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聖典引用 板

981a hope:2012/07/16(月) 12:36:23 ID:kJvHf4/g

「罪の自覚と贖罪の観念は人間を不幸に導く」

清貧礼賛の心に密接に関係しているのは、「罪」の観念であります。「罪」は苦しまなければつぐなうことができないというのが人類の通念でありまして、この人類共通観念のために罪を浄(きよ)めるための自己処罰の一方法として、多くの人々の潜在意識は、自己に自己処罰の一形式として貧乏、病気、不幸、災難等を導き出すのであります。

わたしは『生い立ちの記』(本全集第十九・ニ十巻)にありますように、青年時代に大本教にいて、その機関雑誌や機関新聞を編集していたのであります。今は大本教は愛善園といって、生長の家で「万教帰一」という所を、「万教同根」と称し、各宗教と調和していく教えに転向しているようでありますが、当時の大本教は、その教祖の筆先にも「地震雷火の雨ふらしてたいらげるぞよ」とありますように、神さまの気に入らぬもの、罪あるものなどに対してははなはだしい威嚇的な神罰宗教であったのであります。しかもその最後の審判において、罪ある者が地震雷等々の天災地変で皆殺しにされる日、大正十一年五月五日には、すでに‘みろく’の世が来るというので、その直前に罪人一掃的な一大天変地変来るのだという予言になっていました。わたしは目の前数年のうちに迫るこの最後の審判の日に生き残ることができるほどに罪をきよめておきたいと、ある時は断食し、ある時は水行をし、ことさらに貧乏をもとめていましたが、断食や、水行や、貧乏では罪の消える感じはどうしても起こらないのでありました。

一体、罪はどうしたら消えるのであろうか。罪とはいかなるものであろうか。罪の本質やいかんなどと、大本教の神さまによって、日限きって予告された最後の審判の日を前にして、真剣に考えずにはいられなかったのであります。そして遂に神罰の神を否定してしまい、神は愛であり、善であり、すべてのすべてであるから、罪というものを神は造らないのであるから、罪は存在しないのであるという一大真理に到達した結果、今まで罪をつぐなわんがために自分を自縄自縛して苦しまなければならぬというその考えが、潜在意識からのぞかれることになったのであります。その結果「貧乏でないと天国へ行けない」というような潜在意識がわたしの心の中からのぞかれ、わたしはやっと広々とした世界に出たのであります。それとともに、その今まで一文の印税も原稿料もとれなかったその本を十五年も後になって出すと、数十万部も売れて、わたしに無限供給の豊かな生活がじつげんするようになったのであります。……

「頭注版「生命の實相」第8巻P138 3行目より」


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