したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | |

聖典引用 板

1647うのはな:2012/11/20(火) 21:25:28 ID:q1/hjc9I
夫の喜壽によせて

 結婚して半年ほど経た頃に、私は心臓弁膜症にかかって寝ついてしまった。
それは京都府亀岡町矢田町の新居でのことであった。
 六畳と四畳半二間の一戸建ての家だったが、狭い庭に高い土塀が立っていたので、光線が
足りなくて暗い家であった。

 人の薦めもあったので転宅することにして、探し当てたのは今なお思い出してもなつかしい余力町の、
四畳半と三畳の家主の離家であって、前も後も見はるかす晴れ晴れとした住居であった。
 夫が講習会の時などによく話される二円の家賃で、雨漏の跡に茸が畳に生えた家であった。
そのあたりでは最低の家賃だったが、私たち夫婦は大好きな家であった。

 一人暮らしの家主の宮部みのさんは七十五歳の老婆だったが、私たち夫婦を非常に好いて下さったし、
私たちもこのクリスチャンの老夫人と、何を話してもよく気が合って楽しかった。いつまでもこの家に住んでいたいと
願っていたのに、大本教の綾部の本部の仕事をして欲しいと湯浅仁蔡氏が出口王仁三郎師のお使いとして来られたので、
綾部に移転しなければならなくなった。

 私たち二人は、綾部のコンニャク屋の二階二室を借りて住むことになったが、二ヵ月ほどしたら、近くの今井楳軒先生の
別宅の留守番の人が去ったから、私たちに住んで欲しいと頼まれて、結婚前に私が住んでいたその家に、再び住むことになった。
 その頃、夫は大本教の教に疑問を持ちはじめられ、信仰に動揺があった。
間もなく、大本教の第一次事件が起った。先きに亀岡の矢田町にいた頃、夫の留守中に家宅捜査を受け、天井裏から床下まで調べられたが、
夫の思想や行動に不審な点がなかったので、第一次事件の時は、夫は取調べを受けることはなかった。
それどころか・大阪控訴院から、当時押収された大本教租のお筆先二万冊の内容調査を依頼された三人(谷口、江上、吉田)のうちの一人として、
夫は四十日ほどの間、大阪の控訴院通いをすることになった。

 夫の留守の四十日を、一人淋しく暮すよりは、故郷へ帰った方がよいと思い、私は姉に手紙を書いた。
姉にとっても、私が来てくれることは好都合だったらしい。夫は大阪へ、私は富山県高岡市へと、別れ別れに汽車に乗った。
 当時、姉の夫はノイローゼになっていた。霊場と言われて、年中修行者の絶えない大岩山へ、義兄を連れて行くことを人から
勧められるが、姉は学校の教員をしていたし、息子たちは中学生だったし、義兄の随行者がいないので決行できなかった時だったので、
早速私がその役を引き受けた。

 汽車に乗って、人力車に乗りついで、義兄と私とは大岩山へ登った。
山上のお寺には不動明王が祀ってあり、岩山から流れ落ちる瀧の下には、白衣を着た人たちが瀧に打たれていた。
脳の悪い人、眼の悪い人が多かった。瀧壺の前にお不動様の堂が建っており、その堂の四囲にぐるりと人々が坐り、
各自が鉦を叩きながらお経を唱和するのであった。


つづく


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板