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聖典引用 板

378復興G:2012/04/12(木) 22:03:13 ID:ojEbkDH2
 『生命の實相』第1巻の冒頭に、『黙示録』第1章12節―20節が掲載されているのはなぜか、というご質問が「部室板」の方にありました。それについて参考になる谷口雅春先生のご文章を、『神ひとに語り給う』(神示講義「教」の巻)より、2回に分けて謹写投稿させていただきます。
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     「新天新地の神示」講義(1)

   「七つの燈臺」の意味するもの

 さて、聖経の巻頭に「七つの燈臺の點燈者の神示」といふ言葉が出てゐるのでありますが、爰(ここ)に生長の家は一宗一派ではないといふことが、ちやんとこの神示に書かれてゐるのであります。「我は七つの燈臺に燈を點ずる者である」と生長の家の教へを創(はじ)められた神様がみづから言つてをられるのであります。この「七つの燈臺」といふ言葉は、キリスト教の新約聖書の一番終に『黙示録』といふのがありますが、その第一章を披(ひら)いて御覧になりますと次のやうに書かれてゐるのであります。

 「われ振反(ふりかえ)りて我に語る聲を見んとし、振反りて見れば七つの金の燈臺あり。また燈臺の間に人の子のごとき者ありて、足まで垂るる衣を着、胸に金の帯を束(つか)ね、その頭(かしら)と頭髪(かみのけ)とは白き毛のごとく雪のごとく白く、その目は焔の如く、その足は爐にて焼きたる輝ける真鍮(しんちゅう)のごとく、その聲は衆(おお)くの水の聲のごとし。その右の手に七つの星を持ち、その口より兩刀(もろは)の利(と)き剣(つるぎ)いで、その顔は烈しく照る日のごとし。……彼その右の手を我に按(お)きて言ひたまふ「懼(おそ)るな、我は最先(いやさき)なり、最後(いやはて)なり、活ける者なり、我れ曾(かつ)て死にたりしが、視よ、世々限りなく生く。また死と陰府(よみ)との鍵を有(も)てり……」

 此の「人の子」といふのは、じつは「神の子」であつて、イエス・キリスト自身が、常に自分を「人の子」と言つてをられた。そして「我れ曾て死にたりしが」とあるのは一度は十字架にかけられて死んだやうに見えたがといふことであります。それで「人の子のごとき者」といふのは、イエス・キリストのことであることがわかるのであります。肉体のイェス・キリストは三十三歳で磔けにかかりましたから、老人ではないのでありますが、それが復活して久遠の古(ふ)りたる無始の昔からの存在として白髪の老翁の姿を以つてこの七つの燈臺の間を歩んでをられるのであります。ヨハネから見たら、どうも人相が「人の子」即ちイエスに似てゐるけれども老人の姿でありますから、どうも、イエスでないかも知れない、それで「人の子そのもの」と書かないで「人の子のごとき者」と書かれてゐるのであります。ところが、その人の子のごとき者は、「我は最先なり、最後なり、世々限りなく生く。また生と死との鍵をもてり」と仰せられてゐるのであります。白髪といふのは老人の老いぼれといふ意味ではなくて、また今漸く三十歳になつたばかりのイエスであるといふ意味ではなしに、久遠の昔から永遠に続いてゐる生き通しの生命を象徴した「白髪の老翁」といふわけでありまして、決して老いぼれのお爺さんといふ意味ではないのであります。「久遠の生命」といふのは百五十歳位の数へられる長壽ではなくて、無限の長壽といふものを象徴した白髪の老翁の姿で示されたので、その「頭と頭髪とは白き毛の如く雪の如く」白衣(びゃくえ)を足先まで垂れた姿であらはれられたのであります。
<つづく>


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