぼる著書を出版している。
 その一つ、『生命の實相』は1200万部も出ているのである。

 谷口師はイエス・キリストの教えや釈迦の教えは、人間はすべて神の子と説いたのであって、
教えは正しいのであるが、キリストの弟子達は、イエスだけが神の子であると説き、釈迦の弟子達は
釈迦だけが仏であると説き、その他の人間は罪の子であると説いてきたのである。

 人間は罪の子であると教えられると、罪の意識が起り、罪の償いとして、自己処罰をして病気や不幸、
更には戦争までも造り出すのである。この事は、ベトナム戦争の場合についても明らかに実証されると述べた。
つづいて谷口師は真の平和をこの世に実現するには、この罪の意識を人類の心の中から払拭しなければならない。
そのために、生長の家が出現したのである、と述べた。

 又、谷口師は、ルーテルの宗教改革よりも、もっと深い意義をもつキリスト教の革命が今起りつつある。
しかし、師自身がその革命を指導するのではない。むしろ、聖書自身が此の第二の宗教改革をもたらすことになるであろうと語った。

『真理は民族を超えて』 谷口雅春先生御夫妻御巡鍚記念写真帖

2269うのはな:2013/05/11(土) 17:55:18 ID:DCC2AIpY

  『真理の吟唱』 初版 はしがき
  http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&amp;mode=res&amp;log=1563

2270トキ:2013/05/11(土) 18:28:40 ID:laSoKZN6
五月の法語「実生活を改善する心の持ち方」

谷口雅春先生

11日の法語 自覚と目的と行動と

 今、神が私を祝福したもう。この「今」の自覚が大切なのである。常に「今、ここに神が吾とともにあり給うてわれを祝福し護りたもう」
と念じ、信ずることが大切であるのである。次には、「今」既にわが求むる事物は実際にここに与えられているのだと信ずることが必要で
ある。かくて、「神とともにある力」が第1に確認され、次に、何を得べきかが定められーそれが実際にあるということが確認されたわけ
で、その次には「その既にあるもの」を得るように行動することによって、それが現実に得られることになるのである。いくら信念を持ち、
目的物を定めても、実際に行動を起こさなかったら、その目的物は自分の方へ飛び込んでは来ないのである。

「生長の家」誌 昭和29年5月号 P7 より謹写、

2271SAKURA:2013/05/11(土) 20:12:44 ID:BEUD3XFA
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
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「女の浄土」投稿の続きです。

■■ 『女 の 浄 土シリ−ズ…SAKURA論』    谷口雅春著
――――― 【 第八章  家庭はかうして光明化される 】―――――

■■ 鼻血は高慢な心のあらわれ  >>2246>>2249>>2258>>2259>>2263 投稿の続きです…。

■鼻血が出るのは、高慢な心で、人の深切や愛情や惠みなどを突き戻して棄てる心のあらはれであり
ます。“鼻にかける” とか “鼻が高い” とかいふ俗語にあらはれてゐるやうに高慢の象徴であ
り、血は神の愛が物質化して全身を流れてゐて、人間はそれによって生かされてゐるのであります。

その神の愛が“父の小言”といふ形で、その子供を“よくしよう”として流れ出るのを、素直に受け
容れないで棄てるのが、出血といふ現象であります。鼻血にかぎらず、凡そ、人體から出血する症
状を伴ふ病気は、恩を仇で返すとか、人の深切を素直に受け容れないで流し棄てる心の象徴であり
ます。みんな善人であり、思い人は一人もいないのに、家族に病気が次々とあらはれたりする場合に
は、この善良な梅原さんの一家に次々と病気があらはれたやうな気がつかないところに抑壓し陰覆さ
れた精神的あらしがあって、それが肉体に具象化してあらわれてゐる場合が多いのでありますから、
そのことをよく反省して、家庭の精神的雰囲気を改めますと、家族に病気が起らなくなるのでありま
す。                             ( 谷口雅春著 )
                       
                  ――  つづく ――


PS: 「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
「鼻が高い?」「鼻にかける?」……?若い時〜〜〜此の態度が在りましたかと。「反省…」ですネ!
余談ですが?確かに“親ゆづり…”と申しますか?私の鼻は確かに“鼻の高さ…”が、高いのです〜ョネ!

従いまして、意外と、第三者の方が見ますと?外見上の判断にて“鼻が高い…”と、ある面では、
「高慢な感じ」を与えたようにも、今考えますと〜〜〜><更に“愛嬌が悪い方…”でしたから、尚の事
そのように相手に与えてしまったカモ…と思うのです。…が?此処最近では【整形…】で“鼻…”を高く
された方が多いです〜〜〜が?やはり第三者的に判断して見ますと、やはり!【高慢…】に見えますので
しょうか??如何しても?白人とのコンプレックス観?なのでしょうか?“鼻を高く…”しますと、
綺麗になれると言った感じの【神話…】があるようですネ!!私は、街ですれ違う女性の姿をみまして、
若い時の自分自身が、恥かしく思えるようになりました。

■やはり!まず『顔…は、心の状態の現れです……。』から、【心…】で“整形…”出来るのですョネ!

このように思うのです。??実に“不思議”です〜〜〜ョネ???【心のパワ−】
さて!病気は「生活習慣…」からでも大いに関連しまして“病気…”になるようですが、そして、
“心の状態…”からも起きますから、やはり【ネガティブ感情=妬み?嫉み?更に抑壓された感じの状態
とか?……etc】は、【病気…】になりがちで、それは“ 環境…”から生まれますところの「トラブル…」を
更に起こしやすくなっていきますので、余計に【病気…】を作るようなモノです〜〜〜ョネ!!

そして【感謝…】を失いますと、必ず“天の声…”が耳もとで囁き入りまして【病気…】と言った
肉体上に“警告状”かと。此の「現実世界…」に明瞭に形として現われる=病気になる!!という事
でしょうか?こうして考えますと「現象世界…」で、私達は“嫌な想念・感情”を起こさない事!!そして、
更に【和顔愛語…賛嘆して】いきますと、必ず!天の倉が開き【病気の種…】を吹き飛ばすことに繋がる
ように思えます。当に〜〜〜

■今!!今!!活かしながら〜〜〜現象界で生きる私は、今から【幸福の種まき】に発芽するまでは、
【三 界 唯 心 所 現】でしょうか??

❤ 目指せ!!〜〜〜幸福切符を〜〜〜!!今を活かす私なのです…。    
                                   再合掌

2272トキ:2013/05/11(土) 20:46:11 ID:laSoKZN6
>>2271

 そう言えば、生命の実相40巻に顔の話が出ていますね。

しかし、大事なのは、【幸福の種まき】をすることです。頑張って下さい。

合掌 ありがとうございます

2273トキ:2013/05/12(日) 21:50:49 ID:/TYlhGRg
五月の法語「実生活を改善する心の持ち方」

谷口雅春先生

12日の法語 流れる水は腐らない

 どんなに清らかな水でも流れずにじっと溜まっていたら腐ってしまう時が来るのである。どんなに繁盛している職業でも
常に一層改善される方法を研究し、注意深く一層能率を挙げ、一層よき物を提供するように努力を払わなければ、流行に
遅れるし、新しき設備は他に設けられ、自分の事業は退転するより仕方がなくなるのである。「人間」そのものの養成も
同じ事である。百年1日の如く、その「人間」そのものが進歩しないでは、その人間は陳腐くさくなってしまい、世界の
進歩におくれてしまい、世の中から顧みられなくなってしまうのです。絶えず進歩する者は心が常に新しいから老いること
も少なく常に健康でありうるのである。

「生長の家」誌 昭和29年5月号 P78より謹写、

2274SAKURA:2013/05/12(日) 22:04:19 ID:ti/6XHz2
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 
こんばんは……。  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。

■>> 2272 「生命の実相…40巻」…
「トキ様…」からのアドバイス?にて……拝読しましたので〜〜〜す。

「雅春先生…」の博識を改めて思う事となりましたかと。
その中で…【鼻…】に関連して〜〜〜実に“当たっているので〜〜〜”
−−−「生命の実相 40巻」−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
…中略…
観想学が成り立つ根本原理は、
三界は唯心の所現、
肉体は心の影、
環境は心の影、
運命は心の影、
形態は心の影、
顔はその人の住む世界を代表す、
顔の中心部位たる鼻は宇宙または環境の中心たる自己をあらわす。
ということであります。人相は当たるも八卦当たらぬも八卦というような不確実なものではありません。
当たるのが当りまえであって、人間は実にその顔のとおりの心なのであります。嘘も隠しもありません。
…云々……                    (谷口雅春著「生命の実相」より 一部抜粋)
◆−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−―−−―◆

只今!鏡と“ニラメッコ…”です。【心の柔和な人=顔も柔和】ですから〜〜〜
どんな時でも〜♫〜どんな時でも〜♫〜“スマイル・マ−ク”をと…「鏡…」に向かいエクササイズです。
「トキ様」…教えて頂きまして【感謝…】申し上げます…。
                                       再合掌

2277a hope:2013/05/14(火) 07:10:18 ID:edEDolt2
新版 生活読本 谷口雅春先生著(日本教文社)
第十四章 心で貴方を幸福にいたしましょう

◆良いものがほしければ良い原因を積まねばならぬ

皆さんは2×2=4の法則に、一生懸命祈ってみて、それを2×2=5にならせてくださいとたのんでも、
けっして五のかずは出来ないのであります。

そうすると、皆さんがいくら神さまにたのんでみても、
百円しか出来ないような働きよりしないでいながら「一万円ください」と神さまに祈っても、けっして一万円は出て来ないで、
百円しか出て来ないことがわかるでしょう。

この世界には、原因があれば、かならずその通りの結果が出て来る。
水素と酸素をあわせれば、水になる。

二と二をあわせたら、四になるというように、かならず原因の通りの結果が来るようになっているのでありまして、
これは目に見えぬ法則(すなわち神さま)が、そのようになさるのでありまして、
善人だから二と二をあわせて六になるとか、悪人だから、二と二を合わせて四にしてやらないで、
三になるということはないのであります。

いくら神さまにたのんでみても、二と二をあわせれば、四になるしか仕方がないのであります。
だから良い結果を得ようと思うならば、良い原因を積んでおくよりほか仕方ないのであります。

人に親切をしてやれば、また自分に親切がかえってまいります。
それは銀行に預けておいた金が、ひきだす時には、かならず利子がついて出て来るのと同じことであります。

一つの親切をしておけば、いつか後の時には、とても大きい親切の数が、
自分にかえって来るようになるのであります。

蒔いた種の通りのものを刈り入れることが出来るのであります。
蒔かない種は生えないのであります。

瓜を蒔いたら瓜がなり茄子をまいたら茄子がなるのであります。
一粒の麦を蒔いたら、かならず麦が出来るのでありますが、一粒の麦から出た一本の穂には七十粒も、
八十粒も、多いのには百二十粒も麦がついているのであります。

与えた通りの所のものが利子がついて与えられるのが、原因結果の法則というものでありまして、
それが数字では数字の法則として現れているのでありまして、この法則がすなわち神なのであります。
(つづく)

2278SAKURA:2013/05/14(火) 13:59:23 ID:ace8L14.
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 
こんにちは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>2124>>2143>>2158>>2159>>2162>>2163>>2168>>2174>>2175>>2181>>2182>>2183>>2188
>>2209>>2212>>2225>>2226>>2239>>2240>>2249>>2257>>2258>>2259>>2263>>2271
「女の浄土」投稿の続きです。

■■ 『女 の 浄 土シリ−ズ…SAKURA論』    谷口雅春著
――――― 【 第八章  家庭はかうして光明化される 】―――――
         >>2246>>2249>>2258>>2259>>2263>>2271 第八章の投稿の続きです…。

■■ 心臓疾患は “愛情を求める心” のあらはれ

梅原さんのお宅では、お母さんも持病の心臓病で一週間か十日位に夜中に発作して医者のとこ
ろへ家族が走らなければならなかったといふことでありますが、心臓といふのは、グレン・クラーク
教授も嘗て指摘してゐますやうに、“愛情”を象徴する器官であります。そこに発作を起こすのは、
愛情に餓えてゐて“いたはつて貰いたい魂の要求”が時々爆発して、周囲の人々から愛情あるいた
はりを受けて、その発作が一時をさまるのであります。このことは谷口清超氏譯・マン女史の『怖れ
なき生活』(日本教文社)の中に出て来るポラード夫人の心臓病の實例の於ても明かであります。(同書・参
照)あまりに厳格な家庭に於ては、受動的に愛を受けたい天分をもつ女性が、時として病気を装ふ
ことによって、愛といたはりとを受けたい衝動を満足させるのであります。
(注・現在意識が意識的に仮病を使ふのでなく、潜在意識が偽装するのであるから、本人は仮病の
つもりはないし、苦しんでいるのは本當に本人である)
                            つづく

PS:「トキ様」 ・ 「観覧者の皆様」へ

『心臓病は愛情を象徴…?』は、つまり“いたわってほしい??といいます”魂の要求“なのです〜〜〜ネ!
そう!【愛情…】表現なのです〜〜〜ョネ!!此処で、話は変わりますが?【仮病…】とは〜〜〜><
よくつかう行動といいますか?私が学生時代でしょうか??此処で公開?します。…が?実は、当時、いやな
“授業科目”がありまして、その授業時間に限って、不思議と“お腹が痛くなる”のです。詳しく申しますと、
それは?確か“宿題の課題…”がクリア出来ていない時に、その授業内容についていけない時に、必ずと生じ
ました現象です。…が?これって?【条件反射…】でしょうか?或る時、急にモノすごく〜〜〜腹痛がしまして、
保険部に行きました。そしますと…笑い事ではありませんが?その“保険室”に行ったとたん〜〜〜“ケロッ!”
と治っているのです。ですから、その時の私の取りました行動は、“10分位ベッドに横になり、お腹が納まり
ましたと、保健室担当の先生に、腹痛が納まった事を告げて、再び教室に、戻りました。すると!また!また!
しばらくして腹痛が〜〜〜><このような『発作…』が起きるのです。

これはやはり、授業内容をクリアしていないので、急にいいがかりのような潜在意識が、起きたのでしょうネ!!
今にして思えば?やはり【病気はこころで作る…!】と思いました次第です。…が?これから?
【登校拒否…】の問題に入っていくのでしょうか?

「観覧者の皆様」の中にも、悩んだり、更に!ネガティブ感情になりやすい?なったりして?…それが、
繰り返されますと、いつしか知らず知らずに、やはり【病気…】になりやすいのでは。従いまして、
いつも「光明面を見る!!」だけでも【人生の勝利者…では?】と、つくづくこの頃思うのです。
個人的には、今の現状に於きましては、この事は?ある面難しいモノでもあり、修行中で〜〜〜す。(微笑)

■すべて【心で決定する!!】のです〜〜〜ョネ??「管理人 トキ様」は、この事に関しましては?
果たして、どう思われますでしょうかと。??

2279トキ:2013/05/14(火) 21:39:47 ID:5cIOGcgs
五月の法語「実生活を改善する心の持ち方」

谷口雅春先生

13日の法語 行きている物は新しい芽を出す

 樹木でも生きている限りは、絶えず新しき芽を出し、一寸でも一分でも必ず常に伸びて行くのである。
今年は芽が出ないし、枝も伸びないのはどうした訳かと調べてみると、その木は既に枯れているのである。
人間でも、もう少しも新しい計画(新芽)を考える力がなくなり、少しも新しく発展しなくなったときに
は、既にその人の生命は枯れつつあるのである。常に新しきことを考え、計画し、新しき事に興味を持つ
者は老いないのである。常に何事でも、少しづつでも改良して行く心掛けは、新しき想念を生み出す原動力
となるのある。そして、想念こそ肉体を崩壊せしめず或る一定の形に維持する力であるから、新しき想念
を生み出している限り人間は老いないのである。

「生長の家」誌 昭和29年5月号 78より謹写、

2280トキ:2013/05/14(火) 21:56:53 ID:5cIOGcgs
>>2278

 復興G様が書かれていましたが、その心は、「神様の心」でるべきですね。

2281a hope:2013/05/15(水) 08:34:21 ID:edEDolt2
新版 生活読本 谷口雅春先生著(日本教文社)
第十四章 心で貴方を幸福にいたしましょう

◆心の調子をととのえましょう

あなたたちは神さまの生命の宿っている神の子ですから、神様が思われたことが法則となるように、
あなたの思ったことが、云いかえると、あなたの心の持ち方があなたの運命の形をあたえる法則となるのです。
あなたの「心」はほかの何よりも大切であります。

あなたの家に立派なピアノがあるとしたら、そのピアノを調律(ちょうしをあわす)して、
いつでも立派な響のでるようにしておかれるでありましょう。

あなたの大切な本は出来るだけ汚さないように、その表紙を紙に包んで、
頁(ページ)を開くにも、そっと丁寧にお開きになるでしょう。

所がその立派なピアノよりも、あなたの好きな立派な本よりも尚一層大切なものがあることをあなたはご存じでありますか?
一体それは何でしょうか?

それはあなたの「心」であります。
あなたの人生(ひとのくらし)が楽しいということは、あなたの「心」が楽しいということなのです。
あなたの人生が楽しくないということは、あなたの「心」が楽しくないということなのです。

あなたはあなたの「心」をどんな具合に調律せられますか。
調律というのは、調子を整えるということであります。

あなたの「心」の調子をどんなに整えるかということによって、あなたの人生の幸福と不幸とは分かれて来るのであります。
人間は自分の心に思う通りのものになるのであります。

先ず、自分自身をどのように思うかということが、自分自身の「あり方」を定めるのであります。
自分自身を不幸であると思う人は、その人は不幸なのであります。
自分自身を幸福だと思う人は、自分自身が幸福なのであります。

自分自身を「楽しい」と思う人は、その人は楽しいのであります。
自分自身を「悲しい」と思う人は自分自身が悲しいのであります。

こんなあたりまえのことが、どうして多くの人にわからないのでしょう。
(つづく)

2282NANCY:2013/05/15(水) 20:26:32 ID:BEUD3XFA
「トキ様」 へ   「観覧者の皆様」 へ
こんにちは……     ロ−マ字(大文字)の【NANCY】です。
>>1955>>1983>>1988>>1999>>2010>>2012>>2024>>2028>>2029>>2061>>2066>>2067
>>2083>>2116>>2117>>2129>>2134>>2135>>2165>>2166>>2173>>2216 >>2217>>2220
>>2228の投稿の続きです。

この頃、思うのですが?【美…】此の理想の“美…意識”が?多々ありますかと。下記にて創立者
「雅春先生」の【女性の幸福  365章】からの一部抜粋です。尚「白鳩普及誌 No.36」に掲載〜♫〜です。

−−−「抜粋 投稿」−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

■ 【美 は 自 分 で 創 る も の!】

生命はそれ自身のうち「内在の美」を備えており、如何なる目的であろうとも、生命が働くとき、
其処に「 美 」が発現するのである。 とも角、生命は働くときには何時、如何なるときにも
美が発現するのである。              『女性の幸福 365章』より

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−ーー

■此処昨今は?街角ですれ違う若い女性のイキイキした姿を〜〜〜目に留まることが多い昨今です。
先日?個人的な“相談…”を【SAKURA】と受けることになり〜〜〜【美…】とは〜〜〜?
考えさせられました「問題…」でしょうか??

此処昨今は?【外見上…肉体的】に走る傾向が強いように思います…。個人的には?特に此処FUKは、
土地柄でしょうか?強い感じです〜〜〜ョネ!しかしながら思いますに ><

■「永遠性…美」とは、やはり「 内在の美 」が普遍の原理と申しますでしょうか??

これは?この頃、つくづく思うのですが〜〜〜?私事です。…が?「年齢…」を或るトキ?自覚しますと〜
「若さの雰囲気」もこれも一つの「 内在の美… 」に繋がるものでしょうかとも。?意識的に念じながら
更に!若い人の中にいますと?【心理的若返り…】となり、いつしか現象世界での自分自身の行動…しかも
思考も前向きに!冒険的に!〜〜〜「心模様が変化」していってる事に気づきましたのです。
それは?周囲にも多少は“若さの雰囲気…”感染させます要因になりますのでは?

この頃は【意識的に念じて…若さの雰囲気】をと…トライ中です…。これも「 内在の美 」!!                     

再合掌

2283トキ:2013/05/15(水) 20:39:35 ID:IWDOe9VE
五月の法語「実生活を改善する心の持ち方」

谷口雅春先生

14日の法語 競争者を進歩の契機だと思え

 競争者が現れるということは、その人の内部に宿っている「無限の可能性」を現象界に引き出す契機を与える
ことになるのであるから、競争者を憎んではならないのである。殺し合いの戦争というものは好ましくないけれ
でも、戦争というものは生命を賭けて競争をする者であり、敗ければ殺されるのであるから、戦争に間に発明さ
れる科学的装置というものは平和時のそれに比べると十数倍するのである。吾々は、ストライキなどに自分の
生命を浪費する暇に平和時において、戦争時と同じような生命を賭けての真剣さをもって、新しき創意を工夫し
新計画を発案し、それを平和産業や、人類の厚生のために応用するならば、賃金闘争などせずとも日常生活に
物資の豊かな世界が現れる。

「生長の家」誌 昭和29年5月号 p9より謹写、

2284SAKURA:2013/05/15(水) 22:05:26 ID:BEUD3XFA
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。

>>2280 の投稿を頂きまして〜〜〜
>>その心は、「神様の心」であるべきですね。<<
実に難問?でもありますかしら〜〜〜ン! 日々!更新の心にて〜〜〜唯今!修行中です。

❤〜ありがとうございます…。

2285SAKURA:2013/05/15(水) 22:26:13 ID:BEUD3XFA
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>2209>>2212>>2225>>2226>>2239>>2240>>2249>>2257>>2258>>2259>>2263>>2271>>2278
「女の浄土」投稿の続きです。

■■ 『女 の 浄 土シリ−ズ…SAKURA論』    谷口雅春著
――――― 【 第八章  家庭はかうして光明化される 】―――――

■■ 宿業は本当にあるか?  その①

 この体験談の中に宿業の問題が触れられています。「宿業はあるか」という事は重大な問題であ
りますが、「中間因」より生じた中間存在として仮に假りに「宿業」はあるのであります。”本来存在”
としては「宿業」はないのであります。”本来存在”としては宿業はないといふのは、本来人間は
”神の子”であり、佛教的に謂へば”佛子”でありますから、悪の要素を含むといふ意味での”宿
業といふものは本来存在しないのであります。

 ”中間存在として假りに存在するといふ”宿業”は、本来、月には雲がないから、月に雲がかかり
やうがないのに、中間に何らかの原因で月に叢雲がかかったやうに見える ――つまり人間が假りに
「心の曇り」を起して、その曇りを通して月を見るから月が曇ったやうに見えるが、月には本當は雲
がかかってゐないのと同じであります。中間の原因を取り去ってしまへば、本来の實相の完全圓満さ
があらはれて来るのであります。人間の「迷ひの心」を除去してしまへば人間本来の完全さがあらは
れて来るわけであります。                           谷口雅春著

◆−――−――−――−――−――−――−――−――−――−――−――−――−――−――−――−−◆

PS:トキ様 へ  観覧者の皆様 へ

「宿業はあるか」???これは【実相…ではない!】のですが?【現象世界…では???ある!】のではと
思うのです。従いまして、これは「中間因」から中間存在として、ある訳です〜〜〜ョネ???
私共は、生きてゆく上で「正しい理念…」に於いての行動ならばいいのでしょうが〜〜〜??今回!私の
教区の「お金の行方……持ち逃げ??」は、彼らは【生長の家…を戻す!】という理念での行動したと言っ
ていますが〜〜〜??正直な話…これって何が正しいのかが、分からないのです…。…が?

つづく

2286SAKURA:2013/05/15(水) 22:32:51 ID:BEUD3XFA
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>2209>>2212>>2225>>2226>>2239>>2240>>2249>>2257>>2258>>2259>>2263>>2271>>2278>>2285
「女の浄土」投稿の続きです。

■■ 『女 の 浄 土シリ−ズ…SAKURA論』    谷口雅春著
――――― 【 第八章  家庭はかうして光明化される 】―――――

■■ 宿業は本当にあるか?   その②
「教区…」の今までの”信者のお金…”を〜〜〜><持ちだしての【生長の家…を戻す!】この行動は?
それを”正しい行動だとか?”が、このような【中 間 因 念 の 捉 え 方】が、今その人が「業…」
として現われる場合は、病気になり、形としてあらわれているのではないでしょうか???
「業…」は、やはりその人の”正しい理念”に導くようなものだと思いますから、その人が【正しい理念】に
振り向いた途端に〜〜〜
                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                          
【業…」は、消えるはずですから、当然!『無い…』といって【悪い事を正当化?】しています方が、多い
のです。…が?つくづく❤【業はやはり無いようで〜〜〜在る!のですネ!】それは、その人の【心の法則】
に従い、それが”正しい理念での導き方が出来てない場合に、起きる問題では〜〜〜?”と思うのですョネ?

❤「月に雲がかかって見える心」が〜〜〜つまり!「その人の曇った心…」から見える事であり、実際は、
雲は掛かっていないのです。従いまして、そう見える事は、やはり【心の捉え方…】になるのでしょうネ!!
今回!私でも「曇った心…」で見ますと、いろんな姿・形が現象として表れてきますので、まず!
「心を正しい理念に、振り向ける事!!」そして、まず!みじかに出来る事は【祈り……】ことでしょうかと。

【祈り…】に、入って行きますと〜〜〜?【神の英知を頂き、更に、導いてくれる!】はずですから〜〜〜
【実相世界にはいって行くのです。ですから、当に「心の宝船に乗れる事!」が可能となり、そこで、
はじめて【業…】は消えていくはずです。更に!そうして行く内に、悪い性格も改善されて、本来の実相なる
性格になっていくでしょうかと。??

「管理人 トキ様」は〜〜〜【宿業…】は?どの様に思われますかと。???  再合掌

2287a hope:2013/05/16(木) 06:42:51 ID:edEDolt2
新版 生活読本 谷口雅春先生著(日本教文社)
第十四章 心で貴方を幸福にいたしましょう

◆食事の時には楽しく召しあがれ

あなたがお食事をなさる時にも、その食事に感謝して楽しい気持ちでおあがりなさい。
その時には、口の中に非常に消化力の強い唾液が出て、そのためにたべる食物が口の中で消化して、
甘くなるからおいしく感じられるのであります。

即ち楽しい思いを以て食べれば、食事は一層楽しくなり、「楽しさ」は一層楽しさをよびだして来るのあります。
これに反して楽しくない心で食べれば、口の中に出て来る唾液は消化力の弱いものとなりますから、
どの食物もおいしさがなくなって、ますます楽しさがなくなってまいります。

楽しくない心を起こせば一層楽しくないことをひきよせることになるのです。
(つづく)

2288SAKURA:2013/05/16(木) 22:10:49 ID:BEUD3XFA
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
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>>2286 「女の浄土」投稿の続きです。

■■ 『女 の 浄 土シリ−ズ…SAKURA論』    谷口雅春著
――――― 【 第八章  家庭はかうして光明化される 】―――――

■■ 「迷ひの心」を如何にして去るか   その①

 さて、「迷ひの心」をどのようにして取り去るかといふ問題になると却々(なかなか)むつかしいのです。
“宿業”や“迷ひの心”をアルとして意識がつかんでゐる限りは、煙の出る煙草を指の間にはさんでゐな
がら、その煙を拂(はら)はうとしても、次から次へと煙が出て来て煙の消えやうがないと同じで、そんな
ことでは“迷ひの心”は消えないのであります。煙を消すには「煙の出る煙草」を自分の手から棄ててし
まふことが必要であります。“迷ひの心”を消すには“迷ひの心”をつかんでゐて、“何とかしなければな
らぬ“力んでゐたのでは結局駄目なのです。そんな”迷ひ“をつかむ心を煙草を棄てるように棄ててしまっ
て、“迷ひはない”と知ることが必要なのです。和江さんが「善くなろう善くなろうと努力しながら、結局
私は間違った方向へ進んでゐたのでございます」と言ってゐられるのがそれであります。“悪”の存在を
みとめて、人を「善くしよう」と思ったり、自分を「善くしよう」と思つても、“悪”の存在を心で掴んで
ゐるから、「煙の出る煙草」をつかんでゐるのと同じで、“悪”は消えないのであります。
                                   谷口雅春著

PS:「トキ様」 「観覧者の皆様」 へ

■やはり【心で人生は支配する…】この“心こそが、決定する”!!という感じでしょうか?
ネガティブな感情で、同じように【心で人生を縛る…】ような事も、あるのです〜〜〜ョネ!!【闇の世界?】
いつも私は「時間管理が〜〜><」ここまでいかなければいけない……と言いながら、実際は、クリア出来て
いなのが、此処最近の私です。“焦り…”〜〜しかも、嫌な出来事が毎日!毎日!現象として、連続的に起きます。

例えば〜〜〜それは“通勤中”の事です。…が?いつもの〜いつもの〜“パ−タ−ン???”〜〜〜><
「吸血鬼・ゾンビ…etc」更に「黒幕デザイナ−」そして「元元々W会長の仲間…etc」ドン〜ドン〜押し寄せて
きます。

                            つづく

2289SAKURA:2013/05/16(木) 22:12:49 ID:BEUD3XFA
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
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>>2286>>2288「女の浄土」投稿の続きです。

■■ 『女 の 浄 土シリ−ズ…SAKURA論』    谷口雅春著
――――― 【 第八章  家庭はかうして光明化される 】―――――

■■ 「迷ひの心」を如何にして去るか  その②

■私の心は、次第にネガティブになり?暗くなります。このように、私の心の葛藤が〜〜〜><在ります。
そして、正直な話ですが? かなりのウエイトを占めておりましたでしょうか?最近!隣のビル「玄関側の方…」から
見まして…以前は“イエロ−のロ−ルカ−テン”でしたが?此処最近?その隣のビルの住人の方が〜変わったので
しょうかと。?「壁…」と「キッチン」……etc改装工事が要約終った感じなのです。…が?以前は〜〜〜確か?
私の記憶では「小西○○デザイナ―」がいたのです〜ョネ!!それが〜〜いつの間にか〜〜変わったのでしょうか?
【何と!同じ系統の〜〜〜カラ−??】他にも〜〜〜><

その事を思い出しながら?まさか?まさか?また〜〜〜「分派の中の誰か??」なのでしょうか?更に!一時は
「吸血鬼…達とか??」この様に、見ていましたのです。…が???

■【や め た!!】そのような“こころで執着”している私が、逆に!そう見ている事に気づきましたのです。

「心で縛りつけた事!!」だけの事!その“値した事”しか【人生にかえってこない!】のです〜〜〜ョネ!!
私は、モ〜〜〜ウ!そのような【心…】を〜〜〜“蜘蛛の糸”のように〜〜〜今日から〜〜〜
“ハサミ”でチョキ〜〜チョキ〜〜〜切りましたら〜〜〜その途端に!目の前が、ものすごく!開けまして、
前!前!〜〜〜前!に進んでいる“私を再発見…”です!!

そして、昨日は「ミシン講義…」を?“家庭ミシン…”なのです。…が?○十年ぶりに携わり、実に!オモシロイ
のです。開催場に参加しましたら「若い男性も参加」…これには“ビックリ”です。…が?時代も代り〜〜♫〜〜
何と!「色の配色の選び方」も、やはり“個性…”があるのです〜〜〜ネ!この様に、人それぞれですから、当然
今の私は、まず!【“心…”次第で〜〜〜前に進む事に繋がり〜〜〜日々の生活を活かす事ことが出来る!!】
そのようになれば、モ〜〜〜ウ!これは【人生の勝利者】かなぁ〜〜〜(微笑)と思えるようになり、

この頃は、前以上に心が落ち着いてきておりますが――>何事にも動じない“こころ”……そして、 
【今を活かす事!】とは、更に!まず!【今、出来る事に集中して行く内に、周囲の状況を気にならなくように
なって行くのかと?】この様に思えるようになりましたのです。まずは〜〜〜、
【自分の心を完成する事!!】これこそ!先決問題でしょうかと。そして【人生の勝利者…】へと…

「トキ様…」は〜〜〜?どのように感じられましたでしょうか???       再合掌

2290トキ:2013/05/17(金) 19:45:10 ID:gLnHKbBE
五月の法語「実生活を改善する心の持ち方」

谷口雅春先生

15日の法語 人間が新しくなるために

 繁昌している店のショーウインドウの陳列品は1週間して行ってみると全然新しくなっているのである。百年1日のごとく
同じ商品を同じように列べている店は繁昌しようがないのである。地方の洋装店主や美容術師は1ヶ月に1度位は上京して最新
の東京の流行と雰囲気に触れねば、洋装のスタイルも、洋髪のスタイルも流行おくれになって客が来なくなるのである。都会は
常に新しい想念で動いている。それは悪い意味では軽薄だと言う事も出来るが、それだけ生命が溌剌として動いているのである。
田舎の流動のテンポが遅いのである。新しい想念がないから田舎の人は空気が良い割合に早く老いるのである。

「生長の家」誌 昭和29年5月号 p9より謹写、

2291NANCY:2013/05/17(金) 20:21:25 ID:BEUD3XFA
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こんばんは……     ロ−マ字(大文字)の【NANCY】です。
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>>2228>>2282の投稿の続きです。

−−−「抜粋 投稿  谷口雅春 著」−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

■ 【 愛 と 讃嘆 を 雨ふらせましょう】      (普及誌 白鳩  No.33)
 光明面のみを見よ。あなたの良人の、あなたの子供の美点のみを見て、たといその美点が
今ちいさくとも、それを言葉にて讃嘆し、こころにて尊敬せよ。
美点はだんだん拡大され、すべての欠点を消してしまう偉大なる光明にまで発展するのである。
                                 『女性の幸福 365章』より
◆−――−――−−――−−――−――−−――−−――−――−−――−−――−――−――−−――−◆

■【讃嘆する事…】この事は、相手に対して「自信を与える事…」になります〜〜〜ョネ!

例えばですが??
私自身…“字体…”が〜〜〜下手!という【コンプレックス…】がありました。
学生時代は、いつも〜いつも〜私の答案用紙のところで、担任の先生が“ニヤリ…”と笑いながら…
いつもの“コトバ”を。。。「どうにかならないのか〜〜〜なぁ??此の字体…」と?授業中!!生徒の前にて
言われた事を…思い出します…。

それからです…。私自身?そんなに“字体がオカシイ〜〜〜の”と…悩み始め…「心の傷」が… ><

或る時!学友で「書道○段の彼女」が…私に出来ない事はないから「ペン習字?書道?」をトライ!したら?
そして…その学友自身も“下手”だったの〜〜〜ヨ!と私に頑張って“トライ!”するように〜〜〜
それに「文字〜〜〜から、その人の性格…判断できるし…云々…」と…言われ少し心が動きました。…が?
正直!その時は?「ペン習字?書道?」…トライまでは〜〜〜行きませんでした。

ところが?「社会人…」になりまして…或る時の事!彼女のアドバイスが〜〜〜脳裏に浮かびましたのです。
それは?上司から?「研究報告…」を、清書するように言われました。かなりの枚数です。参考までにと?
その上司から他の【研究報告…清書のレポ−ト】を拝見しますと〜〜〜その瞬間!蒼白になりまして、
相当なる落ち込みを抱いた事を、「過去の思い出」として脳裏にあります。とにかく、当時はあたふたして、
何とか【研究報告…清書】を作成しました。それからです…!!「書道…習いに行こう」と…心に決めました
のです。(常日頃から、どうしても?トレッシング用紙に書きまして、コピ−しますと〜〜オカシイと判断が
在りましたのです。)その後…少しづつですが?以前よりも「字体・・・」が多少上手くなったのでは〜〜〜
あくまでも?自己採点〜〜〜(微笑)

今回「現総裁雅宣先生…」の発案…?【書道…】は、お手本となる【文字…日本語】をよく見ながら、やはり
心を其処に“集中…”して書きますから??勿論!持続の意志力も入りますかと。或る面では「精神の向上」
にも繋がるモノでは?このように考えます。…が?

※余談ですが?それから〜〜〜何時しか嬉しい“コトバ”を頂くようになりました。
大阪の財界の或る「お客様」からの“コトバ…”ですが〜〜〜♫
「頂いた筆で書かれた手紙が〜〜〜モッタイナイ!大切に保管していますから〜〜〜ネ!」…
此の“コトバ”を頂いた時が…最高に嬉しい瞬間でした…。今!お元気でしょうかと?思いながら……

■「讃嘆のコトバ…」の雨をふらすことは〜〜〜相手に自信・活力…前向きなる姿勢…etc与える事に
繋がりますモノと…思う次第です。…が?
                             再合掌

2292トキ:2013/05/17(金) 21:11:51 ID:gLnHKbBE
>>2291

 書道をされているのですか。素晴らしいですね。

 また、作品を見せて下さい。

2293SAKURA:2013/05/18(土) 21:03:50 ID:BEUD3XFA
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こんばんは……     ロ−マ字(大文字)の【NANCY】です。
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−−−「抜粋 投稿  谷口雅春 著」−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

■ 生活を芸術化せよ     ( 普及誌 白鳩  No.30)  
 放蕩息子となって、現象の“夢幻の世界”を貧しい思いを起こして彷徨(さまよ)い歩いてはならない。
智慧の灯火をともしてあなたの行く手を照らして進むがよい。
人生は、「人間・神の子」という実相の聖地にたどり着くための巡礼の旅路である。
        
                      『女性の幸福 365章』より
◆−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−◆

■【人生は〜〜〜「人間・神の子」という実相の聖地にたどり着くための巡礼の旅路】……

この“コトバ…”確かに〜〜〜そうなのです。…が?ところが?
今の私の「思考の力?」は、不安定です。従いまして、未だに『人間・神の子』この自覚が〜〜〜時と
しては“ふらつき…”となります。

例えば〜〜〜>< 
個人的なのです。…が? 時には?肉体的反応?と申しますか〜〜〜“嫌な出来事”に遭遇しますと、
どうしても「愚痴…」「憎しみ」「恨み」「罵り」…etcが生まれてきます。それが“コトバ…”として
口から出てしまうのです。これは〜〜〜最悪状態です〜〜〜ョネ!このような“コトバ…”を発る事は、
既に【人間・神の子】の自覚からは〜〜〜全くもって遠のいていますモノ!
昨日、私も【SAKURA】 さんと買い物に行きました時…「長谷川仏壇にての“お線香”を買い求める」際の、
女性の行動…には“へきへき”なのです。
このように現象世界の目の前の出来事にこだわりますと〜〜〜何時までも!何時までも!
【人間・神の子】の自覚 が〜〜〜遠のいて行く事となる!此の事は、自分自身でも理解しているつもりです。
…が?

その「打開策??」として〜〜【切り替え…スイッチ】でしょうかと。【シャット・ダウン!!】なのです。
そして「心の強化」を図るために【祈り…】に徹する。当に「心の訓練−−>心の法則」でしょうかと。
この頃では、つくづくと考えてしまうのです。…が?
従いまして…以前よりも!モット!モット!【実相の聖地…】にたどり着くという事の認識の基に〜〜〜

【神想観=イメ−ジトレ−ニング】にて、【実相世界へ向かう旅路】を、日々【祈り…】て〜〜〜
楽しみながら、実現へと!!それも“一歩一歩”でしょうかと、思う次第です。…が?

                                   再合掌
PS: 「管理人 トキ様」へ
拝読して頂きましての“感想の言葉…”を頂き、ありがとうございます…。 【感謝!】
しかしながら?やはり思いますが〜〜〜“日々のお稽古”が…全て結果として“形”として出てくるのかと。
実は〜〜〜此処数年は“書道…筆を取る”事がありませんでしたので〜〜〜もう一度“トライ”です。

2294NANCY:2013/05/18(土) 21:10:57 ID:BEUD3XFA
「トキ様」 へ   「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……     ロ−マ字(大文字)の【NANCY】です。

■【 お詫び ……インフォメ−ション 】
>>2293 の投稿は【NANCY】です。 大変!そそっかしくて…申し訳ありません。(ごめんなさい)
                               
再合掌

PS:只今!【SAKURA】さんと…「パソコン」を取り合いバトルにての投稿で……><
ごめんなさい…。

2295トキ:2013/05/18(土) 21:26:52 ID:sWbuwuBA
>>2294

 1日も早い平和をお祈りします。

2296ありがとう:2013/05/18(土) 23:44:43 ID:???

   『言葉の力と国民歌の選択』
             (後半部分)


爰に私は大東亜戦争が勃発して間もなく帝國海軍から発せられた標語『敵を倒すまでは死ぬな』と云う言葉に深き思いを致さねばならないと思うのである。死は易く、生は難しである。死すべき時に死せざれば、死後まで末代の恥辱であるが、ただ『死』のみを連想して、『死』を迅(はや)まらしむるような標語を国内に弘めることは避くべきであると思う。

 かの大伴家持の『海ゆかば水漬かばね、山ゆかば草むす屍・・・』の歌は大伴家持の一死 大君の大生命に帰一する純情の名歌ではるが、これを国民歌の如くにして、全国津々浦々に唱和せしむることは『言葉の力』を知る吾らにとっては、余りにもその影響が大なる気持もするのである。

 『真黒けのけ』の俗歌が流行した時には大阪北区に大火があり、『枯れすすき』の俗歌がはやったときには、関東大震災があって東都全体が『枯れすすき』のような状態を呈したと云うことを顧みるとき、『海ゆかば水漬く屍、山ゆかば草むす屍・・・・』の家持の歌が、まるで国民歌の如く全国津々浦々に流行せる時、恰もアップ島の玉砕の事あり、斯かる相関関係は偶然か否かは大いに考慮しなければならぬ大切な問題であると思うのである。

 あの歌は『大君の辺にこそ死なめ』の純忠の感情はあれども、屍となって倒れることの方が強調されていて、『戦勝』と云う意味も、『敵に勝つ』と云う意味も少しも言葉の中に表現せられてはおらぬ風に響く。それは、出陣の敦盛のような、ただ悉くの者戦死も止むを得ないと云う悲壮な感情が哀調の中に歌われているとも聞える。

 戦争はただ悲壮な戦死を常に歌い、味方の死屍累々を心に描くばかりでは打ち勝つことは出来ないのである。『討ちて止まん』『敵を仆すまでは死ぬな』『敵を仆すまでは死んでも死なぬぞ』と云う強力なる意志と、感情を想望する雄渾な歌詞をこそ国民歌として選択すべきものと思う。

 『先陣訓』の中にも『戦へは必ず勝ち』とあって死屍累々たれとは書いてはない。大伴家持のこの歌があまりにも国民全体に喜ばれているとき、斯くの如き言をなすのは、ひとり異説を唱える者として憎まれ者になる恐れがあるが、『心に描くことは実現する』の唯心所現の哲学もあり、今は國を思うの切なるものあり、味方の死屍を連想せしめ勝ちのものよりも、もっと一億全体を戦勝に駆り立てる勇壮なる歌詞の流行を希うの余り、一言これを為す。寛容の心にて斯かる方面にも今後御考慮を願うものである。

          『生長の家』18年8月号 38〜40p

2297a hope:2013/05/19(日) 11:36:15 ID:edEDolt2
新版 生活読本 谷口雅春先生著(日本教文社)
第十四章 心で貴方を幸福にいたしましょう

◆先ず自分を神の子だと考えよ

まず心に自分自身が「神の子」あって、楽しいのがあたりまえだと考えなさい。
「私は神の子で、いつも楽しい」と毎日心の中で唱えるようにしていますと、
本当に楽しくなって、勉強でも仕事でも何でも立派にできるようになるのであります。

「神の子」にはどんな力でも出るのであります。
まずそれを信じなければなりません。

ナポレオンが第一線に出て来た時には、全軍の士気(へいたいのゆうき)が急にふるいたって、強くなったということであります。
指揮官(めいれいするひと)が自信をもってすれば、全体の人は自然に元気になってくるのであります。

「心」は吾々の指揮官であります。
「心」が愉快に楽しく自信をもっておれば、体全体が調子よく働くのであり、頭の働きも又よくなるのであります。

人間は、自分が自信をもっている程度より以上には偉くなれるものではありません。
ナポレオンがアルプス山脈を越えることができたのは、アルプス山脈を越え得られるという自信があったからであります。

「心」に「出来る」ということを考えないでいて、出来ることは一つもないのであります。
出来ると信じた程度の通りにできるのであります。

どんなに学問があり、能力があり天才(うまれつきのちえと力)がありましょうとも、
できないと思っている限りは何もできないのであります。

世の中には立派な才能を持ちながら、自分自身はできないと思っているために、
何の働きも世の中に捧げることができずに、一生涯を無駄に過ごしてしまう人も随分多いのであります。

余り才能がない人でもできるという自信をもっているために、
お花やお茶の先生をして立派な収入(みいり)を得ている人も随分あるのであります。

ともかく人間は信ずる通りになるのでありますから、自分自身を信じなさい。
どんな力でも信じた通りに出て来るのであります。
(つづく)

2298SAKURA:2013/05/19(日) 22:58:19 ID:t8X0oXoc
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■■ 『女 の 浄 土シリ−ズ…SAKURA論』    谷口雅春著

――――― 【 第八章  家庭はかうして光明化される 】―――――
■■ 十方感謝の心になれば宿業は消える             その①

 すべては善である。あの人も善である。自分も善である。神の造り給うたこの世界には悪などない
のである。悪と見えるのは、「仮面をかぶった善」である。すべては有りがたいのである。「ありがと
うございます」と十方感謝の気持ちになりますと、その時こそ「煙の出る煙草」を指から放して棄てた
時であって、もう“迷いの雲”はたちのぼらなくなり、假存在としての宿業は消え、あらゆる面によ
きもののみがあらわれて来るのであります。そうすると家族も病気しなくなりますし、子供も自然に
優良になるのであります。だから和江さんは次のように言われるのであります。

「その時から子供の成績もぐんぐん伸びまして、殆んどクラス一番で通しまして、現在、甲陽中学
の二年生に在学致しております。……子供が永い間お医者さんにかかりましても治らなかった鼻血が
ピタリと止まっておりましたし、母の心臓の発作もその頃から一遍も起こったことが御座いません」

 このように“宿業”のように言われていたものでも、それは「本来の存在」ではなく、「中間因」
によって生じた「中間存在」でありますから、「中間因」をつかまずに、心の世界から、それを棄て
てしまひ、ただ、「善」なる実相のみ実在であるとして、ただそれのみを神想観によって観じ、天地
一切のもの、特に祖先及び父母に感謝しておりますと、悪なる「中間因」は消え、嘗て吐いた煙草の
煙が、いつの間にか消えるように、消えてしまい、ただ善なる根本実在なる“神の子”の立派な相の
みがあらわれて来るのであります。この時あなたの家庭は、神のつくり給うたそのままの天国浄土と
化するのであります。              (谷口雅春著)

PS;「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
そうです〜〜〜ョネ!…。現在の私も?今は“反省…”しきりなのです…。子供頃は、父という存在は、
絶対的存在なのでした。それも、私の場合は、かなりの間と申しましょうか?20歳頃までは、確かに、
父親に対しての絶対的存在感が、ありました。…が?これが〜〜〜><そうなのです…。或る時の「誤った
出会い…」21歳になりました頃「タタキ男…」に、出会いましてから「亡き父」に対しての絶対的存在
が崩れ去りましたかと。その頃、この「タタキ男」自身は【一番が自分で…偉いのだ!】この様な感じにて、
私の潜在意識にしきりに“input”なのです。それに、まるでわたしの父親が、無学に等しい学歴ですから、
当の本人は“大卒…”という学歴にて、私の「亡き父」を見下した感じなのでしょうかと。??
                       
                                         つづく

2299SAKURA:2013/05/19(日) 23:09:21 ID:t8X0oXoc
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>2209>>2212>>2225>>2226>>2239>>2240>>2249>>2257>>2258>>2259>>2263>>2271>>2278>>2285
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■■ 『女 の 浄 土シリ−ズ…SAKURA論』    谷口雅春著

――――― 【 第八章  家庭はかうして光明化される 】―――――
■■ 十方感謝の心になれば宿業は消える               その②

>>2298その①の投稿の続きです…。
確かに、当時の私は、社会情勢から、大学に行った事の意味がウエイト的にも大きく見えていましたから、
その当時の私は、世間で言います“学歴コンプレックス”の塊のような気持ちをいつしか抱くようになり、
世間的にも、かなり“損…”をする事になりますかと?こう思うようになりまして、しかも、一般論から
みましても、その事は否定できないのでは?この様なネガティブ感情をいつしか「亡き父」に対して持つ
ようになり、それが私の“行動”として表れて来ましたから、この前後の時から、何かにつけて「亡き父」
に反抗するようになったのです。…が?

確かに「亡き父」は≪戦前教育≫です。そして、私は≪戦後教育≫なのです。ですから、何かにつけまして、
意見の対立が??生じまして〜〜〜><例えば「生長の家の御教え…」にも〜〜〜?
その通りに“実行…”がなされてない「亡き父」を見ますと、そこから「亡き父」に対しての
“コトバ…”によります【水かけ論…】が〜〜〜><そうで〜〜〜すョネ!

「此処は、この様に、雅春先生が、こう云って下さっているから〜〜〜オカシイヮ!!」と、いいますと〜
もう!これは「亡き父」にして見ますと【恥…】なのでしょうか?随分と、これに関しては、事あるごとに、
よく怒られたモノです。…が?この様に“学力…つまり理解しようという心”がありませんと、こちらが?
理解してもらいたいとの想いで“コトバ…”を発しても、何も通じないのだと思うようになりまして、いつしか?
その「タタキ男」が言っている事が【正当論…】に見えていったのです〜〜ョネ?

今にして想えば“おかしな出来事”でもあり【マインド・コントロ−ル…】されていましたかと。
正しい事が、正しいとは〜〜如何なる基準で、果たして、それは、どこまで“判断”を下す事が出来るのでしょうか?
この様に【人の弱点…に付け込む人…】は、今日では多い最中、この【真理…一剣】にて、如何なる状況下でも、
それに動じる事がない心−―>金剛心と申しますか?−―>これは、何処から来るのでしょうか???

こう思えるようになり、最近!気がつきますと、本当に【実 相】は〜〜【善一元の世界…】なのに、いろんな
見方からの展開で『人間関係…』が出来てきます現状!そこに【我…】が生じましての〜〜〜分かっていても
“認めたくない心”が、先に!優先しますと、それが【中間因…】になるのです〜〜ョネ!!私の世代では、
「日教組教育…」が全盛時代でしたから、何かにつけて、平均的に先に【負けん気=我】が生じまして〜〜〜
「勝ち組!負け組!」このような優先順位なのでしょうか??従いまして『真の愛?やさしさ?』…が、特に
欠けている方が多いのです。此処九州に至っては、特別に感じるようになりますから、ほとんど【中間因…】
ばかりの男女に見えてしまいます。!!ですから、私自身もどうしても【現象…】で捉えがちになっている事
に気がつきまして、それに、ある面では、その事は“翻弄されていく事!”にもなるのです〜〜ョネ??

若い時の“失敗…”は解らなかった………!!が、今では、私自身、その事が理解できるようになりまして、
まず【神に向かって祈る!〜〜祈る!ひたすら祈る!】そうしていきますと、全て!その現象の中に、
自ずと“讃嘆出来る良い面”が見えて〜〜〜それは“雲が隠れて見えない”のでは無く、そこの“奥…”が
見えていくような世界が〜〜〜開けて行くような世界に、今の私は導かれていくようなのです。

気がつきますと【中間因…】は消えさり【業…】も消えていく感じに、今の私は「過去のおさらい」を、
していますが??❤〜もうすぐ、私にも【心 の 春 が お と ず れ …】となるでしょう〜〜〜!!

■>>「ただ善なる根本実在なる“神の子”の立派な相のみがあらわれて来るのであります。
この時あなたの家庭は、神のつくり給うたそのままの天国浄土と化するのであります。」<<

                                再合掌

2300トキ:2013/05/20(月) 21:39:57 ID:KVAgk9YU
五月の法語「実生活を改善する心の持ち方」

谷口雅春先生

16日の法語 日に進歩する店と進歩する人

 毎日見ている自分の店の格好などは、見るに慣れてしまってその欠点がわからないが、都会の流行を見て来た
客がたまにその店を訪れて百年1日のような品物の並べ方をしてあるのを見れば、その店の進歩のなさが眼について
その店の品物など買う気にならないのに相違ないのである。東京の大百貨店でも、数年に1度は大改装や大増築を
行って、日に日に進んで行く大衆の鑑賞眼におくれないようにしなければ、その百貨店は流行遅れになってしまって
繁昌しなくなるのである。私は店や商売のことばかりを言っているのではない。店でさえその通りであるから、人間
は毎日何事かを自分について改良し、何事か新しき想念を加え、日に日に新しくならなければ人後に落ちることを
言いたいのである。

「生長の家」誌 昭和29年5月号 p10より謹写、

2301a hope:2013/05/21(火) 08:42:50 ID:edEDolt2
新版 生活読本 谷口雅春先生著(日本教文社)
第十四章 心で貴方を幸福にいたしましょう

◆人間の値打ちはこうしてわかる

人間の値打ちというものは、その人が自分の勉強や仕事を、どういう態度でするかということによってわかるのであります。
金もうけになるからするというのでは、自分の生命を金によって使われているのでありますから、体の力の切り売りです。

仕事は他の人を愛するために、他の人につくしてあげたいために、
他の人のためになることが嬉しくてたまらないので、するのでなくては値打ちがありません。

勉強は自分の力を磨きあげ、自分の人格を高めあげるためにすることは善いことですが、
まだ最上ではありません。
点数とりの勉強が値打ちがないのは、金のための仕事と同じで点数の奴隷であるからであります。

そこで勉強するのは自分の人格を高め、能力を磨いて、人の役にたつようにしたいと思ってするのでなくてはなりません。
(つづく)

2302ユタカ:2013/05/21(火) 09:27:57 ID:R1D4Jmeg
『理想世界』誌の拡大は理想世界を建設する同志が増えるから尊いのです
 


 吾々青年の機関誌『理想世界』誌も諸君が弘めようとして、努力したら一度に数万も増えたけれども、近頃又多少減って来たというので、一ぺんに無理して努力しても、また減るから、つまらんから、あんまり大きな目標を立てないで徐々に、着実に少しずつ増やそうなんていうことになったそうだけれども、そんなに自己縮小することは私は賛成しないのであります。


 大いに増やしておいたら、脱落する人も多いから、大いに増やさないことにしたら脱落する人も少なくなる、そんな消極的な論理を弄んでいたら、もう一人も誌友をつくらなかったら、一人も誌友が減らないことになる。 それでは『理想世界』はどうして実現するのです?


 一時増えた誌友が脱落するのは、雑誌を大いに弘めたからではない。 単に部数を増やすということばかり考えて、理想世界建設の人間をつくらなかったからです。 部数のふえることばかり考えているが『理想世界』の部数拡大は、理想世界を建設する同志が増えるから尊いのです。


 吾々は人類を救うのです。 人類を救うんだ。 雑誌をふやすのはただ理想実現の手段にすぎないのである。 それなのに新聞配達みたいに、増やす部数のことばかりやって、その人間を、理想実現の選士に導かなかったら喜びがないのですよ。 喜びがないから脱落するのです。


 実際に雑誌を手渡した人たちに、人類を救う選士になったという喜びをもたせることが出来た時に、その時はじめて、 『あの人も救われた』 『この人も救われた』 というので、どこどこまでも喜びが続くので脱落しない。 また其の人から救われた人もただ雑誌をもらっただけではなしに、その感激が出て来るから、また次へ次へと伝えるということが出来てくるのであります。


 だけども、『とにかく部数さえ増やせ』というわけで、ただ雑誌を配ったらそれでお終いということなら、自分の知人に皆な渡した、もうあとに知人はないから渡す人はないのだ。という様なことになって行詰まってしまう。 そこから、後退する人がでて来るのです。


 吾々同志は理想世界実現、日本の実相顕現、人を救う喜びの躍動というものを出て来させなければならぬ。 その時に、はじめて、自分は 『人のお役にたっているのだ』 という魂の喜びが起って来る。


             谷口雅春師  『實相と現象』「七つの光明宣言」解義より


童子さんブログから貼り付け

2303SAKURA:2013/05/21(火) 20:03:28 ID:BEUD3XFA
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
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■■ 『女 の 浄 土シリ−ズ…SAKURA論』    谷口雅春著

――――― 【 第九章 感謝の實踐はすべてを癒す 】――――― 

■■ “生長の家” 出現の意義について            その①

 生長の家の教へは『甘露の法雨』の巻頭にも、『生命の實相』の第一巻の冒頭にも収録されてをり
ますところの“七つの燈台の点燈者の神示”が中心でありまして、この神示が本当に実行されると
き、家庭は調和し、家業は繁栄し、子供は優秀となり、癌の如き難病も、原因不明の奇病も悉く姿を
消し、世界に平和が来るのであります。そこでここに、“七つの燈台の点燈者の神示”の一部を次に掲
げて、それに当て嵌まる実例を本章に書くことにしたいと思ふのであります。

 『七つの燈台の点燈者』の神示(抜粋)
 
『汝ら天地一切のものと和解せよ。天地一切のものとの和解が成立するとき、天地一切のものは汝の
味方である。天地一切のものが、汝の味方となるとき、天地の萬物何物も汝を害することは出来ぬ。汝
が何物かに傷つけられたり、黴菌や悪霊に冒されたりするのは汝が天地一切のものと和解してゐない證
據(しょうこ)であるから省みて和解せよ……神に感謝しても父母に感謝し得ない者は神の心にかなは
ぬ。天地萬物と和解せよとは、天地萬物に感謝せよとの意味である。本當の和解は互ひに怺へ合ったり、
我慢し合ったりするのでは得られぬ。怺へたり我慢してゐるのでは心の奥底で和解してゐぬ。感謝し合
ったとき本當の和解が成立する。神に感謝しても天地萬物に感謝せぬものは天地萬物と和解が成立せぬ。
天地萬物との和解が成立せねば、神は助けたうても、争ひの念派は神の救の念派を能う受けぬ。

 皇恩に感謝せよ。汝の父母に感謝せよ。汝の夫又は妻に感謝せよ。汝の子に感謝せよ。汝の召使に
感謝せよ。一切の人々に感謝せよ。天地の萬物に感謝せよ。その感謝の念の中にこそ汝はわが姿を
見、わが救を受けるあらう。われは全ての総てであるからすべてと和解したものの中にのみわれは
ゐる……』

                          つづく

2304SAKURA:2013/05/21(火) 20:05:37 ID:BEUD3XFA
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■■ 『女 の 浄 土シリ−ズ…SAKURA論』    谷口雅春著

――――― 【 第九章 感謝の實踐はすべてを癒す 】――――― 

■■ “生長の家” 出現の意義について    その②

 この神示の中の「皇恩に感謝せよ」といふのは国家の中心者に對して歸一の精神を起すことであ
り、『父母に感謝』といふのは、一家の中心者に歸一する精神を起すことであり、同時に、父母の更
に父母たる祖先の祭祀を怠らぬことであり、「汝の夫又は妻に感謝せよ」とは妻は夫に感謝し、夫は
妻に感謝することであります。これは人間道徳の規範でありまして、天界神界の秩序に属するもの
であり、その秩序が地上に實踐せられるとき、『神意の天になる世界』が地に成ることになり、家は
栄え、病気は消え、地上に天国が成就するのであります。        (谷口雅春著)
◆―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――◆

PS:「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ

■『七つの燈台の点燈者の神示』この真理の中に〜〜〜?いつも!いつも!引っ掛かると言いますか?
此処のキ−ワ−ド!【両親…】と云います処の“コトバ”詳しく言いますと“引っ掛かり”がありました
のです。

■ 【汝の父母に感謝せよ〜〜〜】との“御教え…”〜〜〜

これが、私の「最大の親不幸…」でしたから、いつも、此処を拝読…?音読…?いたします時は、私自身の
“自我…”もありまして❤【正討論…】を、ある面では全面的に打ち出しておりました。…が?

本日の「雅春先生の言葉」から、やはり思いますに【先祖を崇拝する事…】は、逆に言いますと
【両親を崇拝している事…に繋がる…】のです〜〜〜ョネ??この様に、解釈が出来ますのでは……??
此処の閲覧して頂いておられます皆様の中に、私のように【親 不 幸】しているという自負を持っていら
っしゃる方も〜〜〜今日の「雅春先生…言葉」にて、肩の荷を〜〜〜少し取り除くことが出来ますのでは?

詳しくは?【戦前・戦後】と云います時代背景もありますから「感覚」「思考」…違ってくるものと思います。
そうしますと「両親との間に…考えの格差」が生じますから、結果として…【大きな壁】となり…
ある時は、衝突する事も、多々ありますでしょうかと。そうしますと、両親の時代と、現状の時代背景では、
相反する間違った捉え方をしている場合もありますから???この事を、いつも【両親に対して“ハイ”…】
と言えない場合もありますでしょうかと。此処の処が、常日頃の私の脳裏には『罪悪感…』という想いに
まで発展しておりましたのです。【我慢の子〜〜〜><】

今回は、❤【先祖崇拝でも十分〜〜〜だと】理解致しまして、今の私は「仏壇…」にむけて〜〜〜
日々の【先祖供養は…大事な行事】だと思えます。そして、やはり“中心”とは、今の「生長の家…」は、
「現総裁先生…雅宣先生に対しての“御教え”に…中心歸一する事!!」これこそが正討論では?
この様に改めて思えるのです。…が?

❤【国家として…天皇を崇拝・礼拝する事!!】…さらに…一家の中心は【先祖を崇拝…】…
このように、総てに対しての【感謝…】からが【七つの燈台の入口…】に入って行く事なのでしょうかと。?
当に!!【天国の門…の扉】を、入って行く事の出来る“キ−”が〜〜〜【感謝…】かと。

                                       再合掌

2305トキ:2013/05/21(火) 20:37:58 ID:r4B.BR0c
五月の法語「実生活を改善する心の持ち方」

谷口雅春先生

17日の法語 貧乏に打ち克ちましょう

 貧乏というものも単に物資が足りないだけのものではなく、これは心の病気であり、間違った考え方が経済界に現れたものに過ぎないのである。
人間は神の子であり、神は宇宙の創造り主であり、神の子たる人間を豊かに生活せしめ給うのが神の意志であるから、本来、人間はその可能性と
して「無限の富」を内に蔵しているのである。その人間が偶々貧乏であったりするのは、それは当たり前のことではなく異常現象だと言わなけれ
ばならないのである。貧乏は人間が神の子たる本質と矛盾するのである。人間が富むためには、先ず自覚を変えなければならない。人間は貧乏が
当たり前だと信じていて貧乏から脱出する努力を続けてもその効果は乏しいのである。

「生長の家」誌 昭和29年5月号 p10より謹写、

2306トキ:2013/05/22(水) 21:11:55 ID:YstzgC7U
五月の法語「実生活を改善する心の持ち方」

谷口雅春先生

18日の法語 富を得るには

 ストライキをして大金持ちになった人を見た事はないのである。努力と働きを出来るだけ少なく出して、出来るだけ多くの賃金を得ようと考えそのものが「心の法則」
に対して貧乏を呼び出しつつあるのである。世界中の貧乏人の90%までは、「暗い考え」をもっている。常に「自分」を改造し進歩さす努力が足りない。常に自分の
「仕事」を改良する努力が足りない。多分に利己主義であって、目先の小利を小掬いするために他に損をかけていて、他を喜ばすにはどうすればよいかを考えないので
ある。真理を言えば、富というものは他を喜ばした報酬として自分に与えられるものであるから始終より良く他を悦ばすために、常に自己改造と自分の「仕事」又は商品
の改良をしている者のみが本当に富んでくるのである。

「生長の家」誌 昭和29年5月号 p11より謹写、

2307神の子さん:2013/05/22(水) 22:02:08 ID:Kc3SY8lo
トキ様
五月の法語ありがとうございます。
途中、変なところで改行になっており、少し読みにくいです。
できましたら、句点で改行してくださることを望みます。
すみません 合掌

2308SAKURA:2013/05/22(水) 22:11:38 ID:BEUD3XFA
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
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■■ 『女 の 浄 土シリ−ズ…SAKURA論』    谷口雅春著

――――― 【 第九章 感謝の實踐はすべてを癒す 】――――― 

■■ “ 中心歸一 ”を実践して繁栄す      その①

 先ず私は アメリカ及びブラジルを講演旅行した時の憶ひ出を記録の中から探り出してその實例を
書くことに致します。

 アメリカのカリフォルニア州サンノゼに住んでゐられて、アメリカ在住の日本人中でも成功者の中
にかぞえへられる荒木榮(かえ)さんが昭和三十八年五月七日、サンノゼ市の小倉ホールで私の講習会が催され
た時に、その家の繁栄が“中心歸一”の真理の實踐から来ることをみづから演壇に立ってお話にな
ったのですが、その体験談は次の通りであります。
「皆さん、ありたうございます。
 私が生長の家の入信させていただきましたのは、上西正太郎先生の中心歸一のお話をうけたまは
りて、日本人としてこの中心歸一の素晴しいお話を、本当に感動してうけたまはったのであります。

 そして『生命の実相』と『甘露の法雨』をわけていただきまして、家へ帰りましてこの『生命の
実相』の“地の巻”をいただきまして、それを読み終わった時は、明けの朝の遠くが明るくなってか
らでしたが、その間、夢中になってこの『甘露の法雨』を呼んでいたのでございます。

 色々と體験は澤山(たくさん)ございますけれども、時間もございませんので、一つの私の體験を発表
させていただき、御礼の言葉にかへさせていただきます」

 かういう前置きをして荒木さんは、“中心歸一”の必要なこと、家庭の中心は祖先であり父母であ
り、この中心に歸一してこそその人の家が整ひ、幸福と繁栄とが来るといふ眞理をお話になったの
であります。

 『生長の家の教へでは、私共は御先祖さまを禮拝(らいはい)しなくてはいけない。お父さん、お母さ
んに對して感謝しなくてはいけないといふことが説かれてゐるのであります。しかしこれは私にはどうして
も出来なかったのであります。

 といふのは、私が生れてからすぐにお母さんは里の方に行ってしまひ、私が五歳の時にお父さんはこの
アメリカに来たのであります。

 それで私は二人の親の顔を知らなかったのであります。そんな譯で私はこちらに来ましてもお父さん、
お母さんを本当に怨んでをりました。死んで行ったならばともかく、私を置きざりにして去ったお母さん
を、私は非常に怨んでゐたのであります。

 しかし、アメリカに来て、この『生命の実相』や『甘露の法雨』を讀ましていただきます時に、自分が
今ここにあるといふことは、お父さん、お母さんがあったればこそ自分がここにあるのである。もしお父
さんお母さんがなかったならば自分は今ここにゐないであるといふことを分からせていただきまして、それ
から後は、お父さん、お母さんに私の今まで思ってゐたことが間違ひであった、すまなかったと本当に懺悔
の気持になって、朝に晩に『甘露の法雨』をあげさせていただき神想観のうちにも懺悔の気持が湧いて来る
やうになったのであります。

                                つづく

2309SAKURA:2013/05/23(木) 01:14:50 ID:R5MpE4xE
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
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>>2286>>2288>>2289>>2298>>2299>>2303>>2304>>2308「女の浄土」投稿の続きです。

■■ “ 中心歸一 ”を実践して繁栄す      その②

>>2308>>その①の投稿の続きです
PS:トキ様 へ  観覧者の皆様 へ
■【WEB 誌友会】での話から、「生学連…」の当時の“活動状態…”を、見ていました。ボンヤリ〜♫
実は〜〜〜【聖典の投稿文…】と、思った矢先に…同じ名前…のこの人物像…【 荒木 栄 氏 】
たまたま【 荒木栄日系人の活動… 】が、知りたく【検索…】しますと、不思議なのです〜〜〜ョネ!

■この方が…【三池炭鉱…闘争に関与】していらっしゃる〜〜〜“ビックリ“です。

【同姓同名…の名前】が、しかも〜〜〜なんとこの方は【共産党に途中で入会!!】したようですかと。
更に【Tub…での画像】を見ていきますと、複雑なる想いが致しました…。失礼ながら〜〜〜個人的には、
当時の「生学連の活動」は、如何しても【憲法改正運動…】ですかと。このインパクト感が強いのです。

さて!!もう一人の【同姓同名…の名前】であります「荒木さん…」は〜〜〜!!

■□「復興G様」も【昭和35年……】当時の事を…私に ”お返事投稿“ いただきました中から〜〜〜
>> 共産党の嵐の吹き荒れる…云々…「 日本は沈没 」にちかい …云々 << 
【 三池炭鉱の当時の闘争が〜〜〜すごく!! 】その時、この方々は、“歌〜♫〜”にたくしながら〜〜〜
「闘う姿勢…」それは思いますに、当時の第一次産業…当に経済復興の基盤といえます「炭鉱の仕事の誇り」を
持っている【三池の従業員の使命…】から、そこから〜〜〜彼らは【企業側の三井の汚い政策(労働条件…etc)に
対して闘う事】だったのでしょうか??そこには?❤【日々の生活面での幸福論たる願い】が〜〜〜それは
人間としての…日本国民としての基本的人権問題も含め…当前なる“願い…”かと思います…。

■更に!思い出したのです。…が?確か〜「三井…」が関連していたとの〜〜〜“記憶”があるのです。
…が?それは〜〜〜
【満州事変…】これに関し?その“戦争勃発のきっかけ…”を作った事…それは?ある朝鮮人の方が…
この事に関連していましたとの“記事内容…”を、東京在住の時、知ったのですが??この事は有名ですョネ?

さて!ここ彼らは【国の誇り…】もあり、しかも、当時「三池炭鉱」の方々は、確か?そこは【天皇崇拝者…】が
多かったようです。…が?実際に、戦後すぐ…日本復興にて…「昭和天皇」も「三池炭鉱…」にも立ち寄られましたかと…。
【 何故!!如何して!!次第に〜〜〜「共産党より…><」に入って行く事に???成りましたのでしょうか?】

この事は「復興G様」も…【共産党の嵐…がふきあれ】この事を…【昭和35年…前後】の時代背景を…教えて
いただく事となりましたのです…。 この事も…踏まえまして…考えて参りますと〜〜〜

                             つづく

2310SAKURA:2013/05/23(木) 01:17:52 ID:R5MpE4xE
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
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>>2286>>2288>>2289>>2298>>2299>>2303>>2304>>2308>>2309「女の浄土」投稿の続きです。

■■ “ 中心歸一 ”を実践して繁栄す     その③
>>2308>>2309 その①②③の投稿の続きです

■長編音楽ドキュメンタリー「荒木栄の歌が聞こえる」予告編
http://www.youtube.com/watch?v=_V7HKeD3ho0 
http://www.youtube.com/watch?v=n-D09b2myPQ 地底の歌

此処から、更に〜〜〜“疑問…”が、生じました。
当時の【福岡…での大牟田!筑豊!方面での道場……】は、かなり“立派なる建物“との記憶があります…。

■□「生長の家の活動体制…生学連」 VS 「三池炭鉱…従業員」の関連性は〜〜〜??と…
私自身の考えが〜〜〜このようになっていくのです。

そして、不思議に思う次第なのです。…が?本当に【大牟田の生長の家の道場…】もあり、そして
さらには【久留米にも生長の家の道場…】が在りましたのです。当然ながら“信者の方々…”も多く
本当に今思い出しましても〜〜〜実に【おおきな建物…】でしたのです。…が?

「生長の家の教え…」が先程の【三池炭鉱…闘争】の【Tub…】を閲覧して頂きますと…【 信者の救済…】より
余りにも【憲法改正…運動】に入って行く−−>政治運動…活動体制に入り過ぎたこの【ひずみ…】が、
ある面では【マイナス要素…】になりましたのではないのでしょうか?確かに【 憲法改正 は、大事です!】
…が?当時の彼らは、まず!【生活面での幸福論が重大な問題…】でしたから〜〜〜当然ですョネ!!
ここから『真理…を学ぶ…導く…』事がある面では?優先すべき問題でもありましたでしょうか〜〜〜
「信者…」を顧みずにの【運動展開論…】が、余りにも急激なる【憲法改正運動…】に思えてなりません…。

■ 参考に…【 同姓同名の荒木 栄 様の歌〜♫ 】の当時の闘争…三池炭鉱時代が見えてきます…。
これも「現象の展開…」ですが〜〜〜やはり当時の彼らの【切なる願い…】とは??と思うのです。…が???

                                       再合掌

PS:「トキ様」の今日の【聖典投稿…】により、やはり“ストライキは金持ちにはなれな〜〜い???”
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/11346/1322022766/2306 トキ様投稿文より
まさに当たっていますかと…思った次第です。
そして「地底の歌〜♫」の【 【Tub…での画像】にて…【まなぶ会…】の文字が〜〜〜??
やはり【中心帰一…】は、現在の「雅宣総裁先生」しかいいらっしゃらないように思えます。…が?
やはり【戦い…】とは、【心の戦い…】とも言えますから、最終的には、相手を蹴落とすことから始まり、
結果的には??? >< 結末になりますかと。やはり、私も
「新作の洋服を作る事の拒否…ストライキ…?」を自分自身で潜在意識に入れ込みまして…?今にして思い
ますと【無駄な時間…】でした。それは同時に【“こころ”の成長…無駄な時間】を過ごした事なんでしょうネ??「トキ様・・・」やはり“中心…”は一人です。そうしませんと…「闘争…派閥?」論争ですネ!
今の「 生長の家の中心は〜〜〜雅宣総裁先生」になりますし、冷静に見ましても、
それ以上の人物は〜〜〜見当たりませんと、この様に思う次第です。…が?

2311トキ:2013/05/23(木) 20:26:10 ID:ZZzaMua2
五月の法語「実生活を改善する心の持ち方」

谷口雅春先生

* 19日の法語 自己をもっと信頼しましょう


  自己を信頼するということは強固なる人格の特徴である。

 自己を「神の子」なりと信頼する者は、一時如何なる逆境におかれようとも、やがては必ず立ち上がる勇気と手段とを見いだすことができるのである。

 一ぺんや二編の失敗で失望落胆してしまう者は、無限の可能性がある「神の子」の自覚が足りないのである。

 「神の子」の自覚を快復したならば、弱者もたちまち強者となるのである。

 「神の子」に貧乏はない、病弱はない。

 貧乏や病弱の想念をあなたの心の隅々から抹殺せよ。

 あなたの動作、表情、寝具、服装ー等ーあなたの身辺にある一切のものから貧乏と病弱との想念を抹殺せよ。

 そこから本当の「富」が芽生え始めるのである。


「生長の家」誌 昭和29年5月号 p11より謹写、

2312トキ:2013/05/23(木) 20:26:43 ID:ZZzaMua2
>>2307

 ご指摘、ありがとうございました。

2313トキ:2013/05/24(金) 19:58:12 ID:OKFhirTQ
五月の法語「実生活を改善する心の持ち方」

谷口雅春先生

* 20日の法語 「徳」は一切の富の源泉である


  吾々の「徳」がそこに整うたとき、その「徳」に値するものが既にそこに成就せられているのである。

だから外形の「富」を求めるよりも、「富」にふさわしい「徳」を積むことこそ先づ第一である。

「徳」が整えばその余のものは一切おのづから加えられるのである。

この事をキリストは、「先ず神の国と神の義を求めよ、その余のものは汝らに加えられるべし」と教えてのである。

若し何か高価なものを、それを得るだけの「徳」を備えていないのものが得たするならば、それは「借り越し」になっているのであるから、

やがて其の得たと思っていた「富」も土崩瓦解して「無」に帰してしまうのである。

「徳」を積む事を先づ心掛けて、「富」を先に心掛けてはならない。

「生長の家」誌 昭和29年5月号 p12より謹写、

2314NANCY:2013/05/24(金) 21:48:02 ID:BEUD3XFA
トキ様 ヘ   観覧者の皆様 ヘ
こんばんは……   ロ−マ字(大文字)の【NANCY】です。
>>1955>>1983>>1988>>1999>>2010>>2012>>2024>>2028>>2029>>2061>>2066>>2067
>>2083>>2116>>2117>>2129>>2134>>2135>>2165>>2166>>2173>>2216 >>2217>>2220
>>2228>>2282>>2291>>2293 の投稿の続きです。

−−−「抜粋 投稿  谷口雅春 著」−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
■ 幸いなるかな、 言葉美しき者                普及誌No.32 より

愛情に満ちた言葉は、そこに天国の像(イメ−ジ)をつくり出す。それは人々の心を柔げ、
争いを停止し、平和をもち来たらす。どんな反感でも愛情に満ちた言葉の前には影を消す
のである。文字に書けば同じ語(ことば)でも愛情に満ちて言うときには、言葉のひびきが
異なるのである。

子供に物を言うときにも、良人に物を言うときでも、常に愛情に充ちたやわらかい言葉を
出すがよい。
                           『女性の幸福 365章』 より
◆−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−◆

■ 本当に“コトバ…”この使い方〜〜〜此処最近では“難しい!”痛切に感じます〜〜〜ョネ!
唯…“コトバ…”を、使う?口に発する?(語弊が〜〜〜ありますカモ?)この場合、どうしても…
【感情…パワ−】が、その前提にあるのではないでしょうかと〜〜〜><

例えば・・・なのですが?
“ネガティブな感情”そうですネ!相手を憎む!恨む!嫉妬!…或いは…恐怖!このような感情ですと…
その“コトバ…”自体が〜〜〜反感を生みだすような“コトバ…”となり、相手へ使う?口に発する?
このようになりますのでは?

従いまして、自分自身の感じるべき【感情…パワ−】は?
“ポジティブ感情”そうですネ!いつも明るく!快活!楽し〜〜〜イ! このような感情ですと……
自分の自信を高め、人生を楽しいモノへと……それは当然ながら【周囲の人へも同じような気持ち(感情)
を抱かせることになり…】その時の“コトバ…”は、
相手への【愛情に充ちた〜〜〜おだやかな?やわらかい?“コトバ…”】となります〜〜〜ョネ!

しかし…“ポジティブ感情…”を如何なる困難な時にも出来る事は〜〜〜逆に言いますと?
その様に出来る人…それこそ【人間・神の子】この自覚が揺るぎのない人でありますかと。!
それは、とても〜とても〜「知的・聡明…」本当に素晴らし〜〜〜イ!人物像ですネ!

今からでも、この“気付き…”…シッカリ【脳内…】にインプットして…日々の行動に〜〜〜
“頑張り〜〜〜ます。”  
                               再合掌

2315トキ:2013/05/25(土) 20:05:22 ID:lnDw923o
五月の法語「実生活を改善する心の持ち方」

谷口雅春先生

* 21日の法語 機会はどこにあるか


  「好機会をつかむ」という言葉があるが、好機会は常にあるのである。

 しかし、「つかむ」のは自分自身の心境の問題である。

 自分の心境が開いていなかったら、「好機会」が戸を叩いていてさえも、戸を開いて入れる事ができないのである。

 実際、吾々の心境がそれに相応しくなったとき、何事でも出来ないことはないのである。

 多くの実業界の名士が、実業界に成功しているのは、彼らの心境が実業界に成功するに相応しい状態になっているからである。

 ある会社の重役が羨ましいからとて、社員の一人をその重役の位置に仮に抜擢して据えてみても、前の重役通りの仕事ができるかどうかは疑問である。

 その人の心境によっては、前の重役よりも成績をあげうるが、その反対の場合も多い。

 心がどの程度その仕事に相応しいかが問題だ。

 
「生長の家」誌 昭和29年5月号 p12より謹写、

2316トキ:2013/05/25(土) 20:08:56 ID:lnDw923o
皆様へ

 聖典をうつす事は、読まれる人にも喜びだと思いますが、うつしている人間にも大変な勉強になります。

 目で追っているだけでは忘れる事でも、自分が指をうごかして打ち込むと、そのご文章が記憶に残ります。

 聖典を読んで感激したなら、その部分を紹介し、自分の感想をそえて、その本を読む様に呼びかけたり、
既に絶版になっている本の場合は、それを教えてあげるのも良い事だと思います。

 毎日では負担になりますが、気が向いたときだけでも、良いと思います。

一度、チャレンジしてみて下さい。

合掌 ありがとうございます

2317SAKURA:2013/05/27(月) 00:58:35 ID:mwJ7ICqo
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>2209>>2212>>2225>>2226>>2239>>2240>>2249>>2257>>2258>>2259>>2263>>2271>>2278>>2285
>>2286>>2288>>2289>>2298>>2299>>2303>>2304>>2308>>2309>>2310「女の浄土」投稿の続きです。

■■ “ 中心歸一 ”を実践して繁栄す     その④(その①の講話の続きです)

■さうしてをりますと、三年ばかり前でございましたが、私の息子が言うのですよ。自分の友人に
家を建てたいという人があるんだが、もう家は抵当に入って、ファースト・モゲ―ジ(一番抵当)
では金はかせないけれど、セカンド・モゲ―ジ(二番抵当)で金を貸してくれる人を探していると言
うのです。

「お父さん、あんた貸してやらんか」と息子は言うのです。『セカンド・モゲ―ジで金を借して、
払えなかったらどうすか、丸損になるぞ』と言ったら、

息子が言うのです。

『そんな心配はない。自分と同じ處に働いている。月は千ドル近く月給を取っているからな、金の利息
位なんでもないのですよ』

そこで私は、

『金の利息はいくら払うのか』と言ったら、

『一割二分、払う』というのですよ。

『お前がそう言うなら借してやる』
という様なことで貸してやったのです。

ところが、その男は、新しい家を借りた金で土地を買って建てたのです。そして出来上がってその
新しい家に引越して入って、その古い家を売りに出したのです。ところが、その家がセカンド・モ
ゲ―ジに入っているから売れないのです。それで私の息子が言うのです。

『当分あの間々では家が売れないから、それだからお父さん、あれはもう払ったことにして借用証書
もあちらに返してしまいなさい。それでなければあの家は売れないから』

『そうか、それなら、そうするより仕方がないなあ。 私が何時まで金を貸した貸したと言っとっ
たのでは、その家が売れないのだから、それなら借用証書を戻してしまおう』
というようなことで、借用証書は向うに返してしまったのですよ。

 それで戻す時に、タイト−・コンパニーにちゃんと保証して貰わなければいけないから、書き物
は是非とも取っておかなければいけないということで、それを売ったらこちらに返してもらうとい
うことに、その書き物をタイト−・コンパニーに書いていただいて、そしてその借用証書を返し
てしまったのです。そしたところが何時までも返事がないからどうだろうかと思いましたとこ
ろ、二か月ばかりしたら、家が売れたと言って返済してきたのです。

それで、ですな。その間千五百ドルばかりの利息をいただいたのです。それでこのような金は自
分の智慧でいただいたものではない。神さまからいただいたのだから、まづ私のお父さん、お母さ
んを宇治の宝蔵神社にお参りしましょうという気になりましてですな。私を育てて下さった伯母さん
と、三柱の御霊を宝蔵神社にお参りしたのであります。

                              つづく

PS:「トキ様…」の投稿>>2316 の内容は〜〜〜本当にそうなのです〜〜〜ョネ!
「パソコン…のキ−」を打つ事により≪真理の言葉≫が、前以上に理解出来る事は確かですかと。
“コピペ…”だけでは〜〜〜><どこまで理解が、出来るのか?更に、自分自身で感銘しました処の“訴える
箇所…“…その人の個人差での感想も、自然に〜〜〜浮かんでくるようになりますのではないのでしょうか?
そのように思うのですが〜〜〜?但し、今回は、当用漢字に致しました。御了承の程……お願い申し上げます。

                                    再合掌

2318うのはな:2013/05/27(月) 18:13:13 ID:tcgvRH7.

大聖師御講義 生長の家 今昔物語より
  http://blog.zaq.ne.jp/sinseityounoierengou/

2319SAKURA:2013/05/27(月) 19:22:38 ID:BEUD3XFA
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>2209>>2212>>2225>>2226>>2239>>2240>>2249>>2257>>2258>>2259>>2263>>2271>>2278>>2285
>>2286>>2288>>2289>>2298>>2299>>2303>>2304>>2308>>2309>>2310>>2317
「女の浄土」投稿の続きです。

■■ 『女 の 浄 土シリ−ズ…SAKURA論』    谷口雅春著

――――― 【 第九章 感謝の實踐はすべてを癒す 】――――― 
■■ “ 中心歸一 ”を実践して繁栄す     その⑤(その①④の講話の続きです)

■ところが、静かに私が考へてみますと、自分だけはお父さんお母さんをお祀りしたけれども、私
の妻にも矢張りお父さんお母さんがあるな、これをなほざりにしてはいけないといふ様な気持にな
りまして、それからすぐに住友銀行に行って六百ドルの送金手形を書いて貰って寶藏神社(はうざうじん
じゃ)にお祀りしてもたったのです。

 ところがですな、それからが素晴らしいのであります。
 本当に神様の世界は有難いのですよ。この息子が素晴らしくひきたてられて、素晴らしい仕事をいた
だいたんです。

 それで、丁度田村先生のおいでになる前のことでありましたが、息子が會社の重要な御用をつと
めてワシントンの政府へ行って、會社との商賣上の何かの説明を仰せつかるやうなことにもなり
ました。ちゃうど其の時、政府の航空部の金の消費が餘りにも多すぎるので、そのことで公聽會が
あったので、そこにも出席して自分も聞かせていただいたといふ様なことを歸って来て報告しより
ました。

 今では週に三回づつ位ロスアンジェルスの方に飛行機で行って色々と政府の航空部の需要な用事
をさせていただくといふやうな素晴らしいことになったのであります。

 これは私共が自分の力で、“かうしよう” “ああしよう” と思ふ――これは本當につまらないも
のでありますが、すべて神様におまかせして、よろしくお願ひ致しますと、かうやってをりまし
たら、これは素晴らしいことが出来てくるといふことを体験させていただいたのです。

                             つづく
PS: 「トキ様」 へ 「観覧者の皆様」 へ

【現象…】で起きた時は、すべて“神様・・・”に、お任せする心境でいますと、素晴らしい日々を、迎え
ていけますのですネ!!といいます事は、必ずや!「神様…」が、導いてくださる事を、確信した次第です。
今の私は、まだ〜まだ〜ある面ではふらつきの迷いの心〜〜それは【現象で見ていた事】だけであり、
現実の視界を、認める“心…”其のモノは、まだ!「神様…」の目が、私自身!備わっていない事でしょうか??
❤ 昨日――>?“休み…の一日”と致しました。

実は?“野菜…”が少なくなり、パ−トナ−と“野菜…”を買い付けに行く元気が〜〜〜><正直!全く
ありませんでした。…が?何処からともなく「今日行く事…暗示」を頂き、意を決して買い付けに〜〜♫
行く途中、思いのほか“体力…ダウン”に気づきましたので、薬局で“ドリンク…”を買い求め〜〜
隣の店舗の前に立ちますと?いつも〜〜〜気が付きませんでしたが、
そこに〜〜〜❤【観自在菩薩…】が祀られていました。私が、その前で?購入しました“ドリンク”を飲もうか?どうしましょうか?悩みましたが〜〜〜【観世音菩薩様の仏像…】に合掌して、飲む事に致しました。すると!
不思議です。すぐ様〜〜本当にすぐ!〜〜〜“元気パワ−”を頂きましたのです〜〜〜ョネ!
それで❤「野菜の買い付け…」足取りが軽〜〜〜くなりまして、その帰りに【長谷川仏壇…】に立ち寄りまして、そこで〜前回躊躇していました…「お線香を購入」しまして“ホット!ホット!”安堵感となりました。そして、【長谷川仏壇…】のお店から頂きました、【一服のさくら茶…】心がなごみ、更に元気になりましたので〜〜す。

■何か?全て如何なる状況の時でも「神様…」に、いつもお任せしています!!〜〜〜と、必ず、それなりの
導きを下さるのですネ!!何となく〜〜〜何となく〜〜〜昨日は、いろんな意味で、
必ず「神様…」に、お任せの心境は【神地一体…】で、そこには大安心の心境にて、乗り切れるのですョネ!!

当たり前の出来事〜〜〜自然体〜〜〜全てに【感謝…】ですネ!          再合掌

2320トキ:2013/05/27(月) 20:55:51 ID:pKXf0H7M
五月の法語「実生活を改善する心の持ち方」

谷口雅春先生

* 22日の法語 祝福をいかに受けるか


  神は貴方を祝福したもうている。

 それは本当だ。

 しかし、それは空気が既に無限に与えられいるのと同じことなのである。

 人類にとってはその無限の「祝福」であるところの空気を吾々が無限に受け取る事が出来るためには、先ず吾々は息を吐き出す事が必要であるのである。

 吸い込む事や、貰うことばかり心掛けていて出すことや与える事を忘れている者は、無限の空気を吸おうと思って、一度も息を吐き出さずに吸ってばかりいる人と同じである。

 結局、その人は少しも吸う事ができないで窒息してしまうほかないのである。

 吾々が既に与えられている神の祝福を現実に受けるためには、先ず自らが他を祝福し、他を利する奉仕精神を起こし、奉仕を実践しなければならぬ。

 それを実践したとき、他からの祝福が入ってくるのである。
 
「生長の家」誌 昭和29年5月号 p13より謹写、

2321トキ:2013/05/28(火) 21:07:00 ID:4MLkYzvs
五月の法語「実生活を改善する心の持ち方」

谷口雅春先生

* 23日の法語 自分の使命を知るには


  神が「汝これを為せ」と吾々に使命をハッキリ与へ給うまで何事もしないで待っていることでは機会を逃してしまうのである。

 吾々の最後の究極的使命は、遥か遠くに雲の中に霞んでいる景色のようなものであって、吾々が今一歩一歩前進しなければ、その使命が何であるかわからないのである。

 一歩前進すれば一歩だけ前方の景色がハッキリして来るのである。

 今目の前に横たわるあなたの仕事を忠実に実行することは一歩前進することになり、それだけ本当の「使命」に近づきつつあるのである。

 まだその「使命」が何であるかがハッキリ判らなくとも、それは前進すればするほどハッキリして来るのであるから、そんなことは別に気にかけずに、今眼前の仕事に誠心をつくすことだ。
 
「生長の家」誌 昭和29年5月号 p13より謹写、

2324SAKURA:2013/05/30(木) 13:03:29 ID:jtL0zmY.
「管理人トキ様」へ  「観覧者様」へ
こんにちは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。

■ 【 生命の実相3巻 】より
此処では「現総裁雅宣先生…擁護派」として、私なりの捉え方で…楽しんで投稿させて頂いております。
従いまして、中には私の捉え方に反対の意見・思考があっても当然だと…それは個性かと…。
(今回は…私事にて、“過去の引きずった書籍・品物”の整頓にて??−−>ごみ箱??気ばかりが、
焦りとなり投稿させて頂く余裕が、ありませんでしたので…私自身のふたらなさかとも?)

■日本教文社発行の…『 生命の実相 』からの抜粋は、以前!気がつかなかった事を、私なりに解釈する
機会を頂く事となり…今回の「最高裁判決…」にて益々と…『真理探究への道』を頂き感謝申し上げます…。

■□ 今回の『生命の実相…3巻』の冒頭に……
−−−「抜粋投稿」−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−―
「平和」それは人間が常に求めているものであり、この実現のためには人間は絶大な努力を払って
来ました。
しかし、“人間とは何か”を深く考えずに行動しようとすると、互いに衝突したり、奪いあったり、
傷つけあったりするだけで、そこからはなんの平和も生まれてきません。
…云々…                      『生命の実相』…第3巻
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−―−―
この言葉が…最初にインパクトを感じましたかと…個人的に思います。

■≪平和≫…言い換えますと…「雅春先生のコトバ」の中に、
>>【心のやすらぎ・生き抜く力】とを与えずにはおかないでしょう。<<
本当に、この【2チャンネル…各ボ−ド】を閲覧して頂いております「観覧者の皆様方々」に…そのような
感情を、少しでも抱いて頂けますならば【生長の家−――>成長の家――>魂いの向上】この事が、私どもに、
課せられた≪使命…≫ではないかと…改めて“この言葉”に一つ一つを、胸中に刻み込みました…。

改めて…素晴らしい「生命の実相」…【生命を活かす…活かしきる】この事を痛感させて頂きました。

                                         感謝拝

PS: 時間の合間に…皆様の投稿の内容を閲覧させて頂きながら…第3巻の【真理の勉強】を〜〜〜
抜粋投稿…此処での感想を、【SAKURA流?】にて投稿させて頂きます…。
尚!閲覧者の皆様の中には?“投稿の内容に??反論も個人的にはありますでしょうが?

❤最後に…「生長の家…」の創立者…「谷口雅春先生」は、一番【云いワケ…論】を嫌われましたかと。

2325SAKURA:2013/05/31(金) 12:54:17 ID:R3EaGm3s
「管理人 トキ様」へ 「観覧者様」へ   
こんにちは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>2324 【 生命の実相3巻 シリ−ズ 】から〜〜〜

■今回は…「御神像…」論争が〜〜〜><持ちあがっていますが?
【真理…追究】が?先決かと思うのです。
ひとりひとりの心の中に〜〜〜真理の種〜〜〜植えましょう〜♫
『生命の実相…3巻』を拝読、そして、多々なる資料を閲覧しながらの投稿と……

❤〜個人的には【 「生命の実相…3巻」のはしりがき…その① 】からの感想とさせていただきます…。

==========【 生命の実相 3巻 はしがき より 】==================

>>人間はなぜ、平和をもとめながら戦争をするのであろうか。その本当の理由を知る人は少ないので
ある。人類は生命に到る道をもとめながら死への道を選んでいるがごとく見える。それは、人間が自
己の本来清浄の霊的実在なる本質を知らないのと、キリスト教的原罪観または仏教的罪業間で自己処
罰、自己破壊をとげつつあるからである。自己の「霊」なる本質を知らないで、自己を「物」として
観、「肉」であると自覚する人間は、「物」としての自分を持続し、拡大しようと望まずにはいられな
い。しかも「物」は有限であるから、自己を無限に拡大しようとする希望は互いに衝突したり、奪い
合ったりするほかはなくなる。だから、唯物論的人生観にたつ以上は、人間は平和を欲しながら戦争
へと突入し、生命の完全なる伸展を欲しながら、自己破壊をつづけてゆかなければならないのである。<<
                                    (谷口雅春著)
===============================================

■なぜ戦争になるのでしょうか〜〜〜???平和を求めながら〜〜〜???この様になるのですかと。
この頃思うのです。…が? 【人間関係の争い事…】は、二通りあるように見受けます。…が?
それは「お金の執着=経済的利益追求からの正当論…」??もう一つは「本人のプライド…からの正当論」
でしょうか??

                             つづく

2326SAKURA:2013/05/31(金) 13:00:16 ID:R3EaGm3s
「管理人 トキ様」へ 「観覧者様」へ   
こんにちは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>2324>>2325【 生命の実相3巻 シリ−ズ 】から〜〜〜

■【 「生命の実相…3巻」のはしりがき…その2 】  
どちらも、結局は【我の強さ…】からなのです〜〜〜ョネ???
「戦争…」は、やはりこのような二通り理由からの中身で…互いに衝突、奪いあう、傷つけあう…etc
のようにも見えます。…が!!

私が、今!振り返りますと、やはり「若い時の執着心…」からも生じる事がありますかと。当時の「聴力
喪失」となる前の頃ですが、当時の「亡き父」は、ある事から【タタキ男の腰の高さ…】には、辟易して
いましたのです。ところが、当時の私は【人類はみな兄弟と…】云った感じでいますから、どんな人間
でも必ずや、いいところがあるので、まずは“信じる事…から全てが始まる!!”このような考え方でした。

「亡き父」は、娘がそのような考えでいますので、ある時の事です。その「タタキ男…」が【免許停止…】
になり、私の処にどうにかならないのか??この様な事を言いだしたので……実は「亡き父」は、当時の
「警察署長さん」と親しい間柄ですから“何とかはからい!!”をと当時、私は【免許停止…】になる前に、
「何か対処できないかしら〜〜〜ン??」と「亡き父」に相談しますと、当時の「亡き父」は気持ちよく、
警察にはからいに行ってくれました。そして、当時の親しい署長さんも、気持ち良く動いてくれました。
(まだ若いし、前途があるし、将来性を考えて〜〜〜との事から、気持ちが動いたのでしょうかと。)
…が?その後の【連絡…】では、【NG…発生】でした。実は〜〜〜【本人の記録】は、余りにも〜〜〜
スピ−ド違反の内容が〜〜〜??他にも〜〜〜??という事で、“はからい事…”が出来なかったのです。

それでも、その頃の私は【決め付ける…大人のやり方に反抗心…】が募りだしましたので〜〜それからは、
〜〜〜【我の戦い…】になり、気がつきますと■【頭部を瞬時に叩かれ…聴力喪失】今では、このような
姿・形なのです。…が?【ネガティブな感情の激突…破壊行為…へと…!!】

【戦争…】も同じ事で、これが正しい行動でしょう!−――>この【正当論…】が???ある人にとり、
“ねじ曲がった現象展開…”になっていくのでしょう〜〜〜ネ!!
❤【 初めにコトバがあり 】と云いますように、私の「過去のおさらい」も始めに「亡き父」の言葉を
素直に聞き入れなかった事からでしょうか???【我…の張り合い?での代賞と云いますか??】
こうして考えていきますと【個人の思考の問題】ですから、やはり思いますには【戦争…】という前に
【生命とは〜〜〜?の論理観…】が、一番大事だと思えます。…が??

❤では〜〜〜次の「文章投稿…」の感想に入っていきま〜〜〜す。         

つづく

PS: 此処で初めて閲覧されます…「観覧者」の皆様に対しまして…“一言”お断りをと。
〜〜【我の戦い…】になり、気がつきますと■【頭部を瞬時に叩かれ…聴力喪失】今では、このような
姿・形なのです。…が?【ネガティブな感情の激突…破壊行為…へと…!!】
此処で【頭部を叩いたのは】当然の事ですが『タタキ男…』ですので…御了承下さいませ…。

                                     再合掌

2327志恩:2013/06/01(土) 14:02:16 ID:.QY5jUA6
光明掲示板より【そのままの心】について

そのままの心こそ神様の智慧である (3760)
日時:2012年11月19日 (月) 08時21分
名前:マリーゴールド



 さて、夫の方は森田先生にお礼を言ってから、こういう質問もしました。

 「私は彫刻家なんですけれども、毎年定期に開かれる帝展という政府のやっている美術展覧会に出品するんですけれども、一度も入選しないんですが、どうして入選しないんですか、入選する道を教えてください」


 と言いました。そしたら森田先生は、


 「あんたは構える心があるからいけないんですよ。構える心というのは、今年の帝展審査員はこういう人と、こういう人である。こういう人はこういう傾向の作品が好きであるから、審査員の好きなその好みに迎合するように、その先生が喜ぶような作品を造ろう、と思って造るでしょう。

そういう、人に迎合する精神で造った作品には、生命が籠っていないから入選しないのですよ。生命の籠った作品を造る秘訣を教えましょう。

“生長の家”の教えには、“そのままの心”を大切にすべし、という教えがあります。“そのままの心”というのは、神様が与えられたその生命の、そのままを人間の知識や工夫でゆがめられないで、そのまま出すということです」


 と教えました。


 「人間には神様の子として神様の生命が宿り、神様の智慧が宿っているんだから、その神様が与えられた神様の生命の動きを、その儘出したら生き生きした生命が表現された完全作品になるんだけれども、そこに“人間の工夫”が入って来る。

『創世記』の言葉をもって言えば、蛇の知恵にだまされて、“知識の樹の実”を食べたら、エデンの楽園から追放されたという、この神話と同じように、人間の知識で神様のその儘の生命の動きをゆがめてしまう。

だから、本当の生命が表現されないんですよ。あなたが“その儘の心”を出した時に、そしてそのままの心で彫刻を創作した時に、その時に完全な作品が出来て入選するということになるんですよ」


 とこう教えられました。


 日本語の“その儘の心”というのは、英語なんかに訳すと、なかなか難しくて西洋の人には分り難いのであります。私はブラジル語は知りませんけれども、通訳者はなかなか素晴しく訳しておられるので、分って頂いたと思います。

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“そのままの心”で胃癌が癒された婦人の実話 (3815)
日時:2012年11月20日 (火) 20時37分
名前:マリーゴールド



 “その儘の心”をもう一つ解って頂く為に、他の実例を話したいと思うのであります。


 日本の山口県で講習会がありました時に、生長の家の『生命の實相』を読んだ結果、医者が駄目だと言っておった胃癌が癒って、今まで何を食べても吐き出しておったのが、吐き出さなくなった体験を話された御婦人がありました。


 その御婦人は『生命の實相』を読んで、人間は神様の生命がここに宿っているんだから、神様の生命の“その儘”を出せば、病気は無いんだ、といわれました。


 その婦人は、自分は神の子であるから完全である。その完全な生命のその儘を出すのには、ちょうど濡れタオルを手拭掛に掛けるように、唯自分の我を何もなしに唯々神様の生命にもたれ込むように、濡れタオルを手拭掛に掛けると、

タオルは手拭掛に依りかかり、もたれ込んで、自分で垂直になろうとしないでも、そのまま真っ直ぐになっているように、自分の生命を神様にその儘まかせる、

そういう気持になった時に、今迄食べたものを全部吐き出しておったのが止まって、胃癌が治ってしまったと、こう言われました。


 このタオルは(と、卓上に白墨で汚れた手を吹くためにおかれたタオルを手にとり)人間の知恵で色々工夫して、こうしてギューと固くしぼって、棒のようにして倒れないようにして、そしてそれをここに立てる。


 そしてこれを倒れないように垂直に立てても(と言って机上に縄のように固く絞った手拭を立てて見せて、どうしても倒れるのを聴衆に示しつつ)どうしても立たんのであります。(動作を繰返しながら)いくらやっても立たんのであります。


 けれども人間の知恵でやったら立たんけれども、その儘神様の生命に投げ掛けると(と言って掌をつき出して手拭掛として、濡れタオルをそれに掛けると、手拭はそのまま垂直になっているのを聴衆に見せつつ)このようにその儘立っている。


 これは自分の力で立っているんじゃない。神様の生命をその儘、神様に任せ切った時にその儘立っている。これが病気が治る根本的な心の持ち方なのであります。

2328志恩:2013/06/01(土) 14:12:39 ID:.QY5jUA6
光明掲示板より、【そのままの心】について

コスモス様が謹写されてます「そのままの心」については、
たくさんありますので、すみませんが、そのうちの一部のみ、転載させて頂きます。


大聖師 谷口雅春先生御著 『神ひとに語り給う』神示講義 教えの巻 《自然流通の神示》 ⑤ (4073)
日時:2012年11月28日 (水) 20時45分
名前:コスモス


 多くの失業者は「職業がない」と訴えて居りますけれども、職業の無い人は一人も無いのであります。
「だって誰も私を雇ってくれないんだもの、職業はないんだ」と言う人があるけれども、しかし一寸往来を見渡しても沢山のゴモクが落ち散って居て醜(みぐる)しいのでありますが、誰も掃除して居らない。

 「往来」は無言の声で我らに呼び掛けている。「大分、よごれましたから誰か私を掃除してくれませんか」と。
「よし来た。私が掃除しよう」と、素直に、その呼び掛けに応えたら、もう其処に自分の職業があるのであります。

 唯、その職業は金を呉れんだけであります。失業者の多くは、「金をくれんから働かん」と思っているから職業がないのであります。

 かれ等は「金」という条件によって自分が縛られているから、「そのままの働き」を失って、仕事が眼の前にありながら、仕事をしないのであります。


 「そのままの心」になれば、
  自然に汚いものをきれいにしたいという衝動が起って来る。その運(めぐ)り合いに任せ切るのが任運無作、自然法爾なのであります。


 それなのに貨幣制度だとか、搾取だとか、いろいろの問題にひっかかって、自分がそれに縛られているから、

 そのまま"自然のはたらき"を失って居るから、 

生命自身の自由自在の働きというものが出てこないで 職業がない、収入がない、ということになるのであります。

             (つづき)


       平成二十四年十一月二十八日謹写 感謝合掌

2331SAKURA:2013/06/01(土) 14:59:34 ID:BiiPCx.6
「管理人 トキ様」へ 「観覧者様」へ   
こんにちは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>2324 【 日本教文社発行の 「生命の実相…3巻」 シリ−ズ 】から〜〜〜

■今回は…「御神像…」論争が〜〜〜><持ちあがっていますが?【真理…追究】が?先決かと思うのです。
ひとりひとりの心の中に〜〜〜真理の種〜〜〜植えましょう〜♫
『生命の実相…3巻』を拝読、そして、多々なる資料を閲覧しながらの投稿と……

❤個人的には【 日本教文社「生命の実相…3巻」のはしりがき…その① 】からの感想とさせていただきます…。

==========【 生命の実相 3巻 はしがき より 】==================

>>人間はなぜ、平和をもとめながら戦争をするのであろうか。その本当の理由を知る人は少ないので
ある。人類は生命に到る道をもとめながら死への道を選んでいるがごとく見える。それは、人間が自
己の本来清浄の霊的実在なる本質を知らないのと、キリスト教的原罪観または仏教的罪業間で自己処
罰、自己破壊をとげつつあるからである。自己の「霊」なる本質を知らないで、自己を「物」として
観、「肉」であると自覚する人間は、「物」としての自分を持続し、拡大しようと望まずにはいられな
い。しかも「物」は有限であるから、自己を無限に拡大しようとする希望は互いに衝突したり、奪い
合ったりするほかはなくなる。だから、唯物論的人生観にたつ以上は、人間は平和を欲しながら戦争
へと突入し、生命の完全なる伸展を欲しながら、自己破壊をつづけてゆかなければならないのである。<<
                                    (谷口雅春著)
===============================================

■なぜ戦争になるのでしょうか〜〜〜???平和を求めながら〜〜〜???この様になるのですかと。
この頃思うのです。…が? 【人間関係の争い事…】は、二通りあるように見受けます。…が?
それは「お金の執着=経済的利益追求からの正当論…」??もう一つは「本人のプライド…からの正当論」
でしょうか??

                             つづく

2332SAKURA:2013/06/01(土) 15:02:18 ID:BiiPCx.6
「管理人 トキ様」へ 「観覧者様」へ   
こんにちは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>2324>>2331 日本教文社【 生命の実相3巻 シリ−ズ 】から〜〜〜

■【日本教文社「生命の実相…3巻」のはしりがき…その2 】  
どちらも、結局は【我の強さ…】からなのです〜〜〜ョネ???
「戦争…」は、やはりこのような二通り理由からの中身で…互いに衝突、奪いあう、傷つけあう…etc
のようにも見えます。…が!!

私が、今!振り返りますと、やはり「若い時の執着心…」からも生じる事がありますかと。当時の「聴力
喪失」となる前の頃ですが、当時の「亡き父」は、ある事から【タタキ男の腰の高さ…】には、辟易して
いましたのです。ところが、当時の私は【人類はみな兄弟と…】云った感じでいますから、どんな人間
でも必ずや、いいところがあるので、まずは“信じる事…から全てが始まる!!”このような考え方でした。

「亡き父」は、娘がそのような考えでいますので、ある時の事です。その「タタキ男…」が【免許停止…】
になり、私の処にどうにかならないのか??この様な事を言いだしたので……実は「亡き父」は、当時の
「警察署長さん」と親しい間柄ですから“何とかはからい!!”をと当時、私は【免許停止…】になる前に、
「何か対処できないかしら〜〜〜ン??」と「亡き父」に相談しますと、当時の「亡き父」は気持ちよく、
警察にはからいに行ってくれました。そして、当時の親しい署長さんも、気持ち良く動いてくれました。
(まだ若いし、前途があるし、将来性を考えて〜〜〜との事から、気持ちが動いたのでしょうかと。)
…が?その後の【連絡…】では、【NG…発生】でした。実は〜〜〜【本人の記録】は、余りにも〜〜〜
スピ−ド違反の内容が〜〜〜??他にも〜〜〜??という事で、“はからい事…”が出来なかったのです。

それでも、その頃の私は【決め付ける…大人のやり方に反抗心…】が募りだしましたので〜〜それからは、
〜〜〜【我の戦い…】になり、気がつきますと■【頭部を瞬時に叩かれ…聴力喪失】今では、このような
姿・形なのです。…が?【ネガティブな感情の激突…破壊行為…へと…!!】

【戦争…】も同じ事で、これが正しい行動でしょう!−――>この【正当論…】が???ある人にとり、
“ねじ曲がった現象展開…”になっていくのでしょう〜〜〜ネ!!
❤【 初めにコトバがあり 】と云いますように、私の「過去のおさらい」も始めに「亡き父」の言葉を
素直に聞き入れなかった事からでしょうか???【我…の張り合い?での代賞と云いますか??】
こうして考えていきますと【個人の思考の問題】ですから、やはり思いますには【戦争…】という前に
【生命とは〜〜〜?の論理観…】が、一番大事だと思えます。…が??

❤では〜〜〜次の「文章投稿…」の感想に入っていきま〜〜〜す。         

つづく

PS: 此処で初めて閲覧されます…「観覧者」の皆様に対しまして…“一言”お断りをと。
〜〜【我の戦い…】になり、気がつきますと■【頭部を瞬時に叩かれ…聴力喪失】今では、このような
姿・形なのです。…が?【ネガティブな感情の激突…破壊行為…へと…!!】
此処で【頭部を叩いたのは】当然の事ですが『タタキ男…』ですので…御了承下さいませ…。

                                     再合掌

2333SAKURA:2013/06/01(土) 15:05:09 ID:BiiPCx.6
「管理人 トキ様」へ 「観覧者様」へ   
こんにちは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>2324>>2325>>2332>> □日本教文社【 生命の実相3巻 シリ−ズ 】から〜〜〜

■『生命の実相…3巻』を拝読、そして、多々なる資料を閲覧しながらの投稿と……
❤〜個人的には【 「生命の実相…3巻」のはしりがき…】からの感想とさせていただきます…。

==========【 生命の実相 3巻 はしがき よりその③ 】==============

>>わたしは最近、アメリカの精神身体医学の大家カ−ル・メニンジャ−博士の『おのれに背くもの』
を日本教文社発行の翻訳で読んだが、これは人間に自己破壊の矛盾的な欲望を自殺本能とし、慢性病
を一種の慢性自殺としてその精神過程を分析している大変興味ある書物である。そしてその自己破壊
的本能を陶冶することによって病気の治ることを実例を挙げて説明しているのである。メニンジャ−
は「不運を嘆く一群」の人たちについても、その不運の大部分が不測の外部的禍いでくるのではなく
して、自己が他人に自分を虐待するようにし向けておいて、その反動として自分が逆境におかれてそ
の苦しみに耐えしのぶことに、一種のマゾヒスチックな快感を味あうものであることを指摘している
のである。<<               (一部抜粋)

==============================================

そうです〜〜〜ョネ!私も以前はある面「障害者として…」この“コトバ…”を、パ−トナ−は、よく
使っておりました。…が?当の私は〜〜〜【 心の葛藤 】〜〜〜><

当時は、一見「障害者…」に、みられたくな〜〜〜いの想いがあり、オスマシにしておりましら、
“パ−トナ−”は、私の繊細なる気持ち(?)とは裏腹に、必ず!オ−プンにしますので、気がつきますと、
私自身も、ノセラレ族と申しますか?ある面では、本当にオ−プン的になりました。

これも「潜在意識…」に、「障害者として…」の負い目があり、時には“武器に使う手段…”も必要かと?
このように、おもいます。そうです〜〜〜ネ!【ケ−ス・バイ・ケ−ス…】でしょうか?

「障害者…」として“オ−プン!”にしますと、以前の日本社会は、正直申しますと“閉鎖的…”でしたが、
東京に住みだしてから、ある事を目撃するにいたり『人権の差別化…』を目のあたりにしてからは、
これは、【正々堂々…としないといけない事!!】を、イヤ〜〜〜と云うほど垣間見る事となり、また、
私も体験をする事となりました。
                                  つづく

2334SAKURA:2013/06/01(土) 15:07:50 ID:BiiPCx.6
管理人 トキ様」へ 「観覧者様」へ   
こんにちは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>2324>>2325>>2332>>2333  □日本教文社【 生命の実相3巻 シリ−ズ 】から〜〜〜

❤〜個人的には【日本教文社 「生命の実相…3巻」のはしりがき…】からの感想とさせていただきます…。
「マイペ−ス」にて……
【 生命の実相 3巻 はしがき よりその③ 】>>2333 の続き投稿です…。

■『生長の家…』では、客観的に申しますと〜〜〜表面上は「障害者…」に対して、好意的な状態・態度に
見えるように思います。…が?相手が「障害者…」での、男女関係に関しては、殊のほか?反対される方が
多いように思いました。(過去の体験…から)当時の「役職の方々」は、必ず「障害者…」との結婚問題はと?
「苦労をします…。」この様ないい方でしたかと。??それに「肩書優先…」でしたかと。??
更には、一方的な事情での判断でしたかと。??

これには【ショック…】でした〜〜が??当時の私は、心の傷として、かなりの負い目をもちました。
その事も、一つは“キッカケ”となりまして、その後【創価学会に入会】となったのです。
尚!現状でも〜〜〜この様な傾向が『生長の家…全体像』として残っているかも?知れません。

しばらくしまして「学会の方…」が❤【障害者でもデザイナ−になれる〜ワョ!】と言って「励ましのコト
バ!」更に〜〜「聴覚障害の団体…」があるから、そこの“クラブ…”に出入りしてみたらと…アドバイスを
いただき、『国立の文化ホ−ル…』に、はじめて出向きました。

そこには、当時「聴覚障害者の方」が、かなりいまして、正直“ビックリ…”です。
生まれつきの「聴覚障害者…」で、その年に『早稲田大学に合格』したのでしょう。その子は、記憶では
“大田区…在住の男性”でしたが〜〜〜?その後!やはり、周囲の学会員の方が、負い目を持たせる事よりも、
世間に対等に前に〜前に〜進む事を…見守って行く!その様な周囲の光景が、今でも印象的ですかと…。

或る時は、“パ−トナ−と、二人とも独身”ですから、周囲の方々の“はからい”で「お見合い…」のような感じ
での紹介をして頂き、この様にして頂きました事を、今では、懐かしく、今にして思いますが【感謝】かと。

今の『生長の家…お家騒動』は、当時の私に対しての“コトバ…の使い方?投げ方?”は〜今では【分派】に、
いかれた職員の皆様方でも、正直な話ですが❤『やさしさの欠如……』がどうしても伺えます。
■【 何故?如何して?会員が減少したのか〜〜〜】を、改めて振り返る時、そこには「過去の障害者の見方」
への【差別化…】此の事も原因の一つの様に思いました。それに【同和問題】も、差別化しされた傾向が、
此処昨今の投稿内容から感じました。…が?果たして〜〜〜如何なものでしょうかと???

振り返りますと、この当時の私は、確かに【 不運を嘆く一群 】を嘆き悲しむ“私…自身”でした。…が?
それと、同じように【分派の皆様の中には〜〜〜被害者意識!!があるかと。これでは、まるで〜まるで〜
「悲劇の主人公…」にも見受られてしまいます。】…ある面は、理解も出来ますが【中傷が先行しますと!】

■最終的には【過去の私と似ている!!】
この様に、世間一般では、見られてるのですかと。!!そして今回【 悲劇の主人公を演じている様に〜〜
それは「罪と罰」…で】しょうか??そう!その様に思われますのでは?更に、考えますと…逆の観点から?

【 不 運 を 嘆 く 集 団 に 見 え る の で す か と 。】

折角❤「雅春先生…回帰」此の事を『スロ−ガン…』になされています【分派…皆様方々】も、
「不運を嘆く一群…信仰団体」なのですかしら〜〜〜ン???この様に、見られているのでは??
そう!!あまりにも【中 傷 が 先 行 さ れ る 方】此の行為は、結局!!
自分自身で、自分自身の【人格…が無】になる事と、そして【傷をつける…】ようなモノです〜〜〜ョネ!
                                          
                        つづく

2335ルイヴィトン 通販:2013/06/01(土) 16:07:57 ID:???
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2336志恩:2013/06/01(土) 21:51:08 ID:.QY5jUA6
本流青年掲示板より
 「そのままの心」について〜

第十三章  青年と真理を語る  (2) (394)
日時:2011年08月14日 (日) 21時28分
名前:さくらふぶき

 人生の目的と、神の愛を生きるには

 岩間 人生の目的というのがよくわからないんでお訊きしたいんです。

 愛行そのものを人生の目的として愛念を実行すること、それから神様と一体となる、そういうような実感を得るのを人生の目的とするかということ、
 そういうことでいろいろ悩んでいるんですけど。
 それでどうも生活がちぐはぐになっていくのを引きしめるために、どういうふうにして目的をたてていくかということをお聞きしたいのです。

 谷口 人生の目的という問題は、いつも講習会で一日の講義の課題になっておるのでありまして、それを唯今の短時間で全部話すということは、
ちょっと難しいんでありますけれども、
大体もう予備知識もある方だと思いますから簡単にいいますと、人間は神様の自己実現であり、
しかも最高の自己実現として、万物の霊長として現れているのであります。

 そこでその神というのはいかなるものかというと、「神は愛なり」とキリスト教ではいいますし、仏教では仏心とは大慈悲心だともいいます。
 その大慈悲心そのものの顕れが観世音菩薩であるといわれているのであります。
 だからキリスト教でも仏教でも慈悲とか愛とかいわれるのが仏様や神様の内容を為しておると見ていい訳であります。

 それで神の愛を人間が実現するということは、人間が地上に顕れたところの究極の目的であるといえます。
 愛を本当に実現し得た時に、人間は本当に深い喜びを感ずることが出来るのはそのためであります。

 そこで愛を実現するには、どうしたらいいかということになるのでありますが、
 これは趙州和尚が「平常心是道」と言ったように、先ず第一、平常の心――そのままの心――を大切にすべしというのが、

 あの生長の家の信徒行持要目に書いてありますが、「そのままの心」というのになることです。
「そのままの心」です。「そのままの心」というのは〇(ゼロ)の心であって、〇(ゼロ)っていうのは一体何かというと、我というものが無い心です。

 我というものは一種の個人主義を持っています。そして肉体的な性格を持っているのであってその自己中心的な性格を一遍精算してしまって、
 これから必ず人の為にだけなることを実行致しましょうというように大決心をすることです。

 その大決心によって「自己中心的」な自分というものを自己抛棄し、捨て去って、そこから自然に動き出してくるのが「
 本当の平常心」「そのままの心」ですね。

 自己愛や利己心もそのままにあるのが、「そのままでいいんだ」と、

 そういう「そのままの心」じゃなくって一遍「ニセモノの自分」を捨ててホンモノの「そのままの心」ですね。

 そのまま自我の我というものがなくなって、〇(ゼロ)になったときの「そのままの心」です。

 無我になると、そうすると物事がなんでもスラスラといくようになるのです。
 なんでも我というものがあるとスラスラといかない。
 自分の「我」の形に引っかかるわけです。

 そして周囲が「我」の形にぴったりと添うてくれなかったら、摩擦がおこってうまくいかない、
 つまりチグハグになるのだから自分というものをまず〇(ゼロ)にするんですね。       つづく

2337志恩:2013/06/01(土) 21:55:49 ID:.QY5jUA6
 (つづき)

   大体人間が神の自己実現として、神をこの世の中に実現するには、二つの方法がある。

 一つは、自分が〇(ゼロ)になって神様に全部無条件降伏をすることなんです。
 そうすると、その自分の我が無条件降伏したら、自分というものがなくなって、神様がそこに顕れて、

 神様が「本当の自分」だから、それで「自分がやること」が即ち「神のやること」であるということになるのです。


 もうひとつのやり方は、自分というものをできるだけ拡大すること。
 「自己拡大」を徹底的にやるのであって、それは自分は「神の子」であるということを一心に念じて、

 常に「自分はここに神が生きているのである」という念を、ふだんも常に念々持続して絶やさないように精進努力をして、
 そして神想観を一所懸命に励んで、そして自分の努力によって、自己の自覚を拡大してゆく、今日は昨日よりも拡大し、

 明日は今日より、あさっては明日よりも拡大してですね。
 毎日毎日神想観を励んで、われ神の子なりの自覚を一層深めていくというその修業によって、自分が拡大されて、

 ついに神と同じような偉大な生活に入っていくというわけで、その自分で努力して一所懸命にやっていくのが、
 いわゆる自力門とか聖道門とかいわれるのであって、よほどの大努力を要するわけなんです。

 もっとも第一の「自己抛棄」の方も「抛棄する努力」はいるけでども、
 とも角それは現象の自分の現在というものがほんとうに見苦しいものだ、こんなにきたない、無力なものであると気がついて、

 自分では努力しても甲斐がないというので、へりくだりの心を起してすっかり自分の「我」というようなものを捨てて、
 “神様どうでもして下さい、神様のせよとおっしゃることを、なんでも素直に致します”というので、それに無条件降伏するんです。

 即ち、神のとりこになる。神の捕虜になってしまうのです。
 神の捕虜になったら反抗するわけにはいかんのであって、神様がするとおりにさせられるということになって、
 ここにはじめて「自分の置換」というものが他動的に行われるということになるんです。

 まあその二つの他力的方法か、自力的方法か、
 どちらかによって自分というものを自己抛棄して他力的に乗托して自分というものをおきかえるか、

 自己拡大してついに神に達するかによって、
 自分というものが「ここに神が生きておる」という大自覚のところへ入っていくのでありますね。

 他力的方法も自力的方法も、いずれも兎も角、現在の不完全な自分は否定しなければならぬ。

 そして「神が自分に生きている。神は愛である」ということがわかってくると、
 それが実際に生活に実現してくるのでありまして、それがなお、いろいろと摩擦があったり、さわりがあったりするのは、
 まだその自覚に到達しないのであるから、そこのところをよく反省して、自分を捨てるか、

 それとも自己拡大するか、まあ自分の生まれつきの性格に従って、どちらでも選んで、そして精進努力して行かれれば、
 やがて、本当に神を自己の内に自覚せられる時が来るにちがいありません。

2340SAKURA:2013/06/03(月) 22:25:41 ID:Kpiz95ro
「管理人 トキ様」へ  「観覧者様」へ   
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>2324>>2325>>2332>>2333>>2334 ■□日本教文社【 生命の実相3巻 シリ−ズ 】から〜〜〜

■ようやく日本教文社発行『生命の実相…3巻』を拝読、そして、多々なる資料を閲覧しながらの投稿と……

❤〜個人的には【 日本教文社「生命の実相…3巻」のはしりがき…】からの感想とさせていただきます…。

==========【 生命の実相 3巻 はしがき よりその④ 】==============

戦争も、闘争も、人類のあらゆる不幸、災禍、病気、貧苦等もこの種の人間の自己破壊願望のマゾ
ヒスチックな傾向からくるものであること、そしてその自己破壊願望の完全な修正が行われない限
りは、人間は、生命に到る道を欲しながら、死の世界に突入せざるをえないことが精神病理学者の
方から指摘せられはじめたのは興味あることである。わたしの『生命の実相』全集を読む人たちが、
おのずから病気が癒え、戦場においてさえも傷つかず、あらゆる人生の不幸を克服しえつつあるのは、
それを読むことによって、人間が本来物質的存在にあらざるところの『完全霊』なる自覚を得、“アダ
ムの原罪的“な人類共通の罪悪感が消滅して自己処罰の必要がなくなり、人間の自己破壊のゆがめ
る願望が根本的に修正せられるからである。          (谷口雅春著)

==============================================

■>>戦争も、闘争も、人類のあらゆる不幸、災禍、病気、貧苦等もこの種の人間の自己破壊願望のマゾ
ヒスチックな傾向からくるものであること…云々…<<

【分派…の皆様方達…】の今までの投稿内容を閲覧させて頂きながら、正直、ある面では「被害者意識…」
が強くどうしても見えるのです。…が?? 例えばなのですが〜〜〜><
※このように私は総裁にされたとか…?
※日本教文社の本の中には重版があり、これがなくなると「雅春先生の生存された頃の書籍」が失われて
しまうとか??この責任は〜〜〜??

全ての『行為…』が、【現総裁雅宣先生…】に原因があると言いたげな“投稿内容…”ではないのでしょうか?
全て〜〜〜なす事全て〜〜〜❤「現総裁雅宣先生…責任転嫁」にお見受けします。…が?

此処で!【 現総裁雅宣先生…責任転嫁 】別の方面からの捉え方です。…が?例えば〜〜〜
此処最近、【森のオフィス…云々】に関しての討論投稿が〜〜〜話題性としてクローズ・アップでしたかと。
私の記憶の中では「現原宿の建物――>森のオフィス」これに関し、亡くなられました「2代目清超先生…」
でも、「本部会館での催事」の中で、おっしゃつていらっしゃいました“コトバ…” が、
❤『 建物は修善しないといけませんし、当然!もつのです〜〜ョネ 』このように述べられまして、更に、
『理事会が〜〜〜』という事を、公の場にておっしゃいました記憶があります。という事は【分派側…】に、
いかれました方々の中は、当時の『理事会…』の関与された方もいらっしゃいますのでは?ないのでしょうか?
そうしますと「雅春先生…建立された建築物」への想いは、理解できますモノもありますが〜〜〜
その頃でも【修復工事…一度もなされた形跡が〜〜〜見受けられません。】それでは、【多々なる条件でも
耐久年数がもつものも〜〜〜今ではもたないのでは??】このように考えます。

                           つづく

2341SAKURA:2013/06/03(月) 22:29:11 ID:Kpiz95ro
「管理人 トキ様」へ  「観覧者様」へ   
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>2324>>2325>>2332>>2333>>2334>>2340 □日本教文社【 生命の実相3巻 シリ−ズ 】から〜〜

■ようやく日本教文社発行『生命の実相…3巻』を拝読、そして、多々なる資料を閲覧しながらの投稿と

❤〜個人的には【 日本教文社「生命の実相…3巻」のはしりがき…】からの感想とさせていただきます…。

【 日本教文社 生命の実相 3巻 はしがき よりその④ 】>>2340 続き投稿です…。
■そして、「観覧者の皆様」もご存知のように、此処昨今では〜〜〜??『地殻変動…地震発生』が多々です!
此の事も踏まえますと、いつ!【大自然災害…】が起こるとも?そうしますと、その時の【人命の保障…】を
考えた上での、行動かと?個人的にはお見受けしております。…が?そして「現原宿本部の立て直し…」
一部はそのまま?のような事を、お聞きしておりますが?当然「耐震性…」も考慮では〜?ないのでしょうか。
【分派の方々…】が、仮にその様な事態が発生した場合、責任もって【人命の保障…】を、逆に、なさいます
のでしょうか?正直な話「疑問…?」です〜〜〜ョネ!

【 別板 「まじめな話」の板 】では、「菅原理事…」様の事を、記載されていました。…が?

当時!萩窪時代の頃でしょうか??その姿を、本部会館にて、せわしく歩いていらっしゃいました姿を、
お見受けした事があります。その頃でしょうか?確か「青年会長…」から「本部…」へ…その後!確か〜〜
「アメリカ…」に行かれたとか?風の便りで、訊きました。…が?正直!その当たりの事は、詳しくは存じません。
…が?そして「長崎総本山の総務」をなさっていらっしゃいましたかと?その後、再び「本部…」へ〜〜?

■【青年会…会長】という経歴からの現役職…「理事…」の立場に!!

さて!個人的には?多々なるこの「青年会からの〜〜〜」此の捉え方は、多々あるかと思います。…が?
中には【分派…】の方に行かれた方の中には、同じように【元青年会…役職!】の方もいらっしゃるものと
推測致しております…。…が?此処は、個人の捉え方でしょうか〜〜〜!

■【中 心 帰 一 !】を、どこに?誰に?対してもつかによりまして【分岐点…】となったのでは?
つまり「現原宿…雅宣先生側」そして「分派側…雅春先生への回帰論…」これにて、当然ながら、御本人達の
「肩書…」が変わってきたのが、現状ではないのでしょうか?
ですから、その判断にて、現状の立場がある分けですから?それを【中傷…】する事は“オカシイ?”と、
思うのです…。その当時の【判断…これはあくまでも自分自身での決断での“行動”…】となりますから…?

相手を中傷する事は、世間一般から見ましても“オカシイ”ものとおもわれますかと。果たして〜〜〜><
批難する事は〜〜〜?世間でも通用しないモノと思います。【自己責任…】なのでは〜〜〜?

唯!「辛口メッセージ?」になりましょうが?果たして、【奉 職 者 と し て の 認 識 度】は?
つまり【信者…ヘの“救済への想い”…】何処までのモノなのかは?これからの御本人の【愛行…行】に
なりますモノと思います。
❤ 一般信者は〜〜〜今!冷静な目で〜〜〜見守っている!このような“心…”を抱きながら?でしょうか?

http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/11788/1345969739/774【別板 「まじめな話」の板から】

【菅原理事…云々…】此の中傷 “コトバ” に関してですが〜〜〜当たり前の行動を…なさったのでは?
その様に思いますが?「本部…」からの任命に“ハイ!”をなさったその後の〜〜〜本人が今!の役職かと
今回の「判決…」の結果は?一人一人が…❤【真理…探求への船旅】…あの「ヒョツコリ!ひょうたん島」
のように〜〜〜♫〜〜〜【 神との心の波長 】合わせながら〜♫〜

                                         再合掌

2342うのはな:2013/06/06(木) 17:19:57 ID:jrfqdwUk

谷口雅春先生 御著『私の日本憲法論』はここで読めます。

  http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&amp;mode=res&amp;log=1717

2343うのはな:2013/06/07(金) 18:25:37 ID:ErfthWE6
        『生長の家』誌昭和二十一年七月号・『新生の書』収録

     大和理念としての日本国

 私は限りなく日本を愛する。私は限りなく愛国者であることを欲する。
こう云う言葉は真に日本を愛しない非愛国者から憎まれるかも知れない。憎まれても好い、
私は限りなく日本を愛し、日本的なるものを愛するのである。

 兎も角も日本国が地上にいつの時代からか存在し、神が日本人なるものを此の地上に生んだことは、
何か日本国なるものや、日本民族なるものに特殊の使命が与えられているのだと考えざるを得ない。
 特殊だと云っても必ずしも、日本民族が他民族に優れていると云うのではない。

 ささやかな梅の花にも梅の花に許された特殊の美しさがある。それは豊艶な桜や牡丹の花には及ばないにしても、
梅の花には梅の花に許された特殊の美がある。日本民族にも日本民族に許された小さいながらも梅の花のような美があるのではなかろうか。
 私は、それがあることを信ずる、信ぜざるを得ない。私は、桜の花や牡丹の花を愛しないのではないが、此の小さい梅の花の雪に蔽われ、
寒気と戦いながら清楚に咲き出でた其の美を限りなく愛するように、何か日本民族の許されたる日本的な美しさがあることを信じこれを愛せざるを得ないし、
愛し育てたいことを念願とするのである。

    『大和の国日本』 谷口雅春 先生著 P127

2344SAKURA:2013/06/07(金) 18:50:44 ID:m1q2iwKA
「管理人 トキ様」へ 「観覧者様」へ   
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>2324>>2325>>2332>>2333>>2334>>2340>>2341 □日本教文社【生命の実相3巻 シリ−ズ】から〜〜

■ようやく日本教文社発行『生命の実相…3巻』を拝読、そして、多々なる資料を閲覧しながらの投稿と……

❤〜個人的には【 日本教文社「生命の実相…3巻」のはしりがき…】からの感想とさせていただきます…。
■今回は…私事にて【第13回WEB誌友会…テキスト資料】を閲覧する機会が…遅くなりましたので…

==========【日本教文社 生命の実相 3巻 はしがき よりその⑤ 】==========

本書は新修版『生命の実相』全集第二巻にあたり、「完全霊」としての自覚を得た人間が、いかに爆
弾雨下の戦場においても傷つかないかを、その実戦下の状態を描写したる場面を収録したと同時に、
さらに病気が、潜伏せる自己破壊願望によって起こるものであるから、(特にこの事は物質的医療が
てこずっている慢性病にいちじるしい)それにたいして薬剤を用いることをその事が自己破壊願望の発
露として、自己の肉体的にも経済的にも苦しめつつあることを指摘したのである、だから薬剤はおお
むね『一つの病気を征服することによって、他の病気を造る』ことになる事実を明らかにし、真に無
病、健全、そして、あらゆる闘争から超越した生活を送ろうとするならば、人生観を転換して、人類
の原罪観を払拭し、真に自在無礙なる生命の実相に目ざめなければならぬことを力説せる部分を収録し
て、一冊としたのである。戦場において傷つかない心境は、もって日常生活においても傷つかない心境
であるはずである。時局あわただしきに際して本書によって読者が八面玲瑯、無礙自在に傷つかない
心境であるはずである。時局あわただしきに際して本書によって読者が八面玲瑯、無礙自在に傷つか
ずに病まざる信念が獲得せられれば幸いである。            著者識す (谷口雅春著)

==============================================

■この様に、今の私に課せられた現状の“環境”は、本当に【精神向上の戦い場】でもあるのかも知れません。
今の私は、此処[「FUK… 」は生れ故郷なのです。…が?本当に【心の葛藤…】の日々ですかと。

さて!【国際化…】になり、今までの日本人の常識をくつがえすような?想定外の“アクシデント…発生”の
状況に直面することが、多々あります。エ〜〜〜ッ!考えられな〜〜〜イ!いつも「心の叫び…」かと。し
かもアジア圏の一員としての「日本国…」でありますから!特にここ「FUK…」は、アジア圏各国の交流場
としての“窓口…”との位置づけでしょうか?その様になりますのは、当然かもしれませんが〜〜〜

此処昨今では「地球温暖化…」によります【 異変… 】での、生態系圏に多々なる変化が生じていますの
は、誰しもご存知かと思います。以前は「鳥インフルエンザ」人間には、害がない!という定説論でしたが
現在では【人間感染が確認されまして…しかも、此処昨今の“ニュ−スの情報…”は、多々でしょうか??】

■ 中国 鳥インフルエンザ 「日本上陸」政府警戒 往来活発 GW迫る
http://news.goo.ne.jp/article/sankei/nation/snk20130422095.html (ダニによる媒介でもある…云々… )

どうしても「体力…」つまり「免疫力…」は、従来!日本人の場合は「衛生面…」に気をつけておりますから、
体質的には〜〜〜若干「弱い!言い換えますと〜〜〜温室育ち?」になりますでしょうかと。従いまして、
海外からの今までにないウイルス菌ですと「日本人…」が“バタバタ死ぬ…”その様な状況に陥るのではとの
一抹の不安がよぎります…。更には、考えられない「病気…」を併発してしまうのでは?
或る病院の先生は、その【医者の使命感…】から、一心に患者さんを診察しておられましたが、或る時、肺炎?
カゼ?…病気をうつされましたのでしょうか〜〜〜?帰らぬ人となりました。また或る先生は〜〜家族とは、
現在、一緒に住む事をなさらずにての【医者の使命感……?】から、別居生活中のようです。…が?

                                     つづく

2345SAKURA:2013/06/07(金) 18:53:03 ID:m1q2iwKA
「管理人 トキ様」へ 「観覧者様」へ   
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>2324>>2325>>2332>>2333>>2334>>2340>>2341>>2344
■□ 日本教文社【 生命の実相3巻 シリ−ズ 】から〜〜

■ようやく日本教文社発行『生命の実相…3巻』を拝読、そして、多々なる資料を閲覧しながらの投稿と……
❤〜個人的には【 日本教文社「生命の実相…3巻」のはしりがき…】からの感想とさせていただきます…。

【 生命の実相 3巻 はしがき よりその⑤ 】>>2344  の投稿の続きです…。

■>>「完全霊」としての自覚を得た人間が、いかに爆弾雨下の戦場においても傷つかないか…云々…<<
上記から「雅春先生」の【人間は肉体にあらず…!霊的人間…!】との自覚当然かとは思います。…が?
ある面では、対応策としての予防は必要ではないのでしょうかとも〜〜〜 >< 
此処は?柔軟性の【SAKURA…】なのです。

❤〜「雅春先生…」の言葉通りに〜〜〜
【“心…”で自己破壊願望を悲劇の主人公にならずに、神ともに立ち向かう精神……そのように“心…”を
訓練していく内に八面玲瑯、無礙自在に傷つかずに病まざる信念…つまり“心…”が獲得せられれば幸いである。】

【この“心…”ができる!!】今現在の私は、不動の心=信念の獲得に“焦点”を、しぼる事だと思います。
このように【分派…皆様方】も、今!置かれています立場は、こちら「現原宿教団…」に対しての【中傷論…】の前に
〜〜〜つまり【こころを振り向けるよりも…折角「雅春先生…回帰」というスロ−ガンを掲げて…】
いらっしゃいますから、その“想い=想念”を、まずは「神…」に向けていかれた方が〜〜〜と思います。…が??

■□ 1990年(平成2年度)当時「2代目清超先生…時代」に於けます私の「亡き母」の八幡道場…
そこに於けまけす「白鳩の皆様」の当時の様子が??克明に理解出来ますのでは〜〜〜ないでしょうか?
※此処で「亡き母様」の遺品の中からの【手紙のやりとり…】にて〜〜〜投稿形式(原文)を〜〜

■□■━━【 お知らせ メッセ−ジ 】━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━■
■亡き母へ 【 第二回 】   その① 〜 ③          
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/11346/1341453150/1431 その①  I ・Mより
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/11346/1341453150/1432 その②  I ・Mより
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/11346/1341453150/1433 その③  I ・Mより
■━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━□■

【新しい〜〜〜信者〜〜〜悩める人々を救済〜〜〜】これこそが「雅春先生の御心」の叶うかと思います。
現状の「行動…」は、果たして【別なる〜〜〜目的かと?】一般的には思われますのでは?
上記を参考に……【前に!前に!進むべき方針案…】必要では?ないのでしょうかと。?

■【 こころの安らぎと〜〜〜生き抜く力は〜〜〜「生長の家…真理パワ−」より始まるかと… 】

                                   再合掌

2347女神の部屋:2013/06/12(水) 18:22:45 ID:6TyiMBAE
 
 昭和天皇の数々の逸話のご紹介
 http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&amp;mode=res&amp;log=790

2348NANCY:2013/06/13(木) 19:21:28 ID:BEUD3XFA
「トキ様」  ヘ   「観覧者の皆様」 ヘ
こんばんは……   ロ−マ字(大文字)の【NANCY】です。
>>2083>>2116>>2117>>2129>>2134>>2135>>2165>>2166>>2173>>2216 >>2217>>2220
>>2228>>2282>>2291>>2293>>2314の投稿の続きです。

−−−「抜粋 投稿  谷口雅春 著」−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

■ 真珠貝のように                普及誌No.28 より

 困難を歓迎してはならない。
困難を歓迎する心は、その潜在意識が困難を呼び寄せることになるからいけない。

しかし、既に自分に臨んで来た困難を悲しんではならない。
真珠貝はその殻に傷つけられた 「 傷 」を玉成して 美しき真珠をつくる。

此方の受けようによって、自分の能力と品性とを高めない困難はないのである。

                           『女性の幸福 365章』 より

◆−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−◆

■【人生の旅】に於きましては、必ず!【 困 難 】此の“コトバ…”は必ずや、誰しもが遭遇して
しまう?課題でしょうかと。??
但し、その時の“心の持ち方…一つ”で〜〜〜この【 困難… 】が、プラス作用になりますか?或いは?
マイナス作用になりますか?「雅春先生」のおっしゃいます受け方?〜〜捉え方?次第なのです〜〜ョネ!

現在の状況…【過去のおさらい…】をふり返っておりますと〜〜〜
今回の【 「生長の家」…お家騒動 】は?【 問題=困難 】といいますか?事の発端は〜〜〜?
■□「創立者 雅春先生…「生命の実相」の著作権…云々…」つまり【社会事業団との論争】になりますが?
此の事は?〜〜〜〜〜><

本当に【信者の事?】を考えての…【人を救済…】を考えての…行動でしたのでしょうか?
結果的には〜〜〜【世間にこのお家騒動??公表】になりましたでしょうかと。この様にお見受けします。
それが、時間の経過により〜〜〜振り返ってみますと?どう云う【結果】になるのかは?疑問視ではあります。…が?

正直な話?結果的には非常に精神的に、此処【2チャンネル…各ボ−ド】を閲覧しておりますと〜〜〜
余りにも【3代目…雅宣先生への中傷論!】・【「生長の家…原宿本部」が“新体制…”での活動への中傷】
これに対してあまりにもスゴ〜〜〜イ!暴言!には、どうしても“こころがネガティブ…”になってしまい
そうなのです!“こころ−−>傷つき?”><

■しかしながら?「雅春先生…御教え」であります〜〜〜又!「現総裁雅宣先生」もおっしゃつています
【心の法則…】にて〜〜〜❤【悲しむ暇はな〜〜〜い】と〜〜〜少しづつ前向きになって行きました。

■今の私〜〜〜【NANCY】は「50歳代にして天命?…ウフフ!!」ですから〜〜〜
しかしながら??平均寿命が延びましたから?現在では【60歳にして天命?…】でしょうか?

>>【傷つけられた 「 傷 」を玉成して 美しき真珠をつくる。】<< (抜粋言葉…)
そうですネ!【 成功の法則 】として【心を磨く−−>常にポジティブ感?−−>目標達成!!】
に向かうステイタスでしょうか〜〜〜♫〜〜〜

■□【 自分の能力と品性とを高める。 】この事に繋がるとの“信念…”で、多々なる“困難…”に、
打ち勝つパワ−にて【成功の法則…“夢…実現”に向かい人生を支配する“こころのパワ−”】を
ゲットするためにも〜〜〜頑張ります〜〜〜!!
                              
再合掌

2349SAKURA:2013/06/13(木) 20:44:52 ID:BEUD3XFA
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。

■□▬▬▬▬ 【 お答えします!!   法貴雪子 著  】  ≪ 日本教文社発行 ≫

第一章 信仰
―――――― 人間は生まれ更われるか ―――――   その①

 私の主人の祖母に、法貴加寿という人がおりました。丹波の法貴村というところに
八十八歳までいましたが、その後は主人の父母のいる東京に引きとられ、姑が世話を
していました。

 戦争がだんだん激しくなり、本土空襲もある、という噂が流れ始めた昭和十九年の
ことです。私は結婚したときから住んでいた世田谷松原町の家から、吉祥寺という
郊外に引越ししました。

 引越した翌日、私の父がその吉祥寺の家にやって来ました。父は、
「お前は今迄、お父さんのやった家に無料(ただ)で住んでいたが、今度は家賃を払うそう
で、気の毒だから、二年分の家賃を持って来た」
といって、二千円のお金をくれました。
 
当時、二千円のお金は大金です。
私は、お金を貰って、考えました。
「家賃は、毎月払えるのだから、このお金は何か、良いことに使おう」と。
 私はその頃、乃木坂の生長の家本部に行って、よく、谷口雅春先生の講話をきいて
いました。 

 先生が、
「お金は、良いことに使いなさい」
といわれました。それから、
「先祖を大切にしなさい」
とも言われました。

 私はこの時、法貴加寿お祖母様のことを想い出したのです。

お祖母様は九十二歳でした。
「そうだ。このお金で、お祖母様のお世話をしよう。お姑様ももう七十歳近いのだか
ら、お祖母様を連れて、空襲の中を逃げるのが大変。そうだ、私が見よう」

                             つづく

2350SAKURA:2013/06/13(木) 20:46:51 ID:BEUD3XFA
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>2349 投稿の続きです…。

■□▬▬▬▬ 【 お答えします!!   法貴雪子 著  】  ≪ 日本教文社発行 ≫

第二章 信仰
―――――― 人間は生まれ更われるか ―――――   その②

 そこで早速、東京の新宿区にいる両親のところへ出かけて行き、
「お祖母様、うちに遊びにいらっしゃい」
と申しますと、祖母は大層喜び、風呂敷包みの中に、じゅばんや、きものを入れ、一
番上に仏壇の中の仏像を入れました。

 それは真黒くなったお厨子に入っている、羅漢様でした。
「親に会いたくば、京の三十三間堂にござれ、五百羅漢に似てござる、というて、こ
の羅漢様には、必ず、似たものがあるのもんじゃ」

そういって、祖母は、大切そうに、その仏像を包んだのです。
 私が、その風呂敷包みを持ち、祖母をつれて、電車に乗りますと、祖母は電車の中に
座り込んで、大きな声で、
「わしはこれから、孫嫁のところへ行きます」
と、しゃべっていました。余程嬉しかったのでしょう。

 それから三月、私は祖母と暮らしました。
 主人は仕事でよく出かけ、私と祖母の二人きりの日が多く、食事も二人でした。
 私は例の二千円で、その頃ヤミでなければ買えないお米や、お砂糖などを、高
い高い値段で買い、祖母に上げたので、祖母はとても喜び、毎日、
「有難い、有難い」といっていました。

 ある日、突然、
「あんたは嫁に来て何年になるの?」 ときかれました。
「七年になります」
「まだ、ややさんのおとせんの?」(子供ができないか?ということ)
「はい」 と答えると、
「わしは、あんたに、大層世話になった。何というて恩返しをして良いか判らん。せ
めてあんたの子になって、生れ更わる」 と言いました。

「そんな便利なことが出来るものだろうか」
と、思いました。
                            つづく
PS:「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
お久しぶりです。【法貴先生…のお名前】そして【書籍…】は〜〜〜!
直接とお会いした中で、とても〜〜〜とても〜〜〜素敵な〜〜〜素敵な〜〜〜“笑顔の先生”でした。
そして先生の“思い出”も、いろいろあります。…が? この本の中でも「先生の人柄」がみえてきて〜

そうです〜〜〜ョネ!当時の戦前・戦後の物価!!当時の東京での日常生活が伝わります。〜〜〜が?
今回の“投稿文章…”にては〜〜〜確か!この頃「戦争中…」でしたのです〜〜〜ョネ!!
更に「法貴先生」の住まわれていらっしゃいました【松原町…】此処は、現在どのようになっていますかと
東京の「田園調布…」と言いますと??過去は〜〜〜「富裕族…居住のたたずまい」と言います認識が
在りましたが?何時しか?マスコミの影響でしょうか〜〜〜><【ミ−ハ−族!!】が住む様になり
随分と変貌して行きましたかと〜〜〜><もう“荒れ果てた街…”になってしまったの〜〜〜??

そう言いますと何人かの【古物商…】が在中している感じで、今にして思えば、信じられませんが><
私の“大濠公園界わいも〜〜〜古物商だらけ”で、「環境が悪化!!」となって参り、街全体が〜〜〜
汚い感じに見受けられてしまいますかと。此処で幼少から育った方が〜〜〜“一言…!”
『 そういえば、此処も“下町”も含め〜〜変り果てて〜〜>< ドンドン冒されていって〜〜〜
“三流化…”になっていく 』…これはどう捉えるべきでしょうか??
ボンヤリ〜ボンヤリ〜考えているのです。
                               再合掌

2351SAKURA:2013/06/18(火) 22:59:27 ID:BEUD3XFA
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>2349>>2350 の投稿の続きです…。

■□▬▬▬▬ 【 お答えします!!   法貴雪子 著  】  ≪ 日本教文社発行 ≫

第二章 信仰
―――――― 人間は生まれ更われるか ―――――   その③
◆ 祖母の生れ更り〃〃〃〃〃

昭和二十年、一月二十三日、祖母は眠るように亡くなりました。九十三歳でした。
ちょうど、木が枯れるように静かな最後でした。
 昭和二十七年四月十七日、祖母が死んで七年目に、私は女の子を生みました。
その前(昭和二十四年)に男の子が生まれ、実家の母が、主人の父の名を一字いただい
て、慶一とつけました。
「今度の子供は、誰が、何とつけてくれるのかしら」
と病院でしきりに考えているのに、誰も名をつけてくれません。
そのうちお七夜になりました。
主人が病院へやって来て、
「おい、今度生まれた子供に、おばあさんの名前を貰って来た」 というので、
「誰がくれました?」 と聞くと、
「おやじだ、おやじが、お前のところの子には、僕の母の名をやろう、といってくれたんだ」 
といいました。
「あっ。それではこの子はお祖母様の生まれ更わりだ、何故なら、お祖母様が、私に
あんなことを言ったのは誰も知らない。知らないのに名前をくれたのは、この子が生
まれ更わりだからだ」
 その日は、月こそ違え、二十三日、祖母の命日の日でした。
 加寿では古いので、「和子」とつけました。和子は利口な子で、やがて東大を卒業し、
現在イギリスにいます。

 何よりうれしいのは、和子が、大変、私にやさしいのです。
若し、私が祖母にやさしくしなかったら、生まれ更わりの和子も、やっぱり私にや
さしくしなかったであろうと思うと、あのとき、深切にしてよかった、と思っています。

 二千円のお金は初七日の日に全部なくなりましたが、祖母の残してくれた羅漢様
は、今もなお私の家の仏壇にあり、その顔は心なしか、和子に似ているのも不思議です。

 人のいのちは、永遠生き通し、とききました。
 
 祖母、法貴加寿の不滅の生命は、娘、和子の中に生きているでしょうか。
 そういえば、生命は百年を一節として生まれ更わる、ともききました。

祖母の生命は九十三歳で一たんこの世を去り、七年後、即ち、百年目に、再び地上
にあらわれたのかも知れません。
                                    つづく

2352SAKURA:2013/06/18(火) 23:01:15 ID:BEUD3XFA
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>2349>>2350>>2351 の投稿の続きです…。

■□▬▬▬▬ 【 お答えします!!   法貴雪子 著  】  ≪ 日本教文社発行 ≫

第二章 信仰 ―――――― 人間は生まれ更われるか ―――――   その④
◆ 祖母の生れ更り〃〃〃〃〃

2350>>2351の投稿の続きです…。
PS:「トキ様」 へ 「観覧者の皆様」 へ
■【生まれかわり…?】きっと!きっと!霊界から何かのかたちでの「霊界通信…」でしょうか??
東京在住の頃ですが〜〜〜「亡き法貴先生」の娘さんを、一度見たことが在ります。それは〜〜〜
「法貴先生」が亡くなられた直後に〜〜〜「原宿本部内…」で見かけた記憶が、在ります。…が?
その当時!「法貴先生の“思い出”」があったので?娘さんに“声…”をかけようと思った矢先に、
本部職員と“お話…”をされていましたので、残念ながら“話す機会…”を失ってしまいましたが、
イメ−ジとしては〜〜〜確かに遠くで見ましても“顔がしまっておられ…聡明な感じ・・・”でしたかと。??

笑い事ですが〜〜〜あの頃の「亡き法貴先生」は、いつも私の“顔…”を見ますと、必ず!【整形の話…】をなさいましたが、今は、屹度!『霊界で〜〜〜ごめんね!勘違いしていたわ』と…言っておられます事でしょう。私は「亡き法貴先生」の【光明化運動の〜〜〜足跡】を見ながら〜〜〜本当に“心のコトバ…”を沢山!頂きました。そして、今!振り返りますと〜〜〜あの頃の私は、物事の見方が表面上であり、深く
考えなかった事が反省させられ、今は「亡き法貴先生」の「コトバ…私なりの理解」が出来まして……
シッカリとした足取りにて「光明化…運動」を邁進する想いです。

更に、今回【長崎総本山…】で「現総裁雅宣総裁先生…」がおっしゃた“コトバ…”をかみしめて、
私も「亡き法貴先生」のなされた【光明化運動の完成】に少しでも参加しますと、長崎で【祈り…】ました。■□ 今から〜〜〜あらたなる〜〜〜出発の旅〜〜〜です!!
身を引き締めて!!【真理は一つ!】更に、それを【応用編にまで〜〜〜出来る事】だと、思います。

■【「亡き母」の手紙のやりとり】から〜〜〜もう一度❤〜【生長の家の“灯…”をともす運動にと!!!!】

                                       再合掌

2353神の子さん:2013/06/18(火) 23:12:21 ID:ihQVsXCo
生長の家には、自由・平等・博愛はあるのか?これがないなら、ただのインチキ宗教だよね。

2354神の子さん:2013/06/18(火) 23:19:28 ID:ihQVsXCo
個人の自由、個々人の平等、そして博愛の精神。今時これらをクリアしないような団体が存続できるほど、世の中、甘くないですよね。

2355神の子さん:2013/06/18(火) 23:22:33 ID:ihQVsXCo
自由・平等・博愛の理念に著しく反する組織・団体・集団・個人には、ペナルティがあること知ってる?

2356トキ:2013/06/19(水) 09:46:24 ID:Mh/E.L56
>>2353~2355

 規約を熟読の上、ご投稿下さい。生長の家自体の中傷のご投稿はお断りしています。

2357トキ:2013/06/19(水) 09:48:14 ID:Mh/E.L56
 法貴雪子先生のお嬢様は、本を出版されていましたね。
ロンドン在住で、芸術関係の御仕事をされていたみたいです。
いろいろご苦労をされたみたいですが、今は落ち着かれていると
思います。

2358神の子さん:2013/06/19(水) 10:20:56 ID:???
>>2349-2353

SAKURAさん興味深いお話ありがとうございます
ご先祖様に誦げている聖経は自分の魂も向上させる
何故なら自分も生まれ変わりかもしれないから、ですね。

2359トキ:2013/06/19(水) 10:21:27 ID:Mh/E.L56
>>2353~>>2355

 時間がないので、簡単に。

 自由・平等・博愛の理念というのは、フランス革命のときの理念だと記憶しています。
これは、当時のキリスト教の組織がかなりの力を持っていて、いろいろと不都合な事があったから
だと思います。少数派のカタリ派の虐殺などもありましたし、宗教の組織が暴走したときの危険性
はありえると思います。信仰者として、こういう面について気をつける必要はあるとは思います。

 しかし、私の知る限り、生長の家という組織は、基本的に、基本的な人権の擁護にはかなり
熱心な姿勢を取り続けていました。問題がなかったとは言いませんし、特に今は問題が多いです
が、>>2353から>>2355のような投稿は失当というしかありません。

 現在の法律では、個人の価値の存在が絶対であり、そのために自己実現と自己統治を守るという
発想にたよっています。そのために、いろいろな憲法や法律で、人権を認めています。
 「信仰の自由」は、基本的人権の中で重要な人権の一つです。生長の家に関する
議論も、この「信仰の自由」に基づくものです。その点は十分に気をつけて下さい。

 具体的に問題点があるのなら、それに対しては誠心誠意、ご対応はしますが、投稿を拝見する
限り、これらの投稿を書かれた方は、生長の家に関する基本的な知識も無い方で、おもいつき
の発言であり、きわめて残念に思っています。

管理人

2360トキ:2013/06/19(水) 10:24:14 ID:Mh/E.L56
>>2353から>>2355

 この板の趣旨に反するので、一定の時間が経過したら、別板へうつします。

ご理解下さい。

合掌 ありがとうございます

2361ありがとう:2013/06/19(水) 10:39:26 ID:???

  生長の家自体の中傷のご投稿はお断りしています

    〜〜〜

  教義・方針の批判ならば可ですから
  どしどし 投稿してください。

2364トキ:2013/06/19(水) 11:43:26 ID:Mh/E.L56
>>2361

 ごめんなさい、「教義」の批判もやはり目的外になります。

この点は線引きは難しいですが、基本的に、谷口雅春先生の説かれた教えへの
攻撃は目的外になると考えています。

 よろしくお願いします。

よろしくお願いします。

合掌 ありがとうございます

管理人敬白

2365SAKURA:2013/06/19(水) 13:22:16 ID:6cSfeI62
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 
こんにちは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>2349>>2350>>2351>>2352のSAKURA投稿の続きです。――【法貴雪子先生…シリ−ズ】――

>>2357 「トキ様」 へ ■>>2358 「神の子(ブル−色)様」 へ

「法貴先生」が私どもによくおっしゃいました“コトバ…”の中から〜
■□私の名前は【法貴…ほうき】ですから〜〜〜サッサッ〜〜〜サッ!と…綺麗に全てを“掃除…”するのです。
そうなのです〜〜〜ョネ!今!【法貴先生が…霊界から…浄化運動】当に!今!始まったのでしょうか??

御様子から「法貴先生の娘様」は、キット!現在の状況をバネにして、更なる飛躍をなされる方と…思います…。
【ピンチはチャンス…】でしょうかと。そのように今回!改めて思った次第です…。
つまり【生長の家…お家騒動】も含めまして…新たなる「生まれ変わり…新生のとき…きたり」でしょうかと。

最後に……
「法貴先生の娘様」の情報…教えて頂きました事に、深く感謝申しあ上げます。
そして「神の子(ブル−色)様」からの“コトバ…”当にそうなのです〜〜〜ョネ!
私も…「神の子様」のように【先祖供養…心をこめて】…読誦させて頂きます…。【感謝…】
                                  合掌

PS: 「トキ様」 「観覧者の皆様」へ
独り事ですが〜〜〜
「今!法貴先生の娘様」は?【生長の家…御教え?】にはその後…“ノ−!タッチ”なのでしょうか??
「亡き法貴先生…のDNA」が流れていらっしゃいますから〜〜〜強い!強い!援軍です〜〜〜ョネ!
先生の書籍の中には?娘さんも〜〜〜確か登場されて【心理学…】をやはり把握されていらっしゃいますのでは?
ないのでしょうかと思った次第です。…が?

2366NANCY:2013/06/19(水) 13:31:41 ID:6cSfeI62
「トキ様」 「観覧者の皆様」へ
こんにちは……  ロ−マ字(大文字)の【NANCY】です。

■「SAKURA」さん へ  【 法貴先生…の書籍シリ−ズ!!お答えします…。 】から〜〜

私こと【NANCY】も…【亡き法貴先生…】のお人柄には〜〜〜
そして「書籍の中の先生」には?意外な面を 発見する事となり〜〜〜やはりその「足跡…」には感銘を受けます。…此処で「SAKURAさんの投稿」を…再投稿させて頂きます…。

===【 再投稿文 】=======================================
2351 :SAKURA:2013/06/18(火) 22:59:27 ID:BEUD3XFA
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>2349>>2350 の投稿の続きです…。

■□▬▬▬▬ 【 お答えします!!   法貴雪子 著  】  ≪ 日本教文社発行 ≫

第二章 信仰
―――――― 人間は生まれ更われるか ―――――   その③
◆ 祖母の生れ更り〃〃〃〃〃

昭和二十年、一月二十三日、祖母は眠るように亡くなりました。九十三歳でした。
ちょうど、木が枯れるように静かな最後でした。
 昭和二十七年四月十七日、祖母が死んで七年目に、私は女の子を生みました。
その前(昭和二十四年)に男の子が生まれ、実家の母が、主人の父の名を一字いただい
て、慶一とつけました。
「今度の子供は、誰が、何とつけてくれるのかしら」
と病院でしきりに考えているのに、誰も名をつけてくれません。
そのうちお七夜になりました。
主人が病院へやって来て、
「おい、今度生まれた子供に、おばあさんの名前を貰って来た」 というので、
「誰がくれました?」 と聞くと、
「おやじだ、おやじが、お前のところの子には、僕の母の名をやろう、といってくれたんだ」 
といいました。
「あっ。それではこの子はお祖母様の生まれ更わりだ、何故なら、お祖母様が、私に
あんなことを言ったのは誰も知らない。知らないのに名前をくれたのは、この子が生
まれ更わりだからだ」
 その日は、月こそ違え、二十三日、祖母の命日の日でした。
 加寿では古いので、「和子」とつけました。和子は利口な子で、やがて東大を卒業し、
現在イギリスにいます。

 何よりうれしいのは、和子が、大変、私にやさしいのです。
若し、私が祖母にやさしくしなかったら、生まれ更わりの和子も、やっぱり私にや
さしくしなかったであろうと思うと、あのとき、深切にしてよかった、と思っています。

 二千円のお金は初七日の日に全部なくなりましたが、祖母の残してくれた羅漢様
は、今もなお私の家の仏壇にあり、その顔は心なしか、和子に似ているのも不思議です。

 人のいのちは、永遠生き通し、とききました。
 
 祖母、法貴加寿の不滅の生命は、娘、和子の中に生きているでしょうか。
 そういえば、生命は百年を一節として生まれ更わる、ともききました。

祖母の生命は九十三歳で一たんこの世を去り、七年後、即ち、百年目に、再び地上
にあらわれたのかも知れません。
                                    つづく

2367NANCY:2013/06/19(水) 13:40:35 ID:6cSfeI62
こんにちは……  ロ−マ字(大文字)の【NANCY】です。
>>2366の【再投稿の続き…】です…。

===【 再投稿文 】=======================================
2352 :SAKURA:2013/06/18(火) 23:01:15 ID:BEUD3XFA
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」
こんにちは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>2349>>2350>>2351>>の投稿の続きです…。

■□▬▬▬▬ 【 お答えします!!   法貴雪子 著  】  ≪ 日本教文社発行 ≫

第二章 信仰 ―――――― 人間は生まれ更われるか ―――――   その④
◆ 祖母の生れ更り〃〃〃〃〃

>>2351の投稿の続きです…。

PS:「トキ様」 へ 「観覧者の皆様」 へ

■【生まれかわり…?】きっと!きっと!霊界から何かのかたちでの「霊界通信…」でしょうか??
東京在住の頃ですが〜〜〜「亡き法貴先生」の娘さんを、一度見たことが在ります。それは〜〜〜
「法貴先生」が亡くなられた直後に〜〜〜「原宿本部内…」で見かけた記憶が、在ります。…が?
その当時!「法貴先生の“思い出”」があったので?娘さんに“声…”をかけようと思った矢先に、
本部職員と“お話…”をされていましたので、残念ながら“話す機会…”を失ってしまいましたが、
イメ−ジとしては〜〜〜確かに遠くで見ましても“顔がしまっておられ…聡明な感じ・・・”でしたかと。??

笑い事ですが〜〜〜あの頃の「亡き法貴先生」は、いつも私の“顔…”を見ますと、必ず!【整形の話…】
をなさいましたが、今は、屹度!『霊界で〜〜〜ごめんね!勘違いしていたわ』と…言っておられます事
でしょう。私は「亡き法貴先生」の【光明化運動の〜〜〜足跡】を見ながら〜〜〜本当に“心のコトバ…”を
沢山!頂きました。

そして、今!振り返りますと〜〜〜あの頃の私は、物事の見方が表面上であり、深く
考えなかった事が反省させられ、今は「亡き法貴先生」の「コトバ…私なりの理解」が出来まして……
シッカリとした足取りにて「光明化…運動」を邁進する想いです。

更に、今回【長崎総本山…】で「現総裁雅宣総裁先生…」がおっしゃた“コトバ…”をかみしめて、
私も「亡き法貴先生」のなされた【光明化運動の完成】に少しでも参加しますと、長崎で【祈り…】ました。

■□ 今から〜〜〜あらたなる〜〜〜出発の旅〜〜〜です!!
身を引き締めて!!【真理は一つ!】更に、それを【応用編にまで〜〜〜出来る事】だと、思います。

■【「亡き母」の手紙のやりとり】から〜〜〜もう一度❤〜【生長の家の“灯…”をともす運動にと!!!!】

                                       再合掌

2369うのはな:2013/06/21(金) 19:01:38 ID:lpxq1AYI
     『何故』はない
 
 先験的に知っていることは、理屈を超えているのです。『何故?』と云うことはないのです。
お腹が脹れたら『何故』子が出来るのであるか、『何故』生れたらお乳が自然に吸いたくなるか。
それには『何故?』はないのです。『理屈』はないのです。

 唯自分は子供を産むのだと云う事を『其の儘』知って居るのです。
此の『その儘』が大切なのです。『理屈なし』に知って居るのです。此の『理屈なし』が尊いことなのです。
我々は余り外からの知識にたより過ぎ、所謂『智慧の樹の實』をたべたものですから、
『何故神さまはあるか』『何故人間は人に深切にせねばならぬか』とか言ってそれが解決せねば
何も実行出来ないと考えたりするのです。これでは『楽園』から追い出されるのであります。

『何故?』『何故?』と言っていたら吾々は幸福にならないのです。
神はあるからあるのであって『何故』はない、『愛』は尊いから尊いのであって、『何故』はないのであります。


 『愛と光の生活』 谷口雅春 先生著  (投稿者 現代字に変更写)

2370うのはな:2013/06/22(土) 19:01:38 ID:MM5aHmm6

 聖胎長養のため宗教に専念せん 昭和43年10月
 谷口雅春先生 http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=seinen&amp;mode=res&amp;log=89

2371SAKURA:2013/06/23(日) 20:34:25 ID:BEUD3XFA
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>2349>>2350>>2351 の投稿の続きです…。

■□▬▬▬▬ 【 お答えします!!   法貴雪子 著  】  ≪ 日本教文社発行 ≫

第一章 信仰 ―――――― 永遠不滅の生命とは ―――――   その①
 
◆ 私の父は現在九十九歳です。大変元気ですが昨年、つまり九十八歳のとき、ちょっ
と体の弱ったことがありました。

 私はちょうどその頃、東京の晴海の貿易センターで開かれた「生長の家」の講習会
に行き、谷口清超先生から、「死」についての講話をききました。
「死とは、生命のなくなることであって、肉体の滅びることではない」
「生命がなくなるから、肉体が滅びるのであてって、肉体が滅びるから生命がなくなるのではない」
私は、
「はっ」
と思いました。

 今迄、度たび本でも読んだけれど、このときは、このことが私の胸の中にははっきり
と影をおとしました。
 
私は早速父のところへ往き、父にこのことを伝えたのです。
「お父様、
 人間が死ぬのは、肉体が滅びるからではありません。生命がなくなるからです。生
命がなくならなければ、人間は死にません。だから、生命がなくならないように、生
命を喜ばして大切にしていれば、肉体もいつ迄も滅びません。谷口清超先生がそうお
っしゃいました」
 すると、父は、私の顔をじっと見ていましたが、
「よし、判った。では死なないようにする」
と申しました。
 それから次は元気になりました。
 
昨年の十一月、
 今度は長崎県西彼町の「生長の家」総本山で谷口雅春先生の講話がありました。

「人間の生命は永遠不滅です。」
「生命は、生まれ更わることが出来る」
「生まれ更わり、生まれ更わり、生命は永遠につづく」
 そういう意味の講話でした。

 私は早速、父のところに行き、その講話を父に伝えました。

                          つづく

2372SAKURA:2013/06/23(日) 20:40:11 ID:BEUD3XFA
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>2349>>2350>>2351>>2371 の投稿の続きです…。

■□▬▬▬▬ 【 お答えします!!   法貴雪子 著  】  ≪ 日本教文社発行 ≫

第一章 信仰 ―――――― 永遠不滅の生命とは ―――――   その②

 すると、父は、そのときはだまってきいていましたが、翌、五十八年、つまり、今
年のお正月に、私が年始に行きますと、こんなことを言いました。
「雪子、判ったよ。
 私は今日迄、余り悪いことはして来なかった。だからずっとしあわせだった。
 このままで行くと、たとえ死んでも、余り悪いところへは行かないと思うよ。
 つまり、生きているときにいるところと、死んでからいくところは同じだから、生
きることと、死ぬことは、同じだと思うよ」

 今度は私が、じっと父の顔をみてしまいました。
 私は父の口から、こんなすばらしい言葉をきくとは思っていませんでした。
 父の顔をまことに明るく、はればれとして百歳に近い人には、とても見えませんでした。
 
父は更につづけて、
「雪子、まだ元気だから、死なないと思うよ」
と笑い乍ら申しました。
 私はもう、答えるすべをしりませんでした。
 
  柿若葉眺めて黙す父と娘がときの刻みをいと  ほしみつつ

 白寿なりと祝ひてをれば御父の老い給ひしも   楽しかりけり

つづく


PS: 「トキ様」へ 「観覧者の皆様」 へ

「法貴先生のお父様」は〜〜〜?百近くまで長生きされたのです〜〜〜ネ!!
やはり【人生…】は、本当に【 こころの法則 】通りにと!あらためて思ってしまいます。
現在の私の、おかれた“環境…”は、屹度「神様…」が、モット!モット!後に“素晴らしい〜〜環境”
を導くための試金石でしょうか……と!思える心境になりましたのです…。ですので、振り返りますと、
この何年間も、彼らの事を避けているにも関わらず〜〜いつしか潜在意識に、否応なしに、入り込んで…
結果的には、振り回された事になっていたかと。

それなりの【魂だけの価値観…】だと?思えるようになり、今の私は、先ず!自分で置かれた“環境…”を、
もう一度見つめ直し、自分自身「神様と一体…」になりまして、そこから脱出する事!!次なる世界へ!
この様に思いますと〜〜〜実に【 こころが自由に!広がっていきそうで〜〜〜す。 】

「亡き法貴先生の人生観」を、久しぶりに、読み直しまして、此処年数間は?
私自身【 魂の向上は〜〜〜たった??分だけ!成長している!】と、思いましたのです。

■□ 【魂の成長…それこそ!生長して行く事が〜〜〜「生長の家…」なのでしょうか???】
            
                                         再合掌

2373a hope:2013/06/24(月) 08:31:48 ID:edEDolt2
新版 生活読本 谷口雅春先生著(日本教文社)
第十四章 心で貴方を幸福にいたしましょう

♦いやいやすれば疲れる

勉強でも仕事でも、それをする態度によって、自分の肉体の疲れようが違いますし、
又自分の人格の高まりようも違ってくるのであります。
いやいやする仕事は非常にあなたの肉体を疲れさせますし、あなたの心をいらいらさせたり、
うんざりさせたりして肉体のためにも心のためにもならないのであります。
その人の勉強のしぶり及び仕事のしぶりをみていますと、その人の値打ちがわかるのであります。

いやいややっているのでは、その人の充分の力は出ないのであります。
だから仕事の能率も上がらず、勉強しても覚えられず、
遂にその人は世の中に出ても、人に負けることになるのであります。

だから吾々は仕事をするときに、「神さま、この仕事を私に与えてくださいましてありがとうございます」と
心の内に感謝してから仕事をするようにすれば、この仕事が楽しくて、
又その仕事が立派に出来るようになってくるのであります。
世の中に、失業者といって、仕事のない人がどんなに沢山あるかということを考えますならば、
吾々がどんな仕事でも与えられているということはありがたいことだといわなければなりません。
又学校へ行けないあわれな貧しい人々がどんなに世界中に沢山あるかということを考えてみるならば、
あなたが今、どんな学校にせよ、日本の国に生まれて、勉強させて頂いているということを考えれば、
それは実にありがたいことだと考えなければなりません。

『愛は刑よりも強し』という本に私はスター・デーリーという人の話を書きましたが、
この人は自分のもっと得意でない仕事をするのがもっとも自分を磨くことになるといって、
自分の不得手な書物を書くことと、一等きらいな講演をすることで生活しているのであります。
一番眠い時に起きて神想観をするのも一番効果があるというので、
この人は午前四時には必ず起きて神想観をするということであります。
重いものを引き上げる程腕の力は発達するのであります。
力は抵抗に正比例して出るのであります。
つらいことを敢えてする時、その人の力は発達するのであります。
どんな仕事でありましょうとも、あなたにせよ、といわれることは、
その時その仕事が、あなたにとって一番のよき訓練になるから、あなたに与えられた仕事なのです。
この世の中の仕事はそれがどんな仕事であっても、誰かのためになるからこそ、仕事として出てきているのであります。
忠実に熱心にそれを実行しなさい。
それは誰かのためになっているのであり、同時に自分の人格(にんげんとしてのねうち)を
磨き上げる仕事になっているのであります。
(つづく)

2374女神の部屋:2013/06/24(月) 15:21:45 ID:ErfthWE6

 聖歌 http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&amp;mode=res&amp;log=1613

2375a hope:2013/06/25(火) 07:36:32 ID:edEDolt2
新版 生活読本 谷口雅春先生著(日本教文社)
第十四章 心で貴方を幸福にいたしましょう

♦自分の心の通りのものが出てくる

人間の心持ちというものは、ラジオ・セットの波長ように、その波長と同じようなものを自分にひきよせるようになっているのでありますから、
仕事をする時に、面白くない、楽しくない、不愉快な気持ちをしていますと、楽しくない、面白くない、
不愉快なものばかりを自分の周りにひきよせて来て、遂に自分の職業や商売がだめになってしまうのであります。

そこで吾々が仕事をする時には、その仕事に感謝し、この仕事を通して私は誰かのためになっているのであると考え、
誰かのためになることは尊いことであり、それをするのは名誉であると考えて楽しくなって仕事をすることが大切であります。
そういう心の波長で仕事をすれば、自分の心の波長によく似た誰かのためになる善き人ばかりが自分の周りにも集まって来て、
自分のためにもなり、自分の職業が栄えて来るようになるのであります。
(つづく)

2376a hope:2013/06/26(水) 08:20:16 ID:edEDolt2
新版 生活読本 谷口雅春先生著(日本教文社)
第十四章 心で貴方を幸福にいたしましょう

♦奴隷の心で仕事をするな

仕事をするのに奴隷の心で仕事をしてはなりません。
主人公として仕事をしなければなりません。

させられるのだと考えてはなりません。
「私は人のためになることを欲する(したい)。だから進んでこの仕事をするのです」
というように喜んで仕事をするのでなければなりません。

あなたの一生涯の姿は、あなたの一生の歴史であります。
あなたの生活の肖像画のようなものであります。

あなたは自分の歴史が醜いものにみたされていることをお好みにはならないでしょう。
又あなた自身の肖像画が醜い利己的な顔をしていることをお喜びにならないでしょう。

そうすれば、あなたは自分の勉強や仕事をいやいやせずに、自分の一生の歴史を飾る偉い仕事だとして、
自分の肖像を、一刻々々刻みつつある尊い彫刻刀であると思って、尊いけだかい心でやらなければなりません。

人間が世の中に出て、出世をし、偉大なる功績(てがら)をあげ、
事業がなしとげることができるかどうかは、その人の仕事をする態度(こころがまえ)にあるのです。

仕事を成功する秘訣(こつ)は、その仕事を、「つまらない、面白くない仕事」だと考えないで、
その仕事に感謝し、その人、その仕事を愉快に楽しく熱心にすることにあるのであります。

仕事と勉強とに喜びを感じる人は結局世の中に出て勝利者となるのであります。
(第14章 終わり)

2377うのはな:2013/06/26(水) 15:20:10 ID:6wcvlhrI
至高の愛はこの世の一切のものを棄てさせる

 三島由紀夫氏の自決について、「朝日」の投書欄にのっていた話に、戦犯者として南方で
処刑された将校の未亡人にその感想をきいてみたら、その未亡人は「わたしは三島の頬ぺたをピシャリと
痛いほどなぐってやりたいと思います」と答えたということである。

 この未亡人の悲しみはわかる。それが愛というものである。
愛していない者にはこの悲しみはわからないであろう。しかし愛はその悲しみを通過し、それを克服しつつあるところに
魂の美しさがあるのである。そしてそれを克服し切って光の世界に浮かび上がった時、
本当の愛は勝利を得る。

 三島由紀夫氏もその妻を愛し子供を愛し、しかも人一倍愛していられたに相違ない。
自刃の数日前に、妻子をつれて一緒に何処かへ出かけて行き、一同楽し気に食事をしながら、
何事もないような話をして妻子に最後の別れをしていられるのである。死ぬべきときには死ななければ
ならない。自己愛は棄てなければならない。

〝本当の愛〟は〝佛心〟即ち四量無心でなければならない。四量無心とは慈悲喜捨の四つの妙心である。
そして四量無心は最後の〝捨徳〟をもって完うするのである。「愛するとは放つことである」自己愛を、妻子への愛を
棄て、一層高次の愛にー神の召命ーにこたえるために最もにがき盃をも受けなければならないのである。

 イエスがゲッセマネの祈りで「神よ、こいねがわくば、この盃をわれより取り去り給え。されど、わが意を成さんとには非ず、
御心のままにならしめ給え」と自己愛を完全に神への愛のために無条件放棄したのであった。
 三島由紀夫氏も自己愛を、妻子への愛を、そして創作への欲望をも、この世の栄誉と快楽との一切を棄てて、神の召命にこたえたのであった。


『愛はかくして完成す』 谷口雅春 先生著

2378SAKURA:2013/06/26(水) 22:14:39 ID:BEUD3XFA
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>2349>>2350>>2351>>2372  の投稿の続きです…。

■□▬▬▬▬ 【 お答えします!!   法貴雪子 著  】  ≪ 日本教文社発行 ≫

■□第一章     信仰
――――――  生さぬ仲の問題解決法 ―――― 

「生(な)さぬ仲」と、黒板に書いたら、
「生き(いき)さぬ仲」と、読んだ高校生がいて、がっかりしました。

生さぬ仲とは、つまり産まない子と母との間柄で、そのお母さんのお腹に宿らない
で、他の人のお腹から産まれた子、と母との関係です。

 では、自分のお腹に宿らなかった子は、本当の子ではないのでしょうか。
又、自分を産んでくれなかった母は、本当の母ではないのでしょうか。
古今、東西を問わず、この問題で悩んでいる人が、どんなに多いことでしょう。
 私は、この難問題を解決した一人の人間として、皆様に、私の体験をきいていただ
き、悩める方へのお答えとしたいと思います。

つづく

2379SAKURA:2013/06/26(水) 22:16:48 ID:BEUD3XFA
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>2349>>2350>>2351>>2372>>2378 の投稿の続きです…。

■□▬▬▬▬ 【 お答えします!!   法貴雪子 著  】  ≪ 日本教文社発行 ≫

■□第一章     信仰
――――――  二度目の母   ―――――  その①

 私の母は、私が六歳の時、難産が原因で亡くなりました。
 そのとき産まれた赤ん坊(私の妹)も生後三十分で死んだのです。
 そのとき私には姉一人と、弟三人があり、つまり五人姉弟でした。
 しかも、姉がまだ九歳でしたから、父はどんなにか当惑したと思います。
 翌年、二度目の母が来ました。

 今日はお父様の結婚式、というので、私達五人は玄関の横の書生部屋というところ
から、襖を少しあけてのぞいていました。
 始めに、モーニングコートを着た父が入って来て、つづいて新しい母が入って来ました。

 私の産みの母は地味な人で、おしろいは一度もつけたことがなく、それでも色が白
いからきれいでした。

 学校へくるとき縞のきものに黒い紋付の羽織を着、家に居るときは必ず白い割烹着
をつけていました。
ところが今、目の前に現れた二度目の母は、きれいに髪を結い、美しいきものを
着、ピカピカ光る帯をしめていました。

 私は「あっ」と驚きました。   そして、
「とても、こんな人をお母さんとは呼べない」 と思いました。
 それでも、私は多少、ませていたので、三日目におそるおそる、
「お母様」
とよびましたら、母は大層喜んでくれました。

 母は何でも出来る人で、お料理も、お裁縫も上手でした。お花もお習字も長唄もあ
みものも、全部出来ました。

 たった一つ出来ないことは、上手に子供を可愛がることでした。
 母は子供を産んだことがないので、五人の幼い子供を、どうして教育してよいの
か、どうやって、なつかせるか、途方にくれたのだと思います。

 けっきょく、子供にはきびしい躾けをすることが最も大切である、と考えたのでは
ないかと思います。

一番下の弟が病気で亡くなり、私達は四人姉弟となりました。

 父は、母が来てくれたおかげで、仕事に精を出すことが出来たと見え、ずんずん出
世して、やがて田園調布に七百三十坪の土地を買い、家を建てました。

 庭にはテニスコートがあり、家には当時余りなかった電気冷蔵庫や、電気洗濯機が
置かれていました。

 女中さんも三人から五人位いたこともあり、家は大変裕福でした。
 しかし、  私は、少しも楽しくありませんでした。

                      つづく

2380a hope:2013/06/27(木) 07:24:44 ID:edEDolt2
新版 生活読本 谷口雅春先生著(日本教文社)
第15章 斯うして能力を高めましょうP188〜
♦わが心の音楽をととのえましょう

吾々がピアノに対して弾奏(ひく)する場合には、その一音階一音階に気をつけて、
少しも不調和の起らないように弾奏するのでありますが、
吾々が自分の心の音楽を弾奏する場合には、それが調和のある響きを立てようが、
不調和な騒音(やかましいおと)を起こそうが一向気にかけないのは余り無頓着ではありませんか。

皆さん、「ピアノ」と「自分の心」とはどちらが大切でありましょうか。

吾々が生活に必要なことは、自分の力を最高の高さまで発揮することなのであります。
もしそれができなかったら、大なる機会がやってきてもそれをとらえることができず、
いたずらにそれを見逃してしまうことになるのであります。

機会と云うのは、何でも善いことが出て来るのに、うまくこちらが出くわすハズミです。
英語ではチャンスと云います。

よいチャンスをつかむには、生活の調子が整い、心の調子が整うことが必要です。
心と体の調子の整うことは、人間が大きな仕事をするのに是非とも必要な条件であります。
(つづく)

2381SAKURA:2013/06/27(木) 21:34:07 ID:BEUD3XFA
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>2349>>2350>>2351>>2372>>2378>>2379>>2379 の投稿の続きです…。

■□▬▬▬▬ 【 お答えします!!   法貴雪子 著  】  ≪ 日本教文社発行 ≫

■□第一章     信仰
――――――  二度目の母   ―――――  その②

 母はきびしく躾けはしても、余り愛の表現をしなかったからです。
 
 私は幸い、勉強好きでしたから、学校(私立森林学園・東京府第三高等女学校)へ行っているとき
が一番楽しく、家に帰っても本を読んだり、文章を書いたりばかりしていました。
 
物理学や幾何の問題を、一人、じっと考えていると、淋しさも忘れ、一番楽しい、と思ったりしま
した。

 そんな私が、いよいよ女学校卒業の前のとし、母は私が上級学校へ行くのをとめたのです。
「あなたのような生意気な娘は、これ以上勉強したら、お嫁に貰い手がない」
 母はそういって、女子高等師範学校(現在のお茶の水女子大学)か、津田英学熟(現在の津田塾)に
行きたい、と切に願う私の希望を絶ったのです。

 私は泣きました。一晩中、体の震える程の悲しみに打ちのめされました。そして遂に、朝迄かかって
あきらめました。この時、私の体験したことは、
 
 「人間は、どうしてもあきらめなければならないことがある」 ことを知ったことでした。

 最近の子供は、暑ければルームクーラー、寒ければ暖房装置、そしてお腹がすけばお夜食と、
凡そ、がまんをする、ということがありませんが、私は十六歳のとき、この最大のつらさに打
ち勝ちました。私は今、このことを大変倖せに思っています。

 しかし、その頃はそう思いませんでした。私は母を恨みました。

 母が産みの母でないから、生さぬ仲であるから、私の希望を叶えてくれないのだ、と思いました。

 庭に出て空を仰ぐと、星が一杯見えました。
 あの星の中の、どれが私のお母様か、亡き母を慕って泣きました。
 よその人は皆、本当の母があって、自分のしたいことをしているのに、と思うと、死んでしまった
母迄が恨めしく、自分の不幸をなげきました。

 翌年、女学校を卒業し家政学院(現在の家政大学)へ行きました。そこは料理やお裁縫が主でし
たから、母も許してくれたのです。

 でも、私は不満でした。
 おまけに、母が学校から帰った私を容赦なく使うのが、私には耐えられませんでした。

                                 つづく

2382SAKURA:2013/06/27(木) 21:36:26 ID:BEUD3XFA
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>2349>>2350>>2351>>2372>>2378>>2379>>2379>>2381 の投稿の続きです…。

■□▬▬▬▬ 【 お答えします!!   法貴雪子 著  】  ≪ 日本教文社発行 ≫

■□第一章     信仰
――――――  二度目の母   ―――――  その②

>>2381 >投稿の続きです…。

■私はとうとう「死にたい」と思うようになりました。
 そう思った通り。私は病気になり、大腸カタルで何も食べられなくなりました。
 医者が、
「このお嬢さんの腸は、一部分ゆ着していて、もうなおる見込みはない」
といいました。
治る見込みがない、ということはつまり、
「死ぬ」
ということです。私は何だか暗い穴の中へ、ドスン、とおとされてたような気がして、
毎日シクシク泣いていました。

                                    ❤〜 つづく

PS: 「トキ様」 へ 「観覧者の皆様」 へ
【生さぬ仲???〜〜〜???】
私は?「いかさぬ〜〜〜なか」と呼んでしまいました。…が?果たして〜〜〜“パートナー”は???
二人で考えすぎて???では〜〜〜“なさぬ”と呼ぶんですネ!!更に「産まぬ事…」らしいのです。…が??

