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聖典引用 板

380復興G:2012/04/12(木) 22:07:37 ID:ojEbkDH2

<つづき>
     「新天新地の神示」講義(3)

   内にやどるキリスト

 さて、新たに生れる問題でありますが、キリストの弟子のパウロといふ人が言つてをりますが、「も早われ生くるにあらず、キリスト我れにあつて生くるなり」この自覚が「新たに生れる」生れ更りであります。肉体の自覚からキリストの自覚に新たに生れるのです。自分といふ肉体的な存在が生きてゐるのではなくて、「キリストわれにあつて生くるなり」といふ所の自覚を得ることが、新たに生れることであります。「谷口先生はキリストの再來である」なんておつしやる人もありますけれども、キリストは眞理であり、普遍的な存在でありますから、私だけがキリストの再來ぢやない、皆さんすべてにキリスト――即ち眞理が宿つてゐるから、パウロと同じやうに「キリストわれにあつて生くるなり」といふ自覚を得るならば皆さんは「われキリスト」の自覚を得られたのであつて、キリストの再來であるわけなんです。諸君、「汝自らを知れ」といふソクラテスの言葉を、深い意味に於て如實に知つてですね、「自分といふものは神の生命なんだ。最早われ生くるに非ず、キリスト我にあつて生くるなり」と自覚するんですね。これを忘れるから不可(いか)んのですよ。これが根本問題であつて、戰爭が起るのも、人類の一人一人がキリストだといふ事を忘れてゐるからですよ。自分が「愛」そのものであるところのキリストだといふ事を忘れてゐるところに、色々の争ひが起り、奪ひ合ひが起り、色々面白からざる事が起つてくるのであります。自分がキリストであるといふ事を忘れて、自分は「煩悩の猿(ましら)」であると、ダーウィンの進化論などから、人間は獣類の子孫だなどと思つて、人間が神の子であり、キリストであるといふ事を忘れてゐる――其処に一切の混乱の源があるんですよ。佛教では「キリスト」と言はないで「佛性」と言ふんです。つまり自分に宿つてゐる處の佛性――佛なる本性がキリスト敏では「内在のキリスト」であります。日本的に言へば「ミコト」なるものであります。何宗教にも偏らない用語を使へば「眞理」と言ふべきであります。神道でもキリスト教でも佛教でも同じ事です。生長の家は萬教帰一であります。だから此の講習會に集つて居られる方々には、いろいろの宗教の方々がゐられる。佛教各宗の人も居られるし、キリスト教の各派の人も居られる。或ひは教派神道の方々も居られる。かうして色々の宗教の人が生長の家に來て教へに触れられる。すると、“自分の信じてをつた宗教の神髄は本當はかういふ意味であつたのであるか”といふ事が判つて其の宗教が本當に有りがたくなるのが生長の家であります。それで、自分が燈臺だと言はないで「七つの燈臺に火を點ずる者」といふのであります。
<つづく>


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