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聖典引用 板

3029a hope:2014/07/19(土) 09:29:47 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第13巻 

人格の自由と「認め」の倫理 p183

人間において行為の善悪が問題視せられるのは、人間には本具の「自由」というものがあると先験的に認められているからである。

人間において人格の自由というものが本来ないものであるならば、善悪の批判は成り立たないのである。

列車は軌道の上を真っ直ぐ走るであろう。

しかしこれは強制されて軌道の上を「正しく走る」のであって、「善」を行為するのではない。

なぜなら列車は軌道の上を正しく走るほかに自由なくして、やむをえずに軌道の上を正しく走っているにすぎないからである。

それはいくら精確に走ったからとて機械的精確さで走っているのであって、道徳的自由で行為するのではないのである。

しかるに人間においては行為の善悪がただちに問題となる。

それは人間はなんびとにも先駆的に「自由なるもの」が内在することを認めているからである。


この何人(なんびと)にも先験的に認められているところの人間内在の「自由なるもの」を、われわれは「人格」という。

その自由性を「人格の自由」という。

だから人格とは、肉体のことではない。

肉体ははじめから時間空間に制約せられて自由ではありえないからである。

外から観れば自由ならざる肉体であるところの人間が、どうしても「自由なるもの」を自己の内に内在するとして先験的に肯定しなければならないのは、
「本当の人間」は肉体的ではないからである。

そして「本当の人間」とは「本来自由なるもの」――仏性、神性そのものなのである。


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