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聖典引用 板

1993goro:2013/01/31(木) 17:47:38 ID:nCo1DokU
>>1992の続き

かれこれ十分間ほどお話しがあり、何とぞ国家再建のために、たゆまず精を出して努力して貰いたい。とのお言葉を最後に、一同とお別れになり、また、もとの路をお帰りになるべく、二、三十歩おあるきになったそのとき、突如、列中から湧きおこったのが、君が代の合唱であった。当時、占領軍の取締りがやかましく、殆んど禁句のように思われて誰も口にすることを遠慮していた、その君が代が誰に相談するでもなく、おのずからに皆の胸の中から、ほとばしり出たのであった。ところが意外にも、この君が代の歌ごえに、陛下はおん歩みを止めさせられ、じっと、これをきき入っておいでになる。

一同は、君が代の合唱裡に、陛下をお見送り申上げようと思ったのであろうが、このお姿を拝して、ご歩行をお止めしては相済まぬ、早く唱い終ってお帰りを願わねば、とあせればあせるほど、その歌声は、とだえがちとなり、はては嗚咽(おえつ)の声に代ってしまった。見ると、真黒な手拭を顔に押しあてた面伏(おもぶし)しの姿もある。万感胸に迫り、悲しくて悲しくて唱えないのだ。私も悲しかった、誰も彼も悲しかった。しかし、それは、ただの空しい悲しさではない。何かしら云い知れぬ大きな力のこもった悲しさであった。今から思えば、この大きな力のこもったこの悲しさこそ、日本復興の大原動力となったのではなかろうか。

辛うじて唱い終ったとき、陛下は再び歩を進められてお帰りになったが、私は暫らく後に居残ったところ、青年たちは私に、皇居の草を一把ずついただいて郷里への土産にしたい、という。何のためかと思って尋ねてみたら、その答は次の通りであった。私たちは農民です。草を刈つて、肥料のために堆肥を造ります。この一把の皇居の草を(といつて、堅く、かたく握りしめ、眼に涙していう)いただいて、持って帰って、堆肥の素とし、私たちの畑を皇居と直結したいのです。

この青年たちとの御対談に、陛下は何かよほどお感じになったことが、おありになったご様子で、お部屋にお帰りになるや、皇后さまに、午後、作業現場にゆかるるように、おすすめになり、そのときも、私は再びお供をして現場に参ったが、第二回からは、両陛下お揃いで、奉仕の人々にお会いになることになり、それが今日まで二十数年間つづいているのである。


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