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聖典引用 板
2843
:
a hope
:2014/05/14(水) 09:07:36 ID:cEpBaIdo
「生命の實相」第13巻 p67〜71
「善」の一般的要素
倫理の基礎として「人格の自由」ということが確立せられましたら、ついでにその自由の主体たる人格が何をなすか、人として善であるか悪であるかの問題に移らねばならない順序となるのであります。
われわれは子供の時から善と悪との区別を教えられているので、善とはなんぞや、悪とはなんぞやということは誰でも知っているはずでありますが、さて、ひとかどの成人に対(むか)って「人のある心または行為が善と認められる要素はなんであるか、またそれが悪と認められる要素はなんであるか」と尋ねますと、ちょっと返事に困るでありましょう。
では「善とは何?」「悪とは何?」これを「生長の家」の倫理学で解説しますとなんでもないのであります。「生長の家」で申しますと、善というものは固定した「律」ではないのであります。善の確立する根本原理は、
唯一の「善」は神のみである。
ということであります。「善(グッド)」は「神(ゴッド)」の別名なのであります。「神」のいます処、そこに、「善」があり、「神」のいまさない処、そこに「善」がないということになるのであります。
「生長の家」で申しますところの神とは、すべてのものの創造主(つくりぬし)であります。言い換えれば、神があらわれてすべてのものとなったのであります。だからすべてのものは、神において一体なのであります。すなわち「創造(せいちょう)の宇宙(いえ)」においては神はその御親(みおや)であり、すべてのものは、その御親より出でたる御子(みこ)であります。すべてのものは、御親の生命の分化でありまして、神において一体なのであります。
自と他と、我と彼と、心と物と相離れているように見えますけれども、実は相離れているのではない、本来、自他一体なのであります。神を愛するには、神と、神より出でたるものすべてを愛さなければならない。それで、『マタイ伝』二十二章にもイエスの言葉としてこう書いてあります。
「一人(ひとり)の教法師、イエスを試むるために問う『師よ、律法(おきて)のうち、いずれの誡(いまし)めが大なるか』イエス言い給う『なんじ心を尽(つく)し、精神を尽し、思いを尽して主なるなんじの神を愛すべし。これ大にして第一の誡なり、第二もまたこれにひとし、おのれの如く、なんじの隣(となり)を愛すべし。律法(おきて)全体と預言者とはこの二つの誡によるなり』」(『マタイ伝』第二十二章三十五―四十節)
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