結構〜〜〜「戦前の女性の見方」は、実に或る面では厳しい感じにも?受けとめてしまい??
私も【 過去のおさらい… 】で、つい!つい!この時点にて更に別の観点から【過去の事を反省…】します。
やはり〜〜〜>< 今にして思えば〜〜〜何で!あのような事を!と…【結局…】〜〜〜はと、今にして、思うこの頃なのですが???

さて「亡き法貴先生」の【人生相談…】は、あの時代での【お答えします…】ですが?〜〜〜♫〜〜〜
現在の日本の社会が直面しております問題…意外と現在に当てはまる問題が多々ありまして〜〜過去に於きまして
一度は読んだつもり?〜〜〜つもり?〜〜〜でいますので、今にして思えば「星の王子様」を、想いって居ます頃の
私は“キチン…”と理解したモノではなく>< 読み流し〜〜〜この表現が適切でしょうか?【反省…中】
ある方は、早読みで〜〜〜何と一時間足らずだそうで?? すごいです〜〜〜ネ!
ですが〜〜〜中身の「捉え方」は?「理解度」は??人それぞれでしょう。【マイペース…】での投稿を〜〜〜

■□ では〜〜〜また!あらたに【 私の人生一本道 】です…。❤【 前に進行 = 信仰 】で〜〜〜す。
                             
再合掌

2383a hope:2013/06/28(金) 07:28:25 ID:edEDolt2
新版 生活読本 谷口雅春先生著(日本教文社)
第15章 斯うして能力を高めましょう

♦自分の力を最高に出すには

自分の力を最高の程度まで発揮(だすこと)することができるためには、
人間は自分自身を大切にしなければならないのです。

自分自身の心を大切にしなければならない。
自分自身の生命(いのち)を大切にしなければならない。

出す力を無駄に使ってはならない。
出す力をよいことばかりに使わなければならないのであります。

人間は自分の思う通りの所のものになるのであります。
自分を馬鹿だと思えば、馬鹿になります。
自分を「神の子」だと思えば、神の子のように立派な人になるのであります。

常に吾々は、自分を「神の子」だと思わなければなりません。
自分を立派なものだと思わねばなりません。
(つづく)

2384うのはな:2013/06/29(土) 13:20:33 ID:GFCWEKlA

谷口雅春先生 憲法論に寄せる識者の辞
 http://plaza.rakuten.co.jp/tecnopla/

2385志恩:2013/06/29(土) 19:31:40 ID:.QY5jUA6
SAK URA様

SAKURA様が、「お答えします」のことを書いて下さったので、
私も買って読ませて頂きました。いいご本のご紹介、ありがとうございました。

法貴雪子先生の「お答えします」は、一度目は、夜中でしたので、
急いで1時間で、ざっと通して読ませて頂きましたが、

傍に置いておいて、時間があるとき、再読しましたよ。
そうしたら、一度目のとき、読み落したところも、再読したとき、
きづかせてもらって…、涙、、うるうるになりました。

憎んでいたお母様を、生長の家にふれたおかげで、感謝できた体験談は、
昔、本部へ法貴先生が、あそびにいらしていたときに、
ご本人の口から、お聞きしてましたので、よく覚えております。

まだ、法貴先生とはよばず、法貴さんとお呼びしていました頃のことです。
それは、法貴先生が
白鳩会全国会長になられる前の、地方講師でいらした
西宮にお住まいの時代のことでした。

(東京のお方ですが、ご主人の転勤で、西宮市にしばらくいらしていた頃の)

前にもお話したことが、ありますが

法貴さんと、私の二人は、生長の家の女性信徒として、

昭和39年9月号の「婦人画報」という
婦人向けの月刊誌に、各々の体験談が載ったこともあるのです。

そこの編集局のカメラマンが本部にきて、ご神像の真下のところで、
私は写真を撮って頂きました。
今も、その「婦人画報」は、たいせつに保存して私は持っています。

法貴先生は、ご自宅で、学者であるご主人とお二人で、にこやかに
写っている写真を、文とともに載せておられます。

昔、法貴さんが本部にいらしたときは、
当時、私も 親しくお話していました。

法貴先生には、親友(女性)がいらして、そのお方とお二人で、いつも
本部へいらしていました。
親友も明るいお方で、お名前は、たしか、佐々木さんだったと思います。

先生は、とても、気さくなお方で、話術が巧みでいらして、
底抜けにあかるくて、大変魅力のある女性でいらっしゃいましたね。

「お答えします」は、とても味わい深い、生長の家の良さが、
自然と把握できる すばらしいご本だと思います。
今の時代でも、充分、通用しますよね。このご本。

ありがとうございます。

2386SAKURA:2013/06/29(土) 22:37:12 ID:BEUD3XFA
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>2349>>2350>>2351>>2372>>2378>>2379>>2379>>2381>>2382 の投稿の続きです…。

■□▬▬▬▬ 【 お答えします!!   法貴雪子 著  】  ≪ 日本教文社発行 ≫

■□第一章     信仰
――――――  二冊のパンフレット   ―――――  

 そんなあるとき、私の伯父(父の兄)が富山県から私の見舞に来てくれました。
 何だか小さなパンフレットを二冊持って来て、
「この本読むと病気がなおるよ」
と言って帰って行きました。

 私は、妙なことを言う、と思いました。
「くすりなら、のどから通って胃袋に行き、そこから腸へ行って腸がなおる、それな
ら理くつに合っている。しかし本は目で読むのだから腸には行かない。多分、脳の方
へ行くのだろう。脳と腸とは離れていて、とても脳をなおすとは思えない」
 私はそう思いました。

 それで、本を読みませんでした。 しかし、

「この本読んだら病気がなおる」
と言った伯父の言葉が耳から離れず、遂にある日、その小さなパンフレットを手にと
ってみました。

 その二冊の本の表紙には、
「わが心の王国」
「神への道しるべ」
と書いてありました。

 私は小さいとき、教会(日曜学校)へ行ったことがあります。
 そのとき、神、ということばを聞きましたが、幼い私には理解が出来ませんでした。

そののち、父が、
「アンクル・トムズ・ケビン」  という本を買って来てくれました。

 私は、その本を読んで驚きました。
 私は今迄、人生というものは、自分の為にあるのだ、と思っていました。
 自分の為に勉強し、自分の為にあるのだ、と思っていました。
 ところが、その本には、トム、という黒人が「人の為に尽す」ことだけが書いてありました。

「人の為の人生」というものもあるのだ。
と知った私は、本当にびっくりしてその本を熱心に読みました。

 その本の中に「神」という字が沢山出て来ました。何故なら、その本の作者は
クリスチャンだったからです。

 しかし、その中に出てくる「神」は、私とは縁のないものでした。
 それは遠い外国の話であり、主人公も外国人だったからです。

 けれども、今、「読んだらなおる」と言われた本の表紙に「神」という字が書いて
あるのを見て、私は動揺しました。何だか、目に見えない神様が、音もなく私に近付
いて来るような気がして、私は
その二冊のパンフレットを読む気持ちになりました。

                               つづく

2387SAKURA:2013/06/29(土) 23:03:53 ID:BEUD3XFA
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。

■ 「志恩様」 ヘ   >>2385 の投稿から〜〜〜

【 法貴先生… お答えします… 】紹介させて頂きましたが〜〜〜♫
お忙しい中…「志恩様」が〜〜〜読んで頂けましたとの事で…嬉しい限りです…。個人的には、本当に?
「法貴先生」は、文章からのイメージと…「一体…感」が致しましたのです…。

■【自 然 体 … 派?】それに〜〜〜記憶が定かではありませんが〜〜〜
一時ですが?東京から静岡教化部まで(白鳩会長?なのでしょうか) 新幹線での通勤が〜〜〜あった事を、
お聞き致しております。…が? スゴ〜〜〜イ!ですネ!

そして「志恩様」も御存じとの事で……【 アピ−ル…派? 】はじめて?知る事となりました…。…が?
スゴ〜〜〜イ!ですネ! 

■それから?余談ですが❤【 婦人画報 】…このコトバで【NG…】が発生しましたのです。
個人的に?度々登場の「黒幕デザイナ−」は?何年かに一度…しかも「正月号…登場」の人物…この事を、
つい思い出してしまいました…。

本当に「雅春先生時代…白鳩の幹部の方々」は〜〜〜【有言実行!…】そして【愛…実践組!】改めて〜〜〜
個人的には讃嘆しております。スゴ〜〜〜〜〜イ!

                                再合掌

2390神の子さん:2013/06/30(日) 18:34:20 ID:D3DJ3PEQ
名前:トキ 投稿日: 2011/11/23(水) 13:32:46 ID:YRze2u3c このスレッドは、生長の家の「今の教え」と「本流復活」の問題に関連して、雅春先生や
御高弟、他の真理の言葉のみを掲載していくという板です。

2393a hope:2013/07/01(月) 09:24:23 ID:edEDolt2
新版 生活読本 谷口雅春先生著(日本教文社)
第15章 斯うして能力を高めましょう

♦運がよくなるには

勉強しても、仕事をしても、半分眠っているような人があります。
そういう人は、自分の心の思いが生き生きしていないから、体が生き生きとしないのです。

元気を出すことです。
自分を「神の子」だと思うことです。

この世界は自分の心が映る鏡のような世界でありますから、
自分の心だけのものが映ってくるのであります。
自分はきっと幸福になるに違いないと思えば、幸福になるのです。

自分は運が強いと信ずれば、きっと運がよくなるのです。
そういう人には、自分の心持ちが映って、向こうからいい機会がやってくるのです。

機会というものは、やってきたときにつかまないと、
それはすりぬけて逃げてしまうものなのです。

あなたがピアノを大切にするように、あなたの心も体も大切にしなければなりません。
何でも大切にすると長持ちするのです。

本でも鉛筆でも、大切にするのとしないのとではその持ち具合が違うのです。
それは心の力が加わるからです。

体を大切にするのは、まず自分の体が神の子の体だということをしらなければなりません。
顔を洗うときにも、この顔は神の子の顔だ、ありがとうございますと感謝しながら洗うのです。

目を洗うときにも、この目は神の子の目だから健全(たっしゃ)で益々よく見えるのだと思いながら洗うのです。
そうすると目の力は益々強くなり、近眼も自然と治ってまいります。

或る人は非常な近眼と乱視でありましたが、眠りしなに自分の手を目の上に置いて
「この眼は神さまの眼である。だんだん見る力が増えてくるのである。
 この眼は神さまの眼だから、人の悪いことは決して見ないのである。
人のよいことだけが見えるのである。」
こう心に唱えるようにしていますと或る日、目が覚めてみますと、
眼鏡をかけて、どうしても物が見えないのです。

眼鏡をはずしてみますと、却ってそれがよく見えるのです。
そういうようにして、その人の乱視は治ってしまったのです。
(つづく)

2394a hope:2013/07/02(火) 07:40:07 ID:edEDolt2
新版 生活読本 谷口雅春先生著(日本教文社)
第15章 斯うして能力を高めましょう

♦体は神様のお宮です

吾々の体は神さまの生命(いのち)の入っているお宮ですから、
どれほど丁寧にあつかっても丁寧すぎるということはないのであります。
丁寧にあつかうといっても、じっと箱に入れてしまっておくことではないのです。

お菓子でも箱に入れて何時までもしまっておけば黴が生えます。
お米でも長いこと米櫃(こめびつ)に入れておけば虫がつきます。

人間もじっと体を休ませておくばかりが、体を大切にするのではないのです。
身体(からだ)を大切にするには、適当に働かせることです。

靴でも穿(は)かずにしまっておくより、二足の靴を代りがわりに穿くようにすると、
却って長持ちするものです。

余り働かしすぎてもならないし、休みすぎてもならないのです。
適当に勉強し、適当に休息し、適当に睡眠をとることが必要であります。

もっとも人間は単なる靴ではありませんから、
働かせるほど禿(ち)びるというものではありません。
歩けば歩くほど足の裏は硬くなります。

腕は使えば使うほど力瘤(つからこぶ)が発達します。
だから人間はきっかり何時間休憩しなければならないということはないのです。

必要に応じて精神が緊張(ひきしまる)すれば、どれほど働いても疲れないのです。
しかし精神が緊張せねば働くほど疲れます。

靴と人間との区別はどこにありますか。
靴には精神がない。

人間には精神があるということです。
その精神を大切にすることが必要なのです。

精神で人を憎んだら、自分が草臥(くたび)れます。
肉体が病気になります。

一生懸命労働しても大してつかれませんが、それよりも、
ただ暫くの間でも人を憎んだり腹を立てますと、人間の体は草臥れるのです。

自分の心を大切にしなさい。
自分の精神を深切に取り扱いなさい。

何よりも大切なのは体よりも心なのです。

動物にも心がありますが、それは何でも自由にできる心ではなく、本能といって、
蚕が必ず桑を食うように、機械的に同じことを繰り返す心であって、自由に人間のように、
何でも食べるものをえらんだり、思ったりすることができる心ではないのです。

賢い犬でも、それがチンチンするのは自分の力でするのではなく、
食事を与えるときにそういう癖をつけると、必ず機械的にそうするのです。

シェパード種の犬でも、幼い時から道の左側を歩くように習慣づけておくと、
人間のように左側でも右側でも思いのままに歩かないで、必ず道の左側を歩くのです。

これは犬が道徳的にそうせねばいかんと思っているのではなく、
同じ動作を本能的に繰り返す癖があるからです。

人間は蚕や犬ではありませんから、必ずしも左側を歩いたり、
一定の食物ばかりを食べたりなど致しません。
時に応じて何でも自由にできるのです。

何でも自由にできながら、それで自分が一番正しい道を歩いて行くのが
人間の尊い所なのであります。
(つづく)

2395SAKURA:2013/07/02(火) 21:37:39 ID:BEUD3XFA
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>2349>>2350>>2351>>2372>>2378>>2379>>2379>>2381>>2382>>2386>>2387 の投稿の続きです…。

■□▬▬▬▬ 【 お答えします!!   法貴雪子 著  】  ≪ 日本教文社発行 ≫

■□第一章     信仰
――――――  二冊のパンフレット   ―――――  

◆「神への道しるべ」 の第一頁には次のように書いてありました。

「この世のすべての人は愛し合っています。あなたが一番憎いと思っている人でも、
本当のあなたを愛しているのです。 
そしてあなたも亦、その人を愛しているのです。
何故なら、この世は『神』の作り給うたものであって『神』とは『愛』のことだからであります」

私は、天地がひっくり返る程驚きました。

「あの冷たい母が私を愛している。そして又私があの母を愛している」
 
そんなことは、とても信じられませんでした。そこで私はじっと考えて見ました。

「もし、私が『お母様』といって母に呼びかけたとき『ああ、雪子や』といって母が私をやさしく抱い
てくれたら、そんあことは決してないけれど、もし、そうしてくれたら、私はどうするだろうか?」
と。そしてこう思いました。

「その時私は、きっと『お母様』といって母にかじりつくだろう……
と、いうことは、私はやっぱり母を愛しているのだ。少くとも、愛そうと思っているのだ」

 それから私は、その二冊の本をずっとしまいまで読みました。
 読んでいるうちに、涙がとめどもなく流れ、

「たとえ母が私を愛していなくても、私だけは母を愛するようになりたい。
この世で親を憎むほど悲しいことはない。私は母を愛したい。一生かかってもいい、私は
母を心から愛するようになろう」 と、固く固く思いました。

 おわりまでよむと、そこに「生長の家」と書いてありました。

 こうして、私は「生長の家」に入ったのです。
 それは昭和九年、私が十七歳のときでした。
次回は「父の愛を知る」に入ります。

◆PS: 「トキ様 」 へ   「観覧者の皆様」 へ

やはり!若い時に【聖典…】を何度も〜何度も〜深く〜深く〜読みますと、やはり【人格形成】にも
繋がりますから〜〜〜❤【そのままの心のように素敵な人格…中身?】が見えてきますでしょうかと??
「法貴先生」は、確かに、今日でも私どもの“❤…”を揺さぶる普及活動…に見受けられまして、実に!
素晴らしいモノでしたかと…今回の「書籍…」から感じますモノが在ります…。
今でも「法貴先生」の【活動…足あと】を振り返りみますと〜〜〜いろんな出来事が記載投稿されて
いまして、やはり?と〜〜〜思うのです〜〜〜ョネ!!

つづく

2396SAKURA:2013/07/02(火) 21:40:40 ID:BEUD3XFA
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>2349>>2350>>2351>>2372>>2378>>2379>>2379>>2381>>2382>>2386>>2387>>2395 の投稿の続きです…。

■□▬▬▬▬ 【 お答えします!!   法貴雪子 著  】  ≪ 日本教文社発行 ≫

■□第一章     信仰
――――――  二冊のパンフレット   ―――――  

>>2395 投稿の続きです…。
■□【無理のない数字…】それは、確かに【知識…判断力】が“ナイ”と出来ませんモノ!!

創立者「雅春先生」がお亡くなりになりましてから『数字…優先』ヘの方針になりましたのは〜〜〜><
どうみましても、その後の【白鳩会長…】からでしょうか??
それに?失礼ながら【 飛田給道場 での「亡き清超先生」の講習会開催 】の時…現在同様に
一般信者からの【質疑応答…】が在りました時…或る方が、「講習会…券」に関しまして、勇気を持ち
質問され…その返答が〜〜〜『 白鳩に…全て任せていますから…? 』この“コトバ…”をおっしゃつて
…おそらく当時の時代背景は既に【数の論理…】での活動体制で…正直この返答には?失望を抱く事にと…

■ また……【「亡き母」の手紙のやりとり…】にも、当時「雅春先生」が亡くなった後は、すべてが、
【白鳩…中心主義】にさせればいいと言った…【風潮…】があり、大変失礼ながら〜〜〜
当時の「2代目…清超先生」が或る面!【人任せ…】と云う事が、浮き彫りに見えて来ます。…が?

■□「法貴先生…」の後に〜〜〜確か❤「上田(うえだ)全国白鳩会長」では〜〜〜?この人からは、
ものすごく〜〜〜「本部職員…」でいらっしゃいましたのでしょうか??
モ〜〜〜ゥ!!【普及誌の本の……購読部数】をかなり増やしていく方針案でしたのか?この時からの
「白鳩の婦人の負担…」は〜〜〜>< 本当に!なみなみならぬモノでしょうかと。
当然!【講習券…】も、私の知る限りでは〜〜〜
実家まで“お金…の工面“とか〜〜〜”満期保険金…解約使用“とか〜〜〜これって〜〜〜変!

更に、このような方が、今では【英雄…での「特別講師」とか…??】…果たして「特別講師…」とは、
このように【信者の〜〜〜お金を…全て吸収いたぶる人が、特別の存在なのでしょうか??】
この事が【人類を救う事?逆に!“コネ・コネ〜〜〜コネ”ばかりが【浸透・優先】して行った事にと、
私は、見受けられてしまいました…。現在でもこの【腐敗体制…?】は、続いておりますかと。

■「自分は偉い!!」とかばかりの状態になりまして『人格…』は何処に行ったのでしょうか??
創立者「雅春先生」の本当の「御教え…」は、やはり【人格形成…論】が、必ず!取りざたされています。

思いますには?この様に「文章…」に、その人の❤【姿・形…】が見えてくるのです〜〜〜ョネ?
ですので「法貴先生派…」今の私達でも、当時の事を振り返り「再現…」致したとしましても?
見ていて【おごりたかぶることなく!“自然体…”】にお見受けしまして、やはり!素晴らしい〜〜〜
「法貴先生……」さらに“行動派〜〜〜”でしたのでしょうかと。?

■□多々なる観点から?やはり【トップ…】になられる方は、ある程度の金銭的余裕が居る様にも?
思えます“フシ・・・”が?との……考え方が在ります。…従いまして?今までの現状はと?
今の現状はと〜〜〜 ><

【 ポケット・マネーが氾濫されている様にかと…】思えますが???「全てが??叶う??」と云う事?
■しかもそれを…【公表する?暴路する?…勇気】は〜〜〜何処まででしょうか??

                                 再合掌

2397a hope:2013/07/03(水) 07:37:48 ID:edEDolt2
新版 生活読本 谷口雅春先生著(日本教文社)
第15章 斯うして能力を高めましょう

♦食物についての注意

身体は神様の御宮ですから、心さえ快く明るくもったら、
食物も空気も運動も清潔もいらないかと思うとそうではありません。
この四つは肉体の面から必ず必要なのです。

先ずあなたのおあがりになる食物を拝みなさい。
これが健康の第一です。

食物が口の中でかみくだかれ、それが唾液(つば)で消化されるので、
かむにしたがって甘くなってくるのです。

しっかり噛む習慣をおつけなさい。
噛むほど唾液が沢山出て来てよく消化するのです。

佐々木流動(りゅうどう)博士と云って、唾液の研究によって博士になった人は、
一口の御飯を消化するには、一口を十六回噛んだら、
丁度その消化に適当な唾液が出て来ると云うことを実験なさいました。

もっとも、腹が立ったり、かんしゃくを起こしたりしていると、唾液は充分出ませんし、
唾液の性質もずっと悪くなっておりますから、いくら噛んでもよく消化いたしません。

「美味しい、美味しい。これを造って下さった神様、お父様、お母様ありがとう」と心の中でとなえながら
「うれしい、うれしい」と思って食べていると、よき性質の唾液がたくさん出て来て、
どんな食物でも皆りっぱな滋養になるのです。
(つづく)

2398NANCY:2013/07/03(水) 20:18:10 ID:BEUD3XFA
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こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【NANCY】で〜〜〜す。
>>2083>>2116>>2117>>2129>>2134>>2135>>2165>>2166>>2173>>2216 >>2217>>2220
>>2228>>2282>>2291>>2293>>2314>> 2348 の投稿の続きです。

今月は〜〜〜何となく「夜空…」を見上げます機会が?多いのカモ知れません…。つまり!
【星に願い〜♫】でしょうか?此処で?■【希望を実現する心の要素…】に関する“コトバ…”を
投稿させて頂きます…。

===【 谷口 雅春 先生 著  】==================================
                                  ≪ 白鳩普及誌 No. 31 ≫
■希望を実現する三つの肥料

希望を実現するためには、“ 希望の樹 ”に肥料を与えなければならないのである。そ
の肥料には三種類ある。霊的肥料と、精神的肥料と、物質的肥料とである。すべて与え
た程度に報い返されるのが法則である。肥料を“希望の樹”に与えないでいて、その
“ 希望の樹”が大なる成功の果を結ぶと考えてはならないのである。

 霊的肥料を与えるには神想観をして、実相無限の供給を観じて、観の中で、その仕事
を“ 無限供給の霊 ”の中に包んでしまうがよい。すると実相“ 無限供給の世界 ”から
その事業が育てられ、その事業を育てるに必要な人材や資料や要素が自然に集って来る
ことになるのである。次に精神的肥料は愛と智慧とをその仕事及びその仕事の協力者及び
従業員に注ぐことである。愛がその仕事に注がれず、また仕事をしてくれる人に愛を
注がないでいたら、その事業を育成するために必要な主要な精神的肥料が与えられない
ことになるのである。
                        新版「希望を叶える365章」より(日本教文社刊)
===================================================

■ 今月は〜〜〜「 七夕様〜⋆☆ 」と云いますか〜?
「夜空の星に…願い」をこめて…【 希望実現! 】するために〜〜〜『祈り…』かと。

つまり、自分自身は?この様な【 夢=希望=イメ−ジ の実現化 】と申しますか?この事は?
当然ながら、自分の「人生での豊かさ…」これを『希望…』するという事でしょうか??
それにはやはり「雅春先生…コトバ」に…■『 希望を実現する三つの肥料 』と云う事なのですネ!

1)霊的肥料
2)精神的肥料
3)物質的肥料

特に「霊的肥料=神想観」この事は〜〜〜
別のボ−ドに記載されていました…【SAKURA】さんの【ジュリアの音信……】で取り上げられて
いました事!……【 愛! 与える愛!それは“男女の愛…”ではなく! 】この事を、少し潜在意識の
片隅にとどめながら>< (微笑)
 ■□【 絶対の愛! 】唯ひたすらに“無我…の境地”と云いましょうか?【祈り…】に集中!
「生長の家…」で云います【神想観…】にて…ひたすら「実相=イメ−ジ」を描き……まして、
属に申します「心の中の“青写真”…描き」トレ−ニング!!です…。

私も今回「雅春先生…コトバ」シッカリ受け止めまして…■□【希望の樹…】に肥料を…そして、
大きな成果??チョッピリ期待と申しますか〜〜〜“願い!実現”でしょうかと。?
そのように、思いました次第です…。

                                  再合掌

2399SAKURA:2013/07/03(水) 21:04:31 ID:BEUD3XFA
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
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■□▬▬▬▬ 【 お答えします!!   法貴雪子 著  】  ≪ 日本教文社発行 ≫

■□第一章     信仰
――――――  父の愛を知る   ―――――  その①

 本は読んだけれど、なかなかそう簡単に母を愛せるようになれませんでした。
 でも、私はとにかく、母を憎むことだけはやめました。
 すると、不思議なことに、私の病気は、「あっ」という間になおってしまいました。
 医者が、
「絶対癒らない」
といっていたのに。

 そう言った医者のほうがそののち胃腸病で亡くなり、私は当時五銭のパンフレット
二冊で、すっかり元気になりました。
 以来、今年まで四十九年間、病気らしい病気をしたことがありません。
 それは、

 私が母を憎まなかったので、私の全身の細胞が、脳の命令で正しく作動するよう
になったからではないかと思います。
 元気になった私は、病気の為中退した家政学院からお茶の水家庭寮という花嫁学校
へ行くようになりました。

 お正月の元旦、我家では家中が着物を着かえ、食堂に集まり父の挨拶をまちます。
父も羽織を着て席に着き、
「あけましておめでとう」
と皆に言います。
 ところが、私の病気がなおった年の元旦、父は、珍らしくそのつづきを言いました。
「今年は一番芽出度いことは」
 私は、
「あ、また、会社がもうかったんだな」 と思いました。

しかし父は、こう言いました。
「今年一番芽出度いことは、雪子の病気のなおったことだ」
私は又、びっくりしました。
 父が、私のことを、そんなに愛してくれているとは、少しも知らなかったからです。

 父は、技術者で、同時に会社経営をしている非常に忙しい人でしたから、私の病
気のことなど、全然、気にしていないのだと思っていました。

 その父が、
「雪子の病気がなおったことが芽出度い」  といってくれたのです。
 私は、涙がしたたりおちました。  そして
「このお父様のために、どうしても立派な人になろう」 と固く心に誓いました。

 私の父は今年数えで九十九歳。今なお元気です。
 私が白鳩会の会長をさせていただけていることを、心から喜んでおります。

                      つづく

2400a hope:2013/07/04(木) 07:39:06 ID:edEDolt2
新版 生活読本 谷口雅春先生著(日本教文社)
第15章 斯うして能力を高めましょう

♦食物が人間になる理由

口の中で噛みくだかれた食物が胃袋へはいって行きますと、
そこには胃液と云う酸性(すっぱい)消化液が出て来て、またさらに消化してくれます。
そこで充分消化されると、それが腸へはいっていって、腸の消化液で消化されます。

そしてその一遍煮たり、焼いたり、塩漬けにしたりして死んでいた筈(はず)のお米や、
お菜や、お魚などが、生きた養分となって身体の中に吸いとられ、
人間の生きた血となり、肉となるのであります。

これこそ死んでいたものが行きかえる奇蹟(ふしぎなこと)とも云うべきものであります。
死んでいたお米や、野菜や魚が数時間の後には人間の肉となり、
力となると云うのですから素晴らしいのであります。

あなたの生き方、考える力、楽しい心、嬉しい心などは、
これからの食物を道具として働いているのですから、
道具を立派にみがいておかないと、よい働きはできません。

食物と云う道具をよくみがく方法は、先ずその食物を丹念(ていねい)に噛むことなのです。
しかしただ噛むだけでは足りないのです。

噛んでいる間に「神様がこの食物を与えたもうて、私の力とならせて下さいます。有りがとうございます」
と考えながら食べるとき、本当にどんな食物でも立派な滋養(やしない)となるのです。
(つづく)

2401a hope:2013/07/04(木) 07:42:21 ID:edEDolt2
>>2400 訂正
♦食物が人間になる理由→♦食物が人間になる奇蹟

2402a hope:2013/07/05(金) 07:47:18 ID:edEDolt2
新版 生活読本 谷口雅春先生著(日本教文社)
第15章 斯うして能力を高めましょう

♦スポーツは心を明るくします

勉強もたいせつですけれどもスポーツも大切です。
スポーツとは遊戯であり、運動であり、競技であり、よき空気であります。

遊戯という点では、スボーツは人間の心を愉快にしてくれます。
あまり勉強にばかり凝りかたまって、机の上にかがみこんでいる場合には、
心が暗くかがみこんでくることがあります。

一時間でも二時間でも続けて勉強したあとでは、愉快にスポーツをすることが必要です。
スポーツする相手がなかったら、手を身体の両側から上へあげて、深呼吸を十回し、
息をはくときは、唇をごくほそくあけて、そこから「つかれ」をはきだすような気もちで、
ゆっくり息をはくと「つかれ」がなおって、また、元気がでてまいります。

息をすうときには「神の生命(いのち)が流れ入る、流れ入る」と思いながら、
しずかに息を吸うのです。
息をはくときには「すべてのつかれや、老廃物(いらぬもの)ははく息と共にでてゆく」と念ずるのです。

それを十数回くりかえしてやりますと、元気になり、達者になり、つかれがなおって、
また勉強するのがたのしくなります。
(つづく)

2403SAKURA:2013/07/05(金) 20:18:06 ID:BEUD3XFA
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■□▬▬▬▬ 【 お答えします!!   法貴雪子 著  】  ≪ 日本教文社発行 ≫

■□ 第一章     信仰
――――――  父の愛を知る   ―――――  その②

 さて、
母との間がまだ完全に解け切らぬままに、私は昭和十四年、結婚しました。
 夫は学者でしたし、私は父から貰った小遣いもありましたので、ひまさえあれば
「生長の家」の講話をききに行きました。
 やがて戦争になり、空襲で実家も焼け、日本は惨めな、敗戦国、となりまSた。

 しかし、「生長に家」の講話をきいたり、『生命の実相』(谷口雅春著、全二十巻)を読
んでいた私は、余り打撃を受けませんでした。何か、私の前途には、いつも光り輝く
ものが待っているような気がして、結婚してなかなか、子供が出来ないことも、いま
だに母と、しっくり行かないことも、余り苦にならなかったのです。

こうして昭和二十二年、私は遂に母と心から和解することが出来ました。

 当時、私の家は東京の郊外の吉祥寺というところにあり、その町内に花上真一さん
という町会長が住んで居られました。
 そこの家が「生長の家」で、御夫婦とも、大変良い方でしたので、私は毎日遊びに
行きました。

 しかし、本当を言うと、その家は庭が広く、畑で何でもとれるので、その頃、全く
食べるものの無かった日本人の一人である私は、そこで収穫されたじゃがいもや、と
うもろこし、きうり、トマトなどを御馳走になることが最大の魅力だったのです。

 或る日、いつものように花上さんを訪れた私は、とりたてのとうもろこしを御馳走
になることになり、七輪の火をおこしていました。
 花上さんの奥さんは、私の横で、とうもろこしの皮をむいていました。
「ねぇ、花上さんの小母さま」
と、私はいつものように、母の話を始めました。
「そうしたら、私の本当の母がね、そうしたら私の二度目の母がね」
と話しつづけていると、突然、とうもろこしの皮をむく手を止めた花上さんの奥さん
が、私の方を、きっ、と向いて、いきなり、
「法貴さん、それは違う。
 あなたはいつも、本当の母とか、二度目の母とかいっているけれど、あなたのお母
さんは、どっちも本当のお母さんです。
 大体、あなたは人間を『肉体』だと思っているんでしょう? 人間は『肉体』では
ありません。『肉体』は人間の所有物であって、『肉体』そのものが人間ではないんです。

 だから、『肉体』と『肉体』のつながっている人だけが本当の親子じゃない。『肉
体』と『肉体』とにつながりが無くても、本当の親子なんです」

 そう言って、それから花上さんは、私に、「人間が『肉体』でない」話をしてくれました。

                                    つづく

2404SAKURA:2013/07/05(金) 20:21:34 ID:BEUD3XFA
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■□▬▬▬▬ 【 お答えします!!   法貴雪子 著  】  ≪ 日本教文社発行 ≫

■□ 第一章     信仰
――――――  父の愛を知る   ―――――  その②    >>2403投稿の続きです…。

PS: 「管理人 トキ様」 ヘ  「観覧者の皆様」 ヘ

■□【和解する事……】此の事とは〜〜〜まずは?誰しもが抱く【幸せへの第一歩…】なのでしょうかと??

「法貴先生…」が、病気になられて、その後【心の和解…】が出来まして、その後!「家政学院」を中退……
そして、その後!遠まわりされましたカモ知れませんが?念願の【お茶の水…家庭寮】に入学です〜〜〜ョネ!
少しづつですが〜〜〜“前進…”でしょうかと??

一般的には【和解…論】は、本当に全てを〜〜〜潤すモノなんです〜〜〜ネ!!
今回!考えさせられます。…が?これが今日の❤〜【生長の家…お家騒動の問題】になりますと
やはり!根本の騒動の“原因”は〜〜〜【社会事業団…!】になる訳です〜〜〜ョネ!!

一応!は当時の「社会事業団…」…それから…後としてのその位置ずけの「社会事業団…」この事は〜〜〜?
創立者「雅春先生」の【 失 跡 】でしょうか〜〜〜><

【当時の時代背景=戦後の焼け野原からの復興…】御存じのように?「日本人の見なし子たちの救済…」から
の“スタ−ト”が〜〜いつの間にか「東南アジア中心…」に或る面では?なっていったような感じが致します
から〜〜(それは?或る面では…?まさか〜〜〜裁判までとは〜〜〜考えるよしもありませんでした。)
更に?別の表現で云いますと
「名前…」だけの「中身が他人…」に乗っ取られたようなモノで【名前がし…】の様なものでしょうか?
理事であられました「松○理事…」とおっしゃいました方は【社会事業団との因果関係は〜〜〜??】
しかも今回の【お家騒動…】は〜〜〜「雅春先生の御教え」に…【汚点…】をのこした形となりましたのでは?
ないのでしょうか?そのような一抹の悲しげな“想い…”が、在ります…。

逆に申しますと…「古い信者…私達2世」は、【両親の献金…】を見て…或る面では“異常…”に感じる
ときもありましたでしょうか?時が過ぎ去り〜〜〜いつの間にか【献金斜陽族…】となり、此処で?

■ほとんどの「古き信者…雅春先生時代」つまり!最初の「信者…」は、晩年は〜〜〜
いいような思いを抱いての状態には〜〜〜なっていません。…が?むしろ或る面では【ネガティブ感情】を
抱きながら〜〜〜葛藤を抱きながら〜〜〜次なる世界へと〜〜〜「旅立ち…」でしょう。

これは、本当に「おかしな?おかしな?…問題」で……何で??如何して??【社会事業団…】が
予算的にに苦しいと……いわれる事が〜〜〜私たち「古き信者…」には【疑問…】です。
信者や自信も?過去も!今現在でも!例えば…ですが><御主人で内緒にて“お金の工面…”が実情なのです。
具体的には……「保険金解約…」「実家に借りに…」「サラ金…まで」……ひたすら…“お金の工面…”なのです。
どうかしますと…【離婚問題…】に近い状況…まで行かれた方も ><

■□「信者…」は、苦しい時でも〜〜〜歯を食いしばって〜〜〜【排水の陣をひいても〜〜〜】……

そこに「神様…」に、一心に【祈る心のパイプ…】を広げて行きましたのです。
従いまして…まず!いつまでも【著作権…ア〜〜〜ダ!コ〜〜〜ダ!論争】にたよる事よりも、
当に日々の生活…今!今!を活かす【信仰…真理】の姿が必要ではないでしょうか?今の【分派…】の皆様
には、正直お見受け致しかねます。…が?

しかも【著作権を盗む…】このやり方は【 調 和 精 神…】に相反する行為そのものでは?
そのように、考えます次第です。…が?
■□ 最後に!!!上記の事と?今回の投稿内容【法貴先生の和解…】とは全然!異なる事……と
思う次第なのです。…が?

                                     再合掌

2405うのはな:2013/07/06(土) 15:07:33 ID:1BFtbBPQ

 昭和二十年八月十五日、講和詔書が換発せられた。私はその夕方、代用パンに添えてたべる為の味噌汁の実に春菊の葉を
一握り採取して、下の畠からお山へ帰ろうとすると、本部の教化事務所を一時貸してある軍の医務室の人が「谷口先生、面会人ですよ」という。
それは善良な神経質らしい成城学園の学生という表示を胸間に縫いつけた一人の青年であった。

 私は立ち留った。「何か御用ですか」「先生、今日の変化について吾々はどのように行動したら宜しいですか」
「君は学生だから、学校当局のいわれる通り素直に随って行けば好い」「吾々は今日のことについて、どのように考えたら好いのですか」
それは肇国以来一度も負けたことのない日本が、敵の「無条件降伏せよ」との提案を受諾したということについて神国必勝の理念が覆されるのではないかという
意味を含んでいるが、そんな言葉をハッキリ表に出したくない意味が読めた。

 私にしても同じことだ。「今日のことか。国体とは国の面積の広さのことではない。また相手を叩き伏せる暴力的強さのことでもない。我が国の国体は天皇の大慈悲が国を
貫いているということだ。陛下は『自分の一身はどうなってもよい、一億の民草をこれ以上苦しめるには忍びない』と仰せられた。
ここに仁徳天皇の大御心が今上陛下に現れ給うた。今日ほど日本の国体が明瞭になったことはない。国体とは天皇の大慈悲が国を貫いているということだ。わかったかね、皇軍というのも
真の皇軍とは形の上の人を殺傷する軍隊のことではない。この大慈悲の軍隊なのだ。天皇の大慈悲はキリストの大愛と同じである。キリストは十字架に上らんとする時『吾れ世に勝てり』といった。
勝つとは暴力のことではない。自己を十字架につけて万民を救うということだ。どうだ、わかったかね、わかったら帰りたまえ」
「はい」その青年は帰って往った。(『白鳩』昭和二十年十一月号)

 そしてこのときの門答を傍で見守っていた本部員の堀静氏は、
畑仕事を終えられた先生は、トルストイのような百姓姿で、鍬を支えて立っておられました。
そばに青年が、殺気立った、今にも先生にとびかかるような様子で立っている。
心配になりながらウカツにそばに行くこともできず見ていると、何ともいえない険悪な雰囲気です。

 その中に先生がじゅんじゅんと説かれるお言葉に、青年は遂に土下座になって泣き出した。
若い人達の張りつめた純な気持がよく現れていた。後で本人に聞くと、先生にダマサレたと思い、横須賀から
駆けつけてきたそうで、懐に白刃を忍ばせ、相撃ちの覚悟できたとのことでした。

と語っている。

  『大和の国 日本』 谷口雅春 先生著
P248〜249 占領下の谷口雅春先生と生長の家 阪田成一(生長の家基礎文化研究所)

2408a hope:2013/07/09(火) 06:41:29 ID:edEDolt2
新版 生活読本 谷口雅春先生著(日本教文社)
第15章 斯うして能力を高めましょう

♦運動は身体の発達のために必要です

運動としてのスポーツは身体を激しく動かしますので、肉体を達者にします。
運動ぎらいな習慣(ならわし)はなるべくやめねばなりません。

少年少女時代に運動した身体は大人になってからも丈夫で、
激しい仕事についても、めったにたおれるということはありません。

おさない時に運動できたえてない身体は、世の中に出てからも抵抗力がよわくて、
充分活動ができないで、大きな立派な仕事をなしとげねばならぬときに、
身体がつづかないようなことになります。

少年少女期というものは肉体がまだ「できつつある」ときであります。
家でももうできあがってからは、こわさねば改造できませんが、
たてかけのときなら、どのようにでも立派な家にやりかえることができますように、
人間の身体も、できつつある成長期に、筋肉を運動させておきますと、
なんでも動かすところほど発達するのが自然界の法則ですから、
筋肉が立派に発達して立派になります。

女の子でも本当に美しい肉体は、筋肉が充分発達したその上に、
女らしくやわらか味の脂肪がおおうていなければならないのです。
筋肉の発達しない身体は、男でも女でも美しくはなりません。
(つづく)

2409a hope:2013/07/10(水) 07:02:31 ID:edEDolt2
新版 生活読本 谷口雅春先生著(日本教文社)
第15章 斯うして能力を高めましょう

♦競技としてのスポーツ

運動のためや、心を明るくするリクレーション(きばらし)のためだけでなく、
競技のためのスポーツは、是非とも人間の心の働きを活発にするためにも、
心の働きを機敏(はやくする)にするためにも、必要なのであります。

世の中で立派な仕事をとげるには、何事が起っても、心の働きが活発(いきいきして)で機敏(すばやく)に、
つぎつぎ起ってくる事件に対処(それにたいしてよきはたらきをする)することができなければなりません。

物事に成功するか、成功せぬとかは、その人の心が物事に対して機敏に働くかどうかできまるのであります。
その心の機敏さを養うにはスポーツが、面白くて愉快なうちに機敏さが養えるのですから好いことです。

また競技としてのスポーツは、最後までの頑張りで勝ち負けが決まるのでありますから、
耐久力(ながくもちこたえるちから)とか、忍耐力とか、
頑張りの力とかを養成するにもたいへん結構な練習となるのであります。

世の中の仕事でも、もう一カ月頑張ることができたならば、成功したと思われるようなときに、
最後の頑張る力を失ってしまったために、失敗した実例もあります。

スポーツ精神の善きは、心が明るくなること、心が機敏になること、
最後の頑張りの力を養うことなど、色々よいことがあるのであります。
(つづく)

2410無人:2013/07/10(水) 14:32:14 ID:m90krdPo
398 :うのはな:2011/11/19(土) 08:31:20 ID:iM0b0bt6 妻への手紙 任地で綴った書簡集  藤原敏之 先生著

 今、寒波は全国的なものです。鹿児島さえも相当な積雪があったとか。
宇治も相当冷え込むことと思いますが、身体に気をつけて元気で留守番をしていて下さい。
今の私には貴女が元気でいて下さることが何よりの希望であり、喜びです。
貴女は私の力の源泉です。私を幸せにし、私をいつまでも元気で活躍させようと願って下されば、
貴女がいつまでも健康でいて下さることです。
 年が寄れば寄るほど、夫婦が強く結ばれて行き、力になり合うものです。
人間はどうしても心の支えというものが必要です。益々生命が一つに結ばれて行くものです。
この気持ちを理解し、心に張りをもって、いつまでも元気でいて下さい。
貴女はいつも、私を送ってから逝くと言っております。大変によい事です。
この気持ちを忘れないように元気を出して下さい。
 私達は素晴らしい神の子様をいただき、幸福者です。これからさらにさらに幸福になります。
大いに希望をもって生きましょう。
 いかなる時にも、神様を忘れてはなりません。心配も不安も、神様を忘れ、神様から離れた時にだけあるのです。
こちらが忘れていても、神様は寸時もお忘れになることなく常に守っていて下さるのです。
 人生とは汽車旅行のようなもので、乗っている自分はあっても、走っている自分はないのです。
常に生かされている自分はあっても生きている自分はないのです。この事を忘れて自分が生きていると錯覚した時、
不安になり、苦痛が生れるのです。自分が無いと判った時、一切のものが神様として拝まれるのです。
一切のものが神様として拝まれるまで、拝み切りましょう。信仰とは生活することであり、考えることではないのです。
実践を怠って考え初めた時、迷うのです。考えるということは過去の亡霊(現象)を掴むことです。
 今しかないのです。現実とは今を言うのです。今以外は非現実です。苦痛が生じるのは今以外の
非現実を生きた結果です。今を生きる者には苦痛は無いのです。今は神様から許された今であり神様からいただいた今です。
今を感謝する以外に無いのです。宗教とは生活することであり、感謝する生活であります。
感謝のみが神を現わし、神と共なる生活を実現させます。神と共にある時完全であります。
病気、不幸、災難は神を離れた状態をいうのであります。私達は常に神を呼びましょう。
それは「ありがとうございます」と称えることです。一切を神様として拝むことです。
神様はいかなる場合にも私共と共にあるのです。私共の前に問題が現われるのは、そのことを
知らせ、思い出させるためなのです。 (後略)

『魂のめぐり逢い』P124−126

2411SAKURA:2013/07/10(水) 19:08:20 ID:BEUD3XFA
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 
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■□ 第一章     信仰
―――――― 人間が 「肉体」でない話   ―――――  その①

人間とはいったい何でしょうか。
この一米余り五十キロ程の肉のかたまりが人間なのでしょうか。

もし、人間が単なる肉のかたまりならば、あの、肉屋の店頭に並んでいる、牛や豚の固まりと
同じように、何日かたったら、次第に腐って行く筈です。しかし、私達のからだは牛や豚のよう
に腐ったりはしません。何故でしょう。
 
それは、私達のからだには「生命」が宿っているからです。
 牛や豚の固まりには「生命」がない。すると人間の「肉体」は、「生命」の “いれもの”かも知れ
ません。そうです。「肉体」とは人間の「生命」のいれもの、つまり「箱」のようなものであります。

「箱」と「中味」と、どっちが主体かといえば、それは「中味」にきまっています。
 
即ち「人間」とは「肉体」のことをいうのではなくて「生命」のことをいうのです。
 言葉をかえて言えば「霊」とも言えます。
 
ところで、本当の親子、というのは、どういう親子のことを言うのでしょう。
それは、「肉体」と「肉体」との間につながりのある、つまり母親の子宮の中の胎盤と、子供のおへそ
とが、へそのお(臍帯)でつながっている、或いはつながっていた、親子のことを言うのだと思います。

 それなら、人間は、何でつながっているのでしょう。
 さきにのべたように「人間」は「生命」であり、「霊」であるならば、「人間」のつながり
もまた、「霊」のつながりと言えましょう。

  さて、 「霊」とは一体何のことでしょう。

「霊」とは、すべてのもののうちなる本体をいうのではないかと思います。一切のものに
宿っている、そのものの本体が「霊」であるとしたら、それは、どうやって形に現れるのでしょう。

 見ることも、捉えることも出来ない「霊」。それは「コトバ」となって現れます。
「はじめにコトバあり、コトバは神と偕にあり、コトバは神なりき」
「すべてのものこれによりて成り、これによらで、成りたるはなし。これにいのちあり」と、
聖書に書いてあります。

 一切のものが「コトバ」によって成る、即ち「霊」とは言いかえれば「コトバ」であることが
これによって判ります。

 つまり、「人間」とは「霊」であり「コトバ」であります。だから、人間と人間の関係も、結局は、 
「コトバ」であるというわけです。
                           つづく

PS: 「管理人 トキ様」 へ  「観覧者の皆様」へ
■【コトバ…】即ち【霊…】と言いますのは?正直な話……此処最近私自身も“自覚”する事と成りました。
しかしながら思いますに〜〜〜ここ4〜5日間の“オフ…”にての皆様の投稿は〜〜〜
感心させて頂きます位の【悪口…ネガティブなあらを探しての投稿】を、拝読させて頂きました。

これって「コトバ…=霊」としますから、当に【悪魔…囁き】になりますのでしょうか??

現代社会では「人々の心に光…」それを少しでも与える事と致しますと…
「ポジティブなコトバ = 真理そのモノ」ではないのでしょうか?【悪口論争…】の前に「真理…」かと!!

                           再合掌

2412無人の部屋:2013/07/11(木) 18:59:15 ID:0tXHbQqE

『無門関の日本的解釋』http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&amp;mode=res&amp;log=62

2413SAKURA:2013/07/11(木) 22:30:03 ID:pMLLKHKU
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 
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■□ 第一章     信仰
―――――― 人間が 「肉体」でない話   ―――――  その②

■私は長い間、母を、 「お母様」 とよんできました。
ただ一言も、 「もしもし、まま母さま」と、言ったことはありません。
母もまた、 「これ、 まま子や」 などと言ったことはありません。
人には、 「ムスメ」 といい、私には、「雪子、雪子」とムスメのように呼びました。

 私と母とのコトバの関係は、全くの親子でありました。
「そうだ。あの人は私のお母さんだ。本当のお母さんなんだ」 私は愕然としました。
「あの人が私の本当のお母さんなら、私を憎んでいる者はない。何故なら、本当のお母さんが、
本当の子供を憎む筈がない。又、私も、あの人の本当の子なら、あの人を憎んでいる筈はない」
この時の私の驚きは大変なものでした。

「やっと判った。どんなに憎もうとしても私が本当に母を憎むことが出来なかったわけが」
「人間は『肉体』じゃない。だから『肉』はつながらなくてもいいんだ。人間は『霊』だ。
『コトバ』だ。『コトバ』で母と呼ぶ人が母であり、『コトバ』で子と呼ぶものが子なんだ」
 私は花子さんの家を飛び出しました。

 夢中で家に帰ると、がま口をもって飛び出しました。そして電車に乗り、母の家に向かって
駅から、一心に走りました。
 遂に、私は、人間が肉体でないことを知ったのです。

                              つづく

2414SAKURA:2013/07/11(木) 22:33:24 ID:pMLLKHKU
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■□ 第一章     信仰
―――――― 母との和解  ―――――  その①

 ■当時、私の実家は空襲で丸焼けとなり、多摩川の近くに小さな家を借りて、父と母と女中さんが
一人、やっと生活していました。
 終戦と同時に父は戦犯となり、二人の弟は戦地に行ったまま行方不明でした。
 私は、いきなり台所で下駄を脱ぐと、あげ板をカタカタと踏みならして茶の間に飛び込みました。
 ちょうど、父は留守でした。女中さんもお使いに行っていませんでした。
 
あの美しく、立派であった母が、洗いざらしの浴衣を着、白粉もつけず、やせ衰えて、
悄然と座っていました。
「お母様、私が悪かった、ごめんなさい、これから親孝行するから、堪忍して」
私はいきなり母に抱きついて、そういいました。

 すると母は、今迄、一度も優しく抱いてくれなかった母は、私を固く抱きしめ、自分の顔を
私の顔にこすりつけ、涙を滝のように流して、こう言いました。
「私は五人の子供のあるところへ来て、一番先に私を『お母様』と呼んでくれたあなたが、一番
可愛かった。でも、あなたは、小さいときは『ハイ、ハイ』と言うことをきいてくれたけど、
大きくなってからは口返答ばかりして、少しも言うことをきいてくれなかった。どうしたら
良い子になって、いいところへお嫁にやれるかと思ってきびしく躾けをしただけだ」
と母は声を上げて泣きました。
私は本当に驚きました。 母はやはり私を愛していたのでした。
「この世は愛である、すべての人を愛し合っている」 とかって五銭のパンフレットで読んだことは
本当だったのです。それから、私と母とは抱き合って一時間も泣きました。
こうして、母と私は心の底から解け会うことが出来たのです。

                         つづく

2415SAKURA:2013/07/11(木) 22:35:02 ID:pMLLKHKU
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>2349>>2350>>2351>>2372>>2378>>2379>>2379>>2381>>2382>>2386>>2387>>2395>>2396
>>2399>>2403>>2404>>2411>>2413>>2414 の投稿の続きです…。

■□▬▬▬▬ 【 お答えします!!   法貴雪子 著  】  ≪ 日本教文社発行 ≫

■□ 第一章     信仰
―――――― 人間が 「肉体」でない話   ―――――  その②

■私はこの体験によって、もう一つのことを知りました。
それは、
「人間はみな、心の中では愛し合っているのだ」 ということです。
「どんな恐ろしい顔をしている人でも、本当はいい人なんだ」 ということであります。
何故なら、
あんな恐い顔をしていた母が、こんなに私を愛していたからです。
母は、そのことを教えるために、この世に出て来た観世音菩薩でありました。
そして、
人間は、決して「肉体」だけでつながっているのではないことを、自ら、証し人と
なって、私に示してくれました。
 このとき以来、私達親子は、全く、産みのことなって母が昭和四十五年、七十七歳で亡くなる迄、
人々が生さぬ仲とは気が付かぬ程、仲よく過ごしました。
 母が亡くなったとき、私は、ついて行きたい程悲しく、涙にくれました。
 今も尚、母の面影は私の中に生き、永遠にいのちのつながりとなって、私をはげましてくれています。

                          ❤〜 第二章に続きます・・・。
PS:「トキ様」 ヘ  「観覧者の皆様」へ
今の【生長の家の問題…】は〜>< 既に水面下では?十数年前からの「問題…」とも言えますでしょう。 
やはり「現総裁雅宣先生」の方針・考え方に相違点が在られます皆様が、どうしてもついていけない
という事での【お家騒動…ぼっ発】になりますのでしょうか??
“投稿文章…”を拝読してみますと「決めつけ論!」或いは「当人にとりましての都合のいい解釈論」…
最終的には?全くもっての【 真 理?は 何 処 に…><】見えますし、
果たして、本当に「信者…」とは〜〜〜名目ばかりなのでしょうか??つまり…
「質問…ばかり?の謎の分派…皆様」でしょうか??

■更に【 讃歌 】も“頭で考えたモノ…”云々…とか?個人差と言いますか?色々なる解釈論が〜〜〜><
此処で?勝手なる判断が、余りにも多く感じる次第なのです。…が?
まずは『真 理』が一番!!なのに『中 傷・批 判』が一番なる展開のような感じですし><

■さて「讃歌…」も創立者「雅春先生の本」の中から…そのコトバ…の一部と申しますか?
根本てきなる捉え方…が見つかりましてから〜〜〜“ビックリ…!マ−ク…!”です。
これに関しましては?後日『私自身のプログ』に投稿しようと思います。
更に!此処でコメント記載しても〜〜〜まず『真理がない会話…』の投稿の中で、
■□【雅春先生…回帰論】のスロ−ガンは〜〜〜実際の処?何を…何処を…どの様なる「雅春先生の本」の
中からの【理解…解釈説明】なのでしょうか??個人的には?あまり見えないのです…。

唯!私一個人と致しましては、最近『大自然讃歌での奇蹟…』が〜〜〜【小さな!小さな!……奇蹟】
■モット〜〜〜モット〜〜〜続けて“読誦”していきたいと思います。
ゴ−!ゴ−!サインで〜〜〜す。
                                  再合掌

2416a hope:2013/07/17(水) 11:38:40 ID:edEDolt2

新版 生活読本 谷口雅春先生著(日本教文社)
第15章 斯うして能力を高めましょう

♦ 規則を正しく守って勝敗に心を捉えられぬことが必要です

さらに競技としてのスポーツは、ただの「運動」とはちがって規則(ルール)を守るという善い習慣をつくることにもなるのであります。
競技には、卑怯ということは許されません。
本当に自分の力を出し切る習慣をつけ、規則を破ってズルイことをして勝つなどという悪い習慣をなくします。

勝つも負けるも、自分の実力であって勝った時にも傲(たかぶ)らず、
負けたときも長くやまず、腹を立てず、敵をにくまず、
人生を遊戯として楽しく生活しながら、遊戯だと馬鹿にせず、
全力を常につくして心を迅速に(すばやく)はたらかす習慣ができるのが、スポーツのよい点です。
だからスポーツは自分の趣味や体力に適するものを是非とも選んで何かおやりになる事が必要であります。

しかし、スポーツが面白いからとて、学校の勉強をおろそかにしてはなりません。
スポーツばかりでは科学的な知識や、数学や、語学や、是非この世の中に生きていく上に必要な色々の知識は得られません。

そこで学問の勉強と、スポーツとは車の両輪(両方のわ)のようなものです。
学問の勉強七分にスポーツ三分をまじえて、身体をきたえ、心を明るくし、機敏にし、
忍耐力や勇気を養いながら、一所懸命学問にも精をだすことこそ若い人たちのつとめであります。
(第15章 終わり)

2417うのはな:2013/07/17(水) 13:01:44 ID:IRtVZGfo
   自己を日子・日女として神の子を自覚した反映として、
   その国は神国となったのである

 「人間生命が神より生れたる神聖なるものであるといふ自覚が、その外延であるところの国をも神より生れたる国であるとの
神聖性を要求するのである。この要求が神によつてその国が造られたのであるとの神話を創造するのである。(『秘められたる神示』)

 この神示を根拠として考えてみるならば日本人がこの日本の国を〝神国〟であると古来唱え来ったのは、日本民族が特にその魂が高級であって、
自分自身のいのちが、神のいのちが宿っているのであるという自覚を、生れつき持っていて、外から教育されないでも、いのちそのものの中に、神のいのちを
頂いているんだという自覚があったために、自己のいのちの外延として現われている自分の国を〝神の国〟であると自然に認めざるを得なくなり、そういう神話が
自ずから創作されて語り伝えられることになったのであり、〝神の子〟なる〝国民の生命〟の外延としての〝国〟を〝神洲〟とみとめることに何の不合理もないのである。

『理想世界』 六十年四月 谷口雅春 先生著

2418SAKURA:2013/07/17(水) 21:17:03 ID:pMLLKHKU
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
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>>2399>>2403>>2404>>2411>>2413>>2414>>2415 の投稿の続きです…。

■□▬▬▬▬ 【 お答えします!!   法貴雪子 著  】  ≪ 日本教文社発行 ≫

■□ 第一章      家庭と夫婦
―――――― 因果の法則はあるか  ―――――  

 私のかって扱った調停事件にこんなのがありました。
 ある若夫婦が、親の家業を嫌って家を出たのです。
 そこの家は先祖からつづいた酒屋でした。
 長男(息子は一人しかいません、あとは嫁いだ姉でした)の嫁が、どうしても酒屋
はいやだというのです。親は猛反対でした。

 遂に家庭裁判所に訴えた結果、若夫婦は引越料を貰って家を出ました。
 私も、両親を気の毒に思いましたが、若いお嫁さんは臨月でしたから、若い二人の
気のすむようにして上げました。

 ところで、それから三年程たち、私が近所の「問題児を迎えた母親の集まり」に招
かれて、話をしに行きましたところ、
「先生、お忘れですか?」
という奥さんがいたので、ふと顔をみると、あの酒屋の若い奥さんでした。

「あら、あなた」
「先生、子供が自閉症です」
私は思わず、ハッとしました。あのとき、
「姑とは、口もききたくない」
といっていた人の子は、親の口をきかない子になっていたのです。
「自分の蒔いた種子は、自分で刈り取らねばならない」
と、私は教えられました。

 自分が人にしたことは、その人からではなく、ほかから返って来ます。
 これを「因果の法則」といいます。
 それなら「因果の法則」は恐ろしいだけでしょうか。そんなことはありません。
「悪かった、すまなかった」
と思った瞬間、今度は新しい因果の法則が働いて、相手も亦、
「悪かった、すまなかった」
と思ってくれるのです。

 法則とは神とは愛だからであります。あの若奥さんも今頃はそれを悟ってく
れたことと思っています。

                         つづく
PS:「トキ様」へ  「観覧者の皆様」ヘ 
【因果の法則】は、私なりに理解する事が出来ました。今までの“行い?…”からの【結果…】と
申しましょうか?現実世界に、現状あらわれて出でてきた事は、過去の【原因…】が何かの形での現れる!
それも〜〜〜“横のつながり…”からとか?でしょうか〜〜〜?

今回、此処…帰福してからと云うモノの(4年位経ちますでしょうか?)関わりたくない【人間…】が
しかも、それが現実となって現われ生じました事とは、やはり【過去の問題…】からだと思えます。
…が?本当に不思議に思うのです。
「吸血鬼・ゾンビ…」そして【タタキ男】更は【黒幕デザイナ−】……etc
■クロ!クロ!〜〜〜黒幕〜〜〜幕達は、一見としての「第一印象…」は、第三者から果たして
どのように見えるのでしょうか……??

私は見た瞬間…脳裏に過ります「印象度…」は〜〜〜><良い印象がないのです。…が?
処が?此処、FUKでは,もしかしますと?当たり前でしょうかしら〜〜〜ン!

それでも「世間一般=社会…」に、もまれていません【信仰関係の方々…】は、簡単に表現に語弊を
生じますと困りますが??このような方達を「かわいそ〜〜〜う!」此の感情からでしょうか?相手が、
【悲劇の主人公…】としての巧みなる“コトバ…”を、すぐさま一瞬!信用するのでしょうネ!
…と思いながら、それでも、やはり、『相手を讃嘆…』という“心の目…”で、どんなに良く見ようと
思いましても〜〜〜失礼ながら?良い印象がないのが〜〜〜正直な話です…。

このような方達は、汚い事ばかりしていて【お金…を手段】にしていますから、いずれは
【法則…】としての【因果の法則…】が必ず来るのだと思います。

今の私は【過去の清算…】をしていると思いながら、一心に【心を調整中…】です。『集中…』

                                    再合掌

2419a hope:2013/07/18(木) 06:30:22 ID:edEDolt2

新版 生活読本 谷口雅春先生著(日本教文社)
第16章 理想を高く掲げましょう(p202〜)

♦登ればいよいよ高くなる

登ればいよいよ高くなり見晴らしがよくなります。
一歩々々登るほど希望の努力を勇気づけるものはありません。

いかに今歩いている所が麓の近い傾斜(さかみち)であろうとも
やがては世界第一の最高峰(いちばんたかいみね)の頂上に到達して、
眺めよき世界を見はるかす事ができるという希望ほど
吾々の生活上の勇気をひきたたせてくれるものはないのであります。

あなたの、今している仕事又は研究が、いかなるものであろうとも、
その種類は問う所ではないのです。
必ずそれが向上の道につづいているという夢を失ってはならないのです。
(つづく)

2420a hope:2013/07/19(金) 07:40:29 ID:edEDolt2

新版 生活読本 谷口雅春先生著(日本教文社)
第16章 理想を高く掲げましょう

♦悪いことを予想する習慣をやめよ

多くの人たちは自分自身の生活習慣そのものによって、
自分の生命の伸びる力に堰(せき)をしている人たちが多いのであります。
まずその一つは消極的な悲観的な物の暗い面を考える考え方です。

石橋をたたいて渡るという確実性は必要でありますが、
それが病的になってしまって「何か悪いことがおこるかもしれぬ」と不安で
あらゆる出来事を打診(ようすをみる)しているような心の状態になってしまっては、
その人は伸びることができないのであります。

吾々は物の暗い半分を必ず見る習慣をすてて、
明るい面のみを見て前進する習慣をつけなければならないのです。

どんな美人を見てもその腹わたの中にある汚いものを
連想(おもいあわす)するような生活の仕方は光明思想ではないのであります。

どんな事件にも、どんな人にも決して暗い面を見ずに、
明るい面のみをみて喜び感謝する習慣をつくるべきであります。

何か人のことだというと、どんないいことであっても、一つ二つは、
欠点を見出しそれを批判してみなければ満足が出来ないというような浅ましい心になってはいけません。
智慧の言葉には「隠れたる所にて人をほめ得るような心境となれ」とかいてあります。

吾々がすてなければならない習慣の中で、第一にあげなければならないのは、
人の欠点を探すという習慣です。

吾々は自分の心に人の欠点ばかりをならべて見ていれば、
それが自分を包んでしまう屏風になってしまって、
その彼方に輝いている美しい姿や神の光を見失ってしまうことが随分あるのであります。
(つづく)

2421SAKURA:2013/07/19(金) 21:00:31 ID:pMLLKHKU
トキ様 へ 観覧者野皆様 へ
こんばんは、ローマ字のSAKURAで〜〜〜す・・・。

■小閑 雑感
―――― 失敗 と 成功 ――――          谷口雅宣

“花金”と言えば「花の金曜日」だが、木曜日が休日の私は “花金”だ。ということで、
レオナルド・デカプリオ主演の「アビエイタ―」を見ることにした。

 午後7時開演に間に合うように夕食をすませるるつもりで、妻と二人で家を出た。
目指すは、六本木ヒルズ。ところが、席を確保するために事前に映画館のチケット売場へ行くと、
前の会は5時開演で、次の開演は8時20分だという。出発前に家から映画館に電話をかけて
確認した時間と、大いに違っていた。抗議しようと思ったが、今さらどうにもならない。
最終回の8時20分まで待つにはシンドイし、どうしても見たい映画でもなかった。
また「いつでも見れる」と思ったので、悪アガキはやめてスッパリと諦めた。

 では、ゆっくりと夕食を……と思って、周囲を歩き回って安めの和食屋へ入った。一時間ほど
たってその店を出て、地下鉄日比谷線の駅近くの本屋へ寄った。時間に余裕のあるときには、
我々はよく本屋へ入る。そして、思い思いの棚の前へ行って物色する。だが今日は、私は店の
中へすぐに入らず、店先の路上の棚でセールをしていた洋書は、流行作家の小説や、英文科の
女学生好みの作家の本や旅行書が多い。しかし、場所が六本木だから、ネイティブ・スピーカー用
の普通の本もあるかもしれない……思いながら、何の気なしに1冊を棚から抜き取った。本当に
「なんの気なしに」で、背表紙の文字もロクに読まなかった。その本を手に持ちながら、
しかし私の目は近くの別の本の表紙に書かれた「SILENTSPRING」というタイトルを読んだ。
どこかで聞いたことがある。著者名を見ると「Rachel Carson」とある。
そうだ、レイチェル・カーソンの名著『沈黙の春』だった。思わず手に取ってみたが、
この本の和訳本の文庫版はもう買って家にある。いくらセールとはいえ、2冊ある必要はないと
考え棚にもどした。

 もう一方の手に持っていた本を、私はその時改めて見た。著者の「ROSENBERG」と
いう名前が、記憶に引っかかった。
知っている名前だと思ったが、誰なのか思い出せない。タイトルは「the fransformed cell」とある。
副題は「unlocking the mysteries of cancer」だ。著者は「MD」であり「PHD」であり、
癌(cancer)に関する本である。ここまで読んで、私は思い出した。記憶とは不思議なもので、
一端つかむと、それに引かれてズルズルと残りが出てくる長い紐のようだ。癌の免疫療法をアメリカ
で行っている医師のことを、もう何年も前にABCニュースで見た。その医師の、白髪混じりの短髪と
アゴ髭までも目の裏に浮んできた。その人の名前が確か「ROSENBERG」なのだった。立ち読みで
「まえがき」を読み、確信を得たので買うことにした。セールの本の売り値はどれも500円だから、
私にとっては確かに“掘り出し物”だった。

 このローゼンバ−グ博士の弟子として働いていた日本人医者が帰国し、癌の免疫法をしていること
を、私はかって生長の家の講習会で話していたことがある。患者自身の免疫系にあるNK細胞を血液
から取り出し、試験管内で大量に増殖させ、それを再び体内にもどして癌細胞と戦わせる――
こういう治療法である。
人間には本来、癌を治す力があるということを、医学的にこれだけ有力に立証するものはない。
そう思って紹介していた。だから、懐かしい気持ちでこの本を手に持ち、帰途についた。

 私は、本とのこういう、“予期せぬ出会い”を大切にしている。「本が自分を招ぶ」と言えば
迷信臭いかもしれないが、「人間は意識せずに必要な本を見つける能力をもっている」と感じる
ような出会いを、私は過去に何回も経験している。多分これは「親和の法則」の一部だろう。
そのかげで、お目当ての映画の時間を間違えたという“失敗”も見事に“成功”に変ってしまった。

                                       谷口雅宣著
◆ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー◆
                                                     つづく

2422SAKURA:2013/07/19(金) 21:02:05 ID:pMLLKHKU
トキ様 へ 観覧者野皆様 へ
こんばんは、ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す・・・。
>>2421  のSAKURA投稿の続きです…。

■小閑 雑感
―――― 失敗 と 成功 ――――          谷口雅宣      ―その②―

PS:「トキ様」 へ 「観覧者の皆様」 へ

そうです〜〜〜ョネ!【人生は…予定通りには行かない事??】が〜〜〜><
ハプニング…アクシデント…が、もしも?もしも?起きた時は、その人の“心の状態…”があけすけに?正直に見えて
きますでしょうかと。…その後の展開にて、一瞬!の【判断の思考…】そこが〜〜〜ポイントでしょうか??

「総裁先生」は『抗議の展開』といいます行動をとらずに、気持の向きをガラリと、切り替えての“行動…”から??
当に「スイッチ…切り替えモード」した事によります…そこで得たのは〜〜〜それが【成功…】に!!繋がる結果ヘと…

このような“アクシデント…”の【応用…編】が、私どもの日常生活には多々あります。…が?今の私も、生活面で
【我の張り合い…】とか?いろいろある中、やはり“アクシデント…”が起きた時は【神の警告…】と!!
表現が、ちょっとオーバー気味でしょうか?その時の“心の状態…”にて、気持の向きを切り替える事が、ある面では、
必ずや【成功…法則】へ導くキッカケにつながるようにも思えます。 (微笑)

私も、まだ【執着…】がある間は【成功の法則…】は〜〜〜?もしくは【天国の門…】は何処になるのでしょう…かと?
フト!「総裁先生」の2005年度にての、今回のご文章を読んで思いましたのです。本屋さんに入って、手に取った本を
…そして、おぼろげに別の本を手に取り〜〜〜パラパラ〜〜〜めくり始めたモノの?手に持ったままの“本…”!!
気になりながらも〜〜〜そして、又もや“或る本…”を取り〜〜〜また“本…”を元に戻す。もう一つの手に持ち続けた
その“本…”を改めて読んで、此処から【幸福の運命…】に導かれる事なのでしょうか??
目的の【映画…】は見ない分〜〜〜逆に!有意義な時間が出来た事……という結果に終わったのではないでしょうか?

■□この様に【成功 と 失敗…】はちょっとした弾みからくる事を何となく〜そう!!【霊界の導き…】なのでしょうか??

>>私は、本とのこういう、“予期せぬ出会い”を大切にしている。「本が自分を招ぶ」と言えば
迷信臭いかもしれないが、「人間は意識せずに必要な本を見つける能力をもっている」と感じる
ような出会いを、私は過去に何回も経験している。多分これは「親和の法則」の一部だろう。
そのかげで、お目当ての映画の時間を間違えたという“失敗”も見事に“成功”に変ってしまった。<<
                                 (抜粋文)
◆――−――−――−――−――−――−――−――−――−――−――−――−――−――−――−――−――◆

【 人間は意識せずに必要な本を見つける能力をもっている。 】

そうなのです〜〜〜ョネ!!【 成功も幸福 】論も【意識=無意識】から起きる事なのでしょうか??
この結果は?当に「縦の真理…」を…つまり【神の声…】をどのように受信できますかと〜〜〜><
それは「自我…」が多少なりともありますと「彎曲した…メッセージ」にややもしますと成りかねませんネ!
今日からの私は「無意識状態…」に入り、そこから【 意識状態…そう!!潜在意識…へ 】に、
繋がっていく事を、改めて勉強させて頂きました。
                           【 感謝!! 】

PS: 此処から「無意識?意識」の【ユング…!フロイト…!】の心理学が〜〜〜フト!
思いだしてしまいましたかと…… ボンヤリ〜♫

2423SAKURA:2013/07/19(金) 21:18:04 ID:pMLLKHKU
トキ様 へ 観覧者野皆様 へ
こんばんは、ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す・・・。
>>2421>>2422 のSAKURA投稿の続きです…。

■ 小閑 雑感
―――― 梅の実の落ちるころ ――――          谷口雅宣      ―その1―

 夕食後の静かな時間、居間で窓に背を向けて新聞を読んでいたら、背後で突然、トーンと音がした
ので驚いた。サンルームのアクリル・ガラスの屋根に小石のようなモノが当り、そして小いものが転が
る音がした。一瞬「何だ!」と身構えたが、その音には憶えがある。まもなく“犯人”に思い当たった、
梅の実なのだ。

 サンルームの上に覆いかぶさるようにして、紅梅の古木が1本ある。祖母の還暦祝いにもらった
盆栽が、地植えして育ったものだから、樹齢は40年を超えるだろう。毎年、寒風の中、他の木に
先駆けて濃いピンクの花を咲かせ、我々の心を温めてくれる。否、紅梅より先にサザンカやツバキが
花をつけているが、これらはあくまでも「冬の花」だ。紅梅はその色のせいか、寒中に咲いても春の
訪れを感じさせる。

 それに続いてジンチョウゲ、ハクモクレン、ユキヤナギ、レンギョウ、ヤマブキ、ヤマザクラ、
キリシマツツジと咲けば、もう春もたけなわ。桃色のサツキ、白い可憐なブルーベリーがこれに加わり
いつのまにか5月になる。そんな時、風が強く吹く夜など、花から実になった梅が落ちて人を驚かす。

 この紅梅の木にはネコが登る。その理由の一つだと私が考えているのがキーウィ−だ。サンルームの
透明の屋根に隣接してキーウィ−の棚がある。夏になり、この植物の蔓が伸び葉が繁ると野良ネコたち
が近づきたがる。

 この話は『 小閑雑感Part 』 にも書いたが、キーウィ−はマタタビ科だから、ネコにはその匂い
がたまらないのだ。紅梅足がけにサンルームの屋根に上り、屋根からキーウィ−棚に近づいて、その匂
いをかぐ。

 下で読書などしている人間にとっては、それが気になって鬱陶しいので、ネコが屋根に上らないよう
に、紅梅の幹の中途にネコの登攀を妨げるため鍔の「キャット・ストップ」なるものを工夫して設置した
ことがある。刀の鍔のように、べニア板で梅の木の周囲を取り囲み、ネコの前進を阻もうというわけである。
が、ネコはその上を跳び越えてしまた。金網を梅の枝に張ってみたが、それもネコの運動能力の前には無力
だった。

 そんなネコと人間との難しい関係が始まる前に、紅梅は実を落とすのである。もう夏は目の前だ。

  ♫〜 薄屋根に 梅の実落つや 春の宵  

谷口雅宣著

                                       つづく

2424SAKURA:2013/07/19(金) 21:20:12 ID:pMLLKHKU
トキ様 へ 観覧者野皆様 へ
こんばんは、ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す・・・。
>>2421>>2422>>2423 のSAKURA投稿の続きです…。

■ 小閑 雑感
―――― 梅の実の落ちるころ ――――          谷口雅宣      ―その2―
PS:「トキ様 」 ヘ  「観覧者の皆様」 ヘ

【古木の“紅梅”と“ネコちゃん”の関係との描写】を……当時の心境が、見えてきますかと??
確かに?古今到来と申しましょうか?〜〜〜語弊が生じますと??困りますが><
植木されています方は、或る面では【大敵=>ネコとの戦い】と思いますかと。実は「亡き父」に関連しますが?
「亡き父」の趣味?と申しますか?モノごころつきました時には【温室…】がありました。そこには「温室栽培…バラ
の花」温室の中には、「亡き父」が愛念をこめた“バラの花…”の栽培をしていました。…が?当時!
野良猫ちゃんがいまして、タイミングよくと申しますか“花が咲く前…”に〜〜〜><ダメ−ジを!!
「亡き父」にしますと〜〜〜明日!キット“一輪の花…開花”するかと…期待しながら(微笑)大事に!
大事に!育てた“バラの花…”が〜〜〜?“露の如く><”でしょうか?そうこうしておりますと…

■突如!朝〜〜〜起きてから、「亡き父」の声!!!けたたましい〜〜〜その声!!!
しかも〜〜〜明日“バラの花が開花する…当日の朝”このタイミングにて毎回の“けたたましい声!声!…”
この“声…”に目を覚ます〜〜〜“日課…”でしたかと。

「亡き父」が取りました【野良猫ちゃんヘの対策…】に〜〜〜!ネコちゃんが屋根裏から来ますので、
その通路に“ハトよけみたいな釘?”を板に何本も付けて、通れないようにしていました。

或る日の事です。私がフト!その通路を見ますと?野良猫の子猫ちゃんが通りそうに見えまして、私は、
倉庫から梯子をだしてきまして、その子猫ちゃんが通らない様に誘導していましたら、その様子を「亡き父」
が運悪くと申しますか?見ていまして、それから【親子喧嘩の始まり…】なのです。

❤「亡き父」の言い分は〜〜〜と云いますと?
【“ばらの花…”が咲く!しかも実に“難しい花…一つ”だそうで、毎回と云っていいくらい
“バラの花が、咲く前に…><”ネコちゃんが……

❤逆に、私の言い分は〜〜〜と云いますと?
私は“子猫ちゃん”は“柵…”から跳び越える事は〜〜〜とても出来ないし、もしかして!最悪の場合に
“釘に刺さる…”と〜〜〜“からすの餌食”でしょう!!命ある生きもの方が大事ではないの??と……

私なりの【反論…】そうしますと「亡き父」も負けていませんでしたが〜〜〜??

結果的には、当時の私は“子猫ちゃん”を安全な場所に連れて行った事があります。そして、動物を
飼ってほしいとの希望を?しましたが「亡き父」はネコを飼ってくれる事はありませんでした。
当時は、意外と「生長の家の人…」は、『動物を大事にされる方が少ない!!』と、心の中で、よく思った
ものなのです。…が?反対に、“鳩…”とかヘの関心は〜〜〜凄いという感じを抱いておりました。

■逆に言いますと「ネコ・犬…」は?“ペットブ−ム…”のあおりもあり〜〜〜
此処昨今では〜〜〜あくまでも【人間との関係…癒し系?】という具合に、友好的?な感じでしょうか??
最近の「総裁雅宣先生」でも昆虫…そして動物へ優しい“目…”で見て下さる感じに思えますし…
確か?フェイス・ブックにも「笑うネコ…」という〜〜〜ユニ−クなぬいぐるみ??が〜〜〜かと。

確かに「自然の植物…」も大事ですが?「野生の動物達(生きモノ)」への“関心の目…”を向ける事が
〜〜〜モット!モット!【優しさ…倍増】では?個人的にはそのように思えます。

                                    つづく

2425SAKURA:2013/07/19(金) 21:21:41 ID:pMLLKHKU
トキ様 へ 観覧者野皆様 へ
こんばんは、ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す・・・。
>>2421>>2422>>2423>>2424 のSAKURA投稿の続きです…。

■ 小閑 雑感
―――― 梅の実の落ちるころ ――――          谷口雅宣      ―その3―

■□話は元の本題に戻りまして〜〜〜【古木の“紅梅”と“ネコちゃん”の関係との描写】〜〜〜
今のの問題……つまり【生長の家…お家騒動】にもありますように、それは【 縦と横の関係 】でしょうか?

【分派の皆様方】は、あくまでも「現総裁雅宣先生…」を認めない【心…そのものが先にあり!!】と云う
事でしょうか?それは〜〜〜【真理を把握…】しますと、色々な【応用編…】が出来てきますし、
まず!中心はあくまでも【現総裁雅宣先生…に従う事】だと思うのです。
更に、相手を“中傷…”すれば、するほど、その人は、それだけの【人格…価値観】ですかと。

■今の私は、常に!【心の変化が〜〜〜ある事自体が〜〜〜進歩向上!!】と思えるようになり、今は、
まず【心の想念を、正しい心の想念感情を〜〜〜!!!】とこのように思う次第です。

                                    再合掌

PS:「トキ様」 ヘ   「観覧者の皆様」 ヘ
昨日…木曜日午後7時からの「栄える会…」会合に参加させて頂きました…。場所は「天神センタ−」です。
此処に、福岡の「現白鳩会長…T様」が講演にきて下さるとの事でしたので〜〜〜参加しました。
そして、参加「心は讃歌…」と云う状態のポジティブな想念になりました。…が??

フト!今は「亡き両親」が、『誌友会…会場としての自宅』に、当時の佐賀教化部長先生でしたか?
「亡き喜多先生」が講話された頃の事を、思いだしました。そうなのです〜〜〜ョネ!
このような話口調の方…一本の“説得感…”がありましたかと。
それは?まるで!まるで!【紅梅とネコの戦いの“大調和の展開?”…】のお話に感じまして〜〜〜
説得感!エネルギッシュなパワ−!が〜〜〜此方にも頂きまして、やはり「講話が上手な方」でしょうかと?
余談ですが?
正直申しますと「元々元第一教区の渡●会長…」は、今にして思いますと、比較に成らないほど“講話は×”
でしたかと思うのです。今回の「白鳩会長…様の講演」は、当に【人生の生きた証の跡…重量感】を、実に
ユニ−クに、今の日常生活に基づきました【真理…引用】にての素晴らしい講話を聴く事が出来ました事に…
感謝申しあげます…。
                                 再合掌

PPS:
❤ では〜〜〜また後の「栄える会での講話内容」を〜〜〜!!

2426神の子さん:2013/07/19(金) 21:21:44 ID:???
谷口雅宣著「小閑雑感」は「聖典」ではありません。

このスレッドは「聖典引用版」です。トキさんそうですよね。

2427トキ:2013/07/19(金) 21:54:17 ID:8kf2B54Y
>>2426

 これは、一本、取られました。個人的には良いとは思いますが、確かに理屈は通っているので、
誠に申し訳ありませんが、総裁のご文章は、信仰/体験板/2にお願いします。

 ただ、考えたら、ご高弟様などの文章など、聖典でない文章でも、紹介に値するものはあります。
そういう文章を紹介する場所があっても良いかもしれませんね。

 少し思案をいたします。できれば、『部室」板などに、ご意見を投稿して下されば、幸いです。

合掌 ありがとうございます

管理人敬白

2428a hope:2013/07/20(土) 08:20:13 ID:edEDolt2

新版 生活読本 谷口雅春先生著(日本教文社)
第16章 理想を高く掲げましょう

♦常に人の美点を見つけましょう

常に明るいことのみを心に描きましょう。
常に人々の美点のみをみつけてそれを賞嘆(ほめててえる)しましょう。
人々の美点を他山の石(じぶんのためにするたとえ)として
尚一そう大いなる美に到達するのを自分の理想といたしましょう。

みにくき欠点を見ないで、いよいよ高く美しき理想を描きましょう。
自分の描く理想は自己の生活する人生の性格を一変してしまうものなのです。

人は理想に従って、その人の人生の色彩、匂い、動作、性格、方向、運命等が自(おのず)から変ってくるものなのです。
もし理想が低ければ、吾々の人生の全体の調子が低いものとなってしまうでありましょう。
そこから、堕落と下向(したへむく)とが始まるのです。

もし吾々の理想(だい一のきぼう)が高く清く尊きものであるならば、
それは必ず吾々の日常の言行動作(おこない・うごき)に現われるのであります。

強いてそれを他(ひと)に告げずとも人々は、その人から発する所の雰囲気によってそれを知り、
その周囲に自(おのず)から集まって来て、彼をその高き理想まで、おしあげてくれる仕事をしてくれるのであります。

かかる人の全身(からだじゅう)からは何となき崇高(けだかい)なる雰囲気がたちのぼるのです。
かくの如き人こそ常に天国に住む人といわなければなりません。

天国に住む人とは、富の俗悪(げびてみにくい)な物質のがらくたが
山積(山のようにつもる)している中に埋もれてすむことではなくして、
斯くの如き天国的な雰囲気の中に住む人こそいうのであります。
(つづきあり)

2429a hope:2013/07/20(土) 08:22:05 ID:edEDolt2
>>2428のつづき)

すべてこれらのことは、心の習慣によって人間の雰囲気が変ることを示しているのであります。
今日行う勉強とか教養とかの目的は、人間を粗野(いやしくげひん)なる欠点ばかり見つける習慣から
美なるものを見つける崇高な習慣へあらためさせることにあるのであります。

常に間断(たえま)なく一そう高き理想に邁進(おそれずすすむ)するものは、
常によき雰囲気を得るのであります。

偉大なる人格とは常に美点のみを見て欠点を見ず、常に光のみを見て闇を見ず、
善悪ともにそのあたたかき光にて包んでしまう太陽の如き人をいうのであります。

すべて欠点を心に描けば、その暗い影はまず自分の心に印象(きざみつける)せられるのであって、
自分の心を汚す汚点(よごれ)となるのであります。
(つづく)

2430トキ:2013/07/20(土) 09:39:21 ID:C.s9Wkso
 一晩考えたのですが、現在の総裁の引用も「弟子」の発言として認めようと思います。
また、本流復活派におられる先生の発言も『弟子」の発言として認めようと思います。
 この扱いには、双方から強い異論があるのは承知していますが、ご理解のほど、
お願いします。

 ただ、原則として、『聖典」の引用をメインにお願いします。聖典以外の引用は、
『信仰 体験」板での投稿を推奨いたします。

 勝手なお願いですが、よろしくお願い申し上げます。

合掌 ありがとうございます

管理人敬白

2431SAKURA:2013/07/20(土) 18:31:47 ID:pMLLKHKU
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
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>>2399>>2403>>2404>>2411>>2413>>2414>>2415>>2418 の投稿の続きです…。

■□▬▬▬▬ 【 お答えします!!   法貴雪子 著  】  ≪ 日本教文社発行 ≫

■□ 第一章      家庭と夫婦
―――――― 子供が出来ない方のために  ―――――  

 私には十年間子供が出来ませんでした。
だから十一年間目に男の子が生まれたときは、天にも昇るほど嬉しく、天地が輝いて見えたのです。

 どうして出来なかったかといえば、私には子供の母なる資格がなかったからだと思います。
自分がまだ子供のように我儘で、我が強く、そして、母らしい愛情が不足していたのでしょう。
子供が欲しい、と切に思うようになったら何となく子供の多勢ある人と親しくなりました。

 そのころ近所に子供が五人もあるひとがあったので、そこへよく遊びに行きました。
 そこの奥さんは、家の中は余り片付いていないけれど、大変愛情のある人で、とて
も御主人を大切にしていました。
 あるとき、町内のお祭りの寄付をとりに来ました。僅かな額でしたから、私は、
「ハイ」 といってすぐ出しました。
するとその奥さんは、
「主人にきいてからお返事します。」
といってすぐ出しませんでした。

 私より、ずっとお金のある、しかも五人も子供があって、一家の実験を握っている
その奥さんがそういったので、私はびっくりしました。

 そのとき、何となく、自分に子供の出来ないわけが判ったような気がしました。
 此頃は男女同権で、こんなことをする家は余りないかも知れませんが、男女同権と
いうことは、社会の中の秩序であって、一軒の家の中に、全く同権の人が二人いた
ら、とても家は治まらないと思います。

 古事記をよむと、日本の国は、男が先だち、女が従ったらよい子が生まれた、と書
いてあり、女が先だつと、うまく行かないように記されています。

神からさずけられたいのちは平等でも、男には男の役割があり、女には女の役割
りがあって、決して同じではありません。

                       つづく

2432SAKURA:2013/07/20(土) 20:23:39 ID:pMLLKHKU
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
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■□▬▬▬▬ 【 お答えします!!   法貴雪子 著  】  ≪ 日本教文社発行 ≫
■□ 第一章      家庭と夫婦
―――――― 子供が出来ない方のために  ―――――  

 例えば、男には子供を生むことも出来ないし、お乳を出すことも出来ません。
 だから、女性の妊娠、出産、は、男性の庇護のもとに、行なわれ、そして又、その幼い子は、
柔い母の手で育てられて行きます。
 母は自分の体の一部のように子をいちくしみ、保護するのです。 そのために男は智慧と体力
を養い、一家の経営を考え、家族をリードして行く大責任を持たねばなりません。
 私は、女性が働くことを大いに奨励する人間ですが、子供を育てることを放棄して迄、外に出よ
とは言わないつもりです。子供を育てるという大責任を負う妻はどうしても夫について行かねばなり
ません。自分の心の中にこの設計が確立したとき子供は必ず生れます。
                     ❤〜次に続きます…。

PS:「トキ様」 「観覧者の皆様」 へ
【子供が出来る人…??】【出来ない人…??】…これも?「コウノトリ」になりますかしら〜〜〜ン!
何となく私自身も?理解出来ますし〜〜〜此処で、フト!
【結婚?出来る人…??】【出来ない人…??】も当に、しかと〜〜〜当てはまる様に思うのです

私事になりますが〜〜〜モ〜〜〜ゥ!密かに長く思いを寄せていました人が、いました。…が?
今だに成立しておりません。…と言いますことは?これも「法貴先生…」の捉え方でいきますと、
私の“心の中の準備が〜〜〜まだ!まだ!不足…”なのでしょうネ??…と、最近思えるのです。
ヤ〜〜〜ット!この年になりまして“物事の見方…”がわかり、この頃は「亡き母」をよく思い出します。
私から見ますと、如何なる時でも、病気で横になった事が無く、子供心に?いつも【不思議…な人】…!

ある時の事です…。「亡き母」に、その事を聞きますと〜〜〜
「結婚したら、母親になり、自分の事より、子供中心になるから、病気の事など考える暇がないワ!」と
半分!自分自身にも言いきかせたような表情で、答えてくれたものです。この事は、今回の
「法貴先生の言葉」から伺えますかと…。

更に【男女同権…】これは“夫婦の関係…”からでしょうが、ある面では〜〜〜例えば!
すぐ思い浮かびますのが【市川房江さん】…彼女の功績として
1)政府・議会に婦人参政権を求める運動を続け…
2)汚職反対・母子保護・生活防衛などを目的とした様々な運動…に関わった人物…
この様に、彼女の貢献により【女性の立場…】は、やはりこの様な人々のある面では?
“犠牲的精神…の愛”があり、多くの人の運動に於いて【法案成立…】ですから〜〜〜??

さて!此処昨今では?「子供虐待事件」更に「産み捨て事件」多々です。…が?
特に、皆様も御存じの〜〜〜
■□【広島での…車内と外でみんなで暴行…広島遺棄事件…】
これも、モット!モット!“道徳面…”と申しますか〜〜〜ある面では、やはり【善・悪…】に
関しましての???考える“思考力…”がいるのではと思います。
今回のように、私の捉え方としては〜〜〜“棒読みの理解力…”は果して〜〜〜><
最近の「若者…」に対し“思考力を育てる!”この意味では?どういうものかとの疑問が浮かんでし
まいます。…が?
海外では【哲学…偉人の書籍本を参考にしながら?自分の考えを表現する場・或いはその権利があり、
どう考えましても“棒読み…”は?いかに【道徳面の思考力の発達に…貢献度としては〜〜〜】と、
思う次第です…。【思考力…低下】ではないでしょうか??そして個性ある個人個人の【思考力…】
そから次なる…【討論の場…】にての意見交換が成立して参りますのでしょうかと。【決めつけ論…】

最後に…個人的ですが、今回は、多方面で考えさせられる機会を頂く事と成りました。…が?
「亡き法貴先生」の考え方に〜私自身は時代の差こそ感ぜず【賛同!納得!】の面が多い私なのです。
❤「法貴先生著…」 素敵な書籍との出会いに…感謝申し上げます…。更に!続きます〜❤
                      再合掌

2433a hope:2013/07/21(日) 08:28:28 ID:edEDolt2

讃美歌 391番 『奉仕』

ナルドの壺ならねど、
ささげまつる わが愛
みわざのため 主よ、潔(きよめ)めて
うけませ。

よわき民に ちからを、
おぐらき世に ひかりを
あたえて主の たかき御旨
なさばや。

怖(お)ずるものに 平和を、
なげくものに のぞみを
わかちて主の ふかき恵み
あらわさん。

この世のわざ おわりて、
あまつ国に、かえらば、
主よ、みまえに 仕えまつらん
ときわに。



申命記 15章7節〜11節

あなたの神、主が与えられる土地で、どこかの町に貧しい同胞が一人でもいるならば、
その貧しい同胞に対して心をかたくなにせず、手を閉ざすことなく、
彼に手を大きく開いて、必要とするものを十分に貸し与えなさい。

「七年目の負債免除の年が近づいた」と、よこしまな考えを持って、
貧しい同胞を見捨て、物を断ることのないように注意しなさい。
その同胞があなたを主に訴えるならば、あなたは罪に問われよう。

彼に必ず与えなさい。
また与えるとき、心に未練があってはならない。
このことのために、あなたの神、主はあなたの手の働きすべてを祝福してくださる。

この国から貧しい者がいなくなることはないであろう。
それゆえ、わたしはあなたに命じる。
この国にいる同胞のうち、生活に苦しむ貧しい者に手を大きく開きなさい。

2434SAKURA:2013/07/21(日) 22:11:36 ID:pMLLKHKU
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>2349>>2350>>2351>>2372>>2378>>2379>>2379>>2381>>2382>>2386>>2387>>2395>>2396
>>2399>>2403>>2404>>2411>>2413>>2414>>2415>>2418>>2431>>2432の投稿の続きです。尚【引用…】となります…。

■□▬▬▬▬ 【 お答えします!!   法貴雪子 著  】  ≪ 日本教文社発行 ≫
■□ 第一章      家庭と夫婦
―――――― 倦怠期とは  ―――――  

 長唄をやっていて倦きたら、ピアノに変えてもよいし、絵を習うのにあきたら、手
芸に変えても良いでしょう。
 でも、夫婦生活に倦きたから、といって、相手を変えるわけにはなかなかいきません。

どうしましょう?? ・・・  こうしましょう。
大体、あきる、のは、ひま、だからです。
私も結婚して四十年たちますが、とても倦きているひまがありませんでした。忙しかったです。

私には、生長の家の講師、という役目のほかに、民生委員、PTAの役員、のちに
は、家庭裁判所の調停委員、いのちのでんわのカウンセラー、と、いつも仕事がありました。

 その上、主人の両親も長生きでしたし、私の母は七十七歳で亡くなりしたが、父
は九十九歳で現在しております。
 大変疎遠になって申し訳ないとは思い乍も数多い親戚とは、出来る限りつき合うよ
にしています。(母が途中で代ったので、両方に親類があります)
その上、長唄も、多少やりましたし、友の会(婦人会)のもよりリーダー迄、若いうちはやりました。

タイプも習いに行き、自動車の練習にも行きましたが、これはどちらも、ものになりませんでした。
(前のほうは指が短いから、後ろのほうは足が短いから)
お花も、お茶も、洋裁も、結婚してから又、習いました。
料理は本来好きなので、あち、こち、と習いに行き、今でも、ときどき行きます。
月謝をどうしたか、と言えば、上手に講習会などを利用して、安いところへ行きました。

こんなに忙しい奥さんが、唯一の心の慰めである結婚生活にどうして飽きているひまがあるでしょう。
しかし、私は、止むを得ず忙しかったのではありません。
本当は、自分で自分を忙しくしていたのです。

「小人、閑居すれば不善をなす」 と 昔のひとが言いました。
閑居しても不善なさないほど、私は聖人ではありません。
だから、私は、あえて忙しくしたのだと思います。
こんな忙しいお母さんを、子供はときには冷たい母、と思ったかも知れません。

「すまなかった」 と、いつも思っています。

しかし子供は、私を尊敬しているらしく、大切にしてくれます。
忙しい中から、夫や、子供に遣う心は、相手に通じない筈はないと思います。
皆様も、思い切って忙しくして見ませんか?

                             つづく

2435SAKURA:2013/07/21(日) 22:13:52 ID:pMLLKHKU
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>2349>>2350>>2351>>2372>>2378>>2379>>2379>>2381>>2382>>2386>>2387>>2395>>2396
>>2399>>2403>>2404>>2411>>2413>>2414>>2415>>2418>>2431>>2432>>2434の投稿の続きです。尚!【引用…】となります…。

■□▬▬▬▬ 【 お答えします!!   法貴雪子 著  】  ≪ 日本教文社発行 ≫
■□ 第一章      家庭と夫婦
―――――― 倦怠期とは  ―――――  

PS:「トキ様」へ  「観覧者の皆様」ヘ

「法貴先生…」は【時間管理…が、実に上手だった事と】…今回の書籍から多々なる言葉からも推察
出来ますかと…思うのです。!!しかも〜しかも〜♫〜「明るい口調でのお話の仕方」…その当時の講話を
を振り返りましても「法貴先生先生の顔…」が今でも思い浮かんでまいりますかと…。
“場…”の雰囲気を明るくされる先生との印象がありますが、【時間管理を上手に出来る人…】とは、
すべてに関し『魅力のある方〜♫』ではと、この頃つくづく思いますから、これは【反省…】です。

「言い訳…」ばかりでは【人生の生きた足跡の価値!既にその瞬間!何もかもが失っていくようにも?】
思えますし、今の私は、多々なる“壁…”と申しますか?問題解決に忙しく考え続けて…如何しても?
「言い訳…」事になりそうな私自身の姿が、時として如何しても……><でしょうかと?従いまして、
まず!「言い訳…」はこの瞬間から“卒業…”して行こうと決意を新たに思います。
そして私も出来るだけ「忙しい頭=振る回転脳革命」になる事と!!それは〜〜〜
「頭脳明瞭」になると云います事は〜〜〜『人生の勝利者…』に???と…
私も【類の法則…】の仲間入りになろうと今!「吾が内なる神様…」に宣言〜〜〜(微笑)しましたので、
「言い訳…」更には「肉体年齢の自覚?」は〜〜〜ストップです!!

❤〜いつも【心は青春時代……】

では〜♫ 「今日の言葉…」より……讃嘆日記――>「良い事のみ見ていく私にと変身!で〜〜〜す。
■□【わたしの心は、ダイヤモンドの輝き…】と言えるくらい“心を進歩・向上”へと!!!
                                      
                         再合掌

2436a hope:2013/07/22(月) 09:01:20 ID:edEDolt2

新版 生活読本 谷口雅春先生著(日本教文社)
第16章 理想を高く掲げましょう

♦人をしぼれば自分がしぼられる

世の中には人を見れば、「あの人をどのように利用してやろう。あいつをこういう足場にして、これこれこうして、」
と考えて人を自分の足場に使い、人から奪うことばかりを考えている性格(しょうぶん)の人もありますが、
そんな人は一時は人を踏み台にして高き位置に登ることができるかもしれませんが、
決してそれは長つづきするものではありません。

人をしぼれば、又自分がしぼられるのであります。
ずるい、狡猾(こうかつ)な、抜け目のない悪賢さで人を踏み台にしようという性格ぐらい、
世の中に汚いものはないのであります。

吾々は人を利用するような習慣を出来るだけなくすることが必要です。
「与えれば与えられる」というのが無限供給の黄金律(かわらぬきそく)ですから、
狡(ずる)い方法で人からしぼり奪うことばかり計画している人間は、
その性格から柔らかいあたたかさが消えてしまい、物質的富は集まるかも知れませんが、
自分の人格(ひととなり)の中のもっとも尊い宝が貧しくなってしまうのであります。

更に人の弱点をつかんでそれを利用することによって自らの利益を得ようとするが如き人にいたっては、
人格の価値所(ねうちどころ)のさわぎでなく、目もあてられない餓鬼道(がきどう)の状態でありまして、
世の髑髏(されこうべ)に少し残っている滋味(おいしいあじ)すら根こそぎさらってしまうという
もっとも見苦しい性格を露呈(あらわす)しているのであります。

吾々はかくの如き生き馬の目を抜くような鋭い狡猾(ずるい)な人になってはならないのであります。
人格の価値(ねうち)はその広々とした寛大(こころのひろさ)にあります。

どんな欠点を見ても、しかも之を見ず、相手の人の実相の完全円満なる神の姿の現れんことを、
じっと愛と忍耐とをもって静かに待ちもうけ得る広々しさが必要であります。

2437a hope:2013/07/23(火) 07:20:22 ID:edEDolt2

新版 生活読本 谷口雅春先生著(日本教文社)
第16章 理想を高く掲げましょう

♦理想を高くもっても小さな事が大切です

蟻の穴から堤(つつみ)が崩れるという諺があります。
野鼠があけた小さな穴から、堤が崩れてオランダ全体が海の底に沈んでしまおうとしたことがありました。

オランダという国は海の水の高さよりも土地が低いのでその海の水の侵入(はいってくる)を
防ぐために堤防をきずいているのであります。

ある時その堤防の底の近くに小さな野鼠の穴があいているのをみつけた少年があったのです。
満潮になって段々と水嵩(みずかさ)が上がって来ますと、
水が滔々(とうとう)とポンプのようにその穴からふきだしました。

その少年は「これはオランダ全体の大問題だ」と思いました。
「もしこの穴から段々水が入って、オランダ全体が水の下に沈んでしまうことになれば大変だ」
と思いまして、その少年はその水の吹きでる穴を自分の掌(てのひら)で一所懸命押さえつづけていたものです。

蟻の穴のような小さな所からでも水がもれておれば、土が崩れて段々穴が大きくなり、
しまいには堤が崩れて、もうどうにもならなくなるのが普通なのです。
ものは小さい内に防ぎとめておかなければ、大事になってからは防ぐことは到底できないのであります。

その少年は鼠の穴を自分の手のひらで押さえながら町の人が通りかかるのを待っていました。
そして人が通りかかると大声をあげて「この穴を防(ふさ)いでくれ」と叫びました。

町の人々が集まって来て其の堤を修繕しました。
こうしてこの少年はほっておけば遂にオランダ全国が滅びてしまうのを救う事ができたのであります。

2438うのはな:2013/07/24(水) 17:16:46 ID:yQQ75ICI

 昭和二十六年八月六日、父は公職追放解除となり、再び光明化運動の陣頭に立たれることになりました。
旅行先からのお手紙にも光明化運動への酔う様々なお指図が多くなりました。そのお指図への夫からの返事と
私からの近況報告です。

    おとうさま     恵美子

 お元気でゐらつしやる御様子でよろこんで居ります。何かと御不自由なことばかりで本当に大変ですわね。
御健康御幸福を毎日お祈りして居ります。
 (中略)
 明日は私の誕生日です。ありがたうございます。自分が親になつてみて子供の誕生日と云ふものは親にとつて何とも
云へなくうれしいものだと云ふことが分かりました。二日の佳代子の誕生日には豊島園へ遊びに参りました。
子供にとつてはあらゆる乗物があつて一日中乗つてまはつても遊びつきないほど楽しめるところでした。
それにお掃除もゆきとどいてお花も咲いてゐてきれいでした。(中略)

 皆元気で居りますから御安心下さいませ。
お腹の赤ちゃん(雅宣)も八ヶ月に入りました。とてもよく動きます。佳世子も壽美も大変元気で競争してあばれて居ります。
寿美もそろそろお話が上手になることと思ひます。お祖母ちやまは「バーチャン」「バーバ」など云ひます。
カーチャンはまだ云へません。

 夕食のあとお食堂で、
「おやすみなさい」とお祖母ちやまに皆で申しますと寿美だけしらん顔してさつさとお祖父ちやまのお部屋へ行ってしまふのです。
お祖父ちやまに先におやすみをするつもりなのです。今日もさうでしたので又皆でお離家へ行つて四畳半にお祖母ちやまに居てもらつて
お辞儀のしなほしをしましたら「ター」と二度もペシャンコになつてお辞儀をしました。
「おぢいちやまは?」と聞くと大きな目をまんまるくして不思議さうに見まはして居りました。(中略)

 おとうさまも解除になられてお忙しいでせうが又ご自分でいろいろお出来になれるやうになつたのでよろこんで居ります。
ますますすばらしくすべてがなることでせう。
 お帰りお待ちして居ります。お元気でいらして下さいませ。

「子を持って知る親の恩」と申しますが、本当にそうだと思います。
子供たちが、ただ元気でいてくれるだけでいい、それだけで胸ふくらむ思いでした。
子を持って、幸福とは愛することと私は尊い体験を得たのです。愛してもらうことよりも、
心から愛することの出来る仕合せを、私はしみじみと嬉しいと思うのでした。
 それと共に、私たちの父への愛と感謝の思いは更に深まってゆくのでした。

『こころの旅路』 谷口恵美子 先生 編著  日本教文社

2439a hope:2013/07/25(木) 07:06:25 ID:edEDolt2

新版 生活読本 谷口雅春先生著(日本教文社)
第16章 理想を高く掲げましょう

♦欠点は小さなときに直しておけば大きくならぬ

着物ほころびでも小さい中に修繕(つくろう)しておけば大きく破れてこないものです。
人間の小さい欠点でも、小さい欠点だからといって、いつまでもそれを見逃しておいたら、
それはだんだん大きくなって始末におえなくなるのです。

ほんの小さな孔の開いているバケツに水を入れておいても、
いつの間にかその水がなくなってしまうものであります。
大きく目立つ孔の沢山あるザルに水を入れておく人はありませんから、
却って小さな孔に注意しないと、とりかえしのつかないことになるのであります。

どんな立派な宝石でも、ほんの目につかない傷があるだけで、大変な値下がりをするものです。
そのうえ一度傷ができると、「どうせ、傷ができたのだからかまわない」
と思って物事をぞんざいにするようになりますから、傷はますます大きくなのであります。

2440SAKURA:2013/07/25(木) 21:48:57 ID:pMLLKHKU
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>2349>>2350>>2351>>2372>>2378>>2379>>2379>>2381>>2382>>2386>>2387>>2395>>2396
>>2399>>2403>>2404>>2411>>2413>>2414>>2415>>2418>>2431>>2432>>2434>>2435 の投稿の続きです。尚!【引用…】となります…。

■□▬▬▬▬ 【 お答えします!!   法貴雪子 著  】  ≪ 日本教文社発行 ≫

■□ 第一章      家庭と夫婦                
―――――― 夫に女の人が出来たという方に  ―――――   その 1

 私が家庭裁判所の調停委員をしていた頃、夫の浮気による離婚事件をたびたび取り扱
いました。
 
そんなとき私はよく、
「あなたには好きな人がいませんか?」 とききました。
女性は憤然として、
「飛んでもありません。 絶対にそんな人はいません」 と、 必ず言います。
「別に恋人、という意味ではありません。夫より、もう少しましな人はいないかし
ら、と思ったことはありませんか?という意味です」
と私が言うと、
「ああ、それなら、始終思っています」
と彼女は答えます。

「それは一種の浮気です。夫はそれではいつも妻のぬけがらを抱いているようなものですね」
と、私は言いました。しかし裁判所では、これ以上言っても余り判って貰えないの
で、結論を出すしかありませんでしたが、ときには私の言葉で反省して、離婚を取り
下げてくれた人もありました。

「夫婦は一体である。夫の浮気は妻の浮気である」と、私は習いました。

女にとって、最初の恋人は父であるとも言われています。父は女性にとって最高の
人であり、いつ迄も忘れられない存在です。
結婚しても尚、尊敬出来る父に比べて、とかく見劣りする夫は、ときには鼻につ
くこともあるのでしょう。

❤〜 つづく

2441a hope:2013/07/26(金) 06:51:26 ID:edEDolt2

新版 生活読本 谷口雅春先生著(日本教文社)
第16章 理想を高く掲げましょう

♦立派なものはいつまでも立派、傷ついたものは一層傷つく

私はある時一人のお供を連れて旅行にでました。
私の四角な革のトランクは、もう度々の旅行にでていますので
随分ほうぼうがすり切れて搔(か)き傷なども、一ぱいにできているのです。

所がお伴のもっている革の手提げカバンは
新しいまだ傷のないつやつやしたつやのある革でできていましたので、
各地で出迎えに来る人は、私の傷だらけのトランクは、きっとお伴の人のものであると思い、
自動車の泥だらけの床の上になげだされて、車の振動でますます傷は大きくなって行きますが、
お供の人の手提げカバンは大きさも手ごろであり、傷のないピカピカ光ったものでありましたので、
みんながそれを尊敬して膝の上にだいて大切にしていましたので、
いつまでもその手提げカバンは傷がつかないでいるのでした。

こういうように、一度傷がつきかけると、自分も大切にしなくなりますし、
人も尊敬してくれませんので、ますます傷だらけになって来るのは、
トランクばかりの話ではありません。

人間も小さな欠点を見逃しておきますと、いくら欠点ができてもたいして気にかからなくなり、
平気で悪いあやまちをも犯すようになるものでありますから、
欠点は小さな時から直すように気をつけねばなりません。

2442SAKURA:2013/07/26(金) 22:32:56 ID:pMLLKHKU
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>2349>>2350>>2351>>2372>>2378>>2379>>2379>>2381>>2382>>2386>>2387>>2395>>2396
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■□▬▬▬▬ 【 お答えします!!   法貴雪子 著  】  ≪ 日本教文社発行 ≫
■□ 第一章      家庭と夫婦               
―――――― 夫に女の人が出来たという方に  ―――――   その 2

こんなとき、  「夫婦は一体である」
のことばの通り、夫もまた、別の女性を心に描くようになるのです。

人間は、思うことは自由です。それなら、いっそ他の人のことを心に描くのを止め
て、自分の夫の良いところを探し出し、感謝してみたらどうでしょう。
何故なら夫婦は一体だからです。

うそだと思ったら一度やってごらんになりませんか?
                                ❤〜 次回に続く…。

PS:「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ     
私は?【独身…??】です。・…が?
今後!仮に“相談…”受けますと??もしも?もしも?〜〜〜色々思い巡らしまして…
「法貴先生の本」を読みますと、ちょっと!やはり〜〜〜!と思える“フシ…”がありますョネ!

“話…”はそれてしまいますが【問題の吸血鬼・ゾンビ達…】はと、“思考回路…振る回転”します。
思い出します。…が?その中の或る「吸血鬼の女性」は?【3・4年前に再会…】しました時に、その
「吸血鬼女性」は、当時!御主人がいたのです。どうも?話の内容では…【夫婦問題…】があり何となく?
【離婚…】の事をほのめかせて、当時、将来が見えずにいて悩みあぐねた状態かと。“別れたい心境”><
そのような含んだ表現を私に言っていました。…が?

その理由は、将来!の事を考えますと(今では分かれたその御主人)定年退職をしたら〜〜〜><
モ〜〜〜ウ!仕事をしないとか?更に、まだ“家のローンが残って…”とかで、その理由から?
現在の【吸血鬼のドン?男…】が、当時【10軒の店舗…】を持っているとか?ほだされて……私から
言いますと、当時の御主人との【離婚理由…】は、それが〜〜〜“離婚の理由”です。…が?

さて!今では〜〜〜本当に、そうだったのでしょうか??? そして…
しかも、当時から「吸血鬼のドン男…」と同居しながら、元夫に対しては【別居を実行…】していました
ようですから、それが、現在では【その吸血鬼のドン男】との【籍…】に入っているのでしょうか??
【吸血鬼のドン男】は〜〜〜??遠くで【顕微鏡…】にてみますと??現在!でも
まだ!【籍は〜〜〜?単に「吸血鬼のドン男と一緒の生活」】の様子です。…が?
しかも、【単純な〜〜男と女の関係…物語】なんでしょうネ!!これって!九州では多い関係でしょうか?
つまり【男女とも?クレイジーな関係】と最近思えるのですが????

私から見ますと「吸血鬼のドン男」は、どうも〜〜〜【ホストクラブを経営…】しているとか??
風の便りでは…更に「小料理店」とか?「スナック」とか?…女性を離婚させてまで…何件も【お店…】
を持たせて、その各々の店からの「ピンハネ…徴収!」が多いとか〜〜〜??
■□ 「いい噂…」は、いまだに聞いた事がありませんし、しかも「嘘…の言葉」の連続…
【 瞬間の嘘の連続… 】と申しましょうか?誠に持ちまして…「嘘…」の多い人間ですかとが??
元の御主人との「あの時点でのやり直し…」その関係ができたのではないのでしょうか〜〜〜?

                         つづく

2443SAKURA:2013/07/26(金) 22:35:02 ID:pMLLKHKU
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こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>2349>>2350>>2351>>2372>>2378>>2379>>2379>>2381>>2382>>2386>>2387>>2395>>2396
>>2399>>2403>>2404>>2411>>2413>>2414>>2415>>2418>>2431>>2432>>2434>>2435>>2440>>2442 の投稿の続きです。尚!【引用…】となります…。

■□▬▬▬▬ 【 お答えします!!   法貴雪子 著  】  ≪ 日本教文社発行 ≫
■□ 第一章      家庭と夫婦               
―――――― 夫に女の人が出来たという方に  ―――――   その 3

■□ 前の御主人と【離婚…】をしなければ、本当の「幸せロード…」が後からついてきましたのでは
と?遠くからどうしても、見えてしまうのです〜〜〜が??

本当の【夫婦一体…】とは??単なる【金銭の関係のみ…】ではない!!と思えますから〜〜〜
そうこう見ていますと〜〜〜??
この「吸血鬼女性」は現在では「吸血鬼のドン男」からいろんな形での【束縛】がされていますのでは?
もしかして!【分かれるチャンスを狙いながら、また!また!金でズルズルと引き寄せの関係】にて…
流されていっているのでしょうか??果たして「心と心の結びつき…」は何処にでしょうか…?

■□ 【 人生…いろいろ! 】でしょう〜〜〜ネ!

この様に【思考回路…振る回転?】していきますと【男女の関係…】とは、
「肉体…」は?何処ですから【精神面での結びつきが〜〜〜一番!大事では?】と思うのです。
色々な角度で【思考回路…】の最中に本当に「法貴先生…」のように私は、導く事が出来る“私”に
なりたぁ〜〜〜い!それには「先生の本…」を参考に…思考力変換!導く!…その言葉遣いでしょうか?

私の「過去のおさらい」は、失敗の連続なのですが、今は【吸血鬼…ゾンビ…達とタタキ男…達】との
出会いは非常に〜〜〜後悔の日々の連続なのです??

■□ 未来ある若い方達ヘ…
伝えたい“メッセージ”は〜〜〜【言葉の表面上…そして、外見上…にまどわされるな〜〜!!】と、
叫んでいます“私…”なのです!!
【人生…一度】この現象界での“出会い…”を大切に…かと思うのです。     再合掌

2446a hope:2013/07/27(土) 07:15:58 ID:edEDolt2

☆愛無限の祈り(p 28)

神は愛である。
愛は人の幸福になるためにつくすのである。
私は神の子であり、神の愛を自己の内に宿しているのであるから、
人のためにつくすことが大好きである。
隠れたるところでないしょにだれにも知られずにする深切な行いは、
神さまが見ていられて天国でほめていられるのである。
私は天国でほめられる人となるのである。


「ジュニア希望の祈り」谷口雅春先生著 (日本教文社

2447ユタカ:2013/07/27(土) 08:08:17 ID:R1D4Jmeg
>>2444 を消さないで。素晴らしいから! アレンジで良かったです。

2448トキ:2013/07/27(土) 09:47:06 ID:KiO9057.
>>2444

a hope様、どうしましょう? そのままでも良いと思うのですが。

2449ありがとう:2013/07/27(土) 11:05:22 ID:???

 明らかな誤植ですから まずいでしょう。

 削除すべきです!

2450トキ:2013/07/27(土) 12:30:11 ID:KiO9057.
>>2449

 了解しました。

2451a hope:2013/07/27(土) 13:21:32 ID:edEDolt2
>>ユタカさま トキさま ありがとうさま みなさま 

お騒がせいたしました。
削除していただいて、良かったです。
聖典の内容は、正しく伝えるべきだと思います。
ただ、ユタカさまのコメントにも心から感謝いたします。
ありがとうございました。 合掌。

2452NANCY:2013/07/27(土) 17:24:52 ID:pMLLKHKU
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 
こんにちは……  ロ−マ字(大文字)の【NANCY】で〜〜〜す。

此処昨今は暗い〜〜〜“ニュース”が…TV・インターネット上にて…流れてきますでしょうか?
特に【男女…問題】は?年齢を問わず、個人的には悲惨な状況の事件が?特に目に移りますでしょうか?

■□ 「SAKURA…」さんの昨日の投稿は〜〜〜今後「個人指導…」する上で…参考になりますかと…!!
此処で私事…【NANCY】 にて“再投稿”を、させて頂きます…。

「徳久先生…」の講話テープでも…やはり【女性は御主人を非難する前に…自分の行動を今一度振り返るべき!】
この様なアドバイスがありましたかと…!(「SAKURA」さんにも“ 筆談での…テープ講話”を伝えましたのです。…が?)
つまり【ご主人の…上げ足を、とっいたのでしょうか?そして、今でも…同じ繰り返しなのでしょうか…?】この件は?
「法貴先生…」の投稿内容に納得しましたので…この形式を取らせて頂きます。【若者へのメッセージ】も含め…!!
また、此処で問題なのは〜〜〜【 正しい? 正しくない?】 この件はその人自身の捉え方でしょうか??

―――【 再 投 稿 文 その1 】――――――――――――――――――――――――――――――――
2440 :SAKURA:2013/07/25(木) 21:48:57 ID:pMLLKHKU
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こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
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■□▬▬▬▬ 【 お答えします!!   法貴雪子 著  】  ≪ 日本教文社発行 ≫

■□ 第一章      家庭と夫婦                
―――――― 夫に女の人が出来たという方に  ―――――   その 1

 私が家庭裁判所の調停委員をしていた頃、夫の浮気による離婚事件をたびたび取り扱
いました。
 
そんなとき私はよく、
「あなたには好きな人がいませんか?」 とききました。
女性は憤然として、
「飛んでもありません。 絶対にそんな人はいません」 と、 必ず言います。
「別に恋人、という意味ではありません。夫より、もう少しましな人はいないかし
ら、と思ったことはありませんか?という意味です」
と私が言うと、
「ああ、それなら、始終思っています」
と彼女は答えます。

「それは一種の浮気です。夫はそれではいつも妻のぬけがらを抱いているようなものですね」
と、私は言いました。しかし裁判所では、これ以上言っても余り判って貰えないの
で、結論を出すしかありませんでしたが、ときには私の言葉で反省して、離婚を取り
下げてくれた人もありました。

「夫婦は一体である。夫の浮気は妻の浮気である」と、私は習いました。

女にとって、最初の恋人は父であるとも言われています。父は女性にとって最高の
人であり、いつ迄も忘れられない存在です。
結婚しても尚、尊敬出来る父に比べて、とかく見劣りする夫は、ときには鼻につ
くこともあるのでしょう。

❤〜 つづく

2453NANCY:2013/07/27(土) 17:26:46 ID:pMLLKHKU
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 
こんにちは……  ロ−マ字(大文字)の【NANCY】で〜〜〜す。
>>2452 続き投稿です…。

―――【 再 投 稿 文   その2】―――――――――――――――――――――――――――――――
2442 :SAKURA:2013/07/26(金) 22:32:56 ID:pMLLKHKU
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 
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>>2349>>2350>>2351>>2372>>2378>>2379>>2379>>2381>>2382>>2386>>2387>>2395>>2396
>>2399>>2403>>2404>>2411>>2413>>2414>>2415>>2418>>2431>>2432>>2434>>2435>>2440 の投稿の続きです。尚!【引用…】となります…。

■□▬▬▬▬ 【 お答えします!!   法貴雪子 著  】  ≪ 日本教文社発行 ≫
■□ 第一章      家庭と夫婦               
―――――― 夫に女の人が出来たという方に  ―――――   その 2

こんなとき、  「夫婦は一体である」
のことばの通り、夫もまた、別の女性を心に描くようになるのです。

人間は、思うことは自由です。それなら、いっそ他の人のことを心に描くのを止め
て、自分の夫の良いところを探し出し、感謝してみたらどうでしょう。
何故なら夫婦は一体だからです。

うそだと思ったら一度やってごらんになりませんか?
                                ❤〜 次回に続く…。

PS:「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ     
私は?【独身…??】です。・…が?
今後!仮に“相談…”受けますと??もしも?もしも?〜〜〜色々思い巡らしまして…
「法貴先生の本」を読みますと、ちょっと!やはり〜〜〜!と思える“フシ…”がありますョネ!

“話…”はそれてしまいますが【問題の吸血鬼・ゾンビ達…】はと、“思考回路…振る回転”します。
思い出します。…が?その中の或る「吸血鬼の女性」は?【3・4年前に再会…】しました時に、その
「吸血鬼女性」は、当時!御主人がいたのです。どうも?話の内容では…【夫婦問題…】があり何となく?
【離婚…】の事をほのめかせて、当時、将来が見えずにいて悩みあぐねた状態かと。“別れたい心境”><
そのような含んだ表現を私に言っていました。…が?

その理由は、将来!の事を考えますと(今では分かれたその御主人)定年退職をしたら〜〜〜><
モ〜〜〜ウ!仕事をしないとか?更に、まだ“家のローンが残って…”とかで、その理由から?
現在の【吸血鬼のドン?男…】が、当時【10軒の店舗…】を持っているとか?ほだされて……私から
言いますと、当時の御主人との【離婚理由…】は、それが〜〜〜“離婚の理由”です。…が?

さて!今では〜〜〜本当に、そうだったのでしょうか??? そして…
しかも、当時から「吸血鬼のドン男…」と同居しながら、元夫に対しては【別居を実行…】していました
ようですから、それが、現在では【その吸血鬼のドン男】との【籍…】に入っているのでしょうか??
【吸血鬼のドン男】は〜〜〜??遠くで【顕微鏡…】にてみますと??現在!でも
まだ!【籍は〜〜〜?単に「吸血鬼のドン男と一緒の生活」】の様子です。…が?
しかも、【単純な〜〜男と女の関係…物語】なんでしょうネ!!これって!九州では多い関係でしょうか?
つまり【男女とも?クレイジーな関係】と最近思えるのですが????

私から見ますと「吸血鬼のドン男」は、どうも〜〜〜【ホストクラブを経営…】しているとか??
風の便りでは…更に「小料理店」とか?「スナック」とか?…女性を離婚させてまで…何件も【お店…】
を持たせて、その各々の店からの「ピンハネ…徴収!」が多いとか〜〜〜??
■□ 「いい噂…」は、いまだに聞いた事がありませんし、しかも「嘘…の言葉」の連続…
【 瞬間の嘘の連続… 】と申しましょうか?誠に持ちまして…「嘘…」の多い人間ですかとが??
元の御主人との「あの時点でのやり直し…」その関係ができたのではないのでしょうか〜〜〜?

                         つづく

2454NANCY:2013/07/27(土) 17:28:59 ID:pMLLKHKU
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 
こんにちは……  ロ−マ字(大文字)の【NANCY】で〜〜〜す。
>>2452>>2453続き投稿です…。

―――【 再 投 稿 文   その3 】―――――――――――――――――――――――――――――
2443 :SAKURA:2013/07/26(金) 22:35:02 ID:pMLLKHKU
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■□▬▬▬▬ 【 お答えします!!   法貴雪子 著  】  ≪ 日本教文社発行 ≫
■□ 第一章      家庭と夫婦               
―――――― 夫に女の人が出来たという方に  ―――――   その 3

■□ 前の御主人と【離婚…】をしなければ、本当の「幸せロード…」が後からついてきましたのでは
と?遠くからどうしても、見えてしまうのです〜〜〜が??

本当の【夫婦一体…】とは??単なる【金銭の関係のみ…】ではない!!と思えますから〜〜〜
そうこう見ていますと〜〜〜??
この「吸血鬼女性」は現在では「吸血鬼のドン男」からいろんな形での【束縛】がされていますのでは?
もしかして!【分かれるチャンスを狙いながら、また!また!金でズルズルと引き寄せの関係】にて…
流されていっているのでしょうか??果たして「心と心の結びつき…」は何処にでしょうか…?

■□ 【 人生…いろいろ! 】でしょう〜〜〜ネ!

この様に【思考回路…振る回転?】していきますと【男女の関係…】とは、
「肉体…」は?何処ですから【精神面での結びつきが〜〜〜一番!大事では?】と思うのです。
色々な角度で【思考回路…】の最中に本当に「法貴先生…」のように私は、導く事が出来る“私”に
なりたぁ〜〜〜い!それには「先生の本…」を参考に…思考力変換!導く!…その言葉遣いでしょうか?

私の「過去のおさらい」は、失敗の連続なのですが、今は【吸血鬼…ゾンビ…達とタタキ男…達】との
出会いは非常に〜〜〜後悔の日々の連続なのです??

■□ 未来ある若い方達ヘ…
伝えたい“メッセージ”は〜〜〜【言葉の表面上…そして、外見上…にまどわされるな〜〜!!】と、
叫んでいます“私…”なのです!!
【人生…一度】この現象界での“出会い…”を大切に…かと思うのです。     再合掌

2455a hope:2013/07/29(月) 07:57:02 ID:edEDolt2

☆神を呼吸する祈り

私は今、大空に向かって心ひらいて呼吸しているのである。
私の吸う空気はけっして単なる物質ではないのである。
それには、神の″生命の気″が満ちているから、
それを吸うことによって、私は生かされるのである。
空気も食物も衣服もすべて、その材料は神によってつくられたものである。
私は神にいつも生かされ護られているのである。
ありがとうございます。


「ジュニア希望の祈り」谷口雅春先生著 (日本教文社 )

2456SAKURA:2013/07/31(水) 21:28:21 ID:pMLLKHKU
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>2349>>2350>>2351>>2372>>2378>>2379>>2379>>2381>>2382>>2386>>2387>>2395>>2396>>2399>>2403>>2404
>>2411>>2413>>2414>>2415>>2418>>2431>>2432>>2434>>2435>>2440>>2442>>2443>> の投稿の続きです。尚!【転載編…】となります…。

■□▬▬▬▬ 【 お答えします!!   法貴雪子 著  】  ≪ 日本教文社発行 ≫
■□ 第一章      家庭と夫婦               
―――――― 夫婦を長持ちさせたい方に  ―――――   その ①

私のうちに、夫婦だけのカレンダーがあります。
銀行からもらった、普通のカレンダーですが、余白が多いのと、余分な宣伝が書いてないので愛用しています。

主人がそこに印をつけてくれます。
○印は、夕食を定時にたべる。
□印は、たべるけれどもおそくなる。
×印は、たべない。
△印は、どうなるか判らない。

私は赤で印をつけます。
私の印は×だけです。つまり仕事で出張して家に帰らない日です。
主人の食事は、私がいないときは、必ず誰かに頼みますから、主人が帰って来て、
ごはんの仕度がしてない、などということは、決してありません。

×印でも、ごはんだけはたいておきます。

万一、たべるかも知れないからです。おかずは、いつも、何かしら用意してありますから
(佃煮や、つけもの、海苔など)ごはんさえあれば、何とかたべられます。

男の人は、極端にいうと、食事の仕度さえしてあれば、余り文句をいいません。反対に、
食事の仕度のしてない家ほど、さびしいものはないそうです。

「どうせ私は、台所の係よ。一生、主人のごはんを作っているんだから」
などと言わずに、こんな簡単なことで夫婦が長持ちするなら、夫婦専用カレンダーを作って、
夫の食事について真剣に考えて御らんなりませんか。

ある定年になった夫の奥さんが言いました。
「主人がうちにいて、三度々々ごはんをたべるので大変です」
「あなたは?」ときいたら、
「私も、三度食べます」 といっていました。

その顔は何となく幸せそうに見えました。
                                つづく

2457SAKURA:2013/07/31(水) 21:31:02 ID:pMLLKHKU
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>2349>>2350>>2351>>2372>>2378>>2379>>2379>>2381>>2382>>2386>>2387>>2395>>2396>>2399>>2403>>2404
>>2411>>2413>>2414>>2415>>2418>>2431>>2432>>2434>>2435>>2440>>2442>>2443>>2456 の投稿の続きです。尚!【引用編…】となります…。

■□▬▬▬▬ 【 お答えします!!   法貴雪子 著  】  ≪ 日本教文社発行 ≫
■□ 第一章      家庭と夫婦               
―――――― 夫婦を長持ちさせたい方に  ―――――   その ②

PS:「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ

■ 私の両親も含め〜〜〜振り返りますと「三度の食事…」を頂いておりました。
それが【母の味…】でしょうかと??当たり前に、思う点がありましたかと思います・…。それでも、
晩年は〜〜〜やはり「亡き母の手料理…」しみじみと思い出す事が〜〜〜多々です。

さて話は…
『パートナーの母親…』現在は、老人ホームなのです。…が?振り返りますと?15年前からでしょうか?
全くもって“料理…”をしなくなったとの事なのです。…が?当の!“パートナーの父親”は、その当時、
それが原因と申しますか?弟さんの家に“パートナーの父親”はこっそり〜こっそり〜と、食事を食べに
行くようになりましたのです。…が? >< 
❤〜当に『原因は〜〜〜さっぱり判らないとの事なのです…。』今でも〜〜〜不可不思議!!なのです。

その頃の事を振り返りますと〜〜〜15年前!!は「千葉の行徳…」に在中の頃からなので〜〜〜す。
そして、そこに居住しますようになったのは・…『問題の黒幕Mデザイナー…』この接点からなのです。

当時!1階にはその『黒幕Mデザイナーが家主…』で居住しておりまして…当時は、かなり【盗聴…】して
いたのでしょうか??私の「補聴器…」は?ある場所に行きますと【ハウリング…】が頻繁で〜〜〜><
丁度その頃から、“パートナーの母親…”に【マインド・コントロール・…】を、したのでしょうかと??

■□“パートナーの母親…”も、かなり【マメに…料理】をしていましたし、特に!
【健康的な食事療法…】は、かなり詳しい感じでしたのです。??例えば…
【にがり…を購入しての豆腐つくり】【さつま揚げ…つくり】【魚の干しモノ】【切り干大根…ニンジン】
…etc つまり、全て自分自身で作る!!これを優先するという事でしょうか??

何故なら、当時私が「お客様」から、【理研のだし…3キロ】を、頂きましたのですが?これは、ほとんど
“本物のダシ〜〜〜?”なのです。ところが?何時だったでしょうか〜〜〜?
当時“パートナーの母親”が、遊びに来まして、「冷蔵庫の中身…」を見ましたのです。ところが…
「これは体に良くな〜〜〜イ!」と言って、ポ〜〜〜ン!と捨て去られたのですが、
この様に【科学食品は、必要以上にタブー!!】の人でした。…が??しかしながら、
当時の【理研のだし…3キロ】は、本物だったのに〜〜〜><今は、もう入手できないのです〜〜〜ョネ!

そうこうしております内に、その後は“パートナーの母親”は〜〜〜【インスタント…派】となりまして、
今ではお手のものでしょうか〜〜〜???余りにもの様変わり〜〜〜><ビックリ!ビックリ!なのです。

これって【食べ物…オンリ−】とは〜〜〜最終的には【心と食物…】このバランスになりますのでしょうか?

■□ 【幸せは……本当に!すきな人に美味しいものを作れる〜〜〜環境が一番です〜〜〜ョネ!!】

では〜〜〜今日か明日にまでは【SAKURA弁当…プログ】を紹介しま〜〜〜す!!見て下さいネ!!

                                    再合掌

2458a hope:2013/08/01(木) 06:50:14 ID:edEDolt2

☆明るい心の祈り(p25)

神は光であり、すべての闇を照らして明るくしたまうのである。
私は神の子である。
だから神さまの光が私の中に宿っていて、
私の心は神さまの光に照らされて常に明るいのである。
だから私は常に明朗であり、ニコニコしてすべての人の心を明るくする。


「ジュニア希望の祈り」谷口雅春先生著 (日本教文社 )

2459SAKURA:2013/08/01(木) 22:33:36 ID:pMLLKHKU
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
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■□▬▬▬▬ 【 お答えします!!   法貴雪子 著  】  ≪ 日本教文社発行 ≫
■□ 第一章      家庭と夫婦               
―――――― 料理が好きになりたい方に  ―――――   その①

「今夜、何しようかしら! と、思っただけで憂鬱になる」 という人がいます。
私は、
「今夜、何にしようかしら!」 と、思っただけで、胸がわくわくします。

女の仕事の中で、「料理」ほど面白いものはない、と、思っているからでしょうか。
一昨年、ロンドンとロスアンゼルスにちょっと行きましたが、日本に比べてその材
料の貧しいのにびっくりしました。

 日本は四方、海に囲まれ、気候に変化が多いせいか、実に食物が豊富だと、そのと
き、つくづく思いました。

 この豊かな材料あるが故に、ほんの少々手を加えれば、たちどころにおいしい料理
が出来上がります。何という幸せでしょうか。

 料理、という大変なようですが、結局は、

一、 なまでたべる
二、 塩にする
三、 酢につける
四、 煮る(ゆでる)
五、 焼く
六、 蒸す
七、 あげる(いためる)
八、 あえる

ぐらいしかありません。これにつける味でも、

一、 甘い
二、 辛い
三、 酸っぱい
四、 苦い
それぐらい
五、 甘辛い
六、 甘ずっぱい
七、 甘苦い(百合根のにものなど)
八、 ピリピリ辛い(とうがらしなど)

などで、余り難しい味はありません。
だからこれ等の基本さえ上手に出来れば、何でも簡単に出来ます。

                          つづく

2464SAKURA:2013/08/03(土) 19:01:04 ID:pMLLKHKU
トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
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>>2456>>2457 >>2459 の投稿の続きです。尚!【引用編…】となります…。

■□▬▬▬▬ 【 お答えします!!   法貴雪子 著  】  ≪ 日本教文社発行 ≫
■□ 第一章      家庭と夫婦               
―――――― 料理が好きになりたい方に  ―――――   その②

基本は料理の本にも出ているし、テレビの料理番組をみていても判ります。 
 区役所、市役所、PTA、ガス会社、など主催の料理の講習会などを適当に利用して、たえず勉強して
いると、だんだん料理が面白くなり、好きになります。

 ときに夫にねだって、高級レストランなどにも連れて行って貰い、味をみるのも良い勉強です。
 食器は安くて美しいものをバーゲンセールなどで買って来て、いろいろ換えて使います。
たまには友人と交換などすると気分が変って面白いでしょう。

 スーパーも便利ですが、なるべく魚は魚屋で、やさいは八百屋で買うほうがいろいろ選べて楽しいし、
新鮮です。 家族が四人なら、四種類に味をかえて上げるほど親切なお母さんなら、子供や夫は絶対に
外で御飯をたべて来ません。

 私の料理の先生は、赤堀先生といって、私が二十歳の時七十歳位でしたからもう居られませんが、
実に立派なかたでした。
 明治天皇・大正天皇・今上天皇、と三代の天皇にお仕えしたそうです。

あるとき、
「天皇陛下のおからは、吹けば飛ぶようにいる」 と言われたので、そのことが判りました。

 おからは今のように豆の粉から作った豆腐ではとりようもありませんが、昔は、豆腐屋の店先に、
ホカホカ湯気の立ったおからが、多少、邪魔みたいにおいてありました。
五銭も買うと、家中でたべられました。

 赤堀先生は、このおからを洗い桶に入れ、上に浮いたゴミをとり、沈んだおからを、ふきんで
絞れ、と教えて下さいました。

 鍋にいためものとしては多過ぎる位の油を入れ、おからをいれて、煎ります。十分位もいっていると、
パサパサになり、お更に入れて鼻の先へ持ってくると、鼻の息で、飛ぶようになる。
これに塩とさとうと醤油極少量で味を付けます。
 これだけで、おからはとてもおいしくなりますが、このままでは殺風景ですから、
人じん、しいたけ、きくらげ、ひじき、ごぼう、ひき肉、など、細かくして煮たものを入れます。
最後に、酢で〆めた魚の細切りと、針生姜を水にさらしたものをのせ、酢を一寸かけますと、
こんな御馳走なない、という程おいしいのです。

それにしても、
天皇陛下は、どのようなおからを召し上がったのでしょうか??
                            つづく

PS:「トキ様」 へ 「観覧者の皆様」 へ
「トキ様…」〜〜〜!実は?昨日はすばらしい出会いが在りましたので〜〜〜す。
何と!何と!誰と〜〜〜〜思われますでしょうか??
「日野原先生」なのです!!もうすばらしいですね“年齢…満100歳”とは〜〜〜“ビックリ”
見えないですネ〜〜〜すばらしいです!!【人生は…すばらし〜〜〜イ!再発見で〜〜〜す。】
                                 再合掌

2465うのはな:2013/08/03(土) 19:05:20 ID:ht6VpdV.

 生命の在るところに必ず道がある。生命とは道であるからである。 
 道は形なく一つであるけれども、その顕われは無限である。
 男性に顕われると男性の道となり、女性に顕われると女性の道となり、
 老人に顕われると老人の道となり、子どもに顕われると子供の道となる。(略)

 女性の天分は、愛と美と調和と平和と、純潔とで勝れている。
 女性たちが、この天分に目ざめて、女性でなければできない文化の一大分野に、
 美の世界に愛の世界に育の世界に和の世界に、女性の天分を発揮するとき、
 人生の光明化も大調和の世界の創造もできるのである。

  『生長の家三拾年史』257頁 谷口雅春 先生著

2467a hope:2013/08/04(日) 07:58:06 ID:edEDolt2

☆神を讃える祈り(p31)

神さま、ありがとうございます。
花が咲いております。
花のいのちは神さまから来たのでございます。
鳥が啼いております。
鳥のいのちは神さまから来たのでございます。
雨あがりの青空はすみきって空気は清くスガスガしうございます。
あの青空のように私の心をすみきらせて下さいませ。
私のいのちを花のように美しく生かして下さい。
私はいま鳥のごとくよろこびの歌を歌って神さまをほめ讃えます。
ありがとうございます。


「ジュニア希望の祈り」谷口雅春先生著 (日本教文社 )

2468a hope:2013/08/05(月) 07:59:09 ID:edEDolt2

☆神を呼び出す祈り(p34)

わが魂の底の底なる神よ、無限の力わき出でよ。
わが魂の底の底なる神よ、無限の力わき出でよ。
わが魂の底には″神″が宿っていらっしゃるのである。
その魂の底にいます神にふり向けばいつでも神さまは、
私に必要な知恵と力を与えて下さるのである。
神さまありがとうございます。

「ジュニア希望の祈り」谷口雅春先生著 (日本教文社 )

2469a hope:2013/08/06(火) 06:22:24 ID:edEDolt2

☆判断正確の祈り

神は全能でありたまう。
神の力とともにあるとき、すべてのことは必ず成し得(う)るのである。
神は常に、その全能なる力をわれらに授けたまい、
全知なる知恵によって導きたもうたのである。
その御護(おんまも)りは完全であるから、いかなる出来ごとが起ってきても、
それに対処するにはどうしたらよいかをすぐ知ることができて、
常に善い結果を得るのである。

「ジュニア希望の祈り」谷口雅春先生著 (日本教文社 )

2470SAKURA:2013/08/06(火) 22:49:46 ID:pMLLKHKU
トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
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■□▬▬▬▬ 【 お答えします!!   法貴雪子 著  】  ≪ 日本教文社発行 ≫
■□ 第一章      家庭と夫婦               

―――――― 料理が好きになりたい方に  ―――――   その③

 赤堀先生の言われたことを、今、想い出しますと、大変ためになります。

先生はこんなことを言われました。
「栄養、栄養、というが、『うまい』と思って食べてこそ栄養になる。栄養をにがさ
ないように、と言って、うまくない料理を作っても駄目だ』

『安いものがうまいんだ。季節のものは必ず安い。その時がそのものの旬だからだ、季節外れの高いものは
決してうまくない』 何だか耳の痛い話ですね。

『御馳走は馳ける走ると書く。材料をそろえることが先ず第一だ』 
スーパーで全部揃えるのはどうかと 思います。

「まな板に切り屑をつけておいたら、鍋の中に煮物の残りをつけておくのは料理人の恥だ」
『包丁は始終とぎなさい。 包丁はだしっぱなしにしないように」
「料理はとり合わせが大切だ。 すしの横に酢のものをつけたり、味つけごはんの隣に味噌汁などを出すな。
すしにはきんとんとか煮豆のような甘いもの。 味つけごはんには吸物が合う』 とも言われました。

『ごまあえのごまは、すってすって油の出る迄』
『みそ汁は食べる分だけみそをとく。煮立てたみそ汁はおいしくない』
『みそ汁の王様は鰹のすり流し(かつおの身をすってみそ汁にする)。その次がそら豆と豆腐』
『しじみ汁の吸い口はときがらし』
『みつばと柚子を一緒にいれたりしないこと。匂いは一いろ』 と教えて下さいました・

『なますは糸のように切る。マッチ棒では太い』
『不意の客には台所の野菜かごをさがす。人じん、じゃがいも、大こんなどを同じ位の大きさに切り、
固いものから順に出しで煮て、とりでもあれば一片れ入れ、吸物にして片栗で薄いくず汁にする。うす
くず碗、といって立派な料理になる』


                            つづく

2471SAKURA:2013/08/06(火) 22:52:09 ID:pMLLKHKU
トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
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>>2456>>2457>>2459>>2464>>2470の投稿の続きです。尚!【引用編…】となります…。

■□▬▬▬▬ 【 お答えします!!   法貴雪子 著  】  ≪ 日本教文社発行 ≫
■□ 第一章      家庭と夫婦               

―――――― 料理が好きになりたい方に  ―――――   その④

「魚の骨も、熱湯に入れ、あくをとってねぎをそろえればおいしい吸ものになる」
『筍は、頭の先はきのめあえ、次が煮物、それから御飯に入れる。次は油で揚げる。皮の柔い部分も、
いためて中華料理に使える。捨てるところはありません。新しい筍は、よく洗って糖など入れずにゆでる。
その水で御飯をたけば、筍の節約になる』
「魚を焼くには串を打つ。串は泳いでいるような形に打てばよい。二本打って、手先を狭くしておけば持ち
がよい。ひれには全部塩をつけて広げる。楽しくやける』
『あえものは、客が来てからあえる。盛りつけは客が鍋につく直前に。それでないと、水が出る』

本当になつかしい先生の教訓、今も忘れることが出来ません。
                                次回に続く

PS;「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
『料理の手順…項目?』は、大体…護っています。……が?
時には?あえものは〜〜〜材料によっては、しみ込ませの時間で、先に作る場合もありますが??

■随分前の事ですが〜〜〜?ある処で「栗原晴美さんのお店…」に食事を〜♫〜 ルンルン〜♫〜
その時!隣の若い男性の食事…ちらり?ちらり?…と ><
実は「組み合わせ…」に“ビックリ…”した事があります。余談ですが?怪訝な表情をついしてしまいました。
それは〜〜〜><
皆様も…子供の頃のレシピ…一番と言いましょうか?そうなのです…。
【 カレーライス 】…此処までは?…と【 みそ汁 】これって合うのでしょうか??

と…その当時は?オイシイのかしら〜〜〜ン!ところで、最近“試し…”てみたのです。
これって?“ス−プ感覚…”でみれば〜〜〜オカシクないのでしょうか??
私も時代の波?乗り遅れ組なのでしょうか??「古い人間の仲間入り…」なのですかと。

今の私は【外食…】はほとんどないです〜〜〜ネ!以前は、仕事の関係で「デパートの食堂街…」に、
よく立ち寄って食したモノです。…が?
そこで食した“思い出…”は、恐らくは?皆様よりも少ないのでは??このように個人的には思うのです。
「銀座の松屋の田村割烹」・更に「天ぷら…つな八・天一」・「美濃吉」・「橘…」・「四川飯店」…etc…
いろいろ食しに行きました。…が?この時の“味付け…”が脳裏の中にインプット!でしょうか?
すべて…感謝して…今では??“一番!私の料理がオイシイ!”〜〜〜自我自賛しています。…が?

それが…明日の【 SAKURA 弁当つくり 】…エネルギ−・パワ−なのです…。(微笑)


                            再合掌

2472a hope:2013/08/07(水) 06:55:57 ID:edEDolt2

☆向上の祈り

神はわが親でありたまう。
私は神の子である。
わが内に無限の良さが宿っているのである。
私の良さは無限であるから、これだけ良くなったら、
もうそれ以上は良くならないなどということはないのである。
私はまだまだ毎日いっそう良くなるのである。

「ジュニア希望の祈り」谷口雅春先生著 (日本教文社 )

2473女神の部屋:2013/08/07(水) 10:06:59 ID:PDo2pGwE

『神命の書』http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=daityouwa&amp;mode=res&amp;log=281

2474SAKURA:2013/08/07(水) 23:11:18 ID:pMLLKHKU
トキ様 へ 観覧者野皆様 へ
こんばんは、ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す・・・。
>>2421>>2422>>2423>>2424>>2425 のSAKURA投稿の続きです…。『 転載編・… 』

■小閑 雑感

―――― 語訳恐るべし ――――       谷口雅宣   ―その1―

 出版業界には「語植恐るべし」という言葉があるが、ニューヨークの世界では
「誤訳」の問題はあまり重要視されていないようだ。というのは、NHKの海外ニュ
ースの翻訳がいい加減の場合があることに時々気がつくからである。

 今日(5月12日)の朝のフランス・ドゥ―のニュースを、新聞を読みながら聞き
流していたところ、フランス語を日本語に翻訳して読んでいる女性が、ワシントン上
空の飛行禁止区域にセスナ機が過って侵入した事件について伝えている中に「その時、
プッシュ大統領はメリーランド州にサイクリングをしていた」とか「ジョージア州で
手投げ弾が発見されたのに」などというのが聞こえた。

録画していたわけではないので正確な引用ではないが、確かにそういうニュアンスの
日本語であった。しかし、このいずれも正確とは言えないし、2番目の例などは明ら
かな誤りである。

これは、オリジナルのフランス語が間違っていたのではなく、日本語への翻訳の過程
でチェックが甘いのだ。

 当時のプッシュ大統領の居場所については、フランス・ドゥ―の直前に放送された
ABCニュースでは「メリーランドの自然公園に自転車乗りに出ていた」というものだ。

この情報は公式のホワイトハウスの発表によるものだろうから、公式のフランス人記者
もその同じ会見で得た情報を流したはずだ。

フランス語では何と言ったか知らないがNHKで流れた「メリーランド州でサイクリン
グをしていた」という日本語は誤解を招く。

それは「その時、大統領がホワイトハウスのあるワシントンDCから公務で別の州ヘ
行っていて、そこでたまたまサイクリングをしていた」という解釈が容易にできるからだ。

 しかし。この日の「産経新聞」が「当時、プッシュ大統領はホワイトハウス内にいな
かった」と書き、「朝日」(夕刊)は「郊外に自転車乗りに出掛けて不在だった」と書い
ているように、プッシュ大統領は何か公用があってホワイトハウスを離れていたのでは
なく、その時たまたま運動のため自転車乗りに出かけていたのである。『朝日』の「郊
外」という言葉にあるように、メリーランド州はワシントンの目と鼻の先にある。

つづく

2476神の子さん:2013/08/08(木) 08:26:11 ID:9lnnupHc

語訳=誤訳?

2477a hope:2013/08/09(金) 07:07:33 ID:edEDolt2

☆親孝行の祈り

私は″神の子″である。
神から いのち をいただき、神の いのち が父母を通してこの世に出てきたのである。
父母がなかったら私はこの世に出てこられなかったのである。
お父さん、お母さん、ありがとうございます。

「ジュニア希望の祈り」谷口雅春先生著 (日本教文社 )

2478SAKURA:2013/08/09(金) 14:26:30 ID:m1q2iwKA
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 
こんにちは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>2421>>2422>>2423>>2424>>2425>>2474 のSAKURA投稿の続きです…。『 転載編… 』

>>2474 の投稿中… 【訂 正…】申し上げます…。(下記にて…記載させて頂きます…。)

■小閑 雑感
―――― 語訳恐るべし ――――       谷口雅宣   ―その1―
出版業界には「語植恐るべし」という言葉があるが、ニューヨークの世界では…云々…
◆−――−――−――−――−――−――−――−――−――−――−――−――−――−――−−◆
この中にて……
語訳恐るべし   ×   誤訳恐るべし   ○   (タイトル…箇所)
語植恐るべし   ×   誤植恐るべし   ○   (本文…箇所)

>>2476 の「神の子様(グリーン色)」… 御忠告ありがとうございます…。(お化け目??でした。)
遅くなりましたが…教えていただきました事に、感謝申し上げます…。 
                                 再合掌

2482うのはな:2013/08/09(金) 22:12:28 ID:858lKgWk

 谷口雅春先生監修 『實相研鑽』がはじまりました!
  拝http://blog.zaq.ne.jp/sinseityounoierengou/

2485a hope:2013/08/10(土) 06:44:58 ID:edEDolt2

☆今を感謝する祈り

神は私を″神の子″として、自分の心も魂も体も、ともに最も、
勉強になり鍛錬(たんれん)になる場所で私を訓練してくださるのである。
この訓練は神さまの愛から来ているのであるから、
今私はどんな場所におかれても感謝し、
どんなことえお命ぜられても素直に今の仕事を感謝して
ていねい深切に実行するのである。

「ジュニア希望の祈り」谷口雅春先生著 (日本教文社 )

2488a hope:2013/08/12(月) 07:52:26 ID:edEDolt2

☆今を生きる祈り

過去は過ぎ去ったのである。
過去に人が私をいじめたからとて、
私は過去のことには捉われないのである。
私は過去のことをクヨクヨ思いわずらうことはしない。
過去にだれかが私に不都合なことをしたとて、
それはすでに過ぎ去ったのである。
私は神の子として、すべての友だちをゆるしたのである。
神さまありがとうございます。

「ジュニア希望の祈り」谷口雅春先生著 (日本教文社 )

2489SAKURA:2013/08/13(火) 05:12:07 ID:3DzQVjzk
トキ様 へ 観覧者野皆様 へ
おはようございます……。  ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>2421>>2422>>2423>>2424>>2425>>2474>>2478 のSAKURA投稿の続きです…。『 転載編… 』

■小閑 雑感

―――― 語訳恐るべし ――――       谷口雅宣   ―その2―

2番目の翻訳の重大の過ちは、
英語の「Georgia」をアメリカ南部の州である「ジョージア州」だと早合点したことだ。

このような間違いをホワイトハウス担当のフランス人記者がするはずはない。
なぜなら、彼らは大統領の外国訪問の日程を知悉しているし、多くの記者は大統領に
実際に同行するからだ。

そして、つい数日前に「大統領の演説していた広場で手投げ弾が発見された」などと
いう重大なことが、どこであったかを忘れずはずがないのである。

その場所とは、グルシア共和国の首都・トビリシの自由広場である。
グルジアを英語では「Georgia」と書き、発音もジョージアである。きっとフランス語
の発音でも、この2つを区別しないのだろう。
とすると、「州」という言葉を付け加えたのはNHKの翻訳者であり、その翻訳者は、
海外ニュース担当であるにかかわらず、グルジアでの事件を知らなかったということ
になる。

何ともお粗末と言えないだろうか?

 まぁ、NHKに同情すれば、日本では英語に比べてフランス語の教育が遅れている
から、この程度の翻訳はしかたがないのである。

またフランス語のできる人は、きっと英語が苦手なのだろう。ニュースの翻訳担当で
あっても、日本語の新聞で自分の翻訳をダブルチェックする時間はないのだ。さらに、
今日もたまたま翻訳担当者の上司は出社していなかったのかもしれない。それに、
フランス語のニュースを日本語で聞くような視聴者は、きっと数が少ないのだ。

だから皆さん、NHKの外国語ニュースの日本語の翻訳は湯呑みにしない方がいいのです。

                           再合掌
PS: 「トキ様」 へ   「観覧者の皆様」 へ
上記の「現総裁雅宣先生…小閑雑感」の中からの記事を拝読しての“感想…”は〜〜〜
【 SAKURA の独り言 】という形式にて、下記プログ(URL…)に載せていますので
お時間ございましたら閲覧していて抱きますと幸いに存じます…。(下記要領…にて)

■ゆ・と・り・す・と…『真理』SEICHO−NO−IE 【小閑雑感 PART.4−3】 

** http://hert1706-go4snbs3yts.blog.so-net.ne.jp/
** http://hert1706-go4snbs3yts.blog.so-net.ne.jp/archive/20130623

■尚!「グ−グル…検索窓口」に於きまして??
前回もそうでしたが〜〜〜?時として!!検索が不能?になる【不思議現象…】が生じます。
同じ【URL…】なのに?或る処の【URL…】を記載しますと??「ブログなし」この様なメッセージ?
実に「オカシナ〜オカシナ〜オカシナ〜現象」で〜〜〜す。

その際は、【ブログ題名…】にてスル−して【検索エンジン】をして頂きまして、その後…
■最新版記事…【小閑雑感 PART.4−3】の処をクリックして頂きますと…閲覧出来ます。

御多忙中と思いますが…宜しくお願い申し上げます…。
では?少し遅れての「朝のお祈り…タイム」に…
                               再合掌

2490a hope:2013/08/13(火) 07:03:22 ID:edEDolt2

☆決意・断行・持続の祈り

私は神の子である。
神は何が最も良きかを示したまう。
″これ良し″と判断した以上は、私はそれをなすことをかたく決意し、
必ずそれを断行するのである。
いったん、決意し断行した以上は、途中でどんな困難が生じても
私は勇気を失うことなく続けて行うから必ず成功するのである。
ありがとうございます。

「ジュニア希望の祈り」谷口雅春先生著 (日本教文社 )

2491ババババァ〜んブログより:2013/08/13(火) 11:23:51 ID:???
      あなたは生長の家信者ではない。

 生長の家創始者  谷 口  雅 春 大聖師




 “『生命の實相』はもう読んで知っている。 一時は幾多の奇蹟を生じたくらいなんだもの” と、それで、もうわかったぞと、卒業した気になって、易々加減な生活を送って来て、その易々加減の心境の反映で不幸があらわれて来て、最後に “『生命の實相』は私には効かなくなった” と言って、やがて生長の家から離れて行く人があるのですが、これは『生命の實相』が効かなくなったのではなく、信仰がマンネリズムに陥った結果であります。

 『生命の實相』を読んだ当初は、はじめて『人間神の子』の大真理に触れ、空気の美味しさがわかるように、『人間神の子』の嬉しさを満喫して感謝一ぱいになるのであり、その心境の程度に応じて、幾多の奇蹟もあらわれるのでありますけれども、いつの間にかそれが形式化してしまう人があるのです。

 食前に感謝する行事でも、最初は本当に感謝の心を起こし、感謝の黙祷を捧げて、合掌して食物を『戴く』気持ちで食するのですけれども、それが段々形式的になり、瞬間的にパッと合掌して終わるということになります。 これは食前の祈祷における一例でありますが、生活の全体がこの調子に、『信仰』という内容のない、形式ばかりになるのであります。

 こういう信仰内容のない生長の家信者は、生長の家信者であって信者ではない。

 『人間神の子』の真理は、嘗てものの本で読んだことがあり、そう書いてあったことは覚えているけれども、記憶しているということと、自分が『人間・神の子』の自覚を得ていることとは別なのです。

2492a hope:2013/08/16(金) 07:27:46 ID:edEDolt2

☆明るい心の祈り

神さまは、光であります。
私は神さまの子であるから、″光の子″であります。
″光の子″であるから常に明るい心をもっていて、父母にも先生にも、
常に明るいハキハキした返事をいたします。
私の心が明るいから、明るい善いものばかりが集まってきます。

「ジュニア希望の祈り」谷口雅春先生著 (日本教文社 )

2499うのはな:2013/08/19(月) 11:59:58 ID:.XY5yRLI

 實相世界の光の世界を開く鍵
 http://blogs.yahoo.co.jp/yghms533/24571118.html

2500SAKURA:2013/08/19(月) 23:02:42 ID:pMLLKHKU
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【引用含む…】

【  女性の本質  】       谷口雅春著
――― 女というもの ―――

■他の心を変える祈りは正しいか ・・・・・

 ここに皆さんに紹介致しますのは『祈りの科学』(新選 谷口雅春選集④・日本教文社)と
いう本でありますが、この本はアメリカ“ニュー・ソート”(New Thought)と言って
直訳すれば“新しい思想”となるのでありますけれども、もう七・八十年も前から始まっ
ているところの思想運動でありますから、新しい思想と訳したのでは一寸変でありますの
で、私は何時もこれを光明思想と訳しているのであります。すべての暗黒面を見ないで、
光明面ばかりを見るところの思想でありまして、生長の家と非常によく似ているのであります。

 世界中にインターナショナル・ニューソート・アライアンス(International New Tho-
ught Alliance)という連盟がありまして、ニューソートの国際連盟とでもいうもので、生
長の家は日本に於けるその代表をしているのであります。この一派の女の思想家で、ステ
ラ・テリルマン(Stella Terriel Mann)いうアメリカの放送局等におきまして講演者
として有名な方があります。諸法に講演しておられまして、この人の講演には群衆が千人
を下ることがないといわれている女流講演者であります。

 このマン女史から『祈りによってあなたの運命を改造せよ』という本を送ってきたこと
があります。終戦後三年目位の時でありまして、その時分には出版条件が非常に不便であ
りました。翻訳するには、アメリカのG・H・Qの許可を一々受けたり色々複雑な問題が
ありましたので、まるくち翻訳することをやめまして、その大意を紹介しながら生長の家
の光明思想を織りこんでこしらえたのが、この『祈りの科学』という本なのであります。

 マン女史の本の中にこういう話が書かれています――大體マン女史は女でありますか
ら、人生相談に訪ねて行く人も女の人が多いのであります。それで、この本は御婦人方が
人生の行路を生きてゆく上に非常に参考になることが書かれていますので、その内の一つ
の話を紹介しようと思うのであります――

                            つづく

PS: 「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ

『ステラ・テリルマン女史…』は、個人的に“すきな作家…”です。…が?
■彼女の名前から【 14年間 の 円環】この事を、ついつい連想してしまいます〜〜〜ネ!

まず!学生時代の頃確か“祈りの科学”というような本の“普及誌”をよく読んでいました。
実に!興味ぶかい?好きな本籍でした。…が?すべて『哲学的に解釈』されていましたが、
この本は「2代目…清超先生の代」からでしたか〜〜〜?【廃版…】になったのですかと。??
その後…「幸福の科学」という【 信仰団体…設立の方 】が出現ですから〜〜〜

振り返りますと「次代のタイミング!!」が、良かったのでしょう〜〜〜ネ!!

■今からは本当に〜〜〜騙す?翻弄する?その様な【言葉の会話…】ではなく〜〜〜
本当に【真理を話す…】事が出来る人が〜〜〜【病んだ心を救う…】第一人者となる方でしょうか???
と思いながら【マン女史の講話…】が?私どもにとりまして、何かの“手がかり…”になる様に思います。

❤〜ではまた後に続きをお楽しみにして下さい〜〜〜〜〜〜

                                      再合掌

2501SAKURA:2013/08/20(火) 22:31:25 ID:pMLLKHKU
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【引用含む…】
>>2500からの投稿の続きです…。

【  女性の本質  】       谷口雅春著
――― 女というもの ―――

■他の心を変える祈りは正しいか ・・・・・ >>2500から①=>②に入ります。

 ある日、一人の若い婦人がマン女史を訪れてきました。この婦人は家庭生活の暇に二年
間もかかって小説を一生懸命に書いたのです。何しろ小説ブームなので、当れば大いに儲
かるというわけで、一生懸命に書いて、ある出版会社へその原稿を送ったが「うちの会社
では、こういう系統の書物は適当しない」といって返してきた。他の雑誌社へも送ったけ
ど、まだ返事が来ないが、どうも駄目らしい気がするというわけだったのです。

 そこでマン女史に、こう言って頼みました。
「あなたの祈りの力が素晴らしいということは評判になっていますが……ひとつ私の原稿が
採用になるように、あの雑誌社の編集局長の心を変えるように祈って下さい」

こういう願いは正しいものであるか、正しくないか、皆さんはどういう風にお考えにな
りますか?

 また、その婦人は、こう続けました。
「私、何時でも原稿を書く時には“これを送れば、すぐ売れますように”と祈って原稿を
書きます。また原稿を発送する時にも必ず“これが売れますように”と祈りつつ発送する
のですが、それでも矢っ張り売れないんです。私の祈り方が悪いのでしょうか、どうぞ先
生、あの雑誌社の編集長が喜んで私の原稿を載せてやろうという気持になるように祈って
頂きたいんです」

 皆さんは、こういう祈り方が正しい祈りであるとお考えになりますか?皆さんなら、ど
ういう風にお考えになり、またどういう風に解答なさいますか?

 マン女史は、こう答えられたのです。
「“編集長の心を小説を採用するように変えて下さい”と言って神様に祈る必要なんてあ
りません。人間は自分自身の心の通りの環境が出てくるのですから、自分の運命を変えよ
うと思ったならば、自分自身の心が変わるように祈ればよいのです。雑誌社の編集長という
ものは、良い原稿さえ送れば、それを載せたくて仕方がないのです。読者が求めているよ
うな原稿を欲しているのです。
 ところがなかなか読者が求めているような立派な作品、立派なインスピレーション、
立派な寛用記事または読者に求められるような良い書物の原稿は滅多に見つからないので
す。もし、あなたが、読者が求めてるような作品をお書きになったら、どんあ編集長だっ
て、その原稿をほしがるのです。要は、あなたの心の問題です。あなたの心が、どれほど
の作品を作りうるかということが問題なのです」

そうしたら、質問にきた婦人は、
「だって先生、失禮ですが私の考えは先生の考えと違います。近頃、雑誌の頁は少ないし、
有名な既成作家がみんな書いて頑張っているんですから、私みたいな無名作家は、もし編
集長が特別な好意をもって頁をさいてくれなかったら、のせてもらえる機会なんてないん
ですもの」
と言ったのです。マン女史の答は、こうでした。

                           つづく
PS 
少し考えされる面があるのではと……? 「トキ様」は?どのようなお考えなのでしょうかと???
私も、今【祈り…】につ考えているところですが〜〜〜??【祈り…】〜〜〜〜については〜〜〜
“フ〜〜〜ン?”【ロダン…】で〜〜〜す。

それでは〜〜〜また明日〜〜〜まで〜〜〜♫

2502a hope:2013/08/21(水) 09:14:03 ID:edEDolt2

☆努力と練習の祈り

神さま、私は神の子であります。
神は無限能力であります。
私は神の無限能力を今ここに受けついでいるのです。
しかしその無限能力は、努力と練習とによって、いくらでも出てくるのです。
努力と練習もしないで力が出てきたらなまけ者になりますから、
神さまは努力さすために、りっぱな宝石は地の底深くかくされてあるのです。
ありがとうございます。

「ジュニア希望の祈り」谷口雅春先生著 (日本教文社 )

2503rei:2013/08/22(木) 21:49:41 ID:ZIftZ1jM
「限りなく日本を愛す」より
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

天皇から叡智を引き出すのは国民の 天皇信仰による
 
 私は仮に反対論者の云うように「一時的の叡智の晦ましから国民を不幸に陥れることがある」としても、
天皇愛の感情から、それに従う純忠の精神が、損得によって離反迎合する商売主義よりも一層美しく価値
あると云いましたが、これは反対論者の提出せる仮定の下に仮に申し上げたのでありまして、私は国民が
天皇の叡智を完全に信じ全托する心境になるとき、天皇は決してその叡智を晦まされるものでないことを
信ずるのであります。真に生長の家の家族が、暴虐暗愚の家長(父又は良人)を完全円満なる神の子とし
て拝むとき、その暴虐暗愚の家長が至慈至愛の家長と変貌する実例によって、天皇に於いても国民全体が
天皇を本当に愛し敬し、その円満なる叡智と至仁なる政治を信ずるとき、天皇には必ず、国民全体の幸福
を実現する神ながらの叡智が発揮されるものであることを信ずるのであります。
 「天皇が国民の中で最高の叡智者であると云う証拠はない」これと同じ論法で、「良人が常に正しいと
云う証拠はない」「父が常に正しいと云う証拠はない」と云う常識的見解から(これは常識的や、現象を見
る見地からすれば正しいのであるが)良人を批判し、父に反抗し、そのために如何に多くの家庭が不幸に堕
つたか。又其の不幸に陥っていた家庭が、如何に多く生長の家の「実相を拝む」方法により、愛し敬し、そ
の円相を信じて委せる方法によって、その良人又は父が如何によくなり、家族自身の自由も却ってそれによ
って完全に確保せられるに到ったかは事実の証明する處であります。天皇に於ても此の事あるは當然であり
まして、「天皇が最高の叡智者であるという証拠はない」と云っている限りは證拠はあらわれないのであっ
てその実相の円満を観ずるとき、その叡智があらわれるのであります。家庭に於いてはこの種の実例を無数
にあげることが出来ます。国家も一つの「家庭」であります。

                  
202〜203頁より


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


誤字脱字、旧仮名遣いを直してしまったり、改行してしまいました。

現在の総裁の間違ったご指導をそのまま信ずるわけにはいきませんが、
(その違ったところは指摘して頂きたくてここを訪れております)
上記の谷口雅春先生のご文章は信じたいと思っています。
そうすると、こちら側の(信徒側)の信仰の問題ですね。

最後まで信ずる事ができるかどうかが問われている様に思います。
自分との対面なのだと思います。
厳しい道です。
できるかどうか、、、、不安です。

2504SAKURA:2013/08/22(木) 22:05:59 ID:pMLLKHKU
トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【引用含みます。…】
>>2500>>2501 の 投稿の続きです…。       

【  女性の本質  】             谷口雅春著
――― 女というもの ―――

■他の心を変える祈りは正しいか ・・・・・ その③

「そんなことはありませんよ。どんな有名作家だって、最初はみんな無名作家だったので
す。しかい、あなたが、そう信じている限りは、その通りになるのです。無名作家だった
ら載せてもらえないと信じていれば、信じている通りになるのだから、あなたはとても、
その原稿を採用してもらえません。一方で、そう信じていながら、片方では、“どうぞ神様
採用して下さい“と祈るのは、自分の信念が二つに分裂してしまっていることになるのです。

 “汝ら祈りて何事にても求むる時、すでにそれを受けたりと信ぜよ。汝はそれを得ん”と
いう風にイエスは教えられたでしょう。

 ところが、すでに受けたと信ずるどころか、とてもそれは採用されないと信じながら
祈るということは、信念がバラバラによろめいている姿であるから、そんなことじゃとて
も駄目ですよ」

 さらにマン女史は、言葉を一転して、こう言っているのです――

「あなたは何のために小説を書いたのですか。あなたが小説をお書きになったその奥底の
心の真なる願いというものは、一體どういう願いなんですか。その小説を売りつけること
が、あなたの願いなんですか。あなたが、本当に著述家になりたい、小説家になりたい。
私でなければ書けないところの材料をもっているんだ。それを書くことによって人生に何
か益を与えるとか、新しい美を加えるとか、新しい何か善きものを人生に加えるというよ
うな自信でもあって、お書きになったのですか?……」

 ここが非常に大切なところなんです。實際に、その天分があり、神様がその人に対して
小説を書くことによって人生に新たなる価値即ち値打ちを加えるというような使命を与えら
れている人であったら、無名作家であっても必ず世に出ることができるようになるわけなのです。

 ところが、ただ金を儲けたいための方便に小説を書いているんだったら、その小説の内
容も魂の底から本当に出てきたところの、生きた値打ちがないということになるわけです。
そんな生きた値打ちのないようなものは、やっぱり編集者が読んでみても、ちゃんと解るわ
けなんです。全て手段であるところのものは、真なる願いには遠いものである。手段手段
と言っているのでは、いけないのです。

 生長の家では、 ”今を生かせ“と言います。
                           つづく

PS:「トキ様」 「観覧者の皆様」へ
【祈り…】も〜〜〜全て【 心から真なる願い 】のスタートからになりますでしょうか??
今回の【マン女史…】の指導の過程を…見ておりますと?「過去のおさらい…」と申しましょうか?
最初の頃の【私の…願いの祈り】と?或る面では、重複してしまいます…。(冷汗)
やはり【 神は愛なり… 】この【愛…】と言う事に…強く“こころの動向…”を抱いている次第です。
「過去のおさらい…」をしておりますと、随分と今までとは違う『祈り…心模様』になったような
感じが致します…。個人的には?【生長?…成長?】しましたのでしょうか?
深く〜深く〜深〜〜〜く【心の真なる願い…そして“愛…”】でしょうか?【祈り…】に際して自問自答!
❤この事は【ジュリアの音信…】にも関連しますでしょうが〜〜〜♫

ではさらに続きを〜〜〜ではまた次回に〜〜〜〜!!

2505閲覧者99:2013/08/25(日) 21:44:08 ID:6vRtJMu.

 徳久先生『精神科学』より
http://blogs.yahoo.co.jp/yghms533

2506a hope:2013/08/27(火) 06:28:37 ID:kcv2QXTk

☆歓びいっぱいの祈り

神さま、あなたがこの世界をお造りになりましたのは、
歓びの心でお造りになりました。
それですからこの世界には歓びが充ち満ちているのです。
太陽は歓びに輝いています。
新緑も悦びの色で燃えるようです。
小鳥も悦んでさえずっています。
私も歓びいっぱいで元気に勉強いたします。
ありがとうございます。

「ジュニア希望の祈り」谷口雅春先生著 (日本教文社 )

2507SAKURA:2013/08/30(金) 20:28:42 ID:pMLLKHKU
トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【転載編&引用編…】
>>2500>>2501>>2504  の 投稿の続きです…。       

【  女性の本質  】             谷口雅春著
――― 女というもの ―――

■他の心を変える祈りは正しいか ・・・・・ その④

 生長の家では、“今を生かせ”と言います。

 今の中に全てがある。その今に全力をこめることなのです。孔子が、“朝に道をきかば、
夕べに死すとも可なり“と言いましたが、聞くというのは、必ずしも耳で聞くだけじゃな
い。“聞く”というのは、生命で実践することです。耳だけでなく、眼が“利く”、鼻が
“きく”口が“利く”、“腕きき”という言葉もあるように、結局“きく”ということは、
生命によって実践するということなのです。

 今、本当に自分の真なる願いを実践したら――朝に道をきかば……道を実践したら――
夕べに死すとも可なり……一瞬でも、今本当に生命(いのち)を生きたならば、その一瞬の中に永遠
があるわけです。英語でいうと、eternal now という言葉がありますが、永遠の今です。
久遠の今です。久遠の今、永遠の今を生きたならば……一瞬の生き方であっても、そこに
無限を生きた感じがするものですから、吾々の腹の内部から、“でかした、でかした。よく
生きた“というので、もう死んでも良い、もう完全に生き切ってしまったという気持ちが起
ってくることができるわけなのです。だから、吾々は、手段の生活というものをしていた
らいけないわけなのです。

 今生長の家の理事をしておられる徳久克己先生が、岡山の医大を出てから、医大の研究
室で博士になろうと思って勉強しておられた頃のことを御自分で、こう言われたことがあ
ります。

 毎日、自宅から自転車に乗って研究室へ通われたそうですが、何のために通うかという
と、それは研究室で研究して博士になるための手段である。それなら博士になるのは、何
のための手段かというと、博士になれば値打が上がって開業でもすれば、余計儲かる。つ
まり金を儲ける手段として博士になりたいのである。金を儲けるのは、何のためかという
と、女でも……妾でも沢山こしらえて……と。
(勿論これは、生長の家に入る前のことです)

 全てがこうした手段、手段の生活だったというわけですが、その頃徳久さんは腸チフス
になって高熱を発して昏々として、頭が麻痺したような状態でねておられた時に、お母さ
んが、『甘露の法雨』を枕許で一心にお読みになっておった。それが、何か天国の音楽の
ように聞えたそうです。それから、不思議に快方に赴いたというので、興味をもたれまし
て、それから『生命の実相』をお読みになったわけなのです。

『生命の実相』をお読みになりましてから、“今を生きよ”という今の生命の一瞬の今に、
永遠の生命の値打が溢れたということをお悟りになりまして、何時ものように、自転車に
乗って岡山の医大へ通った。そうすると、それまで岡山の医大へ行く手段として自転車
に乗っているんだから自転車に乗っていても景色も何も見えやしなかった……

 ところが、一瞬一瞬が、“今を生きる”ところの価値生活――値打の生活というのに変っ
てしまったのです。

                            つづく
PS:「トキ様」 へ 「観覧者の皆様」 へ 

【 手段=実践 】これが〜〜〜ポイント!!でしょうか??

>>「朝に道をきかば……道を実践したら――夕べに死すとも可なり……一瞬でも、今本当に生命(いのち)
を生きたならば、その一瞬の中に永遠があるわけです。」<< (抜粋)
◆―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――◆

一瞬!一瞬!が生きた事…生かす事…への日々が、それを“永遠…”に生かす!!
本当に、私の本当の望みを願う事は、一瞬!一瞬!【毎日の日々の“心…”を鍛える事】その心でしょうか??
まず!言葉から【道…未知なる世界)】が始まり、そこからそれに繋がる【実践…】のようですネ!!
まだ〜〜〜まだ〜〜〜私は甘えてる〜〜〜かも?〜〜〜ネ!
…このように思いましたが??

