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聖典引用 板
1912
:
さくら
:2013/01/12(土) 07:05:27 ID:77/ZZxYM
『静思集』 谷口雅春先生
*
「潔く生きると云うこと。
潔く生きるとは我と云うものが無くなることである。
一寸でも我があったら潔くなれない。
潔くとは一寸も引っかからずにサラリと水のように神様のみこころに流されて行くことである。
「法、法の中に住せず」と云う語『観普賢菩薩行法経』にあるが、
萬法すなわち萬ずの現象が、住まらず、
流水のように引っかかりなく、はからい心なく、そのままに流れ行くことである。
我があっては、そう云うように引っかからずにいる訳には行かない。
我が無くなったのが佛である。
我と云う固塊がほどけてしまって、ただ「神」がうちから湧き出て来ることである。
強いて言えば、「衆生の内から湧き出て来た神」がほとけである。
「ほとけとは衆生が悟りを開いたものである」と云う意味は斯う云う意味である。
衆生が悟りを開いて佛となるが、その佛なるものは、
同時に超越的なところにあって、この世界をあるべきようにあらしめているところの神である。
此の世界をあるべきようにあらしめていることを此の世界を「神が造った」と云うのである。
そして、その神を創造神と云うのである。
こう考えて来ると、衆生の内から湧き出て来るところの内在の神(佛性)と、
この外から、又は超越的なところから、この世界をあるべきようにあらしめていること「神」とは、本来「一つ」である。
神佛一體論は斯うしたところからも頷ける。」
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