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聖典引用 板

476復興G:2012/04/20(金) 12:44:59 ID:ojEbkDH2

<つづき>
谷口雅春先生『實相と現象』より
『「七つの光明宣言」解義』(12)

   生命の糧は愛である

 さて、この光明宣言の第四ヵ条に、「生命の糧は愛にして」と書かれているのでありますが、愛とは何であるかというと、『生命の實相』の第十三巻、倫理篇に、「愛の感じは自他一体の感じである」とこう書かれているのであります。「愛」というものはいったいなにかというと、肉体が別れておっても、彼と吾と別々の存在のように見えておっても、「互いに一体だ」という感じであります。それで、ある青年が、あるお嬢さんを愛するとする。肉体は自分と彼女とは全然別々であり、体格も違うし、性別も違うけれども、しかし本来一体であるという感じが、すなわち「愛」という感じに現れてくるわけなのであります。

 吾々生長の家家族が、人間は神と一体である。神と同体であると申しますと、人間が“神の子”であってたまるものか、人間は“罪の子”だ。こういうクリスチャンもあるし、人間が神と一体であるというのは不遜なことだという。神は人間の「主」であって、人間は神の「僕(しもべ)」にすぎないのである。というように、このキリスト教信者の中では、人間を「神の子」といわないで「神の僕」であるという人などがあるのです。だけども、聖書の中にキリストははっきりとこう言っておられるのであります。

 「汝らもし我が命ずる事をおこなわば“我が友”なり。今よりのち我なんじらを“僕(しもべ)”といわず、“僕”は主人のなす事を知らざるなり。我なんじらを“友”と呼べり。」

 このようにヨハネ伝に書かれてあるのであります。これはキリストが磔(はりつ)けになる直前の言葉でありますが、それで僕というものは、主人の心がよくわからない。僕は僕だけのことを考えておって、主人の心は解らないのである。若し人間が神の僕ならば神様の御心はわからないのであります。「併し人間はそんな神様なる主人のことがわからないような、そんなつまらないものではないんだ、イエス・キリストと同じく同等の神の子であるから、これからお前達を友と呼ぶのである。」とこうイエス自身が言っているのであります。

   神との自他一体感が「神を愛する」ということである

 或る時、弟子が、イエスに対して、「誡めの内で一番尊い誡めは何でございますか」と訊いた。誡めというのは道徳律とでもいう意味であります。道徳律の中で一番尊い道徳律は、いったい何でございますか。といってたずねた時に、マタイ伝の二十二章で、イエスはこういうふうに答えておられます。

 「『なんじ心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして主なる汝の神を愛すべし』これは大にして第一の誡命(いましめ)なり」といっているのであります。それでここに「主なる神」とありますから、人間の方は僕で、主人であるところの神様を愛するのであるかというと、そういう意味ではないのです。「なんじ心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、主なる“汝の神”を愛すべし。」といわれた教に注目すべき言葉があるのです。

 「汝、イエスの神を愛すべし。」とはいっておられないのです。「主なる“汝の神”を愛すべし。」即ちお前の主人公であるところの“汝の神”を愛すべし。とこう言っておられるのであって、すべての人間には、その自己の内に神が宿っているということをイエスは認めて、「汝の内に宿っている汝の主なる神を愛すべし。」と、このように言っておられるのです。

 その時まで弟子たちは自分の内に神が宿っているなんて知らないで、罪が宿っているくらいに思っておったのですね。ところがそうではないのであって、汝の神が、汝の内にあるのだから、それを愛すべし。とこういわれたわけなのであります。
<つづく>


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