【 手段===>実践===>それが生活に生かす…しかもそれは“願いが叶う事”でしょうかと???】

                                再合掌

2508zhishishe:2013/09/01(日) 00:30:10 ID:oIevayCQ
http://www.zhishishe.com/topics/4713/

2509志恩:2013/09/01(日) 03:15:55 ID:.QY5jUA6
(谷口雅春【著】:『新版 生活読本』より)


 愉快な 生々した人になれ

何よりも吾々は 人らしい人 になることが必要なのです。

神の子の生活と云うのは 別に人を離れて 神の子の生活があるのではございません。 

それでは 人らしい生活と云うのはどういう生活であるかと云うと、
お釈迦さんは、「笑うべき時に笑わず、歓ぶべき時に歓ばず、
慈心(なさけごころ)を起すべき時に 慈心を起さず、悪をなして恥じず、善を聞いて意(こころ)につけない人は
確かに人らしくない人である。」

そして又こう云われた。
「笑うべき時に笑い、歓ぶべき時に歓び、悪をなして恥じ、善を聞いてそれを意に感銘する者は確かに人らしい人である。」

愉快に楽しく生々していることは、確かに人間にとっての美徳であるのである。美徳と云うのは美しい徳だと云うことである。
徳と云う字は「直心(じきしん)を行ず」と云うことを文字に組み合わせたものである。
直心と云うのは、素直にそのままの心を出すことである。

即ち笑うべき時に笑うことである。
歓ぶべき時に歓ぶことである。なさけの心を起すべき時に、素直に可哀そうだと思って救(たす)けてやることである。

歓びと云うものは、身体の血のめぐりをよくし、
勉強や仕事をする力を増し、悲観したり、気がふさいだりしている人にはとても及ばない良い考えを起させてくれるものである。
日本人は、古くから、「喜怒、色に現わさず」と云って、喜びがあっても喜ばない、怒りの念が起こっても其の怒りを
顔にあらわさないことを美徳としてきましたが、これは大変な間違いだったのです。

多くの病気は、心の中に持っている喜びや悲しみを形にあらわさないために起こるのです。
怒ることは感心しませんが、素直な気持ちで、何でも心に思っていることを出すようにしていますと、心にものがたまって
腐ることがありませんから、怒ることも自然になくなるのです。

何でも心を自由にしていると人間の実相は愉快なのが本当ですから、愉快に楽しくなるほかはないのです。

常にニコニコ微笑している者は身体も達者であります。
微笑とは「ほほえみ」です。

「頬」に何となく嬉しさの笑いが浮かんでいることです。
「ニコニコ健康法」を機会ある毎におやんなさい。

人間は愉快なときにも笑いますが、笑っていると愉快になるのです。笑っているとズンズン健康になってくるのです。

2510志恩:2013/09/01(日) 03:28:58 ID:.QY5jUA6
2509:
訂正  谷口雅春【著】→谷口雅春先生【著】

2511a hope:2013/09/01(日) 07:22:57 ID:dyDQLtZQ

「生命の實相」第11巻 万教帰一篇上 P18〜

○神いい給いけるは水には生き物饒(さわ)に生じ、鳥は天の穹蒼(おおぞら)の面(おもて)に地の上を飛ぶべしと。
神巨大(おおい)なる魚と、水に饒(さわ)に生じてうごく諸(すべ)ての生き物の類に従いて創造(つく)り、
又羽翼(つばさ)ある諸(すべ)ての鳥を其の類に従いて作り給えり。
神之を善しと観たまえり。
神之を祝し曰く、生めよ殖えよ、海の水に充てよ。
又鳥は地に殖えよと、夕あり朝(あした)ありき之五日(いつか)なり。
神言いたまいけるは地は生き物を其の類に従いて出(いだ)し家畜と昆虫(はうむし)と地の獣をその類に従いて出(いだ)すべしと即ち斯くなりぬ。
神、地の獣を其の類に従いて造り、家畜を其の類に従いて造り、地のすべての昆虫を其の類に従いて造り給えり、神これを善しと観たまえり。
(『創世記』第一章 ―― 二十〜二十五)

五官の心――感覚の心にとっては、われわれの住む世界は物質的なもの――いろいろの物質的元素の集合でできていますけれども、
それはわれわれの「迷いの心」を通して見る「影の世界」でありまして「実在の世界」ではないのであります。
これを「実相覚」(自己に宿る生命の実相と、客観の実相とが直接的に触れて知る直接的なサトリ)によって観ますと、
この世界は、神の言葉によって成り立っている観念の世界であります。
いわば「神」という一大光源から放射された光で成り立つ世界であります。
一つ一つの生物(いきもの)はその一つ一つの光線にも比(くら)ぶべきものであります。
水の中を自由自在に泳ぎまわる魚(うお)その他の生き物が最初に神から放射された生命の観念であったのは、生命というものは本来自由自在なるものである。
それはどんな抵抗があっても、その抵抗を利用してかえって前進して行くものである、水というものは実に強い抵抗力を有している、
ことに深海の底深く這入って行くと、その水の重さからくる圧力というものは非常に強いものである。
ふつうの人間が入って行けば、その水の圧力で押しつぶされてしまう。
潜水服をつけて深海に入って行っても、十分間以上はとても作業を続けることができないといわれるほどのものである。
(つづく)

2512a hope:2013/09/02(月) 07:37:13 ID:dyDQLtZQ
>>2511つづき)

「生命の實相」第11巻 万教帰一篇上 P19 6行目〜

これだけの抵抗、これだけの重さ、これだけの圧力を受けても、海の魚は自由自在に泳ぎまわる、どんな重さも苦にならない、どんな抵抗も悩みにならない。
岩があってもヒラリヒラリと燕のように身を翻(ひるがえ)して泳いで行く。
水の抵抗や、水の重さというものがあるので、かえってその中に住む「生命」はその自由自在な本性を発揮することができるのであります。
「生命」とは、ひっきょうかくのごときものである。
そこで、その本性の自覚がまず形象(かたち)に化せられて海の魚となって出現したことは当然のことであります。
形象(かたち)に化してあらわれるといいましても、これはまだ物質世界以前の実相の世界のことでありまして、
そこには完全な調和があり、決して魚類相食むというような不調和な世界ではなく、
「食ありといえども、実に食するものなし、ただ色を見、香をがぎて、意(こころ)に食すると思えば自然に飽き足る」底(てい)の完全大調和の世界であります。
だから神がこれを観て善しと認めたまうたのであります。
次につくられたところの地の上から天の大空へと天翔(あまかけ)る鳥というのは、生命の自由自在であって水の中の魚のように、
ヒラリヒラリとどんな重さも、どんな抵抗をも潜り抜けて前進するだけのものではなく、なおそれ以上に高くのぼるという本性がある。
最高神に対する憧憬(あこが)れ、地的なものだけでは満足できない天的な向上心がある。
この憧憬心(しょうけいしん)と向上心との自覚の観念が形に化して出現したのが空を自由自在に飛び廻るもろもろの鳥である。
「生命」というものは、たんに自由自在なものだえけではなく、また高きに憧憬(あこが)れがあるだけでなく、それと同時に偉大さをも備えているのであります。
この偉大さの自覚の観念の象徴として「巨大(おおい)なる魚」がつくられている。
この「巨大なる魚」というのは、英訳の聖書を見ますと〝Whale〝 すなわち「鯨(くじら)」と書いてあります。
鯨は生命の偉大さの象徴化されたものとして適当なものでありましょう。
(つづく)

2515a hope:2013/09/03(火) 07:09:42 ID:dyDQLtZQ
(>>2512つづき)

「生命の實相」第11巻 万教帰一篇上 P20 後ろから4行目〜

生命とはこうして自由自在なものである。低きに満足できないものである。しかも偉大な巨大なものである。
しかしまだそのほかに、生命は一にして多、多にして一、その種類において、
大(おお)いさにおいて、色彩において、形態において無限の豊富さを備えていなければならぬ。
大いさとか、色彩とか、形態とかいうけれども、それは物質ではない。神から放射された観念なのであります。
それは無限の豊富さをもっているけれども、その一つ一つは互に完全に調和している。
この世界が「実相の世界」であります。
神と「神より出でたる観念の世界」これのみが「実相の世界」で、唯一の「実在の世界」なのであります。
この世界のほかに「実在の世界」はない。この世界の生き物はすべて美しく、愛すべく、調和した生き物であります。
ひとつして下等動物だとか、低級なものだとかいって軽蔑するべきものはない。
どんな微細な生物もそれ自身において完全であり調和しており、霊妙な生きる力をもっているのであります。
この世界は「神より発した第一念の世界」だというべきでありましょう。
こうして神から発した第一念の世界に住む生物が夢を見る、自分自身が神より発した純粋観念であり、
だから霊的実在であることを自覚せずに、「形あるゆえに自分は物質だ」と第二念を起こして夢を見る。
この第二念の描かれた夢幻の世界、これがわれわれの住んでいる現実世界であって、第一義的実在世界ではないのであります。
それを「実在の世界」だと迷って執着する。
執着するところに苦しみが生じて迷いは迷いを呼び、ここに現実のごとき争闘の世界、生存競争の世界が現出したのであります。
(つづく)

2516a hope:2013/09/04(水) 08:03:17 ID:dyDQLtZQ
>>2515つづき)

「生命の實相」第11巻 万教帰一篇上 P21 後ろから2行目〜

神はその第一念によって実相の世界、大調和の世界、円満具足の世界、
一にして多、多にして一、自他一体の渾然たる霊的実在の世界を創造し給うたのであります。
この神の創造したまえる世界のいっさいの事物は、猛獣のように強いものであっても、
強いなかに必ずやさしさがあり愛があり、美しさがある。
虎や獅子を見ても、その勇猛なうちに美と優しさとを備えているのであります。
もし、われわれ生物が、第二念に捉われない時代が来れば、
預言者イザヤが次のように歌ったような理想世界が実現して来るのであります。

狼は小羊とともに宿り
豹は小山羊とともに伏し
獅子は牝牛のごとく藁を食い
犢(こうし)と若獅子とはともに草を食まん。

牝牛と熊とはともに子供に導かれ
食をともにして相ともに戯れん。
乳呑み児は毒蛇の窩(あな)の上を匍匋(はらば)い
乳離れの子は手を蝮(まむし)の窩(あな)にさし入るるも傷つかざらん。

わが聖(きよ)き山にはいずれの処にも
傷つくる者なく、殺す者なし。
そは海原を水の蔽(おお)えるごとく
大いなる神の知恵この地上に満つればなり。(『イザヤ書』第十一章――六〜九新訳)
(つづく)

2517閲覧者99:2013/09/04(水) 12:02:58 ID:aLdANEEo

 『實相研鑽』第一集 生長の家の健康学
http://blog.zaq.ne.jp/sinseityounoierengou/

2518a hope:2013/09/05(木) 07:48:05 ID:dyDQLtZQ
>>2516つづき)

「生命の實相」第11巻 万教帰一篇上 P23 4行目〜

こんな理想世界が果たして来るのであろうかなどと疑われる方もあるかもしれませんが、
来るとか来ぬとかいうことは、われわれの第二念の世界(映像(かげ)の世界)だけのことでありまして、
神の第一念の世界(実相の世界)においては神の創造の最初から無限の未来を通じて現在にこの理想的大調和の状態にあるのでありまして、
これからいろいろ工夫し改善されて来るというような緩慢(まだる)っこいものではないのであります。
今現に実相世界は完全に大調和の状態にある!
これを悟ることが真理を悟るということなのであります。
この完全な大調和な理想世界が今現にあるということを悟らないで、歪な「迷いの色眼鏡」をかけて眺め、
いたずらに相争い、相犯し、相恐れるものでありますから、真理の光線が屈折して、まん円(まる)いものも、
歪な形を映し出しているのがこの現実世界であります。
結局、これは「迷いの色眼鏡」をかけているがためでありますから、真理の正しい眼鏡をかけて事物を眺めるようにするならば、
実相世界はそのままの大調和の状態がこの映像(かげ)の世界(現実世界)に現出するのであります。
キリストは「み心の天に成るがごとく地にも成らせ給え」と祈られました。
この祈りは天(すなわち霊なる実相の世界)にはすでに神意が実現して大調和の状態にある証拠でありまして、
「実相の世界」がすでに大調和の状態にあるがごとく、現実世界もまた大調和の状態を現出せしめたまえと祈られたのであります。

釈迦は『弥勒菩薩下 生経』において末法の世が過ぎ去れば弥勒菩薩が下生して来たまい現象世界にも
大調和の世界が実現して来るということを予言していられるのであります。
これはキリスト教で予言されているキリストの再臨ということにあたるのでありましょう。
しかし、肉体は「念の映像(かげ)」でありますから、肉体をもった弥勒菩薩が下生して来られるとか、
肉体をもったキリストがこの地上に再臨し給うとかいうことは、真実(ほんとう)ではありますが、
「映像(かげ)すなわち肉体の世界」に捉われず、常に「実相の世界」を観たとき、
現実の世界の不調和が忽然としてわれわれの眼界から消え去るのであります。
そのさまはちょうど『黙示録』の第二十一章に書かれております。―――

○我また新しき天と新しき地とを見たり。
これ前の天と地とは過ぎ去り、前の海も亦(また)なきなり。
我また聖なる都、新しきエルサレムの、夫のために飾りたる新婦(はなよめ)のごとく備えして神の許をいで、天より降るを見たり。
(『ヨハネ黙示録』第二十一章 ―― 一〜二)

このように新天新地というものは天から降って来るのであって、現実世界だけにいろいろ改造運動を施してでき上がるものではないのであります。
天から地へと降って来るというのは「実相の世界」から「現実世界」へ映って来ることをいうのでありまして、
完全な「実相世界」そのままの相を「現実世界」へ映し出すには正しいレンズがいる。
この正しいレンズとはなんであるかといいますと、真理を悟った心――すなわち「サトリを開いた心」であります。
われわれが真理を知り、サトリを開いたときに、忽然「みこころが天になるがごとく地にも成る」
――すなわち新天新地が「実相の世界」から天降って来るのであります。
そのときに初めてわれわれは、「神と人とが一体であり、死もなくすべての悲しみもないのが人間の本来である」ことがわかるのであります。
(以下、略 謹写終わり)

2519a hope:2013/09/08(日) 08:04:22 ID:dyDQLtZQ

☆ 幸福の祈り

私は神の子である。神は私を愛したまう。
私は父母の子である。父母は私を愛したまう。
〝神さま〝 ととなえるとき私はうれしくなる。
お父さんと呼ぶとき私はお父さんの愛を感じる。
お母さんと呼ぶとき私はお母さんの愛を感じる。
私は、神と父母との愛につつまれて幸福である。
ありがとうございます。

「ジュニア希望の祈り」谷口雅春先生著 (日本教文社 )

2520a hope:2013/09/09(月) 08:02:36 ID:dyDQLtZQ

p66

人の喜びをうらやむ者は
 常に苦しいものですが
人の喜びを喜ぶ者は
 楽しいばかりであります

「ジュニア希望の祈り」谷口雅春先生著 (日本教文社 )

2522SAKURA:2013/09/09(月) 22:16:24 ID:j7IGF7Cw
トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【転載編&引用編…】
>>2500>>2501>>2504>>2507の投稿の続きです…。       

【  女性の本質  】             谷口雅春著
――― 女というもの ―――

■他の心を変える祈りは正しいか ・・・・・ その⑤

 すると今まで気がつかなかったところの、お空に漂っている白い雲と
か、或いは、その辺の野原に生い繁っている草花であるとか、林の樹木であるとかが、非
常に美しいものになって、“ここに今天国浄土がある”ということが自覚できるようになっ
たというのであります。

 “今を生きる”ということは、そのように時々刻々瞬々の生命(いのち)の中に、本当の
値打ちを見出し、美を見出し、そして生き甲斐を見出すという生活になるわけなんです。

                             つづく

PS:「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ 
■【今!一瞬を生かす……生活感】が〜〜〜人間としての“使命”にも思えます。
そして、今日の乱れた「広告…」は、何の生きがい?意義?があるのでしょうかと。??
未来ある「若者…達」に■【人生の生きる重要感…】は、「肉体美ではない!!…」と教える事が、
大事ではナイのでしょうかと、思います。
あくまでも…時の流れが醫瞬の中に於きまして【泡の如く消えて行く人生…にならず!!
生かす事!!…人生を生かす!!…生活を生かす!!】この“道理”・“価値観”が大事なのですかと。
肉体美はいずれは〜〜〜滅ぶモノ?見た瞬間に?泡の如く消えゆくモノです。

■【こころに残る瞬間…】とは、『オスカーワイルド…』でも
“愛”…人を生かすやさしの“愛”!!これは「今を生かすことへの道=道徳」にも入って行くように思えます

やりたい放題の自由・肉体は?いずれは滅ぶもの…その「執着心…」は【地獄の切符…】にもつながるよう
にも思えますが!!

あくまでも【宗教観…】とは【人間の律を正しい心へ導くもの】と思います。…が?
今!を生かす一日〜〜過去を振り返ってみて、どれだけ生かしきれているか????唯今!自問自答です。

再合掌

2523SAKURA:2013/09/09(月) 22:18:42 ID:pMLLKHKU
トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【転載編&引用編…】
>>2500>>2501>>2504>>2507>>2522の 投稿の続きです…。       

【  女性の本質  】             谷口雅春著
――― 女というもの ―――

■最後の目的とする真実の願い・・・・・ その①

 さて、マン女史を訪れて来たところの小説を書いた、その婦人の本当の真なる願いとい
うものは一體何であったかと言いますと……よくよくその話を聞いてみると、その人は自
分の現在の家庭生活が面白くないので、その生活から逃れたいという希望をもっておった
わけなんです。

 というのは、その婦人は弟夫婦の家に同居しておりまして、弟夫婦の厄介になっている
ということが、非常に劣等感と言いますか、屈辱感になっていたのです。それで、お金を
儲けて弟夫婦の家庭に居候している生活から、どうしえも逃れたい。それで、お金を儲け
たい。そのために小説を書きたいということえあったのであります。

 そこで、マン女史は“小説家とか音楽家とか、或いは彫刻家とか詩人であるとか……特
殊天分を与えられている婦人は別として、大體、普通の婦人の願いというものは、愛と
平和と調和に充ち満ちた、日常生活に必要な凡ゆるものが豊かに与えられている家庭生活
をもちたいというのが、魂の底なる願いである“ということを指摘されたのであります。

そして、
「そういう願いこそ、あなたの真なる願いなのですから、そんな小説などを書くよりも、
愛と平和と調和に満ちて豊かな恵みをもつ幸福な生活を祈るようにしたらどうですか?
そういう生活ができるなら、あなたはどんな職業をしても良いんじゃないですか?」と
訊いてみたのです。その婦人は、こう答えたのです。
「そういう生活が得られるのなら、どんな職業でも良いけれど、唯一つ嫌なのは、家政
婦みたいな仕事です」

ここに、この婦人の第二の躓きの石がある。マン女史は、こう書いています。

――吾々があることを神に祈ったならば、その祈りの波長に合うところの事物が、例え
ば放送のプログラムのように、神の定め給うた順序を追うて現われてくる。一遍に、その求
めた願うところのものが、パッとその人の前に必ずしも出てくるとは決っていない。それ
には順序がある――

 例えば、富士山なら富士山の頂上へどうぞ登らせて下さいとお願いしたとすると、友達
が旅行に行こうと誘ってくれて、まず富士山の麓の御殿場なら御殿場へ行く。その時に
“私は御殿場みたいな処へやってくれと言ったんじゃない。富士山の頂上へやって下さい
とお願いしたんです“と言って、自分の眼の前に出てきた御殿場を有難く思わない。有難
く受けないことは、その次の善きものを受ける準備ができないという結果になるわけです。

                         つづく
PS;「トキ様」 「観覧者の皆様」 へ
【祈り…】も、やはり〜〜〜思いますには【心の準備期間…】があるようなのですネ??
この意味が、ようやくわかりかけてきました。・・・が?
…ですので、今!【成就が不能の場合〜〜〜?】は??逆にいいますと?
【心の受ける準備…】が出来ていないわけなんです〜〜〜ョネ!!
では、そのためにモット〜モット〜「神様…」にその準備を導いていただかなくては〜〜〜(笑い)

                                     再合掌

2524a hope:2013/09/10(火) 09:34:24 ID:dyDQLtZQ
 
▣ 父母に感謝の祈り

神さまありがとうございます。
常に私たち家族をお護り下さいまして家族皆々健康で幸福でございます。
お父さん、お母さん、ありがとうございます。

お父さんとお母さんの愛は、目に見えない神さまの愛が、
人間という形にあらわれて私たちを愛して下さるのでございます。
神さまありがとうございます。
お父さん、お母さんありがとうございます。

「ジュニア希望の祈り」谷口雅春先生著 (日本教文社 )

2525a hope:2013/09/11(水) 07:38:33 ID:dyDQLtZQ

▣ 感謝の祈り

神さま、あなたは太陽となって私たちに光と熱とを適当に与えて下さいます。
空気も、水も、食物もみな神さまの御生命(おんいのち)のあらわれであります。

だから空気を吸い、水を飲み、食物をいただくことによって私は、生命を得(う)るのであります。
天地すべてのものに感謝いたします。
ありがとうございます。

「ジュニア希望の祈り」谷口雅春先生著 (日本教文社 )

2526a hope:2013/09/12(木) 08:25:41 ID:dyDQLtZQ

▣ 明朗精神の祈り

私は″神の子″である。
神は常に楽しいのであるから、″神の子″たる私も常に楽しいのである。
過去の悲しいことや、腹立つようないやなことがあっても、
そんなことはみなじょうずに忘れてしまうのである。

″日まわり″の花が光の方へ常に向きがかわるのと同じように、
私は明るいことばかり考え、明るいことばかりを思い出して楽しいのである。
ありがとうございます。

「ジュニア希望の祈り」谷口雅春先生著 (日本教文社 )

2527a hope:2013/09/13(金) 07:15:06 ID:dyDQLtZQ

▣ 善き言葉の祈り

私は神の子である。
神の子であるから、神の子らしくない悪しき言葉、乱暴な言葉、腹立つ言葉、
人の悪口を言う言葉などはけっして使わないのである。

私は善き言葉のみを使う。
悪く批評せねばならぬ時にはだまっていて語らない。

「ジュニア希望の祈り」谷口雅春先生著 (日本教文社 )

2528うのはな:2013/09/14(土) 11:19:44 ID:Q5x361sg
      心臓の動悸に和解すること

 心臓の動悸が激しくて、始終それが気になって何時、心臓麻痺で死ぬかも知れぬと恐怖心に悩まされている
婦人が私に指導を求めて態々大阪からたずねて来たことがあった。その婦人は「大阪教化部駐在の栗原保介先生に導いて
貰って子宮疾患と糖尿病と何やらとは治ったが、心臓のドキドキだけはどうしても治らないので、谷口先生に直接指導を受けたら
治るだろうと思って来た」というのである。

 私はつくづくその婦人の顔を見てから、「あんたの心臓のドキドキを治してあげたいと思うけれども、心臓のドキドキをとめたらあんたは
死んでしまうから、治す訳にゆかぬ」といった。その婦人は「栗原先生は、心臓のドキドキを気にかけるからいけないので、そんなものは忘れてしまいなさいと
いわれるのですけれども、忘れようと思うほど思い出して気にかかるのです」というのである。
その時、わたしは声をはげまして、
「あんたは心臓のドキドキのお陰で全身に血がめぐって生きているのですよ。それを忘れようとは何事です。そんな恩知らずの事を考えるから、心臓は憤慨して
〝今もこのように一所懸命に血をめぐらしているんですよ〟だから、一分一秒間と雖も、心臓のドキドキを忘れてはならない。出来るだけそれを思い出すようにして、
〝今も心臓がドキドキして血をめぐらしてくれているのである。ありがとうございます。ありがとうございます〟と思い出す毎に感謝するようにしなさい」と言った。

 すると、その婦人は、翌日私を訪れて「心臓のドキドキはお陰でなくなりました」といって感謝せられたのであった。
この婦人は「心臓のドキドキに和解した」ために、病気が消えたのであった。

 『愛はかくして完成す』p121−122  谷口雅春 先生著

2529うのはな:2013/09/14(土) 15:49:29 ID:sMmtx8Ho

 佐藤栄作首相閣下

 大学生の現体制破壊行動は、国際・国内の共産主義者の示唆や扇動に動かされたからではありますが、
彼らが、その扇動に動かされるような心境にならざるを得なかったのは、現在の自民党政府が、生命を尊重する掛声だけをして、本当は
毎年三百万人も殺されている胎児を見殺しにして顧みないようなウソツキであるからであります。

 ゲバ学生を権力や、自衛隊や、機動隊で「外から押えること」には成功しても、「内から破壊衝動を抑える権力機構との激突となって多数の死傷者を
出すことになり、根本的解決にはなりません。「内から破壊衝動を抑える政策」というのは、第一のものを第一にすることなのであります。
破壊衝動の起る根因を絶滅することなのです。

 〝内〟が鎮まれば〝外〟も鎮まるのです。その〝内〟を鎮めるということは何であるか、あなた様はまだお気づきになりませんか。
現在日本の大人が「昭和元禄」と形容されるくらうの贅沢繁栄の生活をいとなむことのできているのは、毎年三百万人の胎児を虐殺して堕胎するという非人道的犠牲の上に
成り立っているのであります。霊魂の存続をみとめない唯物論者には理解できないかも知れませんが、あなた様なら解っていただけると思うのであります。
おのおのの受胎した霊魂たちは、神から、地上において果すべき使命を受けて宿って来たのであります。

 その胎児の地上生活を断ち切って殺してしまうことは、受胎せる子供の霊魂に対して重大な侵犯を冒すものであります。
そこには民主主義はありません。強制的殺人があるばかりです。弱肉強食主義があるばかりです、そこには道義の確立はありません。
自分さえ快楽を貪り裕かであればよいという御都合主義の利己主義があるばかりです。
物質的繁栄や享楽のために生命を殺すことを何とも思わないのは単に利己主義であるばかりでなく、強盗殺人行為f¥であります。
それを放置されるのはあなたの責任であります。

『占領憲法下の政治批判』  谷口雅春 先生著

2535a hope:2013/09/15(日) 08:13:20 ID:dyDQLtZQ

▣ 素直な祈り

神は素直を好みたまう。
ハイの精神こそ日本精神であるのである。
神は私の″良心″として、わたしのうちに宿っていられるのである。
その″良心″のささやきは神さまの命令である。
だから私は″良心″のささやきに素直にハイとしたがうのである。
けっそて″良心″がとがめるようなことはいたしません。
ありがとうございます。

「ジュニア希望の祈り」谷口雅春先生著 (日本教文社 )

2539SAKURA:2013/09/15(日) 22:06:49 ID:pMLLKHKU
トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【 転載編… 】
>>2500>>2501>>2504>>2507>>2522>>2523 の 投稿の続きです…。       

【  女性の本質  】             谷口雅春著
――― 女というもの ―――

■最後の目的とする真実の願い・・・・・ その②

 ところで、その婦人が家政婦的な仕事は嫌だと言ったのは、何故であるか。マン女史は、
その婦人の精神分析をして、こう解釈しています。

 ――それは、弟夫婦の家に居候して家政婦的な仕事の手伝いをさせられているからであ
る。そういう仕事をしている自分に対して非常な自己嫌悪を感じている。屈辱的を感じて、
自分で自分を軽蔑している。そして、自己嫌悪に陥っている自分を憎んでいるから、従っ
て弟夫婦をも憎んでいるのである。

 大体人が他の人を憎むのは何故かというと、自分自身を自己嫌悪して、自己の惨めさが
あまりに耐えられないので、自分が惨めな状態にいるのは、あの人が悪いからだと他の人
の原因に転嫁しようとしているからなのです。惨めな状態にあるのは、自分が悪いのだと
素直に認めれば良いのですが、それでは余り自分自身が惨めなので、自己嫌悪し自分を憎
む心を他の人のせいにして、あの人が悪いから私はこういうことになったと思って人を憎
むことになる。

 つまり、その婦人は弟夫婦の家政婦的な仕事を居候としてさせられているのは、自分の
心の姿が現われているのだと認めるのが嫌で、弟夫婦を却って憎んでいるわけです。

 自分が悪いのではない。弟夫婦の家族を助けてやる為に自分の青春を犠牲にしているの
だと考えて、“弟夫婦を憎み“こんな家政婦的な仕事は絶対に嫌だ”などと考えるようにな
ったのである――マン女史は注釈しているのです。
 ❤〜 つづく

2541a hope:2013/09/17(火) 08:53:50 ID:dyDQLtZQ

▣ 愛行の祈り

神は常に愛を実行していられるのである。
神の愛によって万物は育ち生長する。
その神のいのちを私たちは宿して″神の子″ として生まれてきたのであるから、
私も常に愛を実行するのである。

愛とはすべての人に物に事に深切なことである。
私はすべての人に物に事にいきとどいて深切をつくすのである。

「ジュニア希望の祈り」谷口雅春先生著 (日本教文社 )

2542かぴ:2013/09/17(火) 10:59:41 ID:kJa/VU7Q

「与えよ、さらばあたえられん」が我々が幸福を得るための黄金率である。それを「与えたら一層大なる御礼が来る」というふうに物質的にのみ考えては間違いである。「与える」ということによって得られる幸福は、「与えている」その行動と同時に感じられるところの、何処から来るともわからぬ言いようのない祝福感である。これは必ずしも「行動と同時」だけではなく、「与えよう」と創造したときからその祝福感はあらわれ、与える実践によってその祝福感は高潮に達し、与え終ってからも長く心の中に反芻するようにその余韻をひいて其の人の魂を悦ばしめるのである。

「人生を見つめて」 谷口雅春先生著

大熊先生が「奇蹟の事務所」を開いてから、支援する多くの人に素晴らしい奇蹟が起こっているそうです。

http://blogs.yahoo.co.jp/panda41415151

2545a hope:2013/09/18(水) 08:46:15 ID:dyDQLtZQ
 
▣ 愛行実践の祈り

神は″神の子″たる私に、無限の力をあらわすことを教えたまう。
神は私を″神の子″として、神の無限の力を受けつぎ、
その力をもって人を幸福にするための深切愛行を行わしめたまうのである。
神は人に深切をし、愛行をし、人々を幸福にするために無限の力を私に与えられたのである。
人に深切をし、愛行をし、人々を幸福にするために無限の力を私に与えられたのである。
人に深切愛行をする程度にしたがって、私の力はふえてくるのである。

「ジュニア希望の祈り」谷口雅春先生著 (日本教文社 )

2548かぴ:2013/09/18(水) 19:11:21 ID:kJa/VU7Q

吾々は「与える心」を起こさなければならない。「与える者のみ与えられる」のであります。

吾々は「物」をもっていなくても、「愛」を与え「親切」を与え「感謝」を与えることが出来るのです。

与える者は、かならず与えられて、豊かな人生を送ることが出来るのであります。

(谷口 清超先生著「愛と祈りを実現するには」)

2551a hope:2013/09/19(木) 09:14:49 ID:dyDQLtZQ

▣ 父母へ感謝の祈り

私は神の子として、神の生命が父母を通して生まれたのである。
私がいくら神の子であっても、人間の父母を通して生まれなかったならば、万物の霊長として、
生き物のうちで最も美しく最も知恵があり最も幸福な生活のできる人間には生まれることができなかったのである。
お父さん、お母さん、ありがとうございます。

「ジュニア希望の祈り」谷口雅春先生著 (日本教文社 )

2553かぴ:2013/09/19(木) 18:12:51 ID:kJa/VU7Q
「あいつは悪い、あいつは悪い」と念ずることは、その思念の力によってその相手の人をして益々悪くならせることになるのである。

念ずれば念ずるとおりにあらわれるのが心の法則であるからである。正義によって憤ると云うことは、「彼は間違っているから、善くしてやりたい」と云う希望から成されるのであるから、「彼は本来あんな悪いことをする人間ではない。善い人間である。だから今後は善い事ばかりをする」と念じてやるべきである。

彼をよくしてやるのは説教ではなく、愛である。

(谷口 雅春先生著 「幸福を招く365章」 )

2554SAKURA:2013/09/19(木) 21:45:00 ID:pMLLKHKU
トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【 転載編… 】
>>2500>>2501>>2504>>2507>>2522>>2523>>2539 の 投稿の続きです…。       

【  女性の本質  】             谷口雅春著
――― 女というもの ―――

■最後の目的とする真実の願い・・・・・ その③

 マン女史は、人生問題について相談に来た人の心の奥底を探るために、ある方面を使っ
ているのです。それは、その人の宗教的及び教育方面の訓練、又は教育を詳しく履歴書に
書かせると同時に、感情の歴史とでもいいうべき憎しみ、恐怖、満たされざる願い、希望、
野心等を詳しく書かせるのです。それを見ると、その人の魂を貫いているところの感情生
活の主流が、どの方面に傾いているかということが解るのです。

 生長の家の個人指導部でも、ケース・カードというものをこしらえて、それに類するこ
とをしておりますが……

 その婦人にも、これを書かせてみましたら、彼女が非常に子供に愛情をもっていること
が解った。その告白によると、弟夫婦は彼女を養ってやらねばならないので、生活費の節
約のために子供を生むことを遠慮していることを彼女も薄々知っていたので、それが厄介
になっている自分を自己嫌悪させる一つの原因になっていたことも解ったのです。

 この婦人は決して小説書きになりたいのではなかった。彼女の「女」としての真なる願
いというものは、子供達を愛をもって世話する仕事がほしいのであったというわけなので
す。金を儲けるために小説が採用されますようにという願いは、手段としての願いであ
る。小説が採用されるとか、金が儲かるとか云うのは、それは手段であって、最後の目標
は何であるかというと、愛と平和と調和に満たされた善き良人と善き子供のいる暖かい家
庭を欲しているのが、一般に「女というもの」の本当の願いであるのです。

 それを欲するならば、その本当の願い、真なる願いを直接に祈って求めれば可いのであ
る。その本当の願いを求めないで、途中の手段としての小説や金儲けを求めるからいけな
い。最後の目的とする「真實の願い」と云うものを本当に祈って、神様の智慧と一致した
ら、途中のことは適当に神様が順序をこしらえて下さるのだとマン女史は訓えたのです。

                        つづく

2555a hope:2013/09/20(金) 07:41:53 ID:dyDQLtZQ

▣ 家庭祝福の祈り

わが家は″神の子″の家である。
わたしの家族はことごとく″神の子″ばかりである。
わたしの家庭には神の愛が充ち満ちているから、みんな調和して仲がよいのである。
わたしの家庭には神の知恵が充ち満ちているから、みんな調和してまちがいをすることはないのである。
みんな″神の子″であり健康で善い人ばかりである。

「ジュニア希望の祈り」谷口雅春先生著 (日本教文社 )

2556SAKURA:2013/09/22(日) 21:56:58 ID:pMLLKHKU
トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【 転載編… 】
>>2500>>2501>>2504>>2507>>2522>>2523>>2539>>2554>> の 投稿の続きです…。       

【  女性の本質  】             谷口雅春著
――― 女というもの ―――

■最後の目的とする真実の願い・・・・・ その④

 そこで、この婦人は、マン女史のすすめに従って“子供達を愛をもって世話することが
できる仕事を与えたまえ“と祈ったのであります。そうしますと、間もなく、その祈りは
きかれて、二人の子供をもった若い検事の家に子供の世話係りとして雇われることになっ
たのです。矢張り女の人は、子供の世話をする愛情の表現のある仕事というものに、非常
に価値を感じ、生き甲斐を感じるものなのです。

 そして、そこで働いているうちに、その検事の宅に出入りする法律家とが仲良くなり、
終いにはその法律家と恋愛関係になって、やがて結婚して本当の魂の願いである愛と平和
と調和との良き良人と善き子供に囲まれた、婦人として、女として真なる願いを満足す
る境遇に入ることができたという話であります。

 皆さんも、女として真なる願いを直接的に求めることにして、“既にそれを与えられて
おります。“有難うございますと毎日感謝しておられましたら、やがて、それが実現して
くるということになるのであります。
                            つづく

PS:「トキ様」 へ ・ 「観覧者の皆様」 へ
私も、やはり!いささか【心のふらつき?】が多かったようにも、この事を反省しております。
モット〜モット〜「神 様」に甘えていかなければ〜〜〜♫ と?深く思うのです。
まずは【祈り…】の捉え方が〜〜〜まだ〜まだ〜【 “我”は ?? われに?? 】でしょうか?

もっと【心の法則…】に従いまして「神 様」へ〜〜〜
【授ける“心…”!!お任せの“心…”】このように展開していける自分自身の【 心…】かと。

すべては「神 様」に向けて、私の“心…”は、アケスケニ〜〜〜“素直な心…”でもって行く感じで
ひたすら「神 様」に向けて【祈り…】ましょうかと。
まだ!まだ!【成就できない…願い】この意味が?「マン女史のお話」で〜〜〜
実に!ほんのり〜♫ ほんのり〜♫ と、解りかけてきましたでしょうかしら〜〜〜ン!!
今回!切なる心の奥底からの“願い…”で【病気が治る】事は、『神様の御心』に叶いましたのでしょうか?

■まだ!まだ!修行中の“心…模様”なので〜〜〜す。
モウ〜〜〜モウ〜〜〜【真剣に!益々と!神様と神地一体!!】です。
                                        再合掌

2557かぴ:2013/09/24(火) 10:56:53 ID:oEnYKIyI
過去の不幸を心の中で繰返すな。過去は既に過ぎ去ったのであり、未来は自分の心の中にあるのである。朝々が新生である。新たなる人生があなたを訪れるのである。未来はあなたの掌中にある。

夜の帳はあなたの過去のすべての嘆きを拭い去ったのである。この朝、あなたは新生したのである。新しき機会があなたを訪れる。これこそが真理である。

昨日までの一切の不幸を嘆くな。一切の病弱を、一切の貧苦を。それは過去のあなたの想念の影に過ぎなかったのである。

過去は、あなたが心でそれを捉えない限りはあなたを最早や苦しめることは出来ないのである。

過去を捨て、現在に生きることが光明生活の極意である。今ここにあなたが、人々の幸福のために何物かを与えれば、未来にあなたの幸福が実って来る。あなた自身が未来を創造りつつあるのである。

(  谷口 雅春先生著 「幸福を招く365章」   )

2558a hope:2013/09/25(水) 08:11:50 ID:dyDQLtZQ

▣ 悦び無限の祈り

神はこの世界を、歓びの心をもっておつくりになりました。
太陽も月も星もことごとく、神の悦びの感情の表現であります。
神の悦びの最高のきわまりの時に、人間は生まれたのであります。
それゆえ、私は常に悦びの感情に満たされております。

私は何を見ても神の悦びの芸術に見え、何を見ても神の悦びの言葉にきこえるのです。
悦びは悦びを呼び、毎日私の悦びはふえるばかりであります。
ありがとうございます。

「ジュニア希望の祈り」谷口雅春先生著 (日本教文社 )

2559かぴ:2013/09/25(水) 10:25:24 ID:oEnYKIyI

すべてのものは先ず心の世界に発生し、それが形にあらわれてまいります。

よき意味の歌を合唱又は斉唱しますと、その合唱又は斉唱の際に於ける精神統一の刹那に、そのよき想念が、潜在意識界に根をおろし、やがて芽を吹き、実を結ぶのであります。

潜在意識の奥底は、深く宇宙意識のの創化作につながっており、潜在意識に印象したことを、宇宙意識が実現してくれるのであります。

( 谷口 雅春先生著 「幸福生活論」   )

2560かぴ:2013/09/25(水) 10:28:34 ID:oEnYKIyI

×創化作→○創化作用 (失礼しました。)

2561a hope:2013/09/26(木) 09:35:11 ID:dyDQLtZQ

▣ 歓喜の祈り

神は神罰の神ではありません。
神は、歓びの神であり、幸福の神であります。
その歓びの神、幸福の神の子が私であります。
したがって、私はつねに幸福であり、歓びであります。

私は常に愉快なうれしい顔をしておりますから、
人から好かれるのであります。
私は常に、ニコニコしています。

「ジュニア希望の祈り」谷口雅春先生著 (日本教文社 )

2562かぴ:2013/09/26(木) 18:09:49 ID:oEnYKIyI

すべての人間は神の子であり、互いに兄弟であるから、互いに理解されることを望んでいるのである。

愛されることと理解されることと、この二つを失った人は真に孤独であり、寂寥感に襲われずにはいられないのである。

しからば愛と理解とを失って、この世に生きる希望を失った人々は如何にすべきであろうか。

愛と理解とを与えられることを求めるな。先ず愛と理解とを与えてあげることを試みよ。人々を愛せよ。憎い人でも愛せよ。

愛すると云うことは必ずしも感情ではない。その人のためになることを隠れて熱心にしてあげよ。本当に愛が湧いて来るに違いない。

( 谷口 雅春先生著 「 新版 幸福を招く365章 」)

2563SAKURA:2013/09/26(木) 21:08:24 ID:pMLLKHKU
トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【 転載編… 】
>>2500>>2501>>2504>>2507>>2522>>2523>>2539>>2554>>2556 の投稿の続きです…。       

【  女性の本質  】             谷口雅春著
――― 女というもの ―――   

■ 肉體・性別は人生劇場の舞台の姿・・・・・ その①

 最近、私は朝日新聞に載っている井上靖の『潮』という小説を読んでいます。この人の
小説は、非常に人情の機微を穿っているので、私は井上靖の小説が好きなのであります。

 この小説の中に伊沙子という女主人公が出て来ますが、彼女は光一という戦災孤児の少
年に、夜学へ行くための学資を一度供給してやったことがある。少年が何かの問題で警察
へ引っぱられた時、警察へもらい受けに行ったりする。ところが伊沙子の良人は、そのこ
とに余り賛成していない。

 けれども子供のいない伊沙子には、子供を愛したい願いというものが矢っ張りある。良人
に内緒で少年に白いセーターを買ってやったりするが、少年は、このセーターに同僚(少
年は会社で給仕をして昼間働いて夜学に通っている)からインクをつけられて、喧嘩をす
る。この時も警察沙汰になって、伊沙子が又貰い下げに行くのですが、家へ連れて帰ると
良人が嫌うので、この時には鳥巣という音楽家の家へ少年を預けるのです。

 鳥巣という男は、前に伊沙子に恋愛遊戯をしかけたこともある人物ですが、少年も預け
たことから二人が又段々親しくなってゆくという筋なのです。

 この少説を読んで感ずることは、良人が嫌っていることを、内証でしようとするところ
に伊沙子の心にすきが出来ている。そこへもってきて、良人の側には、若い宗方律子とい
う女が、人知れず恋愛感情をもっていて、良人に対していろいろ誕生祝いなどと言って贈
物をしているのです。

 家庭の中でこうした三角関係のようなものが始まる微妙な心理は、お互いに秘密をもっ
ていることがもとになっているのです。良人が嫌がっていることを内証でしてみたり、奥
さんの知らない女から、夫が贈物をもらったりするようなところから始まるのです。良人
があんなことをしているんだったら、私もというような気持ちになるんじゃないかと思うの
ですが、兎も角、御婦人というものは、愛されたい、特に良人に愛されたいという願いが
強いものだと思います。

 女と云うものは、一度肉体的関係を結んだところの男性に対して非常に愛着を観ずる
ものなのです。本当の恋愛でなくても、そんな関係の後には強い愛着というものを感じて
離れ離れなるような傾向があるものなのであります。

                            つづく
PS: 「トキ様」「観覧者の皆様」へ
正直申しますと?【女性の認識・本質】此処昨今では?随分変わってきておりますでしょうか?
「雅春先生…時代」は?やはり〜〜〜世間一般で申します〜〜〜
或る意味では【男尊女卑…】という事で封建的な考え方が根強くありましたでしょうか?

さて!かといって?今日の若い女性の或る面での【ドライな考え…】これも?両者を比較しますと
随分考えさせられます点が?ありますネ!
一言云えますのは 最高の“男女間の愛…”とは〜〜〜? 『魂…向上の結びつき!』でしょうか?

■「古事記…」に示されております処の…「日本の国の法則」と申しますか?
『 夫まず唱え、妻これに従う 』というところの大八洲国すなわち日本の国の法則…
男女の役割、男女の生き方の役割とでもいいますか?アメリカの民主主義が入ってきましてから
女性優先〜〜〜或る面では“離婚”を増やす要因になるかと…。亡き「雅春先生」が?
懸念されていました事柄〜〜〜でしょうか?

再合掌

2564a hope:2013/09/27(金) 08:41:36 ID:dyDQLtZQ

▣ 幸福と健康の祈り

私は神の子である。
神は完全であるから健康そのものである。
その神の生命が私に宿って私の生命となっているのであるから、
私は健康であるほかはないのである。
神は常に私を護って私を健康に幸福にしていて下さるのである。
このことを神に感謝いたします。
ありがとうございます。

「ジュニア希望の祈り」谷口雅春先生著 (日本教文社 )

2565うのはな:2013/09/27(金) 16:59:18 ID:mCQxOykY
昭和二十二年五月二十六日 京都より東京へ

       輝子様    雅春

  これは第三信です。第二信は名古屋のヤマトホテルで五円札一枚出して切手をかつて
貼つてもらふつもりで「出してください」と云つて渡しましたが、今日は京都の講習会の三日目です。
京都の講習会の員数は約五百五十人かと思ひますがハッキリした数は唯今わかりません。

 広い相国寺の方丈に一パイになつてゐまして、一日千円の室料であります。
今に相国寺は生長の家の道場になつてしまふと相国寺の信徒総代が云つてゐたさうです。(中略)

  死せるに非ず生けるなりとラザロに云ひし耶蘇のごと現象の奥に実相を見んかな

  善悪総じてもて存知せざるなり、ただ礼拝すべしと教へられける

   『こころの旅路』 谷口恵美子 先生編著

2566 SAKURA:2013/09/28(土) 22:42:12 ID:pMLLKHKU
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【 転載編… 】
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【  女性の本質  】             谷口雅春著
――― 女というもの ―――   
■ 肉體・性別は人生劇場の舞台の姿・・・・・ その②

 その一例として、先夜、林芙美子の『放浪記』のラジオ放送の一節がフッと耳に入って
きたのですが…… それは、林芙美子がアパートの部屋代が拂えないで困っていた頃の話
で、彼女を非常に愛していた青年が、その部屋代にと言って無理に置いて行ってくれた十
円札(今なら五千円程度)を、部屋代に費わずに、それ以前に尾道でカフェ―の女給をして
いた頃に関係のあった男に逢いにゆくために費うという筋でした。

 林芙美子はその中で、“とも角、あの人は私を女にしてくれた人なんだ。だから何とな
く逢いたくてたまらないんだ“というようなことを言っています。こうした感情が「女と
云うもの」にはあるものなのです。實際に恋愛を感じていないでも、一編でも肉体関係を
結んだところの男性に対しては非常に心をひかれる。それはどういう訳かと言いますと、
女性というものは生理的に、普通ならば一年間に一人しか子供を産むことができないから
なのです。

 一年間に一人しか子供を産むことができないから、男をいくら変えてみても何の役にも
立たない。結局、ただ一人なる男性、しかもやがて自分が産むべきところの子供の唯一人
なる父親になる男性を願い求める欲求が、自然に「女というもの」の恋愛感情として出て
くるものなのであります。

 恋愛と性慾とは複雑に交錯していますが、人間の性慾というものは、何のためにあるか
というと、これは人間の魂の欲望じゃないのです。聖書にも“我々が霊界へ行っても肉體
的な夫婦関係があるか“と弟子がキリストに聞いたら、”霊界へ行ったら、そういうものは
ない“と答えたとかかれていますが、結局、魂が地上に降りてきて、ある使命を果たすため
の作業服が肉体なのです。その作業服に、男と女の二種類がある。肉体が「女である」と
いうことは、その女の作業服をつけて人生劇場の舞台に現われたというわけになるのです。

 今、女に生れている方でも、必ずしも、毎回女ばかりに生れるわけじゃないのです。現
在男に生まれている人も、やがて、女に生れ変って、女でなければ體験できない體験を積む
ことによって、魂が、それまで知らなかった経験を通して磨かれるということになるのです。

 そういう訳ですから、我々の肉体というものは、人間そのものじゃなくて、人生劇場で
割り当てられた其の配役にふさわしい人間の衣装である。だから、女の衣装をつけて、この
地上に生まれてきたら、女らしく振る舞うのが、神様のみ旨(こころ)である。人生を劇場に
みれば、歌右衛門のように男であっても、女形として舞台に現れたら、女以上に女らしく振
舞うのが名優であると言われるのと同じことです。女と生まれたら、女らしくなければなら
ないのであります。また男に生まれたら男らしくなければならないのです。

                                つづく

2567 SAKURA:2013/09/28(土) 22:43:54 ID:pMLLKHKU
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【 転載編…&引用編… 】
>>2500>>2501>>2504>>2507>>2522>>2523>>2539>>2554>>2563>>2566 の 投稿の続きです…。       

【  女性の本質  】             谷口雅春著
――― 女というもの ―――   
■ 肉體・性別は人生劇場の舞台の姿・・・・・ その③

 「女らしい」と云うことはその肉體と云う衣装が示していますように、肉體の動作も、言
語も、表情も、柔く温く潤いがあってゴツゴツしていない優美な愛情のあふれた感じをもっ
ているべきなのです。

現代は戦後の反動時代で、女性が男性化しようと云う傾向が強いようですけれども、いくら
女性が男性化しても、“男性そのもの”には成り切らないで、“男性の贋(まが)いもの”が
できるばかりで、贋いものは真物(ほんもの)ほどの価値がないから、女性は女性として男
性には真似のできない優しさの愛の美徳を発揮していただきたいものであります。

                               
PS:「トキ様」 へ 「観覧者の皆様」 へ

最近〜〜〜思うのですが
【 女性化した男性の方が〜〜〜多い!! ニュハーフの時代?? 】を感じる此処昨今です。…が?
見ていますと“動作…”が〜〜〜最近!「女性…」以上に【女性らしい?】と見られる現役の方が?
いますでしょうかと?? これには〜〜〜複雑ですかと。又?この逆もありますモノ…?

例えばです。…が? 「郁子」さん……この方の最初の“イメージ!”は、失礼ながら〜〜〜最初は?
なよなよした感じの“イメージ!”個人的には抱いておりました。
どうかしますと【 男性==>女性化 】なのですが?当初は?まだまだ“荒削り…”でしたでしょうか??
処が???この頃は“磨き…”がかかった彼女?彼氏?と言いますか〜〜〜
最近みました「写真画像…」では、見る限り〜〜〜
■【ワァ〜〜〜!!こんなに、女性らしくなったの〜〜〜ネ!】〜〜〜と、思わず“賛嘆…言葉”
思わず〜〜〜或る「広告…」で見た時の私の感想でありますが、これは〜〜〜
現状の『視覚的…捉え方』となりますが〜〜〜♫ この範囲内での中からの“イメージ”を
「郁子さん・・・」らしく感じた気持です。さらには「男性…」から見た『視覚的な描写…』でしょうか??

ですので、本当に女性らしく?不思議な気持ちなのですが〜〜〜どうしても見えてしまいますかと??
平均的に、男性は〜〜〜外部上の“表面…”を造ろう傾向が?女性より強いように思えます。
その「研究…」と申しますか?「観察…」と申しましょうか〜〜〜(微笑)
ですので、ある面では【男性の眼…からの“女性像…”になるのでしょう〜〜〜ネ!】

そうしますと、やはり“生活感の無い…女性像”にある面では感じてしまいますから〜〜〜果して?
その奥底の❤【女性の特有の母性本能…本質部での“女性らしさ〜♫”】は、ないように見えてきます!!

>贋いものは真物(ほんもの)ほどの価値がないから、女性は女性として男性には真似の
できない優しさの愛の美徳を発揮<<   (一部抜粋)
◆――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――◆

まさに創立者「谷口 雅春先生の言葉」の意味が理解できますかと思う次第です。!!
ここでは〜〜〜?
■□【表 面 に 惑 わ さ れ る 事 の な い よ う に 〜♫ 】と云う事でしょうかと。

                                 再合掌

2568a hope:2013/09/29(日) 07:06:19 ID:dyDQLtZQ

▣ 無限力発揮の祈り

私は神の子である。神は無限の生命(いのち)である。
神の子たる私は神の無限の生命と、
無限の力をうけついでもっているのである。
無限の生命、無限の力をもっているものが、
疲れたり、病気になったりするはずがないのである。
それゆえに私はいくら勉強しても、いくら運動しても、
健康で、疲れるということを知らないのである。

「ジュニア希望の祈り」谷口雅春先生著 (日本教文社 )

2569志恩:2013/09/29(日) 09:21:29 ID:.QY5jUA6
晴れときどき競馬とホークスより

 肺結核と祖国反逆

2013/9/28(土) 午後 0:06

 祖先の霊の念波は、現実世界にいる子孫の運命に影響を及ぼすということであります。

 (1)祖先または自分に関心ある縁者の霊魂の好まないところを子孫が行えば、
    祖先または縁者の霊魂の反対観念を受けて、その人の運命が妨げられます。

 (2)祖先、または自分に関心ある縁者の霊魂が迷いにとらわれ、信ずベからざるを信じ、
    妄執にとらわれていますと、
    現実界の子孫たるわれらがその反対観念の掣肘を受けて、正しいことを行なっていても、
    それがおもしろくいかないことになるから、
    祖先の霊魂にはすみやかに真理を悟らしてあげる必要があります。


 この第一の原理により、われわれは父祖が現世になくなっていようとも
  、父祖の期待に背くということを行なえば、

  その父祖の霊魂の反対観念によって制裁を受けることになるのであります。

 さらに父祖に対して反逆の行動をとるようなことをすれば、
 必ずその子孫の運命はよくゆかないのであります。 

・・・・・ 祖国に対して反逆的行動をとろうとするような思想の人たちの健康を
調べてみると、肺結核にかかっている人が多いということを誰かが発表していましたが、

肺結核の原因は本全集の 『實相篇』 にも述べましたように、
いろいろの原因がありますから、一概にはいえない。 

 概して申せば、肺病は狭量な極端にサバク心、
切る心が自己の肉体にその形をあらわしたのでありますが、

祖国愛するをわれわれの祖先の霊魂の反対観念によって制裁されている
場合が多いことも明らかな事実でありまして、

親不孝の人に胸を患っている人が多いのであります。


                     谷口雅春師 『生命の實相』 生命篇より

2570かぴ:2013/10/01(火) 17:30:46 ID:oEnYKIyI

受ける者よりも、与える者の方が幸福である。与えると云うことには幸福感を伴う。

神の愛は「与えてやまぬ愛」であるから、与える心の中には神の愛が目覚めて来るのである。しかし受ける者があるので与える悦びが完了するのである。

だから受ける者を軽蔑してはならぬ。受ける者を軽蔑したとき、与える悦びは減ってしまうのである。

受ける者を愛し祝福する気持ちになったとき、与えた悦びは増大するのである。

与える喜びも大切であるが、何事にても受けるときに真にそれを神の恵みとして感謝するならば、受けることも大なる悦びに変化して来るのである。

自分が与える悦びばかりに固執していて、他に与えさす機会を与えないのは他の人の魂の進歩を妨げることがある。

( 谷口 雅春先生著 「幸福を招く365章」  )

2571SAKURA:2013/10/01(火) 22:22:03 ID:pMLLKHKU
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【 転載編…&引用編… 】
>>2500>>2501>>2504>>2507>>2522>>2523>>2539>>2554>>2563>>2566>>2567 の 投稿の続きです…。       

【  女性の本質  】             谷口雅春著
――― 女というもの ―――   
■ 愛は一切のものを産み出す母・・・・・ その①

アメリカのステラ・テリル・マン女史のところへ、また別の婦人訊ねてきました。そ
の婦人は、富を実現したい、金持になりたいという願いをもっていたのでした――

 彼女の叔母(寡婦)という人は、大した富豪でありました。それで、その財産の全部を
貰いたいと思った訳じゃないのですが、その叔母さんから三千弗貰って、ささやかな自分
の住宅を建てるか、又は買いたいと思っていたのです。

 ところが、最近になって、その叔母さんが或る法律家と恋愛関係になって、逢い引きを
しているという噂がある。そして、間もなく結婚するんじゃないかと言われている。もし
叔母さんが結婚して了ったら、叔母さんの死後には、その若い法律家が財産全部を後継し
て、自分には一文も入らなくなる。それでは困るので、叔母がその法律家との恋愛が破れ
て自分に三千弗を与えてくれるように、祈って下さいと言って頼みに来た訳なのです。

 そこで、マン女史は、こう尋ねました。

「ところで、あなたはその叔母さんに家を買う金をもらいたいと言ったのですか?」

「いいえ、叔母は、それはそれはけちん坊で吝嗇で何時も機嫌が悪くてとても私叔母にな
んて、そんなこと言えませんわ。言ったって、とても聞いてくれたりなどしませんわ」

「あなたは私に祈ってくれるお願いになる必要はありません」
とマン女史は答えました。
「あなたの祈り――祈りとはあなたがもっとも深く心の中で信じていることです――それ
は必ずきかれるのです。とてもけちで吝嗇で私のいうことなど決してきいてくれないとあ
なたが叔母さんのことを祈っていられる限りは、きっとその通りになるのです……」

 祈りというものはを、“何々して下さい”と泣きついて頼みこむことだと思っている人があ
りますが、常に心の中で深く信じていること、思い続けていることが、本当の祈りという
ものなのです。ですから“あの叔母さんは、けちん坊で吝嗇で、とても私になんかお金を
くれるものか。財産を譲ってくれたりするものか、三千弗も貸してくれるものか“と思っ
ていたら、それが祈りなのです。つまり“叔母さんは、けちん坊でお金を貸してくれませ
んように“と祈っているのと同じことになるのです。

                           つづく

2572a hope:2013/10/02(水) 08:01:31 ID:dyDQLtZQ

▣ 安全の祈り

神は私の魂の親さまである。
父母は私の肉体の親さまである。
魂の親さまなる神は私を内から導いて下さるのであり、
肉体の親さまなる父母は、外からいろいろの助言をして導いて下さるのである。

その導きに素直にしたがっているならばけっして危険なところに近づくことはないのである。
私は常に安全であります。

「ジュニア希望の祈り」谷口雅春先生著 (日本教文社 )

2573かぴ:2013/10/02(水) 11:41:18 ID:oEnYKIyI
   ○
他人が喧嘩をしているのを見るのは、自分の心の中に喧嘩があるから見るのである。

自分の心の中に喧嘩がなくなれば、他人の喧嘩も消滅する。私に対して遠隔思念をして病気を癒してくれと言って来る人があるのは私の心の中にまだ病気があるからである。

  ○
自分ひとりが浄まったなら、世界は浄まるのである。自分の心がきよまらざる故に世界はきよまらないのだ。

自分の心をきよめることによって、全世界を浄めることが出来るのである。

  ○
魂の切なる願いは、かならずかなえられる。というよりも、既にそのことがかなえられているが故に、それが切実な欲求となってあらわれるのであるとも言える。

(  谷口 雅春先生著 「叡智の断片」  )

2574うのはな:2013/10/02(水) 18:00:51 ID:91cj0URY
     カンサス・シティ

 ユニティ本部はカンサス・シティ東郊、車でおよそ30分ほどのところにある。
昭和24年市内にあった本部をここに移して、今日のユニティ・ヴィレッジができた。
1400エーカー即ち5平方坪余りの広大な敷地、中に三つの湖をもち、詩情漂う美しい田園の村を
形づくっている。

 ユニティは、1892年チャールズ・フィルモア夫妻によって創始された「人間・神の子」を説き、
キリスト教の各派の万教帰一を唱道する真理運動である。
 ユニティの発祥は1886年に遡る。その頃マートル・フィルモア夫人は大変健康を害していた。
或る春の夜のことであった。夫人は講演を聞いて帰る道すがら、ある一つの考えが心の中に何度も繰返して閃めいてくるのであった。

 その考えというのは、「私は神の子だ。だから病は本来ないのだ!」ということであった。
自分が神の子であり、神の御心は完全であるという真理が彼女の全存在を満たした。
そして神癒が直ちに始った。そして一時間もせぬうちにマートルの病弱の身体が変ってしまった。
この奇蹟の治癒体験を知った人々が彼女に救いを求めて集まって来た。そして多くの人が神のいのちに
触れて癒された。チャールズはこれを目のあたりに見て心をひかれ、夫妻協力して、すべての人の内に宿る真理キリストを通じ、
人々を健康、繁栄、幸福に導く運動に献げることになったという。

 ユニティのことについては谷口先生が夙に御紹介下さっており、生長の家との提携は久しいものがある。
しかし、谷口先生が実際にユニティ本部を御訪問になり、現教主チャールズ・フィルモア氏(創始者の孫になる)をはじめとする幹部の方々と
親交を深められたのは今回が初めてであった。

 4月13日はカンサス・シティ御到着後、直ちにユニティ・ヴィレッジを御訪問。
本部の塔、本館、年中休みなく続けられる神癒祈願局、コンピューターを導入した印刷、出版、教育部門等を視察され、更にホテル、モテル、宿舎等各種施設を
含む美しい敷地を車でご覧になった。
 更に夜御講演に先立って、教主チャールズ・フィルモア氏、教主の叔父ロウェル・フィルモア氏等にお会いになり親交を深められた。御講演はユニティ本部の講堂で開催された。

 講堂を一杯に埋めて集まった600名の聴衆を前に、先生は、ユニティを讃えられつつ、生長の家の独自の面をお話になった。その内容は浄心行、聖経の功徳、ハワイ日系二世第100大隊、442部隊の偉勲、
『心と癌』所載の奇蹟的治癒体験、中心帰一、夫婦調和と広い範囲にわたり、聴衆ひとしく感銘したのであった。

    『真理は民族を超えて』 P20−21

2575a hope:2013/10/03(木) 09:06:19 ID:Zlo2YeaM

▣ 幸福な家庭の祈り

私の家は神の子の家、神の子の家は神に愛され、神に護られているのであから、
いかなる悪しきことも近づいてこないのである。

父母も兄弟もみな神の子であって、
悪い人は一人もないから争いはけっしてなく本当に幸福なのが我が家である。

「ジュニア希望の祈り」谷口雅春先生著 (日本教文社 )

2576うのはな:2013/10/03(木) 16:39:41 ID:AgGUbAB6
      再開された巡錫 『こころの旅路』 谷口恵美子 先生編著

 戦後の巡錫は、終戦の翌年、昭和二十一年から始まりましたが、交通事情も悪く、長期の本格的な
巡錫が再開されますのは、昭和二十二年の五月からでした。この二ヵ月前に父は福岡に行っていらっしゃいます。

    昭和二十二年三月二十一日  福岡から東京へ
      輝子様      雅春

 昨年の十二月も今年の一月も、そして三月十八日の出発の九州講習会も私が出発する日になると、急に温度が高くなるのである。
私は恵まれてゐる気がする。私はまだ若い気持ちでゐるけれども、既に還暦を過ぎた私は、もつと身体を大事に取扱はなければならないと
深切に誠心をもつて注意して下さる人もあるので、汽車もあまり遠距離は成るべく一気に飛ばないことにしてゐるのである。
私が一日多く長生きしてゐることは、それだけ人類にとつて何等かの貢献をなし得ると信じてゐるからである。

 人間は「生命」であつて物質ではないから、肉体など大切にする必要はないと云ふことはないのである。
人間が念の力によつて、地上生活の営みのための道具として「肉体」を物質的にあらはした以上は、その肉体は或る程度物質界の法則に
支配されるである。足の裏は使へば使ふほどその皮膚は厚くなり、ただの物質の摩滅の法則とは異るやうにあらはれる。

 それは生命が働いて「物質の法則」を超えながら、「物質の法則」を利用して新たに細胞組織を増殖するからである。
しかし「生命」が細胞を新たに増殖することが出来る以上に、足の裏の皮膚を磨滅させたら、皮膚はやぶれ肉は露出し擦過傷を生ずるのである。
例へば、目の疎い鑢で間断なく擦つたら、幾ら部厚い足の裏の皮でも破れて血が出るのである。
肉体はただの物質ではないから、単なる物質の磨滅の法則には従はないが、同時に物質として物質の法則に従ふ面もあるのである。

 だから吾々は食物も食べねばならないし、入浴すれば垢も落ちるのである。
単に精神統一をして「吾が身体は清浄なり」と念じても、一年に一回も沐浴しないでは垢はとれないのである。
何でも心で思ふとほりになると云ふので、物質の法則を全然無視してしまふのは極端な観念論であつて、生長の家の唯神実相論ではないのである。

 唯神実相論と云ふのは、実相界には既に完全な世界(人間及事物を含む)があつて、それが「念」を媒介として自然界(物質界現象界)にあらはれて来ると
云ふのである。例へば私の出発する日になると大寒中でも稍々暖かくなり、旅行しやすくなると云ふ風にである。
「何もしないでただ精神統一して念じてをれ」と云ふのではない。精神統一して念ずることは、一定時間にやるが、それを契機として、現象界には生命の「自然に動きたい衝動」が
起こつて来て、現象界に自然に「行動」及び「生理作用」「自然のめぐり合せ」等としてあらはれるのであり、「念」が正しい程度に従つて吾々の「行動」や「生理作用」や「自然のめぐり合せ」が
順潮に行くやうになるのである。これを私は嘗て「生活の円滑化現象」として
『生命の實相』に書いたことがあるのである。

 自然によき食物が口中の入るやうになり、自然に環境が整ひ、天候なども自然の巡り合はせがよくなるのである。
「何もしないで念じてゐる」のではなく、行動と「発して行ふことが悉く節に中るやうになる。これを自然の和と云ふ」(「中庸」による)
のである。「無量の勝方便は実相を想ふより得」(普賢菩薩行法経による)であつて、何の方便もないのではなく、最も適当な方便があらはれて
来るのである。

 兎も角、現象界の知恵を無視するのが実相智のあらはれではない。現象界の最も勝れたる知恵が湧いて来るのが、実相に一致したときに得られる結果なのである。
だから無理に頑張つて鑢で皮膚を擦り減らさねばならぬことはないと同じやうに、無理に肉体を駆使しなければならぬと云ふこともないのである。
と云つて懶けて労力を惜しむと云ふのも感心しないのである。そんな訳で私は、帰心矢の如き帰京の時以外は夜汽車を使はぬことにしてゐるのである(下略)

2577かぴ:2013/10/03(木) 17:24:34 ID:oEnYKIyI

   ”光は暗(やみ)を消す”

子供は暗を恐れる、

しかし本当は恐るべき何物もないのである。

光をとぼせば暗が消える。

光をとぼさないでいて、”暗を恐れるな”といっても、

それは子供には無理なのである。

人類はまだ子供である、

彼らには光が必要なのだ。

真理の光が必要なのだ。

真理の光をもっているのはあなたではないか。

(  谷口 雅春先生著 「神と倶に生きる真理365章」  )

2581うのはな:2013/10/05(土) 13:38:13 ID:l9K9RG/Y

「身体も国も共に、観る者(主体)から反映せられる世界(客体)である。観る心の要請が身体に於ては脳髄の
存在となり、国に於ては永遠の元首なる、無にして絶対であり、一切の主であるところの天皇の存在を要請するのである。
天皇の神聖性は、人間自身の生命が神聖であるところから来る.......」

 この神示によりますと、観られる対象は、「観る心」の反映であり、その感情想念又は自覚が、対象に移入されて、対象をそのように
感ずるのでありますから、吾々が国家に於ても、「変らざる永遠の中心者」を要請するのは、人間自身の生命に「変らざる永遠の中心者」を
要請する理念があるからであります。

 人間自身の生命に「変らざる永遠の中心者」を要請する理念が宿っているのは、人間生命をつくった「大生命」(神)御自身に、「変らざる永遠の中心者」を
要請する根本要求があるためであって、そのためにすべての造られたる物には「変らざる永遠の中心」が備わっているのであります。
即ち原子には原子核があり、細胞には細胞核があり、樹木には幹があり、人間及び高等動物には脳神経中枢があり、太陽系統には太陽という「永遠に変らざる中心」があるのであります。

 このような宇宙萬物を造った「大生命」の生命を宿し生れている人間の心の中に「変らざる永遠の中心者」を求める要請が宿っているのは当然のことであります。
だから、「観る心の要請が、身体に於ては脳髄の存在となり、国に於ては永遠の元首となる、無にして絶対であり、一切の主であるところの天皇の存在を要請するのである」と
示されているのであります。
 この神示に於て注目すべき点は「無にして絶対であり、一切の主であるところの天皇」とあることであります。

天皇は単に「一切の主」であるだけではなく、「無にして絶対」なのであります。
他の国の色々の人間団体にも中心者や主宰者はあります。しかし「無にして絶対」なる中心者は殆ど全く存在しないのであります。
だから常に権力争いが附き物であり、権力候補が選任争いをするか、実力闘争によって中心者の座を占めようとするのであります。

 ところが日本天皇に限り、権力争いというようなことがない。自己を主張しようとはせられないし、対立がないのであります。だから「無」なのであります。

   『秘められたる神示 神示講義 秘の巻』 谷口雅春 先生著

 (原文旧漢字、旧かな遣い) 投稿者現代字に変更入力  拝。

2582SAKURA:2013/10/05(土) 17:37:29 ID:pMLLKHKU
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【 転載編…&引用編… 】
>>2500>>2501>>2504>>2507>>2522>>2523>>2539>>2554>>2563>>2566>>2567>>2571 の 投稿の続きです…。       

【  女性の本質  】             谷口雅春著
――― 女というもの ―――   
■ 愛は一切のものを産み出す母・・・・・ その②

叔母さんから、お金をも貰おうと思ったら、“叔母さんはとても寛大で裕で恵み深くて、
貧乏人にお金をやるのが好きで……“という風に念ずれば、叔母さんが心広々と豊かな気
持ちになって、お金でもくれることになるわけです。

 マン女史は、続けて、こう言われたのです。

「叔母さんのことなど忘れてしまいなさい。自分の運命は自分で掌中にあり、自分の心
の通りに成就するのです。先ず自分が変ることが必要なのです。受けるためには与えなけ
ればなりません。それが法則です。」

 ここが大切なところです。与えないでいて、受けようというのは、泥坊です。銀行へ行
ってごらんなさい。預けてない金を貰おうと思ってもくれません。だから、買おうと思っ
たら、与えなければならないのです。

 だからマン女史は、その婦人に言われた。

「所で、あなたはその叔母さんに、その叔母さんでなくともこの世界に、何か与えるべき
ものをもっていらっしゃいますか。他の人では与え得ないような、あなたでなければ与え
ることのできないようなものを?」

 これも亦大切な点です。誰でもが、ざらに与えられるようなものでは、本当の値打がな
いのです。神様がこの地上に別々の顔をして、別々の個性をもった人間を生み出されたの
はその人でなければならない価値=値打を創り出して人生に与える使命のためなのです。

 だから、その人でなければ与えることのできないようなあるものをもっていますか。与
えることができますか、マン女史は聞いた訳なのです。

                            つづく

PS:「トキ様」 へ 「観覧者の皆様」 へ

そう〜〜〜ですネ!『 与えよ!さらば与えられん! 』
「生長の家…」では〜〜〜必ず!信者として“真理の言葉…”の代表たる“コトバ…”でしょうか?
「神様…」からの【無現供給をいただく…!】のは、「神様」との“パイプ…”をしっかり……
バトンする事と思うのです〜〜〜ョネ!!

「マン女史」の文章の中から『預けてない金を貰おうと思ってもくれません。だから、買おうと思っ
たら、与えなければならないのです。…云々…』そうなのです〜〜〜ョネ!!

■それと同様に、【 普及活動… 】も今までの“供給…”が枯れていましたら、当然ながら
“普及…”も枯れているわけですから??此処で“元…”をただせば「ステラ・テリルマン女史」の
おっしゃる通りに、先ず!【 銀行に行ったら、預ける事からスタート…!預けることは???
人に与える事と!!】これは?分かりやすい【法則の論理観】を私どもに説いて下さいましたかと。
個人個人の“個性…”もありますでしょう。…が?まず!!〜〜〜♫
『 与えよ!さらば与えられん! 』この“法則の展開”からでしょうか??当に【スタート…!!】

此処で自問自答しながら
❤【私の使命…は???】と今!今!今!〜〜〜私の「ベストフレンド」と?問いかけ中???

 それでは“次回”ヘ…

2583a hope:2013/10/06(日) 08:16:50 ID:Zlo2YeaM

▣ 霊長の祈り

神さま、あなたは宇宙のすべてのものをお造りになりました。
すべてのものは神さまから生まれたのであります。
そのなかで人間は万物の霊長として、最もすぐれた知恵を与えられ、
すべてのものを自分の兄弟として、どんなものでも大切にあつかうのであります。
大切にするものはこわれないで長持ちします。
ありがとうございます。

「ジュニア希望の祈り」谷口雅春先生著 (日本教文社 )

2584かぴ:2013/10/06(日) 17:44:39 ID:oEnYKIyI

    神にこうして導きをうけよ

 人間のなすべきことは空っぽになることである。自分が空っぽになってその中に神の御心を入れ、自分は唯道具になって神の御心通り動くと云うことである。

「借金なら支払ったら好い。お前には支払えないかも知れないが神なら払える。今日からお前の商売を自分の商売だと思わず、神の商売だと思い、お前は神の番頭となれ、そして神のお指図のままに動くのだ。」

このやり方が即ち自分が空っぽになって神の御心通りに動く生活である。神は全智にして全能なるが故にその導きに間違はない。

( 谷口雅春先生著 「新版 幸福を招く365章」 )

2585a hope:2013/10/07(月) 07:48:35 ID:Zlo2YeaM

▣ 神への感謝の祈り

神さま、毎日のお導きとお護りとに感謝いたします。
神さまあなたは私に必要な日光も空気も水も食物も、あらゆる必要ないろいろの物も、
私がお願いする前からゆたかに与えて下さっているのです。
おかげで私はこうして今日まで生かされて生長してきたのです。
感謝がおくれてすみません。
神さま本当にありがとうございます。

「ジュニア希望の祈り」谷口雅春先生著 (日本教文社 )

2586a hope:2013/10/08(火) 09:10:41 ID:Zlo2YeaM

▣ 進歩の祈り

神さま、私は神の子であります。
神は無限の知恵と能力とをもっておられ、それが常に進歩というすがたで形にあらわれてまいります。

私も神の子として、神の無限の知恵と能力を内にやどしていて、毎日それが進歩というすがたで形にあらわれてまいります。
ありがとうございます。


「ジュニア希望の祈り」谷口雅春先生著 (日本教文社 )

2587a hope:2013/10/09(水) 08:43:05 ID:Zlo2YeaM

▣ 努力勉強の祈り

神は私たちの親さまであり、私たちの生命は神より来ったのである。
神は天地万物をつくりたもうてから、
今日にいたるまで常に働きたもうてけっして休みたまうことはないのである。
それゆえに地球は自転し公転し、春夏秋冬はめぐり来たって美しい景色は生じ、
豊かに作物は実るのである。
それゆえ、私も休みなく勉強するのである。

「ジュニア希望の祈り」谷口雅春先生著 (日本教文社 )

2588かぴ:2013/10/09(水) 11:35:03 ID:oEnYKIyI

あなたは何らかの使命を神から与えられ、何らかを神から尽すべく命ぜられて此世に生まれて来たのです。

自分の使命が何であるか、あなたはまだハッキリお判りににならないかも知れません。しかしあなたが今いられる其処にあなたが全力を尽すと云うことが、今のあなたの使命なのです。

それはもっと大なる貴方の使命に比べたら、唯の踏台にしかならないような小さな使命であるかも知れません。

併しあなたはその踏台である使命を通過することによって、更に一層大なる使命の座につくことが出来るのであります。と云って、現状の状態に甘んぜよと云うのではありません。

現在を忠実に尽す者のみ、次の昇進の機会があたえられ、また機会が来たときに、その機会を摑む能力が練成されていることになるのであります。

  ( 谷口雅春先生著 「新版 幸福を招く365章」 )

2589SAKURA:2013/10/09(水) 20:33:08 ID:j7IGF7Cw
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【 転載編…&引用編… 】
>>2500>>2501>>2504>>2507>>2522>>2523>>2539>>2554>>2563>>2566>>2567>>2571>>2582 の投稿の続きです…。       

【  女性の本質  】             谷口雅春著
――― 女というもの ―――   
■ 愛は一切のものを産み出す母・・・・・ その③

 婦人は、こう答えました。
「何ももっていません。私は貧しいのです。私には四人の幼い子供があるんです。叔母は
大きな家に住んでおって、召使を沢山雇っているし、使っても使いきれない程のお金をも
っているんです。所があの狡猾な法律家が叔母に愛情を感じているかのように見せかけ
て、叔母をたぶらかそうとしているんです。叔母は淋しいもんですから、その法律家と一
緒に散歩に出掛けたりなどしているのです……」

「そんな男女的な愛情を別として、あなたはその叔母さんの唯一の生きている血縁なのだ
から、あなたには、あなたでなければ与えることのできない肉親のものからの愛情がある
筈だ。それを与えるのには、金がなかったら与えられないとか、貧しくては駄目だなどと
いうことはない。一文もなくても、叔母さんに対して優しい言葉、深切な行い、親身な思
いやりというようなものは、与えようと思えば与えられる。叔母さんも本当は、そのよう
な愛情を受けたいのが本心なんですよ」
とマン女史は言われました。そして、

「真理の生活をその叔母さんに対して実践してごらんなさい。愛行をしてごらんなさい。
それを実践するのにお金を目的にしたり、何かの種類の助けを求めてはなりません。天と
地とを創った宇宙大生命、そして凡ゆるよきものとよき考えとで満たされている大生命に
求めるのです」
と、 善きことを与えておいたら、それが天の倉に貯えられる、その天の倉なる大生命に
蘄田=蘄の田として貯えられるのだから、叔母さんに対して無条件に、貰おうと思わない
で、天の倉に貯えられるために、叔母さんの求めている、唯一の肉親の者としての愛情を与え
てあげなさいということを教えられたのです。

“愛情讃歌を与えなさい。叔母さんを勇気づけるような優しい讃め言葉で、出来るだけ叔
母さんの善き性質をみつけるように努めてあげなさい。叔母さんも神の子であって凡ゆる
善き性質をもっているんですよ“とマン女史は訓えました。ところが、彼女はこんなこと
を言いました。

「叔母さんが、あんななのに、私が叔母さんにそんなに深切にしなければならない理由が私
わかりませんわ」
                             つづく

2590SAKURA:2013/10/09(水) 20:40:13 ID:pMLLKHKU
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【 転載編…&引用編… 】
>>2500>>2501>>2504>>2507>>2522>>2523>>2539>>2554>>2563>>2566>>2567>>2571>>2582>>2589
の投稿の続きです…。       

【  女性の本質  】             谷口雅春著
――― 女というもの ―――   
■ 愛は一切のものを産み出す母・・・・・ その④   【引用編…】
>>2589投稿の続きです…。

PS:「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ

■今日のお話から〜♫
過去にさかのぼりますが〜♫ 当時!或る「東京の教化部長」の事を思い出します。
❤〜【 その教化部長先生の体験談なのです。…が? 】
それは『青年会の頃…』その時の事です。当時!御年配で、身寄りのいない方でしたでしょうか?
但し、身体が不自由なご様子でしたので、御夫婦二人で…つまり「奥様…」と一緒に【介 護!】を
なされたようです。この時、先生は、全ての介護を〜〜〜したそうです。…が?
今日の【介護…】と同じく、【その全部の介護!!】でしたかと。相手の方は、身寄りがいない事…ふびんに
思われ、更に、寂しく「あの世」に行かせる事は、出来ないと、当時!純粋なる気持で、
『青年会で出会った奥様』と一緒に【介護の日々…】ですかと。その後、とうとう亡くなられて…><
この時に、相手の方(この方…)がなされた“真心…”は、この“お礼…”として、全て〜〜〜
当時でいいますと〜〜〜私が若い頃ですから「昭和40年〜〜50年代」になるのでしょうか??

その頃!【遺産の土地…?お金…?】をいただき!金銭価値として『一億…』いただいたそうです。
この様な事をお聞きしましたが?この頃で❤【 奇 蹟 】と騒いでいましたようです。…が??

■「ステラ・テリルマン女史…」での答弁では〜〜〜??【当たり前…】と言われそうですネ!
当時の私は“スゴ〜〜イ!”と思って、何で?如何して?そのような“大金…”が入るのでしょうか??
…と、ひそかに思いましたので〜〜〜す。…が?今!ようやく分かるようになりました。

【お金…】この希望成就でしたら?当然ながら、その前提として「神様の御心に叶った願い…」である事は?
いうまでもありませんが 〜♫ 当に!
■「与えよ!さらば…与えられん」の法則……にのる事でしょうか??

「トキ様…」は、このお話を御存じですかと思うのですが〜〜〜?尚!このいただいた【お金…】の一部は、
現在の「生長の家…献金」なさったとの事を耳にしております次第です。…が?この先生でも「献金…」後は?
「末端信者・・・」ですから〜♫ 気になりますのは・・・!
今ではこの「教化部長先生」は、何処にいらっしゃいますのでしょうか???知るよしもありません。…が?

                                                                再合掌

2591a hope:2013/10/10(木) 07:58:08 ID:Zlo2YeaM

▣ 堅忍不抜(けんにんふばつ)の祈り

私は″神の子″である。
神の子にとっては、すべての出来事が、自分が向上し進歩し、きたえられる好機会なのである。
悦びが来るときは、私の魂が明るくなる好機会であり、
試合や勝負やテストのあるときには、私の中にある″無限力″が呼び出される好機会であり、
困難が来たり、だれかが圧迫を加える時には、忍耐の力を養成する好機会である。
私は決してくじけることはないのである。

「ジュニア希望の祈り」谷口雅春先生著 (日本教文社 )

2592a hope:2013/10/11(金) 07:56:01 ID:Zlo2YeaM

▣ 感謝の祈り

毎日毎日が″神の日″である。
なぜなら、神はすべての造り主であって、すべての日は神によって造られ、
神によって祝福され、神によって護られ、神によって運行せしめられているからである。
それゆえに毎日毎日は善き日であり、幸福の日であり、成功の日であるのである。
このことを神に感謝したてまつる。
ありがとうございます。

「ジュニア希望の祈り」谷口雅春先生著 (日本教文社 )

2593かぴ:2013/10/11(金) 18:13:26 ID:oEnYKIyI

ある人は毎日必ず五人以上の隣人を祝福してあげることにしたという。その祝福は心の中で、「神よ彼に本当の幸福を与え給え。彼は神の愛に守られて本当に幸福になります」と静かに合掌するような気持ちで一二分間祈ってやるだけのことであるが、それは誰も知らない所の本当に隠れたる愛の奉仕であるのである。

けれども、このような祝福が目に見えないだけにかえって尊いのである。

もし全世界の人間が、このような気持ちで隣人を、そしてどこの国の国民をも祝福してやる気持ちになれば全世界に戦争というようなものは再び起こらないのである。こういう小さい行ないの中に本当の報い求めぬ与えるばかりの愛があるのである。

そしてそれは神の前に大いなるものとせられるのである。

( 谷口雅春先生著  信仰の活人剣【「生活と人間の再建」より】 )

2594かぴ:2013/10/12(土) 14:01:54 ID:oEnYKIyI

他の人を扱うのに冷酷をもってしてはならない。他に冷酷なものは、酷(きび)しく人を縛るがゆえに自分自身の組織を縛られて、組織が硬くなり、血管が硬化して老衰するのである。

老衰しまいと思うならば柔かな温い愛深き心を常に保っていなければならない。愛は潤滑油としてあらゆる部分の摩擦をやわらげ、組織を柔軟にし、生理作用を円満にするのである。

他に対する心は直に自己に帰って来るものであるから、人につめたければ自分の身体も冷たくなり「冷え」に関連する病気を患うのである。

手足が冷えるのは手足(部下とか家族とか)に冷たい証拠であり、腰が冷えるのは夫婦関係がつめたい。お腹が冷えるのは、人々との仲が悪いのである。みんな自分の心の影である。

( 谷口雅春先生著  「新版 幸福を招く365章」より )

2595うのはな:2013/10/13(日) 20:46:46 ID:fKKb1Zok
   金婚、喜寿を迎えて  昭和四十年代

 金婚奉告式 本部にて(昭和四十五年十一月二十二日 谷口雅春先生七十八歳 輝子先生七十五歳)

   金婚の夫婦たたえて 祝福の いのち 花降る 千代に 生きよと
  
                               雅春
                               輝子

《 ・・・・・五十年前の春五月、私たちは婚約をした。
  その時、結婚式はいつにしようかと相談した。相手の人は「僕の誕生日が一番良いですよ」
  と言われた。大安も、黄道吉日も問題ではなかった。当時は、一枚の着物に縄の帯をしめていた
  ような貧しいその人が「僕の誕生日が一番良い」と言われた時、私は不思議な気がしてその人の
  顔を見つめた。大安が良い、仏滅が悪いという世間の常識を無視して、自分の誕生日が一番良いと
  いうこの人は、ずいぶん自信があるのだなあと私は思い、そのまま素直に同意したものであった。
  ・・・・・四十五年十一月の金婚式は、五十年前とは雲泥の差であって、生長の家本部道場で挙式され
  白髪まじりの夫と私とは、新調の紋附を着て、「實相」の掛軸の前に頭を垂れた。
  その二人並んで立った背後には、階下も階上も信徒でいっぱいであり、二階の後方には立っている人も
  沢山居られた。老いも若きも、男も女も、みんな私たち二人を祝福して、清らかな眼を輝かして見つめて居られた。》

 (『人生の光と影より』) 『光を見つめて』 谷口輝子先生九十年の足跡 編集・発行 生長の家温故資料館

2597a hope:2013/10/15(火) 07:19:50 ID:Zlo2YeaM

▣ 完全の祈り

今わたしは自分のいのちが神のいのちを、父母のいのちを通していただいたことを知ったのであります。
だから私は父母の子であると同時に″神の子″であります。
″神の子″というのは、神の生命がわたしに宿っていることでありますから私は完全であります。

「ジュニア希望の祈り」谷口雅春先生著 (日本教文社 )

2598a hope:2013/10/16(水) 07:29:11 ID:Zlo2YeaM

▣ 進歩の祈り

私は神の子である。
だから無限の力が私の内にはやどっているのである。
その無限の力が常にますます多く発揮されるがゆえに、私は常に進歩するのである。
神の力は、学校でも家庭でも、山でも海でも、ますます発揮されるのである。

「ジュニア希望の祈り」谷口雅春先生著 (日本教文社 )

2599a hope:2013/10/17(木) 08:33:06 ID:Zlo2YeaM

▣ 調和を得る祈り

神は愛であります。
神は調和によってまっとうせられます。
調和のないところには争いや憎しみや嫉妬があって愛はありません。
神は愛であり、愛は調和であり、私は″神の子″でありますから、
私はすべての人々に調和してなんでも行います。
他の人が私に反対をとなえれば、その人が調和してくれるように祈ってけっして争いません。
したがってその人もきっとわたしの味方になってくれます。
ありがとうございます。

「ジュニア希望の祈り」谷口雅春先生著 (日本教文社 )

2600SAKURA:2013/10/17(木) 10:39:22 ID:FIUIhwU2
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんにちは……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【 転載編…&引用編… 】
>>2500>>2501>>2504>>2507>>2522>>2523>>2539>>2554>>2563>>2566>>2567>>2571>>2582 の投稿の続きです…。       

【  女性の本質  】             谷口雅春著
――― 女というもの ―――   
■ 愛は一切のものを産み出す母・・・・・ その③

 婦人は、こう答えました。
「何ももっていません。私は貧しいのです。私には四人の幼い子供があるんです。叔母は
大きな家に住んでおって、召使を沢山雇っているし、使っても使いきれない程のお金をも
っているんです。所があの狡猾な法律家が叔母に愛情を感じているかのように見せかけ
て、叔母をたぶらかそうとしているんです。叔母は淋しいもんですから、その法律家と一
緒に散歩に出掛けたりなどしているのです……」

「そんな男女的な愛情を別として、あなたはその叔母さんの唯一の生きている血縁なのだ
から、あなたには、あなたでなければ与えることのできない肉親のものからの愛情がある
筈だ。それを与えるのには、金がなかったら与えられないとか、貧しくては駄目だなどと
いうことはない。一文もなくても、叔母さんに対して優しい言葉、深切な行い、親身な思
いやりというようなものは、与えようと思えば与えられる。叔母さんも本当は、そのよう
な愛情を受けたいのが本心なんですよ」
とマン女史は言われました。そして、

「真理の生活をその叔母さんに対して実践してごらんなさい。愛行をしてごらんなさい。
それを実践するのにお金を目的にしたり、何かの種類の助けを求めてはなりません。天と
地とを創った宇宙大生命、そして凡ゆるよきものとよき考えとで満たされている大生命に
求めるのです」
と、 善きことを与えておいたら、それが天の倉に貯えられる、その天の倉なる大生命に
蘄田=蘄の田として貯えられるのだから、叔母さんに対して無条件に、貰おうと思わない
で、天の倉に貯えられるために、叔母さんの求めている、唯一の肉親の者としての愛情を与え
てあげなさいということを教えられたのです。

“愛情讃歌を与えなさい。叔母さんを勇気づけるような優しい讃め言葉で、出来るだけ叔
母さんの善き性質をみつけるように努めてあげなさい。叔母さんも神の子であって凡ゆる
善き性質をもっているんですよ“とマン女史は訓えました。ところが、彼女はこんなこと
を言いました。

「叔母さんが、あんななのに、私が叔母さんにそんなに深切にしなければならない理由が私
わかりませんわ」
                             つづく

2601SAKURA:2013/10/17(木) 10:41:13 ID:FIUIhwU2
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんにちは……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【 転載編…&引用編… 】
>>2500>>2501>>2504>>2507>>2522>>2523>>2539>>2554>>2563>>2566>>2567>>2571>>2582>>2589
の投稿の続きです…。       

【  女性の本質  】             谷口雅春著
――― 女というもの ―――   
■ 愛は一切のものを産み出す母・・・・・ その④   【引用編…】
>>2589投稿の続きです…。

PS:「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ

■今日のお話から〜♫
過去にさかのぼりますが〜♫ 当時!或る「東京の教化部長」の事を思い出します。
❤〜【 その教化部長先生の体験談なのです。…が? 】
それは『青年会の頃…』その時の事です。当時!御年配で、身寄りのいない方でしたでしょうか?
但し、身体が不自由なご様子でしたので、御夫婦二人で…つまり「奥様…」と一緒に【介 護!】を
なされたようです。この時、先生は、全ての介護を〜〜〜したそうです。…が?
今日の【介護…】と同じく、【その全部の介護!!】でしたかと。相手の方は、身寄りがいない事…ふびんに
思われ、更に、寂しく「あの世」に行かせる事は、出来ないと、当時!純粋なる気持で、
『青年会で出会った奥様』と一緒に【介護の日々…】ですかと。その後、とうとう亡くなられて…><
この時に、相手の方(この方…)がなされた“真心…”は、この“お礼…”として、全て〜〜〜
当時でいいますと〜〜〜私が若い頃ですから「昭和40年〜〜50年代」になるのでしょうか??

その頃!【遺産の土地…?お金…?】をいただき!金銭価値として『一億…』いただいたそうです。
この様な事をお聞きしましたが?この頃で❤【 奇 蹟 】と騒いでいましたようです。…が??

■「ステラ・テリルマン女史…」での答弁では〜〜〜??【当たり前…】と言われそうですネ!
当時の私は“スゴ〜〜イ!”と思って、何で?如何して?そのような“大金…”が入るのでしょうか??
…と、ひそかに思いましたので〜〜〜す。…が?今!ようやく分かるようになりました。

【お金…】この希望成就でしたら?当然ながら、その前提として「神様の御心に叶った願い…」である事は?
いうまでもありませんが 〜♫ 当に!
■「与えよ!さらば…与えられん」の法則……にのる事でしょうか??

「トキ様…」は、このお話を御存じですかと思うのですが〜〜〜?尚!このいただいた【お金…】の一部は、
現在の「生長の家…献金」なさったとの事を耳にしております次第です。…が?この先生でも「献金…」後は?
「末端信者・・・」ですから〜♫ 気になりますのは・・・!
今ではこの「教化部長先生」は、何処にいらっしゃいますのでしょうか???知るよしもありません。…が?

                                              再合掌

2602a hope:2013/10/18(金) 08:11:30 ID:Zlo2YeaM

▣ 人々に愛される祈り

私は″神の子″である。
″神の子″であるから、″神″なる親さまの″光の心″が宿っているのである。
その光は愛の光である。
私の心は神の愛の光に照らされて、すべての人々のあやまちを赦すことができるのである。
愛の光の行くところ、憎しみの暗(やみ)は消え、すべての人々となかよくなることができるのである。
私はすべての人を愛するがゆえにすべての人に愛されるのである。
ありがとうございます。

「ジュニア希望の祈り」谷口雅春先生著 (日本教文社 )

2603うのはな:2013/10/18(金) 18:03:59 ID:csrtWQ46
   「わたしは金剛不壊である。わたしは不変である。わたしは生命そのものである」

『無限の生命』 浄め

 日本人は早くから海は神聖なものと信じて来た。禊や祓をすれば身のけがれが取り除かれるものだと
疑わなかった。藻塩や塩を浄めのために使うのは、すでにわれわれの中で日常化している。
 われわれ日本人は海から生まれ育ち、海と共に生きてきました。周りを海に囲まれた環境からいって自然のことです。

 その海にみなぎる水は水平に平等に横たわり極まるところがありません。
そして清らかに澄む水に穢(けがれ)を除く神秘さがあると昔から信じられてきました。
 水に身体を浸し、身体についた穢れを洗い流す禊(みそぎ)はその精神を端的に物語ったものです。
海水から生まれる塩にも神聖さがあるとするのは水の浄化力を具象化したものです。

 あるいは海藻や潮水を神前にささげるのは、塩が穢れをはらうと信ずるからです。
所によっては潮水のかわりに海砂や川砂を使います。それが「お潮井」の行事です。
われわれの日常を見回してみましょう。相撲の仕切りの時に力士がまく塩。弔いのあとに五体を清める浄め塩などの
習俗が思い出されます。

 また瀬戸内海や九州の漁村では一家の主人が早朝、浜辺に行き潮水桶に海水を汲んできて神棚に供えたり、門前にまいて
辺りを浄める風習があります。農村の中には早稲の刈り入れの時、最初に刈る稲に潮井をかけ「神の穂」にする儀礼が残っています。
先にふれたみそぎの例ですが、祭礼の前に潮掻(しおかき)といって、潮垢離(しおごり)つまり潔斎をする習わしが、ほうぼうの漁村で見られます。
この「浄」のイメージは、われわれの古典「古事記」や「日本書紀」の中のイザナギ、イザナミの神の物語りに見ることができます。

 イザナミの神は火の神を生んだので黄泉国(よもつくに)に帰りました。
イザナギの神はその后(あと)を恋しく思い黄泉国に行ってみると、そこは暗黒と汚濁の世界です。
イザナギの神は奥へ行き、頭にさしていた櫛の歯の一本を折って火を灯し、中をご覧になるとイザナミの神の体にウジがいっぱい湧き、頭、胸、腹などに
八種の雷神がいる、といったものすごさです。イザナギの神は一生懸命になって、そこを逃げ出されました。

 生と死の戦いからやっと解放されたイザナギの神はいのちの根源である心身を浄めねばなりません。
明かるく健やかな生命こそ、限りない幸せを生み金剛不壊(こんごうふえ)の境涯をささえるものだからです。
イザナギの神は禊(みそぎ)の場所を求めて筑紫(つくし)の日向(ひむか)橘の小戸の阿波峡(あはき)が原に行かれました。

 筑紫は日本文化の発生の地であり、日向はやがてさし昇る太陽を迎えることのできる陽明の方角であり、橘は良き今の続く常世(とこよ)の
めでたさを象徴する霊木であり、その青々として緑なす地帯が阿波峡(檍)が原だったのです。
 イザナギの神は、その神聖な海辺の中つ瀬を選んで身を沈め、体についたけがれを振り落して浄められました。
すると最初はマガツヒノカミなど汚い神々が生まれました。

 禊祓というのは洗濯ですから汚い汁が出るというわけです。最後に生まれたのがウワツツノオ、ナカツツノノオ、ソコツツノオの
三柱の神でした。「古事記」では「三柱の神は、墨江の三前の大神なり」と書いています。
これが住吉の大神で禊ぎという浄めによって天照大御神が誕生されました。

   希望をもて夢を描け そして前進せよ  生長の家 』

○このような全面広告が西日本新聞にも長崎新聞にも出たのである。

 (原文旧漢字・旧仮名 投稿者 現代字に変更)

2606うのはな:2013/10/20(日) 22:32:54 ID:tk5vccSQ

  国のいのち 人のいのち
  http://blogs.yahoo.co.jp/vanon32

2607かぴ:2013/10/21(月) 11:27:29 ID:oEnYKIyI

心と行動に太陽を持て

あなたは一分一秒といえども、暗い想念や陰鬱な感情で自分の心をみたしてはならないのである。常に積極的に、前進的に、物を考え、明るい心をもって、常にいまよりも一層善き状態が顕れて来ることを信じて、勇気を以って仕事に取りかかるのがよいのである。

あなたは、あなたの仕事を金銭の価値をもって考えてはならない。あなたは自分の”生命エネルギー”を情熱をもって献(ささ)げなければならない。

豊かに献げることをもって歓びとせよ。豊かに献げるとき、報い求めずしてかえって一層大なる報いが返って来るのである。

( 谷口 雅春先生著 「信仰の活人剣」より )

2608SAKURA:2013/10/21(月) 21:57:58 ID:A5psoVbE
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【 転載編…】

■□ 今日は、久しぶりに「生命の実相」を“37巻”からの〜〜〜投稿とさせて頂きます。

   二 月 十 日
 
憎みながら叱る心で軽く打つと子供は泣く。同じ強さで打っても愛撫する心で愛慰(あいい)
すような形で打ったら子供はかえって喜ぶだろう。痛さは心にあるからである。

 かって野村義隆さんが道場で指導していた朝のことである。禅家の道場破りを仕事に
しているような物凄い格好の修行者が来た。そしてたずねた。
「生長の家では肉体は無いというんですね。」
「そうです。」
「痛みは心にあるんですね。」
「そうです。」
「では痛みは肉体にはないんですね」。」
「そうです。」
「それではあなたの肉体を打っても痛くありませんね。僕はこれから君を打ってやる!」
殺気がその修行者の眼から一閃、野村さんの方へ走った。そのままいたら野村さん
を殴りでもしかねるまじき姿勢である。

 と、たちまち野村さんの方が起ち上がってその修行者の方へ近づいていったかと思う
と、ピシリとその修行者の頬を打った。痛いか痛くないか冷暖を自知せよというのにあ
ったらしい。やがて野村さんは元の座へ還って来て、何事もなかったように別の修行者
と話していた。

 野村さんが打たなかったら、野村さんは修行者に打たれていたかもしれない。野村さ
んの気魄の方が修行者の気魄に打ち勝ったので修行者がうたれたのあった。
 打つ心は打たれなかったら、野村さんは修行者に打たれていたかもしれない。野村さ
んの気魄の方が修行者の気魄に打ち勝ったので修行者が打たれたのであった。

 打つ心は打たれる心である。打つことを心に描けば、その念(こころ)は形と表れて相手
を打つ。相手の気魄が強ければ、それはかえって自分自身に還ってきて自分自身を打つので
ある。阿難が釈尊に対って人を憎んだ心を相手が受けなかったら、その憎んだ心はどこへ行
きますかと尋ねたときに、釈尊は「お前は贈り物を人に持っていった時に相手がそれを受け
取らなかったらその贈り物は誰のものになるか」と問い返された。阿難は「それは贈った
人に返ってきます」と答えた。釈尊は「人を憎む心もそのとおりだ」とおっしゃった。

 そのころ、道場には夜も指導があって、夜間はわたしが受け持っていた。その同じ修
行者がその夜も来ていて同じようにわたしに問いかけた。
「肉体は本来無いんですね」
「そうです。」わたしは朝の出来事を知らないので何心なくこう答えた。
「痛みは心にあるんですね。」
「そうです。」
「それでは先生の肉体を僕はこれから撲りますが、傷みはありませんね。」
修行者は今にも撲りに来そうな姿勢である。
「それは痛いにきまっている」とわたしはとっさに答えた。
「なぜ痛いんだ、無い肉体がなぜ痛いんだ。痛ければ、今後肉体に痛みは無いなどと言うな。」
 
恐ろしい剣幕で修行者は詰めかける。わたしは静かに答えた。
「肉体そのものは傷まないが、お前の心が痛いのだ。人を譲ろうとするお前の心には痛み
がある。『五官は心の影を見るに過ぎず』と『甘露の法雨』にある。五官は心の痛みを映すものだ」
『ウーム、よし!』と言ったきり、修行者は立ち上がりかけた膝を畳に落ちつけて俯向
いたまま動かなかった。そしてわたしが他の修行者と話しているうちにその修行者はど
こかへ姿を消してしまった。
                          つづく

2609かぴ:2013/10/23(水) 10:38:41 ID:oEnYKIyI

”目無堅間(めなしかつま)の小船”は大乗至彼岸の神秘行

 目無堅間の小船と云ふのは、時間空間の目盛りがなく空間なく、無空間にきしっと堅く詰っている堅間の小船であって、時間、空間十字交叉の十字の中心の時間、空間いまだ顕はれざる「無」の一点の、一点もない超時空の世界ーーそれが竜宮海であって、そこへ運んで行く船が目無堅間の小船であって、それは、「我れ今五官の世界を去って、実相の世界に入る」といふ神想観によって、ズーッと何物も失はれてゐない実相世界に入って行くことです。

 それを入竜宮不可思議境界といふのです。

 つまり、目無堅間の小船に乗るといふことは、塩椎神さまより神想観を教へられて、実相の世界、言ひかへると竜宮海へつれて行かれたわけであります。

 彦火火出見尊が竜宮海へお出でになりますと、そこに一尾の鯛がちか頃、喉に何かひっかかって喉が痛い痛いといってゐるさうであるといふので、「彼を呼んでこい」と、いふことになりまして、その鯛を呼んで来て口を開けてのぞいてみると、ちゃんとそこに釣針があったといふのであります。その彦火火出見尊様が豊玉姫命即ち謂ゆる竜宮の乙姫様と結婚をなさいますことが古事記に書かれております。

( 谷口 雅春先生 神武建国の系譜とその理想   古事記の彦火火出見尊が釣り針をなくしてなげいて泣いておられた時に出てこられた塩土神様の話より )

2612a hope:2013/10/25(金) 07:37:15 ID:Zlo2YeaM

▣ 神と一体感の祈り

神はすべてである。
神はいたるところに満ちみちていられるのである。
私の周囲に、上にも下にも、前にも後ろにも、右にも左にも、
すっかり神が私を包んでいるのである。
私は神の中に生き、神は私の中に生きているのである。
私の生命が神の生命なのである。

「ジュニア希望の祈り」谷口雅春先生著 (日本教文社 )

2613SAKURA:2013/10/25(金) 20:32:48 ID:pMLLKHKU
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【 転載編… &  引用編… 】

■□ 今日は、久しぶりに「生命の実相」を“37巻”からの〜〜〜投稿とさせて頂きます。

   二 月 十 日
>>2608 の投稿の続きです。

■□ 野村さんの捌き方と、わたしの捌き方とどちらも個性が出ていておもしろいと思う。野
村さんが道場に出れば「叱られる、叱られる。野村さんはこわい」と修行者は噂する。と
きには「道場であんなに憤怒の形相をされては生長の家の名にかかわるから一日も早く道
場へ出ないようにしてほしい」と投書して来た人もあった。

 しかし野村さんに叱られて悟ったと喜ぶ人も、叱られて病気が治ったと感謝する人も
たくさんあった。相手を愛しなければ、公な心であんなに思うままに修行者を叱りう
るものでない、損得を考えたらあんなに叱りうるものではないと批評する人もあった。
「そんなに叱ったら生長の家へ修行に来なくなりますよ」と忠告する人があると、「指導
の最中には相手を指導することきり考えない。修行者が増えるとか減るとか、損得のこ
とを考えて指導する奴があるか」と野村さんはその人に一喝したこともあったと噂にきい
たことがある。

PS:「トキ様」 へ 「観覧者の皆様」 へ

>> 打つ心は打たれる心である。打つことを心に描けば、その念(こころ)は形と表れて相手
を打つ。相手の気魄が強ければ、それはかえって自分自身に還ってきて自分自身を打つので
ある。阿難が釈尊に対って人を憎んだ心を相手が受けなかったら、その憎んだ心はどこへ行
きますかと尋ねたときに、釈尊は「お前は贈り物を人に持っていった時に相手がそれを受け
取らなかったらその贈り物は誰のものになるか」と問い返された。阿難は「それは贈った
人に返ってきます」と答えた。釈尊は「人を憎む心もそのとおりだ」とおっしゃった<< (抜粋文)
◆ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー◆

■ほんとうにそうです〜〜〜ネ!!【 贈物 】をしまして、仮に相手が、受け取らない場合?
その時はと?――>その【 贈物 】は、自分に戻ってきますョネ!!
この事は、案外と普段?気付かないものなのでしょうかしら〜〜〜ン??

昨日は【フエス・ブックにシェア―】が紹介されていました。その方の文章から〜〜〜♫

【 相手を変えようと思う前にまず自分が、先に変わらないといけませんですね!!】と…
同感しましたので〜〜〜す。簡単なようで?これも相手に【変・化】を求める前に、此方が
変わらないと〜〜〜何の進歩も見出せないと思えたのです!!ですので【恨む事…】このような
ネガティブ感情は、何の“役…(プラス)”にもならないものでしょうかと。!!まず【恨む前…】
更に【裁く…】前に、相手の〜〜〜【重・要・感・は??】考えますと〜〜〜
此処に人間関係のつながりがみえて来ます。(相手の方から、素敵なメッセージ頂きました…。感謝)

■□昨日・・・「総裁先生…」は〜〜〜しつこく?(微笑)【キノコシリ−ズ…】です。

皆様は、これに関して〜〜“うんざりした事ばかり”の“きのこ…”繰り返し投稿記載が書かれています。
これは?まず!相手を優先に〜〜〜裁いているのです〜〜〜ョネ!
相手を裁く事は〜〜〜その本人がどれだけ裁く事の“人格…”があるのでしょうか?
当然その権利は〜〜〜「神様だけ…?」・・・正直!“人格…”見えませ〜〜ンョネ!
その前に、まず!どうしてこのように【 キノコがエコ運動】に繋がるかを、相手の【重・要・感】を
見る“心の目”がベターのように思います。

私は、昨日〜〜〜【再・発・見…】この気付を頂きましたので〜〜〜す。

                                   つづく

2614SAKURA:2013/10/25(金) 21:24:51 ID:pMLLKHKU
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【 引用編…】

■□今日は、久しぶりに「生命の実相」を“37巻”からの〜〜〜投稿とさせて頂きます。

>>2608>>2613投稿の続きで〜〜〜す。

■【 キ・ノ・コ は“エコ運動=ノ−ミート”で〜〜〜す。 】

【 肉・食 】ではなく!これも【エコ運動】だと!更に【お肉なし??】でも、こんなに
“ボリューム”たっぷり美味しくいただけるョ〜♫ と… そうなのです〜〜〜ョネ!

このように「皆様方」に一つの“提案…お知らせ”をしていただいていると分かったので〜〜〜す。
こうして考えてのいきますと…こちらも【心が豊か…】になりますでしょう。 (微笑)

                                     再合掌
PS:「トキ様」へ  「観覧者の皆様」へ
この投稿の続きは 〜〜〜♫
■□ 更に【ブログ…】にて“一両日中…?”に投稿させて頂きます…。
↓     ↓     ↓     ↓
■ ゆ・と・り・す・と…『真理』SEICHO−NO−IE
http://hert1706-go4snbs3yts.blog.so-net.ne.jp/  ブログ名…・URL…

【徒・然・物・語…】にての“投稿…”とさせて頂きます…。 のんびり〜〜のんびり〜〜♫

2615アクエリアン:2013/10/26(土) 20:12:23 ID:F2iFe02Y
ラルフ・ウォルドー・トライン著
「幸福はあなたの心で」を日英両語で読む


Chapter 2 - The Supreme Fact Of The Universe

第二章
宇宙における至高の真理

THE great central fact of the universe is that Spirit of Infinite Life and Power that is behind all, that animates all, that manifests itself in and through all; that self-existent principle of life from which all has come, and not only from which all has come, but from which all is continually coming.

宇宙における最も目をみはる中心的事実は何といっても無限の生命、無限の力を有する宇宙霊というようなものがあらゆるものの背後に存在して、それがすべてのものに生命を賦(あた)え、すべてのものの内に、すべてのものを通して、それみづから顕現しつつあるということである。それは第一原因として、それみづから存在する原理であって、その原理から万物が生じ来ったのである。否、単に生じ来っただけではなく、今も尚、こんこんと湧き出づる泉の如く万物がそこから発生しつつあるのである。

谷口雅春先生訳「幸福はあなたの心で」より

宇宙の中心にある偉大な事実ーーそれは、すべての背後には「無限の生命と力のスピリット」が働いていてすべてを動かし、すべてを通じて、すべてのなかに現れているということである。すべては、この自立した生命の原則から生じた。すべてが生じたばかりではなく、いまも生じ続けている。

吉田利子訳「人生の扉をひらく「万能の鍵」」より

2616アクエリアン:2013/10/27(日) 14:34:39 ID:N1gtCt5s
ラルフ・ウォルドー・トライン著
「幸福はあなたの心で」を日英両語で読む

Chapter 2 - The Supreme Fact Of The Universe

第二章
宇宙における至高の真理②

There is then this Spirit of Infinite Life and Power behind all, which is the source of all. This Infinite Power is creating, working, ruling through the agency of great immutable laws and forces that run through all the universe that surrounds us on every side. Every act of
our everyday lives is governed by these same great laws and forces. Every flower that blooms by the wayside, springs up, grows, blooms, fades, according to certain great immutable laws. Every snowflake that plays between earth and heaven, forms, falls, melts, according to certain great unchangeable laws.

それだから、すべての物の背後には、すべてのものの本源なるところの無限生命・無限力なる「霊」が存在するのである。我々を取り巻いて至るところに遍在するこの無限力者は、一定不変の大法則と力とを媒介とし、創造し、働き、支配しつつあるのである。我々の日常生活のあらゆる行動もこの同じ大法則と力とによって支配されているのである。路傍に咲きいでる名もなき花の一つ一つも、この一定不変の法則に従って萌え出で、生長し、花咲き、やがて萎むのである。また天と地との間にひひとして降る雪も、一定不変のある大法則によって形成せられ、降りつもり、やがて融けるということになっているのである。

谷口雅春先生訳「幸福はあなたの心で」(日本教文社)より

そうだとすれば、すべての背後にある「無限の生命と力のスピリット」はすべての源なのである。この無限のパワーが不変の法則を通じて創造し、作用し、支配している。そして、その力がたしたちを取り巻く宇宙全体に貫かれているのだ。日常生活のあらゆる行動も、その偉大な法則と力が律している。道端に咲く花々は偉大な不変の法則に従って芽生え、育ち、咲き、枯れていく。天と地のあいだを舞う雪のひとひらひとひらも、偉大な不変の法則に従って形づくられ、舞い落ち、消えていく…。

吉田利子訳「人生の扉をひらく「万能の鍵」」(サンマーク出版)より

2617a hope:2013/10/27(日) 14:59:08 ID:/9IAdiFk

生命の實相 第27巻 久遠物性篇上 

第七章 久遠を流るるいのち

十 トライアンの著作について (より抜粋 P166 7行目〜)

・・・わたしがトライアンのニュー・ソートの本の一つを得たのはわたしに悟りの精神革命が起って「生長の家」をはじめてから後、偶然の機会に、それを古本屋で見出し、立ち読みしてみると、生長の家の思想にソックリのことが書いてあるので、買う気になって持って帰ったのが最初である。

そののち彼の行文がわたしが『生長の家』を書く参考に大いになったものであるが、読み行くにつれて、三十年前日本で『ブッシング・ツー・ザ・フロント』などで有名であったマーデンの著書の文章の一節を始めから終りまでソックリそのままの文句がなんら引用符をもなしに転用させられているのにわたしは驚いて、マーデンの本を引き出して対照してみたこともある。

マーデンとトライアンとは全く同じことが書いてある。

マーデンは平易で通俗的であるが、トライアンは文体が高尚で哲学的である。

その後、わたしの手許に他の著者のニュー・ソートの著書も多く集まって来、それらを読破するにつれて、これらの本はどの著者も悉く同じような文体で、少々ばかり表現を変えていて、実例や比喩までも往々同一なものが混って同じ思想を述べているものであることを発見したのである。

したがってもしわれわれがニュー・ソートを援用する場合において「何某の著述はかく言う」ということはかえってその独創者を誤らしめるくらいである。


ニュー・ソートはかくのごとく十九世紀の前半において米国の書籍店中の書籍の半ばを席巻するほど広く氾濫したらしいのであるが、それが仏教と称せずして実は仏の教えの英国への浸潤であったことはすでに述べたとおりである。

しかし、それはたとい、仏の教えであっても、ラジオの受信機が異なるごとに、その音声に一種の癖をもっているように、その神髄は仏の教えであっても、その悉くが、(その雑音までもが)仏の教えであるわけがない。

ニュー・ソートの著者においても、物質無をといているものもあれば、物質有として汎神論を説いているものもある。

仏教においても、真言宗も、天台宗も、禅宗も、浄土宗も、真宗も、日蓮宗も、そのいずれも仏の教えであるに相違ないが、その悉くが(その雑音までもが)仏の教えであるわけはない。

われわれはただそのうちから「久遠を流れるいのち」を見出し、それに触れ、それに合流すればよいのである。

2618a hope:2013/10/27(日) 15:00:46 ID:/9IAdiFk
>>2616アクエリアンさま

『ラルフ・ウォルドー・トライン著「幸福はあなたの心で」を日英両語で読む』をご紹介くださりありがとうございます。
つい最近、わたしは>>2617に謹写させていただいた箇所を拝読していまして、アメリカのニュー・ソートに関してお勉強したばかりだったので、
とても興味深く、この二つの日本語への翻訳文を拝見できました。

それにしても、同じ英文を翻訳しても、こんなにも表現が違うというのは興味深いですね。
一見、吉田利子さん翻訳文の方が、余計な脚色がなくて簡潔で分かりやすいように感じますが、
雅春先生の御文章には、その宇宙の真理をまことに体得した人でなければ表現できないような説得力というか、
ご文章自体に真理の波動が感じられるように思いました。

2619アクエリアン:2013/10/27(日) 19:47:05 ID:yh1CrJ.I
hope様

コメントありがとうございます。

雅春先生と吉田利子さんの翻訳に対するコメント、私も同感です。

こうして、コメントをしてもらうと、トラインの紹介者として、嬉しいかぎりです。

吉田利子さんは、世界的ベストセラーとなった、「神との対話」の翻訳者で、さすが、トラインの文章の意味を的確に捉えられて上手い日本語に訳されているなと勉強になります。

雅春先生の翻訳は、かつて、ヴァキュームオイルカンパニーで非常に厳密な翻訳を要求される部所で翻訳を担当されておられた方だなということを感じさせられます。

一言一句を決しておろそかにされない翻訳姿勢、そして、トラインの真理の言葉を日本人の読者に漏れなく十全に伝えようという情熱に感服するばかりです。

同じ文章に対して、複数の翻訳を読み比べる作業というのは、非常に勉強になりますし、面白いですね。

2620SAKURA:2013/10/27(日) 20:45:29 ID:bdP2hNg2
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【 引用編…】
>>2608>>2613>>2614 投稿の続きで〜〜〜す。

┃■■━┳━━【 お知らせ 】━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
【 回復力…湧く 】〜〜それは【 真理は一つだからです!! 】
■□−「生命の実相」を“37巻”からの〜〜〜♫
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/11346/1322022766/2608 (第一回)
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/11346/1322022766/2613 (第二回)
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/11346/1322022766/2614 (第三回)
※転載・引用(一部)を【聖典板】に投稿していました。…が?この【 続き投稿 】を【ブログ…】に記載!
↓     ↓     ↓
■ ゆ・と・り・す・と…『真理』SEICHO−NO−IE
http://hert1706-go4snbs3yts.blog.so-net.ne.jp/  ブログ名…・URL…

━┻━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━−■■

再合掌

2622SAKURA:2013/10/27(日) 21:40:48 ID:bdP2hNg2
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【 転載・引用編】
>>2608>>2613>>2614>>2620 投稿の続きで〜〜〜す。

★♪/
 ┏∞┓ ■ 【 幸せへのパスポート!! 】   谷口清超 著 ■
 ┗┻┻━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━‥・

❤ 【 心 で 作 り だ す 】

 人間はすばらしい「心」をもっている。この「心」で自分の運命を、どのようにでも操縦する。
たとえば、右に行こうと思えば右に行けるし、寝ようと思えば、ねむれるし、山に登ろうと思え
ば、登山することができる。

 それと同じように、自分の肉体も、どうにでも支配することができるのだ、強くなりたい人は
強くなれるし、病気したい人は、病気ばかりするようになる。少しなまけて、
「こんなに忙しいのはいやだ。ゆっくり一日中寝ていたい」と思うと、すぐカゼを引いて、
「一日中寝る」ようになるのは、そのせいである。

 しかし、「心」で自由に支配できるといっても、やはりそれには練習がいるし、努力もいる。
ボーッとして何の努力もせず、なまけながら「支配する」ということはできない。それでは
人間を「なまけもの」にするばかりだからである。人間は本来、「神の子」で、努力家で、
しっかりした心の持ち主であり、多くのことをやりぬく力をもった人格だ。

 病気を治す場合でも同じである。「心」で自由にできるが、それには努力が必要である。と
いうのは、病気をつくり出したのも、「心」であるから、もとの「心」を支えなければならな
いからだ。 (一部抜粋)
                             つづく 

PS: 「トキ様」 へ    「観覧者の皆様」 へ
■□「 心 … こころ」で、すべてが思う様になるのは〜〜〜やはり【訓・練】ですネ!!
「SAKURA」も今回・・・前回の投稿コメント>>2608>>2613>>2614>>2620からの続きから・・・

やはり! やはり! 【 心…こころ 】で、駆使する事を学びました次第です…。
更に、現在もまだ!まだ!続行中で〜〜〜す。!!
【 幸せへのパスポ−ト――> こころ… 】 その素晴らしさを生みだす事が出来ます〜〜〜ョネ!
                              
再合掌

2623アクエリアン:2013/10/27(日) 23:40:21 ID:f9aisZqc
ラルフ・ウォルドー・トライン著 「幸福はあなたの心で」を日英両語で読む

Chapter 2 - The Supreme Fact Of The Universe

http://newthoughtlibrary.com/trineRalphWaldo/inTune/pages/in-tune-with-the-infinite-011.htm#TopOfText

第二章 宇宙における至高の真理③

In a sense there is nothing in all the great universe but law. If this is true there must of necessity be a force behind it all that is maker of these laws, and a force greater than the laws that are made. This Spirit of Infinite Life and Power that is behind all is what I call God. I care not what term you may use, be it Kindly Light, Providence, the Over Soul, Omnipotence, or whatever term may be most convenient. I care not what the term may be as long as we are agreed in regard to the great central fact itself.

ある意味では、この大宇宙には法則のほかに何ものもないとも言えるのである。もしこのことが真実であるならば、その法則の背後にはこれらすべての法則の創造者である「力」が存在しなければならないし、その「力」は創造せられたる法則よりも偉大なるものでなければならないのである。この凡てのものの背後に存在する“無限生命”にして“無限力”なる“霊”を私は称して「神」とよぶのである。私は諸君がそれを何と呼ぼうと意に介しない。大慈、光明、摂理、超越霊、全能者又は諸君が最も便宜と思われるどんな名称で呼んでも差し支えないのである。宇宙には一切の本源者が存在するというこの中心的な大事実を、私たちが一致して認める限り、その名称如何は何ら意に介する必要はないのである。

谷口雅春先生訳「幸福はあなたの心で」(日本教文社)より

ある意味では、壮大な宇宙にあるのはその法則だけだともいえる。それが真理なら、その法則の背後に何らかの力があってさまざまな法則を生み出しているはずだし、その力はさまざまな法則よりもさらに偉大なもののはずだ。すべての背後にあるその「無限の生命と力のスピリット」を、わたしたちは神と呼ぶ。呼び方は何でもかまわない。「優しい光」でも「恩寵」でも「至高の魂」でも「遍在」でも、わかりやすい言葉なら何でもいい。その偉大な中心的な事実についての理解が一致している限り、呼び方は何でもかまわない。

吉田利子訳「人生の扉をひらく「万能の鍵」」(サンマーク出版)より

>>2615
第二章 宇宙における至高の真理①
>>2616
第二章 宇宙における至高の真理②

2625アクエリアン:2013/10/28(月) 20:52:23 ID:f9aisZqc
ラルフ・ウォルドー・トライン著 「幸福はあなたの心で」を日英両語で 読む

Chapter 2 - The Supreme Fact Of The Universe

http://newthoughtlibrary.com/trineRalphWaldo/inTune/pages/in-tune-with-the-infinite-011.htm#TopOfText

第二章 宇宙における至高の真理④

God, then, is this Infinite Spirit which fills all the universe with Himself alone, so that all is from Him and in Him, and there is nothing that is outside. Indeed and in truth, then, in Him we live and move and have our being. He is the life of our life, our very life itself. We have received, we are continually receiving our life from Him. We are partakers of the life of God; and though we differ from Him in that we are individualized spirits, while He is the Infinite
Spirit including us as well as all else beside, yet in essence the life of God and the life of man are identically the same, and so are one. They differ not in essence, in quality; they differ in degree.

【語句】partaker:苦楽などを共にする人

そういう訳で、私はこれを神と呼ぶが、神はこの無限者なる太霊であって宇宙の至るところに遍在し給うのである。そしてそれゆえに、一切のものは神より生まれたものであり、神の内にあり、神の外にあるものは一つとして存在しないのである。さればまことにも、真理をもととして論ずれば、神の内に私たちは生き、動き、我々の存在を保っているのである。「神」こそは私たちの「生命の生命」であり、我々の「生命」そのものであるのである。私たちは私たちの生命を神より承けた、そして今も間断なく生命を注がれ承けているのである。私たちは神の生命を分かち有(も)つものである。私たちは「個性化した霊」として出現したという意味で「全体生命」から分離したようではある。神は、我々及び諸他の一切のものを包容する無限者なる霊であり、その精髄においては、「神の生命」と「人間の生命」とは全然同一なのである。だから「神の生命」と「人間の生命」とは一体であるのである。それはその精髄においてその性質において異ならないのであって、その程度において異なるに過ぎないのである。

谷口雅春先生訳「幸福はあなたの心で」(日本教文社)より

神とは神ご自身のみによって宇宙全体を満たすこの「無限のスピリット」なのである。すべては神から生まれ、神のなかにあり、神でないものは何もない。したがって、わたしたちは神のなかで生命を得て、動き、存在しているわけで、神はわたしたちの生命であり、人生そのものなのだ。わたしたちは神から生命を授けられたのだし、いまも授けられ続けている。わたしたちは神の生命の一部なのだ。わたしたちと神は違うが、それはわたしたちが個々のスピリットであるのに対し、神はわたしたちすべてもわたしたち以外のすべても包み込む「無限のスピリット」であるからで、本質的には神の生命と人間の生命は同じひとつのものなのである。本質的な違いがあるわけではなく、それは程度の違いに過ぎない。

吉田利子訳「人生の扉をひらく「万能の鍵」」(サンマーク出版)より


>>2623
第二章 宇宙における至高の真理③

2626a hope:2013/10/29(火) 08:14:11 ID:/9IAdiFk

▣ 自然の祈り

ああ、神は偉大なるかな。
見わたすかぎり無限にひろがる大宇宙に数知れぬ多くの星を造りたもうたのである。
その星の中には太陽の二十万倍も大きな星があるのである。
それが、宇宙があまり広大なために小さな星に見えているのである。

ああ、神は偉大なるかな。
偉大なる″神の生命″を私は宿して人間として生まれてきたのである。
ああ、私の生命は偉大なるかな。

「ジュニア希望の祈り」谷口雅春先生著 (日本教文社 )

2628a hope:2013/10/30(水) 09:03:48 ID:/9IAdiFk

▣ 礼拝の祈り

神はすべてである。
すべてのものは神から生まれたのである。
だから神がこうしていろいろのものの姿にあらわれていられるのである。

机も鉛筆もペンもインキも紙もことごとく神のあらわれである。
だから私はすべてのものの内に神が宿ることを知り、一枚の紙、一本の鉛筆でも大切にする。

「ジュニア希望の祈り」谷口雅春先生著 (日本教文社 )

2629うのはな:2013/10/30(水) 11:14:28 ID:wCSq1zyk
      急ぐと焦ると

 生長の家本部へ修行に来ている「ひとのみち」信徒がある時「ひとのみちでは急ぐということは善くないと
申しますが、昔から『善は急げ』という諺がございます、善事は急ぐべきでしょうか。それとも善事でも急いでは
ひとのみちに反くことになりましょうか」とお尋ねになったことがあった。

 生長の家では、「常に時は今である」と言う。それは今の瞬間に久遠永劫の力がかかって、動こうとしていることを知れという
ことである。水道の栓を一つ捻らねば永劫にその栓を捻じる時はこないのである。
われわれの行動の支点は常に「今」にかかっている。「今」よりほかに何事も成す時はない。

「今」を見逃す者は永劫に実行の機会を見逃すことになる。だから「善は急げ」である。
しかし、現象界は一定の時間的順序で展開するから、今水道栓を捻じっても、ただちには浴槽の水が一杯になるものではない。
水道の栓を捻じった時、心の世界ではすでに浴槽の水は一杯になっているのである。

 それが形にあらわれるには時間経過を要する。すでに満たされている心の世界を信じないでその時間経過を待ち遠しく焦る者は
事を破壊するのである。種子を播いた時、すでに心の世界でその種子は芽が出ている。形の世界ではある時間経過の後芽が出る。
その時間経過を待たずに急いで土を掘り返して見る者は事を破壊する者である。
だから焦らず、善は急いで今を生かせである。

  『生命の實相』第23巻 宗教問答篇  谷口雅春 先生著

2630かぴ:2013/10/30(水) 11:24:21 ID:oEnYKIyI

   逆境に処して斯く祈れ

 若しあなたを不正にいじめる者があったり、不正に待遇する者があったり、正しいあなたの収入を不正に少くしたり奪ったりするものがあったり、あなたを誤解する者があったとしても、その相手を直接怨んだりしてはならないのである。

 キリストは斯う云う場合「悪に抗する事勿れ」と教えている。

 悪の存在を見てそれに抗したり、悪を認める心によって悪は消えることはないのである。

 あなたの信仰を変えよ。そして「自己にとって相応しき善なる者は自己の心の波長によって引寄せられて来るのである。自分は彼らを愛するが故に、彼らは決して私を害することはないのである。今彼らが私に敵対しているように見えても、それは一層善なるよき物が来る過程である。」かく思念することによって実際一層よき物が来るのである。

( 谷口 雅春先生著  「新版 幸福を招く365章 」より )

2631アクエリアン:2013/10/30(水) 18:29:25 ID:hIJRxoBg
ラルフ・ウォルドー・トライン著「幸福は あなたの心で」を日英両語で読む

Chapter 3 - The Supreme Fact Of Human Life

http://newthoughtlibrary.com/trineRalphWaldo/inTune/pages/in-tune-with-the-infinite-016.htm#TopOfText

第三章人間生活における最大の真理①

From the great central fact of the universe in regard to which we have agreed, namely, this Spirit of Infinite Life that is behind all and from which all comes, we are led to inquire as to what is the great central fact in human life. From what has gone before, the question almost answers itself.

前章において私たちがその結論に同意したるところの宇宙における最大なる中心的真理ーー即ち、凡てのものの背後には無限なる大生命の霊が存在し、それからして万物が発生したのであるという真理ーーよりして私たちは人間生活における最大の中心的真理は何であるかの提題に導かれて行くのである。既に前述したところの真理よりして、この問題に対する回答は自然に引き出されて来るのである。曰くーー

(谷口雅春先生訳)

先にお話しした宇宙の中心にある偉大な事実、つまりすべての背後に「無限の生命のスピリット」があって、そこからすべてが生じるという事実。そこから生まれるのは、人生の中心にある偉大な事実とは何かという問いかけである。これについての答えは、その前提を考えればすぐにわかるだろう。

(吉田利子さん訳)


The great central fact in human life, in your life and mine, is the coming into a conscious, vital realization of our oneness with this Infinite Life, and the opening of ourselves fully to this divine inflow .

人間の生命ーーあなた方の生命も私たちの生命も引っくるめてーーその最大の中心的真理はわれわれの生命はこの大生命と一体である、したがって、私たちはこの真理を意識的に生き生きと自覚すれば、意識的に神の生命の聖なる流れに充分完全に自分の心の窓を打ち開き得るはずであるということである。

(谷口雅春先生訳)

人生の偉大な中心的な事実、あなたの人生やわたしの人生の偉大な中心的事実とは、わたしたちがこの「無限の生命」とひとつであることに気づき、肝に銘じて、充分に自分を開いて聖なる流れを受け入れることだ。

(吉田利子さん訳)

>>2625
第二章 宇宙における至高の真理④

【参考資料】
■アマゾンブックレビューより転載

新選谷口雅春選集 9 幸福はあなたの心で

これは素晴らしいです。 By きらく- 2011/6/15

謝 世輝氏著「願望をゼッタイかなえる信念の魔術」に この本は良書と紹介してあったので、読んでみま した。 これは素晴らしいです。 引き寄せの法則 などの本を読み、ある程度の理 解のある方なら、 きっと気に入ると思います。 訳者が、昭和41年に訳されたからか?
旧仮名遣い、旧漢字が多くて、ちょっと読みにくいかもしれませんが、 漢字には全部ルビがふってあるので大丈夫です。 「人生の扉をひらく「万能の鍵」」という本は、 他の方の訳により、新たに出版された本だそうで す。

2633a hope:2013/11/01(金) 08:52:57 ID:/9IAdiFk

▣ 歓びの祈り

神は光である。
神は光であるから明るい歓びの心をもちたまう。
私は神の子である。
神から明るい心を譲られていて、暗い陰気な心はけっしてもたないのである。
だから私は何を見ても愉しいのである。
歓びばかりがやって来るのである。

「ジュニア希望の祈り」谷口雅春先生著 (日本教文社 )

2634a hope:2013/11/01(金) 09:13:28 ID:/9IAdiFk

▣ 善き言葉の祈り

神は言葉によって一切のものを造りたもうたのである。
言葉で話す通りのものが自分の周囲にあらわれてくるのである。
私は人の欠点を話さない、美点のみを話すのである。
だから自分には善きことのみが集まってくるのである。

「ジュニア希望の祈り」谷口雅春先生著 (日本教文社 )

2637SAKURA:2013/11/01(金) 19:36:52 ID:3/pn4/Pc

「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【 転載編…&引用編… 】
>>2500>>2501>>2504>>2507>>2522>>2523>>2539>>2554>>2563>>2566>>2567>>2571>>2582>>2589
>>2601 の投稿の続きです…。       

【  女性の本質  】             谷口雅春著
――― 女というもの ―――   
■ 愛は一切のものを産み出す母・・・・・ その⑤   【転載編…】
>>2589投稿の続きです…。

「その理由は、その叔母さんが、あなたが好まない所の唯一人の人であるからです」
とマン女史は答えました。
何故叔母さんに深切にせんならんかと言うと“貴女が叔母さんを憎んでいるからだ。憎
んでいるから、深切にしなければならない“というのです。

「貴女は本当に叔母さんを好まないのではないのです。誰でも人を憎む時には自分自身に
憎むべきものがあって、その罪を相手に映して、相手を悪いと思うのです。あなたは自分
のよき住居をもち、それ相応の立派な家具や調度をもつ権利があると思っているのにそれ
が得られない――その自分に対して腹立たしいのです。その腹立たしさを叔母さんに罪を
かぶせようとするのです」


 誰でも人を憎む時には、自分自身に憎むべき欠点があって、自分を憎んでいるのだが、
その罪を相手に移して肩替りさせる。彼女も叔母さんに罪をかぶせて叔母さんは吝嗇坊で
私に金をくれないという風に憎むようになっているんだということを指摘した訳です。自
分が憎んでいる者程愛しなければならないということは、これは非常に大切なことなのです。

 愛している者を愛したって、何の値打もない。自分が生んだ子供を母親が愛する――当
り前のことです。別に徳が高いというものでない。むしろ、子供を愛しないのは気違い
か馬鹿かであって、愛する者を愛するのは当り前のことなんです。

 愛というものは、センチメンタルな“ 好き ”というような感情ではないのです。愛とい
うのは、実じ實相の中から出てくるところの自他一體の自覚なのです。自他一體、即ち自分と
他、相手と自分とが、肉體は別れているけれども、本来一つであるという自覚なのです。

 その本来一つであるところの自覚が出てこない間は、表面のセンチメンタルな心では
“あいつは虫が好かん”とか“叔母さんはけちん坊”だとか言って離れているけれども……
然しその奥底は、互いに一つの生命である神から生まれたのです。その内部から出てくるとこ
ろの、本来一つの自覚に基づいた意志の實践―何々せんと欲すという意志を實践する時
に、魂の進歩というものがあるのです。

 我々の魂の底には、通俗の言葉で言えば、“良心”という良き心が宿っている。佛教的
な言葉で言うと、所謂 “実相”とか“佛性”とかいうものが宿っているのです。實相にお
いては、皆佛であって一體でる。ところが表面のセンチメンタルな心では“好き”だと
か“嫌い”だとか色々言って、反撥したりしているのです。

                              つづく

2638SAKURA:2013/11/01(金) 21:42:37 ID:3/pn4/Pc
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【 転載編…&引用編… 】
>>2500>>2501>>2504>>2507>>2522>>2523>>2539>>2554>>2563>>2566>>2567>>2571>>2582>>2589
>>2601>>2637 の投稿の続きです…。       

【  女性の本質  】             谷口雅春著
――― 女というもの ―――   
■ 愛は一切のものを産み出す母・・・・・ その⑥   【引用編…】
>>2589>>2637 投稿の続きです…。

PS:「トキ様」 へ 「観覧者の皆様」 へ
此処で「気に入らない人!!」 「嫌がらせされている人!!」……
そのような人こそ【相手の実相…】を見なさいという事……これって!本当に、難しいです〜〜〜ョネ!!
何故なら〜♫〜 まず!私の【視・界…外の方達】から、非常に関わりたくないのに ><
【 尾・行 】とか?いろんな形で、【 四面楚歌 】つまりは〜♫ 一日中の見張りに見えます。…が?
これって?まず【情・報 を先・取・り】したい為なんでしょうかしら〜〜〜ン!首をかしげながら?

私にしますと、このような人は、まず【切・る…事】と〜〜〜更に!まず【この世に存在していないモノ】
このように見るようにしています此処昨今です。実は?“三日前…”でしたか?
「タタキ男の奥さん」でしょうかと。??一瞬!一瞬!変な感じ〜〜〜♫と思いながら?更に“マスク…”
をしていましたのが?雰囲気的にそのしぐさから?こちらに向けて〜〜〜♫フン!フン!と見せつけるように
近づいてすれ違いました。かなりの「形 ・ 成 経由…」でしたが?この女性の好みから〜♫
「タタキ男の嫁さんでしょうか?」との判断に至り〜〜〜【若さ…とは】若作りを本人はしているつもり?
外見上のみの様な感じが、こちらから見ますと見えて致し方なく?【心は〜〜〜何処〜〜〜】

■□ 何か〜〜〜“おかしな世界観…” その様に感じてしまうのです…。

まず!!興味がない訳ですから?私は、そのように一人一人の各自の個性がありますし、
【世界観…】は全くもちまして異なるのですモノ!!ですから〜〜〜♫ このような
人達の【 実・相 】を見る事より、【ノータッチ…かかわらない】まず!心で〜〜〜
唯今【 10月31日 ハロウイン……悪魔払い 】に徹する事でしょうかと??

【続々甘露の法雨…】にも、すべて〜〜〜が【心で作る世界…決定】します。
心!まずトラの“例え話…”を思いました。
■□ 良いも〜〜〜悪いも〜〜〜まず“切・る!!”事から始まる予感でしょうか???
最終的には〜〜〜今回の「マン女史」のお話の方は…【 実・相 】をみる訓練かと…
ケ−ス!バイ!ケ−ス!という事でしょうか???このように思いますネ!!!

再合掌

2639アクエリアン:2013/11/02(土) 12:11:26 ID:6oAY2dpc
ラルフ・ウォルドー・トライン著「幸 福は あなたの心で」を日英両語で読 む

Chapter 3 - The Supreme Fact Of Human Life

http://newthoughtlibrary.com/trineRalphWaldo/inTune/pages/in-tune-with-the-infinite-016.htm#TopOfText

第三章人間生活における最大の真理②

This is the great central fact in human life, for in this all else is included, all else follows in its train. In just the degree that we come into a conscious realization of our oneness with the Infinite Life, and open ourselves to this divine inflow, do we actualize in ourselves the qualities and powers of the Infinite Life.

これこそが人間生活における最大の中心的真理であって、この中心的な事実のうちに他の一切のことは含まれており、爾余の一切は付随的に発生するのである。私たちがこの無限の大生命と一体であるという真理を意識的に自覚し、自分自身を大生命の聖なる流れに、自分の心を打ち開き得る程度によって、私たちが実人生において大生命の徳と力とをどの程度現実化し得るかということがきまるのでる。

(谷口雅春先生訳)

これが人生の偉大な中心的な事実であり、すべてはここに含まれるし、すべてはここから始まる。どこまで意識して「無限の生命」とひとつになれるか。この聖なる流れにどこまで自分を開けるか。その度合いに応じて、わたしたちは自分のなかにある「無限の生命」の資質と力を実現することができる。

(吉田利子さん訳)

>>2631
第三章人間生活における最大の真理①

2640a hope:2013/11/04(月) 22:11:42 ID:/9IAdiFk

類纂・生命の實相 『人類無罪宣言』谷口雅春先生著
編者 楠本加美野先生


   罪業もとよりかたちなし
   妄想顛倒のなせるなり
    ――― 親鸞 ――――

編者のことば①  (p1〜)

人間の不幸は、最近の精神分析の新しい発見によると潜在意識の深層に淀んでいて消えない ″罪″の観念の自己処罰だと解釈されています。
この意識の深層に横たわる罪の意識が消されるならば、自己処罰による人間の不幸が生じないで終熄(しゅうそく)する筈である。
戦争の発生すらも罪の意識を焼却するための自己処罰だと精神分析学者は言います。
多くの人たちが『生命の實相』を読むことにより、不治の病から癒された実例が体験としてあらわれているのは『生命の實相』の説く
「人間、本来、神の子にして罪無し」の真理が同書の雄勁(ゆうけい)なる文章の力となって読者の潜在意識に浸透し、
意識の深層にある罪の観念の蓄積即ち ″業″が消去せられるからなのです。
罪業本来無し、それはただ観念的存在なのであることを私は自分の体験によって実証したのです。
(つづく)

2641a hope:2013/11/04(月) 22:15:45 ID:/9IAdiFk
>>2640つづき)

編者のことば② 

私は昭和三十一年、宇治修練道場に於いて練成の手伝いに励んでいた頃、
後に述べるが如き家系に係る業因について悩んでいたのであるが、練成局長である徳久克己理事から、
『生命の實相』の各章から「罪本来なし」に関する文章を系統的にまとめて抜粋筆写して
潜在意識の中にある ″罪″の観念を徹底的に消去するよう勧められました。

その頃宇治では山を崩し、谷を埋める献労を中心とした練成をしていました。
私は昼間は山崩しに全精力を捧げ、夜は『生命の實相』をひたすら読み「罪本来なし」の問題にとりくんでいました。

私は新しい気持ちで『生命の實相』を読みはじめました。
入信まもなくの頃『生命の實相』十回通読を念願にたて、四回までは毎日毎日少しずつ読みましたが、
それからはわかりきった事を読むような気がして、思い出しては読む程度で八回通読しました。
今度はテーマを与えられた事によって、今までと全然違った感激をもって、読むことができました。
すると、今までわかったような気がしていたのが、実は漠然としていてさっぱりわかっていなかったことがはっきりしてきました。
(つづく)

2642a hope:2013/11/04(月) 22:18:38 ID:/9IAdiFk
>>2641つづき)

編者ことば③(p2〜)

先ず罪の問題を全て『生命の實相』から抜き書きしました。
次に谷口雅春先生のあらゆる御本から抜き書きしました。
しかしそれを系統的にまとめる事が難事でした。
何回もあきらめようとしましたが、その度に徳久先生から励まされ、終りに「祈りなさい」と言われました。

私は四時に起きて神想観をすることにしました。
二か月位つづけた時、目次がひらめきました。
それは、″苦行不要″ ″犠牲不要″ ″神罰なし″ ″罪なし″ ″懺悔″ ″因果を超越する″でした。
私は希望に燃えてまとめ出しました。

その頃、それまで三回も流産してその後、子供が宿らなかったわが家に、神の子が宿りました。
そしてこれまでの研究を「人類無罪宣言」としてまとめ上げた時、長男が生まれました。
谷口先生から行孝(ゆきたか)と御命名いただきました。
(つづく)

2644a hope:2013/11/05(火) 00:02:23 ID:/9IAdiFk
 (>>2642つづき)


編者のことば④(p3〜)

この事は谷口先生が、『生長の家』誌三十三年号の「明窓浄机」に次のようにお書きいただきました。

>生長の家宇治修練道場の楠本加美野講師夫人が去年の暮ちかく玉の如き男子を出生せられたことを爰(ここ)に報告しておきたい。
同夫人はこれまで三回も流産された。これについては楠本講師が、まだ青年時代の頃の自分自身の親不孝の罪の具象化、
又は家系につながる両親の跡嗣(あとつぎ)は得られない業因の具象化であって、
もう永久に自分には血のつながれる跡嗣が得られないかも知れないと心配されていたのであるが、
徳久克己理事が飛田給や宇治の職員に『生命の實相』を繰返し精読する機縁を与えるように、
それぞれ或る問題に視点を集注して、特に或る事項に関する抜き書きを職員たちに命ぜられた。
楠本加美野講師に割当てられた事項は、「罪本来なし」という真理に関して記述してある『生命の實相』中の文章を特に注目して、
書き抜いて筆写して整理することであった。
ところが楠本講師がその「罪本来なし」の真理と取り組んで筆写しておる内に、
「自分の親不孝の罪業も家系に伝わる両親の跡嗣となる子供が代々得られないという業因も本来なし」ということが
徹底的に潜在意識に印象されるようになったのである。
そこで今まで潜在意識中につかまれていた流産の業因が消えてしまって、玉の如き男児が得られることになったのである。
この実例によって、業というものは何処に存在しているかといえば、潜在意識の中につかまれているのであって、
聖典読誦の繰返しによって潜在意識を浄化すれば、個人及び家系に伝わるすべての罪業は
消えてしまうものだということが証明されたのである。<
(つづく)

2646再掲:2013/11/05(火) 02:00:04 ID:???

名前:SAKURA 投稿日: 2013/11/04(月) 21:58:30 ID:FDHLkvKk
「トキ様」 へ 「観覧者の皆様」 へ 

■□「古きよき時代…雅春先生の時代の真理の伝・道…」但し?【 回・想】に思いふけるのは?
本当に!今を活かす事に繋がるのでしょうかとも?

2647SAKURA:2013/11/05(火) 03:08:16 ID:aWzD9cbE
「トキ様」へ  「観覧者の皆様」へ
こんばんは……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>2637>>2638 の投稿から “思考…範囲” をひろめますと〜♫

■ 類纂・生命の実相   【 人 類 無 罪 宣 言 】     谷口雅春著
                        楠本加美野 編    日本教文社

■□ 第五章 宗教上の 「罪の赦し」 について   P.166〜167頁まで

…中略…
神想観は罪あるままで勘弁する意味では罪を赦すのではありません。円満無罪の実相の中へ溶け込
むことによって、罪(悪念の運動慣性)が無くなるのであります。負債を支払わないで勘弁してもら
うのではなく、実相の富があらわれて来るから、負債が自然に支払われて来るのであります。プラスが
出て来るから自然にマイナスが消滅するのです。貧しいままで、相手から卑屈に負債を免じてもらう
のではなく、自然に富んで来て負債を支払いうるようになるのであります。その例もずいぶんありま
す。悪癖のある人が悪癖のあるがままで人々から我慢されるようになるのではなく、悪念の運動慣性
が破壊されるからその悪癖が無くなるのであります。タバコや、飲酒や、吃語癖などが神想観で自然
に治ったのはそれであります。病気の人が病気のままでもその病気を我慢してもらって、人から迷惑
がられなくなるのではなく、神の子無病に実相があらわれるから自然に病気そのものが影を消すので
あります。その例も無数にたくさんあります。約言すればすべて他から我慢してもらう意味では罪が
赦されるのではなく、罪の運動慣性が消滅せしめられる意味において罪が赦され、罪がけされること
になるのであります。…中略…
                          (一部抜粋)

PS:「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
さて!今回の『聖典板…』上記の皆様方が投稿されています“内・容”に???
【 罪の無罪宣言 】です。…が?最近、よく考えてしまいます。…が?
当時の事です…。私が、まだまだ?新米の頃?という表現になりますでしょうか?
やはり【親・不・孝…】をしておりましたから???当時の私は、一度この書籍を拝読しました時!
この衝撃的な “コトバ…”

■ 【罪・は・無・い!!】
この様に、今では、恥ずかしいのですが?勝手に思いまして、“気…”が楽になりました。何故ならば?
皆様もご存知の「甘露の法雨…」の冒頭に、
【天地一切のものに感謝せよ!!…中略…汝らの兄弟のうちに最も大なる者は汝らの父母である。】と…
此処から、いつも〜いつも〜私の“心の中は?闇の世界”という具合に、暗く打ちのべされていました。
それは ><
■「タタキ男…出・会・い(人をだます手口)」が〜〜〜“原因”です。此処から?
すべての『歯車が狂い…』まさに【人生の汚点…烙・印】でしたでしょうかと。??当時?その時に、
【人 類 無 罪 宣 言】この書籍本を読みまして、しかも“途中…リタイア?”なのでしたが?(微笑)

当時の私の“魂…”では〜〜〜勝手な判断にて「モ〜〜〜ウ!罪が無い!!」のだと思えたのです。
【罪…】これは【包み隠す…表れが…罪なのです】
これに【縛りつけられますと〜〜〜罪は、永遠なのです】この様に思えるようになりました次第です。

そうしますと【罪…】・【罪・業】は?どうしますと無くなるのでしょうか!!
■それは“愛”=“慈愛精神”から始まり、そこから「道…心の扇」が開かれてゆくのでしょうかと??

「楠本先生」の素晴らし〜〜〜イ【愛の精神】そして【慈愛精神】へと繋がり、更には、
そこから【天・国・の・門】が〜〜〜開いたものと、改めて“確信”ができました。『感謝…』です…。
そうです〜〜〜ョネ!強い〜強い〜【意・識】が繋がり…先生の慈愛精神が【罪・業】が消す事になった
のです〜〜〜ョネ!!そして〜多々なる「奇・蹟」が生まれたモノと、思う次第です。
ここが“ポイント”でしょうか?

まず【罪は本来無いとの自覚…】とは〜〜〜?
「無・意・識」の中から、何か“施しの精神”が生まれる【慈・愛】これが【愛…】なのですから?
これが生じますと【人間…神の子!!】の目覚めができ始めて〜〜〜【罪・業】が消えていく!!

ですので【無・罪・宣・言】とは、まず、
相手に対していつも【慈・愛・精・神・が・永・遠・に・つ・づ・く・事!】がカギでしょうかと??
この様に思うのです。
                                再合掌

2648a hope:2013/11/05(火) 09:24:44 ID:/9IAdiFk
>>2644つづき)

 編者のことば⑤(p4〜)

この記事を読んだとき初めて、何故いままで流産していたか。なぜ今回子供が誕生したかがわかりました。
私は生まれるとまもなく実父に離れ、十三歳の時継父が出来たわけですが、その二人の父と母を憎んでいました。
飛田給練成をうける事により、二人の父に母に感謝できるようになりました。

その後、婚約を断りに行った時、そこで二十数年ぶりに実父に再会出来、更に数年後、結婚が成立する時、
楠本家の先祖が明らかになったわけです。

こうして結婚する過程に親とか先祖に調和して多くの人々から祝福された結婚でしたが、
子供が宿ったと喜ぶと間もなく流産しました。
また子供が宿ると不思議に夫婦の間に険悪な空気が流れて、後で考えると馬鹿馬鹿しい事で争い、
その結果流産してしまいました。
二度目の流産の後二人は深く反省しました。
今度宿った時、三度目には調和した生活をして立派な子供を生もうと二人はそれぞれ精進して、
三度目の妊娠に備えました。
そうして三度目が宿りました。
しかしその努力はむなしく、二人の間には又も険悪な空気が流れ出しました。
それは二人の力ではどうすることもできませんでした。
それが業の催しだったのです。
そして終(つい)に流産してしまったのです。
何故流産するか、あらゆる面から考えましたが、その当時は不明でした。
私達夫婦の間には、子供が出来ると不幸になるような不可抗的な力があるように思えました。
(つづく)

2652a hope:2013/11/06(水) 08:49:51 ID:/9IAdiFk
>>2848つづき)

編者のことば⑥(p5〜)

しかしながら真理は私を救ってくれました。
前記のように『生命の實相』の全巻の中から「罪本来無し」の真理を重点にして抜粋し、
その筆写が「人類無罪宣言」の一冊にまとまるほどに原稿用紙に整理された時、
家系連綿とつづいた ″業″が消えたとみえて、私の家庭に長男が恵まれたのです。
本書はこうして綴られた、『生命の實相』中の業因を消去する聖句の部分の類纂であるわけです。

楠本家には何代かにわたって、つねに、もし子供が生まれたら子供一人を遺して親は死ぬ。
親と子とは両立できない恐ろしい業因が連綿としてありました。
私は結婚しました。
そして、その連綿継続した業因が消えないままで、もし子供が出来たら私たちは子供一人を遺して、
生き別れか死に別れの運命にあったのです。
親が死ぬか、子供が死ぬか、それがその時まで子供が次々と流産した深いわけでした。

それは恐ろしい家系につながる ″業″でした。
しかし私が、『生命の實相』の中から「業本来無し」「罪本来無し」の項目に関する文章を抜粋して筆写して、
その研鑽が徹底して「本来、人間・神の子、罪業無し」の真理が私の潜在意識の奥底に印象された時、
その業因が消えて長男が生まれたわけです。
そしてその後、尚、二人の子供も出来、今は全く幸福な家庭に恵まれているのです。
(つづく)

2653a hope:2013/11/07(木) 08:45:24 ID:/9IAdiFk
>>2652つづき)

編者のことば⑦(p6〜)

こうして筆写類纂した「人類無罪宣言」の原稿と子供の写真を谷口先生に献上し、
お礼を申しあげたく先生のお宅にお伺いしましたとき、輝子奥様から「よかったね」と喜びのお言葉をいただきました。
そのとき私はお礼の言葉も言えず、感謝感激のあまり、その場に慟哭するかのように泣いてしまったのでした。
今度、この類纂された『生命の實相』中の「人類無罪宣言」が原著者谷口雅春先生の御厚志で世に出ることになったのです。

私と同じように罪の観念で苦しんでいる人、先祖代々から「悪業」によって苦しんでいる方は、
先ず『生命の實相』の中から特に、 ″罪業本来無し″の真理を抜粋類纂したる本書を読まれて
罪業の観念を消去せられるが良いと思います。
イエスは「汝は真理を知らざるべからず、真理は汝を自由ならしめん」と言いました。
更に進んで『生命の實相』全巻をくり返し通読されることにより、凡ゆる種類の要素から人間は解放され、
″罪・業本来なし″の真理が心の底に確立され、家庭に幸福は訪れ、事業に繁栄は来たり、
全人類に戦争の業苦なき永久平和の楽園が招来されること疑いはないのです。

ここに、『生命の實相』の説く真理によって家系につづく罪業の束縛から解放されて再び人生に楽園を奪還し得た証し人として、
本書をすべての人類にお薦めしたいと思うのです。

昭和四十七年十二月八日   楠本加美野しるす



以上、

類纂・生命の實相 『人類無罪宣言』谷口雅春先生著
編者 楠本加美野先生  (日本教文社) より

「編者のことば」の謹写をさせていただきました。

感謝合掌

2654a hope:2013/11/07(木) 08:57:42 ID:/9IAdiFk

「罪本来無し」は今月のweb誌友会のテーマでもあります。

「潜在意識が浄まれば、すべての罪業は消える!」って、素晴らしい真理だと思いませんか?

「人類無罪宣言」楠本加美野先生ご講話 
https://www.youtube.com/watch?v=8r5Q7nMza_Q

こちらも素晴らしいですよ!

2657うのはな:2013/11/09(土) 16:05:49 ID:fljG76iQ

『生命の實相』戦前版 第十二巻より  光明掲示板第二
http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&amp;mode=res&amp;log=568

2658アクエリアン:2013/11/09(土) 23:33:28 ID:sNQQ/oh6
ラルフ・ウォルドー・トライン著「幸 福は あなたの心で」を日英両語で読 む

が、投稿できません。

NGワードが含まれている、?

NGワードとは何なのか、分かりません。

この投稿はこの掲示板歓迎されていないなんでしょう。

ということでこれはやめます。

2659トキ:2013/11/10(日) 09:50:43 ID:ka8gZUjc
>>2658

アクエリアン 様

 ご迷惑をおかけして申し訳ありません。

 この掲示版には、毎日、営利目的の投稿が多数来ています。
毎日、それらを削除すると共に、営利目的の投稿をされないプログラムを
組んでいます。それらが誤作動して、真面目な投稿がなされない場合があり
ます。

 この場合、別板へ投稿をされ、本板への移転希望と書かれるか、または、
管理人宛にメールで送って下されば、管理人が代理投稿をします。

tokirijicyo@yahoo.co.jp

です。

 折角のご投稿ができない、という事で、たいへんすみませんでした。
よろしくお願いします。

合掌 ありがとうございます

管理人敬白

2660アクエリアン:2013/11/10(日) 10:04:19 ID:eNK.dsZ.
トキ様

レスありがとうございます。

なるほど、掲示板運営者側のプログラムに引っ掛かったというわけですね。

了解しました。

2661トキ:2013/11/10(日) 10:06:28 ID:ka8gZUjc
>>2660

 そうです。お手数をかけて、ごめんなさい。

なお、別板に投稿をして、こちらには、『別板の何番にこういう文章を書いたので、
ご覧下さい」と書いて、リンクを貼る方法もあります。よろしくお願いします。

合掌 ありがとうございます

2662SAKURA:2013/11/10(日) 15:32:35 ID:3/pn4/Pc
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんにちは……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【 転載編…&引用編… 】
>>2500>>2501>>2504>>2507>>2522>>2523>>2539>>2554>>2563>>2566>>2567>>2571>>2582>>2589
>>2601>>2637>>2638 の投稿の続きです…。       

【  女性の本質  】             谷口雅春著
――― 女というもの ―――   
■ 愛は一切のものを産み出す母・・・・・ その⑦   【転載編】
>>2589>>2637>>2638 投稿の続きです…。

反撥したりしているのは、表面に浮んでいるもやもやとした雲みたいなものであって、
そんなもやもやしたものに従うのは本当の愛ではないのです。本当の愛というものは、内
部から出てくるところの、彼と我とは本来一つであるという佛の命の實相を自覚する――
そこから押し出してくるものが本当の願いであり、本当の愛なのです。

 表面の心では憎くても、内部から押し出してくる本当の良心、本当の愛に従って相手を
愛し切るという努力の中に魂の進歩というものがある訳なのです。

「そうおっしゃると、私があの叔母を憎んでいる限り、私自身の生活を正しく生きる努力
をしていないということになるんでございますか?」
「その通りです。叔母さんは、いわば囮に使われた羊のようなものなのです。目的は別に
あるのです。真に叔母さんを愛し、その美点を見つけるように努めなさい。あなた自身の
愛が満足されたならば、あなたはあなた自身を憎むこともなくなり、その反映として叔母
さんを憎むこともなくなります」

 本当に叔母さんの美点を見つめて、それを愛するように努力していると……その愛が満
足されたら、自分自身が満足感を得るから、自分を憎むことがなくなる。自分自身を憎む
ことがなくなったら、その反映として、叔母さんを憎むことがなくなるという訳です。

 それから、その婦人は、一生懸命に叔母さんの美点を見つけ、出来るだけ叔母さんに深
切な言葉を言うために、時々御機嫌伺いに出かけて行ったり、親類の者としては自分一人
しかいないのだからと思って、世話してあげることにしたのです。

                           つづく

2663a hope:2013/11/11(月) 07:51:59 ID:/9IAdiFk

▣ 真心(まごころ)の祈り

真心というのは、ま’こ’と’の心なのである。
人間の真(まこと)の心は、″神の心″が宿っているのであるから、
真心を出したとき神の力がわき出てくるのである。
真心を出したとき、他の人々の真心にふれて、
他の人から信じられ、愛され、悦ばれる。
真心を出したとき、何でも親切にできて失敗しないのである。
私はきっと真心をだします。
ありがとうございます。

「ジュニア希望の祈り」谷口雅春先生著 (日本教文社 )

2665a hope:2013/11/13(水) 07:48:57 ID:/9IAdiFk

▣ 心清まる祈り

月の光の静かなるがごとく、私の心も静かであって、
少しも腹を立てたり、悲しんだり、不平に思ったりすることはないのである。

なぜなら私は神の子であって、神に導かれ、神に護られ、
善きこと、うれしいことのほか何ごとも私に近づいてこないからである。

「ジュニア希望の祈り」谷口雅春先生著 (日本教文社 )

2668a hope:2013/11/15(金) 08:37:57 ID:/9IAdiFk

▣ 愛を深める祈り

私は″神の子″である。
神は愛であるから、″神の子″の私も愛である。
愛の深い人は憎まないのである。
だから私は人を憎まないのである。

たとい人が意地悪をすることがあっても、
その人がまちがっているのであって、
気の毒な人だと思ってその人を赦すのである。
赦しの大きいものほど愛が深く、人物が大きいのである。
私は″神の子″で人物が大きいのである。
ありがとうございます。

「ジュニア希望の祈り」谷口雅春先生著 (日本教文社 )

2671a hope:2013/11/17(日) 12:15:24 ID:/9IAdiFk

類纂 『あなたは無限能力者』谷口雅春先生著
編者 楠本加美野先生 (日本教文社)

「編者 はしがきより」抜粋P3〜

・・・私は永い間 ″自分さえよければ″という考えをもっていた。今から思うと極端な利己主義者であった。
それは私の生いたちからきたもので根深いものがあった。又この世は生存競争、弱肉強食の世界である。
幸福に生きて行くためにはあらゆる手段を使って生存競争に勝たねばならないと思っていた。
生長の家に入信してもその考えは変わらなかった。
利己的信仰者は人生問題に遭うと『法華教』に書いてあるが、
その通り利己的信仰者であった私は生長の家を熱心にやっていながら終戦後生きる希望を失った。
その時、神性開発練成会をうけ、再び『生命の實相』を心読した。そして私は新生した。

自分の力でいきているのではなく、生かされている真実にめざめた。
そして生かしてくれている空気に、太陽に、あらゆる人の奥に愛を見出し感謝できるようになった。
生かされている私の生きる道は他を生かすことにある。
愛されている私の生きる道は愛行にあると、愛行に自分の使命を見出した。
自分の一生の方針が決まったのである。

更にこの書を編纂することによって、不幸も、苦痛も、競争者までもが、その人の生命を生長させるために与えてくれるものであり、
それを感謝して受けた時、その人の生命が最もすみやかに生長する、生長と共にその問題は解決するものであるという正しい解決法がわかり、
どんなに不幸と思えることの奥にも愛があるということがわかった。・・・

以上、謹写終わり

感謝 合掌。

2672SAKURA:2013/11/20(水) 23:05:21 ID:3/pn4/Pc

「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【 転載編…】
>>2608投稿の続きです
■□ 今日は、久しぶりに「生命の実相」を“37巻”からの〜〜〜投稿とさせて頂きます。【 転載・引用 】

―――【 生命の実相 37巻 谷口雅春著(日本教文社出版) その① 】―――――−

   二 月 十三 日
 悲しいことがあれば、喜びの初めである。イエス・キリストも「幸蘄なるかな悲しむ者。
その人の慰められたん」と言っている。物質の満足に五官の表層を快く楽しませていたよ
うな人が、その物質なる富が眼の前から剝落した時に、物質なる肉体があるいは病み、あ
るいは眼の前から姿を没しようとする時に、その人は悲しむのである。悲しむだけ悲しむ
がよい。涙はその人の心の汚れを浄めるであろう。浄まり浄まったとき、本当の世界は物
質の世界でなかったということがわかるのである。浄まり浄まったとき、本当の人間は物
質の肉体ではなかったことを知るのである。「本当の人間」は物質なる肉体が死んだと見え
ているときにも、死んではいないのであって、彼が生きた程度に従って、より自由に生き
通ししていることを知るのである。

 人間は死なない。ことに公のために殉じた者はいっそう高く生きているのである。この
ことについては、「生命の実相」の第九・十巻「霊界と死後の救い」を読んでいただきたい。

 肉体は蒲団の上にいて、誰のためにもならず、かえって人に迷惑をかけつつもついには
滅びるものである。陛下のために、国家のために、全国民のために、何か捧げて死するこ
とができるならば光栄これに過ぐるものはないではないか。

                          谷口雅春著

PS:「トキ様」 へ 「観覧者の皆様」 へ

先月…「歌手…加川良さんの “教訓の歌〜♫”」からも〜〜〜? (一部抜粋)

■□ 〜♫ 悲しい事は 悲しみなさい 気にする事はありません ♫〜
〜♫ あなたの大事な心に 関わるものでは ありません〜♫

このような“歌〜♫”からでも、フト!思うのです…。
やはり〜やはり〜■【 “心”からも問題が〜〜 >< 】


さて!「雅春先生の言葉」からでも、本日の【生命の実相の言葉…】に 〜♫
■【悲しむ事から…次の一歩が始まる事でもあるのですョネ】〜〜私も?かなり長い〜〜〜期間!!
この“悲しむ事の月日〜〜〜を抱き続けたカモしれません。…が?”
これって〜〜〜【執・着・カ・モ】〜〜〜と思いながら??長〜〜く思い続けてしまいました…。そして、
何故!どうして!このようになったのかを〜〜〜最近では、よく考える事が多くなりましたでしょうか?
さて【 先週…パートナーのお父さんがまた“九大病院… 】に診察…それで福岡に来られました。
勿論! “泊まり…”で〜〜〜す。此処で?問題があるのです…。
実は?私達の家は【テレビ…】を置いていません!!従いまして〜〜〜

強制的にパートナーの「お父様」には、【本…】を勧める事になります。前回から〜〜〜
「お気にいりの本…なのですが? バビロンの大富豪の本」を〜〜♫〜〜これを読んでいるところに、
横やり「普及誌…」を渡しますと、これも読んで下さいましたのです。

                              つづく

2673SAKURA:2013/11/20(水) 23:08:56 ID:3/pn4/Pc
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【 転載編…】
>>2608>>2672 投稿の続きです
■□ 今日は、久しぶりに「生命の実相」を“37巻”からの〜〜〜投稿とさせて頂きます。

―――【 生命の実相 37巻  谷口雅春著(日本教文社出版) その② 】―――――――

>>2672投稿の続きです…。

■実は!とても嬉し〜〜〜イ! “言葉…”を頂きましたのです。
それは〜〜〜「思考力が強くなり、更に!視力も強くなった感じがするそうです。」という“コトバ…”です。
先日パートナーのお父さんは地元の“眼科…”に行きまして〜〜ルンルン〜〜
【診察の結果…】かなり〜〜〜“視力…”が戻ったそうです。…が?

■□これも『聖典の本』を読む…【良書の本】を読む事で“パートナーのお父様”の〜〜〜
【 心・の・進・化・の・模・様・が… 】でしょうか?

さて「九大病院…」の診察日…帰宅しまして?食事後なのです。…が?
当日の晩に……私から見ましても“ナンシ−さんのお父様”は、テレビがなく【退・屈…】そうで……
そこで、私はパソコンを開きまして【 Tub… 】にて?何か“リクエスト…”がありますか?
聞きますと、どうも〜〜〜「予科練…特攻隊の歌」を聞きたいとの事で【検・索…】です。

「予科練の歌 〜♫ 」が流れてきます〜〜〜。確か?“ナンシ−さんのお父様”は【海・軍…】
更に【海軍の方達の歌を検・索】しますと、お父様の口から“この人達は”大学…“かなり上の方とか?
そして、戦争が激しくなっていくと…ほとんどの優秀なる若者が?【お国の為…】という事で…
【死の恐怖…】を心に秘めて…【戦地へ…そして…戦死!!】
遠い〜遠い〜遠い〜目を一点に据えて…其処には云いようもない無言の空気が ><

戦火が益々とひどくなっていく最中?当時の“パートナーのお父様”は、まだ!中学生から〜
“海軍…”に入隊したとの事…しかも、その当時の時代の“学校様子…”が【 Tub… 】映像が出てきます。
おじ様の横顔は?いろいろな事を思い出されたのでしょう。
【特・攻・隊・の・友・情・の・場・面…とか?】思い出され…当時の【海軍の母船で…無線連絡(ハム)】
をしていて…暗号を流す事に…当然ですが?“飛行機”で?母船から飛び立つ友人達が〜〜〜果たして!
無事に帰還出来るのか?死との背中合わせ…【お国の為…】この言葉を何度も〜何度も〜

更に【 Tub… 戦艦 武・蔵 】なのですが?本当に【戦・艦・大・和】と同じくらいの大きな船が
映像として出てきます。
■本当に私の「亡き父」「おじ様」の【青・春・は・戦・争・体・験】だけど〜〜〜
其処には〜〜〜【永・遠・な・る・友・情…】が見えましたかと。

■□>>陛下のために、国家のために、全国民のために、何か捧げて死することができるならば光栄
これに過ぐるものはないではないか。<<

この言葉が瞼に浮かびます。戦争の時でも【人間関係の友情…】は、はるかに素晴らしいモノですネ!!
私の「亡き父」は【陸・軍】でした。…が?戦友仲間の集まりの【同窓会…】があり、度々【大・分】へ…

■□戦争が終わり…終戦直後…【帰還した兵士の皆様】
当時の仕事は、ほとんど【第一産業で…石・炭・採・掘・の・仕・事】しかなかったそうで〜〜〜す。
この事は?「亡き父」も同じ事を…言っておりました。

■この件のお話を〜〜〜いつか?「プログ…日本の歴史」として?現在の若者に
少しでも?時代背景を理解して頂く参考になればいいかしら〜〜〜ン!そのように考えまして
投稿記載してみようかと???思った次第なのです。…が?

                                        再合掌

2675SAKURA:2013/11/23(土) 20:27:21 ID:yk2sDVQ.
「トキ様」へ  「観覧者の皆様」へ
こんばんは……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。 『転載・引用』

■□ いのちの環   45    「生長の家普及誌」より……その①

■□━━━【 い・の・ち・の・回・廊 】━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━□■

幸福には制限はない
幸福はどれ程ありすぎても
困ることはない。
自分を限るな。
自分がいくら幸福になっても、
それによって他人の幸福が
減るなどということはない。
幸福は無限である。
それどころか、かえって、
自分が本当に幸福になってこそ、
他人も又幸福になれるのである。
類は類を呼ぶ。
自分がいくら富んだとて、
他人にめいわくはかけぬ。
かえって自分が富めば富む程、
他人も富むのである。
多くは実る林檎の樹は、
自分が多く実れば実るほど、
人類を幸福にするのである。
                    谷口雅春著 「新版  叡智の断片」322ページ
■□━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━□■

PS:「トキ様」 へ「観覧者の皆様」へ 
正直?雅春先生の今回の“コトバ…”最初!読みました時は、一瞬!ムカ〜〜〜ッ!となりました。…が?
今!新たに普及誌を開いて〜読み返しますと〜♫
なるほど!なるほど!そう〜〜〜ネ!と思ってしまいます。(微笑)まず『光・明・』・でも?
まずは、私自身が、太陽の如く【幸せなココロ…】にならなければ出来ない事なのです〜〜〜ョネ!!

                          つづく

2676SAKURA:2013/11/23(土) 20:29:42 ID:yk2sDVQ.
「トキ様」へ  「観覧者の皆様」へ
こんばんは……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。 『転載・引用』

■□ いのちの環   45    「生長の家普及誌」より……その②
>>2675 投稿の続きです

■此処で、私の【 体・験・談 】なのです。…が?
以前「東京のデパートでの販売」をしていました時、当時!売り上げが順調に伸びていました。
その時、反対の売り場の人は、私達に、向かって
「あなた達が全ての客をさらっていくので、こちらに廻ってこないのョ!」と愚痴をこぼしています。
私達はタダ!タダ!にこやかに『いらっしゃいませ〜♫』この言葉から始まります。
目の前のお客様に対しまして…“スマイルマーク”です。そうしますと、必ず!「お客様」が立ち寄って
下さいまして、色々な私どもの「商・品…」に目を向けて、試着していただける状況になります。…が?
時としては、単に試着…だけの事もあります。それでも?気軽に試着出来て良かった〜〜〜ヮ!この様な
気持ちを抱いて頂けれと思ったモノです。その際には、更に、色々な世間話の雑談を聞いて、それに
かなりの時間を要しましても…当然ながら、それでも購買しない事が、度々生じましても
「後で、考え直してきます。」とか??「下のコーナーで見て来ます。」とか??いわれます。
その時!私達は、“得上の笑顔…スマイル!”で「どうぞ、下の階の方へ見に行ってください…」と
気軽に「お客様のココロの負担…」を軽くするような行動を取らせて頂きましたのです…。

しかしながら、その時は売れなくても、後に「ア〜〜〜ッ!楽しかった〜〜〜ヮ」と云った感じの
響がお互いにありますから、また!何かの時にそれこそ『御・縁…』がありましたら〜♫
以心伝心と申しますか?「お客様」も、ほとんど!また“次回…来店”の形となりました。…が?

この様に「強制的な販売…」をしていない私達の経験を踏まえますと、ここの【2チャンネル…】の
投稿者の皆様達と、同様に「相手への気持ちの“やさしさ〜♫”がない場合は、売上!!更に
『生長の家…会員数』は、果たして“何処に行くのでしょうか??”この様に思いました。

やはり、これは【類・の・法・則】に乗っかる事とは、私自信が、如何に大きな波に乗る〜ココロ!
その“心…”とは、誰がみても【あの太陽のようなココロなる事】に、本当の【富…】をゲット出来るのですネ!!
『過去の私…』は、やはり!やはり!それがあったので〜〜〜す!!
まず!!【ココロ…その“…心…”が【類・の・法・則】さらには【無・限・供・給】なのです〜〜〜ョネ!

今日の【女子会 板】の投稿の中に「山本富士子様からの“コトバ…”」
『論・客』と言う言葉を頂き、これって〜〜〜どういう意味かしら〜〜〜ンと!
一瞬!当時の販売の方々の人達と同じ捉え方のレベルに見えました。…が?これも、彼女の同じ仲間の方々
でしたら……同じレベルの捉え方の【類・の・法・則】なのです〜〜〜ョネ!!
本当の【富…】は、誰もが“楽しめる心…”をこの【2チャンネル…にて伝える事】が出来る事でしょうかと??
拝読していて、逆に、私自信の“投稿文章…”を再確認し「ア!ソウダ〜〜〜ヮ!」と共感・思える人は、
私の仲間の方でしょうかと。??

■□この様に『販・売・の・時』と『光・明・化・の・時』も同じように思えて来ますかしら〜〜〜ン!

此処で?話は変わりますが〜〜〜続き投稿として「若い女性の言葉…」を抜粋投稿させて頂きます。
実に!シッカリした御自身の“ポリシー”があり…更には、説得感がありますでしょうかと。(日を改めて)
当に【同・じ・類・の・類・の・法・則】・の皆様方は、お忙しいと思いますが?閲覧下さいませ!!

2677a hope:2013/11/24(日) 20:43:42 ID:/9IAdiFk

▣ 感謝の祈り

感謝は神の波長に最もよくあう心の波長である。
私はまず神に感謝し、父母に感謝し、先生たちに感謝し、兄弟姉妹に感謝し、
友だちに感謝し、いっさいの人と物と事とに感謝するのである。

とくに今私は日本国と天皇の御恩に感謝するのである。

「ジュニア希望の祈り」谷口雅春先生著 (日本教文社 )

2678a hope:2013/11/26(火) 23:05:05 ID:/9IAdiFk

生命の實相 第36巻 幸福生活篇 第三章「無礙の大道」より 抜粋 (p59〜)

(略)第一、この生長の家と申しますのは、皆さんも御存知でありましょうが、一宗一派に執(とら)われた宗教ではないのであります。いわゆる宗派とか、宗門というものに執われないのであります。一宗一派というと、もう囲いをめぐらしているから無礙(むげ)ではありません。そこで生長の家とは何もないのであります。

何かあったら引っかかるが、何もないから引っかかりようがない、だからこれは無礙の大道であります。宗教であるかというと思うと必ずしも宗教ではない。何かあったらいっさいを包むことはできません。「生長の家は仏教か」という人があったら「ハイ、そのようであります」とお答えします。生長の家は「キリスト教か」と言う人があったら「ハイ、そのようです」ともお答えします。

「それでは矛盾しているじゃないか」と言われれば「そのようであります」とお答えします。矛盾を包容するものでないとないと無礙の大道でないのであります。一昨年末、生長の家を教化団体として法人の申請をしようと思いまして文部省の係りの人の内意を伺いますと、生長の家を文部省ではどこの課で取り扱ったらいいのかちょっと見当がつかない。宗教なら宗教局で取り扱われねばならぬし、教化団体なら普通学務局で取り扱わねばならない。

文部省の見解では、生長の家をなんであるかとハッキリ認めるだけの認識ができていないから、せっかく申請書を出しても何局へその申請書が回るか、行き場所がわからないので、も少しはっきりと内容が闡明(せんめい)になってから申請しなければ、せっかくの申請書も行き場に困って戸惑うことになるから、しばらく待ってほしい、というような話であったのであります。
(つづく)

2679a hope:2013/11/27(水) 21:12:36 ID:/9IAdiFk
>>2678つづき)

ともかく、生長の家は正体がわからないものなのです。何か一定の固定したものであったら、それが何であるかということがわかるのですが、生長の家はこれといって一つも固定したものではないのであります。檜町の乃木神社前の生長の家本部建物へ道を聴くためにお集まりになっている人は、毎日三、四百人は集まっておられるのでありますが、その中のある人がある日のこと、女の人でありましたが、こういうことをお尋ねになったことがあります。

「わたしの夫は生長の家というものにあまり興味をもっていません。別に生長の家というものに反対ということもないけれども、それでもあまりわたしが生長の家へ出かけて行くことを喜ばれません。ですから、夫が会社へ出勤せられますと、さっそく夫から自由に解放されたというような気持で道場へ来て先生のお話を伺います。それがいつとなしにまた、夫に漏れると夫の機嫌が悪いのです。そこで先生どうしたらよろしいでしょう。わたしは、どうしても生長の家というものは、ありがたくて離れられないというような気持ちがするのですが、いったいどうしたらよろしいでしょうか」と言ってお訊きになったのであります。

その時にわたしが申し上げた言葉はどうであるかといいますと、「生長の家というのは、この講堂の建物のことを言うのじゃないのですよ。生長の家というのは家庭仲のよい家ということを言うのですよ。生長の家の聖典『生命の實相』の第一巻巻頭にどう書いてあるかといいますと、『汝ら天地一切のものと和解せよ』とこう書いてある。そのとおり天地一切のものと仲良しになったら、そこがそのまま生長の家なんです。

いわんや夫と仲よしにならねば、いくらあなたが生長の家の雑誌を読んでもあなたのいる処(ところ)は生長の家ということはできない。生長の家というのは、こういう講堂であるとか校舎であるとかいうような建物の名前ではないのですよ。本当に大調和な和解した仲よしになった人々の集まっている家ならそこが生長の家ですよ。ですからあなたが自分の家にお帰りになって夫と本当に仲がよくなったらそこが生長の家なのだから、生長の家へ行きたければ自分の家でご主人と仲良くしなさい。それが生長の家に行ったことになる」こういうように申し上げたのであります。
(つづく)

2680a hope:2013/11/27(水) 21:16:55 ID:/9IAdiFk
>>2679つづき)

「生長の家」に凝って家庭が破壊したなどという人がもしあれば、その人は『生命の實相』の第一ページだけすら読んで実行しなかった人だと言わねばなりません。生長の家というものは建物でもなければ、一個人の家でもないのであります。むろん、わたしの家ではありません。生長の家というのは宇宙の普遍内在の実相である。普遍内在の実相というのは、事物の内部にいたるところに満ちている本当の相(すがた)のことであります。

宇宙内在の本当の相(すがた)なるものは生々化育そのものであって、無限に伸びてゆく相をしているのであります。これが生長の家というものであります。ですから「生長の家」とはここに見よ、かしこに見よと言ってはないのであります。たとい『生長の家』の誌友名簿に登録してありましょうとも、真理に随(した)がって生々化育して伸びてゆくところの宇宙内在の相があらわれていなければ、その人は生長の家の人だとは言えないのであります。

だからわれわれは生長の家の道場に行きたいと思えばシッカリと脚下を踏みしめて、自分は生長の家の道場にいるかということを照顧(しょうこ)してみる必要があるのであります。講堂も道場ではありますが、家庭はいっそう「生長の家」の道場であります。いかにこの自分の家庭に円満完全なる生長の家を実現するかが、皆さんに与えられたる公案であります。
(つづく)

2681SAKURA:2013/11/27(水) 23:03:21 ID:.UaJe2uQ
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【 転載編…引用編】
>>2608>>2672>>2673 投稿の続きです
■□ 「生命の実相」を“37巻”からの〜〜〜投稿とさせて頂きます。

―――【 生命の実相 37巻 谷口雅春著(日本教文社出版)】―――――−その①
   二 月 十四 日

■素直に飛びついて来る子供はかわいがられる。素直に舅 姑の懐にとびついて来る
嫁はかわいがられる。素直に先生の懐に飛びついてくる生徒はかわいがらる。夫婦仲
が悪いとか、家庭はおもしろくないとかいう人があるけれども、それは互いに飛びつくよ
うな素直さをなくしたからである。神のみふところに飛びつく者は神に愛される。

                          谷口雅春著

PS:「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
■『素直に飛びつく人』は、一番いいです〜〜〜ョネ!!
【素・直・に・な・れ・る・事】が出来る事は、まず!“環境…”からもあるのでは、ないでしょうか?
それから『夫・婦・問・題』でも、「九州」と「関東」では随分と『夫婦の仲の捉え方』は?違うのでしょうか??

欧州でも、特にフランスでの男性は、女性には“誉め言葉…”が多いとか???
例えば?かなりの【年齢の女性…】でも、その人の魅力引き出す為に〜♫
「此処が素敵だと…」まずは『 賛辞の言葉 』が「男性の社交辞令」だとか?聞いた事があります。…が?

私が、福岡に帰郷しましてから、まず!思った事は【同世代の女性がかな老けてみえて…><】
“ビックリ…”した事があります。
                            つづく

2682SAKURA:2013/11/27(水) 23:06:24 ID:.UaJe2uQ
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【 転載編…引用編】
>>2608>>2672>>2673>>2681  投稿の続きです
■□ 「生命の実相」を“37巻”からの〜〜〜投稿とさせて頂きます。

―――【 生命の実相 37巻 谷口雅春著(日本教文社出版)】―――――−その②

>>2681 投稿の続きです…。
■【 何故?老けるのかを…… 】最近!分かった次第です。…が?

此処「福岡の夫婦の会話」から〜♫〜なのです。…が?
必ず「男性…」は、他の「女性」との【比・較・論】になるのでしょうか??

私達の世代は【日教組の教育…】です。従いまして、人一倍の『負けん気』がありまして、
どうしても、同世代の中では……特に「女性」は【競・争・意・識】がまず!強いですネ!!
例えで申しますと、他の同世代の「女性…」が、若く見えるとします。そうしますと…
「男性陣」は、まず!「言・葉…」から【比・較・論】に入って行きまして【欠点とか?】〜〜〜
いろんな角度での見方から「女性」は素直になるどころではなくなり、一年中『外見への…依存度』が、
本人自身の潜在意識に、奥深く入り込み〜♫ 『奥の細道…』かなり…奥の奥まで……でしょうか?
実に、大変な感じが致しますモノ!最終的には〜〜〜?

「若い?」或いは「老いて?」この【比・較・論】に入りまして【女性として扱われなくなる】のですョネ!!
ですのでかなり、老化現象の方が多くて〜〜〜私達を見ますと、必ず❤『形成病院に直行…』かと。

■その後の【後・遺・症】は???と私は思います。…が? 大丈夫なの〜〜〜><でしょうか?

【外・見・思・考】に走る…【素直に走ると言う事】なのでしょか?けれども〜
【真理・聖典の勉強】さらに【祈り…】はおろそかになるようでは?彼らの【素直な心での行動…】とは?
全て!全て!【物質化した欲求の価値観…結果】に、逆におかれている感じで〜〜〜す!!

【素直になるのは当たり前】で、此処で「舅・姑の問題」は、これは「おしん」の問題で……
その人の【精神修行】になるのでしょう!!

と云う事は・…・現在の私の於かれた【環・境】は、「吸血鬼とその仲間とか?」に、尾行されています。
ので……【素直に彼らを受け入れる気持ち】は飛んで行け〜♫ その気持ちにはならないし、
【素直に相談は〜〜〜出来る事も出来ない!】のでは?更に、今の私は「神との融合…」を深めていく事!
そこから〜〜始まりますでしょう。まずは【祈り…】に徹する事でしょうか??

余談ですが〜〜〜只今!「おたふく風邪」にかかり【祈り…】で何とか?体調が回復出来ているのです。
…が??

■□本当に【素直になれるような環境…】に行きた〜〜〜イ!そこはキット【天・国…】でしょうネ!!

