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聖典引用 板

1587復興G:2012/11/07(水) 19:28:54 ID:vWpLkCzM

<第8回 WEB誌友会用テキスト>
 『生命の實相』 第2巻「實相篇下」より (19)
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    他物に頼らざる者はついに勝つ(p.45)

 われわれは誰でも自分自身の内に「無限の生きる力」を潜在せしめているのでありますから、この力を完全に発現させればどれだけでも健康になるのであります。
 では、これを発現さすにはどうしたらよいかと申しますと、「他物に頼るな」ということであります。純粋にただひとすじ、自分の生命力――自己生命を生かしている無限の力にのみ頼れということであります。
 いつかの「智慧の言葉」にも「自分自身の力で立て。他物に頼るな」と書いてあったとおりであります。
 そのよい例がわれわれの両足であります。両足のうち片足でも轢(ひ)きちぎられたら、われわれは片足の代りに義足というものを工夫して、この義足に頼るか、松葉杖というものを工夫して、この松葉杖に頼るかするのが、普通であります。そしてたいていの人間は、義足や松葉杖を工夫する発明力も神が与え給うたものであるから、結局、松葉杖や義足を工夫してこれを使うのは人間の特権であるというふうに考えるのであります。
 薬についてもこれと同じ見解をもつ人がありまして、「薬も神さまが直接間接造ってくださったものですから、それを使ってもよいでしょう」といわれるのであります。
 こういう問いにお答えするには議論ではいけない、議論ではどちらにでも理屈がつくからであります。
 でここにわたしは、片足片手を失いながら、松葉杖にも義足にも頼らないでひたすら自分の生命力のみに頼っていたならば、その人間は松葉杖や義足に頼った人とどれだけ大きな相違を生ずるかということを、実例をもってお答えしようと思うのであります。

 東海道線国府津(こうづ)駅を降りて小田原街道を十四、五町小八幡(こやわた)という小村に石井峰雄氏という片手片足の偉人がありました。
 この人は実に偉人だ。昭和八年頃新聞雑誌に紹介されて一時有名でありました。
 というのは、六歳の時小田原電鉄上り電車に轢(ひ)かれて片手と片足とを失ったのであるけれども、義足にも松葉杖にも頼らずに、自分の内に潜んでいる「無限の生命力」にのみ頼って歩くことにせられたからであります。
 「何物にも頼るな。ひとりで立て。」
 この人はまるで「生長の家」のこの「智慧の言葉」そのままを生活されたのであります。
 その結果はどうなったかといいますと、松葉杖にすがって歩く片足の不具者はふつうかろうじて歩むことができるというほかに能がないのに、この人は片手片足のままで高跳びができる、水泳ができる、木登りができる、果物むきができる、およそ四肢のある人のできることならなんでも人に劣らずできるというようになられたのであります。

 ここにもわれわれの生命の力が無尽蔵である証拠があげられているのでありまして、松葉杖に頼る者は、その依頼心相当の小さな力しか与えられないのに、松葉杖に頼らない者は、またそれだけよけいに生きる力が発現されて来るのであります。
 こうなると松葉杖は神が人間に与えたものであるとか与えないものであるとかの問題ではなくなるので、松葉杖がたとい神から与えられたものにもせよ、われわれの出しうる力の分量は、われわれが依頼心を出さぬか、出すかで決まるのであります。
 薬物も松葉杖と同じことで、それが神が作ったものであろうと、治したいというわれわれ人間の精神力が物質化したものであろうと、それがたといいずれであろうとも、依頼心を起こしただけ、われわれの生命力は小さくしか発現せず、われわれの健康も小さくしか発現しないのであります。
 ここが大いに生長せんとする者、大いに健康を得ようとするものの大切な点でありまして、依頼心を起こさないで、どこどこまでも自分の生命力を掘り下げてゆくものはついに無限の生命力の噴湧(ふんゆう)する「大生命」から豊かな健康の供給を受けることができるのであります。
<つづく>


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