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聖典引用 板

1161「訊け」管理人:2012/08/22(水) 07:41:39 ID:???

『あなたは自分で治せる』89頁より謹写――

 どう云う風に祈ったならば一層効果があるだろうかと云うようなことを私は度々、人々からたずねられたのです。私はそれに就いて既に度々書いて来たつもりです。多くの人たちは正しい祈り方をしていながら、その結果をあまりに早く得ようとして、それが得られないものですから、途中で自信を失ってしまって、「この祈りはきかれない」と、折角、今まで「創造の沃地」に蒔いて来たところの祈りの種子を掘り返して捨ててしまうようなことをしていられるのであります。
 祈りは実相の世界に於いては、それが真実の祈りである限りにおいて、既に成就しているのであることを知らなければなりません。「真実の祈りである」と云うのは、既にあるから、それを憶い出さずにはいられなくなり、求めずにはいられなくなると云う意味であります。たとえば誰かが「煙草を喫いたい」と思うならば、一度も煙草を見たことも喫ったこともない人には、「煙草を喫いたい」とは憶い出だしもしないでありましょう。即ち「煙草を喫いたい」と思う人は既に煙草を喫い済みの人であるのであります。この意味に於いて「無限の富を輿えたまえ」と祈る人は既に実相に於いて、「無限の富を得済み」の人であるのであり、「無限の生命を輿え給え」と祈る人は「既に無限の生命を持ち済み」の人であるのであります。
 大体「有限体」は「無限」を想像することも、希求することも出来ない筈なのであります。「有限」と「無限」とは全然範疇が異なるからであります。いやしくも「有限」と見える人間が「無限」を想望し、それに憧れ、希求する所以は、自己の内に、どこか無限なるものが包蔵されているからであります。「真実の祈り」とか「真実の希求」とか云うものは、このように、既に内部にあるものだから自然に祈らざるを得なくなるのでありまして、それは「種子」を蒔くが如きものであります。「種子」の中には肉眼には見えねども、既にその胚子の中に花もあれば収穫もある、それを既に知るがゆえに「種子」を蒔きたくなるようなものであります。
 実に祈りが成就する根本は「わが祈れることは、既に成れるがゆえに、我祈るなり」の信念を有たなければならないのであります。これが聖書にある「神は求むに先立ちてなくてはならぬものを知りたまう」とか「汝ら祈りて何事にても求むるとき、既にそれを受けたりと信ぜよ。即ち汝はそれを輿えられん」と云う祈りの基本法則なのであります。


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