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聖典引用 板

2892a hope:2014/06/03(火) 18:41:15 ID:cEpBaIdo
☆ ☆ ☆ 出張 第25回 web誌友会 ☆ ☆ ☆

「生命の實相」第13巻 p123〜

感覚世界の自主的征服

さて、この「三界はただ自心の展開である」との事実に眼が覚めてきますと、すべての感覚的事物への自己の奴隷的屈従がなくなるのであります。

ほとんどすべての悪徳は、一切事物を「自己の心内(こころのうち)の存在だ」と気がつかず、独立せる外界を構成せる事物であるとして、自己の内界(こころのうち)を調べないで、外界をできるだけ多く、自己の所有としようとし、他を制して、他と争い(利己主義)、あるいは自己を忘れて外界に隷属(感覚的耽溺)することになるのであります。

かくのごとくして、いっさいをただ「自身の展開」と見ないものには、利己主義と「感覚的事物への隷属」とがこもごも生ずることになり、争い、嫉妬、羨望、憤怒、憎悪、焦燥、貪欲、虚飾その他あらゆる罪悪(真理隠蔽)が、「三界はただ自心の展開である」という根幹的真理の隠蔽の枝葉として繁茂するのであります。


考えてみますのに、「争い」というものは、いっさいをただ自心の展開としてみないで、幸福の源泉を「物」にありと観、あるいは自己の幸福を奪うものを他者にありとして、他に犯されまじとして防ぎ、あるいは他者を侵して他者より「物」を奪うことによって、自己の幸福を増大せしめようとして、互に侵し防ぐことによって生ずるのであります。

すべてが「自心の展開」である、ということが判明しますと、ただわれわれの幸福を得るための仕事は、互に争うことではなく、ただ自心をととのえれば自己が生きるとともに、自他一体なるがゆえに他者もともに生きるという幸福なる環境が展開し、いっさいの争いは滅尽(めつじん)してしまうのであります。

羨望、嫉妬、憤怒、憎悪などという対他的悪感情は、争いと同じくいっさいを「自心の展開だ」とみないために起る第五、第六等々・・・の神性隠蔽として起るのでありますから、羨望するな、嫉妬するな、憤怒するな、憎悪するな、などと一々その悪徳について従来の「なかれ主義」の修養的倫理学によってこれを制しようとしましても、なかなか制しきれるものではないのであります。

それにはどうしても「生長の家の倫理学」によって「いっさいは自信の展開である」との真理をきわめ、それを実証的に自己自身の上に体験して初めて、対他的に争っても憤怒しても嫉妬しても羨望しても憎悪してもなんにもならない。

ただ自心を豊かにすれば、物が豊かに集まる。ただ自心を尖らせれば、自己を鋭く刺すがごとき尖った環境がやって来る。

すべては自心のとおりのものが現れて集まって来ることを如実に悟ったとき、自然にいっさいの対他的悪徳が消滅してしまうのであります。


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