したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | |

聖典引用 板

1646うのはな:2012/11/20(火) 19:22:37 ID:08rsSsiE
心の窓を開く

 谷口雅春先生の「天使の声」という詩に、次のような行がある。

  或る日、私は心の窓を開いて、
  大生命のみ空から光線のように降り濺ぐ生命の讃歌に耳を傾けた。

 心の窓を開く、とはどんなことだろうか。よく、「目のうろこが落ちる」という表現が、
さとりの時の経験を述べる宗教家の言葉のなかにあるが、「心の窓を開く」というのもそう容易い
ことではないようである。自分の心の窓が閉じているか、開いているかは、見た世界がどんなふうなのかに
よってわかる。

 つまり、いままで知らなかったような、すばらしい実相世界があらわれるとき、それは、自分自身の実相の
自分になるわけである。見られる世界と見る人間とはもともとひとつなのだから、私たちが、現象の自分のなかに閉じこもって
いれば、見られる世界も現象もということになる。

 そして、実相とか現象とかいう区別も、もともと深い宗教体験によってはじめて実感として自分のものになるわけである。
実相を観ずることは、五官の世界を去って、はじめてできるが、五官の世界を去るとは、目を閉じなければならないとは限らない。
キリスト教神秘思想家のうちには、目を開いていて、そのまま世界が荘厳な神の国に変貌するのを体験した人たちもすくなくない。

 もっとも、実相を観ずることは、神秘といえば神秘だが、逆に、もっとも現実的なものが実相であるから、それは却って、神秘という
「彼方」のものであるより、「いま、此処」という確実で現実的なものであるとも言える。
よく、「実相はすばらしいが、現実はちがう」というように、実相というものを、ただ理想の彼方にある現実の否定概念として考える人がいる。
しかし、実相=実在ということばは、「ほんとうに在るもの」という意味であるから、それは、もともとリアル(現実的)なものなのである。

 私たちの目の前にある樹木や、草原や、鳥や、人々というものが誰の目にも同じように物として私たちと無関係にあるのではない。
私たちが、ふつう、物がある、と見たり、思ったりするときは、そうしたものは、私たちが見ても、見なくても同じようにあるように思われがちである。
しかし、ほんとうは物は、私たちに示す、隠れたものの顔のようなものである。

 樹や花や山なども、私たちの向きあい方に従って、素早く表情を変える。だから、一本の樹を見るときも、私たちの心の姿勢が曇っていたり、ゆがんでいたりしては、
樹は、ほんとうの姿を見せてはくれない。同じことは、じぶんの子どもたちでもそうである。
自分が子供たちに対するいろいろな要求に泡立っていれば、子どもたちもそれにふさわしい姿で現われる。
生長の家では、それを仏教の「三界は唯心の所現」という言葉で明らかにしている。

 谷口雅春先生が、前掲の詩を歌われたのは神啓を受けられたときであった。
そして、その詩のあとに、先生は次のように書いておられる。
 ≪わたしはついに神を見出し、本当の自分を見出したのであった。三界は唯心の所現である、その心をも、また現ずるところの
現象をも、一切空無と截ち切って、その空無を縦に貫く久遠不滅の大生命が自分であった。それ以来、私の見る景色が変貌した。......≫
(『生命の實相』頭注版第20巻一三八頁)これは窮極の体験とも言える稀有の瞬間であるが、私たちも、心の窓を開くことによって
現象否定の極から実相の開花を体験できることになる。

 ひとつの花が開くというのも、これは、永い修練を通して到り得る境であるが、同時に、素直な、明るい、予断のない、無我と感謝の、そのままの
いのちが、自分のうちに開くとき、花の美しいいのちの開花をじかに感じ得るのである。
 現実とは、じっさい、途方もない世界なのである。美しく、荘厳で、清らかな、言葉を超えた世界の秩序である。
それを描こうとして本当の画家は、カンバスをひろげる。しかし、そのためには彼は、何らかの意味でその世界をすでに体験していなければならない。
そして同時に、それはこれから開かれるものを持つ、ことになる。

 子供の実相を観ずるとは、だから、親の側で、心の窓を開くことなのである。
素直になることである。拝むことである。それは情の問題であるとともに、正しい認識である。
もっとも現実的なものに出会うことなのである。

  『光の国から』 渋谷晴雄 先生著


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板