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聖典引用 板
1522
:
うのはな
:2012/10/29(月) 15:36:45 ID:3jb./WYM
神の生命が咲いている
谷口雅春先生は、『新日本の心』で、ある婦人が、水仙の花を見て、それが神の生命が咲いていると
感じた体験談を紹介して次のように言っておられる。
< 先日、白鳩の集まりの席で或る奥さんが、これは体験談じゃありませんけれども、と被仰って話し出されましたが、
それは実に素晴らしい体験談だと私は思うのであります。体験談と云いますと病気が治ったことだと思っていられる方もあるかもしれませんけれども、
病気が治るだけが体験談じゃないのでありまして、もっと深い体験談があってもいい訳であります。>(一0八頁、原文は正漢字・旧かな遣い)
たしかに、この『聖使命』紙に載っている体験談はそういった“深い”体験談である。それは“聖なる自己の発見”といっていいと思う。
“聖なる”という形容詞のもつその内実は、この体験によってはじめて体験者にはわかったはずである。ということは、それを理解する私たちにも、
同じような体験がなければ感情移入をすることが出来ないことになる。
宗教体験を理解するということのむずかしさは、同じような深みや高みを既に体験している人でなければ本来わからない世界があるということである。
しかし、そうした至難のことを、谷口雅春先生は文章の力によって『生命の實相』に流露された。
そのご文章に吸い込まれているうちに、心が浄化され回心が起る。今回の末松さんの体験も『生命の實相』を読んでいて突然訪れた体験である。
これらの体験は、見る者と見られるものとの対立が見せかけのものであり、心の目を開くと、自他一体のかがやかしい世界が今此処にあるのだということを教える。
見るものは、すべていのちに、輝いている。そしてその輝きを見ている自分自身も光かがやいているのであった。
こうした体験は、深い心境の産物であると同時に、私たちの住んでいる世界の、より深い層が顕われたということであり、あるいはそうした層が認識されたということである。
それはこの世界が「相即相入」であることの認識でもある。
『光の国から』 渋谷晴雄 先生著 P221-222
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