                              再合掌

2683a hope:2013/11/28(木) 22:40:49 ID:/9IAdiFk
>>2680つづき)

その公案を説くために助言となり、導きとなるのは『生命の實相』という本であり、『生長の家』という雑誌でありますが、家庭をいかにして生長の家(生々化育の家)たらしめるかという公案を解くことが面倒くさいというので、家庭を放擲(ほうてき)して教化部の建物ばかりへやってきて「私は生長の家に熱心なのです」と言っても、そういう人は生長の家に熱心なのではありません。そういう人は、家庭を生長の家にするのに不熱心なのです。

家庭が整うて社会が整い、社会が整うて国家が整い、国家が整うて宇宙が整うのであります。整うとは円満完全にいっさいが諧和(かいわ)し、生々化育の普遍内在の実相が、現実界にあらわれてくるということであります。そこで生長の家は、そのように、宇宙の普遍内在の実相であり、一ヵ所の名前ではありませんが、その代り、その内在の生々化育の実践が完全にできる人は何宗教に属しておられてもまた属しておられなくとも、生長の家がそこに顕れたということになります。

この真理を伝える雑誌にわたしは最初『生長の家』という名前をつけましたが、この真理が弘(ひろ)がるにつれ、その出版または講演説法のために講師団のようなものが要るようになりまして、この講師団に教化団体「生長の家」と名づけることになりました。この団体は、宇宙の真理は生々化育の家であるということを人類に弘めて、そして人類全体を光明化するための団体でありまして、これは教化用の団体の名称で、宇宙内在の普遍実相である生長の家とはおのずから別であります。また皆さんの家庭が生々化育の大調和の家という意味での「生長の家」という場合と、教化団体の雑誌を読んでいるという意味での『生長の家』誌友という場合とも別であります。
(つづく)

2684a hope:2013/11/28(木) 22:43:03 ID:/9IAdiFk
>>2683つづき)

そこで冠詞とか形容詞とかをつけないで、単に抽象的に生長の家という場合、それは何処にあるかといいますと、宇宙普遍の原理そのものが生長の家でありまして、その原理を教えられたところの皆さんのお家が、本当にそれを実現した時に、あなたの家庭が生長の家となるわけで、それは普遍の原理が具象化したのであり、真理(コトバ)が肉体となったので、そこにあなたの家が無限に生長し、伸び、繁昌し、幸福になってくるということになるのであります。

その無限に生長し、無限に伸びてゆく宇宙の原理を体験するにはどうしたらいいかといいますと、宇宙の道に乗ればよいのです。そうか、そんなら、その宇宙の道というものに乗りたいから、その宇宙の道というものを見せてほしいと言われる人がありましても、その宇宙の道は「無礙の大道」というものであって、形がないから見せようがない、どこにも障りがないから触れてみようがない、これが生々化育の原理なのであります。

「我」という形がなくなれば衝突もない、争いもない。障りもない。障りがないから本当にわれわれが伸び伸びと伸びる、生々化育するのであります。何かに障りがありますと、われわれは本当に伸びるということができません。無礙になった時にのみ本当に伸び伸びと生長することができるのです。無礙になるとは無我になることです。我がなくなってなんの引っかかりもないようになる道を教えるのが生長の家であります。(略)

以上 謹写終わり

生命の實相 第36巻 幸福生活篇 第三章「無礙の大道」より、一部抜粋
谷口雅春先生著(日本教文社)

2689a hope:2013/11/30(土) 17:18:27 ID:/9IAdiFk

増捕新かな版 詳説 神想観 谷口雅春先生著 (日本教文社)

第五章 神想観と聖典読誦と感謝行並びに愛行P186〜


【神想観と聖典読誦】 神想観の根本として大切なのは聖典を充分お読みになることです。先ず、『生命の實相』を繰返し噛みしめてお読みになり、自分の「生命」の実相(ほんとうのすがた)が物質ではなく、神性であり仏性であることを充分現在意識に理解しておいて神想観しなければなりません。神想観は、「自分の内に神の生命流れ入って、自分の生命となっているのだ。自分の生命と神の生命とは一体である」ということを呼吸(いき)をととのえ、精神を統一して念じて、潜在意識の底の底までも、「我れは神と一体である」という自覚を得させるのでありますが、しかし現在意識は、何と言っても主働者でありまして、現在意識そのものが、「神とは何だ」ということがハッキリ理解されていませんでしたら「神と一体だ」と言っても、一体「何と一体だか」わけがわからないことになります。だからどうしても『生命の實相』を充分味わって読み、「神」というものをよく理解した上で「神と一体だ」と念ずる神想観をしなければなりません。

「神想観」をするということと、『生命の實相』の教えを読み、如来すなわち神の子たる者の生き通しの生命を悟ることは両方から互に相寄って吾々の信念と理解とを深めてくれるのであり、どちらも忽(ゆる)がせにすることはできないのであります。

生長の家は「神想観」」ばかりしていたら好いかというとそうでもない。「神想観は神想観を教える」と同時に、「神想観は日常生活を教える」ので、日常生活の意義が一変するのです。心の姿勢を正しくすれば、身体の姿勢は正しくなり、身体の姿勢が正しくなれば、常住坐作進退(じょうじゅうざさしんたい)、法にかなうことになり、従って実生活も軌道にのり万般の事物順調に行くようになります。しかし山に籠って自分だけ悟る式の神想観ではいけませぬ。これは「人類一体」の実相を如実に生きないことになさるのですからひとりよがりに陥らずに、市井(しせい)に交じって道伝えに努力し、「全人類が未だ悟らないのは私の努力が足りないからだ」と言いえる境地にならなければなりません。そのために人に真理を充分説き得るように真理の書を詳しく広く読むことも必要です。

「生長の家は静座法だ、坐り方だけ教えて貰えばそれでよいのだ」などと安易に理解されないようにすることも必要です。講演のみに偏ってはならないし、同時に神想観だけに偏ってもならないのです。脱線して行く誌友たちは、どちらかに偏りがあり、自分免許で悟ってしまって、「すでに得たり、もう得る処なし」と考えるからで、もう得る処がなければ、与える菩薩行をなすべきなのに、それをわすれ、自己満足した結果でありましょう。

2690a hope:2013/11/30(土) 17:23:37 ID:/9IAdiFk
(>>2689つづき)

【神想観の助業としての感謝行】 神想観をただ精神統一によって摩訶不思議な霊験を得る行法であるとのみお考えになっている方がありますと、躓(つまず)くのでありますから、感謝行というものが伴わねば、観念だけの神想観ではいわゆる野狐禅になってしまって、高慢、忘恩、無恥になって自己を滅ぼしてしまうことになるのであります。だから吾々は神想観の助業として感謝行ということが必要になるのであります。

感謝行と申しますと、常住坐臥常に心に「ありがたい」の念を失わないようにする心の上での行であります。「ありがたい」の反対は不平、不満足、怨み、腹立ち等であります。神想観は仮相を超越して「実相」を観る修行であり、不平不満足「実相」を隠して仮相に捉われる業行でありますから、両者は全く正反対であり、互に一方の効果を打ち消す働きをしていますので、神想観の功徳を完全に得ようとするには、日常生活において、不平不満足の反対、――感謝行を忘れぬようにすることが肝心です。

【神想観と現象処理】 吾々は神想観において、決して現象の不完全さと取組んではならないのである。神想観はただ神のみを思い、神のみを観るのである。それは往相精進(おうそうしょうじん)の行である。それは上に向かって進む。しかし神想観によって得たる真智により、現象界に向下して方便智自在に現象界を処理するのである。

2691a hope:2013/11/30(土) 17:25:31 ID:/9IAdiFk
(>>2690つづき)

【真理を完全に悟るには――生長の家の三行】 「生長の家」の真理を体得するには、神想観や『生長の家』の読誦などという静的工夫の他に、動的の工夫が要るのであります。真理は生命そのものでありますから、そして生命は「動」が本態でありますから、動的の工夫に移って、真理というものは、初めてその潜在していた生命の正体――生かす力の正体をあらわすのであります。

存在(ものそのもの)の実相を完全に自己の心に把(つか)むには、一方に『生長の家』とか『生命の實相』のような真理の経典を読み、真理を正解して邪見を防ぎつつ、一方にその真理を信念にまで高めるために神想観を修し、その真理を愛行によって実践するほかはないのであります。「知」が「信」によって生命を吹き込まれ、更にそれを愛行によって実践するとき真理が生動するものとなるのです。

その時、吾らの心はもはや真理の皮相(ひそう)のみを眺めないで、完全に我が本来の実相の真生命と本当に一体になる。そして吾らは実相の周囲をもはやどうどう廻りしないで現実に実相と重り合う、この時こそ吾等は真理を完全に悟ったと言い得るのであります。

以上 謹写 終わり

感謝 合掌

2692閲覧者99:2013/12/01(日) 10:36:37 ID:SOToXT5M
  晴れときどき競馬とホークス いいちこ様ブログから

真理を知るには

 



 「如何なる言葉も、伝えんとする真理を完全に表現出来ない。 完全なる真理でないものは虚偽である。 人は虚偽の言葉を表現することによって辛うじて自己の伝えんと欲することを表現するのである。 されば言葉は沈黙にまさり、沈黙は言葉にまさるのである。 事物は存在すると同時に存在しない。 有であると同時に無である。 全宇宙にはただ一つのものがある。 それは創造者にして同時に被造物と現れ、心的存在にして物的表現をもち、善であると共に不善である ・・・・・」



 これはエマースンの論文の一節である。 真理を知るためには、文字そのものに捉われず、行間又は字間の間を縫って沈黙の間に鳴るヒビキを聴く事を要するのである。



 釈迦は四十年説法して「一字不説」と云い、禅宗では「言詮不及・不立文字」と云う。 不立文字と云いながら数千数万言を長口舌するもの禅であり、世尊陞坐して一字説かずして、文殊菩薩撃槌して「説法終れり」と云う。 われ既に生命の實相を説いてあますところなしと雖も、いまだ一字も説かず、これから、益々長口舌を揮わんとする所以も爰にあるのである。



 言語は沈黙にまさり、沈黙は言語にまさる。 共に真理にして真理にあらず。 黙して神想観して天地の啓示を受け沈黙のうちに得たる啓示を文章にあらわす。 不言にして多言、多言にして不言。 真理は無にして有、有にして無。 説いて説かず。 聴き方上手読み方上手が必要である。




                谷口雅春師  『生長の家』誌 昭和22年12月号

2693「訊け」管理人:2013/12/04(水) 11:45:44 ID:???


實相研鑽会「妻が夫にハイと言う限界について」
谷口雅春先生御結語より謹写――


◇実相の夫に従う

 梅津さんの言われた、商売の不得手な夫が奥さんに「この商売どうしたらいいのか、お前ひとつ教えてくれ」といわれるのに「私はもうハイの精神で、夫の言うことにばかり従うんだからもう私の意見は言いません」というのは、ハイじゃないと思いますね。夫は「教えてくれ」と言ってるんだから「ハイ」と言って教えたらいいんだろうと思いますがね。これはむしろ夫に対して反抗的に「もう何だって私の意見を言うものか」というような気持になっているのであって、素直に教えないのは本当じゃないと思います。
 夫に素直に従うということは、夫を神としてですね、実相の本当の夫に従うということでなければならないわけで、夫をいかに神として信頼しているか否か、という根本が定まらなければいかんと思うんですよ。その根本が定まらないところに、「夫はときどき間違うものである、夫は時には“泥坊せよ”とも言うものである。言うかもしれんのであるが、それに従ってもいいのであるか」という考えが起る。それは、すでに妻が夫の完全な実相を見ていないことである。だから妻の観る通りに夫が現れるということになって、やはり夫に“迷い”が現れる。そこでその“迷い”(の夫)の言う通りに従ったら、(正しい)夫の言う通りに従っているのでなくて、自分の迷いが夫に映ったその迷いを聴いて従っているのであって、自分で“自分の迷い”に従っているということになるわけです。
 だから先ず根本的に、夫を神の子として尊敬して、夫の実相を喚び出さなければいかんわけです。そしたら夫は悪いことは言わんわけですよ。「おまえ間男せい。わしはお前嫌いになったから、間男せい」なんていったって、ハイと素直に従うて「間男して来ようか」と、そんな馬鹿なことはないのですね。本当の夫はそんなこと言うもんじゃないということを、根本的に実相を拝んで実相の完全さを引出した上で、夫の要求を聴いて素直に従う、というのであれば間違いないと思うわけですよ。


◇夫の実相を喚び出す

 それから“夫が堕胎せよという、いやなら離婚する”というK婦人の話の場合、夫は必ずしも堕胎せよと言ってやしないんです。「堕胎するか離婚するか、どちらか二つのうち一つを選べ」と言っている。そうでしょう。だから、どっちが本当に夫の実相が呼びかけているのか、ということを聴かなくちゃいかんと思うのですよ。
 そうすると、夫の実相は神なんですから、神ならどう言うか。神なら“おろせ”とは言わん。そしたら、神のみに従うということが夫の実相に従うことになるわけだから、「それでは離婚さしていただきます」と素直に言って夫の実相の声に従う。「堕胎いたしません」と言うのも、夫の本当の声に従ったのですよ。その本当の夫の声に従ったから、夫は“もうこの妻を離婚する必要はない”と自然に実相が発露したというわけで、妻が夫の実相を喚び出さなくちゃいかんですよ。実相を喚び出さないで迷いを喚び出して迷いに従っていながら、「夫に素直に従っているんだ」と言うのは、根本的に間違っていると思います。だから、“神に従うことが即ち夫に従うことである”と完全に一致することになるわけであります。(拍手)

2694SAKURA:2013/12/05(木) 22:00:54 ID:3/pn4/Pc
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【 転載編…引用編】
>>2608>>2672>>2673>>2681>>2682 投稿の続きです

■□ 「生命の実相」を“37巻”からの〜〜〜投稿とさせて頂きます。

―――【 生命の実相 37巻 谷口雅春著(日本教文社出版)】―――――−その①
   二 月 十五 日

 どんな美しいバラの花でも、その棘に触ったときにはハッと驚いて捨てられる。人に嫌
われるのは心に棘があるからである。これだけ立派な仕事をしているのに人が自分を遠ざ
けるというような人は、これだけ美しい花が咲いているのになぜ人が自分を捨てるのだろ
うと、みずから疑うバラの花のようなものである。

 とげとげしい眼、とげとげしい言葉、とげとげしい行動、その一つ一つを抑えようとし
てもなかなか直るものではない。まずとげとげしい心を捨てなければならぬ。とげとげし
い心を捨てるには「とげとげしい心」をアリとして抑えてもなかなか直る物ではない。暗
は暗をいくら押さえてみても消えるものではない。暗を消すには光を持ってくるにかぎる。
とげとげしい心が自分にあると気づいたら、その反対を持って来るのである。「自分は優
しい優しい人間であって、とげとげしいところはちょっともない」と、その反対の念を自
分自身にいって聞かせればよいのである。

                             つづく

PS: 「トキ様」 へ 「観覧者の皆様」 へ
■此処昨今は、私もいい気持ちになる事が〜〜〜ネガティブ感の一日が多いのです。そんな時は?やはり!
心がすさんでしまいます〜〜〜ョネ!あまり“ポジティブ=良い事”が考えれない感じになった現実は
もしかしますと?私自身の“心が塞がった感じ…”なのでしょうか??

■「とげとげしい……心」アリ〜♫   う・ふ・ふ

そん時には、やはり【神・想・観】をしてみるとか?【イメージ・トレーニング】とか?してみますと
心が安らぎ…ますから、一番いい事かと思うのです〜〜〜ョネ!
「心の難…」が来れば〜〜〜前以上に【精神の修行…】をして行く事でしょうか??

■■「心の光・・」を見つけるには〜〜〜やはり【神・想・観】が一番おススメで〜〜〜す!!

「トキ様」は?そう〜〜〜思いになりませんでしょうか?


再合掌

2695a hope:2013/12/08(日) 13:45:50 ID:/9IAdiFk

「生命の實相」第39巻 佛教篇 P20 9行目〜

…釈迦が弟子のところへ行かれたら弟子が熱病を患っていた。そこで釈迦は、お前にかつて教えてやったところの悟りに至る七覚支(かくし)というものをもう一度暗誦してみよ、こうその病弟子に言われた。弟子の比丘(びく)はそれを再び暗誦してみたらたちまち病気が治ったということが『阿含経』(あごんきょう)に見えている。

これを釈迦が神通力に秀でておいでになったのだと、こういうふうに考えるのは必ずしもまちがいでありますまいが、実はその比丘が病気になっていたのは、それは今まで悟りに至る七つの道を忘れておったからなのです。ところが釈迦がもう一度それを思い出して暗誦してみよ、こう言われて、その弟子が暗誦してみると、病気が治った。

これは生長の家で「『生命の實相』を読みなさい」と言うのと同じであります。比丘に対して、「暗誦してみよ、もう一遍口に出して言ってみよ」と言われると、弟子はすぐ謂えたから記憶にも確かに残っていたにちがいないのですが、それが明瞭(はっきり)と意識の上に出て来なかったために迷って病気になっていたのであります。

それで真理の書物はそれをお読みになって、その真理がよく解ったとしましても、それをもう一つ言葉に出して復誦するというところに、そこに本当の言葉の力というものが出て来るのであります。これが真言(しんごん)の力であり、あるいはお題目の力であり、阿弥陀仏の名号(みょうごう)の力であり、写経の力であり、言葉の力であり、言葉によって自己に内在する仏を招(よ)び出すということになるのであります。…

(途中もとても重要な内容であると感じていますが、中略させていただきます。)

P 24 8行目〜
…それでわたしは、「何よりもまず『生命の實相』をお読みなさい。再読または再読飽くまで真理に徹してください」とこう申すのであります。八回であれ、十回であれ、反復熟読してくださいましたならばおのずから悟るところがあり、その心境に従って病気その他いっさいの現象的不幸も自然自消(しぜんじしょう)することになるのであります。要するに現象界は遷(うつ)り変わる波の相(すがた)でありますから、悟りによって善き波を起こすことが必要になるのであります。…

以上 謹写 終わり

感謝 合掌

2696a hope:2013/12/08(日) 13:50:13 ID:/9IAdiFk

>>2695 a hope所感)

谷口雅春先生は、聖典の中で、

<<「何よりもまず『生命の實相』をお読みなさい。再読または再読飽くまで真理に徹してください」とこう申すのであります。八回であれ、十回であれ、反復熟読してくださいましたならばおのずから悟るところがあり、その心境に従って病気その他いっさいの現象的不幸も自然自消(しぜんじしょう)することになるのであります。要するに現象界は遷(うつ)り変わる波の相(すがた)でありますから、悟りによって善き波を起こすことが必要になるのであります。>>

と、こんなにハッキリと、そして強い口調で「聖典『生命の實相』を読みなさい」とご教示くださっています。
そして、きっと雅春先生の直弟子と言われる講師の先生方はそのご著書や、わたしが講演会等のテープを拝聴する限り、この雅春先生のご教示を硬く守られていたのではないかと拝察できます。
そして、その「悟り」によって、現象界にも数々の奇跡(人類光明化)が起こっていたのでしょうね。

「『生命の實相』拝読による悟り」これこそが、「生長の家出現の使命」を果たすために必要な最も基本的で、最も重要なことであるとわたしは確信しました。

「生長の家」にとって、その「悟り」なくしては、「日本国実相顕現」も、「世界平和」も『絵に描いた餅』となってしまう気がします。

2697流氷:2013/12/11(水) 13:23:22 ID:mEYFfSdA

『實相研鑽』第二集http://blog.zaq.ne.jp/sinseityounoierengou/

2698a hope:2013/12/12(木) 08:56:13 ID:/9IAdiFk
>>2696訂正

きっと雅春先生の直弟子と言われる講師の先生方は【そのご著書や、わたしが講演会等のテープを拝聴する限り、】この雅春先生のご教示を硬く守られていたのではないかと拝察できます。

きっと雅春先生の直弟子と言われる講師の先生方は、【わたしがそのご著書や講演会等のテープを拝読したり拝聴したりする限り、】この雅春先生のご教示を硬く守られていたのではないかと拝察できます。

2699a hope:2013/12/12(木) 08:57:45 ID:/9IAdiFk

生命の實相 第35巻 下化衆生篇 p70

たのしく生きるのが神の道である。
神は「生かす力」であるから生かさない神は神の道ではない。
憂愁にとざされている心は生命を生かさないから神が遠ざかった心である。
自分も生かし他も生かす楽しい心が神心(かみこころ)である。
人は神の子であるから楽しいのが本来である。
楽しくないのは「迷い」である。
その「迷い」からいろいろな不幸が生まれてくるのである。
「迷い」を覚ませよ。

( a hope より)
このお言葉は、大熊先生のブログでも紹介されています。
大熊先生のブログは、拝見すると元気になりますね!

http://blogs.yahoo.co.jp/panda41415151

それではみなさま、今日も元気に素晴らしい一日をお過ごしください!

2700a hope:2013/12/13(金) 09:23:54 ID:/9IAdiFk

頭注版 生命の實相 第35巻 下化衆生篇 p71 (日本教文社)

『生命の實相』を読んでいてある瞬間に達すれば必ず真理の光がたましいの中へ射し込んでくるのである。
その光は太陽の光よりもなお明るい光である。
自分の身体(からだ)が透明になったような感じがする。
自己の生命が無限生命の光線の中につつまれる。
その無限の光線の中に溶け込みつつ燦然として輝いている生き通しの生命こそわが生命であることが悟られる。
これこそ自分の本当の生命であったのだ――今生きつつある地上の生命の小さきことよ。
それはただ自分の本当の生命の輝きが、迷いの雲間を洩れて、地上に記(しる)した小さな光の点々にすぎなかったのだ。
迷いの雲間は裂ける。
本当の自分は輝き出でる。
地上の晴天の日の太陽が照らすごとく、本当の自分は無限の輝きを放って地上の生活を照のである。

2701a hope:2013/12/13(金) 09:29:15 ID:/9IAdiFk
>>2700 訂正 最後の行

地上の生活を【照】のである。→ 地上の生活を【照らす】のである。

2702神の子さん:2013/12/13(金) 18:55:10 ID:thJx..Ls

  聖なる使命を与えられて 『生命の實相』頭注版 1巻より
  http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&amp;mode=res&amp;log=112

2703a hope:2013/12/15(日) 12:37:48 ID:/9IAdiFk

頭注版 生命の實相 第35巻 下化衆生篇 p68 (日本教文社)

第三章 世に勝つ原理(より抜粋)

    ○
神の絶対無限力を信じないものは、神を瀆(けが)すものである。
神の絶対無限力を瀆す、すなわち認めないということがすべての罪のうち最大なる罪であることは、イエス自身も「誠に汝らに告ぐ、人の子らの凡ての罪と、けがす瀆(けがし)とは赦されん。然(され)ど聖霊をけがす者は、永遠(とこしえ)に赦されず、永遠の罪に定められるべし」(「マルコ伝」第三章二八―二九)と言っている。

「聖霊」とは聖書のなかでは、神と本来一体なるところの「神の分霊(わけだま)」のことをいうのである。およそわれらが生きているのはこの聖霊を受けているからである。聖霊こそわが本体であり、「真の人間」であり、「本当の自分」であり、「神の子なる自分」なのである。「人 間 は 神 の 子 で は な い」 と か 、「神 の 子 で も 病 気 に か か る」 な ど と い う の は、こ の 「聖 霊」 を 瀆 す 罪 で あ っ て 「 永 遠 に 赦 さ れ ず 、 永 遠 の 罪 に 定 め ら れ る 」 と キ リ ス ト 自 身 が 宣 言 し て い る 罪  で あ る 。ところがキリスト教徒と自称しているところの人々の多くが、神の霊の宿れる人間を「神の子」と呼ばず、この「聖霊を瀆す罪」を犯しているということはなんと驚くべきことであろう。
(つづく)

2704a hope:2013/12/15(日) 12:40:22 ID:/9IAdiFk
>>2703つづき)

だから、敬虔なクリスチャンだと自身も認め、人も許しているような人の霊魂を霊媒に招霊(しょうれい)してたずねてみると「自分はまだ暗いところにいる」とか、「まだ病苦を持続して苦しみ続けている」とかいうような例が大変多いのは当然なことである。それはイエスの教えが悪いのではない。イエスの教えの真義を誤解しているキリスト教徒自身が悪いのである。その名称はキリスト教徒でも、キリストが第一にして最大なる罪――永遠に赦されない罪だと宣言している「聖霊を瀆す罪」平然として犯している反クリスチャンでありながら、みずからキリスト教徒と誣称(ふしょう)しているのであるからすざましいものである。

何故「すべての罪とすべてのけがす罪とは赦されても、聖霊を瀆す罪は永遠に赦されない」とイエスは宣言せられたのであろうか。――それは一つ一つの一局部的な行ないや考え方にまちがいがあっても、根本的に「人間は神の子である」との大真理を悟っていたならば、その人は「久遠生命」の本来相を通してすでに救われているのであるからである。

ところが聖霊を瀆す罪――すなわち「人間に宿る神性――神の子であるとの本来の資格」を押し込め認めない罪(神性隠蔽)を犯さば一つ一つの局部的な善行をいくら積んでいってもそれは一生涯毎日毎日一善を積み重ねていっても、百年で三万六千五百遍の善しか積み重ならない。その百倍の善を重なていっても、三百六十万の善しか積み重ならない。結局神――すなわち無限の善には永遠に到達しないことになるのである。

以上 謹写 終わり

2705a hope:2013/12/15(日) 12:42:51 ID:/9IAdiFk

(a hope所感)

文中に、『根本的に「人間は神の子である」との大真理を悟っていたならば、
その人は「久遠生命」の本来相を通してすでに救われているのであるからである。』
とありますが、
この大真理を悟らせるために、谷口雅春先生がわたしたち「生長の家」信徒に残して下さったのが、
聖典「生命の實相」なのだと思うのです。
ですから、誰でも、聖典「生命の實相」を真剣に拝読すれば必ず大真理を悟れて、
必ず救われると思うのです。
だって、そう聖典「生命の實相」に書いてあるのです。

これはわたしの個人的な意見ですが、現在の「生長の家」はこの「生命の實相」の文書伝道を忘れ、
それ以外の練成会や講習会等、または「生命の實相」以外の「生長の家」の書籍等を中心にしての伝道がメインになってしまっているような気がします。
わたしは、そこに「生長の家」の混乱の原因があるのだと思っています。
(この「生長の家」という意味は、教団のことでも、他の「生長の家」関係の団体さまのことでもありません。
「生長の家」の教えを信仰する信徒一人一人という意味で使わせていただきました)

わたしは自分自身が「反生長の家信徒でありながら、みずから生長の家の信徒であると誣称(ふしょう)している」
というような悲惨なことにならないために、これからも真剣に「生命の實相」を拝読しつづけ、
「人間は神の子である」の大真理をさとる努力をしたいと思っています。

※誣称(ふしょう)…誣(いつわ)って称(とな)える。(頭注より)

2706SAKURA:2013/12/17(火) 19:03:48 ID:d1sbFPns
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【 転載編…引用編】
>>2608>>2672>>2673>>2681>>2682>>2694 投稿の続きです

■□ 「生命の実相」を“37巻”からの〜〜〜投稿とさせて頂きます。

―――【 生命の実相 37巻 谷口雅春著(日本教文社出版)】―――――−その①

   二 月 十六 日

 常に新しくなるものは老いない。老いるとは常に新しくなれないことの別名である。人
体の細胞を切り離して培養し、その培養基を常に新しく取り替えれば、結局人間の細胞
は永遠に分裂増殖して死なないものであることを生物学上の実験によって確かめられた
という。人間の肉体が老いて衰え死するということは、細胞が複雑に組み合っているため
に、常に新しくなれないからであって、必ずしも人間が老衰死するということが運命では
ないのである。ただ老衰死の原因は常にわれらが新しくなれないということが原因である。

 人間の心もそのとおりである。常に毎日新しくなれないものは死につつあるものである。
陳びつつあるものである。

 老人が陳腐であるといって人から嫌われるのは、ただ過去の惰力で生きており、過去の
惰力でものを考え、過去の惰力で行為をし、過去の惰力で若い人を推し測るからである。

 過去の惰力で行為されたものは、すでに形骸であって生命はない。これを称して型には
まるというのである。型にはまっているものは形は立派に見えても、もう屍である。

                            つづく

2707SAKURA:2013/12/17(火) 19:06:54 ID:d1sbFPns
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【 転載編…引用編】
>>2608>>2672>>2673>>2681>>2682>>2694>>2706 投稿の続きです

■□ 「生命の実相」を“37巻”からの〜〜〜投稿とさせて頂きます。
―――【 生命の実相 37巻 谷口雅春著(日本教文社出版)】―――――−その②

>>2706 その①の投稿の続きです。…

PS:「トキ様」 へ   「観覧者の皆様」 へ
この様に本当に【人・生・は・進・歩・向・上・の・魂を・磨・く・事】しょうか??しかし、
この“言葉…”を誤解されている方が、此の現状では?実に多いのでしょうかと??

「雅春先生の本」を読誦していますのに〜〜〜>< 【分・派・の・方・達】は何一つ??
「先生の言葉」の意味を理解せずに??自分流?都合のいい“解・釈・論”ですから??
久しぶりに?皆様の投稿を閲覧させて頂きますと…正直!理解の捉え方が、本当に都合のいい“解・釈・論”
での展開でしょうか??そのように思えてなりません。

閲覧していても〜〜〜相変わらずの【繰り返し論…のコメント】何一つ、進歩が見えずに?ただ!唯!
スル−!!スル−!!ばかりでは!!この様に、私一個人はみえてしまうのです。…が?
果たして、閲覧者の皆様(コメンタ−以外の方達)の中には、私と同様な…そのような見方をなされて
いる方も結構多いように思う次第なのです。…が?【 人それ…ぞれ〜♫】??

さて【老いる…】といいますのは、まず!【心が前に向いてなく遠くにボンヤリ人生の交差ばかりの
それは、現在存在するモノが見えない実現…又!出来ない悩み心の向上心の喪失でしょうかと??

■□━━━━『トーマス・カーライル』━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━□

「我々にとって大切なことは、遠くにぼんやりと存在するモノに目をやることではなく、
手近にはっきりと存在することを実行することだ」

■□━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━□

これを読んで参りますと『甘・露・の・法・雨』にも・・・
「外にこれを追い求むる者は夢を追いて走る者にして 永遠に神の国を得ることを能わず。」

これと同じように、先ばかり〜遠く!遠く!をボンヤリ……見る人は、いつまでも『神・の・国』に入れも
せずに、さらには、『老・人・化』していくのです〜〜〜ョネ!!と…私はこの頃思えます。…が?
『理・想…』は、確かにいいのでしょう。…が?

■【理・想・と・夢・は・違・い・ま・す…】理想は?あこがれで終わります。…が?〜〜〜〜〜♫
『夢…青写真』が出来上がりましたら、まず!【出来る事からフルに起動する事…】でしょうか??

極めて“平・凡”でも??日々を活かす事は【夢の実現…】に到達する事ですし?
しかも〜〜【前・向・き】に向上していく過程があり、それが【精・神・の・向・上】にも繋がる…
最終的には、見受けられていく事でしょうか??

■□日々を活かす事は、「一日の区切り…」は【成・功・の・鍵…】でもあり?
【老人化しない法則…】でもあるのではと?この頃ではつくづく思います。

■【人間は魂の向上を目指す事!!】そして【日々を活かすのが人間!!】と思います…。
トキ様?閲覧の皆様?は〜〜〜どのように思われますでしょうか??
                                  再合掌

2708エマソンの光明思想と生長の家 ①:2013/12/18(水) 22:18:50 ID:Wf383SKY
理想世界誌昭和四十七年十月号
輪読のための青 年法語

■エマソンの光明思想と生長の家

谷口雅春先生

■一日のことば 本当の人間は肉体人間ではな い

「わたくしたちが通常「人間」と呼ぶ者--つま り食べたり、飲んだり、栽培をしたり、取引の 勘定をしたりしている人間は、わたくしたちが 自覚しているようには、人間そものものを表さ ず、人間を歪めて表現しているのである。その ような肉体人間を私どもは尊敬しない。しかし ながらその肉体人間が魂の器官となって、その 行為を通して、内なる魂を表現せしめるならば 、わたしはその前に跪かずにはいられないので ある」 「What we commonly call man, the eating, dri nking, planting, counting man, does not, as we know him, represent himself, but misrep resents himself.

Him we do not respect, but the soul, whose or gan he is, would he let it appear through his action, would make our knees bend. 」

(これはエマソンの「The Over Soul」という エッセイの一節である。このエッセイの完訳は 日本教文社発行の「エマソン選集」第二巻「精 神について」の篇に出ている。なかなか丹念な 訳であるから読まれたい。しかしその訳の中で 「精神」と訳出されている原語はSoulであるか ら、そのつもりで読まれないと意味が混同され るおそれがある。上記の訳は一層わかり易くSo ul を「魂」又は「内なる魂」と訳したのである 。)

明らかにエマソンは「肉体人間」と「本当の人 間」とを区別して、飲んだり食ったり田を耕し たり商売勘定をしている「肉体人間」を、その まま「本当の人間」だと思ったら間違いである ということを書いているのである。それだから 、私はエマソンを近代における光明思想の幽祖 であるといっているのである。しかし釈尊は2 千数百年前の古代においてそれを説いていられ るのである。

2709トキ:2013/12/18(水) 22:34:33 ID:0/huqta2
>>2707

SAKURA様

 難しい問題ですが、今のような価値観が多様化した時代では、生長の家の信徒が増えると、
一つにまとめる事はかなり難しいとは感じます。政治の世界では、小さな政府か大きな政府
か、という議論がありますが、教団が対社会的な動きをする場合、利益や意見が対立する問題
にはあまり教団自身が乗り出すのが難しくなると思います。

 そうすると、もっと地味な内容の動き、具体的に言えば、生活に密着した信仰の具体化が大事
になるかと思います。

 個人としての信仰者が目指すのは、そういう点になるような気がします。

2710エマソンの光明思想と生長の家②:2013/12/19(木) 18:47:11 ID:bdCntvMw
理想世界誌昭和四十七年十月号

【輪読のための青 年法語】

◆エマソンの光明思想と生長の家

谷口雅春先生

■二日のことば

涅槃経にあらわれたる人間の実 相

涅槃経には釈尊が臨終の直前に見舞に来られ たところの人たちに対して、真理の説法をせら れた時の光景と、釈尊が直接彼らに ”真理” を伝授せられた説法とが載せられているので ある。

その涅槃経の ”金剛身品” に、金剛不壊 の実相身(本当の人間の身)のことが説かれて いる。釈尊と迦葉(かしょう)菩薩との対話の 一節を次に引用する。

「爾(そ)の時、世尊、後(また)、迦葉に告 げたまわく、”善男子、如来身とは是常住身、 不可壊身(ふかえしん)、金剛身、非雑食身( ひぞうじきしん)、即ち是れ法身(ほっしん) なり。”」

迦葉菩薩、仏に白(もう)して言(もう)さ く、

”世尊、仏の説き給う所の如き等の身を、われ 悉く見ず。唯、無常、破壊(はえ)、塵土(じ んど)、雑食(ぞうじき)の身をのみ見る。何 故かと言えば、如来は、今当(まさ)に涅槃に 入ろうとしていられるからである。”

迦葉菩薩の指摘したところの ”無常” と いうのは、釈尊の説かれる”常住身”に対して いわれた語であり、”破壊(はえ)”というの は、釈尊の所謂る ”不可壊身(ふかえしん) ” に対した語であり、”塵土(じんど)” というのは『創世記』にアダムとイブが ”土 の塵(ちり)” でつくられたとあるーー即ち 結局、滅して土に帰る唯物論的人間観の表現で あるのである。しかし迦葉菩薩が、今まさに涅 槃に入り、滅して土に帰ると、肉眼で見たとこ ろの人間は、エマソンに言わせると「人間その ものを表わさず、人間を歪めて表わしているの である。」

だから釈尊は迦葉に対して反論して次の如く 言っていられるのである。

「汝、いま、如来の身は ”不堅(ふけん)” である ”可壊(かえ)” であって、凡夫 (注・肉体人間)の身の如しと考えているが、 そんな考えを起こしてはならない。善男子よ、 汝、今当に知るべし、如来の身は無量億劫堅牢 (むりょうおくこうけんろう)にして壊(くだ)け がたいものである。如来の身は、現象界の人間 や天人のもつ身ではない。恐怖によって病気を 起こすような身ではない。雑食で栄養を摂らな かったら死ぬような身ではない。如来の身は ”非身是身(ひしんぜしん)” だ(この身に 非らざる身が是こそ実相の身なのだ)それは不 生不滅だ。習わずして知り、修めずして一切に 通達して残すところなく、有限の身ではなく無 量無辺にして限りがないから、去って去ること なく、来たって来ることなく、去来を超えてい るから足跡もない。鳥の飛んだ後の青空にその 翼の跡をのこさない如く、”知” という ” 知” はなく、”形” という形はない。” 知” があって ”形” を把(つか)めば 汚れるということもあろうが、”知” がなく 、”形” がなく、青空そのもののように畢竟 清浄なのが如来の身だ・・・・・・・」

まだまだ涅槃経には実相身の清浄無碍広大無 辺なることがかいてあるが、これだけ引用した だけでも充分理解できると思う。併し頭脳で理 解できるだけではなく、それを生命と生命とが 触れ、本質と本質が触れ、実相と実相とが相触 れて、直接的に全的に自覚されなければ、本当 の悟りではないのである。

>>2708
エマソンの光明思想と生長の家①

2711エマソンの光明思想と生長の家③:2013/12/20(金) 21:49:30 ID:iqd0ui12
理想世界誌昭和四十七年十月号

【輪読のための青 年法語】

◆エマソンの光明思想と生長の家

谷口雅春先生

■ 三日のことば

人間の生命の本質について

エマソンに於いては、Soul という語を、生 命の奥の奥にある人間の ”本質” 又は ” 魂” という意味で使っているのである。これ を ”精神” と訳しても間違いではない。精 神という語は「精髄であるところの神(たまし い)」という意味をもっているからである。併 し、現代語として ”精神” という語が使わ れる場合には「あいつの精神はくさっている」 とか「あいつの精神はどうかしている」「精神 の退廃」とかいう風に、脳髄の作用として出て 来る一種の ”心の働き” を ”精神” と いう通俗語で表現することが多いのである。エ マソンのSoulという語を ”精神” と和訳さ れている場合、その”精神”という語をそんな ”脳髄のはたらきである精神” というよう な通俗な意味にとってはならないのである。そ れは ”人間の本質である魂” という意義に 解しなければならないのである。

そういう意味に解してエマソンのエッセイを 入江勇起男氏の訳を読んで行けば、エマソンの 真意味が光って来るのである。すなわち、

「人間の生命の本質である魂は一つの器官では なく、あらゆる器官を生かし働かせるものであ り、記憶、判断、比較の力のような一機能では なくて、これらを手足のように使うもの、一能 力ではなくて一つの光であり、知力または意志 ではなくて知力、意志の主であり、それらを含 む私どもの存在の背景をなすものである。つま り、Soul(魂)は何物にも属さない、また何物 にも所有されることのあり得ない無際限のもの である」というのである。

All goes to show that the soul in man is not an organ, but animates and exercises all the organs; is not a function, like t he power of memory, of calculation, of comparison, but uses these as h ands and feet; is not a faculty, but a light; is not the intellect or the will, but t he master of the intellect and the will; is the background of our being, in which they lie,--an immensity not possessed and that cannot be possessed.

このエマソンの人間のSoulの無際限を説くと ころは、涅槃経の「それは不生不滅だ、習わず して知り、修めずして一切に通達し、有限の身 ではなく、無量無辺にして限りがない」と説か れているのと同じ意義なのである。

>>2710

エマソンの光明思想と生長の家②

2712うのはな:2013/12/21(土) 04:20:11 ID:EEajPWOc
     『悟』への近道

 併しこの有難い法悦の境に達するにはどうしたら好いかこの有難い悟を得るにはどうしたら好いか、
これが問題なのであります。昔から悟を開いたと云ふ人はそう沢山にはいないのであります。
釈迦、キリスト以来名僧知識が出られましたけれども、それは数えるほどしか出ていないのであります。

 此のように悟を開くと云うことは、なまやさしいことではないのであります。生長の家では割合にやさしく悟が
開けるように工夫されているのであります。そこが今までの宗教と異うところであります。
『悟』の中味に違いはないのでありますけれども、導き方が大変やさしく出来ているのであります。
それは近道から直ぐ『悟』の世界へぶつ衝かるようになっているのであります。

 その近道はどんな近道かと申しますと、『物質はない』『肉体はない』と云う近道であります。
今まで多くの教祖がお苦しみになって道を開かれた、お釈迦様が悟の道をお開きになったのにも大変な
苦労がありましたが、それは『肉体はない』と云う近道をお通りにならなかったからであります。

 この肉体と云うものをあるとお認めになって、この『肉体』をどう始末したらよかろうかと云うので、
肉体を山へ籠らせ足り、飯も食はずに頑張ったりして苦行をして来られたのであります。肉体をアルとして取扱うから、
どうも、此の肉体が嵩張って其の取扱方が不便になるのであります。この肉体と云うものがあるとすると、肉体と云う奴はほかの
『肉体』を殺して殺生をして生きている、肉体と云うものがあるので人と人との争い、恨み、色々な地獄の真似のようなことをやっている。
そこでこの肉体と云う奴の始末をつけなければならない。

 その始末をつけるのには何うしよう?こう思って多くの教祖は苦しまれたのでありますが、生長の家では『肉体なし、物質なし』と、此の始末にあまる
『肉体』をば、言葉の力と、思いを変えることによって始末してしまったのであります。
真理は簡単であります。理屈を言えば沢山言えますし、又、『生命の實相』にはその疑問にお答えする為に八方から詳しい理論が書いてありますけれども、それは
理屈を言う人に対しては、理屈を以て相対する方便説法であって、要するにそれは始末に終えない『肉体』の物質性を打破って自由自在の境地に入れるように工夫がしてあるのであります。

 まあ考えて御覧なさい。『此の肉体はアルように見えてもナイのだ、本当の自分は神のいのちだ』
と─斯う気がついたときのスガスガしさ、もう何も食べなければならないとも心配しないし、働き過ぎたり、勉強し過ぎたと思って身体が悪くなると云う心配もない。活動写真がフィルムの影で
あるのと同じように、身体は心に『思う通り』の影なのだとわかりますから、そこで心配も取越苦労もなくなり、心が朗らかになるから、血液循環もよくなるのであります。

 『愛と光との生活』谷口雅春先生著  ※原文は旧漢字、旧仮名遣い

2713エマソンの光明思想と生長の家④:2013/12/22(日) 14:54:51 ID:bAijypnk
理想世界誌昭和四十七年十月号

【輪読のための青 年法語】

■エマソンの光明思想と生長の家

谷口雅春先生

■四日のことば**

超越的自己を自覚するために

わたし達は「本当の自分」ではないところの単なる仮装の存在である肉体にばかり気をとられ、肉体が生活している「物質と見えている環境」の有様にのみ心を集中して生活している時には、この内在の「本当の自分」――――Soul(魂)なる自分には気がつかないのである。

しかし或る瞬間―――それは座禅や鎮魂や神想観や瞑想や―――兎も角、外界に心を振り向けずに自分の内的生命にのみひたすら心を振り向けた機会に、自己の内的生命の自覚が顕在になって来る。そのとき、イ エスが「われはアブラハムの生まれぬ前 (さき)より在るものなり」と自覚され た時のような、肉体の年齢や時間を超越 して実在するところの自分を自覚するの であるーー諸君もそれを自覚するときが 来るのだーーそのためには毎日怠らずに 神想観を実修するがよい。

【参考資料】

自分の超越的自己を見出だそうとする必要はない。どちらにしてもそんなことは不可能である。自分の眼は、眼自体を見ることができるだろうか?
必要とされているのは、自分の記憶、心、身体、感情、思考との偽りの同一化を、執拗に脱落させていくことだけである。
この脱落には超人的な努力や理論的理解は不要である。
第一に必要とされているのは―――見ることができるものは見る者ではありえない、という―――ただひとつの理解だけである。
自分自身について知っていることは、すべて自分自身でも、知る者でもない。
内なる自己性は知覚することも定義することもできず、いかなる種類の対象にもなりえないものである。
束縛とは見る者とその対象となるあらゆる物事のまちがった同一化にすぎない。
解放は、このまちがいの単純な逆転からはじまるのである
・・・・・・・・
これは単純ではあるが、骨の折れる作業である。だが、その結果は、人生における解放意外の何ものでもない。
超越的自己はあらゆる伝統では聖なる耀きとされているからである。
原則的には自分の超越的自己は神(あなたが神をどう認識しようと)と同一の性質のものである。
究極的にはただ神のみが、われわれの眼をとおしてながめ、耳で聞き、口で話をするからである。

これこそがユングのメッセージであり、アメリカ原住民、タオイスト、ヒンドゥー教、イスラム教、仏教、キリスト教の聖者のメッセージでもある―――自分の魂の根底には人類自体の魂がある。

それは束縛から解放へ、恍惚から目覚めへ、時から永遠へ、死から不死へと導いてくれる聖なる超越的魂である。

ケンウィルバー著「無境界」より

>>2711
エマソンの光明思想と生長の家③

2714a hope:2013/12/22(日) 19:09:49 ID:/9IAdiFk

頭注版 生命の實相 第36巻 幸福生活篇 「第二章 ありのままの生活 四」より抜粋
 p47 2行目〜(日本教文社)

・・・人格の立派な人のなかには他(ひと)の世話になるということを非常にいやがって、自分でなるべく自分のことをしたいというような考えを持つ人がたくさんあります。「生長の家」の教えにも「自分ひとりで立て」という意味のことが書いてあります。

たとえば中風の人が杖に縋(すが)らなければ歩けないと信じて杖に縋っている。そのためにいつまでも中風がなおらない。そんなときに、すべて他に頼るような頼り心というものは悪いものであって、一人で立つようにしなければならない、生命は一人で立つのが本当であるから一人で立つようにしなければいけない、依頼心を起こすのはいけないと教えてあり、本当にその教えを信じて「ひとりで立つ」という心を素直に起こした人はその人の中風は治ってしまうのであります。

ところがそれも一つの※対機説法でありまして、依頼心ばかり起こしている人には依頼心を起こすのはいけないと説くのであります。みずから立つ力があることを忘れすべてに頼り、薬に頼り、あるいは他(ひと)の力に頼り、あるいは寄付合力に頼るような、そういうさもしい頼り心を持っている人には、そう説くことが相手を生かすことになるのであります。

しかしそれは対機説法であって、必ずしもあらゆる場合にあてはめてそれが真理だとは言えないのであります。宇宙は一体ですから本当は他給自足かつ自給他足であるのが本当なのです。頼り心を持つ人は他給自足とずるいことばかりを考えて自給他足を考えない。そこで「ひとりで立て」というのはそんな人に対する「喝(かつ)」なのであります。「ひとりで立て」といっても人間は決してひとりで生きることができないのです。

わしはだれにも頼らぬといっても、自分で稲を植えて、自分で収穫して、自分で蚕を飼って、自分で糸を紡いで、自分で織物をこしらえて、自分で染物をして、自分で縫ってと、そういうぐあいにひとりの力ではとうていそれはできないのです。そこで本当の真理はどうであるかといいますと自他一体が本当の真理であります。自給他足かつ他給自足ということになるのであります。このどちらが欠けてもいけないのです。
(つづく)

2715a hope:2013/12/22(日) 19:10:43 ID:/9IAdiFk
>>2714つづき)

いつも薬に頼り、物に頼り、人様のやっかいになることばかり考えている人には「自ら立て」「物質はない」「いのちはそれ自身で立つ」と申します。そこを『生命の實相』を読む人は、よく考えて読まなければならないのです。

真理は目に見えないから、現実の言葉で言い表そうとすると対機説法になるのです。現象はすべて相対的にあらわれているから対機説法ということができます。対機説法でないそのままの真理を言えと言われたら、天地とともに黙っているほかはないのです。天地は常に説法し、常に黙っています。

対機説法を見て、こことここと矛盾しているなどとある場所の一句とこちらの場所の一句とを持って来て並べてみて、一方は「他(ひと)に頼るな、みずから立て」と書いてあるかと思うと、一方は「他給自足」だと書いてあるから大変矛盾しているなどと理屈を言う人は文字に引っかかっているのです。

文字は真理に到らしむるために書いてあるので、決して矛盾ではないのであります。言葉に引っかかれば矛盾であり、文字だけを見れば矛盾のように見えましても、矛盾ではない。右手を動かし左手を動かしましても右へも左へも行くためでなく、まっすぐに泳いで行くために右手を動かし左手を動かすのであります。目的は右にもなければ、左にもないのであります。

※対機説法・・・相手の機根(きこん)つまり素質に応じて理解のゆくように法(真理)を説くこと。また、その説法。

2716a hope:2013/12/22(日) 19:12:34 ID:/9IAdiFk

>>2714 >>2715 a hope 所感)

聖典『生命の實相』を拝読していて、わたしが心のどこかでいつも感じていた微かな疑問がここで解消されました。

その疑問とはなにかというと、

「『生命の實相』は神さまが谷口雅春先生を通して書かれた聖典だと言われていますし、
わたしもそう信じていますが、その内容の多くは谷口雅春先生以外の講師や信徒の体験談なのです。
それらの内容も神のオコトバ(絶対の真理)と言えるのだろうか?」

ということでした。

ですが、わたしが今回謹写させていただいた場所を拝読していて、わたしはその疑問をすっきり解消できました。

文中に、

「真理は目に見えないから、現実の言葉で言い表そうとすると対機説法になるのです。現象はすべて相対的にあらわれているから対機説法ということができます。対機説法でないそのままの真理を言えと言われたら、天地とともに黙っているほかはないのです。天地は常に説法し、常に黙っています。」

とあります。

ということは、『生命の實相』はじめ、すべての聖典は、全文が対機説法だったのですね!
要するに、「真理」は言葉では直接言い表せないのだから、
『生命の實相』や他の聖典のコトバや文字に捉われていては「真理」は悟れないというわけですね。

聖典文中の矛盾と感じられることも、すべてが対機説法なのだから当たり前なわけですから、
そのコトバや文字に捉われることなく素直に拝読し、表面ではなく波動を捉え、
自己の魂に共振させるような読み方をすればいいのだと思いました。

クロールをするにしても、水中で休むことなく右手や左手、右足や左足をぐるぐるバタバタ動かして泳いでいれば必ずゴールに到着します。
そこで、立ち止まって「どうしてこういう風に体を動かすと前に進むのだろう?」
なんて考えていたらいつまでたってもゴールには到着しません。

聖典も、深く考えることなく、素直に拝読していれば、必ず「真理」に到着するようにできているのだと思いました。

2717アクエリアン:2013/12/23(月) 13:00:56 ID:bAijypnk
谷口雅春先生の青年法語の中で、超越的自己について説かれていますので、それに関連した、アメリカの光明思想家マリアンウィリアムソン女史のユニティマガジンの文章の一部を紹介させてもらいます。私は非常に感銘を受けた記事であります。
全文は下記のURLでどうぞ。
http://content.unity.org/homepageArchive/features/agingSpirituality.html

Aging Spiritually (霊的に年を重ねる)

By Marianne Williamson

Excerpt from the March/April 2008 issue of Unity Magazine (ユニティマガジン2008年3、4月 号の記事からの抜粋)

My father once told me, “When you’re old, you don’t feel old.” I can appreciate what he meant when he said that, as I ponder the fact that the essential being I am inside myse lf is the same in my 50s as when I was only 15.
So who am I really?
Am I the woman who has changed with age, or am I the changeless self within?
Am I the woman who is encased in time or the being who dwells apart from it?

【語句】 appreciate:称賛する、感謝する、正しく 認識する
ponder:じっくり考える
encase:すっぽり包む dwell:住む

私の父がかつて次のように私に語ったこ とがありました。
「お前が年をとったとしてもお前は自分 が老いたとは感じないよ。」
私は父がこのことを語ったとき何を言お うとしていたのか、ということが、今の 私なら理解できます。 というのも、私は、私の内なる本質は、 15歳のときだろうが、50歳代のとき だろうが、不変なのであるという事実を 、ずっと考え続けているからです。
それでは、私とは一体いかなる存在なの でしょうか?
年齢とともに変わって行く一人の女性な のでしょうか?
あるいは、内なる不変の自己なのでしょ うか?
時間という要素に制約されている女性な のか?
あるいは、時間という要素の制約を超え た存在なのでしょうか?

Sometimes when referring to things that happened long ago, we say things like “I remember it like it was yes terday.” And that’s because in a way it was. If time, as Einstein declar ed, is merely an illusion of consciousness, then linear time itself is a metaphysical fiction; everything that has happened, is happening, or will happen, is happening now. There, in that realm of the eternal now, is the tr ue “I am.”

しばしば、かなり前に起きた事について 言及するとき、「それは昨日のことのよ うに覚えている」と言うことがある。そ して、それはある意味その通りだからな のです。もし、時間というものがアイン シュタインが言うように、単なる意識の 幻影でしかないのならば、一直線に進む 時間という概念そのものは、頭の中だけ のフィクションにしかすぎないというこ とになります。かつて起こったこと、今 起こっていること、そして将来起こるで あろうこと、これらのすべてのことは、 今この瞬間に起きているのです。永遠の 今という領域においてのみ、真の”私” が存在しているのです。

(続きます。)

2718アクエリアン:2013/12/23(月) 13:14:01 ID:xOsRIjpM
The eternal self dwells in eternity, and et ernity intersects linear time at only one point: the present. Who you are in this moment, therefore, is who you truly are. And from that esse ntial point of perfect being―created anew by God in every instant―m iracles flow naturally. Thoughts of love interrupt the past and open the f uture to new probabilities. No matter who you are, no matter how o ld you are, in the present, all things are possible.

久遠の自己は永遠のなかに存在するので す。そして、永遠と現象の直線的な、連 続する時間とは、ただ一つの地点ーーつ まり、現在ですねーーにおいて、まじわ るのです。この瞬間のあなたの姿が、そ れゆえに、あなたの本当の存在の顕れな のだということになります。そして、あ なたの本質は完全な存在である、つまり 真の自己は瞬間瞬間に神によって新たに 創造されているのだという絶対的な次元 から奇跡は自然に生まれてくるのです。 愛は過去を造り変えますし、未来に対し て新たな可能性を開くのです。現在のあ たながどのような境涯であろうと、何歳 であろうと、あらゆる可能性が開かれて いるのです。

The physical self ages, of course, but the spiritual self does not. As we identify more with the spiritual di mension of our lives, then our experience begins to shift from the c hangeable to the changeless . . . from limitation to limitlessness . . . fr om fear to love. As our journey through linear time gets s horter, our consciousness can in fact expand. And as it does, time itself is affected. The deeper we go into the love of God, the more we act ualize our earthly potential.

肉体の自己は、勿論、老化はまぬがれる ことはできませんが、霊的自己はそうで はないのです。私たちの思考が、もっと 霊的な次元に移行すればするほど、わた したちの経験は、不安定なものから不変 のものへ、限定から無限へ、恐怖から愛 へと転換しはじめるのです。わたしたち の意識が現象の時間の束縛から解放され る度合いにしたがって、わたしたちの意 識は本当に拡大していくのです。そして 意識が拡大していくと、時間そのものも 影響を受けます。わたしたちが神の愛の 中へ深く入っていけばいくほど、この地 上におけるわたしたちの潜在能力をより 多く実現していくのです。

The understanding of that which does no t change is the key to our power within a world that does. In aligning ours elves with the eternal self, we age not in a straight line leading from luscious youth to decrepit age, but rather like the flowering lotus openin g more and more to the light of the sun.

【語句】
luscious:甘美な、官能的な、きらびやかな

変化しない永遠の存在への覚醒が、この 無常の世界の中に潜むわたしたちのパワ ーを開花させるための鍵です。わたした ちの真の自己である永遠の自己に目覚め るとき、わたしたちは、甘美な青春期か ら老いぼれた老年期へという常識的な人 生のコースではなく、むしろ、蓮の花が 太陽の光に向かって花開くような年齢の とり方をするようになってくるのです。

Aging Spirituallyー((霊的に年を重ねる)

By Marianne Williamson

Excerpt from the March/April 2008 issue of Unity Magazine (ユニティマガジン2008年3、4月 号の記事からの抜粋)
http://content.unity.org/homepageArchive/features/agingSpirituality.html

>>2713
エマソンの光明思想と生長の家④

2719るん吉:2013/12/23(月) 16:49:46 ID:fYlJIcas
アクエリアンさま

英文と訳 有難うございます。ぜひ
読ませて頂き 勉強します。私は英語を勉強し初めて1年半位になります。

たまにyountube で英文で投稿しますが、一番最初に投稿した時は(1年半前に)

3通も返信がきて(カナダ人、スウェーデン人、イギリス人から)嬉しかったんですが

この時が最高で、それからあとは、良い時でも1通の返信です。無しのつぶても有やす。(・・。)ゞ

自分は、自動詞や他動詞さえ知らなかったので、ほんとに1からです。アクエリアンさんのブログにお邪魔したことが

あります。甘露の法雨が英文でかかれてました。が詩はわたしには まだ難しいです。
主語 述語動詞 目的語 や補語等や(目的語が二つ続いてるから前の目的語がSVOOの間接目的語か?)
 というような順序で まだ文を作っていきまた文を読み解いていってる段階です。(私の
いつか、you tubeや海外掲示板上で(日本人の事をすごい勘違いしたコメントがまだまだ
いっぱいありますので)そんなでたらめなコメに対して正しい事柄を投稿したいと
思ってます。それにはやっぱり英語をがんばらないといけません。ので・・
この文、 保存させてもらいます。有難うございました。

2720アクエリアン:2013/12/23(月) 21:52:32 ID:BUfrVyJk
るん吉様

コメントありがとうございます。

英語学習頑張って下さい。

最近、英語学習に非常に参考になる動画を発見しました。
同時通訳者横山カズ氏の「パワー音読」という動画です。

https://www.youtube.com/watch?v=T5-FhsAJW58&amp;feature=youtube_gdata_player

こういうやり方で、音読をやっていけば英語力は飛躍的に伸びていくのではないかと思っています。

このウィリアムソン女史の英語などはパワー音読の教材として潜在意識の中に内在化させていくのには理想的ではないのかと思っています。(勿論、この内容に共鳴していることが条件ですが)

又、甘露の法雨の英訳文なども音読するのには最適の教材だと思います。

もう1つ、おすすめの本があります。
林則行著「「銅メダル英語」をめざせ―――発想を変えれば今すぐ話せる―――」(光文社新書)です。
私も最近読みまして、大いに参考になりました。ビジネスのために英語を必要としている人にとって、参考になるのではないかと思っています。アマゾンの書評は非常に評価が高いですね。

2721るん吉:2013/12/24(火) 00:42:50 ID:fYlJIcas
アクエリアンさま

動画、有難うございます、拝聴いたしました。
ふむ・・・。音読は大事ですね。文法とで車の両輪のようなかんじですかね。
この人が同時通訳というところが説得力を持ちますね。

有難うございます。ぜひ参考にさせていただきますね。

2723SAKURA:2013/12/28(土) 19:46:57 ID:3/pn4/Pc
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【 転載編…引用編】
>>2608>>2672>>2673>>2681>>2682>>2694>>2706>>2707 投稿の続きです

■□ 「生命の実相」を“37巻”からの〜〜〜投稿とさせて頂きます。

―――【 生命の実相 37巻 谷口雅春著(日本教文社出版)】―――――  その①
  二 月 十七 日

 ぼつぼつ樹木に新しい芽が出る。まだ嫩葉にも開かない前の、あのふっくりとした逞し
い樹の芽を見ていると、本当に若々しい生命に触れた気がする。開き切った葉よりもまだ
開かない新芽の方に力がある。生命は久遠であるが、現象界のものは何物でもまだ完全
に開き切らないものには底力がこもっている。宗教でも古い時代に起こったものは過ぎ
去る。今は新しい時代が来つつあるのである。史代革新期である。新しい酒を古き革袋に
容れるときは破れる。

―――――――――――――――――――――――――つづく――――――――

PS:「トキ様」 へ   「観覧者の皆様」へ
「トキ様」……この頃?思います〜〜事は〜〜
何も?何も?現状は〜〜〜“変・化・な・し”〜〜〜の状態なのです〜〜〜ョネ??

「山梨…森のオフイス」が本年度…秋から「国際本部」としての機能が、いざ開始となりました。…が?
「森のオフィス…建物の完成」〜〜〜当初!出来ました頃は、私も含め、きっと!「観覧者の皆様」も〜〜〜
一応は歓喜したのです。…が?ところが〜〜〜段々!段々!それに対して、私達の【環・境・問・題】と
【本・部・側…職・員】のこの【環・境・の・捉・え・方…】に、いささか戸惑いとか?逆に……
投稿内容を拝読しておりますと〜〜〜“幽・鬱・状・態…”になり?如何してもネガティブ感情が先行して
行くような感じでしょうか?

どうかしますと?こちらの“精神の状態”が〜〜〜段々と日常の生活慣習の相違から?ネガティブな状態に
陥りやすくされていく感じ?なのでしょうか??
これは、視点が、私どもの方からの見方ですから?逆に言いますと本部の職員側からですと…
果たして?現状は?理解する事が現在!未来!に於きましても、理解しがたいモノなのでしょうかと。!!
特に!若い年代の方は、「創立者・・・雅春先生時代」の頃の現状への理解は〜〜〜何処まで把握出来るのかが?
あくまでも「亡き両親」の【信・仰・へ・の・姿・勢】を?振り返りながら…複雑です〜〜〜ョネ!

■現状…彼らはいつも【信・者・優・先…のようにふるまう】かと言いましても?【中・身・は・相・変・わ・ら・ず…】
なのでしょうか?【一般=末端信者=老年層】は〜〜〜【もう!もう!窓際=川下】でしょうか??
…と思う位の“幽・鬱・状・態…”になります。

ですから〜〜〜><
                                        つづく

2724SAKURA:2013/12/28(土) 19:51:59 ID:3/pn4/Pc
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。

■□ 「管理人 トキ様」 へ

お忙しいと存じますが??【2重…投稿】となりましたので
>>2722 の投稿を…【削・除…】して頂きますよう、お願い申し上げます…。 (ごめんなさい)

                                    再合掌

2725SAKURA:2013/12/28(土) 19:56:28 ID:3/pn4/Pc
こんばんは……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【 転載編…引用編】
>>2608>>2672>>2673>>2681>>2682>>2694>>2706>>2707>>2723 投稿の続きです

■□ 「生命の実相」を“37巻”からの〜〜〜投稿とさせて頂きます。

―――【 生命の実相 37巻 谷口雅春著(日本教文社出版)】―――――  その②

>>2723 の投稿の続きです…。

■このような時…今!今!〜〜〜今!私しか出来ない事とは?何かといいますと……
【心=意志を強くして行く事…】そして【愛の種を蒔く…種まき人間になるにはやはり書籍本を読み、真理をつかむ事】
この頃、つくづく思うのです〜〜〜。そして、まず私自身【心=意志の鍛錬の練習】と思いながら、
今は?ジ〜〜〜ット!見守っていても〜〜〜“芽…”が其処に出てくるのでしょうか?多少のジレンマを抱きながら、
今!今!私しか出来ないこの時…【 旅の開始…ゴーサイン 】となり出しましたので〜〜〜す。

■本当に「森のオフィス=山梨…」は、私達には【無・縁・の・世・界…】ですし、今!【エコ運動…】は、町の人間でも、
自分の取り巻く環境を踏まえて…いろんな角度での“戦・い…”が、必ずやあるのではないかと思えますから、
私は、自分の於かれました環境=街での軌・道・修・正…していくつもりです。

それでも、新しい建物を見ながら『長崎の総本山…』は、何の補修工事もなされていないようで…
「トイレ…のドア」それから、資料館の傍の「太陽光…設備」に於きましては、一部鉄の部分の腐食が長〜〜〜く!
そのまま!放置の状態でしょうかと?【信者…】ヘの??
唯!「信者の献金」がたよりで……【補修工事…】はどのようになされて】しまうのでしょうかと、思いますと、
一体「信者…」は【総本山ヘの長い間の参勤交代】…職員であります彼らの“生活を豊かにする…源”であり、
奴隷の如く……このように見えていた仕方がないのです。

■□「生長の家の本部…国際本部」と「信者」との〜〜〜共有性〜〜〜とは?果たしてありえるのでしょうか?
ノ−!ノ−!ノ−!〜〜〜♫ ノ−!ノ−!ノ−!〜〜〜♫

■この頃では?【情報社会…】ネットという媒体にて…こればかりが、最近!目についてしまいますので、
どうしてもネガティブな考え?感情?を抱く事になり仕方がないのです。…が?
■唯!いつの時代でも、現状!現時点で【ゆ・と・り・の・あ・る・方・は〜〜〜何・も・感・じ・な・い・の・で・し・ょ・う・か…】

新しい「船の舵…」は?「羅針盤…」は?
【信者の一人一人が自覚を持って…
信仰・哲学などの書物を片手に、真理をつかむ事へ…めざめて行く…この重要感を抱くべきかと思う私達です。】
…と、この頃、本当に思えるようになりました。此れが【新しい時代…】へと繋がるのでしょうか?

                                                 再合掌

2726SAKURA:2014/01/01(水) 21:55:21 ID:RIOFtJIE
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【 転載編…引用編】
>>2608>>2672>>2673>>2681>>2682>>2694>>2706>>2707>>2723>>2724>>2725 投稿の続きです

【  あけましておめでとうございます…。   元旦   】
■ 今年も引き続き…「生命の実相」を“37巻”からの〜〜〜投稿とさせて頂きます。
―――【 生命の実相 37巻 谷口雅春著(日本教文社出版)】―――――
  一 月 一 日

 われわれを生かすのは明るい思想である。さし昇る朝日のごとくさわやかな思想であ
る。さし昇る朝日のごとくさわやかな精神こそ日本精神である。生命は暗黒の中にも光を
見る。暗室に置かれたる豆もやしは、外から洩れるわずかな光を求めて、光の方へ光
の方へと向いて行く。そして光のない間は長くかよわく貧弱に伸びて行くにすぎないが、
ひとたび光を得たトキには、太くしっかり逞しく勢いよく生長する。生命には光が必要
なのである。光が全然ないときには、伸びかかった豆もやしも数日間で枯れてしまう。再
び言う。生命には光が必要なのである。

 新しい年には新しい心が生まれる。元旦は物事の始めであり、生活更新に最も都合の良
い時である。他の時にも新しい覚悟ができ、賢明なる人はいつからでも新生活に突進しう
るが、われわれには新しい決意を実行するには元旦がよい。元旦からまず始めよう。そ
れは明るい心を持つということである。一度にあれこれもと考えて、それが実行できな
かったら、新しい決意も最初の一日から崩れてしまう。ただ今日一日明るい心を持つこと
にしたい。ただそれだけ一つのことである。これだけのことならばわたしにもできると思う。

 明るい心を持つには何事が起こっても怒らぬということである。何事が起こっても悲し
まぬということである。何事が起こっても失望せぬということである。何事が起こっても
怒らず悲しまず失望せぬためには、起こった事物は、「もうすんだのだ」と知ることである。
木枯に散る葉があるからこそ、春には美しい若葉の美が讃えられるのである。

 天地一新。悪しきことは未だかってひとつも起こらなかったし、これから起こらない。
それはすべて一新しゆく姿である。
                         谷口雅春著
PS:「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」へ
今年の年末は、本当に【アクシデント…】発生しまして?これが【原・因…】でそれに、
振り回されてしまい〜〜〜><気が付きますと???
■本来の【おせち料理…】がやっと!やっと!今日で“出来上がるように…”なりました。…が?

このように、私の「心…の揺れ?」が、そのように【暗・黒・状・態…】になりましたのでしょうか?
しかしながら…本日の「創立者…谷口雅春先生」の“コトバ…”から…
すべては、相手がどうであろうと?相手がどのように思っていようとも?何事にも左右されない事!!

■【心に太陽の言葉…】を発生出来なければ〜〜〜と、改めて思った次第です…。そう!!
その【決意…】とは、当に、【元・旦…】から始めるべきでしょうか?
【心が、全てを支配している事への…確認!!】が、私なりに出来ましたようです!!

■□>>天地一新。悪しきことは未だかってひとつも起こらなかったし、これから起こらない。
それはすべて一新しゆく姿である。<< 一部抜粋…

毎日!毎日!今の私は…
【心・を・一・新・・し・て・い・く・事!】に…一新生活感に“突・入”です!!
                                  再合掌

2727トキ:2014/01/04(土) 20:36:15 ID:dipoCezs
SAKURA様

 素晴らしい聖典からのご文章、ありがとうございました。年末年始はバタバタしていますが、
こういう文章を拝読する事で、心が落ち着きますね。じっくりと聖典を読む事は、実は忙しい
人にはとても重要だと感じます。

 今年もよろしくお願いします。

合掌 ありがとうございます

2728SAKURA:2014/01/04(土) 21:57:39 ID:aWzD9cbE
「トキ様」 へ
こんばんは……   ローマ字(大文字)」の【SAKURA】で〜〜〜す。

■□ >>2727 「管理人 トキ様」へ
あけまして  おめでとうございます…。
こちらこそ…いつも励ましの“お声…お返事”いただきまして…感謝申し上げます…。

■>>じっくりと聖典を読む事は、実は忙しい人にはとても重要だと感じます。<<(抜粋文)

本当に聖典を拝読しますと…豊かになるための【 鍵 】となるのでしょうか?そう思います。
つまり「豊かな心…」になります…。
これは「あたえる心…」が?自分自身の“心…”に生みだされ…あの人にしてあげたいなぁ〜♫
広々とした【愛・の・心…】が生まれて来るようです…。

今後とも…投稿させて頂きます。それから!この機会をいただきました事に「トキ様」感謝申し上げます。
                                   再合掌

2729SAKURA:2014/01/06(月) 19:01:58 ID:jd1lCjOk
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【 転載編…引用編】
>>2608>>2672>>2673>>2681>>2682>>2694>>2706>>2707>>2723>>2724>>2725>>2726投稿の続きです
■ 今年も引き続き…「生命の実相」を“37巻”からの〜〜〜投稿とさせて頂きます。

―――【 生命の実相 37巻 谷口雅春著(日本教文社出版)】―――――
  一 月 ニ 日

 すんだことの中に生活せず、「今」のなかに生活せよ。「今」は常に生きている。「今」の中
にはあらゆるものが輝いている。「今」は常に新しく、「今」は常に喜びに満ちている。過去
にどんな悲しいことがあったにしても、それについては思い煩うな。「今」天地一新したの
である。もう別の天地に生きているのである。過去に寒風に吹き暴されたことを嘆かない
で、「今」梅の花の喜びに満たされて咲いている。梅の花よりも尊く強く逞しきが人間である。
喜ぶべきことしかないのが人生である。            
=================================谷口雅春著
つづく

PS:「トキ様」 へ 「観覧者の皆様」 へ
■今日から…【仕事始め…】の会社が…多いですかと?思う次第です…。
そうですョネ!「今」を生かす事が「今」を歩む事への『人・生・観』でしょう!!
なのに?なのに?この“まどろんだ心…”は〜〜〜><
『元・旦…』早々、私は色々な“複・雑・観…”をいただく事になろうとは、思いもかけませんでした。…が?

『2014年度…今年』の出発は〜〜〜【暴・風…如く!吹き荒れた?空・模・様】なのですが、これも
異臭の私の「心の掃除・浄化作用…」と思いまして、前以上に、前に!前に!進む【人生の一本道…】を
だだ!ただ!ひたすら進む事でしょうかしら〜〜〜ン??
まず、今年も無事に「おせち料理」も間に合い!生かされた事に【感・謝】です〜〜〜ョネ!!

>>「今」梅の花の喜びに満たされて咲いている。梅の花よりも尊く強く逞しきが人間である。
喜ぶべきことしかなにのが人生である。<< 抜粋言葉…

■□まず!【感・謝・探・し・の・心・の・旅…】を見つける事が、
この【人生劇場のゲームの中での勝・利・者】となるわけなのでしょうか??

「観覧者の皆様」も?「今年の正月…」は、如何お過ごしでしたでしょうか??
改めまして…今年【2014年度…】素晴らしい年になります事を…御祈り申し上げます…。

                                    再合掌

2730SAKURA:2014/01/06(月) 19:21:25 ID:jd1lCjOk
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【 転載編…引用編】
>>2608>>2672>>2673>>2681>>2682>>2694>>2706>>2707>>2723>>2724>>2725>>2726>>2729投稿の続きです
■ 今年も引き続き…「生命の実相」を“37巻”からの〜〜〜投稿とさせて頂きます。

―――【 生命の実相 37巻 谷口雅春著(日本教文社出版)】―――――
  一 月 三 日

■人生の唯一の目的は神の国をこの世に実現するということである。神の国とは天人常に
充満し、絶えず天鼓の響に妙え、摩訶曼陀羅華の花降る世界である。
天鼓とは天の鼓ではない。人間の人を賞め讃える声である。曼陀羅華とはインドにある
華ではない。華の笑むように和やかな微笑、親切な言葉、思いやりのある行ないが天上か
ら降る曼陀羅華である。
 これから天鼓と曼陀羅華とで飾られた妙なる世界の姿が天国である。天国とは別の世界の
ことではない。われらの思いと、言葉と、行ないとの中にある。(生命の実相からの言葉…)

==========================【 谷口雅春著 】========

                                   つづく

PS:「トキ様」 へ 「観覧者の皆様」 へ

■「閲覧者の皆様」も?今日から【仕事始め…】となります会社が多いモノと思われます。
此処に【 2014年度 】が素晴らしい年になります事を…お祈りさせて頂きます…。

>>華の笑むように和やかな微笑、親切な言葉、思いやりのある行ないが天上か
ら降る曼陀羅華である<<  一部抜粋

■まさに、今年の日々の『教・訓』と思いますので、私も『肝…に銘じて…邁進!!邁進!!』
                                     再合掌

Cf: 先程【女子会 板】に日付を間違いまして…「一月二日」と記載投稿しましたが?
一月三日の間違いです…。改めて「訂正…」させて頂きます…。

                           再合掌

2731エマソンの光明思想と生長の 家⑤:2014/01/06(月) 20:39:54 ID:kzsrkxKM
理想世界誌昭和四十七年十月号

輪読のための青 年法語

◆エマソンの光明思想と生長の家

谷口雅春先生

■五日のことば ”生命は”常に前向きに前進 する

やがて、あなたに時間・空間を超越した実相 の自分を自覚し得た一瞬が来る。 それまでは、普通の人は「時間と空間の障壁は 真実で克服しがたく思われるほど、感覚の力は 心を圧倒してしまっている」とエマソンは言っ ている。私たちの肉体は、時間・空間の枠の中 で生活している。そしてこの肉体を五官の感覚 で見て実在であるかの如く感ずる。そして又、 肉体をとり巻いている外界の一切のものを、固 定した存在の如く考える。しかしエマソンは言 う。

「私どもが今固定していると考えることも、あ たかも熟れた果実のように、ポタリ、ポタリと 、私どもの経験から離脱して落ちて行くのだ・ ・・・・風景、人物、ボストン、ロンドンも昔 の制度や一抹の霧や煙と同様に一時的なものだ 。社会もそうだ、世界もそうだ。Soul(魂)は じっと前を見つめ、前途に一つの世界を創造し 、背後にいくつも世界を捨てていく。Soul(魂 )には日付けもなく、儀式もなく、からだもな く、専門もなく、人間もないのだ。Soul(魂) はSoul(魂)のみを知る。森羅万象はSoul(魂 )が包まれている外装に過ぎないのだ。」

The things we now esteem fixed shall, one by one, detach themselves like ripe fruit from our experience, and fall. The wi nd shall blow them none knows whither. The landscape, the figures, Boston, Lo ndon, are facts as fugitive as any institution past, or any whiff of mist or sm oke, and so is society, and so is the world. The soul looketh steadily forward s, creating a world before her, leaving worlds behind her. She has no dates, n or rites, nor persons, nor specialties nor men. The soul knows only the s oul; the web of events is the flowing robe in which she is clothed.

森羅万象は、(それは自分の肉体も引っくる めて)Soul(魂)が創造した外皮なのである。 それは蚕の生命が創造した繭のようなものであ り、蛇が生長して行く毎に脱皮する“皮”(蛇 の抜け殻)みたいなものである。脱け殻は蛇の 一時的外装であって、それは嘗て蛇によって創 造せられ、用終わりて棄て去られ消え行くべき ものなのである。生命は嘗て創造して、用を果 したところのものを棄てて行くが、”生命”は 死ぬのではなく、常に前向きに前進するのであ る。その”生命”がただの生きる力でなく、叡 智を備えた普遍的なものであるとみとめたとき 、それをSoul(魂)とエマソンは呼んでいるの である。

>>2713:エマソンの光明思想と生長の 家④

2732うのはな:2014/01/08(水) 20:35:10 ID:I1ZO449E

感謝行は同時に深切行である。ひとのために尽したならば自分の生命力が減ると思うのは迷信に
すぎない。信徒某氏は眼病の中でも最も難症だと言われている網膜剥離症に罹っていられて、
聖典『生命の実相』の細かい活字を読むのに、自分のために読むのだったら、一ページ半も読めば、
眼底と後頭部とに苦痛を感じて読むに堪えないのである。

 それだのに驚くなかれ、他の病気を癒してあげたいと思って『生命の實相』を他に読んで聞かせる段になると、
一時的にその眼疾が癒ってしまって、連続四、五十ページを読んでも眼に痛みを感ぜず、読後また眼の疲労を少しも
覚えないのである。

 『生命の實相』は自分の悟りのために読むのも結構であるが、他の悟りのために読んで聞かせてあげるのは一層結構である。
自分のためでない自他一体の無限生命力が発現し、自分のためでない所に自他一体の無限の悟りに到達する。
まだ病気が顕われているのは働きに利己主義の心持が混るからである。

 自分の病気が治ったら他を救ってあげようと思っていては機会がなく、他を救っている間は病気は治っているのである。
永久に他を救っていれば、永久に病気はない。

 頭注版 『生命の實相』第8巻 観行篇 P191−192 谷口雅春 先生著

2733SAKURA:2014/01/09(木) 15:33:34 ID:3/pn4/Pc
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんにちは……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【 転載編…引用編】

>>2608>>2672>>2673>>2681>>2682>>2694>>2706>>2707>>2723>>2724>>2725>>2726>>2729>>2730
投稿の続きです
■ 今年も引き続き…「生命の実相」を“37巻”からの〜〜〜投稿とさせて頂きます。その①

―――【 生命の実相 37巻 谷口雅春著(日本教文社出版)】―――――
  一 月 四 日

■何よりも大切なのは、まず自分の家庭を天国とする術である。それができなければ人間
生活の土台が完成したとは言えぬ。まず手近にある家族を愛せよ。そこから天国が生まれ
てくるのである。われわれは天国とはどこか遠い国にあるように思い、幸福とはどこか外
のところにあるように思っていたが、脚下にあるのである。

 まず、朝起きたとき、すべての家族たちに優しい言葉を、朗らかな響きのある語調で投
げかけよ。これが第一家庭を幸福な天国にする秘訣である。気がついたら今日からそれを
始めよう。

――――――――――――――――――――――――――−谷口雅春著――――――――
                                  
つづく

2734SAKURA:2014/01/09(木) 15:35:45 ID:3/pn4/Pc
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんにちは……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【 転載編…引用編】
>>2608>>2672>>2673>>2681>>2682>>2694>>2706>>2707>>2723>>2724>>2725>>2726>>2729>>2730
>>2733稿の続きです

■ 今年も引き続き…「生命の実相」を“37巻”からの〜〜〜投稿とさせて頂きます。その②

>>2733の①の投稿の続きです
PS: 「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
そうです〜〜ョネ!!本当に、まずは【天国は家庭…】からでしょうか??そうしますと……
私の【不・幸…】は??と、今!気がついた次第ですが??やはり【生長の家…】は、まず!
“信者も家族…”ですから!人それぞれの捉え方…と言われる方も中にはいらっしゃいますでしょうか?
今回の【第・一】とは、「創立者 谷口雅春先生の娘さん恵美子先生」のへの?例え?引退という形
でありましょうとも、今回の“情報…”を信者に、多少なりとも、やはり“伝・達…”する事も
必要な部分ではないのでしょうかと。??
「亡き 2代目清超先生」の事も振り返りますと…「プライバシ−問題」と済まされるモノなのでしょうか?
複雑なモノを感じる次第です。…が?

【原宿本部】が本部としての運営機能がありました頃?誕生日に恵美子先生を招待しましたとか?
多少の情報を頂いて居りましたが?今回の事を踏まえますと…
本当に「恵美子先生」とのご関係は?そして、お元気でいらっしゃるのでしょうか?…と、まず思います。…が?

■「現白鳩総裁先生の奥様」の里帰り…は、正直申しますと?世間一般の考え方ですと…
【谷口家…嫁がれて来られましたから】先ずは?【谷口家の大元…恵美子先生】の状況を私共は、
知りたいのが気持の上では…“信者の心理”としては心に抱くのではないのでしょうかと思う次第です。
世間一般的には【嫁ぎ先の…家庭…】がすでに!【ご・家・族…認・識】かと?この事は?或る財界の
方も…おっしゃつていましたモノです。…が?

従いまして…【伊勢神宮参拝…】という事とは、全く!もちまして“興味のない世界観”でしょうか??
まず!その前に、現在の「恵美子先生のご高齢」も踏まえますと?気になるところです。…が?
例えば…【比・較・論…】で申しますと、現「天皇家」はもとより「イギリスのエリザベス女王 様」は、
今でも【イギリス国民】に対しまして「ネット…」を通じての世界発信をなされていますから…
今でもお元気なのですネ!!このように気持の上でも…ポジティブ感になります。“お元気な顔…smile”

私は、今日から、まず!足元から【実・行・開・始…】です!!
>>まず、朝起きたとき、すべての家族たちに優しい言葉を、朗らかな響きのある語調で投
げかけよ。これが第一家庭を幸福な天国にする秘訣である。気がついたら今日からそれを
始めよう。<< (一部抜粋)

                        再合掌

2735志恩:2014/01/11(土) 07:32:35 ID:.QY5jUA6
💙《無相》について、雅春先生が、説かれておられます。

「菩薩とはあなた自身のことである」

(谷口雅春先生著「日常生活の中の真理・仏典篇」より)


この維摩が菩薩らに道を説くのでありますが、菩薩というのは一体何であるかと言いますと、
観世音菩薩とか普賢菩薩とかいってですねえ、お釈迦さんが居らっしゃった時代には、
神通力をもって自由自在に空中を飛行して、そして釈尊の説法を聴きに来たというような、

そういう神通自在の菩薩もありますけれども、なにもそのように神通自在でなくっても、
菩薩というのはあるわけなんであります。

私の著書に『菩薩は何を為すべきか』という本がありますが、
それの〝はしがき〟のところに、菩薩とはこういう人であると書かれております。

「菩薩とは如何なる人のことであるかといえば、諸君のことである。

自利のためのみに生活せず、利他のために真理を深く研究し、自己の魂を向上せしめると共に、
その真理をもって多くの他の人々の魂の向上に貢献し、幸福を施してやまざる如き人々である。

維摩経に、維摩居士が故意に自己に病いをあらわして、見舞いに来た文殊菩薩に対し
『菩薩は何を為すべきか』について 説くところがあるが、その中に次のような語句がある。

『一切衆生を摂すといえども、而も愛着せざるは、是れ菩薩の行なり・・・・』」

〝一切衆生(即ち全ての人)を摂す〟というのは、自分の心の中に摂り入れる。

つまり、可哀相な人を見ては〝ああ可哀相だ〟と、相手の苦しみを自分の内に摂り入れることで、
悲しんでいる人には〝ああ可哀相だ、あの悲しみを除ってやりたい〟と自分の内に相手
の悲しみを摂り入れることであります。

「一切衆生を摂すといえども」つまり、すべての衆生の苦しみ、悲しみを自分の中に摂り入れるけれども
「而も愛着せざるは、是れ菩薩の行なり」となるわけであります。

 愛着して愛に溺れてしまって為すところを知らないで、却って〝可哀相な、可哀相な〟と一緒に泣いてしまって、
そして悲しみの世界に自分も堕ちてしまうのでは相手を救うことができない。
そこで「而も愛着せざるは、是れ菩薩の行なり」と 説かれているのです。

 次に『維摩経』にはこう書かれています。「遠離(おんり)を楽(ねが)うといえども、
しかも身心の尽くるに依らざるは、是れ菩薩の行なり」遠離というのは、遠ざかり離れるということです。

すなわち浮世の悩み、苦しみ、煩悩というようなものを遠ざけて、それから離れたいと願うけれども、それでも自分の身心の
尽きない限りは、その煩悩を離れたいと思いながら

煩悩の中に入って人を救う実践をする。これが菩薩であると、こういうように維摩は説いているわけなんであります。
 
さて次には、「空を行ずるといえども、しかも衆(もろもろ)の徳本を植うるは、是れ菩薩の行なり」とある。

仏教の真理は〝空〟であるという。仏教の言葉では〝五蘊皆空〟と言います。
一切の現象は、現れていながらそのまま無いのである。

空しきものであるというわけであります。だから、〝そんな空しいものに執着して救済するなんて
馬鹿らしいことである〟と、まあこういうように思うかも知れないけれどもですねえ、

しかもその空である現象、結局無常であり、掴んでおっても消えてしまうところの泡沫(うたかた)
のようなものであると思うけれども、

その空の現象の中に・・・
「・・・衆(もろもろ)の徳本を植うるは、是れ菩薩の行なり」

・・・衆の慈悲を行じ、深切を行じ、救済を行じて行くのがこれが菩薩の行であると、説かれているわけです。
さらに進むと、

「💙無相を行ずといえども、しかも衆生を度するは、是れ菩薩の行なり」とも説かれています。

💙無相というのは、相が無いと書いてあるのでありまして、一切の存在は空であるから本来常住の相がない。

そして自分も無我であってですね、〝儂が儂がという儂という者も無い〟

ということを知って、
それを生活に実現するのであるけれど、みんな無い空の空なるものであるからと言って、
衆生を放って置くのでなくって、

衆生をたすけるために夜も昼も休まずに働くのが、これが菩薩の行である。

こういうように維摩は説いているのであります。そして皆さんがその菩薩なんであります。(つづく)

2736志恩:2014/01/11(土) 07:38:17 ID:.QY5jUA6
(谷口雅春先生著「日常生活の中の真理・仏典篇」より) (つづき)


☆ 如何にすれば本物の生命が出て来るか

さて、その菩薩の一人の長者、すなわち金持の宝積に対して、

釈尊はこういうように言われたということが、
『維摩経』に書かれております。

「菩薩たち即ち人を救わんがために 精進努力している人たちは
『直心( じきしん)』でなければならない
ということです。

『直心』というのは、『そのままの心』が直ちにスラ
リとそのままに出ることを言うのです。・・・」

 例えば、ちょっと紙くずが落ちていて汚いなと思って
〝これ片付けたい〟と思うけれども、人が見ていると、

〝紙くず拾っているのは、どうも極まりが悪いなァ〟
と第二念というものが出て来て、

折角〝紙くずを掃除しよう〟と思うその直ぐ出て来た直心を、

それを消してしまったりすることがあります。

これは直心を行じないということになるわけです。

 菩薩というものは、そのままの心がスラリッと
そのまま行いに出るのが、これが菩薩の行いである
というわけであります。

それでそのまま出る心が、即ち実相の心である。

実相とは実の相です。人間には実相と仮相とがある。

第一存在としての本当の自分と、第二存在として
の迷いの心のあらわれである、

そういう相とがあるわけなんです。

大抵の人たちは、この実相の心、
直心を失ってしまっておって、

そして〝人がどう思うかも知れない〟とか、
いろいろ上辺を飾る虚栄心みたいなもので
直心を隠してしまっているところに、

この世界に完全な神の創りたまえる
真如そのままの実相が、

現れて来ないということに
なるわけなんであります。

で、人間の生命の実相というものは、
唯一つの神が宇宙の根元であり、

全ての生命の根元でありますから、
われわれの実相の生命というものは、
全ての生命と一体であるというわけなんです。

自他一体であり、彼我一体である。

だから人の苦しみを見たら、
自然と人を救いたくなる。

その苦しみを除いて楽を与えてやりたくなる。

これが当たり前なんです。

そういう救いを行いたくなることを発行(ほつぎょう)という。

行を発するというのであります。

それで、こうして人を救いたくなり、その救いを行じて
いきますと、自分の生命の奥深い所にある実の相、実相、

ほんものの生命のはたらきがそこに出て来るので
あります。

この心を『維摩経』では深心(じんしん)と言っている。

すなわち、自分の生命の実相の奥深いところから、
ほんものの心が動いて来るのが、
これが深心であります。

2737志恩:2014/01/11(土) 08:09:36 ID:.QY5jUA6
昭和七年四月十日 に、谷口雅春先生は、
 💙<無相円相一切相の神示> も、発表されてます。

2739トキ:2014/01/24(金) 18:07:57 ID:imJLzwls
大懺悔と小懺悔についての説明です。

「人間苦の解放宣言」p56より抜粋します。

(質疑応答)

問い 怨んでいた相手がもう亡くなってしまった場合はどう書きますか。
答え 亡くなられても、霊界にちゃんといらっしゃり、念は感応するのですから同じ事です。
   怨みに思った心をありのあま書いて焼き、霊界の御霊に和解し感謝されたらよいのです。

問い 怨んでいる人がたくさんある場合はどうですか。
答え 何人でも思いだされて次々お書きなさい。

(つづく)

2740トキ:2014/01/24(金) 18:09:08 ID:imJLzwls
(つづく)

問い 誰も怨んでいないのですが、悪い事をして自分で苦しんでいるのですが・・・・。

答え 人に言えないその苦しい気持ち、「ああ、こんなことをしてすまなかった。なんと
   罪深い私であろうか」という気持ちを思う存分紙に書いて神様に消していただき、
   後は、「本当にそんな罪を犯したことのなり自分だった」と、大懺悔の世界、
   光明一元の世界にお入りなさい。
    懺悔には小懺悔と大懺悔があります。悪い事をして

   「ああ、すまなかった」

 と思う事は小懺悔で、これは尊いことですが、いつまでも
   「すまなかった、すまなかった」とすまいことをした自分にひっかかっていますと、
   「すまなかった」と思いながら、又、罪を犯したりします。

  懺悔の神示に、「罪を一旦懺悔した以上は、再びその罪に心を捉えられて、神の分身
  なる自己の心を苦しむることなかれ。罪は懺悔と共に消ゆるなり」と示されています。
  浄心行で罪を消していただいたら、最後の感謝和解の祈りで、本来罪を犯した自分も
  なく、犯された相手もない、はじめから「唯仏与仏」の光明一元の世界にいる自分を
  見いだすのです。これが大懺悔です。「観普賢菩薩行法経」には次のように書かれて
  あります。

 無量の勝方便は実相を思うより得・・・・

 一切の業障海は皆妄想より生ず

 若し懺悔せんと欲せば端座して実相を念え

 衆罪は霜露の如し、慧日能く消除す。

2741うのはな:2014/01/24(金) 19:45:50 ID:Qem6RNIo
  ひさみからおとう様への第2の手紙

(第一章)今とってもねむいです。きのうちょっとおそかったせいです。楽しみにしていた期末考査もあと四日と近づいてきました。
それにつれて教室では休み時間にもいすにすわってせっせとなにか覚えている姿が見かけられますよ。まだまだ.....とちょっとなめるほどに
やってきていたわたしはちょっとふためいています。期末テストの何千何万倍もうれしいクリスマスに近づきたいとひかえなるべく期末テストから
離れ、それでいてクリスマスに近づきたいというこんたんを持って生活しています。

(第二章)私は今年Xマスをすごく楽しみにしています。それは.....なのです。
お正月とXマスとどっちが好きですか?とやまて米会話できかれた時、「Xマス」とすぐ答えました。(ここで私は寝床にはいったのであります)クリスマスがもっと
楽しくなるには雪が降らねばなりません。雪がふってもつもらねばならないのであります。
それも深くつもってくれれば私にとってこれ以上さいわいなことはないのであります。
私ばかりでなく全世界の様々な人種の子供が喜びます。いいことです。

(第三章)少し学校の事についてのべます。
学校にはストーブがつきました。むろん石炭ストーブです。
それがまわり二メートルはん囲の暑いのなんのって、すごい暑さです。でも一メートルの所に
ちゃんとした人間がすわって授業を受けているのですから大したものです。私は2分とあそこにはいられません。
その人たちが暑いともフゥーともいわないのに教室の一番後ろのはじの連中が「ウワーあつぅーあついなぁー」と
いつもいっています。ふしぎなものです。これも自然現象でしょう。

 クリスマスが近づいたのでクリスマス・ソングがどこにいても聞かれます。
今もマサノブ君が「ジングルベルジングルベール.....ホップステップジャンプ」のジャンプでわたくしめにぶつかったからです。
アブナイデす。きのうカリフォルニアにいらっしゃる鯉沼先生に寄書きを出しました。
私のところには授業中にまわってきました。「先生にはあとで長ーい手紙をさしあげます」と左手で書きました。
左手で書くとこんな字になります。

中森先生のじかんに(図形)に「よんだらどんどんまわして下さい」という手紙が五、六通まわってきますが、私めは読まないでほうりなげます、
するとうしろのがうけとめるという手順になっています。ソロソロオーバーを着たり、マフラに足をうずめたりする人が出だしましたが、私はマダマダです。
これからも元気にやっていこうと思っています。

(第四章)もう時間です。八時ですから。
今日は調理のテストです。といっても皿を洗ってふくテストです。音楽もあります。
このあいだの時歌わされました。(一人で)
「一学期にくらべるととてもよくなっています」といわれてニコニコです。
体育はたっ球です。なかなかうまいのがいてかんしんします。そういった程度です。
あっそうそう、このあいだ甘露の法雨を焼いて自殺するといっていた人が自殺するのをやーめたっといっていますよ。
よかったですね。それでは、おかあさまをどならせないよう、学校に行ってまいります。
 いってまいりますーー  ひさみより

『こころの旅路』 谷口恵美子 編著

2742 a hope:2014/01/30(木) 21:36:49 ID:G/pK6qF2
生命の實相 第29巻p111〜
第九章 深切行について
一、 人生を円滑にする油の差し方

「生長の家」の生き方は無一物にならなければできないとか、何宗にならなければできないというような狭いかたよった生き方ではないのであります。生長の家の教えはいっさいを生かし、いっさいと仲よくなる教えでありますから、他を排擠(はいせい)して生長の家宗になる必要はないのであります。

それゆえわれわれは、別に今までの宗教をやめて生長の家にお入りなさいとは申しません。今までの宗教そのままでよいのであります。甲をやめて乙に入れという教えでありましたならば、それはすでに対立的な教えであって、一つの教団に対するまた別の教団ということになるのでありますけれども、生長の家は、何宗という教団ではないのでありますから、何宗でもよいのであります。

それは宗教であるかというと、そういう「宗団教」ではない。要するにいっさいの生命あるもの、生きとし生けるものことごとく自他一体が本来であるということを悟って、それに深切行を志す人たちが生長の家であって、その自他一体の真理を※奉戴(ほうたい)して人に深切を行うということが、生長の家の生き方であります。

ですから、必ずしもある宗団のように毎朝「朝詣(まい)り」をして道場に坐らなくてはならんということもない、出てこられても出てこられなくても、いっこうにさしつかえないのであります。ただわれわれの心を浄めるために一日のうちの暇な時間を選んで三十分でも実相を観ずるとか、あるいは電車の中でも、汽車の中でも、聖典を読んで心を浄めるようにし、そうして自他一体の真理を生きる、すなわち人に深切行をするように心掛けてほしいというわけであります。

※奉戴(ほうたい)…つつしんでいただく。(頭注より)

2743 a hope:2014/01/30(木) 21:38:52 ID:G/pK6qF2
(a hope 所感)

>>それは宗教であるかというと、そういう「宗団教」ではない。要するにいっさいの生命あるもの、生きとし生けるものことごとく自他一体が本来であるということを悟って、それに深切行を志す人たちの家が生長の家であって、その自他一体の真理を※奉戴(ほうたい)して人に深切を行うということが、生長の家の生き方であります。<<


これこそ、「生長の家」の本来の意味であり、まことの「生長の家の生き方」なのだと思いました。

この「生長の家の生き方」を全人類にひろめていくことこそが、谷口雅春先生の悲願であり、
その波が広がることにより、日本国の実相が顕現し世界平和が実現していくのですよね。

そして、それこそが「生長の家」の使命なのでしょう?

わたしはそうとしか思えませんが・・・。

2744 a hope:2014/01/31(金) 08:00:00 ID:G/pK6qF2
生命の實相 第29巻
第九章 深切行について 
二 深切は誰にでもできる p112 〜

ところで、この「深切行」の問題でありますが、深切行をするには、金持ちでなければできないとか、あるいは財産を捨てなければできないというような、そんなむつかしい、また制限のある深切をするのではないのであります。金が無くても人に深切ができるのであります。

人々が下駄を脱ぎ散らかしているならば、下駄を揃えるのも一つの深切行であります。一枚の塵紙(ちりがみ)がなくて困っている人には一枚の塵紙を与えるのが深切行であります。下駄の鼻緒が切れて困っている人を見出したら、いつも紐の切れ端ぐらいは携帯していてそれを与えるというようにするのが、生長の家の生活であります。

雨が降っている時に一緒に同じ方向に同じ速力で行く人があるのに、自分は傘をさしているけれどもしれぬ顔して勝手に濡れておりなさいというようにしてゆくのは生長の家の生き方ではないのであります。みんなに深切を与えるのが生長の家であります。別に自分の物を減らさなくてもよろしいのです。

減るものを与えるのではともすれば執着がかかるのでありましてそれは本当の深切にはならないことが多いのであります。よく深切にしてやったのに相手に恩返しをされないで恩を仇で返されたといって不平に思い、怨みに思う人がありますけれども、あとで怨みに変るのは「我」があるからです。

「わしがした、わしがした」のわしがあるからです。本当の深切は無我の深切でなければならないのです。自分が施すということも知らないところの無我の深切でなければ、本当の深切であるというわけにゆかないのであります。

本当の深切は自他一体の意識から自然法爾(じねんほうに)に出てくるのでありまして、「彼」と「我」とは別れていないという本当の真理を悟ったところから、自然に深切というものが流れでてくるので、それはちょうど、高い所と低い所との区別のしきりを除(と)ったら、水が自然に流れ出てくるように、自他一体の悟りによって「自」と「他」とのしきりが除(と)れたら自然に流れ出てくるのであります。

すでに「自」と「他」とのしきりがないとしましたら、「わたしが」「彼に」してやったという力みはないはずであります。「わたしが」「彼に」してやったと、「わたしが……わたしが」と、力むことは、本当の自他一体の深切行になっていないのであります。

「わたしが」「彼に」施しをしたとか深切をしたかということを心に溜めておって、それが原因になって腹が立つとか、あるいは恨みに思うとかいうようなくらいなら、そんな深切は初めからうその深切であります。本当の深切というものはいつそんなことをしたかわからないうちに深切ができているように、あたりまえにできるようにならなければ、本当の深切ではないのであります。

2745 a hope:2014/01/31(金) 08:01:19 ID:G/pK6qF2
(a hope所感)

つまりは、「自他一体の真理」って「無我の愛」のことで、その実践が「無我の深切行」なのですね!

<<本当の深切は自他一体の意識から自然法爾(じねんほうに)に出てくるのでありまして、「彼」と「我」とは別れていないという本当の真理を悟ったところから、自然に深切というものが流れでてくるので、それはちょうど、高い所と低い所との区別のしきりを除(と)ったら、水が自然に流れ出てくるように、自他一体の悟りによって「自」と「他」とのしきりが除(と)れたら自然に流れ出てくるのであります。>>


「生命の實相」って本当にすごいバイブルですね!!

2746 a hope:2014/02/02(日) 17:21:47 ID:tLWd4hcY
生命の實相 第29巻
第九章 深切行について 
三、無一物の深切行p114〜

そういうふうに生長の家の深切行というものは実に広々としたもので何にもなくても行えるものであります。むろんこの一枚の紙がなければ、一枚の紙のほしい人には与えることはできませんけれども、何も施すことは一枚の紙に限らないので、何もなくてもわれわれは人々に深切を施すことができるのであります。

たとえば失意の人に希望の言葉を投げかける、あるいは会う人ごとに厚意と深切との微笑を投げかける、人が何かをしたら、朗らかに相手の長所をほめる。かういうふうなことは与えてもちっとも減らないのでありまして、どんな貧乏人でも自分の顔は持っているから、自分の顔を莞爾(かんじ・にっこり)と微笑させるぐらいはできますし、どんな貧乏人でも自分の口は持っていて唖でないかぎりは言葉を出すことはできるのでありますから、それでその言葉によって相手の長所をほめるくらいのことはできるのであります。

これが大きな功徳であり施しになるのであります。そんなら唖であったら褒めるわけにはいかないと言われるかもしれませんが、合掌くらいはできるのであります。合掌して相手を拝む、その「拝み」だけでも大きな施しになるのであります。手のない片輪者ならどうしたらよいかと言う人があるかもしれませんが、心で拝む、心で本当に拝めたら、手で拝むよりも、金銭を与えるよりも、まだまだ尊い深切であることがあるのであります。

2747 a hope:2014/02/02(日) 17:23:18 ID:tLWd4hcY
(a hope所感)

<<心で本当に拝めたら、手で拝むよりも、金銭を与えるよりも、まだまだ尊い深切であることがあるのであります。>>

これだったら、たとえ寝たきり状態になっても出来ますが、
でも、この「心で本当に拝む」というのがなかなか難しいことなのかもしれません。
ですがそれがまことにできたときには、とめどなく、拝ませていただく相手への
「感謝の気持ち」が溢れてくるような気がしています。

2748流氷:2014/02/05(水) 20:47:47 ID:zkT6v8o2

 <あなたは必ず救われる> 藤原敏之 先生 生長の家今昔物語
 http://blog.zaq.ne.jp/sinseityounoierengou/

2749レンゲソウ:2014/02/14(金) 00:23:31 ID:pDIUw3sQ
『二月の祈り」  谷口雅春先生

 わたしは”神の子”であり、今、実相世界にありて宇宙神霊の前に坐すのである。

 わが周囲ことごとく神霊である。物質にて成るものひとつも無いのである。

 わたしは霊の空気を呼吸し、神の霊気わが全身をみぐり満つるのである。

 わたしは神の霊に生かされているのである。

 神の霊は平和の霊であり、調和の霊である。

 神の平和と調和がわが全身に充ち満ち、わが周囲に充ち満ちているのである。

 わが内に平和はあり、わが周囲に平和はあるのである。

 神の平和は単なる”静かに何もしない”平和ではないのである。

 神の平和は秩序と調和に満ちたる、活気臨々たるリズムに満ちたる平和である。

 静中動あり、動中静あり、無限に新しき、人類を生かすところの良きアイデアが常に
こんこんと湧き出て来る平和である。

 私は神より湧き出ずるアイディアに導かれて、常に人類のために国家のためになる行動に献身するのである。

 私は平和の子であり、平和の天使である。ありがとうございます。


(『理想世界」昭和46年2月号より)

2750SAKURA:2014/02/14(金) 08:20:58 ID:ewKVx23E
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
おはようございます。 ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【 転載編…引用編】
>>2608>>2672>>2673 投稿の続きです
■□ 「生命の実相」を“37巻”からの〜〜〜投稿とさせて頂きます。

―――【 生命の実相 37巻 谷口雅春著(日本教文社出版)】―――――−その①
   二 月 十四 日

■素直に飛びついて来る子供はかわいがられる。素直に舅 姑の懐にとびついて来る
嫁はかわいがられる。素直に先生の懐に飛びついてくる生徒はかわいがらる。夫婦仲
が悪いとか、家庭はおもしろくないとかいう人があるけれども、それは互いに飛びつくよ
うな素直さをなくしたからである。神のみふところに飛びつく者は神に愛される。

                          谷口雅春著

PS:「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
■『素直に飛びつく人』は、一番いいです〜〜〜ョネ!!
【素・直・に・な・れ・る・事】が出来る事は、まず!“環境…”からもあるのでは、ないでしょうか?
それから『夫・婦・問・題』でも、「九州」と「関東」では随分と『夫婦の仲の捉え方』は?違うのでしょうか??

「欧州」でも、特に「フランス」での男性は、女性には“誉め言葉…”が多いとか???
例えば?かなりの【年齢の女性…】でも、その人の魅力引き出す為に〜♫
「此処が素敵だと…」まずは『 賛辞の言葉 』が「男性の社交辞令」だとか?聞いた事があります。…が?

私が、福岡に帰郷しましてから、まず!思った事は【同世代の女性がかな老けてみえて…><】
“ビックリ…”した事があります。

■或る本からなのですが【 人間の運 】についての本を読みまして“納得感”が?

■□【 何故?老けるのかを…… 】最近!分かった次第です。…が?

此処「福岡の夫婦の会話」から〜♫〜なのです。…が?
必ず「男性…」は、他の「女性」との【比・較・論】になるのでしょうか??

私達の世代は【日教組の教育…】です。従いまして、人一倍の『負けん気』がありまして、
どうしても、同世代の中では……特に「女性」は【競・争・意・識】がまず!強いですネ!!
例えで申しますと、他の同世代の「女性…」が、若く見えるとします。そうしますと…
「男性陣」は、まず!「言・葉…」から【比・較・論】に入って行きまして【欠点とか?】〜〜〜
いろんな角度での見方から「女性」は素直になるどころではなくなり、一年中『外見への…依存度』が、
本人自身の潜在意識に、奥深く入り込み〜♫ 『奥の細道…』かなり…奥の奥まで……でしょうか?
実に、大変な感じが致しますモノ!最終的には〜〜〜?

つづく

2751SAKURA:2014/02/14(金) 08:26:54 ID:ewKVx23E
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
おはようございます……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【 転載編…引用編】
>>2608>>2672>>2673>>2681>>2750投稿の続きです
■□ 「生命の実相」を“37巻”からの〜〜〜投稿とさせて頂きます。

―――【 生命の実相 37巻 谷口雅春著(日本教文社出版)】―――――−その②

>>2681>>2750  投稿の続きです…。

「若い?」或いは「老いて?」この【比・較・論】に入りまして【女性として扱われなくなる】のですョネ!!
ですのでかなり、老化現象の方が多くて〜〜〜私達を見ますと、必ず❤『形成病院に直行…』かと。

■その後の【後・遺・症】は???と私は思います。…が? 大丈夫なの〜〜〜><でしょうか?

【外・見・思・考】に走る…【素直に走ると言う事】なのでしょか?けれども〜
【真理・聖典の勉強】さらに【祈り…】はおろそかになるようでは?彼らの【素直な心での行動…】とは?
全て!全て!【物質化した欲求の価値観…結果】に、逆におかれている感じで〜〜〜す!!
当に【 唯物論…思考型 】ですかと思うのです。

【素直になるのは当たり前】で、此処で「舅・姑の問題」は、これは「おしん」の問題で……
その人の【精神修行】になるのでしょう!!

さらに「相手を褒める事…」も、環境のいい!!さらに伸び伸び育った環境での子供は、意外と素直だそうです。
これは、両親の育てから来るのでしょうか??この人が言われている事は、
日本に帰ってくるたびに感じる事は、自分の事を「つまらない人」「ちっぽけな人間」と、思っている人が
意外に、多いそうです。
これは【教育の問題】にも関連して、深刻でしょうかと……!!
振り返りますと…「褒められる事」より、「怒られる事」の方が、多いのが現状であり、
アメリカの教育は「誉める事」の方が、断然多いので、自分に【自・信】を持っている方が、とても多いとの事!!

■【自・信】を持つ事は、かなりの“エネルギ−”がいるのです〜〜〜ョネ!!
【自・信】をもたせるくらいの“誉める環境…”に育てる事でしょうか!!そして、
両親は子供に対して誇りをもつ事が…ベタ−なのでしょうか!!そこから【素直になれる環境】にも…?

また【職・場】でも、注意したり!叱りつけたり!…しての指導よりも、遥かに【誉めた方】が、
ずっと伸びるのではないでしょうか!!そして、この様に、互いに【誉める事】は、そこから“スタ−ト”しますし、
さらに【感謝の心】がわきますから、自然と素直に受け入れる“心…”になっていく事でしょうか??

今回!私は【ノーミート=食事療法】と言います事に、投稿しますと、どうも或る方が「総裁先生」が、
■「ノ−ミ−ト」と「食事療法」は違うと云われたそうで〜〜〜す。
私は?そこまで誇示しての分類が必要なのでしょうか?そのように思った次第です。
つまり「食事」を全体像としますと…その中に「ノ−ミ−ト」という項目があり、或いは「食事療法」の中にも
「ノ−ミ−ト」という部分があるモノと…このようなる解釈です…。(重なる部分…)
最終的には【 健康管理 】という前提を私は考えています。

つづく

2752SAKURA:2014/02/14(金) 08:29:01 ID:ewKVx23E
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
おはようございます……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【 転載編…引用編】
>>2608>>2672>>2673>>2681>>2750>>2751 投稿の続きです
■□ 「生命の実相」を“37巻”からの〜〜〜投稿とさせて頂きます。

―――【 生命の実相 37巻 谷口雅春著(日本教文社出版)】―――――−その③

>>2681>>2750>>2751 投稿の続きです…。

但し…「総裁先生」の「ノーミート」は…10年前からでしたか?あくまでもその根底には【エコ運動】としての
「ノーミート」という事を、当時「牛の放牧…その為の飼料」に関しての莫大なる“エネルギーの必要性”を
講習会でおっしゃっていました事…その事が【地球温暖化への影響…するのか?】その記憶があります。…が?
そして、現在では「総裁先生の奥様」が、ここ数年前から信者に対しまして「ノーミートのお弁当」を
紹介されている事から、その「区・別」を明確化されていらっしゃいますのでしょうか?

■□「料理…」とは?このとらえ方が…色々あるモノと…この頃では痛感する次第なのです。

以前!栄養管理士の方が…バランス良く「料理」を提示してくださった普及誌がありましたが…
やはり【健康管理】という上では、当時大変参考に思っておりました。また!信者の皆様の中には、
それ以上の「料・理…レシピ」が???と、実際のところ、私の周りの同世代の友人は、
かなり「料・理…が上手な方」が多いのです。…が?此処から、お互いに、工夫しての料理を、
投稿して頂きますと…それは、ますますと「家族の健康」にプラスメリットになるモノと思うのです。
お互いに【料理の紹介…】を、喜びあう!!褒めあう!そこから次なるステップへ“循環した事”が、
始まるモノと…【運…?】まずそのような方達の登場は、やはり?「ノーミート運動」を活発化する上では、
非常に、いい事ではと思います。…が?この事を聞いてから?
「区別」する事…そこに【定・義=決めつけ論】を置かなければならないのでしょうか?
…オカシナ気持になりましたが、

この事からでも【素直に従う事…】とは、合わせるのではなく…
【納得した事は、素直に表現します事】ではないのでしょうか!!と思いながら…現在の私の於かれた
【環・境】は、「吸血鬼とその仲間とか?」に、尾行されています。なので……
【素直に彼らを受け入れる気持ち】は、飛んで行け〜♫ 飛んで行け〜♫ このような気持ちであり
【類の法則】ではない人達…という観念です。従いまして、【素直に相談は〜出来る事も出来ない!】のでは?
更に、今の私は「神との融合…」を深めていく事!そこから〜〜始まりますでしょう。
まずは【祈り…】に徹する事でしょうか??


■□本当に【素直になれるような環境…】に行きた〜〜〜イ!まず・・自分を褒めることから
讃嘆!!それがベターになれば、私の世界はもうそこは、キット【天・国階段の入り口…】でしょうネ!!

                              再合掌

2753トキ:2014/02/15(土) 16:23:55 ID:C5p9.pG6
「過去の体験から教訓を得て過去を棄てること」

 過去の不幸や不快や過ちの記憶を拭い去れ。それらの出来事は無駄にあなたの前にあらわれた
のではなかったのである。それらの出来事は何らかの教訓をあなたの魂に与えるためにやって
来たのである。過去を振り返ってそれらの不幸な出来事や不快な経験が、自分のどんな想念の
影であらわれたのかを吟味して見て、再びそのような想念を起こさないようにすればよい。
そうすれば、それらの出来事や経験はあなたの魂に教訓を与えるためにあらわれた教科書の
役割りをしたことになるのである。1年生の教科書から学んでしまって2年生になったら、
もう1年生の教科書は棄ててしまって、2年生の教科に進むのがよいのである。過去の不幸
や不快や過ちを、いつまでも持ち続けてクヨクヨ思って自己劣等感に陥る者には、2年生に
なっても、3年生になっても、1年生の教科書にしがみついているような「人生の劣等生」
なのである。諸君はそんな劣等生になってはならないのである。

如意自在の生活365章 谷口雅春先生著、206pより

*個人でも、組織でも、同じ事が言えるような気がします。(トキの感想です)

2754SAKURA:2014/02/15(土) 20:55:31 ID:KNM8zFDU
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【 転載編…引用編】
>>2608>>2672>>2673>>2681>>2750>>2751>>2752>> 投稿の続きです

■□ 「生命の実相」を“37巻”からの〜〜〜投稿とさせて頂きます。

―――【 生命の実相 37巻 谷口雅春著(日本教文社出版)】―――――
   二 月 十五 日

 どんな美しいバラの花でも、その棘に触ったときにはハッと驚いて捨てられる。人に嫌
われるのは心に棘があるからである。これだけ立派な仕事をしているのに人が自分を遠ざ
けるというような人は、これだけ美しい花が咲いているのになぜ人が自分を捨てるのだろ
うと、みずから疑うバラの花のようなものである。

 とげとげしい眼、とげとげしい言葉、とげとげしい行動、その一つ一つを抑えようとし
てもなかなか直るものではない。まずとげとげしい心を捨てなければならぬ。とげとげし
い心を捨てるには「とげとげしい心」をアリとして抑えてもなかなか直る物ではない。暗
は暗をいくら押さえてみても消えるものではない。暗を消すには光を持ってくるにかぎる。
とげとげしい心が自分にあると気づいたら、その反対を持って来るのである。「自分は優
しい優しい人間であって、とげとげしいところはちょっともない」と、その反対の念を自
分自身にいって聞かせればよいのである。

                             つづく

PS: 「トキ様」 へ 「観覧者の皆様」 へ
■此処昨今は、私もいい気持ちになる事が〜〜〜ネガティブ感の一日が多いのです。そんな時は?やはり!
心がすさんでしまいます〜〜〜ョネ!あまり“ポジティブ=良い事”が考えれない感じになった現実は
もしかしますと?私自身の“ 心が塞がった感じ… ” なのでしょうか??

今日一日楽しくすごせそうな…感じでいますと、そう!本当に“心…”が楽しく、ウキウキ気分の時、
当にその時です…。必ず!必ず!出没しますのが〜〜〜「吸血鬼・ゾンビの仲間…」なのです。
或る時は?歩行しています時?さらに地下鉄の電車内に、隣に近づいてきたリ?で…
また、コンビニ内で? 銀行のATM利用の時に? まるで〜♫ まるで〜♫ のぞきに来た感じで、
非常に気分を悪くする事が、多々あり…このような時に、私の“精神”は非常に、心が高ぶりやすく
なりますので……これに「自・制・を・重・く…」しますと、表情は?本当に冷たい!冷たい!感じ…
になりますが〜〜〜><

小さな事での【感・情】で、前に進む事が出来なくなるよりも、私の【理・性】を最優先に於く事が
【重・要・感…】では??そのような状態の時は、やはり!このような人間に“心…”を振り回されたら、
私の【人・生・は・暗・黒・に……】と、そう!そうなのです!私は、前以上に
“心を別の角度で思考回路する事”!!この様に、写真を撮ります時は、ご存知でしょうか?
フランス出身の『 モレシャン 』さんが、随分前におつしゃつておりましたのです。…が?

■『 一番!自分に…素・敵に見える“角・度”を、認識する事!! 』

フランス人はそれを一番知っているとの事です。
今!これと同じように【心もイイ角度…に切り替える!】これが、大事なポイントでしょうか??
相手にふりまわされて、「吸血鬼・ゾンビ…暗黒団」に入っていくよりも、ちょっとした【笑・顔…】で、
他人に見せない“心…模様”も、日頃の訓練です〜〜〜ョネ!!私は若い時以上に、ここ最近は、ますますと、
表情が出ないのですが?そう!そうなのです〜〜〜ョネ!もっと【素敵な…笑・顔】をインプットします!!

■「とげとげしい……心」アリ〜♫   う・ふ・ふ 

今日から【モナリザの微笑み…】でいきましょうか???もうそれには私の心の奥に〜〜奥に〜〜
そうです!!そのような心境になれる近道は、神の世界=心の世界です!!神想観=心想観 です。

幸福の近道は、やはり【神・想・観】をしてみるとか?【イメージ・トレーニング】とか?してみますと
心が安らぎ…ますから、一番いい事かと思うのです〜〜〜ョネ!そして【モナリザ…】になれるので〜〜す。
【心の難…】が来れば〜〜〜前以上に【精神の修行…】をして行く事でしょうか??

■■「心の光・・」を見つけるには〜〜〜やはり【神・想・観】が一番おススメで〜〜〜す!!

「トキ様」は?そう〜〜〜思いになりませんでしょうか?

                               再合掌

2755トキ:2014/02/17(月) 20:38:31 ID:qvIK8UMY
 「先日もある人が、「自分は商売が下手なんです。私にはまるっきり商才がないのです。損ばかり
しています。何か良い方法を教えて下さい」と尋ねて来ました。自分で商才がないと言いますが、
商才とは何でしょう。この人は商才を何か特殊な技術のように考えているようですが、商才とは
そんな小手先の技術ではないのです。
 
 商才とは商人の”誠意”と”腹”だと思うのです。顧客に仕える心と小さな損得に拘泥しない豊かな
心です。この心で商売をやれば誰だってはやるのが当たり前なのです。

 大阪の春名徳雄さん(前 生長の家大阪府相愛会副会長)に伺ったのですが、大阪の十三に大変
よくはやっている呉服屋がありました。ご夫婦とも熱心な信者ですが、生長の家の話もよく聴きに
こられるのだそうです。この方は戦前一度商売に失敗されたのです。とうとう夜逃げの相談をして、
アメリカか、どこかに移民に出ようという話になって、一度、金光教の先生のお話を伺おうという
ことから教会に行ったのです。

 その時に、教会の先生が「それなら、僕がまず尋ねますが、仮に東京で太鼓を叩いていたら裏が
裂けて鳴らなくなったので、その破れた太鼓を、今度は大阪に持って来て叩けば鳴りますか?」
と聞いたのです。

 「そりゃ、皮を張り替えんと鳴りませんね」と返答したら、先生はカラカラとお笑いになって、
「そらなら大阪で破れた太鼓をわざわざアメリカまで持って行って叩かなくてもいいじゃないか、
まず皮を張り替えなさいよ」と言われました。

 この呉服屋さんは、この一言に胸を打たれて再び大道商人から立ち直って誠実一路ついに今日
の基礎を築かれました。

 「環境は心の影だ」という生長の家の真理がよく表れています。

 昔から、”商売は前垂れをかけて”とよく言われます。前垂れとは前へ頭を低く垂れることです。

 「ありがとうございます」とただ誠実一路に生きることです。ただ売ってやる式の商売や、
ただ儲けよう式のやり方では客に飽きられます。顧客から悦んで貰う聖人になることです。

 商才がないというのは単なる言い訳に過ぎません。成功する人には成功するだけの苦労も
あるのです。

 「幸せに到る道」(故 北尾巳代次先生著、日本教文社)29〜30pより抜粋。

2756レンゲソウ:2014/02/18(火) 01:38:35 ID:BrBAlyYA
 あなたの身体を言葉をもって祝福しなさい。
あなたの身体は決して物質でできている肉体ではないのである。
それはたとえ肉体のように見えても、それは神の霊によってつくられた霊体である。
そして、それが創造られたそもそもの始めから完全につくられているのである。
だから、自分自身の身体に向かって次の如く心の中で、”言葉”をもって祝福するのがよい。

 「あなたは神の最高の自己顕現として最(い)と完全に作られた霊体であります。霊体で
ありますから、温度や気象や微生物hによって決して傷つけられるよぅな事はありませ
ん。あなたは今も現に神につくられたままに完全な健康な身体であります。

生長の家誌 昭和43年2月号 p16 19日の法語より謹写

2757 a hope:2014/02/19(水) 11:10:05 ID:cEpBaIdo
「生命の實相」第9巻 霊界篇p1〜

はしがき

人間の運命の一半(ぱん)は、霊界との連関において、定まるのであって、本人の自由意志のみで定まるのではない。本人の過去の想念、言葉、行為は一種の惰力的な力をもっていて、その人の運命を一定の方向に導いて行こうとする。

これは仏教でいわゆる「業力(ごうりき)」と称せられるところのものであって、一定の方向を走る汽車はその後もその方向へ走って行こうとする惰力をもっていて、あまりに急に変向せしめることはできないし、急角度で変向すれば脱線するようなものである。

個人のみならず、国家にも、民族にも、過去の想念、言葉、行為の力は蓄積されていて、ある惰力をもってその特有な運命の軌道を走ろうとするものである。そしてその個人の運命も、国家または民族の一員である限りにおいてその全体的な運命から脱却することはできない。
(つづく)

2758 a hope:2014/02/19(水) 11:10:57 ID:cEpBaIdo
われわれは国家または民族の積み来った業の流れの中に棹(さお)す幾多の舟艇(しゅてい)のようなものである。われわれは何れも全体の流れの影響を受けないことはむずかしいが流れさるものもあるし、向こう岸に安全に到達するものもあるであろう。

そこには個人の努力や、自由意志の働く部分もあるのであり、その努力の価値と、運命の変向力とを否定することはできないが、いずれにせよ、個人の運命は国家や民族の運命と混り合っているのである。さらにくわしく言えば地上の人類全体の運命は国家や民族の運命と混じり合っているのである。

そして地球やその他の天体は、人間の霊魂がそこにおいて修行し、向上し、内在無限の神性をより多く発揮するための「場」だということができるのである。したがって、肉体をもっている人間の運命は、肉体を脱却して、よりいっそう進化向上せる霊魂の指導を受けて、種々に導かれ、修正されつつあるのである。

われわれはこれらの関係を無視して人間の運命を論ずることはできない。人間は決して肉体存続期間だけの存在でもなければ、その生活圏が地球上だけに関係しているのでもない。あらゆる天体はわれわれの生活の「場」であり、進化向上の「場」として造られたものであって、天体の運命と、個人の運命とは密接に関係せしめられているのである。

われわれがここで言う「運命」とは運がよくて金が儲かるとか、運が悪くて失敗するとかそのような小さな問題を言うのではない。もっと人類全体と、そして宇宙全体とに、連関せるところの大いなる運命である。
(つづく)

2759 a hope:2014/02/19(水) 11:11:39 ID:cEpBaIdo
人間はなんのために創造(つく)られたか、いずこより来り、いずこに到るか。地球上の民族の霊魂は決して一時期に移植せしめられたるものではなく、数次にわたって、数個の集団として、他の天体においてある程度修行せしめられたものが、遷移(せんい)し来れるものであるヴェッテリニはその霊示において告げている。

それゆえに、高く上がる者、低く降る者、民族はそれぞれの集団的運命を受けるのであり、われわれは現にそれを受けつつあるのである。この霊界の秘密を知らずして人間の運命を予知することはできない。われわれがアジア民族または日本民族としての関心もそこに集中せざるをえないのである。
(つづく)

2760 a hope:2014/02/19(水) 11:12:14 ID:cEpBaIdo
わたしは数百種におよぶ「霊界通信」の書籍を読んだが、ヴェッテリニの霊誥(れいこく)ほど、合理的で深い感銘をわれわれに与えたものはないのである。わたしは高級霊ヴェッテリニの霊誥を、霊界通信に出て来る経路を語る一節のほかは、コルニリエ氏が原文に書いた順序にはこの書に集録しないで、その霊界通信を整理して分類的な順序にそれを並べて検索に便利にしたのである。

この書はかつて『出生前(しゅっしょうぜん)・生・死・死後の研究』と題して単行本で出たとき数十版を重ねたが、後に『生命の實相』の第五巻「霊界篇」に収録されてまた数十版を重ねたのである。

いずれかの書で読んだ人はこの書を読む必要はないのであるが、戦後、霊媒現象の取り締まりがなくなり、詐術霊媒が宗教法人を造って人々を欺(あざむ)く例が頻繁にあるので、その方面に興味をもつ人は、本書をその批評の尺度として対照せられるならば、迷わされる危険は少ないであろうし、人類的運命に連関して、今後、地球上がいかなる運命に見舞われるかについての覚悟を得る上にも、確かに参考になるであろうと思う。

人類の運命は本書にあるように、高級霊の愛深き指導によって間断なく修正されつつあるがゆえに、わたしは必ずしも、本書に示される各民族の運命を絶対だと信ずるものではない。しかしアジア民族の一員としてアジア民族の今後の運命に関して関心しておく能(あた)わぬものである。

昭和三十七年十二月十日       著書しるす

2761 a hope:2014/02/20(木) 23:48:07 ID:cEpBaIdo
「生命の實相」第21巻 経典篇 「はしがき」

『甘露の法雨』はいわゆるインスピレーションによって突然浮かんできた思想が一種詩的なリズムを帯びてきたのを書き止めて置いたものである。後より見るとこの聖経は期せずして、『生命の實相』全巻の真理を縮約して歌ったものになっている。それを読誦することによっていろいろの奇跡を演じたので、ついに聖経と称せられることになったのである。

その英訳をたんに携帯することによって第二次大戦中ハワイの日本民族第二世の軍隊(第百大隊、四四二部隊)がイタリーの南端から上陸する際に、機関銃弾がその英訳『甘露の法雨』に命中しながら、それを貫通することができず無傷で大量の兵員が上陸して戦功を立てたような奇跡もあり、交通事故に遭いながら無事だったと実例のごときは数限りもないのである。

この聖経はたんに現実界の人間が読誦して悟りを開いて病苦悩苦を去るばかりでなく、霊界の諸霊もその読誦の声を聞いて悟りをひらき、迷える障りの霊も守護の霊となることが後に明らかとなったので、神仏礼拝の際その祭壇に対(むか)いて読誦すべき生長の家の聖経となったのである。

しかし読んで意味の分からぬようでは功徳が薄いので、かつて毎日曜日に東京小石川護国寺の月光殿においてその大要を講義したものを次に掲げことにした。主として講義の速記によったのでわたしの文章だというよりも、わたしの語調が写されているところに特徴があるであろう。『生命の實相』の縮約が『甘露の法雨』であるから、この講義を読むだけで生命の実相の大要が摑めることと思う。第一章は当時の講義の筆記漏れを後より再述して完璧にしたのである。

昭和三十九年 一月十日  著者しるす

2762 a hope:2014/02/23(日) 12:24:34 ID:cEpBaIdo

『七つの燈台の点燈者』の神示

汝ら天地一切のものと和解せよ。
天地一切のものとの和解が成立するとき、天地一切のものは汝の味方である。
天地一切のものが汝の味方となるとき、天地の万物何物も汝を害することは出来ぬ。
汝が何物かに傷つけられたり黴菌や悪霊に冒されたりするのは
汝が天地一切のものと和解していない証拠であるから省みて和解せよ。
われ嘗(かつ)て神の祭壇の前に供物(そなえもの)を献(さ)ぐるとき、
先ず汝の兄弟と和せよと教えたのはこの意味である。
汝らの兄弟のうち最も大なる者は汝らの父母である。
神に感謝しても父母に感謝し得ない者は神の心にかなわぬ。
天地万物と和解せよとは、天地万物に感謝せよとの意味である。
本当の和解は互に怺(こら)え合ったり、我慢し合ったりするのでは得られぬ。
怺えたり我慢したりしているのでは心の奥底で和解していぬ。
感謝し合ったとき本当の和解が成立する。
神に感謝しても天地万物に感謝せぬものは天地万物と和解が成立せぬ。
天地万物と和解が成立せねば、争いの念波は神の救いの念波を能(よ)う受けぬ。
皇恩に感謝せよ。
汝の父母に感謝せよ。
汝の夫又は妻に感謝せよ。
天地の万物に感謝せよ。
その感謝の念の中にこそ汝はわが姿を観、わが救いを受けるであろう。
われは全ての総てであるからすべてと和解したものの中にのみわれはいる。
われは此処に見よ、彼処(かしこ)に見よというが如くにはいないのである。
だからわれは霊媒には憑(かか)らぬ。
神を霊媒に招(よ)んでみて神が来ると思ってはならぬ。
われを招ばんとすれば天地一切のものと和解してわれを招べ。
われは愛であるから、汝が天地一切のものと和解したときに其処にわれは顕れる。

(昭和六年九月二十七日夜神示)

2763 a hope:2014/02/23(日) 12:26:23 ID:cEpBaIdo
>>2762 a hope所感)

この神示は、命令口調なので、神がわたしたち人間に「喧嘩せず、仲直りしなさい。身近な人に感謝しなさい。」
とおさとしくださっているような印象を持っていましたが、
本当は、そんな意味ではないような気がしてきました。

この神示は、神さまの無限(無償)の愛、仏さまの大慈悲の表現なのではないかと・・・。

神さまが相手を赦せなくて苦しんでいる人間に、「赦せばすべてが救われるんだよ。」と、
切ないまでの大きな愛の心で、訴えられているような気がしてきました。

ただ、「本当の赦し(和解)」とは虚説に和解することではないので、
そこは気を付けなければいけないことだと思っていますが・・・。

「間違った言動」まで赦してしまうのが和解ではないので、自分自身の良心に反する行動や、
内在の神への信仰心に反するような「間違った教え」には、決して和解してはいけないのだと思います。

2764トキ:2014/02/24(月) 19:02:14 ID:0wHNOXro
「神様にお願いするには」

 あなたがお祈りになっても祈りの効果が思うようにあらわれないのは、
あまり複雑に面倒なことをいろいろと考えて、こんなことではこの祈り
はなかなかかなえられないかも知れないなどとお考えになるからです。

 祈りは自分の愛人に物言うように直接簡単明瞭で、「ねえ、あなた、
何何して下さい。して下さるにきまっているわね」と良人にあまえる
奥様のように、屹度その祈りがかなえらえるに違いないと云うことを
信じて、神様に話しかけるのが好いのです。姑さんに遠慮して物を言う
お嫁さんのように、オズオズと気兼ねがちに神様にいのっても、自分の
心の遠慮が絶縁的力になってその祈りが成就しにくいことになるのです。

 祈りが教会で人の見ている前で、人にきかれて恥ずかしいから上手に
唱えなければならないと、祈りの言葉を吟味して、名文でも朗誦しよう
と云うような気持ちになりますと、恥ずかしさやら、虚栄心や、知的な
工夫巧者などが混じりますから、それだけ雑音まじりで、神様にはっき
り通じないことになるのです。と云うよりは、神様の恵がこちらに通じ
ないことになるのです。もっとザックバランにお父さんに物言うように、
愛人に物言うように、祈りなさい。しかし、誰も肉眼に見える相手がい
ないのに大声で神様に呼びかけていては、人が気狂いかと思いますから
やはり神想観のときに、又は、神想観のときのように眼をつぶって、心
のうちで神様に、簡単な愛情のこもった言葉でお話しかけになるのがよ
いのであります。

新版 「真理」 第3巻 初学編 谷口雅春先生著、45〜46pより謹写

2765トキ:2014/02/24(月) 19:05:59 ID:0wHNOXro
(トキの感想)

 この場合の「祈り」は正しい祈りであることが大事だと思います。
その点を心得たら、とても安心できるご教示だと思います。

2766トキ:2014/02/28(金) 20:46:42 ID:RQOZFu86
「生かす力・癒す力」

 宇宙全体は神の”大生命”の海原である。一切の生命体を「無」の世界から生み出した
ところの「生かす力」「生み出す力」「生理作用を整える力」が宇宙全体に充ち満ちて
いるのである。その力が「病める者」を癒す力としてはたらくのである。すべての人間
は、この万物を生かし、すべての病を癒す”無限の力”に取り囲まれ、とりまかれているの
である。病気を癒されたいと思う人は、この”無限の力”に波長を合わせればよいのである。
 神想観をして次のように念ずるのがよい。

 「宇宙には神の癒す力が無限に充ち満ちているのである。

 私は今この神の癒す力に対して心を振り向け波長を合わすのである。

 神の無限の癒す力、今滔々と自分に流れ入り、一切の暗い考え、心配、取越苦労などを一掃し、
 生き生きとした生命力をもって全身の全器官全組織を満たし、全身を賦活して健かならしめ給い
 つつあるのである。

  刻々瞬々、私の全身の細胞は活力を得、若返り、一層健かとなりつつあるのである。

  この神想観を終わりたる後も、常に間断なく、大生命の癒しの力が休みなく私に流れ入って、
 最早や病の存在する余地を与えないのである。

 神の護りに感謝いたします。」

 新版 生活の智慧365章 谷口雅春先生著、60pより謹写

2767神の子さん:2014/03/03(月) 10:56:43 ID:5pNnMYt.
谷口雅宣先生の病気が早く治りますように。

2768神の子さん:2014/03/03(月) 12:43:32 ID:8OxTIoyM
いたって健康です。
ご心配無用。

2769うのはな:2014/03/03(月) 17:27:21 ID:0ebm3k/s

 『第二青年の書』よりhttp://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&amp;mode=res&amp;log=1234

2770トキ:2014/03/03(月) 21:04:05 ID:NDrvF/0Q
「機嫌の善さは万人を明るくする」

 「愛はよく耐え忍ぶ」ということは、愛深き人は、怒りや不機嫌を爆発さすとき、その影響
がどんなに多くの人に破壊的効果をもたらすかを知っているからである。御機嫌がよいと云う
ことはその人の心が明るいことであり、心が明るい時には、その人の持って生まれた智能がい
つもよりよく働くから、よき考えが浮び、よき仕事ができるということになるのである。心明
るき時には、不幸や災難の波長を受信することはないのである。心明るきときには肩が凝らな
い。筋肉が無理な緊張をしない。人が自分を侮辱して来ても腹が立たない。常に平和で、何事
も善意に受取ることができるのである。新しき智慧が涌き出で、新しき勇気を生じ、どんな逆境
も好転させる不思議なるインスピレーションを受け取ることができる。次の如く念ぜよ。

 「私は神の子である。神は光である。私は光の子である。それゆえ私は常に心が明るくて、
何事も光明面を見て暗黒を見ないのである。自分自身が光であるから暗が近づいてもそれを
光に変えてしまうことができるのである。」

2771トキ:2014/03/03(月) 21:20:01 ID:NDrvF/0Q
>>2770 は、新版「生活の智慧365章」 谷口雅春先生 142p より謹写です。

2773トキ:2014/03/06(木) 18:46:41 ID:aoV8gyjg
「各人の幸福にも個性がある」

 各人の幸福は、人それぞれの個性が異なり、絶対者の個性化であるから、その幸福にも人それぞれに
個性があり、しかもその人独特の個性ある幸福であり、絶対者の延長として先生えられた幸福であるか
ら、幸福それ自体、絶対性をもっていて、相対的に他の人の幸福と比較し得べきものではないのである。

 だから陶芸家となって日夜、陶土をいじり、窯をつくって楽しむことが無上の幸福である人も出て来
るし、彫刻家となって、毎日、原木に立ち向かって鑿を揮うことが至上の幸福だと感ずる人もあるし、
死の危険を賭してまでヒマラヤの氷壁をのぼる登山家もあるし、真裸で土俵の上で力を競う相撲とりに
なりたくで特にその弟子入りをする青年もある・・・色々書けば限りがないので、この位にしておくが、
みんなおのおの異なる幸福の天国をもっているのである。各人にとっては、それは絶対価値の幸福であ
って、他の人の幸福と比較しても甲乙の点数をつけようがないのである。

「如意自在の生活365章」 谷口雅春先生著、82〜83P より謹写

2774 a hope:2014/03/10(月) 13:01:17 ID:cEpBaIdo

生命の實相 第11巻 萬教歸一篇上 はしがきより抜粋  p2 10行目〜


たとえば大戦後、海南島に戦犯容疑で死刑囚として判決をうけて抑留されていた遠藤義雄氏は、次々と死刑を執行されてゆく同胞の姿を見て、自分の死刑の日も、もうほど遠くないと考えていた。


するとある日、死刑の執行に連れてゆかれる某大尉が、監房の格子戸から『生命の實相』第六巻(頭注版の第十一。十二巻のことすなわち本書である)と、『甘露の法雨』〔田中静壹大将が自刃(じじん)の際、読誦して机上に置いてあった生長の家の聖経〕を筆写したものとを抛(ほう)り込んでいったのである。

遠藤義雄氏はそれを読んでみると、肉体は人間ではなく、それは現象にすぎない、人間そのものは霊的実在であって不生不滅の実在であるという自覚を得たのである。すなわち「現象存在」は滅すると見えるときも「わが浄土」(実在界)は天人常に充満し、その不滅の天人が自己であるということを自覚するとともに、死刑の執行が少しも恐ろしくなくなった。

遠藤氏は監房な中にいては仕事もなく暇であるからこの真理の書を読むことを日課とし、それに書かれている神想観を、おおよそこうするのであろうと懸命に合掌して精神統一して禅定の境に入ったのである。すると、南方支那に処する監房のこことて、群る蚊が身体(からだ)一面に黒胡麻を振りまいたようにたかっていたが一匹も氏の血を吸うものがなくなった。

ベッドには南京虫が行列していたが一匹も遠藤氏を螫(さ)さなくなった。監房にいっさい衆生が調和している天国浄土の状態が実現したのである。遠藤氏の相貌(そうぼう)は明日死刑になるともあらないともわからない囚人のように見えない大安心に輝いてきた。まことに「地涌(ちよう)の浄土」が出現したのである。
(つづく)

2775 a hope:2014/03/10(月) 13:02:39 ID:cEpBaIdo
>>2774 つづき)

するとある日、中国人の看守が遠藤氏に、「君は大丈夫死刑にならないよ。わたしは死刑になる人をたくさん見て来たが、皆死相をあらわしている。しかし君の人相は光顔巍々(こうがんぎぎ)と大安心に輝いて死刑になる人の相貌をしていない。免刑の嘆願書を出したか」と言ってきいてくれた。

「実は軍に嘆願書をだしたがなんの反応もない」と言うと、

「軍などに免刑の嘆願書を出してもだめだ。蒋介石の中央政府に出すのだ。嘆願書をお前が書けばわたしが翻訳して中央政府へ無罪の嘆願の手続きをしてやる」と深切に言ってくれた。


遠藤氏の自覚がかわると、看守が大慈母大悲の菩薩に変貌したのである。かくて間もなく突如として中央政府から「無罪」の宣告文が送られて遠藤氏は九死に一生の奇蹟的生還をとげたのである。


唯心所現の世界はこのように、自覚がかわれば変わるのである。わたしはここにいたずらに奇蹟を必要をみとめない。本書こそ『生命の實相』の中でも、最も深い「存在の実相」が、壊(え)せず滅せず常住久遠のものであることを自覚する悟りに導く中心の巻の一つとして、ぜひとも無宗教の方にもあらゆる宗教宗派の方にも読んでいただきたいのである。    

合掌。


昭和三十八年 二月 十日             著者しるす

2776トキ:2014/03/10(月) 20:27:31 ID:sA8gBtFU
 本当の神というものはただ一つーそれは力が足りないということもない、愛が足りないこと
もない、われわれが悪いから神罰をあてるということもない、といってわれわれを悪いように
も造ってい給わない(われわれが罪を犯すように見えるのは本当の相ではないのであって、念
の仮作せる影であります)無限の力で、われわれとこの世界とを実に円満完全に神そのままの
相に造ってくだっさった神が本当の神であります。これが生長の家の大信仰でありまして、そ
のほかに不完全な神や、力が足りない神や、日本の神や、外国の神があって戦っているなどと
思うのはみんな迷信に過ぎません。生長の家の神というのも固有名詞ではないのでありまして、
生長の家において顕わされた宇宙神であります。

生命の実相 第3巻 77pより謹写

2777トキ:2014/03/13(木) 21:42:01 ID:YgQSZefk
「事業好転の思念」

 どんなに神に祈っても、問題が解決しない事があるならば、それは
あなたが其の問題をつかみ過ぎているからである。祈りは既に成就し
て、それは現実化しようとして其の途上にあるのだけど、あなたが其
の問題を心でつかみ過ぎているために、その現実化の通路がふさがれ
ているだけである。そんなときには、あなたの心をその問題から完全
に放してしまうのがよいのである。

 「この問題を神様あなたにおまかせします。わが意を成さんとする
には非ず、神のみ心のままにならしめ給え」と祈ることによって、
自己解放をとげ、自分の心を自由にするのがよいのである。「祈り」
と云うものも、執着をもって遮二無二祈るときには、自己の祈りの
念力によって何物かを成就しようと自力的に力むことによって却っ
て其の祈りの成就を妨げるのである。

 新版 生活の智慧365章 谷口雅春先生著、193pより謹写

2778SAKURA:2014/03/15(土) 16:45:03 ID:xF5rKKA.
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんにちは……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【 転載編…】

■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】     ― その1 ―
(生長の家家族の祈願および修養)     谷口雅春著  昭和46年初版発行

※「亡き父」が、良く読んでいた書籍のようです。…が?ボーダーラインがたくさんあり!父の理解は???
私なりに、今日は、心を静めて…初めてその書籍本のページを開いて見ますと、更に!ビックリするという…
現在の私の正直な心情なのです。…が?
しかしながら?ページが進むに従いまして…内容が現在の私にも理解しやすい形態様式になって行くようです。
では〜〜〜♫ 今回の投稿は?素直に開いたページ(神からの伝言?)でしょうか〜〜〜♫

尚!次回からは、この書籍本の最初のページ〜〜〜♫
■□ 「生長の家の意義・・・」についてから、順次にて投稿させて頂きます。

*========*【 いっさいのものを拝め ― その1 ― 】*=======*=======* =======*=======*

■われらは野を、野の花を、み空を、み空の星を、蒼海を、大地を、火を、水を、いっ
さいの大自然と生物とを観るに、その背後に神の生命の円相を観、その生命を敬し、
礼し、愛し、いやしくとも浪費せざらんことを期す。
                             
そこで、自分自身が神の子であると自覚した時に、次いでこの神の自覚が発動し動き出
した場合に神の子が活動する環境はどういう世界であるかというと、これは第一ヵ条のと
ころでいったとおり、無限創造の宇宙すなわち「生長の家」であります。仏教でいうと寂光
土である。寂光度というとちょっと平和すぎるので、活気溌剌たる「生長の家」すなわち無
限創造の宇宙だとわれわれはいううのですが、この無限創造の宇宙たるやどういうものであ
るかというと、聖経『甘露の法雨』の講義の時に申しましたように、それは無限次元の世界
である。

われわれの住んでいるこの三次元(縦・横・厚みの三つの広がり)の世界だけでもこんなに
美しい世界であるのに、それが無限次元の妙なる世界である。その妙なる世界が、この五官には
その全体の貌は見えないけれども、妙なる世界の“う”つ“しとし、写真として見える。
(たとえば写真ですが、実際のわれわれ人間の相 は写真に比べると、もっと複雑な相をし、もっ
と複雑次元を備え、もっと複雑な色彩を備えているのであるけれども、写真にはただ一色の平面
の姿に写っている。)それと同じに、われわれの五官で認識(みと)める三次元の世界では実相の
世界の複雑微妙な無限次元(ひろがり)の妙なる美しい世界が平凡な世界に見えているのであります。

 けれどもわれわれはこの肉眼で見るところの野を、野の花や、み空の星や、蒼海や、大地や、火や、
水や、いっさいの大自然や、生物や、いっさいの現象を見るのに、この第三次元の縦・横・厚みの
この下らない、単純な、味のすくない世界とは見えないで、その奥の奥を観て、実相を観て、もっと
無限に美しい円満な、完全な神の生命というものを観る、そうしてそれを敬し、礼し、愛し、いやし
くも浪費せざらんことを念願するのが生長の家の生き方であります。
                          
つづく

2779SAKURA:2014/03/15(土) 18:26:25 ID:78CkCzrk
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【 転載編…】

■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】     

(生長の家家族の祈願および修養)     谷口雅春著  昭和46年初版発行

*=======*【 いっさいのものを拝め ― その2 ― 】*=======*=======* =======*======*
>>2778 投稿の続きです…。

 「生長の家」は、ここに明らかに生命礼拝の宗教でありますが、原始人の生命礼拝の宗教とはちがう。
原始人は物の奥の奥にある実相などというものを知らない。だから生命礼拝といっても浅薄な現象生命の
礼拝であったので、現象そのものを不思議がって礼拝していたのであります。

この現象の奥の実相を観て礼拝することを教えたのはまず「法華経」であります。
生長の家と仏教とは根本において少しもちがっておりませんけれども、現在世人が普通に考えられている
仏教というものとはややちがうのであります。というのは、釈迦の説き方がわるいのではない、釈迦の説
き方を理解することが出来なかった後の祖述者が教祖の正説を完全に伝えなかったというわけであります。

仏教では「色即是空」――物質は空であると、こういうぐあいにいうのであります。

「生長の家」でも物質は本来空であるというのであります。仏教でもむろん「実相」という言葉は使って
おりますけれどもそいつが時々誤れまして、「“実相”すなわち空なり」というぐあいに説いている人が
多いのであります。
実相を空であるとすると、そうすると、その「空」とはどんなものであるかというと、空であるから、
空気みたいで、エーテルみたいで形がない。形がないから、何もないようなものであるから金剛不壊
である。たとえば空気はいくら斬っても斬れやしない。もう一つ空気よりも、手にも触れないエーテル
みたいなものになってしまうといよいよ斬ることができないものである、それであるから金剛不壊である。

実相はエーテルみたいなものであるから自由自在であると、こう実相を空々漠々なものとある仏教家は考える。
ところがもしわれわれの実相というものがエーテルみたいなものであって、空々漠々のもので無色透明の、
ちっとも美しいこともなんともない、そういうふうなものが実相であって、変化の姿、美しい姿というもの
は幻みたいな何もないものであると、こういうふうに説くまちがった仏教者に従って「汝ら実相
に還れ」という教えを生きることになるのが、仏教に従うことになってしまう。

これではさしずめ三原山や浅間山の噴火口が賑うことになるのでありますが、これではいけないのであります。

 空を単に無と解すれば実相というものはそんな空じゃないのです。空は現象であって、実相は空ではない、
それは無限荘厳の世界である。無限の荘厳(うつくしさ)のある世界なのであります。

ここが大切なところでありまして、『法華経』以前の仏教では「一切皆空」となっているのであります。
『華厳経』なんかでも、心・仏・衆生三無差別であって本来空のものである。心が悟れば仏になり、
仏が迷えば衆生になる。そうして仏といえども本来は空であって、なんにもないようなものであると、
こういうぐあいに説いてあるところがある。

そうするとわれわれ悟りを開いて涅槃寂静、本来の実相に帰するということは空になってエーテルみたいな
ものになることだとこういいぐあいに考えられる。そうなると、われわれは首でもくくって自殺してしまった
ならば、座禅も禅定も要りはしない。そういうエーテルみたようなものがわれわれの生命の実相であり、
それに帰するのが実相に帰するのだとしたならば、生きているのは何のために生きているのだかわからない、
こういうふうに仏教をまちがって解釈した人が多かったのが仏教衰退の原因なのであります。

                                つづく

2780トキ:2014/03/17(月) 22:32:02 ID:18XrI3jo
「供養の心と供養の実践」

 時には「供養の心さえあれば供養は要らないのではないか」という人があるが、
併し心があれば、行いが自然と現われることになるのである。先祖を大切にする
心があれば、自然にお祀りを大切にする訳である。心があれば何もしなくてもよ
いというのは、心がないという証拠である。たとえお坊さんであっても他家の先祖
の位牌を預かって祀っていて毎日読経をしていても、自分の先祖に対してお祀りと
供養がなされていなかったら、先祖供養をしたことにならないのである。

「人生を支配する先祖供養」 谷口雅春先生著、48pより謹写

2781a hope:2014/03/18(火) 08:20:40 ID:cEpBaIdo
「生命の實相」第11巻 万教帰一篇上 P21 後ろから2行目〜

神はその第一念によって実相の世界、大調和の世界、円満具足の世界、一にして多、多にして一、自他一体の渾然たる霊的実在の世界を創造し給うたのであります。この神の創造したまえる世界のいっさいの事物は、猛獣のように強いものであっても、強いなかに必ずやさしさがあり愛があり、美しさがある。虎や獅子を見ても、その勇猛なうちに美と優しさとを備えているのであります。もし、われわれ生物が、第二念に捉われない時代が来れば、預言者イザヤが次のように歌ったような理想世界が実現して来るのであります。

狼は小羊とともに宿り
豹は小山羊とともに伏し
獅子は牝牛のごとく藁を食い
犢(こうし)と若獅子とはともに草を食まん。

牝牛と熊とはともに子供に導かれ
食をともにして相ともに戯れん。
乳呑み児は毒蛇の窩(あな)の上を匍匋(はらば)い
乳離れの子は手を蝮(まむし)の窩(あな)にさし入るるも傷つかざらん。

わが聖(きよ)き山にはいずれの処にも
傷つくる者なく、殺す者なし。
そは海原を水の蔽(おお)えるごとく
大いなる神の知恵この地上に満つればなり。(『イザヤ書』第十一章――六〜九新訳)
(つづく)

2782a hope:2014/03/18(火) 08:21:46 ID:cEpBaIdo
(つづき)
こんな理想世界が果たして来るのであろうかなどと疑われる方もあるかもしれませんが、来るとか来ぬとかいうことは、われわれの第二念の世界(映像(かげ)の世界)だけのことでありまして、神の第一念の世界(実相の世界)においては神の創造の最初から無限の未来を通じて現在にこの理想的大調和の状態にあるのでありまして、これからいろいろ工夫し改善されて来るというような緩慢(まだる)っこいものではないのであります。今現に実相世界は完全に大調和の状態にある!これを悟ることが真理を悟るということなのであります。

この完全な大調和な理想世界が今現にあるということを悟らないで、歪な「迷いの色眼鏡」をかけて眺め、いたずらに相争い、相犯し、相恐れるものでありますから、真理の光線が屈折して、まん円(まる)いものも、歪な形を映し出しているのがこの現実世界であります。結局、これは「迷いの色眼鏡」をかけているがためでありますから、真理の正しい眼鏡をかけて事物を眺めるようにするならば、実相世界はそのままの大調和の状態がこの映像(かげ)の世界(現実世界)に現出するのであります。

キリストは「み心の天に成るがごとく地にも成らせ給え」と祈られました。この祈りは天(すなわち霊なる実相の世界)にはすでに神意が実現して大調和の状態にある証拠でありまして、「実相の世界」がすでに大調和の状態にあるがごとく、現実世界もまた大調和の状態を現出せしめたまえと祈られたのであります。

釈迦は『弥勒菩薩下 生経』において末法の世が過ぎ去れば弥勒菩薩が下生して来たまい現象世界にも大調和の世界が実現して来るということを予言していられるのであります。これはキリスト教で予言されているキリストの再臨ということにあたるのでありましょう。しかし、肉体は「念の映像(かげ)」でありますから、肉体をもった弥勒菩薩が下生して来られるとか、肉体をもったキリストがこの地上に再臨し給うとかいうことは、真実(ほんとう)ではありますが、「映像(かげ)すなわち肉体の世界」に捉われず、常に「実相の世界」を観たとき、現実の世界の不調和が忽然としてわれわれの眼界から消え去るのであります。そのさまはちょうど『黙示録』の第二十一章に書かれております。―――
(つづく)

2783a hope:2014/03/18(火) 08:22:41 ID:cEpBaIdo
(つづき)
○我また新しき天と新しき地とを見たり。
これ前の天と地とは過ぎ去り、前の海も亦(また)なきなり。
我また聖なる都、新しきエルサレムの、夫のために飾りたる新婦(はなよめ)のごとく備えして神の許をいで、天より降るを見たり。(『ヨハネ黙示録』第二十一章 ―― 一〜二)

このように新天新地というものは天から降って来るのであって、現実世界だけにいろいろ改造運動を施してでき上がるものではないのであります。天から地へと降って来るというのは「実相の世界」から「現実世界」へ映って来ることをいうのでありまして、完全な「実相世界」そのままの相を「現実世界」へ映し出すには正しいレンズがいる。

この正しいレンズとはなんであるかといいますと、真理を悟った心――すなわち「サトリを開いた心」であります。われわれが真理を知り、サトリを開いたときに、忽然「みこころが天になるがごとく地にも成る」――すなわち新天新地が「実相の世界」から天降って来るのであります。そのときに初めてわれわれは、「神と人とが一体であり、死もなくすべての悲しみもないのが人間の本来である」ことがわかるのであります。
(以下、略 謹写終わり)

2784SAKURA:2014/03/18(火) 11:26:31 ID:bVpYKXPA
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんにちは……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【 転載編…】

■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】  
(生長の家家族の祈願および修養)     谷口雅春著  昭和46年初版発行
*========*【 いっさいのものを拝め ― その3 ― 】*=======*=======* =======*=======*
>>2778>>2779>> 投稿の続きです…。

 けれども、『法華経』は決してこの、そういうエーテルみたいな、千遍一律の、空気よりも
まだまだ」はかないような同室平等な世界を説いているのじゃないのであります。
『法華経』の「自我偈」に書いてある実相の世界は、一様平等なホモジニヤスな世界ではなく、
実に実に美しい世界が書いてある。園林諸々の堂閣、種々の宝をもって荘厳せり、宝樹華果多く
して衆生の遊楽する所なりと書いてある。あれが本当の実相の世界です。

言葉に現わしてあるからまだ完全に現れていない。それはただ形容が書いてあるだけであります
けれども、あれが実相の世界であります。その美しい実相の世界が、われわれの五官のレンズ
を通して眺めると、そのレンズに曇りがあるからいまわれわれが肉眼で見ているような、こう
いう美しさやら、汚れやら、愛やら、争いやらが取り交ぜて現れている。美人もあれば、病人の
ような憔悴した醜い相もあるというふうに出ているのでありますけれども、本当のわれという
ものは「無限荘厳の我」である。活気溌剌たる無限に生きる力を持って、無限荘厳の身を持ち、
無限荘厳の世界の中に今現に住んでいるいるのであります。

今現にその実相世界に住んでいるのです。今現に住んでいるその世界を、肉体が死んでから
そういう無限荘厳の世界へ往くのだと思うとまちがいであります。衆生劫尽きて大火に焼かる
ると見る時にも、病苦にて痩せさらばうて貧しい病床にいるように見える時にも、今現に、
われわれは宝樹華果多き実相の国土に安楽身を逍遥させているのです。

今現に実相の国土にいるけれども、五官のスクリーンすなわち網目を通して、下へ映る世界は
縦・横・厚みだけしか映らない。それ以上のひろがりの世界はスクリーンの上にあって残って
いるので、われわれの五官という網目を通して見るとどうしても縦横厚みの三次元しか見えない。
その三次元だけでも完全に原形そのままに見えればよいのだけれども、念のレンズに凹凸さま
ざまの歪みがあるために、真直な顔が歪んで見えたり、近眼でもないものが近眼に現われたり
している。

それでその念のレンズの無明(くもり)というものを断ってしまったら近眼が近眼でなくなり、
あるいは、病人でなくなるといううふうになる。けれども、ここに健康になり、近眼の治った
人間でも、それが五官に見える現象人間である限り、まだまだ本当の人間ではない。
それは本当の無限荘厳の、無限の美しさ――その何といおうか、言いようのない、無限の妙なる
実相人間の姿を、ただ縦横厚みの三次元だけを撮影する写真機で映した人間なのです。

それからは無限次元の複雑な美しさ捨象(すて)られている、ただそれが比較的歪みなしに
映っているのは、健康な人間として扱われているのであります。

つづく

2785トキ:2014/03/18(火) 23:22:30 ID:h6GdR2gA
「過去」に感謝せよ

あなたの心の緊張を解きゆるめなさい。過去はないのです。今の苦しみも既に過去に刻々
なりつつあるのです。それらのものは全て過ぎ去るものに過ぎないのです過ぎ去るものは
実在ではないのです。実在でないところのものを捉えて悩んでみても仕方がないではあり
ませんか。心に重荷を背負わせてはなりません。過ぎ去るものが、如何にあなたに苦悩を
あたえたにせよ、それが過ぎ去るときには祝福と感謝とを与えなさい。どんな艱難も何か
の意味に於いて、あんたの魂に経験を与えそれだけあなたの魂に教訓を与えたのです。

 過ぎ去るものに御礼を言う心持になったとき、次ぎに貴方によって一層よきものとな
るのです。一切を祝福する気持ちになったとき、もう何ものもあなたを害することは
出来ないのです。すべて憎むとき怨むとき、心につかんで嘆くときのみ、それはあなた
を害するのです。

新版 生活の智慧365章 谷口雅春先生著 284pより謹写

2786SAKURA:2014/03/20(木) 20:36:29 ID:P.bDOuWc
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【 転載編…】

■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】  
(生長の家家族の祈願および修養)     谷口雅春著  昭和46年初版発行
*========*【 いっさいのものを拝め ― その4 ― 】*=======*=======* =======*=======*
>>2778>>2779>>2784 投稿の続きです…。

そうして誌友会さんの家庭生活等でも、「生長の家」へ入信して以来、本当に極楽のような
円満な家庭が出てきたという事実がたくさんありますけれども、たといそれが極楽のような
家庭でありましても、現象世界の極楽状態は本当の実相の極楽状態には及ばないのであります。

ともかく、われわれ現象を見ても現象だけを見てそれを全部だと思ってはいけないのです。
その現象の奥にある実相を見、そこに十分なる神の相、実相の円満な相を観て、そうして
それに対して敬礼をするという気持ちにならなければならないのであります。

蓮如上人は「一枚の紙もすべて仏物である」と言われたそうでありますが、その心持こそ大切である。

「生長の家の経済学」には「物質は無限供給であるから使うほど殖える」ということが書いて
あります。「使うほど殖える」から、紙でも無暗に一字ぐらい書いて紙屑籠に捨てると、これ
は大変経済循環をよくしていいことだろう、こう考える人があるかもしれない。
しかし、それは嘘である。本当に使えば使うほど殖えるけれども、それは破って捨てるのは使う
じゃないのです。われわれは一枚の紙にも、その背後に神の生命うを見、神の無限の光を見、
神の無限の愛を見、これを拝まずにはおれない。これを礼拝してつかわずにはおれない。

今までは「もったない」ということは棚の上に上げて蔵って置くとこういうふうな考え方が多か
った。それで「もったない、もったない、食べたらもったない。着たらもったない」と、戸棚や
箪笥に入れて置くという、これじゃいけないのです。

神の生命は、使ったら減るというふうなものでない。実に立派なものであるから、この立派なも
のを、その顕われている生命の働きを十二分に発展させて使えば使うほど殖えるということにな
るのであります。

無限供給であるから破って捨てるというのじゃないのであって、用途に従ってそこに顕われている
神の生命を使えば使うほど、神の生命がはっきり顕わされてくる、それが無限供給である。使えば
使うほど殖えるということになるのであります。

「物質は無い」ということはそこに何も無いということではない。

みんな仏物である、みんな神の生かす力の顕現(あらわれ)である。
その奥には物質ならぬ実相があるということであります。
これを履き違えると大変なまちがいになるのであります。

生命は生きる、生きるから生活であります。我れ神の子なりと知ったら、
神の子を今、生、き、る、といううこと、これが神の子を知るということであると申しました。
それをまた客観界のものにしましたならば、紙が一枚ここにある。この紙一枚が、その奥にある
実相を見れば、それが仏様であり、神様であって、ここに神の生命が現われているといううことを
知れば、それを生きるということは、ことごとく与えられたる生命を完全に発揮させるということです。

この「生命を発揮させる」ということが紙を使うということです。
すると使えば使うほど殖えるのであります。この一枚の紙の使命を完全に発揮させたならば、そこに
神の生命が生きてきて無限供給ということが出てくるのであります。

                          つづく

2787うのはな:2014/03/23(日) 18:16:08 ID:4pd1ccDk

思想理論よりも宗教的興奮
 http://blogs.yahoo.co.jp/vanon32/18172187.html

2788トキ:2014/03/24(月) 19:55:06 ID:LLKAImFM
「法華経」の中に説いてある譬え話、財宝無限の長者というのは、われわれの父で
あるところの神である。そして貧窮の子とは人間である。神は無限の富をどうぞ人間
に譲りたいと願っていられるのである。しかし肉体こそ人間だと思っている限り人間
は貧窮の息子である。肉体というものは物質であり、物質は有限であるから、肉体を人
間自身だと思っている限りは無限の供給はわれらに決して与えられないのである。

 本来人間は神の子であるから、そうぞして無限の供給を与えたいというのが、親
たる神の念願である。否、すでに戸籍の上では無限無尽の供給をわれわれは与えら
れているのである。それを迷いによって与えられていないと空想している。そこで
現実世界はわれわれの念の投影でありますから、その無限無尽の供給が与えられて
はいないという空想が現実界に反映して、われわれになくてはならぬものもたりな
いというような顕われ方をしている。これはただそういう顕われ方をしているだけ
で、実際はたりないのではない、神は無限無尽の供給であるからわれわれに対する
供給が足りないことは決してない。ただそう顕われているだけである。

生命の実相第11巻 125から126pより謹写

------------------------------------------------------------------

  画家の林 武先生は、義務教育の小学校のみが正規の学業で、日本美術学校
(これも正規の学校ではない)で学んだと云っても一年と続いていません。

 若くして樗牛賞を受賞、その後、「独立美術協会」を同志とともに設立、
当時より実力はかわれていましたが、長く不遇でした。しかし、奥様の献身的
な応援のおかげで成功し、文化勲章を受賞するなど、画壇の第一人者となら
れました。

 林先生は生長の家の信徒としても熱心な方でしたが、奥様にもめぐまれま
した。無限の供給を受けるのは、やはり家族の調和が大事かと思います。

2789トキ:2014/03/24(月) 20:38:25 ID:LLKAImFM
>>2786

SAKURA様

 すばらしいご投稿、ありがとうございました。

私も「無限供給」をお題に、投稿しました。

よろしくお願いします。

合掌 ありがとうございます

2790うのはな:2014/03/26(水) 13:05:43 ID:5d.jGat2

絶版になった谷口雅春先生の御本をここで読むことができます
 http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&amp;mode=res&amp;log=1340

2791トキ:2014/03/26(水) 21:11:13 ID:wPOoKL4Y
「声なき声の導き」

 人は神との一体感が深まって来るにつれて、「生命の本源」なる無限者との波長が一層ぴっ
たり合うようになって来、普通の肉体力や精神力では到底できないような奇蹟的な力を発揮す
ることができるようになるのである。

 これに反して、あまりにも心が物質的なものに捉われ、個人主義的な心の持ち方となり、
「全体生命」又は「普遍生命」なる神との波長が普通以下になって来たとき、普通の健全
生活が出来なくなり色々の心配事や不調和な争いや病気や事業の失敗等があわれて来るよ
うになるのである。吾々は常に心を調えて、大生命の”声なき声”の導きを心の耳で感じと
ることができるように修養しなければならないのである。それは少なくても毎日1回(出
来得べきんば早朝起床時と就床前との二回)神想観を実修して心のチャンネルを神に振向
け、神との交通の習慣をつけて置くことが必要なのである。そうすることによって衝突す
る汽車電車自動車などには何となく自然に乗らなくなるのである。

新版 生活の智慧365章 谷口雅春先生著、48pより謹写

2792うのはな:2014/03/28(金) 19:18:22 ID:9BQVgwDU

 『神ひとに語り給ふ』を読めるようにしました。光明掲示板・第二
  http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&amp;mode=res&amp;log=1412

2793トキ:2014/03/29(土) 21:36:46 ID:th4mVDzM
「声なき声の導き」

 人は神との一体感が深まって来るにつれて、「生命の本源」なる無限者との波長が一層ぴっ
たり合うようになって来、普通の肉体力や精神力では到底できないような奇蹟的な力を発揮す
ることができるようになるのである。

 これに反して、あまりに心が物質的なものに捉われ、個人主義的な心の持ち主と
なり、「全体生命」又は「普遍生命」なる神との波長が普通以下になって来る
とき、普通の健全生活が出来なくなり色々の心配事や不調和な争いや病気や事業の
失敗等があらわれて来るようになるのです。吾々は常に心を調のえて、大生命の
”声なき声”の導きを心の耳で感じとることができるように修養しなければならない
のである。それは少なくても毎日1回(出来得べくんば早朝起床時と就床前との
二回)神想観を実修して心のチャンネルを神に振向け、神との交通の習慣をつけて
置くことが必要なのである。そうすることによって衝突する汽車電車自動車など
には自然に乗らなくなるのである。

新版 生活の智慧365章 48p谷口雅春先生より、謹写

2794SAKURA:2014/03/29(土) 21:49:12 ID:8WDNj1FI
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【 転載編…】

■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】  
(生長の家家族の祈願および修養)     谷口雅春著  昭和46年初版発行
*========*【 いっさいのものを拝め ― その5 ― 】*=======*=======* =======*=======*
>>2778>>2779>>2784>>2786 投稿の続きです…。

 光明思想普及会(この仕事は、現在財団法人世界聖典普及協会がしている)が成立いたしまして、
たくさんの働く人が要るからというので就職希望の人は、就職希望願いを出しておきなさいという
ふうに、広告が出ておりましたら、それに対して、就職願いをお出しになった方がたくさんある。

そのすべての人に対してまだ返事を差し上げていないのであります。写真をみな写真ブックに貼り
ましてそれに番号を付し、そうしておのおの経歴を表のようにして写真と経歴とを一目瞭然として
わかるようにして事業の伸張するに連れてこの人が欲しいなという人を一人来て下さいというふう
に通知をすることになっております。そうして現在ではもう百名以上も社員が出来ているのであります。

ところが、こんな人がある。「実はわたしは生長の家の誌友になって実に自信に満ちておる、自分の
願うことは必ず成就すると信ずる、それで光明思想普及会へ雇われようと思ったら必ず成就すると
わたしは信じて、今まで余所に働き口があっても、働かずに何にもしないで待っておりましたが、
とうとう一文も無くなりましたから、どうぞ使って下さい」という人があります。

なぜこの人は働き口があっても働かなかったのでしょうか。今自分が神の子であるということを
知ったら、今「神の子」を生きるということを知らなければならないのです。

 この一枚の紙ですらも、この一枚の紙の使命を発揮させるということが生きるということである。
いわんやここに人間がいるのに、今を生きるということを知らないで「自分の希望は必ず成就さして
くれるであろうから、成就さしてもらったら、雇ってもらったら働こう、それまではまァ待命だ」と
こう思っている――会社や軍隊なら待命があるかもしれませんけれども、この宇宙という「大生命の
会社に」には待命の期間というものは一つもないのです。

今ここに自分が生命として現われている限り“も”う“常”に“現”職“です。現職ではない人は一人
もないのです。それを自分で勝手に休職にしているから金も入らなくなり、あるいは病気の人なら
どんどん身体が弱ってくるのです。
これは自分の生命を休職にさしているからです。生命を休職にさしていたら経済的には窮迫し、
肉体的は生命を生命を涸渇してくるのは当然のことです。

われわれは常にこの「宇宙大生命の大会社」の中に常に現職で雇われているということ
を知らなくちゃならないのです。そうすればどこにいても現職の社員であるから、一生懸命に
今働かなくちゃならない、これが肝腎であります。

今、普及会に働いておられる人でも、雇ってあげるといわないうちから、勝手にやってきて
一生懸命荷造りしたり外部で一生懸命に宣伝していたような人が多いのです。
その中に「あの人あんなに頼まないでも働くのだから入社させて上げたら」ということになって、
社員になっておられる人もあります。

こんな人は、光明思想普及会の就職の辞令はずっと後に出たかもしれないけれども、実相では宇宙
大生命の会社に就職していた人です。

ところが、じっとしないでいましたら、無一物になりました。生長の家を信じたら無限供給だと思
って、信じてじっとして待っていたのですからぜひやとって下さい」と、そういうようなのは、
ちょっと根本の解りようがまちがっているということになるのであります。
常にわれわれは自分の生命を、あるいは「物」の生命を、百%生かすということが必要なのであります。
人間雇われなくても、大生命に雇われて働けるような人でなければ、本当に雇ってみても本当に働けや
しないのであります。
                      つづく   (次回は別の項目に入ります。)

2795SAKURA:2014/03/29(土) 21:51:24 ID:8WDNj1FI
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【引用編】

■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】  
*========*【 いっさいのものを拝め ― その5 ― 】*=======*=======* =======*=======*
>>2778>>2779>>2784>>2786>>2794 投稿の続きです…。

PS:「トキ様」 へ 「観覧車の皆様」 へ
■“今を生かす…”は『生長の家の教え…』であり、
これは“今”生かす事とは、『心を生かす事…』に繋がるように思えてなりません。

そして、当時の『生長の家の職員…』のあり方が、よくわかります。…が?果たして?生かす事とは……
「信・者」に対しての“愛”は、何処まで実行されているのかしら〜〜〜ンと考えますと?
「過去」も「現在」も〜〜〜何一つ変わっていない感じですネ!!
■「言葉の表現…」一つでごまかすようにも、受け止められ、実に読んで複雑なる気分です。
「生長の家の職員同士」の世界観は?一人よがりでしょうか?同じ立場での『連・帯・感…』が?
どうしても?見え隠れてしまうのは、私だけなのでしょうか??

東京在中に、当時の副会長さんは「職員の方」は、本当に
『生長の教え…』よりサラリーマン的感覚での『雇・わ・れ・て・い・る…感覚』が多い感じで?〜〜〜と、
いわれていましたが、当時の私は、私なりの現状での捉え方で、それには「反・論…」したものです。
今だから笑い草となりますでしょうか?あれから時が過ぎ…現在の私は?といいますと〜〜〜ウ・フ・フ!
当時の副会長さんと同じような事を言っていますから、
何の変化も〜〜〜進歩も〜〜〜ない感じでしょうか?
つまり〜〜〜『 時間よ!そこに……停・滞… 』という事でしょうか? 


更に!私も、現在の環境は「吸血鬼」「ゾンビ達…」更に「タタキ男…」は【黒幕デザイナー】からの
仕事が出来ないようにという指令での【行・動…】でしょう。??

■【障害者虐待…法的に持っていけるモノ】かと思います…。

此処昨今〜〜〜パートナーの叔父様が亡くなられてからは〜〜〜嫌がらせはすごいです。このような状態での
私は、“今”を生かす事とは〜〜〜“心”生かす事につなげないと〜〜〜前!に一歩も進めないのです。
…が?生かす事は〜〜〜「行・動…」にもなるのです〜〜〜ネ!!

更に【唯物論−−>物質】に対しても、そうなのです〜〜〜ョネ!
個人的にですが〜〜〜【東京在住の時は?履き道楽…】といいますか?モトモト……私自身【靴の購買】は
どちらかといいますと【履き道楽…族】という風に〜〜〜多い方です。収入が安定になりましてから、
【靴のバーゲン】を目にして見ますと、当時!若い私は〜〜〜そく【購・買…】になる方でした。
かといいまして〜〜〜それをすぐさま履くのかといいますと〜〜〜><逆で!当時の「環・境」で言いますと
歩道が舗装された“デコボコ道”履けないという拒否反応が〜〜〜潜在意識に!!!

■モッタイナ〜〜〜イ!!モッタイナ〜〜〜イ!!ツイツイ〜♫ タイミングが〜〜〜><
新しい靴を出してまでとか?今は履かないで先でといいといいます感じでの【先延ばし組】……

気がつきますと?年数がたち、また!それなりの流行が〜〜〜当時の流行とは異なり〜〜〜><
しかしも、私自身の体型が“フクヨカ”になりましたから、履く内容の条件が、随分と当時と比較しましても
縁遠いという感じで…気がつきますと【靴箱の中に〜〜〜箱の中に〜〜〜】そのままですし、それから
“年齢…”によります志向が変わり、今にして思いますと【唯物論=物質】も〜〜〜“今活かす事!”
改めて…痛感しております。

現在!【靴・箱…】から、また新たに「昔の靴を活かす事」…これに専念しての挑戦で〜〜〜す。
これも“心…”が入るのではと思えます。…が??皆さんもそのような体験はおありでは…?

「心…」が動けば「言葉…」に現われて「動…」になりそれが「活かす原・動・力」でしょうか??
「活かす事…」とは「心から〜〜〜働く」と思いましたが???皆様もそう思われませんか???

■□「トキ様」には【辛・口・論】ですが、「現職員」としての立場からの……
【 生長の家 】について……
“今”活かす事とは?「森のオフィスへの本部移転…」また「多々なる方針の変更」
そして「気候の変化による自然との共存」…etc総合的な観点での…現状の感想は如何でしょうかと??
このような質問をさせて頂きました次第です。…が??

                                      再合掌

2796SAKURA:2014/03/30(日) 19:53:04 ID:Y2.AuFrY
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【 転載編…】

■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】  
(生長の家家族の祈願および修養)     谷口雅春著  昭和46年初版発行
*========*【 われらの祈願および修養 ― その1 ― 】*=======*=======* =======*=======*
>>2778>>2779>>2784>>2786>>2794>>2795 投稿の続きです…

■>>生長の家の意義と誕生について<<
 これから「生長の家家族の祈願および修養」の講義の概略を申し上げます。生長の家の家
族たち誌友たちの祈願として修養せんとするところの箇条書がこれに書いてあるのであり
ます。順々にそれを説明いたします。

■>>『生長の家』の誌友および読者はすべて「生長の家」の家族としてこの祈願に従いて、
生活し、修養し、おのおの隣人を照らす燈台たらんことを期す。<<

 ここに書いてありますとおり『生長の家』の誌友および読者すべて生長の家の家族とい
うわけでありまして、これから述べる祈願および修養の道しるべに従って生活し、そうし
て隣人を照らす燈台となろうという光明の大願をもって各自の生活を出発せしめるのであ
ります。

 そもそも、この生長の家というのは何であるかといいますと、最初はわたしが修養雑誌
を出したその雑誌にたまたま付けられた名前ではあったのですが、しかしながら本当の
『生長の家』というのはこの雑誌の名前ではない、といってまたわたしの個人の家の名前
でもないのであります。

 「家」というと、何か屋根のある、ある一定の建物のような気がするのでありますけれども、
『生長の家』というのは『大宇宙』ということであります。「生長の家」というのは創造する
ことで、いくらでも無限に創造し伸びてゆくのが宇宙の実相である。だから大宇宙のことを
『生長の家』と申しますので、この大宇宙に満ちている生命創化の法則を研究し、その法則を
宣べ伝えて、広く人類を教化しようという目的の団体を現在「宗教法人生長の家」と称されて
います。

 「宗教法人生長の家」と「大宇宙」そのものなる「生長の家」とは別物であります。で、こ
の「実相世界」のことをわたくしどもでは「生長の家」とこういっている。仏教では「寂光
土」という言葉を使っているのであります。これはその形容がなんとなく静的すぎる、ち
ょっと眠たいようなあんまり平和すぎるような、活気のないような言葉でございます。わ
たしは実相世界を形容するのに、そのように活気のない言葉を使いたくないのであります。

無論、この寂光的な平和の極の世界だというような一面も「実相世界」にはあるのでありま
すが、そういう静的な、活気のないような状態をあらわす言葉では「実相浄土」の無限に光
明 輝く、伸び伸びしい生き生きした状態を現わすことができないきらいがありますので、、
われわれはこの実相浄土を表わすのに、常に老いぬ、無限に若いような、活気溌剌たる少
年のような感じを出す言葉を使いたいと思って、『生長の家』といい、仏教では「寂光土」
を現わしているのであります。

                       つづく

2797SAKURA:2014/04/01(火) 18:43:02 ID:.mG0mT4Q
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【 引用編…】

■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】  
(生長の家家族の祈願および修養)     谷口雅春著  昭和46年初版発行
*========*【 われらの祈願および修養 ― その2 ― 】*=======*=======* =======*=======*
>>2778>>2779>>2784>>2786>>2794>>2795>>2796 投稿の続きです…

PS:「トキ様」 へ 「観覧者の皆様」 へ

■或る人から「生長の家…の家族」との意味を、当時の私は、履き違えて解釈した事がありました。
ここで「亡き両親」のテキストの中には、一杯の“ボーダーライン”が引いてありました。
そこで「亡き父」は、当時の父なりの解釈に基づき「生長の家…の家族」と言うことで、
近所の方に、奉仕した事!!さらには、献金も……今にして思いますと、当時の「亡き両親」の時代は、
誰しもが〜〜〜素直な心であり〜〜〜理解力はと言いますと〜〜〜??

さて私の時代になりましてから、そう【日教組の教育論…利己主義…】ですから、
【すべて…合理的に思考する方が、実に多いのです。…が?】当時の私も、都合のいい解釈論でしたが、
今にして思いますと、もっと身近にこの「生長の家の書籍本」と「海外の哲学本」を拝読しておりましたならば、
このような遠回りには、ならなかったでしょう〜〜〜♫ と、改めて思う次第です。

>>無論、この寂光的な平和の極の世界だというような一面も「実相世界」にはあるのでありま
すが、そういう静的な、活気のないような状態をあらわす言葉では「実相浄土」の無限に光
明 輝く、伸び伸びしい生き生きした状態を現わすことができないきらいがありますので、、
われわれはこの実相浄土を表わすのに、常に老いぬ、無限に若いような、活気溌剌たる少
年のような感じを出す言葉を使いたいと思って、『生長の家』といい、仏教では「寂光土」
を現わしているのであります。<< (一部抜粋)

上記の文章から、本当に【実・相・浄・土】とは、何処までも“神と一体になれたか??”…が?
…ということではないのでしょうか?
つまりは『信じきる…神にゆだねきる心』そのモノでしょうか?

つづく

2798SAKURA:2014/04/01(火) 18:44:58 ID:.mG0mT4Q
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【 引用編…】

■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】  
(生長の家家族の祈願および修養)     谷口雅春著  昭和46年初版発行
*========*【 われらの祈願および修養 ― その3 ― 】*=======*=======* =======*=======*
>>2778>>2779>>2784>>2786>>2794>>2795>>2796>>2797 投稿の続きです…

■ 私が当時東京在中の頃ですが、当時の「副会長」さんは、どれだけ『神と一体になれるか?』が、
『神様との連絡が出来るかが〜〜〜大事なのョ!』と言われました。当時の私は、まだまだ信仰が浅く、
【現象で物事を決定しやすい…真理の浅さ】が、如実に物語っておりましたかと…『反省…』なのです。

更に、どんなに表面上ごまかしても『心…』と言いますのは、その人の『心の目…をみればわかるのョ〜♫』と、
よく!私に言っておられました。…が?今にしますと〜〜〜本当にわかるのですネ!!

当時の「副会長」さんとは「会長候補」にあげられた方です。…確か?当時の教化部長先生であられました
(最近まで「大阪教化部長…妹尾先生」で…)が、推薦された方でもありましたのです。〜〜〜><
 ■『数・の・論・理…』で、残念ながら?「○本会長」が、選出されました時、妹尾教化部長先生が、
「○○副会長」として…補佐になりましたからと話された記憶があります。
今に思いますと、お会いするたびに〜〜〜「美しい人…」と言っていいのかしら〜〜〜ン!
「年・齢」は、まず!第一印象としては?感じられませんでしたが、最後にお会いしたのが〜〜〜
80歳近くなられていましたでしょうか?益々と〜〜〜モット!モット!それ以上に『心から聡明な感じ』を、
抱く方でした。…が?当時の私は、随分!「副会長さん」に甘えてばかりで……したかと。

一つ思い出したのが…当時「萩窪に在中の頃」の事なのです。【引っ越し…】がしたくて〜〜〜それでも
“年齢…”と言う制限があり、どうしても【保・証・人…は??】この事が直ぐ浮かんでしまいました。
このような時に「副会長さん」の誌友さんが…この先生に『賃貸の保証人』を依頼されたとか?その時に
「副会長さん」は

『まず〜〜〜「実・相・顕・現…」をしますと〜〜〜もう!すでに与えられたと
思って行動されなさい!そして、いつも神に、もう私は素晴らしい処に移り住んでいます〜♫ と…』

これを【言・葉・の・力…】で祈りきる事を指導されたそうです。

その後!半年後に『保証人も無く…夢のようなマンションに引っ越しが出来た事』この体験を話して下さいました。
更に!詳しい事情をお聞きしますと〜〜〜ご主人が会社を首になりまして、収入が無い最中での出来事で、
このような素晴らし〜〜〜い!住まいを与えられたと……それはそれは…当時の誌友さん達に、ご自分の事の
ように、うれしそうに話をされていましたのです…。
この時の私は「ひねくれ虫?」でしたから…ホントにホント!!〜〜〜作り話とか?思ったのです。…が?

■【神と一体=心地一体】とは、どこまで神にすがることが出来ますかと、そうなのです〜〜〜ョネ!
そこには「悩みも無い世界」が〜〜〜そこに現われる事になり…ようやく今の私は、理解出来た次第です。

今は【感・謝…】出来るし、嫌な出来事でも、それを理解することができる事…この事が、モット!
重要な気がしまして、その時に、「谷口雅春先生の言葉…」から 〜♫

>>われわれはこの実相浄土を表わすのに、常に老いぬ、無限に若いような、活気溌剌たる少
年のような感じを出す言葉を使いたいと思って、『生長の家』といい、仏教では「寂光土」
を現わしているのであります。<<  (一部投稿)

■□【実相浄土…】に入って行くのは〜♫
【 私の心=神に何処まで信じきる事…が出来るかが?? 】…それは【神・想・観…】意外に無いと、
言いきるようになりました。でも〜〜〜なかなか〜〜〜難しい?修行中です。(微笑)

                          再合掌

2799トキ:2014/04/02(水) 21:06:34 ID:DmFbtC8k
>>2798

SAKURA様

 立派な講師にお会いできて幸いでしたね。
こういうロールモデルに遭える事は、ものすごい財産だと思います。

 今度は、SAKURA様がみんなの見本になるように、頑張って下さい。
期待しております。

合掌 ありがとうございます

2800トキ:2014/04/02(水) 21:24:31 ID:DmFbtC8k
「上役のやさしいコトバ」

 人は本当に自由になったとき、責任感をもち、真面目に仕事をすることができるのである。
業主は従業員を自分の息子又は娘であると感じて、その幸福のために誠心を尽くしてやるべ
できである。誠心は誠心を招び出し、冷酷は冷酷を招び出すのである。冷酷なる親に対して
は子は親不孝になるのは当然である。子は親の愛を感じたら、親に対して反逆の心を起こし
たりすることはないのである。

 従業員は概ね貧しいのである。その生活には苦労が多いのである。その上経営者から辛く
扱われてはたまらないのである。経営者はもっと従業員の生活の苦労を軽減してやるように
意を用いてやれねばならないのである。上役のやさしいコトバや、同情ある態度、思いやり
ある扱いが、これらの従業員を明るい温かいものにしてくれるのである。人は何の位置にお
かれても人に愛を施すことができるのである。

新版 生活の智慧365章 谷口雅春先生著、242pより謹写

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 その前にちょっと考えて欲しいのは、大学病院の先生が全員、態度が悪いわけではない
ということです。ひとくちに大学病院としっても、医者の態度がものすごく悪い病院と
いい病院がある。その違いはどこからくるか?

