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聖典引用 板

2716a hope:2013/12/22(日) 19:12:34 ID:/9IAdiFk

>>2714 >>2715 a hope 所感)

聖典『生命の實相』を拝読していて、わたしが心のどこかでいつも感じていた微かな疑問がここで解消されました。

その疑問とはなにかというと、

「『生命の實相』は神さまが谷口雅春先生を通して書かれた聖典だと言われていますし、
わたしもそう信じていますが、その内容の多くは谷口雅春先生以外の講師や信徒の体験談なのです。
それらの内容も神のオコトバ(絶対の真理)と言えるのだろうか?」

ということでした。

ですが、わたしが今回謹写させていただいた場所を拝読していて、わたしはその疑問をすっきり解消できました。

文中に、

「真理は目に見えないから、現実の言葉で言い表そうとすると対機説法になるのです。現象はすべて相対的にあらわれているから対機説法ということができます。対機説法でないそのままの真理を言えと言われたら、天地とともに黙っているほかはないのです。天地は常に説法し、常に黙っています。」

とあります。

ということは、『生命の實相』はじめ、すべての聖典は、全文が対機説法だったのですね!
要するに、「真理」は言葉では直接言い表せないのだから、
『生命の實相』や他の聖典のコトバや文字に捉われていては「真理」は悟れないというわけですね。

聖典文中の矛盾と感じられることも、すべてが対機説法なのだから当たり前なわけですから、
そのコトバや文字に捉われることなく素直に拝読し、表面ではなく波動を捉え、
自己の魂に共振させるような読み方をすればいいのだと思いました。

クロールをするにしても、水中で休むことなく右手や左手、右足や左足をぐるぐるバタバタ動かして泳いでいれば必ずゴールに到着します。
そこで、立ち止まって「どうしてこういう風に体を動かすと前に進むのだろう?」
なんて考えていたらいつまでたってもゴールには到着しません。

聖典も、深く考えることなく、素直に拝読していれば、必ず「真理」に到着するようにできているのだと思いました。


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