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聖典引用 板

802金木犀:2012/06/08(金) 10:36:40 ID:j28jHRaM
国の生命と自分の生命は一つである  谷口雅春先生
(『生長の家』誌昭和52年8月号より)

生命軽視の風潮はどこから来るか

皆さん、有難うございます。(拍手)
今日の皆さんの発表、大変感激致しました。特に、最後の諸田講師のお話は、本当に実相を直視された素晴らしい体験であると思いました。

さて、“いのちの進軍”という題でありますが、“いのち”というものは一体何であるか?今までは人間の生命というものは、なにか物質のアミノ酸というような簡単な蛋白質の一種みたいなものの分子が偶然に衝突して結合して出来た、それが段々と進化して猿になり、その猿が人間に進化したと、そんな風に人間の生命を、つまらない物質の分子の結合であると思っていたのでは、本当に生甲斐というものは感じられないわけであります。

戦後、小学生や中学生という幼い少年たちが、ちょっと親から叱られたら自殺するとか、あるいは上級学校の入学に失敗したから自殺するとかいうような、生命を軽視する傾向があるのですが、そういう子供が生れてきたということは、これは戦後の教育が人間の神聖性を失わしめている。人間をただの物質の結合である、“肉体の子”である、きたないセックスの結合から生れて来たところの存在であるというような低い次元に立って人間を説いて来たからであります。

そして、それが民主主義の人生であるというようなに人生観をずうっと学校で教えて来た。だから肉体を感覚的に楽しませている時にはそれに気を取られて別に悲しいとも思わない、むしろ楽しいと思うかも知れないけれども、一つ躓(つまず)いたり、一つ叱られたり、一つ失敗したりしたら、忽ち自分の生命の拠り所がない。そこに“何のために生れているのか”という自分自身の価値(ねうち)の自覚というものが失われてしまっているのです。物質というものには、本来値打ちはないのです。

それでは値打ちとは一体何かというと、これは、本当にあ’る’というものに値打ちがある。結局諸行無常で壊けてしまうものが自分であったとしたならば、結局それはなくなる値打ちであって、値打ちの外観を呈しているようでも、そんなものには値打ちがないのである。こうして、本当の値打ちの自覚というものが内部にないものだから、生甲斐が感じられないということになるわけなのであります。


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