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聖典引用 板
477
:
復興G
:2012/04/20(金) 12:45:33 ID:ojEbkDH2
<つづき>
谷口雅春先生『實相と現象』より
『「七つの光明宣言」解義』(13)
「愛する」とは「自他一体」の自覚でありますから、神を愛するとは、神と一体であると認めることをもって第一とするのであります。妻を愛するとは妻と一体であると認めること、子を愛するとは、子と一体であると認めること。隣人を愛するとは、隣人と一体であると認めること。この一体であると認めることが「愛」であります。「主なる汝の神を愛すべし」とは、汝に宿っている神と一体であると認めることが第一であると仰せられたのであります。
色々の掟、すなわち“殺すなかれ”とか“盗むなかれ”とか、“姦淫するなかれ”とか“偽りの誓をたてるなかれ”とかいうようにモーゼの十誡には色々書いてありますけれども、何よりも一番尊い誡は、神と一体であることを認めることが第一である。「ここに自分の内に神が宿っておる。自分は神と一体である」という中心自覚が伴わなかったならば、本当に「神を愛する」ことは出来ないのであります。それですから、自分が、神様の本当の子であるということを知らなければ、神を愛するといっても、本当に愛することはできない。お前は神様の継子(ままこ)であるなんていうのだったら、やっぱりひねくれてしまって本当に神様を愛するわけにはゆかないでしょう。
あるいは神様が雲の上にいらっしゃって、吾々の一挙手一投足――何でもやっていること――を雲の上からにらんでおって、「あいつ間違いをした、一つ罰をあててやろうか」と思って裁判官のようににらんでいると思ったら神様を愛するわけにはゆかない。それでは神を畏れるかも知らんけれども、本当に神を愛するわけに行かないんです。それですから、神を愛するためには、神と吾とは、「一体である」という中心自覚がなければならないのであります。
これに反して、神と人間とを、主人と下僕との関係に見たて、神を愛しなければ罰せられると思って、愛しようと努力し、愛したと同じ行いを外に表しても、「罰があたる」と思って、恐怖心で一所懸命やっているのでは、それは愛しているのではなくて、忠実に努めてはいるが、本当に神様を愛しているということにはならないのです。
神を愛するとは、自分が神の子である。言換えれば、「神の生命とは一体である。」と自覚することです。さらに極言するならば、「自分は神そのものである。」という中心自覚があってこそはじめて吾々は神を愛することが出来るのであります。
(註・自分が「神そのもの」であるということについてはデーヴィス氏著『人間とは何か』によくあらわされている。読んで頂きたい)
この問題がすなわち「吾等は生命の糧は愛にして」というわけでありまして、神と一体であるという根本自覚を得た時に、生命が本当に成長する栄養を得て、生長するわけであります。
<つづく>
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