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聖典引用 板

1585復興G:2012/11/07(水) 19:27:43 ID:vWpLkCzM

<第8回 WEB誌友会用テキスト>
 『生命の實相』 第2巻「實相篇下」より (17)
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 皆さんはこの医者の楽屋ばなしを読んでどんな気がなさいますか。
 実際、庸医(やぶい)は薬を売るために薬の効果を喋々(ちょうちょう)しますが、名医は薬に付属さして与える「治る」という信念を売るために薬の効果を喋々するのであります。
 薬のくだらないことを百も知りながらも、名医は患者自身が「治して欲しい」と思うよりも「薬を欲しい」と思っているものだから薬を与えるのであります。
 診察する時の医者の態度、薬を与えるさいの医者の態度、これによって喚起された「治る」という信念を薬に付着させて思者にやる、ここが治病の極意であります。
 聖医になってくると薬を与えないで、病的観念を他に転換してしまうだけで病気を治すのであります。

 病気は本来無い。神の造り給わないところの病気はぜんぜん無い。
 病気とは心に描いた仮想的存在でありますから、その仮想的存在の仮面をはがしてしまって、「それごらんなさい。お前は念(こころ)で描いた仮面を被(かぶ)って、そらあるぞ! と威(おど)しつけているけれども、その『病気の念』という『仮面』を取り去ってみると中味は空っぽで、その実存在しないじゃないか、」といわれてみると、病気の夢を見ていた人が目を覚まされた時のように、今まであると思っていた病気が、どうしてこんなに治ったのだろうと不思議がるような事実もできてくるのであります。

 『生長の家』の読者でまだ若いがなかなか精神的に悟りを開いている人があります。
 この人が今まで乗っていた船を下りて「土を耕す人」になるべく故郷へ帰る途中で、私の説くところに大いに共鳴したので一ぺんわたしに会いたいといって立ち寄られた。
 わたしはあいにく不在だったのでお目にかかれなかったが、家内が私の代りに会って話したのであります。
 この人の話を一言もまちがえないで取り次ぐことはできないのでありますが、かいつまんで話すと、この人は外傷性肋膜炎がもとになって肺病にかかり、たびたび多量の喀血をせられたのであります、その時分、この人はずいぶん悲観し煩悶していられたものらしい。
 ある日小酒井不木博士に自分の病気の事について相談すべく博士邸を訪れられた。ところが小酒井不木博士はこの人の顔を見ると
 「君は煩悶してるな。そんな事でどうする!」
 と一喝を浴びせかけた。この人はハッと思った。
 「なるほど自分は煩悶している。煩悶しているからこそ、自分自身に宿っている全能の治癒力が働かない。それに違いないと悟った、いかに思い煩うともわが生命を寸陰をも延ばすことはできないではないか、煩悶を捨てよう。」
 カラリと秋晴れの空のように、実にきれいさっぱりとこの人は煩悶を捨てられたのであります。
 すると昨日まで続いていた喀血がその日から止まってしまったのであります。
 わたしは病気は仮想的存在でたとえば白昼に悪夢を見ているようなものだと申しますと、どうも君のいうことはわからない、じっさい解剖してみても物質的病的変化のある病気を、病気は無いだの夢だのといわれて、あまりに高遠すぎて解らない、も少し解るように説明して欲しいといわれる方もあります。
 けれども実相を見る目から見て病気は無いのだから、無いと説明するより説明のしかたがない。そして「神想観」によってしだいに実相を見る力を養うよりしかたがないのであります。
<つづく>


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