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聖典引用 板

575金木犀:2012/05/03(木) 11:18:35 ID:wrF1mhWI
田中忠雄先生は『生長の家』誌で「雄峯一膳飯」と
いう連載をされていましたが、けっこう面白い味わい深い文章でした。
以下は昭和57年9月号の文章です。南朝の忠臣菊池氏一族の
精神的支柱であられた大智禅師について書かれています。

五更の残月     田中忠雄先生 (1)

世は挙げてグループぼけ、独りでは何を考え何をすることもできぬ。こんな時勢にこそ、大智禅師の偈頌は生きてくる

香を焚いて独坐す長松のもと
風寒露を吹いて禅衣を湿(うるお)す
有時(うじ)は定(じょう)より起って双澗に下り
瓶(びょう)に五更の残月を汲んで帰る

これは大智禅師作「山居の偈頌(げじゅ)」八首中の一つである。大智は永平道元下、第六代の大善知識である。また古今を通じて第一級の大詩人である。

「山居」というのは、生まれ故郷の肥後の国熊本の斑蛇口山(はんじゃくやま)に住むこと二十一年の時代をいう。そこは肥後熊本の菊池郡穴郷村である。

その頃、わが国は南朝と北朝に分れて長期の戦いがつづいていた。日本中の豪族が二つに分れて戦い、九州では日和見的に強きに与して向背常ならず、自己防衛に汲々たる彼らの姿であった。ところが、ここ肥後の国菊池の一族だけは、両陣営の間をうろうろすることなく、徹頭徹尾一貫して南朝を守護し、逆賊足利の軍と戦ったのである。

南朝の大忠臣、菊池武時は菊池氏第十二代の当主で、狂瀾怒涛のさなかにも大智禅師に帰依し、家の子郎党をひきいて弟子の礼をとり、熱心に参禅した。

大智が菊池郡班蛇口山の深山に住したのは、元徳二年(1330)である。そこに武時の外護で鳳儀山聖護寺(ほうぎざんしょうごじ)が建立され、禅師はその開山第一世となった。禅師四十一歳、武時三十九歳のときだった。

これより二十一年間、武時、武重、武士(たけひと)、武光の四代にわたって、殉忠菊池一族の精神的支柱となったのは、じつに大智禅師であった。大智を開山とする聖護寺(しょうごじ)及び広福寺は今もなお存続している。彼らは戦闘に明け暮れながらも時を盗んで、居城から三里もある幽邃(ゆうすい)な鳳儀山聖護寺に出かけて行って、大智のきびしい鉗鎚(けんつい)を受けた。


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