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聖典引用 板

1387復興G:2012/10/06(土) 22:08:21 ID:vWpLkCzM

<第7回 WEB誌友会用テキスト>
 『生命の實相』 第1巻
  《實相篇(上)光明の真理 第6章》 より(1)
       (頭注版 p.167〜169)
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   第六章 愛と真理によって更正せよ

 神癒によって兄弟の病気を治すには、われわれは自分の念(こころ)が浄まらなければならないのであります。自分の念が、ありとあらゆる「罪」や「迷い」というものから除き去られて、神の無限の生命力が自分の念をパイプとして流れこんで来るようにならなければならぬのであります。こうして神の無限の生命力が流れこんで来るとき、いっさいの気涸れ(けがれ=Spirjtual barrenness――大生命の霊気が自分に涸れること)がなくなって病気その他のいっさいの不幸が即座にあるいは徐々に消えてしまうのであります。

 これに反して自分の念が「迷い」に閉ざされ罪に堰(せ)かれて、自分自身が神の「生命の水」を流しこむパイプになることができなければ、神の「生命の水」(治してくださるお力)が患者に達せず、したがって病気が治りにくいのであります。

    愛による更生

 聖書を読みますと、「眼に見える兄弟を愛することができないで、どうして眼に見えない神を本当に愛することができようぞ」という言葉があります。神は愛でありますから、愛が深くならなければわれわれは本当に神を解ることができません。いわんや「神の生命のリズム」を自分の身に受けて、その完全な「生命のリズム」によって患者の生命のリズムの調律をするというようなことは、真に心に愛が深くならなければできることではないのであります。

 本物の人間は本来神の子すなわち仏性であって「病気はない」のですから、病人というものは必ず自分の心で造った「観念(まよい)の牢獄」の中に閉じこもっているのであります。なぜ人間が自分の心でつくった「観念(まよい)の牢獄」の中に閉じこもるようになったかと申しますと、病人はきっと人間というものを冷たいものだと観ている。人間だけでなく「生命」というもの、「神」というものを、冷たいものであると観ている。「生命」と「生命」、人間と人間とが互いに孤立しているかのように観ている。あるいは「神」なんてないものだと観ている。あるいは「神」というものはあると思っていても、神と人間とのあいだに親と子との関係ほど親しいつながり、すなわち「愛」というものを感じることができないで、「神罰」とか「神の怒り」とかいう冷たい方面ばかりを見ている、こんなわけで、病人は心の底が温かい愛にうえている、人間と人間とを冷たく、なんの関係もないもののように見ている、とても、世界のあらゆるものが北極星を中心としてあらゆる星座が一糸みだれず動いていると同じように、自分を中心として自分の幸福を持ちきたすために運行しているというような完全なつながり(愛)を感ずることができない。こういう心――すなわち人間の本性を互いに孤立した連絡のないものだと思い違っている心が、形にあらわれて「病気の肉体」になっているのであります。

 ですから、病気を治すには、まず病人の心から「人間は孤立して淋しいものだ」という誤った先入観念を取り去ってしまわなければならないのであります。そのためには人間と神との関係を知的に理解するということも必要ではありますが、何よりもまず、具体的な愛――愛の生きた言葉、病人への力づけ、深切な態度、勇気をつけ、心を明るくするような言葉によって、なるほど人間は自分一人という小さな力で孤立して生きているのではないという事実を目の前に見せる。アリアリと手で触れるように兄弟の愛で見せると、その結果、病人が心に兄弟の愛、神の愛をアリアリと感ずる。ここに本当の「神からいただく癒す力」が流れ入る門が病人の心にひらかれるのであります。


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