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聖典引用 板

3085「訊」:2014/10/24(金) 16:23:27 ID:???
>>3084つづき)


 さらには「表現の場を創ったのは神様じゃないか」と仰る人がいるかもしれませんが、まぁ、そう言って必ずしも間違いではない。この場合の「表現の場」というのは、ここ(頭を指しながら)で起っていることなんです。だから、肉体という表現媒体を与えてくださったのが神様だと解釈すれば、それは必ずしも間違ってはいない。しかし、我々が「この世界」という時には、ここ(頭)に入っているんであって、ここ(周囲を指しながら)にはないんですよ。私たちは、自分の周りの世界のことを「外界」と呼ぶことがあります。自分はこっち側にいて、向こう側に、外に広がる世界がある ―― というニュアンスです。しかし、そんな「外界」はない。この〝外の世界〟はどうやって知るかと言ったら、結局、感覚によって ―― 目と耳と鼻と口と皮膚の感覚によって得られた情報を脳が一つの〝作品〟に創り上げて、それを外側に映し出しているものですから、まぁ一種の〝幻灯機の映像〟を見ているわけですよ。そして、幻灯機だけだったら、音がしないし、感覚はありませんけれども、肉体という媒体には五官の感覚 ―― 色づけや匂いや動作も、すべて外へ投影できる。そういう装置があると思ったらよろしいと思います。
 最近テクノロジーの発達によって、視覚と聴覚に伝わる情報は、豊かなものを人工的に作ることができます。それから、今、実験中ですが、運動感覚や匂いなども、人工的に作ることができるようになっている。そういうようにして、五感をヘルメットのような箱の中で実験できる装置ができたら、私たちは、それによってできた世界を「外界」と呼ぶでしょうか?(笑い)それは外界ではなく、ニセモノの世界ですが、五感はすべてを動員しているので、本当にリアルに感じられる。それに近いものを、私たちは肉体を通して体験しているのです。「それは何のためか?」と言えば、「自分の神性・仏性を表現するためだ」というのが生長の家の解釈です。
 「罪のつぐないをするため」とか「悪業の報いを受けるため」というように解釈しよいうと思ったらできないわけではないけれども、それは「悪がある」という観点なんです。生長の家のように「悪はナイ」という観点から見ると、それは「失敗を修正していく過程」というように、積極的なところにポイントを置くわけです。そうではなくて、悪業を積んだ結果、その報いとして悪果を受けていくと考えると、「悪がある」という信仰になってしまう。
 しかし、「神の創造された世界に悪はない」というのが生長の家の信仰です。もし悪が神の創造だったら、「悪業」という言葉が妙なものになるんですよ。私たちの積む業に「悪いもの」があるという考え自体がおかしくなる。神の創造が「悪い」はずがないからです。また、本当に悪があるんだったら、私たちの存在自体が悪だとしたら、私たちは、悪を行なった時に、「ああ気持がよかった!」と感じるはずです。でも、そんな人は一人もいない。「これは私の本性ではない」というネガティヴな自覚を、「悪」と呼んでいるだけです。
 例えば、画家が女性の絵を描いているときに、ある箇所には本来、顔の部分だから肌色を置くべきだった。しかし、ちょっと手がすべって黒い色を置いてしまったとします。そんな時、「あぁ、これは良い作品になった」とは普通は思わない。そうではなくて、「あそこに間違ったものがある。だから気になってしょうがない。ああ、直したい」という気持が起ってくる。人間は「悪い」という言葉を、そういう文脈で使うんですね。「悪い」というのは、そこに「ふさわしくないものがある」という一種の違和感です。だからその違和感を除いてしまいたい、と思う。もし我々の本性が悪そのものだったら、悪に直面した時には、「あぁうれしい、魂が喜んでいる」と感動するはずなんです。しかし、我々の体験を思い起してみると、そんなことは決してない。事実はまったく逆である。ということは、私たちは善一元の世界から来た神の子であり仏だという証拠である ―― こう生長の家では考えるわけです。

(つづく)


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