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聖典引用 板

1612うのはな:2012/11/14(水) 14:56:13 ID:PYl4tM0Y
   隣人を愛せよと云う意味

 我々の本当の相(すがた)は自他一體でございます。吾々はみんな兄弟であり、全體に繋がっているのでございます。
併しその繋がっているままでは實生活に都合が悪いから縦横厚みの枠に嵌めて覗いて見ると、個人々々が分れたように見え、無限のものが
有限に見えるから本当でない。本当でないから『迷より生ず』と云うのですが、その個々別々の五官に見える相に囚えられて本物の自他一體の
すがたを見ないで、自分だけの為を計って行動するのが利己主義でございます。

 利己主義が却って自分を苦しめることになるのは個々別々が人間の本当の相でないからでございます。形で見れば分れているように見えましても、
いのちで観れば本当は繋がっていると云う事に目覚めて、自他一體の行にあらわして實践すると云うところに、吾々は幸福感即ち自己拡大の感じを得るのでございます。
今まで自分と云うものは五尺の長さ十数貫の小さいもののように感じられて居ったけれども、それが本当は、大いなるものであると云うことが分るのは、神想観の座禅的修行で
も体得し得ますけれども、一方に自他一体の行を實践しなければ本当に分らないのでございます。
自他一體の行と云えば難しいようでありますが、簡単に云えば他に深切をせよと云うことでございます。

キリストに言わせれば、『汝の如く汝の隣を愛せよ』と云うことでございます。
『汝の如く』でございます。他の人を助けてやると云うような恩に着せて愛するものはないでしょう。
自分自身と一つのものとして兄弟を愛せよ、隣人を愛せよです。

 だから恩に着せるとか、愛の代償を求めるとか云うことはあり得ないのでございます。
『隣人を愛せよ』と云う意味が今迄誤り考えられていたようでございます。
『隣人を愛せよ』とは自分の家人を棄てて置いて隣の人だけを愛せよ、と云うのではないのでした。
 先ず自分の家を愛さなければならないのです。

 隣人と云うと英訳の聖書には(neighbour)と云う字が使ってありますが、是は隣りの人のことではなく
、『近くの人』と云う意味でございます。自分の家の人が一番近くの人なのでございます。
それから次第に及んで隣家の人、同じ村の人、町の人、同じ市の人、同県の人と云う風になりますが、先ず
一番間近かに居る家人と調和しなければ、工場で働いても故障や怪我をし易いですから生産力拡充の道にも副はず
国家を愛することにもならないのでございます。

 キリストは『汝の隣を愛すると云うことが出来ないようなことで、眼には見えない神をどうして愛することが出来るか』
と言って居られますが、私に云わせれば、『自分が本当に深切に愛しなければならない家族と不仲でいるようなことで、もっと
大き過ぎる国家を本当に愛し得ようか』と云いたいところでございます。


 『運命の原理』谷口雅春 先生著P127  (投稿者 現代かな遣いに変更)


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