[
板情報
|
カテゴリランキング
]
したらばTOP
■掲示板に戻る■
全部
1-100
最新50
|
1-
101-
201-
301-
401-
501-
601-
701-
801-
901-
1001-
1101-
1201-
1301-
1401-
1501-
1601-
1701-
1801-
1901-
2001-
2101-
2201-
2301-
2401-
2501-
2601-
2701-
2801-
2901-
3001-
3101-
3201-
3301-
3401-
この機能を使うにはJavaScriptを有効にしてください
|
聖典引用 板
312
:
「訊け」管理人
:2012/03/31(土) 08:01:25 ID:???
WEB榎本恵吾記念館「葩さんさん」より謹写――
生長の家の人が實相と現象のことで尋ねてこられる際、「實相は完全円満で、現象は無いのですから、現象にとらわれずに實相を観ればよいのに、どうしても現象にとらわれてしまうのです」という人が多いのですが、この悩みにすべての問題は帰着するのではないかとさえ思えます。
実はこのような人は、實相は完全円満であるというときの、この「完全」の意味をよく解っていないだけのことなのです。實相は完全なのですから、こちらの心で観ようが観まいが、いちいち努力して實相を引っぱり出そうとしなくても、絶対的に自分で出てくる力を完備しているのです。それを知らないから観る、観ないに引っかかってしまうのです。
そして、實相と現象の中間あたりに自分を置いて、「實相⇔現象」「實相⇔現象」と左を向いたり右を向いたり、その中間あたりでキョロキョロと首を振っている状態を「観ずる」とか「観じない」とか、「自覚する」とか「自覚しない」とかということだと思ってしまっているのです。なるほど「實相は観ずれば顕われ、観じざれば顕われることなし」と書かれていますし、また、『生命の實相』の第1巻の本論の第1行目には「生命の實相の自性円満を自覚すれば、大生命の癒力が働いてメタフィジカルヒーリング(神癒)となります」と書かれています。しかし、そこに書かれている「観ずる」「自覚する」ということと、自分の受け取っている「観ずる」「自覚する」ということの意味が違ってはいないでしょうか。
(つづく)
新着レスの表示
名前:
E-mail
(省略可)
:
※書き込む際の注意事項は
こちら
※画像アップローダーは
こちら
(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)
スマートフォン版
掲示板管理者へ連絡
無料レンタル掲示板