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聖典引用 板

451復興G:2012/04/18(水) 21:23:01 ID:ojEbkDH2

谷口雅春先生著『神ひとに語り給う』
  (神示講義 教の巻)より
「万教帰一の神示」ご講義 謹写<1>

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   万教帰一の神示

 われに姿かたちあるやうに言ふものもあれどわれは姿なきものである。われは道である。われは霊性である。智慧である、愛である、生命である、われは如来である、われは一つにして多である。信仰深き諸方の霊覚者にわが神姿を示したることあれども、そはわが真の姿に非ず、見えたる神姿は霊覚者の心識の所現にも非ず。そは、われ神通力によつて、疑ふ者の蒙を啓かんがために、異る場所と異る人とに同じき一定の神姿を示して、神の客観的存在を実証したに過ぎない。されど、本来われに一定の神姿はない。如何なる姿も欲(おも)ひのままに現ずることが自由である。されば、嘗(かつ)てわれ汝に告げたのである『われに神殿は不要である』と。われは神殿がないとて身の入れ場所に困るやうな神ではない。供へ物も要らぬ。わが姿を見んと欲ふものは『生長の家』を読め。われは言葉である。吾が言葉を盛る雑誌こそ吾が神殿である。この雑誌がひろがるのこそわが神殿の大きくなることである。われにすがた形はない。われは霊の海である。大海原である。すべての宗教(おしへ)流れ来りて吾れに入らん。

 吾れは完成する者である。われは『七つの燈台』に燈を点ずる者である。古道も、仏教も、キリスト教も、天理教も、金光教も、黒住教も、大本教も、すべての教我に流れ入りて生命を得ん。われは大(おほい)なるものなるかな。すべての教を呑吐(どんと)して、これに生命を与へ、すべての相争ふ教をその真髄に於て握手せしめる。吾れはすべてを包容し、すべてに光を与へ、すべてに栄養を与へ、すべてを生かす地下水である。他の如何なる宗教をも誹(そし)らず批(う)たず、常に讃頌(さんしょう)と、善き言葉とを雨ふらして、それを浄めその真髄に燈を点ずる。あらゆる宗教がその真髄を礼拝して手をつなぐやうにならねば此の現実世界の改造は完成せぬ。精神界が先きで現実界はその影である。元乱れて影完(まった)からず、宗教家よ、宗派争ひをしてゐる時ではない。   (昭和六年四月五日神示)
<つづく>


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