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聖典引用 板

1615うのはな:2012/11/15(木) 17:37:44 ID:XuKa5ZNI
指導者の心構へ

 個人指導をするということは、迷っている凡夫(相手)を、神の子なる自分が指導するのではなく、
あくまでも、神の子(自分)が神の子(相手)を導かして戴く、相手の神の子なる実相を拝ましていただく行であり、
如何に迷い苦しんでいるように見える相手であっても、その迷いの奥にある神の子なる実相を拝み出す行であるのであります。

 つまり、自分が指導するのではなく、無我になって相手の実相を拝むときに、自分を通して神の言葉が流れるのが、個人指導であります。
相手を導くのは、常に「自我」ではなく、「我がうちに宿る神」であります。
このことが理解されますとき、指導する人の態度と言うものは、自らわかってくるのであります。

 相手が訪れて来て、最初に逢った時に、いきなり相手にいろいろと尋ねるのではなく、先ず、相手を自分の前に坐って貰って、五分間神想観をし、
「唯今より、神の無限の智慧、無限の愛に導かれて、指導をさしていただきます。私の使う言葉は、神の御言葉であり、それによってこの方の実相が
顕現し、神の御栄えが現われますことを感謝いたします」

 このように祈って、「我が業は我が為すに非ず、天地を貫きて生くる租神の権能」と深く念じて、それから相手の実相を拝み導き出す聖なる行が始まるであります。
くわえ煙草で、「どうしたんだ!」というような調子や、酒気をおびて指導をすると、たとい口から出る言葉は、どんなにすばらしくても、何か小馬鹿にされたような印象を
相手に与えるもので、それでは宗教的な聖い行としての個人指導という印象を相手に与えることができません。
相手は思い余って、苦しくて来ているのですから、小馬鹿にされたような感じでも、救われたい一念で指導を受けるには受けますが、第一印象に悪い感じを与えておきますと、その
指導した人が嫌われるだけでなく、生長の家の個人指導を受けたのですから、結局、生長の家を嫌うような結果になります。

 折角、指導して病気を治しておきながら、その人が生長の家へよりつかない理由の一つに、このような理由もあるのであります。
「尊敬すれば尊敬される」というのは「心の法則」でありまして、相手がどんなに困って憐れな状態にあっても、相手の神の子の実相を拝み、尊敬して指導すれば、その人は自分を長く尊敬
してくれ、延いては生長の家を尊敬し、生長の家からはなれることはありません。
「馬鹿にすれば馬鹿にされる」のは法則です。

 生長の家の指導者の個人指導であるということは、普通の人生相談とは違うのでありまして、「相手の実相を礼拝し、導き出す聖なる行」であるということを、深く認識して、宗教的雰囲気の中で
行われなければならないのですから、最初に神想観をして相手と共に神に祈る行から、始めらるべきであります。
この祈りで始まりますと、生長の家を全然知らないで来た人でも、何となく暖い愛情を感じ、指導者に対する態度も、真面目に真剣になり、厳粛な指導ができるのであります。

「個人指導の指針」『生長の家』誌 昭和三十三年三月号 徳久克己教務局長


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