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聖典引用 板

1220SAKURA:2012/09/02(日) 23:34:00 ID:jH5uEFzM

トキ様 へ
観覧者の皆様 へ

こんばんは……ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1214続き投稿です…。

■ どんな教えが生長の家か
――――目を開けば世界は光に満ちている ――――  藤原先生著

宗教とは、このように物事を当り前に観、正しく観ることが出来る人間に育てることなのでありま
す。
一般の人は、宗教といえば、何か特別のことをして、どうにもなりそうもない難問題や、医学や、
常識ではとうてい解決も治癒も出来そうもない事件を信心とか修行とかによって、特定の限られた人
達だけに用のあるもので、普通の人には難かしいものであるかのように早飲みこみして頭から敬遠し
ておられる人もあるようですが、正しい意味の宗教というものは、決してそのようなものではないの
であります。
 
本来明るいものを、わざわざ目を閉じて、暗い暗いといっていたのが、目をあけたとたんに、いっ
ぺんに明るくなるのと同じですから、別におどろくようなことではないのです。ただ長い間、目を閉
じていて暗いのが当たり前だと思いこんでいるのが突然明るくなるので、ちょっとビックリするだけの
ことであります。このビックリするのを懺悔というのです。大いにビックリするのを大懺悔というの
です。信仰とは、常に懺悔し、驚き続ける生活をいうのです。
 
お釈迦様が悟りをお開きになったとき、 「天地六種に震動す」とありますから、この天地が六つに
も割れて、大きな音をたてて砕け散ったという意味であります。
 これは物質の否定であり、現象の否定であったと思うのであります。
 肉眼だけで物を見るところの唯物論の立場からだけこの世界を見ていたのが、自己の霊的自覚を得
て、生命を見る眼が開けることによって、見えている物質がないとわかり、今まで考えたことも、思
ったこともなかった目に見えないもの(神、仏、生長の家では生命の実相という)がハッキリと観られる
ようになり、見えるもの (物質) と見えないもの (霊、生命) とが入れ変わることになるのでありま
す。すなわち、生長の家の教義の基本であるところの「唯神実相論」としての世界の観方に完全に変
ってしまうのであります。
 
世間一般にいうものの考え方は、大きくわけてふた通りに分類されております。
 
一つは科学の立場からだけものを考える唯物論と、哲学の立場からものを考える唯心論とでありま
すが、唯物論は五官という感覚器官、目、耳、鼻、口、皮膚の五つの器官を通してだけ物を観察する
考え方であり、 唯心論とは、 物と物と感じられるのは感ずるという心があるからで、心というものが
なければ、何があってもあると感ずることは出来ない、すべては心によるものであるとする考え方を  
いうのであります。このように一般常識ではその二つしかないのでありますが、 「生長の家」の思想
でいえば、そのどちらもが相対的なものの考え方であって、絶対的なものの考え方ではなく、相対的
にはどちらも正しく、 またどちらも間違っているということになり、 真理 (絶対の法則) ではなく、
そのような曖昧なものの考え方では確信なある答え(結論)が得られないのは当然であります。

                                   <つづく>


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