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聖典引用 板

1687さくら:2012/11/28(水) 22:32:44 ID:e8ieIrPA
到彼岸の神示
谷口雅春 先生 著

「本當の信仰についての神示

平和は内界にあるのであつて、外界にあるのではない。
外界は現象であり目眩しく移り戀る世界である。常に戀移する世界を追ひ廻してゐて落ちつかうと思つても落著けるものではない。
一世を支配する権力者の位置にのぼれば誰も自分を脅かすことが出来なかろうと思つて最高の位置にのぼつてみても、高ければ高いほど不安であるのが常である。では、誰よりも下座の地位について、
もうこれ以上は落ちやうのない貧しい生活を送つたら不安がなからうと思つて、乞食の生活を送つてみても、やはり不安は去るものではない。
下座々々と心掛けても、一椀の食にありつくとき、尚、その一椀の食にすらありつき得ない同胞があることを思つたら、その一椀の食も安心して食べられないであらう。所詮は、高く上るも、低く下がるも、比較上の世界に住む以上は、その人の心から不安は去らないのは當然である。何故汝は絶對の世界に住しないのであるか。
目眩同転する圓周の世界を追ひ廻さないで、圓の中心の世界に住しないのであるか。何故汝らは比較を絶した『我れ神の子』の世界に住しないのであるか。
中心の世界に坐せば、上下左右天地四維のいづこに顕現すると不安はないのである。『我は神の子』の世界に住すれば、如何に高き位置につくとも高過ぎると云ふことはなく、如何に低き位置につくとも穢されたと云ふ感じも屈辱の感じも受けるものではないのである。
かくの如き『我れ神の子』の實相に参ぜしめ、無畏怖の境地に入らしめるのが本當の宗教である。
恐怖心を唆つて遷善改過せしめるものは、それは一種の社會施設であり、刑務所であり、懲治場であつて宗教ではないのである。宗教とは己が眞性を自覚せしめ、上下左右天地四維いづれに動いても、いづれに置かれても、縛られない、恐れない、自由自在の『神の子』だる本性を自覚せしめるものを云ふのである。
汝ら恐怖の宗教に心せよ。神の子は、金剛不壊の實相身、無碍自在の無けい礙身であるから、凡そ恐怖すべき何ものもないのである。
恐怖を教へるものは迷を教へるものである。恐怖を唆るものは、迷を唆るものである。病気や天變地變や色々の災厄で恐怖を教へるものは人間の幸福が物質の増減で左右せられ、或は火に焼かれ、或は水に溺れるものだとの迷信に立脚して教へをなすのであり、それを信じる者は、それは信仰は信仰であつても、迷信に堕するものである。
火にも焼けず水にも溺れず、天地四維上下左右いづれに置かれるも自由自在な人間の本性に信ずる信仰こそ本當の信仰である。

(昭和八年八月五日神示)


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