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聖典引用 板

768復興G:2012/06/02(土) 09:28:54 ID:84pogn5s

<つづき 2>
 その神の子とは如何なるものかと申しますと、爰(ここ)に書かれておりますように、「日本民族は存在の窮極を、一切のものの生成の根源たる普遍的絶対者を天之御中主神として把握」したのであります。日本民族はみずからを「命」と呼び、日子(ひこ)、日女(ひめ)と称するけれども、決して一人の有限な肉体を持った神様から誕生したと云う意味での「神の子」ではない。日本書紀或いは古事記の神話にあるところの天之御中主神の「中(みなか)」の本源より発したる基本生命の自覚である。天之御中主神とは、一個の人格神の固有名詞ではないのであって、「天」の次に「之」と云う接続の詞がついて居る所に注目をしなければならないのであって、これが固有名詞ではない証拠であります。古事記は、その後記述の人格神としての天宇受売命(あめのうずめのみこと)とか天児屋根命(あめのこやねのみこと)とか天菩日命(あめのほひのみこと)とか云う場合には決して「天」の下に「之」の接続詞を使っていないのであります。「之」がついているのは、固有名詞ではなく、説明のための接続詞としてついているのであります。何を説明しようとしているかと云いますと、「天」即ち「天球」即ち「大宇宙」の「中(みなか)」にして主なるところの神様と云う意味を説明しているのであります。私たちはその「中」の「主」なるところの神様から生れて来たのであって、その中のいのちより出でて中に帰る。吾々は中に帰一しなければならない。「神の子」とは天之御中主神の生命が此処に出現して、「中」の理念を実現する為に此処に生きて居ると云うことであります。「中」と云うのは、『中庸』と云う支那の書物に、「喜怒哀楽未だ発せざるを中(ちゅう)と云う」とありますが、この「中」と云う字は、○(宇宙の象徴)に一本貫いた様につくられたのが本来の字形なのであります。四角に一本棒を挿したのじゃなくて、○(うちゅう)を貫く象(かたち)を表わした「中」であります。この「○」は宇宙であって、宇宙を貫く処の真理がφなのであります。真中だけを貫いて居るのではないのであって、これはただ「宇宙を貫く」と云う意味を象形的に書かれているのです。宇宙の一切の物を貫く所の原理に在ますところの神様が天之御中主神であります。

 その「中(みなか)」の原理と云うものは何処にでも現れて居る◎(ス)の原理であって、それは一切のものには一つの中心があると云うことであります。つまり太陽系統には太陽と云う中心がある。そして周囲に遊星が廻って居る。存在の最小単位である原子にも原子核と云う中心があって、その周囲に電子が廻っている。人体を形成して居る所の細胞にも真中に細胞核と云うものがあって、そして周囲に原形質がある。鶏卵にもちゃんと黄身と云う中心がある。中心がなくなったら、細胞もなくなり、卵は死んでしまうのであります。白色レグホーンの鶏の卵の白身だけを抜いて、プリムスロック種の鶏の卵の白身と入れ替える実験をソ連でやったら、それを孵化させるとプリムスロックの雛が産れたと云う話もあるが、白身は他のものと取替られるけれども「中心」なる黄身を取り替えたらもうその鶏卵は生命を失ってしまうのであります。このように中心は一番大切であります。原子でも、原子核を破壊したら、原子は崩壊して飛び散ってしまう。吾々の肉体を構成している細胞も、その中心であるところの細胞核を殺してしまったら、細胞は死んでしまう。植物にも幹と云う中心がある。幹を殺したら植物は枯れてしまう。太陽系統も真中にある太陽が放射能を出しつくして冷えてしまうようなことがあったら、太陽系統には生物がなくなる、結局吾々の地球も冷えてしまって人類もその他の生物も死ななければならない。どうしても◎(ス)をもって表象する「中(みなか)」の理念と云うものに一致したときそこに生命があらわれるのであり、「中」の理念によって宇宙の「切のものは生かされて支えられて居るのであります。
<つづく>


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