 以前、東北大学医学部の老年内科に行ったとき、その理由がわかりました。

 と、言うのも、その老年内科の教授というのが、非常に人格者で、患者さん
にも若い医者たちにも、そのすごく愛想がいい。そればかりか、患者さんに
呼ばれたら、診察時間外でもいつでも、ホイホイと病棟に飛んで行くのです。

 だからその老年内科では、医局員全員、とても愛想がよく、サービス精神が
行き渡っていました。

 つまり、トップの問題だったのです。トップが患者さんにサービスするのが
当たり前だと思っていたから、それが全員に徹底されていたのです。それまで
威張っていたような人でも、自分より偉いトップの腰が低かったら、自分だけ
威張っているわけにはいきませんから。

「医学部の大罪」 和田秀樹著、ディスカバリー携書113 185pより

2801SAKURA:2014/04/02(水) 22:01:39 ID:CkiET3/Q
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。

>>2799 「トキ様」 から頂きました…“言葉…”(此処にての返事…申し訳ございません。…が?) 

>> 立派な講師にお会いできて幸いでしたね。
こういうロールモデルに遭える事は、ものすごい財産だと思います。<< (一部抜粋)

本当にそうなのです〜〜〜ョネ!
私も、ここ最近まで、『感・謝…』は??と云いった感じでしたが〜〜〜><
「雅春先生」の今回の書籍本から、更に「カーネギーの書籍本」の中に〜〜♫〜〜

■【 神との一体感は〜〜〜〜? 】

そのように本を、拝読していきます内に、私の内部の“心の変化…”が生じてきたのです。
そして「副会長さん」のいつもの“言・葉”から、そのさりげない“シグサ”とかが、
思い出されます〜〜此処昨今でもあります。

本当に【素晴らし〜〜〜イ!素敵な講師】に会えたと思います。当時は、その認識が…不足していたように
思います。いつも!いつも!私達の身辺を心配されていたようです…。連絡を…一時とだえておりました時も
遠くから〜〜〜思念!聖使命…!こっそりして頂いておりました…。

実は!この「副会長さん」は〜〜〜【わたしの日時計日記】の管理人さんと同じ…
「津田塾…○期生」であられたそうで、そして、
当時の独身時代の職業は、『パン・アメリカンSW』でしたと…さらには「生命の実相」の中にも…
嫁がれた先の家……「家・名…も有名」のようなのです。…が?
「副会長さん」は、義理のお母さまが亡くならました時に、私どもに涙ながら…

私にも(副会長さん)にも、反対されていた結婚のようで【遺・産・の・分・与】を〜〜〜頂いてと!
反対されていると思っていましたら…このように、私にも分与の遺産を……泣きあかした事を…
それから〜〜〜必死に【生長の家の貢献…】をなされましたようです。…が?

■当時の私は【反・抗・期…】そのモノで…今にして思いますと、
当時!「副会長さん」の言葉!一つ一つが思い出されます…。
(当時の方針にて仕方なく動いていた事(上からの枠)が、此処の投稿させて頂いている内に、
理解する事が出来ました次第です…。)

今度!東京に上京しましたら、一番に〜〜〜お遭いしたい方だと、正直思っております…。
最後に…3年前に見ました時の姿が…印象的で…今でも、お元気なのでしょうか???

                          再合掌

2802SAKURA:2014/04/03(木) 22:07:33 ID:qG1K.PNs
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【 転載編…】

■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】  
(生長の家家族の祈願および修養)     谷口雅春著  昭和46年初版発行
*========*【 われらの祈願および修養 ― その4 ― 】*=======*=======* =======*=======*
>>2778>>2779>>2784>>2786>>2794>>2795>>2796>>2797>>2798>>2801投稿の続きです….。

■『法華経』の「寿量品」の「自我偈」には「衆生劫尽きてこの世が焼け尽くると見える時にも
わが浄土は壊せず」ということが書かれているのであります。が、その衆生がこの世を焼け
つくると見、憂苦が充ち満つると見ても、そういう憂苦満ち破壊満つると見える娑婆の
世界は、活動写真のような、念の化作した偽存在の世界であって、本当の世界には天人
が伎楽を奏している美しい堂塔伽藍が建ち並んでいる実に立派な世界、これが寂光土であ
る、そういうふうに書いてあるのであります。

寂光土といえば空な何もない静のほかには、何もない世界かと思ったら、天人が伎楽を奏し
歓楽が満ちている、喜びが満ちている、美しさが満ちている、無限の智慧が満ちている、
無限の喜びが満ちている、無限の楽しみが満ちている世界だと書いてある。そういう実相の
浄土を称して寂光土というのには相応しくないような気がする、やはり無限創造、無限伸展の
世界と言いたい、無限「生長の家」だと言いたい、それでわれわれはこの実相の浄土を無限
創造の「生長の家」と言うのであります。

この生長の家なる実相が仮に世界に影を投影して現われたのが、地上の「生長の家」で
あります。皆さんのお宅も実相の善さが顕現したら皆ことごとく生長の家であります。

この「実相の浄土」たる「生長の家」が地上に形を映して、文章に――その言葉の響きの現
われたのが、最初この『生長の家』という雑誌であったわけであります。その雑誌は最初、
昭和五年の一月に本当は誕生したのであります。その前年の十二月に、わたしがちょうど
関東大震災受難後二回目の泥棒に遭いまして、すっかり物がなくなって、それが機会に無
一物の「今」のうちに無限の力が宿っていることが本当に悟れて、「今」起たなければ、「今」
生きなければ生きる時機(とき)はないのである、現象的の条件が備わってから自分の使命
を遂行しようというふうな、そんな“あ”ま“い、”ま“だ”る“っ”こ“い”ことを考えて
いるようなことでは本当の生きる道はない、「今」の一瞬にいっさいが包蔵されているから、
「今」欲することに取りかかろうという大決心をいたしまして、十二月にさっそく家を移転
してそれから執筆を始めまして一月元旦には最初の第一号が出たのであります。

                      つづく

2803SAKURA:2014/04/06(日) 23:34:40 ID:bGw2IpeM
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【 転載編…】
>>2778>>2779>>2784>>2786>>2794>>2795>>2796>>2797>>2798>>2801>>2802 投稿の続きです….。

■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】  
(生長の家家族の祈願および修養)     谷口雅春著  昭和46年初版発行
*========*【 われらの祈願および修養 ― その5 ― 】*=======*=======* =======*=======*

 ちょうど、その頃のは、わたしの著書の読者や、友人の雑誌の書いたわたしの文章を読
んだ人でよく手紙をよこしておられたような人たちが百五十人ばかりありました。その百
五十人の人たちに、新しく印刷した雑誌『生長の家』をお送りしたのであります。千部印刷
いたしましたけれども、知っている人は百五十人ぐらいしかない。そうして、弘めようと
いってもむやみに無駄に振り撒くわけにもゆかない、因縁のない人にあげて紙屑にされる
のもつまらないことである。それで、百五十人ぐらいの人たちにニ、三回ぐらいずつ上げ
て、誰か知人にやってくれませんか、いくらでもほしい人には上げますからというふうな
具合にして送っておったのであります。

それがちょうど昭和五年の一月の初めのことでありましたが、納本後二カ月の余裕を持たし
て創刊号の発行日は三月一日として印刷しておいたのであります。『キング』や『日の出』
は発行日の前月五日頃の出る、『生長の家』は前々月末に出たといううようなことになって
いた。というのは、最初の創刊号によって誌友を獲得して、どれだけの部数が出るかだい
たい見当をつけてから次の号を出したいので、一ヵ月のうちに誌友を獲得することはとうて
いできないので、その間に二ヵ月間の余裕を置いておきたい、とこういうのでその年の一月
の終わりごろの納本された雑誌に三月一日発行と日付して出しておったので、公の創刊号
発行記念日は三月一日ということになっており、これが、三月一日なら時候もよいので、
春季の生長の家記念日と後に定められることになったのであります。

                  つづく


PS: 「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ

当時の時代背景をみますと「創立者…雅春先生」が『生長の家…灯』をと立ち上がられました当時の
運動展開は〜♫ 正直申しますと…深い思慮の上で『無理難題が無〜〜〜イ』
そうなのです〜〜〜ョネ!『石橋を叩いて渡る…?と申しますか…地道に!シッカリとした光明化運動』を
感じる次第です…。

そうしますと…現在の【運・動・展・開…】は如何なモノなのでしょうか?

『2代目清超先生』からなのでしょうか?

■『数・の・論・理…優・先?』この事が…先行きの運動展開に陰りを…及ぼす事となり…敗因の一つでは?

しかも『少子化』この穴埋めをするように『光明化…国際運動』この事に…「栄える会を中心」に、
余りにも地盤である『日本国内の信者』を おろそかにした感が個人的には感じられます…。が?

毎回【 ボランティア… 】中心の行動のように「各本部講師のフェイス・ブック」を拝読しますと…
そのインパクトが…余りにも強く感じる次第です…。
理想としては〜〜〜やはり「真理の言葉…」「ご本人の体験談」…多少なりともその中に…取り入れて
「悩める人々へ」…【信仰団体としての…使命】を伝えて頂きたいものです〜〜〜ョネ!

従いまして「いつも…ボランティア!」感じますような…現状では?個人的には、この事は?
難しい〜〜〜問題のように受け止めている次第です…。

                             再合掌

2804訊商業:2014/04/07(月) 08:54:09 ID:???


『生命の實相』14巻31頁より謹写――

◇ 猫と雛鳥とはかくのごとく調和している

 昭和九年五月六日、わたしは上京しまして、浅草富士小学校で講演しました際に、千葉の松崎武雄という人が来ておられまして、こういう話をされたのであります。数年前、松崎君は百姓愛道場の江渡狄嶺さんの著書『ある百姓の家』というのをお読みになった。その中にこういうことが書いてある。江渡さんが鶏の雛を飼っておられた。それを泥棒猫がねらって、ともすれば捉えて食べてしかたがない。そこで江渡さんはある方法を考えつかれた。それは「兄弟なる猫よ、兄弟なる鶏の雛を食うなかれ」と紙に書いて鶏舎に貼り付けて置かれた。するとその日から猫が鶏をねらわなくなった。そこまではよいのですけれども、数日後に付近の線路で轢き殺されている猫を見いだしたというのであります。これはまさか泥棒猫がその貼り紙を見て、もう今後鶏の雛を食べるわけにはゆかないと思って悲観の極自殺したわけではありますまいが、雛鶏との間は江渡さんの愛の念波で調和してしまったけれども、猫自身に不調和な心が残っていて、その不調和な念の具象化として、その猫は轢殺されてしまったのであります。

 ところが松崎武雄君のお宅でも雛を飼っておられた。その雛を猫がねらってしかたがない。そこで松崎君は江渡さんのように貼り紙はせられなかったが神想観して、「猫と雛鶏とはその実相において完全に調和している。決して噛み合い殺し合いなどは存在しない」ということを念じられたのであります。すると不思議や、それ以来猫が雛鶏をねらわなくなったのであります。しかしその場合は、江渡さんの場合のように猫が殺されてそこにいなくなったのではない。猫はちゃんとそこにいる。そして猫と雛鶏との間が調和して猫が雛鶏をねらわなくなったのであります。

<了>

2805訊商業:2014/04/08(火) 11:13:31 ID:???


『別冊 真理』108頁より謹写――

◇ 今迄の宗教は何故人類に平和を持ち来たさなかったのか

 大体、生長の家の教が今迄の宗教と違う点は、今迄の宗教というものは、心を直すにしても、〝悪〟を認め、〝悪〟を認めて、そして、〝お前は斯う云う有様に現れているが、斯ういう有様でいてはいかんじゃないか〟と云うふうに、その現れている悪い姿を見詰めさせて、〝よくよく此処を直すようにしなければお前はいかんぞ〟とか、〝此処がお前は悪いんだ。こんな罪を犯していたぞ〟と言って責めて反省させますので、その人は〝自分は「罪の塊」じゃ〟と斯う云う観念が潜在意識に植えつけられて、その結果、自分は悪人だ、罪人だと云う観念が自働して、それが具象化して「悪」があらわれ、「罪」があらわれて来て、人類を救おうと念願すれども愈々益々「悪」があらわれ、「罪」があらわれて来る結果となったのです。

◇ 教祖に背いたことを自覚せぬ弟子たち

 だから釈迦牟尼世尊、イエス・キリストをはじめとしてその他無数の偉大なすぐれた宗教教祖が出て来ましてもそれで人類が道徳的に善くなったかと言うと決して善くなっておりません。それは何故かと言うと、釈迦牟尼世尊やイエス・キリストは真理を正しく教えたけれども、その教を祖述する弟子が、その教祖先生たる釈迦牟尼世尊や、イエス・キリストの教えられた真理を伝えるとき、それを歪めて伝えたからであります。すなわち人間の「実相」の完全さを観る様に教えることをわすれて、あべこべに現象の「悪」を見て、その「悪」を直せと教える様になったので、「悪」を見詰めれば、「悪」があらわれると云う心の法則によって「悪」が消えないことになっているのであります。キリストでも「我れ神の子なり」と説き、「我れ往きて汝ら来るなり」と説いて、すべての人間に「神の子」が宿っていて完全であると云う事を説いたのだけれども、その弟子なる牧師たちは「汝ら神の子よ」と説かないで、「汝等罪人よ悔い改めよ」と言った。だから、キリスト教の牧師はキリストの教とはあべこべのことを言ったのであります。

<了>

2806神の子さん:2014/04/08(火) 17:07:51 ID:5uCVw2y6

 谷口雅春大聖師 御文章
 http://blogs.yahoo.co.jp/vanon32/18219673.html

2807SAKURA:2014/04/09(水) 23:36:41 ID:cjjCC9AE
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【  転載編… 】
>>2778>>2779>>2784>>2786>>2794>>2795>>2796>>2797>>2798>>2801>>2802>>2803投稿の続きです….。

■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】  
(生長の家家族の祈願および修養)     谷口雅春著  昭和46年初版発行
*========*【 われらの祈願および修養 ― その6 ― 】*=======*=======* =======*=======*

 ともかく、こういうふうにして、実相の浄土にあるところの、喜びの勝てる、光に満て
る実相の言葉が地上の雑誌として初めてこの世に現われてきたのであります。そうしてそ
の言葉に最初触れる人たちが、地上における「生長の家家族」ということになったわけであ
ります。

 むろん、この「生長の家」の家族というのは必ずしも『生長の家』の誌友あるいは読者には
限らないのであります。本当に実相の浄土を地上に生きる人、この人はむろん生長の家家
族であるわけであります。だけれども、まず第一にここでは本当にこの生長の家すなわち
実相の浄土を地上に生きる第一世として現われた『生長の家』誌友が、この現世を照らす光
となり、おのおのの隣人を照らす燈台となるようにしようじゃないか、こういうのがわれら
の祈願の第一条の標識であります。

                     つづく

2808SAKURA:2014/04/09(水) 23:51:21 ID:cjjCC9AE
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【  引用編… 】その1
>>2778>>2779>>2784>>2786>>2794>>2795>>2796>>2797>>2798>>2801>>2802>>2803>>2807 投稿の続きです….。

■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】
(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行
*========*【 われらの祈願および修養 ― その7 ― 】*=======*=======* =======*=======*

PS:「トキ様」 へ 「観覧者の皆様」 へ

※「トキ様…」雅春先生の書籍を読んでいきますと、今の現状の『 生長の家 』でいきますと〜?

■「生長の家…2世」とは〜〜〜【廃・棄・物】つまり【不要の人・間】でしょうか??
更には〜〜〜「多国籍軍…信者(日本国内信者…?)」いかがなモノとお考えなのでしょうか??
今は「亡き両親」…当時の「誌友会員」の方々は、現状の【生長の家…】が、このような状況になると思って、

※「家族の反対を押し切り」 ※「ある面では御主人に内緒で献金」※「どうかしますと現在でも内緒での運動資金」…etc

■現在の『生長の家…』にはなるとは、ついひとつも思わずに、ひたすら『愛行…』すなわち
戦後の日本経済も含め【日・本・復・興】というスローガ―ンのもとに、当時の皆様は、
【生長の家の「家族」…】この言葉からの【愛の行動】をなされた事だと思います。…が?
現在の【生長の家…】は、ほとんど「和田一夫」さんから『栄える会』優先での運動が始まり…
当に、洪水の流れのように…… >< 語弊を抱かれますと困りますが?ある時期から…

「日・本」にかなりの方が流れ込んできた?連れてきた?【国際色豊かな国…日本】……変貌!
かといって?彼らの慣習は【自国の慣習・思想】そのままに、生活しているように見えます。そうしますと、
そこで【摩擦…】が生じ〜〜〜日本人の捉え方と異なりますから或る面では【並行線…】でしょうか?
このように地元の方々がおっしゃいました言葉を耳にしております。そうなのです〜〜〜ョネ!

つづく

2809SAKURA:2014/04/09(水) 23:53:05 ID:cjjCC9AE
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【  引用編… 】その2
>>2778>>2779>>2784>>2786>>2794>>2795>>2796>>2797>>2798>>2801>>2802>>2803>>2807>>2808
の 投稿の続きです….。

■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】
(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行
*========*【 われらの祈願および修養 ― その8 ― 】*=======*=======* =======*=======*

■【 真理 】が人々の心を動かし…心を癒すのではないのでしょうか??

自己満足の【与えよ…さらば…与えられん!!】の流れに【少子化対策】も便乗と云いますか??

此処では「東南アジア圏の方々」が非常に多く感じられる光景が、日増しに強く感じます。
単に?今の運動の流れとしては【生長の家の教え…】は、どうしても?ただ【ボランティア…】という事を…
強調した感じに見受けられます。更に「現総裁先生の顔色(ご自分の考え発言する事が?受け入れる場が?)」
が全くない状況のようで…それでは【物事への前進】は如何なものでしょうか?
思いますに、やはり「人々の意見を聞く」「耳を貸す」…この事から始めて次なるステイタスに繋がるモノと
個人的には思うのです。

■現状では「職員の皆様?」及び「信者?」を見てますと【統一教会…】のように見えてしまいます。

本当に「現職員」の中にもどうしてもそのように見えて、そして今回の話題であります【先・祖・供・養?】
人それぞれでしょうが?あのような【儀・式…】をした事がないモノで???
これも【変・革…】された…今の【生長の家…】方針なのでしょうか?
更に【各教区…】にて“一月に一回の教区”の【先祖供養…】だけで、供養が出来ますのでしょうか?
この頃では??この考えが【生長の家…捉え方】となりますのでしょうか?複雑なる気分です。

■「雅春先生の時代」とは〜〜〜全く考えられない【先祖供養に対しての捉え方】なのですネ!
【 他・力 】で「供養」という事でしょうか?個人的には【先祖供養の意味】を理解されているのでしょうかとも。

■余談ですが〜【日蓮聖人のお母様の…供・養】
それは?「地・獄…」に行かれた方を救うには、確かに、大勢の【団体での供養】がいいと聞いております。
…が?それでも〜一番大切なのは【常日頃の…毎日の…個人先祖供養】も大事なモノと思います。
更には、【教・区…での白鳩会員の奥様方々の先祖供養の仕方】が〜〜〜当時と随分変わっているようで?

オカシイ感じが致します。でも【現状…生長の家】これに関しては或る処で「多くのイイ…ネ」表示を、
なされているようで、この事が〜〜〜【公・認…】なのでしょうか?
この事も【国際籍他国軍…カラフル化】にての運動方針という事なのでしょうか?「疑問??」
しかも【職員の皆様も先祖供養の唱え方】に関しては〜〜〜

賛否両論の意見すら【現生長の家…体制】では、「発・言・権…」が全く無いのでしょうか?
此処の投稿にて【誰一人…記載されない】のは、【現在の総裁先生の指導…】そのモノなのでしょう??

■□【言・論・の・自・由…】
この事に、自由に答弁できますのは【国際籍他国…】のみの方々なのでしょうか?【不思議な気分】で…

再合掌

2810トキ:2014/04/10(木) 21:08:41 ID:nb7s81UQ
”神の国”の遠さはサイクルの相違である

 ”神の国”が「汝の内に在り」であるならば、なぜ、「神の国に入ること能わず」とか、
「神の国に入ることができる」などというのだろうか。それは、”神の国”が今ここにあ
りながら、その今ここにある”神の国”に触れることもできないし、”神の国”に近づく事
ができない人もあるからである。

 それは”神の国”を”神”という放送局から放送される”番組であると喩えるならばよく理解
し得るのである。”神の国”を放送している電波は、今ここにすでに来ているのである。
恐らくその電波はわれわれの身体の中にもあるであろう。すなわち”神の国”なるものは
すでに「汝の内にある」のである。しかしその「自己の内」にすでにある”神の国”は
肉眼で見える状態ではないのであるから、肉体としての自分はまだ”神の国”にいないの
である。今ここにありながら無限の遠さにその”神の国”はあるということができるので
ある。その遠さは空間的ひろがりの中にある距離の遠さではなく、サイクルの相違ま
たは次元の相違から来る遠さなのである。今ここに”神の国”の電波はありながら、そ
れは無限の遠さであって見ることも触れることもできないのである。


 如意自在の生活365章 谷口雅春先生 267p より謹写

2812SAKURA:2014/04/15(火) 13:27:25 ID:JmNWDmlc
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【  引用編… 】その2
>>2778>>2779>>2784>>2786>>2794>>2795>>2796>>2797>>2798>>2801>>2802>>2803>>2807>>2808
>>2809 の 投稿の続きです….。

■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】
(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行
*========*【 各宗教に対する生長の家の立場 ―その8 ― 】*=======*=======* =======*=======*

 ≪われらはあらゆる宗教が大生命より発せる救いの放射光線なることを信じ、他宗を
そしらず、他人の尊崇の対象たるものに敬礼せんことをを期す。≪

 いろいろの宗教がこの世に出ておりますけれども、その宗教はどれもみなこの世の
光となろうとする使命をもって生れているのでありまして、電燈の光も、ガス燈の光
も、ランプの光も、あるいはマッチの光もことごとくこれ照らさんがために現われている
のであります。照らさんがために現われているけれども、おのおの用途がちがう。小さな
懐中電灯は小さな懐中電灯として用途があり、大きな五百燭光の電燈はまた五百燭光
の電燈として用途があるというわけでありまして、床下の小さなところを照らすのに、
五百燭光の大きな電燈で照らしてみようとするとかえって邪魔になるというふうになる
わけでもあります。それで小さな電燈もわるいものでなければ、大きな電燈もわるいもので
ない。あるいは電燈の笠の形にも、スタンドの形にもいろいろある。そしてそのどれにも
特殊な美しさがある。けれども、その特殊の美しさもそれを用いる部屋とか、あるいはそ
の光を求める場所とか、それぞれに応じて適当な形をし、適当な美しさを備えているのが
よいのでありまして、部屋の中へつけるような装置の、構造の電燈が、いくら格好がよい
からとて玄関へぶら下げてみても、かえって変な格好になるし、あるいは四畳半の部屋に
こういう大講堂につけるようなシャンデリアを装置してみてもこれまた眩しくて、書物を
読んでも、紙面が光ってかえって読めないということになるかもしれないのです。

そういうわけで、光というものは照らす役目のものであるけれども、いろいろの程度の光
やいろいろの形の燈具がまた必要である。あるいはX光線のような人体を透視するような
光も必要である。あるいは紫外光線のような、目には見えないけれども、われわれに有効
な働きをするところの光もまた必要である。目には見えないからこいつはなんの光もない
のだとこういってある光を排斥してしまうということはできないのであります。

                       つづく
PS: 「トキ様」 へ   「観覧者の皆様」 へ
どの「宗・教」も、確かに【光の言葉…】があります〜〜〜ョネ??
しかしながら、その人の心??の理解が何処まで理解力があるかしら〜〜〜ン!と…つい最近は思えるよに
なり〜〜私は、やはり「思考は書物から…」と思えますようになりましたのです。『生長の家の書物』を
読んで、その時に分からなくても?必ず「神様」及び「私の守護霊」が、導いてくださるように思えて
きます事が、この現象界で形として起きていま〜〜〜す、此処昨今なのです。

■近くの【 金光教の教祖の言葉 】から
>>信心せよ。 信心ということは 心 わが心
  じんは 神なり  わが心が 神に 向かうをもって
  信心というなり 恩徳の中におっても
  氏子  信 なければ  おかげなし <<

上記の言葉からも【光…】が見えてきませんか??
そうなのです〜〜〜ョネ!【 心は、すべて光に導かれて行くのでしょうか!! 】

                                     再合掌

2814a hope:2014/04/17(木) 10:20:22 ID:cEpBaIdo
「生命の實相」第12巻 p36 4行目〜

谷口―― 人間は神の子でありますから、神の道は人間の道、ふつうの道であって、難行苦行の道ではないのであります。「道というのは、すべてを捨てなければえられない」とあなたは今おっしゃいましたが、正(まさ)にそうであって、すべてを捨てる、すなわち難行苦行という道さえも捨てきったとき、本当の道がでてくるのです。その本当の道は、平凡の道であります。この平凡な道が歓んで歩めるようになったときに、その人は本当の生活に入ったのであります。

外面を見て花々しい生活をしたら生き甲斐があるとか、大いに世の中の人を助けたから生き甲斐があるとかいうのでは本当ではない。そんなことでは外面に花々しい生活ができなかった時や、大いに世の中を益することができなかったときには生き甲斐が感じられなくなります。そんなことではわれわれの生き甲斐というものは外の成績によって左右されているので、神の子たる生命の実相を知った人の「生き甲斐」ではなくなるのであります。

先日、東京へまいりました時に、非常に信仰の深い牧師が神経衰弱にかかっている話を承りましたが、その牧師が神経衰弱になった理由がなんであるかといいますと、予定どおり人数をキリスト教に導くことができないから、神様に対して申しわけないというものであります。つまりこのような人たちの生き甲斐というものは、外の成績に左右されているのであって、実相の悟りをつかんでいる生き甲斐ではないから、外から打ち負かされたら神経衰弱になるのであります。

キリストはこの点では実相を摑んでいたから、外の形の上、数の上で打ち負かされても、生き甲斐が感じられたのです。「右の頬打つものがあれば左の頬を打たせよ」とか「外衣(うわぎ)をとらんとする者には下衣(したぎ)も与えよ」とか「十里の公役(こうえき)を強いられなば二十里を往け」などと、キリストが言いえたのは、形の上で打ち負かされても負けるようなものが神の子たる人間ではない、本当に勝つとは形の上のことではないということをしっていられたからであります。

先刻有元さんの御紹介になった「有るものは皆吹き払え大空の無きこそ元の住みかなりけれ」という黒住教祖のお歌のように、キリストは「無きこそ元の住みかなれけれ」の心境に入っておられたから、形あるものの上で負けても、神の子たる本当の生き甲斐が感じられていたのであります。これがわかってくると、キリスト教も黒住教も、根本において同じ教えを説いたものだということがわかるのです。
(つづく)

2815a hope:2014/04/17(木) 10:21:03 ID:cEpBaIdo
(つづき)
われわれが、ひとから右の頬をうたれると、すぐに腹が立ってくるのは、自分というものが叩かれるくらいで傷つくような脆い肉身であると思って、どんなに叩かれても傷つくことのない金剛不壊の実相身であるということを自覚しないからであります。

自分がどんな体よりも堅い金剛不壊の実相身であるということが悟れると、誰が自分に対して殴って来ても、子供が金剛不壊の仁王様に対して打ちかかって行くようなものであって、腹の立ちようがない。われわれでも赤ん坊がわれわれの頬辺(ほおぺた)を叩いて来ても腹が立たない。腹が立たないのは、叩かれても負けないと思っているからです。

ところがわれわれが何によらず腹が立つのは、叩かれて来られると負けると思うからです。だから常にわれわれは赤ん坊と角力(すもう)をとるつもりでおれば腹が立たないのであります。

2816a hope:2014/04/17(木) 10:22:01 ID:cEpBaIdo
(a hope 所感)

わたしは「生命の實相」やその他の雅春先生の聖典を拝読していていると、内容はもちろんですが、その文章の流れ、リズムに引き込まれてしまいます。
そのリズムに乗って拝読していると全身がジンジンとしびれたように反応します。
本当に、すごい聖典だと感じ、昨晩などは聖典が拝読できる幸せに浸ってしまい、つい夜更かしをしてしまいました(笑)

2817:2014/04/17(木) 15:43:24 ID:oeUx5MQw
a hope様
合掌 ありがとうございます

 こんにちは、遅くなり申し訳ございませんでした。
一闡提については、大般涅槃経解釈の冒頭から書かれていますので、直接お読みになられるのが一番間違いないと思います。

 『生命の實相』を読み進めて行きますと、こういう時にどうすべきかを書かれてある部分も出て来ると思いますので、そのまま読み続けられると良いと思います。

 私の方ですが、頼まれ事を依頼主から急いでほしいと言われ、時間が取れなくて、もうweb誌友会にお邪魔することが出来ないと思うのです。
 a hope様の益々のご活躍をお祈り申し上げます。ありがとうございました。 再拝

2818:2014/04/17(木) 15:54:18 ID:oeUx5MQw
追伸:
ごめんなさい、場所を間違えたようです、web誌友板の内容でした。

2819a hope:2014/04/18(金) 09:59:43 ID:cEpBaIdo
>>2817縹さま

お久しぶりです。
そして、ご指導をありがとうございます。 合掌。

先日、web誌友板で縹さまが「法華経解釈」より二乗・三条についての御文章を引用してくださったのでさっそくを購入しました。
時間のある時に、図書館などに行って静かに拝読したいと思っていましたが、
今回、「大般涅槃経解釈」もご紹介くださり嬉しい悲鳴をあげておりますヽ(*'0'*)ツ ワァオォ!!。

わたしは、もともと、仏教に興味があって、子育ての一番忙しい時から、近くのお寺の座禅会に参加し、
住職さんのご法話を拝聴するのを楽しみにしていました。

ですから、今、こうして谷口雅春先生のご解釈の「本物の仏教の真理」をお勉強できることが本当に嬉しいのです。

縹さま、お忙しくされているようで、web誌友会へのご参加は難しいそうですが、
わたしの「生命の實相」の解釈等があまりにひどいような場合は、どうぞご指摘、ご指導をよろしくお願いいたします。

わたしは、本当の「生長の家の教え」が知りたくてここでお勉強させいただいているのであって、他意は全くないのです。

どうぞ、よろしくお願いいたします。

2820SAKURA:2014/04/18(金) 14:16:58 ID:GAUySuWA
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんにちは……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【  転載編… 】その2
>>2778>>2779>>2784>>2786>>2794>>2795>>2796>>2797>>2798>>2801>>2802>>2803>>2807>>2808
>>2809>>2812 の 投稿の続きです….。

■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】
(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行
*========*【 各宗教に対する生長の家の立場 ―その9−1 】*=======*=======* =======*=======*

 ■こんなわけで、この世の中のあらゆる宗教は、おのおの総ての電燈は照らす光として
働いているのと同じように、すべて人生の燈台となり、人の心を照らす光の輝きをしてい
るのであります。

 それに、いちいち相手をけなして自分ばかり善いのであると、こういうような宗教争
いをするようなことでは実にみっともないことであります。

 宗教は要するに愛を説くものである。愛とは、仏教でいえば慈悲と申しますが、キリ
スト教でいえばたいてい愛という。愛とは何であるかというと自他一体の実相の働きで
す。すべて生物および森羅万象を、その形容である物質的方面から見ると、自と他の対
立したように分かれているけれども、本来一つのものであるということを知ることが愛で
あります。たとえば、われわれが子供を可愛いと思うのはどうして可愛いのであるかとい
うと、それは自分から出たものである、本来自分と一つのものであるという気持がするか
ら自分の子供が可愛い。ところが、他人の子供は何となしに自分から出たような気がしな
い。すでに悟った人は別でありますけれども、肉眼で見たところ、どうも自分から出たよ
うな気がしない、自分と一体であるような気がしない、それで他人の子供はあまり可愛く
なくて自分の子供だけは可愛いという鬼子母神のようなかたよった愛になるのでありま
す。つまり、愛というのは自分と他とは一つのものであるということを知ることが愛であ
ります。この愛というものを宗教の上に押し広げてゆきます時には、自分の宗教と他の

>>宗教とはやはり一つのものである。ということがわかった時にははじめて宗教とが愛
によって結ばれるということになるのであります。<<

すべての生きとし生けるもの、すべての人間を愛によって結びつけ自他一体であるという
実相を知らせ本当の相を悟らせるために現われたところのこの宗教が、宗教同志仲がわる
くて、互いに欠点をあばいて石を投げ合いして、あいつはわるい、あいつを撲滅しなけれ
ばならない、あいつが栄えたらわしの方の宗教が栄えなくなるというふうな利己的な観念
をもって、争いあうというふうでは本当に宗教がこの世を照らすために現われたという
目的に反くわけであります。

                    つづく

2821SAKURA:2014/04/18(金) 14:18:51 ID:GAUySuWA
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんにちは……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【  転載編… 】その2
>>2778>>2779>>2784>>2786>>2794>>2795>>2796>>2797>>2798>>2801>>2802>>2803>>2807>>2808
>>2809>>2812>>2820 の 投稿の続きです….。

■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】
(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行
*========*【 各宗教に対する生長の家の立場 ―その9−2 】*=======*=======* =======*=======*

PS:「トキ様」へ  「観覧者の皆様」 へ
>>宗教とはやはり一つのものである。ということがわかった時にははじめて宗教とが愛
によって結ばれるということになるのであります。<<   (一部抜粋言葉)

今の【生長の家のお家騒動…】は、何か本当の【真理の勉強の原点…】に戻る事を、つまり!
神様からのメッセージ…という事なのではないのでしょうか??
此処で言います【原・点】とは〜〜〜??
創立者『 谷口雅春先生 』の御教えがア〜〜〜ダ!コ〜〜〜ダ!その教えにならないとか?
そのようなちっぽけな『議・論』よりも
如何に人を救う事――>自体一体の意味である――>愛(慈愛)
最終的には、履き違えているように、思えます。今回!!私も【反・省】で〜〜〜す。
>すべての生きとし生けるもの、すべての人間を愛によって結びつけ自他一体であるという
実相を知らせ本当の相を悟らせるために現われたところのこの宗教<<

如何に!国内での【宗・教】同志の争い…私の知る限り…露骨にされる【宗・教…】が〜〜〜??
そして、同じ仲間だけ(同じ宗教信者)での…コミュニケーション!!
それでは本当の意味での【宗教】というよりも【醜・教】と改名した方がいいように思いますかしらン!!

それから、私も小さな〜小さな〜【心のケチ論の展開】があったようですので、まだ〜〜【反省の心】
まずは、【自分を優位に置く】のではなく、それよりも、まず【相手を生かす心の展開】に切り替えて
行こうと…此処からが【自他一体――>神は愛なり】の”心…神様”と共に私は、
生かされている〜〜満たされている〜〜”心の展開…再起動中 ”です。(微笑)

■□ 【 宗教 = 愛 = 自他一体の愛 】そのモノですネ!!この気付きに感謝申し上げます…。

                               再合掌

2822:2014/04/19(土) 01:36:09 ID:xPhLnWm.
2819番 a hope様
合掌 ありがとうございます

 こんばんは、ご指導だなんてそんな私は先生ではないので…。もっと立派な方にご依頼されたほうが良いと思うのです。
法華経解釈を早速ご購入されたのですか、あれは大部分が佐藤氏の御文章ですので、私も引用をなるべく控えて、お勧めしなかったのです。多分、『生命の實相』の中に入っている雅春先生の御文章から法華経その他を感じ取られるほうが良いような気がするのですが…。
 日常生活の中の真理仏典編のほうが読みやすいかも知れないと思うのですが、仏教に親しまれてらしたa hope様でしたら大丈夫なのでしょうか。

 大般涅槃経解釈をご紹介させて戴きましたのは、一闡提の解釈について先生がとても苦しく思われたいきさつが書かれてありますので、それを直接お読みになられたほうが良いかも知れないと思っただけでして、全編をおすすめさせて戴いたのではないのです。
 多分、『生命の實相』の最初の方を繰り返し読まれるのを先に重点的にされたほうが、より早くお幸せになられると思って、このようなことを申し上げさせて戴いておりますが、でもご自由にされて下さいね。

 法華経に興味をお持ちになられますのは、本当に素晴しい事だと思います。
これは私一人が思う事ですが、生長の家創刊号をお手元に置かれますと(忘れないでいるとという意味です)、法華経を感覚的につかめるかも知れません?
a hope様の益々のご活躍をお祈り致します。

2823a hope:2014/04/21(月) 10:17:58 ID:cEpBaIdo
>>2822 縹さま 

たくさんの貴重なアドバイスをありがとうございます。
さっそく、創刊号と日常生活の中の真理仏典編を購入しました。
大般涅槃経解釈は、後のお楽しみにしておきます。

わが家の実家は、詳しい宗派は言えませんがもともと仏教を信仰していて、
家には立派な仏壇もありますし、お葬式や法事なんかもすべて檀家になっているお寺にお願いしています。

だから、わたしも仏教徒なのです。

だから、わたしがまことの釈迦の教え(仏教)をお勉強して悟れば、
とても良い先祖供養になると思うのです。


<<『生命の實相』の中に入っている雅春先生の御文章から法華経その他を感じ取られるほうが良いような気がするのですが…。>>

とのお言葉ですが、生長の家の教えは万教帰一ですし、その真理はまことの法華経と同じであると聖典に書かれていますから、
聖典『生命の實相』を拝読することが、法華経やその他の仏教の真理を理解することにつながるということでしょうか?

昨晩、法華経解釈の最初の方と、後ろの方を少し拝読してみました。

仏教用語がたくさん出てきますから、難しいと言えば難しいですが、
その内容はさすが雅春先生が尊敬していらっしゃったという佐藤勝身先生の御文章だけあって、
(さらに雅春先生がわかりやすく手直しもされているようです)わたしは素晴らしいと感じました。

ですが、ちょっと気になったのは、「創価学会」に関する言及です。

ふつうに考えれば、万教帰一の生長の家が、なぜ「創価学会」のことを批判的に書いているのだろうか、との疑問が浮かぶと思います。

ですが、これこそ、「悪はない しかし、『虚説』には和解してはいけない」 ということの本当の意味なのではないかと感じています。
雅春先生は、宗教で「虚説」を説くことの危険性を、ご警告・ご教示くださっているように感じます。

2824:2014/04/24(木) 20:09:05 ID:oeUx5MQw
a hope様
合掌 ありがとうございます

 こんばんは、遅くなり申し訳ございません。
a hope様は、早速ご購入されたのですか、ご熱心で偉いですね。
『日常生活の中の真理 仏典編』の表紙カバーは、たしか、知恩院所蔵の仏画だったと思います。
知恩院は浄土宗ですね、京都の円山公園の枝垂桜の近くですね。まだ八重桜位は残っているでしょうか…。

 創刊号をそばに置いてという意味は、ずっと後になって分かってくる事になると思います。


>だから、わたしがまことの釈迦の教え(仏教)をお勉強して悟れば、
>とても良い先祖供養になると思うのです。

 先祖供養が目的でしたら、『生命の實相』をご仏壇の前で、時間を決めて朗読されると良いですよとの谷口雅春先生の御指導です。


>とのお言葉ですが、生長の家の教えは万教帰一ですし、その真理はまことの法華経と同じであると聖典に書かれていますから、
>聖典『生命の實相』を拝読することが、法華経やその他の仏教の真理を理解することにつながるということでしょうか?

 『生命の實相』の中に、雅春先生が直接『法華経』の内容をご説明下さっている部分が出て参りますので、そちらのほうがよりおすすめですよ、という意味でした。



>ふつうに考えれば、万教帰一の生長の家が、なぜ「創価学会」のことを批判的に書いているのだろうか、との疑問が浮かぶと思います。
>ですが、これこそ、「悪はない しかし、『虚説』には和解してはいけない」 ということの本当の意味なのではないかと感じています。
>雅春先生は、宗教で「虚説」を説くことの危険性を、ご警告・ご教示くださっているように感じます。

 これは、掲示板上で論を尽くされた内容ですね。


a hope様は、法華経にご関心をお向けになられて素晴らしいですね。
益々のご活躍をお祈り申し上げます。

「自分とは何者か」


私は、頭脳では辿りつけない場所に感じます。
心の温かさの中にあると感じています。

2825a hope:2014/04/24(木) 23:14:31 ID:cEpBaIdo
>>2824 縹さま

ありがとうございます!

お忙しいのに、ご丁寧なお返事をいただきとてもうれしいです。

「日常生活の中の真理」の表紙カバーは、知恩院所蔵の仏画なのですね!
今までは、仏像や仏画にはあまり興味がありませんでしたが、
こうして仏教の真理をお勉強していると、とても興味深く拝見できそうです。



「法華経解釈」が難しかったからでしょうか、「日常生活の中の真理」はとてもわかり易くすらすらと拝読できます。

第一章は「維摩経解釈」の解説のようになっているのですね。
実は、「維摩経解釈」は数年前に購入して手元にあるのですが、当時はまだ難しすぎてほとんど拝読していませんでした。
今ならだいぶ理解できるのではないかと思うので、早く拝読したいのですが、
わたしの机のまわりには、その他の読みたい聖典が山積みになってしまっていて、自分自身の欲深さに呆れています(笑)。


また、創刊号に関しては、予言的なお言葉をありがとうございます。
どのページを開いていても、とても力強い若々しい波動を感じます。
こちらも、拝読するのがとても楽しみです。



<<先祖供養が目的でしたら、『生命の實相』をご仏壇の前で、時間を決めて朗読されると良いですよとの谷口雅春先生の御指導です。>>

この事は、わたしも聖典のどこかで拝読していて知っていました。
 先祖供養といったら「甘露の法雨」が定番のようになっていますが、
実は、わたしは神想観は大好きなのですが、「甘露の法雨」の読誦はあまり得意ではないので、
これからは『生命の實相』を朗読するようにしてみます。
その方が自分の真理のお勉強にもなるので「自他一体」の真理からすれば、そちらの方がいいような気もします。



今のわたしにとって、真理のお勉強はほんとうに楽しいです。
ですが、web誌友板でトキさまもおっしゃっていましたが、
そのお勉強した真理が生活に生きてこないと、本物とはいえないと思うのです。

ですが、ありがたいことに、自分には家族もいますし仕事もしていますから、
真理を生活に生かす機会にはとても恵まれているのです。

「生長の家」の教えをお勉強し始めてからも、色々な困難と感じられる出来事にぶつかって来ましが、
ですが、どんなに心配事や心の動揺があっても、聖典を拝読したり神想観をすることで自分の心が整えば、
全ての事がうまくいくようになってしまうから不思議です。

「生長の家」の教えって本当にすごいですよね!


それから、最後に縹さまからの


「自分とは何者か」


というご公案?ですが、わたしの心の中に、

「自分は神であり、神は全ての全てであり、そして愛である」

という言葉が浮かんできました。


縹さまのおっしゃる「心の温かさ」とは「愛」のことなのではないでしょうか?

わたしは、実生活のなかで、もっともっと神の愛を出していきたいです。

縹さま、また、こちらの板で「聖典」について、色々ご教示いただけると、とてもお勉強になります。
これからも縹さまの時間の取れるときだけでかまいませんので、ご指導をどうぞよろしくお願いいたします。

2826:2014/04/26(土) 00:53:02 ID:oeUx5MQw
a hope様
合掌 ありがとうございます

 こんばんは、レスをありがとうございました。
a hope様はご熱心でそのご姿勢が本当に素晴らしいですね。


>「日常生活の中の真理」の表紙カバーは、知恩院所蔵の仏画なのですね

 知恩院を調べましたら、浄土宗ですので阿弥陀様が御本尊様なのですね。
それで、開祖の法然上人が、以下のお歌を残しておられる事を知りました。
丁度、阿弥陀様と月光の関係について調べていた所でしたので驚きました。
以下は知恵袋からの転載です。


「 月影のいたらぬ里はなけれども ながむる人の心にぞすむ 」

浄土宗の開祖として有名な法然の和歌です。
「月影」 、月の光とは、実は阿弥陀如来の光明、救済のこと。

“月の光はこの世をあまねく照らして、どんな辺鄙な里にも
届くけれど、それを眺める人の心が澄んでいるからこそ
その美しさが心に宿るんですよ”

心を澄ませる、つまり、阿弥陀の光に心を向けて、「南無
阿弥陀仏」 と念仏を一心に唱えてこそ、阿弥陀如来の光
(仏の救い) は人の心に “住む” んですよ。
「すむ」 = 澄む + 住むのダブルミーニング、掛詞です。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11108072876
・・・転載以上です。


 谷口雅春先生は、生長の家大神様(住吉大神様)は、阿弥陀如来様でもあらせられると教えて下さっていましたので、
澄む=住むですよ、という所は、少し嬉しいですね。

a hope様のお陰で、偶然知りました、本当にありがとうございます。


「」内は公案ではなく法華経についての言葉でした。
a hope様のご熱意にとても驚いています。
現代にもそのような方がおられるのですね。
益々のご活躍をお祈り申し上げます。 再拝

2827SAKURA:2014/04/26(土) 21:58:23 ID:3/pn4/Pc
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【  転載編… 】>>2778>>2779>>2784>>2786>>2794>>2795>>2796>>2797>>2798>>2801>>2802>>2803>>2807>>2808
>>2809>>2812>>2820>>2821の 投稿の続きです….。
■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】
(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行
*========*【 各宗教に対する生長の家の立場 ―その10 ― 】*=======*=======* =======*=======*

■かく、宗教というものはこの世を照らす光でありますから、どれだけ他にあってもよ
いのであります。自分は自分で光ればよいのであって、他はまた他で光ればよい。人類も
多種多様であるからその対象たる人類に適するように多種多様の宗教が現れてこれを
照らす、五百燭光の電燈がありさえすれば、懐中電燈は要らぬというわけではない、太
陽が出ている時でも、活動写真を映すときには電燈の光が要るのであります。

 生長の家では決してたの宗教をわるくいわないのであります。みんな結構である――。
真宗の方が来られると、真宗ですか、阿弥陀様を信心されてたいへん結構でございます、
阿弥陀様をせいぜいしっかり信仰しなさい、こう申し上げるのであります。しかし、阿弥
陀様を西方十万億土の彼方に一国の城主のごとく一つの境界をめぐらして、そこに王様
のようにしているようなそんな小さな阿弥陀様だと思いなさんな。尽十方無辺の世界に満
ちているところの限りなき無礙光であり、大いなる生命であるこの無量寿の仏様を本当
に見なさい。これが真宗の本尊で、本当の救いは、この尽十方無礙光如来と本来一体であ
ることを知ることにある、と真宗の人にはお話するようなわけであります。

 あるいはまたクリスチャンの方が来られると、ああキリスト教の神様は非常に結構な神
様である。キリスト教の開祖であるイエスを、たんに二千年前にユダヤに生まれ、そうし
て磔刑になって、三十三歳で死んでしまった、そんな生まれて死んだような、そんな
小さな肉体的存在だと思いなさんな、久遠の昔から生きている真理の顕現――これが本当
のキリストである。キリスト自身「アブラハムの生まれぬ前より我は在るなり」といわれて
いる――これが本当のキリストですが――あんたはもっともっと深くキリスト教の奥まで
入って、もっともっと大きくキリスト教の教祖を生かさなければなりませんぞ、というふ
うなぐあいに申し上げるわけであります。

                       つづく

2828NANCY:2014/04/26(土) 22:17:02 ID:3/pn4/Pc
「トキ様」 へ 「観覧者の皆様」へ
こんばんは… ローマ字(大文字)の【NANCY】で〜〜〜す。

■「管理人 トキ様」へ
お尋ねしたいことなのですが〜〜♫ あります。先日から閲覧させて頂いておりますが?
此処の『聖典ボード板』での…宗教に関しての議論?討論?
果して【主・旨…】にそぐわないモノと思うのですが…?如何でしょうか?

あくまでも【聖典の転載・引用】という名目上の意義になるモノと思う次第です…。・・・が?

                             再合掌
PS:「トキ様」へ
此処にこの様な上記投稿を致しました事…お詫び申し上げます…。正直なる思いでの投稿です。…が?

2829a hope:2014/04/26(土) 23:10:20 ID:cEpBaIdo
>>2826縹さま

お返事を信仰/体験板2にさせていただきました。


>>SAKRAさま

いつも素晴らしい聖典のお言葉をご紹介くださりありがとうございます。
また、このたびはご忠告をありがとうございます。
縹さまへのお返事は別の板にさせていただきました。

合掌。

2830:2014/04/27(日) 18:48:17 ID:oeUx5MQw
聖典引用板の皆様へ
合掌 ありがとうございます

 書き込む板を間違えてしまい、ご迷惑をお掛けして、大変申し訳ございませんでした。
場所を移させて戴きました。 再拝

2834a hope:2014/05/02(金) 22:41:32 ID:cEpBaIdo
「生命の實相」第36巻 幸福生活篇 p75

『無礙の大道』
            


この実例でもわかりますように、われわれはどんな時でも失望してはいけないのであります。そのままそこがありがたいと、その場その場を生かす生き方――これが一番大事のことでありまして、常に「今」を生きるということが必要なのであります。生長の家の生き方は「今」を生かす生活だと言われています。今ここに生活が植えつけられている。この地球上に生命が植えつけられているということは何か意義のあることでなければならない。

この地上のここでなければ果たすことのできない使命があるために、今ここに生かされているのだと思って、今あるがままをできるだけ百パーセント生きるということ、これが大切です。ひっくりかえって躓(つまず)いておろうと怪我しておろうとどうしておろうと、その時そのままでなければ得られないところの一番いいものが与えられているということを知るのが無礙の大道を生きることであります。

そうすると病気も幸福であるし、災難も幸福である、どんな苦しみも、困難も、みんなその時でなければ得られないところのものがその時自分に得られているというのでありますから、そこにいっさいの呪いがなくなる。初めて天地一切のものと調和するということができるのであります。

「これは嫌い」「あれは嫌い」ということがなくなってしまうのです。これが嫌いであるとかあれが嫌いであるとかいうことがありましたら、天地一切のものと調和できていない証拠であります。そのまま、そこのありがたいことがわからないと災難がやって来ると悲しまなければならない。あるいは病気になるとやはり悲しまなければならない。あの人はわたしにこういう仕打ちをしたから憎いとか恨めしいとか思ったりして、心がひっかかって苦しまなければならないのです。

そこで引っかからない道というのは、今の時今あることが一番いいのだと知ることでありまして、それには自分に「注文」というものがあってはいけないのであります。「注文」を出すと、自分の注文以上のものが出てくると悲しくなる。われわれは常に自分の注文以上のものがすべてわれわれに与えられているのであります。われわれはこれから起ってくるいっさいのことをことごとく予想して注文するわけにはゆかないのであります。注文しないでも注文するより余計に善いものをわれわれは常に与えられているということまず知るのが、自由を得る知恵であります。

2835a hope:2014/05/02(金) 22:42:10 ID:cEpBaIdo
そういうふうになりますと、すべてのもの、美しいものはもちろん、醜いものでも、人が嫌うようなものでも、いやらしいものでも、みんなそのままでありがたいということになることができるのであります。そのままありがたいということになりましたら、不平も、不満足も、腹立ちも何もなくなってしまいまして、ただただありがたいばかりである。苦しめられてもそこに本当にありがたいものがあるのだ、こんなにまでして、わたしを鍛えてくださるのである、ああありがたいと、こう思えるようになるのであります。


こうして天地一切のものと和解し仲よしになったら、本当に感謝の念が湧いてくるのです。世間普通の人はいいことを与えられた時には、「こんなにまでしていただくのだ、ありがたい」こう思うのでありますけれども、生長の家の生き方はいいことでも悪いことでも、「こんなにしてまでわれわれに体験を積ませていただくのだ、ああありがたい」とこう思わなければならないのです。雨が降ってもありがたいし、天気でもありがたい。

ところが天気なら天気ということばかり把(つか)まえておりましたら、雨が降る時にはうるさい、うっとうしいというような小言がでてくるのであります。ところがまた百姓さんが旱魃(かんばつ)の時に、雨が欲しい欲しい、こう思って雨が欲しいということばかり把まえておりましたら、せっかくいい天気でみんながうららかな天気だと思って喜んでいる時に、自分だけは悲しまなければならないでありましょう。

形の世界では、同時に二つのことはできないことが多いのです。雨が降って太陽が美しく輝いて道が渇いているということはできませんから、人間はなんでもこういう形がほしいと一つの形を把まえたらもうだめです。把まえたらもう自由ではなくなり苦しくなるのです。何も把まえないで手放しになってしまって、引っかかりをみんな外してゆく生活になります時、本当に自由自在な幸福の生活というものを送ることができるのであります。

2837流氷:2014/05/09(金) 19:29:16 ID:DvxQpm5c

 人がどう思うかも知れぬと、そんなことばかり気にかけているようなことでは心の苦しみは絶えぬものだ。
自分がどの位愛したか、自分がどんな仕事をしたか、そればかりを考えるが好い。肉体の人間は誤解するものだとあれほど
言いきかしてある。肉体は念の集積で出来たレンズ又はプリズムであるから、人によって其の『眼鏡』は違うから、どんな光線でもみんな屈折して
見えるし、人によって屈折の仕方も違うのだ。三角のものも丸く見えるし、丸いものも三角に見える。深切で言ったつもりが悪意にとられたり、失敗って言った
言葉でおかげを受ける人もある。誰が何と思っても、それは迷いで屈折して色々に観るのであるから、ただ神に知られることだけを求めて人に知られようなどとは
思わぬが好い。人間の苦しみの一つの元は上べを飾りたい心である。
(昭和七年三月十五日執務中神示

 これは昭和七年五月号の『生長の家』誌の巻頭に発表されている神示である。特に「執務中神示」と但し書きが入っている。
まだ私がヴァキューム・オイル会社に勤務しながら『生長の家』誌を出していたころの神示である。何故「執務中」などという但し書きが入れてあるのか、
もう約三十年も前のことなので最初は充分思い出せなかったのであるが、やっと、こんなことであったろうと思い出したのである。執務中というのは、自宅で原稿を
とっていたときに、このような〝声なき声〟が聞えて来たものだということを想い起すのである。

 その頃私はヴァキューム・オイル会社で、随分いそがしい翻訳の仕事をしていた。それは宣伝部に属する仕事で、機械の構造を詳しく説明してそれにかかる圧力、その圧力に
対抗するための油の性質などが説明してあるPR用の菊二倍判の相当部厚いパンフレット(それは大冊であって、テクニカル・ブレティンと言っていた)の翻訳をする、
そしてそれを印刷屋に注文して日本語訳の同じ大きさの同じ頁数の冊子をつくるのであった。その会社は宣伝部と技術部とが対立していて仲が悪く、宣伝部で翻訳したものが技術的に見て
間違ってでもいるものなら技術部から公けに集中攻撃を受けて大変なことが起るのである。

 技術に関する文章の間違を技術部の人が指摘するので、問題は一層複雑だったのである。
私の前任者は、翻訳そのものの誤りではなく、〝弊社〟とあるべき印刷物が〝幣社〟となっていたので、技術部の誰かが「吾社は油の会社であるのに、幣社すなわち紙の会社と翻訳している、こんな出鱈目な
翻訳をする者は信頼できないではありませんか」と言って英国人の総支配人に投書したために、英国人には、その誤植の経路がわからないために大変な誤訳をする翻訳者だと思われて、馘になったのである。

 その後任にやとわれたのが関東大震災後、郷里に帰っていた私であるから、単に翻訳だけでなく、校正なども余程注意しなければならないので、私は殆ど逐語訳のように完全に訳して原書と翻訳書をつかわねば文字が行にある位に
精確精密に翻訳をしたものだった。それは大変神経をつかはねばならなかった仕事であった。そのために私は殆ど神経衰弱のようになって、眼をつぶっても、校正中の印刷物の文字が空中で踊るのが幻想されるほどになっていたのである。
そのような肉体のピンチの中で、私は、使命感をもって『生長の家』の雑誌を書きはじめたのであった。
すると却って私の健康は増進し、神経衰弱の状態は消えて往った。しかし会社の仕事と、雑誌発行の仕事との二重生活をやっているので、
時間的に無理があった。徹夜して原稿を書くことも多かった。

 私の会社の仕事は、そんな繁忙な仕事の一段落がすむと、次の仕事が来るまでに、片手間で出来る手紙の翻訳位のほかは閑な、何もしないで唯出勤していると
いうふうな時間に恵まれることもあった。そんな時に同僚の社員たちは、仕事がないのに、仕事をしているような顔をして、時間を無駄に過すのである。
 それは勤務時間中の自分のいのちは、会社に買いとられたものであるから、時間が余っていても、自分のために使ってはならないという遠慮があるらしいのである。
そんな時に私には、その卑屈さが耐えられなく不快に感じられるのである。
仕事がないなら、仕事をしている真似などしないで、もっと有益なことに時間を利用すればよいではないか。


後略

『到彼岸の神示』 神示講義・自覚の巻 谷口雅春先生著
(投稿者 現代字変更謹写 拝)

2839SAKURA:2014/05/11(日) 13:39:12 ID:IQVHvpPo
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こんばんは……ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【 転載編…引用編】
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>>2809>>2812>>2820>>2821>>2827の投稿の続きです….。
■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】
(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行   (その1)
*========*【 各宗教に対する生長の家の立場 ―その11 ― 】*=======*=======* =======*=======*

あるいは神道の方が来られるとしますと、天照大御神といわれる神様は、たんなる有限
存在としてある過去の年代に、ある短い寿命をもって生れられ、今はすぐに在(いま)さずし
て、ただわれらの追憶を満足さすための記念としてお祀りしてあるというふうな、そうい
う短い寿命の神様だと思いなさんな。天照大御神とは高天原すなわち「光明遍照の実相
世界」に編満する万徳円満の大光明である、その万徳から一切の生物が生まれ出た。しか
し、動植物はその万徳の一部分を表現しているにすぎない。その万徳を完全に体現し
て生まれ出たのが人間である。だから人間の男性を日子といい、女性を日女という。だが
ら人間は神の全徳の最高顕現として実に尊いのであって、その元の大元の大きな生き通し
の編満十全の御徳、これが、天照大神様である。たんなる、過去の存在ではない、たん
に過去の存在を記念するためにのみ祭祀し、奉るというようなそんな小さな神様ではない。

本当に今もありありと生き通して、久遠の昔から今に至るまでありありと生き通しておら
れ、われわれに生命を幸延えたまい、われわれの生命を生かしていられるところの天地編
満の無限の天照、無限の生命の根源が、天照大御神様である。この親神様の全徳の天体的
表現が太陽である。われわれは太陽に生かされているのである。われらが神の子という
のは親神様の尊い生命の流れを受けて親子関係にあることであう、と申し上げる。つまりど
の宗教の方が来られても、もっともっとその宗教の奥へ這入りなさい、大変あなたの
宗教は結構であります、こう申し上げてすべての宗教を生かすのであります。

                         つづく
PS:「トキ様」 へ 「観覧者の皆様」へ
■【生長の家…真理】は、本当に“万国共通”のモノなのですョネ!!そして…現在まで、私自身
そのように、解釈していたわけなのです。…が?
今回!この頃では「3代目の総裁先生」の指導から〜〜〜特別!最近“頭”がオカシクなっているのです。

「現総裁の教え」の基本は、簡単な?素朴な?思考の【アラブの原理主義】に似ているようですかと?
どうしても思えて仕方がありません。

毎日!毎日!通勤の途中に『金光教の建物…・』があり、毎月!掲示板が…門の入口には、
【毎月の言葉】が貼っており、それを購読してみますと、さわやかな気分〜♫ そう!何となくそうなのョネ!
…と!一人でハミングしているので〜〜〜す。

そう!創立者「谷口雅春先生の教え」と同じ【解・釈】で、当時の昔の言葉からでも…
❤に伝わるモノがありますから、本当に【真・理・は一・つ】と思えるのです。
そして、フト!振り返った時に「そこの団体に、入信すれば?いいじゃないの〜〜♫…」と、誰かが?
耳元に…囁きかけるのです。ほほを…心地よい風が…その時「私は、そう〜〜〜ョネ」…
「でも、亡き両親が【生長の家…信者】でありましたし、素朴に!素直に!【信・仰】された事を…」
現在の私は、いろいろ考えて…やはり聞きなれた「お経」が一番!と「亡き母」が伝えてきます。
私も、そう〜〜〜そうなの〜〜〜このように思えるのです。

■さて現在の【生長の家の幹部理事】は、失礼ながら?まず「2世の信者の皆様」モット別の表現ですが…
「創立者 雅春先生時代からの2世の信者」が〜〜〜果たして【役・職】になられていないようですかと。
ですから?ある面…【本当の真理】は、何処までなのでしょうか??

■ダン!ダン!〜〜〜ダン!ダン!〜〜〜【ちゃんぽん】に見えて参り〜♫〜 複雑なる気分ですネ!

                  (その2)に…続く

2840SAKURA:2014/05/11(日) 13:45:34 ID:IQVHvpPo
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんにちは……ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【 転載編…引用編】
>>2809>>2812>>2820>>2821>>2827>>2839 の投稿の続きです….。
■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】
(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行  (その2)
*========*【 各宗教に対する生長の家の立場 ―その11 ― 】*=======*=======* =======*=======*

■□ 話は元に戻りますが…・…・
先程の「現総裁先生」の【基・本…は、原・理・主・義】といいましたのは、
全てにおきましての【言・葉】から〜〜〜
■しょうがない!しょうがない!神のお導き〜〜〜アラーのお導き〜〜〜と…
そのような言葉が、この頃では「連続的」に記載投稿されております。

■なぜ!なぜ!「しょうがな〜〜〜い」と、いいます“表現”が多いのかしら〜〜〜ン!と…
思っていましたら、「或る書籍本」に?
【アラビアロレンスの影響】で…云々…この方はの体験を、記載投稿させて頂きます。

>>私はロレンスのすすめに従い、アラビア人ともに住むことにした。今の私は、そうし
て良かったと思っている。彼らアラビア人は、悩みを克服する方法を私に教えてくれた。
略〜〜〜私がサハラ砂漠に住んでいた時に経験したシロッコという猛烈な熱風の話をしよう。
この熱風は三日三晩ものすごい勢いで吹き荒れた。あまりに強烈をきわめたので、サハラ砂漠
は遠く地中海を隔てて数百キロの彼方にあるフランスのローヌ川流域を真っ白に染めたほどだった。
風の熱気も強烈をきわめ、頭髪が焼け落ちるのではないかと思った。のどは焼けつき、目は燃えた。
歯の間には砂がいっぱいたまった。まるでガラス工場の炉の前に立っているような感じであった。
私はもう少しで気が狂うところで」あった。しかし。アラビア人は決して不平を言わなかった。

彼らは肩をすくめて言った、「メクトウブ!」……「すでに書かれている」と。けれども嵐が
収まると、彼らはすぐに活動を開始した。まず小羊をすべて殺した。いずれにしても死ぬことを
知っていたからだ。即刻小羊を殺すことによって、母羊を救おうと考えたのだ。そして小羊を
殺し終わると、羊の群れを南の水場へと誘導していった。彼らは自分たちの受けた被害を悔やむ
でもなく、何の不平も悩みもない様子で、静かにこれを実行したのであった。
■アラビア人の族長は言った。「まぁまぁだね。一切合切を失うところだったのに神のおかげで、
四割の羊が残ったのだから、また新しく出直しさ」
また、こんな出来事もあった。自動車でサハラ砂漠を横断中、タイヤがパンクしてしまった。
運転手はスペア・タイヤの修理を忘れていた。それで、我々は三つのタイヤしか使えないことになった。
私はジリジリし、興奮して、いったいどうするつもりかとアラビア人に尋ねた。すると彼らは、興奮
したところで何にもならない、いったいどうするつもりかとアラビア人に尋ねた。すると彼らは、
興奮したところで何にもならない、一層暑くなるばかりだ、タイヤがパンクしたのは、アラーの神の
思し召しであるから、どうにもならないと言うのだ。そこで、我々はタイヤを外し」、リムのまま
地を這うようにして進みはじめた。やがて車が動かなくなった。ガソリンは切れたのだ。族長は
「メクトウブ!」と言っただった。そして」、またしても皆は、十分にガソリンを入れてこなかった
運転手を非難せずに、相変わらず静かな態度で、歌を歌いながら目的地へと歩いていったのだ。<<

■ 上記のように【D・カ−ネギ−】の書籍から……実は、投稿させて頂きましたのです…。
「閲覧者」の皆様の中では…この【 D・カ−ネギ− 】の投稿言葉の中には?
どのように受け止められましたでしょうか?
ところで【 D・カ−ネギ−】自身、最終的には…全てはイイとは限らないが…
【避けようもない事態に対して愉快に服従する】……この様な内容の記載がありましたが…
「現総裁先生」も【原理主義…しょうがない!しょうがない】という事の解釈論になりますでしょうか?

唯!アラブの於かれた環境と…現状の国内日本の環境とは…異なるように思います…。
この【原理主義…解釈論】でいきますと
「総裁先生の捉え方」は?――>本部職員(召使い)−−>信者(奴隷)
この様に見られているのでしょうか???そうしますと、これが【幹部役員もトップに見習え…】
この様な捉え方となりますと…実に!複雑なる思いでありますネ!!!

■【 あの素晴らし〜〜〜イ! 真理は何処へ〜〜〜飛んでいったの? 】 フ〜〜〜ゥ!再合掌

2841a hope:2014/05/13(火) 08:25:15 ID:cEpBaIdo
「生命の實相」第13巻 p66〜67

倫理の基礎としての人格の自由

「愛行生活も、物質的環境が逆らえば不幸な実際生活を生む」とか、愛行の生活と物質の法則とが相衝突する時、愛行の生活が、物質の法則に打ち破られ、悲惨に打ち挫(ひし)がれて、惨々に叩き据えられてしまうということになりますと、人間は外界から押し寄せる物質的盲目的力に左右されているということになりますので、本当の自由は得られないということになります。

「行為者の本当の自由」というものが確立しなければ、人格的行為というものは成り立たないのであります。人格的行為というものが成り立たず、機械的行為というものならば善も悪もないのであります。

心だけ正しければ、外界はその心のとおりに現れなくとも「善」である。人格の自由というものは「心だけの自由」のことであって、外界の自由ということではないというようなことになれば、内外一貫した人間の道徳的自由というものは存在しなくなり、自由といい善というのはひっきょう、心の中ではかなく描かれた空想にすぎないということになります。それでは人間の「善」というものは本当には成り立たない。現実には成り立たないということになります。

ところが、われわれが外界にも生きて行く上に「善」を云為(うんい)し、魂が一種の善(ただ)しさを要求し、「善」とか、「人道」とか、「愛」とか、「憐憫」とかいうものに関心をもたずにいられないというのは、自己の存在の根底において、われわれは内界において自由であるとともに、外界においても自由であるとの根本自覚をもっているからであります。

『創世記』の第一章に、その作者が霊感によって人間の本性を描いて、人間は神の像(すがた)に創造(つく)られ、すべてのものを支配する権能(けんのう)を与えられていると説いているように、われわれはいっさいのものを外界をも完全に支配する自由を与えられているのであります。

外界と内界とを対立させて、善なる主体が悪なる客観に働きかけるというような考えをしている限りにおいては、人間には内外両面相(あい)貫いた自由さはない、内外両面相貫いた本当の自由のないところには、内外両面相貫いた善というものは存在しないということになり、そこにはただ「空想だけの善」が、現実生活では惨めに「踏み躙(にじ)られた善」しか存在しないことになります。

だから、人の世に内外両面、主客相(あい)貫いた「善」というものの価値と権威を確立するには、心の自由は同時に行為の自由であり、心に描かれたことは必ず客観世界にも実現する、心の世界と客観世界とはただ一つのものの両面である――客観世界は心の世界の影であるという、「生長の家」の所説に基づいてこなければならない。

倫理学は要するに、「生長の家」に来なければ主客両面、内外相貫いたその本当の根拠がつかめないということになるのであります。

2842SAKURA:2014/05/13(火) 20:03:58 ID:3/pn4/Pc
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【 転載編…引用編】
>>2778>>2779>>2784>>2786>>2794>>2795>>2796>>2797>>2798>>2801>>2802>>2803>>2807>>2808 
>>2809>>2812>>2820>>2821>>2827>>2839>>2840 の投稿の続きです….。
■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】
(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行  
*========*【 各宗教に対する生長の家の立場 ―その12 ― 】*=======*=======* =======*=======*
あるいは金光教の方が来られると、金光教の神様は天地金の神といわれる神様である。
天地金の神というと、金の字がついているから、拝んだら金でも儲かる神様である、こう
いうぐあいに思って、御利益信心で詣っておられるような人もあるけれども、そんな“けち”
な神様がこの金光教の神様ではない。金の神というのは「金剛不滅の実相の神様」というこ
とである。天地編満の金剛不壊実相の神様、これが金光教の天地金の神であります。その
金の神という名前がついているから、どうぞ金を儲けさしてくださいなんて、頼む奴には
金を儲けさして、頼まぬ奴には儲けさせぬ、そういう依怙贔屓のあるような神様が金光教
の神様ではない。金光教の神様は、金光教祖がいわれたように「頼まいでもおかげはやっ
てある」こういわれる。これは面白い言葉である。頼まいでもお陰はやってある――これ
は「生長の家」の教えと同じことであります。すでにわれわれは神の子として、無限者の後
継ぎとして神の命じ給えるいっさいのものを与えられているのである。いっさいのものを
与えられているのであるから、「頼まいでもおかげはやってある」とこういううぐあいに金光
教祖はその御理解の中で説いておられるのであります。「たのまいでもおかげはやってあ
る」――それをまちがえて、どうぞ金を儲けさしてくださいと、頼みに行く先が金光教の
神様であるように思ったりしていては教祖が嘆かれる、あんたの宗教の本来の教えはよ
いのだけれども、取りようがまちがっている、だからもっともっと金光教の奥深く這入っ
てゆきなさい。こういうふうに申し上げるのであります。金光教の教えは実によい教えで
ありまして、「神は宮の中におらぬから、わたしを拝みたければ外へ出て拝め」というふ
うな徹底した教祖の御理解もあります。それにもかかわらず立派なお宮をこしらえて、そ
うして蝦で鯛を釣るつもりで、わずかなお賽銭を上げて金を儲けさせてもらおうと思って
拝んだりしている者があるから先般のような金光教の大騒動が起こってくるということに
なる。あれは金光教祖の教えではない。金光教祖の教えは実に立派な教えである。神は宮
の中におらぬ。天地編満の金剛不壊実相の神様がお宮の中に、物質という箱の中に入っ
て、そうしてお賽銭を貰って、お賽銭の多寡によって御利益に大小があるなんて、そんな
馬鹿なことがあるはずない。それをちゃんと金光教祖は喝破しておられたのでありま
す。だから「頼まいでもお陰はやってある」とか「疑いを離れて見よ、われらは神徳の中
に生かされてあり」とか言っておられるのであります。われわれは神徳の中に今、このま
ま生かされているものを、眼をつぶってまだ貰っていないようなきがしておる、そうして
どうぞお陰を与えてください。どうぞお陰を与えてください、こういうぐあいにいってい
るのです。だから、金光教祖は「疑いを離れて広き大道を開き見よ、われらは神徳の中に
生かされてあり」と喝破しておられるのであります。
                       つづく
Ps:「トキ様」 へ 「観覧者の皆様」 へ
出勤途中に、【金・光・教】の伝言板に…毎月の言葉が掲示されています…。
確かに…私の心の中に〜〜〜ス〜〜トン!…と入って来ます。
その後!心…心そのモノが、軽〜〜くなり?足取りも?リズム〜♫が出来るので納得でしょうか??
本当に【真理】を理解するにしても、間違った捉え方での行動は、どうなんでしょうか??

2843a hope:2014/05/14(水) 09:07:36 ID:cEpBaIdo
「生命の實相」第13巻 p67〜71

「善」の一般的要素

倫理の基礎として「人格の自由」ということが確立せられましたら、ついでにその自由の主体たる人格が何をなすか、人として善であるか悪であるかの問題に移らねばならない順序となるのであります。

われわれは子供の時から善と悪との区別を教えられているので、善とはなんぞや、悪とはなんぞやということは誰でも知っているはずでありますが、さて、ひとかどの成人に対(むか)って「人のある心または行為が善と認められる要素はなんであるか、またそれが悪と認められる要素はなんであるか」と尋ねますと、ちょっと返事に困るでありましょう。

では「善とは何?」「悪とは何?」これを「生長の家」の倫理学で解説しますとなんでもないのであります。「生長の家」で申しますと、善というものは固定した「律」ではないのであります。善の確立する根本原理は、

唯一の「善」は神のみである。

ということであります。「善(グッド)」は「神(ゴッド)」の別名なのであります。「神」のいます処、そこに、「善」があり、「神」のいまさない処、そこに「善」がないということになるのであります。

「生長の家」で申しますところの神とは、すべてのものの創造主(つくりぬし)であります。言い換えれば、神があらわれてすべてのものとなったのであります。だからすべてのものは、神において一体なのであります。すなわち「創造(せいちょう)の宇宙(いえ)」においては神はその御親(みおや)であり、すべてのものは、その御親より出でたる御子(みこ)であります。すべてのものは、御親の生命の分化でありまして、神において一体なのであります。

自と他と、我と彼と、心と物と相離れているように見えますけれども、実は相離れているのではない、本来、自他一体なのであります。神を愛するには、神と、神より出でたるものすべてを愛さなければならない。それで、『マタイ伝』二十二章にもイエスの言葉としてこう書いてあります。

「一人(ひとり)の教法師、イエスを試むるために問う『師よ、律法(おきて)のうち、いずれの誡(いまし)めが大なるか』イエス言い給う『なんじ心を尽(つく)し、精神を尽し、思いを尽して主なるなんじの神を愛すべし。これ大にして第一の誡なり、第二もまたこれにひとし、おのれの如く、なんじの隣(となり)を愛すべし。律法(おきて)全体と預言者とはこの二つの誡によるなり』」(『マタイ伝』第二十二章三十五―四十節)

2844a hope:2014/05/14(水) 09:09:09 ID:cEpBaIdo
>>2843つづき)
パウロもまた『ロマ書』の中で、

「汝等(なんじら)互いに愛を負うのほか何をも人に負うな。人を愛する者は律法を全うするなり。それ『姦淫(かんいん)する勿(なか)れ、殺すなかれ、盗むなかれ、貪(むさぼ)るなかれ』と云える、この他なお誡命(いましめ)ありとも『おのれの如く隣(となり)を愛すべし』と云う言葉の中にみな籠るなり。」(『ロマ書』第十三章八―九節)

「兄弟よ、汝らの召されたるは自由を与えられんためなり。ただ其の自由を肉に従う機会となさず、反(かえ)って愛をもて互いに事(つか)えよ。その律法(おきて)の全体は『おのれの如く、なんじの隣を愛すべし』との一言(げん)にて全うせらるるなり。」(『ガラテヤ書』第五章十三―十四節)

といっています。

「愛」のうちにこそいっさいの人倫は含まれているのであります。イエスは、その弟子のパウロに、「おのれのごとく、なんじの隣を愛すべし」と申しましたが、「生長の家」では「自他一体なるがゆえに、なんじの隣を愛すべし」と申しましたが、「生長の家」では「自他一体なるがゆえに、なんじの隣を愛すべし」というのであります。他をおのれのごとく愛するのではまだ足りない。自己と他とは一体なるがゆえに、自己はすなわち他なるがゆえに自己を愛するということは、必然他をも同時に愛しなければならないのであります。

使徒ヨハネは、

「愛する者よ、われら互に相(あい)愛すべし、愛は神より出ず、おおよそ愛ある者は、神より生まれ、神を知るなり。愛なき者は神を知らず、神は愛なればなり。」(『ヨハネ第一書(だいちのふみ)』第四章七―八節)

といっているのであります。「神は愛である」とは、『ヨハネ第一書』以来今日にいたるまで、神について下された最も要領を得た定義であります。では愛とは?「おのれのごとく隣人を愛すべし」何故(なにゆえ)であるか。答えて曰く、神はすべての親であるから、自己と他とは一体であるから、その答えは大いによろしい。自他包容の渾一体(こんいったい)――すなわち「自他一体」そのものが神なのであります。自他一体を生きるということが神を生きるということ、神をこの世に顕現することであります。

自他一体を生きることが神を生きることになるのでありますから、軽くいえば自己のごとく他を愛する。いっそう切実にいえば自己そのものとして他を愛することが、神を生きることになるのでありまして、「神を生きる」すなわち永遠価値の生活を生きることは「愛」を生きることにほかならないのであります。

2846a hope:2014/05/15(木) 09:17:46 ID:cEpBaIdo
「生命の實相」第13巻 p71〜72

「神を愛なり」とは何を意味するか

「神は愛なり」とヨハネは申しました。有島武雄氏は「惜しみなく愛は奪う」と申しました。これは愛とは一体と感ずる、換言すれば「自己のものとして観る」ということであります。「神は愛なり」とは、神は万物の本源でありますから、「神はすべてのものを自己そのものとして観給う」――これが「神は愛なり」という意義であります。

「われわが子を愛す」といえば、「われそのものとして観る」ということであります。子を愛する母は、わが子の噛んだものを口移しに食べても「穢(きたな)い」と感じない、それはわが子をわれそのものとして観るからであります。「穢い」などという感じ、すべての軽蔑の感じは自と他と相疎隔した感じによって起るのであります。

われわれは口中に常に若干の唾液を持っているものでありますが、その唾液を穢いともいやらしいとも感じたことがない、それはその唾液を「自己」そのものとして感じているからであります。いったんその唾液を吐き出して自分と離れた所に置きますと、もうその唾液は穢くて再び自分の口へ入れる気にはなれますまい。これは自己と離れているという感覚的印象に従って、自分と離れた感じ「穢い」という感じを起こさせるのであります。

また、もう一つ例をいえば、われわれは常に自己の腸管内に多少の糞便を溜めているのでありますが、それを誰も穢いと思ったものはない、また糞便があるということを知らぬのでもない、しかし穢いとは思わない、これは自己の腸管内にあるうちは糞便をも自己そのものの一部として観じているからであって、ひとたび体外に排出して、自己と離れた感じを受けるに到れば、その糞便は「穢い」として感じられてくるのであります。

こういうように、どんなものでも「自己そのものとして感ずる」ときには穢いとは感じないのであります。「美とはそこに生命があらわれていることである」と『智慧の言葉』にありますが、ある種の美術はちょっと見るとどこが美しいのかわからない、じっと見ていると美しさがわかってくる、それはその美術に顕れている「生命」を見いだし、その「生命」を自分の「生命」と同じものとして感じる、すなわち自他一体の感じを受けるから「美しい」と感ずるのであります。だから「美」も「愛」も「生長の家」から観れば同じことでありまして、自己と同じ生命を見出すとき、そこに美を感じ愛を観ずるのであります。

2847a hope:2014/05/15(木) 09:19:40 ID:cEpBaIdo
>>2846 訂正
「神【を】愛なり」とは何を意味するか→「神【は】愛なり」とは何を意味するか

2848SAKURA:2014/05/15(木) 20:03:22 ID:3/pn4/Pc
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■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】
(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行  
*========*【 各宗教に対する生長の家の立場 ―その13 ― 】*=======*=======* =======*=======*

 それからまた、たとえば天理教の方が来られますと、天理教はたいへん結構な教えで
す、こう申し上げる。天理王命といわれる神様はこれは天地の理法が神様として人格化
して顕われられたものである。これはたいへん結構な神様である。生長の家でもやはり天
理教のように『心の法則』ということを説いている。天理教の教えは、生長の家でいう「心
の法則」、仏教でいう因果の法則を「理」として取り扱ったもので、一方にはやはり人間本
来神の子であって、完全な水晶球のような汚れない霊(みたま)である、それにちょいと塵がつい
ただけである、こういうぐあいに天理教祖の「筆さき」の中に書いてあります。天理教
祖の「筆さき」の主なる解釈は『生命の実相』全集「萬教歸一篇」の中に書いておきましたか
ら見てくださればいいのでありますが、要するに、天理教も実に立派な教えである。そん
な立派な教えを本当に立派なものにしないで、取りようがまちがって、そうしてもっとも
っと一段と低いものに変えてしまった、それが気の毒である。それで生長の家では天理教
をわるくいわない。天理教は実に立派な教えだが、あなたが今思っているようなそんな下
らない迷信的分子のあるものだと思いなさんな、もっと教えの本体を見て立派なものだと
思いなさい。金を持ってこなければ御利益をやらぬぞ、そんなけちを言うような教会宗
教だと思いなさんな。こういうぐあいに申し上げるのであります。

                      つづく

2849a hope:2014/05/16(金) 09:20:48 ID:cEpBaIdo
「生命の實相」第13巻 p73〜76

「神を愛する」とは神と一体と感ずること

「神は愛なり」「愛の感じは自他一体の感じである」といたしますと、愛の反対は自他疎隔の感じであります。自他疎隔することは、すべてなんに対しても吐き捨てた唾液のように、「あれは自分自身ではない」という感じを持つことであります。

われわれ「生長の家」の家族が「神と一体である、神の子である、神と同体である」と申しますと、「人間が神の子であってたまるものか、人間と神と一体であるとは不遜なことをいう。神は人間の主(しゅ)であり人間は神の僕(しもべ)にすぎない」といって、われわれが「神と一体である」ということを大変謙遜でないといって攻撃される人がありますが、特にそういう攻撃をされる人がキリスト信者に多いのでありますが、キリスト教の開祖はなんといったかといいますと、

「なんじ心を尽し、精神を尽し、思いを尽して主なる汝の神を愛すべし。これ大にして第一の誡(いましめ)めなり。」(『マタイ伝』第二十二章三十七 ― 三十八)

といっているのであります。ここに「主なる」とあるのは、僕(しもべ)に対する主人のような疎隔した意味でいっているのではなく、至高者(いとたかきもの)というような意味の形容でなければならない。だからこれは「いと高きなんじの神を愛すべし、これ大にして第一の誡めなり」という意味であります。

2850a hope:2014/05/16(金) 09:22:32 ID:cEpBaIdo
>>2849つづき) 

では「神を愛する」とはなんであるかと申しますと、「愛する」とは自己と一体として認めることであるという一般定義に従いますと、「神を愛する」とは神と一体であると認めることをもって第一とするのであります。妻を愛するとは妻と一体であると認めること、子を愛するとは子と一体であると認めること、隣人を愛するとは隣人と一体であると認めること、この「一体であると認める」すなわち愛するということが第一であっていろいろの律法――「殺すなかれ」とか、「盗むなかれ」とか「姦淫するなかれ」とか、「偽りの誓いを立つるなかれ」とかいういろいろの外形的な細目は、「神と一体であると認める」(すなわち「神を愛する」)という中心自覚とがととのえば自然にととのってくることなのであります。

「われ神と一体である」との中心自覚がととのわねば、神を愛しようと努力しても本当に神を愛することはできないのであります。それはちょうど、子を愛しようと努力しても、「その子は本当に自分の実子である。自分とこの子は一体である」という自覚ができねば、本当に愛することができないのでありまして、「この子は継子(ままこ)である、自分の生命はこの子につながってはいない、この子の生命と自分の生命とは一体でない」と自覚しているようなことでは、いかに愛しようと努めても愛することはできるものではない。

それで「神を愛する」ということでも同じことであって、本当に「神を愛する」ためには、「神とわれとは一体である」との中心自覚がなければならないのであります。これを神と人間とを主人と僕婢(ぼくひ)の関係に見立てて、「神を愛しなければ叱られる、罰せられる」と思って愛しようと努力し、愛したと同じ行いを、外に顕わしたにしましても、それは努力して「愛する外形を真似た」というだけであって、 本当に「神を愛した」ということにならない。

2851a hope:2014/05/16(金) 09:25:27 ID:cEpBaIdo
>>2850 つつき)
では神を愛するとは、「自分が神の子である。神の子である神の生命とは一体である」なお、極言するならば、「自分は神そのものである」との中心自覚がととのってこそわれらは完全に神を愛しうるのであります。この中心自覚がととのわないで「神を愛する」などということは、たとえば「継子を愛する」のと同様、自分と一体でない生命を愛しようといういたずらな努力の愛になってしまって、本当に完全に愛することはできないのであります。

だからわれわれの目指すべき中心善はなんであるかといいますと、イエスの口調を借りていえば、「なんじら、まず神と一体であることを認めよ、これ大にして第一の誡命(いましめ)なり。この中心善を認めよ、すべての善はおのずからなんじに調うべし」であります。われらが、「神と一体である」と認めることが決して神を冒涜するゆえんにあらず、かえって、「神と一体であると認めないことが神を愛しないことになることがわかったでありましょう。

わたしはこの序論の冒頭に、「人生の目的とは、要するにこの世の神の生命を顕現することにある。神がこの世にあらわれた生活を示現(じげん)することである」と書きましたが、われわれがその本来相において「神と一体である」という事実を肯定しなければ、われらはこの世に神の生命を顕現することもできず、神がこの世にあらわれた生活を示現することもできないのであります。

ただ、神なるもののみ、神なる生命をこの世に示現することができるのであります。本来、人が神でないならばいくら努力しても神の生命をこの世に示現することはできない。そして「神」のみが「善」であるから、本来、神でない人間がもしありとすれば、彼らはいつまでも善に到達することはできないということになるのであります。

ところが幸いに、人間は本来神の子であり、その本性において神そのものであるがゆえに、「本当の人間(リーアル・マン)」が生活されたならば、そこに「神がこの世にあらわれたことになり、神なる生命がこの世に示現した」ことになるのであります。

2853SAKURA:2014/05/16(金) 21:52:16 ID:3/pn4/Pc
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こんばんは……ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【 転載編…引用編】
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■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】
(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行  
*========*【 各宗教に対する生長の家の立場 ―その14 ― 】*=======*=======* =======*=======*

 「生長の家」へも時々天理教から、病気が癒らぬので治してほしいといって来られて、うったえ
られるのです。わたしは「あなたは天理教で心の持ち方を教えてもらったでしょう。

そのとおりの心の持ち方になれば、三界は唯心の所現ですから治るんですよ」と申し上げると、
「運びが足らぬと天理教の先生がおっしゃいました」と、こういうふうなことをよくいわれるのです。
天理教布教師はなんのつもりで、なんの運びのつもりで言われたのか知りませぬけれども、その人が
言われるには、「あまり運んでおると財産も何もなくなってしまいますので、もうとうていやりきれぬ
というのでやめにしました」と言われるのです。

ところが天理教の布教師が、「あなたは運びが足らぬ。何もかも神様に上げてしまいなさい。
そしたらあなたは救われるのだ」とこういうぐあいにいわれるのは、それは真理なのです。
「運びが足らぬ」というのは心の運びが足らぬのです。心がスッカリと転向していないのです。

「何もかも神様に上げてしまいなさい」ということは、要するに、「何もかも、神の他のものは何
もないということを知りなさい」ということなのです。われわれが百万円の金を持っているとして、
何もかも神様にお上げしようと思って、百万円すっかり上げたってまだ何もかも上げたということには
ならない。やはり着物も着ているし、肉体も持っているし、いろいろ茶碗と箸ぐらいは持っている。

それをみな、肉体のみんな上げなさいと言ったって、それはできることじゃないこととなってしまう。
では「みんな何もかも神様に上げてしまいなさい」ということはどういうことかというと、これは自覚(さとり)である。自覚の転換である。今までは「そこらにあるものは自分のものだ」と思っておったのだが、
「何もかも上げてしまいなさい」とこういいうふうにいわれて「本当に全部上げてしまった」と
いうことになると、今ここにこのままいながら、自分というものは何も無い、本来無一物、ただ神
だけがあり、神のものだけがある。この体も、生命も神のものであるということが覚れる。こいつ
が肝腎なんです。この自分の生きている生命も神のものである。
そうすると、言い換えると自分すら神のものだということになるのであります。

いろいろと財産を持ち運んで行ってその報酬に御利益を貰うのではないのです。自分が今このまま
神のものである。神のほかに何ものない、神のみが実在である。この自覚こそすべての持ち物をみな
神様に上げてしまうということなのです。
                           つづく
PS:「トキ様」 へ 「観覧者の皆様」 へ
>>「運びが足らぬ」というのは心の運びが足らぬのです。心がスッカリと転向していないのです。<<
そうですョネ!!

『心…』がもしかして“曇り空”になれば…それは「神よりも悪魔…」の
しわざかしら〜〜〜ン?? そこで、本当に【神地一体】とは、神に振り向ける…つまり!
『心の往復切符…それは“幸福の切符”』でしょうかと??
モ〜〜〜ゥ!何もかも委ねるそうですョネ!!神に任せ切る“心”なんです…ネ!…
「三界は唯心の所現」は、【心・の・法・則】の基本なのです〜〜〜ョネ!!
現在!私は、現象=>実相に映る過程の道…「神に任せる…心を神様に振り向ける心」これが、
今の私たちの“今”生きる事とは「神様に任せ切る心…」
この事を認識することが出来まして…本当に「神様に委ねる…甘えて行く事」なんです〜〜〜ネ!! 
【 再・発・見!!再・認・識 】 この【気づき】に感謝いたします…。   再合掌

2854a hope:2014/05/16(金) 23:07:16 ID:cEpBaIdo
「生命の實相」第13巻 p125

第五章 実相を隠蔽する驕慢と自卑

第一の神性隠蔽(罪)としては「神我一体」の実相を包んで見ざること、第二の神性隠蔽としては「自他一体」の実相を隠して見ざること、第三の隠蔽としては「隠蔽(つみ)の隠蔽(いんぺい)として自己弁解すること、第四の隠蔽としては外界がただ自心の展開なる事実を観ず悟らず、外界をもって自分に対立するところの有限の世界だとして観じ、自心の整理を先にせず、物に執し物を奪い合わんがために、兄弟と相争い――ここにこれら四つの根本的神性隠蔽が相寄り相混じて、種々なる罪を構成するにいたるのであることは、前節までにおいて詳細説明せるところであります。

「物あり」と思うがゆえに、物に執着し迷うのであります。「物」が自心の展開であるということが判れば、自心を整えるよりほかに物を得る道はないので執着が破れてしまうのであります。

「自他一体」の事実が悟れないゆえに、利己主義が生じ、利己主義が、「物あり」という迷いと混合して、貪欲、怒り、憎み、嫉妬、虚栄などの諸罪を構成するのであります。・・・

2855a hope:2014/05/18(日) 10:12:31 ID:cEpBaIdo
「生命の實相」第13巻 p82

宗教争いは偶像崇拝より起こる

物質的な形あるものを礼拝の的にするようになりますと、物質的な形あるものは有限でありますから、ここまでは自分の領分であって、お前の領分ではないというような争いができてくるのであります。人間を和合させる働きをせねばならぬ宗教でさえも、肉体キリストという物質的顕現に捉えられていましては、顕現せられましたそれぞれの応身または報身は異なりますから、互に信者争い、領分争いをしなければならぬようになってくるのは当然であります。

その宗教が偶像崇拝教である程度は他教を排斥する程度でわかるのであります。

つまり、すべての争いの第一の萌芽(ほうが)は、物質的な形あるものを崇拝すること――すなわち偶像崇拝――よりくるものであります。

すなわち「すべての罪のうち最も重きものはなんであるか」と問う人がありますならば、「偶像崇拝をもってその第一とす」と「生長の家倫理学」は答えるのであります。

キリストでもこれを肉体イエスという「物質的形体」に見いださず、「アブラハムの生まれぬ前よりわれは在り」といわれた「永遠神性」にこれを見いだし、仏でもこれを肉体釈迦に見いださず、「過去の諸仏は皆わが弟子なり」と阿難答えた「久遠の釈迦」に見いだし、「生長の家」でもこれを肉体谷口の家に見いださず「すべての教えわれに流れ入りて生命を得ん」と示された「久遠実在の生長の家」に見いだすとき、すべての教えは、ここからあすこまでは自分の領分だなどという縄張り争いをする必要がなくなるのであります。

2856SAKURA:2014/05/18(日) 19:32:11 ID:3/pn4/Pc
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こんばんは……ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【 転載編…引用編】
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■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】
(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行  
*========*【 各宗教に対する生長の家の立場 ―その15 ― 】*=======*=======* =======*=======*

■「われのもの」であると思っているが、その「われ」というものすら無いものだとすっかり何も無く
なってしまって、もう“神様だけである”、神様のみが実在である。

ここに神様がいる、あるいは親兄弟姑さんとか、意地悪の小姑さんとかがいるとしても、そんな悪いよ
うに見えるものは、アルように見えても何もない。みんな神である、神以外のもは一つもない。そうい
うことがわかるのが「みんな神様に上げてしまいなさい」ということである。

存在のすべてを神に託したのですから、みんな神に献げたことになる。所有財産中の一部の百万円や、
五百万円や、財産残らず持って行ってもそんなことでは全部を神様に献げたことにならない、そんな
不徹底なやり方ではいけないのです。もう生きているこの生命の元さえも少しも残るところもなく全
部神様に上げる。そしてここに「神だけがある」というふうにしなさい。

これが本当に全部神様に捧げるということであります。こういうふうに説いてあげますから天理教の
信者たちも、あの自分の信じた天理教はそんなに立派な教えであったのか、と喜んでお帰りになるの
であります。

天理教もこう見てくると実に立派なものである。仏教の極地の「ただ実相のみがある」という仏教の
極地と天理教の極地とは実にぴたりと一つになれる。
天理教を病気だけ治してもらう宗教だと思って病気を治してもらうことばかりを思うのはまちがいで
ある。もっとあんたは自分の信ずる宗教を立派な宗教と思いなさい、と、信者自身が思っていりより
ずっと立派なものであると、おう称えてあげるのが生長の家であります。宗教というものは、ずっと
その奥堂へ入ってゆくと、こういうふうに実相の世界へ入ってゆく、実相の世界とは先刻申しました
おり、「生長の家」でありますから、天理教は天理教のままで生長の家に入れ、仏教は仏教のままで
神道のままでみんな生長の家に入れるのです。

それで、聖書にも「父の国には住居多し」と書いてある。

つまり、生長の家は、アパートみたようなもので、天理教の住まう家もあれば仏教の住まう家もあると、
まぁこういうふうな一切包容の「家」であります。

                       つづく
PS:「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
分かりやすく説いてくださっています。
【神に全托なさる事】とは、もう【無限供給の門】を一歩踏み出した事と!!この様に解釈しました。
「神様」にすべてにお任せして〜現在の掟ます事も含んで、まず!「マザーテレサなみになる事」かと。
私自身の「魂の向上」に向けて下さって居ます事の「お知らせ…配信」つまりは、
【神様からの配信…】と、只今思えるようになりました。
複雑な現在社会構造の中で、益々【心のよりどころ】は、まず!当然ながら【心の形成を建てなおす事】
でしょう!!もう少し私自身の【心を大海原に走って行こう…!】と思います。
「雅春先生」…ますますと、この自覚が入りました事に、ありがとうございます!! 再合掌

2857a hope:2014/05/19(月) 09:22:42 ID:cEpBaIdo
>>2855つづき)

「生命の實相」第13巻 p83

人間の不自由の萌芽(ほうが)

ところが、これに反して、少しでも物質的形体に捉われはじめますと、人間は本来の「自由」をわれとわが念で固定して「不自由」ならしめるのであります。「争い」というのも「不自由」の一面のすがたであります。すなわち本来の全体としての自由を失っているから「争い」が起こりのであります。

時計の歯車でも全体としての自由が失われていなければ、どの歯車も不自由にカチ合い争うなどということはないのでありますが、全体としての自由が失われると、歯車と歯車とが互いに調和して運行しないで、カチ合って時計が止まってしまうのであります。

この全体としての自由を失った「カチ合い」が、「争い」なのであります。

宗派争いをして仏教を罵ったり、キリスト教を排斥したりして、和協合同しえないのは、この「カチ合い」でありまして、人類の和協合同を説くべき宗教みずからが、和協合同を失っているという矛盾を演じているのでありまして、これというのも礼拝の本尊をば、「永遠の神性」とか、「久遠本仏」とかに見いださず、物質的形体のイエスに見いだしたり、肉体釈迦に見いだしたりして、「第一の神性隠蔽」に捉われているからであります。

宗教でさえも礼拝の本尊を「物質的形体」においたならば、このように争いが起こるのでありますが、個人の生命を「久遠の生命」の流れの中に見いださず、それを「肉体」に置き換えた原罪(第一の神性隠蔽)から出発して諸々の罪悪が発生するのであります。

2860SAKURA:2014/05/20(火) 22:58:27 ID:3/pn4/Pc
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【 転載編…】
>>2778>>2779>>2784>>2786>>2794>>2795>>2796>>2797>>2798>>2801>>2802>>2803>>2807>>2808 
>>2809>>2812>>2820>>2821>>2827>>2839>>2840>>2842>>2848>>2853>>2856の投稿の続きです….。
■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】
(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行  
*========*【 神の子の生活を今生きよ ―その1 ― 】*=======*=======* =======*=======*

■>>われらは自分を神の子(または仏子)なりと信じ、常にけだかく人生の道を歩み、内な
る魂の誇持“ほこり”(きょうじ)を傷つけざらんことを期す。<<

 さて、この自分は神の子であるということがわかりましたならば、そのわかった神の子
を今生きて行くということが必要なのであります。「自分は神の子である」とわかりながら
それを今生きて行かないというのは、これは実に矛盾したことであります。そういう人は
実際は、本当に神の子であるとわかっていないのであります。そういう人が神の子である
と思うのは、偽存在“にせもの”の自分を神の子であると思っている場合にそうなるのでありま
す。偽存在の自分、我の働きが神の子であるとこう思っている、その場合には、いくら聖
典を読んでも実際に神の子らしき行ないとしてそこに現れてこないのであります。偽存
在の自分をいくら磨いても本物になるわけはないのであります。真鍮の指輪をもってき
て、磨いたら黄金になるであろうと思っていくら磨いたって、真鍮はやはり真鍮なのであ
ります。それと同じく、この偽存在の自分をもって「神の子である、神の子である」とこう
思っても、なかなかわれわれは神の子になれっこはない。それでわれわれは神の子である
という自覚を実相から出してくるということが必要であります。

                      つづく

2861a hope:2014/05/21(水) 08:48:04 ID:cEpBaIdo
「生命の實相」第13巻 p88

久遠神性にある救い

何人の肉体的顕現を通さなくとも、「久遠の実在」としての実相人間を信ずる者には、永遠の生命が与えられる、これが「生長の家」の発見した真理であります。すべての人間が「久遠の実在」の顕現であり、現象世界が善かろうと悪かろうとそんなことは写真の映りが善いとか悪いとかの問題であって「実際の人間(リーアル・マン)は悪くはないのであります。

この事実を知らないから、人間は自己軽蔑する。「自分などはとても駄目なものだ」と思って「神性隠蔽」(罪)をするのであります。神性隠蔽をしておいて現象界も映し出しても、完全な神性が映るはずはないのであります。

人間を風呂敷で包んでおいて写真をとってごらんなさい。完全な人間の姿は写りますまい。それと同じく、自己の「神性」を包み隠しておいて、「自分はとても駄目だ」などという念のレンズで現象界を造り出したのでは、完全な現象界は出現するはずはないのです。

それで「自分は罪人だ」という観念はすべて現象界の罪悪の母胎であり、自分は神の子だという観念は善き現象界を造る母胎となるのであります。

2864a hope:2014/05/24(土) 20:12:58 ID:cEpBaIdo
「生命の實相」第13巻 

隣人に対する罪 p102 

・・・その次にイエスがあげた第二の誡命(いましめ)はなんであるかといいますと、「おのれのごとくなんじの隣人を愛せよ」ということであります。

そこで隣人に対する罪とは、この第二の誡命を破るということにあたるのでありますが、なぜおのれのごとく隣人を愛しないことが罪であるかと申しますと、それはわれと隣人とは本来一体であるからであります。

「われと隣人は本来一体である」という事実は、どこから来るかといいますと、「われは神と一体である」との第一最大の真理から必然生まれてくるのであります。

甲も神と一体であり、乙も神と一体であり、丙も神と一体である。

かかるがゆえに甲も乙も丙も神と一体であることになるのであります。

隣人を愛しないというのはこの自他一体であるという実相を見ないからであります。

それは五官の眼で自分と他人とを見ますと、自分というものは他と離れ離れのものであるということを結論しなければならない、肉体は一人一人別々である、頭は一人一人離れている、手足は一人一人離れているということになるのでありますけれども、それは五官のまどわしに捉えられているからであります。

五官を離れて、あるいは五官を深く掘り下げてゆきますならば、自と他とは本来一体であるということがわかってくるのであります。

2865a hope:2014/05/26(月) 08:25:03 ID:cEpBaIdo
「生命の實相」第13巻 p105〜

利己主義すなわち自他一体の実相の隠蔽

・・・だから、より大いなる自他一体に進展しようとしないところの、小さな自他一体の団体は、一時は大いに発展するようにみえましても、やがては全体からの生命の供給を
はばまれ、それ自身たつことができぬようになるのであります。

周囲に反対して無理に成就せしめた恋愛などが、一時は大変好都合にゆくように見えましても、いつの間にか夫婦の愛に異常を生じて破綻をきたしたりする例がおいおいありますが、それはやはり全体からの生命の供給をはばまれた結果、その恋愛が正常の発達を遂げることができず、歪(いびつ)に不自然になってしまった結果でありあす。 

恋愛そのものが悪いのではなく周囲との不調和がわるいのであります。

なぜわれわれが利己的動機に陥るかと申しますと、五官をもって事物を見る結果、その印象にあざむかれて物質有限の感を抱くにいたるからであります。

物質が「心の影」だとわかったならば、心にしたがってどんなにでも、多くでも少なくでも顕すことができるのでありますから、他を制して自分の方へ集めましても、物質無限でありますから、「他を制する」必要だけは全然なくなるのであります。

この「他を制して自分の方ばかり集める」という利己主義の展開としてやる商売や職業は、結局行き詰まってくるのであります。

2866SAKURA:2014/05/26(月) 21:52:23 ID:3/pn4/Pc
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こんばんは……ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【 転載編…】
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■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】
(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行  
*========*【 神の子の生活を今生きよ ―その2 ― 】*=======*=======* =======*=======*

■よく病気の方などで、あんた『生命の実相』をよく読んでおられますかというと、よく読んで
います、朝から晩まで『生命の実相』ばかり読んでそうして疲れてしまって何もできません(笑声)
とこういう人があります。

こういう人は『生命の実相』の真理をどこへ滲み込ませようとしているのであるかというと、偽存
在の自分の中に滲み込ませようとしているのあります。だから何か金粉のようなものを付け加えて
磨いておったらしまいには金になるであろう、こういうふうに思って朝から晩まで真鍮を磨いてい
る方である。

それじゃいけないのであります。それでわれわれは神の子であると知るということは、結局は
“神の子を生きる“ということで、「知る」ということと「生きる」ということと別にあると思うと
まちがいであります。つまり「知る」とは「生きる」ということである。

親鸞聖人が「信心よろこぶその人を如来とひとしとときたまう。
大信心は仏性なり。仏性すなわち如来なり」ということを『弥陀和讃』の中で説いておられる。
という意味は、信心を起こす心、この本当の信心というものは、如来と同じものであるということである。

では、如来はどういう働きをしたかというと、一切衆生を生かさんがために、いろいろ無限の愛を
もって超載劫の永い間行をして、今西方に安楽国という浄土を建設して、そうしてそこに、わたし
を頼むと利他的な念願で働きをしておられるのであります。その仏の働きが自分の中に出てきたら
これが信心である。

信心というのはただ南無阿弥陀仏とこう口先にいって、「偽存在の肉体の自分」が蓄音器のレコード
みたいに「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」といいながら、行の上で嫁いじめをしているというふうな
ことではこれは信心ではない。

“信心とは仏の心が自分の中に生きる“ことである。金光教祖は、「日に日に生くるが信心なり」と
こういわれた。日に日に生くるが信心なり――そうしますと、この南無阿弥陀仏というのは何である
かというと、「南無」というのは帰命である、弥陀の命に帰一するということです。

阿弥陀様の生命のままに生きましょうというのが南無阿弥陀仏であります。

                    つづく

2867SAKURA:2014/05/26(月) 21:59:50 ID:3/pn4/Pc
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■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】
(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行  
*========*【 神の子の生活を今生きよ ―その3 ― 】*=======*=======* =======*=======*

ところが、阿弥陀様の生命のままに生きましょうと口に唱えて、その――阿弥陀様は慈悲の権化で
あるのに、その阿弥陀様の生命のままに生きましょうといいながら、嫁をいじめてみたり、欲ばっ
て泥棒してみたり、無理なことをして儲けてみたり、「このくらいのことはよいだろうから、ちょっ
とだけ猾いことをしよう」とそういうふうなことを考えているようなことでは、「阿弥陀様の生命の
ままに生きましょう」とこういいながら、阿弥陀様に背を向けている、どこにも阿弥陀さまに帰命し
ていない。これではその人は信心じゃないのであります。

本当の信心というのは「ここに神が生きる」「ここに仏が生きる」この自覚で生ききるのが信心であります。

今まで仏様というものをまちがって解釈して、なんでも涅槃寂静であって、力のない、空のなんにも
ないようなものである、とこういうふうに考え、なんの力なく、死んだように、空になったように
遁世してしまう。これが仏様の命令のままに生きるのだと考えたらまちがいなのであります。

仏様は無礙自在の働きをして、少しも休む暇なく働いていられるのであります。人のために休む暇も
なく働いて働いてやまない、これが仏様の心をわが心とし、仏様に帰命することであります。

この世、現世は無常であって、本来ない空であると仏典はいう。そして仏様も空である、みんな空で
あるからどうでもよいのだと、したいままをして、結局空に帰して、それで一生涯であるというふう
な考え方をして、この世をつまらなく否定してしまうことを本当に仏道を生きることだと思っていると、
それはまちがいなのであります。現代の仏教が本当の教祖たる釈迦の御教えから外れてしまって、ただ
この現世は無常である。空々漠々である、仏様も空である、みんな空であって、その空から阿弥陀如来
というものが現われて、そうして西方極楽浄土に報土を作って、この南無阿弥陀仏と口の先だけで称え
ておったら、死んでからそういう極楽浄土で楽をさしてもらうのだというような、そんな馬鹿な考えを
もっている似而非仏教信者があるために、せっかくの尊い釈迦の教えが死んでしまい現実を生かさない
という残念なことになっているのであります。

この釈尊の御教えを本当に生かし、同時にすべての善き宗教の教祖の御教えの神髄を生かすのが
生長の家であります。

本当の信心は、今自分が仏子であり、神の子であるということを知る、そうして、今自分がその仏なり
神の子なり生きることであります。

つづく

2868SAKURA:2014/05/26(月) 22:02:05 ID:3/pn4/Pc
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こんばんは……ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【引用編】
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>>2809>>2812>>2820>>2821>>2827>>2839>>2840>>2842>>2848>>2853>>2856>>2860>>2866>>2867
の投稿の続きです….。

■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】
(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行  
*========*【 神の子の生活を今生きよ ―その2・3の引用編 ― 】*=======*=======*

>>2866>>2867投稿の続きです…。
PS:「トキ様」・ 「観覧者の皆様」 へ
『人間の真理』について書かれています。〜〜「複・雑・感…」でしょうか??
当時の信者もどれくらいの理解力が〜〜〜><と思いつつ、そうこうしております、現代の私達の
置かれています【生長の家のお家騒動…】を思いながら〜〜久しぶりに閲覧しますと?
「皆様」は、こうなければ〜〜〜こうだったとか〜〜〜??色んな捉え方が〜〜〜??

しかしながら今回の「雅春先生の言葉」から、やはり【信・仰】について詳しく取り上げて頂き、
この本は「信者に向けての中身…」でしょうか??
今回!私も「総裁先生」を応援しながら〜〜始めて【ネット…】での『生長の家のグループ』に、
参加……その後!その後!〜〜〜の私の見方が〜〜〜180度変化したのです。

そこでは、私は、いろんな“形でのアクシデント…”から、【フェスブックの友人達】を、意を決して、
かなり白紙と致しました。残ったのは〜〜〜ごく【少・数…】でしたし〜〜〜更に!!
パートナーの「ナンシーさん」のフェイスブックの問題があり、いろいろな形で〜〜〜「総裁先生」に、
一言〜〜〜言いたいで〜〜〜す。

■【他人まかせ…】で、行きますと〜〜〜怖いですネ!!ある時!〜〜〜><
【ネット関連の方達の信頼度】は〜〜〜不思議と閲覧していますと、此処で、私は、ある面では、
彼らからの被害者という事になりますでしょう。…が?
お陰さまで【神・想・観…】中に 気をつける事とのメッセージを頂く事となり、色々考えたすえ、
【決・断】した行動は〜〜〜「フェイスブック研究会…49のグループ」は脱退しました。
詳しくは、また後に……そして【信・仰】しながらの、相手の『悪・口・論・争』のコソコソは??
…と、改めて思いました。
やはり【生長の家は信仰】ですので、まず【真・理】からが大事!!しかも〜〜〜
間違った解釈は??でしょうか?
■まだ!まだ!私も!!【真理=実行】の私にと…【有・言・実・行】当に勉強中で〜〜〜す!!

                         再合掌
:

2870トキ:2014/05/28(水) 18:44:06 ID:K6oful.2
>>2868

 生きて居る限り、誤解をされるのは仕方がないです。

 釈尊はダイバダッタに背かれ、キリストはユダに裏切られました。
谷口雅春先生ですら、弟子に裏切られています。

 でも、それでも、以上の方々は人類に多大な貢献をしました。

 「倒されし 竹はいつかは 起き上がり、 倒せし雪は いつかは 消え去る」

 頑張って下さい。

2871SAKURA:2014/05/28(水) 21:12:15 ID:3/pn4/Pc
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こんばんは……ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【転載編】
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>>2809>>2812>>2820>>2821>>2827>>2839>>2840>>2842>>2848>>2853>>2856>>2860>>2866>>2867
の投稿の続きです….。

■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】
(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行  
*========*【 神の子の生活を今生きよ ―その4 ― 】*=======*=======*

>>2866>>2867投稿の続きです…。
 「日に日に生くる信心なり」を本当に知ったならば今生きることである。仏様は衆生を救わんが
ために千変万化していられることを知ったら、自分もそのとおりに生きることです。

これが本当の信心なのであります。
たとえばわれわれが百万長者であるということを本当に知ったら、その百万円の金をじっとさして
おくはずがなにのであります。あれも買いたい、これも買いたい、あの人にもちょっとやって喜ば
してやりたい、こういう事業も起こしたいと、これは本当に百万円を持ったということを知った人
のことです。だけれども百万円親が遺産として残しておいてくれても、そいつを見つけない間は、
百万円持っていてもそういう働きが起こってこないのです。

ところが、われわれが本当に百万円を持っているということを知ったら、そこに百万円の活動が
始まってくる。知るということは活動することである。われわれが仏の子であり、神の子である
ということを知ったならば、その仏を生活に生き、神を生活に生きるということになってこなけ
ればならないのです。

それを生活に移さないのはまだ本当に知らないということです。だからわれわれは仏の心を行動に
移すということによってはじめて仏をここに実現したということになるのです。

仏は法である、法は「宜」であり「述べる」であり、コトバである。また聖書のいうとおり、神も
コトバである。コトバとは何であるかというと震動である。震動とは何であるかというと活動で
ある。活動が神であり、仏である。仏は涅槃寂静で、空で何にもない――そんなことじゃないのです。

活動が仏である。法藏菩薩は活動せられて極楽浄土を建立せられた、今もまだ働き給うのです。
仏の本願とは、仏の活動です。仏とは“ほどける”ことで、縛りがなくなって自由自在になること
であって、無礙自在な働きができなくては、これは仏ではない、神ではないということになるので
あります

だから今、皆さんが神の子であるという実相を「生長の家」によって知らして頂いたならば、た
だちに、即刻、今日から、今から、この瞬間から「神の子」を活動させる、愛によって隣人に
働きかけてこれを光明化し救うということが必要なのであります。

                       つづく

2872SAKURA:2014/05/28(水) 21:15:02 ID:3/pn4/Pc
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こんばんは……ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【引用編】
>>2778>>2779>>2784>>2786>>2794>>2795>>2796>>2797>>2798>>2801>>2802>>2803>>2807>>2808 
>>2809>>2812>>2820>>2821>>2827>>2839>>2840>>2842>>2848>>2853>>2856>>2860>>2866>>2867
>>2871の投稿の続きです….。

■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】
(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行  
*========*【 神の子の生活を今生きよ ―その4の引用編 ― 】*=======*=======*

PS:「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
■>>日に日に生くる信心なり」を本当に知ったならば今生きることである<<

人間…生まれた以上は、まず!「働く事」と〜〜〜そう!!そうなのです!!
日日!!活かす事が全てを生かすモノに繋がる事でしょうか??

例えば「百万円の価値観」は、その人の中身…“心”からスタートと思います。ですので…
ユダヤの長者のお話??【バビロンの大富豪のお話】からも〜〜〜♫
【お金の価値観は、まず活かす事】から…そうしますと?私達の「生活習慣」も…
■【時は金なり〜〜〜】と言われます様に、すべて“心”からでしょうか??

■昨日私の「フエイスブックの友人」から【 祈りの招待状 】が舞い込みました。
正直な話…いつもなら、私の偏見が〜〜〜どうしても先に脳裏に浮かぶのです…。…が?

例えば…「整形しているから子供…その“業”として…子孫にきたのョ」と、いつもの私が…
ところが?昨日の「友人の招待」から…WEB投稿記事を見ますと…
■母親の“愛”に動かされたのです。「霊界の法則」にも〜〜〜いわれます様に【 “愛”!! 】

■創立者「雅春先生」が【真・理】・【光・明】・【智・慧】・【絶・対・の“ 愛 ”】この言葉から…
〜♫ 汝ら天地一切のものに感謝せよ ♫〜の冒頭が浮かんで…
そして、子供に対するひたむきなる母親の【 愛…の・姿 】…涙が…心を動かされました。

もう一度!もう一度!「皆様」の……【集団の祈り】
【集団の祈り】が〜〜〜??そうです。必ず!必ず!必ず!【叶・う!】
〜〜そして、主催者が「四万人の呼びかけ運動」なのです。

■【祈りリレ−】が、今!今!世界中に始まっているのです〜〜〜??
それで、此処【2チャネルに投稿】更に【わたしの日時計日記】にも呼びかけました。
昨日の結果は「5人の皆様のイイネ」を頂きました。【 感謝 】です。…が?
【祈りあい神想観】という「雅春先生の時代から…隣人愛」への素晴らしい【祈り方】…
それで、当時は、多々なる【奇・蹟】がありましたと思います…。
この事は「生長の家」…【光明化運動】に置けます【専売特許??】みたいにも思えるのですネ!
お忙しいと存じますが「皆様」……宜しくお願い致します…。

余談ですが〜〜〜何と!何と!この信仰に「無関係の友人の名前」が〜〜〜すばらしい方!!
本当に“活かす事”は、ここから!そうなのです!【愛…】からと思いました。
これこそ…【祈りにての…想念で…救済】すばらしい〜事と思うのです。…が?
この事は?「トキ様」全く!【信・仰…】とまったく無関係な事と思われますのでしょうか〜〜〜?

                                   再合掌

2873志恩:2014/05/29(木) 08:24:09 ID:.QY5jUA6
 藤原敏之先生著・「あなたは必ず救われる」より

【人生とは 魂向上のための 学校の様なものでありますから、何も問題がなくなるということはないのであります。
 人生とは問題のあるところだと考えた方がよろしいのであります。】

   {人生は魂修行の道場}

ものには裏と表があるように、人生観にも表(実相)から観た人生観と裏(現象)から観た人生観とがあります。
この自分の側(現象面)から観た人生観でありますが、それは人生とは魂修行の場であり、道場であるとする観方であります。

私達の霊魂は永遠に不滅でありまして無限に向上を続けているのであります。

 若い方が私に良く質問されることの中に、「人間死んだらどうなるか」というのがよくあります。
そんな時私は「死んでから先のことを知ろうとすれば、今を見たらよろしい」と申します。これは類推といって、今ある現実を通して未だ来ておらないことを予知して、予見する方法であります。

「君は今のあることを認めるかね」と言いますと「いまあることは認める」と言われますか「それでは死んだ先にも今と同じように世界があり、続きの世界があり、続きの生活があるよ」と申します。

今日があることを認めるものは明日のあることを認めるでしょう。
今年のあることを認めるものは来年のあることを認めるでしょう。今日があるということは昨日があった証拠であります。
してみれば今があるということは未来、死んだ先がある証拠でありますよと申しますと大抵は納得せられます。

その様に私達は仏教でいう始めなき始めから終わりなき終りと無限に続く旅路のようなものでありまして、向上への道程なのであります。
従って人生とは魂向上のための学校の様なものでありますから、

何も問題がなくなるということはないのであります。

 ですから人生とは問題のあるところだと考えた方がよろしいのであります。

学校には上級になればなる程、勉強の内容が難しくなるのであります。決して楽にはならないでしょう。それは力に応じて問題が与えられるからであります。

小学生には必ず小学生にあった教科書や授業が行われれます。中学生には中学生、高校生には高校生と段々に難しくなり、それに合った科目や授業が課せられます。

その様に私達も魂の向上の程度に従って、最も合った問題が与えられることになるのであります。
つづく

2874志恩:2014/05/29(木) 08:27:02 ID:.QY5jUA6
つづき

そのことが分らないと、やたらと問題が苦になり逃れることばかり考えるようになります。
そうなりますと、やれば出来る力がありながら力を発揮することが出来ず、
逃れることばかりに力を入れることになります。

これは大変な間違いであります。

 中学生の教科書が与えられ、中学生の試験問題がでるのは中学生の力があるからです。高校生の教科書が与えられ、高校生の試験問題が出るのは高校生の力があるからです。

それを忘れて努力しようともせず、中学生が小学生の問題を見て「小学生はいいな!」と羨んだとしたら中学生でありながら、中学生であることを忘れて中学生の資格を放棄することになります。

高校生が中学生の問題を見て中学生が羨ましくなり、こんな難しい問題は嫌だといって試験を逃れようとすることは
試験をボイコットすることになり、逃げ出そうとすることであります。

この様に自分に与えられた問題を他人に比べて、私だけが何でこのような目に合わなければならないのだろうかと愚痴を言ったり、不平不満ばかり言っている人は、

ちょうど学生が下級生の試験問題を羨んで試験を受けようとしないのと同じように落第することになり、落第すれば何遍でも及第するまで同じ試験を受けなければならないことになるのであります。

同じ問題で何時まで経っても解決しないで悩み続けている人は、この学生の試験ボイコットと同じであります。

 どんな問題でも、ちょっと大変だと思われるような事件でも、ああ私の魂は修行のために、
向上のためになくてはならない尊い問題が今与えられたのだ、これは私に必ず解決する力がある証拠だと信じて
「ありがとうございます」と感謝して受けたとき、どんな問題もスラスラと解決するのであります。

人間はもともと神の子であって無限力が与えられてありますから、どんな問題でも逃れようと思わず、
「ありがとうございます」と感謝で受けたとき必ず良くなるのであります。

向う倍力といって、逃れようと思わなければ、5の問題が与えられたら必ず10の力が湧き、10の問題が与えられたら20の力が湧いて来て必ず処理出来るのであります。

このことを信ずることが大切であります。

全て何でも他人と比べる位無駄なことはないのであります。人間の不幸の原因はみんなこの比べたがる心から起るのであります。

比べることは相対でありますから、不足はあっても感謝はありません。
感謝とは絶対のもの、必要なものとして、また神様からの授かりものとして受ける心であります。

「私だけが何故であろうか」と考える時、有る力も失われ苦しみは増すばかりであります。

2875a hope:2014/05/29(木) 10:26:02 ID:cEpBaIdo
「生命の實相」第13巻 p109

第三の神性隠蔽としての罪の弁解

神と一体であるところの自己の実相を知らないことは第一の神性隠蔽であり、他と一体であるところの自己の実相を知らないことは第二の神性隠蔽となるのでありますが、これらの神性隠蔽を弁解してごまかしてしまう心は第三の神性隠蔽を生ずるのであります。

罪があればそれを隠して放さずにおくようなことをしないであからさまにして放置すれば、(知られまいとして「念」の力で繋ぎとめておかなければ)神性は「実」であり神性隠蔽は「虚」でありますから、自然に隠蔽は消え神性は顕れて出るのでありますが、なんとかいって神性隠蔽を(罪)でないと言いくるめようとするならば、弁解は隠蔽を生み、隠蔽は弁解を呼び、ツミ相(あい)相続して、実相の神我はますます深く隠蔽されてしまうのであります。

これに反して隠蔽(つみ)を罪と正直にみとめてそれを懺悔してしまい、謝罪(あやま)りきってしまいますと、それはちょうど夏の夕立が過剰の空中水分を泄瀉(せっしゃ)してしまいますように、あとにはすがすがしい神の子たる己(おの)が実相があらわれるようになるのであります。

罪の弁解は良心の麻痺を伴います。良心とは罪を犯しているところの肉我(にくが)の叫びではなく、自己に宿っているところの神(すなわち真我)の叫びなのであります。

だから、自己の罪の弁解は必然「真我」をくらますことになるのであります。

真我をくらませばますます真我の浮かぶ瀬がなくなるのであります。

だから、自己の罪を弁解して言葉で言いくるめましても、その勝つものは「偽りのわれ」のみでありまして、真我はますます覆いかくされ、内なる敗北はとうていそれをくらますことはできないのであります。

しかし、真我は敗北したのではない、内なる敗北は依然として「ニセ物のわれ」のみであります。

どんなにか罪を弁解しても、どんなにか罪を隠蔽してみても、心の奥底には蔽(おお)えば蔽うほど隠せばかくすほど、圧力を与えれば与えるほどハネかえる圧搾空気のように、良心の叫びというものは力強くなり、それをさらに潜在意識の底の方へ推し込んで忘れてしまえば、それはさらに肉体の病気というような別の姿で表面にあらわれてくるのであります。

2876a hope:2014/05/29(木) 10:27:23 ID:cEpBaIdo

トキさま、みなさますみません。

今、web誌友会板は志恩さまがわたしの質問にお答えくださっていますので、こちらでテキストのお勉強の続きをさせていただきます。
最初にもいいましたが、今回のテキスト第13巻14巻には現在の「生長の家」の問題を解決する大切なヒントが隠されていると思っているので、
中断したり、飛ばし読みしないように、丁寧にお勉強を続けてさせていただきたいのです。

トキさま、ですが不都合がありましたら、別の板に移動しますのでその時はご指示くださいね。

2877a hope:2014/05/29(木) 10:29:14 ID:cEpBaIdo

>>2875 a hope所感)

ここで言う「罪」とは、

1、 神と一体であるところの自己の実相を知らないこと
2、 他と一体であるところの自己の実相を知らないこと

になるのだと思います。

そして、

<<どんなにか罪を弁解しても、どんなにか罪を隠蔽してみても、心の奥底には蔽(おお)えば蔽うほど隠せばかくすほど、圧力を与えれば与えるほどハネかえる圧搾空気のように、良心の叫びというものは力強くなり、それをさらに潜在意識の底の方へ推し込んで忘れてしまえば、それはさらに肉体の病気というような別の姿で表面にあらわれてくるのであります。>>

とあります。

「神我一体」「自他一体」の真理こそ生長の家の『唯神実相』なのだと思いました。

それでは、「罪の弁解」「罪の隠蔽」とは、具体的にはどのようなことなのでしょうか?

このまま聖典をお勉強して行けば、より深く理解できるような気がしています。

2878トキ:2014/05/29(木) 10:44:17 ID:hDbyuNQo
>>2876

 いえいえ。何も問題はありません。よろしくお願いします。

2879志恩:2014/05/29(木) 13:01:57 ID:.QY5jUA6
トキ様

本流のお方から a hopeさんに お返事がなかったので、本流の代わりに、
少し、出させて頂きましたが、

すみませんけれど、私は、卒業したので、もう、消えたいのです。
あとの続きは、トキ様、ご指導を よろしく。
…………………………………………………...
a hope様

お返事は、私宛でなく、トキ様にお願いしましたので、私宛でなく、
できましたら、トキ様宛で、お願いします。

2880SAKURA:2014/05/29(木) 17:56:19 ID:3/pn4/Pc
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【転載編】
>>2778>>2779>>2784>>2786>>2794>>2795>>2796>>2797>>2798>>2801>>2802>>2803>>2807>>2808 
>>2809>>2812>>2820>>2821>>2827>>2839>>2840>>2842>>2848>>2853>>2856>>2860>>2866>>2867
の投稿の続きです….。

■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】
(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行  
*========*【 神の子の生活を今生きよ ―その4 ― 】*=======*=======*

>>2866>>2867投稿の続きです…。
 「日に日に生くる信心なり」を本当に知ったならば今生きることである。仏様は衆生を救わんが
ために千変万化していられることを知ったら、自分もそのとおりに生きることです。

これが本当の信心なのであります。
たとえばわれわれが百万長者であるということを本当に知ったら、その百万円の金をじっとさして
おくはずがなにのであります。あれも買いたい、これも買いたい、あの人にもちょっとやって喜ば
してやりたい、こういう事業も起こしたいと、これは本当に百万円を持ったということを知った人
のことです。だけれども百万円親が遺産として残しておいてくれても、そいつを見つけない間は、
百万円持っていてもそういう働きが起こってこないのです。

ところが、われわれが本当に百万円を持っているということを知ったら、そこに百万円の活動が
始まってくる。知るということは活動することである。われわれが仏の子であり、神の子である
ということを知ったならば、その仏を生活に生き、神を生活に生きるということになってこなけ
ればならないのです。

それを生活に移さないのはまだ本当に知らないということです。だからわれわれは仏の心を行動に
移すということによってはじめて仏をここに実現したということになるのです。

仏は法である、法は「宜」であり「述べる」であり、コトバである。また聖書のいうとおり、神も
コトバである。コトバとは何であるかというと震動である。震動とは何であるかというと活動で
ある。活動が神であり、仏である。仏は涅槃寂静で、空で何にもない――そんなことじゃないのです。

活動が仏である。法藏菩薩は活動せられて極楽浄土を建立せられた、今もまだ働き給うのです。
仏の本願とは、仏の活動です。仏とは“ほどける”ことで、縛りがなくなって自由自在になること
であって、無礙自在な働きができなくては、これは仏ではない、神ではないということになるので
あります

だから今、皆さんが神の子であるという実相を「生長の家」によって知らして頂いたならば、た
だちに、即刻、今日から、今から、この瞬間から「神の子」を活動させる、愛によって隣人に
働きかけてこれを光明化し救うということが必要なのであります。

                       つづく

2881SAKURA:2014/05/29(木) 17:57:57 ID:Do8GpIFQ
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【引用編】
>>2778>>2779>>2784>>2786>>2794>>2795>>2796>>2797>>2798>>2801>>2802>>2803>>2807>>2808 
>>2809>>2812>>2820>>2821>>2827>>2839>>2840>>2842>>2848>>2853>>2856>>2860>>2866>>2867
>>2871の投稿の続きです….。

■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】
(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行  
*========*【 神の子の生活を今生きよ ―その4の引用編 ― 】*=======*=======*

PS:「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
■>>日に日に生くる信心なり」を本当に知ったならば今生きることである<<

人間…生まれた以上は、まず!「働く事」と〜〜〜そう!!そうなのです!!
日日!!活かす事が全てを生かすモノに繋がる事でしょうか??

例えば「百万円の価値観」は、その人の中身…“心”からスタートと思います。ですので…
ユダヤの長者のお話??【バビロンの大富豪のお話】からも〜〜〜♫
【お金の価値観は、まず活かす事】から…そうしますと?私達の「生活習慣」も…
■【時は金なり〜〜〜】と言われます様に、すべて“心”からでしょうか??

■昨日私の「フエイスブックの友人」から【 祈りの招待状 】が舞い込みました。
正直な話…いつもなら、私の偏見が〜〜〜どうしても先に脳裏に浮かぶのです…。…が?

例えば…「整形しているから子供…その“業”として…子孫にきたのョ」と、いつもの私が…
ところが?昨日の「友人の招待」から…WEB投稿記事を見ますと…
■母親の“愛”に動かされたのです。「霊界の法則」にも〜〜〜いわれます様に【 “愛”!! 】

■創立者「雅春先生」が【真・理】・【光・明】・【智・慧】・【絶・対・の“ 愛 ”】この言葉から…
〜♫ 汝ら天地一切のものに感謝せよ ♫〜の冒頭が浮かんで…
そして、子供に対するひたむきなる母親の【 愛…の・姿 】…涙が…心を動かされました。

もう一度!もう一度!「皆様」の……【集団の祈り】
【集団の祈り】が〜〜〜??そうです。必ず!必ず!必ず!【叶・う!】
〜〜そして、主催者が「四万人の呼びかけ運動」なのです。

■【祈りリレ−】が、今!今!世界中に始まっているのです〜〜〜??
それで、此処【2チャネルに投稿】更に【わたしの日時計日記】にも呼びかけました。
昨日の結果は「5人の皆様のイイネ」を頂きました。【 感謝 】です。…が?
【祈りあい神想観】という「雅春先生の時代から…隣人愛」への素晴らしい【祈り方】…
それで、当時は、多々なる【奇・蹟】がありましたと思います…。
この事は「生長の家」…【光明化運動】に置けます【専売特許??】みたいにも思えるのですネ!
お忙しいと存じますが「皆様」……宜しくお願い致します…。

余談ですが〜〜〜何と!何と!この信仰に「無関係の友人の名前」が〜〜〜すばらしい方!!
本当に“活かす事”は、ここから!そうなのです!【愛…】からと思いました。
これこそ…【祈りにての…想念で…救済】すばらしい〜事と思うのです。…が?
この事は?「トキ様」全く!【信・仰…】とまったく無関係な事と思われますのでしょうか〜〜〜?

                                   再合掌

2882a hope:2014/05/30(金) 08:41:33 ID:cEpBaIdo
「あなたは必ず救われる」藤原敏之先生著
『正しい人間観とは何か』p90〜

生長の家の『生命の實相』第一巻(頭注版)の七九ページに、「真理はなんじを自由ならしめん」という見出しで次のように書かれてありますが、これが生長の家の救いの根源なのであります。

<<「『生命』自身の力で治すには『生命』とはいったいどんなものであるかということを知らねばなりません。

表面の心で知るだけではなく、奥底の心で知らねばなりません。

『生命とは神の子である』―― 一言にしてこういえばなんでもないけれども、なかなかこの真理が本当にわかる人が少ない。

本当にこれがわかれば自分で自分を治すことができる。病気だけでなく境遇でも運命でも自分で治すことができる。

治すだけでなく、真理を本当に知ったときひとりでに治っているのである」 (p92 8行目〜)>>


<<谷口雅春先生も常に、「私が発見したことは字の数にすればたった五文字でありますよ」と申され、それが「人間神の子」の五文字なのであります。

このことをはなれて生長の家はありません。

他に沢山のことが書かれていますが、みんなこの「なぜに人間が神の子であるか」ということをあらゆる角度から説明せられているだけであります。

せんじ詰めれば、あくまでもこの五字なのであります。

ですからこの五文字の意味が頭の先だけでなく腹の底(魂)までわかったとき、救いが成就するのであります。(p93 5行目〜)>>

(つづく)

2883a hope:2014/05/30(金) 08:44:43 ID:cEpBaIdo
>>2882 つづき)

<< 影は影である

このように人生は神様からの尊い御使命であると同時に、自己の魂の向上のための道場でもありますから、何でも「ありがとう」と感謝して受けることが肝心なのであります。

生長の家は「天地一切のものに感謝せよ」との教えでありまして、都合のいいものだけや、よくしてくれるものだけに感謝するのであれば楽でありますが、そうではなく最も都合のわるいものや、自分を苦しめるものにまで感謝せよというのでありますから、ちょっとむずかしいのであります。

以上が生長の家の御教えの根本であるところの縦の真理であり、実相直視、本当のことを観ることによってどんな難問題でも立ちどころに解決する根本真理であります。

これを抜きにして現象だけを処理し解決しようとすることは、夢の中で夢を無くしようと努力するようなものでありまして、正しい解決法ではないのであります。

宗教の救いは無い現象を無くすことではなく、実相を現すことによってもともと無い現象が消えていくのであります。

それはもともとない暗(やみ)を無くしようと努力することではなく光をもってくることによって、あるかのごとく現れていた暗が自然に無くなるのと同じであります。

救いが現実に現れないのは、実相と現象、実体と影の関係を明確にしないで混同するからであります。

影は影であるとわかるとき、何が現れても心配がなくなるのであります。(p149 後ろから4行目〜)>>

感謝 合掌。

2884a hope:2014/05/30(金) 09:04:54 ID:cEpBaIdo
>>2882訂正 

【<<】を付ける位置を間違えました。
文章の始まりに付けてお読みくださいm(__)m。

2885a hope:2014/05/31(土) 22:29:24 ID:cEpBaIdo

☆ ☆ ☆ 出張 第25回 web誌友会  案内 ☆ ☆ ☆

期間  5月 6月
テキスト 「生命の實相」第13巻 及び 14巻
場所  聖典引用板

※管理人のトキさまから御承認いただきましたので、こちらでweb誌友会板でしていた聖典「生命の實相」のお勉強の続きをさせていただきます。
13巻と14巻は両方とも倫理篇ですので、6月になりましても第25回web誌友会をそのまま継続させていただきます。ご了承ください。

みなさまも是非ご参加くださいね!

2886a hope:2014/05/31(土) 22:30:58 ID:cEpBaIdo
☆ ☆ ☆ 出張 第25回 web誌友会 ☆ ☆ ☆

第四章 自心の展開としての客観世界 p111〜

第四の隠蔽は、三界唯心の理(り)を隠蔽すること

前節までにおいて、わたしは「罪」とは神性隠蔽であり、その第一は自己と神とが一体なる「神我一体」の実相の隠蔽であり、第二は自己と他己とが一体なる「自他一体」の実相の隠蔽であり、第三の隠蔽は隠蔽を生んで、自己弁解という第三の隠蔽を生ずるということを説いてきました。

「罪」とはじつは実相の隠蔽なのでありました。

なぜ「罪」というものができ上がるかと申しますと、外界は一見自己の外にあるように見えますから、外界というものが内界の投影であるという事実を忘れて、外界そのものとして、自己とは独立した存在であると思い込んでしまうところに、「罪」すなわち「実相隠蔽」ができ上がるのであります。たとえば

・・・(略)・・・

仏教では「三界は唯心の所現であり、心外に別に存在無し」と申しますが、それを徹底的に実生活の上でも実証せしめているのが「生長の家」であります。

キリスト教でも「口に入るものはなんじを汚さず、口より出(い)ずるものなんじを汚す」とイエスがいっていますのは、外にあるように見えているものは、本当は外に独立性をもっているものではないから、それ自身で穢す力はない、外の物で穢されるとか穢されぬとかいうけれども、実は外は内界の投影であるから、もし汚されるならば、内から出るものすなわち「心」によって、および心によって発せられる「言葉」によって汚されるのだといっているのであります。

われわれは日常生活において、「これは外界だ、われわれの心ではどうすることもできない」と思っている事件や、周囲の人々の行為や心持ちが、われわれ自身の一個の心を変えることによって、事件が変わっていき、人々の行為や心持ちが変わってくる事実によって外界はわれわれ自身の内界の投影だということがわかってくるのであります。

それは理論ではなく、事実なのであります。

2887a hope:2014/05/31(土) 22:33:27 ID:cEpBaIdo

>>2886 a hope所感)

第四章には、とても厳しい真理が述べられていると思いました。

ここのところを拝読すると、「生長の家」の信仰とは、決して生易しいものではないということがわかります。

<<われわれは日常生活において、「これは外界だ、われわれの心ではどうすることもできない」と思っている事件や、周囲の人々の行為や心持ちが、われわれ自身の一個の心を変えることによって、事件が変わっていき、人々の行為や心持ちが変わってくる事実によって外界はわれわれ自身の内界の投影だということがわかってくるのであります。
それは理論ではなく、事実なのであります。>>

この文の内容を素直に解釈すると、

自分にとって「不都合」であったり、「間違い」であると感じられる三界(現象世界)の出来事や、悪人と思える人物の所業ですら、
すべて自分の心の投影であるということになってしまいます。

そしてさらに雅春先生は、

『それは理論ではなく、事実なのであります。』

と断言されているのですから、ただならぬ気迫を感じてしまうのは、わたしだけでしょうか?

2888a hope:2014/06/01(日) 07:45:42 ID:cEpBaIdo
☆ ☆ ☆ 出張 第25回 web誌友会 ☆ ☆ ☆

「生命の實相」第13巻 p117〜

子供は母親にとって一見すれば外界の存在のように見える。外界の存在だと思って、外界扱いして、内界をうっちゃらかして、外界ばかりを治そうとしてみても治らないが、内界を治してしまうと、外界と見える子供の病気が治ってしまう。

すなわちこの二人の母親にとっては、彼女の子供は彼女の「外界」ではなく「内界」だったのであります。

これを押し広めて考えてみますと、彼女の子供だけなく彼女の周囲いっさいの人々が、彼女の外界の存在ではなく、彼女の内界の存在であることが判明するのであります。

さらにこれを押し広めて考えてみますと、すべて「外界」というものは無い。

すべてが自己の「心内の存在」だといいうるのであります。

こういうようにしてすべてが自己の心内の存在であるということを悟るのが、本当の知恵というものなのです。

すべてが自己の心内であるということが解ると、本当に「自他一体の実相」がわかってくるのであります。

言葉の便宜上、自他一体と仮に申しますけれども、「他」は本来無い、「自」ばかりなのであります。彼Aも「自分」であり、彼Bも「自分」であり、彼Cも「自分」なのであります。

三界は「ただわが心の所現」であることがわかるのであります。


で、罪とは「自他一体」の実相を知らないことであるとともに、「三界はただわが心の所現である」との真理を隠蔽して知らないことをいうのであります。

客観世界からただ自心の展開であることを悟らないために、外界に見える事物を「内界(こころのうち)の存在」だと知らず、外界に心を捉えられ、心をひっかからすために、ここに「五官的存在」に捉われる罪(隠蔽)が顕われてくるのであります。

2889a hope:2014/06/01(日) 07:53:44 ID:cEpBaIdo
>>2888 a hope 所感)

<<すなわちこの二人の母親にとっては、彼女の子供は彼女の「外界」ではなく「内界」だったのであります。
これを押し広めて考えてみますと、彼女の子供だけなく彼女の周囲いっさいの人々が、彼女の外界の存在ではなく、彼女の内界の存在であることが判明するのであります。
さらにこれを押し広めて考えてみますと、すべて「外界」というものは無い。
すべてが自己の「心内の存在」だといいうるのであります。
こういうようにしてすべてが自己の心内の存在であるということを悟るのが、本当の知恵というものなのです。
すべてが自己の心内であるということが解ると、本当に「自他一体の実相」がわかってくるのであります。
言葉の便宜上、自他一体と仮に申しますけれども、「他」は本来無い、「自」ばかりなのであります。彼Aも「自分」であり、彼Bも「自分」であり、彼Cも「自分」なのであります。
三界は「ただわが心の所現」であることがわかるのであります。>>


仏教で説く「三界唯心所現」の真理も、万教帰一の生長の家が解釈すると、「自他一体」の真理に行きつくようです。

ここの部分を拝読すると、生長の家の「心の法則」つまりは「唯心所現」の真理は、家族などの身近な人間だけではなくて、
自分の周りのすべての人々にあてはまってしまうのが本当の生長の家の教えのようですね。

2890SAKURA:2014/06/02(月) 14:57:24 ID:3/pn4/Pc
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんにちは……ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【転載編】
>>2778>>2779>>2784>>2786>>2794>>2795>>2796>>2797>>2798>>2801>>2802>>2803>>2807>>2808 
>>2809>>2812>>2820>>2821>>2827>>2839>>2840>>2842>>2848>>2853>>2856>>2860>>2866>>2867
>>2871>>2881 の投稿の続きです….。

■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】
(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行  
*========*【 いっさいのものを拝め ―その1の転載編 ― 】*=======*=======*

>>われらは野を、野の花を、み空を、み空の星を、青海を、大地を、火を、いっ
さいの大自然と生物とを観るに、その背後に神の生命の円相を観、その生命を敬し、
礼し、愛し、いやしくも浪費せざらんことを期す。<<

■そこで、自分自身が神の子であると自覚した時に、次いでこの神の自覚が発動し動き出
した場合に神の子が活動する環境はどういう世界であるかというと、これは第一カ条のと
ころでいったとおり、無限創造の宇宙すなわち「生長の家」であります。

仏教でいうと寂光土である。寂光土というとちょっと平和すぎるので、」活気溌溂たる
「生長の家」すなわち無限創造の宇宙だとわれわれはいうのですが、この無限創造の宇宙た
るやどういうものであるかというと、聖教『甘露の法雨』の講義の時に申しましたように、
それは無限次元の世界である。

われわれの住んでるいるこの三次元(縦・横・厚みの三つの広がり)の世界だけでもこんなに
美しい世界であるのに、それが無限次元の妙なる世界である。

その妙なる世界が、この五官にはその全体の貎は見えないけれども、妙なる世界のうつしとし、
写真とした見える。
(たとえば写真ですが、実際のわれわれ人間の相は写真と比べると、もっと複雑な相をし、も
っと複雑な次元を備え、もっと複雑な色彩を備えているのであるけれども、写真にはただ一色
の平面の姿に写っている。)

                       つづく

2891SAKURA:2014/06/02(月) 14:59:15 ID:3/pn4/Pc
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんにちは……ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【転載編&引用編】
>>2778>>2779>>2784>>2786>>2794>>2795>>2796>>2797>>2798>>2801>>2802>>2803>>2807>>2808 
>>2809>>2812>>2820>>2821>>2827>>2839>>2840>>2842>>2848>>2853>>2856>>2860>>2866>>2867
>>2871>>2881>>2890 の投稿の続きです….。

■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】
(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行  
*========*【 いっさいのものを拝め ―その2の転載編&引用編 ― 】*=======*=======*

□それと同じに、われわれの五官で認識める三次元の世界では実相の世界の複雑微妙な無限次元
の妙なる美しい世界が平凡な世界に見えているのであります。

かれどもわれわれはこの肉眼で見るところの野を、野の花や、み空の星や、蒼海や大地や、火や、
水や、いっさいの大自然や、生物や、いっさいの現象を見るのに、この第三次元の「縦横厚み」
厚みのこんな下らない、単純な、味のすくない世界とは見ないで、その奥の奥を観て、実相を観て、
もっと無限に美しい円満な、完全な神の生命というものを観る、そうしてそれを敬し、礼し愛し、
いやしくも浪費背せざらんことを念願とするのが生長の家の生き方であります。
                         
(その3)につづく

PS:「トキ様」・「観覧者の皆様」へ
『生長の家』の教義について、今回!私自身のフエス・ブックにて、前回より、こちらのコーナーで、
『絵本の「ジュリアの音信」…』を、シリーズで投稿しておりますが、やはり!やはり!
【人間の心…で決まる事】が、更に【霊・界】でも、それは「生前の行為」…更に、
【その奥の〜〜〜奥の潜在意識】とかが、全て!ごまかしが出来ないのが【霊界の世界】なのですネ!!

つまり【スケスケ〜〜〜の「神様」が全て…見通し】ということですネ!!

毎日の通勤にて【金光教の教祖のお言葉】が毎月!月初めに…「掲示板」に貼られていました。
そうです!“今月…6月も〜〜〜新しい〜「コトバ」がその掲示板に…!!それを読んで、やはり、
同じ事を〜〜〜今!現に「教え=心の訓練」を現実界で訓練していかないと…いけない!!
今!今!しか出来ない!!

■それは「ジュリアの音信」の本文の書籍本が入手出来まして、その本からも、
【人間は、霊的人間ですから…一日必ず!瞑想が大事です。その時間を無駄にされる事は???
更に、正しい固定観念の理念も…】と…言われています。

□【信・仰】しながら、媚を打つ事が【信・仰】ではない!!!更に、悪口とかも〜〜!
【信・仰は正しい理念をもつ事】なのではないでしょうか!!

では、次の続きを〜〜〜また!次回投稿させて頂きます…。
今回、私は「総裁先生」は、ある面では「エコ運動」が全面的に打ち出されています解釈になり、
従いまして【唯・物・論…】に見えてきます〜〜。

□■【人の心】は何処へ〜〜〜と…
この奥深い思考回路は??いかようにお考えなされていますのでしょうかと??「考える人」です。

                               再合掌

2892a hope:2014/06/03(火) 18:41:15 ID:cEpBaIdo
☆ ☆ ☆ 出張 第25回 web誌友会 ☆ ☆ ☆

「生命の實相」第13巻 p123〜

感覚世界の自主的征服

さて、この「三界はただ自心の展開である」との事実に眼が覚めてきますと、すべての感覚的事物への自己の奴隷的屈従がなくなるのであります。

ほとんどすべての悪徳は、一切事物を「自己の心内(こころのうち)の存在だ」と気がつかず、独立せる外界を構成せる事物であるとして、自己の内界(こころのうち)を調べないで、外界をできるだけ多く、自己の所有としようとし、他を制して、他と争い(利己主義)、あるいは自己を忘れて外界に隷属(感覚的耽溺)することになるのであります。

かくのごとくして、いっさいをただ「自身の展開」と見ないものには、利己主義と「感覚的事物への隷属」とがこもごも生ずることになり、争い、嫉妬、羨望、憤怒、憎悪、焦燥、貪欲、虚飾その他あらゆる罪悪(真理隠蔽)が、「三界はただ自心の展開である」という根幹的真理の隠蔽の枝葉として繁茂するのであります。


考えてみますのに、「争い」というものは、いっさいをただ自心の展開としてみないで、幸福の源泉を「物」にありと観、あるいは自己の幸福を奪うものを他者にありとして、他に犯されまじとして防ぎ、あるいは他者を侵して他者より「物」を奪うことによって、自己の幸福を増大せしめようとして、互に侵し防ぐことによって生ずるのであります。

すべてが「自心の展開」である、ということが判明しますと、ただわれわれの幸福を得るための仕事は、互に争うことではなく、ただ自心をととのえれば自己が生きるとともに、自他一体なるがゆえに他者もともに生きるという幸福なる環境が展開し、いっさいの争いは滅尽(めつじん)してしまうのであります。

羨望、嫉妬、憤怒、憎悪などという対他的悪感情は、争いと同じくいっさいを「自心の展開だ」とみないために起る第五、第六等々・・・の神性隠蔽として起るのでありますから、羨望するな、嫉妬するな、憤怒するな、憎悪するな、などと一々その悪徳について従来の「なかれ主義」の修養的倫理学によってこれを制しようとしましても、なかなか制しきれるものではないのであります。

それにはどうしても「生長の家の倫理学」によって「いっさいは自信の展開である」との真理をきわめ、それを実証的に自己自身の上に体験して初めて、対他的に争っても憤怒しても嫉妬しても羨望しても憎悪してもなんにもならない。

ただ自心を豊かにすれば、物が豊かに集まる。ただ自心を尖らせれば、自己を鋭く刺すがごとき尖った環境がやって来る。

すべては自心のとおりのものが現れて集まって来ることを如実に悟ったとき、自然にいっさいの対他的悪徳が消滅してしまうのであります。

2893a hope:2014/06/03(火) 18:43:21 ID:cEpBaIdo
>>2892 a hope 所感)

<<考えてみますのに、「争い」というものは、いっさいをただ自心の展開としてみないで、幸福の源泉を「物」にありと観、あるいは自己の幸福を奪うものを他者にありとして、他に犯されまじとして防ぎ、あるいは他者を侵して他者より「物」を奪うことによって、自己の幸福を増大せしめようとして、互に侵し防ぐことによって生ずるのであります。

すべてが「自心の展開」である、ということが判明しますと、ただわれわれの幸福を得るための仕事は、互に争うことではなく、ただ自心をととのえれば自己が生きるとともに、自他一体なるがゆえに他者もともに生きるという幸福なる環境が展開し、いっさいの争いは滅尽(めつじん)してしまうのであります。>>


ここに、「和解の方法」がしっかりと示されていますよね。
『聖典裁判』真只中の「生長の家」ですが、雅宣先生はじめ「教団」や「本流復活派」の講師の先生方は、
練成会や講習会でこの真理をどのようにご指導くださるのでしょう?

a hopeは興味津々です。

2894a hope:2014/06/05(木) 08:28:30 ID:cEpBaIdo
☆  ☆ ☆ 出張 第25回 web誌友会 ☆ ☆ ☆

「生命の實相」第13巻 p125

第五章 実相を隠蔽する驕慢と自卑

第一の神性隠蔽(罪)としては「神我一体」の実相を包んで見ざること、第二の神性隠蔽としては「自他一体」の実相を隠して見ざること、第三の隠蔽としては「隠蔽(つみ)の隠蔽(いんぺい)として自己弁解すること、第四の隠蔽としては外界がただ自心の展開なる事実を観ず悟らず、外界をもって自分に対立するところの有限の世界だとして観じ、自心の整理を先にせず、物に執し物を奪い合わんがために、兄弟と相争い――ここにこれら四つの根本的神性隠蔽が相寄り相混じて、種々なる罪を構成するにいたるのであることは、前節までにおいて詳細説明せるところであります。

「物あり」と思うがゆえに、物に執着し迷うのであります。「物」が自心の展開であるということが判れば、自心を整えるよりほかに物を得る道はないので執着が破れてしまうのであります。

「自他一体」の事実が悟れないゆえに、利己主義が生じ、利己主義が、「物あり」という迷いと混合して、貪欲、怒り、憎み、嫉妬、虚栄などの諸罪を構成するので

2895a hope:2014/06/05(木) 08:31:10 ID:cEpBaIdo

>>2894 a hope 所感)

この部分は、今回のテキストである倫理篇のお勉強に入る前に、一度謹写させていただいたものの再掲載ですが、
「神性隠蔽」(罪)の仕組みがわかり易く説明されていると思います。

今まで、テキスト内容をじっくりお勉強してきましたので、今、あらためて拝読してみると、その言葉の意味がさらによく理解できるようになりました。


「罪なし」の生長の家の教えであっても、例外的にこの「四つの罪」は認めているようです。

<<ここにこれら四つの根本的神性隠蔽が相寄り相混じて、種々なる罪を構成するにいたるのである>>


「罪」とは ・・・

1、「神我一体」の実相の隠蔽
2、「自他一体」の実相の隠蔽
3、自己弁解
4、兄弟との相争い

2896carpinteyroywz:2014/06/05(木) 21:04:27 ID:???
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2897曳馬野:2014/06/05(木) 22:20:10 ID:I/wU8psA


>>2893  a hope さん

すべてが「自心の展開」である、ということが判明しますと、ただわれわれの幸福を得るための仕事は、互に争うことではなく、ただ自心をととのえれば
自己が生きるとともに、自他一体なるがゆえに他者もともに生きるという幸福なる環境が展開し、いっさいの争いは滅尽(めつじん)してしまうのであり
ます。

ここに、「和解の方法」がしっかりと示されていますよね。
『聖典裁判』真只中の「生長の家」ですが、雅宣先生はじめ「教団」や「本流復活派」の講師の先生方は、
練成会や講習会でこの真理をどのようにご指導くださるのでしょう?

a hopeは興味津々です。
************************************************************************************
a hopeさんの云う事、笑っちゃいますね。この『生命の実相』の言葉が真理であると云うのであれば、
【ここに、「和解の方法」がしっかりと示されていますよね。】と「しっかりと」の修辞つきで断定しているのですから、ご自分が実践しさえすれば事足
れりではないですか。興味津々です、なんて周りを冷やかす必要はないですよ。【和解の方法】なんて言い方、そもそも可笑しいでしょう。第三者として
評論家になっているからこその発言ですね。あなたの心の影としての外界しか無い、というのが上の真理の言葉の意味でしょう。
雅宣先生や教団本流派の講師の先生方、というあなたと別人の見解なんて何で関係あるのですか。ご指導くださるのでしょうか、なんて言い方は、
「私から見たら皆さん真理の実践がありませんね」と云うのと変わりません。そのように自分と切り離された周りの人々がいる、と自ら真理に外れている
ことを表明しているのですよ。まして向こうに出張ってまで自分の信念を述べる、これは恥の上塗りでありましょう。

2898SAKURA:2014/06/05(木) 22:47:58 ID:3/pn4/Pc
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こんばんは……ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【転載編】
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■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】
(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行  

*========*【 いっさいのものを拝め ―その3 転載編 ― 】*=======*=======*

「生長の家」は、ここに明らかに生命礼拝の宗教でありますが、
原始人の生命礼拝の宗教とはちがう。
原始人は物の奥にある実相などというものを知らない。

だから生命礼拝といっても浅薄な現象の生命の礼拝であったので、
現象そのもを不思議がって礼拝していたのであります。この現象の奥の実相を観て礼拝することを
教えたのはまず『法華経』であります。
生長の家と仏教とは根本において少しもちがっておりませんけれども、現在世人が
普通に考えられている仏教というものとはややちがうのであります。

というのは、釈迦の説き方がわるいのでない、釈迦の説き方を理解することができなかった後の
祖述者が教祖の正説を完全に伝えなかったというわけであります。
仏教では「色即是空」――物質は空であると、こういうぐあいにいうのであります。

「生長の家」でも物質は本来空であるというのでありますが「生長の家」では
もう一つ「空」を越えた存在に「実」というのを付けているのであります。
仏教でもむろん「実相」という言葉は使っておりますけれどもそいつが時々誤れまして、
実相はすなわち空なり」というぐあいに説いている人が多いのであります。

実相を空であるとすると、そうすると、その「空」とはどんなものであるかというと、
空であるから、空気みたいで、エーテルみたいで形がない。形がないから、
何もないようなものであるから金剛不壊である。

たとえば空気はいくら斬っても斬れやしない。もう一つ空気よりも、手にも触れない、
エーテルみたいなものになってしまうといよいよ斬ることができないものである、
それであるから金剛不壊である。実相はエーテルみたいなものであるから自由自在であると、
こう実相を空々漠々なものとある仏教家は考える。

                    つづく

2902a hope:2014/06/06(金) 07:33:21 ID:cEpBaIdo
☆ ☆ ☆ 出張 第25回 web誌友会 ☆ ☆ ☆

「生命の實相」第13巻 p128〜

実相我を隠蔽する自卑(じひ)

驕慢(きょうまん)はかくのごとく「肉体我」を強調させた果てに「われ神なり」もしくは「われ神と高さを競うべきものなり」との自覚に入(い)るのでありますが、「肉体我」は本来無いのでありますから、それをいくら強めていってもくだけてしまうのであります。

驕慢の反対に、実相我を隠蔽する罪としては、自卑があります。

自卑と謙遜とが相似ることは、あたかも驕慢と自尊とが相似ているがごとくであります。

驕慢は肉我に対する過度の信頼であり、自尊は実相我に対するまったき信頼でありますが、それと相対照して、謙遜とは肉我の価値なき誇るに足らざることの自覚であり、自卑とは実相我のまったきことを知らず認めず、われ全体を不完全無力な採るにたりないものとして、みずから卑しめてしまうのであります。

謙遜の裏には「実相の自覚」があり、実相を尺度として反省し、まだ足りない、まだ足りないと自分を伸ばしてゆくのでありますから、いくらでも無限に伸びてゆく可能性がありますが、自卑の裏には自卑があるばかりでありますから、生長することができない、常にみずからの不完全を嘆き、失望落胆自棄あるのみとなるのであります。

2903a hope:2014/06/06(金) 07:35:20 ID:cEpBaIdo
>>2902 まとめ)

驕慢・・・肉我に対する過度の信頼
自尊・・・実相我に対するまったき信頼

謙遜・・・肉我の価値なき誇るに足らざることの自覚 。→「実相の自覚」。
自卑・・・われ全体を不完全無力なものとして、みずから卑しめてしまうこと。→「実相我の隠蔽」

2905SAKURA:2014/06/06(金) 22:08:38 ID:Do8GpIFQ
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■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】
(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行  

*========*【 いっさいのものを拝め ―その3 転載編・引用編 ― 】*=======*=======*

■ところがもしわれわれの実相というものがエーテルみたいなものであって、空々漠々のもで無色
透明の、ちっとも美しいこともなんともない、そういうふうなものが実相であって、変化の姿、美し
い姿というものは幻みたいな何もないものであると、こういうふうに説くまちがった仏教者に従って
「汝ら実相に還れ」という教えを生きることになったら、空になる、エーテルみたいになる、死んで
超高熱度で焼かれて、透明なガス体になるのが、仏教に従うことになってしまう。これではさしずめ
三原山の浅間山の噴火口に賑うことになるのでありますが、これではいけないのであります。

 空を単に解すれば実相というものはそんな空じゃないのっです。空は現象であって、実相は空では
ない、それは無限荘厳の世界である。無限の荘厳(うつくしき)のあるせかいなのであります。
ここが大切なところでありまして、『法華経』以前の仏教では「一切皆空」となっているのであります。
『華厳経』なんかでも、心・仏・衆生三無差別であって本来空のものである。心が悟れば仏になり、
仏が迷えば衆生になる。そうして仏といえども本来は空であって、なんにもないようなものであると、
こういうぐあいに説いてあるところがある。そうするとわれわれが悟りを開いて涅槃寂静、本来の
実相に帰するということは空になってエーテルみたいなものになることだとこういうぐあいに考え
られる。そうなると、われわれは首でも縊って自殺してしまったならば、座禅も禅定も要りはしない。
そういうエーテルみたようなものがわれわれの生命の実相であり、それに帰するのが実相に帰する
のだとしたならば、生きているのは何のために生きているのだかわからない、こういうふうに仏教
をまちがって解釈した人が多かったのが仏教衰頽の原因なのであります。

                         つづく

2906SAKURA:2014/06/06(金) 22:10:27 ID:3/pn4/Pc
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■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】
(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行  

*========*【 いっさいのものを拝め ―その4 引用編 ― 】*=======*=======*

PS:「トキ様 」へ「観覧者の皆様」へ
■只今!また「霊界通信」に此処昨今は、ハマって!読みふけっています。
「霊の世界」では、一人一人各自が「死後の世界」で導かれて行かれる世界は違うとの事!!
そして、さらに「悪霊」もしくは「憑依」とかの話なのです。…が?当時の「イギリス」での事です。
或る精神病院の博士は、「悪霊」に憑依された人は、その実験をなされ、その博士は〜〜〜?
「迷える霊」との対話の基本あるモノとは、一刻も霊的実相に目覚めさせて、迷いから救って
あげると同時に患者も正常に戻してあげたいという……では!どのような実験かと申しますと、

>>迷える霊を救うことに、三十年以上も、続けた精神科医は
米国人ですが、まず、「精神病」は“憑・依”であるとして、自ら考案した特殊装置で、患者に静電気を
掛ける。すると、その電波が霊にはカミナリに当ったような反応をするらしく、いたたまれなくなって、
患者の身体から離れる。そこを、この時と言わんばかりに…つかさず「背後霊団…」が捕えて、
今度は「霊媒」であるウイックランド夫人に乗り移らせる。霊は生身の人間に乗り移っているという
自覚なしにに霊媒師と対話を交わし、次第に自分の置かれている実情に目覚めていく。
これを“超霊実験”と言われるそうです<<。

このお話から【先祖供養】も「地・獄」に行かれた方には、まず!目がつぶれているのですョネ!
別の表現では〜〜〜『真っ暗な世界』そこからの〜〜〜精神の修行は??まず!無理ですが?
この方は、それでも〜〜〜「供養」もある面では、大事です〜〜〜ョネ!!
「西・洋」でのこの博士の「供養方法」も、それなりに『霊界の供養…救出は大事だと』思いました。

■【迷える羊】は、まず!!!【真理=心の展開】からだと思います。
今!今!私にかせられた課題は〜〜〜【出来る事をもっと!もっと!有言実行…】と思いました。

                             再合掌

2907SAKURA:2014/06/07(土) 20:57:15 ID:3/pn4/Pc
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■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】
(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行  

*========*【 いっさいのものを拝め ― その5 【転載編】 ― 】*=======*=======*

■けれども、『法華経』は決してこの、そういうエーテルみたいな千遍一律の、空気よりも
まだまだはかないような同質平等な世界を説いているのじゃないのであります。

『法華経』の「自我偈」に書いてある実相の世界は、一様平等なホモジニヤスな世界では
なく、実に実に美しい世界が書いてある。園林諸々の堂閣、種々の宝をもって荘厳せり、
宝樹華果多くして衆生の遊楽する所なりと書いてある。

あれが本当の実相の世界です。

言葉に現わしてあるからまだ完全に現われてない。
それはただ形容が書いてあるだけでありますけれども、あれが実相の世界であります。
その美しい実相の世界が、われわれの五官のレンズを通して眺めると、そのレンズに
曇りがあるから今われわれが肉眼で見ているような、こういう美しさやら、汚れやら、
愛やら、争いやらが取り交ぜて現われている。美人もあれば、病人のような憔悴した
醜い相もあるというふうにでているのでありますけれども、本当のわれというものは
「無限荘厳の我」である。活気溌溂たる無限に生きる力を持って、無限荘厳の身を持ち、
無限荘厳の世界の中に今現に住んでいるのであります。

今現にその実相世界に住んでいるのです。

今現に住んでいるその世界を、肉体が死んでからそういう実相荘厳の世界へ住くのだと
思うとまちがいであります。衆生劫尽きて大火に焼かるると見る時にも、病苦にて痩せ
さらばうて貧しい病床にいるように見える時にも、今現に、われわれは宝樹華果多き実相
の国土に安楽身を逍遥させているのです。

今現に実相の国土にいるけれども、五官のスクリーンすなわち網目を通して、下へ映る
世界は縦・横・厚みだけしか映らない。それ以上のひろがりの世界はスクリーンの上に
あって残っているので、われわれの五官という網目を通して見るとどうしても縦横厚み
の三次元しか見えない。

その三次元だけでも完全に原型そのままに見えれば良いのだけれども、念のレンズに凹凸
さまざまの歪みがあるために、真直な顔が歪んで見えたり、近眼でないものが近眼に現わ
れたりしている。

それでその念のレンズの無明(くもり)というものを断ってしまったら近眼が近眼でなくなり、
あるいは病人が病人でなくなるというふうになる。けれども、ここに健康になり、近眼の治っ
た人間でも、それが五官に見える現象人間である限り、まだまだ本当の人間ではない。

それは本当の無限荘厳の、無限の美しさ――その何といおうか、言いようのない、無限の妙なる
実相人間の姿を、ただ縦横厚みの三次元(みっつのひろがり)だけを撮影する写真機で映した
人間なのです。

                     つづく

2908SAKURA:2014/06/07(土) 20:58:33 ID:3/pn4/Pc
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■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】
(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行  

*========*【 いっさいのものを拝め ― その6【引用編】  ― 】*=======*=======*

PS:「トキ様」「観覧者の皆様」 へ 
【念の具象化】は、それぞれ“環・境”によって異なります〜〜〜ョネ!
ある人は裕福な生活をしている。ある人は生活貧窮に陥ってる環境それぞれ見方は
異なるのです〜〜〜ョネ!そうしますと【念の具象化】もまた異なる訳です〜〜〜ネ??

さて【念…】とは、その人の持ってるモノ=人格形成=思考になりますから、見方は
いろんな形で〜〜〜「変・形」!!

■私達の住んでいますこの「地・球」自体…現実!現象!が〜〜〜これが「三次元」なのでしょうか?
もしくは?あの世の集合体…此処では全て「思・考からのスタート」で〜〜〜す。

しかし、私達!現実の生活園内は「地球を自転」として動いています“環・境”……
言い換えますと…思うのですが??
「現象・現実として…五官の世界で見る事の出来ます“地球”を中心」にでしょうか?

此処で【霊の世界】では〜〜〜♫
「思考」で動いていますから、ここからも「念の取らえ方〜〜〜?」はと思いました。

【念=思考】もやはり、すべてが環境から来る訳ですから、今の私は、今現在、置かれて
います現状の出来事での【思考】よりも、
まずは、この「思考」を「4次元…の世界観での優先にと…」この様な【訓・練】が〜
大事ではないか〜〜〜な??と思えるようになり、現象で物事を理解するのではなく!

モット!モット!「心の目」を見つめての「無限なる思・考」……
此処からが本当に【こころが〜〜〜形に現われた世界観〜〜〜】が出現!!
これが……「谷口雅春先生」の…
>>それは本当の無限荘厳の、無限の美しさ<<が、
必ずや!「現象世界」でも現われるモノと…確信した次第なのです。     再合掌

2909SAKURA:2014/06/08(日) 19:58:17 ID:3/pn4/Pc
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■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】
(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行  

*========*【 いっさいのものを拝め ― その7【転載編】  ― 】*=======*=======*

■それからじゃ無限次元の複雑な美しさが捨象られている、ただそれが比較的歪みなしに映って
いるのは、健康な人間として顕われているのであります。

そうして誌友皆さんの家庭生活等でも、「生長の家」へ入信して以来、本当に極楽のような円満な
家庭が出てきたという事実がたくさんありますけれども、たといそれが極楽の“よ”う“な家庭で
ありましても、現象世界の極楽状態は本当の実相の極楽状態には及ばないのであります。

ともかく、われわれは現象を見て現象だけを見てそれを全部だと思ってはいけないのです。その現
象の奥にある実相を見、そこに十全なる神の相、実相の円満な相を観て、そうしてそれに対して敬礼
をするという気持にならなければならないのであります。

蓮如上人は「一枚の紙もすべて仏物である」と言われたそうでありますが、その心持こそ大切である。
「生長の家の経済学」には「物質は無限供給であるから使うほど殖える」ということが書いてあります。

「使うほど殖える」から、紙でも無暗に一字ぐらい書いて紙屑籠に捨てると、これは大変経済循環を
よくしていいことだろう、こう考える人があるかもしれない。しかし、それは嘘である。
本当に使えば使うほど殖えるけれども、それは破って捨てるのは使うのじゃないのです。

われわれは一枚の紙にも、その背後に神の生命を見、神の無限の光を見、神の無限の愛を見、
これを拝まずにはおれない。これを礼拝して使わずにはおれない。今までは「もったいない」ということ
は棚の上に上げて蔵って置くとこういうふうな考え方が多かった。
それで「もったいない、もったいない、食べたらもったいない。着たらもったいない」と、戸棚や箪笥に
入れて置くという、これじゃいけないのです。

神の生命は、使ったら減るというふうなものでない。実に立派なものであるから、この立派なものを、
その顕われている生命の働きを十二分に発揮させて使うほど殖えるということになるのであります。

無限供給であるから破って捨てるというのじゃなにのであって、用途に従ってそこに顕われている
神の生命を使うほど、神の生命がはっきり顕われてくる、それが無限供給である。
使えば使うほど殖えるということになるのであります。

「物質は無い」ということは、そこに何も無いということではない。みんな仏物である、
みんな神の生かす力の顕現(あらわれ)である。その奥には物質ならぬ実相があるということであります。
これを履き違えると大変なまちがいになるのであります。

                         つづく

2910SAKURA:2014/06/08(日) 20:00:15 ID:3/pn4/Pc
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■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】
(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行  

*========*【 いっさいのものを拝め ― その8【引用編】  ― 】*=======*=======*

PS:「トキ様」「観覧者の皆様」へ
そうです〜〜〜ョネ!物に関しても、私たちの世代は、どうしても?「親譲りの癖」が…
まるで伝統みたいに、ありますでしょうか??【モノを粗末に使用してはいけない!!】と…
或いは【質素倹約】…etc と言って、捨てきれない事が〜〜〜私もそうですが?
いつの間にか【ゴミの山…と】です〜〜〜ョネ!きっと〜〜〜「両親の時代」から受け継がれた?
いい事か?悪い事か?別問題と致しまして「親達の癖」…これは、戦争体験からの【物の無い時代】
…受け継ぐ事になりますのでしょうかしら〜〜〜ン!

今回!「亡きの母」の遺品の品の数々の整理に、正直!私も“思い出”があり、捨てきれなくて、
これが〜〜〜かなりあり、部屋が〜〜〜狭くなってしまいました。…が?今回!あるキッカケから、
全てを処分する“決心・決断”が出来たのです。!!

■それは〜〜〜人間は“霊・的・人・間…!”なのです〜〜〜ョネ!『ステッドの書籍』から〜♫

この頃では、死後直前に私に知らせてくれた「亡き母の白い〜白い〜丸い〜丸い〜御霊様」…
「亡き母」は?どこの部屋の世界に移動していますかと?勿論!知る由もありませんが「亡き母」の
大事なモノは〜〜〜きっと『心の想念』で、『霊の世界』では、全て目の前に出てくるようです。
きっと「亡き母」も、そのような『世・界』にいるモノと思えるような気持になりました。

それから「パートナーのお母様」が、若い頃に着物など、殆ど!手を通してないモノがあり、
多分〜〜〜きっと当時は、もったいない!もったいない!といって、着る機会を失くしたのでしょうか?
それから、【宝・石】も〜〜〜そうです。…が?
その年齢に応じたときの宝石の品があるモノと…それに身に着けて…それが活かされる「年齢に応じ」…
と言いましょうか?或る「一定の年齢」になると、これは【宝のもちぐされに等しい】モノへと、
移り変わっていく事と〜〜〜これが【無限供給】が?消えゆくのカモ〜〜〜><
さて、私も〜〜〜「もったいない!もったいない!〜〜〜のこのコトバ」から、今からは?
ドン!ドン!使用していきたいと思いま〜〜〜す。

今現在、沢山の『シルクの生地』があり、或る人は「スカーフに作られて商品化したら?」と…
言われました。当時の私は『シルクのスカーフ〜〜♫〜〜に??』…正直!ピンと?きませんでしたネ!

先に、どうしても「もったいない病」と言う感情が〜〜〜どうしても芽生えたモノでしょうか?
今では『お蔵に保管する』よりも、これを活かす事が『無・限・供・給』なのです〜〜〜ョネ!!

私は、実に、かなりの『無限なる宝物…失くしていたのでしょうネ』この様に思える昨今です。
今から【無・限に広がるアイディアを活かそう!みんな一人一人の…心を駆使しての運・動!】
このような『心の想念』をしていきま〜〜〜す。

■「神様」へ〜〜〜『天の倉に〜〜〜届け〜〜〜!願いを〜〜〜!』    

再合掌

2911神の子さん:2014/06/08(日) 21:44:55 ID:JJ2GRsqw

素晴らしい御教えを初心に帰って、学びましょう。 (106)
日時:2014年06月08日 (日) 18時36分
名前:感謝感激雨霰



素晴らしい御教えを初心に帰って、学びましょう。

http://blog.livedoor.jp/seimeinojissoh/archives/36749841.html
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ええ…すごすぎる。。 (107)
日時:2014年06月08日 (日) 18時41分
名前:奈良の幽斎殿フアン



今朝の幽斎殿は、すごすぎる。

有り難いです。。。

2912トキ:2014/06/08(日) 21:47:33 ID:IhPq/Qug
>>2910

 質素倹約はいいと思いますよ。
ただ、程度が大事なのでしょうね。

 私も気をつけたいと思います。

2913a hope:2014/06/11(水) 10:04:38 ID:cEpBaIdo
☆ ☆ ☆ 出張 第25回 web誌友会 ☆ ☆ ☆

「生命の實相」第13巻 p130〜

不信仰は迷信の因(もと)

恐怖、臆病は究極において自卑の一種でありますが、焦燥不安の状態を喚起し、神への従順――ジッと大きなものにお委(まか)せすること――ができないような状態にいたらしめるのであります。

お委せの心がないから恐怖する、恐怖するからジッと委せておくことができない。

二つの隠蔽は、互に相反映して、ますます実相無畏(むい)の状態を隠蔽(いんぺい)してゆくのであります。

実相本源の神に委すことができず、実相無畏の状態が隠されてきますと、何か物質的な眼に見えるもので霊妙な働きをするものに頼らずにはおられなくなる。

そのためにいろいろの迷信発生し、偶像崇拝となり、本源神を忘れて、霊媒に乗りうつって出てくるいろいろの霊たちの教えを本源の神の示しと取り違えて、まことしやかに信ずることになるのであります。

ここにまた実相の神を隠蔽(いんぺい)する隠蔽(つみ)を生ずるのであります。

霊媒信頼は、かくのごとく実相本源の神にお任せすることができない不信仰のあらわれなのであります。

淫嗣邪神(いんしじゃしん)の崇拝も、人から見たら「あの人は信心深い人だ」と思われるかもしれませんが、また本人も自己を信心深いと思っているかもしれませんが、決して本当に信心深いのではありません。

それはかえって実相本源の神を信じないから、アチラの神を拝み、コチラの神を拝するようになるのであります。

2914a hope:2014/06/11(水) 10:06:37 ID:cEpBaIdo
>>2913 a hope 所感)

「実相本源の神」とは、「自分自身の実相」のことになるのだと思います。
そして、「神我一体」「自他一体」の真理から考えると、目の前に現れた自分とはかけ離れているように見える人物の中にも、
全て自分と同じ神(実相)が宿っていて、兄弟であるどころか、その人とは一体だということになります。

だから、わたしたちは本来「アチラの神を拝み、コチラの神を拝する」必要はなく、
目の前に現れている人間を、自分だと信じて、神だと信じて、常に拝んでいればいいのですね。

常不軽菩薩のような心になることこそ、生長の家の「実相礼拝」なのだと思いました。

なかなか難しいことだと思いますが、これができた時が大調和の時ではないかと感じています。

そういえば、わたしが入信したばかりの頃(4年前くらいですが)は、出会うと必ず信徒の皆さんはお互いに手を合わせて、
「ありがとうございます」と言って、拝み合っていたような気がします。

最近の生長の家は、どうなのでしょうか?

2915SAKURA:2014/06/11(水) 20:33:21 ID:TJDm.2/U
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【引用編】
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■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】
(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行  

*========*【 いっさいのものを拝め ― その9【転載編】  ― 】*=======*=======*

 生命は生きるから生活であります。我れ神の子なりと知ったら、神の子を“今”生“き”る
と、いうことと、これが神の子を知るということであると申しました。それをまた客観界の
ものにしましたならば、神が一枚ここにある。この紙一枚が、その奥にある実相を見れば、
それが仏様であり、神様であって、ここに神の生命が現われているということを知れば、
それを“生”き“るということは、ことごとく与えられたる生命を完全に発揮させるという
ことです。この「生命を発揮させる」ということが紙を使うということです。すると使えば
使うほど殖えるのであります。この一枚の紙の使命を完全に発揮させたならば、そこに神
の生命が生きてきて無限供給ということが出てくるのであります。

 光明思想普及協会(この仕事は、現在は財団法人世界聖典普及協会がしている)が設立いた
しまして、たくさんの働く人が要るからというので就職希望の人は、就職希望願いを出してお
きなさいというふうに、広告が出ておりましたら、それに対して、就職願いをお出しにな
った方がたくさんある。そのすべての人に対してはまだ返事を差し上げていないのであり
ます。写真をみな写真ブックに貼りましてそれに番号を付し、そうしておのおの経歴を表
のようにして写真と経歴とを一目瞭然としてわかるようにして事業の伸張するに連れて
この人が欲しいなという人を一人来て下さいというふうに通知をすることになっておりま
す。そうして現在ではもう百名以上も社員が出来ているのであります。おころが、こんな
人がある。「実はわたしは生長の家の誌友になって実に自信に満ちておる、自分の願うこ
とは必ず成就すると信ずる、それで光明思想普及会へ雇われようと思ったら必ず成就する
とわたしは信じて、今まで余所に働き口があっても、働かずに何もしないで待っておりま
したが、とうとう一文も無くなりましたから、どうぞ使って下さい」とこういう人があり
ます。なぜこの人は働き口があっても働かなかったのでしょうか。今自分が神の子である
ということを知ったら、今「神の子」を生きるということを知らなければならないのです。

この一枚の紙ですらも、この一枚の紙の使命を発揮させるということが“生きる”という
ことである。いわんやここに人間がいるのに、今を生きるということを知らないで、「自分
の希望は必ず成就さしてくれるであろうから、成就さしてもらったら、雇ってもらったら
働こう、それまではまァ待命だ」とこう思っている――会社や軍隊なら待命があるかもしれま
せんけれども、この宇宙という「大生命の会社」には待命の期間というものは一つもないの
です。今ここに自分が生命として現われている限りは“もう常に現職です。

                      つづく

2916a hope:2014/06/12(木) 10:36:44 ID:cEpBaIdo

☆ ☆ ☆ 出張 第25回 web誌友会 ☆ ☆ ☆

「生命の實相」第13巻 「第六章 価値の本質 」 

(p135 4行目〜)
・・・存在するように見えていても、本当にそれがなかったら値打ちがないでしょう。
そうすれば値打ち本体は「本当に存在する」ということから始まります。
そこで生長の家では、「本当に存在する」ものを実相と申します。・・・(略)


(後ろから4行目〜)
・・・それでは「本当にある」というものは一体なんであるかというと、相対的に表れたり消えたりするものは、「本当にある」とは言えないのです。

真とか善とか美とか仏性とか神性とかいうものは、それが現れていても現れていなくとも普遍的に存在するものであって、そこに条件がととのったときに認識せられるように顕現するのであります。・・・・(略)


(p138 後から5行目〜)
・・・真、善、美と三つを同列に並べて説明する人がありますが、真とは本当にあるものということで、「本当にあるもの」の道徳的活動が善であり、「本当にあるもの」の芸術的活動が美であります。

人生の目的とはなんぞや?

といいますと、人生に「真(しん)」すなわち「本当にあるもの」すなわち実相を表現することであります。

2917a hope:2014/06/12(木) 10:37:41 ID:cEpBaIdo
>>2916 a hopeまとめ)

本当に存在するもの = 実相 (真・善・美・仏性・神性などの不偏的存在)
本当には存在しないもの = 仮相 (相対的に表れたり消えたりする物質的・現象的存在)

○真・・・本当にあるもの 
○善・・・「本当にあるもの」の道徳的活動
○美・・・「本当にあるもの」の芸術的活動
○人生の目的・・・人生に「真(しん)」すなわち「本当にあるもの」すなわち実相を表現すること

2918SAKURA:2014/06/12(木) 22:41:34 ID:TJDm.2/U
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こんばんは……ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【引用編】
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■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】
(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行  

*========*【 いっさいのものを拝め ― その10【転載編&引用編 ― 】*=======*=======*

■現職ではない人は一人もないのです。それを自分で勝手に休職にしているから金も入らなくなり、
あるいは病気の人ならどんどん身体が弱ってくるのです。これは自分の生命を休職にさしているか
らです。

生命を休職にさしていたら経済的に窮迫し、肉体的には生命が涸渇してくるのは当然のことです。
われわれは常にこの「宇宙大生命の大会社」の中に常に現職で雇われているということをしらな
くちゃならないのです。そうすればどこにいても現職の社員であるから、一生懸命に今働かな
くちゃならない、これが肝心であります。今、普及会に働いておられる人でも、雇ってあげると
いわないうちから、勝手にやってきて一生懸命荷造りしたり外部で一生懸命に宣伝していたよう
な人が多いのです。

その中に「あの人あんなに頼まないでも働くのだから入社させて上げたら」ということになって
社員になっておられる人もあります。こんな人は、光明思想普及協会の就職の辞令はずっと後に
出たかもしれないけれども、実相では宇宙大生命の会社に就職していた人です。

ところが、じっとしておって、「わたしは就職するにちがいないのであると思念していて、それま
で何もしないでいましたら、無一物になりました。生長の家を信じたら無限供給だと思って、信
じてじっとして待っていたのですからぜひやとって下さい」と、そういうようなのは、ちょっと
根本の解りようがまちがっているということになるのであります。

常にわれわれは自分の生命を、あるいは「物」の生命を、百%生かすということが必要なのであ
ります。人間に雇われなくても、大生命に雇われて働けるような人でなければ、本当に雇ってみ
ても本当に働けやしないのであります。
                     つづく
PS:「トキ様」  「観覧者の皆さま」 へ
複雑な心境です…。確かに!勉強もしなければ〜〜〜いい点を取る事はできない事。。。
ここが〜〜〜“努・力”なのです。…が?神の生命を生かす事とは、大生命をフルに使う!使いきる!
事でしょうかと??
当時の「雅春先生時代」の「職員の採用」は〜〜〜??如何なる募集法なのでしたかと??

