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聖典引用 板

312「訊け」管理人:2012/03/31(土) 08:01:25 ID:???

WEB榎本恵吾記念館「葩さんさん」より謹写――

  生長の家の人が實相と現象のことで尋ねてこられる際、「實相は完全円満で、現象は無いのですから、現象にとらわれずに實相を観ればよいのに、どうしても現象にとらわれてしまうのです」という人が多いのですが、この悩みにすべての問題は帰着するのではないかとさえ思えます。

  実はこのような人は、實相は完全円満であるというときの、この「完全」の意味をよく解っていないだけのことなのです。實相は完全なのですから、こちらの心で観ようが観まいが、いちいち努力して實相を引っぱり出そうとしなくても、絶対的に自分で出てくる力を完備しているのです。それを知らないから観る、観ないに引っかかってしまうのです。

  そして、實相と現象の中間あたりに自分を置いて、「實相⇔現象」「實相⇔現象」と左を向いたり右を向いたり、その中間あたりでキョロキョロと首を振っている状態を「観ずる」とか「観じない」とか、「自覚する」とか「自覚しない」とかということだと思ってしまっているのです。なるほど「實相は観ずれば顕われ、観じざれば顕われることなし」と書かれていますし、また、『生命の實相』の第1巻の本論の第1行目には「生命の實相の自性円満を自覚すれば、大生命の癒力が働いてメタフィジカルヒーリング(神癒)となります」と書かれています。しかし、そこに書かれている「観ずる」「自覚する」ということと、自分の受け取っている「観ずる」「自覚する」ということの意味が違ってはいないでしょうか。

  (つづく)


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