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聖典引用 板
957
:
復興G
:2012/07/12(木) 01:37:58 ID:84pogn5s
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
<第4回 WEB誌友会用テキスト(13)>
『生命の實相』 第1巻
《實相篇(上) 光明の真理》 より(13)
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古神道で説く罪の意義
ここでわれわれ日本人の祖先の宗教たる惟神(かんながら)の道(古神道)ではどういうふうに実在を観ずるかということを述べてみたいのであります。日本人は昔からいっさいの病気は罪穢(けが)れから起こるといって、ツミということとケガレということとを非常に忌みきらっているのであります。言霊学で解しますと、ケガレというのは「気枯(けが)れ」ということであります。「気」とは「霊気」であり、「生気」であり「真理」であり、「生命の実相」であります。仮に「気」が枯れるといいますけれど、われわれに宿っている「生命の実相」そのものは事実においては枯れようはないのでありますから、「生命の実相」が枯れるといいましても、本当は枯れているのではない、ただ枯れたようにみえているのであります。なぜ枯れていないものが枯れたようにみえるかというと、「生命の実相」を「迷い」が包んでいるからであります。実相を「包み」て実相の無礙自在な本性を隠してしまっているのであります。ツミとは、実は「積み」または「包み」という意味で本来あるものの上に、他のものが重なって本来のものの自由を妨げていることをいうのであります。すなわち、日本古神道でいうところのツミとは、要するに仏教でいう「迷い」にほかならないのであります。仏教では、病気になれば『大般若経』を読誦(とくじゅ)して迷いを去り、迷いが去ると障(さわ)りがとれて病気が治ったりするのであります。キリスト教では、前記のクィンビー博士一派やクリスチャン・サイエンス一派では「真理の黙念」ということによって病気を全癒せしめ、病気がほんらい神の創造ではなく、迷い、すなわち「無」の別名であるという証明をするのであります。日本では『天津祝詞(あまつのりと)』をあげたり、身禊(みそぎ)をしたりして、言葉の力と、水にて罪穢れを洗い浄めるという形式による暗示にてツミを去り、気枯れを去って、病気その他の禍(わざわい)を去り、「大生命」すなわち法身(ほっしん)の天照大御神(あまてらすおおみかみ)の分けみたまとしての完全円満なる「生命の実相」を如実に顕現するのであります。
<つづく>
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