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聖典引用 板

1345「訊け」管理人:2012/09/28(金) 16:21:29 ID:???


『生命の實相』第24巻113頁より謹写――


生命の實相読者――

 五官と頭で神が分ると思ったら大間違いだということになるが、完全な人間なら、そんなにまでせずとも、素直にすらすらと神が分り、したがって迷いもせず、本来悟入していなければならないはずに思えるが、事実はこれと反対だとすれば、人間は至極不完全なものということになり、したがって神の完全性と相容れないように思われます。そしてこんなに考えても(人間の神性、完全さが)分らないということは人間の不完全を表していると言えるのではないでしょうか。結局、人間小智の小円内で議論しているかぎり、この問題は分らぬとも言えるが、しからば完全なるべき人間はなぜこの小智から脱却できないのかということになり、ここでまた不完全ということになります。


谷口雅春――


 ご質問は「実相人間」と「肉体人間」とを混同して、「肉体人間の知恵はなぜ不完全で真理がわからぬのであるか?」と言っていられるので、いつまで経っても正当な回答ができぬのであります。釈迦は『法句経』において「怨み心ではいつまでも怨みは解けぬ」と申されましたそのように、「肉体人間の迷い心ではいつまでも迷いは解けぬ」のであります。

「肉体人間」は本来存在しないのであります。(本来存在しないから、やがて崩壊するのであります。)存在しないものが不完全であるのは当然であって、ただ完全なるもののみが存在するのであります。
 存在しないものが「存在するもの」を理解しえないのは当然であります。あなたは「なにゆえに完全なるべき神の子『人間』がその実相を直観できないのであるか」と言っておられますが、完全なるべき神の子たる「実相人間」には、その実相を直観するもしないもない、すでに完全なのだから問題はないのであります。
 この辺の消息は議論をもって押し進めていっても「肉体人間の知恵」にわかるはずはないのであります。ただ「肉体人間の知恵」(迷い)を薄くすることによって、霧が破れて日光の輝き出ずるがごとく、肉体人間にも実相智の光線が射しはじめるのです。この「虚」の闇を破って実相智の光線を射しはじめることを、「直観によって、実相人間の完全さを知る」というのであります。
 肉体人間の知恵は「暗」のようなもので、実相人間は「光」のようなものであります。「暗」はそれを薄くすることによって光の存在を知るのであります。「暗の無知無明はなぜあるのか」とあなたは論議されますが、暗とは「光の虚」であります。「光の虚」が光を知らないのは当然であります。光を知ればもう「光の虚」(暗)ではないのであります。がから「光の虚」なる人間知は真理を知らないのは当然であります。
 あなたは「肉体人間が聖典を読んで、実相人間を知る」と言われますが、「肉体人間」が聖典を読むのは、本来無いところの我見(肉体人間の知恵ー迷い)を捨てるためで、「肉体人間の知恵」がなくなれば、ひとりでに内在の光が発現してきて、「本来の実相」が輝く。これは「肉体人間が聖典を読んだので実相人間を知った」のではなく、肉体人間(光の虚)がそれだけ減ったので実相が輝き出したのであります。
 肉体人間の知恵、はからいいっさいを捨てるほど実相人間があらわれるので、「肉体人間が実相人間を自覚する」などということは「迷いが悟りを自覚する」などという言葉と同様で、ありえないことなのであります。


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