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聖典引用 板

160ハマナス:2012/02/03(金) 09:19:22 ID:u5mC.eb2

二 月 三 日     『生命の實相』第37巻P.34より    

争っていた者が仲よしのなることほど嬉しいことはない。失われた一匹の
羊が帰って来ることは、亡(うしな)われない九十九匹がそこにいるうよりも
嬉しいとイエスは言った。仲直りぐらいありがたいことはない、喜ばしいものはない。

 争っていた者が仲直りをしたために、ただそれだけの簡単な出来事のために、
医者で治らない病気が治った実例がたくさんある。『生命の實相』の巻頭に
「汝ら天地一切のものと和解せよ」とある一句を忘れていて病気が治らないと
かこっている人はないか。
 あらゆる心の持ち方が整っていても、和解ができていない人は、神の前に
足りない人である。神はまことである。まことは円相である。○(まる)は
和解のしるしである。・・・・・・・
 
もしわたしたちが神の前にいと小さき者であるならば、わたしたちは人を
責める資格はない、人を怒る資格はない、人を恨む資格はない。わたしたちは
人を赦すほかに仕方がないのである。
 ただわたしたちが、人を赦したときのみ神に赦されるのである。ただ人と
仲よしになったときのみわたしたちは神と仲よしになることができるのである。
 仲よしになった時の愉快な心持を本当に知るものは、人と仲が悪くなれる
ものではない。・・・・・・・

 傲慢ということはかかる心持を云うのである。謙虚、へりくだりの心持は
正直に事物をまともに見る心である。まちがっていたと気づいたら素直に
あやまれる心である。放たねばならぬ物は素直に放つ心である。本来ありもせぬ
栄えとか虚名とかを、あるかのごとく装おうとする心が苦しむのである。
隠しない心、正直の心は謙虚な心の一面である。
 
無邪気に気につき合える人というのはこういう謙虚な心持の人である。
相手が警戒心をもって近づいてきて、どうも親しくなれないのは、こちらに
隔て心があるからである。
 隔てのない心。角のないこころ。仲のよい心。○い心。○はいっさいを包んで
いる。隔てもなければ、角もない、実に実に仲のよい心が日の丸の心である。


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