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聖典引用 板

616復興G:2012/05/08(火) 13:58:44 ID:ojEbkDH2

   『新版 真理』第7巻{悟入篇}
   (谷口雅春先生著)より(p.10〜13)

   毘廬遮那仏(びるしゃなぶつ)説法の世界

 ところが「一個の物体の周囲(まわり)に百万の鏡を按(お)きてこれに相対せしむれば一個もまた百万の姿を現ぜん」と聖経『天使の言葉』にありますように、鏡と鏡とが相対していると一人の人間でも、あちらへ写った姿がこちらへ写り、又こちらへ写った姿があちらへ写りして、ずーっと無限に反映しますと、一個が無限に現れるのであります。平行に立てた大鏡の真中に立って、自分の左右を見ますと、あなたの影が、右の影が左にうつり、左の影が右にうつり、左にうつったのがもう一つ右にうつって、無限にずーっと現れているのでありますが、その無限の個々が実は個々でありながら個々ではなく一つのものである。「一個もまた百万の姿を現ぜん」というわけであります。人類のいのちは、相即相入(そうそくそうにゅう)で、一つのいのちが、ずーっと幾十億の人類となって現じているわけであります。これが唯心所現(ゆいしんしょげん)の世界――心の現すところの世界なのであります。

 そういう世界の中に吾々は住んでいるのでありますから、自分の心の思いは、たちまち幾百万の人の心の思いにうつるわけであります。そして吾々が自分で一つ良き考えを起すと、無数の良きものがその波長の類似に随(したが)ってずーっと自然と集るようになっているのです。その代り残念ながら、もし間違った心の思いを起すと、無数の悪いものが集るようになっている。それはNHKの放送の波長と同じ波長を受信機に起すとNHKの番組があらわれて来、KRの放送波長にこちらの受信機の波長を合わすとKRの番組があらわれて来るようなものであります。しかし悪いものは実在ではない。自分の心に起した波動がただ鏡にうつっている自分の迷いの「心の影」であります。善いものは実在の番組の投影である。ともかくそういう世界であって、外にあると見えているものは実は内にある、内にあると見えているものは実は外にある。それですべてのものは物質に非ず皆心の姿であります。
 そういう訳であって、それで実在界即ち実相世界というものは、宇宙普遍の大神様――仏教では毘盧遮那仏(びるしゃな)と言う――日本では大日如来(だいにちにょらい)と訳している所のびるしゃな仏の説法の姿であるのであります。説法というと、これも又、対立的なものの考え方になって来ます。聞く人と聞かれる人とがあるのが説法ということになるのでありますけれども、毘盧遮那仏の説法というのは、そう云う対他的説法じゃない、大生命のいのちの波を言葉と言う。毘盧遮那仏のいのちの波が、それ自身絶対者としてひろがっているのを称して説法と言うのであります。この毘盧遮那仏を仏像にしたのが東大寺にあるところの大仏像であります。
 私の娘が、まだ小学校の小さい時に、奈良に修学旅行に行った。その時に奈良からおみやげを持って帰って来た。小ちゃいお人形みたいなのを持って来て、
「お父さん、これおみやげ上げます。」
「ホゥ、これ何じゃね。」
「これは小さいけれども大仏です。」と言う。
 ほんとうに、それは小さいけれども大仏でありました。大仏と云うのは宇宙に充ち満ちている所の、大いなる毘盧遮那仏、大日如来のその相(すがた)を象徴してそこに現されているものなのです。像の寸法が大きいから大仏と言うんではない。小さくってもそれは宇宙に満ちひろがる所の大日如来の肖像であるから大仏と云うのであります。
<つづく>


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