私の記憶では?今回の記載されています事が、全てそのような形での「社員採用」がなされたとは?
或る面!言い難い面が見えます。…が?更に「信者」に対しての〜〜〜『見方』の伝統は?
どうだったかと思いますと、今にしてみますと、当時の「亡き両親の見方」…そして、
「私達の世代の見方」が、そこに時代背景も含めての【偏・見】が生じているように思えます。

「私の同世代の方」は、逆に【就・職】は〜〜〜当時「大卒は?本部職員としての希望」は?いたのでしょうか??
知る限り〜〜〜当時は、殆んど「企業就職」に行かれた方が多いように思えました。…が??
当時!知りあいの幹部は「大卒」が入社して来ないので、困っているとか?当時の教区幹部の大人の人が
言っておりましたが、それくらい「大・卒」は少なかったのです〜〜〜ョネ!
ですので、此処からも〜〜〜ある面では「矛・盾」を感じるモノがあります…。

■当時の採用の仕方を見ますと〜〜〜どれが正しいのか〜〜〜複雑です…。
現在の状態からも見ますと、自ずから「答え…」が出てきます。
〜〜あまりにも〜〜あまりにも〜〜他人任せが〜〜〜浮き彫りに感じる次第です…。

【いい人材…確保】〜〜これは『信・仰』という立場では〜〜どのように考慮すべきなのでしょう。

                                  再合掌

2919SAKURA:2014/06/15(日) 17:37:55 ID:TJDm.2/U
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こんばんは……ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【引用編】
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■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】
(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行  

*========*【 心を清く空虚にせよ ― その1【転載編&引用編 ― 】*=======*=======*

■「心の清き者は神を見ることを得」*ということは、キリスト教のパイプルにある句であり
ます。「心の清き者」というのはどういうものであるかというと、何も無い人です。何もない
人が「心の清き者」です。つまり「我」のない人であります。この幼児の心を持ったものが
初めて真理を知ることができるということは、バイブルにも、『生長の家』にも書いてあるので
ありまして、われわれがいくら知恵や学問をもっておりましても、本当に心が虚無(からっぽ)
になっていないと本当の真理を受け容れることができないのであります。

きのうも、ある青年学生が来て、「水素と酸素とを合わしたら水になるという化学の実験を
見てきたが、その時気がついたことですが、なぜ水素と酸素とを合わしたらどうして水ができ
るか、その『どうしてできるか?』というわけを教えて下さい」といってきたのであります。

それは原子価の関係や、イオンの関係で水素と酸素とが合したら水になると説明すること
ができますが、その奥をまた尋ねて原子価がこう、イオンがこうであれば、なぜそう結合し
て水になるかの理屈をさらに尋ねられたら理屈では答えられない。これは理屈ではない事実
なのです。
「水素と酸素と合したら水になる」ただそれは事実だから否定できないのである。これは事実で
ある。あるいは酸素と水素と合したら炭になるというふうな理屈が仮に成り立ったところが、
ただ「酸素と水素と合すれば水ができる」ということが事実であれば、事実ほど強いものはない、
こう答えたのであります。世の中には妙な人があって、生長の家で病気が治る事実があるのに、
「宗教で病気が治るはずがない、もし治ったらそれは邪教だ」という理屈を製造して躍起に
なっている人もあります。理屈で「治らない」と弁証し、多数決で決定しても事実治ったら
仕方がないのであります。

 それと同じくわれわれが「神の子である」ちはなぜ神の子であるか、なぜ人間は神の子で
ないのかとこういったところが、神の子である、これはもう理屈ではないのです。
神の子であるから神の子である。

 よく「無明(まよい)はどうして無いのか」と、こういわれる。「無明はないから、ないのだ」
と、これしか答えようがない。いろいろ理屈をいうことはできます。ある程度まで、
八十パーセントまで、なるほど、なるほどと思われるくらいには説明もできますけれども、
いくら巧みに弁舌巧妙に理屈を説いてみたところが、事実そうでなかったら何にもならない。
ところがいくら理屈で言えなくても事実がそうであればそれはもう否定することができないので
あります。
                             続く
PS:「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
心を清く空虚にしますには、「我」失くすことでしょうかと「谷口雅春先生」がおっしゃています。
そうしますと「我」とは〜〜〜相手を捌く心持ちも“我”なのですョネ!!
【 捌く=砂漠 】ですから、本当に“心を空虚”になることは『砂・漠』のような心持でしょうか??
 (微笑)何処までも〜何処までも〜何もない!無の世界!!しかし其処には【無限に広がるモノ】が??
                             再合掌

2920a hope:2014/06/16(月) 09:28:41 ID:cEpBaIdo

☆ ☆ ☆ 出張 第25回 web誌友会 ☆ ☆ ☆

「生命の實相」第13巻 p140〜

教育の目的

教育とは道徳教育にせよ、職業教育にせよ、芸術教育にせよ、知能教育にせよ、本来あるものを現れの世界に引っ張り出すところの方法、本当にある値打を現実の世界に延長しだしてくるということであります。
  
そこでこの人生の目的も、道徳の目的も、教育の目的も、芸術の目的もみな一つの本当にあるものに一致してくるということになるのであります。

むろんそれが一致してこなければならないというのは、それはすべての価値は本当にあるものに源を発するのであり、人生の目的は、本当にあるものを現すにあるからなのであります。

人生の目的がそうであるとしますと、道徳の目的も、芸術の目的も、教育の目的も、さらにもっと進んでいえば、あらゆる人間の文化活動の目的はいずれも本当にある値打をいかに現すか、ということが根本になるわけなのであります。

2921a hope:2014/06/16(月) 09:30:16 ID:cEpBaIdo
>>2920 a hope所感)

「人生の目的は何?」

これは、人間として生まれてきたからには、誰でも一度は考えることなのではないでしょうか?

人によっては哲学的に深く掘り下げて考えたり、精神世界に目覚めて来世に期待をかけてみたり、
また、魂や来世なんてないと信じて唯物的に勝手気ままに生きてみたり、人それぞだと思います。

わたしは今まで、人一倍、この「人生の目的」について考えて生きて来たと自負しています。
そして、たどり着いたのが、この「生命の實相」でした。

谷口雅春先生はご昇天されましたが、こんなに素晴らし聖典をわたしたちに残してくださいました。

だからわたしは、谷口雅春先生のご遺志を引き継ぐために、「生命の實相」をお勉強せずにはいられません。

2922a hope:2014/06/17(火) 08:23:26 ID:cEpBaIdo

☆ ☆ ☆ 出張 第25回 web誌友会 ☆ ☆ ☆

「生命の實相」第13巻 

教育の方法論の根拠 p141 後から5行目〜

今まで教育盛んにしてますます「悪」が盛んになったのは、「悪」を指摘し、「悪」を心の世界に描くようにしたからであります。

心の世界で「『悪』というものはないんだ、あるかのごとく見えても、それは心をそこから放下してしまえば本来無いのであるから消えるほかはない」と、全然考えないことにしますと、それで消えてしまうのであります。


ある宗教で「かんしゃくを起こすな」という御神宣をいただいたとする。

しかし癇癪を起すまいとしましても、腹が立つ。

「そんな値打ちのないことしなさんな」といわれるけれども、「値打ちがないこと」も、それが言葉で表現する限り、「アル」として表現されているので、人生は言葉の表現を模倣するものですから、腹立ちも「値打ちのないこと」も本来ないにもかかわらず消えないのであります。

2923a hope:2014/06/17(火) 08:24:17 ID:cEpBaIdo
>>2922 a hope 所感)

催眠術は、相手を催眠状態にして、暗示の言葉で相手の体や心を自由に動かしますが、
この「心の法則」は、自分の心の波動を整えることで、相手の心の波動もよくしてしまうという原理なのではないかと感じています。

また、反対に自分の心を尖らせて波動を悪くすれば、相手の波動も乱れ、不機嫌になったり怒り出したりするのだと思います。

ですから、この「心の法則」は個人の力では、より心情的に身近な家族や友だち、同僚、直属の上司などにはより強く働きかけるのでしょうが、
その一人一人の波動が集結して大きな集団になった時には、善いことにせよ悪いことにせよ、
信じられないような大きな力を発揮することになるのだと思います。

2926a hope:2014/06/18(水) 10:18:08 ID:cEpBaIdo

☆ ☆ ☆ 出張 第25回 web誌友会 ☆ ☆ ☆

「生命の實相」第13巻 p142〜

悪は実在しない

「悪しきもの」は「価値がない」、「あるものは必ず価値がある」「価値の本体はあるということである」だから、「価値がない」ということは本来存在しない、あるいは本当にあるものが現れていないことである。

ここまでわかれば釈迦の説かれた――「まことに『怨み心』をもってしては、怨みをとくことができない。『怨まない心』のみ『怨み』を解くことができる」といわれた本当の意味がわかるのであります。

憎む、腹が立つ、怨めしい!ああしかしながら、「悪」は恕(ゆる)さなければならぬから、恕してやりたいと、そんな心構えでは怨みは解くことはできないのであります。

実在の世界は善のみであるから、恨むべきような悪があるがごとく見えても、そんなものは無いんだ、ただ愛のみ実在であるから、彼は自分を愛し、自分は彼を愛している、これのみ本当にあると、これのみ実在であると、それのみを念じておりましたら、実在は「念」を表現の媒体として顕現してくるものでありますから、怨み憎しみは消えてしまって、本当にある愛の生活のみが顕現してくるのであります。

『甘露の法雨』に「仮想(かりのすがた)に対しては実相を以て相対せよ」とあるのはこれでありまして、これが「生長の家」の倫理学および教育学の根本になるのであります。


ともかく倫理学とは価値の学問であり、教育学とはその価値を引き出す学問であり、価値とは値打であり、値打は、有るという実相からくる。

そこで「ある」とは一体なんであるか、世界は見えるとおりにあるのではあるか、世界は「物質」でできているのであろうか、「心」でできているのであろうか。

今しばらくその点を再論してみたいと思います。

2927a hope:2014/06/18(水) 10:20:51 ID:cEpBaIdo

>>2926 a hope所感)

<<実在の世界は善のみであるから、恨むべきような悪があるがごとく見えても、
そんなものは無いんだ、ただ愛のみ実在であるから、彼は自分を愛し、自分は彼を愛している、
これのみ本当にあると、これのみ実在であると、それのみを念じておりましたら、
実在は「念」を表現の媒体として顕現してくるものでありますから、怨み憎しみは消えてしまって、
本当にある愛の生活のみが顕現してくるのであります。>>

ここにも、具体的な和解の方法が述べられていました。

「彼は自分を愛し、自分は彼を愛している」と念じていれば、「怨み心」は消えてしまうと書かれています。

そして、そう念ずることで、自分の中に「怨まない心」(愛)が現れた時、
現象的にも大調和が訪れる(本当にある愛の生活のみが顕現する)ということですね!

2928a hope:2014/06/18(水) 10:23:31 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第13巻」p54

仏陀の聖訓

「まことに『恨み心』をもってしては、その怨みを解くことはできない。ただ『怨みなき心』によってのみ怨みを解くことができる。このことは、永恒(えいごう)に易(かわ)ることのない真理である」とは『法句経(ほっくきょう)』の第五にある仏陀の聖言である。

「恨み心」をもってしては怨みを解くことはできない、「怨み無き心」によってのみ怨みを解くことができるなどと実にきまりきったことだというような、怒っている心は怒っているのだ、笑っている心は笑っているのだというようなあたりまえのことを仏陀は何故いったのであろうか。

これは「迷っている妄心」で「迷い」を無くしようと思っても、結局その迷いを解くことはできないものであるという真理を説かれたものである。

怨みを解くには、怨んでいる心でその怨みを解消しようと思っても駄目なのである。

「本来怨んでいない心」を出して来た時、怨みはひとりでに解けてしまってしるのである。

「暗(やみ)の心」で「暗の心」を消そうと思っても駄目である。

「光の心」を出して来さえしたら暗の心は自然に消える。

そのほかの心をもってしては「暗の心」はとうてい消えないのである。

「暗の心」は「無い」と知ったら、「怨み心」は本来無いと知ったら、もう暗の心は消えており、恨み心は消えているのである。

2930うのはな:2014/06/18(水) 16:32:20 ID:HRiaVPh.

   生長の家は『生命弁証法
  http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&amp;mode=res&amp;log=1424

2931SAKURA:2014/06/18(水) 17:31:19 ID:TJDm.2/U
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
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>>2871>>2881>>2890>>2891>>2898>>2905>>2907>>2908>>2909>>2910>>2915>>2918>>
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■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】
(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行  

*========*【 心を清く空虚にせよ ― その1【転載編&引用編 ― 】*=======*=======*

■「心の清き者は神を見ることを得」*ということは、キリスト教のバイブルにある句であり
ます。「心の清き者」というのはどういうものであるかというと、何も無い人です。何もない
人が「心の清き者」です。つまり「我」のない人であります。この幼児の心を持ったものが
初めて真理を知ることができるということは、バイブルにも、『生長の家』にも書いてあるので
ありまして、われわれがいくら知恵や学問をもっておりましても、本当に心が虚無(からっぽ)
になっていないと本当の真理を受け容れることができないのであります。

きのうも、ある青年学生が来て、「水素と酸素とを合わしたら水になるという化学の実験を
見てきたが、その時気がついたことですが、なぜ水素と酸素とを合わしたらどうして水ができ
るか、その『どうしてできるか?』というわけを教えて下さい」といってきたのであります。

それは原子価の関係や、イオンの関係で水素と酸素とが合したら水になると説明すること
ができますが、その奥をまた尋ねて原子価がこう、イオンがこうであれば、なぜそう結合し
て水になるかの理屈をさらに尋ねられたら理屈では答えられない。これは理屈ではない事実
なのです。
「水素と酸素と合したら水になる」ただそれは事実だから否定できないのである。これは事実で
ある。あるいは酸素と水素と合したら炭になるというふうな理屈が仮に成り立ったところが、
ただ「酸素と水素と合すれば水ができる」ということが事実であれば、事実ほど強いものはない、
こう答えたのであります。世の中には妙な人があって、生長の家で病気が治る事実があるのに、
「宗教で病気が治るはずがない、もし治ったらそれは邪教だ」という理屈を製造して躍起に
なっている人もあります。理屈で「治らない」と弁証し、多数決で決定しても事実治ったら
仕方がないのであります。

 それと同じくわれわれが「神の子である」ちはなぜ神の子であるか、なぜ人間は神の子で
ないのかとこういったところが、神の子である、これはもう理屈ではないのです。
神の子であるから神の子である。

 よく「無明(まよい)はどうして無いのか」と、こういわれる。「無明はないから、ないのだ」
と、これしか答えようがない。いろいろ理屈をいうことはできます。ある程度まで、
八十パーセントまで、なるほど、なるほどと思われるくらいには説明もできますけれども、
いくら巧みに弁舌巧妙に理屈を説いてみたところが、事実そうでなかったら何にもならない。
ところがいくら理屈で言えなくても事実がそうであればそれはもう否定することができないので
あります。
                             続く
PS:「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
心を清く空虚にしますには、「我」失くすことでしょうかと「谷口雅春先生」がおっしゃています。
そうしますと「我」とは〜〜〜相手を捌く心持ちも“我”なのですョネ!!
【 捌く=砂漠 】ですから、本当に“心を空虚”になることは『砂・漠』のような心持でしょうか??
 (微笑)何処までも〜何処までも〜何もない!無の世界!!しかし其処には【無限に広がるモノ】が??
                             再合掌

2932SAKURA:2014/06/18(水) 21:03:41 ID:TJDm.2/U
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【転載編・引用編】
>>2809>>2812>>2820>>2821>>2827>>2839>>2840>>2842>>2848>>2853>>2856>>2860>>2866>>2867
>>2871>>2881>>2890>>2891>>2898>>2905>>2907>>2908>>2909>>2910>>2915>>2918>>2931
の投稿の続きです….。

■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】
(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行  

*========*【 心を清く空虚にせよ ―その2【 転載編&引用編 ―】*=======*=======*

■人間はどうして神の子であるのか、人間はどうして物質ではないのか――ゆうべ
出た話ですが――人間はどうして神でないのか、こういったところが、これはそんなよう
な理屈が成り立っても、人間は神であるという事実があれば仕方がない。事実が実相であ
る。それできのうもある人が来られて言われるのに、「先生は実相は真理である、真理ほ
ど確かなものはないと言われますが、わたしはその真理という言葉が感心しない、理とい
うとなんだか理屈で本当の真ではない気がする。こんな気になったのは、先生実はある雑
誌に生長の家の妄評が書いてある、本を読んで病気が治るなんて、そういう馬鹿なことは
あるはずがない、もし治るのなら、生長の家が騷ぎ出してから、日本全人口の中ので何パー
セント死亡率が減ったか、何パーセント罹病率が減ったかということを示してみよ、生長
の家が宣伝し出してから、ちっとも日本人全体の罹病率は減ってはおるまいがな、という
ふうなことが書いてある。なるほどひと理屈らしいのですが、これは理屈です。日本人総
体の死亡率が減っていなければ、いくら個々の人の病気が治った実例があってもそれはウ
ソだとその雑誌は言っているのです。先生こんなのを事実を無視した理屈の『真理』と言う
のですなァ」と言われるのです。この人は生長の家で現に病気の治る事実を見て知ってい
られるのです。幸いに生長の家では罹病率の激減した会社の統計や、事故率が絶無に減じ
た鉄道の統計があったからそれを発表しましたが、仮にここに三十人の生徒が近眼であっ
た、その三十人の近眼が治ったら、近眼が三十人減ったということは事実である。理屈で
推論して、とっとも日本人全体の病人数は減っておらぬといっても、十人病気が治ったら、
事実十人病人は減ったのであって、これほど確実なことはないのです。理屈さえ通ったら
事実が消せると思ったらまちがいです。そのうち日本人総隊の死亡率が減ったとわかる
時代が来ると信じます。

ともかくこういうふうに理屈が心の中にいろいろと詰まっている。人は事実があっても
本当に素直に受容れることができない。現に眼の前で病人が一人減り二人減り続々と減って
おる事実を見ても全人口でどこが減っておるかという、こういうことを言いたくなってくる
人を、こういう我の理屈や塵挨を心の中にいろいろともっていて真実を受入れることが出来ない
人を、心の清くない人というのであります。

心の清き人は本当に神を見る、実相を見ることができる。心の中に塵挨(ごもく)が一パイ
にないからするすると真理が入るのであります。かえって幼児に、なんの学問もない、小さ
な五つ六つぐらいの子供が生長の家の真理を知り、神を知っているというような実例がたく
さんあります。
                           つづく

PS:「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」へ
実例?事実?〜〜〜これって…本当に「素直に受け入れる事」でしょうか??

■私事ですが?「私自身のフエイス」には【霊界通信…新樹】を投稿していま〜す。前回の
「ジュリアの音信」から続いての投稿なのです。…が?

実は、「トキ様」が紹介して頂きましてから「新樹の通信」を、一度!は、読んでいたのです。
今回、“ライティング”という事で、もう一度復習し直し!改めて「霊界の中身」が見えてきます。

                              つづく

2933SAKURA:2014/06/18(水) 21:05:25 ID:TJDm.2/U
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【引用編】
>>2809>>2812>>2820>>2821>>2827>>2839>>2840>>2842>>2848>>2853>>2856>>2860>>2866>>2867
>>2871>>2881>>2890>>2891>>2898>>2905>>2907>>2908>>2909>>2910>>2915>>2918>>2931>>2932
の投稿の続きです….。

■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】
(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行  

*========*【 心を清く空虚にせよ ―その2【 引用編 ―】*=======*=======*
>>2932 【転載編…投稿】の続きです…。

更に「ステッド通信」と交互に読んでいく内に、私達一人一人には【守・護・霊】がいますョネ!
海外の「イギリス」では、その方が亡くなられますと、その【守・護・霊】なのですが〜〜〜
年代の背景が余り大差がなく、身内とか?〜〜〜時代の誤差はあまり生じていないのですョネ!

ところが?「日本」の場合は〜〜〜何と!何と!「新樹の母様の守護霊」は〜〜〜
足利時代の方が【守・護・霊】という事で〜〜〜ビックリマークです。
更に「新授の守護霊」は〜〜〜かなりお爺様!!しかも『年代の差』があるように見えます。

そうしますと、このように【西洋】対【日本】との比較では?どうしても隔たりが……><
当時!昭和五年前後の中身にてなのです。…が?これも事実なのです〜〜ョネ??

■では「現在の私達」は〜〜〜どうなんでしょうか??「考える人」

しかも?思うに…現在の私達の【日本語=漢字】が〜〜〜簡略化に成り過ぎていますし、
更に、江戸から〜〜〜現在まで〜〜〜【幽・界】では殆んどが〜〜〜「地・獄」と思えてしまいます。

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┏━━━┓
┃\_/┃ " ステッド通信からの言葉より〜♫〜 "
┗━━━┛            ■【 ステッドの言葉 】…
 この実在界では、いかなる存在との間にも親和力を感じます。地上で人間どうしで
感じる親近感よりはるかに親密です。その親和力がこの世界全体に光輝をを生み出して
います。地上のように光線となって放たれているのではありません。この世界の大気
に相当する雰囲気そのもが、明るい活性力をもった生命力にあふれているのです。

 ここで生命活動は壮麗という形容がふさわしいでしょう。大胆になるといっても
よいでしょう。幸福感に満ちあふれております。しかし、そうした恩恵に浴すること
ができるのは、地上で分別あるまともな生活を送った人間に限られます。

無分別な生活、自己中心の欲望に駆られた人生を送った者は、死後、困難と苦悶と悲哀
とが待ちうけております。げに、“蒔いたタネは自分で狩り取らねばならない”のです。
┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏

上記に【ステッド通信…】からの抜粋投稿なのです。
「ステッド氏」が【ブルーアイランド】から次ぎの界に上昇した世界の処を、
紹介しておりますが、【霊界の入口】には、【ブルーアインランド】・【サマ−アイランド】があり、
そこでも、厳しい現世での行為への「おさらい?」があるようです。そして、更には、その上の階級に
上昇して行く過程にても、やはり「過去のおさらい事?」があるのです〜〜〜ョネ!!
【 蒔いた種は〜〜〜自分で刈り取らなければならない 】…

■このような事でも〜〜〜或る人は信じる事となり?或る人はいや信じない事と?〜〜〜
これも?「死後の世界=あの世」…旅立って分かる事でしょうか??
「ステッド氏」は、この事を「理解出来る人」そして「それを信じる事」も〜〜〜
「素直な心」だとも言っています。

歴史上有名な…あの「タイタニック号」の現場で…「ステッド氏」はご自身の生命を顧みずに、
命がけで「700のボートに人々を乗せた救命活動」は〜〜〜スゴイ!一言に尽きますネ!!

さて!「トキ様」…これも【理・屈】で考えますでしょうか??それとも【屁・理・屈】???
やはり、すべて【真・理】をつかんだモノが〜〜〜【天国の門=狭き門】なのですョネ!!
                                再合掌

2936トキ:2014/06/19(木) 13:51:10 ID:9YaKBDTs
>>2933

 タイタニック号は、心霊現象に関する話題が多いです。
衝突を事前に予言していた人も多いみたいでした。

 理屈も大事ですが、事実は説得力がありますね。
科学理論でも、実験という事実で裏付けされて、初めて
真実だとされますから。

2940SAKURA:2014/06/19(木) 22:19:45 ID:TJDm.2/U
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【引用編】
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>>2933の投稿の続きです….。

>>2936「トキ様」……お返事ありがとうございます。

最近!まじめに、取り組んでいるのです。…が??
今まで「心霊現象」を或る方は〜〜〜“タタリ…”とか??“魔物が取りつく…”とか??
そのように、子供の頃は、実に〜〜〜“怖い存在”でしたのですネ?

■私の「フエイス・ブック」に投稿するようになりましたキッカケは、最近!
【人間の心が枯れて行ってる状態〜〜〜??】ではないのでしょうか?

しかも!特に私の周辺に出没します…「皆様」も御存知の「吸血鬼・ゾンビ達」の
【常識のない行動】には〜〜〜モウ!モウ!モ〜〜ウ!と言いた感じで。。。
毎日毎日【心…がドンドン枯れて行っていました!】そのような時に、
正直申しますと「雅春先生の書籍本の数々」を読んでも〜〜〜><
また!【現・象】にどっぷりと?浸るような錯覚現象がおきていたので〜〜〜す。

或る時、何気なく「アマゾン」のコーナーから【ジュリアの音信】の本…
それも“本文”で「中古の本」〜〜〜それを注文して、その後!「心が何となく〜〜〜スッキリ!」
まるで!雲の間から…光〜☆!が……それから、去年!買っておりましたが「本棚」に…
「タイタニック号の書籍」が……その本を開きますと!何と!何と!【ステッドの通信…】

■ 【 人間は〜〜〜霊的人間〜〜〜魂は永遠〜〜〜!!! 】

また!また!その内容から〜〜本当に「真実論に展開して行く」のですから〜〜〜気が附きますと、
「谷口雅春先生のお言葉」が〜〜〜自称!前以上に理解が出来まして、この頃では
【神想観】が出来ない時は、電車の中で“瞼”をつむって…【瞑・想】その時?オカシナ現象事ですが?
【実相円満行…】をしている私なので〜〜〜す。

■現象で物事を見て行く時…どうかしますと【相手を捌く心】がどうしても心の中に…生じます。
その時の私は〜〜〜「人間!皆神の子なのだヮ!!」と云い聞かせて〜〜〜みても〜〜〜><
正直!なかなか「心…」そのモノが〜〜〜変わるわけでもない〜〜〜意味がないように思え〜〜〜
そこで“瞼”を閉じて【円満な世界観を描く…円満行】をしますと〜〜〜♫
不思議な現象事が〜〜〜起きるのです。
■やはり「人間は霊的に備わっている!」のです〜〜〜ョネ!そのように納得しています。…が?

※「トキ様」は?どのように思われますでしょう〜〜〜か??    再合掌

2945トキ:2014/06/20(金) 18:48:10 ID:yJ0/2CfA
>>2940

SAKURA 様

 素晴らしいご投稿、ありがとうございました。

 そういう細かいですが、大事なポイントを実行するのは大切ですね。
電車の中で、自分なりの実相円満唱行を実践して、それが効果があれば
掲示板をご覧になっている皆様に、その効果のほどを知らせるのは、そ
れも伝道だと感じます。

 頑張って下さいね。

合掌 ありがとうございます

2946SAKURA:2014/06/20(金) 21:13:35 ID:TJDm.2/U
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【引用編】
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>>2933>>2940の投稿の続きです….。

>>2945 「トキ様」……お返事ありがとうございます。

※その中からの一部抜粋なのです。…が?
>>自分なりの実相円満唱行を実践して、それが効果があれば掲示板をご覧になっている皆様に、
その効果のほどを知らせるのは、それも伝道だと感じます。<< (トキ様の投稿文より…)

■確かに、そう思います。…が?ここ【2チャンネル】の方達の「上げ足論」には、どのような
真実でも〜〜〜果たして「理解度」となりますと?どうなんでしょうか??

今までの私は『おまじないのような感じ?』でした。…が??今回は、
【霊・界・通・信】から〜〜〜本当に、まず【心・の・浄・化・作・用】が大事なんですョネ!!

いずれ?『旅立つ世界=死後の世界』…私もこの世界に行きます時〜〜〜は??さて!
どのような「展・開」にと?思ってしまうので〜〜〜す。
何故なら【ステッド氏】が、生前の時に、出会った書物から…既に本人は、この「霊界の意味」が
判りかけて…まず!【信じる事…信じて其処からの活動事】で〜〜〜す。
いざ!『死後の世界=霊界』にいきますと〜〜〜死後は?本当に!その人の書物が正しいとの「判・断」
しかも信じたおかげで、無事に『霊界の世界』にスムーズにとけこんで行けた事と。。。

■これは?信じる!信じない!は〜〜〜その後に起きる問題なのですかと、更には?
『信仰も正しい理念が無くては…』と思うのです。
そうしませんと〜〜〜その後の形として…自分自身で刈り取る事になるようです。。。と!!

このようにいろいろな「文・章」にて、いろいろなる観点から教えてくださっていますし、
私も今までの「心の心境」が〜〜〜あの世では〜〜〜アケスケですから、
表面上は「イエス!」と云っても〜〜〜心が「ノ―!」ではと…このように、まずは、今の気がついた
時点から〜〜〜訓練中なのです。

■例えば…
まず「心の浄化作用訓練」は、【神・想・観】が一番と思うのです。…が?
時として?出来ない状況=環境…と云いましょうか??
具体的には?電車の中で(どうしても時間制限の時)…そこに「関わりたくない人」が乗車して
来たと致します。

その時は〜〜〜これは「神様」へ身近に祈る【実・相】をみつめ…【祈る事】が先決だとは思うのです。
つまり「心の眼で見つめて行きます。」心静かに〜〜〜深層部まで〜〜〜

ところが?その場では?〜〜〜どうしても「ネガティブ感情」が〜〜〜先立ってしまいます時、
簡単な「瞑・想・法」。。。それは〜♫ 瞼を閉じて【実・相】を見つめると同時に「実相円満完全」と、
唱えて行きますと、不思議なモノで〜〜〜本当に【いやな現象が消えて行く】ので〜〜〜す。

そして、更に!心が〜〜〜スカッと!さわやか!になり、そうこうしていく内に、気が附きますと
モウ!何もかも〜〜〜「神様」におまかせム―ドに、心境が変化しているのですから、
本当に「亡き母」の世代の【祈・り】は簡単ですし、更にいつでも?どこでも?唱える簡単な呪文
なのですョネ〜〜♫

■このように、公の場にて、人に公表するようなモノではなく、当たり前の【生長の家】の信者なら
すこぶる当たり前の事ではないのでしょうかと?思う次第なのです。…が??

「トキ様」は如何お考えでしょうかしら〜〜〜ン!!     再合掌

2947SAKURA:2014/06/20(金) 21:25:06 ID:TJDm.2/U
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【転載・引用編】
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>>2871>>2881>>2890>>2891>>2898>>2905>>2907>>2908>>2909>>2910>>2915>>2918>>2931>>2932
>>2933>>2940>>2946の投稿の続きです….。

■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】
(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行  

*========*【 心を清く空虚にせよ ―その3【 転載編 ―】*=======*=======*

わたしが服部さん宅の誌友会へ行きました時に、弘ちゃんという五、六歳の子供がいて
どこかの柱で手を打った。誌友の一人が痛いでしょうといったら、「痛いというから痛い
のだ、痛いことないよ。僕は神の子だから痛いことなんかないよ」といって威張っている
のです。子供というものは心に塵埃がないから実に素直だ!この子供の親は熱心な生長
の家の誌友だったから、親の時々言う言葉をそのままなんの疑いもなく受け入れて自分は
神の子であると信じきっている。痛いの?といえば心が痛いのであって実際の人間は痛
くないとちゃんと知っている。

これは心の清き人にしてはじめて可能のことである。

それで、われわれは『生命の実相』を読んでも、この心の清きものになって『生命の実相』を
読まなければならないのです。『生命の実相』を読んでもすぐに病気がなおらないような人は、
きっとこの心の清くない人です――心が清くないというても、泥棒するとかそういうふうな
意味ではないのです。――知恵や学問の塵埃でいっぱいに詰まっている、そういう人ほど
かえって生命の実相を素直に受け容れることができないので――

まず一遍いっさいの知恵学問を捨て『生命の実相』を読まなくてはならない。いっさい人知を
否定してしまうのじゃありませんけれども、一度は傍のバケツへ知恵の水を移し代えておいて、
心のコップの中に水を注ぐように入れるわけです。コップの中へ濁った液体を入れておいて、
その上からさらに清い水を容れてやろうと思ってもなかなか入りにくいのであります。

それで一度は心のコップを空けてしまっておいて、空虚にしておいて入れる。この虚無の心、
虚無のこの心が「清きもの」であって、嘘を吐かぬとかそういうふうなことじゃないのであり
ます。本当にこの虚無の心になった時に初めて神を観ることができるというわけであります。

                         つづく

PS:「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」へ

■【虚・無…】〜〜〜??やはり「実相円満行」も、やはり!空っぽの心!!何ですョネ!!
モット!モット!モット!『心を円満…』にして行かないといけないでしょう〜〜〜☆…と
また!また!一つの宿・題が〜〜〜出来ましたのです〜〜〜ョネ!!

                          再合掌

2949a hope:2014/06/21(土) 08:57:40 ID:cEpBaIdo
☆ ☆ ☆ 出張 第25回 web誌友会 ☆ ☆ ☆


「生命の實相」第13巻 第六章 「価値の本質」

(キーワード&キーセンテンス)

p146〜
○価値要求
・・・われわれの生活に「価値」がないということを、甘んじて許しておかない本性の要求 
・・・「善」をなせ、値打ある行いをなせという要求、


○悟性
・・・誰かが善いことをした時、われわれの心の中でそれは値打のある行為であると認める判断力(哲学上の言葉)
・・・人の行為の善悪価値を判断する力

p149〜
○価値感
・・・「善」を実行した時に感じる喜びの念
・・・生き甲斐の感じ「値打」の感じ
・・・内部にある価値の標準に合ったものを賞賛する感じ


○絶対的な価値(善悪)の判断
・・・普遍的で時代によって変化しない

例)人類の福祉のために己(おのれ)を空(むな)しゅうして仕えるというような値打ある行いを「善」とする


△相対的な価値(善悪)の判断
・・・時代によって変化してくる。

例)主君の怨みを晴らす敵討(かたきう)ちは、その時代には「善」であったが、現代では「善」だとは考えられない

2950a hope:2014/06/21(土) 08:58:45 ID:cEpBaIdo

p151〜
○当為
・・・「価値」「値打ち」の表現要求
・・・「当(まさ)に為すべし」という内部からの本当にあるものの表現要求
・・・道徳的良心の叫びで内部よりわれわれを強制する

例)内部から至上命令的に何々せよ、善をなすべしというふうに迫ってくる力で、それをしない時にはどうしても気持ちが悪い


△不可不
・・・自然界(現象世界)の法則
・・・「ザルベカラズ」というのであって、このほかにありようがない絶対法則と言われている
・・・かくあるよりしかたないと外部よりわれわれを強制する

例)ここに水がある。あるいは酸素と水素が結合した場合水になるのである、これは真理である


△【今までの倫理学の考え方】
「不可不」と「当為」が衝突する場合には、「当為」は「不可不」に打ち負かされる
自然界の法則は「不可不」の法則(絶対法則)であるから善も悪も征服して働く
それはなんとも避けることができない法則である

例1)泥棒しようと思って、「悪」の動機で忍び込むために、水の冷たい中に這入って三十分もしゃがんでおったにせよ、また、子供が溺れようとしているのを助けようと思って、「善」の動機で冷たい水の中におったにせよ、やはり同じように冷たい水の影響を受け、自然界の法則によって風邪を引いて、肺炎になって死んでしまうのです。(p153 後ろから5行目〜)

例2)心に愛の念を抱こうが、憎しみの念を抱こうが、日向(ひなた)に出れば暖かいし、陰におれば涼しい、そういう具合に自然界の法則というものは「不可不」に働くというものであります。(p154 4行目〜)

2951a hope:2014/06/21(土) 09:01:31 ID:cEpBaIdo

>>2949 >>2950 a hope所感)

テキストである「生命の實相」第13巻のp146〜154 までのキーワード&キーセンテンスをまとめてみました。

p154からは、いよいよ、「生長の家の倫理学」の神髄が説かれています。
雅春先生はどういうわけかその「教え」を、「谷口倫理学」と呼ばれ説明されていて興味深いです。
ここのところの真理を体得できれば、かつて「生長の家」の奇蹟とよばれてきたようなことが起こせるようになるのだと思います。

ですから、あせらず、ゆっくり、丁寧にお勉強していきたいです。

2953SAKURA:2014/06/21(土) 20:06:53 ID:TJDm.2/U
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【引用編】
>>2809>>2812>>2820>>2821>>2827>>2839>>2840>>2842>>2848>>2853>>2856>>2860>>2866>>2867
>>2871>>2881>>2890>>2891>>2898>>2905>>2907>>2908>>2909>>2910>>2915>>2918>>2931>>2932
>>2933>>2940>>2947の投稿の続きです….。

■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】
(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行  

*========*【 自己のホッせぬことを思うな ―その1【 転載編 ―】*=======*=======*

■ われらは『類は類を招ぶ』の心の法則を知るをもっていやしく自己の欲せざること
を心に思わざらんことを期す。

 「類は類を招ぶ」というのは生長の家の横の真理であります。仏教でいえば「三界は唯心
の所現」である。これは、現象界が展開して来る、業の流転してくる法則を現わしたもの
であります。業はいかにして流転するかというと、この「類は類を招ぶ」という法則によっ
て流転しているのであります。ここへ集まっておられる方はそれぞれまた「類は類を招ぶ」
という法則によって集まっておられるのでありますから、ここにおられる皆さんの心はよ
く調和している、そして仲のわるい人は一人もない、みんな生長の家の家族であるという
懐かしい感じがする。根本の思想というものがちょうど相牽引する類似の人ばかりが集ま
っていられるからであります。

よくお嫁に行かれた御婦人が嫁いだ先の姑さんはひどい姑さんであったと、こういって
自分のことを棚に上げておいて姑ばかりひどいひどいと思っているようなお嫁さんが往々に
してありますけれども、「類は類を招ぶ」という心の法則をもし知ったならば、自分自身が
姑と類似の心をもっていたということに気がついて、自然に懺悔の心が起こってきて、
ああわたしがわるかった、これは自分の心の鏡であった、本当に申しわけなかったという
ことに気がつくのであります。

                       つづく

2956a hope:2014/06/22(日) 14:52:30 ID:cEpBaIdo

☆ ☆ ☆ 出張 第25回 web誌友会 ☆ ☆ ☆

>>2950つづき

○【谷口倫理学の考え方】
<<ところが、谷口倫理学ではそう考えないのであって、人間の内部から、「これをなすべし」という「善をなせ」という至上命令がでてくる場合に、その善を実行した時に、自然界の法則にふれ、自然界の法則では病気になるはずのことをしても、病気になるというようなそんなことはないというのです。>>p154 11行目〜

<<谷口倫理学では、善の法則は自然界の法則を蹂躙(じゅうりん)してしまうという説き方をしたのです。かく説かれてのみ善の絶対権威というものが確立するのです。>>p155 4行目〜


○ 善
・・・すでに本当にあるもの
・・・存在の本体であり、自分の本体 ⇒ 現せば現すだけ自分が殖える
・・・神から出たいのち(自分)は善なるほかはない


○善の絶対権威(善の法則)
・・・善の絶対自由を確保するため、自然界の法則(不可不の法則)を蹂躙(ふみにじ)りうる権威


△Qなぜ、自然界の法則(不可不の法則)が善の法則に打ち勝つごとき状態を生ずるか?

A<<われわれ人間が心の世界に自然の法則を認めて、甘んじて自然の法則は善の法則よりも強いものであると認めているから、それでその法則に勝手に負けているのです。>>p156 後ろから3行目〜


○Q「自然界の法則(不可不の法則)」はなぜ「善の法則」よりも弱いのか?

A<<自然界の法則とは、※業の法則であり、善の法則とは「本当にあるもの」の法則であるからです。>>p157 1行目〜

※業の法則
・・・生命がある時に活動したその時のレコードで、そのレコードをかけている限りはいつでも同じような音を立てる
・・・生命がある時期に宇宙のある時期にそういう波動を起こして印象を作って、その印象に刻まれた痕跡(自然科学の法則)

例1) 酸素と水素を結合したら水になる
例2) 冷たい水に触れれば風邪を引く


○人格の自由
・・・そのレコードは人間の生命が刻んだ以上、生命がまたそのレコードを破る力、業を破壊する力が人間になければならない
・・・足跡がいくらついているからとてわれわれはその足跡の上ばかりを歩かなければならないということはない
・・・自己の内部から「これをなせ」と迫ってくる「当為」そのまま実行して、その実行が砕けてしまわないということ


○人格の自由の確立 ⇒ 倫理の成立 ⇒ 道徳の権威の確保
・・・人格の自由のない所に人倫はない

2957a hope:2014/06/22(日) 14:54:59 ID:cEpBaIdo

>>2956 a hope所感)

ここから「谷口倫理学」が説かれていますが、正直、これはかなり常識破りな倫理学だと思うので、
一般的にはすんなりとは受け入れがたい「教え」なのではないかと感じています。

なぜなら、「自然界の法則」はわたしたち現象人間にとってみれば、ごくあたりまえの常識で、
わたしたちは普段からその法則にのって生活しているのに、「谷口倫理学」はそれを頭から否定してしまっているのですから・・・

ですから、「真の『善』が何たるか」をちゃんと理解していない状態(生悟り状態)では、
この「谷口倫理学」の言わんとしていることも正しく理解できず、曲解してしまう恐れもあると思うので、
慎重にお勉強を続けていきたいです。

2958SAKURA:2014/06/22(日) 18:31:01 ID:TJDm.2/U
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【引用編】
>>2809>>2812>>2820>>2821>>2827>>2839>>2840>>2842>>2848>>2853>>2856>>2860>>2866>>2867
>>2871>>2881>>2890>>2891>>2898>>2905>>2907>>2908>>2909>>2910>>2915>>2918>>2931>>2932
>>2933>>2940の投稿の続きです….。

>>2945 「トキ様」……お返事ありがとうございます。

※その中からの一部抜粋なのです。…が?
>>自分なりの実相円満唱行を実践して、それが効果があれば掲示板をご覧になっている皆様に、
その効果のほどを知らせるのは、それも伝道だと感じます。<< (トキ様の投稿文より…)

■確かに、そう思います。…が?ここ【2チャンネル】の方達の「上げ足論」には、どのような
真実でも〜〜〜果たして「理解度」となりますと?どうなんでしょうか??

今までの私は『おまじないのような感じ?』でした。…が??今回は、
【霊・界・通・信】から〜〜〜本当に、まず【心・の・浄・化・作・用】が大事なんですョネ!!

いずれ?『旅立つ世界=死後の世界』…私もこの世界に行きます時〜〜〜は??さて!
どのような「展・開」にと?思ってしまうので〜〜〜す。
何故なら【ステッド氏】が、生前の時に、出会った書物から…既に本人は、この「霊界の意味」が
判りかけて…まず!【信じる事…信じて其処からの活動事】で〜〜〜す。
いざ!『死後の世界=霊界』にいきますと〜〜〜死後は?本当に!その人の書物が正しいとの「判・断」
しかも信じたおかげで、無事に『霊界の世界』にスムーズにとけこんで行けた事と。。。

■これは?信じる!信じない!は〜〜〜その後に起きる問題なのですかと、更には?
『信仰も正しい理念が無くては…』と思うのです。
そうしませんと〜〜〜その後の形として…自分自身で刈り取る事になるようです。。。と!!

このようにいろいろな「文・章」にて、いろいろなる観点から教えてくださっていますし、
私も今までの「心の心境」が〜〜〜あの世では〜〜〜アケスケですから、
表面上は「イエス!」と云っても〜〜〜心が「ノ―!」ではと…このように、まずは、今の気がついた
時点から〜〜〜訓練中なのです。

■例えば…
まず「心の浄化作用訓練」は、【神・想・観】が一番と思うのです。…が?
時として?出来ない状況=環境…と云いましょうか??
具体的には?電車の中で(どうしても時間制限の時)…そこに「関わりたくない人」が乗車して
来たと致します。

その時は〜〜〜これは「神様」へ身近に祈る【実・相】をみつめ…【祈る事】が先決だとは思うのです。
つまり「心の眼で見つめて行きます。」心静かに〜〜〜深層部まで〜〜〜

ところが?その場では?〜〜〜どうしても「ネガティブ感情」が〜〜〜先立ってしまいます時、
簡単な「瞑・想・法」。。。それは〜♫ 瞼を閉じて【実・相】を見つめると同時に「実相円満完全」と、
唱えて行きますと、不思議なモノで〜〜〜本当に【いやな現象が消えて行く】ので〜〜〜す。

そして、更に!心が〜〜〜スカッと!さわやか!になり、そうこうしていく内に、気が附きますと
モウ!何もかも〜〜〜「神様」におまかせム―ドに、心境が変化しているのですから、
本当に「亡き母」の世代の【祈・り】は簡単ですし、更にいつでも?どこでも?唱える簡単な呪文
なのですョネ〜〜♫

■このように、公の場にて、人に公表するようなモノではなく、当たり前の【生長の家】の信者なら
すこぶる当たり前の事ではないのでしょうかと?思う次第なのです。…が??

「トキ様」は如何お考えでしょうかしら〜〜〜ン!!     再合掌

2959SAKURA:2014/06/22(日) 18:32:37 ID:TJDm.2/U
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【転載・引用編】
>>2809>>2812>>2820>>2821>>2827>>2839>>2840>>2842>>2848>>2853>>2856>>2860>>2866>>2867
>>2871>>2881>>2890>>2891>>2898>>2905>>2907>>2908>>2909>>2910>>2915>>2918>>2931>>2932
>>2933>>2940>>2946の投稿の続きです….。

■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】
(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行  

*========*【 心を清く空虚にせよ ―その3【 転載編 ―】*=======*=======*

わたしが服部さん宅の誌友会へ行きました時に、弘ちゃんという五、六歳の子供がいて
どこかの柱で手を打った。誌友の一人が痛いでしょうといったら、「痛いというから痛い
のだ、痛いことないよ。僕は神の子だから痛いことなんかないよ」といって威張っている
のです。子供というものは心に塵埃がないから実に素直だ!この子供の親は熱心な生長
の家の誌友だったから、親の時々言う言葉をそのままなんの疑いもなく受け入れて自分は
神の子であると信じきっている。痛いの?といえば心が痛いのであって実際の人間は痛
くないとちゃんと知っている。

これは心の清き人にしてはじめて可能のことである。

それで、われわれは『生命の実相』を読んでも、この心の清きものになって『生命の実相』を
読まなければならないのです。『生命の実相』を読んでもすぐに病気がなおらないような人は、
きっとこの心の清くない人です――心が清くないというても、泥棒するとかそういうふうな
意味ではないのです。――知恵や学問の塵埃でいっぱいに詰まっている、そういう人ほど
かえって生命の実相を素直に受け容れることができないので――

まず一遍いっさいの知恵学問を捨て『生命の実相』を読まなくてはならない。いっさい人知を
否定してしまうのじゃありませんけれども、一度は傍のバケツへ知恵の水を移し代えておいて、
心のコップの中に水を注ぐように入れるわけです。コップの中へ濁った液体を入れておいて、
その上からさらに清い水を容れてやろうと思ってもなかなか入りにくいのであります。

それで一度は心のコップを空けてしまっておいて、空虚にしておいて入れる。この虚無の心、
虚無のこの心が「清きもの」であって、嘘を吐かぬとかそういうふうなことじゃないのであり
ます。本当にこの虚無の心になった時に初めて神を観ることができるというわけであります。

                         つづく

PS:「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」へ

■【虚・無…】〜〜〜??やはり「実相円満行」も、やはり!空っぽの心!!何ですョネ!!
モット!モット!モット!『心を円満…』にして行かないといけないでしょう〜〜〜☆…と
また!また!一つの宿・題が〜〜〜出来ましたのです〜〜〜ョネ!!

                          再合掌

2965a hope:2014/06/24(火) 08:20:38 ID:cEpBaIdo

☆ ☆ ☆ 出張 第25回 web誌友会 ☆ ☆ ☆

>>2956つづき

○主観的の世界における人格の自由
・・・時間空間を超越した絶対存在(道)と一つになり絶対価値を生きること
・・・完全円満な生命の実相の悟り(a hope解釈)

○客観的世界における人格の自由
・・・この世の道徳は形に客観的に現われて成り立つ
・・・道徳の勝利を確保するためには、「当為」の実現力の前には、自然界の法則は無でなければならない(谷口倫理学の主張)
・・・実相が現象世界に顕現するとき(善の実行がなされるとき)、不都合なことは一切起きずすべてがうまくいく(a hope解釈)



○【主客両面貫いての人格の自由とは】

<<本当の人間は人格の絶対自由を持っているのである。これが人間の実相なのです。人間の実相は自由である。

無限の自由を与えられていて、何事でもこれをなそうとすればできないということは一つもないのであります。

もしできないものが一つでもあったら無限の自由ではないので、無限の自由というものはできないというものが一つもないということです。

ですから、本当の自分――善なる自分が救(たす)けたいと思ったら救(たす)けられるし、氷のような冷たい水の中に入っても、心でこうして助けたも自分は決して風邪を引かない、肺炎にもならないと信じたら、ちゃんとそのとおりになるのであって、必ずしも物質界の法則に縛られるものではない、かくてこそ、善の権威が主客両面に貫いて確保せられるのであります。>>p160 後から7行目〜

2966a hope:2014/06/24(火) 08:24:33 ID:cEpBaIdo

>>2965 a hope所感)

ここにも、すごく深い真理が述べられていると感じています。

要するに、「生命の實相」の悟りを開いただけの状態は主観的であり、
その悟りを現象世界に表現すると客観的になるということなのではないかとわたしは解釈しました。。

ここの部分の小見出しは『道徳は主客貫いての人格の自由を要求する』ですが、
「主観貫いての人格の自由」とは、つまり、
本当に「生命の實相」を悟ったのであれば、その人格の自由は内面的な状態だけにとどまらず、
客観世界においても自由自在であり、自然界の法則に縛られることはないということになるのだと思います。

2967a hope:2014/06/25(水) 08:56:51 ID:cEpBaIdo

☆ ☆ ☆ 出張 第25回 web誌友会 ☆ ☆ ☆

>>2965つづき

△自責感
・・・自己内在の価値を表現しない時、「ああ自分はいやらしい行為をした」というはずかしい感じ


<<ここに飢饉が起こったとしまして、わずかの食べ物しかないと仮にいたしますその食べ物を遠慮して自分が食べずにいたら自分が飢えて死ぬかもしれない。

しかし他の人がまさに飢えんとしているという場合に、人に食わせないで自分がくって自分が助かるということは、なんだか軽蔑されるべき値打のない行為をしているというような非難が自分の内心から出てくるのです。

人が飢えているのに、自分が横取りして食べるとは――なんという汚い、値打のないことをする自分であろうという非難が自分の内部から湧き上がってくるのです。

この内部よりの非難はどうして起こるかというと、自分の本もの(本当にあるもの)値打のあるものが出ていないから、値打なく感ずるのであります。

自分の本もの(本当にあるもの)が出たら必ず値打があるから、必ず価値感の喜びを感ずるのであります。>>p161 4行目〜

2968a hope:2014/06/25(水) 08:58:38 ID:cEpBaIdo

>>2967つづき

○【自然界の法則による考え方】
飢饉の時に食物を他の人に食べさせれば、食べた人は助かるが、自分は何も食べなかったら死んでしまう。つまりは、人を救けて善いことをしながら、自分はかえって死んでしまうような結果になる


○【谷口倫理学による考え方】
人間は「本当にあるもの」(善)が顕われたら何も食べなくても死なないし、また死ぬまでに適当な食物が与えられることを実証して自然界の法則を破ってしまう



<<谷口倫理学の前には不可不の法則は零(ゼロ)になってしまうのです。「本当にあるもの」が出たら、「本当にあるものは」自主独立の存在でありますから、「人間」に飯(めし)をプラスしなければ死ぬということはないのであります。

飯をつけ加えないでも人間は生きられるということが確立してこそ、はじめて人格の自由というものが出てくるのです。

また、飯を自分の外界であると見ずに、自己の無限供給性の反影として、自然に必要に応じて現われるものと見てこそ人格の自由が確保されるのです。

人を救けて、心だけで満足して自分が死んでしまうのだったら、どこに人格の自由があるかということになるのです。

本当の自分がなすべしと命令することをしてそれで飢えて死んでしまったら、それはたんなる主観の満足であって、主客両面貫いて人格の自由を得たというわけにゆかないことになるのです。

そこで人に物を恵んで自分が飢えて死ぬなんていうことはない、かえって与えれば与えるほど殖えるのであるというのが人格の絶対自由を主張する谷口倫理学なのであります。>>p162 9行目〜

2969a hope:2014/06/26(木) 09:41:44 ID:cEpBaIdo

☆ ☆ ☆ 出張 第25回 web誌友会 ☆ ☆ ☆


「生命の實相」第13巻 p163〜

本当の価値を発揮したら供給無限が備わる

皆さんはすでに上述のことを体験しておられることと思いますが、本当に「本物の自分」を発揮したときに、欲するものが自然に出てくるという一つの不思議なことが起こってくるのです。

「本当にあるもの」とは「本当の自分」です。

「本当の自分」とは本当の値打ちです。

本当の自分、本当にあるもの、本当の値打ちというものを発揮した時に、その本当の値打ちを維持するに必要ないっさいのものが備わるのです。

なぜなら本当にあるものとは神であり、いっさいの供給の本源なのですから、本当にあるものが発揮されたときいっさいのものが整うのは当然のことです。

2970a hope:2014/06/26(木) 09:42:51 ID:cEpBaIdo
>>2969 a hope まとめと所感)

「本当にあるもの」=「本当の自分」=「本当の値打ち」=「神」 →(発揮)→ いっさいのものが整う


ところで、「本当でないもの」とは、「ニセモノ」なわけですから、「ホンモノ」だけが発揮されて世の中から「ニセモノ」が無くなれば、
完全円満の実相世界が顕現するのは当然かもしれませんね。

ですが谷口倫理学では、その「本当にあるもの」とは「神」だというんですから、それを発揮するというのは、
なかなか難しいことなのかもしれません。

2971a hope:2014/06/27(金) 08:02:02 ID:cEpBaIdo

☆ ☆ ☆ 出張 第25回 web誌友会 ☆ ☆ ☆


○【今までの倫理学】p165 9行目〜
・・・人間は善をなしても現象界では滅びることがあるかもしれない
・・・「朝(あした)に道を聴かば夕(ゆうべ)に死すとも可(か)なり」であるから、心で満足して莞爾(かんじ・にっこり)して死ね――というようにおおむね説かれている


○【谷口倫理学】p165 11行目〜
・・・善と福の完全な一致
・・・もしわれわれが不幸であるならば、まだわれわれの善(本当にあるもの――いっさい備われるもの)の出し方がたりないからである
・・・善を本当に発揮すれば物質界まで動いてくる
・・・人格の自由を発揮する邪魔になるような法則(自然界の法則・不可不の法則・業の法則)は、われわれは自分の心の力で自由に破棄することができる


例)<<たとえば、ここに「不可不」の法則、すなわち自然界の法則の上からいえば、胃癌にかかった場合は、切開手術するほかは――「死せざるべからず」「死ぬよりほかにありようがない」と定められている。

ところが、胃癌にかかった人が、もし自分の「本当にあるもの」を出す、「本当の自分」を出す、徹底的に和解と感謝の心を出すと、自然界の法則が打ち破られて、今まで「不可不」の法則が縛っていたところの「胃癌にかかれば死ぬ」という「不可不」の命令が破壊されてしまうのであります。

胃癌などという価値なきものを恐れる人がありますが、胃癌が「価値なきもの」であるという一事だけでも、その非実在を証明しているのでありますら、価値なきものは「価値あるもの」を出したら消えるに定(き)まっているのですから、恐れる必要はないのであります。p166 2行目〜

2972a hope:2014/06/27(金) 08:05:34 ID:cEpBaIdo

>>2971a hope 所感)

わたしはこの 例)の聖典からの引用文章中に、理屈を超えてとても単純明快に、
誰でもそれさえできれば無条件で救われて、幸せになれる方法が書かれていると思いました。

その答えは・・・


>>徹底的に和解と感謝の心を出す<<


これですね!!

2973曳馬野:2014/06/27(金) 09:06:54 ID:I/wU8psA

>>2972

徹底的に和解と感謝の心を出す

誰でもそれさえできれば無条件で救われて、幸せになれる方法が書かれていると思いました。

**********************************

貴女が見た人聞いた人で、出来た方はいましたか?

和解せねばの心には感謝が足りず、本当に感謝の心のところには和解しなくてはと云う思いは無いのではありませんか?

2974a hope:2014/06/27(金) 09:31:22 ID:cEpBaIdo

>>2973 曳馬野さま

いつもわたしの投稿に素晴らしいご反応をいただきありがとうございます。

こちらの大熊先生のブログをご覧ください↓

http://blogs.yahoo.co.jp/panda41415151/11926692.html

生長の家の元講師である大熊先生のご指導で、一人の男性がご両親に感謝され、和解され実際に救われています。
これはつい最近の話です。

また、宇治別格本山では今でもたくさんの方々が、楠本加美野先生などの生長の家の講師の先生方のご指導により、
感謝と和解の心を出され救われています。

そのような指導をして個人救済をすることで人類光明化していくのが、
本来の生長の家の使命なのではないかとだとわたしは思っています。

2975曳馬野:2014/06/27(金) 09:57:47 ID:I/wU8psA
>>2974

そのような指導をして個人救済をすることで人類光明化していくのが、本来の生長の家の使命なのではないかとだとわたしは思っています。

***********************************

そのように考えるのが普通でありますが、心で環境を変えることのできる強い心の持ち主ばかりでないので、環境を整えることにより心の変化を助けるという、
意味から生長の家は政治の世界に出たのではありませんか?つまり一人一人を救っていこうと云うのでは埒が明かないとして、政治により悩むことの少ない
世界を築き、地上天国を築こうとしたのが過っての政治に出た時の生長の家ではなかったでしょうか?

優生保護法などと云うものが出来てから、堕胎天国に成ったので、かっては堕胎防止法によりきつく堕胎は禁止されていました。
いかなる理由であれ堕胎は厳罰に処し、手を貸した医師は厳罰に処す法律を作る政治の世界から赤ちゃんを守ることと、大熊さんのように一人一人を助けて
いく生き方とは両方なければいけませんね。

然し生長の家出現すれど社会はますます個人の尊厳を優先する民主主義とやらのせいか、戦前より酷いものに成ってはいませんでしょうか?

2976a hope:2014/06/27(金) 09:58:15 ID:cEpBaIdo
>>2974訂正

そのような指導をして個人救済をすることで人類光明化していくのが、
本来の生長の家の【使命なのではないかとだと】わたしは思っています。

そのような指導をして個人救済をすることで人類光明化していくのが、
本来の生長の家の【使命なのではないか】とわたしは思っています。

2977a hope:2014/06/27(金) 10:12:38 ID:cEpBaIdo

>>2975 曳馬野さま

web誌友会板にお返事させていただきますね。

2980snapback hats for cheap:2014/06/29(日) 06:57:07 ID:???
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2981a hope:2014/06/30(月) 00:37:17 ID:cEpBaIdo

☆ ☆ ☆ 出張 第25回 web誌友会 ☆ ☆ ☆


○「善」とはなにか
・・・「本当にあるもの」の実現または表現
・・・一定律の画一的な形ではない
・・・「人格の自由」がなければ顕現しない実相・神性(a hope解釈)


△「善」とはいえない行為とは
・・・形は「善」に見えるようでも、「本当にある善」が内から表現されていない行為

例1)
<<子供が寒中水に溺れているのを救けるという行為をした場合に、その水に溺れた子供を寒中より救いあげたら、褒美の金が千円貰えるというので、その褒美の金欲しさにその子供を救けたとしますと、その一つの行いは、なんの利益も考えないで自分の生命(いのち)まで投げ出して救けた献身的な救助と、形の上から見ると皆(みな)同じことですが、一方は「千円儲けよう」という意図でしたから善行とはいえないのです。

生命(いのち)を賭けて人を救けたにしましても「千円欲しい」のが目的では、千円で生命(いのち)を売っているのでありまして別に善ということはいえないのであります。>> P167 9行目〜

例2)
<<囚人は朝早く起きるが、それは厭でも応でも起きなかったら看守にひっぱたかれる。強制的な機械的な力で、朝早く叩き起こされ、便所の掃除をさせられ、またその他の与えられたいろいろの苦役や、生産的な世の中のためになる仕事をする。

そして彼らの労役によって作られた生産品は、安い値段で買われて喜ばれるかもしれないけれども、その囚人は自発的にその行為をしたのではないのであって、強制力という機械的力に駆使されて、厭でも応でも働くしかなかったので、働いたのですから、囚人のかくのごとくしてできた行為は善ではなくして、機械的行為であります。>>p168 7行目〜



○「善行」とは
・・・自分の内心の要求から進んでするもの
・・・自由というものが根本条件になっている

(つづく)

2982a hope:2014/06/30(月) 00:39:44 ID:cEpBaIdo
>>2981つづき)

○善なる子供を育てる子育て

<<本当に善なる子供を育てるには、その子供を本当に自由にしておかなければならないのです。

本当に自由にしておけば、その子供が本当に自発的に内部から善を催してくるのであります。

それは人間の実相は善であり、人格の自由にまかせておいたとき、自然に形の世界にまで「善」が発現してくることになるのであります。>>p169 10行目〜



△「人格の自由」を認めない子育て

<<親があまり規則ずくめにして、厭でも応でもこうしなければなぐるぞというふうに定めまして、その子供が委縮して、我儘をいう余地がなく、外から見ると少しも悪いことをしない、行儀の良い子供ができ上がったとしましても、その子供は善人ではないのであります。

その子供は少しも自由が許されていないから善人ではない、善なる行為をいまだかつて一つもしたことがないということになるのであります。>> p169 1行目〜


<<今までの教育は外部から型にはめて、太鼓饅頭でも焼くような形式に、厭でも応でも一定の方に嵌めるようにしていたのであります。

太鼓饅頭はいかに完全円満で形がマン丸くとも善ではないのであります。あれは善ではなくて、形が正しいというのであります。

なぜなら、あれは外部から丸い容器の中にいれて蓋をして焼いたから、とにかく丸くなるより仕方ない――人格の自由がないのです。

人格の自由がなくて形ばかり正しい人間は太鼓饅頭式人間であって、善人ではないのであります。>>p169 後ろから3行目〜


○本来善とは
・・・人間の本性(本当にある人間)は神から出たものである
・・・本当に自由にすれば自然法爾(じねんほうに)に善がでてくる(谷口教育学の根本)


△「悪」とはなにか

<<自由に対する束縛、隠蔽、あるいは束縛および隠蔽に対する反抗が、「悪」という姿になってでてくるのであります。

家庭に不良児童が出る――そこには必ず自由に対する束縛、隠蔽というものがあるのであります。>> p170 後から8行目〜

2983a hope:2014/06/30(月) 00:42:13 ID:cEpBaIdo

>>2981 >>2982 a hope所感)

ここからは、「谷口倫理学」から「谷口教育学」に話が展開しています。
わたしは母親として実際に子供を育てていて、実際に子供たちに激しく反抗されることが多々ありますが、
やはり、そのようなときには子供の自由な行動を親の勝手な都合で束縛したりしている場合がほとんどなので、ここのところの内容は特に身に染みて納得できます。

2986a hope:2014/07/02(水) 00:04:22 ID:cEpBaIdo

☆ ☆ ☆ 出張 第25回 web誌友会 ☆ ☆ ☆


「物質の否定・棄揚(きよう)・実相の肯定」p170 後から3行目〜

○「生長の家」の倫理学  
・・・神一元の実在を説く完全なる唯神實相論
・・・自由自在の神のみが実在であるから、物質的不自由はない

 → 物質はない【物質の否定】


○「生長の家」の「物質無」「肉体無」の哲学  
・・・物質を否定し、肉体を否定したとき、かえって否定の極の肯定となる
・・・物質、物質に非ず、いっそう高きものの表現である
・・・肉体は、神聖なる神の生命(いのち)の自己実現である 【※棄揚(きよう)】

→ 物質として土塊の生成物のごとく無価値に見られていた「人間」が、
自己の価値観を回復し、人生に生き甲斐を生ぜしめ、光明を見いだす【実相の肯定】

※棄揚(きよう)・・・あるものをそのものとしては否定しながら、かえっていっそう高い次元にこれを生かすこと。止揚。アウフヘーベン。


<<ここに「生長の家」は唯物論に対立するような唯心論でなく、唯物、唯心を超越した唯神実相論であることがわかるのであります。

物質の否定は否定のための否定でなく、大なる肯定のための否定である。

かくのごとくして今まで「物質」と認められていたところのものも神力の表現であると大きく再肯定するのが「生長の家」倫理学の特長であります。>> p172 後1行目〜

2987a hope:2014/07/02(水) 00:08:59 ID:cEpBaIdo

>>2986 a hope所感)

ここには、ちょっと読んだだけでは見過ごしてしまいそうな、とても重要な真理が書かれていると思いました。

「生長の家の教え」は「物質なし」であると言われていますが、ここには「物質なし」は単なる物質の「否定」ではないと説かれています。

それは、「大なる肯定」のための否定であると・・・

物質はいっそう高きものの表現であると・・・

肉体は、神聖なる神の生命(いのち)の自己実現であると・・・


わたしは自分がこの不完全な現象世界に肉体を持って生まれてきたことを、以前はとても恨んでいましたが、
でも、そんなわたしの肉体も、本当は神の生命(いのち)の自己実現なのですね。

そう思うと、不完全に見える自分の肉体もなんだかすごく愛せそうな気がしてきます。



ところで、この「物質の否定・棄揚(きよう)・実相の肯定」という一連の行為はもしや・・・生長の家の「観の360度転回」???

2989うのはな:2014/07/02(水) 20:32:38 ID:/wuDNhkM
      火神誕生

 かつて出版された『神の真義とその理解』という本の中で、何故生長の家の総本山に龍宮住吉本宮が御斎祀されるに到ったかという本義を、
谷口雅春先生は諄々としてお説きになった。ここに明らかにされているように、生長の家では心に宇宙大生命を祭るのである。
そしてその幽の幽なる神として天之御中主神をお祭りし、幽なる神として天照皇大神をお祭りする。

 幽とは現象の奥の世界のことであるから、これらは幽斎といって、心の中でお祭りするだけだ。
さらにその現人神としての天皇陛下も、心の中だけで礼拝申し上げるのであるから、どこかに神社を建立してお祭りするということはない。
つまりこれを幽斎と申し上げる。

 ところでこの天之御中主神は、宇宙大生命であり、大宇宙の本源神であるから、古事記の冒頭には、「天地の初発の時、高天原に成りませる神の名は、天之御中主神」と
書かれている。そしてさらに、「次に高御産巣日神、次に神産巣日神。此の三柱の神は、並独神成り坐して、身を隠したまいき」とある。
 つまりこの三神は絶対神であり、幽の幽なる神様だということである。しかしこれは絶対神が三つあるという意味ではなく、天之御中主神が陽の原理(高御巣日神)と陰の原理(神産巣日神)とに
分極して働き給うということなのである。

 しかもその陰陽の二大原理がさらに人格的に現われ出られて、「次に伊邪那岐神、次に妹伊邪那美神」となるのである。
妹は女性につける接頭語であるから、これは伊邪那岐神が男神、伊邪那美神が女性神ということである。さて古事記では、この二柱の神が国生みをなさって日本国を次々に生んで行かれる。(もっともその前に淤能碁呂島、
つまり太陽系又は地球全体を生み給うのだが)こうして大八嶋国ができ上る。
さらに小さな島々を六つ(六嶋)生み給う。この国生みをおえられてから、さらに神々を生み給うのである。

 これらの神々は全て天然現象を神の名で表わし、さらに野山の生物から生理現象までをも表わしている。がしかしこのような御働きの過程において、伊邪那美神は火の神を産み給うたのがもとで、ついにおなくなりになるのである。
さて又一面この火の神は戦争のための兵器であり、爆発物でもあるから、この物語りは遂に大戦争が勃発して、日本中が大戦火にみまわれる象徴でもある。こうして日本の生みの母なる伊邪那美神のみほと(生産工場)がやけただれ、ついに
生産力ががたおちになって日本が敗戦するということが、伊邪那美神の死によって象徴されていたのであった。

   『生長の家總本山 祭祀作法教範』 P61-62 谷口清超先生

2990うのはな:2014/07/02(水) 20:43:49 ID:rr3kpM4o

 『神の真義とその理解』大聖師 谷口雅春先生 著
 http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&amp;mode=res&amp;log=968

2991ニューバランス 996:2014/07/02(水) 22:58:07 ID:???
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2992a hope:2014/07/03(木) 11:17:33 ID:cEpBaIdo

☆ ☆ ☆ 出張 第25回 web誌友会 ☆ ☆ ☆


「邁進日本の心と力」
第1篇「日本精神の倫理」
第三章 『物質の否定・棄揚・神国の肯定』より

(以下、生命の實相第13巻 p170 の『物質の否定・棄揚・実相の肯定』の文章にない部分、
つまり『物質の否定・棄揚・神国の肯定』にのみ掲載されている部分を現代文に直して謹写させていただきます。 合掌。)

p43 後から2行目〜

日本の国土は物質で出来ているのに、物質は無いと云うのは国土の否定となって日本の国体に適しない哲学であると批評するが如き愚かしき妄論は実在と表現との区別を知らざる哲学的無知から来るのである。

もし諸君が日本の国が物質で出来ていることを主張するならば、諸君は日本の国が『神の国』であることを否定して「物質の国」であることを主張することになるのではないか。

そして今日から日本の国を、『神国』と呼ばずして『物国』と云わねばならないことになるであろう。

およそ為政者はこの点について大いに考えなければならないのである。

『物質はある』と云う論者は『実在』と『表現』とを混同しているので、『表現』のことを、『ある』と間違えているのである。

『本当にある』が、それが『表現』であるかは、それが変化しない存在であるか、変化無常の相であるかを見ていれば分かるのである。

物質は変化無常のものであるから、吾々は『物質は実在(ある)のではない』と云い、それは単に表現(あらわれ)であると云うのである。

愛国者であるように見える者のなかに、唯物論の手先があり、露西亜コミンテルンの諜者(まわしもの)があり、『日本神国』を主張する論者の言葉尻を捉えてこれを陥穽(かんせい)に落とし入れ、日本国体に適せざる論者として、却ってこれを弾圧せしめ、日本が神国であると云う観念を抜き去って、『日本は物国』であると云う観念を植え付けるように努力しているコミンテルンの諜者(まわしもの)があるかも知れないのである。かかる一団の者に使嗾(しそう)せられて、本当の日本神国論者を却って非難、圧迫するがごとしきことがあれば、それは由々しき国家の大事である。

(謹写 つづく)

2993a hope:2014/07/03(木) 11:19:36 ID:cEpBaIdo

>>2992 a hope 所感)

わたしは、先日、web誌友会のお勉強のめに、生命の實相第13巻 p170 の『物質の否定・棄揚・実相の肯定』の文章を拝読していて、なんとなく違和感を覚えました。

その違和感は、「ここにはとても大切な真理が述べられていそうなのに、具体的な事例が少なく抽象論で終わっていて、理解しにくいな」というものでした。

ですが、今回、そのオリジナルと思われる文章を「邁進日本の心と力」の中に発見し、
そのわたしの違和感は正しい物であったと確信できました。

その部分は、当時の日本人が日本を「神国」と呼んでいたような時代に書かれただけあって、
雅春先生が今回の真理である「実相の肯定」の具体例としてあげられている内容が、
「神国の肯定」になってしまっているのだと感じました。

ですが、今現在の日本で国民に、「あなたは日本を神国だと信じていますか?」という質問をしたら、
いったい何パーセントの人が「ハイ」と答えるのでしょうか?

ちなみに1年前のわたしの答えは、確実に「いいえ」でした。

そして、今現在でも「勉強不足でよくわかりません。」です。


それくらいの、自覚しかない国民が多く暮らす現代の日本で、この雅春先生の御文章は、残念ですが一般的には受け入れがたいものなのではないかと思います。

ですがその御文章の内容は、真理だと思うので、わたしにはとても理解しやすいです。

<<『物質はある』と云う論者は『実在』と『表現』とを混同しているので、『表現』のことを、『ある』と間違えているのである。
『本当にある』が、それが『表現』であるかは、それが変化しない存在であるか、変化無常の相であるかを見ていれば分かるのである。
物質は変化無常のものであるから、吾々は『物質は実在(ある)のではない』と云い、それは単に表現(あらわれ)であると云うのである。>>


と文中にありますが、
真理「本当にあるもの」つまり「実相」は普遍であるが、「表現」は時代によって変化するものであるという実際の具体例として、
雅春先生ご自身が示して下さった、この事例(聖典からの戦前の状況に関連した「愛国」「天皇」に関する御文章の削除)を拝見して、わたしはとても納得でしました。

2994a hope:2014/07/04(金) 00:22:32 ID:cEpBaIdo
>>2992 つづき)

「邁進日本の心と力」p45 2行目〜

二 

『物質が本来無である』ことを生長の家が説くのが、日本国体に適しないのであるならば、最近著しく発達せる新興物理学は日本国体に適しないから、大学の講座から放逐(ほうちく)しなければならなくなるだろう。

日本評論三月号にも、吉岡氏は物質は波動であって、その波動も、水とか空気とか云う如き、波動すべき何物かがあって波動するのではなくて、かかる波動の媒体などはなく何物もなくしてただ波動が顕れる、その波動の先端が電子となる、と物質無のことを説いている。

科学が物質無を説くのに哲学や宗教が無を説いたら日本国体に適しないなどと考えるのは愚かしき極みである。

2995a hope:2014/07/04(金) 00:24:14 ID:cEpBaIdo
(>>2994 つづき)

科学が、哲学が、宗教が、物質無を説いてくれることは日本神国の国体明徴によくないどころか、物質本来無であってそれがただ本体(実在)の『表現』であることが明徴になってのみ国体の明徴が期し得るのである。

もし物質が実在であると説くならば日本神国観念はいかにして徹底し得るであろうか。

畏(かしこ)くも高天原よりの天孫降臨を唯物論者はいかに説明するだろうか。

それが『物』の世界から、『物』の世界への降臨であるならば、地上の一地域から一地域への移住と云うことになって、天孫降臨とは遊牧民族とか漂着民族とかと云うことを類推せしむることになり、何ら日本国体に神聖性を与えることにならないのである。

物の世界をひとたびは否定し更にこれを棄揚(きよう)したときに初めて 天孫降臨の神聖さが判り、日本国体の尊厳が判るのである。

2996a hope:2014/07/04(金) 00:25:09 ID:cEpBaIdo
>>2995 つづき)

日本国が神国であると云うには三つの要素が必要なのである。

(一) その中心総攬者(そうらんしゃ)であらせられる すめらみことが神でましますこと。

(二) その国土が物質ではなく神の表現であること。(物質、物質に非ず、これを通称して物質と呼ぶに過ぎないことは最近の物理学の証明するところである。)


(三) その国民がすべて神の子の表現であって、親神の御表現にまします すめらみことの中心に帰一していること、

この三つの要素が、神一元に終始することによって、始めて完全に『神国』と称し得て、そこに『物国』の影の止(とど)めないことになるのである。

2997a hope:2014/07/04(金) 00:26:15 ID:cEpBaIdo
>>2996 つづき)

生長の家倫理学では高天原とは物質的国土の一地点とは認めないのである。

もし物質的国土の一地点だと認めれば、日本民族は移住民族だとなる。

吾々は高天原を無量智、無量寿、無量光明遍照の実相世界であると認めるのである。

天皇降臨とは すめらみことが高天原なる実在の世界から現象の世界への御表現を完成し給ひしを指して云うのである。

即ち 天照大神の久遠金剛不壊実在の皇位が現象世界へ降臨し給うたその御表現が歴代の 天皇であらせられるのである。

だから歴代の 天皇は畏(かしこ)くも久遠皇位の御表現であらせられ給うて、御表現としては御肉体を現(げん)じ給う現人神(あらひとがみ・あらわれの人の神)であらせられ、生じまた滅し給うように見えまつるのは吾々の五官に映ずる御表現であらせられるのみであって、御本体は久遠永劫金剛不壊の天照大神の御本体であらせられるのである。

だから歴代の 天皇が崩御ましますとも、天皇の御本体は永遠に崩御ましますことなく、崩御の瞬間に次なる御践祚(せんそ)があって、久遠皇位の御表現に些(いささ)かの間隙(かんげき)もなく、御表現身は歴代御代(おんかわ)り遊ばすとも御本体身は朽ちず、久遠存在であらせられ給うのである。

(謹写つづく)

2998a hope:2014/07/04(金) 00:28:36 ID:cEpBaIdo

>>2994>>2997 a hope 所感)

ここに、「生長の家」が日本の国体や天皇をどうとらえているかが述べられていて、とても興味深いです。
この後、さらに、詳しい説明がつづきます。

2999a hope:2014/07/05(土) 00:47:26 ID:cEpBaIdo

(>>2997 つづき)

「邁進日本の心と力」p47〜



もし、唯物論者の云うが如く、御表現身なる玉體(ぎょくたい)を以て御表現身であると見奉(たてまつ)らわずして、天皇の御本体そのものを死滅の法則の中にある肉体であると認めることになれば、天皇は永遠の御存在ではなく、崩御と共に御本体の朽ち滅ぶべき御存在であらせられると云うことになり、たとえ崩御の瞬間に践祚(せんそ)のことあらせられるとも、ひとたびは滅して、皇嗣子(こうしし)が、御位(みくらい)につき給うことになるから、天皇がひとたびは滅し給うことを予想するものである。

畏れ多くも、天皇のひとたびは滅して次なる 天皇の御登位を予想することは、皇位の中断を予想せしめることになる惧(おそ)れがあるのである。

すべて滅して、次が代わると云う事は、終末と更新とを予想せしむるものであって、終末と更新とがある以上、それがどんなに瞬間的であっても中断を予想せしむるものである。

しかも仲哀天皇崩御ましまして、応神天皇未だ御生誕遊ばされざるその間の期間の如きは、天皇の御本体を御肉体であると在来の如く観じ奉る限りに於いて、皇位が中断したと云う事になり、萬世一系の名は空しくなるのである。

生長の家の云うが如く、天皇の御本体を久遠常住の霊的実在なりと観奉り、その御表現身が御肉体であると観奉れば、御表現神が暫(しば)し崩御ましまして、次なる御表現身の御位につき給うまでの期間が、暫時あろうとも、皇位の中断と云うことが断じてないことが判り、皇位の萬世一系は、ただ、生長の家倫理学によってのみ明らかとなる。

滅なく久遠常住の存在のみが中断なきものである。

唯物論者の云うが如く、 天皇の御本体を生滅ある御肉体であると観奉る限り、 天皇が久遠不滅の存在にましますことを否定することになり、天皇に対して由々しき不敬を犯すことになるのである。

国体精神を明徴にならしめるもの生長の家倫理学に及ぶものはないのだ。

3000a hope:2014/07/05(土) 00:48:14 ID:cEpBaIdo
>>2999 a hope 所感)

ここでは、「天皇の御本体は生滅ある御肉体ではまく、久遠不滅の存在である」理由がとても丁寧に説明されていて、
戦後教育にどっぷりつかってしまっているわたしにもその重大性が伝わってきます。


そして

<<皇位の萬世一系は、ただ、生長の家倫理学によってのみ明らかとなる。>>
<<国体精神を明徴にならしめるもの生長の家倫理学に及ぶものはないのだ。>>

と、生長の家倫理学は、「皇位の萬世一系」や「国体精神」を明らかにすると述べられています。


ですが、一方、「生命の実相」第13巻 (p171〜)の方には、「天皇」や「国体」に関する記述は一切なく、
「人間の肉体(物質)」を例にあげ『物質の否定・棄揚・実相の肯定』の真理が短く述べられているのですが、正直わたしにはその内容はとても分かりにくく、違和感がありました。

おそらく、雅春先生が聖典を執筆されているときは、「神がかり」の状態だったと思うので、
その文章はその時点で完成していて、完璧だったのではないかと思うのです。

ですから、時が流れ、状況が変わって、その内容を変更しなければならなくなった時、
その不都合な箇所を、たとえ、雅春先生御自身が変更されたとしても、
なにかバランス的にちょっとおかしくなってしまうこともあるのかもしれないな、と今、感じています。(あくまでも、わたしの個人的な感想ですが・・・)

3001a hope:2014/07/06(日) 13:27:38 ID:cEpBaIdo
>>2999 つづき)

「邁進日本の心と力」P48 後ろから2行目〜



天皇の御本体はかくの如く久遠永遠の御存在であらせられが故に、歴代御表現身が御交代遊ばすともその皇位に滅なく中断なきことを知ることが出来るのである。

その如くまた 天皇の御本体は永遠穢れなきところの御存在であり、無量智、無量光、無量寿の御法体にましますが故に未だかつて御迷い遊ばすと云うこともお間違い遊ばすということもないのである。

道鏡などの如き大逆臣にお惑わされ遊ばした如き記録が史上にはあるけれども、これも 天皇の御本体と御表現との区別が判らない歴史家が、御表現にましますところの御肉体を  天皇の御本体と思い違いせるが故に、天皇が道鏡にお惑わされ遊ばしたなどと云う不敬な思想が顕れたのである。


天皇は本来神聖にましましてその御本体は無量智であらせられるが故に、未だかつて如何なる奸侫(かんねい)の臣下(しんか)にもお惑わされ遊ばしたこととてはないのである。

古事記下巻などに描かれている 天皇の神聖をけがし奉る如く感じられる事実は、事些細なことといえども 天皇の御本体に関することではないのである。

しかし、御肉体は御表現であらせられるが故に、それは鏡の如きものである。

鏡は一切のものを映すが故に、国民が迷えるときには国民の迷いを反映し奉って、陛下の御悩(おんなやみ)となって顕れることもあるのである。

であるから吾らは恐懼(きょうく)反省して 陛下の御宸襟(ごしんきん)をお悩まし申さないようにしなければならないのである。

天皇の御本体はかくの如く神聖であり、一切の悪に責任があり給わないから、如何なる間違った政治を時の為政者が行(おこな)おうとも、たとへ、それに御名御璽(ぎょめいぎょじ)がありましょうとも、その全ては大多数国民の心の反映であり、また時の為政者の心の反映であるが故に、天皇は本来神聖にましまして、責(せめ)を執(と)り給うべきではなく、すべては輔弼(ほひつ)の諸臣(しょじん)の責任となるのである。

肉体をもって すめらみことの全存在であるとし、 すめらみことの御本体と御表現身との区別をわきまえざる唯物論者にはこの辺の微妙な消息は理解し得ざるところである。

そして政治の良からざるは すめらみことの御責任であるかの如く すめらみことをお怨み申し上げる不届者(ふとどきもの)さえも時には生ずる。

左翼の徒の如きはこれであって、御本体と御表現との区別をわきまえざるが故である。

すめらみことが責を執り給わざることを、ただかくの如き機関を設け置くことが便利なるが故にかくあると考えるが如き、天皇機関説を唱える迷妄の徒には、我等の肉体本来無し(詳言すれば、永遠不滅不垢(えいえんふめつふく)の霊的実在身こそ御本体にましまして御肉体は御表現身なり)との哲学が如何に日本国体を明徴するにすぐれたる哲学であるかがお判りにならないであろう。

3002a hope:2014/07/06(日) 13:29:20 ID:cEpBaIdo
>>3001 a hope 所感)

<<しかし、御肉体は御表現であらせられるが故に、それは鏡の如きものである。
鏡は一切のものを映すが故に、国民が迷えるときには国民の迷いを反映し奉って、陛下の御悩(おんなやみ)となって顕れることもあるのである。
であるから吾らは恐懼(きょうく)反省して 陛下の御宸襟(ごしんきん)をお悩まし申さないようにしなければならないのである。
天皇の御本体はかくの如く神聖であり、一切の悪に責任があり給わないから、如何なる間違った政治を時の為政者が行(おこな)おうとも、たとへ、それに御名御璽(ぎょめいぎょじ)がありましょうとも、その全ては大多数国民の心の反映であり、また時の為政者の心の反映であるが故に、天皇は本来神聖にましまして、責(せめ)を執(と)り給うべきではなく、すべては輔弼(ほひつ)の諸臣(しょじん)の責任となるのである。>>


上の抜粋部分は、戦後まもなく発表された「君民同治の神示」>>672 に通じるものだと思いました。
「君民同治の神示」は、『秘められたる神示』中の「君民同治の神示講義」(1)>>678に、
谷口雅春先生がこの神示を神さまから授かったときの日本の状況(終戦の年)等が詳しく述べられていてとても興味深いです。
※参照「君民同治の神示講義」(2)>>680(3) >>683 (4)>>684 (5)>>709

一方、わたしが今、謹写中の「万進日本の心と力」は昭和13年発行とありますから戦前の執筆です。
この二つの内容をくらべてみる限り、戦前、戦中、戦後を通して、谷口雅春先生は生長の家の「天皇信仰」に関して同じ真理を主張されているように感じます。


ですが、これはわたしが疑問に感じていたことで、web誌友会板での曳馬野さまのご質問内容にも通じるのですが、
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/11346/1358650232/4097n-

それでは、なぜ、雅春先生は、戦後の聖典から、日本神国や天皇に関するご文章を変更・削除されたのでしょうか?

それは、戦後、占領下の日本で教育を受けた世代の人間に、「生長の家の教え」を伝道していくにあたり、
いきなり、天皇信仰を持ち出すと、明らかな拒絶反応を示す人が多かったからではないのでしょうか?

なぜならわたし自身もそのような思想の持主でしたし、別板でアクエリアンさまがご指摘されていますが、
とても残念なことに、現在の「生長の家」総裁である雅宣先生御自身がそのような思想の持主なのだと思うのです。

これはわたし個人の考えですが、雅春先生が、戦後の聖典から日本神国や天皇に関するご文章を変更・削除されたのは、
雅春先生の戦前のご主張(真理)が間違っていたからではなくて、それは確かな真理であるけれども、
時代の状況の変化に伴い万教帰一である「生長の家の教え」をどのような思想の人間にも広く伝道するために、
ご表現を変えられただけのことだったのではないでしょうか?

3003a hope:2014/07/06(日) 13:59:11 ID:brQxC10.
>>3002 追記

>>3002で紹介させていただいた、「君民同治の神示」、『秘められたる神示』の「君民同治の神示講義」の謹写文は、
第3回web誌友会の資料として、金木犀さまが謹写してくださったものです。 感謝 合掌。

http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/11346/1336818752/23n-

あの誌友会での話題も多岐にわたっていましたが、あの時は、後夜祭が長く続き、
金木犀さまや復興Gさまに、現憲法の問題点や天皇信仰について色々教えていただいたのでした。

もう一度読み直して、復習してみたいと思います。

3004志恩:2014/07/06(日) 14:19:35 ID:.QY5jUA6
a hope様

>>(徳久先生談ー
谷口先生が公職追放になられて、
愛国心、天皇への中心帰一、このことが説けなくなった時、
そうだ、練成会の根本的な目的を、 「父母への感謝」  にしよう、と決心しました。<<

という記事が、本流愛国掲示板にのっていました。
ですから、公職追放が、原因で、
戦争直後は、説きたくても説く事を禁止されていたので….
ということが、戦前、戦後の文章の違いの理由ではないでしょうか?


愛国本流掲示板より
谷口先生の公職追放で、愛国心は語られるのか  〔飛田給練成道場〕 (3557)
日時:2014年04月21日 (月) 22時00分
名前:iiko

 >「父母への感謝」にしよう、と決心しました。なぜなら「父母への感謝」 が本当にわかったら、愛国心が湧き、天皇に中心帰一するようになる、と確信したからです。<
天皇に帰一できない「森の中教団」は、親不孝教団なのでしょうか。

………………………………………………... 


谷口先生の公職追放で、愛国心は語られるのか 

 〔飛田給練成道場〕

生長の家長老  徳 久  克 己

 練成会も、昭和23年の9月から 『祈りの会』 という名称に変り行なわれました。
 谷口雅春先生が公職追放になったということは、
生長の家の真理を布教しようという私たち本部講師にとっては、とても大きな問題でありました。

 イロイロとウワサをする人がありまして、
生長の家は解散させられるのではないか、と言う人さえあったのです。


 とにかく、私たち講師の言動に、もし公職追放にふれるようなことがあれば、
谷口先生が指示しているのではないかと疑われ、谷口先生に御迷惑がかかることになる、
ということを考えまして、講話の内容などもシンチョウに考えなければならなくなりました。

 公職追放の理由は、戦時中の言論活動が超国家主義であった、
という誤解でありましたので、執筆も、時局や国家問題に関する文章は禁じられ、
宗教的な文章だけに限られたのですから、私たちの講師の話も、
それに従わなければならないことになりました。


 それですから、愛国心に燃える青年の養成を目的としてはじめた練成会も、
講話の内容を変えなければならないことになりました。

戦前・戦中に教育をうけてきた私は、日本国のすばらしさ、
天皇への忠を、学校で教えられて育ってきました。


 それに私の父は軍人でしたので、
家庭の中でもヒシヒシと忠君愛国を思想を教えられてきました。

 そんな私でありましたのに、心のなかには、
なにかスッキリしないモヤモヤしたものがあったのです。 
ところが29歳の時に、病後に母の導きで 『生命の實相』 を読みはじめ、
当時は全15巻でありましたが、毎月1冊ずつ読んで、約20日のあいだで読み終り、
心の底から、父母に感謝する気持が湧いてきました時

 「天皇陛下ありがとうございます」

と思わず口ずさんで、涙があふれている自分を、自分で発見したのでした。 
そして 『大調和の神示』 のなかの、 
 「神に感謝しても父母に感謝し得ない者は神の心にかなわぬ」 
 という聖句を心のなかに思い浮かべました。 

 「父母に感謝する」 ということは、
こんなにすばらしい、人間を生まれかわせる聖なることであったのか、
という思いが深く深く私の心をうちました。 
「無条件の父母への感謝」 こそ人間の根本的な新生であったのだ、
とその時に私は深く教えられました。


 『生命の實相』 という聖典は、
まことに不思議な聖典でありまして、父母に感謝しなければならない、
というような強制的ななというか、義務的におしつけるようなことは、
一切書いてないのですが、読み終わったら、いつのまにか父母に感謝する私になっていたのです。 それ以来、本当の愛国心、天皇への中心帰一は、父母への無条件の感謝ができないとわからない、と私なりに信ずるようになりました。

 こうして私には  「神に感謝しても父母に感謝し得ない者は神の心にかなわぬ」 
 というこの聖句が、自分の信仰の根本的な信条になったのでした。

 そこで、谷口先生が公職追放になられて、
愛国心、天皇への中心帰一、このことが説けなくなった時、
そうだ、練成会の根本的な目的を、 「父母への感謝」  にしよう、と決心しました。

 なぜなら、 「父母への感謝」 が本当にわかったら、
愛国心が湧き、天皇に中心帰一するようになる、と確信したからです。 


         『心の持ち方一つ』 より

3005a hope:2014/07/06(日) 16:16:45 ID:cEpBaIdo

>>3004 志恩さま

http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=daityouwa&amp;mode=res&amp;log=1302&amp;submitlog=1302

この記事ですね。


貴重な情報と、素晴らしい徳久先生の御文章ご紹介くださりありがとうございます!

<<公職追放の理由は、戦時中の言論活動が超国家主義であった、
という誤解でありましたので、執筆も、時局や国家問題に関する文章は禁じられ、
宗教的な文章だけに限られたのですから、私たちの講師の話も、
それに従わなければならないことになりました。>>

よく、お勉強すれば、生長の家の愛国とか天皇信仰はとても宗教的で普遍的な万教帰一の教えだとわかると思うのですが、
ちゃんとその真理を理解していない人達には、超国家主義などという誤解を受けてしまうこともあるのですね。


でも、さすが、徳久先生ですね!


<<そこで、谷口先生が公職追放になられて、
愛国心、天皇への中心帰一、このことが説けなくなった時、
そうだ、練成会の根本的な目的を、 「父母への感謝」  にしよう、と決心しました。

 なぜなら、 「父母への感謝」 が本当にわかったら、
愛国心が湧き、天皇に中心帰一するようになる、と確信したからです。 >>


この事に関しては、わたしも、毎日聖典を拝読して「人間神の子」の自覚が深まってくれば、
本当にそうなって来るのではないかと感じています。

人間は実相が顕現すれば、自然に中心に帰一していくものだと感じているからです。


ですが、「天地一切のもの」への感謝も、もっとも身近な両親、兄弟からしていかないと、
本当の中心帰一の形にはならないと思うのです。


それに、この「父母への感謝」の教えだったら、政府に誤解されることもなく、
現代の若者にも、抵抗なく受け入れられるのではないでしょうか?

今でも、宇治別格本山では、その教えが中心のようですが・・・。

教団も、本流復活派の団体も、『「父母への感謝」の教え』を教義の中心にもってくれば、
本来の「生長の家」が復活し大調和できるのではないでしょうか?

志恩さまは、どう思われますか?

3006a hope:2014/07/06(日) 16:21:39 ID:cEpBaIdo
>>3005 訂正

ちゃんとその真理を理解していない人達【には】、超国家主義などという誤解を受けてしまうこともあるのですね。

ちゃんとその真理を理解していない人達【からは】、超国家主義などという誤解を【されてしまうこともあるのですね。】。

3007志恩:2014/07/07(月) 04:05:44 ID:.QY5jUA6
a hope様

net

《公職追放令(1945年=昭和20年)》が、GHQ(占領軍)により発令された。

完全なる言論統制が敷かれ、占領軍の批判は一切できなくなった。
戦後の占領下、GHQの命令によって国家の中枢となるべき20万人以上の日本人が、
戦争協力者という名前を冠せられ公職から追放された。
戦前、少しでも重要なポストに就いていた者であれば、戦後は公職についてはいけないという指令だった。
これは実業界にも波及したが、最も悪い影響を受けたのは学界、言論界だった。

追放令の覚書は、追放すべき人物を、
A項 戦争犯罪人
B項 職業軍人
C項 極端な国家主義団体などの有力分子
D項 大政翼賛会・翼賛政治会・大日本政治会などの有力分子
E項 日本の膨張に関係した金融機関ならびに開発機関の役員
F項 占領地の行政長官など
G項 その他の軍国主義者および極端な国家主義者
に分類した。

その後、1951年、サンフランシスコ講和条約で日本が独立したので、追放令は廃止されたのである。
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Yasunari/7517/nenpyo/yougo/koshoku_tuihorei.html

3008志恩:2014/07/07(月) 04:06:33 ID:.QY5jUA6
a hope様

net

《公職追放令(1945年=昭和20年)》が、GHQ(占領軍)により発令された。

完全なる言論統制が敷かれ、占領軍の批判は一切できなくなった。
戦後の占領下、GHQの命令によって国家の中枢となるべき20万人以上の日本人が、
戦争協力者という名前を冠せられ公職から追放された。
戦前、少しでも重要なポストに就いていた者であれば、戦後は公職についてはいけないという指令だった。
これは実業界にも波及したが、最も悪い影響を受けたのは学界、言論界だった。

追放令の覚書は、追放すべき人物を、
A項 戦争犯罪人
B項 職業軍人
C項 極端な国家主義団体などの有力分子
D項 大政翼賛会・翼賛政治会・大日本政治会などの有力分子
E項 日本の膨張に関係した金融機関ならびに開発機関の役員
F項 占領地の行政長官など
G項 その他の軍国主義者および極端な国家主義者
に分類した。

その後、1951年、サンフランシスコ講和条約で日本が独立したので、追放令は廃止されたのである。
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Yasunari/7517/nenpyo/yougo/koshoku_tuihorei.html

3009志恩:2014/07/07(月) 04:08:32 ID:.QY5jUA6
トキ様
すみませんけれど、2重投稿になりましたので、3008とここの削除をお願いします。

3010志恩:2014/07/07(月) 04:50:26 ID:.QY5jUA6
a hope様

戦争直後にアメリカの占領軍(GHQ)により発令された公職追放令は、
サンフランシスコ講和条約を締結したので、廃止されたと、載っていました。

ですから、公職令の 廃止後は、自由に言論することが可能になったのでしょう。

終戦直後、
徳久先生は、天皇については、雅春先生が公職追放された関係で
語ることができなくなったので、
親孝行の話を中心にしよう。親孝行は天皇・・に繋がる。

そう思われた徳久先生は、
当時の飛田給道場では、天皇の話は、せず、親孝行中心の話をするように、
されていた。

私が、初、飛田給 夏期高校生練成会に参加した中学3年生の時とは、
昭和30年代の
最初のころでしたから、菊地藤吉先生(共産党から転向した先生)や、
加藤栄太先生などが、すでに、練成会で熱く天皇陛下のお話をされていました。

しかし、当時は、これも、占領軍政策で、日本弱体化のために、左翼思想の人間を
教育界のトップにすえて、言論統制を行った成果が出ていて、日本国土全体は、
共産党,社会党の、赤い、反日思想によって、牛耳られていました。

そして、その反日思想の人らの手によって、、
天皇が、日本国民を戦争に駆り出した責任者なのだとか、日本人は悪い国民なのだという
教育をタタミコマレテ、
われわれ日本人は、洗脳されていった時代でしたから、

雅春先生が、日本の国民に、それは、間違った考え方なのだという真実を、日本人が、
愛国心を取り戻すために、命がけで、説き、愛国運動をされていたことは、
当然のことだったと、思います。

でも、天皇万歳というと、右翼的ですから、
昔の説き方じゃなくて、親孝行を話をされるときに、天皇という生き方は、
無私であり、日々、国民のために四方拝もされてて、。。。というふうに、

親孝行の話とともに、他国には無い、天皇の、本当のすばらしさも、説けば、
自然に聞き手に受け入れてもらえると思っております。

ですから、親孝行の話から入り、日本人に対しては、天皇の話もする、、というのが、自然体では
ないかしら。

3011a hope:2014/07/07(月) 10:49:07 ID:cEpBaIdo
>>3010 志恩さま

お返事は、web誌友会板にさせていただきました。

3012a hope:2014/07/09(水) 09:40:38 ID:cEpBaIdo
(>>3001つづき)

「邁進日本の心と力」p50 後から3行目〜



古事記を御進講(ごしんこう)申上げたる筧(かけひ)克彦博士も 天皇の御本質を観奉るに、決してその肉体を以てしてはならないのである。肉体を本質と観奉るときには大凡(おおよそ)神聖性は覆い隠されてしまうのである。

筧博士は『続古神道講義』四二五ページにおいて、この事を説いて『神武天皇とても矢張り手が二本お有りになり、足も二本お有りになり。脈もうてば呼吸もなされたでありましょうが、ただそのような方面より観奉るのではなく』とかくの如き物質的方面では神聖性が判らないことを指摘し、語をついで、【以下の本文には傍点あり→】『無形的に如何なる御人格を有っておいでになったか、如何なる神様であらるるかを分析して見ますると実に深い根底がありまして、神代の神々の御関係が悉(ことごと)く含まれて居り、【印刷不良の漢字】つて 天皇のいられらるる皇居は即ち神宮であり、その皇居の存する国土もまた神居たる神宮に外ならず、これによりても実に我が建国の深くして広く且遠いことが分かる次第である』【傍点終わり】と言っている。

傍点は私が付けたのではなく筧博士自身がつけたのである。有形の御表現体のみを見ていたのでは神聖性が判明しないのであるから、筧博士は『無形的に』――『御人格を』――と圏点を附し、無形的に御人格を観奉ったときに『神様であらるる』ことが判ると云う風に、御表現身を観奉らず、御表現身の奥に内在せられる実相身を観奉るとき、 すめらみことが如何なる神であらせられるかと云うことが判ると申しているのであって、そして今迄外形ばかり見ていた場合には物質を御入れ申した『物質の御舎(みあらか)としか見えなかった皇居も、物質と見ないで、無形的に(筧博士の言葉をかる)実相身(御本体)を観奉るときには、『天皇のいらせらるる皇居即ち神宮であり、その皇居の存する国土も亦神居(しんきょ)に外ならず』と云うことになり、物質を否定したとき、却って否定の極みの肯定となって、今迄単なる木材その他の物質を材料とした建築物と思はれていたものも神居たる神宮であると悟られ神の国と認め得るようになるのである。

生長の家で、常に『物質なし』と云っていることは、今迄『物質』を単なる物質であると思って、無機物的、無価値の存在であると軽蔑していたその観念を排除し、『物質、物質に非ず、一層高きものの表現である』ことを肯定せしめんがためなのである。


ここに生長の家は唯物論に対立するような唯心論でなく、唯物、唯心を超越した唯神実相論であることが判るであろう。

物質の否定は否定のための否定でなく、大なる肯定の為の否定であることが判る。

かくの如くして今迄『物質』と認められていたところのものも、神力の表現であると大きく肯定するのはこの生長の家倫理学であり、日本国土は物質国土と認められていたものを、更に『神の国』であると大きく再肯定するのがこの生長の家倫理学であることが判るのであろう。

飛び読みした一二の語句を根拠として生長の家の思想を批判することなく、本当に生長の家の思想を批判せんとせられるならば、少くとも『生命の實相』全十五冊を読了してそれを貫いて存する一大肯定の真理を把握せられんことを希望せざるを得ないのである。



(補注) 表現者と云う意味で 天皇を申し上げたのには筧克彦博士の『続古神道講義』に『此の 鵜葺草葺不合命(うがやふきあへずのみこと)からお生まれになりました御方が、神倭伊波禮毘古命(かむやまといはれびこのみこと)即(すなわち) 神武天皇であります。
……「伊波禮(いはれ)と申すは集滿(しゅうまん)の意味で、……これを遠く申すと、別天神、神代七代の神々を悉くご自分の中に集めおいでになる御方であって大なる存在の最高的表現者、自主的表現者であらせられます』と云う言葉などがある。

(以上、「物質の否定・棄揚(きよう)・神国の肯定」の謹写終わり)

3013a hope:2014/07/09(水) 09:43:10 ID:cEpBaIdo

>>3012 a hope所感)

この「一大肯定の真理」は、頭注版「生命の實相」第13巻の 「物質の否定・棄揚(きよう)・実相の肯定」では、わずか2ページちょっとの説明しかありませんでしたが、
この「邁進日本の心と力」の 「物質の否定・棄揚(きよう)・神国の肯定」の方では、同じ真理が10ページにもわたって説明されていました。

その内容は、「生長の家」が現象の天皇や国土をどうとらえているかがとてもわかりやすく説明されていて、
「物質に非ず、いっそう高きものの表現である」の一大肯定の真理をとてもよく理解できたような気がします。

3014a hope:2014/07/09(水) 09:52:02 ID:cEpBaIdo

以下、戦後の頭注版「生命の實相」での「一大肯定」の真理の説明と、戦前の「邁進日本の心と力」での説明をまとめて比較してみます。

(まとめと比較)

○頭注版「生命の實相」13巻「物質の否定・棄揚(きよう)・実相の肯定」

① 【物質の否定】

物質はない 肉体はない 


② 【棄揚(きよう)】

物質、物質に非ず、いっそう高きものの表現である
肉体は、神聖なる神の生命(いのち)の自己実現である 


③ 【実相の肯定】

物質として土塊の生成物のごとく無価値に見られていた「人間」が、
自己の価値観を回復し(神の子の自覚)、人生に生き甲斐を生ぜしめ、光明を見いだす【実相の肯定】



○「邁進日本の心と力」「物質の否定・棄揚(きよう)・神国の肯定」

① 【物質の否定】

天皇の玉體は肉体である →肉体はない
国民は肉体である →肉体はない
皇居も物質である →物質はない
国土は物質である →物質はない


② 【棄揚(きよう)】

天皇は親神の御表現でまします すめらみことである。
国民すべては神の子の表現であって、親神の御表現でまします すめらみことの中心に帰一している。
皇居は天皇(すめらみこと)のいらせらるる神宮でありその皇居の存する国土もまた神たる神宮であると悟り、
即ち日本は神の国であると認めるようになる


③ 【神国の肯定】

物質的国土と認められていた日本の国土を、『神の国』と大きく再肯定する

3015a hope:2014/07/09(水) 09:55:14 ID:cEpBaIdo

>>3014 a hope所感)

こうしてみると、確かに「生長の家」の教えは「物質なし」「肉体なし」の教えですが、
決して、現象に現れている物質や肉体を軽んじていないのがわかります。

また、天皇に関しては、>>3001

<<天皇は本来神聖にましましてその御本体は無量智であらせられるが故に、未だかつて如何なる奸侫(かんねい)の臣下(しんか)にもお惑わされ遊ばしたこととてはないのである。
古事記下巻などに描かれている 天皇の神聖をけがし奉る如く感じられる事実は、事些細なことといえども 天皇の御本体に関することではないのである。

しかし、御肉体は御表現であらせられるが故に、それは鏡の如きものである。
鏡は一切のものを映すが故に、国民が迷えるときには国民の迷いを反映し奉って、陛下の御悩(おんなやみ)となって顕れることもあるのである>>

と説明されていて、国民の心を映す鏡のようなものだと説明されています。
日本の国土においても同じだと思います。


これは、小さく見れば人間同士や人間と物質、つまり、ひとりの人間とそのまわりの環境においてもやはり同じなのではないかと感じています。

対峙する人が悪人に見えれるようであれば自分の内に悪を見る心があるからであり、
対峙する人が迷っているように見えるのであれば自分の心が迷っているからであり、
また、まわりの環境が自分にとって良くないものであると感じるのは、自分の心が良く整っていないからとなるのだと思います。

つまりその真理が「三界唯心所現」あり「心の法則」であり、それを、教えてくださっているのが周りの人々であり環境であるから、だから観世音菩薩さまなのですね。


うーん、わたしはこの真理は、理屈としてはかなり納得いっているのですが、現実に自分が悟っているかというと、???です(笑)

神想観をして、自覚を深めたいです。

3016a hope:2014/07/10(木) 23:00:13 ID:cEpBaIdo

☆ ☆ ☆ 出張 第25回 web誌友会 ☆ ☆ ☆

「生命の實相」第十三巻  p173 5行目〜


倫理学の研究の対象

(まとめ)

人(Person)とはラテン語の※Personare (ペルソナ)が転じたもの
Personare・・・〝to sound through″「天地に鳴りわたる」ところの本当の人間、「人格」

○『ヨハネ伝』第一章 
・・・「太初(はじめ)に言(ことば)あり、言は神と偕(とも)にあり、言は神なりき。この言は太初に神とともに在り、万(よろず)の物これに由りて成り、成たる物に一つとして之(これ)によらで成りたるはなし。之に生命(いのち)あり、この生命は人の光なりき」
・・・「人の光なる生命」= 言(ことば)=天地に鳴り亙(わた)る(to sound through)ところの生命

※ Personare (ペルソナ)―― Persona(ペルソナ)演劇で、仮面をかぶる人またその役。(頭注より)


○仏教
・・・仏性が本当の「人」であり、肉体はその仮面にすぎない
・・・人は生まれず死なない存在である 『涅槃行』


○日本語 
・・・人は「霊人」(ひと)であり霊的実在なる所の普遍的存在で、朽ち果てるべき「仮面の人間」ではない
・・・「霊子(ひこ)」(久遠男性) 「霊女(ひめ)」(久遠女性)


p175 3行目〜
<<「本当の人間」(Real man)の認識が倫理の根本になるのである。

「本当の人間」がいかなる存在であるかは、すでに『生命の實相』その他多くの著述を通してわたしが述べきたったごとく、「神そのままの相(すがた)」なのである。

換言すれば人間とは神性にほかならないのである。


しかしその「本当の人間」(神性)が「思い」に、あるいは「行為」に、表現せられたとき「善」となる。

「神があらわるればすなわち善となり、義となり、慈悲となり、調和おのずから備わり」と『甘露の法雨』にわたしが書いたごとく、神性が表現すればそれが「善」であって、神性が顕現しなければそれは悪である。

さらに詳しくいえば「悪」といい、「罪」というのは神性が顕現していない状態――すなわち、ないという消極的状態を「悪」といい「罪」というのであって、「罪悪」なるものは存在の仮面を被ってはいるけれども、非実在であるというのである。

悪の非実在、罪の非実在――これが谷口倫理学の特徴をなすものである。谷口教育学もここから抽(ひ)き出されてきて不可思議な実践効果を顕わしているのであるが、これは教育学の方に譲ることにする。>>

3017a hope:2014/07/10(木) 23:01:59 ID:cEpBaIdo

>>3016 a hope所感)

「物質の否定・棄揚・実相の肯定」のところで少し寄り道をしましたが、わたしにとってはとてもよいお勉強になりました。
今まで、避けていた雅春先生の愛国書ですがじっくり拝読しているととても味わい深く、その真理の深さに引き込まれてしまいます。

ですが、時々でてくる、唯物論者への強いご批判や、「駆逐」、「露西亜コミンテルンの諜(まわし)者」などというようなご表現の激しさには正直驚いています。

まあ、「虚説には和解してはならない」ということは、こういうことなのかな、とも思いましたが・・・・。


一方、愛国書以外の「生命の實相」をはじめとする「生長の家の聖典」と呼ばれているものからは、
雅春先生の激しいご批判の言葉はほとんど見当たらないのではないかと思います。

ですから、わたしは「聖典」を拝読していると「神の子」の自覚が深まるのはもちろんですが、とても心穏やかになり喜びがあふれてきます。

今またここで、聖典「生命の實相」がお勉強できる幸せに心から感謝しています!

3023トキ:2014/07/14(月) 21:15:33 ID:g.x8ZpLU
以上の実例によってわかったように吾々は真に何を求むるかを知らなければならないのある。
そして、吾々の求めるものは結局は他のものではなくしてもっと内的なものを本当は求めているので
あるということがわかるのである。金を求めるものも、実は真に金を求めているのではなく、人間ら
しい生活を、人間らしい愛と同情と賞賛を求めているのであり、そして結局は魂の進歩することを
求めていることがわかるのである。豊かなる生活、愛と同情と讃歎と、そして魂の喜びにみちた進歩
と -これらは実相の世界(御心の天になる世界ー神の国)に既に成就せる所のものであるのである。
事すでに成れりであるのである。吾々は唯それに波長を合わせばいいのである。「神の國と神の義を
求めよ、その余のものは汝らに加えられるべし」であるのである。吾々が真に求むべきものを知り、
その求むべきものを真に魂の世界に於いて波長を合わす時には形の世界に於いてはそれは成就すること
になるのである。

谷口雅春先生著 「祈りの科学」 71p より謹写

3024a hope:2014/07/15(火) 22:29:14 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第13巻 

『人間に神を実現する 』p178

然(しか)り。肉体の人間(小我の人間)は善をなしうるものではない。
いかなる我の知恵もそれは有限知であるがゆえに、あらゆる場合と条件とを尽すことはできない。

しかも実際生活の場合と条件とは無限であってその変化は※端倪(たんげい)をゆるさない。
ここにおいて有限知は必ず矛盾葛藤に陥る。

そこで本当の「善」はこの有限知の葛藤を飛び越えなければ得られないものである。
これは形式を超越するのであり、飛躍するのである。
飛躍があって、はじめてわれわれの心は※法界を覆う知恵に達することができるのである。

法界を覆う知恵に達してはじめてすべての場合と条件とを尽して、人相応、時相応、所相応の三相応を具備することができるのである。

これにはどうしても禅的な修養が必要である。


※端倪(たんげい)―― 推測すること(「端」は山頂「倪」は水の底)(頭注より)

※法界(以下web辞典より)
ほっかい【法界】〔「ほうかい」とも〕
〘仏〙
① 意識の対象となるものの範疇(はんちゆう)。十八界の一。
② 存在するものの世界。
③ 真理そのもの。すべてのあり方の根源。真如・実相などと同義。

3025トキ:2014/07/16(水) 20:34:04 ID:h6GdR2gA
まず”霊”を求めよ、”物”は自然に備わるであろう

 人間は”神の子”であるから神のもち給える一切の善きものを譲られているのである。
これ以上人間に与え過ぎたら人間は不幸になるなどとは神はその供給を限定し給うこと
はないのである。しかし神は霊であり、この世界の実質は霊であるから神から来たる恵
みや祥福は霊的波動として吾々に放送されているのである。その放送を吾々が時間・空間
の「認識の形式」によって受像するとき、ある時間継続するところの空間的ひろがりの
ある存在として感ずるのである。それゆえに現象的に形のあるご利益は、神から来る
”祥福の霊的波動”に過ぎないのである。イエスが「まず神の国と神の義を求めよ、その
余のものは汝らに加えられるべし」といったとき、それは「神の霊の世界にあるものを
求め、それに吾々が自分の心の波長を合わしたら自然と現世利益は加えられる」という
真理を教えたのである。

「女は愛の太陽だ」 谷口雅春先生著、115pより謹写

*まだまだお金の事で悩んでいる人が多いです。繁栄について、今一度、みんなで
 勉強する事も大事かと感じます。

3026a hope:2014/07/17(木) 11:00:15 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第13巻 

『自我のおきかえ』p179

法界を覆う英知に達して、善を完(まっと)うするのは、人間(肉我の)にはできないことであるが、神にしてのみ能(あた)うことである。

なぜなら、神ははじめから法界を蔽うすべてを尽しているからである。

しかし神が善をしても人間が「善」をなさなければ、人間生活にはなんの関係もないし、道徳の対象にも、倫理学の対象にもならないのである。

そこで「善」をなすには、「神」を人間の「思い」の中に「行為」の中に持ち来さなければならない、神を人間に実現するを要するのである。

神人合一境である。

肉の人間が棄揚(きよう)せられて神が実現されるのである。

自我の転換である。

復活であり、悔い改めであり、廻心(えしん)である。

小慈小悲(しょうじしょうひ)もない自分からクラリと転じて、仏と合一することである。

小我の力で行った善を、雑行雑修(ぞうぎょうざっしゅう)の善であるとして軽蔑してひたすら阿弥陀仏の方へ振り向いた親鸞(しんらん)聖人の心がここにわかるのである。

全法界を覆う能わざる小知で善をなしたと小善ぼこりをしても、必ずそれは悪に変じているのである。(もっとも「悪」とは積極的存在の状態ではない。心が全法界に達していないという消極的状態なのである。心がそこに達しさえしたら、もうそこは善となっているのである。)


人間の小知は決して全法界に達せざるがゆえに、根本的には善をなすことができない。

重盛の「忠ならんと欲すれば孝ならず」のごとく人時所(にんじしょ)の三相応を得(う)ることができないのである。

そこで唯一の善は飛躍をすることである。

そこで親鸞は小善奉行を雑行雑修として振りすてて、如来の方へ飛躍したのである。

飛躍するまでは親鸞といえども有限知の葛藤に悩んで、六角堂の観音に日参したのである。

禅宗では公案をつくりことさらに矛盾難関を構えてこの飛躍の修行をするのである。

3027a hope:2014/07/18(金) 22:26:52 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第13巻 

「香厳上樹(きょうげんじょうじゅ)、飛躍の道」p180

たとえば『無門関』の第五の公案「香厳上樹」のごときはその適例である。
この公案は香厳和尚が「人が断崖絶壁の上に懸垂する樹に上(のぼ)り、口は樹枝(じゅし)を啣(ふく)んで樹よりぶらさがり、手も足も何も支えるものがないとき、樹下にあって、『祖師西来(そしせいらい)の意(い)如何(いかん)』と問うものがあればどうするか。答えざれば禅門の礼儀として問答に敗れることになる。答えれば、身を支えている口が樹枝を離れるがゆえに、断崖絶壁に墜落して身を喪(うしな)ってしまう」というので、「さてどうするか」という公案を提出したというのである。


右するも滅(ほろ)び、左するも亡(ほろ)びるのである。
形の上では逃れる道はない。
不可不の法則が両方から追い迫ってくるのである。
縦横厚みの三次元空間に生活している限り、逃れる道は断たれている。
もう絶体絶命である。
われわれはこの三次元空間を飛躍するほかに生きる道がない。
そこで飛躍が行われる。
われわれの生命はこの時、不可不の法則以外の世界における自分を発見する。
口に樹枝を啣んだまま、「ウーン」と彼は一嘯(いっしょう)するか、口を開いて「サタンよ、去れ!」と一喝するか―――どちらを選ぶか、他の方法によるか、それは形の関するところではない。
「形」の模倣では価値はなさない。
「形」はどちらをとるにしてもその人が三次元空間を超越した自己を発見していたならば、彼の前に世界が変貌するのである。

「飢えて死ぬか。悪魔にひざまずいて食を摂るか」これはイエスの公案であった。
かくのごとくキリスト教は禅的公案に出発しているのである。
イエスは「サタンよ、去れ!」と一喝した。
しかる時、サタンは去って、天使がイエスにつかえたと聖書は録(しる)している。
(つづく)

3028a hope:2014/07/18(金) 22:28:44 ID:cEpBaIdo
>>3027 つづき)

イエスが「サタンよ去れ!」と一喝した後にイエスの世界は変貌した。
それは悪魔に取り巻かれた世界から天使に取り巻かれた世界へと変貌したのである。
イエスはその後も食事をとっているのである。
しかしそれは今までのように、悪魔によって供給された食ではない。
換言すれば他から奪って得たところの食でもなければ、殺生によって得たところの食でもない。
それは天使が彼に捧持(ほうじ)する食物であるのである。
形から見れば、三次元的空間的立場から見ればやはり悟前の生活も悟後の生活も同じであるかもしれない。
あるいは異なるかも知れない。
それはおそらく異なるであろうが、それは異なるにしても空間的立場からはやはりイエスは空間の制約の中に生活している。
しかしイエスの自覚はもう空間的立場を超えているのである。
「われは道なり、真理なり、われは復活なり、生命のパンであり、尽くることなき生命の泉であり、われに汲むものは永遠に渇(かわ)くことなし」という、彼の自覚はもう三次元的空間的存在の意識から超越して、無形の真理であり、道であり、生命であるという境地にまで高昇(こうしょう)したのである。
この境地に高昇したときには、すでに相対的善悪形式的善悪は超越せられてしまっている。
そこで「上衣(うわぎ)を取る者には下着をを拒むな」と無抵抗であるかと思うと、その無抵抗という形すらも飛び超(こ)えて、縄の鞭にて神殿の鳩売りを逐(お)い出す――それがすべて人時所にふさわしきところの三相応の「善」となる。


およそ「善」とは「十里の公益を強いられて二十里を行く」ことでも、「縄の鞭にて神殿の鳩売りを逐い出す」ことでもない。
また必ずしもその反対を実行することでもない。
それでは、また心の赴くままに滅多やたらにふしだらにやりたいとおりに実行することでもない。

「善」とは形ではないが、形を破ることでもない。
形に捉われないということにもとらわれないように超越しなければならないのである。
形に捉われず、空に捉われず、自由自在ということにも捉われず、それではどうすればよいか、※亡言絶慮(もうごんぜつりょ)、絶体絶命である。
いっさいの空間的認識の私的立場(自分の角度から見た判断)から脱して、法的立場または宇宙的立場からの「思い」と行為とがそこに顕現する。


法的立場から叩き伏せるべきものは叩き伏せるし、生かすべきものは生かすし、看過(みの)がすべきものは看過がす――そして、それで人時所相応の「善」となるのである。

「神があらわるれば善となる」のであって、われらはまず「神」を把握しなければ「善」を顕現することもできないし、「調和おのずから備わる」ところの人時所相応の善を奉行(ぶぎょう)することもできないのである。


※亡言絶慮(もうごんぜつりょ)・・・言葉を亡(うしな)い、思慮を絶すること。
(頭注より)

3029a hope:2014/07/19(土) 09:29:47 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第13巻 

人格の自由と「認め」の倫理 p183

人間において行為の善悪が問題視せられるのは、人間には本具の「自由」というものがあると先験的に認められているからである。

人間において人格の自由というものが本来ないものであるならば、善悪の批判は成り立たないのである。

列車は軌道の上を真っ直ぐ走るであろう。

しかしこれは強制されて軌道の上を「正しく走る」のであって、「善」を行為するのではない。

なぜなら列車は軌道の上を正しく走るほかに自由なくして、やむをえずに軌道の上を正しく走っているにすぎないからである。

それはいくら精確に走ったからとて機械的精確さで走っているのであって、道徳的自由で行為するのではないのである。

しかるに人間においては行為の善悪がただちに問題となる。

それは人間はなんびとにも先駆的に「自由なるもの」が内在することを認めているからである。


この何人(なんびと)にも先験的に認められているところの人間内在の「自由なるもの」を、われわれは「人格」という。

その自由性を「人格の自由」という。

だから人格とは、肉体のことではない。

肉体ははじめから時間空間に制約せられて自由ではありえないからである。

外から観れば自由ならざる肉体であるところの人間が、どうしても「自由なるもの」を自己の内に内在するとして先験的に肯定しなければならないのは、
「本当の人間」は肉体的ではないからである。

そして「本当の人間」とは「本来自由なるもの」――仏性、神性そのものなのである。

3030トキ:2014/07/21(月) 16:05:11 ID:9wlISb0c
実在宇宙は無限創造の世界
 
 実相は単なる「空」ではありません。実相の世界の第三の特徴は、宇摩志阿斯訶備比古遅神
といはれるこの神の名によって現されてをりますように、無限創造の働、無限のものを
産み出す働、これが実相の世界の特徴でありまして、この実相の世界を単なる空の世界であって
何もないからからつぼのものであると考えてはならないのであります。肉体的五官の感覚をもって
見ると実相の世界は見えないのでありますから、「空」と云ったりしますけれども、「空」
の奥に「無限相」無限の創造があることを知らなければならないのであります。

「限りなく日本を愛す」 谷口雅春先生著、145p より謹写

*トキの感想

 以前、この掲示板でも、実相のあり方について議論がありました。
実相のあり方は、谷口雅春先生のご指導によれば、以上のものです。興味の有る方は
以下、詳細に書かれていますから、ご覧下さい。

3031a hope:2014/07/21(月) 17:20:14 ID:cEpBaIdo

「驀進日本の心と力」より 

『善の存立し得る根本条件』 p67


「善」の存立しうる根本条件は、かくの如く「人格の自由」であるが、人格の絶対自由は、本当の人間が、現にアルかのごとく見ゆる時間空間に制約されたる肉体でないことによってのみ確認せられるのである。

しかして人格の絶対自由が確認せられてのみ人格の権威が認められる。

ジョーウインドウのマネキン人形には人格の自由はないから、人格の権威は認められないのである。

奴隷には自由が認められていないから権威がない。

権威は自由の認められた程度にあるのだ。


天皇は神聖にして冒すべからずと申上ぐるは、天皇は最大最高の自由を有し給う御本体の御表現にましますが故に、その権威は最高であらせられることを称したてまったのである。

人格の自由が最大最高の自由にまで高揚せられたる境地に於いては吾々はこれを人格と申上げず、神格と申上げる。

そこで 天皇は神格であらせられるが故に現人神(あらひとかみ)と申上げる。

所有権、領土権と云うものも、その本源は人格の自由にある。

最初地上に人間が出現したとき、先ず発見し、『これは我が所有、これは吾が領土』と認めたところのものが我が所有となり、吾が領土となったのである。

今でも無人島を発見してそこに最初に国旗を掲揚した国が、その無人島を領有する。

なぜ最初に発見し、まずそれを我が国土、我が所有と宣言せる者がその国土を領有するか。

それは人格の自由に基づくのである。

事物はこれを認めたときに存在に入る。(唯心所現)

認める心が存在しないとき、一切の事物は存在しない。

『神光あれと宣(のたま)ひければ光ありき』『宣ひ』に先立ってまず『認め』がある。

認めがあって(換言すれば心のヒビキ)があって『宣ひ』が発現し、『宣ひ』が発現してその事物が存在に入るのである。

コトバは事物に先立ち、『認め』はコトバに先立ち、『認め』は人格の自由によるのである。


ここに我等は 天照大御神の天皇降臨の御神勅(ごしんちょく)の如何に尊いものであるかを知ることが出来るのである。

『認め』の本質、『コトバ』の本質、存在の本質が判らないでいて、御神勅(ミコトノリ)の権威が分明する筈がないのである。

天照大御神の天皇降臨の御神勅――

『葦原(あしはら)の千五百秋(ひいほあき)の瑞穂国(みずほのくに)は、是れ吾が子孫(うみのこ)の王(きみ)たるべき地なり。』

とは『認め』であり、しかも伊邪那岐大神(いざなぎのおおかみ)より高天原すなわち実在界の主宰者なりと宣言せられ給いし 天照大御神の『認め』であり、同時に『コトバ』である。

認めない時には事物はアルとも無きと同様なるが故に瑞穂の国の真の存在事実はこの時より始まるのである。

しかしてこの神勅は全実在界(高天原)の主宰者たる 天照大御神のミコトバなるが故に動かすことの出来ない天地の真理となったのである。

『コトバは神なりき。一切のものこれによりて成る』と聖書にあるが如く、この時より『水火(みづほ)の国』は確実に存在界に入り、主権者が確立し、領土権が確立したのである。

水火の国とは、そのコトバの示す如く水火――陰陽組合せの一切の存在を云う。

今さら、日本国を東洋の一小国だなどと考える如きはコトバの本質を知らぬものの云うことである。

普天率土(ふてんそつど)、一切の存在、スメラミコトの御領土ならぬはないのである。 
(つづく)

3032a hope:2014/07/21(月) 17:50:58 ID:cEpBaIdo
>>3031 訂正

称したてまったのである。→ 称し奉ったのである。

天照大御神の【天皇降臨】の御神勅 →天照大御神の【天孫降臨】の御神勅

3033トキ:2014/07/22(火) 20:50:22 ID:wLVGMUNw
 あなた達が善業を積み重ねて行くには、「与えよ、さらば与えられん」の黄金律に
従って、人のためになるものを与えるという愛行を積み重ねるのが最も確実で容易な
道である。”与える”といっても色々の与え方があり、何を与えるかの問題もある。

 貧しい人に金銭を恵んで与えるのも其の人の一時的な助けになる。その人が助かっ
た程度だけ、あなたはそれだけ善業の種子を播いたことになる。けれども金銭その他
の物資を恵み与える場合には、その助けは永遠の助けとはならないで、その金銭又は
物資が無くなる時までの一時的な助けとなるだけである。その功徳は一時発芽して
伸びただけでひでりに遭って途中で枯れてしまう苗木のようなものである。物資を
与える場合の功徳は一時的であるから、あなたが折角蒔いた善業の種子も発芽して
少しだけ伸びて、あとは枯れてしまうのは惜しいことである。折角あなたは与えた
のだけども途中で枯れてしまうようでは、あまりにも勿体ない事であるから、途中
で枯れないような永遠に伸びて生長して行くような善業の種子をお蒔きなさい。

 永遠に伸び増殖して行くものを布施するならば、相手が受けた功徳は永遠に伸び
るのであるから、その功徳があなたに撥ね返って来る功徳も永遠に伸びることにな
るのである。

 それでは永遠に伸び増殖して行くような布施とは何を与えたらよいであろうか。
それは真理を与えることである。”人間・神の子、無限力”の真理を、あなたが
人々に与えて、与えられたその人が真理を使えば、真理は永遠に減るものでなく、
それを繰り返し使うほど光を発揮し、能率は増加し、その真理を又その日とが他の
人に伝えるならば、恰も鼠算用のように功徳が増えて行くから、あなたに撥ね
返ってくる功徳も永遠に伸び増殖して、最初蒔いた真理の”小さな種子”がついに
は天を摩する巨樹のように伸び行くことになる。真理を与える功徳はまことに
無限無尽であると云わねばならない。

「神 真理を告げ給う」 谷口雅春先生 96P より謹写

3034a hope:2014/07/22(火) 22:54:21 ID:cEpBaIdo
>>3031つづき)

「驀進日本の心と力」より 

『領土権の根拠は那辺(なへん)にありや』p69


領土権は、人格の自由に基づくところの『認め』(認識)と『コトバ』(宣言又は表現)によってかくの如く確立する。

この『認め』の本質と権威とを知るとき歴史以前に於て、既に一切の存在が 大日本天津日嗣(あまつひつぎ)すめらみことの知ろしめし給ふところなることが明らかである。

『知ろしめす』とは『認め』の本質である。

『認め』と共に存在に入るのである。

『認め』は存在の本源であり、一切事物の存在は認めに基くミコトノリに発するのである。

歴史以後に世界各国がこの国土は自分の国土であると宣言したところが、それは既に、歴史以前の大宣言(おおみことのり)であるから、世界各国の統治者は国土を『※うしはく』のであって知ろしめすのではないのである。

かくの如く『認め』の権威が明らかとなったとき、はじめて、夫婦の貞潔と云うものの価値と権威とも明らかになるのである。

夫婦の貞潔(ていけつ)が美徳であると云うのは単なる良人の占取欲(せんしゅよく)のためではなく、社会公安上の便宜ではなく領土権と等しく『人格の自由』と『認め』と、その『認め』の発表のコトバの力に基づくのである。

良人の占取欲や、独占欲や、社会公安上のために仮に設けたただの規則が夫婦間の貞操であるならば、良人の独占欲が無くなったり、社会の事情がかわって来たならば、夫婦の貞潔は却って美徳とせられなくなるかも知れないのである。

然るに、夫婦の貞潔が美徳であるのは、対社会的方便や、占取欲的やによって変化するような相対的関係によって※然(し)かなるのではないのである。

夫婦の貞潔が美徳であるのは、

一、 人格の自由
二、 認めの権威
三、 宣言の権威

に基づく、一人の男子が、一人の女子を、一人の女子が一人の男子を、その各々の人格の尊厳に於いて、その各々の人格の自由に於いて、互に相手を自分の良人又は妻であるとして知り、認め、しかして宣言する。

その宣言の形式は、役場の戸籍簿に登録せられることであっても、結婚式を行うことであっても、親戚知己(ちき)に手紙で披露することであっても好い。

兎も角、認め、認められて宣言が行われる。

ここに「人格の自由」とその自由なる人格による「認め」と、その「認め」に基づく『宣言(コトバ)』とによって、コトバは一切の存在の支持者として、そこに彼は彼女の良人であり、彼女は彼の妻であることが存在に入(い)るのである。

ここに人格の自由による「認め」と「宣言」によって、それがかくあることが持続せられて、互に相冒(あいおか)してはならないことの権威が生ずる。

権威人格の自由に基づき、宣言によってそれが確保せられる。


※うしはく・・・領地として治める。支配する。(Web辞書より)

※然(し)か・・・そのように。さように。(生命の實相第13巻の頭注より)

(つづく)

3035流氷:2014/07/23(水) 03:54:31 ID:5mX.1AXk

 『真理の吟唱』ジュニア版http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&amp;mode=res&amp;log=58

3036トキ:2014/07/23(水) 19:17:10 ID:ILCvoLUk
「善き”言葉の力”によって地上に天国を建設せよ」

 神はコトバによって実相界の一切のものを創造せられたのである。神の最高の自己実現としてうま
れた人間はまたコトバの力によって万物を現象界に創造するのである。神は実相界の万物を創造し給
い人間は現象界の万物を創作する。実相界と、現象界と、その分担は異なっているれども、”コトバの
力”によって万物が創造せられることに相違はないのである。それゆえに私たちは、善き”コトバの力”
を駆使して、「真理」の言葉を唱え、”善き世界”を顕現するようにしなければならないのである。その
ためには毎日「真理の吟唱」にある実相完全の世界を表現したコトバを読誦し”コトバの力”によって、
”実相世界”の完全の相を、現象世界に実現するよう努めなければならないのである。かくして地上に
天国が建設せられ、竜宮城が実現するのである。

「美しき日本の再建」 谷口雅春先生著、148pより謹写

*トキの感想。

 このコトバの力の発揮は、日常の生活の中で使う訓練が大事ですね。
心掛けたいと思います。

3037a hope:2014/07/24(木) 08:37:03 ID:cEpBaIdo
>>3034つづき)

「驀進日本の心と力」より 

『貞操の根拠は那辺にあるか』p71


夫婦の貞潔を冒してはならないのは、領土権を侵犯してはならないのと同様である。

人格は自由であるが故に、何をしても好いのだということはこの場合には成立(なりた)たない。

人格は自由であるが故に、その人格の自由の尊厳の故に、既に他の人が、その人格の自由によって、『認め』かつ『宣言』したことを犯すことは出来ないのである。

『自由』と云うことはふしだらなことでも、だらしのないことでも、めったやたらにやることでもない。

『自由』が『自由』としてその『自由』の権威が保持され能(あた)うのは、実に他者が既に「認め」かつ宣言したところ『自由』を侵さないこと、また侵されないことによって成立つのである。

夫婦の貞潔が美徳であるのは、かくの如き、人間の人格の自由と『認め』と『宣言」』とによるのである。

3038SAKURA:2014/07/25(金) 00:50:48 ID:TJDm.2/U
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こんばんは……ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【転載編】
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>>2933>>2940>>2946>>2947>>2953>>2958>>2959>>の投稿の続きです….。

■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】
(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行

*========*【 自己を欲せぬことを思うな ―その1―【 転載編 ―】*=======*=======*

われらは『類は類を招ぶ』の心の法則を知るをもっていやしくも自己の欲せざること
を心に思わざらんことを期す。

「類は類を招ぶ」というのは生長の家の横の真理であります。仏教でいえば「三界は唯心
所現」である。これは、現象界が展開して来る、業の流転してくる法則を現わしたもの
であります。業はいかにして流転するかというと、この「類は類を招ぶ」という法則によっ
て流転しているのであります。ここへ集まっておられる方はそれぞれまた「類は類を招ぶ」
という法則によって集まっておられるのでありますから、ここにおられる皆さんの心はよ
く調和している、そして仲のわるい人は一人もない、みんな生長の家の家族であるという
懐かしい感じがする。根本の思想というものがちょうど相牽引する類似の人ばかりが集ま
っていられるからであります。

よく嫁に行かれた御婦人が嫁いだ先の姑さんはひどい姑さんであったと、こういって自分
のことを棚に上げておいて姑ばかりひどいひどいと思っているようなお嫁さんが往々にして
ありますけれども、「類は類を招ぶ」という心の法則をもし知ったならば、自分自身が姑と
類似の心をもっていたということに気がついて、自然と懺悔の心が起こってきて、ああわた
しがわるかった、これは自分の心の鏡であった、本当に申しわけなかったということに気が
つくのであります。

こんな実話があります。ある人がお嫁に行かれまして、そこの姑さんが非常に吝嗇で、
お嫁さんが御飯を一杯よそって食べますと、お櫃に蓋をして、お姑さんがお櫃の上へ
肘をかけて見ておられるのです。それからニ杯目には、「ちょっと済みませんが」とい
って、蓋をあけさしてもらってよそう。それが三杯目になると、「ちょっと済みませんが
……」というのも気が引ける。

まァそれでお腹が空いているけれどもやむをえず我慢しておったが、あんまりひど
いと思って、その姑を憎み憎みしていた。また姑の方からも意地わるばかりしてくれ
るというので、とうとうそこを離婚してもらって、別のところへ再縁して行かれたの
です。今度は姑のない家でないと嫁かぬというのでそういう家を選って再縁して行か
れたのですが、今度はそこの夫がお櫃の蓋に肱を掛けて蓋をあけさせないようにして
見ておる。それでもまァ、ニ杯目ぐらいは遠慮しながらでも食べられるけれども、三
杯目になると、「お前あんまり肥ったらいかんぞ、細いのがわたしは好きだから……」
と、そういうふなことをいわれる、とうとうそこの家も駄目になって実家へ帰ってき
たという実際の話があります。

こういうふうな人は自分はわるくないと思っているけれども、自分の心の中に同じも
のがあるのであります。それと同じものがあるのでその人の行く先行く先で自分の心
と同じような事件が展開してくるのであります。
                         つづく

                          再合掌

3039トキ:2014/07/25(金) 19:48:47 ID:cXqqwViw
>>3038

 ご投稿、ありがとうございます。
続きを期待しております。

合掌 ありがとうございます

3041a hope:2014/07/27(日) 12:40:09 ID:cEpBaIdo
>>3037つづき)

「驀進日本の心と力」より 

『所有権の根拠』p72


領土権や、夫婦の貞潔が人格の自由の上に基礎を置くが如く、所有権も吾等の人格の自由の上に基礎を置くのである。

所有はある人格の延長と見らるるものである。

彼は彼自身の行動の自由を、その所有を通って発現する。

彼の所有は彼の人格の自由が『認め』かつ『宣言』したものであると云う点に於て彼の人格の延長であるが、同時に彼はその所有を道具として自分の人格の自由を形の世界に実現する点に於て、また彼の人格の延長なのである。

これを侵すことは人格の自由を侵害することになる。

それ故に、所有権の侵害は人格の自由の侵害として罪悪としてみとめられるのである。


すべて、罪悪とは人格の自由の隠蔽又は侵害である。

人格の自由はそのおのずからなる顕現として、円満完全さを伴うものである。

『自由』の別名は『完全』であるを要する。

なぜなら『不完全』は自由自在の欠乏を意味するからである。

本当に生命の本質――即ち人格が自由にして無礙であるならば、その発現は完全なるものとならざるを得ないのである。

本来人格の自由と云うことが倫理学上、先験的に要請せられるものである以上、人格の本来円満完全と云うことも、倫理学上、先験的に要請せられねばならないのである。

そこで本来円満完全なる人格が円満完全さが隠蔽(おお)われて不完全不円満を顕すが故に、これを『隠蔽(いんぺい)』即ち『ツツミ』すなわち『ツミ』と云うのである。

本来不円満不完全なるところの者が不円満不完全なる有様を呈しても罪とはいわない。


それは円満さの隠蔽ではないからである。

牛が隣の土地の草を喰っていても牛の罪とはならないが、人間が隣の所有権を侵せば罪となるのは、人間の本来完全であることが要請せられ、他者の人格を尊重し所有権を尊重するのが当然であると要請せられているからである。

されば吾等の罪が問題にされるのは、人間が本来完全であることを先験的に要求されるからであると云わざるを得ない。

されば谷口倫理学では、人間は本来完全なりと主張するのである。


(注)「認め」の倫理的価値は、遥かに遡(さかのぼ)れば『法華経』の「常不軽菩薩品(じょうふぎょうぼさつほん)」に於て、常不軽菩薩が万人を成仏すべきものとして礼拝したのに始まる。認めて初めて存在に入るのである。この時よりして万人は成仏すべく定められたのである。大通智勝如来(だいつうちしょうにょらい)が※十劫(こう)の間を道場に坐してしかもなお成仏しなかったのは、本来「仏」でありながら「認め」が存在しなかったからである。
近代文学に於いて認めの価値を力説したのはオスカー・ワイルドであって『倫敦(ロンドン)の霧は詩人がこれを歌うまでは存在に入らなかった』と云った。
また頼襄(らいじょう)が『耶馬溪(やばけい)を以て海内第一とするは頼山陽(らいさんよう)より始まる』と豪語したのも『認め』の価値を力説あいたのである。(谷口)


※十劫・・・きわめて長い時限のこと。天女が五百年に一度、羽衣で岩をかすめ、その岩がすりへってなくなるまでの時間を一劫という。(「生命の實相」13巻の頭注より)


(以上、謹写終わり 感謝 合掌)

3042流氷:2014/07/27(日) 15:12:11 ID:Ftu8YlPU

理念の『生長の家』http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&amp;mode=res&amp;log=1099

3043トキ:2014/07/28(月) 20:59:36 ID:lqUaVStc
 「生長の家」では「物質は無い」と申します。一方において「物質は無い」と言いながら、ここに
「無限供給を受ける道」という題示を掲げますと、大変矛盾を申しますようでありますが、物質が本来
「無」であるが故に、それは心の影であるが故に、無限無尽にこれを現すことができるのであります。

 物質が具体的にあるもので、どこかにある有形有限のものを持って来なければ「物質」が出て来ない
ものでありますならば、それは「物質は有限だ」とも言い得ましょう。甲所から物質を乙所まで持って
来ると、乙所の物質は殖えるかわりに、甲所の物質は減ってしまいますから「物質は有限だ」というわ
けであります。しかし物質が本来「無」であって、「念」の鶴嘴によって、無限無尽の世界(神の世界)
から発掘して来るものでありますならば、それは発掘するに従って無限無尽だと言わなければならない
でありましょう。

生命の実相 第8巻 116Pより謹写

*聖典には、一見、矛盾するような内容の部分がありますが、その真の意味を掘り下げると、矛盾がな
いのであります。よくよく吟味するべきだと思います。

3045SAKURA:2014/08/11(月) 23:03:09 ID:???
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■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】
(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行

*========*【 自己を欲せぬことを思うな ―その2―【 転載編 ―】*=======*=======*
 
 上海事変の時に上海のある高等学校の先生が災害を恐れて逃げて、弾丸が隣の家へ落
ちるとまた引っ越しをする、引っ越すとまたその隣に落ちまた逃げるというふうなことを
やって、行く先行く先で弾丸に見舞われて、死にはしなかったけれども、幾回逃げても、
そのつい隣にまで弾丸がやってくるような目にあっておられた事実の報道が『生命の実相』
第三巻に出ていましたが、ちょうどそれと同じようなことであります。

われわれに弾丸があたるのは、わるい姑というものが当たるのと同じことで、自分の心の
とおりのものが外に現れているのであります。弾丸は外にあるのかと思うと、決して外ば
かりじゃない。

意地わるの姑というものも外にあるのかと思うと、自分の心の中にある。それで今度は姑の
いないところへさえ行けば意地わるの姑というものはおらんかと思い姑のない家へ行くと、
今度は姑と同じような、男の顔をしているけれども、意地わるの夫があるということになり、
そこをやめて帰ると奥さんの実家では、出戻りであるというので虐められて、帰ってからも
御飯のお櫃(おはち)の上へ肘をやって虐められたかどうかは知りませんけれども、お前の
ようなものはどこへ行っても辛抱ができないとか何とかいって、同じ種類の虐められかたを
したに相違ないと思うのであります。

 そこで、われわれの運命というものは、どこへ行っても鏡が変わるだけであって、そこの
場所で自分の心の顔の相が映るということになるのであります。

それで「類は類を招ぶ」という心の法則を知って、自分が不幸が嫌いならば、いやしくも
自分の心にそれと同じような心持を抱かないようにしなければならないのであります。

よく病気を恐ろしがる人がある。「わたしは病気が恐ろしいのです。」こういっておられる
人がある。

病気が恐ろしかったら病気を思わぬようにしなさい、こう言うのでありますけれども、病気の
恐ろしい人ほど病気のことを考えている、もう二六時中病気のことばかり考えている。病気に
罹ったら、とこう考えておられる。

そういうふうな人は、結局普通よりも早く病気にかかって死ぬということになるのであります。

 生長の家の誌友の親類のひとで秋吉さんといわれる未亡人がおりましたが、その方の夫と
いわれる人はチフスの恐怖症であって、親類の人のチフスで死んだ印象を受けて、それから
自分はチフス菌というものは非常に恐ろしくなって、チフス菌は煮沸したならば死んでしまう
というので、どんなものでもみんな煮沸して食べ、生の物なんか食べたことはない。

 生水なんかむろん飲まない。顔を洗うのだって、くちをすすぐのだって、チフス菌がおった
ら危ないというのでみんな一度沸騰さした湯ざましで顔を洗うということまでやっておられた。

ところがやはりチフス菌に冒され、どこから入ってきたのか知らぬけれども、チフスに罹って
死んでしまわれたのです。こんなに何でも煮沸して使いながらチフスに罹って死んだのは
「類は類を招ぶ」という心の法則によって、自分の心の中にに描いたものが形に現れてきたので
あるということになるのであります。

                                つづく

3047トキ:2014/08/13(水) 10:59:31 ID:PLs7iwpU
>>3045

SAKURA 様

 素晴らしい文章を書いて下さり、ありがとうございます。
こういう点はとても大事だと感じます。続きを楽しみにして
おります。

合掌 ありがとうございます

3049SAKURA:2014/08/23(土) 22:06:46 ID:???
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■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】
(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行

*========*【 自己を欲せぬことを思うな ―その3―【 転載編 ―】*=======*=======*

 自分の心にチフスを描けばチフスが出てくるのです。肺病を描けば肺病が出てくる、胃病を
描けば胃病が出てくるのであります。
それで肺病の恐ろしい人は、肺病を思わないようにするといいのです。

『生命の実相』を読むと、『人間は神の子で病気は〝な〝い』と書いてある。

〝な〝いと書いてあるだけでどうして治るのかというと、本当に〝な〝いと知ったら悩みがなく
なる、心に思わなくなる。ないように思うだけではない、本来無いから悟った時にその本来無いが
あらわれてそれで治ってしまうのです。病気が本来アルと思っている間はどうしても治りにくい。
人によって徐々に治ってくるのは、その「“無“い」が徐々に知られてくるから徐々に治ってくる
わけであります。

この「類は類を招ぶ」というのは、肺病を思えば肺病が起こるということだけでなしに、たとえば
この「心配」――言い換えると、胸に思いを溜めると、すぐにこの胸が痛くなってきて、やがて
それが蓄積して昔なら恋煩いというふうなことになる。

恋煩いというのは今なら肺病肋膜炎というところです。心で思うから病気をするんだと教えてあげ
ると、わたしは肺病を思ったことはありませんのになんだか身体が衰弱する、疲労をするので医者
へ行きましたら肺病だと宣告されました、こういわれる。

これは心の法則を知らざる人が言うことであって、肺病と思わなくても、胸に思いを溜めると
「類は類を招ぶ」という法則にによって胸に血液が欝血し、血行が悪くなり、その部分の抵抗力が
衰えて胸の病気に罹るということになるのであります。

これは「類は類を招ぶ」という法則によって出てくるのであります。

われわれが人から、わたしはちょっと足がわるいのです、わたしは手がどうでございます、
これはどういう心持からきますかと、こういって、いろいろと病気の起こる原因(もと)の心を
指摘せよと言われる。それをあんたのこういう心持起こるのですよ、こういって上げることができ
るもは、それを開く鍵はどこにあるかというと「類 は類を招ぶ」という心の法則が鍵であります。

この鍵によって病気の原因を開けば治るのであります。

『生命の実相』を読めば自然とその鍵がわかるように書いてある。だから『生命の実相』
を読めば、誰でも教祖のようになって「あなたの病気はこういう心持で起こる」と御神宣
を下すことができるようになる。自身が病気の人なら自分で自分の心の欠点が『生命の実相』
を読んでいるうちに省みられ、是正されて病気が治ってくるのであります。

たとえ中風に罹ってふるえている人に、あんた癇癪持ちですね、こういうとたしかに当たる、
嘘ではない、必ず当たる。

それは『生命の実相』を読み「類は類を招ぶ」という心の法則を知れば病気の形に従って、
ハハアこれはどういう心が具象化(かたちにあらわ)れたものだと分かるのです。このことは
近代の精神分析(サイコアナリシス)がある程度まで科学的に立証した。人が本当に激昂したら
身体がぐっと固くなって身震いする、手が慄えている、あるいは完全に発言することができない。
そいつが今度ある機会に形に現われてそうして手が慄えるような病気に罹っている。

それをあんたは癇癪持ちですねというとすぐ当たるのです。秘密も秘伝も何もない。
誰でも『生命の実相』を読めば御神宣が下されるわけであります。

                   ❤〜SAKURA つづく

3050流氷:2014/09/01(月) 09:38:48 ID:xLYSKxhc

  天皇絶対論とその影響 謹序より
  http://blogs.yahoo.co.jp/vanon32/18669271.html

3051SAKURA:2014/09/01(月) 21:28:44 ID:???
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【転載編】
>>2809>>2812>>2820>>2821>>2827>>2839>>2840>>2842>>2848>>2853>>2856>>2860>>2866>>2867
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>>2933>>2940>>2946>>2947>>2953>>2958>>2959>>3038>>3045>>3049 の投稿の続きです….。

■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】
(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行

*========*【 自己を欲せぬことを思うな ―その4―【 転載編 ―】*=======*=======*

 精神分析では神経症しか治らないが、生長の家式に「類は類を招ぶ」心の法則を理解すれば
器質上の具体的病気でも治るのであります。

たとえば顔にお腫物ができた人が来るとする。顔にお腫物ができるとその顔が脹れている。
「あんたは不平の心をもったですね。」そう言うとピッタリ的中する。それは本当であって、
「肉体は心の影」である。「類は類を招ぶ」という心の法則によって、不平を起こしている人
は脹れる病気にかかるのです。不平な心でいる人に「お前は脹れる面をしている」という、
心が脹れれば肉体も脹れるのです。聖典を熱心にお読みなりさえすれば、誰に聞かなくても
必ずしも献納金を出して、「ひとのみち」の教祖に聞かなくてもいいのです。

「ひとのみち」を悪い教えのように言っている人があるが、御神宣は心の法則を摑んでいて
信者に一般に公にしないのです。ところが皆さんが、みんな自分で教祖のようになれるのが
「生長の家」の特色であります。近眼の人が治してほしいと言ってくれば、あなたはこういう
心持だから近眼であると、ピタリピタリと的中する。『生命の実相』を読んだだけで人の心の
欠点を指摘して一語または数語で、医界難治の近眼を治した人の実例がわれわれの発行していた
雑誌『生命の教育』の「近眼は治る特集号」に多く収録されたことがあります。病気を見て人
の心持を何でもよく当てることができるのは「類は類を招ぶ」ということによって、心のとおり
の相が肉体に現われているのを看破するから当てられるのです。

このように、肉体は心の影でありますから、われわれが円満完全な相好をし、円満完全健康な
肉体をし、円満完全で何不自由なき境遇になろうと思うならば、まず心が円満完全にならなけ
ればならないのであります。その円満完全なる心になろうとしましても、修業や克気で、腹立
つ心が抑えたり、憎む心をを制したり、不平不足な心を抑えたり、いろいろわるいことを一つ
一つ抑えてゆこうとすると、こいつはなかなかむつかしいのである。

けれども、われわれは、そういう怒る心、腹立つ心、憎む心というような一つ一つの心を抑え
なくても急所がある。猫でも首の上のところを摘んでひょっと上げる、急所を掴むとじっとし
ている。それと同じで、われわれの感情でも急所を掴んでひょっと上げるともう温和しくなっ
てしまうのです。その急所はどこにあるかというと「実相」です。
われわれは「生命の実相」を捉む、人間の実相を捉んでぶら下げると誰でもみな温和しくなる。

ほかの修業では心を外から抑えてゆこうとしますが、
「生長の家」では『生命の實相』を読んでいるうちに「実相」を表現した文章の力、言葉の力で、
読むだけで心が和んでき、心の欠点が直ってくるようになっていて、外から無理に抑えなくても
万事がよくなるようになっているのです。

それでどんな意地悪な姑さんでも猫と同じことで、こちらの心が穏やかになって、相手の実相――
神の子――という急所WP捉むと、そうするとみんな猫のようにイヤそうじゃない、神の子のように
温和しくなりまして、そうしてみんなあの人も神の子である。この人も神の子であると、本当に大調和
した世界が、家庭にも環境にも実現してくると、自分のゆくところ神の子たらざる人はないというように
なって、円満完全な調和した世界が現われるということになるのであります。

                   次の項目につづきます。

 ❤〜SAKURA

3052SAKURA:2014/09/01(月) 21:29:39 ID:???
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。

>>3047トキ様より
ありがとうございます。…遅くなりました事…申しわけありません。
逆に、この『2チャンネル』にて、、、随分と精神の向上の場を与えられたことに…感謝!

本当に「谷口雅春先生」の言葉を…PCのキ―にて打ち込んでいきますと、あらたな発見です。
そして、こちらも不思議な事に「精神の修行に近い物事」が起きますから、
今の私自身の戦いは、このように「雅春先生の本」から教えられていく形になっているようです。

こちらこそ「トキ様」のお陰で、
いい意味での【聖・典】の勉強をさせて頂いております。少し!ゆっくりペースですが?
つづき投稿させて頂きます。宜しくお願い致します…。

今月から『9月』…読書の秋…ますますと「谷口雅春先生の書籍本」を時間の合間にて、
読んでまいりたく思うのです。 秋の〜〜〜夜長〜〜〜♫

                         再合掌

3053トキ:2014/09/02(火) 22:58:12 ID:KLM0wVTc
SAKURA 様

 ご投稿、ありがとうございます。
いつも楽しみにしております。これからもよろしくお願いします。

合掌 ありがとうございます

3054SAKURA:2014/09/15(月) 20:36:38 ID:???
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【転載編】
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>>2933>>2940>>2946>>2947>>2953>>2958>>2959>>3038>>3045>>3049>>3051の投稿の続きです….。

■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】
(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行

*========*【 自他の悪を思わず常に光明に転向せよ ―その1―【 転載編 ―】*=======*=======*

   ■われらは自他の悪を云為する時間あらば、神を想い、
自己の新生と生長とに利用せんことを期す。

 病気でも幸福だという人があるかもしれませんが、それはその人個中の消息であって、
本当にその人の働きで人生を積極的に幸福にしているとは申せません。

病人自身は病気を楽しみ、病気の人生における意義を考え、苦痛の喜びを魂で歌っている
ことがあるうるにしましても、またそういう人がありえたということが、病める多くの隣
人の「慰め」にはなるにしましても、それは、ただ消極的に病人の「慰め」になるのであ
って、積極的現実的に病人を病患より救うことはできません。

病苦を耐え忍びうる知恵を授けるのも必要ではありますが、それは消極的です。
病苦を気の毒だと思うならば、病苦を耐え忍ぶ方法よりも、病苦の消える方法を教える方が
いっそう病人に対して深切でありましょう。

さらに病苦の消える方法を教えるよりも、積極的に健康となる方法を教えることができれば、
それに越したことはないでしょう。

 前項でも申しましたとおり、「肉体は心の影」でもあります。
われらの心の念(おも)は肉体中のすべての器官すべての細胞にその形を印して、その念い
のとおりに肉体を変形してしまうのであります。最近の例をとり挙げますならば、金沢市の
生長の家誌友会の北島是隆氏は、同時にわたしが穏田の自宅で会った時には七分どおり白い
頭髪をしていられましたが、翌年六月わたしが赤坂の生長の家本部講堂で会いました時には
まるで白髪染で染めたような真黒な頭髪をしていられました。

そして言われるには「これは決して白髪染で染めたのではありません。

第二回講習会に列して先生の御講義を聴きながら、先生の頭髪に一本も白髪がなくて黒々して
いるのを見て、わたしも先生と同じく神の子であるから、ああいうふうに艶々した黒い髪の毛が
生えているのが実相である、こんな白髪はあるように見えても仮相(かそう)であると心に強く
思いました。

そうしたら不思議なことに、しばらくのうちにこんなに黒々とした髪の毛になりました」と言われました。

北島さんは今までは年が寄ったら頭髪は白くなるのがあたりまえだと思っていられたのですが、
今度は人間の頭髪は黒いのがあたりまえだと悟ったために、その「心の影」として頭髪がくろく
なってしまったのです。

これが「悟り」の肉体に及ばず影響であります。
ちょっとそう思ったくらいでは白髪は黒髪にならないかもしれない。

それはわたしの講習を受けられている間にわたしの言葉の力が北島さんの老衰した心的内容を
血気旺な心的内容に変えてしまったのであります。
                      つづく
❤〜SAKURA

3055トキ:2014/09/17(水) 09:37:15 ID:mIMPYigI
>>3054

 続き、楽しみにしております。

3056SAKURA:2014/09/17(水) 21:27:57 ID:???
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【転載編】
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■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】
(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行

*========*【 自他の悪を思わず常に光明に転向せよ ―その2―【 転載編 ―】*=======*=======*

 また横浜市神奈川区子安一四一二番の家名田二郎(やなだじろう)さんは『生命の実相』
の「蓄膿症は素直でない心から起こる」という項を読んで、今まで親に反抗心を持っていたので
悪かった、と気がついたときに、数年来詰まっていた蓄膿症の鼻が一方だけスッと故障がなくなって
空気が完全に流通するようになった。

それからわたしにお礼が言いたくなって本部講堂へやって来られてわたしの顔を見ると同時に、
もう一方の詰まっていた鼻がスーッと通って両方とも完全に治ってしまったといって昭和十一年
七月十五日にわたしの聖典講義のあとで突然お礼を申されたのであります。

これは何もわたしの顔が蓄膿症の薬になったわけではない、わたしの本を読んだり講義を聴いたり
しているうちに本人の心が素直に上から下へ、上の者の命令が素直にスーッと下の方へ通るように
なったのであります。こういうように肉体は心の影でありまして、深く心に印象した念(おもい)の
とおりに肉体が変化するのであります。

■「健全なる精神は健全なる肉体に宿る」と申しますが、なおいっそうそれよりも真実なのは
「健全なる肉体は健全なる精神の反映である」ということであります。
概して健全なる肉体を反映するところの健全なる精神は、

■自覚の心
一、 平和の心
二、 明るい心
三、 悦びの心
四、 深切の心
五、 有難い心
六、 無我の心
七、 自在の心
でありまして、その反対の
■迷いの心
一、 不安、焦燥、恐怖の心
二、 暗い心、陰欝な心
三、 不平、不満足の心
四、 冷淡な心
五、 忘恩的な心
六、 利己的な心、嫉妬、猜疑、羨望
七、 一事物に引っかかる心
■などは病気を起こす心であり、その症状も心の状態相応の形をもって現われるのであ
ります。細かく分類すれば、病気の数だけ「迷いの心」もあるわけですが、それを一つに
纏めると、「迷いの心」とは「我執の心」であります。

我執があるから、一事物に引っかかり、不安、焦燥、恐怖、憂鬱、不平、不満足、冷淡、
忘恩、嫉妬、猜疑、羨望などが起こってくるのですあります。
                      つづく ❤〜SAKURA

3058a hope:2014/10/01(水) 23:34:09 ID:cEpBaIdo

第五章 ロダンの鼻欠け像の倫理 

「普門成就」より p67〜

・・・「普門」というのはあまねくいっさいの門にわたって救うということであって、この門は救わぬ、
あの門は嫌いだというように毛嫌いしているのでは、普門の徳を備えているのではないのであります。
いっさいの門を普(あまね)く救うのがこの観世音菩薩の普門の徳である。
各宗門、各法門にわたってこの普門の観世音菩薩的働きをするのが「生長の家」であって、
別に何々教と一宗教に凝り固まらないのでありますが、それぞれの宗教の神髄が、
今までどうも合点のゆかなかったようなところがハッキリとなり、すべてにわたって生き生きとしてくるのであります。

キリスト教でも、各派によって聖書の解釈の仕方がそれぞれちがうのであります。そして、互に争うようなことになるとそれは普門の働きではない。
宗教というものは、和解によって生きてくるものであります。
普門の働きはいっさいを生かす、いっさいを生かすためにはいっさいの宗教が和解しなければならない。
和解すると申しますのはその教えのニセの説き方に迎合するのではない。
その教えの実相と和解し、実相を正しく観、その教えの神髄を拝み顕すことなのであります。
そしてどんな宗教でも、いやしくも立派なものである限りは、その神髄、その教えの実相に和解してしまえば、そこの「生長の家」と全然同じ真理が見いだせるのであります。

3059a hope:2014/10/01(水) 23:37:06 ID:cEpBaIdo

(>>3058 a hope所感)

万教帰一である「生長の家の教え」の神髄といえば「唯神実相」ですから、そうすると、
他の宗教(聖典のお言葉では、「いやしくも立派なもの」)の神髄も「唯神実相」と言うことになるのですね!

3060a hope:2014/10/02(木) 19:00:11 ID:cEpBaIdo

生命の實相14巻 p70 3行目〜

<<仏教はふつう「われは無い」と説いている。
われがないとすれば、むろん「霊魂」はないわけで無霊魂論だと思われています。
ところが釈迦はその弟子たちに、お前は寿命が終わったら、いずこに生まれる、かしこに生まれるなどともいっているのであります。
それで『阿含経』を見ますと、釈迦が王舎城の伽藍陀竹園にいられたときに、
仙尼(せんに)と名づける外道の出家が出て来て、その点について釈迦に疑問を提出しているのであります。>>


(a hopeまとめと所感)

その後の文章で釈迦が答えた、『世間における「我」の三種の説き方(人生観』をまとめてみます。

① 『断見』 ・・・ 現在世のこの「我」を真実の「我」と見る、そして現在世の肉体が終わった後は「我」というものは消えてしまう 【物質主義者の考え方】

② 『常見』 ・・・ 現在世の「我」というものも真実のわれであって、死んでから霊界に行く「我」も真実のわれである  現象我の常住不滅を説く
             【心霊学(psychic science)的立場 】【スピリチュアリズム(心霊主義)的立場】

③ 釈迦の所説 ・・・「われとなんじらの思っているそのわれは本来無いものじゃ。現在世でわれと見えるものも、霊界でいろいろの所へ生まれかわってくるわれと見えるものも本来無い物じゃ」
             【実相独在】【真我独在】

仙尼は、その答えを聞いてもその意味がわからないので、釈迦に反問します。
そうすると、釈迦は
「ますますなんじの疑いが深くなるのは無理はない、「我」というものがあるように見えているのにないというのだから解らないのは無理はない、
それは微妙(みみょう)の実相を照見する一切知(実相覚)というもので悟らなければ分かるものではない」
という内容の返事をしたそうです。

つまり、「実相を悟っていないものには、『実相独在』はわからないのだ」ということなのだと思います。

3061a hope:2014/10/02(木) 19:12:46 ID:cEpBaIdo

(>>3060 つづき)

その後のテキストの文章の謹写を続けます。

p71 後から3行目〜

<<「現象我が本来無いというなら誰に対して道を説くのであるか、宗教というものは本来救われている真我に対して説くのではない、
救われていないところの現象我があるからしてこそ、それに対して道を説くのではないか」
などと「生長の家」の説く「現象我」否定論に反対する人が出て来たような例もありますが、
この「現象我」は、今現にかく考えかく迷っている「我」があるように見えているのですから、
その「現象我(いまのわれ)」を否定することはなかなか了解し難いのであります。>>

ここに、いかにわたしたちが生長の家の『「現象我」否定論』を認めることが難しいかが説明されています。 


テキストでは、その後、釈迦と仙尼のやり取りを会話文で紹介しながら、図解も交えながら今度は五つの段階を追った説で、
世間の人々が、「我」(人生観)をどうとらえているかを詳しく説明しています。

詳しい内容は、テキストを読めばわかると思いますが、その五つの段階を二つに分けると、
現象我のみとめる「唯物論(霊魂を含む)」と真我の存在をみとめる「唯心論」に大別されます。

そして、「唯心論」の中でも最上の「人生観」が、生長の家の「人生観」であると説明されています。
以下に謹写を続けます。

p76 8行目〜

<<然るに(5)の人生観に到って、初めてわれわれは根本的に明朗な人生観に到達するのであります。
この見解は真我独在、実相独在の見解でありまして、現象界を滅して如来というものが初めて出て来るのではない。
現象界は本来無いのであるから、現象界を滅しても滅しなくとも、そのままそこに如来が現前する、
そのままそこに涅槃がある、そのままそこに常楽の実相土があり天国浄土があるというのですから、
すでにその天国浄土は今あるというのですから、これから、いろいろ修行したり、工夫したりするのでありませんから、
こんな明朗な人生観はないのであります。

この第五の人生観、至妙完全なる実相の独在、真我の独在を主張して、
いっさいの現象はありとみゆれども本来無しと観ずる見解が「生長の家」の人生観であって、
この人生観を得てあらゆる現象界の苦を離脱するために逃げる必要もなく、楽を求めるために執着する必要もなく、
「現象の我」は「実相の我」を映して自由自在に常楽に円満に現れてくるのであります。>>

3062a hope:2014/10/02(木) 19:16:35 ID:cEpBaIdo
>>3061 訂正
現象我のみとめる「唯物論(霊魂を含む)」と→現象我の存在をみとめる「唯物論(霊魂を含む)」と

3063a hope:2014/10/05(日) 17:45:49 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第14巻 

『現象界は実相生命の芸術』 p77〜79

そこで実相独在、真我独在、すでに絶対神と同一なる「我」のみが存在するのであって現象界の不完全なる「我」は無いとしたならば、
この現象界(現世および霊界)は「我」の進歩の過程としてなぜ顕われているかということになるのであります。

それは現象界は実相生命の芸術としてあるのであります。
それは芸術であります。
実相生命が描き出した影に、形象化して描き出さんがためであります。

活動写真は影の芸術である。
それと同じように現象世界は影の芸術である。
実相世界はすでに完全の世界すでに成れる世界でありますから、過去、現在、未来、東西、南北、天地が共存せる世界であります。
これは五官をもってしては想像することができない。
一点の中にいっさいが握られている、いな、その一点すらも無い、「無」の中にいっさいが握られているのであります。

ところが現象世界は映画芸術の世界でありますから、映画にはスクリーンの空間的光袤(こうぼう)と、
フィルムを交替出現せしめる時間的過程とが必要となり、ここに時間空間的展開があらわれているのであります。


優れたる芸術家は、時間空間のスクリーンに投影されたる形象だけをとらえるのではない。
時間空間に投映されたる影をそのまま実在するものとして、精確にその寸法を測定し重量を秤量し、
その間の法則をとらえるのは科学者の仕事である。

芸術家は影をそのまま実在として観ないで、影の奥にある生命を、実相生命を、把(つか)むのであります。
だから、芸術家は凹凸さまざまな不細工な顔の奥にもその実相生命の美を捉えて表現する。
ロダンの作った「鼻欠け像」は形そのものとしては美はないけれども、実相生命が捉えてあるから、
そこのわれわれは生命の美を感得するのであります。

言い換えると、ロダンは、形の上では鼻欠け像を塑作していても、
鼻の欠けていない実相を塑作していたということができるのであります。
さらに言い換えると、「欠けている鼻はない」ということを現象の上では
「欠けている鼻」を塑作しながら表そうとするのが優れたる芸術家なのであります。

ここでは芸術家は実際は宗教家であるといえるでしょう。
医者なら「鼻欠け」を「鼻欠け」として見る。
芸術家は「鼻欠け」を「鼻あり」としえみるのであります。
そしてあらゆる生活上の態度において「欠陥ある現象人間」を見るに、ただそれを欠陥なき神の子としての人間として見よ、
そこに欠陥なき人間があらわれて来るであろう ―― というのが「生長の家」倫理学の中心となる誡命(いましめ)であります。
されは生活における芸術的態度といわれるでありましょう。

3064a hope:2014/10/05(日) 17:50:57 ID:cEpBaIdo

>>3063 a hope所感)

<<実相世界はすでに完全の世界すでに成れる世界でありますから、過去、現在、未来、東西、南北、天地が共存せる世界であります。
これは五官をもってしては想像することができない。
一点の中にいっさいが握られている、いな、その一点すらも無い、「無」の中にいっさいが握られているのであります。>>

上のところは、「久遠の今」のことだと思うのですが、この「久遠の今」と現象世界(時間空間の世界)の関係について、
あまむし庵さまが御自身のブログで『久遠の今シリーズ』としてとても詳しくご説明してくださっています。

http://56937977.at.webry.info/201409/article_1.html

とても科学的に証明してくださっているので、ちゃんと拝読していくと「やっぱり、物質はないんだ」と妙に納得してしまいます。
ですが一方で、現象世界にどっぷりつかって生活しているわたしには、そのお話は遥か彼方の夢物語のようにも感じてしまいます。

「久遠の今」というのは、「無」の真理でもありますが、無限大に広がる宇宙の真理でもあるんですね。

3065a hope:2014/10/09(木) 18:35:24 ID:cEpBaIdo

☆ 新版 菩薩は何を為すべきか  谷口雅春・谷口清超 ☆

はしがき 

菩薩とは如何なる人々のことであるかと謂えば、諸君のことである。自利のためのみに生活せず、利他のために真理を深く研究し、自己の魂を向上せしめると共に、その真理をもって多くの他の魂の向上に貢献し幸福を施してやまざる如き人々である。

維摩経に、維摩居士が故意に自己に病をあらわして、見舞いに来た文殊菩薩に対し「菩薩は何を為すべきか」について説くところがあるが、その中に次のような語句がある。――「一切衆生を摂すと雖(いえど)も、而(しか)も、愛着せざるは、これ菩薩の行なり。遠離を楽(ねが)うと雖も、しかも身心の尽くるに依らざるは、是れ菩薩の行なり。空を行ずると雖も、而も衆(もろもろ)の徳本を植うるは、是れ菩薩の行なり。無相を行ずと雖も、而も衆生を度するは、是れ菩薩の行なり。」

菩薩と云うものは、「一切衆生」すなわち人類を自分の心のうちに摂りいれなければならない。今や人類は全面戦争か平和かの危機に立たされているのに、自分だけ安閑としていてはならないのである。それを救うために出発した運動が人類光明化運動である。人類光明化運動は、〝人類の危機〝を自分の心のうちに摂りいれた人々の菩薩行である。

無論仏教的に言えば、現象界は空の空なるものである。達観すれば人類光明化運動などと云って力む必要はないものである。だから愛着せずして愛し光明化せんことを希(こいねが)うのである。現象界の空しくて遷りかわる無常のものであるということを知りながら、人類光明化に尽せずにはいられないのが菩薩である。

こんな世の中に生きていても空しいことだから生きていても仕方ない。寧(むし)ろ遠離した方がましだと知りながら、身心がおのずから滅びるときがくるまで人を利益することに励むのである。これを「空を行ずと雖も、しかも衆(もろもろ)の徳本を植うるは菩薩の行なり。無相を行ずと雖も、しかも衆生を度するは、是れ菩薩の行なり」と謂うのである。

生長の家は万教帰一の教えである。教壇に立っても、宗教家としての特別の法衣をまとわず厳めしい儀式を行わない点から謂えば、在家の宗教である。その点で維摩の説く菩薩の生活が生長の家の信徒又は誌友の生活である。在家の宗教は、生活そのものが宗教となるところに特色があるのである。即(すなわ)ち、人は菩薩となり、生活は菩薩行となるのが本道である。菩薩行とは自己がみずから完全に救われないでも、自己のことは顧みず、率先して他を救おうとする即ち人類光明化運動にまで発展すべきである。

〝人類光明化運動指針〝と云うのは『生命の實相』はじめ其の他の私の著書の中より、菩薩を志すものが、現代の日本に生まれて来て如何に考え、如何に処すべきかにつき、其の菩薩行の精髄を抜粋して、それを数人の編纂者が文意を凝縮し章句を練って簡単なる十三ヶ条にまとめたものである。

本書の第一章はその十三ヶ条を宇治で毎夏行われる講習会で谷口雅春が解説した口述の録音をもとに文章を整えたものであり、第二章は上記の菩薩たち(諸君自身のことである)の精魂を宝筐(ほうきょう)に安置して毎朝夕、その実相・完全の相が実現するよう祈願するときに読誦する『聖使命菩薩讃偈』を谷口清超が解釈したものである。第三章以下は第一章にその題名のみ引用してあって本文には無く、是非毎日読んで反省するよう勧められているところの文献の全文である。

聖使命会員として本部の宝前に自己の誠魂を祭祀せられる人は勿論、少なくとも生長の家の誌友であり、又は今後信徒となって菩薩行をはげみ、日々聖行に精進せんとする者は、本書を常に必携して日々の行持の完成をきせられたいものである。


なお本文の各所に「神想観」とあるは祈りと坐禅とを混然一体にしたる一種の瞑想法である。詳しくは『詳説・神想観』をお読み下さい。

昭和三十五年 一月二十五日     著書 識(する)す

3066a hope:2014/10/09(木) 18:39:40 ID:cEpBaIdo
>>3065 a hope所感 )

わたしは以前、この「菩薩は何を為すべきか」を拝読してとても感動したのを思い出しました。
そして、『この本に書いてある通りを実行していけば、自分にも人類光明化運動ができるぞ!』
と思ったのでした。

ですので、これから自分のペースでこの聖典引用板に謹写させていただいて、所感を述べていきたいと思います。

いきなりですが、今回謹写部分の「 はしがき」 には、

<<菩薩と云うものは、「一切衆生」すなわち人類を自分の心のうちに摂りいれなければならない。今や人類は全面戦争か平和かの危機に立たされているのに、自分だけ安閑としていてはならないのである。それを救うために出発した運動が人類光明化運動である。人類光明化運動は、〝人類の危機〝を自分の心のうちに摂りいれた人々の菩薩行である。

無論仏教的に言えば、現象界は空の空なるものである。達観すれば人類光明化運動などと云って力む必要はないものである。だから愛着せずして愛し光明化せんことを希(こいねが)うのである。現象界の空しくて遷りかわる無常のものであるということを知りながら、人類光明化に尽せずにはいられないのが菩薩である。>>

とあり、「菩薩の使命は何なのか」、「人類光明化運動とは何なのか」がハッキリと説明されていました。

↑の抜粋分をわたしなりに要約してみますと、

『実相世界の完全円満さを悟ったものにとっては、人類の苦悩などという現象世界の出来事は本来無いものである。
だから、それに愛着する必要はないのだけれども、それでも自分だけ安閑としていてはいられないと、
〝人類の危機〝を自分の心のうちに摂りいれて人類を光明化せんとして出発した運動が人類光明化運動である。』

となりました。

以前web誌友会でユタカさまから、雅春先生も人類の苦悩を観られて、その現象に対応して光明化運動を始められたのだから、
雅宣先生も地球の苦しむ姿を見られて、その現象に対応して環境運動をされているのだから同じであるというようなご意見をいただきました。

http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/11346/1358650232/4328

そして、実際に雅宣先生の「新・四無量心を行ずる神想観」には、

『わが心、神の無限の愛、仏の四無量心と一体にして、
さらに虚空に広がり宇宙に満ち、地球のすべての生命と鉱物の一切を見そなわして、
その苦しみを除き、楽を与え、多様性を護(まも)り、喜びを与えんと欲するのである。』

とあり、雅宣先生は生長の家の聖使命菩薩会員の使命として、人類の魂の救済と共に、他の生物や鉱物の魂の救済までをするよう、
この「新・四無量心を行ずる神想観」でお達しくださっているように感じます。

わたし自身は、人間以外の生物や鉱物に人間と同様の苦しみや悲しみを感ずるような魂があるとは到底思えません。

なぜなら、人間は神の子の自覚を得るために神から現象界に放射された光(神)そのものであって、
他の生物や鉱物とは現象に現れ出ている理由も、現象世界での存在価値もまるで違うと信じているからです。

今は、そのことがはっきりわかりましたが、入信当初は現在意識では全くわかっていませんでした。
ですが、きっと潜在意識ではそのことをわかっていたのだと思います。

ですから「新・四無量心を行ずる神想観」を行じ続けていると、わたしの魂がパニックを起こし、
集中できなくなり、徐々に心身の状態がおかしくなっていったのだと思います。

ですが、これはあくまでもわたしの個人的な見解であって体験です。
だから、本当の真理がどうなのかは定かではありません。


今回、大熊先生がそのことに関連した内容をブログでご指導くださっています。

http://blogs.yahoo.co.jp/panda41415151

じっくり拝見して、お勉強させていただきたいと思います。 合掌。

3067a hope:2014/10/13(月) 17:19:01 ID:cEpBaIdo

☆ 新版 菩薩は何を為すべきか  谷口雅春先生・谷口清超先生共著 ☆

菩薩の正しき生き方に就いて

(注)この人類光明化運動指針生長の家各員の運動心得十三ヶ条は、昭和三十三年二月十四日第二次三か月計画の頭初に発表されたものであり、現時点においては例えば第四条・第七条・第八条の「隣保班」という表現を、白鳩会は最寄会、青年会は単位青年会と置き換えて各組織において徹底する。

昭和五十五年二十一日    生長の家本部理事会


第一章 人類光明化運動指針の解義 p3

最近吾々の同志として菩薩行を行う者の運動指針として、十三ヶ条から成る「人類光明化運動指針」と云うのが、本部の各役員が私の凡(あら)ゆる著書を典拠として作成され、私に示されましたので、それを拝見いたしますに、私たちが生ける菩薩として何を為すべきかがよく書かれておりますので、これは一個の作者のものでなく、人類光明化の使命を担う、高級霊の加護と指導とによって書かれたものであるとみとめ、それについて、私は私なりの意見と解釈を申上げようと思います。


第一条 生長の家の各員は、毎朝、早朝神想観後、「大調和の神示」と共に、必ず「七つの光明宣言」「生長の家家族の祈願及修養」「信徒行持要目」「生長の家の信条」を拝誦して一日の決意を新たにすべきである。

(雅春先生のご解説)

「大調和の神示」は「和解の神示」とも言われて『甘露の法雨』の巻頭及び『生命の實相』第一巻又は他の巻の巻頭にのっております。
あの「汝ら天地一切のものと和解せよ」というところの神示であります。
「七つの光明宣言」と云うものも既に皆さんは御存知だと思います。

「生長の家家族の祈願及び修養」と並んで、このふたつはいずれも『生命の實相』(注 愛蔵版十四巻、頭注版の第一・第二十七巻)に説明がしてあるのでありまして、それを読んで頂くと良くわかると思います。

「信徒行持要目」というのは、信徒「行事」ではないのでありまして、「行持」であります。行持とは如何に自分の生活を行い、如何に自分の行為を持するかということであります。
これは『聖光録』の中に「信徒行持要目」という項に掲載されておりますから、それを読んで頂けばわかるのであります。

それから「生長の家の信条」というのは何処にあるかと申しますと、昭和三十三年度の『生長の家』の一月号の巻頭言に載せられていましたもので、
他の必要な項目と共に本書の末巻に収録してあります。
これは「生長の家」の信仰主要なるものを箇条書きに要約して書かれたものでありまして、
新年号であるからはじめて読む人もあるから、ただこれを読むだけで、「生長の家」とは如何なる宗教かと云うことが判るように私が書いたものであります。

そういう意味から、此の「生長の家の信条」をお読みになると簡単な文章のうちに、生長の家の信仰の全貌がつかみ易いのであります。
これらのものは、いずれも、信条とか、宣言とか、要目とかという名称に現れておりますように、
箇条書きに生長の家は何を信じ、何を行ずるか、如何なる目的を持って出現したのであるか、
というようなことが簡にして要を得た形式で書かれているのですから、毎日それをひととおり眼を通しては、
自分は「生長の家」人であると云うことを思い出し、忘れているところを思い出して、
一日の決意を新たにして生活することが菩薩たる者の道であり、同時に菩薩として成るべき人たちの生活行道であります。

3068a hope:2014/10/13(月) 17:23:02 ID:cEpBaIdo

>>3067 a hope所感)

わたしは生長の家の信仰とは、三正行に励むことだと思っていました。
つまりは、聖経・聖典の拝読、神想観、愛行でです。

ですが、ここに、

<<それから「生長の家の信条」というのは何処にあるかと申しますと、昭和三十三年度の『生長の家』の一月号の巻頭言に載せられていましたもので、
他の必要な項目と共に本書の末巻に収録してあります。
これは「生長の家」の信仰主要なるものを箇条書きに要約して書かれたものでありまして、
新年号であるからはじめて読む人もあるから、ただこれを読むだけで、「生長の家」とは如何なる宗教かと云うことが判るように私が書いたものであります。
そういう意味から、此の「生長の家の信条」をお読みになると簡単な文章のうちに、生長の家の信仰の全貌がつかみ易いのであります。>>

とあり、その信条には、本当にわかりやすく簡潔に生長の家の信仰とはどういうことなのかが要約されていました。

これは、本当は、同著書の第三章p139〜に掲載されています。
なんが、とても感動したので、以下に最初に謹写させていただきます。 合掌。

3069a hope:2014/10/13(月) 17:26:12 ID:cEpBaIdo

生長の家の信条(要約)

一、 吾らは、名称は各民族宗派にて異なれども、神(又は仏)が吾らの救いの本尊であることを信ずる。【万教帰一】

二、 吾らは神が一切存在の根源であり給い、無限の愛と智慧とをもって吾らを守り導き給うものであることを信ずる。【唯神実相】

三、 吾らはすべての宗教が時と場所と救いの対象たる人とを異にするに随(したが)い、異なる説き方をもってあらわれたる同一根元神の教えなることを信じる。【万教帰一・唯神実相】

四、 吾らは神(又は仏)が決して神罰を与えたまような残酷にて無常なる存在ではなく、一切の苦しみと悩みとは、自己の心の反映として象徴的にあらわれるか、又は自己処罰及び自己毀損(じこきそん)の現象としてあらわれるものでるから、その象徴を見て自己を顧み心を転ずることによって凡(あら)ゆる病悩苦を脱し得るものなる事を信ずる。【神罰の否定・心の法則(唯心所現)・業の流転】

五、 吾らは実相と現象とを明瞭に区別し、実相は常に円満完全なるも、現象は吾らの?迷い心? の所現として、時に実相の完全円満さを覆い隠して不完全に顕しめることがあることを知り、常に?迷い心? を去り、実相円満の風光を見詰めて、それを現実化せんことを期する。【実相顕現】

六、 吾らは、実相円満の風光を心よりはなたらんことを期し、毎日一回以上神想観を修することを誓う。【神想観】

七、 吾らは一切の存在、一切の生物、一切の人類に感謝するは勿論、特に享け難き人身を享けて地上に生を受けることに到りたる祖先並びに父母の恩恵に常に感謝する。【天地一切のものへの感謝】

八、 吾らは人間が?神の子? として神の最高実現なることを信じ、その信念に背かざる高邁にして潔き聖なる生活を送らんことを期する。【神の子の自覚】

九、 吾らは人間は限りなき生命を有し、肉体死後もその生命(霊魂)の存続することを信じ、常に先祖の霊魂の供養を怠らざらんことを誓う。【永遠不滅の生命・先祖供養】

十、 吾らは言葉の創造力を駆使して、人類の心を潔め、地上に全ての人類の相愛協力を実現せる地上天国建設の一大人類光明化運動を起しつつあるものである。【言葉の創価力・人類光明化運動】


注)【 】内の言葉は、 わたしが、勝手につけました。(間違いがあればご指摘ください)

3070a hope:2014/10/13(月) 17:30:49 ID:cEpBaIdo
>>3069 訂正
?迷い心? ?神の子? → 〝迷い心〝 〝神の子〝

3071SAKURA:2014/10/16(木) 22:30:25 ID:???
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【転載編】
>>2809>>2812>>2820>>2821>>2827>>2839>>2840>>2842>>2848>>2853>>2856>>2860>>2866>>2867
>>2871>>2881>>2890>>2891>>2898>>2905>>2907>>2908>>2909>>2910>>2915>>2918>>2931>>2932
>>2933>>2940>>2946>>2947>>2953>>2958>>2959>>3038>>3045>>3049>>3051>>3054>>3056
の投稿の続きです….。
■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】
(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行

*========*【 自他の悪を思わず常に光明に転向せよ ―その3―【 転載編 ―】*=======*=======*

■我執がなくなりますて、「天地と共に過ぎ往かん」というような広々した心になりますと、
人間として何も考えないから、事業などのことも出放題、まかせ放題になってしまって、
何もしなくなるかと申しますと、そうではありません。そういう状態になるのを「空執」と
申しまして、まだ「我執」があるために、その「我」が「何もしないでもよい」ということに引
っかかるのであります。この「何もしないでもよい」ということに引っかかる「我」さえも無
くしてしまったときに天地の生命と共に自由自在に活動するところの本当の我(大我)を見
出すのであります。

 そういう「空執」にも陥らない自由自在融通無碍の境地に達したならば、すべての迷いの
心は消えてしまうのですけれども、それまでは、前記の七種の「迷いの心」をなるべく起こ
さないように努め、七種の「自覚(さとり)の心」を保つようにしなければならないのであ
ります。

 われわれの心の状態は肉体にのみ反映するのであって、事業やら運命には反映しないと
思っているとまちがいであります。多くの商店会社の不繁昌の原因は従業員の心の不調
和であります。内部に立ち働く人の心が不調和になってきますと、繁栄の雰囲気は逃れ去
り、繁栄の雰囲気が逃れ去れば、注文に激減し、外部の注文が激変すれば不安は募り、内
部の不安が募れば外部の注文はさらに激変し、その商社の没落に拍車をかけることになる
のであります。
                 つづく
❤〜SAKURA

3072a hope:2014/10/19(日) 08:09:06 ID:cEpBaIdo

☆ 新版 菩薩は何を為すべきか  谷口雅春先生・谷口清超先生共著 ☆

第二条  生長の家の各員は、各員が生長の家に参加したる所以のものは、ただ単に自分一身一家の幸福と繁栄を念願し或は御教を自己の生活に行ずるに止まるところにあるのではなく、それももちろんであるが、更に進んで、生長の家大神は如何なる御考えがあって谷口雅春先生をこの時世に下し給うて万教帰一のこの完璧の御教えを説かしめ給うのであるか、その立教の使命因縁を絶えず心に銘記して、各人の分に応じ、力量に応じ、各人の生活と家庭と職業と地位立場を悉く機会として所在地区の教勢発展の礎(いしずえ)たらん事を期して行くときに、はじめて生長の家人たり得ると云う自覚に徹すべきである。

3073a hope:2014/10/19(日) 08:10:26 ID:cEpBaIdo
>>3072つづき)

(谷口雅春先生解説)

生長の家は菩薩道であります。
特に爰(ここ)に注目すべきところを申しますと、「各員」と書かれてあるのは、幹部も新しい人も、総べてのメンバーと云う意味であります。
だから信徒というようなはっきりとした信者じゃなくても、誌友と云う人たちも今日初めて
新たに道場に坐って光明思想を聴く人も皆、「各員」であります。

その人達が偶々(たまたま)因縁に依って「生長の家」の運動に参加し、
(これは、参加といっても、こうして此の思想信仰に触れられたのも参加でありますが)
何の為に皆さんがこう云う生長の家の運動にふれる様な因縁になったのであるか、
と云うことを考えて頂きたいという訳であります。

まず最初に自分一身一家の幸福と繁栄を念願し、或は御教えを自己の生活に行ずるに止(とど)まるところにあるのではなく、
「それも勿論であるが」と書いてありますが、決して一身一家の幸福繁栄を念願したらいかんとは書いてないのでありますから、
一身一家の幸福を求めることを遠慮する必要はない。
それを求めることは、当たり前が当たり前の事にして「勿論であるが」であります。

そして御教を自己の生活に行ずることによって一身一家の幸福繁栄は来るのでありますが、
たんにそれに止まるといかんと云うのであります。
其処が菩薩の道であります。
「生長の家」の教えは、まず「自分」がクラリと転回しなければならないのです。
「生長の家」の教えは、まず自分に深切であれという教えなのでありますが、
自分自身に深切であれと云うことは如何なることであるかと云うことを考えねばなりませぬ。

その「自分」とは如何なるものかを本当に知ることが肝要(かんよう)であります。
肉体の病気が治ることも、一家の貧乏が治る事も、家族が健康になることも、家業が繁栄することも、
一身一家が幸福になるという事も一応は「自分に深切である」けれども、その「自分」と云うものを見直して、
それを出来るだけ正しく大きく生かして行くと云うことが、なお一層自分に深切なわけであります。

「自分」と云うものをただの肉体的存在だと考え、利己的生活だけを送って、一身一家の事のみ幸福になればそれで宜しいとは思って居る様な、そんな小さい「ニセモノの自分」でそれで宜しいと考えて居るのは、
それは余りにも「本当の自分」に深切でないと云うことになります。
「ニセモノの自分」を去り、「本物の自分」を出して来て、「自分」と云うものを、もっと大きく育てなければならないのであります。
(つづく)

3074a hope:2014/10/20(月) 15:36:45 ID:cEpBaIdo
>>3073つづき)

それで「生長の家の大神は如何なるお考えがあって谷口雅春先生をお下しになったか」と、ここに書いてありますが、
これはわたしの弟子である本部の人たちが集まって編纂したので「先生」とありますが、
私は決して「先生」とは言っていないので、「私はラッパである」と常に言っているのであります。

聖書のマタイ伝二十四章に「これらの日の患難(なやみ)ののち直ちに日は暗く、
月は光を発(はな)たず、星は空より隕(お)ち、天の万象ふるい動かん。
そのとき人の子の兆(しるし)、天に現れん。
……また彼は使いたちを大いなるラッパの声とともに遣わさん。
使いたちは天の此の極(はて)より彼の極(はて)まで、四方より選民を集めん」とあります。

このラッパの役が私であり、このラッパの声を斯うして聴いて集まって来られた方々は天の使いたちであります。
従って皆さんはこのラッパの声をきいて集まって来て、天の果てから地の果てまで
散在する選ばれた人たちを集める役割を神様から頂いている人たちでありまして
決して一身一家のみの幸福を満足せしめるために此の生長の家に触れられたのではないのであります。

世界が此のように急速に航空機や電波受信機が発達してせまくならない前だったら、地球は広いから、
色々の宗派が群雄割拠(ぐんゆうかっきょ)していてもあまり互に障りにならなかったけれども、
此のように地球が狭くなって来たら、どうしても万教帰一のこの「生長の家のような、
総(あら)ゆるものを生かすところの完璧な宗教が要るようになったのであります。

「完璧」の「壁」というのは、瑕(きず)のない立派な珠(たま)のことであります。
瑕のない立派な珠(たま)の様な総(あら)ゆる人類を生かし調和せしめる、
そういう教えを私と云うラッパを通して神が説かしめられたのは、深い意義のある事なのであります。
只(ただ)単に今迄の宗教のように、自分だけが浄土に生まれるとか現世利益を受けるとか云うことだけでよかったならば、
何も新たに「生長の家」が出て来る必要はないのですけれども、
こう云う万教帰一の宗教が出て来たのには特別の神様の思召しがあり、
そこに集まってこられた人々には特別の使命があり、深い因縁があるのである。
(つづく)

3075a hope:2014/10/20(月) 15:38:16 ID:cEpBaIdo
>>3074つづき)

特別に神縁深くしてこの宗教に触れられたのは、聖書に「天使たちを遣わさん」と預言されたる如く、
ラッパによって先ず引き寄せられ、此処に集まることになったので、皆さんが天使(てんのつかい)たちであるからである。
「この使命因縁と云うものを、心に絶えず銘記して」と書いてありますように、
此の尊い得がたい使命因縁を心に深く刻みつけて各人の本分に応じ、力量に応じ各人の生活と家庭と職業と地位立場を悉く機会として、
皆さんがこの生長の家を弘めようと思ったならば、何処かに行って講師として喋れなければならないかと云うと必ずしもそうではない。
自分の生活している「場」と云うものが、其処が即ちそのまま生長の家を弘める所の与えられた一つの「場」になっているのです。

まず家庭です。
皆さんの家庭がよくならない様な事では生長の家の教えも駄目だと言われます。
「あの家庭を見よ。あの人はこの頃生長の家に入って気狂(きちが)いみたいにやって居るけれども、
家庭を見たら一向よくなっとらんじゃないか」と言われるようでは、生長の家を弘めることにはならないのであります。
却って生長の家の悪宣伝をして居るようなものです。
大体「家庭で喜ばれる様な人にならぬと、本当の生長の家人ではない」と言われているのであります。

それは家庭の人と云うものは、その人について何でも皆知っているのです。
背中にホクロのあることまでちゃんと知っているのです。
自分には背中のホクロは判らんけれども、家族は背中のホクロ迄知って居るのです。
その位にみんな知って居るのですら、その総(す)べてのものを知っている家族が、
「ああうちのお父さんは近頃生長の家に入って素晴らしくなった。大変よいお父さんになった」と言って感銘するようになったり、
或いは「自分の息子は生長の家に入って大変よくなった。矢張り生長の家は素晴らしい」
と自分の息子ながら誉めずにおれなくなったり、
良人から見て、「自分の家内は近頃生長の家に入ったらすっかり変ってよくなったから、
ひとつ生長の家とはどんなものか、読んでみてやろう」という気持ちが起こる様になれば、
その人は家庭に居るだけでも、既に立派にこの教えを弘めているということになっているのです。

そういう状態が職業に於いても、どんな地位においても、現れて来ることが必要であります。

3076a hope:2014/10/20(月) 15:41:11 ID:cEpBaIdo
>>3075 a hope所感)

<<まず家庭です。
皆さんの家庭がよくならない様な事では生長の家の教えも駄目だと言われます。
「あの家庭を見よ。あの人はこの頃生長の家に入って気狂(きちが)いみたいにやって居るけれども、
家庭を見たら一向よくなっとらんじゃないか」と言われるようでは、生長の家を弘めることにはならないのであります。
却って生長の家の悪宣伝をして居るようなものです。>>

わたしは、この事に関しては、本当にそう思います。
「生長の家」を信仰しているという者の家庭や職場が大調和していなかったら、それは「生長の家」の悪宣伝にしかならないですよね。
わたしもまずは自分の周りから、自分の本分をわきまえて自分にできる光明化運動をしていきたいと思います。

3077トキ:2014/10/20(月) 20:28:13 ID:gp2X4kJ6
>>3075

 これは、大事な内容が含まれています。

 講師を見ても、重要な役職を歴任され、素晴らしいご講話をされる講師の子供さんが
生長の家をされていないというケースが散見されます。逆に、地味で目立たない人やそ
れほど重い役職をされていない信徒さんの御子弟さんが、揃って信徒になっているとい
う人も多いです。

 この件については、いろいろと議論があるところです。ただ、私の周囲を見ると、活動
に熱心であるあまり、ご家庭のことがおろそかになっている幹部さんはおられました。こ
の点は、本当に考えるべき点だと感じます。

 その点に関連してですが、私が戦前の信徒さんから聞いた話では、戦前、谷口雅春先生が
組織指導をされていた頃は、仕事や学業、家庭を大事にする事が大前提であり、その上での
活動である、という方針だったみたいです。戦後の神誌に谷口雅春先生が書かれていたご文章
によれば、信徒さんへの経済的な負担をかけない、という点にも注意されていたみたいです。

 が、そのため、職員さんの待遇が悪く、いろいろと問題も生じたみたいです。谷口清超先生
はその点を心配され、職員の福利厚生や待遇にも腐心されました。おかげで、本部職員の待遇
はかなり、教区職員の待遇も少しはよくなりました。しかし、他で使い物にならないような人
が待遇につられて職員に応募するケースも生じて来て、これはこれで問題になりました。

 あと、組織が巨大化するにつれ、官僚化、形骸化も目立つようになりました。教区に来る人
の中には、信仰というよりも、何かサークルの感覚で来られる人も見えるようになりました。
この点は、戦前を知る、古い信徒さんが嘆いていました。

 一連の騒動は嘆くべきですが、こういう点を反省する機会にもなったと感じます。

3078神の子さん:2014/10/21(火) 03:53:03 ID:???
総裁ファミリーも生長の家やっていないね

3079神の子さん:2014/10/21(火) 09:25:09 ID:???
>総裁ファミリーも生長の家やっていないね

はい、ノーミートもお絵かきもやっていません。

3080「訊」:2014/10/22(水) 07:30:59 ID:???
2456 :K機関諜報員:2014/10/21(火) 18:44:04 ID:???

