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聖典引用 板

2608SAKURA:2013/10/21(月) 21:57:58 ID:A5psoVbE
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【 転載編…】

■□ 今日は、久しぶりに「生命の実相」を“37巻”からの〜〜〜投稿とさせて頂きます。

   二 月 十 日
 
憎みながら叱る心で軽く打つと子供は泣く。同じ強さで打っても愛撫する心で愛慰(あいい)
すような形で打ったら子供はかえって喜ぶだろう。痛さは心にあるからである。

 かって野村義隆さんが道場で指導していた朝のことである。禅家の道場破りを仕事に
しているような物凄い格好の修行者が来た。そしてたずねた。
「生長の家では肉体は無いというんですね。」
「そうです。」
「痛みは心にあるんですね。」
「そうです。」
「では痛みは肉体にはないんですね」。」
「そうです。」
「それではあなたの肉体を打っても痛くありませんね。僕はこれから君を打ってやる!」
殺気がその修行者の眼から一閃、野村さんの方へ走った。そのままいたら野村さん
を殴りでもしかねるまじき姿勢である。

 と、たちまち野村さんの方が起ち上がってその修行者の方へ近づいていったかと思う
と、ピシリとその修行者の頬を打った。痛いか痛くないか冷暖を自知せよというのにあ
ったらしい。やがて野村さんは元の座へ還って来て、何事もなかったように別の修行者
と話していた。

 野村さんが打たなかったら、野村さんは修行者に打たれていたかもしれない。野村さ
んの気魄の方が修行者の気魄に打ち勝ったので修行者がうたれたのあった。
 打つ心は打たれなかったら、野村さんは修行者に打たれていたかもしれない。野村さ
んの気魄の方が修行者の気魄に打ち勝ったので修行者が打たれたのであった。

 打つ心は打たれる心である。打つことを心に描けば、その念(こころ)は形と表れて相手
を打つ。相手の気魄が強ければ、それはかえって自分自身に還ってきて自分自身を打つので
ある。阿難が釈尊に対って人を憎んだ心を相手が受けなかったら、その憎んだ心はどこへ行
きますかと尋ねたときに、釈尊は「お前は贈り物を人に持っていった時に相手がそれを受け
取らなかったらその贈り物は誰のものになるか」と問い返された。阿難は「それは贈った
人に返ってきます」と答えた。釈尊は「人を憎む心もそのとおりだ」とおっしゃった。

 そのころ、道場には夜も指導があって、夜間はわたしが受け持っていた。その同じ修
行者がその夜も来ていて同じようにわたしに問いかけた。
「肉体は本来無いんですね」
「そうです。」わたしは朝の出来事を知らないので何心なくこう答えた。
「痛みは心にあるんですね。」
「そうです。」
「それでは先生の肉体を僕はこれから撲りますが、傷みはありませんね。」
修行者は今にも撲りに来そうな姿勢である。
「それは痛いにきまっている」とわたしはとっさに答えた。
「なぜ痛いんだ、無い肉体がなぜ痛いんだ。痛ければ、今後肉体に痛みは無いなどと言うな。」
 
恐ろしい剣幕で修行者は詰めかける。わたしは静かに答えた。
「肉体そのものは傷まないが、お前の心が痛いのだ。人を譲ろうとするお前の心には痛み
がある。『五官は心の影を見るに過ぎず』と『甘露の法雨』にある。五官は心の痛みを映すものだ」
『ウーム、よし!』と言ったきり、修行者は立ち上がりかけた膝を畳に落ちつけて俯向
いたまま動かなかった。そしてわたしが他の修行者と話しているうちにその修行者はど
こかへ姿を消してしまった。
                          つづく


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