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聖典引用 板

1990goro:2013/01/30(水) 13:02:37 ID:nCo1DokU
>>1989の続き

皇居勤労奉仕発端の物語

この物語は昭和二十年、終戦の年にさかのぼる。戦敗れて人みな茫然自失、言語や風俗の全くちがう占領軍将兵の威圧下にあって、国民全体として行動の積極性を頗る欠いておった当時の有様を読者各位は一応おふくみの上で、この物語を読んでいただきたい。当時、皇居周辺の状況は、どんなであったか。皇居の御門という御門には、いずこも、ここも、占領軍の歩哨が立っている。これは好奇心にかられた無遠慮の外国兵の入門を阻止するための、占領軍総司令部の好意ある意図もおりこまれた処置ではあったろうけれども、事情を知らぬ日本人の眼には、甚だ以て不愉快千万、「日本人近よるべからず」と無言のうちに威圧を加える態度のようにうつったことも無理からぬことであった。

二重橋前の十万坪の広場は、管理の統制を欠いだため、六十余ヶ所の照明灯は一つも残らず破壊され、道路といわず芝生といわず、到るところ踏み荒らされて、昔のような、すがすがしい清らかなおもかげは、どこにもない。あまつさえ占領軍観兵式用の大スタンドが、二重橋の真正面に二ヶ所設けられ、時折は兵士どもが分列式などをやっている。お濠と森林とに囲まれた皇居は、外観こそは一見、昔とかわらぬようであるけれども、一歩、皇居内に踏み入れば、木造の建築物は殆んど消失し、さしも端正雄大であった宮殿の跡も、礎石、玉石、煉瓦、至るところに散乱し、まことに、いたましい有様であった。

ところが、十二月に入って間もないときであったが、皇居の坂下門の門外に六十人ばかりの青年の一群が到着、どこかの駅から下車したまま、まっすぐに来たのであろう、手に手に荷物を携帯している。守門の皇宮警察官を通じて宮内省への申し入れは、--------私たちは、宮城県栗原郡の各村のものでありますが、二重橋前の広場に雑草が生い茂って、たいへん荒れている、ということを聞きましたので、草刈りやお掃除のお手伝いのために上京してきました。東京には食料や燃料が乏しいということも聞いていますので、私たちに必要な数日間分は、ちゃんと用意して持ってきていますから、東京の人たちに迷惑をかけるようなことはいたしません、どうかお手伝いをさせて下さい。--------とのことであった。(昭和二十四年まで二重橋前の広場は宮内省の所管であった)

このことは、すぐ侍従次長の私の室へ大臣官房の筧総務課長から電話で知らせてきた。私は思った。今どき東京の人は、きょう自分たち一家が食べるお米があるか、ないかが、最大の感心事であるというのに、百里も遠くの、仙台のもっと北の地方から、何十人という若い人たちが、二重橋前の広場のお掃除に上京してくるとは、何とたのもしいことだろう。ぜひその人たちの顔を見たいという気持ちになったので、筧君と一緒に二人で坂下門外に出て一同に面会してみると、六十人の人たちは、みな二、三十歳の青年で、うち数名は年も若いモンペ姿の娘さんたちであったが、食料、燃料は勿論のこと、みな一挺ずつ草刈鎌を携えている。


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