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聖典引用 板

2576うのはな:2013/10/03(木) 16:39:41 ID:AgGUbAB6
      再開された巡錫 『こころの旅路』 谷口恵美子 先生編著

 戦後の巡錫は、終戦の翌年、昭和二十一年から始まりましたが、交通事情も悪く、長期の本格的な
巡錫が再開されますのは、昭和二十二年の五月からでした。この二ヵ月前に父は福岡に行っていらっしゃいます。

    昭和二十二年三月二十一日  福岡から東京へ
      輝子様      雅春

 昨年の十二月も今年の一月も、そして三月十八日の出発の九州講習会も私が出発する日になると、急に温度が高くなるのである。
私は恵まれてゐる気がする。私はまだ若い気持ちでゐるけれども、既に還暦を過ぎた私は、もつと身体を大事に取扱はなければならないと
深切に誠心をもつて注意して下さる人もあるので、汽車もあまり遠距離は成るべく一気に飛ばないことにしてゐるのである。
私が一日多く長生きしてゐることは、それだけ人類にとつて何等かの貢献をなし得ると信じてゐるからである。

 人間は「生命」であつて物質ではないから、肉体など大切にする必要はないと云ふことはないのである。
人間が念の力によつて、地上生活の営みのための道具として「肉体」を物質的にあらはした以上は、その肉体は或る程度物質界の法則に
支配されるである。足の裏は使へば使ふほどその皮膚は厚くなり、ただの物質の摩滅の法則とは異るやうにあらはれる。

 それは生命が働いて「物質の法則」を超えながら、「物質の法則」を利用して新たに細胞組織を増殖するからである。
しかし「生命」が細胞を新たに増殖することが出来る以上に、足の裏の皮膚を磨滅させたら、皮膚はやぶれ肉は露出し擦過傷を生ずるのである。
例へば、目の疎い鑢で間断なく擦つたら、幾ら部厚い足の裏の皮でも破れて血が出るのである。
肉体はただの物質ではないから、単なる物質の磨滅の法則には従はないが、同時に物質として物質の法則に従ふ面もあるのである。

 だから吾々は食物も食べねばならないし、入浴すれば垢も落ちるのである。
単に精神統一をして「吾が身体は清浄なり」と念じても、一年に一回も沐浴しないでは垢はとれないのである。
何でも心で思ふとほりになると云ふので、物質の法則を全然無視してしまふのは極端な観念論であつて、生長の家の唯神実相論ではないのである。

 唯神実相論と云ふのは、実相界には既に完全な世界(人間及事物を含む)があつて、それが「念」を媒介として自然界(物質界現象界)にあらはれて来ると
云ふのである。例へば私の出発する日になると大寒中でも稍々暖かくなり、旅行しやすくなると云ふ風にである。
「何もしないでただ精神統一して念じてをれ」と云ふのではない。精神統一して念ずることは、一定時間にやるが、それを契機として、現象界には生命の「自然に動きたい衝動」が
起こつて来て、現象界に自然に「行動」及び「生理作用」「自然のめぐり合せ」等としてあらはれるのであり、「念」が正しい程度に従つて吾々の「行動」や「生理作用」や「自然のめぐり合せ」が
順潮に行くやうになるのである。これを私は嘗て「生活の円滑化現象」として
『生命の實相』に書いたことがあるのである。

 自然によき食物が口中の入るやうになり、自然に環境が整ひ、天候なども自然の巡り合はせがよくなるのである。
「何もしないで念じてゐる」のではなく、行動と「発して行ふことが悉く節に中るやうになる。これを自然の和と云ふ」(「中庸」による)
のである。「無量の勝方便は実相を想ふより得」(普賢菩薩行法経による)であつて、何の方便もないのではなく、最も適当な方便があらはれて
来るのである。

 兎も角、現象界の知恵を無視するのが実相智のあらはれではない。現象界の最も勝れたる知恵が湧いて来るのが、実相に一致したときに得られる結果なのである。
だから無理に頑張つて鑢で皮膚を擦り減らさねばならぬことはないと同じやうに、無理に肉体を駆使しなければならぬと云ふこともないのである。
と云つて懶けて労力を惜しむと云ふのも感心しないのである。そんな訳で私は、帰心矢の如き帰京の時以外は夜汽車を使はぬことにしてゐるのである(下略)


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