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聖典引用 板
2744
:
a hope
:2014/01/31(金) 08:00:00 ID:G/pK6qF2
生命の實相 第29巻
第九章 深切行について
二 深切は誰にでもできる p112 〜
ところで、この「深切行」の問題でありますが、深切行をするには、金持ちでなければできないとか、あるいは財産を捨てなければできないというような、そんなむつかしい、また制限のある深切をするのではないのであります。金が無くても人に深切ができるのであります。
人々が下駄を脱ぎ散らかしているならば、下駄を揃えるのも一つの深切行であります。一枚の塵紙(ちりがみ)がなくて困っている人には一枚の塵紙を与えるのが深切行であります。下駄の鼻緒が切れて困っている人を見出したら、いつも紐の切れ端ぐらいは携帯していてそれを与えるというようにするのが、生長の家の生活であります。
雨が降っている時に一緒に同じ方向に同じ速力で行く人があるのに、自分は傘をさしているけれどもしれぬ顔して勝手に濡れておりなさいというようにしてゆくのは生長の家の生き方ではないのであります。みんなに深切を与えるのが生長の家であります。別に自分の物を減らさなくてもよろしいのです。
減るものを与えるのではともすれば執着がかかるのでありましてそれは本当の深切にはならないことが多いのであります。よく深切にしてやったのに相手に恩返しをされないで恩を仇で返されたといって不平に思い、怨みに思う人がありますけれども、あとで怨みに変るのは「我」があるからです。
「わしがした、わしがした」のわしがあるからです。本当の深切は無我の深切でなければならないのです。自分が施すということも知らないところの無我の深切でなければ、本当の深切であるというわけにゆかないのであります。
本当の深切は自他一体の意識から自然法爾(じねんほうに)に出てくるのでありまして、「彼」と「我」とは別れていないという本当の真理を悟ったところから、自然に深切というものが流れでてくるので、それはちょうど、高い所と低い所との区別のしきりを除(と)ったら、水が自然に流れ出てくるように、自他一体の悟りによって「自」と「他」とのしきりが除(と)れたら自然に流れ出てくるのであります。
すでに「自」と「他」とのしきりがないとしましたら、「わたしが」「彼に」してやったという力みはないはずであります。「わたしが」「彼に」してやったと、「わたしが……わたしが」と、力むことは、本当の自他一体の深切行になっていないのであります。
「わたしが」「彼に」施しをしたとか深切をしたかということを心に溜めておって、それが原因になって腹が立つとか、あるいは恨みに思うとかいうようなくらいなら、そんな深切は初めからうその深切であります。本当の深切というものはいつそんなことをしたかわからないうちに深切ができているように、あたりまえにできるようにならなければ、本当の深切ではないのであります。
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