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聖典引用 板

1263復興G:2012/09/07(金) 15:01:17 ID:xKxowNU.
<つづき>
<第6回 WEB誌友会用テキスト>

 『生命の實相』 第1巻

  《實相篇(上)光明の真理 第4章》 より(19)

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 ところが阿野氏が、生長の家出版部をたずねられてから、氏の義兄の精神異状が急角度をもってよくなり、はじめ病人から
 「不図(ふと)前夜より何となく少し気慥(たしか)に相成候(あいなりそうろう)、色々御話も致度(いたしたき)件も有之候(これありそうろう)に付御多忙之御事と察し申上候(もうしあげそうら)え共御手すきの時御足労被下度(くだされたく)御依頼申上候」(原文のまま)
 と少しも精神に異状のない書きぶりのはがきが届いたのであります。それ以来、この人の病気は急速に快くなられ、六月の八日には七、八分全快して阿波井島保養院を退院せられましたが、六月二十九日消印の阿野氏からの便りには、
 「兄の精神状態も常と変わりなくなりました」と報じて来られたのであります。

 私はこの生きた事実を思い出すごとに、イエス・キリストの奇跡を思い出すのであります。イエスが道を伝えてカペナウンに入り給いし時、百卒長(ひゃくにんのおさ)が来て、
 「主よ、わが僕、中風を病んで家で臥(ね)ていまして非常に苦しんでいます」
 といいますと、イエスが
 「わたしが往(い)って治してやろう」
 と申された。しかし百卒長は
 「尊き主を賤(しず)が伏屋(ふせや)に迎え奉ることはおそれ多いことでございます。だからただお言葉で治れとおっしゃってくだされば治るに相違ありません」
 と申し上げたので、イエスは、
 「なんじの信ずるごとくなんじになれ」
 とおっしゃった。するとそのとおりに病人は治ったという話であります。
 この話においてイエスはただ、その病人を「治してあげたいな」という愛が動いただけであります。べつだん手を触れることも按摩(あんま)することもせられなかった。「治してあげたいな」という心は愛の心である。愛の心は神の心であるから治してあげたいなと深く心で思うだけで、それが宇宙遍満の神に通ずるのであります。
 その愛の心が神に通ずると、神から、「救ってやろう」という「救いの霊的波動」が病人に送られる。「救いの霊的波動」を霊眼の開けた人が見ると天使の姿にも見えるのでありまして、治してあげたいと愛の心で真に思えば、この天使が病気を治してくださるのであります。
 しかし、暗い陰気くさい心で「治してあげたい」と思っても、暗い心は神の光明霊波と波長が合わないからだめであります。人間は本来「神の子」だから病気は無いのだという真理を根本に知って、「その真理がくらまされていてかわいそうだ、治してあげたい」と愛の心を起こすのでなければなりません。
 この場合、必ずしも天使とは羽根の生えた天の童子のような姿にかぎると思ってはなりません。天使とは神さまから「救ってやろう」という愛の心で送り給う「救いの霊的波動」が、それを見る人の心の鏡に反射して客観化(すがたにあらわ)れて見えるのでありますから、見る人の心によっていろいろの姿に見えるのであります。
 キリスト教の人には、天父の姿にも見えましょうし、また天使の姿にも見えましょうが、仏教の方には観世音菩薩の姿や毘沙門天(びしゃもんてん)の姿にも見えましょう。日本神道の方には衣冠束帯の神々(こうごう)しい古代人のような神姿が見えたりするのであります。
 これは「救いの化身」たる神々であって、第二巻の第六章「神への道しるべ」において私が第二類の神として説明している神であります。元は一つの神だけれども、映る鏡(心)に種類がたくさんあるからその鏡に反射していろいろの形相があらわれて諸神諸仏とあらわれるのであります。
<つづく>


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