[
板情報
|
カテゴリランキング
]
したらばTOP
■掲示板に戻る■
全部
1-100
最新50
|
1-
101-
201-
301-
401-
501-
601-
701-
801-
901-
1001-
1101-
1201-
1301-
1401-
1501-
1601-
1701-
1801-
1901-
2001-
2101-
2201-
2301-
2401-
2501-
2601-
2701-
2801-
2901-
3001-
3101-
3201-
3301-
3401-
この機能を使うにはJavaScriptを有効にしてください
|
聖典引用 板
401
:
「訊け」管理人(2/3)
:2012/04/13(金) 19:25:08 ID:???
尊師谷口雅春先生がお悟りになられたとき、目覚めてみれば天地一切のものが神そのものであったのであります。その心境を尊師は「汝ら天地一切のものと和解せよ」と喜びうたわれたのであります。『生命の實相』や『甘露の法雨』の冒頭に「大調和の神示」がおかれているのは、人間は「仲よくせよ」といってもなかなか仲よくしないから、先ず最初によくわかるように警告を発しておくために、あの神示がおかれているのではないのであります。そうではなくて、「私が悟ってみたら、どんなに殺し合い、憎しみあっているかのように見えていても、そのまますべてが神と神、仏と仏とが抱き合って喜んでいる姿に観えて来たのであります。ありがとうございます」と、尊くも尊師が天地一切のものを拝んでい給うことを示されたものであります。ですから、谷口雅春先生の住んでいられる世界は、すべてが神仏に観えていられるのであります。「神一元」つまり「唯神實相」論からゆけば、「今ここ極楽、天国浄土」なのでありますから、谷口雅春先生だけが悟っており、その他のものはすべて「これからみ教えによって教えて悟りに導いて彼岸に度すべき材料」ばかりが住んでいる、というような天国はないのであります。それ故、谷口雅春先生がお悟りになったということは、同時に全宇宙が悟ったのでなければならないのであります。「同時成道(どうじじょうどう)」なのであります。「同時成道」は釈迦の表現せられた言葉であります。お釈迦さんが悟りの眼をもってごらんになられたとき、山川草木国土悉皆成佛(さんせんそうもくこくどしっかいじょうぶつ)、有情非情同時成道(うじょうひじょうどうじじょうどう)と観えたのであります。そのように釈迦がすべてを拝まれたのであります。これはお釈迦様の「汝ら天地一切のものと和解せよ」の現成であったのであります。
「衆生劫尽きて、この世の焼くときも天人満つる、わが浄土安穏なり」というのが、法華経にありますが、これは衆生が苦しんでいるのに自分だけが一人安穏な状態で嬉しいというようなことではないのであります。それではお釈迦さんは何という冷たい人間かということになります。もしそうであるならば衆生が苦しんでいるのに自分だけが一人安穏としているというのは、『聖使命菩薩讃偈』と矛盾しているといわなければならないのであります。衆生を放ったらかしておいて、自分だけが浄土に住んで衆生の苦しみに対して高見の見物をきめているということになってしまうのであります。果してこんな状態で大慈大悲の釈迦牟尼世尊が安穏としておれるものだろうかという疑問が湧いて来るのであります。世界と自分というものを分けて考えると、お釈迦さんの心境もわからなくなるのであります。やはりお釈迦さんがお悟りになったとき、全宇宙が悟ったのであります。それはお釈迦さんだけがポツンと光となったのではなくして、すべてを解決されているのです。それですから衆生が劫つきて苦しんでいる姿そのままに苦しんでいない仏のすがたを、つまり、自分のいのちと同じいのちがそこにあるのを拝んでいられるのであります。自分が完全であるように、すべての人々の實相が完全に見える、ということを書かれたのが法華経の「自我偈(じがげ)」の真意なのであります。
それと同じようにして、尊師谷口雅春先生の、すべてのもの、つまり天地一切のものへの祝福と礼拝とが録されているのが『生命の實相』なのであります。でありますから、『生命の實相』は神の愛と大生命の大光明の祝福礼拝のすべてを尽して光明のかたまりとなっているとでも申し上げるのがふさわしいのであります。それですから、研修生のみなさんが『生命の實相』や聖典をかかえて歩いていられる姿は、まことにも光り輝く神の子が、光明そのものなる『生命の實相』をかかえていらっしゃるお姿でありまして、まことに尊いお姿をそこに拝ませていただくのであります。
このとき最早、聖典の中の一文字一文字が、神の吾れを讃え給う愛の光そのものなのであります。どのようなことが書かれているのかという前に、すでに聖典全体が光体そのものなのであります。それですから、たとえば研修生の諸君が聖典を手にしていられるとき、聖典の輝きがさんさんとして全身の毛穴から流れ入っているときなのであります。胸にかかえているときは眼を通さずとも直接聖典の光りが胸の中に直射して入って来ているのであります。手でさわれば指先から直接に光明がはいって来ているのであります。
(つづく)
新着レスの表示
名前:
E-mail
(省略可)
:
※書き込む際の注意事項は
こちら
※画像アップローダーは
こちら
(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)
スマートフォン版
掲示板管理者へ連絡
無料レンタル掲示板