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聖典引用 板

1582復興G:2012/11/07(水) 19:26:04 ID:vWpLkCzM

<第8回 WEB誌友会用テキスト>
 『生命の實相』 第2巻「實相篇下」より (14)
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 われわれが焦(あせ)ったり力んだりするのは、まだ自分の「生命」(生きる力)が神の生命の「分け生命(いのち)」であって、神そのもののごとくに完全であるという真理(ほんとのこと)を知らないからであります。
 焦ることも力むことも何もいらない、肉体は観念的存在(こころのかげ)でありますから、心が正しき真理を知っておちついていると肉体はなんの感じもない、「影」に感じがないのは当然のことだからであります。
 だから肉体はどこに胃があるか、心臓があるか、肺臓があるか、感じがない時に一等健康なのであります。
 神想観でも坐禅でも鎮魂でもするとその深い境地に入れば肉体があるかないかわからなくなる、これが本来の面目なのであります。
 「生命」は全体として調和した渾一体(ひとつ)でありますから、「生命の実相」を自覚したならば、肉体は渾然とした「一つ」として感じられるのが当然で、「ここに肺臓がある」とか「ここに胃がある」とか「ここに心臓がある」とか個々別々にその存在が感じられる時は、「生命」の渾然とした統一感――「真理の自覚」が心に失われた時で、真理を心に自覚し、自己生命の完全な統一感が得られれば、どこに胃があるとか、心臓があるとかいう「統一自覚の分裂」が消えて、肉体は渾然とした調和した生きもの(生々の実在)として感じられて来るのであります。

    肉体は激勧しても心が安静なれば血は止まる(p.34)

 喀血が起これば医者もびっくりして病人に絶対安静を命じ、本人はもちろん、たいていは家人全体がびっくりしてしまう。しかしこのびっくりすることが何よりも悪い。
 この世の中にびっくりせねばならぬことは何一つ無い。眼に見える症状は「念(こころ)の影」であるから肉体が混乱状態におちいっているならば、心が混.乱しているのが映っているのでありますから、肉体そのものを激動させてさえも、心が安静をうれば出血もとまるのであります。
 小酒井博士の話に、患者のうちには喀血が起こると登山して止めるという人があります。
 登山すれば肉体が激動するばかりか、呼吸を激しくしなければならぬ、呼吸を激しくすれば直接出血部たる肺臓を激動せしめなければならぬ、その上、山上の空気は稀薄で、気圧の開係上ふつうでも出血を促すのであります。しかも、そのために喀血すなわち肺臓の出血が止まるというのはどういうわけでありましょうか。
 それは信念が働くからであります。そういう人は、誰からか、ある機会に「喀血したら山へ登れば血が止まる」と聞いたに相違ないのであります。それを聞いたとき「なるほど」と思った。「喀血したら山へ登れば血が止まる」ということがグッと心の奥底にたたみ込まれて信念になっているのであります。
 信念ほど強いものはない。肉体は「心の影」であるから、登山して激動し、その上稀薄の空気に触れれば破れた血管はますます破れるという、「物質界の法則」を無視して出血がピッタリと止まってしまうのであります。
 信念は「物質界の法則を破壊する」というのはこれで、強い信念の前には「物質界の法則」は降伏してしまうのであります。

 医界で難治症または不治症と認められている病気は、胃でも肺でも決して薬をのんで治るものではありません。
 というのは、難治症または不治症と定評ある病気は、医者や薬学者がいろいろ医薬を試みても治らず、また病人自身がいろいろ民間薬を試みても治らず、ついに「この病気は薬では治らない」という信念をほとんど皆が皆までもっているのが、この難治症または不治症であるからであります。
 だから「こういう病気は薬では治らない」ということが人類的信念になっているのであります。
 一人の人の信念でも強く働けばずいぶん偉大な力をあらわすのですから、ほとんど人類全体がその潜在意識に「この病気は薬では治らない」と信じている以上、その全体の信念は総合的力として宇宙に充ち満ちているので、なかなかその信念を破ることは難かしく、したがってそんな病気に薬を用いても治らないのであります。
<つづく>


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