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聖典引用 板

1230「訊け」管理人:2012/09/04(火) 09:55:07 ID:???

(つづき)

 尊師谷口雅春先生も救いの根本が自覚にあることをお教え下さっております。自覚とは気がつくことでありますが、ただ表面の心で気がつくのではなく、魂(生命)で知ることであります。もっとわかりやすくいえば身体で知ることであります。信とは実感となることであり、実感は身体を通して知ったときであります。火が熱いとわかるのは、手に触れてみるからです。考えたからでも、熱い論理がわかるからでもありません。実感を通してのみ、信念となるのです。料理を食べておいしいと感ずるのは、訳がわかったからおいしいのではなく、食べてみたからです。料理に関する知識や訳が全然わからなくて食べても、おいしいものはおいしいのであります。いくらきいても読んでも救われないというのはこの肝腎の行がないからです。

 何もわからず、知らずにいても、行じている人は救われるのであります。それは救われていない者は本来無いからであり、みんな既に救われておりながら、救いを現さないだけなのです。工事も完璧であり、電球も備え付けてあり、発電所では無限に発電せられておりながら、暗いのはスイッチを入れないからであり、電源につながらないからであります。発電所には電力があるとわかり、電球はともるとわかっておりながら、スイッチを入れないで〝どうして明るくならないのであろうか?〟と思い煩っているのと同じであります。信仰に最も大切なことは真剣さと素直さであり、勇気と行動力であります。何故かと考える先に行動致しましょう。救いの根本行とは、ただ〝有難う〟と感謝することであります。どうすればよいか・・・ではありません。そのままで感謝するのです。善くても有難く、悪くても有難いのであります。自分の力によるものは何一つないのでありますから、一から十までことごとく頂きものであった、丸貰いの丸儲けとわかれば感謝以外にはないはずであります。自己の力をちょっとでも頼みにし、当てにしている間は無条件に感謝出来ないのです。〝私が無かった〟とわかるとき、無条件の感謝となります。

 人間としての私は昨日死んだものと決めなさい。死に切ってごらんなさい。今あるのは神様だけになります。神様だと決まったら、病気はないのです。神以外に〝私がある〟と思っているから病気を認め、病気を許すのです。病気と妥協し、病気の存在を許すから、無い病気が〝のさばって〟あるかのように幅をきかせるのです。今日限り、今限り、病気の存在を否定し、断乎として追い払いましょう。無い病気を認め、許すのが無明です。その無い無明が病気の姿をして頑張っているだけです。
 『甘露の法雨』に「あらざるものを有りと想像するが故に迷いなり」とあります如く、全く夢であります。夢は無いけれどもみている間はあると感じて苦しむのです。あなたも病気の正体を見破りなさい。あると認めて治そうと思っておられる限り、あるように現われます。救われようと思い、焦っている限り救いは現われません。それは救われていないと信じているからです。救われていなかったら、生まれることも生きることさえも出来ません。生かされている事実を信じて、只管(ひたすら)感謝し、「有難うございます」を一日少なくとも、一万回以上誦えましょう。三時間半で一万回誦えられます。これを実行して十年間の全身リュウマチが一日で治った実例があります。なぜといって、理由も訳もありません。神様に波長を合わせるから、本来の姿が現われるだけであります。結果を予想せず、ただ「有難うございます」をコトバに誦えましょう。求めなくても結果(答え)は現われます。大根の種を蒔けば、訳も理由もなく大根が生えるようにであります。

 このことを信じて唯々行じましょう。

 再拝


<了>


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