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聖典引用 板

189a hope:2012/02/10(金) 19:47:56 ID:kcv2QXTk

↑ a hope です。

(つづき)


(中略)

その浅野さんのお嬢さんがなんでも三年ほど前、
まだ生長の家のことを全然御存じないころ大変熱心なクリスチャンであられたのです。
そのころのある晩キリストの夢を見た。
夢で見たキリストは真っ白な裾まで垂れた衣服を着て立っていられ、実に神々しい姿でありました。
あまり印象が深いので浅野さんのお嬢さんはそれをはっきり覚えていられました。
その浅野さんのお嬢さんがこの前わたしの講演会に村井さんに連れられて、
初めてわたしの話を聞きに来られたのです。
その時に、浅野さんのお嬢さんがふとわたしの顔を見られると、
わたしの顔が三年前に夢にみたキリストと同じ顔をしていたというのです。
もちろん着物は異(ちが)います。
わたしはこんな、普通の着物を着ていましたけれども三年前に夢見たキリストは長い白衣の神の姿だった。
けれども、その顔がわたしとそっくり同じだったという話なのであります。
これはわたしの肉体がキリストと同じ容貌をしていたというわけではない。
真理を語りつつあるわたしの内に宿る真理がキリストの姿に現われて見えたのであります。
キリストも天の使であるかと言うと、多少前に言った天の使という意味と違いますが、
キリスト自身「吾は神の子である、天の父より遣わされたものである」と言っていますから、
父から遣わされた神御自身の分身分霊であって、それが取りも直さず、
すなわち神の子であり、天の使であるわけであります。
それでキリストは二千年前においてユダヤ地方の人間に神から遣わされた天の使であったが、
現代においては、天の使がキリストとはまた別な姿をもって現われるともいえるのであります。
神の救いは、衆生が救ってほしいというその時代の相応の姿であらわれるのです。
神は要するに時代に相応して教祖というものを遣わしたまいて、それを通じてわれわれに現われられる。
だから、すべての宗教の教祖は天の使であるとも言えるのです。
肉体はどんな服装をし、容貌をしていましょうとも、真理を語る人には真理がやどっておる。
だから、その「内なる人」は天の使であり、霊眼の見える人が見たら後光が見えたり、
キリストの姿が見えたりするのであります。
いくら神の働き―――神の救いの念波を送られても霊智、心眼の開けていない人にはそれが見えないし、
聞こえもしないのですから、それを聞くことのできる、見ることのできる人を通して、
教祖を通して、時代に相応して救いが現わされるということになるのであります。


頭注版「生命の實相」第21巻 經典篇 P154〜


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