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聖典引用 板
1663
:
「訊け」管理人
:2012/11/23(金) 10:19:35 ID:???
『生命の實相』第27巻127頁より謹写――
彼は「事実に面しては」という。しかしその「事実」とは何ぞや。現象のみ、本来無きもののみ。しかもこの「本来無き現象」をありと観るかぎり、彼のごとく実相一如の世界に没入する体験を得るとも、何人も「われらは弱し、われらは完からず」と嘆ぜざるをえないのである。しかし、これを「事実」というのはまちがいであるのである。知れ、事実というは実相のみであるのである。だから実相の実在のみを強調し「弱きものは無し、完からぬもの無し」と、いっさいの悪を空(くう)じ去って、しかして「一切皆善の実相的事実」のみを肯定するとき、われらは現象的事実をも征服しえて、「われらは弱し、われらは完からず」と現象的事実に征服された弱音を吐く必要がなくなるのである。
生長の家はかく「実相皆善」のみを強調して、「現象は無なり」と現象的不幸一切を空じ去る。さればこそ現実を征服する現実的威力を発揮するのである。「現象あり」と観ずればわれらは現象に力を認めるがゆえに現象を征服することができないのである。「現象も現象として在るのであって、かく本体界のみを主張し、本体界の完全観念を現象界にも適用せんとするのは、本体界と現象界とを混同するものである」との諸宗教家または哲学者よりの非難があるが、われらは本体界と現象界とを混同するのではない、混同とは現象界を在りと認めての立場であるが、われらは現象界無しと自覚するがゆえに、無きものは混同するの恐れなきがゆえに、われらはただ常に本体界の完全性のみを主張するのである。その結果、本体界の完全性がそのまま現象界に投影して、現象界の不幸を征服することができるのである。
「現象は現象としては在るのである」といって現象界を本体界に対立せしめたり、「本体界の自叙自展が現象界であって、本体界と現象界とは一如である、そして、現象界は本体界のうちに包摂せられるものである」というような在来の見方を脱しえないような宗教では、とうていそれは現実人生を支配することができないのである。生長の家の思想が、かく素晴しい現実人生の支配力を有しているのは、主として「現象無し」とスカッと截(た)ち断り、実相独在を明快に斬然(ざんぜん)と主張しているからであるのである。
<了>
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