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聖典引用 板

1274うのはな:2012/09/10(月) 15:31:09 ID:YWcH1hUU
>1272 つづき

 まことに神様は一切の人々に平等の愛を与えて居給うのである。あの人を愛し、
この人を愛さないということは、最高の神の心ではなく、如何なる人をも愛し給うものである。
 神は、生きとし生けるもの凡てに、愛を振りかけていられるのだけれど、その愛を受け取る人と
受け取らない人とがあるのである。ちょうど、ラジオ局から放送をしていると、スイッチを入れて受けようとする人と、
スイッチを入れない人とがあるように、神は愛の放送を休みなくしつづけてい給うけれど、受け入れ態勢をしない人には、
幸福は得られないのである。


 幸福な人とは何であろうか。それは人々の幸せのために働き、生きている限り感謝の生活をし、死ぬる時も、神に感謝を捧げ、
一切の人々に感謝を捧げて死ねる人のことをいうのである。
 信仰する人たちは、しばしば奇蹟的な救いを語り、信仰すれば奇蹟が得られると思いがちであるが、「生長の家」では、奇蹟は無いと
説かれている。一見奇蹟のごとく思われる不思議な救われを得る人がしばしばあるけれど、それは特別な奇蹟というものではなく、その人の
或いはその人の家族の信仰によって現れた当然の現象なのであるから、入信しても、真剣にみ教えを実生活に生かしているか、よい加減に生活して
いるかによって、結果は原因にふさわしいものとして現れるのである。入信して一ヵ月の人も、十年二十年の人も、年月の長短とかかわりなく、唯その人が
如何に真剣に道を行じるかにあるのであって、多く与えた人は多く得られ、与えなかった人は得られないのである。

 手紙の人は、唯奇蹟ばかりを欲しがり、『甘露の法雨』を読んだが奇蹟が起らない、N先生に来て貰ったが奇蹟は現れなかった。三度目の奇蹟も起らなかったら、
教えがうそのように思って居られる。この人たちは、奇蹟を奇蹟をと、唯お蔭を欲しがってばかり居られるが、父君が仮りに胃潰瘍で吐血されたとすると、その病気になられた
について、その原因の心の在り方について、反省して見られたであろうか。一切の不幸は自分の心で作ったのであるから、その病気の原因である心の持ち方を変えねばならない。

 現代の医学者でも、胃潰瘍は精神的な原因によると言われているほどだから、自己を反省して、誰を憎んだか、何ごとに不足をもったか、何が思うようにゆかないと不満をもっていたか
を思いめぐらせて、人に、事に、調和し赦し、感謝に変えるように努力されたらよいと思う。
感謝あるところに、病気やその他の不幸が現れる筈がないからである。

 アメリカの光明思想家グレン・クラーク教授は、子供が瀕死の重態に陥っているので祈ってくれと頼んで来た婦人に、
「みこころならば、どうぞこの子供を、天国にお引き取り下さいと祈りなさい」と教えています。
これは「治したい、治したい」という病気をつかむ心を棄てさせるためである。
そしてその母親が、その心境になって、神様にお委せする気になったとき、子供が治っているのである。
自分の心の中から病気を放さないので、お蔭が得られないことを金光教祖は、
「ままよという心にならねばお蔭は得られぬ」とおっしゃっていられる。
生きるも死ぬるも、神様あなたにお委せいたしますという気持ちになった時、神の癒しの働きが自分に及んで来るのである。
そのままの心、神意のまにまに在らしめ給えという祈りの心が大切である。

 私の友の佐賀さんの令息が癌の疑いで入院された時、令息の見舞いに大阪まで行かれた佐賀さんは、枕許に『生命の實相』を
置いて帰京せられた。熱心に読まれた令息は癒された。真理を知って心が変られたのであろう。
今はその令息夫妻もその子も、熱心な生長の家人となって居られる。母として祖母として、深い感謝の意を私に示された。
クラス会に行った私の、思いがけない収穫であった。
わたしには眼には見えない大きなおみやげであった。

昭和45年8月  おわり


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