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聖典引用 板

2875a hope:2014/05/29(木) 10:26:02 ID:cEpBaIdo
「生命の實相」第13巻 p109

第三の神性隠蔽としての罪の弁解

神と一体であるところの自己の実相を知らないことは第一の神性隠蔽であり、他と一体であるところの自己の実相を知らないことは第二の神性隠蔽となるのでありますが、これらの神性隠蔽を弁解してごまかしてしまう心は第三の神性隠蔽を生ずるのであります。

罪があればそれを隠して放さずにおくようなことをしないであからさまにして放置すれば、(知られまいとして「念」の力で繋ぎとめておかなければ)神性は「実」であり神性隠蔽は「虚」でありますから、自然に隠蔽は消え神性は顕れて出るのでありますが、なんとかいって神性隠蔽を(罪)でないと言いくるめようとするならば、弁解は隠蔽を生み、隠蔽は弁解を呼び、ツミ相(あい)相続して、実相の神我はますます深く隠蔽されてしまうのであります。

これに反して隠蔽(つみ)を罪と正直にみとめてそれを懺悔してしまい、謝罪(あやま)りきってしまいますと、それはちょうど夏の夕立が過剰の空中水分を泄瀉(せっしゃ)してしまいますように、あとにはすがすがしい神の子たる己(おの)が実相があらわれるようになるのであります。

罪の弁解は良心の麻痺を伴います。良心とは罪を犯しているところの肉我(にくが)の叫びではなく、自己に宿っているところの神(すなわち真我)の叫びなのであります。

だから、自己の罪の弁解は必然「真我」をくらますことになるのであります。

真我をくらませばますます真我の浮かぶ瀬がなくなるのであります。

だから、自己の罪を弁解して言葉で言いくるめましても、その勝つものは「偽りのわれ」のみでありまして、真我はますます覆いかくされ、内なる敗北はとうていそれをくらますことはできないのであります。

しかし、真我は敗北したのではない、内なる敗北は依然として「ニセ物のわれ」のみであります。

どんなにか罪を弁解しても、どんなにか罪を隠蔽してみても、心の奥底には蔽(おお)えば蔽うほど隠せばかくすほど、圧力を与えれば与えるほどハネかえる圧搾空気のように、良心の叫びというものは力強くなり、それをさらに潜在意識の底の方へ推し込んで忘れてしまえば、それはさらに肉体の病気というような別の姿で表面にあらわれてくるのであります。


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