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聖典引用 板

1550うのはな:2012/11/03(土) 11:36:08 ID:SXwG/Idc

   万教帰一の意味するもの

 私(谷口雅春先生)が昭和四十八年にペルーに行ったとき、そこでの記者会見で、
「この生長の家とは、万教帰一だといいますが、凡ゆる宗教を生長の家の教えで統一してしまって、
その他の宗教を抹殺する意志を有っているのと違いますか」という意味の質問がありました。

 生長の家の万教帰一というのはそういう意味じゃないんです。生長の家では、「この神を“七つの灯台の点灯者”と
呼ぶがよい」という神示がありまして、神みずから灯台に灯をとぼす者だと仰せられているのであります。灯台というのは
世を照らす光のことでありまして、宗教は人々の魂を照らす光の灯台であります。
で“七つ”というのは、七日間で神様が天地の創造を完成されたという神話に基づいて、“全ての渾て”というような意味で、
世のなかの全ての灯台すなわち宗教が、現代はキリストが行なったり釈尊が行なったりしたような奇蹟が現て来ないのは、何故であるかと
いうと、それは、釈尊の教え、キリストの教えは立派であるけれども、それが次から次へと伝えられている間に、だんだんと元の教えから
遠ざかって、自分の考えというものが入ってくる。

 恰度それは灯台の窓に埃が積って、折角灯台は在りながら、その灯台の窓ガラスがほこりで曇って、光が完全に航行する船を照らして導いてやるには
燭光が足らんというようになっている。或は灯台の中の油がもう燃え切っているのもあるかも知れないが......
兎も角、現代の宗教は“末法の宗教”といわれていて世を照らす光が曇って来ているのは事実であります。

 そういう灯台を、われわれ生長の家はそれを潰してしまうんじゃないんです。
すでに在る灯台の窓ガラスを拭いてあげて、そして「こんな曇があるから光が遠くへ届かないんだ」と、その曇りを除ってあげ、
或は灯台の灯火の油がもう無くなって火が消えかかっているのには、油を注いであげて、そして、その灯台を教祖の時代のように
光が明らかに出るようにしてあげる。これが生長の家であるぞよ、という神様のお示しに基づいて、私は自分のことを、いつも教祖と
称わないんです。「私は教租ではない」「教祖は神様である」というのです。

 即ち「われ自らにては何事をも為し得ず」であります。「私は教租でない。ただラッパである」と常にいっているのです。
ラッパというのは、中が空っぽであります。もし中が空っぽではなくて詰っていたらラッパは鳴らないということになるわけでありますから、
私はパイプのように空っぽでばくて詰っていたらラッパは鳴らないということになるわけでありますから、私はパイプのように空っぽで、
私はただ取次いでいるというだけのことなんであります。

 (私はこんな話を、この通りの言葉で言ったんじゃないんですけれども、そういう意味の話をしたのでした)

 すると、次の新聞記者が、「いろいろの宗教が、種々の教説を有っており、異る教義をもっているのが、どうして
それが一つに一致するんですか」といって質問するんです。
 それで私はこんな話をしました。十年前にも私は世界旅行して、世界各国の人類にお目にかかったんだが、皆などの人種の
顔を見ても、横目縦鼻で、目が横について、鼻が縦についている。口はその下に横に開いている。
耳は左右にある。顔の道具一つとってみても、みんな平等である。顔だけじゃないんです。
内臓の形から構造から骨格から人体全部に至るまでその設計が同じである。

 設計が同じであるとすると、これは、その製造元が一つであるということの証拠でなければならない。
そして製造元が一つであれば、その一つの製造元によって造られた人間が救われる真理も、一つの共通的な
真理でなければならない というのが、私の根本的な考え方なんです。だから、もし人間を救い得る宗教と
いうものが本当にあるならば、その宗教の奥には、必ず共通の真理が在って、同じ神に創造られた人間なのだから、
その人間が救われる真理はどの宗教にも一つの共通のものでなければならない筈なんです。

 その共通の“救いの光”を指し示して、点し、その各々の灯台に、輝く光を出させようというのが生長の家であって、
決して他宗排斥ということはいわないのであります。

 『精神科学』四十八年十月号


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