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聖典引用 板

188神の子さん:2012/02/10(金) 19:46:17 ID:kcv2QXTk

人間

吾は『真理』なり、
『真理』より遣わせたる天の使いなり。
『真理』より照りかがやく『光』なり、
迷いを照破する『光』なり。
吾は『道』なり、
わが言葉を行うものは道にそむかず。
吾は生命なり、
吾に汲む者は病まず死せず。
吾は救いなり、
吾に頼む者はことごとくこれを摂取して実相の国土に住せしむ。

まず最初に「吾は真理なり」と書いてありなすが、
この「吾」というのは天使(てんのつかい)のことであります。
「吾は真理なり、真理より遣わされたる天使なり」とある。
天の使は、真理より遣わされたものですから、つまり真理そのものであります。
しかし、真理そのものは目には見えないし、耳にも聞こえない。
それで真理が人格化して天使となり、われわれの目に見え、
耳にも聞こえる姿となって現れるということになるのであります。
どうして真理の姿が人格化して出てくるようになるかといいますと、
仏典に『衆生、仏を憶念すれば、佛(ほとけ)衆生を憶念す』とあるように、
衆生が仏を憶(おも)うと仏が衆生を憶ってくださる。
迷いの人間が、迷いに苦しめられて、ああ苦しい救って欲しいと思った時に、
その救ってほしいという念が真理に感じて、そこに救ってやろうという働きを起こる。
空中電気にマイナスが起こればプラスが起こって中和しようという働きを起こす。
電気そのものは目に見えないがマイナスとプラスとが中和する時にはパチッといって火花が散る、
その火花なら目に見える。
それと同じく、神さまがわれわれの悩みを中和してやろうと顕われる時、
その働きが目に見える姿と化して現わされるということになるのであります。
けれども、それが必ず誰にも見え、誰にも聞こえる姿となるのでもない。
救ってやろうという働きは真理の発した救いの言葉、仏教で言えば弥陀の本願力である。
その本願力が霊眼、霊耳の開けた人に分かって姿が見えるのです。
また姿が見えなくとも、その人が救いの本願力を振り向けられ、真理の言葉を口で語り、
筆に現わしてゆくことにすれば、それによって多くの人が救われるということになってくるというのは、
真理を取り次ぐ人の言葉はもう、肉身(にくしん)の自分が言う言葉ではなく、
真理みずから神みずからが語る言葉であるからであります。
それを霊眼で見れば天使の姿にも見えるのであります。

(つづく)


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