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聖典引用 板

447復興G:2012/04/18(水) 10:53:10 ID:ojEbkDH2

<つづき>
谷口雅春先生著『神ひとに語り給う』
  (神示講義 教の巻)より
「新天新地の神示」ご講義 謹写<4>

 『万葉集の謎』といふ本が出てゐる。そしてベスト・セラーになつてゐるのでありますが、言語の類似から研究して、日本人は、今ヒマラヤの奥地に残つてゐるレプチャ民族といふ未開民族の子孫であると言つてゐるのでありますけれども、ああいふ言葉の類似といふものは、到る処にあるのでありまして、必らずしも万葉集の言葉とレプチャ民族の言葉だけではないのであります。
 大体言葉といふものは宇宙に充ち満ちてゐて、それが事物の相に応じて自然発生するものであります。聖書にある「太初(はじめ)にコトバあり。コトバは神なりき」のあの言葉のヒビキが事物となつて現れてゐる。それを表現するのに人間は自然に発生する言語をもつてするのであります。
 言(こと)は事(こと)であつてすべてのものは事であり言である。言事不二(ごんじふじ)であります。英語でも神様のことをゴドと言ふ。『万葉集の謎』にはもつと似てゐない言語を類似してゐると指摘して、レプチャ語は万葉集時代の日本語だと結論を下してゐるのでありますが、この程度の類似を持つて来て、同語源だといふ証明をしようと思へば、レプチャ語をもつて来なくても、イギリス語でも日本語と語源は同じだと言ふこともできるのであります。
 英語の単語と日本語の単語の類似は『生長の家』誌二月號(昭和31年)の明窓浄机に書いて置きましたけれども、これはレプチャ語や英語だけの問題ではなく、「世界の言語は悉く一つであつた」といふことが旧約聖書に書かれてをります。言語は事物の内的意義や状態を表現するために自然に発したものでありますから、共通の発音に共通の意義をもつてゐたのであります。
 ところがバベルの塔といふのを人類がこしらへて、それを高く築いて、つひには天までとどかせるのだといつて、高く高く塔を築いて行つたのであります。さうしたら神様は怒りたまうて、人間の我の能力(ちから)によつてはどうしても神に到達することは出来ないといふことの象徴として、そのバベルの塔を壊して、民族を諸方へ散らしたまうた。そして其の時までは言葉も一つであつたと旧約聖書には書かれてゐるのであります。

 世界は最初一民族・一言語であつたのが、神によつて四散せしめられて、それが十二の民族となつて岐(わか)れたのであります。十二と言つても、十、十一、十二、十三といふ実数ではないのであります。七つと言ひ、十二と言ひ、すべて一周期の完成を指すのであります。七つは既に申しましたが、十二は十二ケ月とか一ダースとか十二インチが一フィートとかいふ風に一つの数が完成して上位にうつる節であります。だから「十二の支流(わかれ)」といふのはすべての分派した人種といふ意味であります。

 大体事物の発展といふものは、三と五と七との倍数が節になつて発展することになつてゐます。それで七・五・三を人間生育の節としてお祝ひするのであります。何でも人間が厄年としてお祝ひをするといふときは一つの節になつてゐるときであります。周期の代り目を厄年として祝ふのであります。十二といふのは五と七の和でありまして、一年を十二ケ月といふやうにしたり、一フィートが十二インチであるとかいふ風にして一段落を示すのであります。
 わたしたちの厄年も、七・五・三の倍数になつてゐるのであります。女の人は三十九歳が大厄年であると言ひ、男の人は四十二歳が大厄年だと言ひ、或ひは還暦の祝ひは満六十歳でやる。やつぱり三の倍数であります。つまりこれらの年は三・五・七の倍数によつて展開して行くところの節の年になつてゐるのであります。

 それは兎も角、同じ言語や同じ地名がレプチャ族にもあるから、日本人の祖先はレプチャ人だといふ結論は成立たないのであります。
<つづく>


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