はじめまして。

K機関諜報員と申します。「K」とでもお呼びくださいませ。

とりあえず、ご挨拶代わりに大聖師谷口雅春先生最後の御講話の音声ファイルを皆様にお届けします。

http://yahoo.jp/box/_mtnIY

上記からダウンロードできます。

貴重な音声ファイルです。教団や本流派を攻撃するための「道具」として使われるのは、私の本意ではありませんし、谷口雅春先生も望んではおられないと思います。

谷口雅春先生の教えの下に、教団も本流も一つになることを願っています。

K機関諜報員 拝

3081a hope:2014/10/22(水) 09:54:15 ID:cEpBaIdo

☆ 新版 菩薩は何を為すべきか  谷口雅春先生・谷口清超先生共著 ☆

第一章 人類光明化運動指針の解義 

p12
第三条 生長の家の各員は、立教の使命とする人類光明化運動とは先ず第一に何をなさんとする運動であるかを常に明らかにしなければならない。即ちそれは、「神の子としての人間なるものの本当の相」を凡(すべ)ての人々のうちに開顕(かいけん)し確立する事によって光明化する運動である。自由と云い平等と云い人権と云い民主主義と云い、世界平和と云い、或は政治と云い社会と云い労働と云い教育と云うも、すべてみな人間なるものの実体の確立なしには在り得ない。生命の尊重が今日ほど激しく叫ばれた事はないに拘わらず、今日ほど生命が無視されている時代はない。この矛盾、この混乱は、みな、人間が人間でありながら人間なるものの本当の相(すがた)を見失っている所から発している事実を凝視し、機縁は生老病死のいずれであろうと、必ず人間神の子の自覚の確立に導入する事が光明化運動の本旨である事を互に明らかにし合わなければならない。

3082a hope:2014/10/22(水) 09:56:47 ID:cEpBaIdo
>>3081つづき 

(雅春先生のご解説)

抑々(そもそも)生長の家と云うものが現れて来たその立教の使命
――即ち此の教えが立てられた所の使命と云うものは何であるかと言いますと、
私はこれを最初から「人類光明化運動」と言っておったのであります。

この間幹部会の席上で、或る人が「人類光明化運動というと俗耳(じくじ)には解り難(にく)いから、
愛国運動とこうハッキリ言ってしまった方が、人々に一層判り易いであろう」と言われたのでありますけれども、
それでは私たちの運動を完全に言表(いいあら)わしていないのであります。

それは何故であるかと云いますと、「愛国運動」と云うと国だけを愛すると云う意味にとれますし、
而も「愛国」という文字は、日本国民が「愛国」という場合には、一種の国粋主義として日本の国だけを愛すると云う意味になって、
世界の人類を愛すると云うところまで広くその光明化に意味が徹底しないということになるのでありますから、
直ちに唯物論者や左翼思想の人などはついて来ると云うことにならないと云う欠点があります。

ところが人類を救うと云うことになれば、唯物論の人でも左翼の人でも、苟(いやいく)も人類を愛する人ならば、
そんな人でも皆ついて来られるのでありますから、矢張り吾々の運動は人類光明化運動でなければならないのであります。
(つづく)

3083a hope:2014/10/23(木) 21:58:28 ID:cEpBaIdo
>>3082つづき

その立教の使命である人類光明化運動とは第一に何を為さんとする運動であるかと云いますと、
「それは神の子としての人間なるものの本当の相(すがた)を凡(すべ)ての人々のうちに開顕し」と書かれているのであります。

ここにも此の光明化運動が決して日本人だけを対象とするものではないことが明記されているのであります。

この運動は、凡ての人々の中にですね、その実相が神の子であると云うことを開顕するところの運動であり、
それを確立するところの運動であるわけであります。

「すべての人々の中に」と云う「中に」と云うのは〝Among the all people〝 と云う意味、
「すべての人類全体に行きわたって」と云う意味であります。

人間が神の子であるところの実相を顕して、それをフラフラの自覚ではなく、
シッカリと悟りとして確立すると云うことが人類を光明化することになるのであります。
(つづく)

3084「訊」:2014/10/24(金) 16:21:59 ID:???
『生長の家ってどんな教え?』(谷口雅宣総裁著書)116頁より謹写――


唯心所現について



Q:

〝唯一絶対〟の神様が、どうして有限の世界に人間をつくられたのでしょうか。そして、人間は神の子であるのに、どうして病気や争いを心に描いてしまうのでしょうか?(二十九歳・女性)



A:

 二つの質問です。一つ目は「有限の世界に人間をどうしてつくられたのか?」という質問です。私は、午前中、舞台俳優の話を喩えに使いましたが、この喩え話は理解が難しいかもしれません。私たちは実相世界においては、この俳優のようにいろいろな役割を演じる潜在能力をもっている。その俳優さんが舞台の上にいて、あるいは映画の中にいる場合、これを私は現象世界の出来事に喩えた。この人は、ある配役をもって生まれ、現象界に登場して生きている。それは、自分で選んでやっているということです。

 この方の質問は、「〝唯一絶対〟の神様がどうして有限の世界に人間をつくられたのでしょうか?」というものです。けれども、私は、「神は現象世界に人間をつくった」とは言いませんでした。そうではなくて「もともと実相世界しかない」という話をしました。しかし、この方は「いやこの世界はある」と思っている。だから、「有限の世界に人間をつくった」という質問になる。しかし私は、「有限の世界はナイ。実相世界がある」という話をしたのです。だから、神の創造された実相世界に、人間は今も神の子、仏として存在しているのです。どこか別の所にいるのではないのです。

 私は、今、現象的にも舞台に上がっていますけれども(笑い)、皆さま方も、それぞれが心で描かれた人生の舞台に上がっていて、それぞれの役を演じている。この方は、「神は舞台上の配役をどうしてつくったか?」とおっしゃいますが、神様は配役はつくっていない。それは、例えば「私はロミオとジュリエットの中のロミオになります」と私たちが自分で決めて、それを演じるのです。「ロミオの配役を演じる」と決めるのも自分であるから、ロミオとしての人間を神が創ったのではなくて、「自分がロミオを演じよう」と決めて舞台に上がっている ―― それは現象世界のことです。しかし、その時にも俳優はロミオとは違う人格と社会的立場をもっている ―― これは実相世界のことです。だから、神様が現象世界に人間をつくったのではなくて、我々が自分で現象上の配役を作り上げて舞台上で演じているのです。


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○現象世界は何のためにあるのか


 では、質問の仕方を変えて、「なぜ、この〝舞台〟としての現象世界があるのか?」という問題を考えてみます。それを、俳優に訊いたら何と答えるでしょうか?恐らくそれは「表現をすることが喜びであるから」という答えになると思います。俳優にとって、表現は喜びなんです。人間はもともと、実相においては神の子、仏の子であって、それを表現する場がほしいのです。だから、現象的にはいろいろな世界に流転していく。これは、業の流転によって「苦しみの人生を繰り返す」という解釈の仕方もありますが、生長の家ではそう解釈しない。人間は一種の〝舞台俳優〟として表現を繰り返すのです。たまには変な役が回ってくることもあります。これは結局、自分でつくるわけですが、もしもその配役が嫌だったら、自分で脚本を書き換えればいいのです。「私は来世はヒーロー役をするのだ!」と決めたらいい。まぁ、今生からでもいいですがね、急には変えられないこともあります。でも、「ヒーローになる」という脚本を自分にあてがって、今から演じればよろしいんです。これらは皆、神様がやっているのではなくて、私たち一人一人が自分で決めた道を行く。「私はロミオである」と決めたらそれを自分が演じるということです。その時に「ロミオでない自分」がいることを忘れてしまうと、それが自己限定となり、自ら有限の世界を体験するのです。これが、一つ目の質問に対するお答えです。

(つづく)

3085「訊」:2014/10/24(金) 16:23:27 ID:???
>>3084つづき)


 さらには「表現の場を創ったのは神様じゃないか」と仰る人がいるかもしれませんが、まぁ、そう言って必ずしも間違いではない。この場合の「表現の場」というのは、ここ(頭を指しながら)で起っていることなんです。だから、肉体という表現媒体を与えてくださったのが神様だと解釈すれば、それは必ずしも間違ってはいない。しかし、我々が「この世界」という時には、ここ(頭)に入っているんであって、ここ(周囲を指しながら)にはないんですよ。私たちは、自分の周りの世界のことを「外界」と呼ぶことがあります。自分はこっち側にいて、向こう側に、外に広がる世界がある ―― というニュアンスです。しかし、そんな「外界」はない。この〝外の世界〟はどうやって知るかと言ったら、結局、感覚によって ―― 目と耳と鼻と口と皮膚の感覚によって得られた情報を脳が一つの〝作品〟に創り上げて、それを外側に映し出しているものですから、まぁ一種の〝幻灯機の映像〟を見ているわけですよ。そして、幻灯機だけだったら、音がしないし、感覚はありませんけれども、肉体という媒体には五官の感覚 ―― 色づけや匂いや動作も、すべて外へ投影できる。そういう装置があると思ったらよろしいと思います。
 最近テクノロジーの発達によって、視覚と聴覚に伝わる情報は、豊かなものを人工的に作ることができます。それから、今、実験中ですが、運動感覚や匂いなども、人工的に作ることができるようになっている。そういうようにして、五感をヘルメットのような箱の中で実験できる装置ができたら、私たちは、それによってできた世界を「外界」と呼ぶでしょうか?(笑い)それは外界ではなく、ニセモノの世界ですが、五感はすべてを動員しているので、本当にリアルに感じられる。それに近いものを、私たちは肉体を通して体験しているのです。「それは何のためか?」と言えば、「自分の神性・仏性を表現するためだ」というのが生長の家の解釈です。
 「罪のつぐないをするため」とか「悪業の報いを受けるため」というように解釈しよいうと思ったらできないわけではないけれども、それは「悪がある」という観点なんです。生長の家のように「悪はナイ」という観点から見ると、それは「失敗を修正していく過程」というように、積極的なところにポイントを置くわけです。そうではなくて、悪業を積んだ結果、その報いとして悪果を受けていくと考えると、「悪がある」という信仰になってしまう。
 しかし、「神の創造された世界に悪はない」というのが生長の家の信仰です。もし悪が神の創造だったら、「悪業」という言葉が妙なものになるんですよ。私たちの積む業に「悪いもの」があるという考え自体がおかしくなる。神の創造が「悪い」はずがないからです。また、本当に悪があるんだったら、私たちの存在自体が悪だとしたら、私たちは、悪を行なった時に、「ああ気持がよかった!」と感じるはずです。でも、そんな人は一人もいない。「これは私の本性ではない」というネガティヴな自覚を、「悪」と呼んでいるだけです。
 例えば、画家が女性の絵を描いているときに、ある箇所には本来、顔の部分だから肌色を置くべきだった。しかし、ちょっと手がすべって黒い色を置いてしまったとします。そんな時、「あぁ、これは良い作品になった」とは普通は思わない。そうではなくて、「あそこに間違ったものがある。だから気になってしょうがない。ああ、直したい」という気持が起ってくる。人間は「悪い」という言葉を、そういう文脈で使うんですね。「悪い」というのは、そこに「ふさわしくないものがある」という一種の違和感です。だからその違和感を除いてしまいたい、と思う。もし我々の本性が悪そのものだったら、悪に直面した時には、「あぁうれしい、魂が喜んでいる」と感動するはずなんです。しかし、我々の体験を思い起してみると、そんなことは決してない。事実はまったく逆である。ということは、私たちは善一元の世界から来た神の子であり仏だという証拠である ―― こう生長の家では考えるわけです。

(つづく)

3086「訊」:2014/10/24(金) 16:24:31 ID:???

>>3085つづき)

○なぜ神の子が病気や争いを心に描くのか

 次に、二つ目の質問です。「どうして人間は神の子であるのに、病気や争いを心に描いてしまうのでしょうか?」――
 時々、こういう種類の質問を受けることがありますが、それらは「なぜ神の子である人間が間違うのか?」という質問に帰結すると思います。これと似た質問は、「神の子だったら、なぜ罪を犯すのか?」「なぜ間違いを犯すのか?」「迷いがどうしてあるのか?」などいろいろあります。
 私は、こういう質問にお答えする時には、いつもこの字を書くんです。(と、黒板に「自由」と書く)。自由がなければ、善はどうしても表現できない。これは、私たちがよく知っている現実世界でも同じです。
 例えばある銀行に強盗が押し入り「お金を出せ」と言って、一番前のカウンターにいた女性銀行員にピストルを突きつけたとします。彼女がもし強盗が命じたこと以外の行動をすれば、生命の危険がある。だから、これは自由を奪うことです。自分の意志を相手に強制している。変なことをしたら撃ち殺すぞというのですから、脅迫によって自由を縛っている。こういう状態で、もしその銀行員が、お客の預金のうち何十万円とか何百万円を強盗に渡したとします。その場合、この銀行員の行動は「悪い」と言えるでしょうか?普通、それは常識でも日本の刑法でも「悪い」ということにはなりません。なぜなら、脅迫されて、意思の自由を奪われた中で行ったことは、「善い」とか「悪い」などと責任を問われることはない。それが普通の考えです。同じようにして、もし神様が「人間は絶対間違えず、迷うこともなく善を実行させよう」と考えて人間を創造されたら、善そのものを表すことができないんです。この論理はお分かりですか?善というものは、悪を選択する余地がある中で自ら選び取った時に、初めて成立するものです。
 もう一つ例を挙げます。ある所におっかないお父さんがいて、子供がいつもビクビクしている家庭があったとします。そんな家で子供が何でもハイハイとお父さんの言うとおりにやっていたら、そういう子を「よい子」と言えるでしょうか?私は、言えないと思います。幼い時は、そんな環境が一時的に必要な場合があるかもしれないが、そんな状態が長く続いては子供の善性は開発されない。そうではなくて、「自由にしていいから、好きなようにやりなさい」と言われた時に、自分で考えてとった行動が善い行いであった場合に、本当の意味で「よい子」として認められる。
 
(つづく)

3087「訊」:2014/10/24(金) 16:25:03 ID:???

>>3086つづき)

 生長の家では、神の本性は真・善・美であると説きますが、その中の「善」を実現するためには、自由が必要なのです。自由であるためには、間違った選択も与えられていることが必要なんです。
 このことは、生物学的にも言えることです。人間の脳は、自然の支配を最も受けにくい構造になっています。(脳の構造の概略図を描く)まず、脳の最も奥の中心部分には「脳幹と視床下部」というのがあって、その外側を二重三重の構造が覆っている・・・(脳の構造解説部分を割愛)・・・つまり、その大脳の内側には爬虫類や両生類がもっているのと同じ構造の脳があるんですが、外側を覆う大脳は、そういう爬虫類や両生類のような動きが自動的に出るのを制御する役割をもっている。これは、自動反応的に欲望が出てきた時に、欲望実現のための仕組みは整っているけれども、その上に覆いかぶさって、自分の意志で欲望をコントロールするための構造である。
 このことを見れば、まさに脳の構造そのものが、「いろいろな選択肢の中から正しいものを自分で選択する」ように出来ているのですから、人間は「自由である」のが特徴ということになるのです。しかし、大脳の新皮質が発達していない多くの動物には、自由がない。例えば、この間、春になって啓蟄を迎えると、土中からカエルが出てきた。彼等は温度と湿度の条件が一定の値になると、自動的に眠りから覚めて土の中から出てきます。そこには「もっと眠っていたい」などと思う自由はありません。また、土から出てきたら早速、相手を見つけて交尾することになる。ココにも自由はありません。人間以外に、神様は自由のない生物を数多く創っておられる。だから、それ以上のものを創造されようと思ったならば、それは神の定めた予定行動を自動的に繰り返す生物では足りない。〝自動機械〟はただ与えられた動作をするだけで、そこには善も悪もない。だから「自由」を与えれば「善」が実現するという、より高度な創造の段階にいたって人間が創造された。それが人間創造の意味なのです。
 だから、質問にもあるように、私たちは「病気」や「争い」を心に描いてしまう可能性をもちながら、そうでないものを描く選択をすることによって、この世の「善」が実現することになる。善を表現するためには、人間のような肉体をもったものが必要であるということです。だから、我々が「人間らしく生きる」ということは、「欲望のままに行動する」ということではないんです。時々それをはき違える人がいますけれど・・・・・・・・「人間らしい生き方」というのは、「眠くなったら眠り」「性欲が出たら発散させ」「食欲が湧いたらいつでも、どれだけでも食べる」なんてことじゃない。それとは全く逆である。

 我々はだから大脳の機能をしっかり訓練して、欲望は周囲の状況に合わせて適切に制御し、自分と社会の共存を進めていくのが本当です。欲望どおりに生きるのでは、両生類や爬虫類と変らないんです。まぁ、そういうことですね。

(2008年三月九日、大阪市の大阪城ホール)

3088a hope:2014/10/24(金) 17:35:56 ID:cEpBaIdo
>>3038 つづき

p14

法華経に「常不軽菩薩」という一章があります。

常不軽とは「常に軽んぜず」と書いてありますが、「われ常に軽んぜず」と、常にこの菩薩は如何なる人間を見ても、
たとえその相手が、どんなルンペンでも、やくざでも、或いは泥棒でも、強盗でも、殺人犯人であっても、
みんな其の人を仏の子として拝んだと云うのであります。

どう云って拝んだかと云いますと、「あなた様の実相は仏様でいらっしゃいます。
当来必ず素晴らしい仏の実相が顕れる方でございます」と言って拝んだのであります。

すると其の相手の男は、「なにッ、俺みたいなやくざが、何処が神の子じゃ!!どこが仏じゃ!!そんな馬鹿なことがあるものか。
いい加減な出鱈目を言って俺を言いくるめてごまかそうとする。けしからんやつじゃ」と言って、
石を投げつけて其の菩薩を傷つけようとしたけれども、然しその常不軽菩薩は、
投げる石のとどかぬ所迄行って又そのやくざを拝んだというのであります。

どんなに、相手が乱暴をはたらこうとも、「貴方様は本来仏様でいらっしゃいます。当来必ず仏の実相の顕れる方でございます」
と言って拝んだ。

これが菩薩たる者の生き方であります。

(つづく)

3089a hope:2014/10/25(土) 18:00:33 ID:cEpBaIdo
>>3088 つづき

p15

そして釈尊が仰せられるには、「こうして其の菩薩が、全ての人間の実相を仏であるとして拝んだ功徳に依って
彼は今釈迦牟尼如来として顕われているのである。自分がその菩薩であったのだ」とおっしゃったのであります。

この全ての人間の実相を神であるとして拝むことによって、その実相の完全さを顕わし、その完全さを確立する運動が、
生長の家の人類光明化運動で、その実践者が聖使命菩薩であります。

「神の子」と云い「仏」と云っても万教帰一的立場から謂いますと同じ事でありますが、
まず人間の実相と云うものは「神の子」であり「仏」であると云うことを確立しないでおって、
「自由と云い平等と云い人権と云い民主主義と云い、世界平和と云い政治と云い、社会と云い労働と云い教育と云っても」
その根本が確立されておらなかったら、目的の方向へ行くつもりで却って反対の方を向いて行くと云うことになるのであります。

東京から下関の方に行こうといくら思っても、実際に青森の方向を向いていたら幾ら一生懸命に汽車に乗って行っても、
飛行機に乗って行っても、下関に行くことは出来ないと云うことになるのであります。

だから最初に先ず、人間がどちらを向くかと云う事が大切であります。

その向く方向の根本が人間は「肉体」であるか「神の子」であるか、人間は「物質」であるか「霊的実在」であるか、
と云うその根本が定まらないでいて人権を主張するならば、人間は自由を求め、幸福を求めながら反対の方向に行くことがある。

例えば、人間とは快くないとか、苦しいとか、つらいとか、嬉しいとかと云うことを感覚に依って感ずる所の
本来の性質を有(も)つところの単なる物質的肉体である――と云う、そう云う前提のもとに人権を主張するならば、
人間はその本来の性質である肉体の要求するだけ能うかぎり快楽をむさぼり、自分だけの楽しみに耽り、
自分の感覚的な娯楽ばかりを自由不羈(じゆうふき)に追求することが基本人権である――という事にもなってまいります。

そこから、貞操になんの価値があるか、そう云う道徳観念は人間の肉体の快楽追求の人権を束縛するものであって憲法違反であると云う説も成立ったことになる。
(つづく)

3090a hope:2014/10/25(土) 18:14:47 ID:cEpBaIdo

>>3098 a hope所感)

<<まず人間の実相と云うものは「神の子」であり「仏」であると云うことを確立しないでおって、
「自由と云い平等と云い人権と云い民主主義と云い、世界平和と云い政治と云い、社会と云い労働と云い教育と云っても」
その根本が確立されておらなかったら、目的の方向へ行くつもりで却って反対の方を向いて行くと云うことになるのであります。>>

上のお言葉は、谷口雅春先生のお言葉でが、

「生長の家の教え」は、全ての運動の前提にこの「人間神の子」の自覚がくるのですね。
そうでなければ、雅春先生のご意志とはまったく違う方向へ行ってしまうということが書かれているのだと思いました。

みなさんのされている「生長の家の運動」は、どちらに進んでいるのでしょうか?

3091a hope:2014/10/25(土) 18:16:47 ID:cEpBaIdo
>>3090 訂正
>>3098 a hope所感)→(>>3089 a hope所感)

3092a hope:2014/10/26(日) 17:03:24 ID:cEpBaIdo
>>3089つづき

p17

或る進歩的文化人に云わせると、女性の貞操なんてものは、封建時代に、男性が女性を自分の〝持ち物〝 としておった時代に、
自分の〝持ち物〝 は誰にもさわらせたくないものだから、貞操と云うものを女性に教え込んで女性の第二の習性として飼いならしたものである、
処女性なんてものも何の価値があるか、あれは結局男が女を〝持ち物〝 にして楽しもうと思っていた時代の習慣の残りである。

例えば、自分が持ち物にしようとする場合に、人がさわった手垢のついた品物や着物では余り面白くない、
やっぱり持ち物は手垢のつかぬ、誰も使ったことのない新しいものがよいでしょう。

皆さんでも、ハンドバッグを買うのでも人の手垢で汚して居る品物を「これは幾らでございますか」「三千円でございます」
「こんな汚れたのが――」と思って、人様の使い古しでは嫌になる。

それと同じことで、処女性とか貞操とかが尊いと云うのは、結局、処女性とか、貞操とか、それ自体はなにも尊くはないのに、
それを男が女を〝持ち物〝 にするという観念からその新しさや、他の人の手垢のつかぬ純粋さが喜ばれるのである。

それ以外に何の意味もないのだと考えるのです。

こうして、人間と云うものを只の「物質」として、「持ち物」的立場から考えると処女性も貞操も、
奴隷として男から持たれた時代の観念であるから、そう云う観念を打破ることによってのみ
女性は真に解放されるのだと云う議論をなすのであります。
(つづく)

3093a hope:2014/10/27(月) 23:16:41 ID:cEpBaIdo
>>3092つづき

p18

これは一例でありますけれども、人間がその本質を「肉体」と見るか「霊的実在である」かと云う根本の人間観を確立しなければ、
人間の自由と云い、平等と云い、人権と云い、民主主義と叫んでみましても、此の肉体を人間としてみるか、
実相なる霊的実在を人間としてみるかによって、人間の生き方が全然アベコベを向いてしまうのであります。

憲法に定められているところに随(したが)って、人間は自由であると云っても、又哲学的唯物論に立って、
人間は自由である、人間は肉体的に快いことを楽しむように自由の本能が斯くの如く人間を規定しているのであるから、
その自然の快楽本能を満足さす為には何をやったってよいではないかと云う様な道徳的無視になるのであります。

実際、戦後の日本は占領軍の日本人の性的頽廃(たいはい)による日本弱体化の政策にあやつられてそれらのことが随分流行っているのであります。

その為に色々の弊害が起っていることは皆さんが既に御存知の通りであります。

その結果此処にも「生命の尊重が今日ほど激しく叫ばれた事はないに拘らず、今日ほど生命が無視されている時代はない」と指摘されている通り、
性的犯罪や、自動車強盗や、殺人や、自殺が今日ほど大量に流行している時代はないと云ってよいのであります。
(つづく)

3094a hope:2014/10/27(月) 23:21:35 ID:brQxC10.
>>3093つづき

 p19

人間の基本的人権の復活であるとか、自由の復活であるとか、平等の復活であるとか云いましても、
「人間とは何ぞや」と云う其の「人間」そのものの把握が間違っていると此のような結果になるのであります。

「人間」とは如何なるものであるかと云うその「人間」の理解が、単に人間を「物質」の偶然的結合として是(これ)を把握し、
単なる快楽本能・所有本能に左右される事が自然の権利だというような「肉体」として人間を把握(つか)んでいるから、
快楽本能・所有本能を満足せしめる為には人を殺しても好いなどと云うことになるのであります。

肉体として人間を理解せず、「霊」として「神の子」として、神の霊が今此の「肉体」と見える相(すがた)に
変貌して天降(あまくだ)っているのであると「人間」を理解することができた上で、
「今吾は何を為すべきか」と考えたならば、まさか女を強姦するとか、
わずかな金銭を奪うために自動車強盗をやるなんて、そんな見苦しい卑しいことは迚(とて)もやれない。

「神様が今天降って〝自分〝 として顕現している」と思ったら、人間の行動はおのずから神聖になるのであって、
ただ肉体の快楽を貪(むさぼ)る金を得るために、自動車運転手を後から殴りつけて殺したり、
ドスで刺して殺すなどと云う「生命不尊重」の行動が出来る筈がない。

それに反して人間を単なる「肉体」であると考えるならば、斯うも考えられる、
「彼れ運転手と云う者はただ単に物質が結合して斯くの如く機械的に動いているものである。
彼れの心の動きと云うものは物質が或る配合をして結合した場合にあらわれている作用に過ぎない。
あれが死んだからと云って物質が結合していたのが離れただけであるから、これは別に殺生というわけではないのである。
彼等はこれから何年間自動車運転手として、人生の苦しみを苦しまなければならんかも知れぬのに、
今此の物質的結合を一瞬の苦しみによって分離させてやったら、彼等はその無駄な長い苦しみから解放されるのである。
そうすると、自分もまた金を奪うことによって肉体に快楽が貪(むさぼ)られるし、
運転手もこれからの人生の苦しみを逃れることが出来る、これは一石二鳥と云うものである。」

泥棒にも三分の理があると云う諺(ことわざ)がありますが、斯のようにハッキリと推論しないにしても、
かれが唯物論である限りに於いて、人間は物質が偶然集合して出来て居るのであると考え、
如何に基本的人権の平等であるとか、自由の平等であるとか云っても、その生命を充分尊重し得ない事になるのは当然であります。
(つづく)

3095a hope:2014/10/27(月) 23:23:48 ID:cEpBaIdo
>>3094つづき

p21

それですから真に人権を尊重し、その自由と平等との基礎を確立しようと思ったならば、
「人間は神の子である」と云うところの根本を把握せしめなければならないのであります。

戦後、殊にこう云う混乱が起こって来るのは、爰(ここ)に示されている通り、
「人間が人間でありながら人間なるものの本当の相(すがた)を見失っている所から発している」のであるから、
其の事実を見つめなければならないのです。

爰(ここ)に「機縁は」とあるのは、皆さんが、生長の家に入って来られるその「機(はずみ)」になった「縁(えん)」と云うものは、
「生老病死」即ち、生活の苦しみや、老いる苦しみや、病の苦しみや、将又(はたまた)、
死の恐怖と云うものが機縁になって入って来られたかも知れぬけれども、その入信の機縁は「生老病死」のいずれであろうとも、
「必ず人間神の子の自覚の確立に、導いて行くことが光明化運動の本旨(ほんし)である」その事を自分だけ知ったら足れりと云う訳ではない。

他の人をも、その本旨を悟るように導いて行くのが菩薩としての愛行であります。

だから、この最後の所にどう書いてあるかと云うと、「……光明化の本旨であることを互に明らかにし合わなければならない」と書いてあるのです。

「互に明らかにし合わなければならない」――明らかにし合うのであって、自分だけいいと云うのではなくて、
互に「人間は神の子である」と云う実相を把握せしめる事こそ人類光明化運動だと云うことを、
相互扶助して明らかにし合わなければならないと示されているのであります。


それじゃあ人間神の子の把握をしっかりしなければならんと云うが、
その人間神の子の自覚とはそもそもどの様な自覚を根本とするかを明らかにしなければならないと云って次に説明してあるわけです。――

(第三条 についての雅春先生のご解説、終わり)

3096a hope:2014/10/30(木) 17:52:29 ID:cEpBaIdo

☆ 新版 菩薩は何を為すべきか  谷口雅春先生・谷口清超先生共著 ☆

第一章 人類光明化運動指針の解義 

p22 後から1行目〜

【第四条】 生長の家の各員は「人間神の子」の自覚とは、そもそもどの様な自覚を根本とするかを明らかにしなければならない。
神の無限生命の当体と云い、神の最高の自己実現でると云う自覚は、「一切はすべて自分の責任であり、自分以外の他のなにものの責任ではないのだ」と云う覚悟に徹しその覚悟を徹頭徹尾生き切る事である。諸悪不幸のすべては責任を他に転嫁するところから始まる。家庭も環境も運命も社会も政治も国家も世界も、隣保班の事も青年会の事も白鳩会の事も相愛会の事も県連の事も、光明化運動の消長も立教の使命遂行も、すべてみな自分以外の他の何人の責任でもなく、自分自身の日々念々の思いと祈りと行動のうちに在るものであり、一切の衆生が残らず救われてしまわなければ「吾れ正覚をとらじ」と誓われた御仏の心、即ち自己を一切者とする自覚の発動こそ真に人間神の子の自覚の証左である。さすればすべては自分の心の影となり、吾れ祈れば天地応え、吾れ動けば宇宙動くものなる事をよくよく思い知るべきである。

3097a hope:2014/10/30(木) 17:53:30 ID:cEpBaIdo
>>3069 つづき

(第四条・雅春先生のご解説) p23 後から1行目〜

この第四条に於いては、「人間・神の子の自覚」とは如何なる内容のものであるかと云うことが書かれて居るのであります。

それは、今読みました所で明らかであります様に、「自己を一切者とする自覚」と云うのであります。

爰(ここ)には、単に「神様が私を生んだから、私は神の子だ」と云う漠然とした宗教感情だけに止まらず、哲学的にそれが解明してあるのであります。

即ち、自分というものは只(ただ)の個人だと云うようなものではなくて、「自分は全宇宙を包容するところの実体であって、自分は全てである」と云うこの大自覚である。

これこそ本当に「自分自身に深切であれ」と云うことであるわけであります。

「自分自身に本当に深切である」と云うことは、自分の責任を回避すると云うことであってはならない。

責任を回避しなければならぬような小さいものだと「自分自身」を思うことは、自分を侮辱していることであり、自分に深切をしていないと云うことになるのであります。

だから自分を一切者とする此の自覚の発動こそ真に「人間・神の子の自覚」の証左であるのであります。
(つづく)

3098神の子さん:2014/10/30(木) 17:54:45 ID:cEpBaIdo
>>3097 つづき

p24 後から2行目〜

ところが、これとは反対に「環境が悪いから、制度が悪いから、政治が悪いから、人間は幸福になれないのだ」という人が多くある。

きくところによりますと、共産党の人なんかが、貧しい人の家などを訪問して行って、「君達が貧乏しているのは政治が悪いからである。経済が悪いからである。国家が悪いからである。こう云う政治家を倒し、天皇制国家を潰して、人民のための人民の政府を建てなければ、人民は決して幸福になれないのである」と言って、凡(あら)ゆる人民の不幸を「人民の政府」が樹立していないからである、と人間の責任回避癖(せきにんかいいへき)の盲点を衝いて説くのであります。

そうすると国民の多くは、特に無産階級の人は「成程そうか」と思いまして、「私が貧乏をして居るのは政治が悪いんだ。日本国家が悪いんだ。天皇制が悪いんだ。若し天皇制国家がつぶれてソ連みたいになったら、日本の人民は、余程金持になれるんだろう」と虫の好いことを思う人が出来て来るのだけれども、実際、ソ連に行ったり、中共にいったりしてその実際の農民の生活状態を見てきた人の話によるならば、彼らの多くは日本の農民の充分の一位の低い生活程度をしているのであります。

それでも過去に帝政ロシアや、支那(しな)の督軍(とくぐん)などに搾取せられていた時代の農民よりも余程よくなっているので、彼らの国民がそれで満足して社会主義を謳歌するのは、それはそれでよいのでありますけれども、日本の農民と比較すると彼らの国の農民は余程低い生活をしている。

それにも拘らず日本の農民は、社会主義国の農民よりもひどく搾取せられていると云うそう云う宣伝にのせられるのは何故かと云うと、「人間・神の子」の自主的自覚がなく周囲のものが我々を不幸にするのである、などと云う「責任回避」の物の考え方をしているからであります。

周囲に一切の責任をなすりつける考え方は「人間・神の子」の自覚ではなくて、「人間は恰(あたか)もメリケン粉で焼いた太鼓饅頭みたいに、周囲の型にはめられてその型の通りになるしか仕方ないものである」と考えるところの唯物論であり、自己劣等感に過ぎないのであります。

わたしたちが本当に幸福になるためには、自己劣等感を克服して「自分はどう云う環境に置かれても自由自在である」というところの、自主的存在だと云う自覚を得なければならないのであります。
(つづく)

3099a hope:2014/10/30(木) 18:05:33 ID:cEpBaIdo

>>3096>>3098 a hope 所感)

この章には、たいへん重要な事が書かれていると思いました。

<<神の最高の自己実現でると云う自覚は、「一切はすべて自分の責任であり、自分以外の他のなにものの責任ではないのだ」と云う覚悟に徹しその覚悟を徹頭徹尾生き切る事である。>>

要するに、「神の子の自覚」とは、「一切者の自覚」にほかならないということが述べられているのだと思います。


<<周囲に一切の責任をなすりつける考え方は「人間・神の子」の自覚ではなくて、「人間は恰(あたか)もメリケン粉で焼いた太鼓饅頭みたいに、周囲の型にはめられてその型の通りになるしか仕方ないものである」と考えるところの唯物論であり、自己劣等感に過ぎないのであります。
わたしたちが本当に幸福になるためには、自己劣等感を克服して「自分はどう云う環境に置かれても自由自在である」というところの、自主的存在だと云う自覚を得なければならないのであります。>>

ここに、「自己劣等感」という言葉が出てきました。

この言葉、最近どこかで聞いたことがあるな〜?と思いましたら、先日web誌友板でのある「神の子さん」のご発言でした。

http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/11346/1358650232/4573


「一切者の自覚」が「神の子の自覚」で「周囲に一切の責任をなすりつける考え方」が「自己劣等感」だとあります。

これは、確かに「神の子の自覚」があるかないかの証左になりそうですね。

わたしは、人間・神の子が基本真理の「生長の家」教団のトップに立つ谷口雅宣総裁が、
まさか、この「一切者の自覚」つまり「神の子の自覚」がなくて、一切の責任を他人になすりつけるような、
自己劣等感をお持ちのお方であるとは信じられません。

きっと、雅宣先生は、「生長の家総裁」として、聖典裁判はじめ信徒の大量脱会等、
数々の「生長の家」で起きている諸問題の責任を、「一切者の自覚」をもって感じていらっしゃると拝察しています。

3100流氷:2014/11/01(土) 09:18:54 ID:LyU7SE0.
   民意とメディアと政治は、三位一体

森)皆さんの意見を聞きながら、ふと思いついたことがあります。かつて今と似たような雰囲気があった時代
のことです。もちろん僕はリアルタイムには知りません。あくまでも本などで読んだ知識ですが、日本が国際連盟を
脱退した時代が、今の時代とデジャ・ブのように重複します。

司会)A級戦犯の一人でもある松岡洋石は、日本代表団の首席全権として出席した国際連盟総会で、満州国建国を認めないとの
決議を出されたとき、四五分にわたる連盟決別の演説を英語で行ってから、最後に「さようなら」と日本語で言って、堂々と退場したと
言われています。これをきっかけに日本の軍国化が加速したとの見方もあります。

森)でもね、実のところ松岡は会期中に、「脱退のやむなきにいたるが如きは、遺憾ながら、あえてこれをとらずに」と日本政府に打電しています。
つまり彼自身などうやら、脱退はまったく考えていなかったようです。この少し前に、日本の新聞一三二社は、共同で宣言を発表します。
内容は満州国の正当性を主張するとともに、「満州国非承認と連名で決議されたとしても、これを受諾しないように」と
日本政府に迫るものでした。同時に新聞各紙は記事においても、連盟から脱退すべしと国民に訴え続けています。

C)朝日新聞もそんな主張をしていたんですね。なんだか意外。

森)最後の演説でも松岡は、日本政府や満州国の正当性を主張はしているけれど、脱退するとはひと言も言っていません。
ところがこのときの朝日新聞の見出しは、あの有名な「連盟よさらば!連盟報告書を採択 わが代表堂々と退場す」。本文では
「松岡の姿は、凱旋将軍のようだった。わが国は初めて、『我は我なり』という独自の外交を打ち立てるにいたったのだ」とも書かれています。
当然ながら国民はこの記事に熱狂し、そうした世相を背景に、日本政府は国際連盟脱退を通告し、帰国した松岡は国民的英雄として迎えられます。

D)じゃあ、連盟脱退を煽ったのは、朝日新聞をはじめとするメディアだったわけですか。

森)そのとおりなんだけど、忘れてはいけないのは、メディアも政治も民意の合わせ鏡であるということです。
つまり新聞は国民の主張や願望を反映したとの見方もできる。そう考えたとき、仮にいま安倍政権が諸外国に対して強気の外交を
行っているとしても、その理由は、強気にならないと支持率が下がるという危機感があると考えたほうがいいと思う。
つまり強気になったのは安倍政権ではなくて、この国の民意です。そもそも安倍さんの今の人気は、拉致が明らかになった北朝鮮に対して、
強硬な姿勢を示すことで始まりました。強気に出たほうが国民は支持する。そう考えたとしても不思議はない。

A)ブッシュ政権を見習った可能性もありますね。

D) じゃあ、そもそもの要因は民意だということになりますか。

森)ただしその民意は、メディアによって大きな影響を受けながら形成されます。
でもメディアも民意に誘導される。先ほど満州事変後の状況を説明すれば、新聞は当初、軍部の
大陸進出に対して批判的でした。でも部数がどんどん落ちる。それで強硬な方針に換えた。
満州勃発から数ヵ月後、「国家重大事なのだから、なるべく軍部を批判するような記事は載せない」と決めた
朝日新聞重役会議の議事録が残っています。

 この朝日の変節について、右翼からの圧力があったとの説もあったけれど、むしろ圧力よりは自主規制だろうと僕は思います。
要するにメディアも民意によって造形されていると言えるわけで、.....悩ましいですね。民意とメディアと政治は常に三位一体、三つ巴なんです。

  『アは「愛国」のア』 森達也 著

3101管理人:2014/11/01(土) 09:23:45 ID:HLm/peec

>3100 と、今のこの投稿の削除をお願いします。

3102a hope:2014/11/01(土) 21:36:06 ID:cEpBaIdo

>>3098 つづき

p26 後から5行目〜

世間には往々、資本主義制度があるが為に人民は貧乏になるのだと云う風に屁理屈を言う人がありますけれども、
決してそうではないのであります。

アメリカでも自動車王として世界第二の富豪になったフォード自動車会社の創立者であるヘンリー・フォード第一世は、
資本主義制度に於ける一介の鍛冶屋さんの職工であったのであります。

資本主義下においては、職工は何時までも職工で終らなければならぬと考えて居ることが、
「人間・神の子」の自覚がないわけであります。

資本主義の世界においても職工さんが、世界で三番目位の金持になれる機会は幾らでもあるわけであります。

戦後で日本一の富豪になった松下電器産業の松下幸之助氏は、手工業的に塑(ね)り物で電灯のソケットを製造販売していた
手工業の半職工的商人であつた。

資本主義制度だから一介の工員から富豪にならないと云う事はない。

資本主義化の世界は大衆によろこばれる物を作るものが忽ちにのし上がる機会の多い世界である。

美空ひばりや江利チエミは歌の口真似から出発して大衆に喜ばれた為に、忽ち毎年千万円以上も収入のある歌手にのし上がった。

ソ連で帝王の如くなったスターリンも鍛冶屋だったか靴屋さんだかの子であったそうだが、
ともかくどんな制度においても、どんな境遇におっても、伸びるものは伸びるし、伸びないものは伸びない。

戦後の日本では大抵既成財閥は解体になり、固定資産税や財産税で殆ど財産はみな召し上げられ、
土地を無代(ただ)同様の値段で買上げて細分せられ、旧財閥や特権階級の人は、斜陽族の〝なれの果て〝 みたいなのに大抵なった。

斯うして戦後の日本人は、戦後最初の富の出発点は大抵似ておった。

どんな戦前の金持も同じ位の経済的レベルに落とされ、財産は殆どみんな税金にとられて、
三万円以上はみな没収みたいに封鎖せられてしまった。

そして、手と身(からだ)だけの其処からでも、新興財閥として伸びて来る人はぐうっと伸びて来ているのである。

むろん、何時迄も下積におる人もあるんだけれども、資本主義下では実力のある伸びる人は伸びる機会がある。

だから自分が貧乏をして世間を呪っているのは制度が悪いからと云うんじゃなくて、自分自身の自覚が足りないからであります。

どんな制度の下に於いても、賤しき貧しき家に生まれながらでも、「神の子・無限力」の自覚をもつものは
其処から伸びることも出来るわけであります。

封建時代にでも、豊太閤(ほうたいこう)みたいな人は百姓の倅(せがれ)から最高の栄誉ある地位にのぼった。

どんな制度の世界に於ても伸びる者は伸びるのに、自分が伸び得ないことを制度が悪い環境が悪いなんて考えて、
自分自身の責任を回避して、他を呪うのは間違いであります。

3103a hope:2014/11/01(土) 21:37:33 ID:cEpBaIdo

>>3102 a hope所感)

<<だから自分が貧乏をして世間を呪っているのは制度が悪いからと云うんじゃなくて、自分自身の自覚が足りないからであります。
どんな制度の下に於いても、賤しき貧しき家に生まれながらでも、「神の子・無限力」の自覚をもつものは
其処から伸びることも出来るわけであります。>>

わたしはこうも考えられると思いました。
つまり、「神の子・無限力」の自覚をもつものは、どんな組織に属していてもいなくても、どんな運動をしていてもいなくても、
伸びない人は伸びないし、伸びる人は伸びるんだな、と。

だって、「神の子・無限力」の自覚を得るためにすべきことは「三正行」以外ありませんものね!

3104SAKURA:2014/11/02(日) 21:33:23 ID:???
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【転載編】
>>2809>>2812>>2820>>2821>>2827>>2839>>2840>>2842>>2848>>2853>>2856>>2860>>2866>>2867
>>2871>>2881>>2890>>2891>>2898>>2905>>2907>>2908>>2909>>2910>>2915>>2918>>2931>>2932
>>2933>>2940>>2946>>2947>>2953>>2958>>2959>>3038>>3045>>3049>>3051>>3054>>3056>> 3071 
の投稿の続きです….。
■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】

(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行
*========*【 自他の悪を思わず常に光明に転向せよ ―その4―【 転載編 ―】*=======*=======*

■かかる場合、毅然として起って、全従業員の不安、焦燥、恐怖の心を去りうるところ
の偉大なる首脳者が顕われ、事業をして従事せる全員に平和と明朗と前途の楽観を与えう
る場合には、没落せんとしたその商社も運命を回復することができるのであります。この
時、事業の首脳者にして、商勢を挽回せんとて憂い悲しみ、従業員の欠点のみを見、その
欠点を直早そうとして短気と焦燥とに駆られる時には、頽勢はかえって挽回するに由なく、
股昿と頼む忠実なる人たちは彼を見捨て去り、有為の雇員(こいん)は背き去り、顧客(こかく)
は続かず、終にさしもの繁栄を誇った商社も没落してしまうのであります。

これは現象に捕らわれて、一時の暗黒を実在だと思い、心に強く欠点と暗黒を描いた結果
であります。欠点と暗黒とはあるように見えても本来ないものでありますから、心に描か
ずに捨て置けば消えるのであります。美点と光明とはないように見えても本来実在なので
すから、心が執われなくなったときその本来のある姿があらわれてくるのであります。だ
から生長の家家族の祈願には自他の悪を云為する時間があるならば、神を想い、完全を
想い、自己の新生と生長とを努めるようではないかと書いてあるのであります。

 商売の衰頽も肉体の病気も「不調和の心」の顕われですから、「不調和の心」に「不調和の
心」を追加しているようなことでは、それを回復することはできないのであります。不安、
焦燥、恐怖で平和を失っている状態に、さらに憤怒と憎みと欠点暴露をもってするのは、
火を消さんとして火に油を注ぐようなものであります。七つの「迷いの心」が起こってきた
ときには、七つの「自覚の心」で相対すべきであります。

               つづく
❤〜SAKURA

3105a hope:2014/11/03(月) 21:08:54 ID:cEpBaIdo
>>3102つづき

p28 後から3行目〜

私が諸方へ講習に行きましても、時々こう云う弁解をされる地方がある。

「ああ農繁期でございますからどうも人の集まりが悪いのでございます。」そうかと思うと、
「祭日とかち合いましたので、人がその方へ行きまして、講習会の集まりが悪いのでございます。」

あるいは「雨が降りましたのでどうも人の集まりが悪いので御座います、」などと、
責任を農繁期や祭日や雨天に課して、自分の努力の不足にアリバイをつけようとする人がある。

ところが、或る農村に講習に行って雨が降ったときに、「先生、今日は雨が降りまして有難うございます」とお礼を言われたこともある。

そう云う所では「雨が降ったので百姓が野良にでられないから、野良にでるかわりに、
この講習会に集って来るのでございます。神様有難うございます」と喜ばれるのであります。

それなのに、口実をつけるところは、「雨が降ったから人が集まり難いのであります。もしお天気なら、もっと集っとったんでございます」
まあそう云うように理屈をつけて自己弁解する。

その自己弁解をするようでは、この自らの主人公であるところの自覚が足りないのであると言わなければならないのであります。

(第四条についての雅春先生の解説終わり)

3106a hope:2014/11/14(金) 08:41:51 ID:cEpBaIdo

☆ 新版 菩薩は何を為すべきか  谷口雅春先生・谷口清超先生共著 ☆

第一章 人類光明化運動指針の解義 

第五条 生長の家の各員は、人間神の子の自覚が、日本民族が悠久の昔より世々代々承(う)け継ぎ語り継いで来た「命(みこと)」の自覚にほかならず、生長の家立教の使命が同時に日本建国の理念の現成(げんじょう)にほかならない事を明らかにすべきである。

日本民族は存在の窮極を、一切のものの生成の根源たる普遍的絶対者を、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)として把握し、その「中(みなか)」への中心帰一とその「中」の展開、即ち宇宙普遍の原理の地上的顕現を日本国家形成の理念とし、天津日嗣(あまつひつぎ)とはこの理念のさながらなる継承以外にはなく、天皇の権威は権力をもって思うがままにこの国を支配する権利にあるのではなく、この理念の継承実現にまします事、従って天皇を中心と仰ぐ日本の国家の発展は、天皇の人民支配の手段としての国家の発展と云うが如き専制的な性格のものでは微塵もなく、宇宙真理、即ち神意の地上顕現の至純至高の形体としての日本国家の精神である。

この真理の現成の大まつりごとに、神の子としての命(みこと)として自己の責任としてまつろい奉(たてまつ)る事が実相の成就である事を明らかにすべきである。

単に自分の祖国のみの理由にて日本を愛するのではなく、東洋と西洋との中間に位して一切を生かす大乗の真理国家たる事が日本の理念であるからこそこの国の国体を鑚仰(さんぎょう)してやまず、この国の神の子国民として生を享(う)けしめられた所以の深さに感泣(かんきゅう)し、わが一身もわが家庭もわが生活もすべてこの理念現成に捧げられてはじめて存在の意義を持ち得るものなることを、各自互に明確に自覚し合い、その行動の根拠となし合うべきである。

3107a hope:2014/11/14(金) 08:43:18 ID:cEpBaIdo

>>3106 a hope所感)

この第五条には、わたしが理解しなければいけない日本国に「生長の家」の出現した本当の理由、
つまり「鎮護国家」がなぜそれほどにも大切なことなのかが述べられているのではないかと感じています。

これから、雅春先生のこの第五条のご解説を丁寧にお勉強していきたいと思います。

3108もうすぐ冬だけど春:2014/11/14(金) 19:22:17 ID:sJIV9CK.
a hope さま

一つ前から聞きたかったのですが、この掲示板で、何を求めていらしゃっているのですか?


自己満足の暇持てあましの、お勉強ですか?

3109もうすぐ冬だけど春:2014/11/14(金) 19:25:03 ID:sJIV9CK.
この真理の現成の大まつりごとに、神の子としての命(みこと)として自己の責任としてまつろい奉(たてまつ)る事が実相の成就である事を明らかにすべきである。

謹舎慕って、意味わかってんいっしょ? ぶっちゃけ。

3110トキ:2014/11/14(金) 20:00:39 ID:NbEVi5/s
>>3108

 管理人としては、a hope様のご投稿は、掲示板の目的に沿うものであり、
内容も素晴らしく、歓迎しております。継続してのご投稿にも感謝してお
ります。

 教団がこうなった以上、掲示板での勉強は大きな意味があります。

 a hope様におかれましては、今後も継続して、ご投稿をお願いします。

合掌 ありがとうございます

管理人敬白

3111a hope:2014/11/14(金) 20:34:30 ID:cEpBaIdo

>>3108 春さま

わたしは、この掲示板でお勉強させていただくことで、
何が本当の生長の教え(真理)なのか自分自身で明らかにしていきたいと思っています。

そして、自分自身が真理を悟って幸せになりたいというのも勿論ですが、
自分が悟ることで、周りの苦しんでいる人々を救えるような人間になりたいのです。

ですからわたしがこの掲示板でお勉強させていただいているのは、
自己満足といえば自己満足かもしれませんが、「生長の家」の教えを体得して、
人類光明化運動を展開していきたいという大きな夢のためでもあります。


とても申し訳ありませんが、>>3109のご質問の意味はよくわからないのでお返事ができません。

ところで、春さまはどうしてこの掲示板に書き込みをされているのですか?

3112a hope:2014/11/14(金) 20:35:13 ID:cEpBaIdo

>>3110 トキさま

コメントありがとうございます。
これからも、自分のペースでお勉強させていただきます。

感謝 合掌。

3113もうすぐ冬だけど春:2014/11/14(金) 21:11:27 ID:ng3olj7k
この真理の現成の大まつりごと


意味、分かりますか?

神の子としての命(みこと)として

この意味分かっていたら、鎮護国家はずし意味が理解できますか?

自己の責任としてまつろい奉(たてまつ)る事が

これは貴殿が書かれた"できることをまずしよう"でいいと思われますが、
この先は、
何を目指しているか、お考えですか?

人類光明化運動を展開していきたいという大きな夢のためでもあります。

この為の方法が、
掲示板でお勉強させていただいているの

では、全然話にならない、足りない、ともうい上げているのです。

3114トキ:2014/11/14(金) 21:49:06 ID:NbEVi5/s
>>3112

a hope 様

 お返事、恐縮します。今後ともご投稿を期待しております。
頑張ってください。

合掌 ありがとうございます

管理人敬白

3115a hope:2014/11/14(金) 22:02:56 ID:cEpBaIdo

>>3113 春さま

人類光明化運動指針第五条の条文だけを読んだのでは確かにその意味はよく理解できないかも知れませんが、
「菩薩は何を為すべきか」には、各条文の後に、雅春先生が「人類光明化運動指針の解義」として、
その内容を詳しくご解説してくださっているのです。

ですから、これからそれを謹写しながらお勉強して行こうと思っているのです。
丁寧にお勉強して行けば、こんなわたしにも「鎮護国家」の重要性が理解できるような気がしています。


現実の春さまがどのような方で、どのような運動をされている方なのかわたしは知りません。

ですが、春さまもわたしのすべてを御存知ではないですよね?

この掲示板の管理人さまであるトキさまがお許しくださっていますので、
わたしはわたしのやり方でこれからもお勉強を進めさせていただきたいと思います。

ご理解くださるとありがたいです。

3117もうすぐ冬だけど春:2014/11/15(土) 09:00:22 ID:EAWJz.aM
丁寧にお勉強して行けば、こんなわたしにも「鎮護国家」の重要性が理解できるような気がしています。

失礼ながら、到底無理と考えています。

丁寧にお勉強すれば。。のレベルでなく、当たり前の事が当たり前に感じられる【感性】とでもいうべきものが必要で、今後も貴殿のお好きなように書かれて行く事は大事にしたいと考えますが、

1+1=2
が分からない人が、謹写していても、しないよりはましな程度で、
1+1=10になるという(たととえですが)は、永遠にたどりつかないでしょう。

献労と愛行が欠けているからではないですか。

初心者様が言った、インターネットで真理が分かるなどあり得ない、と言うのは、事実と思います。

3118a hope:2014/11/15(土) 09:11:02 ID:cEpBaIdo
>>3117 春さま 信仰/体験板にお返事させていただきます。

3119a hope:2014/11/15(土) 09:14:45 ID:cEpBaIdo

(第五条 雅春先生のご解説)p31

ここは非常に重大な一節であります。民主主義かぶれのしている人には解するのに難しいところであります。

生長の家は「人類光明化運動」と云うから人類を愛したらいいのであって、日本の国なんかどうだっていいじゃあないか、と考える人があるかも知れませんが、決してそうじゃあないのであります。

皆さんは日本民族の一員として日本人として生まれた。その事実に立脚して生きている以上、日本民族と云うものは如何なる自覚を持ち如何なる使命を持って此の地上に誕生したのであるかと云うことほど重大な問題はないのであります。

古代の日本人は全て何某(なにがし)の命(みこと)、何某の日子(ひこ)、何某の日女(ひめ)と云うように自分自身をも呼び、他の人をも尊称して居りました。

日子とは即ち天照大神の御子(みこ)という意味であり、日女とは即ち天照大神の女(むすめ)という意味であり、すべての人間は命(みこと)であったのであります。

命とは即ち「神の生命」そのもの、それが天降(あまくだ)って来たのが人間であると云う、そう云う魂の自覚をもって日本人は日本民族の歴史を作ってきたのであります。
(つづく)

3121トキ:2014/11/15(土) 19:01:43 ID:kJfjg7Wc
「白鳩」昭和48年3月号 14pより、謹写

<<10日の箴言 迷霊には問答打ち切り宣言が早いほどよい>>  谷口雅春先生


 イエスもヨルダン河で40日40夜断食水行して自分の心を潔めようとしているときに「自己とは別の
世界に棲む迷霊サタン」があらはれて来て問答しているのである。この迷霊とイエスとの問題は、頭に
ブリキのバケツを被って迷霊の言葉をアースして避けようとした人のようには、その迷霊に、長くはかか
はり合っていないのである。迷霊との問答は、長くかかはり合っていると、人間を翻弄して楽しみたいの
が彼ら迷霊が人間に話しかける動機であるから、いつまでもその迷霊がねばりついて間断なく話しかける
ため人間の方がノイローゼになってしまう。イエスと迷霊サタンとの問答は極めて簡潔にして、イエスは
「去れ」といって、迷霊を突き放しているのである。

サタンーなんじ若し神の子ならば、命じて此等の石を変じてパンとなせ。
イエスー人の生くるはパンのみにあらず、神の口より出づる凡ての言に由る。
サタンーなんじ若し神の子ならば己が身を下に投げよ。若しなんじ神の子ならば聖書に録された如く
    「神はみ使いたちに命じて、彼らの手にて汝を支え、その足を石にうちあたることなからしめん。」
イエスー「主なる汝の神を試むべからず」と聖書には録されている。
サタンー汝もしひれ伏して我を拝せば此れらの栄華を皆なんじらに与えん
イエスーサタンよ去れ。聖書には「主なる汝の神を排し、ただ之のみに事ふべし」と書かれているでは
    ないか。

 この簡単な会話によってイエスは迷霊が、言葉を弄して、彼にからみついて来るのを突き放しているの
である。これは若し諸君のうちに誰かに迷霊がかかって来て愚弄しようとするとき、簡単にそれを突き放し
てしまって、今後話しかけても取り合わないようにすれば、それ以後は迷霊は沈黙してしまうという実例で
ある。

3122SAKURA:2014/11/15(土) 22:31:16 ID:???
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【転載編】
>>2809>>2812>>2820>>2821>>2827>>2839>>2840>>2842>>2848>>2853>>2856>>2860>>2866>>2867
>>2871>>2881>>2890>>2891>>2898>>2905>>2907>>2908>>2909>>2910>>2915>>2918>>2931>>2932
>>2933>>2940>>2946>>2947>>2953>>2958>>2959>>3038>>3045>>3049>>3051>>3054>>3056>>3071
>>3104の投稿の続きです….。
■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】

(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行
*========*【 自他の悪を思わず常に光明に転向せよ ―その5―【 転載編 ―】*=======*==

■不安、焦燥、恐怖が起ってきたときには、不安に思うまい、イライラすまい、焦るま
い、恐れるましと思ってそれを抑圧してもたいてい駄目であります。

不安に思うまいと努めれば努めるほど不安になり、焦るまいと思えば思うほど焦り出し、
恐れまいと恐怖を抑えれば恐怖し出すのがわれわれの心であります。それは「不安を……」
と思ったときにすでにわれわれは「不安」を心に描きますから、心に描いたものが強く現わ
れるのが心の法則でありますから。
「不安を……抑えよう」と思ったのでは不安は決して無くならないのであります。

「不安」を無くするには、「不安を……」とすら考えないで、全然別なる完全なる状態に
心を集中しなければならないのであります。すなわち、この時こそわれらは、「神のように
努めなければならないのであります。

その方法の一つとしては、神想観を行なうに当たって招神歌(かみよびうた)を誦(とな)え
終わると次のように念ずるのがよろしい。

「自分は神の子であるから、本来神と波長の合った心の波動をもっているのである。神
と波長の合った心の波動をもっている自分はただ神の大調和の念波を受けるだけであっ
ていかなる不調和の念波をも受けることはないのである。我は神の子であり、我が環境
は我が心の影であるから、我が環境は今現実に大調和であり、神の無限の智慧と愛と
生命と供給とが満ちているのである。」

                    つづく
❤〜SAKURA

3123a hope:2014/11/17(月) 09:37:07 ID:cEpBaIdo
>>3119つづき)

こう云う歴史を背負ってその歴史的現実として具象化して、今皆さんが此処に生きておると云うことは誠に荘厳な事実なのであります。

他の国の民族の中には、そういう自覚を持って生まれて来た民族はいない。その独特の伝承を私たちは尊ばなくてはならない。

西洋では人類はアダムとイブの子孫であり「罪の子」の子孫である、と云う様に説かれて来て、彼らh「罪の子」の子孫であると云う、あまり芳しからぬ自覚を伝承しているのですけれども、日本人だけは「神の子」」として、「命(みこと)」としてこの地上に生まれて来、そして世々代々その伝統を承(う)け継いで来て、「われは命(みこと)なり」の自覚のもとに生きて来たのであります。

そして神の子が天降(くだ)って、地に平和をもたらすために此処に日本民族が大和と云う国号の国を建てたという光栄ある自覚を尊重しなければならぬわけであります。
(つづく)

3124a hope:2014/11/18(火) 08:52:32 ID:cEpBaIdo
>>3123つづき) p32 後から3行目〜

その神の子とは如何なるものかと申しますと、爰(ここ)に書かれておりますように、「日本民族は存在の窮極を、一切のものの生成の根源たる普遍的絶対者を天之御中主神(あまのみなかぬしかみ)として把握」したのであります。

日本民族はみずからを「命」と呼び、日子(ひこ)、日女(ひめ)と称するけれども、決して一人の有限な肉体を持った神様から誕生したと云う意味での「神の子」ではない。

日本書紀或は古事記の神話にあるところの天之御中主神の「中(みなか)」の本源より発したる基本生命の自覚である。

天之御中主神とは、一個人の人格神の固有名詞ではないのであって、「天(あま)」の次に「之(の)」という接続の詞(ことば)がついて居る所に注目しなければならないのであって、これが固有名詞ではない証拠であります。

「之(の)」がついているのは、固有名詞ではなく、説明のための接続詞としてついているのであります。

何を説明しようとしているかと云いますと、「天(あま)」即ち「天球」即ち「大宇宙」の「中(みなか)」にして主なるところの神様と云う意味を説明していたのであります。

私たちはその「中(みなか)」の「主」なるところの神様から生まれて来たのであっって、その中(みなか)のいのちより出でて中(みなか)に帰る、吾々は中(みなか)に帰一しなければならない。

「神の子」とは天之御中主神の生命が此処に出現して、「中(みなか)」の理念を実現する為に此処に生きて居るということであります。
(つづく)

3125SAKURA:2014/11/18(火) 22:41:14 ID:???
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こんばんは……ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【転載編】
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■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】

(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行
*========*【 自他の悪を思わず常に光明に転向せよ ―その6―【 転載編 ―】*=======*==

■この光明思念を繰り返しつつ精神統一状態に入り、いっさいの悪を思わず、今現実に
大調和の世界がここに展開しているという大信念に到達してその神想観を終わり、神想観
後の日常生活もできるかぎり明朗なる心境を持続するように努めれば、現実の苦難の状
態は克服され実相世界の完全なる状態がしだいに現実生活にまで再現してくるのであります。

                 次の項目に続きます。
❤〜SAKURA

3126SAKURA:2014/11/18(火) 22:42:25 ID:???
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>>3104>>3122>>3125の投稿の続きです….。
■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】

(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行
*========*【 神と偕に無畏無憂の生活を送れ ―その1―【 転載編 ―】*=======*==

■われらは常に無限力と偕に生くることを信じ、神に背くことのほか、何ものをも恐
れず、取越し苦労をせざらんことを期す。

 ■われらの心の明朗の極点は『神の無限力』と一体で生きているという自覚であります。
他のいろいろの方法によって心の明朗さを得ようとも、それはたいてい一時的の明朗さで
あります。

また次なる重大なる事件が起って来るとともに、その明朗さ破壊せられずにはいないのであり
ます。どんあ重大なる事件が起こって来ようとも、我が味方は「神」であり「神」がその事件
をわれらの真の幸福にまで導き給うものであると自覚さえありさえすれば、われわれはその重大
なる事件を静かに支配することができるのであります。

かかる重大事の起こっている時に際して、最も恐るべきは「重大なる事件」そのものではなく、
重大なる事件に驚愕し周章狼狽して「神吾と偕に在り」との自覚を失ってしまうことであり
ます。この自覚さえあれば「重大事」はいつの間にか方向転換して幸福の曙光が見えはじめ
ます。しかし「神と偕なる」自覚を失ってしまったが最後、事件は層一層危険の度を加え、
その人は加速度をもって危殆の世界に押しやられて行くのであります。

 ですから、われわれは何事が起ころうとも事件そのものは恐ろしくない。どんあ成功者
といえども必ずや幾度も失敗と見える経験を繰り返したのです。しかし彼が成功したのは
普通ならば「失敗」として悲願し退嬰(たいえい)してしまうような時にも、それを「失敗」
とは見ないでその「失敗」を次なる成功の足場としたのであります。

ヘンリー・フォードは言っています。

『自分はいまだかって事業に一度も失敗したことはない。われらの事業はたとえば化学の
実験のようなものである。予定の結果が出て来る時も、また別の結果が出て来る時も、共
に化学の実験としては成果を収めているのである』と。まったく常住「楽観病」と評さるる
ヘンリー・フォードが言いそうなことであります。この常住「楽観病」こそ事業を成功に
まで導き来す大原動力であって、その背後には「神と一体」の自覚があって可能なのであり
ます。

                     −その2−につづく
❤〜SAKURA

3127a hope:2014/11/19(水) 08:43:59 ID:cEpBaIdo
>>3124 つづき) p33  後から1行目〜

「中(みなか)」と云うのは、『中庸』と云う支那(しな)の書物に、「喜怒哀楽未だ発せざるを中(ちゅう)と云う」とありますが、この「中(ちゅう)」と云う字は、○(宇宙の象徴)に一本貫いた様につくられたのが本来の字形なのであります。

四角に一本棒を挿したのじゃなくて、○(うちゅう)を貫く象(かたち)を表した⏀であります。この「○」は宇宙であって、宇宙を貫く処の真理が⏀(みなか)なのであります。

真ん中だけを貫いて居るのではないのであって、これはただ「宇宙を貫く」という意味を象形的に書かれているのです。

宇宙の一切の物貫く所の原理に在(まし)ますところの神様が天之御中主神であります。

その「中(みなか)」の原理と云うものは何処にでも現れて居る⦿(ス)の原理であって、それは一切のものには一つの中心があると云うことであります。

つまり太陽系統には太陽と云う中心がある。そして周囲には遊星が廻って居る。存在の最小単位である原子にも原子核と云う中心があって、その周囲に電子が廻っている。
(つづく)

3128a hope:2014/11/19(水) 08:44:53 ID:cEpBaIdo
>>3127つづき)

人体を形成して居る所の細胞にも真中に細胞核と云うのがあって、そして周囲に原形質がある。鶏卵にもちゃんと黄身と云う中心がある。

中心がなくなったら、細胞もなくなり、卵は死んでしまうのであります。白色レグボーンの鶏の卵の白身だけを抜いて、プリムスロック種の鶏の白身と入れ替える実験をソ連でやったら、それを孵化させるとプリムスロックの雛が産まれたという話もあるが、白身は他のものと取替られるけれども「中心」なる黄身を取り替えたらもうその鶏卵は生命を失ってしまうのであります。

このように中心は一番大切であります。原子でも、原子核を破壊したら、原子は崩壊して飛び散ってしまう、われわれの肉体を構成している細胞も、その中心であるところの細胞核を殺してしまったら、細胞は死んでしまう。

植物にも幹という中心がある。幹を殺したら植物は枯れてしまう。

太陽系統も真中にある太陽が放射能を出し尽くして冷えてしまうようなことがあったら、太陽系統には生物がなくなる、結局吾々の地球も冷えてしまって人類もその他の生物も死ななければならない。

どうしても⦿(ス)をもって表象する「中(みなか)」の理念と云うものに一致したときそこに生命があらわれるのであり、「中(みなか)」の理念によって宇宙の一切のものは生かされて支えられて居るのであります。

此の一切存在の基本原理なる「中(みなか)」の理念を体現した国家、換言すれば「真理国家」の現成が日本国家なのであります。
(つづく)

3129SAKURA:2014/11/19(水) 22:57:39 ID:???
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■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】

(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行
*========*【 神と偕に無畏無憂の生活を送れ ―その2―【 転載編 ―】*=======*==

■取越し苦労病患者は、常住楽観者の反対であります。常住楽観者は失敗の中にでも
成功を見て心を明るくするに反して、取越し苦労病患者は成功の中にでも失敗を見るの
であります。こんな人は幸福の真最中にいてすらも、「こんなに幸福であったらもったな
い」とか、「幸福が続けば必ず不幸が来るのだ」とか、「悪」を心に描いて恐怖します。そし
て実際不幸が来ればいよいよますます恐怖し、悲観し、周章狼狽して手を束ねて策の施
すところを知らないのであります。

 およそこのような取越し苦労、不安、恐怖は精神力の適用でありますから、精神エネル
ギーを消耗することおびただしく、明るい希望に満ちた心で考えれば疲労せずに名案が
浮かぶものを、いたずらに憂苦し懊悩するために、頭脳は疲労し、よき考えは逃げてしま
い、時局を好転するに必要なる縦横な機略は姿を潜めて出て来なくなるのであります。

 取越し苦労や心配が心の底から湧き起こるときには、ただちに心を一転して「われ神の
子である、われ神と偕に生く、われ神と偕に歩む、わが砦は神であるから恐るるところの
ものはない」と断々乎として心の中に唱えて自分自身に言って聞かすようにする習慣をつ
けるがよい。またヘンリー・フォードが考えたように、人生の体験はどんな体験でも失敗
はない、どんな体験も次なる成功に達する一階段であると喜んで勇んで、その現在の地点
を足場として明朗な心境で新たに出発するものは必ず最後に成功するのであります。
柔道という武術は自分の不利の地点をそのまま自分の利用すべき足場として相手を投げる
のです。

すなわち向こうから衝いてくるとか、引っ張り込むとかしてくる。衝かれるとか、引かれ
るとかいうことは自分が重心を失う危殆の時なのです。それをそのまま利用して引っぱら
れれば敵の懐に飛び込み、突かれればその力を利用して敵の姿勢を引き落とす。柔道の
試合には、相手が技をかけてくれる時の勝利の好機会なのであります。われわれの事業に
おいても運命がわれわれを危殆に引き摺り込もうとする時こそ、その運命の懐に飛び込
んでその「不幸」に背負投げを食わすべき好機なのであります。逆転を幸運の足場になしう
る人にしてはじめて人生の常勝者なることができるのであります。

             次の項目に続きます。
❤〜SAKURA

3130トキ:2014/11/20(木) 09:41:50 ID:EQq/iyn.
御礼

 SAKURA様、a hope様、すばらしい御文章を紹介してくださり、心から感謝申し上げます。
多くの閲覧者様もお喜びだと思います。
今後ともよろしくお願いします。

合掌 ありがとうございます

3131SAKURA:2014/11/20(木) 23:24:03 ID:???
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■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】

(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行
*========*【 躓く刹那に光明に転向せよ ―その1―【 転載編 ―】*=======*=

■□われらはたとい躓くことありとも渋面せず、その瞬間起き上りて光明に面せんことを期す。!!

■人生にはいろいろのことが起こって来ます。それは無限創造の世界であるからでありま
す。われわれが自分だけの小さき立場から、かくあれかしと祈っても、事件は自分の欲す
るとおりに展開しないことがあります。しかしそれは神が諾き給わないのだろうか。否々
否、この時こそ神がわれらにいっそう大なる生長を遂げしめんためにわれわれの内部より
無限の力を引き出さんとしてその動機を与え給うているのであります。

 あまりに裕福な家庭に生まれ、欲しいものはすべて親より与えられ、なんの労苦なくし
ていっさいの必要品が贅沢に揃えられるというような家庭に育った子女たちは一面におい
ては誠に不幸な人たちであります。なぜなら、そういう人たちは、すべて善き物はこと
ごとく外からのみ与えられて、自分自身の内部から生み出す機会を恵まれないからです。

本当の幸福というものは、自分の内にあるところの善きものを生み出すことにあるのです。
他から与えられた幸福は他が立派な着物を着ているのと同じであって、自分自身の立派さ
でないのです。自分自身が立派になることのほかに自分が幸福になる道はないのです。自
分自身に力がつくよりほかに自分の強くなる道はないのです。

                 ―その2― つづく
❤〜SAKURA

3132a hope:2014/11/21(金) 09:16:30 ID:cEpBaIdo

>>3128 つづき) p35 後から3行目〜

日本国家は西洋の国家の様にバラバラの個人が民主主義の精神によって、ただ個人の幸福を得るための機関又は道具として、個人が代表者を立てて契約して、国家を形成したと云うような国家ではないのであります。

外国の国家は〝State〝(ステイト)と云う。「ステイト」と云うのは、「状態」と云うことである。

人間と人間とが生活をするのに、ただ個人ひとりずつでは淋しいし、或いは敵が攻めて来たり、或いは猛獣が襲って来たりする場合に、それを防ぐために個人では都合が悪いから団結をして護ろうじゃないか、と互に約束して、そこに或る集団状態があらわれた、これが state(ステイト)であって、訳せば契約国家とでも申しますか、そう云う単なる状態とは、日本国家は異なるのであります。

この日本国家は個人の利害関係の集国ではなくして「真理」を体現したところの「真理国家」なのであります。日本の建国は〝天孫降臨〝 にはじまると云うのは「天之御中(あまのみなか)」の理念の降臨にはじまると云うそれであります。

日本民族と云うのは、天之御中主神(あまのみなかぬしかみ)の理念を承(う)継いで、その生命(いのち)を出発さした、即ち「命(みこと)」の自覚に依って生まれた特殊な存在を保つ。

その「命(みこと)」即ち「命(いのち)」の本質は何処から出て来たかと云うと、天之御中主神なるところの、○を貫くところの、宇宙普遍の真理――其処から生まれたところの生命であるのであります。

そして其の宇宙を貫くところの原理は⦿(ス)の原理であり、中心帰一の原理でありますから、その原理の体現としての日本国は、中心帰一の理念が天降(まくだっ)て来て、〝中心帰一国家〝 と云うものを其処に形成することになったのであります。

理念が先にあって、理念が形として現成して国家となったのでありまして、人間の個々別々のバラバラが契約をして自分の都合のよいように拵(こしら)えた「道具」や「機関」としての国家ではないのであります。


天之御中主神の「中(みなか)」の理念が天降って、天孫降臨(理念の降臨)となり、それが具体化して神武天皇の〝八紘(はっこう)を字(いえ)と為す〝 (八方の国々を一家庭的邦(くに)とする)即ち世界連邦の基礎国家としての「大和」の国の建国となったのであります。
(つづく)

3133SAKURA:2014/11/21(金) 22:38:57 ID:???
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■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】

(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行
*========*【 躓く刹那に光明に転向せよ ―その2 ―【 転載編 ―】*=======*=

■かかる意味において逆境はわれわれを鍛えて、われわれの中味の善さを出してくれる
冶金の坩堝なのです。坩堝の中へ投げ入れられて、われわれは鉛か金か、鍍金か本物かが
わかるのです。われわれは好んで逆境を招ぶのではありませんが、逆境がいかにわれわれ
を捉えようとも、それはわれわれをいっそう聖化し強化するところの機会だとして、内よ
り奮迅の力を揮い起こすものはついに大成して逆境を却下に蹂躪(ふみにじ)ることがで
きるのであります。

 されば逆境の来るごとに莞爾として微笑せよ。これは「生長の家」の生活であります。
微笑は心の中に光明を点じていっさいの苦難を耐え易(やす)からしめ、失われたる希望を
喚び(よび)起こし、再起の勇気を奮い立たし、暗黒なる生活を光明に転向せしむるのであ
ります。

キリストは「死にし者に死にし者を葬らせよ」と言っています。すでに来れる逆境を嘆いた
とてなんになりましょう。すでに来り終われるものは「すでに死せる者」なのです。
「すでに死せる者」について嘆いてみたとてなんになりましょう。
すでに来り終われるものを嘆き悲しむ暇あらば、莞爾(かんじ)として新しき幸福に突進す
べきであります。光明に満てる微笑こそはわれらによき運命の微笑を招ぶのです。
我れ渋面すれば運命も渋面するのです。

「嬉しいぞ、これから運命が開けるのだ。」苦難に捉われず、難関の来るごとに、莞爾とし
て微笑しつつ奮迅の勇気を奮い起こすものこそ生長の家の生活であって、必ずいかなる難
関をも征服して自己自身の力で幸福なる運命を建設することができるのであります。


                次の項目に続きます。
❤〜SAKURA

3134SAKURA:2014/11/22(土) 22:48:48 ID:???
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■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】

(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行
*========*【 隣人を光明生活に活かせ ―その1 ―【 転載編 ―】*=======*=

■□われらはできる限り悩める隣人を扶けてその暗黒なる生活を光明に転向せんことを期す――

■人間は自己が幸運を築き上げたばかりで満足すべきではありません。

自己が幸福になったならばこの幸福を人に及ぼさなければなりません。
われらは肉体的に周囲の人とはなんの関係もない一個の孤立存在のように見えていまし
けれども、その実、われらはことごとく一体なのでありますから、周囲の人が本当に幸福に
ならない限りは、自分一個人も本当に幸福にならないのであります。

単に病気の問題のみからいってみましても、良人の病気が妻の心の反映から来ている場合は
ザラにあります。妻の病気が良人の心の反映から来ている場合もたびたびあります。子供の
病気が親の心の反映で起こっている場合もたびたびあります。

さらに祖先の霊魂の霊界での悩みが現実の世界の子供に不幸や病気を起こしていて、祖霊に
対して『生命の実相』の一節を読んで聞かせるだけで子孫の病気が消えたり、運命が好転し
たりしてくる場合がたびたびあります。

そのほか他人の嫉視憎悪反感がわれらに不幸をもたらし、それが解消することによって不幸が
消えてなくなることもあります。

このようにわれわれの肉体とおして離ればなれのように見えても、心の世界では一つでありま
すから、自分自身が本当に幸福であるためには、推し及ぼして周囲の隣人をも幸福にしてあげ
なければならないのであります。

ある場合には扶けてあげることもよろしい。しかし物質で扶けることは一時的の救助になっても
永遠の救いとはならないことが多いのです。物質で扶けてもらう習慣性がつきますと、その人の
他に頼る依頼心が増大し、かえってその人の永久の救いとならないことが多いものです。

ですから隣人を救うには、心に光明を点ずる方法を教えてあげる方がいっそうよろしいのであり
ます。
                ―その2 ―につづく
❤〜SAKURA

3135a hope:2014/11/22(土) 23:34:47 ID:cEpBaIdo

>>3132 つづき)p37 後から6行目〜

大和(ヤマト)の国は「大和(だいわ)の国」である共に、単なる集団の国ではない、天津日嗣(あまつひつぎ)の国である。天津日嗣とは、天之御中主神の「中(みなか)」の理念が天降(あまくだ)って来ることを言うのであります。

日嗣の「日」は「霊」であって「霊的理念」のことであります。「中(みなか)」の理念をさながらに承(う)け継いで、そしてその姿が国家として顕われたのが、「天皇を中心とするところの国家」である。

其処にある天皇の権威と云うものは、真理の体現者としての権威であって、決して個人が強いから天皇になって、その権力に依って人民を圧(おさ)えているのではないのであります。

そしてその天之御中主神の理念の実現としての真理国家たる日本軍の中心核体として其処に天皇が顕われていられるのであります。随って天皇を中心と仰ぐ日本国家の形態は、天皇の人民支配の手段としての国家形態というようなものではないのであります。

(つづく)

3136a hope:2014/11/23(日) 19:10:21 ID:cEpBaIdo

>>3135 つづき)

だから日本国は「天皇国家」であると云っても専制君主的なところは微塵もなく、宇宙の真理、即ち神意の地上顕現の至純至高の理想形態としての日本国家の形成であります。

天皇あるがゆえに人民あり、人民あるが故に天皇あり、天皇と人民とはその生命の本源に於て一体であり、それが、天之御中主神の理念に随(したが)って所を得ているのです。

どんな細胞にも、どんな電子にも、どんな太陽系統にも、みんな「中心帰一理念」と云うものが現れているのであります。国家だけが中心のないバラバラの存在であると云うことは宇宙意志に自然の発現にそむくわけであります。

その「中心帰一理念」と云うものが、現象界に天降ってきて自然に中心帰一国家を最も理想的に形成したのが日本国でありますから、日本の国家は「宇宙真理」即ち「神の御心(みこころ)」の地上顕現の最も純粋であり、最も高き形態としての国家であるといい得るのであります。
(つづく)

3137SAKURA:2014/11/23(日) 22:59:24 ID:???
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■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】

(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行
*========*【 隣人を光明生活に活かせ ―その2―【 転載編 ―】*=======*=

■といって、全然「物質」で隣人を扶けるのが悪いというわけではありまえん。

「物質」で人を扶けてよい場合は、それは長途の坂道を重荷の車を曳いて疲労しきり、
もうそれ以上は一歩も車を曳いて上がる力もないし、といって力を一歩緩めたら車が逆転
してその人がはずみをくらって真逆様に谷底へ墜落しそうな場合です。こういう時には一時、
重荷を肩代りして曳いてやるのが、その人の内から力を喚び出すことになりましょう。

しかしその肩代りは暫時でなくてはいけません。常に肩代りして重荷を別の人が曳いて
やりますと、本人の筋肉は衰え、自助の勇気は減じ、依頼心は増長し、相手を扶けようと
して相手を弱めることになるのです。これは病気の時に物質薬で扶けるのも同じことです。

本人の体力が疲労困憊、みずから栄養を消化吸収する力なきある時期に、消火剤や栄養注射
やリンゲル注射が効を奏することもありましょう。
それは長途の坂道で疲れて転落しようとする人の重荷を代わって担ってやるのも同じことです。

しばらく他者(ひと)に重荷を肩代りしてもらっている間に、その人が活力を回復する――
その時再び重荷をみずから担うように、生命をみずから生きるように、重荷を本人の肩へもど
すことが必要なのです。

医者が薬を用いるのも、人生の行路に物質で扶けてあげるのも、よく相手を観察して
この心遣いが必要なのです。いつも物質を与えるばかりで人を助けるのは、年中消火剤を
与えて胃腸を丈夫にしようとするのと同じことです。

そんなことをすれば本人自身の消火液の分泌量は減ってしまうと同じように本人自身の
自活能力は減ってしまうのです。これでは人を助けたことにならないのです。
本当に助けることは本人自身の力を強め、価値を高め、その人格を向上さし、
神の子そのまま自主的完全さにまで生長せしめてあげることでなくてはなりません。

              ―その3―につづく
❤〜SAKURA

3138a hope:2014/11/24(月) 18:57:37 ID:cEpBaIdo

>>3136 つづき)

国家を単に国民が幸福になるための施設であると見て、個人が幸福になれないような日本国家ならつぶしてしまって、ソ連の様になった方が都合がよいじゃあないか。

アメリカのように大統領でもいいじゃあないかという人もあるそうで、鈴木茂三郎氏のことを或る党員は「大統領、大統領」と言って居たともききましたけれども、日本国家は大統領や書記長で治めようと思っても、それはいけないのです。

仮にアメリカが大統領でうまく治(おさま)って行ったとしても、ソ連が書記長でうまく行っておるとしても、そんな事はまた別の建国の歴史をもった他の国のことであって、日本には日本としての抜きさしならぬ歴史を背負った特殊性があるのであります。

日本民族というものが如何(いか)に何処(どこ)から如何なる自覚を持って生まれて来たか。古事記に表れたような民族神話をつくり「命(みこと)」の自覚を代々継承して今日に至る、そう云う霊的歴史的伝統のすべてを背負って、今此処に出現しているところの日本民族の特殊性というものを知らなければならないのです。
(つづく)

3139a hope:2014/11/24(月) 18:58:27 ID:cEpBaIdo
>>3138 つづき)

民族の特殊性を強調しますと、それは偏狭(へんきょう)であって、人類的でなくなるように思う人もありますけれども、実は決してそうじゃあないのであります。
どの民族でも、その民族固有の特殊性を完全に発揮することに依(よ)って、却って全人類が幸福になるのであります。

それは何故かと申しますと、吾々は人間でも、頭脳は頭脳としての特殊性を持って、その特殊性が「考える働き」であるとするなら其の「考える働き」という特殊性を頭脳が完全に発揮する時にはじめて人体が最も完全に、その生理機能を営むことができるのと同じであります。
手としての特殊性を完全に発揮することに依(よ)って人体全体が幸福になるのであります。

全ての世界各国の民族も、民族各々(おのおの)の特殊性をよく自覚して、その特殊性を発揮することに依って人類全体が本当に幸福になるのであります。

そう云う訳で、日本の国家にも其の個性的な特殊性がある。即ちそれは上述の如き真理国家であって、天之御中主神の理念そのものが実現している万邦無比(ばんぽうむひ)の国体であると云うことである。

今の中学生や高等学校の生徒に「国体」と言ったら、「国民体育」の略称かと思って、「真理国家としての国体」などと云うと何の意味かもわからぬ人がある。
真に残念な事でありますが、解り易く言いますと、其の〝国〝 の本来の在り方として内在する「国家理念」と言うものが国体であります。
「日本国の実相」と云ってもよろしい。
日本のそうした「国の本来の在り方」と云うものはまことに素晴らしいものなのであります。

即ち大和国(ヤマトくに)を基礎国家として、「六合(りくごう)を兼ねて都をひらき、八紘(はっこう)を掩(おお)いて宇(いえ)と為し」世界の国々をこわすことなく一つの家庭的つながりの国とする使命を内在する国家なのであります。

私たちがこのような国に生まれたことは実に有難いことであると云う自覚を持たなければならない。
その自覚は自分だけが持っていたら、それで足れりとするようなものではない。
この箇条の最後に書いてありますように、各自互に明確に自覚し合わなければならない。
「自覚し合う」のであって、互にその自覚を研(みがき)合い、「その行動の根拠となし合う」べきであると示されているのであります。

(第五条 雅春先生のご解説終わり)

3140a hope:2014/11/24(月) 20:19:34 ID:cEpBaIdo

>>3106>>3139 まで、「人類光明化運動指針」第五条とその雅春先生の解義を謹写しました。


よく本流の先輩方が「生長の家の運動」とは、「人類光明化運動」と「日本国実相顕現運動」であり、
どちらも「生長の家の運動」であるとご主張されています。

聖典「生命の實相」だけを勉強していると、「人類光明化運動」に関してはとても詳しく書かれているのですが、
後者の「日本国実相顕現運動」に関してはまったくといっていいほど書かれていないので、
わたしには「日本国実相顕現運動」というのが、具体的にどんなことをするのかまったくわからず、
「生長の家」が日本国に出現した本当の理由や日本民族の使命なども殆ど興味のない状態でいました。

今回、人類光明化運動指針を勉強していて、生長の家の「万教帰一の教え」が、
なぜ、日本国に出現したのかようやくわかってきました。


ところで、生長の家の著書には二種類あるのだと思います。

一つは、「生命の實相」を代表とする「聖典」であり、もう一つは「愛国書」なのではないかと思います。

生長の家の教えは日本国内にとどまらず、世界各国に広がり、「生命の實相」等の「聖典」は各国語に翻訳されて、
たくさんの外国人の方にも読まれているのだと思いますが、愛国書の方はどうなのでしょうか?


今回、「人類光明化運動指針」第五条を丁寧に勉強してみて、
たしかに、日本民族が「生命の實相」の真理を具体的な宗教という形で信仰して行くのであれば、
天皇信仰になるのが当然であるということがわかりました。


ですが、世界中の(日本国内であっても)キリスト教や仏教、その他の宗教を信仰されている方々には、
生長の家の「愛国書」に書かれているような、日本人の愛国心や天皇信仰は理解され難いのではないでしょうか?


「生長の家」の著書が「聖典」と「愛国書」にハッキリと分かれている理由はそこにあるのではないかと感じました。


そこで、雅宣先生は国際化が進む現代の日本において、
「生長の家」が日本民族独特の天皇信仰に固執していることを時代にそぐわないと判断され、、
愛国書の数々を重版停止にしたり、「鎮護国家」を「世界平和」にされたり、
世界的にも通用しそうな絶対神である天之御中主神を総本山にお祀りされたりしているというわけですね。


うーん、雅宣先生のお考え方もわからないではないのですが、やはり、そのような強引な変更は、
今迄真面目に「生長の家」を信仰してきた信徒の方々には心境的に受け入れ難いのではないかと拝察しています。

特に今回の「天之御中主神のお祀り」に関しては、わたしのような入信浅い信徒であっても、
「生長の家」の神聖な伝統が汚されてしまったようなとてもいやな感じがしています。



今日は、一日特別予定がなかったので、『生長の家の「人類光明化運動」と日本民族の特殊性について』を、
今迄謹写してきた「菩薩は何を為すべきか」の文章を抜粋しながら小見出しをつけてまとめています。

後で、こちらに謹写させていただきます。 合掌。

3141a hope:2014/11/24(月) 22:04:50 ID:cEpBaIdo

『生長の家の「人類光明化運動」と日本民族の特殊性について』をまとめたものは、
生長の家 「今の教え」と「本流復活」を考える/4 に、謹写させていただきました。

http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/11346/1341453150/2879n-

3142SAKURA:2014/11/25(火) 23:00:30 ID:???
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■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】

(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行
*========*【 隣人を光明生活に活かせ ―その3―【 転載編 ―】*=======*=

■ このように他を救うということは、金のある人がただ金のみをダラシなくやってさえお
けばそれでよいというような簡単なものではありません。それには深切なる心遣いというも
のが必要なのです。

ただ機会(チャンス)が儲けさせてくれた金をなんの思慮もなく振り撒いて歩くのが他を助
けることでありますならば、そんな人助けは自分自身を富ませることはできません。
それはただの「ダラシ無さ」です。『ダラシ無さ』は自分の知恵の貧しさ意思の弱さの現われ
でしかありません。
そんあことでは自分自身は生長しないのです。何事にでも賢き思慮が必要です。

「物質では短期間扶けよ。温かい愛では常に助けよ」とは生長の家の標語であります。
温かい愛はいくら常に与えても与え過ぎるということはありまえん。明るい希望に満ちた深切な
言葉、優しい眼光(まなざし)、愛情のこもった手紙、好意に満ちた握手、愛橋ある微笑、「何、
大丈夫だよ、」という激励、「愛する兄弟姉妹!」と呼びかわす言葉――これこそ永久に癖になら
ない魂の強壮剤であります。かかる光明を照らすような交わりこそ生命の泉であります。

その生命の泉に触れるときわれわれの衰えたる活力は蘇生(よみがえ)るのです。
これは、外のものに頼るところの依頼心の増長ではありません。われわれの愛が、相手の内に
埋蔵(かく)されていた無限の力を喚び起こすのです。これこそ本当に隣人への助けです。

生長の家の誌友は互に兄弟なのですから、ただひとり聖典を読んで高慢に他を批評するような
のは本当の悟りではありません。本当の悟りは人間互いに兄弟であることを悟って、互いに好意
の花葩(はなびら)を投げかけ合うことです。好意ある微笑、希望に満ちた光明の掛声こそ失意
のドン底にある人々にとってどんな物質的扶助(ぶっしつてきたすけ)よりも、大いなる助けに
なるのです。

 悟りとは、人を審判(さば)くところの鋭い知識のメスを研ぎすますことではありません。
悟りとは、広く大いなる明るい人物となることなのです。悟りとは山に籠って行ない澄まし
ていることではありません。市(まち)に下って誰にてもあれ、魂の光明を打ち開いてその光で
相手を包んでしまう人のことです。

               ―その4― につづく
❤〜SAKURA

3143SAKURA:2014/11/28(金) 22:17:42 ID:???
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■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】

(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行
*========*【 隣人を光明生活に活かせ ―その4―【 転載編 ―】*=======*=

■われのわれの心が狭くなれば、われわれは生長したのではなく、縮小したのです。宗教
家が宗派で互いに相争っているのは醜いことです。彼らは「縮小」を「生長」と思い違いして
いるのです。誰にてもあれ、人を審判く(さばく)一つの尺度を持つようになったならば、
その人には「型」ができたのであり、「殻」を造ってその中へ入ったのであり、大きくなる
代わりに小さくなったのであります。
その時その人には人を排斥する力ばかり強くなり、容れる力がなくなって、味方となるべき
はずの人も逃げ去り、事業の発展は停ってしまうのであります。

 皆さんはただその人の側へ坐るだけでもなんとなく険しい、気詰まりな、憂欝な、窮屈
な感じを受け取る人がありましょう。またある人の側に坐ると春風駘蕩のような感じがし
て、何でも打ち明けて話したい、その人の胸に飛び込んで抱擁されたいような感じがする
ことがありましょう。これは人それぞれの人格の雰囲気でありまして前者のような感じが
する人は何事をやっても発達しない人であり、後者のような感じがする人は何事をやって
も発達する人であります。

 では、どうして人格の雰囲気にこのような相異を来すのであるかと申しますと、それは、
その人おのおのの心の習慣によるのであります。常に明るい打ち開いた秘密のない朗らか
な心をもち、深切な言葉、優しい微笑を投げかける習慣をもちつづけているものは、終に
はそれが習い性となって、誰にも頼られるところの温かい柔かい雰囲気を放散する大人物
になることができるのであります。かかる人物は何をやってもそれを扶ける人々が集っ
て来、その仕事を成就するために働いてくれるのであります。

 これに反して、美点を見出す代わりに常に鋭く人々の欠点を見つけ出し、何でもその人
の口にかかったら、陰口や、誹謗や、不平の種にならない物はないというような人々は、
どんなに知恵者で頭脳が発達していましても、その人の行くところい冷たい雰囲気が
漂い、人々が叛き去り、運命も彼に対しては酷薄となり物事成就せんとして破壊するに
到るのであります。人を生かす者は自分も生き、人を殺す者は自分も殺され、他の欠点を
指摘する者は、自分の欠陥をも審判かれるのであります。

                  ―その5― につづく

❤〜SAKURA

3144SAKURA:2014/11/29(土) 22:45:56 ID:???
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■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】

(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行
*========*【 隣人を光明生活に活かせ ―その5 ―【 転載編 ―】*=======*=

■もし、あなたの生来(うまれつき)が冷淡な鋭い性質の人であったとしましたら、努めて、
心を温かくし、円満にし、できるだけ人の美点を見るように努め、出す言葉もできるだけ
丸味のある柔かい深切丁寧な言葉を出すようにしてごらんなさい。
あなたの周囲がどんなにか光明化することでしょう。

今まであなたに冷淡であった人々が深切になり、今まで強情であった家族が従順になり、
今まで冷たい沈滞した空気に満ちていた家庭や事務所が温かい繁栄にの気に満ちたところ
となるでしょう。

そしてそこは生長の家となるのです。

 生長の家とはわたしの家の名前でもなければ、また「生長の家」という表札を出してある
大きな建築物をいうのではないのです。心の法則に随って宇宙生々の雰囲気を漂わしている
皆様自身の家庭が生長の家なのです。そういう家庭の満つる国家は、「生長の国家」であり、
全世界がそういう国家ばかりになったら、地上に天国が成就したことになるのです。

何でも一歩からです。まず一人が和顔愛語の「生長の人」になることが肝腎です。顧みて自
分が和顔愛語の人たらずして、人の好意と深切とを受ける雅量なく、順序を誤ったからど
うだとか、体面にかかわるからどうだとか、手続きにまちがいがあるからどうだとか、形に
あらわれている一つ一つの欠点を拾い上げて、相手を審判(さば)いているようなことでは、
あなたの事業は生長の家でなくて伸びるべきものも伸びなくなるのですあから、この点大い
に御注意ありたいのであります。
                ―その6 ―につづく。

❤〜SAKURA

3145トキ:2014/11/30(日) 19:15:37 ID:ZDU4CADo
 素晴らしいご投稿、ありがとうございます。
続きを楽しみにしております。

3146SAKURA:2014/11/30(日) 22:38:11 ID:???
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■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】

(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行
*========*【 まず自分に深切であれ ―その1 ―【 転載編 ―】*=======*=

■□われらは自己の好むところを他に施し、自己の好まざるところを他に転嫁せざらんことを期す

■この「生長の家」の生き方はどこから出てくるかと申しますと、われわれの実相から出て
くるのであります。自分の好まないところを他人に施さず自分の好むところを他人に施す、
これは実践道徳上の最も根本となる指導原理であります。

生長の家では「自分に深切であれ」という金言があります。
世間普通の道徳では「他人に深切であれ」というのでありますけれども、生長の家ではまず
「自分に深切であれ」というのであります。キリスト教の聖書にも「己を愛するがごとく神を愛せよ」
あるいは「己を愛するがごとく隣人を愛せよ」といううような言葉がありますが、
この聖句を考えてみますに、「己」というものが、神を愛し隣人を愛する基準になっているので
あります。

神を愛するのも、己を愛するのも、まず「己を愛するがごとく」でありますから、
もしわれわれが本当に自分を愛することができなかったならば、本当に神を愛することも、
また本当に隣人を愛することができないのであります。

それで、われわれの道徳の根本基準になるのは、いかに自分を愛することができるか、
という程度にあるのであります。
それでは「自分自身を愛する」とはどういうことであるか、と申しますと、
自分というものを最も尊敬すること、自分の実の相を本当に知って尊敬することであります。
自分の実の相が神の子である、あるいは仏の子であるということを根本的に知ることこそ、
自分を本当に愛するということになるのであります。

                  ―その2 ―につづく
❤〜SAKURA

3147SAKURA:2014/12/01(月) 22:51:22 ID:???
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■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】

(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行
*========*【 まず自分に深切であれ ―その2 ―【 転載編 ―】*=======**========*

■普通世間の人は「自分を愛する」といえば、自分が金儲けするとか、あるいは地位や名誉
を得るとか、そういう利己的なことで得をすることを「自分を愛する」ことだと思っていま
すけれども、それは本当は自分を愛するものではないのであります。

自分自身を愛するということは、自分自身を最も大きく観るということであります。
この自分自身を最も大きく観ることができる人にして、はじめて他の人をも最も大きく
観ることができるのです。

自分を愛する程度にしたがって本当に他をも愛することができるのです。人間なんてつま
らないものだと考えて自分を軽蔑している人は、その同じ人間であるところの他人をも軽
蔑する人であります。

 われわれはよく、お客さんが来られますと、煙草の好きな人にはさっそく煙草盆を出し
ます。それから甘いものの好きな人には甘いお菓子を出します。わたしの例をとってみま
すならばわたしは今は食欲が正しくなって甘いものをあまり好まなくなりましたが、前に
は甘いものが大変好きでありましたから、煙草の好きな人が来られても煙草盆を出すこと
には気がつかないで、「お菓子を持っておいで……」と命令してお菓子を出させたもので
あります。

そうすると、お客さんの方から、
「ちょっと済みませんが、煙草盆か灰皿かを貸して下さいませんか」と請求される。
そうして「ああこの人は煙草が好きなんだ」と思って気がついて灰皿を出すという始末です。

ところが私自身は煙草の煙は大嫌いなんです。
嫌いなものだから、嫌いなものを人に与えては済まないというような気持がするものです
から、甘い美味しいお菓子をあげようというつもりで、甘いお菓子を出すのですけれども、
その相手の人が甘いものが嫌いで、煙草が好きだというような場合には、こちらのせっ
かくの好意が無駄になるというようなことが往々にしてあるのであります。

               ―その3 ― につづく
❤〜SAKURA

3148SAKURA:2014/12/02(火) 22:04:38 ID:???
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■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】

(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行
*========*【 まず自分に深切であれ ―その3―【 転載編 ―】*=======**========*

■ある時わたしが大阪にいる中學時代の友人のところへ久し振りに訪ねて行ったことがあ
りましたが、中學を出てから十年以上も逢わないでおりまして、突然そこの家へ行きまし
たら、その友達が大変喜んでくれまして、大きな湯呑に茶を入れてわたしの前へ置いてく
れたのであります。

わたしは茶を飲むのが大好きで、それも煎茶茶碗の底にひっついているようなのは嫌いで、
大きな湯呑にたっぷり入っているのを、なみなみと呑むのが好きですから、
「この友達、さすがに古くからの友達で気がきいている」と思いまして湯呑を取って飲ん
でみると、茶であるかと思いのほかそれは酒だったのであります。

この友達は学校卒業後たいへん酒が好きになって、近頃で茶の代わりに酒を飲んでいる――
そういうふううな人であるのでありますから、その人にとっては自分は酒が大好きであるから、
酒を饗応することは、最も隣人を愛する所以であるとこういう具合に思うておられたのであり
ます。

こんな具合でわれわれは自分を大酒飲みだと思ったら他人をも大酒飲みのように愛する。自分を
甘党だと思ったら、甘党のように愛する。そして自分が神の子だと思ったら神の子のように愛する。

なんでも自分が基準になるのでありますから、われわれが本当に隣人を愛しよう、兄弟を愛しよう
と思うには、自分自身が本当に高くなり、自分自身をいかに愛するかということを知らなければなら
ない。そうでなければ、愛しているつもりで相手を突き落としていることがあるのであります。
                 
  ―その3― につづく

❤〜SAKURA

3149SAKURA:2014/12/03(水) 23:03:17 ID:???
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■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】

(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行
*========*【 まず自分に深切であれ ―その4―【 転載編 ―】*=======**========*

■先日ある誌友が来ておられまして、女の方でありましたが、「自分の子供がどうも利己
主義であって人には良いものを寄越さないで自分が一番いいものを取ろうとする、これを
どういうふうにして直したらいいものでしょうか」というふうな質問をされたのであります。

それでわたしは「それはあんた自身の心が映っているのでありませんか、あんたはこれは
自分に一等良い、一番良いと思うものを、本当に取りたくありませんか」と言いましたら、
その御婦人は腑に落ちぬような表情で、どこが自分が利己主義なんだろうかというような
表情で、ちょっと考えておられたのであります。

それでわたしは、「もしあんたの坊ちゃんが今度中學学校へ入学試験を受ける、そういう時
には自分は一番良いものを取りたくないのだから、できるだけ下の点数を取って落第する、
こう言われたらあんたはどうせられますか」とお尋ねしたのであります。

それにはその婦人お困りなった。やはり自分の子供は一番良い点数で入学させたい、自分の子が
一人入学すれば、他の一人は落第するのだけれど、それは仕方がたがないと思っていられる。
それにかかわらず、自分の子は利己主義で困るといわれる。その人にとっては道徳の標準という
ものが本当には決まっていないのであります。ある場合には、自分の子供が一番良いものを取る
ことは利己主義で困ると思うているが、そうかと思うと学校入学の席順は他を突き落としても
自分の息子は一番良いのを取ってくれなければ困る、とこう思うておられる。

こんなことでは本当に他を愛するということはできないのであります。ところが
この本当に自分を愛する、あるいは人を本当に愛するということは、そういう
一つ一つの行為について、一番良いものを取るからいけないの、一番わるいものを
取ろうと心掛けなにのがいけないのだというふうなものではないのでありまして、
根本にわれわれは自分自身を本当に愛するということから出発して行く時に、はじめて
隣人をいかに愛するべきかということがわかるのであります。

自分自身をいかに愛するかといえば、自分を神の子と感じ、自分を仏の子であると感ずる、これ
が本当に自分を愛することなのであります。自分を本当に神の子だと感じ、自分の子供も神の子
だと感じ、他人の子供も神の子だと感ずるようになりますと、受験にだって自分の子供が正々堂
々と一番良いものを取ってもいいことがわかる。みだりに他にセンチメンタルな愛情によって、
実力が出ないうちに、試験にお情落第させてもらうような卑怯なことを、相手の神の子にさせよう
とは思わなくなる。みんな一番良いものを取ってよいということがわかるのであります。

自分の子も神の子、他人の子も神の子ということになれば、少しも依怙贔屓のない道徳が確立する
のであります。

              ―その5―に続きます。

❤〜SAKURA

3150SAKURA:2014/12/04(木) 22:29:52 ID:???
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■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】

(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行
*========*【 まず自分に深切であれ ―その5―【 転載編 ―】*=======**========*

■ある人が、自分を豚の子のように思って軽蔑し、そうして自分の子供をも豚の子の
ように軽蔑していい罵っておったら、その子供が豚の子のように蒲団の上で寝小便
するようになって、親の心が一変するまでは、それがどうしても治らなかった。
それが人の子を「神の子」だと考えていないで豚の児のように考えていた。その考えが
治らなかったからです。

その点を生長の家の講師が指摘して、
「あんたは自分の子供を豚の子のように思っているから、それで寝床に寝小便するので
すよ。そんな豚の子のように人間の子供を軽蔑してはいけない、自分の子供は「神の子」
であるということを本当に思いなさい」と言って諭されたら、その晩から豚の子が本当の
「人の子」になって寝床に小便ををしなくなったという実話がありますが、結局(つまり)、
この自覚が大切であります。

われわれは自分自身が神の子であるということを、ともすれば忘れがちであります。
自分自身が「神の子」であるということを忘れるがために、相手もまた神の子であると
いうことを忘れてしまうのであります。

自文自身が仏であるということを忘れてしまうから、相手もまた仏であるとうことを
忘れてしまうのです。そういうことでは本当に自分を愛することもできなければ、
他をも愛することができない。

それでは
「己を愛するがごとくに隣人を愛せよ」
あるいは「己を愛するがごとく神を愛せよ」という教えを守ることができないことに
なるのであります。

 それでですから、本当に自分を愛するというのは、自分自身を最も価値あるものに
すること、自分自身を最も高き価値まで繡(たか)め揚げるということにほかならな
いのであります。

では、自分を最も高き価値まで繡め揚げるとは、いったいどうすることであるかと
申しますと、必ずしも学校で一番の成績をとるということではないのです。
自分が「神の子」になり、「仏」になるということである。

すでに「神の子」であり「仏」であるところの人間の実相(ほんとのすがた)を、
「今」自覚すること――これがいっさいの信仰の、いっさいの道徳の中心になり、
出発点になるのであります。

キリストは聖書の中で「神の子」というところを「人の子」といって両語を混雑して
使っていますが、これは、本当に「人の子」は「神の子」であるという自覚からくる
のです。

自分が神の子であり仏であるということを知らなければ、すべての道徳は中心を失い、
柱を失ってしまって、どうしてよいかわからなくなるのであります。

 ―その5―に続きます。
❤〜SAKURA

3151SAKURA:2014/12/06(土) 21:36:12 ID:???
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■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】

(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行
*========*【 まず自分に深切であれ ―その6―【 転載編 ―】*=======**========*

■では、仏とは何であるかと申しますと、これは解けることである。
いっさいの縛りとなるもの、いっさいの凝りというものから解けてしまって、解脱した状態に
なってしまう――その解脱(ほど)けた状態、これが仏であります。

この自分自身が解脱した状態になって、自由自在な窮地になって、その自由自在な境地を愛する
ことができて、はじめて他の人々の人格の自由を完全に生かす愛ができてくるのであります。

 ですから、われわれはまず自分自身をはっきりと把(つか)まなければならないのであります。
自分自身が神の子であり、仏であるということをはっきり把んでしまって、何ものにも執われ(とらわれ)
ない、自由自在な相というものを自覚して、そうして自分は神の子であると自分自身を愛し礼し、
己を愛し礼するごとく、そのごとく他に対して、神の子として、仏として尊敬し、敬い、人の内に
宿っているところの実相――神性というものを生かしてゆくようにする、これが本当に自己を
愛するごとく他をも愛するということなのであります。

 ですから、自己を愛するかのごとく人を愛するということは、要するに自分と他とが一つで
あるという根本実相(ひとのほんとのすがた)から来るのであります。自分と他とが一つである。
自分と他とが一つでなければこの愛ということは成り立たないのであります。

自分と他とが全然別のものであったならば、自分の喜びが他人(ひと)の喜びであると
いうはずがない、他人の悲しみが自分の悲しみであるというはずがないのであります。

 ですから、われわれがじぶんの好むところを他に与え、他(ひと)の欲せざるところを
他に転嫁しまいと思うのは、要するに自分というものと他人(ひと)というものが、本来同じもの
である。

同じものであるから同じように感ずるものであるという根本的な直観的認識から来るのであります。
この「自他一体」の直感認識がなければ道徳的価値評価というものは成り立たないで
いっさいの行為はバラバラで道徳的にはなんらの価値もないということになるのであります。

このように道徳とは自他一体の直感認識から始まって、自分の喜ぶ状態に他をもしてあげたいと
いう願いに始まるのですから、自分の実相が仏であること、そしてこの仏のの相とは何ものにも
縛られない自由自在なものであるということを自分自身に自覚した人のみ、本当に人々にも
その人の実相すなわち仏を自覚せしめて、いかなる外のものにも縛られない自由自在なる状態を、
その人に施してあげることができるのであります。

この自由自在な無畏の状態を施してあげることが仏教では無畏施といって施しの中でも
最も尊いものとなされているのであります。

               ―その7―につづく

❤〜SAKURA

3152SAKURA:2014/12/07(日) 23:15:34 ID:???
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■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】

(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行
*========*【 まず自分に深切であれ ―その7―【 転載編 ―】*=======**========*

■さっき申しましたように、甘いものの好きな人は甘いものを他に与え、煙草の好きな人
は煙草を他に与える。そして自分自身の自由自在な実相の好きな人は実相を他に与えるの
であります。

 ところが誰でも、本来自由自在なのが実相(ほんとのすがた)なのでありますから、
自由自在の境地を求めない人はない。煙草の好きな人も本当は煙草そのものが好きなのでない、
なんとなくぎコチなく淋しく自由自在な感じが失われている、その感じをごまかすために
煙草を喫み酒を飲むのです。

金の欲しい人でも、金のそのものが欲しいのではない、金があると自由自在になんでも
ふるまえると思うから金をほしがるのです。ところが金を持っても酒煙草を喫んでも、
それに執(とら)われたらかえって自由自在が失われる。

金に執すれば金に縛られ、酒煙草に執すれば、酒煙草の奴隷にせられてしまう。
これでは、もともと自由自在を求めたのが何にもならない。自由自在を求めてかえって
不自由自在を得たことになるのです。

 ですから自分が真に自由自在に解脱した喜びというものに得たならば、
われわれは全人類の得(え)んとして目指しているこの喜びを人々に与えなければならぬのです。
これが自他一体の真理なのです。そうしてここに自分が仏の実相を鳴り出せば、かたわらにいる
人々の内にある仏が鳴り出すということになるのであります。

これは釣鐘の共鳴のようなものであって、二つの釣鐘を並べて置いてこちらの釣鐘をゴーンと
撞くとその隣の釣鐘もゴーンとまた共鳴して鳴り出すのです。それは、一人の人の実相の響きが
鳴り出す時は、「一切衆生仏性あり」で、他の人々の中に宿っているところの仏性が鳴り出して
表面に顕われて顕在的になるのであります。

だから人を悟らすには、まず「自分は神の子だ、仏の子だ」と気づいた人が、そうであると
いうことを言葉に出してガ―ンと鳴り出すということが必要なのであります。そうすると
その隣の鐘――否、その付近にいる人たちもやはり自分のうちにある尊き仏性がガ―ンと
鳴り出して顕在となり、またその響きがさらに共鳴を起こして、すべて人々、到るところに
仏が現われて来るということになるのであります。

そしてすべての人々悉く仏性が顕われ、これが本当に隣人を愛するということになるのであります。
それでその次の第十二条にはこう書いてあります。

              次の項目につづく
❤〜SAKURA

3153SAKURA:2014/12/11(木) 22:48:45 ID:???
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■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】

(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行
*========*【 真理を伝えるのは愛の道 ―その1―【 転載編 ―】*=======**========

■□  われらはすべての人類をして健康と幸福と安住との生活を得しめんがため、この光
明思想「生長の家」をひろめ全人類に真理を伝えんことを期す。

 さて、この光明思想「生長の家」を人類に弘めるということは、何も自分が物質的利益
を得るために弘めるのでもなければ、自分は人に道を説くところの第一番の高き導師であ
るという名誉心を満足せしめるために弘めるのでもない。

ただわれわれは、自分が仏であるという自覚を得たときに、そうしてまた他の人々も同じく
仏であるということを知った時に、その仏であるべき人間が仏でないような相の現われてい
るのを見た時に気の毒になってたまらない、自分も仏である、あの人も仏であるのに、あん
なに仏でないと思って、あんなに貧しい相をし、あんなに病める相をしている、あんなに悲
しい相をしている、どうも気の毒でならない、とこう気がついた時に、どうしてもその人に
仏であるという実相を知らしてあげなくてはならない衝動に駆られるのです。

これは結局「自分と他とは本来一体である」事実から出て来る衝動であって、自分が仏であ
るということがわかったら相手に対しても仏であるということを知らさずにおれない。

自分が神であるということがわかったら相手に対してまた神であるということを知らさず
にはおれない――これが自他一体の愛――仏の愛であり、神の愛である。そしてそれを実行
するのは菩薩の行であるわけであります。

 ですから、この「生長の家」を弘めるというと、何か雑誌を弘めるというようにお考えに
なる方もあるかもしれませんけれども、これは雑誌を弘めるのでない、「仏」を弘めるので
ある、「神の子」をひろめるのである。すべての人間を「仏」にし、「神の子」にする言葉の
響きを弘めるのであります。

キリストは路傍で説教した。日蓮は辻説法した。これは何も自分自身のためにするところ
の運動ではない。辻で説法するのは下品だとか何とかいっておれないのは人類を愛するから
なのです。

すべての人間を、われ自らのごとく愛するから、その悟った真理を伝えずにはいられないので、
世間から見た格好が、悪いのいいのといってはいられないのです。自分自身が「神の子」であ
り「仏」であると悟ったらそれを全人類に弘めなくてはいられない。ですから今までいろいろ
宗教が現われてきておりますが、すべての教祖はその已み難き衝動に駆られて「仏」を伝え、
「神の子」を伝えたものであります。

                 ―その2―につづく

❤〜SAKURA

3154SAKURA:2014/12/14(日) 22:35:59 ID:???
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■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】

(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行
*========*【 真理を伝えるのは愛の道 ―その2―【 転載編 ―】*=======**========

■しかしそれぞれその時代、その環境に応じて、その教えを伝え弘める形式は変わってきた
のであります。

過去の時代には、通信機関や印刷機関が不便でありましたので、おおむね直接説法によらなけれ
ばならないから、説法のコトバの力で「仏」を大量生産することができなかったのであります。

ところが、現代においてはこの「生長の家」が出現して、印刷物によって「仏」をヒビキ伝えると
いう不思議な、時代応現の用(はたらき)というものが出てきたのであります。現代のようにこんな
人口が増え、そうして学問が進歩し、印刷術が発達している時代に、今までのような姑息な、
単に教会という一つの建物、あるいは寺院という一つの建物の中で牧師や坊さんが喋っていると
いうだけでは、なかなか人間全体に「仏」を伝えることはできないのです。

ですから、この時代に最も相応(ふさわ)しく、活字の力というもの、印刷の力というものを以て、
また大量生産的に「仏」の響きを出させて、したがってまた大量生産的に救われるということに
なったのであります。

                ―その3― につづく
❤〜SAKURA

3155志恩:2014/12/17(水) 05:03:21 ID:.QY5jUA6
谷口雅春先生著『新版 女性の幸福365章』より


すべて偉大なる人格の特徴はその人の包容力の広さである。
寛容の徳は母たる者に必須の徳性である。

心広き者は決して金切声を出さないし、粗野な荒々しい振舞をしないのである。
愛の完成は心広くしてのみ<遂げられる。

愛がありながら、心狭きときは、愛が捩れて憎しみと変わる。
どんな時にも憎しみや嫉妬に変化しない愛こそ純粋の愛。

3156SAKURA:2014/12/17(水) 22:51:35 ID:???
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(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行
*========*【 真理を伝えるのは愛の道 ―その3―【 転載編 ―】*=======**========

■そんなわけで、この「生長の家」から出る出版物は、活字を組んで(なら)べてあるだけであります
けれども、その列んでいる言葉そのものは「仏」のヒビキでありますから、解脱して自由自在になった
生命のヒビキでありますから、『生長の家』がある誌友のところへ着いただけでその誌友の病気がよく
なったとか、あるいは乱視が治ったとかいうふうな不思議なことも往々起こってくるのは、「生長の家」
の出版物が単に活字を列べて紙の上に印刷してあるというだけのものではない、そこに文字「仏」の自
在無礙の響きがあり、言葉に「神の子」の解脱の響きがあるからであります。

その言葉の響き、文字の響きを全世界に弘め、これによって全世界が光明化され、それを受け取りそれを
読んだすべての人が自己のうちに宿っている仏の響きに共鳴して、発見されて、そうしてみなみな自分が
仏であるということを自覚することができる。こうなれば「仏陀」の大量生産が成就するのであります。

 この間、伊藤三郎さんがわたしのところへ『日蓮主義』という雑誌を持って来て下さいました。それは
ニ、三日前、ここで伊藤三郎さんがお話しになった逗子に住んでいる人から伊藤三郎さんに送って来られ
た雑誌なのだそうであります。あの話はこうであります。

ある日伊藤三郎さんを訪ねて来た旧友がある。その旧友が伊藤三郎さん自身では引き受けることを躊躇し
なければならないと思われるようなある重大な仕事に一肌脱いでほしいと頼みに来られたそうであります。

その知人に会ってみると、その顔がなんとなく明るく輝いて見えるので、ちょっと躊躇するよな大仕事
なのだけれどもなんとなく引き受けてもよいかも知れぬという気になり、一つ神意に問うてみようと別室
に退いて神想観をされた。

するとその仕事を引き受けてもよいという霊感があったので、伊藤さんは自分の奥様に相談なさると、伊
藤さんの奥様は「神さまからそういう霊感があったならば、引き受けておやりになさい」と言われました
ので、またその逗子からの旧友のところに出て来られて、「では、その仕事をお引き受けしましょう」と
言われた。

そして「実はあなたに上げたいと思って署名した本がここにある。ちゃんとあなたの名前が扉に書いてあ
る」と言って『生命の実相』をお上げになったら、その旧友はその『生命の実相』を見て大変お喜びにな
って、実はわたしは「生長の家」のことは『生命の藝術』という雑誌を新聞広告を見て無代進呈してもら
って読みましたら、今まで信仰していた日蓮上人の教えの神髄を深く穿ったものと感じて、非常にありが
たく思いましたので、それに書いてある神想観の説明、これさえあればよいというので、一生懸命、
神想観の歌を暗記していました。

すると自分の長らくの喘息が治ってしまいましたのでまったくありがたくて『生命の実相』を欲しい欲しい
と思っていました。欲しい物が集まって生長の家の無限供給が成就したのです、というわけです。

             ―その3―につづく
❤〜SAKURA

3157SAKURA:2014/12/21(日) 20:50:38 ID:???
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■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】

(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行
*========*【 真理を伝えるのは愛の道 ―その4―【 転載編 ―】*=======**========

■この方はただ今、名前を思い出しましたが村田武一郎という方です。
この村田さんから最近伊藤三郎さんへ「日蓮主義」という雑誌を送って来られた。
実はこの中に「生長の家」の攻撃が書いてある。

その攻撃というのは「生長の家」は日蓮主義と同じことだというのです。
日蓮主義と同じものに「生長の家」という名をつけて新聞に大袈裟な広告をして自分の一派の
宗教に引き込もうとしているというのが攻撃の材料になっているのです。

それに対して村田さんは自分の救われたお礼に反駁分を書いたからそれを見てほしい、これで
よいかと付け加えて書いていられるのです。その反駁分にはこう書いてあります。

「自分は元来日蓮宗であるのに日蓮宗のありがたいことがわからないで、あまり熱心でなかったが、
『生長の家』を読むようになってから日蓮宗が本当にありがたいと解っていっそう日蓮宗に熱心に
なった。この事実を見てもッ生長の家は自宗に引きつけるような宗教ではない。

すべて宗教の神髄を穿っているから、どの宗派の人が見ても、自分の宗教と同じことを説いて
いると見えて、かえって自分の宗教がありがたくなるのである。宗教とは結局、同じ救いに導く
ものであるから、どの宗教から見ても自分の宗教と同一真理を説くものだと認められるぐらいで
ないと本物ではない。

ひんぴん新聞に大袈裟に広告するのが、あまり大袈裟で、宣伝じみてきるというの当たらない。

今もし日蓮上人がこの世に出て来られたらならば、辻説法のような緩慢なことをして、少しの人を
集めて道を説き少数の人類しか救わぬというようなことはしないはずである。必ずや谷口先生と
同じような大袈裟な、出版機関を利用し、新聞を利用し、講演をりようしあるいはラジオを利用し、
文明の利器をできるだけ利用して、できるだけ大袈裟に宣伝して大衆に達するようにし、一日も早く
この真理を全人類に伝えるように努力せられたにちがいない。

新聞広告をして宣伝じみて外聞が悪いとか、辻説法をして乞食坊主にまちがえられて外聞が悪いとか、
そんな自己の名聞なんて考えている暇がない、それが捨我精進(しゃがようじん)であって、
あらゆる機会をことごとく見のがさないで仏を伝えるように努力するのが、これ自己が仏を悟った
人の道である」
というようなことをその反駁分に書いて、その雑誌と一緒に送って来られたのであります。
                   ―その5―に続く
❤〜SAKURA

3158SAKURA:2014/12/21(日) 20:51:51 ID:???
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■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】

(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行
*========*【 真理を伝えるのは愛の道 ―その5―【 転載編 ―】*=======**========

■この村田さんのおっしゃるように、われわれが真理(ほとけ)を知ったならば、それをできるだけ
多くの人に伝えるということがこれ仏様の働きである、方便としてあらゆる機会を利用して宣伝する
――決してこれは利己主義の働きじゃないのであります。

これはすべての人の実相を生かす最も尊い仕事でありまして、それには時代相応のいろいろの手段、
方便ということが必要なのであります。あるいは光明思想普及会の新聞広告が、病気の治った礼状が
たくさん出ている、治してもらった体験談がたくさん出ている、まるで「有田ドラッグ」のようで
あるというような攻撃をなさる方がある。

しかし。「有田ドラッグがどうして悪いのか」というと、何もわるいという理由はない、有田ドラッグ
もなかなか言葉の力を巧く利用してそうして薬を売っている。薬を売っているだけじゃなにのであって、
あれは半分は光明思想である。有田ドラッグの広告を読んでみると「病気は薬では治らぬ、精神の持ち
方や信仰によってなおる」と書いてある。

そうして付けたりに、その薬を飲んだらいっそう良く治るということをいって、精神療法、信仰療法を
勧めて、心の作用で病気を治しておいて、その治った治験例を掲げて、薬で治ったように装い薬代だけ
を有田の方へせしめている。

「病気は自然が治して、謝礼は医者が取る」という諺がありますが、これは「病気は心が治して、
治ったお代薬屋に払う」というようなことになっているのでああります。だから有田ドラッグは
なかなか賢い、必ずしも世の中に害毒ばかり流しているということはないのであります。

世間には病気が治るということを新聞に発表すると何か下品なことのように思うている人があるが、
これは実にまちがったことであります。

              ―その6―につづく
❤〜SAKURA

3159SAKURA:2014/12/27(土) 22:25:04 ID:???
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■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】

(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行
*========*【 真理を伝えるのは愛の道 ―その6―【 転載編 ―】*=======**========

■というのは医学博士が病気を治したという治験例をば医事雑誌にずっと並べたら、誰が
下品であるといいますか。医学博士が動物をいろりろと解剖してみたり、物質的の実験を
やってみたりして形而下(けいじか)のことを列べて、形のある物質を使用して病気を治
した実例を列べますと、大衆はいかにも仰々しく科学であると嘆称(たんしょう)するの
でありますが、それならば、生長の家が薬を使わないで、ただその発行書を読んだだけで
病気が治るというような、在来の常識を覆すような治験例を発表しえたならば、これは医
学博士よりもいっそう偉大なるものであるといって、皆さんは讃嘆しなければならないは
ずなのであります。

それにもかかわらず、病気の治験例を発表するということはこれは下品である、有田ドラ
ッグのようであるなどということは、実に偏見に執われた批評なのであります。むしろ新
聞に発表して下品なのは人殺しや盗賊や強姦やいろいろの悪徳の記事である。

病気の流行るというような恐怖をそそる記事も人々に熱感を与えて下品である。

しかしそういう記事をのせている新聞を見ても下品だと言わないで、どんな病気でも心の
持ち方で治るという気持のよい治験例を発表する記事を下品視するのは人間の頭が悪い
からであります。

                       ≪その7≫につづく
❤〜SAKURA

3160るん吉:2015/01/02(金) 12:15:42 ID:p..UGkhA
神様以外のものや実在でもない現象を相手にして解決の方法を研究するところ

ではありません。神一元、實相一元の教えでありますよ。

今あなたは神様以外のものや、ありもしない現象の出来事に心を奪われて、慌てて行き詰っておられるではありませんか。

そんな生長の家はありません。それでは生長の家を知らない世間一般の人と同じで、

全然生長の家になっておりませんよ

                       藤原敏之先生の御著書「あなたは必ず救われる」より

3161るん吉:2015/01/02(金) 12:28:52 ID:p..UGkhA
SAKURA様

明けましておめでとうございます。

沢山の投稿をされていられますね! 今、読ませて頂いてました。

SAKURA様も、今まで色々嫌な事があったのですね?(ゾンビ野郎とかひどい奴に出くわしてきたのですね)

しかも、それで耳に障害が残ってしまわれたとは、どんなに悔しい出来事でありましたろう!

自分がそうなったら。SAKURA様のように明るくふるまれるかな?と思います。

あと、sakura様は、すごい正直な方ですね。(そこまで言っていいんかい!て思うほど)

なんにしても、貴女はすごい良い人です。読んで色々解りました。

パートナー様にも、よろしく。外に出れるようになった(雪の具合)ので出かけようと思います。

今年もよろしくお願い致します。

3162SAKURA:2015/01/02(金) 21:02:35 ID:???
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■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】

(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行
*========*【 真理を伝えるのは愛の道 ―その7 ―【 転載編 ―】*=======**========

■釈迦が悟りに入られた最初の動機は何であったかと申しますと、生・老・病・死の四苦
を観て、これを解脱することを考えなくてはならないということを思いつかれて、そうし
てそれを解脱する道を得られたのであります。われわれが生老病死の四苦につまずくこと
によって、それを機縁として、自分の実相が仏であるということを悟らせられるというこ
とは、実際釈迦でさえもそうであったのであります。いわんや、われわれがこの病気とい
うもの、あるいは生活難というもの、人生苦というものなどに臨んでいる――その契機を
利用して、それを解決する道がここにあるということを広告によって知らして、そうしてわ
れわれの団体へ呼び寄せてきて、真理を知らせ実相を悟らせるということはこれ実に仏さ
んのあるがたい慈悲の現われであるといわなければならないのであります。人はこの病気
の治るという治験例を発表することはいかにも下品なこととお考えになるのであります。

そして、われわれも、物質なる肉体の治るとか治らぬとかいうような小さいことを問題に
していないのでありますけれども、物質上の御利益などは問題とするに足らぬと思いなが
らも、現世の苦悩に悩んでいる人がある以上、その現世苦悩の低さまで降りて行ってあげ
なければ人を救うことができないので、それで上品だとか下品だとか、そういうことを考
えないで、自分もいったん人の所へ降りて行って、病気本来無いということを知らせ、病
気が治ったという治験例を発表して、一般の人に呼びかけ、病人に呼びかける、救わるべ
き相手は迷える人、病める人である。迷っている人にはしばらく迷いの相を現わして、そ
うしてそれらの人を一段高い所へ引き上げるというのが仏の自由自在な慈悲の働きなので
あります。

                 ―その8 ― つづく
❤〜SAKURA

3163SAKURA:2015/01/02(金) 22:31:48 ID:???
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。

■ あけまして おめでとうございます…。本年度もよろしくお願い申し上げます。

http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/11346/1322022766/3161 
>>3161 「るん吉様」から私宛にですが〜〜『この場には?』と…

別の所で…投稿させて戴きます…。

3164「訊」:2015/01/02(金) 23:21:43 ID:???


 新しい年には新しい心が生まれる。



 元旦は物事の始めであり、生活更新に最も都合の良い時である。他の時にも新しい覚悟ができ、賢明なる人はいつからでも新生活に突進しうるが、われわれには新しい決意を実行するには元旦がよい。元旦からまず始めよう。



 それは明るい心を持つということである。



 一度にあれもこれもと考えて、それが実行できなかったら、新しい決意も最初の一日から崩れてしまう。ただ今日一日明るい心を持つことにしたい。ただそれだけ一つのことである。これだけのことならばわたしにもできると思う。明るい心を持つには何事が起こっても怒らぬということである。何事が起こっても悲しまぬということである。何事が起こっても失望せぬということである。何事が起こっても怒らず悲しまず失望せぬためには、起こった事物は「もうすんだのだ」と知ることである。



 去年の暮れはもう起こったからすんだのである。すんだからこそ新しい年が来たのである。木枯しに散る葉があるからこそ、春に美しい若葉の美が讃えられるのである。



 天地一新。悪しきことは未だかつてひとつも起こらなかったし、これからも起こらない。それはすべて一新しゆく姿である。


『生命の實相』37巻4頁より謹写――

3165トキ:2015/01/03(土) 12:56:31 ID:Qj6Pg0Tc
「訊」 様

 あけましておめでとうございます。
新年早々、素晴らしい御文章を紹介してくださり、ありがとうございました。
今年も期待しています。

 よろしくお願いします。

合掌 ありがとうございます

管理人敬白

3166「訊」:2015/01/03(土) 22:23:09 ID:???


◆ 新天新地を迎へて

 私たちは皆さんと共に新しき年を祝福するのであります。
 皆さんがたとい過去の年に於いて如何なることを経験せられたにせよ、何を心に思い、何を身に行ったにせよ、それ等は既に過ぎ去ったのであります。されど若し、皆さんが同じ心を依然として持ち続けるならば、いづこかに新しき年はあらんやであるのであります。

 皆さんは新年と共に想念を新しくならしめなければならないのです。旧態依然たる争闘と摩擦と不平と慈哀と不健康と貧乏との想念を持ちつづけるならば、それは年は新たであるにしても、内容的には古き年の継続に過ぎないと云わなければならないのである。
 真理は皆さんに新しき人生と新しき幸福とを持ち来すべく待っているのである。それは単なる期待でも単なる希望でもないのである。如何なる人々も生長の家の真理に触れるとき、絶対に新しき生活を、絶対に幸福なる生活を、絶対に豊かなる生活を、絶対に健康なる生活を、営むことの出来る資格と権利と方法とを本来与えられていることを自覚せられるに相違ないのである。

 真理とは何ぞや。人間は「神の子」であると云うことである。仏教的に云えば「仏子」であると云うことである。神道的に云えば、人間は、すべてミコトであり、日子(ひこ)であり日女(ひめ)であり、尽十方に満つる光の子みなさんと云うことである。

 此処に諸君(みなさん)が、絶対に幸福なる生活に、絶対に豊かなる生活に入る門を開く鍵があるのである。「人間は神の子」と云い、「仏子」と云い「日子」と云い日女と云うと雖も、それは鍵であって、諸君がこの鍵をもって、新しき生活への門をひらくと開かざるとは諸君(みなさん)の自由であるのである。鍵は鍵孔に入れてこれを回転しなければならない。ここに静的真理が動的事実として展開し来り、新しき生活への門がひらかれるのである。

 昨日までの物質的又は肉体的状態が如何にあろうとも、五官に見える姿は唯かぎられたる視野から眺められたる姿であって、決して貴方の世界でもなければ、貴方自身の全相でもないのである。肉眼の視野の彼方に、顕微鏡下の世界があり、望遠鏡上の姿があると同じく、更に無限に美しき天国浄土の世界があるのである。それこそが、此の世界の實相であり、それは既にある世界であるに拘らず、心の波長を合わさないから出て来ないに過ぎないのである。心の波長を合わすとき突如として冒頭に掲げたる「われ新しき天と地とを見たり」と云う至福の世界が実現し来るのである。

「白鳩」誌(昭和28年新年号)より謹写――

3167「訊」:2015/01/03(土) 22:24:39 ID:???



◆ 「過去」を「今」に変貌するな

過去になずむこと勿れ
過去は既に過ぎ去ったのだ。

過ぎ去ったものだけれども
”今”それを思えば、
過去が”今”に変貌する。

牛は過去に食べた食物を
腸に送るまでに反芻して
もう一度”今”に戻して咀嚼するそうだが、

過去の悲しみでも
それを”今”にもどして反芻すれば、
過去が過去でなくなって、
今ある悲しみにそれは変貌する。

過去を素直に放つ者のみが、
新しい喜びを素直にそのまま受けることができるのである。

3168志恩:2015/01/09(金) 20:24:39 ID:.QY5jUA6
『愛の波動を高めよう』より  アイリーン・キャディ【著】:山川紘矢/亜希子【訳】

🎴 新しい世界 🐲

「近ごろの世界はなんと乱れているのだろう。
世界は混沌と混乱のきわみだ」という言葉を、あなたは何回聞いたことでしょうか。
また自分でも そう言って 何度なげいたことでしょうか。

そして、それに対して自分ができることは何もないと感じています。
もう絶望的だ、自分にはどうしようもないと感じて、カタツムリのように からの中に閉じこもってしまって、
世界が ますます悪くなってゆくに まかせています。

この地球の現状に関するあなたの責任感はどこにいってしまったのですか?
あなたが行うこと、あなたの生き方、あなたの考え方が、
世界を良くも悪くもすることに気がついていないのでしょうか?

海岸を作っているのは小さな一粒一粒の砂です。
大洋を作っているのは小さな一滴一滴の水滴です。

あなたがどう考えて何をするかが、世界を良くも悪くもするのです。

あなたはそのことを考えたことがありますか?
愛のあるポジティブで建設的な思いを持つ魂が 増えれば増えるほど 地球は良い場所になります。
あなた方は みなこのすばらしい世界の とても大切な一部なのです。

あなた方の一人ひとりは この大きな全体の中のとても小さな部分ですが、それぞれに果たさなければならない特別な役割があります。
あなたがその役割に早く気がつけば、それだけ早く、世界の状況は変わります。

世界的な 混沌と混乱と 破壊の思考の渦 に巻きこまれるのはやめましょう。
今すぐ、あなたのまわりの世界のすばらしさと美しさに、心を集中させましょう。

すべてのものに感謝しましょう。
あなたが出会う人すべてを祝福しましょう。
人々の中、ものごとの中、状況に中に最悪の部分を見るのはやめ、
いつも最善の部分を見るようにしましょう。

最善の部分に意識を集中し、あなたのまわりの世界で起こる すばらしい変化を 見るようにしましょう。

あなたにはそれができます。
それも今日から始めることができます。
いいえ、今すぐ始めることができます。

これは、だちょうのように頭を砂の中にかくして、世界の現実に直面するのを拒否するのとは違います。
ただ、すべてのものごと、すべての人の中に、最もすばらしい点をさがし、そこに意識を集中させるということです。

あなたはあなた自身の小さな世界です。
あなたの内にある世界に平和と調和と愛と理解がある時、それはあなたのまわりの外の世界に影響を与えます。

まず、自分の家の中をきちんとすることから始めましょう。
あなたの思いと生活の整理から始めなさい。

3169志恩:2015/01/09(金) 20:32:40 ID:.QY5jUA6
谷口貴康さんのブログより

徳川家康秘話。
徳川300年「江戸時代」を生んだのは、「笑いのこころ」(明るき心)­であると説く大熊理事長。
日本笑い学会講師でもある大熊理事長が、笑いながら、笑いの­持つ「力」と影響力を説く。

★≪新春≫いのちが喜ぶ話(第5話)★大熊良樹理事長 
「徳川300年を生んだ笑いの心」
https://www.youtube.com/watch?v=HNm_xNPN8RM&amp;feature=share

3170志恩:2015/01/09(金) 20:36:23 ID:.QY5jUA6
3169は、聖典引用ではなくて、いのちが喜ぶ話の引用でしたので他板の方に転載すべきでしたね。^^

3171志恩:2015/01/10(土) 07:56:08 ID:.QY5jUA6
📖 パラマハンサ・ヨガナンダの言葉

人生の体験を あまりに真剣に 受けとっては いけません。
とくに、その体験のために 苦しんでは なりません。
なぜなら、本当は、すべては ほんの夢に すぎないのですから・・・

もし 状況が悪くて、耐え忍ばなければ ならないとしたら、
その状況を あなたの一部と しないことです。

人生の あなたの役を 演じなさい。
そして、
それが 単なる役に すぎないということを 忘れないでください。

3172SAKURA:2015/01/10(土) 21:16:18 ID:???
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■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】

(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行
*========*【 真理を伝えるのは愛の道 ―その8 ―【 転載編 ―】*=======**========

■『法華経』の中に「長者窮子」の譬がある。
あるところに金持があって、その家の跡継ぎの息子が家出をして、諸方を流浪してルンペンに
なってそうして彷徨うていたが、とうとうまた故郷へ帰って来た。

どこへも寄る辺がないので、自分の故郷の親の家の門から、ふと覗いて見ましたら、そのお金持が
大勢の召使をずっと列べて、いかにも王様のような姿をして坐っている。その姿を見た時に、
自分のようなルンペンの、破れた半纏を着たこんな男が、こんなところでうろうろしておったら
家来たちに捕えられてどんあひどい目に遇うかもしれないと逃げ出した。

そうすると、王様は一目見ると、『あれは自分の子である、本当の子はあの子のほかにない、
自分の全財産を譲るべきはあの子である。自分の全財産の持ち主は本当はあの子なのである、
あれを呼び戻せ、あれにこの財産を与えるのである』とこういった。

ところが家来たちが追っかけて行くと、ルンペンはますます恐怖を感じて、とうとうびっくりして、
目を廻して倒れてしまった。皆が寄って介抱をしてようやく気がついた。ところで、立派な服装の
高位高官の家来のような姿をしておったら、何か自分を取り押さえるためにでも来たように思って
怖がるから、その家来は父の長者の命によって方便を設けてみすぼらしい服装をし、
「こういう土方仕事の下らない仕事があるのだが、君一つ働かないか」
といったら、そのルンペンも安心して土方をしている。

そうして、少し働いているうちに少し位を上げて土方の頭にする、もうしばらく働いていると
監督にするというような塩梅式に、だんだん出世さして、高い位になってきた時分に、
もうお前は長者の跡継ぎであるといってやっても恐れて逃げない時が来る。

その時になって初めて、お前はわたしの本当の子である、自分の全財産はお前のものであると、
こういうぐあいに長者がいわれたという話がありますが、光明思想の普及のやり方もそれと
同じことである。

われわれは初めから
「人間は神の子である、仏である、すでにお救われているのである」
こう教えてあげても、
「そんな馬鹿なことがあるものか、自分は現に病気で困っている、貧乏で困っている」
と反駁する。

中には「そんな迷信があるものか」といって逃げ出す人もある。そういう人に対しては、やはりこちらが
下まで降りて行って、そうして土方の親方ぐらいに化けて行って、

「あんた病気か、病気なら病気を治すえらい便利なものがあるぜ。こういう本を読んだら治る、たった
五銭で一冊のパンフレットを読んで治った人もたくさんある。どこの誰もこうである、どこの何さんも
こうである」と実例を挙げる。

すると「そうか、そういう結構な薬があるのなら」と読んでみると、
読むにつれて、「なるほど自分は神の子である、病気は本来無い」ということがちゃんと悟れるように
なっている。救われるべき相手の高さの程度まで降りて行く、これが仏様の本当の慈悲の働きであって、
下品なように見えているけれども、下品なように現わなければ救われない人に対しては、
われわれはそういう相を現わして救うほかはない。

これが菩薩行である。
観世音菩薩が三十三身に身を変じて衆生をお救い下さるというのもみなそれである。

                    つづく
❤〜SAKURA

3173志恩:2015/01/12(月) 01:50:21 ID:.QY5jUA6
『愛の波動を高めよう』より  アイリーン・キャディ【著】:山川紘矢/亜希子【訳】

📙 神 と ひとつであること

私たちは 神の存在そのものの中に 生きています。
私たちの中に 神がいるのです。
私たちは 常に 神の存在と ひとつですから、神の愛とも 常にひとつです。
私たちは 神の命と ひとつなのです。

自分が 神の中で生きていることに 気がつくと、私たちは ほっとリラックスします。
何も恐れるものは ありません。神は いつも 私たちと共にいるからです。
神の癒しの力が 及ばない状況は 存在しません。
私たちを祝福し、変容させる神の力より 大きな不調和もありません。

今、この瞬間、神の存在が私たちを満たし、私たちを包んでいます。
私たちは 決して孤独ではありません。
私たちは いつも神の命、神の光、神の平和、神の力とひとつです。
神は 今も、私たちを 癒し続けています。
神は 今も、私たちを 祝福しています。
神は 今、私たちを導き、インスピレーションを与え、私たちを 繁栄させています。

私たちは 神の存在の中に 生かされています。
神は 私たちの中に 生きています。
私たちは ずっと、神と ひとつです。すべては 完璧です。
そして 私たちの進む道は、なだらかで 整然としています。

3174志恩:2015/01/12(月) 02:09:44 ID:.QY5jUA6
『愛の波動を高めよう』より  アイリーン・キャディ【著】:山川紘矢/亜希子【訳】

📗 神の 助けを 借りて

神の助けを 借りて、ものごとを 起こらせましょう。
神に 意識を 集中します。
肯定的に考え、話し、行動しましょう。
そうすれば 神のエネルギーが あなたを 助けてくれます。

外部の いかなるものも、あなたを 傷つける
力を 持っていないことに 気づく 練習をしましょう。

あなたにとって 問題なのは あなた自身の 思い であって、
他の 何ものでも ありません。

そのことを 憶えておいて 下さい。
あなたの 思いぐせを コントロールし、
良いことに 焦点をあて 続けましょう。

難問、仲の良くない人、困難な状況などには、
感情的にならずに、距離をおいて、公平な態度で臨みましょう。

敗北主義、自己憐憫、後悔は止めましょう。
自分に起こることに 過剰反応を しないようにします。
あまりにも 真剣になりすぎては いけません。
自分を 笑いとばせるように なりましょう。

あなたについて 他人が考えたり 言ったりすることを
気にしては いけません。夜、寝る時、
自分の悩みについて、あれこれ 考えては いけません。

日々の行動のすべてを 神のために 捧げなさい。
すべてを 所有しなさい。

しかし、何ものにも あなたを所有させては いけません。
自分は 神の中にいるということを知り、
常に そのことを忘れないように しなさい。
あなたと 他の人々との間に、適度のバランスを 持つように 心がけなさい。

世界にとって、自分が重要であることを 知りなさい。
そして、この世界のどこかに、必ずあなただけの
居場所があることも 知りなさい。
地面に 種子を蒔く時は、蒔いた種子のまわりに 柵を作って、
その種子を守ります。
自分の心の中に 種子を蒔く時も、その種子を 困難や 心配などの
外から侵入する思いから 守るために、心理的な防衛柵を 設けましょう。
あなたの潜在意識が その種子を受け入れ、
それが発芽し、成長し始めるまで、そっとしておきましょう。

3175志恩:2015/01/12(月) 02:24:49 ID:.QY5jUA6
つづき

📘1つの種子のことを考えてみましょう。

袋の中に入っている限り、それは 眠ったままです。
それが一度、袋から取り出され、土の暗闇に播かれた時、
変化し始め、成長し、広がってゆきます。
ある種子は 他の種子と比べて、発芽に時間がかかります。

自分に何が起きているのか、よく見るための時間が必要です。

私は 種子と同じように、成長して変わるために、

暗闇の中に 入ってゆかなければ なりませんでした。

暗闇にいると言って 落ち込んでしまうかわりに、
これは ひとつのすばらしい神の計画の一部であって、
成長し、変化し、動いている時間であり、そのすべてが
暗闇の中で起こっているのだと理解することができます。

恐れることは 何もありません。
通過しなくてはならない過程であることを 受け入れ、
すべてのものと一緒に 流れてゆくことだけが 必要なのです。

自分が思っていたよりも、この段階が長く続いたとしても、
落ち込んで絶望してしまわずに、多くのことが 自分の中で、
そして 暗闇の中で起こっていることを 理解し、
辛抱強く 神の完全なタイミングを 待つことが必要です。

すべて 自分に起こって来ることは、
自分が学ばなければならないレッスンとして受け入れます。

このレッスンは たくさんの人々を助けるために 使うことができます。
彼らが いま通過している 大変な暗黒の時期は、
人生の中で 特別に 大切な時期として 利用することができること、

そしてますます苦況におちいらないためにも、落ちこんだり、
絶望してはならないということを明らかにするからです。

この暗闇の時期に、すばらしい変化が 人生に たくさん起こるのです。
最初 人生が 真っ暗闇に落ちた時、私は とても恐れました。
すべてを失ったと感じて、
木ばかりが見えて、森全体が見えなかったからです。

私は 気持ちを平和に保ち、森の中に一本の細い道を見ました。
そして、その道にそって進んでゆきました。
すると、美しい木や森が見えただけでなく、
私にまわりの自然の美しさも目に入ってきました。
私は何も物が見えなかったのに、今はよく見えます。
そして見るものすべてに感謝しています。

3176SAKURA:2015/01/16(金) 17:08:49 ID:???
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【転載編】
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の投稿の続きです….。
■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】

(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行
*========*【 真理を伝えるのは愛の道 ―その9 ―【 転載編 ―】*=======**========

■維摩経がみずから身に病を現わしてそうして本来病無き所以をお説きになったということが、
仏説『維摩経』に書いてある。これもやはりお釈迦様がお説きになった教えである。

キリスト教の聖書の中には、キリストが病気を治し給うた記録がたくさんある。
ところが、生長の家で病気が治ったという事実を発表すると、多くの仏教者やクリスチャンや
そのほかいろいろの宗教家が「宗教で病気が治るのは邪道である」というふうなことをいって
攻撃されるのであります。

それならキリスト教は聖書に病気の治った話があるから邪教であり、釈迦は『維摩経』で
病を縁として実相を説いたから仏教は邪道だということになる。こういう観方でゆくとすべての
宗教は邪道に観えてくる。

こういう人こそ実に気の毒な人であって、自分の心の眼が「邪教」であるから、
すべての教えが邪教に見えるのであります。
お釈迦様は「総ての衆生を見ること一子羅喉羅の如し」とこういうぐあいにいっておられる。

もしここにわれわれが、自分の子供が病気をしているという時にこれを宗教で治してくれた人が
あったら「なんじゃあいつ、病気を治しやがって邪道である」と罵倒しうる父親、
母親がありうるでしょうか。

そうしたならば、多くの人類が生長の家によって治されていると事実を見て、多くの人類はすべて
自分の一子羅喉羅のごとしであるから、救わなければならぬ子であると思うているはずの宗教家た
るものが、自分の子供と同様な衆生が、生長の家によって病気が治っているという事実に対しては、
「ああ、ありがたい、わたしが行って世話してあげなくちゃならないところを生長の家が治して
くれたのだ、ありがたい」という気持になるのであってこそ、これ仏様の心なのであります。

ところが、自分の子供同様救わなければならない衆生が、生長の家で病気が治っている――
その事実を見て、「なんじゃ、あんなところに行きやがって、病気治しやがって……」と、
鬼のような心をもってそうして本当に救う働きを現わしている、観世音菩薩の働きを現わしている
「生長の家」に対して咀いの言葉を投げかけるような宗教家があるというようなことは、
彼が宗教家であるのか、地獄からの使者であるのか、実に嘆かわしい次第であると思うのであります。

               次の項目につづく
❤〜SAKURA

3177ママ:2015/01/17(土) 00:42:07 ID:YqbfME42
志恩さま、sakuraさま、読んで幸せな気分にならせていただきました
我が家は、本は、それぞれの部屋に分散してて、読みたいときによめないので、
何気にここ見て良かったです゜

3178志恩:2015/01/22(木) 03:15:22 ID:.QY5jUA6
谷口雅春先生著《人生読本》より

『他(ひと)から見て どう見える』

仕事でも、顔でも、店構えでも、事務所の玄関でも、外から見て どう見えるかを 調べてから、他に見せるようにすることが大切です。

仕事をする上からいえば、自分は その仕事をやりとげることに熱心すぎて、ちょっとぐらいよごれていても、
気がつかない事がありがちです。

いかに立派な製品でも、ほんのちょっと手垢がついているために、つまらないものだと見向きもされないこともあります。

まず自分がお客になって玄関へ入って行くと、どんな感じがするか、什器や椅子の並べ方は不快ではないか、
応接室で待っているとどんな感じがするか、何分間待たせられるか、待っている間に放っておかれるか、

何か出されるか、その出し方はどんなふうにするか、読み物はあるか、最初の面談はどんなふうに始められるか。
・・・・・こんなことでも、自分が客となって見なければわからないのです。

他の事務所や商店と比較してみて、悪いところはできるだけ廃(や)めるようにし、良い所はできるだけ取り入れるようにし、
さらによそに見られぬ好い感じを出すようにしなければなりません。

自分の店や自分の事務所ばかりを見ていては、欠点があっても、その欠点は慣れてしまって、
それが当たり前のような気がして気づかないものです。

臭い空気に慣れてしまっては、その空気が臭い空気だということに気がつきません。しかし外から入って来たら、
「なんてここは臭い空気だろう」と気がつくのです。

 客は外から入って来るのですから、一番誰よりもその室(へや)の空気の良し悪しには気がつくのです。
室の空気の良し悪しというのは、鼻から吸う空気だけのことではありません。 心で吸うなんとなきその室の味です。

その室の匂いです。その室の感じです。

その中には人間のようすもあり、微笑もあり、心の思いもあり、椅子や家具の並べ方もあり、
「ああ、ここは気持ちが好い」と思われるようにしなければなりません。

3179志恩:2015/01/22(木) 03:22:52 ID:.QY5jUA6
谷口雅春先生著「女性の幸福365章」

「生きることは美しい」

悲劇にさえも其処に美がある。悲しみさえも、
それは生命の働きであるから其処に美が構成されるのである。

人がその人生航路において右するも死、
左するも死・・・の板挟みに立たされながら、

辛うじて「生」のバランスを保っているところには、
恰も生死の構図の不等辺三角形が、倒れんとして倒れないで、
不均衡の均衡を保っている美に類似した美しさがあるのである。

円盤投げ選手の姿勢の美しさや、体操選手の平均台上における
美しいフォームなども、不均衡の均衡、倒れんとして倒れざる、
重圧に対してそれを克服しつつある内部生命の美しさの表現である。

人生の重荷も、もしそれを私達がよく耐え忍ぶならば、
私たちはこの宇宙に何らかの「美」を創造しつつあるのである。

「私は今、この人生苦を耐え忍ぶことによって
人生に“美”を創造しつつあるのだ」という考えを起すならば、

無価値と見える人生に私たちは価値を見出し、
生きる希望と勇気とを与えられることになるのである。

3180志恩:2015/01/22(木) 03:30:04 ID:.QY5jUA6
谷口雅春先生著「女性の幸福365章」より

 「急ぐことは いらない」

瞑目して自己に語れ、
「われは神の子であるから、実相に於いて完全である。
その完全さは、
毎日一層より多く自己の生活にあらわれつつあるのだ」と。

神は急がない。
無限の時間があり、無限の機会がある。
必ず成就する、神が成就せしめる。
神にまかせよ。自然に熟する時が来る。

過去の失敗や不幸を回想してはならない。
過去は過ぎ去ったのである。
反芻して過ぎ去った苦痛を、もう一度味わうのは愚かなことである。
毎日々々、過去を捨て去り、今日を新しく生きるがよい。

3181SAKURA:2015/01/22(木) 19:22:11 ID:???
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こんばんは……ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【転載編】
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■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】

(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行
*========*【 皇室および一家の祖先を礼拝せよ ―その1 ―【 転載編 ―】*=======**========

  ■われらは生命は永遠なるを信じ、毎朝、皇霊を遥拝し奉り、次いで一家の祖先の
霊魂を祀れる祭壇または仏壇の前に座してその冥福を祈願し、かつ自己の生命も永
遠なれば常に若く愉快に青年のごとく生きんことを期す。■

■このわれわれの生命が永遠なる存在であるということは、生長の家の真理の根本を貫く
ところのものであります。これがハッキリわからなければ「皇霊を遥拝し」ということの
意儀もわかりません。皇霊を礼拝するということも虚礼ではありません。

いろいろの批判はあるにしても、われわれ日本人は日本国の歴史を通して「今の」一点に
生きているのです。そしていろいろの日本国の興隆不沈はあったにしても、どんなときにも
日本国が動揺せずに、ここまで日本民族が発展してきました不倒翁(おきあがりこぼし)の
重心のごとくドッシリとして、その中心からどんな時にも日本国が立ち直ることができた重
心は天皇がましましたからであります。

われわれは歴代の天皇のこの御恩沢を忘れてはならない。
恩を知るということが実践道徳と実践宗教との中心になるのであります。だからわれわれは
歴代の皇霊に対して崇敬の誠を捧げるのであります。


 仏教では霊魂という言葉を使わないのであります。それで、「生長の家」で霊魂というよ
うな言葉を使うと、それは仏教と衝突するといって反対なさる方も時にはあるのであります。

しかし仏教では「霊魂」という言葉を使わないけれども「神」という言葉を使う。『無量寿経』
にも釈迦が兜卒天宮(とそつてんぐう)より降ってこの世に生まれることを「兜卒天に処して
正法を弘宣し、彼の天宮を捨てて神(たましい)を母胎に降し、右脇より生ぜり」とあります。

この「たましい」という字は「神」(じん)という字を書いています。このように仏教も有霊魂論
なのですから撲滅しないでよろしいのであります。一昨日でしたかラジオで、誰かが日蓮上人の
遺文録の講義をしておられた時に、ふとスイッチをひねったのであります。

めったにラジオのスイッチをひねったことはなかったのですけれども、その時なんだかひねって
みたくなって聞きましたら、その中で、日蓮上人が竜の口で斬罪に遇うところの講義に「自分は
たといこうしてここで斬罪に遇って死んでも、魂獏この世に止まって云々」ということを日蓮上人
が言われたそうです。

それはなんでも『開目鈔』にある言葉らしいのですが、確かに「魂魄」というものを日蓮上人は
認めておられた。これはやはりわれわれのいう「霊魂」の異名なのであります。
また仏教では霊魂という言葉を使わないで、「有」という字を使うこともあります。

                        つづく
❤〜SAKURA

3182SAKURA:2015/01/26(月) 21:46:37 ID:???
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こんばんは……ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【転載編】
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>>3181 の投稿の続きです….。
■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】

(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行
*========*【 皇室および一家の祖先を礼拝せよ ―その2 ―【 転載編 ―】*=======**========

■すなわちわれわれの死んで行く世界を「有」と名づけてありまして、六道を二十五有にわけ
るというふうなことをやっておる。

そうして仏教ではわれわれの肉体が滅して四十九日のあいだは中有に迷うという言葉を使って
おるのであって、まだその「二十五有」の中のどこへ行くか決まっていない間が四十九日ある、
その四十九日間を中有に迷って家の棟にふらふらとしている。それからその期間が過ぎると、
その期間が満ちたというので「満中院」と称し「満中院志」というのを配ったりします。

その時期が来るとお前は前世の業がこうだから六道のうちのどの道を行けということは前世の
業に従い、自然の摂理に従って未来世の行くところが定(きま)ってくるのであります。

ところでこの「有」というのは何であるかというと『仮存在』である。本来久遠生きとおし
常恒の存在であるところの「生命」が因縁によって仮存在として、アチラに現われたりする、
コチラに現われたりする、これが輪廻転生というものであります。「実相の生命」には来世と
いうことはない、生まれ変わるということはないのでありますが、仮存在としての生命は生まれ
更わるのであります。

そうしてこの肉体の世というものもこの仮存在の一つであります。
さて、その仮の世というものが何でできているかと申しますと、業でできているのです。
業というのは何であるかというと、「念波」であります。「念波」の集積が業であります。

それで、われわれの肉体というものは、科学的にはこれは物質の体で、物質の体とは何で
あるかというと、エーテルの波の中にできた渦巻の塊である。そのエーテルも本来無いと
いうような最近の説までありますが、結局「何もないもの」無の一種の波であるということに
なっているのであります。

そんなわけで、この肉体というものも何もないものも一種の波であるのでありますが、
肉体として現われている波と、霊魂の体として現われている波とがあるのです。

眼に見える波動(すなわち肉体)だけ存在すると思ってなりません。眼に見えない、
われわれの五官に触れない無数の波動が存在するということを知らねばなりません。

                            つづく
❤〜SAKURA

3183志恩:2015/01/30(金) 07:15:13 ID:.QY5jUA6
 谷口雅春先生・「叡智の断片」




先ず自分は何処に立っているかを考えて見よ。


自分の我欲の上に立っているか、

神の御心の上に立っているか。


脚下証拠。

3184志恩:2015/02/08(日) 04:03:52 ID:.QY5jUA6
谷口雅春先生のおことば

  神と偕に生きる

今日、誰かに必ず役に立つ仕事をしよう。

大いなる仕事が見つからなかったら、

目の前にある些細な愛行や、深切な言葉や、

奉仕や、清掃などの仕事でもよい。

何か誰かに悦ばれる事を必ずするがよいのである。

他の人の自由や財産を侵して自分が利益を得たり、

権力を得ようと思ってはならない。

このようにあなたの日常生活を浄めることによって、

あなたは神の霊波と波長が合うことになるのである。

3185志恩:2015/02/08(日) 04:09:09 ID:.QY5jUA6

谷口雅春先生著「真理 第2巻」


我が毎日が新生である。一瞬一刻に挑戦せよ!




昨日と同じものはひとつもない。

ひとつひとつの体験が悉く自分の魂の

向上進歩の段階となるものなのである。

過去にとらわれてはならない。


今、新しき経験があなたの目の前にあるのである。

それを真心を以って一心不乱につくすとき、

その次の段階がひらけて来るのである。

3186トキ ◆AXzLMGIbhk:2015/02/18(水) 20:20:56 ID:TXLBGFCU
「栄える生活」

 動には必ず反動が伴うものであって退くこと多ければ進むことも大きいのであるのである。
常緑の木には豊かに花をつけるものはないのである。それは退くことがないから進むことも
ないのである。時計の振り子は右に振れただけ左に振れるのである。動と反動とは同一の量
であるのが物理的法則である。吾々は必ず退いただけ進むに違いないのである。諸君の運命に
秋が訪れ、また冬が訪れてこようとも決して吾々はそれに驚くことはないのである。冬がいっそ
う寒いときには麦はいっそうよく実るであろう。されば吾々は常に今あることを感謝せよ。

(「青年の書」谷口雅春先生 159pより 謹写)

 現在、生長の家は、教団の組織指導と信仰指導が混迷し、また一種の内紛とも見える状態を
呈しています。この掲示板をご覧の方の中には、失望落胆されている方もおられるかもしれません。

 しかし、こういうことが起きた後、やり方を間違えなければ、必ず、正しい方向へ伸びます。
今起きていることは、全て、良くなる前に必要な過程であります。

 そのためにも、信仰者の皆様は、聖典を再読し、行をいたしましょう。

3187アクエリアン:2015/03/04(水) 11:49:23 ID:X49tdNOI

■マリアン・ウィリアムソンを読む(1)

Aging Spiritually
(霊的に年を重ねる)

By Marianne Williamson

Excerpt from the March/April 2008 issue of Unity Magazine
(ユニティマガジン2008年3、4月号の記事からの抜粋)

My father once told me, “When you’re old, you don’t feel old.”
I can appreciate what he meant when he said that, as I ponder the fact
that the essential being I am inside myself is the same in my 50s as
when I was only 15.

So who am I really?

Am I the woman who has changed with age, or am I the changeless self
within?

Am I the woman who is encased in time or the being who dwells apart from it?

appreciate:称賛する、感謝する、正しく認識する
ponder:じっくり考える
encase:すっぽり包む
dwell:住む

私の父がかつて次のように私に語ったことがありました。

「お前が年をとったとしてもお前は自分が老いたとは感じないよ。」

私は父がこのことを語ったとき何を言おうとしていたのか、ということが、今の私なら理解できます。
というのも、私は、私の内なる本質は、15歳のときだろうが、50歳代のときだろうが、不変なのであるという事実を、ずっと考え続けているからです。

それでは、私とは一体いかなる存在なのでしょうか?

年齢とともに変わって行く一人の女性なのでしょうか?

あるいは、内なる不変の自己なのでしょうか?

時間という要素に制約されている女性なのか?

あるいは、時間という要素の制約を超えた存在なのでしょうか?

3188アクエリアン:2015/03/04(水) 20:31:44 ID:X49tdNOI

■マリアン・ウィリアムソンを読む(2)

Aging Spirituallyー(2)
(霊的に年をとる)

By Marianne Williamson

Excerpt from the March/April 2008 issue of Unity Magazine
(ユニティマガジン2008年3、4月号の記事からの抜粋)

Sometimes when referring to things that happened long ago, we say things like “I remember it like it was yesterday.”
And that’s because in a way it was.

If time, as Einstein declared, is merely an illusion of consciousness, then linear time itself is a metaphysical fiction;
everything that has happened, is happening, or will happen, is happening now. There, in that realm of the eternal now,
is the true “I am.”

illusion :幻影
linear:直線の
metaphysical :形而上学的な、きわめて抽象的な
realm:領域、範囲

しばしば、ずいぶん前に起きた事について言及するとき、「それは昨日おこったことのように覚えている」と言うことがあります。
そして、それはある意味、その通りだからなのです。

もし、時間というものがアインシュタインが言うように、単なる意識の幻影でしかないのならば、一直線に進む時間という概念そのものは、
頭の中だけのフィクションにしかすぎないということになります。かつて起こったこと、今起こっていること、そして将来起こるであろうこと、
これらのすべてのことは、今この瞬間に起きているのです。永遠の今という領域においてのみ、真の”私”が存在しているのです。

「everything that has happened, is happening, or will happen, is happening now.」
「かつて起こったこと、今起こっていること、そして将来起こるであろうこと、これらのすべてのことは、今この瞬間に起きているのです。」

この文章は、「the eternal now(永遠の今)」という概念を解説する文章として、なかなかうまいこと表しているなと思います。

過去も、未来も、すべてこの「永遠の今」という瞬間において、自己の心の掌中に握られているのだ、ということでしょうか。

これは、常に口に出したい文章で、私は非常に好きです。

「甘露の法雨」に曰く、

生命は時間の尺度のうちにあらず、

老朽の尺度のうちにあらず、

却って時間は生命の掌中にあり。

これを握れば一点となり、

これを開けば無窮となる。

若しと思う者は忽ち若返り、

老いたりと思う者は忽ち老い朽つるも宜(むべ)なるかな。

3189なでしこ:2015/03/05(木) 01:04:38 ID:EIiX3Duo
アクエリアン様

有難く拝読させて頂いております。合掌

3190志恩:2015/03/05(木) 06:31:34 ID:.QY5jUA6
3187,3188:アクエリアン様

>>アクエリアン様の文、一部抜粋

■マリアン・ウィリアムソンを読む
Aging Spirituallyー
(霊的に年をとる)

もし、時間というものがアインシュタインが言うように、単なる意識の幻影でしかないのならば、
一直線に進む時間という概念そのものは、
頭の中だけのフィクションにしかすぎないということになります。

かつて起こったこと、今起こっていること、そして将来起こるであろうこと、
これらのすべてのことは、今この瞬間に起きているのです。
永遠の今という領域においてのみ、真の”私”が存在しているのです。

「everything that has happened, is happening, or will happen, is happening now.」
「かつて起こったこと、今起こっていること、そして将来起こるであろうこと、
これらのすべてのことは、今この瞬間に起きているのです。」

この文章は、「the eternal now(永遠の今)」という概念を解説する文章として、
なかなかうまいこと表しているなと思います。

過去も、未来も、すべてこの「永遠の今」という瞬間において、
自己の心の掌中に握られているのだ、ということでしょうか。<<
……………………………………………………………………
アクエリアン様

ユニティの格調高い文と、他板では、歌のご紹介も、感謝します。
雅春先生時代には、海外の光明思想家の方々が、次ぎから次ぎへと、雅春先生に会いに、
来日されていましたものね。デーヴィスさん、ホルナディさん...、輝くオーラを放ちながら、
講演も、通訳つきでされて、信徒たちを啓蒙して下さってました。
また、こういう時代が来るといいですね。

3191アクエリアン:2015/03/05(木) 20:55:47 ID:X49tdNOI

■マリアン・ウィリアムソンを読む(3)

Aging Spiritually
(霊的に年を重ねる)

By Marianne Williamson

Excerpt from the March/April 2008 issue of Unity Magazine
(ユニティマガジン2008年3、4月号の記事からの抜粋)

The eternal self dwells in eternity, and eternity intersects linear time at only one point: the present.

intersect:交差する、相交わる

Who you are in this moment, therefore, is who you truly are.

And from that essential point of perfect being―created anew by God in every instant―miracles flow naturally.

anew:新たに、
instant:瞬時、瞬間

Thoughts of love interrupt the past and open the future to new probabilities.

No matter who you are, no matter how old you are, in the present, all things are possible.

久遠の自己は久遠のなかに存在するのです。そして、久遠と、この現象の時間とは、ただ一つの地点ーーつまり、現在ですねーーにおいて、交差するのです。この瞬間のあなたの姿が、それゆえに、あなたの久遠の自己の顕れなのだということになります。そして、真の自己は、瞬間瞬間、神によって新たに創造されている完全な存在なのだという絶対的な次元から奇跡は自然に生まれてくるのです。愛は過去からの悪影響を遮断し、未来に対して新たな可能性を開くのです。現在のあなたがどのような境涯であろうと、何歳であろうと、あらゆる可能性が開かれているのです。

なでしこ様、志恩様、メッセージありがとうございます。

マリアン・ウィリアムソン女史は、アメリカ人でありながら、非常に深い真理を体得されているように思います。
前世、インドか日本で、インド哲学か仏教などを学んでいたのではないかと思わせられる、宗教的センスの良さが
感じられて、魅力を感じています。

3192アクエリアン:2015/03/06(金) 20:48:04 ID:X49tdNOI

■マリアン・ウィリアムソンを読む(4)


Aging Spirituallyー(4)
(霊的に年を重ねる)

By Marianne Williamson

Excerpt from the March/April 2008 issue of Unity Magazine
(ユニティマガジン2008年3、4月号の記事からの抜粋)

The physical self ages, of course, but the spiritual self does not.
As we identify more with the spiritual dimension of our lives, then
our experience begins to shift from the changeable to the changeless
. . . from limitation to limitlessness . . . from fear to love.
As our journey through linear time gets shorter, our consciousness can
in fact expand. And as it does, time itself is affected. The deeper we
go into the love of God, the more we actualize our earthly potential.

identify with;・・・・に関係する、共鳴する

肉体の自己は、勿論、老化はまぬがれることはできませんが、霊的自己はそうではないのです。私たちの生活が、もっと霊的な次元を意識するようになると、私たちの経験は、無常なものから常住のものへ、限定から無限へ、恐怖から愛へと転換しはじめるのです。私たちが現象の時間を意識することが少なくなるほど、私たちの意識は本当に拡大していくのです。そして意識が拡大していくと、時間そのものも影響を受けます。私たちが神の愛の中へ深く入っていけばいくほど、この地上における私たちの潜在能力をより多く実現していくのです。

3193アクエリアン:2015/03/08(日) 10:27:37 ID:X49tdNOI

■マリアン・ウィリアムソンを読む(5)

Aging Spirituallyー(5)
(霊的に年を重ねる)

By Marianne Williamson

Excerpt from the March/April 2008 issue of Unity Magazine
(ユニティマガジン2008年3、4月号の記事からの抜粋)

The understanding of that which does not change is the key to our power within a world that does. In aligning ourselves with the eternal self, we age not in a straight line leading from luscious youth to decrepit age, but rather like the flowering lotus opening more and more to the light of the sun.

align oneself with:・・・・と提携する
luscious:甘美な、官能的な、きらびやかな
decrepit:老いぼれた

変化しない永遠の存在への覚醒が、この無常の世界の内に眠っているわたしたちのパワーを開花させるための鍵です。わたしたちの真の自己である久遠の自己に目覚めるとき、わたしたちは、甘美な青春期から老いぼれた老年期へという通常の人生のコースではなく、むしろ、蓮の花が太陽の光に向かって花開くような年齢のとり方をするようになってくるのです。

3194アクエリアン:2015/03/12(木) 20:36:35 ID:X49tdNOI
「エマソンの光明思想と生長の家」 谷口雅春先生

理想世界誌昭和四十七年十月号輪読のための青年法語より


■四日のことば 超越的自己を自覚するために

わたし達は “本当の自分” ではないところの単なる仮装の存在である肉体にばかり気をとられ、 肉体が生活している “物質と見えている環境” の有様にのみ心を集中して生活している時には、 この内在の “本当の自分”---Soul(魂)なる自分には気がつかないのである。

しかしある瞬間 ---それは座禅や鎮魂や神想観や瞑想や---兎も角、外界に心を振り向けずに自分の内的生命にのみ ひたすら心を振り向けた機会に、自己の内的生命の自覚が顕在になって来る。そのとき、イエスが

「われはアブラハムの生まれぬ前(さき)より在るものなり」

と自覚された時のような、肉体の 年令や時間を超越して実在するところの自分を自覚するのである---諸君もそれを自覚するときが 来るのだ---そのためには毎日怠らず神想観を実修するがよい。

【コメント】
この法語で説かれているように、「超越的自己」の自覚、ということが、生長の家のみならず、宗教の究極の目的ではないでしょうか。マリアン・ウィリアムソン女史の言う、「the eternal self」ですね。

3195島津綾久:2015/06/12(金) 16:12:07 ID:???


