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聖典引用 板
1605
:
うのはな
:2012/11/13(火) 19:28:19 ID:M7ON3MOw
縦の真理と横の真理を如何に使うか 「心はない」ということ
お手紙拝見いたしました。あなたの信仰深いのに感激いたしております。
近頃、地方で講演したり、指導したりしている生長の家講師が、「人間本来神の子、本来健康、
本来完全、病気なし、不幸なし」の縦の真理をあまり説かずに、「どういう病気は、どういう心の影だ。」
とか、「心が治らずにおって、人間神の子だなんて言っても、病気は治らないぞ。」などと言って、恰も人間の心が
病気を治すがごとく説き、横の真理ばかりに重点を置いていられるのを見ると、私は本末顛倒のような気がすると言って、
あなた自身が精神分析的な横の真理を説かずに、「人間本来神の子だ。病気はないぞ、肉体もないぞ、心も無いぞ。心なんて
ないんだから何を思おうと心配いらぬ。恐れることはない。」と一喝して病気を治癒せしめた実例が沢山あると言われ、
「治す力は人間の心にあるのではない、神一元、神のみが癒す。」と言われるのは、誠に尊い体験です。
「心がない」ということは、『観世音菩薩行法経』などにも「心を観ずるに心無し」と書かれてあり、「物が物としはてあるのではない」
ということは「法、法の中に住せず」と書かれております。映画の画面上の姿(法)は画面上の姿(法)にあるのではない、實相のみ独在するという意味であります。
仏教ではつとに「心が無い」ということが説かれているのでありまして、慧可禅師が、ある日達磨大師の方丈に来って、
「先生、私は心が迷って悩んで仕方がございません。どうぞこの心の迷いを取り去って下さい(意訳)。」とお願い申しあげると、
「その迷っている心とやらをここへ持って来て見せろ、その迷いを除ってやろう。」と達磨大使は仰せられた。
すると、慧可はその迷いの心を探して持ってこようとして、何処にあるかと求めたけれども、ついに心を見つけることが出来なかった。
そこで慧可は、「もとむれども遂に得ず。」(いくら探しても心の在所は分かりません)と答えた。
すると、達磨は、「われ汝を安んじ終んぬ。」と言った。という意味は、迷っている心をあると思って、自分で勝手にクヨクヨ思って掴んでいるから、
悩まねばならぬ。「悩んでいる心」を無いと知って、それを放ってしまえば悩みも苦しみも何もなくなるということであります。
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