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聖典引用 板

1389復興G:2012/10/06(土) 22:11:44 ID:vWpLkCzM

<第7回 WEB誌友会用テキスト>
 『生命の實相』 第1巻
  《實相篇(上)光明の真理 第6章》 より(3)
       (頭注版 p.172〜174)
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 皆さんは自分自身が現在病気でないからとて他をゆるさなくてもよいということはないのであります。ある誌友の実話を聞くに、その人は非常に感じやすい子供をもっていられて、家庭に何か争いごとがあると、必ずその子供が、医者には原因不明の病気に襲われて打ち倒れるのでした。わたしはその誌友に会って、いろいろと日常の精神波動のふしぎな影響を話して修養してもらったところが、今では医者と薬が長年もてあましたそのし不思議な病気が、薬を廃して、ただ親の心の持ち方ひとつでおこらないということであります。

 これほど鋭敏な感じの子供も少ないではありましょうが、日常のわれわれの心の持ち方は、ひとり自分のみならず、自分の家族の健康と運命とにも非常に関係があるのであります。その上、精神波動が、ラジオのエーテル波動のように無辺の空間に放送されるものであるということを知るとき、もし、われわれが人を怒れば、自分の精神波動で(その人の精神力の相違で程度の差こそあれ)相手の人を暗殺しつつあることになるということを知らねばなりません。
 「女を見て色情を起こすものはすでに姦淫せるなり」とか「七たびを七十倍たび赦せ」といったイエスは、精神波動が現実的力であることを知っていたに相違ないのであります。

    物質に生命はない

 われわれの生命、われわれの生きる力が物質にあるという考えが根本的な迷いであります。物質は本来無い。あると思うその信念が、フィルムになってスクリーンの上に「物質」という映画をあらわしているにすぎないということはたびたび申し上げたとおりであります。
 じつさいここが大切なところでありまして、われわれが物質というものを真に存在していると観るからには、物質は間断なくうつり変わるものでありますから、物質の科学的変化、病的変化というようなことも認めねばならなくなるのであります。したがって病気の存在ということも認めねばならなくなるのであります。病気が真実存在するということになってきますと、われわれは病気をあたかも強盗のように恐れるということはやむをえない。それは生命を脅(おびや)かす強賊であるから、誰でも恐れるのは当然のことであります。

 ところが物質は本来無い。それは自分の念(こころ)を鏡に映してみたようなものであって、念(こころ)さえととのえて鏡に向かって見れば、自分の顔が優しい顔にうつるのと同じように、自分の心さえととのえて自分の肉体に対すれば、自分の肉体は姿をかえて健康になれるのだということになると、われわれの着眼点がちがってくるのであります。

 猿が鏡を見て、鏡にうつる醜い顔がじっさいあるのかと思って、鏡の裏へ廻ったり横へ廻ったりして、いろいろ鏡に白粉(おしろい)をつけたり、紅をつけたりしてみても、いっこう鏡にうつる影が美人にならない。
 これではならないと思って渋面をつくればつくるほどかえって鏡の中の姿が醜くなる。どうもこれは変だなと思ってよくよく考えてみると、鏡の中には本来そんな姿がいるのではなかった。そこにあるように見えている姿はかえって自分――こちらにいる自分の影だとわかったので、自分ながら滑稽になって笑ったら、今まで醜く渋面をつくっていた鏡の中の姿までも笑い出して非常に鏡の中までが美しい愛らしい顔に見えたという話があります。

 これと道理は同じでありまして、念(こころ)をかえて肉体という鏡に向かえば肉体はどれほどでも健康になってくるのであります。だから念でひとの病気を治してあげようという人は、自己が相手に対する深い愛を持つと同時に、病気をば鏡の中に映っている影であると思って、その実在性を根本から否定しえなければならないのであります。これができないで、病気を真に実在すると思ってこちらからむかってかかりますと、こちらの念が向こうに映ってますます相手の病気がこちらの思うとおりに強い実在性をおびてくるのであります。


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