 誰であれ人に会ったら「夜中12時にはこの世を去る」そんなつもりになって、いままでとは違った態度で接する。それは極めて簡単である上に、それと引き換えに人生が永久に変わるのです。ぜひ試してください。


 明日という日があるのは愚か者の暦だけ。昨日の敗北は忘れ、明日の問題は無視します。今日こそ、最後の審判の日。あなたの持っているすべて。それを一年で最高の日にするのです。もう一度人生をやり直せたらという言葉ほどわびしいものはありません。今日はあなたの日です。


 一日一日が神からの特別な贈り物です。人生は常に公平というわけにはいかないかもしれません。しかし、醜い自己憐憫のマントをまとっていては絶対に勝てないし、泣きごとの不快な響きは成功のチャンスを必ず追い払います。そんなことはもうやめましょう。もっと良い生き方があるのです。


 欠点が邪魔をして前進できないのではないかと取り越し苦労をするのはやめること。人間は神の創造物であり、志を高く持てばどんな夢でもかなうのだと折にふれて思い出すようにしよう。自分は飛べると思ったら本当に飛べるのです。失敗するのではないかなどと2度と考えないこと。


 1974年、ハンク・アーロンがベーブ・ルースのホームラン記録に近づいたある朝、私はアトランタブレーブスの広報課に電話しました。「ハンクのホームランが710本で、あと5本でベーブルースの記録を破ることは知っています。ところで、ハンクの三振はいままで何回ですか?」電話に出た青年は言った「1262回です」不世出のホームラン王でさえホームランを一本飛ばすために、倍近く三振を出さねばならないのです。


 失敗は人生が人に教訓を与える手立てなのです。ときどきへまをやらかす能力は、目標に到達する能力と切っても切り離せない関係になります。連勝連敗の勇士などどこにもいないのです。失敗してもそれは成長の一部でしかありません。たとえばへまといっさい縁を切ったとします。ときたま失敗することなしにどうして自分の限界がわかるでしょう。失敗しても投げ出さないこと。そうすればいまにあなたの番がきます。


 ひとたび明日から給料以上の働きをすると心に決めたら、人生に奇跡が起こり始めます。現在何で生計を立てているか、仕事のいかんにかかわらず、毎日給料以上の働きをすれば、生活はすぐさま向上しはじめます。費用は全くかからないのに効果は抜群で、このルールに従えば人生は永久に変わります。


 何ごとも期待される以上の仕事をするという秘訣を習得すれば、成功の勝利は半ば手に入れたも同然です。職場に欠かせない人材になるように、役に立つ人間になるのです。もう1マイル行く権利を行使して、それによってもたらされるさまざまな報酬を手に入れるのです。あなたはそうした報いを受ける価値があります。


――――――――――――――――――――――――――――
●オグ・マンディーノ
 1923年アメリカボストン生まれ。高校卒業後アメリカ空軍中尉とし
て活躍後、保険の営業を経て出版社を経営。 1976年から著作活
動と講演活動に従事し、『地上最強の商人』の大ヒットによって一躍、
人気作家に。アメリカで最も精神的影響力を与える作家の一人とし
て挙げられると同時に、その講演内容にも定評があり、全米各地で
人気を博す。著書15冊、世界で2500万部を越える。1996年9月
急逝。
――――――――――――――――――――――――――――

3196島津綾久:2015/06/13(土) 05:11:47 ID:???

 〝病なし! 迷いなし! 罪なし!〟これが生長の家の根本真理であります。それでは、神様ただ今より眠らせていただきます。

6月13日3:30am
谷口雅春先生 最後のお言葉――

3197a hope:2015/07/17(金) 12:04:33 ID:cEpBaIdo

「神 真理を告げ給う」 p87

               ○    

何よりも日本の青年たちを堕落せしめる根本原因になっているものは、アメリカ軍が敗戦の日本に当時押しつけた「日本国憲法」の残存である。この憲法が青年たちを道徳の頽廃に導く根因を成しているというのは、人間を単なる性・色の本能をもてる肉体だという考え方から出発して、双方の性欲さえ動けば結婚は自由であるという風に規定しており、更に、国民はその肉体が健康で快適な生活を送る権利が有る――そのようなことを基本的人権として書いているからである。


肉体が健康で快適な生活を送るためには、国民各自みずから努力し修養し、そのような境地に達する義務があるのであるが、この憲法はその義務をかいていないのである。この憲法には国民みずから努力の義務なくして、国家ばかりに国民を健康にし快適な環境を生活させる義務を負わせている。そのために何か自分に都合が悪いことが起これば、国が悪いのだ、政治が悪いのだと、自分の不幸の責任を国と政府に肩代わりさせて、国を憎み、政府に反逆するように書かれているのである。責任を他に転嫁して自分が責任のがれをする生活は、安易である代りに、人間を卑怯に育てて堕落させる結果を招くのである。

               ○

3198a hope:2015/07/17(金) 12:10:37 ID:cEpBaIdo

>>3197 a hope 所感)

たしかに日本国民の道徳観はどんどん頽廃してきているようにみえます。
離婚にともなう片親家庭の増加、当たり前のようにする不倫など、わたしの周りではもうそのようなことはめずらしくありません。
少し前までは後ろ指をさされる様なこともあったかもしれませんが、最近では当事者であっても悪びれたそぶりも見せません。


ですが、数日前に信仰/体験板に謹写した同聖典の言葉に、

<<地上で果たすべき最後の課程を卒業した霊魂は高級天体の世界に移住して、もう地球上に帰還することはない。
その卒業移住と引き替えに、他の地球よりも、もっと低い階級の天体に住んでいた未発達の多くの霊魂が、恰(あたか)も中学校卒業の子供が高校へ入学して来るように、地球に移住してきたのである。
それが戦後に生まれて来た人たちの霊魂である。
彼らは他の天体に今まで住んでいて、他の天体で発達した文明と文化と習慣の中で生活した霊魂であるから、今まで地球で住んでいた人類の道徳とは異(ことな)る道徳的規準を身につけており、絵を描くにしても、音楽をたしなむにしても、衣装をつけ、髪形を調えるにしても、男女交際のあり方にしても、全く戦争前地球人とは全然異(ことな)る
趣味と表現と風習とをもっているのである。
けれども彼らはやがて地球という稍々(やや)上級天体の生活に、彼ら自身の生活振りと行動とを慣らして行く時が来るのである。
世界は悪化しつつあると見える時にも、結局は一層良い方に移行して行くのであるから余り心配しないがよい。>>

http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/11346/1333192083/2618

とあります。

そのことから考えると、現憲法である「日本国憲法」は霊性の高い谷口雅春先生、又は戦前生まれの方々からみれば波長の合わないものだったかもしれませんが、
『他の天体に今まで住んでいて…今まで地球で住んでいた人類の道徳とは異(ことな)る道徳的規準を身につけて』いるという、
戦後に生まれたわたしたちには、きっとピッタリ波長があってしまったのでしょうね。
だからこそ、70年間も存続し続けたのだと思います。

ですが神さまは、そのような最悪と見えるような状態も、

<<けれども彼らはやがて地球という稍々(やや)上級天体の生活に、彼ら自身の生活振りと行動とを慣らして行く時が来るのである。
世界は悪化しつつあると見える時にも、結局は一層良い方に移行して行くのであるから余り心配しないがよい。>>

と、とても楽観視されてます。

「限りなく日本を愛す」の谷口雅春先生の切羽詰ったような論調とは明らかに趣が異なります。

神さま! 今日本で起きているすべてのことは、日本が、わたしたち日本人が良くなるための自壊作用ということなのでしょうか?

3199「訊」:2015/09/10(木) 08:49:47 ID:???




 敗退したるところの日本精神は、決して精神主義的なものでも心霊主義的なものでもなく、日本精神の仮面を被った唯物論そのものであったことは先ず最初に注意すべき事柄である。(中略)日本軍部の敗退の原因は其の徹底的唯物論であって兵を観るに『人格』として視ることなく、ただの物品として取扱った。打つ、擲(なぐ)る、蹴るは無論のこと、『鶯の谷渡りをせよ』と云って小鳥の真似をさせたり、『蝉になれ』と云って柱に数時間とまっている真似をさせたり、人間を人格として観ず、鶯や、昆虫や無機物として取扱った。(中略)更に、日本軍部敗退の原因は其の軍需経済の建て方が、唯物的であったと云うことである。換言すれば『奪えば増加し、与えれば減る』と云う物質的算術図式の経済しか知らぬ幼稚なものであったのである。

「白鳩」誌(昭和二十一年六月号)より謹写――


 軍も官も概ね利己に心の眼がくらみ、富める国より、有てる国より奪うことによって、日本を大きくしようと考え、それに付随して自己の栄達を希(ねが)って、国民を引摺って行ったのである。国民もそれに無我に随って行ったようであるが、真に無我ではなかった。やはり利己的動機で儲けようと考え(中略)尚それよりも重大なのは、やはり富める国より、その領土を奪って、日本領土を拡張することが国に忠義であるとの国家的利己主義に眼がくらんで、それを謳歌していたのである。国民はかくして眼くらみ、盲人となって盲人なる軍官指導者に手を引きずられつつ歩んで行った。そうしてついに今日の破局に墜落したのである。

「生長の家」誌(昭和二十年十二月号)より謹写――


 『神の国』と彼等日本人は自国を称したけれども、それは『封建的上位階級の支配する国』と云う意味であった。従って『日本神国』と称すれば、如何にも他から察せば、宗教立国の国のように聴えたけれども、実は無神論も無神論、ただ特殊上位階級を指してカミと称した偶像崇拝者支配の国と云う意味であったのである。このようなことではどうして、真の宗教をもち、真の『神』を信ずるアメリカ軍の信念の力に立向うことが出来る筈がなかったのである。



「白鳩」誌(昭和二十一年六月号)より謹写――

 
 縛る心が『病気』である。病気と云っても肉体の事ばかりではない。国民を縛る国は病気の国であり、国民を縛る軍隊は病気の軍隊である。そのような国が敗れ、そのような軍隊が自壊したのは当然である。人間も病気にならないことを希うならば、また病人が治ることを欲するならば、『こうでなければならぬ』と人を縛る心、『こうありたい』と人を縛る心から、自分自身を解放しなければならぬ。他を縛る心は、自分自身をもそれに引っかからせて、自分自身を縛っているのである。人を『斯うでなければならぬ』と心で縛っている間じゅう、自分自身の心は窮屈であろうがな。道徳家はよく病気をする、他を審判(さば)き、他を縛る心があるからである。他を解放したときに、自分自身も解放される。一切万事われより出でてわれに還るのは此処に於ても真実である。


「白鳩」誌(昭和21年5月号)より謹写――

3200a hope:2015/09/20(日) 05:59:05 ID:H4pfxWHA

○いっさいの実在は神なる一元より発生したものである。

われわれは神の中にいる。

常住神を離れることはできない。

だから神に近づくとは一歩一歩、いろいろの工夫を凝らして神にまで攀(よ)じ登ることではない。

工夫という私の計らいがなくなった時、そのままで神の中におり、神に一致し、神のままに行為し生活している自分を見出だすのである。


「生命の實相」第22巻『知慧の言葉』より

3205トキ:2015/10/09(金) 01:09:10 ID:DxPu/lj2
全ての人間を”神の子″として拝むこと


あなたが”神の子″であるだけではなく、すべての人間が”神の子″であり、わたしたちと兄弟姉
                         
妹であるのであるから、わたしたちはいかなる人間をも”神の子″として礼拝し、全ての人間を祝福
                     
してあげなければならないのである。人を軽蔑してはならない。どんな不完全な状態がその人に現在
                                  
顧われておろうとも、その顕われだけを見て、その人間を根本的に蔑視するようなことがあってはな

らないのである。顕われのみを見ず、実相の完全さを見つめ、観じ、祝福することを継続するなら

ば、実相の完全さが、必ずやがて顕われて来るに相違ないのである。

「如意自在の生活365章」 谷口雅春先生著、193ページより謹写

3206a hope:2015/10/12(月) 10:23:32 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第22巻 p2 8行目〜

はしがきより抜粋


・・・「聖語篇」に収録されている「智慧の言葉」は人間知の言葉という意味ではない、わたしという思想のラジオ的受信機に天界から放送された思想の宝玉的結晶である。

その放送は、わたしがあの『生い立ちの記』(本書・携帯版〈第十九・二十巻〉「自傳篇上・下」)にあるような霊感を受けて以来、道を歩いている時にも突然わたしの頭へ閃くように降って来ることが繁くなった。

わたしは手帳を常に携帯していてそれを走り書きとめる。

その時書きとめないでおくと、あとからどれだけ思い出そうとしても思い出せないことがある。

またわたしが会社にいたころ全然「生長の家」に関係のない期間書類の翻訳などに熱中しているときに、突然その機械に関係のない一つの言葉がわたしの頭に浮かんで、それをどうしても書かずにいられないで、走書きでまた書きとめておいたものもある。

そうして書きとめられた断片的思想を集めたのが、この「智慧の言葉」である。

いろいろ一つの問題に苦心して人間心で考え出したのではなく、全然他の問題に熱中している時にでも、まったく当時没頭している実際問題となんの関係もなく真理の言葉が天から降るようにわたしの頭にポッカリ湧いてくるのだから、わたしはこれを天界からくる霊的言葉だと信ぜずにはいられないのである。

昭和三十九年三月十日

著者しるす

3207a hope:2015/10/12(月) 10:25:21 ID:cEpBaIdo

○真理のみ、ただ真理のみがわれを生かすのだ。われを生かすものはパンではない。物質ではない。

○ただ霊によって新生するもののみが真に生きるのだ。そのほかの人の生はニセ物の生である。
霊によって新生せる者には激情はない。利己的欲望はない。憎しみはない。恐怖はない。
五官の快楽の虚妄を知るがゆえに、それに捉われることはない。

○旧我を放下せよ。今日から神の子となれる。

『智慧の言葉』より

3208a hope:2015/10/13(火) 09:06:25 ID:cEpBaIdo

○執すれば善も善にあらず、執せざれば悪も悪にらず、流るる水のごとく、
とどまざるところに、否その奥に本当の善がある。

○肉体は肉体である、人間ではない。

○罪は罪である、人間ではない。

○明日しようと思っている間に時は過ぎゆく。
あやまることは早くあやまるがよいし、和解することは早く和解するがよい。
すべての支払いは「明日に、明日に」と思っている間に、
延ばしていた期間だけ先方から悪い念波の放送を受け自分自身の生長を妨げられる。

○みんな自分の念が悪いのだ。自分の念の影であったのだ。

○ひとを責めようとしていたのはまちがいであった。

○他を喜ばそうという考えは自分を健康にし、他から喜ばしてもらおうという考えは病気を招く。

○人は自分の心だと言う。しかし自分の心をもっていると思うのはまちがいである。
自分が心をもつのではなくて、自分はすなわち心である。人は何よりもまず「心」である。

○わが肉体はわが心の影。

『智慧の言葉』より

3209a hope:2015/10/14(水) 08:55:36 ID:cEpBaIdo

○誉むべきことあればその人の前にて直言せよとは古(いにしえ)の教えである。
責むべき点あらば誉むべき点のみ探し出してその人を誉めよとは生長の家の教えである。

○自分に深切であれ――これを本当に実行している人は少ない。

○いかに多くの人々が毎日自分を傷つけていることであろう。憤怒、憎悪、恐怖、罵詈――その他すべての悪徳は自分を傷つける。

○すべての心の動きはその人の顔に印象される。
三年間同一の職業をつづけている人は(特異な思想生活を別にもっている人のほかは)一見してその職業がなんであるかがわかる。

○白粉(おしろい)で化粧しても心情の下劣は隠せない。心で化粧せよ。

『智慧の言葉』より

3210a hope:2015/10/15(木) 08:46:31 ID:cEpBaIdo

○真理は大きい。誰もその全部を摑んだ者はない。

○われらの無尽蔵とは良き水脈に穿(うが)たれた井戸のように汲めども尽きぬことを言うのであって、洪水のことではない。

○洪水はわれわれを滅ぼし、不断につきない井戸水はわれらを生かす。

○贅沢はわれわれを滅ぼし、程よき衣食住はわれわれを生長さす。

○どうでもよいことにいつまでもかかわるな、生命は貴(とうと)い。

『智慧の言葉』より

3211a hope:2015/10/16(金) 18:28:20 ID:cEpBaIdo

○ひとを拝め、自分を拝め、みんな神の子だ。肉体のことではないぞ。

○神の子たちが互いに挨拶するように、人間よ互いに挨拶せよ。

○世にもし軽蔑すべきものがあるならばそれは唯一つ、軽蔑するという行為である。

○世話になるすべてのものに感謝せよ。

『智慧の言葉』より

3212a hope:2015/10/17(土) 06:54:02 ID:cEpBaIdo

○苦痛を不幸だと思うのは肉体心のあやまりである。苦痛がたましいの生長にどんなに必要だとかいうことを知る者は苦痛でも喜べる。

○苦痛が喜べるようになった時、その人には恐ろしいものはない。

○人を憎むな、憎むのは自分の苦痛をこわがっているからだ。苦痛が喜べるようになったときその人は憎みから解放される。

○苦痛の火の中にあって、自分のたましいが白金か鉛か自問せよ。

『智慧の言葉』より

3213a hope:2015/10/18(日) 08:34:01 ID:75EsoCW6

○病気がなおったという理由で神を讃えるものは、今度病気になったとき神を呪わないとは限らない。

○いつでも神をたたえうる者は幸いだ。

○人間がみんな神の子であることを自覚しないのは実に気の毒なことだ。自己が神の子であるという自覚がいっさいのもとである。

『智慧の言葉』より

3214a hope:2015/10/19(月) 07:47:35 ID:YuH7GFGM

○なろうと思うよりも、なれると思って明るい気持ちで努力せよ。

○意志の力よりも想像の力の方が強い。想像力は創造力だ。

○みんな希望を実現しようと思って焦るが実現できると思って悠々と努力する者は少ない。失敗者の多いのはそのためだ。

○できると思うものは必ずできる。

『智慧の言葉』より

3215a hope:2015/10/20(火) 08:46:06 ID:cEpBaIdo

○わが教えは広く大いなる道である。あらゆる存在が尊べる道だ。生命あらゆる存在を拝む道だ。机でも大根でも拝む道だ。

○わが教えは審判(さば)く道ではないのだ。礼拝の道だ。包容の道だ。

○物を生かして使え。しかし生命はもっと大事だ。物を大事にしようと思って人間を不大事にする者は本末を転倒するものだ。一枚の皿を破ったといって人間をガミガミ叱るな。人間は皿より尊い。

○といって一枚の皿をも大切にせよ、それを造った人の生命が宿っている。

『智慧の言葉』より

3216a hope:2015/10/21(水) 07:34:40 ID:cEpBaIdo

○われらは種を蒔く人である。常に善き種を蒔け。深切な思いの種を蒔け。愛の種を蒔け。好意の種を蒔け。

○チューリップの花のように、バラの花のように、われわれの蒔いたよき思いがやがて花をさかすときの楽しみを思って喜べ。

○喜ぶ人は喜びの種を蒔く人だ。呪う人は呪いの種を蒔く人だ。悲しむ人は悲しみの種を蒔く人だ。

○蒔けば殖える。だからどんな方便でもして喜べ。

『智慧の言葉』より

3217a hope:2015/10/22(木) 08:58:58 ID:cEpBaIdo

○欠点を見つけるな。荒立てるな。静かに彼のために祈れ。

○家庭の精神的葛藤(いざこざ)で病気をつくっているものが多勢(おおぜい)ある。そんな病気はどんな薬も、霊術も、家庭の乱れを治さねば根本的には治すことはできぬ。

○事務所に窒息するような空気をつくるのも、輝くような雰囲気をつくるのも上役の心持(こころもち)次第である。

○家庭の幸福を内に持たない子供はかわいそうだ。危険と堕落とが外から呑もうとして待っている。

○子を愛する親たちよ、家庭を乱すな。

○子供をあまり束縛するな、神に委ねよ。家庭より外の方が楽しいようになったとき、子供は危険の淵に立つ。

『智慧の言葉』より

3218a hope:2015/10/23(金) 09:47:31 ID:cEpBaIdo

○すべての善さを知るものは幸いだ。自分の生活のみがいちばん善いと思っている間はだめだと知れ。どれも皆それぞれの姿において一ばん善いことを知るのが知恵である。

○善いということは生命がそこに顕現しているということである。

○朝顔の花をいちばん美しいと思うな。バラの花をいちばん美しいと思うな。藤の花をいちばん美しいと思うな。牡丹の花をいちばん美しいと思うな。生命は皆美しいのである。万象ことごとく美である。

『智慧の言葉』より

3219a hope:2015/10/24(土) 08:44:44 ID:cEpBaIdo

○人生は「迷惑」という側から見れば「迷惑」のかけ合いである。「世話をする」という側から見れば世話のし合いである。人に世話になることを恐れるな。その代わり他の世話をすることを惜しむな。助け合うという側から見れば助け合いばかりである。 そこは愛の世界がある。光明の世界がある。

○ひとの世話はしても、ひとの世話になりたくないという心はまだ「我」のくだかれない心である。

○愛でひとの世話をする人もあるが、誇りでひとの世話をする人もある。前者は神の前で高くせられ後者は神の前で低くせられる。

○自分がひとの世話をしたと思うな。みな大生命がさせたのである。胃腸は自分の力で全身に栄養をおくるのではない。胃腸のはたらきは全身の生命の機能である。世話をする者も世話をされるものもみな一体である。

○もし胃腸が栄養を送ってほかの部分を養うだけで、自分がほかから養われていることを拒むならば胃腸自身はほろびるだけでなく全体の生命がほろびる。

○世話したい人には素直に世話してもらって感謝し、世話されて余裕のある人は、また助けを呼んでいるものを世話してあげよ。これが愛の循環であり、報恩の道である。

『智慧の言葉』より

3220a hope:2015/10/25(日) 09:19:04 ID:cEpBaIdo

○相対性理論で有名なアインシュタイン博士は光線が引力によって引き寄せられて屈(ま)がることを発見した。引力をエーテルの作用だと言っている学者もあるが、引力とは結び合う力、愛の力、生命から放射する力である。

○地上の動物は引力(愛)の方向に従うとき最も多く生長する。姿勢の悪い植物はそれだけ生長が悪いのである。これはあらゆる生物についても同じである。

○あなたよ、姿勢を正しくせよ。それだけであなたは健康になる。

『智慧の言葉』より

3221a hope:2015/10/26(月) 09:29:15 ID:cEpBaIdo

○「祈り」で自分の心が調うことが第一であって、自分と大生命とのつながりができたとき、人間以上のものが人間の行為を導くのである。

○医者の診断も霊感と直覚とかによって正しく導かれねばならない。医者こそ最も多く祈らねばならない人たちである。

○生長の家ではだいたい薬は用いない。「生命の法則」に順(したが)うとき病気にならないのが普通であるからである。しかしもし「生命の法則」を破って病気になったときはどうするか。祈りを深めてゆくことによってどういう療法をとるべきかについて大生命からおはからいがあるのである。

『智慧の言葉』より

3222a hope:2015/10/27(火) 08:21:43 ID:cEpBaIdo

○罪人よ罪人よと言うなかれ、皆な神の子だ。罪人はひとりもいないのである。

○けがれたるこの身このまま罪なしと思う心はまた迷いである。このままで罪なしと思うのは驕慢の心である。けがれたるこの身は本当の自分ではないのだ。けがれない円満なる本性が自分のうちにあって、この本性こそ本当の自分であると知るものが自己の本性をしるものである。

○このままで罪なしと自任するのは、このままの自分を本当の自分だと思い違えているのである。迷いを実在と見、それに執着しているのである。

○省みて迷いと本性とを区別し、迷いの相(あらわれ)を否定し尽し、円満完全なる自性を肯定しつくしたとき、五官の眼でこれが自分だと思っていた不完全な相(すがた)が消滅して、円満完全融通無礙なる自分の本性が開顕するのである。

『智慧の言葉』より

3223a hope:2015/10/28(水) 09:00:50 ID:cEpBaIdo

○打たれて腹が立ったり、膨れたり、反抗したりするのは負けた感じがするからである。強がりは本当は弱いのである。上手がりは本当は下手なのである。

○赤ん坊に対して腹が立たぬのは負けた感じがテンデしないからである。

○本当に強者としての自覚があれば、従順になれるのである。従順になる稽古は強者になる稽古である。神の子になる稽古である。

『智慧の言葉』より

3224a hope:2015/10/29(木) 06:14:55 ID:cEpBaIdo

○愛に一時報いがないように見えても愛の力を疑うな。愛した相手に叛(そむ)かれても愛の力を疑うな。すぐに結果がでるような功利的なものよりも大きな果(み)を愛は結ぶのだ。

○愛はすべての物に調和と平和とを齎(もたら)す精神波動である。この世に隠れたる愛がなかったらもっとこの世は悲惨であったに違いない。愛の精神波動は永遠に消えないでついに神のみ許(もと)に達するのだ。

○今まで注がれた愛でいまだ一度も無駄であったものはない。愛はこの世で花を開いて皆の者に喜ばれ、神の国で実を結ぶ。

『智慧の言葉』より

3225a hope:2015/10/30(金) 08:13:39 ID:cEpBaIdo

○愛は、人と人との接触を和らげ、人生を住みよきものたらしめる。そこまでは誰でも知っている。されど、人間の愛が自然界に及ぼす影響を知っている人は少ない。すべての人間が互いに愛するようになり、怒りや憎しみや妬みなどの不調和な精神波動がこの世から消滅してしまえば、自然界の現象を支えている内的な力に一大変化が起こり、調和がおのずから自然界を支配し、聖書にあるような獅子と羊とが一緒に遊んでいる世界が出現するのである。眼に見える世界は心の世界の影でしかないからである。ことに万物の霊長でたる人間の心は万物を支配する。

○その時植物は今よりいっそう美しく花を開き、小鳥は今よりいっそう美しき声で鳴き、猛獣は猫のように人間の膝に眠る。

○生長の家が憎しみに反対するのは憎しみが人生の不幸の根であるからである。宇宙を支えている心の力を清めなければ、外界の一つの不調和をなんらかの方法で刈りとっても、またほかから不調和の芽が出て来る。不調和の根が残っているからである。

○心の改造に立脚せぬ社会改造運動が善いように見えて、結果がおもしろくないのは、不調和の根(心的実在)を刈りとることを忘れているからである。「剣をとるものは剣でほろびる。」憎しみで立つものは憎しみで滅びる。

○なんじら憎みのパン種で膨らましたパンを慎(つつし)めよ。それは美味しく見えても食べる者の心を憎しみで膨らますのである。

○一国を支配する者は名君である。しかし自己の心を支配しうる者の方がいっそうの名君である。

『智慧の言葉』より

3226a hope:2015/10/31(土) 07:02:48 ID:cEpBaIdo

○損をしたという。だけれども、よくよく考えれば人生はどんなに損をしようと思っても損のできないように造られているのである。損をしたと見えるような時こそ、魂が何かを摑んでいる時である。

○苦しみは損ではない。貧乏も損ではない。良薬は口に苦し。何が来ても、その中から養分を吸いとってわが生命は肥(ふと)るのだ。

○金銭の損で心を穢(けが)すな。昔から真に偉大な人は、みずから好んで金銭を捨てた人の方に多いのだ。

○他人(ひと)を我で自由にしようと思うな。自分で自由にしようとして自由にできる物は一つもない。しかし自分で自由にしようと力まないようになれば、なんと不思議、すべてのことが自由にらくに運ぶのである。我がなくなるからである。

『智慧の言葉』より

3227a hope:2015/11/01(日) 09:29:54 ID:cEpBaIdo

○生命の実相を信ぜよ。実相の神を信ぜよ。実相の神に結びつくとき、いっさいの罪は自分から切り離される。実相の世界には罪は存在しないからである。自分から切り離された罪は消滅する。

○生命の実相――生長の家の礼拝の対象はこれである。生命の実相――あらわれて阿弥陀仏となり、釈迦となり、イエスとなり、一切善き宗教の教えとなる。「彼を信ずる者の、その名によりて罪の赦しを得るべきことを証しす」と『使徒行伝』十章四十三にあるが、彼とは生命の実相である。生命の実相を信じ礼しこれに結びつく者は幸いなるかな。

『智慧の言葉』より

3228a hope:2015/11/02(月) 08:57:05 ID:cEpBaIdo

○ある所に重荷を背負ってくるしみながら歩いている男があった。馬車屋が、その男が重荷に苦しんでいるのを見てこの馬車に乗って行けと言った。男は喜んでその馬車に乗った。「その荷物を下へおろしなさい。値段は同じこと無代(ただ)だから」と馬車屋は言った。「めっそうな、わたしは載せてもらうだけでもありがたいのですから、この荷物はわたしが舁(かつ)いで行きます」とその男は答えた。
これはアイルランドのお伽噺だ。実相の神は渾(すべ)てであるからわれわれが馬車の中で重荷を背負わなくとも一緒に運んで下さるのである。

○なんじの悩みは神に語れ。人に語らずして神に語れ。人に悩みを語ればその悩みは反響してさらに悩みは増加するであろう。神に語れば悩みは消える。神は実相の神であり、実相の光の射す所に悩みの暗(やみ)は存在しないからである。悩みは変じて喜びとなり、訴えは変じて感謝となるであろう。すべてのものはすでになんじらに与えられているのである。

○悩みを数えるよりも、恩恵を数え上げよ。なんじはそんなに賜物が多いのになぜ呟くのだろう。不健康にならなければ健康を感謝しないものには不健康が来り、囀(さえず)る鳥が飛び去らねば囀る鳥の妙音に讃嘆し得ない者の庭からは、囀る鳥は飛び去るのである。生長の家の生活は、感謝の生活である。

○生長の家の生活はすべてが与えられた生活であるから、感謝の生活のほかはない。

『智慧の言葉』より

3229a hope:2015/11/03(火) 11:09:54 ID:cEpBaIdo

○病気に悩んでいる者でも、今まで健康を頂いていたことに感謝しなかったことをお詫びし、さらに現に健康が与えられていることに感謝し、神想観をしてその感謝の精神を統一して感謝の念を深めてゆけば、その病気が癒されるのである。眼の悪い人は、今まで完全な眼を与えられていながら感謝しなかったことをお詫びし、さらに進んで現に完全な眼を与えられていることを確認して、それに対して徹底的に感謝の念を深めてゆくときはその眼が癒えるのである。徹底的感謝生活に病気はない。

○感謝は実に絶大な力である。それは与えられた事物に対する受身の力だけでなく積極的な創造力である。

『智慧の言葉』より

3230a hope:2015/11/04(水) 08:47:15 ID:cEpBaIdo

○「個」を絶したところに「本当の神」があり、「本当の我」がある。

○本当の信仰というものは父を知り自分を知ることから始まらねばならぬ。父とは神、自分とは神の子だ。

○われと神の子とが、ぴったりと出会うこと、父と子とが完全に相会うこと、これが本当の信仰である。

○信仰とは神のみ懐(ふところ)に抱かれることである。

『智慧の言葉』より

3231a hope:2015/11/06(金) 08:31:10 ID:cEpBaIdo

○「霊」が心霊現象実験室に出て来たと言う者があるけれども、「霊」は実験室にも五官の世界にも六官の世界にさえも出て来るものではない。五官はもちろん、六官の世界にさえも姿をあらわすのは「霊」そのものではなく念波の現象化したのである。体は実験できるが、霊は実験にのらない。

○逆説(パラドクス)のようだが、実験しうるものはかえって実在しないのであって、実験しえないものがかえって実在する。

○人は「霊」である。「霊」は神である。人を肉体だと思っている夢から覚めよ。

『智慧の言葉』より

3232a hope:2015/11/08(日) 10:18:59 ID:cEpBaIdo

○人間は物質にいない。

○消滅する者は真の人間ではない。

○永遠不滅のものが真の人間である。


○神は人間の母胎であり、人間は神の子の誕生である。

○神についての学説は何するものぞ。自分が神であるという一大事に目覚めることが大切である。

『智慧の言葉』より

3233a hope:2015/11/09(月) 09:51:38 ID:cEpBaIdo

○人には適業がある。しかし今を深く穿(うが)ち入るとき、その適業に到達し、ついにそれを発見する。わたしは本来無学、会社員生活に深く穿ち入ることによって、生長の家生活に到達し、多病に深く穿ち入って生長の家の健康学に到達し、長時間の激務をつぶさに味わいて、人類を経済的苦難より救うべき生長の家経済学に到達したのである。適業は、現在に深く穿ち入り深く味わい深く考え、些細のものにもその有する意義に触れるときひとりでに得られる。

『智慧の言葉』より

3234a hope:2015/11/10(火) 07:54:30 ID:cEpBaIdo

○できるだけ大多数の人類のために働け、しかし、最も近き一人のものに深切でない者は神のみ心に適(かな)わないものである。

○生命は坂道を登る車のようなものである。静止すれば後退し、動けば必ず上昇する。

○すべての知識を軽蔑するな。またすべての知識を盲信するな。すべての知識は、ひとりひとりの人類の選手が昇ったところのその高度をあらわす。

○善いと思ったことにはすぐに取りかかれ。失敗しても倒れても恥ずかしくない。再び起き上がった時には以前より進歩している。

○魂から動け、自己を偽るな。

○家庭で善き人たれ。家庭で尊敬されず喜ばれない者の価値は知れている。近き人を愛しえないで人類を愛すると称するものは、人類を愛していると空想しているにすぎない。

『智慧の言葉』より

3235a hope:2015/11/11(水) 10:16:40 ID:cEpBaIdo

○かつて満州に大刀会(だいとうかい)というのがあって、腹に一種の護符(ごふ)を巻きつけ「弾丸(たま)は当たらない、当たっても死なない、死んでも生き還る」という大信念をもって、大刀を振りかぶって突進してくる信仰団体の軍があった。

それは機関銃の猛射を浴びせかけてもなかなか仆(たお)れぬ。

さすがに弾丸(たま)は当たるが、当たっても二発や三発ではなかなか死にはしない。

いったん倒れてもまたムクムクと起き上がって来て肉迫するのだそうだ。

だから大刀会が出て来るとどうしても※白兵戦を演じないと納まらない。

斃(たお)れた彼らを見ると身にいすれも十数弾を受けてなおかつ前進して、ついに、斬り死にしたものであることがわかったそうだ。

信念の力はかくのごとく偉大なものだ。

一回や二回や三回の喀血で驚くのはこの大刀会の人たちの信念に恥じるがよい。

一回や二回や三回の人生の蹉跌(さてつ)で再び起き上がらないものも愧(は)じるがよい。

恥ずかしいのは躓(つまず)くことでも倒れることでもない、再び起き上がる力を失うことだ。

井戸の水でも井戸替えするときには一時涸(か)れがれになるが、一時涸れるのはいっそうよき水が豊富に出るためであるから恥ずかしくない。

人間は一時挫折したように見えても再び滾々(こんこん)と神の生命が与えられるのである。

『智慧の言葉』より


※白刃を使っての肉迫戦。

3236a hope:2015/11/15(日) 10:35:13 ID:cEpBaIdo

○みんな病気の人を見ていると治してもらったら神を信じようと思っているが、アベコベである。

神を信じたら癒(なお)るのである。

神を信ずるということは神に対するラジオ的受信機をつくることである。

受信機のない所でラジオは聞こえない。

いろいろの神を信じたが癒らなかったという人は、どんな神を信じたか自分で信仰を考えてみるがよい。

本当の神とは偶像の神ではない、またいろいろ執念をもつ「霊」たちのことでもない。

本当の神はただ一つ――完(まった)きわれらの造り主にして救い主なる神である。

本当の神に感応するにはそれに合う心の波長の受信機を作らねばならぬ。

『智慧の言葉』より

3237a hope:2015/11/17(火) 08:56:00 ID:cEpBaIdo

○不平、出し惜み、怒り、妬み、すべて擦れる心、和解せぬこころは病気の因(もと)である。

○実相のほかに、外的な神を認めなくなったとき、本当の魂(たましい)の夜明けが来る。それまでは人間はいろいろの霊に頼り、人間に頼り、偶像に頼って失敗する。

○何よりも自己の良心を礼拝し、それに絶対服従するものは、形の神に誓いをたてるものよりも信心深い者である。

『智慧の言葉』より

3238a hope:2015/11/19(木) 09:12:22 ID:cEpBaIdo

○薬剤の広告や栄養剤の広告はなるべく見ないがよい。

それを見ていると釣り込まれて薬剤や栄養剤が欲しくなる。

その欲望を満たしたい潜在意識が、内部からその薬剤や栄養剤を必要とする病気を造り上げる。

潜在意識が求めた薬剤に出会(でくわ)したら満足して病気を引っ込める。

薬剤や栄養剤の広告は病の作り手であるから見ないがよい。

『智慧の言葉』より

3239a hope:2015/11/24(火) 09:14:06 ID:cEpBaIdo

○これ以上できないという「限度」はない。現在の報酬以上を欲するものは、この「限度」の考えを捨てよ。今の限度を超えることが進歩の秘訣である。

○報酬とは人間から貰うサラリーのことばかりではない。神から頂く報酬もある。その人自身の発達ということこそ、神から頂くいっそう大切な報酬だと知らねばならぬ。物質的報酬は「主」ではなく随伴物にすぎない。

○百円の報酬をもらっている者が常に百円の仕事をしたのでは昇給の見込みはない。百二十円の仕事を常になすとき、ついに認められて百二十円に昇給される。これは人生の譬話(たとえばなし)である。だんだん仕事の品質を落としてゆくものはついに解雇されるのである。

○佳(よ)きものは認められるまでに時間がかかることもまた知らねばならぬ。

○仕事をすることと、人間から給料をもらうということは別である。仕事はどこにも満ちているが、人間から給料をもらう仕事は欠乏している。神から「霊魂の発達」という給料を貰うつもりの仕事ならどこにもある。

『智慧の言葉』より

3240a hope:2015/11/28(土) 10:11:27 ID:cEpBaIdo

○一つの憎しみは十人の憎しみを招(よ)び、一つの愛念は百人の愛念を招(よ)ぶ。

○本来自己のうちにはすべてがある。ただ見出せないだけである。

○あらゆる生長は、外から触れるものに触発せられて、内部にあるものが出て来るのである。

○愛しない生活は生活ではない。それは「生ける屍(しかばね)」の生活である。

『智慧の言葉』より

3241a hope:2015/12/29(火) 05:20:57 ID:xVBwxesw
○済んだことの中に生活せず、「今」の中に生活せよ。「今」は常に生きている。今の中にはあらゆるものが輝いている。「今」は常に新しく、「今」は常に喜びに満ちている。

過去にどんな悲しいことがあったにしても、それについては思い煩うな。「今」天地は一新したのである。もう別の天地に生きているのである。

過去に寒風に吹き曝(さら)されたことを嘆かないで、「今」梅の花は喜びに満たされて咲いている。梅の花よりも尊く強く逞しきが人間である。喜ぶことしか無いのが人間である。

○善とは生命の実相に仕えること、生命の実相の催しのままに生きることである。物質的手段に頼って見たり、時には生命の実相に頼って見たり、フラフラするようなことではなんの甲斐もない。人は二人の主に仕えることは出来ない。

○真理への道はただ一つ――人間は神の子だ――ということである。

○神をもっと尊べ。神のみが造り主だ。神から出たものに悪があると思うな。神から出たものに病気などという不完全なものがあると思うな。

『智慧の言葉』より

3242a hope:2015/12/30(水) 06:07:40 ID:xVBwxesw

○愛して報償を求める愛は巧利的な愛である。利益にならなければ腹の立つ愛である。

○われを忘れた愛が惟神(かんながら)の愛である。神流れの愛である。神催しの愛である。神と偕(とも)なる愛である。大菩薩の愛である。

『智慧の言葉』より

3243a hope:2015/12/31(木) 10:06:43 ID:xVBwxesw

○ぜひせねばならぬ仕事が多いと呟くな。忙しいということを感謝せよ。必要は埋蔵されたる「内なる無限力」を呼び覚ます。

○懶(なま)け者の悪魔を駆り立て、逐(お)いだし、生命の本然(ほんねん)を完(まっと)うさせてくれるものは、「必要」と「多忙」である。「必要」と「多忙」とで病気の治った人はたくさんある。

○生命の本念は働くことである。生命は働くことによって生長する。「必要」と「多忙」に感謝する者は生長する。

『智慧の言葉』より

3247a hope:2016/01/01(金) 05:24:51 ID:vdNCBnG6

「新天新地の神示」

見よ、われ既に天地をあらたならしめたのである。

人々よ、眼の蔽(おほ)ひをとれ、われは新しき智慧である。

新しき生命である。

新しき宇宙である。

新しき光明である。

われ臨(きた)つて此の世界は既に變貌(へんぼう)したのである。

既に信ずる者の暗黒は消え、醜汚は滅し、病は癒え、悲しみは慰められ、苦しみは柔らげられた。

神秘を見て人々よ、目覚めよ。

覚めてわが新しき光に照らして存在の真實を見よ。

われは存在の實相を照らし出す完成(なゝつ)の燈台に燈(ひ)を點(てん)ずるものである。

悲しみに泣き濡れた人々よ。

いま眼を上げて吾が光を受けよ。

汝の悲しみは喜びに變(かわ)るであらう。

病める者よ、いま病(やまひ)の床より起ちて、わが生命を受けよ。

われを拒むな。

われを信ぜざる者は已(や)むを得ぬ。

われを信ずる者は黙坐してわれを念じ、われに依り頼れ。

われ汝等に『神想観』と云ふ観行を教えへたれば、それを為せ。

われに汲(く)むものは常に新しき力に涸(か)れないであらう。

吾れを呼ぶ者のもとに吾れは常にありて、汝らのために汝らの重きくびきを軽からしめる。

なんじ一人ならば吾れを念じて吾れとともに二人と思え。

悩める者よ、わが言葉を讀(よ)めば苦しめる魂も軽くなり、悲しめる魂も慰めを得ん。

そはわれは限りなき大愛(たいあい)であるからである。

汝ら事にのぞんでわれを呼べば、自己の知らざる智慧の湧き出づるに驚くであらう。

信ぜぬ者、呼ばぬ者は、不憫であるが助けやうがないのである。

汝の心の疑いがわが救いの波長に合はないからである。

遠くにゐて救はれてゐる者もあるが、近くにゐても救はれぬ人もある。

仕方のないことであるが不憫である。

もっと兄弟たちに、『生長の家』を傳(つた)えよ。

神の愛は貰い切りではならぬ。

頂いたお蔭を『私』しないで、神の人類光明化運動に協力せよ。

『生長の家の神』と假(か)りに呼ばしてあるが、『七つの燈臺の點燈者』と呼んでも好い。

七つの教へとイスラエルの十二の分派(わかれ)がわが教へ
で新しき生命を得るのだ。

わが教へはどんな宗派をも排斥するような狭い宗派ではない。

教への太宗(もと)であるから宗教と云ふのである。

3248a hope:2016/01/01(金) 05:29:00 ID:xVBwxesw

トキさま みなさま

明けましておめでとうございます。

「生長の家」とは全世界、全宇宙のことをさしてそう喚ぶのでしたね。

どこにいても、何を信じ、どんな宗教を信仰していても、わたしたち人類は生長の家の家族なんですね。

世界中どこにも、誰一人として生長の家の家族じゃない人なんていない…


この壮大な真理を学べることに感謝の気持ちでいっぱいです!

みなさま、今年もどうぞよろしくお願いいたしますm(_ _)m

3253a hope:2016/01/02(土) 06:23:31 ID:AvzVlmnc

○思想は時として天上から降って来る。あるいは地下から予期もしない時に湧いて来る。その思想は時として霊界からの放送の感受でもあれば自己の神性からの噴出であることもある。

天上の思想も地湧(ちゆう)の霊想も時間を超越している。す
ぐその時、間に合わなくとも捨てるべきではない。忘れてしまえば二度と想い出せないような思想に価値のあるものが多いのである。しばらく筺底(きょうてい)に埋めておけばやがて現実の用途に花咲く思想もある。

「想」は現実に先だち、「想」あって現実が芽生える。小さな手帳を常に懐中しておき、「想」起こるに従ってそれを簡単に書き止めておくのは良い方法である。


○「想」に詩想もあれば、思想もあり、実用に関する解決の暗示もある。これを部分別(クラシフアイ)して手帳に書きとめておき、問題に従って、そこを開いて見ると非常に導かれることが多いものである。


○他を羨むな。自己の現実に満足するな。自己の奥にあるところの無限の宝を羨んで、その無限性を掴むべく突貫するのが最も自己生長の道である。


○思想はこれを紙に書くときいっそう深まる。計画もこれを書き下すときいっそう微細のところに注意が行き届く。書いてみると精神が統一する。書いてみると分析と統一とが同時に行われる。


『智慧の言葉』より

3254a hope:2016/01/03(日) 05:11:47 ID:db3DXNJE

○黄金は指環にしても金貨にしても帯留(おびどめ)にしても黄金に変わりない。いろいろの形をしているのは中間因果であり、どんな形にしても黄金の本質を失わないのは本来因果である。
人間も神の子であることが本来因果であり、どんな形になっても、肉体が壊れても、神の子である本質は壊れてしまうことはないのである。

○死んだと思ったら生きられるのだ。形にとらわれなくなるからだ。

『智慧の言葉』より

3255a hope:2016/01/04(月) 05:57:56 ID:AvzVlmnc

○最も善き施しは、罪を消し、死を消し、欠乏を消し、すべてが完全に備われる自己の生命を自覚せしめる教えである。

○至上階の愛は自分がしたのではない。神と偕(とも)なるとき、おのずからできた愛であるから、「自分がした」という感じが少しも残っていないのである。

『智慧の言葉』より

3256a hope:2016/01/05(火) 06:50:04 ID:vdNCBnG6

○真理のみ、ただ真理のみわれを生かすのだ。われを生かすのはパンではない。物質ではない。

○ただ霊によって新生せるもののみが真に生きるのだ。そのほかの人の生はニセ物の生である。霊によって新生する者には激情はない。利己的欲望はない。憎みはない。恐怖はない。五官の快楽の虚妄(こもう)を知るがゆえに、それに捉えられることはない。

『智慧の言葉』より

3257a hope:2016/01/06(水) 05:07:28 ID:vdNCBnG6

○明日しようと思っている間に時は過ぎゆく。あやまることは早くあやまるがよいし、和解することは早く和解するがよい。すべての支払いは明日に、明日にと思っている間に、延ばしていた期間だけ先方から悪い念波を受け自分自身の生長のを妨げられる。

○他を喜ばそうという考えは自分を健康にし、他から喜ばしてもらおうという考えは病気を招く。

○ひとに対して晴れやかに笑え、晴れやかな笑いは自他の栄養剤である。

『智慧の言葉』より

3258a hope:2016/01/07(木) 06:00:29 ID:xVBwxesw

○明日の苦を思い煩(わずら)うことなかれ。一日の苦労は一日にて足れリ、想像の苦痛は現実の苦痛よりも耐えがたい。

○わが肉体はわが心の影である。わが境遇もわが心の影である。

○希望は現実の母である。希望に燃えよ。希望の火でいっさいを焼きつくせ。

『智慧の言葉』より

3259a hope:2016/01/08(金) 05:45:38 ID:vdNCBnG6

○その日その日が宗教生活である。自己を生かすことが宗教生活である。働くことが宗教生活である。愛することが宗教生活である。周囲を生かすことが宗教生活である。

○天に地に感謝せよ。万物が皆ありがたい。おのずから合掌される。始終この心持ちでおれ。

『智慧の言葉』より

3260a hope:2016/01/09(土) 06:17:17 ID:U0u35Q4s

○苦しみよりもむしろ恍惚感を警戒せよ。そこに魂を麻痺さすニセ物の歓びがある。

○心が善くならないでいて病気が治るものは禍(わざわい)いだ。

○世界は正札で駆け引きも値引きもない。世界は当人の心だけのものを投げ返す。

○小さなことを口惜(くや)むな。われらの最も口惜やむべきことは、そんな小さなことに心を動かすという自分の小ささだ。

『智慧の言葉』より

3261a hope:2016/01/10(日) 06:02:54 ID:xVBwxesw

○生命の尺度で価値を測れ、金ではかるな。

○きょう種を蒔いたからとてきょうは生えない。芽が出るには時間が要るのだ。信じて待つということは仕事の秘訣だ。

○なろうと思うよりも、なれると思って明るい気持ちで努力せよ。

『智慧の言葉』より

3262アクエリアン:2016/01/10(日) 08:41:57 ID:fJvizyYg
アメリカの光明思想家マリアン・ウィリアムソン女史のツイッターより

Marianne Williamson ‏@marwilliamson &middot; 1月8日

The real you is not a body. Your body is merely a suit of clothes. Physical birth was not your beginning and physical death is not your end.

本当のあなたは肉体ではないのである。
あなたの肉体は単なる衣服なのである。
肉体の誕生はあなたの始まりではなく、肉体の死はあなたの終わりではない。

3263a hope:2016/01/11(月) 04:58:28 ID:ff8KF8HE

○意志の力よりも想像の力の方が強い。想像力は創造力だ。

○みずから起て。自分の弱さを語るな。自分の弱さは語るほど自分を弱める。

○人は自分と同じ者を相手に見出だす。あらゆる場合において、人は相手そのものを見るのではない。自分の心を相手という鏡にうつして見るのである。

『智慧の言葉』より

3264a hope:2016/01/12(火) 06:52:30 ID:eEgXmqXM

○もっと奥深い「生命」まで突っ込んで行け。奥の奥、裏の裏にある生命を見よ。

○われらは種子を蒔く人である。常に善き種を蒔け。深切な思いの種を蒔け。愛の種を蒔け。好意の種を蒔け。

『智慧の言葉』より

3265a hope:2016/01/13(水) 07:44:22 ID:soD8RaA2

○陰を見るな。光明の方面を見よ。見た方面が強くあらわれる。

○手を伸ばし、腹を伸ばし、胸を伸ばし、眉を伸ばせ。これが生長の道である。

『智慧の言葉』より

3266a hope:2016/01/14(木) 12:20:32 ID:UDuecul.

○捉われないことと不注意とは別物である。注意深くして捉われないのが上々である。

○欠点を見つけるな。荒立てるな。静かに彼のために祈れ。

『智慧の言葉』より

3267a hope:2016/01/16(土) 07:00:46 ID:Doq6emUU

○家庭の精神的葛藤(いざこざ)で病気をつくっているものが多勢ある。そんな病気はどんな薬も、霊術も、家庭の乱れを治さねば根本的には治すことはできぬ。

○家庭の幸福を内にもたない子供はかわいそうだ。危険と堕落とが外から呑もうとしてまっている。

○子供をあまり拘束するな、神に委ねよ。家庭よりも外の方が楽しいようになったとき、子供は危険の淵に立つ。

『智慧の言葉』より

3268a hope:2016/01/19(火) 09:46:29 ID:cEpBaIdo

○常に生活が引き算になってはいけない。加え算にしなくてはならぬ。「これをしては他の迷惑になりはしないか。あの人は自分を迷惑がっていないか」などと消極的に引っ込んでしまってはいけない。愛しよう、喜ばそう、為になろうと積極的に加え算になるようにすれば他(ほか)をも生かし自分も生かす。

○愛でひとを世話する人もさるが、誇りでひとを世話する人もある。前者は神の前で高くせられ後者は神の前で低くせられる。

○世話したい人には素直に世話してもらって感謝し、せわされて余裕のある人は、また助けを呼んでいるものを世話してあげよ。これが愛の巡環であり、報恩の道である。

○神に近づく道は一歩一歩小善を積むことにある。

『智慧の言葉』より

3269行雲流水:2016/02/02(火) 16:53:27 ID:AQTKgfSE
「いのちのゆには」の神示

見真道場(いのちのゆには)とは真(まこと)を見(あら)はす齋(きよ)めの場(には)である。



愛の心で来るものは神徳を受けて帰るが、審判(さば)く心や素見(ひやか)し心で来るものは神と心の波長が合わぬから其の心が直らぬうちは神徳は受けられぬ。

(昭和七年三月十四日神示)

3270天の使い:2016/02/02(火) 17:34:24 ID:AQTKgfSE
(天の使い)地を指して宣わく
 
「見よ、これ実相世界なり。実相世界は父の国なり。天国なり、浄土なり。

 父の国には住居多し。実相世界の住居は悉くこれ「生長の家」なれば

 住民に飢えなく、悲しみなく、争いなく、病なく、

 万の物ことごとく意に従って出現し、用足りておのずから姿を消す。

 円満具足清浄微妙の世界。

 これ実相世界、これ汝らの世界、そのほかに世界あることなし。」

(聖経天使の言葉)

3271a hope:2016/02/03(水) 09:54:49 ID:cEpBaIdo

○苦しくても逃げ出そうと思うな。自己が置かれている境遇が、自己のたましいの生長に最もよい栄養であるのである。たましいがその境遇から得られるあらゆる栄養を吸いとったとき、別の境遇がおのずから開けてくる。

『智慧の言葉』より

3272a hope:2016/02/05(金) 08:00:40 ID:cEpBaIdo

○天の愛と地の愛と、父の愛と母の愛と。天の生気と地の生気と両々そろって万物は育成するのだ。

○あなたよ、姿勢を正しくせよ。それだけであなたは健康になる。

○「祈り」で自分の心が調うことが第一であって、自分と大生命とのつながりができたとき、人間以上のものが人間の行為を導くのである。

『智慧の言葉』より

3273a hope:2016/02/29(月) 11:17:04 ID:cEpBaIdo

「神の真義とその理解」 谷口雅春先生著


はしがき

神とは如何なるものであるか、知らない人が多いのである。

自己の内に生きている生命の尊厳を本当は自覚しながら、それ故にこそ生命の尊厳を主張し、基本人権の絶対権を説きながら、それでいて「自分は無神論者だ」とか「唯物論者だ」とか思っている人々もある。

それとは又別に、実に敬虔に神を信じ、神を礼拝し、神を讃えながら、その神が自分の生命とは別に、自己の外に在る神道自在の神秘者であり、〝自分〝 というものは、その権力の前に躓(ひざまづ)いていなければならない〝奴隷的存在〝 に過ぎないと自己卑下している気の毒な善人もある。

しかし本当の神は、そんなに自己の外のみあるのではないのである。

神は普遍的存在であると同時に自己の内にある生命が〝神〝 であるのである。

その実相を自覚しない気の毒な善人は、常に〝神の前〝 に戦々競々として慴(おび)えていなければならないのである。

そんな人たちが、神罰の予想の前に、ニセモノの宗教家に欺(あざむ)かれて、いつまでもその邪宗に縛りつけられてそこから脱出できないで常に搾取せられているのは、まことに見るに堪えない気の毒さである。

3274a hope:2016/02/29(月) 11:17:50 ID:cEpBaIdo
それ故にわたしは、既に五十年前に亙(わた)って人間の生命の実相(ほんとうのすがた)が、〝神〝 の生命であることを『生命の實相』に於いて説きつづけて来たのである。

かくて私の著書『生命の實相』を読むことによって、自己が決して「罪の子」でなく、「罪悪深重の凡夫」でもなく、神の生命こそ、自己に宿って、自己の生命となっており、自己というものが個性的に顕現した普遍的存在であるという神の真義を知り、自己の生命の尊厳と本来の円満完全さとを自覚すると共に、今まで、自己の罪悪意識に由るところの〝自己処罰〝 による色々の病気や、不幸や、遭難や、貧乏を克服して、真の自由人となり、自己の生命を本当に尊重することによって自己の人生を快適にして裕(ゆた)かなる楽園たらしめ得ると同時に、周囲の人々をも救い得た幾多の人々の体験があらわれて来たのである。

生長の家の信者という人たちは、そのような人たちの集まりである。

3275a hope:2016/02/29(月) 11:18:34 ID:cEpBaIdo
しかし神は自己に内在する「生命の実相」としての神だけではなく、色々の段階に於いて神は無限の姿をあらわしてい給うのである。

「われに姿かたちがあるようにいう者あれどもわれは姿なきものである」と宣言し給える、絶対者としての神もあり、森羅万象の中にその姿をあらわしてい給う普遍的存在なる神もある。

その普遍的存在たる実相を媒介として、人間は神と霊交し、森羅万象の生命と互いに交通する、その霊的交通によって、われわれは森羅万象に向かって話しかけ、意のままに楽園の天国を地上に建設することが出来るのである。

絶対者としての神は無言でわれわれに話しかけ給う。

しかし顕現者としての神は、聴こえる声でも話しかけ給う。

顕現者としての神と吾々は交通し得たとき、神は吾々の〝天の父〝 ともなって人格的な神との交通が得られるのである。

その人格的な神との接触を、具体的に実現するために、神社や拝殿を造営して、神との人格的接触の〝場〝 とすることも出来る。

その造営に必要な布施又は荘厳供養の実践によって、人間は〝愛〝 というものを生活の具体的営みの中に体験し霊魂が進歩し向上するのである。

3276a hope:2016/02/29(月) 11:19:16 ID:cEpBaIdo
神は〝一〝 であると同時に〝全〝 であり〝多〝 である。

〝一即多〝 〝多即一〝 であり、一神即万神であり、一仏一切仏である。

しかし神は自己の個性的顕現をもって、自己内在の無限を表現し給うのであるから、同一個性を持って万人又は万物があらわれることを嫌い給うのである。

それ故に〝一神即万神〝 として色々の使命をもつ神々を顕現し給う。

また〝一仏一切仏〝 として無数の如来を顕現し給い、その使命又は役割も、個性をもって各々異り給うのである。

3277a hope:2016/02/29(月) 11:19:56 ID:cEpBaIdo
住吉大神の如く宇宙天地の万物万生を浄め給うて、地上に天国を建立する使命をもち給う神もあるのである。

最近私は、日本の国情が混乱汚濁(おじょく)して、日本国本来の美しき荘厳なる秩序がなくなりつつあることを憂え、住吉大神を鎮護国家、龍宮無限の宝蔵を開顕したまう〝場〝 であることを希(こいねが)いて、龍宮住吉本宮を、九州長崎県西彼杵郡西彼町の〝大神平〝 と称せられた土地を朴(ぼく)して、建立したのである。

この地を彼杵郡(そのぎぐん)と称したのは、嘗て天から神の祝福の黄金の杵(きね)が降って来たという故事にもとづくと謂うことである。

吾々人間の礼拝の〝場〝 が出来ることは、神がそこから祝福の霊波を放送し給う〝放送局〝 が一局増加したようなものである。

3278a hope:2016/02/29(月) 11:20:32 ID:cEpBaIdo
詳しいことは本分を読んで頂いて、神人の関係を尚一層よく認識して、諸賢が、龍宮無量の寿福を享受し給わんことを庶幾(しょき)して、この前文を擱筆(かくひつ)する。

昭和五十四年一月十六日         著書しるす

3279a hope:2016/03/14(月) 08:26:29 ID:cEpBaIdo

○今まで注がれていた愛でいまだ一度も無駄であったものはない。
愛はこの世で花を開いて皆の者に喜ばれ、神の国で実を結ぶ。

○愛せよ、少しも求めずに愛せよ。これが愛の秘訣である。

○結果を求めた愛は必ず不幸に終わる。

『智慧の言葉』より

3280a hope:2016/03/16(水) 08:46:34 ID:cEpBaIdo

○失敗しても成功しても、損をしても儲けても、それはただ生命が仮想の舞台で遊戯したにすぎない。

○失敗は大したことではない。損も大したことではない。自己の心を乱すか乱さないのかの方が大切だ。

○淋しき時にはわれを思え。われはなんじらのために祈るものである。

『智慧の言葉』より

3281a hope:2016/03/17(木) 09:55:11 ID:cEpBaIdo

○躓(つまず)いたがために落ちる人もあれば、躓いたたがために落ちる前に気づく人もある。

○なんじの悩みは神に語れ。人に語らずして神に語れ。人に悩みを語ればその悩みは反響してさらに悩みは増加するであろう。神に語れば悩みは消える。神は実相の神であり、実相の光の射す所に悩みの時は存在しえないからである。悩みは変じて喜びとなり、訴えは変じて感謝となるであろう。すべてのものはすでになんじらに与えられているのである。

○信仰とは神のみ懐(ふところ)に抱かれることである。

『智慧の言葉』より

3283a hope:2016/03/24(木) 08:14:16 ID:cEpBaIdo

○恐れる代わりに働く者はついに勝ち、呟(つぶや)く代わりに働く者はついに勝つ。
生長する人には恐れる時間と呟く時間はないものである。

○「今」の時間を尊ばねば、生涯その人に尊ぶべき時間は来ないのである。

○あらゆる言葉、あらゆる行動ことごとく未来に果(み)を結ぶ種子となる。

『智慧の言葉』より

3284a hope:2016/04/01(金) 07:51:38 ID:cEpBaIdo

○幸運がないというな。一瞬一瞬が幸福である。一瞬を完全に生き切るときなんじは永遠に生きるのである。

○心の眼をひらけば幸運はいたるところに手を伸ばして待っている。地球の引力を発見したニュートンにとってはリンゴの落ちることが運であった。空間の電波を発見したフランクリンにとっては雷鳴を聞くことが運であった。誰でも見返すところに心の眼の開(あ)いた人には運がある。

『智慧の言葉』より

3285a hope:2016/04/02(土) 07:49:47 ID:cEpBaIdo

○思い立ったが吉日。(日取りの善悪について)

○自分は宇宙の中心であるからどちらを向くのも吉方である。(方角の善悪について)

『智慧の言葉』より

3286a hope:2016/04/14(木) 10:46:07 ID:vdNCBnG6

○相性は心の中にある、我を殺しさえすれば相性は善くなる。二つのものが一つにつながるのが道であり、相性である。どんなに相性の善い夫婦でも我を立て話し合いしていては相性も悪くなり運命も悪くなる。(相性の善悪について)

『智慧の言葉』より

3287a hope:2016/04/15(金) 09:16:49 ID:xVBwxesw

○困難があるので、魂は向上する。軌道に摩擦があるので汽車は進行するのだ。

○独りで悟っている悟りは本物ではない。他の救いのために動き出すと本物の悟りに入る。

○もっと魂をみがいてから他を救おうと思うのは考え違いである。自分を磨く金剛砂(こんごうしゃ)他を救う実行にある。

『智慧の言葉』より

3288a hope:2016/04/16(土) 06:20:47 ID:vdNCBnG6

○本当の信仰は怪力崇拝になってはならぬ。異常現象崇拝になってはならぬ。正しき力の崇拝、愛の力の崇拝、調和の力の崇拝にならねばならぬ。

○肉体が治ったとき自分は悟ったと思うとおおまちがいである。治らないでも自由自在の自分自身であることを悟らないものはやがて躓(つまず)く。

『智慧の言葉』より

3289a hope:2016/04/26(火) 11:17:08 ID:vdNCBnG6

○富そのものは清くも穢(きたな)くもない。富はただいっそう高貴なる目的のために使用するとき清くなり、自己の栄華と名声のためのみに使用する時汚れたものとなる。

『智慧の言葉』より

3290志恩:2016/08/15(月) 08:23:48 ID:6hRUvSRg
【梅の花の神示】
≪無明(まよい)の自壊作用がないのに 光明遍照の楽土が
来るなどと 甘いことを思うな。
この二つの運動の衝突は 避けられぬ。

時機は 迫っているのに、まだヒノモトの使命を知らぬ者が
あるのは 歯痒(はがゆ)い。

本当の愛は 甘えかす愛では ない。
戦いの愛 である。≫


【声字即実相の神示】
≪今は 過渡時代であるから、
仮相(かりのすがた)の自壊作用として 色々の出来事が突発する。

迷いと迷いと 相搏(あいう)って 自壊するのだ。

まだまだ烈しいことが今後起るであろうともそれは
迷いのケミカライゼーションであるから

生命の實相を しっかり握って 神に委せているものは
何も恐るる所はない。≫

3294トキ ◆NeaLgIQX3w:2016/09/16(金) 19:38:34 ID:o0gb0UwQ
*明日、月刊誌 「新潮45」に生長の家の問題が掲載されるみたいです。

 それに関連して、以下の文章を紹介します。


「 わたしは今、皆さんの足を洗った。これはただ足を浄めるためではなかった。

別の深い意味があったのだ。

わたしは少なくても教えにおいては皆さんの師であった。

その師たる者が弟子たる者の足を洗ったのは、わたしは皆仲よくせよということを形に示したのである。

わたしがいなくても皆仲よくしてほしい。

わたしがいなくなっても仲よくしてほしい。

わたしがしばらくいないうちに相争い相なぐり合っているのがわたしの仲間であるかと思うと、

わたしは情けなくなる。

(涙ぐむ)皆さん、どうぞ、これはわたしの遺言だ。

わたしがいなくなっても互いに兄弟たち仲よくして道を弘めて往ってほしい。」

谷口雅春先生 生命の実相 第31巻 宗教戯曲編 上 136ページより 謹写す

3295志恩:2016/12/01(木) 07:08:04 ID:6hRUvSRg
絶えず不幸を見出す人になるな
貴方は世界に対して、良きものを支払っていますか。
微笑みを支払っていますか。悲しみを支払っていますか。

微笑みを支払っているならば、微笑みが周囲からやって来るでしょう。
悲しみを支払っているならば、悲しみが周囲からやって来るでしょう。

大体は、「今日は楽しくない」と思う習慣のある人は
常に楽しくないことに取りまかれるでありましょう。
そう云う人は、天気が曇りであると云っては鬱陶しいと云い、
雨が降ると、ジメジメして気持ちが悪いと云い、晴れていると暑苦しいと云う。
何が来ても不平を云い、面白くないと云う。

御飯が固いと云っては小言を云い、柔らかければお粥のようで不味いと云う。
そして絶えず小言を云っているうちに自分の性格がそこなわれ、
人からは嫌われ、世の中のすべての物は面白くなくなります。

その反対を行いなさい。世の中は屹度幸福になります。
雨が降ったら「ありがたいお湿りです。これで水力電気が沢山とれます。
畑の作物が喜びます」と云いなさい。
曇っていれば「今日の天気は落ち着いていて宜しい」と云いなさい。

晴れていれば「まことに朗らかな快晴で結構です。気分まで晴々します」
と云いなさい。この通りに云わなければならぬのではありません。

何でも好い方面を見て、褒めたり感謝したりするようにしていますと、
終いには、ほめたり感謝したりすることばかりがあなたの周囲に集まってくる
ことになるのです。

(谷口雅春先生著『新版 生活読本』より)

3296志恩:2016/12/01(木) 20:56:03 ID:6hRUvSRg
あなたが神の賜物を受けるには

この世界は法則によって支配されているのである。
法則を無視しては何事も自分の思うようにはゆかないのである。

飛行機が飛行するためには、流体力学の法則を無視するわけにはゆかない。
石油を掘鑿するにもいろいろの物理的法則によらなければならない。

神の国にある宝物を受けとるには、
神は霊であるから、霊の法則を無視することはできないのである。

霊の賜物を受けとるには、
物質の器によって受けとることはできないのである。

霊の賜物を受けるには、霊に対しては霊的波動を浄めるーーー
すなわち魂を純粋にして受けなければならないのである。

感謝の霊的波動によって受けなければならないのである。
愛念の霊的波動によって受けなければならないのである。

暗い感情は神の光の霊波に背く。
それゆえに、心を明るくもって、
象徴される神の霊波に波長の合う心を起さなければならないのである。

(谷口雅春先生著『如意自在の生活365章』より)

3297志恩:2016/12/01(木) 21:06:46 ID:6hRUvSRg
われわれは神の愛に包まれている
わたしたちは“法則”の世界に住んでいる。
どこにも“法則”の存在しない世界はないのである。

わたしたちは法則にとり囲まれて生活しているのである。
それは神の愛に包まれて生きていることである。
わたしたちは神の愛から逃げ出すことはできないのである。

わたしたちは法則に随順するとき
神の愛に護られることになるのである。

法則には物質面の法則と、精神面の法則と、
さらに霊的面の法則とがあるのである。

多くの人たちは物質面の法則のみを研究して
それを応用しているのであるけれども、

“精神面の法則”を理解し応用する人は少なく、
さらに“心霊面の法則”を理解し応用する人は稀であるのである。

(谷口雅春先生著『如意自在の生活365章』より)

3298志恩:2016/12/01(木) 21:15:24 ID:6hRUvSRg
明暗の二途

多少表面的には損をしても、心配はいらない。
善い行いをし、信仰を深めれば、将来は明るいのである。
何故なら現象の損失は真の損失ではなく、一時的縮小であり、
その間に得た「生きた経験」がモノを言うからである。

ある人は病を得、ある人は受験や仕事で失敗した。
しかしその前に「魂を進歩向上」させ得た人の失敗は、実は成功である。
彼は必ずより偉大となり、より充実した人格を作り上げる。

けれども失敗を失意と無気力で迎えた人は、より一層の深みにはまり込む。
人生にはどんな時にも、向上と下降との二つの途が用意されている。
だからひたすら向上の道を歩め。光に向かって進もうではないか。

(谷口清超先生著『純粋に生きよう』より)

3299志恩:2016/12/02(金) 07:44:39 ID:6hRUvSRg
本当の自由

吾々は“無限”を求める存在であると同時に、“自由”を求める存在である。
何故なら人間は神の自己顕現であり、本来“無限の自由”を内に蔵するからである。

「自由」を、何か自分を縛る物を破壊することだ、と考える人があるが、
本当の自由は、そのような対立的観念、相対的な物の考え方では
得られるものではないのである。

本当の自由は「絶対者」となることによってのみ得られる。
自分が神の自顕現であり、
「絶対者」の自己実現であるとの悟りによってのみ得られるのである。

それ故に本当の自由は、神想観によってのみ得られる。

何故なら吾々は神想観によって自己が神と一体であり、
絶対者と一体であり、環境とか外物とか見えるものも「他物」ではなく
自己の心の顕現であると悟ることができるからである。

それだから神想観は真に最高の尊き神人合一の行事であると共に、
何人も“本当の自由”を求むる限り修しなければならない修業であって、
生ま易しいものではないのである。

(谷口雅春先生著『新版 生活の智慧365章』より)

3300志恩:2016/12/02(金) 07:48:23 ID:6hRUvSRg
問題を神にゆだねよ

如何なる問題が起こって来ても、
常に明るい心を以ってそれに立ち向かうことが必要である。

どんな問題でも、神なら解決できるのである。

自分の「我」の力で解決しようと思うから、解決の方法を失って
どうすることもできないような事になるのである。
問題を神に振向け、神に肩代わりしてもらうがよいのである。

そのためには「神は全智全能であるから、どんな問題でも必ず解決できるのである。
私はこの問題を神さまあなたに委ねます」と繰返し繰返し、
心に念じて祈り、その問題を神に委ねるがよい。

徹底的に神に問題を委ねたら、神は必ずその問題を解決に導き給うのである。

それは自分に好い考えが浮かんで来ることもあれば、誰か、
思いがけないところから、援助の手を差しのべる人が出て来ることもあるのである。

充分祈った後に、誰かがその問題解決について案を示してくれるならば
素直にそれに従うがよい。

(谷口雅春先生著『新版 生活の智慧365章』より)

3301志恩:2016/12/02(金) 07:55:25 ID:6hRUvSRg
無限次元の世界

とにかく人はどこまでも「明るく生きる」ことが大切である。
何故なら、人は皆“神の子”であって、全てのものが与えられずみだからだ。
いのちも無限だし、才能も力も、幸福も豊かさも無限である。
しかもそれが「なくなる」ことがないのだから、こんな有難いことはない。

ところがその実相に気付かず、現象世界というこの世の物質的側面ばかりを見ていると、
不幸や、病気や、欠乏や、争いが目について、どうしても憂鬱になってしまう。
だから「物質世界は本物でない、影の世界だ」と知らなくてはならないのである。

御存知のように物質界は縦・横・厚みの三次元世界だ。
しかもこれは実在する世界ではない。

実在界、即ち実相の「神の国」を三次元の尺度でとらえて、
そのように感覚するだけの、「影の世界」なのである。
例えば今部屋の中にいる人の姿を、障子に映ったその人の影で見ると、
とても不完全に見えるだろう。

目も鼻もハッキリせず、色も黒っぽくて、ボーッとしている。
それは“三次元の肉体”を“二次元の影”に映して見ているから、
本物より一層不完全に見えるのだ。
そのように、次元を一つ下げて、三次元を二次元にすると、もっと不完全になる。
だから四次元を三次元に映しても(感覚しても)、
四次元世界より一層不完全になるのである。

即ち今、縦・横・厚みの三次元に時間の尺度を加えて四次元の“時空間”を考えると、
時間の次元が一つ加わっただけ、より自由になり、ゆとりが出来るものだ。

例えば、あるカメラを買おうと思って店に行ったところ
もう売れていて、在庫がナイと言う。しかし問屋に注文すると、
一週間後には入荷するという場合を仮定しよう。
カメラという三次元物質は今ないが、
そこに時間(一週間)を加えて考えると、「手に入る」という自由を得るのだ。
これが四次元世界の特徴であり、このようにして四次元、五次元、
六次元と次元を加え続けて、無限次元まで遡ると、
無限に自由な世界、即ち「神の国」に達する。

これが「実在」であり、「実相」であるということが出来るのである。
この実在界・神の国からみると、この物質界は
その三次元的「影」の世界であるから、極めて不完全なのは当然であろう。

この不完全さをより少なくするには、
「実在界を心で観ること」に熟達するに限るのだ。

するといかに物質世界が不完全で、限定され、
悪条件に満たされているようでも、その条件を克服し、
そこをうまく擦り抜けて、自由自在な「安全領域」に達することが出来るのである。

(谷口清超先生著『生長の家の信仰について』より)

3302志恩:2016/12/03(土) 01:30:55 ID:6hRUvSRg
神に相談して仕事をする

常に自分の行為又は仕事を、
「自分だけ」でやることなしに、神に相談し、
神の智慧の導きを受け、神が人類に幸福を与え給う
神業の一環としてそれを為すのがよいのである。

「自分だけ」でやった行為は、
どんなにそれが立派な仕事であっても「我」の行為であり、
広大なる意義への連関はないのである。

そして、それは如何にすぐれたる智慧で行っても、
我の知恵ではどこかに見落としがあり、
先が見えず、やがて躓く時が来るのである。

何事を行うにも、その仕事が、神の人類救済の仕事
(又は人間に何らかの幸福を与える仕事)として、
神御自身の祈りと連関して、
祈りの中に於いて計画し、遂行するならば、
神の智慧には誤算がないから行き詰まることがないのみならず、
自分の仕事が、単に個人的価値ではなく、
「神の仕事」としての意義と価値とを有つことになり、
其処に本当に生き甲斐というものが感じられることになるのである。

また“「神」という「無限価値」との連関に於いて我れ仕事を為す”
と云う自覚があるとき、仕事に対する深い悦びが湧いて来て、
仕事の“退屈さ”ということがなくなり、
精神的にくたびれる程度が少なくなるのである。

(谷口雅春先生著『新版 希望を叶える365章』より)

3303神の子さん:2016/12/04(日) 11:22:04 ID:6hRUvSRg
何を信ずるか

魂を清め、高め、内在力を引き出しさえすれば、
あなたの周囲には続々とすばらしい環境があらわれる。

しかしその出現には多少時間的なズレがあるから、
あとになってゆっくりとあらわれてくることも多い。

それをあせって「まだか、まだか」と思い、
うろたえ、疑い、なげいてはならぬ。

そんなことでは神を信じているのではなく、“現象”を信じているのだ。

こんな気持ちでいて「信仰している」と思い上がってはならない。

環境にまだあらわれていないのは、決して神が怠慢なのではない。

あなたの心の高まりは、すでに業の世界に記録され、
その展開が始まりつつある。

あなたの焦りや疑いで、出現を停止させるな。


(谷口清超先生著『純粋に生きよう』より)

3304トンチンカン信徒:2016/12/08(木) 01:19:09 ID:yH0.YhUw

〜平和を願い祈り〜

神よ、わたしをあなたの平和の道具にしてください。

憎しみのあるところに、愛を

いさかいのあるとこに、ゆるしを

分裂のあるところに、一致を

迷いのあるところに、信仰を

誤りのあるところに、真理を

絶望のあるところに、希望を

悲しみのあるとろに、喜びを

闇のあるところに、光をもたらすことができますように。

神よ、わたしに、慰めらよるよりも慰めることを
理解されるよりも、理解することを

愛されるよりも、愛するを望ませてください。

自分を捨てて初めて自分を見いだしゆるしてこそゆるされ、
死ぬことによってのみ、永遠のいのちによみがえることを深く悟らせてください。


アーメン、サンタ・マリア

合掌礼拝

3305志恩:2016/12/08(木) 03:21:14 ID:6hRUvSRg
あなたの価値

名刺の肩書などは、その会社の、そのイスに座っている瞬間の
あなたの『仮の寸法』であって、けっして、
あなた自身の人間としての寸法ではないわけです。

名刺、バッジ、身分証明書、それらすべてを落とし去って
裸の自分で人前に出た時のあなたの『感じ取られ方』、
それだけが真のあなたの価値であり、寸法なのです。

そこのところを誤解していると、ある日、とんでもなく
落ち込むことになりますので、御用心、御用心。

(ひろはまかずとし氏の言葉)

3306志恩:2016/12/08(木) 03:29:37 ID:6hRUvSRg
何が起こるかわからない。

右を向いて左を向いて、上を見て下を見て、
注意に注意を重ねても、それでも何が起こるかわからない。

それが人生というものであり、それが世の中というものである。

まして今日のように時代のテンポが速くなり、世の中が、
そして世界が複雑に入り組み合ってくると、
全く予期もしないことが次々に起こってくる。

何が起こるかわからない。

まずそれだけの覚悟を、お互いにしっかり持っておきたい。
今日は昨日の続きで、明日は今日の続きで、
だから毎日が事もなく続くとは、何の保証もないのである。

大切なことは、何が起こっても、
まず素直にその状態を受けとめるということである。

捉われた心、私心ある眼では、事態の本質を見誤ってしまう。

平穏無事な時ならば、いささかの私心もやむを得ないとしても、
大事な時の捉われた心は、それよりとりかえしのつかない一大事をひきおこす。

今日ほど、質素な心の大切な時はないのである。

(松下幸之助著『新 道をひらく』より)

3307志恩:2016/12/08(木) 03:32:56 ID:6hRUvSRg
日々是好日
雨がふる日は、天気が悪い‥‥と、
一体誰がきめたのか。

カラカラにかわき上がった畑は、
雨がふる日は天気がよいのだ。

そのような「よい天気」に恵まれたといって、
感謝する人も多いのである。

では、晴れた日は天気が悪いのか‥‥というと、
決してそうではない。

雨の日も、風の日も、晴れた日も、
秋も冬も夏も、いつも天気がよいのである。
いや、よい天気なのだ。

それが分れば日々是好日、
毎日毎日がよろこびの連続となるのである。


(谷口清超先生『伸びゆく日々の言葉』より)

3308志恩:2016/12/08(木) 03:37:49 ID:6hRUvSRg
心の力と、言葉の力

人間の生命は、宇宙全体の生命の一部分であり、
人間の心は宇宙全体の心の一部分であるのである。
星を造り、太陽を造り、一切万物を造ったと同じ心の力が、
人間に宿っているのである。

だから人間の心は一切のものを造ることが出来るのである。
「心の力」と云うものは単なる空想でも、観念論でもないのである。
現実に立証し得る所の力なのである。

特に信念を持った心の力が、言葉によって発せられるとき、
それは驚くべき大いなる創造力を発揮するのである。

信念をもった宗教家や、占い者や医者が、
「お前の運命はこうなる」と云ったとき、その言葉の通りになるのは、
心の力が言葉を通して有力に働いた結果である。

(谷口雅春先生著『新版 幸福を招く365章』より)

3309志恩:2016/12/10(土) 07:17:31 ID:6hRUvSRg
今を生かされていることに感謝

今を生きていることに感謝すると同時に、
私たちは「今を生かされている」ことに感謝することが肝要です。

大いなる自然界に生かされているからこそ、私たちは毎日、
食べたり飲んだり語らったりすることができるのです。

生きていることは当たり前のことではありません。

様々な要素、奇蹟的な巡り合わせが重なった結果、私たちはこうして生きています。
日本人は「心構え」や「覚悟」という言葉を大事にしてきました。

生きている間に起ることすべてに対して、「自分が責任をとる」
「すべてを受け入れる」という姿勢を貫いてきたからです。
心構えも覚悟も「心の準備」なのです。

心の準備は、いつどこからすればいいというものではありません。
それは一人ひとりが普段から行うものであり、胸の内で静かに行ったらよいと思います。

武士道では「生きることは死ぬること」とされます。
あらゆる事態を想定して、つまりいつ死んでもいいように普段から身綺麗にし、
心の準備をするということです。

また「武士に二言なし」という言葉もあります。これは「武士の一言」から発生した言葉です。
武士の一言とは「言い訳なき真実を保証する」こと。だから二言はないというわけです。

病気や死についても、私たちはそれぞれが心の準備を求められます。
急性期医療、つまり、病気が発症した直後の医療よりも、
長い期間の治療を必要とする慢性期医療では、患者さんにとって、医師をはじめとする
医療スタッフや身内の方々とのきめ細やかなコミュニケーションが必要となります。
患者さんは精神的、肉体的につらいことが多く、自分の伝えたいことをうまく伝えられない
ような場合があるでしょう。
また、身体の不調からストレスが溜まり、治療そのものに嫌気がさすこともあります。

そんな状況でも、忘れてはならないことがあります。それは「すべては学び」という言葉です。

私たちは「おかげさま」という、ネットワークから、いかなる時も試されています。

どんなにうまくいかない時でも、今ある現実をいったん全部受け入れてください。
そして、うまくいかない理由ときちんと向き合ってみることが大切です。
あるがままの自分を受け入れ、苦境から学ぶことが、自分と周囲に対する
最上の愛へとつながっていきます。

生きることとは死ぬこと。あるがままの自分を受け入れ、すべては学びである」と知る。

あなたは一人で生きているのではない。
自分だけが悪いとか、相手だけが悪いと思っていては、正しい生き方を見つけることは
できない。

(矢作直樹氏著『おかげさまで生きる』より)

3310志恩:2016/12/10(土) 07:21:52 ID:6hRUvSRg
常によき想念をもつこと

よき想念を常に持つことにしましょう。
よき想念はよき行動を伴う。
ひとたびのよき行動はひとたびでは終わらないのである。

行動はそれが終わったのちにも蓄積されて習慣となり、
次の行動をひき起こす原動力となり、
それがあなたの将来の運命を決定する。

運命は決して他動的に外部の権威者から
割当てられたものではないのである。

すべて自分が蓄積しておいたところの
過去の想念・行動・習慣・業の具象化であるから、
今後、幸福な運命をもちたいと思うならば、
先ず常に、明るき、楽しき、善き、裕(ゆた)かな、
積極的な想念をもつように心掛けるがよいのである。

(谷口雅春先生著『新版 女性の幸福365章』より)

3311志恩:2016/12/12(月) 08:38:00 ID:6hRUvSRg
愉快な生々した人になれ

何よりも吾々は人らしい人になることが必要なのです。

神の子の生活と云うのは別に人を離れて神の子の生活が
あるのではございません。
 
それでは人らしい生活と云うのはどういう生活であるかと云うと、
お釈迦さんは、
「笑うべき時に笑わず、歓ぶべき時に歓ばず、
慈心(なさけごころ)を起すべき時に慈心を起さず、

悪をなして恥じず、善を聞いて意(こころ)につけない人は
確かに人らしくない人である。」
そして又こう云われた。

「笑うべき時に笑い、歓ぶべき時に歓び、悪をなして恥じ、
善を聞いてそれを意に感銘する者は確かに人らしい人である。」

愉快に楽しく生々していることは、確かに人間にとっての美徳である
のである。美徳と云うのは美しい徳だと云うことである。

徳と云う字は「直心(じきしん)を行ず」と云うことを
文字に組み合わせたものである。

直心と云うのは、素直にそのままの心を出すことである。
即ち笑うべき時に笑うことである。

歓ぶべき時に歓ぶことである。なさけの心を起すべき時に、
素直に可哀そうだと思って救(たす)けてやることである。

歓びと云うものは、身体の血のめぐりをよくし、
勉強や仕事をする力を増し、悲観したり、気がふさいだりしている
人にはとても及ばない良い考えを起させてくれるものである。

日本人は、古くから、「喜怒、色に現わさず」と云って、
喜びがあっても喜ばない、怒りの念が起こっても其の怒りを
顔にあらわさないことを美徳としてきましたが、
これは大変な間違いだったのです。

多くの病気は、心の中に持っている喜びや悲しみを形に
あらわさないために起こるのです。

怒ることは感心しませんが、素直な気持ちで、何でも心に
思っていることを出すようにしていますと、心にものがたまって
腐ることがありませんから、怒ることも自然になくなるのです。

何でも心を自由にしていると人間の実相は愉快なのが本当ですから、
愉快に楽しくなるほかはないのです。

常にニコニコ微笑している者は身体も達者であります。

微笑とは「ほほえみ」です。

「頬」に何となく嬉しさの笑いが浮かんでいることです。
「ニコニコ健康法」を機会ある毎におやんなさい。

人間は愉快なときにも笑いますが、笑っていると愉快になるのです。
笑っているとズンズン健康になってくるのです。

(谷口雅春先生著『新版 生活読本』より)

3312志恩:2016/12/13(火) 09:39:46 ID:6hRUvSRg
「当たり前」は奇蹟以上にすばらしい!

「当たり前」のことが、とても嬉しく有難いことだ。
手が動き、足が動き、「あたり前に呼吸ができる」という、その
「当たり前のこと」が、とても有難くすばらしい。

‘奇蹟’を求めて、それが信仰の証しだというのは、
‘奇蹟’にとらわれた考えだ。

「当たり前」の中にこそ「神の子」の実体があるのだ。
「当たり前」は奇蹟以上にすばらしい。


(谷口清超先生:『生命が悦ぶ生活』より)

3313志恩:2016/12/13(火) 09:55:56 ID:6hRUvSRg
あなたが現実に幸福になるために

神はあなたに既に幸福を与え給うているにである。

それが現象界にあらわれると、あらわれないとは、
あなた自身の“心”が、
その既に与えられている祝福に同調するか否かの問題である。
つまり、あなたの心境の問題である。

既に与えられている幸福を現実化するか否かは、
既にビデオテープに録画されている光景を
テレビセットに上映するか否かの問題である。
上映とは“与える実践”である。

神から既に“与えられているもの”を受けとるには、
こちらが先ず人に“与える”という実践をするとき、
“神の与え給う心と人間が人に与える心”とが
同調して波長が合うということになるのである。

(谷口雅春先生著『如意自在の生活365章』より)

3315トンチンカン信徒:2016/12/14(水) 04:00:21 ID:xEgRVi..
これがわたしの"生命の実〜肉体が変化しても、その奥にあって死滅しないで継続している実在としての生命を、わたしは"生命の実相"と名づけてたのである。そしてそれこそが"人間の真物"であるのである。〜

3316トンチンカン信徒:2016/12/15(木) 20:36:08 ID:WeFB8ISg
〜もし、諸君が不快な考えにとらわるようなことがあるならば、もし諸君が他の人に対して憎しみや、怒り、嫉妬や復讐を感じるようなことがあるならば、諸君は自己の心に盗賊が忍び込んで幸福のダイヤモンドを奪おうとしているのだということを自覚しなくてはならぬ。諸君は靴を一足盗みにはいった盗賊でも逐いだすではないか。それだのに心の中にあなたの最も高貴な幸福のダイヤモンドを盗みはいた盗賊をばいつまでもなぜ歓待しようとするのであろう。われわれは心の内に溜ったカスを捨て去ろう。われわれは靴の中にはいった小石のようなに悲しみを心から放(な)げ棄てよう。憎しみをほかそう。そして憂鬱を脱ぎ棄てて、晴れやかな太陽の輝いている世界へ、新しい喜びの靴を穿きなおして歩み出そう。これが『生長の家』の生き方であるのだ。〜『日時計主義の生活』より。

3317志恩:2016/12/15(木) 22:13:57 ID:6hRUvSRg

うまくいかないことが多少あっても、それは、自分を鍛え、
学ばせようとする愛なのだということに、いつも感謝してください。

困難や障害があるからこそ、人生は輝くのです。
それは、あなたが愛されているという証拠でもあるのです。


エナジーは、誰かからもらうものではありません。
「大我の愛」が芽生えれば、自身のたましいより、泉のごとく湧き上がります。

愛の炎が消えなければ、そのエナジーは永遠に枯れることはありません。


愛はいかなる苦難、幸せな宝に変えてしまいます。
どんな苦難も、愛の力にはかないません。それほどに愛は偉大なのです。
人はみな、愛の電池で生きるのです。愛があれば、何も怖いものはありません。


本気で人とかかわれば、醜い嫉妬心や、強い憎しみを持つこともあるでしょう。
それを悔やむことはありません。

ネガティブな感情に苦しんだことのある人は、強い愛情も持てる人です。
人一倍、深い思いやりも持てるのです。


「誰も自分を愛してくれない」と思うときは、あなた自身が
そもそも「人」を愛しているかどうか、
振り返ってください。
人を心から愛してこそ、愛されるあなたになれるのです。


いまこそ、
「ごめんなさい」と「ありがとう」という心を思い出しましょう。

正しき 愛念をもって、シンプルに 生きることが 必要なのです。

(江原啓之氏著『未来を拓く言の葉』より)

3318志恩:2016/12/15(木) 22:42:24 ID:6hRUvSRg
偉大なものに常に立ち戻る。

偉大なものに敬意を示す。

そういう姿勢があれば大抵のことはなんとか なります。

偉大なものを尊重する姿勢と卑小なものを避ける姿勢があれば、それでいいのです。

(ゲーテの言葉)

3319志恩:2016/12/15(木) 23:00:00 ID:6hRUvSRg
教養とは 概念的な教養のことではなく、
なかんずく、
直観し 正しく選択する 教育の事である。

それは、音楽家が 暗がりの中で正しく演奏するようなものだ。

一民族を教育して 教養を得させるのは、本質的には、優れた典型に慣れさせ、
高度な諸要求を 形成させる事だ。

なぜ 優れたものに触れないといけないのか?

価値判断力を 身につけるためです。

暗い芭蕉でも、道を間違えずに 歩く事ができるようになるためです。
夜、照明を落とせば、真っ暗になりますが、そのうちに目が慣れてくる。

同様に、古典に接近する中で、次第に見えてくるものがある。

見えてくることが、歴史的に証明されているからこそ、古典は残っているのです。
見えてくることにより、改めて古典の価値が確認される。

偉大なものを、ただつまらないとか、古臭いと言って拒絶するのは幼児です。
古典を読むということは、大人になるということです。

(ニーチェ「生成の無垢」より)

3320志恩:2016/12/15(木) 23:02:18 ID:6hRUvSRg
3319:暗い芭蕉でも➡暗い場所でも、に訂正。

3321規約:2016/12/15(木) 23:35:45 ID:R9GcJyNI
:トキ :2011/11/23(水) 13:32:46 ID:YRze2u3c
 このスレッドは、生長の家の「今の教え」と「本流復活」の問題に関連して、雅春先生や
御高弟、他の真理の言葉のみを掲載していくという板です。

3322志恩:2016/12/16(金) 17:54:12 ID:6hRUvSRg
平等にして 差別があるのが 大調和

生きとし生けるものが 平等だということは、
生きる命はみんな神様の力が宿っているのであるから、
どれも皆同じように尊いということである。

しかし形の世界では、その神様の力のあらわれ方がみんな違う。

平等にして差別ありの真理を知らねばならぬ。

人間はみんな尊いが、

人と時と処との三つの相応(ちょうどよい)と

いうことを知らねばならぬ。

この相応を得たときにすべてのものが大調和するのである。

(、谷口雅春先生著『人生読本』より)

3323志恩:2016/12/16(金) 17:56:32 ID:6hRUvSRg
神と偕に生きる


今日、誰かに必ず役に立つ仕事をしよう。

大いなる仕事が見つからなかったら、

目の前にある些細な愛行や、深切な言葉や、

奉仕や、清掃などの仕事でもよい。

何か誰かに悦ばれる事を必ずするがよいのである。

他の人の自由や財産を侵して自分が利益を得たり、

権力を得ようと思ってはならない。

このようにあなたの日常生活を浄めることによって、

あなたは神の霊波と波長が合うことになるのである。

(谷口雅春先生の言葉)

3324志恩:2016/12/16(金) 18:05:09 ID:6hRUvSRg
『他(ひと)から見て どう見えるか』

仕事でも、顔でも、店構えでも、事務所の玄関でも、外から見てどう見える
かを調べてから、他に見せるようにすることが大切です。

仕事をする上からいえば、自分はその仕事をやりとげることに熱心すぎて、
ちょっとぐらいよごれていても、気がつかない事がありがちです。

いかに立派な製品でも、ほんのちょっと手垢がついているために、つまら
ないものだと見向きもされないこともあります。

まず自分がお客になって玄関へ入って行くと、どんな感じがするか、什器や
椅子の並べ方は不快ではないか、応接室で待っているとどんな感じがする
か、何分間待たせられるか、待っている間に放っておかれるか、何か出され
るか、その出し方はどんなふうにするか、読み物はあるか、最初の面談は
どんなふうに始められるか。

・・・・・こんなことでも、自分が客となって
見なければわからないのです。

他の事務所や商店と比較してみて、悪いところはできるだけ廃(や)める
ようにし、良い所はできるだけ取り入れるようにし、さらによそに見られぬ
好い感じを出すようにしなければなりません。

自分の店や自分の事務所ばかりを見ていては、欠点があっても、その欠点は
慣れてしまって、それが当たり前のような気がして気づかないものです。

臭い空気に慣れてしまっては、その空気が臭い空気だということに気がつき
ません。しかし外から入って来たら、「なんてここは臭い空気だろう」と
気がつくのです。 客は外から入って来るのですから、一番誰よりもその
室(へや)の空気の良し悪しには気がつくのです。

室の空気の良し悪しというのは、鼻から吸う空気だけのことではありませ
ん。 心で吸うなんとなきその室の味です。その室の匂いです。

その室の感じです。

その中には人間のようすもあり、微笑もあり、心の思い
もあり、椅子や家具の並べ方もあり、「ああ、ここは気持ちが好い」と思わ
れるようにしなければなりません。

(谷口雅春先生の言葉)

3325志恩:2016/12/17(土) 07:10:40 ID:6hRUvSRg
『困難と見えるものは、成功への足がかりである』


「困難」と見えるものは、

成功への足がかりなのだ。

人間は、如何なる困難にもへこたれず、

それを逆に活用し、

そこから又と得難い教訓を学びとって、

はじめて立派な人間となることが出来る。

困難にうちひしがれることなく、

決然として立ち上がろう。

そして、

生き生きと積極的に生き抜いて行こう。

(谷口清超先生の言葉)

3326志恩:2016/12/17(土) 07:15:36 ID:6hRUvSRg
「今」を生かせ

あなたの前に現れて来る時々刻々を、「今」よりほかに為すべき時はないと
信じて「今」を生かして使う者は永遠に楽しく生きることが出来るのです。

「今」の時を、歓びと、愛と、仕事と勇気をもって生きることです。

勇気を持て、愛を持て、歓びを持て、而して今為すべきことを
明日に延ばさず、今それを行うことであるのです。

多くの人は「今」なすべきことを
次の時に、次の日に、次の月に荏苒(じんぜん)それを
延ばしてしますことによって、
時間がない時間がないとつぶやいている人が多いのです。

実は時間がないのではないのであって、時間を生かさないからです。

今を悔いなく生きよ。

過去について思い煩うこと勿れ、未来について思い煩うことなかれ。
刻々瞬々が「今」のみを生きるとき無限に悦びに満たされた
毎日となるのである。

(谷口雅春先生著『新版 真理』第二巻より)

3327志恩:2016/12/17(土) 07:31:51 ID:6hRUvSRg
宇宙の根本真理である神の自己顕現の秩序は、どの様な相(すがた)をとるのでしょうか。

神がこの地上に自己を現わす場合の、もっとも合理的な最高の相は、
国家 と云う形体、国 と云う相であります。

「国」とは宇宙秩序の地上的表現であります。

宇宙の普遍原理たる 神の地上に於ける自己形成の総合的基本形態を

「国」 と云うのであります。

今日世界を構成しているものは国家群であって、直ちに人類ではありません。

 一口に人類と云いますが、
その人類とは必ずアメリカ人であるか中国人であるか印度人であるか
フランス人であるか日本人等々であるかであって、
いずれにも属さない人類とは抽象観念に過ぎません。

人間は皆、言語を異にし風習を異にし国情を異にし
歴史を異にする いずれかの国に属して
その国を構成する いずれかの国の国民なのであります。

(山口悌治先生著『中(みなか)のこころ』より )

3328志恩:2016/12/17(土) 21:03:16 ID:6hRUvSRg
思い切りよく、押し強く、勇敢に断行せよ!


今、汝の決心をすぐ実行に移せ。
思想はそれが実践せられるまではただの夢でしかない。

諸君に競争者があるか。あっても恐れることはない。
それはただ人間ではないか。 

行け! あえて行くところに道が開かれるのだ。

決意をもって進む人の前には、万人がひざまずいて奉仕しようと申し出るのだ。
困難、それがなんだ。勇敢にそれを押しのけよ。

失意すべき時に失意せず、落胆すべき時に落胆せず、
勇気を失わずにあえて前進する者には困難が困難でなくなるのである。

人生は明快な決断力を有する人のためにのみ、
よい座席をあけて待っていてくれるのである。

不決断の人の前にはたとい空席があろうとも、彼がその座席に座るまでに、
ほかのいっそう決断力のある人がその椅子にかけてしまう。

勇敢なる人は自分の目の前にあらわれたる困難を、
そのまま神が自分に与え給うた「希望」実現のための踏み石として
感謝して受け、困難を踏み台としてなおいっそう前進する。

かかる人には困難はかえってその人の魂の向上の資料となる。


(谷口雅春先生著『生命の実相』第7巻より)

3333志恩:2016/12/22(木) 23:55:46 ID:6hRUvSRg
陽気を 失うとき 生長は とまる


明るい人間でないとだめ。

どんな才能を持っていても、明るさがないと のびていかない。

いのちは 光に向かってのびる。

それは、一粒の種子が 光に向かってのびていくようなものだ。

明るくあれ。 心に親切な思いをもて。

何事にも善意を見出せ。

人々の、神の万物のあたたかい「愛」を 味わうことが大切である。

(谷口清超先生の言葉)

3334志恩:2016/12/22(木) 23:59:02 ID:6hRUvSRg
神に託して生きましょう


問題がこんがらがって来たら、

神様に解決をお願いする心になるがよい。

神は、あらゆる問題を解決して下さる

無限の智慧と能力とをもっていられるのである。

(谷口雅春先生著『新版 女性の幸福365章』より)

3335志恩:2016/12/23(金) 07:41:58 ID:6hRUvSRg
(榎本恵吾先生 文書より)

(9)た た み

<平成11年8月 内報『宇治』123号より〉

あれは中学校の終わりか、高校のはじめ頃だったか、学校から帰ってくると、仏壇の前で母が神想観をしていたのである。
その時母は、「如意宝珠観」をしていたのであった。

一寸首を右の方にかしげるようにして、にこやかな表情をしてとても明るくて、やさしくて小声で「住む人悉(ことごと)く身健かに、
心美しく、相(すがた)形(かたち)美(うる)わしく、和顔愛語讃嘆に満たされたり」と唱えながら、ますます口元に柔らかさがにじみ出てくるのであった。

 それは、一瞬の間に眼に入ってきた姿であったが、その時「神想観とはいいものなんだなあー」という明るいものが私の腹の中に収まったらしいのである。
そして、「如意宝珠観」が大好きになったのである。

それから、高校一年の秋に青年会に姉が誘ってくれて入って、大学浪人二年目の四月に飛田給と宇治の一般練成を受けた。
練成会中、私が一番関心を持ったのは、神想観の先導者が座る四角のたたみであった。「あの上で神想観をすればいいだろうなあ」と
来る日も来る日も思ったのであった。

うちに帰ると、早速それと同じものを作ってもらったのである。青年会の先輩の竹内憲仁という人が、畳屋さんであったことも好都合であった。
竹内さんは喜んで作ってくれた。それからというもの、憧れのそのたたみ半畳分のその上で、私は神想観をしたり、
聖典を拝読したりしたものであった。

それは、もう四十年以上も前のことになるが、郷里の紀州でまだ熱心に生長の家をやっておられる竹内さんが、
六、七年くらい前だったか、丸い形のうすべり(円座)を送ってこられて、幽斎殿の正面の台座の上にでも置いて下されば
うれしいと寄付してこられた。

私は今、毎日その畳の円座の上で神想観をさせて頂いているのである。“そういえば、母のしていたのも龍宮観とも言われる
「如意宝珠観」だったなあー”と、
いろいろなことを重ね合わせて  神縁とか、運命とか、使命とかのことを思って、感慨をかみしめているのである。

3336志恩:2017/01/02(月) 14:29:55 ID:6hRUvSRg
「いくら口先で弁解しても、その人の行動は、結果となって現れてくる。

何々のせい・・であるとか、誰々のせい・・でこうなったと言っても、

『ではあなたは、ただ単なるデクノボーか、かかし・・・・であったのか』と

問われるであろう。


原因は、そんな外部にあるのではなく、あなたの心にある」


(谷口清超先生著『伸びゆく日々の言葉』、77頁)

3339志恩:2017/12/14(木) 07:36:36 ID:6hRUvSRg
『生長の家の全貌』  13頁〜16頁

古代日本人の自覚は日本民族全体を「神の子」の降臨と観じた 
 ―  西欧支配に対する東洋文化の対抗

  谷口雅春 先生


 戦後、日本を襲ったところの民主主義旋風は、その旋風の名にふさわしいように、上下の秩序の混乱を引起しました。

権威破壊の民衆の精神的暴風は一切の特権階級を烈しくゆさぶり落して、
天皇の権威さえも、風におののく晩秋の桜の葉のようにいつ落葉するかも知れないような有様となったのであります。

イザナミ文明を核心とする西欧文明は「分断して支配せよ」との原理に従って、
物質を細かく分割して原子爆弾、水素爆弾を製作し、それによってビキニ環礁を細末に粉砕して死の灰をふらせて問題を
惹き起したのでありますが、
「分割して支配せよ」との西欧的支配イデオロギーは、日本を弱体化するために蜘蛛の網のようにあらゆる方面に張り渡されて、
着々日本弱体化が実行せられたのであります。

先ずそれは、日本国が「神なる天皇」を中心に国民は天皇の赤子であって、
一大家族国家であるという信念を、細く分断して日本国民の団結力を弱からしめようと云う方策が用いられたことであった。

そのために、マッカーサーは天皇をしてみずから「神に非ず人間なり」と云う詔勅を喚発せしめるなど愚にもつかない子供だましの
策略を行ったり、古事記及び日本書紀にある日本上代の歴史のうち、崇神天皇までを、ただの神話であるとして、
瓊々杵尊や神武天皇を日本建国の歴史の中から省いてしまうことに努力したのであります。

この西欧の「分割支配」の方策におどらせられて、日本の文化人中、霊感なき唯物論的実証主義者の歴史家たちは、
瓊々杵尊は勿論、神武建国の記事を「社会科」の歴史教科書中から省いてしまったのであります。

かくて、日本の建国の理想は曖昧となり、戦後10数年後の学校卒業者には、神武天皇の名さえ知らざる者がその大部分を
占めるであろうような教育企画に乗ぜられてしまったのであります。
 
このため、神武建国を記念するところの、紀元節又は建国節は今に至るも制定の運びとならない現状で、
日本は建国なき国として今も亡国にちかき現状で引続いているのであります。

これに対して、生長の家の主張するところは「人間神の子」の真理により、吾々日本国民がすべて「神の生命」を自己の内に宿す以上、
天皇も亦、「神」の生命をやどすのであり、だから天皇も亦「神」にましますことは当然であり、

吾々日本民族は、瓊々杵尊が高天原より天降られて地上に日本国を建設せられたときに、
瓊々杵尊と同時に天降って来た皇族又は五伴緒命の子孫として互いに血縁関係と云う密接な紐帯によって結ばれていると主張するのであります。

つづく

3342志恩:2017/12/14(木) 07:53:12 ID:6hRUvSRg
3339:『生長の家の全貌』 の、つづきー


こう云う主張をするときには、「だから生長の家は迷信だと言うんだよ。 人間が天から天降って来るものか」と。 
私は答える  ―  私は人間を「肉体」として話しているのではない。
 人間を「霊」として話しているものである。

 だから私は、この論文の最初の項に、現代の日本には、如何に多くの「人体」ばかりが横行していて「人間」がいないことであるか  
―  と言って揶揄したのであります。

「人体」が「人間」として生きて動き出すために神の「霊」が天降らなければならないのであります。

 霊なき「人体」は「人間」ではなく、それは人間の「無き殻」に過ぎないのであります。

 人間が、人間であるためには、「なきがら」に「霊」が天降らなければならない。

 かくてのみ霊なき「なきがら」が人間となり、ただの「人体」が生きた「人間」となり得るのであります。

 これを「天孫降臨」即ち「神の眞子」の天降りと言うのであります。

古代日本人の自覚は日本民族全体を「天孫」即ち「神の眞子」の降臨だと観じたのであり、
それを天孫降臨の神話として表現したのであります。

これは決して単なる迷信でもなければ、ただの作り物語でもない。

 実に日本民族が、人間の本性を「久遠の神」の表現と直観し得たところのものの表現であり、
それは仏典に於いて、例えば、釈迦が、その「神(たましい)」を
兜率天界より地上の摩耶夫人に降して右脇に孕んだと大無量寿経に書かれているのと同様であり、

キリスト教聖書に於いては、
イエスの霊が天の使にたずさえられて処女マリアに懐妊したと云うのと同巧異曲で、まことに雄大な人間尊厳の自覚でありまして、
これをただ科学的に人間の肉体の発生を物質的精子、卵子の結合と観ずる如き、高貴なる理想なく、

雄渾なる夢なきただの唯物論者の見地から迷信だと断定して抹殺し去ろうとするが如きは、
みずから人間存在の基底を侮辱するものであって、まことに気の毒な自己劣等感と言わなければならないのであります。


真の身種主義なるものは、「神霊降下」の人間の高貴の根本自覚から出発しなければならないのでありまして、
人間が瓦礫と等しく、ただの物質的分子の集合体であるならば、人間に基本人権と云うような高貴なものの存在の
余地がないのであります。

斯くの如く説くことによって、生長の家は、日本の神話的歴史を否定することなく、
しかもそれを民主主義に根拠を与えながら、人間尊厳の自覚に貢献しつつあるのであります。

===============================

3343神の子さん:2017/12/14(木) 08:58:02 ID:8UEVfL8A
>>3342
♪貴女に資格は、ありませんよね♪

(トンチンカン=志恩さんが、生長の家を、何十年も前に、脱会されている、証拠のコメント)

※→私も私で、私が義兄に、「今は 払いたくないんです」と払わないように

お願いしているにもかかわらず、

義兄は、夫と私の二人分の聖使命会費を、「そういうわけには、まいりません」と、


①聖使命を、第三者奉納なので?すでに?信徒?信者で無い亊は?明確な事実です♪

②従って、愛国だろと?トキ掲示版だろと?生長の家や谷口雅春先生や?清超先生、雅宣先生、その他谷口家の人や?生長の家の講師や関係者に?対し?コメントするは?出来ないし?資格も無いのです?

③②を侵して、コメントしてるのは、単なる、自己満足者、マニア、愛玩者です♪ 3342:志恩

17/12/14(木) 07:53:12 ID:6hRUvSRg
3339:『生長の家の全貌』 の、つづきー


こう云う主張をするときには、「だから生長の家は迷信だと言うんだよ。 人間が天から天降って来るものか」と。 
私は答える  ―  私は人間を「肉体」として話しているのではない。
 人間を「霊」として話しているものである。

 だから私は、この論文の最初の項に、現代の日本には、如何に多くの「人体」ばかりが横行していて「人間」がいないことであるか  
―  と言って揶揄したのであります。

「人体」が「人間」として生きて動き出すために神の「霊」が天降らなければならないのであります。

 霊なき「人体」は「人間」ではなく、それは人間の「無き殻」に過ぎないのであります。

 人間が、人間であるためには、「なきがら」に「霊」が天降らなければならない。

 かくてのみ霊なき「なきがら」が人間となり、ただの「人体」が生きた「人間」となり得るのであります。

 これを「天孫降臨」即ち「神の眞子」の天降りと言うのであります。

古代日本人の自覚は日本民族全体を「天孫」即ち「神の眞子」の降臨だと観じたのであり、
それを天孫降臨の神話として表現したのであります。

これは決して単なる迷信でもなければ、ただの作り物語でもない。

 実に日本民族が、人間の本性を「久遠の神」の表現と直観し得たところのものの表現であり、
それは仏典に於いて、例えば、釈迦が、その「神(たましい)」を
兜率天界より地上の摩耶夫人に降して右脇に孕んだと大無量寿経に書かれているのと同様であり、

キリスト教聖書に於いては、
イエスの霊が天の使にたずさえられて処女マリアに懐妊したと云うのと同巧異曲で、まことに雄大な人間尊厳の自覚でありまして、
これをただ科学的に人間の肉体の発生を物質的精子、卵子の結合と観ずる如き、高貴なる理想なく、

雄渾なる夢なきただの唯物論者の見地から迷信だと断定して抹殺し去ろうとするが如きは、
みずから人間存在の基底を侮辱するものであって、まことに気の毒な自己劣等感と言わなければならないのであります。


真の身種主義なるものは、「神霊降下」の人間の高貴の根本自覚から出発しなければならないのでありまして、
人間が瓦礫と等しく、ただの物質的分子の集合体であるならば、人間に基本人権と云うような高貴なものの存在の
余地がないのであります。

斯くの如く説くことによって、生長の家は、日本の神話的歴史を否定することなく、
しかもそれを民主主義に根拠を与えながら、人間尊厳の自覚に貢献しつつあるのであります。

===============================
3342:志恩

17/12/14(木) 07:53:12 ID:6hRUvSRg
3339:『生長の家の全貌』 の、つづきー

3344神の子さん:2017/12/16(土) 23:48:38 ID:VhgSEtgQ
http://www.bit.ly/2kJFRlx

3345志恩:2017/12/17(日) 15:42:27 ID:6hRUvSRg
田中忠雄先生著「こころの姿勢」よりー

かなり有名なある評論家が、道元禅師の 『永平清規』 をさんざんこきおろしていました。 
『永平清規』 というのは、道元禅師が道場における心得を示されたもので、目上の人にたいする心得、
洗面のときの心得、食事のときの心得などをくわしく書いたものです。

この評論家は、それを読んで昔の軍隊を思い出すと言ったのです。 
「一つ軍人は信義を重んずべし」 などという 「軍人勅諭」 を思い出し、その先入見に捉われたのでしょう。
彼はそれを軍国主義だのファシズムだのと結びつけてさんざん悪口を言っておりました。

けれども、こういうのは浅はかな考えであって、昔の軍隊でやっておったことを何でもかんでもみな軍国主義だとか
ファシズムとか言うのが、そもそものまちがいであります。

軍隊には秩序が大切ですし、特に規律が大切である。 世界中の軍隊に規律のない軍隊というものはありません。 
だからそれを要約した形で、日々の心得を表したものがどの国にもあるわけです。 
それを全て軍国主義的だとかファシズム的だとか言うなら、地球上の軍隊で、軍国主義的・ファシズム的でない国は
どこにもないことになってしまうでしょう。

そいう浅はかな自由思想で規律や心得というものに反対するならば、あらゆる共同生活、あらゆる集団生活、あらゆる職場生活は、
ばらばらになって解体することになるでしょう。 国や民族も統一を失ってばらばらになって、やがて衰頽してしまうでしょう。

信仰上の集団ならば、教えのうえから当然でてくるところの心得があり、それによって日常生活の基準にすることがあります。
 これが確立されていれば、勝手気侭なことはできないわけで、その力で秩序が保たれるのです。

秩序が保たれるだけでなく、教えそのものが永く受け継がれることになるのであります。
もし 『永平清規』 というものがなかったならば、道元禅師の宗風はとっくに失われ、七百年以上もつづいて今日にまで
伝わることは決してできなかったでしょう。 

ですから私は、こういう心得や規律の意味を吟味して 「歴史継承の型」 と呼んでいます。 
この 「型」 によって、教えが後世に受継がれる、つまり継承されるのであります。

むろん 「型」 というものは、「型にはまる」 と言われるように、精神を失ってただ形だけのものになる恐れがあります。
それを形式主義というのです。 

ですから、常に根本の精神に立ち返って、絶えずその 「型」 に魂を入れてゆかねばなりません。

既成宗教という言葉がありますが、それは長い年月のあいだに偉大な宗祖の精神を失い、ただ形式だけまねているということです。
そういう場合にも、その形式がまだ残っているなら、その形式に含まれた精神をよび戻すことができます。

 古来、そういう仕事をした立派な人のことを 「中興の祖」 と呼ぶのであります。

3346シオンな番組:2017/12/17(日) 17:37:54 ID:ComiSPMU
>3345
矛盾した過去コメをしてる、志恩さんの経歴※

①(そもも、生長の家じゃ無いから、コメント出来ない)

(トンチンカン=志恩さんが、生長の家を、何十年も前に、脱会されている、証拠のコメント)

※→私も私で、私が義兄に、「今は 払いたくないんです」と払わないように

お願いしているにもかかわらず、

義兄は、夫と私の二人分の聖使命会費を、「そういうわけには、まいりません」と、


①聖使命を、第三者奉納なので?すでに?信徒?信者で無い亊は?明確な事実です♪

②従って、愛国だろと?トキ掲示版だろと?生長の家や谷口雅春先生や?清超先生、雅宣先生、その他谷口家の人や?生長の家の講師や関係者に?対し?コメントするは?出来ないし?資格も無いのです?

③②を侵して、コメントしてるのは、単なる、自己満足者、マニア、愛玩者です♪
※※※※※※※※※※※
②(アレ?曹洞宗は?リベラルで?志恩さんは?それに?批判してるわけです?今回は、コメントは、可笑しいですね)

(矛盾したリベラル賛成コメント)http://bbs5.sekkaku.net/bbs/toki2/&amp;mode=res&amp;log=122 6054:志恩

17/02/17(金) 06:01:12 ID:6hRUvSRg
リベラル派か、保守派か に分かれる 各宗教団体
__________________________________________
日野掲示板より
44 :トンチンカン信徒 :2017/02/14(火) 04:14:45
現在、『他宗に学ぶ』
として、各宗教団体活動を、観てもらって、
(志恩:注:観て回って?)いるのです。


トキ掲示版の異端派擁護の人や、マニア雅春教徒の人達に、言われてる
状況と外部宗教界の状況(政治:経済の世界とは別)は違う様です。


どこの、団体も、
『環境問題』や『リベラル的』取り組みが、宗教界の流れの様です。
_____________________________________________________

>>ネット:政治と宗教より

「信者と支持者が完全に重なっているわけではないという注釈付きですが、

党単位でいうと基本的に、

自民党は、真如苑や神道政治連盟、

民進党なら。立正佼成会、崇教真光などから、

政治献金を受けているほか、

選挙支援や日常の政務で教団の信者が、

ボランティアスタッフになるなどして、

支援を受けています」<<

__________________________________________________
志恩ー
トンチンカン信徒さんが言われる

トンチンカン信徒さんが、
観て回った?という宗教団体とは、

リベラル派の宗教団体が取り組んでいるという
『環境問題』や『リベラル的』なこと。

それらを推進している、

「立正佼成会」などを 観たからではないでしょうか?

つまり、保守派ではなくリベラル派のみの宗教団体を見て、
これが、「宗教界」の流れだと、
思い込まれたのでは、ないでしょうか。


雅宣総裁も純子奥様も、ずっと以前から
リベラル派の左翼政治学者の著書や話に
夢中であり、お二人とも全身全霊でリベラル的な
考え方に傾倒しておられますので、

他の宗教団体でも、そちら系を推進している他の宗教団体と気があうの
ではないでしょうか。

※※※※※※※※※※※

3347シオンな場組:2017/12/17(日) 17:39:42 ID:0VX4btUY
>>3346
※③志恩さんの矛盾した、コメント?

3345:志恩

17/12/17(日) 15:42:27 ID:6hRUvSRg
田中忠雄先生著「こころの姿勢」よりー

かなり有名なある評論家が、道元禅師の 『永平清規』 をさんざんこきおろしていました。 
『永平清規』 というのは、道元禅師が道場における心得を示されたもので、目上の人にたいする心得、
洗面のときの心得、食事のときの心得などをくわしく書いたものです。

!!!!!!!!!!!!
※謝罪しましょ※

3348神の子さん:2017/12/17(日) 17:41:44 ID:0VX4btUY
>>3342
※速やか、謝罪しましょ※

3349志恩:2017/12/18(月) 12:11:38 ID:6hRUvSRg
道元禅師は京都の人だそうですよ。

道元禅師は、鎌倉時代の1200年(正治2年)1月26日(陰暦では1月2日)に
京都でお生まれになりました。

諸説ありますが、
父は 内大臣久我通親(こがみちちか)、
母は 摂政関白藤原元房の女(むすめ)伊子(いし)である
といわれています。

幼少より聡明さを発揮され9歳で『倶舎論』を読まれたとの逸話が残っています。

道元禅師は3歳の時に父を亡くし、8歳で母の死にあうという悲しい体験をとおして世の無常を強く感じられ、
その心を仏の道へと傾けられたのでした。

2.出家修行
    略
3.入宋と正師との出会い
    略「日々の修行がそのまま悟りである」とお示しです。

4.日本へ帰国
    略
5.入寂
1253年9月29日(陰暦8月28日)に54歳でその生涯をとじられました。
http://www.soto-kinki.net/about/dogen.php

__________________
志恩ー
道元禅師は
幼いときに、両親を亡くされまして、この世の無常を全身全霊で、感じたのでしょう。

幼いときから、お金持ちで、札束を枕にして寝てみたり、一万円の 紙幣をガボッと好きなだけ
お小遣いにもらって
誰かさんのように贅沢に生きてきた人間は、ラクダを針の穴に通すが如く、なかなか
本物の信仰者には なり難いのかもしれません。

3350志恩:2017/12/18(月) 12:13:53 ID:6hRUvSRg
トンチンカン信徒という名も長いから、もっと短い方が、言いやすいと思います。

3351志恩:2017/12/18(月) 12:16:05 ID:6hRUvSRg
道元、も 白隠も 名が短い。

3352神の子さん:2017/12/18(月) 17:06:11 ID:RIlAdG1s
> 幼いときから、お金持ちで、札束を枕にして寝てみたり、札束を枕にして寝てみたり誰かさんのように贅沢に生きてきた人間は、ラクダを針の穴に通すが如く、なかなか本物の信仰者には なり難いのかもしれません。<


「札束を枕にして寝てみたり」「札束を枕にして寝てみたり」

こんな風に谷口清超先生、恵美子先生は子育てをしていたのですね。とても宗教の指導者とは言えませんね。志恩さんの云うことが正しいとしますと、そんな風にしか恵美子先生を育てられなかった雅春先生も、責任を問われますね。

「ラクダを針の穴に通すが如く、なかなか本物の信仰者には」

志恩さんは「富める者」ですね。都会で金を使って生きる生き方ですから。

(ルカによる福音書18章)18-22イエスはこれを聞いて言われた、「あなたのする事がまだ一つ残っている。持っているものをみな売り払って、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」。18-23彼はこの言葉を聞いて非常に悲しんだ。大金持ちであったからである。18-24イエスは彼の様子を見て言われた、「財産のある者が神の国にはいるのはなんとむずかしいことであろう。18-25富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」。

(マタイによる福音書)7-13狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいって行く者が多い。7-14命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者がすくない。

3353志恩:2017/12/18(月) 17:54:11 ID:6hRUvSRg
3352;さんは、大金持ちの曵馬野さんでしょうか?
私は、小金持ちでもなく、平凡な暮らしをしているごく普通の質素な年金生活者ですから、
あのお方よりもラクダよりも 楽に 針の穴から 通れると思います。

3354神の子さん:2017/12/18(月) 21:41:43 ID:.crkIyiU
>>3351
※道元さんも、白陰さんもお坊さん※

※でも?志恩さんは、韓国女性の名前(笑)新羅人の志恩さん言い逃れ※

※※※※※※※※※※※※
3351:志恩

17/12/18(月) 12:16:05 ID:6hRUvSRg
道元、も 白隠も 名が短い。

※※※※※※※※※※※
(志恩は韓国女性名)
http://trs02.mxcd.imodesearch.jp/t/0919nbSzbCVTfRrx/4?_jurl=http%3A%2F%2Fwww.geocities.jp%2Fmt_erech_ave%2Fkorean_girl.html&amp;_jlite=0&amp;_juid=&amp;_jsrc=&amp;_jkw=%8A%D8%8D%91%8F%97%90%AB%96%BC&amp;_jimg=1&amp;guid=on

※第二光明掲示版に、<山ちゃんさんのコピペ>投稿した?志恩さんの内容が?面白?自分のハンネ→韓国女性名で有り?遠祖は?新羅国人である?志恩さん?日本人のフリを?する?嘘つき投稿の?証拠です♪♪
③(こちらが、志恩さんが、嘘投稿した、光明掲示版入り口)

http://bbs7.sekkaku.net/bbs/i.pl?id=koumyou2&amp;log=4376&amp;l=921
♪『實相と現象』のP35に、谷口雅春先生のありがたい、お言葉が、次のよう、示されいるのであります♪

♪<『新羅<志恩さん=トンチンカンさんの遠祖の国>は、日本の敵として非常に優勢に見えているけれでも、日本は神国であるから、決して滅ぼされると云う事はないのである。日本にして来る様な新羅の国は存在しないのである』と、魂の底ふかく否定するとこの思念が"潮干珠゛であります>♪
※※※※※※※※※※※※
※皆が、証明してます※
(アクエリアンさんのコメント)
→<人間の探究 897 創価学会幹部は朝鮮人!>


(志恩さんの日吉町で、創価の女性と、仲の良いこと示すコメント)

②→創価学会のおばさんは、私が生長の家だということはご存知ですから、たぶん創価学会の勧誘はしないと
思います。したら、断るだけです。

なぜ、あちらが突然話しかけてきたのかな、ということですが、普段、道で会えば、お互い、会釈だけは
してきたので、あのおばさんは、私のことを、嫌な人間ではないと、思っていたからだと思います。

でも、たとえ、この度、珍しく あちらが、話しかけてきたからといいましても
あのおばさんは、見るからに、こせこせした感じで、すぐに怒り出すような 短気そうなタイプで、
私の好きなタイプの人では ありませんから、今後も お友達には なりません。

(解説)=実に、不可思議な、志恩さんの、コメント内容です?同じ?日吉に在住で?日頃から?近所なんですね?技と?仲の悪いフリをしてる?コメントですが?相手の方は?近づいてくるてことは?秘密理に?お話してるて?亊ですね?しかも?選挙の前後だしね?
(雅春先生の教えに従うなら、志恩さんは、明に祖国は、新羅国→現在=韓国・北朝鮮になってくる)

※(志恩は韓国女性名)
http://trs02.mxcd.imodesearch.jp/t/0919nbSzbCVTfRrx/4?_jurl=http%3A%2F%2Fwww.geocities.jp%2Fmt_erech_ave%2Fkorean_girl.html&amp;_jlite=0&amp;_juid=&amp;_jsrc=&amp;_jkw=%8A%D8%8D%91%8F%97%90%AB%96%BC&amp;_jimg=1&amp;guid=on

※愛国掲示版へ行っても?志恩さん<変身すると、トンチンカン>が、新羅人を、遠祖に持つ、事実は変わらない♪

※雅春先生も指摘した、志恩さん新羅人説と、志恩さんは、日本の江戸時代の認識さえない

①<トンチンカン・志恩様の最近の日本に対する、新羅人らしい、歴史認識コメント>
♪♪<江戸時代の「藩」とは、江戸時代の支配組織のことで、「藩」とは、
ほぼ今日の「県」に相当する大きさだったそうですが、>♪♪♪


②<トンチンカン・志恩様は、新羅人として、谷口雅春先生、生長の家初代総裁の言葉を、学ばなくていけない>


♪『實相と現象』のP35に、谷口雅春先生のありがたい、お言葉が、次のよう、示されいるのであります♪

♪<『新羅<志恩さん=トンチンカンさんの遠祖の国>は、日本の敵として非常に優勢に見えているけれでも、日本は神国であるから、決して滅ぼされると云う事はないのである。日本にして来る様な新羅の国は存在しないのである』と、魂の底ふかく否定するとこの思念が"潮干珠゛であります>♪

♪志恩さんは、<本当は違う>否定してましだが?トキ本島掲示板や、パソコン無いの全ての海(心の世界)にいる限り、<新羅国の志恩さんで、あり続けしか無のであ、現実世界も、そうなると、雅春先生は、言われているわけで、私、トンチンカン信徒の私見では無いのです、だから、お伝えしただけの、愛行伝道、お節介伝道です♪


※志恩さん、愛国掲示版で、出鱈目を、宣伝してはダメですよ♪貴女の遠祖は?新羅?現在は?韓国じゃないですか

http://bbs5.sekkaku.net/bbs/i.pl?id=daityouwa&amp;log=18579&amp;l=7016

3355志恩:2017/12/19(火) 05:33:01 ID:6hRUvSRg
大金持ちの曵馬野さん

おはよーございます。私は年金生活者で慎ましく生きている大和撫子の志恩です。
今朝も、爽やかな朝ですね。

なんか、聞くところによると、雅宣先生は、コーヒーも飲まないし、
唯一食べていらした鶏肉も、食べなくなったみたいですよ。

クリスマスイブには、その辺にいる 野生の きじばと とか、ウグイス
とか、カラスでも 捕獲して、絞め殺して、それを丸焼きにして食されるのかしら。

野生の鳥は、抗生物質なしで生きてますからね。

曵馬野さんは、鶏肉、食べますか?

肉でも、ワニの肉も、野生ですが、抗生物質不使用で、淡白なお味で、美味しいそうですよ。
ワニの肉も、アマゾンコムで買えます。

私の場合は、いつも抗生物質不使用の岩手産の鶏肉を美味しくいただいております。
近所のデパートやスーパーで売っています。

3356志恩:2017/12/19(火) 05:49:56 ID:6hRUvSRg
アマゾンコムで買えるワニの肉(値段が 高いのが難ですね)

クロコダイルつめ400g ワニ肉 【販売元:The Meat Guy(ザ・ミートガイ)】

価格: ¥ 2,750 + \ 850 関東への配送料
https://images-na.ssl-images-amazon.com/images/I/51Ao2z0KroL.jpg

カスタマーレビュー
●ちょっと緑臭いと周りから声は上がりましたが、インパクトもあるし、いい感じでした。
食べごたえとしては、ガッチリした鶏肉@超微量コケ風味(僕は感じなかった)ですかね。
美味しいです。

●場合によっては人間がワニに食べられることもあるというのに、
そのワニを食べることが出来るというのですから、人類文明の偉大さを感じずにはいられません。
ワニに対する圧倒的勝利感を感じることができます。

3357志恩:2017/12/19(火) 05:54:47 ID:6hRUvSRg
ダチョウの肉という手もありますが、鶏肉に比較して、値段が高いですから、まだまだ
庶民の口には、入りません。

●鹿児島県牧場より直送!ヘルシーな国産ダチョウ (フィレ肉, 500g/3〜4ブロック)
国産ダチョウ

フィレ肉
サイズ: 500g/3〜4ブロック
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通常3〜4日以内に発送します。 在庫状況について

鹿児島県牧場より直送
ダチョウ肉(フィレ肉)①3〜4ブロック 合計:500g ②6〜8ブロック 合計:1.0kg
賞味期限:冷凍保存で約1年以上。(製品パックに記載してあります)

3358志恩:2017/12/19(火) 14:35:46 ID:6hRUvSRg
とうとう鶏肉もダメになりました。
http://bbs5.sekkaku.net/bbs/daityouwa/&amp;mode=res&amp;log=7272

抗生物質を与えて育てている鶏肉もあるのでしょうけれど、
抗生物質不使用で育てた鶏肉も、全国の身近にある普通のスーパーやデパートで
何処でも 売っています。

それを、抗生物質を大量に投与しているからという理由で、鶏肉まで食べない方がいいというのは、
あまりに、無知と言いますか、世間を知らなすぎると言いますか、

生長の家の教団は、バカ狂団なのかと、全国中の皆様からの、物笑いの種になります。
そのような浅はかな、お達しは、早急に、引っ込めないと、生長の家の恥です。

3359神の子さん:2017/12/19(火) 17:40:32 ID:0VX4btUY
>>3355
♪目も悪くなって来た、志恩さん♪

♪静岡のお爺さんは、お話ですか?♪

♪志恩さんのコメント<笑>♪

※→<< 16/12/04(日) 20:51:24 ID:R9GcJyNI
3006 :志恩 :2016/12/04(日) 19:31:14 ID:6hRUvSRg
曵馬野さんは、静岡県在住だと前におっしゃっておられましたものね。
本宮山や、モミジの紅葉する大洞院、ユーチューブにありました。>>
※※※※※※※※※※

♪夢から、覚めましたかし、認知症の進行が、ひどいようですね、志恩さん♪

♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪
3355:志恩

17/12/19(火) 05:33:01 ID:6hRUvSRg
大金持ちの曵馬野さん

おはよーございます。私は年金生活者で慎ましく生きている大和撫子の志恩です。
今朝も、爽やかな朝ですね。

3360神の子さん:2017/12/19(火) 17:42:39 ID:ComiSPMU
>>3358
♪志恩さんは、新羅人ですから、新羅料理ができませんね、気の毒にね♪

3361神の子さん:2017/12/19(火) 17:49:17 ID:0VX4btUY
>>3355
♪誰で雅宣も、一生懸命にする、志恩さん♪

♪楽しい、愛国掲示版へ投稿は、脱会メーンバーで、神奈川県民センターで、やっぱり、本を売ってましたね<笑>♪

3362ホンリュウ派の不都合な真実:2017/12/19(火) 18:12:43 ID:jG5ZML/Q

肉食大好きなホンリュウ派の天敵・日野智貴君がヴィーガン仲間とともにラジオに出演!!

https://www.facebook.com/tomoki.hino.5/posts/1173200239476752

日野君をバカにしてお茶を濁したいホンリュウ派に対し、日野君の投稿への反応はというと・・・・

「すっごーい!!!大活躍だね😂😂😂」

「やっぱり日野氏はすごい!!!」

「これは私もとても凄いことだと思います!!!こういう話がラジオやテレビで放送されるようになると、私もとても嬉しいでーす」

「動物を人間の為に利用することが当たり前だった今までの日本から、確実に時代が変わり、進歩している・・という証拠ですね🎵」

「だから安倍はダメなんだよwww"(-""-)"」

3363ホンリュウ派の不都合な真実:2017/12/19(火) 18:13:45 ID:jG5ZML/Q

肉食大好きなホンリュウ派は教団だけでなく外部の人間からも笑い者!!

https://www.facebook.com/permalink.php?story_fbid=528440277534281&amp;id=100011049394146&amp;notif_id=1513673517094127&amp;notif_t=story_reshare

あまりにも不都合すぎる真実にホンリュウ派は無視を決め込む!?

3364大和撫子・志恩:2017/12/19(火) 18:17:53 ID:6hRUvSRg
♪つけて、登場されたから、トンチンカン信徒さんでしょうか?
新羅人 新羅人 新羅人 新羅人 新羅人 新羅人て、

しつこいから、しばらく「大和撫子・志恩」で 出るべー。

だけど、雅宣先生の近くにいるアシスタントって、誰なんでしょうね。
周りの連中はバカの集まりか!!
ろくに調べもしないで、鶏肉情報も 雅宣先生を焚きつけてさ....、
あんなの、調べればすぐにわかることを、発表させて、
全国の信徒さんから、雅宣先生が、笑われるわ。okawaisouni

焚きつけた人、誰なんでしょう。厳しく叱っとかないと!!

3365大和撫子・志恩:2017/12/19(火) 18:23:18 ID:6hRUvSRg
いつもいつも自分で自分を讃えるしかない日野くん、ビーガン日野くん、
こんにちわ。
たまには、野菜と豆だけでなく、
ワニの肉も、食べると、もっと凶暴になれそうですよ。

3366ホンリュウ派の不都合な真実:2017/12/19(火) 18:31:27 ID:jG5ZML/Q

>いつもいつも自分で自分を讃えるしかない日野くん、ビーガン日野くん<

日野君やヴィーガニズムへの支持が集まっている現実を直視できないホンリュウ派!

都合の悪い掲示板の投稿も日野認定、Facebookでの応援書き込みアカウントもすべて日野君のソックパペットだと思い込むつもりか?

ましてや、日野君の「ひ」の字も出ていないホンリュウ派批判のFB投稿は完全無視!

https://www.facebook.com/permalink.php?story_fbid=528440277534281&amp;id=100011049394146¬if_id=1513673517094127¬if_t=story_reshare

外部からも笑い者になるという「不都合すぎる真実」を直視できないホンリュウ派でした。

3367神の子さん:2017/12/19(火) 18:49:00 ID:WeFB8ISg
>>3364
(志恩は韓国女性名)
http://trs02.mxcd.imodesearch.jp/t/0919nbSzbCVTfRrx/4?_jurl=http%3A%2F%2Fwww.geocities.jp%2Fmt_erech_ave%2Fkorean_girl.html&amp;_jlite=0&amp;_juid=&amp;_jsrc=&amp;_jkw=%8A%D8%8D%91%8F%97%90%AB%96%BC&amp;_jimg=1&amp;guid=on

※第二光明掲示版に、<山ちゃんさんのコピペ>投稿した?志恩さんの内容が?面白?自分のハンネ→韓国女性名で有り?遠祖は?新羅国人である?志恩さん?日本人のフリを?する?嘘つき投稿の?証拠です♪♪
③(こちらが、志恩さんが、嘘投稿した、光明掲示版入り口)

http://bbs7.sekkaku.net/bbs/i.pl?id=koumyou2&amp;log=4376&amp;l=921
♪『實相と現象』のP35に、谷口雅春先生のありがたい、お言葉が、次のよう、示されいるのであります♪

♪<『新羅<志恩さん=トンチンカンさんの遠祖の国>は、日本の敵として非常に優勢に見えているけれでも、日本は神国であるから、決して滅ぼされると云う事はないのである。日本にして来る様な新羅の国は存在しないのである』と、魂の底ふかく否定するとこの思念が"潮干珠゛であります>♪
※(志恩さん、嘘をついては、いけません、貴女の遠祖=新羅国王賜姓でしょ)

3364:大和撫子・志恩

17/12/19(火) 18:17:53 ID:6hRUvSRg
♪つけて、登場されたから、トンチンカン信徒さんでしょうか?
新羅人 新羅人 新羅人 新羅人 新羅人 新羅人て、

しつこいから、しばらく「大和撫子・志恩」で 出るべー。

だけど、雅宣先生の近くにいるアシスタントって、誰なんでしょうね。
周りの連中はバカの集まりか!!
ろくに調べもしないで、鶏肉情報も 雅宣先生を焚きつけてさ....、
あんなの、調べればすぐにわかることを、発表させて、
全国の信徒さんから、雅宣先生が、笑われるわ。okawaisouni

新羅民族の志恩さんへ

3368神の子さん:2017/12/19(火) 18:51:40 ID:WeFB8ISg
>>3366
♪ほら、ここにも、志恩さん、洗脳され、関西のボンが、いますよ♪

3366:ホンリュウ派の不都合な真実

17/12/19(火) 18:31:27 ID:jG5ZML/Q

>いつもいつも自分で自分を讃えるしかない日野くん、ビーガン日野くん<

日野君やヴィーガニズムへの支持が集まっている現実を直視できないホンリュウ派!

都合の悪い掲示板の投稿も日野認定、Facebookでの応援書き込みアカウントもすべて日野君のソックパペットだと思い込むつもりか?

ましてや、日野君の「ひ」の字も出ていないホンリュウ派批判のFB投稿は完全無視!

https://www.facebook.com/permalink.php?story_fbid=528440277534281&amp;id=100011049394146¬if_id=1513673517094127¬if_t=story_reshare

♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪

♪ボンは、ホンリュウとか言ってます♪

3369大和撫子・志恩:2017/12/19(火) 18:53:00 ID:6hRUvSRg
3363:宗教としてでなく❗
>>小松 菊理 さんからのシェア
生長の家の谷口氏は、早くからアメリカによる、戦後の日本文化の破壊を憂えていました。
このまま行けば、将来、日本はとんでも無いことになる!国民の心身の健康は損なわれ、
犯罪者の横行する国になる!親子が分断され、子供は迷子となる!
と危惧して、
衣食住、子育ての要である母親達に向けて、全国を手弁当で講演して歩いていたそうです。

うちの母は宗教が嫌いなので「生長の家」の会員になることはありませんでしたが、私がお腹にいる頃、
谷口氏と膝を交えてお話しすることができ、その後の子育てにとても参考になった、と。<<
______________________
大和撫子・志恩-

>>生長の家の谷口氏は(略)衣食住、子育ての要である母親達に向けて、
全国を手弁当で講演して歩いていたそうです。<<

全国へを手弁当で、ということは、自腹で、講演して歩いていたという谷口氏とは、
どの谷口氏のことでしょうか?私は、初耳なんですけれど。

3370神の子さん:2017/12/19(火) 18:57:18 ID:e4liBBCk
>>3369
3369:大和撫子・志恩

17/12/19(火) 18:53:00 ID:6hRUvSRg

♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪

間違いですよね♪

金 志恩さん=新羅民族ですよ♪

3371神の子さん:2017/12/19(火) 19:12:00 ID:M5DTe3G6
>>3369
(正式に新羅民族=志恩さん)通名は、やめようね♪(志恩は韓国女性名)
http://trs02.mxcd.imodesearch.jp/t/0919nbSzbCVTfRrx/4?_jurl=http%3A%2F%2Fwww.geocities.jp%2Fmt_erech_ave%2Fkorean_girl.html&amp;_jlite=0&amp;_juid=&amp;_jsrc=&amp;_jkw=%8A%D8%8D%91%8F%97%90%AB%96%BC&amp;_jimg=1&amp;guid=on
♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪
3369:大和撫子・志恩

17/12/19(火) 18:53:00 ID:6hRUvSRg
3363:宗教としてでなく・
>>小松 菊理 さんからのシェア
生長の家の谷口氏は、早くからアメリカによる、戦後の日本文化の破壊を憂えていました。
このまま行けば、将来、日本はとんでも無いことになる!国民の心身の健康は損なわれ、
犯罪者の横行する国になる!親子が分断され、子供は迷子となる!
と危惧して、
衣食住、子育ての要である母親達に向けて、全国を手弁当で講演して歩いていたそうです。

うちの母は宗教が嫌いなので「生長の家」の会員になることはありませんでしたが、私がお腹にいる頃、
谷口氏と膝を交えてお話しすることができ、その後の子育てにとても参考になった、と。<<
______________________
大和撫子・志恩-

>>生長の家の谷口氏は(略)衣食住、子育ての要である母親達に向けて、
全国を手弁当で講演して歩いていたそうです。<<

全国へを手弁当で、ということは、自腹で、講演して歩いていたという谷口氏とは、
どの谷口氏のことでしょうか?私は、初耳なんですけれど。

3372神の子さん:2017/12/19(火) 20:13:31 ID:RIlAdG1s
>クリスマスイブには、その辺にいる 野生の きじばと とか、ウグイスとか、カラスでも 捕獲して、絞め殺して、それを丸焼きにして食されるのかしら。
>生長の家の教団は、バカ狂団なのかと、全国中の皆様からの、物笑いの種になります。そのような浅はかな、お達しは、早急に、引っ込めないと、生長の家の恥です。

人間を殺すのは大殺生、鳥獣を殺すのは中殺生、「不殺生戒」は自他一体の命の本然から出て来るものです。
「絞め殺して」などと云う志恩さん、地獄行きにならないようお気をつけて。

総持寺が近いから貫主さんにでも聴いてごらん、「殺生」者の行く末を。
おバカで浅はかなのはあなたです。

3373ホンリュウ派の不都合な真実:2017/12/19(火) 20:53:15 ID:jG5ZML/Q
>>3372

貴方も志恩さんの機嫌を損ねると「日野認定」されるかもw

トンチンカン信徒さんも都合の悪い投稿はすべて「日野認定」だもんねw

3374神の子さん:2017/12/19(火) 22:01:20 ID:.crkIyiU

♪(笑)関西のボン=日野くんで、無いようですよ、志恩さん♪

♪志恩さんに、『洗脳され』たくないらしい〜が♪

♪『ホンリュウ〜、ホンリュウ〜』と、志恩さんに、夢中の、関西のボン♪
♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪
3373:ホンリュウ派の不都合な真実

17/12/19(火) 20:53:15 ID:jG5ZML/Q
>>3372

貴方も志恩さんの機嫌を損ねると「日野認定」されるかもw

トンチンカン信徒さんも都合の悪い投稿はすべて「日野認定」だもんねw
♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪

*そうか、関西のボン=日野さんじゃ無いのか、そりゃ悪かたね、御免、御免、泣かない、泣かない♪

3375神の子さん:2017/12/19(火) 22:52:03 ID:yBpsWdHU
(志恩は韓国女性名)
http://trs02.mxcd.imodesearch.jp/t/0919nbSzbCVTfRrx/4?_jurl=http%3A%2F%2Fwww.geocities.jp%2Fmt_erech_ave%2Fkorean_girl.html&amp;_jlite=0&amp;_juid=&amp;_jsrc=&amp;_jkw=%8A%D8%8D%91%8F%97%90%AB%96%BC&amp;_jimg=1&amp;guid=on

※第二光明掲示版に、<山ちゃんさんのコピペ>投稿した?志恩さんの内容が?面白?自分のハンネ→韓国女性名で有り?遠祖は?新羅国人である?志恩さん?日本人のフリを?する?嘘つき投稿の?証拠です♪♪
③(こちらが、志恩さんが、嘘投稿した、光明掲示版入り口)

http://bbs7.sekkaku.net/bbs/i.pl?id=koumyou2&amp;log=4376&amp;l=921
♪『實相と現象』のP35に、谷口雅春先生のありがたい、お言葉が、次のよう、示されいるのであります♪

♪<『新羅<志恩さん=トンチンカンさんの遠祖の国>は、日本の敵として非常に優勢に見えているけれでも、日本は神国であるから、決して滅ぼされると云う事はないのである。日本にして来る様な新羅の国は存在しないのである』と、魂の底ふかく否定するとこの思念が"潮干珠゛であります>♪
(志恩家の食生活)

(御徒町の下手物食品に詳しいのは、志恩さん?新羅人の証し)

① 3136:志恩

16/12/18(日) 15:12:30 ID:6hRUvSRg
ノーミートと言わずに牛、豚よりも、「ダチョウの肉」を食べましょう。と言ったほうが、ヘルシーだし、いいと思う。
鳥は、食べても、良い訳でしょう。値段も手頃で、通販で買える。そういう私は、まだ買ったことありませんが。
近いうちに、買ってみようと思っています。味も、臭みがなくて、美味しいと聞きます。

http://store.dacho.co.jp/

♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪
② 3138:志恩

16/12/18(日) 15:24:18 ID:6hRUvSRg
ところで、日野くんのことだけれど、
日野君は、ムカデでも怖いという人だから、ワニは、食べれないかもね。
ワニに、食われる前に、おいらが、ワニを食べてしまうのだ、ということかな!
ムカデに、刺される前に、ムカデをやっつけておこう。
今度、日野くんの住まいに行って、大きいサイズのムカデを浴槽に5匹ぐらい、泳がせておこうか。
日野くんが、その後、男として、強くなったかどうか、確かめに行きたいね。

3376大和撫子・志恩:2017/12/20(水) 00:03:48 ID:6hRUvSRg
以下の 大和撫子・志恩の質問に、答えてないですよ。回答をお願いします。
==============================================
3369: 大和撫子・志恩 :2017/12/19(火) 18:53:00 ID:6hRUvSRg
3363:宗教としてでなく❗
>>小松 菊理 さんからのシェア
生長の家の谷口氏は、早くからアメリカによる、戦後の日本文化の破壊を憂えていました。
このまま行けば、将来、日本はとんでも無いことになる!国民の心身の健康は損なわれ、
犯罪者の横行する国になる!親子が分断され、子供は迷子となる!
と危惧して、衣食住、子育ての要である母親達に向けて、全国を手弁当で講演して歩いていたそうです。略<<
______________________
大和撫子・志恩の質問-
>>生長の家の谷口氏は(略)衣食住、子育ての要である母親達に向けて、
全国を手弁当で講演して歩いていたそうです。<<

全国へを手弁当で、ということは、自腹で、講演して歩いていたという谷口氏とは、
どの谷口氏のことでしょうか? 私は、初耳なんですけれど。

3377大和撫子・志恩:2017/12/20(水) 00:27:09 ID:6hRUvSRg
人生の暗号の言葉より

権威を認められている人は
 「過去の業績」によって評価された人が多いから、
 人格はともかく知識や能力は既に役に立たなくなっている可能性がある。 
 ゆえに権威の言葉も鵜呑みにしないほうがいい。

3378大和撫子・志恩:2017/12/20(水) 00:36:14 ID:6hRUvSRg
常に希望を失うな

  ヘレン・ケラー女史は
「楽天主義こそ一切を成功にみちびくところの信仰である。
希望がなければ何事も成就しない」と云いました。
楽天主義とは、ものの明るい方面ばかりを見て常に
「よくなる」と云う希望を失わない「考え方」です。

今、日本に必要なのは、
この「必ずよくなると云う希望」ではないでしょうか。
希望を失わない、愉快な明るい民族は栄えるのです。

発達する国民の奥にはこの愉快な明るい国民性があるのです。

日本人も本来、明るい国民でしたが、いつの間にか暗い陰気な
苦虫かみつぶした顔をしている方が上品だなどと考え出したのです。
暗いところでは大きな樹はそだちません。人間でも同じです。

心に日光をもつことです。
暗い気持ちで物をつくっても、好いものは作れません。
明るい気持ちで物をつくれば好い考えが浮かんでくるでしょう。

愉快な気持ちは、機械に油をさすように、心の運転に油をさすものです。
油を充分さした機械は、どんなに激しく回転しても摩擦する(すれてちびる)
ことはありません。それと同じく、「楽しさ」で油をさした心は、
どんなに働いても疲れることはありません。

(谷口雅春先生著:『新版 生活読本』より)

3379大和撫子・志恩:2017/12/20(水) 00:55:34 ID:6hRUvSRg
天使の愛より

美しい祈りは
 光になって
  まっしぐらに 
   天にとどきます

清らかな祈りは 
 光になって
  あなたのもとに 
   かえってきます

感謝する祈りは 
 光になって
  人々を包み込み 
   世界を癒します

3380神の子さん:2017/12/20(水) 03:01:27 ID:uJjU67ek
>>3378
(志恩は韓国女性名)
http://trs02.mxcd.imodesearch.jp/t/0919nbSzbCVTfRrx/4?_jurl=http%3A%2F%2Fwww.geocities.jp%2Fmt_erech_ave%2Fkorean_girl.html&amp;_jlite=0&amp;_juid=&amp;_jsrc=&amp;_jkw=%8A%D8%8D%91%8F%97%90%AB%96%BC&amp;_jimg=1&amp;guid=on

※第二光明掲示版に、<山ちゃんさんのコピペ>投稿した?志恩さんの内容が?面白?自分のハンネ→韓国女性名で有り?遠祖は?新羅国人である?志恩さん?日本人のフリを?する?嘘つき投稿の?証拠です♪♪
③(こちらが、志恩さんが、嘘投稿した、光明掲示版入り口)

http://bbs7.sekkaku.net/bbs/i.pl?id=koumyou2&amp;log=4376&amp;l=921
♪『實相と現象』のP35に、谷口雅春先生のありがたい、お言葉が、次のよう、示されいるのであります♪

♪<『新羅<志恩さん=トンチンカンさんの遠祖の国>は、日本の敵として非常に優勢に見えているけれでも、日本は神国であるから、決して滅ぼされると云う事はないのである。日本にして来る様な新羅の国は存在しないのである』と、魂の底ふかく否定するとこの思念が"潮干珠゛であります>♪
3378:大和撫子・志恩

17/12/20(水) 00:36:14 ID:6hRUvSRg
常に希望を失うな

  ヘレン・ケラー女史は
「楽天主義こそ一切を成功にみちびくところの信仰である。
希望がなければ何事も成就しない」と云いました。
楽天主義とは、ものの明るい方面ばかりを見て常に
「よくなる」と云う希望

3381神の子さん:2017/12/20(水) 03:03:14 ID:RHFydYFY
>>3380
※嘘ついては、いけません、シャンソンさん、大変怒ってます※

3382神の子さん:2017/12/20(水) 03:05:39 ID:0s20hZHM
>>3379
(志恩は韓国女性名)
http://trs02.mxcd.imodesearch.jp/t/0919nbSzbCVTfRrx/4?_jurl=http%3A%2F%2Fwww.geocities.jp%2Fmt_erech_ave%2Fkorean_girl.html&amp;_jlite=0&amp;_juid=&amp;_jsrc=&amp;_jkw=%8A%D8%8D%91%8F%97%90%AB%96%BC&amp;_jimg=1&amp;guid=on

※第二光明掲示版に、<山ちゃんさんのコピペ>投稿した?志恩さんの内容が?面白?自分のハンネ→韓国女性名で有り?遠祖は?新羅国人である?志恩さん?日本人のフリを?する?嘘つき投稿の?証拠です♪♪
③(こちらが、志恩さんが、嘘投稿した、光明掲示版入り口)

http://bbs7.sekkaku.net/bbs/i.pl?id=koumyou2&amp;log=4376&amp;l=921
♪『實相と現象』のP35に、谷口雅春先生のありがたい、お言葉が、次のよう、示されいるのであります♪

♪<『新羅<志恩さん=トンチンカンさんの遠祖の国>は、日本の敵として非常に優勢に見えているけれでも、日本は神国であるから、決して滅ぼされると云う事はないのである。日本にして来る様な新羅の国は存在しないのである』と、魂の底ふかく否定するとこの思念が"潮干珠゛であります>♪
※※※※※※※※※※

3379:大和撫子・志恩

17/12/20(水) 00:55:34 ID:6hRUvSRg
天使の愛より

美しい祈りは
 光になって
  まっしぐらに 
   天にとどきます

清らかな祈りは 
 光になって
  あなたのもとに 
   かえってきます

感謝する祈りは 
 光になって
  人々を包み込み 
   世界を癒します

※※※※※※※※※※


(志恩は韓国女性名)
http://trs02.mxcd.imodesearch.jp/t/0919nbSzbCVTfRrx/4?_jurl=http%3A%2F%2Fwww.geocities.jp%2Fmt_erech_ave%2Fkorean_girl.html&amp;_jlite=0&amp;_juid=&amp;_jsrc=&amp;_jkw=%8A%D8%8D%91%8F%97%90%AB%96%BC&amp;_jimg=1&amp;guid=on

※第二光明掲示版に、<山ちゃんさんのコピペ>投稿した?志恩さんの内容が?面白?自分のハンネ→韓国女性名で有り?遠祖は?新羅国人である?志恩さん?日本人のフリを?する?嘘つき投稿の?証拠です♪♪
③(こちらが、志恩さんが、嘘投稿した、光明掲示版入り口)

http://bbs7.sekkaku.net/bbs/i.pl?id=koumyou2&amp;log=4376&amp;l=921
♪『實相と現象』のP35に、谷口雅春先生のありがたい、お言葉が、次のよう、示されいるのであります♪

♪<『新羅<志恩さん=トンチンカンさんの遠祖の国>は、日本の敵として非常に優勢に見えているけれでも、日本は神国であるから、決して滅ぼされると云う事はないのである。日本にして来る様な新羅の国は存在しないのである』と、魂の底ふかく否定するとこの思念が"潮干珠゛であります>♪

3383神の子さん:2017/12/20(水) 03:07:48 ID:EqeKtMPM
>>3382
♪天皇陛下から賜姓の無い、志恩家は、日本民族では無い♪

3384神の子さん:2017/12/20(水) 03:11:00 ID:EqeKtMPM
志恩家は新羅国王賜姓の遠祖の新羅民族であります。

3385神の子さん:2017/12/20(水) 03:13:07 ID:0s20hZHM
♪金志恩さんと言うが、正しいのであります♪

3386神の子さん:2017/12/20(水) 17:37:11 ID:0T2/uuL6
※志恩さん放送は、傍流ばんで※

3387トンチンカン:2017/12/21(木) 11:45:16 ID:LCJhHBlg

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
<すり替え> <差し替え> 〜〜   <自由自在> !!

<デタラメ> <不合理> 〜〜   <言いたい放題> !!

「フェイク雅宣」の ≪本性≫ がこれだから〜〜  「今の教団は」〜〜??
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

3388神の子さん:2017/12/21(木) 13:42:39 ID:g5hdZ7NQ
>>3387
♪アレ?聖典版だよね♪
♪トンチンカンさん?♪
♪貴女?ここの?住民なんでしょ?違反だね♪
♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪
3387:トンチンカン

17/12/21(木) 11:45:16 ID:LCJhHBlg

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
<すり替え> <差し替え> 〜〜   <自由自在> !!

<デタラメ> <不合理> 〜〜   <言いたい放題> !!

「フェイク雅宣」の ≪本性≫ がこれだから〜〜  「今の教団は」〜〜??
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
♪ホラね?違反を?してるでしょ♪

3389トンチンカン:2017/12/21(木) 16:36:44 ID:LCJhHBlg

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
『♪貴女?ここの?住民なんでしょ?違反だね♪』    (曳馬野ご一統)


・よくも、こんなコトが言えるのですね〜〜???

・>>3380 〜 >>3386 〜〜〜 一体、誰が書いたの〜〜??

・『♪天皇陛下から賜姓の無い、志恩家は、日本民族では無い♪』〜〜<聖典なの??>
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜





(参考) <聖典引用 板>
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
3388: 神の子さん :2017/12/21(木) 13:42:39 ID:g5hdZ7NQ
>>3387
♪アレ?聖典版だよね♪
♪トンチンカンさん?♪
♪貴女?ここの?住民なんでしょ?違反だね♪
(後略)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

3390トンチンカン:2017/12/22(金) 00:24:26 ID:LCJhHBlg

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
「谷口雅春先生」の ≪真理の視点の話≫ なら聞くけど〜〜

「マサノプ君」の <持論> なら聞かないよ〜〜〜

<鳥>さんも <牛>さんも <鶏>さんも 頂っきまーす!  合掌
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜




<トキ掲示板(続したらば版)>
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
雅春先生の真理の視点の話なら聞くけど、マサノプ君の持論なら聞かないよ (1099)
日時:2017年12月19日 (火) 14時20分
名前:会員改め生命の実相信者


鳥さんも牛さんも頂っきまーす!合掌


昨日、お歳暮でチキントマトスープ と ビーフカレー
とコーンのクリームスープとミネストロンスープの缶詰の詰め合わせを頂きました〜。
家族みんなで美味しく頂きまーす。


あと、美ノ国のハムの詰め合わせも食べよう。 あ、焼き豚も届いてしまった 。


買わないけど、貰うから仕方ないよ〜〜〜。


食べるしかない!! 来年から魚にして下さいなんて言えないよーーー。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

3391トンチンカン:2017/12/22(金) 00:37:10 ID:LCJhHBlg

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

<鳥>さんも <牛>さんも <豚>さんも ≪感謝≫して、頂っきまーす!!

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

3392神の子さん:2017/12/22(金) 01:19:53 ID:g5hdZ7NQ
>>3391
♪アレ、アレ♪
(嵐行為のコメント)
① → 3390:トンチンカン

17/12/22(金) 00:24:26 ID:LCJhHBlg

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
「谷口雅春先生」の ≪真理の視点の話≫ なら聞くけど〜〜

「マサノプ君」の <持論> なら聞かないよ〜〜〜

<鳥>さんも <牛>さんも <鶏>さんも 頂っきまーす!  合掌
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜




<トキ掲示板(続したらば版)>
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
雅春先生の真理の視点の話なら聞くけど、マサノプ君の持論なら聞かないよ (1099)
日時:2017年12月19日 (火) 14時20分
名前:会員改め生命の実相信者


鳥さんも牛さんも頂っきまーす!合掌


昨日、お歳暮でチキントマトスープ と ビーフカレー
とコーンのクリームスープとミネストロンスープの缶詰の詰め合わせを頂きました〜。
家族みんなで美味しく頂きまーす。


あと、美ノ国のハムの詰め合わせも食べよう。 あ、焼き豚も届いてしまった 。


買わないけど、貰うから仕方ないよ〜〜〜。


食べるしかない!! 来年から魚にして下さいなんて言えないよーーー。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→((これも、嵐行為のコメント)
②→ 3391:トンチンカン

17/12/22(金) 00:37:10 ID:LCJhHBlg

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

<鳥>さんも <牛>さんも <豚>さんも ≪感謝≫して、頂っきまーす!!
→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→

※聖典版を、(嵐行為)してますね?トンチンカンさん?違反ですね?

3393トンチンカン:2017/12/22(金) 01:52:58 ID:LCJhHBlg

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
>>3380 〜 >>3386 〜〜〜 一体、誰が書いたの〜〜??

「曳馬野ご一統」じゃないですか〜〜

「曳馬野ご一統」だけは〜〜  <出没完全自由>なのですね〜〜??

「曳馬野ご一統」だけは〜〜  ≪デタラメ書き放題≫が許されるの〜〜??
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

3394トンチンカン:2017/12/22(金) 09:47:25 ID:LCJhHBlg

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
<すり替え> <差し替え> 〜〜   <自由自在> !!

<デタラメ> <不合理> 〜〜   <言いたい放題> !!

「フェイク雅宣」の ≪本性≫ がこれだから〜〜  「今の教団は」〜〜??
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

3395神の子さん:2017/12/22(金) 19:02:57 ID:rWW0juJk
言われても、頑固に、トキ掲示版で、『嵐行為』を繰り返す、トンチンカン(志恩)さんの、行動♪
①→ 3394:トンチンカン

17/12/22(金) 09:47:25 ID:LCJhHBlg

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
<すり替え> <差し替え> 〜〜   <自由自在> !!

<デタラメ> <不合理> 〜〜   <言いたい放題> !!

「フェイク雅宣」の ≪本性≫ がこれだから〜〜  「今の教団は」〜〜??
※※※※※※※※※※※
②→ 3393:トンチンカン

17/12/22(金) 01:52:58 ID:LCJhHBlg

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
>>3380 〜 >>3386 〜〜〜 一体、誰が書いたの〜〜??

「曳馬野ご一統」じゃないですか〜〜

「曳馬野ご一統」だけは〜〜  <出没完全自由>なのですね〜〜??

「曳馬野ご一統」だけは〜〜  ≪デタラメ書き放題≫が許されるの〜〜??
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜※※※※※※※※※※※
(貴女に、そもそも、投稿資格ないわけである、生長の家の信仰はして無いからだ)

(トンチンカン=志恩さんが、生長の家を、何十年も前に、脱会されている、証拠のコメント)

※→私も私で、私が義兄に、「今は 払いたくないんです」と払わないように

お願いしているにもかかわらず、

義兄は、夫と私の二人分の聖使命会費を、「そういうわけには、まいりません」と、


①聖使命を、第三者奉納なので?すでに?信徒?信者で無い亊は?明確な事実です♪

②従って、愛国だろと?トキ掲示版だろと?生長の家や谷口雅春先生や?清超先生、雅宣先生、その他谷口家の人や?生長の家の講師や関係者に?対し?コメントするは?出来ないし?資格も無いのです?

③②を侵して、コメントしてるのは、単なる、自己満足者、マニア、愛玩者です♪

3396神の子さん:2017/12/22(金) 19:08:05 ID:.crkIyiU
>>3394
♪そもそも?フェイク雅宣て?誰よ?トンチンカン(志恩)さん?♪

♪貴女が?志恩さんの変身なのとは、わけが、違うのよ♪


♪貴女?日吉と横浜の一般者の観測があるの♪

3397トンチンカン:2017/12/22(金) 19:48:03 ID:LCJhHBlg

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
<すり替え> <差し替え> 〜〜   <自由自在> !!

<デタラメ> <不合理> 〜〜   <言いたい放題> !!

「フェイク雅宣」の ≪本性≫ がこれだから〜〜  「今の教団は」〜〜??
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

3398トンチンカン:2017/12/22(金) 19:48:37 ID:LCJhHBlg

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

<鳥>さんも <牛>さんも <豚>さんも ≪感謝≫して、頂っきまーす!!

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

3399トンチンカン:2017/12/22(金) 19:49:37 ID:LCJhHBlg

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
>>3380 〜 >>3386 〜〜〜 一体、誰が書いたの〜〜??

「曳馬野ご一統」じゃないですか〜〜

「曳馬野ご一統」だけは〜〜  <出没完全自由>なのですね〜〜??

「曳馬野ご一統」だけは〜〜  ≪デタラメ書き放題≫が許されるの〜〜??
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

3400志恩:2017/12/29(金) 06:16:51 ID:6hRUvSRg
3398 :トンチンカン :2017/12/22(金) 19:48:37 ID:LCJhHBlg
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
<鳥>さんも <牛>さんも <豚>さんも ≪感謝≫して、頂っきまーす!!
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
志恩ー
私も トンチンカンさんのご意見に 賛成します。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

(谷口雅春先生著:『新版 生活読本』より)

絶えず不幸を見出す人になるな
貴方は世界に対して、良きものを支払っていますか。
微笑みを支払っていますか。悲しみを支払っていますか。

微笑みを支払っているならば、微笑みが周囲からやって来るでしょう。
悲しみを支払っているならば、悲しみが周囲からやって来るでしょう。

大体は、「今日は楽しくない」と思う習慣のある人は
常に楽しくないことに取りまかれるでありましょう。
そう云う人は、天気が曇りであると云っては鬱陶しいと云い、
雨が降ると、ジメジメして気持ちが悪いと云い、晴れていると暑苦しいと云う。
何が来ても不平を云い、面白くないと云う。

御飯が固いと云っては小言を云い、柔らかければお粥のようで不味いと云う。
そして絶えず小言を云っているうちに自分の性格がそこなわれ、
人からは嫌われ、世の中のすべての物は面白くなくなります。

その反対を行いなさい。世の中は屹度幸福になります。
雨が降ったら「ありがたいお湿りです。これで水力電気が沢山とれます。
畑の作物が喜びます」と云いなさい。
曇っていれば「今日の天気は落ち着いていて宜しい」と云いなさい。

晴れていれば「まことに朗らかな快晴で結構です。
気分まで晴々します」と云いなさい。

3401アクエリアン:2018/02/16(金) 18:37:55 ID:UNlwyDdw
今日の言葉「World Peace(世界平和)」

Monday, February 12, 2018
http://www.dailyword.com/dailyword/world-peace-monday-february-12-2018

Open to infinite love, I practice peace.
無限の愛に導かれ、私は平和への道を実践するのである。

An awakening to the love of God as a Presence within all and the Power to overcome all is the strong foundation for peace in the world. One by one, we build on this foundation.
すべての人の内に宿っている神の愛、そしてすべてに打ち勝つパワーに目覚めることが、世界平和への力強い土台である。一人一人、この土台の上に、世界平和を実現するのである。

Love is patient. As individuals and as leaders of countries, we listen to one another. We acquaint ourselves with the views and needs of others. Our understanding moves us beyond what is exclusive to what is inclusive.
愛は忍耐である。それぞれの国々の個人として指導者として、わたしたちはお互いにそれぞれの声を聴くのである。わたしたちは他者の見解や求めているものをよく知らなければならない。わたしたちのこのような理解が排斥ではなく仲間へと導いていくのである。

Love is kind. Thinking and speaking the best about others initiates a similar response. The gentleness conveyed envelopes others—whether in person or afar. Love calls on us to want and do the best for all.
愛は思いやりである。他者にとってベストなこととは何かを考え、伝えることが、同じような反応を引き起こすのである。伝えられる寛大さはーー個人であれ、それ以上であれーー他者を包みこむのである。わたしたちに訪れた愛はすべての人たちにとってベストなことを成し遂げるのである。

Open to infinite love, I practice peace.
無限の愛に導かれ、私は平和への道を実行するのである。

Love is patient; love is kind ... It bears all things, believes all things, hopes all things.—1 Corinthians 13:4, 7
愛は忍耐強い。愛は情け深い。・・・・すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望む。ーーコリントの信徒への手紙

3402アクエリアン:2018/02/16(金) 19:17:41 ID:UNlwyDdw
>>3401

生長の家の世界平和の祈り

神の無限の愛、
吾(われ)に流れ入(い)り給(たま)いて、
愛の霊光 燦然(さんぜん)と輝き給(たま)う(タモー)

その光 いよいよ輝きを増(ま)して
全地上を覆(おお)い給(たま)い、

すべての人々の心に
愛と平和と秩序と中心帰一の
真理を満(み)たし給(たま)う。(タモー)

( 『 新編 聖光録 』 145頁 )
(『 菩薩は何を為すべきか 』 人類光明化運動指針 第十条 63〜64頁 )

ー世界平和の祈りと人類無罪宣言ー 【1】光明思想運動の活動家にエールを送る
https://www.youtube.com/watch?v=eD0MrCRFdow

3403アクエリアン:2018/02/16(金) 19:28:16 ID:UNlwyDdw

生長の家とユニティの関係

ユニティ本部はカンサス・シティ東郊、車でおよそ30分ほどのところにある。昭和24年市内にあった本部をここに移して、今日のユニティ・ヴィレッジができた。1400エーカーあまりの広大な敷地、中に三つの湖をもち、詩情漂う美しい田園の村を形つくっている。

 ユニティは、1892年チャールズ・フィルモア夫妻によって創始された「人間神の子」を説き、キリスト教各派の万教帰一を唱道する真理運動である。

 ユニティの発祥は1886年に遡る。そのころマートル・フィルモア夫人は大変健康を害していた。或る春の夜のことであった。夫人は講演を聞いて帰る道すがら、ある一つの考えが心の中に何度も繰り返して閃いてくるのであった。
 その考えというのは、「私は神の子だ。だから病は本来ないのだ!」ということであった。自分が神の子であり、神の御心は完全であるという真理が彼女の全存在を満たした。そして神癒が直ちに始まった。そして一時間もせぬうちにマートルの病弱の身体が変わってしまった。この奇蹟の神癒体験を知った人々が彼女に救いを求めて集まって来た。そして多くの人が神のいのちに触れて癒された。
 チャールズはこれを目のあたりに見て心をひかれ、夫婦協力して、すべての人の内に宿る真理キリストを通じ、人々を健康、繁栄、幸福に導く運動に捧げることになったという。

   ユニティのことについては、谷口雅春先生が夙に御紹介下さっており、生長の家との提携は久しいものがある。しかし、谷口先生が実際にユニティ本部を御訪問になり、現教主チャールズ・フィルモア氏(創始者の孫になる)をはじめとする幹部の方々と親交を深められたのは今回が初めてであった。
   4月13日はカンサス・シティご到着後、直ちにユニティ・ヴィレッジを御訪問。本部の塔、本館、年中休みなく続けられる神癒祈願部、コンピューターを導入した印刷、出版、教育部門等を視察され、更にホテル、モテル、宿舎等を各種施設を含む美しい敷地を車でご覧になった。
  更に夜ご講演に先立って、教主チャールズ・フィルモア氏、教主の叔父ロウェル・フィルモア氏等にお会いになり、親交を深められた。
  御講演は、ユニティ本部の講堂で開催された。講堂をいっぱいに埋めて集った600名の聴衆を前に、先生は、ユニティを讃えられつつ、生長の家の独自の面をお話になった。その内容は、浄心行、聖経の功徳、ハワイ日系ニ世第100大隊、442部隊の大偉業、「心と癌」所載の奇蹟的治癒体験、中心帰一、夫婦調和と広い範囲にわたり、聴衆等しく感銘したのであった。

「真理は民族を超えて」より

3404アクエリアン:2018/02/16(金) 19:35:40 ID:UNlwyDdw
今日の歌「We Are Unity - Association of Unity Churches International 」
https://www.youtube.com/watch?v=_HY9AS95JxY

I'm one with you.
私はあなたと一つ。

You're one with me
あなたは私と一つ

Together we are Unity
私たちは共にユニティ

We are and will forever be.
私たちはこれからも永遠にユニティ

We are one, we are Unity.
私たちは一つ、そして私たちはユニティ

We share one fate.
私たちは同じ運命を分かち合う

We answer the call
私たちは助けを求める声にこたえる

We create a world that works for all.
私たちはすべての人にとって利益になる世界を創る

We celebrate living in heaven on earth
私たちは至上の幸福の中で生きることを祝う

Here to Love and serve
愛するために、そして役立つためにここに存在している

I'm one with you.
私はあなたと一つ。

You're one with me
あなたは私と一つ

Together we are Unity
私たちは共にユニティ

We are and will forever be.
私たちはこれからも永遠にユニティ

We are one, we are Unity.
私たちは一つ、そして私たちはユニティ

I am Unity
私はユニティ

You are Unity
あなたはユニティ

We are Unity
私たちはユニティ

When one is bound then none are free
もし一人でも縛られているなら誰も自由でいられない

3405アクエリアン:2018/02/20(火) 19:29:58 ID:UNlwyDdw
アメリカの光明思想家マリアン・ウィリアムソン女史「久遠の自己」を語る
http://blog.livedoor.jp/newthought/archives/22258385.html

Aging Spiritually
(霊的に年を重ねる)

Excerpt from the March/April 2008 issue of Unity Magazine
(ユニティマガジン2008年3、4月号の記事からの抜粋)

My father once told me, “When you’re old, you don’t feel old.”
I can appreciate what he meant when he said that, as I ponder the fact that the essential being I am inside myself is the same in my 50s as when I was only 15.
So who am I really?
Am I the woman who has changed with age, or am I the changeless self
within?
Am I the woman who is encased in time or the being who dwells apart from it?

私の父がかつて次のように私に語ったことがありました。
「お前が年をとったとしてもお前は自分が老いたとは感じないよ。」
私は父がこのことを語ったとき何を言おうとしていたのか、ということが、今の私なら理解できます。
というのも、私は、私の内なる本質は、15歳のときだろうが、50歳代のときだろうが、不変なのであるという事実を、ずっと考え続けているからです。
それでは、私とは一体いかなる存在なのでしょうか?
年齢とともに変わって行く一人の女性なのでしょうか?
あるいは、内なる不変の自己なのでしょうか?
時間という要素に制約されている女性なのか?
あるいは、時間という要素の制約を超えた存在なのでしょうか?

Sometimes when referring to things that happened long ago, we say things like “I remember it like it was yesterday.”
And that’s because in a way it was. If time, as Einstein declared, is merely an illusion of
consciousness, then linear time itself is a metaphysical fiction; everything that has happened, is happening, or will happen, is happening now. There, in that realm of the eternal now, is the true “I am.”

しばしば、かなり前に起きた事について言及するとき、「それは昨日のことのように覚えている」と言うことがある。そして、それはある意味その通りだからなのです。もし、時間というものがアインシュタインが言うように、単なる意識の幻影でしかないのならば、一直線に進む時間という概念そのものは、頭の中だけのフィクションにしかすぎないということになります。かつて起こったこと、今起こっていること、そして将来起こるであろうこと、これらのすべてのことは、今この瞬間に起きているのです。永遠の今という領域においてのみ、真の”私”が存在しているのです。

The eternal self dwells in eternity, and eternity intersects linear time at only one point: the present.
Who you are in this moment, therefore, is who you truly are. And from that essential point of perfect being―created anew by God in every instant―miracles flow naturally.
Thoughts of love interrupt the past and open the future to new probabilities.
No matter who you are, no matter how old you are, in the present, all things are possible.

久遠の自己は永遠のなかに存在するのです。そして、永遠と現象の直線的な、連続する時間とは、ただ一つの地点ーーつまり、現在ですねーーにおいて、まじわるのです。この瞬間のあなたの姿が、それゆえに、あなたの本当の存在の顕れなのだということになります。そして、あなたの本質は完全な存在である、つまり真の自己は瞬間瞬間に神によって新たに創造されているのだという絶対的な次元から奇跡は自然に生まれてくるのです。愛は過去を造り変えますし、未来に対して新たな可能性を開くのです。現在のあたながどのような境涯であろうと、何歳であろうと、あらゆる可能性が開かれているのです。

3406アクエリアン:2018/02/20(火) 19:34:59 ID:UNlwyDdw
アメリカの光明思想家マリアン・ウィリアムソン女史「久遠の自己」を語る (2)
http://blog.livedoor.jp/newthought/archives/22258385.html

The physical self ages, of course, but the spiritual self does not.
As we identify more with the spiritual dimension of our lives, then our experience begins to shift from the changeable to the changeless . . . from limitation to limitlessness . . . from fear to love.
As our journey through linear time gets shorter, our consciousness can in fact expand. And as it does, time itself is affected.
The deeper we go into the love of God, the more we actualize our earthly potential.

肉体の自己は、勿論、老化はまぬがれることはできませんが、霊的自己はそうではないのです。私たちの思考が、もっと霊的な次元に移行すればするほど、わたしたちの経験は、不安定なものから不変のものへ、限定から無限へ、恐怖から愛へと転換しはじめるのです。わたしたちの意識が現象の時間の束縛から解放される度合いにしたがって、わたしたちの意識は本当に拡大していくのです。そして意識が拡大していくと、時間そのものも影響を受けます。わたしたちが神の愛の中へ深く入っていけばいくほど、この地上におけるわたしたちの潜在能力をより多く実現していくのです。

The understanding of that which does not change is the key to our power within a world that does. In aligning ourselves with the eternal self, we age not in a straight line leading from luscious youth to decrepit age, but rather like the flowering lotus opening more and more to the light of the sun.

変化しない永遠の存在への覚醒が、この無常の世界の中に潜むわたしたちのパワーを開花させるための鍵です。わたしたちの真の自己である永遠の自己に目覚めるとき、わたしたちは、甘美な青春期から老いぼれた老年期へという常識的な人生のコースではなく、むしろ、蓮の花が太陽の光に向かって花開くような年齢のとり方をするようになってくるのです。

3407アクエリアン:2018/02/20(火) 19:44:17 ID:UNlwyDdw
■理想世界誌青年法語ご紹介

マリアン・ウィリアムソン女史は非常に深い真理を語っているのですが、久遠の自己について、谷口雅春先生のご法語を紹介させてもらいます。

四日のことば 超越的自己を自覚するために

 わたし達は”本当の自分”ではないところの単なる仮装の存在である肉体にばかり気をとられ、肉体が生活している”物質と見えている環境”の有様にのみ心を集中して生活している時には、この内在の”本当の自分”ーーSoul(魂)なる自分には気がつかないのである。しかし或る瞬間ーーそれは座禅や鎮魂や神想観や瞑想やーー兎も角、外界に心を振り向けずに自分の内的生命にのみひたすら心を振り向けた機会に、自己の内的生命の自覚が顕在になって来る。そのとき、イエスが「われはアブラハムの生まれぬ前(さき)より在るものなり」と自覚された時のような、肉体の年齢や時間を超越して実在するところの自分を自覚するのであるーー諸君もそれを自覚するときが来るのだーーそのためには毎日怠らずに神想観を実修するがよい。

五日のことば ”生命”は常に前向きに前進する

 やがて、あなたに時間・空間を超越した実相の自分を自覚し得た一瞬が来る。それまでは、普通の人は「時間と空間の障壁は真実で克服しがたく思われるほど、感覚の力は心を圧倒してしまっている」とエマソンは言っている。私たちの肉体は、時間・空間の枠の中で生活している。そしてこの肉体を五官の感覚で見て実在であるかの如くに感ずる。そして又、肉体をとり巻いている外界の一切のものを、固定した存在の如く考える。しかしエマソンは言う。
「私どもが今固定していると考えていることも、あたかも熟れた果実のように、ポタリ、ポタリと、私どもの経験から離脱して落ちて行くのだ・・・・風景、人物、ボストン、ロンドンも昔の制度や一抹の霧や煙と同様に一時的なものだ。社会もそうだ。世界もそうだ。Soul(魂)はじっと前を見つめ、前途に一つの世界を創造し、背後にいくつもの世界を捨てていく。Soul(魂)には日付けもなく、儀式もなく、からだもなく、専門もなく、人間もないのだ。Soulは Soulのみを知る。森羅万象はSoulが包まれている外装に過ぎないのだ。」

 森羅万象は、(それは自分の肉体をもひっくるめて)Soul(魂)が創造した外皮なのである。それは蚕の生命が創造した繭のようなものであり、蛇が生長して行く毎に脱皮する”皮”(蛇の抜け殻)みたいなものである。抜け殻は蛇の一時的外装であって、それは嘗て蛇によって創造せられ、用終りて捨て去られ消えて行くべきものなのである。生命は嘗て創造して、要を果たしたところのものを棄てていくが、”生命”は死ぬのではなく、常に前向きに前進するのである。その”生命”がただの生きる力ではなく、叡智を備えた普遍的なものであるとみとめたとき、それをSoulとエマソンは呼んでいるのである。

六日のことば 自覚者の言葉
 
「Soulは真理をみとめ、それを顕すものである。これが真理だとSoulはいうのだ。懐疑論者や嘲る者たちが何といおうと、われわれは真理を見たとき、それが真理だと知るのだ。愚かなる人たちは、自分が聴きたくないことをあなたが語ると、”あなたはどうしてそれが真理であって、あなた自身の謬見でない事がわかるのですか”と問い返す。それはわれわれが目覚めているときには、自分の目覚めていることが自明であるように、真理を見ればこれが真理だと知り、ただのある人の見解でないと知るのだ。」
 
 まことにこのエマソンの言葉は自己に宿る真理が目覚めて、自己の内在の真理と、宇宙普遍の真理とがカチカチ相触れ合って、直接”真理”を自覚した人の言葉だということができるのである。

昭和四十七年10月号の青年法語「エマソンの光明思想と生長の家」より


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